https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1143 仁ハ、メグムト云ヒ、又イタムト云フ、卽チ慈愛惻隱ノ心ヲ謂フナリ、此篇ニハ仁ノ解説及ビ其事蹟ヲ收載ス、
度量ハ、寬大ニシテ、能ク衆ヲ容ルヽヲ謂フ、而シテ人ノ過誤ヲ咎メズ、舊惡ヲ念ハズ、又己ヲ害セントスル者ヲ宥免スルガ如キ、亦此ニ屬セリ、

名稱

〔類聚名義抄〕

〈一/人〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1143 仁〈音人 ウツクシム(○○○○○)メクム(○○○) ムツマシ〉

〔段注説文解字〕

〈八上/人〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1143 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01319.gif 親也、〈見部曰、親者密至也、〉从人二、〈會意、中庸曰、仁者人也、注人也、讀如人偶之人、以人意相存問之言、大射儀、揖以耦、注、言以者耦之事、成於此意、相人耦也、聘禮毎曲揖、注人耦敬也、公食大夬禮、賓入三揖、注、相人耦、詩匪風箋云、人偶能烹魚者、人偶能輔周道民者、正義曰、人偶者、謂以人意之也、諭語注、人偶同位人偶之辭、禮注云、人偶相與爲禮儀皆同也、按人耦猶言爾我、親密之詞、獨則無耦、耦則相親、故其字从人ニ、孟子曰、仁也者人也、謂能行ニ仁恩者人也、又曰、仁人心也、謂仁乃是人之所以爲一レ心也、與中庸語意皆不同、如鄰切、十二部、〉

〔釋名〕

〈四/釋言語〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1143 仁忍也、好生惡殺、善含忍也、

〔日本書紀〕

〈四/綏靖〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1143 神渟名川耳天皇、○綏靖、中略、庶兄手硏耳命行年已長、〈○中略〉立操厝懷、本乖仁義(ウツクシヒ/○○)

〔古今和歌集〕

〈一/序〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1143 あまねき御うつくしみ(○○○○○)のなみ、やしまのほかまでながれ、ひろきおほんめぐみ(○○○)のかげ、つくば山の麓よりもしげくおはしまして、〈○下略〉

〔倭訓栞〕

〈前編三/伊〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1143 いつくしむ 仁をよめり、痛く惜むの義成べし、人の全德は仁愛の心にあり、萬葉 集に愛をうつくしとよめるも音意通せり、

〔神道玄妙論〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1144 仁は宇都久志美と訓べし、珍愛の御子宇都志伎(愛しき)靑人草などいふ宇都より出て、萬葉集に愛をうつくしと訓り、〈日本紀に、德字をうつくしとよめり、〉うつくし母、うつくし人、うつくし妹、うつくしき子など歌に見ゆ、萬葉集に、天地の神相うづなひと見え、續紀の宣命に、相宇豆奈比相扶奉とも、相うづなひ奉り、幅はひ奉りとも見え、中臣壽詞には、うづのひとも云へり、いつくしむと云は、この轉れる言なり、萬葉集に、皇神のいつくしき國と見えたり、また米具美と訓べし、

〔めのとのさうし〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1144 人はたゞいかほども、なさけ(○○○)おはしませ、じひ(○○)なさけにこそ人はおもひつくものにて候へ、

〔續日本後紀〕

〈十二/仁明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1144 承和九年十月丁丑、文章博士從三位菅原朝臣淸公薨、〈○中略〉家無餘財、諸兒寒苦、淸公、〈○中略〉仁而愛物、不殺伐

解説

〔千代もと草〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1144 仁は人をあはれみ、慈悲をほどこす事なり、

〔春鑑抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1144
夫人ト云モノハ、天ヨリ性ヲウミツクルニ、ソノ牲ニ仁義禮智ノ四德ノ、ソナハラヌモノハナヒゾ、性トハ、タトヘバ水ハシタヘナガルヽ性アリ、火ハホノホノウへ ヘアガル牲アルガ如キゾ、サルホドニ人ノ性ニハ、慈愛惻怛ノコヽロアルヲ仁ト云ゾ、慈愛トハ慈悲ニシテ、愛敬アリテ人ヲアハレムヲ云ゾ、惻怛トハイタミイタムトヨムゾ、人ノアシキコトヲ、ワガコヽロニイタミイタンデ、タスケスクフゾ、コレハ天理ノマヽニシテ、白然ノコトハリゾ、孟子ニ惻隱之心、仁之端也ト云モ、コノコトゾ、〈○中略〉仁者ト云モノハジノゴトクニ人ノウへノウキヲミテハ、タスケヒデハトヲモヒ、災難ニアフヲミテハ、救ハント思フゾ、不仁者ト云テモ、コノ性ハアレドモ、人欲ノ私ニヒキソコナハレテ、仁ノ心ヲ失ヒ、不仁ニナルゾ、サルホドニ仁ト云ハ、マヅ人ヲアハレムコヽロア ルヲ云ゾ、サレバ唐ノ韓退之ガ、博愛謂之仁ト云ヘルハ、ヒロク衆ヲ愛スルヲ仁ト云ゾ、宋ノ朱文公ハ、仁者心之德、愛之理也ト云ゾ、仁ト云モノハ、本心ノ全德ニシテ、人ヲ愛スル理也ト云ル心ゾ、孟子ハ、仁八之心也ト云ルヲ、程子ガ註ニ、心譬如穀種、生之性則是仁ナリト云タゾ、〈○中略〉中庸ニ仁者人也ト云ハ、仁字ハ人ト云字ノ心ゾ、イフコヽロハ、人ノ人タルハ仁ノ道アルヲ以テ云ゾ、仁ノ道アリテ、シカフシテノチニ人ト名クルゾ、仁ナクンバ人トハ云ベカラズ、カルガユヘニ仁者人也ト云ル心ゾ、〈○下略〉

〔彝倫抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1145 仁トハ、心ノ德、愛之理ト云心ナリ、本心ニ生レ出ルヨリ具シブイヅルモノナリ、ソトヘアラハルヽトキハ、物ヲ見テアハレミイタム心ナリ、コノ心人々ニムマレツキテアレバ、聖人ト別ニカハルコトナシ、タトヘバ佛法ニ人々具足、箇箇圓成直指人心見性成佛トイヘルモ、粗相似タリ、カクノゴトク、本心ノ仁ハ、聖人ト同ジキニ、ナニヲ學問ヲスルゾト申セバ、ソノ仁心ハアリナガラ、或ハ欲心ニヒカサレ、或ハ氣質ノウケヤウ、アシクアリテ、邪念惡心ガキザシテ、アハレムベキコトヲモアハレマズ、カナシムベキコトヲモカナシマズ、君ヲアナドリ親ヲソムクニイタルコトナリ、ソコヲナヲサンタメノ儒ノ敎ヘナリ、人々仁ノ6アル證據ヲ、孟子ニアラバサレタリ、タトヘバ、二ツ三ツニナル子ガ、井ノモトノアタリヲハフテ、スデニオチントセバ、イカナルモノニテモ、ヤレカバユキコトヨト、心ノオコラヌモノハアルマジキナリ、ソノ心ハタシナミテ、人ニヨクイハレントテ出ルニテモナク、其子ノ親ト智音ニテ、イヅルニテモナキナリ、本心ヨリアラバルヽ念ナリ、今時ニテモ其證據アリ、舞ヤ謠ヤナドノ、アハレナルヲキヽテハ、皆人涙ヲナガシタ戚ズルナリ、心ニワタクシナキユヘニカクノゴトシ、今日欲心ニナリテハ、父子兄弟ノ間モ、タガヒニアダガタキトナル、アサマシキコトナリ、此私ノ心サツテ、天理ノ本然ノ仁心ニカヘレト、敎へ申スナリ、コレ佛法ニテハ、物ノ命ヲコロサズ、只慈悲利益ヲスル心ナレバ、殺生戒モヲノヅ カラ仁ノ道ニコモリ申スナリ、

〔聖敎要錄〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1146
仁者人之所以爲一レ人、克己復禮也、天地以元而行、天下以仁而立、顏子問仁、夫子以綱目之、仁之全體大用盡、仁者兼五常之言、聖人之敎以仁爲極處、漢唐儒生以仁作愛字、其説不及、至宋以仁爲性、太高尚也、共不聖人之仁、漢唐之蔽少、宋明之蔽甚、仁之解聖人詳之、仁對義而謂、則爲愛惡之愛、仁因義而行、義因仁立、仁義不支離、人之情愛惡耳、是自然之情也、仁義者愛惡之中節也、

