p.0406 薦學ハ、多ク己ノ子弟、若シクハ弟子、朋友等ヲ推薦スルヲ以テ常トスレドモ、或ハ自薦シ、或ハ又公ノ爲ニ己ニ快カラザルモノヲモ、推擧スル事アリテ一ナラズ、而シテ薦擧ノ事ハ、尚ホ政治部上編ニ在リ、宜シク參看スベシ、
p.0406 薦擧
p.0406 大江匡衡妻赤染讀二和歌一語第五十一
擧周ガ官望ケル時ニ、母ノ赤染、鷹司殿 〈○藤原道長妻倫孑〉ニ此ナム讀テ奉タリケル、
オモヘキミカシラノ雪ヲウチハラヒキエヌサキニトイソグ心ヲ、ト御堂〈○藤原道長〉此歌ヲ御覽ジテ、極ク哀ガラセ給テ、此ク和泉守ニハ成サセ給ヘル也ケリ、
p.0406 勝重〈○板倉〉しきりに職を辭しけるに、將軍家今暫くかくて候へ、いまだ汝に代りて、此 職をおさむべき人なしと仰られて、御許あらず、なほ請ふ事止まざれば、去らば汝に代るべき人を選みて薦めよ、いまだ其人を得ずと仰下さる、勝重都に候ひて、多くの御家人の事、いかで知るべき、此程の人の中に、などか其人のなかるべき、よく人々に御尋ねあるべきにて候、さりながらなほも勝重に申せと侍らんには、子にて候周防守重宗は、密夫の首きるべき者に候はず、若し彼を以て、父が闕に補せらるべく候やと申ければ、將軍家大に悦せ給ひ、周防守重宗を召して、京職に補せられ、勝重御免を蒙る、重宗辭し申けれども、子を知るは父に若ずと云事あり、汝が父の薦めにてあれば、辭する處あらじと、仰下されしかば、力及ばず、重宗なく〳〵父に向ひ、重宗如何で此職に堪へ候べき、なさけなうも御推擧に預り候者かなと、怨みかこつ、勝重打笑うて、おことは世話をしり給はぬよな、爆火を子に拂ふといふ事は、此父が事に候ぞと答へし、
p.0407 木下貞幹、字直夫、小字平之允、號二錦里一、又號二順庵一、
少從二某侯一來二江戸一、不レ得レ志而歸レ京、從レ是閉レ戸讀レ書、久之名震二海内一、加賀侯厚レ幣召レ之、辭曰、先師松永先生之子某、嗣承二家學一、未レ就二仕途一、家道屢空、請用レ彼以使レ得二其宿望一、侯聞レ之曰、今之世交同二手足之親一、誼比二金石之固一、於二利害所一レ關、則崖岸相向者比比皆然、如二順庵一可レ謂レ有二古人節一矣、卽與二松永氏子一倶禮二聘之一、
p.0407 我三十七歲の冬十月〈○元祿六年〉十日に、高力豫州の、我師の許に來りて、門中の人々誰かは其最におはする、我心のやうにて、問ひまゐらせよと、戸田長州の申すなりと、いはれしかば、〈戸田の當時甲府は家老〉足下にも、よく知り給ひし者をとて、我事をもて答へらる、同十五日の夕、豫州の久しく見侍らぬといふなり、彼許に行給へと命ぜられしかば、ゆきむかふに、尋問はれし事など、對ふる事あり、き、十二月の五日に、豫州又我師の許に來りて、長州の言葉を傳へて、我を藩邸にすゝめられん事をはからる、されど我師の心に、みち給はぬ事おはしければ、まづ彼に申してこそ、答申すべけれと宣ひ、其夜我を召て、宣ひし事共あり、六日に又豫州いはれし事共ありしに、其夜我 また申旨ありしによりて、七日の朝に至て、豫州の許に文して答申されき、〈○中略〉十二月十六日の巳時計に、藩邸に祗候す、戸田長門守忠利、津田外記、小出土佐守有雪等の人々、我を召出して、御家人たるべき由の仰を、ば、小出傳へられき、同十八日、始て見參す、
