http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0001 地ハ、ツチト云フ、天ニ對スル稱ナリ、國ハ、クニト云フ、原ト土地ノ一區域ヲ稱スル名ナリ、故ニ大ニシテハ日本全國ヲ謂ヒ、小ニシテハ一郡一郷ノ地ヲモ謂ヘリ、抑々我邦ノ國號ハ、遠ク神代ニ在リテハ大八洲國(オホヤシマグニ)ト云ヒ、葦原中國(アシハラノナカツクニ)ト云ヒ、又瑞穗國(ミヅホノクニ)トモ云フ、神武天皇都ヲ大和國ニ奠メ給ヒシヨリ、ヤマトノ稱アリ、孝徳天皇ノ大化元年ニ至リ、始テ大日本國ト號ス、古來全國ヲ別チテ汎ク東國、西國ト云ヒ、又坂東、坂西、關東、關西トモ云フ、又各地方ヲ稱シテ、吾妻(アヅマ)、奧羽、北國、中國、四國、九州トモ云ヘリ、畿内ハ、ウチツクニト云ヒ、後ニ字音ヲ以テキナイト稱ス、畿外ニ對スル稱ナリ、畿外ハ之ヲ七道ニ分ツ、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海、即チ是ナリ、國ハ後ニ、私ニ稱シテ州トモ云ヘリ、神武天皇ノ朝、始テ國造、縣主ヲ置キ、成務天皇ノ時、諸國ノ境堺ヲ定ム、孝徳天皇大化改新ニ至リ、唐制ニ摸倣シテ、新ニ國司、郡司ヲ置キ、文武天皇大寶ノ制、國ヲ大、上、中、下ノ四等ニ分ツ、其國數ハ、孝謙天皇ノ時、既ニ六十二國アリ、嵯峨天皇ノ弘仁十四年、加賀國ヲ置キ、淳和天皇ノ天長元年、多褹島ヲ大隅國ニ隷屬セシムルニ及ビ、六十八國トナレリ、明治ノ初年、陸奧、出羽ヲ七國ニ分チ、又蝦夷ヲ北海道ト稱シテ、之ヲ十一國 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0002 ニ分チ、琉球國ヲ我ガ封土ト爲ス、是ニ於テ總テ八十五國トナル、尋デ又臺灣、及ビ樺太半部ヲ割取シ、朝鮮ヲ併合シテ、其疆域ノ大ナル、今日ノ如キハ、未ダ曾テ有ラザル所ナリ、縣ハ、アガタト云フ、後世ノ郡ノ類ナリ、但シ上古ハ、縣ト國トハ相並ビタルモノニテ、縣主ハ、必ズシモ國造ノ下ニ在ラザリキ、郡ハ、コホリト云フ、國内ニ於ケル一區域ナリ、孝徳天皇ノ大化二年、始テ郡ヲ大、中、小ノ三等ニ分ツ、大寶制令ノ時、之ヲ改テ大、上、中、下、小ノ五等ト爲シ、國ヲシテ之ヲ管セシム、郷、里ハ、共ニサトヽ訓ズ、郡内ノ一小區域ナリ、大寶ノ制、五十戸ヲ以テ一里ト爲シ、之ヲ郡ノ下ニ置ク、元正天皇ノ靈龜元年ニ至リテ、里ヲ改テ郷ト爲シ、郷ノ下ニ更ニ里ヲ置ケリ、後世多ク村名ヲ用ヰルニ至リテ、郷里ノ制漸ク廢セリ、村ハ、ムラト訓ズ、郷内ノ小區域ナレドモ、郷里ノ稱廢シテヨリ直ニ郡ニ屬セリ、地名ニ好字ヲ用ヰルコトハ、元明天皇ノ和銅六年ノ制ニシテ、風土記ヲ作ルコトモ亦此時ニ起ル、徳川幕府ノ時、史局ヲ置テ、新ニ地誌ヲ編修セシメシコトアリト雖モ竟ニ成ラズ、地圖ヲ製スルコトハ、天武天皇ノ時ヲ以テ初トス、而シテ今傳ハル所ハ拾芥抄ニ載スル僧行基ノ作、最モ舊シト云ヘリ、

