p.0427 華蓋(○○) 兼名苑注云、華蓋、〈和名岐沼加散(○○○○)〉黃帝征二蚩尤一時、當二帝頭上一有二五色雲一、因二其形一所レ造也、
p.0427 按、古今注云、華蓋、黃帝所レ造也、與二蚩尤一戰二於涿鹿之野一、常有二五色雲氣金枝玉葉一、止二於帝上一、有二花葩之象一、故因而作二華蓋一也、兼名苑注、蓋本レ之、則疑當是常字之誤、帝上似レ脱二於字一、按説文、蓋(○)、苫也、謂二以レ艸覆一レ之也、故其字從レ艸、以爲レ繖(○)者、蓋轉注也、
p.0427 華蓋
筆談、輦後曲蓋謂二之筤一、兩旁夾レ扇通、謂二之扇筤一、皆綉、亦有二銷金者一、卽古華蓋也、
p.0427 〓(○)〈キヌカサ、或作レ蓋、張レ帛也、寶蓋(○○)、華蓋、雲蓋(○○)、日蓋(○○)等也、〉
p.0427 蓋(キヌガサ) 繖(キヌガサ) 繖蓋(キヌガサ) 曲蓋 敝蓋(ヤブレカサ)
p.0427 きぬがさ 日本紀、倭名抄に蓋をよめり、祝詞に衣笠と見ゆ、又華蓋をよめり、錦蓋などをいふ也、葬儀にも用る也、
p.0427 笠
かさのしなくさ〴〵あり、よき人のは、きぬがさ、おほがさになん、きぬがさのこと、衣笠内大臣ときこゆる人のおはせしによりて、衣笠(キヌガサ)と心うるはわろし、和名抄に華蓋〈和名岐沼加散○中略〉と見えて、い ろいろのきぬしておほひたるものにて絹笠なり、〈○下略〉
p.0428 きぬがさ 蓋 凉傘
古へは皇朝にても鹵簿に用られたり、令によれば形四方なりと見ゆ、今佛家に用る天蓋もまた四角なり、これも古への形はのこりたる物なれば、たがふまじきことなり、さるに万葉集に月暈またはおゝがしはの葉を蓋にたとへたる事有り、是はおほよそにいへばにや、又は丸きも有りけるにや、明和元年の春、朝鮮使の來りしを見たるに、淺葱の蓋をさしたるに、よのつねの長柄傘の大さにて、骨は六本か八本ばかり付たれば、角のさしはりて六角の樣に見えし、もとより緣にはまた水引を付たり、琉球使の蓋も見たるに、是は二蓋なり、ほねはつねの長柄傘の如くして丸し、又華嚴經に蓋雲といふ事有り、これらも丸きをいふなるべし、
p.0428 傘(○)、繖(○)、〓傘、〓、〓、〈六形同、先岸桑爛二反、蓋支奴加佐(○○○○)、〉
p.0428 王雅字茂達、東海剡人、〈○中略〉會稽王道子領太子太傳以レ雅爲二太子少傅一、〈○中略〉少傅之任、朝望屬レ珣、〈○王珣〉珣亦頗以自許、及二中詔用一レ雅、衆遂赴レ雅焉、將レ拜遇レ雨、請二以レ繖入一、王珣不レ許レ之、因冒レ雨而拜、
p.0428 車繖〈○中略〉
國主繖、或紅、或黃、無レ定、以二金龍一爲二頂蓋一、后用二金鳳一、太子用二金龍一、妃紫繖、用二金孔雀一、一品靑繖、用二銀浮圖一、二品三品用二紅浮圖、四品五品靑浮圖一、
p.0428 菅蓋(○○)〈菅大笠〉
菅蓋の形狀いまだ詳ならず、但大嘗會畫圖に供御の料に、菅蓋といひ傳へたる圖有、延喜式に見えし菅蓋物にや、蓋とのみいふは四角なるものなり、儀制令に頂及四角覆レ錦垂レ總とみえ、内宮送官符にも方五尺七寸、頂幷肆角上覆レ錦などみえたれば、正しく佛家の天蓋に似たるものなり、大 笠は傘の如く、内に柄あるものならんとおもはるれば、是は外より柄を付たるぞ違目なるべき、送官符に、蓋をば二具と書、刺羽をば二柄と書、大笠をば二枚とも一柄とも書たるにても、思ひやられたり、
p.0429 主殿寮
頭一人掌二供御輿輦、〈○義解略〉蓋(○)、笠、繖(○)、扇〈謂繖、繖蓋(○○)、○中略〉等事一、
p.0429 問、繖、繖蓋者其意何若、如レ繖之蓋歟、扇團扇也、釋云、上思爛反、野王案、繖卽蓋也、見二唐衣服令一、或云、繖似レ扇而大者非也、音蘇旦反、〈○中略〉穴云、繖、謂平繖、繖蓋也、唐儀制令云、皇太子繖者是、跡云、繖者蓋言二平繖之蓋一耳、〈○中略〉古記云、陸詞曰、繖蓋也、音蘇旦反、〈○中略〉伴云、家語、孔子、將レ雨無レ蓋、是也、今時繖也、
p.0429 凡蓋(○)、皇太子、紫表、蘇方裏、頂及四角、覆レ錦垂レ總、親王、紫大纈、一位、深綠、三位以上、紺、四位、縹、四品以上、及一位、頂角覆レ錦垂レ總、二位以下、覆レ錦、〈謂唯得レ覆レ錦、不レ可レ垂レ總、其大納言以上者、兼用二錦總一也、〉唯大納言以上、垂レ總、並朱裏、總用二同色一、〈謂總者、聚束也、同色者、與レ表同色、〉
p.0429 穴云、問、皇太子不レ有二儀戈一由何、答、尚依二文習一耳、或云、師云、上條儀戈、此條蓋並副飾馬所レ出也、此説不レ安耳也、〈在穴〉朱云、蓋常不レ用也、此説可レ用二飾馬時等一者、〈○中略〉古記云、頂及四角覈レ錦垂レ總、謂在二寺寶頂一一種也、〈○中略〉或云、蓋色云二紫縹一不レ云二深淺一耳、〈在釋○中略〉釋云、二位以下覆レ錦、謂不レ垂レ總、大納言以上垂レ總、謂錦亦覆也、古記无レ別也、〈○中略〉釋云、説文、總聚束也、音作孔反、同色、謂與レ表同色耳、古記云、總用二同色一、謂用二表色一也、
p.0429 一新宮遷奉御裝束用物事
紫衣笠(○○○)二口、〈各裏緋綾〉組八條、〈赤紫〉緋綱四條、〈長各二丈、二條衣笠料、二條菅笠二柄料、〉
p.0429 紫衣笠は、牟羅佐伎乃伎奴加左とよむべし、威儀の行幸に用る具也〈○中略〉衣笠 は蓋也、淸寧紀三年、靑蓋車とあるも衣笠の形をかざりし車なるべし、〈○中略〉組は久美とよむべし、〈○中略〉さて右の組、蓋の四角に垂れば、二口の料合て八條也〈○中略〉緋綱は比能都那とよむベし、〈○中略〉右蓋を掩ひ奉る時、傾曲をひき直す料に、緋の綱を蓋につけ、供奉人二人これを執る也、四條の中、二條は蓋二口に著け、二條は菅笠二口につぐ、次にのせたる菅笠二柄料綱をもこゝにかねしるせし也、
p.0430 踐祚大嘗祭儀上
左右近衞府、左右各騎陣十人、步陣十人、腰輿在二其間一、菅蓋(○○)紫蓋次レ之、
p.0430 踐祚大嘗祭儀中
車持朝臣一人執二菅蓋一、子部宿禰笠取直各一人、共膝行執二蓋綱一、還亦如レ是、
p.0430 太神宮裝束
蓋二板、淺紫綾表、緋綾裏、〈表各三丈、裏加レ之、〉頂及角覆レ錦、〈枚別所レ須一丈〉垂二淺紫組總一、〈枚別所レ須八兩、但縫料絲臨時斟酌諸受、以下准レ此、〉緋綱四條、〈二條蓋料、二條菅笠料、長各二丈、○中略〉
度會宮裝束
紫蓋(○○)一枚
p.0430 齋王定畢所レ請雜物
行具〈○中略〉 蓋二條〈各方一丈四尺〉料、深紫淺紫黃帛各五丈六尺、緋帛一匹一女二尺、同裏料緋帛四匹、紐五十六條料、緋帛一丈二尺六寸、綱三條料、緋帛一匹、
p.0430 野宮裝束
御輿中子菅蓋一具〈菅幷骨料材従二攝津國一笠縫氏參來作〉料、生絲六兩、苧小十兩、〈已上二種骨結料〉單功十人、食料白米二斗、〈人別二升〉鹽二合〈人別二勺〉醬滓二升〈人別二合〉海藻一斤四兩〈人別二兩〉酒六升、〈人別六合〉 張二御殿一蓋代料、調布八端四尺、〈切廿條、條別長一丈七尺、〉練絲一絇、苧小五斤、
御輿蓋一枚料、油絁一麦六尺二寸、調布一丈六尺二寸、單功三人、〈漆工〉
p.0431 正月元日燒香吏生左右二人、〈○中略〉殿部左方十一人、一人執二梅杖一、二人紫繖(○○)三人紫蓋(○○)、二人菅繖(○○)、三人菅蓋(○○)、右准レ此、其裝束各黃帛袷袍一領、
p.0431 御裝束 伍拾肆種 大神宮御料〈○中略〉
赤紫綾蓋(○○○○)貳具 各方五尺七寸、裏緋綾副二緋綱二條一、長各二丈、柄長壹丈參尺、頂金銅鉢形黑漆平文、金銅桶尻、骨捌枝、長四尺五寸、末蕨形金各四枚、長各四寸、本末幷刺張木本岳蟹爪各二寸、頂幷肆角上覆レ錦花形赤紫緂組捌條、長各一尺、張緖著二緋丸組捌條一長各二尺、各在二志倍金總一、
p.0431 爪工連 神魂命男、多久豆玉命之後也、雄略天皇御世、造二紫蓋爪一、幷奉レ飾二御座一、仍賜二爪工連姓一、
○按ズルニ、〈訂正〉新撰姓氏錄爪工連ノ條ノ頭書ニ稻彦云、紫蓋爪、三字不レ穩、按蓋字下、脱二紫刺二字一、皇大神宮儀式帳云、紫衣笠二口云々、紫刺羽二柄トアリ、
p.0431 三年正月丙辰朔、小楯等奉二億計、弘計一、到二攝津國一、使下臣連持レ節、以二王靑蓋(○○)車一、迎中入宮中上、
p.0431 延平元年八月、殤帝崩、太后與二兄車騎將軍鄧〓一、定二策禁中一、其夜使下〓持レ節、以二王靑蓋車一迎レ帝、齋中于殿中上、〈續漢志曰、皇太后、皇子皆安車、朱班輪、靑蓋、金華蚤、皇子爲レ王錫以乘レ之、故曰二王靑蓋車一、皇孫則綠車、〉
p.0431 靑蓋 あをきぬがさ
今案に、靑蓋は卽ち靑凉傘也、
p.0431 元年五月庚午朔、空中有二乘レ龍者一、貌似二唐人一、著二靑油笠(アラキアブラカサ/○○○)一、而自二葛城嶺一馳隱二膽駒山一、及レ至二午時一、從二於住吉松嶺之上一西向馳去、
p.0431 靑油笠(アヲキアブラキヌガサ)
p.0432 長皇子遊二獵路池一之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首幷短歌、〈○長歌略〉
反歌
久堅之(ヒサカタノ)、天歸月乎(アメユクツキヲ)、綱爾刺(ツナニサシ)、我大王者(ワガオホキミハ)、蓋爾爲有(キヌガサニセリ)、
p.0432 蓋の左右に綱を付て、侍臣のひかへつゝ行故に、さしといへるなるべし、伊勢大神宮式の蓋の下に、緋綱四條とある是也、
p.0432 判官久米朝臣廣繩
見レ攀二折保寶葉一歌二首
吾勢故我(ワガセコガ)、捧而持流(サヽゲテモタル)、保寶我之婆(ホヽガシハ)、安多可毛似加(アタカモニルカ)、靑蓋(アテキキヌガサ)、
p.0432 嘉保年寶藏實錄日記
一現在 第一韓櫃〈○中略〉紫染絹合佛蓋貳帳 一帳前帳云、表綾裏絹、其緣所々損者、悉朽損、一帳云、注穀也、裏皆深紫、又所々損者、悉損無實、寬治六年帳云、今撿同前、〈○中略〉
第十三韓櫃〈○中略〉靑表裏緋横蓋壹條 前帳云、全、 寬治六年帳云、今撿同前 今撿〈○中略〉佛蓋壹條前帳云、表紫裏緋、所々破損、 寬治六年帳云、今撿同前、〈○中略〉 今撿 白横蓋壹條 前帳云、注、單先合、 寬治六年帳云、今撿同前、今撿 綿綾交繡蓋壹條 以レ玉裝束也、全、今撿、
○按ズルニ、寺院ニテ用イル蓋ノ事ハ、宗敎部佛敎法具篇ニ在リ、
p.0432 弘安九年三月廿七日甲午、天皇〈○後宇多〉可レ有レ行二幸春日社一、〈○中略〉舁二立神寶於南座一、〈○註略〉神寶付二社司一、〈○中略〉 神寶送文 一神寶〈○中略〉錦蓋(○○)四流〈在二黑漆臺一〉
p.0432 簦 史記音義云、簦〈音登、俗(○)云大笠(○)、於保賀佐(○○○○)、〉笠有レ柄也、
p.0432 虞卿者、游説之士也、躡レ蹻擔レ簦、〈徐廣曰、蹻、草履也、簦、長柄笠、音登、笠有レ柄者謂二之簦一、〉
p.0432 簦、笠、皆所二以禦一レ雨也、大而有レ把、手執以行、謂二之簦一、〈○中略〉虞卿躡レ屩擔レ簦、卽謂レ此也、
p.0433 簦〈音登、俗云大笠、オホカサ、トリカサ、カサ、〉 大簦(○○)〈オホカサ〉
p.0433 筌〈オホカサ長柄笠〉
p.0433 笠(カサ)〈菅〉簦〈同〉
