https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1171 德ハ、メグミト云ヒ、ウツクシビト云ヒ、又イキホヒトモ云フ、卽チ善美正大ノ稱ニシテ、專ラ人ニ惠ヲ施シ、又ハ人ノ其恩ニ感ズル等ノ事ヲ謂ヘリ、
陰德ハ、陰ニ德行ヲ爲スヲ謂ヒ、公益ハ公共ノ爲ニ利益ヲ計ルヲ謂フ、井ヲ穿チ、道ヲ修シ、橋梁ヲ架シ、渡船ヲ儲クルガ如キ、卽チ是ナリ、

名稱

〔類聚名義抄〕

〈一/彳〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1171 德〈多勅反 メクム和トク〉

〔伊呂波字類抄〕

〈止/疊字〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1171 德化 德望 德澤

〔書言字考節用集〕

〈八/言辭〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1171 德義(トクギ)〈朱子云、躬行有得、謂之德、〉 德行(トクカウ)

〔日本書紀〕

〈三/神武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1171 己未年三月丁卯、下令曰、〈○中略〉上則答乾靈授國之德(ウツクシヒ)下則弘皇孫養正之心、〈○下略〉

〔日本書紀〕

〈五/崇神〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1172 六年、百姓流離、或有背叛、其勢難德治(ウツクシヒヲ)之、 十二年三月丁亥、詔、朕初承天位宗廟、明有蔽、德不(イキホヒモ)綏、是以陰陽謬錯、寒暑失序、〈○下略〉

〔三德抄〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1172 夫心ニ疑ナキハ智也、心ニヨク分別シテ、後悔ナキハ仁也、心剛ニシテツヨキハ勇也、此智ト仁ト勇トハ聖人ノ三德也、故ニ論語ニ、孔子ノ、智者ハ不惑、仁者ハ不憂、勇者ハ不懼トイヘルハ是也、

〔神皇正統記〕

〈神代〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1172 三種の神寶をさづけまします、〈○中略〉又大神御手に寶鏡をもちたまひ、皇孫にさづけてほぎて、吾兒視此寶鏡我、可與同床共殿以爲齋鐃、とのたまふ、八坂瓊の曲玉、天のhttps://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01723.gif 雲の劒を加へて三種とす、〈○中略〉この三種につきたる神勅は、まさしく國を手持ますべき道なるべし、鏡は一物をたくはへず、私のこゝうなくして万象を照すに、是非善惡のすがたあらはれずといふことなし、そのすがたにしたがひて、感應するを德とす、これ正直の本源なり、玉は柔和善順を德とす、慈悲の本源なり、劒は剛利決斷を德とす、智惠の本源なり、この三德を翕受ずしては、天下のをさまらんこと、まことにかたかるべし、神勅あきらかにして、詞つゝまやかにむねひろし、あまつさへ神器にあらはしたまへり、いとかたじけなきことにや、

德例

〔日本書紀〕

〈一/神代〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1172 亦曰、伊弉諾尊功旣至矣、德亦大矣、於是登天報命、仍留宅於日之少宮矣、

〔扶桑略記〕

〈六/元正〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1172 養老四年八月三日、右大臣藤朝臣不比等薨、春秋六十三、贈太政大臣、諡號淡海公、延曆僧錄云、淡海公事父能盡其孝、事君能盡其忠、忠孝居懷、家國何爽、勤王奉佛、眞俗無違、恤寡哀孤、事亦同古、治國一年、風不條、雨不塊、治國二年、耕者讓畔、行者讓路、治國三年、路不遺、治國四年、謳歌滿路、治國五年、變戎衣而爲禮衣、治國六年廻賊臣而爲孝子、遂得君王下顧黔黎戴仰、〈已上出延曆僧錄

〔日本後紀〕

〈二十二/嵯峨〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1172 弘仁三年十月辛卯、右大臣從二位藤原朝臣内麻呂薨、〈○中略〉奕世相家少有令望、德量温雅、士庶悦服、大同初拜大納言、兼近衞大將、其年轉右大臣、近衞大將如故、任兼相將、經事三主、皆 被信重、上有問、不指苟合、如或不從、不敢犯一レ顏、凡典樞機十有餘年、靡愆失、昔日庶人他戸爲皇太子時、桀跖之性好、害名流、有一惡馬馭必踶囓、太子令内麻呂乘、快傷損、惡馬低頭不動、被鞭廻旋、時人以爲非常之器

