http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1118 貞ハミサヲト云フ、婦ノ能ク其夫ニ事ヘテ誠ヲ盡スヲ謂フナリ、此篇ニハ夫ノ難ニ臨ミ、若シクハ其死ヲ聞キテ共ニ命ヲ致シ、或ハ夫ノ惡疾ヲ厭ハズシテ多年看護シ、或ハ夫ノ歿後 再嫁セズシテ、能ク其舅姑及ビ遺兒ヲ孝養愛育シタルガ如キ特殊ノ例ヲ收載シタリ、

名稱

〔伊呂波字類抄おN 天/疊字〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1119 貞絜 貞賢 貞女

〔辨名〕

N 上

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1119 節儉〈二則〉
節者禮義之節也、〈○中略〉自聖達節、次守節之言、而後世遂有節士節婦之稱、以命其人之德巳、

〔倭訓栞〕

〈前編三十/美〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1119 みさを 操をよめり、後拾遺集に、衣かくる半に寄たり、躬竿の義にて、操行の直立せるをいふにやといへり、莊子に、津人操舟若神といへるによりて、水棹より出たるにや、千字文には、節義の字を訓じ、靈異記に、風聲、又氣調をよみ、日本紀に孝もよめり、

解説

〔運歩色葉集〕

〈天〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1119 貞女不兩夫

〔史記〕

〈八十二/田單〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1119 王蠋曰、忠臣不二君、貞女不二夫、齊王不吾諫、故退而耕野、

〔女大學〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1119 一婦人は別に主君なし、夫を主人とおもひ、敬ひ愼みて事べし、輕め侮るべからず、總じて婦人の道は人に從ふにあり、夫に對するに顏色言葉づかひ慇懃に謙り、和順なるべし、不忍(いぶり)にして不順なるべからず、奢て無禮なるべからず、是女子第一の勤也、夫の敎訓あらば、其仰を叛べからず、疑敷事は夫に問て、其下知に從ふべし、夫問事有ば、正しく答ふべし、其返答疎なるは無禮也、夫若腹立怒る時は、恐れて順ふべし、怒り諍ひて、その心に逆ふべからず、女は夫を以て天とす、返返も夫に逆ひて、天の罰を請べからず、

〔比賣鑑〕

〈述言四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1119 貞心をまもる事、女のつねの道ぞとは、大やうたれもふみしる事といへども、つゆ心にかゝる事なきまでに、一生まもりなす事はいとやすからぬわざなるべし、白藥天が詩に、君が一日の恩のために、妾が百年の身をあやまると作り、女論語のことば、一行失あれば、百行なる事なしといへり、へだてゝもへだつべく、つゝしみてもつゝしむべきは、男女のあひだ、嫌疑のさかひなるべし、 忠臣は二君につかへず、列女は二夫をへずとは、〈○中略〉忠義の臣は二人の君につかへず、貞烈の女は二人の夫をへて嫁せず、貞女兩夫にまみへずといふもおなじ心なり頁はみさほのさだかなるを云、烈は心ざしのはげしきを云、それ人はことなくてある時は、その心見えがたし、災難のきは生死のさかひにこそ、よきはよく、あしきはみしき心ざし、そのかくれなき物なれ、〈○中略〉忠臣貞女のみさほはいかなるうきふしをへても、たとひ身をすつるにのぞみても、人はともあれかし、われひとりは、露たがへじとおもひとりて、ふた心なき物なり、

〔伊勢平藏家訓〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1120 五倫の事
一妻は夫をあがめゐやまひ、大切にして食物衣服などの内證の世話をやき、夫に對して、りんきねたみの心なく、夫一人の外には、他人といたづく事せず、夫のしかたは、いか程わろくとも、夫を恨みず、心替りせず、死すとも夫の家を出ずして、一すぢに夫の爲をおもふを、貞女といふ、是妻の法なり、

〔千歲のもとい〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1120 夫主につかへ給ふは貞順の二ツ也、貞とは正しくいつまでもかはらぬこと也、されば女の遇不遇に操のかはらぬを貞女といひ、松の霜雪に葉がへぬを貞松と云、婦の德は柔順を貴ぶといへ共、又一ツ動かぬ貞烈の德有べき也、地の德は陰なれども、坤の卦には直方大と云へり、直は正しくしてまがらず、方は稜有て轉ずべからぬ也、順ははじめにもいへる如く、ゆるやかにして己を立てず、陰は陽に耄たがふ道理を忘れず、夫主の指揮にしたがふをいふ也、夫婦の好は、終身はなれず、房室の間に周旋するなれば、しらず〳〵なれなるゝことも、出やすきものぞかし、故に常々男女の別を正して、禮義を亂さず、敬愼を專らにして、夫主の心を求べき也、夫主の心を求るといふて、侫媚にして、いやしくも親べき事にはあらず、夫主若過有に當ては、顏色を和らげ、心を靜にして、諫べきことなり、

〔涙襟集〕

〈序〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1121 傳曰、有夫婦而後有父子、有父子而後有君臣、三者雖殊、其道一而已、是故五倫之道以忠孝貞最重焉、〈○中略〉
赤城山人 淸水正德撰
C 賞節婦

〔令義解〕

〈三/賦役〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1121 凡孝子順孫、〈○註略〉義夫節婦(○○)、〈謂(中略)衞共姜、楚白姫之類、節婦也、〉志行聞於國郡者、申太政官、奏聞、表其門閭、〈○註略〉同籍悉免課役、有精誠通感、〈謂孟宗泣生冬笋、梁妻哭崩城之類、通感也、〉者、別加優賞

〔續日本紀〕

〈五/元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1121 和銅五年九月己巳、詔曰、故左大臣正二位多治比眞人島之妻家原音那、贈右大臣從二位大伴宿禰御行之妻紀朝臣音那、並以夫存之旦相勸爲國之道、夫亡之後、固守同墳之意、朕思彼貞篩、感歎之深、宜此二人各賜邑五十戸、其家原音那、加賜連姓

〔續日本紀〕

〈二十九/稱德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1121 神護景雲二年二月庚辰、對馬島上縣郡人高橋連波自采女、夫亡之後、誓不志、其父尋亦死、結廬墓側、毎日齋食、孝義之至、有感行路、表其門閭、復租終身、癸未、石見國美濃郡人額田部蘇提賣、寡居年久、節義著聞、兼復積而能散、所濟者衆、復其田租身、六月乙未、信濃國伊那郡人他田舍人千世賣、少有才色、家世豐贍、年廿有五、喪夫守志、寡居五十餘年、裒其守節、賜爵二級

〔續日本紀〕

〈三十二/光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1121 寶龜三年十二月壬子、壹岐島壹岐郡人直玉主賣、年十五夫亡、自誓遂不改嫁者卅餘年、供承夫墓、一如平生、賜爵二級、幷免田租以終其身

〔續日本後紀〕

〈十四/仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1121 承和十一年五月丙申、甲斐國言、山梨郡人伴直富成女、年十五嫁郷人三枝直平麻呂、生一男一女、而承和四年平麻呂死去也、厥後守節不改、年巳四十四、而攀號不止、恒事齋食、敬於靈床、宛如存日、量彼操履、堪節婦者、勅、宜身免其戸田租、創標門閭、以旌節行、 壬寅、武藏國言、多摩郡猪江郷戸主刑部直道繼戸口同姓眞刀自咩、爲同郷刑部廣主妻、生四男三女、經廿一年夫乃死矣、眞刀自咩、居喪有禮、事死如生、墳側結廬、晨昏悲泣、推移歲月、終始不渝、見其操行、可節婦者、勅、宜特授位二階、兼終身免同戸田租、 ○按ズルニ、刑部直具刀自哮ノ事ハ、本書ノ承和十三年五月條ニ重載シ、類聚國史卷五十四ニ モ亦此ヲ同年ノ事トス、從フベキニ似タリ、

