p.0217 燈火具ハ、燈燭ニ必要ナル器具ヲ謂フ、其類ニ燈臺アリ、燈籠アリ、燭臺アリ、行燈アリ、提燈アリ、紙燭アリ、蠟燭アリ、松明アリ、篝アリ、火鑽アリ、燧アリ、而シテ燈火ノ原料タル膏、油、薪、炭等ノ如キモ亦類ヲ以テ此ニ附載セリ、
燈臺ハ、音讀シテトウダイト云フ、燈盞アリテ油ヲ盛リ、燈心ヲ、加ヘテ點火ス、燈心ヲ鎭スルニ燈〓アリ、燈盞ヲ承クルニ燈械アリ、燈械ヲ承クルニ臺アリ、臺ノ高キヲ高燈臺ト云ヒ、低キヲ切燈臺ト云ヒ、削リタル木ヲ以テ、立鼓ノ如クシタルヲ結燈臺卜云フ、
燈籠ハ、トウロウト云フ、竹木ヲ珱テ籰ヲ作リ、或ハ金屬ヲ以テ骨ヲ作リ、紙又ハ布帛ヲ張リテ、柱或ハ軒端ニ懸クルナリ、別ニ金又ハ石ヲ以テ作リ、專ラ屋外ニノミ用イルモノアリ、
行燈ハ、アンドウト云ヒ、提燈ハテウチント云フ、其用各〻古今ノ差異アリトノ説アレド、今ハ行燈ハ、油火ヲ點ジテ屋内ニ置キ、提燈ハ、蠟燭ヲ點ジテ夜行エ用イル、
紙燭ハ、布ヲ用イ、又ハ松杉等ノ木ヲ削リ、油ヲ施シタルモノアリ、
蠟燭ハ、紙捻ニ燈心ヲ纏ヒテ燭心トシ、油ニテ蠟ヲ煉リテ、數次其心ニ塗リ附クルナリ、其麁惡ナルハ蒹葭ノ條ヲ以テ心トシ、蠟ニ他物ヲ混ジテ作ルナリ、
松明ハ、ツイマツ、又ハタイマツト云フ、松枝ヲ割リテ條トシ、數條ヲ束子タルモノニテ、篝ハ
木ヲ燃シテ夜ヲ照スモノナリ、
火鑽ハ、木ヲ鑽リテ火ヲ出スヲ云フ、之ヲ切火ト云フ、燧ハ金石ヲ打チ合ハセテ、火ヲ出スヲ云フ、之ヲ打火ト云フ、
膏、油ハ、並ニアブラト云フ、動物ヨリ取ルヲ膏ト云ヒ、植物ヨリ取ルヲ油ト云フ、又天然ニ産スルモノアリ、石腦油ト云フ、膏油ハ燈火ノ用ニ供シ、食料ニ用イル等、其用甚ダ廣シ、而シテ頭髮ニ用イルハ、容飾具篇髮油條ニ載セ、藥物ニ用イルハ、方技部藥方篇ニ載セタリ、參看スベシ、
薪ハ、タキギト云フ、焚木ノ義ニテ、之ヲ竈、爐等ニ用イテ、燃料ニ充ツ、故ニ又力マギト云フ、炭ハ、多ク櫪、楢等ノ木ヲ炭竃ニテ燒キテ作リ、火ヲ點ジテ暖ヲ取リ、又物ヲ煑ルニ用イル、
p.0218 炬苣〈同巨音丞也、太比、又止毛志火(○○○○)、〉
p.0218 燈燭 四聲字苑云、器照曰レ燈、〈音登〉竪燒曰レ燭、〈音屬、和名並度毛師比、〉野王按、燈燭、蘭膏所レ燃之火也、
p.0218 祭統注、鐙、豆下跗也、急就篇、鍛鑄鉛錫鐙錠鐎、顔師古注、鐙、所二以盛レ膏夜然燎一者也、其形如レ杆、而中施レ釭、有柎者曰レ錠、無レ柎者曰レ鐙、柎謂二下施一レ足也、王念孫曰、鐙之形狀、略如二禮器之登一、故爾雅瓦豆謂二之登一、郭注云、卽膏登也、段玉裁曰、豆之遺制、爲二今俗用燈盞一、説文、燭、庭燎火燭也、〈○中略〉所レ引文、今本玉篇無レ載、楚辭招魂、蘭膏明燭、華磴錯些、
p.0218 燈燭トモシビ 令義解に、油火爲レ燈、蠟火爲レ燭也と見えたり、〈○中略〉トモシビとは、万葉集に留火としるせり、卽是也、其光を留て消ゆる事なからしむるの義也、〈トモとはト厶の轉語、卽留也、シとは詞助也、ヒは火也、俗に火をトモスなどいふ、卽是義なり、〉
p.0218 ともしび 燈火をいふ、靈異記に燭もよみ、万葉集に留火と見えたり、竹のとも しびは佛名によめり、燈きえんとて光をますといふは、列子に燈將レ滅者必大明と見えたり、
p.0219 主殿寮
頭一人掌二〈○中略〉燈燭〈謂油火爲レ燈(○○○○)、蠟火(○○○○)爲レ燭也、○中略〉事一、
p.0219 燈明 大般若經云、上妙花鬘乃至燈明、〈和名於保美阿加之〉
p.0219 みあかし 日本紀に燃燈をよめり、佛家にいへり、倭名抄に燈明をおみあかしと訓ぜり、
p.0219 燈臺 本朝式云、主殿寮燈臺、
p.0219 灯臺(トウダイ)
p.0219 とうだい 延曆儀式帳に燈提と書り、本朝式の燈臺と同にや、結燈臺(○○○)、菊燈臺(○○○)、高燈臺(○○○)、切燈臺(○○○)などいへり、
p.0219 燈臺四基、料漆一升二合、絹一尺、綿六兩、細布一尺、掃墨四合、燒土五合、單功十二人、
p.0219 燈臺
高三尺二寸
太所長八寸
徑一寸一分
太所長五寸徑八分
土居弘八寸八分厚八分
油坏金銅
口徑三寸五分
長三寸四分(一イ)
金銅鉸
搔上料
三寸半板二尺四寸
檜三尺五寸
木造料
塗料
金物
p.0220 とうだい
高さ壹尺九寸六分、くもでのしたかどゝ板つきの座の間は八寸、中くもでの座三寸なり、
p.0220 殿中さま〴〵の事
一女中方にとぼされ候御燈臺、是も繪にあるごとく、燈臺あぶらつぎ、すゑ物、うちをば白くぬり、外はこくしつにぬりてまきゑ候、ふくりんはめつきさし候、立候柱もつかうのごとくゑり入て、黑ぬりまきゑあり、かはらけのすはる所、あかゞねにてまろくわをして、めつきをさす、三がなわにあしのやう成をもつかうなり、成臺にたてゝ、其上にかはらけをすへ候、柱の下の臺ももつかうにて、まんぢうなりに候、
p.0220 一燈臺は木にて作り、うるしにてぬる、白木にもする也、形は燭臺の如く也、但油盞を、置く所と下の臺はもつかう形にして、こうもり高にする也、條々聞書にみえたり、燈臺には油火をとぼす也、燈臺は本式也、燭臺は略儀也、〈○下略〉
p.0220 八牧夜討事
景廉ハ、〈○中略〉緣ノ上ヘツト上〈リ〉侍〈ル〉ヲ見入タレバ、高燈臺(○○○)ニ火白〈ク〉搔立タリ、
p.0220 〈建久二年九月十日自十至甲同日夜今記レ之〉
資實云、孔雀經御修法記錄云、伴僧經机前、各三木丁一脚、置二燈器一、高二尺許云々、蓮臺寺僧正記也、餘師多分用二小燈臺(○○○)一、又云、人記錄皆小燈臺也、或陳座三木丁、又後七日、香水机三木丁、〈眞言院建二立之一〉此外无レ用レ之如何、覺成僧正云、古樣用二三木丁一事勿論也、雖レ然近來皆用二小燈臺一尤宜云々、
p.0220 切燈臺(○○○) きりとうだい
思ふに燈臺は高く、切燈臺はひきゝなり、執筆の前に置は、もの書事の便りによければなり、
p.0220 きよげなるおのこのすぐろくを、日ひとひうちて、猶あかぬにや、みじかきとうだい(○○○○○○○○)に 火あかくかゝげて、かたきのさいをこひせめて、とみにもいれねば、どうをばんのうへにたてゝまつ、
p.0221 みじかくてありぬべき物
とうだい
p.0221 文治三年二丹九日辛巳、此日内府〈○藤原良通、〉始有二作交事一、〈○中略〉諸大夫持二參切燈臺一、立二内府座上一、
p.0221 御祝儀式次第〈○應安元年四月朔日、足利義滿元服、中略、〉
掌燈二執レ燭役無レ之、切灯臺、〈高一尺五寸、白文松鶴、〉
p.0221 一正長二年三月九日、〈乙卯、亥刻、〉御元服、〈○足利義敎、中略、〉切燈臺、〈高一尺五寸白紋松鶴、〉高燈臺八本、〈白文同、金物譽白、〉
p.0221 一むすび燈臺(○○○○○)の事、是は禁中にて公事、〈○註略〉を行るゝ時、其司の座の前にとぼす燈臺也、細く丸く削りたる木を、立鼓の如く立て、其上にかはらけを置て油を入れ、火をともす也、繪圖左の如し、
結燈臺寸法、柱の長サ二尺五寸五分、小口丸ノ經上ニテ四分、下ニテ六分、又ハ上ニテ四分半、下ニテ六分半ニモスル也、足ノ開一尺八寸程ヅヽ也、
麻繩太サ三ツグリ是程也 柱三本柳ノ枝白木
此間四寸三分
此繩二重廻シ結也、三本ノ柱ヲユルク結置テ、立ル時右メグリニ順ニ子ジルナリ、
穴ノ下六分
男結ナリ、結止ハ柱ノキハニテ切也、
p.0222 新嘗會供奉料〈○中略〉
燈樓九具、盤形燈臺(○○○○)三基、並隨レ損請替、
p.0222 和州郡山の鴻儒谷口元淡老の製せられし圓燈(○○)あり、其製式に云、
上下圓捲小板建二三柱一連二接之一、別如二前式一少大、而牝牡之半面各貼レ紙、下製二圓臺一安レ牡者、其牝回旋如二輪藏樣一闔、則柱々相對、開則重複、上鉤二鐵鉉一提レ之、架二細鐵梃於牡之兩柱一、擎二出鐵環一、載レ缸起二植鐵牙一插二燭臺一、設二抽匣一而施二小環一、内納二燈心發燭之屬一、臺柱鐵器皆漆焉、上下板相去壹尺八九寸、下板去レ臺二寸許、臺高二寸餘、圓徑九寸左右、 沙門英辨書
p.0222 白銅燈臺(○○○○)一基〈高三寸六分、足三、〉
p.0222 天文十年二月廿六日、爲二御使一祐阿來入、〈○中略〉御番所の燈臺の樣體もと〳〵趣同被レ尋二下之一、仍御返事言上、〈○中略〉御番所燈臺は、むかし花御所御時分は、こくしつ金物(○○○○○○)〈幷〉臺有レ之と存候、たしかにおぼへ不レ申候、小川御所〈○足利義尚〉已來は、白木の御とうだい(○○○○○○○○)と存候、將又小川御所御番所は、四間の御座敷にて、そのおくのかたに、又御座所候に、御茶のゆさせられ候て、御番衆御茶被レ給候つる、その御ちやのゆの所には、たんけい(○○○○)と存候、花御所御番所はひろく御ざ候て、やがて其御座敷に、御茶のゆさせられ候、然間べちに又火をとぼさせ候に不レ及候也、此趣共しるし申上也、
p.0222 短檠(タンケイ/○○)
p.0223 短檠(タンケイ)
p.0223 燭臺〈(中略)短檠○中略〉
燈檠(○○)、其短者名二短檠一、今制加二鐶於上一、爲二油盞蠟燭兩用一、
p.0223 一短檠と云は、燈臺の短きを云也、長きをば長檠(○○)と云、總名をば燈檠と云、燈臺の事也、
p.0223 殿中さま〴〵の事
公方樣御寢所には、御たんけいにともされ候、あぶらつきあかゞね、必下かはらけに水いるべし、御たんけいの臺に油入候、手がめとうしゆみ以下入申候、
p.0223 當代奇覽と題せるものに、あらゆる雜談有り、十が一爰に拾ふ、
一古老の物語に、今の世に有る諸器之類、いにしへより皆有る事の樣におもへども、左には非ず、〈○中略〉短檠は利休時代ゟ有、古は皆蠋臺に土器を乗せたり、古代の繪に有る通也、靈山長嘯子竹檠の歌とて、
をしむともやゝくれ竹の燈は世々の玉づさ猶てらせとや
p.0223 新嘗會供奉料〈○中略〉 燈臺二基〈○中略〉
十二月晦夜供二奉内裏幷大極殿豐樂殿武德殿一儺料等雜物、〈○中略〉燈臺八十基、〈紫宸殿幷御在所料○中略〉
十二月晦夜官人、當日晩頭率二吏生殿部今良等一、大内前庭、東西相分立二燈臺一、〈各相去八尺〉隨卽燃レ燈、〈○下略〉
p.0223 一燈臺十四本〈首書、寬治記云、尊者前一本、宰相座末一本、辨座末一本、打敷諸大夫行レ之、〉
〈延久記云、公卿座上下、上東第五聞立レ之、依レ可レ有二主人御座一也、下逼レ机立レ之、弁少納言座上下、上逼レ庇巽角柱立レ之、爲レ令レ有二奧座雜役之路一也、下逼レ机立レ之、上官座上下、上逼二、長押一立レ之、爲レ鋪二祿事座一也、下逼レ机立レ之、〉
打敷十四枚料絹十四丈〈一疋六丈也、枚別一丈、〉 金銅盞 六口 同盤 六枚 同箸 六〈金輪鋏〉 此外差油料六具許可レ用二意之一
p.0224 ひるの事どもはてぬれば、所々の掌燈す、〈○中略〉朝餉はまづ燈ろにともして、藏人内へまいりて、格子おろして後、内の切燈臺にうつす也、御手水の間に一、臺盤所一、〈みな高とうだい〉その外所々つねのごとし、
p.0224 大將あるじの事
火をともす事は三人のやくなり、とうだいにあぶらつきすへて、もつことさらにすべからず、まづうちしき、次にとうだい、あぶらとよるべし、さしあぶらによらんには、ともしてもちて、もととうだいにあるにすへかへて、もとのをとりてかへれ、ひれくはへなどすることなかれ、うるはしくはかねのあぶらつぎなり、かねのはさみとて、さいしのやうなるものを、かきあげきにはぐしたるなり、
p.0224 嘉保二年八月廿八日、上皇鳥羽殿にて前栽合ありけり、〈○中略〉右方の人々參りて灯臺をたつ、かねての仰によりて、風流幷にかずさしの具はとゞめられけり、然而灯臺など美麗にて銀のさちをすへたりけり、
p.0224 燈盞 唐式云、毎城燈盞七枚、〈燈盞、和名阿布良都岐(○○○○○)、〉
p.0224 燈釭(アブラザラ/○○) 燈盞(同)
p.0224 燈燭トモシビ〈○中略〉 倭名鈔に、〈○中略〉燈盞讀みてアブラツキといひ、燈械讀む事、字音の如くにして、所三以居二燈盞一也と注したり、〈アブラツキといふ、アブラとは沺也、ツキとは古俗凡袴器を呼ぶの名也、今俗にアブラツキといふものは、油瓶讀みてアブラガメ(○○○○○)といふものなり、又俗に燈盞をトウガイといふは、燈械によりて、言ふ事の訛れるなり、〉
p.0224 あぶらつき 倭名抄に燈盞をよめり、今あぶらざらとも油碟とも見えたり、又鐙をよめり、つきは坏の義に同じ、
p.0225 燈盞
アブラツキ アブラガハラケ(○○○○○○○) アブラザラ〈江州〉
一名缸、〈典籍便覽〉 朱火 金缸 銀缸 蘭缸〈共同上〉
p.0225 一古書にあぶらつきとあるは、油抔とも油盞とも書て、燈の油を入る油皿也、あぶらつきのきの字すみてよむべし、にごるは非なり、油次にてはなき也、〈油を入る瓶をば、油滴とも、あぶらがめとも云也、〉
p.0225 踐祚大嘗祭儀下
太政官符諸國〈毎レ國有レ符〉
應レ造二新器一〈○中略〉
和泉國〈○中略〉油瓶二合〈○中略〉油坏六口 已上御料
p.0225 凡左右京五畿内國調、一丁輸錢隨レ時增減、其畿内輸雜物者、〈○中略〉陶器〈○中略〉一丁〈○中略〉韲坏燈盞各五十口、〈○中略〉
凡諸國輸調、〈○中略〉陶器〈○中略〉一了〈○中略〉燈盞二百口、
p.0225 釋奠料〈春秋並同○中略〉 燈盞八口〈加レ盤、下皆准レ之、○中略〉
十二月晦夜供二奉内裏幷大極殿豐樂殿武德殿一儺料等雜物、〈○中略〉中宮油八斗、油坏八百口、
p.0225 八日、法性寺修二月事、
油坏三百 年預下家司成旬所、下文下二知深草作手等一、家司職事所司下家司參向仰レ之、
p.0225 佛の箔を削る頓慾の鉋
材木河岸の桔梗屋とて、今冬木三文字屋にも、肩を並ぶる商人、以前に身代の時の話を聞くに、油土器の鑄物を拵へ、内を朱にぬらせ、永代土器と名付て賣出しけるに、去とは常と違ひ、先奇麗にて見よげに、掃除の度毎に油すたらず、光り一段强し、是朱に燈火の照合ゆへなり、然も油の減格 別少なし、世の調法天下の寶なりとて、買はやらかして、僅の事より五百兩の身上となり、〈○下略〉
p.0226 八軒屋 在二廣澤西南上嵯峨東一、土人專以二赭土一造二燈盞一、倭俗謂二土器(カハラケ)一、
p.0226 箕輪燈盞 同郡〈○豐島〉箕輪村ニ造リ、當所ノ埴土ヲ以テ照レ燈土器トスル事宜シ、
p.0226 ともし火きえなんとす あぶらつき(油坏)
p.0226 燈械 楊氏漢語抄云、燈械〈音戒〉所三以居二燈盞一也、
p.0226 按、説文、械一曰器之總名、一曰持也、一曰有レ盛爲レ械、無レ盛爲レ器、
p.0226 燈械(クモデ)〈所三以居二燈盞一也〉
p.0226 御佛名
行事藏人催レ事、〈○中略〉作物所〈作二燈蓋(○○)一〉儲物、〈(中略)油坏十一具〉
p.0226 文化七年八月廿四日丙午、内侍所假殿臨時御神樂也、〈○中略〉
一燈械之油坏、依二便宜一設二置指油等一、整置度旨御藏申レ之、仍可レ任二勝手一命レ之如二近例一也、只及レ暮催二女官一以二脂燭一令二點火一而已、頗便宜歟、於二御殿一者藏人奉仕如レ例、
一假廊下燈械之事、先例者柱一間隔設レ之、毎柱不レ供レ之、今度者可二如何一哉、相伺旨出納申レ之、尤相糺處、燈械員數今度相增、新調調進有レ之、卽壺モ先日自二南座一渡二修理職一、假廊下毎レ柱打立有レ之、故不レ殘雖レ供レ之可レ無二子細一、只掌燈員數相增而已雖然是亦非二格別之儀一、尤比二安永三年之先例一、則其數甚多、以二當時之髓一量レ之、則增二於尋常神樂一纔爲二十基計一、然則後日御下行物非下可二申立一程之事上、隨分御沙汰次第如何樣共可二相成一由、只先例假廊下不二毎レ間設一レ之、故可レ爲二其通一歟、一應相伺旨申レ之、仍其通申二入奉行一處有レ議、後被レ示曰、先例雖レ可レ爲レ如レ此、今度假廊下之體甚異、〈先例者自二南殿巽角簣子一斜有二假廊下一、〉今度者自二十八間廊下一引續右二假廊下一、十八間廊下之間如二尋常一毎レ柱供レ之、移二假廊下一而柱一間隔供レ之、則甚可二目立一、其體如何也、於三强無二下行之煩一者、悉令 レ設レ之可レ然云々、卽申二渡出納一、假廊下之間如二十八間廊下一、毎間令レ設レ之了、
p.0227 燈心 考聲切韻云、炷〈音主、又去聲、和名度宇之美、燈心音訛也、〉燈心也、
p.0227 慧琳音義引同、按、説文云、主、鐙中火主也、从レ〓象形、从レゝ、ゝ亦聲、徐鉉曰、今俗別作レ炷、然則考聲切韻所レ謂燈心、卽説文鐙中火主、謂二燈盞盛レ膏所レ燃之火一也、源君所レ擧燈心、謂二割レ布可レ爲レ炷者一、貞觀儀式大嘗儀云、燈炷布八尺、大嘗祭式作二燈心布一是也、主殿寮式燈炷料布一尺五寸、亦是、然則以二單炷字一爲レ之非レ是、又按、今俗所レ謂登宇志美者、開寶本草所レ載燈心草、䒱析取二中心白穰一燃レ燈者、又非二源君所レ擧者一也、
p.0227 燈心(トウシン)
p.0227 燈燭トモシビ〈○中略〉 倭名鈔に、燈心讀みてトウシミといふは、其字音の轉也、
p.0227 燈心草〈○中略〉
穰ノ名ハ トウシミ〈和名鈔〉トウシン トウスミ〈勢州〉ジミ〈肥前〉トウジミ〈同上〉トウシメ〈南部〉トウスン〈雲州〉イノミ〈佐州○中略〉
此草中ノ白穰ヲ出シテ、燈火ニ供スルヲ燈心ト云、
p.0227 釋奠料〈春秋並同〉 名香二兩、〈受二藏人所一〉胡麻油二升、〈○中略〉燈炷布二寸、〈○中略〉
供奉年料〈中宮准レ此○中略〉 燈炷調布十二端三尺六寸〈長夜一尺六寸、短夜減二三寸一、○中略〉
右起二十一月一日一、迄二來年十月卅日一料、
p.0227 御佛名
行事藏人催レ事、〈○中略〉内藏、〈(中略)火櫃、油、〉〈六升〉〈脂燭布、〉〈三段〉〈酒肴御膳御厨子所申二供養請奏一下二上卿一、〉
p.0227 八日、法性寺修二月事、
油坏三百〈○中略〉 燈心行事出納持二參之一 廿四日、西北院修二月、
燈心直料米三斗 已上年預沙汰
p.0228 殿のおまへ〈○藤原賴通〉長谷寺に參らせ給て、七日こもらせ給、〈○中略〉なぬかゞうちに、やがて万燈會せさせ給ふべければ、あぶら、とうしみまでもてのぼらせ給、