〔續日本後紀〕

〈五/仁明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1173 承和三年四月丙戌、散位從四位下甘南備眞人高直卒、〈○中略〉天長三年、除常陸守、遭訪採使、緣前司犯、被釐務、吏民感其德化、競遺資用、嵯峨太上天皇復垂眷憐、使莊家物其所用、 文德實錄三仁壽元年二月丁卯、正三位藤原朝臣貞子出家爲尼、貞子者先皇〈○仁明〉之女御、風姿魁麗、言必典禮、宮掖之内、仰其德行、先皇重之、寵數殊絶、雖内愛、必加外敬、 九月乙未、散位從四位下藤原朝臣岳守卒、岳守者從四位下三成之長子也、天性寬和、士無賢不肖、傾心引接、〈○中略〉嘉祥元年出爲近江守、人民老少倶皆仰慕、

〔文德實錄〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1173 齊衡元年十月庚申、正五位下備前守藤原朝臣大津卒、〈○中略〉天長三年叙從五位下備後守、頗有聲譽、民庶歌恩、〈○恩原作思、據一本改、〉

〔文德實錄〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1173 天安元年十二月戊子、散位從四位上淸原眞人有雄卒、〈○中略〉有雄頗有風操、尤習政理、〈○中略〉十一年〈○天長〉爲攝津守、政有聲譽、黎庶悦服、國内安靜、倉廩盈溢、〈○中略〉仁壽四年叙従四位上卒百姓老少哀慕罔極、

〔藤原保則傳〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1173 公在備前、德化仁政、一如備中、凡厥僚下、若有姧賊者、曾無明其咎、卽竊於間處相語云、君久疲學官、初得此官、必當其廉節、勉取榮譽、豈可滯一州小吏乎、然而上資父母之供養、下給妻子之飢寒、撓性屈心、受此濁穢、斯皆貧窶之憂、覊累善人、僕有薄俸、冀隨君所用、以資給之、勿犯官物而已、卽芬賜其俸、不多少、於是恥挌之化、如風靡一レ草、吏民畏愛、號曰父母、〈○中略〉十七年〈○貞觀〉秋、解歸京、兩備之民、悲號遮路、里老村媼、頭戴白髮者、各捧酒肴、拜伏道邊、公謂、老人之心、不違失、爲之留連數日、相次競到、不遏止、〈○下略〉

〔三代實錄〕

〈三十五/陽成〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1174 元慶三年三月廿三日癸丑、淳和太皇太后崩、有遺令緣御葬之諸司、天皇輟朝五日、太后諱正子、嵯峨太上天皇之長女、與仁明天皇同産也、母太皇太后橘氏、后美姿顏、貞婉有禮度、存母儀之德、中表則之、太上天皇太皇太后甚鍾愛之、淳和天皇備禮娉之納於掖庭、寵敬兼人、天長四年二月爲皇后、八年亢旱爲災、帝深憂之、走幣群神、祈請百端、后勸帝錄囚徒、廢作役、未朝、澍雨晦合、帝逾加愛焉、

〔三代實錄〕

〈四十九/光孝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1174 仁和二年十月廿九日甲戌、正二位藤朝臣多美子薨、〈○中略〉性安祥、容色妍華、以婦德稱、〈○中略〉七年、〈○元慶〉至正二位、德行甚高、爲中表依懷焉、天皇重之增寵、異於他姫、天皇入道之日、出家爲尼、潔齋勤修、晏駕之後、收拾生前賜御筆手書紙、以書寫法華經、設大齋會、恭敬供養、奉太上天皇不次恩德也、卽日受大乘戒、聞而聽者莫感歎熱發奄薨、

