http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0001 信ハ、マコトヽ云フ、誠實ノ義ニシテ、人ニ對シテ僞ハラズ、人ト約シテ違ヘザルガ如キ卽チ是ナリ、

名稱

〔類聚名義抄〕

〈五/言〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0001 信〈音迅マコト〉

〔段注説文解字〕

〈三上/言〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0001 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01742.gif 誠也、〈釋詁、誠信也、〉从人言、〈序説會意曰、信武是也、人言則無信者、故从人言、息晉切、十二部、古多以爲屈伸之伸、〉

〔釋名〕

〈四/釋言語〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0001 信申也、言以相申束、使相違也、

〔伊呂波字類抄〕

〈志/人事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0001 信〈シン、忠信、〉

〔和字正濫抄〕

〈一/序〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0001 日本紀中訓言語等字末古登(マコト)、末者眞也、美言之詞、猶木云眞木、玉云眞玉之類、古登者與事字訓義並通、蓋至理具事翼輪相雙、有事必有言、有言必有事、故古事記等常多通用、於心無僞曰末古古呂(○○○○)、於言無僞曰末古登、信以串五常、信誠也、準人言爲一レ信、誠亦言成、製字者不心从言、訓字者不末古古呂末古登、因心之慤實全在言中信於外

〔倭訓栞〕

〈前編二十九/末〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0001 まこと 誠、信、眞、情、孚、實の類をよめり、眞言也、言事也、眞誠とも連用す、詩語の眞成も同じ、俗語の眞正も音轉なり、實は通じて寔に作る、虚の反對也、眞は僞の反對也、情知の語詩に多し、新撰字鏡に譡もよめり、大學の苟日新の苟は誠也と注す、良諒をまことにとよむも同じ、固をよむはあしゝといへど、神代紀より見えたり、允も信也と注し、亶も信也と見ゆ、

解説

〔千代もと草〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0002 信はいつはりなきを信といふ、仁をほどこすにも、信をそへ、義にも、禮にも、智にも、此信をくはへねば、みないたづらとなり、天も誠を體とし、人も信を骨とするなり、かくのごとくすれば、天も我も一體なり、

〔春鑑抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0002
信トハ訴文曰、信誠也、於文人言爲信、言而不信非人也、イフコヽロバ、信ハマコトナリ、イツハラヌヲ信ト云ゾ、字ニモ人篇ニ言ノ字ヲカクハ、人ノモノヲ云コトハ、必マコトガナフテハゾ、信ガナクバ人トスルニアラズト云心ゾ、增韻ニ慤實不疑不差爽也ト云テ、信トハ慤實ニシテ、ヨク物ヲツヽシミ、マコトアルヲ云ゾ、マコトアルホドニ不疑トハ、マコトアルホドニ、物ヲウタガイモナイゾ、不差爽トハ、信アル人ハモノヲ云ニモ、首尾ノ相違シテタガフコトナイゾ、コトバニイダシタラバ、是非ニヲコナハデハカナハヌコトゾ、口ニハマコトサフニ云テ、心ニハサモナフテ、口ト心ト違ハセヌゾ、信アル人ハ、マヅ心ヲ廉直ニモチテ、一毫モマガリヌルコトナキゾ、又コトバモイカニモタヾシクテ、道ニアラザルコトハ云ヌゾ、ツトメテ善道ヲ行テ、足蹈實地輕薄ニナヒゾ、約信ト云ハ、人ト約束シタル事モ、時ハタガフトモ、日ハタガハヌヤクニ、今日約シタル事ガ、ハヤ明日ハ違フテハ、信デハアルマヒゾ、カリソメニモ人ヲモ欺ザルガ信ゾ、五常ニ信アルハ、五行ニ土アルガ如シ、土ト云モノガナクバ、金モアルマジ、木モアルマジ、水モアルマジ、火モアルマヒゾ、サルホドニ五行ニハ土ガ專ナルモノゾ、ソノゴトクニ人ニ信ガナクバ、仁義禮智ノ道モ行ハルベカラズ、故ニ信ヲ土ニタトヘタゾ、〈○下略〉

〔彝倫抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0002 信トハ、スコシモイツハリノナキヲ、申スナハ、言ニツキ、心ニツキ、兎ノ毛ノサキホドモ、イツハリノナキヤウニ、ツヽシムベキトナリ、コレ妄語、綺語、惡口、兩舌ト同ジ心ナリ、