p.0228 享保十二年十月廿九日夜、參候、〈○中略〉玉井〈女中局名〉御前ニテ短檠ノ燈心ハ、幾筋ニ致スガ好ク候ヤト申上ラル、是ハ一大事ノ秘藏ノコト也、凡ソ燈心ヲ入ルヽコト、三條ハ四スジヨリ明ナリ、五筋ハ六筋ヨリ明ナリ、七筋ハ八筋ヨリ明ナリ、兎角ニ半ニスルガヨシ、是ハ獅子吼院殿〈○堯恕法親王〉ノ發明ナリ、凡ソ燈ヲ半ニ立ルハ、眞ヲ立ルナリ、丁ニスレバ光二ツニ分ル、故ニ眞ガ二ツニ立ツ故ニ暗シ、兩傍ヲソヘニ立テヽ、中ニ一ツノ眞ヲ立ル故ニ、明ナリト仰ラル、尤ナルコトナリ、ソレヨリ御前ノ御書寫ノ燈、七スヂヅヽナリト、玉井申サル、
p.0228 三河にて安藤庄兵衞正次、五六人打寄りて、世にいひ觸し百物語して見んと、野中なる辻堂に行て、闇夜に燈心百筋を燭し、物がたり一ツ絶れば、一筋づゝ減じ、〈○下略〉
p.0228 子の日の燈心
甲子日に燈心を買へば、かならず其家富榮ゆるといふ事、正しき證は知らざれど、是大黑へ福を祈るより出し事なるべし、その故に此日燈心の市をたてゝ、棚をかざる所あり、又賣りにも來れり、俳諧の句には、子燈心なんどいひて、中むかしより多く見えたり、季吟廿會集、〈寬文四年印本〉とう(前句)しんとうしんとまちやあかさん、友光、甲子(附句)ををりに幸ねまつりに、季吟、落花集、〈寬文十一年似仙撰〉用ゆるや虎のゐをかる子灯心、如貞、〈○下略〉
p.0228 燈心、灯油にともすには、かならず新しきを用べし、久しく成、又は新しくても、風ひき氣ぬけたるは、灯くらし、箱におさめ置、氣のぬけざるやうにすべし、 白礬を水に加へ燈心を煮て、ともし火に點ずれば、あぶらの減る事すくなし、
p.0229 燈〓(カキタテギ)〈代醉、桃二剔灯火一之杖曰レ〓、〉燈〓(同)
p.0229 剔燈捧兒 ともしびのかきあげぎ 撥揚木
笑府、一人晩向二寺中一借レ宿云、我有二箇世々用不レ盡的物件一、送與二寶寺一、寺僧喜而留レ之、且加二恭敬一、至レ次早請問、世々用不レ盡的、是何麼物件、其人指二佛前一樹破簾子一云、將二此物一作二剔燈捧兒一、生々世々、那裏用得レ不レ盡、
p.0229 灯〓かきたてぎ〈とうしんをさえ〉 備後福山にて、へげ〳〵と云、筑後國久留目にて、さんとくといふ、越前にて、かきたてぐゐ、越後にて、かんだしといふ、
p.0229 殿中さま〴〵の事
一女中方にとぼされ候御燈臺、〈○中略〉かき立木は、うすおしきを廣さ二分計にわりて、かはらけの上にをき申候、
p.0229 成範卿事ありてめしかへされて、内裏に參られたりけるに、むかしは女房の入立なりし人の、今はさもあらざりければ、女房の中より昔を思出て、
雲の上はありし昔にかはらねど見し玉だれの内やゆかしき、とよみ出したりけるを、返事せんとて、灯爐のきはによりけるほどに、小松のおとゞの參給ひければ、急たちのくとて、とうろの火のかきあげの木のはしにて、やもじをけちて、そばにぞ文字をかきて、みすの内へさし入て出られにけり、
p.0229 一燈臺十四本〈○中略〉
打敷十四枚料絹十四丈〈一疋六丈也、枚別一丈、〉
p.0229 一鋪設裝束事 燈臺打敷(○○○○)事
淺黃色、面生、裏練、
p.0230 御所御裝束事〈○中略〉
立二燈臺一ニハ上﨟打鋪、次臺最末油器也、シタガハラケカサ子テ可レ進也、打鋪ハ非二莊嚴之儀一、タヾアブラコボサジ料也、然者雖レ晴シカザランハ敢非レ難、其座セバクバ、四方ニチイサクヲリテ可レ鋪也、箱ニ居ハ内々事也、打敷ハ貴賤ノ家ヲ不レ嫌可レ敷也、
p.0230 まさひろはいみじく人にわらはるゝ物哉、おやなどいかにきくらん、〈○中略〉ぢもくの中の夜さしあぶらするに、とうだいのうちしきをふみてたてるに、あたらしきゆたんなれば、つようとらへられにけり、さしあゆみてかへれば、やがてとうだいはたふれぬ、したふづはうちしきにつきてゆくに、まことに道こそしんどうしたりしか、
p.0230 燈臺
かたちの眼ある事は、天に日月有がごとしとかや、世の中のあさはかなるわざより、おくぶかきまことの道にいたるまで、見る事これがのりたり、かくてぞ先聖の亞聖にしめし給へるにも、禮にあらずんば見る事なかれといへるを第一とし給へり、かゝる眼もうばたまの夜に入ては、あかりをうしなへり、此時に此灯によらでは、たれか物のあやめも見分たん、世こぞりて目の藥をたうとめども、此灯の毎夜の目の藥たる事をしらず、古人燭をとりて夜遊ぶ、良に故ある哉、茶の會なども灯のほかげにこそ、いたりふかき事はありとこそいへれ、況や文をひろげてみぬ世の人を友とする、こよなきなぐさみをや、猶木ずゑにとうろなどかゝげたるもいとおかし、
燭をとりてあそべ火ともす花の陰
常々負(タノム)孔氏之孫 以二一餘一雖レ竭二氣根一 明德未三嘗成二我物一 灯臺本暗學窻怨
p.0231 みなみの院の北おもてにさしのぞきたれば、高つきどもに火をともし(○○○○○○○○○○○)て、ふたりみたりよたり、さるべきどち屛風ひきへだてつるもあり、几帳なかにへだてたるもあり、
p.0231 一番 左 とうだい
しらせばやくる宵ごとに灯火のあかしの浦にもえわたるとも
p.0231 三品羽林源君賜二書燈臺(○○○)于函三一、乃作レ詩以謝二奉之一、余亦次韻、
一隻高檠入二陋廬一、照レ顏古道聖賢書、細看字字行行際、挑盡油油滴滴餘、人以二昏明一應二用捨一、誰於二晝夜一做二親疎一、手中旣有二靑藜杖一、更採二香芸一拂二白魚一、
p.0231 燈臺もと暗し
宵の間過る程こゝにありて、御物語承らんとて、各坐につきけり、しばらくゐりて燭もて至りぬるに、翁ふとおもひよりしまゝ、燭臺をさして、世俗の諺に、燈臺もと暗しといふは、いかやうの事にたとへていふにやあらん、をの〳〵いふて見給へとあれば、座客の中ひとりいひけるは、世に何事にてもあれ、外にはかくれなき事を、其もとにてきけば、却て分明ならぬやうの事にかく申ならし候、〈○下略〉
p.0231 燈籠 内典云、燈爐〈見二涅槃經一〉唐式云、燈籠、〈見二開元式一〉本朝式云、燈樓、〈見二主殿寮式一、今按三字皆通稱也、〉
p.0231 按、原書云、善男子譬如下男女然レ燈之時、燈爐大小、悉滿二中油一、隨レ有二油在一、其明猶存、若油盡已、明倶盡、其明滅者、喩二煩惱滅一、明雖二滅盡一、燈鑪猶存上、玄應曰、鑪又作レ爐同、然則燈爐謂二燈之承レ油者一、非二燈籠燈樓之類一、〈○中略〉按、毗奈耶雜事云、苾蒭夏月然レ燈損レ虫、佛言應レ作二燈籠一、以二竹片一爲レ籠、薄氈遮障、此若難レ求、用二雲母片一、此更難レ得應レ作二百目一、令二瓦師作一、如二燈籠形一、傍邊多穿二小孔一、〈○中略〉按、燈樓以レ木作レ之、其形方而上如二、兩下屋一、燈籠以レ竹作レ之、如二毗奈耶雜事所一レ説、燈爐燈之承レ油者、三物各異、源君爲二通稱一非レ是、
p.0232 燈籠(トウロ)
p.0232 燈爐(トウロウ)〈燭籠、灯毬、灯篝並同、〉 石燈(イシドウロ)
p.0232 とうろう 唐式に燈籠と書り、〈○中略〉明月記に、近時民家今夜立二長竿一、其末稍斥如二燈樓一物、張レ紙擧レ燈遠近有レ之、と見えたれば、寬喜の比までは、官家に用ゐざりしなるべし、〈○中略〉本朝式に燈樓に作るは掛る物と見ゆ、反二燈樓綱一といふ事、雲圖抄諸節會に見ゆ、侍中群要同じ、涅槃經に燈爐あり、三才圖會に燈架あり、
p.0232 燈籠(とうろう)
按、三才圖會所レ圖者形似二南瓜一、俗呼曰二阿古太一、近世以二大提燈一爲二常用一、甚捷器也、
p.0232 造石山院所解
燈爐二基〈各長四尺徑一尺五寸〉 工二人〈○中略〉
以前、起二天平寶字五年十二月十四日一、盡二六年八月五日一、請用雜物幷作物及散役等如レ件、以解、
天平寶字六年閏十二月廿九日案主下 別當主典安都宿禰
p.0232 新嘗會供奉料〈中宮准レ之○中略〉
燈樓六具、〈各加レ案〉紗四丈八尺、〈○中略〉
右新嘗會料依二前件一〈○中略〉
供奉年料〈中宮准レ此○中略〉
燈樓料紗二疋二丈四尺〈春秋各一疋一丈二尺○中略〉
右起二十一月一日一、迄二來年十月卅日一料、〈○中略〉
燈樓九具、盤形燈臺三基、並隨レ損請替、
p.0232 造石山院所解 作上鐵物二百六物 工五十七人〈○中略〉
懸燈料肱金(○○○○○)一具〈石坐〉 工一人〈○中略〉
以前、起二天平寶字五年十二月十四日一、盡二六年八月五日一、請用雜物幷作物、及散役等如レ件、以解、
天平寶字六年閏十二月廿九日案主下 別當主典安都宿禰
p.0233 〈薄板製ノ〉燈籠賣
夏月黃昏賣レ之、薄ク紙ノ如ク削リ成ル杉板ヲ薄板ト云、以レ之小燈籠ヲ造リ、裏ニ赤紙ヲ張リ、コレヲ火袋ニシ、又屋根板ニ竹ヲ曲テ手トシ、小蛤殼ニ油ヲイレ、木綿ヲヨリテコレヲ油中ニ置キ、コレニ燈ヲ點ズ、其形種々アリト雖ドモ、下圖〈○圖略〉ノ物ヲ專トス、
p.0233 とうろう〈○中略〉 まはりどうろ(○○○○○○)は燈球也、走馬燈ともいへり、あげどうろ(○○○○○)は天燈と見えたり、石燈籠(○○○)あり、金燈籠(○○○)あり、
p.0233 一大佛殿納物
金銅燈爐(○○○○)一基〈在二花臺上一〉 大燈爐(○○○)一基〈在二庭中一、有二鏁三具一、○中略〉
永觀二年五月二日
p.0233 文治五年八月廿二日己酉、申刻著二御于泰衡平泉館一、〈○中略〉沈紫檀以下唐木厨子數脚在レ之、其内所レ納者、〈○中略〉銀造瑠璃灯爐(○○○○○○)、南廷百〈各盛二金器一〉等也、
p.0233 三年一請雜物〈○中略〉
白木燈爐(○○○○)三具
p.0233 南都春日神社の境内には、古物の燈爐あまた有て、擧て枚(かぞ)ふるに暇あらず、就レ中石燈籠(○○○)にしては祓戸、金燈爐(○○○)には蟬の燈籠、淺野侯の燈籠など、世人擧て見る處なり、こゝに若宮御供所の傍に、狩野探幽の寄附せし燈籠一基、又狩野尚信の寄附一基、同所にならびて建たり、
p.0234 英一蝶
或時兩大國の主、石燈臺(○○○)を爭ひもとの給ふきこえありしかば、やがて走行て、數多の金を出して、おのがものとし、狹き庭の内にうつしける、折しも初茄子を賣者あり、價の貴きをいはず、需て生漬といふものにして喰ひ、彼燈臺に火をともし、天下第一の歡樂なりといへり、其磊落豪放およそ此たぐひとぞ、
p.0234 石燈爐の名物は、橘寺の佛像と十二支をゑりたるが、年號をしるさゞれども、天下第一の古物といふべし、次に春日の祓殿社なるは、火ぶところに鹿の形あり、春日社に火見形(ひのみがた)といふがあり、西屋、柚木、東大寺の八幡宮、三月堂、般若寺の文珠堂、秋篠寺、春日の奧院、當麻の穴虫石などいとおほかり、元興寺に延元元年の燈籠あり、太秦(うづまさ)に賴政の寄附といひ傳しがあり、大德寺の高桐院に幽齋法印のめでたまひしがあり、ちかき比には泉涌寺の雪見形などきこゆ、江戸淺草竹町の渡の近所に、六地藏の石燈爐とて、鎌田政淸がたてけりといふがあり、相摸國筑井縣下河尻村なる寶泉寺の觀音堂には、建久二年の年號をしるせしがあり、これらは余〈○小山田與淸〉が耳にききたもちたるを、後わすれじのためにかいつく、
p.0234 或獲(○)二方廣寺瓦(○○○○)一用爲(○○)二燈籠(○○)一索レ詩
髣髴桐花記二阿藤一、參差翠縫想二觚稜一、憐無三功德庇二孫子一、一片殘鱗籠二夜燈一、
p.0234 廻り燈籠(○○○○)は、顰草にをどりの事をいふ所、揚燈籠(○○○)廻り灯籠の軒にふらめき、また鷹筑波集、ことを巧みに色をよくする、かゞやくやまはり灯呂のすはう紙、〈日能〉よを厭ふ姿か月のかげ法師、かしこきちゑの廻り灯籠〈宗明〉みな寬永中の作なり、懷子、めぐりあひて見しやそれそれ影灯籠(○○○)、身にそふや秋の月よりかげ灯呂、續山幷こだくみのいそげば廻るとうろ哉、平仄をしあはせぬるやもじ灯呂(○○○○)、〈文字を 子の絹にとり、字の平仄をあかしの瓶燭にとりたるなり、〉猶あまたあれど、益なければ錄せず、廻 り灯呂は漢土に走馬燈といへり、槐西雜志に、壁上の畫ありくやうにみゆるを、畫中人緣レ壁而行、如二燈戯之狀一、まはり灯呂に似たるをいへり、
戴灯呂(○○○)、貞德文集、六月十三日條、戴燈籠笠鉾鐘鑄之時、躍衆之裝束不レ殘可レ被二恩借一候、戴燈籠を板本にあげ灯籠と點を付たるはわるし、字のごとくいたゞきと讀べし、是をどり灯呂(○○○○○)なり、京師花園は北山邊の在名なり、七月十五日の夜をどるなり、在所の新婦は、必置灯呂(○○○)の尾のあるを頭に戴き踊るものなり、鐘鑄の風流に是を用ゆるなるべし、佐夜中山集、作りものや實にさま〴〵の舞灯籠(○○○)、とあるは是にや、廻り灯呂にはあるべからず、又茶人の用る櫻どう籠(○○○○)は、〈赤がね煮ぐるめにして張り、圓く作り、總體櫻花を彫透したり、〉思に風雨をさくる爲とみゆ、軍中忍びの挑灯に倣へる歟、又釣瓶の如く動くかんてら(○○○○)も、件の挑灯俗に强盜挑灯と云ふより出たる也、
p.0235 永享四年八月七日、自二内裏一アヤツリ燈爐(○○○○○○)一被レ下、一谷合戰鵯越馬追下風情也、殊勝アヤツリ言語道斷驚レ目畢、自二室町殿一被レ進云々、自二南都一進、奈良細工所爲二奇得一不可思儀也、熊替、平山、先懸等在レ之、 九月十三日、自二岡殿一宮御方へ廻燈爐(○○○)一被レ進、結構殊勝也、室町殿上樣入江殿へ被レ進燈爐云々、
p.0235 きりこ(○○○) 棒或は燈籠にいふ、截角の義、かと反こ也、四角なる物の角々をきりたる形をいふと、壺氏の説也といへり、〈○中略〉きりこの燈籠は、曆家全書に方燈と見えたり、
p.0235 キリコ燈籠
きりこ燈籠のきりこといふに種々の説あり、切籠、又は切紙と書は、紙を切てさげたるより當(あて)たるなるべし、紙捻をこよりといへば、紙にこといふ訓もありて、此説あたれるやうなれど、予〈○柳亭種彦〉考ふるに、切子と書がおだやかならん歟、〈○中略〉さてはしの子、こたつの子といふも、左右に親にたとふべき柱あるに對しての名也、今障子の窻のことを、しやうじの子といふも同意、是よりう つりて總て四角につくる格子やうの物を、組子といふ、その角々を切たるが切子なり、切は隅切角の切、子は組子の子なりと解さば論なかるべし、昔よりきりこの字論あるを、其角うるさくや思ひけん、貞享元年自筆耕せる、蠹集には片假名にて書り、
p.0236 燈籠(とうろう)〈○中略〉
一種岐里古燈籠(○○○○○)、聖靈祭等用レ之、所レ飾紙繒甚華美、
p.0236 此年間〈○寬政〉記事
兒輩の翫ぶ切り組燈籠(○○○○○)繪は、上方下りの物也、夫故始は京の生洲、大坂の天滿祭の圖抔を重板せり、寬政享和の頃、蕙齋政美多く畫き、又北齋も續ひて畫けり、文化にいたり、歌川國長豐久此伎に工風をこらし、數多く畫き出せり、其梓今にありて年々摺出せり、
p.0236 菓物の燈籠(○○○○○)、廣東新語、廣州時序の條、八月十五之夕、兒童燃二番塔燈一、持二柚火一、踏二歌於道一曰、灑樂仔(ザイラシ)灑樂兒無二咋糜一、塔累二碎瓦一爲レ之、象花塔者其燈多、象光塔者其燈少、柚火者以二紅柚皮一彫二鏤人物花草一、中置二一琉璃盞一、朱光四射與二素馨茉莉燈一交映、蓋素馨茉莉燈以レ香勝、柚燈以レ色勝、この方にて西瓜の肉を削り取て、中に火をともして靑くみゆるも、おなじ類なり、
p.0236 もやひさしのてうどたつる事
ひさしののきのとうろのつな、ひるはかへすべし、すそのわなをかみへひきかへして、むすびめよりかみにはさむべきなり、
五せち所のこと
とうろは帳の左右のまののきにつるべし、そばにもつるべきところあらば、いくつもつるべきなり、
p.0236 ひるの事どもはてぬれば、所々の掌燈す、まづ仁壽殿の露だいのとうろ二、淸凉殿のと うろ五、がくの間をのぞきて、それより南方へ四間ごとにあり、二間のまへ、をの〳〵すはうのつなにかけたり、火たき屋の火をめしてこれをともす、殿上だいばんの上下〈とうだい〉小板じきのまへの小庭〈とうろ〉渡殿〈とうろ○中略〉夜のおとゞのかいともし、御手水のまより、内侍もちてまいりて、四のすみのとうろにともす、
p.0237 賦二雨夜紗燈一應レ製〈于レ時九月十日〉 菅膾大相國〈○菅原道眞〉
宮人入レ夜殿上攀レ燈例也、于レ時重陽後朝、宿雨秋夜、微光隔レ竹、疑二殘螢之在一レ叢、孤點籠レ紗、迷二細月之插一レ霧、臣等五六人奉レ勅見レ之、不レ足、應レ制賦レ之云爾、謹序、
p.0237 ひと〴〵わた殿より出たる、いづみにのぞみゐてさけのむ、〈○中略〉かみいできて、とうろかげそへ火あかくかゝげなどして、御くだ物ばかりまいれり、
p.0237 とうろうの事
すべて此大臣〈○重盛〉はめつざいしやうぜんの心ざしふかうおはしければ、當來のふちんをなげき、六八弘誓の願になぞらへて、東山のふもと四十八けんの精舍をたて、一間に一づゝ四十八のとうろうをかけられたりければ、九品の臺めのまへにかゞやき、光ようらんけいをみがひて、淨土のみぎりにのぞみぬるがごとし、〈○中略〉それよりしてこそ此大臣を、とうろうの大臣とは申けれ、
p.0237 板倉重宗諸司代ノ節、播州明石ノ城主へ申サレシハ、貴殿城内ニ古來ヨリ人丸ノ社コレ有由、承リ及ビ候ガ、人丸ハ和歌三人ノ内ニテ候程ニ、歌道ヲ執心致シ候者ハ、僧俗トモ參詣申度ト願フニテ、御城内ノ事故ニ遠慮有テ、空シク打過候事ニテ候、諸人ノ爲ナレバ御社ヲ御城外へ移シ出サレ、海邊ノ高ミニ建ラレ、往來ノ者モ參詣仕候樣ニ成サレ候ラハヾ、我等モ燈籠ヲ寄進申スベクト有シカバ、城主モ重宗ノ申サルヽ事ナレバ、餘儀ナク海邊ノ高キ所へ移サ レシカバ、約束ノ如ク周防守ヨリ大キナル燈籠ヲ寄附有テ、常燈ヲ建ラレケル、以前播磨灘ヲ乘ケル般、夜中風替リ抔シテ、明石前ハ破船セシ事ナド有シ、向後ハ彼燈籠ヲ目當ニシテ入ケル故、破船ノ愁ヒナシ、周防守ノ心ハ、畢竟此目當ニ至ルベキ爲ナリ、サレドモ城主ヨリ此所ニ移サセ、後ニ燈籠ヲ寄進セラレ、初ヨリ自分ノ功ヲ顯サズ、後ニ人ノ心付樣ニ諸事ヲ致サレケル、誠ニ思慮ノ厚キ人也ケリ、
p.0238 山城 燈籠細工
p.0238 燭臺(シヨクダイ)
p.0238 燭臺(シヨクダイ) 燭奴(シヨクド)〈燭架爲二人形一者〉 手燭(テシヨク)〈手照同〉
p.0238 燭臺(シヨクダイ)〈又云燭奴、天寶遺事、〉
p.0238 燭臺(しよくたい)〈燈臺 短檠燭奴〉
按、燭臺、燭架、制不レ一、或作二人獸之形一、其用唯掲二蠟燭一耳、
p.0238 燈〈燭〉
