p.1003 井ハ、ヰト云ヒ、又ヰドトモ云フ、上古ハ自ラ涌出スル泉水ヲ呼ビテ、直ニ井又ハ走井ナド稱セシガ、後漸ク穿鑿シテ造レルモノアリ、其構造ニ由リテ板井、筒井、石井等ノ別アリ、近世ニ至リテハ又掘拔井アリ、而シテ我國往昔ノ井ノ今ニ存セルモノハ、伊勢神宮ノ御井(ミヰ)ヲ以テ、其最モ古キモノヽ一トス、
p.1003 井 四聲字苑云、鑿レ地取レ水也、音子郢反、〈和名爲〉
p.1003 丼八家爲二 丼一、〈穀梁傳曰、古者公田爲レ居レ井、竈葱韭盡取焉、風俗通曰、古者二十畝爲二一井一、因爲二市交易一故稱二市井一、皆調二八家一共二一井一也、孟子曰、方里而井、井九百畝其中爲二公田一、此古井田之制、因象二井 而命レ之也、〉象構 形一〈謂共也、 井上木闌也、其形四角、或八角、又謂二之銀牀一、〉 象也、〈缶部曰、 汲缾也、丼子郢切、十一部、〉古者伯益初作レ井、〈出二世本一〉凡丼之屬皆从レ丼、
p.1003 井〈伯益造レ之、舜之時也、場水也、〈見釋靈實年代記〉〉
p.1003 井(イ)
p.1003 井(ヰ/ヰノモト) 〈音精、四聲字苑鑿レ地取レ水也、〉
p.1003 井〈音精〉 丼〈本字〉 和名爲 井鑿レ地取レ水也、説文本作二井字一、八家一井、外象二構 形一、中ゝ 之象也、隷作二井字一、丼即爲下投二物於井中一聲上也、〈訓二止牟布利一〉三才圖會云、炎帝始穿レ井、堯教レ民鑿レ井而飮、伊尹教レ民田頭鑿レ井以漑レ田、
p.1004 井ヰ 萬葉集抄に、井とはあつまるといふ詞也といふ、地を鑿て水を集さしむるの義なるべし、日本紀に、好井の字、讀てシミヅといふ、シミとはスミ也、シトいひ、スといふは轉音也、ツとはこれも萬葉集に、井をツといふ、ツとは水也といひし是也、井水は清(スミ)ぬるを好(ヨシ)とする事なれば、好井の字を借用ひられしなり、後に清水の字、讀てシミヅといふも、亦此義と見えたり、
p.1004 ゐ 井をよむは集(井ル)の義、水のあつまるをいふと、萬葉集抄に見えたり、歌に、板井、石井、筒井、田井、山の井などヽよめり、字書に伯益造レ之、因レ井爲レ市也と見ゆ、〈◯中略〉堰をよむも井の義に同じ、せぎをして水を集る也、
p.1004 井 今世ノ俗ハ、諸國トモニ井戸(○○)ト云、
p.1004 祈年祭〈◯中略〉 座摩乃御巫乃稱辭竟奉皇神等能前爾白久、生井(○○)、榮井(○○)、津長井(○○○)、阿須波婆比支登、御名者白氐、辭竟奉者、〈◯下略〉
p.1004 井 山井 山あ井をもいふ 石井 いは井 いたゐ さて井 はしり 玉ゐ三井〈寺〉 あか
p.1004 井 山井〈山のゐとのヽ字ありても、又山井は淺き事に云り、さればあさくは人をおもふなど云り、又むすぶ手のしづくににごる山のゐの水と云り、〉石井 岩井 いた井 はしり井 あか井〈あかのゐと、のヽ字ありても云、されどもこのましからず、〉御井 井づヽ つく井 つヽ井づヽ〈ゐづヽといはんれうに、つヽゐづヽといへる也、つヽゐづのゐづヽと云説有、不レ可レ用と云々、〉ふる井〈古也〉たな井〈し水などいへり〉いな井 ふか井 玉井 のりの井 寺井 とを井 とこ井 かげのいは井 しばのかげ井 板井の清水 井もと〈ゐの本也、あさましやしづがゐもとのとき衣ふみあらはれば、〉岩つぼにたヽふばかりの山の井 さくら井 庭井の水 岩にせくあか井の水 いさら井〈小也、源氏、〉
p.1005 故爾各中二置天安河一而、宇氣布時、天照大御神先乞二度建速須佐之男命所レ佩十拳劒一、打二折三段一而、奴那登母母由良爾レ〈此八字以音、下效レ此、〉振二滌天之眞名井(○○○○○)一而、佐賀美爾迦美而、〈自レ佐下六字以レ音、下效レ此、〉於二吹棄氣吹之狹霧一所レ成神御名、多紀理毘賣命、〈此神名以レ音〉亦御名謂二奧津島比賣命一、次市寸島〈上〉比賣命、亦御名謂二狹依毘賣命一、次多岐都比賣命、〈三柱、此神名以レ音、〉速須佐之男命、乞下度天照大御神所レ纒二左御美豆良一八尺句璁之五百津之美須麻流珠上而、奴那登母母由良爾振二滌天之眞名井一而、佐賀美邇迦美而、於二吹棄氣吹之狹霧一所レ成神御名、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命、〈◯下略〉