〔五常訓〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0002 信 信は説文曰、誠也、从人从言、會意、徐曰、於文、人言爲信、言而不信、非人也、信の字、人偏に言の字をかくは、六書においては會意に屬す、偏旁の意を以て作りし字なり、いふ意は、人の言に誠あらざるは人にあらず、故に人の言は必信あるべしと云ふ意なり、五常においては、心にまことあるを云ふ、口にいつはりをいはざるも、其の内にあり、仁義禮智のいつはりなき眞實なるを信と云ふ、信なければ仁義禮智にあらず、仁義禮智四德の外に、又信あるにあらず、親によくつかふるは孝なれど、名聞のためにつとめ、又親の寵愛をねがひてつとむるは孝にあらず、君によくつかふるは忠なれど、君の寵をねがひ、官祿をむさぼりて、奉公をつとむるは忠にあらず、是皆まことの道にあらず、忠孝にかぎらず、萬事皆かくのごとし、中庸に不誠無物といへり、物なしとは僞りて實なきなり、おやにつかへ、君につかふるに、まことなくして、右にいへる如くなれば、忠孝にあらず、是物なきなり、萬の事皆まことなければ物なし、凡名と利とを求めてすることは、たとひ天下にきこゆるほどの善なりとも、其の心眞實ならざれば私とす、善にあらず、是物なきなり、四德にまことなければ、仁義禮智にあらず、いつはりなり、是物なきなり、人の天より生れつきたる性は、只仁義禮智の四德なり、此の四德にて人道行はる、此の故に孟子はたゞ仁義禮智をときて、信を説き給はず、程子曰、四端不信者、旣有誠心、爲四端則信在其中矣、これを以て仁義禮智の外に信なきことをしるべし、

〔辨名〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0003 忠信
信者謂言必有一レ徵也、世多以言無欺詐之、苟以言必有一レ徵爲心、則無欺詐道、如信近於義、言可復也、是其言雖徵、必欲先生之義、若言不義、則雖其言亦有得者、其究終至徵也、朱子引信曰一レ誓而訓信爲約、是不其解已、又如民無信不一レ立、謂民信其上也、愼其號令敢欺一レ民、則民信之矣、然信之而畏不之而懷、故必能爲民父母、而後民信之至焉、它如人而無信不其可也、及言 忠信、行篤敬、雖蠻貊矣、皆主信而言之、大氐先王之道、爲安民之、故君子之道皆主於人焉、苟不於人、不於民、則道將安用之、然不信之本在一レ我、君子貴信者、爲是故也、如朋友交言而有上レ信、亦雖朋友之交、非親竭力、事君致身之比、故淺乎言之、然朋友者、所以遊揚其學譽之於上者也、故中庸曰、獲乎上道、不乎朋友、不乎上矣、是先王所以立朋友之道、命之爲上レ信也、後之君子或嫌其有求而爲一レ之、故止責其信、而不信之意、其弊或至於獨立絶物以爲一レ高也、矯枉之言、終非先王爲道不一レ人之意、學者察諸、又如文行忠信、信爲言語之科、言語之道、貴徵、故以信命之、如言有一レ物、是君子之言所以有一レ徵故也、如後世諸儒、議論雖美、空言無徵、豈敢望宰我子貢言語之科哉、

〔伊勢平藏家訓〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0004 五常の事
一信といふは、眞實にしていつはりなくして、わだかまりなく、かげひなたなく、一すぢにまことなるをいふ、信は正直の事と心得べし、仁も義も禮も智も、信といふ物がなければ、皆僞り事となるなり、

信例

〔古事記〕

〈下/履中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0004 爾其弟墨江中王、欲天皇、以火著大殿、〈○中略〉於是其伊呂弟水齒別命、〈○反正〉參赴令謁、爾天皇令詔、吾疑汝命、若與墨江中王同心乎、故不相言、答白、僕者無穢邪心、亦不墨江中王、亦令詔、然者今還下而、殺墨江中王而上來、彼時吾必相言、故卽還下難波、欺習墨江中王之隼人名曾婆加理、云若汝從吾言者、吾爲天皇、汝作大臣天下、那何、曾婆訶理答白、隨命、爾多祿給其隼人曰、然者殺汝王也、於是曾婆訶理、竊伺己王入一レ厠、以矛剌而殺也、故率曾婆訶理、上幸於倭之時、到大坂山口、以爲、曾婆訶理、爲吾雖大功、旣殺己君、是不義、然不其功信、旣行其信、還惶其情、故雖其功、滅其正身、是以詔曾婆訶理、今日留此間而、先給大臣位、明日上幸、留其山口、卽造假宮、忽爲豐樂、乃於其隼人、賜大臣位、百官令拜、隼人歡喜以爲志、爾詔其隼人、今日與大臣、飮同盞酒、其飮之時、隱面大鋺盛其進酒是王子先飮、隼人後飮、故其隼人飮時、大鋺覆面、爾取出置席下之劒、斬其隼人之頸

〔古事記〕

〈下/雄略〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0005 一時天皇遊、行、到於美和河之時、河邊有衣童女、其容姿甚麗、天皇問其童女、汝者誰子、答白己名謂引田部赤猪子、爾令詔者、汝不夫、今將喚而、還坐於宮、故其赤猪子、仰待天皇之命、旣經八十歲、於是赤猪子以爲、望命之間、已經多年、姿體瘦萎、更無恃、然非待情、不於悒而、令百取之机代物、參出貢獻、然天皇旣忘先所命之事、問其赤猪子曰、汝者誰老女、何由以參來、爾赤豬子答白、其年其月、被天皇之命、仰待大命于今日、經八十歲、今容姿旣耆更無恃、然顯白己志、以參出耳、於是天皇大驚、吾旣忘先事、然守志待命、徒過盛年、是甚愛悲、心裏欲婚憚其極老、不婚而、賜御歌〈○下略〉

