p.0835 遊女ハ、舊クウカレメ、アソビメ、又ハ遊君、夜發(ヤボチ)ナド云ヒ、後ニ女郎、オイラン等トモ云ヘリ、卽チ藝ヲ鬻ギ、色ヲ賣ルノ婦女ヲ謂フナリ、遊女ノ類ニ、白拍子、傀儡子等アリ、白拍子ハ、其舞フ所ノ伎ノ名ニ依リテ名ヅケタルニテ、傀儡子ハ、古語之ヲクヾツト云フ、素ト傀儡卽チ人形ヲ舞ハス者ノ謂ナレド、後ニハ其戯ヲ爲ス婦女モ亦、白拍子ト等シク、皆客ニ侍シ、色ヲ鬻グヲ以テ業ト爲セリ、德川幕府時代ニ至リテハ、都會ノ地ハ、皆、遊女甚ダ盛ニシテ、其種類モ亦一ナラズ、公娼ノ外、又私娼アリテ、官屢〻之ヲ禁ゼリ、凡ソ古代ノ遊女ハ、多ク驛路、港泊等、四民輻湊ノ地ニ住シテ必ズシモ遊廓アルニアラズ、而シテ其著名ナルモノハ、攝津ノ江口、神崎、蟹島、相模ノ大礒、播磨ノ室等ナリ、德川幕府時代ニ至リテハ、幕府令シテ遊廓ヲ設置セシメ、遊女ヲシテ多ク此處ニ住居セシメタリ、
男娼ハカゲマト云フ、德川幕府ノ時ハ、男娼ノ茶屋アリテ、遊女屋ト同ジク客ヲ迎フ、藝者ハ、又藝子(ゲイコ)ト云ヒ、又躍子(ヲドリコ)トモ稱ス、古ノ白拍子ノ類ナリ、客ノ需ニ應ジテ絃歌ヲ宴席ニ弄セリ、尚ホ白拍子、傀儡子ノ事ハ、樂舞部ニ散見シタレバ、宜シク參照スベシ、
p.0835 遊女(○○) 楊氏漢語鈔云、遊行女兒〈和名、宇加禮女(○○○○)、又云、阿曾比女(○○○○)、〉一云、晝遊行、謂二之遊女一、待レ夜而發二其淫奔一者、謂二之夜發一、〈今按、夜發、俗云夜保知(○○○)、本文未レ詳、〉
p.0836 按、新撰萬葉集、浮宕訓二宇加流一、宇加禮女、浮宕女也、阿曾比、樂也、謂二歌儛以助一レ宴、
p.0836 南有二喬木一、不レ可レ休息、漢有二游女(○○)一、不レ可レ求思、
p.0836 遊行女兒〈ウカレメ、一ニアソヒ、 一ニヤホチ、〉
p.0836 遊女〈長遊女(ウカラメ)是也〉 遊行女兒已上同
p.0836 敎二喩史生尾張少咋一歌一首幷短歌〈○中略〉南吹(ミナミフキ)、雪消益而(ユキゲハマシテ)、射水河(イミヅガハ)、流水沫能(ナガルミナワノ)、余留弊奈美(ヨルベナミ)、左夫流其兒爾(サブルソノコニ)、比毛能緖能(ヒモノヲノ)、移都我利安比氐(イツガリアヒテ)、爾保騰里能(ニホドリノ)、布多理雙坐(フタリナラビイ)、那呉能宇美能(ナゴノウミノ)、於伎乎布可米天(オキヲフカメテ)、左度波世流(サドハセル)、伎美我許己呂能(キミガココロノ)、須敝母須弊奈佐(スベモスペナサ)、
言二佐夫流一者、遊行女婦(○○○○)之字也、〈○反歌三首略〉 右五月〈○天平感寶元年〉十五日、守〈○越中國守〉大伴宿禰家持作レ之、
p.0836 君達の御前にうかれめ(○○○○)廿人ばかり、ことひきうたうたひて、御ぞ給はれり、
p.0836 かくて二月〈○延久五年〉はつか、天王寺に詣させ給、〈○後三條、中略、〉廿二日のたつのときばかりに、御船いだしてくだらせ給ふ程に、江口のあそび(○○○)ふたふねばかりまいりあひたり、〈○あひたり原脱、據二一本一補、〉祿などをそたまはせける、
p.0836 十六女者、遊女夜發(○○○○)之長者、江口河尻之好色、所レ慣者河上遊蕩之業、所レ傳坂下無面之風也、晝荷簦任二身上下之倫一、夜叩レ航懸二心往還之客一、抑淫奔 嬖之行、偃仰養風之態、琴絃麥齒之德、龍飛虎歩之用、無レ不レ具、加レ之聲如二頻伽一、貌若二天女一、雖二宮木小鳥之歌、藥師鳴戸之聲一、准レ之不レ敵、喩レ之不レ屑、故孰人不レ迷レ眼、誰類不融レ心、於戯年若之間、自雖レ過レ賣レ身、色衰之後、以レ何送二餘命一哉、
p.0836 ふじ川の事
同じき〈○治承四年十月〉二十四日の卯のこくに、ふじ川にて、源平の矢あはせとぞさだめたりける、廿三日の夜に入て、〈○中略〉その夜の夜半ばかりに、ふじのぬまに、いくらも有ける水鳥ども、なにゝかは おどろきたりけん、一どにばつと立ける羽をと、いかづち大風などのやうに、聞えければ、平家の兵共、〈○中略〉こゝをばおちて、おはり川すのまたをふせげやとて、取物もとりあへず、我さきに〳〵とそおち行ける、〈○中略〉そのへんちかき宿々より、ゆう君(○○○)、ゆう女(○○○)ども、めしあつめ、あそびさかもりけるが、あるひはかしらけわられ、あるひはこしふみおられ、おめきさけぶ事おひたゞし、
p.0837 建仁二年二月十五日、今朝路頭遊君各賜二衣裳一云々、如レ予〈○藤原定家〉貧人不レ入二此中一、兼定一昨日被レ仰二備儲一、以二如レ此事一已以出身云々、申時如レ例遊女郢曲等了、早出不レ知二其後事一云々、 廿一日、大臣似下會合如レ例、懸二御簾一放二障子一、〈定事也、女房見物料也、〉午時計出御、〈○中略〉遊女列坐、亂舞如レ例、
p.0837 可二招居一輩者、〈○中略〉傾城(○○)、白拍子、遊女、夜發輩、
p.0837 日本國〈○中略〉
富人取二女子之無レ歸者一、給二衣食一容二飾之一、號爲二傾城一、引二過客一留宿饋二酒食一、故行者不レ齎レ粮、
p.0837 けいせい 漢書に、一顧傾二人城一、再顧傾二人國一と見ゆ、よて傾國(○○)ともいふ、我邦娼家の稱たり、此事海東諸國記にも見えたり、武平一が詩に、常矜二絶代色一、復恃二傾城姿一といへり、
p.0837 一傾城といふも遊女也、今の世のごとく、三所にあつまり居らず、所々にあり、大名の家などへもめし寄て、酒宴の興を催し、歌ひ舞ひ、酌などにも立し也、傾城、白拍子に銚子の渡し樣、折紙など遣樣、馬など引き遣す樣などの事、舊記に見えたり、唐にて傾城といふは、遊女の事のみにかぎらず、總て美女の事を云、うつくしき女は、人に城をもかたぶけさせ、國をもかたぶけさせる物也とて、傾城とも傾國とも云也、傾はかたぶくると云字にて、ほろぼす心也、
p.0837 いにしへより、けいせい、遊女の稱、世に傳へし事久し、異國には、傾城といひ、遊女といふに、隔別の義理ありといへども、爰にけいせいといひ、遊女といふ、其品二つ有事なし、異國の妓女、本朝の白拍子、皆遊君のたぐひ也、
p.0838 傾城
遊女をさして傾城といふは、寬文のころよりいひはじむといへり、遊女は江口神崎等の船著にありて、船にのりて毎船に來るゆへに、ながれの女、浮女(うかれめ)などゝいふ也、〈○下略〉
p.0838 いまはむかし、一條棧敷屋にある男とまりて、けいせいとふしたりけるに、夜中ばかりに、風吹雨ふりて、すさまじかりけるに、大路に諸行無常と詠じて過るものあり、〈○下略〉
p.0838 河竹(カハタケ)〈傾城(○○)之異言〉
p.0838 ながれのみ(○○○○○) 遊女をいふ、以言見二遊女一詩序にも、維二舟門前一遲二客河中一と見えたり、よて川竹の流れの女ともいふめり、ながれの君も同じ、
p.0838 斑女
〈シテ女〉實や本よりも定なき世と云ながら、うきふししげき河竹の、流の身こそ悲しけれ、
p.0838 傾城傾國〈古事アリ〉唐ニテハ美人ノコトヲ云、日本ニテ賣女ノコトヲ云ハ誤レリ、賣女ヲ唐ニテハ妓女ト云、上郎トハ諸侯ノ召仕女ナリ、賣女ハ女郎(○○)ト書ベシ、
○按ズルニ、女郎トハ、素ト賣女ノ事ニアラズ、古木蘭詩ニハ、同行十二年不レ知木蘭是女郎トアリ庾信詩ニハ北堂細腰杵、南市女郎砧トアリテ、共ニ女子ノ事ナリ、
p.0838 遊女、うかれめ、 畿内にてをやま(○○○)、ヌけいせい(○○○○)と云江戸にては女郎(ぢようろ/○○)といふ〈江戸にてハをやまと云名ハ、戯塲にのみ有、〉伊勢の山田にて艶女(あんにや/○○)といふ、同國鳥羽にてはしりがね(○○○○○)と云、〈鳥羽ハ湊成によりて、はしるとは、船人の祝詞なるべし、〉近江にてそぶつ(○○○)といふ、出羽秋田にてねもち(○○○)といふ、奧州にてをしやらく(○○○○○)といふ、〈國によりて、遊女のなき所も有也、他郷の遊女をさしてもいふなるべし、〉奧州松前にてやかん(○○○)といふ、越前敦賀にてかんひやう(○○○○○)と云、〈夕がほをさらすといふ心なり〉又越前越後の海邊に、浮身(○○)と云物有、是は旅商人此所に逗留の内、女をまうけて、夫婦の如くス、此家を浮身宿と云、
p.0839 おいらん(○○○○)
今新吉原町にて、揚代高き妓女をおいらんといへり、こは元祿年間、吉原仲の町へ、女郎銘々より櫻を多く植たるに、其頃岸田屋何某の禿の句に、おいらんがいつちよく咲櫻かな、此意は、俗においらの姊女郎の植し櫻が、いちばんよく咲たりと、ほこりたることなり、おいらといふべきを、此俚言においらんとなまりていひしなり、此時より太夫の名に成たり、されば其召つかはるゝ者より云ふべき詞なるを、他よりいひては義にたがへれど、今は誰もおいらんといふなり、
p.0839 オイラン(○○○○)、松位、大夫などの義、
新吉原の遊女にオイランといふ號あるは、もと新造、禿などが、おいらの所のあねさんといふべきを、オイラントコ〳〵などいひ、さて略てオイラン〳〵トいひならへりし也、さるを今は他の人よりもオイランとよびて、遊女の美稱とす、
p.0839 おやま(○○○) 賣女をいふは、面に粉をもて山を作る意成べし、西土にも粉頭といへり、
p.0839 或曰、遊女をよね(○○)といふ、宿の字なるべしと、張文成の遊仙窟曰、賭レ宿(ヨネ)、十娘問曰、若爲賭レ宿、下官答曰、十娘輸レ籌、則共二下官一臥二一宿一、下官輸レ籌、則共二十娘一臥二一宿一、遊女をよねといふは、寬永の頃、羽州坂田に、よねといひし遊女、生所は加州の者、琵琶の上手にてありし、このよねより、よき遊女を見てはよねと呼て、總て遊女の別名になりたり、又坂田あたりにて、遊女の事を柄杓(○○)とも云、流を汲といふ意か、右にいふ遊仙窟の宿の字は、事を好てむつかし、
p.0839 遊女を道の者(○○○)といふ事、曾我物語に出、
p.0839 問 源平ノ比、遊女トイフモノ、今ノ世トハ大ニカバレル事歟、小松大臣ノ伊豆守仲綱ノモトへ馬ヲヲクルトテ、夕部陣外ヨハ傾城ノモトへ通レシ時、用ヒラルベシトアリシ事見 エ、又志水冠者ヲ遊女別當トシタル事ハ、イカ成事ヤラン、又太平記ニ、金崎ノ城舟遊ニ、島寺ノ袖ト云遊女參リシ事見ユ、戰ノ中ナルユヘニヤ、東宮ノ御前ヘモウカレメノ參リシ事、其時代ト今ト異ナル風俗ノユエニヤ、
答 遊女ノ事、今ノ世或ハ傾城ナド申候、大ニカハレルモナキニヤ、朝野群載ニ見エシ所、大體今ノゴトキ者ニテ、專ラ船舶旅宿ノモノト見エ候ヘバ、今ノ留メ女、又湊ノ遊女ノコトヽ相見候、其中河陽ニ遊女多ク有レ之候由、大江以言ノ遊女ノ詩ノ序ニ見エタリ、是ハ今ノ山州山崎ノ地ナレバ、都近ニテ今ノ島原町ノゴトクナリシナルベシ、是モモトヨリ船著ノ地ニテアリシ故ナリ、昔ハ遊女ト云ヘバ船泊ノ女、傀儡トイヘバ旅宿ノ女ニテ、是ヲバククツト唱ヘシコト也、故ニ歌ノ題ニモ遊女トアレバ、江口室ナドヲヨミ、傀儡トアレバ、野上鏡ナドノ宿ヲヨミ來リ候、サレドモ昔ニ傾城ト呼シコトハ聞エザルニヤ、小松ノ大臣ノ仲綱ノモトへ申送リン傾城ハ、遊女ニカギリシコトニアラズ、遊女ニモアレ、常ノ女ニモアレ、ミメヨキ女ヲ傾城ト云ルコトニヤ、此外ニモミメヨキ女ヲ傾城ト云シコト、古書ニ見申候ヤウニ覺候ガ忘レ申候、又東鑑ニ里見ノ冠者ヲ遊君ノ別當トセシコトハ、〈志水ニテハナク里見ニテ候、志水ハ木曾殿女、〉時ニトリテノコトナルベシ、此コトヲ考ルニ、是ハ富士野ノ狩ノ時ノコトカト申覺候、其世ニスベテ遊女ノ買論、又盃ノ思ヒザシナドニ口論アワテ、鬪諍ニモ及ブベキコトモアリシコト、曾我物語ニ見エ、其上富士野ノ狩場遊女多クツドヒ行シコトモ、同ジ物語ニ見タレバ、其異論ナドアラヌ爲ニ奉行人ヲ命ゼラレシコトナルベシ、其世武家ノ政道ニナリシ初ナレバ、禮義等モ不レ調、又東國ノ風ナドモアリテ、ハシタナキ名ノ別當モアリシナルベシ、其外東鑑ノ初ニハ、當時ノ武家ノナラハシニ異ナルコト多ク相見エ申候、又金崎ノ舟遊ノ時、東宮ノ御前へ遊女出シコト、其時マデモ古代ノナラハシノ殘リタルナルベシ、古代ノ行宮へ遊女ヲ召アリシ事ハ多ク候、宇多帝鳥飼院ニテ玉淵ガ女ノ遊女ニナリシヲ召テ、 歌ヲヨミテ奉リ、後三條帝住吉詣シ給ヒシ時ニ遊女ヲ召近衞帝ノ島ノ千歲、若ト云遊女ヲ召シコトナド、大和物語、大鏡、榮花物語、平家物語等、何ホドモ見エ候コトニテ候、
p.0841 一白拍子と云ふは遊女也、是は鳥羽院の御時、島の千歲(センザイ)、和歌の前と云ふ貳人の女舞出だしけると也、始は水干に立ゑぼしを著て、白鞘卷を〈銀作りのさや卷也、さや卷の事、刀劔の部にしるす、〉さして舞ひければ、男舞とぞ申しける、然るを中比より、ゑぼしをばのけて、水干ばかり著て舞ひたるよし、平家物語に見えたり、水干は多くは白色を用ふる物なれば、かの島の千歲、和歌の前の著たる水干も、白かりしによりて、白拍子と名付けたるなるべし、朗詠集にある詩歌などをうたひ舞ふ物也、今も猿樂の能に、白拍子の形をして舞ふ事有、古の白拍子の體を、昔よりまなび來りたる物なり、
p.0841 妓王事
そも〳〵わが朝に、しらびやうしのはじまりける事は、むかし鳥羽の院の御宇に、しまの千ざい、和歌のまへ、かれら二人がまひいだしたりけるなり、はじめはすいかんにたてゑぼし、しろざやまきをさいてまひければ、おとこまひとそ申ける、しかるを中ごろより、ゑぼし刀をのけられて、すいかんばかりもちひたり、さてこそしらびやうしとは名づけけれ、
p.0841 多久助が申けるは、通憲入道舞の手の中に、興ある事どもをえらびて、磯の禪師といひける女に、敎てまはせけり、しろき水干にさうまきをさゝせ、烏帽子をひき入たりければ、男舞とぞいひける、禪師がむすめしづかといひける、此藝をつげり、是白拍子の根元なり、佛神の本緣をうたふ、其後源光行、おほくのことをつくれり、後鳥羽院の御作もあり、龜菊にをしへさせ給けるとぞ、
p.0841 御花はつれば、兩院〈○後深草、龜山、〉ひとつ御車にて、伏見殿へ御幸なる、〈○中略〉又の日は、ふしみのつにいでさせ給ひて、鵜舟御らむじ、白拍子御船にめし入て、歌うたはせなどせさせ給ふ、
p.0842 四十八番 左 白拍子鼓うちみはやしけるもいちじるく月にかなづる白拍子哉〈○中略〉
忘れ行人もむかしのおとこ舞くるしかりける戀のせめかな
p.0842 白拍子とは、もと拍子の名なるが、やがて歌舞の名になりたるなり、七十一番職人歌合に、白拍子曲舞まひどつがひたり、白拍子の歌、忘れゆく人もむかしのおとこ舞くるしかりける戀のせめかな、鶴が岡職人盡にも白拍子あり、秋のおもひ一こゑにてもかぞへばや月みることのつもる夜ごろを、白拍子はかぞふるものにや、長門本平家物語にも、白拍子かぞへてとあり、〈今も春日若宮の神樂舞の歌に、シラ拍子ラン拍子と云ことありとぞ、〉
p.0842 傀儡子 唐韻云、傀儡、〈賄礧二音、和名久々豆、〉樂人之所レ弄也、顏氏家訓云、俗名二傀儡子一、爲二郭禿一、
p.0842 傀儡〈日本俗呼二遊女一曰二愧儡一〉
p.0842 傀儡トカキテクヽツトヨム、二字心如何、
傀儡ノ二字ヲバ術藝也ト釋セリ、儡ノ字ヲバ子ノ戯也ト云ヘリ、クヽツト云フハ、昔ハサマ〴〵ノアソビ術ドモヲシテ、人ニ愛セラレケリ、今ノ世ニ其ノ義ナシ、女ハ遊君ノゴトシ、男ハ殺生ヲ業トス、又傀ノ字ヲバアヤシトヨム、奇術ヲ施ス義歟、又敗壞ナリト釋セリ、一旦目ヲヨロコバシメテ現スル所ノ事無二始終一心歟、
p.0842 傀儡
傀儡は二樣ありて、いと紛らはし、事物紀原、列子通典、梁鍠傀儡詩、これらは木人形なり、西宮より出づる、箱出狂坊(ばこでくればう)といふ、又一樣は遊女をいへり、下學集、本朝俗呼二遊女一曰二傀儡一、定家卿、季經朝臣などの歌は、遊女をよみ給へり、いと紛らはし、字書には傀は猶レ怪也、又偉也、大也、美也、盛也とあり、儡は敗也、又心勞苦貌、又不二安定一などあれば遊女にしたるなるべし、
p.0843 遊女傀儡おなじからず
體源抄十末卷〈十丁オ〉今樣事條に、前草(サキクサ)は始はクヾツニテ、後ニハ遊女ニナリテ、兩方〈ノ〉事ヲシリテメデタカリケリ云々、
p.0843 さてくゞつといふも同じさま〈○遊女〉ながら、傀儡をまはして、興をそへたるが、一轉して珍らしともてはやしけるより、又一種の如くなりたるなり〈○中略〉くゞといふ葛虆の繩は、つよくしてきれざる故に、傀儡につけて、此綱をひきて舞はすより、やがてくゞつといひ、文字をもあてたるなり、〈○中略〉遊女傀儡ともに、其はじめこそ前にいふ如くなりけれ、後には藝はたゞいさゝか名のみにて、けいせい、やほちと、かはらぬ如くにもなりて、枕席をも專とせしもあるべし、
p.0843 くゞつは、和名抄にも雜藝具に、傀儡を載て、久々豆とあるごとく、偶人なり、然るに遊女と同類のものとすること、何の故とも辨へたる者なきにや、あらぬことのみを説り、偏に旅館の出女とばかり心得るは、詞花集に、〈別歌〉あづまへまかりける人のやどりて侍りけるが、あかつきにたちけるによめる、〈傀儡靡(ナビク)〉はかなくもけさの別のをしき哉いつかは人をながらへて見む、などあればにや、遊女とは、いさゝかかはれ共、旅店の女をしかいふは後に准へていふなり、こはもと人形を舞し、又は放下などするものゝ妻むすめなどの、色を賣ものなれば、傀儡とは呼たるなり、
p.0843 傀儡子
小三 千歲 萬歲 增三(マサン) 安无人(アウミト) 四三
p.0843 傀儡子記
傀儡子者、無二定居一、無二當家一、穹蘆氈帳、逐二水草一以移徙、頗類二北狄之俗一、男則皆便二弓馬一、以二狩獵一爲レ事、或雙劒弄二匕丸一、或舞二木人一鬪二桃梗一、能二生人之態一、殆近二魚龍曼蜒之戯一、變二沙石一爲二金錢一、化二草木一爲二鳥獸一、能人目、女 則爲二愁眉啼粧折腰歩、齲齒咲一、施レ朱傳レ粉、倡歌淫樂、以求二妖媚一、父母夫聟不レ誡、囗丞雖レ逢二行人旅客一、不レ嫌二一宵之佳會一、徵嬖之餘、自獻二千金繡服錦衣金釵鈿匣之具一、莫レ不二悉有一レ之、不レ耕二一畝田一、不レ採二一枝桑一、故不レ屬二縣官一、皆非二土民一、自限二浪人一、上不レ知二王公一、傍不レ怕二牧宰一、以レ無二課役一爲二一生之樂一、夜則祭二百神一、鼓舞喧嘩、以祈二福助一、東國美濃參河遠江等黨爲二豪貴一、山陽播州山陰馬州等黨次レ之、西海黨爲レ下、其名儡則小三、日百、三千載、萬歲、小君、孫君等也、動二韓娥之塵一、餘音繞レ梁、聞者霑レ纓、不レ能二自休一、今樣、古川樣、足柄、片下、催馬樂、里鳥子、田歌神歌、掉歌、辻歌、滿固、風俗、呪師、別法師之類、不レ可二勝計一、卽是天下之一物也、誰不二哀隣一者哉、
○按ズルニ、群書類從ニ收ムル所ノ傀儡子記ニハ、大藏卿匡房卿ノ作ト爲セリ、
p.0844 傀儡子 法性寺入道殿下〈○藤原忠通〉
傀儡子素往來頻、萬里之間居尚新、トレ宿獨歌山月夜、尋レ蹤不レ定野煙春、壯年華洛寵光女、暮齒蓬廬留守人、行客征夫遙側レ目、是斯髮白面空虧〈○二首略〉
藤原敦光
穹盧蓄レ妓各容レ身、山作二屛風一苔花茵、棲類胡中無二定地一、歌傳梁上有二遣塵一、旅亭月冷夕尋レ客、古社嵐寒朝賽レ神、貞女峽邊難レ接レ跡、望夫石下欲レ占レ隣、秋籬花悴螢知レ夜、靑冢草疎馬待レ春〈濃州傀儡子所居謂二之靑冢一〉閑停二短榼一談笑、好一時輕勿レ訴レ交親一、〈○一首略〉
中原廣俊
傀儡子徒無二禮儀一、其中多女被二人知一、茅簷是近二山林一構、竹戸屢追二水草一移、旅客來時心竊悗、行人過處眼相窺、歌應レ折レ柳是家産、業不レ採レ桑何土宜、宛轉蛾眉殘月細、蟬娟彈鬢暮雲垂、千年契芳誰夫婦、一夜宿緣忽別離、賣色丹州容忘レ醜、〈丹波國傀儡女、容貌皆醜、故云、〉得レ名赤坂口多レ髭、〈參河一國赤坂傀儡女、有下多二口髭一之者上、號二口髭君一、故云、〉施レ朱傅レ粉偏求レ媚、徵嬖幾祈二神與一レ祇、 傀儡子孫君 大江匡房
旅舶逢レ君渡不レ窮、貫珠歌曲正玲瓏、翠蛾眉細羅衣外、紅玉膚肥錦袖中、雲遇響通晴漢月、塵飛韻引畫二梁風一、才名如レ此運如レ此、緣底多年隨二轉蓬一、
p.0845 長久元年五月三日丁巳、參二右府相公一、亞將云、今日可レ向二桂別業一、相共哉如何、予〈○藤原資房〉應許之、巳時許、同乘向二彼所一、資高、資賴、資仲等、相同、終日遊興之間、傀儡子來、歌遊太有レ興々々、臨二晩景一歸給、予參二督殿一、卽退出、
p.0845 あづまへまかりける人のやどりとて侍けるが、あかつきにたちけるによめる、
くゞつなびき〈傀儡靡〉
はかなくも今朝の別のおしきかないつかは人をながらへて見し
p.0845 尾張國に、京よりくだれりける男のかたらひつき侍けるが、あすのぼりなんとしける時、しぬばかりおぼゆれば、いくべき心ちせぬよしいひけるに、
傀儡あこ
しぬばかり誠になげく道ならば命とともにのびよとぞ思ふ
p.0845 あづまのかたよりのぼりけるに、あをはかといふ所にとまりて侍けるに、
あるじの心あるさまにみえければ、あかつきたつとて、 堪覺法師
しるらめや都を旅になしはてゝ猶あづまぢにとまる心を
返し 傀儡侍從
東路に君が心はとまれども我も都のかたをながめん
p.0845 三十番 右 つじ君
奧山も思ひやるかな妻こふるかせきがつじの窻の月みて
p.0846
さしゑ
や上らふ
いらせ給へ
ゐ中人にて
みしりまいら
せて侯そ
いらせ給へ
p.0847 揔嫁、江戸にて夜鷹〈かくいふは夜のみ出ると、鷹といふは鳥目をつかむといふ滑稽なるとしなり、〉といふは、やゝ古くは立君といひ、江戸にて切店女といふべきを辻君といふ、是をもかへざまに夜鷹を辻君と思ふは、辻といふ稱を心得誤れるなり、往來の辻よりたゞちに見ゆべく、端近く出ゐるによりて、辻君とはいふなり、たゞちに辻にゐるにはあらず、此二種のさま、七十一番職人歌合の繪にてさとるべし、
p.0847 京都遊女の名目
太夫 これは藝の上の名也慶長年中迄、遊女ども亂舞を習ひ、一年に二三度づゝ、四條河原に芝居を構へ能太夫、舞太夫、皆けいせいども勤めし也、尤大人歷々の御方御見物あり、種々の餘情花麗なる事ども多かりしと也、去によりて今日の太夫は誰が家の何といふ太夫が勤るなどゝいひしより、おのづから、よき遊女どもの總名となりけるよし、芝居相違なく仕舞候得ば、太夫の遊女どもは、町御奉行所へ御禮に上る、此例により今以て年頭八朔、兩度づゝ御禮に上り申候、
p.0847 元文頃まで太夫有しは、三浦屋三軒と玉屋のみなり、徒流云、元文五年頃迄、揚屋五軒あり、尤揚屋町にはなし、新町に、〈京町二丁めなれど、いつの頃よりか新町といふ、本名にはあらじ、〉海老屋治右衞門、尾張屋淸十郎、橘屋五郎左衞門、若狹屋庄三郎、京町和泉屋淸六、其後揚屋ども皆破壞して、尾張屋淸十郎のみ揚屋町へ轉宅して榮へたり、〈三浦ハ寶曆六年に家絶ゆ云々〉按るに、金多里といふ細見〈寶曆の初年なるべし〉江戸町一丁め玉屋山三郎に太夫花紫これ一人、揚やは尾張屋淸十郎のみなり、〈太夫も揚屋も此已後絶たり〉
p.0847 上手をいふて〈いやな座敷をようぬけ申す〉
夷中に京あり、三國の出村にて名高き小女郎といへる太夫職(○○○)は、吉原の三浦が抱へ、前の握虎(やつこ)高尾といふ太夫から、つり取るべき器量風儀、しかし情有つて大氣に生れつき、自然と松の位(○○○)に備つて、衣裳好く著こなし、道中外の女郎と替り、少しすしに見へて、幅のなき男は恐れて會ふ事稀なり、
p.0848 オイラン、松位、大夫などの義、〈○中略〉
また字に松位とかくは、大夫といふべきを、秦の始皇が松を大夫に封ぜしといへる故事によりて、松位とはかける也、さて遊女を大夫といふは、もと白拍子のともがらにて、みづからうたまひするがゆゑに、淨璃瑠大夫になずらへてよべる也、淨瑠璃大夫の號は、院中にめされて叡聞ありし時、かりに五位を賜はりしに起れり、
p.0848 天神(○○)之事〈幷〉大天神(○○○)之事
むかしは價廿五匁なりし故、御緣日に表して天神といひならはせけるとぞ、其緣をとりて、此職を梅の位(○○○)と云、是則御神木の由緣也、〈○中略〉此職より太夫にもすゝむ、前々は大天神小天神とて、二しな有、あたひも高下ありて、大天神は四十三匁にて、もらひ十三匁はありしに、寶曆元未年やみたり、今は大小の差別なし、只天神と許り也、大天神今はなし、
p.0848 京都遊女の名目〈○中略〉
天神 勤銀廿五匁なれば、北野の緣日に取て天神といふ、吉原には此名なし、