〔文德實錄〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1122 齊衡元年三月癸巳、賜下野國節婦秦部總成女欝二級、復終其身、旌表門閭、總成女者、秦部正月滿之妻也、性至謹篤、正月滿亡後、撫養遺孤、不復再醮、持節彌固、常修功德、追資其夫、兼願一切衆生、國内稱之、 五月己酉、賜加賀國箚婦和邇部廣刀自女爵二級、廣刀自女年十四、適山城國人秦眞勝、眞勝亡後、廬於冢側、于今卅餘年、追慕其夫、言及哀泣

〔三代實錄〕

〈八/淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1122 貞觀六年二月五日壬戌、攝津國武庫郡節婦日下部連氏成賣、年十六、適右京人文室眞人武庫麻呂、歷二十七年、武庫麻呂死、氏成賣居喪有禮、事死如生、日不再食、遂不改醮、詔叙位二階戸内田租、終身勿事、卽表門閭以旌貞操

〔三代實錄〕

〈十/淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1122 貞觀七年三月廿八日己酉、近江國言、伊香郡人石作部廣繼女、生年十五、始以出嫁、三十七失其夫、常守墳墓、哭不聲、專期同穴、無再嫁、量其意操、可節婦、勅、宜二階戸内租、郤表門閭

〔三代實錄〕

〈十三/淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1122 貞觀八年九月廿日壬戌、丹波國何鹿郡人漢部福刀自、伉儷亡後、歷二十二年、獨居虚室節、是眞節婦、特加優㢡、叙位二階、免戸内租、以表門閭

〔三代實錄〕

〈二十七/淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1122 貞觀十七年十月八日丁巳、但馬國節婦美含郡人日置部小手子、叙位二階、小手子年十六、適權大領外從八位上日下部良氏、年二十九夫去、守節不移、無再醮、及晩齡、執〆志彌固、郷黨推敬、故褒美焉、

〔三代實錄〕

〈四十八/光孝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1122 仁和元年十二月廿九日己卯、節婦加賀國加賀郡大野郷人道今古、授位二階、免戸内田租、表其門閭、以旌貞節也、今古生年十三、適故前加賀權掾大神高名、經二十餘年、高名身死、今古廬于墳側、歷年不去、哭泣之聲、日夜不斷、今古母箭集淸河子年二十一、始適於人、其夫死後、不更再醮、 全守一節、齡七十六、終於室内、母子繼踵、貞潔无虧焉、

〔三代實錄〕

〈五十/光孝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1123 仁和三年六月五日丁未、丹波國何鹿郡人漢部妹刀自賣、生年十四、適秦貞雄、生二男一女、貞雄死後、歷三十二年、常著素服、獨居虚室、无復再醮之情、均養男女、譬猶尸鳩、國司申請、以爲節婦、表其門閭、勅叙位二階、免戸内田租

〔桃源遺事〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1123 那珂郡野上村に、與次右衞門〈初名喜平次〉と申百姓あり、その妻の名をば安といへり、〈○中略〉間もなく、與次右衞門あしき病を引受、人のまじはりもなく、見苦しき體に罷成候に付、與次右衞門、女房に對し、〈○中略〉こと葉を盡し、頻に暇の事を申候へば、女房兎角のいらへもせず、旣に自害せんと仕候故、與次右衞門驚き取とめ、感涙を流し、此上はとかふ云べきやうなし、足下を悼み思ふ故にこそ、暇をばやり候はんと申候、左あらば老母を痛り給はり候へ正て、その後は暇の事申出さゞりける、それよりして、姑及び病夫を痛はり候事、益あつく、〈○中略〉看病のひま〳〵に、女の身ながら、鍬を取て、田をかへし、畑をうつて、夫を養育仕候、或時西山公〈○德川光圀〉其邊御通り被成候處に、かの女房、田をうなひ居申候を被御覽、女の身として、田をうなひ候は、非道なる主人に仕へ候者か、又は繼子などにて、其親の惡みにて申付候か、とかく子細有べき事と覺しめし、御下部の者を以、御問せ候得ば、右の段を申上候、西山公一々聞召れ、御感歎なゝめならず、其家へ御立より、彼病夫をも御覽被成、〈○中略〉田畑永代作り取に仕るべきよし被仰付候、

〔盍簪錄〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1123 奧州坂田縣民某氏、名八五郎、家稍饒、唯有一女、贅某氏婿、名八太夫、將家務、八太夫軟劣不父意、欲之、無罪可一レ託、誣以家財欲逐、不肯服、遂理于官、父竊誘女曰、汝保證婿罪、公事速成、爲良婿上レ汝、强之再三、如隱忍不從者久乏、遂雉經而死、事聞于府、府執其父于重刑、命八太夫家務、就墓所碑以旌之云、鳴呼非亂世忠臣、非頑父孝子、非凶舅之誣一レ婿、亦豈彰貞婦之矢志弗一レ回耶、記之以爲激勸一端云、

〔孝義錄〕

〈六/武藏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1124 貞節者そめ
江戸小石川傳通院の前白壁町といふ所に、假家してすめる孫七といふものあり、大工の業をなしてありしが、四年前より黴瘡をやみて、耳遠く足さへかなはず、家の業もなりがたく、貧しくのみなりゆけるを、その妻そめといへるもの、心まめやかに正しく、朝とく起て食をとゝのへ、佛にそなふる櫁の葉と抹香とをうり、よな〳〵のりすり置て、あくる日人の衣のあらひはりする家にもて行、かすかなるすぎはひなれど、程にすぎたる利をむさぼらず、〈○中略〉夫の病愈すべきため、上野の國草津の湯にまかるべき路用もいとなみいでゝ、去々年の比、湯治させ、長き病のいとひなく、朝夕に貞節を盡し、月々に家かりたる賃錢、とゞこほりなくおさめけりがゝる奇特のふるまひども、おほやけに聞えしかば、寬政八年五月、町奉行小田切土佐守より、私に褒美して錢多くとらせけり、

〔續近世叢語〕

〈七/賢煖〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1124 佐璵者、常之茨城郡蘆沼村民、伊平太之妻也、伊平太家貧、患濕瘡、踰年不瘳、臥起須人佐璵垢面蓬頭、承便溺痛癢、節時其藥餌、未嘗一日怠焉、家益困尻、佐璵當冬月、鶉衣無裏、肘露脛暴、時年三十六、有二子、長甫七歲、幼尚在襁褓、伊平太一日謂佐璵曰、自度死在旦夕、汝與我倶死、不改適一レ佗、二稚見依汝而幸得存、則我受賜而死、佐璵没然泣曰、寧窮而死、妾不敢改其節也、奧之巖城有温泉焉、伊平太聞諸瘡者一浴有上レ効、佐璵乃勸往、於是乞里人一草車、狀如椅子、大僅容身、下施小輪四、使伊平太隱几而坐、己抱負二稚之、巖城距茨城郡甚遠矣、胼胝碎破、血流被踝、几至嶮峻難進處、則哀號龥天、乞助於里胥村老、或道路有憐而助輓者、經十有七日、而得温泉、留浴十餘日、瘡稍有瘳矣、事聞水戸府、府嘉佐璵貞節、乃免其租税及丁徭

貞例

〔古事記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1124 爾其后、〈○大國主神妻須勢理比賣命〉取大御酒坏、立依指擧而歌曰、夜知富許能(ヤチホコノ)、加微能美許登夜(カミノミコトヤ)、阿賀淤(アガオ)富久邇(ホクニ)、奴斯許曾波(ヌシコソハ)、遠邇伊麻世婆(ヲニイマセバ)、宇知微流(ウチミル)、斯麻能佐岐邪岐(シマノサキザキ)、加岐微流(カキミル)、伊蘇能佐岐淤知受(イソノサキオチズ)、和加久(ワカク) 佐能(サノ)、都麻母多勢良米(ツマモタセラメ)、阿波母與(アハモヨ)、賣邇斯阿禮婆(メニシアレバ)、那遠岐氐(ナヲキテ)、遠波那志(ヲハナシ)、那遠岐氐(ナヲキテ)、都麻波那斯(ツマハナシ)、