〔日本後紀〕

〈八/桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0005 延曆十八年二月乙未、贈正三位行民部卿兼造宮大夫美作備前國造和氣朝臣淸麻呂薨、〈○中略〉寶字八年、〈○中略〉淸麻呂歸來、奏如神敎、天皇〈○孝謙〉不誅、爲因幡員外介、蕁改姓名別部穢麻呂、流于大隅國、〈○中略〉于時參議右大辨藤原朝臣百川、愍其忠烈、便割備後國封郷廿戸、送充於配處

〔今昔物語〕

〈二十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0005 藤原親孝爲盜人質依賴信言免語第十一
今昔、河内守源賴信朝臣、上野守ニテ其國ニ有ケル時、其ノ乳母子ニテ兵衞尉藤原親孝ト云者有ケリ、其レモ極タル兵ニテ、賴信ト共ニ其ノ國ニ有ケル間、其ノ親孝ガ居タリケル家ニ、盜人ヲ捕ヘテ打付テ置タリケルガ、何ガシケム枷鏁ヲ拔テ逃ナムトシケルニ、可逃得キ樣ヤ无カリケム、此ノ親孝ガ子ノ五ツ六ツ計ナル有ケル、男子ノ形チ嚴カリケルガ走リ行ケルヲ、此ノ盜人質ニ取テ、壼屋ノ有ケル内ニ入テ、膝ノ下ニ此兒ヲ搔臥セテ、刀ヲ拔テ兒ノ腹ニ差宛テヽ居ヌ、〈○中略〉守盜人ニ仰テ云ク、汝ハ其ノ童ヲ質ニ取タルハ、我ガ命ヲ生カムト思フ故カ、亦只童ヲ殺サムト思フカ、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00196.gif ニ其ノ思フラム所ヲ申セ彼奴ト、盜人侘シ氣ナル音ヲ以テ云ク、何デカ兒ヲ殺シ奉ラムトハ思給ヘム、只命ノ惜ク候ヘバ、生カムトコソ思ヒ候ヘバ、若ヤトテ取奉タル也ト、守ヲイ然ルニトハ其ノ刀ヲ投ゲヨ、賴信ガ此許仰セ懸ケムニハ、否不投デハ不有ジ、汝ニ童ヲ突セテナム、我 レ否不見マジキ、我心バヘハ自然ラ音ニモ聞クラム、慥ニ投ゲヨ彼奴ト云ヘバ、盜人暫ク思ヒ見テ、忝ク何デカ仰セ事ヲバ不承ラ候ハン、刀投ゲ候フト云テ、遠ク投ゲ遣ツ、兒ヲバ押起シテ免シタレバ、起キ走テ逃テ去ヌ、〈○中略〉親孝ハ盜人ヲ斫テモ弃テムト思ヒタレドモ、守ノ云ク、此奴糸哀レニ此ノ質ヲ免シタリ、身ノ侘シケレバ、盜ヲモシ命ヤ生トテ質ヲモ取ニコソ有レ、惡カルベキ事ニモ非ズ、其レニ我ガ免セト云ニ隨テ免シタル、物ニ心得タル奴也、速ニ此奴免シテヨ、何カ要ナル申セト云ドモ、盜人泣キニ泣テ云事无シ、〈○中略〉

〔宇治拾遺物語〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0006 むかし右近將http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif 下野原〈○原恐厚誤、下同、〉行といふもの有けり、〈○中略〉年たかくなりて西京にすみけり、となりなりける人にはかに死けるに、此原行とぶらひに行てその子にあひて、別のあひだの事どもとぶらひけるに、此死たるおやを出さんに、門あしき方にむかへり、さればとてさてあるべきにあらず、門よりこそ出すべき事にてあれといふをきゝて、原行がいふやう、あしき方よりいださんことことにしかるべからず、かつはあまたの御子たちのためことにいまはしかるべし、原行がへたでの垣をやぶりて、それよりいだし奉らん、かつはいき給たりし時、ことにふれてなさけのみありし人也、かゝるおりだにもその恩を報じ申さずば、なにをもつてかむくひ申さんといへば、子共のいふやう、無爲なる人の家より出さん事あるべきにあらず、忌のかたなりとも、我門よりこそいださめといへども、僻事なし給ひそ、たゞ原行が門よりいだし奉らんといひてかへりぬ、〈○下略〉

