p.1184 義ハ、ヨロシト訓ズ、行テ其宜シキニ合フヲ謂フナリ、我邦古來義ヲ尚ブノ風アリシガ、武門興ルニ及ビテハ、最モ斯道ヲ重ンジ、以テ武士ノ精華トセリ、
p.1184 義〈ヨロシ〉
p.1184 義〈キ仁義〉
p.1184 義〈上俗下正〉
p.1184 己之威義也、〈言己者以二字之从一レ我也、己中宮象二人腹一、故謂レ身曰レ己、義各本作レ儀今正、古者威儀字作レ義、今仁義字用レ之、儀者度也、今威儀字用レ之、誼者人所レ宜也、今情誼字用レ之、○中略〉从レ我从レ羊、〈威儀出二於己一、故从レ我、董孑曰、仁者人也、義者我也、謂仁必及レ人、義必由レ中斷レ制也、从レ羊者與二善美一同意、宜寄切、古音在二十七部一、〉
p.1184 義宜也、裁二制事物一、使レ合レ宜也、
p.1184 義は許等和利と訓來れり、〈萬葉にしか訓り日本紀に義字理字をもかく訓たり、〉言の本は事割(コトワリ)、また言割の意にて、理を正し事を割(ワカ)ち斷(サダ)むるをいへり、〈ことわり、ことわる、ことわらむと活用けり、〉また余斯とも訓む、〈余斯は、余呂斯の省言なり、〉さて義字の下に屬べき名どもを、多く列たる中に、理(コトワリ)、廉正(タヽシ)、直(ナホシ)、嚴(オゴソカ)、善、潔、信、貞などの意は、常に忘るべからぬ事にざりける、
p.1184 義は無理のなきやうに、萬事を理にかなふやうにするなり、
p.1184 義
義トハ、説文曰、己之威儀也ト云リ、イギトハ行住坐臥ノ四威儀ゾ、行モ住モ坐スルモ臥モ、威儀ノハツタトシタルヲ義ト云ゾ、釋名曰、義宜也、裁二制事物一使レ合レ宜也ト云テ、義ト云ハ宜也、義字ノコヽロハ宜ト云字ノコヽロゾ、裁二制事物一使レ合レ宜ナリト云ハ、萬事萬物ノヨロヅノコトヲヨクコトハ リテ、ソレゾレニヨロシキヤウニスルト云コトゾ、サルホドニ韓退之ハ、行而宜レ之、之謂レ義ト云タゾ、朱文公ハ心之制、事之宜也ト云タゾ、心ノ制トハ、コヽロニテヨクコトハリテ、コヽロノワキへユクヲヲサヘテ、義ニスルト云心ゾ、事宜也トハ、萬事ノコトヲコ、コニコトハタテ、ヨロシキヤウニスルト云コヽロゾ、心ノ制ト云ヲ斧ニタトヘタゾ、タトヘバヨクモノヽキルヽ斧ノアルガ、竹ナリトモ木ナリトモアラバ、二ツニサツトワルゾ、人ノ心ニ天理自然ノ性アリテ、ヨロヅノコトノ義ト、不義トヲ、ワクルヤウナゾ、サルホドニ斧ノ竹ヲ二ツニワルヤウナゾ、サルホドニ人ゴコロノ、公平正大ニシテ、毛ノサキホドモ人欲ノ私ヲマジヘズシテ、義理ヲギリトスルハ義ゾ、ソノ義ノヨロシキトコロトハ、ナニゾナレバ十義ト云テ、マヅ十ノ義アルゾ、父子、兄弟、夫婦、長幼、君臣ノ十ノ義ゾ、父タル人ハ、慈悲アリテ子ヲアハレムガヨロシキ處ゾ、アハレマズンバスデニ義ニアラズ、子タル人ハ、父母ニ孝行ナルガヨロシキ處ゾ、孝ナクンバ、子タルモノヽ義ニアラズ、兄タル人ハ、ヲトヲトニタイシ、ヤハラグガヨロシキ處ゾ、弟タルモノハ、兄ニシタガフハヨロシキ處ゾ、孟子ニ義之實、從レ兄是也ト云テ、ヲトヲトタルモノハ、兄ニシタガフモノゾ、サルホドニ義ト云モノヽ眞實ハ、兄ニシタガフヲ云ト孟子ノイハレタゾ、夫タルモノハ、メニタイシテ義ヲマホルガ、宜キ處ゾ、婦タル人ハ、貞心ニシラフタゴヽロナク、夫ニシタガフガ宜キ處ゾ、老タル人ハ、イトケナキヲメグムガ義ゾ、イトケナキモノハ、老タル人ニシタガフガ義ゾ、君タル人ハ、仁愛アリテ臣下萬民ヲアハレムガ宜キ處ゾ、サナクンバ君タル人ノ義理ガチガンタゾ、臣タル人ハ、君ニ忠ヲツクシ、敬ヲツクスガ宜キ處ゾ、サナクンバ義ニアラズ、不忠不敬ナラバ、臣タル人ノ義理デナイゾ、サルホドニ君ノ一大事ニハ、一命ヲモハタスハ臣ノ義ゾ、コレヲ十義ト云ゾ、孟子ニ生亦我所レ欲也、義亦我所レ欲也、二者不レ可レ得レ兼、舍レ生而取レ義者也ト云レタゾ、イフコヽロハイキテイルモ、ワレガ子ガフトコロナリ、マタ義理ト云事モ、ワガ子ガフ處也、ヲナジクハイキテイテ、義理ニソ ムカヌハヨケレドモ、生ト義トノニツヲ、兼テ得事ガナラズンバ、死シテ義理ヲトランゾ、義理ニソムヒテハ、イキテモ詮ガナイホドニトイフコヽロゾ、〈○下略〉
p.1186 義トハ、心之制、事之宜トテ、本心ニムマレツキテ、物ヲ決斷スル心アリ、ソトヘアラハルヽトキハ、萬事萬物ニツイテ、ヨロシキ道ニシタガフテ、行フヲ云フナリ、ヨロシキトハ、義理ヲシルコトナリ、義理ヲシラヌハ畜生ナリ、此義理本心ニソナハリタル證據アルナリ、只今カツ、エ死ナントスルニ、人來リテ食物ヲアタヘンニ、アシクキタナク雜言シテ、アタヘルナラバ、イカニウエ死ヌルトモ、誰レカクフベキヤ、コレ義ノ發スル所ナフ、カヤウニスコシノ所ニテハ、義理ノ心ガ發シテ、命ヲスツレドモ、大ナル欲心ニナリテハ、義理ヲ忘レテウクルモノナリ、義理ヲヨクシリヌレバ、偷盜戒ヲタモツナリ、
p.1186 義
中庸曰、義者宜也、尊レ賢爲レ大、朱子章句云、宜者分二別事理一、各有レ所レ宜也、周子も宜曰レ義、釋名曰、義者宜也、裁二匍事物一使レ合レ宜也、諸説皆宜しきを以て義とす、宜しきとは、萬事萬物の品にしたがひ、其の理をわきまへて相應するを云ふ、朱子は義者心之制、事之宜といへり、制とはたちわかつ意、裁判するなり、心の制とは心中に善惡をわかつ所の理あるを云ふ、義の心にあるは利刀の如し、物來れば刀を以てたてば二つとなる、善惡を決斷することかくの如し、是心の制なり、義の體とす、事之宜とは、諸事に相應して、其の理の宜しきにしたがふを云ふ、是義の用とす、事之宜は心の制ありて、善惡を花ちわかちて後のことなり、
p.1186 義〈八則〉
義亦先王之所レ立、道之名也、蓋先王之立レ禮、其爲レ敎亦周矣哉、然禮有一定之禮一、而天下之事無レ窮、故又立レ義焉、傳曰、詩書義之府也、禮樂之則也、禮藥相須、樂未レ有二離レ禮孤行者一、故曰禮義也者人之大端也、禮 以制レ心、義以制レ事、禮以守レ常、義以應レ變、擧二此二者一、而先王之道、庶乎足二以盡一レ之矣、故古者多以二禮義一對言、爲レ是故也、人多知三禮爲二先王之禮一、而不レ知三義亦爲二先王之義一、故其解皆不レ通矣、蓋義者道之分也、千差萬別各有レ所レ宜、故曰義者宜也、先王旣以二其千差萬別者一、刷以爲レ禮、學者猶傳下其所二以制一之意上、是所レ謂禮之義也、而其以二空言一傳者、是所レ謂義也、故禮義皆自レ古傳レ之、豈非二先王之義一乎、〈○中略〉又人多以二義理一並言、如三程子曰二在レ物爲レ理、處レ物爲一レ義是也、是亦不レ知レ義者之言也、假如下日行可二百里一而不上レ可二二百里一是理也、必求二其二百里一是非レ理也、一日而百里、二日而二百里、是謂三之合一レ理而已矣、未レ得レ謂二之合一レ義焉〈○中略〉又如二老子所レ謂失レ遒而後德、失レ德而後仁、失レ仁而後義、失レ義而後禮一、是雖レ譏二聖人之道一乎、亦可レ見下古人以二古言一言上レ之、其意以仁義禮一爲二先王所一レ造、爲レ非二自然之道一、故有二是言一巳、吿子義外之説亦然、若使二吿子果不一レ知レ義、則孟子必辯レ之、觀レ於下孟子不レ爾而但辯中其内外上、則知二吿子之言