p.1005 天之眞名井、書紀一書に、天渟名井ともあるを合せて思ふに、眞渟名井を約たる〈奴那を切て那となる〉名にて、眞は美稱、〈眞水を云など云る説は、例のいとうるさし、〉渟は凡て水の湛たる所を云、〈沼も同じ〉名は借字にて之なり、〈之を那と云る例多し〉されば此はたヾ井を美て云る稱にて、一ツの井の名には非ず、故レ書紀に掘二天眞名井三處一とも有ぞかし、又此井は即安河瀬の中にて、井と云べき所を指て云るにて、別に尋常云井ありしには非ず、〈書紀に、此井を云る傳には河を云ハず、河を云る傳には此井を云ざるも此故にや、〉始に中二置天安河一と云おきて、今此に如レ此言は別に非ること明けし、凡て古は泉にまれ、川にまれ、用る水に汲處を井と云り、さて丹後國丹波郡比沼麻奈爲神社、出雲國意宇郡眞名井神社あり、官帳に見ゆ、
p.1005 板井(○○) いたゐ 井筒を板にて作りし四方の井をいふ、筒井の丸きを對て知べし、石井は石のかわなり、
p.1005 詠レ井 安志妣成(アシヒナル)、榮之君之(サカエシキミガ)、穿之井之(ホリシヰノ)、【石井】之水者(イハヰノミツハ)、雖飮不飽鴨(ノメドアカヌカモ)、
p.1005 石井筒(○○○) いしゐづヽ 筒井の丸きかはを石にて作れるなり、今もこの物富貴の家には多く作れり、
p.1005 筒井(○○) つヽゐ
p.1006 丸きかわなるをいふ、四方なるをば、多く板井といふ、是この筒の丸きを筒御(ツヽミ)井といふ、御は眞に同じく稱美の詞なり、
p.1006 むかしゐ中わたらひしける人の子共、井のもとにいでヽあそびけるを、おとなに成にければ、男も女もはぢかはして有ければ、男は此女をこそえめと思ふ、女は此男をと思ひつヽ、おやのあわすれどもきかでなん有ける、扨此となりの男のもとより、かくなん、 つヽ井(○○○)づのゐづヽにかけしまろがたけすぎにけらしないもみざるまに〈◯下略〉
p.1006 つヽゐつの井づヽ つヽ井つのゐづヽにかけしまろがたけすぎにけらしも君見ざるまに 顯昭云、つヽ井つの井づヽとは、よのつねの本如レ此、しかるに或證本を見給しかば、つヽゐづヽ井づヽとなんかきて侍し、それこそ謂たれ、井づヽといはん料に、つヽ井づヽとをける也つヽ井つのといへるは心得られず、此故に、登蓮法師はつヽゐつのとあるべきを、つ文字の文字相似る故に書違たる也、 あしべをさしてたづなきわたると云、赤人歌をも、あしつをさしてなど、心得ぬ女などは讀事あり、それも相似たる文字なれば書違たる也、其義いはれず、つヽ井の邊のゐづヽと云べからず、又或人は、つヽゐつと云事に、つもじをひとつ書そへたり、つと云文字をば、やすめ詞也、かみつ、なかつ、しもつ、おきつなど云がごとし、さてつヽ井つと云に、文字のたらねば、つヽゐつのと、文字をくはへたる也と云人侍り、それも心得侍らず、あまりに意まかせなる義也、 又或抄物云、まろがたけとは、水汲桶也と云へり、かみをかたにかくるは、かた〳〵と云也、されば皮桶によせて、かみをかたけと云也、此義心得られず、井づヽにかけしまろがたけと云也、桶をまろがたけといはヾ、又かみをかたにかくるを、かたげとのぶべからず、よしなし〳〵、
p.1007 敵川のむかひにうちいで射矢雨のごとし、數萬の軍兵やす〳〵とうちわたす敵はすなはち引入ぬ、敵の城六ツ、七ツめぐり五十餘町の内おひこめ、六月より八月まで攻らる、城中そこばくの軍兵、數日をへて、八月〈◯永正十三年〉十九日に落居、安部山の金堀をして、城中の筒井、こと〴〵くほりくづし、水一滴もなかりしなり、
p.1007 井〈◯中略〉按有二掘拔井(○○○)一、隨二土地一淺深不レ定、五丈七丈而至下如二鏽鐵一者上、〈俗云二加禰一〉以二鐵梃一急突破鑿レ穴而逃上、如緩則所レ湧水勢損レ人其水雖二極旱一不レ涸、而常溢二於榦一、不レ能二渫盡一也、
p.1007 掘貫井戸(○○○○)の事、先年よりこれ有しが、武家には更になし、金子貳百兩ほどもかヽる事故、大商ならでは掘ざりしにより、彼所に一つ、爰に一つ有て、やう〳〵尋るほどに有りしが、二三十年以前、大坂より井夫(ヰドホリ)來り、あをりとかいふ奇器を以て、無造作に掘る事を覺へしより、價も至て下直なり、我等しれる極樂水とうふや井戸かわ共、三兩貳分にて出來しよし、其向にみつまたといふ湯屋は、最早く掘拔せしによりて、貳拾兩程かヽりしよし、夫故にや近邊第一の井戸となれり、近頃は江戸中掘拔井多くなり、一町の内に三四ケ所もこれあり、室鳩巣翁江戸に水道の諸所へかヽりければ、已後火災多からんと患ふ、掘拔井の多くなりしも、水道に同じかるべきにや、
