p.0477 䒾〈未乃〉 蓑〈未乃〉
p.0477 蓑 説文云蓑、〈蘇禾反、和名美能、〉雨衣也、
p.0477 蓑〈上茨ミノ〉 䒾〈ア井アラミノ〉
p.0477 蓑〈ミノ御雨草衣也〉 䒾〈同俗用レ之〉
p.0477 蓑(ミノ)〈雨衣也、日本俗作レ簑也、〉
p.0477 蓑(ミノ)〈説文、草雨衣也、〉
p.0477 みの 蓑をよめり、身荷の義成べし、詩にも何レ蓑何レ笠と見えたり、
p.0477 一書曰、〈○中略〉旣而諸神嘖二素戔嗚尊一曰、汝所行甚無賴、故不レ可レ住二於天上一、亦不レ可レ居二於葦原中國一、宜急適二於底根之國一、乃共逐降去、于レ時霖也、素戔嗚尊結二束靑草一以爲二笠蓑(○)一、而乞二宿於衆神一、衆神曰、汝是躬行濁惡而見二逐謫一者、如何乞二宿於我一、遂同距之、是以風雨雖レ甚、不レ得二留休一、而辛苦降矣、自レ爾以來世諱下著二笠蓑一以入中他人屋内上、叉諱下負二靑草一以入中他人家内上、有レ犯レ此者、必債二解除一、此太古之遺法也、
p.0477 蓑(みの) 衰〈本字、後人加レ艸作レ蓑、〉 和名美能
按、蓑雨衣也、用レ茅打柔編爲レ之、漁人行人以禦レ雨、或以レ藁爲二密薦一、上施レ菅作レ之、農人爲二雨衣一、
p.0477 蓑 蓑ハ古來ヨリ有ナリ、〈○中略〉蓑ノ上品ハ加賀ヲ第一トス、表へ糸ノアミヲハリ、風吹ニ著 テ、ミノケ吹チラズ、
p.0478 尾張國天平六年正税帳〈○中略〉
田䒾(○○)壹伯領 直稻伍拾束〈領別五把〉
p.0478 金津溝江之館一揆等攻ル事
同〈○天正二年〉二月十日、河北一揆蜂起シ、思々ノ出立キラ〳〵敷クハ无ケレ共、珍敷コソ見エニケレ、里方ノ一揆ハ、藥鑵小鍋ヲ胄トシ、田蓑ヲ鎧ト引張テ、疲タル馬ニ荷鞍ヲ置、〈○下略〉
p.0478 三年一請雜物〈○中略〉
䒾百十四領、帖笠九十八枚、〈馬䒾(○○)十六領、駕女料、螻䒾(○○)九十八領、帖笠九十八枚、奧長已下料、請二内藏寮一、〉
p.0478 諸國年料供進〈○中略〉
檳榔馬簑六十領、同螻蓑百廿領、
p.0478 年料所レ請、馬蓑十領、藺笠十枚、〈並官人料〉登美蓑(○○○)八領、
p.0478 寮家年料〈○中略〉
等美(トミ)蓑廿五領
p.0478 腰といふ言の付るは、腰ざし、腰䒾(○○)などあり、其腰䒾の狀は、西行物語の畫、十二類の畫卷、また福富雙紙の畫などの中に見えたり、今獵師の著る物と同じくて、大方腰のほどにのみまとひ著たり、
p.0478 引出る畫は西行物語の中なるにて、其が腰に著たるは腰䒾なり、鷺の事に䒾毛といふも、其が腰にかゝる狀の毛あるを云なり、是を腰䒾と云は、腰のほどにのみ著る裳を分て稱ふ時に、腰裳と云と同じ、腰裳は常の裳にくらぶれば、下の方ならず、腰䒾は下は常の䒾に近くして、上の方無し、されど著る程の同じければ、名の樣自ら同じきが如し、〈○中略〉さて今は漁獵 の人などのみ腰䒾を著れど、昔は然はあらざりしなり、猿曳なども是を著たるものなり、三十二番職人盡歌合の畫などに見えたり、其狀こゝに引が如し、今網打の著る腰䒾には、上の方腹にかかれるもあれど、此畫なる腹の所に在て、頸よりかけたる物は、其䒾の上の方とも見えず、是は猿を舞はす時の具なり、
p.0479 予行路之次、步道之間、徑邊途傍有二一女人一、〈○中略〉肩破衣懸レ胸、頸壞蓑纒(○○)レ腰(○)、〈○下略〉
p.0479 第十八凡下一生三昧之事
春秋冬ニ至テモ更ニ心ニ隙アラバ貧モ无カルベシ、隙ナクバ口ニモ常ニ可レ有レ貧、腰刀ヲバ置テ鎌ヲサシ、弓ヲバ捨テ鍬ヲカタゲ、烏帽子ヲヌギテ藤ノアミ笠ヲ著ヨ、袴ヲヌギテ腰簔ヲシ、色アル衣裳ヲ好マズシテ、淺黃染ノ太布ヲ膝ヲ限テキヨ、
p.0479 一於二武具一、〈○中略〉小者裝束者、〈○中略〉紙子紙絹腰䒾、〈蓑○下略〉
p.0479 二月〈○天正九年〉廿八日、五畿内隣國之大名小名御家人を被二召寄一、駿馬を集二於天下一被レ成二御馬揃一、〈○中略〉御丙府之御裝束、〈○中略〉御腰簔白熊、〈○中略〉然者隣國之群集晴がましきに付て、〈○中略〉面々の衣裝、下には過半紅梅紅筋、上著は薄繪唐縫物金襴唐綾、狂文之小袖側次袴同前、各腰簔付られたり、或きんへい、或紅の糸縫物を切さきにして付られたるも有、
p.0479 正月〈○天正十年〉十五日、御爆竹、江州衆へ被二仰付一、御人數次第、〈○中略〉
四番 信長公かる〴〵とめされたる御裝束、京染之御小袖御頭巾、御笠少上へ長く四角也、御腰簔白熊、〈○下略〉
p.0479 廿三日〈○慶長三年九月、中略、〉日を忘れ候が、石田治部少輔を捕來る由、田中兵部少輔に被二仰付一、近江國北の郡を、草を分候如く尋候へ共、在處知れず、或夜兵部少輔宿所の前を、夜に入一人通申候、番ノ者何ものぞと改候へば、臺所に水汲と答らるゝの由、水汲にても何者にても通し候事 有間敷と、番の者寄合捕候へば、折ふし小雨降、暗き闇の夜なり、捕候て火を點し見候得ば、治部少なり、出立は綾の茶の小袖に裏は淺黃、笠を被り、腰簔をして端折れ候、
p.0480 冬
初しぐれ猿も小蓑(○○)をほしげ也
p.0480 越前 蓑(ミノ)
p.0480 製造 蓑〈小松村出〉
p.0480 製造 蓑〈廣野村造〉
p.0480 内侍召繼四人料、絹六疋、〈冬料各一疋、夏料各三丈、〉貲布四端、〈各一端、夏料、〉䒾四領、〈各一領〉笠四蓋、〈各一蓋〉
p.0480 凡供二奉行幸一駕輿丁者、駕別廿二人、〈○中略〉惚廿二具、〈○中略〉有二損破一申レ官請換、但笠蓑請二内藏寮一、
p.0480 雷鳴陣〈○中略〉
鈴守近衞各一人、立二長樂門橋西庭一、兵衞官人以下、陣二南殿前一、〈○註略〉但尉已上候二殿上一之者、帶二弓箭一候二御後一、〈衞門如レ此、近衞將監雖二昇殿一侍中之者、著二䒾笠一立二庭中一、〉
p.0480 戊午年九月戊辰、天皇旣以二夢辭一爲二吉兆一、及レ聞二弟猾之言一、宜喜二於懷一、乃椎根津彦著二弊衣服及蓑笠一爲二老人貌一、又使三弟猾被レ箕爲二老嫗貌一而勅之曰、宜汝二人到二天香山一潛取二其巓土一而可二來旋一矣、基業成否、當以レ汝爲レ占、努力愼焉
p.0480 宗俊の大納言、御母は宇治大納言隆國のむすめ也、管絃の道すぐれておはしましける、時光といふ笙の笛吹にならひ給けるに、大食調の入調をいま〳〵とて、年へて敎へ申さざりける程に、あめ限りなく降て、くらやみしげかりける夜出來て、今宵かの物おしへ奉らんと申ければ、よろこびてとくとの給けるを、殿のうちにてはおのづから聞人も侍らん、大極殿へ渡 らせ給へと云ければ、更に牛など取よせておはしけるに、御ともには人侍らで有なん、時光一人とて、みのかさきてなん有ける、大極殿におはしたるに、猶おぼつかなく侍りとて、つぎまつ取てさらに火ともしてみければ、柱にみのきたる者の立添たる有けり、かれは誰ぞと問ければ、武能と名のりければ、さればとて其夜はおしへ申さで、歸りにけりと申人も有き、
p.0481 丹後國成合觀音靈驗語第四
今昔、丹後國ニ成合ト云フ山寺有リ、觀音ノ驗シ給フ所也、其ノ寺ヲ成合ト云故ヲ尋ヌレバ、昔シ佛道ヲ修行スル貧キ僧有テ、其寺ニ籠テ行ケル間ニ、其ノ寺高キ山ニシテ、其ノ國ノ中ニモ雪高ク降リ、風嶮ク吹ク、而ルニ冬ノ間ニテ雪高ク降リテ人不レ通ズ、而ル間此ノ僧粮絶テ日來ヲ經ルニ、物ヲ不レ食ズシテ可レ死シ、雪高クシテ里ニ出テ乞食スルニモ不レ能ズ、亦草木ノ可レ食キモ无シ、暫クコソ念ジテモ居タレ、旣ニ十日許ニモ成ヌレバ、力无クシテ可二起上一キ心地セズ、然レバ堂ノ辰巳ノ角ニ蓑ノ破タル敷テ臥タリ、〈○下略〉
p.0481 是も今はむかし、下野武正といふ舍人は、法性寺殿〈○藤原忠通〉に候けり、あるおり大風大雨ふりて、京中の家みなこぼれやぶれけるに、殿下近衞殿におはしましけるに、南面の方にのゝしるものゝ聲しけり、誰ならんとおぼしめして見せ給に、武正あかかうのかみしもに、蓑笠をきて、みのゝうへに繩を帶にして、ひがさのうへを、又おとがひに繩にてからげつけて、かせ杖をつきて走まはりておこなふなりけり、大かたそのすがたおびたゞしくにるべき物なし、殿南おもてへ出て、御簾より御覽ずるに、あさましくおぼしめして、御馬をなんたびける、
p.0481 粟田左大臣在衡は、〈○中略〉朝夕の恪勤餘人に勝たり、風雨おぼろげならぬ日ありけり、左衞門陣の吉上云く、たとひ在衡なり共、今日は參がたしと、ことばいまだ不レ終に、ありひら蓑をき、深沓をはきて參られたりけり、時の人感じのゝしりけり、〈○又見二古事談、續古事談一、〉
p.0482 正治三年〈○建仁元年〉十月二日己卯、入レ夜觀淸法眼、潛参二江馬太郎殿館一、申云、〈○中略〉亭主仰云、〈○中略〉但有二急事一、明曉欲レ下二向北條一、兼令二門出一畢、就二今吿一非二構出一、稱レ耻二貴房推察一、召二出旅具〈至二蓑笠等一、悉在二此中一〉等一、令レ見給云云、
p.0482 越前府軍幷金崎後攻事
正月〈○延元二年〉七日椀飯事終テ、同十一日雪晴風止テ、天氣少シ長閑ナリケレバ、里見伊賀守ヲ大將トシテ、義治五千餘人ヲ金崎ノ後攻ノ爲ニ、敦賀へ被二差向一、其勢皆吹雪ノ用意ヲシテ、物具ノ上ニ蓑笠ヲ著、蹈組(フグツ)ノ上ニ橇(ガンジキ)ヲ履テ、山路八里ガ間ノ雪蹈分テ、其日葉原迄デ寄タリケル、
p.0482 公方樣御成の樣體の事
一雨ふり候時、御こしにゆたんかけられ候事は、公方樣御輿には見及不レ申候、御旅にて一段雨降風吹候へば、懸られ候由候、さ候へば御供衆も蓑をめし候、
p.0482 一揆與二大將一合戰之事
一揆ドモ是ヲ見テ、彼討テ此討テト、聲々ニ喚リケレドモ、一堪モ不レ堪、後陣ヨリ颯ト崩レケル程ニ、若林ガ勢勝ニノリ、四方八面ニ追散ス處ニ、〈○中略〉討漏レタル者共モ家ヲ燒レ、蓑笠モ不レ著シテ、雪ノ降ルトモ不レ言シテ、徘徊スル形勢哀也ケル次第ナリ、
p.0482 秀忠公之略傳
或本、秀忠公の御母儀西郷局の父服部平大夫は、本伊勢國の者也、明智光秀叛逆の時、家康公は泉州堺の今井宗薫が方へ御茶に入て御座しけるを、平大夫馳著、委細を吿奉りければ大に驚給、御評定の上、堺を御立有て、伊賀越に三州へ歸らせ給ふ、間道を御忍の事なれば、平大夫蓑と笠を奉れり、夫ゟ平大夫を蓑笠之介と云べしと被レ仰、常に奉仕せり、
p.0482 藉田の古法に倣て、城南の郊に一町餘の田地を御手作場と定られ、君〈○上杉治憲〉宗廟 へ參拜し給ひて、夫より彼所に至り、禮服にて田に入給ひて、三鋤すき給ふ、諸大臣以下一同に是をすく、秋に至て此米を祖廟に備へられ、諸臣に神酒を賜はる、彼田地は佐藤文四郎願の趣に依て預られ、君の代として自耕作す、其實入殊〓宜し、〈○中略〉人々蓑笠にて鋤鍬を持て山野に趣き、〈○下略〉
p.0483 江戸風俗の事 服飾之部
諸役人〈万石以上以下小身之旗本○中略〉
天明の末、節儉の令一たび出て、忽服飾を變じ、〈○中略〉網代の笠をかぶり、合羽はさいみ木綿などにて造り著るもあり、一きわ當世めきたるは、蓑を著て御城内を行かふさま、いといかめしく見ゆ、
p.0483 寬政八辰年十二月、勢州津堀川町福田氏手紙寫、〈○中略〉
爰に二三ケ國を領し給ふ御大家の領主あり、近年御領下困窮に付、〈○中略〉又々工夫をいたし、十八万之内にて、別て困窮之在所三拾貳ケ村へ、地平均申付候まゝ、是は其村之惚高を御上へ不レ殘召上られ、百姓貧福を不レ分甲乙なしに平し、田畑割合に作らせらるゝ趣被二仰出一候處、甚以百姓方上下とも歸服不レ仕、依レ之大庄やを以て願出といへども、御聞濟なく日を送り候處、頃は極月廿六日夜、南之方七八里山中より出たりと見へて、百姓數多蓑笠にて、竹鑓やうの物を持、御城下近き南之山にてかゞり火を燒、近郷之村々同心し、出よ〳〵と呼はり廻り、若出ずんば、村端より火を付燒拂はんと、のゝしり步く故、無二是非一蓑笠著し、一統に出來りしかば、人數は時之間雲霞の如く集り、〈○中略〉
落首〈○中略〉 身の上としらで寄くる蓑かぶりみのきてかへれじやくは西なり
p.0483 一職掌雜任卌三人〈○中略〉
御笠縫丙人無位郡乙淨麻呂 右人卜食定補任之日、後家祓淸齋愼供二奉職掌一、御笠廿二蓋、御䒾(○)廿領忌敬供奉、具顯二月記條一、〈○中略〉
一年中行事幷月記事〈○中略〉
四月例〈○中略〉
同日〈○十四日〉以二御笠縫内人一造奉御䒾廿二領、御笠廿二蓋、卽散用太神宮三具、荒祭宮一具、大奈保見神社一具、伊加津知神社一具、風神社一具、瀧祭社一具、月讀宮五具、小朝熊社二具、伊雜宮一具、瀧原宮二具、園相社一具、鴨社一具、田邊社一具、蚊屋社一具、
p.0484 一職掌禰宜内人物忌事〈○中略〉
御笠縫内人無位石部宇麻呂
右人行事卜定任日、後家雜罪事祓淨〈氐〉太神〈乃〉御笠御蓑(○)、高宮御笠御蓑幷所管神社廿四所神御笠御蓑〈乎〉作儲〈氐〉、毎年四月十四日奉レ進、又三節祭雜行事他内人共供奉、又以二十箇日一爲二一番一宮守護宿直仕奉、〈○中略〉
