http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0636 伊豆國ハ、イヅノクニト云フ、東海道ニ在リ、北ハ駿河及ビ相模ニ接シ、東西南ハ海ニ面ス、東西凡ソ七里、南北凡ソ十四里、其地勢ハ鏃状ヲ爲シタル半島ニシテ、相模、駿河二灣ノ間ニ突出シ、國内山巒多ク、沿海危岩ニ富ム、此國ハ古ヘ國府ヲ田方郡ニ置キ、田方(タカタ)、那賀賀茂(ナカカモ)ノ三郡ヲ管シ、延喜式ノ制下國ニ列ス、中世北條郡ト稱スルモノアレド、其廢置詳ナラズ、後世ニ至リ、田方郡ヲ割キテ、別ニ君澤郡ヲ置キ、凡テ四郡ト爲シヽガ、明治維新ノ後、君澤郡ヲ廢シテ田方郡ニ併セ、那賀郡ヲ廢シテ賀茂郡ニ合シ、凡テ二郡トシ、靜岡縣ヲシテ之ヲ治セシム、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0637 此國ハ島嶼極メテ多ク、大小百餘ニ及ブ、就中最モ大ナルモノヲ伊豆七島ト稱ス、即チ伊豆半島ノ東南約三十里ノ海上ニ點在スル群島ノ名ニシテ、大島、三宅島、御藏島、新島、利島、神津島、八丈島ノ七個ノ大島ト、附近ノ小嶼ヨリ成ル、現今ハ東京府ノ所管トス、而シテハ大島、三宅島、八丈島等ハ、古ヘヨリ罪徒ヲ放流スル處トシテ其名高シ、事ハ法律部流刑篇、及ビ遠島篇ニ載セタレバ、宜シク參看スベシ、

名稱

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0637 伊豆

〔饅頭屋本節用集〕

〈以天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0637 伊豆(イヅ)〈豆州〉

〔日本風土記〕

〈一寄語島名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0637 伊豆〈因慈(インツウ)〉

〔倭訓栞〕

〈前編三伊〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0637 いづ 出をよめり、〈◯中略〉伊豆の國も、相模駿河の海南に出たる土地なるをもて名くる也、

〔諸國名義考〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0637 伊豆 和名抄に伊豆、〈國府在田方郡〉名義は、或書に引る伊豆國風土記逸文に、伊豆東相模、西駿河、出其中間之國故伊豆則出之義也云々とあり、彦麻呂、思ふに、出湯(イデユ)の約(ツヾマ)りにてはあらざるか、〈◯中略〉今も熱海(アタミ)、走湯山(ハシリユノヤマ)、伊東(イトウ)、松原(マツバラ)などの温泉あり、古本和名抄に、温泉一曰以天由(イデユト)、出湯也とあり、

位置

〔地勢提要〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0637 各國經緯度〈附里程〉 伊豆下田町、極高三十四度四十分半、經度東三度一十分、從東都〈東海道經三島驛天城越〉四十六里一十五町一十二間半、 伊豆八丈島、〈大賀郷〉極高三十三度六分半、經度東三度五十分半、從下田渡海、直徑四十七里二十一町三十六間、〈從東都東海道經三島驛、天城越至下田、沿海九十四里四十八間半、〉

〔日本經緯度實測〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0637 北極出地 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0638 伊豆 三島 三五度〇七分三〇秒 下田湊 三四度四〇分三〇秒 八丈 三五度〇六分三〇秒〈◯中略〉 東西里差 山城 京 ◯度◯◯分◯◯秒〈◯中略〉 伊豆 下田 東三度〇九分二九秒

疆域

〔増訂豆州志稿〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0638 疆域 伊豆者出也、南海ニ突出ヅ、故ニ以テ州ニ名ク、〈◯中略〉東西南三面至海、北接駿相二州、南北二十三里許、東西十一里餘、〈◯註略〉東北方相州足柄下郡トノ疆界ハ、伊豆雄山ノ東方門川〈一名千歳川、又境川〉ヨリ役行者〈役行者ノ石像アルユエ地名トナル〉ニ至ル、見通州界也、〈亦神領也〉北ヨリ一線ノ山脊路ヲ界トシ、石原坂ノ表木ニ至ル、表木ヨリ蘆湖ノ西ノ山脊通、山伏嶺三國山〈君澤郡伊豆佐野村ニ屬ス〉ニ至ル、西北ハ大溪瀧溪ノ二溪、茶畠村〈駿東郡〉上ニテ合流シ、以下ヲ界川ト云、幸原村ヲ經テ三島ノ千貫樋下ヲ過ギ、長伏村ニシテ狩野川ニ注クマデ、駿州駿東郡ト凡テ此川ヲ界別トス、〈サレドモ近世幸原ニシテ、水盡ク東ニ決シ、西南方千貫樋マデ水枯渇スレドモ、仍舊古水(フルカハ)通ヲ界トス、〉長伏村ヨリハ狩野川界タリ、江間村ニ至テハ、駿州大平村口野村トノ間、連山岡脊界ナリ、海濱ハ、重寺村ト駿州口野村トノ間ニ犬潛ト云處ヲ分界トス、〈◯註略〉按ニ、古昔相州トノ疆界ハ、箱根山脊通ヲ北ニ指シ、今箱根驛ノ三島町ト小田原町トノ間ヨリ、湖水ノ中通ヲ豆駿相ノ分界トス、〈◯註略〉稻葉氏小田原侯タル頃疆界今ノ所ヘ移ル由ナリ、善隣國寶記ニ、應永戊申、源道詮、求一切經於朝鮮國、書曰、吾州伊豆州泰籙山東福教寺、東方之靈區也ト、又相模風土記曰、西限湯之瀬山ト、湯之瀬山トハ蘆湯山ノ山ナルベシ、伹箱根權現ノ相模ニアル諸書ニ明也、豈時代ニ因リ、其邊伊豆ニ屬セシ事モ有ンカ、〈◯註略〉北方ハ古ヨリ境地少ク蹙シト見ユ、伊豆佐野ノ北方一里許ニ問答山アリ、〈曾テ二州山訟アリシニ因テ、名ヅクルヨシ、〉是古ノ分界也ト云、〈甲陽軍鑑等ニ、伊豆境深澤城新莊城ナドアルハ、小田原侯北條氏切取タル駿河ノ地、皆伊豆ト稱シタリ總テ戰爭ノ時ハ、諸州共ニ此ヤウノ事多ク、疆界大ニ錯亂スルナリ、〉

〔日本地誌提要〕

〈十六伊豆〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0639 疆域 北ハ駿河、相模、東西南ハ海ニ至ル、東西七里壹拾貳町、南北壹拾四里餘、

島嶼

〔日本實測録〕

〈九島嶼〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0639 伊豆國賀茂郡 實測 大島、周廻一十里二十六町四十一間半、 岡田村、三十四度四十七分半、 新島村、三十四度四十四分半、〈從岡田村新島村徑測一里二十一丁四十間半〉 利島、周廻二里三町三十三間 利島村、三十四度三十二分半、〈從前濱宿所四丁五十五間〉 新島、周廻六里三十四町五十九間半、新島本郷、三十四度二十三分、若郷村三十四度二十五分半、〈從本郷前濱羽伏浦徑測二十二丁三十八間半、從若郷伊澤浦一十三丁六間、又從本郷十三社明神三丁四十五間、又從若郷子ブ崎二丁三十八間、又從本郷南岬早島二丁三十間、〉 神津島、周廻五里三十三町三十二間、本郷三十四度一十二分、〈從前濱本郷タコ濱徑測二十二丁二十四間從本郷赤羽根タコ濱二十四丁五十九間半、從赤羽根向山五丁九間、〉 三宅島、周廻七里二十八町六間半、伊ケ谷村、三十四度七分半、阿古村三十四度六分半、坪田村三十四度四分、〈從伊ケ谷、至坪田村徑測二里一十三丁四十三間半、從火寄濱神著村六丁四十二間、從阿古村濱富賀明神三町四十五間半、〉 八丈島、周廻一十里一十三町一十間半、三根村、三十三度八分、大賀郷三十三度六分半、末吉村三十三度五分半、〈從三根村濱宿所八丁四十五間、從三根村神湊大賀郷前崎濱徑測一里一十二丁五十九間半、從大賀郷中之郷末吉村三里五丁二十九間半、又從三根村西山一里六丁一十三間、從中之郷海岸七丁五十六間、〉 小島、周廻一里三十町二十六間、鳥打村三十三度九分、〈從宇津木村濱爲朝明神三丁四十七間半、從鳥打村濱宿所二丁四十八間〉 初島、周廻二十六町二十六間、 地内島、周廻二十三町三十八間半、 式根島、周廻三里一町三間半、〈從野伏浦獅子浦徑測一十五丁四十五間〉 御藏島、周廻四里七町五十三間、〈從前之濱鎌取明神四丁三間、從南之郷次郞濱八丁四十五間、〉 惠比須島、周廻五町二十三間、 鷺島、周廻一町五十五間半、 犬走島、周廻二町四十九間、 赤根島、周廻九町一十八間 遠測 沖之磯 烏帽子根〈熱海村〉 雀島〈多賀村〉 二ツ根〈多賀村〉 神樂岩 平床根 二ツ根〈宇佐美村〉 黒根〈宇佐美村〉 手石島 女郞岩 尾根 間通島 西島 波高根 タンコ根 沖島〈八幡野村〉 前島 鯖根 ウシ根 千束根 平根〈谷津村〉 雀島〈白濱村〉 龍宮島 地サク根 雀島〈外浦〉 赤子 根島 鷹島 筆島〈外浦〉 沖サク根 足根 爪木島 田浦島 サヲリ根 平根〈須崎村〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0640  ミサゴ島 カネ島 小赤島 雀島〈吉佐美村〉 サク根〈田牛村〉 平根〈田牛村〉 横根〈田牛村〉 ミコモト島 トイキ 石取根 蓑掛島 ウルイ 辨慶島、 センクワンモン コミタケ ソ子ノ山 田子島 篠島 丸根 ラダイ根 中根〈大島〉 ヲコ島 鵜糞根 宇渡間島〈又呼宇土根〉 平根〈利島〉 ラダイ根 フツン根 大平根 平根〈地内島〉 大島根 權大根 サイマ根 赤根〈式根島〉 モウヤ根 裸根 カンノ根 カイタカ根 疊根 大島 コンタンバラ根 セイ根 長根 ヲン根 ミヅク根 早島 コタキ根 鵜根 タン桂 ヲンバ瀬 タヽナヘ島 ソウダイ島 ヲヽアマ根 白根 マナイタブラ 大アサラ 牛根 サク根 下黒根 タヽキ根 カンナギ根 三本岳〈又呼大野原〉 ケンキ根 大横根 浦根 トウシ根 沖スフ根 丸根〈大〉 丸根〈小〉 平分根 赤根〈三宅島〉 大三郞根 マン根 コシ根 一根〈小島〉 中根〈小島〉 カンナキ根 トダテ根 ヲリカ根 平根〈小島〉 カテイ根 ミナ根 イナンバ〈又書藺灘波〉 馬鞍石 イチノ根〈八丈島〉 ウルヲ根 ユルカ根 大淺石 ハンゾウ根 久太郞根 青ケ島 君澤(クンタク)郡 遠測 アハ島

〔日本國郡沿革考〕

〈四屬島〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0640 伊豆諸島 天武天皇十三年、伊豆島西北二面、自然増益三百餘丈、更爲一島、仁和三年十一月、伊豆獻新島圖、 大島〈五村、南北五里餘、東西二里半餘〉 三宅島〈五村、南北四里餘、東西二里餘、〉 神津島〈一村、日本後紀、作上津、或作神集、南北二里、東西一里餘、〉 利島〈一村、保元物語、作三附島、或作十島、方一里餘、〉 新島〈二村、南北三里餘、東西一里餘、敷根島、本與新島壤、昔年因海嘯破裂、爲別島、無居民、方一里許、〉 御倉島〈一村、或作三倉島、東西一里半計、南北一里、〉 八丈島〈五村、玉海所謂嚴島、百練抄所謂隱岐島、皆即是、或作沖島、南北七里餘、東西三里餘、延徳中、伊豆國加茂郡人朝夷六郞知明航南海始檢出、島出絹、長八丈、因爲島名云或云、漢人所謂女國、即指此島也、韓人亦呼爲女子郷、而世人呼爲女護島、未其説、〉 八丈屬島二 小島〈二村、平家物語半井本所謂奧小島、疑是、而鎌倉本作奧之島、南北一里餘、東西二十町許、〉 青島〈二村、或云、古名鬼島、南北一里餘、東西二里餘、〉 右名伊豆七島(○○○○)、隷伊豆國賀茂郡、或者〈◯者下恐脱除字〉八丈、加敷根以爲七島

〈伊豆〉

〔島々家數人別其外〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0641 一〈男千四百八拾八人 女千六百貳拾四人〉大島 一〈男八百四拾六人 女千貳百拾四人〉三宅島 一〈男百四人 女百貳拾壹人〉御藏島 一〈男九百九拾五人 女千六拾六人〉新島 一〈男百拾人 女百貳拾九人〉利島 一〈男六百八拾九人 女七百壹人〉神津島 一〈男三千七百四拾七人、女四千五百六拾六人、〉八丈島 〆〈男七千九百七拾九人 女九千四百壹人〉