p.0408 我師なる人〈○木下順庵〉は、我〈○新井君美〉をば、そのむかしつかへられし加賀の家〈○前田〉に、すゝめん事を思給て、其あらましなどきこえ給ひしに、加賀の人にて岡島といふが、〈ずなはち忠四郎の事〉我をたのみたりしには、我本國に老たる母のあれば、いかにもして、先生推薦給らん事を申て給るべしといふ、我其事のよしをつぶさに申て、某つかへに從はん事は、いづれの國をも撰ばず、彼人は、老たる母の候なる國にて侍れば、某に代へて、すゝめらるゝ事、某も又望む所なり、けふよりしては、某を以て彼國にすゝめられん事、固く辭申す由を申切りてければ、此ことをつく〳〵ときゝ給ひ、今の代、誰かはかゝる事をば申聞べき、古人を今に見るとは、かゝる事にこそとの給ひて、涙を流し給ひしが、此後常に此事をば、人々にも語り給ひたりけり、さればやがて岡島をば、彼國にすゝめられき、
小侍從が子に、法橋實賢と云もの有けり、いかなりける事にか、世の人是をひきがへるといふ名をつけたりける、法眼をのぞみ申て、
法の橋のしたに年ふるひきがへる今ひとあがりとびあがらばや、と申たりければ、やがてなされにけり、
○按ズルニ、自薦ノ事ハ、政治部上編ニ其篇アリ、參着スベシ、
p.0408 文治三年六月廿一日辛卯、因幡前司廣元、爲二使節一上洛、〈○中略〉帥中納言〈經房〉望二申大納言一、其事可レ預二御擧一之旨、日來内々被レ申二于二品一、〈○源賴朝〉此卿爲二膠漆御知音一也、仍無二左右一、雖レ可レ被二奏達一、上臈有レ數歟、隨二京都之形勢一、可二奏試一之由、被レレ二廣元一、凡不レ限二此卿一、於二廉直臣一者、於レ事可レ加二扶持一之由、朝暮被レ插二御意一、偏 爲レ君爲レ世也云云、
p.0409 賴之、將軍〈○足利義滿〉ヲモリタテ奉テ、天下ノ成敗ヲ主ル、新將軍今年八歲ニナラセ給へバ、學問ヲナサレ、禮義作法ノ宜キ樣ニ、タスケ導カセン爲ニ、廣才ノ僧徒ヲ撰ミ給フ、天龍寺ノ長老春屋和尚法眷正藏主ト云人アリ、能書ト云、文才世ニナラビナシト申ケレバ、武州此人ヲ近付テ試ミ給ヒ、文才ハ人ノ云シニ不レ違、然ドモ奸惡ノ心アツテ、アクマデ侈リ、シタシキ者ヲバ是ヲ欲レ擧ウトキ者ヲバ才智アリトイヘドモ去ステシ也、此行跡ニテハ、將軍ノ師ニ成シ奉ルベキ器ニアラズ、御傍ニ置參ラセンコトモ、危シト思レケレバ、其沙汰ナク成ニケリ、此事世ニ觸ラレケレバ、方々ヨリ能書又學解ノ人、諸藝者ニ至マデ、先武州ニ近キ奉ラント集リツドヘリ、去ドモ心ニ私ナク、温和ニシテ、幼君ノ御ソバニ可レ置人ナシ、アル時山名伊豆守、武州ニ向テ申サレケルハ、東寺澄快法師ハ、能書ト云、内外傳トモニ通達ノ人ナレバ、是ヲ將軍ノ學問ノ師ニ置ルベシト申サレケレドモ、廣才能書ハ、世ニスグレタルコト、某モ存候ヘドモ、行跡頑ニシテ動モスレバ我意ヲ行ヘリ、幼君ノ御ソバニ可レ置人ニ非ズトノ玉フ、其後南都ヨリ敎司ト云遁世者ヲ呼出シ、試ミ給ヒ、浮世ノ塵網ヲ拔ケテ、欲心少シモナシ、道ヲ專トシ理ニサトキ常ノ行跡不レ怠、才智モ如レ形候ヘバ、是ヲ將軍ノ御傍ニ置ベキ人也ト進メケル、敎司辭シテ云ク、サマデノ才學モナク、御尋アラン事、答へ申サヾランハ、最ハヅカシト、達テ被レ申ケル、武州ノ云、貴邊ノ御存アルコトヲバ、御答アルベシ、常ニ故實アル御物語申シ給へ、將軍ノ威ニ恐、貴邊ノ行跡ヲ亂シ給フナ、理ノマヽニ行ヒタマヘ、當世婆娑羅ノ事、露計モ語リ給フナ、人ノ善惡、將軍ノ御意ナキニ、申サセ給フナト、懇ニ敎ケル、又武州四國ニ在シ時、近藤平次兵衞盛政トテ、弓矢ノ故實ヲ知リ、文道ノ心ヲモ凡辨ヘテ、義ヲ專トシ、道ヲ嗜人アリ、年老タル上ニ、賴ベキ子ナケレバ、遁世入道シテ、讃州ノ國府ニ在シヲ、賴之呼出シテ、數年親ツケテ試給フニ、心ニ少シモ私ナク、不レ隔二親疎一、禮義正ク道理ノマヽニ行フ、寔 ニ當時ノ人ノ手本トモ、可レ成人ナリト、賴之深ク信ジテ、此人ヲ還俗セサセテ、將軍ノ御傍へ參リ給へ、寔ニ苦勞ニテ候ヘドモ、平ニ賴ミ申ニテ候、〈○中略〉還俗ノ事ハ、其心ニ可レ任、但數年賴之ニ仕シ如ク、將軍ノ御前ニ被レ有候へ、其上ニテ、貴邊ノ失アランハ力ナク、賴之ガ不覺タルベシ、苦勞ノコトサゾアランズルゾ、賴之將軍ノ御爲ニ、一身ヲ捨テ、苦勞ヲ不レ顧、將軍ノ御代ヲ治メテ、名ヲ子孫ニ殘ンコトヲ思フ、御邊何ゾ爲二賴之一身ヲ捨テ、老ノ苦勞ヲ不レ顧、將軍ニ仕へ奉テ、名ヲ殘シ給ザランカ、但實子ナケレバ、子孫ノ爲ト云ガタシ、只忠ノ一篇ト心得タマヘト被レ申ケレバ、近藤入道力ナク御請申テケリ、