格子(○○) 京都の天神に同じ、大格子の内に部屋を構居る、局女郎に紛れぬやうに、格子といふ名を付たり、
p.0848 散茶(さんちや/○○) 寬文五年巳のとし、江戸所々に居し茶屋共、吉原へ降參して、七十餘人入込たり、〈○中略〉降參の者共は、風呂屋くづれ多く有しゆへ、見せを風呂屋の時の如く構へたり、今の散茶これなり、扨岡より吉原へ來りし遊女は、いまだはりもなくて、客をふるなどゝいふ事はなしされば、いきはりもなく、ふらずといふ意にて、散茶女郎といひけり、是は吉原遊女共が、時の戲に散茶女郎といひしが、いひ止ずして、今に散茶といひもて來りしなり、
p.0848 このさん茶、むめ茶(○○○)に、甚だ杜撰多し、今考ふるに、本説〈○異本洞房語園〉に今まで吉 原に居たる女郎に對して、ふらぬといふ心にて、散茶と異名せしとあり、然らば茶は袋に入れてふり出すに、散茶は粉に挽たる茶なれば、湯に放し入れるのみ、ふらぬといふ心なるべし、又むめ茶はその薄茶の濃きをうめるといふ心にて、散茶に對して、むめ茶と云たる成べし、是又さん茶に一段おとりたる物ぞかし、これにつき里人の口稱あれ共、正しからず、
p.0849 端女郎(はしじよらう)の事
太夫天神は、口の茶屋といふへは出ず、此女郎、晝ばかりは、端の茶屋にてあきなふ故、はし女郎(○○○○)といふ、夜は泊らず、廓の作法にて、夜泊りは揚屋而巳に限りたるに、寶曆二申のとしより、口の茶屋にて泊はじまりし也、此價の品、奧にくはしく記す、此はし女郎といふもの、打かけはすれど、禿はつれず、しかれども、松のくらゐにもまさるほどのはし女郎は、禿つれる也、則をくの名よせにて見るべし、此内往來にさしかけ傘はなし、此職に秀たるは天神と位階をのぼり、又太夫にも經あがる、太夫天神は云に及ばず、はし女郎までも襲(うちかけ)著してゐる也、
局(つぼね)之事
局といふは、大内御局の下つかたの長屋に表して此號あり、直段は奧に記す、局女郎(○○○)、端女郎兼帶なり、
p.0849 けちぎり
けちぎり(○○○○)は〈又けちとり(○○○○)といふもおなじ〉局女郎をいふなり、假契りと書くは假字なるべし、あるひはけち(○○)とばかりもいへり、又端(○)、靑暖簾(○○○)、柿暖簾(○○○)、〈かきのれんは、多く江戸にのみいへり、〉又のれんづら(○○○○○)、きれをとるぼくとう(○○○○○○○○○)などもいへり、
靑暖簾〈○中略〉 風流女大名、〈元祿の末印本〉大津柴屋町の事をいへる條に、是にて見えたる小家に靑のうれんをかけたるは、端女郎の住み給ふ局とやらん云々、江戸咄〈貞享三年印本〉六の卷、吉原の條に、〈○中略〉大 臣なるは揚屋にて參會し、それにおよばざるは、さんちやの二階ざしきにてたのしみ、又それよりくだりては、靑のうれんのかげにたちより、ぶん〳〵さうおうのあちだて云々、〈○中略〉 けち〈○中略〉 好色いせ物語、〈元祿中〉むかし田村と申けちおはしましけり、〈注〉けち一名局、一名はし女郎、〈四の卷長文也〉
p.0850 新町河合權左衞門といひし者の内に、雲井とて局の女郎あり、彼に其頃二刀の達人宮本武藏が逢馴て、同町の揚屋甚三郎が許へ折々通ひける、寬永十五年の春中、肥前の島原一揆起り、西國御大名仰付られ發向の砌、宮本氏も黑田家の幕下へ見廻として、彼地へ赴くとて、雲井に暇乞のため、甚三郎が許へ來り、揚屋にて發足の用意をしたり、
p.0850 鹿戀(かこひ)
此女郎、太夫天神とくらべては、大に詫たる體也、ゆへに世人さびしき人を、お茶たてらるといふより、かこひといふ、むかしは文字も圍とかきし也、物を閑にて、深山にて小男鹿を戀るこゝろより、中比鹿戀といふ、かの聲よりして鹿のくらゐ(○○○○○)と定めたり、むかしに別はありし、今は太夫に付なりといふ説非なり、引舟とかこひとは別也、かこひはかうし女郎の内なり、價は拾八匁にて貰は八匁なりしに、延享三寅年やみて、安永二巳のとし價をあらためて、鹿戀始る、價は委く奧に記す、
引舟の事
引舟といふは、太夫につきて行ものなり、太夫は大船に表し縛(しばる)る舟のこゝうにて、ひき船の名あり、これ客のつかひもの也、客附のとり捌、皆此引舟の役也、依て別に價なし、
p.0850 万松モシ新町〈○大阪〉には、女郎に引舟(ひきふね)といふがあるじやア厶リやせんか、江戸では芝居の棧敷には、引舟と云ふがありやすが、女郎の名を引舟といふは、どふいふ譯でありやす子、 鶴人、引舟、鹿戀(かこひ)、端女郎(はしぢよらう)、牽頭(たいこ)女郎などゝいふ、いろ〳〵の名がむりヤス、引舟といふは、太夫に附て行く女郎のことでありヤス、譬ていはゞ、太夫は大船に表し、それにつなげる舟ゆゑ、引舟といふので厶リヤ正、萬端太夫についてゐて、取捌をする役でありヤス、江戸吉原でいふ、番新(ばんしん)のことでありやすぜい、それだから引舟は賣は致しやせん、浪花枕といふ隨筆物の説では、此の引舟といふハ、夕ぎりより初ツたとありヤす、夕霧は一〈ツ〉體京都の島原の女郎で、扇屋四郎兵衞といふ者の抱で、其扇屋が、寬文年中に大阪へ引越やした、其頃夕ぎりが下るといふ噂が、大阪中の評判となり、毎日々々川筋の見物が、山のごとくだツたとありヤス、夕霧の美艶きことは、何んともかとも譬やうがなく、其上萬藝に達し、行儀發明言語に述がたしといふもので有やすから、サア大阪へ來ると全盛日に增して、所々方々の揚屋から、大臣のまねくこと、引もきらずといふことで有ヤス、そこで夕霧も勤あぐんで、自分で一人ヅヽ女郎を揚て召つれ、諸方より一時に口の掛ツたとき、此揚(あげ)女郎を、先の揚屋へやりやして、坐をもたせておき、初めから來た客を、順々に勤めて廻ツたといひやす、其とき此揚女郎のことを、引舟と名付けたとありヤス、夕霧より前は、太夫も引舟を連てあるきやすことは、夕霧から此方のことだといひやす、千長、それで引舟の譯が知れやした、モシ寬文年中といツては、夕ぎりも百七八十年になりヤス子、
p.0851 牽頭(たいこ)女郎の事〈幷〉藝子(げいこ)の事
唐土にては、六頭子、又牽頭とも云、是男女に限らず、座を持ものをいふなり、今太鼓と俗に書、是花をうてばなるといふ心とぞ、此説非也、是太夫、天神、自三味線彈ざる故、三弦ひかさんとおもへば、此女郎をよぶ也、又藝子モいふもの外にあり、むかしはなかりしに、寶曆元未年にはじまる、
p.0851 若衆女郎、古くありしものと見えて、吾嬬物語に、まんさくまつ右衞門、兵吉、左源太、きんさく、とらの助、熊之助などいふ里名、あまたあり、是もと歌舞妓をまねびて、太夫といひしこ ろより、佐渡島正吉などいへる太夫もありし名殘とみゆ、これそれのみにもあらず、男寵の流行し故に、後までもかやうの名を付るなり、されど太夫にはあらず、みなはしかうしの内なり、勝山が奴風の行はれしも、此故なり、箕山云、近年傾城の端女に、若衆女郎と云あり、先年祇園の茶屋に龜といひし女、姿かたちを若衆によく似せて、酌を取たり、され共是遊女ならず、是のみにて斷絶しぬ、若衆女郎の初る處は、大阪新町富士屋といふ家に、千之助とて有、此女は、初は葭原町の局にありしが、おのづから髮短く切てあらはし居たり、寬文九己酉年より、本宅の局に歸りて、さかやきをすり、髮をまきあげにゆひ、衣服のすそみぢかく切、うしろ帶をかりた結にし、懷中に鼻紙たかく入て、局に著座す、よそほひかはれるしるしに、暖簾もかへよとて、廓主木村又次郎がゆるしを得て、暖簾に定紋を付たり、紺地に鹿の角を柿にて染入たり、是若衆女部の濫觴なり、見る人めづらしといひて、門前に市をなす、故にこゝかしこに一人づゝ出來るほどに、今はあまたになり、堺奈良伏見の方迄ひろまれり、是衆道にすける者をおびき入むの謂ならん歟、されども、よき女をば、若衆女郎にはしがたし、それに取合たる顏をみ立てすると見ゆ、大阪の若衆女郎は、外面よりそれとしらしむる爲に、暖簾にかならず大きなる紋を染入るといへり、洛陽集、靑簾あはれなるものや柿暖簾、〈有和〉
p.0852 百ざう、徒流云、中ごろ江戸町貳丁目の河岸迄下品の遊女ありける、小部屋やうの店にで、二軒打拔に行燈一ツを用ひたり、俗に百ざうといひける云々いへり、ざうとは何の義にか、思ふに、豆藏などの例にて、房州の方言に、寄居虫(ガウナ)を、がなざうと云、又蟹にもくざうの名あり、陽物をさくざうといふも同じ、人の名めかしていふ事なり、坊と云ふことゝ似たり、
p.0852 遊女
主水 乙阿古 宮城 小烏 白女 小乙 阿古 觀音 小觀音〈山殿〉 如意 香爐 仲駒 喜々 藥師 鳴渡
p.0853 源のさねがつくしへゆあみんとてまかりける時に、山ざきにて、わかれをしみける所にてよめる、 しろめ
命だに心にかなふ物ならば何か別のかなしからまし
p.0853 亭子のみかど、〈○宇多〉とりかひのゐんにおはしましにけり、れいのごと御あそびあり、此わたりうかれめども、あまたまいりてさぶらふ中に、聲もおもしろく、よしあるものは侍りやととはせ給に、うかれめばらの申やう、大江のたまぶちがむすめといふものなん、めづらしうまいりて侍と申ければ、見させ給ふに、さまかたちもきよげなりければ、あはれがり給て、うへにめしあげ給、そも〳〵まことかなととはせ給ふに、とりかひといふだいを、人々によませ給ひにけり、仰給ふやう、玉淵はいとらうありて、歌などよくよみき、このとりかひといふだいを、よくつかうまつりたらんにしたがひて、まことの子とはおもほさんと、おほせ給ひけり、うけ給はりてすなはち、
淺みどりかひある春にあひぬれば霞みならねどたちのぼりけり、とよむときに、みかどのゝしりあはれがり給て、御しほたれ給ふ、人々もよくゑひたるほどにて、ゑひなきいとになくす、みかど御うちきひとかさねはかま給ふ、ありとある上達部みこたち四位五位、これにものぬぎてとらせざらんものは、座よりたちねとのたまひければ、かたはしより上下みなかづけたれば、かづきあまりて、ふたまばかりつみてぞをきたりける、かくてかへり給とて、南院の七郎君といふ人有けり、それなむこのうかれめのすむあたりに、家作りてすむ、と聞しめして、それにのたまひあづけらる、かれが申さんこと、ゐんにそうせよ、ゐんよりたまはせむものも、かの七郎君がりつかはさん、すべてかれにわびしきめな見せそと、仰られければ、つねになんとぶらひかへりみる に、〈○下闕〉
p.0854 亭子院〈○宇多〉鳥養院にて御遊有けるに、とりかひといふことを、人々によませられけるに、あそびあまた集れり、其中に歌よくうたひて、聲よきものゝ有けるをとはるゝに、丹後守玉淵が女白女となん申ける、〈○下略〉
p.0854 くにのかみしばし出らるゝみちにさしあひて、〈○中略〉名高きひがき(○○○)なりと、人のいへば、はたかくるゝによびいづ、なづかしけれど、かくれ所もなくて、をけをきしにをきてゐたれば、いかでいとかくは有しぞ、あはれなど、あればおもひわびて、
おいはてゝかしらのかみはしらかはのみづはくむまでなりにけるかな
p.0854 つくしのしら川といふ所にすみ侍けるに、大貳藤原興範朝臣のまかりわたるついでに、水たべんとて打よりてこひ侍ければ、水をもていでゝよみ侍ける、
ひがき(○○○)の嫗
年ふればわが黑髮も白川のみづはくむまで老にけるかな
p.0854 肥後國遊君檜垣、老後ニ落魄者也、〈○中略〉
シラカバヽ、件ノ所ニ有ル河也、如二後撰一ハ大貳興範ニアヒテ詠レ之、
p.0854 遊女記
江口則觀音(○○)爲レ祖、中君(○○)小馬(○○)、白女(○○)、主殿(○○)、蟹島則宮城(○○)爲レ宗、如意(○○)、香爐(○○)、孔雀(○○)、三枚(○○)、神崎則河派姫(○○○)爲二長者一、孤蘇(○○)、宮子(○○)、力命(○○)、小兒(○○)之屬、皆是倶尸羅之再誕、衣通姫之後身也、上自二卿相一下及二黎庶一、莫レ不下接二牀第一施中慈愛上、又爲二妻妾一、歿レ身被レ寵、雖二賢人君子一、不レ免二此行一、南則住吉、西則廣田、以レ之爲下祈二徵嬖一之處上、殊事二白大夫一、道祖神之一名也、人別刻二期之一、數及二百千一、能蕩二人心一、亦古風而已、長保年中、東三條院參二詣住吉社天王寺一、此時禪定大相國被レ寵二小觀音一、長元年中、上東門院又有二御行一、此時宇治大相國被レ賞二中君一、延久年 中、後三條院同幸二此寺社一、狛犬犢(○○○)等之類、並レ舟而來、人謂二神仙一、近代之勝事也、
p.0855 御堂〈○藤原道長〉召遊女小觀音(○○○)〈觀音弟也〉御出家之後被レ參二七大寺一之時、歸洛經二河尻一、其間小觀音參入、入道殿聞レ之、頗頳面、給二御衣一被二返遣一之云々、〈○中略〉
小野宮大臣〈○藤原實資〉愛二遊女香爐(○○)一、其時又大二條殿〈○藤原敎通〉愛二此女一、相府香爐被レ問云、我與レ髯愛レ何乎、汝已通二大臣二人一、〈二條關白髯長之故稱也〉
p.0855 元永二年九月三日、夜半、參二北殿御前一乘レ車出レ門、下官〈○源師時〉權中將同車、向二源相公六條亭一、令二同車一、天曙間乘レ船、下官乘二善光寺別當淸圓船一、〈傳二平等院一所供儲也〉以二圓賢〈彌勒寺別當〉船一、爲二女房御船一、八幡別當光淸船、爲二伊與守〈藤原長實〉船一、以二上野前司實房船一爲二相公船一、自餘不レ能二委記一、勸修寺僧都被レ設二入珍膳於予船一、道間組合也、扈從人々、源相公、伊與守、權中將、下官、及三人息男等也、又山禪師小野僧都被レ參、過二去曲一之間、江口熊野(○○)、與二比和君(○○○)一、同船追從、一舟之中、指二二笠一發二今樣一曲付レ船漸下、過二神崎一之間、金壽(○○)〈長者〉小最(○○)、弟黑鶴(○○○)四艘參會、各五内有下望二與州寵愛一之愾上、暫遊二廻水上一之間、微雨灑漸滂沱、留二女房船遊女白子(○○)宅一、與州以下手二遊君一向二北前宅一、及二半夜一唱歌、至二曉更一各歸レ宿、相公迎二熊野一、與州招二金壽一、羽林抱二小最一、下官自レ本此事不レ堪、仍歸自問、就レ寢了、 六日、出二神畸一於二於高濱一、召二遊君六人一纒頭、長者金壽、〈三領單衣〉熊乃、江口、伊世(○○)、〈三領〉比和(○○)、〈江口〉輪鶴(○○)〈各一領〉此外伊與守給レ米云々、路間長谷莊眞上莊、平田莊、〈平等院莊也〉送二酒肴一、過二江口一之間、遊女群參、長者孫々熊野自レ本在二此船一、爲二饗應一書二長者讓文一令レ加二孫母子判一給二熊野一、件孫母子預二纏頭一、又戸々子母給扇事了、猶相二具熊野伊世二人一、宿二八幡別當光淸木津莊一、光淸儲二珍膳一、
p.0855 大治五年十月五日、參議四人師賴長實〈中將〉宗輔〈中將〉師時等任二納言一、〈去保安四年己後遣(還一本作レ違)之死闕、于今未レ被レ任、〉于レ時伊通、參議、右兵衞督、中宮權大夫四人皆上﨟也、然而不レ堪二愁緖一、翌日辭二所帶等一於二大宮大路一破二燒檳榔車一、白晝著二褐衣水干貲布袴一、騎レ馬被レ渡二神崎遊女金(○)許一、又年來所レ被二借置一、蒔繪弓返二遣中院右府一トテ、八トセマデ手ナラシタリシ梓弓返ルヲ見テゾ子ハナカレケル、何カソレオモヒ スツベキアヅサ弓又引力ヘス折モアリケリ
p.0856 義朝靑墓落著事
義朝〈○源〉ハ兎角シテ、美濃國靑墓ノ宿ニ著給、彼長者大炊ガ娘延壽(○○)ト申ハ、頭殿御志不レ淺シテ、女子一人御座ケリ、夜叉御前トテ、十歲ニ成給、
p.0856 妓王事
太政入道〈○平淸盛〉は、かやうに天下を、たなごゝろのうちににぎり給ひしうへは、世のそしりをもはばからず、人のあざけりをもかへりみず、ふしぎの事をのみし給へり、たとへばそのころ、京中に聞えたるしらびやうしのじやうず、ぎ王ぎ女(○○○○)とておとゝひあり、とぢ(○○)といふしらびやうしのむすめなり、しかるにあねのぎわうを、入道相國てうあひし給ひしうへ、いもとの妓女をも、世の人もてなす事なのめならず、母とぢにもよきやつくつてとらせ、毎月に百石百くはんをくられたりければ、家内ふつきして、たのしひ事なのめならず、〈○中略〉京中のしらびやうしども、ぎわうがさいはひのめでたきやうをきいて、うらやむものもあり、そねむものもあり、うらやむものどもは、あなめでたのぎわう御ぜんのさいはひや、おなじゆう女とならば、たれもみなあのやうでこそありたけれ、いかさまにも妓といふ文字を名に付て、かくはめでたきやらん、いざや我らもついてみんとて、あるひは妓一妓二とつけ、あるひはぎふくぎとくなどつくものもありけり、〈○中略〉又しらびやうしのじやうず一人出來たり、加賀の國のものなり、名をばほとけ(○○○)とぞ申ける、年十六とぞきこえし、〈○下略〉
p.0856 かいだうくだり
本三位の中將しげひらの卿、〈○中略〉同じき〈○元曆元年〉三月十日の日、かぢはら平三かげ時にぐせられて、關東へこそ下られけれ、〈○中略〉夕ま暮、池田の宿にも著給ひぬ、かの宿の長者、ゆや(○○)がむすめ、じゞ(○○) う(○)がもとに、其夜は三位しゆくせられけり、じゞう三位の中將殿を見奉て、日ごろはつてにだに思召より給はぬ人の、けふはかゝる所へ入せ給ふ事のふしぎさよとて、一首の歌を奉る、
たびのそらははにふのこやのいぶせきにふる里いかにこひしかるらん、中將の返事に、
ふるさとも戀しくもなしたびのそらみやこもつゐのすみかならねば、やゝ有て、中將かぢ原を召して、さても只今の歌のぬしは、いかなる者ぞ、やさしうも仕つたるものかなとの給へば、かげときかしこまつて申けるは、君はいまだしろし召され候はずや、あれこそ八島の大臣殿〈○平宗盛〉のいまだ當國守にてわたらせ給ひし時、めされ參らせて、御さいあい候ひしに、老母を是にとゞめおき、つねはいとまを申しかども、たまはらざりければ、ころはやよひのはじめにてもや候ひけん、
いかにせん都のはるはをしけれどなれしあづまの花やちるらん、といふ名歌つかまつり、いとま給はつてまかりくだり候ひし、海道一の名人にて候とぞ申ける、〈○中略〉
せんじゆ
中將〈○平重衡〉道すがらのあせいぶせかりければ、身を淸めてうしなはれんにこそと思ひて、まち給ふ所に、やゝ有て、年のよはひ、二十ばかりなる女房の、いうしろうきよげにて、かみのかゝり、まことにうつくしきが、めゆひのかたびらに、そめつけのゆまきして、ゆどのゝ戸おしあけて參りたり、其あとに十四五ばかりなるめのわらはの、かみはあこめだけなりけるが、こむらごのかたびらきて、はんざうだらひに、くし入てもちて參りたり、此女房かいしやくにて、やゝひさしう御ゆひかせ奉り、かみあらひなんどして、いとま申出けるが、男なんどは、ことなうもぞ思召す、女はなかなかくるしかるまじとて、かまくら殿〈○源賴朝〉よりまいらせられてさぶらふ、何事もおぼしめす事あらば、承つて申せとこそ、兵衞の佐殿は仰さぶらひつれ、中將今はかゝる身と成て、何事をか 思ふべき、只思ふ事とては、出家ぞしたきとの給へば、彼女房歸り參て、兵衞の佐殿に此よしを申す、兵衞のすけどのそれ思ひよらず、わたくしのかたきならばこそ、朝てきとしてあづかり奉りたれば、かなふまじとぞの給ひける、かの女參て、三位の中將殿に、此よしを申す、いとま申て出ければ、中將しゆごのぶしにの給ひけるは、さても只今の女ばうはゆうなりつるもの哉、名をば阿といふらんととひ給へば、かのゝすけ申けるは、あれは手ごしの長者がむすめで候が、みめかたち心ざま、ゆうにわりなき者とて、此二三が年は、佐殿にめしをかれて候、名をばせんじゆのまへ(○○○○○○○)と申候とぞ申ける、其夕べ雨すこしふつて、よろづ物さびしげなる折ふし、くだんの女ばう、びはこともたせて參りたり、かのゝすけも、家の子らうどう、十よ人ひきぐして、中將殿の御まへちかう候けるが、酒をすゝめ奉る、千じゆのまへしやくをとる、中將すこしうけて、いとけうなげにておはしければ、かのゝすけ申けるは、かつきこしめされてもや候らん、むねもちはもとよりいづのくにのものにて候へば、かまくらはたびにて候へ共、心のをよばん程は、ほうこう仕り候べし、何事も思召事あらば、承て申せと、兵衞の佐殿おほせ候、それ何事にても申て、酒をすゝめ奉り給へといひければ、千じゆの前しやくをさしをき、らきのてういたるは、情なき事をきふにねたむといふらうゑいを、一兩返したりければ、三位の中將、このらうゑいをせん人をば、北野の天神、まい日三度かけつて、まもらんとちかはせ給ふとなり、され共しげひらは、今生にてははやすてられ奉つたる身なれば、じよゐんしても何かせん、たゞしざいしやうかるみぬべき事ならば、したがふべしとの給へば、千じゆのまへ、やがて十あくといふ共なをいんぜうすといふらうゑいをして、ごくらくねがはん人は、皆みだの名がうをとなふべしといふ今やうを、四五返うたひすましたりければ、其時中將さかづきをかたぶけふらる、千じゆのまへ給はつて、かのゝすけにさす、むねもちがのむ時に、ことをぞ引すましたる、三位中將、ふつうには、此がくをば五じやうらくと いへ共、今しげひらがためには、後生らくとこそくはんずべけれ、やがてわうじやののきうをひかんとたはぶれ、びはをとりて、てんじゆをねぢて、皇じやうのきうをぞひかれける、かくて夜もやう〳〵ふけ、よろづ心のすむまゝに、あな思はずや、あづまにも、かゝるゆうなる人の有けるよ、それ何事にても、今一こゑとの給へば、せんじゆのまへかさねて、一じゆのかげにやどりあひ、同じながれをむすぶも、みなこれぜんせの契りと云しらびやうしを、まことにおもしろうかぞへたりければ、三位の中將、ともしびくらうしては、すかうぐしがなんだ、といふらうゑををぞせられける、
p.0859 とさばうきられの事
判官は、いそのぜんじといふしらびうしがむすめ、しづかといふ女を、てうあひせられけり、しづかかたはらをへんじも立さる事なし、
p.0859 文治二年四月八日乙卯、二品〈○源賴朝〉幷御臺所御二參鶴丘宮一、以レ次被レ召二出靜女於廻廓一、是依レ可レ令レ施二舞曲一也、此事去比被レ仰處、申二病痾由一不レ參、於二身不肖一者、雖レ不レ能二左右一、爲二豫州〈○源義經〉妾一、忽出二掲焉砌一之條、頗恥辱之由、日來内々雖二澀申一之、彼旣天下名仁也、適參向歸洛在レ近、不レ見二其藝一者無念由、御臺所頻以令二勸申一給之間被レ召レ之、偏可レ備二大菩薩冥感一之旨被レ仰云云、近日只有二別緖之愁一、更無二舞曲之業一由、臨レ座猶固辭、然而貴命及二再三一之間、憖廻二白雪之袖一、發二黃竹之歌一、左衞門尉祐經鼓、是生二數代勇士之家一、雖レ繼二楯戟之某一、一﨟上日之職、自携二歌吹曲一之故、候二此役一歟、畠山二郎重忠爲二銅拍子一、靜先吟二出歌一云、
吉野山峯ノ白雪フミ分テ入ニシ人ノ跡ゾコヒシキ、次歌二別物曲一之後、又吟二和歌一云、
シヅヤシヅ〳〵ノヲダマキクリカヘシ昔ヲ今ニナスヨシモガナ、誠是社壇之壯觀、梁塵殆可レ動、上下皆催二興感一、二品仰云、於二八幡宮寶前一、施レ藝之時、尤可レ祝二關東万歲一之處、不レ憚レ所二聞食一慕二反逆義經一、歌二別曲奇怪云云、御臺所被二報申一云、君爲二流人一、坐二豆州一給之比、於レ吾雖レ有二芳契一、北條殿〈○時政〉怖二時宜一、僭被二 引籠一之、而猶和二順君一迷二暗夜一、凌二深雨一到二君之所一、亦出二石橋戰場一給之時、獨殘二留伊豆山一、不レ知二君存亡一、日夜消レ魂、論二其愁一者、如二今靜之心一、忘二豫州多年之好一、不二戀慕一者、非二貞女之姿一、寄二形レ外之風情一、謝二動レ中之露膽一、尤可レ謂二幽玄一、枉可二賞翫給一云云、于レ時休二御憤一云云、小時押二出於御衣〈卯花重〉於簾外一、被レ纒二頭之一云云、 五月十四日辛卯、左衞門尉祐經、梶原三郎景茂、千葉平次常秀、八田太郎朝重、藤判官代邦通等、面々相二具下若等一向二靜旅宿一、抗レ酒催レ宴、郢曲盡レ妙、靜母磯禪師又施レ藝云云、景茂傾二數盃一極二一醉一、此間通二艶言於靜一、靜頗落涙云、豫州者鎌倉殿御連枝、吾者彼妾也、爲二御家人身一、爭存二普通男女一哉、豫州不二牢籠一者、對二面于和主一、猶不レ可レ有事也、況於二今儀一哉云云、
p.0860 建久四年五月廿八日癸巳、祐經、王藤内等、所レ令二交會一之遊女、手越少將(○○)、黃瀨川龜鶴(○○)等、則喚二此由一、祐成兄弟討二父敵一之由、發二高聲一、 六月一日丙申、曾我十郎祐成妻大磯遊女、〈號虎(○)〉雖レ被レ召二出之一、如二口狀一者一、無二其咎一之間、被二放遣一畢、
