p.0499 毫毛 陸詞云、毛〈旄反〉膚毫也、毫〈故高反〉長毛也、
p.0499 説文、毛眉髪之屬及獸毛也、釋名、毛貌也、冐也在レ表所下以別二形貌一、且以自覆冐上也、〈○中略〉按玉篇廣韻並云、毫長毛與レ此同、按説文、 豕鬣如二筆管一者、出二南郡一、豪籀文从レ豕、是長揚賦所レ謂豪豬也、轉爲二豪傑一、又爲二豪毛一、俗別二豪傑一从レ豕、豪毛从レ毛、
p.0499 毛〈ケ眉髪及獸毛也〉 毛孔〈ケノアナ〉
p.0499 西方院座主〈院源〉問二洞昭一云、弟子良因ハ、何月日可レ補二阿闍梨一哉、答下全无二其相一之由上、座主ワラヒテ云、御方ノ相ニコノコトコソヲカシケレ、一々毛孔(○○)ニモ成ヌベキ闍梨也如何々々、〈○下略〉
p.0499 中國勢攻二筑前邦立花城一附大友勢後詰之事
奈須ハ今朝ノ詞ヲヤ耻タリケン、又己ガ勇ニヤ伐リケン、小早川勢椋梨次郎左衞門ガ陣ヲ破ント、息ヲモ不レ繼攻近付、藝州勢モ此ヲ可レ被レ破所也ト思、命ヲ輕ンジテ防戰シケルニ、兩陣十四萬ニ及ブ大軍ナレバ、射違ル鐵炮ノ音ハ、百千ノ霹靂ノ、雲ヲ蹈破シテ、大地ニ落ルカト疑ハレ、打合スル鋒ノ火ハ、億兆ノ電光石火ニ不レ異、爰ニ後詰ノ先陣ニ在テ、下知スル兵ヲ見レバ、色飽迄黑クシテ、眼逆ニ裂、頰骨高ク荒テ、頤長ク反、左右ノ腕ニハ(○○○○○○)、猪ノ怒毛ノ如ナル毛生茂リタル(○○○○○○○○○○○○○○)大ノ男、肩ヨ リ上ハ諸人ニ抽テ頎ク、籠手脚當迄眞黑ニ鎧ヒタルハ、眞ニ毘沙門ノ像ヲ、黑漆ニ塗タルカト覺シキガ、一陣ノ戰將奈須軍兵衞喬勝ト名乘、三間柄ノ鎗輕々ト提ゲ、毎度眞先ニ進テ、多クノ敵ヲ突伏、爰ヲ最後ト振舞タルハ、傳へ聞、治承文治ノ古、筒井淨妙ガ宇治橋ノ戰、武藏坊辨慶ガ衣川ノ戰死モ、カクコソ有ケメト、皆人舌ヲ卷テゾ立タリケル、
p.0500 髮〈カミ、頭毛也、宋作レ 、〉 髲〈カミノネ、髮根也、〉 髮際〈カミキハ〉
p.0500 髮(カミ)
p.0500 かみすぢ 髮條也、文選に髾をよめり、徒然草に、女の髮すぢをよれる綱には、大象もよくつながるといヘり、新古今集に、
かきやりしその黑髮のすぢごとにうちふす程は面かげぞたつ
p.0500 承和四年十二月丁酉、勅令レ造二轆轤木壼一合、銅壼釦鏤者一合一、備三于奉二納天王寺聖靈御髮一、〈事由未レ詳、但口博曰、聖德太子御髮四把、深藏二于四天王寺塔心底下一、去年冬霹二靂彼寺塔心一、時遣二使監發一、而其使私偸二靈髮一、與二之己妻一、由レ是後日成レ崇、因更捜索、還二藏本處一云云、〉
p.0500 寛弘九年〈○長和元年〉五月廿四日辛卯、資平云、左相府昨日寅刻許出京、〈騎馬〉自二東坂一登山、〈○中略〉後日或僧云、飛礫當二廣業淸通等一云々、法師敢言云、騎レ馬テ前々專不レ登レ山、縱大臣公卿〈ナリトモ〉執レ髮テ引落テ云云、相府當時後代大耻辱也、世去、非二人之所爲一、若寶護法令二人心催一レ狂歟、希代之事也、
p.0500 伊豫入道賴義於二草堂一修二逆修一之間、或日義家聽二聞之一、中間郎等一人出來、義家ガ耳ニササヤク事ス、聞レ之有二忿怒之色一、歸二向宿所一〈○中略〉賴義サレバコソ、怒ヌレバ、髮力ミサマニアガル也(○○○○○○○○○○)トテ、〈○下略〉
p.0500 鹽谷判官讒死事
師直〈○高、中略〉、垣ノ隙ヨリ闖ヘバ、只今此女房湯ヨリ上ケルト覺テ、紅梅ノ色コトナルニ、氷ノ如ナル練貫ノ小袖ノ、シホ〳〵トアルヲカイ取テ、ヌレ髮(○○○)ノ行エナガクカヽリタルヲ、袖ノ下ニタキス サメル、虛ダキノ烟、匂計ニ殘テ、其人ハ何クニカ有ルラント、心タド〳〵シク成ヌレバ、巫女廟ノ花ハ夢ノ中ニ殘リ、昭君村ノ柳ハ雨ノ外ニ疎ナル心チシテ、師直物怪ノ付タル樣ニ、ワナ〳〵ト振ヒ居タリ、
p.0501 鬢髮 説文云、鬢、〈卑吝反〉頰髮也、野王按、髮、〈發反、和名加美(○○)、〉首上長毛也、蘇敬本草注云、髲、〈仁詣音義云、音被、楊玄操髲作レ採レ 、(髲作レ採レ 一本作二作レ髮一)走孔反、又私國反、和名加美乃禰(○○○○)、今案楊説是也、髲者頭髲、見二容飾具一、〉髮根也、
p.0501 釋名、在二頰耳旁一曰レ髯、其上連レ髮曰レ鬢、鬢濱也、濱厓也、爲二面額之崖岸一也、〈○中略〉按加美、上也、言在二人體最高處一、〈○中略〉今本玉篇髟部無二長字一、慧琳音義再引同、釋名、髮拔也、拔擢而出也、説文亦云、拔也、〈○中略〉新修本草音義一卷、仁詣撰、本草注音一卷、楊玄操撰、並見二現在書目録一、今皆無二傳本一、按本草和名云、髮髮楊玄操音走孔反、又尸閏反、仁詣作レ髲、皮寄反、源君所レ引本草、音義、似下皆從二本草和名一引上レ之、則此亦當レ作二蘇敬本草注云髮髮楊玄操音義云、走孔反、又私閏反、仁 作レ髲、音被、和名加美乃禰云々、髮根也一、正文髮髮誤脱作二髲一字一、音注亦互誤、皆非レ是、今撿二新修本草殘本一、正文作二髮髮一、注云髮字書記所レ無、或作レ算、音人、今呼二斑髮一、爲二 髮一、書家亦以二亂髮一爲レ 、恐髮卽是 音也、又云、謹案此髮根也、年久者用レ之神功、卽髲字誤矣、旣有二亂髮及頭垢一、則闕レ髮明矣、又頭垢功劣二於髮一、猶去レ病用二陳久者一、梳及船茹、敗天公、蒲席、皆此例也、甄立言作レ鬉、 亦髮也、髮總音、撿二字書一無二髮字一、但有レ爰、爰鬉美貌、作二丘懽音一、有レ聲無レ質、則髲、爲レ眞矣、前注爲二陶氏注一、謹案以下爲二蘇氏注一、證類本草作二髮髲一、云音被、引二陶隱居一云、髲字書記所レ無、或作レ蒜、今呼二斑髮一爲二蒜髮一、書家亦呼二亂髮一爲レ鬈、恐髲卽舜音也、又引二唐本注一云、此髮髲根也、年久者用レ之神効、卽髮字誤矣、旣有二亂髮及頭垢一、則闕レ髲明矣、〈○中略〉按髮應二髮字之俗譌一、而 字諸字書所レ無、故陶云二書記無一、陶又云、書家亂髮爲レ 、恐 卽舜音也、謂舜夋同音、故或從レ舜作レ 、或從レ夋作レ 、而 二字、諸字書不レ載、蓋並鬊之俗字、鬊訓二亂髮一、見二禮記注一、後人不レ知 是鬊之俗字一、誤謂二其字從一レ㚇、改作レ鬉、遂音レ㚇、廣韻、鬉毛亂、子紅切、是也、甄立言從レ之、故楊氏有二尸閏走 孔二音一、尸閏以音二鬉字一、走孔以音二鬉字一也、誤レ 爲レ鬉者、猶丙唐高力士碑云、絶二折荾之敎一、蓋用乙方言引レ傳曰下慈母之怒レ子也、雖二折レ葼笞一レ之、其惠存焉上之語甲、誤レ葼爲レ荾、蘇氏以二荾字諸書所一レ無、欲下依二㼼氏一枠上レ鬉、亦是譌字、説文不レ載、但有二鬈字一、然訓二髮美貌一、無二其質一、不レ得二改レ 爲一レ鬈、按若無二鬉字一、當レ用二鬊字一、蘇氏録二出鬈字一者、字形近而偶誤也、於レ是定爲二髲字之誤一、仁諝音義、云二髲皮義反一者、爲レ之音也、鬉之當レ作レ髲、蘇氏於二注中一言レ之、則知仁諝所レ音、卽蘇注髲字、非二仁諝所レ見本草正文作一レ髲也、唐愼微作二證類本草一、從二蘇説一、徑改二正文髮 一爲二髮髲一、陶蘇二注、遂皆不レ可レ讀、又新修本草傳本、 字譌作レ髮、其字不レ知レ所レ從、故源君亦從レ蘇作レ髲、然源君於二注中一、載二楊本作一レ髮、非レ若二唐氏之武斷、遂至不一レ可三跡二綜古本草之面目一也、又按鬉字或作レ 、見二慧琳音義一、以三㚇怱同音一、或從レ㚇、或從レ怱也、故證類所レ引甄立言作レ 、而總角之總、俗從レ髟从二總省一作レ 、其字形與二亂髮之 同、而作字之源自異、而李當之曰、髮 是童男髮、雷斅亦以爲下男子二十已來於二頂心一剪下者上、皆以二亂髮之 一、混爲二 角之 也、不レ知俗字之變者、多有二此誤一、李雷二説、不レ可レ從也、〈○中略〉按本草白字有二髮髮一、黑字有二亂髮一、蘇敬謂三髮髮亂髮兼擧、則髮髮非二亂髮一、遂以二髮髮一爲二髮根一、又以爲二髲字之譌一、不レ知髮是 字之譌、 俗鬊字、鬊訓二亂髮一、則明二髮髮之卽亂髮一矣、凡本草中黑字之謬會重復者、不二一而足一、蘇氏以二髮髮一爲二髮根一者、無二徴證一、了屬二 度一以爲二髲字之譌一、亦未レ是、皆不レ知三髮之爲二 字一、爲二之曲説一也、髮髮亂髮皆當レ訓二於知加美一、説文、鬊鬌髮也、是也、源君從二蘇説一、訓二加美乃禰一、非レ是、
p.0502 十年十月庚辰、天皇疾病彌留、勅喚二東宮一〈○天武〉引二入臥内一、詔曰、朕疾甚、以二後事一屬レ汝云云.於レ是再拜稱レ疾、固辭不レ受曰、請奉二洪等一、付二屬大后一、令二大友王一奉レ宣二諸政一、臣請願奉二爲天皇一出家修道、天皇許焉、東宮起而再拜、便向二於内裏佛殿之南一、踞二坐胡床一剃二除鬢髮(○○)一爲二沙門一、
p.0502 みぐし 神代紀に、首字髮字をよめり、髮ぞ本なるべき、御奇の義にや、奇靈を稱せる成べし、〈○中略〉中古の書に、髮をおほんぐしといふ、今おぐしといへり、
p.0502 木丁をひきあげて、すこしすべり入てみたてまつり給へば、〈○中略〉御ぐし(○○○)など、す こしあつくぞおはしける、
p.0503 御とし十七さいばかりにて、御ぐしいとめでたし、
p.0503 御ぐしはいとをよりかけたるやうにて、ほそはぎにはづれたり、
p.0503 髮筋をかんざしといひし事
和名抄〈冠帽の具の部〉に簪〈和名〉加無左之插レ冠釘也とある、此簪は冠の紐を係て落ぬやうにしておく物なりといへり、然れば今のかんざしとは異り、さて又今より七八百年の中昔に至りて、かんざしといふ名目あり、〈○中略〉雅亮裝束抄〈卷上〉五節所の事といふ條に、ゑりくし、まきくし、かんざしをぐして五せち所ごとに、おきまはるなり、〈同卷〉に姫君のさうぞくといふ條に、とらの日〈中略〉すゑ〈今いふかもじの事〉ひたひ、かみあげまうく、かんざし、さいし四筋あるを、本所にまうく、かちくし、したくし、ゑりくし、をぐし、しかい、これらはくら人かたに、まうくとあり、前にもいへる如く、和名抄に、簪の字加無左之と訓せたれど、此かむざしは冠の紐を係る釘のやうなる物め名なり、然るに後の世にいたりては、右に引たる古今集にも裝束抄にも、かんざしとあ、るを、古今の歌のはしがきに、かんざしの玉のおちたりけるをといひしに據て考れば、今の花かんざしのやうなる物にやありけん、確證を得ざれば强てはいひがたし、さて前に引たる本居大人が源氏を注したる玉の小櫛に、かんざしとは、髮のさしざまといふ事といはれしは、げにさる事にて、往古はさら也、近き三百年前までも、髮すぢを、かんざしといへり、貴船本地〈文明の頃のお伽艸子、さいしき繪入寫本、〉下の卷に、父がむすめを折濫する所、御たけにあまりたるかんざしを手にからみ、じやけんのゆかにひきふせて、又富士人穴草子〈東山殿比のか伽さうし、寛永九年板全二册、〉上卷、女をほめる詞に、三十二相ぐそくして、たけなるかんざしはせいたいがたていたに、こうろぎのすみをながしたるごとくなり、〈虫のこうろぎの墨に髮のつやをたとへたる也、せいたいは板へながしてつくる物とぞ、〉按に三百年前までも、今のやうなるかんざしといふ、目につく髪のかざりなかりしゆゑ 髮筋のことを、古言のまヽにかんざしと言ても紛れざりし也、今はあの娘のかんざしはちヾれてあると言ば、べつかふのまへざしの焦てあるかと思ふめり、是簪といふ物いできて、其名も廣くなりしゆゑ也けり、
p.0504 黑髮(クロカミ) 鬒〈同レ上〉
p.0504 磐姫皇后思二天皇一〈○仁德〉御作歌四首〈○中略〉
在管裳(アリツヽモ)、君乎者將待(キミヲハマタン)、打靡(ウチナビク)、吾黑髮爾(ワガクロカミニ)、霜乃置萬代日(シモノオクマデニ)、
p.0504 〈方小反、上、白髮貌、志良加(○○○)、〉
p.0504 白髮〈シラガ〉 〈同〉
p.0504 しらが 新撰字鏡に をよめり、白髮の略也、俗に辛苦する事を、髮の白くなるといふは、漢の光武の語に、毎二一發一レ兵不レ覺頭髮爲レ白と見えたり、
p.0504 シラガフキナルナント云ハ何事ゾ
皆白髮ナルニハ非ズ、黑自斑ラニ交リタル義也、日本紀ニ曰、白髮斑雜ト書テ、シラガフウキト讀ゾ、フキト云ハ誤也、常ニ斑ノ字ヲ ニ誤也、中ニ文ヲ書タルハマダラ也、 ハツクトヨム也、次テノ義也、
p.0504 髮〈音發○中略〉
髮之白雖レ有二遲早老少一、皆不レ係二壽之修短一、由二祖傳及隨レ事感應一而已、如二晉王彪之年三十餘鬚髮盡白一、後至二七十餘歲一卒之類有レ之、〈○中略〉
按〈○中略〉壯歲白髮者俗曰二弱白髮一、有下服二地黄一而食二莢菔一變二白髮一者上、天性有二白髮者一、淸寧天皇生而白髮之類是也、染二白髮一薬、 」V 松屋筆記
p.0504 髮を黑くする方 同書〈○續博物志〉二〈七丁ウ〉に、覆湓子是莓子、窄取レ汁合成レ膏、塗レ髮不レ白云々、覆盆子ハイチゴ也、莓子(イチゴノミ)ヲ窄(シボ)リテ汁ヲ取リ、煉(ネリ)ツメテ膏トシテ髮ニヌル也、
p.0505 白髮の宣髮算髮
畷耕録十八卷〈十五丁オ〉宣髮條に、人之年壯而髮斑白者、俗曰二算髮一云々、これ若白髮也、黑白雜爲二宣髮一云云、これ半白の髮にて、俗に胡麻鹽髮といふもの也、
p.0505 白髮武廣國押稚日本根子天皇、大泊瀨幼武天皇第三子也、母曰二葛城韓姫一、天皇生而白髮(○○○○)、長而愛レ民、
p.0505 養老元年十一月癸丑、天皇臨レ軒、詔曰、朕以二今年九月一、到二美濃國不破行宮一、留連數日、因覽二當耆郡多度山美泉一、自盥二手面一、皮膚如レ滑、亦洗二痛處一無レ不二除愈一、在二朕之躬一其驗、又就而飮二浴之一者、或白髮反レ黑(○○○○○)、或頽髮更生、或闇月如レ明、自餘痼疾.咸皆平愈、〈○下略〉
p.0505 太宰帥大伴卿上レ京之後、沙彌滿誓贈レ卿歌二首、〈○一首略〉野干玉之(ヌバタマノ)、黑髮變白髮手裳(クロカミシロクカハリテモ)、痛戀庭(イタキコヒニハ)、相時有來(アフトキアリケリ)、
娘子報二贈佐伯宿禰赤麻呂一歌一首
吾手本(ワガタモト)、將卷跡念牟(マカムトオモハム)、大夫者(マスラヲハ)、戀水定(ナミダニシヅミ)、白髮生二有(シラガオヒニタリ)、
p.0505 正述二心緒一
黑髮(クロカミノ)、白髮左右跡(シラカミマデト)、結大王(ムスブキミ)、心一乎(コゝロヒトツヲ)、今解目八方(イマトカメヤモ)、
p.0505 元正下二向八幡御領備中國吉阿保一、〈二絛御神樂保〉上洛之間、於二室泊一俄心神違例、如レ亡二片鬢一如レ雪變也(○○○○○○)、成二奇異之思一令二巫卜一之處、吉美津宮託宣給云々、
p.0505 服藥駐レ老驗記〈善家異説〉
竹田千繼者、山城國愛宕郡人也、寶龜初歲、十七入二典薬一、爲二醫生一讀二本草經一、至二于枸杷駐レ老延齡之文一、深 以誦憶、將レ試二其徴驗一、乃買二地二段一、多種二此藥一、春夏服二其葉一、秋冬食二其根一、又常煮二莖根一、取レ汁釀レ酒而飮レ之毎レ有二沐浴一、必用二其水一、如レ此七十餘年、未二嘗懈倦一、顔色服壯、猶如二少年一、齊衡二年、文德天皇忽患二疲〈○疲一本作レ疫〉羸一、衆醫供二石決明酒一、時侍臣或奏下千繼服二枸 一駐レ老之狀上、天皇大駭、卽時召見、問云、汝生年幾、千繼奏云、天平寶字九年歲次庚子生、至二今年一九十七、天皇大怪、令下侍臣驗中視其形上、鬢髮黑、肌膚肥澤、耳目聰明、齒牙无レ蠹、天皇感服、擢爲二典藥允一、便卽勅二藥園一、多種二枸 一令二千繼掌一レ事、〈○中略〉
寛平年中、有二外從五位下春海貞吉一、舊是唐儛師也、次爲二雅樂助一、預二五品一、屢到二余舍一、展二語中懷一、底裏披露、無レ有レ所レ隱、時余年卌有五、白髮滿レ頭(○○○○)、貞吉深有二助レ憂之色一、語曰、何不レ服二枸 一招二此衰羸一、余答云、枸 駐レ老之驗、具在二醫方一、然而丘未レ逹、不二敢嘗一レ之、乞略陳二其方一、貞吉答云、僕昔者年廿六、大同元年、以二由基所風俗儛勞一、爲二左近衛一、其後依二醫人語一、播二捐枸 一、方一町之地、無レ有二他種一、水漿食飮必合二此藥一、盥洗沐浴常用二其水一、故今年一百十六歲、猶有二少容一、亦説二其養生之法一、事多不レ載、貞吉、寛平九年夏、訪二問親知疫病一、遭二染注一俄卒、時百十九、又致仕大納言藤原冬緒、服二露蜂房一、兼呑二槐子一、年過二八十一頭髮無レ白(○○○○)、不レ斷二房室一、寛平二年薨、時年八十四、〈○下略〉
p.0506 路遇二白頭翁一
路遇二白頭翁一、白頭如レ雪面猶紅、自説行年九十八、無レ妻無レ子獨身窮、三間茅屋南山下、不レ農不レ商雲霧中、屋裏資財一栢匱、匱中有レ物一竹籠、白頭説竟我爲詰、老年紅面何方術、已無二妻子一又無レ財、容體充肥具陳述、白頭抛レ杖拜二馬前一、慇懃請曰叙二因縁一、貞觀末年元慶始、政無二慈愛一法多レ偏、雖レ有二旱災一不二言上一、雖レ有二疫死一不二哀憐一、四千餘戸生二荊棘一、十有一縣無二爨煙一、〈○下略〉
p.0506 白頭詞 江大府卿〈被レ作二此詞一之冬被二薨卒一、取二文獲麟之詞一也、〉
潘岳者大尉掾中郎將也、歎二白髮於四八一、嵇含者、達人聰〈○聰一本作レ廳〉忠臣子也、傷二左鬢於霜華一、況於二七旬一哉、況於二滿首一哉、嗟乎老亦耄焉、白可レ厭、疾已病也、誰爲レ憐、聊以二兩韻一將レ資一一壉一、〈○下略〉
p.0507 將軍〈○源賴義〉語二武則一曰、頃年聞二鳥海柵名一、不レ能レ見二其體一、今日因二卿忠節一初得レ入レ之、卿見二予顏色如何、武則曰、足下宜爲二王室一立レ節、櫛レ風沐レ雨、甲胄生二蟻虱一、苦二軍旅役一已十餘年、天地助二其忠一、軍士感二其志一、以レ是賊衆潰走如レ決二積水一、愚臣擁レ鞭相從、有二何殊功一乎、但見二將軍形容一、白髮(○○)返二半黑(○○)一、若破二厨川柵一得二貞任首一者、鬂悉黑、形容肥滿矣、
p.0507 有王渡二硫黄島一事
礒ノ方ヨリ働來者アリ、只一所ニ動立樣也、其形ヲ見ニ、童カトスレバ年老テ、其貌ニ非、法師カト思ヘバ、又髮ハ空樣ニ生アガリテ白髮多シ、銀ノ針ヲ立タルガ如シ、萬ノ塵ヤ藻クヅノ付タレ共不二打拂一、〈○下略〉
p.0507 眞盛被レ討附朱買臣錦袴幷新豐縣翁事
木曾打案ジテ、哀武藏ノ齋藤別當ニヤ有ラン、但其ハ一年少目ニ見シカバ、白髮(○○)ノ糟尾ニ生タリシカバ、今ハ殊外ニ白髮ニ成ヌランニ、鬂鬚ノ黑キハ何ヤラン、面ノ老樣ハサモヤト覺ユ、實ニ不審也、樋口バ古同僚、見知タルラントテ召レタリ、髻ヲ取引仰ケテ一目打見テ、ハラ〳〵ト泣、穴無慙ヤ眞盛ニテ候ケリト申、〈○中略〉大國ノ許由ハ、耳ヲ穎川ノ水ニ濯テ、名ヲ後代ニ留メ、我朝ノ眞盛ハ、髮ヲ戰場ノ墨ニ染テ、悲ミヲ萬人ニ催シセリ、
p.0507 マヒ〳〵 〈イチノガミ〉 旋毛〈廻髮〉
p.0507 旋(つじ)毛 〈俗云豆之〉
按旋毛在二頭髮中一、旋回者如二阡陌之衢一而在處不定、或左或右或雙旋、〈俗云爾奈比豆之(○○○○○)〉因二生時一有レ異者非也、蓋有二百會之邊一、而少左右偏者多有レ之、雙旋者希有、
子午卯酉〈項正中〉 丑未辰戌〈右編五六分〉 寅中巳亥〈左偏或雙旋毛〉 〈六月毛髮生、然則生時亦自レ始定乎、〉
p.0507 にげなきもの かみあしき人の、白きあやのきぬきたる、しヾかみたる(○○○○○○)かみにあふひつけたる、
p.0508 ちヾれ髮をちヾうがしらといふ
中明寺百首に
人心髮すぢほどもゆがむなよちヾうがしらの鳶の巢はあし
p.0508 先起稱二屬星名號一、〈○中略〉次服レ粥次梳レ頭、〈三ケ日一度可レ梳レ之、日々不レ梳、〉
p.0508 治承四年九月十九日戊辰、陸奥鎭守府前將軍從五位下平朝臣良將男將門、虜二領束國一企二叛逆一之昔、藤原秀郷、僞稱下可レ列二門客一之由上、入二彼陣一之處、將門喜悦之餘、不レ肆一所レ梳之髮(○○○○○○)一、卽引二入烏帽子一謁レ之、秀郷見二其輕骨一、存レ可二誅罰一也、趣二退出一如二本意一獲二其首一云云、
p.0508 おちかみ 落髮の義、源氏に髮のおちと見え、本草に亂髮と見えたり、今人髮結はざるを亂髮と稱せり、拾遺集に、朝な〳〵けづればつもる落髮の亂れて物をおもふ比かな、
p.0508 亂髮 血餘 人退 〈俗云髮乃乎知〉
亂髮者、乃梳櫛下髮也、燒レ灰爲レ藥、
氣味〈若微溫〉治二欬嗽五淋大小便不レ通、小兒驚癇吐血衂血、及諸血病一、補レ陰小見重舌欲レ死者、傳舌下一佳、
鼻血不レ止者、吹二入于鼻立止、永不レ發、〈男用二女髮一、女用二男髮一、〉
p.0508 朱鳥元年十月庚午、賜二死皇子大津於譯語田舍一、時二十四、妃皇女山邊被レ髮(クダシミクシヲ/○○)徒跣、奔赴殉焉、見者皆歔欷、
p.0508 笛吹峠軍事
上杉民部大輔ガ兵ニ、長尾彈正根津小次郎トテ、大カノ剛者アリ、今日ノ合戰ニ打負ヌル事、身一ノ耻辱也ト思ケレバ、紛レテ敵ノ陣へ馳入、將軍ヲ討奉ラント相謀テ、二人乍ラ俄ニ二引兩ノ笠符ヲ著替へ、人ニ見知レジト、長尾ハ亂髮ヲ顏へ颯ト振リ懸ケ(○○○○○○○○○○○)、根津ハ刀ヲ以テ己ガ額(○○○)ヲ突切テ 血ヲ面ニ流シカケ、切テ落シタリツル敵ノ頸鋒ニ貫キ、トツ付ケニ取著テ、只二騎、將軍ノ陣へ馳入ル、
p.0509 髮のふヾき
順集に
君きかばなけほとヽぎす黑髮のふヾきになれば我もおとらず、髮のふヾきになるとは、頭如二飛蓬一と詩經にいへるがごとし、皇極紀に、山背王之頭髮班雜、毛似二山羊一といへる心なり、
p.0509 かみあげ〈○中略〉 日本紀に結髮をよめり、貫之集に、女四のみこの御髮あげの屏風のうたと見ゆ、はなち髮を初て結ふ事也、是夫への禮也.文選古詩にも、髮を結て夫妻となる、白氏文集にも、守レ君結レ髮五載と見えたり、よて結髮をいひなづけの事にも用ゐたり、また婚禮の時は、さげ髮を禮とし、夫婦の盃すむと髮をあぐるも此意なりといへり、萬葉集に童女(ウナイ)はなりは髮上(アゲ)らんかと見えて、西土に許嫁筓而字と同じ、伊勢物語に、
くらべこしふりわけ髮も肩過ぬ君ならずして誰かあぐべき、うつぼ物語に、弟の宮は四ツ御ぐし肩わたりにてと見ゆ、又陪膳の女官など、すべらかしをあぐるをもさいへり、也足軒の説に、内の女房は晴の時は、髮上とて、釵して髮をいたヾきへ上る也と見えたり、禁中に御髮上の祭といふ事あり、御髮は藏人此を勤む、臘月に、至り日を撰み、年中の御髮の屑を燒上る也とそ、神代紀に、結レ髮とあるを、古事記には解二御髮一と見えたるは、上代に結といひしは、本をあつめ擧て結て、其末は後ろに垂たる成べし、こヽに結とあるは、其末の垂亢るを擧結びたる所を解くなれば、實は同義也、神功紀に、解髮とあるも是也、天武紀に、男女悉結レ髮と見えたる、頭に結綰(ワカネ)て髻(モトドリ)と成をいふ成べし、よて後の詔に、婦女垂二髮于背一猶如レ故とありて、上代の風のまヽ也、萬葉集の歌にも、髮あぐる事を多くよめるも、彼本を結と末は垂る也とそ、伊勢物語に、うちとけて髮を卷上てと見えたるは、 いやしびたるさま也、落くぼ物語に、主の前に出るごとに、女の髮を垂し事あり、されば内々事をなすにはまきあげし成べし、
p.0510 太行路
太行之路能摧レ車、若比二人心一是坦途、巫峡之水能覆レ舟、若比二人心一是安流、君心好惡苦不レ常、好生二毛羽一惡生レ瘡、與レ君結髮(○○)未二五載一、豈期二牛女一爲二參商一、〈○下略〉
p.0510 きるかみ 萬葉集に、年の八とせを切髮の我身を過てとみゆ、いはけなきほどは、髮を左右へかきわけてあるを、やヽ長くなれば、肩のほどにて切をいふ、其後よきほどになりて、男は輪にゆひたるを、もとゆひにてかうぶらし、女は髮わけとてかんざしする也といへり、
p.0510 髮あげ
髮あげといふ事古書どもにあまた見ゆ、結髮(かみあけ)に兩義あり、一ツは男をさだむる時、かの振分髮を一ツに結集擧てその末は脊後へたらしおく、その義は男の元服と同然なり、是上代よりの風儀なり、
p.0510 髻 〈鬟附〉唐韻云、髻〈○註略〉鬟也、四聲字苑云、鬟〈音還、和名美豆良(○○○)、一云訓上同、〉屈髮也、
p.0510 類篇云、鬟、屈髮爲レ髻、與レ此義同、按髻其狀綰屈如レ環、故或謂二之鬟一、皇國結髮雖二其形不一レ同、然總髮之義無レ異、故訓レ髻爲二毛斗々利一、故鬟一訓亦同、新儀式内親王初筓儀、有二結鬟理髮座一、吏部王記、天慶三年八月、章明親王元服、同四年八月、源爲明元服條、並云二結鬟一、並是也.其美都良者、結レ髮爲二兩髻一、古事記云、左右御美豆良是也、故萬葉集用二角髮字一、蓋用下禮記内則翦レ髮爲鬌男角女羈、注夾レ囟曰レ角字上也、源氏物語桐壼胡蝶等卷所レ言、亦卽此、或謂二之阿介萬岐一、以二總角字角子字一充レ之、總角在二兩髦一、故以充阿介萬岐一也、後世呼爲二鬢頰一、見二平家物語大塔建立條一、卽美都良之譌也、訓鬟爲二美都良一非レ是、
p.0511 鬟〈音還、ミツラ、モトヾリ、〉
p.0511 鬟(ミヅラ)〈屈也髮〉
p.0511 鬟(ミヅラ)〈唐韻髻也〉 鬟(ビンヅラ)〈字苑、屈髮也、〉
p.0511 みづら 日本紀に、髻又鬟をよめり、御鬘の義也、女のもとヾりの事をかづらといひ、男のもとヾりの事をみづらといひ、字も鬘と髻とにて分てり(○○○○○○○○○○○)、源氏に、みづらゆひといへるは鬢づら也、萬葉集に、角髮をみづらとよめり、左右に分れたるが、角のごときをいふ、卽角子也、こをもとはみづらといひし也、延喜春宮式元日朝賀の條に、雙童髻といふ事見ゆ、後には又彼雙童髻を耳の上にてゆひて、耳の前にさげる也、あげみづらはその末を耳の上まで引あげて、みづらは直に垂る也、此結樣は雅亮抄にくはしく見ゆ、關東にさヽげの短きを呼てみづらといふ、こをたばねたる形の似たる也、
p.0511 御美豆良(ミミヅラ)は、上代に男の御裝にて、髮を左右へ分て、結綰(ユヒワカネ)たるものなり、下に天照大御神の、解二御髮一纏二御美豆羅一たまふとあるも、書紀に息長足姫尊の橿日浦にして、御髮を解して海に入洗たまひて、占たまふに、御髮自分たるを、卽その分れたるまヽに結て、髻としたまふことあるも、假に男貌と爲たまふなり、又崇峻紀に、古俗年少兒、年十五六間束二髮於額(ヒサゴバナニス)一、十七八間分爲二角子一、今亦然之とある、此角子卽美豆良なり、〈十七八間とあるは、やゝ後のことなるべし、いと上代は、すべて男は然せしこと右に云が如し、角子をあげまきと訓るは、後の稱なり、卽みづらと訓べし、〉万葉〈七の二十八丁〉に角髮(ミヅラ)とあり、左右にあるが角の如くなる故に、かヽる稱は有なり、後世に鬢頰(ビムヅラ)と云は、此美豆良を訛れる言なり、〈江次第に、幼主之時垂二 頰一、〉
p.0511 髻(ミヅラ)
按ビンヅラは、美豆良を訛れる語なり、美は万の通音にて左右也左右手を万天(マデ)と訓るがごとし、豆良は列也、左右に列立る義にて、結髮の頭上の左右に列立る貌よりいへるなるべし、加良和は 搦輪(カラワ)也、髮毛をからまきて、輪にしたるゆゑの名也、分テは曲(ワゲ)テを假名に書たりけんを、字に書直して誤れるなり、髮毛を曲て結ふを、わげといへり、〈○中略〉
女房私記正月の條に、若宮方童體の間は、半尻に袴、鬢づらをゆふ也、御休息の時ならば、結中金の平もとゆひ也云々、
p.0512 一品宮〈○章子〉は、あけくれめかれずかしづき奉らせ給て、御對面なんどあるべしとあれど、一品にならせ給ぬるは、かたじけなし、御みづらなどゆはせ給ふて、のぼらせ給はんとて、とヾまりぬ、なべてならずいみじくもてかとづき聞えさせ給、
p.0512 髻〈鬟附〉 唐韻云、髻〈計反、和名毛止々利(○○○○)〉鬟也、四聲字苑云、鬟〈○註略〉屈髮也、
p.0512 山田本作二居濟反一、按音計與二廣韻一合、居濟與二玉篇一合、此引二唐韻一作二音計一爲レ是、按毛止々利、本取之義、禁秘抄作二本鳥一、假借耳、〈○中略〉廣韻作二綰髮一、説文新附云、髻古通用レ結、鬟古婦人首飾、琢玉爲二兩環一、此二字皆後人所レ加、則知結髻環鬟古今字、
p.0512 髻〈モ下ヽリ、音汁結髮也、〉 鬟〈同、音還、髻鬟、〉
p.0512 髻(タブサ) 髻(モトヾリ)〈字彚、綰レ髮也〉、〉
p.0512 高鬟墮髻ノコト
或人ノ席上ニテ、曲舞ニカウクワソモトヒヲ切、半檀ニ枕スト云コトアリ、何人ノ詩句ヲ取タルヤト云リ、晉山氏云、李賀ガ詩ニ出ヅト、ソノ後、全唐詩ヲ考ルニ、李長吉美人梳レ頭謌ニ云、西施曉夢綃帳寒、香鬟墮髻半枕檀ト云々、漁隱叢話ニモ、全首ヲ載セリ、沈檀トハ、沈香檀香ノコトナリ鬟髻ノ香シキコトヲイヘリ、ソレヲアヤマリテ、モトヒヲキツテ半タンニ枕ストイヘリ、墮髻ト云ハ、崔豹ガ古今注ニアリ、倭墮、髻一云墮馬之餘形也ト、本國ノサゲカミハ、後漢ノ墮馬髻ノ遺風ト云コトニヤ、
