https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1100 慈ハ又慈愛ト云ヒ、之ヲイツクシムト訓ズ、父母ノ其子ヲ鐘愛スルヲ謂フナリ、

名稱

〔類聚名義抄〕

〈六/心〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1100 慈〈材玆反ウツクシヒ〉

〔伊呂波字類抄〕

〈伊/辭字〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1100 嚴〈イツクシム〉 慈 悲 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00660.gif 嶮 仁 恩 惠 㽵 孚 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01317.gif 〈已上イツクシム〉

〔書言字考節用集〕

〈八/言辭〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1100 慈(イツクシミ)

〔同〕

〈九/言辭〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1100 慈愛(ジアイ)

〔倭訓栞〕

〈前編三/伊〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1100 いつくしむ 仁をよめり、痛く惜むの義成べし、人の全德は仁愛の心にあり、万葉集に、愛をうつくしとよめるも音意通ぜり、

慈例

〔古事記〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1100 此時伊邪那岐命大歡喜詔、吾者生生子而於生終、得三貴子、卽其御頸珠之玉緖母由良邇〈此四字以音、下效此、〉取由良迦志而、賜天照大御神而詔之、汝命者所知高天原矣、事依而賜也、故其御頸珠名謂御倉板擧之神、〈訓板擧多那〉次詔月讀命、汝命者所知夜之食國矣、事依也、〈訓食云袁須〉次詔建速須佐之男命、汝命者所知海原矣、事依也、

〔古語拾遺〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1100是素戔鳴神欲日神〈天照大神〉昇天之時、櫛明玉命奉迎、獻以瑞八坂瓊之曲玉、素戔鳴神受之轉奉日神、仍共約誓、卽感其玉天祖吾勝尊、是以天照大神育吾勝尊、特甚鍾愛(メゲントオボシテ)、常懷腋下、稱曰腋子(ワキゴ)、〈今俗號稚子和可古、是其轉語也、〉

〔日本書紀〕

〈五/崇神〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1101 四十八年正月戊子、天皇勅豐城命活目尊〈○垂仁〉曰、汝等二子慈愛(ウツクシヒ)共齊、不曷爲一レ嗣、各宜夢、朕以夢占之、

〔日本書紀〕

〈七/景行〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1101 五十三年八月丁卯朔、天皇詔群卿曰、朕顧愛子(メクミシコ)何日止乎、冀欲狩小碓王〈○四十年、日本武尊薨、〉所平之國、是月乘輿幸伊勢、轉入東海

〔日本書紀〕

〈十/應神〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1101 四十年正月戊申、天皇召大山守命、大鷦鷯尊、〈○仁德〉問之曰、汝等者愛子(ウツクシヤ)耶、對言甚愛也、亦問之、長與少孰尤焉、大山守命對言、不于長子、於是天皇有悦之色、時大鷦鷯尊預察天皇之色、以對言、長者多經寒暑旣爲成人、更無悒矣、唯少子者、未其成不、是以少子甚憐之、天皇大悦曰、汝言寔合験之心、是時天皇、常有菟道稚郎子太子之情、然欲二皇子之意、故發是問、是以不大山守命之對言也、

〔日本書紀〕

〈十九/欽明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1101 六年十一月、膳臣巴提便還百濟言、臣被使妻子相逐去衽至百濟濱、〈濱海濱也〉日晩停宿、小兒忽亡不之、其夜大雪、天曉始求、有虎連跡、臣乃帶刀援甲、尋至巖岫、拔刀曰、敬受絲綸勞陸海、櫛風沐雨、藉草班荆者、爲其子上レ父業也、惟汝威神愛子一也、今夜兒亡、追跡覓至、不命、欲報故來、旣而其虎進前開口欲噬、巴提便忽申左手、執其虎舌、右手刺殺、剝取皮還、