p.0860 つのくに長江倉橋といふ兩庄は、一院〈○後鳥羽〉の御ちやうあい、かめぎく(○○○○)といふ白拍子が、ちぎやうなるを、地とうこれをこつしよしけるによつて、かめぎくこれをいきどほり、院へそうしなげきけり、
p.0860 天王寺へまいり侍りけるに、にはかに雨ふりければ、江口にやどをかりけるに、かし侍らざりければ、よみ侍ける、 西行法師
世中をいとふまでこそかたからめかりのやどりををしむ君かな
返し 遊女妙(○)世をいとふ人としきけばかりの宿に心とむなと思ふばかりぞ
p.0860 爲兼、佐渡國へまかり侍し時、越後の國てらどまりと申所にて申をくり侍し、
遊女初君(○○) 物思ひこしぢの浦のしら波も立かへるならひありとこそきけ
p.0861 近比近江國かいづに金(かね/○)といふ遊女有けり、其所のさたの者也ける法師の妻にて、年比すみけるに、件の法師、又あらぬ君に心をうつしてかよひけるを、金もれ聞て、やすからず思ひけり、ある夜合宿したりけるに、法師何心なくれいのやうに、彼事くはだてんとて、またにはさまりたりけるを、其よは腰をつよぐはさみてけり、しばしはたはぶれかと思ひて、はづせはせづといひければ、猶はさみつめて和法師めが、人あなづりして、人こそあらめ、おもてをならべたるものに心うつして、ねたきめみするに、物ならはかさんと云て、たゞしめにしめまさりけれは、旣にあはをふきて死なんとしけり、其時はづしぬ、法師はくだ〳〵と絶入て、わづかに息計かよひけるが、水吹などして、一時計有ていきあがりにけり、かゝりける程に、其比東國の武士、大番にて京上すとて、此かいづに日たかく宿しけり、馬共湖に入てひやしける、其中に、竹の棹さしたる馬のすゞしげなるが、物におどろきて、走りまひける、人あまた取付て引とゞめけれども、物ともせず引かなぐりてはしりけるに、此遊女行あひぬ、すこしもおどろきたる事もなくて、たかきあしだをはきたりけるに、前をはしる馬のさし繩のさきをむずとふまへけり、ふまへられて、かひこづみて、やす〳〵ととまりにけり、人々目をおどろかす事かぎりなし、其あしだ、砂ごにふかく入て、足くび迄うづまれにけり、それより此金、大力の聞え有て、人おぢあへりける、みづからいひけるは、わらはをば、いかなる男といふ共、五六人してはえしたがへじとぞ自稱しける、ある時は手をさし出て、五のゆびごとに弓をはらせけり、五張を一どにはらせける、ゆびばかりの力かくのごとし、誠におびたゞしかりける也、
p.0861 金崎船遊事附白魚入レ船事
十月〈○延元元年〉廿日ノ曙ニ、江山雪晴テ、漁舟一篷ノ月ヲ載セ、帷幕風捲テ、貞松千株ノ花ヲ敷リ、〈○中略〉 春宮〈○恒良親王〉御盃ヲ傾サセ給ケル時、島寺ソ袖(○)丁云ケル遊君、御酌ニ立タリケルガ、拍子ヲ打テ、翠帳紅閨萬事之禮法雖レ異、舟中波上一生之歡會是同ト、時ノ調子ノ眞中ヲ、三重ニシボリ歌ヒタリケレバ、儲君儲王忝モ叡感ノ御心ヲ被レ傾、
p.0862 傾城吉野〈幷灰屋某 銀冶某 僧日徑〉
都島源の廓によしの(○○○)といへる名妓あり、容色風姿類なきのみならず、手かき歌よみ、茶香などをはじめ、凡遊藝に長じぬ、もとより心たかく、なみ〳〵の衣類器財などは省だにせず、それが著たる廣東島のうはおそひを、よしの廣東と名付て、今も賞茶者流の袋物にして、もてなすにてもしるべし、〈○下略〉
p.0862 新吉原三浦屋遊女高尾(○○)六代程モ續キ候哉、初代ヨリノ傳イカヾ、
答〈○瀨田貞雄〉高尾ガ傳ハ、ヨク原武太夫盛和委敷候ヒキ、傳へ請候筈ニテ終ニ不レ果、殘念ニ候、淺草山谷寺町春慶院ニ轉譽妙身ト有レ之碑、萬治二己亥年十二月五日ト切テ、辭世ニ、サム風ニモロクモクチル紅葉哉、トアリ、塔ノ屋根 此紋切付タル四面塔ノ碑ハ、全ク初代ノ高尾ニ候、是ヲ土手ノ道哲ニテ似セ碑ヲ造リ、二代目高尾ト稱シ、人ヲ欺キシヲ不吟味ニテ、江戸砂子ニ二代目ト記シ候ナリ、
p.0862 三浦高尾考
寬永二十年印本吾妻物語〈元吉原細見記〉を見るに、元吉原の時代、高尾といふ妓女四人あり、江戸町善右衞門内高尾、同町甚左衞門内高尾、京町若三郎内高尾、同町九郎右衞門内高尾、以上、みなはし女郎にて、もとより三浦の高尾にあらず、その以前高尾といふ名妓あらば、四人まではし女郎の名によぶべしともおぼえず、三浦の初代高尾は、寬永の後いできたる事あきらけし、今杏園先生の高尾考にもとづき、古書を參考して年序をさだめ、好事家の考訂をまつのみ、 初代高尾〈元吉原の時代、引據なきによりて、つまびらかならず、〉
二代高尾〈數代のうちすぐれて名妓のきこえ高し、これを萬治高尾といふ、貞享板江戸鹿子の説を用て、二代とさだむ、萬治三年十二月廿五日死、或云萬治二年十二月五日死、〉
三代高尾〈袖かゞみに、高尾を評して、いまだ年わかとはいひながら、さきの二代高尾におとれりとある以て、三代とさだむ、袖かゞみに年號なきをもつて、時代つまびらかならずといへども、延寶四年板本しづめ石に、高尾ありて、今はとしたけ玉ひてとあれば、此高尾寬文のすゑを、さかりにへたるべし、天和三年の寫本、紫の一もとに、高尾、小紫、今はなしとあれば、天和の頃は中絶なるべし、〉
四代高尾〈元祿四年板本、幕そろひに、高尾あり、元祿七年板本草ずり引に、いつぞや、わづらひより、ふるさとへおくりのよしと、しるしあれば、此高尾、元祿五六兩年の間に、出廓せしなるべし、〉
五代高尾〈元祿十二年春出廓のよし、元正間記にみえたり、○自二六代一至二十一代一略〉
p.0863 遊女高尾
著作堂の珍藏に、美地乃久艸紙といふ有り、それは陸奧の大守の醫師工藤平助が女の、同藩只野氏に嫁して、仙臺に在が筆記なり、その中に高尾が事跡をしるしたり、世の妄説を正すに足れり、曰、昔の國主、高尾といふ遊女を黃金にかへて、くるわを出し給ひて、御たちまでもめし入られず、中す川〈○註略〉にて切はふらせたまふと、世の人思へるはあらぬことなり、是はうた上るりにおもしろく事添て作りなどして、やがて誠のごとくなりしものなり、高尾はやはり御たちにめしつかはれてのち老女と成て、老後跡をたて給はりしは、番士杉原重太夫又新太夫と、代々かはるかはる名のりて、〈祿玄米六百石〉今目付役をつとむる重太夫はその末なり、只野家近親なるゆゑ、ことのよしはしれり、杉原家にても世人あらぬことを、まことしやかに、となふるはをかしと思ふべけれど、我こぞ高尾が末なりと名のらんにも、おもたゞしからねば、おしだまりて聞ながしをるとなり、これをいと珍らしき事とおもひて、うつしおきけるに、この比ある人のもとより、その法號葬地等を書付、おこせたれば、著作堂の主にしめさんとてこゝにのす、その記に曰、仙臺の人なにが し、遊女高尾が墓碑を摺りてもちたるを、四谷にすめる醫生淺井春昌といふものゝ、うつしたりとて、島田某の見せたるをしるす、
二代目
三巴の紋 〈享保元丙申年〉淨林院妙讚日晴大姉〈十一月廿五日〉
于時正德五年二月二十九日 〈逆修〉 〈椙原常之助〉源範淸義母〈行年七十七歲〉
右の碑、仙臺荒町法龍山佛眼寺に在、仙臺の人のいふ、高尾實は國侯に從ひて奧州にいたる、杉原常之助といふは、義子にて名跡をたて給ひたるにいひ傳ふ、享保元年七十八歲にて天壽を終るといふ、
綱宗朝臣は、正德元年六月四日卒去、享年七十六歲、仙臺瑞鳳寺に葬す、法號雄山全緘見性院といふ、
p.0864 遊女總角が世代
世の口ずさみに、高雄(○○)七代、薄雲(○○)三代總角(○○)一代といふことあり、高雄は古人の考ありて、世代も事蹟もいと明なり、按ずるに、總角は一代にはあらず、兩巴扈言〈享保十五年〉に、三浦屋四郎左衞門内に、 あげまきあり、又享係十九年の細見に、 あげまきあり、元文五年の細見に〈かうし〉あげまき、寬保三年の細見にはあげまきなし、その後延享四年の細見に〈かうし〉あげまきあり、延享五年の細見、寬延二年の細見に、あげまきあり、寶曆四年 あげまき、〈しのぶげんじ〉同五年の細見に、 あげまき〈しのぶけんじ〉とあり、同八年に三浦の家絶えたり、これによりておもへば、兩巴雇言より元文の間に見えたるあげまき一人にて、延享四年より寶曆五年までを、又一人ともおもはるれば、これにて二代はありとしられたり、これより先正德四年に、助六の狂言をはじめてしたる時に、揚卷の役玉澤林彌なり、享保よりはやく已にあげまきあれば、すべて三人はありともおもはるゝものから、猶 そのくはしきことは後考を俟つのみ、
p.0865 角町万字屋庄左衞門が家に、万壽(○○)と云し格子女郎有し、一人の客になづみて外の勤を疎略にし、庄左衞門が敎訓用ひず、うち捨置ば、外の女郎共の爲あしければ、勤をやめ引込せて、腰 奉公の如く召つかひたり、万壽は生質發明にて、器量ある女なれば、是も當分のこらしめなればこそとおもひ、下女共の古布子をかり著て、少しも耻るけしきもなく、下女共の立働らく程のことを、何事もいとはず働き、或は買物あれば、彼布子を著て中の町へも出て、諸事に付隨分かい〴〵しくはたらきけり、此頃長谷川宗月とて、希代の相人ありて、折々吉原へ來りしが一日庄左衞們が方へ來りて咄し居候ゆへ、庄左衞門宗月を饗應なし、其遊女共の相を見せければ、宗月も當座の言分に、相應なる挨拶してけり、彼万壽はこれを聞、主人庄左衞門が勝手へ立し透に、己も其相人とやらんに見て貰はんとて、宗月に物いふ所へ、庄左衞門また座敷へ出ければ、どこやら主人はこはひ物か、万壽は言捨にして、又勝手へ入けるが、宗月ちよつと万壽が相を見て、庄左衞門にいふ樣、先程から大勢の相見し内に、今の下女程の相はなし、福相有てあつばれ遊女ならば、此廓の一二を爭ふ名取とも成べし、三年を過さずして、かならず千人の上を越すべき相ありといへば、庄左衞門聞て、夫は彼女の仕合にこそといひて扨宗月には酒を進めて歸しけり、半年計り過れども、主人は何の沙汰もなく、下女にして召仕ひければ、扨は當分のおどしにてはなかりしものかとて、万壽も志をあらためて、人賴みて誤り詫言するゆへ、庄左衞門合點して、また勤を致させければ、かたの如く時花(はやり)て、宗月が言しに違はず、其年より三年目に、年季も一年ありしが、ある有德成る方へ貰はれて行、多の人の上に立しといふ、伊達ある女にて、やつこ万壽といはれし、
p.0865 島原の難波や與左衞門といへる遊女屋に、濱荻(○○)といふ太夫めり、もとは播州高砂の 商家、總七といふものゝ娘にて、人の家に嫁しけるが、その家衰微に及びて、夫に捨られ、親のもとにかへりけれども、親の家もまたおとろへて、父母を養はんが爲めに、與左衞門が方に身をうりて、遊女とはなりしなり、その頃與左衞門は、江戸の廓へ移りける時にあたりて、よき遊女をつれ行かんと、十一人の遊女をえらみける中に、ことに濱荻は、その志し尋常ならず、風雅の道にもうとからざれば、わけてあはれみをかけ、江戸に下るにのぞみて、濱荻は與左衞門に、わが父母もろともに、江戸へくだりたきよしの願を申しけるに、許されざりければ、客にかたらひ、事のよしを歎きけるに、其客豪富のあき人にて、彼が孝心を感じ、いとやすき望みかなとて、路資をあたへて、あるじ與左衞門に賴みけるに、費をいとへばこそ、かれが願ひも聞ざりしなりとて、こともなげに承引たれば、濱荻はふたおやをも伴ひつゝ下りけり、濱荻勤めの中おこたりなければ、他の遊女もこ、れにならひて、その家繁榮し、主人も亦數多の益を得たれば、高砂といへる茶店をしつらひ、濱荻が親達につかはしたり、かの濱荻はたしなみよくて、身をつゝしみ、明くれに父母をかへり見て、勤めながら日々に親のもとへ行かよひけり、かゝれば廓の中にても、誰れか賞譽せざるものなからんや、その頃濱荻が發句に、
うき人に手のはづかしき火鉢かな、後にめる貴人に根曳せられて、出雲の國にいたり、親子三人にて、めでたき暮しとなれるも、孝の惠みなるべし、そのころ行儀難波とで、その名を傳へたり、
p.0866 遊女大橋
都島原の遊女大橋、實の名は律、〈もと彼所に大橋(○○)といへる名妓あり、うたよみ手書ぬるが、その手ことによければ、大橋やうといひて、いまだ傳はるよし、此妓もその名を嗣るとなん、〉よろづみやびを好めり、
p.0866 新吉原松葉屋瀨川
新吉原江戸町松葉や半右衞門抱瀨川(○○)といふ傾城は、十ケ年以來は、五丁町に並ぶ方なき全盛な り、其人となり異なり、夫遊女うかれ女といへども、往昔を尋見れば、此里にも寬文の頃には、小紫(○○)は能和歌の道に達し、不斷敷島の道を尋ね、風雅にして心やさしく、世上こぞつて偏に石山寺の觀世音にて、源氏六十帖編集したる紫式部にも似たりとて、其名を小紫と號しとなり、名高き雅女たり、〈○中略〉又島原の吉野(○○)は、初め浮船と名乘しを、或春廓櫻の花盛を見て、島原籠中の吟とて、
こゝにさへさぞな吉野は花ざかり、と云名句有しゆへ、これより世に吉野と呼れける、又正德の頃とかや、江戸町茗荷やの奧州(○○)が提灯の文字、貞淸美婦胎と云五文字の裏に假名にててれんいつはりなしと書て、中の町へ持せ道中せしとなり、其後享保の頃、萬字や九重(○○)が浮世の末に、隅田川の三十一字に、奉行大岡忠相の猛き心を和らげしと、要秘錄に先達てしるし出したり、是等皆々廊の花紅葉と、其時々のさかり成べし、今は皆散果し、又來春も咲花の絶ずして、今〈○寶曆〉松葉屋の瀨川と云、器量甚勝て、此里隨一の美人、王照君西施も面を恥、通小町も顏を覆ふ姿なり、其生れ下總國小見川のかろき民の娘たり、幼少にて松葉や半右衞門抱て敎ける、自然と女の道たることを不レ學して是を知、妓女の藝一ト通り、三味せん、淨瑠璃は勿論、茶の湯、はいかゐ、棊雙六、ありとあらゆる藝、不思議に習ひて、鞠なども、上手なり、皷笛諷舞も能、其上能書にて俗氣をはなれ、廣澤烏石が流義、文徵明が墨跡に眼をさらし、唐詩選を取廻し、歷々の儒者の門弟にも、爪をくはへさせ、繪も上手にて、京下り秋平〈大雅堂〉が弟子と成て、畫工にくはしく、俳諧は乾什米仲が引付に入て、こと〴〵く人の知る所なり、其上易道に委しく心、を用ひ、平澤左内が弟子と成て、卜筮を學びけり、
p.0867 巴屋〈○吉原〉に岩こす(○○○)といふ傾城は、秀たるものなりき、渠はもと越後信濃あたりの深山のものにて、山女衒行(ぜんけ)かゝりて見れば、老女只壹人、六七歲の小女とあやしき家居に住むあり、立よりて問へば、此小女は父母におくれて、我手に育侍るといふ、かゝる所にあらんよりは、我江 戸に連行ん、我にあたへまじやといへば、山奧のかゝる所にありて、若我死せば狼の餌食どもならん、夫いと幸なり、づれ行て命を全くし給れといふ、女衒歡びて金貳分を老女に與へければ、老女も悦びけるとなん、是後に巴屋の岩こすとて、全盛の君となりたるといふ事を、年經て聞けり、其虚實はしらず、同藩の大山氏なるもの、此岩こすに逢けるに、夏の頃なりしが、幮の外に來りて、禿を呼で水を取よせ、其半呑て、暑しやと問ふ、大山暑しと答ふ、其時その茶碗を持て幮に入り、めみさしたる水をめまする心かとおもふに、さはなくておのれ一口呑て、大山が寐たる顏に向ひて、ふつと霧を吹かけたり、顏より髮襟のあたりまで、水にぬれければ、驚きて起上る、岩こす笑て、呑たるよりは凉しからんといひしとなり、凡妓の氣骨にはあらず、一談を聞ても察すべきなり、
p.0868 此情を鬻ぐ女、昔の種類は、いかにわかれたるか委しくは知りがたし、船はつる湊やうの所々には、遊女、〈今藝妓にあたるもの〉傾城〈今女郎にあたるもの〉共にあり、もし又一方のみありける所もあるべし、〈○中略〉さて又湊ならぬ所も、繁花の地にはありけむことは、都は勿論奈良の木辻、近江の鏡、參河の矢矧、美濃野上、赤坂、鎌倉に大磯、化粧坂、喜瀨川、手越などなり、近江の朝妻、尾張の井戸田、遠江の池田などは、なほ船はつる方によりたるなるべし、海邊にては津の國の江口、神崎、蟹島、堺の乳守、播磨の室津、周防の室積、和泉の高淵、越前の三國、備後の尾道、其外古く名にきこえたる所枚擧しがたし、
p.0868 遊女記
自二山城國與渡津一浮二巨川一、西行一日、謂二之河陽一、往二返於山陽南海西海三道一之者、莫レ不レ遵二此路一、江河南北、邑々處々、分流向二河内國一、謂二之江口(○○)一、蓋典藥寮味原厨、掃部寮大庭莊也、到二攝津國一、有二神崎蟹島(○○○○)等地一、比レ門連レ戸、人家無レ絶、娼女成レ羣、棹二扁舟一、著二旅舶一、以薦二枕席一、聲遏二溪雲一、韻飄二水風一、經廻之人、莫レ不レ忘レ家、州盧浪花、釣翁商客、舳艫相連、殆如レ無レ水、蓋天下第一之樂地也、〈○中略〉相傳曰、雲客風人爲レ賞二遊女一、自二京洛一向二河 陽一之時、愛二江口人一、刺史以下自二西國入レ江之輩、愛二神崎人一、皆以二始見一爲レ事之故也、所レ得之物、謂二之團手一、及二均分之時一、廉恥之心去、忿厲之興、大小諍論、不レ異二鬪亂一、或切二麁絹尺寸一、或分二米斗升一、蓋亦有二陳平分肉之法一、其豪家之侍女、宿二上下船一之者、謂二之湍繕一、亦稱二出遊一、得二少分之贈一、爲二一日之資一、爰有レ髻、依二繡絹之名一、舳取二簦捐一、皆出二九分之物一、習俗之法也、雖レ見二江翰林序一、今亦記二其餘一而巳、
p.0869 見二遊女一 江以言
二年三月、豫州源太守兼員外左典厩、春行二南海一、路次二河陽一、河陽則介二山河一、攝二三州之間一、而天下之要津也、自レ西自レ東自レ南自レ北、往反者、莫レ不レ率二由此路一矣、其俗天下衒二賣女色一之者、老少提結、邑里相望、維二舟門前一、遲二客河中一、少者脂粉謌咲以蕩二人心一、老者擔レ簦、擁レ棹、以爲二己任一、有二夫壻一者、責以三其少二淫奔之行一、有二父母一者、只願以三其多二徵嬖之幸一、雖レ非二人情一、是以二俗事一、蓋以二遊行一爲二其名一、所レ謂以レ信名レ之也、於戯翠帳紅閨、萬事之禮法雖レ異、舟中浪上、一生之歡會是同、余毎レ歷二此路一、見二此事一莫レ未二嘗爲レ之長大息一矣、何其以二好レ色之心一、不レ近二好賢之途一哉云レ爾、
p.0869 八十島祭
公卿以下殿上人有二事緣一者、皆相共下向、〈○中略〉次歸京、於二江口一遊女參入、纒二頭例祿一如レ恒、
p.0869 長元四年九月廿五日、女院〈○上東門院藤原彰子〉住よし石淸水にまうでさせ給、〈○中略〉廿六日になりて、こぎくだらせ給程に、〈○中略〉えぐちといふ所になりて、あそびどもかさに月をいだし、らてんまき繪さま〴〵におとらじまけじとしてまいりたり、こゑどもあしべ打よする浪の、こゑも、江ぐちのいふべきかたなくこそみえしか、〈○中略〉二日、〈○十月〉あまの河と云所にとゞまらせ給て、あそびどもめしてものどもたまはす、人々みな物ぬぎなどす、
p.0869 久安四年三月廿一日已卯、宿二柱本邊一、今夜、密召二江口遊女於舟中一通之、
p.0869 二條帥長實著二水干裝束一、遊女〈神崎君目古曾〉ニイカヾミユルト被レ問ケレバ、目出ク御坐之由 申レ之、重被レ問云、水干裝束ニテヨカリシ人、又誰ヲカ見哉云々、遊女申云、肥前守景家ト申人コソ見候シカト、詞未レ了前忽解脱云々、
p.0870 晝寫上人可レ奉レ見二生身普賢一之由祈請給、有二夢吿一云、欲レ奉レ見二生身普賢一、可見二神崎遊女長者一、云云、仍乍レ悦行二向神崎一、相二尋長者一之處、只今自レ京上輩群來游宴亂舞之間也、長者居二横坐一執レ鞁、彈二拍子之上句一、其詞云、周防ムロヅミノ中ナルミタラヒニ風ハフカ子ドモサヽラナミタツト云々、其時聖人成二奇異之思一、眠而合掌之時、件長者應二現普賢之貌一、乘二六牙白象一、出レ自二眉間一之光、照二道俗人一、以二微妙音聲一説曰、實相無漏大海、五塵六欲風不レ吹トモ、隨レ緣眞如之波タヽヌトキナシト云々、其時聖人信仰恭敬シテ拭二感涙一、開レ目時ハ亦如レ元、爲二女人之貌一、彈二周防室積一、閉眼之時ハ、又現二菩薩形一演二法文一、如レ此數ケ度、敬禮之後、聖人乍二涕泣一退歸、于レ時長者俄起レ座、自二閑道一追二來聖人之許一、示云、不レ可レ及二口外一ト、謂畢卽逝去、于レ時異香滿レ空云々、長者俄ニ頓滅之間、遊宴醒レ興云々、
p.0870 第六段
室(○)ノトマリニツキタマヒケレバ、遊君ドモマイリアツマリテ、往生極樂ノミチ、フレモ〳〵トタヅネマウシケリ、ムカシ小松ノ天皇〈光孝天皇コレナリ〉八人ノ姫宮ヲ七道ニツカハシケルヨリ、遊君イ、マニタエズ、或時天王寺ノ別當僧正〈行尊〉拜堂ノ爲ニクダラレケル日、江口神崎ノ遊女、舟ヲチカクサシヨセケレバ、僧ノ御舟ニミグルシクトイヒケレバ、神樂ヲウタヒイダシハンべリケリ、有漏地(ウロジ)ヨリ无漏地(ムロヂ)ニカヨフ釋迦ダニモ羅睺羅(ラゴラ)ガ母ハアリトコソキケト、僧正メデヽ、サマ〴〵ノ纒頭シタマヒケリ、
p.0870 同國〈○播磨〉室の泊につき給に、小船一艘ちかづきたる、これ遊女がふねなりけり、遊女申さく、上人の御船のよしうけたまはりて推參し侍なり、世をわたる道まち〳〵なり、いかなるつみありてか、かゝる身となり侍らん、この罪業おもき身、いかにしてか、のちの世 たすかり候べきと申ければ、上人あはれみての給はく、げにもさやうにて世をわたり給らん、罪障まことにかろからざれば、酬報またはかりがたし、もしかゝらずして、世をわたり給ぬべきはかりごとあらば、すみやかにそのわざをすて給べし、もし餘のはかりごともなく、又身命をかへりみざるほどの道心、いまだおこりたまはずば、たゞそのまゝにてもはら念佛すべし、彌陀如來は、さやうなる罪人のためにこそ、弘誓をもたてたまへる事にて侍れ、たゞふかく本願をたのみて、あへて卑下する事なかれ、本願を憑て念佛せば、往生うたがひあるまじきよし、ねんごろにをしへ給ければ、遊女隨喜の涙をながしけり、のちに上人の給けるは、この遊女信心堅固なり、さだめて往生をとぐべしと、歸洛のときこゝにてだづね給ければ、上人の御敎訓をうけたまはりてのちは、このあたりちかき山里にすみて、一すぢに念佛し侍しが、いくほどなくて、臨終正念にして、往生をとげ侍きと、人申ければ、しつらん〳〵とぞおほせられける、
p.0871 室の泊の遊君鄭曲を吟じて上人に結緣する事
中ごろ、少將ひじりといふ人ありけり、事のたより、ありて、はりまのくにむうといふところにとまりたりける夜、月くまなくて、いとおもしろかりけるに、遊君我も〳〵とうたひゆき、ちかうあはれなるものゝさまかなとみる程に、遊女の舟このひじりののりたる舟をさして、こぎよせければ、かんどりやうの者、いなやこれは僧の御舟なり、思ひたがへ給へるかと、事の外にいふ、さみたてまつる、何とてかばさるひがめはみる物かはといひて、つゞみうちて、
くらきよりくらき道にぞ入ぬべきはるかにてらせ山のはの月、と此うたを二三返ばかりうたひて、かゝるつみふかき身となれるも、さるべきむくい侍るべし、この世は夢にてやみなんとす、かならずすくひ給ひなん、こゝろばかりえんをむすびたてまつるなりといひて、こぎはなれにけり、思はずあはれにおぼえて、なみだをおとしたりと、後に人にかたりけり、
p.0872 文治六年〈○建久元年〉十月三日甲申、令二進發一給、〈○源賴朝上洛〉 十八日己亥、於二橋本驛(○○○)一〈○遠江國〉遊女等群參、有二繁多贈物一云云、先レ之有二御連歌一、
はしもとの君にはなにかわたすべき 平景時
たゞうまがはのくれてすぎばや
p.0872 おほいそのとら思ひそむる事
しうれんのせいつきずして、おほいそ(○○○○)のちやうじやのむすめとらといひて、十七さいになりけるけいせいを、すけなりの、としごろおもひそめて、ひそかに三とせぞかよひける、
p.0872 宇治(○○)、木幡(○○)、淀(○)、竹田(○○)あたりは、昔遊女多くありたるところなり、古き洛陽の地圖に、小椋姫(ヲグラヒメ)町といふところありて、遊女町なり、そのかみは多く水邊に居たること、古書に見えたり、あさ妻舟の圖なども、おもひあはすべし、
p.0872 諸國遊女町(○○○○○)一武陽淺草新吉原 一京都島原 一大坂瓢簟町 一伏見夷町〈しゆもく町共云〉一同所柳町 一奈良鳴川〈木辻とも云〉 一大津馬場町 一駿州府中彌勒町一越前敦賀六軒町 一同國三國松下 一同國今庄新町 一泉州堺北高洲町一同國同所南津守 一攝州兵庫磯の町 一石見鹽泉津稻町 一佐渡鮎川山崎町一播州室小野町 一備後鞆蟻鼠町 一藝州多太海 一同國宮島新町一長門下關稻荷原 一筑前博多柳町 一肥前長崎丸山町 一薩州樺島田町一同國山鹿野〈寄合町共云〉