〔五常訓〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1146
人の禽獸にことなるは、仁あるを以てなり、五常五倫、百行萬善、皆仁よりいづ、故に仁の理、至りて尊く、至りて大なり、わがともがら凡愚のしりがたきことなれば、たやすくいはんこと、いとかたはらいたくこそきこゆべけれ、〈○中略〉中庸に曰、仁者人也、親親爲大、孟子も亦曰、仁也者人也、又曰、仁人之心也と、言ふ意は、天地の惠み大にして、よく萬物を生じ給ふ、其の理を生理と云ふ、生理とは天理の生々して、よく物を生ずるを云ふ、此の生理を人の身に生れつきたる故に、人の身に惠みの心、胸中にみち〳〵て、よく物をあはれむ、是を以て人の身、卽是仁なり、故に仁者人也と説きたまへり、〈○中略〉周子は德愛を仁と云ふといへり、愛はあはれむなり、仁は心の德にて、人をあはれむを云ふ、愛を以て仁をとくは、是仁の大用をとけり、〈○中略〉程子は天地の生意を以て仁をとけり、生意とは、天地の理、生々して物を生ずる意を云ふ、其の生意の人に生れつきたるを仁と云ふ、天にありては生と云ひ、又元と云ふ、人にうけては仁と云ふ、天にあり人にありて、其の名はかはれども、其の理は一なり、〈○中略〉朱子曰、仁心之德、愛之理、心の德とは、德は得るなり、〈○中略〉愛の理とは、心の德のいまだ外にあらはれざる内に、おのづから物をあはれむ理をふくめるを云、〈○中略〉心之德愛之理の六字、朱子はじめて發明せる所、後の學着に功あり、是周子の德愛を曰仁に本づけり、或曰、 愛之理は發用をさせりと、此の説非也、朱子日、愛之理者、是乃指其體性而言、此の説の證とすべし、愛は用なれども、愛の理は内にふくめるを以ていへば、ゐらはれたる用に非ず、朱子又日、仁は温和慈愛の道理、喞中朱子の此の二説にて、仁の字義大むねそなはれり、

〔駿臺雜話〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1147 仁は心のいのち
ある時、例の人々とぶらひ來て、講習しけるが、仁義の説に及べり、中にひとりいひけるは、人は天地の心を得て心とす、天地は萬物を生ずるをもて心とする故に、それを得て心とすれば、人は人を愛するをもて、心の德とする事勿論なり、よりて仁は心之德、愛之理といへり、心の德とあれば、仁義禮智諸ともに仁にもるゝ事なき程に、仁は四者を包て、義も、譜智も、仁によりて立なり、是は翁〈○室鳩巢〉の講説にてかねて承りし事にて侍る、但仁は人を愛する心にあらずや、それを衆善の長とする事、たれも知たるやうに候へども、大かたは人はたゞ慈悲を第一とするをもて、仁を衆善の長とするとばかり意得侍る、それは慈悲の重き事をいはゞ、しかいふてもやみなまし、今仁を心の德とするは、さやうの一通りの淺き事にてはあるまじく候、いかなれば慈悲の心ひとつが、心の德となりて、義も禮も智も仁なければ、うせほろぶるにやあらんと工夫すべき事にて侍る、此ところを今少し承たくこそ候へ、翁聞て、只今申さるゝ所、すこしもちがひなく聞へ侍る、されば日ごろ申たる外に、改て申べき事もなく候へども、猶くはしく串候は申ゝ、心の仁あるは、人の元氣あるがごとし、人の元氣は脉にあらはれ、心の元氣は愛にあらはる、脉のかよひ絶れば、人死するごとく、愛の理ほろぶれば、心死する程に、仁は心のいのちとも申べし、夫心は活物なるにより、人に情あり、物の哀をしりて、常にいきたる物ぞかし、よりて父母を見ては自然に親愛し、親愛せざるに忍びず、君長をみては、自然に尊敬し、尊敬せざるに忍びず、齒德を見ては自然に遜讓し、遜讓せざるに忍びず、義を聞ては必感ずる事をしり、不義を聞ては必恥ることをしる、もし情なく 哀をしらずば、其心頑然として、鬼畜木石のごとく、痛さ痒さもしらずなりなん、何をもて自愛し、なにをもて恭敬せん、義を聞て感ずる事なく、不義を聞ても恥る事なかるべし、是をもていふに、仁義禮智いづれも心の德にして、各其理わかるれども、其本源は仁に外ならず、人として不仁なれば、義も禮も智も其さまあり、其用ありといへど、所詮内より生ぜねば、眞の德にあらず、公の理にあらず、この故に仁に心の德といふて、外に德をいはず、仁に愛の理といふて、外に理をいはず、そのいはざる所に、ふかき意ありとしるべし、

〔伊勢平藏家訓〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1148 五常の事
一仁といふは、人をはじめとして、生あるものをあはれみ、おもひやりふかくいたはる根精を仁といふなり、仁は慈悲の事と心得べし、父母に孝行するを初として、萬物此仁をはなれてはなら囚事なり、

〔文會雜記〕

〈一上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1148 一仁者心之德、愛之理ト云ヤウナルコトヲ、徂徠モ仁齋モ、トヤカク云テ、ハリアヒセリ合セラルレドモ、何ノ用モナキコトナぞべシ、神祖〈○德川家康〉ノ御遺訓ニ下ヲ治ハ慈悲ト云一言ニテ、安民ノ道モ叶ベシ、然レバ經術ト云テ、メツタニ骨折モ、隙ニマカセテ云フコトナルベシト、君修ノ論ナリ、C 仁例

〔古事記〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1148 爾速須佐之男命白于天照大御神、我心淸明故、我所生之子得手弱女、因此言者、自我勝云而、於勝佐備〈此二字以昔〉離天照大御神之營田之阿〈此阿字以音〉埋其溝赤其於看大嘗之殿屎麻理〈此二字以音〉散、故雖然爲天照大御神者登賀米受而吿、如屎醉而吐散登許曾、〈此三字以音〉我那勢之命爲此、又離面之阿溝者、地矣阿多良斯登許曾、〈自阿以下七字以音〉我那勢命爲此登〈此一字以音〉詔雖直、猶其惡態不止而轉、〈○下略〉

〔日本書紀〕

〈一/神代〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1148 一書曰、〈○中略〉夫大己貴命與少彦名命力一心經營天下、復爲顯見蒼生及畜産、則定 其療病之方、又爲鳥獸昆虫之災異、則定其禁厭之法、是以百姓至今咸蒙恩賴

〔倭名類聚抄〕

〈二十/草〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1149 石蔛 本草云、石蔛、〈胡谷反、和名須久奈比古乃久須禰、一云以波久須利、〉

〔古事記〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1149 大穴牟遲神見其菟言、何由汝泣伏、菟答言、〈○中略〉伏最端和邇、捕我悉剝我衣服、因此泣患者、先行八十神之命以、誨吿浴海鹽風伏、故爲敎者、我身悉傷、於是大穴牟遲神、敎吿其菟、今急往此水門、以水洗汝身、卽取其水門之蒲黃、敷散而輾轉其上者、汝身如本膚必差、故爲敎、其身如本也、

〔日本書紀〕

〈六/垂仁〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1149 二十八年十一月丁酉、葬倭彦命于身狹桃花鳥坂、於是集近習者、悉生而埋立於陵域、數日不死、晝夜泣吟、遂死而爛臰之、犬烏聚噉焉、天皇聞此泣吟之聲、心有悲傷、語群卿曰、夫以生所一レ愛令殉亡者、是甚傷矣、其雖古風之非良何從、自今以後議之止殉、

〔日本書紀〕

〈十一/仁德〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1149 四年三月己酉、詔曰、自今之後、至于三載、悉除課役、息百姓之苦、是日始之、黼衣鞋屨、不幣盡更爲也、温飯煖羮、不酸餧易也、削心約志、以從事乎無爲、是以宮垣崩而不造、茅茨壞以不葺、風雨入隙而沾衣被、星辰漏壞而露牀蓐、是後風雨順時、五穀豐穣、三稔之間、百姓富寬、頌德旣滿、炊烟亦繁、

〔續日本紀〕

〈二十二/淳仁〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1149 天平寶字四年六月乙丑、天平應眞仁正皇太后崩、〈○聖武后藤原光明子、中略、〉太后仁慈、志在物、創建東大寺及天下國分寺者、本太后之所勸也、又設悲田施藥兩院、以療養天下飢病之徒也、

〔三代實錄〕

〈三十五/陽成〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1149 元慶三年三月廿三寫癸丑、淳和太皇太后崩、〈○正子、中略、〉太后慈仁、天至濟物在勤、收拾東西京弃兒孤孩、給之乳母、多所養育、割封戸五分之二、以充其費

〔續古事談〕

〈一/王道后宮〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1149 帝王ハ人ヲアハレミ、民ヲハグヽム心オハシマスベキ也、シカレバ一條院ハ極寒ノ夜ハ、御衣ヲヲシノケテオハシマシケレバ、上東門院、ナドカクハセサセ給ゾト閲タテマツリ給ケレバ、日本國ノ人民サムカラムニ、ワレアタヽカニテネタル事、無慙ノ事也トゾ仰ラレケル、延喜御門〈○醍醐〉モサムクサユル夜ハ、御衣ヲヌギテ、夜御殿ヨリナゲイダシ給ケルト、イヒツ タヘタリ、

