p.1065 孝ハ、子ノ能ク其親ニ奉事スルヲ謂フ、父母ノ意ニ違ハザルアリ、父母ノ爲ニ身ヲ殺スアリ、或ハ苦患ヲ忍ど、哀訴ヲ爲スアリ、又婦ノ能ク舅姑ニ仕フル等アリテ、一々枚學ニ遑アラズ、我邦敦厚ノ風アリテ、累世孝子絶エズ、朝廷幕府等之ヲ嘉ミシ、門閭ニ旌表シ、租ヲ免ジ、米錢等ヲ賜ヒテ、以テ之ヲ賞揚スルヲ例トセリ、
p.1065 孝〈ツカマツル、カシコマル、ウヤマフ、 和ケウ〉
p.1065 善事二父母一者、〈禮記孝者畜也、順二於道一不レ逆二於倫一、是之謂レ畜、〉从レ老省从レ子、子承レ老也、〈説會意之恉、呼敎切二部、〉
p.1065 孝好也、愛二好父母一、如レ所二悦好一也、孝經説曰、孝畜也、畜養也、
p.1065 孝行
p.1065 孝行(カウ〳〵) 孝子(シ) 孝男(ナン) 孝女(シヨ) 孝心(シン)
p.1065 孝悌一則
孝悌不レ待レ解、人所二皆知一也、但古稱二至德一者三、泰伯之讓、文王之恭、及孝稱二至德要道一是也、人無二貴賤一莫レ不レ有二父母一、父母生二之膝下一、如二它百行一、或强壯乃能行レ之、唯孝自レ幼可レ行、它百行或非レ學無二能行一レ之、唯孝心誠求レ之、雖レ不レ學可レ能、親者身之本、身者親之枝、故人君必以下繼二其志一述中其事上爲二孝之至一、臣下必以下立レ身揚レ名顯中其父母上爲二孝之至一、唯孝可三以通二神明一、唯孝可三以感二天地一、是其所三以爲二至德一也、和二順天下一、必自二孝弟一始、故 先王立二宗廟養老之禮一、以躬敎二天下一、是其所三玖爲二要道一也、孝悌忠信、孔門蓋謂二之中庸一、以下其爲中不二甚高一人皆可レ行之事上、故學二先王之道一、必由二孝弟一始、辟レ諸登レ高必自レ卑、行レ遠必自レ邇、孟子曰、堯舜之道、孝弟而已矣、是之謂也謂一、其可三以訓二致仁賢之德一也、雖レ然後儒喜二論説一之甚、遂以二仁孝一一レ之非也、孝自孝、仁自仁、君子惡二擧レ一以廢一レ百、假使二一孝而足一矣、則江革王祥旣爲二聖人一焉、故孔子曰、行有二餘力一、則以學レ文、言雖レ有二孝弟一、不レ學未レ免レ爲二郷人一也、是又學者所レ當レ知焉、雖レ然周官師氏旣立二至德敏德一、足三以盡二一切一、更立二孝德一以敎レ之、可レ見雖レ有二它不善一、苟有二孝德一、則先王所レ取也、先王之重レ孝若レ是夫、
p.1066 凡孝子順孫〈謂高柴泣レ血三年、顾悌絶レ漿五日之類、孝子也、○中略〉志行聞二於國郡一者、申二太政官一奏聞、表二其門閭一、〈謂假如於二其門及里門一、築レ堆立レ牓、題云二孝子門若里一也、〉同籍悉免二課役一、有二精誠通感一〈謂孟宗泣生二冬笋一、梁妻哭崩レ城之類、通感也、〉者、別加二優賞一、
p.1066 凡國守、毎年一巡二行屬郡一、鸛二風俗一、〈○中略〉敦喩二五敎一、勸二務農功一、〈謂五敎者五常之敎、則父義、母慈、兄友、弟恭、子孝是也、○中略〉部内有下好學篤道、孝悌忠信〈謂好學者、秀才明經等類、篤道者、兼二行孝悌仁義等道一、何者総而言レ之、一謂二之道一、別而名レ之、卽謂二之孝悌仁義禮忠信一故、然則孝悌仁義、旣入二篤道一而更下文擧二孝悌忠信一者、蓋一一存レ身之謂矣、凡此四者、人之高行、故擧爲二稱首一、〉淸白異行、〈○註略〉發聞於郷閭一者上、擧而進レ之、〈謂擧二送其身門非下唯申二奏事狀一而已上、何者依レ律德行乖僻、不レ如二擧狀一者、卽知須レ有下以二德行一被二貢擧一者上也、〉有下不孝悌悖レ禮亂レ常不レ率二法令一者上〈謂悖、逆也、亂レ常者、紊二亂五常之敎一也、不レ率二法令一者、率偱也、不レ遵二律令格式一也、〉糺而繩レ之、〈○下略〉
p.1066 大寶二年十月乙卯、詔、上自二曾祖一下至二玄孫一、奕世孝順者、擧レ戸給レ復、表二旌門閭一、以爲二義家一焉、
p.1066 按察使訪察事條事〈○中略〉
幼標二孝悌一、有レ感二通神一、〈○中略〉
不孝不義、聞二於里閭一、〈○中略〉
右百姓有二前件善惡狀迹一者、隨レ狀擧罰錄レ狀具通聞、
養老三年七月十九日
p.1067 天平三年十二月乙未、詔曰、〈○中略〉粤得二治部卿從四位上門部王等奏一偁、甲斐國守外從五位下田邊史廣足等所レ進神馬、黑身白髮尾、〈○中略〉宜下大二赦天下一、賑中給孝子順孫高年鰥寡惸獨不レ能二自存一者上、〈○下略〉
p.1067 天平十四年八月甲戌、令下左右京四畿内七道諸國司等、上中孝子順孫義夫節婦力田人之名上、
p.1067 大同元年五月辛巳、卽二位於大極殿一、詔給二諸社禰宜祝及諸寺智行僧尼孝義人等位一階一、
○按ズルニ、孝子順孫ヲ旌表或ハ賑恤セラルヽハ、列聖ノ常典ニシテ、吉凶禍福アル毎ニ必ズコノ事アリ、今一二ヲ擧ゲテ餘ハ省略ニ從フ、
p.1067 和銅七年十一月戊子、大倭國添下郡人大倭忌寸果安、添上郡人奈良許知麻呂、〈○中略〉並終レ身勿レ事、旌二孝義一也、果安孝二養父母一、友二兄弟一、若有二人病飢一、自賚二私粮一、巡加二看養一、登美箭田二郷百姓咸咸二恩義一、敬愛如レ親、許知麻呂立性孝順、與レ人無レ怨、嘗被二後母讒一、不レ得レ入二父家一、絶無二怨色一、孝養彌篤、
靈龜元年三月丙午、相模國足上郡人丈部造智積、君子尺麻呂、並表二閭里一、終レ身勿レ事、旌二孝行一也、
p.1067 神護景雲二年二月壬辰、備後國葦田郡人綱引公金村、年八歲喪レ父、哀毀骨立、尋丁二母艱一、追遠益深、賜二爵二級一、復二其田祖一終レ身、五月辛未、甲斐國八代郡人小谷直五百依、以レ孝見レ稱、復二其田租一終レ身、信濃國更級郡人建部大垣、爲レ人恭順事レ親有レ孝、〈○中略〉並免二其田租一終レ身、
p.1067 天長十年十月辛卯、安藝國言、賀茂郡人風早富麻呂、德行懿美、孝養自厚、父母歿後、口絶二五味一、哀慕之情無二暫忘一、特勅叙二三階一、免二戸田租一、
p.1067 承和三年十二月辛丑、安房國言、安房郡人件直家主、立性肅然、常守二孝道一、父母沒後口絶二滋味一、建レ廟設レ像、四時供養、事レ死如レ生、未二嘗懈倦一、量二其因心一可レ謂二孝子一、勅宜下叙二三階一、終レ良免二戸田租一、旌中 門閭上、
p.1068 承和四年十一月丁丑、加賀言、管能美郡人財部造繼麻呂、父母存日、定省之禮、無レ失二其節一、沒後操行不レ變、朝夕哀慕、隣里郷邑莫レ不二推服一、可レ謂二孝子一、勅宜下叙二三階一、終身免二其戸租一、旌二表門閭一、令中衆庶知上、
p.1068 承和八年三月癸酉右京人孝子衣縫造金繼女居二住河内國志紀郡一、年十ニ歲、始失二親父一泣血過レ人、服闋之後、親母許レ嫁、而竊出住二於父墓一、旦夕哀慟、母復不レ謂二嫁事一、其後歸來定省、毎二父忌日一齋食誦レ經、累年不レ息、至二冬節一則母子買二雜材一、惠賀河構二借橋一總十五ケ年、母年八十而死、哀聲不レ絶、常守二墳墓一、深信二佛法一、焚レ香送レ終、勅叙二三階一、終身免二戸田租一、旌二表門閭一、令衆庶知一、
p.1068 嘉祥元年十月丁亥朔、讀岐國言、三野郡人從四位上丸部臣明麻呂年卅、戸主外從八位上已西成男也、齡十八歲入レ都從レ官、遂効二勞績一被レ任二當郡大領一、卽讓二己職於父一、自守二子道一、孝二養二親一、已西成年老致レ仕、親母亦耄、各居二別宅一、相去十里、明麻呂朝夕往還、定省年久、眷二其孝行一、在昔曹參不レ可二獨賢一、望請准二據法式一、以被二貢擧一者、勅宜下叙二爵三階一、終身免中戸内田租上、
p.1068 仁壽三年七月丙辰、賜二薩摩國孝女揖前福依賣爵三級一、復終二其身一、旌妻門閭一、福依賣天性至孝、父母年皆八十、老病著レ床、無レ子、唯有二一女一、頑依賣扶二持左右一、嘗レ藥二十餘年、傭力致レ養、曉夕辛勤、容顏焦瘦、觀者憐レ之、福依賣雖レ云一野族一、閑二於禮儀一、恭二敬父母一、有レ所二諮稟一、必正レ色作レ聲、未二嘗䙝惰一、
p.1068 貞觀七年十一月三日庚辰、美作國久米郡人秦豐永、天性孝行、志在二恭順一、幼稚之年、致レ養一二親一、父母亡後、常守二墳墓一、叙二位三階一、籍二課役一、表二門閭一、令二衆庶知一焉、
p.1068 貞觀十二年十二月八日乙酉、若狹國言、遠敷郡人丹生弘吉幼失二其父一、與レ母倶レ居、和レ顏悦レ色、冬温夏凉、始レ自二貞觀元年一爰及二今茲一、春講二最勝王經一、秋演二妙法華經一、朝就墓次、擗踊哀絃、暮遠二國門一、孝敬周備、其母常聞二善誘一落髮入道、耕穀稼不下爲二水早風蝗一所中損傷上、隣里以爲孝感之所レ致也、勅叙二位二 階一、
p.1069 一茨城郡玉造村の、中の濱〈濱は、玉造村の内の小名也、〉と申處に、彌作といふもの有、家至つてまづし、父ははやく死して、母老たり、しかも腰居となれり、〈○中略〉元來田畑も持ざりければ、人の田畑を受作と云事にして作れり、扨田をすき、畑をうたんとする日は、母獨家におらしめん事を悼み、藁にて笈などのやうなる物を組み、母を乘せて負ひ、前には農具をかゝへ、手には母の飢渴を助んが爲、喰もの、幷にやくわんに茶を入て携行、〈○中略〉西山公、〈○德川光圀〉此事を聞召及れ、南領へ御出の節、彌作が門に御立寄、彼ものをめし、金一すくひ左右の御手を並べ御持候て、彌作が頭の上に、御さしかざし、孝行の段、御褒被レ遊、此金を以て、母を心よく養申べし、此金我があたふる所にあらず、天より汝にあたへ給ふ所也とて被下候、扨所の役人をめし、彌作は勝れて、愚鈍なる者と聞しめし被レ及候、此金人に奪ひとらるゝ事も有べし、汝ら能く計ひ、田畠をとゝのへとらすべし、亦向後、懇に可レ仕よし被仰付一、其後儒臣に被二仰付一、彌作が傳を御書せ被レ成候、
