http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1184 義ハ、ヨロシト訓ズ、行テ其宜シキニ合フヲ謂フナリ、我邦古來義ヲ尚ブノ風アリシガ、武門興ルニ及ビテハ、最モ斯道ヲ重ンジ、以テ武士ノ精華トセリ、

名稱

〔伊呂波字類抄〕

〈與/辭字〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1184 義〈ヨロシ〉

〔同〕

〈幾/人事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1184 義〈キ仁義〉

〔干祿字書〕

〈去聲〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1184 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01724.gif 義〈上俗下正〉

〔段注説文解字〕

〈十二/下我〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1184 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01725.gif 己之威義也、〈言己者以字之从一レ我也、己中宮象人腹、故謂身曰己、義各本作儀今正、古者威儀字作義、今仁義字用之、儀者度也、今威儀字用之、誼者人所宜也、今情誼字用之、○中略〉从我从羊、〈威儀出於己、故从我、董孑曰、仁者人也、義者我也、謂仁必及人、義必由中斷制也、从羊者與善美同意、宜寄切、古音在十七部、〉

〔釋名〕

〈四釋/言語〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1184 義宜也、裁制事物、使宜也、

〔神道玄妙論〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1184 義は許等和利と訓來れり、〈萬葉にしか訓り日本紀に義字理字をもかく訓たり、〉言の本は事割(コトワリ)、また言割の意にて、理を正し事を割(ワカ)ち斷(サダ)むるをいへり、〈ことわり、ことわる、ことわらむと活用けり、〉また余斯とも訓む、〈余斯は、余呂斯の省言なり、〉さて義字の下に屬べき名どもを、多く列たる中に、理(コトワリ)、廉正(タヽシ)、直(ナホシ)、嚴(オゴソカ)、善、潔、信、貞などの意は、常に忘るべからぬ事にざりける、

解説

〔千代もと草〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1184 義は無理のなきやうに、萬事を理にかなふやうにするなり、

〔春鑑抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1184
義トハ、説文曰、己之威儀也ト云リ、イギトハ行住坐臥ノ四威儀ゾ、行モ住モ坐スルモ臥モ、威儀ノハツタトシタルヲ義ト云ゾ、釋名曰、義宜也、裁制事物使宜也ト云テ、義ト云ハ宜也、義字ノコヽロハ宜ト云字ノコヽロゾ、裁制事物使宜ナリト云ハ、萬事萬物ノヨロヅノコトヲヨクコトハ リテ、ソレゾレニヨロシキヤウニスルト云コトゾ、サルホドニ韓退之ハ、行而宜之、之謂義ト云タゾ、朱文公ハ心之制、事之宜也ト云タゾ、心ノ制トハ、コヽロニテヨクコトハリテ、コヽロノワキへユクヲヲサヘテ、義ニスルト云心ゾ、事宜也トハ、萬事ノコトヲコ、コニコトハタテ、ヨロシキヤウニスルト云コヽロゾ、心ノ制ト云ヲ斧ニタトヘタゾ、タトヘバヨクモノヽキルヽ斧ノアルガ、竹ナリトモ木ナリトモアラバ、二ツニサツトワルゾ、人ノ心ニ天理自然ノ性アリテ、ヨロヅノコトノ義ト、不義トヲ、ワクルヤウナゾ、サルホドニ斧ノ竹ヲ二ツニワルヤウナゾ、サルホドニ人ゴコロノ、公平正大ニシテ、毛ノサキホドモ人欲ノ私ヲマジヘズシテ、義理ヲギリトスルハ義ゾ、ソノ義ノヨロシキトコロトハ、ナニゾナレバ十義ト云テ、マヅ十ノ義アルゾ、父子、兄弟、夫婦、長幼、君臣ノ十ノ義ゾ、父タル人ハ、慈悲アリテ子ヲアハレムガヨロシキ處ゾ、アハレマズンバスデニ義ニアラズ、子タル人ハ、父母ニ孝行ナルガヨロシキ處ゾ、孝ナクンバ、子タルモノヽ義ニアラズ、兄タル人ハ、ヲトヲトニタイシ、ヤハラグガヨロシキ處ゾ、弟タルモノハ、兄ニシタガフハヨロシキ處ゾ、孟子ニ義之實、從兄是也ト云テ、ヲトヲトタルモノハ、兄ニシタガフモノゾ、サルホドニ義ト云モノヽ眞實ハ、兄ニシタガフヲ云ト孟子ノイハレタゾ、夫タルモノハ、メニタイシテ義ヲマホルガ、宜キ處ゾ、婦タル人ハ、貞心ニシラフタゴヽロナク、夫ニシタガフガ宜キ處ゾ、老タル人ハ、イトケナキヲメグムガ義ゾ、イトケナキモノハ、老タル人ニシタガフガ義ゾ、君タル人ハ、仁愛アリテ臣下萬民ヲアハレムガ宜キ處ゾ、サナクンバ君タル人ノ義理ガチガンタゾ、臣タル人ハ、君ニ忠ヲツクシ、敬ヲツクスガ宜キ處ゾ、サナクンバ義ニアラズ、不忠不敬ナラバ、臣タル人ノ義理デナイゾ、サルホドニ君ノ一大事ニハ、一命ヲモハタスハ臣ノ義ゾ、コレヲ十義ト云ゾ、孟子ニ生亦我所欲也、義亦我所欲也、二者不兼、舍生而取義者也ト云レタゾ、イフコヽロハイキテイルモ、ワレガ子ガフトコロナリ、マタ義理ト云事モ、ワガ子ガフ處也、ヲナジクハイキテイテ、義理ニソ ムカヌハヨケレドモ、生ト義トノニツヲ、兼テ得事ガナラズンバ、死シテ義理ヲトランゾ、義理ニソムヒテハ、イキテモ詮ガナイホドニトイフコヽロゾ、〈○下略〉

〔彝倫抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1186 義トハ、心之制、事之宜トテ、本心ニムマレツキテ、物ヲ決斷スル心アリ、ソトヘアラハルヽトキハ、萬事萬物ニツイテ、ヨロシキ道ニシタガフテ、行フヲ云フナリ、ヨロシキトハ、義理ヲシルコトナリ、義理ヲシラヌハ畜生ナリ、此義理本心ニソナハリタル證據アルナリ、只今カツ、エ死ナントスルニ、人來リテ食物ヲアタヘンニ、アシクキタナク雜言シテ、アタヘルナラバ、イカニウエ死ヌルトモ、誰レカクフベキヤ、コレ義ノ發スル所ナフ、カヤウニスコシノ所ニテハ、義理ノ心ガ發シテ、命ヲスツレドモ、大ナル欲心ニナリテハ、義理ヲ忘レテウクルモノナリ、義理ヲヨクシリヌレバ、偷盜戒ヲタモツナリ、

〔五常訓〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1186
中庸曰、義者宜也、尊賢爲大、朱子章句云、宜者分別事理、各有宜也、周子も宜曰義、釋名曰、義者宜也、裁匍事物使宜也、諸説皆宜しきを以て義とす、宜しきとは、萬事萬物の品にしたがひ、其の理をわきまへて相應するを云ふ、朱子は義者心之制、事之宜といへり、制とはたちわかつ意、裁判するなり、心の制とは心中に善惡をわかつ所の理あるを云ふ、義の心にあるは利刀の如し、物來れば刀を以てたてば二つとなる、善惡を決斷することかくの如し、是心の制なり、義の體とす、事之宜とは、諸事に相應して、其の理の宜しきにしたがふを云ふ、是義の用とす、事之宜は心の制ありて、善惡を花ちわかちて後のことなり、

〔辨名上〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1186 義〈八則〉
義亦先王之所立、道之名也、蓋先王之立禮、其爲敎亦周矣哉、然禮有一定之禮、而天下之事無窮、故又立義焉、傳曰、詩書義之府也、禮樂之則也、禮藥相須、樂未禮孤行者、故曰禮義也者人之大端也、禮 以制心、義以制事、禮以守常、義以應變、擧此二者、而先王之道、庶乎足以盡一レ之矣、故古者多以禮義對言、爲是故也、人多知禮爲先王之禮、而不義亦爲先王之義、故其解皆不通矣、蓋義者道之分也、千差萬別各有宜、故曰義者宜也、先王旣以其千差萬別者、刷以爲禮、學者猶傳其所以制之意、是所謂禮之義也、而其以空言傳者、是所謂義也、故禮義皆自古傳之、豈非先王之義乎、〈○中略〉又人多以義理並言、如程子曰物爲理、處物爲一レ義是也、是亦不義者之言也、假如日行可百里而不上レ二百里是理也、必求其二百里是非理也、一日而百里、二日而二百里、是謂之合一レ理而已矣、未之合一レ義焉〈○中略〉又如老子所謂失遒而後德、失德而後仁、失仁而後義、失義而後禮、是雖聖人之道乎、亦可古人以古言上レ之、其意以仁義禮先王所一レ造、爲自然之道、故有是言巳、吿子義外之説亦然、若使吿子果不一レ義、則孟子必辯之、觀孟子不爾而但辯其内外、則知吿子之言不一レ誤也、是老子吿子孟子皆以先王之義義也、孟子曰、羞惡之心、義之端也、又曰、人皆有爲、達之於其所一レ爲、而義不勝用也、是裁割斷制之説所本也、夫人皆有羞惡之心、是故匹夫匹婦自經於溝瀆以死、是豈義哉、且人之所爲者、豈皆合於義乎、孟子而以此爲義、亦妄已、故知孟子之意必不一レ爾也、古之君子行一事一謀、不諸其臆、而必稽諸古、援先王之禮與一レ義以斷之、是以古人有論説、必引誌書者、以斯道也、又如仁齋先生義爲德、其言曰、爲其所一レ爲、而不其所一レ爲、之謂義、是據孟子之言是解、然其所謂所爲所爲者、吾不知自取諸其臆歟、將取諸先王之義歟、若自取諸其臆、則亦朱子之意而易其辭者已、若取諸先王之義、則豈可以爲一レ德乎、其謬可見已、鳴呼先王之制義、誠亦上無稽、而獨取諸其心、是其所以爲聖人也、後之君子、學成其德者、其或一二取諸其心者、亦何無之、然是又非人人所一レ能矣、無規矩故也、後儒之敎人、乃含先王之義、而使自取諸其臆、豈不謬乎、是無他、不孟子之言皆有爲而言一レ之、而必欲其言以爲上レ解故也、辟諸譬以藥治病、病愈後猶服其藥上レ已、惑之甚者也、