〔平家物語〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0006 篠原合戰の事
むねとの人々には、長井の齋藤別當さねもり、うきすの三郎しげちか、またのゝ五郎かげ久、伊藤の九郎助氏、眞下の四郎重直也、是らは皆軍の有らん程、暫休まんとて、日ごとに寄あひ〳〵じゆん酒をしてぞ、なぐさみける、まづ長井の齋藤別當がもとに、より合たりける日、さねもり申ける は、つら〳〵當世のていを見候に、源氏の方はいよ〳〵つよく、平家の御方は、まけ色に見えさせ給ひて候、いざをの〳〵木曾殿へ參らふと云ければ、皆さんなうとぞ同じける、次の日又うきすの三郎がもとにより合たりける時齋藤別當、さても昨日さねもりが申し事は、いかにをの〳〵と云ければ、其中にまたのゝ五郎かげ久、すゝみ出て申けるは、さすが我らは、東國にては、人にしられて、名有ものでこそあれ、吉につゐて、あなたへ參り、こなたへ參らん事は、見ぐるしかるべし、人々の御心共をばしり參らせぬ候、かげ久においては今度平家の御かたで、うちじにせんと思ひ切て候ぞと云ければ、齋藤別當あざわらつて、誠にはをの〳〵御心共をかな、ひかんとてこそ申たれ、實盛も、今度北國にてうち死せんと思ひ切て候へば、二度いのち生て、都へは歸るまじきよし大臣殿〈○平宗盛〉へも申上、人々にも、其樣を申おき候と云ければ、皆又此儀にぞ同じける、其約束をたがへじとや、當座に有ける廿よ人のさふらひ共も、今度北國にて、一所にしにけるこそむざんなれ、

〔太平記〕

〈十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0007 小山田太郎高家刈靑麥事
義貞〈○新田〉西國ノ打手ヲ承テ、播磨ニ下著シ給時、兵多シテ粳乏、若軍ニ法ヲ置ズバ、諸卒ノ狼藉不絶トテ、一粒ヲ毛刈採、民屋ノ一ヲモ追捕シタランズルモノヲバ、速可誅之由ヲ、大札ニ書テ、道ノ辻々ニゾ被立ケル、依之農民耕作ヲ棄ズ、商人賣買ヲ快シケル處ニ、此高家〈○小山田〉敵陣ノ近隣ニ行テ、靑麥ヲ打刈セテ、乗鞍ニ負セテゾ歸ケル、時ノ侍所長濱六郎左衞門尉是ヲ見、直ニ高家ヲ召寄、無力法下ナレバ、是ヲ誅セントス、義貞〈○中略〉使者ヲ遣シテ被點撿ケレバ、馬物具爽ニ有テ、食物ノ類ハ一粒モ無リケリ、使者歸テ此由ヲ申ケレバ、義貞大ニ恥(ハヂシ)メル氣色ニテ、高家ガ犯法事ハ、戰ノ爲ニ罪ヲ忘タルベシ、何樣士卒先ジテ疲タルハ大將ノ恥也、勇士ヲバ不失、法ヲバ勿亂事トテ、田ノ主ニハ小袖二重與テ、高家ニハ兵粮十石相副テ、色代シテゾ歸サレケル、

〔陰德太平記〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0008 備後國神邊城明渡附目黑最後之事
去程ニ平賀〈○隆宗〉杉原〈○忠興〉昨日今日ト思シ中ニ、ハヤ改玉ノ年ノ三歲ヲ戰暮シケレ共、早晩此城可落トモ不見ケリ、然間隆宗モ術計盡、勇氣緩テ、今ハ天運ニ任セバヤト思惟シテ、忠興へ使ヲ遣シ、近年御邊吾等、人交ヘモセズ、遂合戰候へ共、未勝負ヲ不決、徒ニ歲月ヲ送リ、士卒或ハ討レ、或ハ疵ヲ蒙ル者、若干ト云コトヲ不知、カク士卒ヲ令勞、民ヲ苦シメンヨリ、吾運ヲ司命星ニ任セ、御邊ノ矢二筋受可申間、中リ候ナバ、隆宗ガ運ノ極メニテ候ベシ、若射外サレ候ハヾ、速ニ當城ヲ明渡サレ候ヘト云送リケレバ、忠興弓ハ蚊ノ睫蟻ノ眼ナリト云共、目ニサへ見エバ射中ラント自賛シテ、甘蠅養由墓ニモ不劣、善射ナリケレバ、不斜悦ンデ、頓テ約ヲゾ定メケル、カクテ頃ハ天文十九年十月十三日、忠興隆宗唯二人ワザト人一人モ不召具、城ノ尾崎へ出逢タリ、〈○中略〉一ノ矢、雁俣ヲ以テ、刀脇剌ヲ射挾ミ、太腹ヘシタヽカニ立タリケレ共、隆宗サル大剛ノ者ナレバ、二ノ矢射越セン爲ニ、カク方便テゾ云タリケル、忠興扨ハ下リケルヨト心得、二ノ矢少其心ヲシテケレバ、今度ハ隆宗ガ肩ノ上ヲ摩ル許ニ射越、後ノ石ニ中リ、石火活ト迸リ、鏃ハ碎ケテ飛反ル、其時隆宗十間許リ立退、約束ノ如ク當城ヲ明渡サレ候ベシト云タリケレバ、忠興モ誓約金石ヨリモ堅シケル故、季布ガ二諾ナク、楚王ノ一言ヲ重ンジテ、城中ノ掃除、粲然ニシテ、同十四日、城ヲ平賀ニ渡シ、吾身ハ尼子ヲ賴ミ、出雲ヘコソバ越ニケレ、