右都合二十五ケ所
p.0872 元和三巳年三月 傾城町被二仰付一候節御書付〈○註略〉
一傾城町之外、傾城屋商賣不レ可レ致、〈幷〉傾城町圍之内〈江〉、何方より雇に來候共、先々〈江〉傾城を遣事、向後一切可レ爲二停止一事、
一傾城買遊び候者、一日一夜より長留不レ可レ致事、
一傾城衣類紺屋染を用、總而金銀之摺箔等、一切著させ申間敷事、
一傾城町家作普請等美麗に不レ可レ致、町役等は江戸町之格式之通、急度相勤可レ申事、
一武士町人體之者にかぎらず、出所慥ならざるもの不審成者致二徘徊一候ハヾ、住所致二吟味一、不審ニ相見へ候ハヾ、奉行所江可二訴出一事、
右之通、急度可二相守一者也、
月日 奉行〈○中略〉
正德元卯年七月
新吉原大門口高札〈原註、吉原大門口にても御高札有レ之候、新吉原江引越候ても御高札御建被レ下候、其後正德元年卯七月、御高札御建替被レ下候云々、〉
覺
一前々より制禁之ごとく、江戸中端々ニ至迄、遊女之類不レ可二隱置一、若違犯之輩あらば、其所之名主五人組地主まで、曲事たるべきもの也、
一醫師之外何者によらず、乘物一切無用たるべし、
附、鑓長刀門口へ堅く可レ爲二停止一者也、
卯七月
p.0873 往古廓の一ケ所にならざる以前、慶長年中までは、傾城屋二三軒づゝ、處々に分散して有けるが、そが中に軒並に集居たる場所三ケ所、 麴町八丁目邊十五軒 鎌倉河岸邊同斷 大橋の内柳町廿軒
如此にて有し、後茅町へ一統に集る、その後又處々に風呂屋といふ物出來り、分て神田丹後殿前、木挽町などは、殊の外賑ひけるとぞ、近世いへる岡場所の類也、
p.0874 よし原に傾城町立る事
見しは今、江戸繁昌故、日本國の人集り家作りなすによつて、三里四方は野も山も家を作り寸土のあきまなし、然るに東南の海きわによし原有、色このみする京田舍の者ども、此よし原を見立、けいせい町をたてんと、よしの苅跡、爰やかしこに家作りたりしは、たゞかにの身のほどに穴をほりすみ居たるが如し、〈○中略〉日を追月を重ぬるに隨て、此町繁昌する故、草のかり屋を破り、西より東、北より南へ町わりをなす、先本町と號し、京町、江戸町、伏見町、堺、大坂町、墨町、新町と名付、家居びゞしく軒をならべ、板ぶきに作りたり、扨又此町を中に籠て、其めぐりにあげや町と號し、幾筋とも數しらず横町をわり、のうかぶきのぶたいを立おき、毎日舞樂をなして是を見する、此外勸進舞、蛛舞、獅子舞、すまふ、じやうるり、いろ〳〵樣々のあそびしてぞ興じける、これらの見物をかごとになし、僧俗老若貴賤、此町に來りくんじゆす、ちからをもいれずして、人をまどはすけいせいのはかり事、思の外也、
p.0874 吉原開基之次第
慶長の頃迄、御城下〈○江戸〉定りたる遊女町なし、傾城屋所々にありし中にも、軒をならべ集り居たる場所三四ケ所あり、麹町八丁目に十四五軒、鎌倉河岸に同斷、大橋の内柳町に廿餘軒、右大橋の内柳町といふは、今の常盤橋御門の内にて、道三河岸の邊なり、天正年中より殊に賑ひし町也、其頃京都萬里小路柳の馬場といふ町に、原三郎左衞門といふ者、取立し遊女町を柳町といひし、しかれども彼名をかり用ひたるにはあらず、江戸の柳町は、其町の入日に、幾年經しともしれぬ大 木の柳二本有し故、町の名となりしとか、
慶長十年の頃、御城御普請御用意に付、柳町の場所御用地に被二召上一、彼所の者ども、元誓願寺前へ引越す、總て此砌は御江戸日にまして御繁昌に付、道橋も次第に多くなり、所替屋敷替りの御沙汰度々あり、此節所々の傾城屋ども相談し、傾城町の場所取立申度由、數度御願申上るといへども、不二相叶一して打過たり、
同十七年の頃、予〈○庄司勝富〉が祖庄司甚右衞門、始て御訴訟申上し趣は、京都大坂駿府、其外諸國の津湊、總て繁昌なる場所に、古來御免の傾城町すべて廿餘ケ所有レ之候、しかるに御當地日を追て御繁昌候得共、いまだ定り候傾城町無二御座一、傾城屋所々に分散し罷在候、唯今の如くに御座候ては、御町中の爲よろしからざる事ども多く有レ之候由申上、幷三ケ條の事書を以て御願申上る、
一引負横領之事
一人を勾引し幷養子娘之事
一諸浪人惡黨幷欠落者之事
右三が條之事書、目安の案文、繁きを恐れ略レ之、甚右衞門御願申上候處、其節の町御奉行所、米津甚兵衞樣御聞濟の上、追々可レ被レ爲二仰付一由被二仰渡一候、
此節は御傳奏所と申す、正保以來御評定所と申侯由、
元和元年の冬十一月と傳承る、忝も兩上樣於一御前一、佐渡守樣御窺御披露の砌、上樣大御所樣と奉レ申、御諚には其庄司といふ者は、彼甚内と云しキミガテヽ歟と御尋の時、佐渡守樣成程甚内が事にて候と被二仰上一候、
君が親方(てゝ)、又遊女長(きみがてゝ)、傾城屋の亭主をさして、古來大人の仰せられし言葉なり、
慶長五年の秋、濃州關が原御雷動の時、甚右衞門其頃は甚内といひけるが、鈴が森八幡宮の前に 新に茶店を構へ甲斐々々しき遊女八人を撰て、赤手拭を頂せ、朱芾(あかまへだれ)をさせ茶店に並べおき、御供奉御同勢の御方へ御茶を上候處、折節台駕暫く茶店の邊に止りし時、御駕の内より御上覽被レ遊、あの茶店に若き男の袴を著て蹲踞居は何者ぞ、又若き女の一樣に出立て並居るは何事ぞと御尋に付、御側供奉の御方、其由御尋の時、甚内申上候は、私儀大橋の内柳町に罷在候、甚内と申遊女の長にて候上樣には去頃奧州へ御發駕、萬民の爲ケ樣に御賢慮を被レ爲レ盡候御事、難レ有次第に候、御城下に住居仕、常に御恩澤を奉レ蒙、安樂に渡世仕候へば、御冥加の爲、且は御出陣必定の御勝利なれば、乍レ恐御首途を奉レ祝、此處へ罷出、御供奉の御方〳〵へ、御茶を差上候と申上る、此由被レ達二上聞一候處、奇特に被レ爲二思召一候由難レ有上意を奉レ蒙候、上樣此時御祝詞の御上意あり、略レ之、彼甚内が事かと御諚ありしも、此時より知ろし召れしものか、
元和三年三月、甚右衞門を御評定へ被二召出一、御願申上候傾城町の事御免許被レ遊、ふきや町の下にて、二町四方の場所を下し給はる、同時に甚右衞門義、傾城町總名主(○○○○○○)に被二仰付一候、此節五ケ條の御書出し御條目被二下置一候、略レ之、同年夏中より右場所地形普請に取懸り、同四年十一月より一同に商賣し候也、葭茅生茂りたるを刈捨、地形築立、町作りたる故、葭原といひしを、祝ふて吉の字に書替たり、
p.0876 いづくぞと人にとへば、三谷といふ所なり、そのかみ吉原といへる傾城町を、明曆三年の五月にこゝにうつし給へりといふ、
p.0876 かりにもおにのとは、在五の物語にしるしつけたり、あだちの原のくろ塚にとは、兼盛の朝臣ぞよみたなる、大江戸の北にあたりて、然るものゝすだくところあり、よしはらのさととはよぶめり、げにつながぬ舟のよるべさためず、あくがれまどふたはれをの、枕ひきゆふわたりなりとか、いでやかゝるたのしき所にあそびては、わかきどちのはなごゝうには、家路に歸ら んこともわすれて、斧の柄もこゝにくだいつべし、かの御佛のすみだまへる極樂の國を、かけて聞えんはかたじけなけれど、あそびがともがらにも、猶こゝの品のけぢめありて、そのしなさまざまにわかれたり、さるをげほんといへどもたりぬべしなどいふは、よくすいたる人の詞なるべくや、
p.0877 吉原は、女郎が千人、客一万人と積りし所のよし、さすれば女郎に客十人なれど、今は中々五人づゝにも當るべからず、されどそふ絶ず來る客もあらず、又廓中五丁町といへ共、御府内割なれば、七八丁は丈夫に有り、矢張通り筋は三筋に分り、中央大門口の通りを、中の丁とて往來廣く、兩側皆茶屋計り也、格子なく、上店(あげみせ)をおろし、繪筵敷物敷詰、二階表座敷高欄手摺付にて、往來を見おろし、下より廣き段梯子をかけ、大體茶屋は間口二間半三間なり、中の丁突當りに秋葉常燈明の高燈籠あり、是より左右へ道あり、兩方の筋へ行く、大門口を入て、横筋へ入ば皆女郎屋なり、江戸丁一丁目、二丁目、京町すみ丁、揚屋町等也、是も廣き筋にて、大道まん中に溝あり、此上へ見事なる用水桶覆に女郎屋の名を印して、是を天水桶と云ふ、店付(みせつき)女郎を見るには、右側先にとか、左側を先にか見廻る也中の町の左右の筋を西河岸又伏見丁とて、是は安女郎屋町なり、是は双方とも、内側計り家並び外側は高塀、此外は大溝にて廓外なり、口は大門口一方よりなし、霜月酉の待には、西河岸の方少しき門をひらき、はね橋かゝりて往來を免す、是も此日計りにて、女郎に欠落等をさせぬ仕方なり、 郎の高下を論ぜず、近所遊びにも出る事あたはず、年中部屋か店の間よウ他行ならず、翅あらばしらず、大門口より外出る事なく、籠の鳥かや恨めしきとは、是を云なりとぞ、
p.0877 深川其外の料理茶屋、水茶屋、また宿場の飯盛女と吉原とをさして、世に惡所場とす、惡所と聞ては、近よるまじき處なれども、しばらく御宥免有しこと、國の金銀融通なるべきを、身 の分限をわすれ、惡所へ行て酒食に長じ、無益の奢に金銀を費し、其身の不融通となり、又不養生となること、歎くべきの至也、〈○中略〉是よりして、世に惡所と唱へし場所の盛なる時の樣を説て、勸懲の一端となす、深川土橋の娼婦は、價晝夜十貳匁づゝ五つに切る、えいき横町の子供屋より呼出し土橋にあそぶ、仲町も價同じく、中裏の子供屋より呼出し、仲町の茶屋にあそぶ、表櫓裏やぐら裾つぎともに、價書一歩貳朱、夜壹歩、ひと切は貳朱也、表矢倉は裏に子供屋有て、爰を大裏といふ裏やぐら裾繼は、子供内にあり、いづれも藝者は別に有、また仲町の西北に、松村町といふ處を綱打場と唱ふ、爰に切見世あり、吉原にててつぽう見世といふ、是より大新地には、大漢樓、五明樓、百歩樓とて、三軒の揚屋あり、いづれも大川より般付きにて、二階見晴し、普請美なり、娼女は裏に小供屋あつて呼出す、價仲町と同じ、此大新地と土橋仲町は、藝者奉公人請狀にて小供をかゝへ置事故、名も何吉何次などゝよぶ、其外は酌取奉公人請狀にて抱るとぞ、小新地は晝夜金壹歩、後に五六となる、娼家四五軒有て、裏やぐら裾つぎと同じ、仲町を初め其外の娼婦、客の迎ひとて、屋根船にのり、舟宿まで行事あり、又おくりとて客とゝもに舟に乗行あり、皆衣類髮の飾り美を盡し、時花ものを專らとして、高金の品を用ゆ、かることいひて中居の女付そひ行、是も縮緬の前垂をして頭の飾り高金の品を用ゆ、此舟春夏の頃は、兩國川あたりに、納凉花火などに遊ぶ事有、前に云三味線藝者を伴ひし舟ともに、橋間につなぎて猥がはしき事も有しより、屋根船のすだれは、雨雪の時、または波立たる時の外は卷上おくべし、橋間につなざ置べからずと、此年、〈○天保十三年〉四月に令ありける、又深川八幡の向なる佃町、松代町代地をあひると名づけて、此所河岸通裏町とも、娼家軒をならべ、娼婦の衣裝はさらし木綿に、太織の緋がのこなど、すこし肩入れして、裾まはしは黑木綿を用ひ、皆見にくき姿也、價晝六百文、夜四百文なる故、四六見世といふ、此處今は盛りなれども、昔は河岸通りに、茅葺の家わづか貳三軒にして、賤しき者をのみ客とす、其頃爰にあそ ぶ人、價をおしみて、百文のさしの内にて、十六文計りを殘して渡せしかば、娼家の僕是を受て、此お足は少し短うござりますといひしかば、客人答て、何、家鴨ではあるまいしといひしとぞ、一説にこの佃町は、昔佃島の獵師どもが、網の干場とせし處故に佃町の名あり、故に網ひるといふを、俗誤てあひる〳〵といひならはせしと、ある翁の物語せし、此所にもきり見世あり、皆賤しき限りなるべし、深川常盤町に揚屋四五軒あり、裏の小供屋より呼出す、娼婦の價、櫓下におなじ、藝者も有、此邊引手茶屋多し、本所御船藏前町を、土俗あたけといふ、爰にも切見世有、娼女の衣裝もよかりしが、文化年中諍論の事有て絶、此處軒並の水茶屋あり、此茶店のうしろに、お旅とて五六軒の娼家あり、内に子供有て價常盤町に同じ、又一ツ目辨天の門前に八郎兵衞屋敷といふあり、ここに五軒の娼家あり、至て穩便なるあそびにして藝者もなし、高わらひ大聲を禁じ、手をたゝきて呼事ならず、疊をたゝきて中居をよぶ、子供屋敷に有て呼出す、價晝夜一兩一歩、一切一歩なり、家の作り方、娼家に似ず、狹くして風流の構也、此處辨天と云、松井町に五六軒の娼家あり、子供は内に有て、常盤町とおなじ、此邊引手茶屋おほく、お旅辨天松井町へおくる、伺じく入江町に鐘の下とて四軒有、子供内に有て、價は五六あひるに同じ、此邊長崎町長岡町吉岡町のまはり、いく棟となく切見世あり、陸尺長屋、半長屋、抔色々の名あり、〈○中略〉爰に今は天王寺といふも、前は感應寺といふ日蓮宗也、門前に昔よりいろは茶屋とて五六軒の娼家あり、今はさかりにして家數も增し、娼婦の價は五六なり、根津町よぢ引手茶や軒をならべ、總門より内兩側娼家建續普請美を盡し、浴室なども奇麗なる、爰に過たるはなし、價貳朱も五六もあり、切見世もあり、又音羽町八町目九町目に娼家有しも、今は衰微して纔殘り、きり見世あり、牛込若松町に熟(じゆく)谷とて切見世あり、赤坂御門外溜池の端に麥飯と云娼家、表町裏町五六軒づゝあり、價五六にて穩便の遊處なり、もと麥飯をあきなふ店なりしが、吉原深川を米と見立て、夫より賤しきといふ心にて麥といふ歟、爰 にも切見世あり、美なり、麻布市兵衞町の裏は谷なり、此處に切見世の大廓あり、同鳥居坂の下に、藪下とて切見世あちしが、天保八九の頃、有馬家の下部と諍論して絶たり、鮫ケ橋に切見世貳ケ所あり、爰にも夜鷹屋有て吉田町におなじ、芝三田同朋町に、三〈ン〉角とて娼家五六軒あり、麥飯と伺じ切見世もあり、天明の頃きり見世を五十雜(さふ)と呼けるよし、價も五十銅なればにや、百銅となりて鐵炮店といふにや、〈○中略〉されば右に擧たる江戸中の娼家貳拾七ケ所、野郎や四ケ所なり、外驛場の娼家五ケ所、品川、新宿、小塚原、千住、板橋あり、吉原を加へて四拾ケ所にも及ぶべし、かくのごとく惡行の者どもまざりて風俗を亂し、綱常を破ることすくなからずとて、此度の公令に依て、吉原と驛場の外は、娼家ことごとく取拂はれて、俄に家業を改めて商人になるもあり、家を移して他郷に走るも有、さしもに建つらねたる高樓妝閣、一時にとり毀れて、荒原とそなりにける、是よりして都下に遊民なく、工商おの〳〵其業を勤めて、げに有がたき聖の御代の御政とも仰ぎ奉るべし、
p.0880 處々の新地のこと、居行子後篇、安永五年刻、愚も七八歲のころ、祇園新地もいまだ建そろはで、そこかしこ草生じけり、薄と家と入まじり、まばらなりしを覺侍る、その邊今は大やしき賣買には、千兩二千兩の價となる、北野の新地も五十年ばかりのむかしは、三番町五ばん町と段々に開け、はん昌なりしが、移りかはり、此近年はさびしく成たり、むかしの景淸ほどの武士の通ひしときく五條坂も、今は一二軒そのしるしのみ殘れり、田畠野原なりし七條新地は、五條より建つゞき甚にぎはし、二條新地も、川ばたの茶やは、むかし若狹街道の茶店の株にて、それよりのみ酒にうつり、色にうつり、こそ〳〵したる處なりしが、段力とはん昌し、次第に建つゞき、野中にありし非人小屋、今は新地と町つゞきに成たり、頂妙寺新地も、二條新地と町つゞきになる、今出川新地も、その前後のころより建しが、今はいかう閑(サビ)たり云々、
p.0881 廓之起
往昔天正十七年、原三郎左衞門、林又一郎といひし浪人に、傾城町の事許命されて、始めて冷泉万里小路の上に、一の廓をひらきし也、武門より出し人、これを始むるゆへにや、世人新屋敷とぞ呼びけり、くるわといへるも相當せる歟、兩士女郎屋の長となるはじまり也、則原氏は今の島原上の町西南角桔梗屋八右衞門祖也、是相續して今の桔梗屋治介家筋なり、又林氏は下の町西南角の藤屋八郎左衞門屋敷〈今ハ此ところ、素人の家也、〉其跡也、林氏それより寬文年中に大坂へ引越、今の大坂新町扇屋是也、
舊地之考
開け始りし万里小路冷泉は、本東山殿御酒宴の地也、今の押小路柳の馬場東へ入町を橘町と云、昔橘屋といへる揚屋の居たる跡なりとぞ、天正十七年より、慶長六年迄、十三年に成、是最初の地也、然るに京の町繁昌し、段々建續けるにより、慶長七年、六條へ移されける、今の室町新町西洞院の間、五條橋通下ル二町四方に構へ有、寬永十七年迄三十九年に成、新町五條下ル町當所揚屋町すみ屋德右衞門所持の家、今に有、是三筋町の遺所也、其のち寬永十八年、今の朱雀へ移さる、今の島原百十七年に成、始より今の土地にて三度目也、寶曆七年迄合百六十九年に成、
廓總名之事
冷泉に〈今の夷河通也〉ひらけ始まりしときは、新屋敷といひける處に、万里の小路の上〈今の柳馬場なり〉に、やなぎの樹あまた有、出口の茶屋などは、柳の樹の間々に暖簾かけ、床几を出し居ける、柳林を伐ひらき、一かまへの町となりしより、世人柳町と唱へける、夫より六條へ引移されしとき、廓のかまへの内に小路三つ有しにより、此時は三筋町と申ならはしける、又今島原とよぶは、肥前の島原さはがしかりし時節に、六條三筋町を、今の朱雀野に引たる故、異名を斯は付たり、古名は新屋敷と も、柳町ともいふ、唐土にては華街〈くるはの總名也〉大道にさし夾むといひて、町中に廓有と見へたり、
p.0882 六條のあたりより西、朱雀の丹波海道より北のかたに、一かまへみへたるは、これ傾城町なり、世に島原と名づく、そのかみ肥前國天草一揆のとりこもりける島原の城は、うしろは海、わきは沼にて、前一方は平地につゞきたれば、此傾城町の一方口なるを、島原といふならん、
p.0882 廓紀原
當津〈○大阪〉の柳陌は、往昔天正慶長の比より、諸所に遊女を抱、渡世のもの有しを、寬永年中に、今の土地を下しおかれ、諸所の遊女を一所にあつめ、一廓の内に軒をならべさせ、其比木村亦次郎といへる浪人者に、右廓の庄屋年寄を被レ爲二仰付一、永くけいせい町と成、〈○中略〉
新町開基〈幷〉町小名因緣前にいふごとく新に町となりしより、世人新町とよぶ、總名なり、又當津にては中(なか)といふ、〈○中略〉
瓢單町 〈但南組〉
通り筋なり、其已前道頓ぼりにひやうたん町とて有、其所の一町元和の比、此所へ移せり、〈○中略〉
柳陌格式
總體廓の内、何ごとによらず、往古木村屋又次郎、庄屋總支配の格を以、今に五町の年寄下知す、
p.0882 鶴人、〈○中略〉女郎は大坂のことで厶りヤス、新町などへいツて御覽じやし、嬋娟たる者が餘ほど居りヤス、千長、新町と云ふのが江戸で云ふ吉原で厶りヤスカ、鶴人、さやうさ、新町を廓といツて御免の場所でありやす、慶長の頃までは、諸々方々に遊女屋があツたさうで厶りヤスガ、夫を寶永年中に、今の土地をくだされ、諸處の遊女屋を一處にあつめて、廓となりやしたのが、今の新町でありやす、万松、揚屋の立派なは、其新町でありやす、鶴人、さようさ、京の女郎に長崎 の衣裳を著せ、江戸の張をもたせて、大坂の揚屋で遊びていといふは、新町のことでありやす、千長、揚屋の數も餘ほどありやすか子、鶴人、たしか七八軒も厶リヤシタツケ、まづ堺屋に吉田屋、中ずみに井筒屋、高島屋にはりよ、茨木屋と七軒で厶リヤス、万松、モシ置屋(おきや)といふは何のことで厶リヤス、鶴人、女郎を抱へておく内のことを置屋といひやす、江、戸の樣に、女郎屋へ直に入つては買やせん、大坂では揚屋へ女郎を呼び出してあそびやす、それも新町ばかりのを揚屋と稱へ、あとの茶屋のは呼屋(よびや)といひやす、万松、跡の茶屋とは、鶴人、新町は江戸の吉原のごとく、御免の場所で厶リヤス、其外江戸でいふ岡場所といふやふなが、幾等もありやす、島の内(うち)だの、坂町だの、難波新地、北の新地、堀江馬場崎、靈符など、數おほいことでありヤス、江戸の御旅(たび)松井町、常盤町、根津、谷中などの樣な處でありやす、それを大坂ではおしなべで島といひやす、江戸では岡場所といひやす、其處の女郎を揚てあそぶ茶屋を呼屋といひ、新町のを揚屋といひヤス、千長、なるほど御咄で、呼屋といひ、揚屋といふ譯がわかりやした、万松、置屋といふことは、新町でも外の場所でも、同じことでありやすか子、鶴人、置屋は廓も島も同じことで有ヤス、千長、新町には置屋もよほどありや正子、鶴人、さやうさ、まづ大きなのはくらはしや、つちや、つの井、中の扇屋、東の扇屋、西の扇屋、西のをりや、東のをりや、其外にもかみ喜、松瀨、かかいでや、ちくさや、ちきだや、綿長、八百新などといくらもありヤス、
p.0883 權現樣駿府へ御隱居被レ遊候以後、安倍川の傾城町抔近く候を以、御旗本の若き衆中、遊女町通ひを被レ致候との取沙汰有レ之、駿府の町奉行彦坂九兵衞、阿部川町を、二三里計も遠き場所へ移し申度と、相窺れ候處に、御聞あそばされ、九兵衞を御前へ被レ爲レ召、御意被レ遊候は、當所町人共を二三里も隔りたる處へ遣し候ては、如何可レ有レ之哉と御尋に付、九兵衞被レ承、左樣御座候はゞ、商買の障りと罷成、町人共いづれも迷惑可レ仕と被二申上一候へば、上意被レ遊候は、其方義は阿部川町 を二三里も遠き處へ引移し、可レ然と申候由御聞被レ遊候、阿部川に罷有る遊女共は、賣物にてはなく候や、賣物とあるは諸色一樣の事なるに、左樣に遠き所へ遣し候ては、阿部川町のもの共は渡世のいたし方も無レ之筈の儀也、唯今迄の處に、其儘差置候やふにと被二仰付一と也、其後は阿部川町の繁昌日頃に倍し、御旗本中勝手衰微の族多出來之由、風聞有レ之候となり、其秋に至り、九兵衞を被レ爲レ召、此間は町方にて躍を仕る聲、御城内へも相聞へ候、御覽被レ遊度おぼしめされ候間、帶手拭やうのもの迄も、新に支度致に不レ及、有合の衣服にて、御城内へおどりを入させ候檬にと被二仰出一候に付、駿河總町を三つ、に割、支度を調、御城内へ躍を差上候處に、おどり子はやし方の者に至迄、握り赤飯御酒など迄被二下置一、三ケ夜の躍相濟候已後、九兵衞を被レ爲レ召、阿部川町のおどりはいかが致候哉と御尋に付、阿部川町は、遊女町の義に候を以、差除き不二申付一由被二申上一候へば、御聞被レ遊、御年寄られ候ては、女子共のおどりこそ御覽被レ成度思召候得、木男計のおどりは、さのみ面白くおぼしめされざるとの仰に付、夫より俄に阿部川町〈江〉も躍を差上候樣にと有レ之、阿部川町中一組の大おどりを用意仕り、來る幾日の夜と相定りたる處に、總遊女共の中にて、其比人々もてはやし候名有女共の義は、其名を書付指上候樣にと有レ之、其夜のおどりの中休みの節に至り、右の書付に乘たる遊女どもの義は、御板椽の上へあげ置申樣にと有レ之、壹人ヅヽ御前へ被二召呼一、銘々の名迄をも、御直に御尋あそばされ罷立歸候節、御次の間にて、へぎに乘たる御菓子取頂戴致させし迚福阿彌小聲に成り、此已後若し御人指にて被二召呼一候義なども有べき間、左樣相心得罷在候樣にと、銘々〈江〉申聞候と也、此取沙汰かくれなく聞候に付、右御前へ罷出候遊女共の義は、いづれが御目にとまり、不レ圖可レ被二召呼一も難レ計、左樣の節御尋に付ては、何事をか可レ申との氣遣を以、歷歷方の阿部川通ひはひしと相止候と也、
p.0884 柴屋町、箕山云、近江國大津遊廓に、世に柴屋町といひならはし侍れども、馬場町な り、柴屋は遊廓の外下の一町をいふ、傾城廓中の外へ出ず、天神廿六匁、小天神廿一匁、圍十六匁、靑大豆十匁、半夜八匁なり、夜みせのみ、晝みせなし、傾城先年は八町の旅館迄も出しぬ、いつよりか制禁なり、今はさびわたり、昔の五分が一もあらず、伏見より少まさりたれど、かくおとろへたれば、いづれともわきがたし、一代男、柴や町みやこに近き女郎の風俗もかはり、端局に物いふ聲の高く、ありくも大足にせはしく、きる物もじだらくに、帶ゆるく、化粧も目だつ程にして、よしあし共に三線をにぎり、づをふつてうたふ、立よるものは、馬かた、丸太舟のかこ、浦邊のれうし、すまふとり云々、此處をいさかひの場にして、命しらずのより合、身を持たる者の、夜ゆく處にあらず、永代藏に、大津の事をいふ處、近年問屋町長者のごとく、屋造り、昔にかはり二階に撥音やさしく、柴屋町より白女よびよせ、客の遊興晝夜かぎりなし、〈此事延寶中には止たりといひしが、又貞享ごろ再興したりとみゆ、〉丹前能に、柴屋町格子女郎禿あり、揚屋を中宿ともいふ、端女郎小屋に靑のれんかくる、局といふとあり、