〔南方海島志〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0641 一大島、八丈、三宅ノ三島ハ、其域小キ也ト雖、瀕海ノ民有リ、山民有リ、頗ル俗ヲ異ニス、海濱ノ民ハ江都及諸州エ舟行スルヲ以テ、衣食言語稍々豆州ニ類ス、山民ハ生レ立チノマヽニテ、外人ト交ワラザル故、特ニ朴野也、衣ハ膝ヲ蔽フバカリノ短衣ヲ著シ、食物モ甚ダ麁惡也、諸島ノ男女髮ニ元結油ヲ用ズ、婦女ハ紅粉ヲ以粧スルコトナク、皆素面也、長簪(カウガヒ)、簪ヤウノ首飾ナク、推髻ニテ、其結ビヤウ前後甚ダユルシ、所謂倭墮髻也、言語モ難辨、別シテ八丈小島青島ハ遠ク隔リタル故、風俗殊ニ異也、言語ハ舟乘ノ外ハ大半通ゼズ、サレドモ昔ニ比スレバ、風俗移リ易リタリ、二十年以來ハ、髮ニ元結油ヲ用ル者モ間々有リ、古風、漸ク衰フ、猶島々ノ下ニ其風俗ヲ記ス、 一島ニヨリ風俗稍不同イエドモ、總テ言エバ朴野敦實ニシテ、一島ヲ一家ノ如クニ思ヒ、先祖神佛ヲ崇敬シ、親ノ喪ヲ愼ミ、墓所ハ掃除シテ常ニ清シ、死シテ大葬ノ慘ナシ、盜賊ノ患ナク、爭鬪獄訟ナク、往古ヨリ干戈ノ禍ヲ知ラズ、路ニ遺タルヲ拾ハズ、夜ル戸ヲ閉ズ、畢竟僻遠ノ小地ナル故也、但流人多ク到ル島ハ、風俗澆漓ニ降リヤスシ、大抵流罪ニ遇フ人ハ、内地ニテ兇暴無頼惡少年多シ、島人ソノ風ニ移ルコト悲ムベシ、〈◯中略〉 一凡島婦人女子、木ヲ伐リ薪ヲ負ヒ、畠ヲ耕耘スル、都テ男子ヨリアラキハタラキヲ爲ス、サレドモ耕耘ノ法ヲ知ラズ、農業ニオイテ甚疎略也、漁獵ト雖、亦ソノ方ニウトシ、 一凡婦人懷孕ノ時、産帶スルコトナシ、産甚ダ安シ、産婆ヲ用ズ、三宅島ナドハ臨産デ自ラ家ノニハニ下、臼ニトリ付キ産ス、ソノ外スベテ他ノ力ヲカラズ、妊身ノ中ハ常ヨリアラキ働ヲ爲ス、ミ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0642 ナ難産ノ患ナシ、 一婦人女兒佳節、又ハ神佛エ請スル時ナド皆抹額ヲ用ユ、新島ナドニテコレヲシヽホト云、富家ハ紫縐紗紅絹ナドヲモ用ユ、額ヨリマワシ頂ニテ結ビ、長ク垂ルヽヲ美ト云、貧家モ相應ノ物ニテ制シ、且ツ短ス、常ニモ木綿ナドニテ抹額ス、畢竟髮ニ油ヲ塗ザル故、毛ノ亂ルヽヲ以也、中土(モロコシ)朝鮮ニテ網巾ヲ用ルガ如シ、 一冬春ノ間、家々酒ヲ醸シ、醱醅ニテ飮ム、酔則歌舞、以爲歡樂、皆一家ニ集リ、其家醪盡レバ又他ノ家ニ往ク、島人他ノ樂ミナシ、唯此而已、 一凡島山茶樹多シ、實ヲ採リ油トシ、島中燈油トシ、又髮ニ塗リ、又シボリタル後、鍋ニテ煮返シ、凡ソノ食物ニ加フ、人ヲ饗應スル時、殊ニ馳走トス、サテ島ニヨリテ多キ處ハ江都エ出シ賣ル、 一凡島他屋ト稱シテ、人家ヲ隔テ山側ナドニ、地板モナキ小茅舍ヲ造リ、毎村數ケ所有リ婦人有月事者、又臨産ノ婦人入之、其法經水ノ婦人ハ八九日、産婦ハ五十餘日、其間絶テ家人ト往來セズ、其父母雖疾而其婦來リテ侍養スルコトヲ不得、在他屋之婦、雖病而臨一レ死、其子不往而省視焉、是以其婦人大率濕邪瘴氣ニ感ジ、或ハ死シ或ハ痼疾ヲ得、少婦ハ淫行ヲ階ス、庚寅ノ巡島使ソノ傷風敗教ヲ痛ンデ、島民ヲ曉喩シテ曰、此事内地ニ無之、不慈不孝莫於此焉、且廢業導淫、促壽召疾、自今以往禁止スルコト可也ト、丁寧ニ示シケレバ、島人皆曰、此他ナシ、唯神明ノ祟ヲ畏レテ然リ、願クハ訓言ニ從ヒ、他屋ヲ毀チ、ソノ跡エ作物ト爲ント、此誠ニ教化之一端也、〈◯中略〉 一凡テ船乘ノ内地ト買賣スルニ金銀ヲ用ユ、ソノ外ハ皆交易ニシテ金銀錢ノ通用ナシ、故ニ山民ハ畢生金錢ヲ見ザル者モアリ、物ヲ交易スル亦古風也、 一木匠、船匠、鋸工、鍛冶、桶師ノ工人ハ、島ニヨリ多少有リ、其他ノ工人スベテ無シ、醫士亦無シ、流人ノ内コレアルカ、或ハ土人ノ醫方ヲ喜(コノ)ム者ニ就テ藥ヲ乞フ、大概疾アル者藥ヲ不服、ソノ自ラ瘳

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 ルヲ待ツ、八丈ニ案摩導引ノ別法有リ、 一戸口、天和三年夏書上、諸島合戸、凡九百十三口、凡二千三百七十三、今風土記據ニ、戸二千二百五十三口、一萬三千四百、僅ニ百年許リノ間ニ、戸ハ一倍餘、口ハ六倍ニナリタリ、スベテノ島女人殊ニ男子ヨリ多シ、新島ノ諺ニ云、女人七分ト、コレハタトヘバ十人ノ内女人七人アリト云コトナリ、古エハ猶更トヲボユ、八丈島ノ女人國ト云タルモ宜也、今男女大抵等也、人別ノ書上ゲハ甚ダ不審、流人多ク到リテ男子衆クナルト云ヘドモ、如此増スベカラズ、〈◯中略〉 一凡島近世迄痘瘡甚ダ稀也、八丈ノ三島及三倉島ニハ絶テ無シ、或云鹹草ヲ啖フガ故也ト非也、蓋シ痘ハ一種ノ疫氣ニシテ、ソノ氣流行スレバ輙發ス、故ニ雖島人東都ナドエ往來スル者ハ、乃チコノ患ニ罹ル、

〔日本書紀〕

〈二十二推古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 二十八年八月、掖玖人二口、流來於伊豆島

〔日本書紀〕

〈二十九天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 四年四月辛卯、三位麻續王有罪、流于因幡、一子流伊豆島、一子流血鹿島、 六年四月壬寅、村田史名倉、坐斥乘輿、以流于伊豆島、 十三年十月壬辰、逮于人定、大地震、〈◯中略〉古老曰、若是地動未曾有也、是夕有鳴聲鼓、聞于東方、有人曰、伊豆島西北二面、自然増益、三百餘丈、更爲一島、則如鼓音者、神造是島響也、

〔扶桑略記〕

〈二十二宇多〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 仁和三年十一月二日、伊豆國獻新生島圖一張、見其畫中、神明放火、以潮所燒、則如銀岳、其頂有祿雲之氣、細事在圖中、不更記之、

〔今昔物語〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 伊豆國大島郡建地藏寺語第十六 今昔、伊豆ノ國大島ノ郡ニ、海ノ岸遙ニ絶テ鳥獸モ難通キ島有リ、極テ惡キ邊地也、其島ノ西南ノ方ニ一勝地有リ、昔役ノ優婆塞ノ此ノ國ニ被流タリケル時ニ、時々飛來テ勤メ行ヒ給ケル所也、

〔參考保元物語〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 爲朝鬼島渡并最期事 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0644 京師本、杉原本、鎌倉本、半井本並云〈◯註略〉爲朝大島ニ月日ヲ送リ、〈◯中略〉此島ハ爲朝ガ帝王ヨリ賜タル所領也トテ、三宅島、八丈島、ミツケノ島、オキノ島ナド云〈鎌倉本、半井本云、大島ヲ始トシテ、ミヤケノ島、上津島、八丈島云云、半井本、奧島作沖小島、不三倉島、而云凡七島、〉島共ヲ從ヘテケリ、

〔伊豆海島風土記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0644 大島(○○)は、伊豆國加茂郡下田湊より卯辰の間に當り、海上隔たる事十八里、同國河南へは七里程、江戸よりは未午の間にあたりて、海上四十六里餘あれども、つねに島船行かよひ、交易の事安し、島の地程は、東西二里半、南北へは五里餘またがり、高山もあれども、なべて岨しからず、濱邊はたへず浪の打洗ふゆへ、巖石顯れ出て、あら礒多し、さて此島人の住始ける年暦流人配所と成し始不詳、

〔伊豆七島調書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0644 伊豆國附大島〈東西二里半程 南北五里程 江戸より海上 三十六里程〉 一家數四百七拾軒、人數〈男八百九十二人 女九百二十七人〉外に流人男七人、馬百疋、 三原大明神 神主藤井内藏助 寺三ケ寺〈豆州下田海善寺末淨土宗潮音寺 同網代修善院末禪宗金光寺 同下田本覺寺末法花宗海中寺〉 一此島御貢金四拾壹兩永二百拾七文宛年々定納仕候 一爲御救米、一ケ年二拾石五斗八升三合宛被下置候、 一御圍米無御座候 一此島田方無之、畑方有之、麥、粟、稗、芋を作り、夫を食に仕候、 一此島には稼は、男は薪を伐、笘を織、江戸へ積出し、漁事多き節は鰘鰹を取、干物鰹節にいたし、江戸へ積出し渡世仕候、 一女は冬より春迄海苔を取、又漁事手傳いたし渡世仕候、 一流人渡世之儀は、親類より見繼無之者は、百姓之手傳致渡世仕候、〈◯中略〉 寶暦三年酉十二月

〔丙辰紀行〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0645 大島 術ありとて頼むべからず、役優婆塞が鬼神をつかひしも、廣足が讒によりて流され、力ありとて頼むべからず、鎭西の八郞が大弓をひきしも、信西がはかりごとにてうつさる、されば此島は、伊豆の沖にありて大島と名づけ、いにしへより風浪のたよりまれなれば、遷客投荒の所とす、近比仙洞の脱屣ましまさヾりし時、宮女の和姦の罪によりて幽閉し、死を給ふべきなれど、天氣しきりにありしを、大相國寛仁の心まし〳〵しかば、申宥められて、あまたの宮女を、流し遣はされし新島も此澳にあり、〈◯中略〉 迢々南海濱、擧目不津、小角來驅鬼、八郞謫化神、土人畜獸類、風俗混魚鱗、寄語一漁叟、天涯奈汝身

〔伊豆海島風土記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0645 利島(○○)は、伊豆國加茂郡下田湊よりは巳午のかたにあたり、海上十里餘、江戸よりは午未の境に當り、海上四十八里程あり、伊豆國の方に向ひ荒濱ありて、此處に船を置、國地のわたりも遠からねど、瀬戸の汐はやく波高く、朝には海底の大石を打よせて汀に堤をなし、又波汐の引拂ふ夕には、石盡て淵海となり、きのふ船を浮めし事、人力を盡すに堪たりといへども、又けふは童の力にても船のうかみ安き事ありて、船長の甘苦定りなき地なり、しかはあれど伊豆相模の浦々へは一日の内に渡り、江戸へも行通ふこと安きゆへ、わづか一里にみちざる小島なるに、家數八十六軒、人數三百二十人餘り、流人は三人ありて、程々の世わたりをなす、其産業には、男は漁獵を專らとし、重に干魚鰹ぶしを以て、國の雜穀と交易す、女はむかしは絹をも織りしよし、今は其業絶て農事に身をやつし、日毎に畑に出て、麥、粟、大根、芋、菎蒻の類を作るに、肥しをも厚く用ゆるゆへ、穀の實りも大島などにはまさるべし、

