https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0140 忍耐ハ、又堪忍ト云ヒ、邦語ニ之ヲタフ、又ハシノブト云フ、能ク苦艱ニ堪ヘテ、其意志ヲ變ゼザルヲ謂フナリ、
克己ハ、我ヲ去リテ、正ニ就クヲ謂フ、

名稱

〔伊呂波字類抄〕

〈太/疊字〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0140 堪忍(タンニン)

〔下學集〕

〈下/態藝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0140 堪忍(カンニン)

〔書言字考節用集〕

〈八/言辭〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0140 堪忍(カンニン)

〔類聚名義抄〕

〈六/心〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0141 忍〈如軫反 シノフ 和ニシ〉

〔同〕

〈七/寸〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0141 耐〈奴代反 タフ シノフ オサフ〉

〔伊呂波字類抄〕

〈太/辭字〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0141 堪〈タフ タエタリ〉任 耐 勝 能 通要 克 仔 爲已上同

〔同〕

〈志/辭字〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0141 忍〈シノフ 忍耐〉

〔信玄家法〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0141 一毎事堪忍之二字可意事、古語云、胯下恥小辱也、成漢功大切也、又云、一朝怒失其身

〔伊勢平藏家訓〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0141 堪忍の事
一堪忍とは物事をこらへる事なり、我心に我儘をしたきをこらへとほすべきなり、五常五倫の道も、堪忍の二字を不用してはをこなふ事ならず、其外何事も堪忍の心なくては善事はなす事かなはず、皆惡事をなす、萬事皆堪忍を本とすべし、主人の敵父母の敵此二つばかりは堪忍すべからず、いかにしても敵を討べし、是も其敵を討おふするまでの間は、堪忍を專にせざれば討おふする事ならぬなり、能々心得べし、堪忍は心を長くゆるやかにもたざれば、堪忍なりがたきものなり、

〔爲學玉箒〕

〈後篇中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0141 或問、人に對し遺恨、又は不足など出來るは、堪忍せざる故なり、堪忍さへすれば、何事も和合して睦じかるべし、然れども其堪忍がなりがたし、いかゞ心得候はゞ、堪忍なるべきや、
答、堪忍するは重き事なれば、必定といふにはあらず、まづは誰にても人に對し、何事によらずいひぶん出來る時、唯身に立かへりて、我が惡き故といふ事を、眞實に辨へなば、いか樣の事も堪忍しやすく、いひぶんは出來まじきか、此我がわるきといふ事は、諸人常に口にはいひやすけれども、眞底より万事我があしきと知ること甚かたし、予〈○手島信〉近き頃此事を感得いたしたる故、かくいふなり、

忍耐例

〔日本書紀〕

〈十一/仁德〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0141 三十年十月甲申朔、遣的臣祖口持臣、喚皇后、〈一云、和珥臣祖口子臣、〉爰口持臣至筒城宮、雖皇 后、而默之不答、時口持臣沾雪雨以經日夜、伏于皇后殿前而不避、於是口持臣之妹國依媛仕于皇后、適是時皇后之側、見其兄沾一レ雨而流涕之、歌曰、椰韓辭呂能菟菟紀能瀰揶珥(ヤマシロノツツキノミヤニ)、茂能莽烏輸(モノマヲス)、和餓齊烏瀰例麽(ワガセヲミレバ)、那瀰多愚摩辭茂(ナミダグマシモ)、時皇后謂國依媛曰、何爾泣之、對言、今伏庭請謁者妾兄也、沽兩不避猶伏將謁、是以泣悲耳、時皇后謂之曰、吿汝兄速還、吾遂不返焉、口持則返之復奏于天皇