名稱

〔類聚名義抄〕

〈六土〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0002 地〈題利反トコロ〉 〈坤也〉

〔段注説文解字〕

〈十三下土〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0002 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000631047.gif 元气初分、輕清昜爲天、重濁侌爲地、〈元者始也、陰陽大論曰、黄帝問於岐伯曰、地之爲下否乎、岐伯曰、地爲人之下、大虚之中者也、黄帝曰、馮乎、岐伯曰、大氣擧之也、按地之重濁而包擧乎、輕清之氣中、是以不墜、〉萬物所敶列也、〈◯註略〉从土〈地以土生物故从土〉也聲、〈坤道成女、元牝之門、爲天地根、故其字从也、或云从土、乙力其可笑、有此者、徒四切、古音在十七部、漢書或假爲第但也之第、〉 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000631047.gif 元气初分、輕清昜爲天、重濁侌爲地、〈元者始也、陰陽大論曰、黄帝問於岐伯曰、地之爲下否乎、岐伯曰、地爲人之下、大虚之中者也、黄帝曰、馮乎、岐伯曰、大氣擧之也、按地之重濁而包擧乎、輕清之氣中、是以不墜、〉萬物所敶列也、〈◯註略〉从土〈地以土生物故从土〉也聲、〈坤道成女、元牝之門、爲天地根、故其字从也、或云从土、乙力其可笑、有此者、徒四切、古音在十七部、漢書或假爲第但也之第、〉

〔釋名〕

〈一釋地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0002 地者底也、其體底下載萬物也、亦言諦也、五土所生莫信諦也、易謂之坤、坤順也上順乾也、

〔伊呂波字類抄〕

〈知地儀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0003

〔古事記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0003 天【地】初發之時(アメツチノハジメテヒラクルトキ)、於高天原成神名天之御中主神、〈◯下略〉

〔日本書紀〕

〈一神代〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0003 古天地未剖、陰陽不分、渾沌如雞子、溟涬而含牙、及其清陽者薄靡而爲天、重濁者淹滯而爲上レ地、精妙之合摶易、重濁之凝竭〈◯竭原作場據一本改、〉難、故天先成而地後定、然後神聖生其中焉、故曰、開闢之初洲壤浮漂、譬猶游魚之浮水上也、于時天地之中生一物、状如葦牙、便化爲神、號國常立尊

〔淮南子〕

〈一俶眞訓〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0003 天地未剖、陰陽未判、四時未分、萬物未生、注然平靜、寂然清澄、莫其形

〔淮南子〕

〈一天文訓〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0003 天墜未形、馮馮翼翼、洞洞灟灟、故曰大昭、道始于虚霩、虚霩生宇宙、宇宙生氣、氣有漢垠、清陽者薄靡而爲天、重濁者凝滯而爲地、清妙之合專易、重濁之凝竭難、故天先成而地後定、

〔釋日本紀〕

〈五述義〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0003 三五暦記曰、天地渾沌如雞子、盤古生其中、萬八十歳、天地開闢、陽清爲天、陰濁爲地、盤古在其中、一曰、九變、神於天、聖於地

〔萬葉集〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0003 【阿米都之】乃(アメツシノ)、以都例乃可美乎(イヅレノカミヲ)、以乃良波加(イノラバカ)、有都久之波波爾(ウツクシハハニ)、麻多己等刀波牟(マタコトトハム)、右一首、埴生郡大伴部麻與佐、

〔神代直指抄〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0003 つちといふは、ひきヽ義、せばき義、いやしき義、くだる義、四義そなはりて、陰道の義をあらはす、つちをちといふ、ちは合聲にて、下の義也、のちに雨をあめといふは、天よりふるゆへに、天のことばを、そのまヽかりていふ、土をつちともいふ、これ又かりていふことば也、