p.0433 笠〈カサ〉 簦〈ヲホガサ〉 カサの義不一レ詳、笠にして、柄あらむには、卽今のカラカサといふものゝ類なるにや、其制の如きは知らず、〈古畫に藺笠の如くにして、大なるものに柄あるを繪がきしを見たりき、夫等のもの、大笠といひしものゝ制にやあるらむ、不一レ詳、〉
p.0433 かさ〈○中略〉 倭名抄に、簦を俗に大笠といふと注せり、今だいがさ、たてがさといへる物は、大の字音をよび、たては大傘地に立べきをいふなるべし、西土にも竪笠の名あり、
p.0433 おほがさ〈大繖(○○) 屏繖(○○)〉
おほがさは今の世の日傘なるべくおもはる、その形狀はしたしく見る者ならねば、委しくは辨じがたし、されども大方は、かの伊勢物語に、富士の山を、なりはしほじりのやうになんありけるとあるを、朱雀院の塗籠御本には、此山うへはせばく、しもは廣くて、大笠のやうになん有けると有にて、凡は其さましられたり、但日傘といへる名は、宗五大艸紙にみえたる外に、古くはいまだみあたらず、されど延喜式〈内匠野宮装束〉に腰輿一具、屛繖二枚と見え、和名鈔〈服玩具〉に唐令云、腰輿一次大繖四、本朝式〈按に延喜式なるべし〉云屛繖と記され、また唐書儀衞志云、天子出、大繖二、執者騎、横行居二衞門後一と見えたるなど、皆日傘なるべくおもはる、雨天の料にくらぶれば、殊の外華麗なるものなり、多く絹にて張たる歟、色目に制度ある事は聞えざれども、大方緋をもちふるにや、西土にては色の制度あるよし、世々の國史に見えたり、海山記に、帝與二楊素一釣二魚於池一坐二赭傘一とみえ、韓退之遊二靑龍寺一詩に、柿の紅葉せしをたとへて、赫々炎官張二火傘一などもいへれば、緋傘常用の物と見えたり、又按に、山城國南禪寺に、龜山院の御腰輿御屛繖ありて拜見せしが、いかにも美麗なるものなり、寺 僧は屛繖なる事はしらずして、唯是も御腰輿に添たるものなりとて見せたれど、腰輿に添ひたる上は、屛繖にて有べきなり、
p.0434 天子乘輿以出、〈○中略〉次大繖二、執者騎、〈○下略〉
p.0434 加茂祭儀
執物左右各四人〈一人大翳、一人大笠(○○)、一人棒レ壺、一人行障、並著二退紅染衣一、〉
p.0434 凡大簦(○○)、聽二妃已下三位已上及大臣嫡妻一、
p.0434 齋王定畢所レ請雜物〈○中略〉
行具〈○中略〉 大笠二枚〈加二平文柄幷志部一○中略〉
三年一請雜物〈○中略〉
緋絁(○○)六匹八尺、〈(中略)一丈八尺、大笠二蓋裏料、○中略〉絹二百卅八匹一丈七尺九寸、〈(中略)一丈八尺、大笠二蓋覆中幡料、○中略〉油絁三匹五丈二尺、〈(中略)一丈八尺、大笠二蓋覆料、○中略〉朝使已下女嬬已上座料、〈○中略〉大笠二蓋、
p.0434 加茂祭 女使料〈○中略〉
竹大笠(○○○)一蓋〈已上内侍料〉
p.0434 伊勢初齋院裝束〈○中略〉
大笠柄二枝〈加二志部一〉料、檜榑一村、白〓薄四枚、〈方八寸〉阿膠四兩、熟銅大十二兩、滅金小一兩二分、鑑銀三分二銖、水銀三分、炭二斗、和炭八斗、漆六合、掃墨三合、單功廿四人、〈木工四人、漆四人、銅八人、白〓八人○中略〉
野宮装束〈○中略〉
大笠柄一枝〈長八尺○中略〉
加茂初齋院幷野宮裝束〈○中略〉
大笠柄二枚〈平文加二志部一〉
p.0435 菅簦(○○)
公卿及祭使、御禊前駈持レ之、〈白鳳制云、三品已上聽二菅簦一之云云、〉
p.0435 御装束 伍拾肆種 大神宮御料〈○中略〉
菅大笠(○○○)貳枚 柄長各八尺五寸、徑一寸二分、里漆平文、金銅桶尻、長一寸六分、耳金二隻、副緋綱四條、長各二丈、骨貳拾枚、漆塗骨末押二金薄一、其體如二蕨形一、廻曲各伍枚、竹削漆塗、頂覆二金銅盤形金壹枚一、徑七寸、笠口徑肆尺陸寸貳分、 已上納 緋袋壹口一〈裏生絁、肆幅、〉
p.0435 七年八月甲子朔、是夕於二朝倉山上一、有レ鬼著二大笠一臨二視喪儀一、衆皆嗟恠、
p.0435 春日祭儀
祓日時刻、齋女駕レ車向 祓所一、其儀也、〈○中略〉走孺近レ車左右各二人〈著二紫裔濃一〉執屛繖(○○)左右各一人次レ之、〈相二當走孺一○中略〉是間齋女駕レ輦參レ社、其行列也、〈○中略〉執屛繖左右各一人次レ之、〈相二當擔丁一〉執翳各一人次レ之、執笠各一人次レ之、〈以上幷著二退紅染衣一〉
p.0435 賀茂初齋院幷野宮裝束〈○中略〉
腰輿一具、屛繖二枚、〈○下略〉
p.0435 富士の山を見れば、〈○中略〉この山は、上はひろく、しもはせばくて、大笠のやうになん有ける、
p.0435 太上皇御行
延木十八年二見二十六日、參二入於六條院一云々、〈○中略〉自二酉刻一陰雨、〈○中略〉王卿等戴二大笠一、
p.0435 うへより御文もてきて、返事只今とおほせられたり、何事にかと思ひて見れば、大がさのかたをかきて人はみえず、只手のかぎり笠をとらへさせて、下に、
みかさ山やまのはあけしあしたよりと、かゝせ給へり、〈○下略〉
p.0436 雨はいやまさりにまされば、〈○中略〉簦ひとつまうけよ、衣ぬぎてこんとて入たまひぬ、たちはきかさもとめにありく、〈○中略〉たちはきとたゞ二人出給ひて、大がさを二人さして門をみそかに明させ給ひて、いとしのびやかに出たまひぬ、〈○中略〉雜色等、この退る者どもしばしかへりとまれ〈○中略〉とて、かさをほと〳〵とうてば、屎のいと多かる上に屈まり居ぬ、また打はやりたる人、しひて此かさをさしかくして、顏をかくすはなぞとて、往過るまゝに、大がさを引かたぶけて、かさにつきてくそのうへにゐたるを、火をうちふりて見て、奴袴著たりける身まづしき人の、思ふ女の許いくにこそなど、口々にいひておはしぬれば、〈○下略〉
p.0436 男のまでこで、あり〳〵てあめのふる夜、おほがさをこひにつかはしたりければ、 これひらの朝臣の女いまき〈○歌略〉
p.0436 笠
かさのしなくさ〴〵あり、よき人のは、きぬがさ、おほがさになん、〈○中略〉おほがさのこと、すぎにし文化八年のう月に、京にまゐりをりしかば、かもの祭見にゆきしに、勅使、菅のおほがさをもたせられき、ことしよりはじまれるなりとぞ、みやこ人いひける、そは久しくすたれたりしを、おこしたまへるにぞありける、西宮記十一の卷に、菅簦、公卿及祭使御禊前驅持レ之、〈白鳳制云、三品已上聽二菅簦一、〉とあるによりて、ものしたまへるにこそ、菅にてはつくりたれど、きぬがさにつぎては、これもいとやんごとなきかさなりかし、しもざまにては、むかしも今も、なべてちひさき菅笠をぞきる、
p.0436 傘(サシカサ)〈持レ手謂二之傘一也、墨傘唐傘(カラカサ)是也、以二字形一可レ知レ之云云、〉
p.0436 傘
通典曰、北齊庶姓王儀同已下翟尾扇傘、皇宗三品已上靑朱裏、其靑傘碧裏達二於士人一、按、晉代諸臣皆乘レ車、有レ蓋無レ傘、元魏自二代北一有二中國一、然北俗故便二於騎一、則傘蓋施二於騎一耳、疑是後魏時始有二其制一也、 亦古張レ帛爲レ撤之遺事也、高齊始爲二之等差一云、今天子用二紅黃二等一、而庶僚通用レ靑、其天子之以レ黃、蓋自二秦漢黃屋左纛之制一也、
雨傘
六韜曰、天雨不レ張二蓋幔一周初事也、通俗文曰、張レ帛避レ雨謂二之繖一、蓋卽雨傘之用、三代已有也、繖傘字通、
p.0437 唐傘(カサ)
p.0437 唐笠(カラカサ) 傘(同)〈繖同〉
p.0437 傘(からかさ)〈音散〉 繖〈繖同〉
p.0437 傘(キスカサ/カラカサ) 〈正字通、傘、蘇懶切、禦レ雨蔽レ日可二以卷舒一者、傘用二中國紅絹一爲レ之、傘裙直至レ地、油傘綠絹爲レ之、裙卻短、〉 油傘(カラカサ) 傘裙(キヌカサノスソ) 〈共見レ上〉 笠傘(カラカサ)〈南史王縉傳、以二笠傘一覆レ面、〉 雨傘(カラカサ)〈字彙、傘音散、雨傘、○中略〉 傘柄上木管子(カラカサノカシラ)〈朱子語類、無二是轂中空處一、猶二傘柄上木管子衆骨所レ會者一、〉 浮圖(カサノカシラ)〈正字通、金志一品靑繖用二銀浮圖一、二品三品用二紅浮圖一、四五品靑浮圖、註浮圖繖頂也、○中略〉 笠檐(カサノフチ)〈、陸龜蒙詩、笠檐蓑袂有二殘聲一、〉 傘記號(カラカサノシルシ)〈龍圖公案、儞兩人傘有二記號一否、皆道傘小物那有二記號一、〉 橑(カサノホネ)〈淮南子、若夫墨楊申商之於二治道一、猶下蓋之無二一橑一而輪之無中一輻上、正字通、橑音老、篇海、車蓋弓言下車前蓋如二弓形一者上、六書故、蓋弓謂二之橑一、與レ椋通、〉
p.0437 一柄笠(○○)と舊記にあるは、からかさ(○○○○)とよむべし、柄の字をからとよむ也、
p.0437 元永二年四月廿二日丁酉、從レ朝天陰、小雨間下、賀茂祭也、〈○中略〉過二御棧敷一間、或乞二指笠(○○)於下人一、
p.0437 褰二御簾一樣
御簾ヲ持上ル時、下簾ヲ左右共一方へ引出テ具レ簾而持二上之一、〈○中略〉又自レ上兩樣隨レ役人、有二差笠(○○)ヲ擁スル役人一、下﨟歟、但可レ隨レ事也、
p.0437 からかさ 〈傘〉
からかさは、いつの頃より始りしといふ事、いまだ詳ならず、おもふにもと皇國に始まりし物にあらずして、外國より渡り來りしものと思はる、其故は欽明天皇十三年冬十月、百濟聖明王云々、獻二釋迦佛金銅像一軀幡蓋若干一〈日本書紀〉とみえたる、これより古く蓋の類の名の出たる事なければ、 しかおもはるゝなり、然ればこの時はじめて、皇國へは渡りしものと見えたり、其後大寶養老の頃と成ては、專らもちひられたるものと見えて、主殿寮頭掌二供御輿輦蓋笠繖扇一云々〈職員令〉と有、蓋は佛家の天蓋の如きもの、笠は竹笠菅笠などの類、繖は則今の傘なり、またおもふに皇國にふるく見えたる所の繖は、みな日傘なるべし、雨のふる時は、かならず笠を用ひしものならんか、其故は笠は、竹又は菅にて造れるものなればなり、繖は絹又紙にてはりしものゝよし、古く見えたり、さて又いま普通にもちふるところの傘の字は、説文等にみえずして、玉篇より音散蓋也と見えたり、思ふに令の製はじまりてより、象形に依て造りし字なるべし、然れども西土隋唐にては、多く此字をもちひたるによりて、皇國の日用とは成しものなり、令、延喜式、和名鈔等には、傘の字を用ひしなり、されども和名鈔より前なる新撰字鏡には傘繖〓傘〓〓この六字を載て、みな支奴加佐とよみたり、和名鈔には支奴加左といふ和名をば載せざりしなり、字鏡に支奴加佐と訓たるは、帛をもてはりたればなり、しかるを今は又蓋と名を混じて、紛らはしきゆゑ、からかさと呼ぶ也、からかさといふ名は、宇都穗物語伊勢物語塗籠本等にみえたれば、其前より有たる名にやと汾もはるゝを、和名鈔にこの名をあげられざるは疑はし、猶おもふに、傘と笠とは通はして書けるものと思はる、其故は雨そゝぎも猶秋のむら雨めきて打そゝげば、御かささぶらふ木のした露は云々〈源氏物語〉とみえ、又一條殿より笠もて來たるをさゝせて云々〈枕草紙〉と見えたるなど、みな傘の事なるべし、はるかに後のものながら、東鑑に笠役といふ名目みえ、高忠聞書に、笠役の式を載せたるなど考へあはすれば、傘なる事疑なし、されば物語などにからかさといはずとも、かさとのみいひても、さすなど有はみな傘の事なり、