〔平家物語〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1150 紅葉の事
またあんげんの比ほひ、御かたたがひの行幸の有しに、〈○中略〉やゝゑんかうにおよんで、程とをー人のさけぶこゑしけり、ぐぶの人にはきゝも付られず、主上はきこしめして、たゞ今さけぶは何ものぞ、あれ見てまいれとおほせければ、うへぶししたる殿上人、上日の者におほせてたづぬれば、あるつじにあやしの女のわらはの、なかもちのふたさげたるが、なくにてぞ有ける、いかにととへば、主の女房の院の御所にさぶらはせ給ふが、この程やう〳〵にして、したてられたりつるきぬをもつてまいる程に、たゞ今おとこの二三人まうできて、うばひ取てまかりぬるぞや、今は御しやうそくが有ばこそ、御しよにもさぶらはせ給はめ、又はか〳〵しう立やどらせ給ふべき、したしき御かたもましまさず、是を思ひつゞくるになく也とそ云ける、さてかの女のわらはをぐしてまいり、このよし、そうもんしたりければ、主上きこしめして、あなむざん、恂ものゝしわざにか有らんとて、れうがんより御なみだをながさせ給ふぞかたじけなき、〈○中略〉さるにてもとられつらん衣は、何色ぞとおほせければ、しか〳〵の色とそうす、けんれいもんゐんその時は、いまだ中宮にてわたらせ給ふ時なり、その御かたへ、さやうの色したる御衣や候と、御たづね有ければ、さきのより遙に色うつくしきが參りたるを、件のめのわらはにぞ給ばせける、いまだ夜ふかし、又さるめにもぞあふとて、上日の者をあまた付て、主の女ばうの局までをくらせまし〳〵けるぞ忝き、

〔續日本紀〕

〈二十九/稱德〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1150 神護景雲二年五月辛未、水内郡〈○信濃〉人刑部智麻呂、友于情篤、苦樂共之、同郡人倉橋部廣人出私稻六萬束、償百姓之負稻、並免其田租身、

〔日本後紀〕

〈八/桓武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1150 延曆十八年二月乙未、贈正三位行民部卿兼造宮大夫美作備前國造和氣朝臣淸麻 呂薨、〈○中略〉賓字八年大保惠美忍勝叛逆伏誅、連及當斬者三百七十五人、法均〈○淸麻呂姉廣虫〉切諫、天皇〈○孝謙〉納之、減死刑以處流徒、亂止之後、民苦飢疫、棄子草間、遣人收養、得八十三兒、同名養子葛木首

〔續日本後紀〕

〈十七/仁明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1151 承和十四年四月丙戌、授白丁膳臣立岡正七位上、立岡若狹國百姓也、代窮民輸鹽五斛、庸米百五十二斛、准稻四千六百八束

〔文德實錄〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1151 仁壽二年二月乙巳、參議正四位下兼行宮内卿相模守滋野朝臣貞主卒、〈○中略〉貞主天性慈仁、語恐人、推進士輩、隨器汲引、長女繩子心至和順、進退中規、仁明天皇殊加恩幸、生本康親王、時子内親王、柔子内親王、少女奧子頗有風儀、閫訓克脩、爲天皇幸、生惟彦親王、濃子内親王、勝子内親王、時人以爲外孫皇子、一家繁昌、乃祖慈仁之所及也、

〔扶桑略記〕

〈二十五/朱雀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1151 承平六年六月、南海道賊船千餘艘、淨於海上、强取官物、殺害人命、仍上下往來人物不通、勅以從四位下紀朝臣淑仁、補賊地伊與國大介、令行海賊追捕事、賊徒聞其寬仁汎愛之狀、二千五百餘人悔過就刑、魁帥小野氏寬、紀秋茂、津時成等合卅餘人、手進夾名、降請歸伏、時淑仁朝臣皆施寬恕、賜以衣食、班給田疇、下行種子、就耕敎農、民烟漸靜、郡國興復、

〔榮花物語〕

〈一/月宴〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1151 太政大臣殿〈○藤原忠平〉月ごろなやましくおぼしたりけるに、天曆三年八月十四日うせさせ給ぬ、〈○中略〉心のどかに慈悲の御心ひろく、世をたもたせ給へれば、よの人いみじくおしみ申、のちの御諡貞信公と申けり、

〔吾妻鏡〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1151 正治三年〈○建仁元年〉十月六日癸未、江間太郎殿〈○北絛泰時〉昨日下著豆州北條給、當所去年依少損亡、去春庶民等粮乏、盡失耕作計之間、捧數十人連署狀、給出擧米五十石、仍返上期、爲今年秋之處、去月大風之後、國郡大損亡、不飢之族、已以欲餓死故、負累件米之輩、兼怖譴責、插逐電思之由、令聞及給之間、爲民愁、所鞭也、今日召聚彼數十人負人等、於其眼前弃證文、年雖豐稔、不糺返沙汰之由、直被仰含、剰賜飯酒幷人別一斗米、各且喜悦、且涕泣退出、皆合手願御子孫繁榮 云云、如飯酒事、兼日沙汰人所用意也、

〔澀柿〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1152 明惠上人傳
承久三年の大亂の時、栂尾の山中に、京方の衆多く隱置たるよし聞えければ、秋瞬城助義景、此山に打入てさがしけり、狼藉のあまり、如何思ひけん、大將軍泰時朝臣の前にて沙汰有べしとて、上人を捕へ奉て、先に追立て六波羅へ參けり、〈○中略〉泰時朝臣先年六波羅に住せらる、時、此上人の御事聞及給しかば、先仰天して驚畏て、席を去て上にすへ奉る、〈○中略〉上人宣ひけるは、高山寺に落人多く隱置たりといふ御沙汰の候なる、それはさぞ候らん、〈○中略〉此山は三寶寄進の所たるに依て、殺生禁斷の地也、依て鷹に追るゝ鳥、獵ににぐる獸、皆こゝに隱れて命を繫ぐのみ也、されば敵を逃るゝ軍士の勞して、命計を資て、木のもと岩のはざまに隱居て候はんずるをば、我身の御とがめに預て、難にあはんずればとて、情なく追出して、敵の爲に搦めとられて、身命を奪れん事を、顧りみん事やは候べき、〈○中略〉是政道のために、難儀なることに候はゞ、卵時に愚僧が首をはねらるべしと云々、〈○中略〉泰時大に信仰の體に住して、更に思ひ入たる樣也、扨御輿用意して召せ奉りて、門の際まで自送出し奉る、〈○中略〉
寬喜元年、天下飢饉なりし時は、鎌倉京を初て、諸國の富る者に、我所負主に成て、委狀をかゝせ、判を加へて、米を借て、其所、其郡、其郷、村々餓死せんとする者の所望に隨て、むらなく借給ひにけり、來々年中に、世立なをらば、本物計慥に返納すべし、利分は我方より添て返さるべしと、法を定られて、面々の狀を召をかれけり、只賦給はゞ、所の奉行も紛をかして、誑句も有ぬべければ、紛かさじために、かしこかりし沙汰也さて世立なをりて、面々返納すれば、本所領なども有て、便有人のをば、本物計をさめさせて、本主には約束の儘に、我方より利分をそへて、慥に返しつかはされけり、無緣の聞有者のをば皆赦し給て、我領内の米にてぞ、本主へは返したびける、

〔太平記〕

〈二十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1153 正行參吉野
安部野ノ合戰ハ霜月〈○正平三年〉廿六日ノ事ナレバ、渡邊ノ、橋ヨリセキ落サレテ、流ルヽ兵五百餘人無甲斐命ヲ、楠○正行ニ被助テ、河ヨジ被引上タレ共、秋霜肉ヲ破リ、曉ノ氷膚ニ結テ、可生共不見ケルヲ、楠有情者也ケレバ、小袖ヲ脱替サセテ、身ヲ暖メ、藥ヲ與ヘテ疵ヲ令療、如此四五日皆勞リテ、馬ニ乘ル者ニハ馬ヲ引、物具失ヘル人ニハ、物具ヲキセテ、色代シテゾ送リケル、ナレバ乍敵、其情ヲ感ズル人ハ、今日ヨリ後、心ヲ通ン事ヲ思ヒ、其恩ヲ報ゼントスル人ハ、軈テ彼手ニ屬シテ後、四條繩手ノ合戰ニ、討死ヲゾシケル、

〔常山紀談〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1153 大永年中、細川武藏守高國、〈入道道永と稱す〉三好左衞門督と相戰ふ、〈○中略〉高國の軍破れたり、高國の將荒木安藝守百ばかりの兵を引わかち、〈○中略〉いく度となく戰ひたるに、敵討るゝ者數をしらず、荒木主從一人ものこらず、討死しける間に、高國僅に近江にのがれ得たり、荒木平生士卒を愛するに、悃情を盡せり、古への食を分、衣を解、藥を同し、苦を共にするの風あり、少しの功ある人をすてず、ある時、荒木がしたしきゆかりある人と、荒木が士のかろき者と、倶に疫痢を煩ひけるに療養力のかぎりに心を付てゆかりある人よりも、まさりければ、これを恨けり、荒木緣者はわれ問すとも、心を附る人あり、わが何がしは賤し、いやしき者は、人おろそかにせん、われ心を盡さずば療養おこたりあらん、緣者をおろそかにするには非れども、先重き處に、心を盡せるなり、無事の時は、緣者したしといへども、事ある時は、士卒の切なる故なり、したしき一族ゆかり有とても、陣々わかれたれば、互に死生もしられず、士卒は戰場に死生を共にするものなれば、一人とても、本意を失ん事、わが大なる患なりと答けるを、士卒聞て、人々恩を思ふ事、骨髓に徹せりとなん、