〔伊勢平藏家訓〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1187 五常の事 一義といふは、義理あひの事なり、我勝手にわろくして、めいわくにおもふ事も、すべき筋の事には必する、我勝手によくとも、めいわくにおもふとも、すまじき事をば、決してせぬを義といふ也、

賞義

〔令義解〕

〈三/賦役〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1188 凡孝子順孫、〈○註略〉義夫(○○)節婦、〈謂辛威五代同爨、郭雋七世共居之類、義夫也、衞共姜、楚白姫之類節婦也、〉志、行聞於國郡者申太政官、奏聞表其門閭、〈○註略〉同籍悉免課役、有精誠通感、〈○註略〉者別加優賞

〔續近世畸人傳〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1188 若狹與左衞門子兄弟
若狹大飯郡小堀村に與左衞門といへる農父あり、わかき時より慈悲深く、人もたゞならずおもひけるに、ある夕暮、二人連の女道者門にたち、〈○中略〉一人の女、懷より男兒を出して、便なきまうしことにさふらへども、旅はものうきならひなるに、女の足のはか〴〵しからず、〈○中略〉あはれ此子を養ひ給らば、心よく巡禮仕候はんといふ、〈○中略〉さて夫婦其子を宗四郎(○○○)と名づけ、天よりあたへ給ふ所なりとて、大切に養育せしが、此後八年をへて實子をまうけ、名を礒八(○○)とつけたるが、兄弟むつまじく、やう〳〵長じて、ともに稼稷をつとめ、父母に仕ふること孝順也、後礒八はある人に奉公してありしが、宗四郎きかず、おのれはもと巡禮の子にして、所生もしられぬものなり、礒八は肉を分られしものなれば彼に讓り給へといふ、父此よしを弟にかたれば、いなもとはしらず、吾生れぬさきよりの兄也、家を繼たまふこそ順なれといふ、宗四郎かたくうけがはず、おのれ此家にあらば、いつまでも此論絶じ、されども跡をかくさば、父母の哺養なしがたからん、いかにせましと思惟して、つひに隣村の豪農をたのみて奉公し、給米をこと〴〵く父母におくりて、家には歸らず、しかる間與左衞門老病にて、むなしくなりしかども、家をつぐものなく、村長もてあつかひて、兄弟相讓る旨を官に訴へければ、國君感賞、し給ひ、宗四郎には、米若干を賜ひて家を繼しめ、剰税租を免し給ひ、弟磯八には別に月俸を賜、帶刀をゆるして褒美し給ふとぞ、
○按ズルニ、義夫ヲ賞スル事ハ、孝子、順孫ト同ジク恒典トナレリ、孝篇ヲ參看スベシ、

義例

〔日本書紀〕

〈十二/履中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1189 八十七年〈○仁德〉爰仲皇子畏事、將太乎〈○履中、中略、〉爰瑞齒別皇子〈○反正〉歎之曰、今太子與仲皇子並兄也、誰從矣誰乖矣、然亡〈○亡恐去〉無道有道、其誰疑我、則詣于難波、伺仲皇子之消息、〈○下略〉

〔日本書紀〕

〈十/應神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1189 九年四月、遣武内宿禰於筑紫、以http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif 察百姓、時武内宿禰弟甘美内宿禰廢兄、卽讒言于天皇、武内宿禰常有天下之情、今聞在筑紫而密謀之曰、獨裂筑紫、招三韓於己、遂將天下、於是天皇則遣使以令武内宿禰、時武内宿禰歎之曰、吾無貳心、以忠事君、今何禍矣、無罪而死耶、於是有壹伎直眞根子(○○○○○○)者、其爲人能似武内宿禰之形、獨惜武内宿禰無罪而空死、便語武内宿禰曰、今大臣以忠事君、旣無黑心、天下共知、願密避之參赴于朝、親辨罪而後死不晩也、且時人毎云、僕形似大臣、故今我代大臣而死之、以明大臣之丹心、則伏劔自死焉、時武、内宿禰獨大悲之、竊避筑紫、淨海以從南海廻之泊於紀水門、僅得朝、乃辨無罪

〔長門本平家物語〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1189 根井小矢太は伊東九郎〈○祐淸〉に組んでどうと落つ、伊東九郎をとて押へて首をかく、この伊東九郎は源氏に付くべかりけるが、平家へ參る事は、父伊東入道、〈○祐親〉兵衞佐〈○源賴朝〉を討たんと内々議しけるを、ひそかに佐殿に吿げ奉りて、伊豆の御山へ逃したりしによて、奉公に兵衞佐殿坂東を討取て、鎌倉に居住の初、いとう入道日頃のあだのがれ難さに、自害してうせし時、九郎を召出して、汝は奉公の者なりとて、御恩あるべきよし仰せられければ、九郎申けるは、誠に御志畏り入て存候へども、父の入道御かたきとなりてうせ候、又そめ子として世に候はんこと面目なくおぼえ候、昔父の入道君をい參らせんとし候し時、濳に吿げ申て候じ事は、一切末に御恩を蒙らんと思ひよらず候き、はやく首を召さるべく候、然らずばいとまを給て、京ヘまかりのぼり候て、平家に付き奉て、君を射奉るべしと申ければ、兵衛佐殿打ちうなづきて、奉公の者なれば、いかでか切べき、汝一人ありともそれによるまじ、申所返々神妙也、早く平家につけとていとまをえさせつ、よて九郎平家に付き奉りて北陸道に下りて、つゐにけふ討れぬるこそあ はれなれ、

〔太平記〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1190 安東入道自害事附漢王陵事
安東左衞門入道聖秀ト申セシハ、新田義貞ノ北臺ノ伯父成シカバ、彼女房義貞ノ狀ニ、我文ヲ書副テ偸ニ聖秀ガ方ヘゾ被遣ケル、〈○中略〉空キ跡ヲ見廻セバ、今朝マデハ奇麗ナル大厦高墻ノ構、忽ニ灰燼ト成テ、須臾轉變ノ煙ヲ殘シ、昨日マデ遊戯セシ親類朋友モ多ク戰場ニ死シテ、盛者必衰ノ尸ヲ餘セリ、悲ノ中ノ悲ニ、安東泪ヲ押へテ惘然タル處ニ、新田殿ノ北ノ臺ノ御使トテ、薄樣ニ書タル文ヲ捧タリ、何事ゾトテ披見レバ、鎌倉ノ有樣、今ハサテトコソ承候へ、何ニモシテ此方へ御出候へ、此程ノ式ヲバ身ニ替テモ可申宥候ナンド樣々ニ書レタリ、是ヲ見テ安東大ニ色ヲ損ジテ申ケルハ、栴檀ノ林ニ入者ハ、不染衣自ラ香シトイヘリ、武士ノ女房タル者ハ、ケナゲナル心ヲ一ツ持テコソ、其家ヲモ繼、子孫ノ名ヲモ露ス事ナレ、〈○中略〉今事ノ急ナルニ臨テ、降人ニ出タラバ、人豈耻ヲ知タル者ト思ハンヤ、サレバ女性心ニテ縱加樣ノ事ヲ被云共義貞勇士ノ義ヲ知給ハザル事ヤアルベキ、可制、又義貞縱敵ノ志ヲ計ラン爲ニ宣フ共、北方ハ我方樣ノ名ヲ失ハジト思ハレバ、堅可辭、只似ルヲ友トスルウタテサ、子孫ノ爲ニ不憑ト、一度ハ恨、一度ハ怒テ、彼使ノ見ル前ニテ、其文ヲ刀ニ拳リ加ヘテ、腹搔切テゾ失給ケル、