p.0410 神谷の何某、御家人に召れし初、政親〈○酒井〉に行あひて、路次の禮をいたす、政親はかくとも知らで打過たり、此後神谷、政親にあひて、頗る無禮をあらはす、德川殿、〈○家康〉此よしを聞召、神谷が常の振舞を試させ玉ふに、心直にして行正しく、奉公の勞おこたらず、かゝるもの御勘當あらんには、御家人等皆身を危きものに思ふべし、又政親が讒したりなど思ひなん、さりとて其儘に召仕れんには、家の司が威勢、日々に盡て、事また治まるべからず、せんずる所、彼に所領賜らん時、かねての約に違はゞ、一定我家を去るべきものなりと思召て、八百石を賜はんとの、御下文をなさる、政親御前に參りて、神谷所領賜るべしと承る、かれがふるまひ、よのつねならず、過分の所領賜ふべき者なりと申す、彼はをこの振舞する男と聞けば、八百石の所領賜らんと思ふなりと仰せらる、政親大に驚き、何條さる事や候べき、彼等に所領約の如く、賜らざらんには、此後、誰かは出て仕ふべき、たゞ過分の所領たまふべき者なりと申、德川殿、汝が申す所心得ず、家康が家にして、汝に向て、無禮せんもの、誰かあるべき、彼に賜ふ所、約の如くにならざらんには、彼は一定我家を去るべしと思て、斯は計ふなりと、仰せられしかば、政親愼み承て不肖には候へども、君の御恩に依て、かゝる身と成て候へば、御家人の中に、誤ても一人腰膝を屈め、手を突かぬ者は候はず、夫 に此神谷が心强く、無禮を顯はす條、彼もし君の御恩に感じてだに候はんには、必御大事あらんとき、身をも家をも忘るべき者と思ひなして候、平に所領多く賜ふべしと申す、さらば如何程をか賜らんとあれば、二千石をや賜べきと申、たゞ約のまゝ千石をこそ賜ふべけれと有しに、政親望み乞ふ事やまず、宿老の人々、さらんにおいては、千五百石をや賜ふべきと申ければ、神谷を召して、ありし事ども、一々に仰下されて、千五百石の領宛行はる、神谷感涙にたへず、御前を立て、直に政親の許に行向ひ、此程の無禮を謝す、其後高名度々に及び、終に足輕の大將を承る、德川殿、常に此事を、執政の人々に語らせ玉ひ、汝等政親が心を心とすべきものなりと、仰られしよし、或書に出づ、
p.0411 池田光政朝臣ノ長臣土倉市正ハ、四郎兵衞ガ養子、實父ハ瀧川一益ノ先鋒將岩田小左衞門ナリ、或時光政朝臣、市正ニ向テ、使番ハ戰功有テ事ニ鍛錬シ、見積思慮アル人ヲ用ヒ來レリ、世治テ戰場ニ出タル者年々死去ス、向後平生ノ言行ヲ以テ其人ヲ撰ムベシ、唯今吾家中誰ガ其任ニ當ラン、試ニ擧ヨト命ゼラル、市正先一人ハ中村忠左衞門可ナラント答フ、中村苟モ諂䛕セズ、長臣ニ途ニ遇モ禮ヲ待テ後コレニ應ズ、殊土倉トス不二相好一、却テコレヲ擧ルヲ以テ、光政近習ノ加藤某、密ニ中村ニ吿、其、家ニ親昵ナランコトヲ勸ム、中村聞テ悔ル心アリ、卽後ヲ賴テ心事ヲ土倉ニ達ス、市正聞テ、人ヲ擧ゲ薦ムルハ國家ノ爲ニシテ、毛頭私慮ノ加ル處ニアラズ、何ゾ吾心ヲ不レ知ヤト云テ、中村ガ悔改ヲ悦容ルノ詞ナシ、世上阿從ノ徒ハ、不善ナルモ相好シ、不䛕不貪ノ士ハ疎ジテ其毛ヲ吹、艱難貧窮ニ處シテ、何ゾ其守ル所ノ有無不レ知、土倉ガ如キ長臣ノ長也、