〔日本釋名〕

〈上天象〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0003 天地(アメツチ)〈◯中略〉 つちといふはひきヽ義、いやしき義を取て陰道をあらはす、

〔東雅〕

〈二地輿〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0003 地ツチ 義不詳、按ずるに我國太古の語には、天に對しては必ず國といひけり、〈天ツ神國ツ神天御柱、國御柱などいふ類、悉く皆然らざるはなし、〉されば舊事古事等の記に見えし、地の字を讀むにもクニといひ、又はトコロなど讀む、舊事紀の始に、天地未剖などしるされし事あれど、これはまさしく三五暦記、淮南子等に見えし所を、槩括して其文を成され、地の字を讀む事、我國もとより土(ツチ)を呼ぶことばによ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0004 りて、ツチとせられしと見えたり、されど其餘太古の事どもしるされしことばの中に、天に對し言ふに、地をもてせられし事は見えず、さらばアメツチなどいふは、我國の上世よりいひつぎしことばとは聞えず、〈萬葉集の歌に、アメツシと讀しは則轉語なり、〉古事記の始に見えし所も、舊事紀の文によれるなるべし、日本紀の如きは、舊事紀に據りて撰ばれし所也といひ傳へたり、舊事紀すでにかくの如し、其他はいふに及ばず、〈或人の説に、土地の字共にツチとよむは、漢音によれる歟、當時南京の音をもて土地の二字を合せ呼ぶにツチといひ、ツヽ(○○)といふが如しといふなり、我國に漢字の傳りてより此かたの語には、漢音によりて我國の方言ともなりしいくらもあれど、土をいひてツチともツヽともいひしが如きは、我國太古よりの語たる事、疑ふべくもあらねば、其説また據るにたるべしとも覺へず、〉

〔倭訓栞〕

〈前編十六都〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0004 つち 土地の音の如くいへど、大地はいづくまでも一土塊なれば、つヾきの義、つき反ち也といへり、

〔古事記傳〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0004 都知(ツチ)とは、もと泥土(ヒヂ)の堅(カタ)まりて、國土(クニ)と成れるより云る名なる故に、小くも大きにも言(イヘ)り、小くはたヾ一撮の土をも云ヒ又廣く海に對へて陸地(クヌガ)をも云を、天(アメ)に對へて天地(アメツチ)と云ときは、なほ大きにして、海をも包たり、

〔八雲御抄〕

〈三上地儀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0004 地 しまのね あらかね

〔古今和歌集〕

〈序〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0004 やまとうたは、人の心をたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける、〈◯中略〉しかあれども、世につたはることは、ひさかたのあめにしては、したてるひめにはじまり、あらかねのつち(○○○○○○○)にしては、すさのをのみことよりぞおこりける、

〔伊呂波字類抄〕

〈知疊字〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0004 地理

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0004 地理(チリ)〈謂東西南北、國土、山川、水石、草木類、〉地形(ヂゲウ)、〈事見淮南子〉地脈(ヂミヤク)

國號

〔日本略記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0004 一日本之名之事、第一日域、第二日本、第三豐葦原、第四秋津島、第五大和國、第六和國、第七吾朝、第八東海州、第九水穗國、第十堪忍國、第十一神國といふ、