〔萬葉集〕

〈五/雜歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1101 神龜五年七月二十一日筑前國守山上憶良上〈○中略〉
子等歌一首幷序
釋迦如來金口正説、等思衆生羅喉羅、又説愛無子、至極大聖尚有子之心、況乎世間蒼生誰不子乎、
宇利波米婆(ウリハメバ)、胡藤母意母保由(コドモオモホユ)、久利波米婆(クリハメバ)、麻斯提斯農波由(マシテシヌバユ)、伊豆久欲利(イヅクヨリ)、枳多利斯物能曾(キタリシモノゾ)、麻奈迦比(マナカヒ)爾(ニ)、母等奈可可利提(モトナカカリテ)、夜周伊斯奈佐農(ヤスイシナサヌ)、
反歌 銀母(シロガネモ)、金母玉母(コカネモタマモ)、奈爾世武爾(ナニセムニ)、麻佐禮留多可良(マサレルタカラ)、古爾斯迦米夜母(コニシカメヤモ)、〈○中略〉
戀男子名古日歌三首〈長一首短二首〉
世人之(ヨノヒトノ)、貴慕(タフトミネガフ)、七種之(ナヽクサノ)、寶母我波(タカラモワレハ)、何爲(ナニセンニ)、和我中能(ワガナカノ)、産禮出有(ウマレイデタル)、白玉之(シラタマノ)、吾子古日者(ワガコフルヒハ)、明星之(アカボシノ)、開朝者(アクルアシタハ)、敷多倍乃(シキタヘノ)、登許能邊佐良受(トコノベサラズ)、立禮杼毛(タテレドモ)、居禮杼毛(ヲレドモ)、登母爾戯禮(トモニタハブレ)、夕星乃(ユフホシノ)、由布幣爾奈禮婆(ユフベニナレバ)、伊射禰余登(イザネヨト)、手乎多豆佐(テヲタヅサ)波利(バリ)、父母毛(チヽハヽモ)、表者奈佐我利(ウヘハナサカリ)、三枝之(サキクサノ)、中爾乎禰牟登(ナカニヲネムト)、愛久(ウツクシク)、志我可多良倍婆(シガカタラヘバ)、何時可(イツレカ)、毛比等等奈理伊氐(モヒトヽナリイデ)天(テ)、安志家口毛(アシケクモ)、與家久母見牟登(ヨケクモミムト)、大船乃(オホフネノ)、於毛比多能無爾(オモヒタノムニ)、於毛波奴爾(オモハヌニ)、横風乃(ヨコカゼノ)、爾母布敷可爾(ニモシクシクカニ)、覆來禮(オホヒキヌレ)婆(バ)、世武須便乃(セムスベノ)、多杼伎乎之良爾(タドキヲシラニ)、志路多倍乃(シロタヘノ)、多須吉乎可氣(タスキヲカケ)、麻蘇鏡(マホカヾミテ)、氐爾登利毛知氐(ニトリモチテ)、天神(アマツカミ)、阿布藝許(アフギコ)比乃美(ヒノミ)、地祇(クニツカ)、布之底額拜、可加良受毛(カヽラズモ)、可賀利毛神乃(カカリモカミノ)、末爾麻仁等(マニマニト)、立阿射里(タチアサリ)、我乞能米登(ワガコヒノメド)、須臾毛(シバラクモ)、余家(ヨケ)久波奈之爾(ケハナシニ)漸々(ヤウヤクニ)、可多知都久保里(カタチツクホリ)、朝朝(アサナアサナ)、伊布許登夜美(イフコトヤミ)、靈剋(タマキハル)、伊乃知多延奴禮(イノチタエヌレ)、立乎杼利(タチヲドリ)、足須里佐家(アシズリサケ)婢(ビ)、伏仰(フシアフギ)、武禰宇知奈氣吉(ムネウチナゲキ)、手爾持流(テニモタル)、安我古登姿之都(アガコトバシツ)、世間之道(ヨノナカノミチ)、
反歌
和可家禮婆(ワカケレバ)、道行之良士(ミチユキシラジ)、末比波世武(マヒハセム)、之多敝乃使(シタベノツカヒ)、於比氐登保良世(オヒテトホラセ)、布施於吉氐(ヌサオキテ)、吾波許比能武(ワレハコヒノム)、阿射無加受(アザムカズ)、多太爾卛去氐(タダニイユキテ)、阿麻治思良之米(アマヂシラシメ)、
右一首作者未詳、但以裁歌之體、似於山上之操、載此次焉、

〔萬葉集〕

〈九/相聞〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1102 天平五年癸酉、遣唐使舶發難波海之時、親母贈子歌一首〈幷〉短歌、秋芽子乎(アキハギヲ)、妻問鹿許曾(ツマトフカコソ)、一子二子(ヒトツコフタツゴ)、持有跡五十戸(モタリトイへ)、鹿兒自物(カコジモノ)、吾獨子之(ワガヒトリコノ)、草枕(クサマクラ)、客二師往者(タビニシユケバ)、竹珠乎(タケタマヲ)、密貫垂(シヾニヌキタレ)、齋戸爾(イハヒベニ)、木綿取四手而(ユフトリシデヽ)忌日管(イハヒヅヽ)、吾思吾子(ワガオモフアコ)、眞好去有欲得(マサキクアリコソ)、
反歌
客人之(タビビトノ)、宿將爲野爾(ヤドリセムノニ)霜降者(シモフラバ)、吾子羽裹(ワガコハグクメ)、天乃鶴群(アマノツルムラ)、

〔伊勢物語〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1102 むかし男有けり、身はいやしながら、母なん宮成ける、その母なが岡といふ所に住給 ひけり、子は京に宮づかへしければ、まうづとしけれど、しば〳〵えまうでず、ひとつ子にさへ有ければ、いとかなしうし給ひけり、さるにしはすばかりに、とみの事とて御文あり、おどろきてみれば、歌あり、
老ぬればさらぬ別の有といへばいよ〳〵みまくほしき君かな

〔今昔物語〕

〈二十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103 土佐守紀貫之子死讀和歌語第四十三
今昔、紀貫之ト云歌讀有ケリ、土佐守ニ成テ其國ニ下テ有ケル程ニ任畢リ、年七ツ八ツ許有ケル男子ノ形チ嚴カリケレバ、極ク悲ク愛シ思ケルガ、日來煩テ墓无クシテ失セニケレバ、貫之无限リ此ヲ歎キ泣キ迷テ、病付許思焦ケル程ニ、月來ニ成ニケレバ任ハ畢又、此テノミ可有キ事ニモ非ネバ、上ナムト云程ニ、彼兒ノ此ニテ此彼遊ビシ事ナド思ヒ被出テ、極ク悲ク思エケレバ、柱ニ此ク書付ケリ、
ミヤコヘト思フ心ノワビシキハカヘラヌ人ノアレバナリケリ、上テ後モ其ノ悲ノ心不失テ有ケル、其ノ館ノ柱ニ書付タリケル歌ハ、今マデ不失テ有ケリトナム語リ傳ヘタルトヤ、

〔後撰和歌集〕

〈十五/雜〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103 太政大臣の左大將にて、すまひのかへりあるじし侍ける耳、中將にてまかりて、 事をはりて、これかれまかりあかれけるに、やむごとなき人、二三人ばかりとゞめて、まらう どあるじさけあまたたびの後、ゑひにのりて、こどものうへなど申けるつゐでに、
兼輔朝臣
人のおやの心はやみにあらねども子を思ふみちにまどひぬるかな

〔大鏡〕

〈三/左大臣仲平〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103 左大臣仲平、このおとゞ、これもとつねの次郎、〈○中略〉貞信公〈○藤原忠李〉よりは御兄にあたらせ給へど、廿年まで大臣になりをくれ給へりし、つゐになりたまへれば、おほきおとゞの御よろこびの歌、 をそくとくつゐにさきぬるむめの花たがうへをきしたねにかあるらん、やがてその花をかざして、御對面よろこび給へる、ひさしのだいきやうせさせ給ひけるにも、よこざまにすへさせ給ひけるこそ、としごろすこしかたはらいたく、おぼされける御心とけて、いかにかたみにこゝろゆるし給へりけんと、御あはれびめでたけれ、