○
p.0411 三年、輕皇子〈○孝德〉深識二中臣鎌足連之意氣高逸、容止難一レ犯、乃使下寵妃阿陪氏、淨掃三別殿一、高鋪中新蓐一、靡レ不二具給一、敬重特異、中臣鎌子連便感二所遇一、而語二舍人一曰、殊奉二恩澤一、過二前所一レ望、誰能不レ使レ王二 天下一耶、〈○中略〉中臣鎌子連爲レ人惠正有二匡濟心一、乃憤下蘇我臣入鹿失二君臣長幼之序一挾二闚二 社稷一之權上、歷試接二王宗之中一、而求下可レ立二功名一哲主上、便附二心於中大兄一、○天智疏然未レ獲レ展二其幽抱一、偶預二中大兄於法興寺槻樹之下、打毱之侶一、而候二皮鞋隨レ毱脱落一、取置二掌中一、前跪恭奉、中大兄對跪敬執、自レ玆相善、倶述二所懷一、旣無レ所レ匿、復恐三他嫌二頻接一、而倶手把二黃卷一、自學二周孔之敎於南淵先生所一、遂於二路上往還之間一、並レ肩濳圖、無レ不二相協一、
p.0412 略記〈○扶桑〉曰、昌泰三年正月三日、帝〈○醍醐〉行二幸朱雀院一、與二太上皇一〈○字多〉密議、召二菅相府一、獨對有二關白詔一、相府固辭、因レ奏有レ召無レ事、人必怪訝、卽以二春生柳眼中一爲レ題獻レ詩、是日兩帝皇行二后宮一、各賜二御衣一、榮曜無レ比、左大臣〈○藤原時平〉頗變レ色、
p.0412 奉二菅右相府一書 善相公
淸行頓首謹言、〈○中略〉伏惟尊閤、挺レ自二翰林一、超昇二槐位一、朝之寵榮、道之光花、吉備公外、無二復與一レ美、〈○中略〉
昌泰三年十月十一日 文章博士三善朝臣淸行
p.0412 御堂關白〈○藤原道長〉物へおはしけるに、道に荷負馬の先にたちたる小童の、手に文をさげてよみけるを、あやしとおぼして、ちかくめしよせて、御らんじければ、眼に重瞳有て、いみじく賢き相のしたりければ、やがてめして、匡衡につけて、學文をせさせられけるほどに、後には大江時棟とて、廣才博覽の文士なりければ、君に仕へて、博士の道をつげり、養生の方をさへつたへて、壽考の人たりき、
p.0412 肥後守盛重は、周防の國の百姓の子なり、六條右大臣〈○源顯房〉の御家人になにがしとかや、かの國の目代にて、くだりたりけるに、次ありて、かの小童にてあるを見るに、魂ありげなりければ、よびとりていとおしくしけるを、京にのぼりてのち、供に具して大臣の御許に參たりけるに、南面に梅木の大なるがあるを、梅とらんとて、人の供の者ども、あまた礫にて打けるを、主のあや つとらへよと、みすの内よりいひ出し給たりければ、蛛のこをふきちらすやうに逃にけり、其中に童一人、木のもとにやをら立かくれて、さし歩て行けるを、優にもさりげなくもてなすかなとおぼして、人をめして、しか〴〵の物著たる小童、たが供の者ぞとたづね給ければ、主の思はん事をはゞかりて、とみに申さゞりけれど、しゐて問給ふに力なくて、某の童にこそと申けり、卽主めして某童參らせよと仰られければ、いとをしくしてつかひ給に、ねびまさるまゝに心ばせおもふばかりにふかく、わりなきものなりける、常に前にめしつかひ給に、あるつとめて手水もちて參りたりける、仰に、かの車宿の棟に、烏二居たるが、ひとつの烏、頭の白きと見ゆるは僻事かと、なき事をつくりて問給ひけるに、つく〴〵とまもりて、しかさまに候と見給と申ければ、いかにもうるせきもの也、世にあらんずるものなりとて、白川院に參らせられけるとぞ、