〔日本國郡沿革考〕

〈一總説〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0005 按本朝古以倭(○)爲國號者、日本紀纂疏等之説、説得其實也否、未知也、後改號日本(○○)、據本居宣長説云、蓋在大化二年二月也、雖國史不一レ其事、察其文理、則於是時國號昭々矣、〈釋日本紀引延喜講記云、日本者自唐所號也、隋文帝開皇中、入唐使小野妹子、將倭號日本、然依隋皇暗物理、遂不許、至唐武徳中、始號日本、和漢春秋引括地志云、和國、武后改曰日本國、 新唐書云、倭咸亨元年遣使賀高麗、後稍習夏音、惡倭名、更號日本、自言、近日所一レ出、三國史記云、新羅文武王十年十二月、倭國更號日本、自言、近日所一レ出、以爲一レ名、按以上諸説皆有小異同、雖悉信、始附載以備參考、〉而古史所載國號不一、或大八州國(○○○○)〈又作大八島國、見古事記等、〉或葦原中國(○○○○)〈日本紀〉或豐葦原之水穗國(○○○○○○○)、或豐葦原千五百秋之瑞穗國(○○○○○○○○○○○)、或秋津洲(○○○)、〈又作秋津島、或蜻蛉洲、或豐秋津洲、見日本紀等、 閩書云、日本古倭國、其地東高西下、勢若蜻蜓、古亦曰蜻蜓國、〉或浦安國(○○○)〈日本紀〉或細戈千足國(○○○○○)、或磯輪上秀眞國(○○○○○○)、或虚見日本國(○○○○○)、皆古雅可稱之美號也、今世雖之爲國體、或又名師木島(○○○)、〈或磯城島〉是本舊京之名非國號、後世沿稱遂爲全國之號矣、而又有漢人所名之國號、或扶桑(○○)、〈淮南子云、日拂于扶桑、〉或君子國(○○○)、〈山海經云、有君子之國、其人衣冠帶劍、注亦使虎豹、好謙讓也、〉或耶馬臺(○○○)、〈後漢書〉或汗國(○○)、〈魏書〉或阿毎郷(○○○)、〈續三綱行實〉若是等之稱、於彼稱之、猶爲允當、況於我稱之、尤不事體、好事者或爲文雅之稱之、尤可厭也、

日本

〔運歩色葉集〕

〈丹〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0005 日本

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0005 日本(ニツポン)

〔釋日本紀〕

〈一開題〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0005 日本國 倭國〈◯中略〉 問、大唐謂此國倭、而今謂日本者、是唐朝所名歟、將我國自稱歟、答、延喜講記曰、自唐所號也、隋文帝開皇中、入唐使小野妹子、改倭號日本、然而依隋皇暗物理遂不許、至唐武徳中、初號日本之號、延喜公望私記曰、案隋書東夷傳、倭國在百濟新羅東南水陸三千里、於大海之中、依山島而居、三十餘國皆稱王、其國境、東西五月行、南北三月行、地勢東高西下、於耶摩堆(ヤマタイ)則魏志所謂耶馬臺者也、新羅百濟皆以倭爲大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來、大業三年(隋煬帝大業三年、當本朝推古天皇十五年丁卯ゝ)其王多利思比孤遣使朝貢、使者曰、聞海西菩薩天子、重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法、其國書曰、日出處天子、致書日沒處天子、無恙云々、帝覽之〈◯之原脱、據一本補、〉不悦、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0006 云、就之案之、既自謂日出處天子、不大唐之所一レ名歟云々、又答、推古天皇十六年九月聘唐帝、其辭曰、東天皇敬白於西皇帝云々、是亦〈◯亦原脱、據一本補、〉可日本之濫觴也、問、號日本濫觴、見大唐何時書哉、答、元慶説不詳、公望私記曰、大寶二年壬寅、當唐則天皇后長安二年、續日本紀云、此歳正四位上民部卿粟田朝臣眞人爲遣唐持節使、唐暦云、此歳、日本國遣其大臣朝臣眞人方物、日本國者、倭國之別名也、朝臣眞人者、猶中國地官尚書也、頗讀經史、容止温雅、朝廷異之、拜司膳員外郞云々、大唐稱日本之濫觴見於此、又應神天皇御時、高麗上表、云日本國云々、然則稱〈◯稱原脱、據一本補、〉日本之旨亦此時歟、又師説云、日本之號、雖晉惠之時、義理不明、

