p.0151 犬 兼名苑云、犬一名尨、〈莫江反〉爾雅集注云、㺃〈音苟、(苟天文本作レ句)和名惠沼、又與レ犬同、〉犬子也、
p.0151 按説文、犬狗之有二縣蹏一者也、象形、又云、尨犬之多毛者、从二犬彡一、穆天子傳、天子之尨狗、郭注、尨尨茸、謂二猛狗一、然則尨卽下條㺜是也、又爾雅、尨狗也、召南野有死麕毛傳同、統二言之一也、故兼名苑以レ尨爲二犬一名一也、〈○中略〉伊勢本作二音苟一、廣本同、按音苟、與二廣韻一合、在二上聲四十五厚一、句在二去聲十遇一、則作レ苟似レ是、按犬訓二以奴一、見二崇峻紀一、犬子乃曰二惠奴一、此訓狗爲二惠奴一是也、犬吣訓二以奴乃太万比一、狗尾草訓二惠奴乃古久佐一、可レ見犬狗其訓不レ同、或以二惠奴一爲二犬之和名一者非レ是、若統二言之一則狗、亦可レ訓二以奴一、武烈紀天武紀狗字訓二以奴一是也、故此云二又與レ犬同一、〈○中略〉釋畜、犬未レ成レ毫、狗、郭注、狗子未レ生二㲦毛一者、此所レ引蓋舊注也、按説文云、狗、孔子曰、狗叩也、叩レ氣吠以守、不レ云二犬子一、莊子釋文引二司驢彪一曰、狗犬同實異名、又月令言レ食レ犬、燕禮言レ烹レ狗、其實一也、其説並不下與二爾雅一伺上也、墨子經下云、狗犬也、禮記、曲禮正義云、通而言レ之、狗犬通名、若分而言レ之、則大者爲レ犬、小者爲レ狗、又按、爾雅、馬二歲曰レ駒、熊虎之子曰レ豿、故犬子亦爲レ狗也、
p.0151 犬〈决泫反、イヌ、〉 狗〈音苟、エヌ、又イヌ、〉 狗〈上俗、下正、〉 獷〈古猛反、イヌ、〉 〈俗〉
p.0151 犬〈イヌ〉 狵 狗〈犬子也〉 㺃 獹 犴 獒、〈大犬〉 猧〈已上イヌ〉
p.0151 狗〈エイヌ、エヌ、犬子也、〉 猷〈エイヌ、亦作レ猶、隴西謂二犬子一爲レ猷〉 猧〈同〉
p.0152 韓驢(カンロ/イヌ)〈俊犬也、韓氏之驢也、〉黃耳(クワウジ)〈晋此〉〈陸機之犬名二黃耳一、犬常爲二善使一也、〉
p.0152 犬 けだものゝくもにほえけんと云は、師子又犬也、〈淮南王藥なめたる也、食味けだ物仰レ天て吠なり、〉 さとのいぬ むら 万、いぬよびこすといふ、是かり人などの、かきをよびこすなり、 つなぎいぬ あゆき〈日本紀吉犬也〉
p.0152 犬エヌ 倭名鈔に爾雅集注を引て、狗はエヌ、與レ犬同じと注せり、エヌ亦轉じてイヌといひし也、義並に不レ詳、火酢芹命の苗裔、諸隼人等、天皇宮墻之傍を離れず、吠狗に代りて事へまつるもの也といふ事、舊事紀、日本紀等に見えしに依らば、エヌといひ、イヌといふは、その家畜なるをいひしと見えたり、〈イへといふ語を引結びて呼びぬれば、エといふ也、ヌといふは詞助なるべし、〉また唐韻を引いて、㺜ムクゲイヌ深毛犬也と注したり、〈今も俗に細毛をばムクゲと云ふ也〉
p.0152 いぬ、ゑのこ、
定家卿鷹三百首〈冬部〉に
はし鷹の木ゐとる雉のおちはまり鼻つけかぬるゑのこ犬かな、群書類從本には、雉を椎に誤れり、〈○中略〉唐流鷹秘決〈第四十八、條、犬の法式ことば万の事の條、〉に、ゑのこ犬は、いまだ引いれ初ぬをいふ也云々、按にゑのこはゑぬのこの略語なり、倭名抄〈草部〉に、辨色立成云、㺃尾草、惠沼能古久佐(エヌノコグサ)と有にてしるし、〈古訓玉篇十三の卷草部には、莠、余受切、ハグサ、ヒツヂ、イノコグサとも見ゆ、〉そは穗に出し貌の狗尾に似たる草なれば也、爲家卿歌〈夫木抄雜十、藻鹽草八、〉に、
ゑのこ草おのがころ〳〵ほに出て秋おく露の玉やどるらん、玄旨法印歌〈室町殿日記廿の卷〉に、
ゑのこ草ほえかゝるこそ道理なれなたりに近き狐亂菊(キツネランギク)、また水楊をゑのころ柳といふも、おなじ心なり、〈物類稱呼三の卷、倭訓栞惠部、本草啓蒙卅一の卷、〉さて倭名抄〈毛群名部〉に、兼名苑云、犬一名尨、〈莫江反、和名惠奴、○中略〉類聚名義抄〈佛下本卷、犬部、〉に、㺃エヌ、又イヌ云々、以呂波字類抄〈十の卷惠部〉に、狗、エイヌ、イヌ、犬子也云々、猷エイヌ、亦作 猶、謂二犬子爲二エイヌ一、猧〈同〉云々、〈按に、エイヌトいふは、エノコイヌを省たる語なり、〉節用集〈下卷惠部〉に、狗猧エノコ云々、崇峻紀〈前紀〉に、犬ウヌ云々など見えて、古言に惠奴とも、以沼とも宇奴ともいふを、通音ならねばとて、初學の輩はおもひ惑ふめり、こはもと唸(ウナル)聲のウエヌ〳〵〈約れば、ワンワンともきこゆ、〉といふより呼し名にて、宇を省ては惠奴といひ、惠を省ては宇奴といひ、宇を通はしては以奴ともいふなりけり、武藏相摸の方言に、犬子を、イナリコと、いへり、そは、ウナリコの通音也、應仁別記に、旁は敵ヲ指置テイナリイナリ出ラル云々、
また骨皮左衞門道源が訪取れし時の落書に、
昨日マデイナリマハリシ道犬(ダウケン)が今日骨皮ト成ゾカアユキ、此いなり〳〵は唸々(ウナリ〳〵)也、いなりまはりは、唸廻也、犬〈ノ〉子も唸ものなれば、イナリコとは呼るなるべし、
p.0153 犬 いぬる也、主人になつきてはなれぬ物也、故に他所に引よせて、よき食を飼へども、もとの主人の所へいぬる也、久しくつなぎおけば、其主人になつきてかへらず、
p.0153 いぬ 犬をいふ、家に寢るの義なるべし、夜を守るものなり、夫木集に、
おもひくる人は中々なきものをあはれに犬のぬしを知ぬる、風俗通に、狗別二賓主一善守禦すと見えたり、埤雅に、犬喜レ雪と見ゆ、諺に雪は犬の小母(ヲバ)といふ是也、
p.0153 狗を犬ころといふ、犬子等(イヌコロ)なり、また子等が犬を呼に、ころ〳〵といふ、子等來なり、狂言記續集一むかひどのゝゑのころは、まだ目があかぬ、ころく〳〵〈ころくは烏の聲にもいヘり〉一休咄に、ひるけの燒飯を取出し、犬にみせてころ〳〵と云ふ、後撰夷曲集宗鑑が手向に、薄ほどまだ目はあかでゑのころの物にざれ句の手向草哉、〈卜琴〉
p.0153 人ノ踉蹡(タメライ)テ不二進得一事之獪豫スルト曰ハ、何ノ心ゾ、猶豫二字共ニ獸ノ名也、此獸疑心深シテ不レ進、仍人ノ有疑何事ヲ猶豫スルト云也、委細ニ申ハ猶ハイヌ也、或ハ五尺ノ大犬共註セリ、 又隴西ト云所ニハ犬ヲ猶ト云也、博聞錄ニハ、猶子ノ二字ヲエヌコト云、今俗ニエノコト云歟、然共ヌノハ相通ナレバ同詞也、又禮記ニハ甥ヲ猶子ト云リ、其義一卷ニ見タリ、猶豫ノ二字ヲ、訓ニハ、ウラヲモフトヨム、其意ハ、人ノ飼犬ハ路ヲ具シテ行ニ、必ズ犬先ニ立テ走ニ、人遲キ時ハ、犬返リ見テ待ツ、又若シ道類アルニハ、人ノ行方ノ先へ走ル也、仍人ノ物ヲ不二思定一シテ踉蹡ハ、走ル犬ノ返見テ侍ガ如シ、万葉ニハ猶豫ノ二字ヲタユタヒニシテト讀リ、喩ヘバ、ウラヲモフト同心也、豫ノ字ヲバ、アラカジメトヨム、アラカジメトハ、兼テ先立ッ心也、〈○中略〉凡ソ犬ト云字多ク侍リ、韓獹ノ二字ヲモイヌトヨミ、獫獦獢ノ三字ヲモイヌトヨメリ、文選曰、屬車之 (ソヘグルマニ)獫獦獢ノイヌヲ載セタリト、又曰、韓櫨ノイヌノ噬二於緤末一ト云云、韓獹ハ韓武ノ俊犬也、又犬ヲ黃耳共云、晉ノ陸機ガ犬ノ名也、此黃耳、常ニ書ノ使ヲシケルトナン、定テ耳ノ黃ナリケルニヤ、
p.0154 犬名
龢名類聚鈔、龢爾雅二書、稱爲二博洽一、然引證未レ確、譯語或錯、至二東涯先生名物六帖一、博大精詳、前古未 レ有、所レ憾器財人品人事三帖之外、似レ未二全備一、屬者有下問二西洋狗事一者上、因閲二六帖一未二詳悉一、竊補二犬名一條一 云、
犬(イヌ/エヌ)〈説文、狗之有二懸蹏一者也、象形、孔子曰、視二犬之字一、如レ畫レ狗也、〉 狗(イヌ/エノコ)〈爾雅、未レ成レ毫、狗註、狗子未レ生二㲦毛一者、埤雅、家獸也、孔子曰、狗叩也、叩レ氣吠以守也、許愼以爲从レ犬句聲、蓋狗从レ苟、韓子曰、蠅營狗苟、狗苟故从レ苟也、禮記曲禮疏、狗犬通名、若分而言レ之、則大者爲レ犬、小者爲レ狗、故月令皆爲レ犬、而周禮有二犬人職一、無二狗人職一也、但燕禮亨レ狗、或是小者、或通語耳、〉 意奴(イヌ)〈薛俊日本寄語、狗意奴、〉 倶倶囉〈梵語雜名、狗梵名倶倶囉、又云二指怛羅一、〉 指怛羅〈見レ上〉 家稀〈雞林類事、犬曰二家稀一、〉 揑褐、〈遼史、八月八日、國俗屠二白犬於寢帳前七歩一廖レ之、露二其喙一後七日中秋、移二寢帳於其上一、謂二之揑褐耐一、揑褐犬也、耐首也、〉 内龢〈事物異名蒙古云〉 那害〈庶物異名疏、那害虜中名犬也、見二岷峩山人譯語一、一曰訥害、兒狗曰二厄冽訥害一、母狗曰二厄滅訥害一、見二重譯一、〉
p.0154 狗〈音苟〉 犬〈音圈〉 地羊 龎(ムクイヌ)〈厖同、多毛之犬、〉 獒(タウケン)〈高四尺犬〉 猗(ヘノコナシノイヌ)〈去レ勢犬〉 和名惠沼 俗云伊 沼〈○中略〉
肉〈鹹酸温〉 治二五勞七傷一、益二氣力一、安レ腎、補二胃氣一、〈黃犬爲レ上、黑犬白犬次レ之、〉 凡食レ犬不レ可レ去レ血、去レ血則力少不レ益レ人、〈但因レ食レ穢不レ食者衆、〉術家以レ犬爲二地厭一、能禳二辟一切邪魅妖術一、故道家不レ食レ犬、〈商陸蒜菱與レ犬同、不レ可レ食、○中略〉
按、犬性喜レ雪、怕レ暑惡レ濕、知レ恩酬レ仇、鼻利能齅レ氣、能守レ家不レ入一非常人於内一、嚴吠防竊盜菅家賤民共不レ可レ不レ畜之者也、其田犬則狩獵時、先放二入山野一、令レ齅二禽獸所在一、乃官家之寶獸也、凡犬離二栖家一遠走則 數遺二尿於路傍一、至レ歸齅二其尿氣一、雖二數十里一不レ失二己栖一、猶二山行之栞一也、不レ苦二創傷一、如被二小疵一則自舐卽瘥、 若傷一耳鼻一則不レ能レ舐、而不レ易レ治、急煮二小豆一令レ食則愈、性喜二肉腥一而不レ害二生物一、吃二糞穢一而不レ舐二鮟腐一、多食二 魚膓一則却皮毛禿爛、故魚肆癩狗多焉、常不レ遺二糞於四壁間一、却不レ畜レ犬門外犬糞多矣、凡犬子等、寒暑 不レ假二人手一自育、早壯而速衰、其一歲當二人十歲一乎、過二十歲一者希也、至二病死一不レ令レ見二其屍一、
p.0155 雜説八十ケ條
薩摩大隅の犬はすべて足短く、腹を地に摺て歩む計也、
p.0155 異犬
文政十亥年五月城州宇治郡山科郷花山村博勞渡世いたし候庄右衞門方に、廿日程已前出生いたし候飼犬子、〈○圖略〉
毛色 白黑〈但頭ニ茶色交リ毛有レ之候〉 前足 貳本 後足 四本 尾 壹本 肛門 貳ツ〈但尾ノ兩脇ニ有レ之〉 陰莖 貳ツ
右犬の子近日見せ物に出し候積りにて買候、當時宮川筋松原上ル町丸屋九兵衞方ニ飼置申候、御屆ニ相成候よし、
p.0155 獸產 淮南子云、犬三月而生、
p.0155 狗イヌ〈今〉エヌ〈古名エノコ、子ノ名、エヌノコノ異名也、エノコロ、〉
唐ニテ家ニカフテ食用ニス、之ヲ食犬ト云、集解ニ食犬(○○)、田犬(○○)、吠犬(○○)三種アリ、田犬バカリイヌ也、長 喙ト云テ、カホ長キ犬ヲ用ユ、ヨク獸ヲカギ出シ咬ミ付ナリ、之ヲ俗ニ獵犬獵狗ト云、吠犬ハ家ニカヒ盜ノ用心ニスル、夜ヲ守ル犬ノコト也、一名守犬〈花鏡〉食犬ト云ハ則ムクイヌノコト、毛長シテ肥タル物ナリ、之ハ常ノ犬ノ内ニ自然ニ出來ルナリ、是ヲ唐ニハ食用ニヨシト云テ名ヅク、又カリニスルニ、形大ナル犬アリ、力强キト云テ、本舶來ノ物ト云、俗ニ唐犬ト云、是ハ書名ニ高四尺曰レ獒ト云モノナリ、多曰レ龎ト云ハ水犬也、紅毛ヨリ來ル、チンノ類ナリ、形小シテ毛長シ、畫ニアル唐シヽノ形ノ如ク、毛ヲオフテ目ノ所見ヘズ、是モヨク守ル、知ヌヒトナドニモ吠ル也、〈一名〉毛獅狗、〈郷談正音〉金聯狗、〈花鏡、金色ノモノヲ云、〉又毛短ク形小ナルヲチント云、モト蠻國ノ犬也、今ハ京ニモ諸國ニモアリ、菓子ヲクハスベシ、飯ヲ食スルハ大ニナル、モト阿蘭陀人持來ル、又紅毛人ノ蓄ニハ、又至テ小ク馬ノ鐙ノ内ヘハイルアリ、之ヲ上品トス、
p.0156 犬名
田犬(カリイヌ/○○)〈埤雅、傳曰、犬有二三種一、一者田犬、二者吠犬、三者食犬、若二今萊牛一也、花鏡、田犬、長喙細身、毛短脚高、尾卷無レ毛、使二之上一レ山、履レ險甚捷、胎三月、而其性比二他犬一尤烈、豺見レ之而跪、兎見レ之而藏、毎率レ之出獵、以レ鷹爲二眼目一、鷹之所レ向、犬卽趨而攫レ之、故好レ獵者多畜焉、〉 畋犬(カリノイヌ)〈汲家周書、譬若二畋犬一、驕用逐レ禽、其猶不レ克レ有レ獲、〉 獵犬〈西京雜記、楊萬年有二獵犬一、名二靑骹一、〉 獵狗(カリイヌ)〈史記蕭相國傳〉
細犬(カリイヌ)〈宋史禮志、太祖建隆二年、始挍二獵近郊一、先出二禁軍一爲二圍場五坊一、以二鷙禽細犬一從、西遊記、那怪伸二出頭一、來、要レ咬二二郎一被二那細犬攛上去一、汪的一口把レ頭血淋々的咬將下來、按細猶二細作之細一、〉 細狗(カリイヌ)〈埤雅、傳曰、狡兎死良犬烹、良犬卽今細狗、〉 阿散犬(カリイヌ)〈事物異名、蒙古呼二細犬一云二阿散犬一、〉 網犬〈佩文韻府、戴復古詩、籠雞爲レ鴨抱、網犬逐レ鶉飛、〉 守犬(カヒイヌ/○○)〈禮記、犬則執緤、守犬田犬、則授二 者一、旣受乃問二犬名一、註、緤所三以繫二制之一者、花鏡、守犬短喙善吠、畜以司レ昏、〉 守狗(カヒイヌ)〈穆天子傳〉 吠犬(カヒイヌ)〈見レ上、卽守犬也、又荀子王制篇、北海則有二走馬吠犬一焉、揚倞註、吠犬今北之大犬也、〉吠狗(カヒイヌ)〈左傳、昭二十三年、請二其吠狗一、〉 畜犬(カヒイヌ)〈澠水燕談〉 畜狗(カヒイヌ)〈禮記、仲尼之畜狗死、〉 獖(カヒイヌ)〈廣韻獖守犬、〉 家犬(カヒイス)〈見聞錄、張莊簡公、有二家犬一、坐二於灶上一、〉 家狗(カヒイヌ)〈左傳哀十二年疏〉 閽犬(カヒイヌ)〈佩文韻府、獨孤及趙一郡李公中集序、閽犬迎吠、〉
p.0156 八年三月友二是時一穿レ池起レ苑、以盛二禽獸一、而好二田獵一走レ狗試レ馬、
p.0156 養老五年七月庚午、詔曰、〈○中略〉宜下其放鷹司鷹狗、〈○中略〉悉放二本處一令上レ遂二其性一、
p.0156 大臣家大饗 次引出物〈○中略〉 尊者若好レ鷹者被レ奉レ之、尊者前駈相跪受レ之、受時問二犬名一云々、
p.0157 獵犬
薩摩は武國にて、若き人々山野に出て鳥獸を獵る事、他國よりも多し、すべて山野に獵するには、よき犬を得ざれば不レ叶事なり、彼邊の犬、常の人家に養ひ飼ものは、長ケ低く上方の犬よりも少し小なり、常に座敷の上に養ふて、上方の猫を飼ふがごとし、至極行儀よく、上方の犬よりは柔和なり、異品といふべし、又獵に用る犬は、格別に長〈ケ〉高く猛勢にて、座敷に養ふことなく、上方の犬を飼ふ通りなり、其猛勢なる事は、上方の犬に十倍せり、先年虎の餌の爲に、彼國の犬を入れしに、其犬虎の嗌に咬み付て虎を殺せし事、世間の人の物語にあるごとくなり、かゝる猛勢なる、犬ゆへに、常々は二三疋寄り集れば早必咬合て喧しきに、大勢獵に出る時などは、諸方の犬を皆々各繫ぎて牽行事なるに、町を出るまでは側近く寄れば必咬合て騷けれども、旣に山に入ると、其犬ども常々はいかやうに中惡敷、よく咬合ふ犬にても甚中よく成りて、綱を解き離して、犬の心任せに馳廻らすれども、犬同士咬合ふ事無く、互に助合て山を働くなり、是向ふに猪鹿といふ敵あるゆへに、犬ども皆一致の味方に成りて中よき事とそ、是に依ていふに、むかし朝鮮御陣の時、彼地にては、日本人いかなる者も皆一致に成りて、相互に助け合ひ、至極親しかりしとそ、向ふに異國人の敵あるゆへに、日本人同士は格別に親しみ厚く成りける事尤の事なり、一家の中にても、親子兄弟夫婦等の中あしく爭ひ怒る事は内證ごとにて、畢竟は榮曜我儘などともいふべきにや、も、し盜賊にても入らば、いかなる中惡敷家丙にても一致に成りて防ぐべし、此故に詩經にも兄弟かきにせめげども、外には其あなどりをふせぐとも見へて、他人の親しきよりは、中惡敷骨肉の方厚かるべし、此所を心をひそめて考へ辨へば、自ら友愛弟順の道に、も叶ひて、親しきより以て疎に及ぶの致をも知るべし、人畜の別なく、同種の親しみ同根の愛は、天地自然の道なり、
p.0158 㺜(○) 唐韻云、膿〈奴刀反、和名無久介以沼、〉深毛犬也
p.0158 廣韻作二長毛犬一、按爾雅釋文引二字林及玉篇一並云、㺜多毛犬也、孫氏蓋本レ之、説文、㺜犬惡毛也、郭注爾雅、㺜長也、郝懿行曰、卽今獅㺜狗也、
p.0158 和名抄毛群類部に唐韻云㺜(ダウ)深毛犬也和、名無久介以沼(ムクゲイヌ)、空穗物語菊の宴の卷は、じゞゆうの角をれたる牛のたぐひなりや、中將うちわらひてむくいぬのあひだの耳のやうにて、字鏡集八の卷犭部に、狵(バウ)、〈ムクイヌ〉色葉字類抄无の部動物の條に、㺜(ダウ)〈ムクイヌ、多毛犬也、〉 (ヂヨ)、〈ムクイヌ〉狵(バウ)、〈亦作レ尨〉羊犬(ヤウケン)〈已上同〉新韻集牟の部、平に、 (ヂヨ)〈ムクイヌ、犬多毛也、〉狵、〈ムクイヌ、犬多毛、〉 、〈ムクイヌ〉平他字類抄動物部平聲に、犾、〈ムクイヌ〉童蒙頌韻江三に、狵(バウ)、〈ムクイヌ〉倭玉篇下卷、犬部に、㺜(ダウ)、〈ムクイヌ〉狵(バウ)、〈ムクイヌ〉倭訓栞牟の部に、椋鳥、ひえ鳥に似て群飛す、鷃の類也、むくわりは別種也、小むくといふも味よろしなど見えし、むく犬、むく鳥も、また毛羽の細弱なるによれる名、人のむく毛も、同義なるをおもふべし、
p.0158 厖 和名ムクイヌ
詩緝、厖犬之多毛者、 説文、多毛曰レ厖、長喙曰レ獫、短喙曰レ猲、 本草綱目、李時珍曰、狗類甚多、其用有レ三、田犬、長喙善獵、吠犬、短喙善守、食犬、體肥供レ饌、凡本草所レ用、皆食犬也、
本草ニ、田犬、吠犬、食犬ノ三種ヲ擧グ、田犬ハカリイヌ、田獵ニ用ユルモノナリ吠犬ハホエイヌ、 人家ニ畜テ夜ヲ守ラシムル者ナリ、食犬ハムクイヌ、狀チ肥テ毛長シ、西土常ニ飼テ肉ヲ食用 ニ供ス、卽厖ナリ、古説ニ厖ヲスイケント訓ズ、非ナリ、此ハ花鏡ヲ誤讀シナリ、花鏡ニ多毛曰レ厖 トアゲテ、其下ニスイケンノ形狀ヲ載タル故ニ誤タルナリ、スイケン、卽金絲狗ニシテ、拂(チ)菻狗(ン) ノ一種、毛長ク面ヲ掩フモノナリ、拂菻狗ハ、スイケンノ毛短キモノナハ、漢土ニモ元ナシ、西域 拂菻國ヨリ唐ノ世初テ來ル、故ニ拂菻狗ト云唐書ニ見エタリ、厖ノ字ハ、爾雅詩經ナドノ古書 ニ載ス拂菻狗ニアラザルコト明ナリ、
p.0159 西大寺靜然上人、腰かゞまり、眉白く、誠にとくたけたる有さまにて、内裏へ參られたりけるを、西園寺内大臣殿、あなたうとのけしきやとて、信仰のきそくありければ、資朝卿これを見て、年のよりたるに候と申されけり、後日にむく犬の、あさましく、老さらぼひて、毛はげたるをひかせて、此氣色たうとくみえて候とて、内府へ參らせられたりけるとぞ、
p.0159 獨犴(○○) 唐韻云、犴〈俄寒反、又音岸、今按和名未レ詳、但本朝式云、葦鹿皮獨犴皮云々、犴音如レ簡、此名所レ出亦未レ詳、〉胡地野犬名也、 箋注倭名類聚抄七獸名延喜民部式下、載二交易雜物一、陸奧出羽二國並云、葦鹿皮獨犴皮數隨レ得、此所レ引卽是、〈○中略〉廣韻云、豻胡地野狗、似レ狐而小、或作レ犴、按説文、豻胡地野狗、又載二犴字一云、豻或从レ犬、孫氏蓋本レ之、
p.0159 交易雜物
陸奧國〈葦鹿皮獨狎皮數隨レ得○中略〉 出羽國〈熊皮廿張、葦鹿皮獨犴皮數隨レ得、〉
p.0159 祥瑞
豹犬、〈鉅口赤身、四足三目、〉露犬〈能飛食二虎豹一、○中略〉 右大瑞
p.0159 八年十月甲子、新羅(○○)遣二阿飡金項那、沙飡薩 生一朝貢也、調物金銀鐵鼎、錦布皮、馬狗騾駱駝之類十餘種、 十四年五月辛未、高向朝臣麻呂、都努朝臣牛飼等、至レ自二新羅一、乃學問僧觀常雲觀從至之、新羅王獻物、馬二疋、犬三頭、鸚鵡二隻、鵲二隻及種々寶物、
朱鳥元年四月戊子、新羅進調、從二筑紫一貢上、細馬一疋、騾一頭、犬二狗、〈○中略〉幷百餘種、
p.0159 天平四年五月庚申、金長孫○新羅使等拜レ朝、進二〈○中略〉蜀狗(○○)一口、獵狗一口一、 類聚國史百九十四殊俗天長元年四月丙申、覽二越前國所レ進渤海國信物、幷大使貞泰等別貢物一、又契丹大狗(○○○○)〈○狗、一本作レ猲、〉二口、㹻子二口、在前進之、 辛丑、幸二神泉苑一、試令三渤海狗(○○○)、〈○狗一本作レ猲〉逐レ苑中鹿一、中途而休焉、
p.0159 慶長十七年二月三日、於二遠江國堺川二川山一有二御鹿狩一、凡列卒五六千人、以二弓鐵炮驅レ之、 唐犬(○○)六七十匹縱横追レ之、〈○中略〉猪二三十獲レ之、時大雨降來、故令レ止二御狩一、