p.0413 文治五年七月廿五日癸未、小山下野大丞政光入道獻二駄餉一、此間著二 直垂上下一者候二御前一、而政光何者哉之由尋二申之、仰〈○源賴朝〉曰、彼者本朝無雙勇士熊谷小次郎直家也云云、政光申云、何事無雙號候哉云云、仰云、平氏追討之間、於二一谷已下戰場一、父子相並欲レ棄レ命、及二度々一之故也云云、政光頗笑、爲レ君棄レ命之條、勇士之所爲也、爭限二直家一哉、但如レ此輩者、依レ無二顧服之郎從一、直勵二勳功一、揚二其號一歟、如二政光一者、只遣二郎從等一、抽レ忠許也、所詮於二今度一者、自遂二合戰一、可レ蒙一無雙之御旨一之由、下二知于子息朝政宗政朝光、幷猶子賴綱等一、二品入レ興給云云、
p.0413 至德三年二月三日、話及二絶海事一、府君〈○足利氏滿〉謂レ余曰、絶海在二下國一、居處レ身果如何哉、余曰、或人傳、絶海今在二海國、村院一、寂寞枯淡、然於二道學禪誦一、無三一所二退倦一、君曰、在國旣及二一兩年一、上京其可也、余曰、絶海性悍率而忤二君旨一、暫置二田里一要レ有レ所レ懲、君笑曰、是乃和尚老婆心也、早欲下和尚以二專使一喚上、余曰諾矣、
p.0413 秀吉公素生 或時同國〈○近江〉犬山城の近邊燒働として、信長公未明に打出給ふに、馬に乘いさめる着有、誰そと宣へば、木下藤吉郎秀吉とそ名乘ける、そのゝち程へて、鴨鷹の爲、曉がた出させ給ひつゝ、誰か有ぞと尋させられけるに、藤吉郎是に候と答奉る、敬レ上盡二臣職一者は、必公庭に隙なしと聞しが、近年藤吉郎が勤め、實に左も有ぞかしと、御感之御氣ざし始て有けり、如レ此勤め行、漸日を累、年月を經しかば、直に御用を奉る程に成にけり、
p.0414 大谷刑部少輔吉隆は、初め洛東大谷の修驗者なりし、豐臣秀吉、弱冠の節、其花押をうらなひて、必武將となるべしといへり、秀吉漸く名をあらはし、一方の將となられし時、金を大谷に贈られしに修驗者卽ち甲冑を調へ、武士となり、其後しば〳〵軍功ありしが、秀吉に屬して、刑部少輔に任ぜられしとかや、
p.0414 大御所〈○德川家康〉正信〈○本多〉を見給ふ事、朋友の如くにて、將軍家〈○德川秀忠〉は長者を以て、待せ給ふ、正信も又常に大御所を呼びて、大殿といひ、將軍家をば、若殿と呼、軍國の機事に至て、其謀る所、言葉多からず、一言二言にて盡せるよし、諷諭に長ぜる人と見えき、始め大阪にて、大名七人、石田治部少輔三成を討んとす、德川殿人々を制し給ひしに因て、事平らぎぬ、其時伏見の御館にて、正信御前に參りしに、其夜は未だ亥の半なるに、はや御殿ごもりあり、正信打咳き〳〵參り、此夜ははやう御寢ならせ給ふと申す、德川殿いま何事かありて參ると、仰せられしに、正信、別の事にも候はず、石田が事、いかにや思召すと申す、されば今其事をこそ思ひ謀れと仰せらる、正信さては心易くなつて候ふ、其事思召しはかられん上は、正信何事か申すべき、御暇給るべしとて罷り出づ、德川殿又仰せらるゝ旨もなし、其時に土井大炊頭利勝、御傍に在つて承りきと、後に石谷將 に語りしなり、
p.0414 覺兵衞〈○飯田〉云けるは、我一生、主計頭〈○加藤淸正〉にだまされたり、初て軍に出て功名し ける時、朋輩多く鐵炮に中りて死しけり、危き事よ、はや是までにて、武士の仕へはすまじきとおもひたるに、歸るやいなや、淸正時をすかさず、今日の働神妙いはんかたなしとて、刀を賜りき、斯の如く、毎度其場を去ては、後悔すれども、主計頭其時をうつさず、陣羽織或は感狀をあたへ、人々もみな羨みて、ほめたてたりしゆゑ、其にひかれて、やむ事を得ず麾を取、士大將といはれしは、主計頭にだまされて、本意を失ひたるなりと、忠廣沒落の後、京に引籠り、再仕を求めずしてありける時、語りけるとかや、