一三節祭等幷年中行事月記事〈○中略〉
四月例〈○中略〉
以二十四日一御笠縫内人作レ奉〈禮留〉御笠御蓑進奉如太神宮高宮、次諸所管神社廿四處奉レ進、
p.0484 蓑 蓑ハ古來ヨリ有ナリ、歌ニ雨ニヨリタミノヽ島ト詠リ、又大名ニミノ箱(○○○)アリ、然バ陣中 ハ、ミノヲ用ト見エタリ、
p.0484 合羽 〈桐油〉
合羽は中古のもの也、上古は蓑を用ゆ、軍用には猶蓑也、今蓑箱といふあり、蓑を納る具也、
p.0484 延享四卯年正月 先挾箱爲レ持候儀、古來より爲レ持來候分者、只今迄之通たるべく候、
一古來より先挾箱爲レ持候得共致二中絶一、近來爲レ持候面々者、向後先挾箱可レ爲二無用一候、勿論近來新規爲レ持候面々は、猶以先挾箱可レ爲二無用一候、
但シ古來ゟ先挾箱爲レ持跡にも、蓑箱之外挾箱爲レ持候面々も、是又只今迄之通たるべく候、古來ゟ先挾箱計爲レ持候處、近來跡にも蓑箱之外挾箱爲レ持候分者、向後跡爲レ持候挾箱可レ爲二無用一候、
右之通可レ被二相觸一候
正月
p.0485 國持之面々〈○中略〉
一周防長門二〈ケ〉國主〈○中略〉 松平大膳大夫
長刀褄折立傘打揚腰黑乘物、挾箱革懸リ、内ハ金紋也、蓑箱金紋、虎皮鞍覆懸也、
p.0485 安政二年八月九日、御役替、〈御留守居〉跡部甲斐守、土岐丹波守、右兩人、大目付〈江〉轉役被二仰付一之、〈(中略)私に云、大目付ニ而蓑箱爲レ持候事之始也、〉
p.0485 物ノ心有人計リ目ヲ覺シツヽ、世中ノ事ドモコシカタ又行末マデ申イデ侍程ニ、餘リニ物ヲ云ハヤリテ、抑人ノ身ニ何ガ第一ノ寶ニテ有ケル、寶ニ何ガ第一ニテ有ラント聞居タル程ニ、傍ヨリ指出デ、人ノ身ニハ隱蓑(○○)卜云物コソ能寶ニテ有ベケレ、食物表物ホシキト思ハヾ、心ニ任セテ取テンズ、人ノ隱テ云ハン事ヲモキヽ、又床シカラン人ノ隱ンヲモ見テンズ、サレバ是程ノ寶ヤハ有ベキト云ケレバ、又ソバナル物ノ闇リヨリ云樣、物ヲ願ハンニハ、爭カ人ノ物ヲ取ントハ申スべキ、〈○中略〉サレバ人ノ寶ニハ打出ノ小槌ト云物コソ能寶ニテ侍リケレ〈○中略〉ト云ニ、又人ソバヨリ指出テ云樣ハ、〈○中略〉昔ヨリ隱蓑打出ノ小槌ヲ持タルト云人モ實(マコト)ハナシ、隱蓑ノ少 將ト申ス物語モ、有增敷事ヲ作テ侍ルトコソ承ハレ、サレバ寶ニハ何ヨリモ金ト云者ニハ不レ勝ト云メリ、〈○下略〉
p.0486 しのびたる人のもとにつかはしける 平公誠
かくれみの(○○○○○)かくれ笠をもえてしがなきたりと人にしられざるべく
p.0486 ならに濟圓僧都と聞えし名僧の公請にさはり申ければ、京の宿房こぼちけるに、山に忠胤僧都と聞えしとたはぶれがたきにて、みめろむして、もろともにわれこそおになどいひつゝ、歌よみかはしけるに、忠いんこれを聞て、濟圓がりいひつかはしける、
まことにや君がつかやをこぼつなるよにはまされるこゝめありけり
かへし
やぶられてたちしのぶべき方、ぞなき君をぞたのむかくれみの(○○○○○)かせ、とぞきこえ侍ける、
p.0486 爲朝鬼島渡事幷最後事
去程ニ永萬元年三月ニ、礒ニ出テ遊ケルニ、白鷺靑鷺二連テ沖ノ方へ飛行ヲ見テ、鷲ダニ一羽ニ千里ラ飛ト云フニ、況鷺ハ一二里ニハヨモ過ジ、此鳥ノ飛樣ハ定メテ島ゾ有ラン、追テ見ント云儘ニ、ハヤ舟ニ乘テハセテ行ニ、〈○中略〉島ノ名ヲ問給ヘバ、鬼ガ島ト申ス、然レバ汝等ハ鬼ノ子孫カ、サン候、扨ハ聞フル寶アラバ取出セヨ、見ント宣ヘバ、昔正シク鬼神ナリシ時ハ、隱蓑(○○)隱笠、浮履劒ナド云寶有ケリ、
p.0486 一御私領之百姓名主等、有時信綱公御前へ罷出候時分、被二仰出一候は、昔より申傳候、蓬萊之島成、鬼之持たる寶は、かくれ蓑、かくれ笠、打出の小槌、延命小袋と、申事有レ之候わけを存知候哉と御尋被レ成候へば、その詞は承傳候へども、其わけは不レ存候由申上候、扨は秘事にて候へ共、御相傳可レ被レ成とて、縱ば雨降候時など、諸人農業に不レ出時節、近隣之者にもかくれ、蓑笠を著し、田畠耕事 也、打出之小槌とは鍬也、〈○下略〉
p.0487 桃太郎
童話に昔老夫婦ありけり、夫は薪を山に折、婦は流に沿て衣を浣ふに、桃實一ツ流れて來つ、携かへりて夫に示すに、その桃おのづから破て、中に男兒ありけり、この老夫婦原來子なし、この桃の中なる兒を見て喜て、これを養育(ハグヽ)み、その名を桃太郎と呼ぶ程に、〈○註略〉その兒忽地大きになりつつ、膂力人に勝れて一郷に敵なし、一日その母に、黍團子といふもの夥とゝのへて給はれといふ、母その故を問ば、鬼ガ島に趣きて寶を得ん爲也と答ふ、父聞ていと勇と譽て、そのいふまゝにす、〈○中略〉遂に鬼〈ガ〉島に至り、その窟を責て、鬼王を擒にす、鬼どもその敵しがたきを見て、三ツの寶物隱蓑(○○)、隱笠、打出ノ小槌を獻りて、主の命乞せり、斯て桃太郎その寶を受て鬼王を放し、犬猿雉を將て故郷に歸り、思ふまゝに富さかへて、父母を安樂に養ひしといふ、
p.0487 かくれみの 信實朝臣
きまほしきよのうき時のかくれみのなにかは山のおくもゆかしき
衣笠内大臣
かくれみのうき名をかくすかたもなし心におにをつくる身なれど
p.0487 小倉の家にすみ侍けるころ、雨のふりける日、みのかる人の侍りければ、山ぶきの枝をおりてとらせて侍けり、こゝうも得でまかりすぎて又の日、山吹のこゝろもえざりしよしいひにおこせて侍りける返事に、いひつかはしける、
中務卿兼明親王〈○醍醐皇子〉
なゝへ八重花はさけども山ぶきのみのひとつだになきぞかなしき
p.0487 人のもとにみの紙をこひにつかはすとて ふる筆のかさはあれどもかみ(紙/神)な月しぐれをふせぐみの(美濃/蓑)をたまはれ
p.0488 增山井四季の詞、十二月の條に、岡見すると有て、注に堀川百首に、ことだまのおぼつかなきにをかみすと梢ながらに年をこす哉、俊賴朝臣師走の晦日の夜、高き岡にのぼりて、蓑をさかさまに著て、はるかに我宿をみれば、あくる年有べぎ吉凶の事見ゆるとなり、こと玉とは、明年の吉相をいふ也、
p.0488 彌生の中の八日、近郷より蓑を持寄りて、淺草寺の門前に商ふ、是を淺草のみのいち(○○○○)といふ、 〈遨誠舍〉沾意
蓑市や櫻曇りの染手本
○按ズルニ、蓑市ノ事ハ、産業部市場篇ニ詳ナリ、
p.0488 雨衣 唐式云、三品以上、若遇レ雨、著二雨衣氈帽一至二殿門前一、〈雨衣、和名阿萬岐沼、今案一云、油衣、隋書云、煬帝遇レ雨、左右進二油衣一是、〉
p.0488 雨衣、阿万岐奴、今案、一云、油衣、隋書云、煬帝遇レ雨、左右進二油衣一是、哀廿七年左傳、成子衣レ製、注、製、雨衣也、按、敏達紀、是日無レ雲風雨大臣被二雨衣一、又白河院幸二高野一、雨日、中宮大夫師忠、狩衣上著二雨衣一、見二顯昭古今集注一、長和三年、實資公祭二太山府君一、小雨、戯稱二雨衣一被二大褂於吉平朝臣一見二小右記一、
p.0488 嘗觀レ獵遇レ雨、左右進二油衣一、上曰、士卒皆霑濕、我獨本レ此乎、乃令二持去一、
p.0488 雨衣
事始曰、凡雨具周已有、左傳云、陳成子衣レ製仗レ戈、杜預注曰、製雨衣也、是矣、炙轂子曰、帷絹油製之及二油帽一、陳始有レ之也、溤鑑又引二左傳楚子一次二於乾谿、雨雪、王皮冠、秦復陶一、以證二雨衣一、按、虞閈父爲二周陶正一、注曰、陶復陶、白氏取爲二尚衣之職一、杜預又以二復陶一爲二油衣一、蓋若二晉武所レ焚雉頭裘、唐太平公主所レ服百 鳥毛裙、今世駝褐之類一也、不レ得レ爲二雨衣一云、
p.0489 雨衣〈アメキヌ〉
p.0489 雨衣(アマギヌ)〈今世桐油、一名油衣、並出二順和名一、〉
p.0489 あまごろもにみつあり、天衣と、雨衣と、海士衣となり、〈○中略〉あま衣たみのゝ島などつづけたるは雨衣なり、
p.0489 雨衣
敏達紀云、是日無レ雲風雨、大連被二雨衣一云々、この雨衣といふは、油衣にやあらん、〈○中略〉後撰集に、ふる雪のみのしろ衣うちきつゝ春きにけりとおどろかれぬる、とよめるは、蓑代衣の心なるべし、これも又其制つたはれるにやしらず、文永加茂祭、また年中行事の繪卷物に、手に持ちたるもの、雨衣なりといへば、その圖をこゝに載す、〈○圖略〉
p.0489 あまごろも〈○中略〉 田蓑島に屬けよめり、日本紀に被二雨衣一をあまよそひと訓ぜり、倭名抄には、あまぎぬと見えたり、油衣も同じ、隋書に見ゆ、中國四國に、雨ばおり、肥後にじうりん、伊勢にじうりといふ、時雨變成べし、
p.0489 雨衣あまぎぬ〈和名〉 江戸にてもめんがつばと云、中國四國ともにあまばをりといふ、肥後にてじうりんと云、大和にてじうりがつぱと云、伊勢にてじうりと云、 今按にじうりといひ、じうりんなど云、是は時雨凌成(じうりやう)べし、
p.0489 十四年三月丙戌、物部弓削守屋大連自詣二於寺一踞二坐胡床一、斫二倒其塔一、縱レ火燔之、幷燒三佛像與二佛殿一、旣而取二所レ燒餘佛像一令レ棄二難波堀江一、是日無レ雲風雨、大連被二雨衣(アマヨソヒセリ/○○)一、
p.0489 行幸〈○中略〉
京内〈○中略〉 五位已上於二城中一乘馬、六位於二宮城外一騎、雨降者五位已上著二市女笠、雨衣一、於二途中一雨降者、次將奉レ勅令レ載レ簦、〈○下略〉
p.0490 賀茂祭使〈○中略〉
陪從發二物音一參進、〈○中略〉次取物舍人四人、〈雨衣深沓〉 〈行騰笠〉
p.0490 朝覲〈○中略〉
乘輿出レ自二朱雀門一者、用二脇門一、
天元二年、石淸水行幸日、出御之間雨降、左大將立二軒廊南砌一、右大將立二校書殿東砌一、〈往年別所行幸還宮之間、甚雨、著二雨衣、市女笠等一、立二庭中一云々、〉
p.0490 寬治二年三月廿三日、今日石淸水臨時祭也、〈○中略〉取物舍人四人、〈○中略〉深沓、行騰、雨衣、〈紺地黃小葵錦、各懸二花枝一、〉
p.0490 仁平元年十一月十五日、〈○賀茂臨時祭〉取物裝束同二雜色一、〈武澤笠、國次雨衣、季信行騰、友貞深沓、〉
深沓如レ常、行縢、〈鹿皮如レ常〉雨衣、〈白地錦〉笠、〈張二靑唐綾一、其上若二菊花一、造二居小鳥一、造二洛石一著二帽額一、〉
p.0490 仁安二年四月廿七日甲午、今日齋院御禊也、〈○中略〉次雜色六人、〈白張〉次取物四人、〈槿浅黃雨衣、熊皮騰、淺沓、菅笠、〉
p.0490 治承二年十月晦日己未、此日右中將良通爲二春日祭使一發向、〈○中略〉
取物具 雨衣 行騰 深沓 笠 〈付二舍人一〉
p.0490 治承四年四月一日癸未、今日賀茂初齋院〈○高倉皇女範子〉禊二東河一可レ入二御紫野院一定事、 七日己丑、〈○中略〉可レ被レ出二禊祭兩日一童女騎馬四匹事、
新中將朝臣 内藏頭朝臣 但馬頭朝臣 權右中辨朝臣 陪從各二人、口付各二人、 可レ副二菅笠、雨衣、深沓一、
p.0491 紙羽(カツパ)〈又作二合羽一、今世雨衣、桐油也、〉
p.0491 かつぱ 紙羽の義なりといへれど、或は哈叭と書て、もと南蠻人の路服、塵汚をよくる上(ウハ)衣也、此方の雨衣、其制に傚ふをもてよべる也といへり、
p.0491 ヲランド〈又云二ヲラシデヤ一○中略〉
和蘭、本北海小道名、其先入爾馬泥亞人也、〈○中略〉又披二皂縵如一レ帊爲二莊服一、猶三浮屠著二僧伽黎一也、〈笠云二フウト一、上衣云二マントル一、波爾杜瓦爾呼爲二カソパ一、此方雨衣、蓋倣二其製一也、〉
○按ズルニ、カツパハ、葡萄牙語及ビ西班牙語ノcapaヨリ出タルナラン、
p.0491 紙にて製せし雨衣を合羽と云は、波爾杜瓦樂國の莊服に、カノハ(○○○)と云ものあり、本朝の服折(はをり)のごとし、このカノハの轉語なるべしといへり、十里合羽半茶合羽(じうりかつぱはんちやかつぱ)などいへるもの、みな似たる類なればにや、
p.0491 賢按、かつぱといふは、今云丸がつぱの事にて、俗坊主がつぱともいふ、元來紙がつぱの事也、今世の木綿合羽の製は、昔は無きもの也、是も寬文延寶の頃、旅行の寒をふせぎの爲に出來たるもの故、十里よりゆく旅行には著する事を禁ず、依て三方邊にては、爾今木綿合羽の事をば十里といふ也、今は皆その元を知らざるよりして、雨中には御免なされといふて座敷内まで著する事になりたり、是は有間敷事となん、
p.0491 一雨衣ニ上古ハ貴賤ともに蓑を著たり、近世に至てカツパといふ物を著す、〈○中略〉和蘭人の上衣にするもの、此方の坊主ガツパの如く也、和蘭詞にてはマントルと云、ボルトガルの詞にてはカツパと云也、其カツパと云物を似せ作りて、此方にて雨衣に用ゆ、是をカツパと名付るなり、
p.0491 一合羽と云ふ物、古はなき物也、合羽は近代の物也、いにしへは侍も蓑を著しける 也、條々聞書に、御供の衆もみのをめし候とあり、かつぱと云ふ詞は、阿蘭陀の詞也、阿蘭陀の人の上に著る衣服にかつぱと云ふ物あり、その形をまねて作りたるを坊主合羽と云、始は是れをかつぱと云ひしが、後に袖を付けたる合羽を作り出して、始のをばぼうづがつぱと云也、