〔古事談〕

〈二/臣節〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1174 御堂〈○藤原道長〉令邪氣給之時、小野宮右府〈○藤原實資〉爲防令參給、邪氣聞前聲、託人云、賢人之前聲コソ聞ユレ、此人ニハ居アハジト思物ヲトテ、示退散之由云々、心地卽平愈、

〔臥雲日件錄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1174 文安四年正月八日、凡當院〈○相國寺〉主年始々出時、力者八人、而輿雖大路廣衢、而亦后四力各成列而行之、則殆乎塞路半邊、行路之間、老者弱者、荷者行歩遲疑、則諸力肘而脅之、嚇而畏之、予〈○臥雲〉住等持相國之時、深誡之、又未嘗輿過六力也、

〔窻の須佐美〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1174 島津修理大夫義久朝臣、老後龍伯〈三位法印〉といふ、弟の兵庫頭義弘、〈薩摩宰相惟新入道〉ある時まをされけるは、近年兵亂しづまり事なく候故、いつとなく若ものども、ゆるむ心出來て、作法に背く事どもの候、嚴に正し候はゞ、よく候半とありしに、龍伯の云く、尤の事なり、我もさ思へう、但目付のなきを如何せん、誰かしからんと有し、義弘思ひより候はず、只君の御目きゝ然るべしと答へられし時、さる事なり、向後われ目付とならんと思へり、御身は副役と心得られよ、但其心得如何にと思はるゝぞ、家中のものに、恐れられんと思ひては、却て害の出來ぬるもの也、主より禮義 厚く、自然辱さに感じて、恥るやうにありたきものにこそと有しかば、義弘詞なく、汗衣をひたして、出られしとかや、

〔近世叢語〕

〈一/德行〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1175 藤樹爲人温厚、帥人以躬、人無賢愚、皆服其德、莫起于善、雖旅舍茗肆、有客所遺物、則必置之閣上、以俟遺者之復來、歷年之後、塵埃坌滿、竟不收用、嘗之京師、行路轎中説心學、轎夫感動流涕、其德之薰人類此也、故一時稱曰近江聖人

〔先哲叢談〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1175 熊澤伯繼、字了介、〈○中略〉號蕃山、又號息遊軒、〈○中略〉
蕃山初負笈上京、求良師其人、共投宿者一人語曰、往日余爲主遠行、時懷金二百兩、卽主之所使齎也、途跨驛馬金繫鞍、日暮忘之而宿、困頓就枕、半夜始覺、乃覺金、則茫然猶疑爲夢寐、旣而神乃定、痛心疾首、千思萬慮、求之無術、一決死雉經、戚然自嘆、不天所弔恤、逢此悲凉、時聞剝啄聲甚急、問之則稱馬夫某、因亟出、渠卽出金曰、小子歸家將馬、及鞍得之、是君之所遺、故來還呈、封完如故、吾驚喜不措、腰纏別有十六兩、卽解以謝之、馬夫不受曰、君之物付君、奚謝之有、然爲冒夜來、此顧賃得二百文足矣、吾曰、孽自作、微汝發義心、吾無生之地、所謂生死而肉骨也、不腆黃物非敢本一レ報、聊以表寸心、馬夫愈辭、乃減八兩、亦不受、稍々減纔至方金二、馬夫執益確曰、君毋我、予有守也、吾歎問曰、淡於欲者、今之世不多見、至其以義爲利如一レ汝、則絶不得、所謂所守者何事也、曰、賤役餬口、豈不利乎、而有中江與右衞門者、敎授里中、嘗聞其言曰、誠正以修其身、事君致忠、事親盡孝、毋貧濫、毋賤枉、今若以賜利之、則欺此心也、言畢去、噫澆世安得此人乎、蕃山傾聞者良久曰、馬夫一郷鄙人耳、素不道之爲何物、則趨利若鶩、何義之思、而其廉潔不古之君子者、必敎育所致也、所謂中江氏者、其德與學可想見也、方今之世、捨此人而誰適從、是日卽束裝往謁、〈○下略〉