燭燈木底四方格、上寬下窄、白紙糊レ之、而空一其上一、施二木柄一釘二柱上一、雖二大風一不レ至二滅燭一也、王宮内所レ用皆然、
p.0238 てしよく 中山傳信錄に爉簽を譯せり、手燭の字は周禮の疏に見えたれど、少異なり、
p.0238 蠟燭之臺、雖レ不レ被レ載二注文一所レ進也、
p.0238 一燭臺の事
らうそくを立るもの也、大小品々有、眞銅やカネ等なるべし、三ツ足有を式とす、しよくせん掛有、略義なるべし、鐵は略義なり、
p.0239 十五日修理職の者〈○註略〉階にすゝみて、御吉書を給はりて、三毬打のもとにあゆみより、御吉書を入て歸り參る、藏人階の南にある燭だいのろうそくをとりて、修理職の者にあたふ、
p.0239 一しよのめい披露の事、樣體は大なる盆に香爐、同ちいさきそく臺(○○○○○○○)にらうそくをとぼして、しよのめいをも盆にすへて、蔭凉軒被レ渡候を請取申、御前へ持參申候、
p.0239 一三月〈○永祿四年〉卅日、未刻御成、〈○足利義輝、中略、〉
一舞臺燭臺二、狼烟も二所に在レ之、
p.0239 寬永三年九月六日ニ將軍家〈○德川家光〉之二條ノ亭へ行幸アリ、〈○中略〉
御進物之品々〈○中略〉
一鶴蠟燭立 一〈金也〉
p.0239 一同年〈○寬永十六年〉ニ江戸大火、此時御城回祿ス、御城御普請出來シテ、御移徙ノ時、御一門及ビ諸大名衆ヨリ獻上物ノ品々、〈○中略〉
一御燭臺 十 牧野右馬允忠成〈○中略〉
一御手燭 十
一御燭臺 十本 京極刑部少輔高和
一御手燭 十
p.0239 大晦日は合はぬ算用
誰方にても此金子の主取らせられて、御歸りたまはれと、御客一人宛立たしまして、其後内助は手燭ともして見るに、誰とも知れず取つて歸りぬ、
p.0239 嘉永二年印行、古風ト流布トヲ、相撲番附ニ擬スル、其流布ノ方大關以下左 ノ如シ、〈○中略〉八百善形ノ燭臺〈八百善ハ新鳥越ノ料理店也、近年ハ自家ニ客セズ、出前ノミトス、江戸一ノ高名トス、〉
p.0240 勝手へ燭臺手燭の用意をも談置、日暮方見計ひ、蠟燭の心を指にて爪交挫(つまみひしぎ)、火を擧(とも)し、燭臺へ差(さし)、燭剪掛(ししきりかけ)を手前にして持出、跪て上座と客人の方へ寄て置べし、〈なをくでんあり〉
p.0240 燭剪(シヨクセン)
p.0240 燭剪(シンキリ)
p.0240 燭切 しよくきり 〈今云〉心切
禪林小歌注、〈聖冏作〉燭臺燭切、〈以可レ切二蠟燭一○圖略〉
今思ふに、この燭切は今の心切の事なり、この形したる物今も有り、この書は建武の末の比に出來しものといへり、
p.0240 燭剪〈俗云志牟木里〉
燭剪可三以切二去燭燼一、毎置二於燭臺一、
p.0240 白鑞燭臺、赤銅之燭剪等各五對、
p.0240 一正月朔日、〈○中略〉勾當内侍左手に盃〈男の御とほしの料なり〉をもち、右の手にさきとり(○○○○)をとりて、母屋の南の間をへて、御前にすゝみ盃を置、燭のさきをとり、れん臺の中央の間の東の障子を明てしりぞく、
p.0240 心〈○蠟燭〉を剪ば、右の手にて燭剪壺(たんきりつほ)の蓋を取、左の手に壺を持、右の手に鋏を持、跪て心を切、壺へ入、早く蓋をすべし、燭臺二挺ならば、燭剪壺は其儘下に置、蓋を取、右の手に鋏を持、左の手にて蠟燭を下へおろし、心を剪、早く蓋をして、蠟燭を燭臺へ差べし、若燭剪しん剪壺なくば、心を剪時、勝手より唾壺(はいふき)へ水を少し入、火箸歟杉箸にても持添出、唾壺へしんを剪て入、次の間壁歟襖際に置べし、〈なをくでんあり〉
p.0241 一同年〈○寬永十六年〉ニ江戸大火、此時御城回祿ス、御城御普請出來シテ、御移徒ノ時、御一門及ビ諸大名衆ヨリ獻上物ノ品々、〈○中略〉
一蠟燭之心切 十 杉原伯耆守〈○中略〉
一同心入 十
一シンキリ 十 板倉周防守重宗
p.0241 行燈(アンドウ)
p.0241 行燈(アンドウ)〈方燈也〉
p.0241 行燈(アンドン)
p.0241 灯呂(トウロ)ヲアンドン、チヤウチンナンド云文字如何、 挑灯ト書テ、チヤウチントヨミ、行灯ヲアンドントヨム、皆唐音歟、行(キヤウ)ノ字ヲアントヨム事、行在行者(アンザイアンジヤ)等也、
p.0241 あんどう 行燈の音也、あんは古音也、行宮、行在、行者、行厨、行尸、行脚などかくいひならへり、有明行燈は暗燈と見えたり、兵家に疊行燈、釣行燈あり、
p.0241 燈〈燭○中略〉
民間燈多不レ用レ燭以レ木作レ燭、四方糊レ紙、高二木座一籠二油碟其中一、置二地席上一、
p.0241 當代奇覽と題せるものに、あらゆる雜談有り、十が一爰に拾ふ、一古老の物語に、今の世に有る諸器之類、いにしへより皆有る事の樣におもへども、左には非ず、行燈などゝ云ものあれども、今のごとく蜘手を中に釣るは近き事也、昔は路次の行燈のごとく、底板に燈臺を置たる也、中に釣は小堀遠州の丸行燈を仕出し給ふより始り、角なるにも、中に釣事になれり、
p.0241 行燈 行燈の始詳ならず、下學集、〈文安〉燈籠行燈挑燈かくならべ出し、鎌倉年中行事〈享德〉に、行列に續松行燈を持せられたること見えたり、按るに行燈は元家内にすゑ置物にあらず、續松は便あしきゆゑに、灯火におほひして風をふせぎ、持ありく爲に造出したるものなるべし、然則字義にもあへち、民家は端近く風はやきゆゑに、灯火におほひあるが便よければ、後に燈臺にかへて用ひたるにやあらん、さて永正御撰何曾のうちに、御僧の寮に物わすれしたりといふを、あんどん(行灯)と解何曾あり、御僧の寮は庵也、物わすれは鈍也、さればあんどんといふが古言なるべし、下學集に行燈(アンドウ)とかなをつけたるは、後に上木したる時のしわざなるべし、貞德の御傘にも、行燈(アンドン)とかなをつけたり、
玄峯集〈伏見鐘木町炬松ふつて野邊を行も、げに爰もとの古風なるべし、〉
行燈で來る夜おくる夜五月雨 嵐雪
かくいへれば、鐘木町ふるくは續松を用ひ、元祿の比は、行燈にておくりむかひせしなるべし、〈○中略〉行燈の古製は、今茶人の用る廬地行燈といふ物を見て知るべし、其製作持步くに便よし、されば、元家内にすゑ置ために造出したるものにはあらざるべし、遵生八牋に有レ柄曰二行燈一、用以秉一燭、とあり、唐土の行燈は此方の挑燈のたぐひなり、
元祿二年印本、本朝櫻陰比事所レ載圖、〈○圖略〉 今茶人の用る露地行燈といふもの、これに似たり、當地近きあたりをありくには、かくの如き行燈を用ひたり、今も諸國に行燈を夜行に用ゆる所おほくありとぞ、二十四五年前、おのれ上野に旅行せしとき、一の宮の邊にて、夜行に行燈を用ゆるを見たり、京都にては、ときによりこれをともして、軒につることありと聞きぬ、
p.0242 行燈再考
行灯はもと提ありく爲に制れる物にて、家内にすゑおくは後の事也といふ證を、又見いでゝし るす、山伏道葬送行列次第〈杏花園藏本〉といふ古き書に、〈上略〉次導師先達、〈持二檜杖一〉次馬、次捧物、次左右行燈、次棺云々、無緣雙氏〈卷四〉尊宿荼毘之次第といへる條に、一番幡四流〈左右〉僧持、二番行灯四箇〈左右〉行者持云云、〈これら室町家のころの葬式なるべし、鎌倉年中行事の行列に、續松一丁行灯ひとつもたせべしとあるを、これらに合せ考ふれは、行灯は今のちやうちんのごとく、提ありきしにうたがひなし、〉累解脱物語〈下卷〉に、いつのほどより集りけん、てん手に行灯ともしつれ、村中の者ども、稻麻竹葦と並居たるが云々、〈とあり、此物がたりは、元祿三年の印本也、そのころまでも田舍にては、もはら行灯をさげありきしなるべし、先板の卷に引る嵐雪がしゆもく町の發句と同時也、合せ考ふべし、〉
p.0243 あむど
灯は夜を日につぐそなへにして、諸人このかげによらずといふ事なし、しかあれど間毎に風なきにしもあらざれば、そのまたゝくがうるさゝに、まはりをかこひて紙をもてこれをよそひて、もて行く便ともせり、彼佐野の何がし常世が、世に出しゆふべにも、合せて三ケの庄相違あらざる自筆の狀、行灯にとりそへ給はりしなどきけるは、長牢人の心の闇をもてらせとにや、此ものむかしは四角なるばかり有けらし、ふるき女のわらはの、なぞ〳〵にも四方しらかべ中ちよろちようなどこそ云つれ、三四五十年以前、天が下の數寄人の御作意に、丸あんどゝいふものこのみ給てより、今はまろきも世にひろまりつ、
物ずきも新月や丸あむど
炎天除レ幄尚如レ蒸 眠氣難レ堪忽枕レ肱 連夜可レ期見二黃卷一 凉風當レ腠(ハダヘ)不レ當レ燈
p.0243 行灯あんどん 加賀にて、しほんばり(○○○○○)といふ、江戸にていふ丸あんどん(○○○○○)を、加賀にて、まはしあんどん(○○○○○○○)と云、津國にてゑんちやんどん(○○○○○○○)と云、是はゑんしうあんどんの誤也、小堀遠州侯の物數寄にて、製りはじめ給ひしと也、江戸にて、はちけん(○○○○)と云もの有、竹をもて丸く輪を作り、菅笠の如くたてに骨を組て紙にて張、灯を點じてうつばりなどにかくる物也、加賀にてかさあ(○○○) んどん(○○○)、越前にてつりあんどん(○○○○○○)、〈又〉はつほう(○○○○)又につほん(○○○○)といふ、津國にてもはつほう(○○○○)、武藏にてさんとく(○○○○)共云、
p.0244 行燈(あんとう) 阿牟止宇 遠州行燈、或圓周ノ二字トス、
三才圖會云、影燈(○○)、燭臺、書燈(○○)、不レ知二其制之所一レ始、殆後人以レ意創二爲之一者、三物雖三皆借二光於燭一、然或以レ障レ風其用則同歸耳、
按影燈、書燈、共今稱二行燈一、其一脚者仆易、故今不レ用、近世制圓而有二内外三柱一、上下設レ輪、内者不レ搖、外者能旋、開闔任レ意、或云、小堀遠江守正一始制レ之、故俗曰二遠州行燈(○○○○)一、
p.0244 書燈記
世有二遠州燈者(○○○○)一、遠江守小堀政一所レ創、海内莫レ不レ用也、其製圓欄張レ紙以籠レ燈、分レ半爲レ扉開レ之、匝轉而襲レ于レ後、爲レ柱凡六、左右則相重爲レ界、上二輪亦相重、下則圓匣以植二三柱一、含二一柚一以貯二燈心一、圓外爲閾、輪篐承レ扉可レ轉也、中間鐵條繫二左右與一レ後、架二小圈一用安二燈盞一焉、上輪橋著二鐵鉤一可レ提也、昔者吾宇先生用爲二書燈一、乃去二中間鐵條一立二一巨柱一、闕如二二柱一、銜二短衡一、上下自在、衡端以架二燈盞一、偏重則澀止、其低昂以隨二看書寫字之便一也、先生爲レ文記レ之、因嘆、匡衡之璧、車胤之螢、孫康之雪、江泌之月、畢誠之薪、皆不レ如二我之有一レ燈、而我之有レ燈乃終レ於レ有レ燈、而不レ如二彼輩之終立レ身著一レ名哉、是其爲二慷慨一奚若也、太田見良嘗謂二先生一曰、比歲儉米貴吾與二君等一所二尤病一也、先生曰、吁一掬之米可二以幷レ日而不一レ餓、抑何所レ病、但米貴物從レ之、乃使二油貴一、是吾所二獨病一也、先生之志、於レ是乎可レ知已、
p.0244 書燈(○○)は、かろくしてまどかなるべし、玻璃をはりたるはくらし、夏蟲の飛入て、油のうちにてさわぐをみるもくるし、なつはちひさきもぢもてはりし、三つ折のべうぶのうへに、承塵のやうにもぢつけたるをたてまはせば、はひもかもちかづかず、ひるつかたうたゝねするにもよし、
p.0245 書燈
臞仙神隱曰、書燈以二薄木板一作レ之、如二木櫃狀一、黑漆文レ之、寬六七寸、只可二一小燈盞一、高八寸、項有二圓竅徑三寸一、前有二吊窓一、挂起則燈光直射二於書上一、其明倍二於常燈一、香油一斤入二桐油三兩一耐レ點、又辟二鼠耗一、以レ鹽置二盞中一亦可レ省レ油、以二生薑一擦二盞邊一不レ生レ暈、
此製旣に此土古よりあり、板を以て上狹下廣く造り、三方圓竅あり、前にひらき戸有、上に煙ぬきの竅あり世にしるごとし、有明行燈(○○○○)と云もの是なり、余〈○大枝流芳〉新に良法を出す、行燈大小方圓をえらばず、燈火の前遮燈板をまふく、其制横六寸計、竪四寸計の薄板を造、上の左右に一尺二三寸の絲を付て、絲の終りに一錢半計の鎭を付、絲をあんどうの上の横木に打かけ、提昂意に任てよきかげんに燈火をさへぎり、じきに火を不レ見、下より光をとりて書面を照す、一には目を養、じきに火を見ざれば也、二には風にあたらず、火不レ動して油も耗ず、三には油煙眼に至らず、四には光外に泄ず、直に書を照〈セ〉ば、光明外の法よりも勝る、此四德有、爰に圖してさとらしむ、〈○圖略〉また一名繼晷(ケイキ)板と云、これ韓退之燒二膏油一繼レ晷といふ句によれり、
p.0245 掛燈蓋(○○○) 耳得
日月のともし火、江海は油、是を天地の燈蓋といふ、このもの人家にくだりて、かけ燈蓋とは誰名付けん、なかんづく都三條大路に用られて、螢とびかふ夕暮や、蟬の小川に聲ありて、水無月の凉風、軒をめぐれば、消なんとしてはかゝげ、其榮枯風にまかす、あるはむら雨の晴間待間、かれにふたするの自在あり、あるは蒲やき田樂に光をそへ、爐にあたる横顏に、鈎髭のますら男をつなぎ、又華街靑樓のかけ行燈は、夜の錦に輝て、羅綾の袂とこそ見ゆれ、將浮圖の莊嚴第一には、高座に如幻のをしへあり、あなかなし人の世中燈のごとし、かならず消る事忘るべからずと、ある僧の垂戒も尊し、詩にかたみをのがれ、歌にぬめりをはづれたらば、我俳諧の道に似たるものは、此掛 燈蓋にして、高きは高うし、低きは低うす、されど燈臺下くらしといふ諺もあれば、執行地に油斷はなるまじと、みづから是を思ひて、夜座更行まゝに、油煙に鼻の穴をくもらし、筆を置ば後夜の鐘寢よと吿ぬ、〈○俳句十一句略〉
p.0246 ひじり行燈(○○○○○)は、諸艶大鑑、非寺里行燈の光をうけて、大かた隙日を暮しかねたる女郎云々、局みせのかけ行燈(○○○○)を云り、ひじりとは高野聖の笈めく故の名にや、又赤き紙にて貼たるは、もとたばこやの目印なり、艶道通鑑、通天の紅葉をいふ所、此里のたばこ賣が赤あんどん(○○○○○)は、是よりぞ本づきぬらんとは、紅葉のてるをいふなり、こは近くまでさありしにや、六玉川二編、俤の夜の障子やたばこ〓、などもみゆ、今も烟草やはかき色の暖簾かくるもおなじ目印なり、〈西瓜の赤あんどん(○○○○○○○○)も、これよりや出つらん、○下略〉
p.0246 嘉永二年印行、古風ト流布トヲ、相撲番附ニ攝スル、〈○中略〉古風方ニ曰、〈○中略〉丸行燈(○○○)、〈京坂ハ今モ必ズ丸形ヲ用フ、江戸ハ專ラ角ヲ用フ、〉
p.0246 たそや行燈(○○○○○)〈元祿以前よりともす事は、其角が畫賛を見てしるべし、〉
このあんどうは、吉原町にかぎりてともす事なり、元よし原の頃より仕出しけるにや、たそや行燈とそ呼ける、〈○中略〉
晉其角自畫賛〈○圖略〉 それよりして夜明がらすや郭公
p.0246 今小き行灯をぼんぼり(○○○○)といふ、續五元集に、餅の紅粉も犬子となる龍燈のかさぼんぼりは月と花、是は月花には龍燈も明らかならねば、これ龍燈のぼんぼりなるべし、燈火の覆ひをぼんぼりといひ、又茶爐の雪洞をもしかいへり、火を覆ふ事おなじければなるべし、かさぼんぼりとは、もとはさもいひしにや、
p.0246 當月中、吉原仲の町往還へ櫻を植、〈靑竹にて垣を結ひ、黃昏よりボンボリ(○○○○)に燈燭を點ずる故、花に映じて一入うるはし、〉
p.0247 祭禮萬度(○○)
天明前後の祭禮には、萬度と唱へて、七八寸の角柱の、たけ九尺なるを眞とし、上には横板ありて、是にさま〴〵の飾り物をなす、正面には、扇の形の額をうち、山王と大書し、町名を出だし、或は氏子中など書くもあり、是を手だめしに持ちありく、其力量にほこるを侠とす、此小なるを小萬度(○○○)とて、子供らに持たしむ、祭禮近なる夜中、角物に土俵を結附け、かりに萬度としたるを、かの俠客ども、萬度の稽古とて持ちありく、各町の手提灯、おほかたは裸體にて、鉢卷緋ぢりめんのふんどし、見る者群集をなして隨ひありく、子供等も又是に傚ふ、天明中の風俗なり、扨天明五六年の比と覺ゆ、京橋弓町より藤棚の大萬度(○○○)出でゝ、町の木戸口に障りて、横になして通る程の物なり、
p.0247 躾式法の事
一あんどんを押板にても、又は床にても置事、ともし火を面に置也、後へなして置事有べからず、無祝言也、亡靈手向時は後へする也、是を能く心得べし、
p.0247 一同五日ノ夜御行始、管領へ御出恒例也、〈○中略〉續松二丁、行燈一モタセベシ、公方樣出御也、
p.0247 一同年〈○寬永十六年〉ニ江戸大火、此時御城回祿ス、御城御普請出來シテ、御移徙ノ時、御一門及ビ諸大名衆ヨリ獻上物ノ品々、〈○中略〉
一御行燈 二十 三浦龜之助〈○中略〉
一御行燈 二十 井上河内守正利〈○中略〉
一大行燈 五 太田備中守資宗
p.0247 利勝ノ家士ニ寺田與左衞門ト云者アリ、此者モ深智遠謀ノ者ニテ、家光公ニモ事ニヨリテハ、此事與左衞門ニ問テ來レト仰セ有シ事アリ、此與左衞門卽答デキザル時ハ、宅へ歸 リ、一間へ籠リ、戸ヲ立、夜分ノ如ク行燈ヲトモシ、其モトニ坐シテ事ヲ考へ、決定スルニ、一度モ誤リシ事ナシト也、
p.0248 京坂ニ在テ江戸所レ無ノ市街ヲ巡ル生業ニハ、〈○中略〉行燈仕替(○○○○)、
京坂ハ專ラ丸行燈ノミ用レ之、新製ノ物ヲ擔ヒ巡リテ、古ク破損ノ物等ト交易シ、古物ノ方ヨヲ錢ヲ添ル、
p.0248 今の俗薺の薹のみのりたるを、ぺん〳〵草と呼て、紙燈にかけ繫ぎ、夏虫を避るの呪とす、こは西蕃にも似たることありて、物理小識六の卷に、高濂が籟品正二月有二窩螺薺一、卽地英菜取二薺菜花莖一、作二桃燈杖一、可レ避二蟲蛾一謂二之護生草一とみゆ、
p.0248 挑燈(チヤウチン)
p.0248 挑灯(チヨウチン)
p.0248 提燈(テウチン)〈言挑灯也、懸火同、〉
p.0248 提燈(テウチン)〈一名懸火〉張燈(同)〈太平御覽〉挑燈(同)〈俗用二此字一謬乎〉
p.0248 提燈てうちん 仙臺にてひぶくろ(○○○○)、常陸にてをつべしあんどん(○○○○○○○○)ともいふ、日向にてへこ(○○)といふ、
p.0248 提燈(てうちん)
三才圖會云、提燈今農家襲用、以憑二暮夜一、提擕往來昭視、
p.0248 一挑灯は上古にはなき物也、上古は夜行には松明を用、又客來の時よめ迎などの樣なる時は、篝火をたきし也、又夜行の時は行燈をも持せし也、挑灯は京都將軍の代、末つかたに用始しなるべし、〈○下略〉