p.0438 傘 和名抄、史記音義云、簦は笠有レ柄也、〈俗云大笠〉とあるを、天正のころ、堺の商人呂宋に渡りもて歸りしが始のよしいふ説は非なり、〈○中略〉内宮長曆迭官符に見えたる、菅の大笠といふ 物とおなじ、〈菅と藺とはかはれ共、大笠といへるは同じ、〉思ふに柄は用る時さして、常には取收むる物にや、笠は今の唐かさの如く疊まるゝ物にはあらじ、〈○中略〉古書に唐かさをも、かさとのみいひしことあり、太平記にさして行かさぎの山を出しよりの御歌も、傘によせ給ひし也、笠に柄をさしたるがもとなれば、笠とのみもいふべきこと歟、今も唐かさをかさといふ、
p.0439 寶永七寅年五月
覺
一御成之節、雨降候はゞ、御供之面々、かさ合羽御免之事、
一雨降候節は、御成先勤番之面々組共にかさ合羽是又御免之事、〈○中略〉
右之通、雨降候節は、難儀可レ仕與被二思召一候ニ付、御免被レ遊候間、向後著用レ可レ仕候、已上、
五月
p.0439 享保九辰年七月廿五日
自今雨天之節傘御免之儀覺
一只今迄ハ御鷹野御成之節、雨天ニ候得バ笠御免ニ〈而〉候、自今ハからかさ御免被レ成候、就レ夫傘ハ御賄方より差出させ可レ申候、當分ハ降不レ申、天氣如何と存候節ハ、御成先〈江〉傘遣し可レ申候、尤天氣能候ハヾ傘支度ニ不レ及候、
一上野增上寺何方〈江〉之御成之節も、右同斷ニ相心得可レ申候、
右、佐渡守殿被二仰渡一候、
七月廿五日
p.0439 享保十一午年四月
覺 一自今御成之節、降還り候樣成天氣に候はゞ、傘を手に持、御供可レ仕事、
一無二心元一程之天氣に候はゞ、御跡に傘爲レ持可レ申事、
但途中ニ而降出候節は、不レ及レ伺御御目付世話致し、早く傘さゝせ可レ申事、
一晴天之節は、傘御成先〈江〉遣置可レ申事、
一御鷹野御成之節も、右可レ爲二同前一事、
右之通、向々〈江〉可レ被二相達一候、
四月
享保十二未年九月
一御成之節、雨天ニ而途中より傘差候時分、小十人御徒七八人程づゝ御跡へ下り、人別に傘持段段に代合可レ申事、頭は二代りに御跡へ下り傘持可レ申候、此外御先へ立候者共も、右ニ准じ可二相心得一候、尤何も御駕籠之邊ニ而は、中座可レ有レ之事、
但御同朋も二代りに可レ致事
享保十六亥年五月
一公方樣、大納言樣、御城中御成之節、雨降候はゞ、御供之面々、傘合羽被レ遊二御免一候、向後著用可レ仕候、但江葉山御參詣之節は、只今迄之通たるべく候、
右之通、可レ被二相觸一候、
五月
p.0440 傘〈○中略〉
按、繖、華蓋(キヌカサ)也、簦、卽笠有レ柄者甚賤、傘、卽繖而禦レ雨甚侈、近世制得二其中一者也、竹骨上張レ紙微注二荏油一、令三紙不二濕敗一、〈俗曰二唐簦一、通用二傘字一、〉堺納屋助左衞門〈文祿三年〉自二呂宋一還來、獻二土産傘、蠟燭一、〈各千挺〉今傘制乃是也、攝州大坂堺 多作レ之、
p.0441 桐油繖紙 カラカサガミ 桐油ノカラカサガミ
和ノ雨傘ハ、荏油ヲ用ユ、唐山ニテハ、油桐ノ油ヲ用ユ、
p.0441 元文比ヨリ傘ノ風キヤシヤヲ第一トシテ、巧者ノ上手出、トカク手ヌキヲシテ、下直ニウル、地ニテモ、白張骨ミガキ、花奢ニシテ、シヤウゾクナシ、直段六七匁程ナリ、カツ好ヨク高直ナリ、
p.0441 傘細工
傘〈○圖略〉のさし渡〈シ〉片々貳尺壹寸五ぶヅヽ、骨竹五拾本、是を五十間といふ、骨竹六拾本、これを六拾間といふ、但〈シ〉大坂傘は、五拾間といふに、ほね五拾貳本、あるひは五十四本あり、これ六間張といふ事有ゆへ也、紙は古來より森下をつかふと人みないへども、今は國栖紙のみにして、森下はかつてつかはず、故は國栖は森したゟ紙大きにして、六十枚一帖なり、森下は四十八枚一帖にて、紙は天地ともよほど小場也、しかもねだんは、くずゟはまたむつかしき方なれば、出入のちがひ、されば森下とくずとの紙のちがひにて、つよきよはきのわかちもある事かといふに、いさゝかもつてその相違なし、さるによつて世間一統、みなくず紙を用ゆる事なり、糊はわらびの粉のしぶ合せ、油は荏を二へんづゝ引〈ク〉、天井ばかり靑を紅葉といひ、ぐるりの靑きを軒靑(のきあを)といふ、〈俗に蛇の目〉紋じるし等は、油をひかぬさきにかゝすべし、尤油を引て書ても同じ事なれども、ひかぬさきよろし、〈○中略〉
糊の燒(たき)やう、上わらびの粉壹升に、水貳升いれて煮る也、よく摺木にてかきまはし、かげんよくにえたる時すり鉢へあけ、澀すこしづゝ見計ひにいれ、すり木にてねる、ずいぶんねるほどよろし、
p.0441 享保中、紀和歌山ヨリ形小細ノ精製ナル傘ヲ漕二於江戸一、風雨ニハ損易シ、挾筥ニ納メテ急雨ニ備フノミ、元文以來、傘專ラホソク輕キヲ良トス、江戸ニテ磨キ骨、無二裝束糸一、白紙張ヲ 製ス、價銀六七匁、外見ヨリ貴價也、其後爪折手傘ヲ製ス、潛土ノ事也、
p.0442 傘 柄黑塗〈又朱にても子細なし〉小骨同斷〈又朱ぬり竹も子細なし〉紙朱〈元來武家に用るは油傘にて、主人下轅の時、雨天ならば袋を取り、ゑりにかけ、主人にさし懸るよしなり、今は別に朱紙の油傘を用意して持す方なり、依て日傘なり、油傘は朱の爪折也、日傘は爪折にあらず、又別に當の長柄をも用意して、都合傘三本なるもあり、家々の格によるべし、又朱紙の手傘も用意すべし、此傘は近習のものさすべし、室町將軍家の比、日からかさ拵樣品々あり、公方樣御日からかさ柄は黑うるし、小骨同前、紙は朱紙、うら紙はなし、大名は柄朱うるし、小骨黑ぬり紙黑し、うら朱紙なり、御供衆番方はこしらへ樣赤うるし、小骨黑ぬり、紙黑し、裏紙黃紙のよしみへたり、〉
p.0442 同笠〈○雨笠〉の事、紋を出したるはあしく候、女房衆若衆などのは、色々紋を出し候、
p.0442 傘細工
紋の書樣、常のさし用かさに、もん所あるひは大字等を書んには、墨屑を二三日まへゟ水につけ、すり鉢にてよくすりてかく、透して見て村なきやうにぬるべし、文字なればとて、一向書ずては格別、少しにてもなをし懸ちては、ちくと計なをして置ケば、油を引日にすけて至極むさし、よく斑なくぬりて油をひくべし、又朱紋といへ共大方は丹也、下地の白紙に丹にて書ときは、常のゑのぐの如く、丹に薄にかわをいれて書べし、是なをむら見へてはむさし、扨陰にかきて薄墨をいれんには、海蘿(ふのり)にて墨をうすくしぬる也、薄すみはむら付たがり、ひきにくきもの也、右ふのり合にては、すこしもむらなく出來る、
p.0442 享保以來、今世ニ至リ蛇ノ目傘、端ノ靑紙ノ所ニ定紋ヲ描ク、〈靑紙ヲキリヌキ、白紙ヲ以テ補レ之テ記號ヲ描ク、〉近年江戸男女楓傘ニハ、專ラ莟テ、骨番ヒ以上ニ朱紋ス、
江戸今世男女蛇ノ目傘、紅葉傘等ニハ、莟テ後ニ他ト混ゼザルノ備ヘニ、左圖〈○圖略〉ノ如ク黑蛇ノ目ニハ朱漆ヲ以テ、自稱ノ一字、或ハ家號ノ一字、又ハ定紋ヲモ描レ之、白紅葉傘等ニハ黑漆書ス、京坂ニハ稀ニ誌レ之、江戸ハ不レ描ヲ稀トス、蓋三都ト、モニ日傘ト雨傘モ、番傘ト云粗物ニハ不レ描レ之也、 此印アルモ亦開テ前圖ノ如ク定紋ハ別ニ描ク也、
p.0443 心を入れて釘附の枕
紫立ちたる曙は、薄雲樣の御迎に、御紋附の傘、角助がさし掛け、〈○下略〉
p.0443 一言聞く身の行衞
雨の日しめやかにと約束すれば、新しき傘を買うて、二十本の内と大文字の書付、〈○下略〉
p.0443 長柄(ナガエ/○○)〈鎗、傘所言、〉
p.0443 傘細工
長柄、柄七尺、ほね七十間、大きさ貳尺七寸、柄、籐まき也、紙しうし右は大名高位の御方、路次にて雨の時さしかくる、
p.0443 一長柄(ナガエ)の傘は、貴人馬上の時さしかけ申爲に、柄を長くしだる物也、主人御供の時は馬土にても、八尺傘を自身にさす也、舊記に見たり、
p.0443 一かちにて笠をさしかくる事、右よりさしかけ可レ然候、
p.0443 笠とは長柄のから笠也、長柄のからかさは、馬上へさしかくる爲に柄を長くしたる物也、然る間步行の時のさしかけ樣を爰にしるされたる也、
p.0443 享保三戌年四月
下馬ゟ下乘橋迄召列人數之覺〈○中略〉
一輕き輩、長柄之傘可レ爲二無用一事、〈○下略〉
p.0443 武器及行列具的例
一長柄傘之事 明和三戌年正月、長柄傘相立候而爲レ持候面々、近來相見申候、左候而者、立傘と紛敷如何ニ候、主人敢而存候筋にも有レ之間敷哉、畢竟下々之者辨へ無レ之、右之通相成候義と相聞候、 此段御沙汰有レ之候、若此以後建候而爲レ持候衆有レ之候はゞ、途中ニ而御徒目付名前承候義も可レ有レ之候間、左樣相心得可レ有レ之候、右之趣向々〈江〉相達候、依レ之家中之輩、若心得違有レ之候而者如何ニ候、爲二心得一相達候、 因云、立傘を長柄と云、爪折は家格によりて用ゆ、柄は木にても竹にても黑塗にす、小骨も同じ、紙は白なり、袋は天鵞絨、羅紗等を用、打紐にて結ぶ、家格によりて袋に入ざるも有、
p.0444 寬政十二申年十一月
大目付〈江〉
御城内外召連候供廻り之儀、前々より度々相觸候通り、供廻り、風俗不レ宜、がさつ場廣等ニ無レ之樣申仗〈○中略〉
一諸大名長柄傘之内衆、折々紛敷長柄傘爲レ持候面々も相見候、爪折之儀者、國持溜詰、御三家之庶流、越前家前々ゟ爲レ持來候分者格別、縱前々ゟ爲レ持來候共、四品以下ニ而者向後無用ニ候、尤折紛敷長柄傘者、猶更可レ爲二無用一候、〈○下略〉
p.0444 公方家
御長柄を上るは、御三家御三卿、皆御小姓衆なり、上を學ぶなり、外の大名は中間なり、德廟〈○德川吉宗〉の御つむりに當しは兩度差扣へなり、三度目唯長柄を上る事を御免なり、是紀州にての事なり、天性長柄を上る事、不器用と見ゆるとの御事にて御咎めもなく、唯御免被レ遊候となり、
p.0444 長柄傘ハ、諸氏トモニ、手廻ノ者サスコト常ナリ、然ニ熊本侯大城御玄關ノ前ニテハ、諸士ノ供スル者サシカクル、
典藥頭ナル、今大路中務大輔ノ〈千二百石〉長柄傘ハ、朱ヌリナリ、
p.0444 慶長の頃の風を、古晝ども見て考ふるに、〈○中略〉女はよき人とみゆるが髮を深そぎして下げ、〈○中略〉供の女は、頭にかぶり物なく、長柄の傘をかつぎ、又は色々の絹を續合たる袋を負 たり、
p.0445 一春日禰宜訴論ニ付、御下知條々、
定
一今度春日禰宜參府奉行所〈江〉訴レ之、年來長柄之傘指來候處、去比興福寺一﨟代及社家方より、法式違背之由申レ之、從二寺務一も右之通雖レ被二下知一、從二先規一指來、今更之儀ニ無レ之候旨、禰宜依二返答一、社家呼下、數度遂二穿鑿一候之處、古例無レ之ニ相極也、且又寺務よりも以二五師役者記錄一相二越之一、幷社家禰宜雙方ニ而、日記等及二周覽一之處、寺務之記者、長祿之比、社家之記者、應永年中以來、祭禮之節も度度、禰宜長柄傘給レ之と相見へ、禰宜日記、明應之時分ゟ指來候由雖レ書二載之一、此度從二社家方一申出趣ハ、禰宜平日自分徘徊之節之儀也、地下人長柄傘甚過奢たるの間、向後御幣神供物奉之外者、自今以後、堅可レ令二停止一事、
一禰宜不屆有レ之而、社頭出仕從二社家一停止之儀、唯今迄任二社家心一雖レ申二付之一、以後者社家中吟味之上、寺務幷奉行所へ相達、更指圖、禰宜へ可レ申二付之一也、其外之儀者可レ爲二有來通一事、
一向後社家對二禰宜一正路にして、非道不レ可二申懸一之、勿論禰宜者敬二社家一無禮仕間敷事、
右之趣堅可レ相二守之一、禰宜方ゟ社家之儀、品々雖レ訴レ之、今般諍論之子細に無レ之、乍レ然社家總而奢侈之體ニ相聞へ候間、向後奉レ背二御條目一、違二失社法一、於レ致二私之訴論一者、可レ被レ處二嚴科一者也、