〔常山紀談〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0008 紹運〈○高橋〉若き時、彌七郎といひし比、兄の鑑理、齋藤鎭實の妹を、彌七郎に妻せられよと約束せられけり、其砌豐前中國と軍有て、殊に騷しくて迎へ取ずして打過ぬ、其後彌七郎鎭實に對面の折から、兄が申かはせし如く迎取べきに、軍の最中にて斯は遲はり候、頓て迎へ申さんと語られしに、鎭實げに〳〵申かはせしは可忘も候はねど、其後妹は痘瘡を煩ひて、以ての外仁見ぐるしく成ぬ、中々かれが有樣にて、見屆らるべきにあらず、今にては參らせん事叶ひがたし といひし時、彌七郎色をかへ、夫は存も寄ざる仰を承りぬるなり、齋藤家は先祖大友家にて、武勇たくましき弓取にておはすれば、兄にて候ものゝ迎へ申さんと約束しつる事に候、夫に辭退も候まじ、我は少も色を好む心に候はずとて、頓て婚禮あり、其腹に二人の男子出來にけり、

〔常山紀談〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0009 森蘭丸は三左衞門可成が子にて、信長寵愛厚し、十六歲にて五萬石の地をあたへらる、ある時刀をもたせ置れしに、刻鞘の數をかぞへ居たり、後に信長かたへの人をあつめ、刻ざやの數いひあてなんものに、此刀をあたふべき由いはれければ、皆おしはかりていひけるに、森はさきに數へて覺えたりとていはず、信長其刀を森にあたへられけり、

〔川角太閤記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0009 吉川駿河守元春陣屋へ、小早川左衞門允隆景、宍戸備前守寄合、〈○織田毛利和議〉談合の次第は、今日の拓言紙は破りても不苦候、だまかされ候ての儀にて候と、吉川駿河守被申樣には、か樣の時にこそ、馬を乘殺せよはや〴〵と進め給ふ事、
一舍弟小早川左衞門允隆景は、右には一言も不出ず、暫工夫して被申出樣子は、元春御意御尤にては、御座候へ共、昔より今に至まで、何事にも付ものゝかためは、書物誓紙を鏡に仕ものにて候へ、父にて候元就公御死去の時仕候誓紙には、只今の輝元公を、兄弟共として取立よとの誓紙被仰付候、時日の下の判は、元春公被成候、其次には私仕候、さて兄弟四人仕、元就公御命の内に御目に懸候事は、昨今の樣に覺候、其誓紙元就公戴、一ツは元就公の御遺言に、我くはんへ入よ、一ツは嚴島の明神へ奉籠よ、一通は輝元公へ上げ置申候、此二通は只今も御覽候へよ、條數の内に、毛利家より我死して後天下の不心懸と一の筆に御座候事、
一今日の起請文を破り候得者、めいどに被御座候、父元就公への別心也、一は嚴島の明神の御罸、又は五常の禮儀の二ツをも破に似たり、羽柴筑前守、國本播磨へ歸城候との一左右を聞召屆られ、其上にては御馬を被出候ても不苦と、達而兄の元春へ異見被申ける、元春も隆景に道理に 被攻、なま合點に納申候、

〔氏郷記〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0010 秀吉公御成事
永岡越中守忠興ヨリ、蒲生家ノ重代、佐々木鐙ヲ所望ニ參リシ綿利八右衞門、只似セノ鐙ヲ被遣候ヘカシト申ケレバ、氏郷、
ナキ名ゾト人ニハ言テ有ナマシ心ノ問バ如何コタヘン、ト云古歌アレバ、我心ガ恥カシ、是ハ天下ニ一足ノ鐙ニテ、知ル者ハアルマジケレドモ、一度忠興へ遣シタルト云テハ、跡ニ有テモ重寶ナラズトテ、佐々木鐙ヲ被遣ケリ、忠興是家ノ重代ノ由ヲ聞及バレテ、樣々ニ返サント有シカドモ、氏郷請取レズ、去ドモ氏郷逝去ノ後、秀行幼少ノ砌ニ返サレシトカヤ、

〔朝鮮征伐記〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0010 蔚山をせむる事
幸長〈○淺野〉手の者木村賴母それがし、しのび出て申達すべしとうけごひけり、廿三日の夜、しのび出て、二日路ある、くちやんまで、廿五日のあかつきゆきけり、淸正たいめんあれば、しか〴〵のよしを申せば、淸正きくとひとしく、はやぶねこしらへよ、一騎なりとものり出すべし、我彈正と約をなせり、幸長をうたせては、生て日本にかへり、何の面目あつてか、彈正にまみえんや、とても死なんいのち、幸長と一處にはつべしとぞおほせける、淸正内々うるふさん普請心もとなし、うちまはりせんと、舟共用意せらるゝおりなれば、近習のさふらひ、五百騎ばかり、ふね十餘艘にとりのり、おし出しける、心のうちこそすさまじけれ、機張の城は、すてゝもくるしからず、ふさんの大しやう達に、いそぎうしろまきせらるべしと申つかはし、ふねにとりのりける、

〔鹽尻〕

〈四十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0010 吉長〈○可兒才藏〉家老に竹中久右衞門と云者ありし、いつにても、我知行半分與ふべしと約せしが、尾州長湫の役後、福島家に仕へ、七百石知行せし時、三百五十石を、竹中に得させしとかや、約を變ぜざりしは、奇特なる哉、