〔武將感狀記〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1153 一氏綱〈○北條〉伊豆ニ攻入時、アル里ノ家ゴトニ、二人三人病ヲシケル、其故ヲ問セラ ルヽニ、壯ナル者ハ、皆亂ヲサケテ、山林ニ逃竄レ候、我等疫痢ヲ病候ニヨツテ、起ル事モ叶ハズシテ、敵ノ手ニ死ヲ毛省ズ候ト云、氏綱憫テ其里ヲ侵サズ、一物ヲモ掠トラズ、藥ヲアタへ食ヲ與ラレヌ、民大ニ悦ブ、是ヨリ衆人聞傳テ志ヲ歸ス、氏綱伊豆ヲ得ノ基トナル、

〔常山紀談〕

〈二十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1154 鮭延越前は最上義光の長臣、祿一萬五千石なり、最上の家亡て後、流落しけるに、もとより家人に慈愛深かりし人にて、士二十人附從ひ、各乞食して養はんといふ、土井大炊頭利勝五千石與へければ、二十人の士に五千石皆あたへて、各二百五十石なり、其身は二十人のもとに一日がはりに養はれて、一生を終れり、越前死すれば二十人の士大に愁傷して、一宇を建立す、今下總の古河城下の鮭延寺これなり、

〔明良洪範〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1154 榊原康政嫡子遠江守康勝死去、實子有シカド、子細有ジ隱セシ故、家斷絶ニ及ソトス、弟忠政大須賀ノ養子ナリシガ、養家ヲ捨テ實家ヲ繼グ、稱號ヲ給リテ松平式部大輔ト云、德川家ノ士大將トナリ、播州姫路ヲ給リシ所、勝手甚不如意ナリシ故、所持ノ名器ヲ賣レシ、其中ニ天下ニ沙汰セシ名物ノ茶入アリ、京極丹後守廣高望ミテ金一萬兩ニ買レケル、式部ハトテモ天下ニ恥ヲ晒ス上ハ、右一萬兩ヲ錢ニテ申受度ト望レシ故、江戸中ノ錢ヲ買入、車數千輛ニ積送ラレシ、式部ハ是ヲ以總家士ヲ救ヒ、廣高ハ領内ノ民百姓ヲシエタゲテ、己ガ藥ミヲ極ム、其頃世上ノ評ニ、式部名器ヲ捨テ名ヲ天下ニ上シト云リ、

〔神宮續秘傳問答〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1154 愚拙〈○度會延佳〉幼童ノ比、小鳥ヲ取テ翫シニ、其悦不斜、其日漸薄暮ニ至テ、彼鳥籠ノ内ニ悲鳴シ籠ヨリ出ントスル體ヲ見テ、中心其悲ニ不堪、卽時籠ノロヲ開テ放ヤリシヨリ懲テ、今年六十八歲マデ、家ニ小鳥ヲ不飼、マシテ殺生ヲ禁ズ、但シ出家ナドノ樣ニ、一向不殺生ニシテ、盜鼠ヲモ不殺、死タル魚鳥ノ肉マデ食ハザルニハ非ズ、海魚マデモ、不決明、榮螺、蛤蜊ナドノ類ノ死タル肉ハ、食用ニ味惡ケレバ、客饗應ノ爲ニハ、不已生タルヲ門内へ入侍レドモ、其外生タル 魚鳥ヲ曾テ門内ニ不入、是ハ强ヲ戒ムルニハアラザレドモ、殺生ヲ不好也、石決明、榮螺、蛤蜊ナドハ、面目モナク蠢動スル計ナレバ、餘ノ魚鳥トハ各別也、佛者ノ殺生戒ニモ非ズ、儒者遠庖厨トノ戒ニモアラズ、神職ノ家ニ生タル故也、

〔近世畸人傳〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1155 僧鐵眼
僧鐵眼、〈○中略〉攝津國難波村瑞龍寺を建立せり、世人今猶鐵眼をもて其寺を稱す、一切經の藏板を思ひたちて勸進せしに、其料金集れるころ、天下大に餓しかば、師憐みて、件の金を不殘施し、又如前勸進せるに、數年ならず又集りたるが、再び五穀不熟にて、餓死多ければ、此たびも此金を施行に盡せり、されども德の至りにや、第三回の勸進にて、藏經の印刻成就して、其經を頒つ所の代金を、本寺より巳下、一宗の寺々に配ること今に於て同じ、

〔窻の須佐美〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1155 中國にある商家の富有なるもの、老後煩て心地死ぬべしと覺ければ、子を呼て云けるは、〈○中略〉抑人の利を求て富をこひねがふは、もと衣食に乏しからじと也、然るに其人死なずしてあらずはあらじ、死に向ふ時餓に及ぶこと、上中下同じ、とても終には飢ぬべき身ぞかし、强て利を求め欲にふけり、人を苦しめ愛を失ふ事をやめて、一日も心を仁に歸して、道に背かざらん樣にと、こゝうがくべきものぞと、思ふはいかにと云て死せしとぞ、

〔銀臺遺事〕

〈地〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1155 一仁愛の御心〈○細川重賢〉をもて、仁愛の政をおこなひ給ひければ、民の竈も年にまして賑ひ、誰すゝむとはなけれども、寶曆の中頃より、家毎に殿樣祭りといふ事をはじめて、年に一たびかならずしけり、〈○下略〉

〔孝義錄〕

〈六/武藏〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1155 奇特者新井孫助
足立郡〈○武藏〉庄左衞門新田の民に新井孫助とて、〈○中略〉すぎはひもゆたかなりしが、明和三年出水ありて、其あたりのたなつもの、みなみのらず、年の貢ゆるくせん、多少をはかるとて、時の御代官 辻源五郎、其村々を見廻りしに、かの孫助がかまへのうちには、土たかうつき上て、ぬりごめの家建並べたり、何の爲ぞととひしに、孫助いへらく、これより先の年に出水おほかりしが、草加宿をはじめ近き村々の人馬、夥しくなやみしまゝに、己が父權左衞門がはからひにて、諸人のたすけとなし、又はむまや路の役つとむる馬、もしそこなひなば、おほつけの用、をのづからかく事あらんとて、縱十七間横八間高さ七尺あまりに、土をつきたて、これを水塚と呼やり、其上に縱三間横八間の家一、縱二間よこ六間の家一をいとなみ、皆二階につくり、其家のうちに粥たく大釜一つを居へ、かはや二つをつくりこめたり、出水の折は、草加宿ならびにあたりの村々へ般を廻し、かの家に滿る程は、いくたりとなく呼あつめ、馬をば其軒下につなぎて災をさけさせんまうけなるよし、今年もやゝみかさまさりぬべきさまなれば、例の船廻したれど、かの塚へ集るばかりの水にもあらで、よその村々よりはよりも來らず、たゞあたりのものゝみ、あつまりしが、やがて水も退きぬれば、人々も歸りぬるよし、父のまうけ、いとけなげなれば、いよ〳〵孫助も其志をつげり、かの兩新田にすめる貧民は、とし〴〵孫助がたすけをうけざることなく、わきてかの年は、關の東の國々をしなべて、水の災にあひ、貧しき限りは、人の門々にたちて、物乞ふも數多かりしを、兩新田は皆孫助が助をうけたれば、さる事もせざりき、〈○下略〉
○按ズルニ、私物救荒ノ事ハ、歲時部豐凶篇ニ在リ、

〔先哲叢談後編〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1156 田邊晉齋
晉齋從仙臺侯、巡按封境、宿某邑、夢小兒數十輩來挽衣裾、覺而後聞其父老言、乃謂此邑習俗、生女不擧、恐其成長之後費資粧也、晉齋愍憐之、上疏吿其狀於侯、卽日下令、嚴禁其事、且亦有人生女賜與米一石錢五百文之制、邑民至今受其惠、皆晉齋之所建議云、

〔近世畸人傳〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1156 内藤平左衞門 關東のならひ、貧民子あまたあるものは、後に産せる子を殺す、是を間曳といひならひて、敢て慘ことをしらず、貧凍餓に及ざるものすら、傚て此事をなせり、官の敎あれども尚しかり、然るに陸奧白川の傍邑須加川といへる所に、内藤平左衞門といへる豪農、これを歎きて、年毎に緣を求て間曳んとおもふもの有ときけば、其養べき財をあたへて救へり、もと米價賤しき所なれば、多分の費にはあらずと自はいへりとなん、此人篤實類なくて學を好めり、されば是のみならず、人を救ひ、あるひは道橋を造り、慈悲を行ふこと多ければ、領主も賞し給ひて、苗字帶刀をも免され、士に准らへらるといふ、