不一レ誤也、是老子吿子孟子皆以二先王之義一爲レ義也、孟子曰、羞惡之心、義之端也、又曰、人皆有レ所レ不レ爲、達二之於其所一レ爲、而義不レ可二勝用一也、是裁割斷制之説所本也、夫人皆有二羞惡之心一、是故匹夫匹婦自經二於溝瀆一以死、是豈義哉、且人之所レ不レ爲者、豈皆合二於義一乎、孟子而以レ此爲レ義、亦妄已、故知二孟子之意必不一レ爾也、古之君子行二一事一出二一謀一、不レ取二諸其臆一、而必稽二諸古一、援二先王之禮與一レ義以斷レ之、是以古人有レ所二論説一、必引二誌書一者、以二斯道一也、又如二仁齋先生一以レ義爲レ德、其言曰、爲二其所一レ當レ爲、而不レ爲二其所一レ不レ當レ爲、之謂レ義、是據二孟子之言一爲二是解一、然其所レ謂所レ當レ爲所レ不レ當レ爲者、吾不レ知自取二諸其臆一歟、將取二諸先王之義一歟、若自取二諸其臆一、則亦朱子之意而易二其辭一者已、若取二諸先王之義一、則豈可二以爲一レ德乎、其謬可レ見已、鳴呼先王之制レ義、誠亦上無レ所レ稽、而獨取二諸其心一、是其所三以爲二聖人一也、後之君子、學成二其德一者、其或一二取二諸其心者、亦何無レ之、然是又非二人人所一レ能矣、無二規矩一故也、後儒之敎レ人、乃含二先王之義一、而使三自取二諸其臆一、豈不レ謬乎、是無レ他、不レ知二孟子之言皆有レ所レ爲而言一レ之、而必欲下援二其言一以爲上レ解故也、辟下諸譬以レ藥治レ病、病愈後猶服二其藥一弗上レ已、惑之甚者也、
p.1187 五常の事 一義といふは、義理あひの事なり、我勝手にわろくして、めいわくにおもふ事も、すべき筋の事には必する、我勝手によくとも、めいわくにおもふとも、すまじき事をば、決してせぬを義といふ也、
p.1188 凡孝子順孫、〈○註略〉義夫(○○)節婦、〈謂辛威五代同レ爨、郭雋七世共居之類、義夫也、衞共姜、楚白姫之類節婦也、〉志、行聞二於國郡一者申二太政官一、奏聞表二其門閭一、〈○註略〉同籍悉免二課役一、有二精誠通感一、〈○註略〉者別加二優賞一、
p.1188 若狹與左衞門子兄弟
若狹大飯郡小堀村に與左衞門といへる農父あり、わかき時より慈悲深く、人もたゞならずおもひけるに、ある夕暮、二人連の女道者門にたち、〈○中略〉一人の女、懷より男兒を出して、便なきまうしことにさふらへども、旅はものうきならひなるに、女の足のはか〴〵しからず、〈○中略〉あはれ此子を養ひ給らば、心よく巡禮仕候はんといふ、〈○中略〉さて夫婦其子を宗四郎(○○○)と名づけ、天よりあたへ給ふ所なりとて、大切に養育せしが、此後八年をへて實子をまうけ、名を礒八(○○)とつけたるが、兄弟むつまじく、やう〳〵長じて、ともに稼稷をつとめ、父母に仕ふること孝順也、後礒八はある人に奉公してありしが、宗四郎きかず、おのれはもと巡禮の子にして、所生もしられぬものなり、礒八は肉を分られしものなれば彼に讓り給へといふ、父此よしを弟にかたれば、いなもとはしらず、吾生れぬさきよりの兄也、家を繼たまふこそ順なれといふ、宗四郎かたくうけがはず、おのれ此家にあらば、いつまでも此論絶じ、されども跡をかくさば、父母の哺養なしがたからん、いかにせましと思惟して、つひに隣村の豪農をたのみて奉公し、給米をこと〴〵く父母におくりて、家には歸らず、しかる間與左衞門老病にて、むなしくなりしかども、家をつぐものなく、村長もてあつかひて、兄弟相讓る旨を官に訴へければ、國君感賞、し給ひ、宗四郎には、米若干を賜ひて家を繼しめ、剰税租を免し給ひ、弟磯八には別に月俸を賜、帶刀をゆるして褒美し給ふとぞ、
○按ズルニ、義夫ヲ賞スル事ハ、孝子、順孫ト同ジク恒典トナレリ、孝篇ヲ參看スベシ、
p.1189 八十七年〈○仁德〉爰仲皇子畏レ有レ事、將レ殺二太乎一〈○履中、中略、〉爰瑞齒別皇子〈○反正〉歎之曰、今太子與二仲皇子一並兄也、誰從矣誰乖矣、然亡二〈○亡恐去〉無道一就二有道一、其誰疑レ我、則詣二于難波一、伺二仲皇子之消息一、〈○下略〉
p.1189 九年四月、遣二武内宿禰於筑紫一、以 二察百姓一、時武内宿禰弟甘美内宿禰廢レ兄、卽讒一言于天皇一、武内宿禰常有下望二天下一之情一、今聞在二筑紫一而密謀レ之曰、獨裂二筑紫一、招二三韓一令レ朝二於己一、遂將レ有一天下一、於レ是天皇則遣レ使以令レ殺二武内宿禰一、時武内宿禰歎之曰、吾無二貳心一、以レ忠事レ君、今何禍矣、無レ罪而死耶、於レ是有二壹伎直眞根子(○○○○○○)者一、其爲レ人能似二武内宿禰之形一、獨惜二武内宿禰無レ罪而空死一、便語二武内宿禰一曰、今大臣以レ忠事レ君、旣無二黑心一、天下共知、願密避レ之參二赴于朝一、親辨レ無レ罪而後死不レ晩也、且時人毎云、僕形似一大臣一、故今我代二大臣一而死之、以明二大臣之丹心一、則伏レ劔自死焉、時武、内宿禰獨大悲レ之、竊避二筑紫一、淨レ海以從二南海一廻之泊二於紀水門一、僅得レ逮レ朝、乃辨二無罪一、
p.1189 根井小矢太は伊東九郎〈○祐淸〉に組んでどうと落つ、伊東九郎をとて押へて首をかく、この伊東九郎は源氏に付くべかりけるが、平家へ參る事は、父伊東入道、〈○祐親〉兵衞佐〈○源賴朝〉を討たんと内々議しけるを、ひそかに佐殿に吿げ奉りて、伊豆の御山へ逃したりしによて、奉公に兵衞佐殿坂東を討取て、鎌倉に居住の初、いとう入道日頃のあだのがれ難さに、自害してうせし時、九郎を召出して、汝は奉公の者なりとて、御恩あるべきよし仰せられければ、九郎申けるは、誠に御志畏り入て存候へども、父の入道御かたきとなりてうせ候、又そめ子として世に候はんこと面目なくおぼえ候、昔父の入道君をい參らせんとし候し時、濳に吿げ申て候じ事は、一切末に御恩を蒙らんと思ひよらず候き、はやく首を召さるべく候、然らずばいとまを給て、京ヘまかりのぼり候て、平家に付き奉て、君を射奉るべしと申ければ、兵衛佐殿打ちうなづきて、奉公の者なれば、いかでか切べき、汝一人ありともそれによるまじ、申所返々神妙也、早く平家につけとていとまをえさせつ、よて九郎平家に付き奉りて北陸道に下りて、つゐにけふ討れぬるこそあ はれなれ、
p.1190 安東入道自害事附漢王陵事
安東左衞門入道聖秀ト申セシハ、新田義貞ノ北臺ノ伯父成シカバ、彼女房義貞ノ狀ニ、我文ヲ書副テ偸ニ聖秀ガ方ヘゾ被レ遣ケル、〈○中略〉空キ跡ヲ見廻セバ、今朝マデハ奇麗ナル大厦高墻ノ構、忽ニ灰燼ト成テ、須臾轉變ノ煙ヲ殘シ、昨日マデ遊戯セシ親類朋友モ多ク戰場ニ死シテ、盛者必衰ノ尸ヲ餘セリ、悲ノ中ノ悲ニ、安東泪ヲ押へテ惘然タル處ニ、新田殿ノ北ノ臺ノ御使トテ、薄樣ニ書タル文ヲ捧タリ、何事ゾトテ披見レバ、鎌倉ノ有樣、今ハサテトコソ承候へ、何ニモシテ此方へ御出候へ、此程ノ式ヲバ身ニ替テモ可二申宥一候ナンド樣々ニ書レタリ、是ヲ見テ安東大ニ色ヲ損ジテ申ケルハ、栴檀ノ林ニ入者ハ、不レ染衣自ラ香シトイヘリ、武士ノ女房タル者ハ、ケナゲナル心ヲ一ツ持テコソ、其家ヲモ繼、子孫ノ名ヲモ露ス事ナレ、〈○中略〉今事ノ急ナルニ臨テ、降人ニ出タラバ、人豈耻ヲ知タル者ト思ハンヤ、サレバ女性心ニテ縱加樣ノ事ヲ被レ云共義貞勇士ノ義ヲ知給ハザル事ヤアルベキ、可レ被レ制、又義貞縱敵ノ志ヲ計ラン爲ニ宣フ共、北方ハ我方樣ノ名ヲ失ハジト思ハレバ、堅可レ被レ辭、只似ルヲ友トスルウタテサ、子孫ノ爲ニ不レ被レ憑ト、一度ハ恨、一度ハ怒テ、彼使ノ見ル前ニテ、其文ヲ刀ニ拳リ加ヘテ、腹搔切テゾ失給ケル、