p.1069 元文四未年四月
御勘定奉行〈江〉
溝口出雲守御預り所
越後國蒲原郡村山村
百姓道次郎名子つま娘
つじ
銀二十枚
右つじ儀、老母つまに孝行ニ付、書面之通被レ下候間、其段可レ被二申渡一候、銀子之儀者、御納戸頭相談可レ被二請取一候、〈○中略〉
寬保二戌年五月
御勘定奉行〈江〉
牧野民部少輔御預り所
越後國三島郡出雲崎尼瀨丁
大工作太夫 銀二拾枚 女房
右之者儀、姑江就二孝行一、書面之通被レ下候之間、其段可レ被二申渡一候、
十七H 實曆四戌年八月
藤堂和泉守御預り所
大和國宇陀郡根生村
年寄
平三郎
銀貳拾枚
右之者數年親江孝行仕候ニ付、被レ下レ之、
p.1070 書院番田井義孝、〈多源次後ニ與兵衞ト攻ム、〉夫妻、祖母ニ事ヘテ至孝ナルヲ以テ、寬光公ノ時賞セラン、加秩ヲ賜ヘリ、一公〈○松平定信〉親シク其狀ヲ視ントテ、義孝ガ宅ニ至リ玉フ、老婆年老ヒ、身體自在ナラザレバ、義孝抱持シテ出タリ、公膝ヲ進メテ近ヅキ、種々懇詞ヲ加へ玉ヒケレバ、老婆答謝ノ辭ヲ述べ奉ント欲スル體ナレドモ、感佩ノ情胸ニ逍リ、言ヒ得ズシテ泣伏セリ、義孝モ側ニアジテ感泣ニ堪ヘズ、滿坐皆流涕セザル者ナカリケル、尋デ恩賜アフ、且義孝其年五月、江戸祗役ノ任ニ當リタルガ、老婆四月中下世シケレバ、優待ヲ以テ祗役ヲ免シ、諸事ヲ意ノ如ク處置スベシト命ジ玉フ、〈或時老婆飮食ニ臨ミ、偶然生紫蘇ヲ欲セリ、寒天積雪ノ時ナレバ、有べキモノニアラズ、義孝如何セント苦慮シテ、庭前ニ出、頽壁ノ隙ヨリ緣下ヲ見ルニ、生出タル紫蘇五六莖アリ、天ノ與へト悦ビ、急ニ折取リテ、老婆ニ勸メケル、蓋シ至誠ノ感ズル處、古ノ孝子ニ異ナラズト云ベシ、〉是ヨリ後藩中ヲ始メ、農商ニ至ル迄、孝義ノ者ヲ賞シ、衣服米金等ヲ賜フコト連綿タリ、
p.1070 牛天神下孝心の者
金杉水道町家主井筒屋佐兵衞店に、近年引越し參り申候、竹帚商賣仕候吉五郎と申候三十七歲、母親へ孝心之者に付、當六月四日〈町奉行〉永田樣〈備後守〉へ御呼出し、御白洲にて、孝心に付、銀五枚爲二御褒美一被二下置一、誠に難レ有事に候、歸りに八丁堀御掛り樣へ被レ呼被二仰聞一候は、是迄孝心之者度々心得違いたし、慢心おこし、却て御褒美頂戴之後、不孝にて被レ叱候者も有レ之候事故、猶又此上大切孝心 可レ仕由被二仰聞一候、
p.1071 天保十二丑年十二月廿八日
谷中天王寺門前町喜八店髮結職
幸次郎
其方儀、幼年之節より、父母之申付を不二相背一、萬事物靜成性質ニ而、十貳才之節、西久保靑龍寺門前町髮結勝五郎弟子ニ相成候處月々無二惰怠一兩親之機嫌聞に罷越、土産物等持參爲レ悦、其後年季明、谷中古門前町髮結床主竹次郎方同居、廻り髮結致し、壹ケ月髮結錢拾五〆五百文集メ候内、四〆五百文ヅヽ毎月竹次郎江揚錢差出し、殘錢之内、本郷新町屋ニ罷在候兩親江月々五百文、或金貳朱ヅヽ相贈候處、兩親共病身ニ而難澀いたし候ニ付、谷中古門前町ニ而店借受、母美代を引受、繼父喜助儀者、同人弟岩次郎引取候ニ付、其方儀毎朝未明ニ起、食事拵等いたし置、職業ニ出、晝飯も立蹄り、同樣世話いたし爲レ給、夕刻歸り候箚ハ、日々母美代好候品を調持歸り爲レ給、毎夜按摩等致し遣し〈○中略〉一途に孝心を盡し候段、奇特成儀ニ付、爲二御褒美一銀三枚被レ下候間難レ有可レ奉レ存、
右之通、今日於二北御番所一被二仰渡一候間、勸善之敎等ニも相成候間、自身番屋〈江〉張置候樣可レ致事、
丑十二月廿八日
p.1071 安政元年七月十二日、江戸本郷元町鐵五郎女ニ、銀ヲ賜テ孝行ヲ褒ス、
本郷元町家主鐵五郎娘やす、當寅十四歲、 其方儀常々孝心深く何事に不レ寄、兩親の意に不レ背、其上去丑五月十九日曉、磯吉外二人押込、兩親を取卷、金銀可二差出一、若し隱置候はゞ、兩人共可二切殺と拔刀を以て申威し、鐵五郎差出候錢可二奪取一と致し候節、磯吉外二人の袖にすがり、兩親を助け呉候樣相歎き、且父儀は兼て困窮にて日々靑物商ひ致し、漸々取續居候間、右賣溜錢奪取られ候ては、明日より商ひに基手を失ひ、及二渴命一候間、差免呉候樣申歎候故、流石の强盜も其孝心を感じ、盜不レ致立去候趣無二相違一相聞え、右體其身の危を忘れ、卯下に臨み道理を述べ、惡黨共の氣勢を奪ひ、 兩親の危き場を救ひ候は、平常行狀とは申ながら、卑賤の少女には別て孝心奇特の儀に付、右之趣申上、爲二褒美一銀五枚とらせ遣す、
p.1072 四年二月甲申、詔曰、我皇祖之靈也自レ天降鑒、光二助朕躬一、今諸虜已至海内無レ事、可下以郊二祀天神一用申中大孝上者也、乃立二靈畤於鳥見山中一、其地號曰二上小野榛原下小野榛原一、用祭二皇祖天神焉、
p.1072 天皇風姿岐嶷、〈○中略〉神日本磐余彦天皇崩、時神淳名川耳尊孝性純深、悲慕無レ已、時留二心於哀葬之事一焉、
p.1072 和銅七年十一月戊子、大倭國〈○中略〉有智郡女曰比信紗並終レ身勿レ事、旌二孝義一也、〈○中略〉信紗民直果安妻也、事二舅姑一以レ孝聞、夫亡之後、積年守レ志、自提二孩穉幷妾子總八人一、撫養無レ別、事二舅姑一自竭二婦禮一、爲二郷里之所一レ歎也、
p.1072 昔元正天皇の御時、美濃國にまづしくいやしきおのこ有けり、老たる父をもちたりけるを、此男山の木草をとりて、其あたひをえて父を養けり、此父朝夕あなかちに酒をあひしほしがりければ、なりひさごといふものをこしにつけて、酒うる家に望て、つねにこれをこひて父を養、ある時山に入て薪をとらんとするに、苔ふかき石にすべりて、うつぶしにまろびたりけるに、酒の香のしければ、思はずにあやしくて、其あたりを見るに、石の中より水ながれ出る所有、その色酒に似たりければ、くみてなむるに目出たき酒也、うれしく覺て、其後日々に是を汲て、あくまで父をやしなふ、時にみかど〈○元正〉此事を聞召て、靈龜三年九月日其所へ行幸ありて叡覽ありけり、是則至孝の故に天神地祗あはれび、其德をあらはすと感せさせ給て、美濃守になされにけり、家ゆたかに成て、いよ〳〵孝養の心ふかゝりけり、其酒の出る所を養老の瀧と名付られけり、これによりて同十一月に、年號を養老とあらためられけるとぞ、
p.1072 養老四年六月己酉、漆部司令史從八位上丈部路忌寸石勝、直丁秦犬麻呂坐レ盜二司漆一、 並斷二流罪一、於レ是石勝男祖父麻呂年十二、安頭麻呂年九、乙麻呂七、同言曰、父石勝爲レ養二己等一、盜二用司漆、緣二其所犯一配二役遠方一、祖父麻呂等爲レ慰二父情一冒レ死上陳、請配二兄弟三人一沒爲二官奴一、贖二父重罪一、詔曰、人禀二五常一、仁義斯重、士有二百行一、孝敬爲レ先、今祖父麻呂等役レ身爲レ奴、贖二父犯罪一、欲レ存二骨肉一、理在二矜愍一、宜下依レ所レ請爲二官奴一卽免中父石勝罪上、但犬麻呂依二刑部斷一發二遣配處一、
p.1073 承和四年五月丁亥、贈二正五位上伴宿禰益立、本位從四位下一、益立實龜十一年、爲二征夷持節副使一、發レ京之日叙二從四位下一、厥後遭レ讒奪レ爵、其男越後大掾野繼、上書寃訴久矣、遂明得レ雪二父恥一、
p.1073 承和十三年八月辛巳、散位正三位藤原朝臣吉野薨、〈○中略〉尊二事二親在一レ堂、定省温淸、造次無レ虧、忠孝之道與爲レ多焉、先レ是父兵部卿聞レ有二鮮肉一遣レ人索レ之、遇二朝謁未一レ歸、庖人斬固不二以分遣一、後乃聞レ之、向二庖人一責讓涕泣、終身不二復肉食一、
p.1073 嘉祥三年五月壬辰、追二贈流人橘朝臣逸勢正五位下一、詔下二遠江國一、歸二葬本郷一、〈○中略〉初逸勢之赴二配所一也、有二一女一、悲泣歩從、官兵 送者叱レ之令レ去、女晝止夜行、遂得二相從一、逸勢行到二遠江國板築驛一、終二干逆旅一、女攀號盡レ哀、便葬二驛下一、廬二於喪前一、守レ屍不レ去、乃落髮爲レ尼、自名二妙冲一、爲レ父誓念、曉夜苦至、行旅過者爲レ之泣涕、及レ詔二歸葬一、女尼負屍還レ京、時人異レ之、稱爲二孝女一、
p.1073 仁壽二年十二月癸未、參議左大辨從三位小野朝臣篁薨、〈○中略〉九年〈○天長、中略、〉其夏哀レ父、哀毀過レ禮、〈○中略〉篁身長六尺二寸、家素淸貧、事レ母至孝、公俸所レ當皆施二親友一、
p.1073 仁壽三年十二月丁丑、相模權介從五位上山田宿禰古嗣卒、〈○中略〉爲レ人廉謹而寡二言辭一、幼歲喪レ母、敬二事從母一、天性篤孝、嘗讀二書傳一、至二於樹欲レ靜而風不レ止、子欲レ養而親不一レ在、泣涕不レ禁、卷帙爲レ之沾濡、〈○下略〉