〔太平記〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1190 瓜生判官老母事附程嬰杵臼事
里見伊賀守、瓜生兄弟、甥ノ七郎ガ外、討死スル者五十三人、被疵者五百餘人也、子ハ父ニ別レ、弟ハ兄ニ殿レテ、啼哭スル聲、家々ニ充滿リ、去共瓜生判官ガ老母ノ尼公有ケルガ、敢テ悲メル氣色モナシ、此尼公、大將義治〈○脇屋〉ノ前ニ參テ、此度敦賀へ向フテ候者共ガ、不覺ニテコソ、里見殿ヲ討セ進セテ候へ、サコソ被思召候ラメト、御心中推量リ進セテ候、但是ヲ見ナガラ、判官兄弟何レモ無恙シテバシ歸リ參リテ候ハヾ、如何ニ今一入ウタテシサモ無遣方候ベキニ、判官ガ伯父甥三人 ノ者、里見殿ノ御共申シ、殘ノ弟三人ハ、大將ノ御爲ニ活殘リテ候ヘバ、歎ノ中ノ悦トコソ覺テ候へ、元來上ノ御爲ニ、此一大事ヲ思立候ヌル上ハ、百千ノ甥子共ガ、被討候共、可歎ニテハ候ハズト、涙ヲ流シテ申ツヽ、自酌ヲ取テ、一獻ヲ進メ奉リケレバ、機ヲ失へル軍勢モ、別ヲ歎ク者共モ、愁ヲ忘レヲ勇ミヲナス、抑義鑑房ガ討死シケル時、弟三人ガ續テ返シケルヲ、堅ク制シ留メケル謂レヲ、如何ニト尋ヌレバ、此義鑑房、合戰ニ出ケル度毎ニ、若此軍難儀ニ及バヾ、我等兄弟ノ中ニ、一兩人ハ討死ヲスベシ、殘ノ兄弟ハ命ヲ全シテ、式部大輔殿ヲ取立進スベシトゾ申ケル、是モ古ノ義ヲ守リ、人ヲ規トセシ故也、

〔明德記〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1191 殊更タメシモナキ哀ナリシハ、和泉ノ堺ニ坐シケル奧州〈○山名氏淸〉ノ御臺ノ有樣也、〈○中略〉御輿ノ内、アラ〳〵トハタラキ給フ樣ニ聞エシカバ、人々アヤシミテ、急ギスダレヲカヽゲ見進セケレバ、小袖ノ袖ノ下ニ刀ヲ取副テ、自害ヲシテ伏給ケル、〈○中略〉御自害半ニテ未ダ事キレサセ給ハズ、〈○中略〉正月〈○明德三年〉四日ノ暮程ニ、根來へ入進セタリケリ、能々痛ハリマイラセテ、タスカリ給フベキ人ニテ坐シケルヲ、藥ノ事ハ申ニ及バズ、更々湯水ヲ御マイリ給ハネバ、レウヂノ事モ絶ハテヌ、只時ヲ待進給ヘリ、カヽル所ニ宮田ノ右馬助入道、舍弟ノ七郎、何トシテカ知リ給ケム、自害半ニテ根來ニ坐ス由聞給テ、正月七日ノ暮程ニ忍テ尋來リ給ケリ、御臺ノ御カイシヤクニ、難波ノ三位殿ト申女房ノ有ケルニ、尋寄テ宣セケルハ、不思議ニ今度ノ合戰ニ、敵御方ニ推隔テラレテ、故殿〈○山名氏淸〉ノ御共申候ハヌ事口惜ク覺テ、浮世ニ住ベキ心地モ無由、昨日今日マデ召仕ツル者共、皆々心替リシテ敵ニ成ヌレバ、彌道セバク成テ、立寄方モ無程ニ、兄弟ナガラ出家シ、樹下石上ノ宿ヲシ、殿ノ跡ヲモ訪ヒ進セムト思テ侍レバ、上樣御自害ノ由承テ、遣方モ無キ思ノ餘リニ、今一目見進セント存候テ尋參候也、惜カラザル命、中々ナガラヘテ、ツレナク見エ進セム事ハ耻入タル御事ナレ共、御目ニ懸リタキ由申入テト宣ケレバ、難波ノ三位殿御前ニ參リテ、宮田 殿、北殿コソ是へ參ラセ給テ候へ、大殿ノ御事ハヨシ〳〵力無御事ト思食セ、此御方々恙ガ無參ラセ給タル御事ハ、歎ノ中ノ御悦ナレバ、トク〳〵見進セ給テ、御心ヲモ慰テ、御藥ヲモキコシメシテ、御心地ヲモ助ケ給テ、御サマヲ替サセヲハシマシ侍ラヘト申ホノメカシケレバ、御臺少シ見上給タリケル御目ヲ塞デ、貌ヲフリテ宣ケルハ、加樣ニ云ツギ給人ノ心中モハヅカシサヨ、先案ジテモ御覽ゼヨ、弓矢取人ノ子ノ二十ニ餘リ、テ、父ノ共ニ軍ノ庭へ出テ、目ノ前ニテ親ノ討ルルヲ見捨テ逃テ、身ノ置所無マヽニ、入道スルダニモウタテシキニ、人ノ別ノ悲シサニ、タメシナキ身ノ自害シテ、旣ニ臨終ニ取向ヒタル母ニ見參セントハ何ゾヤ、父ニ增リテ思フベキ、母ノ身ニテアラバコソ、其家ニ馴ヌ人ナリ共、父ヲ見捨テヨモ逃ジ、況ヤ弓矢ヲ家トスル面々ノ身ニテノ振舞ヲ、我身ニ案ジテモ見給ベシ、猶子ニシタル小次郎ダニモ、ウレシキ道トハヨモ思ハジ、耻ヲ思ヘバ、力ナク親ト同ク討死シテ、敵御方ニホメラレキ、是程ノ未練ノ人々ヲ、子ト申セバトテ、今生ニテ見參セム事ハ叶マジ、今ハ中々心ノハタラクニ、我ニ物ナ宣ソトテ、其後ハ絹引カヅキテ、ツヤ〳〵物ヲモ宣ハズ、〈○中略〉正月十三日ノ墓程ニ、終ニ墓無成給ヌ、

〔結城戰場物語〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1192 乳母の女房〈○足利持氏子春王安王乳母〉走り出、輿のながえに取つきて、〈○中略〉宵の酒もりに痛くねぶらせたまふと思ひ、簾かき上みれば、桶二ツきぬ引懸て見えにけり、めのとの女房是をみて、やがて消入物いはず、〈○中略〉かくて京都にも著きしかば、御實撿ありて後、めのとの女房をも强問有べしとて、奉行が出て〈○中略〉いかに〳〵ととふ、乳母の女房承り、さん候、御むほんのくみ人數は、女の身にて候へば、更にしらず候、さて若君とては只二人御座有しを、かやうになさせ給ふ上は、何の不足の御座有べきと、只さめ〴〵となきいたる、奉行人數是を見て、さあらば急ぎいためてとへ、承ると申て、錐にて膝をもませらる、其外七十餘度の拷問は、目もあてられぬしだい也、やゝありて女房は、物申さんと申、暫く拷問をとゞむ、あらむざんやこの女房、高聲に念佛十返ばかり唱 へ、みづから舌を喰切て、かしこへこそは捨にけれ、奉行の人々是をみて、いかに問責むればとて、舌有てこそ物をばいふべけれとてはなされたり、あら痛しやこの女房、泣々東山こさんの僧に參り、〈○中略〉
きえはつる露の命の終りには物いはぬ身となりにける哉、とかやうにかきとゞめ、つゐに空しくなりにけり、

〔陰德太平記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1193 香川己斐討死之事
香川〈○行景〉己斐(コヒ)〈○師道〉ハ粟屋、伴、品川ニ向テ、元繁〈○武田〉御討死無是非次第也、然バ當國ノ探題、源家ノ正統武田殿ガ討死シ給ヒタルニ、弔合戰セザランハ、武田ノ瑕瑾ト云、且ハ付從タル國人等ノ耻辱ニテ候、イザサセ給へ、今夜是ヨリ引返シ、敵陣ニ夜合戰ヲカケ、討死スベキニテ候、〈○中略〉行景辭世ノ歌ヲ詠テ、物ニ書付タリケル、
消ヌ共其名ヤ世々ニシラマ弓引テ返ラヌ道芝ノ露、香川兵庫助行兼、邁齡三十三、守武田元繁麾下之義、今月今日入敵陣戰死畢ヌト書タリケレバ、師道モ是ヲ見テ、 殘ル名ニカヘナバ何カ惜ムベキ風ノ木葉ノ輕キ命ヲ、己斐豐後守師道入道宗端、行年六十一、因同意趣快死トゾ書タリケル、此、スル程ニ、遠寺ノ鐘曉ヲ報ジケレバ、兩勢倂セテ三百騎、有田ノ陣へ押寄、大音揚テ、是ハ香川兵庫助行景、己斐入道宗端ニテ候、昨日元繁討死ノ刻ハ、如御存、數十町隔テ、相合殿、桂殿ト合戰仕候ツル故、一同ニ戰死スル事ヲ不得候、然共一旦幕下ニ屬セシ義ノ難捨候ヘバ、弔合戰ヲ遂、一場ノ快死ヲ執テ、萬年ノ義名ヲ留メ、泉下ニ斷金ノ盟ヲ尋候ハント存、是迄馳來テ候、敵陣ノ人々、出合討取テ、高名ニ被供候ヘト呼ハリケレバ、元就〈○毛利〉是ヲ聞給テ、彼等ハ、武田與力ノ兵ノ中ニハ、宗徒ノ者共也、幕下ニ屬セシ義ヲ重ンジ、是迄馳來テ討死スル事、誠ニ仁義ノ勇士也、可惜兵ヲ生ケテ、幕下ニコソ置マホシケレ、サレドモ當ノ敵ナレバ、出合討取、孝 養慇懃ニ取行候ヘト有ケレバ、〈○中略〉一人モ不殘打死ス、骸ハ行人征馬ノ麈ニ埋ムト雖、義名ハ口碑國史ノ間ニ可遺ト、敵モ味方モ感稱セリ、〈○中略〉有田ノ頸塚ト云是ナリ、