p.1007 井 又〈◯大阪〉堀拔ト號シテ、別制井アリ、普通ノ井ハ地水ナルノミ、〈◯中略〉堀ヌキハ、坤軸ヲ貫キ清水ヲ呼ブ者ヲ云、汲ズシテ常ニ涌出ス、此井唯二井アリシニ、高津西坂筋楊屋町ニ在シ一所ハ、文政ニ亡ビ、今ハ長堀東涯ノ豪民住友氏ノ前河岸一所ノミ存セリ、此水ハ食料ニ足リ、河水渇テ飮料ニ困ム時、衆人爭テ汲レ之、〈◯中略〉 又江戸モ堀拔井アリ、是ハ玉川及井ノ頭ノ水ニ非ズ、地軸ヲ貫キテ清水ヲ涌出セシムルモノ也、
p.1008 其制尋常ノ井水ノ如ク、桶側ヲ重ネ、根側ト云、最下ノ側底ニ一穴ヲ穿チ、是ニ節ヲ貫タル竿竹筒ヲ立テ、地中若干尋ニ及ビ、清水ヲ呼ブ也、 右ノホリヌキヲ製ス、始テ鐵竿長丈ナルヲ以テ穿レ地、或ハ一竿或ハ二三竿ニシテ、岩ヲ貫ト稱シ、地中一圓ノ岩ヲ突貫テ後ニ鐵竿ヲ拔キ去ルニ、清泉是ニ騰揚シテ忽チ涌出ス、其鐵竿ノ穴ヘ竹筒ヲ下シ、其上ニ井側ヲ製ス也、是亦食飮ノ料ニ足リ、諸所ニ在レ之テ、大坂ヨリ甚ダ多シ、 又中水ノ井(○○○○)ト云アリ、堀拔ニ非ズ、上水ニ非ズ、前ニ云地中岩以上ノ水ヲ汲ムモノ也、雜水ニ用ヒ、夏月鮮魚等ヲ冷スニ良レ之トシ、魚店ニハ專ラ此井アリ、是ハ根側無底也、他同前、
p.1008 走井(○○) はしりゐ 近江 〈滋賀郡〉 井水の涌あがりて流るヽをいふ、飛泉と西土の書に見えし是なり、はしり湯、はしり水の類、走馬みなはやきをたとへていふなり、
p.1008 詠レ井 隕田寸津(オチタギツ)、走井水之(ハシリヰノミヅノ)、清有者度者(キヨケレバワタリハ)、吾者(ワレハ)、去不勝可聞(ユキガテヌカモ)、
p.1008 具注暦斷簡〈年號不レ詳 蓋紙背有二勝寶二年紀號一、當年以前可二以證一也、〉 艮〈◯中略〉 廿九日辛亥金成 歳後天恩、〈◯中略〉治井、竈吉、 卅日壬子木收 歳前天恩、〈◯中略〉井竈、〈◯中略〉吉、 震〈◯中略〉 五日〈◯三月〉丁巳土滿 歳前小歳後、〈◯中略〉治井、竈吉、〈◯下略〉 ◯按ズルニ、右ハ天平十八年ノ具注暦ノ斷簡ナラン、
p.1008 井〈◯中略〉 感遇云、穿レ井宜月日時、 子午年五月〈戌酉〉十一月〈卯辰〉 丑未年六月〈戌亥〉十二月〈辰巳〉
p.1009 寅申年七月〈亥子〉正月〈巳午〉 卯酉年八月〈子丑〉二月〈午未〉 辰戌年九月〈申未〉三月〈寅丑〉 巳亥年十月〈申酉〉四月〈寅卯〉 取二其方位年月日時一即名二福地一、
p.1009 井 吉日〈乙丑 辛未 己丑 庚寅 甲午 丁酉 戊戌 庚午 辛丑 乙巳〉 又説〈壬子 壬辰 庚子 辛丑 壬申 泉通泉无レ居二苦利一〉 又説〈甲子 乙丑 乙未 甲辰 乙巳謂二井吉一〉
p.1009 常陸國司解 申二古老相傳舊聞事一 倭武天皇巡二狩東夷之國一、幸二過新治之縣一、所レ遣國造毘那良珠命、新令レ掘レ井、流泉淨澄、尤有二好愛一、時停二乘輿一、翫レ水洗レ手、御衣之袖、垂レ泉而沾、〈◯中略〉 信太郡〈◯中略〉 郡北十里碓井、古老曰、大足日子天皇幸二浮島之帳舍一、無一水供御一、即遣二ト者訪占一、所々穿レ之、今存二雄栗之村一、〈◯中略〉 茨城郡〈◯中略〉 郡東十里桑原岳、昔倭武天皇停二留岳上一、進二奉御膳一、時令三水部新掘二清井一、出泉淨香、飮喫尤好、勅曰、能渟水哉、〈俗曰、與久多麻禮留彌津可奈〉由レ是里名謂二田餘一、
p.1009 愛宕郡 梅雨穴(○○○) 在二烏丸正親町南西禁門之側一、毎年毎二梅雨節一、此處水涌出、其邊人掘(○)レ之爲(○○)レ井(○)、梅雨節家々井水多濁、此水純清、故自二處々一來汲レ之、梅雨晴則此水亦枯、一説古此處有レ井、桓武天皇遷都日、傳教大師誦レ呪而封レ之云、〈◯下略〉
p.1009 一里塚始并五左衞門井戸の事〈◯中略〉