〔京兆府尹記事〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1157 長谷川備州死去子息平藏の辨
平藏〈○火付盜賊御攻役、中略、〉一封の書を、輔佐の重臣たる奧州白川の城主松平越中守殿〈江○定信〉獻ず、〈○中略〉其趣意は、〈○中略〉非人多きは國の恥なり、若臣に台命を蒙りなば、ケ樣の族を召捕て、兩國の下流、佃島無人島等に於て、身持相應の産業ををしへ、雜費の外は、其者共の德分と爲致、錢財をたもたしめ、店を爲持、渡世を爲致なばよかるべし、國の元は百姓たれば、其中ゟ撰び百姓に仕立、御料私領に不拘、無人の土地へ有付なば、百姓無之のうれひもなかるべしと言上す、越公殆ど感じ、是聖賢の道なり、能心付たりとて、則上聞を經るの所、御感に思召、その奉行を長谷川平藏江被命ければ、旣に其御用に取懸りけるにぞ、其美名日本にひゞき、平藏が仁慈を稱せざるものなし、

〔百家埼行傳〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1157 澤井智明
洛東大和おほ路第三橋の南に大黑屋傳兵衞といふ者あり、數代慈悲家にして家殊に繁昌す、別家數十家あり、〈○中略〉天明寬政のころは、九代におよぶ傳兵衞なり、氏は澤井、名は智明、經學をこのみ、粟田流の書をよくし、また道學をまなびて、慈悲心ふかく、もつはら貧民を憐み、我家は儉をもちひ、能他の人に物を施す、文化年中、攝河兩國洪水の時も、若干の金銀を投うちて、窮民を救し事 おびたゞし、亦年々極寒のころ、夜ごと洛裏洛外を徘廻し、極貧の者を看著て、米錢を施すこと多年、かつて姓名をかくして、他に語る事なし、然ども隱たるより顯るゝはなしと、いつしか公廳に達して、忽ち宣(めさ)れて褒詞褒賞をたまはりけり、〈○中略〉都て家より二三丁四方の小家は、這大黑屋の恩にあづからざる者は稀なりしとぞ、他家といへども、傾廢におよばんとするを看ては、是を歎て、みづから求て其家にゆき、何呉(くれ)と執まかなひ、再興をなさしむる、其才智また賞しつべし、公廳より褒賞をたまはりし事、五六度におよべるとぞ、

雜載

〔子弟訓〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1158
他をめぐみ我をわすれて物ごとに慈悲ある人を仁としるべし

度量

〔日本書紀〕

〈三/神武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1158 戊午年十有二月、饒速日命、本知天神慇懃、唯天孫是與、且見夫長髓彦稟性愎恨不一レ敎以天人之際、乃殺之、帥其衆而歸順焉、天皇素聞饒速日命是自天降者、而今果立忠効、則褒而寵之、此物部氏之遠祖也、

〔先代舊事本紀〕

〈五/天孫本紀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1158 弟宇摩志麻治命〈○中略〉
中州豪雄長髓彦、本推饒速日尊兒宇摩志麻治命、爲君奉焉、〈○中略〉于時宇摩志麻治命不舅謀、誅殺恨戻師衆歸順之、〈○中略〉天皇寵異特甚、詔曰、近宿殿内矣、因號足尼

〔日本政記〕

〈一/神武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1158 賴襄日、〈○中略〉舊志稱、帝德明達豁如、帝新得諸縣、而署之首長、皆疇昔之抗兵反卯者、仍而用之、無變更、其感恩効力於一レ民、民亦便安之、可知也、且夫以敵帥之家嗣、而旣納其降、則授之干戈、委以環衞之任、而不疑、非謂推赤心人腹中哉、

〔續日本紀〕

〈二十七/稱德〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1158 天平神護二年三月丁卯、大納言正三位藤原朝臣具楯薨、〈○中略〉眞楯度量弘深、有公輔之才

〔續日本後紀〕

〈十六/仁明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1159 承和十三年八月辛巳、散位正三位藤原朝臣吉野薨、〈○中略〉少年遊學不下問、性寬大能容衆、見賢思齊、手不卷、敎誨子弟、尤是柔和、雖過失嘗白眼、至于執論、不必達一レ法、

〔文德實錄〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1159 仁壽二年二月乙巳、參議正四位下兼行宮内卿相模守滋野朝臣貞主卒、〈○中略〉貞主身長六尺二寸、雅有度量、涯岸甚高、〈○下略〉

〔十訓抄〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1159 大納言行成卿いまだ殿上人にておはしける時、實方中將いかなる憤か有けむ、殿上に集會ていふ事もなく、行成の冠を打落て小庭になげすてゝけり、行成少もさはがずして、とのもり司をめして冠取て參れとて、冠してまほり刀よりかうがい貫取て、びんかいつくろひて、居直りて、いかなる事にて候やらん、忽にかう程の亂冠に預るべき事こそ覺え侍らね、その故を承りて後の事にや侍るべからんと、ことうるはしくいはれけり、實方はしらけてにげにけり、折しもはじとみより主上御覽じて、行成はいみじき者也、かくをとなしき心あらむとこそ思はざりしかとて、其たび藏人頭あきたりけるに、多の人を越てなされにけり、

〔古今著聞集〕

〈九/武勇〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1159 十二年の合戰に貞任はうたれにけり、宗任は降人になりて來にければ、ゆるしてつかひけり、嫡男義家朝臣のもとに、朝夕祗候しけり、或日義家朝臣宗任一人ぐして、物へ行けり、主從共に狩裝束にて、うつぼをぞおへりける、ひろき野を過るに狐一疋走けり、義家うつぼより、かりまたをぬきて、きつねをおひかけけり、射ころさむはむざむなりと思て、左右の耳の間をすりざまにしりへ射たりければ、箭は狐の前の土に立にけり、狐其箭にふせがれて、たふれてやがて死にけり、宗任馬よりおりて、狐を引あげて見るに、箭もたゝぬに死たるといひければ、義家みて臆して死たるなり、ころさじとて射はあてね、今いき歸なむ、其時はなつべしといひけり、則箭を取てまゐらせければ、やがて宗任してうつぼにさゝせ給けり、他の卽等是を見て、あぶなくもおはする物かな、降人に參たりとも、本の意趣は殘たるらむものを、脇をそらして矢をさゝす る事あぶなき事也、おもひきる害心もあらば、いかにとぞかたぶきける、

〔平家物語〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1160 紅葉の事
むげに此君〈○高倉〉は、いまだよう主の御時より、せいをにうわにうけさせおはします、去ぬるせうあんのころほひは、御年十さいばかりにもやならせおはしましけん、あまりにこうえうをあひせさせ給ひて、北のぢんに小山をつかせ、はぢかいでの、まことに色をうつくしうもみぢたるをうゑさせ、もみぢの山と名付てびねもすにゑいらんあるに、なをあきたらせ給はず、しかるをある夜野分はしたなう吹て、紅葉皆ふきちらし、らくえうすこぶるらうせきなり、殿もりのとものみやつこ、あさきよめすとて、是をこと〴〵くはき捨てゝげり、のこれるえだちれる木のはをばかきあつめて、風すさまじかりけるあしたなれば、ぬいどのゝぢんにて、さけあたゝめてたべける、たきゞにこそしてげれ、ぶぎやうの藏人、行幸よりさきにと、いそぎ行て見るに、あとかたなし、いかにととへば、しか〳〵とこたふ、あなあさまし、さしも君のしつしおぼしめされつるこうえうを、かやうにしつる事よ、しら命なんぢらきんごくるざいにもおよび、我身もいかなるげきりんにか、あつからんずらんと、思はじ事なうあんじつゞけて居たりける處に、主上いとゞしく夜るのおとゞを出させもあへず、かしこへ行幸成て、もみぢをゑいらん有に、なかりければ、いかにと御たづね有けり、藏人なにとそうすべきむねもなし、有のまゝにそうもんす、天氣ことに御こころよげに、うちゑませ給ひて、林間にさけをゐたゝめて、こうえうをたくと云詩の心をば、さればそれらには、たれがをしへけるぞや、やさしうもつかまつりたる物かなとて、かへつてゑいかんにあづかりしうへは、あへてちよつかんなかりけり、

〔吾妻鏡〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1160 治承四年九月十九日戊辰、上總權介廣常催具當國周東、周西、伊南、伊北、廳南、廳北輩等、率二萬騎、參上隅田河邊、武衞〈○源賴朝〉頗瞋彼遲參、敢以無許容之氣、廣常潛以爲、當時者、率土皆無平相 國禪閤之管領、爰武衞爲流人、輙被義兵之間、其形勢無高喚相者、直討取之、可平家者、仍内雖二圖之存念、外備歸伏之儀參、然者得此數萬合力、可感悦歟之由、思儲之處、有遲參之氣色、殆叶人主之體也、依之忽變害心和順云云、