〔伊豆七島調書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0645 利島 一里四方〈江戸より海上四十八里程〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0646 一家數九拾八軒、人數〈男百四十二人 女二百卅一人〉牛なし、外に貳軒流人男二人、 寺貳ケ所〈豆州下田本覺寺末法花宗長久寺、甲州身延山久遠寺末同宗海岸寺、〉 一御年貢金拾八兩三分永五十五文宛年々定納仕候 一爲御救米、一ケ年拾石一斗一升宛被下置候、 一御圍米無御座候 一此島田方畑方少々宛有之、麥、粟、稗、大豆、小麥、芋、大根、菜、其外胡麻、芥子、多葉粉等作り申候、 一麻少々宛作り申候 一此島水不自由にて、纔之清水二ケ所有之候得共、引足り不申候に付、雨降候節は辻々溜置、天水を遣ひ申候、 一此國稼には、男は畑作之間は薪を伐、江戸へ積出し、夏は鰹を釣、渡世仕、女は蠶を飼、其外芋野老草木の葉取、渡世仕候、 一廻船二艘、漁船四艘御座候、 一流人渡世之儀は、親類見繼無之者は、百姓之手傳致、渡世仕候、〈◯中略〉 寶暦三年酉十二月

〔伊豆海島風土記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0646 新島(○○)は、伊豆國加茂郡下田湊より午の方にあたり、海上十三里、江戸よりは午未の間に當り、海上五十一里程あり、島の廻り砂濱多き故、海靜なる日は船を浮むる事安く、順風には伊豆相模の浦々へ一日のうちに渡り、江戸へも常に行かよふ、島の地程は、東西へ一里、南北へは三里程をへだてたる島なり、四季の時候暑寒とも、伊豆の國にかはりたる事なし、

〔伊豆七島調書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0646 新島〈東西三十町程 南北三里程 江戸より海上四十六里程〉 一家數三百七拾二軒、人數〈男四百七十五人 女九百三十八人〉外に流人〈男四十八人 女壹人〉牛三十疋、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0647 三島大明神 神主前田長門 寺一ケ所〈下總國正中山法花寺末〉法花宗 三松山長榮寺 一此島御年貢金拾六兩三分永貳百卅三文宛年々定納仕候 一爲御救米、一ケ年米貳拾三石四斗五合宛被下置候、 一御圍米無御座候 一此島稼には男は薪を取、江戸へ積出し、鰘、鰹、鮭を取、干物鰹節に致、江戸へ出し、夫を食に代替渡世仕候、 一女は冬春は海苔を取、其外漁事手傳致、渡世仕候、 一廻船拾三艘、漁船四十艘御座候、 一流人渡世之儀は、親類より見繼無之者は、百姓手傳致、渡世仕候、〈◯中略〉 寶暦三年酉十二月

〔南方海島志〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0647 新島 式寧嶼(○○○) 南方一里許リ在リ、周回一里餘、上ニ松林アリ、葛、草薢、薯蕷、鹹草等ヲ生ズ、常ハ不採、凶年ノ備トス、昔ハ本島ト地連キタリ、海溢ニテ切シ故ニ、海溢トモ云、本人家及寺ナドモ有タリシガ皆廢ス、嶼ノ西ノ方ニ泊リト云處、野蟲ト云處、僅カノ嶴アリ、八丈船ナド詮ナキ時ハコヽニ繫泊ス、

〔南汎録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0647 十五日〈◯天保九年四月〉小舟如式寧、謁山神祠、屋壁皆用浮石、穿簀二百歩出東邊、奇嵒臚峙、〈◯中略〉躑躅幔生有洞通潮汐、曰潮穿嵒、洞中見三宅於東南之際、是爲嶼中最勝區、〈◯中略〉古者式寧接本島、〈◯新島〉一歳海哨中斷爲二、所謂潮穿、獨松、當時所洗出云、嶼有三十一灣、灣皆可漁可泊、故東風則漁西灣、西風則漁東灣、島人目爲寶庫

〔伊豆海島風土記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0647 神津島(○○○)は伊豆國加茂郡下田湊より午の方にあたり、海上十八里、江戸よりは

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0648 午未の間にて、未の方へより、海上五十五里程あり、めぐり五里ばかりの島にて、海ぎはも嶮岨なれど、新島に双びて國地への便り能く、順風には伊豆の浦々へ一日に走り、渡通船江戸へも常に行通ふ、時候暑寒も伊豆國に異ならずといふ、

〔伊豆七島調書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0648 神津島〈東西一里南 北一里半程 江戸より海上五拾六里程〉 一家數百四十五軒、人數〈男二百五十九人 女二百九十一人〉外に流人男七人、〈野牛有、數不相知、〉 正一位定大明神 寺一ケ所 〈豆州下田海善寺末〉淨土宗 濤閙寺 一御年貢金七兩二分永二文づヽ毎年定納仕候 一爲御救米、一ケ年五石六斗六升二合づヽ被下置候、 一御圍米無御座候 一此國田方無之、畑方少々有之、粟、稗、胡麻、多葉粉等作り申候、其外椎の實、のたみの實、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000650ff4.gif 蕷、野老、葛、あした草を取、夫を食の足粮に仕候、 一此島稼には男は薪を伐、江戸へいだし、夏秋は鰘、鮭を釣、冬は海苔を取、江戸へ出し渡世仕、其外海鹿、はヾ等取、夫食足粮に仕、女は蠶飼、葛、野老、あした草取、渡世仕候、 一廻船二艘、漁船二十四艘御座候、 一流人渡世之儀は、親類見繼無之者は、百姓手傳致、渡世仕候、〈◯中略〉 寶暦三年酉十二月

〔續日本後紀〕

〈九仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0648 承和七年九月乙未、伊豆國言、賀茂郡有造作島、本名上津島、此島坐阿波神、是三島大社本后也、又坐物忌奈乃命、即前社御子神也、新作宮四院、石室二間、屋二間、闇室十三基、上津島本體草木繁茂、東南北方巖峻崷崪、人船不到、纔西面有泊宿之濱、今咸燒崩、與海共成陸地、〈◯下略〉

〔倭訓栞〕

〈前編三十美〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0648 みやけ〈◯中略〉 三宅島(○○○)は、北條早雲が得たる所、八丈島に近し、

〔伊豆海島風土記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0649 三宅島は、伊豆國加茂郡下田湊より巳午の方にあたり、海上二十六里江戸よりは午未の間にあたり、海上六十里ばかりあり、尤潮急にして波高く、渡海不易といへども、順風には伊豆相模の浦々より、一日のうちに著岸なるゆへ、江戸へも一年には四五度づヽも島船ゆきかよふ、島の地程は、東西平均二里餘、南北へは四里餘りもまたがり、山々嶮岨にして平地なし、濱邊は猶たへず波の打洗ふゆへ、巖石顯れ悉く荒礒なり、

〔伊豆七島調書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0649 三宅島〈東西二里程 南北三里程 江戸より海上五十九里程〉 一家數二百二十七軒、人數〈男四百三十五人 女五百九人〉野牛有、數不知、 富賀三島大明神 神主壬生甲斐 寺六ケ所〈下田海善寺末淨土宗大林寺 豆州新島長榮寺末法花宗善陽寺 當島大林寺末妙樂寺 同海藏寺 同圓徳寺 同普西寺〉 一御年貢金拾六兩一分宛年々定納仕候 一御救米無御座候 一御圍米無御座候 一此島田方無之、畑方計有之、麥、粟、稗、大豆、芋、大根、蕪等少々宛、多葉粉少々作り、其外のたみの實、山の芋、葛、野老、あした草取、食に足粮に仕候、此島稼には、男は薪を取、江戸へ積出し、夏秋鰹を釣、冬春は海苔を取、其外海鹿、はヾびろめを取、渡世仕候、女は蠶を飼、葛、野老、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000650ff4.gif 蕷、椎の實、あした草取、渡世仕候、 一此島の椎木の澤山にて、椎實なり候節は、江戸へ出し、夫食に代替申候、 一廻船五艘、漁船二十艘御座候、〈◯中略〉 寶暦三年酉十二月

〔伊豆海島風土記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0649 御藏島(○○○)は、伊豆國加茂郡下田湊より巳午の境にあたり、海上三十里餘、江戸よ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0650 りは午未の間に當り、海上七十里程あり、三宅島よりは五里ばかり南へはなれ、八丈灘に近き島ゆへ汐行甚だ早し、海邊巖尖にして、常に洗波高く、山崖峩々と聳へて樵路甚だ嶮きなり、海陸の通ひ安からず、猶かつ船の出入危く、唯一艘の島船にて、國地との交易をなすに、其の便年に稀なり、しかも四方一里に過ぎざる小島なるゆへ、物毎至つて乏しく見ゆる、四季の時候寒暑とも三宅島に不異、また人物も、かたち言語は三宅に等としく甚律儀なり、男女とも髮は細き苧繩にて束ね、身にはひざかくるヽばかりのものを著し、帶には葛藤かづらやうのものを打和らげ、繩になひて用ゆ、

〔伊豆七島調書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0650 御藏島〈東西廿五町程、 南北一里程、 江戸より海上六十四里程〉 一家數三十一軒、人數〈男五十四人 女六十人〉牛馬なし、外に流人男五人、 富賀大明神 鎌取大明神 御笥大明神 神主加藤藏人 寺一ケ所〈豆州三宅島大林寺末淨土宗〉 萬藏寺 一御年貢金一兩永百拾八文づヽ年々定納仕候 一爲御救米、一ケ年米七斗宛被下置候、 一御圍米無御座候 一此島田方無之、畑少々有之、麥、粟、稗、大豆、大根、蕪、少々作り、其外葛、野老、薯蕷、あした草等取、夫食足粮に仕候、 一此島稼には、男は薪を取、江戸へ積出し、夏秋は鰹を釣、其外かさご、鮫等を取、渡世仕候、女は蠶を少々飼、葛、野老取、渡世仕候、 一廻船壹艘、漁船貳艘御座候、 一流人、渡世之儀、親類より見繼無之者は、百姓之手傳致、渡世仕候、〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0651 寶暦三年酉十二月

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0651 【八丈島】(ハチヂヤウジマ)〈豆州附庸之地、事見殘太平記、〉

〔伊豆海島風土記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0651 八丈島は、伊豆國加茂郡下田湊より巳の方にあたり、海上六十里、江戸よりは午にあたり、海上百二十里程あるべし、晴天なる夕には、伊豆の山々、駿河の富士、勢州志州のやまもかすかに見ゆる事あり、又未申の方に當り、島山やうのもの見ゆる、これは薩摩の島々にもあるべしやといふ、是等の見ゆる事は年に稀なり、東南の海限りなきゆへ常々波高く潮急にして渡海容易からず、古しへより春の末、夏の中をだやかなる順風を待得て、船を渡す事とし、しかも國方の船猥りに渡る事あたはず、島船のみ年に一度の往來ゆへ、國地の便尤も稀なり、島の地程は、東西三里、南北へは七里餘またがり、廻りの礒悉嶮岨にて、或は三四丈、あるひは八九丈十丈餘の磐石そばだち、海より陸へあがる事容易からず、海の深さは岸際にても三四十尋、又は六七十尋、半町計も沖にては、二百尋三百尋餘もあり、殊に海底岩ばかりにて、泥砂の類曾てなく、此ゆへに來船、碇を入る事不能、岸波少しく高き時は洋中に漂ひ、波の治まるを見て船をよせ、巖石の低き處へ木を渡し、或は綱をはへ、島人數百人あつまり、船を岸上へ曳上る故、大船及び蜑舟とも、出入甚危して、人力の費ゆる事不少、然るにより往古より難船破船の憂も多し、

〔伊豆七島調書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0651 八丈島〈東西五里程 南北七里程 江戸より海上凡二百里程〉 一家數六百拾五軒、人數、〈男二千三百八十七人 女二千四百七十五人〉牛八百二拾九疋、外に拾軒浮田流人、〈男二十六人 女三十三人〉又二拾五軒流人〈男七十一人 女五人 島出主分忰十三人、娘九人、〉 正一位寶明神 神主貞山遠江 正一位姥婆明神 〈豆州下田海善寺末淨土宗〉 宗福寺〈右同斷同宗〉 長樂寺 一御用船二艘〈但シ長十三間一尺五寸 横三間二尺二寸〉深サ六尺一寸 船頭水主共拾人乘〈御船頭〉山下與揔兵衞

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0652 〈右同斷〉服部源藏 一御年貢紬五百四十七反、毎年定納仕候、 一右御用船江戸出帆之節、船中爲用米一艘へ米八十石宛相渡、用米殘り候得者、島著之上、總百姓へ割賦仕、右代り織物にて、翌年返納仕候、 一鍋釜大小四百二十三、隔年に御買上にて被下置候、總百姓割賦仕、代り織物にて翌年返納仕候、 一此島田方少く、何れも山田澤間の田にて霧深く實入不宜、總て水拂底之場所故、旱損年々有之候、畑方も多分切替畑にて土地惡敷、年々不作仕候、作物之儀は、麥、粟、稗、胡麻、芋、あした草作り、夫食に仕候、其外蕪、大根、茄子、大豆、小豆、少宛作り申候、 一此島稼には、男は農業之間漁事仕、鰘、鰹、ふたひ、さヽ魚、海老、かさこ、鮫等を取、鰘多き節は鹽辛に致し置、平生夫食に入申候、海藻之内、海苔、はヾ、芋、ところてん草の類を取、其外葛、野老、薯蕷、柑子、あさみ、屋々菜、虎杖、椎の實を取、渡世仕候、女は御用織物、蠶を飼、絲拵織立、一式并賣物紬、すヾし等織出渡世仕候、染方は男計にて染申候、 一漁船拾五艘御座候 八丈島 小島 青ケ島 御圍穀〈米九十九石六斗七升一合 麥百三十四石二斗五升〉 右者享保六、夫食種物代金五百兩拜借被仰付候處、七十兩は享保十三申年、御用船破損之節、米麥流失之分、山田治右衞門伺之上被仰付、殘金四百三十五兩之儀は、齋藤喜六郞伺之上、享保十九年寅年より、元文五申年迄七ケ年賦返納被仰付、寅巳二ケ年、作方損毛に付年延、卯辰午未申酉戌迄七ケ年金六十一兩一分永百七十八文六分づヽ取立、右上納金を以、其年に米麥差出、右之内卯年分穀物は、御用船破損仕、海中より取揚候米麥御拂代金十七兩一分永九十六文八分に相成、殘金四十四兩、永八十一文七分は、并損に被仰付候に付、右六ケ年返納金、并御拂代金を以調遣候、米百