p.1073 白河院御時、天下殺生禁斷せられければ、國土に魚鳥の類絶にけり、其比まづしかりける僧の年老たる母をもちたる有けり、其母魚なければ、物をくはざりけり、たま〳〵 求えたるくひ物もくはずして、やゝ日數ふるまゝに、老の力いよ〳〵よはりて、今はたのむかたなく見へけり、僧かなしみの心ふかくしてゼづね求れ共得がたし、思ひあまりて、つや〳〵魚取すべもしらねども、みづから川の邊にのぞみて、衣にたまだすきして魚をうかゞひて、はえといふちいさき魚を一つ二つ取てもちたりけり、禁制おもき比なりければ、官人見あひてからめとりて、院の御所へゐて參りぬ、先子細をとはる、殺生禁制の世にかくれなし、いかでか其由をしらざらん、いはんや法師のかたちとして、其衣を著ながらこの犯をなす事、一かたならの科のがるる所なしと、仰含らるゝに、僭涙をながして申やう、天下に此制おもき事みな承る所也、たとひ制なぐ共、法師の身にて此ふるまひ更にあるべきにあらず、但我年老たる母をもてり、只われ一人の外たのめるものなし、よはひたけ身おとろへて、朝夕の喰たやすからず、我又家まづしく財もとたねば、心のごくにやしなふに力たへず、中にも魚なければ物くはず、此ごろ天下の制によりて、魚鳥のたぐひいよ〳〵得がたきによりて、身力すでによはりたり、是をたすけん爲に、心のをき所なくて、魚とる術もしらざれ共、思ひのあまりに川のはたにのぞめり、罪におこなはれん事、案のうちに侍り、但此取處の魚、今ははなつともいきがたし、身のいとまをゆりがたくば、この魚を母のもとへつかはして、今一度あざやかなる味をすゝめて、心やすくうけ給ひをきて、いかにも罷ならんと申に、是を聞人々涙をながさずといふ事なし、院聞しめして、孝養の心ざしあさからぬをあはれび感せさせ給て、さま〴〵の物共を馬車につみ給はせて、ゆるされにけり、とぼしき事あらばがさねて申べきよしをぞ仰られけるとなり、
p.1074 武則公助ト云古隨身アリケリ、何ヲ父何ヲ子トハ不二分明一父子之間也、右近馬場ノ騎射ワロク射タリトテ、子ヲ勘當シテ、晴ニテ馼ケルニ、逃去事モナクテ被レ打ケレバ、見人イカニ不レ逃シテ、カクハ被レ打ゾト問ケレバ、衰父ノ父若令レ逃者追ナドセン程ニ、若顚倒シナバ、極テ不 便ナリヌベケレバ、如レ此心ノユクカギリ被レ打ゾト申ケレバ、世人イミジキ孝子也トテ、世ノオボエ事外ニ出來ニケリ云々、
p.1075 建仁二年三月八日癸丑、御所〈○源賴家〉御鞠、人數如レ例、此會連日儀也、其後入二御于比企判官能員之宅一、〈○中略〉爰有下自二京都一下向舞女上、〈號二微妙一〉盃酌之際、被レ召二出之一、歌舞盡レ曲、金吾〈○源賴家〉頻感二給之一、廷尉〈○比企能員〉申云、此舞女依レ有二愁訴之旨一、凌二山河一參向、早直可レ被二尋聞食一者、金吾令レ尋二其旨一給之處、彼女落涙數行、無二左右一不レ出レ詞、恩問及二度々一之間、申云、去建久年中、父右兵衞尉爲成、依二不讒一爲二宮人一被二禁獄一、而以二西獄囚人等一、爲レ給二奧州夷一、被レ放二遣之一、將軍家雜色、請取下向畢、爲成在二其中一、母不レ堪二愁歎一卒去、其時我七歲也、無二兄弟親昵一、多年沈二孤獨之恨一、漸長大之今、戀慕切之故、爲レ知二彼存亡一、始慣二當道一、而赴二束路一云云、聞之輩悉催二悲涙一、速遣二御使於奧州一、可レ被二尋仰一之由、有二其沙汰一、十吾庚申、尼御臺所〈○賴家母平政子〉入二御左金吾御所一、召二舞女微妙一覽二其藝一、是依下令レ感二戀レ父之志一給上也、藝能頗拔群之間、爲レ尋二彼父存亡一、被レ遣二使者於奧州云云、 八月五日丙子、所レ被レ遣二奧州一之雜色男歸參、舞女父爲二滅巳一云云、彼女涕泣、悶絶僻地云云、
十五日丙戌、舞女微妙、於二榮西律師禪房一、遂二出家一、〈號二持蓮一〉爲レ訪二父夢後一云云、〈○下略〉
p.1075 赤坂合戰事附人見本間拔懸事
二人〈○人見四郎入道恩阿、本間九郎資貞、〉共ニ一所ニテ被レ討ケリ、是マデ付從フテ、最後ノ十念勸メツル聖、二人ガ首ヲ乞得テ、天王寺ニ持テ歸リ、本間ガ子息源内兵衞資忠ニ、始ヨリノ有樣ヲ語ル、資忠父ガ首ヲ一目見テ、一言ヲモ不レ出、〈○中略〉資忠今ハ可レ止人ナケレバ、則打出テ、先上宮太子ノ御前ニ參リ、今生ノ榮耀ハ今日ヲ限リノ命ナレバ、祈ル所ニ非ズ、唯大悲ノ弘誓ノ誠有ラバ、父ニテ候者ノ討死仕候シ、戰場ノ同萇ロノ下ニ埋レテ、九品安養ノ同臺ニ、生ルヽ身ト成ナセ給ヘト、泣々祈念ヲ凝シテ、泪ト共ニ立出ケリ、石ノ鳥居ヲ過ルト見レバ、我父ト共ニ討死シケル人見躅郎入道ガ書付タル歌アリ、是ゾ誠ニ後世マデノ物語ニ、可レ留事ヨト思ケレバ、右ノ小指ヲ食切え其血ヲ以三首 ヲ側ニ書添ラ、赤坂ノ城ヘゾ向ヒケル、城近ク成ヌル所ニテ、馬ヨジ下リ弓ヲ脇ニ挾テ城戸ヲ叩キ、城中ノ人々ニ可レ申事アリト呼リケリ、良暫ク在テ、兵二人櫓ノ小間ヨリ、顏ヲ指出シテ、誰人ニテ御渡候哉ト問ケレバ、是ハ今朝、此城ニ向テ、打死シテ候ツル、本間九郎資貞ガ嫡子、源内兵衞資忠ト申者ニテ候也、人ノ親ノ、子ヲ憶フ哀ミ、心ノ闇ニ迷フ習ニテ候間、共ニ討死セン事ヲ悲テ、我ニ不レ知シテ、只一人討死シケルニテ候、相伴フ者無テ、中有ノ途ニ迷フ覽、サコソト被二思遣一候ヘバ、同ク討死仕テ、無跡マデ、父ニ孝道ヲ盡シ候バヤト存ジテ、只一騎相向テ候也、城ノ大將ニ、此由ヲ被レ申候テ、木戸ヲ被レ開候へ、父ガ打死ノ所ニテ、同ク命ヲ止メテ、其望ヲ達シ候ハント、慇懃ニ事ヲ請ヒ泊ニ咽デゾ立タリケル、一ノ木戸ヲ堅メタル兵五十餘人、其志孝行ニシテ、相向フ處、ヤサシク哀ナルヲ感ジテ、則木戸ヲ開キ、逆木ヲ引ノケシカバ、資忠馬ニ打乘リ、城中へ懸入テ、五十餘人ノ敵ト、火ヲ散テゾ切合ケル、遂ニ父ガ被レ討シ跡ニテ、太刀ヲ口ニ呀テ覆シニ倒テ、貫カンテコソ失ニケジ、惜哉、父ノ資貞ハ、無雙ノ弓矢取ニテ、國ノ爲ニ要須タリ、又子息資忠ハ、タメシナキ忠孝ノ勇士ニテ、家ノ爲ニ榮名アリ、〈○中略〉大將則天王寺ヲ打立テ、馳向ヒケルガ、上宮太子ノ御前ニテ、馬ヨリ下リ、石ノ鳥居ヲ見給ヘバ、〈○中略〉
マテシバシ子ヲ思フ闇二迷ラン六ノ街ノ道シルベセン、ト書テ、相模國ノ住人本間九郎資貞嫡子源内兵衞資忠生年十八歲、正慶二年仲春二日父ガ死骸ヲ枕ニシテ、同戰場ニ命ヲ止メ畢ヌトゾ書タリケル、
p.1076 中江原、字惟命、小字與右衞門、號二藤樹一、〈○中略〉
藤樹在二大洲一、慕一母之獨居一レ郷、夢寐無二已時一、嘗乞蹄省、欲二卽伴來一、然母不レ欲下踰二波濤一如中他郷上、則無復如レ之何一、乃獨返二大洲一、邃陣レ情、乞二歸終一レ養、不レ允、於レ是鬻二家什一、得二數十金一、以償レ債、又以二其餘一易レ穀積二之家一、意在レ送二是歲俸給一也、而仰レ天心誓レ不レ事二二姓一、而后出亡、
p.1077 從五品大炊頭源好房行實
花不二全開一而落、苗秀而不レ實者、可二以惜一焉、植物猶然、況於二穎悟孝子一哉、從五品大炊頭好房君、以二今年六月二十三日一逝二於箕田第一、春秋僅二十一、〈○中略〉君幼而岐嶷、四五歲而解二國俗字一、知二方角字一向二府城及父母所レ在之方一、不二敢伸一レ足、常侍二父母一知二在レ側冊子之名一、毎レ有二問者一應レ聲而答、不レ違二其一一、出則吿二父母一、反則來前、若得二珍品一獻二之父母一、把見則愉愉如也、父母賜レ物則拜絎受レ之、愛而不レ失、有レ時賜レ書則戴而披レ之、讀畢又戴而納レ之、凡父母所レ言敬而不レ違、或與二侍者一談而及二父母之事一、則雖レ臥必起、正坐而聞レ之、或侍二母側一若見二寸刃錐針之類一、則慮二其誤觸一而手自收焉、稍長在二傍室一晨省昏定、問二其安否一、雖二他適夜闌一無レ不レ及レ面、當二花時月夜一則屢請迎二父母一、和藥添レ興、或罹レ疾則不レ離二其側一、藥必先嘗、食必先試而進レ之、或丁レ憂則慰諭順承以勸二飮食一、漸及二成童一厭二粉奢一守二儉約一、不レ恣二其志一、所レ言所レ行皆順二父母之心一、父在二封邑一則勤二留守事一、所レ吿所レ報無レ懈無レ闕、而事レ母愈謹愈敬、且寓二諷諫之趣一、而慮レ不レ協二其心一、自省自悔無レ不レ盡レ心、待三其有二喜色一而退。稟性多病、常懼レ爲二父母之憂一、而治養甚愼、故七茵復レ初者数矣、其孝志之大概如レ此、至レ若二日用細少多端一、則不レ可二勝計一嫗〈○下略〉
p.1077 丹州孝子傳〈賛論附〉
丹波國天田郡土師村有二一孝子一、曰二蘆田爲助一、〈號二七左衞門一〉其父曰二井上一、〈○中略〉爲助天性至孝事二父母一盡二心力一、其所レ言無レ不レ從焉、寒夜則以二己膚一温レ席、而令三父母臥二其上一、窺二其熟睡一蹐而竊入加レ被而退、欲レ不二驚覺一也、若父母睡覺則問二其安否一、而容二父母足於己懷一温レ之而退、如レ此者毎夜或再或三無二敢闕一焉、炎天則擇二樹陰凉處一、構レ庇障レ日、負二父母一憩二坐於其下一、自梳二其白髮一以散二鬱蒸一、其寢則先扇二其獸處一拂二暑氣一以迎レ之、飮食不レ足則唯供二父母一、己忍二飢渴一而對二父母一、乃言二食有一レ餘、不レ令レ知二簟瓢屢空一、若偶得二一物於外一則喜而奉レ之、母常畏レ雷、故霹靂則不レ離二其傍一、雖二出在一レ他、必遠歸保護焉、平生給養之暇不レ怠二耕耨一、納二其貢税一不二肯違一レ期、縱然絶二己糧一無レ闕二奉レ上之物一、不レ蒙一未進之責一、不レ借二他人之物一、其爲レ人柔和而能勤二産業一、是以一村邑長及戸民、 皆憐レ之相睦、承應二年、爲助娶レ妻結二小廬於隅屋一、不レ妨二父母之所一レ居、其妻亦傚二慕爲助之所爲一、能事二舅姑一、以竭二婦道一、父母或求レ之レ他、則爲助與二其妻一抱負而出、或途中逢レ雪則妻先掃レ雪、啓レ行而導焉、歷レ年産レ子不下以二私愛一而忽中其孝養上、方二凶歲水早一、則吿二父母一曰、我田不レ枯、我疇不レ溺、而不レ使レ知二其艱苦一、萬治三年四月十七日、母沒壽八十、寬文元年二月四日、父終壽八十三、共極二天年一、爲助哭泣殊甚、哀慕不レ止、葬二於己屋近邊一、築レ墓建二石塔一、甘日詣レ墓獻二香花一、毎レ當二七日一招レ僧讀レ經、及二七七日一修二懺法一、毎月忌日拜墓不レ懈、猶二事レ存之禮一、催レ感而至落レ涙而歸、雷震則必詣二母墓一泣而守レ之如二生之時一、爲助孝志同邑悉知レ之、隣里亦知レ之、旣而聞二於福地山城一、所レ謂土師村隸二此城一、城主從五品尚舍奉御源姓松平氏忠房感二其志一恤二其志一、卑二黃金一以褒レ之、爲助拜戴歸レ家讓二其兄一、兄辭曰、此恩賜之物、依二汝孝之聞達一也、我何受レ之、兄弟相讓而不レ取、而封緘藏二於其家一、城主聞而奇レ之、乃復二爲助戸租一、且蠲二其課役一、〈○下略〉