〔吾妻鏡〕

〈二十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1161 貞應三年〈○元仁元年〉六月廿八日、前奧州禪室卒去之後、世上巷説縱横、武州〈○北條泰時〉者爲亡弟等、出京都下向之由、依兼日風聞、四郎政村之邊物忩、伊賀式部丞光宗兄弟、以政村主外家、内々憤執權事、奧州後室、〈伊賀守朝光女〉亦擧聟宰相中將實雅卿、立關東將軍、以子息政村御後見、可武家成敗於光宗兄弟之由、濳思企已成和談、有一同之輩等、于時人々所志相分云云、武州御方人人粗伺、雖申武州、稱不實歟之由、敢不驚騷給、剰要人之外、不參入之旨、被制止之間、平三郎左衞門尉、尾藤左近將https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif 、關左近大夫將https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif 、安東左衞門尉、萬年右馬允、南條七郎等計經迴、太寂莫云云、 七月五日、鎌倉中物忩、光宗〈○伊賀〉兄弟、頻以往還于駿河前司義村許、是有相談事歟由、人恠之、入夜件兄弟、群集于奧州御舊跡、〈後室居住〉不此事之旨、各及誓言、或女房伺聞之、雖密語之始、事體不審由、吿申武州、武州敢無動搖之氣、彼兄弟等不變之由成契約、尤神妙之旨被仰云云、

〔志士淸談〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1161 戸次道雪ハ豐後ノ鎧岳ノ城主也、能ク士卒ヲ愛護ス、故ニ士卒度々殊功ヲ立、危阨ヲ救ヘリ、道雪ノ寵童アリ、近侍ノ士密ニ情ヲ通ズ、道雪コレヲ知レドモ不問、近侍ノ士ノ友人、道雪ノ知ル事ヲ識テ、近侍ノ士ヲ諫テ出奔セシム、近侍ノ士不聽、然レドモ友人近侍ノ士刑セラレン事ヲ恐レテ、夜話ノ次デニ、東國ノ大將誰トハ不知愛幸ノ侍童アリ、其昵臣深夜枕ヲ並ベタリ、大將怒テ昵臣ニ腹キラセ、侍童ハ放斥セラル、寔ニ君ノ目ヲ昧シタル者ナレバ理ニ候、商人ノ物語ニ候故、始末ハ不詳候ト、ナキ事ヲ作テ道雪ノ返答ヲ試ントス、道雪ノ日、大將タル者忌妬ノ心アル時ハ、湫窄ニシテ物ヲ容ルヽノ量ナシ、物ヲ容ルヽ量ナケレバ、將士悦服セズ、外義ヲ以テ戰フト、悦服ニ由テ戰フト、强勁ナル所同日ニモ語ルベカラズ、暴惡ノ如キハ國法アリ宥難シ、世俗ノ習 ニ染テ其非ヲ不識ノ類ハ、詐僞欺罔ニ比スベカラズ、何ゾ命ヲ斷ニ至ラン、友人退テ近侍ノ士ニ語ル、近侍ノ士感嘆不斜、〈○下略〉

〔水谷蟠龍記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1162 常陸國久下田ノ城主水谷蟠龍、〈○中略〉同〈○天文〉廿一ノ年、臺所ニ火事出來、危ク燒ントスル所ヲ、家中走リ著消ス、是ニ依テ城ノ東藪ノ中ニ、五間ニ藏ヲ立、二間ハ番所ニ用、三間ノ内ニ先祖代々功名ノ感狀數通、同ジク所領加增ノ書付等ヲ始トシテ、總ジテ家ノ倍高ノ道具、其外高直ノ諸道具ヲ籠オク、然シテ根岸兵庫、河上勘解由兩人ヲ頭トシテ、足輕廿人申付、晝夜番ヲイタサシム、殊ニ番所ニ火ヲ用ル事堅禁制ス、然バ彼番頭兩人談合ニハ、此番所ハ人ノ通ハヌ地ナレバ、好キ博奕打所ゾトイヒ、忍ビ〳〵ニ相手ヲ誘ヒ、晝夜共ニウッ、其時打勞レ、殊ニ酒ニ醉臥、其隙ニ火鉢ヨリ火事起ル、彼者共、火事ヨ〳〵ト呼テ則逃ル、家中カケ著、取出ストイヘドモ、十ノ物一ツモ出サズ、大形燒失ス、家老共、彼頭兩人尋出シ、死罪ニ行フベキヨシ申上レバ、蟠龍仰ケルハ、寳ヲヤキ損ズル上ニ、大事ノ譜代二人殺ス事ハ、重々ノ費也、〈○中略〉心コソアホウナリトモ臆病ニハ有マジ、萬一ノ用ニ立ハ譜代也、夫々ハヤク召返セト被仰付候也、

〔常山紀談〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1162 謙信〈○上杉〉の許に、岑澤何某といふ士罪有て、放斥せられしに、越中の椎名に奉公し謙信越中へ師を出されし時、彼士叢にかくれ、鐵炮を持て伺ひ居たりしが、俄に鐵炮を傍に投捨て、泣居たり、謙信見出して、いかに岑澤、めづらしといはれしに、さばかりの仁君智將を討奉らんと存ぜし事、悔しく成て候、今遙に見奉りて、先に屋形の心に背き、又かゝる設けを工み申事、此上もなき大罪にて候、とう〳〵首を刎らるべしといひてひれ伏ければ、謙信打笑ひ、吾に智仁とは相應せざる虚名なり、疾馳歸りて、椎名によく仕へよといはれしかども、かの士越後に歸りて、農夫と成て、一生を終りたりとかや、

〔紀伊國物語〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1162 甲州ニテ信玄、〈○武田〉板垣ヲ被殺、其組付曲淵ト云者、組頭ノ敵ヲ取ントテ、信玄ヲ子 ラフ、信玄ソノ樣子ヲ聞給ヒ、曲淵ヲ呼出シノタマフハ、甲斐國ハ、皆信玄ガ譜代也、我ヲ差置、板垣ガ爲ヲ存ズベキカ、此段ヲ合點仕、以來我ガ爲ヲ存候へ迚、十貫ノ加增給タ、少シモ怒不給、權現樣御聞被成、猫ハ座敷ヲヨゴセドモ、鼠ヲ取スベキ爲ニ飼之、力樣ニ社可有義ナレト、信玄ノ人ヲツカハルヽ樣ヲ御ホメ被成候、

〔小須賀氏聞善〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1163 其方〈○島津義久〉之儀、十五年此方御門へ不儀を被致、みつぎ物を不差上、逆心之儀に候間、秀吉出陣いたし、急度可申付候條、可討果義候へ共、其方よりことはりに候間免申候、此上は互に可申通候、只今神妙成る體にて被罷出候間、諸腰を出し候とて、刀脇差之小尻を、秀吉被持候て、義久江柄の方をなし、みづから御出し被成候を、敵味方見候て、目をさまし、それより筑紫中之物沙汰にて候、

〔古老夜話〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1163 太閤秀吉公、小田原御陣之時、御本陣に能を催さる、諸大名江見せしめけるに、上杉家に寄宿せし花房助兵衞といふもの、御本陣之前を通掛り、打囃子物音を聞、大にあきれ、前には强敵を置ながら、早々攻落す手立もなく、陣中にて、能はやしの樣子、たはけものを武將と仰くおかしさよと、大音に罵りけるを、御本陣番衆聞とがめて、何ものなるぞと尋る、助兵衞少しも恐るゝいろなく、拙者は上杉家に寄宿する、花房助兵衞也といへば、番のもの共、何ゆゑ御上之義を誹講する、酒狂か亂心か、役人中迄屆可申といへば、助兵衞猶もあざ笑ふて、陣中にて遊興之禁を第一とす、本陣にて慰をし給ふ大將こそ、酒狂か亂心か成べし、御側の大小名、是を諫るものなきは、皆大腰ぬけと見えたり、鳴ものゝ音を聞も穢らはしと、御本陣之堀〈江〉唾をしかけ、己が陣〈江〉歸りけり、番之もの聞兼、奉行長束大藏小輔〈江〉訴出る、早御能も相濟、講大名も退出せられ、大夫にも御暇被下退きし所、長束大藏罷出、先刻上杉景勝之寄宿花房助兵衞と申もの、御陣外にて、かやう〳〵の惡言、番之者訴候と言上しければ、太閤以之外御怒にて、景勝呼と、しきりの上意、人橋をかけて 被召ければ何事やらんと、早速御前へ出られければ、大將つゝ立上り、やア景勝、汝が手に屬せし花房助兵衞、我をさみする無禮之惡言、にくき匹夫め、はや〳〵召捕、逆磔にあげよ、用捨しては、汝共にゆるすまじと、おどり上りてのゝしり玉へば、上杉大きに恐れ、私義は御前にて、御能拜見仕、助兵衞不禮いさゝか不存、上意を承り驚入、言語を絶し候、乍憚罪を糺し候はんと、御前を退き、二丁程歸りかゝりし所、追々呼つけたれば、景勝恐怖して、助兵衞が惡言故、我も御咎を受んかと恐入て、御前江出ければ、御機嫌宜しく、助兵衞不屆とは云ながら、我等に向ひて、云にもあらねば、首を刎て、諸人之禁にすべしと被仰出、かしこまり御次まで退し處、又々景勝を召る、はつと立戻り平伏す、太閤しばらく御工夫之體にて、助兵衞義、浪人ものにて、此箚其方が手に屬したりとも、家、來といふにも非ず、誹謗之罪にて、首を切らん事をゆるし、武士之義を立、刧腹申付べしと宣ふ、景勝少し心を安んじて退出す、跡にて秀吉公、猶も御工夫有之、又々景勝を召れける、景勝立もどり罷出しに、大將これへと近く召れ、我つく〴〵おもふに、助兵衞が言葉、理之當然也、陣中にて能興行せしは、我威勢つよく、敵を恐ざる事をたのしみ、北條方之者ども、驚かせんためなれば、あながち慰みといふには非ず、然れども大敵を恐ず、小敵をあなどらずとは、軍中之禁也、爰を以、花房が惡言、不屆とは云ながら、大名旗本数千人、我をおそれ、詞を出すものなきに、本陣に唾を仕かけ、大將は酒狂か、亂心かとの荒言は、たぐひもなき器量者也、古靑砥左衞門藤綱、〈○中略〉おとらぬ花房、我をさみせし器量、誹謗の罪をゆるすべし、今より其方が軍師同前におもい、おもくもてなし、幕下にすべしと、打て替りし御機嫌に、景勝はじめ、有あふ諸侯、誠に大器之大將かなと感じあへり、偖こそ景勝は、花房を尊敬し、小田原攻に武功をあらはしけるが、後に至て、直江山城と不和になり、上杉家を離れ、家康公の御家人となり、子孫繁昌也、