p.0513 四十年六月、東夷多叛、邊境騷動、 七月戊戌、〈○中略〉則天皇持二斧銊一、以授二日本武尊一曰、朕聞、其東夷也、識性暴强、〈○中略〉見レ怨必報、是以、箭藏二頭髻(タキフサ/○○)一、刀佩二衣中一、
p.0513 忍熊王以二難波吉師部之祖伊佐比宿彌一爲二將軍一、太子〈○應神〉御方者、以二丸邇臣之祖難波根子建振熊命一爲二將軍一、〈○中略〉爾建振熊命權而、令レ云二息長帶日賣命者、旣崩故、無一レ可二更戰一、卽絶二弓絃一、欺陽歸服、於レ是、其將軍旣信レ詐、弭レ弓藏レ兵、爾自二頂髮中(○○○)一、採二出設弦〈一名云宇佐由豆留〉更張追擊、
p.0513 頂髮中は、多藝布佐能那加(タギフサノナカ)と訓べし、書紀に、此を髮中とあるを然訓、又景行卷に、箭藏二頭髻一、崇峻卷に、作二四天王像一置二於頂髮一などあるをも皆然訓り、多藝は髮を揚たるを云、布佐は其揚て集めたる髮の繁きを束ねたる處を云、總又物の多きを總集むるを、布佐奴(フサヌ)と云などヽ同言なり、〈万葉に、髮たぐと多くよめり、揚ることなり、又物の多く繁きを布佐と云、〉されば、頂髮は後に云本取(モトヾリ)のことなり、〈故師ぱ卽モトヾリと訓れつれど、其は中古よりの名とこそ聞ゆれ、〉
p.0513 業平朝臣盜二二條后一〈宮仕以前〉將レ去之間、兄弟達〈昭宣公等〉追至奪返之時、切二業平之本鳥(○○)一云々、仍生レ髮之程、稱レ見二歌枕一發二向關東一
p.0513 むとくなる物
翁のもとヾりはなちたる
p.0513 殿下事曾
關白殿〈○藤原基房〉コレヲバ爭可二知召一ナレバ、大内ノ御直廬ヘト思食テ、常ノ御出仕ヨリモ花ヤカニ、前駈御隨身殊ニ引繕セ給テ、中御門、東洞院ノ御宿所ヨリ、大炊御門ヲ西へ御出ナル、堀河猪熊ノ邊ニテ、兵具シタル三十騎計走出テ、前駈等ヲ搦捕ケリ、安藝權守高範バカリゾ、御車ニ副テ離ザリケル、式部大輔長家、刑部太輔俊成、左府生師峯等モ、本ドリヲキラル、結句車ノ物見打破、太刀長刀ヲ進ケレバ、只夢ノ御心地ゾシ給ケル、高範車ヲ廻テアヤツリ禦ケルヲ、難波太刀ヲ振テ御車 ニ向ケリ、高範心ウサノ餘ニ走ヨリ、狠藉ノ奴原也、何者ゾトテ組タヲシテコロビケルガ、高範スグヤカ者ニテ、難波ヲ押へテ拳ヲ把(ニギ)リ、䫦(ツラ)ヲ打、郎等主ヲ助ントテ、高範ガ本ドリヲ取引上タリ、經遠力ヲ得テ、駻返(ヨリカヘツ)テ主從二人シテ、手取足取セヽリ倒シテ、髻ヲ切トテ、是ハ汝ヲスルニハ非トゾ訇(ノヽシリ)ケル、淺增ト云モ疎也、左近將 盛佐ハ、馬ヲ馳テ逃ケルヲ、打落テ是ヲモ搦テケリ、
p.0514 嘉應二年十月廿言、依二御元服定一、攝政參内之間、於二路頭一勇士有二狠藉事一、切二前駈等本鳥一、是先日資盛之會稽也、依二此事一定延引、
p.0514 養和二年〈○壽永元年〉十一月十二日己卯、武衞寄二事於御遊興一渡二御義久鐙摺家一、召二出牧三郎宗親一、被レ具二御共一、於二彼所一召二廣綱一被レ尋二仰一昨日勝事一、廣綱具令レ言二上其次第一、仍被レ召二決宗親一處、陳謝卷レ舌、垂二面泥沙一、武衞御鬱念之餘、手自令レ切宗親之髻一給、此間被二仰含一云、於レ奉レ重二御臺所事一者尤神妙、但雖レ順二彼御命一、如レ此事者内々蓋二告申一哉、忽以與二耻辱一之條、所存企、甚以奇怪云云宗親逃亡、武衞今夜止宿給、
p.0514 無禮講事附玄慧文談事
無禮講ト云事ヲゾ始ラレケル、〈○中略〉其交會遊宴ノ體、見聞耳目ヲ驚セリ、獻盃ノ次第、上下ヲ云ハズ、男ハ烏帽子ヲ脱テ髻ヲ放チ、法師ハ衣ヲ不レ著シテ白衣ニナリ、年十七八ナル女ノ、盻形優ニ膚殊ニ淸ラカナルヲ二十餘人、褊ノ單へ計ヲ著セテ、酌ヲ取セケレバ、雪ノ膚スキ通テ、大掖ノ芙蓉新ニ水ヲ出タルニ異ナラズ、
p.0514 大内義隆朝臣敗軍附晴持最後之事
此家主、年ノ比八十許ナル大ノ禪門ナリ、小鬂ノ外ニ鎗疵ト見ユル所有テ、物言タル樣ナド氣高ク、昔ハ何某ナド云レツラント覺シキガ、火ノ然(モヘ)兼タルヲ見テ、廂ノ柱一二本引折テ、爐中へ切クベ、〈○中略〉某ハ鹽冶掃部助ガ普代ノ郎等ニテ候シガ、掃部、尼子經久ノ爲ニ討レテ後ハ、二君ニ不レ仕ト存ジ、 (モトゝリ)切テ村民ト成、耘耕ヲ命トシテ光陰ヲ送リ、齡已ニ八十ニ及候ヘバ、老木ノ春ヲ待テ、花 咲ベキ榮エヲ願ヒ申ニモ非候、
p.0515 髺〈タブサ、モトドリ、〉
p.0515 髺(タブサ)
俗に髮の本鳥を曲げたる所を、タブサといへり、古くタブサといへるは、手房(タブサ)にて手の先也、
p.0515 鬂(ビン)〈與レ 同〉
p.0515 鬢(ビン)〈時珍云、耳前毛、〉 (鬂同)〈同レ上〉
p.0515 びんづら 鬢顏の義、江次第に、幼主之時垂二鬢頰一と見ゆ、童形の時、鬢の髮を筆の軸ほど分て、兩方へさげるなりといへり、了角の義なり、源氏にみづらゆふと見えたり、されば䰅づらはみづらの訛なるべし、又さげびづらといふ事あり、宗祗族日記に、西行が水びんかきけんまでともいへり、
p.0515 三年正月丙辰、詔曰、〈○詔曰二字恐衍〉務大肆、陸奥國優嗜曇郡城養蝦夷脂利古男麻呂與二鐵折一、請下剔二鬢髮(○○)一爲中沙門上、
p.0515 中關白〈○藤原道隆〉以二酒宴一爲レ事、賀茂詣之時、醉而寢二車中一、冠拔在レ傍、臨下欲二下車一之期上、入道殿被二驚申一、驚而以二扇妻一搔レ鬢(○○)、猶如二水鬢一(○○)、
p.0515 尾張守五節所語第四
今昔天皇ノ御代ニ、ノト云フ者有ケリ、〈○中略〉尾張ノ守二被レ成タリ、〈○中略〉三年ト云フ年、五節ニ被レ宛ニケリ、〈○中略〉此ノ五節所咲ハムトテ、殿上人達ノ謀ル樣ハ、〈○中略〉五節所ノ前ニ立並デ歌ヲ歌ハムト爲ル也、其作タル樣ハ、鬢タヾラハ、ユカセハコソ、ヲカセバコソ、愛敬付タレト、鬢タヾラト云ハ、守ノ主ノ毛淸ク鬢ノ落タルヲ、此ル鬢タヾラシテ、五節所ニ、若キ女房ノ中ニ交リ居給タルヲ、歌ハムズル也、
p.0516 建久三年十月卅日己巳、南風、亥刻武者所宗親濱家燒亡、宗親折節在二他所一、見レ煙走向、欲レ取二出箏一之間、燒二左方鬚(○○○)一云云、唐國大宗之鬚、施二賜レ藥之仁一、和朝宗親之鬚、顯二惜レ絃之志一、所レ燒雖レ同、所レ用相異者歟、
p.0516 北山殿謀叛事
大納言殿、〈○西園寺公宗〉繩取ニ引ヘラレテ、中門へ出給フ、其有樣ヲ見給ケル北ノ御方ノ心ノ中、譬へテ云ハン方モナシ、旣ニ庭上ニ舁居タル輿ノ簾ヲ褰テ、乘ラントシ給ケル時、定平朝臣、長年ニ向テ、早ト被レ云ケルヲ、殺シ奉レトノ詞ゾト心得テ、長年、大納言殿ニ走懸テ、鬂髮ヲ テ(○○○○○)、覆ニ引伏セ、腰刀ヲ拔テ、御首ヲ搔落シケリ、
p.0516 鹽冶判官讒死事
侍從立留テ、〈○中略〉一日物詣ノ歸サニ參テ奉レ見シガ、〈○鹽谷高貞妻、中略、〉南向ノ御簾ヲ高クカヽゲサセテ、琵琶ヲカキナラシ給ヘバ、ハラ〳〵トコボレカヽリタル鬂(○)ノハヅレヨリ、ホノカニ見ヘタル眉ノ匂、芙蓉ノ眸、丹花唇ル、何ナル笙ノ岩屋ノ聖ナリトモ、心迷ハデアラジト、目モアヤニ覺テコソ候シカ、〈○下略〉
p.0516 一古髮結の事 古は髮を結ふに、びん付油無レ之、びなんせきにて、毛を付たる也、びなんせきは、びなんかづら也、其莖の皮を削り捨、その莖を水にひたしねばる、北條五代記に、髮をば、びなんせきにて、びんを高くつけあげ給へりと有、又能の狂言に、あそふと云狂言あり、麻生殿と云大名、鬢を付るに、其の家人一尺計ふとき長きすりこ木を持出て、びなんせきにて候とて、鬢をなで付くる體をする也、能の狂言は古き事也、
p.0516 今の髩(ビン)の狀は古風なる證
新撰字鏡〈此書は今より千年にちかき字書なり〉に、鬇鬡(サウタウ)を不久太女利(ふくだめり)と訓たり、後のものには、壒囊抄に、 氋(レイマウ)をふく だむとよめり、うつぼ物語〈國のゆづりのまき〉みぐしおほとのごもりふくだめたれど、いとけちかくうつくしげなり、又源氏紅葉賀、しどけなくうちふくだめ玉へるびんくき、又枕のさうし〈卷二〉髮は風にふきまよはされてうちふくだみたるなど、皆是寢起たる所にいへれば、ふくだむ彭 撓(ふくれたはむ)のよしにて、すべらかしの髮を枕にしきてねるゆゑに、びんのふーれたる癖のつく也、後世には殊にびんをふくらめて飾となしけん、女中心得書〈東山殿比の聞書〉に、びんのふくらめはすこしたるべし、はり出たるはいやし、心あるべしとあれば、四百年前のすべらかしさへ、すこしびんを出したる也、女重寶記に、鬂もおしいだす事、すぎたるは鳥かぶときたるやうにて見にくしとあれば、元祿のむかしも、びんは出したれど、かのびんさし流行(はやり)て、甚しくなりしが、やヽすたれ、今の市風の髩は復古と云べし、
p.0517 明和九年十二月十三日、〈○中略〉近來男子の風甚異にして、髮は本多とて中剃を大くして、髷を高く結ふ、鬢は下鬢(○○○○)とて、油をつけず、櫛の齒を入、毛筋を通し、後の方は油をつけて置、其堺を潮堺と云、眉は三日月とて細くぬく、衣服は細袖に薄綿にて重て著るに便にす、此頃の諺に云、疫病本多 眉宿(カツタヒマミへ)なし姿、
女は櫛計さして、釣匙を用ひず、鬢指と云ものを、鯨骨或は銀にて作りて、 の横より通す、髮の毛筋をあらくふくらかにせん爲なり、名付て燈籠鬢(○○○)と云、經木燈籠に似たればなり、
p.0517 䭮 唐韻云、䭮、〈拂反、俗云奴加々美(○○○○)、〉額前髮也、
p.0517 山田本作二孚勿反一、按音拂與二廣韻一合、孚勿與二玉篇一合、字異音同、然此引二唐韻一作二音拂一是、〈○中略〉按額訓二奴加一、姓有二額田部一、又謂二扣頭一爲二額衝皆是、則知、沼加々美、額髮之義、源氏物語謂二之比太比加美一、今俗呼二前髮一、〈○中略〉廣韻作二額前飾、按玉篇亦云、婦人首飾也、蓋唐韻亦同二廣韻一、疑源君所レ見本誤レ飾作レ髮、遂訓爲二沼加々美一、恐非レ是、
p.0518 䭮〈ヌカヽミ、亦ヒタヒカミ、〉
p.0518 䭮(ヌカヽミ)〈額前髮也〉
p.0518 䭮(ヌカヽミ)〈唐韻、額前髮也、〉 䭮(マヘカミ) 䭮(ヒタイガミ)
p.0518 心ふかしやなどほめられて、あはれすヽみぬれば、やがてあまになりぬかし、思ひたつほどは、いと心すめる樣にて、世にかへり見すべくもおもへらず、いであなかなし、かくはたおぼしたりにけるよなどやうにあひしれるひときとぶらひ、ひたすらにうしとも思ひはなれぬをとこきヽつけて、涙おとせば、つかふ人ふるごだちなど、君の御心はあはれなりけるものを、あたら御身をなどいふに、みづからひたひがみ(○○○○○)をかきさぐりて、あへなくこヽろぼそければ、うちひそみぬかし、
p.0518 額髮(ヒタヒガミ)
與淸曰、額髮は男女ともに、額にある髮の總名也、尼にもいふは、垂尼(タレアマ)とて、振分髮などやうに切たる髮なれば、額髮も有し也、男子もいにしへは總髮なれば也、䭮鬌(スカヾミスヾシロ/ ○)、いづれもおなじ額髮なれど、鬌は小見の前髮にて、目ざしともいふこれ也、䭮は額髮の事也、又和名抄〈十四卷ノ容飾具部〉に、釋名云、蔽髮蔽髮前爲レ飾也、和名比太比、とあるものは、女房の額の飾具なり、又上古ヒサゴ花にも結し也、
p.0518 額髮を剪垂、耳はさみ、
前にも引たる源氏葵の卷、紫の上髮そぎの所に、いとながき人も、ひたひがみはすこしみじかくぞあめるとあるは、髮のたけは長くとも切たらず、額の髮毛は短きものぞといふことなり、是乃髩截(びんそぎ)なり、
p.0518 髮のさがりば びんそぎして、そのひとふさの髮の毛を、さがりばといふ、髩剪の異名ともいはヾいふべし、
p.0519 かみは、いとふさやかにて、ながくはあらねど、さがりばかたのほど、いときよげに、すべていとねぢけたる所なく、おかしげなる人とみえたり、
p.0519 姫君の御さまの、いときびはにうつくしうて、さうの御ことひき給ふを、御ぐしのさがりば、かんざしなどのあでになまめかしきを、うちまもり給へば、はぢらひてすこしそばめ給へる、
p.0519 うらやましきもの
かみながくうるはしう、さがりば(○○○○)などめでたき人、
p.0519 蟬髩(ツト)
p.0519 ものいひける女の、かみをかきこして見けるをよめる、 津守國基
朝ねがみ誰手枕にたは(○○)つけてけさはかたみにふりこしてみる
p.0519 思
わすれずもおもほゆる哉朝な〳〵しか黑かみのねくたれのたわ(○○)
p.0519 髮のつと、たを、
いまのよ、女の髮ゆひて、後(ウシロ)と左右へはり出したるところを、つとといふを、あづまにては、たをといへり、〈○中略〉うつぼの物語藏開卷に、たヾおほとのごもりなぱ、御ぐしにたわつきなんず、〈○中略〉たわたを同じ言也、たヾしいにしへのは、枕にあたりたる所に、おのづから出來たるをいひ、今のは、ことさらにつくる也、
p.0519 たぼの名義
此説〈○玉勝間〉にて、たぼはたわの轉語にて、髮にくせのつきて、彭 (ふくれ)たる古言なるをしるべし、異本枕 さうし似氣無物の條に、したかみたわつきたる人の、あふひつけたるとあり、按にたわは撓の義なり、契冲法師の河社に、今も山里のものヽ、山のひくヽてたわみたるやうの所をいふ詞なりとあり、和訓栞にも、大和に鳥こへのたわといふ所ありといへり、しかればたぼ本名はたわにて、びんの撓みたるを名づけてよぶ名也、又つとトいふは、かみのつどひ出たる名なるべし、びんごの尾の道邊にては、今も坂をたをトいふと、ある人いへり、
p.0520 椎茸たぼの權輿
序文に、明和乙酉の歲〈二年なり〉とありて、作者の名は三橋老人とあり、寫本全五卷、書名を寢覺草といふ隨筆三の卷に、ある老女の物語に、御奉公せし比、京都より下れし女中方の髮を葵たぼとて、名もおもしろく見っきもよきゆゑ、朋輩しゆうつしゆひけるが、今はいづかたにてもゆはるヽやうになりしは、名もめでたきゆゑなるべしと語りき、此老女貞享二年の生れなり、是を今の俚言に、椎茸たぼとは、髮の黑きを乾たる椎茸に準へつらんが、見立もあしく、名もいやしげなり、あふひだぼにてこそよけれとあり、又前にも引たる女用訓蒙圖彙に、御所風と傍註したる圖、右の説に符合す、
p.0520 於レ是伊邪那岐命見畏而逃還之時、其妹伊邪那美命言レ令レ見レ辱レ吾、卽遣二豫母都志許賣〈此六字以音〉令レ追、爾伊邪那岐命取二黑御鬘一投棄乃生二蒲子一、
p.0520 黑御鬘、すべて加豆良(カヅラ)に三の品あり、葛〈蔓も同じ〉と鬘と髮となり、まづ葛は葛(クズ)かづら五味忍冬(サネカツラスヒカヅラ)など、凡て蔓草のことなり、鬘は頭の飾に懸る物なり、〈古書に蘰とも縵とも䰓とも書り、蘰は字書に見えず、縵は見えたれども鬘意なし、䰓は鬘のかきざまの異なるなり、〉髲は和名抄に、和名加都良、釋名云、髮少者所三以被助二其髮一也と有て、俗に加毛自と云物なり、かくさま〴〵あれども、本は一より轉れる名にて、草の葛より出たり、さて其葛の本の名は都良にて、記中に、登許呂豆良都豆良(トココヅラツゞラ)、書紀、万葉に、磨左棄逗囉(マサキヅラ)、和名抄に、<ruby><rb>千歲虆 百部</rb>アマヅラホトヅラ</ruby>など云、〈これらの都良を、加豆良乃略と思ふは本末たがへり、〉忍冬も字鏡には須比豆良(スヒヅラ)とあり、〈拾遺集雜下に、さだめなくなる瓜のつら見てもとよめるは、蔓に頰を云かけたるなり、今都留と云は、都良のうつれるなり、弓の弦ををも、万葉に都良ともよめり、馬具の轡䪊頭の都良も、草の蔓よりぞ出けむ、轡は手綱のことなり、〉さて何にまれ蔓草を以て頭の飾にかくるを、髮葛(カヅラ)と云、是卽鬘なり、さて然鬘に用るから、立かへりて草の葛をも加豆良とは云ならむ、又髮も髮を飾具なれば、鬘とおなじ名を負せつらむ、さて鬘は、上代には女男ともに懸る物にて、蔓草を用ひしをば石屋戸の段に眞拆をかけしを始て、日影鬘など、又必しも蔓ならねど、花蔓菖蒲鬘木綿鬘などあり、〈これらも加豆良と云名は、蔓草より出たるなり、〉又絲などを以ても作りしにや、珠をかざること、天照大御神の御飾〈宇氣比の所〉に見えたり、玉鬘と云は是なり、〈髲にも葛にも玉かづらと云は、此の玉鬘の名をうつして呼か、又たゞほめていふもあるべし、〉穴穂宮御段に、押木玉縵と云も有て、貴き寶なりしこと見ゆ、万葉に波禰蘰と云こともあり、〈蘰字は、此物草にても糸にても造るゆゑに、設けたる字にや、しか此方にて作れる字多し、縵も本の字義にはかゝはらで、右の意もて用るなるべし、和名抄に、花蔓を伽藍具に載たれども、これももと天竺の人の頭のかざりなり、〉さて此に黑とあるは、色以て云なるべけれど、何物にて何如作れりとも知がたし、〈都豆良を黑葛とかけども、そは此に由なし、此黑字久漏伎と訓はわろし、殊に其色をことわらむこと、こゝに用なく聞ゆればなり、さればクロミカヅラと訓べし、其久漏も色もて云にはあれど、如レ此よむときは、鬘の一種の稱となりて、古言の例にかなへばなり、〉蒲子(エビノミ)の成れるに就て思へば、此鬘のさま、蒲葡葛に似て、玉を垂たるが、彼實のなれる形にや似たりけん、色の黑かりけんも、彼實によしあるにや、
p.0521 卯日平明、神祇官班二幣帛於諸神一、〈○中略〉同剋〈○巳時〉兩國供物發レ自二齋場一向二大嘗宮一、〈○中略〉次造酒兒、〈細布明衣日蔭鬘、乗二素輿一、輿夫四人、〉次御稻輿、〈納二稻布袋一、擔夫二人、〉稻實公、〈青揩衣木綿襷、日蔭鬘、〉次戴二御膳案一女八人、〈細布衫木綿襷、日蔭鬘垂レ髫(○○)、〉
p.0521 色々の御ぞ共いろをつくし、ときほとき、おほいかをならべ、御てうどいろをつくし、なほとヽのへ、御かづら(○○○○)どもたけをとヽのへ、かずをつくして、かた〴〵さらされたり、風にきおひて、ものヽかどもふきくはへぬ、
p.0522 髢(カヅラ)
史記衞康叔世家〈九丁ウ〉注に、左傅を引て、莊公登レ城、見二戎州己氏之妻髮美一、髠レ之以爲二夫人髢(カヅラ)一云々、
○按ズルニ、鬘ノ事ハ器用部容飾具篇ニ詳ナリ、
p.0522 かもじ 髲の俗稱也、又長かもじあり、女房飾抄に、かもじの水引は、四十の年よリ二筋也といへり、
p.0522 かもじの事
かもじの本名はかつらといふ、前に引だる源氏末摘花の卷に、九尺のかつら、又枕の草子に、七尺のかつらの赤く〈毛のかれてあかきなり〉なりたるといひしも、みなかもじなり、かづらをかもじといふは、湯卷をゆもじ、内方をうもじなどヽ片名をとりてよぶ事、東山殿比の女言なり、文字には髲と書く、和名抄に、髲、和名加都良、釋名に云、髮少者所二以被一レ助二其髮一也とあれば、千年以上よりありし物也、又別に鬘といふは、神代には男女とも時の艸かつらを髻にかけて飾とし、又は絲にても、あるひは玉をつなぎてもかつらにしたる事、日本紀、古事記、万葉の歌にも見へたり、委しくは本居大人が古事記傳〈卷六〉黑御鬘の解にみえたり、又かづらを中昔はえびかつらともいへり、源氏初音の卷花、ちる里のことを、御ぐしなどもいたくさかりすぎにけり、やさしきかたにあらねど、えびかつらしてそつくろひ玉ふべきとあり、此註に、伊弉諾尊黑御髮の事によりてがつらをえびといふといへり、又中昔は時の生花を糸につらぬき男の冠にかけし事もありて、歌などにもみえたり、かづらは西土にてもいと古し、
p.0522 神代の髮の風
そも〳〵神代の髮の風は、男は髻をば一ツに結て、ニツに左右へ綰(わかね)、櫛もて貫きとめ、糸につなぎたる玉をまとひて飾とする事、櫛の條にいへる如く、伊邪那岐尊左右の御髩(みびんづら)に湯津々間櫛を刺 せ玉ひ、御髻に黑御鬘を掛け玉ひしにて、御髮の形狀を推量すべし、
p.0523 上つ代には、男の髮は頂に二ところゆひ、女は頂に一所にゆひっと見ゆ、
p.0523 於レ是欲レ相二見其妹伊邪那美命一、追往二黄泉國一、〈○中略〉故刺二左之御美豆良(○○○○○○○)一〈三字以レ音、下效レ此、〉湯津津間櫛(○○○○○)之男柱一箇取闕而、燭一火入見之時、〈○下略〉
p.0523 故於レ是速須佐之男命言、然着請二天照大御神一將レ罷、乃參二上天一時、山川悉動、國土皆震、爾天照大御神聞驚而詔、我那勢命之上來由者、必不二善心一、欲レ奪二我國一耳、卽解二御髮一(○○○○)、纏二御美豆羅一而(○○○○○○)、乃於二左右御美豆羅一(○○○○○○○○)、
p.0523 御髮は美加美(ミカミ)と訓ずべし、〈古書にみな美久志と訓痴附たり、中古の書にも、おほむぐしと云、今もおぐしと云、されど此は櫛よりうつれる後の稱なるべし、此事上にも論ひおきつ、〉さて上代の女の髮の樣は、師〈○賀茂眞淵〉の萬葉註に委く見えたり、然るに今こヽに解と有を、書紀には、結髮とある解と結とを違へるに似たり、故猶考に、まづ凡て女は年長て(ヲトナニナリ)髮あぐるは、上代よりの儀なるに、飛鳥淨御原宮御宇十一年の詔に、自今、以後男女悉結レ髮とあるを思ふに、上代に結(アグ)と云しは、本を一にあつめ擧て結(ユヒ)て、其末は後へ垂たりけむを、彼詔に結とあるは、頭上に結綰て髻と成を云ふなるべし、〈髻とは一に綰たうを云なり、かの男の二つに分け主ゐ美豆良とは異なり、〉さて、同十三年には、女年四十以上、髮之結不レ結任レ意也とありて、又十五年の詔に、婦女垂二髮于背一猶如レ故とあるは、又かの上代よりの風の如くせよとなり、故に此十五年の詔以後の万葉の歌にも、髮あぐることを多くよめるは、かの本を結ことにて、末は垂なれば、彼詔に違ふことなし、さて此に解(トキ)とあるは、かの本を結たる所を解なり、〈神功皇后の解レ髮とあろも是なり、然る在或説に、此解宇を和氣と訓て、三山冠の形をまなばせ給ふなりといへるは强説なり、〉書紀に結とあるは、末の垂れたるを擧てなり、かヽれば言は異れども、實は同事にて、違へるには非ず、〈此事よくせずは、人の思ひまどふべさものぞ、〉
p.0523 天照大神素知二其神〈○素戔鳴尊〉暴惡一、至レ聞二來詣之狀一、乃勃然而驚曰、吾弟之來、豈以二書意一乎、 謂當有二奪レ國之志一歟、夫父母旣任二諸子一各有二其境一、如何棄二置當レ就之國一、而敢窺二窬此處一乎、乃結レ髮爲レ髻(○○○○)、縛レ裳爲レ袴、便以二八坂瓊之五百箇御統御一〈統此云二美須磨屢一〉纏二其髻鬘及腕一、
p.0524 一書曰、〈○中略〉已而素戔鳴尊、含二其左髻(○○)所レ纏五百箇統之瓊一、而著二於左手掌中一便化二生男一矣、則稱之曰、正哉吾勝、故因名之曰二勝速日天忍穂耳尊一、復含二右髻(○○)之瓊一著二於右手掌中一、化二生天穂日命一、復含二嬰レ頸之瓊一著二於左臂中一、化二生天津彦根命一、又自二右臂中一化一生活津彦根命一、又自二左足中一化二生熯之速日命一、又自二右足中一化二生熊野忍蹈命一 、V 日本書紀
p.0524 九年〈○仲哀〉四月甲辰、北到二火前國松浦縣一、〈○中略〉皇后〈○神功〉還詣二橿日浦一、解レ髮臨レ海曰、吾被二神祗之敎一、賴二皇祖之靈一、浮二渉滄海一、躬欲二西征一、是以今頭濮二海水一、若有レ驗者髮自分爲レ兩、卽入レ海洗之、髮自分也、皇后便結二分髮一而爲レ髻(○○○○○○)、
p.0524 關東昔侍形義異樣なる事
諸侍〈○北條家臣〉の形義異樣に候ひし、〈○中略〉又けつしきと名付て、木をもて大きに木はさみを作り、其けつしきにてかしら毛をぬき、又鬢の毛のあひだをぬきすかし、皮肉の見ゆる程にして、髮をばびなんせきに、びんを高くつけあげ給へり、若殿原達は髮さきをもみ、ふさのごとくにゆひ、又つけがみとて、別にかみさきをこしらへ、うらをもみ、ちヾみよせて、花ふさなどのごとくに作り、付髮してゆひ、〈○下略〉
p.0524 男子の髮のゆひぶり名種々〈幷〉額月代
近松門左衞門作、加增曾我といへる淨瑠璃節に、少將が男子の髮ゆひにやつしヽ事を載たり、その少將の詞に、但しおぐしの御用なら、大いちやう(○○○○○)、中いちやう(○○○○○)、立かけ(○○○)、なげかけ(○○○○)、千松わげ(○○○○)、五分一(○○○)、せみをれ(○○○○)、かものはし(○○○○○)、さてさかやきは、うしろだか(○○○○○)、うしろさがり(○○○○○)、片われ月(○○○○)、そつはう(○○○○)、しててん(○○○○)、くりびん(○○○○)、のしびん(○○○○)、しやくりびん(○○○○○○)、額にとつては内ぐり(○○○)、そとぐり(○○○○)、すぐびたひ(○○○○○)、<ruby><rb>なりひらかヾりのす きびたひ</rb>○○○○○○○○○○○○○</ruby>、半こうびたひ(○○○○○○)、月びたひ(○○○○)、たうけんびたひ(○○○○○○○)、角びたひ(○○○○)とあり、是は寶永頃の作にて、のちに引し種々のさうしよりは、近きものなれど、百年前よりいひきたりし髮の風は、おほかたこヽに盡したり、ゆゑにまづさきに出したり、〈透額は冠の名なれど、それ在額の名にかりもちひしなるべし、こゝに額といふは、額の拔やうの名なり、〉
海老折 形をもつて名づけたるなるべし、今海老尻といひて、難波にてもつはらおこなはるヽは是か、〈○中略〉仁世物語に、おかし男、つりがみいぼう組、蘆や釜ぶた、とつての助など、知る人にてありける、昔の歌に、蘆や釜ふたのとつては針もなみつけつおくれつさヽできにけり此男、なまものなりければ、それをたよりに、ゑびの助ども、かヾみあつまりきにけり、此男のかみも、ゑびの助(○○○○)なりとあり、髮も海老の助とは、かの海老折の事をいふか、たしかにきこえねど、まつ抄録しておきつ、此そうしは、寛永中の作なりといふ、かんなにて書たれば、上(カミ)といふ事かもしるべからず、
蟬折 是も海老折の類にて、形よりいでたる名なるべし、
たてかけ 男色十寸鏡〈貞享四〉若衆の髮の事をいふ條、髮を油にてすきいれぬれば、おのれと底艶あるものなり云々、たてかけの大たぶさ、髻、つとの大キなるは、似合たると、似あはぬ人あり、
p.0525 男女ノ髮時々變ル事
上古ハ鬢付油、或ハコキ元結ト云コトナシ、老若共ニ胡麻油ニテ梳テ、コヨリ元結ニテ結タリ、月代ハ織田信長ノ時ヨリ多クソリタリ、前ハ不レ殘有髮ナリ、〈○中略〉
寛永ノ比如レ斯 寛文ノ比黑糸ニテ髮ヲ結コトハヤル、好色ナル者ニ有、
蟬折トテハヤル
元祿比、御旗本ハ何レモ合セ ナリ、
貞享ノコロスキ油ニテスキ、毛筋ヲ通シテ、奇麗ニ結、中ゾリナシ、入ガミモナシ、
上ルリ太夫
江戸半太夫バチビン、ハケ長、タテカケト云、中ゾリ有、寛永年、
元祿始、中村傳九郎、イトビン、此風ヲ始ム、後甥ニ傳七ト云者、ナマシメト云風ニナヲス、江戸半太夫ガ風ヲ少シ直シタルモノカ、
享保末、元文始マデ、此風ハヤル、入ガミナリ、
元祿コロ材木ヤ風ナリ、ツヽコミト云、中ゾリ有、 ハケ先ニ竹串入
元文元年ヨリ上方上ルリ太夫ノ髮ノ風ヲ學ブ、油ニテ堅メ、毛筋ハレメナシ、元結少シ卷、入カミ少シ入、都古路風トモ、文金風トモ云、
上ニ同、卷ビン有、
針ニテ留ル
享保ノ比、辰松八郎兵衞ト云人形ツカイ、此風ニ結フ、辰松風トテ又ハヤル、
髮ノ根元、ユルクシテ下ル、
芝ノ肴賣日傭取ナド正德迄此風ヲ用ユ、三折カヘシト云、元結一寸卷、マゲ一寸、ハケ先一寸、三ツニ折ルユヘナリ、
p.0527 此風天和比ノ本ニミユ、若手ノ傾城買風ナリ、
p.0528 一男女の髮も、其頃はさま〴〵に替りたり、先男の相應の生れ付にて、前髮のあるうちは、おさへ元結とて、頭の上ゟ元結を掛、左右へ分て耳の後より下げ髮ゆはする人が、兩手にておさへてもつ、是は撥下びんとて、若衆はもみ上ゲの所へ、びんをかき下ゲ、夫ゟ凡く上へかき上て、扨髮ををさつ好次第にゆひたり、〈紀州の小姓如レ此、彼小姓の髮は大さうなる結樣なりけり、〉扨野郎あたまは、ぞべ本多(○○○○)とて、中剃をいかにも廣くそり、髮の間より、中剃のみゆるやうにして、根はゆるくつけ、との間纔にして、月代へのぞきたるやうに、まきかけて置たり、多く堺町邊の歌舞妓者のあたまつきにて、歴々にも若き人達は隨分其如くゆはせて、上下著て公儀勤る有樣、不相應のあたまなり、又豆本多(○○○)と云は至極髮をつめて、尤少くしてわけをいかにも小さく、豆粒の如く結ふたるなり、又其後遊士俗客ははけを殊の外長くのばして、大抵額へ押付屆くほどにしてゆひたり、又だまされた風(○○○○○○)とて、町家の若者などは、鬢口を、甚薄く剃下げ、夫より段々後ろ高にて、髮を結ひたり、是をだまされた風といへり、又卷鬢(○○)とて、鬟の毛を上へ搔上げ、きはにて卷込ゆひたり、いづれもかの文金風より後の事なり、