〔陰德太平記〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1194 龜井新次郎經久〈江〉最後之暇乞事
鹽冶宮内大輔興久〈○尼子經久子〉ハ、先佐陀ノ城ニ軍士ヲ入置ナバ、經久定テ彼城ヲ可攻、然バ其時後詰シテ、一戰ノ裏ニ、可勝負トテ、宗徒ノ兵二十七騎、其外雜兵合セテ五百餘人ヲブ籠ラレケル、爰ニ龜井新次郎ハ經久へ最後ノ暇乞セソトテ、馬ニ打乘、侍五六人召具シ、富田ヲサシテ馳行ケルガ、已ニ月山ニ著シカバ、龜井新次郎馳參シテ候ト、先案内ヲ遂タリケリ經久人迄モ有マジ、コレへ通リ候ヘト宣ヘバ、頓テ經久ノ前近ク跪ル、サテ何トナク世間ノ物語ナドシテ、後ニ間近寄テ耳言ケルハ、奉賴興久公コソ、云々ノ事候テ、御隱謀ニテ候ヘトテ、始終ノ事共、一ツモ不殘語リケレバ、經久、扠ハ興久、安綱ニ遺恨有トテ、吾ニ對シ謀反ヲ企ケル事、言語道断ノ所存也、〈○中略〉汝神妙ニモ吿知セツル物哉、其儘コレニ止リ候へ、此度ノ忠功ニ、恩賞ハ任望テ可宛行ト有ケレバ、新次郎掉頭申ケルハ、イヤトヨ、立身ノ爲ニ、主君ノ隱謀ヲ吿知セ申ニテハ候ハズ、公ハ三代相傳ノ主君ト申シ、殊ニ吾少年ノ昔ヨリ深ク御哀憐ヲ垂給ヒ、御傍ニ被召仕、剰サへ御鍾愛ノ興久公ニ被樽置、大小ノ儀ニ付テ倚賴ニ被思召候由、蒙嚴命候キ、此御厚恩身ニ餘リ存候間、如何ニモシテ、興久公ノ御後見仕、一國ノ主トモ、成シ申シ、萬鈞ヨリモ重キ君命ニ違ザラン事ヲコソ存候シニ、豫ニハ引替、興久公斯惡逆至極ノ御隱謀、前代未聞ノ御事、此科偏ニカウ申ス新次郎ガ上ニ迫テ覺候、然其一旦君臣ノ盟ヲ結テ候上ハ、無是非彼惡逆ニ奉與、體ヲ洒戰場、名ヲ朽苔下ベキト存定メテ候也、唯今馳參ジ候事ハ、年來ノ御厚恩ノ忝キ餘リニ、最後ノ御暇乞ニ、一目奉拜ト存ズルガ爲ニテコソ候ヲ、身ノ罪科ヲ爲免、主君ノ隱謀ヲ吿申ス龜井ト被思召候御心ノ中コソ、返々モ口惜候へ、〈○中略〉三代相傳ノ經久公ノ御重恩ヲ不知ニ似タリ、唯御前ニテ、腹切テ死ンヨリ外ニ、又餘 事ナク覺候、然其、某今自害仕候ハヾ、興久公御最後ニ、誰有テカ果敢々々敷、軍ヲモ仕候ベキ、カク申セバ、命ヲ惜ムニ似テ候へ其、杵築大明神モ冥鑑アレ、今度ノ合戰、タトヒ万ニ一ツ、興久公御勝利候共、某ニ於ハ討死可仕ニテ候、今生ノ御目見、是迄ニテ候トテ、面モ不擡、唯涙ニノミゾ咽ケル、經久モカレガ心ノ中、忠ト云義ト云、一方ナラヌ賢士哉ト思給ケレバ、坐ニ袂ヲ絞ラレシガ、サラバ暇乞ノ盃セントテ、酒ヲ進メラレニケリ、其後暇申テ退出シケルニ門外ヨリ馬ニ打乘、弓取テ矢ヲ番、龜井新次郎仕候ト名乘テ、門ノ柱ニ矢二筋射立、其ヨリ麓ニ下リ、富田ノ町屋ニ火ヲ放チ、富田ニ在合タル人人ヨ、吾ニ近付テ、手並ノ程ヲ試ラレヨト高學ニ訇リ、靜ニ馬ヲ歩マセケル、

〔祖父物語〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1195 一瀧川左近將http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif 内、瀧川儀大夫ト云モノアリ、是ハ左近甥ナリ、太閤、瀧川ト取合ノ時、伊勢ノ國ミ子ノ城ニ、人數千二百バカリニテ、タテコモリケルヲ、〈○中略〉四十八日ノ間ニ、太閤方ニ手ヲイ死人二萬バカリ有、城中ニモ手負死人七八百人モ有ケルトナリ、此儀大夫ハ、心剛ニシテ、カクレナキ鐵炮ノ上手ナリ、後ニハ玉藥兵粮モナクテ、十八日持カタメタリ、其内馬ヤ人ヲ食シタリト聞ユ、太閤、儀大夫ヲ惜マセ玉ヒ、左近方へ使ヲ立、〈○中略〉左近、自筆ノ狀ヲ遣ハシケレバ、則城ヲアケ渡シケル、太閤、儀大夫ニ仰ケルハ、左近ハトテモ打果スベシ、我方へ來レ、五萬石遣スベシト仰ケレバ、儀大夫忝キ仕合、身ニ餘リ候へドモ、左近アラン内ハ、タトへ百萬石下サレ候トモ參ルマジ、御免ナサレ候ヘト申ケレバ、其時太閤汝ガ心中ニテハ、左近アラン内ハ見トヾクベシ、其間ハ町人ナリトモセヨトテ、黃金二千枚ニ、感狀ヲ添テ賜リケル、峯ノ城ハ、ワヅカナル小城、龜山ノ城ニハ、バツクンオトリタレドモ、儀大夫心剛ニ分別フカキ人ナリト諸人申ケル、

〔武將感狀記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1195 一北條ト今川ト相計テ、遠州武州ノ鹽商人ヲ留テ、甲斐信濃ニ鹽ヲ入ズ、此ヲ以テ信玄ノ兵困ントス、謙信〈○上杉〉コレヲ聞テ、領國ノ驛路ニ令シテ、シホヲ甲信ニハコバシム、我ハ兵ヲ以テ戰ヒヲ決セン、鹽ヲ以テ敵ヲ窮セシムル事ヲセジト云送ラレケレバ、信玄〈○武田〉受ラレタ リ、

〔陰德太平記〕

〈二十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1196 毛利元就嚴島渡海附同所合戰事
桂能登守元澄一人ハ、俄ニhttp://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01726.gif 氣起ツテ、身心惱亂セシカバ、無是非櫻尾ノ城へ歸リヌ、其由來ヲ尋ルニ、先頃陶イマダ岩國永興寺ニ在陣シケル比、元就、〈○中略〉如何ニモシテ、入道宮島へ渡ンズル謀ヲ運シ候ヘト宣ケレバ、元澄畏候トテ、頓テ陶入道へ密カニ云送リケルハ、〈○中略〉陶入道是ヲ聞テ、諸士ヲ集メ、此事若謀ニテヤ可有ト被僉議ケルガ、先七枚ノ祈誓文ヲ書テ賜リ候ヘト返答セリ、元澄此返翰ヲ元就へ見セケレバ、如何スルヤト問給フ、元澄、假令蒙神罰候共、何ゾ厭可申トテ、天神地祇ヲ奉驚、七枚ノ起請文ヲ書テ、陶入道ヘゾ送リケル、然ル故、此度元澄嫡子左衞門大夫、其外五人ノ子共ニ、汝等ハ島へ御供申、忠戰ヲ可勵、若合戰利ヲ失ハレバ、元就ト一所ニ如何ニモ成候へ、努力一人モ生テ不歸、吾モ又一同ニ可渡海ナレ共、謀トハ云ナガラ、七枚ノ起請文ヲ書タレバ、爭カ入道ニ向ヒ、弓ヲバ可引、只於櫻尾自害也、然ル時ハ、汝等ハ爲君致忠、吾ハ又陶ト約盟ノ旨ヲ不破、旁以吾一人ハ、當地ニ可在ゾト下知シテ、櫻尾ニ止リケリ、扨合戰勝利ノ後此事元就如何思給ラント思、惟シ、嫡子ニハ桂ノ家ヲ不讓、元就ノ五男元淸ニ、桂ノ家ノ所領ヲ奉リ、櫻尾ノ城ヲモ讓リケルトカヤ、