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0653 四十三石九斗一升、麥百八十九石七斗六升五合有之、島御圍に申付候處、延享四年より、諸作損毛、不漁相續、島中夫食に差詰り、右の圍米、寛延元年辰夏迄、不殘拜借候得共、其節又候損毛にて、別段之夫食いたし、拜借被仰付候、 右御圍米麥代金三百八十五兩三分永百六十四文三分返納之儀、寛延二巳年私支配に被仰付、吟味仕候處、巳より亥まで七ケ年賦、一ケ年に金五十五兩永百三十一文二分づヽ返納、尤前々之通返納金を以、米麥相調、島御圍穀無之候ては、外島と違、渡海無之遠島、ことには再圍と夫食に難儀仕候間、伺之上御下知相濟、巳より未迄三ケ年分調遣候米麥、當時圍穀、書面之通に御座候、 一流人、渡世之儀は、親類より見繼無之者は、百姓之手傳致、渡世仕候、 八丈枝島 小島一里程四方〈江戸より海上凡二百里程〉 一家數五十二軒、人數〈男百七十七人 女百八十一人〉牛馬なし、外に流人三人、 正一位八郞大明神 神主菊池壹岐 寺無御座候、八丈島兩寺旦那に御座候、 一此島御年貢紬五十七反、毎年定納仕候、 一圍米無之、尤急難之節は、八丈島御圍穀貸渡申候、 一此島田方無之、畑計有之、麥、粟、稗、芋、あした草、大豆、小豆、大根、菜作り、夫食に仕候、 一此島男は畑作之間は漁事仕、其外山海之稼を致、女は蠶を飼、御用織物、并賣紬、すヾし等、八丈に同じ織出し、渡世仕候、 一漁船六艘御座候〈一艘ハ中船 五艘ハ小船〉 一流人、渡世之儀は、親類より見繼無之者は、百姓之手傳致、渡世仕候、 八丈島附 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 青ケ島〈東西二十四町程 南北壹里程 江戸より海上二百三十里程〉 一家數四十六軒、人數〈男百三十四人 女百廿七人〉牛三十一疋、 ごうき明神 一社 神主兵庫 寺一ケ所 〈豆州下田海善寺末〉淨土宗清受寺 一御年貢紬三十壹疋、毎年定納仕候、 一御圍米無之、急難之節は、八丈島御圍米貸し渡申候、 一此島田方無之、畑計有之、粟、稗、芋、あした草、大根、蕪作り、夫食に仕候、 一此島稼には、畑作之間は漁事仕、海上之稼をいたし、女は蠶飼、糸、綿、八丈島へ渡し、御年貢物糸綿等積入、渡海仕候、 一漁船三艘御座候 一流人、渡世之儀は、親類より見繼無之者は、百姓手傳致し申候、〈◯中略〉 寶暦三年酉十二月

〔北條五代記〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 八丈島へ渡海の事 聞しは今、愚老〈◯三浦淨心〉伊豆の國下田と云在所へ行たりけるに、里人語しは、是より南海はるかにへだて八丈島あり、此島は日本の地よりも唐國へ近く覺えたり、それいかにと云に、雲しづかなる時分、此島より見れば、唐島に當り定て雲たなびく山あり、是から國より別に有べからず、然共此島をもろこしにてはいまだしらず、北條早雲の時代、關東より此島を見出し伊豆の國の内に入たり、北條氏直公時代までは、三年に一度、伊豆の國下田より渡海あるに、大船に水手をすぐり取のせて秋北風に此島へわたる、年貢には上々の絹を納るとくはしく語る所に、村田久兵衞と云者いひけるは、我先年八丈島へわたりしが、今にをいて此島なつかしく、夢まぼろしに立そひ忘れがたし、〈◯中略〉我主板部岡江雪入道、元來いづの下田の郷の眞言坊主也、能筆ゆへ氏直公へめ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0655 し出され、右筆に召つかはれたり、是により伊豆島々の事をよくしられたり、故に伊豆七島のさし引を仰付られ、一年江雪齋八丈島仕置として、渡海の時節供して渡りたり、〈◯中略〉女房、絹を織、北條家へ貢絹とておさむる故にや、むかしより家主は女にて、男は入むこなり、佛は五障三從と説給ひて、女に三ツの家なし、此島は世界にかはり男に三ツの家なし、去程に女子を持ぬればよろこび、親の家財跡職をわたし、男子を持ぬれば、すてものに思ひ、入聟になす、萬事皆女房のさし引也、此島へ日本の舟著ぬれば、島のおさきもいり先立、國衆をともなひ、其好の家に入、其家の女房を其妻とさだむるゆへに、女房共天道へ祈をかけ、我家へ國衆いらしめ給へとねがふ、國衆とは日本人をいふ、國衆いらざる家の女は、天道をうらみ身をかこちあへるばかり也、國衆入ぬる家よろこぶ事、たとへばから天竺に住付てゐたる子や親が、不慮の仕合有て歸朝し、二たびあへる心ち、扨又及びなき人を、年月戀詫しがまれにあふがごとし、〈◯中略〉 江雪入道一興の事附男女別の事 むかし清盛公頼朝公の時代に至て、非常の流人おほく遠島す、西は鎭西鬼海が島、北は佐渡が島、東は夷(えぞ)が島、南は伊豆の大島ならで遠島のさたなし、それより以來延徳年中、早雲宗瑞伊豆の國を治給ひしまでも、八丈島の名を聞ず、其比豆州賀茂の住人朝比奈の六郞知明と云侍あり、是より南海に當て島有よし聞及び、大船一艘に人多く取乘、伊豆下田のつより渡海し、彼島につき民家をなびかし、末代伊豆の國の内たるべき旨申さだめ歸海し、早雲へ此よし告しらしむ、早雲喜悦なヽめならず、八丈島見出したるけんしやうに、伊豆の國下田の郷を、朝比奈六郞知明子々孫孫、永代他の妨有べからずと云々、故に今知明が孫あさひな兵庫助、下田を知行す、此島より北條家五代、毎年の貢絹をおさむる事、千秋萬歳なるべし、

〔伊豆海島風土記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0655 一此島〈◯八丈〉上古に遠流の人在りし事きこへず、慶長のころ、宇喜多の一統を

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0656 配せられしより以來の罪人、今在島の人數百五十人餘、此内四十人ほどは宇喜多の末裔島の産なり、

〔伊豆七島日記〕

〈天〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0656 抑八丈島に船よすべき所、たヾ二所あり、うしとらの方に有を神湊といひ、未申のかたに有を八重根(やへね)といふ、そのうち神湊は舟のいでいり安ければ、そこに船をよせんとするに、汐あしくちからおよばで、八重根(やへね)につく、常に島の浪のむつかしき事、是にてもしるべし、〈◯中略〉九日〈◯寛政八年五月〉けふは船ひきあげるとて濱邊に出て見るに、數百石を積ふねなれば、たやすくひきあぐべきにあらず、村々より大勢を出して、かくらざとなんいへるものにて、聲々にはやしたて、拍子をそろへてひきあげるが、此島もとより五穀とぼしくして鹹草(あしたくさ)と云ふものを、常に食とする故に、大かたはやせおとろひたるがほそきうでにちからこぶいだして、ひきあぐるぞあわれなる、さて鹹草は四季ともに有て、葉は常の食とする、根は三年をまちてとりてくふとぞ、凡十人の食に麥三四合を煮たヽらかし、湯の如くなりたる中へ、あした草をさはにきざみ入、潮水あるはゑんばいと云ものをうち入てくふ、〈◯中略〉かくまでからきすきはひなるが、みな長壽にて八十歳九十歳のものはめづらしとせず、百歳にも至ざれば、ながいきとはいはず、すべて病すくなし、島中一萬あまりの人なるが、盲人とては壹人もなし、中風癩風いとまれなり、なしと云ても有なんとぞ聞る、また産かろくして、いにしへより、難産有事なしとぞ島の風俗にて血のけがれをいみにくむ事甚しく、里ごとにたやといふ家を作りおきて、月のさはりになりたる女は、そのたやに十二日の間ひきこしてけがれをさくる、又孕婦はうみ月になれば、たやへゆきて産をまつ、右にいへる如くに、難産はたえてなければ、みなやす〳〵と産して、七夜を過れば、出生の兒をいだきて家に歸る、かくの如くなるゆへに、家ごとに子ども多し、ことに多きは十人より十五六人をうむといふ、能かんがへ思ふに、同じ人にて、かはりたることわりの有べきにあらねども、先常

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0657 に疎食をくふなれば、食物の毒をうくる事なく、又世の中の事を見つきヽつする事すくなければ奢(おごり)をしらず、又いにしへより金錢の通用なければ、むさぼるこヽろうすく、兎にも角にも、心を勞する事すくなく生涯無事に過る、おのづから仙境の趣有、心を用ひずして養生の道にかなへるなるべし、しかあれども女多き島なれば、色欲に耽る事はなはだしと聞ゆるが、かの常にうまからぬ物のみくひ、又心を勞する事すくなく、形體すくやかなるゆへに、色欲の害もうすきにや、そも飮食男女の事をほしいまヽにし、それがうへに常に心をらうするものヽ、天壽をたもつものはあらじ、されば男女の大欲も、常に美食をくらひ美酒をのみ、心を勞するほどの損はなきかとぞおぼゆる、八丈島にわたりて、わきて養生の理を思ひしるに似たり、さて、女は操正しく不義婬行をせず、またことづまをかさぬる事をたえてせず、たま〳〵婬行不義ある女あれば、ともにまじはる事をせず、しかる故に夫の不義をたヾす事、國地にて女を制するが如し、夫婬行あれば、いとからきめを見るとなん、いにしへ女護の島に、はじめて男のわたりたる時の遺風にやとおかし、

〔南方海島志〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0657 小島(○○) 南北一里餘、東西二十許町、周回三里餘、 在(○)八丈島西二里(○○○○○○)隷(○)八丈(○○)、小島トハ八丈ヲ大島トシ、ソレニ對シタル名也、 形勝 一峯峩々四崖懸絶、少シノ平地ナシ、一體石島故水ト薪乏シ、薪ハ本島ヨリ採ル、〈◯中略〉 青島(○○) 東西二里餘、南北一里餘、在(○)八丈島南十八里(○○○○○○○)、隷(○)八丈(○○)、古名鬼島(○○)、其人被髮長髮、身長色黒シ、被木葉状如鬼神、吾邦古人怖ロシキ者ハ渾テ鬼ト稱セリ、上ニ擧ル冲島ニ鬼八人岸ニ登ルナド、意フニ西南ノ蠻人ナルベシ、而シテ爲朝公、此蘆葦多ク生ズルヲ見テ葦島(○○)ト改ム、後人アシノヒヾキヲ忌

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0658 惡セシニヤ青島ト改名ス、アシノアトオニノオトヲ取リタルカ、三宅記ニハ、此島ノ形勢オフノ魚ノ鼻ニ似タリ、因テヲフノ島(○○○○)ト名クト、ヲフノ魚ハ鯨魚乎、此島人ハ今モ身長ク、毛多ク、稍内地ノ人ニ異也、

〔西遊記續編〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0658 ヲガ島 余〈◯橘南谿〉が野熊に遊びけるは、冬のはじめなりけるが、其年の夏の頃かとよ、彼地の二木島といふ所に、伊豆の沖の青が島の人漂著して、其中に出來次郞といふ若者病しかば、余が友喜多氏療治をくはへて、日久敷行かいければ、いろ〳〵の物語を聞きとりて余に語れり、青が島をヲガ島と唱ふ、其島は伊豆の八丈が島より遙に南の海中にある小島なるが、人は多く住けるに、十三年以前、島の山火に燒出て、島中火となり、人蓄燒死ける其中に、身分宜敷百姓の船を持たるが、家内十餘人其船に取り乘り、火中を遁れ出て、無難に八丈が島にいたり、此年月住居したるに、青が島近年は火消て無事になりしと聞て、故郷なつかしく、八丈が島をいとま申て、又もとの船に家内男女、皆々取り乘り、家内の雜具並農具まで取そへて、今年青が島へ戻る海上、難風に逢て吹流され、熊野浦へ著たるなり、其百姓の嫡子を出來次郞といひしなり、珍敷名也、八丈が島にても出生の子もありて、幼少の童子をも具せりとぞ、