〔後拾遺和歌集〕

〈十/哀傷〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1104 小式部内侍なくなりて、むまとどもの侍けるをみてよみ侍ける、
いづみしきぶ
とゞめをきて誰を哀とおもふらんこはまさるらんこはまさりけり

〔詞花和歌集〕

〈九/雜〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1104 帥前内大臣〈○藤原伊周〉あかしに侍ける時、かなしみてやまひになりてよめる、
高内侍〈○伊周母〉
よるのつる都の内にこめられて子をこひつゝもなき明すかな、

〔今昔物語〕

〈二十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1104 藤原實方朝臣於陸奧國和歌語第三十七
今昔、藤原實方朝臣ト云フ人有ケリ、小一條ノ大將濟時ノ大納言ト云ケル人ノ子也、〈○中略〉此ノ實方中將、愛シケル幼キ子ニオクレタリケル比、无限リ戀悲テ寢タリケル夜ノ夢ニ、其兒ノ見エタリケレバ、驚キ覺テ後此ナム、
ウタヽネノコノヨノユメノハカナキニサメヌヤガテノイノチトモガナ、トナム云テ、泣々戀ヒ悲ビケル、〈○中略〉
大江匡衡妻赤染讀和歌語第五十一
今昔、大江匡衡ガ妻ハ、赤染ノ時望ト云ケル人ノ娘也、其ノ腹ニ擧周ヲバ産マセタル也、其ノ擧周長ジテ文章ノ道ニ止事无カリケレバ、公ニ仕リテ遂ニ和泉守ニ成ニケリ、其國ニ下ケルニ、母ノ赤染ヲモ具シテ行タリケルニ、擧周不思懸身ニ病ヲ受テ、日來煩ケルニ、重ク成ニケレバ、母ノ赤 染歎キ悲テ、思遣ル方无カリケレバ、住吉明神ニ御幣ヲ令奉テ、擧周ノ病ヲ祈ケルニ、其御幣ノ串ニ書付テ奉タリケル、
カハラムトオモフ命ハヲシカラデずテモワカレンホドゾカナシキ、ト其ノ夜遂ニ愈ニケリ、

〔源平盛衰記〕

〈三十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1105 熊谷父子寄城戸口幷平山同所來附成田來事
直實ハ小次郎ヲ矢前ニアテジト、鎧ノ袖ヲカザシテ立隱セバ、直家ハ父ヲ孚テ、前ニ進テ箭面ニ立、武心ノ中ニモ、親子ノ情ゾ哀ナル、

〔平家物語〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1105 二度のかけの事
かぢ原五百よき、いく田の森のさかも木をとりのけさせて、城の内へおめいてかく、〈○中略〉かぢ原〈○景時〉らうどう共に、源太〈○景季、景時子、〉はいかにととひければ、あまりにふか入して、うたれさせ給ひて候やらん、はるかに見えさせ給ひ候はずと申ければ、かぢ原なみだをはら〳〵とながひて、いくさのさきをかけうと思ふも、子共がため、源太うたせて、かげ時いのちいきても、何にかはぜんなれば、返やとて又取て返す、〈○中略〉かぢ原を中に取こめて、我うつとらんとぞすゝみける、梶原まづ我身の上をばしらずして、源太は何くに有やらんと、かけわりかけまはりたづぬる程に、あんのごとく源太は、馬をもいさせ、かち立になり、かぶとをもうちおとされ、〈○中略〉こゝをさいごとせめたゝかふ、かぢ原是をみて、源太はいまたうたれざりけりと、うれしう思ひ、いそぎ馬よりとむでおり、いかに源太、かげ時こゝに有、同うしぬる共、かたきにうしろを見すなとて、おやこして五人のかたき三人うつ取、二人に手おふせて、弓矢取はかくるもひくも、おりにこそよれ、いざうれ源太とて、かいぐしてぞ出たりける、梶原が二度のかけとは是なり、

〔源平盛衰記〕

〈四十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1105 大臣殿舍人附女院移吉田幷賴朝叙二位
大路ヲ渡シテ後ハ、〈○平宗盛等〉判官〈○源義經〉ノ宿所六條堀川ヘゾ被遣ケル、物マカナヒタリケレ共、露見 モ入給ハズ、互ニ目ヲ見合テ、タゞ涙ヲノミゾ流シ給ケル、夜ニ入ケレ共、裝束モクツロゲズ、袖片敷テ臥給ヘリ、曉方ニ板敷ノキシリ〳〵ト鳴ケレバ、預ノ兵奇テ、幕ノ隙ヨリ是ヲ見レバ、内大臣〈○平宗盛〉子息ノ右衞門督〈○淸宗〉ヲ搔寄テ、淨衣ノ袖ヲ打キセ給ケリ、右衞門督ハ今年十七歲也、寒サヲ勞給ハントテ也、熊井太郎、江田源三ナド云者共是ヲ見テ、穴糸惜ヤアレ見給へ殿原、恩愛ノ慈悲バカリ、無慙ノ事ハアラジ、アノ身トシテ單ヘナル袖ヲ打キセ給タラバ、イカ計ノ寒ヲ禦ベキゾヤ、責テノ志カナトテ、猛キモノゝフナレ共、皆袖ヲ絞ケリ、

〔十六夜日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1106 むかしかべのなかより、もとめいでたりけんふみ〈○孝經〉の名は、今の世の人の子は、夢ばかりも身のうへのことゝは、しらざりけりな、みづぐきのをかのくずは、かへす〴〵もかきをくあと、たしかなれども、かひなきものは、おやのいさめなりけり、〈○中略〉道〈○和歌〉をたすけよ、こをはぐゝめ、のちの世をとへとて、ふかき契りをむすびをかれし、ほそ川のながれも、ゆへなくせきとどめられしかば、跡とふのりのともし火も、道をまもり、家をだすけむおやこの命も、もろともにきえをあらそふとし月をへて、あやうく心ぼそきながら、なにとしてつれなくけふまでは、ながらふらん、おしからぬ身ひとつは、やすく思ひすつれども、子を思ふ心のやみは、なをしのびがたく、道をかへりみる恨は、やらんかたなく、さても猶あづまのかめの鏡にうつさむは、くもらぬかげもやあらはるゝと、せめて思ひあまりて、よろづのはゞかりをわすれ、身をようなき物になしはてゝ、ゆくりもなく、いざよふ月にさそはれいでなんとぞ思ひなりぬる、