〔假名世説〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1175 盤溪禪師、播磨にて結制の時、僧徒數百人來り集り居たりしに、其中賊僧ありて、誰も銀子を失ひし、何がしも衣服を盜まれしなど、毎日紛失ものありて、人々疑ひあひて難義に及びし が、後には賊をなせる僧、大抵にしれければ、衆僧一統に禪師に申して、賊僧を追放せんとねがひけるに、禪師聞き屆けて、其まゝに捨て置れしかば、數日の後、衆僧又此事を禪師に訴ふ、禪師猶その儘にさしおかれし、かくのごときの事、三四度に及びて、猶そのまゝに成りければ、衆僧大に腹を立て、もし賊僧を追ひ拂ふ事ならずんば、衆僧一人も殘らず、退散すべしといひしに、禪師笑ひて、退散したくば勝手たるべし、悟道善行の僧は敎ふるに及ばず、此結制も左やうなる惡心の者を敎へさとさんためなれば、惡僧なればとて、みだりに追放すべからずといはれしにぞ、衆僧大きに感服しぬ、かの賊僧もこれを傳へ聞きて、深く感悟し座中に出でゝ賊をせし事どもをみづからざんげして、前非をあらため、德行堅固の僧となりきとそ、

〔先哲叢談〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1176 伊藤維楨、字原佐、號仁齋、〈○中略〉
嘗夜行郊外、劫賊四五人當路立、各按劒曰、吾徒不醉不樂、今無酒資、客若欠腰纏、則自脱衣裳之、仁齋神色不少動曰、今日適無櫜錢、敝緼袍脱以遺之耳、且問汝輩常以何爲業邪、曰昏夜横行、掠奪以自給、是其業也、仁齋曰、以若所一レ爲爲業、吾何拒焉、輙脱服以授之將去、於是賊止仁齋曰、吾儕草竊爲衣食數年、未嘗見擧止如客者、抑客何爲者、曰儒者也、曰儒者爲何事、曰以人道人者也、所謂人道者、孝於親於弟、不一日無者、是也、人而無道、禽獸焉耳、言未畢、賊皆頓首涕泣曰、噫、君與吾鈞是人也、而事業之逈異如是、吾甚恥、願君宥吾儕罪、今而後飮灰洗胃、謹奉敎于門下、遂皆改心自勵云、

陰德

〔伊呂波字類抄〕

〈伊/疊字〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1176 陰德

〔書言字考節用集〕

〈八/言辭〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1176 陰德陽報(イントクヤウハウ)〈列女傳、有陰德者陽報之、又見淮南子、五雜組、〉

〔日本書紀〕

〈十九/欽明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1176 天皇〈○欽明〉幼時夢有人云、天皇寵愛秦大津父者、及壯大必有天下、寐驚遣使普求、得山背國紀伊郡深草里、姓字果如所夢、於是所喜遍身、歎未曾夢、乃吿之曰、汝有何事、答云、無也、但臣向 伊勢商價來還、山逢二狼相鬪汚血、乃下馬洗漱口手、祈請曰、汝是貴神而樂麁行、儻逢獵士禽尤速、乃抑止相鬪、拭洗血毛、遂遣放之、倶令命、天皇曰、必此報也、乃令近侍優寵日新、大致饒富、及踐祚、拜大藏省