〔藩翰譜〕

〈十一/本多〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0011 坂崎出羽守が、上を恨みまゐらする事ありて、己が宿所に楯籠りし時に、執政の人々相議り、坂崎がおとなが許に奉書下して、汝等が主、違犯の罪逃るべからず、汝もし汝が主の家絶えざらん事を思はゞ、汝が主勸めて自害させよ、さあらんに於ては、汝が主の世嗣立て給ふべき由を下知すべしと議定す、其時上野介〈○本多正純〉人々に向ひ、誠に彼のおとなが、主人に腹切らせたらんには、かの家立てさせ給ふべきやと問ふ、人々いかで謀反人の家は立て給ふべきやと答ふ、正純聞て、さらば此奉書下されん事然るべからず、かの不臣を罪せんが爲に、又かの臣に不臣を勸め給ふ事、天下の下知に在るべき事とも覺えず、且は天下の政事は、信ならずんばあるべからず、只速に軍勢を差向けて誅伐あるべきものなり、何ぞ苟くも、人臣の敎とすべからざる事を陳べて僞を行ひ、天下の風俗を亂り給ふべきと云ひしかど、衆議一決せしかば、さらば正純は連署叶ふべからずとて、署を加へざりき、正純が他事は如何にもあれ、此一言は天下の名言なりといふべしやと、柳生但馬守宗矩常に感ぜられしなり、誠に此一言を以て見るに、此人の若き時より、大御所の御覺えよかりしも宜なるにや、又同職の人と其の間の不快なりしも推て知られ侍る、

〔常山紀談〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0011 古田助左衞門は古田兵部少輔重勝に仕へて、祿千石を受く、景勝を征伐の時、重勝伊勢の松坂の城に助左衞門を置れけり、〈○中略〉重勝も東國より歸り來り、松坂にたて籠る、此時富田信濃守信高、阿濃津を守られしが、加勢を重勝に乞ふ、兵を分ちやるべき體のなかりければ、助左衞門阿濃津へ加勢あらん事、尤望む所なり〈○中略〉と勸めて、五百人の軍兵を阿濃津にやりけり、やがて重勝の領知の百姓の中に、大家なる者二十人を士として城にこもらせ、後に百石の地をあたふべしと約しけり、是人質の心にて百姓をさわがせじとの術なり、關ケ原の亂治りて後、重勝約に背んとせられしかば、助左衞門信を失ふは君の道にあらず、かゝる言葉は金石よりも堅くすべき事なり、是より後又欺んとて、百姓ども何事も聞き入れ候はじ、信なくば立ずと申事の 候、臣が祿地を分ちあたふべしといひければ、重勝約の如くせられけり、

〔武藝小傳〕

〈六/刀術〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0012 宮本武藏政名
中村守和曰、巖流、〈○佐佐木〉宮本武藏と仕相の事、昔日老翁の物語を聞しは、旣に其期日に及て、貴賤見物のため、舟島に渡海する事夥し、巌流も舟場に至りて乘船す、巖流、渡守に吿て曰、今日の渡海甚し、いかなる事か在、渡守日、君不知や、今日は巖流と云兵法遣、宮本武藏と舟島にて仕相あり、此故に見物せんとて、未明より渡海ひきもきらずと云、巖流が曰、吾其巖流也、渡守驚さゝやひて曰、君巖流たらば、此船を他方につくべし、早く他州に去り給ふべし、君の術神のごとしといふ共、宮本が黨甚多し、決して命を保ことあたはじ、巖流曰、汝が云ごとく、今日の仕相、吾生んことを欲せず、然といへ共、堅く仕相の事を約し、縱死とも、約をたがふる事は、勇士のせざる處也、吾必船島に死すべし、汝わが魂を祭て、水をそゝぐべし、賤夫といへども、其志を感ずとて、懷中より鼻紙袋を取出して、渡守に與ふ、渡守涙を流して、其豪勇を感ず、