p.1078 寬文中、丹波龜山有二廟祀一、目不レ識二一丁字一、親死之径、以レ木爲レ像、神祠之側、爲二一宇一安二措之一、有二烈風暴雨一、則必往探刺焉、忌日佳節、則前夜往乞二賁臨一、翌日與レ妻往迎レ之、己負二奠像一、使三妻負二母像一而遠、置二之正堂一、薦二其時食一、竭レ誠待レ之、其勸二飮食一、且語言如レ事レ生、郷人視レ之、以爲二性理繆錯一、或謂狐憑焉、城主松平伊賀侯聞乏、使二人察一レ之三年、其行無レ變、於レ是以二田三段一賜レ之、永世免二其租一、
p.1078 世ノ諺ニ、孝行ニハ水ガ付クト云リ、或老人ノ物語リニ、堀美作守親常ノ家人長瀨某ト云者、至孝成者ニテ、老母ニ孝ヲ盡セリ、妻モ亦孝ナル者ニテ、夫婦シテ老母ニ仕ル事尋常ナラズ、此長瀨妻ヲ迎ントセシ時、容顏ノ美惡ニモ拘ハラズ、身勞柄ラニモ拘ハラズ、氏ニモ拘ハラズ、只孝心ナル女ヲ迎ント願ヒシニ、果シテカヽル妻ヲ得タリ、〈○下略〉
p.1078 ちかき比、備前の國見島の郡小串村にすみける、七郎兵衞といふいとまどしき民あり、むすめたゞひとりもたりけるが、これさへおさなきより、人の家につかはせてをきけり、此むすめとしへてのちいとまあきて、親のもとへかへりけるときは、父すでにいたく老たり、母は 後のおやなりしが、これもやゝおとろへぬ、ふたおやのたのめる所、たゞ此むすめばかりなるによりて、したしきものあひはかりて、むこをとりすへ、父母をやしなはせんとしければ、むすめいなびていへるには、人の心しりがたし、わがおとことなれらんもの、もしちゝ母にあしくば、われいかばかりおやを思へるとも、心にまかせざる事おほかるべし、そのときくゆるともかひあらんや、おぼつかなきはかり事は、せざるにはしかじ、我女にこそはあれ、たゞ二人のおやなれば、ともかくもやしなひ見ざらめやとて、みづから田畑の事に心をつくし、身をやつせり、人なをしゐてむこの事いへど、つゐにうけひくけしきなし、たへがたきわざにもよくたへて、ちからのかぎりつとめけるほどに、父もまゝ母もようつとぼしからずして、つねによろこびゐけるとぞ、
p.1079 ちかき比、備中國窪屋郡三田村の民、久兵衞といふものゝ妻に孝婦あり、久兵衞が父きはめてかたくなし、よめをつかひて、いさゝか心にかなはざれば・うちさいなむ、しかれどもよめはうらむる心もなく、ふかくそのつみをうけてさかはず、孝養おこたれる事なし、しうと八十にをよびて、あしよはくなれるを、夜日となくそのたちゐをたすけけり、ある夜よめつかれふして、しうとのおき出るをしらず、しうといかりて、よめが物つくうすの中にいばりす、よめ目さめてこれをしれども、つゆ色にあらはさず、いたくわかいぎたなかりしをくひかなしみ、しうとの心とくるをうかゞひて、ひそかに臼をきよめけり、ようづやはらぎしたがへるさま、みなかくのごとし、よりてかばかりつらきしうとなりけれど、終にはよめが心ざしにめでゝ、すぎこしひがひがしさを悔なげけり、その比しも國のなりはひ見めぐる人、かの家の門をよぎりければ、しうと出まみえて、よめが孝行いみじき事ども、つぶさに吿かたる、その人やがて國の君に申ければ、よめに祿たまはりて賞せられけり、
p.1079 孝子彌作 常陸の國行方郡玉造村に彌作といふ民あり、生れつき實やかにして、母につかへて至孝なり家に田産なければ、傭力(ひとにやとは)れてわたらひける、寒夜にも衣衾なければ、母のさむきをかなしみて、彌作がきたる物を脱て母におほふに、母もまた彌作がさむからん事をうれへて、たがひにあひゆづりぬ、母のこと葉にそむくをおそれて、もとのごとくうちきて、母のよく眠りたるをうかゞひて、ひそかにおほひきせて、あとまくらをつくろひとゝのへ、彌作も其かたはらにふしぬ、あるひは爐火をたきて母をあたゝめ、彌作は火をまもりながら、居ねぶりなどしけり、人にやとはれ、もしは役にさゝれて他に出る時は、となりむかひの家にゆきて、母をかへり見たびねかしとて、なみだぐみてたのみつゝ出けり、手つから燒飯して、午餐にあたふれば、いつもうちいたゞきてふところにいれて、ひねもす人のためにはたらきながら、くらはずして、夕さりは家にもて蹄り、母にあたへて、おのれはけふは某が酒のませ、或は某が何くれくはせ侍れば、腹ふくれたりといひのがれける、母時々頭痛の病をくるしみけるに、彌作おのれが膝を枕にあたへて、撫さすりなどいたはりていやしけり、母魚肉をおもふ時は、彌作ちかき水邊にはしり行て、何にてもあさり歸りて、味をとゝのへすゝめける、おほよそよのつね母にあたふる飮食をば、神佛などに奉る物のごとくに、きよめえらびて、おのれは其餘りのあら〳〵しく、よごれたるをたべける、母もし寺院の談義を聞まほしくいひ、或はしたしきものゝ方へゆかむなどいふ時は、彌作手をひき腰をおし、脊中に負などしつゝ、母の面白がるべき物語うちして行歸ける、彌作四十歲に及ぶまで、かくおこなひければ、其里人もいとをしきものにいひあひ、郡奉行などいふ人どもゝ傳へ聞て、不便なる事に思ひけり、過し延寶二年、西山公〈○德川光圀〉在藩のをりふし、たま〳〵玉造へわたらせたまふ時、此事を聞しめして、御嘆賞のあまり、御馬の前にめしいでゝ、田畠黃金など賜ひつゝ、御感淺からざりけり、それより家の内もやゝゆたかになりて、いよ〳〵孝志をあつくして、同じき八年に 母身まかりける時も、奴婢をたのまず、みづから醫師の方へ行、あつらへてはしり歸りては、煎じあたへなど、志をつくし、なき跡のかなしみは、他人のなみだをさへおとさせけり、其後に妻をむかへて、農業をつとめければ、ほど〳〵に富さかへけるにつけても、あはれ母の世に有し時、かくあらましかば、よろこびたまはましものをとて、くやみなきけり、元祿七年甲戌に六十歲、なほ世におこなひ侍るとぞ、
p.1081 長崎孝子六人
高雲禪寺の宗融長老は、本肥前國の産なり、當寺住職の中、一人の老母あり、つかへ養ふ事、極めて孝なり、母常に魚味を好めり、素寺中の制禁なれど、母のわかき頃より好めるたぐひを、今さら堅く止め侍らば、老のちから、いよ〳〵おとろへ、壽き持ちがたからんにやと、時々魚類を買求め、門脇なるおのこを賴み、其家にて調味して、母にすゝめ侍りぬ、寺貧しければ、はか〴〵しき下僕もあらず、常に出るに、大かたは供人もなし、ある時、一人市町を往るに、母の好める鮮き魚を賣にあへり、悦びて、そこらの知人に錢を借りて、魚を買、葛わらやうのものにつらぬき、みづから手に提もて歸りて、例の門わきなる屋にて調味して、母にすゝめ侍りぬ、ひとへに母を愛するの誠深くて、人の褒貶をおもはず、身の名聞を忘れたる也、是をもてようづおしはかりて、いとたふとき法師なる事をしりぬ、年經て、母も寺にて終り、後に其身は他方にて、遷化有けるとそ、學才も大かたならぬ人なりしとかや、
p.1081 或人小石川白山邊に住けるが、子二人持て一人は男子なり、〈○中略〉二十に及まで、猶あらくたけ〴〵しければ、自不孝の名を得て、世にもにくみあひけり、其うしろの家に老儒すめり、常に此子の親に不順なるをにくみ、折節は云出ても詈りけり、或夕暮彼子來て見へんと云に、〈○中略〉老儒手を打て、其方は不善人にてはなかりけるそや、學問は其改めんとおもふ心卽ち基な り、〈○中略〉今よりして孝の道を習はれよ、明日と云は今夜の間をいかゞせん、只今の言下より孝を盡さるべし、記に曰、朝に省み夕に定とこそ、今夜あけなば父御の寐たる所に往き、夜の程の安否を伺ひ、さて朝夕配膳して茶をも上、これより始て百行みな孝心を以てすれば、よからんと云けるに、仰せ謹み承りぬ、〈○中略〉明日より必ず敎の如くなし候半と云ければ、定て父御驚き却て怒らん、さもあらば、わが許に來られよと約して歸しぬ、次の日早朝敎の如く枕の許にいざり寄て、夜中の寒氣に無レ恙御座ありしやと、小聲に云を聞て、父其儘起きあがりて、こはくせものと追うつ程に、走出て老儒のもとにかくれぬ、〈○中略〉父は怒れる眼に涙をうかめ、さりとてもわればかり不幸なる身はあらじ、たま〳〵持たる一人の子、常に不敵にしてにくさげなれど、勇壯にして人にうたるゝ事はあるまじと、これのみなぐさみにして過行つるに、今朝よりの有樣狂氣してけり、いかなる天の責にて、一子如レ此ぞとさめ〴〵と泣ければ、母袖をしぼりあへず、御身一筋にのみ心得て、渠がこゝろを知りたまはぬぞよ、心をしづめて聞しめせ、昨日の夕かたうしろなる老儒の許に走行し程に、常のあら〳〵しきを知たる故、氣遣しく跡につき行、外に立寄ひそかに立聞しつるに、しか〴〵の事に候ひしとて、始よりの事を具に語りけるに、父つく〴〵と聞き、物をもいはず有けり、次のあした又枕にそひて、昨日の如くせしに、此度は怒らず、さて膳を奉りぬれば、うれしげに喰けり、さてありて彼子を呼て、汝心をあらためたるよしを聞て喜びぬ、此うち見れば、刀の柄のふるびたるに、こしらへせよとて、金をつゝんであたへける、これよりして親子むつまし、かく心をつくして仕へけるほどに、孝子ぞと近所に稱せられけるとそ、〈○中略〉