p.0160 元和太平ノ後、天下ノ貴賤、漸々花美ニ趣クコロ、唐犬ヲ飼ハルヽ事流行シ、大名役ノヤウニ成ケル、駿河大納言忠長卿、何方ヘカ出行ノ時、唐犬ヲ多ク率セラレ、御先ヲ追レシニ、薩摩中納言家人、世ニ野郎組ト云ヒシ士ノ畏テ居ケルニ、當時駿河殿ノ威勢ニマカセ、天ガ下ニ肘ヲ張ケル犬率ドモ、イタヅラニ彼唐犬ヲ放シカケタリ、元ヨリ逸物ナレバ、一文字ニ飛カヽリケリ、彼野郎組立退ナガラ、刀ヲ抜テ切ハラヒケルニ、唐犬ノ鼻ヅラカケテ切割タリ、其場ヲ早々立退ケレバ、彼犬率ドモ、案ニ相違シケレバ、己ガ率爾ハ押カクシ、薩州ノ野郎組コソ御犬ヲ切タリケレト、支配ノ方へ訴ヘケリ、駿河殿ニハ大キニ怒リテ、早々使者ヲ薩州ヘツカハシ、犬アヤメタル者ヲ賜ハルべシト有シニ、薩摩守聞モアヘズ、唐犬ハ猪鹿ナド取ラスべキ爲ニコソ率セ玉フベケレ、家久ガ家人ニ犬ヲカケラレシ事其謂レナシ、嚙付タランニハ何デ捨置カルベキ、切タルハ尤ナリ、手前ノ犬率ヲ吟味モセズシテ、他ノモノヲ唐犬切タレバ出スベシトハ存ジモヨラズ、其者ハ歸リテ候ラヘドモ、犬ノ代リニハエコソ出スマジケレトノ返答也、大納言家ヨリハ、是非是非請取ミシトイヒツノル、家久意地ヲ立ルナラバ、江戸ニテハ憚リアレバ、交代ノ節追討ニセヨナドイカメシク云ヒツノルニ、島津ニテモ堪忍セズ、元ヨリ此方ノ家人、道理ナレバ何條御連枝トテ恐ルべキ、旣ニ事破レントセシニ、土井利勝ノ聞レテ、家久ヲナダメラレ、亞相家ヲモ異見シテ、扨家久ニ談ゼラレシバ、唐犬ヲ放シカケタルハ、駿河殿ノ知シメサレタル事ニハアラズ、下ノ奴原ガ仕業ナリ、然ルニ御連枝へ對シ、加樣ノ事申シツノルハ如何也、昔モ今モ下部コソワザハヒノ元ナレ、忠長卿ニ無事ヲ思ハレンニハ、家久ニモ穩便コソアルべケレ、然レドモ御連枝へ對シテ對揚ノ禮義ハイカヾナリ、放犬シカケタルハ、犬率ノ科ニシテ、其犬ニ科ナシ、然ラバ犬ヲバ追ヒ拂ヒテモ有ベキニ、刀ヨゴシニ切タルハ、島津殿ノ者ノ誤リナレバ、雙方對揚シテ見レバ、 唐犬切ラレタルハ駿河殿ノ損ナリ、然レバ右申ス如ク、御連枝へ對揚ノ禮義ハ如何ナレバ、駿河殿ノ館マデ家久參ラレテ然ルベシ、諸事ハ大炊頭ニ御任セアルベシトテ、家久モ漸得心セシカバ、則同道シテ北丸へ案内シ、式臺ニテ薩摩守是迄參リタリト、大炊頭ノ申シ置レテ事ハ濟ケリ、C 犬飼養法
p.0161 凡畜產、觝レ人者、截一兩角一、踏レ人者絆之、齧レ人者截二其兩耳一、其有二狂犬一、所在聽レ殺之、
p.0161 馬牛及雜畜事
又〈○厩庫律〉云、犬自殺二傷他人畜產一者、犬主償二其減價一、餘畜自相殺傷者、償二減價之半一、卽故放令レ殺二傷他人畜產一者、各以二故殺傷一論、〈○中略〉
厩庫律云、畜產及噬犬、有レ觝二蹋齧人一、而幖幟覊絆不レ如レ法、若狂犬不レ殺者、笞卅、〈依二雜令一、畜產觝レ人者截二兩角一、蹹レ人者絆之、齧レ人者裁二兩耳一、此爲二幖幟覊絆之法一、〉以レ故殺二傷人一者、以二過失一論、若故放令レ殺二傷人一者、減二鬪殺傷一等一、〈其犯二尊卑長幼親屬等一、各依二本犯一、應二加減爲一レ罪、其畜產殺二傷人一、仍作二他物傷一レ人課辜廿日、辜内死者、減二鬪殺一等一、辜外及他故死者、自依下以二他物一傷レ人法上、〉卽被レ雇二療畜產一、被レ倩者、同二過失法一、及无レ故觝之、而被二殺傷一者、畜主不レ坐、〈有レ人被レ雇療二畜產一、及元レ故觸二人畜產一、而被二殺傷一者、畜主不レ坐、被レ雇本是規レ財元レ故、謂二故自犯觸一如レ此被二殺傷一者、畜主之不レ在二坐限一、若被レ倩療二畜產一、被二殺傷一依二贖法一、〉
p.0161 一犬之事、鷹幷狩山のために所持候ものは、鈴札を付、なにがしと可二書付一候、此外の者、無體にかい候儀、はたと停止之事、
付、すゞ札付たる犬屋内へ入候其、打殺事可二用捨一候、若無體に殺候はゞ、過料に可二申付一事、
但、飼猫、かひとりなど取候はゞ、一つがひにならべ可レ置事、〈○中略〉
慶長拾三五月十三日
p.0161 犬吢〈○吢天文本作レ吣、下同、〉 唐韻云、吢〈七鴆反、以奴乃太末比、〉犬吐也、
p.0161 病類、歐吐訓二太万比一、類聚名義抄作二伊奴乃川多三一、恐非、〈○中略〉廣韻同、下總本吣作レ吢、那波本同、按玉篇作レ吢、云亦作レ吣、然此引二唐韻一、則作レ吣似レ是、
p.0161 狗〈○中略〉 治二猫犬病一、以二烏藥汁一灌レ之、〈以下藥方、出二菉竹堂簡便方一、〉
治二猫犬生一レ癩、用二桃樹葉一搗爛遍擦二其皮毛一、隔二少時一洗二去之一、治二狗猫生一レ虱、用二白色朝腦一滿身擦レ之、以二桶或箱一覆二蓋之一、少時放出其虱倶落、生二癬疥一者、好茶濃煎、過夜冷洗レ之、
凡狗舌出而尾唾者、卽風狗也、人被二之咬一、用二木鱉子七個、檳榔二錢、水二鍾一、煎二七分一服、〈秘笈云、碎二杏仁一納二傷處一卽愈、〉所レ謂風狗、卽猘犬也、保嬰全書云、凡猘犬之狀必吐レ舌流レ涎、尾垂眼赤、誠易レ辨、如所レ咬則毒甚、
p.0162 狗寶 イヌノタマ
狗ノ腹中ニアル石ナリ、牛馬ノ鮓答ト同ジ、亦狗ノ病也、故ニ狗寶生二癩狗腹中一ト云、凡狗瘦セ毛落皮ノミニナリシ腹中ニアリ、故ニ留靑日札ニ、凡狗有レ寶則羸瘦、毛落不レ勝、其熱入レ水自濡、其塊如レ栗、同胞破レ之可二千葉一、入レ藥治二毒瘡一ト云、五雜爼ニ、又有二一種狗一、不レ飮不レ食、常望レ月而嘷者非レ瘈也、乃肚中有二狗寶一也、寶如レ石、大者如二鵞卵一、小如二雞子一、專治二噎食之疾一ト云フ、形ハ馬ノ鮓答ヨリ小ク、馬錢(マチン)ノ形ニシテ白色微靑、或ハ灰色微黑、圓ナルモ扁ナルモアリ、碎ケバ内ハ皮ノミ多ク重リ、鮓答ニ異ナラズ、本經逢原ニ、擊碎其理如レ蟲、白蠟者眞ト云ハ、ソノ層疊ノ狀ヲ云ヘルナリ、
p.0162 一犬具參事禁レ之〈○中略〉
一飼レ犬事、不淨基、鬪諍種也、更无二其要一者哉、
ヌ十六/興言利口
p.0162 一條二位入道〈能保〉のもとに、下太友正と云隨身おさなくよりみや仕へけり、禪門天下執權の後、諸大夫侍おほく初參したりけるに、此友正我ひとりこそ、年頃の者にては侍れとて、一座をせめけるを、傍輩ども惡む事限りなし、去程に其近邊に事なのめならず、人くふ犬有けり、侍其寄會たりけるが、其犬とりてんやと、何となく云出したりけるに、友正やすく取てんといひけるを、傍輩其よきつゐでにくはせんと思て、皆一方に成てあらがひてけり、友正云やう、 したゝめおほせたらば、殿原皆引出物を一づゝ友正にたびてはかりなき事をすべし、若取得ぬ物ならば、友正其ぢやうにきらめくべしと云堅めてけり、かくて友正葛袴にそば取りて、件の犬の前を過けるに、案の如く、犬走りかゝりて、大口あきてくいつかんとするを、友正拳を握りて、犬の口へ突入てければ、犬敢てくはず、今片手にて、かうづるを取りて、死ぬばかり打てけり、其後此犬人くふ事なく成にけり、あらがひつる侍共、目もあやに覺えて、ゆゝしき事して引出物取らせけり、すべてあらがひおこの事也、
p.0163 南龍院殿御足〈江〉猛犬喰付之時直に喉中に踏入給ふ事
宰領の歩行の者、小姓衆に向ひ、此犬ことの外人に荒く候と申を、御構なく、椽鼻にて、此犬はりやうぎゝにて可レ有、能貌がまへ也と、御足にて犬の貌を御なで候得ば、其犬大きにほえて、御足に喰付を、御足を直に犬ののどへ踏入させ給ふ、犬はのどへ足をつきこまれ、散々吠て尾をすぼめ逃のく、是より賴宣卿を、彼犬見奉りては恐れて、いつも尾をしきたる也、此時御足御引候はゞ、かみ切可レ申を、直に犬ののどへ踏込給ふ、其早業剛强たとえん方なし、
p.0163 書二若狹義婢事一 天爵
義婢名綱、若狹小松原人、父角右衞門、家貧賤、以レ捕レ魚爲レ業、綱年十五、仕二于邦人松見氏一、松見之兒未レ免レ懷、則綱常懷焉、一日綱負二其見一而出、遇二瘈狗走一、綱曰、吾聞、傷二於瘈狗一者死、乃伏二兒於地一、以二己身一覆レ之、則狗來齧レ綱傷數創、流血濺レ葛、然恐二兒壓死一、四肢據地以得レ全二腹下之兒一、松見聞二其事一、卽走救レ之、則綱唯言、賢子無レ恙、而後死、實明和六年己丑七月三日也、事聞二邦君一、乃賜二錢于其父一、以葬二于邑之西德寺一、爲立レ石以旌二其義一云、
○按ズルニ、瘈狗ハ狂犬ナリ、近世畸人傳ニ此事ヲ載セテ以テ狼ト爲スハ、恐ラクハ誤ナラン、
p.0163 俗呪方 解犬毒、犬に囓傷られたるとき、はやく冷水を汲て、傷られたる處を浸し、ふたゝび糞汁に漬て、そのまゝ痍(キズ)の上に灸して、急に蝦蟇湯〈蝦蟇一枚去二首尾一〉を用ふべし、もし活ながら蝦蟇を捕、その股の肉を食へば、その效いよ〳〵速也、大約猘犬のみならず、禽獸怒るときは必毒あり、猫鼠鷄の類みなしか也、手して鼠を捕ふべからず、牡鷄の鬪ふとき、手をもてこれをわくべからず、倘傷らるゝことあれば、その毒猘犬と異ならず、但犬毒を酷しとす、囓れたるとき、痍淺く痛深からずとも、療治等閑なれば、その毒期月に至て再發し、終に命を隕すものあり、或は狂亂して狗鳴をなすものあり、これその毒煽なるによつて也、怪むに足らず、縱仙丹神藥を用るとも、赤小豆を忌むこと三年つつしまざれば、毒の發すること初に倍して救ひがたし、恐るべし、主ある犬も生人を見れば、その人を囓傷るあり、これらは速に打殺してその害を除くべし、婦人の情をもてこれを憐むべからず、この犬罪あり、畜生を愛して人を害することあらば、主人の德を傷ふなり、東海道岡部驛より十八九町ばかりなる田舍に、犬除の符を出す家あちといふ、その名を忘る、尋ぬべし、
p.0164 一犬狩
藏人承レ仰下知、所衆瀧口參、瀧口帶二弓箭一儲二所々一射レ犬、所衆入二緣下一狩出、而此役太見苦、仍近代好遲參、定蒙二召籠一、仍衞士幷取夫入二緣下一、匡房記曰、堀川院御時、犬狩、被レ閉二諸陣一、而先例當二御物忌一時、犬狩尤有レ便云々、予俊忠又藏人一兩人持レ弓、先例犬狩時、仰二左右近陣吉上等一狩レ之云々、殿上將佐已下可レ持レ弓也、
p.0164 犬狩事
〈家〉無二佛神事一之時、幷休日御物忌等之間、隨レ仰召二仰左右近陣官一行レ之、瀧口等相二從之一、藏人等追二御所犬一、 所二狩獲一倂召二左右衞門官人一令レ放二流之一、遲參之間、右兵衞陣外頭陣官令レ守レ之、隨レ來給レ之、
p.0164 伊和里(イワベノ)〈○中略〉昔大汝命之子、火明命心行甚强、是以父神患之欲二遁棄一之、乃到二因達 神山一、遣二其子一汲レ水、未レ還以前、卽發レ船遁去、於レ是火明命汲レ水還來、見二船發去一、卽大瞋怨、仍起二風波一追二迫其船一、於レ是父神之船不レ能二進行一、遂被二打破一、所三以其號二波立一、〈○中略〉犬落所者、卽號二犬丘一、
p.0165 八十七年二月、昔丹波國桑田村有レ人、名曰二甕襲(ミカソ)一、則甕襲家有レ犬名曰二足往(アユキ/○○)一、是犬咋二山獸名牟士那一而殺之、則獸腹有二八尺瓊勾玉一、因以獻之、是玉今在二石上神宮一、
p.0165 四十年十月癸丑、日本武尊發路之、〈○中略〉日本武尊進入二信濃一、是國也、山高谷幽、翠嶺万重、人倚レ杖而難レ升、巖嶮磴紆、長峯數千、馬頓轡而不レ進、然日本武尊披レ烟凌レ霧遙徑二大山一、旣逮二于峯一而飢之、食二於山中一、山神令レ苦レ王、以化二白鹿一立二於王前一、王異之、以二一箇蒜一彈二白鹿一、則中レ眼而殺之、爰王忽失レ道不レ知レ所レ出、時白狗自來有二導レ王之狀一、隨レ狗而行之、得レ出二美濃一、〈○下略〉
p.0165 伊夜丘者、品太天皇〈○應神〉獦犬〈名麻奈志漏〉與レ猪走二上此岡一、 天皇見之云二射乎一、故曰二伊夜丘一、此犬與レ猪相鬪死、卽作レ墓葬、故此岡西有二犬墓一、
p.0165 自二日下之直越道一、幸二行河内一、爾登二山上一、望二國内一者、有下上二堅魚一作二舍屋一之家上、天皇令レ間二其家一云、其上二堅魚一作レ舍者誰家、答白、志幾之大縣主家、爾天皇詔者、奴乎、己家似二天皇之御舍一而造、卽遣レ人令レ燒二其家一之時、其大縣主懼畏稽首白、奴有者、隨レ奴不レ覺而過作、甚畏、故獻二能美之御幣物一、〈能美二字以レ音〉布縶二白犬一著レ鈴、而已族名謂二腰佩一、人令レ取二犬繩一以獻上、
p.0165 十三年八月、播磨國御井隈人、文石小麻呂(アヤシノヲマロ)有レ力强心、肆行二暴虐一、〈○中略〉於レ是天皇遣二春日小野臣大樹一、領二敢死士一百一、並持二火炬一圍レ宅而燒、時自二火炎中一白狗暴出、逐二大樹臣一、其大如レ馬、大樹臣神色不レ變、拔レ刀斬之、卽化爲二文石小麻呂一、
p.0165 狐爲レ妻令レ生レ子緣第二
昔欽明天皇〈是磯城島金 宮食國天皇、天國押開廣庭命也、〉御世、三野國大野郡人、應レ爲レ妻覔二好孃一、乘レ路而行、時曠野中遇二於姝女一、其女媚レ牡馴睇之、牡睇之言、何行稚孃之、答言、將レ覔二能緣一而行女也、牡心語言、成レ妻耶、女答曰、聽、卽 將二於家一交通相住、比頃懷任生一一男子一、時其家犬、十二月十五日生レ子、彼犬之子、毎向二家室一而期刻、睚眥嘷吠、家室脅惶、吿二家長一言、此犬打殺、雖レ然患吿而猶不レ殺、於二二月三月之頃一年米舂時、其家室於二稻舂女等一、將レ充二間食一入二於碓屋一、卽彼犬子將レ咋二家室一、而追レ犬卽驚誴、恐成二野干一、登二籬上一而居、〈○下略〉
p.0166 朱鳥元年〈○天武〉是歲虵犬相交、俄而倶死、
p.0166 大同四年正月壬辰、有レ犬登二太極殿西樓上一吠、烏數百群翔一其上一、
p.0166 天長七年八月庚午、犬登二栖鳳樓一而吠、
p.0166 延喜野行幸之時、被レ入二腰輿一之御劒ノ石付落失云々、希有事也、古物ヲトテ、大ニ令レ驚給テ、タカキ岡上ニテ御覽ジケレバ、御犬ノ件石付ヲクハヘテマイリタリケレバ、殊ニ興ジテ令レ悦給ケリ、〈○下略〉
p.0166 六條式部卿の宮と申しは、延喜帝一腹御兄弟におはします、野の行幸せさせ給ひしに、此宮供奉せしめ給ふべかりけれど京の程遲參せさせ給ひて、かつらの里にぞまいりあはせ給へりしかば、御こしとゞめて、さきだて奉らせ給ひしに、なにがしといひし犬かひの、犬のまへ足をふたつながら肩に引こして、ふかき河の瀨わたりしこそ、行幸につかうまつり給へる人々さながら興じ給はぬなく、御門も興ありげにおぼしたる御けしきにこそ、みえおはしましゝか、
p.0166 中納言紀長谷雄家顯レ狗語第廿九
今昔、中納言紀ノ長谷雄ト云フ博士有ケリ、才賢ク悟廣クシテ、世ニ並ビ無ク止事无キ者ニテハ有ケレドモ、陰陽ノ方ヲナム何ニモ不レ知ザリケリ、而ル間狗ノ常ニ出來テ築垣ヲ越ツヽ尿ヲシケレバ、此レヲ怪ト思テ、ノト云フ陰陽師ニ、此ノ事ノ吉凶ヲ問タリケレバ、某ノ月ノ某ノ日、家ノ内ニ鬼現ズル事有ラムトス、但シ人ヲ犯シ崇ヲ可レ成キ者ニハ非ズト占タリケレバ、其ノ日物忌ヲ可レ爲キナリト云テ止ヌ、而ル間其ノ物忌ノ日ニ成テ、其ノ事忘レテ物忌ヲモ不レ爲ザ リケリ、然テ學生共ヲ集メテ作文シテ居タリケルニ、文頌スル盛ニ傍ニ物共取置タリケル塗籠ノ有ケル内ノ方ニ、極テ怖シ氣ナル者ノ音ニテ吠ケレバ、居並タル學生共此ノ音ヲ聞テ、此レハ何ノ音ゾリト云ツヽ恐ヂ迷ケル程ニ、其ノ塗籠ノ戸ヲ少シ引開タリケルヨリ、動出ル者有ルヲ見レバ、長二尺許リ有ル者ノ、身ハ白クテ頭ハ黑シ、角ノ一ツ生テ黑シ、足四ツ有テ白シ、此レヲ見テ皆人恐迷フ事无レ限シ、而ルニ其ノ中ニ一人ノ人、思量有リ心强カリケル者ニテ、立走ルマヽニ此ノ鬼ノ頭ノ方ヲハタト蹴タリケレバ、頭ノ方ノ黑キ物ヲ蹴拔キツ、其ノ時ニ見レバ、白キ狗ノ行ト哭テ立テリ、早ウ狗ノ楾ヲ頭ニ指入タリケルヲ、楾ヲ蹴拔タルマヽニ見レバ、狗ノ夜ル塗籠ニ入ニケルガ、楾ニ頭ヲ指入テケルヲ否不二引出一テ鳴ク音ノ怪シキ也ケリ、其レガ走リ出タルヲ、物恐ヲ不レ爲ズ量リ有ケル者ノ、狗ノ然カ有ケル也ケリト見テ、蹴顯シタル也ケリ、此ク見テ後ニナム人共肝落居心直リケル、其ノ後ハ集テ咲ケリ、然レバ實ノ鬼ニ非ネドモ、現ニ人ノ目ニ鬼ト見ユレバ鬼トハ占ケル也、其レニ人ヲ犯シ祟ヲ可レ成キ者ニハ非ズト占ヒタル、實ニ微妙キ事也ト云テゾ、人々皆占ヲ讃メ喤リケル、但シ中納言ノ然許才有ル博士ニテハ、物忌ノ日ヲ忘ル、最ト云フ甲斐无ウ弊キ事也トゾ聞ク人謗ケル、其ノ比ハ此ノ事ヲナム、世ニ云ヒ繚ヒ咲ケルトナム語リ傳ヘタルトヤ、
p.0167 安和元年四月一日癸丑、今日犬登二殿上一、囓二御殿御座一、咋二拔時杭一逃去、又攬二掘御前炬屋前地一、
p.0167 上東門院御帳内犬出來事
上東門院爲二一條院女御一之時、帳中ニ犬子不慮之外ニ入〈天〉有〈遠〉見付給、大ニ奇恐、被レ申二入道殿一、〈道長〉入道殿召二匡衡一テ密々令レ語二此事一給ニ、匡衡申云、極御慶賀也ト申ニ、入道殿何故哉ト被レ仰ニ、匡衡申云、皇子可下令二出來一給上之徵也、犬ノ字ハ是點ヲ大ノ字ノ下ニ付バ太ノ字也、上ニ付レバ天ノ字也、以 レ之謂レ之、皇子可二出來給一、サテ立太子、次ニ至二天子一給歟、入道大令二感悦一給之間、有二御懷妊一、令レ奉レ產二後朱雀院天皇一也、此事秘事也、退席之後匡衡私令レ勘二件字一天令レ傳レ家云々、
p.0168 うへにさふらふ御ねこは、かうぶり給はりて、命婦のおもとゝて、いとおかしければ、かしづかせ給ふが、はしに出たるを、めのとのむまの命婦あなまさなやいり給へとよぶに、きかで日のさしあたりたるに、うちねぶりてゐたるを、おどすとて、おきなまろ(○○○○○)〈○犬名〉いづら、命婦のおもとくへといふに、まことかとて、しれものはしりかゝりたれば、をびえまどひて、みすのうちにいりぬ、あさがれいのまにうへ〈○一條〉はおはします、御らんじて、いみじうをどうかせ給ふ、ねこは御ふところにいれさせ給ひて、おのこどもめせば、藏人たゞたかまいりたるに、此おきなまろうちてうじて、いぬ島につかはせ、たゞいまとおほせらるれば、あつまりてかりさはぐ、むまの命婦もさいなみて、めのとかへてん、いとうしろべたしとおほせらるれば、かしこまりて御前にも出ず、いぬばかり出て、たきぐちなどしてをひつかはしつ、あはれいみじくゆるぎありきつるものを、三月三日に、頭辨、柳のかづらをせさせ、もゝの花かざしにさゝせ、さくらこしにさゝせなどしてありかせ給ひしおり、かゝるめ見んとは、おもひかけんやとあわれがる、おものゝおりはかならずむかひさぶらふに、さう〴〵しくこそあれなどいひて、三四日になりぬ、ひるつかた、犬のいみじくなくこゑのすれば、なにぞの犬のかくひさしくなくにかあらんときくに、ようづの犬どもはしりさはぎとぶらひにゆき、みかはやうどなるものはしりきてあないみじ、犬を藏人二人してうち給ひ、しぬべし、ながさせ給ひけるが、かへりまいりたるとててうじ給ふといふ、心うのことや、おきなまろなり、たゞたかさねふさなんうつといへば、せいしにやるほどに、からうじてなきやみぬ、しにければ、門のほかにひきすてつといへば、あはれがりなどする、夕つかた、いみじげにはれ、あさましげなる犬のわびしげなるが、わなゝきありけば、あはれまろか、かゝるいぬやは、 このごろは見ゆるなどいふに、おきなまうとよべどみゝにも聞いれず、それぞといひ、あらずといひ、くち〴〵申せば、右近ぞ見しりたるよべとて、しもなるを、まづとみのことゝてめせばまいりたり、これはおきなまろかと見せさせ給ふに、似て侍れども、これはゆゝしげにこそ侍るめれ、又おきなまうとよべば、よろこびてまうでくるものを、よべどよりこず、あらぬなめり、それはうちころしてすて侍りぬとこそ申つれ、さる物共の二人してうたんには、生なんやと申せば、心うがらせ給ふ、くらうなりて物くはせたれどくはねば、あらぬものにいひなしてやみぬる、つとめて御けづりぐしにまいり御てうづまいりて、御かゞみ持せて御らんずれば、さふらふに、犬のはしらのもとについゐたるを、あはれきのふおきなまろをいみじう打しかな、しにけんこそかなしけれ、何の身にか此たびはなりぬらん、いかにわびしきこゝちしけんと、うちいふほどに此ねたるいのふるひわなゝきて、なみだをたゞおとしにおとす、いとあさまし、さてこれおきな丸にこそありけれ、よべばかくれしのびてあるなりけりと、あはれにて、おかしきことかぎりなし御かゞみをもうちをきて、さはおきなまうといふに、ひれふしていみじくなく、御前にもうちわらはせ給ふ、人々まいりあつまりて、右近内侍めしてかくなどおほせらるれば、わらひのゝしるを、うへにもきこしめしてわたらせおはしまして、あさましう犬などもかゝるこゝろある物なりけりと、わらはせ給ふ、うへの女房たちなどもきゝにまいりあつまりて、よぶにもいまぞたちうごく、なをかほなどはれためり、ものてうせさせばやといへば、つゐにいひあらはしつるなどわらはせ給ふに、たゞたかきゝて、大ばん所のかたより、まことにや侍らん、かれ見侍らんといひたれば、あなゆゝし、さるものなしといはすれば、さりともつゐにみつくるおりも侍らん、さのみもえかくさせ給はじといふ也、さてのちかしこまりかうじゆるされて、もとのやうになりにき、なをあはれかくれて、ふるひなき出たりしほどこそ、よにしらずおかしくあはれなりしか、人々に もいはれてなきなどす、