p.0492 合羽といふ物は、古代なきものなか、昔は蓑を著たりと云は、一わたりの説なり、古へその物なきにあらず、〈○中略〉今の合羽は、慶長の頃、紅毛人の衣服、袖もなく、裾ひろきカツパといへる物を學びて、紙にて作り、油ひきて、カツパと名付く、今の坊主合羽といふ物なり、其後また油をひき、袖を付たる紙カツパ出來て、又木綿羅紗等の合羽は出來るなりと、四季草にいへるは誤りなり、木綿等のカツパは、もと道服より起る、古晝に、今の水綿合羽の如きものを著たるかたあり、是道服なり、後これを雨羽織ともいへり、〈○中略〉然るを其服蠻人のカツパに似たれば、是をもカツパと呼て、雨はふりの名は隱れたるにや、紙にて作れる袖なきは、元よりカツパと云しものにて後の物なり、紅毛の國の書をよむ人に聞しに、カツパはボルトガルの詞にて、紅毛には是をヤスといふ、ホルトガルは爰に通信したることはやく、和蘭の來らざる前にありしかば、其國の詞今に遺りたるが多し、ボタンがけのボタンといふ物も、彼カツパに付たるビユタンといひし物を、訛りてボタンといふなり、是もホルトガル詞なりとぞ、〈東雅にボタンとは、西洋拂郎機國の方言の轗じたる也といへるは非なり、〉
p.0492 合羽
按に、采覽異言曰、喎蘭地篇云、又披二皂縵如一レ帊爲二莊服一、猶三浮屠著二僧伽黎一、〈笠ヲ云二フウト一、上衣云二マントルト一、波爾杜瓦爾呼爲二カツパ一、此間雨衣蓋傚二此制一也、〉鈐錄曰、合羽〈雨具也〉ト云コトハ、元來阿蘭陀詞ニテ、阿蘭人ノ衣服ヲ云、雨具ヲカツパノ如ク拵タルユへ、カツパト云、安齋隨筆赤鳥卷曰、今世バウズガツパト云モノ其始也云々、合羽ト書ハアテ字也など、くさ〴〵見えて、蠻語なるやうなれどさにはあらず、再按に、節用集大全卷の二、加の部曰、紙羽(カツハ)註云、雨衣也、卽紙羽織之略語、例如下略二紙小袖一而言中紙小上、とあるにて思へば、毛吹草 四の卷曰、春のけふきたり霞の雨ばをり、因果物語卷の二曰、武州神奈川の宿にある旅人、宿をか与て、朝とく立出るとて、雨のふりければ、亭主の雨ばをりをぬすみきて出んとするに、何ものともしれず、それは掌主の雨羽織なり、とあるを以て、思ひあはすれば、むかしは布の羽織に、油を引て雨衣とせしものと見ゆ、そを後に紙にてこしらへたる故に、紙羽織といへるを省きて、かつぱど音便にていへるなるべし、〈物類稱呼卷の四曰、雨衣、江戸にて、もめんかつばといふ、中國四國ともに、あまばをりといふ、〉また大和志卷の四、平群郡土産の部に、雨衣〈能用二村紙一製、俗曰二合羽一、〉など見ゆれば、後には紙にてこしらへそめしこと、いよ〳〵しられたり、
p.0493 寶永七寅年五月
覺
一御成之節雨降候はゞ、御供之面々、かさ合羽御免之事、
一、雨降候節は、御成先勤番之面々組共に、かさ合羽是又御免之事、
一御道筋勤番同斷之事
右之通、雨降候節は、難儀可レ仕と被二思召一候ニ付、御免被レ遊候間、向後著用可レ仕候、已上、
五月
享保十六亥年五月
一公方樣、大納言樣、御城中御成之節雨降候はゞ、御供之面々、傘合羽被レ遊二御免一候、向後著用可レ仕候、但紅葉山御參詣之節ハ、只今迄之通たるべく候、
右之通可レ被二相觸一候
五月
p.0493 正保五子年二月 一らしやの合羽、著し申間敷事、
二月
p.0494 合羽、〈○中略〉自二柳馬場二條一至二四條一、家々製レ之、其造レ之法、以レ糊綴レ紙、後傅二桐油一數遍、天晴則毎日、北方自二荒神河原一南至二五條河原一、乾レ之而無二隙地一、其製造之多也可二推而知一レ之也、又有二以レ絹製レ之者一、
p.0494 襏襫(あまころも/かつは)〈鉢釋〉 製〈音制〉雨衣 阿末古呂毛 此云合羽 字義未レ詳
按、雨衣卽合羽(カツハ)也、用二羅紗、羅世板、襪褐(トロメン)之類一更佳、朝鮮油布次レ之、
p.0494 寸尺幷字類〈○中略〉
また合羽は〈毡衣(カツパ)〉紙、絹さらしにてひとへに製し、油をひきたる、是を雨油衣(あまがつは)といふ、又木綿小倉の類を、紺、びんらうじにし、麻うらなどをつけ、衿、鎖袱(コハゼ)の座のしやうそくを細毛布(ぴろふど)、羅紗にて風流に製し、雨天の時、路次にて小袖をぬらすまじきために著用する也、これをもめん合羽といふ、遠路の雨の用心にはならず、漸一日路、道十里ばかりをゆかん時の雨具には成もやせん、はや二日路には不用也とて、是を十里合羽ともいふとぞ、
p.0494 合羽
合羽は、阿蘭陀より長崎へ商ひにくる蘭人の衣服に、袖もなく裳廣き物有、彼國人是をカツパといふ、慶長二年、初て此形をうつし、紙にて張、油をひきて、雨をしのぐ具とせり、今の坊主がつぱ是なり、後に袖をも付、羅紗木綿などにても拵へたり、蘭語故にあて字を書り、
p.0494 江戸風俗の事 服飾之部
諸役人〈万石以上以下小身之旗本〉
安永天明の初のころは、〈○中略〉白紐のすげ笠、黑き琥珀にて作れる合羽など皆人著せしなり、〈○中略〉天明の末、節儉の令一たび出て、忽服飾を變じ、〈○中略〉網代の笠をかぶり、合羽はさいみ木綿などに て造り著るもあり、
p.0495 油桐(あぶらぎり) あぶらみといふ是なり、〈○中略〉志賀郡松本村の山に多油桐を種て油をとる、是を荏桐とも罌子桐とも云者なり、〈○中略〉雨衣にぬりて無類なり、今桐油かつはといへば、荏の油にてつくれども、元此油にて制する者ゆへ桐油の名あり、
p.0495 合羽〈○中略〉
襟黑らしや、らせいた、とろめん、八丈等種々、色黑ヲ專トスレドモ、紺モアリ、茶モアリ、今ハ江戸黑八丈絹ヲ專トシ、或ハ革色木綿モ專用ス、合羽裝束ハ比日麁ナルヲ流布トスルニ似タリ、
長合羽半合羽トモニ、武家用ニハ黑或ハ萌木羅紗等アリ、市民ニモ稀ニ用レ之、紺モアリ、其他色ノ羅紗製ハ稀也、
木綿ニハ黑、紺、縹、淺葱、御納戸、茶、鐵、納戸茶、革色等ヲ專トシ、或ハ澀染ノカキツト云モアリ、常ノ木綿ヲモ用ヒ、又眞岡木綿ヲ良トス、〈○中略〉又男子ニ稀ニ女用ノ如キ無二裝束一下ノミ裝束紐ヲ付タルヲ用フモアリ、又大坂ノ兩替屋ノ手代、雨中ニハ襟衽トモニ全ク衣服ト同ク、淺木織毛木綿ニ黑サヤ掛半エリシテ、衣服トトモニ著シテ、此上ニ帶スル也、〈○中略〉
裝束ノ事 元文頃ヨリ、男女トモニ、牛角、鹿角、水牛角ノ具ヲ用フ、 正德頃ハ眞鍮或ハ黑目銅ヲ用フ、其後ヲ詳カニセズ、今世亦水牛角製ヲ專トス、
天保以前、三都トモ、裝束糸渦ヲ專トシ、又下ノ裝束前圖ノ如ク長紐多シ、京坂今モ用レ之、江戸ニモ往々無レ之ハ非レドモ、左圖〈○圖略〉ヲ流布トス、〈○下略〉
p.0495 山城 雨紙羽(アマカツハ/○○○)
p.0495 宿ちかくより、雨すこしづゝふり出ければ、男も樂阿彌も、しとゞにぬれてゆく、〈○中略〉道中には駄賃馬、のりかけに、雨合羽塗笠きて打過る、
p.0496 合羽 倭俗綴レ紙傅レ油爲二雨衣一、代レ蓑著レ之、是謂二合羽一、人之著レ此也、其體似三鳥之合二兩翼一、依レ之號二合羽一者乎、合羽之有二雙袖一者裳短、是謂二徒合羽(○○○)一、徒步人之所レ用也、其無レ袖者長大也、旅人馬上著レ之、以二短領一纒レ項、其下左右合レ領如レ著レ衣、其裳掩二馬背之荷包一、不レ使二雨濕侵一レ之、是謂二馬合羽(○○○)一、又稱二圓合羽(○○○)一、又武人騎レ馬時著レ之者、粗如二徒合羽一、
p.0496 合羽 〈桐油〉
合羽は、中古のもの也、上古は蓑を用ゆ、〈○中略〉合羽の元は、丸合羽を作る、〈○下略〉
p.0496 慶長ノ比ニモ、桐油合羽(○○○○)アリケルニヤ、大名供ノ末ニ合羽籠アリ、古來ハ丸合羽ノ薄桐油トミユ、元丸合羽ハ、ミノヽ略ナリ、
赤合邪、靑漆、キヌ、桐油坏、寬永比ヨリ出ル、寬永ノ比ヨリ桐油ノオホヒ出タリ、寬保ニ懷中合羽(○○○○)トテ、厚ガミ單ニテ小紋ヲ染、桐油ヲ引、細ニタヽミ、フトコロニ入ル、
p.0496 男子木綿合羽ヲ著ルコトハ、寬文ノ比、有德者ノ始ル所ナリ、元祿ヨリハ、手代ノ三人モ仕フ主人著タリ、紺木綿、襟モ、トモエリ、ウネサシアリ、裝束ハ雲才ニテ作ル、丈足ノクロ節ノ上ニ止ル、手代ナドハ、晴レニモ常ニモ木綿ヲキルユへ、木綿合羽著スニ不レ及、又目立ユへ、主人ヲハヾカリテ著ズ、寬永ゴロヨリ材木屋手代、米屋ノ手代、主人ノ名代昌出ルユへ、ヤハラカ物モ著スユへ、木綿合羽モ著タリ、夫ヨリ裝束羅紗(○○)等ニナル、主人黑サントメ(○○○○○)或ハ毛トロメン(○○○○○)、裝束黑ビロウド(○○○○○)ニカハル、丈ケモ寶永ヨリ永クナル、正德ノ末享保ノ始ヨリ武家へ出入、合羽ノ丈ケ短ク半合羽(○○○)トナル、步行武士ノ供合羽(○○○)ヲ學ブモノ也、其比〈○正德享保年間〉ヨリ合羽花イロ(○○○)、或シマ(○○)、カキノモク目(○○○○○○)、藍ミル茶(○○○○)色々物好シタリ、元文比ヨリ町人多クハ半合羽ニナル、大名ノ御供廻リハ、前々ヨリ半合羽ヲ著ス、享保ヨリ町醫者ナドノ家來、半合羽ヲ著ルコト慮外ナリ、シカシ延享迄名主町人ノ供ノ者、モメン合羽ヲ著セズ、後ハ著スルカモ不レ知、
p.0497 此頃までは、むかしの風義のこり、衣類なども、當時之樣に華美なる事もこれなく、武士方は格別、その下々は、木綿合羽を著する人はなし、町人は猶以、御旗本衆五六百千石取らるゝは、供の中小姓は、紙合羽(○○○)を著し、木綿合羽を所持せしは、家老用人ばかり也、當時は、小もの中間下女半女まで、木綿合羽を著す世界になれり、〈(中略)元正間記〉
p.0497 初泊之事
一挾箱之中〈江〉入置候品〈○中略〉 一半合羽〈○下略〉
p.0497 小買物定直段〈○中略〉
一靑漆合羽(○○○○) 〈但丈貳尺七寸六分 ゆき壹尺七寸八分 袖下壹尺四寸〉 〈壹ツニ付 六匁 文字屋孫七〉
一赤合羽(○○○) 但右同斷 〈壹ニ付 五匁壹分 同人〉
p.0497 合羽長短の事、木綿合羽、元文頃迄は、武家は紺黑の半合羽(○○○○○○)なりしが、町人は紺花色小倉織肥後木綿などの長合羽(○○○)、元文の頃、武家も長合羽になる、其後木綿のかすり織、芭蕉布、葛布、歷々は享保頃より羅紗羅脊板、寶曆の頃より黑琥珀、七々子織、黑丹後等なり、
p.0497 合羽〈○中略〉
坊主合羽(○○○○)圖〈○圖略〉 京坂ニテ引廻シ合羽ト云
此合羽ハ專ラ表紺ノ大縞或ハ紺ガスリ、木綿裏茶木綿等、蓋表裏ノ間ニ揉タル厚紙ヲ挾ミタリ、衿紋派或ハ羅紗等、又此ヲ合羽裁ニハ全幅ヲ左圖ノ如ク斜ニ裁テ、各細キ方ヲ上ニ縫也、〈○圖略〉
近世江戸人用レ之者甚稀也、京坂ノ人モ漸ク少ト雖ドモ未レ廢レ之、馬上ニテ往還スル三度飛脚ノ宰領ト云者ハ各必ズ用レ之、蓋三都トモ市中ニハ不レ用レ之、旅行ノミ用レ之、又旅中モ雨ニハ不レ用レ之、雨中ニハ桐油紙合羽ヲ用フ、此形ト同キ紙合羽ヲ袖ナシ合羽(○○○○○)、又ハ坊主合羽トモ云、因曰、袖アル桐油紙合羽ヲ豆藏合羽(○○○○)ト云、三都トモ古キ小兒ノ弄物ニ豆藏ト云モノアリ、江戸ニテ與次郎兵衞、略 テ與次郎ト云ト號ク、其形ニ似タルヲ以テ、豆藏合羽ト云、紙ニテ製レ之、兩邊ニ細キ割竹ヲツケ、其先キニ白豆ヲツケル故ニ、豆造ノ名アリ、又一串ヲ以テ足トス、是ヲ指頭ニ置クニ、兩方ノ豆ノ鎭ニテ、能立テ倒レズ、袖合羽此形ニ似タルノ名也、坊主ガツパ、袖合羽、鎧合羽(○○○)等紙合羽ハ、白或力靑漆或ハ辨柄ヌリ黑等也、又單アリ、袷アリ、武家及ビ同奴僕等ハ必ズ袖合羽ノミヲ用フ、特ニ奴僕ニハ、專ラ赤色ニ黃ヲ以テ記號ヲ描ケリ、〈○中略〉
又江戸劇場え戸邊ニ彳ミテ、行人ニ觀ヲ勸ム者、晴雨トモニ半合羽(○○○)ヲ專用ス、故ニ彼徒ヲカツパト異名ス、〈○下略〉
p.0498 婦女の(/○○○)雨衣(カツハ/○○)の事、寬延寶曆のころ迄は、御家人の妻女下女等は、浴衣を雨よけに著たり、大なる紋を五つ六つも附たるもあり、伊達摸樣を染しも有けり、近歲は下賤の女も、浴衣などは著るものなし、みな木綿の合羽(○○○○○)を著る事になりぬ、又男子も近年は夏合羽(○○○)とて、葛布、芭蕉布の類をもつてつくる、富饒の人は琥珀、呉路服連等にてこしらへ著る、此夏合羽も、寬政比はなかりしこと也、吾大人寶曆十三年癸未六丹十三日、六十三歲にて沒し給ふに、夏合羽、夏火事羽織の設けなし、是にて二品の久しからざるを知べし、婦女は夏合羽はいまだ著ざれども、遠からず著る事になるべきにぞ、
p.0498 衣食住の奢
又同じ比〈○寶曆の末〉までは、なべての衣食住ともに、今の時にくらぶれば、質素にして奢りたる事なし、〈○中略〉女の雨合羽なし、犬きなる紋染たる木綿の浴衣なり、〈紋に肩と膝にありて、素襖の紋の如し、多くは蔦の紋なり、〉
p.0498 世のすがた
夏の合羽は、むかしより芭蕉布、麻平の類を用ひしが、近頃川越平にて作りしを多く用ゆ、又女の合羽、近頃鐵物なし、半襟をかけて用ゆ、