p.0885 春毎に街に櫻を植(○○○)ることは寬延二年なり、然るに徒流云、此廓に櫻植る事は、寬保三丙年はじめて思ひ付しことなり、其始中の町の茶や軒を並て、みせの前へ石臺櫻を出し度段願立、其通り被二仰付一、翌年より櫻をうへてからの石臺ばかり出し置、其翌年より中の町の眞中へ植る事とはなりぬと、淺草寺なる奧山の茶屋の主、吾妻や五兵衞といふものゝ物語なりといへり、こは年號干支誤寫ある歟、もとより誤説なるか、〈寬保三ハ癸亥、もし辛酉ならば元年なれど、寬保にハあらず、〉寬保二年己巳歲なり、此時堺町中村座にて、助六狂言に此體をうつし、殊更に賑はしかりしとかや、其淨るりを、廓の家櫻といへり、
p.0885 浪華新町の廓九軒町に櫻樹を植初しは、文政二年己卯の春にして、三月二十二日よう太夫の道中ありて、同二十六日、二十八日、四月朔日等、四箇度に及べり、其賑ひ言も盡しがたし、
p.0885 燈籠(○○)の始は、〈享保十一年三月廿九日〉角町中萬字屋の遊女玉菊死て、翌享保十二年の盂蘭盆に、 それが爲に燈せしなるべし、徒流云、翌秋追善とて、茶屋ごとに挑灯をとはして、軒にかけたり、其挑灯赤と靑との立筋を付たる箱挑灯なりとそ、友人久卿もこの事考へあり、其内に靑樓雜話といふものを引て云、玉菊が三周忌の追善いとなまんとて、仲の町の家ごとに、挑灯を軒に出したり、其時十寸見蘭洲、〈つる蔦屋庄二郎〉水調子といふ河東ぶしの唄ひものを、竹婦人〈岩本乾什〉に作らしめ、揚屋町に住める三線ひき河榮といふものゝ家にて、追善のわざをなしたり、その時、茶屋々々も、玉菊をいとおしみければ、いひ合すともなく、家々に挑灯をともしけるとぞ、其後元文元年には箱挑灯にて、すそへ靑黑の筋を付たるをかけつらねしとなり、翌年よりきりこ灯籠、まはり灯呂など作り出し、次第に潤色して、花美になれるといへり、此説によれば、三周忌よりのことにて、且ついひ合せ事もなく家々に灯せしは、紋所しるしなど、區々に異なりしなるべし、筋を付たるは、あらぬ後の度なり、追善の袖草子の序に、身のうへの秋風をはや玉祭る頃にもなりぬと、光陰の挑灯に發句の追善を題すとは、挑灯に發句を書たるにあらず、子細ありて其翌年の秋より、茶屋毎に燭臺に作り花をして佛供となす云々、此説年月などの相違もありておぼつかなくはあれど、う、ら盆の燈籠は世上一同なれば、此里にも、もとより家々に挑灯はもタ、なり、唯こゝに子細ありてと云へるはまことなるべし、そは上に引る原武雜記に、そのむかし女郎のちやうちんともしたてたる時、西田屋名主停止せしといへる是なり、されど玉菊がことは露ほどもいはず、これは彼水てうしと云うたひもの、又袖草子などあるに、折しも其頃茶屋のちやうちん一やうにせし事などとり合せて、彼が追善より事起れりとはいひしなり、然らば靑樓雜話の説のごとく、元文元年に、靑黑の筋をつけたる箱挑灯を出し、それより種々の灯呂作れる事となりしなるべし、〈玉菊がことは、享保十三年、彼が追善の袖草子を引て奇跡考にいへり、またその墳墓の何くれと諸書な引て、友人久卿玉菊考あり、〉
p.0886 燈籠の事〈幷〉作り物〈○京島原〉 燈籠、むかしありしとや、中比絶侍りしに、寶曆四戌の年より再興せし也、紙ざいく絹ざいくいろいろ有、
七月廿一日より初り、八月卅日比迄、日數は年によりて極なし、又作り物も同年に始、十一月也、日限定らず、十五日があいだ也、すべて此里の紋日賑はしき中にも、とりわきて、三月廿一日東寺御影供、壬生大念佛の間、五月住吉祭、七月おどり、灯籠作りもの、新艘出る日、此時諸人見物、晝夜を不レ分、群集廓中に充滿す、
p.0887 俄といふことは、京都祇園の祭禮、また島原住吉の祭の煉物などを學べるにや、その始は、享保十九年甲寅八月、九郎助稻荷正一位と官階ありて、その祭禮より起れりとなり、それ故近ごろ迄も、俄ある内は、大門口に葉付の竹二本左右に立、しめ繩引はへてありしが、今はさる事もなしとなん、これら古今の沿革なり、
p.0887 遊女共江戸をはらはるゝ
見しは今、江戸繁昌にて、諸人ときめきあへる有樣、高きも、賤きも、老たるも、若きも、かしこきも、おろかなるも、彼まとひの一つやんごとなし、されば吉原町を見るに、遊女共我おとらじと、べにおしろいをかほにぬり、門毎に立ならびたるは、誠に六宮のふんたいの顏色も、是にはまさらじ、〈○中略〉此由御奉行衆聞召、とかくかれらを江戸におくべからずと、女の數をあらため給ふに、をしやうと號する遊女卅餘人、その次の名をうる遊女百餘人、皆こと〴〵く箱根相坂をこし、西國へながし給ふ、實や此道は智者も愚もかはる事なし、戰國策に男色老をやぶる、女色舌を破るといへり、此道ふかくつゝしむべき事也、
p.0887 或時町御奉行島田彈正樣、甚右衞門へ御尋には、總て遊女どもの事を、轡といふは、如何なる子細ぞと御たづねありし、甚右衞門申上るやう、傾城屋を轡と申事は、京六條の三筋 町より申出候言葉にて御座候、原三郎左衞門と申者、大坂太閤樣の御時、御廐付の奉公仕りし者にて候處、病身に罷成候間、浪人いたし、後に六條の遊女町を取立申候へども、彼三郎左衞門義は、太閤樣御出馬の節は、度々御馬の轡を取候者にて候、依レ之其砌此子細を被レ存候人々は、三郎左衞門異名を轡と申候、然る間、其頃京都伏見などの若き侍衆中は、傾城町へゆかんといふ替ことばに、轡がもとへゆかふと被レ申しより、いつとなく、傾城屋の總名の樣になり候と承候と申上る、
p.0888 轡は傾城屋の異名なり、箕山なども名目の來由をしらずといへり、或云、原三郎左衞門は、太閤の馬の口取なれば、それが取立たるによりてしかいふ、又一説には、伏見の遊女町十文字なるといふともいへり、三郎左衞門、馬の口取といふこと慥ならず、又伏見などよりいひ出て、廣くわたるべき理もなし、信長記に、織田右馬助といふもの、人の賄をとりければ、〈憑を再三取申けるに〉信長卿、錢ぐつわはめられたるかうまの助人畜生と是をいふらむ、と一首の狂歌を遊ばして送られけるとみえたり、是慾心のみにて、漢土にいはゆる亡八の義なり、金銀を贈るを轡をはむるにとりていへる名なり、
p.0888 忘八(くつわ)之事〈幷〉夜具の事
唐土にては娼家といふ、又孤老或は招夫など有、是今いふ女郎屋なり、もろこしにては、日本のごとく、揚屋女郎屋の差別なし、今亡八とかくは略字也、くつはとはよばず、只女郎屋といふ、くつはといふ事未レ詳、扨女郎揚屋極まれば、夜具をはこぶ、此入もの皮つゞら長持など也、此紋はくつわの印なり、付札大きなるは太夫、ちいさきは天神のしるし也、
p.0888 賣女ハ渡世ノタメニ美目ヨキ女ヲ買取テ、白粉紅粉ヲヌリ、其色ヲ增シ、綾羅ヲキセテ人ヲアザムキ、香具ヲ帶テ臭氣ヲ去リ、諸人ヲ落シ穴へ人レ、一生ヲアヤマラセ、或ハ命ヲモ損スル不仁ナル家職ユへ、世ノ人、別トシテ交ラズ、是ヲ亡八(クツハ)ト云、孝弟忠信禮義廉耻ノ八ツヲ忘レタルユ ヘト、唐人ハ戒タリ、
p.0889 靑樓(アゲヤ)、忘八(クツワ)、女衒(ゼゲン)、肝煎、町役、髮結、番太郎の類多くあるべし、くつわは傾城遊女をかゝへおく親方といふものなり、傾城のことは旣にいへり、さて此親方といふものと靑樓と別なるもあり、京島原、浪華新町の廓など是なり、祇園町邊などにては、忘八を置屋といひ、靑樓を呼屋といふ人共に兼たるもあり、江戸の新吉原など其他多くありとそ、吉原ももとは別なりしも年間より今の如くなりて、引手茶屋といふ者、中之町又廓外にもあり、中之町の茶屋もとは靑樓なりしとぞ、
p.0889 京都遊女の名目〈○中略〉
局女郎 勤銀貳拾目 局の構樣は、表に長押を付、局の廣さ九尺に奧行貳間、或は貳間半、亦横六尺に奧行二間にも造る、入口は三尺、表通りは横六尺のうづら格子也、中閾と庭との堺に貳尺計りのまがきを付る、但外より内へ入候へば左の壁際也、うづら格子への通ひに、幅貳尺計、長三尺の腰かけ板有り、入り口にかちん染の暖簾を釋け、のれんの縫留に紫革にて露を付る、右局の指圖を記す事、詮なき事なれども、元祿年中より局といふはすたり、總て吉原の古風取失ひし事多ければ、後々若輩どもの爲に是を記し申候、
p.0889 本説〈○異本洞房語園〉に、元祿年中より局といふ事廢り、總じて吉原の古實ども取失ひしと歎きてあり、其頃より散茶造りになりたるか、當時の遊女屋の造り、どれも〳〵散茶造りなり、むめ茶作りさへ廢してしる人稀なり、近き頃まで、江戸町一丁目巴屋源右衞門が家作り、むめ茶作りにて有りしが、表總格子にして、 は壁の方と跡尻の方と、二方に女郎並び居て、籬の方にギウ同座す、其籬と表の格子との間に、三尺ほど明て、落間有り、ギウ臺より出入す、偖客人格子にて女郎を見立て呼ぶ時に、ギウ落間より來りて、客に應對して、客人をば其格子の並びに木 戸有て、夫ゟ誘引するなり、客を直に より上る所もあり、又路次よりすぐに勝手へ入れ、當時のごとく二階へ上る家も有ける、家々に依て籬の外、そのギウ臺昔は三尺に六尺なりし、
p.0890 これ傾城町なり、世に島原〈○京〉と名づく、〈○中略〉さて本町に入てみれば、隔子の内には、金屛風はしらかし、莨菪盆に眞刻、匂ひたばこなんど、金銀のきせるとりそへ、池田炭を富士灰に埋み、時々伽羅梅花侍從なんど、おぼろにくゆらかし、〈○中略〉又はし傾城は、蜂の巢のごとくに、めんめんにちいさきつぼね、ひとつ〳〵をかゝへて、門口には、なめし革にてとぢたる、靑のうれんをかけ、奈良火鉢、又は目のつぶれたる摺鉢に火をいけ、雁首のかたくじけたるに、たばことりそへ前におき、つくねんとして居るもあり、〈○下略〉
p.0890 娼家に樓號の始
娼家に樓號を付はじめしは五明樓なり、〈扇屋五明ハ、扇の異名、〉墨河好事なりし故、樓號をつけしより同時に、鷄舌樓、〈丁子屋、鷄舌ハ丁子漢名、〉松葉屋を松葉樓、又は館といひしは、今すこしあるべし、うちつけにてをかしからず、玉屋、を玉樓は、玉の字うごかしがたし、近來は、さま〴〵の樓號あるが中にも、大黑屋を甲子樓といひしは、いさゝかにや、五明、鷄舌、松葉の三軒は、今絶えたれば、獨り玉樓のみ光りをうしなはざるは、代々主人綿服にて、萬事素をつとむと聞く、以レ玆光を失はざるならん、返々も今いふぜいたくは、亡家の毒水なり、若人たち愼むべし懼るべし、〈文化の比に至りては、深川新地などの岡場所にても、大觀樓、百歩樓抔、似げなき號を犯せり、〉
p.0890 新吉原京町壹丁目娼家若松屋の掟〈所レ謂めでた若松これなり〉
右若松屋の淀は、毎朝神棚の前へ、新造をはじめ子供殘らず居並び、神棚に向ひ、皆同音に
お〈ヲ〉め〈エ〉で〈エ〉たう〈引〉 三べん
おありがたふ存じ奉ります これも三べん 此事言ひ終りて、見せのわき座歟にて、又三べんつゞいひて、夫より佛檀に向ひ居ならびて、又三べん、是をしまひて、内證女房の前に出でゝ、
おめでたふ〈引〉 こればかりはじめの如く三べん、
女房これをきゝていへらく
めでたいとおつしやつた御供(ゴクウ)いたゞけと、おつしやつたと、これを三べんいふと、それより
新造子供同音に
廊下でさわぎますまい つまみぐひいたしますまい ね小べんいたしますまい お客人を大切にいたしませう わるいことをいたしますまい
など、その外此類の箇條をならべ立てゝいふ、これを聞きて、
女房
一々申しつかつた通り、まちがへるな、旦那さまがおゆからおあがんなさつたら、御祝儀に出よ、わるい事をしたらば、友ぎん味をして申し上うそ、一々申しつかつた通り、まちがへるな子供新造又同音に
火の用心を大切にいたします 三べん
お客樣を大切に仕ります 同
これを聞きゝて女房
火の用心〳〵大切は〳〵、上々樣方へ御奉公〳〵
御客人樣大切は〳〵わいらが親を孝行にして、やつたかはりの奉公だぞ、よろしい、いつて御供(ゴクウ)をいたゞけ、
新造子供同音に おありがたうぞんじ奉ります
女房いふ
まちがひると棒だぞ○たて
毎夜引け過ぎ、女房の前へ、又新造子供殘らず居並ぶ、
女房いふ
火の用心大切は〳〵、上々樣方へ御奉公〳〵
お客人さまは大切〳〵、わいらが親を孝行にしてやつたかはりの奉公だぞ、諸神樣、諸佛樣、諸神樣諸佛樣上々樣〳〵〳〵、お慈悲〳〵〳〵ぞ、よろしい、いつて休息〳〵〳〵、
子供新造一同に
おありがたう存じ奉ります、おやすみなされませうというて、皆々臥所にいるといへり、
此毎日の唱事、正月元日は、おしよく女郎をはじめ、新造、禿、男女出入の者に至るまで、殘らずならび居て、かくの如くいふとぞ、
p.0892 揚屋さしがみは、揚屋より娼家へ太夫をかりにつかはす公驗なり、犬枕に、長きものせつ句正月のおさしがみとあり、平日とは、文言異なるにや、尾張屋淸十郎より、三浦四郎左衞門へ、太夫薄雲をかりに遣したるさしがみ、寸錦雜綴に出たり、五元集、戀の年差紙籠をさらへけり、竹文點、前句付、どうもいはれぬ〳〵、さし紙を揚屋の妻が一トなぐり、
p.0892 揚屋差紙〈竪九寸六分横四寸三分〉
今日客御座候ニ付、其方ノ御内つまさき殿と申女郎衆、晝内雇ひ申候、此客前ゟ御尋之御法度衆ニては無二御座一候、いかにも慥成人に御座候、若横合ゟ御法度ノ衆と申者御座候はゞ、何方迄も我等罷出申分可レ仕候、爲二後日一如レ件、 〈いぬノ〉五月五日 〈宿ぬし久右衞門〉
庄三郎殿〈江〉 〈月行司〉長兵衞
いぬノ年は、天和二戌年也、庄三郎は角町角万字や庄三郎なり、
p.0893 やり手とは、後の名にて、もとくわしやといへり、人倫訓蒙圖彙に、傾城に付くるをやり手と有、また芝居役者太夫の條に、三十より四十におよぴては、くわしやかたといふと有り、火車とは、つかむといふ意、つかむは、昔のはやり詞、女郎を買をつかむといへり、心易く我儘にする意なり、つかめなどいふは、とらへてこよと云が如し、やりても、女郎の掟するものにて、つかむといふ意あれば、名けしなるべし、金銀をつかむにはよらじ、火車は聞苦しきゆゑ、花車として、風流の名としたり、さるを花車とは花にまはる心なりといふは、かの、散茶をふらのといふ謎とせしと同日の談なり、偶その意に通ひし也、やりては花車の車より出たる名なり、庭訓抄に、鳥羽白川には車の遣手といふ者あり云々、この名をとれり、道恕が香車の説は非なり、
p.0893 漢土にて妓館のあるじ皆女なり、是を鴇と云ふ、妓女も多くは養はず、あるじこれを假女とす、故に親生は殊に賞せらるゝことゝ見えたり、笑林に、妓者携レ客輙言、我乃媽所親生云云など云へり、
p.0893 鑓手 古來名を花車といふ、花に廻るといふ意か、然れども、くわしやと呼ては聞へあしきとて、香車と書かへたり、香車は將碁の駒の一つなれば、香車と呼ずして、やりてといひふれたり、
p.0893 此遊廓に屬したる工商は、皆他よりいやしめらる、まして〈○中略〉鎗手、〈もとは、上方にもありけむ、古きさうし絃歌にも見ゆるを今はきかず、江戸の吉原にはあり、中年以上の者にて、すべて法をとりて折檻をもする者にて、遊女に威をしめす、〉女髮結、禿など、種々あるべし、
p.0893 いづくぞと人にとへば、三谷〈○江戸〉といふ所なり、〈○中略〉局の口にたち隔子をのぞ き、遣手にあふてことづてをし、
p.0894 此遊廓に屬したる工商は、皆他よりいやしめらる、まして幇間(タイモコチ)、仲居(ナカイ)、〈江戸にては、吉原には男を用ひて若者といふ、深川にては、女にては輕子といふ、○中略〉花車〈(中略)引船、仲居、花車は、京浪花にのみいへり、○下略〉
p.0894 ぎうは散茶みせより起りし名なりといへり、洞房語園に、待乳問答といふ文澤氏何某が遊女の名よせの内に、一座に花をちらすべし、しかうして、花車頓に廻り、牛すみやかに走り、女郎よくなびくと有、これも車よりいひ出しことゝみゆ、然るを原本洞房語園に、風呂屋の僕の脊むしなるがありて、きせるを不斷腰にさしたる形、及の字に似たるより始まれりといへるは非なるべし、五元集拾遺十及圖序云、往昔異邦の佛鑑禪師、十牛を圖して、人間迷悟の間をしめされたり、其書を狂言にし取て、牛は聲音妓有なり、又及ともゝてあつかふは俳なればなり、爰に圖を畫讃し侍て、笑を萬世に殘すもの、晉其角といへり、是又及の説をとれるは誤なり、
p.0894 やりて、ぎう出所、是は以前の風呂屋より、いひ出したる言葉也、承應の頃、葺屋町に和泉風呂の彌兵衞といふものあり、彼が家に久助とて、年久しく召仕ひし男ありて、風呂屋遊女をまはし、客を扱ひしが、生得せむしにて、せいちいさき男也、たばこを好きのみしが、他人のきせると紛れぬやうにとて、紫竹のふときを、長一尺八寸計りにきり、吸口火皿をつけ、常にはなさず腰にさして居たり、彼の風呂屋の家作りは、今の吉原の散茶のかゝりと同じことにて、見せの庭の隅に疊小半疊計りの腰かけ有り、此こし懸にせむしの久助が、長ききせるをさしてなをり居たる形、せむしの小男なれば、及(キウ)の字の形に似たりとて、其頃若きもの共の、久助が異名をぎうと名付、彼風呂屋が方へ、ゆかふといふべきを、ぎうが所へゆかふ、などゝいひふれしより、いつともなく總て風呂屋の男共の總異名となりたり、
p.0894 禿 未だ簪せぬ小女
p.0895 これ傾城町なり、世に島原〈○京〉と名つく、〈○中略〉かふろは文をもちて、あげ屋町をさしてゆく、たれ樣の御かたへつかはさるゝやらんと見るも浦山し、
p.0895 禿の菖蒲打
端午の日の印地打一變して、いんじゆ切となり、正保慶安頃は、此日專童のいどみあらそひし事、昔々物語にくはし、又其いんじゆ切止て菖蒲打となれり、中古風俗志〈明和元年老人の筆記〉に、〈○中略〉今は絶てなしといふ事あり、さて此菖蒲うち絶たる後も、吉原の禿にのみ殘り、彼節句の日、江戸町方京町方と立別れ、待合の街に出て打合を、見物群集したりしが、あやまちて疵をかうぶりし禿もありしより、遂に止たりといふ事、平道〈揚屋町俳人〉が彼地の事を集し雜記にありしが、予〈○柳亭種彦〉寫しとめざるさきに平道沒して、今もとむるに便なし、
p.0895 禿由緖
當津〈○大阪〉の禿は都島原のとは少しの譯ちがひあり、往昔平相國淸盛六波羅に在住のとき、拵へたまふ三百人、禿の餘風にて、いにしへは禿ども甚權式高かりしに、今は昔などの威勢はなけれども、其餘風故、揚屋茶屋より呼むかへに來る呼立女に、ヲウヲウと答る也、これ古代の權の殘りし所也といひつとふ、すべて何國とても新艘の女郎は、此内より段々太夫職までにすゝむもの也、新艘出る時の嘉例は、廓に格式あリていはふ事也、
p.0895 後世繁華おとろへたりといへども、享保五年の丸鑑に、散茶女郎ばかり二千人に近しとあれば、其他準へて知るべし、天明六年遊女禿すべて二千二百七十餘人、享和の初、三千三百十七人文政八年、三千六百人、〈此時男藝者二十人、女げいしや百六十人ばかりなり、〉
諸藝太平記〈元祿十四年〉女郎の總數は京大阪を一ツにからげても、中々行とゞくことにあらず、太夫はやう〳〵四人、格子八十六人、散茶五百一人、うめ茶〈或ひハくみ茶と云ふ〉二百八十人、五寸四百卅人、三寸 六十三人、四寸二寸はまれに出る故、數すくなし、なみ局五百人餘、あげや十四軒、茶屋五十二軒、
p.0896 原武が雜記、〈○中略〉女郎の風俗も、昔は紅粉おしろいをむさき事とし、揚屋女郎の薄げさうだに、あげや風とはいひながら、いやしきことにいひなし、髮はひやうごに引むすび、あらぐしにてすき上げ、つまべにつまらくしの草履、地女とちがひ、きれいなるを女郎とせしに、今の風は髮は油がため、櫛はあしだのはの如くなるを二三枚さし、かんざしとて色々もやうをしたる七八本さしちらし、天氣のよい日も下駄がけ、揚屋入といふ事しらず、おどり子かとみれば、小袖の數をきる云々、
p.0896 妓風
天明の後廿年ばかり、文化の比まで、おゐらんと稱せらるゝは、大方は横兵庫といふ髮の風なりしに、近年此風たえ、むかしを失ふさしかざるかんざしは、昔にまさりて、大きになりしなり、天明の頃は、いかにも細くかるげなり、されば今の如く、馬蹄は頭にのせざりき、女の髮の結ひぶりの始は、唐輪、其後、兵庫、次に島田丸髮〈一名勝山〉次にしひたけ、
p.0896 女前帶
明曆萬治のころより起る、京祇園淸水邊の茶屋女、參詣のあまたある時は、帶のとけたるをむすびて、うしろへまはすいとまなく、前にてむすびたるまゝにて、茶酒の給仕をしたり、一人より二人へうつりて、いつとなく、島原の傾城、あるひは茶屋遊女、前にてむすぶ、京の町女、又田舍にわたりて、世間一統に此風をまなぶ、大きなる略義なり、今以御所方あるひは、武家の奧方にて、老若ともに前帶にする事曾てなし、
p.0896 すあしは天和のころよりと見えたり、色道大鑑に、す足を本とすといへれど、其頃は足袋をはきしなるべし、一代男〈六〉女郎も衣しやうつきしやれて、すみ繪に源氏紋所もちいさ く幷べて、袖口も黑く、すそも山道にとるぞかし、それ迄は目せきあみ笠、うねたびに、もみのくけひも、今のすあしに見合、おかしき事も有て、過侍る云々いへり、
p.0897 道中の事
道中には眞行草の三の品ある也、これは此道のならひ有事にて口傳、揚屋入を道中といふ事、太夫は付人も多く、誠に花やかなる旅よそほひのこゝろ也、出立(いでたつ)といふより、道中と號するよし、〈かいどりに左づまもあり〉毎月廿一日に道中有也、眞の道中は新艘出る日ばかり也、是はなはだ見物事にて、此日人山をなす、
p.0897 新吉原遊女衣服の事、延享寬延の頃迄は、紗綾縮緬羽二重を著し、中の町へ出る、これを道中といふ、衣服も品々ありて、毎日取替へ著し、同じ衣類は決して著ざりしとなり、さて多葉こを少しづゝ紙につゝみ、禿に數多く持せ、茶屋にて一服のみ殘りはそのまゝ、茶屋にさし置て立なり、たち寄茶屋毎に右のごとし、〈○中略〉然るに遊女ども三四十年以來、羽二重紗綾等は更に用ひず、錦繡の如き美服を著る事になりぬれど、たゞ一ツにして中の町へ出るに、毎日同じ物を著し、著替へは一つも持ざるよしなり、たばこなども高價の物を用ゆれど、少しも人に呑する事なし、時勢の然らしむるの人情、かくいやしくなれり、
p.0897 中の町張のおいらんと云は、皆お職の飛切にて、新造禿を隨がへ、向ふに箱桃灯を一對、男にもたせ、好の襠にて夕方前仲の町へ練り出す、先に右側を通れば、後には左側を通るにて、茶屋の亭主女房など、店先より挨拶に出て、ちとおかけなどゝいへば、此店へ腰をかけ、往來の方を流しめに見て、長ぎせるにて煙草をのむ、客衆來た來ぬの噂は、付そひの新造よりいはせるのみにて、詞數甚少なし、〈○下略〉
p.0897 又内八文字といふあゆみやうも、京師の風なり、諸艶大鑑ニ、先一番に都の三夕、各 別世界の道中なり、内八文字にかいどりまへ云々、東海道名所記島原の條に、只今あげられてかふろやり手におくられ、長きもすそをかいどり、八文字に蹈でゆくうしろかげ云々あいも、内八文字なるべし、
p.0898 隙なる遊女をお茶を挽といふ事、實は古語成べし、當世猶しかり、里語(〇〇)といいつべし、總じて廓(さと)と號する處には、里語とて外處とは違ひたる言葉あり、分て武陽の北廓なる里語は、ひと際耳立たること多し、ある老人のいへるは、爰なる里語は、いかなる遠國より來れる女にても、此言葉をつかふ時は、ひなのなまりぬけて、元より居たる遊女と同じに聞ゆ、この意味を考へて、言ならはせし事也とぞ、
p.0898 吉原遊女の詞一種ありて、他に異なるやう也、故に徒流がなんせ、しんす、りんすなどを初めとして、餘國に聞ざる言葉多し、奇語と云へり、おもふにこれもと島原詞の名殘なるべし、浮世物語一、島原の處に、谷の戸出る鶯の、初音おぼろの聲を出し、又きさんしたか、はやういなんし云々、その盃、これへさゝんせ、ひとつのまんしなど見え、又一代男〈六〉、島原詞に、有ますといふべきを、あんすと云へり、吉原詞の末をはぬるは是なり、然るに元祿中、由之軒がかける誰袖海に、吉原ことば、ふつゞかなることをえり出て記しゝ處、呼でこいといふことをよんできろ、いてくるをいつてこひ、急げをはやくうつはしろ、ありくをめよびやれ、そふせよをこうしろ、おそはるるをうなさるゝ、腹の痛むをむしかたい、しやんなをよしやれ、こそばいをこそぐつたい、女郎のよこきるをてれんつかふと云、是は唐音なり云々、おさらばゑ、さうさ、かうさ、おつかない、さうすべい、所がらとはいひながら、島原の心では、さてもうつくしい顏して、けうこつな物いひとなん、