p.0528 明和五年十二月十三日、公にて女御御入内の御祝儀認出仕有レ之、近來男子の風甚美にして、髮は本多とて、中剃を大くして、髷を高く結ふ、鬢は下鬢とて、油をつけず、櫛の齒を入、毛筋を通し、後の方は油をつけ可レ置、其堺を潮堺と云、眉は三日月とて細くぬく、衣服は細袖に薄綿にて、重て著るに便にす、此頃の諺に云、疫病本多癩眉宿なし姿、
p.0528 渡が妻の、盛遠に討れん爲に、髮をさばきて寢たると有は、古は皆㧾髮なれば、鬢につりて寢にくきゆへに、多くは髮をさばきたると見えたり、
p.0528 すみまへがみ 角前髮なり、京大坂に、すんま(○○)といひ、肥前佐賀にてあまじほ(○○○○)といひ、肥後にてかどひ(○○○)といひ、薩摩にてりは(○○)といひ、上總にてこびたひ(○○○○)といふ、
p.0529 髮〈○中略〉
前髮際至二後髮際一、折爲二一尺二寸一、如髮際不レ明、則取下眉心直上レ後、至二大杼骨一折爲中一尺八寸上、自二眉心一至二前髮際一二寸半 自二後髮際一至二大杼骨一三寸半
p.0529 前髮、袖留、半元服、
同書〈○御先祖記〉慶長九癸亥六月十四日、將軍御上洛、殿樣雜兵共ニ壹万餘人也、此時家光公御相伴ニテ、賴房ニモ、御前髮御取被レ成候云々、
p.0529 元和元年五月六日、木村長門守ハ、舊臘以來、所勞ユへ、長髮(○○)タリト雖、深ク名香ヲ其髮ニ留メ、齒ヲソメタリ、是秀賴ノ乳母ノ子也、故山口玄蕃允宗永ガ次男左馬介ハ、色白ク角前髮(○○○)也、松平右衞門大夫正綱ガ小舅タリシガ、妻女ヲ去々年離別シ、其縁絶タリ、然レドモ首ヲ賜リ葬ラント欲ス、〈○下略〉
p.0529 總髮
五代史〈七十四卷四夷附録ノ三ノ八丁左〉回鶻傳に、婦人、總髮爲レ髻、高五六寸、以二紅絹一囊レ之、旣嫁、則加二氈帽一云々、文選〈六臣注本七卷廿四丁左〉潘安仁籍田ノ賦に、垂レ髫總レ髻(モトヾリツカヌカミヲ)注に、善作レ髮云々、此外唐書南蠻傳庾信蕩子賦などにも、總髮の字面見ゆ、
南史廿一〈七丁オ〉王融傳に、爰自二總髮一迄二將立年一、州閭郷黨見レ許二愚眘一云々、
p.0529 朝士總髮の事、德廟御代の始の頃には、總髮の人兩三人も有けるよし聽傳ふ、惇廟浚廟の御代には絶て一人もなし、當御代より諸國朝士に總髮の人出來たり、香月翁〈○香月牛山〉云、年老ては元氣耗て、髮をそれば風に感じて咳嗽を生ず、四十以上は月代をそらずして、ひとつに束ぬたるによろしといへり、
p.0529 寛文十戌年 前髮付之商人停止
覺
一今度御觸有レ之、前髮付之商人共、前髮おとし商賣いたさせ可レ申候、自今以後も右之通之商人を拵、無作法成儀爲レ致申間敷候、若違背申候者於レ有レ之ハ、急度可二申付一者也、
戌二月
右者二月廿八日御觸、町中連判、
p.0530 寛文十庚戌年十二月十四日
一香具其外何ニ而も屋鋪方をあるき、商賣いたし候前髮有レ之者(○○○○○)、書立可レ出レ之、若他所ゟ預リ候とも、又ハ他所〈江〉預置候共、隱置ず可レ書二出之一、脇より顯れ候ハヾ、其者ハ不レ及レ申、名主家主五人組迄曲事可二申付一者也、
十二月十四日
p.0530 前髮執之部
文化二丑年十二月三日
前髮執窺 本多駒之丞(寄合)
私儀、當丑廿歲罷成候、今以積氣聢と無二御座一、其上逆上仕候ニ付、前髮執候而ハ、養生ニも可二相成一旨、杉浦昌碩申聞候、未御目見不レ仕候得共、爲二養生一前髮執申度、此段奉レ伺候、以上、
十二月三日
本多駒之丞(寄合)
御附札 可レ爲二伺之通一候
p.0530 年老前髮の人、髮結ひやうの事、我等〈○小川顯道〉若年の頃は、武家の前髮の者はかき鬂、年老 の人はあはせ鬂といふに結束けり、かきびんは、耳のうへより前髮の際迄、かきあげて束ぬ、あはせ髮は左右の鬂髮を髻の下へ合せて、まげは別に束ぬる也、此兩樣の束髮、近歲は更に見へず絶たり、今も歌舞妓狂言の由良之助は合せ鬂にゆふも有り、
p.0531 一亂髮、總髮、半髮、薙髮、剃髮等、右之體を問合、
柳生播磨守答
〈酉八月○嘉永二年松平駿河守ゟ問合〉
一亂髮 總髮 半髮 薙髮 剃髮
右何レも如何樣之體を申候哉、心得置度候、
書面、總髮者月代無レ之、薙髮者髻を切、剃髮者髮を剃候事ニ候、亂髮、半髮者名目無レ之、
但、半髮者、若年ニ而、袖留、半髮之事ニ而者無之儀と存候、
p.0531 嘉永七寅年三月十九日、御右筆中島彦四郎より爲二問合一書面差越、柳生播磨守答、
万石以上、半髮(○○)袖留罷在候間、初而御目見不レ苦哉之事、
三月
書面之通者、不レ苦儀と存候、
p.0531 なで付髮、そりさげ髮、
元和九年五月十五日、御法度條々に、一大びたひ(○○○○)の事、一大なでつけ(○○○○)、大そりさげ(○○○○○)の事云々、正保二年七月十八日御法度條々に、一大なでつけ、一大びたひ、一大そりさげ、一大ひげ云々、按大なでつけは、總髮を結もせず、なでつけて、後ざまに垂たるなるべし、大びたひは、額を拔たるなるべし、大 そりさげは、今の大ヤツコあたまなるべし、
p.0532 齋藤山城守於二富田一對面事
道三ハヒソカニ富田ノ町末ニ小家ヲ借リ隱レ居テ、信長ノ御出ノ樣子ヲ伺ヒ見ラレケリ、信長其日ノ御出立、イツモニ增リテ異風ナリ、先ヅ御髮ハ萌黄ノ平打ノ糸ヲ以テ卷.立卷立、茶箋(○○)ツブリニ結セラル、
p.0532 温飩の看板〈芋川〉
昔は温飩おこなはれて、温飩のかたはらに、蕎麥きりを賣、〈○中略〉温飩屋にて、看板に額あるは櫛形したる板へ、細くきりたる紙をつけたるを出しヽが、今江戸には絶たり、〈○中略〉
桃の實〈元祿六年〉
打かまねくか温鈍屋の幣 冗峯(撰者)
吉原はわざともほどく茶筅髮(○○○) 嵐雪
とあれば、吉原の温飩屋にも、此看板のありしなるべし、
p.0532 男子の髮のゆひぶり 名種々〈幷〉額月代
茶筅髮 新續犬筑波集 ふりのよき柳やいはヾ茶筅髮 政通〈○中略〉
寶藏茶筅の條、茶筌髮(○○○)は無禮なる物ながら、折にふれ、取合たる處あり、女郎とくるひて、打みだれたるはさきにて、茶筅にゆひたるもよし、
p.0532 姿花
茶せんかみやいはヾ姿のはなのしべ 閑節(吉野山家)
p.0532 一義太夫節は有廟〈○德川吉宗〉の御代より流行出しといへり、されば豐後ぶしの流弊、次第に淫風に移りて、遊士俗人の風俗、あらぬものに成行て、髮も文金風とて、わげの腰を突立、元結 多く卷て、卷鬢とて鬢の毛を下より上へかきあげ、月代のきはにて卷こみてゆひたり、
p.0533 今歌舞妓狂言にする、丹前立髮六方は、其比丹後殿前の風呂屋へ通ふ若侍どもの、病氣分にして引籠居たるが、長髮にてかしこへ通ひたるが、ふと伊逹に見えければ、月代剃て能人も、皆長髮にてかよひしより發りしとなり、夫等が大小の貫木ざしにさして、大道をせましと振かけて歩みけるより、立髮丹前などいひしなり、六方は彼長き大小と、兩の腕と六方へふりわく、るといふ心なるべし、
p.0533 殘截(ザンギリ)V 倭訓栞
p.0533 ざんぎり 今東都の花子(コツジキ)は皆此風俗也殘截の義成べし、列子に、南國之人祝髮而裸、注に、孔安國注二尚書一云、祝者斷二截其髮一也とみゆ、されば祝髮は髮をきる事也、今剃髮の事とするは非也といへり、
p.0533 散切髮(ザンギリガミ)
散切といへるは、寛永の比の書に見えて、今もしかいへり、通鑑綱目卌三〈百卅三丁ウ〉唐玄宗開元廿七年の條に、采收二散髮之民數万一云々とあり、
p.0533 仁治三年大嘗曾に人多く參りつどひけるに、外記廳のうちひがしのかたなるもみの木のこずゑに、かみをづかみ(○○○○)なる法師一人ふしたりけり、
p.0533 これも今はむかし、丹波國篠村といふところに、年比平茸やゐかたもなくおほかりけり、里村のものこれをとりて、人にもこヽろざし、またわれもくひなどしてとしごろすぐるほどに、そのさとにとりてむねとあるものヽゆめに、かしらおづかみ(○○○○)なる法師どもの、二三十人ばかりいできて、申べきことヽいひければ、いかなるひとそととふに、〈○下略〉
p.0533 さかやき 太平記に、月額をよめり、さかやきの跡青いと見ゆ、今の額に角入る事 にて、今いふさかやきにあらずともいへり、今いふは冠(サカ)明の義也といへり、もと月代といひしをもて、今も月代をさかやきとよめり、沙石集に、月代ある入道、撰集抄にあさましくやつれたる僧の、近く家を出にけると見えて、月しろなどあざやかにも見ゆめりといへり、冠の半額を半月形ともいへば、事の起りは冠より出たる事なるべし、もと五刑に及ばぬほどの輕罪は、髠刑とて頭髮をそる事はあれども、和漢ともに平人の髭髮をそる事はなかりしに、西土の辮髮、此邦の月代など、皆僧尼より事起りたるともいへり、又應仁の亂より、常に甲冑を帶したりければ、武士のさかやきの大きくなれるも、此頃よりの事也ともいへり、海防纂要に、各倭頂髮開レ塘、外髮稍長と見えたるは、專當時の風俗を書せるものなり、中山傳信録に、剃二頂髮一留二外髮一、一圍綰二小髻於頂之正中一といへれば、琉球も亦風を同うす、
p.0534 月代 〈俗云左加夜木〉近世武士及庶人、元服以後剃二頂髮一之稱也、未レ詳レ肇二於何時一、正字亦不レ審、疑用二冠明(サカヤキ)二字一可矣、蓋士庶人、毎不レ便二於冠服一、剃レ之以代レ冠、故其髮稍生、以爲二無禮一、毎日髠レ之、禁裏守二古風一而不レ髠、
中華大元、及大淸者、蒙古之風俗、剃二周匝一、結二髮于頂一、此與二今日本民俗一爲二表裏一、
p.0534 月代(サカヤキ)をもむ
俗に頭を剃時、水或は湯もて濕すを、サカヤキヲモムといへり、碧巖集八の卷〈十四丁オ〉七十六則に、丹霞獨以レ盆盛レ水淨頭、於二師前一跪レ膝、石頭見而笑レ之、便與剃レ髮云々、此語傳燈録鄧州丹霞天然禪師の傳にもありしやうにおぼゆ、後日に考注すべし、淨頭はサカヤキヲモム事也、
○按ズルニ、淨頭ハ、頭髮ヲ剃ルコトナリ、
p.0534 一古代の人は、さかいきをそる事なし髮のもとヾりをば、かしらの百會(ヒヤクエ)の所にてゆふ也前に兩手をつき、前へかしらをさげて居て結はする也、髮ゆふ人は髮ゆはする人に向て 其の人の前に居て結ふ也、
p.0535 安元二年七月八日辛亥、關白出レ自二簾中一、直以退出、自二件簾中一、時忠卿指二出首一、〈其鬚不レ正、月代(○○)太見苦、面色殊損、〉
p.0535 一月代の事、玉海〈○中略〉時忠卿の月代そらせし事は冠ゑぼしなど著るに、逆上の氣强きに堪へかねて、月代そられし成るべし、武士の冑下に月代そるに同じ、古たま〳〵月代そる事もあれ共、人に隱してそる事也、結城合戰の繪卷物に、結城七郎氏朝が切腹の體を畫きたるに、結城月代そりたる體、額に毛を殘して畫きたり、結城が月代の體如レ此畫きたり、〈○圖略〉今も公家衆月代をそり給ふ事有り、冠ゑぼし下逆上の氣に堪へかねて、ひそかにそり給ふ由、是も額の毛を殘して、中を丸くそりて、額の毛を月代にかけて月代をかくす也、
p.0535 曾我五郎が元服したるところに、髮とりあげ、高帽子きせと有て、月額のさたなし、されば西行法師は、月代の痕といふ事をかきたり、中剃のことにや(○○○○○○○)、
ある人の云く、月代はひたひをまろくそりて、冠れる帽子のしたに、髮ぎはの見えざるやうに したるなり、今も都の官人はしかせるもあり、いやしき男のそりさげひろうしたるも、月代よ りおこりぬれば、名はかはらず、
p.0535 髮の中剃
髮の中を少しばかり剃て、毛のおほきをすかすは、二條康道公、髮あつかりしゆゑ、髮の中を剃られしに始るよし、樋口秘記にいへり、與淸按に、撰集抄、砂石集.太平記などに、月白といへるもの、これ髮の中剃なり、二條康道公に起るにあらず、
p.0535 大塔宮熊野落事
宮〈○大塔宮護良、中略、〉木寺相模ニ、キト御目合有ケレバ、相模此兵衞ガ側ニ居寄テ今ハ何ヲカ隱シ可レ申、アノ先逹ノ御房コソ、大塔宮ニテ御坐アレト云ケレバ、此兵衞尚モ不審氣ニテ、彼此ノ顏ヲツクヅ クト守リケルニ、片岡八郎、矢田彦七、アラ熱ヤトテ、頭巾ヲ脱テ側ニ指置ク、實ノ山伏ナラネバ、サカヤキ(○○○○)ノ跡隱ナシ、兵衞是ヲ見テゲニモ山伏ニテ御座ザリケリ、賢ゾ此事申出タリケル、アナ淺猿、此程ノ振舞、サコソ尾籠ニ思召候ツラント、以外ニ驚テ、首ヲ地ニ著手ヲ束ネ、疊ヨリ下テ蹲踞セリ、
p.0536 風俗或問〈○中略〉 亦悶男子の月額(サカヤキ)剃ことばいづれの御時にはじまりし、答云、月額は内兜を透せん爲に、梶原景時がはじむといひ傳へたれど、慥なる所見なし、いづれにも鎌倉將軍のときに起りしならん、太平記卷の五、大塔宮熊野落のとき、戸野兵衞をたのみ給ふ段に、〈○中略〉月額(サカヤキ)の跡かくれなし云々、月額の事、物に書たるは、これはじめ歟、友人修靜菴ぬしの説に、さかやきは馬をよく見せん爲に、その毛を燒ことあれば、それに擬して、挾毛燒(サカヤキ)といへるならん、月額の二字は、莊子の馬蹄篇に見えたりといへり、今按するに、さかやきは頭毛燒(サカヤキ)なるべし、頭をさきと讀り、鷄頭(ケイトウ)の和訓とりさきのりを略し、きをかに通はして、とさかといふ如く、さきのきを略し、けをかにかよはして、さかやきと唱、月題の二字を當たり、今俗は月代と書、その義いよ〳〵遠し、〈○中略〉かヽれば、男子のさかやきも、昔は五寸ばかり殘して、俗に立髮と唱、今百日鬘と唱る類、古畫に見えたり、
p.0536 一月代(サカイキ)を剃る事、京都將軍の比まではなし、皆總髮也、又もとヾりをわくる事なし、茶せん髮なり、ゑぼしかぶる爲なり、今の如くわげをしては、ゑぼしかぶるにわろきなり、或説に、砂石集に、月代と云ふ事見えたれば、鎌倉時代より月代はありし事なりといへり、されども古は常に月代剃りたるにあらず、久しく打ちつヾきたる合戰の時、常にかぶとをかぶり、氣のぼせて煩ふ事あるによりて、頭の上を丸く中ぞりをしける也、其の形月の如く、丸く白くなる故、つきしうと云ひしなり、月白と書くべきを、今は月代(ツキシロ)と書くなり、つきしろの事を、さかゐ きと云ふは、氣さかさまにのぼせるゆゑ、さかさまにのぼするいきをぬく爲に、髮をそりたる故、さかいきと、いふなり、さかやきと云ふは、あやまり也、扨右のごとく、合戰の間は月代をそれども、軍やめば、又本のごとく總髮になる也、天正文祿年中などの比、天下大にみだれ、信玄謙信など、其外諸大將合戰數年打續きたるゆへ、常に月代そる事絶ずして、其後太平の世になりても、其の時の風儀やまずして、今日に至るまで、月代そる事になりたる也、今とても公家には、昔の如く月代そり給ふことなし、京都將軍時代の舊記に、月代の事なきは、その比月代そるといふ事はなかりし故也、又古はひげをそりぬきなどする事なし、古の繪師の書きたる、ふるき繪を見て知るべし、ひげは刈りたる體に見ゆる也、又古はひたひのすみをぬく事もなし、今も公家にはひたひのすみぬかざる也、ひたゐのすみぬく事は、近代男だてといふ者共、顏をおそろしく見せんとて、し出しけると也、今は好色の爲にもぬく也、
p.0537 寶永六年正月廿二日、靈柩〈○德川綱吉〉發引有べしと令せらる、〈○中略〉また同心以下の賤吏は、明日より月代(○○)そるべしとふれらる、
p.0537 月題
今代之俗、剃二額上髮數寸一、命曰二月代(サカヤキ)一、未レ詳二其所一レ始、〈○中略〉月代國語、猶レ言二月樣一也、蓋削二去額上髮一、圓如二月樣一、故有二此名一、或曰、代當レ作レ題、以二國音近一誤、〈○中略〉世傳室町氏之時、有二十河(ソコワ)一存者一、始爲レ之、故又名二十河額(ソコウヒタイ)一、蓋戰國之餘習、而取レ便二于冑一耳、後遂倂二鬚髯一剃レ之、余〈○村瀨栲亭〉毎見二百年前畫一、有下剃額而不レ剃二鬚髯一者上、可レ見剃二鬚髯一在二剃レ額之後一也、鳴呼古昔文物之盛、衣冠之韙、蕩然拂レ地、風俗之變、不二啻滄桑一、今庶黎之不レ剃レ額者、唯京北矢瀨之民、古風猶存焉、
p.0537 一存本名長正、〈家譜〉爲二十河景滋養子一、稱二族十河一、〈治亂記○中略〉爲レ人容貌魁偉有レ勇、衆呼曰二夜叉十河一、〈將裔記〉至二耳後一抽レ髮作レ額、人呼曰二十河額一、〈印行三好記〉
p.0538 額をぬくに樣々あり、俳諧嘉多言に、そがうびたひといふ事は、十河(ソガワ)殿といふ武家の人の頭つきよりいひ出たる事とぞ、無下に近き世の事なり、〈此書慶安三年の板〉三好に與したる十河氏なるべし、或云、此説非也、そがうは總髮(サウガウ)びたひなりといへり、千前軒文耕堂合作の淨瑠理小栗判官車街道、池庄司が島原に來る處に、ほうろく頭巾取のくれば、そうがう額の總自髮と'いふ事あり、是も十河の説を取らざるにや、されどまづ普通の説に從ふべし、
p.0538 牢内のもの髮月代之事
一毎年七月一度宛、牢内之者不レ殘髮月代いたさせ候事也、此節は揚屋もの、女牢〈是は比丘尼有レ之なり〉髮月 代致す事なりとぞ、此時には、牢屋〈江〉屆出、帶刀上座に出づ、〈腰かけ腰掛居ル〉見廻り〈町同心同斷〉壹人、牢屋同 心鎰役平當番共廿五六人、張番拾人計り罷出で、右牢庭〈江〉むしろを敷、牢内之科人一ト立三十 人位ヅヽ手錠かけ呼出し、〈手錠不足ゆへに、縄手錠し、〉大盥に水を入、月代〈張番壹人〳〵に頭をもみ遣スなり〉をぬらし、髮結 〈壹ケ年一度ヅゝ江戸中の髮結壹町より壹人ヅゝ家主さし添出るなり、〉其うしろへ廻り、髮月代とも剃結ふ事也、尤髮ゆひの後に 差添之家主ひかへ居る事也、此時病人ばかり牢内に殘るよし、此日は江戸中の髮ゆひ、早朝よ り牢屋敷の門前に詰居る、尤髮結壹人に、家主壹人ヅヽ差添出る事也、
一平日髮計りは牢内にて互に結ひあふ事也、又牢内名主壹番役と、貳人位は、一ト月に一度ヅヽ 月代剃る事有レ之、是者如何成事にや、譯不レ知、
p.0538 元祿十二卯年四月
野郎月額之定〈○中略〉
一堺町木挽町野郎月額、前々定有レ之候間、兩町之野郎彌以定之通、鬢薄く可レ仕候、兩町之野郎脇〈江〉 不レ遣候付、藝有レ之もの常之町人ニ成、屋敷方あるかせ候由相聞不屆候、左樣之族一切無レ之樣ニ 可レ仕候事、 以上
四月
p.0539 神代よりの髮の風一變したる事
神代の女の髮の風は、まへにもいへる如く、天照大御神の御髮も、御髻を一ツ結て、うしろへたらし玉ふる狀、神代卷を證とすべし、此風後にもつたはりたる事は、人皇十五代神功皇后、三韓を征し玉はんとて、筑紫の浦にて御勝利を神祗に所玉ひ、驗あらば此髮分れて兩となれとて、御髮を解玉ひ、海に濮ぎ玉ひしかば、髮おのづから分て兩と爲しを、そのまヽ髻となし玉ひて、假に男の貌となり玉ひし事、日本紀の神功皇后の卷に詳なり、是にても女の髮はひともとにゆひ、男は兩に綰結、禪代の風の不レ變(かはらぎりし)ぞしらるヽ、此男女の髮の風斯てあり歴し事、天七地五の神代より、人皇三十九代天智天皇の御代まで不レ變しに、天武天皇の御代にいたりて一變せし事は、日本紀天武〈卷下〉に、白鳳十一年三月の詔曰、自今以後男女悉結髮とあり、本居大人が古事紀傅〈卷七〉に、天照大御神假に丈夫の御裝束を爲賜事の註に、右の文を引て曰、上代に結(あぐ)といひしは、本を一ツにあつめ擧て結て、其末は後へ垂したりけんを、彼詔に結(あげ)よとあるは、頭上に結綰て髻となすをいふなるべしとあり、是日本にて女の髮を結ふ起原なり、さて右の御制ありてのち二年たちて、男女四十以上髮之結不レ結任レ意と在て、又二年たちて〈十五年〉の詔に、婦女垂二髮于脊一猶如レ故とあり、おもふに此比及天變地妖うちつヾき、且又御惱の事などもありしゆゑ、神代よりの髮の風をあらため玉ひしを、かしこみ玉ひて再故に復玉ひけんかし、〈本居大人が玉かつま卷十四の説〉此後十九年たちて、文武天皇の御代慶雲二年十二月の詔に、令二天下婦女自二神部齋宮宮人一及二老嫗一皆髻髮とあれども、垂髮する人もまじれる御制なれば、紛れもして其世の習ひのまヽには改らざりけんかし、中昔の物語書にみえたるやう皆すべし髻(もとどり)にて、髮あげするは、唯大宮〈禁中〉にてことヽある時のわざなり、〈本居の説〉いと〳〵 正しくは慶雲の時の御制を用しなるべし、
p.0540 凡古への女の髮のさま、末にも用あれば、委しくいはむ、そも〳〵幼きほどには、目ざしともいひて、ひたひ髮の目をさすばかり、生下れり、それ過て肩あたりへ下るほどに、末を切てはなちてあるを、放髮(ハナリカミ)とも童放(ウナイハナリ)とも、うなゐ兒ともいへり、八歲子(ヤトセゴ)と成ては、きらで長からしむ、それより十四五歲と成て男するまでも垂てのみあれば、猶うなゐはなりともわらはともいへり、〈○中略〉
上つ代には、男の髮は頂に二ところゆひ、女は頂に一所にゆひつと見ゆ、そののちまでも髮あげせしを、いと後に垂し事有か、天武天皇紀に、髮を皆結せられし事有て、又故の如く垂髮于背(スベシモトヾリ)せよとの御制あり、さて持統天皇紀には、いかにともなくて、文武天皇の慶雲二年の紀に、令下天下婦女一、自レ非二神部齋宮人及老嫗一、皆髻髮上〈語在二前紀一、至レ是重制也〉とあれば、其後すべてあげつらん、かくて今〈ノ〉京このかたの書には、ともかくも見えず、もの語ぶみらには、專ら垂たる樣を書たり、只續古事談てふ物に高内侍云々、圓融院の御時、典侍辭しけれども、ゆるされざりければ、内侍所に屏風をたてヽさぶらひて、申す事有時は、髮をあげて女官を多く具して、石灰壇にぞ候けるとあり、後に垂る御制あらばかくあらんや、あぐるこそ後までも正しとせしこと知べし、うつぼ物語の紀伊國吹上の卷に、女は髮あげて、唐衣著では御前に出ずといひ、國ゆづりにも皆髮あげすと見えたり、かくてそのあげたる形は、内宴の樣書たる古き繪に、舞妓の髮あげたる形と、御食まゐらする采女が、髮あげたるひたひの樣、うなぢのふくらなど、大かたはひとしくて舞妓は寶髻をし、采女はさる飾せぬ也、且和名抄に、假髮〈須惠〉以レ假覆二髮上一也といひ、蔽髮〈比多飛〉蔽二髮前一也といへり、雅亮が五節の事書るに、おきびたひ、すゑびたひといへるも是也、かの舞妓のひたひの厚く中高きと采女がひたひのいと高からぬに、此二ツのわかち有べし、凡は紫式部日記に髮 あげたる女房の事を、からの繪めきたりと樣に書しもておもひはかるべし、
卷四*1〈今十一○萬葉〉に、おほよそは、たが見んとかも、ぬば玉の吾くろ髮を、なびけてあらんどよめるは、少女の髮あげせぬ前は、いと長くこちたければ、私にまきあぐる事もある、故にいふと見嫂、譬ば、おちくぼ物語に、あこぎが一人して、よろづいそがしきには、髮をまきあげてわざするに、主の前へ出るには、搔下して出し事有が如し、いせ物語の高安の女の、髮を卷上て、家兒の飯もりしも是也、此くさ〴〵を分ていはヾ、うるはしく髮あげするははれ也、たれてをるは常也、まきあぐるといふは私也、
p.0541 一古の女房衆〈殿中又大名などに召仕るる位ある女痴、女房と云、〉の體は、髮にわけめをたてヽ、本まゆを作る、髮はわぐる事なし、いれもとゆひ、〈今繪もとゆひと云ふ〉にてゆひ、下げ髮也、今すべらかしなどヽ云類也、婚入童子の記に圖あり、げす女は、つのくるといふ髮のゆひ樣あり、〈○中略〉
一古の女常に櫛かうがいをさす事なし、常に髮をさぐる故也、げす女は髮を上ぐる故、かうがいをばさせ共、櫛さす事はなし、
p.0541 すべし髮すべらかし髮
女の髮をすべし髮とも、すべらかしともいふは、背後鵞垂るヽをいふ、髮(ミグシ)はよほろばかりなど、物にいへるこれ也、海東諸國記國俗部に、婦人抜二其眉一、而黛二其額一、背垂二其髮一、而結レ之レ以レ䯲(カモジヲ)、其長曳レ地とあるは、女の眉毛を剃て、額にボウ〳〵眉をつくり、すべらしの髮にせし體也、結レ之の結は、續の誤寫にやあらん、按異稱日本傳下四卷〈八丁オ〉に引たしるには、續レ之に作れり、女の容飾の事、庭の訓、乳母草子など考合すべし、
p.0541 下輩の下げ髮
往古は貴賤とも常に下げ髮なる事、前にもいへるが如し、枕のさうし、みじかくてありぬべき物 の段に、げす女の髮うるはしくみじかくてありぬべしとあるも、下主女のさげ髮をいへるなり、後世になりても、平家物部〈卷二〉鬼界島の事を、男は烏帽子も著ず、女は髮もさげざりけりとあるにて、賎の女まですべらかしなりし事明(しる)し、下輩もさげ髮の風俗世々に傳りし證は、天和三年、大坂西鶴作一代男、〈卷三〉下の關稻荷町の遊女の事を、上方のしなしありてとりみださず、髮さげながらおほかたはうちかけとあり、田舍のはかなき妓さへ、垂髮に袿したるをもて其他をしるべし、已往物語、〈親見翁、享保年中八十餘歲にて、寛永以來江戸の風俗をかゝれたる物、寫本にて流布しけるに、弘化二年八十翁物語として、ある人上梓す、〉むかしは正月五節供總じて祝ひ日には、何程の小身にても、家の主人麻上下を著し、召仕ふ侍も上下を著す、〈中略〉五節供は内室髮を下げ、針妙も髮をさげ、十歲以上の子供親の如く、その衣服をきせる、それのみならず、神佛參詣には髮を下げる云々とあり、こヽにむかしとあるは、此書を作られたる享保より六十年ばかりのむかし万治寛文あたりの事なるべし、
p.0542 下髮
戒庵漫筆、倭國婦人不レ裹レ足、髮長散披在レ後、
p.0542 七年、天皇始幸二藤原宮一、皇后聞之恨曰、妾初自二結髮一陪二於後宮一、旣經二多年一、甚哉天皇也、今妾産之、死生相半、何故當二今夕一、必幸二藤原一、乃自出之燒二産殿一而將レ死、天皇聞之大驚曰、朕過也、因慰二喩皇后之意一焉、
p.0542 一未レ嫁女不二結髮一 上古はいまだ嫁せざる女は、髮をあげずと見えたり、萬葉集に、タチバナノ寺ノ長屋ニ我イネシウナイハナリハ髮アゲツランカ、とよみ、伊勢物語に、くらべこしふりわけがみも肩すぎぬ君ならずしてたれかあぐべき、とよみ、又日本紀允恭天皇紀七年の紀に、皇后是を聞きて曰く、妾初め髮結てより後宮に陪る事、多年を經たりと記さる、文選の古詩にも髮を結て、夫妻となると見ゆれば、和漢其の趣を同す、貞丈按に、髮ソギと云は、 女の元服也、髮をソグ事は其の夫のする事也、髮アゲとて、すべてかしらに髮を垂れて、頂上に髮を持ちあげて、コブの生ひたるごとくにして、それを結て、釵子と云て、カンザシをさす事あり、髮ソギの事は、源氏物語に見たり、
p.0543 十一年四月乙酉、詔曰、自今以後、男女悉結レ髮(○○○○○)、十二月三十日以前結訖之、唯結髮之日亦待二勅旨一、
p.0543 婦女ノ結髮
春塘故實ニ、人皇四十代天武天皇ノ十一年ニ、國中ニアフセテ、婦女ノ髮ヲ結フベシトノ命アソケル、サラバコレマデハ皆下ゲ髮ニシテ居タリシト見ユ、故ニ此朝ヨリ後ハ、ハレノ儀式ニハ、一切ノ女ノ髮ヲ結ヒテ、平日ニハ下ゲ髮ニシテ居タルナリ、ソレガ中頃ヨリハ、平生ニモ髮結フテ居ルヤウニナリタル故ニ、又郤ツテハレノ時ニハ、昔ノ下ゲ髮ニセヨト命ゼラレタルコトナリ、今ハ上ツカタニテハ、ハレノ時ハ下ゲ髮、平生ニハ結フコトニナサル、サラバ下樣ニテモ、ハレノ時ハ下ゲ髮ニスベキコトナリ、
p.0543 朱鳥元年七月庚子、勅、更男夫著二脛裳一、婦女垂二髮于背一猶如レ故、
p.0543 一婦女垂髮〈○中略〉 貞丈曰く、垂二髮于背一の四字、スベシモトドリと訓を付けたり、スベラカシと云ふは是に依れり、
p.0543 舍人娘子奉レ和歌一首
歎管(ナゲキヅヅ)、大夫之(マスラヲノコノ)、戀亂許曾吾髮結乃(コフレコソワガモトユヒノ)、漬而奴禮計禮(ヒヂテヌレケレ)、
p.0543 惟成爲二秀才一、雜色之時、花逍遙ニ一種物シケリ惟成ニハ飯ヲ宛タリ、而長櫃ニ飯二外居、鷄子一折櫃、擣鹽一盃納之テ、仕丁ニ令レ擔テ取二出之一、人人感聲喧々、其夜與レ妻臥テ手枕入テ探ニ、下髮皆切レ之(○○○○○)、此時驚問處、其時太政大臣ト申人、御炊ニ交易而、其長櫃仕丁シテ令二擔出一云々、件妻敢 無二歎愁之氣一、常咲云々、
p.0544 きよげなる人の、夜るは風のさわぎにね覺つれば、久しうねおきたゐまヽに、鏡うあ見て、もやよりすこしゐざり出たる、髮は風に吹まよはされて、すこしうちふくだみたるが、かたにかヽりたるほど、まことにめでたし、