p.1010 或君の曰く、余が家を繼ぎて、領分のうち在々を巡見の時、金方村とかやいふ處の片隱に、うつくしき水湧き出づる井あり、余こヽに立ちよりて、その水を掬し見るに、其清き事いふ計なし、時に傍に六十餘の老婆うづくまりありけるを召して、此水は至りて清淨水なり、里には此水を遣ふにやと尋ねたりければ、老婆の曰く、凡此あたりの民家二百軒許、皆此水を遣ひ候、それにつき物語の候、此村元來水あしき所にて、一向に用ひられず、我父ふかく是を歎き、壯年の時より大願心をはつし、藥師如來へ立願して、かなたこなたに井戸を堀りたる事、八十ケ所に及ぶといへども、更によき水を求め得ず、最早勢力も勞れ、老年に及びて、漸く此所の井を堀りあて、終に其翌日果て申し候、其故に此井をば、五左衞門井戸と唱へて、今に親の名を唱へ來り候、是も最旱四十年許にて候が、夫よりして一村うちより、此姥に扶持を呉れ候ひて、此井の主になり、いと安樂に暮し申し候も、父のかげにて候、今日は殿様御通と承り候ゆゑ、井戸守の事に候へば、此所に罷り出て候と申したり、余この話をきヽて、大に感心し、當座の褒美をつかはし、且近習の面々へ向ひ、申しきかせしは、皆只今の物語を聞きしか、かれが親、一村の自由を達せんとて、辛苦萬勞して、八十餘の井を堀りて、終によき水を堀りあて、其翌日果てたりとかや、人君たるもの、かれが精心の半を以てせは、賢君名侯と稱すべし、かれは一村の助にせんとて、命を捨てヽ井を堀り、一國一家の主、此心を以て、家中始め、町在の者、末々まで、永久の爲を思はヾ、などか清水の井を堀りあてざらん、皆眞實に思ふ心なくして、只おのれが爲のみにして、人の事を思ひはからず彼親仁旣に命終るといへども、今に其名を井に呼び、老婆を扶持し、一村の者ども、此水のあらん限り、五左衞門が所業の忝き事を思ひ、いつ迄もかれが功の廣大にて、深厚なる事をいひ出だすべし、名は末代まで傳はり、人は一代にて朽つることわり、我人しらぬはあらねど、行ふもの少し、五左衞門井戸の事を、めい〳〵身に引きあてヽ心得べしと仰せられき、
p.1011 凡諸國驛路邊、〈◯中略〉若無レ水處、量レ便掘レ井、
p.1011 四年三月己未、道照和尚物化、〈◯中略〉于レ時天下行レ業之徒、從二和尚一學レ禪焉、於レ後周二遊天下一、路傍穿レ井、諸津濟處儲レ船造レ橋、
p.1011 一とせ筑波山へ御のぼり候て、山上水なき所あり、參詣の者共難義仕候よしを御聞、我がしらぬ分にて、誰ぞに此所へ井をほらせ申べしと被レ仰候が、其後いつとなく、何者か彼所に井をほり申候、
p.1011 建保元年六月廿日、今日修二復井一云々、貧屋井塞、不レ及二修造一送二旬月一、汲二冷泉面井一云々、下官無レ處二于成敗一、不レ知二家途事一、今日雜人共稱二日次宜由一相營云々、 廿三日、井終レ功云々、令レ修二土巳祭一、
p.1011 井は ほりかねの井、走井はあふさかなるがおかしき、山の井、さしもあさきためしになりはじめけん、あすかゐ、みもひもさむしとほめたるこそおかしけれ、玉の井、せうしやうゐ、さくら井、后まちの井、ちぬきの井、
p.1011 井 石井〈山城中御門の南、東洞院西江別有、同名相坂、但志賀の山也、〉いさら井〈未レ勘〉いはしろの井〈紀州〉いづみ井〈備中〉五十師御井〈伊勢 山かげのいそしのみゐはをのづから錦をおりてはるヽ山かも、〉稻井〈同レ右 なはしろの水はいな井にまかせたる民やすげなる君が御代かな、〉走井〈近江、あふさか、夕かげの駒かけひ、伊勢に有二同名一、それにはみゆき浦さびて、〉堀難井〈武藏入間郡、うれしく水のちかづく、〉常盤井〈城州春日南京極東〉小鹽井〈紀州、但いせと云説有、いせ外宮にあり、天村雲の尊、天に登て天の河の水を玉鉾に入て下て、是をかつして、置給を忍穗井と云也、是にて外宮の供御を備る也、不増不減の水也と云々、 をしほゐをけふ若水にくみそめて御あへたむくる春は來にけり此歌も其心歟、又此御あへとは、〉追都美井〈いせいと〉大回山井〈あふミ、昔ながらの〉興井〈奥州物の名にかくせり〉忘井〈いせ わかれゆくみやこのかたの戀しきにいさむすひ見んわすれゐの水、〉鴨井〈三條南町東鴨集故也〉龜井〈攝州有天王寺、万代にすめる龜井の水、にごりなき法浮木白石と尺のを河をそへたり、〉玉井〈山城、又近江、氷、千とせをかねてむすぶ、納凉、松山、吹やどのかざし、玉のゐと、のヽ字ありても、〉竹原石井〈大和龍田の山、五月雨の比、〉玉かげの井〈近江〉たる井〈美の 昔みし〉