p.1190 瓜生判官老母事附程嬰杵臼事
里見伊賀守、瓜生兄弟、甥ノ七郎ガ外、討死スル者五十三人、被レ疵者五百餘人也、子ハ父ニ別レ、弟ハ兄ニ殿レテ、啼哭スル聲、家々ニ充滿リ、去共瓜生判官ガ老母ノ尼公有ケルガ、敢テ悲メル氣色モナシ、此尼公、大將義治〈○脇屋〉ノ前ニ參テ、此度敦賀へ向フテ候者共ガ、不覺ニテコソ、里見殿ヲ討セ進セテ候へ、サコソ被二思召一候ラメト、御心中推量リ進セテ候、但是ヲ見ナガラ、判官兄弟何レモ無レ恙シテバシ歸リ參リテ候ハヾ、如何ニ今一入ウタテシサモ無二遣方候ベキニ、判官ガ伯父甥三人 ノ者、里見殿ノ御共申シ、殘ノ弟三人ハ、大將ノ御爲ニ活殘リテ候ヘバ、歎ノ中ノ悦トコソ覺テ候へ、元來上ノ御爲ニ、此一大事ヲ思立候ヌル上ハ、百千ノ甥子共ガ、被レ討候共、可レ歎ニテハ候ハズト、涙ヲ流シテ申ツヽ、自酌ヲ取テ、一獻ヲ進メ奉リケレバ、機ヲ失へル軍勢モ、別ヲ歎ク者共モ、愁ヲ忘レヲ勇ミヲナス、抑義鑑房ガ討死シケル時、弟三人ガ續テ返シケルヲ、堅ク制シ留メケル謂レヲ、如何ニト尋ヌレバ、此義鑑房、合戰ニ出ケル度毎ニ、若此軍難儀ニ及バヾ、我等兄弟ノ中ニ、一兩人ハ討死ヲスベシ、殘ノ兄弟ハ命ヲ全シテ、式部大輔殿ヲ取立進スベシトゾ申ケル、是モ古ノ義ヲ守リ、人ヲ規トセシ故也、
p.1191 殊更タメシモナキ哀ナリシハ、和泉ノ堺ニ坐シケル奧州〈○山名氏淸〉ノ御臺ノ有樣也、〈○中略〉御輿ノ内、アラ〳〵トハタラキ給フ樣ニ聞エシカバ、人々アヤシミテ、急ギスダレヲカヽゲ見進セケレバ、小袖ノ袖ノ下ニ刀ヲ取副テ、自害ヲシテ伏給ケル、〈○中略〉御自害半ニテ未ダ事キレサセ給ハズ、〈○中略〉正月〈○明德三年〉四日ノ暮程ニ、根來へ入進セタリケリ、能々痛ハリマイラセテ、タスカリ給フベキ人ニテ坐シケルヲ、藥ノ事ハ申ニ及バズ、更々湯水ヲ御マイリ給ハネバ、レウヂノ事モ絶ハテヌ、只時ヲ待進給ヘリ、カヽル所ニ宮田ノ右馬助入道、舍弟ノ七郎、何トシテカ知リ給ケム、自害半ニテ根來ニ坐ス由聞給テ、正月七日ノ暮程ニ忍テ尋來リ給ケリ、御臺ノ御カイシヤクニ、難波ノ三位殿ト申女房ノ有ケルニ、尋寄テ宣セケルハ、不思議ニ今度ノ合戰ニ、敵御方ニ推隔テラレテ、故殿〈○山名氏淸〉ノ御共申候ハヌ事口惜ク覺テ、浮世ニ住ベキ心地モ無由、昨日今日マデ召仕ツル者共、皆々心替リシテ敵ニ成ヌレバ、彌道セバク成テ、立寄方モ無程ニ、兄弟ナガラ出家シ、樹下石上ノ宿ヲシ、殿ノ跡ヲモ訪ヒ進セムト思テ侍レバ、上樣御自害ノ由承テ、遣方モ無キ思ノ餘リニ、今一目見進セント存候テ尋參候也、惜カラザル命、中々ナガラヘテ、ツレナク見エ進セム事ハ耻入タル御事ナレ共、御目ニ懸リタキ由申入テト宣ケレバ、難波ノ三位殿御前ニ參リテ、宮田 殿、北殿コソ是へ參ラセ給テ候へ、大殿ノ御事ハヨシ〳〵力無御事ト思食セ、此御方々恙ガ無參ラセ給タル御事ハ、歎ノ中ノ御悦ナレバ、トク〳〵見進セ給テ、御心ヲモ慰テ、御藥ヲモキコシメシテ、御心地ヲモ助ケ給テ、御サマヲ替サセヲハシマシ侍ラヘト申ホノメカシケレバ、御臺少シ見上給タリケル御目ヲ塞デ、貌ヲフリテ宣ケルハ、加樣ニ云ツギ給人ノ心中モハヅカシサヨ、先案ジテモ御覽ゼヨ、弓矢取人ノ子ノ二十ニ餘リ、テ、父ノ共ニ軍ノ庭へ出テ、目ノ前ニテ親ノ討ルルヲ見捨テ逃テ、身ノ置所無マヽニ、入道スルダニモウタテシキニ、人ノ別ノ悲シサニ、タメシナキ身ノ自害シテ、旣ニ臨終ニ取向ヒタル母ニ見參セントハ何ゾヤ、父ニ增リテ思フベキ、母ノ身ニテアラバコソ、其家ニ馴ヌ人ナリ共、父ヲ見捨テヨモ逃ジ、況ヤ弓矢ヲ家トスル面々ノ身ニテノ振舞ヲ、我身ニ案ジテモ見給ベシ、猶子ニシタル小次郎ダニモ、ウレシキ道トハヨモ思ハジ、耻ヲ思ヘバ、力ナク親ト同ク討死シテ、敵御方ニホメラレキ、是程ノ未練ノ人々ヲ、子ト申セバトテ、今生ニテ見參セム事ハ叶マジ、今ハ中々心ノハタラクニ、我ニ物ナ宣ソトテ、其後ハ絹引カヅキテ、ツヤ〳〵物ヲモ宣ハズ、〈○中略〉正月十三日ノ墓程ニ、終ニ墓無成給ヌ、
p.1192 乳母の女房〈○足利持氏子春王安王乳母〉走り出、輿のながえに取つきて、〈○中略〉宵の酒もりに痛くねぶらせたまふと思ひ、簾かき上みれば、桶二ツきぬ引懸て見えにけり、めのとの女房是をみて、やがて消入物いはず、〈○中略〉かくて京都にも著きしかば、御實撿ありて後、めのとの女房をも强問有べしとて、奉行が出て〈○中略〉いかに〳〵ととふ、乳母の女房承り、さん候、御むほんのくみ人數は、女の身にて候へば、更にしらず候、さて若君とては只二人御座有しを、かやうになさせ給ふ上は、何の不足の御座有べきと、只さめ〴〵となきいたる、奉行人數是を見て、さあらば急ぎいためてとへ、承ると申て、錐にて膝をもませらる、其外七十餘度の拷問は、目もあてられぬしだい也、やゝありて女房は、物申さんと申、暫く拷問をとゞむ、あらむざんやこの女房、高聲に念佛十返ばかり唱 へ、みづから舌を喰切て、かしこへこそは捨にけれ、奉行の人々是をみて、いかに問責むればとて、舌有てこそ物をばいふべけれとてはなされたり、あら痛しやこの女房、泣々東山こさんの僧に參り、〈○中略〉
きえはつる露の命の終りには物いはぬ身となりにける哉、とかやうにかきとゞめ、つゐに空しくなりにけり、
p.1193 香川己斐討死之事
香川〈○行景〉己斐(コヒ)〈○師道〉ハ粟屋、伴、品川ニ向テ、元繁〈○武田〉御討死無二是非次第也、然バ當國ノ探題、源家ノ正統武田殿ガ討死シ給ヒタルニ、弔合戰セザランハ、武田ノ瑕瑾ト云、且ハ付從タル國人等ノ耻辱ニテ候、イザサセ給へ、今夜是ヨリ引返シ、敵陣ニ夜合戰ヲカケ、討死スベキニテ候、〈○中略〉行景辭世ノ歌ヲ詠テ、物ニ書付タリケル、
消ヌ共其名ヤ世々ニシラマ弓引テ返ラヌ道芝ノ露、香川兵庫助行兼、邁齡三十三、守下爲二武田元繁麾下一之義上、今月今日入二敵陣一戰死畢ヌト書タリケレバ、師道モ是ヲ見テ、 殘ル名ニカヘナバ何カ惜ムベキ風ノ木葉ノ輕キ命ヲ、己斐豐後守師道入道宗端、行年六十一、因二同意趣一快死トゾ書タリケル、此一、スル程ニ、遠寺ノ鐘曉ヲ報ジケレバ、兩勢倂セテ三百騎、有田ノ陣へ押寄、大音揚テ、是ハ香川兵庫助行景、己斐入道宗端ニテ候、昨日元繁討死ノ刻ハ、如二御存一、數十町隔テ、相合殿、桂殿ト合戰仕候ツル故、一同ニ戰死スル事ヲ不レ得候、然共一旦幕下ニ屬セシ義ノ難レ捨候ヘバ、弔合戰ヲ遂、一場ノ快死ヲ執テ、萬年ノ義名ヲ留メ、泉下ニ斷金ノ盟ヲ尋候ハント存、是迄馳來テ候、敵陣ノ人々、出合討取テ、高名ニ被レ供候ヘト呼ハリケレバ、元就〈○毛利〉是ヲ聞給テ、彼等ハ、武田與力ノ兵ノ中ニハ、宗徒ノ者共也、幕下ニ屬セシ義ヲ重ンジ、是迄馳來テ討死スル事、誠ニ仁義ノ勇士也、可レ惜兵ヲ生ケテ、幕下ニコソ置マホシケレ、サレドモ當ノ敵ナレバ、出合討取、孝 養慇懃ニ取行候ヘト有ケレバ、〈○中略〉一人モ不レ殘打死ス、骸ハ行人征馬ノ麈ニ埋ムト雖、義名ハ口碑國史ノ間ニ可レ遺ト、敵モ味方モ感稱セリ、〈○中略〉有田ノ頸塚ト云是ナリ、