大坂の商家に、國分彌左衞門と云者、母と弟とありしが、弟なるもの、奸計にして、兄の家をとらんと思ひしかば、母を欺て、兄の非をあげて、追失はん事を、奉行所に訟に出けり、さて彌左衞門召寄られ、母が申處おもひしれりや、申事あらば明すべしと有しかば、彌左衞門申樣、母が申處皆理り にて候、某とても不孝せんとは、願ひ不レ申候得ども、性の拙くして、おのづから背き申せし事、重疊して、如レ斯申立候上は、申披くべき事も曾てなく候、此上ははやく母が願みてさせ、某を如何なる罪にも處せられ候得と、またなく申けるに、母涕泣袖に餘り、女心のはかなくて、かく申ば、己が爲に罷成ぞと申に付、弟にめでゝ訟申候、兄が事に背かざる事は、近隣の存たる所に候、自らあさはかに申たる罪をば、御許ありて、本の如く兄をたておかせ給へ候べしと、くどき申ける、彌左衞門が母に背かず、罪を負だる條、左もあるべきながら、神妙なりと稱美ありて、弟が罪かろからざるに論きわまりて、追放せられけり、
p.1083 はりまの國に孝女あり、やそぢにあまる姑、やまひにふしてあやうし、孝女はやうより、やもめにして、子ふたりもたるが、きはめて貧しけれど、姑につかふることは、よくそなへて、たらぬことなし、ある時その子なる、人のらうせる山にて、柴こりたりとて、其村人らこれをしばりころさんなどいふ、この事孝女が村に聞ふれば、その村おさ孝女が家にきたり、我ゆきてわびことせんに、そこにもゆけ、さらずばうけひかじといふ、孝女うちなきて、いなをのれはまからじ、ねがはくは君いかにもして、いきかへらしめ給へといふ、さてもわが子の命おしまずやとなじれば、孝女なみだおさへて、姑の命夜のまをはかりがたし、子のとられたる所道遠し、をのれまからむあとにて、むなしくならば、この世ををふるうらみなるべしとて、つゐにまからず、村おさあはれがりて、ひとりゆきて、この事をせにいひたてゝ、わびことしければごとなく返しあたへたり、赤穗城下木津村のものなり、
p.1083 元文三年の冬、浪花の舟士勝浦屋太郎兵衞と云者、米船を盜とり、さま〴〵の謀計あらはれて、三日が間さらして、死刑に處せらるべきとて、十一月廿八日よりさらされける、その子長太郎十二歲、むすめ市十五歲、まき同年、翌二十三日夜もあけざるうちより、町奉行佐々 氏まかり、父の代に我々どもを刑せられ、父を免し給れと、自筆の上書して又なく願ける、まだ幼少なる故、願の書もしどけなく、殊に長太郎は養子に候間、我等を失て給れと、二女の書上たるに、長太郎は某をも代りにとりて給れと書出ける、兩奉行立あひて此事を尋きかれ、若し人のすゝめけるにやと、其所の者どもを呼て、此事を知たるにやと糺明有けれど、誰も曾てしらず、母は此事をしきりに制しぬれど、隱して三人出けるよし申、三見の思ひ入たるけしき、此事かなはずば、火にも水にも入ぬべく見て、ふし沈み歎候有さま、上下皆見るに不為して、先さらしおける者をやめて、かさねて沙汰すべきとて、やう〳〵にかへされけり、さて其旨江戸に達し、御指圖有て、その明のとし、刑人は死罪をゆるして逍放有けり、三兒の至誠人を動しぬること、誠にまれなるためしにこそ、
p.1084 寬保元年の秋の比、門弟の中來て云、武藏國に、薪木賣長五郎といふ孝心なる者あり、江戸表はこの沙汰にて、則其趣き板行にあらはれしとて、見せられけり、曰武藏國多摩郡府中領押立村に、長五郎といふ小百姓あり、其身貧しく、妻にもはなれ、八十八歲になる母は養ひ、其外子共にもせがまれながら、母を大切にやしなひ孝をつくせしゆへ、公の御惠にもあづかりしとなり、
p.1084 孝行者たつ
たつは、名取郡上餘田村百姓二兵衞が妻なり、寬保二年八月四日、舅三郎兵衞と同じく、屋敷の西なる畑に、大豆を引干せんとて出しに、增田町の方より、猪ひとつ走り來り、三郎兵衞に疵おはせ、又かけよるを、二兵衞が妻みるより、とくかの猪にくみつき、やがて猪にうちのり、右の手を猪の口へさしいれ、舌ををさへをりし、かたへなる小溝へのりこむ時、つゐにふり落され、うつふしに落たる上に、猶のりかゝりて、處々喰つきければ、大小二十六所まで、疵おひしが、つゐに舅の身つつがなく、猪はいつちへかにげさりぬ、〈○中略〉同き九月、領主より金をあたへて、かの妻を賞しき、
p.1085 松田傳之助
傳之助は、沼田郡中調子村農民八兵衞が子なり、三四歲の頃、みなしごとなりぬ、姉は御露次の小人、丹九郎が妻なり、子なければ、幸に子としてやしなひ置けり、一とせ丹九郎、江戸の本邸に在けるが、御露次の部屋に物亡(うせ)て、七八人禁獄せらる、丹九郎もそのうちなり、傳之助かくと聞て、くふ物をもくはず、うらぶれ居しが、年もかへりて春になりぬ、今年は十二になりけるが、思立て、いかにもして、江戸にいたり、父にかはりて、如何なるうき目をもうけばやと、夜を日につぎて下りける、もとより旅の用度もなければ、飢ては路のべにさまよひ、疲ては橋の上にまどろみ、川をわたり嶺をこえ、からうじて江戸に著、御館の門にいたりて、かくとまうしいれければ、御館の内、ゆすりみちてぞ感じける、いくほどなく、丹九郎はれやかになりて、引かへ格をすゝめられ、氏帶刀をゆるされ、傳之助には、褒美そこばくを下されける、寶曆六年九月十三日のことなり、
p.1085 山口庄右衞門
大和の國十市郡八條村莊屋山口與十郎といへるもの、寶曆の比凶作により、同郡八ケ村の長とともに訴出ることありて、其趣私あるに罪せられ、皆々伊豆の新島といへる所に流さる、其子庄右衞門七旬に餘る祖母を養ひて過すが、もとより家財田地等も沒入せられければ、但力作をもてからき世を凌ぎ渡る中にも、〈○中略〉さて年をへて祖母身まかりしかば、今は島の父の許へ行て仕へんと志、領主へ願けれども、たやすきことにもあらず、カなく過しけるあいだ、大赦の御事あり、此事を聞とひとしく、弟の淸右衞門といふものを、あづまに下して願奉りけれども、何の御いらへもなく、其としもくれて、明る年遠江の某といふもの、西國順禮して尋來り、おのれも新島の流人なりしが、去年大赦にあひて歸りぬ、彼島にて與十郎殿には、隔なく交りし、與十郎殿は隣村の三郎助なるものと酒を商れしが、其三郎助盗人にあひ横死せし後、與十郎殿も眼病にて盲と 成給へりなど語りしかば、〈○中略〉又領主へ願を奉りけるに、孝養の意を感じ給ひ、官廳に達し給ひしかば、明る春免許を蒙り新島に渡りぬ、〈○中略〉新島に著てみれば、纔に九尺四方計の柴の庵に、與十郎は實(げに)も盲人になりてさしうつむきて有、〈○中略〉さて流罪御免のこと、再應願出しければ、島ノ長も其孝心を感じ、官の御聞に及びて赦にあへり、江戸にいたりし時、是を賞嘆して金銀を贈る人もあり、通行の路上これをみる人も如レ堵なりしとぞ、
p.1086 孝行者傳次郎 孝行者同妻
傳次郎は、阿蘇郡小國の郷下城村のものなり、父母の年老て家を讓り、別屋にすみしが、父母ともに茶を好み酒を嗜ければ、傳次郎夫婦ともに朝とく起て茶を煎じ、和らかなる物を調じてすゝめ、外に出れば必酒を求て歸り、又酒屋の便あるたびごとに買求てたくはへ、その望めるときにすゝむ、家もとより貧しければ、朝夕の食もよき味をすゝむる事あたはねども、夫婦心を用ゐて調へずといふ事なし、傳次郎つねに父にいへるは、すべて食過るは養生の道にあらず、たゞ少しづゝ度々にくひて、その程を過し給はず、一日も長く世におはさんこそ、わが願ひなれといひけり、行ときは父の影をふまず、日影さす地に用を便せず、凡日いづるまでいねんことは、天道の罰をそれありと思ひとりて、夫婦ともに夜明ぬさきに起けるとぞ、父のすみたる屋の思ふやうにもあらぬを、心苦しく思ひしが、貧き中には心にもまかせざりしを、とかく營み作りてすませぬ、久住の驛はこの所より八里ばかりへだゝりしを、領主の江戸にゆくたびごとに、此驛を過る時は、里人みなその所にゆきて役をつとめしが、傳次郎が生れつき健かならねば、重荷をおふ事あたはず、かゝれば賃を出して、人を雇ひ出す事なるを、傳次郎はだゞ賃を出して己が家に安く居ん事あるべからずとて、はる〴〵久住の驛に行て、己が力に堪べき事はつとめ、力にたへざる所のみ賃を出して人を雇ひけり、その妻もまたなみ〳〵ならぬものにて、舅姑に孝を盡し、夫を敬 ひ、假初にも傳次郎がふしたる枕の上を、過る事なかりしとなん、安永三年三月、領主より夫婦の者を賞して、物多くとらせけり、