〔東見記〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1106 阿佛ハ平時忠ノ一門ノ女也、安嘉門院ノ衞門佐ト云、後ニハ四條トモ云、嫁爲家而生爲相、爲氏ハ宇津宮彌三郎賴綱ノ女之腹也、爲氏ハ兄也、爲家末後、播磨ノ越部ノ庄ヲ爲相ニ讓ル、爲相幼少ノ故ニ、爲氏是ヲ押領ス、於是阿佛鎌倉へ下リ是ヲ訴フ、此時爲氏是ヲ爲相ニカヘス、

〔寶物集〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1107 昔今人子ヲ悲メル事モ、歌ニテ申スベシ、
人ノ親ノ心ハ闇ニアラネ共子ヲ思フ道ニ迷ヒヌル哉 中納言兼輔
五月(後拾遺)闇子戀森ノ郭公人知ズノミ鳴ワ夕ル哉 藤原兼房
孩キ(月詣集)我子ヲナヽノ里ニ置テ今夜ノ月ニ面影ゾ立 藤原基俊
雛鶴ノ花ノ林ニ入ヌレバ飛立マデニ嬉シカリケリ 太宰大貳重家
子ヲ思道ヲゾ祈ル皇ニ仕フル跡ヲタガヘザラナン 中納言雅賴
是程志深ク淺カラヌ親ノ爲ニ、孝養報恩セン人ハ、イカヾ懺悔トナラズモ侍ラン、實ニ志ノ深キ事ハ、親ノ子ヲ思ニハ過ズ、
附悌〈不悌倂入〉
悌ハシタガフト訓ズ、卽チ弟ノ能ク其兄ニ敬事スルヲ謂フナリ、而シテ兄ノ善ク其弟ヲ惠 ミ、或ハ兄弟互ニ相愛セシ事蹟ノ如キ、亦此ニ倂載セリ、

名稱

〔類聚名義抄〕

〈六/心〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1107 悌〈ヤスシ シタカフ音弟〉 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01318.gif 〈音弟、兄悌、〉

〔春鑑抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1107 義〈○中略〉
兄タル人ハ、ヲトヲトニタイシ、ヤハラグガヨロシキ處ゾ、弟タルモノハ、兄ニシタガフハヨロシキ處ゾ、孟子ニ義之實從兄是也ト云テ、ヲトヲトタルモノハ、兄ニシタガフモノゾ、サルホドニ義ト云モノノ眞實ハ、兄ニシタガフヲ云ト、孟子ノイハレタゾ、

〔翁問答〕

〈上本〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1107 師〈○貝原益軒〉曰、〈○中略〉弟は悌をもて兄につかふる道とす、悌は敬ひしたがふとくなり、他人のとしおい、くらゐたかきにつかふるも、おなじことはりなり、他人にても老たるをうやまふは、道理の當然なり、ましておやの身をわけて、我にさきだちてうまれたる兄を、うやまひしたがふべきこともちろんなり、兄は惠をもつて、おとくをひきゆる道とす、惠は友愛の二義をかね たり、愛はおやの子を愛するごとくに、ねんごろに親を云、友はともだちのたがひに切磋琢磨するごとく、道ををしへあやまちをいましめ、至德をあきらかにする樣に善をせむるを云、他人のとしわかきくらゐいやしきにまじはるも、おなじことはりなり、他人にてもいとけなきに惠をほどこし、賤になさけふかくするは、道理の當然なり、まして弟はおやの身をわけて、分形連氣の人なれば、友愛の惠をほどこすべき事勿論の義なり、この道理あきらかにして、おこなひがたき事ならねども、世上のまよへる人をみれば、多分兄弟のあひだ、他人よりもおろそかなり、わづかのよくのあらそひにてがたきの思ひをむすぶもあり、分形連氣のことはりをしらず、わが身にて我身をそこなふありさま、愚痴の至極あさましき事なるべし、おなじくおやの身を分て生れたるものなれども、先後の序によつて、兄はたつとく、弟はいやしき衣第ありて、惠悌の道序を本としておこなふことはり、天のさだめ給ふ次第にて、をのつからある道なるゆへに、五敎の第四に長幼有序と説給へり、

〔伊勢平藏家訓〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1108 五倫の事
一弟は兄をゐやまひて兄をおしのけず、何事も兄のした手に付てさし出ず、兄にしたがふべし、兄のしかたはわろくとも、兄を敬やまひ大切にして、背く事なきを悌といふ、是弟の法なり、

〔令義解〕

〈二/戸〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1108 凡國守毎年一巡行屬郡、觀風俗、〈○中略〉部内有好學篤道孝悌(○○)忠信、〈謂(中略)篤道者兼行孝悌仁義等道、(中略)然則孝悌仁義旣入篤道、而更下文擧孝悌忠信者、蓋一一在身之謂矣、凡此四者、人之高行、故擧爲稱首、○中略〉發聞郷閭、擧而進之、〈○義解略〉有不孝悌(○○○)、悖禮、亂常、不法令、〈○義解略〉糺而繩、