p.1194 龜井新次郎經久〈江〉最後之暇乞事
鹽冶宮内大輔興久〈○尼子經久子〉ハ、先佐陀ノ城ニ軍士ヲ入置ナバ、經久定テ彼城ヲ可レ被レ攻、然バ其時後詰シテ、一戰ノ裏ニ、可レ決二勝負一トテ、宗徒ノ兵二十七騎、其外雜兵合セテ五百餘人ヲブ籠ラレケル、爰ニ龜井新次郎ハ經久へ最後ノ暇乞セソトテ、馬ニ打乘、侍五六人召具シ、富田ヲサシテ馳行ケルガ、已ニ月山ニ著シカバ、龜井新次郎馳參シテ候ト、先案内ヲ遂タリケリ經久人迄モ有マジ、コレへ通リ候ヘト宣ヘバ、頓テ經久ノ前近ク跪ル、サテ何トナク世間ノ物語ナドシテ、後ニ間近寄テ耳言ケルハ、奉レ賴興久公コソ、云々ノ事候テ、御隱謀ニテ候ヘトテ、始終ノ事共、一ツモ不レ殘語リケレバ、經久、扠ハ興久、安綱ニ遺恨有トテ、吾ニ對シ謀反ヲ企ケル事、言語道断ノ所存也、〈○中略〉汝神妙ニモ吿知セツル物哉、其儘コレニ止リ候へ、此度ノ忠功ニ、恩賞ハ任レ望テ可二宛行一ト有ケレバ、新次郎掉レ頭申ケルハ、イヤトヨ、立身ノ爲ニ、主君ノ隱謀ヲ吿知セ申ニテハ候ハズ、公ハ三代相傳ノ主君ト申シ、殊ニ吾少年ノ昔ヨリ深ク御哀憐ヲ垂給ヒ、御傍ニ被二召仕一、剰サへ御鍾愛ノ興久公ニ被二樽置一、大小ノ儀ニ付テ倚賴ニ被二思召一候由、蒙二嚴命一候キ、此御厚恩身ニ餘リ存候間、如何ニモシテ、興久公ノ御後見仕、一國ノ主トモ、成シ申シ、萬鈞ヨリモ重キ君命ニ違ザラン事ヲコソ存候シニ、豫ニハ引替、興久公斯惡逆至極ノ御隱謀、前代未聞ノ御事、此科偏ニカウ申ス新次郎ガ上ニ迫テ覺候、然其一旦君臣ノ盟ヲ結テ候上ハ、無二是非一彼惡逆ニ奉レ與、體ヲ洒二戰場一、名ヲ朽二苔下一ベキト存定メテ候也、唯今馳參ジ候事ハ、年來ノ御厚恩ノ忝キ餘リニ、最後ノ御暇乞ニ、一目奉レ拜ト存ズルガ爲ニテコソ候ヲ、身ノ罪科ヲ爲レ免、主君ノ隱謀ヲ吿申ス龜井ト被二思召候御心ノ中コソ、返々モ口惜候へ、〈○中略〉三代相傳ノ經久公ノ御重恩ヲ不レ知ニ似タリ、唯御前ニテ、腹切テ死ンヨリ外ニ、又餘 事ナク覺候、然其、某今自害仕候ハヾ、興久公御最後ニ、誰有テカ果敢々々敷、軍ヲモ仕候ベキ、カク申セバ、命ヲ惜ムニ似テ候へ其、杵築大明神モ冥鑑アレ、今度ノ合戰、タトヒ万ニ一ツ、興久公御勝利候共、某ニ於ハ討死可レ仕ニテ候、今生ノ御目見、是迄ニテ候トテ、面モ不レ擡、唯涙ニノミゾ咽ケル、經久モカレガ心ノ中、忠ト云義ト云、一方ナラヌ賢士哉ト思給ケレバ、坐ニ袂ヲ絞ラレシガ、サラバ暇乞ノ盃セントテ、酒ヲ進メラレニケリ、其後暇申テ退出シケルニ門外ヨリ馬ニ打乘、弓取テ矢ヲ番、龜井新次郎仕候ト名乘テ、門ノ柱ニ矢二筋射立、其ヨリ麓ニ下リ、富田ノ町屋ニ火ヲ放チ、富田ニ在合タル人人ヨ、吾ニ近付テ、手並ノ程ヲ試ラレヨト高學ニ訇リ、靜ニ馬ヲ歩マセケル、
p.1195 一瀧川左近將 内、瀧川儀大夫ト云モノアリ、是ハ左近甥ナリ、太閤、瀧川ト取合ノ時、伊勢ノ國ミ子ノ城ニ、人數千二百バカリニテ、タテコモリケルヲ、〈○中略〉四十八日ノ間ニ、太閤方ニ手ヲイ死人二萬バカリ有、城中ニモ手負死人七八百人モ有ケルトナリ、此儀大夫ハ、心剛ニシテ、カクレナキ鐵炮ノ上手ナリ、後ニハ玉藥兵粮モナクテ、十八日持カタメタリ、其内馬ヤ人ヲ食シタリト聞ユ、太閤、儀大夫ヲ惜マセ玉ヒ、左近方へ使ヲ立、〈○中略〉左近、自筆ノ狀ヲ遣ハシケレバ、則城ヲアケ渡シケル、太閤、儀大夫ニ仰ケルハ、左近ハトテモ打果スベシ、我方へ來レ、五萬石遣スベシト仰ケレバ、儀大夫忝キ仕合、身ニ餘リ候へドモ、左近アラン内ハ、タトへ百萬石下サレ候トモ參ルマジ、御免ナサレ候ヘト申ケレバ、其時太閤汝ガ心中ニテハ、左近アラン内ハ見トヾクベシ、其間ハ町人ナリトモセヨトテ、黃金二千枚ニ、感狀ヲ添テ賜リケル、峯ノ城ハ、ワヅカナル小城、龜山ノ城ニハ、バツクンオトリタレドモ、儀大夫心剛ニ分別フカキ人ナリト諸人申ケル、
p.1195 一北條ト今川ト相計テ、遠州武州ノ鹽商人ヲ留テ、甲斐信濃ニ鹽ヲ入ズ、此ヲ以テ信玄ノ兵困ントス、謙信〈○上杉〉コレヲ聞テ、領國ノ驛路ニ令シテ、シホヲ甲信ニハコバシム、我ハ兵ヲ以テ戰ヒヲ決セン、鹽ヲ以テ敵ヲ窮セシムル事ヲセジト云送ラレケレバ、信玄〈○武田〉受ラレタ リ、
p.1196 毛利元就嚴島渡海附同所合戰事
桂能登守元澄一人ハ、俄ニ 氣起ツテ、身心惱亂セシカバ、無二是非一櫻尾ノ城へ歸リヌ、其由來ヲ尋ルニ、先頃陶イマダ岩國永興寺ニ在陣シケル比、元就、〈○中略〉如何ニモシテ、入道宮島へ渡ンズル謀ヲ運シ候ヘト宣ケレバ、元澄畏候トテ、頓テ陶入道へ密カニ云送リケルハ、〈○中略〉陶入道是ヲ聞テ、諸士ヲ集メ、此事若謀ニテヤ可レ有ト被二僉議一ケルガ、先七枚ノ祈誓文ヲ書テ賜リ候ヘト返答セリ、元澄此返翰ヲ元就へ見セケレバ、如何スルヤト問給フ、元澄、假令蒙二神罰一候共、何ゾ厭可レ申トテ、天神地祇ヲ奉レ驚、七枚ノ起請文ヲ書テ、陶入道ヘゾ送リケル、然ル故、此度元澄嫡子左衞門大夫、其外五人ノ子共ニ、汝等ハ島へ御供申、忠戰ヲ可レ勵、若合戰利ヲ失ハレバ、元就ト一所ニ如何ニモ成候へ、努力一人モ生テ不レ可レ歸、吾モ又一同ニ可二渡海一ナレ共、謀トハ云ナガラ、七枚ノ起請文ヲ書タレバ、爭カ入道ニ向ヒ、弓ヲバ可レ引、只於二櫻尾一可二自害一也、然ル時ハ、汝等ハ爲レ君致レ忠、吾ハ又陶ト約盟ノ旨ヲ不レ破、旁以吾一人ハ、當地ニ可レ在ゾト下知シテ、櫻尾ニ止リケリ、扨合戰勝利ノ後此事元就如何思給ラント思、惟シ、嫡子ニハ桂ノ家ヲ不レ讓、元就ノ五男元淸ニ、桂ノ家ノ所領ヲ奉リ、櫻尾ノ城ヲモ讓リケルトカヤ、
p.1196 三樂、〈○太田〉日頃則政公〈○上杉〉へ、參馴タル日蓮僧ヲ以テ、使トシテ被レ申ケルハ、故道灌横死ノ後、幕下ニ候シ、多年相睦ノ處ニ、近頃御家風大ニ違ヒ、國家ヲ可二治給一善政、絶テ不レ有レ之候、第一軍旅ノ法亂レ、賢士勇兵手ヲ失ヒ候ニ依テ、所々ノ御合戰ニ、一度トシテ無二御勝利一候事レ是倂御屋形盲將ニテ、其目利違ヒ、惡人ヲ以テ、大任ヲ授ク給フユエナリ、御家中忠臣ノ士モ、猶可レ有候ヘドモ、讒佞權ニアルガユエ、口ヲ閉、目ヲ塞テ、扨罷有候、凡亡國ノ兆、何事カ過レ之申ベク候、慈ニ於自今以後ハ、別旌ニ罷成、小弱ノ一身ヲ以テ、安危ヲ定可ト存ルニテ候、今迄ハ御威勢尚存シ、東國ノ主 ニテ渡ラセ坐スニ依テ、所レ憚無、此義ヲ申ニテ候、若世上打替リ、御事欠ケモ坐スニ於ハ、何時モ其節ノ御用ヲバ、イナミ申ベカラズ候ト、腹心ヲ殘サズ申サレケル、則政答ケルハ、先以別旌ノコト、貴慮ノ外他段無、其期ニ於テ心底ヲ殘サズ申サレ候、最義ニ當レリ、當家ノ諸將、表裏ヲ構、恩ヲ忘危ヲ捨、北條へ心ヲ通ジナガラ、又平井ヘモ出仕申サレ候條、本意ヲ失ト云ナガラ、今時ノ通例ナレバ、言葉無候、貴坊ノ端言ヲ忘ルト、萬里ノ異、其中ニ在トゾ仰ケル、
p.1197 因幡國取鳥落城之事