地勢

〔易林本節用集〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0658 伊豆〈豆州〉下、管三郡、東西一日餘、畠多而田少、山高海莊、鹽魚類多辨貢、大中國也、

〔増訂豆州志稿〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0658 形勝 豆爲州、南大洋張出、三面海ヲ環ス、北方纔ニ駿相ニ接シ、西駿州、東北ハ房州ト相望ム、南方極天無際ノ大海ニシテ、九島及小笠原島諸島ノ外、復一片ノ土壤ナシ、州ノ幅員里數ヲ以テ見レバ、不甚小州ガ如クナレドモ、地形斜尖ナル故、州域ハ則狹窄也、且中央ニ天城山磐礴シ、凾嶺左ニ蟠リ、鐸山、達摩山右ニ聳へ、闔州凡テ亂山復嶺、嶮岨崎嶇、唯三島ノ南二三里廣半里許ノ間平地有ノミ、其他

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 ハ山峽溪間ニ傍テ、栖居スベク見ユル處ニ家作シ、村落ヲ成セリ、〈◯註略〉誠ニ僻遠偏小ノ州故、聖武帝ノ時、流刑三居中、伊豆遠流地定メ給フ、〈豐太閤ノ頃マデ、流人ヲ遣放ズル事易ラズ、〉又天下諸州大上中下ノ四等ニ定ルニモ、伊豆ハ下國ニ列ス、サレドモ源武衞ノ北條ニ龍興シ、府ヲ鎌倉ニ奠シヨリ、行程僅ニ三日、於是兩都ノ間ニ介ルヲ以テ、稍通用宜ク成リ、國家〈徳川氏〉ニ至テ、其壯麗繁榮、啻鎌倉ニ十倍スルノミナラズ、是ヲ以テ州人海濱ハ漁獵ヲ務メ、山民ハ入山伐薪漕運ニ習ヒ、魚物薪炭等ヲ都下ヘ輸ス、順風ニハ旦ニ開帆シテ午時ニ達ス、陸路ハ緊要ノ急事ニハ一日ニ至ルベシ、實ニ水陸交通ノ州トナル、夫三島ハ箱根山上口也、海舟往來ハ下田嶴ニ繫泊セザルハ少シ、予〈◯秋山章〉嘗曰、地當水陸形要、實江都之扼喉、伹土田狹隘ニシテ、且磽确、是ヲ以テ粟米麻絲ノ産寡少、民衣食ニ營々シテ、殷富ノ者ナシ、

道路

〔増訂豆州志稿〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 里程 自三島西京九拾貳里〈増、百一里廿七町三十間、〉至東京貳拾八里、〈増、二十九里十三町十二間、〉 増、至靜岡拾六里貳拾貳町四拾貳間 至箱根三里貳拾八町、〈増、三里十八町十三間五尺、〉 至沼津壹里拾八町〈増、一里二十町三十四間四尺、 至根府川十二里餘、至足柄山嶺九里二十町、至甲州山中十里、〉 三島ハ國府ナル故、諸方ノ行程此ヨリ起ス、〈方位ヲ記セザル事ハ、三島ハ州ノ北方ニ偏テ、ソレヨリ北方僅ニ數村アルノミ、郷村ノ方位、大略南方ニ當ル故ナリ、◯中略〉 官道、自三島山中村貳里七町三拾三歩、〈増、二里五町五十五間、 歴川原谷、冢原、市山、三谷、篠原諸村、〉 自山中相州界三十四町、〈増、三十四町十間四尺、〉 下田路、自三島北條貳里貳町五十貳歩、〈増、至四日町二里十四町二、間 歴中島、大場、間宮、新宿、原木諸村、〉 自北條大仁壹里三拾壹町四拾貳歩、〈増、一里三十一町十間、 歴寺家、中條、南條、宗光寺、御門、三福、吉田、〉 自大仁湯島三里拾六町貳拾八歩、〈増、三里十九町三十間、 歴瓜生野、小立野、本立野、大平、松瀬、柿木、青羽根、下船原、月瀬、門野原、市山、〉 自湯島梨本六里、〈増、五里十八町廿七間、 天城山嶺ヲ踰ユ、草徑狹穿、險甚、復人家ナシ、嶺ヨリ一里許下、水又ノ處ヨリ左ヘ入リ、南モ亦嶺下一里許下、水又ノ處ヘイヅ、是古道ナリ、〉 自梨本下田三里三拾五町拾

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 九歩、〈増、四里、 自大鍋小鍋嶺、歴北野澤、茅原野、箕作、落合、河内、立野、本郷諸村、〉通計拾七里拾四町貳拾壹歩、〈増、十七里、 又茅原野ヨリ、歴宇土金、椎原、有増、蓮臺寺立野、本郷、岡方、下田ニ至レバ、八町五十六歩近シ、 但藤原山越稍嶮ナリ、又梨本ヨリ川津濱邊通下田ニ至レバ五里十一町廿六歩、増、五里十三町一間、 歴湯野、下佐野、筏場、澤田、田中、篠原、谷津、繩地、白濱、柿崎諸村、〉 根府川路自三島輕井澤三里拾五町三拾八歩、〈増、三里廿一町三十七間、 歴中島、大場、大土肥、平井、此ヨリ山路ナリ、〉 自輕井澤熱海貳里八町、〈絃卷山、羊腸崎嶇、嶺頭ニ一草堂アルノミ、人家ナシ、増、三里七町二十間、 近者開ク所新道里程ナリ、〉 自熱海門川〈相州足柄下郡界〉貳里拾七町、〈増、二里二町六間、 歴伊豆山〉通計八里四町三拾八歩〈増、八里三十一町三間、〉 東浦路、自熱海〈此迄ハ根府川路ト同ジ〉 至網代貳里壹町三拾八歩、〈増、二里廿七町五十間、 歴上下多賀〉 自網代伊東、和田三里六町五歩、〈増、二里廿八町四十九間、 琵琶轉ノ嶮アリ、歴宇佐美、湯川、松原、竹内、〉 自和田赤澤四里拾三歩、〈増、三里三十二町五十九間、 歴吉田、八幡野、〉 自赤澤稻取四里七町三歩、〈増、三里廿七町十間、 歴大川、奈良本、片瀬、白田、〉 自稻取白濱四里九町貳拾四歩、〈増、四里三十町廿六間、 歴見高、濱、谷津、繩地、〉 自白濱下田壹里貳拾三町三拾歩、〈増、一里十三町四十三間、 歴柿崎、〉通計〈自熱海此〉拾九里拾壹町五拾三歩、〈増、十九里二十五町五十八間、〉 西浦路、自三島三津三里貳拾八町拾五歩〈増、四里一町、 歴中島、大場、間宮、新宿、原木、南北江間、墹上、長岡、長瀬、此ハ是順路ナリ、サレドモ重寺村ハ駿州境界西浦ノ始ナレバ、此ヘ由ラントスルニハ、上ノ如ク江間マデ來リ、此ヨリ駿州口野村ヘ由リ、重寺ニ至リ、此ヨリ小海ヲ歴テ三津ニ至ル、其間十二町、増、十町四十五間〉、 自三津古宇壹里三拾貳町貳歩、〈増、一里三十二町三十間、 歴長濱、重須、木負、久連、平澤、立保、〉 自古宇戸田貳里拾町、〈増、二里十一町二十間、 コレ眞城(サナギ)山ノ嶮路ヲ踰ルナリ、若シ海濱ヲ行ケバ、古宇ヨリ足保、久料ヲ經テ江梨ヘ三十七町八歩、増、一里四町廿間、 江梨ヨリ戸田ヘ、井田ヲ經テ二里十八町五十一歩、増、二里十三町十九間、 コノ道通計三里十九町五十九歩、較遠シ、増、三里十七町三十九間、〉 自戸田土肥壹里三拾五町拾八歩、〈増、三里二町廿九間、 歴北土肥〉 自土肥宇久須三里貳町三拾歩、〈増、二里三十四町三十六間、〉 自宇久須松崎四里九町五拾三歩、〈増、三里三十二町廿九間、 歴阿良里、田子、濱、江奈、不來(コジカ)坂、尤モ嶮隘、〉 自松崎子浦貳里拾貳町拾七歩、〈増、二里、 道部、岩科、伊濱、等ノ山嶺ヲ踰ユ、亦海濱路ハ歴道部、岩地、石部、雲見、伊濱、至子浦四里二町二十七歩、増、四里六町四間、〉 自子浦妻浦貳拾六町、〈増、二十三町三十二間、 海路十五町〉通計貳拾里貳拾貳町拾五歩、 南浦路、自下田手石貳里三拾三町貳拾歩、〈増、三里十町八間、 歴大賀茂、青市、又海濱路ハ、歴吉佐美、田牛、湊村、鈴尾、西谷嶺ノ坂路嶮ナリ、二里廿九町三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0661 〈十五歩、増、三里三町五十六間、〉 自手石長鶴壹里貳拾七町四歩、〈増、一里廿町五十一間、 歴下流、大瀬、〉 自長鶴妻浦三里拾壹町四拾歩、〈増、二里廿三町四十間、 歴入間、一色、〉通計八里四歩、〈増、七里十八町三十九間、 マタ手石ヨリ、下賀茂、加納、二條蝶野、一色ヲ歴テ、妻浦ニ至ル、三里十三町十八歩、増、三里四町八間、山徑甚ダチカシ、〉 又自下田子浦通計六里拾町四拾六歩、〈増、六里七町五十六間、 コレ手石迄ハ加前路、上下加茂、石井、岩殿、上下小野ヲ歴テ、子浦ニ至ルナリ、増、以上下田町ヨリ、子浦村ニ至ルマデヲ南組ト稱ス、〉 大見路、自大仁〈此迄ハ下田路ニ同〉 至白岩壹里三拾三町貳拾歩、〈増、一里三十町四十二間、歴牧郷、柏窪、年川、下白岩、〉 自白岩徳永壹里拾七町三拾五歩、〈増、一里廿町七間、 歴關野、城、八幡、柳瀬、冷川、〉通計七里拾三町貳拾九歩、〈増、七里三十町二間、又八幡ヨリ、柳瀬、原保、地藏堂ヲ經テ(一ハ梅木、宮上、姫湯、貴僧坊ヲ歴)筏場村ニ達スル路アリ、〉 北山路、自三島伊豆島田中橋〈此三島北方、佐野村屬里、〉壹里六町拾八歩、〈増、一里、 歴幸原、中橋豆駿州界ナリ、◯中略〉

航路

〔増訂豆州志稿〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0661 航路 自下田安嶴江都五拾里、至相州浦賀三拾貳里、至大坂九拾四里、至志州鳥羽七拾五里、至遠州御前埼貳拾四里、至駿州清水拾六里、至房州洲埼三拾里、至本州戸田(ヘダ)拾六里、至網代拾八里、至大島拾三里、至新島拾三里、至神集島拾八里、至利島拾里餘、至三宅島貳拾六里、至三倉島三拾里、至八丈島六拾四里、至青島八拾貳里、至小笠原北島壹百七拾四里、

〔日本實測録〕

〈二街道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0661東京東海道至西京〈◯中略〉 伊豆國君澤郡三島宿傳馬町〈至伊豆三島神社、二丁三十間、又從傳馬町楊原神社、四町一十八間、〉 三十一間半、 三島宿久保町 三町三十二間半 三島宿、三十五度七分半、 一里二十三町一間半〈至國界九丁二間半〉 駿河國駿東郡沼津本町〈◯中略〉 從東海道三島天城峠下田 伊豆國君澤郡三島宿傳馬町 三十二町五十六間半 大場村〈歴日金山賀茂郡熱海村四里九丁二十八間〉 一里五町三十二間、 田方郡北條四日町村〈至韮山下一十七丁二十七間〉 一里一十五町四十二間 大仁村〈至賀茂郡八幡村、二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662 〈里一十六丁三十六間、從八幡和田村二里三十三丁四間、又從八幡最勝院一十二丁四十四間、〉 一里一十八町三十六間 本立野村、三十四度五十八分半、〈至君澤郡下修善寺村温泉一十八丁二十四間〉 一里三十三町 門野原村、三十四度五十四分、 一里一十町一十五間 湯島村茅野新田、三十四度五十二分、 三里一十五町五十三間〈至天城峠一里二十丁七間〉 賀茂郡梨本村〈沿河津川濱村一里二十八丁三十六間〉 三里一十五町八間半 立野村〈至蓮臺寺村温泉六町四十八間〉 三十一町一十五間 下田町、三十四度四十分半、〈至吉佐美村キサメ濱一里八丁五十七間 從三島下田〉 街道、通計一十五里三十五町一十八間、