〔藩翰譜〕

〈五/阿部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0012 對馬守重次〈○阿部〉十一月〈○正保四年〉二日、御暇給りて夜を日につぎてはせ登る程に、同き八日、大坂に著て父〈○正次〉の病を見るに、旣にかうよと見えしかば、今夜重次、此所の奉行城番の人人に向ひ、父がいたわり、朝た夕を待つべからず、已に身まかり候はんは、御座所を穢し參らするの恐れ少なからず、速に私の別業に移り、終焉の事をはからん事を存ずる、如何にといひしかば、兼てより面々も此事を存じ候ひき、御計らひ尤も然るべう候と、皆一同に答ふ、重次、父が枕により添ふて、なく〳〵此由を申ければ、正次全く汝の諫る處を拒ぐには非ず、たゞし聞く處の如きは、正次所存に聊か違ふ處あれば、重ねて人々と計りて、義の當らん所に從うと思ふなり、正次始め此所にまかり登りし蒔、將軍家の御前近く召れ、抑も大坂の城は、五畿内に有て、近くは王城を鎭護し、遠くは南海、西海、山陽山陰の要路にあたりて、數十州の鎭たり、汝が當家累代の舊臣にし て、慶長元和の戰功、他に殊るを以て、我が代官として、此城の事をつかさどらしむる處なりと、仰せ下されしかば、正次不肖の身をもつて、斯る重職にあらん事、如何で其任に堪ゆべき、去りながら世旣に泰平に屬し、當時何の憚り候べき、若くは又如何なる竊盜偷盜など起て、城墻を窺ひ候はんに、正次が身、命のあらん限り、城をば守りて、人手には渡し候まじ、只之を以て、正次が奉公の節と仕るべきにて候と答へたてまつりて、まかり登り候ひき、去れば正次が一息も息の續きて有ん程は、此城を誰にか渡し候べき、又正次こゝにて死したらんには、君のましまさん所を穢し申すの憚りあるに似たれども、凡そ塀を高くし、池を深くすると云事、危きに臨みて、戰士死を以て守るべき爲めなれば、しゝむらを積みて、壘を增し、血をしたみて、水を深くする事、古より其例し少からず、是等の事を以て思ふに、人々の議せらるゝ處、正次が素懷に同じからざるに似たり、〈○中略〉すべからく人々議せらるゝ處、正次が思ふ處を注進し、早馬を參らせて、御裁斷を仰がるべうもや候と云、〈○中略〉飛脚到來し、將軍家、事の由聞し召し、御感ことに斜ならず、正次が所存御旨に違ふ事なく、最も神妙に思召す、只其儘に候べしと仰下され、同き十二日に飛脚馳せ歸り、正衣仰を傳へ聞て、感涙に堪ず、わづか一日をへて卒す、

〔閑窻自語〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0013 堤前宰相榮長卿妾醜女
堤故前宰相榮長卿わかゝりしとき、或ものゝむすめを戀ひわたりたるに、おやなりけるもの、かたくいらへてゆるさざりしを、年月をへてやう〳〵にこしらへ、とり入るべくなりしほどに、かの女疱瘡わづらひて、かたち大きにみにくゝなり、ことさら一眼しひ、かた〴〵はじめのうるはしきに引きかへ、さながら鬼のごとくなり、おやなりけるものうとましくおもひけるに、榮長卿すこしもくやめる氣なく、こゝろよくとり入れて、妾にしやしなひ、一生をおくらしめぬ、見にくしとても丈夫の一言變ずべきにあらずといはれしとそ、たのもしとやいふべき、

〔孝義錄〕

〈四十三/筑前〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0014 奇特者彦一
彦一は、宗像郡田隅村の百姓なり、父の世にありし時、人より米を借うけし事有し、かへすべきたよりなくて、とかくするほどに、病てうせぬ、そのころ彦一は、まだ幼くしてがゝる事ありともしらざりしが、生長の後に、かくときゝ及びて、久しくすてをきし事を悔なげき、人して米の主にいはせしは、むかし父の貧しきにせまりて、そこの米かりけるが、つゐにかへす事なくてうせぬ、しり得ぬ事とは申ながら、年月かゝる事をすてをきたるをこたり、申べきやうなし、今はいさゝかのたからもいできぬれば、父のかりうけし年よりの利足をくはへ、米と利銀をかへさん程に、うけとり給はれとぞいひやりける、米の主も、彦一が志に感じて、深くよろこびしかど、人の困窮を見るに忍ずして、かしあたへたる米なれど、もとより返辨を望む心更になし、さればかへさるゝともうけとるべき事、思ひもよらずとてうけひかず、たがひにしばしゆづりあひしが、後は庄屋長百性などあつかひきこえけれど、事ゆかざりし程に、やがて領主に訴へ出ければ、二人ともにたぐひなく潔き者なりと稱美して、彦一には父の借うけし米のかずに、一年の利を加へてかへすべし、米の主は、いなまず是をおさむべしと裁判しければ、つゐにかた〳〵言葉なくして事すみぬ、是天和のはじめのことなりき、

〔明良洪範〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0014 寬文七年、大火傳馬町牢屋敷類燒ノ時、石出帶刀罪人共ヲ悉ク召出シ申渡シケルハ、今急ニシテ此所遁ル可ラズ、汝等ヲ燒殺サンモ不便也、牢ヨヲ出ス間、心ノ儘ニ立退ベシ、火鎭リテ三日ノ中ニ歸ルベシ、其者共ハ申立テ命ヲ助クベシ、若亦逃隱シ歸ラザル者共、從類ニモ罪ヲ懸ケ、其身ハ何レニ忍ビ居ル共、日本中ヲ尋子出シテ、重科ニ行フベシ、十一年以前、丁酉ノ歲ノ大火ニ、淺草橋ニテ大勢命ヲ失ヒシハ、汝等ガ類ノ牢舍人也、今度ハ帶刀ガ了簡ヲ承リテ、命惜クバ立歸ルベシト申渡シ、追放シケル、牢ノ燒シハ二月六日也、七日ニハ殘ラズ立歸リシ内、三人見エ ザリシ、是ハ腰ノ立ザル者ナリシ故、燒死タルニヤ、其後其事申立テ、其歸リシ者共皆赦サレ、其中必死ニ當ル者共ハ、薩摩ノ島へ流サル、