〔日本書紀〕

〈七/景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1125 四十年十月癸丑、日本武尊發路之、〈○中略〉亦進相模、欲上總、望海高言曰、是小海耳、可立跳渡、乃至于海中、暴風忽起、王船漂蕩、而不渡、時有王之妾、曰弟橘媛、穗積氏忍山宿禰之女也、啓王曰、今風起浪泌、王船欲沒、是必海神心也、願以妾之身王之命而入海、言訖乃披瀾入之、暴風卽止、船得岸、故時人、號其海馳水也、

〔日本書紀〕

〈十一/仁德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1125 十六年七月戊寅朔、天皇以宮人桑田玖賀媛近習舍人等曰、朕欲是婦女、苦皇后之妬、不合以經多年、何徒棄其盛年乎、郎歌曰、瀰儺曾虚赴(ミナソコフ)、淤瀰能烏苫咩烏(オミノヲトメヲ)、多例揶始儺播務(タレヤシナハム)、於是播磨國造祖速待獨進之、歌曰、瀰箇始報(ミカシホ)、破利摩波揶摩智(ハリマハヤマチ)、以播區娜輸(イハクヤス)、伽之古倶等望(カシコクトモ)、阿例揶始儺破(アレヤシナハ)務(ム)、卽日以玖賀媛速待、明日之夕、速待詣于玖賀媛之家、而玖賀媛不和、乃强近帷内、時玖賀媛曰、妾之寡婦以終年、何能爲君之妻乎、於是天皇聞之、欲速待之志、以玖賀媛速待遣於桑田、則玖賀媛發病死于道中、故於今有玖賀媛之墓也、

〔日本書紀〕

〈十一/仁德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1125 五十五年、蝦夷叛之、遣田道擊、則爲蝦夷所一レ敗、以死于伊寺水門、時有從者、取得田道之手纏其妻、乃抱手纏而縊死、時人聞之涕流矣、

〔陸奧話記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1125 城中美女數十人、皆衣綾羅、悉粧金翠、交烟悲泣、出之各賜軍士、但柵破之時、則任妻獨抱三歲男、語夫言、君將沒、妾不獨生、請君前先死、則乍兒、自投深淵死、可一烈女矣、

〔平治物語〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1125 義朝野間下向附忠宗心替事
鎌田兵衞〈○政家〉ハ忠宗ニ向テ酒ヲ呑ケルガ、鷺後ヨリ景宗モト首ヲ打テ打落ス、鎌田モ今年三十八、頭殿ト同年ニテ失ニケリ、〈○中略〉鎌田ガ妻女〈○忠宗女〉是ヲ聞、討レシ所ニ尋行、我ハ女ノ身ナレ共、全貳ハ無キ物ヲ、如何ニウラメシク思給ラン、親子ノ中ト、申セドモ、我モ左コソ思侍レ、アカヌ中ニハ今日旣ニ別レヌ、無情親ニ添ナラバ、又モ憂目ヤ見ンズラン、同ジ道ニ具シ給ヘトテ、須臾ハ 泣居タリケルガ、夫ノ刀ヲ拔儘ニ、心モトニ指アタウツフシ樣ニ臥ケレバ、貫テゾ失ニケル、忠宗左馬頭ヲ討奉ル事ハ喜ナレ共、最愛ノ娘ヲ殺シ、歎ニコソ沈ケレ、

〔源平盛衰記〕

〈十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1126 文覺發心附東歸節女事
文覺道心ノ起ヲ尋レバ、女故也ケリ、文覺ガタメニ、内戚ノ姨母一人アリ、其昔事ノ緣ニ付テ、奧州衣川ニ有ケルガ、歸上テ故郷ニ住、一家ノ者ドモ衣川殿ト云、〈○中略〉娘一人アリ、名ヲバアトマトゾ云ケル、去共衣川ノ子ナレバトテ、異名ニハ袈裟ト呼、〈○中略〉並ノ里ニ源左衞門尉渡トテ、一門也ケルガ、内外ニ付テ申ケレバ、阻シカラヌ事也トテコレヲ遣ス、互ノ心不淺シテ、ハヤ三年ニ成ヌ、女今年ハ十六也、盛遠ハ十七ニ成ケルガ、〈○中略〉九月十三日ノマタ朝、母ノ衣川ガ許ニ伺行、則刀ヲヌキ、無是非母ガ立頸ヲ取テ、腹ニ刀ヲ指當テ害セソトス、女ウツヽ心ナシ、〈○中略〉盛遠ハ人ノ申ニ非ズ、袈裟御前ヲ女房ニセント、内々申侍シヲ聞給ハズ渡ガ許へ遣タレバ、此三箇年人シレズ、戀ニ迷テ身ハ蟬ノヌケガラノ如クニ成ヌ、命ハ草葉ノ露ノ樣ニ消ナントス、戀ニハ人ノ死ヌモノカバ、是コソ姨母ノ甥ヲ殺シ給ナレ、生テ物ヲ思フモ苦シケレバ、敵ト一所ニ死ナント思フ也ト云、衣川ハ責テノ命ノ惜サニ申ケルハ、綱中加程ニ思給ハヾ安事也、刀ヲ納ヨ、今夕呼テ見セント云、盛遠ハ等閑ニ口ヲ堅メテハ惡カリナント思テ、虚言セシ渡ガ方へ返忠セジナト、能々堅メテ刀ヲサシ、今夕參ラントテ歸ニケリ、衣川ハ涙ヲ流シ、如何ハセントゾ悲ミケル、此盛遠ガ有樣、云事ヲ聞ズバ、一定事ニアヒヌベシ、サテ又呼テ逢セナバ、渡ガ怨イカヾセント思ケルガ、案廻シテ娘ノ許へ文ヲヤル、〈○中略〉女ノ童一人具シテ、假初ニ出ル樣ニテ、母ノモトニ來レリ、母ツク〳〵ト娘ノ顏ヲ見テ、ハラ〳〵ト泣テ、良久有テ手箱ヨリ小刀ヲ取出シテ云ケルハ、此ヲ以テ我ヲ殺シ給ヘトテ與ケレバ、娘大ニ騷テ是ハ何事ニカ、御物狂ハシク成給へルカトテ、顏打アカメテ居タリ、母ガ云、今朝盛遠ガ來テ、樣々振舞ツル事共、有ノ儘ニ云ツヾケテ、此事イカニモ〳〵盛遠ガ思ノ 晴ザランニハ、我終ニ安穩ナルベシ共覺ヘズ、去バトテ渡ガ心ヲ破ラントニモ非ズ、由ナキ和御前故ニ、武者ノ手ニ係テ亡ンヨリハ、憂目ヲ見ヌ前ニ、和御前、我ヲ殺シ給ヘトテ、サメ〴〵ト泣、娘コレヲ聞テ、實ニ樣ナキ事也、心憂事哉ト不斜歎ケルガ、ツク〴〵是ヲ案ジテ、親ノ爲ニハ去ヌ孝養ヲモスル習也、御命ニ代リ奉ラン、結ノ神モ哀ト思召トテ、口ニハ甲斐申斐シク云ケレ共、渡ガ事ヲ思ヒ出ツヽ、目ニハ涙ヲコボシケリ、日モ旣ニ暮ヌ盛遠ハ獨咲シテ鬂ヲカキ髭ヲナデ、色メキテハヤ來テ、女ト其ニ臥居タリ、狹夜モ漸々更行テ磽方ニ成ケレバ、雞旣ニ啼渡、女暇ヲ乞、盛遠申ケルハ、〈○中略〉大刀ヲ拔テ傍ニ立タリ、〈○中略〉總テ思切タル氣色也、女良案ジテ云ケルハ、暇ヲ奉乞ハ女ノ習、志ノ程ヲ知ラントナリ、角申モ打付心ノ中末憑レヌ樣ナレバ、憚アレ共何事モ此世ノ事ニ非ズト聞侍レバ、實モ前世ノ契ニコソ侍ラメ、去バ我思心ヲ知セ奉ラン、渡ニ相馴テ、今年三年ニ成侍ケレ共、折々ニ付テ心ナラヌ事ノミ侍バ、思ハズニ覺亨、何ヘモ走失ナバヤト思事度々也、去共母ノ仰ノ難背サニ、今迄候計也誠淺カラズ思召事ナラバ、只思切テ左衞門尉ヲ殺シ給へ、互ニ心安カラン、去バ謀ヲ構ント云、盛遠悦色限ナシ、謀ハイカニト問エバ、女ガ云、我家ニ歸テ、左衞門尉ガ髮ヲ洗ハセ、酒ニ醉セテ内ニ入レ、高殿ニ伏タランニ、ヌレタル髮ヲ搜テ殺シ給ヘト云、盛遠悦テ夜討ノ支度シケリ、女暇ヲ得テ、家ニ歸、酒ヲ儲、渡ヲ請ジテ申ケルハ、母ノ勞トテ忍テ呼給シ程ニ、昨日罷テ侍リシニ、此曉ヨヲヨク成セ給ヌ、悦遊バントテ、我身モ呑、夫ヲモ强タリケリ、元來思中ノ酒盛ナレバ、左衞門尉前後不覺ニゾ飮醉タル、夫ヲバ帳臺ノ奧ニカキ臥テ、我身ハ髮ヲ濡シタブサニ取テ、烏帽子ヲ枕ニ置、帳臺ノ端ニ臥テ、今ヤ今ヤト待處ニ、盛遠夜半計ニ忍ヤカニ子ラヒ寄、ヌレタル髮ヲサグリ合テ、唯一刀ニ首ヲ斬、袖ニ裹テ家ニ歸、