吉川式部少輔、森下出羽入道道與、中村對馬守相議し、〈○中略〉福光小三郎を以申けるは、〈○中略〉諸人の餓莩不便なる事、とかう申に及ばれず、然間某等可レ致二切腹一之條、籠城〈○鳥取城〉の者共、悉く助け被レ下候やうに、淺野彌兵衞尉殿を以、申上候へと也、卽福光參て右之趣申ければ、淺野も哀とや思ひけん、涙を推へ御前に參じ、かくと申上けるに、秀吉も感じ給ひて、諸人の命にかはらんと請所、是誠に死すべき節を知、死を輕んずる義士也と卽應二其望一、老たる彼三人が父母幷妻子勿論、雜人原の事は云にも及ず、悉く可二相助一之由被二仰渡一、〈○中略〉廿五日、〈○天正九年十一月、中略、〉三人一度に聲を上、腹十文字に搔切て、朝の露と成にけり、
p.1197 備中國冠城落去幷高松之城水攻之事
秀吉、高松之城のやうす、精しく損益を盡し見給ふに、たゞ水ぜめにしくは有まじきと覺ふなり〈○中略〉とて、〈○中略〉五月〈○天正十年〉朔日より大小之河水を關入給へり、〈○中略〉長左衞門尉〈○淸水〉湖水日々夜夜に增り行をみて、身の行末の日數をかへりみ、兄の月淸入道に云けるは、如レ此水まさりなば、溺死旬日之内外たるべし、兄弟腹を切て諸人を助んと奉レ存は、いかゞ有べきと相談しければ、月淸も内々左も有度と碎啄す、さらば難波近松へ請二其可否一相極んとて、以二兩使一問しかば、尤之事に候、〈○中略〉某二人も同じ道に參り候はんと諾しければ、淸水兄弟老母と妻子に暇を請、かれこれ相極 てのち、使者を筏にのせ出し、秀吉へ右之旨以二書簡一伸二素意一、〈○中略〉兩人此狀を秀吉御前へ持出、此旨かくと申上しかば、其心ざしを感じ給ふて、可應二其求一之條、可レ然樣に相計可レ及二返簡一となり、〈○中略〉難波近松も二之丸に船を待侘て有し處に、月淸長左衞門尉見えしかば、卽同船してさし出ぬ、〈○中略〉前夕秀吉は堀尾茂助をめして、〈○中略〉汝明朝船にて出向ひ、撿見候へと仰せられしかば、堀尾心ある士にて、柳一荷、折一合船につみ出にけり、〈○中略〉かくて酒も過しかば、月淸入道我より始んとおしはだぬぎて、矢聲して腹十文字にかき切てけり、殘る三人もきらよく腹を切、〈○中略〉五日の朝堤を切候へば、水瀧なつて落行聲千雷のごとし、
p.1198 士の節義
明智光秀が織田信長を弑せんとて、丹波路より引返す時、塗中にて旗下の將士へ、隱謀の企ある事を始ていひきかせ、さて一黨同心せんといふ一紙の誓文を出しけるに、軍士たがひに驚き視て、とかうの事に及ばざりしに、齋藤内藏介申けるは、此御企千にひとつも御利運あるべき事にて候はゞ、同意いたすまじく候得ども、御敗亡は見へたる事にて候、それに只今辭退いたし候はば、命をおしみて其場をはづし申にて候、それは士の義にあらずとて、一番に血判しけれは、殘りの人々も一言に及ばず、みな同じけるとなり、孟子に非義之義、大人弗爲といへり、内藏介が義は、大人のせざる所なり、此時光秀をつよく諫てきかれず、光秀が手にかゝりて死なんは、中々まさるべし、萬一光秀本望を達し、永く世にあらば、内藏介いきてをるべきや、いきてをらば前にいひたる事はいつはりなり、よしまた其時自殺するにもせよ、賊黨の名はのがれ得ず、世話にいはゆる、犬死といふべし、畢竟義理の筋にくらき故に、小節に拘り、時勢に逼られて、つゐに賊黨に陷り、極罪に處せられけるは、なげかしき事ならずや、
p.1198 織田信孝、秀吉と弓箭をとる時、信孝の乳の人を、人質に秀吉のもとに出し置れしを、 磔にして誅せらる、かの乳の人の子は、幸田彦右衞門とて、信孝の士大將なり、是より前、秀吉、信孝の長臣等をかたらはるゝに、岡本下野守は同心して、信孝に背きけれども、幸田は背かず、幸田が母誅せらるゝに及て、子の彦右衞門に書を送りて、我今空しく成こと、ゆめ〳〵歎くべからず、親は必子に先たつ習ひなり、唯忠義を守りて、君にな背き參らせそと言遣はしければ、聞人感じあへり、天正十一年四月十八日秀吉の先陣、信孝の地に責入る時、幸田兄弟いさぎよく討死したりけり、幸田が母は、實に漢の王陵が母の志とも云つべし、但し王陵が母は天下をしろしめすべき高祖の事を識たれども、只今危難に迫れる織田家に忠を盡せといへる、眞にありがたきことなるべし、
p.1199 伊豫の國を、小早川〈○隆景〉に被レ下との、世間の沙汰は御座候へつるが、入部久敷不レ被レ仕候、小早川内證にて御理被二申上一候つる事と聞え申候、右之國、小早川に可レ被レ遣御胸は、備中の高松より御登の時、りちぎをたて亂舞など仕陣中能しづめ申候事、後慥に御耳へ入申候故にや、其感と承候、内證の御理は、右の御國直に拜領仕候得ば、則輝元と傍輩に罷成也、自然輝元御意にも相背るゝ儀候ば、上樣より御厚恩蒙り、輝元に一味は難レ成、其子細は、父毛利陸奧守元就遠行時、輝元を不レ可二見放一との親〈江〉の誓紙也、右之子細、上樣〈江〉之御返事にては無二御座一候、御奉行衆迄之理にて御座候、御前御披露は慮外にあたり申候、いかゞ御座候はん哉と被レ申候處、小早川存旨、卒度御耳江被レ立と聞え申候、上樣御意には、彌分別神妙次第、御感被レ成、さらば此伊豫の國は、輝元江可レ被レ遣也、輝元より小早川に被レ遣よとの御内證にて、伊豫の國を請取、小早川に被レ渡候、さらば拜領可レ仕とて入部被レ仕候事、
p.1199 長曾我部殿嫡子左京亮殿を討捕、勝利を得給ふ事、誠に不思儀に御勝也、彦左衞門も、各同前、敵五人討取申候、然ば親父長曾我部殿、濱邊をさして落行ける、船干汐なれば、可レ渡樣 なく、長曾我部殿周章しける處に、家久樣〈○島津〉川上平左衞門を以、長曾我部殿へ御使有けるは、今度御息左京殿打取る事、弓箭之故不レ及二是非一弐第也、然處に船も汐于に成り、難レ浮見へたり、緩々と待レ鹽可レ有二解陣一之由被二仰付一候、誠に名將之御至也と、諸人臧申候、〈帖佐宗辰覺書〉
p.1200 關ケ原合戰附秀秋裏伐の事
俄に軍使を呼て、〈○德川家康〉裏切せらるべき御内通有、急ぎ先手の諸隊長に、此むねを申聞らるべしと云含て、石見〈○平岡〉と稻葉佐渡守と兩先手の陣將、螺を吹せて、旗を立直しける、使番村上右兵衞、先手の隊長松野主馬が陣に行向て、裏伐の下知を傳へければ、松野は大に驚きて、今にも御下知あらば、山下へ下り、關東勢を追立て、功を立んと待かけたるに、思ひがけなき御下知なり、今かく勝負まち〳〵なるに、當手より裏伐せらるゝに於ては、不忠と云、不義と云、取所もなき御行ひならん、しかれば他の先手の諸隊長は、たとひ裏切の軍するとも、我等は素志を空くせず、關東勢と戰ひ、討死せんと云ければ、右兵衞、松野を諫めて、貴殿の申さるゝ所も、さる事なれども、はじめより御内通あるとの事なれば、今更御違變成がたからん、しかるに貴殿、君命に背き、關東勢と一戰あらば、それも又不忠不義成べし、ひらに隨ひ給へと云ければ、松野も此理にせめられて、麓へ人數をうしけれども、手の者を引纏ひて、裏切の軍するを、見物してぞいたりけり、
p.1200 天野三郎兵衞