悌例

〔日本書紀〕

〈十五/顯宗〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1108 三年〈○淸寧〉十二月、百官大會、皇太子億計〈○仁賢〉取天皇之璽、置之天皇之坐、再拜従諸臣之位曰、此天皇之位、有功者可以處之、著貴蒙迎、皆弟之謀也、以天下天皇、天皇顧讓以弟莫敢卽一レ位、又奉白髮天皇〈○淸寧〉先欲兄、立皇太子、前後固辭曰、日月出矣、而爝火不息、其於光也、不亦難矣、時雨 降矣、而猶浸灌、不亦勞乎、所人弟者、奉兄謀逃 脱難、照德解紛、而無處也、卽有處者非弟恭之義、弘計〈○顯宗〉不處也、兄友弟恭不(ウツクジビイヤマフハ)易之典、聞諸古老、安自獨輕、皇太子億計曰、白髮天皇以吾兄之故、擧天下之事而先屬我、我其羞之、惟大王道建利遁、聞之者歎息、彰顯帝孫、見之者殞涙、憫憫搢紳、忻天之慶、哀哀黔首、悦地之恩、是以克固四維、永隆萬葉、功隣造物、淸猷映世、超哉邈矣、粤無得而稱、雖是曰一レ〈○曰原作日、據一本改、〉兄、豈先處乎、非功而據、咎悔必至、吾聞天皇不以久曠、天命不以講拒、大王以社稷訃、百姓爲心、發言慷慨至于流一レ涕、天皇於是知終不一レ處、不兄意、乃聽而不○不恐衍御坐、世嘉其能以實讓曰、宜哉、兄弟怡、怡天下歸德、篤於親族、則民興仁、

〔日本書紀〕

〈二十五/孝德〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1109 天豐財重日足姫天皇〈○皇極〉四年六月庚戌、天豐財重日足姫天皇思欲傳位於中大兄、〈○天智〉而詔曰云云、中大兄退語於中臣鎌子連議曰、古人大兄殿下之兄也、輕皇子〈○孝德〉殿下之舅也方今古人大兄在、而殿下陟天皇位、便違人弟恭遜之心、且立舅以答民望亦可乎、於是中大兄深嘉厥議魎下

〔續日本紀〕

〈六/元明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1109 和銅七年十一月戊子、大倭國添下郡人倭忌寸果安、〈○中略〉並終身勿事、旌孝義也、果安孝養父母、友于兄弟、〈○下略〉

〔日本後紀〕

〈八/桓武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1109 延曆十八年二月乙未、贈正三位行民部卿兼造宮大夫美作備前國造和氣朝臣淸麻呂薨、〈○中略〉姉廣虫又掌吐納、〈○中略〉友于天至、姉弟同財、孔懷之義、見當時

〔奧州後三年記〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1109 將軍〈○源義家〉の舍弟左兵衞尉義光、思はざるに陣に來れり、將軍にむかひていはく、ほのかに戰のよしをうけたまはりて、院に暇を申侍りていはく、義家夷にせめられて、あぶなく侍るよしうけたまはる、身の暇を給ふて、まかりくだりて、死生を見候はんと申上るを、いとまたまはらざりしかば、兵衞尉を辭し申、まかりくだりてなんはべるといふ、義家これをきゝて、よろこびの涙ををさへていはく、今日の足下の來りたまへるは、故入道〈○源賴義〉の生かへりておはした るとこそおぼえ侍れ、君すでに副將軍となり給はゞ、武衡家ひらがくびをえん事たなこゝうにありといふ、

〔平家物語〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1110 二度のかけの事
むさしの國の住人、河原太郎、河原次郎とて、おとゝひ有、河原太郎、弟の次郎をよふでいひけるは、大名は我と手をおろさね共、家人の高名をもつて名譽す、我らはみづから手をおろさではかなひがたし、かたきを前におきながら、矢一つをだにいずしてまち居たれば、あまりに心もとなきに、高なふは城の中へまぎれ入て一矢いんと思ふ也、されば千万が一つも生て歸らん事有がたし、なんぢは殘りとゞまつて、後のしよう人にたてと云ければ、弟の次郎なみだをはら〳〵とながひて、只兄弟二人有ものが、あにをうたせて、弟があとにのこりとゞまつたればとて、いく程のゑい花をかたもつべき、所々でうたれんより、一所でこそうちじにをもせめとて、下人共よびよせ、さいしのもとへ、さいこの有樣いひつかはし、〈○中略〉城の中へそ入たりける、

〔吾妻鏡〕

〈二十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1110 寬喜三年九月廿七日、日中名越邊騷動、敵打入于越前守〈○泰時弟〉第之由、有其聞、武州〈○北條泰時〉自評定座直令向給、相州〈○北絛時房〉以下出仕人々、從其後同馳駕、而越州者他行、留守侍等、於彼南隣、搦取惡黨〈自他所逃來隱居〉之間、賊徒或令自殺、或致防戰云云、仍遣壯士等、官路次歸訖、盛綱諍申云、帶重職給身也、縱雖國敵、先以御使、聞食左右御計事歟、被遣盛綱等者、可防禦計、不事問向給之條不可也、向後若於此儀者、殆可亂世之基、又可世之謗歟云云、武州被答云、所申可然、但人之在世、思親類故也、於眼前害兄弟事、豈非人之謗乎、其時者定無重職詮歟、武道爭依人體哉、只今越州被敵之由聞之、他人者處少事歟、兄之所志不于建曆承久大敵云云、于時駿河前司義村候傍、承之拭感涙、盛綱垂面敬啒云云、義村起座之後、參御所、於御臺所此事、於同伺候男女之者、感歎之餘盛綱之諷詞句、武州陳謝、其理猶在何方哉之由、頗及相論、遂不之云云、越 州聞此事、彌以歸往、卽濳載誓狀、云、至子子孫、對武州流、抽無貳忠、敢不凶害云云、其狀一通、遣鶴岡別當坊、一通爲來榮之廢忘、加家文書云云、