〔平家物語〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1127 小宰相
ゑちぜんの三位みちもりの卿の侍に、はんだたき口時かずといふ者有、いそぎ北の方〈○小宰相〉の御 舟に參て申けるは、君はけさみなと河の下にて、かたき七きが中に取こめ參らせて、つゐにうたれさせ給ひて候ぬ〈○中略〉と申ければ、北の方、とかくの返事にもをよび給はず、引かづいてぞふし給、〈○中略〉かくと聞給ひし七日の日のくれ程より、十三日の夜まではおきもあがり給はず、あくれば十四日、八島へをし渡る、よひうちすぐるまではふし給ひたりけるが、〈○中略〉北の方やはら舟ばたへおき出給ひて、まん〳〵たるかいしやうなれば、いづちを西とはしらね共、月の入さの山のはを、そなたのそらとや思しけん、しづかに念佛し給、〈○中略〉南無ととなふるこゑ共に、うみにぞしづみ給ひける、〈○中略〉昔よりおとこにおくるゝたぐひおほしといへ共、さまをかへるはつねのならひ、身をなぐるまでは有がたきためし也、されば忠臣は二君に仕へず、貞女は二夫、にまみへず共、かやうの事をや申べき、

〔吾妻鏡〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1128 壽永三年〈○元曆元年〉四月廿一日己丑、自去夜殿中聊物忩、是志水冠者〈○平義高〉雖武衞〈○源賴朝〉御智、亡父〈○源義仲〉巳蒙勅勘戮之間、爲其子其意趣尤依度、可誅之由、内々思食立、被含此趣於昵近壯士等、女房等伺聞此事、密々吿申姫公〈○賴朝子、義高妻、〉御方、仍志水冠者廻計略、今曉遁去給、 廿六日甲午、堀藤次親家郎從藤内光澄歸參、於入間河原志水冠者之由申之、此事雖密儀、姫公已侖聞之給、愁歎之餘令漿水給、可理運、 六月廿七日甲申、堀藤次親家郎從被梟首、是依御臺所御憤也、四月之比、爲御使志水冠者之故也、其事已後姫公御哀傷之餘、巳沈病床給、追日憔悴、諸人莫驚騷、依志水誅戮事此御病、偏起於彼男之不儀、縦雖仰、内々不子細於姫公之御方哉之由、御臺所强憤申給之間、武衞不遁逃、還以被斬罪云云、

〔吾妻鏡〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1128 建久五年七月廿九日戊子、將軍家姫君、自夜御不例、是雖恒事、今日殊危急、志水殿有事之後、御悲歎之故、追日御憔悴、不斷金之志、殆沈石之思給歟、且貞女之操行、衆人所美諫也、八月十八日丙午、姫君御不例復本給之間、有御沐浴、然而非御時始終事之由、人皆含愁緖、是偏 御歎息之所積也、可右武衞高能給之由、御臺所内々雖御計、敢無承諾、及然之儀者、可身於深淵之由被申云云、是猶御懷舊之故歟云云、武衞傳聞之、此事更不思召寄之由、屬女房申之

〔吾妻鏡〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1129 文治二年四月八日乙卯、二品〈○源賴朝〉幷御臺所〈○平政子〉御參鶴岡宮、以次被出靜女於廻廊、是依舞曲也、此事去比被仰處、申病痾由參、於身不屑者、雖左右、爲豫州〈○源義經〉妾、忽出掲焉砌之條、頗耻辱之由、日來内々雖澀申、彼旣天下名仁也、適參向歸洛在近、不其藝者無念由、御臺所頻以令勸申給之間被之、偏可大菩薩冥感之旨被仰云云、近日只有別緖之愁、更無舞曲之業由、臨座猶固辭、然而貴命及再三之間、憖廻白雪之袖、發黃竹之歌、左衞門尉祐經鼓、〈○中略〉畠山二郎重忠爲銅拍子、靜先吟出歌云、
吉野山峯ノ白雪フミ分テ入ニシ人ノ跡ゾコヒシキ、次歌別物曲之後、又吟和歌云、
シヅヤシヅ〳〵ノヲダマキクリカヘシ昔ヲ今ニナスヨシモガナ、誠是社壇之壯觀、梁塵殆可動、上下皆催興感、二品仰云、於八幡宮寶前、施藝之時、尤可關東萬歲之處、不聞食、慕反逆義經奇恠云云、御臺所被報申云、君爲流人豆州給之比、於吾雖芳契、北條殿怖時宜、潛被・引籠之、而猶和順君、迷暗夜深雨君之所、亦出石橋戰場之時、獨殘留伊豆山、不君存亡、甘夜消魂、論其愁者如今靜之心、忘豫州多年之好、不戀慕者非貞女之姿、寄外之風情、謝中之露膽、尤可幽玄、抂可賞翫給云云、于時休御憤云云、 五月十四日辛卯、左衞門尉祐經、梶原三郎景茂、千葉平次常秀、八田太郎朝重、藤判官代邦通等、面々相具下若等、向靜旅宿、抗酒催宴、郢曲盡妙、靜母礒禪師又施藝云云、景茂傾數盃一醉、此間通艶言於靜、靜頗落涙云、豫州者鎌倉殿御連枝、吾者彼妾也、爲御家人身、爭存普通女哉、豫州不牢籠者、對面于和主猶不有事也、況於今儀哉云云、