p.0544 神祖遠州高天神の城を責給ふ時、討死の者ども、首實撿遊しける中に、年の比十六七ばかりなる首の、うす假粧にかね黑く、長(タケ)なる髮を結たれば、更に男女の差別しれざりしに、神祖仰せけるには、眼を明て見よ、瞳をかへして眶(マブタ)の中へ入て、白眼ばかりぞ見へたるに於ては女なり、瞳あきらかに見なば、男なるべしと、御敎に任て、眼を開き見るに、瞳の明に見へければ、男にぞ定まりぬ、其後相しれたるに、栗田刑部が寵愛の小姓に、時田鶴千代といひし、筋目も宜しきものにて有りけるとなり、誠に可レ恐、
p.0544 池田氏筆記
一入江氏云、禁中ニテハ髮ニスベテカヅラヲカケルナワ、末ノ女中ハ、御所内往來シゲキ時ハ、髮ヲ卷アゲ筓ニテ留ル、今時下部ニテ片ワケト云ハ、コレヨリ始ルトゾ、
p.0544 一古下賤の者の妻などは、髮をあげて、つのぐると云ゆひ樣にして、白布にて頭を卷きたりとぞ、今も猿樂の狂言の時、女の形をして、白布にて頭を卷て出るは、古の風を傳へて、左樣にする也、
p.0544 風俗或問 或問、男女髮の束ざまの事は、曩にその説を聞り、嘗寛永中の遊女の古畫を見るに、髮をつかねず、衣服に摸樣を染ず、明暦以後の畫像を見れば、髮を束たり、昔は婦人の髮を結事なかりしか、予〈○瀧澤解〉答て云、日本紀天武天皇十一年、夏四月乙酉、詔レ曰、自今以後、男女悉結髮(カミアゲセヨ)、十二月三十日以前結訖之、唯結髮之日、亦待二勅旨一と見え、又和名鈔に、假髮、和名須惠、鬠音活、和名 毛度由比と見えたれば、女の髮を結ことはいとふりたり、但近世は遊女のみ髮を結ざりし歟、
p.0545 明暦アタリ迄ハ、女ノカウガイ多クハ鯨ノ棒カウガヘナリ、寛文ノコロヨリモ鼈甲ヲサス人モアリ、髮ハ片ワゲナリ、是ハ内室ナリ、下女ハカウガイグルナリ、早正德ノ比ハ下女モ鼈甲ヲサシ、グル〳〵結ナリ、此時比ヨリカウガイノ先ヲ反シ角グルニ結ブ、
寶永マデカクノゴトシ
古風ハ、カタワゲノ元結、上エムスビ上タリ、コ枕ヲ用ユ、
カウガイノサキ如レ斯、正德ノ比、若キ女バカリコノ風ヲ用ユ、
享保ヨリ、カタワゲ下ヘ結ビ下ゲル、或ハ内ヘ結ブ、
寳永迄ハ、結ビ髮トテ、遊女是ヲ專トス、モミ上此時始ル、
長ク下ゲル、下へ引出ス、タブナガシ、
享保中ゴロマデ、中フシニ結ブ、丸シ、タブ少シ短シ、
元文ヨリ、百會ヘトリ上テ結ブ、目ヲツリ上ル、タブモナシ、 延寶、貞享ノコロヨリ、遊女洗髮ヲ、水ヲシボリテ、髮先キヲ紅羽二重ニテ包テ下ゲタリ、元祿ヨリ結上ル、延寶マデハ、有合ノ絹切ニテ包ムナリ、元祿ヨリ白キ晒シ木綿ニテシボリ、其儘ムスブ、是風延享ノ比迄用ユ、其外島田ニ品々アリ、元祿迄髮長ク多キヲ良トス、
愚案、島田ト云風ハ、承應ノ比、駿州島田ノ驛旅籠屋ノ女、始テ此風ニ結ブ、下卑タル風ナリシヲ、イツカ國々ニ傳へ、今ハ高貴ノ娘モ皆此風ナリ、
又勝山ト云風アリ、寶永ノ始ニ、大坂ヨリ勝山湊ト云若女形下リ、始髮ヲ大輪ニ結タリ、是風ヲ勝山ト云、後立役ニ成、勝山又五郎ト云、
又元祿ノ比ヨリ末、吉原ノ遊女勝山始テ大輪ニ結ビテ此風流行ス、
モミ羽二重
白木綿
天和比ノ傾城ノ全盛ニミユ 男女心ノ如キハ形ニ顯ス、然レバ形ハ耻カ鋪モノナリ、手跡ノ心ヲ顯スガ如シ、〈○中略〉女ハ柔弱ハ不レ苦、タヾ柔和ヨシトス、然ルニ邪見ニシテ髮形ニアラワルヽハ如何ゾヤ、心ノスルドナルヨリ起ル、寛保ノ比ヨリハ、イヨ〳〵甚シ、仁ノスタル時ナルカ、
寛延ヨリタブ短シ、ビンヲ横ヘ出ス、片ワゲノ尻ヲ上ル、櫛カウガヘ大ナリ、銀ノカンザシヲ用ユ、ケンドンナル事ナレドモ、前ヨリハシヤント見ユ、
男女ノ髮時々變ル事〈○中略〉
女中モ髮物ズキ折、々カワルモノナリ、上古ヨリカタワゲヲヨシトス、解バ則サゲ髮トナルナリ、フリ袖ハ島田ナルベシ、尤立カケ上品ナリ、
カツ山
辰松シマダ、享保年中ハヤル、 延享年中、此風ハヤル、タブヲナクシテ、横ニビンヲ開カセ、マゲメチイサク、百會イタヾキへ上テ結、エリノヨゴレザルヲ第一トス、
p.0548 つく〴〵と百年この方の風俗を思ひくらぶるに、餘所のことをばおいて、江戸の人の風俗こそ殊に昔にかはりたれ、〈○中略〉寛永の比迄は、婦女細き麻繩にて髮を束ねて、其の上を黑き絹にて卷きしに、其の後麻繩をやめて紙にてゆふ、越前國より粉紙にて、元結紙と云ふものを造り出だし、海内の婦女みな是を用ふ、夫より絹にて卷く事もやみぬと、我が父正しく是を見て語り聞かせり、今の人聞きては信とせず、凡男女の髮かたち、我等が見及びてよりこの方も、幾かはりかしつらん、今は音のかたものこらず、昔の婦人は、髮多く長きをたけにあまるなど云ひて譽めしに、近比は髮少く短きをよしとする風俗になりて、髮多き女は、髻の内を、或はきり、或は剃りて少くする、此の風俗は京の婦女より移り來れり、此のことに限らず、都べて男女の風俗、詞づかひ、物の名まで、近比は京に似たること多し、
p.0548 一男女の髮も、其頃はさま〴〵に替りたり、〈○中略〉女も昔勝山(○○)といふわげ流行たり、遊女の勝山と云が結ひ始めたりといへり、其後丁子茶の流行る比は、灯籠鬢(○○○)とて、兩樣の鬢を見事に毛筋をすかして、とうろうの如くに結びたり、ゆへにびんさしといふもの流行出て、小間もの屋など多く持來りたり、又男のひたいも小額を置て際を付ず、上計り額をすこし角を入ぬきたるが、温和にて、若きものは甚見付もよろしきゆへ、流行出たり、其弊、額より鬢を厚くして、ひたい は横に少しばかり際を付たる又流行たり、
p.0549 髮の結樣は、其時の流行もありて、一定ならずといへども、文政の頃より、大かた今の風俗のよしなり、其さま、たぼを長ぐ垂る樣に出して、其上へまげは六かしげに作りたるものにて、多くはまげといふものは、假ものにして、自髮にはあらず、一體の結樣は、殊に六かしき故、中々容易に一人にては結ひ難く、夫故髮を結ふことは、多くとも一ケ月に三度には過ず、よく保たするものは、十六七日づヽは保たするといふ、
p.0549 わがをる町
婦女子の髮を結ふ事なども、予〈○瀧澤解〉が幼稚き比は、小頭坐(コマクラ)を入れて、根(モト)をひとつにして、鬂(ビン)と髱(ツト)をかき出し、髱入といふものを入れて、髱を長くしたれど、今のごとく、鬢插(ビンサシ)といふもはなかりき、その後髮の結ざま、大に變りて、少女も老女も鬂と髱を別にとりて、紙張(コバリ)なる髷の形したるもの、髱の形したる物を入れ、市中の女子は、前髮を短くして、刷毛の如く上へかきあげておく事になりつ、
p.0549 朝湯より晝前のありさま
〈巳〉アイサ、みんな摘髱でございました、それがおまへさん、髱插だの張籠だのと、調法なことになりました、獨手に髮が結はれます、あの島田くづし(○○○○○)の形などは、役者の鬘同然さ、頭へ乘せさへすれば、手つかずに髷が出來るイヤハヤ利口な事さね、〈辰〉一頻は、頭の上へ、髷がおつかぶさつて居ましたが、又むかしへ歸ツて、些ばかり貰て來たほどの島田になりました、その上に上方風を好このむものも出て參りますし、ホンニホンニ移り氣なものでございますよねへ、〈巳〉京形だの、京かんざしだのと、何でも珍しい事を好ます、お江戸の人は、お江戸の風が、いつまでも能うございますよ、
p.0550 天和貞享の比の雛人形〈○圖略〉
井原西鶴が遺稿を、元祿八年印行せる、俗つれ〴〵といふものあり、四のまきに、美女のすがたをゑがけり、そのさま、此ひいなにいさヽかもたがはず、その繪のかたはらにかきて云、しめつけ島田(○○○○○○)かみさきもあともおなじたけにして、まん中にひらもとゆひをかくる、又云、ふきまへがみ(○○○○○○)、くぢらのひれのまがりたるものを入て、かみのうごかぬやうにす、又云、ふきびん(○○○○)云々といへるも、此ひいなのさまによくあへれば、これを天和貞享のころのものとさだむ、西鶴がさうしかけるは、おほかたそのころなればなり、かヽれば此ひいなのかみは、しめつけ島田、ふきまへがみ、ふきびんといへるゆひぶりとしるべし、
p.0550 寶髻(はうけい)といふ髷
唐土は、國の開闢より、女も卷髮風俗なるゆゑ歴世に髮の結ひやうに名ある事、彼國の書どもに散見する處枚擧に遑あらず、御國は神の御代より、女は垂髮なるから、髮のゆひやうに名ありし事さらになし、然るに人王六十代醍醐天皇の御世にいたりて、結髮するに寶髻といふ名、始て延喜式〈衣服令ノ下〉にみえたり、されど宮女皆寶髻なるにはあらず、内親王内命婦禮服の時は寶髻なり、支註に、一品已下五位已上寶髻を去るとあり、此寶髻の事を令義解に、寶髻とは金玉を以て飾物なり、是乃神代の餘風なりといへるは、神代は男女とも髻に殊を飾る事、前にいへるが如し、さて此寶髻の形狀は、安齋隨筆〈赤鳥の卷〉に上ツ代の結髮といふは、垂髮を頂の上へとりあげて、瘤の如くにしてそれを結て、釵子を刺なりといはれたり、雅亮裝束抄に、釵子の刺樣くはしくみえたれども、寶髻の事はみえず、たヾ釵子につけてある紐を頭にいふしかたをくはしくしるしあるをおもへば、寶髻なりし事推てしらる、いと後の物ながら、さいしをかざりたる圖をこヽに出して、榮花、源氏、枕のさうし、式部が日記などにもさいしさして云々とある、そのさま寶髻のゆひぶりを もしらしむ、
右の圖〈○圖略〉ある女官服章といふ書の奥書に、寶暦十三年癸未五月廿七日平貞丈とありて、或 縉紳家の御本を寫されたるよし也、書中の事どもは室町殿比といふ、貞丈先生の註釋あり、さ れば、かの寶髻の形狀の一證とすべし、
○按ズルニ、寶髻ノ事ハ、器用部容飾具篇ニ在リ、參看スベシ、
p.0551 兵庫といふ髮の風
今俗にいふ兒髷(ちごまげ/○○)又は唐子(からこ/○○)髷ともいふを、上古はひさごはな(○○○○○)といひ、中昔にはあげまき(○○○○)といへるは、皆男の兒の髮の結風の名なり、女の兒の目ざし、ふりわけ髮、うなゐはなりなどいふは、髮の毛のさまにて結ぶりの名にはあらざる事勿論なり、されば前にいへる寶髻を女の髮の髷の名のすぢまげからわ起立とすべし、次に筋髷(すぢまげ/○○)、次に唐輪(からわ/○○)の名ありしこと前に云へり、さて慶長の末寛永の比にいたり、唐輪一變して兵庫といふ髷の名あり、狀は圖をみてしるべし、此髷は攝津國兵庫の遊女より結ひはじめたる髷なり、寛永八年板の俳書、犬子集、〈前句重賴〉兵庫の者よたヾごめんなれ〈附句〉けがをしてゆく女房の髮の曲、又慶安元年板峯續集、〈前句正信〉娵にほし聞ば兵庫よ泊り船〈附句〉名に結びたる青柳の髮、又婦人養草〈貞享三年板、儒者藤井瀨齋翁作、〉卷一、當時〈貞享二年をいひけるか〉髮のゆひやうの名を島田兵庫などいふは、遊女の在る所の名をかりていふなりとぞとあり、此兵庫髷、寛永の比ひより盛にして、およそ六十年ばかかの間、都も鄙も中人以下の女はみなゆひたる髷なれば、其事の書見いと多し、抄録にはとヾめあれど、うるさければ不レ引、けだし吉原大全といふ書に、〈明和五年板、卷の三、〉元葭原の比兵庫屋といふ遊女屋より起りたる髮の風とあるは、兵庫の遊女屋妓をつれて、江戸へ下りて妓樓をひらきたる比、其妓の髮の風、它の妓にもうつりしならん、さて此結ひ風元祿にいたりては、島田勝山(○○○○)の二風にへされて、稍々すたれしとみえて、元祿八年板大坂人俳諸師伊原西鶴が作、俗つ れづれ〈卷四〉吉野山花見の所に、歲は四十四五なる奥の〈按ずるに、此比は市中富商の妻をすべて奥さまといふ、京大坂の詞也、〉むかしを今に兵庫曲をかしげに、〈中略〉ぬり笠にめつきのくわんをうたせ、いたヾきなしに赤いしめ緒、よろづいやなるとりなり、此文にて兵庫髷のすたれたる事明し、然れども天明の比までも、遊女には此風のこりて、上職のものらおほかたは、横兵庫(○○○)ならざるはなかりしに、是も今は島田になりて、兵庫は影もみへずなりぬ
p.0552 横兵庫(○○○)
此圖は、今弘化四年より五十八年前、寛政二年、家兄の作られたる物の本に、家兄自畫の圖を寫せり、天明、寛政の比、北廓の妓みな此髮なりき、是を横兵庫といへり、
p.0552 <ruby><rb>島田髷T シマダワゲ</ruby>〈今世賤女所レ言〉
p.0552 島田髷の始原
兵庫の後、島田といふ結風おこる、此ふり慶長より明暦あたりまでの雜書どもには、名も圖もみえざれど、寛文の中ごろより起りしならん、万治二年板、淺井了意が作、東海道名所記、〈卷三〉大井川の條に曰、島田よりこヽまでかヽれど、つひに歌袋の緒がとけぬといふ、馬かたきヽて、島田の事ならば、髮をゆふたる事をよみ玉へかしといふ、是に心つきて、はたごやの女はちりのつくも髮せ めて島田に結よしもがな、とよみたり、げに〳〵春元の句に、名にゆふやげにも島田の柳髮、といへる面影はべるとて、たどり〳〵男の騎たる馬のしりにつきてゆくとあり、前に引たる貞享三年の婦人養草に、髮に島田兵庫などいふは、遊女のある所の名をかりていふとある説に符合す、又享保十九年板、菊岡沾涼が作、世事談、〈卷五〉島田といふは、東海道島田宿の女つねに此髮の風を結ひける、それゆゑに此名ありといへり、按に寶永七年板、寛濶平家物語〈卷一〉に、正保慶安の比、東海道の茶汲女の名高きをならべいふ所に、鈴下嶺のおふり、坂の下のお竹、關の小万、桑名のおしゆんなどならべいへれば、島田にもさるものありて、髮の一風をゆひはやらしヽもしるべからず、なにヽもあれ田舍の女がゆひはじめたる髮の風、二百年すたらず、天下翕然として島田なるは、女裝中の一奇事なり、〈○中略〉寛文五年板、古今夷曲集に、大井川ながれをたてヽ住宿の島田たちにし髮もゆふ君〈保友〉又元祿九年板、女重寶記〈按に此書新古二板あり〉卷一に、髮の風をならべいふ所に、町風は京も田舍も島田かうがい髷の二いろ、上﨟も下﨟もいふ事、七八十年此方におよべりとあり、按に元祿九年より八十年前は寛永四年也、此比ひにはいまだ島田の名も圖も物にみえず、されど右に引たる寛文五年の保友が夷曲などを參考すれば、島田髷の起れるは、今よりおほかた二百年前なるべし、其風今に盛にして、錦殿蓬窻.島田ならざるなきは、いと〳〵めでたき髮の風にぞありける、元祿の間には、大島田(○○○)、やつし島田(○○○○○)、しめつけ島田(○○○○○○)、なげ島田(○○○○)など、皆狀によるの名なり、此它にも、玉むすび(○○○○)、吹あげ(○○○)、つり船(○○○)、猶さま〴〵の髮の風はやりし事、物に見えたれど、うるさければもらしつ、
p.0553 此圖は菱川師宣筆
天和三年江戸板の繪本にあり、なげ島田(○○○○)とてはやりしはこれならんか、
p.0554 おばこ結 櫛卷
今の市婦等、蛇盤たるやうの狀をなして、髮を結ぶをおばこむすびといふ、その名義はおもひえざれど、西土に似たる事あり、〈○中略〉
武野俗談に、寶暦中淺草寺内お福茶や〈今いふ二十間〉に、みなとやお六とて、名だいの女ありて、髮も上手にて櫛をさかしまに卷こみて結けり、是を櫛卷とて、世上の女ゆふ事となれりとあり、明和中、祗德が句に、櫛卷に春の柳や三日の月、又柳樽〈三編〉櫛卷は娵の身持のくづし初、これらにて其流行したるをしるべしおのれ此書を作るにつけて、むかしの女風をおもひいだすに、二百年前はなににもあれ、一風おこれば、その風三四十年も變ざりしに、百年以來は、十年を不レ期、五十年來は、三年を不レ待、然なるにかたはづし(○○○○○)の二百年かはらざるは、女裝中の美事也、 櫛卷といふ髮
此圖、安永七年江戸板、鈴木春信畫、繪本貞操草にあり、上下二冊の内、櫛卷の女七人あり、此圖も、主人と下女と櫛卷なり、此頃、京の繪本にもくし卷みゆれば、三都にはやりしと見えたり、
おばこ結び
今市中の下輩の妻に此風あり
p.0556 丸髷(まるまげ)
髮に結ふふりの名ありしより、およそ百年ののち、伽羅の油といふ物いできてのちは、髮のゆひぶりにさま〴〵の形も名もゐりしかど、今世に行れるは、かたはずし、まるまげ、しまだの三樣なり、されどかたはつしは下輩に用なし、島田は齒を染て用なし、〈他國の田舍には、老女の島田なるもありとぞ、〉上下老若に亘りて、いと重寶なるは丸髷なり、此まるまげを、かつ山のくづしとするはひが事なり、きのふはむかし〈寫本、江戸作、序に元文二年、〉卷二に、今のまるわげはかんしよよりゆひはじむとあり、〈かんしよとかなにてあれぱ、さとしがたし、〉續連珠、〈延實四年板、俳書、〉丸わげか渦まく影の柳髮、〈卜琴〉藤かづらしてや丸曲柳髮〈可道〉などあり、然れば丸曲も百八十餘年前よりありへし風なり、されど古圖にはすくなし、丸髷、西土は〈いと古し〉唐書五行志に、元和末、婦人爲二圓鬟推髻一不レ設二髩飾一、こヽに圓鬟とは.まるまげときこゆ、又酉陽雜俎續集〈卷三〉坊正(ハウセイ)〈人名ナリ〉叩レ門五六有二丸髷一婉童啓迎云々、丸髻とあるは、乃丸髷なり、西土畫にもまたみえたり、
p.0556 勝山(かつやま)といふ髮の結風
勝山といふ髮の髻(ゆひぶり)、今も其名は殘りつれど、髷の狀は當世なり、古き形狀は圖をみてしるべし、此髻は二百年前承應の間、江都に名高かりし湯女(ユナ)勝山が結はじめたる髷也、此勝山湯女風呂國禁(ユナブロコクキン)ありてのち北廓に入り、かの高尾と時を同うして、その名ます〳〵聞ゆ、万治三年江戸板、高屏風管物語〈上卷〉に、北廓の茶屋の老婆、遊客に妓どもを指て名ををしゆる所、さて巴の御もんをめしたる、御としのほどはたちばかりの御方は、たぜん(丹前)のぜうさんとて、京田舍に名高き勝山さまとこそ申なれ、〈中略〉みどりなる髮をば手がはりにゆひなし玉ふとあり、此かつ山が結風、はやりつたへしとみえて、万治三年より廿五年のち、天和三年江戸板、浮世物眞似口寫、〈横本卷上〉花の露屋喜左衞門が〈芝宇田川町卜あり〉店にて、伽羅の油いひ立の詞に、まつた女中のだて風は、兵庫、つのぐる、いはしまだ、かつ山りうとあり、又勝山が廓に在し万治二年より廿四年のち、天和二年大坂西鶴作、一代男〈卷一〉に、 そも〳〵丹前風と申は、〈中略〉風呂屋ありし時、勝山といへる湯女、すぐれて精もふかく、形とりなり髮のふり、よろづにつけて、世の人にかはりて、一流これよりはじめもてはやして、北廓へ出世して、不思議の御方までおもはれ、ためしなき女にはべり、又享保五年庄司富勝〈甚左衞門子孫〉が作の〈冩本〉洞房語園〈同名の板本あり、是は別本なり、〉卷三、承應明暦の比、新町山本芳順家に、勝山といふ太夫ありし、〈○中略〉髮は白き元結にて片曲のだてゆひ、勝山風とて今にすたらず、
p.0557 片外(かたはずし)の權輿
髩つけ油なかりしむかしは、かの筋髷(すぢわげ)も兵庫(ひやうご)もみなむすび髮なり、片外も元來は結髮なり、そもそも髮の油いできしのち、髮のゆひぶり書見あまたあれど、大かたは戯場あるひは淫里の風を、いやしき市婦等が推稱て流行せたるなり、その中に獨片外のみは、四百年前、京都室町足利家の營中より起りて、今において下輩に移らざるは、いみじくめでたき髮の風にぞありける、さてその起りは、足利義政公〈東山殿ト云〉の北の方、妙善院殿の女中衆の事を書たる、簾中舊記〈群書類從卷四百十四武家部〉に、女中衆の髮の事をいふ條に、みやづかへせぬ時〈按に、御前へいでず、部屋にをる時なり、〉またみちなどゆく時、かもじ長くてわろきときは、〈按に、むかしは平日もさげ髮なる故かくいふなり、〉したのゆひたる所を、右のかたにわなのあるやうに髮をわげて、さて下のゆひたる所に、べちのひつさきにてゆひつくるなり、ぬる時もよしとあり、是垂髮を假に片外にむすびおくをいへるなり、是ぞかたはづしの權輿なるべき、
p.0557 夢想枕夢想流髮
天和笑委集〈三年の記〉に、上野へ花見に出たつ女の事をいふ條に、〈○中略〉髮はかうがい、島田わげ、御所の女中の夢想流(○○○)、おつ取かうがい、蒔繪櫛、ぼんぼり丸綿、わけよくかぶり、加賀の菅笠、つヾら笠、いとたくましき丸ぐけの紐、白きうねざし、袋足蹈、紫竹のざうり、ばら緒のせきだ、われおとらじと、さしも風流に出立といふ事あり、此文百五十餘年前の女の風俗を、今眼前に見るが如し、按るに、夢 想流とはさげ下地(○○○○)なるべし、片はづしの如く見ゆる髷の(○○○○○○○○○○○○)、筓を拔ば下髮となる(○○○○○○○○○)、是も形の變ずる故、如レ此名づけしにやあらん、
p.0558 髮の貌
按に、万葉の歌、伊勢物語の歌などに、たぐとも、あぐともよみたるを、合せ考るに、女兒はじめは目刺(メザシ/○○)にて、八歲よ童放(ワラハナリ/○○)にし、それよりやヽ十二三にもなれば、頂結放(ウナイバナリ/○○○)にもし、人に嫁に至ては、結髮(カミアゲ/○○)せし也、頂結放は半元服などいふ類なるべし、
p.0558 振分髮(フリワケガミ)
按小兒生て七日許に、はじめて胎毛(ウブゲ/○○)を鋏取を棄髮(カミソギ)といふ、然て二三歲までは羅髮(チヾレガミ)の體也、それより髮置とも、深曾木とも、尼曾木ともいひて、肩のほどにくらべて髮の末を鋏取、八歲まで此體にてあるを、和良波(○○○)とも、振分髮ともいふ、和良波は髮の下端のわら〳〵と亂垂たるよりいふ名、振分髮は、項(クビ)より左右の頰に、毛の殍れ下れるよりいへる名也、八歲の後は、女童はやヽ毛を延して、肩を過ぐる許に下げ、中間の毛を取分て、頂上にて束ね結ひ、宇奈爲(ウナイ/○○○)とす、束髮を宇奈爲といひ、廻りの垂下れる振分髮を<ruby><rb>波奈利</rb>ハナリ/○○○
といふ、宇奈爲波奈利(○○○○○○)とは、ニツを合せて呼る名也、こヽは女見の歲いまだ十三四にもいたらずして、擧て女の體に成には、短き振分髮なれば、春草(ワカクサ)を假髮(スエ)にしてか擧結らんと、思ひやりてよめる也、多久は手操(タク)にて、手操(タグリ)て、髮擧(カミアゲ)する事也、
伊勢物語〈廿三段〉に
くらべこしふり分髮も肩過ぎぬ君ならずしてたれかなづべき、按果句諸本たれかあぐべきに作れるはよろしからず、今は朱雀院塗籠御本に据る、こは万葉集十三卷〈廿四丁右〉長歌に、歲乃八歲 (トシノヤトシヲ)、鑽髮乃(キルカミノ)、吾何多髮過(ワガカタヲスギ)、橘(タチバナノ)、末枝乎過而(ホヅエヲスギテ)、此河能(コノカハノ)、下文長(シタモナガク)、汝情待(ナガコヽロマテ)、とあるを據にてよめる歌也、おもふに、振分髮も肩過ぬといひ、男をおもふ心も切なれば、女見十一二歲許の時の歌なるべし、
p.0559 此圖古き繪卷にみえたり、源氏若紫の卷に、紫の上の十歲なるを、髮は扇をひろげたるやうに、ゆらゆらとしてとあるは、此圖にて解すべし、また此圖は、源氏にて古き風なるを知るべし、
p.0560 一古の童女の體は、是は髮を平もとゆひにて、肩のあたりにて一所ゆひて、下げ髮にする也、まゆはぼうまゆといふ作り樣あり、髮の先ははへたるまヽにて、先をはやし揃へる事なし、是も婚入童子の記に圖あり、略レ之、
p.0560 爾小碓命、給二其姨倭比賣命之御衣御裳一、以レ劒納二于御懐一而幸行、故到二于能曾建之家一見者、於二其家邊一軍圍二三重一、作レ室以居、於レ是言三動爲二御室樂一、設二備食物一、故遊二行其傍一、待二其樂日一、爾臨二其樂日一、如二童女之髮一梳二垂其結御髮(○○○○○○○○○○○)一、服二其姨之御衣御裳一、旣成二童女之姿一、交二立女人之中一、入二坐其室内一、
p.0560 古童女の髮は、幼きほどより、夫するまでは、垂てありしこと、師の説〈万葉考別記〉に委く見えて、大方彼説の如し、
p.0560 十ばかりにやあらんとみえて、白ききぬやまぶきなどのなれたるきて、はしりきたる女ご、あまたみえつるこどもにヽるべくもあらず、いみじうおひさきみえて、うつくしげなるかたちなり、かみはあふぎをひろげたるやうに、ゆら〳〵として、かほはいとあかくすりなしてけり、
p.0560 かみたれ 髮垂の義、兒の初生六日に生(ウフ)髮を剃をいへり、反語をもて祝せる也、寶積經に、悉逹太子自持レ刀下(タルヽ)髮と見へたり、兒生れて七日を經て、剃二胎毛髮一の事、竺土の風俗も同じ、諸書に見ゆ、
p.0560 剃胎髮(うぶぞり)
今の世、出生の小兒は、貴賤とも、出生より七日にあたる日、胎髮(タイハツ)を剃事、古き風儀なり、
p.0560 一刈二胎髮一 榮花物語第八はつ花の卷に、寛弘五年九月十一日、中宮〈彰子、後に上東門院〉御産の事書たる條に、その日ぞ、若宮の御ぐし始めてそがせらる云々、是十七日也、御誕生より七日め也、御ぐしそがせらるとは、御うぶ髮を、はさみをもつて刈る事を云、五六歲になりて、髮のさ きをそぐをふかそぎと云、十五六歲になりて女の髮そぎと云、祝事也、そぐとは刈る事也、後代にはうぶぞりとて、かみそりにて、胎髮を剃れども、古代には髮そる事はなし、欽明天皇、敏逹天皇の御代に、佛法始て渡ち來たりしより、法師になる者、始て髮をそりし也、されば髮をそるは、天竺の風にて、いやしくいま〳〵しき事なれば、小兒の髮をも、はさみにて刈りし也、うぶそりとて、剃刀にてするは、後代の風俗也、
p.0561 産剃(うぶぞり)に剃刀を用ひざる事胎髮(うぶがみ)を少しそり殘す事
往古はさらなり、近きむかしまでも、僧尼の外、たヾ人の剃刀つかふ事なし、いかんとなれば、むかしは貴賤とも、髮は總髮(そうはつ)、髭は生へしだい、女の眉毛は鑷子にて拔たるゆゑ、男女とも剃刀の入用さらになし、且又剃刀は僧尼のつかふ物ゆゑ、忌てつかはざりしならん、僧尼の物なるから、剃刀は和名抄にも佛具の部にあり、又圓光大師傳に、大師の母御大なる剃刀を呑と夢みて、生れたる兒なれば、名借にならんといひし事みえたり、是も剃刀は僧尼の外つかはざる物の一證とすべし、
p.0561 鬌 文字集略云、鬌、〈丁果反、和名須々之呂(○○○○)、〉小兒剪髮所レ餘也、
p.0561 新井氏曰、蘿蔔苗或名二須々之呂一、蓋蘿蔔苗漫レ地敷レ葉、其狀似二小兒剪餘髮一、故以名レ之、按今俗呼二罌粟殻頭一、蓋是類、〈○中略〉按玉篇、鬌小兒剪髮、禮記内則注、鬌所レ遺髮也、與レ此義同、説文、鬌髮墮也、段玉裁曰、鬌本髮落之名、因以爲二存レ髮不レ翦者之名一、
p.0561 髮〈○中略〉
鬌〈音朶和名須須之呂〉兒生三月剪レ髮、所二留不一レ翦者爲レ鬌、所二其翦一髮以及レ長爲レ飾、謂二之拂髦一、示レ不レ忘二生育恩一也、親死三日、始脱レ之、
p.0561 鬌すヽしろ〈みどりごのうぶ髮、百會のうしろにのこりたるをいふ、〉 江戸にて、けしばうず(○○○○○)といふ、上總にて さらげ(○○○)といふ、相模にてなかやま(○○○○)といふ、
p.0562 人の幼稚なるは坊主子にして置事、久しきよりのならはせならん、源氏物語横笛の卷に、薫の幼き時をいひたる所に、かしらは露草して、殊さらに彩りたらん心地して、口つきうつくしうにほひとかきたるは、幼き人のつふり剃たるが、花田色に美しう、雛の中の裸人形を見たらん心地せらるヽよし、
p.0562 ちやん〳〵、おけし、はんかふ、
今俗にしやん〳〵(○○○○)とて、小兒の髮を頭の左右へ殘しおくは、禮記内則の爲鬌とあるにおなじければ、古風なる事勿論なり、又おけし(○○○)とて、頂にあるは、罌子粟の實の〈○圖略〉形に似たるゆゑの名なるべし、淸人は皆芥子坊主なれども、その以前明人の作りたる譯語〈全册一〉に、髠頭爲二輕便一、婦人至レ嫁養レ髮とあれば、女子は十三四まではおけしとみえたり、けだし明國同一の風にはあらず、さて又小兒の耳の脇に毛をのこすをはんかふ(○○○○)といひしを、近年はやつこ(○○○)といふ〈田舎にてはそりかけ(○○○○)といふ〉奴はきこえたれどもはんかふの名義曉しがたかりしに、攝陽落穂集、〈寫本、寛政の比大坂人詩因作、〉攝州有馬郡唐櫃村に限りて、半甲(はんかふ)といふ事あり、出生の小兒の額と耳の脇に髮をおきて、うしろへはおかず、是をからひつ村の半甲といふ、近年見ぐるしとて然せざりし小兒ありしに、危難にて死せり、村人等懼て舊例の如くにすとそ、小兒の月代剃のこしたるを、浪花にて半、甲そりといへど、唐櫃村の事はしる人稀なり、〈一慌全文〉此書にてはんかふの名義瞭然たり、
p.0562 深剪(ふかそぎ) 髮剪(かみそぎ)