p.1012 〈垂ゐの水はかはらねどうつれるかげぞ年をへにける〉田中井戸〈紀州山吹〉堤井〈 すヾがねのはゆるうまやのつヽみゐの水をたまつないものたヽてよ〉なか井〈備中〉ながらの山の井〈近江、八雲御説、しづめるかげ、〉山井〈山城三條坊門北京極西、又奥州同名あり、あさか山也、又江州に同名有、昔ながらのむすぶ手のしづくににごるの歌是なり、〉山邊のみ井〈伊勢、神のいせの乙女ら、〉増井〈丹波 凉しさをますゐの清水結ぶ手に先かよひくる万代の秋、〉眞間井〈下總 かつしかのまヽのゐみれば立ならし水をくみけん跡を戀つヽ、〉松井〈ぴつ中、或云丹波、 とをはなる松井の水をむすぶてふしづくごとにぞ千世はみえける、〉飛鳥井〈山城、みまくさがくれ、いくよねぬらん、駒、螢、みつにくむ、在所は二條万里小路、〉あさりのいは井〈奥州〉懸井戸〈一條北東洞院西角、又號二井戸殿一、蛙、山ぶき、こなき、杜若、藤、〉天橋立井〈山城六條南室町東輔親卿宅是宗祇法師注、〉佐良し井〈きの國 みくるすのなかにむかへるさらしゐの絶ずかよはんそこにつまもる、雪、蝉、このもと、〉さめが井〈あふみ、うき世の夢、水、〉盃井〈下總 東路にさしてこんとは思はれどさかづきのゐにかげをみるかな〉さくら井〈未レ勘〉埴科石井〈信濃、てこ、〉湯津留波御井〈大和 いにしへにこふるとりかもゆづるはの三井のうへよりしまわたりつヽ、時鳥、〉三吉野山井〈同レ右、又云、吉野山井共云、つらヽ、むすべばや花の下ひも、をそくとく、〉みやこ井〈信濃〉三井〈あふみ、園城寺、心のそこにすみまさる月、〉滋野井〈中御門北、西洞院西、〉芝付田井〈常州、尾花、薄、〉榎葉井、〈大和、豐浦寺にあり、〉せか井〈山しろ、大原、八雲御説、是清和井、〉せきのいは井〈あふみ、是あふさか歟、〉
p.1012 愛宕郡〈◯中略〉 常盤井(○○○) 在二大徳寺之南船岡山東田間一、〈◯中略〉相傳北京有(○○○)二九井(○○)一、所レ謂常盤井、懸井(○○)、石井(○○)、少將井(○○○)、鴨井(○○)、松井(○○)、滋野井(○○○)、飛鳥井(○○○)等是也、
p.1012 愛宕郡〈◯中略〉 常盤井辻子 在二西洞院一條北一、古常盤井相國實氏公之第宅在二斯處一、井水今猶存、而水至清矣、凡常盤井在(○○○○)二三處(○○)一、第一斯處、第二飛鳥井殿町、第三船岡山東田間、各常盤井相國第宅之地也、未レ知二孰是一也、〈◯中略〉 半井(○○) 在二烏丸正親町北一、相傳、古施藥院之所レ在、而醫家和氣氏住レ之、家内大井中間以(○○○○○)レ板隔(○○)レ之(○)、半充二製藥之用一、半爲二雜用之水一、自レ玆和氣氏有二半井之稱號一、 醒(○)カ井(○) 在二六條堀河佐目牛通西一、此水至清、故茶人專用レ之、相傳、茶人珠光、元南都淨家稱名寺之僧也、還俗後來二住此所一、慈昭相公專嗜レ茶、故時々有二來臨一、珠光以二此水一點レ茶而獻レ之、今井垣石、織田有樂齋改二築之一者也、建仁寺古澗長老作レ記以雕レ石、今猶存、按醒井誤二佐目牛一者乎、
p.1013 是月〈◯安康天皇三年十月〉御馬皇子以三曾善二三輪君身狹一、故思二欲遣一レ慮而往、不意道逢二邀軍於三輪磐井(○○)側一逆戰、不レ久被レ捉、臨レ刑指レ井而詛曰、此水者百姓唯得レ飮焉、王者獨不レ能レ飮矣、
p.1013 【入梅】(つゆ)【の】【井】(ゐ) 攝州矢田郡丹生山田庄原野村栗花落(つゆ)理左衞門第宅に井あり、渡り三尺、深さ一尺、常に水なし、梅雨に入てかならず涌出す、その水口の數を以、入梅の日を定む、終に姓と成りて、栗花落(つゆ)理左衞門といふ五月栗の花の落る頃は、入梅の時節なるが故に、栗花落(つゆ)と書り、〈◯下略〉
p.1013 第三御井社事 一始事〈◯中略〉 又云、〈◯本紀〉其後豐受神宮乃坤方乃岡片岸爾、新堀二御井(○○)一氐、天忍井水乎入加氐、當朝之水爾和合氐、末之世乃御膳調備料爾、移置給水也、 一水干事 本紀云、其水大旱魃年母不レ涸、其下二丈許下天底有二水田一、其田和旱魃損爪禮止毛、此御井乃水和專不レ干、恒出異恠之事不レ過二於是一、又他用更不レ可レ用之、 寛平八年三月之頃、件御井水俄干失之時爾、神宮司神主共上奏之日、且差二勅使一天令二祈申一給比、且大物忌父三人科二上祓一、祓清被レ令二供奉一、
p.1013 鐵井〈附鐵觀音 鎌倉十井〉 【鐵井】(クロカネノ)ハ雪下西南ノ路傍ニアリ、里人云、此井ヨリ鐵觀音ヲ掘出シタル故ニ名クト、〈◯中略〉鎌倉ニ十井アリ、棟立井(○○○)、瓶井(○○)、甘露井(○○○)、鐵井(○○)、泉井(○○)、扇井(○○)、底脱井(○○○)、星月夜井(○○○○)、石井(○○)、六角井(○○○)、此ヲ鎌倉ノ十井ト云フ、〈◯中略〉 泉谷〈附泉井〉
p.1014 泉谷ハ英勝寺ノ東北ノ谷也、〈◯中略〉 路端ニ井アリ、泉井(○○)ト云、清水涌出ナリ、鎌倉十井ノ一ツナリ、