〔日本書紀〕

〈十三/允恭〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0142 元年十二月、妃忍坂大中姫命、苦群臣之憂吟、而親執洗手水、進于皇子〈○允恭〉前、仍啓之曰、大王辭而不卽位、位空之旣經年月、群臣百寮愁之不所爲、願大王從群望、强卽帝位、然皇子不聽、而背居不言、於是大中姫命惶之不退而侍之、經四五尅、當于此時、季冬之節、風亦烈寒、大中姫所捧鋺水溢而腕凝、不寒以將死、皇子顧之驚則扶起、謂之曰、嗣位重事不輙就、是以今不從、然今群臣之請、事理灼然、何遂謝耶、

〔源平盛衰記〕

〈四十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0142 賴朝義經中違事
鎌倉殿〈○源賴朝〉仰ケルハ、九郎ガ心金ハ怖キ者也、西國討手ノ大將軍ニ、誰ヲカ可立ト思シカバ、兩三人ヲ呼、心根見ントテ、提絃ヲ燒テ、手水カケテ進セヨト云シカバ、始ハ蒲冠者參テ、手ヲ燒、アト云テ退ヌ、二番ニ小野冠者來テ、是モ手アツシトテ除ヌ、三番ニ九郎冠者、〈○義經〉白直垂ニ、袖露結肩ニ懸テ、彼燒タル提絃ヲ取テ、顏モ損ゼズ、聲モ出サズ、始ヨリ終ヤデ、手水ヲ懸通シタル者也、アハレ是ヲ今ノ大將ト思テ、都へ上セ西國へ指下タレバ、木曾ト云、平家卜云、三年三月ノ戰ニ、九郎冠者先ヲノミ蒐ケレ共、終ニウス手一モ負ズ、〈○下略〉

〔東海一休和尚年譜〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0142 師〈○一休〉年二十二歲、初赴江之堅田、求於華叟師、閉門峻拒、師意誓吾不謁、決死於此矣、露眠草宿不少屈、夜投虚舟、且造庵前、旣經四五日、叟偶赴村齋門、見師蒲伏門側、而顧左右曰、前日僧猶在此、急須水洒杖逐、齋退歸庵、見師猶屹不一レ去、遂延以處置、一語投契、孳々參請、

〔志士淸談〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0142 信長〈○織田〉放鷹ニ出テ、鶉ノ落草アリ、秀吉微キ時、コレヲ守ラシム、先左右ノ鶉ヲ取セテ 後、秀吉ノ守所ニ抵ル、鶉遠ク這テ、犬ヲ入テモナシ、信長怒テ、汝猿何ヲカ守レルヤ、立ナガラ睡リタルカ、吾聞ク、眞蒋ヲ以テ、皮膚ヲ摩スレバ、大ニ腫ト、命ジテ摩セシム、衣、ヲ脱ギ、裸ニナシテ摩スルニ、皮膚細截シテ血流ル、家ニ歸テ後チ、身熱シ腫疼コト甚シ、秀吉、其夜更番ニ當レリ、城ニ住テ宿ス、怨言慍色ナシ、明日信長見テ、笑テ召之、秀吉目モ腫レ塞ガハテ、見ルコト能ハズ、足モ腫レ滿テ、歩コト不堪、楹ニ觸レテ仆ル、起テ匍匐シテ前ム、皆誹テ曰、何ゾ自ラ愧ルコトヲ知ラザランヤ、或曰、大志アル者ハ、小辱ヲ憂ヘズ、是レ韓信ガ胯下ノ俛出ニ同ジ吾人必ラズ彼ガ下風ニ附カザル者ハアラジト、果シテ其言ノ如シ、

〔近代正説碎玉話〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0143 安藤帶刀忠義篤厚之事
源君〈○德川家康〉同ク召使ハレタル人、皆一萬石ヲ賜リタル中ニ、安藤帶刀直次ノミ、横須賀五千石ヲ賜リヌ、〈○中略〉十年餘ヲ過テ、成瀨安藤等、御前ニ伺候スル次デニ、汝等面々一萬石ノ領知ヲ與ヘヌ、仕置キ法度、イカヾスルゾト御尋アリ、成瀨、臣等皆一萬石ナリ、安藤ハタヾ五千石也ト白ス、源君驚カセ給ヒテ、〈○中略〉五千石十餘年ノ米穀ヲ積デ、一度ニ下シ賜リス、