p.0898 素見(〇〇)、ぞめき(〇〇〇)、万葉に、友の騷(ソノキ)、砂石集に、世間公私のぞめきなどみえて、古言なり、和訓栞に、そゝめく事に今もいふなり云々とあり、因果物語に、七歲に成ける子、此ぞめきのまぎ れに、水門にはまりぬ、今はそゝる(〇〇〇)ともひやかす(〇〇〇〇)ともいへり、そゝりは言塵集に、そゝりとは、子をいだきあげて、そゝり〳〵といふは、此こゝろなり、俗にいさましくすゝむことをもそゝると云、今昔物語に、幼き兒のそゝりといふことするやうにして云々とあり、ひやかしは、惡る口きゝなどして、興をさますなり、さますとは、ものを冷すことにいへば、やがて冷かしと云たりとみゆ、或人云、むかし山谷にはすきかへしの紙を製する者多く、それが方言に、紙のたねを水に漬おき、そのひやくる迄に、廓中のにぎはひを見物して歸るより出たる詞といへり、いかがあらん、
p.0899 吉原にて、歷々の客人を、だいじん(〇〇〇〇)と云、世話の浮世雙紙に、大盡と書たるものあり、是は卒に作りたる古の也、並木壽見齋と云ひし老人は、大人と書べしといひき、又余〈○莊司勝富〉が師村井一露齋とて、元祿の初、九十餘歲にて終りし、此一露齋のいはれしは、大人と書くならば、迚ものことに、大の字をすみて、たいじんといたし、〈○此間恐有二脱字一〉此邑には、めづらしき堅やなり、やりて、ぎう共抔が、ものいひに、漢呉の差別にも及ぶべからず、
p.0899 浮世袋再考
遊女にたはるゝを浮世ぐるひ(〇〇〇〇〇)といひしは、慶安明曆元祿の比までもしかありし歟、吾吟我集〈慶安二年未得著〉序の文に、あき人のよき衣著て、うき世ぐるひの小歌ずきをいはゞ、雪佛の水遊びしたらんが如し云々と見えたり、
新續犬筑波 七夕 つまむかふ舟路はうき世ぐるひかな 正信
俳諧絲屑〈元綠七年印本〉戀之部に、憂世狂、憂世名といふ名目を出せり、是等をもて證とすべし、なほ案るに、昔はすべて當世樣をさして浮世といひしなるべし、
p.0899 諸藝太平記、總じて此里のならひ、晝一ツ夜一ツと二ツに割て、大夫を三十七匁ヅ ツに極め、晝夜の揚錢七十四匁、引舟はなし、かぶろ二人なり、又五寸つぼねを通し、領三寸を半領と云り、
後世元文寬保の頃、大夫八拾四匁、格子六拾匁、散茶晝衣三歩、寬延の頃大夫九十匁、格子六拾匁、散茶金三歩、これ文金行はれしよりなり、局五寸二寸などいふは、切レを賣の心なり、〈元祿の初、五寸局をあつめうめ茶といふ者出來ぬ、〉
p.0900 揚錢は河程にて有りしや、後に六十匁とあれども、格子も暫らく闕て、當世は呼出し、さん茶、うめ茶三十匁、附廻し座敷持三十匁十五匁、或は銀二朱と分れり、
京島原の女郎を太夫といふゆゑ、其外の娼家是に做ふて太夫といふなり、むかし京都六條に三筋町あつて、第一の娼婦を揚代五十三匁に定て、五三の君といふ、〈○中略〉江戸鹿子大全に、太夫は三十七匁、格子は廿六匁、さん茶は金一分、局は五匁、三匁、其外錢百文、或は一匁の品を定めてあり、
p.0900 京都の揚屋に、庭せんといふ事あり、正月三月五月七月九月、此五節句を約束のときは、客人より出レ之、太夫は十三貫、天神は五貫、圍は三貫文、
p.0900 紋日(〇〇)
小袖の絞は五所なれば、五節句祝の日を紋日といふ、吉原にては、もの日といふ、紋日は京の言葉、〈○中略〉 揚屋に丸の日(〇〇〇)といふ事、正月は朔日より七日迄、同十四日十五日廿日合て十日あり、これを丸の日といふには、しゆらい銀を常の一倍の積りにして、客人よりこれを出す、太夫のしゆらい銀七匁なれば、倍して拾四匁也、正月一ケ月に十日あれば、九の字に一點を加へ、丸の日といふ、古來は正月に限りしなれども、今は五節句紋日はいづれも丸の日といふ、
p.0900 紋日之定 正月 大卅日、元日、二日、三日、 此四日大紋日也、庭錢入る也、 四日(つゞき) 五日 六日 七日 八日 十五日迄 廿日 廿一日 廿五日 廿八日 外に家々の節あり
二月 朔日 初午兩日 初卯、二の卯、 十五日 廿一日 廿五日 廿八日
三月 二日(節句約束)、三日、四日、 是庭錢入也 五日(つゞき) 六日 七日 八日 九日 十四日 十九日 廿 一日 廿三日 廿四日 廿五日廿八日 外ニ稻荷御出 松尾御出
四月朔日 八日 十五日 廿一日 廿五日 廿八日 外ニいなり祭、前後三日、 松の尾祭 あふひ祭 山王まつり
五月 朔日四日(節句やくそく)、五日、六日、 是庭錢入る也 七日(つゞぎ) 八日 九日 十日 十一日 十五日 廿一日 廿五日 廿八日
六月 朔日 五日 七日 十四日 十九日 廿八日 住よし神事〈○七月以下略〉
p.0901 慶長年中迄は、傾城の町賣とて、先樣より雇ひ來れば、何方までも遣しけれども、元和年中に、傾城町一ケ所に仰付られ候より、町賣停止也、然れ共、神社佛閣などへ參詣の事は、自由に致させたれば、物參りにかこつけて、知音の方へ立寄り、馳走にあひしこと略有し故、町賣に紛敷見へければ、名主甚右衞門此事を御屆け申あげて、寬永十八年の頃より、故なくして大門より外へ、むざと傾城共を出さず、京都の島原は、御構ひこれなし、町賣致しけるが、是も寬永十七年辰の秋中、町賣御停止、同時商賣のこと晝計被二仰付一候、
p.0901 一日買、諸艶大鑑に、越後の竹六といふ男、かりそめにも、こかまへなること嫌ひなり、六條の一日買と申も、此人始めての都のぼりにせしとかやといへり、一日買とは、大門をうつ(〇〇〇〇〇)といふ類か、世にいふ、紀文は豪富にて、吉原總仕舞とて、大門をしめさせし事兩度ありしとぞ、六條一日買は、上がたのむかし噺にて、其事知べからず、紀文がことは、究めて虚説なり、千をもて數 ふる遊女に通ふ客の數はかるべからず、それをやめて大門を閉ることあるべきかは、むかしより聞ことなれど、いと不審、
p.0902 はなをやる、これに二義あり、一ツは年わかき時の風流なるさまをいひ、一ツは人に物とらするを云へり、榮華物語〈初花〉なを〳〵しき人のたとひにいふ、時の花をかざす心ばえにや、大鏡〈五〉花ををり給ひし君達、續古事談一時の花にてありければ云々、時めく人をいふなり、義經記に、花をりて出たゝせ、堀河百首題狂歌に、〈よみ人不レ知〉一ツ木に二度花をやるものは秋の櫻のもみちなりけり、卜養狂歌集、〈白蓮を〉枝もなくすらり〳〵ともきあげてなりもはすばにはなをやり候、諸艶大鑑、から鮭も朽木に二度花をやる、西鶴織留、しゆちんの帶、紫皮の足袋にて、花やりしに、温故集に、尼になりて、太秦に住ける頃、〈かいはらすて〉花をやる櫻や夢のうきよもの云々、古へ人のもとへ使をやるに、梓木に玉をつけたるを揺せて、其しるしとせし、これ玉梓の使なり、それより後も、何にまれ、人に物贈るには、草木の枝に付て贈れり、今たゞ金銀などを輿ふるをはなといふももどは花の枝に付てやりしなり、貞順故實集、勸進能の時、花太刀など遣候事勿論なり、太刀は如レ常、右に持で舞臺へさし向ひ候時、座のもの一人、舞臺よりおり候て請取候、又花は右手に持候、いづれ舞臺の上にて渡し候事はなく候、太刀花其外何を遣候共、かせ者を以て可レ遣候也、粟田口猿樂記、第四日、六番はてゝ狂言のほどに、芝居より楓の枝え短冊を結びて、棧敷のこすの内へさし入侍り云々、京童、四條芝居の條、舞臺への花の枝は春にあらずしておかし、東海道名所記に、仕舞柱に贈り遣す花の枝は、舞臺にさしあげて色をあらそひなど見えたり、花の枝に目錄を結つけたるなり、輕口笑、〈元祿十四年草子〉前巾著よりかね一ツ小粒をとり出し、花に出すと申やられければと有は、今の體なり、但し昔は銀玉をやりし事多し、雅筵醉狂集、打花巾著露的月辨當霞など多くみえたり、一目千軒、紙はなの事、遊所にて花を打とて、紙を出す、是を紙はなといふ、むかしより有こ となり云々、半井卜養、下さるゝ紙はなにえにしのありとおもへば、古へ引出物祿物などいふ、みな贈りものなり、紙をつかはすは目錄の心なり、沙石集に、かへり引出物とて、紙に物かきてとらせたることあり、引出物は、馬など、貴人へも獻ずることあり、祿は上より下へ賜ふものなり、漢土には、褒美にはな遣すを、纒頭、助采といへり、板橋雜記などにみえたり、金瓶梅十一回書袋内取二兩封賞一賜二毎人三錢一、これらの外に又一義あり、色道大鑑、花にたつる、下略して、花と計りもいふ、我思ふ女分は差合あるか、又は遣女この男に賣事を承引せざるを、女郎と密談して、各別の、女郎をはなし置、心ざす女郎に逢事なり、見せ男の心におなじ、是は外へみする女郎なり、又傾城屋の女子を抱るにも、肝煎の者にまよはされて、花たてらるゝといふ名目あり、是はいらざる事にて、常のものしりても益なし、〈其外圖取に花あり、又京難波にて買色の揚錢にいひ、又料物を入花など云ふ、いづれも花に出すといふことより出、〉
p.0903 翁〈○森山孝盛〉が大御番勤て在番する比、相番の咄に、三浦某〈大御番大久保主膳正組翁が番頭と對組なり〉若き比〈安永より二三年も昔なるべし〉吉原へ行て遊びたりしに、其遊女初會とはいへど、殊の外よくもてなしたりしに、こらへがたくて、其夜床花を十五兩遣したり、彼女もかたじけなく思ひけるにや、明る朝歸る時、大門迄送りたり、其後ふたゝび三浦行ず、友達の左ばかりよくしたる女を、何故にふたゝびゆかざると問へば、三浦がいふ、かやう〳〵の次第なり、金もらひたりとて、初會より送り出る女おもしろからずとて、其後尋ねもせずに置たりと云咄しを、相番の咄したり、其比の人の心感ずるに餘りあり、誠の遊びなり、今は始めより遊女の方から、上まへ取て歸るべき工み計にて、其如き筋の立たる遊人は中々なし、殊に其辨利を發明と思へり、暑〈○暑誤字〉なる人情なり、
p.0903 揚錢多く負て返すことのならぬをば、桶ふせといふことすといへり、似せ物語に、男女のうなづき合て走らむとするを、長聞つけて、男をばつけとゞけしければ、たばかりて、くらにこめて、しばりければと云々、此ころは桶ふせなどは未なかりしにや、寬永十九年、吾嬬物語、や かれつゝかねのあるほどとられんぼ後はかならず桶ふせとしれ、了意が浮世物語に、その外あげ錢につまりて、桶ふせとなり云々、江戸土産咄、つひには吉原にて桶ふせになり、やう〳〵友立のかげにてのがれかへり云々、箕山云、擧錢を負たる者をとらへて、入湯桶を打かぶせ、銀を受合する事なり、昔はたまさかに斯ることも有もやしけん、今は名目のみ有て、かやうの仕業はなし、當時は銀を負たる者の忍びて來るをみ付れば、とゞめて歸へさぬ廓法なり、〈萬治寬文には最早なきことなり〉
p.0904 極下の分は、深く其道をしらざれ共、咄にもきゝ、痴情は推量にも書る物也、宵にお勤といふ折に出すのが邪魔だ、翌の事を延して、女郎にねだつて立ふりさせたり、それが出來ぬと翌朝友達の内へ無心の手紙、それも埓が明ぬ時は居殘り奴質(やつこじつ)として、物置納屋にほり込れ、とゞは始末屋とて、其人を引取り、身の廻をはいで取り、價に換て算用せられ、褌一ツでほり出さるゝ也とぞ、
p.0904 同〈○薄雲〉身請證文
證文之事 大文字樓藏
一其方抱之薄雲と申けいせい、未年季之内ニ御座候へ共、我等妻ニ致度、色々申候所ニ無二相違一妻被レ下、其上衣類夜著蒲團手道具長持迄相添被レ下忝存候、則爲二樽代一金子三百五拾兩、其方へ進申候、自今已後、御公儀樣ゟ、御法度被レ爲二仰付一候、江戸御町中ばいた遊女出合御座鋪者不レ及二申ニ一、道中茶屋はたごや左樣成遊女がましき所ニ指置申間敷候、若左樣之遊女所と指置申候と申もの御座候ば、御公儀樣〈江〉被レ上レ仰、如何樣ニも御懸り可レ被レ成候、其時一言之義申間敷候、右之薄雲、若離別致候はゞ、金子百兩ニ家屋鋪相添、隙出し可レ申候、爲二後日一仍證文如レ件、
元祿十三年辰ノ七月三日 貰主 源 六印
四郎左衞門殿 請人 平右衞門印 同 半 四 郎印
遊女の身請といへる事、元よし原より起りて、今に年々絶ざるは、この大江戸のいやさかえにさかゆるありがたきしるしなるべし、またこゝにあらはせるは、三浦や四郎左衞門が抱薄雲が身請證文なり、その頃揚や町和泉や半四郎〈揚やなり〉がもとにて遊びける、市町の人たれとかいへる住所はしらねど、むかしかたぎなる人とみえて、文言などめでたきかきざま也けり、いまはみな人ごとに心もさかしければ、中々に加樣の文體はえもかゝざる事なれど、請出すほどの身がらなれば、行末こしかたをもおもひやりて、かくありたきものになん、
p.0905 身請門出
身請定り門出の日、揚屋茶屋親方の親類知音の銘々へ、樽肴或は絹織物等相添祝儀となす、又もらひたる方よりも、それ〳〵の屆事は、其後門出名殘とて、家内一門一家寄あつまり、料理に結構をつくし盃事ありて、揚屋より迎に來る乘物持せ來るも有、かるきは竹籠被すげ笠さま〴〵あり、夫より揚屋にて又盃事あり、此時なじみの女郎連、おもひ〳〵寄あつまり、見送の事どもあり、門まで賑々しく見送り、はなやかなりし事どもいふ計なし、此儀式は大臣の威勢次第にて、花美かぎりなし、
p.0905 新吉原松葉屋瀨川
去年寶曆五の春、江戸町二町目丁子や抱雛鶴と云名高き遊女、田所町山崎斗仙根引(〇〇)して廓を出、
p.0905 賣女(バイタ)
p.0905 隱れて色を鬻ぐ者を、漢土にも後世娼妓天下に滿つ、兩京の敎坊官其税を收むるを脂粉錢と云、郡縣に隷する者を樂戸と云て、使令に隨ふ、唐宋の代、官伎をもて酒宴の佐とす、明の代になりても然ありしが、宣德の初めに至りて、始てこれを禁ぜられて、公庭に出るこ と絶たりといへ共、ます〳〵里閈に充牣して、猶これおほやけの妓女なり、昔晏子齊國を治るに、女閭七百を作り、其夜合の資を徵て、軍國の助とす、これ是法の作俑なり、官に隷せず、家居して姦を賣る者土妓と云ふ、俗に私窠子といふ、これ又數ふるに勝へずと云り、板橋雜記に、樂戸は敎坊司に統たり、司には一官ありてこれを主る、衙署あり、こゝの役人は、客を見ても禮せず、
p.0906 覺
一吉原町之外、けいせい、遊女之類、抱置申間敷候、勿論一時之宿も仕間敷事、
一町中ニ、ばいた女壹人も置申間敷事、〈○中略〉
子〈○正保二年〉二月
右者二月廿八日御觸、町中連判、
p.0906 承應二巳年五月〈○中略〉
一前々より如二申付候一、ばいた女抱置、ありかせ申間敷候、若隱置候者於レ有レ之は、其者急度曲事ニ可二申付一候、家主儀も穿鑿之上、急度可二申付一候事、
五月
○按ズルニ、隱賣女ヲ禁ズル事ハ、法律部下編犯姦篇密賣淫條ニ載セタリ、
p.0906 正德、享保中、隱し賣女共捕へられて、吉原町へ下されぬる事度々あり、又延享三年寅二月六日、四年以前亥年中、吉原町へ被二下置一候遊女共、御定年季明女數覺書、深川佃町同大和町氷川門前〆百七十八人、根津宮永町五十人、本所入江町一人、市谷谷町七人、神田小泉町踊子賣女十人、〆六十八人、北品川二十二人など見えたり、
p.0906 かくし賣女
天明中盛んなりしは、娼妓の賣色、根津、〈二朱〉谷中いろは茶屋、〈二朱〉音羽、〈二朱〉赤坂、〈二朱〉氷川、〈二朱〉市ケ谷、〈八幡社内二朱〉 麴町天神、〈かげま〉大久保しく〳〵谷、〈切みせ二朱〉下谷柳の稻荷、〈四六と切みせ〉三島門前、〈ひとよ泊り、二朱切二百、〉淺草朝鮮長家、〈切みせ〉同所大根畑、〈切みせ〉同所堂前、〈切みせ〉赤羽根、〈二朱〉芝神明社内、〈二朱にかげまもあり〉高輪、〈二朱〉中町、〈切みせ〉花ぶさ町、〈かげま二朱〉三田三角、〈二朱〉淺草馬道、〈二朱十匁〉蒟蒻島、〈靈岸島の中埋立地二朱○中略〉八町ぼり代地〈かげま出合茶屋、切二百、泊り二朱、〉上野下佛棚、同所三枚橋東側、けころ、〈切二百、泊り二朱、○中略〉さて賣色、藪下、麻布市兵衞町、〈切みせ〉鮫ケ橋、〈切みせ〉兩國回向院前銀猫、〈二朱〉同所辨天金猫、〈一分〉同所おたび、同所松井町、〈二朱〉入江町、〈四六〉深川仲町、〈切二百〉大橋〈十匁二朱〉櫓下、〈一切二朱〉裏やぐら、〈同〉すそつき、〈同〉三十三間堂、〈四六〉直助長家、〈同〉入船町、〈同〉網打場、〈同〉古石場、〈一切二朱〉新石場〈同〉新地、〈同〉大橋、〈びくに切二百、下は百、泊り二朱、〉以上三十三ケ所、此外船まん頭とて、深川吉永町も軒をつらねたるもの夜に入れば、船に一人づゝのりて、所々用岸、あるひは高瀨船に色をうる、〈百、下なるは五十、〉提重〈切賣女と號して色を賣る、美惡にて價上下あり、〉地獄、夜鷹、
右追々絶えて、今依然たるものは、北廓はさらなり、品川、新宿幷夜鷹のみ、
p.0907 天保十三年三月十四日、淺草の堂前といふ所に、切見世といふ賤しき娼婦を召捕へられし折より、官令下り、江戸中の料理茶屋に、隱し賣女と云事を渡世とせし者ども、同年八月迄に商賣を改むべし、住家をも外へ移すべし、まだ吉原町へ移りて、遊女屋とならん事は心のまゝたるべし、是迄抱置し女も、吉原町へ賣渡し住替させん事も、心の儘たるべしと命ぜらる、かの料理屋のものども、御仁惠の有がたき事をしり、生營を改めて四民の中へ入るも有、また吉原町へ入るも有、また吉原町へ入てくつわやになるも有し、
p.0907 三十番 左 たち君
霄のまはえりあまさるゝ立君の五條わたりの月ひとりみる〈○中略〉
あぢきなや名は立ぎみのいたづらに獨ねあかすよはも有けり
p.0907 立君聲を立て呼ぶなし、みな鼠なきなり、
p.0908
たち君
すハ御らんせよ
けしからずや
よく見申さんきよ水にていらせ給へ
p.0909 寬永十三年の頃より、町中に風呂屋といふもの發興して、遊女を抱へ置、晝夜の商賣をしたり、是よりして、吉原衰微したる也、吉原を贔負する人は、風呂屋女に仇名つけて、猿ど云ける也、垢をかくといふ心か、
p.0909 小歌傳授女
一夜を銀六匁にて呼子鳥、是傳受女なり、覺束なくて尋ねけるに、風呂屋者を猿といふなるべし、
p.0909 牛王賣ノ比丘尼ハ、〈○中略〉天和ノ頃ヨリ遊女發行スルニヨリ、カヤウノ族モ賣女トハナリタリ、然レドモ元來僧形ナレバ、衣服ハ木綿ヲ著シタリ、
p.0909 歌比丘尼 もとは淸淨の立派にて、熊野を信じて諸方に勸進しけるが、いつしか衣をりやくし、齒をみがき、頭をしさいにつゝみて、小歌を便に色をうるなり、
p.0909 赤坂
赤坂裏傳馬町へ出たるに、下町めつた町からくる比丘尼、風流に出立にて、菅笠のうち、〈○中略〉陶々齋町家へ入て、知る人をよび出して、樣子を聞ば、めつた町よりあまた來る比丘尼のうちにても、永玄お姫お松長傳と申候が、爰元で名取にて候、揚屋は仁兵衞安兵衞と申候がきれいにて候、今の小袖かたびらは宿へつき候とぬぎ捨て、明石ちゞみ絹ちゞみ白さらしうこん染めに、紅袖口うらえりかけ黑繻子茶繻子、はゞ廣帶黑羽二重の投頭巾、又は帽子でつゝむもあり、小比丘尼どもに酌とらぜ、市川流の夜終、もしほ草の大事のふし、ね覺さびしききり〴〵す、ながき思ひをすがの根の、思ひ亂るゝ計りにて候といふ、
p.0909 勸進比丘尼、賣女比丘尼の事、〈○中略〉賣女比丘尼は、芝八官町、神田横大工町にて、美服を著し賣けるよし、是につゞぎて下直の比丘尼は、淺草田原町、同三島門前、新大橋河端などにて、家毎に二三人づゝ出居たり、右兩樣の比丘尼共、今〈○文化〉は絶てこれなし、
p.0910 木綿布子もかりの世
今男盛二十六の春、坂田といふ所に始めて著きぬ、〈○中略〉勸進比丘尼聲を揃へて唄ひ來れり、是はと立よれば、かちん染の布子に、黑綸子の二つ割前結にして、頭は何國にても同じ風俗なり、元是はかやうの事をする身にあらねど、何時比よりをりやう猥になして、遊女同前に相手を定めず、百に二人といふこそ可笑しけれ、あれは正しく江戸滅多町にて忍び契をこめし、淸林がつれし米かみ、其時は菅笠が歩くやうに見しが、早くも其身にはなりぬと昔を語る、
p.0910 かくし賣女
此けころといふ名義は、此比淺草、兩國、橋町、石町邊にてころび藝者と唱へ、百疋づゝにてころびねの枕席したるものありしゆゑ此名あり、けころの名は蹴轉ばしの義なり、此けころ切二百、泊りは客より酒食をまかなひ、夜四つより二朱なり、一軒に二三人づゝ晝夜見世を張り、衣服は縮緬を禁じ、前だれにて必半疊の上に座すなり、〈案ずるに、水茶や、茶汲女の姿なりつらん、〉此賣色大方佛店より軒を並べて、四五十軒ばかりありつらん、是おのれが目睫をいふ、けころの姿、繪にも團扇にも賣り出だしたるを、余一柄を藏す、今は珍奇なり、
p.0910 蹴ころばし、艶道通鑑に、白人呂州茶や臭や間短蹴倒(〇〇)夜發迄とあるけたをしなり、古老云、比丘尼すたれて出來たり、天明の末迄、下谷廣小路、御數寄屋町、提灯店、佛店廣德寺前通、淺草堀田原、其外諸處にこれ有、これも一軒に二人三人づゝ出居れり、花費は貳百文ヅヽにて、いづれも容顏を撰み出したり、毎月大師緣日には、未明より出居たり、江戸名所鑑、山下敝膝(マヘダレ)ひと銚子足に恨やこぼれ萩とあり、是なるべし、〈寬政以來これら絶てなし〉
p.0910 提重
此サゲヂウト云賣女ハ、何ノ比ニヤ未レ詳、ケコロト同時〈○天明〉比歟、江戸ノ古老ノ話ニ、往々其名ヲ 聞ノミ、提重筥ニ食類ヲ納レ賣歩行ルヲ矯ケテ賣色セシ也、
p.0911 寶永二乙酉年九月
一從二前々一相觸候處、頃日猥ニ町中端々に奉公人となぞらへ、又綿摘抔と名付、遊女差置候者、數多有レ之由相聞不屆候、依レ之與力同心相廻シ可レ遂二穿鑿一候間、名主五人組急度致二吟味一、左樣之族於レ有レ之は、早速可レ訴二出之一、若隱置外より顯におひては、女差置候者は不レ及レ申、家主五人組罪科に行ひ、名主は可レ爲二越度一候條、急度町々へ可二相觸一者也、
九月〈○中略〉
寶永五戊子年十月
一町中ニばいた差置間敷旨度々相觸候處、今以奉公人綿摘抔と名付、遊女差置候者有レ之由相聞不屆候、人を廻し相改、賣女隱置候者有レ之候ハゞ、詮議之上當人不レ及レ申、家主五人組名主迄、其科ニ隨ひ曲事ニ可二申付一候條、此旨町中可二相觸一者也、
十月
寶永六己丑年六月
一町中ニ遊女を綿摘抔と名付隱置候儀、前々ゟ停止之旨申付候處、頃日猥ニ賣女抔差置候之樣相聞不屆候、人を廻し相改、左樣之もの有レ之ば、家主五人組迄曲事可二申付一候條、此旨町中急度可二相觸一候、以上、
六月
p.0911 夜發、やほち、〈和名〉 京大坂にてそうか(〇〇〇)といふ、〈いにしへ辻君、立君などいへるもののたぐひか、大坂にて濱君などゝ古くいえり、〉江戸にてよたか(〇〇〇)といふ、紀州にて幻妻(げんさい/〇〇)といふ、長崎にてはいはち(〇〇〇)と云、四國にてけんたん(〇〇〇〇)といふ、〈間短と書く〉大坂及尾州にて、人の妻をげんさいと云、是は罵(の)る詞に用ゆと見えたり、春秋左氏傳、 昭二十八年、有仍氏女鬒黑而光甚美可二以鑑一、名曰二玄妻一、
p.0912 十筋右衞門〈幷〉總右衞門
十筋右衞門は人名にあらず、髮の毛のすくなき事をいふなり、〈○中略〉右衞門といふには、何の意もなく、唯十筋ばかりといふに添たる詞なんど、少し嘲る意はあるか、今の世にかゝ〈ア〉左衞門、うんつく太郎右衞門などいふに合せて知るべし、辻君の事を江戸にて夜鷹(〇〇)といひ、上がたにて總家(〇〇)、また總右衞門(〇〇〇〇)といふも、總は總家の一家を取り、右衞門は例の嘲りて添たる詞なり、黑川道祐が遠碧軒記〈延寶年間筆記〉に、世俗にそうゑもんといふ遊女の事は、總家といふを誤ていふなりと記したるはわろし、
p.0912 浮世草子に、そうか、總嫁の字かけり、此説非なり、風流徒然草、五條の河原には、さうかといふ物あり、鹿の武左衞門かたりしは、或夜河原をとをりけるに、ござをかゝへて行ものあり、誰と見むきたれば、そうか男と物いひてゐたるを、あれはそうかといはれて、まどひにけり、未練のさうか、賣そんじけるとあるは、おどけばなしながら、そうかの義は是なるべし、くらき處に彳み居れば、さあるものともおぼめかるれば、名づけしならん、