天野三郎兵衞〈○康景〉は、慶長年中、駿州興國寺の城主として、三萬石を領しけり、領地の竹をきらせて、營作の爲に積置て、足輕三人をして、守らせけるに、御領田原の郷民、此竹を盜取しかば、番をせし足輕見付て、盜一人をきり殺す、殘黨逃去て、代官井手某に訴ふ、〈○中略〉人を康景がもとへつかはし、御領の民を、こなたへ斷なくして、卒爾に殺す事重罪なり、速に其足輕を誅すべきの由を、いひやりければ、康景盜を殺すは、古今の法なり、なにをもて罪とせん、其上かの足輕、私に殺すにあら ず、康景下知してころさしむ、もし此事誤にならば、康景罪に行はるべしとて、少も許容の氣色なし、井手其まゝにてはやみがたき故、郷民實は竹をぬすまず、無實の罪にてころさるゝを、康景己が足輕に荷擔して、誅せざるの由、言上しければ、康景が許へ、下手人出すべきの由、仰出されけれとも、前のごとくいひて、御うけ申上ず、東照宮きこしめして、〈○中略〉本多上野介正純を、康景が許へつかはされて、たとひ此事理なりとも、一たび仰出されたる上にて、其通に仰付られねば、御威光も輕きやうに聞ゆる間、三人に鬮をとらせ、其内一人とりあたりたる者を誅し、しかるべきのよし、正純申されしかば、御威光輕くなるとある上には、とこう申上るに及ばずとて、御うけ申上にける、さて申けるは、理をまげて、罪なき者を殺し、我身を立るは、勇士の本意にあらず、所詮身を退るにしかずとて、いづちともなく逐電し、行方はしれざりけり、〈○中略〉鳴呼康景、潔白の士なるかな、無辜をころして、己が身を立るは非義なり、ころさねば、上意にそむくに似たり、とにかくに世にありては、身の一分たゝずと思ひきりて、三萬石の祿を棄て、跡をけちぬるこそ、世に類ひなき事と云ふべし、
p.1201 一加藤淸正〈江〉、常陸守殿紀伊殿〈○德川賴宣〉ヲ御緣者被二仰付一候、東照宮被レ仰候〈於二駿府一ノ事下也〉ハ、常陸守事、淸正ノ婿ニ申合上ハ、諸事子息同前ニ、御心得給候ヘト被レ仰候由、御次間〈江〉被レ出時、淸正〈江〉御當家ノ家臣衆被レ申ハ、唯今ノ被レ仰ヤウニテハ、定テ御滿足ニ可レ有由被レ申、淸正云、尤忝存候、乍レ去昔秀吉公ノ御厚恩ハ忘レ不レ奉ト被レ申、御當家ノ老臣挨拶可レ仕樣無レ之、然所ニ、成瀨隼人正トリアヘズ、其御思召御尤至極也、又家康ノ御恩ヲカウムリタル者モ、亦其通ニ、家康公ノ御恩重ク存ズル也ト被レ申、名譽ノ挨拶也、
p.1201 一家康公大坂〈江〉御取寄可レ被レ成前方に、眞田隱岐守信尹〈眞田一德齋末子にて、安房守昌幸弟にて左衞門佐信賀が伯父なり、〉を御使にて、眞田左衞門佐信賀方へ被二仰遣一候は、秀賴合力の心を飜し、味方に參り候はゞ、 信州にて一萬石可レ被レ下との上意也、左衞門佐承り、上意之趣難レ有奉レ存候、然其信賀事は、開ケ原一戰に御敵仕、其罪科に依て、九度山に蟄居仕候て、山賤之體に罷在候處、秀賴公より召出し、相備八千餘の大將に被二仰付一候處、何より忝存候間、心替候義は、罷成間敷旨申切けり、此旨隱岐守申あげしかば、左候はゞ、重て信濃國一國を、一圓に可レ被レ下と被二仰出一、隱岐守此旨重て被レ遣、左衞門佐大に怒て、忠義に輕重なし、祿の多少に寄べきや、一度秀賴公の御扶持を受候上は、討死と志候、乍レ去若御和談に成候はゞ領知の望なし、貴殿の合力を請、關東へ奉公可レ仕候、合戰有レ之内は、大坂に罷在うち死仕候條、重て上意の御取次、可レ爲二無用一と申切けり、
p.1202 大坂の亂起りし時、嘉明〈○加藤〉江戸に殘しとゞめられ、不慮の事あらば取まきて、攻殺んといひあへり、其比、夜更て、河村、〈○權七〉嘉明の屋敷の門をたゝき、靑木佐右衞門を呼出す、靑木あやしみ立出て見るに河村なり、こはそもいかなる事ぞといふ、河村、事あたらしきやうなれども、君に仕ふる者の忠を致すは、常の習ひなり、〈○中略〉十餘年、山中にかくれ居しに、しか〳〵の事にて、殿も危くおはしますと聞て、夜を日に繼て參りたりといへば、靑木、誠に義理の志はさる事なれども、殿のいかり甚しければ、かくと申たりともゆるされじ、とく歸られよといへば、河村、臣たる者の義を知れなば、河村はなど來らざるやといはるべきに、門内にだに入ず、とく歸れとは口をしの詞、よ、此上は町屋にかくれ居て、殿の先途を見んと云しかば、靑木左らば先申て見んとて内に入、嘉明に吿れば、〈○中略〉嘉明、汝が志、いはんやうもなしと悦れけり、夜明て、河村こそ來れとて下部までいひはやし、大軍の援有が如くいさみけり、嘉明、寵愛して八千石あたへられけり、
p.1202 大母殿
大母殿台廟〈○德川秀忠〉ノ御乳母ニテ賢良ノ女ナリ、其子某事ハ山中源左衞門ノ黨類ナルニヨツテ、流罪ニ仰セ付ラレ、其後大母殿ハ台廟ノ御尊敬アナカラズ、〈○中略〉大母殿病ニカヽリ、甚ハダ心元 ナキ由聞召レ、御成遊バサレ仰セラレ候ハ、思ノ外顏色モ宜シ、サレドモ前方申シ度コトモ候ラハヾ申置ベシ、何事ニモアレ、御叶遊バサルベクトノ上意有ケレバ、〈○中略〉已ニ御立座ニ相成時、上樣ト呼返シ申上候ハ、先頃ヨリ再三何モ願ハナキカト御意遊バサレ候事ヲ考へ候得バ、忰ガ事ヲ、此婆々ガ臨終ニ氣ニ掛リ候半ト思召候テノ御言ト存奉候、必御赦免下サレ間敷候、若此婆々ニ對シテ、御免遊バサレ候得バ、御乳ヲ上候御馴染故、天下ノ大法ヲ犯シ成サレ候ニテ之有候間、後代迄御政道ニ疵付申可候、私黃泉ノ障ニ相成候間、必御免下サレ間敷由申終、頓テ卒ス、皆人其志ノ程感賞セリ、
p.1203 松平阿波守忠英ノ家老增田豐後ト云者、主人ヲ恨ムル事有テ、無實ノ事ヲ工ミ、江戸へ訟ヘケル、公儀ノ役人糺問有ルニ、阿波守ニハ罪無キ事ナレドモ、憚リテ閉門シテ愼ミ居ケル節、有合セノ金銀盡キ、諸用ニ差支ヘケレド、遠國故取ニ遣ハストモ、早急ノ間ニ合ズ、又人ノ疑ヒモ如何有ント、掛リノ者甚心配シ、據無ク井伊掃部頭直孝ノ許へ、内々使者ヲ以借リニ遣ハシケルニ、家老中同心セズ、公儀へ對シテ憚リ有レバ、貸ス事ナラジト云、岡本半助云、人ノ急ヲ救フハ義也、若後難ヲ恐レテ急ヲ救ズンバ信義ヲ失ヘルナラン、是井伊家ノ恥ニ非ズ乎ト云、家老中然ラバ其事主人へ達セント云、岡本達センハ然ルベカラズ、貸シテ後逆ニ黨セリト、公儀ヨリ御咎メヲ蒙ラン時ハ、主人ハ一向存ゼズ、某一人ノ計ヒ也トテ切腹スベシ、又貸シテ後急ヲ救ヒシトテ、御譽ニ預リシ時ハ、主人ノ計ヒニ致サントテ、倉ヲ開テ千金ヲ出シ貸遣ハシケル、後ニ直孝是ヲ聞テ、甚感心セリト也、