延寶六年十二月廿七日 松 山城守〈○中略〉
社家中 禰宜中
p.0445 王子村に御放鷹ありし時、飛鳥山のほとりにて、俄に春雨降出ければ、兼てうつくしみ玉へる亘といへる馬にめされ、片手綱にて、御右の手に長柄の傘をもたせ玉ひしが、ひとの手傘さしたるよりも、かろ〴〵と見え玉ひぬ、後に風つよく吹出し、雨も降しきりけ れど、御傘いさゝかかたぶかず、御衣をもぬらさせ玉はざりしかば、見る人その御力量のほどを感じける、
p.0446 織田甚助信節、〈後稱二圖書一、小納戸、〉まだ年わかゝりしころ、紅葉山へ詣させ玉ふ御供にまかりしが、唐門を出させたまふころ、にはかに村雨降ければ、甚助長柄の御傘を進らするとて、あやまちて御肩にあてしかば、大に恐懼して、かへらせ玉ひしのち、下部屋にこもり居たり、おなじ御供にまかりつる人々も、いかなる御咎あるべきかと、心うくおもひ居けるに、甚助何故御前に出ざるや、もし病にても有やと問せ玉ひしかば、小納戸頭取某答へ奉りしは、甚助今朝紅葉山にて、御長柄奉りしに、御肩にあてしと覺え候へば、御氣色をはゞかり、つゝしみ居候よし申上ければ、仰に甚助としわかければ、ことにのぞみ氣おくれて、思ひあやまちたるならん、今朝長柄は唐門の柱にあたりしに、それを我肩とおぼえしや、わかき時はさなるあやまちは、幾度もあるものなり、とくめし出せよとのたまひしかば、そのよし傳へて、甚助直に御前に出て、給事し奉りけるとなむ、
p.0446 古き畫卷物などに見えたるは更なり、後世貞享元祿の始までも、雨がさ、日傘、大人小兒をもに皆長柄也、〈余(喜多村信節)が家にも、この古傘二本まで遺りて有き、〉諸國咄〈貞享二年刻、二、〉幼き女兒をいふに、乳母腰もとつきて、入日をよける傘さしかけて行云々、其畫も長柄なり、又むかし説經師長き傘をさしたり、一雪が獨吟に、〈寬文元年江戸にて〉法の師のかたぐ傘月のかさ、後の彼岸にとく辻談義、また古き畫に、大路にて食物など賣もの傘さしたり、宗因千句〈寬文六年〉我家はから笠の下天が下すぐなる道をおこし飴うり、飴屋が傘は今に遺れり、
p.0446 元吉原にては、雨の降時、遊女の揚屋へ通ふには、男共に負れたり、〈○中略〉後より長柄の傘をさしかける體、中々品よく見しとなり、
p.0447 京島原、江戸吉原、大坂新町等、官許ノ傾城町、〈○中略〉上娼ハ長柄傘ヲ用フ、大サ前ノ爪折ノ如ク、白ト藍紙トノ蛇ノ目張也、京坂晴雨用レ之、江戸雨中ノミ用レ之、蓋日傘ニハ油ナシ、雨傘ニハ荏油ヲヒク也、妓院ノ家絞ヲ大サ四五寸ニ畫ク、官許傾城モ、下娼及ビ彈妓ハ不レ用レ之、非官許遊女ハ上娼妓ト雖ドモ不レ用レ之、京坂下娼彈妓等ハ、京坂坊間ノ女ト同ク、柄長ケ三尺五六寸許ノ日傘、雨傘ヲ用フ、或ハ下司夫或ハ婢持レ之テ、娼妓ト並ビ往ク、大夫ノ傘ハ官物ニ摸スル故ニ婢ヲ用ヒズ、必ズ僕夫以レ之テ大夫ノ後ロニ屬ス、
京坂祭禮ノ時、娼妓等、煉物ト云ヲ催シ行フ時ハ、非官許ト雖ドモ長柄傘ヲ用シ、天保府命後絶セリ、江戸、今ニ至リ祭祀ノ日、市間ノ煉兒ハ、赤長柄傘ニ似タル物ヲ用フ、眞ノ長柄傘ニ非ズ、稍小形也、
p.0447 春雨
雨笠も春のものとて長柄かな 盡情
p.0447 其後〈○元文比〉爪折ノ手傘(○○○○○)出ル、コレカリソメナガラ從四位以上ノ傘ニテ、平人不レ用モノナリ、不レ知ハフビンナリ、白張、
p.0447 爪折傘〈○圖略〉
今世朱ノ爪折傘ヲ貴人ノ所用トス、武家ハ專ラ白ノ爪折ヲ上位トシ、爪折ヲ許サレザル人ハ、白ノ長柄傘也、〈今制四位以上爪折傘也、爪不レ折長柄傘、黑蛇ノ目モアリ、〉搢紳家武家トモニ式正ノ時、白麻布袋上ニ革ノ風帶アリ、〈俗ニ是ヲ參内傘ト云、武家モ家格ニヨリテ不レ用レ之、亦搢紳家モ略ノ時ハ、黑ビロウド袋入也、武家ハ黑天鵞絨袋モ格ニヨリ不レ能レ用レ之、無袋ニテ駕ノ後ニ立ツ、又袋ノ紐紫モ家格ニヨル、〉紙張朱或ハ白、荏油ヲヒク、柄竹ニ全ク藤卷〈來舶ノ藤ヲ割タル也〉骨、竹ノ黑ヌリ、ハジキ鐵兩邊ニアリ、庶人所レ用非二長柄一傘ハ片ハジキ也、糸、裝束、
一寺ノ住職タル官僧ハ、朱ノ爪折傘、黑ビロウド袋納ヲ用フ、是私歟、朱モ赤傘トカ云ナルベシ、 袋入傘〈俗ニト云〉〈參内傘○圖略〉
傘ハ白張或ハ朱爪折傘也、朱ヲ貴用トス、袋ハ白晒麻布、紐同平〓、柄總藤卷、上ニ革ノ露ヲ付ル、〈○中略〉略
今俗間ニ白麻袋入ヲ參内傘ナド云也、乃チ爪折傘ヲ納ル也、大名モ正月登城ノ時ハ、家格ニ因テ用レ之、又大禮ニ用レ之、服モ鳥帽子姿也、
p.0448 攝津 平野町傘(○○○○) 紀伊 傘紙
p.0448 傘細工
紀州傘(○○○)、これ紀州ばかりゟ出るにもあらず、今京にてもつはらこしらゆ、手がろきための物ずきにて、ほねほそく、柄ほそく、軒の間のいとまでも、至極ほそきをつかひ、高びくにはる事也、さのみ雨に能もなければ、勝手にはよからぬもの也、
p.0448 享保ノ比、紀州若山傘(○○○)下ル、カルク小ブリニシテキレイナリ、常ノサシリヤウニハヨハシ、挾箱入ル用心傘ナリ、
p.0448 江府名産〈幷近在近國〉
茅場町傘(○○○○) 南かやば町藥師堂の邊にて作レ之
p.0448 呂尊より渡る壺の事
泉州堺津菜屋助右衞門古云し町人、小琉球呂尊へ去年の夏相渡、〈文祿甲午〉七月廿日歸朝せしが、其比堺之代官は石田杢助にて有し故、奏者として、唐の傘(○○○)、蠟燭千挺、生たる麝香二疋上奉り、〈○下略〉
p.0448 安政以來、横濱士民、往々西洋製(○○○)ノ鍛鐵八骨及ビ十六骨ノ絹傘(○○)ヲ睛雨ニ用人稀ニ有レ之、十六骨ハ稀ニテ八骨多シ、他國末レ用レ之、後世恐ラクハ、他國ニテモ稀ニ用フル人可レ有レ之、歟、
p.0448 一柄笠と舊記にあるは、からかさとよむべし、柄の字をからとよむ也、朱柄笠(○○○)とあ るも朱がらかさとよむべし、朱ゑの笠とよむはわろし、朱柄笠(シユガラカサ)は紙を朱にてぬる也、柄を朱にてぬる事にはあらず、
p.0449 朱柄笠
朱柄笠はいつの頃より始りしにや未レ詳、弘法大師行狀繪に、白河上皇高野御幸に、腰輿にめされし、その上にさし掛たる笠の圖は、またく朱柄笠とみえたり、これやものに見えし始なるべきか、
p.0449 傘細工
朱傘(○○)、柄八尺、大〈キ〉さ三尺貳寸、骨數五拾本、紙は國栖を用ゆ、荏の油に色よき丹をいれ、火にかけ、よく煮(にや)してひく也、丹はからかさ壹本に壹斤づゝ入もの也、荏の油に丹をいれぬりたる物なれば、つよき事岩のごとし、されば此朱がさ、元來はみな朱ばかりを用ひしが、丹はねだんの心やすきゆへ是をもちゆ、今もいかにも朱を用ゆるもあり、丹にかぎらず、又朱にも限〈ル〉ベからず、その好にこそよるべし、これは殿上人神祇の人、もつはら用ゆ、しろき袋にいれて、供奉の人これを持、但〈シ〉僧徒もこれを用ゆ、源氏繪等にゑがく所是也、
p.0449 からかさの事
朱柄のかさは、公家、門跡、其外出家はさゝれ候、武家には大名、其外隨分の衆ならではさゝれ候はず候、大方の俗人はさゝるべからず、
p.0449 景虎寄二來小田原一附鶴岡參詣事
京ノ公方光源院殿義輝公エ出仕ヲ致シ、關東管領ノ御敎書ヲ玉リ、朱柄ノ唐笠同御紋ノユタンヲ御免アリ、
p.0449 織田信長、中國攻ノトキ、羽柴秀吉ヲ大將トシテ發行セシ厶、朱傘ヲ賜テ曰、陣中コレヲサヽセテ、我ガ如ク武威ヲ張ルコト、コノ傘ノ開クニ比スベシト、秀吉畏リテ退去シ、直ニ ソノ傘ヲサヽセテ出行ス、信長櫓上ヨリ望見テ、渠ニ陣中ニテ威武ヲ示セト、命ゼシニ、早クモ此處ヨリ人目ヲ輝カセシトテ悦賞セシトゾ、
p.0450 盛隆公〈○會津〉高倉城攻落給事
角テ盛隆公、安積高倉へ被レ向、御馬、朱傘、指物、大小金ノ鞘張、熨斗付ノ裝束ノ御鐵炮衆千人、〈○中略〉同ジ出立ニテ、誠ニ以テ花車ナリ、
p.0450 玄朔盛んに療治はやりて、方々招待す、その時は肩輿と云物なくて、大なる朱傘を指掛させ、高木履にて杖をつき、何方へも步行す、人々羨むことにて有しとぞ、
p.0450 或人途ニテ値タリ迚云シハ、大家ノ奧方ト覺シク、輿ニ朱傘ナドサヽセシ後ニ牽馬アリ、婦人ノ供ニ乘馬ヲ從ヘラレシハ珍ト言キ、夫ユエソノ紋ナド尋タルガ、慥ニハセザレドモ、牡丹ニヤト云タレバ、是レ仙臺侯ノ奧方ナリ、流石ノ家風ナリ、
p.0450 文化四年八月三十日己亥、朱傘張替出來持參、〈紙ハ國栖、色ハ光明丹、極上之由、骨取替棒繕等、彼是合總直段三十三匁也、〉
十年四月二日己亥、朱傘張替出來、大坂屋持參、〈轆轤二共仕替、小骨不レ殘取替ニ付、總直段卅七匁七分也、〉
p.0450 傘〈(中略)墨傘(○○)唐傘是也〉
p.0450 墨傘
墨傘の名は下學集にみえたるより、古くは未だ見あたらず、圓光大師行狀繪に、大宮内府〈實宗公〉の亭へ行かれし時、對面のあひだ、門外の屛に墨傘を立かけるたる圖見えたり、さて墨傘は雨傘にのみ有ものとおもへりしに、弘法大師行狀繪に、日傘に墨傘を畫けり、これは印本故墨かすれて見ゆれど、正しくすみ傘とみゆれば、下に圖を載す、〈○圖略〉猶原本につきて糺すべき事なり、
p.0450 一大かたびら裏打の時、墨笠の事、大名も御さゝせ候間敷候間、墨笠をも被レ持まじく候歟、暮々裏打大かたびらの時は、すみがさ御さゝせ候まじく候、
p.0451 一墨笠を馬上にさす事不レ可レ有、但貴人馬上にて夏などさゝする時は、小者などさし懸る也、
p.0451 元祿ヨリ蛇ノ目ガサ(○○○○○)出ル、上靑ドサ、深ク、簷厚ク、靑ドサ、セウゾク、キヌ糸三通リ、ロクロ元靑ドサ、代金二朱位、
女傘ハロクロモト、子リグリモヘギ、五色ノ糸三ダンニマク、ホ干黑ヌリ、手ガルクコシラヘタリ、是上傘ノ始ナリ、
正德比ヨリ次傘ハ、下リガサノゴトクニシテ、ホネノミガキヨク作リ、モミヂガサハ、上ハキヌ糸セウゾク、マガヒハ木メン糸、蛇ノ目ニモ、モメン糸アリ、〈○中略〉
蛇ノ目、内紋ヲキリヌクコト、享保末ヨリ始ル、靑土佐厚クハルコトモ、此比ヨリ始ル、
p.0451 元祿以來、中央靑土佐紙、端周リモ同紙、中間白紙張、是ヲ蛇ノ目傘ト云、糸裝束三段、ロクロギハ靑紙、價凡金二銖、今世武士稀ニ用レ之、信醫專ラ用レ之、婦女ハ三都貧富トモニ用レ之、〈莟テ靑紙ノ處ニハ黑漆ヲヌル○中略〉
今世工商ハ、蛇ノ目傘ヲ用ヒズ、〈蛇ノ目ハ骨番以上ト周リヲ紺紙或ハ黑ニシ、中間白ヲ云、〉戸主等京坂ハ、澀蛇ノ目(○○○○)ヲ用フ、〈中ト周リニ澀ヲヌリ中間白也、澀ニ水ヲ加ヘ、辨柄ヲ交ヘテ色ヲ節ニス、○中略〉
黑蛇ノ目傘(○○○○○)、〈○圖略〉婦女ノ蛇ノ目傘同レ之、澀蛇之目傘モ是ト同形ナレドモ、周リト中央澀ノ所ヲ狹クシ、白ノ分是ヨリハ僅ニ廣キヲ專トス、
今製、蛇ノ目及ビ紅葉傘、大サ亘概四尺二寸、黑蛇ノ目或ハ四尺五寸、骨數凡六十間、柄ノ長ケ二尺六寸、〈○中略〉