〔駿臺雜話〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1129 烈女種なし その人がらにも似ず、奇特に覺え侍るは、源義經の妾靜が事にて候、〈○中略〉かの草も木もなびきし威に暢れず、勢に屈せず、始終志をたてゝ、義經に負かざりし事、高館にて殉死せし輩とも並稱すべし、ちかきころ京師の醇儒中村惕齋が撰びしとかやいふ倭漢貞烈の女を載し、姫鏡と題せし書に、是をいひ殘しけるこそ遺恨なれ、是は靜娼家に生れて、出所たゞしからざる故なるべし、それはさる事なれども、名敎を裨くるためには、是等をもすつまじき事と、翁〈○室鳩巢〉はかねて思ひし程に、今更も申つるぞかし、

〔吾妻鏡〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1130 文治三年七月十八日丁巳、仁田四郎忠常妻、參豆州三島社、而洪水之聞掉扁舟江尻渡戸之處、逆浪覆船、同船男女、皆以入水底、然而各希有兮存命、忠常妻一人沒畢云云、是信力强盛者也、自幼稚之昔、至長大之今、毎月不闕詣當社之處、去正月比、夫重病危急之時、此女捧願書於彼社壇云、縮妻之命忠常給云云、若明神納受其誓願兮令轉歟、志之所之、爲貞女之由、在時ロ遊矣、

〔吾妻鏡〕

〈十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1130 建久四年六月十八日癸丑、故曾我十郎妾、〈大礒虎、雖除髮、著黑衣袈裟、〉迎亡夫三七日忌辰、於筥根山別當行實坊佛事、捧和字諷誦文、引葦毛馬一疋、爲唱導施物等、件馬者祐成最期所虎也、則今日遂出家、赴信濃國善光寺、時年十九歲也、見聞緇素莫悲涙云云、

〔太平記〕

〈十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1130 金剛山寄手等被誅事附佐介貞俊事
佐介左京亮貞俊、〈○中略〉閑ニ首ヲゾ打セケル、〈○中略〉聖形見ノ刀ト、貞俊ガ最期ノ時、著タリケル小袖トヲ持テ、急鎌倉へ下、彼女房ヲ尋出シ、是ヲ與ヘケレバ、妻室聞モアヘズ、只涙ノ床ニ臥沈テ、悲ニ堪兼タル氣色ニ見ヘケルガ、側ナル硯ヲ引寄テ、形見ノ小袖ノ妻ニ、
誰見ヨト信ヲ人ノ留メケン堪テ有ベキ命ナラヌニ、ト書付、記念ノ小袖ヲ引カヅキ、其刀ヲ胸ニツキ立テ、忽ニハカナク成ニケリ、

〔陰德太平記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1130 香川已斐討死之事 熊谷元直ガ室女ハ、元直討死ト聞テ、熊谷程ノ者ノ討死シタリトテ、骸ヲ孝養セザル事ヤアル、死骸ヲ取歸ラザル事、桐原細迫ガ不覺也トテ、落ル泪ノ隙ヨリ、大ニ憤ラレケルガ、夜ニ紛レ、唯一人忍デ、有田ノ戰場へ赴キ、元直ハ、腕ニ腫物ノ瘢有シヲ標驗ニ、死人共ヲ、一々ニ探リ廻ラレケルニ、夫婦ノ契不淺シテ、頓テ元直ノ死骸ニ探リ當リ、是コソ妻ヨト云モアヘズ、抱付テ伏辷、聲ヲバカリニ泣叫バレケリ、斯テ可在非レバ、彼死體ヲ抱テ歸ン事ハ、女ノ身ナレバ不心、責テ是ヲ形見ニトテ、腕ヲ押切テ、懷ニシテ歸ラレケルガ、命ノ限リハ、身ヲ不放持レタリ、

〔太閤記〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1131 勝家切腹之事
夜に入とひとしく、殿守之上にも下にも、ひろま其外櫓々などにも、酒宴初りけり、〈○中略〉小谷の御かたへ、勝家さし給へば、一二酌て、又返し侍りける、〈○中略〉盃もたび〳〵めぐりければ、漸終りなんとす、勝家小谷の御かたに被申ける、御身は信長公之御妹なれば、出させ給へ、つゝがもおはしますまじきと有しかば、小谷御方なみだぐませ給ふて、去秋の終り、岐阜よりまいり、斯見えぬる事も前世之宿業、今更驚べきに非ず、こゝを出去ん事、思ひもよらず候、しかはあれど三人之息女をば出し侍れよ、父之菩提をも問せ、又みづからが跡をも、弔れんためぞかしと、のたまへば、いと安き御事なりとて、其よし姫君に申させ給ふ、〈○中略〉夜半の鐘聲殿守に至りしかば、御二所深閨に入ぬ、〈○中略〉若狹守、文荷齋、〈○中略〉勝家のおはしまし侍る五重に上り、下はかく仕廻申候、御心しづかに沙汰し給へと申上しかば、さすが最期はよかりけり、男女三十餘人おなじ煙と立上りぬ、

〔陰德太平記〕

〈三十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1131 杉原忠興死去附妾貞順事
忠興〈○杉原〉臨終ノ時、殊ニ哀也シハ、忠興ノ妾ノ形勢ナリ、此人ハ、伯州ノ住人、山名豐淸ト云人ノ娘也、〈○中略〉忠興〈○中略〉彼妾ヲ近付、〈○中略〉只今生ニ思置事トテハ、御身ノ名殘計也、御コト年イマダ三十ニハ、ハルカニ及ブベクモナケレバ、行末久シキ春秋ニ富ル身也、相カマヘテ、吾ナキ跡ニ、髮下シ 尼ト成事不有、又イカナル人ニモ相馴給へ露恨トハ思マジナド、細ヤカニ搔口談ケレバ、彼女房何トモイラヘハセズ、唯涙ニ咽テ在ケルガ、用アル樣ニテ、傍へ立ノキ、刺刀ニタ兩ノ小鼻ヲ立樣ニ二所裁割、綠ノ髮ヲ肩ニダモ掛ラズ、押切テ立出、忠興ニ向、又人ニ見エザラント思ヘバ、カヽル姿ト成テ候ト云、〈○中略〉程ナグ忠興死去シケレバ、彼女ハ、ヤガテ藝州奴田ノ佛通寺ニ入テ、朝參暮扣ニ身ヲ抛テ、女子出定ノ話頭ヲ擧シケルガ、蝴蝶ノ花ノ陰ニ眠リヅ、、吹トモシラヌ春風ニ夢サメテ、翅カクハシゲニ飛去ヲ見テ、忽悟ノ旨ヲ得タリケリ、

〔陰德太平記〕

〈六十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1132 土佐勢與州出陣附岡本城合戰之事
此合戰ニ虎之介〈○竹之内〉幷ニ聟也ケル彌藤弐討レヌト云虚説、岡豐ニ至テ聞エタリ、彌藤次ガ妻是ヲ聞、女ノハカナサハ、其實不ヲモ正サズ、實淺マシキ吾身哉、父ト夫ノ一度ニ討レサセ給フ事ノ不幸ハ、コレソモ何ノ報ヒゾヤ、今ハ生テ何カセン、左無ダニ、ウキフシ滋キ世間ニ、年月ヲ送ランヨリハ、唯一日モ早ク死シテ、安養不退ノ報土ニ生レ、一ツ蓮ノ坐ヲ幷ベバ、何ノ思ノアルべキト、只一筋ニ思切、落ル涙ノ水莖ニ、事ノ後前正シク認メ置、頓テ自害シテコソ死ニケレ、〈○又見土佐軍記、宇和郡往昔城主記事、〉