p.0499 貞享比迄ハ、女ナドニ合羽著ルモノナシ、皆々染湯衣ニテスミヌ、元祿ノ比、タマ〳〵老女、夫ノ合羽ヲ著シ往來、スルモノ有、大ニ目ニ立タリ、ヲカシキコトニイヒヌ、寶永比、出スギタル女、木綿合羽ヲコシラへ著シタリ、シカシ丸袖ナリ、裝束ハ黑ビロウドニシタリ、
サヽヘリ皆モヘギ也
今田舍ノ老女ナドノ著ス合羽是ナリ、装束ノ裏ハ皆金蘭ヲ用ユ、江戸モ寶曆ノ末迄是ヲ用ユ、安永ノ比ハヤ黑サヤノエリヲカケテ、ボタンガケハ少クナリシトゾ、
正德ノ末ニ至テ、フリ袖ノ木綿合羽(○○○○○○○○)ヲ著ス、袖永ク内袖ヲ緋繻子ヒドンスニシタリ、サヽヘリ紫此比ナリ、元舞子ヨリ始ルカ、上人ノ娘ハ駕籠ニ乘ルコトナレバ、下郎ヨリ始ルニ究レリ、野郎役者ノ風ヲ似セタリ、享保ノ比、俳諧師合羽ヲ仕立カヘテ著シタリ、延享ノ比ハ、女モ此風ニ仕立タリ、倂少シ、
正德年中、文昭院殿〈○德川家宣〉御濱御殿へ被レ爲レ成候節、雨天ノ時ハ、數多ノ上藺、皆々猩々緋ゾ合羽(○○○○○○)ヲ著シ、御庭へ御供シタリ、是女人合羽ヲ著シテモ笑フベキニ非ズ、倂俗人ト同日ノ談ニ非ズ、
p.0499 合羽師 合羽幷雨覆油紙、これ桐油(とうゆ)と號す、柳馬場通六角より下に住す、所々にあり、
p.0499 一太閤樣〈○豐臣秀吉〉坂本の古城の跡へ御鷹野に出御の時、内府樣〈○德川家康〉大納言樣〈○前田利家〉を初め、國大名端々に供奉被レ成候其時平塚と申者など、鳥を手取に仕、太閤樣御機嫌能候時、俄 に風雨故、直に坂本へ御座被レ成候に付、何れも馬上にて御供被レ成候、〈○中略〉利家樣は合羽を召候が、何事も無二御座一候、
p.0500 四日市、〈○中略〉町中にて、雨衣(かつは)幷に油紙を彩色たるたばこ入をうる、
p.0500 〓〓〈同古了反、上、行縢也、牟加波支、〉
p.0500 行縢 釋名云、行縢〈音與レ騰同、行縢和名無加波岐、〉行騰也、言裹レ脚可二以跳騰輕便一也、
p.0500 原書釋衣服云、幅所二以自偪束一、今謂二之行縢一、言以裹レ脚可二以跳縢輕便一也、無二騰也二字一、按騰也二字、似レ不レ可レ無、廣本作二行騰也三字一非、按、毛詩正義云、説文云縢緘也、名二行縢一者、言行而緘二束之一、故云レ偪二其脛一也、雖下與二釋名一其解不上レ同、然行縢帥行纏脛巾之類、非二无加波岐一、采菽詩云、邪幅在レ下、毛傳、邪幅、幅偪也、所二以自偪束一也、鄭箋、邪幅如二今行縢一也、偪二束其脛一、自レ足至レ膝、是亦可レ證二行縢脛巾之類一也、
p.0500 行騰〈ムカバキ縢イ〉
p.0500 履〈○中略〉ムカバキといふは、向股(ムカモヽ)などいふが如く、兩股に著(ハ)くの義にて、ハヾキといふは、脛著(ハギハキ)の義なるべし、
p.0500 むかばき 禮内則に、偪をよみ、和名鈔に、行縢をよめり、行騰も同じ、新撰字鏡に〓をよみ、行縢也と見えたり、三議一統にうつとゝいふ所の名見えたり、向脛巾(○○○)の義なるべし、むかもゝ(○○○○)といふ如し、進士志定茂が有馬の湯に行とて、行騰を人にかりて、はくすべ知らざりし事、著聞集に載たり、承元の比まで猶しかぞありける、
p.0500 武官禮服
衞府督佐、兵衞佐不レ在二此限一〈○中略〉錦行騰(○○)、〈謂騰緘、所(○)丁以覆(○○)二股脛(○○)一令(○)丙衣不(○○)乙飛揚(○○)甲者也(○○)、〉
p.0500 一行騰のわり合事、夏毛と秋ふたげとわり合する時は、夏毛は前へ也、秋ふた毛は後へ なるべし、其謂はむかばきのはじまり夏毛なり、さるによりて夏毛前へなす也、わり合は略儀也、はれの犬笠懸の時はくまじきなり、
一熊の皮又へう虎のかはにてわり合の時は、夏毛の事は不レ及レ申、鹿の革にてあらば、何革も前へ成ベし、鹿の皮を除て、豹虎の革、熊の皮などにてわり合する事、太不レ可レ有候なり、
一秋ふたげと夏げとかたかはづゝ、むかばきにきる事あるまじき也、いろのすこしちがふはくるしからず、
一ぬりむかばきと云は、うるしにてぬる也、是又略儀也、ほしを白くのこして、地を少黑くぬりたるを、宿老などはきたるは尤一興也、はれの犬などの時は、はくべからず、内々の犬追物などの時は、はく事くるしからず、〈○中略〉
一行騰の長さ三尺六寸、腰のせすぢのとをりより、白毛までの事、此三尺六寸たかばかりに不レ有、かねの定にも不レ有、我手の定也、此三尺六寸の長さ行騰の本尺也、但三尺六寸本の尺のいはれを尋申處に、昔より今に申傳又は註置也、謂は無二存知一由被レ仰とや、これはことなる秘事也、人不二存知一事也、〈○中略〉
此あひを腰と云人のこしによりてひろくもせまくもきる
此すぢかいの長さ六寸但腰によりて五寸にもすべし
是をひれと云
かへり一寸と云
是を下のひれと云
刀サシサヤヲ出スアナナリ
此長さ三尺六寸
此あひ四寸
すそのひろさ一尺二寸
是を白毛と云也
このとをりなか腰と云小腰共いふ也 上より手一束をきて付べし
四寸
沓二三と云
氣ろへ〓と云四寸
上より手一束をきて付
小緒と云
是は常に犬笠懸などにはくむかばき也、長さは人のたけによりて、みよき程にきるべし、別目とどめの事は、引目の大小によりて、前へも後へもよるべし、緖の革の事、菖蒲革本也、黑皮ふすべ革などをつくること略儀也、はれの犬などには、黑革ふすべ革をに付たるむかばきはく事不レ有、又くつごみのをゝば三所に可レ付、但大なるむかばきには四所に付べき也、
一御所樣の御むかばきのをは、紫革爲べし、御むかばきの裏を、あやなどを色々に染てうたせらるゝ也、又しゆす段子など、から物にてうたせらるゝ也、又裏をうたざるをもめさるゝ也、
一むかばきの腰の事、一寸ちがはゞ、かりむかばき一寸あかばかり行騰といへり、是はうしろのちがふほどらひの事なり、五分ばかりちがふたるがよきなり、前は二三寸あきたるがよき也、〈○圖略〉
p.0502 武官禮服
衞府督佐、兵衛佐不レ在二此限一〈○中略〉錦行騰(○○○)、〈○下略〉
p.0502 行騰、大星之夏毛(○○○○○)者若々敷候、陰(クモリ)星之秋二重毛候者拜領仕度候、霜臺、廷尉者、熊皮(○○)尋常之事候歟、
p.0503 大星行騰(○○○○)房鞦、牛胸懸等、雖レ非二上品一、任二注文一、無二相違一之樣、可レ被二申下一也、
p.0503 かの皮のむかばき
かのかはのむかばき(○○○○○○○○○)すぎてふかからばわたらでたゞにかへるばかりぞ
p.0503 東人通二花山院御門一語第卅七
今昔、東ノ人否不レ知ズシテ、花山院ノ御門ヲ馬ニ乘乍ラ渡ニケリ、〈○中略〉院ハ寢殿ノ南面ノ御簾ノ内ニテ御覽ジケルニ、年卅餘許ノ男ノ、〈○中略〉紺ノ水旱ニ白キ帷ヲ著タ、夏毛ノ行騰(○○○○○)ノ星付キ白ク色赤キヲ履タリ、
p.0503 建久三年六月十三日癸丑、幕下〈○源賴朝〉渡二御新造御堂之地一、〈○中略〉凡云二犯土一云二營作一、江間殿〈○北條義時〉以下、手官沙二汰之一、爰納二土於夏毛行騰(○○○○)一、有二運レ之者一、被レ尋二其名一之處、景時申云、囚人皆河權六太郎也云云、感二其功一忽蒙二厚免一、是木曾典厩專一者也、典厩被レ誅之後爲二囚人一、被レ召二預梶原一云云、
p.0503 しやなわう殿くらま出の事
吉次いまだ夜ぶかに京を出て、あはだ口に出來る、〈○中略〉あひ〳〵ひきかきしるしたるすりづくしのひたゝれに、秋毛のむかばき(○○○○○○○)はいて、くろくりげなる馬に、つのふくりんのくらをきてぞのりたりける、兒(ちご)〈○牛若〉をのせ奉らんとて、つきげなる馬に、いかけ地のくらをおきて、大まだらのむかばき(○○○○○○○○○)くらおほひにしてぞ出きたる、
p.0503 一熊の皮の行縢(○○○○○○)は、彈正の官の人ならでは不レ用レ之、〈(中略)射手具足秘傳に委し〉
p.0503 西京仕レ鷹者見レ夢出家語第八
今昔、西京ニ鷹ヲ仕ヲ以テ役トセル者有ケリ、名ヲバト云ケリ、〈○中略〉曉方ニ成ル程ニ寢入タリケル夢ニ、〈○中略〉高キ所ニ登テ見バ、錦ノ帽子シタル者ノ斑ナル狩衣ヲ著テ、熊ノ行騰(○○○○)ヲ著テ、斑ナル猪ノ尻鞘シタル大刀ヲ帶テ、〈○下略〉
p.0504 治承四年五月四日乙卯、此日右近府荒手結也、〈○中略〉騎射物具、〈○中略〉熊皮行騰(○○○○)廿懸、〈一具引連、小緣裏緖金物等、但調樣不レ同也、〉
p.0504 ふじのゝかりばべの事
御れう〈○源賴朝〉のその日の御しやうぞくには、〈○中略〉御かりぎぬはやなぎ色、大もんのさしぬきに、くまのかはのむかばき、しはうちながにめし、
p.0504 一〈○中略〉虎豹の皮(○○○○)は〈○行縢〉公方樣、又は三職の衆ならでは用給はぬ也、〈射手具足秘傳に委し〉
p.0504 千種殿幷文觀僧正奢侈事附解脱上人事
中ニモ千種頭中將忠顯朝臣ハ、〈○中略〉宴罷テ和二興ニ一時ハ、數百騎ヲ相隨ヘテ、内野北山邊ニ打出テ、追二出犬一小鷹狩ニ日ヲ暮シ給フ、其衣裳ハ豹虎皮ヲ行騰ニ裁チ(○○○○○○○○○)、金襴纐纈ヲ直垂ニ縫へリ、
p.0504 大臣家御馬揃事
同月〈○天正九年二月〉廿八日、大臣家〈○織田信長〉内々驅催サルヽニ依テ御馬揃有レ之、〈○中略〉扨大臣家御手廻ノ次第、〈○中略〉御行騰ヲ金ニ虎ノ府ヲ縫(○○○○○○○○○○)ニ、御鞍カサネ、御泥障御手綱腹帶尾袋マデ同前ナリ、
p.0504 一ぬり行縢(○○○○)と云は、鹿の毛皮をうるしにて黑くぬりたる也、〈白星ハ殘ス也〉
一わり合せの行縢(○○○○○○○)と云は、鹿の皮と虎豹の皮と竪につぎ合せたるを云、又鹿の夏毛と秋毛をつぎたるを云、〈射手具足秘傳に委し〉
p.0504 神事行騰(○○○○)之事、加樣に可レ切、例式よりみじかくつめて可レ切、別目とゞめの事は、たとひ引目を腰にさゝずとも可レ付、はく時は左革の結を引目とゞめへとをすべし、笠懸、小笠懸、流鏑馬など、神事にて射る時は、此むかばきのごとく、すそのおりめを四寸すぢかへてきりてはく也、其外は例式也、此行騰はくことは、神事にかぎりたる事也、神事にてなき時は、はくことあるべからず、
p.0504 一はかま行縢(○○○○○)と云は、神事行縢の事也、神事の時、犬追物、笠懸、やぶさめなど射る時 にはく行縢は、むかばきのすそ、白毛のかどを、すぢかひに切てはくを云也、笠懸聞書射手具足秘傳の書に見えたり、
p.0505 犬追物事〈○中略〉 行騰は若人は夏毛なり、秋二毛は、老少共用なり、冬毛は老人ばかり用なり、熊皮は判官と彈正官の人用なり、ひれの廣きはわろし、中腰は高きはひだにしは有てわろき也、中折より少上にあてゝ切なり、のどの狹きも廣きもわろし、中腰の廣さは八寸なり、好程なり、
p.0505 一むかばきの事、鹿のかは本也、殊夏毛本也、犬追物、笠懸などには、おさなわかき人は夏毛を用べし、十八九廿あまりまでは、夏毛の秋かけたるを可レ用、中老宿老に至ては、秋ふたげの黑き皮を用べし、〈○中略〉
一行騰の事、笠懸、流鏑馬、神事に射る時は、若衆のことは不レ及レ申、歲七十八十に成共、黑夏毛の行騰はくべし、夏毛の行騰本たるによりての義也、犬追物時はくごとく、ながくはあるまじき也、いかにもみじかくつめてきるべし、神事行騰の切やうしるしをき候也、おりめのすそをすぢかへて切也是によりて自然けがれをも除、神慮にもあふと申來るなり、〈○中略〉
一行騰のおこりの事尋申候處、昔は今人の上下きたるごとく、いしやうにて不斷はきたる也、然間何事をもせよ、行騰をはきてしたる間、今にしきしきの時は、みな笠懸、小笠懸、流鏑馬、かりなどのときはくなり、〈○中略〉
一流鏑馬、笠懸、犬追物、又はかりの時、行騰を敷て酒をものみ、ひんをも付などするときは、左皮をとりて敷て座すべし、白毛の方左へなへし、むかばきのおもての方、上へなして敷也、ひれの方、少たてざまにおりて敷べし、又白毛の方の折目のはしをたてざまに少折ても敷なり、二色の内いづれにても、一方おりて敷べし、ひれの方一かはにておりよきなり、行騰兩方ながらとりて、左皮 を敷べし、左皮ばかりをとりて、右皮をはきても居なり、
一行騰をくらにうちかけて出ることあり、又犬笠懸射はてゝ歸る畤、鞍にかけて歸る事もあるべし、其時むかばきをくらにかくるには、右皮を先鞍にかけて、さて左皮を上にかけて、白毛くらの左へなるべし、手繩にてむかばきをからむべし、
p.0506 一行縢にやたらびやうしとて、鞍のあたる所へ別の革を付る物也といふ人あり、やたらびやうしといふ事、舊記に見えず、それに似たる事もなし、いぶかし、此説用がたし、又行縢をはきて、貴人は兩方の腰にあげまき下ると云説あり、此事も舊記に見えず用がたし、
一はかま行縢と云は、神事行縢の事也、神事の時、犬追物、笠懸、やぶさめなど射る時にはく行縢は、むかばきのすそ白毛のかどを、すぢかひに切てはくを云也、笠懸聞書射手具足秘傳の書に見えたり、〈○中略〉