p.1203 延寶六年ノ飢饉ニ、若州ニテモ大、分餓死人有リ、右田坂、或日乞食ノ集リ居ケル所ヲ通リケルニ、其中一人眼中只者ナラズト見エケレバ、家來ヲ以テ申遣ハシケルハ、領内ノ上石カ、他領ノ者カ、定メテ凶年ニヨリテ、其體ニ成シナラン、人ノ多ク見知、ラヌ内ニ、早ク我方へ來ルベシ、 扶持スベキ也ト申送リケルニ、彼乞食只打笑テ答ズ、使ノ者再三申セ共答ズ、田坂ハ乘物ノ内ニ在テ、此體ヲ見頓テ立出、彼乞食ノ側へ立寄リテ、汝ハ元ヨリ乞食トハ見エズ、多クノ人ニ知ラレザル内ニ、我方へ來レ、何トテ再三申ニ答セヌゾト申サレケレバ、コツ食坐ヲ正クシテ答ケルハ、御仁心ノ程忝ク存候へ共、乞食仕ラザル前ナラバ、御家來ニ成ベシ、一日タリ共乞食ニナレバ、コツ食ノ名ハ遁レズ、御家來ニ成ヌコソ、其御恩ヲ報ズル所ニテ候、田坂曰、我方へ來ラザルヲ以テ、恩報ジトハ如何ナル所存ゾ、乞食曰、私御家來ニ參リナバ、田坂殿ハ乞食ヲ召仕ハルヽト沙汰有ンニハ、主人ヲ恥シムル也、且傍輩衆モ何ゾニ付テハ、彼ハ乞食セシ者也ト侮ラン事必定也、其時ハ討果シ申サズシテハ、男ノ道立ズ、サ候ハヾ由ナキ私ヲ御抱ヘナサレシ故、舊キ御家來ヲ失ヒシト思召レン、是災ノ本ナレバ、御家來ニ成ザルコソ、御志ノ御恩報ジナルラメト云捨テ立去ケル、田坂彌執心シテ尋出シ、米錢等送リナドシケルニ、後ニハ辭シテ受ズ、再ビ立去テ姿ヲ見セズ、此乞食、他領へ行テ順禮シケルト也、若州小濱ノ者ハ土民迄知ル所也、誠ニ古今稀ナル乞食也、
p.1204 一甲賀孫兵衞、是ハ稻葉丹後守ドノ家來ニ候、〈○中略〉弟一人有レ之、式部ト申候、段々不行跡等有レ之候テ、丹後守殿ト散々不和ニマカリナリ候テ、孫兵衞ニ討テ參候樣ニ申付ラレ候、孫兵衞申候ハ、尤無二御餘議一事ニテハ可レ有レ之候ヘドモ、御連枝樣ノ御義ニ候、何卒御了簡被レ遊候樣ト再三申候處、左樣ニ斷申事、役ニ立申マジク候、其心底ニテハ迚成マジク候、餘人ニ可二申付一ト申サレ候、此時孫兵衞、未ダ前髮ニ テ十六歲ニテ候、〈○中略〉孫兵衞申候ハ、是ハ無二御情一御意ト奉レ存候、此上ハ達テ被二仰付一被レ下候ヘト申候ヘバ、夫ナラバ討留參リ候ヘト申付ラレ、〈○中略〉偖式部ドノへ罷越、家來ヲ以テ申入候ハ、甲賀孫兵衞、大切ノ御使ニ參申候、撿使ニ何某被二仰付一候、左樣御心得ラルベキ旨申入候、式部ドノ聞被レ申、大方合點覺悟ノ前也、是へ通リ候ヘトテ通シ申サレ、金鐔ノ大脇差拔クツロゲテ、是へ參リ候ヘト申サレ、近ク寄候ハヾ、討テ捨申由被レ申候、其時孫兵衞、大切ノ御意ニ テ御座候ユヘ、トカク近クコリ候テ、申上ベキ旨申候テ、脇差ヲヌキ、二三間モ投、丸腰ニ成リ、近ヨリ申候、此仕合故、式部殿モ少シユルカセニナラレ候、孫兵衞手ヲツキ、段々御不行跡ノ事、ケ樣ケ樣ノ御意ニテ候、此上ハ其分ニ差置レ難ク候間、私參候テ、奉レ討候ヤウニトノ御意ニ御座候由、申モ果ズ、其マヽ飛掛リ力量有レ之候ユへ、式部ドノヲ押付、懷中ヨリ九寸五分ヲ取出シ、胸元へ押アテ、彼撿使ヲ呼候テ、此體慥カニ見屆申サルベク候、腰あ拔ケ不レ申候間、左ヤウニ心得候ヘト申候テ、サテ式部ドノヲ引立、是迄ニ御座候、早ク御立退ナサレ候へ、私御供仕ベキ旨申候テ、夫ヨリ式部殿ト逐電イタシ候、撿使モ同心ニテ、早ク急ギ御立退候ヤウニ申候テ、ノカセ申ヨシニ候、〈○中略〉始終見ゴトナル仕カタニテ御座候、
p.1205 近松行重母
義士近松行重、赤穗を退き去るの後、その母とともに江戸に來り、族家に寓居せしめ、近きあたりに住みて、晨夕母のもとに行きて、起居を問へり、復讐のひと日前にあたりて、〈○中略〉行重云、はやく大人に、この事〈○義士復讐〉を聞えまゐらせば、吾身の上を哀しみ給ふて、朝夕の歡をそこなはんことをおもひて、あへて吿げざりしといへば、母云、汝が言もうべなりとて、起て一間に入りしが、久しく待ども、出で來らざれば、行重おぼつかなくて、往て見るに、母みづから刃に伏して、傍に遺書ありければ、うら驚きつゝ、その書を見るに云、おそらくは母に心のひかれて、義氣の振はざることをおもへば、今吾先だち死して、汝が報國の志を專にせんとす、つとめはげみて、衆におくるゝことなかれと懇に喩しけるほどに、行重その書を見て、働哭むこと大かたならず、悔云、我窮阨をもて、わが無きあとの、養ひなきを思ひはかりて、母に物がたりけるに、打聞て戚色ありといへど、かかるべしとはおもはじ、猶餘命のありながら、自殺したもふことの悲よと、千度百たび嘆きかなしみつゝ、同僚に喪の助けを請ひて、家あるじに、葬事のとりまかなひ託するよし、懇にかき述べ、 ならびに金若干を封じ、母の尸のかたはらに置きて、夜をこめて去りしとぞ、
p.1206 義僕元助
赤穗義士片岡源五右衞門高房の家僕を元助といへり、幼ときより高房の家に畜はれて人となり、篤實勤行にして、事を執ること甚だつゝしめり、高房、赤穗を去るの日に、かねて召しつかふ奴婢に、こと〴〵く暇をとらせけり、されども元助ひとり留りて去らず、高房に從ひて江戸に來り、朝夕薪水の勞をいとはず、出入事を奉りて餘力をのこさず、その心を盡すこと昔日に勝れり、〈○中略〉復讐のことはてしをりから、何くよりか來りけん、拂曉高房が出るを待受け、一筥の密柑を捧げ持て、諸君さだめて昨夜のはたらきに渴し給はん、いざまゐらせよと、彼密柑をおの〳〵にあたへ、泉岳寺までつきそひ行き、涕泣してぞ別れける、
p.1206 吾師皆川子ノ話タルハ、天川屋儀兵衛ト淨瑠璃本ニアルモノハ、其實尼崎屋儀兵衞ト云テ、大坂ノ商估ニシテ、淺野内匠頭ノ用達ナリ、大石内藏助復讐ノ前、著込ノ鎖帷子ヲ數多ク造タルコトニ預リシガ、町人ノ武具用意ト云風聞アリテ、官ノ疑カヽリ、呼出テ吟味アレドモ、陳ジテ言ハズ、後ハ拷問スレドモ言ハズ、終ニ其背ヲサキテ、鉛ヲ流シ入ルニ至レドモ白狀セズ、アマリニキビシキ拷問ニヨタ、死セソトセシコト幾度モ有シトゾ、然レドモ白狀セザレバ、久シク囹圄ニ下リ居シガ、江戸ニテ復讐ノコトアリト、牢中ニテ聞及ビ、儀兵衞改メテ申ニハ、追々御吟味ノコト白狀仕度トナリ、乃呼出テ申口ヲ聞ニ、ソノ身淺野家數代ノ出入ニテ、厚恩蒙シ者ナリ、彼家斷絶ノ後、大石格別ニ目ヲカケ、一大事ヲ某ニ申含、江戸ニテハ人目有トテ、此地ニテ密ニ鎻帷子ヲ造リタリ、全ク公儀ヘノ野心ニ非ズ、ハヤ復讐成就ノ上ハ、何樣ニモ御仕置奉レ願ト云ケル、之ヲ聞テ奉行ヲ始メ、其場ニ有リアフ人々、皆涙ヲ流サヾルハ無カリシトナリ、
p.1206 烈士喜劍碑 喜劍者不レ詳二何許人一、或云薩藩士、蓋奇節士也、元祿中赤穗國除、大石良雄去在二京師一、時物論囂囂、言三其有二復讐之志一、良雄患レ之、故假二歌舞遊衍一、以滅二人口一、一日、遊二島原妓館一、會喜劍亦來遊焉、喜劍素與二良雄一不二相識一、然竊希二物論不一レ虚、及レ聞二其遊蕩不一レ已、心甚不レ懌、乃招二良雄一、同飮二于一樓一、以二微言一諷レ之、良雄不レ應、因更反復直言、良雄猶不レ應、笑言自若、無二承服色一、喜劍乃怒レ目大罵曰、汝眞人面而獸心也、汝主死汝國亡、汝爲二大臣一而不レ如レ報レ仇、非レ獸而何、余將獣待一レ汝、於レ是展二左脚一、盛二魚膾數臠于脚指頭一、使二良雄食一レ之、良雄夷然俯レ首喫レ之、畢舐二指頭餘瀝一、時良雄啞々之笑聲、與二喜劍叱叱之罵聲一、喧然聞二乎樓外一矣、旣而喜劍于二役江戸一、適聞二赤穗人報讎事一、問レ之則同謀四十六人、良雄其首也、喜劍愕然曰、吁余死矣、夫余目獸二視良雄一、乃我目之罪也、余舌獸二罵良雄一、乃我舌之罪也、余足獸二食良雄一、乃我足之罪也、余心獸二待良雄一、乃我心之罪也、一身皆罪、吁余死矣、於レ是托レ病歸レ國、公私了レ事、復來二江戸一、則良雄旣與二同謀之士一、皆賜レ死、葬二之江戸泉岳寺中一、乃詣二其墓一、拜曰、我當レ面二謝萬罪于地下一耳、乃拔レ刀屠レ腹而逝、有人又葬二之其墓側一、夫喜劍氏、初之與二良雄一不二相識一、而希三其有二義擧一、中レ之直言忠吿、至二罵而辱一レ之、終レ之殺レ身明レ志、以謝二其罪一、雖レ非二中行之士一、其奇節可レ謂レ不レ耻二古之俠者一矣、〈○下略〉