〔太閤記〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1132 秀吉公憐於夫婦之間
薩州島津内小野攝津守ゆうにゃさしかりし息女を持侍りしが、肥前龍造寺が家臣瀨川采女正に嫁す、采女正高麗在陣之折ふし、彼妻あこがれし思ひのほどを、聊物にしるし付侍りしを、便の船にことづてをくりけり、折ふし難風おびたゞしう吹來て、船はそんし、荷物博多の浦へ寄來るを、漁夫拾ひ上侍りしが、其中に澀ぞめやうの紙にて、能つゝみたる物あり、ひらいて見れば文箱とおぼしき物侍りしを、ほどきみれば、まきゑなどもけだかく、よのつねならぬ文匣なり、いやしき者などの致披露物にあらざむめりとて、所の吏務へさしあげぬ、吏務請取つゝ、將軍之御前衆 へかくと申上侍りければ、卽秀吉公へ文箱の符をも切ず上しかば、右筆にて侍る山中山城守をして御一らん有に、女の文にて筆勢いとうつくしく書つゞけたり、〈○中略〉秀吉公山城守をして御らんなされ、憐なる事共也、然ば龍造寺かたへ、此瀨川采女正を歸朝せさせよと、御内書有しかば、頓て肥州へ參たり、

〔常山紀談〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1133 石田西國の諸將をかたらひて兵を起す時、諸大名の北の方を、大坂城中に取入んとするを、北の方〈○細川忠興妻〉聞て樽に付られし、河喜多石見、稻留伊賀、小笠原正齋を呼て、吾此所を出ん事思ひもよらず、城中に取こめられんは恥辱なり、よく斷を申候へ、猶聞入られずば、是を限と思ひ定むべしと語られしかば、正齋殿東國に向はせ給ひし時、おもひかけざる事のあらんには、正齋はからひて、武將の恥なさらしそと、仰置れ候ひき、敵奪ひとらんとするならば、其時思召切せ給へと申しけり、かゝる處に城中に入よと使を以ていはせしかば、再三斷の旨を述けれども聞入ず、七月十七日の未の刻ばかりに、大坂の軍兵五百餘り、玉造口の屋敷をとりまきて、とく城中に入申されよ、さらずば亂入て奪取んと呼はりけり、女房ばらあはてゝ泣悲めども、北の方はさわぐ色もなく、かくあらんとは兼ておもひ設つる事ぞとよ、正齋介錯せよ、われ生る世にまみえざりし人々に、死しての後も見られんはよからじとて、面に覆面打かけ、くゝり袴著て刀を拔、胸につきたてられしかば、正齋眉尖刀にて介錯し、其まゝそこにて腹を切んとせし處に、正齋が小性はしり來り、殿の北の方と同じ所に自害あらば、後の誹の候べきと云ければ、正齋あまりのいたましさにわすれたるよとて、障子の外に走り出、家に火を懸け、石見と共に腹切て、炎の中に死したりけり、

〔常山紀談〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1133 關ケ原亂の後、毛利〈森とも記せるあり〉豐前守勝永は、土佐へ流罪せられしに、大坂に事起ると聞、或夜妻にいひけるは、我罪有て、かゝる所に居住し、汝にも斯うき事を見する事ぞとよ、され ども我志あり、詞にあらはしがたし、と語りければ、妻のいはく、世の變はいかなる人も、はかるべからず、かく成はてたりとも、更に悲しむべきにあらず、妻は夫に從ふ道とこそ聞て候へ、其御志を承らばやといふ、勝永云、我武名を傳へて、數世に及びぬるに、かく沈み果なん事、口惜き事なり、命を秀賴公に奉りてんと思へども、我爰に忍び出なば、憂がうへにも、猶うき事や、御身の上に添らんと、泪を落しけるに、妻つく〴〵と聞て、打笑ひ、弓箭取の妻となりて、いかでかかゝる事をおそれなんや、はや此曉船に乘て、武名を潔くし給へ、君のため、家の悦び、何事かこれにしかん、わらはが事な思ひ給ひそ、いかにもなり給ひたらば、此島の波に沈み候べし、運命めでたく、頓て逢奉らん、急ぎ給へといひければ、勝永悦んで、小舟に取乘、大坂に到り、籠城しけり、其後山内對馬守より豐前が妻を、固くいましめおきがくと吿られしかば、東照宮聞し召、勇士たる者の志、感賞すべき事なり豐前が妻、罪する事有べからずと、懇に仰有ければ、豐前が妻、大坂の城中に入けるとそ、

〔常山紀談〕

〈二十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1134 奧平の長臣奧平源八、〈一に傳八〉父の讐同姓隼人を討しに、相與せる士多し源八幼くして奧平の家を立去しに、一味の面々も皆立去て、源八が成長を待居ける、其中に一人の士、妻は稻葉丹後守正通の家の士の女にて有けるが、父のもとに預け置しに、頓て讐討べきに及びて、妻のもとに行て、存る旨のあれば離別するなり、いづ方にても嫁し候ひて、親の苦勞に成給はざれといひければ、彼妻聞て、年久敷隔なく過候ひしに、俄にかく仰候は、定めて故有べし、然らずしていとま給はりては、親に向ひていかにいふべき詞も候はずといひければ、今はつゝみがたくして、誠はしか〳〵の子細にて、讐をうつに組したれば、其時は討死するか、又は公の咎によりて殺さるゝか、ニツの間に有べし、御身は年若き人の、我死後に艱難すべければ、いたはしくてかくの如くいひつる也と語りければ、彼妻もとゆひの際より、髮をふつときり、讐打すまし給うて相見ゆるまで、此髮いろひ申さじと誓言して、別れけるとなり、其後讐討おほせて、彼士も散々に働き、 助太刀して彼妻のもとに行て對面しけるに、もとゆひの間より髮の長く出て、もとゆひは其まま有しとぞ、

〔壼の石文〕

〈九/貞女烈女の判〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1135 今の世 ときわぎ物がたり
延寶年中の比とかや、武藏の國とねづと云ふところに住ける小澤氏といふ人、松といふむすめをもてり、かたちすぐれ心おとなしかりけるを、十七のとし、おなじあたりの野口氏と云人にめあはす、女心いとうつくしかりければ、夫につかへてうや〳〵しく、舅姑によめづかひ孝行なり、野口が父母天然の後、男不幸にして癩になりにける、〈○中略〉松一人のみ夫をはごくめり、〈○中略〉松が父は、〈○中略〉我切におもふむすめを、見ぐるしきかたひにあづけをくこそ遺恨なれ、とりかへして異人にゆるし、ゆたかなる末の代をも見ばやとおもひ、むすめをよびてそのやうをいへば、女はなみだ隙もなく、漸々いふやう、いとこそなさけなきおやたちかな、かれをわれさへすてなば、たれかこれをはぐゝみてん、ひと日のうちに死にこそうせめ、よにあるときばかり夫にて、かくなりはてゝは夫にあらずや、夫の不幸は我不幸なり、再嫁の事はゆるし給へ、ともかうも病夫をこそ見はてめといひすてゝ庵にかへり、其後はおや里へもゆかず、〈○中略〉野口も我ゆへに、妻にさへうきめを見せ、あらぬありさまのおとろへを、くるしみてあることよとおもひ、或時女にむかひていひけるは、我こそかゝる身となれ、そこはなどわれゆへにあさましき目を見せむや、父母のためも恥辱なれば、里に歸り、いかなる人にもあひなれて、行末めでたき有さまをきかば、さてこそわれもうれしからんといへば、女はうつくしうわらひて、つれなき人のことばかな、千代とかねたる夫の、あしきやまひうけたまひ、今かくあさましく成給ひしほどにとて、それを見すてゝ、又富貴なる人に嫁せんや、よにある時のみが夫婦にて、かくおとろへたるときは夫婦ならずや、君つゝがなくて、我やまひをうけば、すて給はんや、返す〳〵なさけなき人の心かな、せひそひ給 はむ事かなはずば、いかなるふちにも身をこそなげめ、などてか異人にはまみへん、それさもなくば、ようづみづからにまかせ給ふて、心やすく養生あれかしといへば、野ロ泪をおさへ、此うへはともかくも心にまかせ給へといへば、女もようこびいよ〳〵いたはり、おこたる事なかりけり、とかふして野口十とせばかりやみて、つゐにその分野(ありさま)にて死にければ、ふかくなげゝどもせんなく、定る野邊のけぶりとなし、夫のために三年がうちおなじいほりにこもり居て、夫の事をなげきつゝ、其身もつゐに身まかりしとなり、