p.0170 今は昔、御堂關白殿〈○道長〉法成寺を建立し給て後は、日毎に御堂へ參らせ給けるに、白き犬を愛してなん飼せ給ければ、いつも御身をはなれず、御ともしけり、或日例の如く御ともしけるが、門をいらんとし給へば、此犬御さきにふたがるやうに吠まはりて、内へ入れ奉らじとしければ何條とて、車よりおりて、いらんとし給へば、御衣のすそをくひて、引とゞめ申さんとしければ、いかさまやうある事ならんとて、榻をめしよせて御尻をかけて、晴明にきと參れと、めしにつかはしたりければ、晴明則參りたり、かゝる事のあるはいかゞとたづね給ければ、晴明しばしうらなひて申けるは、これは君を呪咀し奉りて候物を道にうづみて候、御越あらましかばあしく候ベき、犬は通力の物にてつげ申て候なりと申せば、さてそれは、いづくにかうづみたる、あらはせとのたまヘば、やすく候と申て、しばしうらなひて、此にて候と申所をほらせてみたまふに、土五尺ばかり堀たりければ、案の如く物ありけり、〈○中略〉犬はいよ〳〵不便にせさせ給ひけるとなん、
p.0170 達智門弃子狗密來令レ飮レ乳語第四十四
今昔、嵯峨ノ邊ナドニ行ケル人ニヤ有ケム、朝ニ達智門ヲ過ケルニ、此ク門ノ下ニ生レテ十餘日許ニ成タル男子ノ糸淸氣ナルヲ弃テ置タリ、見ルニ无下ノ下衆ナドニハ非ヌナメリト見エ、筵ノ上ニ臥タルヲ見レバ、未ダ生テ泣ケレバ、糸惜シト思ケレドモ、急グ事有テ此ク見置テ過ニケリ、明ル朝ニ返ケルニ、其ノ子未ダ生キテ同ジ樣ニテ有リ、此レヲ見ルニ奇異ク思フ、昨日狗ニ被レ食ニケルト思フニ、今夜ヒモ若干ノ狗ニ不レ被レ食ザリケルト思テ守リ立レバ、昨日ヨリハテ不レ泣デ筵ノ上ニ臥タリ、此ヲ見テ家ニ返ニケル、猶此事ヲ思フニ糸難レ有キ事也、未ダ生タラムヤト思ヒ、次朝ニ行テ見レバ猶生キテ同樣ニテ有リ、其時ニ男極テ不二心得一ズ、此ハ樣有ル事ナラムト 思テ返ヌ、猶此ノ事ヲ不審ク思ケレバ、夜ニ入テ竊ニ達智門ニ行テ、築垣ノ崩ニ隱レテ見ルニ、ノ程狗多ク有レドモ、兒ノ臥タル當ニモ不レ寄ズ、然レバコソ此ハ樣有ル事也ケリト奇異ク見ル程ニ、夜打深テ何方ヨリ來ルトモ无クテ、器量ク大キナル白キ狗出來ヌ、他ノ狗共皆此レヲ見テ逃去ヌ、此ノ狗此ノ兒ノ臥タル所へ只寄ニ寄ルニ、早ウ此ノ狗ノ今夜此ノ兒ヲバ食テムト爲ル也ケリト見ルニ、狗寄テ兒ノ傍ニ副ヒ臥ヌ、吉ク見レバ狗、兒ニ乳ヲ吸スル也ケリ、兒人ノ乳ヲ飮ム樣ニ糸吉ク飮ム、男此レヲ見テ、早ウ此兒ハ此ノ夜來狗ノ乳ヲ飮ケレバ、生テ有ケル也ト心得テ、密ニ其ノ邊ヲ去テ家ニ返ヌ、次ノ夜亦今夜モヤ夜前ノ樣ニ爲ルト思テ亦行テ見ルニ、前夜ノ如ク狗來テ乳ヲ飮セケリ、亦次ノ夜モ猶不審カリケレバ行テ見ルニ、其ノ夜ハ兒モ不二見エ一、亦狗モ不レ來ザリケレバ、夜前人氣色ナドヲ見テ外ヘ將行ニケルニヤト思ヒ疑タ返ニケリ、其ノ後其ノ有サマヲ不レ知テ止ニケリ、此レ實ニ奇異ノ事也カシ、此レヲ思フニ、此ノ狗糸只者ニハ非ジ、諸ノ狗此レヲ見テ逃去ケムハ可レ然キ鬼神ナドニヤ有ケム、然レバ定メテ其ノ兒ヲバ平ガニ養ヒ立テケム、亦佛 ノ變化シテ兒ヲ利益セムガ爲ニ來リ給ヒタリケルニヤ、狗ハ然カ慈悲可レ有キニモ非ズ、然レドモ亦前生ノ契ナドノ有ケルニヤ、樣々ニ此ノ事ヲ思フニ難二心得一シ、此ノ事ハ彼ノ見ケル男ノ語ケルヲ聞キ繼テ此ク語リ傳へタルトヤ、 今昔物語二十六東小女與レ狗咋合互死語第二十今昔國囗ノ郡ニ住ケル人有ケリ、其家ニ年十二三歲許有女ノ童ヲ仕ヒケリ、亦其隣ニ住ケル人ノ許ニ白キ狗ヲ飼ケルガ、何ナルコトニカ有ケン、此女ノ童ダニ見ユレバ、此狗咋懸リテ敵ニシケリ、然レバ亦女ノ童モ此狗ダニ見ユレバ打ントノミシケレバ、此ヲ見人モ極シク怪ビ思ケル程ニ、女ノ童身ニ病ヲ受テケリ、世ノ中心地ニテ有ケルニヤ、日來ヲ經ルマヽニ病重カリケレバ、主此女ノ童ヲ外ニ出サント爲ニ、女ノ童ノ云ク、己ヲ人離タル所ニ被レ出ナバ、必ズ此狗ノ 爲ニ被二咋殺一ナントスル、病无クシテ、人ノ見時ソラ、己ダニ見ユレバ只咋懸ル、何況ヤ人モ无キ所ニ己重病ヲ受テ臥タラバ、必ズ被二咋殺一ナン、然レバ此狗ノ知マジカラン所ニ出シ給へト云ケレバ、主現ニ然ル事也ト思テ、遠キ所ニ物ナド皆拈テ密ニ出シツ、毎日ニ一二度ハ必ズ人ヲ遣テ見セント云誘へテ出シツ、而ルニ其亦ノ日ハ此狗有リ、然レバ此狗知ラヌナメリト心安ク思テ有ニ、次ノ日此狗失ヌ、此ヲ怪ビ思テ此女童出シタル所ヲ見セニ人ヲ遣タリケレバ、人行テ見ニ狗女ノ童ノ所ニ行テ、女ノ童ニ咋付ニケリ、然レバ女ノ童狗ト互ニ齒ヲ咋違ナム死テ有ケル、使返テ此由ヲ云ケレバ、女ノ童ノ主モ、狗ノ主モ、共ニ女ノ所ニ行テ、此ヲ見テ驚キ怪ビ哀ガリケリ、此ヲ思フニ此世ノミノ敵ニハ非ケルニカトゾ、人皆怪ビケルトナム語リ傳へタルトヤ、
p.0172 北山狗人爲レ妻語第十五
今昔、京ニ有ケル若キ男ノ、遊ガ爲ニ北山ノ邊ニ行タリケルガ日ハ只暮ニ暮ニケルニ、何クトモ不レ思エズ野山ノ中ニ迷テ道モ不レ思エザリケレバ、可レ返キ樣モ無カリケルニ、今夜可レ宿キ所モ無クテ思ヒ繚テ有ケル程ニ、谷ノ迫ニ小キ菴ノ髴ニ見エケレバ、男此ニ人ノ住ニコソ有ケレト喜テ、其ヘ搔行テ見ケレバ、小キ柴ノ菴有リ、此ク來レル氣色ヲ聞テ、菴ノ内ヨリ若キ女ノ年廿餘許ニテ糸淨氣ナル出來タリ、男此ヲ見テ彌ヨ喜ト思ケルニ、女男ヲ打見テ、奇異氣ニ思テ、此ハ何ナル人ノ御タルゾト云へバ、男山ニ遊ビ行キ侍ツルニ、道ヲ踏違へテ否返リ不レ侍ヌ程ニ、日ノ暮ニタレバ、可二行宿一キ所モ無カリツルニ、此ヲ見付テ喜ビ乍ラ急ギ參タルニナムト云ヘバ、女此ニハノ人ノ不レ來ズ、此ノ菴ノ主ハ只今來ナムトス、其レニ其ノ菴ニ御セムズルヲバ、定メテ己レガ知タル人トコソ疑ハムズラメ、其レヲバ、何カヾシ給ハムト爲ルト云へバ、男只何カニモ吉カラム樣ニコソハ、但シ可レ返キ樣ノ无ケレバ、今夜許ハ此テコソ侍ラメト云ヘバ、女然ラバ此テ御セ、我ガ兄ノ年來相ヒ不レ見ザリツルヲ戀ツル程ニ、思ヒモ不レ懸ズ、山ニ遊ビニ行キタリケル道ヲ踏 違テ、此ニ來レル也ト云ハムズル也、其ノ由ヲ心得テ御セ、然テ京ニ出タマヒタラムニ、努々此ル所ニ然ル者ナム有ツルトナ不レ宣ソト云へバ、男喜テ糸喜ク侍リ、然心得テコソハ侍ラメ、亦此ク宣フ事ナレバ、何デカ人ニハ申サムト云へバ、女男ヲ呼入レテ、一間ナル所ニ筵ヲ敷テ取セタレバ、男其レニ居タルニ、女寄來テ忍テ云ク、實ニハ己ハ京ニ其々ニ侍シ人ノ娘也、其レガ思ヒ不レ懸ズシテ奇異キ物ニ被レ取レテ、其レニ被レ領テ年來此テ侍ル也、今此ノ具シタル物ハ只今來ナムトス、見給テム、但シ乏シキ事ハ不レ侍ヌ也ト云テサメ〴〵ト泣ケバ、男此ヲ聞テ何ナル物ナラム、鬼ニヤ有ラムナド怖シク思ヒ居タル程ニ、夜ニ入テ外ニ極ク怖シ気ニムメク物ノ音有リ、男此ヲ聞クニ、肝身マリテ怖シト思ヒ居タル程ニ女出來テ戸ヲ開テ入來ル物ヲ男見バ、器量ク大キナル白キ狗也ケリ、男早ウ狗也ケリ、此ノ女ハ此ノ狗ノ妻也ケリト思フ程ニ、狗入來テ男ヲ打見テムメキテ立レバ、女出來テ年來戀シト思ツル兄ノ、山ニ迷タリケル程ニ、思ヒ不レ懸ズ此ニ坐シタレバ、奇異ク喜キ事ト云テ泣ケバ、其ノ時ニ狗此ヲ聞知リ顏ニテ入テ竈ノ前ニ臥セリ、〈○此間恐有二脱字一〉苧ト云フ物ヲ績テ狗ノ傍ニ居タリ、食物糸淨氣ニシテ食スレバ、男吉ク食テ寢ヌ、狗モ内ニ入テ女ト臥スナリ、然テ夜明ヌレバ、女男ノ許ニ食物持來テ、男ニ密ニ云ク、尚々穴賢此ニ此ル所有ト人ニ語リ不レ給ナ、亦時々ハ御セ、此ク兄ト申シタレバ此レモ然知テ侍ル也、自然ラ要事有ラム事ナドハ叶へ申サムト云へバ、男敢へテ人ニ申シ不レ可レ侍ズ、今亦參リ來ムナド懃ニ云テ、物食畢ツレバ、京ヘ返ヌ、返ケルマヽニ男昨日然々ノ所ニ行タリシニ、此ル事コソ有シカト、會フ人毎ニ語ケレバ、此ヲ聞ク人興ジテ亦人ニ語リケル程ニ、普ク人皆聞テケリ、其ノ中ニ年若ク勇タル冠者原ノ落所モ不レ知ヌ集テ、去來北山ニ〈○此間恐有二脱字一〉妻ニシテ菴ニ居ルナル、行テ其ノ狗射殺シテ妻ヲバ取テ來ムト云テ、各出立テ此ノ行タル男ヲ前ニ立テヽ行ニケリ、一二百人有ケル者共、手毎ニ弓箭兵仗ヲ持テ行ケルニ、男ノ敎へケルニ隨テ、旣ニ其ノ所ニ行著テ見レバ、實ニ谷迫ニ小キ 菴有リ、彼ゾ彼ゾト各音ヲ高クシツヽ云ケルヲ、狗聞テ驚キ出テ打見テ、此ノ來タリシ男ノ顏ヲ見ルマヽニ、菴ニ返入テ、暫許有テ狗女ヲ前ニ突立テ菴ヨリ出テ山ノ奧樣ニ行キケルヲ、立衞〈○衞恐誤字〉ムテ多ノ人射ケレドモ更ニ不レ當ズシテ、狗モ女モ行ケレバ、追ケレドモ鳥ノ飛ブガ如ニシテ山ニ入ニケリ、然レバ此ノ者共モ、此ハ只者ニモ非ヌモノ也ケリト云テ皆返ケリ、此ノ前ニ行タリケル男ハ、返ケルマヽニ心地惡ト云テ臥ニケルガ、二三日有テ死ニケリ、然レバ物思エケル者ノ云ケルハ、彼ノ狗ハ神ナドニテ有ケルナメリトゾ云ケル、糸益无キ事云タル男也カシ、然バ信无カラム者ハ、心カラ命ヲ亡ボス也ケリ、其ノ後其ノ狗ノ有所知タル人无シ、近江ノ國ニ有ケリトゾ人云傳ヘタル、神ナドニテ有ケルニヤトナム語リ傳ヘタルトヤ、
p.0174 後白河院の御時、兵衞尉康忠と云もの候けり、三條烏丸殿の兵亂の夜うせにし者なり、仁安の頃、黑まだらなるをとこ犬の異體なる院中に見えけり、ある者の夢に、康忠院中に祗候のこゝろざし深くて、此犬になりたる由見たりける、あはれなる事なり、
p.0174 承安二年五月廿九日丁酉、早旦問二穢事於候レ院之人々一、各答云、昨日寅刻許、御寵犬〈大斑云々〉夭死云云者、彼兩人等定觸レ穢歟、
p.0174 建久元年八月廿日壬寅、感神院拜殿内、有二犬行道事一、遣二御藏小舍人一被二實撿一云々、
p.0174 嘉禎元年六月廿九日庚寅、晝御座上遺二犬矢一事、於二藏人所一被レ行二御卜一、
p.0174 越中國高崎郡に、左兵衞尉平行政と云者のまだらなる犬をかひけるが、月の十五日には必斷食をなんしける、魚鳥のたぐひに限らず、すべて物をくはざりける、これもあみだ佛の悲願を報じ奉る故にや、ふしぎに有難き事也、
p.0174 犬虎ともに噬
秀吉公、大坂の城に虎をかわせたまふ、其餌に、近國の村里より犬をめされしに、津の國丹生の山 田より白黑斑の犬、つら長く眼大に脚の太り逞しきをぞ曳來りける、實も尋常の形には異なりたり、件の犬虎の籠に入と齊く隅をかたどり、毛をさかしまにたてゝ虎を睨む、虎日來は犬をみて尾をふり踊上てよろこびいさみけるが、この犬をみて日月のごとくかゞやく眼に尾をたて、さうなく噬かゝらんともせず、嗔りをのゝく氣色おそろしなどいふばかりなし、すはや珍しき事のあるは、あれ見よとて走りあつまり、息をつめて見る處に、虎はさすがに猛き物にて飛かゝる處を、犬は飛ちがへて虎の咽に咀つきしを、左右の爪にてずだ〳〵に引さきしかど、犬はなを咀つきし處をはなたずして共に死けり、此事御所にきこしめされて、其犬の出所をたづねさせたまふに、丹生山田に夫婦の獵者あり、朝毎に能物くわせてはやく歸れよといへば、尾をふりて疾山に行く、主は犬の歸るべき時をはかりて、鐵炮を提げゆくに、近きあたりまで猪鹿を逐まはして、主にわたして打せける、しかるを庄屋よりしきりに所望せしかど、この犬はわれ〳〵をやしなひければ、いかに申さるゝとてつかはす事なりがたきとてやらざりしを、ふかくねたみけるにや、此たびの犬駈に、此犬の代りを出さんとしきりに願ひしかど、此儀なりがたしとて、かの犬をわたしけるほどに、夫婦犬にむかひ涙を流し、汝いかなる宿緣によりてか、今までの夫婦をやしなひつらん、今度庄屋が所爲にて、非理に虎の餌になす事口惜くおもへども力におよばず、我々を恨みそ、敵を取て死すべしとかき口説しかば、能言をや聞しりつらん、しほ〳〵として出行しと、一々上聞に達しければ、御所にも哀れがらせたまひ、庄屋が心根ふとゞきなりとて、刑罰に仰付られ、犬の跡弔へとて、庄屋が財寶のこりなく夫婦の者に賜ひけるとなり、
p.0175 寬永の初の頃、尾州熱田白鳥の住持慶呑和尚、濱松普濟寺の住職に當り入院せられ、一兩日過て町の徒、薄黑色の犬を一疋連來て、寺に飼給へと勸む、和尚見て毛色いと珍しき犬なりとて、留置て飼給ひしが、年限すみて退院せらるゝ時、彼犬も又用なしとて、本つれ來りし男 の方へ歸されしが、其夜和尚の夢に、彼犬來りて我は足下の親なり、連て行飼べしといふ、和尚夢さめて翌朝僧衆に向ひ、扨々犬と言ども油斷のならぬ者かな、我親なる程に連て行よと吿るなりと笑ひて語られけるが、又次の夜の夢に同じく犬來つて、我實に其方の親なり、若連て行めされずば御身の命を取べしといふ時に、和尚夢さめて大に驚き、今は疑ひを晴し彼犬を呼かえし連て熱田へかへられしが、白鳥にては此犬地を踏ず、座敷にのみ居て、飯を喰にも和尚と相伴にして、夜は和尚の閨に臥す、寬永十年の頃、江湖を置れしが、彼犬和尚と同く一番の座の飯臺に付ゆへ、大衆見て數々瞋り、何の譯ありて斯畜生と一所に飯臺に付ことあらん哉、是を止給はんずんば江湖を分散せんといふ、和尚きゝて大衆に割ていはく、其憤所理なり、去ながら此犬は我親なり、其故は如何々々なり、宥し給へと侘言せられしかば、大衆も漸承引て堪忍せり、彼犬江湖の次の年死す、其時龕、幡、天蓋を拵、念頃に送り、三日の中懴法を修し弔らはれしぞと、本秀和尚のたしかに知て語られしとなり、〈江湖會といへるが、彼宗において假初ならぬことにして、大勢の禪僧其寺に集り、永く滯留して勤る也、〉
p.0176 丹後國與謝郡宮津より程近きに、犬の堂といへる小堂あり、往昔九世戸の智恩寺と波治村の海岸寺とに畜養し、犬の菩提の爲に建る所とそ、海ばたの小坂の上なり、堂内に標石ありて、林道春の碑文あり、
丹後國九世戸文珠堂近邊有レ寺、曰二海岸一、傳稱、昔海岸寺僧兼管二文珠堂一、其僧畜二養一犬愛レ之、此犬毎 日自二海岸寺一往二來文珠堂一累年、犬死僧憐レ之建二一宇一、弔二祭之一、號一犬堂一、鳴呼猶慕二其寺主之愛僧一、亦思及 之物不二亦奇一乎、爾來星霜旣舊、堂宇毀壞、非レ無二懷古之感一、今興二土木之事一、成二斧斤之功一、乃記二其趣一、 以爲二御後證一、
延寶六戊午月日 當國宮津城大江姓尚長立
弘文院林學士誌
p.0177 二年〈○用明〉七月、蘇我馬子宿禰大臣勸三諸皇子與二群臣一、謀レ滅二物部守屋大連一、〈○中略〉爰有二迹見首赤擣一、射二墮大連於枝下一、而誅二大連幷其子等一、〈○中略〉物部守屋大連資人捕鳥部萬〈萬名也〉將二一百人一守二難波宅一、而聞二大連滅一、騎レ馬夜逃向二茅渟縣有眞香邑一、仍過二婦宅一、而遂匿レ山、〈○中略〉以二刀子一刺レ頸死焉、河内國司以二萬死狀一、牒二上朝廷一、朝廷下レ符偁、斬二之八段一、散梟二八國一、河内國司卽依二符旨一臨斬梟、時雷鳴大雨、爰有二萬養白犬一、俯仰廻二吠於其屍側一、遂嚙二擧頭一收二置古冢一、横臥二枕側一飢二死於前一、河内國司尤異二其犬一牒二上朝庭一、朝廷哀不レ忍レ聽、下レ符稱曰、此犬世所二希聞一、可レ觀二於後一、須下使二萬族一作レ墓而葬上、由レ是萬族雙二起墓於有眞香邑一、葬二萬與一レ犬焉、河内國言、於二餌香川原一有二被レ斬人一、計將數百頭身旣爛姓字難レ知、但以二衣色一收二取其身一者、爰有二櫻井田部連膽渟(イヌ)所レ養之犬一、嚙二續身頭一伏レ側固守、使レ收已至、乃起行之、
p.0177 播州犬寺者、昔蘇入鹿大召レ兵亡二上宮太子之屬一、播有二枚夫者一從レ軍、枚夫有レ妻好、枚夫之僕以レ間濳通、旣而枚夫歸、僕恐二事覺受一レ誅、語レ主曰、山中有二一所一、鹿猪之所レ集、人未レ知、我適山行見レ之、我願與レ君二人潛往獵レ之、不レ令二他人知一、若人有レ知非二鎭長君之有一矣、枚夫大喜、枚夫善二射畋一、素養一二黑狗一、便與二二犬及僕一入二山中一、行數十里、僕上二高所一彎レ弓架レ矢曰、我昔主レ君、比來匹敵也、此山無二獵所一、我紿レ君至レ此也、此一箭可レ得二君命一、不レ知君有レ所レ思乎、我雖レ奪レ命能濟二君身後一、枚夫曰、甚矣我之衰也、我未レ知二此事一、餘又何言乎、但有二一事一、願子且待、須臾枚夫腰帶二畋粮一解レ包呼二二犬一、分レ粮爲レ二、各與レ之、便撫二二犬一曰、我畜二汝等一者有レ年、恩意宛如二子弟一、此飯是我之餐也、今與二汝等一、我有二一言一、汝等聞レ之、我今死二於此一、汝二犬一時囓二其屍一莫レ令レ有二遺餘一矣、所二以然一者、我自二少壯一得二雄武之譽一、故又逼驅從二蘇氏之軍一也、恥今爲二僕隸所一レ紿、空死二山中一、國人競來定見二我屍一指笑哀愍、是我之大患也、故我欲三二狗盡二我屍一、二犬不三啜垂レ耳而聽、言已一犬高躍囓二斷僕之弓絃一、一犬又躍嚼二僕喉一而死、枚夫將二二犬一而返レ家、乃逐二其妻一、又語二親屬一曰、我因二二犬一得レ全レ命、自レ今立二二狗一爲二我子一、我之莊田資財皆是二犬之有也、畜齡短促、不レ幾二犬自斃、枚夫曰、我郷以二二犬一爲レ子、付二資財一、今其殂矣、前言不レ可レ渝也、便捨二田貨一建二伽藍一、安二千手大悲像一薦二冥福一、祠二二犬一爲二地主神一、此像靈 感日新、野火四面而來、伽藍無レ恙、凡三度、桓武帝聞レ之、勅爲二官寺一、捨二田數頃一、
p.0178 陸奧國狗山狗咋二殺大虵一語第卅二
今昔、陸奧ノ國ノ郡ニ住ケル賤キ者有ケリ、家ニ數ノ狗ヲ飼置テ、常ニ其ノ狗共ヲ具シテ深キ山ニ入テ、猪鹿ヲ狗共ヲ勸メテ咋殺セテ取ル事ヲナム晝夜朝暮ノ業トシケル、然レバ狗共モ役ト猪鹿ヲ咋習ヒテ、主山へ入レバ各喜テ後前キニ立テゾ行ケル、此ク爲ル事ヲバ世ノ人狗山ト云ナルベシ、而ル間此ノ男例ノコトナレバ、狗其ヲ具シテ山ニ入ニケリ、前々モ食物ナドモ具シテ、二三日モ山ニ有ル事也ケレバ、山ニ留リテ有ケル夜、大キナル木ノ空ノ有ケル内ニ居テ、傍ニ賤ノ弓胡錄太刀ナド置テ、前ニハ火ヲ燒キテ有ケルニ、狗共ハ廻ニ皆臥タリケリ、其レニ數ノ狗ノ中ニ殊勝レテ賢カリケル狗ヲ、年來飼付テ有ケルガ、夜打深更ル程ニ異狗共ハ皆臥タルニ、此ノ狗一ツ俄ニ起走テ、此ノ主ノ木ノ空ニ寄臥シテ有ル方ニ向テ、愕タヾシク吠ケレバ、主ハ此ハ何ヲ吠ルニカ有ラムト怪ク思テ、喬平ヲ見レドモ可レ吠キ物モ无シ、狗尚吠ルコト不レ止ズシテ、後ニハ主ニ向テ踊懸リツゝ吠ケレバ、主驚テ此ノ狗ノ可レ吠キ物モ不レ見エヌニ、我レニ向テ此ク踊懸リテ吠ユルハ、獸ハ主不レ知ヌ者ナレバ、我レヲ定メテ此ル人モ无キ山中ニテ咋テムト思フナメリ、此奴切殺シテバヤト思テ、太刀拔テ恐シケレドモ、狗敢テ不レ止ラズシテ、踊懸リツゝ吠ケレバ、主此ル狹キ空ニテ、此ノ奴咋付キテハ惡カリナムト思テ、木ノ空ヨリ外ニ踊出ル時ニ、此ノ狗我ガ居タリツル空ノ上ノ方ニ踊上リ物ニ咋付ヌ、其ノ時ニ主我レヲ咋ハムトテ吠ケルニハ非ザリケリト思テ、此奴ハ何ニ咋付タルニカ有ラムト見ル程ニ、空ノ上ヨリ器量(イカメシ)キ物落ツ、狗此レヲ不レ免サズシテ咋付タルヲ見レバ、大キサ六七寸許有ル虵ノ長サ二丈餘許ナル也ケリ、虵頭ヲ狗ニ痛ク被レ咋テ否不レ堪ズシテ落ヌル也ケリ、主此レヲ見ルニ極テ怖シキ物カラ、狗ノ心哀レニ思エテ、太刀ヲ以テ虵ヲバ切殺シテケリ、其ノ後ゾ狗ハ離テ去ニケル、早ウ木末遙ニ高キ大キ ナル木ノ空ノ中ニ、大キナル虵ノ住ケルヲ不レ知ズシテ、寄臥タリケルヲ呑ムト思テ虵ノ下ケルガ、頭ヲ見テ此ノ狗ハ踊懸リツゝ吠ケル也ケリ、主其レヲ不レ知ズシテ上ヲバ不二見上一ザリケレバ、只我レヲ咋ムズルナメリト思テ、太刀ヲ拔テ狗ヲ殺サムトシケル也ケリ、殺タラマシカバ、何計悔シカラマシト思テ、不レ被レ寢ザリケル程ニ、夜明テ虵ノ大キサ長サヲ見ケルニ、半バ死ヌル心地ナムシケル、寢入タラム程ニ、此ノ虵ノ下ヲ卷付ナムニハ何態ヲカセマシ、此狗ハ極カリケル我ガ爲メノ此ノ不レ世ヌ財ニコソ有ケレト思テ、狗ヲ具シテ家ニ返ニケリ、此レヲ思フニ、實ニ狗ヲ殺タラマシカバ、狗モ死テ主モ其ノ後虵ニ被レ呑マシ、然レバ然樣ナラムコトヲバ、吉々ク思ヒ靜メテ、何ナラムコトヲモ可レ爲キ也、此ル希有ノコトナム有ケルトナム語リ傳ヘタルトヤ、