中昔の書どもに、深曾岐、髮曾岐といふ事あまたみえたり、そのよしを書面に校ぶれば、二歲までは髮を剃り、三歲の春より髮を生じ、其子の誕生日に髮置の祝ひをなす、此時裳著もあり、さてかきたらしおく髮やヽ生ひのびて、帶のあたりにとヾくほどにいたれば、其見の歲のほどにはか かはらず、髮の末を剪整るを加美曾岐(○○○○)とて祝ふ、〈切といふことばを忌てそぐといふ〉一年に二度ばかりそぐなり、斯爲は髮の末ひとしくて、見つきよからん爲、あるひは毛脚をそろへて生延さんためなり、後水尾院宸作年中行事、〈冩本、慶長の頃の物、〉三歲の時髮置あり、霜月師走の内云々、九歲の時紐おとしあり、身の長により、或はいそがれて春などもあり、是はかしこきあたりの御事なれど、上を學ぶ下の風も推てしるべし、
p.0563 康治二年±三三呈酉、午刻、今丸〈菖蒲丸弟也、余(藤原賴長)庶子來、〉垂髮(○○)〈始垂也、三歲、〉申刻詣二石淸水一、
久安三年六月十一日癸卯、申刻、參二高陽院一依二尼上召一也、是爲レ垂二乙麻呂髮一也(○○○○○○)、戌刻參二彼堂六角堂一歸宅、禮二千手一百八度、
p.0563 治承三年十二月九日壬辰、今日東宮〈○安德二歲〉令レ垂二御髮一給(○○○○○)云々、後日大進光長來曰、令レ學二出納一、今取二吉方水一、自二中宮御方一賜二小洗一、件水使レ無二所見一、仍申二合別當一〈時忠〉所レ遣也、内御乳母別當三位〈前大納言邦綱卿女〉參二入東宮御方一、奉レ垂レ之、不レ及二賜祿一、無二殊儀一、三歲時可レ有二此事(○○○○○○○)一也、而康和當二三歲之年(○○○○○)一有二閏月一、二歲令レ垂(○○○○)給、雖レ不レ可レ用二彼例一、來十二月可レ有二御著袴一、明年二月可レ有二讓位一、正月垂髮有レ憚、仍今月所レ被レ行也、
p.0563 御讀書始事〈○中略〉
時刻出御、〈寛和(花山)著二御織物御直衣一、御垂髮(○○○)歟、可レ尋レ之、〉
○按ズルニ、深剪ノ事ハ、禮式部深曾木篇參照スベシ、
p.0563 〈牛勞反、大也、髮也、目佐志、〉 髫〈徒聊反、小兒髮、目佐志(○○○)、〉
p.0563 〈音敖、大メサシ、〉 〈正〉 髦〈音毛、メサシ、〉
p.0563 目刺(めざし)といふ小兒の髮 禿(かぶろ)
中昔の風俗に、女の兒の三歲より髮を生しおくに、前髮をば眉のすこし上のほどに截そろへてかきたらしおくを、目ざし姿とて、三歲より十歲以上までの額つきなり吉來より髫(せう)の字をめざ しと訓せたれど、髫は小見の垂髮の事なり、さればうなゐ〈小兒のたれ髮〉の字に髫髮(せうばつ)と書なり、〈新撰字鏡和名抄ニ見ゆ〉説文に、髳髮垂レ眉也とあれば、目ざしは髳の字なるべし、
p.0564 さがみうた
こよろぎのいそたちならしいそなつむめざし(○○○)ぬらすなおきにをれ浪
p.0564 題不レ知 よみ人しらず
きのくにのなぐさの濱にかひひろふあまのめざし(○○○)のおとななりせば
p.0564 禿〈カフロ、頌苦骨反、白禿也、〉
p.0564 かぶろ 童丱禿鬝をいふ、髮振の義なるべし、頭或は山に童(カブロ)といふも、童部の如く冠せざる意也、倭名抄に禿を訓ぜり、字書に禿無レ髮也とも見へたり、
p.0564 一髮を短く切りて、結ずして亂し置くを禿(カブロ)と云也、
p.0564 淸盛捕二化鳥一幷一族官位昇進附禿童幷王莽事
入道ノ世ノ聞ハ、聊モ忽緒ニ申者ナカリケリ、其故ハ入道ノ計ヒニテ、十四五若ハ十六七計ナル童部ノ髮ヲ頸ノ廻ニ切ツヽ、三百人被二召仕一ケリ、童ニモアラズ、法師ニモアラズ、コハ何者ノ貌ヤラン、〈○中略〉禿ニ惡シト思ハレタル者ハ、入道殿ニ讒セラレテ、咎ナクシテ多ク損ズル者モ有ケリ、オヂ〳〵モ、内々ハ、此禿ノ體コソ心得ネ、縱京中ノ耳聞ノ爲成トモ、只普通ノ童ニテアレカシ、必シモ汰ヘラルヽ事ヨ、又一人モ闕レバ、入立テヽ三百人ヲキハメラルヽモ不審也、
p.0564 一童女の髮をうしろへなでさげ、肩の通りにて一所結を、わらわ(○○○)と云也、これはわらはめのすべらかしといふ事也、女房のすべらかしも、わらはのすべらかしも、髮置の記にあり、
p.0564 振分髮(ふりわけがみ)
小兒男女とも、三ツより五ツ六ツのほどになりて、髮の毛肩あたりにたるヽ比までをうなゐ子 といふ、それすぎて、十三四以上になりて、髮やヽ長くなり、帶にいたるまでを、うなゐはなり(○○○○○○)、又わらは(○○○)ともいふは、女のみの名なり、〈(中略)今よしあるあたりにて禮式のとき、わらはといふ御ぐしになし玉ふは、古風の殘れるなり、下に引く源氏わらはの名目あり、○中略〉振分髮の間は、成長につれて、髮ものび安ければ、一年のうち二度ばかりは、のびみだれたるを剪そろゆるよし、岷江入楚〈中院通勝卿源氏の註書〉紫の上髮そぎの下にみえたり、源氏の本文に、あふひのまき〈源氏の君、紫の上をともなひて、加茂のあふひまつりみにゆかんとするところ、○中略〉女房〈紫につかふ童女を、源たはむれに女房といふ、これにも髮そぎさす、〉いでねとて、わらはすがたども、おかしげなる髮どものすそ、はなやかにそぎわたして、うきもんのはかまにかヽれるほどけざやかにみゆ〈○中略〉とあり、此時紫の上十四歲の夏なり、同年の冬、源氏と新枕ある事、同卷にみえたり、源氏は紫式部が胸間より出し作り物語なれど、當時の事物をうつしかきたる物なれば、今より九百年前は、男もたざるほどは、禿なる證とすべし、此風近き比までも殘れる事、前に出したる圖を見てしるべし、
p.0565 まづ女房いでねとて、わらは(○○○)のすがたどものおかしげなるを御らんず、いとらうたげなるかみどものすそ、はなやかにそぎわたして(○○○○○○)、うきもんのうへのはかまにかヽれるほど、けさやかにみゆ、きみ〈○紫上〉の御ぐしは、われ〈○源氏君〉そがんとて、うたて所せうもあるかな、いかにおひやらんとすらんと、そぎわづらひ給ふ、
p.0565 髮の貌
按に、振別髮は八歲まで肩に比べて切たるが(○○○○○○○○○○○○○○○○○)、頂の下より左右に別れ、頰のあたりへ垂下れば、振別髮とはいへる也それは舉るには短ければ、春草(ワカクサ)を髮に擧(タグ)らんとよめり、
p.0565 正述二心緒一
振別之(フリワケノ)、髮乎短彌青草髮爾多久濫(カミヲミヂカミワカクサヲカミニタグラム)、妹乎師曾於母布(イモヲシゾオモフ)、
p.0565 女御の君のヽちにむまれたまひし、十のみこ四ばかりにて、御ぐしふりわけ(○○○○) にて、しろくうつくしげにこえて、御ぞはこきあやのうちぎ、あはせのはかま、たすきがけにて、えびぞめのきのなをしきて、かはらけとりていで給、
p.0566 小ひめぎみ〈○歡子〉は御ぐしふりわけ(○○○○)にて、御かほつきらうたげにうつくし、さまざまうつくしう見奉らせ給、
p.0566 髠〈太欠反、上、髮至レ肩垂貎、宇奈井、〉
p.0566 髧〈丁放反、髦、ウナ井、〉 髫髮〈ウナヒ、上音迢、〉
p.0566 髫髮〈ウナイ上字又作レ髻〉 垂髮〈俗用レ之〉 〈ウナヒ、古患、〉 卯〈已上同〉
p.0566 童
うなゐこ〈かぶろなるわらはべ也、又只うなひとばかりも心得たり、〉
p.0566 見二菟原處女墓一歌一首〈幷〉短歌
葦屋之(アシノヤノ)、菟名負處女之(ウナヒテトメガ)、八年兒之(ヤトセゴノ)、片生乃時從(カタオヒノトキユ)、小放爾(ヲバナリニ/○○○)、髮多久麻庭爾(カミタグマデニ/○○○○○○)、並居(ナラビイテ)、家爾毛不所見(イヘニモミエズ)、虛木綿乃(ウツユフノ)、牢而座在者(コモリテヲシバ)、〈○下略〉
p.0566 髮の貌
按にこれは七年までは放(ハナリ)の髮を、八歲よりは肩に比べて切り、十二三歲よりは項結放(ウナイバナリ)にすればなり、小(ヲ)はイの通音、集放(イハナリ)にて、ウナイ放(ハナリ)の事なり、
p.0566 古歌曰
橘(タヂバナノ)、寺之長屋爾(テラノナガヤニ)、吾率宿之(ワガイネシ)、童女波奈理波(ウナイバナリハ/○○○○○)、髮上都良武可(カミアゲツラムカ)、
右歌、椎野連長年脉〈○脉恐説誤〉曰、夫寺家之屋者、不レ有二俗人寢處一、亦偁、若冠女曰二放髮丱(○○○)一矣、然則腹句已云二放髮丱一者、尾句不レ可三重云二著冠之辭一哉、
決曰 橘之(タチバナノ)、光有長屋爾(テレルナガヤニ)、吾率宿之(ワガキネシ)、宇奈爲放爾(ウナイバナリニ/○○○○)、髮擧都良武香(カミアゲツラムカ)、
p.0567 髮の貌
万十六〈八丁オ〉に、三名之綿(ミナノワタ)、蚊黑爲髮尾(カグロナルカミヲ)、信櫛持(マグシモテ)、於是蚊寸垂(コゝニカキタリ)、取束(トリツカネ)、擧而裳纏見(アゲテモマキミ)、解亂童兒丹成見(トキミダリワラハニナシミ)、とよめるは、廻りの髮を搔垂、中の毛を卷揚て、項集放(ウナイハナリ)にし、又解亂りて、童髮(ワラハ)に成て見るなり、同わ卷〈十六丁ウ〉に橘寺之長屋爾(タチバナノテヲノナガヤニ)、吾率宿之(ワガイネシ)、童女波奈理波(ワラバハナリハ)、髮上都良武可(カミアゲツラムカ)、此は橘寺の長屋にて吾抱寐し童女放は、今は年比經れば、髮上て人に嫁けん歟と也、童女は例の亂端(ワゝラバ)にて、髮の項よりみだれ下りたるをいふ、ハナリは放にて、其放れかヽれる貌也、ウナイバナリとは別なり、ウナイは項集(ウナイ)にて、項のあたりにて毛を集め結て、廻りを搔垂れ、放にするをウナイバナリといへり、右の歌を、椎野連長年が決たるに、橘之、光有長屋爾、吾率宿之、宇奈爲放爾、髮擧都良武香、此意は、橘の光(テレル)長屋にて、吾抱寐し童は、今は十三四のほどなれば、童放に髮結けん歟と也、橘の光有は、アカルとも訓べく、其實の赤色に光れるを、アカル橘とよみて、女子の紅顏にもたとふれば.下に紅顏の貌を含めたるにても有べし、
p.0567 羈旅作
未通女等之(ヲトメラガ)、放髮乎(ハナリノカミヲ/○○)、木綿山(ユフノヤマ)、雲莫蒙(クモナタナビキ)、家當將見(イヘノアタリミム)、
p.0567 相聞
多知婆奈乃(タチバナノ)、古婆乃波奈里我(コハノハナリガ/ ○○○)、於毛布奈牟(オモフナム)、己許呂宇都久志(ココロウツクシ)、伊氐安禮波伊可奈(イデアレハイカナ)、
p.0567 伊勢のかみもろみちのむすめを、忠あきらの中將の君にあはせたりける時に、そこなりけるうなひ(○○○)をば、右京のかみよびいでヽ、かたらひて、あしたによみてをこせたりける、
をくつゆのほどをもまたぬあさがほは見ずぞ中々あるべかりける
p.0567 さだ文が家の歌合に みつね 郭公をちかへりなけうなひご(○○○○)がうちたれがみのさみだれの空
p.0568 童女放(ウナイバナリ)
万葉集十六卷〈八丁右〉竹取翁歌に、〈○中略〉按童兒をワラハと訓直したるはよろしからず、舊訓に從て、ウナイとすべし、初段の童子を、舊訓に、ウナイとせしは誤也、いかにといふに、初段は竹取が童子の時をいひ、二段は少女の貌をいへればなり、然てこヽの詞の意は、少女が黑髮を、眞櫛もて搔垂て放(ハナリ)にもし、又戯に取つかね、童子の總角の貌にもなし、又それを解亂して、髫髮にもしウナイて見るよしなり、
同卷〈十六丁左〉に、古歌曰、橘(タチバナノ)、寺之長屋爾(テラノナガヤニ)、〈○中略〉按若冠女は、男子の未冠のほどを、女の事に借用て書る也、著冠は男子の已に冠せしを借用たるにて、結髮(カミアゲ)せし女子にいへる也、古き歌の意は、橘寺の長屋に、吾率宿せし放髮丱(ウナイバナリ)は、今比は、ねびまさりて結髮し、男持たらん歟と思ひやれる也、允恭紀七年に、妾初自二結髮(カミアゲン)一陪二於後宮一、旣經二多年一と見え、万葉集七の卷に、未通女等之(ヲトメラガ)、放髮乎(ハナリノカミヲ)、木綿山(ユフノヤマ)とも、伊勢物語に、くらべこしふりわけ髮も肩すぎぬと百よめるみなおなじ、竹取物語〈抄本上三丁左〉に、此ちごやしなふほどに、すく〳〵とおほきに成まさる、三月ばかりに成ほどに、よきほどなる人に成ぬれば髮あげなどさたして、髮あげせさせ裳著す、帳のうちよりも出さずとも見ゆ、長年が改たる歌の意は、橘の實の紅く生て、おひ立る長屋に、吾率宿したりし童女は、今比はおよづけて放髮丱(ウナイバナリ)に髮をや擧つらんと、おもひやれる也、いづれにしても聞えたる歌也、これを一を取て、一をば誤としたる説どもは、宇奈井波那理のさまを解得ざるゆゑなり、そも〳〵うなゐばなりは、中の毛を項(ウナジ)の上の處に束ねゆひ、其外廻りの毛をばたれさげ、肩にくらべ切て、放髮にしたるゆゑの稱也、今世女見の禿髮(カプロ)といへるに、これに似通ひたる體あり、項(ウナジ)はボンノクボにて、ウナジノクボとも、俗にボンノクドとも云これ也、 和名類聚抄寶生院本、人倫部男女類の條に、後漢書注云、髫髮〈上音迢、字亦作レ髫、和名宇奈井、俗用二垂髮二字一、〉謂二童子垂一レ髮也、按字奈井放とも、省きて宇奈井とのみもいへるなり、髫髮の字面はよく叶へりともおぼえず、
同〈○萬葉集〉十四卷〈廿五丁右〉相聞往來歌に、多知婆奈乃(タチバトノ)、古婆乃波奈里我(コハノハナリガ)、〈○中略〉按〈○中略〉波奈里は例の童女丱なり、そも〳〵宇奈爲は、女見八歲を過れば、童髮を内外に分て、内の毛を項につかね.ゆひ、外廻の毛をば、たれさげ放毛にし、肩、の邊より少しさげて、切そろへたるを、宇奈爲波奈利といひ、省では宇奈爲とのみもいへり、これ女見の稱にて、男兒にはいへる例なし、然て十四歲よりは、放(ハナリ)の髮を擧て結ひ、女姿になる事也、男兒は二八十六歲にして陽道通ずれば、冠して男姿になり、女兒は二七十四歲にして陰道通ずれば、結髮して女姿になる事なれど、中には早晩ありて、必この定にもあらず、宇奈は宇奈自(ウナジ)を省たる語にて、頭の後をいふ、新撰字鏡〈四丁左〉肉部に、 大侯反、去、項衡駕處(カシラノウシロノマクラ)、猶レ項也(スルトコロナリ)、宇奈己夫、又宇奈自云々、項衡は頭後の寫誤なり、宇奈己夫は枕骨也、和名抄〈三卷〉頭面類部に、陸詞切韻云、項胡講反、頸後也、公羊傳注云、齊人項謂二之脰一、田候反、和名宇奈之云々など見ゆ、祝詞〈祝詞考上卷、十九丁右、卅三丁左、四十丁左、〉に、宇事物頸根衝拔(ウジモノウナネツキヌキ)とあるは、首根にて、俗にいふボンノクド也、鵜の水に濳如く、頭を倒にして、平伏する貌也、八千矛神の御歌〈古事記上卷四十一丁左〉に、宇那加夫斯(ウナカブシ)とあるは、項傾(ウナカブシ)にて、項を傾垂て泣貌をいへる也、纉世繼〈六卷十三丁左〉ゆみのねに、人のいたく烏帽子の尻高ぐあげたるに、うなじのくぼに結ていでんと思ふ也云々、源平盛衰記〈十三卷、十六丁左、〉熊野新宮軍事に、鳥帽子ノ尻、盆ノ窪ニ押入テ云々、長門本平家物語〈八卷〉高倉宮御事に、ゑぼしぼんのくぼに押入て云々、三議一統〈上卷廿丁左〉法量門に、大くび先を、後のぼんのくびにあつるやうにあてヽ、腰を引まはし云々、此等のうなじのくぼ、盆の窪などみな今俗に云ボンノクド也、
p.0569 䰌 〈同哉、從反、上、角艸、束髮阿介万支(○○○○)、〉
p.0570 總角〈アゲマキ〉
p.0570 二年〈○用明〉七月、蘇我馬子宿禰大臣、勸三諸皇子與二群臣一、謀レ滅二物部守屋大連一、〈○中略〉是時、廐戸皇子束二髮於額(ヒサゴバナニシテ)一、〈古俗、年少兒年十五六間、束二髮於額一、十七八間分爲二角子一、今亦然之、〉而隨二軍後一、
p.0570 ひさご花
崇峻紀云、是時廐戸皇子束二髮於額一(ヒサゴバナニシテ)云々、注云、古俗、年少兒十五六間束二髮於額一、十七八間分爲二角子(アゲマ)一、今亦然之、このひさご花あげまきのふたつがうち、あげまきは、其名のちにも多くみゆれど、ひさご花の事、たしかなる例をみず、あげまきは、催馬樂に、總角(アゲマキ)、安介萬支也止宇々々(アゲマキヤトウトウ)、比呂波下利也止宇止宇(ヒロバカリヤトウトウ)、左加利天禰太禮止毛(サカリテネタレドモ)云々、神樂歌に、總角(アゲマキ)、總角乎和左田爾也里天也(アゲマキヲワサダニヤリテヤ)云々などみゆるは、いはゆる角子にて、みづらゆひたる童形の事なるべし、雅亮裝束抄に、わらは殿上のくだりに次て、みづらのゆひやうあり、まづとき櫛にて、ちごのかみをときまはして、ひらかうがいにて、わけめのすぢより、うなじをわけくだして、まづ右のかみを、かみねにしてゆひて、左のかみをよくけづりて、あぶらわたつけなでなどして、もとヾりをとるやうにけづりよせて云々、この詞、かの分爲二角子一とあるによくかなへるをおもふべし、
p.0570 兒髷(ちごまげ) 文金髷
日本書紀崇峻天皇の御卷に、是時廐戸皇子〈聖德太子なり〉束二髮於額一而(カミヲヒサゴバナニシテ)隨二軍後一とある細註に、古俗、年少兒年十五六間束二髮於額一(カミヲヒサゴバナニシ)、十七八間分爲二角子一(アゲマキトス)、今亦然之とある、此支註は養老四年の時なり、束二髮於額一とあるを、ひさごばなにすと訓せてあるは、童髮を瓢のかたちにひたひに下げてゆふ事、今も聖德太子の畫像にてしるべし、角子(アゲマキ)とは乃兒髷なり、右の文を證として、兒髷は千百餘年前よりありしをしるべし、かやうに古き風なるゆゑに、堂上の公逹、御元服以前の童形の、御平日は兒髷なり、されば女童のゆふべきにはあらざるを、女童のゆふよしを按に、いまだ潮花ひらかざるほど は、男童をうつして角子(チゴマゲ)にゆはしめ、男にも應對をゆるし、事の輕便にしたがひ玉ふゆゑにや、よしあるあたりにみゆ、されば此風下輩にうつらず、いと〳〵めでたきふりにぞありける、
p.0571 髮の貌
男女の童子が、年比に從て總角とて、左右に角の如く擧て卷結なり、古くはこれを美豆羅といひ、後にビンヅラともいへり(○○○○○○○○○○○)、女は童放(ワラハハナリ)にもあれ、ウナイ放(ハナリ)にもあれ、年比に隨ひて髻髮(カミアゲ)せし也、〈○中略〉按に、倠馬樂に角總の歌あり、神功紀に、橿日浦にて、御髮を解て海に入、洗ひ給ひて、占給ふに、御髮自〈ラ〉分れたるを、卽分れたるまヽに結て髻とし給へるも、男子の貌に出立給ひしなり、
p.0571 女の髮の貌
御先祖記五の卷に、慶長十四年、島津家久、琉球ヲ責取テ、琉球王ヲ江戸へ連テ來ル、誓願寺ニ宿ヲナサス、琉球ノ小性ニ、思次郎、思五郎ト云テ、年十五六ノ美童有、ジヤミセン上手也、此時マデ、日本ノ女、カミヲ結フニ、カラワ(○○○)ヲチヒサクシテ、ヨク元結ニテ結、其上ヲフクサニテ包タルガ、琉球ノ髮ノ結ヤウヲ見テヨヲ廣キ帯ヲシ廣モトユヒニテユヒテ、元結ノハシヲマグル也、是ヨリタケナガノ紙モハジマル也云々、
p.0571 結髮(かみあげ)したる髮の形狀の考
古書に結髮とある註釋に、髮をあげたる其髮の形狀はしか〴〵なりと辨たる物、おのれ〈○磐瀨百樹〉が管見にはさらに見あたらざるゆゑ、期やありけんと考へつれど、固淺學の陋説取にたらざれども、姑くしるして諸賢の敎を俟、〈○中略〉唐輪といふ髷の名、日本紀に、角子を〈男の子にいふ〉あげまきからわと訓、太平記〈抄鐐、卷目痴脱せり、〉年十五六許なる小兒の髮唐輪(カラワ)にあげ蒼、又東曲殿前後の記録どもにもからわといふ名みえたれど、皆男の兒のみにいへり、耳底記〈烏丸光廣卿、細川玄旨と問答の書〉元服以前の童の髮は常に切事なし、長にあまるとも生しおく也、是を結ぶ時は、髮の元を取揃へ、頂上のほどへ上 げて結之、其末を二ツに分け、額の上に丸く輪に唐輪に結之也とあり、〈是古より男見の髮の風なること、前にいへるが如し〉さて女も便宜によりては、からわにゆひしも古代ありしとみえて、東鏡〈卷十七〉正治三年五月十四日の下、坂額女如レ童上レ髮云々とあり、是唐輪なるべし、いとのちの物ながら、天文年中の書、奇異雜談、〈卷五〉唐には男女諸人髮をながからしめて、髮をつかねて髮の根に四五寸なる釵をよこにさして、髮を釵にかけてくるくるとまきて、おしかふでおくなり、日本にいやしき女の筋曲といふごとくなりとあり、こヽに筋曲とはからわときこゆ、しかれば三百年前より、女もからわにゆふ事はあかしが、その瞭然は天正の間なる〈天文より四十年のち〉小松軍記〈群書類從本〉に、陣中へ軍士の妻食物を持ゆくさまをいふ所に、粕毛の髮を唐曲に結て云々とあり、又松田一樂入道秀任寛文七年作、武者物語抄、〈寛文九年上木、全七册卷の一、〉古き侍の物語に曰、井筒女之助と云て、武遍世にすぐれたる渡り奉公人ありけり、かの人のかたち女人の出立にて、髮を長く生し、からわにゆひ、其唐輪の中に不斷平針をさしこみておきたる也、是は人にから輪をとられまじき爲なりとぞ、傳聞に井筒女之助は境若狹といひて、吉凡廣家の家來なるが、浪人して攝州有馬郡の内三輪といふ所に久しく住たりときく、一生おちどなきかひ〴〵しき武士なり、はう〴〵渡りありき、後は雲州に下り、堀尾帶刀吉晴の家來となり、雲州にて病死なりときこえしとあり、又七の卷に、喧嘩口論を起し、わたくしの意趣に命を捨ること、せんなき事なり、むかし井筒女之助といふ侍あり、そのかたち女人の出立なり、髮を長くはやし、から輪にゆひ、著るゐなども女人むきの小袖なり、不斷刀脇差も幼少なる人の如く、鍔際にてこよりにてとめて、さしたるとなり、此心はだとへ人に頭をうたるヽとも、一生わたくしの意趣にては死ぬまじとの心もちなり、しかるゆゑ常は男をやめて、つまる所は、主め御用に命を捨んとの心にて、女人のごとくに形をなし、女之助とも名つきたる也ときこえし、親は境備後といふて、吉川駿河守元春の家來なり、女之助若き名は境又平といひし人也、藝州沼 唐輪髷之古圖
此圖は、岩佐又兵衞が筆なりとて、或人のもたる摸本なるを、こヽには全圖を略しつ、本幅は、極彩色にて、いかさま岩佐が眞跡と見ゆとぞ、此畫入は、慶長元和を盛にへたる人なれば、唐輪の髮のさま證とすべし、此畫人を俗には淨世又平と云つたふ、 田郡新庄といふ所より出生ときく、右の境備後より、今の境宗右衞門正次までは四代也ときこえしとあり、是に徴據ば天文の聞に、かの筋曲といひしを、天正にいたりては唐輪ととなへて、中人以下の女は常にゆひしとみえたり、〈されども視義の時は下げ髮なる事次にいふべし、〉さて右の井筒女之助といふ名は、かぶき狂言などにて、女中たちも知れる名なれば、話柄にもとて、唐輪の考證のついでに、實傳をしるしつ、件の事どもをおもひわたして、つら〳〵考るに、かの髮上のさまをからゑををかしげにかきたるやうなると、紫式部がいひたるその形狀は、こヽに出す古圖の唐輪にやありけんかし、是は又も管見の强言にこそあれ、
p.0574 唐輪
按、〈○中略〉唐輪(カラワ)は搦輪(カラワ)にて、鬢上の毛をからまきて、輪がね結ひたるゆゑの名也、美豆良はたおなじ、美豆良は兩引(マヅラ)にて、左右に列立るよしの名也、美と万は通音、左右を万(マ)といふは、左右手を万天(マデ)と訓るがごとし、
p.0574 一古武家の子息、元服以前の童子の體は、今の世の如く前髮をわけず、又もとどりを折りわけず、髮の根を平元結にてゆひて、肩のあたりまで屆く程に切り、さげ髮にする也、此體を喝食と云也、衣服はすあふを著して、ゑぼしをばかぶらざる也、元服の時、髮の先を短く切て、始てゑぼしをかぶる也、又髮を長くして、もとどりを平もとゆひにてゆひて、女のごとく下髮にしたるも有、此體を兒(チゴ)と云、衣服は長絹すゐかんなどを著す、是も元服せぬ内は、ゑぼしかぶらざる也、大名重き家にては、ちごの體を用、常の人は喝食の體にてありし樣に、舊記に見えたり、
p.0574 垂髮
垂髮は、童男女の髮を垂たる貌によれる名なれど、中比より兒喝食の事にいへり、ウナイ、ハナリ、フラハメザシ、アゲマキなどのゆゑよしは、旣に六十七の卷〈七十五則〉に辨別せり、さて垂髮の字面 は、後漢書鄧禹傳〈五丁オ〉に、父老童穉、垂レ髮戴レ白滿二其車下一、莫レ不二感悦一、注に、垂髮童幼也、戴白父老也云々、同書呂强傳〈廿七丁オ〉に、故太尉段熲、武勇冠レ世、習二於邊事一、垂髮服レ戎、功成皓首、注に、垂髮謂二童子一也云々、晉書陳敏傳〈九丁ウ〉に、永長宿德情所二素重一、彦先垂髮、分著二金石一云々など、これかれ見ゆ、蘇軾詩には、半白不レ羞垂レ領髮.軟紅猶戀屬レ車塵とも作れり、和名抄老幼部に、髮漢書注云、髫髮謂二童子垂一レ髮也、和名宇奈爲、俗用二垂髮二字一云々、玉海、吾妻鏡、明月記などに、垂髮と見えたる、皆髮を垂たる童兒にいへり、夫木抄雜十七に、垂髮子の歌を擧げたるに、うなゐごが、草刈笛云々、うなゐこが、ふりわけ髮云々、かくる草かづら云々、うちたれ髮云々、かぶろなるうなゐども云々、ならす麥笛云々などの詞あり、宗祇兒敎訓に、世中の、わるき若衆の、ふるまひを云々、滑稽詩文に、喝食若衆と見え、若氣勸進帳に、若氣小僧喝食若衆兒(ニヤケコゾウカツシキワカシユチゴ)などあり、垂髮、若衆、ウナイなどは、同物異名にて總名也、喝食は僧になるべき兒のいまだ剃髮せざるほどをいふ、若氣(ニヤケ)は、今俗にもニヤケ者、ニヤケタ男などいひて、男色もはらの若衆にいへり、兒若衆同物ながら、若衆は總名、兒は法師の近習の小者にいへり、慈昭院殿家集〈足利義政公〉に、垂髮
常磐山とはにはさかずいはつヽじ春の日數をたづねてもとへ、此歌すゐはつをかくせしなり、ゐをいにせしは、後の歌なれば論ずるにおよばず、卯花園漫録四の卷に、柱懸の垂撥の歌とし、其圖を出し、表は黑塗にて、裏に此歌を金粉の蒔繪にしたるものヽよしいへり、
p.0575 髮を洗ふをすますといふ古言
今物を洗ふをすますといふ女詞いと古し、うつぼ物語〈樓の上の卷下の上〉七月七日、いぬ宮御ぐしすまさせ玉ふとて、ろうの南なる山ゐのしりひきたるに、〈泉を引たる庭内の細き流れ〉はまゆか〈かど丸のしやうぎ〉水のうへにたてヽ、ないしのかみ、もろともにおはす、それもすまし〈髮を〉ためり、人もみえぬかたなれど、ほうしやうひかせ玉へりとあり、さればすますといふ詞は、八九百年前よりありしをしるべし、七月七 日に、油の物をあらへば、よくおつる事妙なるゆゑ、〈おのれこゝろみていふ〉髮を洗ひ玉ひしならん、おなじ物語のうちに、七夕に宮女加茂川にいでヽ髮あらふ事、藤原の君の卷にみゆ、さてこヽにほふせふとあるは、今の幕のやうなる、物なり、〈唐土にもある物にて書見多し〉女が髮あらふには肌もあらはなるゆゑ、歩障を引たるなめり、〈ほふせふとよぶは音便なり〉赤染衞門集、〈卷一〉はやうすみしところに、かしらあらひにいきて、ふるさとのいた井のなかはすみながらわがみづからぞあくがれにける.と灰汁にいひかけたれば、水灰汁にてもあらひしならん、伊勢が集にも井水に沐歌みえたり、是びんつけ油なき世なれば也、
p.0576 文覺發心付東歸節女事
女〈○源渡妻袈裟〉暇ヲ得テ家ニ歸、〈○中略〉夫ヲバ帳臺ノ奥ニカキ臥テ、我身ハ髮ヲ濡シ、タブサニ取テ、烏帽子ヲ枕ニ置、帳臺ノ端ニ臥テ、今ヤ今ヤト待處ニ、盛遠夜半計ニ忍ヤカニネラヒ寄、ヌレタル髮ヲサグリ合テ、唯一刀ニ首ヲ斬、
p.0576 〈苦元反、平、除レ髮、加美曾留(○○○○)、〉
p.0576 かみそる 新撰字鏡に、 をかみそるとよめり、 は字書に考得ず、髠は周禮に見えて、髮を去をいふ、よて僧を髠徒とす、もと刑の名也、我邦の上世此刑あるを聞ず、三代實録に、若有レ犯者、不レ論二蔭贖坐徒一、髠鉗せんと見えたれば、中古より此刑も起れるにや、
p.0576 鬋(そる)〈音剪〉
剔二治鬚鬢一曰レ髷、曲禮、不二蚤鬋一者是也、大人曰レ髠、小兒曰レ鬀、剃同、盡及二身毛一曰レ 、〈 同〉
按俗間兒生、當二初六日い、鬀頂上髮一、以與二臍帶一同收二藏之一、始呼二雅名一、〈謂二之髮垂之祝一〉而後悉鬀レ髮、以脱二升陽氣一、迨二三歲一、仲冬望日、又剃二頂上一、而其餘不レ剃、〈謂二之髮安之祝一〉
十五歲、剃二顳顬一、而額爲二方形一、謂二之半元服一、〈志學年以表三旣不二童子一乎〉二十歲、頭 過半髠而、卒谷以後、枕骨以下有 レ髮謂二之元服、〈表二官家加冠之義一、故稱二元服一、〉乃長名及字改呼レ之、〈近世士庶人之風俗〉