〔落穗集前編〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1111 馬場美濃守、〈○中略〉味方の敗軍の方を打詠め罷在候處に、真田兵部來て、山の下に馬を止、それに見へ給ふは、馬場殿にて候哉と、言葉を懸る、馬場聞て、美濃にて候、貴殿には如何と答へければ、兵部聞て、兄源太左衞門義、引退候と承り候故、手前も退候處に、兄が乘料の馬を、牽返し候付、其口附のものに、相尋候へば、源太左衞門ははや討死仕候と申に付、今朝出勢の砌、討死を遂るに於ては、兄弟一所と申合候付、是まで引返來候、若其許には源太左衞門討死の場をば、知給はずやと申に付、馬場申候は、源太殿討死の場と有之は、頓て柵際近き所にての事にて候、其邊へは最早上方勢入込可申候間、御越にて及間敷候、我等儀も、此處に於て討死と致覺悟罷在候間、一處に可申合との返答に任せ、兵部も馬場が側に立雙び罷在候處に、上方勢追々馳來候付、兵部、〈○中略〉討死を相遂候と也、

〔駿臺雜話〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1111 武田信繁
信繁信虎の愛子として、信玄を廢して、信繁をたてんとするをば、かねて信玄も知たる事なれば、必忌惡むべし、それに國にのこりて信玄につかふるは、危難の場なり、〈○中略〉信繁嫌疑の間に處ながら信玄につかへて、兄弟の間、少しも違言ある事をきかず、〈○中略〉さて川中島にて、討死せられしこそ、尤義にあたりて覺へ侍る、信玄一生の危き折なれば、此時死せずして、いつの爲に命をおしむべき、されば主辱かしめらるれば、臣死するの義を守て、こゝろよく討死せられしは、誠に見危授命といふべし、

〔慶長見聞集〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1111 山梨三郎とんせいの事
世に住侘て、當年の春、江戸へ來り、一所に宿をかり、傭夫と成て、其日々々の身命を送る所に、兄云 州聞此事、彌以歸往、卽濳載誓狀、云、至于子孫、對武州流、抽無貳忠、敢不凶害云云、其狀一通、遣鶴岡別當坊、一通爲來榮之廢忘、加家文書云云、

〔落穗集前編〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1112 馬場美濃守、〈○中略〉味方の敗軍の方を打詠め罷在候處に、眞田兵部來て、山の下に馬を止、それに見へ給ふは、馬場殿にて候哉と、言葉を懸る、馬場聞て、美濃にて候、貴殿には如何と答へければ、兵部聞て、兄源太左衞門義、引退候と承り候故、手前も退候處に、兄が乘料の馬を、牽返し候付、其口附のものに、相尋候へば、源太左衞門ははや討死仕候と申に付、今朝出勢の砌、討死を遂るに於ては、兄弟一所と申合候付、是まで引返來候、若其許には源太左衞門討死の場をば、知給はずやと申に付、馬場申候は、源太殿討死の場と有乏は、頓て柵際近き所にての事にて候、其邊へは最早上方勢入込可申候間、御越にて及間敷候、我等儀も、此處に於て討死と致覺悟罷在候間、一處に可申合との返答に任せ、兵部も馬場が側に立雙び罷在候處に、上方勢追々馳來候付、兵部、〈○中略〉討死を相遂候と也、

〔駿臺雜話〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1112 武田信繁
信繁信虎の愛子として、信玄を廢して、信繁をたてんとするをば、かねて信玄も知たる事なれば、必忌惡むべし、それに國にのこりて信玄につかふるは、危難の場なり、〈○中略〉信繁嫌疑の間に處ながら信玄につかへて、兄弟の間、少しも違言ある事をきかず、〈○中略〉さて川中島にて、討死せられしこそ、尤義にあたりて覺へ侍る、信玄一生の危き折なれば、此時死せずして、いつの爲に命をおしむべき、されば主辱かしめらるれば、臣死するの義を守て、こゝろよく討死せられしは、誠に見危授命といふべし、

〔慶長見聞集〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1112 山梨三郎とんせいの事
世に住侘て蓄年の春、江戸へ來り、一所に宿をかり、傭夫と成て、其日々々の身命を送る所に、兄云 ヘテ三日ニ一度ヅヽ、兄ノ左京大夫方へ參リテ起居ヲ訪フベシ、兄ヲ尊敬スル道也、寒暑風雨ヲ厭フ事勿レ、是弟ニ付ラレタル其身ノ勉メト思フベシ、右京大夫モ左京參リタラバ、隨分是ヲ惠ミ、稽古事モ共々ニ修行セラルベシト敎諭セラル、夫ヨフ左京ハ風雨霜雪ヲ厭ハズ、其日限ヲ違ヘズシテ、馬ニテ往來セラル、

〔鵞峯文集〕

〈五十傳〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1113 丹州兄弟傳
詩云、兄弟旣翁、和藥且湛、言其親則爲同胞、其不相離左右手、故孔懷怡怡莫兄弟、豈其尋常哉、丹波國平野邑民有兄弟、甲曰市左衞門、乙曰與三郎、累世貧賤不其姓氏、幼而喪父母、寄食於人、刈草代養、漸長甲受父之田畝、以務耕耨、乙亦同居而助其勞、毎歲納藏不懈、雖永早凶歲、無未濟之責、邑吏田畯皆稱其精勤、家唯四壁、鋪藁以座、然甲隣乙、乙隨甲、同志相睦盡力於耕、貢税未濟則不来粒、或貯雜穀、或拾木實、以養口救饑、若幸有餘則牧蓄、以爲來歲之苗種、猶復有レ餘剿代木綿調二衣、道他則甲乙更著之、如此十餘歲、甲有妻有子、乙猶鰥也、甲爲乙結草廬、分與其田、甲曰、弟久勞劬可過半、乙曰、兄有妻兒則多取之、我獨身則少分而足矣、相讓而不決、遂中分之、歷數歲甲爲乙娶妻、分家産其半、乙曰、兄多口、我唯ニ口得三分之一而足矣、甲不聽而半分之、乙謝之受其一分、而返其餘分於兄之妻曰、願以是爲嫂姪煎茶之料、甲不已而如乙之言、家有二牛、一肥一瘦、甲以肥者乙、乙不受、甲强而與之、乙固辭之、隣人聞而諭之、遂以肥充甲、以瘦充乙而定矣、凡苅稻收穀、乙畢事甲未事則乙牽己牛、往甲之田成之、且毎貢、兄弟倶出入互扶持、若乙所納早畢則甲曰、汝其早休、乙諾不去、合力分勞而待兄之畢一レ事、携手同歸、毎朔望則乙晨興、拜於兄之家、甲煎茶而待焉、然後兄弟其往田而耦耕、當午而休時、甲赴弟之家、乙豫使妻沸一レ茶而待焉、兄未來則不敢畷其茶、甲啜後乙亦畷之、其友悌愛敬、常常事事可類而知焉、平野邑隷頑地山城、寬文六年丙午之夏、有於丹後國宮津、而城主預役而發軫、乙在征夫之中、乃託其妻於甲悉附家食、甲曰、汝能奉上而無恙而歸、我苟在焉、勿勞家事、乙喜而行 焉、未幾宮津之事罷而乙歸、甲喜而返其餘食、乙曰、待來年而受之、甲不肯而遂返之、於是兄弟共不於農務、其歲亦貢税無滯、隣里郷黨其歎美、而吿邑吏、邑吏具錄事狀、聞於城主、主城殿中https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif 源忠房感之嘉之、蠲其課役