p.0179 遠江守朝時朝臣のもとに、五代民部丞といふ者有けり、件の民部丞あを毛なる犬のちいさきをかひけり、此犬十五日、十八日、廿七日、月に三度はいかにも魚鳥のたぐひをくはざりけり、人あやしみてわざとくゝめけれども、猶くはざりけり、十五日十八日はあみだ觀音の緣日なれば、畜生なれども、心あればざも有ぬべし、廿七日は何故にかくあるにかとおぼつかなし、是をよく〳〵あんずれば、此犬いまだおさなかりけるを、かの民部丞が子息の小童かひたてたりけるなり、件の小童そのかみうせにけり、かの月忌廿七日にて有けるを忘れずしてかかりけるにや、あはれふしぎなる事也、佛菩薩の緣日、幷に主君の月忌を忘れず、恩を報ずる事、人倫の中にも有難き事にて侍に、いふかひなき犬畜生のかくしけん事、有難き事也、
p.0179 犬嶮難を救ふ
寬文三年に、駿府の在番に酒井伊豫守殿おはせし小屋に白犬のありしが、常に豫州殿の前に出るを、小坊主に仰て物を喰せたまひし、ある時、豫州殿遠回りにとうめといふ所に出たまふ、小坊主も供にまいりしが、過て谷に落たりしに、いづくより來りしやらん、件の白犬走より、帶のむす びめを噬へ曳て岡をみあげて吠ければ、各これに驚き引あげて助けてけり、
p.0180 義犬記 箕作省吾
天保丁酉春、天下大飢、而京攝之間爲二最甚一、余適客二京師一、友人言曰、近日浪華之屠見、暗夜四出、以二器械一擒レ犬、取レ肉充レ食、其皮當レ衣、以爲二活計一、或夜迫レ犬將レ殺、有二一俠客一憫レ之出二囊金一顆一償レ之、屠兒知三其有二餘金一、竊僵レ之、而恣奪二其金一逸去、時已五鼓、無二人知レ之者一、逾レ月反賊大鹽某被レ誅、屠兒舁二其屍一將レ至二法場一、乍有レ犬突出、喫二其前脚一、衆疑狂、旣而復來咋、於レ是屠兒面色如レ土、不レ能二起行一、衆疑二大鹽氏之犬一、吏曰不レ然、必別有レ故也、縛二屠兒一嚴訊始得二其實二云、嗟夫犬者無知之一獸耳、而不レ忘二報讐一、名レ之曰レ義固宜、
義犬傳 菅野狷介
讃邸大夫人有二一犬一愛レ之特甚、飼以二梁肉一、待御不レ得二妄叱一焉、歲餘夫人薨、犬傍徨不レ食數日、如下有二憂色一者上、旣而夫人歸二葬于國一、素旐發レ邸、仗儀肅然、犬來隨レ衆、叱レ之不レ去、敺レ之已去復來、如レ是一日程、從士意、其有レ故、乃不二復逐一、而飮食宿止比二之衆隸一、犬不レ食一腥羶一、凡十餘日、到レ國、夫人定二于城外先塋一、犬又隨二儀仗一如レ初、窆畢頓伏二墓前一、哀鳴不レ已、衆叱敺不二復去一、遂縛舁レ之衆、議以二其義旣至一、乃再遣二還東邸一、旣就レ舟、犬囓レ縛斷レ之、自赴レ水死、衆莫レ不三驚嘆而感二其義一、終座二之大夫人塋側一、作二義犬塚一、
p.0180 犬を愛す及犬醫師
護國太平記〈柳澤氏成立を記す〉三の卷、柳澤美濃守、甲斐國拜領事の條に、何某の院、將軍〈○德川綱吉〉を申進め、猨に生類の命を取ル事は、誠に其報恐しく、此一事急度上意有レ之、生類の命救給はゞ、御子孫万々代といふとも盡〈ル〉事不レ可レ有レ之、目出度御代をいつ迄も治給はん御計らひ、何事か是にしかん、とりわけ君は、正保三丙戌正月八日御誕生なれば、生類の内にて犬をば分て御愛愍有べしと、詞を巧にして申上〈ル〉、さしもの御明君如何成天魔の見入けん、尤と御賢慮遊ばし、嚴しく申渡すべしとの上意に依て、美濃守下知を傳ふ、是ゟ江戸町中犬食に飽き、北條九代高時禪門が所爲に過たり、 子を生(ナス)時は其一町の家主下役名主に訴、年寄に吿ゲ、町奉行に至り、犬醫師といふ者有て、うやうやしく禮を掛て招キ、犬の脈を伺ふなどゝて、術を盡して藥に大人參を用ひ、命危キ迚藥店へ人を走らせ、或は布蒲團新に仕立重ネ敷キ、又上より布浦團を以覆〈ヒ〉、美食を調へ、美肴を調味し、二七日の内は晝夜朝夕數十人代り〳〵張番し、繁き店中を明て是をいれ、三七日にいたり、犬醫師の指圖にて氣晴し足ならし迚、所の家主下役五人組繩を取て其犬を引き、十間二十間も町筋を引廻ル、其うつけたる有樣前代未聞の事也、誤て犬に疵付、万一犬死する時は、申譯くらきものは、其品に依て死罪、又は遠島擧て數へがたし、北條高時、犬を集て戰せしのみ、未犬の代として重き人倫の命を取し事不レ聞云々、按に三國志吳孫皓犬を愛して鬪犬の戯をなし、太平記相摸入道また鬪犬の遊戯をなせし、犬醫師はをさ〳〵ものに見えねど、物理小識に、犬病を療治する方あり可レ考、
p.0181 宋朱弁曲浦舊聞曰、崇寧初、范致虗上言、十二宮神、狗居二戌位一、爲二陛下本命一、今京師有下以二屠狗一爲レ業者上、宜レ行二禁止一、因降二指揮一、禁二天下殺一レ狗、吿者賞錢至二二萬一ト、アヽ諛臣ノ言、天下ニ禍スル可レ惡、狗ニ因テ罪不辜ニ及ブ、徽宗ノ五國鷆死ル、不幸ニハアラズ、
p.0181 一元祿八亥年 東叡山下谷坂下〈壹丁目貳丁目三丁目〉犬毛付書上帳
一貳疋 内〈壹疋黑虎男犬壹疋赤ぶち男犬〉 主孫左衞門印 一壹疋 白男犬 主新右衞門印
一壹疋 白ぶち男犬 主五郎兵衞印 一壹疋 赤ぶち男犬 主重兵衞印
一壹疋 虎ぶち男犬 旅犬 一壹疋 赤男犬 同斷
一壹疋 同斷 同斷 一壹疋 赤男犬 同斷
一壹疋 白男犬 同斷 一壹疋 赤女犬 同斷〈○此下缺文〉
一赤黑絞女犬壹疋 權左(主付犬主)衞門印 一黑毛男犬壹疋 權之(主付犬主)丞印 一白赤絞男犬壹疋 彥兵(主付犬主)衞印
男犬拾七疋 女犬六疋 男子犬一疋 女子犬壹疋
犬數(三丁目)貳拾六疋内〈前々ゟ 調來 候犬十六疋町内養犬十疋〉
覺
町内に若主無犬參候節者、犬番人相改、近所の家抔其〈江〉早速主付養育仕候、食物之儀者、一日食椀にて朝夕一盃宛二度爲レ給、米に積り、外にも殘り物等集爲レ給可レ申候病犬に御座候節者、犬醫師五郎兵衞に見せ養生仕り、唯今者病犬、疲犬、疵犬、無二御座一候、 而犬憐之義、月行事之外家主其幷犬番人節々見廻り、鹿末に無レ之樣養育仕候、
一家之内ニ而子を產候節者、其所を圍養育仕候、家の外ニ產候節は其所を圍、亦者風雨に當り不レ申候樣ニ犬部屋へ入養育仕候、母犬不斷ゟ節々食物爲レ給可レ申候、子犬ころ有候上者、隨分入念、名主年寄月行事犬番其に節々見廻り、麁末ニ無レ之樣に仕候、
一友喰合候節者、犬番近所の者早々出合、水をかけ草箒にて分、强喰合候節者、籠をかぶせ分申候、一犬之義ニ付相替義御座候へば、御奉行所へ訴申上候、
右之書付之通、少も相違無二御座一候、若疲犬、病犬、疵犬隱居候哉と御尋被レ成候得共、左樣之義曾而無二御座一候、少も僞不二申上一候、以上、
元祿八年亥十月 市三(名主)郎印
長治(組頭)郎印〈○以下人名略〉
梶田彥右衞門樣
神谷又左衞門樣
右者(附紙)犬御改ニ付、壹町内に致二吟味一、無レ主旅犬之分者、銘々主付、御觸之通り隨分憐レ之養育仕 候、以上、
年月日〈○中略〉
一元祿九年十月三日、芝山一郎左衞門鳥見役ゟ御犬預被二仰付一、同年十二月十二日御役料五十俵被レ下、右之通、家督之節、中野、上役有レ之候得其、此頃御犬預を上役とも唱候と相見候と相見候事、以上、以下之差別未レ詳、
p.0183 元祿年中犬の御觸
元祿十五午年
覺
町方致二養育一置候犬、前々書出候外飼犬無レ之候哉、若書出候外有レ之、當六月頃より紛失いたし候 儀は無レ之候哉、町々名主共遂二吟味一、町年寄方へ書付差出可レ申候、以上、 午八月廿一日右御觸之趣、慥に承屆申候に付、町中家持は不レ及レ申、借屋店がり等迄爲二申聞一吟味仕候處、前方書上申候外に、私共町方に養育仕置候犬壹疋も無二御座一候、若隱置、脇より相知申候はゞ、何樣之曲事にも可レ被二仰付一候、爲二後日一連判手形差上申候、仍如レ件、 元祿十五年午八月廿一日
御奉行所
p.0183 元祿年中、殺生の禁甚しかりける時、芝邊にて犬を切しものしれざりしかば、疑しきものは、先執へて推問ありしかど、その證いまだ明らかならざる時に、薩摩の邸外に、手紙に血附たるありとて差出す、その名薩摩の臣なりしかば、町奉行に差出して問れしに、その士の云、窻の中にて髭を剃候とて、面を餘ほど切て候、手元に紙なくして、折から有合候ゆへ、反古にて血を 押拭ひ、窻に置しを、風の吹ちらして、窻の外へ落失候ゆへ、そのまゝにて置しとて、則疵をも見せつ、されども名の記したる紙に、血の附たれば、先吟味のうち、揚屋に往て居られよとありしかば、士云、某名記したる紙に血の付たるが落去り候は、運命に候、則御仕置に被二仰付一給るべし、揚屋へは得參るまじといふ、奉行これを聞て、もつともには候へども、證も跡もなきに、死罪に處すべき樣もなし、三度も吟味する法なればかく云たり、揚屋は旗本の面々も度々入置、事濟たる後少も恥辱なる事はなし、大法なれば入置ばかりなりとあり、士の云、さも有べく候へども、公儀は廣き事ゆへ、人々得申候なり、吾國は小國にて、心も小く候へば、一度左樣の事にあひ候ては、朋友みな交りも斷申事に候得ば、おのづから主人へも召使がたく候、左候はゞ、國をはなれ、他へ出る事は得せず候、いかなる死刑にも處せられ候へば、大幸に候、若事濟、出牢にては自殺より外なく候、此御情に、今日重科に處せられ給へと、くれ〴〵と云しかば、奉行にも古き大家の作法、さもこそ有べく候へ、と感歎して、然ば吟味の中、留守居中へ預り申され候へ迚、歸されつゝ、一兩度尋の上に濟たりしと、
p.0184 一來り犬之儀ニ付、訴訟申上候口上書之寫、
一傳通院門前町之者共申上候、此比町内ニ來リ御犬殊之外多御座候て、不斷かみあひ、晝夜共に、所之者、又は往來之者にほゑ掛り候に付、近所之者出合、追かけ申候得共、夜更候ては、道通り、又は所之者諸人難儀仕候、自然怪我も御座候ては如何と奉レ存候に付、御訴訟申上候、御慈悲に御移し被レ遊被レ下候樣、被レ爲二仰付一被レ下候はゞ難レ有可レ奉レ存候、以上、
寶永四年亥五月 月行持(傳通院門前) 市郎右衞門〈○以下人名略〉
御奉行所樣
p.0184 府犬 安倍郡府中に有り、駿府在番代々記云、寶永四年三月十日、御徒目付伊丹伊右衞門、大平彌五兵衞、御小人目付二葉源六郎、林田淸四郎、豐田勝藏、犬御用として到著、同十五日發足、犬百餘疋、江戸に牽云々、是府中及近郷の犬成べし、
p.0185 武州郡八幡村成田無二左衞門と云者、夜盜を業として、老後まで健に有ける、寶永のころ、江戸にて犬を殺せる者走り來り、賴みければ、犬切たる刀を取替遣し、壻のかたへ忍ばせけるを、搜出されて刑せらる、無二左衞門並壻ともに隱し置、殊に刀を取かへ遣したる科にて梟首されける、
p.0185 後三條院ハ犬ヲニクマセ給テ、内裏ニヤセイヌノキタナゲナルガアリケルヲ、取弃ヨト藏人ニ被レ仰タリケレバ、犬ヲ令レ惡給トテ、京中ヨリハジメテ諸國マデ犬ヲコロシケリ、帝キコシメシテ被レ驚仰ケレバ、又殺サズト云々、
p.0185 相摸入道弄二田樂一幷鬪犬事
相摸入道〈○北絛高時〉懸ル妖怪ニモ不レ驚、增々奇物ヲ愛スル事止時ナシ、或時庭前ニ犬共集テ嚙合ヒケルヲ見テ、此禪門面白キ事ニ思テ、是ヲ愛スル事、骨髓ニ入レリ、則諸國へ相觸テ、或ハ正税官物ニ募リテ犬ヲ尋、或ハ權門高家ニ仰テ是ヲ求ケル間、國々ノ守護國司、所々ノ一族大名、十匹二十匹飼立テ、鎌倉へ引進ス、是ヲ飼ニ、魚鳥ヲ以テシ、是ヲ維グニ金銀ヲ鏤ム、其弊甚多シ、輿ニノセテ路次ヲ過ル日ハ、道ヲ急グ行人モ馬ヨリ下テ是ニ跪キ、農ヲ勤ル里民モ、夫一一被レ執テ是ヲ舁、如レ此賞翫不レ輕ケレバ、肉ニ飽キ錦ヲ著タル奇犬、鎌倉中ニ充滿シテ、四五千匹ニ及ベリ、月ニ十二度犬合セノ日トテ被レ定シカバ、一族、大名、御内、外樣ノ人々、或ハ堂上ニ坐ヲ列ネ、或ハ庭前ニ膝ヲ屈シテ見物ス、于レ時兩陣ノ犬共ヲ一二百匹宛放シ合セタリケレバ、入違ヒ追合テ、上ニ成下ニ成、噉合聲天ヲ響シ地ヲ動ス、心ナキ人ハ是ヲ見テ、アラ面白ヤ、只戰ニ雌雄ヲ決スルニ不レ異ト思ヒ、智ア ル人ハ是ヲ聞テ、アナ忌々シヤ、偏ニ郊原ニ尸ヲ爭フニ似タリト悲メリ、見聞ノ准フル處、耳目雖レ異、其前相、皆鬪諍死亡ノ中ニ在テ、淺猿シカリシ擧動也、
p.0186 養ひかふ物には、馬牛つなぎ苦しむるこそ痛ましけれど、なくてかなはぬ物なれば、いかゞはせむ、犬は守り防ぐつとめ、人にもまさりたれば、必有べし、されど家毎にある物なれば、殊更にもとめかはずともありなん、
p.0186 一宿直に犬を用る事、日本武麻呂よりおこれるといふ、W 日本書紀
p.0186 一云、〈○中略〉是以火酢芹命苗裔、諸隼人等至レ今不レ離二天皇宮墻之傍一、代二吠狗一而奉事者也、〈○下略〉
p.0186 一禽獸類飼レ之事、〈○中略〉大師〈○空海〉以二二犬一爲二高野山使者一給、謂二大黑小白一也、或大白小黑云々、先德記有二此異一、
p.0186 雪車橇〈幷〉蝦夷の犬
船長中卷にカムサツカの事をいひて、此國冬は雪三丈五六尺計積る云々、扨そりに乘て犬に引せてありく也、雪舟をサンカと云木を二本竪に並べて、其上に巨撻やぐらのやうに組たて、中を高くして跨て乘らるゝやうに皮にて作りたるが、綱を付、其綱を犬五疋か六疋にてひかするに、よき犬を先に立、二側に立て引する也、後に立る犬はあしくてもよし、四辻にいたれば犬何方へかゆかんと差圖を待て居る時、カツ〳〵といへば左へ行、ホガ〳〵といへば右へ行、ヒロ〳〵といへば直に行也、アヽ〳〵といへば止る也、棒の本の方をとがらし、頭の方には錫杖のごとき銀の輪を付たるものを持て、木などに行當るか、又は傍へ寄過などする時は、その棒のもとにてこぢて直す也、犬のすゝまぬ時はそれを振上て、鐵輪をガラ〳〵とならせば、先に立たる犬進出る也、かくしても進兼る時は、エツカナイ〈ドロバウメなどいふ心也〉エヒヨーノマツ〈イマ〳〵シイヤツなどいふ事也〉ソバカ〈犬と云事也〉といひて、前に立たる犬を彼棒にて打ば、先に立たる犬かけ出すなり、先に立る犬はよき犬 をよく仕込たるならではよろしからず、雪の上のみを行なれば、其中にも人々踏ならして、一筋かたまりたる所を行に、もし傍なる和なる所へ半分かゝれば、雲車横さまに倒れて、人も横さまに落るを、犬はかまはずむしやうに引て行を、先に立て行人あればとめてくれる事也、下り坂になれば、彼棒を前へ押かひ、あひしらはざれば進み過る也、一軒の家にても、是は誰が犬彼はたが犬とて、銘々に食をあたへ飼置事也、食ハセリジ〈ニシンの事也〉を五六ヅヽ與フる也、遠方へ行時は前夜に八ツ九ツ計も食せ置て、其朝は先へ行つくまでくはせぬ也、はやく行てくはんとていそぐ也、按に犬に雪車を引すること蝦夷草紙、東遊雜記などにも見ゆ、
p.0187 畑六郎左衞門事
畑六郎左衞門ト申ハ、武藏國ノ住人ニテ有ケルガ、〈○中略〉彼ガ甥ニ所大夫房快舜トテ、少シモ不レ劣惡僧アハ、又中間ニ惡八郎トテ缺唇ナル大力アリ、又犬獅子ト名ヲ名タル不思議ノ犬一匹有ケリ、此三人ノ者共闇ニダニナレバ、或ハ 子甲ニ鏁ヲ著テ足輕ニ出立時モアリ、或ハ大鎧ニ七ツ物持時モアリ、樣々質(テダテ)ヲ替テ敵ノ向城ニ忍入、先件ノ犬ヲ先立テ城ノ用心ノ樣ヲ伺フニ、敵ノ用心密(キビシク)テ難レ伺レ隙時ハ、此犬一吠吠テ走出、敵ノ寢入夜廻モ止時ハ、走出テ主ニ向テ尾ヲ振テ吿ケル間、三人共ニ此犬ヲ案内者ニテ、屏ヲ乘越、城ノ中へ打入テ、叫喚テ縱横無礙ニ切テ廻リケル間、數千ノ敵軍驚騷テ城ヲ被レ落ヌハ無リケリ、夫犬ハ以二守禦一養レ人トイへリ、誠ニ無レ心禽獸モ、報恩酬德ノ心有ニヤ、
p.0187 信玄公御時代諸大將之事
一武州岩つきの住人太田源五郎、後に太田美濃と云、此者幼少より、犬ずきをする、ある年武州松山の城を取もつ、己が居城は岩つき也、然れば松山にて飼たてたる犬を、五十疋岩付にをき、岩付にて飼たてたる犬を、五十疋松山におく、各の沙汰に太田美濃はうつけたる者也、稚者のごとく、 犬にすかるゝと申あへり、或時岩付の城に、美濃守在レ之刻、松山にて一揆以外にをこり、北條氏康公御出馬たるべしと有しに、岩付へ使者を立てんには、路次ふさがりて、五騎三騎にては叶はじ、十騎とやらば、松山に人數すくなし、況んや飛脚は叶ふまじきに、内々隱密にて、前の日美濃守留主居の者にをしへたればこそ、文をかき竹の筒を手一束に切て、此狀を入、口をつゝみ犬の頸にゆひ付て、十疋はなしければ、片時の間に岩つきへ、其文を犬共持來る、さる間美濃守やがて松山へ後詰をする、一揆其見レ之、速に岩付へ聞へ、うしろづめをしたるは、希代不思儀の名人かなと不審をなし、爾來松山に一揆發事なし、是は太田三樂と申す者也、
p.0188 三年十月乙酉、詔、犬馬器翫、不レ得二獻上一、
p.0188 横川永慶法師
沙門永慶、覺超僧都弟子、楞嚴院住僧也、宿善所レ催、志在二法華一、受持諷誦、累二年月一矣、乃至於二本山一籠二箕面瀧一、夜在二佛前一誦經拜禮、左右人々睡臥同夢、老狗高音吼、立居禮レ佛、夢覺驚見、沙門永慶擧レ音禮拜、以二此夢一語二永慶一、比丘聞己欲レ知二事緣一、七日断食籠レ堂祈念、至二第七日一、夢龍樹菩薩現二宿老形一吿云、汝前生身是耳垂大狗(○○○○○)也、其狗常在二法華經持者房一、晝夜聞二法華一、因二其善力一轉二狗果報一、感二得人身一、誦二法華經一、餘殘習氣在二汝身心一、是故夢見二狗形禮佛一耳、比丘夢覺、深懷二慚愧一、羞二歎宿業一、尋二有緣所一、留レ跡止住、誦二法華經一、勤二六根懺一、以二今生善一、遙期二菩提一、願不レ還二三途一、必生二淨土一矣、
p.0188 嘷〈○中略〉 唐韻云、〈○中略〉吠〈符廢反、已上三字(嘷、吼、吠)訓皆保由、〉犬聲也、
p.0188 すさまじきもの
ひるほゆる犬
にくきもの
しのびてくる人見しりてほゆる犬は、うちもころしつべし、〈○中略〉 犬のもろこゑに、なが〳〵と なきあげたる、まが〳〵しくにくし、
p.0189 犬の聲をべう〳〵といふは、彼遠吠するをいふなるべし、猿樂狂言にもみえたり、又卜養が狂歌集に、いぬまもちといふものを出しけるに、べう〳〵と廣き庭にてくひつくは白黑まだらいぬま餅かな、望一千句、古宮はびやう〳〵とあれ秋さびし狐を犬の追まはりぬる、夷曲集に、犬櫻みてよむ歌は我ながらしかるべうともおもほえず候、土佐國人は今も犬の聲をべうべうといふ、又べか犬とは、めかゝうしたるやうの犬の面なればいふにや、埋草〈寬文元年成安撰〉堺云也、獨吟千句、〈半井ト養落髮千句なり〉くれもぜぬ花一枝を所望してのぞいてみればべゐか紅梅、垣の内に日も永べえの犬ふせり、因果物語に、べか犬をつれて來れり、又べいかともいへり、是をおもへば、吠狗の訛れるもしるべからず、續山井、珍花とてあいすべいかの犬ざくら、重昌珍花は菻狗(チン)を含めり、中井竹山が茅草危言に、狗の子をべかと云といへり、子狗には限るべからず、
p.0189 尾を振て物を乞
俗に尾を振て物を乞といふは、犬にたとへたる詞也、輟耕錄十五〈十七丁オ〉に、若二喪家之狗垂レ首貼レ耳搖レ尾乞一レ憐と有、
p.0189 陸奧國府官大夫介子語第五
此父ノ介沙汰有事有テ、御館ニ有テ、久ウ家ニ不レ返リケル程ニ、繼母此郎等ヲ呼取テ云ク、此ニ人數有レ共、見タル樣有テ、汝ヲ殊ニ哀レニストハ知タリヤ、郎等ノ云ク、犬馬ソラ哀ニ爲ル人ニハ尾不レ振樣ヤハ候フ何ニ申シ候ハムヤ、人ニ取テモ己ハ喜キ事ヲバ喜ビ、㑋キ事ヲバ㑋トコソハ思ヒ被レ取候ニ、无レ限御顧ノ替ニハ生死モ只仰ニ隨ハントコソハ思ヒ給へ候へ、〈○下略〉