一熊の皮の行縢は、彈正の官の人ならでは不レ用レ之、虎豹の皮は公方樣、又は三職の衆ならでは用給はぬ也、〈射手具足秘傳に委し〉
p.0506 武官禮服
衞府督佐、兵衞佐不レ在二此限一〈○中略〉錦行騰、
p.0506 野行幸
鷂飼四人、〈(中略)位色接腰伊知比脛巾○中略〉鷹飼四人、〈(中略)水豹皮腹〓、熊皮行騰、(中略)紫色布袴、脛巾、○中略〉左右近衞陣列、〈中少將已下府生已上、著二狩衣腹〓行騰一、四位五位位色接腰、六位布帶、舍人靑摺彩、騎二御馬一者著二腹〓行騰一、〉
p.0506 凡騎射人於二本府馬場一敎習、〈○中略〉五日質明各就二馬寮一騎レ馬陣列、共進二馬場一、官人二人著二皂緌、〈○中略〉行騰麻鞋、近衞卌人、皂緌、〈○中略〉行騰麻鞋一、〈○中略〉
凡供二奉行幸一大將以下少將以上、〈○註略〉並著二皂緌横刀弓箭行騰草鞋一、〈幸近、除二行騰一若レ靴、〉將監以下府生以上並 著二皂緌〈○中略〉行騰麻鞋一、〈幸近、以(○)二蒲脛(○○)巾(○)一代(○)二行騰(○○)一、〉
p.0507 仁和二年十二月十四日戊午、行二幸芹川野一、〈○中略〉是日勅二參議已上一著二摺布衫行騰一、別勅二皇子源朝臣諱、〈○宇多〉散位正五位下藤原朝臣時平二人一、令レ著二摺衫行騰一、
p.0507 きぬはたはかなきひとへのなへたるをきたるに、かほかたらはたゞひかるやうにみゆ、あやしみおどろきて、まらうどけふはきたのゝ行幸なり、御ともにつかうまつれるに、おもしろきものゝ音のきこゆれば、たづねまいるとて、むかばきをときて、こけのうへにしき、こちとてすへ、われもゐ給て、ことのよしをとひ給ふ、
p.0507 二とせばかりありて、又石山にこもりたれば、夜もすがら雨ぞいみじくふる、〈○中略〉三日さぶらひてまかでぬれば、れいのならざかのこなたに小家などに、このたびはいとるいひろければ、えやとるまじうて、野中にかりそめに、いほつくりてすゑたれば、人はたゞ野にゐて夜をあかす、くさのうへにむかばきなどうちしきて、うへにむしろをしきて、いとはかなくて夜をあかす、
p.0507 文治六年〈○建久元年〉十月三日甲申、令二進發一給、〈○源賴朝上洛〉御共輩之中爲レ宗者、多以列二居南庭一、而前右二衞門尉知家自二常陸國一遲參、令レ待給之間、已移二時刻一、御氣色太不レ快、及二午刻一知家參上、乍レ著二行騰一經二南庭一、直昇二沓解一、於二此所一撤二府騰一、參二御座之傍一、〈○下略〉
p.0507 馬介入道くはんとうへ下向のときも、かゝること侍りき、中太冠者といふ、とし比の中間おとこに、行騰のあまりたりけるを、一かけとらせたりけるを、此定にはきて、今かた皮をば我はくべきものとも思はで、あれをばさてたがはき候はんぞと、人にとひたりける、ただおなじほどのくせ事なき、此やうを馬助入道かたるをきゝてつかうまつれる、
はきさして人のためにはのこすともかたむかばきにたれかなるべき
p.0508 五十五番 右 むかばき造
秋深き星はくもれどむかばきの白毛の月のさやかなる哉〈○中略〉
祈ても逢瀨やあると町人のむかばきかはのなでものもがな〈○中略〉
あはれ御むかばきやけいうもよし〈○圖略〉
p.0508 詠二行騰蔓菁食薦屋樑一歌
食薦敷(スゴモシキ)、蔓菁煮持來(アヲナニモテキ)、樑爾(ウツパリニ)、行騰懸而(ムカバキカケテ)、息此公(ヤスムコノキミ)、
p.0508 建久二年十一月廿二日丁卯、多好方等欲二歸洛一之間、自二政所一賜二餞物一、行政、仲業、家光等奉二行之一、〈○中略〉
公文所送文云、好方給、〈○中略〉むかばき一懸(○○○○○○)、くまのかわ、くつ、てぶくろ、〈○中略〉好節(ヨシトキ)、〈○中略〉むかばき一懸、なつげ、くつ、てぶくろ、〈○中略〉府生公秀、〈○中略〉むかばき一懸、なつげ、〈○下略〉
p.0508 一行騰皮は一具(○○)と云也、たゞ行騰也、むかばき也、
p.0508 行纒〈〓附〉 唐式云、諸府衛士人別、行纒一具、〈〓音直連反〉本朝式云、脛巾〈俗云波波岐〉新抄本草云、〓〈領井反、和名以知比、今俗編レ〓爲二行〓一、故附出、〉
p.0508 本草和名草部下云、〓實仁諝音傾井反、和名以知比、此所レ引卽是、按、説文檾枲屬、玉篇云、荷草名、亦作レ檾、蓋檾後從レ艸從レ冋、諧聲也、千金翼方、證類本草、皆作レ〓、俗字耳、蘇敬曰、〓實一作二䔛字一、人取レ皮爲レ索者也、別本注云、今人作二布及索一䔛麻也、似二大麻子一、蜀本圖經云、樹生高四尺、葉似レ苧、花黃、實殼如二蜀葵一子黑、時珍曰、〓麻今之白麻也、多生二卑濕處一、人亦種レ之、葉大似二桐葉一、團而有レ尖、六七月開二黃花一、結レ實如二半磨形一、有レ齒、嫩靑老黑、中子扁黑、狀如二黃葵子一、其莖輕虚潔白、北人取レ皮作レ麻、以レ莖蘸二硫黃一作二焠燈一、引レ火甚速、
p.0508 行纒〈ハヽキ 編レ〓爲也〉 脛巾〈本朝式用レ之〉
p.0509 脚半(キヤハン)
p.0509 脚絆(キヤハン)〈兵具爼談〉 繳腳布(ハバキ)〈時珍云、則裹レ脚布也、古名二行縢一、〉 脛巾(同)〈延喜式〉 裹脚(同)
p.0509 はゞき 令及和名抄に、脛巾をよめり、また行纒をよめり、はぎ佩の義也といへり、偪も同じ、日本紀に、脛裳をはゞきともよめり、今の脚絆(キヤハン)も同じ、
p.0509 きやはん 脚絆の音也といへり、古へのむかばき也、脚半とも書り、修驗道の十六道具書に見えたり、
p.0509 はばき 脛巾 脚絆 行纒〈和名抄〉
今これを俗には脚絆(キヤハン)といふは、すねばかりにはく物也、又股(モヽ)はばきといふは、今いふ股ひき(○○○)也、もと行騰(ムカバキ)といふ物、このもとなるを、次第に轉じてかくもなりたる也、
p.0509 今猿樂狂言に、袴を高くくゝり、脚半をはきたる體あり、もゝはき(○○○○)は股にはくなり、〈はくはもと帶ることなれども、轉りては著ることをもはくといふ、足袋はくなど是なり、〉股まで入るはゞきとするはいかゞ、もゝはきを股ぬき(○○○)ともいふにや、東鑑、壽永元年六月七日の條にいふ、以二股解沓一差二八尺串一云々、宇治拾遺、〈九〉常まさが郎等佛供養の條に、太刀はき、もゝぬきはきて出きたり〈こゝにもはくといへり〉とあり、されどもゝはきは、今の半股引の如く思はれ、もゝぬきは股解沓と同じかるべければ、もゝはきとは異なるべし、思ふに信貴山緣起の繪に、熊の皮にて作りたる沓の、膝ぶしの下までかゝる物見えたり、和名抄に、深頭履とあるものならむ、もゝぬきとは、股まで入るやうの物にや、〈○下略〉
p.0509 朝服〈○武官〉
衞府〈○中略〉其志以上、並皂縵頭巾、〈○中略〉烏皮履會集等日、〈○註略〉加二錦裲襠赤脛巾(○○○)一帶二弓箭一、以レ鞋代レ履、兵衞皂縵頭巾、〈○中略〉白脛巾(○○○)、〈○中略〉主帥、〈○中略〉白脛巾、〈○中略〉並朝廷公事則服レ之、衞士、皂縵頭巾、〈○中略〉白脛巾、
p.0509 凡兵士、毎レ火紺布幕一口、〈○中略〉脛巾一具、鞋一兩、皆令二自備一、
p.0510 元正朝賀儀
寅一刻、〈○中略〉中務省擊二動鼓一令二装束一、〈○中略〉擔丁皂縵頭巾、〈○中略〉布脛纒(○○○)、纒レ脚結レ菲、〈○中略〉寅二刻、左右近衞府共始擊二動鼓一三度、度別平聲九下、諸衞依レ次相應、裝束、〈○中略〉將監將曹並皂緌、〈○中略〉緋脛巾(○○○)、麻鞋、府生近衞並皂緌、〈○中略〉白布脛巾(○○○○)、麻鞋、〈○中略〉卯一刻、兵庫昭訓門内大臣、幄西南去一丈立レ鉦、去一丈立レ鼓、〈○中略〉執夫四人、著二皂縵頭巾一、〈○中略〉紺布脛巾(○○○○)、白布脛纒結レ菲、
p.0510 遷二野宮一裝束
輿長八人、緋服布帶、駕輿丁卌人、〈○中略〉頭巾、脛巾、黃布衫卌領、〈○中略〉
造備雜物
脛巾(○○)八十八條、脛纒(○○)八十八條、
p.0510 人給料、〈○中略〉布九十四端二丈五尺二寸、〈(中略)二端四尺、駕輿丁卌四人脛巾料各二尺、〉
p.0510 大儀〈謂元日卽位及受二蕃國使表一○中略〉
將監將曹並皂緌、〈○中略〉緋脛巾(○○○)、麻鞋、府生近衞並皂緌、〈○中略〉白布脛巾(○○○○)、麻鞋、〈○中略〉
凡正月七目靑馬龓近衞、著二皂緌、〈○中略〉緋脛巾、〈右紺脛巾(○○○○)〉帛襪、麻鞋一、〈○中略〉
凡供二奉行幸一、〈○中略〉近衞皂緌、〈○中略〉蒲脛巾(○○○)、麻鞋、〈騎隊廿五人、堪二騎射一少將以下在二此中一、皆用二官馬一、以(○○)二行騰(○○)一代(○)二脛巾(○○)一、〉
p.0510 凡正月七日靑馬、〈○中略〉龓人錦紫兩色小袖、紺絁脛巾(○○○○)、並收二寮家一出用、
p.0510 野行幸
延喜十八年十月十九日、幸二北野一、〈○中略〉雄鷂鷂飼源滋、同敎、小鷹鷹飼源供、良峯義方、〈以上四人、檜皮色褐衣、(中略)帶二紫脛巾(○○○)一、〉
p.0510 いつ比の事にか、德犬寺のおとゞ〈○藤原實定〉熊野へ參給ひけり、〈○中略〉ほうべいはてて、證誠殿の御前に通夜して、參詣の事、ずいきのあまりに、大臣の身に藁沓はゞきをちやくして、 長途をあゆみまいりたる、ありがたき事也と、心中に思はれて、〈○下略〉
p.0511 文治六年〈○建久元年〉三月十日甲子、大河次郎兼任於二從軍一者、悉被二誅戮一之後、獨迫二進退一、歷二華山(ケセン)、千福、曲本等一、越二龜山一出二于栗原寺一、爰兼任著二錦脛巾(○○○)一、帶二金作太刀一之間、樵夫等成レ怪、〈○下略〉
p.0511 一馬副事〈○中略〉
冠〈卷纓〉 緌〈○中略〉 葈脛巾(○○○)〈○中略〉
一手振事〈○中略〉
冠〈卷纓〉 緌〈○中略〉 葈脛巾 舌地
一小舍人童事
狩衣〈上下○中略〉 脛巾〈城外之時用レ之○中略〉
一車副事
冠〈○中略〉 葈脛巾
p.0511 大塔宮熊野落事
此君〈○護良親王、中略、〉イツ習ハセ給ヒタル御事ナラネドモ、怪シゲナル單皮(タビ)、脚巾(ハヾキ)、草鞋ヲ召テ、少シモ草臥タル御氣色モナク、〈○下略〉
p.0511 公方樣御成の樣體の事
一公方樣御小者、もゝはゞき(○○○○○)、脚半(○○)は、十月五日内野の御經へ御成より、三月三日まで被レ用候、雨ふり道わろく候へば、走衆も御小者も脚半をばとられ候、大名の内衆同前、又大口直垂を著候時は、誰も脚半をし候、總じて赤すねの見え候事、尾籠なる事にて候、
p.0511 一拾月五日より三月三日までは、きやはん(○○○○)、もゝはゞき(○○○○○)をする、御きやうより以前はせず、たとひする時なれども、御道に川あり、雨ふりてつよくしるければ、きやはんもゝはゞきをと る也、きやはん色多分こんのしゆす(○○○○○○)也、但茶の色(○○○)にても著用の例有レ之、もゝはゞき色不レ定、〈○中略〉一同説〈○宗幡物語〉きやはんもゝはゞきは、北野御經御聽問より花頂の花御覽までせられ候也、又飯川能登殿は、三月二日三寶院殿へ御成迄せられ候、三月三日よりせられ候はず候よし候、〈○中略〉
一當御代八幡御社參之時、右京兆分注より十八人、自二典厩一二人、已上廿人參、其時は先規にも不二立入一、公方樣御幼少の事にて、諸事御異見被レ申候時分の儀候而、押付候て走衆の前へ被レ參候、樣體故實珱下私ざま候はんとて、波々伯部兵庫所へ飯能〈○飯川能登守〉をよび候て尋申、雨ふり候てきやはんをとり候へば、もゝはゞきをもとり候哉と申、中々の事其分候、其證據には、天氣不定に候へば、ももはゞきをば仕候て罷出、仍すはう著ながら取候やうのこしらへやうあり、うしろのたてあげをみじかく仕候へば、くりこして足ぬかれ候物に候、足をぬき候てそのまゝ置候べし、たてあげながく候へば、其まゝはぬがれぬ物にて候由申來候、然ばもゝはゞきをも取候證據分明候哉、大館與州常興、右京兆衆はもゝはゞきを仕候由不審存候、其事少々相尋候衆々は、藤民部、後藤佐渡守などに相尋候分申傳候由、返事候へば、殘りの衆も與州意見候て、皆とらせられ候つるとて候、飯能物語候也、〈○中略〉
一きやはん、もゝはゞきの事、きやはん(○○○○)はしゆすにかぎり候、色黑(○)、又茶(○)、ねづみ色(○○○○)などにてもこしらへ、藤民部殿、後藤佐渡殿など著用候由ニ候、もゝはゞき(○○○○○)は、どんす(○○○)、あや(○○)以下、又こうばい(○○○○)、くち葉(○○○)已下のおり色、但紅梅は御小者抔の樣なるとて被レ嫌候、乍レ去若衆などは、さも候てよく候はんや、
p.0512 婚入之部
四幅袴の下には、きやはんをする也、すべて股立をとりて、赤すねの見ゆるは尾籠なる故、侍は繻子のきやはん(○○○○○○○)をする也、輿舁の人夫抔は、きぬ(○○)又は布のきやはん(○○○○○○)をすべし、