p.1014 星月夜井(○○○○)〈附虚空藏堂〉 星月夜井ハ、極樂寺ノ切通ヘ上ル坂ノ下右ノ方ニアリ、里老云、昔ハ此井ノ中ニ晝モ、星ノ影見ユル故ニ名ク、此邊ノ奴婢、此井ヲ汲ニ來リ、誤テ菜刀ヲ井中ヘ落シタリ、爾シヨリ來タ星影不レ見ト、〈◯中略〉今按ズルニ、此谷ノ名ヲ星月夜ト云、アナガチ井ノ名ニハアラズ、千壽ノ謠モ、明モヤスラン星月夜ト有、古歌ニモ井ハ不レ詠、
p.1014 十六井 鎌倉に十六の井と云ふ有り、岩窟の内に小池を十六並べ穿て水を相かよはせり、その水清冷にして、めづらしきものなり、黄檗木庵の題詠を石に刻めり、後人の作れるなるべし、是は唐の封氏が聞見録卷一に、道教老子廟の條に引る郭縁生が述征記云、老子廟中有二九井一、汲二一井一八井皆動、即其地也、と見えしも、よく似たることなり、
p.1014 堀兼井 河越の南二里餘りを隔てヽ堀兼村にあり、淺間の宮の傍にある、故に是を淺間堀兼と號せり、〈此社前は古の鎌倉街道にして、上州信州への往還の行路なり、今の宮は慶安中、松平豆州侯建立なし給へり、別當を慈雲庵と號、河越高林院の持なり、〉淺間の祠の左に凹地有て、中に方六尺ばかりに石を以て井桁とし、半土中に埋れたるものあるを堀兼の井と稱せり、傍に往古川越秋元侯の家士岩田某建る所の碑あり、高さ五尺餘、其文左の如し、 此凹形之地、所レ謂堀兼井之蹟也、恐久而遂失二其處一、因石井欄置二坳中一削レ碑而建二其傍一、併以備二後監一、〈里語堀而難レ得レ水、故云レ爾、兼通難二未知一、只從レ俗耳、寶永戊子年三月朔、◯中略〉 土人傳へ云、往古日本武尊東征の時、武藏野水乏しく、諸軍渇に及びければ、尊、民をして此所彼所に井を堀らしむるに、終に水を得ざれば、龍神に命じて流を引しむるとなり、〈今の不二年越一川、或は入間川の事なりと〉
p.1015 もいへり、按に太平記に、元弘三年五月十五日、義貞、武藏野の戰ひに打負て、堀兼をさして引退くとあるは此地の事をいへり、又元和十三年の春、光廣卿の記行にも、廿三日は山の端しらぬむさし野につけ入、〈中略〉堀兼の井は右に見て通る、決定知レ近レ水心にうかぶべし、けふは仙波の御堂に云云、かくいへるも、此淺間堀兼の事なり、其餘にも堀兼の井と稱するものあり、此地より六町計南の方に、二十歩ばかりの間窪める地あり、是をも堀兼の井と呼べり、又北入間村にも堀兼の井と唱ふるありて、字を七曲りの井と號、渡り六七歩にあまれるもの農家の傍にあり土人相傳ふ、文永七年に堀穿所のものにして古は一村の人こと〴〵く此井の水を汲む事となり、されども後世井路崩れ損じたる故、今は所々に井をまうけて、此水を汲事なし、よつて井の繞りには雜樹繁茂して欝蒼たり、又其傍に文永、文保、寛正等の年號を刻せし古碑を存す、すべて堀兼の井と稱するもの、乙女新田、及び高井戸等の地にもありといひて、堀兼の井一所ならず、再び按に、武藏野の廣寞なる古水に乏しき故に、所々に井を堀穿つといへども、容易に水を得る事かたかりければ、かくは號けけるならん、されば此井一所に限るべからずと云ひて可ならん歟、〉
p.1015 常盤註進并信西子息各被レ處二遠流一事 中ニモ播磨中將成憲ハ、老タル母ト少キ子トヲ振捨テ、遼遠ノ境ニ赴ケル、〈◯中略〉イヅク限リトモ知ラヌ武藏野ヤ、ホリカ子ノ井(○○○○○○)モ尋見テ行バ、下野國府ニ著テ、我住ベカナル室ノ八島トテ見遣給ヘバ、〈◯下略〉
p.1015 法師品、漸見二濕土泥一決定知レ近レ水の心をよみ侍りける、 皇太后宮大夫俊成 武藏野の堀金の井もあるものをうれしくも水の近付きにけり
p.1015 行方郡〈◯中略〉 倭武天皇巡二狩天下一、征二平海北一、當レ是經二過此國一、即頓二幸槻野之清泉一、臨レ水洗レ手、以レ玉落レ井、今存二行方里之中一、謂二玉清井(○○○)一、〈◯中略〉 那賀郡〈◯中略〉 自レ郡東北挾二粟河一而置二驛家一、〈本近二粟河二謂河内驛家一、今隨レ本名之、〉當二其以南一、泉出二坂中一、水多流尤清、謂二之曝井(○○)一、縁レ泉所レ居、村
p.1016 落婦女、夏月會集、浣布曝乾〈◯中略〉 久慈郡〈◯中略〉 所レ稱二高市一、自レ此東北二里密筑里、村中淨泉、俗謂二大井(○○)一、夏冷冬温、湧流成レ川、夏暑之時、遠邇郷里、酒肴齎賚男女集會、休遊飮樂、〈◯下略〉