〔比賣鑑紀行〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1136 いつの比なりけん、渥美何がしといふものゝ妻に、永井氏のむすめあり、心ざま貞順にして、つゝしみふかく、ことばすくなし、父は一城の主なりしかば、おさなきより富貴のわざになれそみたり、おとこは祿うすくして、よろづにわびしかりけれども、妻これにたへていさゝかくるしげなるいうなし、しかも夫妻の禮うや〳〵しき事、まれびとのごとし、十とせばかりをへてのちに、おとこやまひしてうせぬ、おのこ子一人あり妻なげきかなしめる事かぎりなし、からをはうふり、たまをまつる事、みなその心をつくせり、しかるに妻の兄あり、そのとしわかくして、ひとりはえたふまじきをおもひて、しゐて心ざしをうばはんとしけれど、やもめこれにしたがはず、兄いかりてなをおして再嫁をなすべしと、一族とともにあひはかりて、事すでにせまりぬ、やもめひそかに閨にいり、自害せんとして、すでにかたなをおしたてけるを、めしつかへの女どもはしりかゝりて、とりとゞめけるに、血ながれてやまず、兄これにおそれて、二たび緣のさたいはじとちかひければ、やもめいとうれしげになりていはく、さ思ひ給はんに、などかおさなき者をすてゝ、みだりに死をいそぎ侍らむやとて、それより子をねやのうちにやしなひ、いみじくをしへそだてけり、此人もとより出あそぶ事をこのまず、ことにやもめとなりぬる後は、おとこの墓おがみより外に、かりにも門を出る事なし、節をまほれる事、大むね此たぐひなり、年いまだ 四十にみたずして身まかりぬ、その子母のをしへによりて、身をたて人にしられたり、時の人此やもめを貞婦とよびて、ほめあへりける、

〔妙海物語〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1137 妙海法尼は堀部彌兵衞女にて、其名を順と云、彌兵衞の養子安兵衞に、妻合すべき約諾せるうちに、赤穗落去故、十九歲の時剃髮、父〈○中略〉吉良家に恨み報ずべき前に至り、安兵衞江戸ゟ上方へ登り、祖母に對面を乞しかば、祖母人をして申出さるゝは、何用ありて歸り來りしぞ、主君の御用に立ん爲にこそ養子にもいたしぬ、祖母や妻に逢たく心迷ひ歸りたるらん、え對面申べきやといひ出しければ、安兵衞秘事はあかしがたくして、全く未練の心にて歸り來りしにあらず、御疑ひあらば誓詞を奉るべしとて、頓て誓詞に血をそゝぎて出しければ、祖母ゑからばあふべしとて、順妙海に向ひ、安兵衞歸りしなり、逢ひたきやと申故、順いかにも逢ひ申たきといひければ、見度は眼を抉りぬき出し候へ、見すべしといひしに驚き、順もあふまじと覺悟いたしぬ、すでに奧の間へ入れ、襖を閉て、祖母ばかり對面して、別れ際に、肌著二ツ取出し、是は彌兵衞と其方、今はの際の時に著用の爲に縫ひ置たり、贐に遣すとて渡しわかれしとぞ、

〔窻の須佐美追加〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1137 浪花の富人の子小四郎とて、わか者有、娼妓と相なれ、終に買得てかくれたる所におきて、行かよひ妻としけり、父是を聞て大にいかり、かゝる事なす者、行末許がたしとて、追出しければ、かたへなる小家を借りて、夫婦在けるが、賤きわざは馴ざれば、しばしの中に衰て朝夕の烟も絶々になり行ければ、したしき友どちあはれがりて、いたはりけれど、それもかぎりなければ、力にをよびがたく、如何せむといふうちに、一人の云、かくては復潰に及びなん、此ごろ丹波の笹山なる富家に、女一人持たるが、養嗣を望者有、此かたへ往てんやとすゝむるに、小四郎は我身を立んとて、妻を流浪させん事、本意にあらず、思ひもよらずと云、その妻物陰にて是をきゝ、立出て云樣、此日比わらは故、夫の漂泊ある事、かへす〴〵悲しく、夜の目もあはず居申なり、此ま まにては、頓て路頭に立申べしと存候ところに、いまだ天道に捨られずして、かやうの事出來たる上はためらひなくそのかたへ御こし有てたび候へ、わらはが事は、少も御心に懸られまじ、存る旨候へば倒死ぬるやふにも候まじ、此ところを失れば、後に悔てもかひ有まじがへす〴〵このはかりごと、とゝのふやふにといさめけるが、其夜ひそかにのがれ出て、本の靑樓に行て此由を云、もとの如く身を賣、その趣を文に認め、その價を旅粧の料にこしければ、此上はとて、丹波へ往て養はれ、一年あまりも居けり、明けの年に及て、婚禮もすべきになりぬれば、さすがこゝろよからざりしにや、且は養母のいたましくやすからぬよしにて、暇こひて浪花にかへりぬ、人がらもいやしからず、常の行跡もそゞうならざるよしにて、皆人おしみあへりしとぞ、かくて舊友どもうちよりて、父にこひけるは、わかげにてそゞうなる事有べけれども、本の人がらはまめやかにあれば、ゆるしやられよと云けるに、元より外に子はなし、戀しくおもふをりからなれば、此たびはやすくうけてよびかへし、殊によろこびあへりければ、をりをえて友人ども、さきに妻の心をつくし、こたび身をうりて、夫をしたてたる事ども語出て、又妻としたらば、よかりなんと云に、父も其誠なる志を感じて、ゆるしければ、靑樓に通じて、其よしを云、再請出すべき代などの事談じけるに、主人云けるは、此子は始より人がら殊にすぐれて、外の者のさほうを正しくする爲に、前にもおしみながら進しき、此たび參候ても、取あつかひよく、をのづから家も繁昌して悦しゆへ、緣につけつかはし可申と存候ところの間、代金などの沙汰にはなく候とて、さま〴〵にはなむけてこしけるとぞ、女の嫉妬なるは、古今の情なるに、身を捨て夫をたてんとしたるこゝろ、誠に淺からずこそ、

〔續近世叢語〕

〈七/賢媛〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1138 寡婦理慧、江都杵築邸山本安兵衞妻也、嫁未數年夫無子、養他姓後、放蕩亡命、山本氏亡、姑謂理慧曰、家之不淑、一至于此、我將郷里以依親舊、汝也妙齡、良圓再醮、理慧聞之愁然 曰、惡是何言也、兒一醮誓無它、且尊姑日已傾西山、兒雖不肖、代先君護視、固其職也、無遠近、兒當尊姑所一レ之、姑數喩之、不可、姑曰、如是我子猶死也、乃與倶出邸、棲居北郊、理慧從是親操薪水、養姑益篤、三十年猶一日也、杵築老侯、聞其貞淑、使近臣岡田匡隆、〈源左衞門〉命出仕夫人氏、理慧曰、妾去邸之日、自矢棄人間、且不一日離一レ姑也、遂固辭不應、尼崎侯召之、亦辭曰、於亡夫所事君、且猶辭召命、事姑之外、亦復奚求、匡隆反杵築、毎親友屢語之、稱其貞節而泣、〈理慧、江都人、尼崎侯臣齋田淸兵衞之女也、〉