p.0189 けし〳〵とて犬をかくるをけ、しかくるといふ、古きことゝ見えて、筑波集〈西音法師〉我心なたね許に成にけり人くひ犬をけしといはれて、
p.0190 犬のさんた
犬にさんたせよ〳〵といへば、前足をあげてとびつく事のありしが、他國はしらず、江戸にてさる戯をする者を見ず、手をくれといふが、此餘波ともいはん歟、
p.0190 矮狗(チン)
p.0190 犬名
㹻(チン)〈玉篇犬名、本作レ猧、集韻小犬、〉 猧子(チン)〈酉陽雜爼、天寶中、上嘗於二夏日一、與二親王一棊、貴妃立二於局前一觀レ之、數子將レ輸、貴妃放二康國猧子於坐側一、猧子乃上レ局、局子亂、上大悦、又見二天寶遺事一、〉 猧兒(チン)〈高啓詩猧兒偏吠レ客、板橋雜記、猧兒吠レ客、鸚歌喚レ茶、〉 雪猧兒(シロキチン)〈佩文韻府、康彥登詩、簾前驚起雪猧兒、〉 嬌猧〈元微之詩、嬌猧睡且怒、〉 拂菻狗(チン)〈唐書、高昌直二京師西一、四千里而贏、武德中獻レ狗、高六寸長尺、能曳二馬銜燭一、云出二拂菻一、中國始有二拂菻狗一、按高六寸長尺、白孔六帖、作二高六尺長數尺一者誤、淵鑑類函引二舊唐通典一、唐武德中、高昌王文泰獻レ狗、雌雄各一、高六寸長尺餘、性甚慧、能曳二馬銜燭一、云本出二拂菻國一、中國有二拂菻狗一自レ此始也、〉 馬鐙狗(ン)〈留靑日札、馬鐙狗長四五寸、可レ藏二之馬鐙中一者、唐高祖時、高昌獻レ狗、高六寸長尺、能曳二馬銜燭一、云出二拂菻國一、中國始有二拂菻狗一、菻或作レ森、〉 羅江(チン)〈犬古今詩話、淳化中、合州貢二羅江犬一、甚小而性慧、常馴二擾於御榻之前一、毎レ坐レ朝、犬必掉レ尾先吠、人乃肅然、太宗不豫、犬不レ食、及二上仙一、犬號呼涕泗、以至二疲瘠一、章聖初卽レ位、左右引令二前導一、鳴吠徘徊、意若レ不レ忍、章聖令二論以奉一レ陵、卽搖レ尾飮食如レ故、詔造二大鐵籠一施二素裀一、置二鹵簿中一、行路見者隕レ涕、後因以斃、詔以二敝蓋一葬二於煕陵之側一、〉 羅江狗(チン)〈東軒筆錄、慶曆中、衞士有レ變、震二驚宮掖一、臺官宋禧上言、蜀有二羅江狗一、赤而尾小者、其警如レ神、願養二此狗於掖庭一、以警二倉卒一、時人謂二之宋羅江一、〉 波斯犬(チン)〈池北偶談、嘗於二慈仁寺市一、見二一波斯犬一、高不レ盈レ尺、毛質如二紫貂一、聳耳尖喙短脛、以二哆羅尼一覆二其背一、云通二曉百戯一、索レ價至二五十金一、亦朱太宗桃花犬之屬也、〉 波斯狗(チン)〈北史齊南陽王綽傳、綽留二守晉陽一、愛二波斯狗一、淵鑑類函引二三國典要一、齊高緯以二波斯狗一爲二赤虎儀同逍遙郡君一、飼以二粱肉一、食二縣邑一、常於二馬上一、設二蹬褥一以抱レ之、〉 短狗(チン)〈汲冡周書註、短狗狗之善者也、廣東新語、獸則獴 短狗、〉 西洋狗(チン)〈嶺南雜記、西洋狗、小者最貴、有二黑者一、有二黃者一、鬼子輿レ之同二飮食寢處一、又有三一種稍大而毛長尺許、深目短喙、狀如二獅子一、尤獰醜、〉
p.0190 拂菻狗、日本紀略に、契丹大猲二口、㹻子二口と見えたり、㹻子是なら大猲は俗にいふ唐犬なるべしといへれど、㹻子一本には猱子ともありて、定かならず、近くはいつの頃わたりしか、續山井の發句〈○珍花とてあいすべいかの犬ざくら、重昌、〉は、これをいへりと見ゆ、安澹泊答寒川儀太郎手簡、さつまより出候犬の一種ちんと申候、正字御尋にござ候、すべてかうやうのこと心に留不レ申、一切覺不レ申候、北齋書通鑑に有レ之候、東魏孝靜帝高澄に逼られ、朕々狗脚朕と申され候は、近代の落しば なしに能合申候儀と、日ごろ戯言に申出候迄にござ候とあり、これもとよリチンの名義にはあらず、をかしきことなれば、こゝに錄す、さてチンの名義、例の押あてながら、犬に似て小きもの故、ちいといひしが、チソとなりしにや、近時チンも位を給はりしと云る物がたりあり、耳袋に、天明九年、ある大名衆、上京のことありしに、常に寵愛のチン、あとをしたひて付隨ひしかば、やむことを得ずして召つれしことさたありて、天聽に入ぬれば、畜類ながら、主人の跡を慕ふ心あはれなりとて、六位を賜はりしとかや、これを聞て、何者か喰ひ付犬とは兼て知ながらみな世の人のう〳〵やまわん、根なしことには有べけれど、其節處々にて取はやしけるまゝしるすといへり、
p.0191 天長元年四月丙申、契丹大狗二口、㹻子二口在前進之、
p.0191 ちん犬
婑犬をチンといひて、狆字をあてたれど非なり、狆は字書に狂也とありて、くるふ事なり、小犬のチンは字音にあらず、ぢいぬの音便にて、ぢいぬはちいさいぬの略なり、もと皇朝の物ならねば、名はなかりしなり、類聚國史に、〈○中略〉契丹大狗二口、㹻子二口在前進之、これ皇朝に婑犬わたりたる始なり、
p.0191 此頃狆の名とて、人の見せけるをみれば、
壹まい黑 壹まい白 白黑ぶち 目黑 鼻黑 赤ぶち 栗ぶち かふり むじな毛
耳は大耳べつたりだれ 毛なが 毛づまり
當世は〈地ひくの毛長流行申候〉
上田すじ こくすじ 冶郎すじ 小田すじ 大島すじ
p.0191 一夫狆は、いにしへ交趾國より渡り候て、交趾の狗ゆへ、交趾狗と申候、いつの頃よりか、毛ものへんに中と、中文字にて、狆と善ならわし申候、又かぶりと申は、阿蘭陀人持渡り候、水犬と も申候、水くゞり候事はしつけ不レ致候得ば、相成不レ申、右のかぶりを、江戸にて毛長の狆にかけあわせ候てがぶり亦は毛長半毛長抔いでき候ものゝ御座候、唯今におらんだかぶり持わたり御座候得共、とかく大かぶりにて、かたち見ぐるしく、又薩摩種と申、四足のみぢかき狆、かをなぞもなれ〳〵して、地犬のちいさきかたち御座候へ其、是は近年かたちあしきゆへに、もてあそび不レ申、おり〳〵まへあしのひらきぢひくなる、毛つまりかたちあしき狆、時といたし候と、見當り申候事も候へ共、是右は薩摩種と存候、まことなるさつま犬御座なく候、三拾年程いぜんには、鹿だちと申、毛の至極につまり、四足はほそく、 たひじんじやうにて、すつかりといたし候て、 體身ぎれひなるゆへに、狆もはやり、近頃は四足みぢかくて、ほそく、じんじやうにて、まる〳〵といたし候狆、人々もてあそび申候、右の形ちの狆は、おふ方半毛長なるものにて、ほん毛づまりは無二御座一候、上田筋と申は、前にしるし候鹿立にて、いかにもじんじやうにて、白赤のぶちか、亦は白黑ぶちの毛のはへぎはしつかりとまことにすりたるよふになり、ぶちも日の丸と申て、白赤黑ぶち成り候ても丸くなり候、ぶちとかくぶちの内にも、一ツそこらはせひ出申候ものにて、しつかりとわかり、頭のかまへも、口もじんじやうにて、目のはりよく、耳はあふきく、たれ候てこれなく、半分たれ候かたおふく御座候、しかし半たれにても、大きくたれ候よりは、かたちよく見へ申候、一體品よく御座候、此外江戸にて掛合せ、上田筋、大島すじ、溜屋筋、平松すじ、淺草さんやすじなぞと申て、いろ〳〵御座候へ共先は上田すじ宜御座候、狆は渡りは勿論、京大坂長崎其外の國々にも、江戸にて出來候狆程、ちいさくじんじやうなるは無二御座一、とかく狆は、平常かゐしつけよく致し、さかりつき、かけ候節も、狆のすじを見わけ合せ、子狆の内より、兩便のしつけくせのつき不レ申樣致し、奇麗に致し候事、かんよふに御座候、近年は所々に狆多く御座候得共、二三拾年以前と違ひ、飼方しつけ、ゑかひとふ惡敷がけあわせ惡敷になり候也あまりよき狆も出來不レ申療治かたも、 平常のかいかたにて、藥なぞもよくきゝ、あまりやみ候事もなきものに御座候療治、狆の樣子をとくと考へ、藥は用ひ申候、先あら〳〵斯の如し、
一男狆は、生れてより拾五ケ月目あたりより、女狆にかけ申候、初めかけ候節は、一度かけ、一日あひを置かける、其節隨分かい方つよく、ゑがひいたし候、尤夫より三ケ月四ケ月もあいを置かけ申候、とかく狆あせりのつかぬ樣に、かゝりぐせのつかぬ樣に致す事口傳あり、
一女狆は、生れてより丈夫なる狆は、九ケ月め十ケ月あたりに初さかりつくものなり、よわき狆は、十一ケ月より四五ケ月ぐらゐ迄にさかり付も有レ之、初さかりは、まづは一ツかけおきとふすがよき方、はつさかりよくかいこみかける時は、うみ候事もよく、段々かいかた口傳あり、
一女狆は、さかりつきてより、十四日めあたりより、男狆にあわすべし、又十二日めぐらひより、男狆このむもあり、これはさかりのつき候を見そこなひと存候、さかりの内に、早遲いろ〳〵あり、さかりのつき候前に、開(かゐ)の口より白き物出、かゐをとぢる事、其の前三四日もすぎ、ほんものになる、夫より二七日ぐらひも立て、男狆にさかり候ものなり、
一女狆は、かゝり候て、かけとめの日より六十一日めには、產とこゝろふべし、かけはじめの日より六十日にうむもあり、是は初めより毎日一ツ宛三日かけ候へば、是かけとめより、五十七日目ぐらひにあたるゆへ、そだち候得ば、かけはじめより五十七日目にうむ時は、まつ日も不足ゆへ、そだつ事さだかなり、
一うみまへに、不食なぞいたし、病氣の節用ひ候藥法しるし候、
一山査(さんざし) 貳分 一縮砂(しゆうしや) 同 一香附子(かうぶし) 同 一甘草(かんぞう) 少し 一黃蓮(おふれん) 壹分
右せんじ用ひ、又はんごん丹なぞ用ひてよし、奇應九は忌むべし、又、香砂(かうしや)平胃歡なぞ、烏藥(うやく)を加 へせんじ用ゆ、狆は魚のどくあたる事多くあるもの故に、山査子(さんざし)は少し宛も加へるがよし、 ○按ズルニ、本書ノ奧書ニ、或云ク、舊幕府時代麹町貝坂邊ニ、狆醫者アリ、是蓋シ其者ノ著述ナラントアリ、
p.0194 家狸、一名猫、和名禰古末、
p.0194 猫 野王按、猫〈音苗、和名禰古萬、〉似レ虎而小、能捕レ鼠爲レ粮、
p.0194 本草和名同訓、或省云二禰古一、新撰字鏡、狸禰古、按、狸一名猫、見二本草和名一、下總本句末有二者也二字一、今本玉篇犬部作二猫食レ鼠也一、慧琳音義一引、作下猫似レ虎而小、人家所二養畜一、以捕レ鼠也上、一引、作二似レ虎而小、人家畜養令一レ捕レ鼠、一引、作二猫如レ虎而小、食レ鼠者也一、各有二小異一、郊特牲云、迎レ貓爲三其食二田鼠一也、太平御覽引二尸子一云、使二牛捕一レ鼠不レ如二貓狂之捷一、莊子秋水篇云、騏驥驊 、一日而馳二千里一、捕鼠不レ如二貍狌一、爾雅翼、貓小畜之猛者、性陰而畏レ寒、雖二盛暑一在二日中一不レ憚、鼻端四時冷濕、惟夏至卽温、目睛早晩員、日中如レ線就レ陰則復レ員、李時珍曰、貓捕レ鼠小獸也、處々畜レ之、有二黃黑白駁數色一、貍身而虎面、柔毛而利齒、按説文無二猫字一、爾雅虥貓、説文引作二虥苗一、則知古借用二苗字一、
p.0194 猫〈俗通貓正莫交、ネコ、カラネコ、〉
p.0194 貓〈正猫俗、莫交反、ネコ、音苗、〉
p.0194 新華嚴經音義第七十八卷
猫狸〈上又作二 字一、亡朝亡包二反、下力其反、猫、捕レ鼠也、貍狸也、又云野貍、倭言上尼古、下多々旣、〉
p.0194 猫(ネコ)〈鼻常冷、夏至一月暖、旦暮目晴圓、午時細如レ線、毛色似レ虎、故呼、世俗曰二於菟一、則喜矣、〉
p.0194 如虎(ネコ)〈猫〉
p.0194 猫 ねはねずみ也、こはこのむ也、ねずみをこのむけもの也、一説、猫はよくねるをこのむ意か、順和名抄にねこまと訓ず、まとむと通ず、このむのむの字也、のを略せり、
p.0194 猫ネコマ〈○中略〉 子とは鼠也、コマとは、コマといひ、クマといふは轉語也、鼠の畏るゝ所なるを云ひし也、卽今俗にネコといふは、其語の省ける也、
p.0195 一ねこまを略してねこといふ、こまといふも略言なり、
p.0195 猫ネコマ鼠子待(ネコマチ)の略か、鼠の類につらねこといふあれば、ねことのみいふは略語の中にことわり背くべし、猫の性は、鼠にても鳥にてもよくうかゞひて、かならず取り得んと思はねば、とらぬものなり、よりて待ちとつけたるか、
眞淵(頭註)云、たゞ睡獸の略なるべし、けものゝ反となり、或人、苗の字につきて、なへけものかといへ るはわろし、
p.0195 まみ穴、まみといふけだものゝ和名考幷にねこま、いたち和名考、奇病、〈附錄〉
著作堂主人稿
猫は和名鈔〈毛群部〉に、和名禰古萬なり、しかるに中葉より下略して、禰古といへり、枕草紙〈翁丸の段〉に、うへにさふらふおんねこは云々といひ、又源平盛衰記〈義仲跋扈の段〉に、猫間中納言の猫に、間の字を添へたり、こは猫一字にてはねこと讀む故に、猫間と書きたるなり、これふるくよりねこまといはず、ねことのみ唱へ來れる證なり、しかれども彼を呼ぶときは、上略してこま〳〵といふ事、枕草紙〈これも翁丸の段〉に見えて、今も亦しかなり、いづれまれ略辭なれば、物にはねこまと書くこそよけれ、契冲雜記に、猫はねこま、鼠子待(コマチ)の略歟、鼠の類につらねこといふあれば、ねこといふは略語の中に、ことわり背くべし、猫の性は鼠にても、鳥にても、よくうかゞひて、必とり得んと思はねばとらぬものなり、よりて待とつけたる歟といへり、その書の頭書に、眞淵云、ねこはたゞ睡獸(ケフリケモノ)の略なるべし、けものゝけの字反、コなり、ある人苗の字につきて、なづけしもの歟といへるはわろしといへり、解、按ずるに、兩説共にことわりしかるべくもおぼえず、鼠子待は求め過ぎたる憶説なれば、今さら論ふべくもあらず、ねむりけものゝ義といへるも、いかにぞやおぼゆ、大凡睡を好むけものは、猫にのみ限らず、狸狢、鼬の類、みなよく睡るものなり、わきて陽睡をたぬきねむりと唱へて、ね ふりの猫よりたぬきむじなのかたに名高し、是この和名に、ねもじをかけて唱へざりしをもて、ねこまのねも、けむりけものゝ義にあらざるを知るべし、さばれ狸狢の類は、眞の睡りにあらず、そらねむりなれば、ねといはずといはん歟、猫とても熟眠は稀にて、多くはそらねむりなり、かれがいざときをもて知るべし、且けものゝけの字反、コなりとのみいひて、下のマの字を解かざるはいかにぞや、前輩千慮の一失歟、いと信じがたき説なり、按ずるに、猫をねこまと名づけしは、さうる〳〵よしにあらずかし、猫はねと鳴くけものなれば、ねこまと名づけたり、〈猫のねう〳〵となくよしは、翁丸の段に見えたり、〉是もこまのコはケと五音通へり、マとモと是も音かよへり、コマはケモにて、けものゝノを略したり、う〳〵是ねと鳴くけものといふ義にて、ねこまといへり、〈今も小兒は、猫をにやあにやあといふ、その義自然とかなヘり、〉かゝればねことのみいへば、ネけなり、こまとのみいへばケもなり、〈のゝ字を略せり〉いづれも略語の中にことわり背くといふべからず、然れども、ねこまといふにますことなし、又鼠の類なるつらねこのねこは、ねこまのねことおなじかるべくもあらず、こはよく考へて追ひしるすべし、又鄙言に猫の老大なるものを、ねこまたといへり、この事つれ〴〵に見えたり、又くだりて貞享中の印本、猫又つくしといふ繪草紙あり、又今川本領猫股屋敷といふふるき淨瑠璃本もあり、このねこまたは、丸太にこたなどの如く、ねこまにたを添へて唱ふるにはあらで、猫岐(マタ)の義なるべし、猫の老大に至りて、變化自在なるときは、尾のさきに岐いで來て、ふたつに裂くることありといへば、老大にて岐尾なるものを、ねこまたといふ歟、こはまたくさとび言なり、又按ずるに、猫は貓に作るを正しとす、埤雅に、陸佃云、鼠善害レ苗、貓能捕レ鼠、故字从レ苗といへり、ねこまをなへけものの義といへるは、これより出でたり、すべて字體によりて、和名をとくものは附會なり、信ずるに足らず、
p.0196 猫 猫は惡獸にて、牛馬犬猿雞の類にあらねど、鼠といへる賊獸を征伐する事、猫にしくものなし、禮記に、迎レ猫爲三其食二田鼠一也といひ、説苑に、騏騄駬倚レ衡負䡇、而趨一日千里、此至疾也、然使レ捕レ鼠、曾不レ如二百錢之狸(○)一云々とある狸は則猫なり、和名抄に、猫、禰古万、似レ虎而小、能捕レ鼠爲レ粮とあり、家猫(○○)ともいへり、
p.0197 猫ねこ 上總の國にて山ねこ(○○○)と云、〈これは家に飼ざるねこなり〉關西東武ともにのらねこ(○○○○)とよぶ、東國にてぬすびとねこ(○○○○○○)、いたりねこ(○○○○○)ともいふ、
ま(夫木集)くず原下はひありくのら猫のなつけがたきは妹がこゝろか 仲正
この歌人家にやしなはざる猫を詠ぜるなり、又飼猫を東國にてとら(○○)と云、こま(○○)といひ、又かな(○○)と名づく、
今按に猫をとらとよぶは、其形虎ににたる故に、とらとなづくる成べし、和名ねこま下略して ねこといふ、又こまとはねこまの上略なり、かなといふ事は、むかしむさしの國金澤の文庫に、 唐より書籍をとりよせて納めしに、船中の鼠ふせぎにねこを乘て來る、其猫を金澤の唐ねこ と稱す、金澤を略してかなとぞ云ならはしける、〈○中略〉今も藤澤の驛わたりにて、猫兒を囉(もら)ふに、 其人何所猫にてござると間へば、猫ぬし、是は金澤猫なりと答るを常語とす、〈○中略〉又尾のみじ かきを、土佐國にては、かぶねこ(○○○○)と稱す、關西にては牛房(ごん /○○)と呼ぶ東國にては、牛房尻(ごぼうしり/○○○)といふ、東鑑 五分尻(ごぶじり/○○○)とあり、
p.0197 から猫(○○○)のいとちいさくおかしげなるを、すこしおほきなる猫のをひつゞきて、俄にみすのつまよりはしり出るに、人々おびえさはぎて、そよ〳〵とみじろきさまよふけはひども、きぬの音なひみゝかしましきこゝちす、猫はまだよく人にもなつかぬにや、つないとながくつきたりけるを、ものにひきかけまつはれにけるを、にげんとひこしろふ程に、みすのそばい とあらはにひきあげられたるを、とみにひきなをす人もなし、
p.0198 春宮に參り給て、〈○柏木、中略、〉六條の院のひめ宮の御かたにはべるねここそ、いとみえぬやうなるかほして、おかしうはべりしか、はつかになんみ給へしとけいし給へば、ねこわざとらうたくせさせ給御心にて、くはしくとはせ給ふ、から猫のこゝのにたがへるさましてなんはべりし、おなじやうなるものなれど、こゝろおかしく人なれたるは、あやしくなつかしきものになん侍るなど、ゆかしくおぼさるばかりきこえなし給、
p.0198 猫ヲ乙(ヲト/○)ト云ハ何ノ故ゾ
虎ヲ於莵(ヲト)ト云也、然ニ猫ノ姿幷ニ毛ノ色似レ虎、故ニ世俗猫ヲ呼テ於莵(ヲト)ト云ヘバ、猫則喜ト云り、〈○中略〉猫ヲ差シテ虎ノ名ヲ呼ハ悦コブ覽、サモアリヌベキ事也、猫ハ鼻常ニ冷シ、夏至ノ日一日ハ暖カ也、 ベテ旦ト暮ベト目睛圓シ、午ノ時ハ細クシテ如レ線ト云リ、
p.0198 手飼の虎(○○○○) 山猫(○○)
虎と猫とは、大小剛柔ははるかに殊なりといへども、その形狀の相類すること絶えてよく似たり、さればわが邦のいにしへ、猫を手がひの虎といへること、古今六帖の歌に、
あさぢふの小野のしの原いかなれば手がひのとらのふし所なる、また源氏物語女三宮のくだりに見えたり、唐土の小説に、虎を山猫といふこと、西遊記第十三回、韜二虎穴一金星解レ厄といへる條に、伯欽道風响、是個山猫來了云々、只見二一隻斑爛虎一とあり、形似をもて互に異名とすることおもしろくおぼえたり、
p.0198 猫
集解、源順曰、似レ虎而小、能捕レ鼠爲レ粮、必大○平野謂、本邦古來宮中多愛レ之、頸纏二錦繡一、著二金鈴一、或名レ之、以二美稱一喚、懷抱弄レ之、有二黃白黑駁數色一、貍身虎面柔毛利齒、以二長尾短腰上齶多レ稜者一爲レ良、能捕レ鼠、凡捕レ鼠得 レ一先囓而半殺、又捕二他鼠一如レ初、譬雖レ當二數十一、亦不レ倦、此俗稱二逸物一、若得レ一先食二盡之一、而及レ他者次也、其中有レ不レ喜レ捕レ鼠、惟晝夜潜行、窺二鷄鴨鳩雀之雛一、竊二殘肉餘腥之肴一者、此猫中之貪賊而不レ足レ言、若レ斯之類、必性如レ愚、而偸二人之眼一、以捕レ物去、潜二器之陰處一而不レ出、故俗稱下人之匿二心中之貪欲一、而不レ露二于外一者上、曰二猫根情一也、冬至後初乳、至二夏至後一孕而生レ子、此號二夏子一、初秋後初乳、至二初冬後一孕而生レ子、此號二冬子一、兩月而生、一乳數子、復有二自食レ子者一、此畜類之性也、春雄呼レ雌而乳、秋雌呼レ雄而乳、是陽升迎陰、陰下興レ陽之義乎、猫睛如レ線、如二月之弦一、李時珍詳論レ之、予亦試レ之、以知二其實一、猫性喜レ煖 レ寒、各春之際、必眠二爐邊一、踞二負暄一、或倚二人之膝腰一、夏月亦似レ不レ苦レ暑、是陰類所二以固然一乎、凡老雄猫作レ妖、其變化不レ減二狐狸一、而能食レ人、俗呼稱二猫麻多一、其純黃毛純黑毛最作レ妖、惟於二暗處一、以レ手逆撫二背毛一、則放レ光如二火點一、是所二以爲一レ恠也、近聞、患二老痰久喘一者好食レ之、曰猫肉味甘膩、烹レ之則泛レ脂、生二小團子一、深靑澄徹如レ玉、其味尤甘美、能下レ痰定レ喘、予未レ試レ之、