p.1087 孝行者政右衞門
政右衞門は香川郡西庄村にて、高わづかに三升六合と、林一畝十五歩をもてる百姓なり、母ははやくうせぬ、父甚平後の妻をむかへしが、女子一人をうめり、繼母の心かたましく、政右衞門を仇の如くににくみしかば、終に父の心をもうしなひ、家をもをひ出されしを、いさゝかも恨とせず、さま〴〵にわび聞えしが、父母ともに聞いれねば、せんかたなく出行、小家をつくりて妻をもち、子もありしが、折々父のもとに、時々の物ををくりなどして、その怒りをなだめけれど、かつてゆるす事なし、其後父物ぐるはしくなり、眼をさへ病てなやみし時、繼母政右衞門をよびて、甚平は汝が父の事なれば、朝夕の食を贈るべしといふに、政右衞門よろこびて、日毎に食ををくりて、その時をたがへず、繼母また晝飯をも贈るべしといひしに、いよ〳〵よろこび、數年の間日に三度の食を贈りしとそ、かくて甚平が家を賣しろなして、政右衞門がすめるうしろの方に、小き家つくりてうづりしに、孝養怠る事なかりけれど、繼母はなをいかりのゝしり、政右衞門が家に童部の多くてがしがましければ、とく出ゆけといふに、いさゝかも恨る事なく、妻子を携へ家を出しに、村の中のもの憐みて、竹木をあ亢へければ、新に家をたてんとせしを、繼母のきゝて、我家古くなりに亢れば、その竹木を以て建かへんといふに、いなみもせずその心にまかせしを、かの竹木あたへしものゝ聞つたへて、政右衞門にこそあたへしが、なさけなき母の家を修理せんためにはあらずといふを、政右衞門はせめぐりて、さま〴〵になだめ、母の家だにつくりかへなば、我望たりぬといふに、いよ〳〵其志を感じ、つゐにしかせりとぞ、政右衞門が妻もよく舅姑につかへてつゝしみふかく、日夜に家事をいとなみて、すぐれたるものなりけり、天明五年十月、領主より 褒美して、政右衞門に米をあたふ、
p.1088 鈴鹿孝子傳
孝子万吉は、伊勢國鈴鹿郡坂の下宿古町の人なり、〈○中略〉貧しき中に母癢の病いできてなやみがちなれば、〈○中略〉万吉六歲の時(○○○○)、ふかくこれをなげき、母の病おこる時は、近隣にゆきて、藥を乞て、是にあたへ、もみさすりて、病を扶け、扨又日々に街道に出て、往還旅客の小き荷など持て、その賃をとるといへども、稚けれぼ、重き物を提挈する事あたはず、いさゝかの風呂敷包、或は鎗長刀など持て、鈴鹿山の撿岨を登り下れども、得る所は三錢五錢に過ず、日ごとにおこたらず、かくするうちにも、いく度も家に立歸り、母がきげんをうかゞひ、夕にはかの得る所の錢を集て、母にあたふ、天明三年癸卯、天下飢饉して、五穀のあたへ貴く、尋常の農商、餓死するもの多き中に、万吉力をはげまし、半合一夕の米穀を得て、母にあたへ、母食ざれば、一粒もをのれ食はず、その辛勞、筆紙につくしがたし、其頃やうやく近隣に、その孝をしるもの多し、〈○中略〉今年天明七年丁未三月四日、御奉行所にて、御褒美として、白銀二十枚を賜り、又母を養ふため、一日米五合ヅヽ永くこれを下しおかる、〈○下略〉
p.1088 同年〈○天明八年〉九月龜松猿を仕留め候事
同年九月廿八日信州童盡松殺レ狼救レ父事
私儀、遠藤兵右衞門御代官所代撿見被二仰付一、信州佐久郡廻村之節、同郡内山村百姓狼ニ被喰候處、若年之忰卽座ニ狼を抱留、鎌にて殺候由、去月廿八日野先ニ而承候趣、左ニ申上候、
遠藤兵右衞門御代官所信州佐久郡
内山村百姓總右衞門忰
龜松
申十一歲
右村之儀、信州上州國境破風山攝にて、右總右衞門儀高壹斗所持、家内五人暮居、宅より三丁程隔 り候字庭村と申所、猪鹿防之番小屋へ、去月廿八日夕方、忰龜松連參、龜松は草苅、總右衞門小屋にて火を焚居候處、同人後之方へ狼來、足へ喰付候を振返候處、唇より腮へ喰付候間、狼の耳を掴み聲を立候に付、龜松聞付駈參、所持之鎌を、狼之口へ入引候處、かつら脇より嚙折られ、難二用立一總右衞門所持之鎌を龜松取揚、猶又狼之口へ柄の方捻込後へ引倒、兩人にて押へ候得共、總右衞門は數ケ所被レ喰候故働難レ戍、打倒候に付、狼起上り候を、龜松石を以て、狼の口へ差込候鎌之柄を打込、牙を打かき候へども、狼搔付相働き候に付、龜松大指にて狼之兩眼をくり拔き打たゝき、漸仕留候由、總右衞門事所々被レ喰候得ども灸所に無レ之所、龜松介抱致し宿へ連れ歸り、翌日ヨリ療治藥用等仕候處、追日快氣之由申候、龜松年齡より小柄虚弱に相見へ、中々右體之働可レ致者に相見不レ申候間、驚逃退も可レ致處、親大事と存、若輩不似合働仕候者に付申上置候、
申十月 大貫治右衞門
p.1089 かたましき姑につかへし嫁あり、年を經て語るに、われら若かりし時、姑のきげんをさまざまにあしらへども、兎角氣にいらず、いかゞせんと、畫夜に此苦勞たへず、氣分もあしくくらせしが、ある時不斗心に思ふは、我かゝる事のみにては、終に病ひの種となりなん、さすれば實の父母にも、歎きをかけ、姑をも又人毎にあしざまにいはせんは、是不孝の第一也、已後は萬事おろかにして、心もつかはず、孝もなさず、世間には不孝の嫁よといはれて、此家にさへ添ひ暮しなば、是孝の一ならんと、わが心にこゝろをばとりなほして、やゝ三十年の過しと語る、げにかしこき婦人かなと感せしが、近きわたりに、むつかしさは、すぐれたる姑につかへる嫁あり、我心付ず、此噺しをやせしとも覺へずありしが、十年の餘もすぎて、其母のうせし後、かの婦人のいふは、其むかし御噺しなされしを承りて、私もその如くなせしにより、今まで添ひまいらせ候、さて〳〵有がたき御物語なり、それにつき、さるかたの嫁御にも、五六年以前此噺しいたし候へば、これもそ の心になりつゝおこなひて、姑の死去まで付添ひ申され候と、よろこび涙をながしつゝかたる、我も思はず、はなうちかみぬ、
p.1090 いとめ
いとめは若狹三方郡早瀨浦佐左衞門が妻なり、孝心深くよく舅姑に仕ふ、姑は先に死し、舅年八旬に餘り、老耄して非理なることをいひのゝしれども、少しも逆ふ色なく給仕す、ある日いとめ外より歸りたるに、老人藁をちらして孫とあそぶ、何事をし給ふととへば、子産まねしてあそぶ也といふ、さらばわれも子を産んとて、又藁を持來り同じく戯ルれば、老人興に入ること斜ならず、其他のあつかひもおして知るべし、〈蕎蹊云、老萊子が兒戯をなすにならはずして、あたれるもの也、〉一とせ深雪軒をうづむころ、茄子の美を食んといふ、いと心よくうけがひ、近きほとりの寺に走りて、茄子の糖漬をもらひ、水にひたして鹽を去リ羮にしてすゝむ、〈○中略〉つひに其行狀を國侯聞し召、米若干賜り、家の租をも免し給ふとぞ、
p.1090 勢州關の商家に吉右衞門といふものあり、實母に孝養至り、四十餘歲のころ、家業に出でゝ歸りける時は、その母いとけなきをりからの心を抱きて、吉右衞門が足を洗ひつかはすべしといふに、背かずして洗ひ給はるに任せたり、この一事を以て、ようづの行ひ違へるところなきを知れり、〈○下略〉
p.1090 島原の難波や與左衞門といふ遊女屋に、濱荻といふ太夫あり、もとは播州高砂の商家揔七といふものゝ娘にて、人の家に嫁しけるが、その家衰微に及びて、夫に捨てられ、親のもとにかへりけれども、親の家もまたおとろへて、父母を養はんが爲に、與左衞門が方に身をうりて遊女とはなりしなり、その頃與左衞門は、江戸の廓へ移りける時にあたりて、よき遊女をつれ行かんと、十一人の遊女をえらみける中に、ことに濱荻はよの志し尋常ならず、風雅の道にもうと からざれば、わけてあはれみをかけ、江戸に下るにのぞみて、濱荻は與左衞門にわが父母もろともに、江戸へくだりたきよしの願を申しけるに、許されざりければ、客にかたらひ、事のよしを歎きけるに、其客豪富のあき人にて、彼が孝心を感じ、いとやすき望みかなとて、路資をあたへて、あるじ與左衞門に賴みけるに、費をいとへばこそ、かれが願ひも聞ざりしなりとて、こともなげに承け引きたれば、濱荻はふたおやをも伴ひつゝ下りけり、濱荻勤めの中をこたりなければ、他の遊女もこれにならひて、その家繁榮し、主人も亦數多の益を得たれば、高砂といへる茶店をしつらひ、濱荻が親達につかはしたり、かの濱荻はたしなみよくて身をつゝしみ、朋けくれに父母をかへり見て、勤めながらも日々に親のもとへ行きかよひけり、〈○下略〉
p.1091 天平勝寶六年十月乙亥、勅官人百姓不レ畏二憲法一、私聚二徒衆一、任意雙六、至二於淫迷一、子無レ順レ父、終亡二家業一、亦虧二孝道一、因レ斯逼仰二京畿七道諸國一、固令二禁斷一、〈○下略〉
p.1091 天平寶字元年四月辛巳勅曰、〈○中略〉古者治レ民安レ國必以レ孝理、百行之本莫レ先二於竝一、宜レ令下天下家藏二孝經一本一、精勤誦習、倍加發上、百姓間有二孝行通人一、郷閭欽仰者、宜レ令二所由長官具以レ名薦一、其有二不孝不恭不友不順者一、宜下配二陸奧國桃出羽國小勝一、以淸二風俗一亦捍中邊防上、