p.0512 はゞきの事 はゞきは、きやはんともいふなり、すねあての下にはくなり、地は繻子なり、又常にもゑぼし上下の時は、かならず是をはくなり、赤すねの見ゆるは尾籠なり、裏は絹にても布にても縫ふべし、うしろにもかゞりをするなり、緖は長さ二尺五六寸許、人のすねの大小によるべし、
p.0513 女の脚半(○○○○)は、享保二年、娘容儀草子に、昔は八瀨大原の女ならでは、脚半といふものははかざることなりしに、近年の女世智かしこくなりて、歷々の奧樣まで小袖の裾をいとはせられ、紅の脚半蹴かへしに見えて、其女中の下心思ひやられて、さもしかりきといへり、〈今は老婦は白き脚半にてありくは見えたれど、其外にはなし、また茶屋女などの年たけたるは、パツチをはくあり、幼き女子は良賤ともに、紅のパツチをはき、花見野がけに出、○下略〉
p.0513 はゞき〈○中略〉 山城國大原の薪を賣女の脛巾は、前の方にて合せ結ふ、昔建禮門院此山に入せたまひ、薪を戴き下山あるを、人買べきといへば、頓てうしろむかせたまふ、其餘風也といへり、
p.0513 寒氣指を落ス
雪深く、〈○中略〉夕ごとに宿屋に著ても、草鞋脚絆其儘には解ず、彼地〈○北國〉の者、其足圍爐裏にくべ給へといふにぞ、初の比はあやしくをかしかりしかど、餘りに脚絆のとけざるゆへに、敎のごとくに任せて、いろりに足さしくべたるに、火のあつきを覺へず、
p.0513 脚胖
諸國ニナ製レ之ト雖ドモ、大津脚半(○○○○)名アリ、〈江ノ大津驛今モ多ク賣〉京坂ト同製也、紺木綿(○○○)ヲ以テ製ス、〈白淺黃(○○○)モアリ、單也(○○)、〉大津脚半 京坂ノ人用レ之、木綿一幅ノ下ニ一ヒダトリテ下ヲ挾クス、長サ七寸餘也、鯨尺也、紐ハ木綿幅五分バカリニ織テ、兩端ヲ組紐ニ製シタル織成モノ也、又雲齋木綿(○○○○)ニテ製シタルモアリ、三度飛脚、宰領等必ズ用レ之、紐ハ木綿脚半ト同物也、宰領ハ必ズ紺也、其他ノ旅客モ紺ヲ專トスル也、淺黃稀也、 ○按ズルニ、股引パツチノ事ハ、服飾部服飾雜載篇ニ在リ、參看スベシ、
p.0514 橇(カンジキ)〈泥行禹乘〉
p.0514 橇(カンジキ)〈太平記〉 梮(同) 鞽
p.0514 かじき 仲正の歌にかじきはくとよめり、北國にて雪深き時ははく物也、欙をよめり、〈○中略〉又がんじきともいへり、太平記にも見ゆ、軍用にもする也、今俗皮にてしたる物をがんぜきといふは、かじきの訛也といへり、四國にては熊手をがんぜきといへり、
p.0514 橇かんじき〈かじき〉 畿内にて、なんばといふ、 今按にかじきは、くろもじの木をたはめて輪となし、繩にてあみ革の紐をつけ、大〈サ〉壹尺ばかりあるもの也、北越及奧羽などにて、雪沓をはき、かじきを結び附て、道路を踏かたむるに用ゆ、畿内にてなんばといふは、深田の泥の上を行ものにて、是則かじき也、
p.0514 欙(かんじき) 橋〈史記〉 梮〈漢書〉 〓〈説文〉 俗云加牟之木
虞書云、禹王山行所レ乘者、以レ鐵爲レ之、其形似レ錐長半寸、施二之履下一、以爲下上レ山不上二蹉趺一也、
按如二越州一北地雪深而不レ乘レ輴不レ能レ行、不レ著レ欙不レ得レ上レ山也、南方人未二嘗見一者也、
p.0514 著御類幷名品
輪カンジキ(○○○○○) 下民積雪ノ上ヲ步行スル雪沓也、熊柳ト云フ木ヲ以テ、亘一尺餘ノ輪ト成シ、其輪ニ爪ヲ三ツ造リ、又輪ノ中央ニ板ヲワタシ、是ニ草履ノ如キ緖ヲ作リ、脚下ニハキテ往來スル也、鐵カンジキ(○○○○○) 鐵ヲ以テ三ツノ爪アルモノ也、草鞋ノ裏ニ付テ用ル也、
p.0514 法輪寺百首寄レ雪述懷 源仲正
かじきはくこしの山路の旅すらも雪にしづまぬ身をかまふとか
p.0514 雪のうたよみけるに あらち山さかしくくだるたにもなくかじきの道をつくるしら雪
p.0515 越前府軍幷金崎後攻事
同〈○延元二年正月〉十一日雪晴風止テ、天氣少シ長、閑ナリケレバ、里見伊賀守ヲ大將トシテ、義治五千餘人ヲ金崎ノ後攻ノ爲ニ、敦賀ヘ被二差向一、其勢皆吹雪ノ用意ヲシテ、物具ノ上ニ蓑笠ヲ著、踏組(フグツ)ノ上ニ橇(カンジキ)ヲ履テ、山路八里ガ間ノ雪踏分テ、其日葉原迄デ寄タリケル、
p.0515 宮方京攻事
桃井右馬權頭直常、其比越中ノ守護ニテ在國シタリケルガ、兼テ相圖ヲ定タリケレバ、同〈○觀應二年〉正月八日越中ヲ立テ、能登加賀越前ノ勢ヲ相催シ、七千餘騎ニテ夜ヲ日ニ繼デ責上ル、折節雪ヲビタヾシク降テ、馬ノ足モ不レ立ケレバ、兵ヲ皆馬ヨリ下シ、橇ヲ懸サセ、二萬餘人ヲ前ニ立テ、道ヲ踏セテ過タルニ、山ノ雪氷テ如レ鏡ナレバ、中々馬ノ蹄ヲ不レ勞シテ、七里半ノ山中ヲバ馬人容易(タヤスク)越ハテヽ、比叡山ノ東坂本ニゾ著ニケル、
p.0515 同九年檜原合戰ノ事
去程ニ長井ノ者ドモ是ヲ恥辱ニ思ヒ、〈○中略〉正月中旬〈○永祿九年〉都合千五百餘人檜原ニ押寄タリ、〈○中略〉其比檜原城、代佐世玄蕃頭、甲ノ緖ヲシメナガラ、沓ニ橇ヲ下部ニカケサセ進ミ出レバ、足輕弓ノ者五六十人前ヲ驅ル、同所武頭ニ穴澤加賀トテ、六十餘ノ老武者、麾取テ下知シケルハ、〈○中略〉嫡子新左衞門、畏リ候、去ナガラ雲中ノ戰ヒ急ナル故、味方ニ橇カケタル者見エ候ラハズ、雪ニ踏入テ草臥候フベシ、弓ニテ射落シ候ラハント、敵ノ横合ニ廻レバ、〈○下略〉
p.0515 小野寺湯澤城返攻事附岩崎合戰事
義光聞給ヒテ、サラバ山北ニ加勢ヲヤラントテ、長瀞(ナカトロ)内膳光忠、小國日向守光基、一ツ栗兵部、伊良子長右衞門ニ旗本三百餘騎、足輕三百人ヲ差添テ向ラル、其道金山ト八口内ノ間ハ、蕪嶽有屋峠 トテ、聞得シ難所ノ大山ナレバ、イマダ殘ンノ雪ニ、木々ノ梢ヲ埋ミタリ、〈○中略〉金山ヲ巳ノ刻ニ通リテ、午ノ刻ニハ有屋峠ノ雪路ヲ、手々ニ橇(カンジキ)ヲハキテ、ヤウ〳〵ト打越、八口内ノ谷ニ下リケル時、〈○下略〉
p.0516 〓〈豆惠(○○)〉
p.0516 㮇〈他念反、去、於保豆惠(○○○○)、〉
p.0516 杖 四聲字苑云、杖〈直兩反、上聲之重、和名都惠、〉以二竹木一爲レ之、所三以輔二老人一也、
p.0516 按、直屬二澄母一、舌音定母之輕、此云レ重不レ詳、〈○中略〉按、北堂書鈔引二殷允杖銘一云、翼レ德扶レ耆、易林云、鳩杖扶レ老、郭璞桃杖賛云、杖以扶レ危、儀禮喪服慱注云、杖所二以扶一レ病、則作レ扶似レ勝、説文、杖、持也、然則凡可レ持者、皆謂二之杖一、齒杖兵杖是也、扶老亦杖之一端、
p.0516 杖
山海經曰、夸父與レ日爭レ走道死、弃二其杖一化爲二鄧林一、此已見レ杖矣、蓋起二於此一乎、大戴禮武王有二杖銘一、莊子有二神農曝然放レ杖之文一、
p.0516 杖 つくゑだなり、
p.0516 つゑ 杖をいふ、衝居(ツキスエ)の義成べし、二字の義、杖の用をいひ盡せり、古事記に御杖を投棄給ふてなれる神を、衝立船戸神と名くと見ゆ、神代紀に所杖をつけりしとよめり、丈を訓ずるも杖より出たり、萬葉集に杖不レ足八尺と見えたり、〈○中略〉しばりづゑあり、用がたに用う、杖ほどかゝる子はなしといふ諺は、節竹詩に、護假二携持力一多憑二替助功一と見えたり、刑罰の杖を受るに罪人に代り、其科を得て渡世するの風俗、淸朝に見へたり、熱田に杖の舞あり、
○按ズルニ、刑罰ニ用イル杖ノ事ハ、法律部笞杖刑篇ニ載セタリ、
p.0516 是以伊邪那岐大神詔、吾者到二於伊那志許米〈上〉志許米岐〈此九字以レ音〉穢國一而在祁理、〈此二字以レ音〉故吾者爲二御身之禊一而、到二坐竺紫日向之橘小門之阿波岐〈此三字以レ音〉原一而禊祓也、故於二投棄御杖一所レ成神名、 衝立船戸神、
p.0517 武器及行列具的例
一袋入杖(○○○)之事 享和二戌年正月、布衣以下之者、袋入杖爲レ持候其、苦ケ間敷哉之旨、日光奉行大久保内膳正被二問合一、 附 御目見以上は袋入杖相用不レ苦、御目見以下は致二遠慮一可レ然旨、松平田宮被二申聞一候、 因ニ云、杖相用度節は、路突惡敷節は、御城内杖相用申度旨、御目付衆〈江〉斷差出可レ申事、
p.0517 郷士 侍御 侍中
びろうどの杖(○○○○○○)を被レ爲候樣、老中若年寄に限也、七十以上は、御城内杖つく、御目付聞置計なり、七十以下は、病身に付、願の上、御老中方御聞に達し、御免被レ成、御門へ御斷出るなり、
p.0517 杖 木の杖を袋に入て用ゆ、四十以上是を持せ侍る事子細なし、〈持せざるも有〉
p.0517 天平十三年七月辛酉、是日授二左大辨從四位上巨勢朝臣奈氐麿正四位上一、幷賜下以(○)二金牙(○○)一飾斑竹御杖(○○○○○)上、
p.0517 土屋相摸守政直は、常憲院殿の御時より、宿老にのぼち、四代の間仕へ奉り、恪勤の勞おこたらざりしかば、公〈○德川吉宗〉御位につかせ玉ひしはじめ、おまへにめされ、〈○中略〉いま年老たれば、殿中にて杖つくことを許すべし、また寒き折はこれをも著すべしと、ねもごろに仰ありて、御みづから紫縮緬の頭巾に、鳩の杖(○○○)をそへて玉ひける、東照宮駿府におはしけるころ、本多佐渡守正信に、巾杖(○○)をゆるされしこと、世に傳へたれど、その後は聞も及ばぬことなりとぞ、
p.0517 横首杖(○○○) 唐韻云、〓、〈他禮反、與レ體同、漢語抄云、逖、加世都惠(○○○○)、一云鹿杖(○○)、〉横首杖也、
p.0517 鹿をすがる又かせぎともいふ由
かせ杖(○○○)といふは、木杖の尾に岐あるをいへり、和名抄僧房具に、鹿杖、漢語抄云鹿杖、加世都惠、〈○中略〉杖の尾の岐あるを鹿角にたとへたる各なり、〈然杖尾に岐あれば、老人などの輔には、ことに便りよくかまへたるなり、〉横首杖は杖の 首に鐘木の如く、横木あるをいへば、〈俗にな、へては鐘木杖(○○○)といふ〉鹿杖とは別なるを、同物の如くにも注し載られたるは、鹿杖の首には、なべて横木をものする例なりつるから、横首杖を倂せて加世都惠とは訓めるなり、
p.0518 鐵杖(○○) 唐韻云、䥯〈音與レ罷同、和名加奈都惠(○○○○)、〉大鐵杖也、
p.0518 仁和のみかど〈○光孝〉のみこにおはしましける時に、御おばのやそぢの賀に、しろがね(○○○○)を杖につくれりけるを見て、かの御おばにかはりてよめる、 僧正遍昭
千早振神のきりけんつくからに千年の坂もこえぬべらなり
○按ズルニ、年智民ノ時ニ杖ヲ贈ル事ハ、禮式部算賀篇ニ在リ、
p.0518 鳩杖(ハトノツエ/○○)〈後漢書禮儀志、民年七十者授二玉杖一、以二鳩鳥一爲レ飾、欲三老人如二杖不一レ噎也、〉 靑藜杖(アカザノツエ/○○○)〈漢書劉向傳、有二老人一黃衣植二靑藜杖一、叩レ閣而進、〉 斑竹杖(トラフタケノツエ/○○○)〈藝文類聚、梁到漑餉二任新安班竹杖一、〉 方竹杖(シカクナルタケノツエ/○○○)〈五車韻瑞、李德裕問レ僧曰、前所レ奉方竹杖無レ恙否、僧曰、已規圓漆レ之矣、公〓惋彌レ日、前輩詩云、規圓方竹杖、漆郤斷絞琴、〉 赤藤杖(アカキフヂノツエ/○○○)〈韓文、赤藤杖歌、〉 杖老(ツエ)〈歸去來辭、策扶レ老以流憩、古雋考略、老人所レ持杖曰二扶老一、〉 瘦笻(ホソキツエ)、 短笻(ミヂカキツエ) 實心竹杖(ヨノツマリタルタケツエ)〈文苑英華、釋皎然詩、採二實心竹杖一寄二贈李〓侍御一、〉 等杖〈正字通、宋建隆初置二剰員一、以處二退兵一、復蒐二强壯一曰二兵樣一、其後更爲二木挺一、差以二尺寸高下之制一、謂二之等杖一、〉
p.0518 虎杖〈○中略〉 ヨク出來テ老タルハ、杖トスベシ、凡草木ノ杖ニシテヨキ物多シ、桑ノ枝、㯶櫚竹(○○○)、藜(○)、虎杖(○○)、丈菊(○○)、ダン竹(○○○)等ナリ、虎杖ハ最輕シ、然ドモ折ヤスシ、老人足ヨハキ人ハツクベカラズ、桐ト竹トノ杖ハ古人父母ノ喪ニ用レ之、親アル人ハツクベカラズ、
p.0518 杖
是老人の步行を助く、少年の人と云ども、嶮山に蹬り、長途を行には助となる、竹、藜、木の三ツの内えらみ、つよくかるきを用ゆべし、古人の詩も銘も多し、山房十友譜には老友と號す、或は扶老ともいふ、
p.0518 江戸にて老若つえつく事 見しは今、江戸にて六七年以來、高きもいやしきも杖をつく、扮又桑(○)の木は養生によしとて、皆人このみければ、木こり爪木をこる者が、深山をわけて是を尋ね、せなかにおひ馬につけて、江戸町へうりに來る、當世のはやり物、よせい遘具なればとて、若人だちかいとりて、炎天の道のよきにも杖をつき給ふ事、誠に人の非(そしり)、世間のをきてをもはゞからざる振舞、云にたえたり、
p.0519 家祖原瑜字公瑤、〈○中略〉嘗遊二芳野一、賞二櫻花(○○)一、耽戀三日不レ能レ去、遂折二一枝一携去、後制爲(○○○)レ杖(○)、終身手レ之、
p.0519 存身杖記