奴蛇之目傘(○○○○○)〈○圖略〉周リ二寸計リヲ淡墨蛇ノ目ニシテ、中央ヲ墨ニセザル物、京坂ニ無レ之、唯江戸ノミ用レ之、號クテヤツコジヤノメト云、奴蛇之眼也、蓋先年ハ市民三都トモニ好數ノ者、墨蛇ノ目、次 ニ澀蛇ノ目、次ニ奴蛇ノメ、今世ハ皆白紙楓傘也、京坂モ前年ハ墨、今ハ澀蛇ノ目ヲ用フ、又骨數三十本ヲ鬼骨傘(○○○)ト云、蓋轆轤ハ六拾間ノ物ヲ用ヒ、一ツ隔ニ骨ヲ差タリ、別ニ鬼骨傘、ロクロ未レ製レ之也、〈○中略〉
女傘蛇ノ目張、〈○中略〉元祿以來、今世ニ至リ其製粗同ジ、轆轤際萌黃煉繰糸、或ハ五彩、糸裝束三段也、骨黑漆ヌリ、今世モ三都トモニ士民ノ婦女ハ、皆必ズ蛇ノ目傘也、炊婢モ用レ之、蓋京坂士民ノ婦女ノ婢ヲ從へ行者ハ、皆自ラ傘ヲ差ズ、必ズ、婢ニ持サシム、故ニ柄長ク形大也、江戸ハニ三婢ヲ從ユル者モ各自差ス、日傘モ准レ之、京坂長柄アリ、江戸ニ無レ之、柄長ケ概三尺六七寸、〈○圖略〉
三都トモニ蛇目傘ハ、黑或ハ藍ノ分帖ミテ骨表ヨリ黑漆ヲヌリ、中間白ノ所ヲ漆セズ、
p.0452 手傘の事
一日遮(ひよけ)傘は空色紙張り、とんぼ際に朱漆にて定紋の事、 但し中白蛇の目(○○○○○)なり
一雨傘は黑蛇の目にて油引、とんぼ際に朱うるしにて定紋の事、
p.0452 御家中尊卑等異の章を分ち給はん爲、〈○中略〉舞臺以下は、下緖を卷き馬乘を開かず、大小の裝に金を用ゆる事を許さず、蛇目傘を禁ぜらる等の品節を立て、〈○下略〉
p.0452 凉傘(ヒカラカサ) 褦襶(スミヨシオドリノカサ)〈瑯邪代醉編、褦襶凉笠也、以レ竹爲レ胎、蒙以レ帛、如二凉傘簷一、戴レ跪以遮レ日、程曉伏日詩、今世褦襶子、觸レ熱到二人家一、字彙、褦奴代切、襶了代切、褦襶不レ曉レ事、〉
p.0452 日傘
日傘ふるくは日でりがさ(○○○○○)といへり、舞のさうし、さがみ川に、大將〈賴朝をいふ也〉殿〈○中略〉日でり笠の御役は、大膳大夫のちやくし云々と見えたり、舞のさうしは、室町家の比の作なれば、日でりがさといふ事ふるし、
p.0452 傘の詩幷天の説 唐笠のことは、倭漢の書に所見おほし、薩天錫詩集上卷に、兩傘の詩あり、開如レ輪合如レ束、剪レ紙調レ膏護二秋竹一、日如二荷葉一影亭々、雨裏芭蕉聲〓々、晴天却陰雨却晴、二天之説誠分明、但操二大柄一常在レ手、覆盡東西南北行、此詩よく傘のさまをいひたり、又二天(○○)の名目あるを知べし、今は日傘雨傘(○○○○)の製殊なれど、此詩に據れば、晴雨に一物を用たるにや、日笠の名、はやく聞えて、日笠の浦など名所にもあり、
p.0453 日傘
日傘(○○)ハ八尺也、弓ヲ持ツトキノ用也、
p.0453 傘細工
ひがさ、〈褦襶(ヒガサ)〉柄七尺、大〈キ〉さ貳尺壹寸、骨數五拾本、柄、大ぼね、小ぼねや天井の間、みな朱ぬり也、但天井の間は紙なれば、右荏の油に丹をいれてぬる、柄ほね等は漆ぬり也、總じての紙は、本式はねづみとて、うす墨にて染れども、當代は只しら紙そのまゝにて用ゆ、油をひく、右は長老がた、法會規式の時の日傘也、雨の爲にはあらず、褦襶の二字は、いづれの詩人の語にか、褦襶待レ晴開とあれば、むかしゟ雨のためになき證據分明也、凉傘とかくは和字にて、これ全く炎暑の時の日よけの傘なるべし、右の褦襶とはすこし心たがへり、〈○中略〉
ひでり傘、これ凉傘の字なるべし、此ころのはやり事にて、あゐの染紙一〈ツ〉色にはり、日かげ傘(○○○○)とする、仕やう、もみぢ傘の類也、物ずきのすき人仕はじめ、今の腐儒、くすしの族の取あつかふ、同じくは自身に日よけがさ(○○○○○)を指ずとも、乘るべき乘物にのりたきもの也、白紙張にして、靑ばななんど引たるは、なを草にしてうるさし、
凉傘、子どもの日よけがさ、草なる物なれば、定りたる事なし、ほね三十本、四拾本、大きさも好む所にしたがふべし、
p.0454 日傘ハ古來ヨリ有トミユ、小兒日傘モ天和比ヨリ下ル、地ニテモ作ル、五色ノ彩色シタルモノナリ、靑紙ノハアツラヘナリ、藍紙ニテ一色ニ染タルモアリ、近來大人モサス、僧醫者ノタグヒ、上方ニテハ前々ヨリアル由、
日傘ハ婦人ニ限ルベキカ、髮ノソコネルヲイトヘバ也、僧醫ノタグイハ、カムリ笠ヲ用テモ可ナランモノヲ、
寬保ノ比ヨリサス日傘、皆靑紙張ナリ、又小兒山王八幡明神天王等ノ祭禮ニ、ネリ子供サス笠ハ、皆丹染ノ一色ナリ、他人サシテ子供ヲ覆フユへ、柄長シ、ノキニハ鈴又ハキヌヲハリ、内ニハ鈴守リフクサ等ヲツケル、此餘風今祭禮ニ殘ルモノカ、
大人靑紙ノ日傘サスコト、寬延二年己巳ニ御停止、再觸寬延三年午八月、別テキビシク仰付ラル、〈小兒計用ル、翌三年ヨリ日傘ニウルシヲツカフ、〉
p.0454 文政以來、二重張ノ日傘(○○○○○○)、〈紺紙ト白紙ト重ネハル、白ヲ表ニス、亘リ三尺二三寸、價銀四五匁ヨリ金二朱也、京坂ノミニテ、江戸ニ不レ用レ之歟、今ハ三都トモニ白日傘更ニ廢ス、〉文政以前京坂ニ全アサギ張、或ハ全ク白紙張モアリ、天保府命ノ時、大坂ノ官命ニ男子日傘、婦女ノ羽折ヲ禁止アリ、〈○中略〉
日傘ハ三都トモニ女用專ラ中ト周リト紺紙、中間淺黃紙也、蛇ノ目ト同制也ト雖ドモ、日傘ニハ蛇ノ目ト云ザル歟、此日傘亘リ概三尺六寸、五彩ノ糸裝束アリ、男子ハ不レ用レ之、僧醫モ亦不レ用レ之、〈蓋江戸武家葵髩ノ女、俗ニ云御殿女中ナル者ハ、專ラ紺紙ト白紙ノ蛇ノ目日傘ヲ用フ、紺浅葱ノ物ト並用、〉京坂今世モ專ラ右ノ日傘ヲ用フ、江戸ハ近年全ク淺黃紙張ヲ用ヒ、弘化以來雨天モ用レ之、淺黃張及ビ雨天ノ日傘、亘リ概三尺、或ハ三尺三寸、頃日ハ快晴ニモ專ラ雨天傘ヲ用フ、〈澀引モアリ、澀ニ水ヲ和テ淡ク染タル也、方今ハ桐油ヲ引ク〉又近年〈天保以來歟〉骨竹ヲ表裏ニ出シ、紺紙、淺黃ヲ挾ミ張タルアリ、外面ニ竹皮ヲ出セリ、蓋專用ニ非ズ、形普通ノ日傘也、再考、澀引日傘ハ文政中行ル、
p.0455 寬延二巳年五月
近來男女ニ不レ限、靑紙張之日傘指候者多ク相見候、人込等之場所ニ而も不レ宜、其上異成者候間、不レ可レ然事ニ候、右體之儀相止候樣可レ致旨申渡ス、
寬延三午年八月〈○中略〉
一去年中も申渡候、菅笠之代り、靑紙にて張候小傘をさし候者、今以有レ之候、彌以可レ爲二無用一候、
右之趣、町中之者共、急度相守可レ申候、若風俗不レ宜候者於レ有レ之者、奉行所ゟ急度咎可レ有レ之候間、兼而申聞置候、主人者勿論、召仕又者、商賣人、職人、幷手間取、日用稼致し候者共迄、此旨急度可二相守一候、
八月
寬延三午年八月〈○中略〉
一此間申渡置候、靑紙張之日傘之儀、彌以無用可レ致候、此以後不二相用一者有レ之におゐては、奉行所ゟ嚴敷可レ咎旨申渡、
八月
p.0455 六月〈○承久三年〉八日とりのこくに、日吉のやしろに御かうなる、〈○中略〉一ゐんは御なをしの下にはらまきをめし、御きばにめして、ひがさをさしかく、
p.0455 慶長年中、秀賴公ト神君ト御對顔有リ、其時秀賴公、大坂城ヨリ神君ノ御在所二條ノ城へ行ク途中、加藤淸正ト淺野長政ト高股立チニテ、秀賴公乘輿ノ左右ニ附キタリ、二條ノ城ヨリ御迎ヒトシテ、神君ノ御子息義直卿、賴宣卿御兩人、途中迄出ラレシガ、日傘ヲ用ヒヲレシヲ、淸正見テ、無禮ニ候、其日傘ヤメラレ候へトテヤメサセケル、
p.0455 踊子ゑもんおてるお緣
元文の頃は、江戸中おどり子と云女有て、立花町、難波町、村松町を第一として所々に有、〈○中略〉其内 に元文のはじめ、三五七組のゑもん、千藏組のおてる、大助組のおゑんとて、至極名題の器量者有、かれは髮かしらを第一として、結構なる櫛かうがいを用ひ、多くは銀のかんざし抔にて粧ひけり、扨三人の踊子、暑氣の節は、菅笠かぶりては髮を損さすとて、三人對に日傘を靑紙にて張らせ用ひたり、尤立派にして其柄を黑ぬりにして、風流成紋を附たり、是は唐土の大王傘蓋として、靑き薄ものにて傘を張らせ、さしかけさすると云、通俗漢書のもの語を聞はつり、是始てさしけるなり、是世上一統に男子まで、靑紙のかさをさすこそおかしけれ、今に醫師などは是を止ず、一とせ馬場讃守欽命を蒙りて、靑紙日傘を公儀より御法度に被二仰出一けり、是を忘却しけるやらん、今又是をさす人多くあり、女は苦しからざる歟、
p.0456 一寶曆の始めより、誰か靑き紙にて張たる日傘をさし始めて後は、女の菅笠はすたりて、今は女の笠をかぶると云ことは絶てなし、近き比の子どもらは、女の笠かぶりたる形は、しるまじと思、ふ位なり、〈○中略〉靑傘は其比ことの外流行て、今はすたりたれど猶殘れり、女の髮もそこねず、扁身日を掩ふゆゑに、暑を避て甚よろし、
p.0456 近歲は町醫者出家なども、靑傘を用る者多し、我等〈○小川顯道〉明和年間、京大坂遊歷せしに、公家侍醫師出家等は、皆靑傘なりき、近來江戸も京都より移りきしと見へたり、
p.0456 大洲侯ニ邂逅セシトキ、國々ノ寒暑ノ談ニ及ビ、我平戸ノ氣候ヲカタリ、扨豫州モ海近ケレバ、夏モ凉シカルベシト言シニ、侯ノ臣堀尾四郎次、其座ニアリテ曰ク、曾テシカラズ、暑至テ甚シ、盛暑ニ至リテハ、途行スルニ、炎氣黃白色ヲナシ、空中ニ散流シ、人目ヲ遮リ、前行十步ナル人ハ殆ド見へ分タズ、其蒸熱堪ガタシ、如レ斯ナレバ、途行スルモノ靑傘〈凉傘也、靑傘ハ、豫州ノ方言、〉ヲ用ザレバ凌ガタシ、然ルニ近頃靑傘ヲサスコト停止セラレシカバ、暑行尤難儀ナリト語リヌ、
p.0456 男地藏 室町通の菊屋の何某の一人娘、今七才にて其さま勝れて生れつきしに、乳母腰元かづきて、入日を除ける傘さしかけて行くを濟し、〈○下略〉
p.0457 お乳母日傘(うばひがらかさ)といふ諺
昔は乳母をめしつかふほどのしかるべき者の兒には、日傘をさしかけさせたるゆゑにさはいふめり、そのからかさは、丹靑もてさま〴〵の繪をかきし也、ことに菱川の繪におほく見えて、延寶、天和、貞享の比、もはらもちひたり、これ近き世までもありしが、今はたえて諺にのみのこれり、
p.0457 雨傘(○○)
雨傘は宗五大草紙に、雨がさは云々と見えたるより外は、ふるく雨がさといへる事聞えず、しかれども雨零者(アメフレバ)、將蓋跡念有(キントオモヘル)、笠乃山(カザノヤマ)云々、〈萬葉集〉と見えたるなど、みな雨がさなれば、ふるくより今の製の如き畫も有しものならんとは、上に載たる延喜式をはじめ、諸書にみえたるにても、おしはからるれども、雨がさといひたる事のふるくみえぬなり、また春日驗記〈延慶二年高階隆兼畫〉第五、俊成卿春日社參の段に、ある夜社壇にまうで侍りけるに、夜雨蕭々として社壇寂々たりければといふ詞有て圖有、それにて雨がさの製作よくしられたり、今の製とかはりたる所もみえず、たゞ骨にかゞりなく、はじきがねをさしとほして有、〈按に今も此製のかさ有とぞ〉柄も殊の外ながくみえたり、
p.0457 からかさの事
一かさの役人、墨がさは小者の役、〈○中略〉又雨がさは公方樣御參内、八幡御社參以下、きとしたる時は、ほういの人さし被レ申候、私にては中間さし候、
p.0457 一雨笠の事、朱をこくさし候て、ほねと柄とを黑くぬりたるは位にて候、朱色うすく候て、骨と柄の黑きは其次にて候、又朱をさゝず候て、柄も骨ものり候はぬは下にて候、 依二人位一可レ用候、