〔古事談〕

〈三/僧行〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1177 伊賀國郡司之許、賤流浪法師一人出來被仕ケリ、苅草飼馬經兩三年之間、郡司不慮蒙國勘薐却國中、緣者境界集訪、悲歎無比類、相傳之所領取從者モ有其數、忽打弃テ赴人國、事實不疎、妻子眷屬悲哀涕泣、爰此草苅法師、雖事之子細、而依人數、無返答之人、枉懇切成不審之間、或下女一人、憖語事之子細、諸聞了、法師云、雖己等之敵、唯今不御出立歟、不叶マデモ先有御上京、何ケ度モ被申子細、其後不叶時コン候ハメ、國司御邊ニハオロ〳〵事之緣侍リ、可申試云々、郡司此事憑トハシナケレド、依心之置所、相具法師、忽上洛、其時此國ハ大納言ト申ケル人ノ給ニテゾアリケル、件邊近ク成テ、法師云、人ヲ尋ト思、此スガタニテハアヤシカリヌベシ、袈裟衣一可借出哉、卽借テ著セタリケレバ、大納言御許歩行之間、侍所ニ居並タル輩、暫ハアヤシゲニ思テ、能見知之後皆下跪庭上、郡司ハ門外ニ留テ、淺猿ト見居、亭主聞此由、滴瀝請入對面、先年來ハ何所ニ、何樣ニテ御座有ケルゾヤ、公ヨリ始奉テ、無惜之人ナド被示之間、如此事ハ今閑ニ可申、先有申事、所參入也、伊賀國年來相憑侍ッル郡司某依國勘國内之間、悲歎之至、極不便也、又非强罪科者、竓法師ニ恩免候乎云々、亞相云、凡不左右、左樣ニテ御座候ケレバ、謬可思知之者ニコソ侍ナレトテ、ヤガテ被免之上、添給國恩之由、成廳宣奉了、先是ヲ令見テ、悦バセ候ハントテ、白地氣ニテ被立出テ、相具郡司ヲ、近邊小屋脱袈裟衣等タヽミテ其上ニ廳宣ヲ置テ、キト出體ニテ、暗跡云々、郡司心中疎哉、大納言モ委被尋聞ケリ、是モ玄賓僧都ノシワザニナン侍リケル、此大納言トハ、殊師檀ニテ被坐ケリ、

〔本朝高僧傳〕

〈九/淨慧〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1177 攝州金龍寺沙門千觀傳
釋千觀姓橘氏、相州刺吏敏貞之子、〈○中略〉或時出淀河邊、自作馬夫、惠往來人、其深於道義斯也、

〔今昔物語〕

〈十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1178 理滿持經者顯經驗語第九
今昔、理滿ト云法花ノ持者有ケリ、〈○中略〉棲ヲ不定ズシテ、所々ニ流浪シテ、佛道ヲ修行スル程ニ、渡リニ船ヲ渡ス事コソ无限キ功德ナレト思ヒ得テ、大江ニ行居テ、船ヲ儲テ、渡子トシテ、諸ノ往還ノ人ヲ渡ス態ヲシケリ、亦或ル時ニ、京ニ有テ、悲田ニ行テ、万ノ病ヒ煩惱ム人ヲ哀テ、願フ物ヲ求メ尋テ與フ、

〔吾妻鏡〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1178 治承四年七月廿三日癸酉、有佐伯昌助者、是筑前國住吉社神官也、〈○中略〉而彼昌助弟住吉小大夫昌長、初參武衞、又永江藏人大中臣賴隆同初參、是太神宮祠官後胤也、〈○中略〉此兩人奉爲源家、兼日顯陰德之上、各募神職之間、爲御所禱事、令門下祗候給云云、

〔方丈記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1178 養和の比かとよ、久しく成てたしかにも覺えず、二年が間、飢渴して淺ましき事侍き、〈○中略〉仁和寺に慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、かくしつゝ數しらず、しぬる事をかなしみて、聖をあまたかたらひつゝ、その首のみゆるごとに、額に阿字を書て緣を結ばしむるわざをなむせられける、その人數をしらむとて、四五兩月がほどかぞへたりければ、京の中一條より南、九條より北、京極よりは西、朱雀よりは東、道の邊にある頭、すべて四萬二千三百餘りなむ有ける、

〔碧山日錄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1178 寬正二年二月自正月是丹、城中死者八萬二千人也、余曰以何知此乎、曰、城北有一僧、以小片木八萬四千率堵、一々置之於尸骸上、今餘二千云、大概以此記焉也、

〔雲萍雜志〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1178 勢州關の商家に、吉右衞門といふものあり、〈○中略〉篤實の性、人のそねむを愍み、他の人をたのめて異見をなし、己れに敵するものをよくするを以て、終にはあしき輩も隨へり、陽報を待の心、少しもなくして、人しらず隱德を施し、家業のいとまある時は、往還に出て路を造り、溝あるところへ、橋をかけ、只後事のためのみに、志を盡すこと、あげてかぞふるにいとまあらず、