〔近代正説碎玉話〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1164 伊達左京大夫政宗二十四歲、小田原ノ陣ニ來リテ、臣從センコトヲ求ム、諸將 只今セムル氏政ヲ患ヘズシテ、小田原陷ラバ、其次ハカナラズ陸奧ヲ征伐セラレント、却テ正宗ヲ患ヘタル折フシナレバ、皆ゴレヲ悦ブ、秀吉オモヒノホカニ、遲參ヲ怒リ、〈○中略〉正宗敬屈ノ過ヲ謝ス、二三日スギテ、秀吉具足服織ヲ著、牀几ニ尻カケテ、禮ヲ受ケラル、正宗拜謁シテ退ントスル時、秀吉遲參ヲ惡トイヘドモ、對顏ヲ許ノ上ハ念ニ止メズ、此マデ遠來ノ馳走ニ、陣營ヲ見セン、後ノ山ニ登レトテ、先ニ立レケレバ、正宗跡ニシタガヒテ山ニ登ル、奧州ニ於テ、小迫合ニハ馴タリトモ、大合戰ノ人衆配リハ、未ダ見ルベカラズ、爰ノ營ハ此理ナリ、カシコノ陣ハ此意ナリ、見置テ手本ニセヨト、一々指テ敎ラル、秀吉刀ヲ正宗ニ持セ、童子一人具シ、片岸ニ立テ、終ニ後ヲ省ズ、正宗ヲ蠢虫トモ思レヌ體ナリ、正宗後ニ我小田原ニオイテ、秀吉ニ謁セシ時力ヽルコトアリ、其時タヾ恐レ入タルバカリニテ、一念ノ害心起ラズ、大器ニシテ天威アリシ人ナリト語ラレキ、

〔岩淵夜話別集〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1165 一土方勘兵衞、大野修理兩人とも、本領安堵の義被仰付、此兩人の義は、先年家康公伏見の御城ゟ、大坂へ御越刻、五奉行の差圖を請、家康公を殺害し奉らんと工し者なれば、いかに今度御味方に參、御奉公だてを仕迚も、其罪死に當れり、一命御助け被成さへ大成御慈悲に候、本領安堵には及ぶ間敷かの旨、密に申上たる人あり、其時家康公上意に、其身申處一理有樣なれども、右兩人の者共は、五奉行の指圖を受て、家康をさへ殺せば、秀賴の爲になると計、一筋に思ひ入ての義なれば、我等に對しては敵なれども、秀賴の爲には忠臣也、殊更今度の一亂に、〈○中略〉萬事味方の勝手になる事のみ取計、是又一廉の働也、其上舊惡さへ捨るをよしとす、況や此巳前大坂家中にて家康を相計しも、秀賴の爲に成事ぞと、おもひ誤れる儀なれば、舊惡とすべき事にあらず、旁以今度の恩賞にもるべき子細なしと仰けると也、

〔藩翰譜〕

〈五/酒井〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1165 或時、大御所〈○德川家康〉御前の人々に、御物語ありしは、酒井備後守が所領の地に、備後といひし百姓あり、忠利が家從等、彼百姓を召して、地頭の御受領を犯し名のる事然るべからず、速 に改め名のれといひしかば、彼の者大に驚き歎き、某年々の年貢、人より先にまゐらせ、月々の公役、遂に怠る事なし、然るにかゝる難儀を承るこそ不運なれ、某此所に久しく住て、代々備後と名乘、ほとりには隱れなき者なり、今さら改め名のらん事叶ふべからず、たゞ殿の御受領を改めらるべきにて候と云ふ、忠利是を聞て、年貢よく納め、公役怠たらず、神妙の至りなり、さらば汝は此所の備後にこそあれ、たゞ其儘に候へと許しけり、凡世のおろかなる人は、よしなき事に、人を苦しめ、おのが威を立んとし、無益の事を務めて、有用の事を失ふ、此忠利は、天性和かにして、愛深く、其智また少なからず、彼れ後必榮ゆべき者なり、と仰られしと云云、之を見て、忠利が事推て知るべし、

〔東照宮御實紀附錄〕

〈十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1166 伊勢神官戸部太夫といふは、豐臣家先代より祈禱の事奉る御師なり、一とせの戰に、秀賴が内意をうけて、兩御所を呪詛し奉るよし聞えて、伊勢の事奉る日向半兵衞正成、中野内藏允某、訊鞫せしに、まがふ所もなければ罪案を決して、駿府〈○德川家康〉へ伺ひしに、そは奉行人の心得違なり、秀賴が運を開かむとて、丹誠をこらせしは、御師には似つかはしきことなり、早々獄屋を出し、沒入せし器財も、悉く返しつかはせと、仰付られしとぞ、

〔明良洪範〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1166 加藤左馬助嘉明ハ、初メハ小身成シガ、後ニ會津四十萬石ヲ領シ、智勇仁德ノ良將也、故ニ土民ヨク伏スル也、慶長年中、南京ヨリ渡ル所ノ成化年製ノ燒物ノ器ヲ多ク買入タリ、其中十枚小皿アリ、是ハ世ニ云虫喰南京ト云物ニテ、藍色土目等得モ言レヌ出來也トタ、殊ニ秘藏シケルニ、或時客饗應ノ節、近習ノ士其小皿ヲ一ツ取落シ破ル、其士大ニ恐レ、閉居セントスル由ヲ聞キ、早ク呼出シ、皿破ル迚何ゾ閉居スルニ及ンヤ、敢テ苦シカラズ、殘リノ皿ヲ取寄セ、悉ク打碎キテ、此皿九枚殘リ有ル中ハ、一枚誰ガ麁相シテ破ツタリト、イツ迄モ汝ガ麁相ノ名ヲ殘ス事、吾本意ニ非ズ、何程尊キ器物ナリトモ、家人ニハ替難シ、凡器物、草木、鳥類ナドヲ愛スル者ハ、其爲 メニ却テ家人ヲ損フ事出來ル物也、是主タル者ノ心得ベキ事也、珍器奇物ハ有テモ無テモ事欠ズ、家人ハ吾四肢也、一日モ無クテハ成ラヌ者也、天下國家ヲ治ルモ家人有ル故也ト語ラレシト、其近習ノ士話サレシト也、

〔武野燭談〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1167 一家光公三代將軍の稱號を給はらせ給ひ、何れもいづき奉る内にも、猶も天下の心を引みん爲に、大相國〈○德川秀忠〉他界まし〳〵ける段、暫隱さるべきや否やと有しに、酒井讃岐守忠勝が申けるに任されて、其夜を過さず、大小名觸渡され、〈○中略〉不殘登城揃ひしかば、家光公被聞召、被仰出けるは、大相國薨去まし〳〵たり、家光此時將軍職を給はりたりといへ共、天下の兵權を、望んは望まるべし、渡し可遣也、但弓矢之法義に任せてこそ、引渡すべけれと、存の外成上意に、諸將御請遲滯してけるに、松平陸奧守政宗進出て、御當家御恩を以、皆々心安罷在所、此節を以て、若所存を含輩も、候はゞ外迄もなし、政宗に可仰付、ふみ潰申さんと、憚所もなく申さるゝにぞ、各一同に御受申、退出有ける、

〔窻の須佐美〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1167 大炊頭利勝朝臣大老職なりし時、殿中より退出せられしが、時過て、思ひ出らるゝ事ありしかば、明日までは事延引申なり、いざ立歸り、相講せんとて、老臣達うちつれたちて立歸り、常の所に歸り入んとせられしに、常につかはるゝ坊主共、退出せられし跡にて、うちくつろぎ、煙草を呑で居れるが、俄に歸られしかば、驚て煙を拂ふ事わすれ、平伏し居れり、たてまはしたる坐、七八人がすひし煙草の煙みちたれば、くらきほど也けり、朝臣入らんとして立歸り、面々が退し跡を拂とて、ほこりたちて、むせかへるばかりなり、いそぎ掃へとて、二の聞ばかりこなたへ退、烟きえて後入られにけり、