p.0199 貓 ネコマ〈和名鈔〉 コマ〈同上〉 アサクサマヌ〈古歌〉 カラネコ〈同上〉
トラ〈東國〉 カナ〈同上〉 ネコ 一名貍奴〈卓氏藻林〉 女奴〈採蘭雜志〉 虎舅〈劒南詩稿〉 鼠將〈淸異錄〉 貍 〈事物紺珠〉衘蟬奴〈同上〉 玉狻猊〈異名事物〉 紅叱撥 衘蟬〈共同上〉 家豹〈故事成語考〉 黑貓、一名烏園、〈名物法言釋名ノ烏圓同、〉白貓、一名白雪姑、〈淸異錄〉 白老〈唐餘錄〉
貓ノ毛色一ナラズ、秘傳花鏡ニ、以二純黃、純黑、純白者一爲レ上、人多美二其名一、曰靑葱、曰叱撥、曰紫英、曰白鳳、曰錦帶、曰雲圖、如二肚白背黑者一名二烏雲一、蓋雪身白尾黃或尾黑者、名二雪裏一、拖鎗四足皆花及尾有レ花、或貍色或虎斑色者、謂二之纏得過一ト云、黑猫ヲ暗夜ニ逆ニ撫ル時ハ光ヲ生ズト云、酉陽雜爼ニモ、黑者暗中逆二循其毛一卽若二火星一、俗言猫洗レ面過レ耳則客至トアリ、集解ニ、或云、其睛可レ定レ時、子午卯酉如二一線一、寅申巳亥如二滿月一、辰戌丑未如二棗核一、本邦俗歌ニ六圓ク四八瓜子五ト七ト卵形ニテ九ハ針ト云、琅邪代醉ニ、有レ人授二予占貓睛法一曰、子午線、卯酉圜、辰戌丑未杏仁尖、寅申己亥棗核樣ト云、事物原始ニ、子 午一線、卯酉正圜、辰戌丑未棗核尖、寅申巳亥銀杏樣ト云、集解トハ小異アリ、凡猫晝眠ルモノハ夜善鼠ヲ捕フ、晝眠ラズシテ食ヲ求ルモノハ夜鼠ヲ捕ルコト能ハズ、俗ニノラネコト云、徐氏筆精ニ、猫不レ捕鼠者名二麒麟猫一ト云、又俗ニ老猫尾岐ヲ成シ、人ヲ魅スルヲマタネコト云説アリ、酉陽雜俎及月令廣義ニ、金華猫ヨク人ヲ妖スルコトヲ云ヘリ、金華ハ地名ナリ、集解ニ、貓死引レ竹ト云ハ、死猫ヲ竹林ノ邊ニ埋ムレバ、ソノ處へ竹生ジ來ルコトナリ、
p.0200 ねこ〈○中略〉 猫の眼は十二時にかはり、鼻は夏至の一日あたゝか也といへり、
p.0200 世上ニ牡丹ノ下ニ猫ノ眠リ居ル圖ヲエガケル多シ、是亦彼圖ノ元來ノ起リニ相違セリ、彼圖ノ猫ハ睡ラスル筈ニテハ無シ、本右ノ圖ハ唐ノ時、或人サル能畫師ニ正午ノ牡丹ヲ圖シクレヨト賴ミシニ、右ノ畫師、牡丹ヲエガクハ易キコトナレドモ、日中正午ノ趣ヲイカヾシテ畫キ寫サンヤト、色々工夫ヲメグラシテ思ヒ付キ、牡丹ノ傍ニ猫ヲアシラヒ、其猫ノ眼ヲ正午ノ眼ニエガキテ、ソレニテ正午ノ牡丹ト云フ所ヲアラワセシナリ、左スレバ右ノ圖ノ猫ハ、眼コソ專一ノ主ナルニ睡猫ニエガキテハ何ノ面白キコトモ無シ、
p.0200 むじなたぬき〈○中略〉
佛庵老人の云、日光鉢石町の人の話に、黑猫(○○)にも月の輪めきたるものありて、月の盈闕により て、あるとなきとありとかたりしが、今熊の事につきて思ひ出だしぬとかたられき、
乙酉三月 海棠庵
美成云、右佛庵翁の黑猫と、熊と似たる話、世人のかつてしらざる事にて、いと珍らし、又猫と虎とは形狀もよく似て、歌にも猫を手がひの虎などよめり、しかるにその所爲も亦おなじき事あり、無寃錄〈卷下八十二丁〉云、虎咬死云々、一云、月初咬二頭頂一、月中咬二腹脊一、月盡咬レ足、猫咬レ鼠亦然、これらうきたることにあらず、奇といふべし、 解云、象と熊とは、その膽四時にしたがひて、その在る所の異なるよしさへ、古人辨じおきたれば、右の月の輪の説などもことわり、或はさるよしあらん、しかれども猫と熊とはおなじかるべくもおぼえず、めのをんなのわかゝりし時、好みて黑猫をかひしこと、年ごろをふるまゝに、その年年にうませし子も、多くは黑猫なるをもて、これらのうへは、予もよく知れり、しかるに、黑猫毎に胸のあたりに、月の輪めきたるものあるにあらず、稀にはあるもあれど、そは黑白のぶちなれば、熊の月の輪に類すべからず、いかにとなれば、熊はすべて雜毛なく、猫には雜毛多ければなり、かかれば鉢石なる人の説も、ひたすらにはうけがたく、無寃錄に載せたる説も、必とすべからず、虎は皇國になきものなれど、猫の事は知り易かり、大約猫の鼠をとるに、必先その吭(ノドブエ)を拉きて、半死半生ならしめつゝ弄ぶこと半時ばかり、旣に啖はんとするにおよびて、必鼠の頂より咬ひはじめて、扨全身を盡くすものなり或は巢たちせし雛鼠などをば、只一口にくらふことあり或は多くとり得し時、又は大鼠にして、飽く時は、その頭頂より咬ひはじめ、その足より啖ふことは絶えてなし、こは予がさかりなりし時、凡はたとせあまりの程、いくたびとなく見し事なれば、遠く書をあさるに及ばず、もし疑ふ人もあらば、ためし見て、予が言の誣へざるを知りねかし、
附けていふ、猫の純黑なるものは、尤得がたし、その純黑と見えたるも、その毛をわけてよく見 れば必白きさし毛あり、よしや、さし毛なきものは、或はその爪の白く、或はあなうらの白きあ り、かの藥劑に用ふといふ眞の純黑の得がたきこと、かくの如し、かゝれば黑猫の胸の白きは、 偶然たるぶちにして、熊の月の輪と異なり、
p.0201 猫の性鼠にしかず
ある人一疋の鼠を畜て、猫とともに居らしむるに、日をふるまゝに互にあひ馴れて、鼠も畏れず、猫も亦啖ふことを憶はず、却て鼠のまゝなること愚なるものゝ如し、思ふにその性のもとより 鼠を啖はんことを欲ざるにはあらねど、人を畏るゝことの專なるにあるのみ、顧ふにその初め鼠と猫とを馴しむるの時、かりそめにも猫の鼠を啖んとすれば、叱り擊たゝきてこれを懼れしむ、かく嚴く攻らるゝが心にしみて、數月をふるまゝに、遂に猫の心の動くことなく、鼠も亦ならび居るといへども、怛ることなきやうになるなり、こゝに於て己が鼠なるをも忘るゝもさもあるべきことぞかし、かくて客至れば主人まづ猫を呼て座に就しむ、次に鼠を出して猫に頭を下げ、あいさつをなさしむるに、猫これに答ること慇懃なるが如し、又鼠一胾の肴と酒とを持て猫の前に置くに、猫あいさつをしてその肉を啖ふ、應對のふるまひ鼠との交り、殊になからひあしからず見ゆ、是もとより猫の性ならんや、これ性を枉て發さゞるは、その人を懼るゝが故なり、鼠の又ならび居て怛れざるは、これ習ひ性となるものなり、夫習ひて性となるものゝ性を矯て、人に懼れ從ふものは、天地懸隔の違ひといふべし、これによつて猫の性の鼠にしかざるを知れりといふ、〈澹園初稿〉予嘗て鼠に躍を習はしむるは、塔櫨を火にかけて熱らしめ、さて鼠の後足へ履をはかしめて、その中へ放ち入るれば、前足のみ徒跣にて熱きに堪えざれば、やがて起て跳るものといふ、後には地にさへ放てば、必起て躍るといへり、これ禽獸に藝を敎るの術といへり、唐土にも似たることあり、珍珠船に、敎二舞鱉(/スツポン)一者、燒レ地置二鱉其上一、忽抵レ掌使二其跳梁一、旣慣習、雖二冷地一聞レ拊レ掌、亦跳梁、敎二龜鶴舞一、亦用二此術一といへり、
p.0202 一寶永二年乙酉五月、東都大久保なる所の某の家に〈御書物預り川内傳四郎〉飼置し猫、二頭六足二尾灰色毛の子を產せしよし、生れてやがて死けるとかや、
p.0202 猫を飼ふもの、多くは猫をやしなふことをしらず、飯をあたふるに鰹ぶしを入れ、肉味を加ふ、猫は常に厚味を食とする時は、鼠をとらず、猫は麥をたきて、味噌汁をかけ與ふべし、その他の食をあたふべからず、常に肉食にならはすれば、肉なき時は、必他の家にいたりて、魚肉を 盜めり、人を養ふも亦復しかり、
p.0203 俗呪方
治病猫、禽獸の病はみな疫也、鳥獸魚類の病死したるものは食ふべからず、猫の疫は必吐す、はやく銅杓子を削て、魚肉に交て餌ば卽活、亦烏藥水を以灌レ之甚良と、時珍はいへり、凡猫は鐵を忌もの也、魚骨を飯に和て餌とて常に鐵火箸をもてすれば、その猫瘦て命短し、
p.0203 御集 花山院御製
しきしまのやまとにはあらぬからねこのきみがためにぞもとめ出たる
此御歌は、三條の太皇太后宮より、ねこやあるとありしかば、人のもとなりしが、おかしげなり しを、とりてたてまつりしに、あふぎのおれをふだにつくりて、くびにつなぎてあそばされし 御歌と云々、
p.0203 長德五年〈○長保元年〉九月十九日戊戌、日者内裏御猫產レ子、女院左大臣右大臣有二產養事一、有二衝重垸飯一、納レ筥之云々、猫乳母馬命婦、時人咲レ之云々、奇恠之事、天下以レ目、若是可レ有レ徵歟、未レ聞三禽獸用二人乳一、嗟乎、
p.0203 うへにさぶらふ御猫は、かうふり給はりて、命婦のおもととていとおかしければ、かしづかせ給ふが、はしに出たるを、めのとの馬の命ぶ、あなまさなや、いり給へとよぶに、きかで日のさしあたりたるにうちねぶりてゐたるを、おどすとて、翁まろ〈○犬名〉いづら、命婦のおもとくへといふに、まことかとて、しれもの、はしりかゝりたれば、をびえまどひてみすのうちにいりぬ、あさがれいのまにうへ〈○一絛〉はおはします、御らんじていみじうをどろかせ給ふ、猫は御ふところにいれさせ給ひて、おのこどもめせば、藏人たゞたかまいりたるに、此翁まろうちてうじて、いぬ島につかはせ、たゞいまと仰せらるれば、あつまりてかりさはぐ、馬の命婦もさいなみて、めのとか へてん、いとうしろへたしとおほせらるれば、かしこまりて御前にも出ず、いぬばかり出て、たきぐちなどして追ひつかはしつ、
p.0204 おなじおりなく成玉ひし侍從大納言〈○藤原行成〉の御むすめの書を見つゝ、すゞろにあはれ成に、五月ばかり、夜ふくるまで、物がたりをよみておきゐたれば、きつらんかたもみえぬに、ねこのいとながうないたるを、おどろきて見れば、いみじうおかしげなる猫あり、いづくよりきつるねこぞと見るに、あねなる人、あなかま人にきかすな、いとおかしげなる猫なり、かはんとあるに、いみじう人なれつゝ、かたはらに打ふしたり、尋ぬる人やはと、是をかくしてかふに、すべて下すのあたりにもよらず、つとまへのみありて、ものもきたなげなるは、ほかざまにかほをむけてくはず、あねおとゝの中につとまとはれて、おかしがりらうたがるほどに、あねのなやむ事あるに、物さわがしくて、此ねこをきたおもてにのみあらせてよばねば、かしがましくなきのゝしれども、なをさるにてこそはとおもひてあるに、わづらふあねおどろきて、いづら猫はこちゐてことあるを、などゝとへば、夢に此ねこのかたはらにきて、おのれはじゝう大納言殿の御むすめのかくなりたる也、さるべきえんのいさゝかありて、この中の君のすゞろにあはれとおもひ出たまへば、たゞしばしこゝにあるを、此ごろ下すのなかにありて、いみじうわびしきことゝいひて、いみじうなくさまは、あでにおかしげなる人と見えて、打おどろきたれば、此ねこの聲にて有つるが、いみじく哀成とかたり玉ふを聞に、いみじくあはれ也、そののちは此ねこを北面にもいださず、おもひかしづく、たゞひとりゐたる所に、此ねこがむかひゐたれば、かいなでつゝ、侍從大納言の姫君のおはするな、大納言殿にしらせ奉らばやといひかくれば、かほをうちまもりつゝ、なかようなくも、心のおもひなし、めのうちつけに、れいのねこにはあらず、きゝしりがほにあはれや、〈○中略〉そのかへる年〈○治安三年〉四月の夜中ばかりに火のことありて、大納言殿の姫君と思かしづ きし猫もやけぬ、大納言殿のひめ君とよびしかば、聞しりがほになきて、あゆみきなどせしかば、てゝなりし人も、めづらかに哀なること也、大納言に申さむなどありし程に、いみじうあはれに、口おしくおぼゆ、
p.0205 保延のころ、宰相中將なりける八の乳母、猫をかひけり、その猫たかさ一尺ちからのつよくて綱をきりければ、つなぐ事もなくてはなち飼けり、十歲にあまりける時、夜に入て見ければ、せなかに光あり、かの乳母つねに此猫にむかひて、汝死なん時われに見ゆべからずとをしへけるは、いかなるゆへか、おぼつかなき事也、十七になりける年、ゆくかたをしらずうせにけりとそ、
p.0205 康治元年八月六日丙寅、僕少年養レ猫、猫有レ疾、卽畫二千手像一祈レ之曰、請疾速除愈、又令三猫滿二十歲一、猫卽平愈、至二十歲一死、〈裹レ衣入レ櫃葬也〉爰知二此菩薩靈驗新一、
p.0205 觀敎法印が嵯峨の山庄に、うつくしきからねこの、いづくよりともなく出きたりけるをとらへてかひけるほどに、件のねこ玉をおもしろく取ければ、法印愛してとらせけるに、秘藏のまもり刀を取いでゝ玉にとらせけるに、件のかたなをくわへて、ねこやがてにげはしりけるを、人々追てとらへんとしけれどもかなはず、行がたをしらずうせにけり、此ねこもし魔のへんげして、守りを取てのち、憚所なくをかして侍るにや、おそろしき事也、
p.0205 ある貴き所に、しろね(○○○)といふ猫をかはせ給ひける、その猫ねずみすゞめなどを取けれども、あえてくはざりけり、人のまへにてはなちける、ふしぎ成ねこなり、
p.0205 猫舌を噉斃す
大坂博勞の内、葉山町鍛冶屋八兵衞が妻、かぎりにわづらひて死すべき程ちかづきし比、久しく飼おきし猫、床のあたりを離ずありしに、病人の曰、我は頓て死するなり、なきあとにては、汝を可 愛がる人もあらじ、いづくへなりとも行よと口説しかば、打しほれてかたはらに居たりしが、病人はかなく成て野おくりに、件の猫輿の跡につき、一町ばかり行しを追反しければ宅に歸り、舌をくひ切て死したりし、貞享二年十月廿八日の事にて侍りし、
p.0206 猫恩を報
文化十三子年の春、世に專ら噂ありし猫恩を報んとしてうち殺されしを、本所回向院江埋め碑を建、法名は德善畜男と號す、三月十一日とあり、右由來之儀者、兩替町時田喜三郎が飼猫なるが、平日出入の肴屋某が、日々魚を賣ごとに、魚肉を彼猫に與へける程に、いつとても渠が來れる時には、猫先出て魚肉をねだる事なり、扨右の肴屋病氣にて長煩ひしたりし時、錢一向無レ之難儀なりし時、何人ともしらず金二兩あたへ、其後快氣して商賣のもとでを借らんとて、時田がもとに至りける時、いつもの猫出ざるにつき、猫はと問ければ、此程打殺し捨たりしと、其譯は先達而金子二兩なくなり、其後も金を兩度まで喰わへて逃出たり、倂兩度ともに取戻しけるが、然らばさきの紛失したりし金も、此猫の所爲ならんとて、猫をば家内寄集りて殺したりといふ、肴屋泪を流して、其金子はケ樣〳〵の事にて、我等方にて不思義に得たりと、其包紙を出し見せけるに、此家の主が手跡なり、しからば其後金をくはえたるも、肴屋の基手にやらんとの猫が志にて、日頃魚肉を與へし報恩ならん、扨々知らぬ事とて不便の事をなしたりとの事也、後にくはへ去らんとしたる金子をも、肴屋に猫の志を繼て與へける、肴屋も彼猫の死骸をもらひ、回向院に葬したる事とぞ、凡恩を知らざるものは猫をたとへにひけど、又斯る珍らしき猫もありとて、皆人感じける、
p.0206 猫の忠義
遠江國蓁原郡御前崎といふ所に、高野山の出張にて、西林院といふ一寺あり、此寺に猫の墓鼠の 墓といふ石碑二つ有り、そも〳〵此所は伊豆の國石室崎、志摩國鳥羽の湊と同じ出崎にて、沖よりの目當に高燈籠を常燈としてあり、されば西林院の境内にある猫塚の由來を聞に、或年の難風に沖の方より、船の敷板に子猫の乘たるが、波にゆられて流れ行を、西林院の住職は丘の上より見下して、不便の事に思はれ、舟人を急ぎ雇ひて小舟を走らせ、旣に危き敷板の子猫を救ひ取、やがて寺中に養れけるが、畜類といへども必死を救はれし大恩を、深く尊み思ひけん、住職に馴てその詞を能聞解、片時も傍を放れず、斯る山寺にはなか〳〵能伽を得たるこゝちにて、寵愛せられしが、年を重ねて彼猫のはやくも十年を過し、遖れ逸物の大猫となり、寺中には鼠の音も聞事なかりし、さて或時寺の勝手を勤める男が、椽の端に轉寢して居たりしに、彼猫も傍に居て庭をながめありし所へ、寺の隣なる家の飼猫が來て、寺の猫に向ひ、日和も宜しければ伊勢へ參詣ぬかといへば、寺の猫が云、我も行たけれど、此節は和尚の身の上に危き事あれば、他へ出難しといふを聞て、隣家の猫は、寺の猫の側近くすゝみ寄、何やら咡き合て後に別れ行しが、寺男は夢現のさかひを覺へず、首をあげて奇異の思ひをなしけるが、其夜本堂の天井にて最怖ろしき物音し、雷の轟くにことならず、此節寺中には住職と下男ばかり住て、雲水の旅僧一人止宿て、四五日を過し居た、るが、此騷ぎに起も出ず、住持と下男は燈火を照らして彼是とさはぎけれども、夜中といひ、高き天井の上なれば、詮方なく夜を明しけるが、夜明て見れば、本堂の天井の上より生血のゑたゝりて落けるゆへ、捨おかれず、近き傍の人を雇ひ、寺男と倶に天井の上を見せたれば、彼飼猫は赤に染て死し、又其傍に隣家の猫も疵を蒙りて半は死したるが如し、夫より三四尺を隔りて、丈け二尺ばかりの古鼠の、毛は針をうへたるが如きが生じたる怖ろしげなるが、血に染りて倒れ、いまだ少しは息のかよふ樣なりければ、棒にて敲き殺し、やう〳〵に下に引おろし、猫をばさま〴〵介抱しけれども、二疋ながらたすからず、彼鼠はあやしひかな、旅僧の著て居たる衣 を身にまとひ居たり、彼是と考へ察すれば、古鼠が旅の僧に化て來り、住職を喰はんとせしを、飼猫が舊恩の爲に命を捨て、住職の災を除きしならんと、人々も感じ入、頓て二疋の猫の塚を立て回向をし、鼠も最怖ろしき變化なれば、捨おかれずと、住持は慈悲の心より猫と同じ樣に塚を立て、法事をせられしが、今猶傳へて此邊を往來の人の噂に殘り、塚は兩墓ともものさびて寺中にあり、
p.0208 むすめの十あまり六つ七つになりたるを、月花にもかへじと思ひたるに、としごろかふ猫の、むすめがかはやへゆけば、かならずあとよりつきて行く、いかにせいすれどもきかず、つなぎをくにかはやへ行くときは、かならずしりてたけうなりて、なはくひきりてはせてゆく、いかにとたづぬれば、かはやのうちにつとつきそひて居侍るといふ、いかにも心のそこしりがたしとて、おやなりけるもの、つるぎもちゐてかのねこのかはやへはせ行くとき、かうべをきりたれば、そのかうべかはやのうちにいりぬ、彌あやしみおどろきてみれば、そのかうべかはやのうちなるくちなはにくひつきて、くちなはゝ死してけり、さらばそのむすめにくちなはの思ひいりたるをしりて、かくはありけりと、なみだおとさぬはなかりしとなり、冤牛とかいふ事、かの國のふみにもありとなり、猫のうらみはいかにといへば、もとよりものいふ事ならぬみなれば、それにうらみもなし、かのくちなはをころして、君の難をすくひぬれば、たゞにほゐとげしなり、もとより功名に心なければ、おもひをくこともあらじかし、たゞかひをけるあるじの心はいかがありけむ、
p.0208 大藏大夫藤原淸廉怖レ猫語第卅一