〔孝義錄〕

〈十八/陸奧〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1114 兄弟睦者小左衞門 兄弟睦者淸右衞門
耶麻郡上林村に百姓小左衞門といふものあり、弟を淸右衞門といふ、小左衞門夫婦、その子二人、その妻二人、孫四人、淸右衞門夫婦、その子一人、その妻一人、孫三人、あはせて十七人のもの同居して、いさゝかもあらそふ事なく、妻子の中にもへだてがましき事なく、いづれも我子のごとくいとをしみ、兄よめは弟よめを愛し、弟よめは兄よめをうやまひけり、かく兄弟ともに一所にあれど、子の子の末にもなりなば、家をわかつ事あらんも、はかりがたしとて、其家のつゞきに屋つくりしてうつりしがだがひにはなれすむ事をかなしみ、またもとのごとく居を同じうせしとなん、弟の孫をともなひて田面に出る日は、兄は家にとゞまりゐて、足あらふ湯をまうけ、寒き頃は焚火の類まで何くれと心をつけ、兄弟ともに農事のいとまには紙をすき、市に出ればめづらしきものを求めかへりて、家つとゝす、又は饗應などありてまねかるれば、兄弟たがひにゆづりあひ、弟は兄をしてその招におもむかしめ、をのれは田面に出行に、兄また食の甘を分ちて弟にあたふ、その外郷里に睦しく、あらそふ事などがつてなかりき、里人の水論境論などいへる事あれば、兄弟ともにことはりを引て、その中を和らぐるに、里人も二人の行ひにめでゝ、爭をやめぬ、つねに上をうやまひ、貢物は人より先におさめければ、元祿二年、領主より兄弟のものに、褒美として米をあたふ、

〔近世畸人傳〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1114 石野權兵衞 弟市兵衞
石野權兵衞、弟市兵衞、兄弟は、京師四條坊門西洞院の東に、桔梗家といへる商家也、兄弟ともに學 を好み、堀川の流を慕ふ、且兄はかねて佛學をも好み、殊に三論に通ず、弟は本草に委しく、又畫を能す、又雅藥を好むこと兄弟ともにひとしく、道遠しといへども、音藥ある處といへば必ゆく、友愛深くして、兄の妻ある後も久しく同居す、弟學文などにつきて出る時、夜更て歸るに、戸を敲くことなし、纔に咳するを、兄速に聞つけて戸を開くこと常なり、もし聞つけざれば、門に立て朝に至る、〈○下略〉

〔孝義錄〕

〈三/三河〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1115 奇特者なみ
なみは碧海郡上野上村の枝郷なる永覺新郷の百姓喜左衞門の妻なり、天明六年の九月、風あらくふきて、家を打たふしけるに、夫はこれを防がんとて外面にいでゝありければ、その姉の、日ごろやみてふしぬるを、なみひきたてゝ、遁れ出しに、にはか事にて、娘の四ツばかりになるを殘しをき、つゐにおしにうたれて、失てけり、女の身にして、子のあやうきをみすてゝ、やめるものを助けたる甲斐々々しきふるまひ、領主にきこえければ、おなじき八年の十二月といふに、褒美して米をとらせしとぞ、

〔孝義錄〕

〈二/伊勢〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1115 兄弟睦者たつ
三重郡芝田村の氏權平が妹をたつといへり、兄は病おほき者にて、四十年ほど起臥もかなはぬ上に、八年先より目しゐけり、もとより無高者なれば、たつは村のうちをはしり廻り、請作とて人の田畑を耕して世を渡りけるが、家極て貧ければ、たれ聟にならんといふ人もなく、をのれも男にまみえん事をおもひきり、兄の側にのみゐりて、起臥にこゝろをそへ、木綿糸くる業をなし、又は村のいそがはしき時は、近きあたりに雇はれ、その賃をとりて、世わたりの助とし、兄には穀物をたべさせ、己は菜大根の糧ばかりくらひけり、兄は煙草を好めるが、手足かなはずして、きせるさへ持事あたはざれば、人の家にありても、いく度となく歸りきて、その諸用をもたしてけち、冬 の寒きにも、をのれはつゞりだる衣まとへど、兄には綿の入たる物をきせ、夜の衾まで調へてあたへ、雨の夜雪の朝には焚火をし、はるゝ日は日あたりに伴ひ、夏のあつきには木蔭におひゆき、夜は蚊屋り火して眠もやらず付居りしを、村の者も聞てあはれがり、蚊帳をもをくりしとぞ、祝ひ日又は齋非時にまねかれ行ても、主のもてなせし物は、はじめよりのけ置て家土産とせり、兄につかへて心をつくせし事、領主に聞えしかば、天明七年に米と錢とをあたへて、その行を賞しけり、かくてのちも介抱をこたらざれば、又も寬政三年に鳥目をとらせ、兄弟の者に月ごとに麥をあたへしとなん、