p.0577 一剃髮 古事記垂仁天皇記曰、爾其后有レ豫二其情一、剃二其髮一以二其髮一覆二其頭一、〈○中略〉貞丈曰、女髮を剃て尼となる事は、佛法渡りし以來の事也、此垂仁の后の時は、いまだ佛法渡らざる時の事なれば、尼となり給ひしにはあらず、力士が髮を取て城の外へ引出して有ん事を恐れて、髮を剃て、頭を覆ひ玉ひし也、此ときすでに髮を剃事あり、
p.0577 一女の剃髮したるをあまと云ひ、又比丘尼とも云ふ、昔はよき人はあまになれども、髮を殘らず剃り落す事はなくて、髮を短く切りて、禿になりし也、これをそぎあまと云ふ也、源氏物語さはらびの卷に、昔きよげなりけるなごりをそぎすてたれば、ひたゐのほどさまかはれるに、すこしわかくなりて、さるかたにみやびか也云々、此の外かの物語女三の宮、其の外あまになりたるさまを書けるは、皆そぎあまになれるを云ふなり、〈そぐとは髮の先をきる事也、ふかそぎ、かみそぎなど云にて可レ知、〉昔もいやしき女などは剃髮したる也、
p.0577 改名〈願伺〉之部
同年〈○文化二年〉八月廿九日
養父剃髮伺 寄合 秋山十右衞門
私養父大周儀、剃髮仕度旨申聞候、依之此段奉レ願候、以上、
八月廿九日 寄合 秋山十右衞門
御附札、可レ爲二伺之通一候、
p.0577 むかしの女は髮の丈長かゆし證據
古事記應神天皇の卷に、髮長姫の名あり、本居大人の古事記傳に、髮長比賣の名の義は字の如くなるべしとありて、別に説なし、されば此髮長姫の髮いかばかり長かりけん、神代には人身の長 高かりし事、一の卷にいへり、髮も長かりしとみえて、古事記〈神代の卷〉に、大穴牟遲神を八十神憎み玉ひて、殺さんとたくみ玉ふて寐ましたる時、かの神の髮の毛を臥し玉ひたる室の毎椽に、結著たる事みえたり、〈古事記傳巻十に説ありて、そのまゝ髮の毛の長しとせり、〉されば女はなほさら長かりけんかし、さて八百年の中昔になりても、女の髮今にくらぶれば、甚長く身の長にあまれり、つら〳〵おもふに、むかしは水油のみつけて〈油の事次にいふべし〉かきたらしおくゆゑ生延やすく、今はをさなきより油にかためてちヾめ結ゆゑ、むかしよりは長からぬにやあらんかし、
p.0578 十一年十月、是歲、有レ人奏之曰、日向國有二孃子(○)一、名髮(○○)長媛、卽諸縣君牛諸井之女也、是國色之秀者、天皇悦レ之、心裏欲レ覓、
p.0578 三方沙彌娶二園臣生羽之女一、未レ經二幾時一臥病作歌三首、〈○一首略〉
多氣婆奴禮(タゲバヌレ)、多香根者長寸(タガネバナガキ)、妹之髮(イモガカミ)、比來不見爾(コノゴロミヌニ)、搔入津良武香(カキレツラムカ)、 三方沙彌
人皆者(ヒトミナハ)、今波長跡(イマハナガシト)、多計登雖言(タゲトイヘド)、君之見師髮(キミガミシカミ)、亂有等母(ミダレタリトモ)、 娘 子
p.0578 嘉群三年五月壬午、葬二太皇太后〈○嵯峨后橘嘉智子〉于深谷山一、〈○中略〉后爲レ人寛和、風容絶異、手過二於膝一、髮委二於地一、觀者皆驚、
p.0578 御むすめ、〈○師尹女芳子〉村上の御時の宣耀殿女御、御かたちおかしげにうつくしうおはしけり、うちへまゐり給ふとて、御車にたてまつり給ひければ、わが御身はのり給ひけれど、御ぐしのすそは、もやのはしらのもとにぞおはしける、ひとすぢをみちのくにがみにをきたるに、いかにもすぢ見えさせ給はずとそ申つたへためる、
p.0578 御てぐるまによところ〈○道長四女、彰子、威子、姸子、嬉子、〉たてまつりしぞかし、〈○法成寺供養之日〉くちに、大宮〈○彰子〉皇太后〈○姸子〉御そでばかりをいさヽかさしいでさせ給ひて侍りしに、びはどのヽ宮〈○姸子〉の御ぐしの、つちにいとながくひかれさせ給ひて、いでさせ給へりしは、いとめづらかなり しことかな、〈○中略〉大宮の御ぐし御ぞのすそにあまらせ給へりし、中宮〈○威子〉は御たけにすこしあまらせ給にや、御あふぎをすこしちかくさしかくしておはします、皇太后宮は、御ぞのすそに一尺あまらせ給へる、御すそあふぎのやうにぞ、かんのとの〈○嬉子〉御たけに七八寸あまらせ給へり、
p.0579 御ぐし〈○姸子〉のこうばいのおり物の御そのすそにかヽらせ給へるほど、ひまなう、やうじかけたるやうにて、御たけには七八寸許はあまらせ給へらんか、しとみえさせ給、御かほのかほりあでたく、けだかくあいぎやうづきておはします物から、はな〴〵とにほはせたまへり、うたてゆヽしきまで見たてまつり給ふ、
p.0579 四のみや〈○師明〉は御ぐしはよをろすぎて、はぎばかりなり、御かほつきなど、かばかりのわらはもがなとみえさせ給、
p.0579 齋院〈○馨子〉はをりさせ給にしかば、中ぐう〈○威子〉におはします、ことし〈○長元九年〉ぞ八にならせ給ける、御ぐしはよをろばかりにて、くろき御すがた、いみじう哀なり、
p.0579 入髮(イレガミ)義髻
今世いれ髮といふものは、古の義髻也撰塵裝束抄〈三丁ウ〉朝服の條に、以二他髮一飾二自髮一、是爲二義髻一云々、又〈十四丁オ〉義髻義命之意也、穴云、六位以下著二義髻一、五位以上无レ髻耳、今上髮(カミアゲ)女房所レ用之鬘(カヅラ)也云々、
p.0579 野郎ぼうしは、もと假髮(○○)を制せられたる故なり、〈されども猶かづらをかけたる女形ありと見えて、師宣が畫にあり、〉寛文四年町觸、辰正月八日、堺町、葺屋町、木挽町五丁目、諸芝居仕候者共へ被二仰渡一事、やらう幷女がた仕候役者かづらをかけ申間敷候、但手巾綿ぼうしなどは不レ苦事、狂言づくしは不レ及レ申、淨るり芝居説經芝居、幷舞々芝居、其外諸芝居にて、島原狂言を仕組、傾城の眞似一切仕間敷事勿論、少もつけ(○○)髮仕間敷事、そのかみ傾城買の狂言はやり、是を島原といふ、 ○按ズルニ、義髻、假髻、付髮ノ事ハ、器用部容飾具篇ニ詳ナリ、宜シク參看スベシ、
p.0580 刀鑷工
名物六帖に、增續韻府の刀鑷(デフ)工、堯山堂外紀の刀鑷人を引て、倶にケヌキヤと譯したるは誤なり、カミユヒと譯すべし、其證は、僧居簡が贈二刀鑷工一文に、天台刀鑷工初來レ杭、余髮方壯、鬚矗矗如レ蝟、試二其技一、瑟瑟如二蠶食一レ葉、若レ無レ刀焉云々、〈北磵文集六〉僧大觀が贈二刀鑷一詩に、彈レ鑷山林坰、豪門次第登、技能雖二自負一、心手要二相應一、適意惟杯酌、營レ家只斗升、數煩二來薙一レ我、短雪易二鬅鬙一、〈物初䞉語六〉墨客揮犀に、呼二刀鑷者一、使レ刺二其眉尾一、鄭氏規範に、諸婦不レ得下用二刀鑷工一剃上レ面、山菴雜録に、有二金壇刀鑷蒋生者一、爲レ師剃レ髮、などあるを考ふべし、さて刀は剃刀なり、
附識す、秉穂録云、賢奕編に、鑷工稱二待詔一と、見聞録に、待詔者吾松櫛工之稱也と、二説同じきにや、 按ずるに、倶にかみゆひ也、呉風録に、剃工爲二待詔一とあるも、亦同じものなり、又霏雪録の鑷肆は. かみゆひとこ也、鑷字の義は、唾餘新拾に、呉俗稱二鑷工一爲二待詔一、今剃頭遇レ有二鼻毛白須一、亦兼鑷云、故 有二此稱一、〈髮ゆひならぬものをも、待詔といひたる事、拙著俗語類譯に出せり、〉
p.0580 壹錢職由緒之事
一職分之儀者、文永年中、人皇八十八代之御帝龜山院の御宇、大内北面北小路左兵衞尉從五位下基晴卿、故ありて流浪し、子息三人是あり、嫡子大内藏亮、次男兵庫介、三男采女介と申ける、渡世のため、大内藏亮太物商ひ、兵庫介染物師、采女介儀は、父左兵衞尉養育のだめ、髮ゆいと申事相始、面體顯しがたき義に付、住宅は雨落より三尺張出し、長のふれん四尺二寸縫下五寸、かヾみ障子三尺餘の寸法に相定、渡世致され候うち、父基晴卿經二年月一死去之後、關東鎌倉繁花の時、居住桐ケ谷にて松岡と號し、采女亮七代之孫北小路藤七郎、從二美濃國岐阜一、元龜天正之比、流二浪於遠江國比久間味方ケ原一、東照大權現樣甲駿信之押、武田大膳大夫兼信濃守法姓院機山兵德得榮晴信入道大僧正信玄と御一戰被レ爲レ在、比者元龜三壬申年十月十四日、東海道見附驛之間道 一言坂より池田迄、及二夕陽一、總御同勢共、濱松之御館へ御引揚被レ爲レ遊候時、其日大風雨にて、東海道天龍川滿水にて渡船難二相成一に付、渡守仕候者共、我家々へ引取り、川端に壹人も不二居合一、御渡船難レ被レ爲レ遊候、然る所に、北小路藤七郎行掛候ニ付、奉レ蒙二嚴命一、尤水練功者之事故奉レ畏、則淺瀨踏に御案内奉二申上一候、右ニ付無二御難一濱松之御城に御引揚相濟、御悦喜有レ之、以來諸國關所川々渡場等迄、無二相違一御通し下置候なり、尤其節後殿之儀、本多中務大輔忠勝殿被二相勤一候事、猶又其後三河國碧海郡原之郷迄奉二御供一、其砌蒙二巖命一、東照源大祚君樣奉レ揚二御髮一、當座之爲二御褒美金一錢一錢、御筓一對、榊原式部大輔康政殿御取次を以項二戴之一、以來髮結之總名を一錢と可レ唱者也と蒙レ仰、直に御暇被二下置一、流浪して一錢職分渡世致來候處、其後慶長八卯年、關東武場へ德川樣御入國被レ爲レ在、其砌一錢職分藤七郎、東武繁花之地と相成候ニ付、武藏國芝口海手邊に罷出居住渡世致來候所、其刻預二御召一、先年之爲二御褒美一、青銅千疋、伊奈熊藏殿御取次を以頂二戴之一、愈益一錢職分致來候處、其後萬治年中、嚴有院樣御代、北小路藤七郎四代之孫北小路總右衞門、神田三河町へ引移居住、御府内一錢職分株敷御願申上候處、御糺の上、由緒有レ之に付、御取立被レ爲レ遊御公儀樣御朱印被二下置一、株敷被二成下一、其上尚御燒印之御下札等頂二戴之一仕候ニ付、株敷、補ひ、一錢職分渡世相續致來候處、其後享保年中、有德院樣御代、東都御町奉行大岡越前守樣御役所へ諸職人被二召出一、株敷有レ之者共、夫々之御役儀被二仰付一、其砌一錢職分之者ヘハ、先年神君樣天龍川御難儀之、刻、淺瀨御案内奉二申上一候由にて、御役義御免と被二仰出一候得共、一錢職分之者共、一同株敷被二下置一候爲二冥加一、相應之御役儀奉二願上一候に付、則御聞濟有レ之、以來出火之砌、兩御町御奉行所へ欠付、御記録入二御長持一御役儀相勤、株敷渡世相續致來候事、
嫡男幸次郎、依二幼年一、不レ辨二於職分由緒一、與レ書者也、
享保十二丁未年九月、十二日 北小路宗四郎藤原基之 前書之趣ニ付、諸國諸武家落人百名以上之面々、虛無僧と一錢職分に相成、忍渡世にて、先君へ 召通し、可二相待一者也、以上、
慶長八〈卯〉年、大御所樣於二御前一、本多上野介正純を以、東都酒井讃岐守殿へ仰渡置、此段道中奉行松浦越前守殿へ被二仰逹置一候事、仍而如レ件、
右髮結職と相成、鬢盥持參して渡世之事は、萬治元年八月十六日よりはじまりしといふ、
p.0582 髮結ノ始ハ、寛永ノ比カ、里見家ノ浪人、在々へ陣幕ヲ持アルキ、傍ノ木或ハ竹ナドへ結付、百姓ノ髮ヲ結テ渡世ス、是ハ何國ニテモ構ハズ、只人通リアル所ヲ見カケテスルコトナリ、髮結床ノ長暖簾是ニ本ヅク、其後江戸ノ始、赤羽根ノ床最初ナリ、是モ幕ヲハリテ結ヒタリ、其比是ヲ一文ゾリト云、今モ上總房州ヨリ結髮多ク出ルハ、里見家ノ浪人ナレバナリ、老年ニ及ブト、國へ引籠田地ヲ求メ、其子又如レ斯、是ハ上總房州今ニカハラズトイヘリ、
p.0582 萬治二亥年正月〈○中略〉
一髮結壹ケ年に師匠は金子二兩、弟子ニハ金子壹両ヅヽ被二召上一候間、人數相改、書付ケ上ゲ可レ申事、
一振賣御札被レ下候已後、札なしニ振賣商仕候者於レ在レ之者、御改之上、當人ハ曲事ニ被二仰付一、其上家主ゟ過錢として拾貫文宛被二召上一候間、此旨急度相守可レ申事、〈幷〉髮ゆひ札なし、右同前之事、
正月
p.0582 古著買、煎茶賣、髮結、右は五十歲以下十五歲以上之者、札金出申候、髮結も同時に改め有、かみゆひ壹ケ年に師匠は金貳兩、弟子は壹兩づヽ札錢被二君上一、〈是今いふ萬治札なり、後世役人足を出すものは、札錢の代りなるべし、これのみ今に札を以株とす、〉
p.0582 享保二十卯年二月 大岡越前守殿御差圖
一御當地髮結共不レ殘、向後出火之節、兩御番所〈江〉駈付可二相勤一旨、私役所先代申渡仕、木札出來、越前 守殿御番所御燒印頂戴仕候、
朱書
但此基本ハ、享保六丑年、所々橋臺髮結共、橋火消相勤候旨を以、其外之髮結共、同九辰年、願之 上、出火之砌、兩御番所〈江〉駈付被二仰付一、右等ハ其節札相渡り候趣、其後同二十卯年、橋々受負人 出來ニ付、橋火消御用無レ之旨を以、本文之通、一體ニ御番所〈江〉駈付被二仰付一候儀ニ罷成申候、〈○中 略〉
丑二月 館市右衞門〈○江戸町年寄〉
p.0583 天保十三寅年、髮結出火ノ節、町奉行役所、牢屋鋪、町年寄〈江〉駈付人足差出ス、
須田町貳丁目 忠兵衞店
常吉
此者儀、去丑年十二月中、十組諸問屋冥加上納金御免、都而組合又ハ仲間ト唱候儀、難二相成一旨被二仰出一候ニ付、右御趣意之趣相守、新規髮結床相始、前々有レ之候髮結床之分ハ、壹人分貳拾文ニ候得共、此者儀ハ、拾六文ニテ渡世致シ候趣、諸色掛名主共ヨリ申立候間、呼出相糺候處、相違無レ之、且外髮結之分ハ、是迄出火之節、兩御役所、幷牢屋敷、町年寄〈江〉駈付、人足差出候處、此者儀モ同樣、右人足差出度旨申立候上ハ、差支モ無レ之間、渡世差免、尤直段之儀ハ、可レ成丈下直ニ相成候樣可レ致、
但右申渡之趣、町年寄〈江〉も申渡置候間、同所一〈江〉も相屆ケ候樣可レ致、
右之通、被二仰渡一奉レ畏候、爲二後日一仍如レ件、
右當人 天保十三寅年二月廿八日 町役人
p.0583 天保十三寅年三月
申渡 市中取締掛り
名主共
町々髮結床〈江〉彩色抔致し畫候障子、幷厨樣之暖簾地、或ハ廣棧留等にて文字を縫、又ハ簾等〈江〉手數を懸、景樣を飾候〈茂〉有レ之趣相聞候、右ハ今般厚御趣意被二仰出一候に付ては、無益之儀に付、以後有來候共、堅く相用申間敷候、若相背候もの有レ之候はヾ、當人者勿論、町役人共迄、吟味之上、急度可二申付一候、此旨不レ洩樣、總名主共支配限り、急度可二申付一候、
寅三月
同年四月廿八日 壹番組より廿一番組迄世話掛り
名主共
番外 新吉原品川拾八ケ寺門前
名主共
右者是迄兩御役所、〈○南北町奉行所〉幷牢屋敷近邊出火之節、御用書物爲二持退一、髮結人足駈付候處、都て株立候儀ハ御差止相成候に付、駈付差免候間、以亦出火之節、此もの共平日病氣、又ハ差支之砌、御用取扱候代之もの〈江〉駈付申付候間、兩御役所、幷牢屋敷〈江〉駈付候樣可レ致、尤人數之儀ハ、兼て定置、差支無レ之樣申合、權威ケ間敷儀無レ之樣可レ致、
右之通被二仰付一、組合不レ洩樣可二申通一旨被二仰渡一奉レ畏候、爲二後日一仍如レ件、
壹番組より廿一番組迄組々世話掛り
天保十三寅年四月廿八日 壹人宛連印
番外 新吉原町品川十八ケ寺門前
同斷
右之通、被二仰渡一候に付、駈付人數割合左之通、
南御番所 南方 四番組八人 五番組八人 六番粗八人 七番組十一人 八番組十四人 九番組十三人 拾番組十一人 拾七番組十三人 拾九番組三人 品川二人
北御番所 北方 壹番組十四人 貳番組十一人 拾壹番組十人 拾貳番組七人 拾四 番組二十人 拾五番組二十人 貳拾番組十二人
牢御屋敷 三番組十九人 拾三番組十五人 拾六番組七人 拾八番組五人 廿壹番組四 人 吉原四人〈○下略〉
p.0585 囚人共月代爲レ摘候髮結之儀ニ付取調候趣申上候書付
市中取締掛
在牢囚人、其外遠島もの、幷佐州表〈江〉被レ遣候囚人共、月代爲レ摘候髮結差出方之儀ニ付、牢屋見廻、幷町年寄より申上候書面御下ゲ、勘辨致し可二申上一旨被二仰渡一候間、取調候處、右髮結之儀者、古來之仕來ニ而、牢屋敷より、前日髮結何人差出候樣、月番之町年寄〈江〉相達、於二同所一者、前々より髮結差出來候南北町々之内〈江〉申遣、其町内より月行事附添、牢屋敷、〈江〉差出、代錢之儀者、町内ニ寄、不同者有レ之候得共、凡壹度分貳百文位より四百文位迄差遣候由ニ候處、右ハ髮結共御役ニ相勤候儀ニ者無レ之、町役ニ差出來候儀ニ可レ有レ之哉ニ候得共、今般無代納物、無賃人足等、都而御免被二仰出一、殊ニ町入用減省、地代店賃等引下ゲ方、當時御調中ニ有レ之候上者、以來髮結差出方之儀、牢屋敷より直ニ最寄髮結相雇、其度々人數ニ應、代錢相渡候樣取計、右入用出方之儀者、牢屋敷ニ而取調相伺候樣被二仰渡一、尤右髮結相對雇同樣相成候上者、取締方之儀、精々心付候樣、改而牢屋見廻石出帶刀〈江〉被二仰渡一候方可レ然哉ニ奉レ存候、依レ之御下被レ成候書面貳通返上、此段申上候、以上、
寅四月 原鶴右衞門 安藤源五左衞門 稻澤彌一兵衞
p.0585 天保十三寅年五月
在牢囚人、遠島もの、幷佐州表〈江〉差遣候囚人、月代摘候髮結之儀、牢屋敷より相達、南北町々〈江〉申付、町役にて髮結差出來候處、今般町入用減省調に付てハ、御役にて差出候儀ハ相止メ、以來牢屋敷より最寄髮結相對にて相雇、賃錢之儀ハ、其度々人數に應じ差遣候樣、牢屋敷見廻り石出帶刀〈江〉 申渡候間、右最寄名主共〈江〉申渡、兼て髮結共〈江茂〉爲二心得置一候樣可レ致、
右之通從二町御奉行所一被二仰渡一候間、最寄不レ洩樣早々可二申通一候、
寅五月
右之通、被二仰渡一奉レ畏候、以上、
名主(市中取締掛り 本町三丁目) 文左衞門(/外二人)
p.0586 天保十三寅年十月廿一日
名主共(市中取締懸リ)
一市中場末町々髮結床之内、客込合候節ハ、下剃と唱、妻ニ手傳爲レ致候も有レ之趣ニ候、女共相應之 手業も可レ有レ之處、右樣之手助ケ爲レ致候ハ、渡世柄ニも寄可レ申儀、右ハ男女之差別〈茂〉薄く、風俗に も抅り候儀、早々相止可レ申候、若相背候者有レ之候ハヾ、吟味之上、急度咎可二申付一候、此旨渡世之者 共〈江〉不レ洩樣可二申聞一候、
右之通、被二仰渡一奉レ畏候.仍如レ件、
寅十月廿一日 名主(市中取締懸り總代 深川熊井町) 理左衞門
同(牛込改代町) 三九郎
同(小石川金杉水道町) 市郎右衞門
p.0586 四月(朱書)〈○嘉永四年〉十九日御直上ル、翌廿日御下ゲ、同廿一日朱書下ゲ札致し上、翌廿二日思召無レ之御下ゲ、
髮結職之もの、御用筋相勤候起立之儀、寛永十七辰年六月、其頃之御奉行神尾備前守殿、朝倉仁左衞門殿、御番所〈江〉被一召出二、町々御入用橋、左右六町之髮結〈江〉見守被二仰付一、燒印札御渡被二下置一候由申傳、丑年御改革前迄、稀に左之通札所持致し候者有レ之候由、尤其節古燒印札之分も、町年寄〈江〉相納 候趣ニ御座候、
寛永十七年
仁左 御剣
〈庚辰〉六月朔日
髮結札
備前 御判
駿河町 淸兵衞
明暦三酉年大火之後、橋見守中絶致し、髮結共稼場混亂致し候ニ付、萬治二亥年三月、神尾備前守殿、村越治左衞門殿、御番所〈江〉願出、改御渡被レ下候燒印札、是を萬治札と相唱候、〈○中略〉
一享保度御渡之前、燒印札御改革前迄之品ニ御座候、札數九百六十七枚、人數七百七十人有レ之候 處、其後追年相增、
去ル寅年、組合御停廢之節返納、
一札數千四枚
右髮結職御用筋相勤候起立ニ而、其餘髮結職之儀ニ付言上帳、付手形帳等有レ之候得美、强而見 合ニ者難二相成一候間.書拔不レ申候、
今般問屋組合再興ニ付、髮結共床取拂切ニ成、又者新規ニ相增候も不レ尠候ニ付、新古混じ合、再 興現在之廉、紛敷儀も可レ有レ之、如何ニも大勢之儀、旁凡之目當取調置候樣、御沙汰之趣を以、左ニ 申上候、
一出床凡六百六拾ケ所餘 丑年前之高
此出床と唱候ハ、町境往還之内、又者橋臺、或河岸、他廣場等見守番致し候髮結床ニ御座候、
一内床凡四百六拾ケ所餘 此内床と唱候ハ、沽劵地貸店之内、借家致し候髮結床ニ御座候、〈○下略〉
p.0588 亥(朱書)〈○嘉永四年〉七月廿五日、淺野治兵衞を以上ル、翌廿六日都而申立候通、可二相心得一旨、同人を以被二仰渡一候ニ付、其段申渡、
髮結持主
上 帳元共
乍レ恐以二書付一奉二申上一候
一本小田原町壹丁目庄三郎地借髮結庄吉外四拾八人奉二申上一候、私共職分再興御沙汰被二成下置一、 一同御慈悲難レ有仕合奉レ存候、然ル處、市中賣買諸色直段引下ゲ之儀、乍レ恐厚御沙汰被レ爲レ在候間、 去ル寅年中、髮結錢之儀も、床ニ而壹人壹度結廿八文之處、直下ゲ廿文ニ可レ仕旨申上候處、其後 下職共區々ニ而、追々廿八文ニ相成候間、下職共〈江〉引下ゲ之通リ可レ致旨心付候得共、手廣之御 時節故、一己存分之稼仕取用不レ申、奉二恐入一候儀ニ者御座候得共、同職談合仕候儀も行屈不レ申候 間、麁漏ニ成行奉二恐入一候處、今般再興被二仰付一候ニ付而者、四拾九組取極候ニ付、私共下職より受 取候揚錢之儀者、去ル子年中迄之格合より三割減、新床之分者三割五分減じ、又髮結錢も減方 左之通り引下ゲ、已來下職末々迄、堅く相守候樣仕度、私共持場數ケ所之内、最寄見計、四ケ所引 下ゲ方、左ニ奉二申上一候、
一床壹人壹度結
錢廿八文之處 錢廿文 貳割八分餘減
一廻リ丁場壹ケ月拾五度結 但隔日
錢四百文之處 錢三百文 貳割五分減
一右同斷 但六-度結
錢百四拾八文之處 錢百文 三割減〈○中略〉 朱書
新床之者揚錢勘辨方
上 髮結持主共
此度髮結再興被二仰渡一候ニ付、市中髮結持主共、下職と之間柄取計振奉レ蒙二御尋一候ニ付、左ニ奉二申上一候、
一新規之者對談行屆、揚錢受取候上者、自然新床之分、新規修復等之砌ハ、揚錢高ニ應じ、新床借家 之分者、見世丈之建坪等を見計、相當ニ割合、持主より出銀仕、新規修復致し候心得ニ御座候、
一揚錢之儀者、子年格合目當より者三割五分減じ請取候趣申上候、乍レ倂場所ニ寄、下職相續相成 候樣、減方之見取可レ仕旨、持主共兼而厚申合仕候、
右御尋ニ付、乍レ恐奉二申上一候、以上、
本小田原町壹丁目 庄三郎店
亥八月 庄吉印
湯島天神門前町 家主
榮三郎印〈○中略〉
朱書
今般新床之儀ニ付見込伺濟
一新規髮結床
此儀出床者稀ニ而、沽劵地を借、下職之者、新ニ内床を取立候分ニ有レ之、素より揚錢者無レ之筈之 處、前文之通、有來髮結床下職之ものより、町役人等〈江〉揚錢致し候振合を及二見聞一、新床之譯を以、 其地面之家主、又者家主一同〈江〉揚錢致し候類、押廣まり候趣に有レ之、右者今般爲二相止一候者勿論 之儀、新床之分者、現在之廉を以、其儘ニ居置、丁場境目相立、床主ハ相分り居候儀ニ付、右之株主 〈江〉相對を以、輕キ揚錢爲二差出一候ハヾ紛敷義無レ之、且町内〈江〉之出錢相止、床主〈江〉之揚錢と振替り 候迄ニ付、下職之もの難澁を可レ唱筋有レ之間敷、尤以來駈付、其外仲間入用ハ相掛可レ申候得共、此 度不慮ニ幸ひを得候儀ニ付、苦情可レ申筋もなく、且新床之者、右株之手ニ附候儀を拒、自分〈與〉株 主ニ可二相成一抔、我意申張候者は、新床爲二相止一儀〈與〉相心得爲二取調一候積り、倂自立之中ニ者、今般仲 間入難レ成程之身薄之ものも可レ有レ之、右ハ新床相止、床主之手ニ附候得者、夫迄之義ニ而、元床主 者、自分持場内〈江〉新床出來候得者、夫丈之助成を失ひ候姿に御座候處、新ニ揚錢を取候上者、雙 力差繼、如レ元再興可二相成一義と奉レ存候、
p.0590 髮結床株質證文
床株質入證文之事
一誰組何橋何詰何側ニ有レ之候髮結床壹ケ所株共、我等所持ニ御座候處、當何ノ何月より來何ノ 何月迄、銀何程之質物ニ差入、則銀子慥ニ諸取申處實正也、尤利銀壹ケ月ニ何程宛、毎月晦日無二 遲滯一相渡し可レ申候、
一御公役幷諸懸り物、萬事此方より相勤可レ申候、萬一元利相滯候ハヾ、右床株共致二帳切一、無二異儀一相 渡可レ申候、爲二後日一床株質入證文、仍而如レ件、
質入主
年號月 何屋誰
組頭
何屋誰
何屋誰殿
p.0590 篦頭舖(カミユイドコ/○○○)
史進青龍(ホリモノ)九紋翻レ風、忠常紅炬(タイマツ)一把揮レ日、布帷紙障、綵畫爛發、各作二記識一以爲二招牌一、戸内一邊具二沐盤水甕等物一、一邊安二胡床一、以待二來客一、舖主曰二親方(オヤカタ)一、助レ業者曰二剃出(スリダシ)一、〈劇鋪一レ之三レ之〉中央安二置一箇剃櫛具匣一、二人夾レ匣而立焉、其人多蓬髮刺髭、居二其職一然不レ修二之於其身一、與二諺所レ謂儒者不レ修レ身、醫者不養生一、一同二軌轍一、初下レ篦必自二左鬢一、先略二櫛亂髮而始行二剃刀一、有二從レ頂者一、有二從レ腮者一、客聽二剃出之命一、頂腮全剃、遂把二密篦一極レ力剔 レ垢、索以絞二上餘泥一、更爪二髮根一數搔取レ癢、客叫レ快、遂向二頂上一潑二水少許一、揑レ巾拭レ之、客又叫レ快、乃令二客更自澡一、髮間爽凉淸剃生レ光、初櫛至レ此剃出主レ之、客遂以レ頭託二親方手一、親方更操レ刀虛剃、撫以示二丁寧一、始施二香膏一、密篦復篦、又用二疏篦一總二會衆髮一、括以二假綸(カリユイ)一、又膏又櫛、終用二掠頭一緊括作レ髽、向レ前屈レ之、還挽二寸許一出二之於後一、謂二之麻結(マゲ)一、麻結有二數種一、曰二銀杏(イテウ)一、曰二子麻結(コマゲ)一、曰二丸麻結一、曰二知餘侔麻結、曰二本田(ホンダ)一、曰二他發年(タバネ)一、曰二比加越(ヒカヘ)一、曰二若追志(クヅシ)一、二十八錢從二客好一、雖二貴客一加以二四錢一而已、無乙如下混堂收二五節錢一外、菖蒲、忍冬、桃湯等別爲中貪レ錢工風上者中、獨年頭剃、客皆投二賀錢一、謂二之初剃一、自下雖二貧者一投中一二緡上、〈居士頭在二一二緡列一、〉至三豪客擲二數銀一、〈○中略〉聞篦舖今在二額内一者九百六十四戸、中分レ社四十八、額外者無慮餘二二千一、則通二内外一、其數凡三千戸、舗以二業繁一殿最爲レ差、其値率自二二三百金一階上二一千金一云、且毎舗別遣二一二人一、追戸售レ業謂二之循篦(マワリ)一、〈○下略〉
p.0591 江戸前髮結床は、別に安いと云は叮嚀なり、首筋耳の穴まで、細き剃刀にて自在に剃るなり、毛剃叮嚀にして渡す、床主又剃刀にて淸剃して、すくこと凡四五返にて、垢もふけもなき迄すき、それより油〈上方の 付也〉を附て又すき、然ふして結ふなれば、上方の存在なる、髮月代とは雲泥の相違なり、あはれ上方もこふありたきものなりかし、
p.0591 木曾道中の髮結床の障子に、そるは千年、髮(かみ)は萬年と書しもをかし、
p.0591 現金かけねなしの、かけ賣不レ仕候のと、いへるはきヽたれど、髮結床の定書ほどをかしきはなし、懸職一切不レ仕候、又青山の菓子屋の見世に、居喰不レ仕候もをかし、
p.0591 此二十年來、〈○寛政以來〉女髮結といふ者出來たり、遊女は此女にのみ結することのよし、此已前より女髮結ありしことにや、予〈○小川顯道〉しらず、此比は江戸町々、其日暮しの婦女迄も、結する事に成けり、油元結等は此方より出し、一度の結賃百文づヽなり、昔より相應に暮す者の婦女は、毎朝髮結粉飾する事にて、今以かはらず、右髮結に委ぬる者は、持髮とて五六日に一度結よし、上方筋は一ケ月に壹兩度も結ふよし.度々結ふものをばふたしなみと笑ふことなりとかや、され ど女髮結ひに委ぬる事には有べからず、自分々々にゆふ事なるべし、近き年は、四民とも髮結事のみにあらず、上方邊の惡風俗にうつウ、人氣甚いやしくなれり、
p.0592 堺町近邊の三光新道に、下駄屋のお政とて、髮結錢百銅にて結しも、今は類多き故か、十六銅にて結ふも有とぞ、
p.0592 寛政七卯年十月
口逹
前々より女髮結と申、女之髮を結ヒ、渡世にいたし候ものハ無レ之、代錢を出し結せ候女も無レ之處、近頃專ら女髮結所々ニ有レ之、遊女幷歌舞妓役者女形風ニ結立、右ニ准じ、衣類等迄花美ニ取飾り、風俗を猥し、如何ニ候、右爲レ結候女之父母夫等、何と相心得罷在候哉、女共萬事自身に相應之身嗜を可レ致義、貴賤共可二心掛一事ニ候、以來輕きもの之妻娘共、自身女髮結に結せ不レ申候樣、追々可二心掛一候、是迄女髮結渡世にいたし候者、家業を替、仕立物洗濯、其外女の手業ニ渡世を替候樣、是亦追々可二心掛一候、
右之御口逹を、町々〈江〉申渡候樣にとの御沙汰ニ候事ハ、女髮結忽ニ相止候而者、不二結習一女共も、差當り困り可レ申、女髮結渡世にいたし候者も、今日より暮方ニ差支可レ申間、追々渡世を替候心懸い、たし候樣ニとの御義ハ、全御慈悲ニ而、外渡世ニ移候樣、心懸候樣にとの御事ニ有レ之間、此段を相辨候樣、委敷敎聞せ可レ申事、
卯十肩三日
p.0592 天保十三寅年十月
女髮結當分御仕置改革之儀ニ付町奉行伺濟
一髮を結、渡世同樣にいたし候女、重敲同等之當を以、百日過怠牢舍、 一右親夫等 申渡背之廉ニ〈而〉過料三貫文、同等之當を以三十日手鎖、
一右家主 右同斷過料三貫文
一髮爲レ結候女 是ハ髮を結渡世ニいたし候ものより品輕き方ニ付、三十日手鎖、
一右親夫等 申渡背之廉を以、過料三貫文、
右之通申付候積、町奉行衆相伺候處、伺之通可二取計一旨、越前守殿〈○老中水野忠邦〉御書取を以被二仰渡一候事、 但伺書ハ、法曹之帳ニ有レ之候事、
天保十三寅年十月