p.0912 吉田町に夜鷹屋といふ有て、四十あまりの女の、墨にて眉を作り白髮を染て、島田の髷に結び手拭を頰かぶりして、垢付たる木綿布子に、おなじく黃ばみたる貳布して、敷ものをかかへて辻に立て、朧月夜にお出〳〵と呼聲いとあはれなり、予〈○未詳〉が幼き頃まで、情を賣こと廿四文にして、數ケ所出しが、今は其出る所少し、姿も昔とかはり、襟に白粉をぬり、顏は薄化粧して、髮に裁などをかけ、古き半天を著て、古き縮緬の二布したるあり、風俗奢てよりは、價も百文二百にもなりたるとぞ、
p.0912 難波の夜發 難波にはじめてくだりしは、やよひのついたち頃なりしに、あはれなる打聞こそ有りしか、難波新地といふ所に、よな〳〵辻かげにたちて、往來の人になさけをあきなふものどもつどふ中に、むつき、きさらぎのほどにや有りけん、ひとりの女の、みめかたちきよげなるが、いづくより來るとしる人もなくて、おなじさまに立ちまじりて、さるわざしけるを、いくりの中の眞玉ひろひ出でたるやうに、うかれ人たち此女をいどみあひける、十夜ばかりはさて有りしが、物のはしに歌をかきつけおきて、又の夜よりたえて見えざりけり、その歌、
あだし世に露のうき身のながらへて草のむしろにのれぬ夜ぞなき、いかなる人の身をはふらして、かゝるはしたなるさまにはなりはてしならんと、此頃のことぐさには、みな人いひあへりけり、
p.0913 夜發一と勢
夜發を夜鷹とて、江戸にて稱する有衒賣女色と法花經の普門品に説れたるは、總嫁の類なるべし、凡鮫ケ橋本所淺草堂前、此三ケ所より出て色を賣、此徒凡人別四千に及ぶと云、其道の物語りなり、其中に本所より出る夜發の中に、一際勝レて器量よろしくおしゆんと云女有、毎夜柳原土手のはづれ、筋違橋の際、髮結床の裏へ出て、能人此女を知る處なり、さればおかしき咄有、去年の暮大晦日の夜、其客の數てうど三百六十餘人有りしとなり、されば、三百六十日は、一年の日數なり、又大としの夜は一とせのおはりなり、はやるとて其親方一とせのおしゆんと名乘らせけり、今專らはやる女なり、
p.0913 よたか
沖つ舟よるべさだめぬを、うかれめとよび、家にありてまらうどをまつをば、くゞつとぞよびつけたる、これはさるたぐひにはさまかはりて、家にしもあらず、舟にしもをらず、たゞ大路のくま ぐま、あやしき木のもとなどをたづねもとめて、しばしのねやとはさだむるになむ、京なにはにはさうかといひ、あづまのかたにてはよたかとぞよぶなる、さるは、ひるはふし夜は行きて鳴くとかいへる、ふるきふみのこゝうもて、なづけそめたりけむ、日いるころよりよそほひこちたく物して、かしこへとていそぐ、むかしはもめんのくろきを衣とし、しろきを帶となして、かしらをばたのこひにつゝみていでたちしを、今樣はさるまねびをもせず、常ざまの市人のめのごとく見まがへありく、わかきはまれにて、四十より五六十ばかりのふるおうなぞおほかる、〈○下略〉
p.0914 水茶屋の女、料理茶屋の娘分抔、其外にも裏借屋などの幽室に籠り、地獄といふ女もあるよし、詳に予しらず、
p.0914 地獄
坊間ノ隱賣女ニテ、陽ハ賣女ニ非ズ、密ニ賣色スル者ヲ云、昔ヨリ禁止ナレドモ、天保以來特ニ嚴禁也、然ドモ往々有レ之容子也、
地獄、京坂ニテ白湯文字ト云、尾名古屋ニテ百花ト云、モカト訓ズ、彦根ニテ麁物ト云、皆密賣女也、江戸地獄上品ハ金一分、下品ハ金二朱バカリノ由也、自宅或ハ中宿アリテ、賣色スル由也、
或物ノ本云、俗ニ賣女ニ非ザル者ヲ、地者〈ヂモノ〉或ハ素人トモ云、其地モノヲ極密々ニテ賣女スルガ故ニ地極ト方言ス、地極音近キガ故ニ、今ハ通ジテ地獄ト云也、
p.0914 引張リ
ヒツパリ、天保以前ヨリ有レ之、蓋以前ノハ往人繁カラザル所ニ出テ、人ヲ擇ミテ袖ヲヒキ、或ハ言バヲカケテ勸ムル也、賣女自ラ出テ勸レ之、或ハ賣女ハ宿ニ在テ、老婆ナド出テ勸レ之、客ヲ宿ニ伴ヒ歸リテ賣色セシ也、近年ノ引パリハ堺町ナド、往來繁キ所ニモ出テ勸レ之、或ハ堀江町、小舟町、小網町邊ノ川岸ニ彳ミテ勸レ之、〈○下略〉
p.0915 船まんぢう、洞房語園道恕が饅頭賦、往し萬治の頃か、一人のまんぢうどらを打て、深川邊に落魄して、船賣女になじみ、己が名題をゆるしたり云々、又右氏が其賦を讀む文、近年東武深川邊に、八島にて入水せし二位殿の船幽靈のごとき者に、我名を呼と聞云々、〈天明七年丁未、永久夜泊の狂詩あり、鼻落聲鳴篷掩レ身、饅頭下戸拔二錢緡一、味噌田樂寒冷酒、夜半小船醉二客人一、〉明和二年川柳點おちよ般沖迄こぐはなじみなり、
p.0915 天明の末迄は、大川中洲の脇、永久橋の邊りへ舟まんぢうとて小船に棹さして、岸によせて往來の裾を引、客來る時は漕出して、中洲を一〈ト〉めぐりするを限として價三十貳文也と、是等も夜鷹とおなじく、瘡毒にて足腰の叶はぬもの多しといふ、
p.0915 一代男、諸處をいひたるに、四谷新宿をいはず、其頃はこゝに飯盛女(〇〇〇)などはなかりしにや、誰袖海、護國寺門前音羽町、四谷の新宿、板橋、立川、千住の色茶屋、堺町の裏筋、あたごの下、八貫町の比丘尼、是も百に三人より一人一角まで有、〈四谷新宿は、享保五年故有て廢せられて、五十三年を經て、明和九年願出るもの有て、又古來の通りはたごや五十二軒、飯もり女百五十人出來たりとぞ、歸橋が安永九年の草子に、今岡場所の多きこと、さつまいものふゑたるごとく、中に取わけ賑はふは、北と東と南なり、鼎の如くといひたるが、次第に西方盛なれば、碇の如く爭ひて云々とあるは、四ツ谷の後に、はやり來つること知べし、〉
p.0915 延寶六午年四月
茶屋給仕女之數幷衣服之事
覺〈○中略〉
一所々之茶屋、只今迄有來之分は、一軒に女貳人より多くは差置間敷候、若右之外妻幷よめ娘抔有レ之候共、一切馳走ニ出ジ申間敷事、
附、只今迄給仕女不二持來一茶屋ハ、向後彌女差置申間敷事、
一茶屋女衣服之儀、布木綿之外著せ申間敷事、
以上 午八月
p.0916 傾城賣女ニ近付モノヽ七損
主人ノ機嫌ヲソコナフ、身上ヲソコナフ、命ヲソコナフ、邪智ヲ增シ正智ヲソコナフ、正ジキヲソコナフ、孝ヲソコナフ、人ヲソコナフ、
右ノ内、命ヲソコナフ事品々アリ、
夜深ニカヘリ夜ニ入行トキ、醉狂人ノタメニ、又ハ物取追落シナドニ逢テ死スルモノアリ、
心中シテ死スルモノアリ、是レハ暫ク其座ヲ去レバ留ルモノナリ、〈○中略〉
酒食ヲ過シ、或ハ瘡毒、或ハ腎虚ナドニテ死スル、〈○下略〉
p.0916 麓〈○足柄山〉にやどりたる所に、月もなくくらき夜のやみにまどふやう成に、あそび三人いづくよりともなく出來たり、五十ばかりなるひとり、二十ばかり成、十四五なると有、いほのまへにからかさをさゝせてすへたり、をのこども火をともして見れば、むかしこはたといひけんがまごといふ、かみいとながくひたいいとよくかゝりて、色しろくきたなげなくて、さても有ぬべきしもづかへなどにてもありぬべしなど、人々哀がるに、こゑすべてにるものなく、空にすみのぼりてめでたくうたをうたふ、人々いみじうあはれがりて、けぢかくて人々もてまうするに、こしくにのあそびはえかゝらじなどいふをきゝて、難波わたりにくらぶればと、めでたくうたひたり、みるめのいときたなげなきに、こゑさへにる物なくうたひて、さばかりおそろしげ成山中にたちて行を、人々あかず思ひてみななくを、おさなき心地には、まして此やどりをたゝん事さへあらずおぼゆ、
p.0916 大治四年二月六日乙卯、今日於二鳥羽殿一有二遊女會一云々、
p.0916 建久四年五月十五日庚辰、藍澤御狩、事終入二御富士野御旅館一、當二南画立二五間假屋一、御家 人同連レ詹、狩野介者參二會路次一、北條殿者豫被レ參二候其所一令レ獻二駄餉一給、今日者依レ爲二齋日一無二御狩一、終日御酒宴也、手越、黃瀨河已下、近邊遊女、令二群參一列二候御前一、而召二里見冠者義成一、向後可レ爲二遊君別當(〇〇〇〇)一、只今卽彼等群集、頗物忌也、相二率于傍一撰二置藝能者一可レ隨レ召之由、被二仰付一云云、其後遊女事等至二訴論等一、義成一向執二申之一云云、
p.0917 大永八年傾城局の劵書
京にて見たりし洛中傾城局の劵書、〈紙中竪一尺餘、横一尺五寸許、〉これ又二百餘年の、古書なり、
補二任傾城局(〇〇〇)一之事 爲二御家恩一勢田方に被二仰付一、就二不儀一御改易之上者、如二先規一竹内新次郎重信被二仰合一事、
右以レ人所レ被二宛行一實也、仍御公用年中〈仁〉拾五貫文宛、於レ有二其沙汰一者、被二仰合一〈訖〉、若就二無沙汰一者、雖レ爲二何時一、可レ有二御改易一者也、仍補任如レ件、
大永八年〈戊〉子六月二日 〈春日修理大夫〉仲康
按ずるに、大永は後柏原院の年號、同七年後奈良院卽位、大永八年はすなはち享祿元年なり、〈一年號大永八年にい六りて、享祿と改元、將軍足利義晴、〉東鑑に、里見冠者を傾城の別當に補するよし見えたり、室町家の時なほしかり、遊女を傾城といふこと大にふるし、
p.0917 於二祇園社坊一傾城遊女被二相留一、幷參詣之衆施飯被二申付一之儀、一社中訴訟之通申屆候處、已後者堅可レ有二停止一之由候、檀那知音之衆被レ來候時、振舞等馳走被レ申ニ付、志次第音信者不レ苦之由、坊中へも令レ申候、恐々、
慶長十年七月六日 元佶
承兊
祇園執行幷一社中
p.0918 傳奏屋敷始の事
一問曰、傳奏屋敷幷御評定の義は、何頃より初りたる義と聞被レ及候哉、答曰、我等承り、及候義は、慶長五年、關がはら御一戰前に、公家衆參向と申は無レ之、天下御統一の後、傳奏の參向、毎年の義に有レ之を以、公家衆御馳走の屋敷と申て、新に御普請出來、傳奏屋敷と申也、夫迄の義は、御老中方の宅に於て、諸役人中式日の寄合等も有レ之なれ共、幸傳奏屋敷常に御用にも無レ之、明て有レ之事なれば、重疊御寄合所と有レ之義にて、御老中方自分々々の宅の寄合と申は相止み、式日に至り、朝夕の御賄の義は、下奉行に被二仰付一、外の義は手支無レ之なれ共、御老中方を初め、其外歷々の前へ罷出給仕を致す者に手遣ひ、如何いたしたる者なりと有る所に、板倉四郎右衞門殿被レ申るゝは、給仕人の義は茨原町役に掛け、番人なり共總女共を出させ、可レ然との義に付、茨原町の役掛り成り、傳奏屋敷前迄船に乘せ召連れ參り候節、船の上には笘をいをいたし、幕簾を掛候を初めと仕り、外々にて屋形船と申初むる由、〈○中略〉
一問曰、尤其時代〈○慶長〉の義は、諸事に付御手輕き事共と相聞けれ共、御老中方を初め、何も御立合、御評定所へ葭原町の傾城ふぜいの者を徘徊有レ之事、何共承知致さぬ事也、虚説などにて無レ之哉、答曰、手前抔も寬永年中出生の者なれば、時代も違、慥に可レ知樣も無レ之候、去ながら左樣成る義も可レ有レ之と存る子細は、文祿年中、上方に於て大地震のゆりたる義有レ之、京都大佛の像などもゆり崩し、權現樣の聚樂の御屋形も大破に及び、御家人衆中も押に打れ死る衆抔も有レ之由、其節伏見小幡山城中に於て、築地の所に立たる奧向の御屋形を震崩し、中居以下の女中五百人計りも相果候に付、老女中太閤の前に於て、今度の地震にあまたの下女共押にうたれ相果候に付、俄に其代りを召抱へよとある義を、秀吉公聞たまひて御申には、いかに下女ふぜいの者なれ共、あまたの人を召寄る事は、成り兼可レ申候と、玄以法印に申談じ、六條島原町の傾城共を召寄召使、其内代 りの下女共を召抱へ候樣にと、御申付らるゝを、近頃浩氣なる御申付と、世上にて沙汰いたしたる砌なれば、御評定所の給仕人、茨原町の遊女共も相應の義と、板倉殿には被レ致間敷ものにても無レ之事也、
p.0919 住吉遊女田植
堺乳守の遊女、住吉の御田をうゆる事は、いづれの帝の御時なるか、宮女に惡瘡の愁ありて、終に宮中を出て吟ひ、乳守に來り、遊女の家にやしなはる、此病を住吉の神にいのる、ある曉神託して、諸人に面をさらし、賤しき業をなすべしと也、よつて御田植女にまじりて、毎年これをつとむる、惡瘡こと〴〵く愈て、顏色元のごとし此例を以、乳守の遊女、植女となるのはじめ也、又遊女局などの暖簾に、紫の耳を付る事、乳守の外に出ず、これみな故緣によるといふ、
p.0919 けいせい〈○中略〉 源平亂の後、平家の侍女等、下の關、門司關、赤間關などにさまよひ、世わたるたつきもしらざれば、あそび女となれりともいへり、攝州播州等の神吐の祭祀に、妓女を用るものあり、楊升庵が集に、漢郊祀志、祭二郊畤宗廟一、用爲レ飾二女、妓一、今之装且也、其褻レ神甚矣と見えたり、
p.0919 一言奇談
友人遊女を迎へて、箕帚をとらしめんとす、ある人諫めて曰、遊女を迎へて婦となすは、溺器(ヲカハ)を洗つて飯櫃となすが如し、百たび洗ふとも潔とせんや、
皓々乎猶二蛇目一、以二灰汁一一洗、
○
p.0919 若氣(ニヤケ)幷男娼(カゲマ)
今世のカゲマ、垂髮の事を、むかしは若氣といへり、若氣勸進帳あり、文明壬寅の冬の作なり、其文 に、平朝臣井尻又九郎忠鋤、謹白二か僧喝食若衆一言云々、また滑稽詩文一卷あり、男色の詩多し、江島兒が淵に身を投し白菊丸が歌も載たり、男色の事、海人藻介に見え、から國には、龍陽君彌子瑕をはじめ、史記漢書に佞幸おほかり、後に男娼といふ、癸辛雜識にくはし、若衆を垂髮といふは、玉海、吾妻鏡に見ゆ、詩經には總角とあり、催馬樂にアゲマキの歌ありて、ころびあふよしいへるは男色なり、今ニヤケ男などいふは、男娼(ニヤケ)めきたる男のよしなり、
志田草子〈十丁オ〉に、君もにやくに御座あり、我等もわかき者なれば云々、又〈四十丁オ〉御年もにやくに御座あるが、いづくよりいつかたへ御とほりあるぞと問ければ云々、
p.0920 かげまは、京師にては宮川町、大坂は道頓堀、其外にも有べし、人倫訓蒙圖彙に、狂き役者男子を、遊女屋の女をかゝゆるごとくにかゝへ置て、藝をしいれ、十四五になれば、それ〳〵に色づくり芝居へ出し、藝よく名をとれば、我門口に、大筆にて誰がやどゝ名字をしるし、夜は戸口に、掛燈臺に名を書付おくなり、いまだ舞臺へ出ぬはかげまといふ、他國をめぐるを飛子といふ、野郎かげまともに看板を出す、雨夜一杯機嫌、〈元祿六年〉陰間看板界町媚云々、淺草神明增二威勢一、目黑目白仰二悲憐一とあれば、其あたりにもかげま有しなるべし、洛陽集、顏みせや十有五にして樂屋入、〈千之〉顏みせやうゐかうぶりして影間共、〈秋風〉賢女心化妝、今時男子を野郎屋の新部子に賣云々、歌舞妓事始に、新部子といふは、幼少にて藝の至らざるをいふとあり、へこは薩州の方言なり、其國にへこ侍といふものあり、みな知音を求めて義兄弟となるよしなり、輕き小者ながら義勇を宗とすとなむ、其さまも古風を守りて、寒中も短衣一ツ著、細き帶をすると聞り、今江戸の俗に、へこたれと云ふは、へこたふれの訛りなり、季吟獨吟百韻、やせ馬おひのあやな腕だて、をもき木をおほはら山にへこたふれ、へつほこ侍といふは、このやうの賤きさまをいふにや、風流徒然草に、野郎かげ問いづれも大きなるよし、ぬれは曾我、小栗、あいご、武道はしだ、哀なるはしんとく、すみ だ川、女郎の名など付たるを、めづらしくありがたがるは、やぼのもて興ずる物なり、西鶴置土産に、花山藤之助、松風琴之丞、雪山松之助といへる陰子の名あり、一代男、やらうもてあそびは、散かかる花のもとに、狼のねて居るが如し、けいせいになじむは、入かゝる月の前に、ちやうちんのない心ぞかしとなむ、いづくへも招く處に行たるものなり、江戸には法度ありしかど止ざりければ、また寶永六年丑七月、狂言芝居野郎、幷狂言に不レ出前髮有レ之者、外へ堅くつかはす間敷旨、前々より令二停止一候處、頃日右の族、方々へ參、藝致候由相聞不屆候、向後木挽町さかひ町野郎子供不二申及一、役者共、又は白人にて藝いたし候者、一切外へ參間敷候云々、〈○中略〉頓作江戸雀、〈師宣が畫入、元祿の初なるべし、〉難波町邊に、ことのほかはやりけるかげま有けりと書り、是は堀江六軒町〈今いふ芳町〉にはあるべからず、佳吉町、高砂町、或は難波町裏河岸の内なるべし、
p.0921 男色樓(カゲマジヤヤ)、芳町を第一として、木挽町、湯島天神、糀町天神、塗師町代地、神田花房町、芝神明前、此七ケ所、二三十年已前まで樓ありけり、近歲は四ケ所絶て芳町、湯島神明前のみ殘れり、三四十年已前は、芳町に百人餘も有りけるよし、此内より芝居へ出て歌舞するを舞臺子といひ、又色子とも稱して、四五十人もあり、此色子ども、末々は皆役者になれり、女形は多分此者どもより出來て、上手といふ地位にいたりしも多く有けるよしなり、古評判記を見て知るべし、旣に當時の尾上松緣は、舞臺子にて有しなり、近歲舞臺子絶てなし、然る故に江戸に女形の種なし、江戸役者の女形は有やなしやにして、女形は皆上方役者のみになれり、此節衒艶(カゲマ)郎芳町に十四五人、湯島にも十人計も有よしを聞り、寶曆の比と違ひ、減少せし事にて、男色衰へたると見へたり、
p.0921 芳町にかげまやとて、男色を賣る野郎屋あり、役者の弟子奉公人請狀にて抱へるよし、子供屋おほく有て、揚屋は料理茶屋にて別家なり、價一ト切百疋、晝三分夜二分也、野郎十八九より藝者にすといふ、又芝居にて女形の役者は平日人數少く、御殿場め狂言或は御姫樣の行列 抔には、女形多く入用なる時、此野郎を雇ひ女形に遣ふなり、其時野郎振袖を著し、編笠をかぶり樂屋入する、天明の始まで有しと云、〈○中略〉
芝神明前にかげまや三四軒あり、八町堀にも二三軒あれども、家造麁末にして、男女出逢の貸座敷にもすると云、又湯島天神社内にも有て、芳町に同じ、
p.0922 男色(なんしよく)〈俗云衆道○中略〉
按、男色甚者勝二女色一、而不レ耐レ久也、若下筍之甘美纔過二一句一則膚硬節高不上レ可レ噉也、韓非説難云、衞彌子瑕與レ君遊二于果園一、食レ桃而甘、不レ盡以レ半啗レ君、君曰、愛レ我哉、忘二其口味一以啖二寡人一、及三彌子瑕色衰愛弛得二罪於君一、君曰、是嘗啖レ我以二餘桃一也、
p.0922 かはつるみ 太秦牛祭文、宇治拾遺等に見えたり、男色の事也といへり、かはやつるみの義成べし、了意が犬はりこに、亂世に盛なりし事をいひて、股をさき肘を引て血を出し、志の實なる事をあらはす、古き歌に、
おもふ心色には見えず身をさしてあけのちしをゝ君それとしれ、忠孝をわすれ非道の色に身を捨命を失ふもの、僧俗にわたりて女色よりも甚しと見えたり、
p.0922 かはつるみの事を、漢土には放手銃といふ、笑林廣記にその詩を載たり、もと姓倪なる人を嘲りたる詩となむ、をかしく作りたり、
p.0922 これも今はむかし、京極の源大納言雅俊といふ人おはしけり、佛事をせられけるに、佛前にて、僧に鐘をうたせて、一生不犯なるをえらびて、講を行なはれけるに、ある僧の禮盤にのぼりて、すこしかほ氣しきたがひたるやうに成て、鐘木をとりてふりまはして、うちもやらで、しばしばかりありければ、大納言、いかにと思はれけるほどに、やゝひさしく物もいはでありければ、人どもおぼつかなく思けるほどに、この僧わなゝきたるこゑにて、かはつるみ(○○○○○)はいかゞ 候べきといひたるに、諸人おとがひをはなちてわらひたるに、一人の侍ありて、かはつるみは、いくつばかりにてさぶらひしぞと問だるに、この僧くびをひねりて、きと夜部もしてさぶらひきといふに、大かたどよみあへり、そのまぎれにはやうにげにけりとぞ、
p.0923 かはつるみ
宇治拾遺に、かはつるみといふ事あり、これは男色の事なるべし、かはとは、厠(カハヤ)といふ名をおもふに、屎(クソ)まる事をいふめれば、それよりうつして、尻の事に形容せるなるべし、つるむとは、今は禽獸などの交はるをいふに同じ、この本文、法師の話なれば、男色の名らしくおぼゆるなり、これを手銃のことゝいふ人もあれど、さにはあらじ、ある所にひめらるゝ男色の繪卷物にも、悉く法師の男色をかけるをや、男色の事、から國にもふるくありしなり、後漢書佞幸傳云、董賢、字聖卿、哀帝立拜二黃門郎一、寵愛日甚、常與レ上同二臥起一、嘗晝寢、偏藉二上褏一、上欲レ起賢未レ覺、不二覺欲一レ動レ賢、乃斷レ褏而起、其恩愛至レ此云々とも、また、史記韓非傳にも、衞の彌子瑕を靈帝愛せられしに、其寵にほこり、君の車に乘り、くらひ餘しゝ桃を、帝に獻れり、のち寵おとろへて、此二事を罪として、誅せられし事あり、わが御國にても、ふるくありける事にや、〈○中略〉拾遣集に、山ぶしも野ぶしもかくてこゝうみつ今はとねりが閨ぞゆかしき、又同集に、あまた見しとよのあかりのもろ人の君しも物を思はするかな、などある、みな男色なるべし、
p.0923 下學集增補、窄乾口號に、呼二無レ心若衆一云ーーともあり、おもふに、本邦にては、其始法師のもてあそびより事起りしならん、中ごろまでも、俗間には稀なり、〈○中略〉僧家は勿論、俗間には、永祿の頃より、元祿の頃まで、わきて甚しきやうにて、彼桃を分ち、袖を斷けむは物かは、家を亡ぼし、身を失ふ類、種々の草子どもに多くみえたり、古くは田樂、後は猿樂の役者どもに、男色もて行はれたる者多し、今め芝居役者もおなじ趣なり、今俗お釜と云、いつより此ことなりしにや、本朝 俚諺、〈正德四年〉本國の俗、妻を呼で阿釜と云、據あり、酉陽雜爼云、王生善ト、有二賈客張瞻一、將レ歸、夢炊二臼中一、問二王生一、生曰、君歸不レ見レ妻、臼中炊無レ釜也、瞻歸妻已卒、かくいへれば、其心いまだ若衆のことにはいはざりしことしるべし、
p.0924 男色をオカマと云ふ事
滑稽詩文の詩に、無レ限心中藏彌露、灯前一夜涙如レ雨、他時有レ時可レ焦レ思、鹽竈烟兮松島浦云々、此詩松島に待とよせ鹽竈にオカマをよせたるなり、後世男色をオカマといふも緣源あり、
男色密道若道
男色の事を、密道若道などいへり、若氣勸進帳に、三國有二密道一、厥用雖レ同厥名各別、支那謂二之押甎一、身毒謂二之非道一、扶桑謂二之若道一、通二用于三國一、眞俗共賞翫矣、殊本朝者、桓武天皇御宇、從二弘法大師一此道專盛、而京鎌倉之諸五山、大和近江之四ケ大寺、其外都鄙諸宗、公家武家之人、雪月爲レ便、詩歌爲レ媒云々、また剰以二密道一容易流布、樵蘇女子小兒諳レ之攩レ之云々、男色は周の代に彌子瑕あり、漢に郵通董賢の類あり、淮南王有二愛好童年一、その外擧に遑なし、男倡といへるは、男色を賣者にて、本朝のカゲマ也、
p.0924 男色はいつ頃よりかありはじめけむ、始詳ならず、まづは佛法渡來の後、僧の女犯を禁ずるより出しは、おのづからの勢なり、俗傳に、何の據もいはずして、空海よりなどいふは、もと言傳ふる所ありしにや、〈されどおのれ(本居内遠)は別説ありて、今少し古かるべくおもふなり、そは猶稿あればこゝには略せり、〉中世以來の事は、季吟が岩つゝじといふ書にも記せり、凡は僧徒のしわざなり、されど中世以後、軍陣には婦女を誘ふ事を禁ずるより〈木曾義仲將軍の、巴山吹などを伴はれしとの事は有、〉起りて、應仁以來の亂世より、武家にも執する輩多く、その比よりやゝ盛になりたるも、おのづからの勢なり、今治世となりても、その俗習殘りて、元祿享保などの頃までは盛なりと見えて、男色の戯ざうし多くありしが、やゝそれより衰へて後も、僧 徒武家亂舞者、戯場中などにはたえず、その餘は零々たり、婦女とたがひて、生育の道にもあらねば、淸き上古にはなかりしもうべなり、されど色を愛するに至りては同轍なり、もとは是も愛に生じ、恩にほだされてこそ、和諧もしたりけめ、中々に治世の後は、此道だにも賣色出たり、是は皆戯場中の徒に權輿し、その藝伎にめづる方よりなれるなれば、元、來賤なる事、前の戯場の條々いふが如き上に、傾城夜發にさへ類すれば最卑し、是を野郎と書來れど、もと艶冶の意にて、冶郎とかくべきなり、京にては宮川町、浪華は道頓堀、江戸は禰宜町なりしに、後は葭町芝神明社邊など、その群の賣樓なり、三都の外にはしかすがに衰へて、賣色はきかず、是等にも階級ありて、太夫子、飛子、陰子、新部子などの名あるよし、それそれの戯册子に見ゆ、もとは雲上の兒姿、武家の扈從の袴腰に刀帶たるを愛しも、賣色となりては、ひたすら女樣と變じたるは、俳優の女形といふ者の藝に臨みて、眞情を模せんとするより、常も女の如くいでたちて、衣服詞づかひ歩行までも摸擬せしより起りて、僧徒はまして見る目めづらかにめでしなるべし、是類も元來の非儀なるは暫いはず、互に意中の親情を盡して、他なき内々の事は、上より嚴禁なくては制すべからざれば、しばらくさし置て、公然たる賣色は禁あらずとも、よからぬ事とさだむべく、まして賤なる事はさらなり、かつ中には寡婦などをも賓となして、閨床に附くなどきくは、きはめてあるまじき惡風俗なり、