〔孝義錄〕

〈二十一/陸奧〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1179 奇特者權内
若松の城下一の町にて、權内といへるは、細物とて、絹、つむぎ、麻布、木綿の類、商ふ者なり、家ゆたかなれど、常に儉素を專らとし、若き頃より先祖の祭に禮をつくし、家の業怠らず、あまたもたる子をはじめとして、下づかへの男女にいたるまで、こま〴〵と敎へみちびき、親族に睦しく、はやくより貧しき者、たよりなき者を賑はせる事數ありき、ちまたに遊びゐるおさな子の、時ならず薄著したるあれば、家をたづねて、をのが子の料を遣し、今なん飢に及ぶなどきけば、相しれるもしらざるも、必米、鹽、味噌やうの物、人づてをもとめて贈りぬ、醫の道をも心がけしり、をのづから人もしりて、藥をこふものあれば、念ごろにあはせとゝのへて、功ある事多かりき、又貧しきものゝ重くやみて、人參ならでは治すべきともみえざるは、其價の貴きにをそれん事をおもひ、いつも其人にはいはで、そと己が貯へたるを加へてぞあたへける、あきなひの道にも、みだりなる利を得んと思ふ事は、塵ばかりもあらず、人あまたつどひて物語するにも、善をすゝめ惡をこらし、愼にならん事をそのべける、もとより人の道まねび得たる程の力もあらねど、天性よき事を好みて、陰德數々多かりき、

〔近世畸人傳〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1179 米屋與右衞門
攝津國今つの里米屋與右衞門といへるは、儒學に長じて節儉をつとめ、富豪なれども僕に交りて、自造酒の事をなし、世渡におこたらざれば、ます〳〵富り、富るに隨ひては、ます〳〵陰德を行ふ、ある時親族の僕、主人の金百兩をつかひ捨て、行へなくなりしを、さま〴〵尋求て、深く諫めて後、其百金をあたへ、ふたゝび主の家へ歸らしむ、又此里の内に路甚狹き所あり、されば火災あらん時に、人の難あるべきをおそれて、其所を買て廣くす、又板橋は水災のとき危しとて、石橋に造かへぬ、此類擧るにいとまなし、尤常に貧人を惠を所作とす、されば此人死せるとき、遠近の男女 集り、こゑをあげて泣悲しみけるさま、釋迦佛の入滅もおもひしられけると見し人語りき、

〔近世畸人傳〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1180 室町宗甫
宗甫は京師室町四條街に何がしといへる豪商なりしが、男子二人倶に無賴なるがゆゑに勘當す、然りし後、世中うるせくおぼえて、他の子を嗣として家をゆづるとも、此二人のわろもの來りまつはらば、心よからじとて、其家をはじめある所の調度ども皆賣たてしに、貳萬金になりぬ、おのれはかごかなる所にこもりて世の交もせず、彼金はまどしき、人に施す料とす、さればかうかうなる人、いと悲しきさまなるを、錢すこしあたへ給へなどいふ人あれば、いなわれもまどしと口にはいひて、ひそかに金五兩つゝみて其家に投入、あるじ此人ならんと推して謝に來れば、いなわれにはあらずといふ、不意に人に與ふる金は、必五片に定む、もし又貧にして家を賣人ありと聞ば、價高く買、損ジたる所をつくろひて、うつり住かと見れば、やがて價賤賣はなつ、常に陰德を行ふこと此類にて、二萬金殘なくなりぬ、

公宜

〔續日本紀〕

〈一/文武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1180 四年三月己未、道照和尚物化、〈○中略〉於後周遊天下、路傍穿井、諸津濟處、儲船造橋、乃山背國宇治橋、和尚之所創造者也、

〔續日本紀〕

〈十七/聖武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1180 天平勝寶元年二月丁酉、大僧正行基和尚遷化、和尚藥師寺僧、俗姓高志氏、〈○中略〉又親卒弟子等、於諸要害處、造橋築陂、聞見所及、咸來加功(○○○○)、不日而成、百姓至今蒙其利焉、

〔續日本紀〕

〈三十八/桓武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1180 延曆三年十月戊子、越後、國言、蒲原郡人三宅連笠雄麻呂、蓄稻十萬束積而能施、寒者與衣、飢者與食、兼以修造道橋、濟利艱險、積行經年、誠令擧用、授從八位上