〔山陽遺稿〕

〈三/傳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1139 節女阿正傳
節女名阿正、父曰七兵、業農又釀酒、家頗豐、二娶妻、皆先死、各生一女、節女後妻出也、初七兵年五十、讓其家於外甥七左、而別營舍老焉、及病篤其族、囑之曰、吾命在旦夕、而無丈夫子、唯有二女、以累公等、願養嘉右、妻以長女、至次女、待其長、妻之於長二、以承宗家之緖、嘉右者、其後妻弟也、長二者、七左之子也、親族相計、如其言、以長女嘉右、使之子育阿正焉、阿正天質穠粹、事嘉右夫妻甚謹、嘉右性無賴、不事、日與其村馬醫万助、飮酒沈湎、典義父所與田業幾盡、親族交規之、弗聽、是時阿正旣長、長二亦弱冠、長二爲人質直勤烙、而連遇災患、塵稍落、是以因循未婚也、赤間隣邑、曰勝浦村、村長半五家甚富、爲其子源五婦、未得、聞阿正有才姿、欲之、會万助因事來村中、語以其意、万助心窃計、吾苟勾當此事、則借此翁勢力、何欲不成、遂諾而歸、語之嘉右、嘉右大喜、欲親族而許上レ之、親族來誚責其違舊約而規新利、嘉右患之其明、召万助故、且曰、爲之何如、万助曰、請謀之愚兄道全、呼違全、至、畫策曰、本村長善次、與半五職親善、託以媒介、使公然來請、奴輩何能相沮也、嘉右大喜、使万助潛往授一レ意、善次許諾、偕來決議、乃呼阿正之、説以利害、阿正默然不答、良久曰、諸君爲妾計、妾寧不荷、雖然阿爺臨沒撫妾而許之二郎矣、慈心所屬、萬不背、百事唯命、此獨不從、涙與言倶下、道全等大怒曰、吾輩所説、不唯爲一レ卿、計義父、施及吾輩、與有榮耀焉、舍此洪福、而慕落魄之長二、顚倒之甚、嘉右又罵曰、汝不此婚、必有緣故、意汝已密與長二通也、余必逐出汝二人、阿正低頭不言、万助曰、事已至此、何必喋喋、 不速涓吉納一レ幣、使善次閲一レ曆、曰、某日吉矣、於是衆歡飮徹夜、阿正向隅飮泣而已、自是梳糚皆廢、家慮其有一レ變、更守之、旣而數日、阿正忽酒然收涙稍理髮靧面、家意其改一レ志、防護寢解、阿正乘間、沐浴裝束、入屋後炭厰、以廚刀咽、兩手據膝、伏而死、時年十八矣、義母方識、覺其不一レ在、訓之隣、隣曰、近久不二姐也、歸家周搜、遇流血淋漓、大驚、嘉右時他道、聞變馳至、得遺書二於一レ傍、其一、以遺義父母、〈○中略〉其一以遺長二、曰、妾身許郎君、不更言、近乃遭勝浦、納幣有日、妾不悲愴、昨託人欵説、一切不聽、所託之人、亦反來勸妾、無復有一人賛郎君也、妾於是殊覺郎君可一レ痛也、饒使妾遂成不義之婚、身披錦繍、口飽肥甘、獨何面目見人乎、義父謂妾與郎君殷勤、亦宜然之疑矣、然實未嘗伸一夕之情、郎君所知也、特思許嫁義重、又欲逝者、思彼念此、万愁纏心、所以自殘、冀見憐察、嘉右憮然、〈○中略〉實享和辛酉十一月抱、物論囂然、而莫敢上聞、其後十有八年、本藩儒臣竹田器甫、嘗因館試一レ詩、以節女詞題、自賦長韻、悉叙其事、藩侯閲詩、心異之、因密詢中外、侯生母賢而有惠、其所隸小婢、赤間人也、呼而近之、訪得其實、語之於一レ侯、侯遣吏廉問、遂奪兩村長職、追咎當時郡宰以下、黜罰有差、賜節女家白金、使存䘏焉、以旌之云、

〔閑田耕筆〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1140 丹波桑田郡小林村とて、龜山ちかきに、木匠某が妻長といへる有、夫婦が中に女子二人ありて、いまだ幼きほど、夫は江戸大火後、造作多きをたのみて下りしが、終にかしこにて妻をまうけ、音信もせざるに、妻は操を守りて、二人の女子を養育して、縫針洗濯の賃業をして、貧き世を堪忍びぬ、さて夫の愛せし櫻一樹、庭外にあるを形見と守り、夫に仕ふる心地に、木のもとを淸め枝をいたはり、假初にも人に折することなし、かくすること二十年許、樹はます〳〵榮へ、二女も生長して、それ〴〵に身も納りぬ、かくて此婦身まかりける後、櫻忽に萎み衰へたり、よりて心ある人は、呼て操櫻と稱す、

〔近世畸人傳〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1140 樵者七兵衞妻 洛東蹴上に樵者七兵衞なるもの、一日山に入て、歸ること遲かりしかば、其妻迎にゆきたるに、とある崖下に柴を一荷にし、息杖にもたせながら、人は見えず、ふと見あぐれば、木の枝に大なる蚺首をたれて、腹ふくらかに見えしかば、こゝろきゝたる女にて、是は夫を呑たるならんと、やがて彼荷に添たる鎌をとりてむかへば、蜻ロをひらきて是をも呑たり、呑れながらこの鎌にて、口より腹まで切裂しに、夫はたして腹中にありて、己とともに地へ落たればだゞちに肩にひきかけて我家に歸り、數十日保養を加へて、常に復しぬ、

〔續近世畸人傳〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1141 浪華鶴女
鶴女は浪花戰場鐵や吉左衞門が妻なり、十四にして嫁し、良人によく仕へ舅に孝あり、十六歲の春一男子を産しが、其年不幸にして良人吉左衞門病死す、其忌もみちぬれば親族集ひて、今男子ありといへども、まだ當歲なり婿を撰みて鶴女に配んとて、しか〴〵かたらひければ、鶴女涙を流し、吾若しといへども、兩夫にまみえざるの敎をきけり、はた良人の忘がたみに、男子さへあれば、我心の及ぶほどは、あるじに代りて舅に仕へ、此子をも養育せばやと語に、人々感じあへり、かくて舅に仕ふること、良人生存の日よりも厚く、召つかふものにも情深ければ、皆其德に伏しけり、さて年もかはり一周のいとなみも過しかば、先の人々、去るものは日々に疎しといふ諺をや思ひけん、又つどひて、今はかく家事も整ひぬるものから、まだ齡のわかければ、行末覺束なし、唯まげて吾々が言にしたがひ給へといひけれど、鶴女なほさきのごとく誓ひていなみければ、せんすべなく止みぬ、かくしつゝ天明のとし此鶴女不起の病にかゝり、死に臨むころ、人々枕べによりて、おもふことあらば、殘なくのたまひ置ねといふに、さらに言置べきことなし、唯老人に先だつこと、今生のうらみなれど、是も命なればせんかたなし、此うへおもふことには、死して後棺に收るまでは、僧たりとも男子の手にふれしめたまふな、入棺の後は世の作法もあれば、例にま かせられよといひ終て死す、享年二十七歲とぞ、

〔鶴梁文鈔續編〕

〈上/紀事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1142烈婦蓮月事
烈婦蓮月、未其姓氏、京師賈人某妻也、美姿儀、性聰慧、習文墨和歌、又善陶、家貧夫病、不自給、烈婦別開小店、煮茶供客以養夫、無幾夫死、寡居自守、恐年尚少有人挑之者、薙髮爲尼、然天然美容、故態尚存、狡佻少年或投艶書慇懃、烈婦乃引千斤秤、自拔其齒、毎一齒、肅肅有聲、滴滴迸血、觀者大驚、皆曰、烈婦烈婦、自是莫敢挑之者、鳴呼古之貞婦、有耳截鼻以自誓者、烈婦之操比之無復所一レ耻矣、


Last-modified: 2019-05-05 (日) 13:31:31 (336d)