p.0248 挑燈 挑燈のはじめ詳ならず、古今夷曲集客人の歸るさ送る挑燈はまうしつけねどいでし月影、定家卿とあれども、此歌古書に所見なければ、證としがたし、秋の夜長物語、後堀河院の御宇に、西山のけいかい律師といへる人、三井寺の梅若といへる兒を戀、同寺の或坊にかくれ居たるに、此兒其坊へしのび行ことをかける條に云、ふけ行かねつく〴〵と、月の西にめぐるまでまちかねたる所に、からかきのとを人のあくるおとするに、書院の杉障子より遙に見いだしたるに、れいの童〈梅若に仕ふるわらはなり〉さきに立て、ぎよなふのちやうちんに、螢を入てともしたり、その光かすかなるに、此ちご〈梅若なり〉きんしやのすいかんなよやかに、うちしほれたるていにて、見る人もやと、かゝりのもとにやすらひたれば、亂てかゝる靑柳の、いとゞいふばかりなきさまに見えたるに、りつしいつしか心たよ〳〵しくて、ある身ともおぼえず、童ちやうちんをさそうの軒に懸て、書院の戸をほと〳〵とたゝきて云々、醒々云、こゝにちやうちんの名目見えたり、此物語は玄惠法印の作といへば、其來ること久しといふべし、按るにぎよなふは魚綾の誤にや、綾の字音りようなるを、れふと作、又〓ふに誤りしならん、れと〓とまぎれやすき字なればなり、魚綾は綾の名なり、唐制の挑灯にならひて制たるに、綾をはりたるならん、しかるときは螢の光もすきとほるべし、當時は唐制にならへるものどもおほかり、蓋もとは佛具にやありけん、なほ考べし、當時挑灯の名目はあれども、常に用る物にはあるべからず、おなじ玄惠の作の庭訓往來に、挑灯の名見えざれば、しかおもへり、なほ諸書を參考するに、文安〈五〉下學集に、燈籠、行燈、挑燈とならべ出せり、これ籠挑灯なるべし、〈さきにもいふごとく、下學集は文安元年の書なり、〉寶德〈三〉七十一番職人歌合に、たち君を見る男續松を持たれば、當時も挑灯を用る事まれなりし歟、享德〈三〉鎌倉年中行事管領のもとへ、御參の行列の事をいへる條に、續松二丁行燈一もたせべしとありて、挑燈のことなければ、當時ももはらにはもちひざりし歟、康正、〈二〉長祿、〈三〉寬正、〈六〉文正、〈一〉應仁二文明、〈十八〉尺素往來に、挑燈の名目見えざれば、文明 以前は用る事まれなりし歟、長享、〈二〉延德、〈三〉明應、〈九〉文龜、〈三〉饅頭屋節用に挑燈の名目見えたり、此時代すべて籠挑灯なるべし、〈此節用集はさきにもいふごとく、文龜中の書なれば證とすべし、〉永正、〈十七〉大永、〈七〉或古記大永三年の條に、門にちやうちん二ツかくるといふこと見えたり、享祿、〈四〉天文、〈廿三〉穴太記天文十九年の條に、中間に挑灯をともさせたるばかりにて、忍びやかに出し奉る云々とあり、これは葬送に用ひたるなり、北條五代記、〈片かな本、寬文二年刻、〉卷之八に、天文年中、挑灯の指物を用ひたる事見えたり、弘治、〈三〉永祿、〈十二〉當時は旣に桃燈をもちゆる事おほくなりしにや、甲陽軍鑑卷之一、永祿元年の令に、不斷不レ可レ燃二挑灯一とあり、又卷之十下、永祿六年の條、軍用のことをいへる所に、小荷駄馬一疋に挑灯二ツばかりヅゝ結付、馬負にも一人に一ツづゝ續松もたせ云々とあり、かゝれば當時の挑灯は、もはら軍用にもちひたる歟、元龜、〈三〉天正、〈十九〉或古説に、永祿天正の比は、籠挑灯も今世のごとくたゝむ挑灯もありし也といへり、文祿、〈四〉慶長、〈十九〉好古日錄に、俗に云箱挑灯は豐臣公の時始て制す、上下を藤葛を以編たり、板を用るは慶長以後の事と云、天正已前の挑灯は籠に紙を粘して用ゆ、醒々云、〈左にあらはす古制を見るべし〉此説に右の古説を合せ考れば、たゝむ挑灯は天正以後の物なるべし、元和、九寬永、廿正保、四慶安、四吾吟我集〈慶安二年未得著〉君がふくほうづきなりの挑灯に身をつりがねの片思ひかな、といへる狂歌あれば、旣に當時ほうづき挑灯といふものあり、承應、〈三〉明曆、〈三〉むさしあぶみといふ草紙の繪を見るに、長き竹のさきに丸き挑灯をつけて持たり、今の高挑灯のたぐひなり、手挑灯は見えず、万治、〈三〉寬文、〈十二〉訓蒙圖彙〈寬文六年印本〉に、丸き挑灯に柄をつけたるあり、今ぶら挑灯といふものゝ如し、水鳥記〈寬文七年印本〉の繪に、棒のなき箱挑灯あり、俳諧夜錦集、〈寬文五年〉乾坤の箱挑灯かそらの月、〈保友〉かゝる句もあれば、當時は箱挑灯をもはら用ひたるべし、延寶、〈八〉延寶六年板菱川繪本に、箱挑灯に柄をつけたるものあり、當時よりもはらこれを用ひたりと見ゆ、隱蓑〈延寶五年印本〉附合の句に、おもひの煙ふところ挑灯と見えたれば、當時は懷中挑灯もありしなる べし、さて當時高挑灯には丸きを用ひたること、あまた見ゆれど、提ありく提灯には見あたらず、但神事葬送などには、丸きを用る事あまた見えたり、天和、〈三〉貞享〈四〉元祿、〈十六〉當時の印本の草紙の繪を參考するに、延寶より元祿の末まで、もはら柄のつきたる箱挑灯を用ひたり、棒をさしこみたる箱挑灯もまれにあり、雍州府志、〈貞享元年〉文匣幷挑灯之類悉張二脱之一とあり、一代男〈貞享三年印本〉卷之四、民家の婚禮の圖に、柄のつきたる箱挑灯を持て行體をかければ、式正にも用ひたるべし、寶永、七柄のつきたる箱提灯は、たゝまざればすゑ置ことならず、不便なるものなれば、やゝすたれたるにや、當時より棒をさしこみたる、箱挑灯のみを用ひたり、正德、〈五〉和漢三才圖會に、棒をさしこみたる箱挑灯を出せり、享保、〈廿〉西川祐信の繪本、其外當時の繪を見るに、もはら棒をさしこみたる箱挑灯を用ひたりさて享保十七年の印本、万金産業袋卷之一、挑灯の類をいへる條に、馬ぢやうちん〈細書二〉鯨の弓をかくる、かくの如く見えたり、これをもて按に、今弓張挑灯といふものは、馬上挑灯といふが本名にて、元は武家方に始まりしものなるべし、享保以前の繪に、此挑灯所見なし、享保以後にもはらおこなはるゝものなるべし、挑灯といふものいできてより、今の弓張挑灯ほど便利よきはなし、これにかぎらずもろ〳〵の器物、昔にくらべて、今のまされる物おほかり、唐土には今もたゝむ挑灯なしと聞、唐紙は性よわきゆゑに、挑灯傘の類、紙をもて製(つくる)ことあたはず、實に御國の紙は、万國にたぐひなき至寶なり、〈○中略〉
羽州籠挑灯圖〈○圖略〉 總高曲尺二尺一寸餘、籠高一尺二寸餘、すべて表に紙を粘て用ゆ、籠を上へあげて火をともすやうにつくる、臺の板に竹の筒を立て、右の松やにらうそく〈○松脂蠟燭載二蠟燭條一〉を立る料とす、
羽州にて今にこれを用ゆ、これ天正以前の挑灯の古製を見るべき物なり、形の異同大小もあるべし、〈○中略〉 雪のふる道、羽州の民家のさまをいへる條に、雪の降そふにつけて、こもりをれば、つれ〴〵もせむかたなきまゝ、見なるゝものをゑにかきてなぐさむ云々、大路をたづさふるともし火は、まろくひらなる板に、ほそき木をふたつたてざまにつくり、それにまたひとつ横につくりそへてさげありくたよりよし、おほひをば籠にて造り、紙をはりてもてありくなり、
p.0252 ぎよなうのちやうちんの再考
先板の卷に、秋の夜長物語を引て、ぎよなうのちやうちんとあるは魚綾の誤にて、綾をはりたる挑灯ならんといひしは、おしあてのひがごとなりき、古印本はぎよなうのちやうちんと假名にかけれど、後に古寫本を見れば、魚腦の燈爐とあり、これたしかなる證なり、灯爐とありては挑灯の證にはしがたしといふべけれど、上にいへるごとく、もと挑灯と灯爐はひとつ物なれば、古印本にちやうちんとあるも、後のさかしらにはあらざるべし、さて魚腦の挑灯といへるは、唐國の魚魫灯の事也、
p.0252 挑灯類〈此條には箱と丸とのてうちんの一通幷にはりの仕やう以レ圖注レ之〉
箱でうちん、圖なし、壹尺貳寸、壹ばん壹尺壹寸五分、あいの物、壹尺壹寸、貳ばん壹尺五分、三番九寸五分、八寸飛脚でうちん、小でうちん、七寸、六寸、五寸、四寸、どうらん、かなでうちん、此類にいたりては、大キサ定まらず、あるひは角形なるもあり、紙は美濃紙にてはる也、
丸でうちん、大きサ極なし、どう、ほうづき、丸、たま子、あこだ、つぼなり、馬でうちん、〈鯨の弓をかくる〉からかさでうちん、四角、ほたる、
右の類このみにしたがふ、大キサ古代ゟの寸法に定法もなし、箱でうちんには、釣(つる)、金物、棒、同かな物いる、丸でうちんは鍱にて割底にもする有、扨張おろしと、油ひき二品あり、但てうちんには、胡粉にて紋所を書て、そのうへに油をひく事あり、火うつりてよき物也但油不レ引にもよし、 此竹の数六本
てうちんの大小
かたも又大小を
もちゆ
如此きざ
あり
箱でうちんの張がた也、丸き板に六ツ穴をぬきて、圖のごとく天地にし、此穴へ竹の弓をこしらへはめて、外へ少シそらし、其上へほねをむらなくならべて、麻のより糸を、大は四所、小は三所ほどづゝ、上下まつすぐにかけてつなぎとめ、扨紙をはる事也、よく干て後、右の竹の、反(そり)をはづし、内のかたをぬく也、
丸でうちんの張がた也、圖の如く中の板せつかいの如く成を六枚こしらへ、上下の鍔へはめて、かたの丸(マルミ)の外ニほねのきざを付置、是へほねをならべ、右の麻糸をかけてはる也、是もとくと糊かはきて、内のかたをはづす、
右張あげて、箱でうちんは上下の箱の内に糸のかゞりあり、是へゆひつくる、雨天の時のけふり出しのためなどゝて、上下あるひはうへ計を麻のより糸にて、幅壹寸か壹寸あまりの網をすきて、その糸の末をすぐに箱かゞりへゆひ付るも有、又内に鎖を入ル事、これ全く用心のためとぞ、又紙を四角にたゝみて、箱でうちんのごとくし、骨なしに上下に薄板を用ひてこしらゆる術、万世秘事枕といふ書にあり、是らは作意の秘曲なれ、扨京祇園のみこし洗、江戸淺草の寶前でうちんは、三尺四尺あるひは五尺七尺あるも有、加樣の類は、骨も常の丸ぢやうちんの骨にあらず、糸も麻のより糸、紙も大直し、國栖を用ゆ、朱紋墨紋あぶら引にして、二丁ならべのらうそく立、おびたゞしく大忿なる仕かけあり、然どもみな畢竟丸でうちんなれば、製作に別義なし、長サ壹丈のてうちんに、もじ奉懸御寶前等の書付をせば、是には少シ口傳あり、譬ば五文字の内、上の一字壹尺あらば、その次の字ゟ段々とちいさく、下の前の字に至りては、漸七寸位に書べし、左のごとく書ては、高き所へ引あげて、下ゟのかつこうよく見ゆる物也、此心得てうちんのみに限るべからず、一切高き所へ上る物の書付は、此心得專要なり、よく工夫有べきか、
p.0254 都下諸大名ノ往還スルニ、ソノ行裝尋常ト殊ナルアリ、眼ニ留マル所ヲコヽニ擧グ、〈○中略〉
秋田侯夜行ノ灯燈ハ、白張ニシテ紋ナシ、凶具ノ如シ、祖先ニソノ由アリテ用ヒ來ルト云、
吉田侯〈松平伊豆守〉ノ灯燈ハ、骨殊ニ太ク間アラシ、尋常ノモノト異ナリ、是モ祖先武用穿鑿ノ人アリテ、要法ヲ以テカクセリトゾ、刀ヲ以テ拂切ルトキ、骨ニ當リテ切レヌヤウニトテ、鐵ヲ以テ骨ニセリトゾ、
p.0254 提燈(てうちん)〈○中略〉
按、和之制褶(タヽミ)提燈、其小者曰二酸漿提燈(○○○○)一、後人以二其無一レ由二雨夜一、以レ板爲レ蓋、俗呼曰二箱提燈(○○○)一、今多用レ之、
p.0254 給仕密に客人の供へ聞て、挑灯用意なくば、箱挑燈(○○○)にても、弓張(○○)にても、小田原(○○○)にても、不落(ぶら/○○)にても、蠟燭二挺入、供の者へ渡置べし、
但風少し有とも、壹里程の處は、拾貳文蠟燭一挺にても宜けれども、步行の遲速もあれば、かけ替一挺添べし、先方より新しき蠟燭を入、挑灯を返すべき事なれば、必擧掛(ともしかけ)を入べからず、
p.0254 一挑灯は上古にはなき物也、〈○中略〉蜷川記に云、ちやうちんはかごぢやうちん(○○○○○○○)本也、平生持候挑灯はこじつにて候哉と云々、此かごぢやうちんと云は、丸く籠を作りて紙にてはりたる物なるべし、平生持候ちやうちんとは、今の世にも用る通りの、たゝむ樣にしたるを云なるべし、〈○中略〉籠挑灯の圖左の如し、
此所を提る也
竹にて籠を組て紙をはり油を引かず 燈をともす時如レ此籠を上へあぐる也
今も出羽國の驛にて是を用る由、奧州信州などの驛にても用之由、見たる人、繪圖に寫して予に見せたり、
p.0255 一入レ夜〈○二十五日〉三の有二御舟一、〈○中略〉御會所の西の馬道の軒にぎよなうの挑灯(○○○○○○○)あまたかけらる、
p.0255 享保十二年七月十八日、夜ニ入、御庭ノ木ノ枝ニ、小キホウヅキ灯燈(○○○○○○)ヲ、百カケラレタリ、御池水ニウツリテ御坐マデ耀ク、兎角ニ風景イハン方ナシ
p.0255 予〈○柳澤淇園〉がいとけなき時までは、忍び提灯(○○○○)といふものありて、貴人の私用にしのびて、夜行などせらるゝ折などは、提灯に替りたる絞をしるしてともせしが、そのこと流布して、誰も誰もかはり紋をつけざる者なし、これはもと人にその人としらるまじき爲の用意なりとぞ、されば公卿武家に限るべし、
p.0255 文化五年二月廿三日己丑、藤井入來被レ示曰醍醐參役供廻之事、段々聞合等被レ致處、一向晴ケ間敷儀も無レ之、尤往來共、夜分之事故申合、甚減省被レ致、先供相止、輿之邊ニ侍三人、其内壹人馬提燈(○○○)爲レ持、尤道之間、輿者足元暗ク候ハヾ、先ノ提燈壹張跡へ廻シ、箱提燈(○○○)は二張計、沓傘共人體相止、笠籠持計、勿論押へも相止候由、治定之旨被レ示、衣紋者も被二相止一候由也、
p.0255 此年間〈○文政〉記事 白き盆挑灯(○○○)切子燈籠廢れ、彩色の草花を畫る挑灯行はる、
p.0256 山城 燈挑
p.0256 小田原宿〈○中略〉 新宿町〈○中略〉
土産提燈 俗ニ小田原挑灯(○○○○○)ト稱スルモノ是ナリ、古へ當町ニ住ル甚左衞門ナルモノ、關本最乘寺山中ノ木材ヲモテ始テ製ス、靈山ノ木ナル故ニヤ、深夜狐媚夭怪ノ厄ヲ免ルヽ由、傳説シテ世ニ弘リ、享保ノ頃ヨリ、專ラ諸國ニ通用セリ、甚左衞門ガ家ハ斷タレド、其親屬當町ニ一戸、萬町ニ一戸アリテ、今ニ是ヲ製造スルヲ家業トナセリ、町々毎廛ニテ鬻グトイヘド、製造ハ彼二戸ニ限レリト云、
p.0256 一三月〈○永祿四年〉卅日、末刻御成、〈○足利義輝、中略、〉
一御門ニちやうちん二かけて置レ之、御門役ニ渡レ之、
p.0256 因幡國取鳥落城之事
大將陣の太鼓、櫓々の小太鼓、一度に打出いとかまびすし、夜々の廻番、數々の挑灯松明、行かふ光のかげ明かなれば、城中〈○鳥取〉もしやの便も賴みなく、藝州の傳も中々思ひ切てぞ有にける、
p.0256 小田原籠城之事
晝夜の廻番かず〳〵にして、夜は挑灯の光鐵炮の火に、五月やみも名のみにて、城中の上下これかれのすさまじさに、身はうつ蟬のやうになりはて、人ごゝちかすかなり、
p.0256 新吉原松葉屋瀨川
正德の頃とかや、江戸町茗荷やの奧州が提灯の文字、貞淸美婦胎と云五文字の裏に、假名にててれんいつはりなしと書て、中の町へ持せ道中せしとなり、
p.0256 元文二巳年閏十一月 頃日夜に入、御用ト書付有レ之挑灯、多く町中持步行候由、向後御用之外、一切持あるき申間鋪候、若自分用事等に、御用挑灯爲レ持步行候者有レ之候はゞ、召捕吟味可レ有レ之候間、此旨相心得、町中不レ殘樣可レ被二申渡一候、
p.0257 南郭先生小豆飯好物にて、膳に向はれし所へ、金華來られ、何を食し給ふ、あづきめし也、足下の食の俗なる事と笑われしよし、予思ふに金華先生鬼の首を、てうちんの紋に付られしを徂徠先生の見給ひて、金華が物ずきの俗なると笑はれしと也、尋常の人小豆めしを食し、鬼の首を畫してうちんとぼしたればとて、俗中には目にも立まじけれども、雅人の俗を弄ばるゝは、却て雅のさたになるもあぢなものなり、
p.0257 諸職名匠
傘〈幷〉挑燈師 今出川升形町 〈御用〉一本仁兵衞 猪熊三條上ル町 桔梗や市郎兵衞
p.0257 挑灯張替
火袋ヲ携へ來テ、應レ求テ卽時記號等ヲ描キ、桐油ヲヒキテ更レ之、又大坂ニテハ、詞ニ傘日ガサノツヅクリ、雨障子天窻ノハリカエト呼來ルモアリ、如レ詞應レ求補レ之ナリ、ツヾクリハ補フノ俗語、傘日傘等全紙ヲ修補スルニ非ズ、大小ノ破損ノミヲ修スルヲ專トス、挑灯ハ三都トモニ、全ク古火囊ヲ去テ、新灯囊ニカエルナリ、
p.0257 御挑燈師 〈佐内丁〉境屋平兵衞
p.0257 予或日小石川傳通院地内なる澤藏司、稻荷の開帳古記錄を見しことあり、此開帳は享保十九甲寅年の四月朔日より初りて、同じく六月十一日までありしなり、尤其ころの錢の價も今とは相違にて、金一兩に付五貫二百文なり、是も右記錄中に見ゆ、其記に曰く、〈○中略〉
一灯燈五柱 〈屋根板釘次五寸〉共 七匁七分五厘 一くわん八ツ 貳匁四分
p.0258 白張挑灯屋共直段取調書
白張挑灯直段
一弓張挑灯竹弓付壹張 〈當五月取調引下ゲ直段錢百七拾貳文此度猶又引下ゲ同百六拾文〉
一同鯨弓付壹張 〈同斷錢貳百七拾六文同斷同貳百五拾六文〉
一ぶら挑灯壹張 〈同斷錢百貳拾八文同斷同百貳拾文〉
一高張挑灯一式壹張 〈同斷錢四百五拾六文同斷同四百三拾貳文〉
一小田原挑灯五寸拾挺ニ付 〈同斷錢五匁壹分同斷同五匁〉
〈俗ニ岐阜挑灯と唱候〉
一薄紙繪挑灯九寸壹張 〈同斷錢百四拾文同斷同百貳拾八文〉
〈同〉
一同壹尺壹張 〈同斷錢百六拾四文同斷同百五拾貳文〉
〈同〉
一同壹尺壹寸壹張 〈同斷錢百八拾八文同斷同百七拾貳文〉
挑灯直段
一高張しげ骨新規壹張〈當五月取調引下直段銀六匁五分 但此分銀匁ニ付別段引下ゲ高は不二相認一、相場釣合ヲ以錢受取高引下ゲ申候、〉
一同張替壹張 〈同斷錢四百七拾貳文此度猶又引下ゲ同四百四拾文〉
一同並骨新規壹張 〈同斷錢五百七拾貳文同斷同五百三拾貳文〉
一同張替壹張 〈同斷錢貮百四拾八文同斷同貳百貳拾四文〉
一同骨替壹張 〈同斷錢貳百八拾八文同噺同貳百六拾文〉
一弓張鯨弓鎖付新規壹張 〈同斷錢四百四拾八文同斷同四百貳拾八文〉
一同竹弓鎖付新規壹張 〈同斷錢三百三拾貳文同斷同三百八文〉
一同張替壹張 〈同斷錢百三拾貳文同斷同百貳拾四文〉
一馬上腰差挑灯しげ骨新規壹張 〈同斷銀九匁貳分 但此分銀匁ニ付、別段引下ゲ高は不二相認一、相場釣合ヲ以錢受取高引下ゲ申候、〉 一同張替壹張 〈同斷銀貳匁五分但同斷〉