〔日本實測録〕

〈一沿海〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662東京沿海至大坂〈◯中略〉 伊豆國賀茂郡伊豆山走湯、三十五度七分、〈至伊豆山社前六町一十八間〉 二十町四十八間 熱海(アタミ)村、三十五度六分半、 二里一十町一十六間 網代村、三十五度三分、 一里二十七町二十七間 宇佐美村 一里九町三十六間 和田村、〈又呼伊東〉三十四度五十九分〈歴吉田村八幡野村三里一十町二十一間半、從吉田大池傍二十町二十二間半、從八幡野村岡池村二十六町四十九間、又從八幡野岡八幡社五町一十五間、〉 三里一十八町三十九間 富戸村釜屋濱〈至富戸村宿所、三町三十六間、北極高三十四度五十五分、〉 一里二十七町一十二間半〈至日蓮岬三十三町三間〉 八幡野村、三十四度五十三分、〈歴赤澤山赤澤村二十四町五十四間〉 二里二十一町三十間〈至赤澤村二十五町一十二間〉 片瀬村、三十四度四十八分半、 一里七町一十八間 稻取村 一里三十三町四十八間 濱村 二里一十一町五十三間 白濱村〈至下田町三十五町一十七間半〉 二十三町四十八間 柹崎村外浦〈至柿崎村濱庄一十一町一十五間〉 一里三十二町五十九間〈至瓜木崎一里一町一十八間〉 須崎村、三十四度三十九分半、 一里一十九町二十四間〈至柹崎村一里七町九間〉 下田湊〈至大浦徑測五町三十七間半〉 一里三町四十九間半〈至大浦一十九町四十四間半〉 吉佐美村 一里一十八町五十五間 手石村手石濱〈至手石村宿所一十七町一十六間半、北極高三十四度二十八分半、〉 一里一十九町二十四間 長津呂村〈至石廊權現社六町五十六間〉 一十里七町二十七間 那賀郡田子村井田子、三十四度四十八分半、 四里一十九町二十四間 君澤郡土肥村、三十四度五十五分、 七里一十九町五十八間〈至大瀬明神岬四里二十二町四十八間〉 久連村、三十五度一分半、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 二里一十五町二十間〈至國界二里三町五十五間〉 駿河國駿東郡口野村

宿驛

〔五驛便覽〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 東海道 一三島(豆州君津郡)〈壹里半〉 江川太郞左衞門御代官所

建置沿革

〔日本國郡沿革考〕

〈二東海道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 伊豆〈◯中略〉 上國、管四郡、〈延喜式三郡〉二百八十四村、 君澤〈六十九村 延喜式等不載、蓋中世所置〉 田方〈七十一村〉 加茂〈百二十七村 延喜式等作賀茂〉 那賀〈十七村〉 北條〈見東鑑建保三年、廢置未詳、〉

〔日本地誌提要〕

〈十六伊豆〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 沿革 古ヘ國府ヲ田方郡ニ置、〈今ノ君澤郡三島驛是ナリ〉鎌府ノ初、山名義範守護ヲ以テ州守ヲ兼ヌ、文治中、後白河法皇特旨アリ、本州ヲ頼朝ニ賜ヒ、子孫ニ傳ヘシム、足利基氏鎌倉管領タルニ及ビ、其執事上杉憲顯ヲ以テ守護トス、正平中、憲顯歸順シ、畠山義深之ニ代ル、義深西歸、憲顯再足利氏ニ降リ、本州復其所管トナル、享徳ノ初、足利成氏(シゲウヂ)兩上杉氏ト相攻メ、關東大ニ亂ル、長祿元年、山内房顯、扇谷定正、將軍義政ノ弟政知ヲ北條郷堀越ノ館ニ奉ジテ主帥マシ、關東ニ號令ス、延徳中、政知卒シ内亂作ル、韮山城主北條長氏襲ヒ擊テ堀越ヲ陷レ、政知ノ子茶々丸ヲ殺シ、遂ニ闔州ヲ併ス、天正十八年、豐臣氏東征、北條氏亡ビ、地徳川氏ニ歸シ、内藤信成ヲ韮山ニ封ジ、戸田忠次ニ下田ヲ賜ヒ、其餘郡邑州ノ豪族江川英長ヲ代官トシテ民政ヲ知シム、慶長中、内藤戸田二氏封ヲ轉ジ、江川氏代官ヲ世襲ス、〈後大島八丈諸島ヲ兼管ス〉王政革新、改テ韮山縣ヲ置、既ニシテ廢シテ足柄縣ヨリ兼治ス、

〔先代舊事本紀〕

〈十國造〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 伊豆國造 神功皇后御代物部連祖天http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000650ff5.gif 桙命八世孫若建命、定賜國造、難波朝〈◯孝徳〉御世隷駿河國、飛鳥朝〈◯天武〉御世分置如故、

〔蒼梧隨筆〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 日本古今國數之多寡 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 伊豆 日本紀曰、日本武尊、歴常陸甲斐云々、 此時ノ紀ニ伊豆名不見、風土記抄云、伊豆ハ、倭名也、東ハ相模、西ハ駿河、ソノ間ニ出ルノ義ニテ、下略シテ伊豆ト云ト云リ、日本紀應神天皇紀ニ云、五年冬十月、科伊豆國、令船長十丈、船已成、浮于海、便輕泛疾行如馳、故名其船枯野、〈註曰、枯野者輕野ノ訛カ〉舊事紀曰、神功皇后御代、物部連祖天http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000650ff5.gif 桙命八世孫若建命、定賜國造云々、日本紀舊事紀共ニ成務天皇ノ御時ヨリ後ニ伊豆ノ名アリ、舊事紀又云、難波朝御代、隷駿河國トアレバ、其本ハ駿河ヨリ分レルタガ如シ、

〔扶桑略記〕

〈五天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 九年七月、別駿河二郡、爲伊豆國

〔續日本紀〕

〈八元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 養老三年七月庚子、始置按察使、令〈◯中略〉遠江國守正五位上大伴宿禰山守、管駿河伊豆甲斐三國

〔鎌倉大草紙〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 伊豆國は昔より源氏重代の國也、頼政仲綱の以後、頼政の子孫代々守護たり、但二位の禪尼の時、武田信光も此國を玉はり、十ケ年ほど居住ありとかや、其後又頼政の子孫給はり、多田治部少輔とて、三代相續あり、此人々の建立しける中花山禪長寺と號して、頼政以來の木像あり、河内と云所にて、山の堂とも頼政堂とも申て于今有、尊氏公の御代に、畠山阿波守國清、其息尾張守、二代關東の執事にて、此國の守護と成、彼人の建立の寺、瑞龍山吉祥寺と申于今有、木像も有之、其内上杉山の内憲顯給はりて、代々關東の管領也、今又堀越殿關東の主君として、此國へ御下向有しからは、當國は關東には吉例有國にて、源家有縁の所也、

國府

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 伊豆國〈國府在田方郡、行程、上二十三日、下十一日、〉

〔伊呂波字類抄〕

〈伊國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 伊豆國〈◯中略〉 田方〈府〉

〔吾妻鏡〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 治承四年八月廿七日丁未、加藤五景員、并子息光貞景廉等、去廿四日以後、三箇日之間、在筥根深山、各粮絶魂疲、心神惘然、就中景員、衰老之間、行歩進退谷也、于時訓兩息云、吾齡老矣、縱雖

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 愁眉、不延命之計、汝等以壯年之身、徒莫命、棄置吾於此山、可源家者、然間、光員等、周章雖腸、送老父於走湯山、〈於此山景員遂出家云々〉兄弟赴甲斐國、今夜亥刻、著于伊豆國(○○○)府祓土之處、土人等怪之、追奔之間、光員景廉、共以分散、互不行方云云、

〔吾妻鏡〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 壽永三年三月二十七日丙辰、三品羽林著伊豆國府、境節武衞令北條給之間、景時以專使子細、早相具可當所之由被仰、

〔梅松論〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 十三日、〈◯建武二年十二月〉はれまをもまたずして、伊豆の國府に攻入給ふ處に、義貞以下の輩、水呑の陣を引打て通夜沒落しける、

〔東關紀行〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 伊豆の國府に到りぬれば、三島の社の御しめの内拜み奉るに、松の嵐こぐらくおとづれて、庭の氣色も神さびわたれり、

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 伊豆國〈◯註略〉管三〈◯註略〉田方〈多加太〉那賀〈奈加〉賀茂

〔延喜式〕

〈二十二民部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 伊豆國、下〈管 田方 那賀 賀茂◯中略〉 右爲中國

〔皇國郡名志〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 伊豆國〈舊三郡今四郡〉 田方(タカタ) 〈<韮山 ●北條 △蛭ケ子島△天城山 國中〉 那賀(ナカ) 〈●松崎 ヱナ 西海入江ノ口〉 加茂(カモ) 〈△伊豆山 ●熱海 ●網代 ●伊東 ●外浦 ●下田 ●手石 笹原 山中 相界ヨリ東南海ニ向〉 君澤(クンタク) 〈●三島 ●宇久須 ●土肥 ●江梨 ●三津 此郡海邊ヨリ東海道ヲ貫山ニ入、千貫樋ヲ駿ノ界トス 今君澤郡加〉 ◯按ズルニ、本書及ビ次下ノ郡名異同一覽ノ符號ハ、山城國篇郡條ニ引ク所ノ、二書ノ凡例ヲ參照スベシ、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_1_0666_001.gif

〔郡名異同一覽〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 伊豆

田方郡

〔増訂豆州志稿〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 郡郷 田方郡 郷十三、村六十九、〈◯註略〉此郡古昔最大ニシテ、南ハ天城山脊ニ至リ、東ハ相州界ヨリ海ニ至リ、西北ハ駿相ノ界ヨリ海ニ至ル、且國府モ此郡ニ在リ、府南數里間、壤地坦平ニシテ水田アリ、此郡名ヲ田方ト稱スル所以ナリ、〈増、舊天城山北一里田方郡ニシテ、東ハ赤澤村ヲ限リ、西ハ江梨村ニ至リ、北ハ相模、駿河ニ界シテ、皆本郡ノ地ナリ、而シテ後、西北部ハ君澤郡トナリ、東南部ハ加茂郡ニ侵サレテ、其中央部三分一ヲ遺スニ至ル、乃現今ノ區域幅員、東南ハ山脈及川流ヲ以テ賀茂郡ニ界シ、西北亦山脈及川流ヲ以テ君澤那賀二郡ニ界ス、(中略)東西三里、南北十里、〉

〔續日本後紀〕

〈九仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 承和七年十二月癸卯、改駿河國駿河郡永藏驛家、遷置于伊豆國田方郡

那賀郡

〔増訂豆州志稿〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 郡郷 那賀郡 郷三、村拾七〈増、村十七、〉此郷田方賀茂二郡ノ中ニ在リ、故ニ名トス、室町ノ末ヨリ此郡漸々ニ蹙リ、北方井田郷ハ君澤郡ニ入リ、南方石火郷ハ賀茂郡トナル、今ノ那賀郡ハ即古ノ那賀郷、陞リテ郡トナリタルナリ、〈増、現今那賀郡ノ區域幅員、東南山脈川流ヲ以テ賀茂郡ニ界シ、東北亦山脈ヲ以テ田方君澤二郡ニ界シ、西ハ海ニ面ス、(中略)南北四里十二町、東西二里三十町、〉

賀茂郡

〔増訂豆州志稿〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 郡郷 賀茂郡〈増、元祿天保二圖共ニ、加茂ニ作ル、〉 郷五村百貮拾七、〈増、町一、村百十八、島一、外ニ海島二十三、〉東ハ赤澤邊ヨリ南入間ニ至ル沿海ノ諸村、北ハ天城山背界ナルガ、中古以來、田方那賀ノ二郡ヨリ次第ニ入リ、山中聚落モ漸々増益シテ、今甚ダ大郡タリ、海島ハ固ヨリ總テ本郡ニ屬ス、〈増、國郡沿革考曰、賀茂郡、後世此境ハ田方郡、東邊三郷ノ地ヲ併セ、西境ハ那賀郡一郷ノ地ヲ合セ、其疆域殆ド全國ノ半ニ及ブト、現今ノ區域幅員、北川流ヲ以テ相模ニ界シ、北ヨリ西ニ走リ、概ネ山脈ヲ以テ田方郡ニ界シ、東南及西ニ回リテ海ニ面シ、西北川流ヲ以テ那賀郡ニ界ス、(中略)東西七里、南北二十五里、〉

私稱郡名

〔増訂豆州志稿〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 郡郷 私ニ稱セシ郡郷アリ、増、北條郡(○○○)〈東鑑、増鏡、蘇我物語、〉 室郡(○○)〈或作室野、舟原、牧郷邊、増、田代、加殿、其他諸村、天正十八年檢地帳、寶郡ニ作ルモノ多シ、タカラ、ハタカタノ轉訛ニテ、寶郡ナラムモ知ルヘカラズ、〉 厚見郡(○○○)〈戸田、増、山宮社上梁文、厚見郡戸田村ト、〉 楠木郡(○○○)〈梨本、繩地邊、増、梨本村水神社慶長二年文、豆州楠木郡河津莊川井那村ト、繩地村子安神社金鼓銘楠木郡河津莊ト、〉 高島郡(○○○)〈小海、増、久料村天正十八年檢地帳豆州高田郡トアルヲ思フニ、高島ハ高田ノ誤謬ナランモ知ルベカラズ、〉

〔吾妻鏡〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 元久二年閏七月二十日乙巳、辰刻、遠州禪室下向伊豆北條郡給、今日相州令執權事給云云、

〔吾妻鏡〕

〈二十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 建保三年正月八日戊辰、伊豆國飛脚參申云、去六日戌刻、入道遠江守從五位下平朝臣〈年七十八、〉於北條郡卒去、日來煩腫物給云云、