〔松隣夜話〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1196 三樂、〈○太田〉日頃則政公〈○上杉〉へ、參馴タル日蓮僧ヲ以テ、使トシテ被申ケルハ、故道灌横死ノ後、幕下ニ候シ、多年相睦ノ處ニ、近頃御家風大ニ違ヒ、國家ヲ可治給善政、絶テ不之候、第一軍旅ノ法亂レ、賢士勇兵手ヲ失ヒ候ニ依テ、所々ノ御合戰ニ、一度トシテ無御勝利候事是倂御屋形盲將ニテ、其目利違ヒ、惡人ヲ以テ、大任ヲ授ク給フユエナリ、御家中忠臣ノ士モ、猶可有候ヘドモ、讒佞權ニアルガユエ、口ヲ閉、目ヲ塞テ、扨罷有候、凡亡國ノ兆、何事カ過之申ベク候、慈ニ於自今以後ハ、別旌ニ罷成、小弱ノ一身ヲ以テ、安危ヲ定可ト存ルニテ候、今迄ハ御威勢尚存シ、東國ノ主 ニテ渡ラセ坐スニ依テ、所憚無、此義ヲ申ニテ候、若世上打替リ、御事欠ケモ坐スニ於ハ、何時モ其節ノ御用ヲバ、イナミ申ベカラズ候ト、腹心ヲ殘サズ申サレケル、則政答ケルハ、先以別旌ノコト、貴慮ノ外他段無、其期ニ於テ心底ヲ殘サズ申サレ候、最義ニ當レリ、當家ノ諸將、表裏ヲ構、恩ヲ忘危ヲ捨、北條へ心ヲ通ジナガラ、又平井ヘモ出仕申サレ候條、本意ヲ失ト云ナガラ、今時ノ通例ナレバ、言葉無候、貴坊ノ端言ヲ忘ルト、萬里ノ異、其中ニ在トゾ仰ケル、

〔太閤記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1197 因幡國取鳥落城之事
吉川式部少輔、森下出羽入道道與、中村對馬守相議し、〈○中略〉福光小三郎を以申けるは、〈○中略〉諸人の餓莩不便なる事、とかう申に及ばれず、然間某等可切腹之條、籠城〈○鳥取城〉の者共、悉く助け被下候やうに、淺野彌兵衞尉殿を以、申上候へと也、卽福光參て右之趣申ければ、淺野も哀とや思ひけん、涙を推へ御前に參じ、かくと申上けるに、秀吉も感じ給ひて、諸人の命にかはらんと請所、是誠に死すべき節を知、死を輕んずる義士也と卽應其望、老たる彼三人が父母幷妻子勿論、雜人原の事は云にも及ず、悉く可相助之由被仰渡、〈○中略〉廿五日、〈○天正九年十一月、中略、〉三人一度に聲を上、腹十文字に搔切て、朝の露と成にけり、

〔太閤記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1197 備中國冠城落去幷高松之城水攻之事
秀吉、高松之城のやうす、精しく損益を盡し見給ふに、たゞ水ぜめにしくは有まじきと覺ふなり〈○中略〉とて、〈○中略〉五月〈○天正十年〉朔日より大小之河水を關入給へり、〈○中略〉長左衞門尉〈○淸水〉湖水日々夜夜に增り行をみて、身の行末の日數をかへりみ、兄の月淸入道に云けるは、如此水まさりなば、溺死旬日之内外たるべし、兄弟腹を切て諸人を助んと奉存は、いかゞ有べきと相談しければ、月淸も内々左も有度と碎啄す、さらば難波近松へ請其可否相極んとて、以兩使問しかば、尤之事に候、〈○中略〉某二人も同じ道に參り候はんと諾しければ、淸水兄弟老母と妻子に暇を請、かれこれ相極 てのち、使者を筏にのせ出し、秀吉へ右之旨以書簡素意、〈○中略〉兩人此狀を秀吉御前へ持出、此旨かくと申上しかば、其心ざしを感じ給ふて、可應其求之條、可然樣に相計可返簡となり、〈○中略〉難波近松も二之丸に船を待侘て有し處に、月淸長左衞門尉見えしかば、卽同船してさし出ぬ、〈○中略〉前夕秀吉は堀尾茂助をめして、〈○中略〉汝明朝船にて出向ひ、撿見候へと仰せられしかば、堀尾心ある士にて、柳一荷、折一合船につみ出にけり、〈○中略〉かくて酒も過しかば、月淸入道我より始んとおしはだぬぎて、矢聲して腹十文字にかき切てけり、殘る三人もきらよく腹を切、〈○中略〉五日の朝堤を切候へば、水瀧なつて落行聲千雷のごとし、

〔駿臺雜話〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1198 士の節義
明智光秀が織田信長を弑せんとて、丹波路より引返す時、塗中にて旗下の將士へ、隱謀の企ある事を始ていひきかせ、さて一黨同心せんといふ一紙の誓文を出しけるに、軍士たがひに驚き視て、とかうの事に及ばざりしに、齋藤内藏介申けるは、此御企千にひとつも御利運あるべき事にて候はゞ、同意いたすまじく候得ども、御敗亡は見へたる事にて候、それに只今辭退いたし候はば、命をおしみて其場をはづし申にて候、それは士の義にあらずとて、一番に血判しけれは、殘りの人々も一言に及ばず、みな同じけるとなり、孟子に非義之義、大人弗爲といへり、内藏介が義は、大人のせざる所なり、此時光秀をつよく諫てきかれず、光秀が手にかゝりて死なんは、中々まさるべし、萬一光秀本望を達し、永く世にあらば、内藏介いきてをるべきや、いきてをらば前にいひたる事はいつはりなり、よしまた其時自殺するにもせよ、賊黨の名はのがれ得ず、世話にいはゆる、犬死といふべし、畢竟義理の筋にくらき故に、小節に拘り、時勢に逼られて、つゐに賊黨に陷り、極罪に處せられけるは、なげかしき事ならずや、

〔常山紀談〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1198 織田信孝、秀吉と弓箭をとる時、信孝の乳の人を、人質に秀吉のもとに出し置れしを、 磔にして誅せらる、かの乳の人の子は、幸田彦右衞門とて、信孝の士大將なり、是より前、秀吉、信孝の長臣等をかたらはるゝに、岡本下野守は同心して、信孝に背きけれども、幸田は背かず、幸田が母誅せらるゝに及て、子の彦右衞門に書を送りて、我今空しく成こと、ゆめ〳〵歎くべからず、親は必子に先たつ習ひなり、唯忠義を守りて、君にな背き參らせそと言遣はしければ、聞人感じあへり、天正十一年四月十八日秀吉の先陣、信孝の地に責入る時、幸田兄弟いさぎよく討死したりけり、幸田が母は、實に漢の王陵が母の志とも云つべし、但し王陵が母は天下をしろしめすべき高祖の事を識たれども、只今危難に迫れる織田家に忠を盡せといへる、眞にありがたきことなるべし、

〔川角太閤記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1199 伊豫の國を、小早川〈○隆景〉に被下との、世間の沙汰は御座候へつるが、入部久敷不仕候、小早川内證にて御理被申上候つる事と聞え申候、右之國、小早川に可遣御胸は、備中の高松より御登の時、りちぎをたて亂舞など仕陣中能しづめ申候事、後慥に御耳へ入申候故にや、其感と承候、内證の御理は、右の御國直に拜領仕候得ば、則輝元と傍輩に罷成也、自然輝元御意にも相背るゝ儀候ば、上樣より御厚恩蒙り、輝元に一味は難成、其子細は、父毛利陸奧守元就遠行時、輝元を不見放との親〈江〉の誓紙也、右之子細、上樣〈江〉之御返事にては無御座候、御奉行衆迄之理にて御座候、御前御披露は慮外にあたり申候、いかゞ御座候はん哉と被申候處、小早川存旨、卒度御耳江被立と聞え申候、上樣御意には、彌分別神妙次第、御感被成、さらば此伊豫の國は、輝元江可遣也、輝元より小早川に被遣よとの御内證にて、伊豫の國を請取、小早川に被渡候、さらば拜領可仕とて入部被仕候事、

〔良將達德抄〕

〈六上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1199 長曾我部殿嫡子左京亮殿を討捕、勝利を得給ふ事、誠に不思儀に御勝也、彦左衞門も、各同前、敵五人討取申候、然ば親父長曾我部殿、濱邊をさして落行ける、船干汐なれば、可渡樣 なく、長曾我部殿周章しける處に、家久樣〈○島津〉川上平左衞門を以、長曾我部殿へ御使有けるは、今度御息左京殿打取る事、弓箭之故不是非弐第也、然處に船も汐于に成り、難浮見へたり、緩々と待鹽可解陣之由被仰付候、誠に名將之御至也と、諸人臧申候、〈帖佐宗辰覺書〉