一八寸上箱挑灯新規壹張 〈同斷銀七匁但同斷〉
一九寸上箱挑灯しげ骨新規壹張 〈同斷銀八匁但同斷〉
一同張替壹張 〈同斷錢百八拾文此度猶又引下ゲ同百六拾八文〉
一尺上箱挑灯しげ骨新規壹張 〈同斷銀拾壹匁 但此分銀匁ニ付別段引下ゲ高は不二相認一、相場釣合ヲ以銭受取高引下ゲ申候、〉
一尺壹寸上箱挑灯しげ骨新規壹張 〈同斷銀拾三匁但同斷〉
一尺三寸上箱挑灯新規壹張 〈同斷銀貳拾匁五分但同斷〉
一ぶら挑灯新規壹張 〈同斷錢貳百三拾貮文此度尚又引下ゲ同貳百拾六文〉
一同張替壹張 〈同斷錢百貳拾四文同斷百拾六文〉
但右之外誂向等、前直段ニ准じ引下ゲ申候、
右は當五月中直段引下ゲ方取調申上置候處、此度錢相場六貫五百文ニ御定被二仰渡一候ニ付、右釣合ヲ以、猶又引下ゲ方、前書之通取調、此段申上候、以上、
但前書引下ゲ直段、組々〈江〉申通、挑灯屋共見世先〈江〉張札爲レ致置候樣可レ仕奉レ存候、此段奉レ伺候、
寅八月 〈三番組諸色掛リ淺草平右衞門町〉
名主 平右衞門
p.0259 小田原北條家旗馬じるしの事
北條左衞門大夫家中に、相州甘繩の住人三好孫太郎といふ勇士あり、さし物に挑燈を七ツ付たり、孫太郎が七挑燈といひてかくれなし、然る所に松田肥後守よりきに、山下民部左衞門尉がさし物は、六ちやうちんなり、〈○下略〉
p.0259 俗諺 ちやうちんにつりがねといふ諺、〈○中略〉此諺はちやうちん出來てより後のことなれば、宗鑑法師が新撰犬筑波集に、片荷かるくて持やかねけん、釣がねをちやうちん賣(○○○○○○)にことづけてとあるなどや、はじめて物に見えたるならむ、
p.0260 紙燭 雜題云、有二紙燭詩一、〈紙燭、俗音之曾久、〉
p.0260 雜題詩無レ攷
p.0260 紙燭(シソク)
p.0260 しそく 紙燭の音也、倭名鈔に見ゆ、類聚雜要に布紙燭見ゆ、唐書に以二燭涙一濡レ紙繼レ之と見えたり、脂燭(○○)と書り、出御の時殿上人の役し、御藏の調進するは、杉のほそ木を靑紙にてまきたる也、
p.0260 一脂燭の事、是は座敷の上にてとぼすたいまつ也、これをしやうめいとも云也、松明と書也、婚禮にこしよせの時、女房衆しそくをさして迎に出るも、此脂燭を用る也、禁裏にて天子夜の出御に、主殿寮といふつかさの役人兩人、脂燭を持て御先に立つ也、御左に立つ人は、左にしそくを持て、左の方へしそくをなし、御右に立つ人は、右にしそくを持て、右の方へなして立也、扨脂燭は松ノ木にて作り、長〈サ〉壹尺五寸程に切りて、ふとさは徑り三分計に丸く削て、先の方を炭火にてあぶりて黑く焦す也、燒て炭にするは惡、其上に油を引てあぶりかわかすべし、扨紙屋紙を廣〈サ〉五分計に裁て、脂燭の本を左卷にまく也、脂の字あぶらとよむ字なり、松の木はあぶら有て、能火とぼる也、古書には皆脂燭の字を用たり、又本を紙にて卷たるたいまつ故、紙燭とも書也、脂の字を用事本也、元文天子櫻町院の大嘗會を行ひ給ひし時、用られし脂燭を、或人武者小路殿へ所望して、申受たりしを見しに、是は赤杉の木を用られたり、總體の拵樣右の如し、しそくの圖如レ左、 長サ壹尺五寸ホド丸シ
徑三分程也
先ヲ平ニ切ル本ノ方ヨリ少ホソキ心也
先を二寸程あぶりてこがす、油花ぬりて又あぶりかはかす、松のヒデを用る時は此儀に不レ及、
紙屋紙竪一たけにてまけば、卷數十計卷るゝなり、
此間三寸程
小口徑三分計平ニ切
p.0261 節會〈○豐明〉次第
舞妓進舞、〈出レ自二殿南廂西方一〉女官四人秉二脂燭一副二南柱一立、
p.0261 御いか〈○後一條〉は、霜月のついたちの日、〈○寬弘五年、中略、〉たちあかしの光の心もとなければ、四位少將などをよびよせて、しそくさゝせて人々はみる、
p.0261 これみつにしそくめして、ありつる扇御らんずれば、〈○下略〉
p.0261 觀硯聖人在俗時値二盜人一語第十八
今昔、兒共摩行シ觀硯聖人ト云者有キ、〈○中略〉觀硯吉ク見レバ、皮子共置タル迫ニ、裾濃ノ袴著タル男打臥タリ、若シ僻目ニヤト思テ、脂燭ヲ指テ寄テ見レバ實ニ有リ、
p.0261 保元三年八月、十二日、有下可二觸申一事上、參二内府亭一、〈三條○藤原公敎〉語及二頭事一、被レ命旨註レ左、〈○中略〉
藏人送レ頭事、〈○中略〉被レ命云、〈○中略〉指二脂燭一事、近日或兩人指レ之在二頭前一之由傳二聞之一、不レ然事也、一人在レ前也、自餘縱雖レ指在レ後、是有レ事之日各指二脂燭一之時之事也、不レ然之時不レ過二一人一也、
p.0261 二でうの御時、五せつ卯日の夜、とのもづかさしそくをさして、南でんの東北のすみのはしをとをりけるに、うしろよりくびのほどをおすもの有けり、則とのもづかさたえ入にけり、あはてゝ紙燭をふところに入たりける程に、衣しやうに火もえ付て、すでに死ぬべかりけるが、からくして命計はいきたりけり、
p.0261 一掌燈と云事は、禁中にて節會の時、主殿寮の官人、片手に脂燭を持、片手に小きほうろくの如くなる土器を持て、下より脂燭を受けて持來り、御殿の階を昇りて、主殿司と云女官 にわたす、主殿司受取て脂燭と土器を持て、坐に居るを掌燈と云、〈掌ハタナゴヽロトヨム、手の事也、〉右の土器の中に、代りの紙燭をも入置也、火の下へ落べき用心に、土器を持て下よりうくる也、
p.0262 蠟燭 唐式云、少府監毎レ年供二蠟燭七十挺一、
p.0262 蠟燭(ラウソク)
p.0262 蠟燭(ラツソク)
p.0262 らつそく 大雙紙にみゆ、蠟燭也、今らうそくといへり、四聲字苑に、竪燒曰レ燭とみゆ、幾挺といふ事も、西土の書に見えたり、
p.0262 蠟觸鐵輪以下進二注文一、悉以借預者、可レ進二使者一也、
p.0262 女房ことば
一らつそく むしろ〈○中略〉此たぐひ御もじをそへていふよし、
p.0262 蠟觸 凡中華山中人、養レ蜂取レ蜜、其色白者爲二白蜜一、黃者爲二黃蜜一、藥店求レ之、再煉充二藥劑之用一、又取下起黃白蜜之凝二滯壺底一者上、再煉爲二蠟燭一、〈○中略〉於二本朝一肥後豐後及石見紀伊山中、土民取二蜂蜜一、其良者非二中華之所一レ及也、唯充二藥劑之用一、偶造二香合一而已、如二蠟燭之蠟一也、自二漆樹一取レ之、凡製二蠟燭一法、其良者以二髮捻一爲レ心、纒二燈心數莖一、然後灌二懸所レ煉之蠟一、是稱二木掛(○○)一、又謂二生掛(○○)一、倭俗不レ交二他物一總謂レ木、又稱レ生、木訥質樸之謂也、凡造二蠟燭一謂レ懸レ之、倭俗灌二水幷油一謂レ懸、凡蠟觸之大小數量、謂二幾拾錢目釋幾挺一、其輕重自二二拾錢目掛一至二五百錢目一、又其麁惡者以二蒹葭條一爲レ心、卷二燈心一蠟亦加二牛油一、其心大而其光不二赫奕一、是謂二牛蠟(○○)一、少有二臭氣一、而逢二雨濕之時一則易レ爛、故點レ火則蠟涙如レ流、速爲レ燼而易レ見レ跋、凡蠟燭自二越後一來者爲レ上、蠟色潔白而燭光明、陸奧會津、越前福居次レ之、
p.0262 燈〈燭○中略〉
燭如二黃蠟一而色黑、國中有二油樹一、取二其子一搾レ油爲レ之、
p.0263 燈火 附燈花燭火保久知(ホクチ)火
集解、〈○中略〉燭者蠟燭也、本邦蠟燭用二漆樹皮一而造レ之、又有二蟲蠟樹皮之造一、此伊保多(イボタ)蠟也、倶無レ毒、但雖二燈草無一レ害、然蠟心有レ油者不二好用一焉、
p.0263 蠟燭
文祿年中までは、日本に蠟燭なし、助左衞門が獻ずるらうそくに傚てこれを製す、蠟を採もの凡五種あり、漆樹(うるしのき)、荏桐(ゑぎり)、榛(はち)、ダマノ木、烏臼木(うきうもく)、また女貞木(いぼたのき)よりも取ると本草にあり、雍州府志に云、黃白の蜜壼の底に凝滯ものを取て蠟とす、
唐らうそくは、眞に葭を用る、よつて折として立消のあるもの也、本朝の人これを考へ、燈心を卷て眞とす、はなはだ上品なり、
p.0263 蠟燭、鄭玄儀禮注云、古燭未レ知二用蠟一、直以一薪蒸一、卽是燒レ柴取レ明耳、亦或剝二樺皮一爇レ之、亦已精矣、然曲禮曰、燭不レ見レ跋、則是必有レ質可レ篸乃始有レ跋耳、曲禮或是有二蠟燭一、後從二其所見而言レ之耶、〈跋とは禮記上客担、燭不レ見レ跋註跋、燭本聚殘本客見レ之知二夜深淺一、而慮二主人倦一也、〉こゝにはもと舶來しだるを用ひしなるべし、義堂日工集〈一〉蠟燭十條など出たるも、異國より渡りしならむ、〈○中略〉
續五元集に、上蠟かけは蜀黍の眞といふ句あり、今もろこし殻の心を用ゆるは、わろき蠟燭なり、奧州にてせつかんらうそくと云は、蜀黍を心にしたる、松脂の蠟燭なり、燃て眞たつ時、頭を敲く故の名なり、
p.0263 蠟燭掛 らうそくをつくるをかくるといふ、蠟は會津を第一とす、其外所々より出る、かけてをやとひてこれを造る、下に牛らうをかけ、うへに本らうをかけてするなり、
p.0263 天保八年丁酉 八月、薩摩蠟燭(○○○○)售(あきな)ひ始む、魚蠟と號す、
p.0263 脂膏第十一 松脂ノ用モ亦少カラズ、此ヲ圓ク長ク一尺計ノ棒ノ如ク調製ヘテ、笹ノ葉ニ包ミ、燈火ノ代リニ用ヒ、或ハ魚油ヲ和シ、俗ニ云フ薩摩蠟燭ナル者ニ造リ、〈○下略〉
p.0264 挑燈
羽州松脂蠟燭(○○○○)圖〈○圖略〉 長曲尺八寸五分餘、かたち粽に似たり、
笹の葉に松脂をつゝみて、蠟燭のかはりとし、次に圖〈○圖略〉を出せる籠挑灯の竹の筒に立て、火をともすなり、
p.0264 小なる蠟燭を、世にかふかんじ(○○○○○)といふ、延寶のころ、京橋一丁目に越前屋九右衞門とて、紙蠟燭を商し店あり、淺草仰願寺の院主、心やすく常に參られしが、ある時咄に、佛前つとめの節とぼし候蠟燭、大きくて不自由なり、小さくは出來間敷やと申されし故、それこそやすき事なりとて、小さき蠟燭を製しつゝ送られければ、院主殊の外よろこび、常にたのまれけるまゝ、此蠟燭を拵置しに、所々よりきゝおよびて取にきたり、かうぐはんじの誂故、その名をいつとなく、かうぐはんじとよび傳へ、今世上にひろまり、外々にても此蠟燭を製し、願をあやまり、かんと覺え、つゐにかうかんじと披露す、此越前屋九右衞門、則淺井九右衞門先祖にて、土方七郎右衞門にも祖なりと、土方氏の物語なり、
p.0264 嘉永二年印行、古風ト流布トヲ、相撲番附ニ擬スル、其流布ノ方大關以下左ノ如シ、〈○中略〉
一文字ノ蠟燭(○○○○○○)〈江戸地製ノ物也〉
p.0264 蠟燭説
會津産レ蠟、蠟燭最著、有二華蠟燭(○○○)者一、繪二其膚一、華紋繡錯、燦可レ眩レ目、余數得二於其人一、試レ燒レ之、非レ加レ明也、則置二之筐一、以供二觀玩一、而用以燒、乃無レ華者、夫蠟燭何用哉、玩レ之邪、抑照レ物也、苟照レ物而明矣、雖レ無二可レ観可一レ玩、而名 爲レ燭、不レ愧矣、名爲レ燭、而其實無レ益レ於レ明、安在三其爲二蠟燭一乎、且求下物之可二觀玩一煮何必用二蠟燭一、今儒士、亦國之蠟燭也、爲レ物雖レ微、無レ此莫下以燭二治亂一而救中昏暗上、凝二其膏潤一、含二其光明一、舍レ之可レ藏、以待二擧用一、唯不レ擧也、擧則可下以辨二群物一照中四疆上、類二如橡之燭一者、則古之賢才豪傑也、次レ之而下、隨二質之小大一、皆可二用燭一レ物、是之謂レ儒已、而今或以爲二席上之珍一、以二玩物一視レ之、而儒亦以二玩物一自規、其名曰レ儒、儒邪俳優邪、徒藻二繪其外一、而驗二其中之通且明一、不レ如二悃幅之俗士一、是華蠟燭耳、然彼燭也、特曰二其華之無一レ益レ於レ明云爾、非レ不レ可レ燭也、則是不レ足二以比一焉邪、添川仲穎會津産也、質厚好レ學善レ文、而不レ衒レ於レ人、吾知二其爲レ燭不一レ爲二華蠟燭一也、於二其歸一言レ此以勉レ之、
p.0265 寶永の册子に、懷紙ろうそく(○○○○○○)といへるは、今の懷中らうそく(○○○○○○)なるべし、嶺南雜記、西洋燭有下大至二十餘斤一一對者上云々、又有二一種一細如レ箸、綿絮爲レ心、盤折如二膏環鏾子一、欲レ點則引長、其燭息則盤之可レ入二巾箱一、明而耐久、かゝれば、懷中蠟燭は、もと西洋の製に倣ひしもの歟、
p.0265 山城 蠟燭 陸奧 蠟燭 越後 蠟燭
p.0265 蠟燭 會津所レ出其絶品冠二于他邦一、
p.0265 天文八年七月四日〈己亥〉一奧州大崎山伏先達蠟燭十挺持二來之一、
p.0265 一永祿十一辰年六月上旬に、甲州信玄公より、信州伊奈飯田城代秋山伯耆守を御使に被レ成、美濃國岐阜の織田信長公へ、御緣者御祝儀の御音信、樽肴作法のごとく、
一越後有明の蠟燭三千張〈○下略〉
p.0265 呂尊より渡る壺之事
泉州堺津菜屋助右衞門といひし町人、小琉球呂尊へ去年の夏相渡、〈文祿甲午〉七月七日歸朝せしが、其比堺の代官は、石田木工助にて有しゆへ、奏者として唐の傘、蠟觸千挺、生たる麝香二疋上奉り御禮申上、
p.0266 慶長十四年十月廿日、はりまのまつだいらじゞう、らうそく千丁しん上申、日ろはしくわんじゆ寺日ろうあり、長はしより兩人まで文いづる、
p.0266 一同年〈○寬永十六年〉ニ江戸大火、此時御城回祿ス、御城御普請出來シテ、御移徒ノ時、御一門及ビ諸大名衆ヨリ獻上物ノ品々、〈○中略〉
一御蠟燭 三百挺 眞田伊豆守信之〈○中略〉
一御蠟燭 二百挺 眞田内記信政
p.0266 松平肥後守容頌〈○陸奧會津〉 獻上〈銀二十枚蠟燭三百挺〉 時獻上〈在著御禮〉蠟燭二種一荷〈○中略〉
〈十二月〉三百目懸蠟燭
前田大和守利以〈○上野七日市〉 獻上〈蠟燭一箱金馬代〉
佐竹右京大夫義和〈○出羽久保田〉 時獻上〈歸國御禮〉白鳥蠟燭
上杉彈正大弼治廣〈○出羽米澤〉 時獻上〈歸國御禮〉蠟燭
酒井大學頭忠崇〈○出羽松山〉 獻上〈御太刀銀馬代蠟燭百挺〉
丹羽加賀守長貴〈○陸奧二本松〉 時獻上〈在著御禮〉蠟燭、二種一荷、
南部慶次郎信敬〈○陸奧盛岡〉 時獻上〈在著御禮〉蠟燭、二種一荷、
p.0266 松平山城守信古〈○出羽上ノ山〉 獻上〈蠟燭二筥銀馬代〉
溝口龜次郎直侯〈○越後新發田〉 獻上〈蠟燭二筥金馬代〉
津輕出羽守寧親〈○陸奧弘前〉 獻上〈蠟燭二百挺金馬代〉
堀内藏頭直晧〈○信濃須坂〉 獻上〈蠟燭一筥銀馬代〉
六郷佐渡守政正〈○出羽本庄〉 獻上〈蠟燭一箱銀馬代〉
大關伊豫守增輔〈○下野黑羽〉 獻上〈蠟燭一箱銀馬代〉
p.0267 色々の事
一蠟燭のさき取事、ぬきて取はわろし、其儘可レ取、乍レ去やうによるべし、公方樣にて猿樂の時、舞臺にとぼされ候有明の先をば、御供衆の内に若衆御とり候、それも立ながら先を御とり候、先ながれたるらうを御取候て、さきを入候物に入られ候て、扨さきを御取候、兩の御手にてはさみ御切侯、常の先とるやうにはなし、しるしがたし、又御前にとぼされ候水の臺のしむをも、さしながら御取候、さきとりはだいに候へども、こなたより先とり、さき入候物をも御持參候て御取候、又さき取故實には、あさ〳〵と取たるがよく候、ふかく取候へば、ふときゆる事も候、〈○中略〉又わたましの時は、公私共に蠟燭は朱をかけず候、又衣裝も男女共にしろし、
p.0267 一御能の時、舞臺の燈臺は、いかやうの人體可二持參一候哉の事、於二殿中一は御供衆の役にて候、參候衣第は、一二三四と次第候、まだしんを取候事は、御前の方より取申候、しんとり候事は、臺ながら取事本義にて候、らふそくを取おろしてとる事は不レ可レ然候、但さやうにも成候はで、不レ叶樣にも候はゞ不レ及レ力候、總別大事の物にて候、火など散候はぬやうに取べし、はさみに而取候事可レ然候、こゝろを添候はねば、仕合あしく候、
p.0267 一御前のらうそくのさきを取事、公方樣御覽ぜらるゝ御通りをば、御供衆の中にも、御一家の被レ取なり、其やうは膝まづきて蠟燭をぬきて、さきをとらるゝなり、
p.0267 蠟燭を水にひたせばながれず、今夜用るには、その朝より浸しをくべし、臘冰(らうすい/しはすのみづ)に久く浸せば尤よし、
p.0267 笠置軍事附陶山小見山夜討事
陶山小見山〈○中略〉閑々ト本堂へ上テ見レバ、是ゾ皇居ト覺テ、蠟燭數多所々被レ燃テ、振鈴ノ聲幽也
p.0267 元弘元年十月六日、今日劒璽自二六波羅亭一可レ有レ渡二御禁中一、〈○中略〉大藏省所レ進之新造辛櫃、 〈○註略〉舁二居簾前一、〈緣端〉蠟燭、〈武士持二參之一、立二弘廂一、〉小時上卿參議參仕云々、此間撿二知劒璽一、是文治例也、職事許可二撿知一之處、日來强委不二見知一之間、實繼朝臣召二加之一、定親差二蠟燭一、隆蔭實繼朝臣等撿二知之一、
p.0268 大森彦七事
盛長〈○大森〉化物ヲバ取テ押ヘタルゾ、火ヲ持テヨレト申ケレバ、警固ノ者共兎角シテ起アガリ、蠟燭ヲ炷テ見ニ、盛長ガ押ヘタル膝ヲ持擧ント蠢勸ケル、
p.0268 老人ノ話ニ、昔慶長ノ中頃、駿府ニテ權現樣〈○德川家康〉御鷹野ニ御出遊バサレシニ、急御用之有、成瀨隼人殿其外御役人出座シテ、御狀認メラレ候時、隼人殿坊主衆ヲ呼テ、燈シサシノ蠟燭之アリ候ハヾ立候ヘト御申故、二三寸計リ有燈シ殘ノラウ燭ヲ立申候、扨御狀御仕舞早々御前へ出ラレ、其跡ニ矢張ラウソク立是有候處へ、御目付衆參ラレ、之ヲ見ラレ大ニ驚キ、坊主衆ヲ呼テ、何迚ラウソクヲ立置候ヤ、此事相知候ハヾ、急度曲事ニ仰付ラルベシト、大キニ叱申サレ候、坊主衆答テ、隼人殿御用ニ付立候ヘト御申故、燈シ殘リノ蠟燭ヲ立申候由申候ヘバ、隼人殿御申ニテ立候ハヾ相濟次第早々消申ベキ事ナルニ、其儘打捨置候段不埓千万也ト立腹セラレ候由承候、
p.0268 享保十二年十月廿九日夜、參候、〈○山科道安〉津輕殿ヨリ獻上ノ蠟燭ヲトボサレテ、御ウツシ物ヲ遊バス、〈○近衞家煕〉其光リ明ニシテ油煙ナク、色白キコト白雪ノ如クニシテ細シ、他ノ蠟燭ノ數丁ガケニタツコトナシ、奇麗ナルコト云バカリナシ、是コソ夜會ノ御茶ニ、然ルベシト申上シニ、サレバトヨ、其種瓣ニ云ツカハセシ也ト仰ラル、
p.0268 寶永二酉年五月
一振舞之節、蠟燭立候儀不レ叶所は各別、其外は隨分減少候樣ニ可レ仕事、〈○中略〉
五月
p.0269 天明八申年十一月
御目付〈江〉
蠟燭受取候斷之儀、非常其外無レ據差懸假受取ニいたし候儀も有レ之候はゞ、右之分は其翌日御賄所〈江〉之斷書差出可レ申候、斷延引ニ無レ之樣、蠟燭受取候向々江可レ被レ達候事、
天明八申年十二月
御目付〈江〉
先達而相達候、諸向役所入用受取物位下ゲ員數減方等之儀、諸色不レ殘取調候迄者、餘程手間取可レ申ニ付、右之内先蠟燭之分相糺、早々可レ被二申聞一候、向々受取高以來小形相用候はゞ、懸ケ目減候丈御益ニ相成候間、右樣之所をも厚く勘弁可レ被レ致候、