p.0458 弘化以來、雨天傘(○○○)京坂ニ製ス、〈女子ノ所レ有歟、須二男子用一レ之、〉淡墨紙張〈鼠色也〉僅ニ荏油ヲ注ギ、而モ形ハ日傘也、〈日傘ハカウバイ浅ク、雨傘ハ聊カ深キ也、又兩天町傘白紙ニ澀引タルモアリ、〉亘概三尺二三寸、江戸モ男女トモ、晴雨不レ決ノ日携レ之テ、晴ニハ日傘ニ用ヒ、雨ニモ用レ之テ暫時ヲ凌グ、故ニ兩天ノ名アリ、頃日婦女ハ、快晴ニモ專ラ用レ之、〈兩天傘、形ハ日傘也、日傘ハ雨傘ノ如ク大ナラズ、又雨傘ハ深ク、日傘ハ淺キ也、此兩天傘、小民男女今ハ霖雨ニモ用レ之者稀ニ有レ之、〉
p.0458 一裝束の傘(○○○○)、〈裝束ヲ著スル時持スル也、白袋ニ入、〉廣サ八尺を本とする也、弓持て馬に乘る時、弓の雨にぬれぬほどにする故如レ此也、此事鎌倉年中行事に見えたり、
p.0458 五日ノ夜御行始、〈○中略〉裝束之傘ト云ハ、八尺ヲ本トス、
p.0458 武器及行列具的例
參内傘(○○○)は袋のはしに布をたれ、飾の革を添るなり、垂たる布は全體沓をいれるための袋なり、天明年中、傳奏久我大納言殿下乘の時、沓の甲はなれたれば、袋の沓を出して用ひられたるなり、
p.0458 參内傘ハ常ニハナシ、御規式ノ節用レ之、少將以上用レ之、シカレドモ家柄ニヨリテ持、十万石以上ノ物ナリ、〈○圖略〉
p.0458 袋入傘 俗に參内傘ト云
袋ノ末ヲ積襞ヲトリテ垂 傘ハ白張或ハ朱、爪折傘也、朱ヲ貴用トス、
ツユ
露
露ノ端革三枚宛 袋白晒麻布、紐同平〓柄惚藤卷上ニ革ノ露ヲ付ル、
p.0458 傘の御託宣 慈悲の段
慈悲の世の中とて、諸人のために好き事をして置くは、紀州掛作の觀音の貸傘(○○)二十本なり、昔よ り或人寄進して、毎年張替とて此時まで掛置くなり、如何なる人も此邊にて雨雪の降懸れば、斷りなしにさして歸り、日和(ひより)の時律義に返して、一本にても足らぬといふ事無し、
p.0459 揔七安賣の引札せし事
俄ぶりの雨の足より、いや增の貸傘、貳千七百六拾ばんなどゝ、筆ぶとに見しらせし、越後屋伊豆藏の家名、大路一ぱゐにはびこり、〈○下略〉
p.0459 今世專用ノ傘、皆紙バリ、荏油ヒキ、天和以前大坂ニテ製レ之、〈今毛大坂長町及ビ上町、其他諸所製レ之、〉大黑屋ノ聾(ツンボ)傘ト云者名アリ、紙厚ク骨竹ノ削リ粗ニシテ繫糸强ク、裝束糸ナシ、圓形ノ印アリ、〈今ハ大黑屋亡絶タレドモ、江戸ニテ下リ番傘ノ總名ヲ大黑傘ト云(○○○○○○○○○○○)コトニナリタリ、〉
同製女傘ハ僅ニ小形、糸裝束ナク、薄縹紙ニテ骨番ヒノ所ト、周リノ端トヲ張リ、其他全クハ白紙バリ也、守貞云、今ノ東大黑ノ類歟、
今世江戸ノ番傘モ、專ラ大坂ヨリ漕シ來ル者ヲ用フ、〈又藝州侯藩中ニテモ番傘ヲ内職ニ製ス、江戸ニテ製レ之、正德以來也、○中略〉
古製傘ノ寸法ヲ載セズ、今世番傘概徑リ三尺八寸、骨數凡五十四間、柄ノ長ケ凡二尺六寸、 番傘書法種々隨意一ニ非ズト雖ドモ、粗其形ヲ圖ス、〈○圖略〉譬ヘバ此傘ハ、本町伊勢屋万兵衞ノ所持ナリ、 ハ戸主ノ名ニ入山形ヲ副テ記號ニスル也、此記號ハ家紋ト別也、俗ニシルシト云、又番數ヲ記ス、或ハ彼ヲ書テ是ヲ不レ書、或ハ是ヲ記テ彼ヲ不レ筆、皆トモニ隨意也、 今世ノ番傘、專ラ油紙ヲロクロ上ニ覆ヒ、麻糸ヲ以テ括レ之ナリ、〈○中略〉故ニ此傘ノ頭ハ 此形ノ轆轤也、紅葉傘等ノ頭ハ 此形也、〈○中略〉
東(アヅマ)大黑傘ハ、骨數六十間、大サモ紅葉傘ト同製、唯轆轤ハ番傘ト同形ニシテ小形也、頭ニ當紙ヲモ用フル也、然モ飾糸モアリテ、楓傘同意ノ用也、 大黑ト云番傘、從來價二三百錢、安政以來諸品漸貴價、慶應ノ今ハ大略價三倍ス、
p.0460 天和ノ比マデハ、大坂ヨリ來ル傘ヲ用、大黑屋ノ聾ガサ(○○○○○○○)ト云ハ名代ナリ、貞享ノ比ヨリ地ニテ作ル、上品ナリ、
p.0460 我衣に、大黑屋の聾がさと云は名代なり云々とあるは、今大黑傘といふ、これそのかみの壺屋がざ(○○○○)なるべし、つんぼがさは、つぼやを訛りしものか、
p.0460 貞享二年二月十日庚子、今日春宮新造御殿御移徙行啓也、〈○中略〉今朝依二奉行職事命一、不レ用二朱笠(○○)一可レ爲二手笠(○○)一之由被レ命レ之云々、
p.0460 今ノ忍侯〈松平下總守〉ノ從行、供頭ノミハ、馬ヨリ下リ、駕籠脇ニ步從スルトキ、雨天ニハ、雨具ハ著レドモ笠ヲ用ヒズ、手傘ヲサシ從フトナリ、
萩支侯、德山侯ハ、〈毛利大和守、三萬石、〉閣老對客ノトキナド、ソノ玄關前等ニテ、士供傘サシカクル、
p.0460 會下傘(エゲガサ/○○○)
p.0460 傘 會下僧 説經
p.0460 小兒ノ傘(○○○○)モ古來ハナシ、是テンガウ也、手習子ハ元祿比ヨリ有德者ノ子供計サシタリ、享保ノ比ヨリ三四歲計リノ小兒モ少ク傘ヲサス、世知(セチ)辨是ニテ可レ考、
p.0460 寬永頃の畫に、小兒の傘、さま〴〵の紋をかきたるに、筒護りと絹などさげたる圖あり、是は近世までもかくあり、それ故神祭に出るねり子供のさしかけ傘其體なり、
p.0460 小兒傘
今世モ四五歲以上小兒傘用レ之、小形ニテ麁ナル澀蛇目ノ如クシ、何屋某ナド其兒ノ名ヲ下シ書ニシタル物多シ、三都トモニ用レ之、〈○中略〉
文政比、京坂製小兒日傘、芝居俳優肖像等ノ錦繪三枚ヲ張リ、其餘ハ淺黃紙張トシテ、專ラ女兒ノ日傘トス、長柄ニ非ズ小形也、男兒ハ用ヒズ、 今世江戸女兒日傘、梅櫻花等ノ形其他モアリ、其紙 形ヲ當テ紅藍等ノ霧ヲ下シ、紙形ヲ除ケバ下圖ノ如クナル、〈○圖略〉
蛇ノ目ノ如ク央ト周リヲ藍紙ヲハリ、中間ヲ紅霧紋ニシ、或ハ中間紅ギリ紋、周ト央ヲ藍霧紋ニシタルモアリ、又蛇ノ目ノ如ク、淺黃紙中間キリニ非ル淺紅ノ紋形紙ハルモアリ、
p.0461 下リガサ(○○○○)、厚紙ニテ細工ブ卜ウナリ、ツヨキ糸セウゾクナシ、竹アラ削リ丸キ判アリ、
下リ女ガサ、少シ小ブリ、糸セウゾクナシ、ウス花色ガミニテ、蛇ノ目ノヨウニ作ル、下作ナリ、
p.0461 諸色引下ゲ直段書
下リ傘
〈去子(元治元年)六月書上直段、拾本ニ付銀貳拾八匁五分、〉一下リ傘
〈今般(慶應元年)引下直段拾本ニ付〉
銀三拾九匁貳分
但當時直段四拾匁 内八分直下ゲ
p.0461 貞享ヨリ地ノモミヂガサ(○○○○○)キヤシヤナリ、天上靑紙靑ドサニテ細クヘリヲ取、絹糸セクゾク、柄、ト卷、
p.0461 紅葉がさ、〈○中略〉雨傘を紅葉といへるも、すげ笠のもみぢより名付しなるべければ、是又始めは日がさに用ひしにや、然らば靑傘のもとなるべし、
p.0461 貞享以來、江戸ニテ製ス紅葉傘アリ、〈○圖略〉中央〈骨ツガヒ以上也〉靑土佐紙外白紙バリ、糸裝束アリ、柄藤卷、精製也、〈○中略〉
江戸ハ澀蛇ノ目モ用セズ、白ノ紅葉傘也、〈紅葉傘ハ精製ナルノ名也、乃チ骨數凡六十間ノ物、○中略〉
江戸市民、白紅葉傘ヲ專用トシ、或ハ稀ニ周リ二寸餘淡墨ニスルモアリ、又ホソ傘ト云テ、骨竹ヲ細クシ、一握ニテ或ハ腰ニ差ベキ物アリ、極精製也、價銀十匁ヨリ十五匁計也、〈○中略〉近年江戸白紙モミジ傘ニ骨數少キ者アリ、雨傘也、鬼骨傘ト云、又骨竹半ヨリ二ツニ割テ左圖〈○圖略〉ノ如ク菊形ニ製スモアリ、蓋此二品ハ稀ニ好數人用レ之ノミ、菊形骨、江澀張等ノ日傘ニモ有レ之、 是モ亦表ニ竹皮ヲ出シ、紙ヲ狹ム物ニアリ、 此菊骨、雨傘日傘トモニ有レ之、雨傘ハ大形白紙油ヒキ、日傘ハ小形淺葱紙張也、又小形日傘ニテ骨形如レ常、數卅九間、亘三尺二三寸、淺葱紙張ノ物ニ、表裏ニ骨ヲ出スアリ、ロクロギハヨリ二ツニワリ、竹ノ皮ヲ表ニ身ヲ内ニス、此菊形モ日傘ハ表裏ニ出シ、雨傘ハ裏ノミニアリ、表ニ出ズ、〈○中略〉
愚痴拾遺物語曰、靑張ノ日傘ハ踊子右衞門ニ始ル、舟ナドニ行クニ、菅笠ハ髮損ル故也、町奉行水野備前守制禁アリ、唐土靑羅傘蓋ト云テ、大王靑絹ニテ張傘アリ、凡人ハセマジキコト也、近年ハ大ニ流行ス、女ハ髮故ト思フニ、醫者坊主ハ何ゴトゾヤ云々、
三都トモニ、〈○中略〉白モミジ傘ニハ、全クニ帖ミテ、骨表ヨリ溜塗トテ漆ニ辨ガラ交ヘタルヲヌル、帖或莟ムト云、日傘モ莟テ表ニ漆スル也、
p.0462 傘持てもぬるゝ身
爰に明石より尼崎への使者、堀越左近といふ人、生田の小野の榎木の蔭に雨舍してありしに、かかる時十二三なる美少人、まだ夏ながら紅葉傘を持て差さで來にけり、
p.0462 風流傘(○○○)は、文永賀茂祭の古畫にみゆ、是はたゞ見物の爲にて、傘鉾などの如し、太平記大森彦七の條に、裝束の唐かさ程なるといへるも、緣に帛など付たる唐かさをいふなるべし、
p.0462 一かさをば右にさすべし、左の手にては太刀のつかををさへ候やうにしたるがよく候、
一御傘に參事、昔は御參宮などの時、御宮めぐりなどの時ならでは參候はず候、近年定たるごとく參候、是も御小者の役にてありげに候、上の御左のかたへまはり、右の手を上へなし、左の手を下になして、ゆるがぬやうに參るべし、風など吹候時は、御ゑぼしにあたらぬやうに、殊氣遣ふがしぎなるべし、〈○中略〉 一走衆御笠之事、右如二申候一近年儀也、御異體時は御小者參候、御參宮などの御時、御裝束にて御宮めぐりの時は、走衆被レ參候由ニ候、惠林院殿樣阿州しやうかくじ御動座の時雨ふり候て、各御笠指可レ申由被二仰出一候、各存分候つれ共、御門出之事ニ候間、無二左右一被レ參候て、八幡にて如レ此子細被二申入一候、被二聞召分一、如二先々一たるべき旨、被二仰出一候つる由、今の小坂殿親父など慥物語之由候、飯川能登殿〈順職〉も御物語候、〈○中略〉
一笠さす事、雨ふり候へば、御輿ぎはの人に被二仰出一候事も有、又各さし候へと可レ申かと伺申時もあり、さてさし候を見て、御供衆もさゝれ候つるとて候、
p.0463 からかさの事
からかさのほねをぬりたるは、人の内衆はさすべからず、小者はくるしからず、
公方樣御成の樣體の事
一雨ふり候時、御こしにゆたんかけられ候事は、公方樣御輿には見及不レ申候、御旅にて一段雨降風吹候へば懸られ候由候、さ候へば御供衆も蓑をめし候、御こしにゆたんかけられ候はねば、御供衆もかさを御さし候はず、御臺樣の御こしには、いづくにてもゆたんかゝり候、御車の時は御ゆたんかゝらぬ程は、御供衆もかさをも御さし候はず候、
p.0463 一馬上にて傘左にてさすべし、目通りにえを持べき也、
p.0463 一笠をさす時分の事、卯月朔日ゟ八月中さし候、九月いるまでもさし候、時節によるべく候、
p.0463 たなばたまつりかなたこなたとせさせ給へり、〈○中略〉よひすこし過るほどに、源中納言、かりのよそひにてむまにておはして、みなみの山ひさかきのとにおはして、おまししかせて、からかさかの木のうつぼにをきたまふ、
p.0464 雪たかう降て、今も猶ふるに、五位も四位も、色うるはしう若やかなるが、〈○中略〉あこめの紅ならずば、をどう〳〵しき山ぶきを出して、からかさをさしたるに、風のいたく吹て、よこざまに雪を吹かくれば、すこしかたぶきてあゆみくる、
p.0464 あそび三人、いづくよりともなく出來たり、五十ばかりなるひとり、二十ばかり成、十四五なると有、いほのまへに、からかさをさゝせてすへたり、