嘉永六丑年五月三日
女髮結之儀ニ付御敎諭
世話掛 市中取締掛
名主共
近年女髮結流行致し、奢之風俗に成行候ニ付、急度爲二相止一候樣、去子年申渡、其後相背候者共ハ召捕、吟味之上、嚴重之御仕置申付、一旦ハ相止候得共、追レ年相弛、當時ニ至、忍候〈而〉右渡世致し候もの有レ之候段、其筋達二御聽一、御沙汰有レ之候ニ付、夫々探索および候處、總人數千四百人餘も有レ之哉ニ相聞、以之外不二相濟一儀ニ付、直ニ吟味之上、嚴重之咎可二申付一處、何れも困窮ものニ〈而〉、當日之營ニ差支、無レ據右渡世致し、聊之賃錢を取、漸取續罷在候者共ニ〈而〉、欲情ニ泥致し成候儀ニハ無レ之、殊ニ内密調有レ之旨及レ承、右渡世相止候由にも相聞候間、其段申上、全風聞迄之儀ニ付格別御宥恕之譯を以、此度之儀ハ吟味之御沙汰にハ不レ被レ及候、右之通、追々超過致し候迄、其儘ニ致置候ハ、町役人共ニおゐても、心付方不行屆候、元來婦女子行狀ニおゐてハ、自分と身だしなみ可レ致ハ勿論之儀、女髮結有レ之候故、賃錢を費し、髮をも爲レ結、遊惰之所業に流れ、奢侈之基ひに相成候故を以、旣ニ懲惡之ため、先年嚴重之御仕置等被二仰付一候儀ニ〈而〉、畢竟爲レ結候者有レ之故、渡世致し候者も出來致し、法令 を背候趣意ハ同樣ニ付、吟味取掛候節ハ、爲レ結候者も、是又咎候ハ難レ遁筋ニ有レ之處、素下賤之婦女子、何之辨も無レ之、程經過候得バ、不レ苦樣ニ心得違致し、終にハ隻方共、咎等諸候樣成行候ハ不便之事ニ候、諸事細微未發之砌相制候得バ、咎等諸候者もなく、簡易に取締も行屆候處、捨置候内、手廣に相成、年月を經候得バ、嚴禁を犯しながら常の産業の樣ニ相心得、調等受候節に至候〈而〉ハ、俄に渡世を失ひ候樣苦情を唱候ハ、下々之情態に〈而〉、其弊深ク容易ニは難レ止候、都〈而〉觸申渡之行屈候と不行屆等の界ハ、全名主共心附方の厚薄により候間、其邊の儀厚相心得、以後御制禁の渡世不レ致樣可二申諭一、尤名主共の内、御用向取扱、格別精勤之ものも有レ之、又ハ未熟の勤方致候者も不レ少哉ニ相聞候處、譬バ一方に〈而〉ハ、差はまり世話致し、一方等閑ニ致置候樣に〈而〉ハ、取計方區々ニ相成候故、人氣一致不レ致ゆるやかに捨置候を歡び、取締向世話行屆候方を、却〈而〉相恨候事情ニ付、志厚ものも終にはたゆみを生じ、流弊に任置候樣成行候間、一通ニ〈而〉ハ御趣意貫通致兼可レ申候、依レ之以來之儀ハ、毎月初旬定日を極、名主共宅〈江〉、銘々支配町々家圭ハを呼寄、支配内に御法度之渡世致し候者無レ之哉否、得と承糺、若紛敷儀も有レ之バ、得と致諭を加へ、其上にも不二相用一候ハヾ、召連訴出候共、又ハ書面を以申立候共、其時宜次第取計、組合内たり共、聊無二遠慮一心添致し、不取締之儀無レ之樣、此末風聞不レ受樣、精々世話可レ致候、
丑五月
p.0594 女剃師(カミユイ)
女剃師、梳粧素淡、絅(ウヘニシ)二單衣一抱二巾箱(クシバコ)一、急遽飛レ屐、東西莫レ不二奔走一、予〈○寺門靜軒〉尚幼矣、自レ今廿年前之世〈○文化〉雖レ有二此女業一、寡而其賃甚貴、賤不レ下二五十錢一、今則漸滋、逹二於陋巷窮閭一、莫レ不レ有焉、賃亦從賤、大抵三十二錢、最賤十六文、嗟乎雖二生而貴一、執二巾櫛一從レ人者女流本事、乃今匹夫之妻、或不四復知三自理二頭髮一、豈可レ不レ謂三太平膏澤及二婦人頂門上一乎、傳云、公握レ髮起、周世之昌、周公之貴、蓋猶似三自沐二櫛其髮一、何其陋乎、如使三公生二 于我今盛世繁華中一、一沐三起亦不レ敢矣、
p.0595 治レ髮令二生長一方第一
病源論云、髮是足少陰之經血所レ榮也、血氣盛則髮長美、若血虛少則髮不レ長、故須二以レ藥治レ之令一レ長也、治レ髮令レ堅方第三
延壽赤書云、大極經曰、理髮宜下向二天地一當レ數易上レ櫛、櫛虧多而不レ使レ痛、亦可レ令三待者櫛之取二多佳一也、於レ是血脉不レ帶、髮根當レ堅、
p.0595 天安元年三月辛丑、太政大臣裏〈○裏一作レ重〉表曰、臣良房言、〈○中略〉臣拔レ自二常才一、忝二此重任一、〈○中略〉上爲二國家一、下爲二己身一、寢食輙減、初感二泉企之得一レ官、頭髮倂華(○○○○)、偏同二韋誕之題一レ殿、
p.0595 忠言有レ感事
同キ〈○北條泰時〉御代官ノ時、鎭西ニ父ノ跡ヲ兄弟相論スル事アリケリ、父貧クシテ所領ヲウリケルヲ、嫡子カシコキモノニテ、マヅシカラヌマヽニ、コレヲ買テ、還テ父ニシラセケハ、カヽリケルホドニ、イカナル子細カアリケン、弟ニ跡ヲサナガラ讓ヌ、兄關東ニテ訴訟ス、弟召レテ對決ス、兄嫡子ナリ奉公有リ、申所道理アレドモ、弟讓文ヲ手ニニギリテ申上ハ、共ニ其イハレアリ、成敗シガタシトテ、明法ノ家ヘタヅ子ラル、法家ニ勘へ申テイハク嫡子也、奉公有トイヘドモ、父スデニ弟ニ讓ヌ、子細有ニコン、奉公ハ他人ニトリテノ事也、子トシテ奉公ハ至孝ノツトメ也、弟ガ申所道理ナリ、仍弟安堵ノ下文給テ下リヌ、泰時コノ兄ヲ不便ニ思ハレケレバ、自然ニ闕所バシモアラバ、申アツベシトテ、我内ニオキテ衣食ノ二事思アテラレケリ、名人ナル女ヲカタラヒテ、アヒスミケルガ、彼女モマヅシキモノナハケル事ヲ、雜談ノ次ニ人々申出テ、アノ殿ノ女房ハ、イタヾキニ毛一モナキ(○○○○○○○○○○)トコソ承ハレト云、泰時イカニト問ハル、二人ナガラ、マヅシク候ホドニ、下人ハ一人モ候ハズ、ワレト水ヲクミ、イタヾキ候ホドニ、頭ニハ毛一モナキトコソ承ハレトテ、人々ワラ ヒケレバ、アハレナルコトニコソトテ、ウチナミダグミテ、事ニフレテナサケアリテゾハグヽマレケル、サル程ニ本國ニ闕所有ケル父ガ跡ヨリモ大ナル所ヲ、秋ノ毛ノ上ヘヲ給テ下ルベキニテ有リケレバ、用途馬鞍ナンド沙汰シタビテ、イカニ女ハグシテ下ルベキカト問ハル、コノ二三年ワビシキ目ミセテ候ツルニ、具テ下候テ、早ク飯クハセテコソ、心ハ慰候ハンズレト申ケレバ、イミジク思ハレタリ、ナサケノ色返々哀トテ、女房ノ出立モセヨトテ、コマ〴〵ト馬鞍用途マデ沙汰シタビケリ、有難キ賢人ニテ、萬人ノ父母タリシ人也、
p.0596 髮切(○○)
元祿のはじめ、夜中に往來の人の髮を切る事あり、男女共に結たるまヽにて、元結際より切て、結たる形にて土に落てありける、切れたる人曾て覺へなく、いつきられたるといふをしらず、此事國々にありける中に、伊勢の松坂に多し、江戸にても切れたる人あり、予がしれるは紺屋町金物屋の下女夜物買に行けるが、髮を切れたる事いさヽかしらず宿に歸る、人々髮のなきよしをいふにおどろき、氣をうしなひたり、その道を求るに、人のいふに違はず、結たるまヽに落てありける、其時分の事なり、
p.0596 四五月〈○明和五年〉の間、髮切りはやる、〈人々の髮自然と脱落す、是を髮切と云、〉
p.0596 髮きり
くすしのとぶらひてかたらふをきけば、此ごろ東の臺にものヽけの侍りて、をうなの髮きられたり、かうやうのこと世にもおこなはれはべるといふを、さる事はをこのものヽいひのヽしるわざにて、まことにはあらじと聞すぐしはべりし、その夜また人のとぶらひて、大みきくみなどしけるに、いぬきがあらぬこそあやしけれと聞えければ、よべよりつぼねにありと聞ゆ、まろうどのまうで給ふに、かヽるわたくしのいとなみこそうしろめたけれと、刀自がいましめをもえ きかでさて有けり、よふけて刀自がつぼねへ來たり、人々はやふしたまひぬ、おこともふしねといふに、おどろきて、いぬきもわがへやへ行ければ、刀自はおのがふしどにいりにけり、やヽありていぬきが聲して、あはやとさけべども、例の翁丸がものむさぼりに來るなめれと驚かで、刀自はかうよりに火ともしにかしこへ行て、いぬきがたえいりたるかたへに、黑かみのおちゐたるを見て、すはものヽけこそあなれとよばひけるにおどろかれて、とみにはしりつどひて、引たてたれど、いぬきはつや〳〵ものもえいはず、いざりいでヽよヽとなく、ことのやうをとひはべれば、たヾ物のありて、かたのあたりへさはりけるやうにおばえけるに、はや髮はきられたりければ、絶いりつと、わなヽく〳〵かたりける、かヽる事は野ぎつねなどのわざにて侍るよし、人の申ければ、
まだきにもきつにはめけりうば玉の夜もふけぬまに落る黑髮
享和元冬 間宮士信識
p.0597 文化七庚午年四月廿日の朝、下谷小島氏〈富五郎〉家の婢〈小女なり〉朝起て玄關の戸を開んとせしに、頻りに頭童く成樣に覺えしが、忽然として髮落たり、分々の髮切れたるは、ねばりけ有に、臭氣あるものなれど、左にはあらずと云、〈去年小日向七軒屋敷間宮氏の婢のきられしは、宵よりしきりにねむけ有てきられしと云、〉
p.0597 剪髮(カミキリ)
甲午夏、忽傳、有レ妖剪二人辮髮一、婦女割二其衣底襟一、一時驚喧、官捕無レ獲、久レ之漸懈、而妖亦絶、方其擾也、兵部侍郎何公之婿某、適出レ門送レ客、忽狂奔不レ止、僮僕挽レ之不レ及、尾行十餘里、進二内城一至二東單牌樓一、道旁有飮馬、汚水滿レ溝、某俛レ身掬飮、遂倒レ地臥不レ起、市人聚觀、見二其冠服鮮好一、兩目瞪視不レ能レ言、相顧莫レ測、已而奴僕追至、覓レ車載歸、及二撿視一、辮髮則其半烏有矣、以二冷水一沃レ之、復噀二其面一、中夜甦、而言曰、初送レ客升レ車欲レ返、見下著二繭紬長衫一人上、戴二草笠一、黑面短髯、立二數武外一對レ之而笑、心中、已搖々無レ定、渠忽轉レ身招 レ手前行、予不レ覺從レ之走、極力奔馳、相去只數武、卒莫二能及一、小住歩、則又轉レ身擧レ手招レ我而笑、又不レ覺隨レ之去、經二過衢巷一、了無レ所レ覩、兩傍都作二肉紅色一、中一線路、亦無二一人一、惟戴レ笠者在レ前、行多時、渇不レ可レ耐、見二道傍有一レ水、急俛而飮レ之、初不レ知二其臭穢一也、其人來力輓、倐一挂杖老人喝レ之、遂不レ見、予已臥不レ能レ起、張レ目四顧、則闤闠喧塡、車馬奔驟矣、但四肢倶輭、欲レ言舌本强、不レ可レ挽耳、後亦平復無レ他、〈淸天漢浮搓散人戯編秋坪新諸卷二〉
p.0598 一ある人のめしつかひける下女、日くれて閨に入て髮を梳りぬ、灯もなくてくらかりしに、けづる度に髮の中より火焔はら〳〵とおつる、おどろきてとらんとすればきえてなし、又梳れば又出る、螢などのおほくあつまりて、飛散(とびちる)がごとし、件の女はしりてあるじにうつたふ、一家こと〴〵くあつまり見て、ためしなき物のけなりとて、彼女を追うしなふ、女なく〳〵まどひありきけるが、如何はしたりけん、富家の妻と成て子孫さかへけるとぞ、代醉編に、王行甫がいひけん、家兄嘉甫が衣を解は、つねに火星まろび出る、又頭を梳れば髮髻の中より品熒流落す、これは陽氣茂熾の給也、貴徴にあらざれば壽徴なりと有、件の女すこしもたがわず貴徴にやとおぼふ、又博物志に、積油滿二万石一自然生レ火といへり、むかし晉の武庫やけぬるを、張華油幕万匹を積める故也といふ、此等をもて見れば、女つねに髮に油をつけぬるが、濕熱にむされて髮髻より火星いでけるにや、しからば女ごとにしか有べきに、いづれいぶかしき事也、
p.0598 和田東郭
一閑齋〈○松原〉門人橋詰順治、治下一婦人頭髮發レ火(○○○○○○)、毎レ梳レ之覺二火氣一、至レ夜卽見上レ光、與二三黄加石膏湯一痊、予親見二一婦一、歸レ家衣裏有二爆響一、投二之暗處一皆見レ火、此皆肝火之所レ爲不レ足レ怪矣、
p.0598 木村〈○重成〉が首を、御前〈○德川家康〉に出すに、髮にたきしめし奇南香(○○○○○○○○○○)の薫ぜしかば、御感あり、
p.0599 一孝德天皇詔りして、凡死せる者の髮を剃、所々猥に埋む事を禁ぜられしも、末世には知る人なし、
賢按、今の庶人悉く剃髮させる事は、切支丹御吟味已來、浮屠氏の手に渡り、宗旨改の掟より、旦那寺髮剃といふ事始しよし、其以前は百姓共、村はづれの入會の地へ穴を堀、同穴とて一所に葬し事也、尤銘々墓印の石碑等もなし、板佛といふことのあれども、是も上へ建るものにてなし、埋候上へ入て、土中へ埋る事也、
p.0599 享和二戌年五月
町觸
近頃女子之髮之飾に縮緬之色切を裁切、又ハ絞などいたし候切を、髮之飾に用候やうに拵賣出候、有來元結類之紙細工にいたし候、切類に而拵賣出候も、決而いたす間敷候、此旨町中可二觸知一者也、
戌五月
p.0599 五味蔓を以て、〈○註略〉今男女盛に髮をかたむ、是も中世よりせし事と見へたり、比日は三州某の谷、びなんかづら取盡しけると、京師難波東都はさら也、所々の都會及び田舍のすへ〴〵に、婦人是を用ひざるはなしとかや、是も又一時の笑草といふべきにや、
賢按享保の頃、予が見し時のびなんかづらは、髮を固るものにてはなし、男女とも髮を結上げ て、艶を出すに、上へ引事なりし、元文の頃より一變して、透油のこどくゆるきびん出しといふ 油はやりて、段々びなんかづらすたりて、今はびなんかづら賣ものもなし、びなんかづらを出 すかづらつぼといふ燒物の、灰吹のごとくなるものありしが、いつとなく此品も今はすたり たり、今もびなんかづらを看板に出し置は、兩替町の下村が見世計なりしが、今は有やなしや、
p.0600 今世に、こと男したる女をとらへて髮切(○○○○○○○○)事あり、さる事もいにしへより有けることにこそ、新續古今に、
あひしれりける女の、おとこに髮切られぬときヽて、つかはしける、大藏卿胤材
ちはやぶるかみもなしとかいふなるをゆふ計だに殘らずや君、とあり、ゑぞが島といふ所には、女のふた心有ものは、とらへて髮を燒つくすとかや、近頃商人般に乘て、とほつあふみの海をわたりける人の、はやちに吹れて、蝦夷島に流れ行けるが、彼島にひとヽせ計居て、さる事ども見けるが、歸りて後物がたりしけり、
p.0600 男に髮切られし女
實方家集に、小一條院に宮内といふ人、男に髮きられたりときヽて、
よそながらきえみきえずみある雪のふるの社のかみをこそおもへ、と有、こは今世にも例あること也、
p.0600 婦人貞操の爲に髮を截る(○○○○○○○○○)
夫うせて妻髮を截るは、古今の通義なり、又貞操義心の爲にする事、今も往々聞ゆ、
p.0600 女子髮を切て男に送る事
今俗男女口舌を生、じ、或は心を通ずるに、髮を切て男に送る事あり、通鑑綱目四十三〈百五十八丁ウ〉唐玄宗天寶五年の條に、楊貴妃忤レ旨遣二歸於外舍一之後、妃對二使者一涕泣曰、金玉珍玩皆陛下所レ賜、惟髮者父母所レ與、乃剪二髮一繚一而獻レ之と見ゆ、
p.0600 羅漢祖師の頂を高く繪る畫、木にきざめるも、寄所ありてなり、總て物に工夫をこらし、晝夜寢ぬ事の多くなれば、自然と頂ぬけ上りて、高くなるものなり、
p.0600 婆體三千丈 松平肥後守足輕見部源八妻つるといふ者、もと相州出生のよし、一體血の道持病にて、兎角氣をふさぐ證なりしに、三十五六歲の頃より頭髮常より殊の外伸び、五十五六歲に至り、凡髮の長さ六尺餘りに成り、結びし餘り疊を曳ごとくなれども、固より病證なればにや、少しも無理におさめなどすれば、卽時に氣分あしく、夜分なども臥せる夜具など疊みし上に倚かヽり、漸々眠に就けり、さるあひだ食事の世話などはせしかど、他行は決して許さヾりしよし、是亦一奇病なるべし、
p.0601 頾〈子之反、平、口上毛、加美豆比介(○○○○○)、〉
p.0601 髭鬚 説文云、髭〈子移反、和名加美豆比介(○○○○○)、〉口上鬚也、鬚髯〈上音須、下音冉、和名之毛豆比介(○○○○○)、〉頤下毛也、
p.0601 所レ引須部文、原書髭作レ頿、按玉篇云、頿或作レ髭、原書鬚作レ須、按須本訓二頤下毛一、借爲二 字一、故須髮之須、俗從レ髟也、釋名、口上曰レ髭、髭姿也、爲二姿容之美一也、〈○中略〉鬚俗須字、髯同レ 並見二廣韻一、原書云、須面毛也、又云 頰須也、二字異レ訓、此鬚髯二字連文、訓二頤下毛一、與二原書一不レ同、按禮記禮運正義引二説文一、作三鬚謂二頤下之毛一、其訓與レ此合、今本説文作二面毛一恐誤、然單訓二鬚字一、不レ連二訓髯字一、釋名亦云、口上曰レ髭、口下曰二承漿一、頤下曰レ鬚、在二頰耳旁一曰レ髯、然則鬚左二頤下一髯在レ頰、不レ在二頤下一、源君連引非是、但郭璞注二西山經一云、髯咽下須毛也、與二説文釋名一異、釋名又云、鬚秀也、物成乃秀、人成而須生也、亦取下須二體幹長一而後生上也、又云、髯隨二口動搖一冉々然也、
p.0601 髭〈音茲、カミツヒケ、ヒケ、〉 〈正〉 、 、 〈俗〉 〈音、須ヒケ、頿〉〈或〉〈和ミ、〉 髯〈如占反、頰毛、ヒケ、髯、シモツヒケ、ホヽカミ、〉
p.0601 髭〈カムツヒゲ、亦作レ 、〉 頿〈同〉
p.0601 鬚髯〈シモツヒゲ〉
p.0601 鬚(ヒゲ) 髭〈二字義同〉
p.0601 髭(カミツヒゲ) 〈口上鬚也〉 鬚(シモツヒゲ) 〈頤下毛也〉 髵(ホウヒゲ)
p.0601 かつらひげ 源氏に見ゆ、鬘鬚の義也、細流におもづらひげ也といへり、
p.0602 一鬚〈シタヒゲ〉髭〈ホウヒゲ〉文字不レ同、詩文にも倭俗つかひ誤りて、笑しき事間々あり、
p.0602 傀儡子 中原廣俊
賣レ色丹州容忘レ醜、〈丹波國、傀儡女、容、白皆醜故云、〉得レ名赤坂口多レ髭、〈參河國赤坂、傀儡女中、有二多口髭之者一、號二口髭君一故云、〉
p.0602 故各隨二依賜之命一、所二知看一之中、速須佐之男命、不レ知二所レ命之國一而、八拳須(○)至二于心前一、啼伊佐知、伎也、〈自レ伊下四字以レ音〉
p.0602 須は鬚の本字にて、説文に面毛也と注せり、〈漢書註には、在レ頤曰レ須、在レ頰曰レ髯などあり、○中略〉或人、比介(ヒゲ)は鰭毛(ヒレグ)の意と云り、然有むか、又秀毛ヒデケ()にてもあるべし、
p.0602 一書曰、〈○中略〉是時素戔鳴尊年已長矣、復生二八握鬚髯(○○○○)一、雖レ然不レ治二天下一、常以啼泣恚恨、故伊弉諾尊問之曰、汝何故恒啼如レ此耶、對曰、吾欲從二母於根國一、只爲レ泣耳、伊弉諾尊惡之曰、可二以任レ情五一矣、乃逐レ之、〈○中略〉
一書曰、素戔鳴尊曰、韓郷之島是有二金銀一、若使吾兒所レ御之國、不レ有二浮寶一者未二是佳一也、乃拔二鬚髯一散之、卽成レ杉、又拔二散胸毛一、是成レ檜、尻毛是成レ柀、眉毛是成二櫲樟已而定二其當一レ用、乃稱之曰、杉及櫲樟此兩樹者可三以爲二浮寶一、〈○下略〉
p.0602 大納言坂上大宿禰田邑麻呂者、出レ自二前漢皇帝廿八代一、〈○中略〉大將軍身長五尺八寸、〈○中略〉目寫二蒼鷹之眸一、鬢繫二黄金之縷一、
p.0602 貞觀二年十月三日己卯、正五位下行内藥正兼侍醫參河權守物部朝臣廣泉卒、廣泉者左京人也、〈○中略〉廣泉藥石之道、當時獨歩、齡至二老境一、鬚眉皎白(○○○○)、皮膚光澤(○○○○)、體氣猶强、卒時年七十六、撰二攝養要決廿卷一、行二於世一矣、
p.0602 貞觀十五年八月廿八日庚申、從四位上行彈正大弼橘朝臣貞根卒、貞根者、左京人也、越中守從五位下宗嗣之子也、美二鬂髯一(○○○)、身長纔五尺、腰圍甚大、
p.0603 こよひの御有さま、〈○小一條院〉かならずゑにかヽまほし、御とし二十三四ばかりにおはしませば、さかりにめでたく、ひげなどすこしけはひづかせ給へる、〈○下略〉
p.0603 いかでかくこのおとヾ〈○藤原敎通〉ひげがちにて、はヽもなきこをおぼしたてけん、てなどかき給へるさまよと、おぼしあしけり、
p.0603 小野宮大臣〈○藤原實賴〉愛二遊女香爐一、其時又大二條殿〈○藤原敎通〉愛二此女一、相府香爐被レ問云、我與レ髯愛レ何乎(○○○○○○)、汝已通二大臣二人一、〈二條關白髯長之故稱也〉
p.0603 陸奥前司橘則光切二殺人一語第十五
今昔、〈○中略〉歲三十計ノ男ノ鬘髯(○○)ナルガ、〈○中略〉鹿ノ皮ノ沓履タル有リ、
p.0603 今はむかし、村上の御時、古き宮の御子にて、左京大夫なる人おはしけり、〈○中略〉ひげもあかくて(○○○○○○○)ながかりけり、こゑははなごゑにてたかくて、物いへば一うちひヾきて聞えける、あゆめば身をふり、かたをふりてぞありきける、色のさめてあをかりければ、あをつねの君とぞ、殿上の君達はつけてわらひける、
p.0603 あやしきかたち
平家物語、〈さつまのなかづかさいへすけといふもの、しのんで賴朝をねらふところ、〉ひげをばそつて、もとヾりをばきらぬをとこなり、なにものぞととひ給へば云々、其ころひげをそりたるは、かたちを見しられじと、ことにせるものヽわざなりけらし、
p.0603 山門攻事附日吉神託事
本間小松ノ陰ヨリ立顯レ、〈○中略〉志ス處ノ矢所ヲ少モ不レ違、鎧ノ弦走ヨリ、總角付ノ板マデ、裏面五重ヲ懸ズ射徹シテ、矢サキ三寸計チシホニ染テ出タリケレバ、鬼歟神歟ト見へツル熊野人、持ケル鉞ヲ打捨テ、小篠ノ上ニドウト臥ス、其次ニ是モ熊野人歟ト覺ヘテ、先ノ男ニ一カサ倍テ、二王 ヲ作損ジタル如ナル武者ノ、眼サカサマニ裂、鬚左右へ分レ(○○○○○○)タルガ、火威ノ鎧ニ龍頭ノ甲ノ緒ヲ縮、六尺三寸ノ長刀ニ、四尺餘ノ太刀帯テ、射向ノ袖ヲサシカザシ、後ヲ吃ト見テ、遠矢ナ射ソ、矢ダウナニト云儘ニ、鎧ツキシテ上ケル處ヲ、
p.0604 春宮還御事附一宮御息所事
船ノ中ナル老共ガ、アハレ大剛ノ者哉、主ノ女房ヲ人ニ奪ハレテ、腹ヲ切ツル哀サヨト沙汰スルヲ、武文ガ事ヤラントハ乍二聞召一、其方ヲダニ見遣セ給ハズ、只衣引被テ、屋形ノ内ニ泣沈マセ給フ、見ルモ恐ロシク、ムクツケ氣ナル髭男(○○)ノ聲最ナマリテ、色飽マデ黑キガ御傍ニ參テ、〈○中略〉兎角慰メ申セ共、御顏ヲモ更ニ擡サセ給ハズ、
p.0604 福島伊賀守河鱸を捕手柄の事
いせ備中守、山角紀伊守、福島伊賀守三人は、氏直はたもとの武者奉行、此等の人は數度の合戰に先をかけ、勇士のほまれをえ、其上軍法をしれる故實の者也ていれば、伊賀守は生れつきこつぜんと異樣にして、大男大 有て、形體風俗人にかはつていちじるし、
p.0604 尼子晴久殺二新宮黨一事
中井平藏兵衞トテ、大鬚(○○)ノ男アリ、劉曜、季珪ガ美鬚ニモ可レ勝ト搔撫空嘯テ居タリケルニ、式部大輔、中井ト喚レケレバ、應諾シテ出來レリ、式部、中井ガ鬚ヲ取テ疊ノ上ニ捻付、醜キ鬚ノ立樣哉トシタヽカニ被二呵責一タリケルヲ、中井ヨニ口惜ク思ヒ、刀引拔眞中突貫テントハ思ケレド、大カノ早業ナレバ、流石ニ恐シクテ無レ力、赤面シテ退出シケルガ、翌日晴久ノ前へ出仕スルトテ、右ノ鬚ヲバ其儘殘置、左ノ方ヲ剃テ出ニケリ、晴久是ヲ見テ、中井ガ鬚ノ剃樣ハ晴久ヲ侮ニャ、又狂氣セルニヤ、其意趣ニ由テ可レ行二罪科ト、以外ニ、忿リ給ケレバ、中井謹テ答申ケルハ、昨日吏部、私ノ鬚ノ立樣ノ憎ナヨトテ、御折㩜候ツル間、左右共ニ剃可レ申トハ存候シカ共、且ハ晴久公御存〈ジ〉ノ鬚ニテ 候ヘバ、私ニハ剃難存候テ、一方ヲバ共マヽ殘シ置、一方ハ吏部ノ御下知ニ從ヒ、剃申タルニテ候、全晴久公ヲ侮リ奉ルニモ非、又狂氣仕タルニモ候ハズト答ヘケリ、晴久是ヲ聞給ヒ、暫目ヲ塞テ御坐ケルガ、唯左右共ニ剃候ヘトゾ宣ケル、又吏部ノ驕超過シケル事多キ中ニモ、五町十町タリト雖、目路ノ及所ヲバ、下馬サセラレケル程ニ、往還ノ僧俗男女是ニ迷惑シケル、
p.0605 宗祗の蚊屋附 宗祗髭
菊のちり
青柳も宗祗の髭の匂ひ哉 その女
とく〳〵の句合
髭宗祗池に蓮ある心哉
昔の人は髭を貴て、よき男の髭のなきは、池に蓮のなき如しと歌にも詠り、宗祗の髭は、香を留ん爲とあれば、よきとり合なり、
p.0605 髭男
見聞軍抄〈慶長十九年印本〉に云、見しは昔、關東にて、髭男をば、おもてにくてい髭男といひてぽむるゆゑに、諸侍髭を願ひ給へり、ほう髭をば、鐘馗髭とて、諸人好む、鬼髭左右へわかれなどヽ、古記にあるは、此髭の事なり、あごさきの髭をば、天神髭とて、武家にはさのみ好みたまはず云々、かくいへる詞のはしに、當時の風體見つべし、古畫を見るに、髭なき男子はまれなり、昔は髭うすき者は、假髯をさへしたりとそ聞ける、西鶴大鑑にも、髯男のことみえたり、
p.0605 一髭をぬき、又そる事は、近世の事也、京都將軍の時代の人は、皆常にひげ有りし也、走衆故實に云、御成在所にて、御供衆走衆座敷替事、普廣院殿樣〈○足利義敎〉御代鎌田殿故也、大御酒ありて還御をも不レ知、御えんにあふのきてねられ候ひげを、公方樣らつそくを被レ取、やかせられ候 つる云々、
p.0606 當世男髭なき事
見しは昔、愚老若き比、關東にておのこのひたひ毛、頭の毛とは、髮刺にてもそらず、けつしきとて、木を以てはさみを大にこしらへ、其けつじき、頭の毛をぬきつれば、かうべより黑血流て、物すさまじかりしなり、頭はふくべの如しとて、毛のなきを男の本意とす、扨髭はへたる男をば、面にく體髭男と云てほむる、皆人ひげを願ひ給へり、〈○中略〉ひげはへたる人は、自慢顏して、氣晴ては風新柳の髮を梳と作れる詩の心も面白し、昔賴義、貞任宗任を責られしとき、度々におよんで、十人の首を髭共に切たる劒あり、故に髭切と名付、源氏重代の寶劒、奥州の住人文壽といふ鍛冶鑄たり、此等も髭のいとくならずやなどヽいひて、明くれ髭をなであげて、おろしひねり給ひける、又ひげはへぬをば、おんな面と云て、あざらひ笑ふ、催馬樂に、けふくなうとは、髭なきとも有、万葉に、かつまたの池はわれしる蓮なししかいふ君が髭なきがごとく、とよめり、然るに髭はへぬ男は、一期の片輪に生れけることの無念さよ、女づらを見らるヽ口惜さよと、人の餘所ごといふをも、我髭のことが、はづかしさの、おもひ内にあれば、色顏にあらはる、されば天正の頃ほひに、小田原にて、岩崎嘉左衞門、片井六郎兵衞といふ者、ざれ言を云あがりていさかふ、嘉左衞門に髭なし、六郎兵衞あの髭なしと惡口しければ、卽時にさしちがへ死たり、さる程に、男たる人の髭なしといはるヽは、をく病ものといはるヽほどのちじよくと思ひたまへり、故に髭なき男は、あはれ髭はゆるものならば、身をしろかへて、毛髮をはへさせばやと願ひたり、此十四五年此方、頭に毛のなきを、年寄のきんかんつぶり、はへすべりなどヽ、あだ名を云て、若き人たち笑ふ、扨髭はへたるつらは、どんなるつら、えぞが島の人によく似たりといひならはし、上下の髭を殘さず、毛拔にてぬき捨る、然間笠を著、頭包たる人をみれば、法師とも男女とも見分がたし、されどもむかしに返る事 も有べければ、異相なる人ありて、頭毛をぬき、髭をはへさせたらんには、皆人髭はへて昔男のなりひらとやいはん、
p.0607 大名の世にすぐれて、物見なる鬚をもちたまへるあり、あまりにひげをまんじ、來るほどの者に、我がひげをばなにといふぞと問ひたまふ、たヾ世上に殿樣のおひげを見るものごとに、から物と申さぬ者は御座ないと申しあへり、大名うちゑませたまひ、げに誰もさいふよと、ひげをなで〳〵して、そこなる者こえよと、まねがせたまひ、身ちかくよせ、さヽやきて、みづからひげをとらへ、弓矢八幡日本物ぢや、
p.0607 男子剃レ面
黄門侍中剃レ面傳レ粉、漢以來已有レ之、在二我邦一、公卿以下皆剃レ面、未レ詳レ所レ始、多武峯護國院所レ藏鎌足公像、大龢不退轉法輪寺所レ藏業平像、河内道明寺所レ藏菅公像、皆有二鬚髯一、則似二當時未一レ剃レ面矣、士庶剃レ面、蓋始二于近代一、土佐又平所レ畫人物、皆有二鬚髯一、則當時士庶未レ剃レ面、可二以見一已、洪邁俗考曰、世説載、何晏潔白、魏帝疑二其傳一レ粉、以二湯餅一試レ之、其拭愈白、知二其非一レ傳レ粉也、考二魏略一、晏自喜二動靜一、粉白不レ去レ手、則知晏常傳レ粉矣、前漢佞幸傳、籍儒閎孺傳二脂粉一、以二婉媚一幸レ上、此不レ足レ道也、東漢李固傳、章曰、大行在レ殯、路人掩レ涕、固獨胡粉飾レ貌、搔レ頭弄レ姿、槃施偃仰、從容冶歩、略無二慘怛之心一、顏氏家訓、謂梁朝子弟、無レ不二裏レ衣剃レ面傳レ粉施一レ朱、以レ此知三古者男子多二傳レ粉者一、
p.0607 文化十年五月、愛宕山別當圓福寺にて長鬚會(○○○)あり、秋田侯の侍醫大關大中といふ人・所々の髭長き老人を集めて、書畫の會を催す所なり、
七十にみとせの花を咲そへてまたなヽそぢの月をながめん
p.0607 鬚髮