p.0925 或人ニ問テ云ク、漢家ニ男色ノ事アリヤ、ナカニモ國王ノコノ事ヲシ給ヘル事ヤミエタル、其人答テ云ク、故入道長方卿シメサレシハ、漢成帝トイフミカドノ御時、董賢トイフモノサヤラムトミエタリ、書ニ云、與レ帝臥起シケリト、後ニハ餘リニ寵シテ、位ヲユヅラムトスルニヲヨブトミエタリ、
p.0925 男娼尼站、和尚敎坊、 比二頑童一之訓見二於尚書一、可レ見三代已有二此風一、後有二彌子瑕君、龍陽君一、以及二漢之籍孺閎孺鄧通韓嫣董賢之徒一、至下於傳二脂粉一以爲上レ媚、〈漢惠帝時、黃門侍申、皆傳二脂粉一、冲帝時有二飛章一吿、李固胡粉飾レ貌、搔レ頭弄レ姿、魏曹子建、亦好傳レ粉、晉何晏動靜自喜二粉白一不レ去レ手、唐張昌宗得二幸於武后一、又薦二其兄易之一傳レ粉施レ朱、倶承二辟陽之寵一、後唐莊宗嘗自傅レ粉、輿二伶人一戲、此皆傳粉故事、〉史臣之賛曰、柔曼之傾國、非二獨女德一、蓋亦有二男色一焉、癸辛雜識謂東都盛時、有下以二此圖一衣食者上、政和中、立レ法吿捕、男子爲レ娼者杖一百、當錢五十貫、南渡後、呉俗尤盛、皆傳二脂粉一盛粧飾善レ針、指呼謂亦如二婦人一、其爲レ首者號二師巫行頭一、凡官府有二不男之訟一、則呼使レ驗レ之、敗壞風俗莫二此爲一レ甚云、按此風相習、歷代皆所レ不レ免、然如三宋時之傅二脂粉一、幷有二師巫行頭之類一、則罕矣、
p.0926 承應二巳年五月
一頃日町中ニ而衆道之出入有レ之候、跡々ゟ堅御法度候間、衆道之儀申かけ候もの於レ有レ之は、申懸候者迄急度曲事に可二申付一候、若左樣之不作法之者候はゞ、町中之者隨分異見申、承引不レ申候はば、早々御番所江可二申上一事、〈○中略〉
五月
p.0926 岩つゝじ叙
うましおとめをよろこぶは、女神男神の神代より、人の心のまさにしるべきことはりなるを、うまし男をしも、女ならでさるすける物おもひの花に醉るは、あやしくことなるに似たるわざながら、その妹脊の山は、佛のいましめさせ給へる所なれば、さすがに岩木にしあらぬ心のやるかたにて、法の師のわけ入初にし道なるを、つくばねの峯のしたに流れ落ては、みなの川の淵となれるものゝごとく、末の世にはかへりて女男の情よりも、猶そこひなきごとくなりて、上達部うへ人などはさらにもいはず、たけきものゝふの心をもなやまし、爪木をこる山賤もなを此若木の陰に立よらずといふことなくぞなりにたる、しかれど、是をやまとうたによみ出たることは さまで多からず、まづ古今和歌集のなかには、高野大師の御弟子眞雅僧都のときはの山のひと歌あり、これや、かの色好みの家の風をつたへ、花薄ほに顯れてまめなる人にもかたり傳ふるごとく成けらし、其外にも代々の撰集にのせられし言の葉、拾遺集より新古今までは、わづかにちりまじりにたれど、そのゝち十三代集の中には、つや〳〵見出るふしも侍らず、もしやありもやすらん、わが見るところのくはしからぬにや侍りけん、〈○中略〉 北村季吟書レ之
p.0927 康治元年三月一日甲辰、自二宿所一參、深更召二或舞人一、懷抱寵甚、
久安三年四月廿二日乙卯、今夜始二千手供二壇一、〈八三祈〉又於二持佛堂千手御前一、余〈○藤原賴長〉禮拜千八十遍、〈同祈〉此記書二八三一者、是公春也、 七月廿九日辛卯、昨今兩夜、召二秦兼任一、〈隨身〉引二入内寢一、 九月十二日癸酉、幸二天王寺一、〈御車輿〉余〈○藤原賴長〉依レ仰〈○鳥羽〉乘二手輿一候二後陣一、〈○中略〉仰曰、此寺舞人之中、有二容貌壯麗者一、今日有二其人一乎、〈法皇爲レ人好二美人一、故有二此言一、〉對曰、所レ候也、〈名公方〉事訖、法皇改二御裝束一、〈○註略〉幸金堂一、 十三日甲戌、余下二宿所一、召二舞人公方一、引二入臥内一、 四年正月五日甲子、今夜入二義賢於臥内一、及二無禮一、有二景味一、〈不快後、初有二此事一、〉 三月十九日丁丑、經二雄山一著二天王寺一、今夜召二舞人公方一欲レ通、夢明日可レ入レ堂、男犯猶以不淨、因レ之不レ通、可レ謂二奇異事一、
p.0927 紫金臺寺御室に、千手といふ御寵童有けり、みめよく心さま優也けり、笛を吹、今樣などうたひければ、御いとをしみはなはだしかりける程に、又參川といふ童初て參じたりけり、箏ひき歌よみ侍りけり、是も又寵有て、千手がきらすこしをとりければ、面目なしとや、退出して、久敷參らざりけり、或日酒宴の事有て、さま〴〵の御あそび有けるに、御弟子の守覺法親王なども其座におはしましけり、千手はなど候はぬやらん、召て笛ふかせ今樣などうたはせ候はゞ、やと申させ給ひければ、則御使をつかはしめされけるに、此程所勞の事候とて參らざりけり、御使再三に及ければ、さのみは子細難レ申て參にけり、けん紋紗の兩面の水干小袖に、むばらこき雀の居たるをぞぬふたりけり、紫のすそごの袴をきたり、ことにあざやかにさうぞきたれども、物 を思入たるけしきあらはにて、しめりかへりてぞ見へける、〈○下略〉
p.0928 右大臣殿の御父君前關白殿家平、御なやみおもくなり給ひて、御ぐしおろす、〈○中略〉中比よりは男をのみかたはらにふせ給ひて、法師の兒のやうにかたらひ給ひつゝ、ひとわたりつゝいとはなやかにときめかし給ふ事けしからざりき、左兵衞督忠朝といふ人も、かぎりなく御おぼえにて、七八年が程いとめでたかりし、時すぎてそのゝちは、成定といふ諸大夫いみじかりき、このごろは又隱岐守賴基といふも童なりしほどよりいたくまどはし給ひて、きのふけふまでの御めしうどなれば、御ぐしおろすにも、やがて御供つかうまつりけり、病おもらせ給ふ程も夜晝御かたはらはなたずつかはせ給ふ、すでにかぎりになり給へるとき、この入道も御うしろにさぶらふによりかゝりながら、きと御らんじかへして、あはれもろともにいでゆく道ならば、うれしかりなむとのたまひもはてのに、御いきとまりぬ、右大臣殿も御前にさぶらはせ給ふ、かくいみじき御氣色にてはて給ひぬるを、心うしとおぼされけり、さてそのゝちかの賴基入道もやみつきて、あと枕もしらずまどひながら、つねは人にかしこまるけしきにて、衣ひきかけなどしつゝ、やがてまゐり侍る〳〵と、ひとりごちつゝ、程なくうせぬ、
p.0928 かたらひけるわらはを怨みて、しば〳〵とはず侍けるに、彼童文をおこせて侍けるに、薄墨にてかきたりければ、 僧都覺基
うす墨にかくにて知ぬ君はさは見えぬをよしと思ふ成べし
p.0928 一文明の比、或人他國に行事侍りし、年比らうたく思ひ侍りし童の、やまふに煩ひて、殘り侍りしが、送りの詩に、
君去往二他郷一、吾今臥二病床一、訃音如レ露來、莫レ惜一炷香、
となん云ける、客中に彼童はかなくなりしかば、再び人に交はらずして、修行しけるとかや、哀れ 也し事也、賢按、此時代男色の流行しける事如レ此也、
p.0929 元祿十二年、永井氏ゟ笹瀨氏に尋られし時に書付て、其臣中村氏〈江〉出しける草案、彼が家に有、今其籍記を寫し侍る、〈○中略〉
一四月〈○天文十四年〉十五日、宮午代丸昨日上洛、今晩御禮に參る、仍而於二小御所一御酒宴と云々、
自注に云、宮千代丸は美少年、有二百媚一、父は岩村と云織手屋也、根本都之者也、此十ケ年計居二住境一此兒學二猿樂一、無雙の器用也、此二三年密に兮レ禮二候禁中一云々、〈賢按、舞々桃井幸若丸の起本も、此類之事なるべし、〉按ずるに、宮千代丸は、美童の猿樂一座の大夫也、永正十四年孟夏ゟ、初秋に至る迄在京、時々内に(内裏之事)も召れ、御寵愛と見得たり、其間勸進能等も有しかば、親王大樹以下公武の諸家、彼が色に淫せし事、此記に見得たり、七月十二日、泉州下向之時、餞別の人も多く、別を惜みあへり、其かみは猿樂之外には、勝れたる遊興も無りしにや、斯る色に壹人万人いとまよひ侍べる、田樂之中にも、美少年有よし見へけれど、又一等下窂のやうにしるせり、今日の如き倡優家(/ヤラウヤ)の美、花夷に盛んにして、色をひさぎ、人を惑す事、遊女と替る事なしと也、鳴呼分レ桃斷レ袖の情かくにや、誠に思ひ出る常盤之山にと言をよせて、あだなる色にもそみ侍る、伊訓のむかしゟ、安陵龍陽の諸傳は更也、代代之淫幸、史に筆を絶ず、晉の時ことに盛ん也しにや、强年は容貌擧止を以て衡鑑を定むといへり、感寧大康の後は、男寵女色より甚し、海内倣傚して、夫婦離絶し、やゝもすれば、怨憤を生ずるに至りしよし、舊文に記せり、剰へ少人孕娩之事迄見得侍るにや、我國稱德帝の比にや、男寵之事始めて史に見得たりしより、絶ぬ情の通り迷ひ入るは山しげ山幾代の恨をか聞侍べる、後世雄長して、賣色の家さへ出起りて、公行し侍るにや、
p.0929 羽柴長吉は、太閤の小姓無二比類一美少年也、太閤或時人なき所にて、近く召す、日比男色を好み給はぬ故に、人皆奇特の思ひをなす、太閤とひ給ふは、汝が姊が妹ありやと、長吉顏色好き 故也、
p.0930 一豐臣秀次の臣淺井周防守は、勇功の士なりし、秀次所レ愛の少童を せしめられしに、周防守元來男色を好みしかば、或少年を犯し通ぜし故、秀次怒りて、是を殺すべき由を命ぜらる、淺井傳へ聞て、去るべきと思ひけるが、我武勇の名を得て祿を食、おめ〳〵と立退かば、命をしさになど、人の誹りも口惜しとて、城に登り大聲を上て、君人をして我を殺し給ふべき仰有由、誰れか命を聞かれし、出て害せよとて、欠廻りしかども、彼が勢に恐れてや、敢て手ざす者もなかりしかば、直に立退けり、されども日本の内に居らば、尋ね出されて恥を見んも心うしとて、朝鮮へ渡り住けるが、毎朝濱へ出、日本大亂、國家滅亡と呼はり、長刀を揮けるとかや、秀次生害の後歸朝し、浪人にてありしが、慶長十九年、大坂の役の時、籠城して戰死しけるとなん、かゝる我儘成〈ル〉者の昔時多かりし、されば昔ゟ主人戒め置し者も、其主亡びぬれば我に出て、知らず顏なるは多し、
p.0930 慶長十年五月下旬、豫州宇和島ノ城主富田信濃守知信ト、備中猿掛ノ邑主浮田左京亮成正〈後阪崎對馬守ト改〉確執アリ、其故ヂ、左京亮違亂ニシテ、罪ナキ小性ヲ斬戮ス、爰ニ成正ガ甥浮田左門ト云フ臣、彼小性ト男色契ヲナシケレバ、恨ヲ含ンデ討手ノ者ヲ害シ、信濃守ガ許へ走ル、成正其憤斜ナラズシテ、富田ガ方へ書ヲ呈シ、彼殺害人ヲ出スベキ旨ヲ請フ處ニ、信濃守ガ妻〈成正妹ナリ〉憐ンデ出サズシテ逐電ノ由ヲ答フ、左京亮强訴セント欲ス、〈○下略〉
p.0930 小草履取といふものあり、昔々物語に、むかしは小草履取といふもの、十五六歲の隨分とうつくしき目子、草履取にして、下には絹の小袖、上に唐木綿の袷を著せ、伊達なる帶をさせ、夏は浴衣染などきせ、脇差隨分結構に拵へてさゝせ、客へ馳走に給仕にも出し、供にも連る、但供には道のあしきにつれず、雨天につれず、天氣晴過たる暑氣に不レ連、跡より、中間に笠をもたせて連る、足袋をはかせ、かたのごとく和らかに拵へて連る、さたの限り、不自由なるものなり、此小 草履取に付、度々喧嘩口論あり、主人隨分器量ある人ならねば、小草履取持ことならず、慶安の頃、世上にすきと相止、其後寬文の頃、一盛り流行、爰かしこに有りしが、是又むづかしく、口論出來て、また止む、近年すきと相止たりとみゆ、
又香具を商ふ者あり、卜養狂歌集、ある人のもとへ行けるに、わかきかうぐや參り、色々のかうぐ出しけるに、燒(タキ)ものに、仙人黑方若草といふ云々、少人のかほよきを愛して云々、一代男、十五六なる少人、かのこじゆすのうしろ帶、中脇差、印らう、巾著もしほらしく、たかさきたび筒短に、かずせつたをはき、髮つとづくなに、まげを大きに高くゆはせて、續きて桐の挾箱のうへに、小帳そろばんをかさね、利口さうなる男の行は、是なむかうぐ賣と申、宿元を聞ば、芝神明の前、花の露屋の五郎吉おやかた十左衞門とぞ申ける、かれらも品こそかはれ、かげらうと同じ小草り取のはなすぢけだかきを、かやうにしたて、屋敷がた一年替り、長屋住ひの人をだます物ぞかし、さて其ざうり取はとたづねければ、是にはそれ〳〵にねんぢやありて、とりなりきるものをも、かうりよくして賴もしき事あり、つとめも、旦那ばかりにはゆるして、外はかたくせいとうして、其屋形にも出入して、月に四五度は、我ものにつれてかへる事ぞかし、近年多くすたりて、〈延寶の頃をいふか、昔々物語に合へり、〉このかたは寺かたにかゝへ侍る、〈○中略〉
慶安五年壬辰四月七日、町觸、一町人之草履取六尺小者、或は知音致し、或は兄弟親類之契約致、ざうり取引廻し奉公に出し候事、可レ爲二無用一、此旨於二相背一者、急度曲事可二申付一事、一六尺小者私に草履取を抱、人主に成り、奉公に出候事、是又令二停止一候間、親子兄弟親類の外、人主に成、奉公に出候はゞ、其草り取は身之儘に致し、人主に成候六尺小者、穿鑿之上急度曲事可二申付一事、
後年寶永ごろには、渡り小性とて、大名旗本にて、美童を抱へし事なり、耳袋に、或老人八十餘にて、予がもとへ來り咄しける、我も壯年の頃は、渡小性いたし、今の主人家譜代にも無レ之、若き時は美 少年なりしといへり、紅顏美少年、半死白頭翁を思ひ出して、をかしと有り、
p.0932 藝子〈江戸にて女藝者といふ、廓中の幇間を藝者といふ、〉
p.0932 女藝者の事を、昔はをどり子(〇〇〇〇)といふ、明和安永の頃より藝者(〇〇)とよび、者(しや/〇)などゝしやれたり、辨天おとよ新富などゝいひ、橘町に名高し、妓者呼子鳥といふ小本、〈田にし金魚作、後に虎の卷と改む、〉此二人の事を記せり、橘町大坂や平六といへる、藥種屋の邊に藝者多し、俳諧の點者祇德、其邊に住しゆゑに、祇王祇女がほとりに、祇一祇德などいひし白拍子の名にたぐへて、祇德とはつきたり、辨天おとよ追善の句に、
蛇は穴に辨天おとよ土の下 祇德
といひしもをかし、
p.0932 歌舞妓河原者の曲藝を以て、事業とし糊口する者を、男女ともに藝者と通稱す、江戸中に二萬人の餘これ有よし、女を羽折といふ、親兄弟をやしなふも多し、二萬人餘の中、上手高名なるものは、一ケ年に束脩貳百兩程づゝも取よしなり、されど倉廩を持しものは一人もなし、淺草邊にて、きねや庄次郎といふ者一人のよし、これは親庄次郎建し倉廩なりといふ、うへもなき賤き業にして、弟子も皆無賴放蕩もの而已の寄合なれば、くらのなきも理り也、
p.0932 風流徒然艸に、中村勘之丞の手舞の中に、てぶりのよき事をえらびて、ゑがほのおかつといひける女に敎へて、後に佃とめけれど、人みなをどり子とぞ云ける、おかつが妹松野といひける、此藝を續り、是舞子の開山なり、折ふしのはやり歌をわけて謠ふ、其後かめやの小三郎、多くのをどり子供を取たてたり、かまはらひお梅が、鈴のふりもあり、水木おはるに敎へけるとぞみゆ、是かの志賀山の始なるべし、色芝居に、舞子をいふ處、水木が七ばけ、澤之丞が淺間の怨靈、こんくわいの、鑓をどりのこ、恐らく知らぬ事なき番數に、いかさまよき鳥、のかゝれかしと、此親 が願ひも至極ながら云々、五元集に、靑山邊にて、踊子を馬でいづくへ星は北、といふ句あり、馬にて迎ふるをいふなるべし、借駕籠制禁の頃とみゆ、此踊子といふもの、始終絶ずして、後は名のみにて、踊りはせず、それより藝者といふ事になりぬ、明和安永天明の頃、女藝者はやりて、江戸端々、遊所はさらなり、いづくの町にもなき處なかりしとぞ、
p.0933 万松、大阪では藝者のことを、藝子(〇〇)といびやす子、鶴人、さやうさ、藝者と藝子の分ちは、江戸よりは大阪の方がよう厶リヤス、藝者といへば、大阪でハ男藝者のこと、藝子といへば、女のことでありヤス、者の字が男になり、子の字が女になるは、寸志の無言語ではありやすめいか、千長、なるほど動やせん子、万松、大阪でハ藝者が、イヤ藝子が女郎より上座をするぢやア厶リやせんか、鶴人、それも善(いゝ)きまりで厶リヤス、新町〈○大阪〉では、江戸の通り、やつぱり女郎の下へ、藝子が居やす、其外の場所では藝子が上座へすはりやす、万松、大阪では、藝子が大鼓をたゝいて、踊ぢやありやせんか、鶴人、ナニ踊といふ譯ではありやせん、舞ふのでありやす、大鼓もたゝきやすが、三味線へのる鹽梅(あんばい)が、至て古風で、上品なものでありやす、信州の輕井澤や追分で、太鼓をたゝいて、女郎の踊るとは、同日の御噺にはなりやせん、
p.0933 元祿十二卯年四月
一前々も相觸候得共、女おどり子彌抱置、あるかせ申間數候事、〈○中略〉
以上
四月
p.0933 嘉永元申年八月
女藝者之儀町觸
町々女藝者と唱候もの、親兄抔之爲、無レ據藝一通りニ〈而〉、茶屋向等〈江〉被レ雇候儀ハ格別、女を抱置藝 者爲レ致候儀ハ勿論、娘妹等有レ之候共、其家ニ〈而〉壹人を限り可レ申、尤身賣ニ紛敷儀ハ堅爲レ致間敷旨、先年より觸置候趣も有レ之、猶又近頃心得違いたし、如何之及二所業一候者有レ之抔、專ら風説致候得共、右者全風聞迄之儀と相聞候間、先此度ハ令二宥免一、不レ及二吟味ニも一候得共、彌右體之儀有レ之候〈而〉ハ、以之外不埓之事ニ付、此上とも前書觸面之趣、無二違失一急度相守、全親族之爲歟、或ハ困窮ニ迫り無レ據筋ニ〈而〉、藝一通稼候分之外、抱主抔と唱、多人數女共抱置、賣女ニ紛敷所業ハ勿論、猥成儀決〈而〉爲レ致申間敷候、若不二取用一者モ有レ之ニおゐてハ、召捕吟味之上、嚴重之咎可二申付一候條、此旨能々相心得、町役人共儀も無二油斷一心付候樣可レ致候、
右之通、町中不レ洩樣可二觸知一もの也、
八月
p.0934 女藝者
吉原の女藝者といふものは、寶曆のころ、扇屋の歌扇といふものにはじまれり、その初は歌扇ひとりなりしが、後におひ〳〵に外の娼家にも茶屋にもいで來て、細見のやりての前のところに、藝者誰外へも出し申し候などゝかきたり、これよりはるか後に、大黑屋秀民といふもの、けんばんを立たり、藝者をどり子と肩書して、見せへも遊女と同じくならび居て、客をとりたる娼家もありき、そのまへは藝者といふものはさらになく、遊女の中にて三線をひき唄もうたひしことにて、多くは新造なり、三線のできる新造をあげよなどいひて、呼で彈せたることなり、ごれむかしよりのさまにて、中ごろよりこのならはし、いつとなくやみたり、今も見せをはる時に、すががきをひくは、三線番とて、新造の役なりといへり、伊勢の古市、越後の新潟などは、今猶遊女の中にて唄も躍もすること、むかしの手ぶりなり、歌舞もと遊女のわざなるを、上色のものは高上にかまへ、自は絃歌も弄せず、又は不得手なるもありしより、後にはせぬことゝなりしにもあるべし、 京攝も同じおもむきにて、一目千軒に、大夫天神みづから三線ひかざる故、牽頭女郎(たいこぢよろう)を呼なり、又藝子といふもの外にあり、むかしはなかりしに、寶曆元未の年にはじまるとあり、また澪標(みをづくし)には、たいこ女郎といへるものは、揚屋茶屋へよばれ、座敷の興を催すためのものなり、琴三味線胡弓はいふもさらなり、むかしは女舞などつとめしものなり、享保年中より、藝子といへるもの出來たりともあれば、江戸よりははるかにはやし、これにならひて、吉原にてはじめしもしるべからず、江戸にもをどり子はふるくよりありたれど、女藝者は明和のころよりありときけり、それももとはふり袖など著て、今よりはひときはすぐれて品もよかりしよし、さて女藝者は、古の白拍子のなごりなどの如く、おもふ人もあれどさにあらず、もと遊女よりいでゝ躍子の一變せしものなり、因に云、吉原にてはむかしより二挺鼓に大鼓を兼ること、女藝者の技にて今に絶ず、さて京大坂にても藝子の唄に、大鼓などの囃子を入るゝこともあれど、その地もとより座唄をうたふ者なく、いはゆる上方唄のみなり、されば江戸の如く下座〈または下がたとも云〉の鳴物に定りたる手なし、かの上方唄には、謠曲の詞をとりたるが多かれば、猿樂の大鼓の手をならひおぼえて、その間を合するといへり、その外大阪の坂町、島の内をはじめ、諸國の舟つきの湊などは、豆藏のはやしのごとく、松島ぶし、川崎おんどなどうたふまゝに、客も遊女もおのがじゝ拍子をとり、大鼓をうち入るゝことならはしなり、吉原にても、このごろはよしこのぶし、どゝいつなどいふ小唄に、大鼓あはすことは、全席上のにぎやかならんためのわざとはおもはるれど、鄙の手ぶりにならふことは、この里にはせでもありなんかし、
p.0935 町藝者
天明の頃は世の中賑はしく、武家にても少し酒盛めく折は、町藝者とて、酌取女を招くは、何れの家にもある事なり、されど此酌取女も質素の風ありて、髷結に紅絹の切を、よしの紙に包みて用 ふる事はやり、地女等も是を學べり、今は田舍娘も、髷結に縮緬を用ふるなり、
p.0936 今藝者と云ふ女は昔の舞子の名殘なり、又はをり藝者とは、深川のげいしやより云ふ、明和七年の册子辰巳園藝者を喚むと云ふ處、はをりにしましやうかといへり、もと女共はをりを著たる故なり、豐後節はやりて此風起れり、下手談義、ぶんごかたりのことをいふ處、あまつさへ女があられもないはをりを著て、脇差まで差た奴も、折ふし見ゆるぞかし、昔は堀の舟宿の女房ばかりぞ羽をりをきける、今は大てい小家の一軒も持たる宿の子も、女のあるまじき羽織きせたる親の心おしはかりぬ、みな是愚人のするわざぞや、〈昔女郎にも男に作りたる有り、其餘風なり、〉明和二年川柳點、おめかけもうきふしんこを近所の出、その頃橘町に女藝者多くありし故なり、
p.0936 深川仲丁は女郎より藝者〈上方の藝子〉遊びをおもとする所にて、藝者の置屋を見番と云ひ子供藝者を羽織と云ふ、是は二人を一組として藝者一人料なり、羽織とは腰より下は賣らぬといふ謎なりとぞ、地前にて出るをデヘシと云、仕替に出すを倉がへと云て、幇間を男藝者、町牽頭を野大根と云ふ、
p.0936 また三味線藝者と云ありて、深川仲町、芝高輪は云に及ばず、二丁町、兩國藥硏堀、柳ばし、本町石町の新、道、淺草仲町、下谷廣小路、湯島天神の邊、芝神明前、其外處々に住居して、あやしき風俗に裝たる女、招きに應じて酒席に出て酌を取り、流行歌とて好色なる事を、三味線に合せてうたひ、若き人々をたぶらかす、〈○中略〉
ころんだらくはふ〳〵と付て行藝者の母のおくり狼
此歌にて考ふべし、獸に比せしもむべなり、
p.0936 女藝者流行て、江戸端々遊所は申に不レ及、並の所にても藝者の二人三人なき町はなし、餘りつのりて吉原品川の賣女の妨になるにより、賣女屋より訴へて、高繩邊の女藝者十二三 人被二召捕一たること有けり、皆藝者に極て、遊所に行者なかりしなり、
p.0937 女牢〈江〉入候者之事
一先年江戸町中之女藝者かり取られ、貳百人餘之入牢之時は、女牢に入り切らず、依レ之遠島部屋へ入れ候事なり、右女乞食一々是を改メ、名主代りに遠島部屋へは女乞食入居たりしとぞ、尤ツルハ此名主も餘ほどとり候よし、此藝者翌日出牢なり、〈此時張番之者共、女藝者出牢之上、其宿々へ無心ニ行く事なり、尤數多之牢入にて日暮より夜之八ツ過まで改にかゝりしよし、〉
○按ズルニ、ツルトハ、入牢者ノ牢名主等ニ贈ランガ爲メニ持參スル金子ヲ云フ、
p.0937 安政四年十月十四日、亞人下田滯留中圍娼風説、
亞人下田に滯留中、ハルリス儀、當五月より、同所坂下町きちと申す藝子、一ケ年給金百二十兩の仕切にて、當金二十五兩にて召抱へ、柿崎村へきち休息所出來罷在、毎夜玉泉寺へ通ひ候由、ヒウスケン儀は、同所彌治川町ふじと申す賣女、一ケ年給金九十兩に仕切、當金二十兩にて召抱へ、是又毎夜玉泉寺へ通ひ候由、
p.0937 太鼓もち、古くは太鼓衆といへり、〈了意が記などにみゆ〉其義は、誰袖海に、能の太鼓打になぞらへ、大夫を心よくのせて廻し、大盡の氣に入やうに拍子たつれば太こといふ、末社ともいふは、大じんのそばに有故なり、
p.0937 太鼓持
幇間を太鼓持といふは、六齋念佛のはやしものより起りて、念佛に節を付て、金と太鼓の二ツにてはやす役割に、金を持ものは太鼓を持ず、太鼓を持ものは金を持たぬより、いひ出たる俗話にて金持の遊興に陪して、金を持ぬものが、そのきげんをとり、馳走するを、太鼓持といへりとなん、