p.0464 元永二年四月廿二日丁酉、從レ朝天陰、小雨間下、賀茂祭也、〈○中略〉予馳參二院御所一、〈三條烏丸〉欲レ有二御見物一之處、天陰雲時有二大雨一、〈○中略〉過二御棧敷一間、或乞二指笠(○○)於下人一、或入二笏於懷中一、作法奇恠也、此中行重宗實指レ笏取レ笠、尋常也、 六月二日丁丑、午後天陰雨下、御産五夜也、〈○中略〉有二啜粥事一、長實朝臣參二寢殿中央間一、〈敷二圓座一〉民部大夫五位七人列立、此間雨下、各指レ笠、〈○下略〉
p.0464 鹿谷酒宴靜憲止二御幸一事
鹿谷ニハ軍ノ評定ノ爲ニ、人々多集テ一日酒盛シケリ、〈○中略〉庭ニハ用意ニ持タリケル傘ヲアマタ張立タリ、山下ノ風ニ笠共吹レテ倒ケレバ、引立引立置タル馬共驚テ、散々ニ〓踊(ハネヲドリ)、〈○下略〉
p.0464 のぶつらかつせんの事
御ぐしをみだり、〈○以仁王、中略、〉六條の助大夫宗信からかさもつて、御供仕る、
p.0464 知盛船掃除附占二海鹿一幷宗盛取替子事
淸水寺ノ北坂ニ、唐笠ヲ張テ商ナフ僧アリ、憗ニ僧綱ニ成タリケレバ、異名ニ唐笠法橋ト云ケル者ガ許ニ、〈○下略〉
p.0464 川のはたに山田の次郎しげたゞからかさ(○○○○)さゝせ、いくさのげちして立たりけるようひの袖に、うらかく計にいつけたり、重忠あやうくや思ひけん、からかさをとらせてだんのうへゝあがりけり、
p.0465 土御門院〈阿波院ト申〉宮、承久ノ亂ノ時、二歲ニ成セ賜ケリ、〈○中略〉義景草深キ庭中ニ畏テ、破タル御簾ノ内ヲ守テ、御位ヲ讓セ給候御使參テ候ト三度直奏ス、〈○中略〉頓テ義景大番ナリケレバ、扉例タル門ノ脇ニ唐笠張立テ、陣屋ニシテ奉二守護一、〈○下略〉
p.0465 寬正六年七月卅日乙亥、八朔御禮、親元例年申次分、〈○中略〉春日社御師〈刑部少輔師淳〉進上紙百束、〈御返一重○中略〉貴殿扛唐笠十本〈御返〉絹一疋、〈○下略〉
p.0465 扨秀元、此御舟何方へ付可レ申候カト窺セ給ヘバ、アノ濱へ付サセヨトノ御諚ニテ、豐前大裏ノ浦人ノ家村ヨリ、七八町北ニ吹上ノ白濱へ、御船ヲ漕付テ御上リナナレシ、御床木ト御サシ笠(○○○)ヲ、御小性衆取寄給ヒ、濱ニ毛氈ヲ敷、御床木ヲ立給ヘバ、御床木ニカヽラセ給フ、御小性衆御笠ヲサシカケ被レ申シ、
p.0465 伏見の豐後橋にて、東照宮の傘指たる者と爭ひ取て、藤堂和泉守指かけたるも正宗に同じ、
p.0465 公家衆靑紙の傘(○○○○)をさゝるゝ、是は冠の爲と見へたり、夫より地下の女の用となりしか、
p.0465 松平大學頭殿、雨中登城の節、つか袋の代りに、甚小き傘を大小の上へかざされし也、定て深き思慮も有べけれど、外見不雅なり、
p.0465 今世三都トモニ傘之下商人アリ、〈昔ヨリ有之テ、何ノ時始ルヲ知ラズ、大略徑リ丈許、高サ准レ之、大傘ヲ路傍ニ栽テ、其下ニテ商フ也、故ニカサノシタト云、行人多キ所ニ有レ之、飴ノ類路上商專ラ用レ之、(中略)飴責ハ三都トモニ今モ丈餘ノ大傘ヲ用フレドモ、京坂唯傘ノ下下云ハ、彼酒店ノコトヽス、〉
p.0465 かさ 今だいかさ、たてかさといへる物は、大の字音をよび、たては大傘地に立べきをいふなるべし、
p.0465 一立傘(タテカサ)とて、からかさを黑き袋に入れ、臺笠(ダイカサ)とて、笠(キカサ)をも袋に入れ、棒を付て持する 事、當世武家の風俗也、古はなき事也、臺笠立傘といふ名目、古記に無レ之、古は式正の時、白傘袋を持せ、常には淺黃の袋に入持せしなり、笠はあやゐ笠を用、是はかぶらざる時は、手に持せしなるべし、臺笠立傘といふ事も、昔よりある物と思ふ事もあるべければ斷レ之也、
p.0466 御三家御家門國主之列幷供廻り道具等之格
御三家、〈○中略〉御規式之時は、七本道具被レ爲レ持レ之、乘輿は打揚腰黑也、常は御道具貳本、長刀褄折立傘、但シ御道具は跡に被レ立レ之、〈○中略〉右御規式之節、七本道具は、道具四本、長刀、立傘、臺笠なり、是は常憲院樣御代より御免被レ仰二出之一、
p.0466 武器及行列具的例
臺笠は菅笠を袋に入る事本式なり、塗笠を用るは略義なり、臺に掛る故臺笠といふ、是は全體旅行の道具也、
p.0466 臺笠立傘 今世幕府御成、大名旅中行粧ノ具也、古ヨリ有レ之歟、愚按ニハ、上古ヨリ不レ可レ有レ之、蓋立傘ハ、實用ノ傘ノ袋入也、今ノ臺笠ハ、飾ノミニテ實用ノ笠ニ非ズ、
幕府ノ御臺笠ハ、黑天鵞絨袋、紫紐、梨子地金御紋散ノ蒔繪柄也、大名等ハ、黑ビロウド袋ナレドモ、紐或ハ紫、或ハ黑、家格ニ因ル、柄モ右ノ如ニ非ズ、搢紳家モ用レ之歟、〈○圖略〉
p.0466 柄立(エタテ)
p.0466 一出行事
柄立袋
晴時隱二唐笠中一
p.0466 一鞍具足事 柄立袋
p.0466 一馬上にてかさをさすには、先例の笠をさゝせて乘て、馬をしづめ、扨片手綱に取て、 馬上にさすべき笠を、弓手の方より寄させて、取て柄立に立べし、〈○中略〉
一柄立をば、牛の角にてするが本也、笠の柄の出入ゆる〳〵とある程にすべし、少も滯るは、自然笠を捨時、以の外惡き也、柄立は左のしほでに付る也、
p.0467 えだての事、左のしほでにつけべし、付やうなし、しやうもさだまらず、かねにてもする、牛のつのなどニてもする也、をはあさぎのをゝ三あはせてなひ、さしなわのごとくなひて、あをく染て付る也、又かわをも緖に付候事あり、たゞの時は傘袋のきはに、笠のえに付て置べし、是も付樣とてはなし、
p.0467 一からかさの柄立の事、〈○中略〉貞丈按、柄立はふくろを作りて、鞍の左の鹽手に結び付て、傘の柄を袋に立て、持などする事なるべき歟、〈又牛ノ角にて作り、長さ二寸歟、又は一寸貳分計に拵へ、穴をあけて皮の緖を付る也、牛角をくりぬきて作るなるべし、又なめし皮にて袋を作るときも、一寸五分歟二寸程にてよく、是も穴をあけて、皮緖を通して留るなるべし、〉
〈頭書 光大曰、射手方聞書ニ云、馬上にてからかささす樣、先右の手にかた手綱に取て、その手にて弓の弦を取副て、弓をはたらかさずかゝへて置也、扨あきたる左手にて、からかさを取て、えだてにおし入て、しかととらへて、先の右の手に持たる弦を、左の人さしゆびと、たか〳〵ゆひとのあわひへ入て、弓をば持也、かた手綱にていかにはせまはすとも、くるしからざる也云云、或人滑韋ノ柄立袋を作リシヲ見タリキ、貞丈翁ノ云レシ寸法ヨリ大キシ、此方然ルベキヤウニ思ハル也、圖如レ左、〉 〈口二寸、丈四寸五分アリ、〉
p.0467 馬上笠立 吉良流弓の書に云、馬上にて弓を持て、から笠をさすには、左の鹽手の本に、竹の筒を付て置、是を柄さしといふ、是に笠の柄をさし入て、弓に取そへ持べし、貞丈云、竹の筒が略義也、本は柄立袋とて、革の袋を付て、笠の柄を立る也、
p.0467 五日ノ夜、御行始、管領へ御出、恒例也、〈○中略〉傘袋ハ、白キ布三幅ニテ、長九尺八寸本也、其故者裝束之傘ト云ハ、八尺ヲ本トス、弓持テ馬ニ乘時モ、弓ノ潤ヌセイニスル故如レ此、諸人如二存知一、弓ハ七尺五寸本ナル故也、傘袋ニハ黑革長サ二寸、ヒロサ五分ニシテ、傘袋ノ中程ニ二寸サゲテ、三所ノ縫メニ菊綴ヲスベシ、上ノ方ハ黑革菖蒲横革紋ニ付タルヲ、長サ二尺五寸、廣サ一 寸二分ニシテ、御免革ニテ重ヲシテ、末兩方劒先ニキリテ二重ニ取テ、傘ナリノ本ヲ可レ結、傘袋ノ上ノサガル所ヲ綻バシテ、長サハ一尺二寸ナリ、下之方ヲバ六寸サゲテ、黑革廣サ五分ニ長サ一尺五寸ニシテ、袋ノヌイメニ結付テ傘ノ柄ニ結べシ、
p.0468 からかさの事
一笠袋のこしらへやう、總の長さは笠によるべし、上のぬひ殘す分一尺貳寸、裝束革の長サ同前、〈革の先をけんさきに切べし、ぬひ殘たる所に可レ付、〉布は笠によりて、三布又二の半にも有べし、ちとさきほそかるべし、裝束革は菖蒲革ごめん成べし、重ねやう菖蒲がは上、ごめん下なるべし、革一たけを二に折て、あなをあなたこなたへあけてとをすべし、鞠の取革のごとし、弓袋の裝束と同前、菖蒲なければ黑革もくるしからず、但略儀なり、又下の縫殘す分、是も一尺貳寸といへども、それはみじかし、一尺五六寸程にすべし、袋の一方の下を折かへして縫なり、是は自然公方家には沓を被レ入、武家にはじやうり足半を可レ入ため也、袋の一のは下をきり、二のは上へ折返して縫べし、返したる布のはしを一尺計縫あはする也、大かた繪圖にあらはす、縫やうふせぬひなり、左へふすべし、
公方樣、公家、法中は白くこのりを付べし、武家に御晴の時は同前、常に淺黃に染て可レ用、裝束は同じ、猶口傳有、又人の内衆は、笠を袋に入候はでもたせられたるがよしと、故人は申され候し、笠持は人夫成べし、公方樣のは人夫十德をきて、帶をして持たるやうに覺え候、常にはたゞ人夫持候、馬に乘候時は、くらおほひをかけてもたせ候、又公家など御晴の時は、人夫にてゑぼしに白きひたゝれを著て候、
p.0468 一傘袋のこしらへやうの事、ふくろの長は笠によるべし、上ぬいのこす分一尺二寸、しやうぞくかわの長さ同前、かわのさきをけんさきに切べし、ぬいのこしたる所に付べし、布は三の又は二の半にもすべし、少さく細かるべし、しやうそくの事、黑皮上、五めん下に成べし、竹をわ りて穴をあけ候て、皮へとをすべし、しやうぶかわ本にて候、もししやうぶ皮なければ、黑皮にてもすべし、是略儀なり、
p.0469 一笠袋之事、法量なし、但式装の時、白き笠袋は、裝束を菖蒲革と、五めん革を重てする、其趣凡弓袋の裝束のごとし、か樣にして裝束笠を入、式裝束の時用る也、常には白き笠袋相應せぬ事なるを、大名などは平生も持せらるゝ事心得ず、式裝の具をば、式裝の時こそ可レ被レ用に、小すわうの時も、白き笠袋を、大名などは必持せらるべき樣に心得は謂れぬ事也、大名の内者も、式裝の時は白き笠袋也、裝束に隨儀也云々、細川右馬頭殿〈持賢〉は、右京大夫殿〈勝元〉の叔父にて、御供衆の中にも、異に賞翫あれども、平、生は白き笠袋をば持せられず、淺黃に染たる笠袋也、尋常は只裝束もなく、布を淺黃に染てうつたれを一尺計にして、笠を入てもたすべし、裝束をせば、白笠袋にする樣にすべし、此次第小笠原播州〈元長〉物語なり、〈○又見二土岐聞書一〉
p.0469 一笠袋之事、近年あさぎを人の御内仁、理運に仕候事、更其心得なき事に候、其故ハ、公方樣の御笠袋は、内々又きつと御座なき御時は、淺黃の御笠袋にて候、御はれの御時は、武家も白にて候、又人の内仁も、式正直垂の時は、袋に入候て被レ持候はゞ可レ然候、只ゑぼしすはうの時は、袋に入候はずして、只持候が可レ然候、あさぎも白も御物之事候間、何も斟酌に候、暮々人の御内仁は、ゑぼしすはうのとき、笠をばたゞ被レ持候が可レ然候、大名など御免の衆は、直垂の時は白袋たるべし、當時人の内衆、淺黃の笠袋、各用候事候、隨二于時一事候間、不レ及二是非一無念事候、
p.0469 一馬をもひかせ候、うつぼをもつけさせ、弓をももたせ候、御馬のあとにめしぐすべし、笠をば淺黃のふくろに入もたせ候也、
p.0469 一袋に入たるかさ渡樣の事、たてながら渡し可レ申也、
p.0469 一白笠袋に、淺黃のもうせんふすべ革ぬりたるくら覆をも被レ懸レ之、但一段と晴の時は赤 を可レ被レ用候、
p.0470 一笠袋の事