今昔、大藏ノ丞ヨリ冠リ給ハリテ、藤原ノ淸廉ト云フ者有キ、大藏ノ大夫トナム云ヒシ、其レガ前世ニ鼠ニテヤ有ケム、極ク猫ニナム恐ケル、然レバ此ノ淸廉ガ行キ至ル所々ニハ、若男共ノ勇タ ルハ、淸廉ヲ見付ツレバ、猫ヲ取出テ見スレバ、淸廉猫ヲダニ見ツレバ、極キ大切ノ要事ニテ行タル所ナレドモ、顏ヲ塞テ逃テ去ヌ、然レバ世ノ人此ノ淸廉ヲバ猫恐ノ大夫トゾ付タル、然テ此ノ淸廉、山城大和伊賀三箇國ニ田ヲ多ク作テ、器量ノ德人ニテ有ルニ、藤原ノ輔公ノ朝臣、大和ノ守ニテ有ル時ニ、其ノ國ノ官物ヲ淸廉露不レ成ザリケレバ、守何シテ此レヲ責取テムト思フニ、无下ノ田舍人ナドニモ非ズ、諸司勞ノ五位ニテ、京ニ爲行ク者ナレバ、廳ナドニモ可レ下キニモ非ズ、然ドモ緩ヘテ有レバ、盜人ノ心有奴ニテ、此彼云テ出シモ不レ遣ズ、何ガセマシト思ヒ廻シテ思ヒ得テ居タル程ニ、淸廉守ノ許ニ來ヌ、守可レ謀樣ヲ案ジテ、侍ノ宿直壼屋ノ極ク全クテ二間許有ル所ニ守一人入テ居ヌ、然テ彼ノ大藏ノ大夫此ニ坐セ、忍テ聞ヌベキ事有卜云セタレバ、淸原例ハ氣色 氣ニ坐スル守ノ、此ク逶、ヤカニ宿直壼屋ニ呼ビ入レ給ヘバ、喜ヲ成シテ垂布ヲ引キ開テ、ユクリモ无タ這入ヌレバ、後ヨリ侍出來テ其ノ入ツル遣戸ヲバ引立テツ、守ハ奧ノ方ニ居テ此ニト招ケバ、淸廉畏マリツヽ居ザリ寄ルニ、守ノ云ク、大和ノ任ハ漸ク畢ヌ、只今年許也、其レニ何ニ官物ノ沙汰ヲバ今マデ沙汰シ不レ遣ヌゾト、何ニ思フ事ゾト、淸廉其ノ事ニ候フ、此ノ國一ツノ事ニモ不レ候ズ、山城伊賀ノ事ヲ沙汰仕リ候フ間ニ、何方モ沙汰仕リ不レ遣ズシテ、事多ク罷成ニタレバ否仕リ不レ遣ヌヲ、今年ノ秋皆成シ畢候ヒナムトス、異折ニコソ此モ彼モ候ハメ、殿ノ御任ニハ何カデカ愚ニハ候ハム、此マデ下申テ候コソ、心ノ内ニハ奇異ク思給へ候ヘバ、今ハ何ニテモ仰セニ隨テ員ノマヽニ辨へ申テムト爲ル物ヲバ、穴糸惜シ千萬石也ト云フトモ、未進ハ罷リ負ナムヤ、年來隨分ノ貯へ仕タレバ、此マデ疑ヒ思食シテ仰セ給フコソロ惜ク候ヘト云テ、心ノ内ニハ、此ハ何事云フ貧窮ニカ有ラム、屁ヲヤハヒリ不レ懸ヌ、返ラムマヽニ伊賀ノ國ノ東大寺ノ庄ノ内ニ入居ナムニハ、極カラム守ノ主也トモ否ヤ責メ不レ給ザラム、何ナル狛ノ者ノ大和ノ國ノ官物ヲバ辨ヘケルゾ、前ニモ天ノ分地ノ分ニ云成シテ止ヌル物ゾ、此ノ主ノシタリ顏ニ、此ク ニ 取ラムト宣フ、鳴呼ノ事也カシ、大和ノ守ニ成給フニテ、思エノ程ハ見エヌ可レ咲キ事也カシト思へドモ、現ニハ極ク畏マリテ手ヲ摺ツヽ云居タルヲ、守盜人ナル心ニテ、否主此ク口淨クナ不レ云ソ、然リトモ返ナバ使ニモ不レ會ズシテ、其ノ沙汰ヨモ不レ爲ジ、然レバ今日其ノ沙汰切テムト思フ也、主物不レ成ズシテ否不レ返ラジト云へバ、淸廉我ガ君罷返テ、月ノ内ニ辨ヘ切候ヒナムト云フヲ、守更ニ不レ信ズシテ云ク、主ヲ見進テ旣ニ年來ニ成ヌ、主モ亦輔公ヲ見テ久ク成ヌラム、然レバ互ニ情无キ事ヲバ否不レ翔ヌ也、然レドモ只今有心ニテ此ノ辨へ畢テヨト、淸廉何デカ此テハ辨へ申シ候ハム、罷返テ文書ニ付テコソハ沙汰シ申シ候ハメト云フ、其ノ時ニ守音糸高ク成テ居上テ、左右ノ腰ヲユスリ上テ氣色糸惡ク成テ、主然バ今日不レ辨ジトヤ、今日輔公主ニ會テ只死ナムト思フ也、更ニ命不レ惜ラズト云テ、男共ヤ有ルト聲高ヤカニ呼ブニ、二音許ニ呼べドモ、淸廉聊カ動モ不レ爲ズシテ、頰咲テ只守ノ顏ヲ護テ居タリ、而ル間侍答へシラ出來タレバ、守其ノ儲タリツル物共取テ詣來ト云ヘバ、淸廉此レヲ聞テ、我ニハ否恥ハ不レ見セジ物ヲ、何事ヲ何ニセムトテ此ハ云フニカ有ラムト思ヒ居タル程ニ、侍共五六人許ガ足音シテ來テ、遣戸外ニテ將參テ候フト云へバ、守其ノ遣戸ヲ開テ、此チ入レヨト云へバ、遣戸ヲ開ルヲ淸廉見遣レバ、灰毛斑ナル猫ノ長一尺餘許ナルガ、眼ハ赤クテ虎珀ヲ磨キ入タル樣ニテ、大音ヲ放テ鳴ク、只同樣ナル猫五ツ次ギテ入ル、其ノ時ニ淸廉目ヨリ大ナル涙ヲ落シテ、守ニ向テ手ヲ摺テ迷フ、而ル間五ツノ猫壼屋ノ内ニ離レ入テ、淸廉ガ袖ヲ聞キ、此ノ角彼ノ角ヲ走リ行クニ、淸廉氣色只替リニ替テ難レ堪氣ニ思タル事无レ限シ、守此レヲ見ルニ糸惜ケレバ、侍ヲ呼ビ入レテ皆引出サセテ、遣戸ノ許ニ繩ヲ短クシテ繫セツ、其ノ時ニ五ツノ猫ノ鳴合タル音耳ヲ響カス、淸廉汗水ニ成テ目ヲ打叩テ生タルニモ非ヌ氣色ニテ有レバ、守然バ官物不レ出サジトヤ、何カニ、今日其ノ切テムト云ヘバ、淸廉无下ニ音替リテ篩テ云ク、只仰セ事ニ隨ハム、何ニモ命ノ候ハムゾ、後ニモ辨メモ候べキト、其時ニ守侍 ヲ呼テ、然バ硯ト紙ト取テ持來ト云ヘバ、侍取テ持來タリ、守其レヲ淸廉ニ指取セテ、可レ成キ物ノ員ハ旣ニ五百七十餘石也、其レヲ七十餘石ハ家ニ返テ、 ヲ置テ吉ク計へテ可レ成キ也、五百石ニ至テ ニ下文ヲ成セ、其ノ下文ヲバ伊賀ノ國ノ納所ニ可レ成キニ非、此ク許ノ心ニテハ虚下文モゾ爲ル、然レバ大和國ノ宇陀ノ郡ノ家ニ有ル稻米ヲ可レ下キ也、其ノ下文ヲ不レ書ズバ、亦有ツル樣ニ猫ヲ放チ入レテ輔公ハ出ナム、然テ壼屋ノ遣戸ヲ外ヨリ封結ニ籠テ出ナムト云へバ、淸廉只我ガ君我ガ君、然テハ淸廉ハ暫クモ生テハ候ヒナムヤト云テ、手ヲ摺テ宇陀ノ郡ノ家ニ有ル稻米籾三種ノ物ヲ五百ガ方ニ下文ヲ書テ守ニ取ラセツ、其ノ時ニ守下文ヲ取ツレバ淸廉ヲバ出シツ、下文ヲバ郎等ニ持セテ、淸廉ヲ具シヲ宇陀ノ郡ノ家ニ遣テ、下文ノマヽニ悉ク下セテ ニナム取テケル、然レバ淸廉ガ猫ニ恐ルヲ鳴呼ノ事ト見ツレドモ、大和ノ守輔公ノ朝臣ノ爲ニハ、極メタル要事ニテナム有ケルトゾ、其ノ時ノ人云繚テ、世擧テ咲合へリトナム語リ傳へタルトヤ、
p.0211 心ゆくもの
猫はうへのかきりくろくて、ことはみなしろからん、
p.0211 なまめかしきもの
夏のもかうのあざやかなる、すのとのかうらんのわたりに、いとおかしげなるねこのあかきくびつなに、白きふだつきて、いかりのをくひつきてひきありくもなまめひたり、
p.0211 まづけうちやう七年八月中旬に、洛中にねこのつなをときて、はなち給ふべき御さたあり、ひとしく御奉行より一でうの辻にたかふだを御たて有、其おもてにいはく、
一洛中ねこのつなをとき、はなちがひにすべき事、
一同猫うりかひ停止の事 此むね相そむくにおゐては、かたく罪科に處せらるべきものなり、よつて件の如し、
右かくのごとく御せいたうある上は、面々ひぞうせし猫どもに札をつけてはなち申せば、猫なのめならずによろこふで、こゝかしこにとびまはること、ゆさんといひ、ねずみをとるにたよりあり、程なくねずみをぢおそれて、にげかくれ、けたうつばりをもはしらず、ありくといへども、さなりもなく、しのびありきのていなり、かゝるきのうまき事なし、ねがはくは此御法度つゝがなくけだひする事なかれと、万民かくのごとし、
p.0212 一他人のねこはなれたるをつなぎ候儀、一切停止之事、〈○中略〉
慶長拾三五月十三日
p.0212 當家猫靈神事〈付不レ入二盲女於當家中一〉
いつの比にや、猫の怪異とて、よろしからぬ事のみうちつゞきける、當家〈○柳原〉の靑侍ふるきねこをころすといふによりて、曩祖あんずるに、〈後の安勢どの業光の卿か〉驗者に仰せ合され、かの靈を當家守護神のやしろ地より、第二のうちに勸請せられ、猫靈と號す、これによりて當家には猫をころす事を制すべしといひつたふるなり、
p.0212 嘉永五年壬子、淺草花川戸の邊に住る一老嫗、猫を畜て愛しけるが、年老て活業もすすまず、貧にして他の家に寄宿して、餘年を送らんとせし時、その猫に暇を與へ、なく〳〵他家へ趣しが、其夜の夢中に、かの猫吿ていふ、我かたちを造らしめて祭る時は、福德自在ならしめんと敎へければ、さめて後その如くしてまつる、夫よりたつきを得て、もとの家に住居しけるよし、他人此噂を聞て、次第にこの猫の造り物を借てまつるべきよしをいひふらしければ、世に行れて、いくらともなく今戸燒と稱する泥塑の猫を造らしめ、これを貸す、かりたる人は、布團をつくり供物をそなへ、神佛の如く崇敬して、心願成就の後、金銀其外色々の物をそへて返す、其 は淺草 寺三社權現鳥居の傍にありて、此猫を求るもの夥し、此事兒女輩といへども、心ある人は用ひず、まして大人の駭くべきにあらずといへども、此頃は丈夫も竊にこの猫をかりて、祈りけるもこれあるよしなりしが、四五年にして此噂止みたり、〈○中略〉 夏の頃より神田松枝町なる大工保五郎が畜猫、鼠を愛して乳をふくませ、我うみ落せし小猫とともに養育す、
p.0213 猫をなやませし童
齋藤謙が談に、靈巖島にすめりしころ、隣の家に伊豆の新島(ニヒジマ)よりめしおける童ありけるが、垣下に猫の晝寐せしを見て、息を吹引(フキヒキ)けるに、やがて猫くるひ出てめぐりなどするを見きようじけり、謙あやしみて、そはなにぞのわざにかととひければ、童いらへいふやう、こは猫に限れる事にあらず、何にても生類の寐て息を外へ吐とき、此方の息を吸、彼が息を引時、此方の息を吐やりて、かく息を合すること五度に及時は、必狂出るなり、五度に滿ざらん内、彼が走去などしたらんにはせんすべなし、五度息を合たらんには狂廻ことうつなし、かくて息を合する間は、いつまでもこゑを立ずして、おなじさまに狂居れど、此方の息を止むれば、とみにもとのごとくなりて走行なりといへりとなん、今按に狐狸などの人をうなすといふも、かゝるわざするにや、
p.0213 泊り山の大猫
我が隣驛、關にちかき飯土山に續く東に、阿彌陀峯とて樵する山あり、〈村々持分の定あり〉二月にいたり、雪の降止たる頃、農夫ら、此山に樵せんとて、語らひあはせ、連日の食物を用意し、かの山に入り、所を見立て、假に小屋を作り、こゝを寢所となし、毎日こゝかしこの木を心のまゝに伐とりて、薪につくり、小屋のほとりにあまた積おき、心に足るほどにいたれば、そのまゝに積おきて、家に歸る、これを泊り山といふ、〈山にとまりゐて事をなすゆゑ也○中略〉ひとゝせ、泊り山したるものゝかたりしは、ことし二月、とまり山せし時、連のもの七人、こゝかしこにありて、木を伐りて居たりしに、山々に響くほどの 大聲して、猫の鳴しゆゑ、人々おそれおのゝき、みな小屋にあつまり、手に手に斧をかまへ、耳をすましてきけば、その聲ちかくにありときけば、又遠くに鳴、とほしときけばちかし、あまだの猫かとおもへば、其聲は正しく一〈ツ〉の猫也、されどすがたはさらに見せず、なきやみてのち、七人のもの、おそる〳〵ちかくなきつる所にいたりて見るに、凍たる雪に踏入れたる猫の足跡あり、大さつねの丸盆ほどありしとかたりき、天地の造物かゝるものなしともいふべからず、
p.0214 ねこ〈○中略〉 諺に猫根性といふは、人の心の貪欲を匿し、外に露はさぬ者をいふ、土佐國にしらが山あり、大山也、多く猫住て、獵人も至り得ずといへり、是はまたなるべし鼠とる猫は爪を藏といふ諺は、説苑に、君子愛レ口、虎豹愛レ爪と見えたり、〈○中略〉猫の二歲にて死たりし兒に化て、母の乳を毎夜吸たりし事、奧州白川に有、又妾に化し事、江戸にあり、歌に手かひの虎ともよめり、本草に、今南人犹二呼レ虎爲一レ猫と見えたり、猫に堅魚節あづけるといふ諺は、後漢書に、使下餓狼守二庖厨一、飢虎牧中牢豚上といふに同じ、猫に小判見せるといふ諺は、野客叢書に、對レ牛彈レ琴といふ類也、但馬養父郡の一村に、猫をもて使とする社あり、農家蠶を養ふ節には、必其使を乞て鼠をかる、其使の猫は、社前の一拳石を持歸也、謝するに及び、又一拳石を隨ふ、よて小石丘壑の如しといふ、〈○下略〉
○按ズルニ、猫またノ事ハ、猿條猱㹶ノ下ニ載セタリ、
p.0214 靈貓(じやかうねこ/リンメウ) 靈貍 香貍 神貍類 俗云麝香猫〈○中略〉
按、靈猫〈俗云麝香猫〉咬𠺕吧(ジヤガタラ)及天竺有レ之、似レ猫大尾、〈毛色有二數品一云〉一種有二麝香鼠一、〈出二于鼠類一〉一種有二麝香木一、大明一統志云、眞臘國有二麝香木一、其木氣似二麝臍香一、
p.0214 靈貓 ジヤカウネコ 一名香髦〈丹鉛總錄〉 香 〈泉州府志、 貍同、〉 鈴貍〈本草彚言〉
狐貍麝香〈藥性要略大全〉 果貍〈廣東新語〉 和產詳ナラズ、薩州及長崎ニハ稀ニ舶來アリ、猫ノ形ニシテ大ク、體ニ香氣アリト云フ、京師ニテハ間ジヤカウ猫ト名テ觀場ニ出スコトアリ、貍類ノ獸ヲ飾リ、旁人摺扇(アフギ)ヲ以扇グ時ハ香氣アリ、是獸ニ香氣アルニ非、摺扇中ニ香ヲ入テ人ヲ欺クナリ、唐山ニテハ此獸肉ヲ食ヒ、毛ノ筆ニ用ユ、本草彙言ニ其毛可二以爲一レ筆、寫書不レ鈍ト云、廣東新語ニ、其食惟美果、故肉香脆而甘、秋冬百果皆熟、肉尤肥ト云フ、
p.0215 畜獸則烏牛〈卽水牛〉犬豕麋鹿之屬、皆無二不レ有者一、而無二虎豹犀象一、亦產二異色貓一、
p.0215 一西山公○德川光圀むかしより、禽獸草木の類ひまでも、〈○中略〉この國〈○常陸〉へ御うつしなされ候、〈○中略〉
獸の類〈○中略〉 靈猫(ジヤコウネコ)
p.0215 羖羊角〈仁諝音古〉靑 、〈仁諝音丁奚反〉鳫羊、䍲 、〈仁諝音、上女佳反、下乃鈎反、〉一名羯毛、一名參事、一名 、一名摯、一名柔毛、一名羬〈音針、出二兼名苑一、〉一名髯鬒主簿、〈出二古今注一〉未物脂、〈肪也、出二墨子五行記一、〉
p.0215 羊〈羔附〉 兼名苑云、羝〈音低〉一名䍽〈音歷、和名比豆之、〉羊也、羔〈音高〉一名羜〈音佇羊子也、〉
p.0215 按羊有二白黑二種一、白曰二吳羊一、黑曰二夏羊一、故郭璞注二爾雅羒一云、謂二吳羊白羝一、注二夏羊一云、黑羖䍽、又吳羊、牡曰レ羒、牝曰レ牂、夏羊、牡曰レ羖、牝曰レ羭、見二爾雅及説文一、顏師古注二急就篇一、亦云、羭夏羊之牝也、羖夏羊之牡也、今本爾雅説文作二牡羭牝羖一者誤、又毛詩大雅傳説文並云、羝牡羊也、玄應音義引二三倉一云、羝特羊也、則羝、吳夏牡羊之總名、又按本草衍義云、羖羊角謂二羖䍽羊一、則知䍽卽羖也、又依二兼名苑注一、泛二言羊一也、則兼名苑所レ擧恐ネ二止羝䍽二名一、蓋源君載二其一端一耳、郝懿行曰、夏羊牝牡皆有レ角、吳羊牝者無レ角、其有レ角者別名レ觟也、〈○中略〉羊也、二字及羊子也三字、蓋兼名苑注文、按説文云、羔羊子也、爲雅云、未レ成レ羊、羜兼名苑蓋本レ之、説文、羜五月生羔也、毛詩正義引二 綜一答二韋昭一曰、羊子初生名レ達、小名レ羔、未レ成レ羊曰レ羜、大曰レ羊、長幼之異名、按依二説文廣雅一、達當レ作レ羍、
p.0216 羊芉〈今正音陽、ヒツシ養、〉 善羊〈ヲヒツシ〉 羺〈奴頭反、䍲糯胡羊、細毛羊、〉 羺〈俗ヒツシ〉 䍽〈音歷ヒツシ〉 䍽〈俗〉 羒羒〈今正音沂、牝羊、メヒツシ、〉 羯〈或正擧謁反、羖羊ヒツシ、〉 〈ヒツシ〉 羔〈ヒツシ〉
p.0216 羊 ひつじのあゆみとは、物をまつたとへなり、いかなりとも始終有と云り、
p.0216 羊 ひつじの時は、日の天にのぼりて西へさがるつじ也、日本にもとより羊なし、後代にもろこしより渡りし時、十二支の未の時の意を以て訓とせり、
p.0216 一虎をとらといふ、羊をひつじといふ、此國になき物なれば、和名あるべきやうなし、とらは朝鮮語なりといふ、さもあるべし、ひつじも異國の詞なるにや、
p.0216 羊
集解、近世自レ華來、世未二蓄息一、其狀頭身相等、而毛短、惟一兩公家牧レ之、至二數十頭一、故人亦食レ之者希矣、儘有二食レ之者一、謂肉軟味美、而能補レ虚、予〈○平野必大〉不レ食レ之、則未レ詳二其主治一也、牧家戯令二與レ紙食一、羊喜食レ紙、然非二常食一、而童翫爾、
肉、氣味、〈古謂〉甘大熱無レ毒、〈素問云、若蘇頌論レ之、李時珍載二禁忌一、〉主治、補二五勞七傷一、然予未レ試レ之、惟據二俗稱一也、
p.0216 羊 ヒツジ
是ハ和產ナシ、唐デヤシナイ食物トス、犧ナドニモスル也、京ニナシ、舶來ノ物ヲ用ユ、長崎ニアリ、後大和本草ニ處々海頭ニハナシガイデアルト云、大抵馬ノ形ニシテ小也、犬ヨリ大也、
p.0216 羊 ヒツジ〈和名鈔〉 一名、胡髯郎、〈述異記〉 靑鳥〈同上〉 卷婁〈仇池筆記〉 髯鬚主 簿〈古今注〉 髯鬚參軍〈中華古今注〉 髯主簿〈典籍便覽〉 獨笋子〈事物紺珠〉 主人 髯郎 忽魯罕〈共同上羔蒙古ノ名〉
氈根〈事物異名〉 飯牽 白石道人 忽儞〈共同上蒙古ノ名〉 羶籬菜〈類書纂要〉 羶根〈通雅〉 羔兒〈訓蒙字會羔〉 肉 一名、肥羜、〈事物異名〉 肥腔 羜味 羸畜〈共同上人ニ贈名〉 膽一名、百草精、〈秘方集驗〉 脂一名、味物脂、〈石藥爾雅〉
唐山ニテハ畜テ食用ニ供ス、本邦ニテハ京師ニハ畜フモノナシ、他州ニハ畜フ處モアリ、皆漢種 ナリ、稀ニ觀場ニ出ス、形馬ニ比スレバ小ク、狗ニ比スレバ最大ナリ、多クハ淡褐色ナリ、白色ノ者モアリ、頭ハ略馬ニ類シテ短シ、喉下ヨリ胸ニ至テ長毛アリ、喜デ紙ヲ食フ、此獸惡臭アリ、羊羶ト云、唐山ヨリ白羊皮毛ヲ連ヌル者ヲ渡ス、ハラゴモリヲ上品トス、臭氣ナシ、用テ裘、ニ作ル、毛軟ニシテ綿ノ如シ、母羊ノ腹中ニアルヲ取ル、コレヲ胞羔〈天工開物〉ト云、已ニ長ジタル羊ハ惡臭アリ、故ニ羊皮裘母賤子貴ト云フ、一種綿羊、今舶來アリ、ソノ毛極テ細クシテ長シ、天鵞絨(ピロウド)ヲ織リ、哆羅絨(ラシヤ)ヲ製スベシ、唐山ニテ母羊ノ毛ヲ以、毛氈ニ作ルト云フ、羊皮ハ甚薄クシテ紙ニ代へ書畫ヲナシ、書皮ニ造ル、
p.0217 羊ハ熱病天行病瘧痔、此等ノ病後ニハ食スベカラズ、白羊黑頭、黑羊白頭、獨角羊、此類皆食スベカラズ、銅器ニテ煮タルハ毒アリ、食スベカラズ、
p.0217 七年九月癸亥朔、百濟貢二駱駝一疋、驢一疋、羊二頭、白雉一侯一、
p.0217 弘仁十一年五月甲辰、新羅人李長行等、進二羖䍽羊二、白羊(○○)四、山羊一、鵞二一、○一本無二二白羊三字一
p.0217 承平五年九月日、大唐吳越州人蔣承勳來、獻二羊數頭一、
p.0217 天慶二年六月四日甲戌、爰上卿召二飼藏人所羊二頭於軒廊一、柱繫令二左近陣官一、折二集木枝葉一令レ飼レ之、宛如二牛食一レ草、良久以レ角相競似レ牛、
p.0217 承保四年六月十八日、自レ殿被レ獻二覽羊於高倉殿一、件羊牝牡子三頭、其毛白如二白犬一、各有二胡髯一、又有二二角一、豫〈○豫恐象誤〉如二牛角一、身體似レ鹿、其大如レ犬、其聲如二猿動一、尾纔三四寸許、
p.0217 承保四年〈○承曆元年〉二月廿八日己酉引二見大宋國商人所レ獻羊二頭一、 八月、今月返二遣羊二頭一了、
p.0217 承安元年七月廿六日、入道大相國、〈○李淸盛〉進二羊五頭、麝一頭於院一、 十月廿三日、近日稱二羊病一、貴賤上下煩二病患一、羊三頭在二仙洞一、人傳、承曆之頃有二此事一、件羊返二却之一、
p.0218 文治元年十月八日丁巳、和泉守行輔進二羊於大將一、其毛白如二葦毛一、好食二竹葉秕杷葉等一云々、又食レ紙云々、其體太無レ興、
p.0218 大島之事
羊の多き事其數難レ計、五疋七疋あるひは二三十疋宛打むれて、人家近くも出、作物をぬすみ喰ひ、山奧には一むれに、百も二百も打集りて遊ぶ、然るに此ひつじも、むかし上より二疋とかわたさせられしが、子を生じ年を追ふて數彌增、又享保の頃、御用ひの事ある迚、二三疋生捕にして奉りける事もありけるゆへ、羊を殺たるものは、おもき罪をかふむる事といひならはせて、追散らす事もせざるゆへ、猶增長して徘徊するといふ、此外の獸は猫鼠ばかりなり、
p.0218 むくひつじ(○○○○○) 〈やぎ(○○) 夏羊〉
むくひつじ、一名むくげひつじ(○○○○○○)、一名やぎう(○○○)は漢名を夏羊といひ、その牡を羖、一名羖䍽羊(○○○)、其牝を羭、その黑色なるを黑羖䍽、一名黑羖羊、一名骨䍽、白色なるを古羊、靑色なるを靑羖羊、又その角を羖羊角、、一名皂莢といふ、先年江都觀場時にこれありしものは、所レ謂白色のものにて、今肥前長崎に多し、其狀犬に三倍して、家猪よりは少さし、漢客蠻人ともに日用の食品なるによりて、土人これを稻佐立山邊に飼をきて屠るよし、〈長崎聞見錄〉其毛長く、角は彎曲して後にむかひ、眼旁及び鼻邊淡紅を帶て臭氣あり、〈觀文獸譜〉此卽本草圖經に所レ謂羖羊白色のものにて、膳夫錄にいはゆる古羊なり、一種朝鮮やぎあり、その毛色形狀すべて尋常のやぎに似て黑斑あり、角少して彎曲しア、前に向ふを異なりとす、〈同上〉此卽 涯勝覽に、鬪羊頗似二綿羊一、角彎曲向レ前、上帶二小鐵牌一と、〈天中記引〉いへる類なるべし、又阿蘭陀やぎあり、毛至て長く額毛垂て眼を覆ひ、角は尋常のやぎに同じ、〈觀文獸譜〉此卽本草圖經にいはゆる毛長尺餘のものなるべし、又全身黑色のものは、長崎及び薩摩大隅等に多しと〈西遊記〉いへり、さて今長崎にあるはずべて白色のものなれども、橘春暉が見しは、卽郭璞注爾雅に いはゆる黑羖䍽にして、膳夫錄に所レ謂骨䍽なり、また背のみ黑くして、其餘は白色のものあり、此卽紹興本草に圖する處の羖羊也、これを證類本草には、全身白黑班文のものに圖すれ共、恐らくは傳寫の誤りならん、
p.0219 山羊 和產不レ知