〔藩翰譜〕

〈二/長澤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0143 或時、若君〈○德川家光〉大殿の御寢殿の屋の軒に、雀の巢をくひ、子を生みたりしを、こなたより御覽じて、慾しがらせ玉ひ、長四郎とりて參らせよとあり、長四郎〈○松平信綱〉年十一歲のときなれば、いかにも叶ふまじきよし辭しければ、晝は驚ろきて、飛去る事もありなん、巢くひし所よく見置て、日暮てこなたの屋の軒の端さして登り、かしこにしのび行て取べし、おとなは身おもく足音もしなん、たゞ汝取てまゐらせよと、候ふ人々の敎へしかば、力なく、日暮てあなたの屋よりして、つたひ〳〵ゆく、旣に御寢殿の軒に至りて、取らんとせしに、踏損じ、御つぼの内へどうとおつ、將軍家〈○德川秀忠〉御刀取て、障子引あけ玉へば、御臺所燈火とつて、出させ玉ひ、御覽ずるに、長四郎にて在けり、將軍家不思議に思召て、汝は何しに爰には來りぬるぞと、御尋ありしに、今日の晝、此 御殿の屋の軒端に、雀の子うみたるを遙かに見て、餘り慾しさに、取りに參りて候と申、將軍家いや〳〵おのれが心にはあらじ、誰がをしへけるぞと、いろ〳〵に御推問あれども、幾度も初め申せしことばにかはらず、おのれ事の由有のまゝに申さず、爭ひぬるこそ、年比にも似ぬ、不敵なれと仰られて、大きなる袋の中におし入れて、口を御手づから封じ給ひ、柱にかけさせ給ひ、事の由ああのまゝに申さゞらん程は、いつまでも、かくて候へと仰けれども、猶爭そひ申す事初めの如く、夜旣に明て、常の御座に出させ給ふ、御臺所は夙く心得させ給ひて、かれが幼なき心にて、身のかなしさをかへりみず、竹千代君の仰なりと申さゞる事を、深く感じたまひて、女房達に仰せて、朝がれい召して、是たうべよとて給りて、又御手づから、元の如くにぬはせ給て、置させ給ふ、晝の程、將軍家入らせ給ひ、又推問ありしかど、終にことばをかへず、御臺所御わびことありしかば、さらば向後の事を、愼むべきよし仰せて、御ゆるしあり、將軍家御臺所にむかはせ玉ひ、彼が今の心にて生立たらんには、竹千代の爲には、双なき忠臣にて侍らんものぞとて、殊の外悦ばせ給ひしとなり、

〔甲子夜話〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0144 又此侯〈○松平治政、號一心齋、〉ノ事ヲ聞タルハ、在職中ノ事ナリ、中澤道二トテ、心學ノ一流ヲ唱へ、一時都下ニ鳴レリ、當時權門勢家モ多ク延致ス、又假字ノ著述多シ、曰フ、人ハトカク堪忍第一ナリ、堪忍ヲ旨トセザレバ事成ラズト書テ、道歌ヲ載ス、
堪忍ガナル堪忍ガ堪忍カナラヌ堪忍スルガ堪忍、世ヲ以テ賞僅シテ皆相誦ス、一心齋心ニ悦バズ、一日道ニヲ其邸ニ招ク、期スルニ巳牌ヲ以テス、道二至テ謁ヲ通ズ、謁者不出、ヤヽアリテ出、道二來レルコトヲ吿グ、謁者入テ又不出コト良久シ、日已ニ午ニ及ベドモ如初、道ニヤヽ空腹ニナリ、人ヲ呼べドモ人無シ、トカクスル中ニ自鳴鐘ノ音聞エ申時ナリ、道二シキリニ人ヲ呼ブコ屬シ、而後用人除々トシテ出ヅ、道二乃應召シテ來レルコトヲ言フ、用人入テヤガテ奧ニ通ラル ベシト云、道二ハ主人出邀ニヤナド、心中ニ思ナガラ入ルニ、案外ニ酒宴ノ席ニテ、杯盤狼藉タリ、道二至ルト、坐客ノ中卽一盃ヲ獻ゼン迚、數合ヲ容ベキ大盃ヲ傾テ、道二ニサス、少婦起テ滿酳ス、道二ハ下戸ナリト言テ辭ス、客强テ不止、道二固ク辭ス、客怒リテ人ノサス杯ヲ飲マザルハ不敬ナリト云テ、盃酒ヲ道ニノ頂ニ灌グ、道二大ニ嗔リ、道ノ爲ニ人ヲ招キ、カヽル擧動ハト云テ坐ヲ起ントス、時ニ一座ノ諸人同音ニ、ナラヌ堪忍スルガ堪忍ト、高聲ニ唱へ、足下ノ心學未熟ナリトテ、ドツト笑タリ、道二大ニ愧テ逃還レリト、