p.0415 彦左衞門〈○久松〉事、大猷院樣〈○德川家光〉ノ時ニ、奧ノ御門番仰付ラル、壽林尼ノ下人ヲ、夜中ニ急用アリテ、出サセラルヽニ、彦左衞門イダサズ、下人壽林ノ事ヲ、カウニカツギテイフ、彦左衞門、オレハ壽林ト云ヤツヲシラズト云、壽林此由ヲ聞テ、御前ニテ委細申上ゲ、アノヤウナルモノ御番ヲ致シテハ、奧方ニメシツカハルヽモノ、急用ニ通路ヲ不レ得、近比迷惑ナル儀ト云フ、御意ニ、其方ハ久松ニ逢タカト被レ仰、イヤト壽林申上ル、御意ニ、ソレハ仕合ナリ、其方逢タラバ、危キ目ニアフベキニ、壽林、左樣ノカタ意地モノニ、御門番被二仰付一候ハ、イカヾト申上ル、御意ニ、アレハアノヤウナルニヨキ事ガアルト被レ仰候由、
p.0415 戸部〈○土屋利直〉は、年ごとの八月には、知り給ひし所の、上總國望陀郡に有るにゆきて、其十二月の半には歸り給ひき、その歸り給ひし後には、かならず父〈君新井君美父〉にておはせし人を、召出し給ひ、人をとほざけて、留守の事を問ひ給ふに、年毎に申すべき事もなく候ひきとのみ、答申さる、かくて年經し後に、我家小しきなりといへども、留守にさぶらふ者ども、其數なきにしもあらず、多くの年月經る内に、いかでか事なくてはあるべき、それに年ごとに、申すべき事も候はずといふ事、心得られずとのたまひしに、大事をば速に注進し、小事をば、留守の事なれば、人々と議定して、事決し候ひぬれば、其餘某が申聞べき事は、いまだ候はずと答申さる、そののちも上總 より歸り給ひし時には、必ず召出し給ひ、かしこにおはせし程の事など、物語し給ひて、時移りし後に、暇給はりて退き出づ、留守の事とひ給ふ事、おはせざりきと宣ひき、
p.0416 山崎嘉、字敬義、小字嘉右衞門、號二闇齋一、
初來二江戸一時、寒窶無二儋石一、故鄰二書商一賃居、以借二閲其書一、當二是時一、井上侯好レ學下レ士、書商亦數謁見、一日侯謂レ商曰、寡人將レ學、爾之所レ知、有下足レ爲二人師一者上、請爲介、商曰、近有二一儒生山崎嘉右衞門者一、自二京師一來、住二小人東家一、視二其所一レ以、度二越尋常一、閣下而召レ之、其得二不虞之幸福一也、豐不二感奮思一レ答レ恩乎、侯大喜、乃延致、商歸吿二闇齋一、闇齋毅然曰、侯欲レ問レ道、則先來見、商憮然以爲、措大不レ通二時勢一、若薦二若人一、必陵上無レ法、累自及、不レ若レ不レ薦也、他日侯復問曰、疇昔所レ吿山崎生如何、商曰、小人非レ惰也、前日旣傳二命於渠一、渠曰、侯先來見レ余、是非二頑愚不一レ可レ曉、卽狂率邀レ名也、請別選二通儒一、侯咨嗟良久曰、方今自稱二師儒一者、多無レ意レ行レ道、東奔西走、欲二其技易一レ售、而寡人聞レ之、禮聞二來學一不レ聞二往敎一、山崎生能守レ之、此乃眞儒也、卽日命レ駕訪二其居一、
p.0416 曾津侯、〈松平肥後守正之君〉博學大才、諸子百家の書に渉て、人傑也、河内守と懇意にて、度々參曾あり、ある時肥後侯來り給ふ、河内侯則先生を賴れし始末を語り給ふ、肥後侯相見事を求たまふゆゑ、先生座敷へ出らる、肥後侯座を立て、次の間まで迎へ給ひ、引て對坐あり、學談に及ぶ、肥後侯頻に先生を招請有たく求給ふ趣なり、其後彌其旨を通達あれども、先生辭するに、河内侯に先約あるを以てす、河内侯日、會津侯は我に比すれば德澤の及ぶ所も廣かるべし、我に變約のいとひなく行るべしとて、進め賴みたまふ、しからば御政道一人に被レ任るならば、可レ參と申さる、いかにも任せ申べきよしにて、絡に會津侯の方へ行れしに、太守師範、家老の上座にて、合力として、百人扶持送られぬ、
p.0416 山鹿素行