さきの布のあまり八寸貳分、又六寸貳分、かさによるべし、同みせがわ長さ八寸貳分、六寸貳分、横壹寸六分也、壹寸八分にもくるしからず候、又壹尺貳寸候つる事も有、尺の笠と申にする也、したの布の餘りはうへ半分也、二所之緖の長さ九寸づゝするなり、或は表はすゞし、裏はねり也、柄にも袋有べし、是は式の時の事也、常は黑し、紋有、はりのともに四ツ也、其内にも有べし、みせ革の事、上は黑革、中は赤革、下はふすべ革也、
p.0470 袋の緖結樣品々
一傘袋の緖結樣、長刀のごとくうろこ結にすべし、すべてかやうの類皆同じ、
緖はしやうぶ革、又は黑革を細クくけて用、
p.0470 傘袋 白布三幅、風帶五枚、絬餘りを折返して、沓入とすべし、〈二はゞ半にもする也、布のはゞによるべし、風帶の革は壹尺五寸にして、御免革しやうぶかわ二枚なるに、今は二尺五寸計片々へ計、紫、しやうぶ、藍、白、御免革の五品をかさね付る、又沓袋へ必沓を入る事なり、天明年の比、傳奏衆久我大納言殿御參向の時、大雪ふりけるに、御下乘の時、御沓の甲はなれたれば、俄に傘袋の沓まいらせたり、武家方には緖太をも入らるゝ事也、〉
p.0470 古來傘ハ能枯スヲ良トス、ユヘニ竈ノ上ヘツルシヲキタリ、元祿比ヨリ傘ケツカウニナルニシタガヒ、スヽノカヽラヌヨウニトテ、紙ノ袋へ納レ又夫ヨリ木メンノ袋ニ定紋ヲ染テ入ルル、延享比迄町人ハ不レ用、武家或ハ醫者計ナリ、
p.0470 天鵞絨袋入傘〈○圖略〉 搢紳家武家トモニ略䙝用レ之、又武家式正略䙝トモニ用レ之コト得ザル物多シ、不レ許レ之者、白袋彌不レ許レ之、又許レ之家ニモ白袋ヲ許サヾルモアリ、官僧ハ式正略トモニ用レ之、貴人ノ室娘等、猩々緋紐紅ヲ用フ、
武家用レ之、紐多クハ黑也、紫紐ヲ用フルコト家格ニヨル、又用レ之コト得ザル者、黃滑革袋ニ納ル家 アリ、又無袋ノ傘ヲ持家甚多シ、
幕府御成略ニハ、黑天袋蓋、紫紐ハ勿論、柄梨子地葵紋ノ金蒔繪アリ、他ハ專ラ總藤卷也、〈○中略〉又搢紳家モ、平日及ビ旅中ニハ、黑天鵞絨袋入ヲ用フ、
大名モ正月參内傘ヲ用フコトヲ得ザル者、黑ビロウド、黑羅紗袋入也、又袋傘ヲ許ザル家ハ、裸傘ニテ持セリ、黑天鵞絨袋傘ニハ、家ニヨリ紫紐免許アリ、免許ナキハ黑紐也、皆長柄傘也、
万石以下ハ高家ニ袋傘免許ノ家モアル也、岩松氏ハ二百石ニテ袋傘紫紐ナリ、其他袋 無レ之歟、旅中ニハ專ラ各用レ之、
官僧ハ皆各黑ビロウド袋傘ヲ用フ、赤爪折等ヲ用ヒテ、朱傘ニ擬ス也、
p.0471 後奈良院天文十五丙午歲十二月十九壬寅日、於二坂本樹下宅一、公方左馬頭義藤朝臣〈後被レ號二義輝一〉御元服之次第、〈○中略〉
一御供衆三騎、〈○中略〉三騎共赤毛氈鞍覆、白傘袋被レ爲レ持、〈○下略〉
p.0471 寬政中カ、秋元但馬守〈永朝〉ノ宅ヲ訪タリシトキ話シニ、御譜代ノ大名御役人ノ傘ヲ袋ニ入ザルコトハ、神祖ノ上意有リシコトナリ、然ヲ今時重役方ニモ、コノ御趣意ヲ知ラザルニヤ、帝鑑衆其外モ各家風ノ行裝ヲ、其マヽニセラルヽハ、本ヲ忘ザルトモ云ベキ歟、ナレド御趣意ヲ守トハ云ガタシト申サレシ、是ヲ以テ思ヘバ、吾天祥君、〈肥前守諱鎭信〉雄香君〈壹岐守諱棟信〉ノ行裝ニ傘ハ袋ナカリシト聞ク、コレソノトキ御譜代ノ列ニ加ヘラレ、御譜代ノ勤ル御役ヲモ蒙ラレシ故ナルベシ、祖父君〈諱誠信〉ノ頃迄モコノ如クナリシガ、其後ハ今ノ如ク袋ニハ入ラレシ也、コレハ家ノ先規ニ復スルト云事ナルベシ、
p.0471 今ノ桑名侯ノ〈松平越中守○中略〉傘袋ノ緖ハ、尋常ノ組糸ニアラズ、袋ト同ジキレニテ緖ヲ作リ結ブ、 淀侯〈稻葉侯、十餘萬石、〉ハ當主ハ先箱ヲ持セズ、傘ニモ袋ヲカケザルガ、ソノ世子ノトキハ、先箱ヲ持タセ、傘モ袋ニ入ルヽ、當主トナレバ始ノ如シ、コレハ當主加判ヲ勤ラレシトキ、並ノ通リノ供立ニシテ、世子計、家格ニシタル形ノ殘リシナリ、
p.0472 一臺笠立笠といふ物、古代なき物也、京都將軍の代までは、から笠を布の袋に入て持せし也、武家にて白かさ袋を持する事は、公方より御免を蒙りて持せし也(○○○○○○○○○○○○○○)、御免なき人は、あさぎの布の笠袋也、宗五記に見えたり、〈○中略〉臺笠立笠といふ事、古書に曾てなし、近代の風俗なり、
p.0472 近江ノ九里被レ誅事
永正十三年六月、朝倉彈正左衞門敎景、大内殿ノ吹擧ニテ、白傘袋鞍覆ヲ御免アリ、
p.0472 杉、内藤ノ恨ニハ數々ノ其中ニ、將軍ヨリノ笠袋、鞍覆ヲユルサレシヲ、武任〈○相良〉ガ異見ニテサヽヘヲカルヽ事ナレバ、無念ニゾ思ハレケル、
p.0472 天文十年二月廿四日、一もうせん鞍おほい〈幷〉白笠袋、三宅出羽守御免に候、京より晴光へ御使〈飯兵〉在レ之、仍致レ披二露之一如レ此云々、
p.0472 天文十一年六月十三日壬辰、一芥川孫十郎、毛氈鞍覆白笠袋御二免之一、
p.0472 褰二御簾一樣
御簾ヲ持上ル時、下簾ヲ左右共一方へ引出テ具レ簾而持二上之一、〈○中略〉又自レ上兩樣隨役人、有二差笠ヲ擁スル役人一、下﨟歟、但可レ隨レ事也、
p.0472 安貞二年七月廿三日、將軍家渡二御駿河前司義村田村山庄一、〈○中略〉矣御駕、 駿河四郎、〈持二御劒一〉 佐原十郎左衞門太郎〈奉二御笠一〉
p.0472 一笠持之出立樣の事、いつもの人夫までにて候、其より外に別の出立やうは有まじく候、
p.0473 からかさの事
一かさの役人、墨がさは小者の役、公方樣其外公家、門跡、禪僧、武家同前、〈○中略〉又雨がさは公方樣御參内、八幡御社參以下きとしたる時は、ほういの役人さし被レ申候、私にては中間さし候、又かさもあつかひ候事は、中間の役ニ而候、人にかすも、餘所よりかるも、中間取次候べし、
p.0473 一笠をさし候役は、沓より猶下り候、公方の御笠をさし候は、忰者にて候、
p.0473 一同年〈○永和元年〉四月廿五日、御參内始、〈○中略〉御傘役事、兼日無二御用意一、仍時而被二仰付一、千秋右近將監勤仕、〈著二直垂一、先先在二其例一、〉
p.0473 侍不審條々
一御笠は諸大夫差レ之
p.0473 享保三戌年四月
下馬ゟ下乘橋迄召列人數之覺
一四品及拾万石以上、幷國持之嫡子侍六人、草履取一人、挾箱持貳人、六尺四人、雨天之節は笠持一人、
一一万石以上、〈○中略〉雨天之節は笠持一人、
下乘ゟ内〈江〉召列人數之覺〈○中略〉
一一万石已上嫡子、〈○中略〉雨天之節は笠持一人、
一諸番頭、諸物頭、布衣以上之御役人幷中奧御小姓衆、三千石以上之寄合、〈○中略〉雨天之節は笠持一人、
一三千石以下之寄合、布衣垓下御役人、中奧御番衆、總御番衆、〈○中略〉雨天之節は笠持一人、
一醫師〈○中略〉雨天之節は笠持一人、〈○中略〉 右之趣、急度可レ被二相守一候、〈○下略〉
p.0474 中村侯〈相馬氏〉ノ傘持ハ、鎗持ノ如ク雙刀ナリ、
p.0474 天保九年二月六日戊申、午刻許、著二衣冠一内々參二御社一、〈○春日、中略、〉申刻、沐浴著二束帶一、〈○中略〉予乘馬、〈○中略〉傘持白張四人等召具、參二社頭一、
p.0474 二十二番 左 傘張
いつしかに我にみえじとかくれがささしもへだてぬ心なりしを
p.0474 笠張 唐土よりつたはれりと、或説に日本にては、田村丸のうちに高重と云者、是をつくるとあれ共、たしかならず、今傘紙は森下、國栖、海田等にてはる也、又日隱(ひがくし)のために繪をかきたる笠、小兒のもてあそびとなす、所々に是をつくる、
p.0474 みの屋三勝が古墳幷笠屋三勝が辨
大坂長町といふところは、傘張(○○)多く住り、三勝が家なりしといふ傘屋、長町東側中程にあり、
p.0474 挑灯張替〈○中略〉
又大坂ニテハ、詞ニ傘日ガサノツヾクリ、雨障子天窻ノハリカエト呼來ルモアリ、如レ詞應レ求補レ之ナリ、ツヾクリハ補フノ俗語、傘日傘等全紙ヲ修補スルニ非ズ、大小ノ破損ノミヲ修スルヲ專トス、
p.0474 諸職名匠
傘〈幷〉挑燈師 今出川升形町 〈御用〉一本仁兵衞 猪熊三條上〈ル〉町 桔梗や市郎兵衞
p.0474 寬正三年十二月二日、仕丁戸上國安事、致二唐笠一令二沙汰一者也、仍當門跡唐笠座(○○○)衆へ、毎年百文充、致二其沙汰一了、此二十餘年如レ此也、然而此六七年以來、以二仕丁一號二此百文一、料足令二無沙汰一間、連年座衆致二訴訟一候處、國安申入趣ハ无二其儀一也、一向座衆虚言申入云々、
p.0475 凡年中久雨、則市中賣二笠傘幷木履一、雨後至二晴天一、則必賣二編笠葛籠笠及日傘一、編笠男子出行、則障レ日幷覆レ面之具也、葛籠笠婦人遊行之具也、
p.0475 笠傘 凡諸品之笠幷陰晴所二共用一之傘、悉二條新町製レ之、
p.0475 白浪のうつ脈取坊
むかし都の町に、北國むきの傘を仕込職人有、大勢弟子を抱へ、次第に勝手よく、壺屋(○○)といへる家名を世上に廣めける、
p.0475 古傘買(○○○)
京坂ニハ稀ニ錢ヲ以テ買レ之、多クハ土偶及ビ土瓶行平鍋、又ハ深草團扇等ヲ以テ交易シ、物少キ方ヨリ錢ヲ添ル、
京坂此賈詞ニ、土ヒン、行ビラ、キビシヨ、ヤキナベ、上ウチワヤ、上人形トカエマスデゴザイ、ナンナリカナリトカエ升デゴザイ、上人形ハ精製土偶ノ總名也、
江戸ハ交易セズ、一古傘大略四文八文十二文許リニ買レ之、故ニ此賈ヲ古骨買(○○○)ト云、詞フルボ子ハゴザイ〳〵ト云、所レ荷具植木ヤ似テ小也、
p.0475 傘同轆轤引下ゲ直段書上
一下〈リ〉傘拾本ニ付 〈當五月直段、上貳拾八匁五分、中貳拾六匁、下貳拾四匁、當時引下ゲ賣直段、上貳拾五匁中貳拾三匁、下貳拾匁、〉
一地傘拾本ニ付 〈當五月直段、上貳拾三匁五分、中貳拾壹匁貳分、當時引下ゲ賣直段、上貳拾貳匁、中拾九匁八分、〉
一藝州傘拾本ニ付 〈當五月直段、貳拾貳匁、當時引下ゲ賣直段、拾八匁五分、〉
一地傘蛇〈ノ〉目壹本ニ付 〈當五月直段、上八匁七分、中七匁壹分、下六匁貳分、當時引下ゲ賣直段、上八匁三分、中六匁九分、下六匁、〉
一地傘白張壹本ニ付 〈當五月直段、上七匁壹分、中五匁七分、下四匁壹分、當時引下ゲ賣直段、上六匁七分、中五匁三分、下三匁八分、〉
一大黑張替傘拾本ニ付 〈當五月直段、錢壹貫百五拾文、當時引下ゲ賣直段、錢九百五拾文、〉 一傘轆轤百本ニ付 〈當五月直段、大貳拾三匁五分、中貳拾貳匁五分、小拾貳匁八分、當時引下ゲ賣直段、大拾九匁貳分、中拾七匁六分、小拾壹匁、〉
右者當五月書上後、前書之通、直段引下ゲ申候、依レ之此段申上候、以上、
諸色掛リ〈佐内町〉名主 八右衞門
〈南傳馬町〉同 新右衞門
p.0476 人のいへにつき〴〵しき物
からかさ(○○○○)
p.0476 傘
傘は雨の用意ながら、其工ことにして、すぼむれば手の中ににぎり、ひらけば其地百倍せり、神祇にかさぼこをかせば、釋敎に説敎師もかだけり、曾我殿ばらの夜打の場には、よきたいまつとて、五月やみをてらして、御所の前後をしゆごし奉れり、御上洛にもさきだてば、行幸にもしたがへり、木の下露は兩にまされるにや、松だけもひらけば、べに茸もさけり、かゝる珍重なるものを、なにとて山崎くだりの僧はわすれけんと、その茶屋もゆかし、
天にはるからかさもがなはるの雨
細工奇特竹兼レ紙 更曳二膏油一一德詼 用舍異レ他售レ糖者 雨天不レ指日和開
p.0476 ひく物のしなじな
かさをはりては油をひく