p.1207 享保十七年秋、飢饉ノ時、荒ヲ救フノ政ヲ施スニモ、猶モ離散スル者多シ、死者九万四千七百八十餘人アリ、御上御差扣ニ付、寺社ノ鐘聲モ絶へ、町方モ蔀ヲ閉タリ、時伊豫郡筒井ノ農夫作兵衞、獨リ麥苗ノ易カラザルヲ憂へ、力耕シテ種ヲ枕トシテ死セリ、其墓碑ノ略ニ云、
義農姓某名某、稱二作兵衞一、伊豫國松山府之下筒井農夫也、稟性朴實剛介、素勵二其業一焉、享保十七年 秋、螟爲レ災甚、郡邑救荒之政不レ暇レ施、捨レ業而離散者尤多矣、作兵衞獨憂二麥田之不一レ易、奮然忍二饑餓一、自 耕數十畝、將レ播二麥種一、精力衰耗、狼狽還レ家、困頓特甚、遂濱レ死隣人諭曰、子之命在二旦暮一、而有下麥種滿二囊 中一者一、蓋食レ之而免レ死乎、作兵衞怫然作レ色曰、吾食二不レ可レ食之食一、則何有レ至二于此一、也、夫百穀播レ種而納二租 税一者、民之職也、官費資焉、君子祿焉、國人庇焉、然則穀種之貴重、非二吾命之可一レ比矣、故民國之本、穀種 農之本也、若肆然而盡レ之、則來歲將何以濟二國用一邪、不レ食二穀種一則吾之志而、竊欲二以報一レ國也、吾守レ死而 已矣、汝勿二復言一、氣息奄々、遂枕二麥囊一而死矣、則九月二十三日也、因人感二其義氣一、僉稱曰二義農一、安永五年、代官增田惟貞、義農作兵衞ノ墓碑ヲ營ム、丹波成美其文ヲ撰ミ、尾崎時春書レ之、其文末章ニ云、
郡官增田惟貞、適省二其墓一、詳二其實一以白二于官一、憐二恤作兵衞死一、且謂民風之所レ系、恐二口牌有レ時而亡一、爲新二 其石一勒二其事一、毎歲與二米一包於其子孫一、給二祭祀一、以旌二異於閭里一、距レ死蓋四十五年云、
p.1208 このごろ〈○享保頃〉事にや、貧しきをのこ、人にやとはれて、あさましき世をふるに、人にも見すべき程のをんな子あり、きはめてかほよし、その友きたりて、そこのをんな子のいろよきに、うかれめにもうれかし、さらばやすくて世をわたらんものをといへば、いなうらじ、すて子なりしものをといふ、さらばいよ〳〵うれかし、誠の子だにしかするもあるをといへば、をのこかしらふりて、かれすてられしいにしへ、をのれ見つけて、あなびんなや、あはれおほしたてんとてこそひろひつれ、貧しき時うらんとては、ひろはぬものを、今はたむかしにそむかんや、いと貧しかるをのこなりとも、むこと名づけてあはせんとて、つひにうけ引いろなし、義をしるといふべし、
p.1208 百合傳
百合者、不レ知二何許人一也、或曰、江戸人也、爲レ人明慧、絃索鍼黹、一見輒解、旣爲二阿穀所一レ養、習二其母所一レ爲、喜好二吟咏一、日著二茜裙一、捧レ茗供レ客、而偸レ閑輒手二筆硏一、花香鳥語、隨レ觸入レ題、性不二甚裝飾一、而天姿娟秀潔白、淡糚常服、楚楚動レ人、過者無不二留連一、都下貴介豪富子弟、多二屬レ意者一、少年自喜者、或傳レ粉顧レ影以求レ當二其心一、百合不レ顧也、百合有下所二素暱一德山某者上、爲二幕府士人子一、爽俊人也、因レ事流二寓都下一、落魄不レ能二自活一、百合爲レ之傾二竭心力一、因得レ不レ乏、如レ斯者有レ年、有レ孕生二一女一、情好益篤、會德山氏宗家嗣絶、族人議取レ某繼レ之、乃使二使者 齎レ書來迎一、某乃欲下與二百合一倶歸上、百合辭曰、妾與二郎君一、綢繆十年、一旦萍離蓬斷、極難レ爲レ情耳、顧郎君晝錦、攜二婦人一以旋、恐招二人指目一、某固要レ之曰、吾飄二泊客土一、得下不レ遺二溝壑以致上レ有二今日一、皆因二卿力一、今一旦富貴、而遺二弃糟糠一、余不レ忍也、百合固辭曰、妾忝二過愛一、寧不二踴躍欲一レ從、所二以不一レ能レ奉レ命者、抑郎君承二重宗祧一、當二選レ良聘一レ儷、路傍花柳、何堪二攀折一、卽奔從纏綿、不三唯玷二辱郎君一、施及二祖宗一、妾深 二於心一、饒使三憐充二側室一、風波中起、牽二累郎君一、是亦妾所二逆憂一也、妾日夜籌レ之熟矣、則一日之訣離、所三以全二十年之恩情一、郎君珍重、妾生死自レ此辭矣、幸勿二復以レ妾爲一レ念也、某不二敢强一、乃欲下攜二所レ生女一去上、百合曰、郎君少壯、更伴二新人一、前途多福、不レ患レ無二成レ行遶レ膝之樂一矣、妾旣辭二郎君一、誓不レ見二他夫一、獨守二靑燈一、賴有二此一塊肉一、見レ此猶レ見二郎君一、幷レ之附去、何以消レ日、某遂舍レ女而去、百合自レ是益自脩潔、一意撫二養其女一、子母 、相依爲レ命、〈○下略〉
p.1209 孝行者久右衞門
久右衞、門は羽咋郡生神村にして、持高八石九斗あまりの百姓なり、〈○中略〉明和三年、攝津の國神月孫三郎が船の、生神村領の沖にて破船して、水主のきたる物も流し、赤裸にて陸にあがれるを、久右衞門衣をあたへ、船頭十四五人の者のために木綿をかひ、村の内の女に、わかちぬはせて、その縫賃をだにうけず、かの船にありつる金五拾兩と錢百貫とを失ふといふを、ほどへてきゝ、海のをだやかなるをうかゞひ、久右衞門一人、船にのりてかの沖に出、金をとり出して、船頭にあたへしが、壹兩たらざりしを、猶船頭とともに船を出して、やう〳〵にもとめ得てわたし、又村の者どもをかたらひ、彼百貫の錢をものこりなく取上てわたせしかば、船乗の者も感じあひて、福浦といふ所に船かゝれる時は、かならず久右衞門に音信けり、
p.1209 近江長女
長女は近江蒲生郡古市子村福永某が後妻也、先腹の子二人有、長女が産るは十餘人あり、さるに先腹の子をいつくしむこと、わが産るに十倍す、見る人感せざるはなし、しかもなほわが子あま たあれば、先腹の子の疎にならんことをおそれて、男子は七八歲におよべば、父を勸めて出家せしむ、女子はこと〴〵く京へのぼせ、人の婢女となす、かゝれば先腹の子ど右ゝ、其慈愛にひかれて至孝なり、兄は家を嗣、妹は彼實子の京に出し義理をおもひ、吾も京へ出んといふを免さず、しひて隣村へ嫁せしむ、さればふかく其恩を感じ、繼母の生涯起居をとふこと怠る時なし、長女後髮をおろしけるが、彼出家の子ども、某々の寺の住職となりしもの、折々に呼迎ふれども、實子の愛にひかれて、先腹の子のかたに居らずといはれんはうるさしとて、あへて省みず、其賢なる名遠近に聞えて、人たとみけるが、安永六戌のとし、老せまりて身まかりぬとぞ、
p.1210 甲斐栗子
栗子は甲斐の國山梨郡の農夫某が妻なり、〈○中略〉山拔といふことにあひ、〈○註略〉水に溺れ死す、その時屍を堀出してみれば、十二なる養子を背に負、八ツになりける實の子の手を引て有けり、幼きかたをこそ背には負べきに、長じたるを負るは、此時に臨て、遁んとかまふるにも、養子をおもくするの義を、おもふなるべし、女といひ邊鄙の産なり、何のまなぶ所もあるまじきに、天性の美かくのごときは、世に有がたきためしなるべし、
p.1210 義
へつらはずおごることなくあらそはず欲をはなれて義理をあんぜよ