赤穗侯長友〈淺野内匠頭〉親執二弟子禮一請レ敎、與二素行一往來、數二年於此一、其虚左優遇異二於他一、承應元年壬辰春、贈二 祿一千石一、使レ釋二褐藩一、素行感二知遇一、應レ聘仕二于此二九年、而責不レ以二職任一、遇以二賓禮一猶レ故、萬治三年庚子夏、有レ故辭レ祿、侯謂二素行一曰、近世木村常陸介、封邑五萬石、以二五千石一、聘二木村總右衞門一、長谷川藤五郎八萬石、以二八千石一聘二島孫右衞門一、丹羽五郎左衞門、十二萬石、以二一萬石一、聘二江口三郎左衞門一、吾所レ聞也、寺澤志摩守八萬石、以二八千石一、聘二天野源右衞門一、松平越中守十萬石、以二一萬石一、聘二吉村又右衞門一、吾所二親見一也、自レ今以後、諸侯有二聘問者一、不レ爲二一萬石一無レ應二其聘一矣、夫百石千石、士之常祿也、士不レ食二祿萬石一、則出不レ足下以行二軍國之用一、備中戎器之具上、入不レ足下以祭二祀祖先一、養二父母一撫中臣民上矣、其被二尊崇一率若レ此、
p.0417 遺言〈○堀吉勝〉に任せ、所領を子供に分ちたまふ、嫡子丹右衞門勝安、三百石加增して、五百石に成、其子次郎太夫勝行、其子平太左衞門勝名也、君〈○細川重賢〉の御家を繼せ給ひけるは、勝名いまだ小姓組の比にて、勤仕しけるを、用人にうつされ、いく程なく、寶曆二年七月、擢出して、奉行になし給ひけるより以來、一國の仕置、此人の計らひたまはざる事なく、終に中老を經て、家老になし、所領を加へて、三千五百石に至り、國の政事を委任したまふ事、凡三十年ばかり、君の人を知らせ給ふ事明らかに、人を任じ給ふ事の專らなりし事如レ斯、〈○中略〉
浦地喜左衞門正定、〈○中略〉君の御代になりては、納戸の事を司りてありけるに、ある時鷹野に具し給ひて、此犬しばし引て居よと有ければ、犬は犬引にこそ、引せらるべきに迚引かず、又あるとき御かたはらを掃くべきよしを、の給ひければ、それは掃除坊主にこそ可レ被二仰付一とてはかず、かく何事もむくつけくいひければ、おのづから御覺もよからぬやうに人も見なし、其身も役を辭退せしに、いく程なく、役料五百石をあたへて奉行になし、後は所領を加へあたえて三百石、猶役料六百石添て、九百石の高に被レ成、〈○中略〉此國にては、平太左衞門〈○堀勝名〉とゝもに高名なり、
p.0417 不遇
p.0417 身のしづみぬることをなげきて、勘解由判官にて、 源したがふ あらたまの、としのはたちに、たらざりし、ときはのやまの、やまさむみ、風もさはらぬ、ふぢごろも、ふたゝびたちし、あさ霧に、こゝろもそらに、まどひそめ、みなしこ草に、なりしより、物おもふことの、葉をしげみ、けぬべき露の、よるはをきて、なつはみぎはに、もえわたる、螢を袖に、ひろひつゝ、冬は花かと、みえまがひ、このもかのもに、ふりつもる、雪をたもとに、あつめつゝ、ふみみていでし、みちはなを、身のうきにのみ、ありければ、こゝもかしこも、あしねはふ、したにのみこそしづみけれ、たれこゝのつの、さは水に、なくたづのねを、久かたの、雲のうへまで、かくれなみ、たかくきこゆる、かひありて、いひながしけむ、人はなを、かひもなぎさに、みつしほの、よにはからくて、すみの江の、まつはいたづら、おいぬれど、みどりのころも、ぬぎすてん、はるはいつとも、しら浪の、なみぢにいたく、ゆきかよひ、ゆもとりあへず、なりにける、舟のわれをし、君しらば、あはれいまだに、しづめじと、あまのつりなは、うちはへて、ひくとしきかば、物はおもはじ、
p.0418 橘正通が身の沈める事を恨て、異國へ思立たる折ふし、具平親王の作文序書たりけるに、是をかぎりとやおもひけむ、
齢亞二顏駟一、過二三代一而猶沈、恨同二伯鸞一、歌二五噫一而將レ去、とぞかける、源爲憲其座に候けるが、此句をあやしみて、正通思心有て仕つれりと申ければ、さすが心細くや思ひけん、涙をながしけり、さてまかり出るまゝに、高麗へぞ行ける、〈○又見二古今著聞集一〉