太田老人贈二杖於鵞峯林叟一、其製奇而巧、以(○)二斑竹(○○)一爲(○)レ幹(○)、纒(○)二藤皮(○○)一結(○)レ之(○)、塗(○)レ漆(○)、飾(○)レ之(○)、故幹不レ可レ摧、藤堅而不レ動、其上頭用(○○○○)レ桑代(○○)レ鳩(○)、以三材美而有二治レ肺之性一也、可レ謂レ奇矣、且虚二幹内一而容二細紫檀於其間一、挾二鐵鑷於檀首一、以二小竹團一爲レ鐓、欲レ屈レ之則抑二左右鑷一使三檀入二幹内一、至レ鐓而止、乃是坐者縋レ之起立太易、欲レ伸レ之則曳レ鐓使二檀出一、而揚レ鑷拄レ幹、立者擕レ之運步不レ難、幹長一尺五寸、檀長一尺四寸餘、内外容受則一握把翫之具、爲二擧レ趾之便一、外内引延則蹇難顚蹶之扶、爲二安レ老之衞一、可レ謂レ巧也、考二諸古一則以レ竹製レ杖者常也、以レ檀造レ之者所レ謂靑檀朱杖是乎、或曰、纒二藤皮一以堅レ之者傚二弓幹滋藤之製一、以二鑷子一抑揚者取二傘柄開疊之式一乎、若使下陲般之輩一見上レ之、則豈不レ歎二此奇巧一哉、〈○下略〉
p.0519 古き小歌に、ころくといふ有り、糸竹初心集〈中〉ころくぶし、ころくついたる竹のうゑ(○○○○○○○○○○○)、ころくもとはしやくはち、なかはふゑ、ころくすゑはじよろしゆのふでのぢくころく、〈○中略〉さて彼ころくついたる竹のつゑとは、人の名めかしく作りしが、俑を始めたるにて、實は竹をいふなるべし、布袋竹は杖にするものにて、節の間五六分、又は五六寸あるものなれば、五六といふ也、もと琉球より渡り、西國より東國に移りたれば、生れは西の國といふ、これも昔つゑつくことはやりし時の小歌にて、江戸のことなれば、武藏野に住などいへるか、尺八といひ、筆の軸と云は、か ならず其物に作るにはあらざれ共、竹になずらへて云なり、
p.0520 黎杖(○○)銘
岡田士恭、贈二我黎杖一、心實體健、不レ折不レ抂、目文質輕、可レ操可レ仗、不レ折不レ抂、吾志放レ之、可レ操可レ仗、吾行傚レ之、嗚呼東西南北之人、一生與レ汝偕往、
p.0520 龍頭杖(○○○)記
杖爲二越中高岡富田廣家所一レ藏、不レ知二何木一、其首形自然有レ如二龍頭一、故以爲レ名云、慶長中、黃門菅瑞龍公旣致レ政、別新開二高岡一、而徙命二廣七世之祖某一爲二其都正一、毎二朔望令節一朝賀必見、且以下其爲中前著姓之胄上、故特賜二坐位一齒二於大夫之斑一、及二年老一又許二杖於國一、此其所レ用之物、今尚藏レ之云、廣嘗來レ京、寓二學于余塾一、旣成歸郷、已六年矣、今茲廣偶看二其杖一、心有レ思二其祖德一、而懼二其傳永久或致一レ失二其所レ藏之由一也、因具レ狀馳レ書、請三予作二之記一、余心感二其孝思之能遠及一也、遂不二敢辭一爲レ之書、寬政七年乙卯仲夏初吉、
p.0520 富士山上略説
二合目 淺間ノ社アリ、〈○中略〉二町計行ケバ道祖神ヲ祭ル小屋アリ、此所ニテ金剛杖(○○○)ヲ賣ル、料八文ハ師職ニ渡シ置タル故、無代ニテ杖ヲ受取ル、サレドモ割木ノ麁品ニテ手ヲ傷ル故、別ニ直ヲ細レテ買ナリ、夫ニ數品アリ、貴ハ百文、賤ハ十六文、直ニ隨テ精麁長短アリ、長キハ六尺强、短キハ四尺、慳中道巡リ〈○註略〉ノ杖二間計、各火印アリ、〈○下略〉
p.0520 雲介杖(○○○)記
往來無レ心、一處不住者爲レ雲、驛路脚夫、往來無レ心一處不住者、其名曰二雲介一、介者賤稱也、猶レ言レ如也、南無佛菴、嘗於二東海道天龍川上一、見三雲介持二古竹杖一乞レ之、雲介曰、此非二我有一也、驛路上物也、耆老云、見二此杖一數十年、數十年前旣爲二古杖一、爲二百年外物一可レ知也、驛上雲介拄レ之、不レ知レ爲二幾年人一、今我拄レ之、不レ知二明誰拄一レ之、我雲介也、誰雲介也、子得而拄レ之、子亦復雲介歟、佛菴得レ之而歸、因名曰二雲介杖一、杖長四尺一寸、重八十 一錢、圍二寸許、請二所レ識諸名士一作レ銘、第一節、柴講官彦輔、北禪僧大典居レ之、節〈○節恐第誤〉二節、僧聞中、澤旭翁、龜田穉龍居レ之、第三節、柏永日、山本喜六、高秀成、某姓某名居レ之、第四節、大窪天民、池無弦、河子靜、第五節、爲二松浦乃侯一、凡十三人、刻レ字者爲二山景順、橘藏六、益田勤齋田粲堂、稻屋山一、五人皆善篆之工也、杖末微裂、作二金箍一圍レ之、柳川直春所レ製也、又作二鐵足一護二其底一、大啓直種所レ製也、其人或逝或存、凡二十人、爲二一杖所一レ藏、大衣二十五條一件、佛菴受二之師一、七條一件、用二父所レ著水干一製、五條一件、用二母衣裳一製、骨壺一件、以備二身後之事一、此五件、佛菴所レ不レ去レ身之具也、佛菴曰、吾旣傳二家業於子一、吾身始爲二我有一、四方雲遊、吾意所レ適、隨身之物、獨有二此五件一、父生レ我母育レ我、師敎レ我朋友伴レ我、吾身本非二我有一也、今暫爲二我有一、方下暫爲二我有一之凪上、姑存二此五件一、以慰二我志一、願預作二一件一以了二我身一、吾子記レ之、永永伴二此杖一、然後乃今伴レ我者、倂レ與二吾子一爲二凡二十一人一、佛菴之玩二此杖一、其意曠達、其視二此杖一、亞二師及父母一、其意綣綣曠達レ與レ天爲レ徒、綣綣與レ人爲レ徒、全具二天人之道一者也、夫此杖爲レ然、余與二佛菴一交、在二三十年前一、不二相見一二十年、佛菴今以レ我爲二意中友一、來求二此記一、余亦幸老而存、慨二其繾綣一、作レ記以付二姓名於諸賢之後一、
p.0521 御方里、〈○中略〉一云、大神爲二形見一、植二御杖於此村一、故曰二御形一、
p.0521 於レ是零二大氷雨一、打二惑倭建命一、〈○中略〉自二其處一發、到二當藝野上一之時、詔者吾心恒念二自レ虚翔行一、然今吾足不レ得レ步、成二當藝斯形一〈自レ當下三等以レ音〉故號二其地一謂二當藝一也、自二其地一差少幸行、因二甚疲一衝二御杖一稍步、故號二其地一謂二杖衝坂一也、
p.0521 故是以新羅國者定二御馬甘一、百濟國者定二渡屯家一、爾以二其御杖一、衝二立新羅國主之門一、卽以二墨江大神之荒御魂一爲二國守神一而祭鎭還渡也、
p.0521 故是須須許理釀二大御酒一以獻、於レ是天皇宇二羅宜是所レ獻之大御酒一而〈宇羅宜三字以レ音〉御歌曰、〈○中略〉如レ此歌幸行時、以二御杖一打二大坂道中之大石一者、其石走避、
p.0521 爾大長谷王子〈○雄略〉當時童男、卽聞二此事一以慷愾忿怒、〈○中略〉亦興レ軍、圍二都夫良意美之家一、爾 興レ軍待戰、射出之矢如二葦來散一、於レ是大長谷王、以レ矛爲レ杖(○○○○)、臨二其内一詔、我所二相言一之孃子者若有二此家一乎、
p.0522 三年正月乙卯、〈○二日〉大學寮獻二杖八十枚一、
○按ズルニ、卯杖ノ事ハ、歲時部卯杖篇ニ載セタリ、
p.0522 義朝敗北事
井澤四郎宣景ハ、〈○中略〉痛手負テ引下リ、東迹江ニ落テ疵療治シ、弓打切杖ニ突(○○○○○○)、山傳ニ甲斐ノ井澤ヘゾ行ニケル、
p.0522 年高キ人々ノ杖ヲ多ク得玉ヒ、〈○松平定信〉又年賀ノ祝ヒニ奉リシモ少カラズ、其杖ヲ風呂先屛風ノ如キモノニ並べ立テ、小キ短冊ニ歌ヲ題シタルヲ結ビ付ケ、誰ヨリ奉リシ、何方ヨリ贈ラレシト、悉ク記シ置玉フ、
p.0522 杖
わづかに善あれば惡有、長きあれば短有、前あれば後したがひ、右あれば左まじはれるは、物毎の理なりけらし、此ものにつきても、五十にして家につき、六十にして郷につき、七十にして國につき、八十にして朝につくは、壽といひ榮といひ、めでたき事のかぎりなれど、若くてつく人は病るか不禮か、獵漁の爲にしてみなよからざるわざにこそ、うつ杖にも親師の諫めの杖は後くすりなりけれど、囚のうたるゝは、始もわろし後もいたし、このふたつをわきまへざらんや、されども其よき事のみ己に歸すべきとにもあらず、いたりていはゞさかふるも時、をとらふるも時なるべし、そもまたせまりてちかづくとに、はあらざるべし、世を苦竹の杖よ、國につくべき榮もまたず、人をうつべき禁もなし、雨ふり道あしければつく、晴ればつかず、病をこればつく、いゆればつかず、つかまくおもへばつく、いななればつかず、人の杖にあらず、みなわが杖なり、つら杖もまたしかなり、 ほうづえもかたぶく月の詠め哉
病身捨レ世始無レ憂 儀禮不レ修杖二郡州一 何本截成何本失 一林瘦竹吾莵裘
p.0523 朸〈旅卽反、隅也、木理也、材也、阿保己、〉
p.0523 朸 聲類云、朸〈音力、和名阿布古、〉杖名也、
p.0523 按、諸字書、朸訓二木理及縣名一、無二訓レ杖者一、不レ知二聲類何據一、或是枴字之訛略、廣韻、枴、老人拄杖也、古買切、此云二音力一者、當下是見二譌省作一レ朸、就レ字音上レ之、猶二篼省作レ〓、就レ字音レ兒之類一、然四時祭式、西宮記擬階奏條等、皆用二朸字一、爲二荷レ物杖一、新撰字鏡亦音レ朸云二旅卽反一、則其誤不下自一源君一始上也、又按、三才圖會云、木檐負レ禾具也、其長五尺五寸、剡二匾木一爲レ之者、謂二之輭檐一、斫二圓木一爲レ之謂二之樬檐一、匾者宜レ負二器與一レ物、圓者宜レ負二薪與一レ禾、是可三以充二阿布古一也、檐卽擔字、用レ木造、故變從レ木耳、
p.0523 枴(アウコ)〈杖也、古買反、日本之俗呼二擔レ物杖一云レ枴也、〉
p.0523 樬擔(ニナヒボウ/○○) 輭擔(同)〈俗云天秤棒〉 〓(同) 〓擔(アフコ)〈俗云天秤棒〉 朸(同)〈同レ上〉
p.0523 あふこ 倭名鈔に朸をよめり、杖名也と注せり、新撰字鏡にはあほこと訓ぜり、あげ桙の義なるべし、歌に多く逢期によせたり、あとおとかよふ例あり、負木(オフコ)の義にや、今の俗おごといへり、曲おごは輭擔、旅おごは匾擔也といへり、平治物語に竹朸といふ事も見、えたり、野人てんびん棒ともいへり、
p.0523 枴あふこ〈物をになふ木なり、はしとがりたるをいふ、〉 (○○)中國及西國にてあふこと云、長崎にてらこ(○○)といふ、四國にてさす(○○)といふ、江戸にててんびんぼう(○○○○○○)、〈物をになふ木にて、兩の端丸く、あふこと形少しかはれり、〉京にてたごのぼう(○○○○○)と云、越後にてかたげぼう(○○○○○)と云、奧の仙臺にてかつぎぼう(○○○○)と云、遠州にてになひぼう(○○○○○)と云、大坂及堺或は四國にてあふこ(○○○)と云、九州にてろくしやくぼう(○○○○○○○)と云、肥後にてもつこぼう(○○○○○)と云、
p.0523 平岡神四座祭 祭神料、〈○中略〉朸一枝、〈已上幣料、官物神祇官所レ請、〉
p.0524 宮城四隅疫神祭〈○中略〉
朸一枝 畿内堺十處疫神祭〈○中略〉 朸一枝、擔夫二人、〈京職差レ傜充レ之〉
p.0524 造備雜物〈○中略〉
檜朸(○○)卅枝
p.0524 擬階奏
二省候二日華門外一、〈門左右立二赤辛櫃一、有二臺及朸帶一、○中略〉式部輔進二短册一、〈式部輔召二一丞名一、一唯、兩丞共入立二櫃下一、一丞拔レ朸開レ蓋、丞取二短册筥一授レ輔、○中略〉輔又進レ筥、卿奏、〈(中略)一丞取レ筥入レ櫃、一丞取レ朸横レ櫃、上卿兩丞退出、〉
p.0524 ひわりご五十、かみなんぢんすわうしたんなどなり、だい、あふこなども、おなじものふくろしきものゝくゝりなども、いときよらなり、
p.0524 題しらず 讀人しらず
人こふることを重荷と荷ひもてあふごなきこそわびしかりけれ
p.0524 題しらず 讀人しらず
こりつむるなげきをいかにせよとてか君にあふごの一すぢもなき
p.0524 從二六波羅一紀州被レ立二早馬一事
筑後守家貞、長櫃ヲ五十合ヲモゲニ舁セタリシヲ取寄テ、五十領ノ鎧、五十腰ノ矢、其外佛具共ヲ取出シテ奉ル、弓ハ何ニト宣ヘバ、竹朸ノ中ニ節ヲツイテ入タリケレバ、卽五十張ノ弓ヲ取出セリ、
p.0524 あふこは、おとあと通ふこと多ければ、おひ木なるべしといへれど、相木の意にて通ずべし、又荷ひたるさま、はかりにかけたらむやうなれば、俗には天秤棒(○○○)といへり、世にいふ婦 人これをこゆれば、折るゝとて忌ことありとなむ、これ誤り傳へなり、人倫訓蒙圖彙、法論みそ賣賣の處に、曲物に奇麗なるこもをおほひさしになひ、何方にても下にすぐにおく事なし、一方を高き所へもたせ置、人にふみこえさせぬよし、子なき女これをこゆれば、かならず懷姙すといへり、さらば望みても、こゆべき事ならずや、
p.0525 鶴人、當所は〈○大坂〉大抵天秤商ひをする者が、まへだれかけやす、アレ向を通るのが、、雪駄直しで厶リやすが、江戸とは大違ひで、アノ通りに後は簞笥、前は箱で、笠などはかぶらず、天秤でかつぎやすから、知らぬ人が見ると、何だか分りやせん、
p.0525 挾箱(ハサミバコ)〈古近行人以レ竹挾二衣服或袴等一、令二僕擔一レ之、適二寒暖之用一、是號二挾竹一、今嫌二其不一レ便而造レ箱、其蓋上施レ棒令二僕擔一レ之、元出レ自二挾竹一、故號二挾箱一、蓋自二慶長年中一始、〉
p.0525 插箱(ハサミバコ)
p.0525 細川幽齋老、初て當世の挾箱を作り出されたり、夫より此かた竹挾(○○)止て、挾箱はやるなり、
p.0525 明曆三酉年正月
櫻田口御門ニ下馬札立レ之、因レ茲右御門之内〈江〉出仕之面々、召連人數被レ仰二出之一、
一御城〈江〉召連候人數之事
侍三人、草履取、はさみ箱持、六尺四人、
右之人數ゟ多不レ可二召連一、勿論於レ不二事欠一者、此内をも可レ爲二減少一事、〈○中略〉