p.1016 智證大師初門徒立二三井寺一語第廿八 今昔、智證大師比叡ノ山ノ傳トシテ、千光院ト云フ所ニナム住給ヒケル、〈◯中略〉我ガ門徒ヲ別ニ立テムト思フ心有テ、我ガ門徒ノ佛法ヲ可二傳置一キ所カ有ルト、所々ニ求メ行キ給フニ、近江ノ國志賀ノ昔シ大伴ノ皇子ノ起タリケル寺有リ、〈◯中略〉寺ノ邊ニ僧房有、寺ノ下ニ石筒ヲ立タル一ノ井アリ、一人ノ僧出來レリ、此ノ寺ノ住僧也ト名乘テ、大師ニ告テ云ク、是ノ井ハ一也ト云ヘドモ、名ハ三井ト云フ、大師其故ヲ問フ、僧答テ云ク、是ハ三代ノ天皇生レ給ヘル産湯水ヲ此ノ井ニ汲ミタレバ、三井トハ申ス也ト、〈◯下略〉
p.1016 陸奧名所信夫摺石山ノ井(○○○) 陸奧へまかりし人々に、所々の事きヽし、〈◯中略〉淺香山は、本宮と高倉との〈下りには右のかた〉にあり、山の井の水は、其右の方、山をへだてヽ侍るとなん、
p.1016 福井庄〈十村〉 福井、富久居、當社莊北之故、此謂曰二北莊一、〈足羽社記〉素良按ずるに、昔は北庄と稱す、寛永元年甲子七月十九日、宰相忠昌公御入部の砌より福井と改らる、福井はもと足羽神殿にまします所、五座の神の其一座にして、古訓はサクヰ、祝詞式などには榮井(サクヰ)とも書きたり、然れども俗間にて訓みやすきに從ひフクヰと唱ふ、今御本城天守臺の上に福井と云名水あり、是則神名に據て名付るなるべし、此井の在所、御本丸となれるより、地名も福井と改められし事ならむ、
p.1016 瑞齒別天皇、去來穗別天皇〈◯履中〉同母弟也、去來穗別天皇二年、立爲〈◯立爲恐衍〉立爲二皇太
p.1017 子一、天皇初生二于淡路宮一、生而齒如二一骨一、容姿美麗、於レ是有レ井曰二瑞井一、則汲レ之洗二太子一、時多遲花落有二于井中一、因爲二太子名一也、
p.1017 愛宕郡 産湯水(○○○) 在二紫竹村大徳寺之末寺、大源菴方丈之南庭一、相傳、斯地源義朝之第宅、而義朝之愛妾常盤在二此所一、産二源牛弱一、其時汲二此井一煮二産湯一也、倭俗兒産時則以二温湯一洗二浴之一、是謂二産湯一、土人此地稱二古御所一、
p.1017 米多郷〈在二郡南一〉 此郷之中有レ井、名曰二米多井一、水味鹹、曩者海藻生二於此井之底一、纒向日代宮御宇天皇〈◯景行〉巡狩之時、御二覽井底海藻一、即勅賜レ名曰二海藻生井一、今訛二米多井一以爲二郷名一、
p.1017 幹〈イツヽ、亦作レ韓、井垣也、〉
p.1017 井筒(ツヽ) 井(同)就
p.1017 幹〈音寒〉 韓〈同〉 榦〈同〉 俗云井筒(○○) 又云井桁(○○) 轆轤(○○) 樚櫨 俗云車木(クルマキ) 幹 井上木欄也、其形四角或八角、 轆轤 井上汲レ水圓轉木也 按、幹其圓者俗曰二井筒一、方曰二井桁一、轆轤凡圓轉之器、皆稱二轆轤一用二字聲一、在二幹之上一受レ繘之物稱二轆轤一、用二和訓一呼レ之也、物原云、史佚始作二轆轤一、
p.1017 井輪(ヰドガワ)
p.1017 井 京坂井〈◯圖略〉 地上ニ出ル井筒、俗ニ井戸側ト云、豐島石ノ全石ヲ穿チ貫キテ制ス、 江戸井〈◯圖略〉 地上ニ出ル井筒ヲ、化粧側ト云、
p.1017 世ノ諺ニ、孝行ニハ水ガ付クト云リ、或老人ノ物語リニ、堀美作守親常ノ家人長瀬
p.1018 某ト云フ者、至孝成者ニテ老母ニ孝ヲ盡セリ、〈◯中略〉此邊スベテ水宜シカラズ、井戸ハ有テモ、飮水ニナラヌ濁水也、故ニ近隣ノ者ハ、皆遠方ヨリ清水ヲ汲セ、或ハ買水ヲ用ヰナドシケル、長瀬何ノ心モナク、門前ニ井ヲ堀リ、酒桶ノ底ヲトリ(○○○○○○○)、ソレヲ二ツ伏セテカハトス(○○○○○○○○○○○○)、サレバサノミ深キ井ニモ有子ド、水ハ至テ清水ニシテ、遠方ヨリ汲スル水ヨリモ、買水ヨリモ、猶ヨキ水ニテ、是ヨリ近邊ノモノ皆此水ヲ用ル故、長瀬ガ門前ノ井、未明ヨリ群集セリ、
p.1018 罐(○)〈音貫〉 鑵〈同〉 瓶〈音平〉 和名都流閉(○○○)、俗用二鉤瓶字一、 繘(○)〈音聿〉 綆〈音梗〉 都留閉奈波(○○○○○)罐汲レ水器也 繘汲レ水索也、方言關東謂二之綆一、關西謂二之繘一、
p.1018 一云、豐玉姫之侍者以二【玉瓶】(タマノツルベ)一汲レ水、終不レ能レ滿、俯視二井中一、則倒映二人笑之顏一、因以仰觀、有二一麗神一、倚二於杜樹一、