〔續日本後紀〕

〈十/仁明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1180 承和八年三月癸酉、右京人孝子衣縫造金繼女、居住河内國志紀郡、〈○中略〉至冬節則母子買雜材、惠賀河構借橋、總十五ケ年、〈○中略〉勅叙三階、終身免戸内租、旌表門閭、令衆庶知

〔元亨釋書〕

〈十四/擅興〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1180 釋最仙、嘗任常州講師、戒行備足、四衆歸崇、性抱利濟、修寺院、掃堂宇、夷嶮途(○○○)、架絶梁(○○○)、走 急救危、切於己、逢早澇、不延請、祈求修法、屢有感應、問疾餉餓、存活之者多、俗號悲增大士、〈○中略〉釋光勝不姓氏、爲沙彌時、自稱空也、人又不諱言空也、少好佚遊、天下殆遍、所過道塗多爲利濟、荷鋤鏟嶮、拾石鋪濕、架破橋、修廢寺、無水之地多穿井、井必甘冷、以其常唱彌陀號、俗名彌陀井、往往而在焉、

〔吾妻鏡〕

〈二十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1181 寬喜四年〈○貞永元年〉七月十二日、今日勸進聖人往阿彌陀佛、就申請舟船著岸煩、可和賀江島之由云云、武州〈○北條泰時〉殊御歡喜令合力給、諸人又助成云云、 八月九日、和貿江島終其功

〔東關紀行〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1181 ほむの川原〈○三河〉にうち出たれば、〈○中略〉茂れるさゝ原の中に、あまたふみわけたる道ありて、行末もまよひぬべきに、古武藏の前司、〈○北條泰時〉道のたよりの輩に仰て、植をかれたる柳も、いまだ陰とたのむまではなけれども、かつ〴〵まづ道のしるべとなれるもあはれなり、〈○下略〉

〔先哲叢談〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1181 野中止、字良繼、小字傳右衞門、號兼山、〈○中略〉
嘗來江戸、及歸期也、致書郷人曰、土佐無物不一レ有、自江戸齎歸、惟有蛤蜊一艘耳、海路幸無恙、以歸日饋之、衆以爲異味、計日待歸、旣至、則命投其所漕於城下海中、不一箇、衆怪問、兼山笑曰、此不獨饋諸卿、使卿子孫亦飫一レ之也、自此後、果多生蛤蜊、遂爲名産、衆始服其遠慮

〔孝義錄〕

〈三十九/紀伊〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1181 奇特者名廻次郎右衞門
名廻次郎右衞門は伊都郡東富貴村にて、高七十石もてる百姓なり、正德四年より享保三年にいたるまて、村の中困窮し、山中の事なれば田畑も猪鹿に踏あらされしを、次郎右衞門力をくはへて、さま〴〵にふせぎしが、猶もさゝへかねて、此地を領せる高野山の年預坊のもとに、しば〳〵かよひて、一村のために年の貢をゆるべん事をこひしかば、次の年よりして、田宅より出る定をもゆるしけり、富貴村に池なくして人々なやみけれど、あながちにいひ出るものもなかりしを、次郎右衞門が志にめでゝ、同十年正月、次郎右衞門を年預坊によびて、勸たに池ほる事をゆるし、 人夫を用うる數をとひしに、五六千人も用うべしといふにまかせて、日あらずして池四をほりしかば、長く村々のたすけとなれり、すべて正德より享保にいたるまで、道々の橋のそこねしをも、次郎右衞門が力をそへてかけかへけり、〈○中略〉同十二年四月、洪水して東西の富貴村堤崩れしに、次郎右衞門は力を盡して修理し、筒香村と兩富貴村の作毛なければ、その年の貢物をかはりておさめ、寺社の破れたるをつくろひ、近き村の困窮をめぐみ、正德享保の頃、餓死の人多くありしをあはれみて、高野山のうち龍光院に位牌をたてゝ、跡を弔ひけり、寬延二年十一月、年預坊より次郎右衞門に命じて、山林の支配をなさしめしに、年預坊にこひて、己一人つかさどる事なく、村のうちのものとともに支配し、山林もたぬ民十七人に、己が銀を出して求めあたへ、又金二十兩を出して、奧院にかよふ道をつくり、其外の善行かぞへ盡しがたし、一村のもの次郎右衞門を深く信ずるのあまりに、吹郎右衞門が苗字を以て、氏神の稱號となし、名廻明神と稱しけり、寬延三年、年預坊より銀そこばくあたへて褒美せしが、寶曆八年八十餘歲にて病て死す、