〔増鏡〕

〈二新島守〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 さてかの維時が名殘は、ひたすらに民となりて、平四郞時政といふ者のみぞ、伊豆の國北條のこほりとかやにあめる、

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 伊豆〈◯中略〉 君澤〈クンタク キミサハ〉

〔増訂豆州志稿〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 郡郷 君澤郡 〈郷名、載田方郡、〉村六拾六〈増、町一、村六十一、 此郡ハ田方郡ヲ割テ置所ナリ、但六村ハ那賀郡ヨリ入ル、〉小濱池ヨリ流出ル水ヲ廣瀬ト云、下流數派トナル、其一ノ小溝ヲ君澤(キミガサハ)ト云、是郡名ノ起ナリ、或云、鎌倉ノ頃郡宅郷ト云アリ、古文書ニ見ユ、〈増、三島大社貞和、觀應、延文等文書、郡宅郷ヲ載ス、此ヨリ起レル郡名ナルベシ、〉此ニ始ルト、本君澤莊ト云フ數村ノ莊號ナルガ、次第ニ廣リ、元祿ノ頃ニ至リ、五拾餘村トナル、〈増、天正十八年諸村撿地帳、君澤郡ノ稱アルヲ思フニ、當時既ニ郡名トナリシ事著シ、然レドモ未一定ナラズ、同年度御薗村撿地帳ニ田方郡、久料村帳高田郡ト記シ、マタ同年中島村、〈神益〉同十九年中村〈南〉文祿三年塚本村丹那村等ノ帳ニ、君澤郡ト記シ、其他一村ニシテ一ハ田方、一ハ君澤ノ記載アルナドヲ見テ、其錯雜ナリシヲ知ル可シ、〉同十四年、御代官小長谷氏ノ時、川原谷、冢原北澤、大場、市野山、山中、谷田、中村、多呂、三谷、竹倉、中島、篠原ノ拾三村、君澤郡タル可キノ令アリテ郡始テ定マル、〈増、此時令アリテ今ノ如ク定メラレシナリ、國郡沿革考曰、君澤莊戰國ノ時、既ニ郡トナル、故ニ正保圖之ヲ載ス、寛文中復古ノ時之ヲ停ス、元祿十四年ニ至リ、再ビ此郡名ヲ置シナリ、而シテ正保圖既ニ六十八村アリ、元祿ノ時六十九村アリ、大抵今ノ地ニ同ジトアル、其停廢再置ヲ云ルハ臆測ノ説ナリ、現今本郡ノ區域幅員、東山脈川流ヲ以テ田方郡ニ界シ、北箱根山脈及川流ヲ以テ相模、駿河ニ界、南山脈ヲ以テ那賀郡ニ界シ、西面ハ海ニ枕ム、(中略)東西二里、南北七里、〉

〈明治十三年〉

〔東京地學協會報告〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 國郡沿革考第二回 塚本明毅 伊豆 伊豆三郡、後世分テ君澤郡ヲ置キ、郡境盡ク變遷セリ、和名抄、田方郡十三郷中、小河(ヲガワ)〈三島ノ地〉依馬(エマ)〈江間村アリ、〉天野(アマノ)、〈村存ス〉吉妾(キセフ)〈木負村アリ〉及鏡作五郷ノ地、今君澤郡トナリ、久寢(クヅミ)〈後葛見又久須美庄ト稱ス、伊豆山ヨリ宇佐美ニ至ル諸村、〉直見(タゝミ)、〈蓋熱海ノ地〉有辨(ウヘ)ノ東方三郡ハ、加茂郡ニ入ル、 君澤郡ハ、伊豆志稿云、鎌倉以後君澤庄アリ、元祿十四年、代官小長谷氏ノ時、川原谷塚原等十八村ヲ以テ君澤郡トス、按ズルニ、君澤庄、戰國ノ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 世既ニ郡トナリ、故ニ正保圖ニ此郡アリ、寛文復古ノ時、之ヲ停メ、元祿十四年ニ至テ、再ビ此郡名ヲ復セシナリ、小長谷氏ノ創置セシニ非ザルナリ、

〔倭名類聚抄〕

〈六國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 伊豆國 田方郡 新居 小河 直見〈多々美〉佐婆 鏡作〈加々美豆久里〉茨城 依馬 八邦〈◯邦、高崎本作牧、〉狩野 天野 吉妾 有辨〈◯辨、高山寺本作雜、〉久寢 那賀郡 井田 那賀 石火 賀茂郡 賀茂 月間 川津 三島 大社

〔増訂豆州志稿〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 郡郷 私ニ稱セシ郡郷アリ、〈◯中略〉郷ハ牧郷〈東鑑、近來マデ郷トノミ稱テ村字ヲ附セズ、〉山木郷、阿多美郷、〈東鑑、此他多シ、〉郡宅郷、稻梓郷、〈三島大社文書、ナホ多シ、〉土倉郷、佐野郷、〈箱根山縁起〉田中郷、松笠郷、〈天正十八年豐臣氏文書〉御薗郷、塚本郷、〈天正十八年檢地帳〉等ノ類甚多シ、

〔拾遺往生傅〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 延暦寺座主大僧都陽生者、伊豆國酒井北條比田郷(○○○)人也、俗姓伊豆氏、少年登山、多歳忘郷、〈◯下略〉

〔吾妻鏡〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 治承四年八月四日甲申、散位平兼隆〈前廷尉、號山本判官、〉者、伊豆國流人也、依父和泉守信兼之訴、配于當國山木郷(○○○)、漸歴年序之後、假平相國禪閤之權、輝威於郡郷、 九月二日辛亥、御臺所自伊豆山秋戸郷(○○○)給、

〔三島古文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 下 伊豆國川原谷郷(○○○○)沙汰人等、可早當郷内致一レ汰黍波多事、 右件所者、先例川原谷郷内也、早爲三島大明神御領他妨、可沙汰之状如件、 治承五年七月二十七日 源朝臣〈花押〉

〔吾妻鏡〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 元暦二年〈◯文治元年〉七月二十六日丁未、前律師忠快爲流人、一昨日到著伊豆國小河郷(○○○)之由、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 宗茂申之、是平家縁坐也、

〔吾妻鏡〕

〈二十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 建暦三年〈◯建保元年〉十二月十八日甲辰、今日修理亮〈泰時〉以伊豆國阿多美(○○○)郷地頭職、令走湯山權現給、是元者件神領也、而頃年仁田四郞忠常令倒之、彼滅亡之後、匠作拜領之給訖根本由緒、今朝始聞之、即爲放生之地、永所寄進也、

〔三島神社文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 下 三島宮領伊豆國玉河郷(○○○)住人 可早爲地頭伊豆局沙汰散田事 右當郷者、元久二年閏七月、被進當宮之間、於郷司職者、盛重神主知行來之處、承久二年二月、伊豆局補地頭之日、盛重依彼局舍弟、内々申付代官職之間、盛重、光盛、盛忠等皆爲代官、一向沙汰來歟、而今地頭與久盛向背之刻、地頭屋敷二町七段大之外、不交他事之旨、久盛張行之由、地頭所訴申也、然者一向沙汰之時、與各別知行之今、爭無差別哉、早旦任傍例、於散田者、可地頭之沙汰、至所當收納者、可郷司沙汰也、兩方可此旨之状、依鎌倉殿仰、下知如件、 安貞二年三月三十日 武藏守花押〈◯北條泰時〉 相模守花押〈◯北條時房〉

〔三島古文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670早伊豆厚盛領知駿河國良知郷内田肆町五十歩、〈在家、畠、山野準之、〉伊豆國長崎郷(○○○)内參町、〈同前〉同國糠田郷(○○○)内田五段六十歩〈同前〉事、 右以亡父三島社神主前伊豆守盛時法師〈法名盛音〉跡配分也者、早守先例沙汰之状、依仰下知如件、 正和四年九月十日 相模守平朝臣〈花押〉 武藏守平朝臣〈花押〉

〔三島神社文書〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 雜訴決斷所〈牒〉 伊豆國衙 三島社神主盛親代實法申、當社領北中村(○○○)、安富、鶴喰、糠田御薗、長前、并宮倉神護以下、社邊敷地等事、〈副重解状具書〉 牒、當社神主職、并社領等、先度盛親所勅裁也、而資盛盛行等令濫妨云々、太不然、早止彼等之

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671、宜汰付盛親者、以牒、 建武二年三月十二日 前加賀守三善朝臣〈◯町野信宗、以下署名略〉

〔三島神社文書〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671寄 伊豆三島大明神 伊豆國長崎郷事 右所寄進之状、如件、 建武二年十二月十一日花押〈◯足利尊氏〉

〔上椙古文書〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 伊豆國奈古屋(○○○)郷地頭職事、爲勳功之賞、任先例、可領掌之状、如件、 元弘三年十二月二十九日 左兵衞督〈花押◯足利尊氏〉 上椙兵庫藏人殿〈◯憲房〉

〔三島神社文書〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 寄進 三島社 伊豆國三福郷(○○○)事 右爲當社領、守先例、可沙汰者、奉寄之状、如件、 建武二年九月二十四日 源朝臣花押

〔史徴墨寶〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 北畠顯家寄進状〈伊豆三島神社藏〉 寄進 三島社 伊豆國安久郷(○○○)事 右爲天下泰平所願成就、奉寄進之状、如件、 延元三年正月七日 權中納言兼陸奧大介鎭守大將軍源朝臣花押

〔三島古文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 三島宮神主盛實代光頼申、伊豆國郡宅郷(○○○)内御名社玖町八反大事、御神領之條無子細之間、如元所付社家也、早可汰付下知於光頼之状、如件、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 觀應元年十二月十五日 守護代

〔三島古文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 伊豆國三園郷(○○○)事、三島社本神領之條、治承四年八月十九日、同十月廿一日、御寄進状、并義時朝臣状等分明之上者、如元可沙汰之状、如件、 康安二年七月六日 花押 東大夫殿

〔三島古文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 寄附 三島社 伊豆國北中村郷(○○○○)内衞職事 右爲天下安全、所寄進之状、如件、 貞治五年十一月七日 左兵衞督源朝臣花押

〔三島古文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 寄進 伊豆國三島宮 同國愛玉郷(○○○)事 右爲當社二季祭禮神寶物要脚、所寄附之状如件、 應永八年三月廿四日 左馬頭源朝臣〈花押〉

〔三島古文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 奉寄進 伊豆國三島大明神 同國稻梓郷(○○○)内〈土屋近江五郞入道事跡一圓、除庶子分、〉 右爲不斷護摩料所、所寄附之状、如件、 應永廿二年十一月九日 安房守憲基花押

〔三島古文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 五百文 三島祭錢三月分 右於仁田郷(○○○)御田地下畢、田畠上田下田引合倉地代原神左衞門、名主藤左衞門、前より可請取

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 也、仍如件、 辛未卯月十日 多留玄蕃頭殿

〔杉山文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 條々 伊豆國宇佐美(○○○) 一地下人百姓等、急度可還住事、〈◯中略〉 右條々、若於違犯之輩者、速可御成敗者也、 天正十八年卯月 日 朱印〈◯秀吉〉

村里/名邑

〔郡名一覽〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 伊豆國(御料私領) 〈豆州 東西一日餘〉 四郡 高八万三千七百九拾壹石貳斗八升貳合三勺五才 貳百八拾五ケ村 ∧韮山 三十里 下田 海上五十八里 ◯按ズルニ、本書ノ符號ハ、山城國篇村里條ニ引ク所ノ、本書ノ凡例ヲ參照スベシ、

〔郡國提要〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 伊豆 四郡、二百八十四村、 高八万四千百七十一石二斗九升三合六勺二才(御料私領) 君澤郡六十九村 田方郡七十一村 加茂郡百二十七村 那賀郡十七村

〔地勢提要〕

〈坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 郡邑島嶼奇名 伊豆 加茂郡、富戸(フト)村、吉佐美(キサミ)村、下流(シタル)村、石部(ブ)村、戸田(ヘタ)村、八幡(ハツヤ)村、田方郡大仁(ヒト)村、君澤(クンサハ)郡久連(クツラ)村、木負(キヤウ)村、重洲(オモス)村、三津(ミト)村、重寺(シゲ)村、谷田(ヤダ)村、大場(ダイバ)村、

〔三島古文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 三島社領伊豆國長崎郷并田中村(○○○)事 神領異他上者、被付社家之歟、嚴密可御沙汰候也、謹言、 十月二日 義滿〈花押〉 左馬頭殿

〔増訂豆州志稿〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 郡郷 私ニ稱セシ郡郷アリ、〈◯中略〉莊ハ、馬宮莊、〈玉海〉狩野莊、〈東鑑、又三島大社文書、〉葛見莊、〈蘇我物語〉井田莊、〈藤原道家處分記〉仁科莊、〈増、北條氏文書、諸社上梁文、 殊ニ廣ク用井タリ〉田中莊、〈田方郡田中邊〉驅籠莊、〈君澤郡大澤邊、増、子神社天文元年上梁ニミユ、〉鶴食(ツルハミノ)莊〈鶴食邊、増、文書類、〉ノ如キ莊號ハ、物ニ紛亂シテ盡ク擧ルニ暇アラズ、〈増、保ハ本州更ニ所見ナシ、今君澤郡ノ村名、立保、足保、賀茂郡ノ村名、原保ノ稱アリ、其何ノ故ニ號シヤヲ知ラズ、〉