〔雲室隨筆〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1116 石七藏といふ人あり、後章三郎と改名、亨字子亨、後又名を永貞と改、此人幼少より、予〈○僧雲室〉と友たり、〈○中略〉子亨、異母の兄二人あり、父は本官人にてやありけん、二人の子は、與力を勤たりといふ、然に此二人、性質無賴にて、予が心易せし時分は、二人其與力の家を滅せし也、又其家名を他へ賣讓し也、日夜博奕のみ事とし、不善せざる事なしと云、一人は歌舞妓芝居のものとなり、放埓かぎりなかりき、子亨は幼少より書を讀事を好みて出精せり、予も常に厚く交れり、扨此人の孝順なる事、感ずるに堪たり、一人の無賴の兄佐太郎といひしが、惡行增長して、其上瘡毒を疾む、寄所なき儘、父のもとへ來り、段々病氣重り、腰もたゝず、目も盲せんとす、子亨此者に事て、一も意にそむく事なく、二便の不淨迄も取りて、父母に事と、更にかはる事なし、段々病氣重り、其翌年に死せり、子亨心を盡し厚葬けり、其後父も逝けり、子亨書籍文具をこと〴〵く鬻て、心を盡し葬れり、其後は母に事て、少年に素讀を指南し、其日を送りける、〈○中略〉又其節一人の無賴の兄喜八と云し、段々放埓不善、博奕打はたし、時々困窮の子亨方へ、無心ねだりに來けり、子亨なき中より、心一はいに何度も物を遣りけり、其後此無賴瘡毒にて、目も盲、腰もぬけて、子亨の方へ來けり、子亨引取介保せし事、二年程なりしが、其中一つも其無賴の意に違ふ事なく、二便の不淨まで取て、父に 事ふ如にせり、人の性の善なる、さばかりの無賴無法のものなれ共、其順孝に感じ、死期近くなりし時、手を合て泪を流し、子亨に謝せり、子亨も共に落涙しけり、段々病氣重り終に死せり、子亨又又心を盡し取しまひ、厚く葬りけり、

C 不悌

〔日本書紀〕

〈十/應神〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1117 九年四月、遣武内宿禰於筑紫、以https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif 察百姓、時武内宿禰弟甘美内宿禰、廢兄卽讒言于天皇、武内宿禰常有天下之情、今聞在筑紫而密謀之曰、獨裂筑紫、招三韓、令於己、遂將天下、於是天皇、則遣使以令武内宿禰、〈○中略〉武内宿禰〈○中略〉竊避筑紫海、以從南海廻之、泊於紀水門、僅得朝、乃辨無罪、〈○下略〉

〔大鏡〕

〈五/太政大臣兼通〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1117 この殿たちのあにをとゝの御中、としごろのつかさ位の、をとりまさりのほどに、御中あしくてすぎさせ給ひしあひだに、ほり川殿〈○藤原兼通〉の御やまひをもくならせ給ひて、今はかぎりにておはしましゝほどに、ひんがしのかたに、さきをふをとのすれば、御まへに候人たち、たれぞなどいふ程に、東三條の大將殿〈○藤原兼家〉まいらせ給ふと人の申ければ、殿きかせ給ひて、としごろなからいよからずしてすぎつるに、今はかぎりになりたると聞て、とぶらひにおはするにこそはとて、おまへなるくるしきものとりやり、おとのごもりたる所、ひきつくろひなどして、いれたてまつらんとてまち給ふに、はやくすぎてうちへまいらせ給ひぬと人の申に、いとあさましく心うくて、おまへに候人々も、おこがましくおもふらん、おはしたらば關白などゆづることなど申さんとこそ思ひつるに、かゝればこそ、としごろなからひよからですぎつれ、あさましくやすからぬ事なりとて、かぎりのさまにてふし給へる人の、かきおこせとのたまへば、〈○中略〉うちへまいらせ給ひて、陣のうちはきんだちにかゝりて、たきぐちのちんのかたより、御前へまいらせ給ひて、こうめいちのざうしのもとに、さしいでさせ給へるに、ひの御ざに東三條大將、 御前にさぶらいたまふほどなりけり、この大將殿は、堀川殿すでにうせさせ給ひぬときかせ給ひて、うちに關白の事申さんと思ひ給ひて、この殿の門をとをりて、まいりて申たてまつる程に、ほり川殿のめをつゝらかにさしいで給へるに、みかども大將もいとあさましくおぼしめす、大將はうち見るまゝに、たちておにのまのかたにおはしぬ、關白殿御まへにつゐゝ給ひて、御けしきいとあしくて、さいごの除目をこなひにまいり給へるなりとて、藏人頭めして、關白には賴忠のおとゞ、東三條殿おとゞをとりて、小一條のなりときの中納言を大將になしきこゆる宣旨くだして、東三條殿をば治部卿になし聞えて、いでさせ給ひて、ほどなくうせ給ひしそかし、

〔椿葉記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1118 じゆこう〈○足利義滿〉は、きた山にさんさうをたて、〈○中略〉若公、梶井門跡へ入室ありしを、とりかへし申され、愛子にて、いとはなやかにもてなされしほどに、〈○中略〉だいりにてげんぶくして、義嗣と名のらる、しんわう御げんぶくの准據なるよしきこえし、御このかみをもをしのけぬべく、世にはとかく申あひしほどに、〈○中略〉じゆこう薨じ給ふ、〈鹿苑院と申〉世中は火を消たるやうにて、御あとつきも、申をかるゝむねもなし、此若公にてやと、さたありしほどに、管領勘解由小路左衞門督入道、をしはからひ申て、嫡子大樹相續せらる、其後内大臣までなられて、出家せられき、此若公は昇進だいなごんまでなられしに、野心のくはだてやありけん、露顯して遁世し給を、たづねいだされて、林光院といふ寺におしこめて、つゐにうたれ給にき、


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Last-modified: 2022-06-29 (水) 20:06:24