p.1091 寬文ノ末、凶年打續ケル故、乞食共多、柳原土手ニ小屋ヲ掛、御扶持ヲ下サレケル所ニ、下谷三枚橋ニ老タル母ヲ背ニ負タル非人有リ、著スベキ衣類モナク、腰ノ立ヌ母ヲ養フ也、柳原ノ小屋迄モ行事ナラズシテ、橋ノ上ニ居由上聞ニヤ達シケン、別ニ御扶持米ヲ下サレ、小屋モ得サセ、其町内へ母子ノ世話致遣ハスベキ由仰付ラレケル、孝心台聽ヲ動シケル、此事ヲ傳へ聞キ、奸惡ノ者母ヲ負テ往來スル者アリ、是ハ假ニ雇タル母ナレバ、日暮ニ及ベバ東西へ別レ去ル、其時貰シ米錢ノ數ヲ互ニ論ジ、握ミ合ナドシケル、此事上ヲ僞ルニ似タル事ナレバ、悉ク禁ジラルベキヤト、町奉行ヨリ申立、評議ノ時、重矩〈○板倉〉申サレケルハ、惡事サへ似セタル者ハ本罪ヨリ輕 カルベシ、況ヤ善事ヲ似セタルニ、罪スベキ事カハ、殊ニ孝行ノ似セコソヤずシケレ、其儘差置ベシ、實ナラヌ者ハ勞倦シテ、長クハ續ザル物ゾト申サレシガ、果シヲ其詞ノ如ク終ニ止タリシト也、
p.1092 品川の邊、放鷹ありしに、御道のほとりを、先驅の徒士警蹕したるに、賤しき壯夫一人地上に坐して、七十有餘の老婦を介抱してありければ、徒士等かけより、追たつるといへども退かず、旣に成らせ玉ふと聞えしかば、徒士等も、やむことを得ず、かの壯夫をとらへ、糺明しければ、壯夫恐れわなゝきながら、答へけるは、今日はものへまゐるべしとて、老母を負て出けるが、途中にて母にはかに病おこり、急にはしることのかなひがたければ、しばしかきいだき、背抔さすり居しなり、たゞひたすらにゆるさせ玉へといひけるさま、いと哀に見えしかば、其よしつぶさに聞えあげしに、親をいたはりて、其身の罪を忘れたるは、誠に孝子なりと仰ありて、白銀五枚を賜はる、ごれしかしながら、日頃孝心のふかきをもて、かゝる幸の有し成べし、世人もあまねくもてはやせり、かくて其冬、小松川の邊に、放鷹し玉ひしに、其地のゑせもの、さきの品川の孝子を學び、老たる嫗一人を負ひて、道のかたはらにうづくまり、同じことを申ければ、御供の人人、かく僞をかまへ、上をあざむく罪輕からず是をゆるし玉はゞ、此後またかゝるくせもの、出來べきもはかられずと申けるを聞召、上をあざむき褒銀を貪らむとするは、憎むべきことなれど、あしき事を學ぶにあらず、僞ても親に孝をつくす者出來らんは、ねがはしき事なり孝、行すれば、いつはりにても、褒銀をうると思はゞ、親にまことの孝をつくす者も亦多く出來べしとて、また先のごとく、褒賜せられしとそ、町奉行大岡越前守忠相、このありがたき盛慮を、世人にあまねくしらしむべしとて、市井に其よしを令しけるとなり、
p.1092 有二孝子義民一則官必褒二賞之一、以賜二白金或錢一焉、可レ謂二德政一矣、頃麹街中賤商、以レ孝得レ賞者二人、 而聞二見之一者、多爲二席上談話一耳、而自省以恥焉者、則亦鮮矣、
p.1093 八丈島敎諭
凡人と生れて我身より大切なるものはなし、わが身を養はんがために、つねの住所をもとめ、夏冬の著物をもとめ、朝夕の食をもとむるも、みな我身を大切に思ふが故なり、しかるにそのわが身のもとは、親よりうけ得たるわが身なり、わが身を大切に思はゞ、うみつけし親ほど、大切なるものはなしと思ふべし、人々生れおちてより、いとけなきうちは、親の手をはなるゝ事なく、親ほど大切なるものはなしと思へど、やうやく年をとり、をのれが手足の自由にはたらくにしたがひて、親をそまつにし、親のいふ事をきかず、親の心にそむくもの多し、をのれが親をそまつにするならはしにては、わが身も次第に年よりゆけば、又わが子にそまつにさるゝものなり、さればわが老人を大切にする心もちにて、人の老人をもうやまひ、わがいとけなきものをそだてあぐる心もちにて、人のいとけなきものをもあはれむべし、老人の中にて耳目もうとく、手足もかなはざるものは、ことさらに大切にいたはりて、かいほうすべし、これみな人のためにする事と思ふべからず、めん〳〵年よりて後、思ひあたる事あるべき也、
中川飛驒守奧書
右之通おしゆる上は、殊さらにあつく存じ、父母老人を大切にすべし、若此後かく別に孝行のきこへあらば、御ほうびも被レ下、品によりては父母へも御手あて被レ下べし、若又かくのごとくおしへ置といへども、なを父母をそりやくに致すもの、相聞ゆるに於ては、きつと御咎にも仰付らるべき間、よく〳〵こゝつへちがひ無レ之樣相守べし、
右御勘定奉行の命によりて、予〈○太田覃〉が草する所なり、八丈島の高札に書有レ之、此文を文化元年長崎にゆきし時、紅毛通詞〈志筑忠次郎〉に見せしかば、轉じて加比丹ヘンデレキドウフに見せしに、 加比丹よき敎渝なりとて蘭語になして、予に贈りしを家に藏す、
p.1094 あはれなる物
孝ある人の子
p.1094 忠孝
生レ我者父母也、成レ我者君也、孝可三以報二父母一、忠可二以報一レ君也、不見二反哺之烏一乎、彼亦知レ孝況於レ人哉、一飯之恩、餓夫猶報レ之、況受二食祿一哉、在レ家者孝不レ可二須臾忘一也、仕レ官者忠不レ可二須臾忘一也、有レ孝必有レ忠、有レ忠必有レ孝、忠孝果一而非レ二、故曰求二忠臣一必於二孝子之門一、不二亦宜一乎、
p.1094 孝百行之本也、非レ孝無一以爲一レ敎、物則民彝不レ能レ立、禮樂刑政不レ能レ出、孝之爲レ道大矣、故皇帝皇太子讀書、必先二孝經一、以爲二常典一、朝廷之崇二孝道一亦至矣、下至二郷黨閭巷一、有二純孝者一、必旌二表其門閭一、勸レ民以レ孝舊史所レ書、班班可レ考、有二廬墓事レ死之誠一、而無二刲股割肝之矯一、民用二敦厖一、俗歸レ厚焉、後世史職廢弛載籍殘缺、雖レ有二孝弟履信者一、多堙沒而不レ傳、側陋無レ由二上聞一、士庶無二以爲一レ勸、豈非二闕典一歟、間有下復二父仇一者上、奮不レ顧レ身、能存下弗二與其戴一レ天之義上、綱常倫理、賴以不レ墜、豈古有二孝子一而後世無二其人一哉、晦明關二乎盛衰一、醇澆屬二乎時運一、摭二其散軼一、作二孝子傳一、
p.1094 一此書は寬政元年に命ぜられて、御料私領の善行ある者を書上しめ、國郡姓名褒美の年月を書つらね、褒美なきも國郡姓名をしるして世に傳ふ、見る人興起する心のあらば、風化の一助ともなりなんとて、その中に殊に勝れたる者は、これが傳をたて、書つらねたる姓名の上に圈を加ふ、その品目は、孝行者、忠義者、忠孝者、貞節者、兄弟睦者、家内睦者、一族睦者、風俗宜者、潔白者、奇特者、農業出精の類ひなり、
一孝は人の重しとする所なれば、他の善行多しといへども、孝行をもて題す、婦は孝と貞と輕重なし、ゆへに其行ひの至れる方にて名つく、孝子の忠を兼たるも、又是に同じ、〈○下略〉 ○按ズルニ、本書ハ德川幕府ノ公撰ニシテ、事蹟全國ニ渉リ、五十卷ヲ以テ完了ス、
p.1095 我邦寬文六年よ-寶曆五年に至る迄、公の褒賞を蒙る孝子忠臣、斯に輯錄する所の者六十二人、顧ふに猶脱たる者多からん、老友神崎直衞嘗て其傳を撰して梓に鏤め、其令名美德を周く民に顯はして、永く世に傳え、且風敷の萬一を助んことを欲し、當時官府の簿書に因て旣に筆を起し、未稿を脱するに及ずして沒せり、豈惜からずや、是に於て正尊自揆らず、今其志を繼、其事を成して三卷とし、是を前編とす、其後なる者数百人、皆其姓名を記し、姑く五十餘人の傳を撰じて又三卷とし、是を後編とす、凡そ六卷名づけて肥後孝子傳といふ、〈○中略〉
天明二年壬寅仲秋 中村正尊謹識
○
p.1095 不孝(フカウ)〈不孝者其子不レ隨二順父母之命一也、然日本俗以二不孝二字一、爲二勘當之義一、似レ無二其理一歟、勘當之義見二上面一矣、〉
p.1095 八虐
四曰惡逆、謂敺二及謀レ殺祖父母父母一殺二伯叔父姑兄姉外祗父母夫夫之父母一、〈○中略〉七曰不孝、謂吿二言詛三詈祖父母父母一、〈本條直云レ吿二祖父母父母一、此注兼云二吿言一、文雖レ不レ同、其義一也、詛猶レ呪也、詈猶レ罵也、依二本條一詛欲レ令二死及疾苦一者、皆以二謀殺一論、自當二惡逆一、唯詛求二愛媚一、妃入二此條一、依二賊律一子孫於二祖父母父母一、求二愛媚一而厭呪者徒二年、厭呪雖二復同文一、理乃詛輕厭重、但厭二魅凡人一則入二不道一、若呪詛者不レ入二八虐一、9(例上恐名字脱)云、其應レ入レ罪者、則擧レ輕以明レ重、然呪、詛是輕、尚入二不孝一、厭魅是重亦入二此條一、〉及祖父母父母在二別籍異財一、〈謂二祖父母父母在二子孫一、就養無レ方、出吿反面無二自專之道一、而有二異財別籍情一、無二至孝之心一、名義以レ之倶淪情節於レ玆並弆、稽二之典禮一罪惡難レ容、二事旣不二相須一、違者並當二八虐一、〉居二父母喪一身自嫁娶、若作レ樂釋レ服從レ吉、〈居二父母喪一身自嫁娶、皆謂二首從得レ罪者一、若其獨坐二主婚一、男女卽非二不孝一、所三以稱二身自嫁娶一者、以レ顳二主婚不一レ同二八虐一故也、其男父居レ喪娶レ妾、合レ免二所レ居一官一、女子居レ喪爲レ妾得レ減二妻罪二等一、並不レ入二不孝一、若爲レ樂者自作遣レ人等、樂謂擊二鐘皷一、奏二絲竹匏磬損箎歌舞散樂一之類、釋レ服從レ吉、謂喪制未レ終而在二十三月之内一、釋二去縗衣一而著二吉服一者〉聞二祖父母父母喪一匿不二擧哀一、詐稱二祖父母父母死一、〈依レ禮聞二親喪一以レ哭答二使者一、盡レ哀而問レ故、父母之喪創巨尤切、聞二卽崩殞一擗踴號レ天、今乃匿不二擧哀一、或簡二擇時日一者並是、其詐稱二祖父母父母死一、謂祖父母父母見在而詐稱レ死者、若三先死而詐稱二始死一者非、〉姧二父祖妾一、