鬚髮ノ病ト云ハ別ニ苦コトナシ、只鬚髮ノ白ヲ世俗嫌故ニ、諸ノ醫書ニ皆白ヲ變ジ黑トチスノ 方ヲ載ス、然レドモ老テ鬚髮ノ自クナルハ常也、何ホド烏髮ノ藥、及酒藥ヲ服シテモ、多ハ黑ニ變ズルコト少ナリ、諸書ニ白髮ヲ染ノ蘂方ヲ載セ、或ハ藥肆ニ販グ、其應驗如レ神、サレドモ染テ黑メタルモ旬日ホド經レバ、其髮根ノビタル所白キ者也、老テ鬚髮ノ白クナルハ、血ノ潤澤枯涸スルノ事ニシテ、冬ニ成テ草木ノ枯稿スルニヒトシケンバ、何ホドノ水ヲソヽギ培養シテモ、冬枯ルル所ノ草木ニ益ナキニ等シカルベシ、總テ人父母ヨリ稟受スル所ノ形體、自然ト厚薄アル者ニシテ、其衰ル所モ薄キ所ヨリ始ル者也、是故ニ或ハ目ヨリ先ニ衰ル者アリ、齒ヨリ先ニ衰ル者アリ、耳ヨリ先衰へ、髮ヨリ先衰フ者アリ、是ヲ以テミレバ鬚髮ノ自コト、病トナシテ治スルニ及マジキコト也、壯年ノ人髮中ニ白髮少々生ズル者アリ、和俗若白髮(ワカシラガ)ト云、是不レ治シテ可也、四十許ヨリ鬚髮白キ者ハ、血虛腎虛ニ屬スレバ、八味丸等ヲ用ベシ、諸ノ方書ニ烏鬚髮ノ薬方載ス、可二參考一、
p.0608 古來は、鬚髮悉剃を僧形とす、日本書紀、古人大兄皇子詣二於法興寺一、佛殿與レ塔間、剔二除髯髮一、被二著袈裟一と見へ、同紀、天武天皇いまだ大海皇子とて、東宮の時、天智天皇の疑ひを散ぜんとて、剃二除鬢髮一とありて、ひげかみと訓じたり、因果經曰、過去諸佛、爲レ成二就無上菩提一故、捨二飾好一剃二鬚髮一〈下略〉云々、然るに今世の僧、信を隹んために、わざと鬚をのばし、頭は僧、鼻より下は俗髯をかざる、賴政の射られし鵺といふは、形の定らぬ物の名といふ説も侍れば、かヽる類もその部に入べきか、
p.0608 懸髭
昔の男子は髭を好、その際の美しからんことを嗜がゆゑに、常に毛拔をはなたず、旣に客を招諸するとき、烟草盆に毛拔をそへて出しヽとぞ、是を書院毛抜と云、〈書院毛拔の名.下に引し四季ばなし、西鶴置土産に見えたり、〉されば髭なき者は、墨にて髭を作りし遺風、近年まで町奴といふものにありて、よく人の知るところなり、又一種懸髭といふ物あり、是は紙にて髭の形を製、紙捻にて耳よりかけて編笠を打かぶり、遊里へ通ふ者なんどが、人目を忍ぶ便としたるものなりとおぼし、四季ばなし〈貞享年間印本〉一の 卷に、日本堤にさしかヽれば、呼繼番屋の行燈、星の連る光り、往來のしげきは、岸根の蘆の友摺さわぎ、中間の姿宿ありて、此所を忍び道具を萬かしける或は長老の髭かけて、戀の奴となるもあり云々と見え、又西鶴二代男〈貞享元年印本〉八の卷、土手の數番屋〈日本堤なり〉燈うつりて螢賣の里童子、澤の蓮葉かをり色こそ見えね、鞘とがめに水難も叩て逃る聲、忍ぶ人の爲とて、懸髭布頭巾賣など云云とあれば、燒印編笠の類にて、泥町の茶屋或は船宿にて、貸もし、うりありきもしたるなるべし、作り髭は俳諸の發句におほく見えたれど、懸髭はいと稀なり、
七百五十韻〈延寶九年印本〉
〈前句〉玉樓金殿耳せヽをみがきし 春澄
〈附句〉久堅の雲の掛髭時めきて 政定
耳せヽといふにかけ髭とつけたり
p.0609 片破(カタワモノ)
p.0609 片輪(カタワ)〈本朝俗斥二五輪不且者一云レ爾〉 踦(同)
p.0609 かたわ 演繁露にいふ、疇人是也、不具をいふ、倚或は缺をもよめり、片輪の義、車によていふ事、砂石集に見ゆ、公羊傳にいふ隻輪也、佛書に五體を五輪といへばさら也、源氏にあるかたわやと見えたり、
p.0609 かたは〈廢人〉
p.0609 中下のは
片羽者かたはもの うつぼ物語の歌に、矢につけて、かたはとよみたれば、矢のかた方のはねなきは、用なきものなれば、それよりかたはと云ふことは出來歟、又矢にはぐも、本より鳥のはねなれば、片羽なき鳥よりをこる詞歟、
p.0610 是ら〈○癲人〉の外にも、乞丐中に、盲聾咽啞無手指躄畸疾〈侏儒大瘤〉のくさぐさ見るにもいぶせきもの多し、前條にいふ觀物師の屬に入るべきもありぬべし、つれ〴〵草に、東寺の門のほとりにかヽる者の集ひ居たるを、はじめは希有に珍らしと見ゐけるが、ほどなくいぶせくなちて、常に異なる物はよしなかりけりと思ひなして、家にかへりて、つねはめづらしとめで植たりし奇樹などを、皆堀出し捨たりと見えたるがげにさもあるべし、昔よりかやうの者は門のほとりなどによりて、雨露をしのぎもするものなり、畸疾は片羽の意にて、鳥などより出し辭ならむといへり、令に篤疾廢疾といふ下に種類をも出せり、謠曲に弱法師とあるも此類と見ゆ、狂人癡子情狂も女丐は殊に見るもいぶせくうるさし、これらまではたヾちに憂を告て、米錢餐餘弊衣汚帶をも乞ふ者なり、
p.0610 倚人(かたわもの) 畸〈音雞倚反〉俗云二片輪一、〈加太和〉言如二車一輪不一レ行、
支體不具謂二之倚一、穀梁傳云、季孫行父禿、晉郤克眇、衞孫良夫跛、曹公子手僂、同時聘一于齊一、齊使二禿者一御二禿者一、眇者御二眇者一、跛者御二」跛者一、僂者御二僂者一、蕭同叔子處二臺上一而咲レ之、客不レ悦而去、齊人曰、齊之患自レ此始矣、
p.0610 ありがたきもの
露のくせ、かたは(○○○)なくて、かたち心ざまもすぐれて、世にあるほどいさヽかのきずなき人、
p.0610 まろ〈○源氏〉がかくかたわ(○○○)に成なんとき、いかならんとの給へば、うたてこそあらめとて、さもやしみつかむとあやうく思ひ給へり、
p.0610 いみじきかたわ(○○○)のあれば、人にもみせであまになして、わがよの限はもたらんといひちらしたれば、故少貳のうまごは、かたわ(○○○)なんあなる、あたらものをといふ、
p.0610 天正三年、去程に、哀成事有、美濃國と近江の境に山中と云處あり、道のほとりに、頑者(カタハモノ) 雨露にうたれ、乞食して居たり、京都御上下に御覽じ、餘に不便に思食、總別乞食は住所不定、此者は何もかはらず、爰に有事如何樣可レ有二子細一と、或時御不審被レ立、在所の者に御尋有、所の者由來を申上候、昔當所山中の處にて常盤御前を奉レ殺候依二其因果一、先祖の者、代代頑者(カタハモノ)と生れて、あの如く乞食仕候、山中の猿とは、此者の事也と申上候、
p.0611 作左衞門〈○本多〉申は、いや、夫は殿〈○德川家康〉の御申被レ成事には候得ども、人に依ての義にて候、今年廿も三十も若く候はヾ、殿の樣無分別なる人の御供、致すは、いらぬものにて候へども、某儀、當年八十に及び、若時よりあの陣この陣の御供を仕り、片目も切潰され、手の指なども切裂れ、足もちんばになり、世の人の片輪と云かたわを、身共一人してからげ候得ば、尋常人前のなる事にてはなく候へども、今日迄殿の御情計りにて、御家中にても人がましく罷在候、〈○下略〉
p.0611 不具(○○)
p.0611 不具
p.0611 長和五年六月十九日辛卯、大納言示云、見二付物骨一似二人骨一、又有二温氣一、如レ此之事、其定不レ一、若可レ忌二七日一歟、然者無レ議可二停止一也、舊例如レ此事、或忌二卅日一、是雖二一兩之支不具(○○)一依二新物一所レ被レ忌歟、或忌二七日一、是舊物五體多不具、又雖二新物一、只有二一兩支一歟、或不レ爲レ穢、是舊骨さらぼひなどしたるにや侍らむ、此物可レ爲レ穢歟如何、被レ示二驗案内一者、可二一定侍一者、余〈○藤原實資〉答云、穢事定不レ似二往昔一、近代只以無レ一乎、若一足被レ定二五體不具一爲二七日穢一、古者不レ然、雖二五體不具背骨相連一、猶爲二卅日穢一、抑無二指事一之時、隨二近代例一有二斷事一、然而南山潔齊其愼殊勝云々、初穢疑之時、解二除潔齊一之後、重有二斯事一不快事也、重有二卜筮一可レ似二重疊一、殊廻二賢慮一可レ被二進止一、愚心所レ思、思惱事也、又骨已有二濕氣一者、若卅ケ日内骨歟、不レ可レ謂二白骨一、潔齊停不事、取二案内一返二報之一、今夕以二陰陽師一可レ令二卜筮一、
p.0611 生二月神一〈○註略〉其光彩亞レ日、可二以配レ日而治一、故亦送二之于天一、次生二蛭兒一、雖二已三歲一脚猶不レ立、 故載二之於天磐櫲樟船一而順風放棄、
p.0612 鳥羽院君仁親王〈出家、號二痿王一、〉
p.0612 三のみこ〈○鳥羽第三皇子君仁〉は若宮と申ておはしましヽ、おさなくよりなへさせ(○○○○)給て、おきふしも人のまヽにて、ものもおほせられでおはしましヽ、十六にて御ぐしおろさせ給て、うせさせ給にき、御みめもうつくしう、御ぐしもながくおはしましけり、昔朝綱宰相の日本紀の歌に、
たらちねはいかにあはれと思ふらんみとせになりぬあしたヽずして、とよまれたるも、蛭子におはしましける、宮のごとくこそはきこえさせ給へ、むかしもかヽるたぐひおはせぬにはあらぬにや、
p.0612 小兒 五軟
五軟ハ頭軟、項軟、手軟、脚軟、口軟ナリ、香川太仲之ヲ約稱シテ體軟ト云フ、身體軟弱ニシテ之ヲ抱クニ、頭傾キ、或ハ垂レテ正シキコトヲ得ズ、骨ノ無キヤウニ見ユルユエ、俗ニホネナシ(○○○○)ト云フ、重キ者ハ臥シタルマヽニテ、須臾モ坐スルコトヲ得ズ、木偶土塑ノ如ク、眼ハ開キテモ物ヲ視ルニ非ズ、聲ヲ立テヽモ喃喃トシテ言語ヲ分タズ、飮食モ外ヨリ養ハレ、爾便モ告ゲズシテ多クハ遺失シ、頭ノミ大ニシテ、身體ハ削痩シ、手足拘急シテ、脚ハ左右互ニ叉ヲ成シ、指ハ左ハ内へ僂ミ、右ハ外へ反リ、或ハ指ヲ口ニ入テ舐リ、目中了了タラズ、心ハ癡駿ニシテ親疎ヲ辨ゼズ、僅ニ其父母ヲ識ノミ、稍輕キ證ト雖ドモ、手指屈伸スルノミニテ、物ヲ持ツコト能ハズ、扶テ起シムルモ蹣跚トシテ行クコト能ハズ、坐セシムルモ膝ヲ屈スルコト能ハズ、口内含糊ニシテ言フ所ヲ分タズ、軽重共ニ多クハ十五歲ニ及バズシテ斃ル、間二三十歲ニ及ブ者アリト雖ドモ、亦夭折ヲ免レズ、此證必ズ微ニ上竄驚搐等ヲ發ス、又解顱ヨリ體軟ニ變ズル者アリ、固ヨリ癇ニ屬シ、先天ノ遺毒 ニシテ不治ナレドモ、已ムコト無ンバ羚角飮ヲ與フベシ、
p.0613 有二一男兒一十二歲、左右足痿如二無骨者(○○○)一、語言蹇澀、目脈赤、無レ故悲愁、經二數醫一不レ治、請レ余〈○永富鳳卿〉診二其脈一滑數、腹位逼二胸脇一、臍下如レ空審二問其平生一、氣稟猛烈、過二群兒一、方二其怒罵之時一、眼光爛爛、血氣如レ湧、蓋氣疾之一種、而全與二偏枯一相類、唯老嫩異而已、與二參連湯一、兼二用熊膽貳分一、十四日病稍輕、續服二參連盪一、六十餘日而全愈、
p.0613 久安六年十一月九日辛巳、五條末川原邊棄二奇兒一、其面如レ人、無二鼻及兩眼一、當レ額有二一眼(○○○○○)一、有二兩瞳子(○○○○)一、女人形也、有二陰穴一云々、
p.0613 二年〈(中略)一云、御間城天皇(崇神)世、額有レ角人、乘二一船一、泊二于越國笥飯浦一、故號二其處一曰二角鹿一也、問之曰、何國人也、對曰、意富加羅國王之子、名都努我何羅斯等、亦名曰二于斯岐阿利叱智于岐一、〉
p.0613 寛平九年七月廿二日乙未、陸奥國言、安積郡所レ産小兒額生二一角一、角亦有二一目一、
p.0613 人角
文化庚午の棄品會に人角いでたり、そは薩摩なる伊作地士、黑川某の額に(○○)、一角を生(○○○○)じたり、年八十七歲、元祿三年庚午夏五月十四日終としるしありしを、人みなめづらしきことにいひあへり、案ずるに人角は和漢ともに往々所見あり、そ、のためしなきにあらず、日本紀略、寛平九年七月廿三日、陸奥國言、安積郡所レ産小兒額生二一角一、また新著聞集に、額に角二本(○○○○○)ありし子を産たることあり、又北窻瑣談に、寛政四年辛亥、備後國蘆田郡常村の農夫、八十餘歲にて額に一角を生じ、翌年正月十七日解脱と見え、簷 雜記に、梁武帝時、鐘離人顧思遠、年一百十二歲、蕭俁見三其頭有二肉角一長寸許、〈見二俁傳一〉余亦曾見二二人一、一江蘭皐陽湖人、一徐姓嘉興人、頭上皆有二肉角一高寸許、年亦皆九十餘、蓋壽相也、然二人皆貧苦無レ子、則亦非二吉徴一といへり、かヽれば人角は小兒と老人とにあることヽ見えたり、再按に、日本書紀垂仁紀に、額有レ角人乘二一船一泊二于越國笥飯浦一、などあるは、正しく角ともさだめ かねて、古人の説もあればその實はいかにぞや、
p.0614 越中新川郡若栗村人六左衞門者生レ角矣、實天保元年庚寅歲也、髻兩邊二枚、長三寸餘圍亦如レ之、髻前後二枚、前如レ牙、後如二手小指一、左鬢三枚齒列、前者如二鷄口一、中者如二手小指一、後者如二手將指一、凡七枚、其初頭微癢日久、中痛劇、漸生レ角旣長、陣々微疼、但無二休時一、且不レ能レ眠、云病夫自醜、而去二郷里一遍求二醫治於三都及四方名家一無慮數十、然一無レ有二効驗一已閲二四年一矣、嚢盡衣敝無二如之何一、因以爲將レ歸二郷里一乎、寧死二道路一乎、顧望徘徊適路歴二高崎一、聞三邑醫生千木良昌哲者、博二通治療一、敗帽敝履、至レ戸乞レ憐生叩二其故一、則脱帽厥角以示焉、數角穿レ髮擢々然生、以二將魍魎一乎、將魍魅乎、驚愕良久、遂診二其狀一、以得二其由一、然而以二其奇疾一不二妄肯諾一也、病夫固請、因宿二諸家一且衣二食之一以施二之治一、初傳以二膏藥一一月許、而折而落、片々恰如二砂礫一、生怪レ之、又設二一計一以治レ之、終全而收レ之、先後一年半而復レ故云、實可レ謂二國手一哉、生欲下博觀諸四方一、乃命二畫工一圖上焉、且諸二藩博士松子一録二其由一矣、生家世以二外科一名二于邑一、至レ生從二余先人及叔父松月先生一學二疾醫之道一、自爲二大家一矣、在二余家塾一十有餘、年長レ余七八歲、相視猶二兄弟一也、以レ故今春遠袖三其圖與二其角一以來示レ余、且徴二余言い、狀如二前所一レ説、於レ是余乃謂レ生曰、斯人也遇レ子固幸也、而子亦得下遇二斯人一以衒中其才上、豈不レ幸乎、抑天將レ徒三以斯鳴二子名於四方一、孚亦不レ可レ知也、何得レ功之奇而速也、生曰、二先生之澤與二先人之力一也、何有二于我一哉、余初欲レ辭二其徴一、而今也聞二其言一實長者之言也、不レ可レ不レ記也、且恨二其功之朽一因曲識三其病狀與二其徴言一書之以贈焉、如二生爲一レ人則松子之言書其至矣、
甲午二月 高崎處士田平格録二于富岡客居芙蓉山房書窻之下一
p.0614 康治三年〈○天養元年〉五月二十日庚午、左大將語云、大津有下人生二鬼子一者上、其貌面長一尺(○○○○)有二二目一不レ開、鼻長及レ頤(○○○○)、頤下有レ口(○○○○)、頭後又有二目鼻口(○○○○○○○)一、但其目一(○○○)矣、弃二之路次一、行人若寄レ杖則取レ之起立、一夜之間已失不レ知レ所レ之、〈記レ異也〉
p.0614 承和十三年二月己卯、伊勢國言、鈴鹿郡枚田郷戸主川俣縣造繼成、戸口保茂麻呂 妻川俣縣造藤繼女産レ男、其體自レ胸以上、兩頭(○○)分裂、二人相對、四手(○○)相具、面貌美麗、頭髮甚黑、自レ腹以下同共一體、生而一日死焉、
p.0615 永萬元年四月十二日、近衞河原邊有二異兒一、胸已上二人體也、頭二手四(○○○○)也、胸已下一人也、令三諸道勘二申和漢之例一、
p.0615 六十五年、飛驒國有二一人一曰二宿儺一、其爲レ人壹體有二兩面(○○○○○)一、面各相背、頂合無レ項、各有二手足(○○○○)一、其有レ膝而無二膕踵一、力多以輕捷、左右佩レ劒、四手並用二弓矢一、是以不レ隨二皇命一、掠二略人民一爲レ樂、於レ是遣二和珥臣祖難波根子武振熊一而誅レ之、
p.0615 無手人 俗云止久利古(○○○○)〈○中略〉
按、無手人俗呼名二缶兒一、説文云.人無二右臂一曰レ孑、〈音結〉延寶年中、攝州大坂有下生無二兩手一者上、以レ足辨レ用、且書レ字射レ弓出二芝居一乞レ錢、予〈○寺島良安〉亦見レ之、
p.0615 駢拇 莊子云、駢拇枝指、〈上音薄堅反、駢拇、此間云、無豆於與非(○○○○○)、〉
p.0615 所レ引駢母篇文、〈○中略〉曲直瀨本堅作レ緊、按唐韻、駢部田切、薄堅部田、字異音同、在二平聲一先一、緊在二上聲十六軫一、作レ堅爲レ是、又按莊子釋文引二司馬彪一云、駢拇謂三足拇指連二第二指一也、崔譔云、諸枝連二大指一也、又引二三蒼一云、枝指手有二六指一也、崔云音岐、謂二指有一レ岐也、是駢拇枝指不レ同、而枝指宜レ訓二六指一、訓二駢母一爲二六指一誤、又按演繁露云、拇大指也、枝小指也、駢拇卽大拇根而兩岐也、枝指是小指兩出也、據二是説一則駢拇亦可レ爲二六指一、又唐李邕撰二竇居士碑一云、駢拇者疾、多言者窮、以二駢拇一對二多言一、是亦以爲二六指一也、然僖廿三年左傳、晉重耳駢脅、杜預注、駢脅合幹、正義駢訓二比也一、骨相比迫、若二一骨一然、是可四以證三駢指之爲二連指一、則以爲二六指一非レ是也、
p.0615 駢母〈ムツヲヨヒ〉 枝指〈同〉
p.0615 駢拇(ムツヲヨビ/ムツユビ)
p.0616 駢拇(むつゆび) 和名無豆於與非
按莊子云、駢母枝指者是也、或手或足拇(オホユビ)傍生二如レ指者一、赤子時可二切去一、
p.0616 駢拇枝指
駢拇枝指ハ莊子ニ出ヅ、駢拇ノ駢ハ、晉文公駢脇ノ駢ト同義ニテ、生レナガラ二指附合テ一指ト成リタルナリ、然レドモ爪ト骨トハ自ラ分レテ二條(スヂ)ニナリテアルモノナリ、水鳥ノ足ノ膚ノ切ヌニ似タリ、或ハ本ハ一指ニテ、半ヨリ二指ニ分レタルモアリ、或ハ左右ノ手共ニ同ジ指ノ駢拇ニナリタルモアリ、或ハ小兒ノ時、指ノ股(マタ)へ灸ヲ灼(スエ)、大ニ爛レ、愈ルニ從テ指ノ附著スルコトアリ、或ハ火燒痘瘡(ヤケドトウソウ)等ニテ、亦指ノ附コトアリ、皆駢拇ニ屬スベシ、
p.0616 嘉應元年四月十六日、三條河原、有二異兒一、無二上唇一有レ鼻、手足之指各有レ六(○○○○○○○)云々、
p.0616 半月 内典云、五種不男、其曰二半月一俗訛云〈波爾和利(○○○○)〉一云、謂二其體男而不一レ男、一月卅日、其陰十五日爲レ男、十五日爲レ女名二半月一也、
p.0616 按五種不男、見二法華經安樂行品一、記云、五種不男、生劇妬變レ半也、半謂二半月一、半月列在二第五一、此所レ引蓋是、又四分律云、黄門者、生黄門、犍黄門、妬黄門、變黄門、半月黄門、半月黄門者.半月能男、半月不レ能レ男、亦半月在二第五一十誦律云、五種不能男、二半月不能男、半月能媱、半月不レ能レ男、是爲二半月不能男一、亦是事、然與二此云第五一不レ同、又玄應音義云、般荼迦此云二黄門一、其類有二五種一、四博叉般荼迦、謂二半月作レ男、半月作一レ女、注所レ引或説卽是、〈○中略〉按波邇和利、蓋半割之義、
p.0616 半月〈ハニワリ〉
p.0616 半月〈ハニワリ、十五日爲レ男、十五日爲レ女之稱也、〉
p.0616 太政官符
應下一據二舊例一得度者受戒上事 右得二少僧都法眼和尚位惠運牒一偁、伏撿二舊例一凡有二得度者一、先與二度縁一次令レ入レ寺、〈○中略〉其年不レ滿レ廿若七十已上、幷國家不放之人、債負之人、黄門(○○)、奴婢之類非二是戒器一、故佛不レ聽二受戒一、〈○中略〉
貞觀七年三月廿五日
p.0617 人疴(フタナリ)〈時珍云、體兼二男女一者、俗名二二形一、〉
p.0617 なかごろ、みやこに、つヾみをくびにかけてうらしありく男あり、かたちおとこなれども、女のすがたににたることどもありけり、人これをおぼつかながりて、よるねいりたるに、ひそかにきぬをかきあけてみれば、男女の根ともにありけり、これ二形のものなり、
p.0617 二形(ニギヤウ) 俗ニ云フタナリ、又人疴(シンア)ト云、五不男ノ一ツナリ、コレヲ變ト云リ、本艸綱目ニ云、體男女ヲカヌルヲ、俗ニ二形ト名ク、晉書ニ以テ亂氣ノ生ズル所トス、コレヲ人疴ト云リ、其類三アリ、男ニ値テハ卽チ女、女ニ値テハ卽チ男ナルモノアリ、半月ハ陽、半月ハ陰ナルモノアリ、妻ナルベクシテ夫タルベカラザルモノアリ、
p.0617 仁和元年閏三月六日辛卯、左辨官使部大石益行妻産レ女、無二臀大孔(○○○)一、糞出レ自レ口、但其陰如二常人一、數日而死、
p.0617 あるおとこ、しりのあな(○○○○○)なくて、屎くちよりいづ、くさくたえがたくて、すぢなかりけり、
p.0617 あるおとこ、むまれつきにて、しものあなあまたあり(○○○○○○○○○○)けり、くそまるとき、あなごとにいで丶、わづらはしかりけり、
p.0617 戊午年八月、從二菟田穿邑一、親牽二輕兵一巡幸焉、至二吉野一時、有レ人出レ自二井中一、光而有レ尾(○○○○)、天皇問之曰、汝何人、對曰、臣是國神、名爲二井光一、此則吉野首部始祖也、
p.0617 九年〈○仲哀〉三月、遣二吉備臣祖鴨別一令レ擊二熊襲國一、未レ經二浹辰一而自服焉、且荷持田村〈荷持此云二能登利一〉有二羽白熊鷲者一、其爲レ人强健、亦身有レ翼(○○○)、能飛以高翅、是以不レ從二皇命一、毎略二盜人民一、
p.0618 女變レ男〈○中略〉
按、男女相變者、所レ載二于史傳一有二數輩一、〈略舉二一二一而已〉
奇異雜談云、下野國足利學侶、男根甚痒、頻以二熱湯一搨レ之、後縮成二陰戸一、嫁二造酒家一生二二子一、
越後國人、年十八而出家、到二丹波大野原會下一、沙彌經二三年一後、欲下過二京洛一見中故郷上、請暇寓二江州島郡枝村旅泊一、霖雨留兩三日、或夜夢自化爲レ女也、果陽根縮成二陰戸一、音聲容儀女也、與二家主一婬而生レ子、十有餘年後、師僧偶來宿二于此一、彼婦見レ之語二始末一、僧甚以爲二奇怪一、
奇異雜談、天文十二年、中村豐前守息所レ著也、而謂三此事在二四十年以前一、則當二明應年中一、
p.0618 變男子
以二書付一御屆申上候事
天草大浦村嘉左衞門娘
屋那
當寅廿六才
右之もの是迄女に而御座候處、男に變ジ候段、去年中屆出候に付、得斗相改候處、出産之砌常人と違ひ、陰門之左右縁〈幷〉陰戸高く、七八才迄は右之程に而御座候處、十一才ゟして、縁陰戸次第に太り、十六才より陰囊之形に成候而、内に小キ玉有レ之、陰戸は陰莖の形に相成、廿一才より去丑年迄ニ男子ニ相片付、右陰莖之頭より三分程も下ニ小便通り候處有レ之、且又以前は女之形ニ候處、當時ハ面體其外乳等も男之乳に而御座候、尤常男と違ひ、少シ足細く相見申候、尤女之稼も仕候得共、只今に而は重に男の業を仕、前斷之通、彌男子ニ變じ候ニ相違無二御座一候、依レ之宗門御改ゟ男子名前ニ改替申度、親類組合之もの共願出申候ニ付、以二書付一御屆ケ申上候、宜被二仰付一可レ被レ下候、以上、
柄木組大庄屋
二月 小崎六右衞門
富岡御役所 右書付、寅二月晦日御呼出御吟味相成、三月朔日右之通書付上ル、
p.0619 江州枝村にて客僧にはかに女に成し事〈幷〉智藏坊の事
それがし〈○中村某〉若年のとき、江州島郷に數日逗留する事あり、諸人しゆ〴〵ざうだんの中に、一人の老者かたりていはく、當國枝村といふ宿に、むかしふしぎの事あり、たとへば年廿ばかりなる客僧一人きたりて一宿す、そのかたち美容にして、比丘尼に似たり、言聲形儀は僧なり、其夜大雨ふりて、翌日もはれず、かるがゆへに日とまりす、此人夜あけてより、そのすがた軟弱にして、ぎやうぎ音聲へんじて女と見えたり、亭主あやしく思ひて、いづかたより御とほり候ぞといへば、我我はゑちこの者なるが、丹波の大野原の會下に、二三年ありて、いまゑちこへくだり候といへば、亭主、丹波の事ぶあんないなり、ゆへにくはしくはとはず、そのすがたあやしきゆへに、僧にて御入候か、比丘尼かととへば、うちわらひて、比丘尼にて候とこたふ、亭主おもしろくおもひて、その夜ふし所に行てとりかヽれば、じたいすれどもつゐにしたがふて嫁宿す、常のごとし、亭主先婦をうしなひて、やまめなるゆへ、さいはひの事なり、夫婦となり、これにとめ申べきといへば、比丘尼やうじやうす、すなはちつヽみて髮をながくす、ほどなくくはいにんして男子を生ず、やしなひて好子をえたり、〈○下略〉
p.0619 備中國にて、農家の女、嫁して程なぐ出されければ、外へ嫁しけるが、又出されける程に、父の家に居けり、此女十六七歲なりけるが、生つきすくやかにて男めきたり、心も剛にして、父が村里の夜使などにあたりぬれば、代りゆきて、夜半といへど畏れざけりり、其隣に同じころなる女有しが、いつとなく懐姙しければ、父その夫をさま〴〵とひけるに、初の程はかくせしが、後にはかの女と通じてかくの如くといひけるに、父怒驚き、此事を告てとふに、此女初は女なりしが、いつとなく男になりけるとそ、さて互に爭ひて訟出ければ、奉行所にて子細を尋問れ しに、父の云やふ、今迄男になりたるは不レ存しが、此女生れし時、淫戸の上に少はれだるごとく小き物有しが、年ゆきてさらに不レ存候、兩度迄出されしを何故と存候つるが、かやうのことにても候半かと申に、其女に問れしかば、父が申ごとく、いつしか年たくるにしたがひ、男根となり、近ごろは淫戸彌通じなくなり候と申しかば、さらば養ひて婿とすべし、男子に變ずるは吉瑞なりとて、賜ものありしとぞ、奇異なる事とて、其國の人の語しとぞ、漢京房易、侍女化して丈夫と成られしを陰昌と云、竹書紀年、殷紂の時、女化して男となる、漢晉宋明にその事有、男の子を生得るも宋明にありしとそ、白石の鬼神論に見えたり、誠に怪力亂神の説にこそ、
p.0620
牛込若宮町淸五郎店又藏娘
さと
當卯十五歲
右さと儀、去寅年七月中、市ケ谷田町三丁目家主〈名前不レ知〉手蹟指南秀鍛堂遊山事よしと申者方へ奉公ニ差出置、當三月中暇を取、又藏手元に差置候處、さと儀、變生男子に相成候趣、風聞事實取調候處、父又藏儀ハ、遠州城東郡掛川在出生、母さよ儀ハ、相州平塚郷馬渡村出生の由ニ而、十六七年以前より、右若宮町淸五郎店ニ住居仕、元ハ時々の物賣候て在之處、當時居酒渡世致し、家内四人暮しにて、娘さと儀ハ十五ケ年以前、天保十二〈丑〉年出産致し、尤同人は總領にて、二男は松之助と申、當年八歲相成候弟有レ之、娘さと儀、十一歲の頃より、夜歩行又ハ力業抔いたし、常々女子と違ひ、立居振舞等至て荒々敷、生得男子の樣成氣質に有レ之處、去寅年七月中、前書秀鍛堂よし方〈江〉奉公ニ差出候處、同人方ニ門弟子にて、十五六歲に相成候まさと申者寢所〈江〉、又藏娘さと儀、兩度迄罷越、密通可レ致と内々申ける故、まさ儀納得不レ致、女ニて右樣之儀仕掛候ハ不審に心得、かのまさ事、師匠よし〈江〉委細相咄し候ニ付、さとの臥り居候節、夜著をまくり見候處、常々女子とのみ存居候さと儀、男根有レ之候間驚入、同人〈江〉樣子相尋ね候處、十一二歲の頃ゟ男根相催し、兩三年以前より男ニ 成候旨、母さよに相咄候へばしかられ候故、其儘打過し置候處、此節全く男子ニ成申候旨、當人申候ニ付、當三月中、秀鍛堂よしゟ暇さし出し、又藏方へ連歸り候得共、兩親共、右始末信用いたし兼、娘さと臥り罷在候節、相改見候處、陽根陰囊共に全く出來候故驚入、又ハ深く歎き、又藏ニ母さよ相談之上、母さよ在所へ相預け候積りに夫婦相談致候を、異見等差加へ候者も有レ之候ニ付、母さよ在所へ遣候儀ハ相止め、當月四日娘さとの前髮剃落し、名を文吉と相改、男の姿といたし、渡世向手傳爲レ致候處、追々右之風聞承り傳へ、酒食に罷越し候者日々多く、此節渡世殊の外賑敷由、中にも娘さと事文吉〈江〉近付に相成候者有レ之、近邊御武家方等へも被二相招一候由、
一陽根の儀は、陰門の上に相生じ、陰門のふちふくれ陰囊に相變じ、玉も出來候由至て色黑く、いまだ陰門の形ち失不レ申、ころ柿の樣にて陰囊二つ有レ之樣相見へ、毛も澤山に生じ、折々發動いたし候儀も有レ之由、且兩三年以前迄も乳大きく候處、追々小さく相成、此節相形に成り、言舌筋骨共男子の如く相變じ、全く變生男子と申にも有レ之由に御座候、
右者稀成珍事ニ付、再應風聞取調候處、實事の趣に付、奉二申上一候、以上、
p.0621 變レ女爲レ男法第四
病源論云、陰陽和調一、二氣相感、陽施陰化、是以有レ娠、而三陰所レ會、則多生レ女、妊娠二月、名曰二始藏一、精成爲二胞裹一、至二於三月一、名曰二始胎一、血不レ流、象レ形而變、未レ有二定儀一、見レ物而化、是時男女未レ分、故未レ滿二三月一者、可レ服レ藥、方術轉レ之令レ生レ男也、
p.0621 六根(○○)〈眼、耳、鼻、舌、身、意、〉
p.0621 六根〈眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根、是也、〉
p.0621 此上人〈○書寫〉ハ得二六根淨一之人也、或時客人來臨對面ノ間、懐中ニテ ヲ取テ捻ケリ、時ニ聖云、イカニサハ ヲバ捻殺ムトハシ給ゾトテ大ニ悲歎シ給ケリ、客人耻テ退散云々、
p.0622 人身法二于天地一〈附譬二于家財一〉
按、頭則天、足則地、骨則石、肉則土、筋則道路、毛髮則草木、兩眼則日月、血則海水、息則風二便則雨、汗則露之類、古人概所レ言レ之也、今又譬二之家室一、管見恐有二齟齬一乎、頭則棟、足則礎、骨則柱、肉則壁、筋則纏繩、毛髮則甍、口則門、眼則窻、血則井水、三焦則墎牆、膀胱則水溝、命門則柴薪、肺則玄關、大腸則裏門、肝膽則決斷所、小腸則庖廚、腎則金銀〈本雖レ屬レ水、而假譬二之金銀一、〉脾胃則米穀、心則主人能治而無二過不及一則家齊財足焉、蓋米穀日用之命根、金銀万物之寶基也、放敗二失之一者、不レ可レ終二天年一而已、