十二月
p.0269 諸職名匠
蠟燭屋 七本松通笹屋町 〈御用〉越後屋德兵衞 室町上立賣上ル町 〈同〉十一屋淸兵衞
中立賣烏丸西〈江〉入町 〈同〉三河屋理兵衞 烏丸上長者町下ル町 〈同〉三文字屋三右衞門 麩屋町姉小路上ル町 〈同〉本前九右衞門
p.0269 大坂名匠諸職商人並諸問屋
掛蠟燭屋 兩替町 對馬守 谷町 河内屋庄兵衞 尼崎町 さくらや長兵衞
梶木町 難波や與左衞門 舟町 塚本や庄右衞門 今橋筋 堺筋 御堂之前南北ニ有
p.0269 御蠟燭屋
〈大門通あぶら丁〉 佐藤四郎兵衞 〈本所みどり丁五丁メ〉 落合傳左衞門
p.0269 蠟燭屋 鎌倉河岸 石墨伊右衞門 同所 同 久左衞門 大傳馬町貳丁目 三河や作兵衞〈○此外九軒略〉
p.0270 享保度ヨリ寬政度迄、諸商人之内、問屋ト定候名目取調申上候書付、〈○中略〉
〈内店組〉一絹布太物繰綿小間物雛人形蠟燭問屋 〈安永度人數十五人寬政度同六十七人○中略〉
〈紙店組〉一紙蠟燭問屋 〈安永度人數十人寬政度同六人〉〈二番紙店組〉一紙蠟燭問屋 〈安永度人數二十一人寬政度同十九人〉
〈三番紙店組〉一紙蠟燭荒物問屋 〈安永度人數九人寬政度同二十一人○中略〉
〈住吉組〉一下リ蠟燭荒物問屋 〈安永度人數三十人寬政度同六十人○中略〉
寬政之頃合七百貳拾九株〈○中略〉
一地懸蠟燭屋 二百八十人
一燈心屋 一人
是者寬政五丑年六月言上、御帳付人數ニ御座候、
申二月廿六日 〈堀江町名主〉熊井理左衞門
p.0270 蠟燭燈心問屋之儀、天保度兩問屋被二仰付一候處、去ル丑年中、諸株御停止後者、御領主樣より右燈心御當地荷置場ニ而御賣捌相成候處、今般諸問屋再興ニ付、如レ元兩問屋ニ相成候而者、諸雜費口錢等相嵩、村方難澀筋ニ付、是迄之通、荷置場ニ而御賣捌御仕法、御居置可二相成一哉、右ニ付、下々事實之趣、密々御尋ニ付、承探候趣左ニ奉二申上一候、
一常州山根之内、大形村、田上村、高岡村、藤澤村、上坂田村、大畑村、下坂田村、眞鍋村、此八ケ村藺草作付之場所ニ而、先年者、右村之燈心も彈左衞門引請場所ニ候處、市中地掛蠟燭屋共御用方蠟燭賣品共、眞燈心ニ差支候ニ付、彈左衞門引請場之内、右八ケ村産蠟燭眞燈心ニ限、地掛蠟燭屋買場ニ 願立、享保九辰年三月、諏訪美濃守樣御勤役中、於二御評定所一被二仰付一候處、問屋無レ之候而者、不取締ニ付、同年より寬政二戌年迄、燈心問屋相建置候處、問屋相續成兼、同三亥年五月中ヨリ、蠟燭屋行事持ニ而問屋被二仰付一、天保九戌年迄相續仕候處、同年御領主樣ヨリ國産御仕法替之御沙汰有レ之、大草能登守樣御勤役中、御尋御座候處、下々ヨリ差支申立差縺候上、同十一子年中、八ケ村ヨリ燈心問屋壹人、蠟燭屋ヨリ燈心問屋壹人相立、隔月ニ荷物差配可レ致旨被二仰渡一、其後去ル丑年、問屋御停止後者、御領主樣ヨリ荷置場之唱ニ而、桶町壹町目源兵衞地借堺屋六郎兵衞、常州住宅ニ付、店預リ人常七ト申もの、八ケ村荷物一手ニ差配致し、眞燈心賣捌罷在候處、一手賣ニ相成候ニ付、荷物送方ニ欠引有レ之候間、地懸蠟燭屋共者、差支勝ニ相成候儀も、間々有レ之候由、
一天保十一子年、兩問屋被二仰付一候節、爲二取替一證文ケ條之内ニ、壹ケ年凡千箇程も作出し可レ申積、又年々六月、兩問屋蠟燭屋行事貳人宛、村方江罷越、村役人仲買立合、藺草豐凶を見合苅取、凡三尺程ト見積、極上、大上、並上、中上ト四段ニ定、長短尺取極、極上ニ而直段相定、次々ハ貳百目閲又飛切者百目開ニ相場相立、壹ケ年千箇程之内、壹ケ月五拾箇程ヅヽ月々差送、豐凶之節者、右格合ニ准じ送來候而、兩問屋月番之方〈江〉相送、其筋一同立合、目方相改候積、口錢之儀者、七步五厘ヅヽ、兩問屋〈江〉蠟燭屋ヨリ差出候、此口錢を以、問屋雜費ニ可レ致積、代金者目方改候上、兩問屋ヨリ荷主〈江〉相渡、尤荷主ヨリ山口錢ト唱、荷物代金壹兩ニ付銀壹匁ヅヽ、荷主ヨリ請取候而、荷主問屋ニ逗留中、飯料其外取賄候積、御用燈心之儀者、月始ニ五箇ヅヽ御用方〈江〉相納、口錢二步五厘ヅヽ、問屋〈江〉相渡候積、秤之儀ハ六貫目木棹相用、燈心壹筏極上凡銀百匁前後之目當、其外ニも廉々規定取極置候間、今般諸問屋再興ニ付、山根八ケ村産蠟燭燈心問屋之儀者、天保十一子年十二月、被二抑渡一之仕法を以、再興被二仰付一候而も、荷主共方ニ而、諸雜費口錢等追々相嵩、村方之もの難儀之筋申立候者、不相當之儀ニ而、全事實トハ相聞不レ申、子年爲二取替一證文ニ、口錢其外廉々之取極は古復致し候得者、 雜費口錢可二相增一謂無レ之候間、意味合承樣候處、問屋御停止以來、御領主樣御買上ニ相成、堺屋六郎兵衞出店支配人常八、一手賣方差配致し候間、御國産之御手捌之御仕樣振ニ相聞候處、今般兩問屋相建、荷物賣捌方、子年中取極之通古復致し候得者、御領主樣御益筋昌可二相拘一哉之風評ニ而、荷主其之手元江響合候儀ニ者相聞不レ申候由、尤兩問屋捌中、
〈天保九戊年同十亥年〉
一飛切燈心 金壹兩ニ付 壹貫九百目
一極上同 同斷 貳貫目
一大上同 同斷 貳貫貳百目
丑年以來山根問屋一方賣之直段
〈天保十三寅年〉
一極上燈心 金壹兩ニ付 壹貫百五拾目
〈同十四卯年〉
一同 同斷 壹貫貳百目
〈弘化元辰年〉
一同 同斷 壹貫貳百七拾目
〈同二巳年〉
一同 同斷 壹貫三百五拾目
〈同三午年〉
一同 同斷 壹貫四百五拾目
〈同四未年〉
一同 同斷 壹貫五百五拾目
〈嘉永元申年〉
一同 同斷 壹貫六百五拾目
但酉年ヨリ亥年迄三ケ年者、品拂底ニ御座候、
右直段者豐凶ニ寄、高下有レ之候得共、荷置場一手賣相成候以來者、兩問屋之節ヨリ直段高直ニ相成申候間、兩問屋ニ相成、賣方不レ仕候而者、相庭引下方行屆兼、市中蠟燭直段ニ相響申候由、御尋ニ付密々奉二申上一候、以上、
子〈○嘉永五年〉二月 〈諸色掛〉名主共
p.0273 水藩の檜山氏が、慶安五〈辰〉年四月十五日ゟ同廿二日まで、〈○註略〉水府の御宮別當なる東叡山中吉祥院が、江戸ゟ水戸〈江〉下りたりし時分の賄料請取品、直段書付、幷入用をしるしたるものを見せたるが、其直段の下直なる事おどろく計也、〈○中略〉一らうそく 拾挺 〈壹挺ニ付〉代貳拾四文ヅヽ
p.0273 今般諸色直段引下ゲ御主意に而、問屋再興被二仰億一、荷物仕入引請高、商法相立候ニ付、生蠟問屋共直段引下ゲ候ニ付、地掛蠟燭之儀も、左之通引下ゲ賣買仕候、
一代錢百文ニ付上蠟燭 是迄掛目三拾貳匁之處 引下ゲ三拾四匁
一同百文ニ付中蠟燭 是迄掛目三拾四匁之處 同 三拾六匁
一同百文ニ付下蠟燭 是迄掛目三拾六匁之處 同 三拾八匁
右之通引下ゲ賣捌申候、猶此上生蠟直段引下候得バ、右ニ准じ、私共儀も引下ゲ方仕、其時々可二申上一候、以上、
嘉永四年九月
〈地掛蠟燭屋 神田佐久間町四丁目宇八店〉〈會津屋〉甚助印〈○外二人略〉
p.0273 合蠟燭肆拾斤捌兩〈通物〉
p.0273 千貫目持の印判おして深き心
下男燭臺挑燈の掃除して、流れつき亢る蠟を、塵塚にすつるを、市助是を私に下されませといふ、大所につかはるゝ下男、いらばとつていきなと、頤にてゆるしけるを、市助ながれを集め、奉書の反古を四五枚もらひ、是にやう〳〵と包みあまるをとかくして、一禮いひて大津へもどりがけに、京極の蠟燭屋に立よつて、是を賣らんといふに、元來上々生蠟のながれなれば、三百七十文につけるを、色々としゐて四百三十五文に賣、蠟をわたし、反古は入なりととつて歸り、〈○下略〉
p.0274 蠟燭之流買
挑灯燭臺等、都テ燭ノ流レ餘ル蠟ヲ買集ム、風呂敷ヲ負ヒ秤ヲ携フ、
p.0274 江戸市中〈○中略〉蠟燭の櫃賣は格別、いか程買ふ共、一挺々々紙にて卷あり、〈○中略〉都て跡の埓よき事のみをしたるなり、〈○中略〉
吉原芝居町などへは、蠟燭の流れ買ふ〳〵とも云ひ步行けり、
p.0274 世俗蠟燭の尻を吹く事つねなりしを、年頃不審かりしに、予〈○田宮仲宣〉游歷中、田家に居を卜する頃、野狐甚多く、夜行唯提灯のらうそくを取らるゝ事、數度有て困れり、或人敎て曰、らうそくの尻を吹くべしと、扨其後は試にらうそくの尻を吹くに、再び野狐に取らるゝうれひなし、夫野狐は人の息のかゝりたる物を喰はず、人の食ひ餘りの物を食する事なし、故に斯のごとし、夜行蠟燭の尻を吹がよろし、
p.0274 松明 唐式云、毎城油一斗、松明十斤、〈今按、松明者今之續松乎、〉
p.0274 通鑑唐肅宗紀注、松明者、松枯而油存、可二燎レ之以爲一レ明、燕間錄云、深山老松、心有レ油者如レ蠟、山西人多以代レ燭、謂二之松明一、松明見二貞觀儀式大嘗儀一、續松見二三代實錄仁和元年紀、及大嘗祭主殿寮等式一、都以末都(○○○○)、見二伊勢物語、空物語吹上上卷一、卽續松也、或謂二之太以末都(○○○○)一、見二空物語吹上下卷一、蓋燃松之義、按、軍防令義解云、松明、是松之有レ脂者、是松明謂二松樹赤心一、今俗呼二松秀一是也、續松疑用二松明一所レ造炬火、今俗呼二多以末都一者、則卽續松也、不レ得レ云二松明一、然齋宮寮式云、松明三百把、大嘗祭式云、松明四荷、似下謂二續松一爲中松明上、故源君注云二松明者今之續松乎一也、
p.0274 ついまつ 和名抄に松明をよめり、三代實錄に續松と書り、伊勢物語にも見えたり、手火松とは別也、松のひでを物してまとひつぎて燒故に、續松といふ也、よてついまつの墨してと書り、淸少納言もさるさましたり、こゝにや本づきけん、
p.0275 炬(タイマツ)〈或作松明一、或作續松一、〉
p.0275 松明(タイマツ) たきまつ也、いときと通ず、又ついまつ共云、つぎまつなり、ついはつくなり、故に續松ともかく、又手火(タビ)なり、手にもちてともす火なり、日本紀神代上卷に、秉炬をたびとよめり、手火なり、今も邊鄙の人はたひと云、
p.0275 燈燭トモシビ〈○中略〉 倭名鈔に、〈○中略〉唐式の松明は、今按今之續松乎と見えしは、俗に夕ヒマツといふ是也、タヒは手火也、伊弉諾神湯津爪櫛の雄柱を牽折て、秉炬となされしと見えし、卽此物の始也、
p.0275 たひまつ 手火松の義、千金翼に、松明是肥松木節也と見えたり、燋は俗にいふ手たひまつなり、〈○中略〉兵家に雨だいまつあり、風前燭也、筍(タケノコ)だひまつあり、
p.0275 たいまつ 燒松 焚松
たきまつなり、イをキにかよはすつねのならひなり、焚松の意なり、またついまつはつぎまつにて續松なり、松の心を俗にひでと云ふものは、脂有りて甚だあぶらあるもの故、よくもゆる故、是をともすを本にして、松とのみいへり、その外竹蘆にてするをも、本によりて松とはいふなり、
p.0275 凡火炬、乾葦作レ心、葦上用二乾草一節縛、縛處周廻、插二肥松明(○○)一、〈謂松明是松之有レ脂者也〉
p.0275 息女出給ふ時、〈○中略〉其時の次第如レ此に候間、記置候也、ケ樣之次第を能々見分て分二別古實一可レ有レ之事也、〈○中略〉
續松之寸法之事、長サ貳十八束、口傳有、大サ一尺八寸迴り、卷目貳拾七有、
評曰、一尺八寸ハ一天八方也、卷目廿七ハ牛宿ヲ除也、
甲斐守殿にては、續松之長サ三十六束也、大サ同前也、卷目三十六也、卷やうは銚子と同じ事也、是天地陰陽の表義也、白絹にて包也、公家方に而者淺黃の絹に而包也、條々口傳、
p.0276 かゞみの宿にて吉次宿にがうとう入事
ゆりの太郎、ふぢさはに申けるは、みやこに聞え亢る吉次といふ金あき人、奧州へ下るとて、おほくのうり物をもち、こよひ長者のもとにやどりたり、いかゞすべきといひければ、〈○中略〉くつきやうのあしがるども五六人、はらまききて、あぶらさしたるくるまだいまつ(○○○○○○○)五六たひに火をつけて、天にさしあげゝれば、ほかはくらけれども、内は日中のやうにこしらへ、〈○下略〉
p.0276 義經記二油さしたる車だいまつ、是は圓光大師傳一夜討の圖に見えたり、束ねたる松明を三ツ四ツほどをひとつにし、中を結て車のごとくにして、めぐりに火をつけたるを、家内に投入て明りとするなり、是に油をそゝぎたるべし、こは常に用べきものならず、
p.0276 三角入道謀叛事
城中ノ兵共、始ハ夜討ノ入ヨト心得テ、櫓々ニ兵共弦音シテ、抛續松(○○○)屛ヨリ外へ投出、靜返テ見ケルガ、〈○下略〉
p.0276 烏帽子折
〈シテ〉不思議やな、うちには吉次兄弟ならでは有まじきが、扨何者か有、〈ツレ〉投束苣(ナゲタイマツ)の陰より見れば、年の程十二三計成稚き者、小太刀にて切て廻り候は、さながら蝶鳥の如く成よし申候、
p.0276 月料〈小月物別減二廿分之一一○中略〉 松明三百把
p.0276 凡齋王參二下上兩社祭一日、入レ夜山城國儲二松明一、掾若目一人祗承、其名簿前一日進レ官、
p.0276 釋奠料〈春秋並同○中略〉 松明七十把〈五十把燎五所料、廿把燒二幣物一料、○中略〉
加茂神祭料〈○中略〉 續松五十把
松尾祭料 續松卅把、炭一石、
p.0276 一不レ兼二大將一大臣騎馬之時、夜取二松明一者、先例樣々也、或經二大將一人、雜色長取二松明一、或 大將以前猶小隨身取レ之、或雜色取二松明一、然而皆多二其難一、如二王子王孫一者、若大將以前小隨身可レ宜歟、不レ然輩束帶時馬副、不レ然者雜色有二何難一哉、
p.0277 續松
續松ハ僧綱二燃、凡僧一燃也、二燃ハ左右共ニ門内ニテ燃レ之、門外ハ有二禁儀一也云々、
p.0277 躾式法の事
一娶取のせうめいの役の事、庭上に役人左右にかしこまる、左の役人は右の手と右の膝をつきて、左の手にたい松を持つ、右の役人は、左の手と左の膝をつきて、右の手にたい松を持、扨事すぎ候て後、兩方のせうめいを其庭にて一ツに取合て、しもべにとらする也、
p.0277 一御所造幷御新造之御移徙ノ樣體之事、〈○中略〉御移徙ハ夜陰也、公方樣御直垂ニテ、松明役ハ御所奉行、御車之左ハ梶原名字、右ハ佐々木名字ナド面々參、松明紙燭本也、然者長春院殿樣御移徙之時ハ蠟燭也、松明ト云字、依二御祝言一如レ此書也、先達宿老被二申上一也、
p.0277 松尾阜、品太天皇〈○應神〉巡行之時、於二此處一日暮、卽取二此阜松一爲二之燎一、故名二松尾一、
p.0277 仁和元年四月乙卯朔、是夜巡二撿朝堂院一、近衞等捕二得一人一、〓二持油炭續松等一、忽入二火於瓫一、以レ紙縛二其口一、〈○下略〉
p.0277 三月中の十日ばかりに、ふぢいの宮にふぢの花の宴し給ふ、〈○中略〉よにいりてついまつ(○○○○)まいる、ゐだけ三尺ばかりのしろがねのこまいぬ、くちあふげていすへて、ぢむのからのほそぐみして、ついまつにながくたひて、よ一夜ともしたり、
p.0277 たいまつ(○○○○)のひかりに中將みるに、ましてさらなり、御ぐしのほどたけ五尺ばかりあまりて、すこしこまうかれするかみを、かきあらひたるすなはちひとせなかこぼるゝまであり、
p.0278 むかし男有けり、その男いせの國にかりのつかひにいきけるに、〈○中略〉女がたより出す盃のうらに、歌を書て出したり、取てみれば、
かち人のわたれどぬれぬえにしあれば、とかきてすへはなし、その盃のうらに、つゐ松のすみして歌のすゑを書つぐ、
又あふさかの關はこへなん、とて明ればをはりの國へこえにけり、
p.0278 村上御時、南殿出御ありけるに、諸司の下部の年たけたるが、南階の邊に候けるをめして、當時の政道をば、世にはいかゞ申すと御尋有げれば、目出度候とこそ申候へ、但主殿寮に松明多く入候、率分堂に草候と奏たりければ、御門大きにはぢおぼしめしてけり、
p.0278 ありがたきもの
りんじのまつりのでうがくなどはいみじうおかし、とのもりの官人などの、ながき松をたかくともして、くびはひき入てゆけば、さきはさしつけつばかりなるに、〈○下略〉
p.0278 いとくらやみなるに、さきにともしたる松の煙のかの、車にかゝれるもいとおかし、
p.0278 長元九年正月二日辛巳、今夜藏人頭左近衞中將俊家朝臣隨身、敺二損藏人頭左中辨經輔朝臣隨身一、先以レ弓打レ肩、次雜色以二續松一打レ之、
p.0278 宇治殿臨時客ニ、堀川右大臣尊者ニテ、コトハテヽイデラレケルトキ、兼賴、俊家、能長、基平ミナ子孫ナリ、上達部ニテイデラレケレバ、マツヲトリテ前行セラレケリ、
p.0278 嘉禎二年八月四日戊子、戌刻將軍家〈○藤原賴經〉若宮大路新造御所御移徙也、自二武州御亭一渡御、〈御束帶〉御乘車、〈○中略〉備中左近大夫、美作前司等取二松明一、
p.0278 寬元三年六月七日庚午、鎌倉中民居、毎レ人用二意續松一、若夜討殺害人等出來之時者、就レ聲面々取二松明一、可二奔出一之由、被レ觸二仰于保々一、淸左衞門尉、萬年九郎兵衞尉等奉行之、
p.0279 建長五年八月十六日甲辰、鶴岡馬場流鏑馬以下如レ例、將軍家〈○宗尊親王〉御出、〈○中略〉秉燭之程還御取二松明一云云、
p.0279 北野通夜物語事附靑砥左衞門事
或時此靑砥左衞門、夜ニ入テ出仕シケルニ、イツモ燧袋ニ入テ持タル錢ヲ、十文取ハヅシテ、滑河ヘゾ落シ入タリケルヲ、少事ノ物ナレバ、ヨシサテモアレカシトテコソ、行過ベカリシガ、以外ニ周章テ、其邊ノ町屋へ、人ヲ走ラカシ、錢五十文ヲ以テ、續松ヲ十把買テ、則是ヲ燃シテ遂ニ十文ノ錢ヲゾ求得タリケル、
p.0279 烏帽子折
〈シテ〉扨束苣(タイマツ)の占手は如何に、〈ツレ〉一の束苣は切て落し、二の束苣はふみけし、三は取て投歸して候が、三がみつながら消て候、〈シテ〉夫こそ大事よ、夫束苣の占手といつは、一のたいまつは軍神、二の束苣は時の運、三は我等が命なるに、みつがみつながら消るならば、今夜の夜討は扨よな、
p.0279 續松