克己

〔承應遺事〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0145 謝上蔡の語に、克己須性偏難克處克將去とあるを稱し給ひ、常に御工夫を用させ給ひけり、御生質〈○後光明〉雷をおそれ給ふに、これも性偏なる處より、かくはあるとて、雷はげしかりける時、御簾のもとに出させ給ひ、御靜座まし〳〵けるに、御神色かはせらられず、雷やみていらせ給ひけち、其後雷の御おそれなかりしとなん、

〔類聚國史〕

〈六十六/人〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0145 弘仁十四年七月甲戌、越後守從四位下伴宿禰彌嗣卒、〈○中略〉頗便歩射、苦好鷹犬、爲人疾惡、不人、晩而改操、暴慢不聞、

〔三代實錄〕

〈四/淸和〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0145 貞觀二年十月廿九日乙巳、正三位行中納言橘朝臣岑繼薨、岑繼者、贈太政大臣正一位淸友朝臣孫、而右大臣贈從一位氏公朝臣之長子也、氏公朝臣是仁明天皇之外舅、岑繼所生、是仁明天皇之乳母、故天皇龍濳之日、陪於藩邸、稍蒙寵幸、岑釋身長六尺餘、腰圍差大、爲性寬緩、少年愚鈍、不文書、天皇見其無一レ才、歎曰、岑繼也、是大臣之孫、帝之外家、若有才識、公卿之位庶幾可企、何其不書之甚哉、岑繼竊聞、慙恐於心、乃改節勵精、從師受學、書傳略通書旨

〔文會雜記〕

〈二上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0145 一春臺ハ元來性ノ急ナル人ナレドモ、學問ニテ子リツメテ、從容トシテヲルコトヲ習テ、久シキニタユルコト得モノナリ、ソレユへ會業ナドノ日、外ヨリ來ル狀ナドヲ書コト、隨 分ユル〳〵書レタリ、スベテソノ如クニテ、一生ノ間ウロタヘタルコトヲ見スルコトナシト、元鱗ナド語レリ、

〔石田先生事蹟〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0146 先生〈○石田梅巖〉曰く、われ性質理屈者にて、幼年の頃より友にも嫌はれ、只意地の惡しき事有しが、十四五歲の頃、ふと心付て是を悲しく思ふより、三十歲の頃は、大概なほりたりと思へど、猶言の端にあらはれしが、四十歲のころは、梅の黑燒のごとくにて、少し酸があるやうにおぼえしが、五十歲の頃に至りては、意地惡しき事は大概なきやうにおもヘり、
先生五十歲の頃までは、人に對し居給ふに、何にても意にたがひたる事みればにがり顔し給ふ樣に見えしが、五十餘になりたまひては、意に違ひたるか、違はざるかの氣色少しも見え給はず、六十歲の頃、我今は樂になりたりとのたまへり、
○按ズルニ、飮酒ヲ節スル事ハ、飮食部酒篇ニ』載セタリ、


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Last-modified: 2022-06-29 (水) 20:06:24