〔東遷基業〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1200 關ケ原合戰附秀秋裏伐の事
俄に軍使を呼て、〈○德川家康〉裏切せらるべき御内通有、急ぎ先手の諸隊長に、此むねを申聞らるべしと云含て、石見〈○平岡〉と稻葉佐渡守と兩先手の陣將、螺を吹せて、旗を立直しける、使番村上右兵衞、先手の隊長松野主馬が陣に行向て、裏伐の下知を傳へければ、松野は大に驚きて、今にも御下知あらば、山下へ下り、關東勢を追立て、功を立んと待かけたるに、思ひがけなき御下知なり、今かく勝負まち〳〵なるに、當手より裏伐せらるゝに於ては、不忠と云、不義と云、取所もなき御行ひならん、しかれば他の先手の諸隊長は、たとひ裏切の軍するとも、我等は素志を空くせず、關東勢と戰ひ、討死せんと云ければ、右兵衞、松野を諫めて、貴殿の申さるゝ所も、さる事なれども、はじめより御内通あるとの事なれば、今更御違變成がたからん、しかるに貴殿、君命に背き、關東勢と一戰あらば、それも又不忠不義成べし、ひらに隨ひ給へと云ければ、松野も此理にせめられて、麓へ人數をうしけれども、手の者を引纏ひて、裏切の軍するを、見物してぞいたりけり、

〔駿臺雜話〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1200 天野三郎兵衞
天野三郎兵衞〈○康景〉は、慶長年中、駿州興國寺の城主として、三萬石を領しけり、領地の竹をきらせて、營作の爲に積置て、足輕三人をして、守らせけるに、御領田原の郷民、此竹を盜取しかば、番をせし足輕見付て、盜一人をきり殺す、殘黨逃去て、代官井手某に訴ふ、〈○中略〉人を康景がもとへつかはし、御領の民を、こなたへ斷なくして、卒爾に殺す事重罪なり、速に其足輕を誅すべきの由を、いひやりければ、康景盜を殺すは、古今の法なり、なにをもて罪とせん、其上かの足輕、私に殺すにあら ず、康景下知してころさしむ、もし此事誤にならば、康景罪に行はるべしとて、少も許容の氣色なし、井手其まゝにてはやみがたき故、郷民實は竹をぬすまず、無實の罪にてころさるゝを、康景己が足輕に荷擔して、誅せざるの由、言上しければ、康景が許へ、下手人出すべきの由、仰出されけれとも、前のごとくいひて、御うけ申上ず、東照宮きこしめして、〈○中略〉本多上野介正純を、康景が許へつかはされて、たとひ此事理なりとも、一たび仰出されたる上にて、其通に仰付られねば、御威光も輕きやうに聞ゆる間、三人に鬮をとらせ、其内一人とりあたりたる者を誅し、しかるべきのよし、正純申されしかば、御威光輕くなるとある上には、とこう申上るに及ばずとて、御うけ申上にける、さて申けるは、理をまげて、罪なき者を殺し、我身を立るは、勇士の本意にあらず、所詮身を退るにしかずとて、いづちともなく逐電し、行方はしれざりけり、〈○中略〉鳴呼康景、潔白の士なるかな、無辜をころして、己が身を立るは非義なり、ころさねば、上意にそむくに似たり、とにかくに世にありては、身の一分たゝずと思ひきりて、三萬石の祿を棄て、跡をけちぬるこそ、世に類ひなき事と云ふべし、

〔烈公間語〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1201 一加藤淸正〈江〉、常陸守殿紀伊殿〈○德川賴宣〉ヲ御緣者被仰付候、東照宮被仰候〈於駿府ノ事下也〉ハ、常陸守事、淸正ノ婿ニ申合上ハ、諸事子息同前ニ、御心得給候ヘト被仰候由、御次間〈江〉被出時、淸正〈江〉御當家ノ家臣衆被申ハ、唯今ノ被仰ヤウニテハ、定テ御滿足ニ可有由被申、淸正云、尤忝存候、乍去昔秀吉公ノ御厚恩ハ忘レ不奉ト被申、御當家ノ老臣挨拶可仕樣無之、然所ニ、成瀨隼人正トリアヘズ、其御思召御尤至極也、又家康ノ御恩ヲカウムリタル者モ、亦其通ニ、家康公ノ御恩重ク存ズル也ト被申、名譽ノ挨拶也、

〔武邊咄聞書〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1201 一家康公大坂〈江〉御取寄可成前方に、眞田隱岐守信尹〈眞田一德齋末子にて、安房守昌幸弟にて左衞門佐信賀が伯父なり、〉を御使にて、眞田左衞門佐信賀方へ被仰遣候は、秀賴合力の心を飜し、味方に參り候はゞ、 信州にて一萬石可下との上意也、左衞門佐承り、上意之趣難有奉存候、然其信賀事は、開ケ原一戰に御敵仕、其罪科に依て、九度山に蟄居仕候て、山賤之體に罷在候處、秀賴公より召出し、相備八千餘の大將に被仰付候處、何より忝存候間、心替候義は、罷成間敷旨申切けり、此旨隱岐守申あげしかば、左候はゞ、重て信濃國一國を、一圓に可下と被仰出、隱岐守此旨重て被遣、左衞門佐大に怒て、忠義に輕重なし、祿の多少に寄べきや、一度秀賴公の御扶持を受候上は、討死と志候、乍去若御和談に成候はゞ領知の望なし、貴殿の合力を請、關東へ奉公可仕候、合戰有之内は、大坂に罷在うち死仕候條、重て上意の御取次、可無用と申切けり、

〔常山紀談〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1202 大坂の亂起りし時、嘉明〈○加藤〉江戸に殘しとゞめられ、不慮の事あらば取まきて、攻殺んといひあへり、其比、夜更て、河村、〈○權七〉嘉明の屋敷の門をたゝき、靑木佐右衞門を呼出す、靑木あやしみ立出て見るに河村なり、こはそもいかなる事ぞといふ、河村、事あたらしきやうなれども、君に仕ふる者の忠を致すは、常の習ひなり、〈○中略〉十餘年、山中にかくれ居しに、しか〳〵の事にて、殿も危くおはしますと聞て、夜を日に繼て參りたりといへば、靑木、誠に義理の志はさる事なれども、殿のいかり甚しければ、かくと申たりともゆるされじ、とく歸られよといへば、河村、臣たる者の義を知れなば、河村はなど來らざるやといはるべきに、門内にだに入ず、とく歸れとは口をしの詞、よ、此上は町屋にかくれ居て、殿の先途を見んと云しかば、靑木左らば先申て見んとて内に入、嘉明に吿れば、〈○中略〉嘉明、汝が志、いはんやうもなしと悦れけり、夜明て、河村こそ來れとて下部までいひはやし、大軍の援有が如くいさみけり、嘉明、寵愛して八千石あたへられけり、

〔明良洪範〕

〈二十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1202 大母殿
大母殿台廟〈○德川秀忠〉ノ御乳母ニテ賢良ノ女ナリ、其子某事ハ山中源左衞門ノ黨類ナルニヨツテ、流罪ニ仰セ付ラレ、其後大母殿ハ台廟ノ御尊敬アナカラズ、〈○中略〉大母殿病ニカヽリ、甚ハダ心元 ナキ由聞召レ、御成遊バサレ仰セラレ候ハ、思ノ外顏色モ宜シ、サレドモ前方申シ度コトモ候ラハヾ申置ベシ、何事ニモアレ、御叶遊バサルベクトノ上意有ケレバ、〈○中略〉已ニ御立座ニ相成時、上樣ト呼返シ申上候ハ、先頃ヨリ再三何モ願ハナキカト御意遊バサレ候事ヲ考へ候得バ、忰ガ事ヲ、此婆々ガ臨終ニ氣ニ掛リ候半ト思召候テノ御言ト存奉候、必御赦免下サレ間敷候、若此婆々ニ對シテ、御免遊バサレ候得バ、御乳ヲ上候御馴染故、天下ノ大法ヲ犯シ成サレ候ニテ之有候間、後代迄御政道ニ疵付申可候、私黃泉ノ障ニ相成候間、必御免下サレ間敷由申終、頓テ卒ス、皆人其志ノ程感賞セリ、

〔明良洪範〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1203 松平阿波守忠英ノ家老增田豐後ト云者、主人ヲ恨ムル事有テ、無實ノ事ヲ工ミ、江戸へ訟ヘケル、公儀ノ役人糺問有ルニ、阿波守ニハ罪無キ事ナレドモ、憚リテ閉門シテ愼ミ居ケル節、有合セノ金銀盡キ、諸用ニ差支ヘケレド、遠國故取ニ遣ハストモ、早急ノ間ニ合ズ、又人ノ疑ヒモ如何有ント、掛リノ者甚心配シ、據無ク井伊掃部頭直孝ノ許へ、内々使者ヲ以借リニ遣ハシケルニ、家老中同心セズ、公儀へ對シテ憚リ有レバ、貸ス事ナラジト云、岡本半助云、人ノ急ヲ救フハ義也、若後難ヲ恐レテ急ヲ救ズンバ信義ヲ失ヘルナラン、是井伊家ノ恥ニ非ズ乎ト云、家老中然ラバ其事主人へ達セント云、岡本達センハ然ルベカラズ、貸シテ後逆ニ黨セリト、公儀ヨリ御咎メヲ蒙ラン時ハ、主人ハ一向存ゼズ、某一人ノ計ヒ也トテ切腹スベシ、又貸シテ後急ヲ救ヒシトテ、御譽ニ預リシ時ハ、主人ノ計ヒニ致サントテ、倉ヲ開テ千金ヲ出シ貸遣ハシケル、後ニ直孝是ヲ聞テ、甚感心セリト也、