君子は安而不レ忘レ危、存而不レ忘レ亡、治而不レ忘レ亂、是以身安而國家可レ保也とも侍れば、靜なる御代ながら、辻切酒狂人町送の溢(あふれ)者のそなへに、竹をわり松をつゝみて結ひをかせしも、ほこりにまぶれ烟にふすぼりて、夢にだも用ゆる事なきぞ、九重にすめる甲斐ありていとうれし、又いやなるは新物故身(あらたにものふれるみ)を龕前堂にかき居て、威儀たゞしき僧の何をのたまふやらんしらず、聲に甲乙をなして、目をほそめつ、又は見開きつ、丸くふりあげ道場になげうちて、たうとき方へ導るに、つき出せる鉢の音こそ餘所ながら聞も、哀なるよりはまづ、うそ氣味わうけれ、きらふもあやなたとひ五百八十年七まがりの命をたもつとも、其八まがりめは寂滅の貝より外にふくものもあるまじきを、猶在五中將の尾張へ出立給ふに、齋宮の御方よりのさかづきに、渡れどぬれぬえにしあれ ばと、上の句をかきて出し紿へるに、中將たいまつのすみして、又めふさかの關はこえなんと下の句をかきつぎ給ふぞおもしろきより羨けれ、うらやむもうすじほなり、人がらといひ情といひ、及ばぬといふもおろかなれば、まつのおもはん事もはづかし、
月あかき尾花や風の手たいまつ
續松縛置歷二何年一 盜竊無レ興封境全 醫術純(モツハラ)論レ治二未病一 用心正在二不レ然前一
p.0280 炬火 唐韻云、爝〈卽略反、與レ雀同〉炬火也、字書云、炬〈其呂反、上聲之重、訓與レ燈同、俗云太天阿加之(○○○○○)、〉束レ薪灼レ之、
p.0280 按、其屬二群母一、牙音單行無二輕重一、此云レ重未詳、新撰字鏡、炬、止毛志火、雄略記火炬、顯宗紀爝火、皆同訓、故此云二訓與燈同一也、〈○中略〉按、説文、苣束レ葦燒、徐鉉曰、今俗別作レ炬、卽此義、
p.0280 凡火炬(○○)乾葦作レ心、葦上用二乾草一節縛、縛處周廻插二肥松明一、〈謂松明是松之有レ脂者也〉並所レ須レ貯十具以上、於二舍下一作レ架積著、〈謂兼有二烟貯一、故云レ並也、架猶レ棚也、〉不レ得二雨濕一、
p.0280 正月七日儀
乘輿還宮日若逮レ昏、主殿寮秉レ燭左右各廿炬(○)、列二立殿庭一、左右衞門門部各秉レ燭、自二萬秋延明雨門一、分列二顯陽承歡兩堂前一、其客徒賜レ祿畢退出、左右衞士各二人秉レ燭、迎二儀鸞門一送二朱雀門外一、
p.0280 初齋院別當以下員
別當五位二人、〈一人命婦、○中略〉火炬(○○)小子二人、〈○中略〉
新造炊殿忌火庭火祭〈○中略〉
火炬二人〈取二同國(山城)葛野郡秦氏童女一〉
右始レ自二初齋院一至三于參二入太神宮一奉仕、其齋王入二伊勢齋宮一卽各替却、
凡騫内親王月料及節料等、皆准二在京一、其官人〈○中略〉火炬小女二人、〈別米一升四合、鹽二勺四撮、〉
p.0280 凡黃昏之後、〈○中略〉其宮門皆令二衞士炬一レ火、〈閤門亦同〉
p.0281 童相撲事
臨二昏黑一時、主殿寮入二左靑鎖和德兩門一、各供二炬火一事畢還御、
p.0281 十三年八月、播磨國御井隈人文石小麻呂有二力强心肆暴虐一、〈○中略〉於レ是天皇遣二春日小野臣大樹一、領二敢死士一百並持二火炬一圍レ宅而燒時、自二火炎中一白狗暴出、逐二大樹臣一、
p.0281 年中節會支度〈寬平年中日記〉
一十四日〈○十二月〉万燈會
二石五斗御明坏万口直 一石五斗〈燈柱直○中略〉 一石四面點家拼木直 二石柱松(○○)四十抱直
p.0281 平維茂郎等被レ殺語第四
太郎介モ主ノ送リシテ私ノ宿ニ行ヌ、其ニモ私ノ儲爲ル者共有ケレバ、樣々ニ食物菓子酒秣蒭ナド持運テ喤ル、九月晦比ノ事ナレバ、庭暗ケレバ所々ニ柱松(○○)ヲ立タリ、太郎介物食ヒ畢テ高枕シテ寢ヌ、〈○中略〉介ガ臥タル所ニハ、布大幕ヲ二重計引キ廻シタレバ、箭ナド可レ通クモ无シ庭ニ立タル柱松共ノ光リ晝ノ樣ニ明シ、郎等共不レ緩シテ廻レバ、露ノ怖レ可レ有クモ无シ、
p.0281 たちあかし(○○○○○)のひるよりもあかきに、わか宮の御なをしなど、あざやかにしたてられ給へる、おとなしき御さまのゆゝしさを、誰も〳〵涙をながして見奉るに、〈○下略〉
p.0281 何事もふるき世のみぞしたはしき、今やうは無下にいやしくこそなりゆくめれ、〈○中略〉いにしへは車もたげよ、火かゝげよとこそいひしを、今やうの人はもてあげよ、かきあげよといふ、主殿寮の人數だてといふべきを、たちあかししろくせよといひ、最勝講の御聽聞所なるをば、御かうのろとこそいふを、かうろといふくちおしとぞ、ふるき人は仰られし、
p.0281 庭燎 四聲字苑云、燎〈力照反、和名邇波比、毛詩有二庭燎篇一、〉庭火也、
p.0281 周禮司炬氏注、樹二於門外一曰二大燭一、於二門内一曰二庭燎一、玉篇、火在二門外一曰レ燭、於レ内曰二 庭燎一、卽是義按、周禮閽人注、燎、地燭也、疏、百根葦皆以レ布纒レ之、以レ蜜塗二其上一、若二今蠟燭一矣、然則燎與二皇國爾波比一頗不レ同、又按、説文、燎、放レ火也、轉爲二庭燎一、
p.0282 主殿寮
頭一人掌二〈○中略〉松柴、炭燎〈謂柴、薪柴、燎(○)、庭燎(○○)、〉等事一、
p.0282 凡理門致レ夜燃(○)レ火(○)、〈謂内及中外三門、皆衛士燃レ火也、〉幷大器貯レ水、監二察諸出入者一、
p.0282 正月十六日踏歌儀
日旣逮レ昏、執レ燎(○)者列二殿庭一如レ常、
p.0282 藤花宴
天曆三年四月十二日、於二飛香舍一有二藤花宴一、〈○中略〉次有二歌事一、〈○中略〉于レ時月光雖レ朗、猶召二庭燎一、次々獻レ歌、次伊尹取二文臺一、右兵衞佐淸正講師、藏人頭雅信、左少將朝成秉燭、
p.0282 文化七年八月十九日辛丑、内侍所假殿渡御也、〈○中略〉庭燎(○○)之松木命二主殿寮一令レ運二置弓場空柱邊一、臨レ期炬之事者出納小舍人等申含置了、
p.0282 篝火 漢書陳勝傳云、夜篝レ火、〈師説云、比乎加々利邇須、今案漁者以レ鐵作レ篝盛照レ水者名レ之、此類乎、〉
p.0282 原書篝作レ構、顔師古注云、構謂二結起一也、史記作レ篝、集解徐廣曰、篝、籠也、索隱、郭璞云、篝、籠也、按、徐廣司馬貞以レ籠解レ篝、然則其意蓋謂三以レ鐵造レ籠以覆二燃火一也、漢書注、其義與レ此不レ同、疑源君引二史記一、誤爲二漢書一也、龜策傳、以レ〓燭二此地一、音義云、然レ火而籠二罩其上一、構與レ篝同、王念孫曰、篝者籠絡之名、楚辭招魂、秦篝齊縷、王逸注云、篝絡也、〈○中略〉新撰字鏡、爐、鉪、〓皆訓二加加利一、按、加加利與三爀訓二加加也久一同語、
p.0282 見二濳鸕人一作歌一首
賣比河波能(メヒガハノ)、波夜伎瀨其等爾(ハヤキセゴトニ)、可我里佐之(カガリサシ)、夜蘇登毛乃乎波(ヤソトモノヲハ)、宇加波多知家里(ウガハタチケリ)、
p.0283 五日夜〈○後一條帝寬弘五年九月十一日生〉は、殿の御うぶやしなひ、十五日の月くもりなくおもしろきに、池のみぎはちかう、かゞり火どもを木のしたにともしつゝ、年木どもたてわたす、
p.0283 おまへのかゞり火すこしきえがたなるを、御ともなる右近のたいふをめして、ともしつけさせ給、いと凉しげなるやり水のほとりに氣色ことにひろごりたる、まゆみの木のしたに、打まつおどろ〳〵しからぬほどにをきて、さししぞきてともしたれば、御前のかたはいとすゞしくおかしきほどなるひかりに、女の御さまみるかひありて、〈○中略〉かへりうく覺しやすらふ、たえず人さぶらひてともしつけよ、夏の月なきほどは、にはのひかりなきいと物むつかしく、おぼつかなしやとのたまふ、
p.0283 一入レ夜〈○二十五日〉三の有二御舟一、〈○中略〉桂の男かちかうぶりにて、御池の鰭中島などに篝を燒、
p.0283 一三月〈○永祿四年〉卅日、未刻御成、〈○足利義輝、中略、〉
一舞臺燭臺二、狼烟も二所ニ在レ之、かゞりの事、百疋下行ニ候、殿中にて百疋下行之由、綠阿物二語之一、
p.0283 日野一位資枝卿、アル闇夜ニ端居セラレテ酒宴アリシトキ、一僕ニ命ゼラレテ、鐵籠ノ柄付タル篝火(○○○○○○○○○)ヲ持テ、遣水池水ノアタリ、其所得タル邊ニ在ベシトノ旨ナリシヲ、僕ヨク心得テ、築山ノ茂ミヨリ篝火ヲサシ出シケレバ、持ル人ノ形ハ見ヘデ、篝火ノミ水ニ映ジテ、頗ル興ヲ添ケリ、
p.0283 一力ヾヲ燒は、干タル木を長クツミ、風面ヨリ火ヲツクル也、又生木ヲバ多ツミテ消ざるやうに燒也、何も木多ツミ、火フトクツヨク見え候樣に燒候也、
○按ズルニ、四十八ケ所ノ篝ノ事ハ、官位部遠國職篇ニ在リ、
p.0283 火鑽 内典云、譬如三因燧因鑽〈音賛、和名比岐利(○○○)、〉而得二生火一、〈涅槃經文也〉
p.0284 按、鑽卽鑽錐、訓二岐利一、鑽錐穿レ物訓二岐留一、求レ火者、堅木作二鑽錐一、以鑽二柏木版一、如二鑽錐穿一レ木、則得レ出レ火、故名二比岐利一、柏木名二比乃岐一、以レ是也〈○中略〉原書聖行品、北本因鑽下有二因手因乾牛糞六字一、南本作二因手因乾草五字一、此節文、注五字、疑後人所レ加、非二源君舊文一、按、説文、鑽所二以穿一也、卽鑽錐字、以爲二火鑽一者轉注也、
p.0284 凡兵士、〈○中略〉毎二五十人一、火鑽一具、熟艾(○○)一斤、
p.0284 踐祚大嘗祭儀上
神祇官差二卜部三人一、申レ官差二遣紀伊淡路阿波等國一、監二作由加物一、〈○中略〉阿波國〈○中略〉鉋二枚、火鑽三枚、並令二忌部及潜女等量レ程造備一、
p.0284 踐祚大嘗祭儀中
先レ祭七日鎭二大嘗宮齋殿地一、〈○中略〉燒灰率二造酒童女一參進、童女始鑽二木燧(○○)一、次稻實公鑽二出火一、次燒灰吹レ火、次子弟以二松明一炬レ之、〈○中略〉卯日〈○中略〉時刻悠紀主基共發レ自二齋場一詣二大嘗宮一、〈悠紀自二宮城東路一、主基自二西路一、共南行、〉其行列也、〈○中略〉次木燧一荷、〈納二白筥二合一、呉竹爲レ臺、覆以二綠纐纈一、結以二木綿一、以二布綱一維レ之、其上插二賢木一、擔丁一人、部領左右一人相夾、〉
p.0284 水戸神之孫櫛八玉神爲二膳夫一、獻二天御饗一之時、禱白而櫛八玉神化レ鵜入二海底一、咋二出底之波邇一、〈此二字以レ音〉作二天八十毘良迦一〈此三字以レ音〉而、鎌二海布之柄一作二燧臼(○○)一、以二海蓴之柄一作二燧杵(○○)一而、鑽出レ火云、〈○下略〉
p.0284 和名抄に、火鑽和名比岐利、燧和名比宇知とあり、凡て火を出すに、打と切との異あり、中卷倭建命段に、以二其火打一而打二出火一とある、是打火にて尋常の如し、又上代より忌て淸くする火は皆鑽出すことにて、〈火打をば用ひず、火切を用ふ、是いかなる故にか其意は知がたし、然るを木より出るは陽火、金より出るは陰火なる故なりなど云は、例の取るに足らぬ漢意なり、〉今に至るまでも大神宮の御饌炊く火などは然なり、〈故に伊勢國にては、必しも切り出されども、別に忌淸め亡る火をば切火といふなり、〉玉葉〈月輪兼實公の記錄〉に、神宮之習不レ用二火打一用二火切一と見えたり、さて伎留(キル)と云は、輾磨(キシ)ると本同言なるべし、今俗には毛美火(モミビ)とも云り、靈異記に、鑽岐里(キリ)又母美(モミ)とあれば、古より毛(モ) 牟(ム)とも云しなり、〈錐にて穴を穿(エル)を、俗に伎理毛美(キリモミ)と云、錐といふ名は伎留具(キルモノ)なる故なるに、其伎留(キル)ち毛牟(モム)とも云る、是も同言なり、〉さて右の和名抄、又書紀倭建命ノ段に、以レ燧出レ火とあるなどに依れば、燧は火打(ヒウチ)なるに、此の燧臼燧杵の燧を、肥伎理(ヒキリ)と訓は、如何と思ふ人あるべけれど、燧は火打にも火切にも通はし用ふべき字なり、〈燧字注に、取レ火具など云、禮記内則篇に、左佩二金燧一、右佩二木燧一、註に金燧取二火於日一、木燧鑽レ火也と云り、木燧にては火を打出すべき由なければ、これ火切りなること明らけし、〉和名抄に鑽を比岐利(ヒキリ)、燧を比宇知(ヒウチ)と分たるは、やゝ後の事にぞ有ける、さて火を切出す法は、まづ鑽ノ字を所二以穿一也とも、穿器也とも注せると、錐字の注に、穿器之鏡者似レ鑽而小と云るとを、合せて思ふに、漢國にては鑽は錐の如くに、鋭らねども、穴を穿る器の名なり、然るに又鑽レ燧と云ことも、古き漢籍に見えたるを思へば、火を取にも、かの鑽と云器に似たる物〈いはゆる燧是なり、必しも金に限らず、木なるものあり、かの木燧これなり、〉を以て、穴を穿るが如くに碾(キシ)り揉(モミ)て出せしと見えたり、さて今此に燧臼燧杵とあるを、其に思合すれば、御國にても、火を切るは、然爲しこと知られたり、〈火切を以碾(キシ)り揉狀(モムサマ)、物を春に似たる故に、臼杵とは云るなるべし、今も大神宮忌火屋殿にて、神供を炊く火は、皆切火なり、其法は、よく枯たる檜の木口を切り、その木口の中央にすこしくぼみを付て、又錐の柄の如くなる木を以て、力を入れてかの木口をつよくもみて、火を出すなり、右の杵は檜にても、又は山枇杷といふ木にても作るとなり、〉大嘗祭式に、次火燧一荷〈納二筥二合一、呉竹爲レ足、覆以二綠纈一、夫一人、〉と見え、〈此は悠紀主基兩國供物等を、齋場より大嘗宮へ運ぶ行列の中に見ゆ、〉また火鑽三枚、〈是は阿波國より、造備て獻る種々ノ物の中に見ゆ、〉また云々火鑽三枚、已上料鐵二廷〈此は神服を織る處の作具の中に見ゆ、此は御饌などを次く料の火を切具には非る故に、鐵を以造るにや、委くは知がたし、〉など見ゆ、〈○中略〉
おひつぎの考
鑽二出火一
國造世々、神火相續とて、第一の大事とす、今世に至るまでも、國造新に世を嗣むとする時は、まづ意宇郡なる大庭社にゆきて、神火神水を受續ぐ式あり、そは神代の火切臼、火切杵と云て天照大神より天穗日命に授け賜ひしより、國造家に代々第一の神寶としイ、、傳來たる寶物あるを、はじめ大庭社にゆく時、これを袋ながら、みづから頸に懸て持行き、此火切臼、火切杵を以て 神火をつぐ、これを火繼と云り、さる故に、國造の世がはりを火繼と云なり、さて火繼竟りて、國造となりぬれば、食膳をとゝのふるにも、常に此神火を用ひて、其をつゝしむこといと〳〵嚴重にして、かりにも他火を用ることなし、さて又毎年正月元日に、火祭と云て、かの禪代の火切臼、火切杵と云を祭るわざあり、又毎年十一月中の卯日に、國造かの大庭社にゆきて、新嘗會と云ことありて、國造はじめて新穀を食はる、此時は熊野社より火切板、火切杵を彼社人持來て、火を切出て、饌をとゝのへて國造に獻る式あり、其熊野の社人の持來る火切板は、長さ三尺許、廣さ五六寸、厚さ一寸ばかりなる檜の板なり、火切杵は、長さ二尺五六寸ばかりなる、細き空木のまろ木にて、是は板杵ともに、年毎に新に造れる物にて、是を以て火をもみ出すなり、さて又神水と云は、意宇郡山代村に、天眞名井と云あり、式なる眞名井神社これなり、かの大庭社より十四五町東北の方にあり、國造新嘗の時、此井の水を用ふることゝぞ、
p.0286 燧杵 ひきりきね
火をするには檜木の臼を作り、同木の杵にて錐をもむ樣にすれば、火出るなり、臼とは板の片端をくぼめて横に筋を入て、節はそこより火の出れば、火くそをそこに置時は、火うつるものなり、これ口傳の秘事なり、きるは褶と同じ、この詞つねにかよはしいへり、
p.0286 内膳司供二忌火御飯一事〈未明供之〉
舊記云、垂仁天皇之代、倭姫皇女爲二伊勢太神御杖代一、〈○中略〉有二一隻鶴一、守二八根稻穗長八握一、可レ謂二瑞穗一、倭姫皇女使二人苅採一、欲レ供二太神之御食一、卽折二木枝一刺合出レ火、炊二彼稻米一奉レ供二太神一給、從二此時一神嘗祭發、故毎レ至二神態一鑽レ火炊爨、謂二之忌火一、良有レ以也者、〈○中略〉高橋氏文云、天皇〈○景行〉五十三年八月、行二幸伊世一轉入二東國一、冬十月、到二上總國安房浮島宮一、〈○中略〉是時上總國安房大神〈乎〉御食〈都〉神〈止〉坐奉、爲二湯坐連等始祖一、意富賣布連之子豐日連〈乎〉、令二火鑽一〈氐〉、此〈乎〉忌火〈止〉爲〈天〉伊波比由麻閉〈天〉供二御食一、
p.0287 礊〈苦革反、出レ火之石、火宇知石(○○○○)、〉
p.0287 鈥〈加奈比、又火打(○○)〉
p.0287 燧 古史考云、燧人氏造二鑽燧一〈音遂、和名比宇知、〉始出レ火、
p.0287 初學記引、燧人初作二燧火一、人始燔炙、禮記正義、太平御覽並引云、有二聖人一以二火德一王、造二作鑽燧一、出レ火云云、號曰二燧人一、皆與レ此少異、藝文類聚、初學記、並引二禮含文嘉一曰、燧人始鑽レ木取レ火、亦其事、按、鑒鑽レ木得レ火、燧以レ金取二火於日一者、詳見二珍寶部火精條一、是鑽燧二物不レ同、以二鑽木一取レ火謂二之燧人一者、統二言之一耳、又按、比宇知、金石相擊得レ火者、燧以レ金取二火於日一者、則不レ得三訓レ燧爲二比宇知一、明堂灸經用火法云、諸蕃部落用二鐶鐵一擊二䃈石一得二火出一者、可三以當二皇國比宇知一、依レ之西土古來、似レ無下擊二金石一得レ火者上、然新唐書車服志、武官五品已上、佩二䪓韘七事一、佩二刀刀子礪石一、契苾眞噦厥針筒火石是、所レ謂火石、亦當二求レ火之石一、然則唐時已有二金石得レ火者一、
p.0287 火燧(ヒウチ)
p.0287 ひうち 日本紀、倭名鈔に燧をよめり、火を擊出すの具なり、靈異記に燧をひきりびと訓ず、新撰字鏡に磬をひうち石とよめり、今諸國に産す、本草にいふ玉火石なるべし、伊勢度會郡の村名に火打石あり、旅立人に火打を贈る事、歌集に多く見えたり、日本武尊の故事に起れり、古事景行記にくはし、〈○中略〉火打金は火鎌又火刀と見えたり、
p.0287 爾天皇亦頻詔二倭建命一、言下向和二平東方十二道之荒夫琉神一及摩都樓波奴人等上、〈○中略〉故受レ命罷行之時、參二入伊勢大御神宮一、拜二神朝廷一、卽白二其姨倭比賣命一者、〈○中略〉倭比賣命賜二草那藝劒一、〈那藝二字以レ音〉亦賜二御囊一而、詔下若有二急事一解中玆囊口上、〈○中略〉故爾到二相武國一之時、其國造詐白、於二此野中一有二大沼一、住二是沼中一之神、甚道速振神也、於レ是看二行其神一、入二坐其野一、爾其國造火著二其野一、故知レ見レ欺而解二開其姨倭比賣之所レ給囊口一而見者、火打有二其裏一、於レ是先以二其御刀一苅二撥草一、以二其火打一而打二出火一、著二向火一而燒退、還出皆切二滅其國造等一、
p.0288 神鏡神璽都入幷三種寶劒事