〔松平信綱公言行錄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1167 一右の節〈O 江戸城火災〉出御〈○德川家光〉之時、上意には、富士見御藏に入置たる見物の御道具共、日本の寶也、燒失なき樣に、取出されよと、信綱公へ仰付られ、御藏より取出し、西丸へ運ぶ 時に、宰領を付てやれよかしと、脇より申ければ、其儀に及ばず、何者に成共、持せ遣はせ、日本にさへ有れば能と、信綱公下知し玉ひ、終に一品も紛失なき故、後日に何れも其度量のひろさを感ぜしとなり、

〔鶴の毛衣〕

〈二十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1168 保科正之卿言行記〈○中略〉
一一日蚤將螢府、而命守庭者曰、到寅則當之、守庭者誤鐘聲、以丑爲寅而報焉、公〈○松平正之〉則睡起、及衣裳而待晨久、然夜未明、夜者甚恐之、而以其誤焉、公曰、何傷哉、假令可誤先于時、不于時乎、他日以之勿怠焉、

〔續近世叢語〕

〈四/雅量〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1168 盤珪禪師嘗落魄於美濃關山、邑人憫其貧窶、資給住團標、莊頭是時失囊金十兩、乃疑盤珪、視之稍衰、居歲餘、往女婿家、知嘗亡金、女有急偸取也、卽召見盤珪、具語其故、懺悔陳謝、盤珪夷然乃言、大好大好、然非我所一レ預焉、夫疑與疑、本來無有、皆生於憶爾、

〔武野燭談〕

〈十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1168 板倉重矩折弓之事、酒井遠江守名劒試る事、
一板倉内膳正重矩、唐半弓を求て秘藏あり、其製誠に麁工の及所にあらず、矢の飛事、大弓にひとしく、床に置て用心にぞ構られける、然に内膳正留守に、近習の小坊主不圖引張過して、たちまちに引折けり、主人秘藏の弓といゝ、只事には有間敷と、小坊主をば押込置、歸宅に及で、此半弓の折たる事を申ければ、内膳一段機嫌よく、其坊主早々ゆるせ、武士たらん者、武藝に志すは、ほまれたる事ぞかし、其小坊主弓に心引るゝは、秘藏なる事ぞ、又弓は强く引て用に立べきものを、肝要のとき折たらんには、日頃秘藏の專嗜み置たる甲斐なし、今坊主が引折たるは、内膳が爲に吉事ぞと被申ける、〈○下略〉

〔假名世説〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1168 仁齋先生存在の時、大高淸助といふ人、道從錄を著して大に先生を誹譏す、門人彼書を持ち來て示し、且これが辨駁を作らん事を勸む、先生微笑してことばなし、かの門人怒りつぶや きていふ、もし先生辨ぜずんば、われ其任にあたらんと、先生しづかに言ひていはく、彼是ならば、吾非を改めて、かれが是にしたがふべし、我是に彼非ならば、我是は卽天下の公共なり、固より辨をまたず、久しうしてかれも又みづからその非をしらん、汝只みつからをさめよ、佗をかへりみる事なかれとぞ、先生の度量、大旨此たぐひなりと、ある人かたりき、

〔閑散餘錄〕

〈附錄〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1169 京ノ大火ノ時鐇川邊マヂ燒ケルニ、仁齋〈○伊藤〉ハホハ川ノ中床ヲ置、酒ヲ携テ、更ニ憂ル色モナシ、門人訪ユキタ、其家ノ燒タルヲ弔ケレバ、サンバ天災イカントモスベカラズ、立サワギテ、年老タル身ノ、アヤマチシタハアシカリナント思テ、初ヨリコヽニ居候ヌ、先酒一ツ飲レヨトテ、何心モナカリシヲ、見ル人ノカタリシトテ、松崎子允ノ語リキ、

〔有德院殿御實紀附錄〕

〈十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1169 ある日、大川に舟逍遙ありしに、〈○德川吉宗〉御舟にありし賎しきもの、あやまちて御座の障子にふれてそこなひしかば、御側にありし人、立出てこれを叱しけるを聞召、目付ども聞べきぞ、さないひそと仰ありければ、御供の目付、其ほとりにありしかど、この御詞を聞、わざとかたはらにひらきいたりしとぞ、〈○中略〉また葛西の邊にわたらせ玉ひし時、御やすみ所より、俄にかへらせ玉ふ事有、御供の小人〈高間源兵衞といふもの也ともいふ、さだかならず、〉狼狽して、もちたる調度を御額にあてしかば、おどろきてそのまゝひれふしけり、御側近き人々も、肝をひやしけるに、目付はありあはずやと仰ありしかば、目付大岡右近忠住、心きゝたるものにて、はやくも御旨を察し、群集の中に立かくれければ、近習のともがら、目付は侍らずと言上す、目付等見ざる事ならば、汝等かまへて其沙汰すまじとのみ宣ひて、何の御咎もなかりし、

〔有德院殿御賣紀附錄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1169 宿直の藩士、ひそかに酒のみて醉狂に及び、刀をぬきて、金の襖障子を切破りしにより、同僚等おどろきあわてゝ、彼者をとらへたち、其隊長も大に恐れて、いそぎ其よし聞え進らせければ、しばし物ものたまはでおはしけるが、酒に醉ては、たれも過失あるならひな り、たゞ此後よくつゝしむべきことを戒めよ、さてその切破りし障子は、其まゝ補はずしてあるべしと仰ければ、其人はさらなり、同僚の者等までもがへりて重く御咎めありしよりも、恐れつつしみしといへり、

〔有德院殿御實紀附錄〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1170 久世大和守重之、〈○中略〉罪ありて、家財を欠所せられし者ありしに、その財思ひしよりも、少かりしかば、もしかくしやおきけんとて、目付の人々、嚴しぐ穿鑿せんといひけるを聞て、大和守そこ達は、大意をわきまへずと見えたり、刑法によりて家財を沒入せらるゝうへは、それまでにてよろしきことなり、なんぞ其財の多少を論せんや、かゝることくだ〳〵しく穿鑿せんは、政の大體にあらず、重ねて糺すに及ぼすとそ令しける、

〔銀臺遺事〕

〈冬〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1170 一ある日台命の御使あるべきにて、〈○細川重賢〉疾ゟ禮服かひつくろひて客殿に出て待居給ひけるに、やゝ時刻うつりければ、こつけ參るべきよし宣ひ、いそぎ奧の方へ入らせらるゝに、村松長右衞門といへる近士のもの、こつけ持て參る迚、はたとゆきあひ奉り、御胸のあたりより、こつけを、したゝかにうち掛たり、其折しも、上使只今なりと吿ければ、周章て、御衣召替て、出向ひたまふ、〈○中略〉程なく上使の門送りして、歸り給ふやいなや、長右衞門を召す、おそれ〳〵御前に參りければ、よかりつるぞ、間に合たり〳〵、偖もあやふき事なりし、いそがしきは、かゝる事もあるものぞ、くやしくなおもひそと宣ひ、御氣しき常に替らせ給はざりき、

〔先哲叢談後編〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1170 紀平洲
平洲遇門人甚有禮、寓塾中者、有過失寬恕不責、必婉曲諷諭、待自悔悟、嘗有一書生、從學多年、頗有世才、使財貨之出入、料理塾費用之事、後私其財、及歲暮迫一レ節、大窮其謀、會計不當、隄調不成、通數頓耗、衆皆譏之、以謂己便計所爲、平洲視之、若知者、不其出入、又不一言、旣而其人自恥、苦求歸省、衆皆逾譏之、又以謂彼恥其私而辭、萬不再來、行裝旣成、至行、平洲自脱腰刀、與之曰、子刀鞘敝矣、非所 以慰父母也、子舊寓於吾、料理塾徒費用之事、今謝其勞、損吾有一レ餘、補子不一レ足、慇懃吿之、其人戚謝而去、未數月再來、勉强服其勞舊矣、

〔雲室隨筆〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1171 同隣驛〈○甲斐郡内〉に小佐野和泉守といへる社人有、此人篤學の人にて、遠近に名を知らる、號柿園、著述も孝經注、大祓古説等有り、性質直の人にて、一も私意なく、郷人悉く尊信せり、一日或人來て吿けるは、此間何者か社内の樹を盜み切取者あり、役人へ御屆御詮義可成と申き、柿園被申は御知らせ被下辱存候、乍然氏子の中の者の致事なれば、强て咎るにも及ず、若是を咎候はば、外の山にても切取間敷もしれず、左樣なる時は咎人となり可申間、御聞拾に可成候樣賴候と答ければ、其人も大に感じける、此事其樹を盜みし者傳へ聞て、大に恥ぢ樹を切事を止けるとなり、


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Last-modified: 2022-06-29 (水) 20:06:25