〔駿臺雜話〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0015 二人の乞兒
享保癸卯の歲の十二月十七日、江戸室町の商人、越後屋吉兵衞といふ者の手代市十郎、諸方の買懸の金請取て歸りしが、金三拾兩入たる袋ひとつ見へざる故、さだめて塗にておとしたるものにてあらん、もはやあるまじきとはおもひながら、もと來し路を段々に尋ねありく程に、ある所に乞食一人ありしが、見とがめてなにを尋候や、もし金をおとさるゝにては候はずやといふをきゝて、市十郎うれしくて有のまゝに語りければ、〈○中略〉取出し袋のまゝにて渡しけり、市十郎餘の事に、さてやみがたくて、内五兩取出して、是は責てそこの得分にせられよとてあたへけれども、中々受るけしきなし、市十郎いひけるは、此かねはなき物にきはめ置しに、そこの志ゆへにこそ、ふたゝび手にも入たれ、然るをのこらず我物にすべきにあらず、達て受てくれ候へといへば、よく考へて見給へ、其五兩をもらふ意得ならば、三拾兩を返し申べきや、もとより自分のよくにて拾ひ置たるにてなく候、定ておとしたる人、主人のかねなどならば、さぞ難儀に及ばるべし、他人に拾はせなば、其落せし人にはふたゝび返るまじ、さらば我等拾置て、其人に返さまく思て、拾置たるにてこそ候へ、そこもとへ渡し候へば、我等が志通りて候、さらばいとま申候はんとて、其まゝそこをさりて、見かへりもせで行けるを、市十郎跡をしたひて、取あへず懷中より金一星取出し、けふは寒氣もつよく候、歸られ候はゞ、是にて酒をもとめて、たべられ候へとてあたへければ、是は御志にて候まゝ申受候て、是にて御酒給申べきとて、それをば受て立わかれける、名を尋ければ、名は八兵衞とて、車善七が手下の乞食のよし申候〈○下略〉

〔先哲叢談〕

〈後編八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0015 紀平洲 平洲博愛容衆、不人忤、虔誠尤厚、小河仲栗、飛鳥子靜同居多年、仲粟子靜各卜居、後仲栗歿而無歸、於吾殯、喪祭若家人、且妻兒皆依賴焉、子靜又歿而無歸、喪祭之仲栗、養妻兒於家、後爲其女子資裝之人、仲栗子鼎長薦之尾府、食祿儒官、又南宮大湫子齡、大湫歿後真其母氏皆依賴焉、齡長薦之尾府、又食祿儒職云、其他寓塾者、雖斗管之人、若有歿者、憫寓異郷而死於客中、久後遂失其葬埋之所上レ在、自出費用、立碑於葬所、以記其姓名者數十人云、

〔續近世叢語〕

〈一/德行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 紀平洲寓長崎也、與小河天門、飛鳥圭洲、倶結交爲兄弟、居三年、聞母疾、卽日東歸、歸則母旣歿、哀毀嘔血、臥病歲餘、獨恐資産漸盡而使父憂、寄二子書、以借百金、圭洲謂天門曰、吾能以百金、助世馨之孝、固非惜也、卽盛以匣、而題曰石、以報平洲

〔近世叢語〕

〈一/德行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 或許子則〈○佐伯〉救人之急、俄背之、子則不復言、陰質宅與之、其人後聞之大驚、還子則、子則曰、人失信于我、我無之何、我失信于人、豈得之何乎、見其叩謝不一レ已、而後受、

〔續近世畸人傳〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 子松源八
子松源八時達は出雲の家士、射藝の師也、老て山心と號す、爲人方正淳朴比類なし、若年の時、兄の過失に連坐せられて祿を離れ、國内大原郡に蟄居し、家貧なれば日雇して衣食を給す、その居宅の隣に農夫茄子を種ゆ、源八は菜を作る地なければ、これに就て茄子を買んとこふに、農夫たゞひとりめさんほどは、日々といへどもいくばくのことかあらん、たゞ我ものゝごとく取用ゐ給へとて價をうけず、是より後、源八、茄子を喰んと思ふ時は往て取、價錢をその莖に結付て去、圃主所々に錢のかゝれるを見てあやしみ、此人の所爲ならんと取集て、返ども固く辭してうけず、〈○中略〉凡人に詐はなしとして、魚菜を買にも價を下せといふことなし、我心に應ずれば買、應ぜざれば買ず、久して商人も是を傳へしりて、其家にては價を二ツにすることなし、其家に使るゝ奴婢も、其風に化して質朴にして詐らねば、そこに使はれしものといへば、人爭ひて召抱たり、

〔近世叢語〕

〈一/德行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0017 佐吉〈○永田〉賣綿爲産、家貧無稱錘、乃毎賣買、唯人所爲、而纖毫不疑也、人亦感其無我、不欺誑、賣者多與之、買者少取之、由是産業日廣、遂以發財、母嘗鬻餅、佐吉請小之、母怪問其故、曰人情皆趨利、我所爲餅、若大於他、則人必競集、亡於舊餅師哉、母稱善、乃作餅小之、而買者不絶也、


Last-modified: 2019-05-05 (日) 13:36:37 (336d)