景行天皇四十年夏六月ニ、東夷背二朝家一、關ヨリ東不レ靜、〈○中略〉十月朔癸丑、日本武尊道ニ出給フ、戊午先伊勢太神宮ヲ拜シ給フ、嚴宮倭姫命ヲ以、今蒙二天皇之命一、赴二東征一誅二諸叛者一、コヽニ倭姫命、天叢雲劔ヲ取テ、日本武尊ニ奉レ授云、愼テ無二懈事一、汝東征センニ危カラン時、以二此劒一防テ、可レ得二助事一、又錦袋ヲ披テ異賊ヲ平ケヨトテ、叢雲劒ニ錦袋ヲ被レ付タリ、日本武尊是ヲ給テ、東向、駿河國浮島原ニ著給、其所凶徒等、尊欺ンガ爲ニ、此野ニハ麋多シ、狩シテ遊給ヘト申ス、尊野ニ出テ、枯野荻搔分々々狩シ給ヘバ凶徒枯野ニ火ヲ放テ尊ヲ燒殺サントス、野火四方ヨリ燃來テ、尊難レ遁カリケレバ、佩給ヘル叢雲劒ヲ拔テ打振給ヘバ、卯ニ向草一里マデコソ切タリケレ、爰ニテ野火ハ止ヌ、又其後劔ニ付タル錦袋ヲ披見ルニ燧アリ、尊自石ノカドヲ取テ火ヲ打出、是ヨリ野ニ付タレバ、風忽ニ起テ、猛火夷賊ニ吹覆、凶徒悉ニ燒亡ヌ、偖コソ其所ヲバ燒詰ノ里トハ申ナレバ、此ヨリシテ天叢雲劒ヲバ草薙劒ト名タリ、彼燧ト申ハ、天照太神、百王ノ末ノ帝マデ、我御貌ヲ見奉ラントテ、自御鏡ニ移サセ給ケルニ、初ノ鑄損ノ鏡ハ、紀伊國日前宮御座、第二度御鏡ヲ取上御覽ジケルニ、取弛メ打落シ、三ニ破タルヲ、燧ニナシ給ヘリ、彼燧ヲ錦袋ニ入、劒ニ被レ付タリケル也、今ノ世マデニ、人腰刀ニ錦ノ赤皮ヲ下テ、燧袋ト云事ハ此故也、
p.0288 郡西里靜織里、〈○中略〉北有二小水一、丹石交雜、色似二㻞碧一、火鑽尤好、故以號二玉川一、
p.0288 おなじ少將〈○藤原師氏〉のもとへ行人に、火うちの調度をてうじて、それにたきものを、くはへてやるによめる、
をり〳〵に打てたく火の煙あらば心ざす香を忍べとぞ思ふ
p.0288 とをきくにへまかりけるともだちに、火うちにそへてつかはしける、よみ人しらず このたびも我を忘れぬものならばうちみんたびに思ひ出なん
p.0289 治承四年六月廿三日甲辰、此日密々有二嫁娶事一、〈○中略〉召二贄殿打火一燃二付塗籠中燈爐一、〈禮用二脂燭火一、今度無二此儀一、仍以二略儀一用二打火一、〉
p.0289 燧石 處々出、然鞍馬山之産爲レ堪レ發レ火、鞍馬松尾東山腹造二小堂一、一人居二其内一著二長繩於蒭蕢一、有二往來之人一則卸二是蕢於往來之路頭一、有レ求二燧石一則多少隨二其心一入二錢於蕢内一、於レ玆提二擧芻蕢一、應二其錢之多少一而盛二燧石於蕢内一再卸レ之、買者取二得之一而歸、是謂二鞍馬蕢下一、凡鞍馬山下土豪多剃レ髮、故謂二鞍馬坊主一、倭俗謂レ僧稱二坊主一、其餘亦剃レ髮者總謂二坊主一、卸二斯蕢一者、土豪坊主中二三家主二斯事一、或又賣二市中一、
p.0289 〓 倶都和、所々製レ之、然大佛門前明珍所レ作爲レ良、又攝津國譽田一口所レ作亦好、倭俗造レ〓謂レ磨、製(○)レ〓家又作(○○○○)レ燧(○)能鑽レ火、
p.0289 火打石
火打石は名産多し、國々諸山或は大河等にあり、色形一ならず、山城國鞍馬にあるは色靑し、美濃國養老瀧の産同じ、此二品甚だよし、伊賀國種生の庄に膏藥石あり色甚だ黑し、兼好法師が住居せし時に、靜弁が筑紫へまかりしに、火うちを贈ると書る是也、阿波國より出るはこれに次、筑後火川、近江狼川は下品也、水晶石英の類も、よく火を出せども、石性やはらかにして、永く用ひがたし、加賀或は常陸の水戸、奧州津輕等の馬腦大によし、駿河の火打坂にも上品あり、共に本草の玉火石の類なるべし、
p.0289 燧石
火打石、伊賀國名張郡上三谷奧田といふ所にあり、俗奧田石といふ、色黑く堅し、同村に小谷石といふあり、同品なり、又長坂村にあり、道久保(みちくぼ)石といふ、色薄白く筋あり、又阿波郡内保村にあり、色 黃なり、土中より堀出す、又山田郡畑村より東へ三十餘町山中にあり、色白し、赤白黑の斑文あり、
p.0290 今世火燧の木の面に、 本家明珍 と記せることは、一説に、享保九年辰三月廿一日、大坂堀江橘通二丁目金屋喜兵衞借屋妙智といへる老尼の宅より火出て、大火に及しより、妙智の火は能出るといへる譬よりして、文字を書更、明珍とせしよし言傳ふれども、是は正しく無稽の者の妄説にして、左にはあらず、明珍は鍛冶職の名字なり、〈○中略〉按ずるに、明珍は胄の鉢の鍛冶職なり、後世火燧をも錬て販しより其名殘れり、尤餘の鍛冶に勝れて、明珍の火燧は錬よきを以て、世に名高かりし故、終に火燧の銘とはなれるなり、然るに後世其火燧と共に、火口(ほくち)をも商ひて、是にも明珍の名を袋にしるせしより、今は火口の製法家の名と心得し人も有て、其濫觴を知人少し、
p.0290 鶴人、なるほどさやう〳〵モシ其火口箱(ほくちばこ)も御覽じやし、江戸より四角で厶リヤ正、そして鎌もちいさく、石も鼠色で厶リヤス、万松、なるほど大同小異でありやすねい、然し江戸でも近頃は此鼠色の石が、流行いたしやすよ、文政の中頃迄專ありやした、眞白な火打石よりは、此方が火が出るといふことで厶リヤス、鶴人なるほどさうかも知やせん、火口(ほくち)も大坂では旅火口で厶リヤス、江戸のやうな麻殼や、もろこし殻は用ひやせん、千長、へゝ引それでは鎌も微(ちい)さくて間に合ヤス、どふりで火口箱も小ぶりで厶リヤス、
p.0290 乞食集りて、摺火打にてたばこのむ、呵る體なし、
p.0290 燧囊
燧鐵、京坂ニテハヒウチガ子、江戸ニテハヒウチガマト云、上州吉井氏ノ製ヲ良トス、
火口ホクチト訓ズ、蒲穗ヲ以テ製レ之、黑赤二種アリ、三都トモ燧囊ニハ用レ之、京坂日用ニモ用レ之、江戸常ニハ火口木ト云、草幹ヲ燒キ炭トシテ用レ之、故ニ蒲製ヲ特ニ熊野火口ト云、日用ニモ稀ニ用 レ之家アリ、
燧石、京坂ハ淡靑ノ石ヲ用ヒ、江戸ニテハ白石ヲ用フ、
p.0291 山城 燧石 摺火打 紀伊 燧 阿波 火打崎燧石 豐後久多見燧肥後 火打石
p.0291 諸職名匠
鍛冶所 〈火打〉明珍〈伏見かいだう〉 〈火打〉久吉〈上同所〉 〈同〉吉守〈三條白川橋〉
金銀竹本土石
燧石 鞍馬山ふごおろし石 稻荷山ノ飴石
p.0291 江府名産〈幷近在近國〉
刃金燧〈所々にてひさぐ、しかれどもこれを根元と稱ス、〉 〈芝神明まへ〉升屋三郎兵衞
p.0291 新地城〈○豐前小倉〉ゆへにさしての舊跡なし、産物〈○中略〉火打あり、是も産物とし價金壹分までの火打有り、火の出る事尤妙なり、
p.0291 蘇合圓、〈○中略〉阿伽陀藥幷臘藥等者、當世人々、火燧袋之底、面々小藥器之中、必齎二持之一、
p.0291 火打袋
火打袋は火うちを入るゝ料なり、古事記に日本武尊東夷を征し給ふ時、倭比賣命より贈り給ひしぞはじめなる、
河内國交野郡渚村郷士某氏所傳燧袋圖〈弘賢藏○圖略〉
菖蒲革を以て造る、同革を以て底を入れ、前後縫めあり、深さ四寸八分、口廣五寸五分、腹のめぐり一尺一寸、底の徑二寸、うらは朽損じてなし、縫ひたる絲わづかに殘りて見ゆ、
越後國農家所佩燧袋圖〈○圖略〉 木綿糸を以て網を製す、底は革を用ゆ、色は好にまかす、或は縹一段、白一段、或は紺白二筋を用ひ、袋に燧と石とを納れ、竹筒にホクチを入る、中に節をこめて兩口なり、蓋は木を用ひて造る、大小長短好にまかせて定なし、農人耕作に出る時は、かならずこれを佩ぶといふ、
有明袋 表さよみ、裏紅絹、七寸四方に縫て、四の角を中央にて合、緣にたゝみつけて、三角にしたるものなり、緖一筋にて紳縮自在なる樣にせしものなり、按に是も又火打袋なり、後世うきよ袋といふものは、此形をうつせしなり、
製作
倭姫命の日本武尊にさづけ給ひしものは、錦の袋なるよし、盛衰記にしるせしかど、古事記には囊とのみ記されたれば、いかゞあるべき、古畫に見え花る所は、錦の類とおぼしきものあり、古物の今に存したるには、革もて造りしもあれば、〈弘賢所藏〉人々の好にまかすべきにや、又公家方にては、錦の類、武家にては革を用ひけるにや、
p.0292 色々の事
一火打袋は四十以後さぐる、但それも晴の時は斟酌あるべし、殊に大なるはわろし、さりながら宿老入道はくるしからず、
p.0292 一御前又は晴の時、火打袋を付け候事、若き人はあるまじく候、四十以後は御案内申上に不レ及さげ可レ申候、但病者などは藥を入候間、わかき人も御案内申上候てさげ候はん歟、
p.0292 火打袋は、火うちがま、火打石、ほくちなどを入る袋也、此袋は太刀かたなに付る物也、これは軍陣又は旅行夜道等の用心の爲なり、然る間御前又ははれなる時には、入用になき物なる故、付候事は有まじき也、火打袋は織物などを丸く切て、さしわたし幅七寸計にして、うらを付縫て、へりに糸にてかゞりを付け、緖を通して引しめる也、今のきんちやくといふ物 は、此火打袋にくすりをも入て持也、
p.0293 一刀を人に遣候時、自然火打袋をさげ申候時は、取候て懷中仕候て、さて可レ出候、袋共に遘事不レ可レ有レ之、
p.0293 圓滿院大輔登山事
圓滿院ノ大輔ハ、宇治ノ軍ヲ脱レ出テ、〈○中略〉ツク〳〵物ヲ案ズレバ、山僧ノ心替ヨリ角成ヌト、不レ安思ヘリ、〈○中略〉速ニ登山シテ堂舍佛閣悉魔滅ノ煙トナサバヤト、大惡心ヲ發シ、燧附茸硫黃ナド用意シテ、燧袋ニシツラヒ入、形ヲ修行者法師ニ造成シテ、山門ヘコソ忍登レ、
p.0293 公家武家榮枯易レ地事
都ニハ佐々木佐渡判官入道道譽ヲ始トシテ、在京ノ大名、衆ヲ結デ茶ノ會ヲ始メ、日々寄合活計ヲ盡ス、〈○中略〉五番ノ頭人ハ、只今爲立タル鎧一縮ニ、鮫懸タル白太刀、柄鞘皆金ニテ打クヽミタル刀ニ、虎ノ皮ノ火打袋ヲサゲ、一樣ニ是ヲ引ク、
p.0293 北野通夜物語事附靑砥左衞門事
或時此靑砥左衞門夜ニ入テ出仕シケルニ、イツモ燧袋ニ入テ持タル錢ヲ、十文取ハヅシテ、滑河ゾ落シ入タリケルヲ、〈○下略〉
p.0293 信長公元服初陣風俗事
信長ノ御形儀、甚以テ異相ナリ、不斷著シ給フ明衣(カタビラ)ノ兩袖ヲホツシニナサレ、半袴、燧袋、色々數多著サセラル、
p.0293 慶長八年四月廿一日、忠利君へ之御書、〈○中略〉
一ひうち袋二ツ〈○中略〉 一ひうち袋之とめ廿七遣候事〈○中略〉
四月廿一日 御判 内記殿〈進候〉
p.0294 著用類
火打袋 利休形、アヅキ皮、紐利休茶、小刀は堤鞘同樣節なし、杉入底、
p.0294 指柯燧衭(さすかひうちぶくろ)の寸法
一燧衭縱五寸八分縫立なり 横五寸四分縫立なり 一地おらんだもめん
一裏このみ次第 一緖色こんびらうど四つ打長さ 五尺〈貳つに折、圖のごとく付る、○圖略〉
一緖通しあな口より 壹寸三分の所に付る〈○下略〉
p.0294 燧囊〈○圖略〉
今製ノ燧囊、馬皮朱漆ニテ圖ノ如ク製シ、底ノ外ニ燧鐵ヲ造リ付タル物多シ、根付ハ壳アケト名ケ、牙角或ハ金屬ニテ造レ之、烟草半灰ノ時是ニアケ、再吸ニ備フ也、此具旅中用ナレバ、步行ノ間ニ用レ之コト多キ故也、
此具、烟草入ヨリハ小形ニ製ス、此圖大ニテ誤レリ、〈○圖略〉
燧石ト火口バ囊中ニ納ル、蓋此形ハ民間旅行用ニテ、武士用レ之ハ稀トス、又燧鐵モ尻ニ付ズ、囊中ニ納ムモアリ、又幅二寸計ノ燕口ヲ、縮緬等ノ裁ニテ自製シ、石鐵火口ヲ納レ、懷中スル人モアリ、此形ハ士民トモニ用フ也、
p.0294 をのゝこまちと云人、正月にきよみづにまうでにけり、〈○中略〉をのゝこまちあやしがりて、つれなきやうにて、人をやりてみせければ、みのひとつきたるほうしの、こしにひうちげ(○○○○)などゆいつけたるなん、すみにゐたるといひけり、
p.0294 ひうちげ
ひうちげは燧笥なるべし、今も越後國の農家にてホクチをいれて、腰に佩る物あり、木にて壺 のかたちちいさくつくりて、口をかたくせしものなり、ふか田にいりて、水にひたりても、ホクチのしめらぬためなりといふ、これ火うち笥といふべきものなり、又當國〈○武藏〉兒玉郡にて、ホクチをいるゝものを、ヒゲンといふ、これは火打笥の轉ぜしなるべし、
p.0295 火打箱
夏官燧を鑽て火を改るに、春は東方の靑に隨て、楡柳の火を用ひ、夏は南方の赤に隨て、棗杏の火を用ゆるは、異朝の政令、周禮の古法と聞けれど、民間の火打箱といふは、其沙汰にも及ばず、七八寸四方なる箱をまち〳〵に隔て、鞍馬の石、大佛の燧など取あつめ、鍋炭したゝかに入をき、毎日火はけち〳〵と打ならして、朝もよひ飢渴のたすけをぞうながしぬる、おもふに此火ひとり石よりも出ず、かねよりも出ず、石とかねとたゝかふ間に、ひとつ氣を生じて、しかもいまだ質あらざるに、ほくちにうつりて、始て質をなせるこそおかしけれ、いでや此火の始は夢ばかりなるが、その熾なるに至ては、宮室屋宇堂塔伽藍をもやきつくすこそおそろしけれ、又闇夜の大空をもてらせるをおもへば、一句の下に發明して、格物致知のひかりより、治國平天下の道德にもいたるべきこそたのもしけれ、たのむもあやな電の世に、石の火の身を持て、
石の火やめほしの花の一さかり
思奇金石觸生レ光 炊レ飯鬟レ茶育二萬方一 湯殿行人休二別火一 古今天地一陰陽
p.0295 㸅 四聲字苑云、㸅〈子結反、和名保曾久豆(○○○○)、〉燭飴炭也、
p.0295 ほくそ 新撰字鏡に櫛をよめり、火糞の義、新千載集に、沈のほくそと見えたり、今ほくちといふ、火口なり、火朽にはあらじ、火引をいふ、ぱんやいちびよしといへり、
p.0295 ほくそ 火屑 今はほくちといふなり 火糞〈○中略〉
今案にほくそは火糞にて、又火屑とも書べし、クソとクズとは相通へり、萬葉集に、木糞木屑を共 にこずみと訓めり、又今俗に鍛冶の金くそといふあり、是も屑なり、また今俗にほくらといふは、火口の意にて、火の付べきくち故にいふ歟、門戸の意に同じく山口などいふも、端初の意より名付たり、又朽木は火のよくうつる物にて、田舍にては今も朽木を火くちに用ゆれば、火朽の意にていふにや、
p.0296 燈火 附燈花燭火、保久知(ホクチ)火、
集解、〈○中略〉保久知(ホクチ)者用二厚紙一揉レ之如レ綿、細截毎二三層裹二小炭火一個一、輕掩二乾灰一而燒レ之令レ黑、候二其四面純黑一取出、待レ冷金石相擊、點レ火著二木片一而移レ火、〈○中略〉此火常所レ用之火、而世俗呼稱二打火一也、祭祀事神時忌二火穢一者用二斯火一、又金石相敲點二火于稿木片一、或用二鹽硝木一煮二木綿一而晒乾、亦金石相擊而點レ火、倶易レ移レ火、吸二煙草一人必忌二硝煙傷一レ人而已、
p.0296 ちかもりがからものゝ使にくだるに、いはにかねのひうちをほくそにぢむをして、しのぶをすりたるぬのゝ袋に、
うちつけに思ひいつとや故郷のしのぶ草にてすれる也けり
p.0296 發燭(ユワウギ/ツケギ)〈焠燈、焠兒、火寸、引光奴、並同、〉
p.0296 就竹(ツケダケ)〈則發燭也〉 發燭(ツケギ)〈一名引光奴〉 焠兒(同)〈同上〉 火寸(同) 發燭(ユワウギ)〈淮南王劉安始制レ焉、詳二輟耕錄一、〉 焠兒(同) 硫(同)黃木
p.0296 古取二火於日一、又取二於木一、皆名二之燧一、所レ謂鑽レ燧也、然何如取レ之與、我未レ知二其方一、今世所レ用之屬火木片、未レ知レ剏二於何時一、彼方明世、猶未二流行一耶、明田汝成、委巷叢談云、杭人削二松木一爲二小片一、其薄如レ紙、錬二硫黃一塗二其鋭一、名曰二發燭一、亦曰二焠兒一、蓋以發レ火代二燈燭用一也、史載周建德六年、齊后妃貧者、以二發燭一爲レ業、豈卽杭人所レ製歟、陶學士淸異錄云、夜有レ急、苦二於作レ燈之緩一、批レ杉染二硫黃一、遇レ火卽燄、呼爲二引光奴一云云、今謂建德後周年號、然則當時旣有二發燭一、而至レ明乃不レ行何也且顧レ之雖三旣有二發燭一、金石相打、以取レ火之方、則明 人未二之知一也歟、
p.0297 發燭つけぎ〈ゆわうぎ〉 東國にて、つけぎといふ、關西にて、ゆわうと云、越後にて、つけだけと云、土佐にて、つけぎと云、又つけだきと云、
今按に、關西にてゆわうといふは、ゆわうぎの下略成べし、又外より重の物にもあれ、何にもあれ贈り來る器の内へ、うつりに紙或はつけ木を入て返す事有、硫黃又いわう共いひ侍れば、祝ふといえる心にて、つけぎを入る事ならん、又東國にて、うつりといへる物を、土佐の國などにては、其器に入て返ス物の名をば、とめといふ、又越後にてつけ竹といふは、むかし竹を薄くへぎて、今のつけぎの如く用ひたるとそ、土佐のつけだき、つけだけ成べし、
p.0297 發燭、職人盡に硫黃箒賣めり、燭奴(ツケギ)とはゝきとを賣ものなり、古へはいわうとのみいへりと見ゆ、これは木も竹もあるべし、宗因が俳諧に、たばこのむかと火打つけ竹さびしさは同じ借屋のとなりどの、と云句あり、寬文六年の作なり、その頃は竹を用ひしかば、ごれをつけ竹といへり、
p.0297 いつの時にかありけん、材木のつひえをいとひ、のりものゝ槓ほそまりしとき、むかしはさゝら竹に、硫黃をつけ、これをつけたけといひしに、今の世ひの木を用ふるいかゞなりと、こざかしき人のいへるにより、さらばとて、つけ竹にあらたまりけれど、ほどなくやみてけり、小事にこゝろをもちふるもをかし、またはなしのみきゝて、いまだこゝろみざる事を、みだりにいひもちふるもうらめし、
p.0297 硫黃 凡檜木長五寸許、割レ之爲二小片一、塗二硫黃少許於其端末一、點二火於其末一、著二薪柴一、是謂二硫黃木一、稻荷社前幷伏見墨染人家所レ造爲レ宜、則中華所レ謂引光奴也、上賀茂神惡二硫黃一、故以二燧石一鑽レ火點二之藁一、
p.0298 燈火 附燈花燭火、保久知(ホクチ)火、
集解、〈○中略〉著木者用二栢木一作レ片令二極薄一、片端塗二抹水煉硫黃一、而晒乾移レ火、
p.0298 江戸ニ在テ京坂ニ無キ陌上ノ賈人、〈○中略〉附木賣、
金石ヨリ火ヲ出シ、火口ニ傳へ、再亦コレヲ附木ニ傳フ、則チ薄キ板頭ニ、硫黃ヲ粘シタル物ナリ、詞ニ大坂附木ト云、而モ大坂ト同製ニ非ズ、彼地ノ製ヨリハ柿幅廣ク、長サハ五六寸也、因云、江戸ニテ是ヲツケギト云、京坂ニテイヲント云、硫黃木ノ略歟訛歟、蓋七十一番歌合ニモ、ユワウウリアリ、帚ヲ兼賣ル、詞曰、ユヲウホウキ〳〵、然ラバ京坂ハ昔ヨリツケギト云ズ、ユワウト云シ也、
p.0298 元祿三午年正月
一木之附木、當午春ゟ商賣不レ仕、麻がらの類ニ而拵、商賣可レ仕旨、去年被二仰付一候通、彌木之附木一切商賣仕間敷候、若相背商賣仕候はゞ御捕被レ成、急度可レ被二仰付一候間、此旨堅相守、少も違背仕間敷候、以上、
正月
p.0298 付木をたち賣にする
p.0298 万松、大坂でも引越のときは、近處へ蕎麥を配リヤスかね、鶴人、イへ〳〵江戸は蕎麥をくばりやすが、大坂では附木を一把ヅヽ賦りヤス、大坂の附木は七八分位の巾に皆な切て束て厶リヤス、それを一把くばる人もあり、二把くばる者もありヤス、
p.0298 大和 付硫黃(ツケイワウ) 和泉 付硫黃(ツケイワウ)
p.0298 金銀竹木土石
硫黃木 稻荷社の前 伏見墨染ノ邊
p.0298 江府名産〈幷近在近國〉 馬喰町付木 〈上方にていわうと云〉 此邊に此職多し