p.1095 十二年七月、熊襲反之不二朝貢一、 八月己酉、幸二筑紫一、 十二月丁酉、議レ討二熊襲一、於レ是天皇 詔二群卿一曰、朕聞之熊襲國有二厚鹿文、迮鹿文者一、是兩人熊襲之渠帥者也、衆類甚多、是謂二熊襲八十梟帥一、其鋒不レ可レ當焉、少興レ師則不レ堪レ滅レ賊、多動レ兵是百姓之害、何不レ假二鋒男之威一、坐平二其國一、時有二一臣一進曰、熊襲梟帥有二二女一、兄曰二市乾鹿文(イチフカヤ)一、〈乾此云レ賦〉弟曰二市鹿文一、容貌端正、心且雄武、宜下示二重幣一以撝中納麾下上、因以伺二其消息一犯二不意之處一、則曾不レ血レ刃賊必自敗、天皇詔、可也、於レ是示レ幣欺二其二女一而納二幕下一、天皇則通二市乾鹿文一而陽寵、時市乾鹿文奏二于天皇一曰、無レ愁二熊襲之不一レ服、妾有二良謀一、卽令レ從二一二兵於己一、而返レ家以多設二醇酒一、令レ飮二己父一、乃醉而寐之、市乾鹿文密斷二父弦一、爰從兵一人進殺二熊襲梟帥一、天皇則惡二其不孝之甚一、而誅二市乾鹿文一、仍以二弟市鹿文一賜二於火國造一、
p.1096 元年閏十一月戊午、越國貢ニ白鳥四隻一、於レ是送鳥使人宿二菟道河邊一時、蘆髮蒲見別王見二其白鳥一而問レ之曰、何處將レ去二白鳥一也、越人答曰天皇戀二父王一〈○日本武尊〉而將二養狎一故貢之、則蒲見別王謂二越人一曰、雖二白鳥一而燒レ之則爲二黑鳥一、仍强レ之奪二白鳥需レ去、爰越人參赴之請焉、天皇於レ是惡二蒲見別王無一レ禮二於先王一、乃遣二兵卒一而誅矣、蒲見別王則天皇之異母弟也、時人曰、父是天也、兄亦君也、其慢レ天違レ君何得レ免レ誅耶、
p.1096 三十二年四月戊申、有二一僧一執レ斧敺二祖父一、時天皇聞レ之召二天臣一詔之曰、夫出家者、賴歸二三寶一、具二懷戒法一、何無二懺忌一、輙犯二惡逆一、今朕聞、有レ僧以敺一祖父一、故悉聚二諸寺僧尼一以推二問之一、若事實者重罪之、於レ是集二諸僧尼一而推レ之、則惡逆僧及諸尼並將レ罪、〈○下略〉
p.1096 天平寶字七年九月庚申、河内國丹比郡人尋來津公關麻呂坐レ殺レ母、配二出初國小勝柵戸一、
p.1096 延曆十二年十月辛亥、四世王深草敺レ父、據祥合レ斬、勅降レ死流二隱岐國一、
p.1096 延曆廿三年七月辛丑、右京人門部連松原流二土佐國一、以二不孝一也、
p.1096 仁和元年十月廿一日壬申、美濃國多藝郡大領外從七位上刑部連春雄犯レ罪、爲二其 父一所レ吿、春雄亦爲レ父不孝、仍付二國宰一令二推斷一、
p.1097 延久二年十一月七日、依祖母上東門院御腦、大二赦天下一、但坐二神事一、壞二佛像一、殺二父母一者不レ在二赦限一、
p.1097 此殿父おとゞ〈○藤原兼家〉の御いみには、御殿などにもゐさせ給はで、あつきにことつけて御簾もあげ渡して、御念誦などもし給はず、さるべき人々よびゐつめ、後撰古今ひろげて興言しあそびて、つゆなげかせ給はざりけり、其ゆへは花山院をば我こそすかしおろしたてまつりたれ、されば關白をもゆづらせ給ふべき也といふ御うらみなりけり、よつかぬ御事なりや
p.1097 右衞門のせうなるものゝ、ゑせおやをもたりて、人の見るにおもてぶせなど見ぐるしう思ひけるが、伊よのくによりのぼるとて、海におとしいれてけるを、人の心うがりあさましがりけるほどに、七月十五日ぼんを奉るとていそぐを見給ひて、道命あじやり、
わたつうみにおやををし入てこのぬしのぼんするみるぞあはれなりける、とよみ給ひけるこそいとをしけれ、
p.1097 元永二年三月廿日、或人云、筑前入道〈敦憲〉爲二息男進士爲兼一、被レ追二出宅中一立二道路一云々、不孝第一之者、雖二末代一有二如レ此惡人一、誠き口語不レ及、
p.1097 義朝重代の兵たりしうへ、保元の勳功すてられがたくはべりしに、父〈○源爲義〉のくびをきらせたりしこと、大いなるとがなり、古今もきかず、和漢にもためしなし、勳功に申かはるとも、みづからしりぞくとも、などか父を申たすくる道なかるべき、孝行かけはてにければ、いかでかつゐにその身をまたくすべき、ほろびぬることは天理なり、
p.1097 大和國人爲レ母依二不孝一得二現報一語第卅一
今昔、大和國添ノ上ノ郡ニ住ム人有ケリ、字ヲ瞻保ト云ヒケリ、此ハ公ニ仕ル學生也ケリ、明暮ハ 文ヲ學ンデ有ケルニ、心ニ智ヤ无カリケム、母ノ爲ニ不幸ニシテ不養ハ一ザリケリ、其ノ母子ノ瞻保ガ稻ヲ借仕テ可レ出キ物无カリケリ、不レ償ザリケルヲ、瞻保强ニ此ヲ責ケルニ、母ハ地ニ居タリ、瞻保ハ板敷ノ上ニ有テ責メ云ケルニ、此ヲ見ル人瞻保ヲ誘ヘテ云ク、汝ヂ何ゾ不孝ニシテ母ヲ責ルゾ、世ニ有ル人父母ニ孝養スルガ爲ニ寺ヲ造リ塔ヲ起テ、佛ヲ作リ經ヲ寫シ僧ヲ供養ス、汝ヂ家豐ニシテ何ゾ母ノ借レル稻ヲ、强ニ責メテ母ヲ令レ歎ルト、瞻保此ヲ聞ト云ヘドモ不レ信ズシテ尚責ルニ、斯ヲ見ル人共見繚テ彼ノ母ノ借レル所ノ稻ヲ、員ノ如ク辨ヘテ母ヲ不レ令レ責ズ成ヌ、其ノ時ニ母泣キ悲テ瞻保ニ云ク、我レ汝ヲ養ヒシ間、日夜ニ休ムコト无カリキ、世ノ人ノ父母ニ孝シヲ見テハ、我モ彼レガ如クナラムズト思テ、憑ム心深カリキ、而ルニ今我レニ恥ヲ與ヘテ、借レル所ノ稻ヲ强ニ責ル事、極テ情无シ、然ラバ我モ亦汝ニ令レ呑シ乳ノ直ヲ責メムト思フ、今ハ母子ノ道ハ絶ヌ、天道此ノ事ヲ裁(コトハ)リ給ヘト、瞻保此ヲ聞クト云ヘドモ、答フル事无クシテ、立テ家ノ内ニ入ヌ、而ル間瞻保忽ニ狂心出來テ、心迷ヒ身痛ムデ、年來人ニ稻米ヲ借シテ、員ニ增シテ返シ可レ得キ契文共ヲ取出、庭ノ中ニシテ我燒キ失ヒツ、其ノ後瞻保髮ヲ亂テ山ニ入テ、東西ニ狂ヒ走ル、三日ヲ經テ自然ラ俄ニ火出來テ、瞻保ガ内外ノ家、及ビ倉皆燒ヌ、然レバ妻子食物无シテ皆迷ヒニケリ、瞻保亦食无キニ依テ、遂ニ飢へ死ニケリ、不孝ニ依テ現報ヲ得ル事不レ遠、此ヲ見聞ク人、瞻保ヲ憾ミ謗ケリ、然レバ世ノ人懃ニ父母ニ孝養シテ、不孝ノ心ヲ不レ可レ成ズトナム語リ傳ヘタルトヤ、
p.1098 惟任光秀丹州働事〈附〉赤井惡右衞門景遠事
波多野家〈○秀治〉立置カレン事、是大臣家〈○織田信長〉ノ御内存ナリ、此旨光秀〈○明智〉七枚ノ誓祠ヲ認メ、相渡スベキノ間、早ク秀治和段ニ歸伏シ、出城然ルベキ乎ト云々、秀治等、猶是ヲ疑ヒ、定メテ光秀謀計タラント、更ニ以テ許容セズ、光秀又思案ヲ厚フシ、重テ彼仲人ニ云遣ハスハ、然ラバ秀治、疑ヲ 散ゼヨ、當方謀計ニアラザル段、證據ノタメニ、光秀ガ老母ヲ人質トシ、秀治ニ相渡スベキノ間、秀治此條信伏セシメ、大臣家へ御禮申サレ、一家ヲ全フセラルベシト云、〈○中略〉和睦相調ヒテ、光秀方ヨリ老母ヲ渡シ、秀治方へ人質トシ、八上ノ城へ入置カシメ、〈○中略〉雙方面談、一禮畢テ、祝儀トシテ盃ヲ出シ酒宴ニ及ブ、〈○中略〉秀治秀尚ヲ搦捕リ、其外從者十一人、都合十三人ヲ相搦テ、早速安土へ差上セ、此趣言上シ畢ヌ、秀治ハ痛手負テ、路次ニ於ヲ死去セシメ一畢ヌ、苴ハ後秀尚等、安土ニ於テ、生害ノ以後、丹州ノ殘黨等、光秀人質ノ老母ヲ、張付ニ懸テ殺シ畢ヌ、
p.1099 一今世に不孝の子ありとて親勘當し、いかなる惡事すべきもしられずとて、其親々親類など奉行所へ訴申事多く、奉行所にても是を張外のものとし、事有時は父母親類へも咎等もなき事のよし、是人にもより、其事にもよるべき事ながら、人倫の破れ治の害惡者の種おろし也、人、々孝をなすべきは、御高札のはじめにのせられ、且明曆の御條目にも、不レ用二父母の制詞一、町々年寄五人組の者の異見不レ致二承引一者有レ之ば、可二召連來一先て罪舍、其上不二直覺悟一ば親切久離可二追拂一、万一對二于父母一存二遺恨一ば、彼者從二町中一可二捕來一とあるとも、今の世の人々は、是をば御高札、彼は御觸とのみ思ひ居て、其事どもはしらず、年寄五人組など深切に世話する者も、疎きやうにて、我身の用心計してゐる也、何とぞ下萬民を憐み惠ませ給ふ御事なれば、能々敎へさとし、人々此御高札の趣をば、覺えしるやうにありたし、又中には親々の敎へずして、惡者になるは、親の罪も有べし、然れば子をよく敎へさとし育るやうに、御敎訓ありて、扨不孝の子在て、親もこらへず、諸親類所の者も倦て、惡者とおもふ者は、きびしく罪せらるべきか、只今追拂とするは、親の元を離るゝ計にて、近所前後如レ元徘徊して、猶惡心やまず、人に災し國の害をもなし、惡事をも仕出す也、是誠の御慈悲ならば、斯るものなどをこそ、遠島或は其罪の輕重、人々の品々により、遠國か近流か、いづれ父母の地を離して、其配所をえ立不レ去樣にし、月逝歲經て心も改らば、又上よりして是を赦し玉ふや うにあらば、却ての御慈悲たらんか、旣に不孝の輩猶有レ之ば、可レ處二罪科一事と、一條にのせられ、孝經には五刑屬二三千一、罪莫レ大二於不孝一云々、是いましむべきの第一也、然れどもむかしより、親頑に後妻あるひは嬖妾抔の讒によつて、不孝を唱へ、或は若氣の過ち女色など、又は諸事などに逸して、惡事にはなく、過のつのりなどする類少からず、是は罪輕し、隣里郷黨の顯暮をしれるものに、正く糺して、御沙汰あらんか、是等の一條遠き慮なくしては、後世の災成べし、且たゞ親子の間のあしきをば、不孝と成らば、却て人倫を破る事あるべし、