以上
萬治二亥年九月
出仕之面々御城中〈江〉召列人數被レ仰二出之一、所レ謂下馬ゟ下乘之橋迄召列人數之覺、〈○中略〉
一挾箱持 二人〈○中略〉 右之通可レ相二通之一、たとひ國持大名たりといふとも、此書付之外、人數多通間敷者也、〈○中略〉
延寶八申年十一月
御本丸
定
一御三家甲府殿挾箱者、如レ常可レ通之事、
一國持大名を始、其外登城之面々挾箱は、中の御門之外、中腰懸之向、又者二丸銅御門之前可二差置一事、
一御城ニ部屋在レ之面々者、如レ常可レ通之事、
右出仕多時分者、自今以後、可レ相二守此旨一也、
十一月
p.0526 延享四卯年正月
先挾箱爲レ持候儀、吉來より爲二持來一候分者、只今迄之通たるべく候、
一古來より先挾箱爲レ持候得共致二中絶一、近來爲レ持候面々者、向後先挾箱可レ爲二無用一候、勿論近來新規爲レ持候面々者、猶以先挾箱可レ爲二無用一候、
但し古來ゟ先挾箱、爲レ持、跡にも蓑箱之外挾箱爲レ持候面々も、是夂只今迄之通たるべく候、古來ゟ尭挾箱計爲レ持候處、近來跡にも蓑箱之外挾箱爲レ持候分者、向後跡爲レ持候挾箱可レ爲二無用一候、
右之通可レ被二相觸一候
正月
p.0526 寶永二酉年七月 覺〈○中略〉
一近年は挾箱之棒長無益之事候間、前々之通短可レ仕候、且又鑓持、挾箱持、草履取之體、不作法相見候間、不禮に無レ之樣可二申付一事、〈○中略〉
右之通、向々〈江〉可レ被二相達一候、以上、
七月
p.0527 挾箱(はさみはこ) 波左美波古 有二二折大二折一寸高、二寸高、三寸高等之數品一、
按挾箱、近代之制也、古者用二板二枚一覆二衣服上下一、以レ竹挾レ之、令二僕擔一レ之名二挾竹一、自二慶長年中一始以レ箱插レ棒令レ擔レ之名二挾箱一、平士及庶人用二一箇一、高官者令二二人雙行一、謂二一對挾箱一、〈相傳、慶長中、秀吉公僕名二布施久内一者、始作二出之一、〉
p.0527 文匣〈○中略〉 近世挾箱亦造レ之、〈○中略〉烏丸勘解由小路稱二豐後一者、其巧美而堅固也、
p.0527 武器及行列具的例
一狹箱 家格によつて品有、公方樣には栗色網代にして、御先〈江〉四ツ爲二御持一、公家方幷女挾箱には紐を附る、諸侯方には金紋先箱、同長革掛、或は二重革、内金紋朱紋黃絞等品々有レ之、
p.0527 挾箱 普通の品の外製作子細なし、〈金紋挾箱は格別の家格に依べし、金絞長革短キ革をかけたるも、家格先例によるべし、公家門跡方迄は網代挾箱に、胴にも紋を付らるゝ巷あり、殊に賞翫のように云傳へたり、公家方幷女挾箱には、紐を付るといへども、男挾箱には紐の有無子細なし、武家方にて紫緖を用らるゝは、上杉家に限るべし、是も少將の後用ひらるゝ、○下略〉
p.0527 松平伊豫守殿越前本家相續被二仰付一事
一問曰、當時諸犬名の中に、皮の油單を掛る挾箱を持せられ候、旁間々相見へ候へ共、就レ中越前家の御衆中の義は、不レ殘皮油單の掛りたる挾箱御持せ候には、何ぞ子細有レ之事にや、其元には如何御聞候や、答曰、我等及レ承候は、故中納言殿御事は不二申及一、御息三河守殿御代も、今時御三家御同前の挾箱にて有レ之候、松平伊豫守殿にば、姉ケ崎一萬石拜領被レ有候節より、越後高田の城主に被二仰 付一候以後迄も、常體の挾箱計りを御持たせ候處に、本家相續の被二仰出一以後の義は、諸事共に故中納言殿、三河守殿、兩人の通りと有レ之儀も、先兩人の通りに有レ之所に、寬永二年大猷院樣〈○德川家光〉より御三家同前に、上野國に於て御鷹場拜領被二仰付一、是非共に在府候間久敷樣に被二仰付一と也、其節江戸逗留の内、所々の御門番所、又は、途中に於ては、人々御三家と見違、歷々方にも下馬被レ致候衆中抔多く候に付、伊豫守殿には、是非に難義有レ之、夫より挾箱に紋所の見へざる樣にと有て、皮の油單を御掛させ候となり、然ば別に公儀の御差圖と申にも無レ之に付、何時にても火事騷動人込の時節に至り候ては、上の皮油單をばはづし申筈に候と也、此油單の義に付、我等若年の節、淺野因幡守殿、丹羽左京大夫殿へ振舞に被レ参、夜に入歸宅之節、勝手座敷の内に、膳番所と申て、近習邊の侍共詰居申所有レ之、其前を被レ通候節、步行頭役の者へ被レ申候は、其方支配の徒士の者に、梶川次郎左衞門義、我等方へ不レ參以前には、松平越前守殿に罷在たると申は、其通りかと被レ申候へば、成る程御意の通りに候と申せば、其義に於ては次郎左衞門を呼に遣し候へと有レ之、無レ程次郎左衞門罷出候へば、因幡守殿直に次郎左衞門に被レ尋候は、酉の年〈○明曆三年〉大火事の節、越前守殿には、龍の口屋鋪より淺草邊へ立退被レ申候時は、挾箱に掛り候皮の油單は御取らせ候と有るは、其通りかと御申候へば、次郎左衞門承り、越前守立退候節は、屋鋪の内所々より燒上り、殊の外火急なる義に有レ之候、越前守は玄關の式臺の上より馬に乘るとて、供頭役の者を被レ呼、あの挾箱の油單をば、何とて取らせ不レ申哉、ケ樣時節にも油單を取間敷ならば、覆の金紋も不レ入物也、急に取せ候へと被レ申候へば、あまり火急にて御座候へば、步行中間者共寄り集り、引破り取捨候と申ければ、因幡守殿御聞有り、桑原定齋と申儒者へ被レ向、あの男が口上にて、埓明たる由御申候と也、
p.0528 都下諸大名ノ往還スルニ、ソノ行裝尋常ト殊ナルアリ、眼ニ留マル所ヲコヽニ擧グ、〈○中略〉 先箱ノ紋ハ金紋先箱ト唱ヘテ、何方モ同ヤウナルニ、岡山侯ノ先箱ハ黃紋ナリ、〈明和安永ノ比ノコト、人口ニ膾炙ス、〉又先箱金紋ニ非ズシテ餘色ヲ用ルコト、外ニハ見ザルナリ、〈○中略〉
先箱ノ覆ニカクル革ハ長キモノ多シ、水口侯〈加藤氏〉ノ先箱ノ革ハ短ニシテ、半分ヘカヽル赤色ナリ、
淀侯〈稻葉氏十餘萬石〉ハ當主ハ先箱ヲ持セ、ズ、傘ニモ袋ヲカケザルガ、ソノ世子ノトキハ、先箱ヲ持タセ、傘モ袋ニ入ルヽ、當主トナレバ始ノ如シ、〈○中略〉
熊本侯ノ挾箱ニハ、通例ノ如ク覆繩ハナクシテ、紫革ヲ棒ニカケ、蓋ノ間ニセンヲセシヲ、包メル如クナリ、〈○中略〉
府中侯〈毛利甲斐守五萬石〉ノ挾箱ニハ、赤革ニ朱紋ナリ、〈○中略〉
米澤侯〈上杉氏〉ト吉連川氏〈左兵衞督〉ハ、挾箱ニ紫ノ覆繩ヲカクル、姫路侯〈酒井氏〉ノ世子河内守モ同前ト云、コレハ近頃公儀ノ御聟ニ成リテ、世子計リ其家ノ古格ヲ用ユ、聞ケバ古キ家格ニテ有シナルベシ、〈○中略〉
津輕ノ支侯甲斐守〈黑石一萬石〉ト盛岡ノ支侯丹波守〈南部氏一萬千石〉トハ、挾箱ニ赤長革ヲカクル、通例先挾箱ニハ長革ヲカクルコトナルガ、コノ兩家ハ駕後ノ挾箱ニカク、外ニ類ナシ、コノ兩氏ハ近頃ノ新家ニシテ、津輕ノ方始メナリシガ、ソノ頃先箱ノコト、大目付ノ方ニテムツカシク云シト云フ沙汰アリキ、因テ先箱ヲ後ニ持タセシニヤ、南部ハ又ソノ後ニ出タレバ、津輕ノ顰ニ傚ヒタルナラン、〈○中略〉
彦根侯〈伊井氏〉ハ大家ニテ一本槍先挾箱一ツナリ、人ノ所レ知、然ルニ世ノ太刀箱ト謂フモノヽ如キヲ、イツモ從へ持セラルト云、〈○中略〉
佐嘉侯〈松平肥前守〉久留米侯〈有馬玄蕃頭〉トハ、挾箱ノ覆繩唐糸ウチナル由、〈○中略〉 岩城平侯〈安藤對馬守〉ハ駕ノヤネヲウルミ色ニ塗ル、挾箱ノ蓋モ同ジ、〈○中略〉
萩侯ノ先箱ノ長革ハ黃色
八戸侯〈南部氏二萬石〉先箱モ長革ニシテ靑色
松山侯〈松平隱岐守〉ノ箱ハ二重革ヲカクル
p.0530 挾箱 今世將軍家ノ挾筥ハ、溜塗、網代蓋黑塗、蓋上ニ葵大紋二ツ、蓋緣前後各四ツ、左右各三蓋雁立ト云テ、先筥四ツヲ縱一行ニ列ス、日光法親王挾筥同製、紋菊蓋先筥四ツニ箇二行、
縉紳家ハ大臣以下、筥蓋トモニ黑塗、是ハ胴紋ト云テ、筥ノ前後各二ツ左右各一ツノ大紋ヲ描ク、予先年上巳ノ日、帝居ニ詣テ諸官人ノ參内ヲ見ルニ、五攝家ハ未任大臣モ乘物ニテ參内ス、蓋三公ニ任ジタル人先筥有レ之、未ダ三公ニ任ゼザル人ハ無レ筥也、淸華以下モ三公ニ任ジタルハ如レ上、納言以下ハ侍一人或ハニ人履取僕一人ノミ、皆步行也、
親王法親王ハ乘物ニテ、先筥アリ、
武家ハ家格ニヨリ先筥有無也、又金絞モ免許ノ家ノミ描レ之、其紋蓋及同緣ニ描クコト、前ニ云ガ如シ、胴紋ハ更無レ之、
駕後ノ對挾筥ハ、万石以上以下トモニ乘物ニテ登城ノ人必用レ之、蓋後筥ノ次ニ万石以上ハ必ラズ蓑筥アリ、以下交代旗本ナドハ有レ之トモ、多クハ蓑筥ナシ、騎馬ノ人ハ後筥二ハ稀也、專ラ一ツ也、步行ノ人ハ必一ツ、
井伊掃部頭ハ先筥一ツヲ家風トシ、備前池田家ハ黃絞ヲ描キ金紋ニ擬シ、越前家及津輕氏ハ前筥後筥蓑筥トモニ、赤革ノ覆ヲ掛ル、長キコト地ニ至ル、―――――ハ桐ノ素木先筥後筥ヲ用フ、又家格ニヨリ挾筥蓋上ニ太キ紐ヲ掛ル、將軍家、親王家ハ紫、其他ハ專ラ黑、又陪臣ノ後筥ニモ紐 ヲ掛タルアリ、
縉紳家、及僧侶ノ挾筥ニハ、專ラ紐アリ、
又江戸市民ハ年始回禮ニ出ルニ、主人麻上下手代一人、丁兒一人、挾箱持一人、大中戸ノ者如レ此、小戸ハ略レ之、挾筥持鳶人足ノ頭也、家號アル熏革大羽折ヲ著セル、挾筥ニハ年玉ノ扇等ヲ納厶、京坂無レ之、又三都トモ葬送ニハ挾筥ヲ用フ、今世其他事不レ用レ之、
女用挾筥ニハ、黑無地、或ハ黑塗ニ、徑二寸許ノ定紋ヲ數々散描ク、蓋必ラズ油單ト號ケテ覆ヲ掛ル也、前ニモ云ル如ク、乘物日覆猩々緋ノ時ハ、挾筥覆同製白ラシヤ切付ニテ定紋ヲ描ク、
或ハ先筥後筥トモニ、紺萌木等ノラシヤ白切付紋モアリ、年齡ニヨリ如レ此歟、
幕府以下宗室國主大名等上輩女房ノ挾筥、緋ヲ用ヒズ、他色ノラシヤニ白切付定紋也、
高貴ノ婦女潛行ニモ、對後筥モアリ、或ハ後筥一ツヲ用フモアリ、此時ハラシヤハ稀ニテ、專ラ中形地紋同色ノ純子也、紋品ニヨリ地紋他色モアリ、定紋ハ描カズ、
p.0531 享保九年十二月七日、當職〈○關白近衞家煕〉ノ初ヨリ、火事挾箱(○○○○)ト名付テ、非常ノ爲ニコシラヘテ、兼テ用意セシニ、ソノトキ初テ御用ニ立タリ、一方ニハソレゾレノ私具、一方ニハ茶碗茶臺ヲ初テ、御膳ノ具マデ、新調ヲ一通リ入テ、カリニモ次ニセズシテ用意ス、東山院鴨ノ川原ノ中途御渴アリ、湯ヲ聞シ召ソト詔アリシニ、幸ニシテ茶辨當ハアリケレドモ、用意ノ具ヤナカラントヒシメク、彼新調ヲ獻上ス、手柄ヲシタリ、スナハチ今ノ左府〈○迸衞家久〉マデニ云傳テ、此ノ非常ノ具ヲ用意スト仰ラル、
p.0531 文化六年十一月廿七日癸未、岩橋へ簞笥、長持、油單、女挾箱(○○○)、杷等一ヅヽ拜借、
p.0531 右大將樣〈○德川家定〉御婚禮之次第、
天保十二辛丑年五月廿八日〈○中略〉 姫君樣御入輿御道具出來之内〈○中略〉
〈黑塗若松唐草兩御絞ぢらし〉一御挾箱 一對
御覆唐織七寶、兩御紋、御雨覆猩々緋、兩御紋、
p.0532 前關白秀次公之事
鹿狩よこなどに立出させ給ふにも、兵具をひそかに持せ給ふて、武を忘れ給ぬ體あらましく見えしかば、供奉の人々も具足甲を挾箱にかくし入、御用に可二相立一之翔、密々の樣に有しかど、〈○下略〉
p.0532 江戸町衆はさみ箱かづかする事
見しは昔、慶長三年の事かとよ、夏の暮かた四五人門立して凉し處に、小者にはさみ箱かづかせ、海道を通る人有、あらふしぎや、大名にはあらず、伴する者もなし、誰にてましますらんと能見れば、江戸本町のなまりや六郎左衞門なり、我も人も是を見て、扨々きやつは出角者、ぜんたい國大名のまねをして、はさみ箱をかづかせとをるぞや、町人のぶんとして似合ぬ振舞かな、よもをのれがにてはあらじ、大名衆のはさみ箱をやかりつらむ、たそがれ時なれば、人はしらじと世勢をするのみたもなさよ、我等が前を過る時、はづかしくや思ひ劒、頭をもたげず通り行、うしろすがたのおかしさよ、只是大名と太郎冠者が、狂言に能似たりと、指をさして笑ひたりしが、今は高きも濺も、皆はさみ箱をかづかする、是のみならず、當世の風俗、昔に替り美々敷事、のべ盡すべからず、
p.0532 水野監物下屋敷へ行テ、家中ノ者ノ乘馬見物スベシト、馬場ニ出ラレケル時ニ、中小姓ノ挾箱持一人馬場邊ヲ徘徊シケルガ、監物出ラレシ音ニ驚キ、挾箱ヲ馬場ニ捨置逃去ケリ、監物是ヲ見テ、此挾箱ハ誰ノカハ知ラネドモ、カリ申トテ手ニテ戴キ、會釋シテ腰ヲ掛ラレケル時ニ、フタヲ明ケサセテ見ラレシニ、燒飯三ツ反古ニ包、草鞋二足アリ、監物見ラレテ、殊ノ外機嫌 ヨク、其挾箱ノ主ヲ呼出シ、其方事心掛ヨキ武士也、侍ハ腹ヘリテハ武邊モナラズ、然レバ食物草鞋ハ武用第一ノモノナリ、其方不勝手ト見へテ、燒飯ノ色黑シ、精ゲニイタシ候ヤウニ加增申付ベシトテ、其場ニテ米三石加增致シケルトナリ、
p.0533 慶長十五年正月廿九日、於二大佛照門一連歌出座候、〈○中略〉八條殿殿上人中務下人、ハサミ箱ノ小袖ヲ盜人取走、
p.0533 一同年〈○寬永十六年〉ニ江戸大火、此時御城回祿ス、御城御普請出來シテ、御移徙ノ時、御一門及ビ諸大名衆ヨリ獻上物ノ品々、〈○中略〉
一御挾箱 二 松平山城守忠國
p.0533 山城 插箱(ハサミバコ)