〔明良洪範〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1203 延寶六年ノ飢饉ニ、若州ニテモ大、分餓死人有リ、右田坂、或日乞食ノ集リ居ケル所ヲ通リケルニ、其中一人眼中只者ナラズト見エケレバ、家來ヲ以テ申遣ハシケルハ、領内ノ上石カ、他領ノ者カ、定メテ凶年ニヨリテ、其體ニ成シナラン、人ノ多ク見知、ラヌ内ニ、早ク我方へ來ルベシ、 扶持スベキ也ト申送リケルニ、彼乞食只打笑テ答ズ、使ノ者再三申セ共答ズ、田坂ハ乘物ノ内ニ在テ、此體ヲ見頓テ立出、彼乞食ノ側へ立寄リテ、汝ハ元ヨリ乞食トハ見エズ、多クノ人ニ知ラレザル内ニ、我方へ來レ、何トテ再三申ニ答セヌゾト申サレケレバ、コツ食坐ヲ正クシテ答ケルハ、御仁心ノ程忝ク存候へ共、乞食仕ラザル前ナラバ、御家來ニ成ベシ、一日タリ共乞食ニナレバ、コツ食ノ名ハ遁レズ、御家來ニ成ヌコソ、其御恩ヲ報ズル所ニテ候、田坂曰、我方へ來ラザルヲ以テ、恩報ジトハ如何ナル所存ゾ、乞食曰、私御家來ニ參リナバ、田坂殿ハ乞食ヲ召仕ハルヽト沙汰有ンニハ、主人ヲ恥シムル也、且傍輩衆モ何ゾニ付テハ、彼ハ乞食セシ者也ト侮ラン事必定也、其時ハ討果シ申サズシテハ、男ノ道立ズ、サ候ハヾ由ナキ私ヲ御抱ヘナサレシ故、舊キ御家來ヲ失ヒシト思召レン、是災ノ本ナレバ、御家來ニ成ザルコソ、御志ノ御恩報ジナルラメト云捨テ立去ケル、田坂彌執心シテ尋出シ、米錢等送リナドシケルニ、後ニハ辭シテ受ズ、再ビ立去テ姿ヲ見セズ、此乞食、他領へ行テ順禮シケルト也、若州小濱ノ者ハ土民迄知ル所也、誠ニ古今稀ナル乞食也、

〔鳩巢小説〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1204 一甲賀孫兵衞、是ハ稻葉丹後守ドノ家來ニ候、〈○中略〉弟一人有之、式部ト申候、段々不行跡等有之候テ、丹後守殿ト散々不和ニマカリナリ候テ、孫兵衞ニ討テ參候樣ニ申付ラレ候、孫兵衞申候ハ、尤無御餘議事ニテハ可之候ヘドモ、御連枝樣ノ御義ニ候、何卒御了簡被遊候樣ト再三申候處、左樣ニ斷申事、役ニ立申マジク候、其心底ニテハ迚成マジク候、餘人ニ可申付ト申サレ候、此時孫兵衞、未ダ前髮ニ テ十六歲ニテ候、〈○中略〉孫兵衞申候ハ、是ハ無御情御意ト奉存候、此上ハ達テ被仰付下候ヘト申候ヘバ、夫ナラバ討留參リ候ヘト申付ラレ、〈○中略〉偖式部ドノへ罷越、家來ヲ以テ申入候ハ、甲賀孫兵衞、大切ノ御使ニ參申候、撿使ニ何某被仰付候、左樣御心得ラルベキ旨申入候、式部ドノ聞被申、大方合點覺悟ノ前也、是へ通リ候ヘトテ通シ申サレ、金鐔ノ大脇差拔クツロゲテ、是へ參リ候ヘト申サレ、近ク寄候ハヾ、討テ捨申由被申候、其時孫兵衞、大切ノ御意ニ テ御座候ユヘ、トカク近クコリ候テ、申上ベキ旨申候テ、脇差ヲヌキ、二三間モ投、丸腰ニ成リ、近ヨリ申候、此仕合故、式部殿モ少シユルカセニナラレ候、孫兵衞手ヲツキ、段々御不行跡ノ事、ケ樣ケ樣ノ御意ニテ候、此上ハ其分ニ差置レ難ク候間、私參候テ、奉討候ヤウニトノ御意ニ御座候由、申モ果ズ、其マヽ飛掛リ力量有之候ユへ、式部ドノヲ押付、懷中ヨリ九寸五分ヲ取出シ、胸元へ押アテ、彼撿使ヲ呼候テ、此體慥カニ見屆申サルベク候、腰あ拔ケ不申候間、左ヤウニ心得候ヘト申候テ、サテ式部ドノヲ引立、是迄ニ御座候、早ク御立退ナサレ候へ、私御供仕ベキ旨申候テ、夫ヨリ式部殿ト逐電イタシ候、撿使モ同心ニテ、早ク急ギ御立退候ヤウニ申候テ、ノカセ申ヨシニ候、〈○中略〉始終見ゴトナル仕カタニテ御座候、

〔名家略傳〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1205 近松行重母
義士近松行重、赤穗を退き去るの後、その母とともに江戸に來り、族家に寓居せしめ、近きあたりに住みて、晨夕母のもとに行きて、起居を問へり、復讐のひと日前にあたりて、〈○中略〉行重云、はやく大人に、この事〈○義士復讐〉を聞えまゐらせば、吾身の上を哀しみ給ふて、朝夕の歡をそこなはんことをおもひて、あへて吿げざりしといへば、母云、汝が言もうべなりとて、起て一間に入りしが、久しく待ども、出で來らざれば、行重おぼつかなくて、往て見るに、母みづから刃に伏して、傍に遺書ありければ、うら驚きつゝ、その書を見るに云、おそらくは母に心のひかれて、義氣の振はざることをおもへば、今吾先だち死して、汝が報國の志を專にせんとす、つとめはげみて、衆におくるゝことなかれと懇に喩しけるほどに、行重その書を見て、働哭むこと大かたならず、悔云、我窮阨をもて、わが無きあとの、養ひなきを思ひはかりて、母に物がたりけるに、打聞て戚色ありといへど、かかるべしとはおもはじ、猶餘命のありながら、自殺したもふことの悲よと、千度百たび嘆きかなしみつゝ、同僚に喪の助けを請ひて、家あるじに、葬事のとりまかなひ託するよし、懇にかき述べ、 ならびに金若干を封じ、母の尸のかたはらに置きて、夜をこめて去りしとぞ、

〔名家略傳〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1206 義僕元助
赤穗義士片岡源五右衞門高房の家僕を元助といへり、幼ときより高房の家に畜はれて人となり、篤實勤行にして、事を執ること甚だつゝしめり、高房、赤穗を去るの日に、かねて召しつかふ奴婢に、こと〴〵く暇をとらせけり、されども元助ひとり留りて去らず、高房に從ひて江戸に來り、朝夕薪水の勞をいとはず、出入事を奉りて餘力をのこさず、その心を盡すこと昔日に勝れり、〈○中略〉復讐のことはてしをりから、何くよりか來りけん、拂曉高房が出るを待受け、一筥の密柑を捧げ持て、諸君さだめて昨夜のはたらきに渴し給はん、いざまゐらせよと、彼密柑をおの〳〵にあたへ、泉岳寺までつきそひ行き、涕泣してぞ別れける、

〔甲子夜話〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1206 吾師皆川子ノ話タルハ、天川屋儀兵衛ト淨瑠璃本ニアルモノハ、其實尼崎屋儀兵衞ト云テ、大坂ノ商估ニシテ、淺野内匠頭ノ用達ナリ、大石内藏助復讐ノ前、著込ノ鎖帷子ヲ數多ク造タルコトニ預リシガ、町人ノ武具用意ト云風聞アリテ、官ノ疑カヽリ、呼出テ吟味アレドモ、陳ジテ言ハズ、後ハ拷問スレドモ言ハズ、終ニ其背ヲサキテ、鉛ヲ流シ入ルニ至レドモ白狀セズ、アマリニキビシキ拷問ニヨタ、死セソトセシコト幾度モ有シトゾ、然レドモ白狀セザレバ、久シク囹圄ニ下リ居シガ、江戸ニテ復讐ノコトアリト、牢中ニテ聞及ビ、儀兵衞改メテ申ニハ、追々御吟味ノコト白狀仕度トナリ、乃呼出テ申口ヲ聞ニ、ソノ身淺野家數代ノ出入ニテ、厚恩蒙シ者ナリ、彼家斷絶ノ後、大石格別ニ目ヲカケ、一大事ヲ某ニ申含、江戸ニテハ人目有トテ、此地ニテ密ニ鎻帷子ヲ造リタリ、全ク公儀ヘノ野心ニ非ズ、ハヤ復讐成就ノ上ハ、何樣ニモ御仕置奉願ト云ケル、之ヲ聞テ奉行ヲ始メ、其場ニ有リアフ人々、皆涙ヲ流サヾルハ無カリシトナリ、