〔相州文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 伊豆國三浦莊(○○○)内壹萬疋田地、爲守時〈◯赤橋〉後家尼通盛活計、可知行者、天氣如此、悉之以状、 元弘三年十一月二十二日 右中辨〈花押◯中御門宣明〉

〔三島神社文書〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 伊豆國狩野莊(○○○)三福郷内田五町、在家壹宇事、任仰下之旨、爲三島宮御神領、奉打渡之處状、如件、 建武元年九月二十三日 僧祐禪〈花押〉

〔増訂豆州志稿〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 郡郷 貞享中、國中ヲ分テ十二組トス、〈増、十二組ハ、三島組二十七宿村、自三島南條、谷田組二十村、自伊豆佐野奈古谷、田中組二十村、自北江間大仁、内浦組二十村、自重寺小下田狩野組二十七村、自堀切湯島、大見組二十七村、自牧郷筏場、東浦組五村、自赤澤片瀬、川津組十七村、自梨本見高、稻生澤組十九村、自茅原野白濱、加納組二十二村、自大賀茂伊濱、松崎組二十村、自雲見江奈 宇久須組八村、自宇久須門野、組ニ入ザル村三十九村、〉是郷莊亡スル多キヲ以テノ故カ、此組ハ甲斐ニテ筋ト云、上總ニテ郡ト云類ニシテ、皆古ノ郷ニ準ズ、〈然レドモ一郡ノ内、幾組ト分ケタルニ非ズ、只モヨリニ因テ立タルナリ、〉

田數/石高

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 伊豆國〈◯註略〉管三〈田二千百十町四段百十二歩〉

〔伊呂波字類抄〕

〈伊國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 伊豆國〈管三(中略)本田二千七百十町四段十歩〉

〔拾芥抄〕

〈中末本朝國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 伊豆〈下中〉三郡〈(中略)田二千八百十四町〉

〔海東諸國記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 伊豆州〈(中略)郡三、水田二千八百十四町、〉

〔新撰類聚往來〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 國名 伊豆〈(中略)田數五千八百四十町〉

〔前關白秀吉公御檢地帳之目録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 六万九千八百三十二石 伊豆

〔増訂豆州志稿〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 租調庸 天正以後、本州ノ石高ヲ記セルモノハ、易林節用集、倭漢三才圖繪、〈◯註略〉其他往々見ル所ナリト雖、因據詳ナラザレバ之ヲ取ラズ、今其正確ナルモノヽミヲ次々揚ゲテ、參攷ニ供セムトス、 正保年中調査〈同年度調製ニ係ル伊豆國繪圖所載ナリ、其他年號不詳國圖アリ、各大同小異トス、〉 増、高七萬九千六百五拾三石壹斗八升八合、〈君澤郡二万千五百三十八石四斗六升四合、田方郡二万四千八百九十石一斗五升四合、賀茂郡二万九千百五十一石三斗四升二合、那賀郡四千七十三石二斗一升、増、年號不詳一書ニ、高八万八百三石餘、村數二百九十一ケ村、家數一万二千七百七十軒、人別六万人餘、神社六百九十二所、寺院三百九十八所、堂庵二百五十所ト、案ズルニ、貞享元祿ノ記載ナルベシ、〉 元祿十五年壬子調査〈同元年調、(地方大概集等所載)同九年調査(村高比較表所載)ミナ同之、〉 増、高八萬三千七百九拾壹石貳斗八升貳合三勺五撮、〈君澤郡二万二千七百九十三石三升四合九勺、村數七十三、田方郡二万五千七百六十五石三斗九升一合、村數七十七、賀茂郡三万六百二十八石八斗七升九合四勺五才、村數百五十一、那賀郡四千六百三石九斗七升七合、村數二十六、村數總計三百二十七ト、其過多ナルハ枝村ヲモ計入セル故ナリ、奧書、元祿十五年壬午七月、井上大和守、安藤筑後守、松前伊豆守、久貝因幡守ノ連署アリ、伊豆鑑一書所載、四郡總高八万三千八百十九石八斗六升六合五勺五才ト、按ズルニ、元祿後ノ記載ニ係ルモノナル可シ、〉 寛政十二年庚甲調査〈本書村里部所載總計ナリ、同五年出板伊豆國村邑高附大同小異トス、〉 増、高八萬四千七百九拾貳石壹斗貳升五合壹撮、〈君澤郡二万二千七十石四斗六升八合一勺六才、村數六十六、田方郡二万五千九百七十六石六斗八升三合六勺、村數六十九、賀茂郡三万九百二十一石五斗八升三合二勺五才、村數百二十七、那賀郡四千五百五十六石一斗九升、村數十七、總計二百七十九、〉 天保五年甲午調査〈天保郷帳所載村高比較表、地方大概集同之、但大概集天保七年攺正記リ、〉 増、高八萬四千百七拾壹石貳斗九升三合六勺貳撮、〈君澤郡二万二千九百四石六斗二升六合五勺六才、村數六十九、田方郡二万五千八百三十九石九斗一升一合六勺八才、村數七十一、賀茂郡三万八百十一石五斗五升八合八勺八才、村數百二十七、那賀郡四千六百十五石一斗九升六合五勺、村數十七、總計二百八十四、〉

〔和漢三才圖會〕

〈六十七伊豆〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 三郡 九万九千三百五十三石餘

〔官中秘策〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 伊豆國 三郡〈◯中略〉 一石高八万三千七百九拾壹石餘

〔吹塵録〕

〈五人口及國高〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 天保度御國高調〈◯中略〉 伊豆國〈御料私領〉 一高八万四千百七拾一石貳斗九升三合六勺貳才

出擧稻

〔延喜式〕

〈二十六主税〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 諸國出擧正税公廨雜稻〈◯中略〉 伊豆國、正税公廨各六万五千束、三島神料二千束、國分寺料一万束、大安寺料三千束、禪院料一千束、國分二寺供養料一万束、三神寺料二千束、文殊會料一千束、修理池溝料一万束、救急料一万束、

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 伊豆國〈◯註略〉管三〈正六萬五千束、公六萬束、本稻十七萬二千束、雜稻四萬七千束、〉

國産/貢獻

〔延喜式〕

〈二十三民部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 年料別納租穀〈◯中略〉 伊豆國〈一千五百斛◯中略〉 年料別貢雜物〈◯中略〉 伊豆國〈零羊角四具、甘葛汁二斗、◯中略〉 諸國貢蘇番次〈◯中略〉 伊豆國七壺〈並小一升◯中略〉 右八箇國爲第一番〈丑未年◯中略〉 交易雜物〈◯中略〉 伊豆國〈猪皮十張、鹿皮卅張、堅魚煎汁一石四斗六升、櫑子四合、〉

〔延喜式〕

〈二十四主計〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 伊豆〈◯中略〉 右十一國麁絲〈◯中略〉 伊豆〈◯中略〉 右十國輸絁〈◯中略〉 伊豆國〈行程、上廿二日、下十一日、〉 調、一窠綾三疋、二窠綾二疋、冠羅一疋、緋帛十五疋、皂帛十疋、自餘輸絁、鰹魚、 庸、輸布中男作物、木綿、胡麻油、鰹魚煎汁、

〔延喜式〕

〈三十七典藥〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 諸國進年料雜藥〈◯中略〉 伊豆國十八種 藍漆四斤六兩、商陸、白石脂各五斤、白薇七斤、防風十五斤、木斛三斤、石斛十一斤、瓜帶五兩、木防己、赤脂各十斤、黄礬石二斤一兩、榧子、署預、蜀椒各一斗、桃人一斗一升、決明子二升、莨蓎子一斗、牡荊子四升、

〔毛吹草〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 伊豆 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0677 縮砂 良姜(リヤウコ) 椎葺 打鮑 柄川酒 三島暦 修禪寺紙 八丈島紬

〔三代實録〕

〈五十光孝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0677 仁和三年六月二日甲辰、伊豆〈◯中略〉等十九國貢絹、麁惡特甚、不昔日、勅、譴國宰、探取正倉舊様絹、毎國賜一疋、依舊様作、

〔吾妻鏡〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0677 文治二年二月十九日丁卯、供御甘海苔、自伊豆國來于鎌倉、彼國土産也、仍任例差專使京進一レ之云云、

〔吾妻鏡〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0677 建久五年正月三十日壬辰、伊豆國海苔被京都、雜色吉野三郞爲御使云云、

人口

〔官中秘策〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0677 伊豆國 三郡〈◯郡名略〉 一人數拾万五千百貳拾人 内〈五万三千八百六人 男 五万千三百拾四人 女〉

〔吹塵録〕

〈五人口及國高〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0677 諸國人數調〈◯中略〉(文化元甲子年) 人數拾貳万五千五百五人(御料私領) 伊豆國(高八万三千七百九拾壹石餘) 内〈六万三千九百三拾人 男 六万千五百七拾五人 女◯中略〉 諸國人數調〈◯中略〉(弘化三丙午年) 一同拾壹万五千百九拾七人(御料私領) 伊豆國(高八万四千百七拾壹石餘) 内〈五万九千壹人 男 五万六千百九拾六人 女〉

風俗

〔人國記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0677 伊豆國 伊豆國之風俗強シ、中之強ニシテ其氣ニ乘ル時ハ強シ、其氣ニ不乘時モ強シ、是ハ國風トハ云ナガラ、氣質之禀ル所、都而清成所ヲ自然ト得タルモノ也、雖然一花氣ニ而、今日ハダカヒニ命ヲ投ウタント約スル所ノ人ニテモ、少シモ違有時ハ數日之約ヲ一時ニ忘レテ、俄ニ亦遺恨甚ダ強ク而、大敵ト成テアダヲ施サン事ヲ常ニタクミニスル風俗也、然故ニ人皆氣一流ニシテ亦各別也、是國ヲヒキユルニハ、耳目ヨリ而是ヲ覆セシムベシ、氣ハ皆天氣ニシテ陽也、陽ハ升ル也、サレバ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0678 忿ル氣強故ニ、忿リ深キモノハ名利ヲ好ムモノ也、イカニモ隨テ是ヲ可服也、口傳、

名所

〔日本鹿子〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0678 同〈◯伊豆〉國名所之部類 三島 明神の御座なり、御池有、水涌出る、伊豆の府也、三島の宿といふなり、明神の草創のこと、くはしく神社の所に見えたり、 伊豆の高根 箱根より南の山也、海にさし出たるなり、山中にはしり湯あり、鎌倉右大臣の歌に、 千早ぶる伊豆のお山の玉椿八百万代も色はかはらじ 筥根山 三島より三里餘行て山中なり、矢たての杉とてあり、山のかしらに水海あり、湖水北南へ五十町、東西はちかし、東の汀に權現の社だんあり、西むきなり、湖の南の汀に蘆の宿とて民家あり、ひよりよきときは、此水うみに富士のかげうつりて、眺望無雙の景地なり、ふじは是より西に見えたり、 筥根山うす紫のつぼすみれ二しほ三しほたれかそめけん 阿妻の小野 二葉山 井關の山 志柄城の山 これはみなうち續て近所にある名所なり、此外三島より二里餘右のかたに、蛭が小島赤澤山などヽ云所あり、名所にはあらず、 右の外、ゆるぎの橋、こく井の森などヽ云名所、當國の内なりといへども、いまだ所をしらず、

雜載

〔延喜式〕

〈二十八兵部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0678 諸國健兒〈◯中略〉 伊豆國卅人〈◯中略〉 諸國器仗〈◯中略〉 伊豆國〈甲一領、横刀三口、弓卌張、征箭卌具、胡簶卌具、〉

〔百練抄〕

〈十六後深草〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0678 寶治元年正月十二日丙寅、此間風聞云、伊豆國長十二町、弘八町自十餘町行去、其跡如湖水云々

〔清獬眼抄〕

〈凶事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0678 配流公卿殿上人事〈◯中略〉 流移國々〈◯中略〉伊豆國〈七百七十里〉 右六ケ國遠流

〔吾妻鏡〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0679 文治二年三月十三日辛卯、關東御分國々乃貢、日者依朝敵征伐事、頗懈緩、然者被以前分、自今年合期沙汰之由、所京都也、 諸國濟物事、治承四年亂以後、至于文治元年、世間不落居、〈◯中略〉頼朝知行國々、相模、武藏、伊豆、駿河、上總、下總、信濃、越後、豐後等也、〈◯中略〉 三月十三日 頼朝 進上帥中納言殿

〔萬葉集〕

〈十四東歌〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0679 相聞 伊豆乃宇美爾(イヅノウミニ)、多都思良奈美能(タツシラナミノ)、安里都追毛(アリツツモ)、都藝奈牟毛能乎(ツギナムモノヲ)、美太禮志米梅楊(ミダレシメメヤ)、 或本歌曰、之良久毛能(シラクモノ)、多延都追母(タエツヽモ)、都我牟等母倍也(ツガムトモヘヤ)、美太禮曾米家武(ミダレソメケム)、 右一首、伊豆島歌、


Last-modified: 2019-03-15 (金) 09:48:59 (387d)