p.1018 朝倉義景ノ家士ニ、松木内匠トイヘル武士、年來ノ仇アリシニ、彼ガ爲ニハカラレテ終ニ討レ、又ソレガ一子十才バカリナルヲ抱キテ、妻ハ山中ニ落行タリ、此子廿歳ホドニナリ、松木某トイヒテ、件ノ仇ヲ尋子モトムルニ、敵ハ己ガ領地ニ家作シ、四方ニ堀ヲ構ヘ、夜ハ橋ヲヒキテ用心キビシケレバ、〈◯中略〉乞食ト成テ敵ノ家ニ到リテ窺ガウニ、門戸ノ出入キビシクテ入ベキ便ナシ、臺所ノ上ニケブリヲ出ス引マドノ有テ、其外ハ井ニシテ車釣ルベ(○○○○)ヲ掛タリ、ヨク見オオホセテ歸リ、深夜ニ及ビテ往テ見レバ、門前ノ橋ヲ引タレドモ、水ヲオヨギテ堀ヲ越シ、門内ニ入、夫ヨリ屋根ニ上リ、引マドヨリ這入、釣ルベノ繩ヲツタヒテ下リントスルニ、繩切テ井中ニ落入リタリ、其音家内ニヒビキケレバ、家人ドモ驚キ起出テ、井中ニ何カオチタルトヒシメケバ、突ベシト井中ニ聞エシカバ、コハ叶ハジト思ヒ、人ノオチタル也、引上玉ヘト呼ハル、盜人ナランタダ突キ殺セトイヒケレドモ、主人聞テ先引上テヨトイヘバ、サラバ繩ワ下スゾ、取付ヨト云テ、數人シテ引上タリ、〈◯下略〉
p.1019 桔槹 槹 機械 和名加奈豆奈爲 鐵索井 今云波禰豆留倍(○○○○○) 物原云、伊尹始作二桔槹一、以レ機汲レ水之具也、〈◯下略〉
p.1019 又御領内の民どもに、古井有レ之候には、めぐりに垣をいたし、人の落いらざるやうに仕候様にと、役人を以仰付られ候、
p.1019 故此大國主神、〈◯中略〉故其八上比賣者、雖二率來一、畏二其嫡妻須世理毘賣一、而其所レ生子者、刺二挾木俣一而返、故名二其子一云二木俣神一、亦名謂二御井神一也、
p.1019 天皇欲レ省二吉野之地一、乃從二菟田穿邑一、親率二輕兵一巡幸焉、至二吉野一時、有レ人出レ自二井中一、光而有レ尾、天皇問之曰、汝何人、對曰、臣是國神名爲二井光一、此則吉野首部始祖也、
p.1019 木曾洛中狼藉事 去程ニ源氏世ヲ取タリ、トテモ其ユカリナカラン者ハ、指セル何ノ悦カ有ベキナレ共、人ノ心ノウタテサハ、平家ノ方ノ弱キト聞バ悦、源氏ノ軍ノ勝ト云ヲバ興ニ入テ悦合ケリ、サハアレ共、平家西國ヘ落下給テ後ハ、世ノ騷ニ引レテ資雜財具(○○○○)東西ニ運ビ隱、京白川ニモテ吟ケレバ、引失者モ多、深キ井中ニ入(○○○○○○)、穴ヲ堀テ埋ナドセシカバ、打破朽損ジテ失シバカリ也、
p.1019 伊藤維楨字原佐號二仁齋一、又號二古義堂一、私二謚古學一、平安人、〈◯中略〉 左右比屋戮レ力濬二義井一、仁齋聞レ之出欲レ共焉、衆皆曰、吾曹成レ之足矣、何役二先生一爲、仁齋曰敢不レ謝二義之辱一乎、雖レ然余汲二此井一旣與レ衆不レ異、今豈有二獨不レ與之理一乎、遂執綆分二其勞一、
p.1019 井 京都ハ水性清凉、万國ニ冠タリ、故ニ飮食ノ用、皆必井水ヲ用モ然モ河水亦万邦ニ甲タリ、鴨河ノ水、衆人ノ所レ稱也、 大坂ハ井水鹽氣ヲ帶ブ、俗ニ是ヲカナケト云、鐵氣也、貯井水、鐵錆ニ似タル一物浮ビ、飮食ノ用ニ
p.1020 ナラズ、故ニ必ラズ河泉ヲ汲運ビテ飮食ノ用トス〈◯中略〉 江戸モ亦海變ジテ陸トナル地多キヲ以テ、井水鹽氣アリテ市民患レ之トシ、遠所ニ求レ之モテ上水ヲ制スコト、上卷ニ詳カ也、
p.1020 井 井水の濁りて清淨からぬには底を入べし、利馬竇が著せる泰西水法に井の底を作るには、木を下とす、磚これに次、鉛を敷を上とすと見えたり、又は金魚鯽魚を數多入置もよし、魚は水中の土垢を喰て清からしめ、水も又味美しといへり、今も蝦夷ソウヤなどいふわたりは、水あしくて濁る故に、井の底に蛤蚪の類ひをいれ置ば、水おのづから清しとかやいへり、
p.1020 井〈◯中略〉 古井不レ可レ入、有レ毒殺レ人、夏月陰氣在レ下尤忌レ之、但以二雞毛一投レ之、盤旋而舞不レ下者必有レ毒、以二熟醋數斗一投レ之則可レ入、古塚亦然、又云、古井不レ可レ塞、令二人盲聾一、
p.1020 古井には大毒あり、人むざと入ものあれば即死す、故に熟酢數升をそヽぎ入、或は鷄羽を落し見て、入ものなりといふ、愚老顧に毒あるにあらず、年を經る事久しきゆへ、井の底に滓濁積りて凝聚し、水土の氣のみになりて、天の風氣底まで通はざるにより人を殺す、人は天地の氣を得て保生するに、天氣とヾかず、水土ばかりの偏氣の中へ入るにより死す、海川にて沈溺するも、水氣のみ多くして、天氣陸地のごとくかよはぬがゆへなり、糀室穴倉にても、時により呼吸息迫する事あり、又金銀銅山にて、金掘共が穴中へ燈火をともし持入る、深く穿入て天氣通はざる所に至れば、其燈火たちまちに滅て人も死す、ゆへに燈火きゆると、急に逃出るとかや、是等もみな古井に入て死るも同じ理なり、