p.0418 つかさめしにもれてのとしの秋、うへのをのこども、大井にまかりて、舟にのり侍けるによめる、 大江匡衡朝臣
河舟にのりて心の行ときはしづめる身ともおもほえぬかな
p.0418 淸少納言零落之後、若殿上人アマタ同車渡二彼宅前一之間、宅體破壞シタルヲミテ、少納言無下ニコソ成ニケレト、車中ニ云ヲ聞テ、本自棧敷ニ立タリケルガ、簾ヲ搔揚、如二鬼形之女法師一 顏ヲ指出云、駿馬之骨ヲバ不レ買ヤアリシト云云、〈燕王好馬買骨事〉
p.0419 僧都光覺、維摩會の講師の請を申けるを、たび〳〵もれにければ、法性寺入道前
太政大臣〈○藤原忠通〉に、恨申けるを、しめぢがはらと侍けれど、又その年ももれにければ、つかは しける、 藤原基俊
契をきしさせもが露を命にてあはれことしの秋もいぬめり
p.0419 金剛山寄手等被レ誅事附佐介貞俊事
佐介左京亮貞俊ハ、平氏ノ門葉タル上、武略才能共ニ兼タリシカバ、定テ一方ノ大將ヲモト、身ヲ高ク思ケル處ニ、相模入道〈○北條高時〉サマデノ賞翫モ無リケレバ、恨ヲ含ミ憤ヲ抱キナガラ、金剛山ノ寄手ノ中ニゾ有ケル、〈○中略〉サテモ關東ノ樣、何トカ成ヌラント尋聞ニ、相模入道殿ヲ始トシテ、一族以下一人モ不レ殘、皆被レ討給テ、妻子從類モ共ニ行方ヲ不レ知成ヌト聞ヘケレバ、今ハ誰ヲ憑ミ、何ヲ可レ待世トモ不レ覺、〈○中略〉貞俊又被二召捕一テゲリ、〈○中略〉最期ノ十念勸ケル聖ニ付テ、年來身ヲ放タザリケル腰ノ刀ヲ、預人ノ許ヨリ乞出シテ、故郷ノ妻子ノ許ヘゾ送ケル、聖是ヲ請取テ、其行末ヲ可二尋申一ト、領狀シケレバ、貞俊無レ限喜テ、敷皮ノ上ニ居直テ、一首ノ歌ヲ詠ジ、十念高ラカニ唱テ、閑ニ首ヲゾ打セケル、
皆人ノ世ニ有時ハ數ナラデ憂ニハモレヌ我身也ケリ
p.0419 太田三樂岩築城離散事附源五郎氏資戰死事
小田原ノ萬松軒、法花ノ僧ヲ使价トシテ、岩築ノ城へ遣シ、太田三樂齋ヲ賺サレケルハ、〈○中略〉嫡子源五郎へ家督ヲ讓リテ、三樂ハ隱居アラレ、心安餘年ヲ送ラレンカ、然ラバ氏政ノ妹ヲ以テ、源五郎へ娶セ、北條一家後楯ト成テ、永ク社稷ヲ保護セラレン樣ニ執計フベキ條、枉テ此義ニ同心アラルベシト、兩度ニ及ンデ、申送ラレケレバ、〈○中略〉氏康ノ旨ニ應ズベキ由、返答ニ及ビケレバ、萬松 軒父子大ニ歡ビ、頓テ吉日良辰ヲ擇テ、息女〈後長林院ト號ス〉ヲ岩築ノ城へ送リ、婚姻ノ禮ヲ修シ、千龜萬鶴ノ祝ヲナシテ、殊更ニ懇情ヲ加ヘラレケレバ、實ニ無爲トゾ見ヘニケル、斯リシ程、姑クノ後、氏康追テ調義ヲ回ラシ、源五郎氏資、幷ニ恒岡越後守、春日攝津守ナド云、太田ガ家ニテ、奉行職ノ者共ヲ相語ラヒ、氏政野州ノ小山長治ヲ攻ン爲トテ、出馬ヲナサシメ、不意ニ岩築へ人數ヲ懸ケテ、三樂齋ヲ立出スベキ内約ヲ示サル、資正仄ニ是ヲ聞テ、元來浩ル變事アランハ、兼テ期シタル義ナレバ、更ニ驚ク氣色モナク、知ラヌ顏ニ持ナシ、下戚腹ノ長男梶原源太左衞門資晴ヲ招キ、且ハ身ノタヽズマヒ、且ハ手遣ノ思案以下ヲ密談シテ、川崎又次郎ヲ差副へ、佐竹義昭ノ許へ行シメ、吾儕ハ濱野修理亮ヲ召連、宇都宮へ赴ケルヲ、〈○中略〉氏政ノ下知トシテ、太田大膳亮、二百餘騎ヲ奉シ、岩築ノ城へ來リ、外郭ヲ堅ク守テ、終ニ三樂ヲ還シ入ズ、此ニ於テ資正資晴牢浪シテ、源太左衞門、新六郎ハ、佐竹ニ倚賴シ、三樂ハ武州忍へ立越、成田左馬助氏長ノ聟タル故、其扶助ニ罹リテ居ケリ、前管領立山叟、舊臣多キ中ニ、太田長野ノ兩士ハ、始終操ヲ變ゼズ、無二ノ忠義ヲ差挾ミテ、日暮上杉家ノ再興ヲ而已志シケルニ、時運怯クシテ、今年ニ至リ、長野ハ滅亡シ、三樂ハ逋客トナリ、北條ノ武威、彌〻增リ顏ニゾ成ニケル、