〔鶴梁文鈔〕

〈六/碎〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1206 烈士喜劍碑 喜劍者不何許人、或云薩藩士、蓋奇節士也、元祿中赤穗國除、大石良雄去在京師、時物論囂囂、言其有復讐之志、良雄患之、故假歌舞遊衍、以滅人口、一日、遊島原妓館、會喜劍亦來遊焉、喜劍素與良雄相識、然竊希物論不一レ虚、及其遊蕩不一レ已、心甚不懌、乃招良雄、同飮于一樓、以微言之、良雄不應、因更反復直言、良雄猶不應、笑言自若、無承服色、喜劍乃怒目大罵曰、汝眞人面而獸心也、汝主死汝國亡、汝爲大臣而不仇、非獸而何、余將獣待一レ汝、於是展左脚、盛魚膾數臠于脚指頭、使良雄食一レ之、良雄夷然俯首喫之、畢舐指頭餘瀝、時良雄啞々之笑聲、與喜劍叱叱之罵聲、喧然聞乎樓外矣、旣而喜劍于役江戸、適聞赤穗人報讎事、問之則同謀四十六人、良雄其首也、喜劍愕然曰、吁余死矣、夫余目獸視良雄、乃我目之罪也、余舌獸罵良雄、乃我舌之罪也、余足獸食良雄、乃我足之罪也、余心獸待良雄、乃我心之罪也、一身皆罪、吁余死矣、於是托病歸國、公私了事、復來江戸、則良雄旣與同謀之士、皆賜死、葬之江戸泉岳寺中、乃詣其墓、拜曰、我當謝萬罪于地下耳、乃拔刀屠腹而逝、有人又葬之其墓側、夫喜劍氏、初之與良雄相識、而希其有義擧、中之直言忠吿、至罵而辱一レ之、終之殺身明志、以謝其罪、雖中行之士、其奇節可古之俠者矣、〈○下略〉

〔伊豫松山世語〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1207 享保十七年秋、飢饉ノ時、荒ヲ救フノ政ヲ施スニモ、猶モ離散スル者多シ、死者九万四千七百八十餘人アリ、御上御差扣ニ付、寺社ノ鐘聲モ絶へ、町方モ蔀ヲ閉タリ、時伊豫郡筒井ノ農夫作兵衞、獨リ麥苗ノ易カラザルヲ憂へ、力耕シテ種ヲ枕トシテ死セリ、其墓碑ノ略ニ云、
義農姓某名某、稱作兵衞、伊豫國松山府之下筒井農夫也、稟性朴實剛介、素勵其業焉、享保十七年 秋、螟爲災甚、郡邑救荒之政不施、捨業而離散者尤多矣、作兵衞獨憂麥田之不一レ易、奮然忍饑餓、自 耕數十畝、將麥種、精力衰耗、狼狽還家、困頓特甚、遂濱死隣人諭曰、子之命在旦暮、而有麥種滿囊 中、蓋食之而免死乎、作兵衞怫然作色曰、吾食食之食、則何有于此、也、夫百穀播種而納租 税者、民之職也、官費資焉、君子祿焉、國人庇焉、然則穀種之貴重、非吾命之可一レ比矣、故民國之本、穀種 農之本也、若肆然而盡之、則來歲將何以濟國用邪、不穀種則吾之志而、竊欲以報一レ國也、吾守死而 已矣、汝勿復言、氣息奄々、遂枕麥囊而死矣、則九月二十三日也、因人感其義氣、僉稱曰義農、安永五年、代官增田惟貞、義農作兵衞ノ墓碑ヲ營ム、丹波成美其文ヲ撰ミ、尾崎時春書之、其文末章ニ云、
郡官增田惟貞、適省其墓、詳其實以白于官、憐恤作兵衞死、且謂民風之所系、恐口牌有時而亡、爲新 其石其事、毎歲與米一包於其子孫、給祭祀、以旌異於閭里、距死蓋四十五年云、

〔とはずがたり〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1208 このごろ〈○享保頃〉事にや、貧しきをのこ、人にやとはれて、あさましき世をふるに、人にも見すべき程のをんな子あり、きはめてかほよし、その友きたりて、そこのをんな子のいろよきに、うかれめにもうれかし、さらばやすくて世をわたらんものをといへば、いなうらじ、すて子なりしものをといふ、さらばいよ〳〵うれかし、誠の子だにしかするもあるをといへば、をのこかしらふりて、かれすてられしいにしへ、をのれ見つけて、あなびんなや、あはれおほしたてんとてこそひろひつれ、貧しき時うらんとては、ひろはぬものを、今はたむかしにそむかんや、いと貧しかるをのこなりとも、むこと名づけてあはせんとて、つひにうけ引いろなし、義をしるといふべし、

〔山陽遺稿〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1208 百合傳
百合者、不何許人也、或曰、江戸人也、爲人明慧、絃索鍼黹、一見輒解、旣爲阿穀所一レ養、習其母所一レ爲、喜好吟咏、日著茜裙、捧茗供客、而偸閑輒手筆硏、花香鳥語、隨觸入題、性不甚裝飾、而天姿娟秀潔白、淡糚常服、楚楚動人、過者無不留連、都下貴介豪富子弟、多意者、少年自喜者、或傳粉顧影以求其心、百合不顧也、百合有素暱德山某者、爲幕府士人子、爽俊人也、因事流寓都下、落魄不自活、百合爲之傾竭心力、因得乏、如斯者有年、有孕生一女、情好益篤、會德山氏宗家嗣絶、族人議取某繼之、乃使使者 齎書來迎、某乃欲百合倶歸、百合辭曰、妾與郎君、綢繆十年、一旦萍離蓬斷、極難情耳、顧郎君晝錦、攜婦人以旋、恐招人指目、某固要之曰、吾飄泊客土、得溝壑以致上レ今日、皆因卿力、今一旦富貴、而遺弃糟糠、余不忍也、百合固辭曰、妾忝過愛、寧不踴躍欲一レ從、所以不一レ命者、抑郎君承重宗祧、當良聘一レ儷、路傍花柳、何堪攀折、卽奔從纏綿、不唯玷辱郎君、施及祖宗、妾深http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01727.gif 於心、饒使憐充側室、風波中起、牽累郎君、是亦妾所逆憂也、妾日夜籌之熟矣、則一日之訣離、所以全十年之恩情、郎君珍重、妾生死自此辭矣、幸勿復以妾爲一レ念也、某不敢强、乃欲生女、百合曰、郎君少壯、更伴新人、前途多福、不行遶膝之樂矣、妾旣辭郎君、誓不他夫、獨守靑燈、賴有此一塊肉、見此猶郎君、幷之附去、何以消日、某遂舍女而去、百合自是益自脩潔、一意撫養其女、子母http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01728.gif http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01728.gif 、相依爲命、〈○下略〉

〔孝義錄〕

〈二十七/能登〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1209 孝行者久右衞門
久右衞、門は羽咋郡生神村にして、持高八石九斗あまりの百姓なり、〈○中略〉明和三年、攝津の國神月孫三郎が船の、生神村領の沖にて破船して、水主のきたる物も流し、赤裸にて陸にあがれるを、久右衞門衣をあたへ、船頭十四五人の者のために木綿をかひ、村の内の女に、わかちぬはせて、その縫賃をだにうけず、かの船にありつる金五拾兩と錢百貫とを失ふといふを、ほどへてきゝ、海のをだやかなるをうかゞひ、久右衞門一人、船にのりてかの沖に出、金をとり出して、船頭にあたへしが、壹兩たらざりしを、猶船頭とともに船を出して、やう〳〵にもとめ得てわたし、又村の者どもをかたらひ、彼百貫の錢をものこりなく取上てわたせしかば、船乗の者も感じあひて、福浦といふ所に船かゝれる時は、かならず久右衞門に音信けり、

〔續近世畸人傳〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1209 近江長女
長女は近江蒲生郡古市子村福永某が後妻也、先腹の子二人有、長女が産るは十餘人あり、さるに先腹の子をいつくしむこと、わが産るに十倍す、見る人感せざるはなし、しかもなほわが子あま たあれば、先腹の子の疎にならんことをおそれて、男子は七八歲におよべば、父を勸めて出家せしむ、女子はこと〴〵く京へのぼせ、人の婢女となす、かゝれば先腹の子ど右ゝ、其慈愛にひかれて至孝なり、兄は家を嗣、妹は彼實子の京に出し義理をおもひ、吾も京へ出んといふを免さず、しひて隣村へ嫁せしむ、さればふかく其恩を感じ、繼母の生涯起居をとふこと怠る時なし、長女後髮をおろしけるが、彼出家の子ども、某々の寺の住職となりしもの、折々に呼迎ふれども、實子の愛にひかれて、先腹の子のかたに居らずといはれんはうるさしとて、あへて省みず、其賢なる名遠近に聞えて、人たとみけるが、安永六戌のとし、老せまりて身まかりぬとぞ、

〔近世畸人傳〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1210 甲斐栗子
栗子は甲斐の國山梨郡の農夫某が妻なり、〈○中略〉山拔といふことにあひ、〈○註略〉水に溺れ死す、その時屍を堀出してみれば、十二なる養子を背に負、八ツになりける實の子の手を引て有けり、幼きかたをこそ背には負べきに、長じたるを負るは、此時に臨て、遁んとかまふるにも、養子をおもくするの義を、おもふなるべし、女といひ邊鄙の産なり、何のまなぶ所もあるまじきに、天性の美かくのごときは、世に有がたきためしなるべし、

雜載

〔子弟訓〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1210
へつらはずおごることなくあらそはず欲をはなれて義理をあんぜよ


Last-modified: 2019-05-05 (日) 13:31:31 (336d)