〔先哲叢談〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1182 靑木敦書、字厚甫、小字文藏、號昆陽、〈○中略〉
嘗嘆曰、凡有罪非死刑者、遠放之島嶼、要在使其終天年耳然諸島少五穀、常以海産木實食、是以往往不餓死、豈不亦痛哉、卽雖種藝之地、遇歲歉則民不菜色、意者百穀之外、可以當一レ穀者、莫蕃薯也、乃陳官、求種子于薩摩、試種之官藥苑中、則極蕃衍、於是以國字蕃薯考一卷、而演其培植之法、官鏤版倂種子下諸島及諸州、未數年處不一レ種、至今上下便之、雖歲不一レ登、民不遄餓者、實昆陽之惠及無窮矣、題其墓門之碑、曰甘藷先生之墓、有以哉、

〔孝義錄〕

〈二十/陸奧〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1182 孝行者小右衞門
小右衞門は河沼郡野澤原町村の百姓なり、〈○中略〉同じ領のうち、驛路の橋など破る丶時は、人にもしらせず、己が材木を出していとなみ渡し、晝夜となぐ道をつくり、人馬の煩ひなからしむ、上を 重んじ公納をかゝず、人夫にさゝれてその催をまたず、此よし領主に聞えて、延享三年、褒美の米をあたへき、〈○中略〉越後の驛路輕井澤よ少繩澤の間は、五町程も至りての難所ありて、雲崩もあり、秋の長雨ふる頃は、人馬ともに行なやみしを、六年前より、新たなる道を開きしに、或は役夫を雇ひてこれを築かしめ、又は石切に命じて岩山を切わらしむ、凡人夫を用うる事、千人にあまり、賃錢もまた二十貫文ばかりなるを、小右衞門一人の力を以てこれを辨じ、これより四年前の七月までに、營作こと〴〵くになりぬ、又繩澤のうち白坂甲石村の下なる新道をも、みづから開しとそ、年頃險岨の道を平かにし、公納をかく事なく、村のうちの爭論うち〳〵にてあつかひすまし、領主の裁判をわづらはさず、年々にいやましの善行身につもりしかば、明和元年、かさねて褒美して、米そこばくをぞあたへける、

〔雨窻閑話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1183 一里塚始幷五左衞門井戸の事
或君の曰く、余が、家を繼ぎて、領分のうち在々を巡見の時、金方村とかやいふ處の片隱に、うつくしき水湧き出づる井あり、余こゝに立ちよりて、その水を掬し見るに、其淸き事いふ許なし、時に傍に六十餘の老婆うづくまりありけるを召して、此水は至りて淸淨水なり、里には此水を遣ふにやと尋ねたりければ、老婆の曰く、凡此あたりの民家二百軒許、皆此水を遣ひ候、それにつき物語の候、此村元來水あしき所にて、一向に用ひられず、我父ふかく是を歎き、壯年の時より大願心をはつし、藥師如來へ立願して、かなたこなたに井戸を堀りたる事、八十ケ所に及ぶといへども、更によき水を求め得ず、最早勢力も勞れ、老年に及びて、漸く此所の井を堀りあて、終に其翌日果て申し候、其故に此井をば、五左衞門井戸と唱へて、今に親の名を唱へ來り候、是も最早四十年許にて候が、夫よりして、一村うちより、此姥に扶持を呉れ候ひて、此井の主になり、いと安樂に暮し申し候も、父のかげにて候、今日は殿樣御通と承り候ゆゑ、井戸守の事に候へば、此所に罷り出で 候と申たり、〈○下略〉


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Last-modified: 2022-06-29 (水) 20:06:25