唐ニハ品類多シ、近來ミセ物ニスルウミムコ(○○○○)ト云者アリ、此ハ杜撰也、是ハ馬ノ形ノ如シ、大サモ同ジ、頭ハ高ク細ク羊ノ如シ、甚臭氣アリ、額ノ眞中ニ大ナル角一ツアリ、高サ一寸ホド立、上ハ左右ニ分レ、ウシロヘマガル、一尺バカリ、牛、角ホドノ大ニシテ、其角ヒツナリニシテマロカラズ、色クロシ、
p.0219 弘仁十一年五月甲辰、新羅人李長行等、進二羖䍽羊(○○○)二、白羊四、山羊(○○)一、鵞二一、〈○一本無二二日羊三字一〉
p.0219 雜説八十ケ條
薩摩大隅の犬は、すべて足短く、腹を地に褶て歩む計也、又ヤギといふ獸あり、羊に似て色黑く毛長し、肥前長崎には取分多し、大隅には、此ヤギの牧有て多く育つ、其故はしらず、嘉栗曰、ヤギ野牛と書るが羊に似て甚臭し、
p.0219 さいのこま(○○○○○) 〈綿羊〉
さいのこま一名らしやけん(○○○○○)は、漢名を綿羊といひ、其大なるものを無角白大羊といふ、これまた夏羊の一種也、今官苑に蕃育せしは、凡百三四十頭もあり、そのうちにて大なるは、牝鹿の如く、小なるは犬の如し、すべて頭小さくして身大なり、毛至て細密にして、長さ二寸許もあり、その年を經ざるものは色潔白にして、年を經るものは、やゝ褐色を帶たり、又黑駁のものあり、眼邊及び口鼻並に淡紅色にて、口小さく鼻低し、喉下より胸t至りて長鬚あるは吳羊とおなじ、耳は横に垂て前に向ふといへ共、後に向たるもあり、牝牡共に角なきは常なれども、たま〳〵角を生ずるも のあり、さればその百餘のうちにて角あるものは、僅に三四頭に過ぎず、その角に圓なるも扁なるもあり、また吳羊と同じく後へ向ふもあれば、よこにわかれて牛角の如きもあり、一種眼邊及び四脚共に黑色のものあり、これは百三四十頭のうちにて、たゞ一頭なれば奇品なり、今此毛をかりて、羅哆絨(ラシヤ)を製するに、舶來のものに異ならず、その毛を採には、四足を木材に結付て刈といへり、扨觀文獸譜に、これを餌するに、豆葉を以てする事、馬の如しとあれども、今は大麥を煮熟して食せしむるは、正に餌畜の法を得たるものなるべし、又海外には種々の綿羊ありといへ共、淸舶の皇國に載來りしは、たゞ此一種也、
p.0220 一西山公〈○德川光圀〉むかしより禽獸草木の類ひまでも、〈○中略〉この國〈○常陸〉へ御うつしなされ候、〈○中略〉
獸の類〈○中略〉 羊〈年々子を生餘多に相成申候 綿羊右同斷〉
p.0220 狹〈侯夾反、加万志之、古作レ 、〉
p.0220 零羊角〈仁諝音義、正作レ 、〉山羊一名羱羊、〈仁諝音元、已上二名出二陶景注一、〉 一名大羊、一名羱羊、一名野羊、又有二山驢一、和名加末之々乃都乃、
p.0220 麢羊 爾雅注云、麢羊〈力丁反、或作レ 、和名加萬之々、〉大二於羊一而大角者也、
p.0220 廣韻、麢 上同、〈○中略〉釋獸麢大羊、郭注云、麢羊似レ羊而大、角員鋭、好在二山崕間一、字句少異、此所レ引蓋舊注但大角恐有レ誤、説文、麢大羊而細角、西山經、翠山其陰多二旄牛麢麝一、注、麢好在二山崖間一、上林賦注張揖曰、壄羊、麢羊也似レ羊而靑、廣雅作二冷角一、本草作二零羊一、陶注、多二兩角者一、一角者爲レ勝、角甚多節、蹙々員繞、本草拾遺云、羚羊角有レ神、夜宿以レ角掛レ樹、不レ著レ地、但取下角彎中深鋭緊小猶有二掛痕一者上、卽是眞、唐本注、如二牛大一、其角堪レ爲二鞍鞽一、今用下細如二人指一長四寸蹙文細者上、〈○中略〉伊勢本有二内藏式云麢羊角零羊九字一、蓋後人所レ加、
p.0221 鹿靈〈カマシヽ〉
p.0221 羊(レイヨウ/カモシヽ)〈 或作レ羚、懸レ角而隱レ跡者也、〉
p.0221 羚羊 にくは褥也、しとねの事を云、羚羊の皮、毛ふかくして褥とするによし、故に羚羊をにくと云、又かもしゝと云、かもは氈の字けむしろ也、むかし毛むしろをかもと云、順和名に見えたり、にくの皮をけむしろにする故に、かもしゝと云、
p.0221 麢羊〈和名加萬之个〉
集解、麢羊、處處山中有レ之、狀似レ羊而靑色、腹白帶二微黃一、毛粗兩角短、小彎曲深鋭、夜以レ角懸二樹枝一、不レ著レ地而宿、晝亦如レ此、而棲性身輕捷躍、獨脚粘二著于巖壁山崖一而垂、倶是遠レ害防レ難之備乎、若二獵夫驅遂時逼一レ之亦然、世人用レ皮造二障泥一、其價賤二於熊虎皮一、以二其多一也、采レ角入レ藥、以レ肉而食謂能袪レ風强レ筋、其肉味甘軟淺、優二於鹿猪一、故世以嗜食、而謂羚羊身輕能飛、懸レ角棲レ木、其態比二禽類一、以無穢忌一、最詣二神祠一亦無レ害、然本邦有二四足之穢一、而不レ可レ犯レ之、若レ此之事、可レ尋二祝巫之家一、予未レ詳二其理一爾
p.0221 麢羊 羚羊 麙羊 九尾羊 和名加萬之个 俗云爾久〈○中略〉
按麢羊似二羊及鹿一而灰靑色腹白微黃、眼略大也、於二吉野山中一捕レ之畜養、而不レ食二穀肉等一、未レ知下常所二好食一者上、試投二諸草及菓子一、止食二榧葉、竹嫩葉、薊葉一、而不二多食一、故難レ育、其屎亦如二鹿屎一、
p.0221 麢羊 和名カエシシ ニク〈○中略〉
郭璞爾雅註、麢羊似レ羊而大、其角圓鋭、好在二山崖間一、
諸説紛紛タリ、爾雅及本草蘇恭陳藏器ノ説ニ據レバ、カモシヽニ充ツル穩當トス、カモシヽハ 東北國ニ多シ、形羊ニ似テ微大ニシテ、毛色蒼黑ニシテ至テ柔軟ナリ、首モ羊ニ同ジ、兩角駢生 ジテ長サ四五寸許、細直ニシテ末下ニ曲ル、色黑シテ半ヨリ本ノ處ニ縮文多シ、末ハ細シテ鋭 ナリ、角ノウラニスレタル痕アリ、此ハ夜山中樹枝、或ハ岩角ニ掛テ眠ル故ナリ、此皮敷物ニ用 テ良ナリ、時珍モ以爲二座褥一ト云ヘリ、カモシヽト云モ此義ナリ、カモトハ毛氈ノ古名ナリ、又ニ クモ褥ノ音轉ナリ、又舶來ノ羚羊角蘇頌ノ所レ説モノナリ、此ト同名異物ナリ、
p.0222 諸國年料供進〈○中略〉
羚羊角〈諸國所レ進、其數隨二所出一、〉
p.0222 年料別貢雜物〈○中略〉
遠江國〈(中略)零羊角四具〉 駿河國〈(中略)零羊角四具〉 伊豆國〈零羊角四具○中略〉 甲斐國〈(中略)零羊角六具○中略〉 相摸國〈(中略)零羊角四具○中略〉 近江國〈(中略)零羊角四具○中略〉 美濃國〈(中略)零羊角六具○中略〉 信濃國〈(中略)零羊角六具○中略〉 上野國〈(中略)零羊角六具○中略〉 陸奧國〈(中略)零羊角四具〉 出羽國〈零羊角十具○中略〉 越中國〈零羊角二具〉 越後國〈零羊角六具○中略〉 安藝國〈零羊角四具○中略〉 土佐國〈零羊角四具〉
p.0222 諸國進年料雜藥〈○中略〉
駿河國十七種、〈○中略〉零羊角四具、〈○中略〉 飛驒國九種、〈○中略〉零羊角卅具、〈○中略〉 出羽國二種、〈○中略〉零羊角卌具、〈○中略〉 越中國十六種、〈○中略〉、零羊角四具、 越後國七種、〈○中略〉零羊角卅具、
p.0222 二年十月戊午、蘇我臣入鹿獨謀、將下廢二上宮王等一、而立二古人大兄一爲中天皇上、于レ時有二童謠一曰、伊波能杯儞(イハノヘニ)、古佐屢渠梅野倶(コザルコメヤク)、渠梅多儞母(コメダニモ)、多礙底騰裒羅栖(タゲテトホラセ)、歌麻之々能烏膩(カマシヽノオヂ)、十一月丙子朔、蘇我臣入鹿、遣二小德巨勢德太臣、大仁土師娑婆連一、掩二山背大兄王〈○卽上宮王〉等於斑鳩一、〈○中略〉於レ是山背大兄王等、自レ山還入二斑鳩寺一、〈○中略〉終與二子弟妃妾一、一時自經倶死也、〈○中略〉時人説二前謠之應一曰、以二伊波能杯儞一而喩二上宮一、以二古佐屢一而喩二林臣一、〈林臣、入鹿也、〉以二渠梅野倶一而喩レ燒二上宮一、以二渠梅 儞母、陀礙底騰裒羅栖、柯麻之之能鳴膩一、而喩三山背王之頭髮、斑雜毛似二山羊(カマシヽ)一、又曰、棄二捨其宮一匿二深山一相也、
p.0222 麡(ニク)〈張氏獸經、日本紀歌麻之之、本草和名に零羊、和名鈔に麢羊の字を用ふるは、並に非なり、〉
日高牟婁兩郡の深山中に多し
p.0223 一西山公〈○德川光圀〉むかしより、禽獸草木の類ひまでも、〈○中略〉この國〈○常陸〉へ御うつしなされ候、〈○中略〉
獸の類〈○中略〉 羚羊〈和名カモシヽ年々多相成候〉
p.0223 又有獱、〈相似 莫丁反、長二尺者、出二崔禹一、〉豕、一名獖、一名剛 、〈音稀、已上出二兼名苑一、〉和名、布留毛知乃爲(○○○○○○)、〈○中略〉
猳猪肉〈古瑕反、牡豕也、〉一名豯〈豕生三月曰レ豯、音朝(朝恐胡誤)鷄反、〉狪〈徒公反、黑身白頭白蹄者、〉 〈亡狄反、白身黑頭、〉一名獜、〈力仁反、黃身白頭、雜斑靑駮者、〉豥〈湖オ反、豕而回(而回恐面四誤)蹄皆白者、出二崔禹一、〉王女臂〈猪髀也、出二錄驗方一、〉和名爲乃古、
p.0223 猪〈豚附〉 爾雅注云、猪〈徵居反〉一名彘、〈音弟、和名井、〉兼名苑云、一名豕、〈音子〉方言注云、豚〈徒昆反、字亦作レ㹠、〉豕子也、
p.0223 按釋畜云、豕子、豬、郭注云、今亦曰レ彘、此所レ引蓋舊注也、王念孫曰、釋畜子字衍、當三删作二豕豬一、説文、豬豕而三毛叢居者、段玉裁曰、謂三一孔生二三毛一也、説見二本草圖經犀下一、今之豕皆然、説文又云、彘豕也、後蹏廢謂二之彘一、从レ彑、从二二匕一、矢聲、彘足與二鹿足一同、段玉裁曰、廢鈍置也、彘之言滯也、豕前足僅屈伸、後足行歩蹇劣、故謂二之廢一、〈○中略〉按本草和名、豚卵、和名爲乃布久利、豚脂、和名爲乃阿布良、故源君訓レ猪爲レ井、然毛詩爾雅方言説文所レ載猪、卽家猪、故一名彘、一名豕、豕六畜之一、今俗所レ謂不多(○○)是也、其井雖二狀似一レ豕非下可二畜養一者上、可下以二本草野猪一充上レ之、然則爲乃古、亦可レ謂二野猪子一、今俗呼二宇利保宇一者、非レ豚也、〈○中略〉本草和名猪條、引二兼名苑一不レ載二豕名一、按毛詩漸々之石傳云、豕豬也、兼名苑蓋本レ之、説文、豕、彘也、竭二其尾一、故謂二之豕一、象二毛足而後有一レ尾、段玉裁曰、竭負擧也、豕怒而竪二其尾一則謂二之豕一、〈○中略〉原書卷八云、豬關東西、或謂二之彘一、或謂二之豕一、其子或謂二之豚一、無レ注、按云二豚豕子也一者、檃二栝方言文一也、注字恐衍、説文、 小豕也、从二彖省一、象形、从レ又持レ肉以給二祠祀一、豚篆文从二肉豕一、
p.0223 猪〈徵居反、イ、一名豕、正豬、〉
p.0223 豚〈音屯、イノ コ、亦作レ㹠、〉 肫〈俗上正〉 江肫〈イノコ〉
p.0223 豕〈音子、イ〉 豢豕〈カヘル、イノコ、〉
p.0224 猪豬〈上通下正〉 肫豚〈上通下正〉
p.0224 豕子豬、註、今赤曰レ 、江東呼レ豨、皆通名、、䝐豶、註、俗呼二小豶豬爲二䝐子一、〈䝐音偉、豶音墳、〉幺幼、註、最後生者俗呼爲二幺豚一、〈幺音腰〉奏者豱註、今豱豬短頭、皮理 蹙、〈奏音 、豱音溫、〉豕生三豵二師、一特、註、豬生レ子常多、故別二其少者之名一、〈豵音宗〉所レ寢檜、註、檜其所レ臥蓐、〈檜音繪〉四豴皆白豥、註、詩云、有二豕白蹢蹢蹄一也、〈豴音滴、豥音垓、〉其跡刻絶有レ力䝈註、卽豕高五尺者、〈䝈音厄〉牝豝、註、詩云、壹發五豝、〈豝音巴〉疏、〈此辨二豕之種類一也、其子名レ豬、郭云、今亦曰二 江一、東呼レ豨、皆通名也、説文云、豬豕而三毛藂居者、字林云、豕後蹄廢謂二之 一、小爾雅云、 豬也、其子曰レ豚、大者謂二之豝一、方言云、北燕朝鮮之間謂二之豭一、關東西或謂二之 一、或謂二之豕一、南楚謂二之豨一、其子或謂二之豚一、或謂二之豯一、吳揚之間謂二之豬一、子云レ䝐、豶者舍人曰レ䝐一名豶、郭云、俗呼二小豶一、豬爲レ䝐、子謂二豶 豬一也、云二幺幼一者、豕之最後生者名也、郭云、最後生者俗呼爲二幺豚一、云奏者、豱、者謂皮理 蹙者名レ豱、郭云、今豱豬短頭皮理 蹙云二豕生三豵二師二特一者、郭云、豬生レ子常多、故別二其少者之名一、詩召南云、一發二五豵一、鄭箋云、豕生三曰レ豵、張逸問曰、豕生レ三曰レ豵、不レ知レ母豕也、豚也、答曰豚也、過レ三以往猶謂二之豵一、以自レ三以上更無レ名也、故知過レ三、亦爲レ豵、其生子二者爲レ師、一者爲レ特、云所レ寢檜一者、郭云、檜其所レ臥蓐、方言云、其檻及蓐曰レ檜是也、舍人曰、豕所レ寢草名爲レ檜、某氏曰、臨淮人謂二野豬一所寢爲レ檜、李、巡曰、豬臥處名レ檜、檜是所レ居之處、云二四豴皆白豥一者、豴蹄也、豕四蹄、眥白名レ豥、其跡名レ刻、絶有レ力名レ䝈、卽下篇豕高五尺者也、云二牝豝一者豕之牝者名レ豝、註、云二有豕白 一者、小雅漸漸之石篇文也、〉
p.0224 ふるもちのゐ〈ぶた 豕〉
ふるもちのゐ俗名ぶたは、漢名を豕、一名彖〈○中略〉といひ、〈○中略〉凡本草和名に猪をゐのしと訓ぜし外に、豕をふるもちのゐ、猳猪肉をゐのこと訓ぜしによれば、ふるもちのゐも、ゐのこも今のぶたなる事明か也、延喜式〈大學寮〉に、三牲は夫鹿、小鹿、〈○註略〉豕、及び籩實には豚胉五合といひ、〈○註略〉貞觀儀式〈和訓栞引〉にも、近江豚一頭といへるは、卽今のぶたなるべし、〈○中略〉一種象ぶた〈觀文禽譜〉あり、牙長く形常のものよりも至て肥大也といへり、おもふに之を爾雅にて所レ謂䝈の類なるべし、又和名鈔に彘を井、野猪を久佐井奈岐と訓ず、この稱誤らざるに似たり、然れども古事記、日本紀等に、赤猪白猪などいへるは、皆ゐのしゝの事にて、古歌にもゐとよむものはゐのしゝ也、然る時は、古は豕をも猪をも野猪をも、ゐと稱せしとみえたり、後に豕をぶたと訓せしより、野猪をのみゐのこといひて、豕をばゐと訓ぜぬ樣になりたる也といひ、同上また古事記に、我者山代之猪甘也といへる注 に、甘は養なり、古へは上下おしなべて常に獸肉を食たりし故に、其料に猪をも養置るなり、〈中昔よりこなたには獸肉を食こと無き故に、猪を養こともなくして、猪といへば、たゞ野山に放れ居る猪のみにて、其は漢國にて野猪と云、崇峻紀には山猪とあり、人家に養る猪は豕にて、俗に夫多と云、 と云も同物也、豕を韋能古と云は、たゞ猪と云ことにて、鹿を加古と云、馬を古麻と云と同じ、猪之子のよしには非ず、猪之子は豚字也、○下略〉
p.0225 猪〈訓二布多一〉
集解、豬處處畜レ之、多是厭二溝渠之穢一也、豬能喜二溝渠庖厨之穢汁一而食、日日肥肫、食物亦至寡、易レ畜レ之、或殺レ豬以養二獒犬一、獒犬者善レ獵、而公家毎厩二養之一、凡豬得二刀創一、或爲二狂犬一被レ囓、倶不レ患二創處一、最生レ肉者捷不日而痊、故俗爲二金瘡之藥一、未レ詳二其功一、
p.0225 豕(ぶた)〈音詩〉豕(/スウ) 豭(ヲイノコ)〈牡〉 彘(メイノコ)〈牝〉 豶(ヘノコナシノイ)〈去勢〉 䝈〈大豕〉 豬(イノコ)〈豕子、猪同、豚轂並同、〉 豕(ブタ)〈和訓井、俗云布太、〉
豬(イノコ)〈和訓井乃古○中略〉
按豕以レ易畜、長崎及江戸處處多有レ之、然本朝不レ好二肉食一、又非下可二愛翫一者上、故近年畜レ之者希也、且豕猪(ブタイノコ)、共有二小毒一、不レ益二于人一、而華人及朝鮮人以二雞豕一爲二常食一、
p.0225 豕〈イ、古名、 イノ シヽ下ハ異也 ブタ〉
唐ニテ家毎ニカフテ食スル也、故ニ家猪ト云ナリ、之ニ對シテ野猪ト云アリ、野猪ハイノシヽノコト也、形大抵相似タリ、イノシヽハ牙有、是ハ牙ナシ、カラダヨクコヘル、人家ノアマリ物ヲ食フ、京ニナシ、長崎ニァリ、唐人阿蘭陀人ニウル多ナリ、日本人モ食フ、此油ヲ蠻語ニマンテイカト云テ藥用ニス、漢名猪脂膏、猪油トモ云、陽龍膏ト云藥子ノ名ナリ、
p.0225 豕 イ〈和名鈔〉 ブタ〈○中略〉
唐山ニハ家ニ畜フテ日用ノ食品トス、故ニ家猪卜云フ、山ニ自生シテ田地ノ害ヲナス者ハ、イノシヽト云フ、卽野猪ナリ、長崎ニハ異邦ノ人多來ル、故ニ豕ヲ畜ヲキテ賣ルト云フ、東都ニハ畜フモノ多シ、京ニハ稀ナリ、形野猪ニ似テ肥大、尾ハ短小鼻長ク出、牙ハ口外ニ見レズ、毛深黑ニシテ 粗シ、又黑白相間ル者アリ、頌ノ説ニ食物至寡甚易レ畜、養レ之甚易二生息一ト云フ、猪脂ヲマンテイカト云フ、石藥爾雅ニ陰龍膏ト云フ、
p.0226 豕(イノコ/ブタ)一ハ白猪、花猪、豥猪、牝猪、病猪、黃臕猪、米猪、是皆食スベカラズ、猪腦、猪肝ハ食スベカラズ、
p.0226 〈九物九運二反、豕以レ鼻發レ土也、又土劣反、保利於己須、〉
p.0226 (○○)〈仁徒昆反〉一名 顚、和名爲乃布久里、
p.0226 豚卵 本草云、豚卵一名豚顚、〈和名爲乃布久里〉
p.0226 原書獸部下品同、下總本有二和名二字一、爲乃布久利依二輔仁一、按豚卵卽豚陰核、非二陰囊一、宜レ訓二爲乃篇乃古一、訓二布久利一非レ是、
p.0226 肫 〈イノフクリ〉 肫顚〈同〉
p.0226 昔在神代大地主神營レ田之日、以二牛宍一食二田人一、于レ時御歲神之子、至二於其田一唾レ饗而還、以レ狀吿レ父、御歲神發レ怒、以レ蝗放二其田一、苗葉忽枯損似二篠竹一、於レ是大地主神、令三片巫〈志止止鳥〉肱巫〈今俗竈輪、及米占也、〉占二求其由一、御歲神爲レ崇、宜下獻二白猪白馬白鷄一以解中其怒上、依レ敎奉レ謝、〈○中略〉仍從二其敎一、苗葉復茂年穀豐稔、是今神祇官、以二白猪(○○)白馬白鷄一、祭二御歲神一之緣也、
○按ズルニ、祈年祭ノ時ニ白猪ヲ用イル事ハ、神祇部祈年祭篇ニ載ス、
p.0226 於レ是市邊王之王子等意富祁王袁祁王〈二柱〉聞二此亂一而逃去、故到二山代苅羽井一食二御粮一之時、面黥老人來奪二其粮一、爾其二王言、不レ惜レ粮然、汝者誰人、答曰、我者山代之猪甘也、故逃二渡玖須婆之河一至二針間國一、入二其國人名志白牟之家一、隱レ身役二於馬甘牛甘一也、
p.0226 猪甘(イカヒ)、甘は養(カヒ)なり、〈養に甘字を書ること、中卷玉垣宮段鳥甘部(トリカヒベ)の下、傳廿五の卅九葉に云、〉 古は上下おしなべて常に獸肉をも食たりし故に、其料に猪をも養置るなり、〈中昔よりこなたには獸肉を食こと無き故に、猪を養こともなくして、猪といへばたゞ〉 〈野山に放れ居る猪のみにて、其は漢國にて野猪と云、崇峻紀には山猪とあり、人家に養る猪は豕にて、俗に夫多と云、 と云も同物なり、豕を韋能古と云は、たゞ猪と云ことにて、鹿を加古(カコ)と云、馬を古麻と云と同じ、猪之子のよしには非ず、猪之子は豚字なり、〉
p.0227 十一年〈○仁賢〉八月、億計天皇崩、〈○仁賢、中略〉太子〈○武烈〉甫知三鮪曾得二影媛一、悉覺二父子〈○平群臣眞鳥、鮪、〉無敬之狀一、〈○中略〉戮二鮪臣於乃樂山一、〈○中略〉影媛收理旣畢、臨レ欲レ還レ家、悲哽而言、苦哉今日失二我愛夫一、卽便灑レ涕、愴矣纏レ心歌曰、婀鳴儞與志乃樂能婆娑摩儞(アヲニヨシナラノハザマニ)、斯々貳暮能(シヽジモノ)、瀰逗矩陛御暮黎(ミツクヘゴモリ)、瀰儺曾々矩(ミナソヽグ)、思寐能和倶吾鳴(シビノワクゴヲ)、阿娑理逗那偉能古(アサリツナイノコ)、
p.0227 養老二年四月丙辰、筑後守正五位下道君首名卒、首名少治二律令一曉二習吏職一、和銅末出爲二筑後守一、兼二治肥後國一、勸二人生業一爲制レ修二敎耕營一、頃畝樹二菓菜一、下及二雞肫一、皆有二章程一、曲盡二事宜一、 五年七月庚午、詔曰、〈○中略〉宜下其放鷹司鷹狗、大膳職顱 諸國鷄猪、悉放二本處一、令上レ遂二其性一、
p.0227 土佐寄船事
慶長元年九月八日、元親公居城長家ノ森種崎ノ麓、葛木濱浦戸ノ湊へ夥敷唐般ヨリ來ル、元親公軍兵ヲツカハシ、此船湊へ引ヨスル、是ハ南蠻ノ内延須蠻(ノビスパンヤ)ト云國へ通船也、〈○中略〉右ノ趣ヲ元親公ヨリ秀吉卿へ言上アリ、時ヲ不レ移增田右衞門尉ヲ遣シ船中ヲ改ルニ、アフムト云鳥幷豕射干等アリ、
p.0227 土佐國寄船之事
土州長曾我部居城ちようかの森かつら濱うら戸の湊より、十八里沖におびたゞしき大船、慶長元年九月八日寄來之旨、長曾我部方へ吿來りしなり、則小船を仕立見せにつかはしければ、南蠻國より、のびすばんと云ふ國へ商賣のため通ふ舟にて侍りけるが、〈○中略〉歸朝の御いとま申上ければ、入べき物どもを注文を取て下行せしめつかはし申べきむねなるによつて、注文を出し候へと、長盛申つかはしければ、八木五百石、豚百、雞千疋と申上けり、
p.0228 家豬(かちよ/ぶた)
家豬は唐人紅毛人常々の食料なり、長崎立山又は稻佐等に多く飼置て商ふ、唐人館紅毛館等にもあり、野豬に似てよく肥たるものなり、