〔國號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0006 日本(ニホム)〈比能母登といふ事をも附いふ〉 日本とは、もとより比能母登(ヒノモト)といふ號の有しを書る文字にはあらず、異國へ示さむために、ことさらに建られたる號なり、公式令詔書式に、明神御宇大八洲天皇詔旨とあるをば、義解に、用於朝廷大事之辭也といひ、明神御宇日本天皇詔旨とあるをば、以大事於蕃國使之辭也、といへるをもて知べし、さて此號を建られたるは、いづれの御代ぞといふに、まづ古事記に此號見えず、又書紀皇極天皇の御卷までに、夜麻登といふに日本とかヽれたるは、後に此紀を撰ばれし時に、改められたる物にして、そのかみの文字にはあらざるを、孝徳天皇即位、大化元年秋七月丁卯朔丙子、高麗百濟新羅並遣使進調云々、巨勢徳大臣詔於高麗使曰、明神御宇日本天皇詔旨云々と見えたる、これぞ新に日本といふ號を建て、示したまへるはじめなりける、故さき〴〵の詔のさまとは異になむありける、また同二年二月甲午朔戊申、天皇幸宮東門、使蘇我右大臣詔曰、明神御宇日本倭根子天皇、詔於集侍卿等臣連國造伴造及諸百姓云々、これは異國人に示す詔にはあらざれども、此號を建られて、始めたる詔なるが故に、かく宣て皇朝の人どもにも、新號を示したまへるな

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0007 り、もし然らざれば、日本倭根子と、倭へ重ねて宣たまへるは、やまと〳〵と、同じことのいたづらに重なるにあらずや、かヽればこの日本といふ號は、孝徳天皇の御世、大化元年にはじめて建られたることいちじるし、然るを世々の識者ども、かの文をよく考へざる故に、何れの御世より始まりしとも、えしらざるなり、すべて此孝徳の御世には、年號なども始まり、その外も新に定められつる事ども多かれば、此號の出來しも、いよ〳〵由有ておぼゆるなり、さてこれをもろこしの書どもと引合せて驗るに、隋の代までは倭とのみいへるを、唐にいたりて、始めて日本といふことは見えたり、新唐書に、日本古倭奴國也、咸亨元年、遣使賀高麗、後稍習夏音、惡倭名更號日本、〈◯中略〉といへり、舊唐書には、倭と日本とを別に擧て、日本國者倭國之別種也〈◯中略〉といへり、これらを見るに、此號の出來ていまだいくほどもあらざりしころなる故に、彼國にては、いまださだかには知らざりしなり、大化元年は、唐太宗が世、貞觀十九年にあたれるを、かの咸亨元年は、その子高宗が世にて、天智天皇の九年にあたれば、廿五年後なり、その間にも往來は有つれども、なほかの國へは、もとのまヽにて御言は通はされて、日本といふ新號の建しことは、たヾ此方の人のわたくしに語れるなどを、かつ〳〵聞るばかりにぞ有けむ、さて後文武天皇の御代に、粟田朝臣眞人を大御使につかはしヽをりよりぞ、かの國へも正しく日本とはなのられける、此朝臣かしこにまかり著たりし時に、いづれの國の御使ぞととはれて、日本國の使なりと名のりしこと、續紀に見え、又かの舊唐書にもさき〴〵の往來のことをば、みな倭國といふ方にしるして、日本國といふ方には、此眞人朝臣のまかりけるを始めとしてしるしたり、此時かの國は、武后が世なりき、故或説に此號を、唐武后が時に、かの國よりつけたるごとくにいへるは、ひが事ながら此由なり、さて又三韓の使には、大化元年にすなはち宣知らせたまひしこと、上に書紀を引ていへるがごとくなるを、その國の東國通鑑といふ書に、新羅の文武王十年のところに、倭國更號日本、自言

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0008一レ出以爲上レ名といへるは、唐の咸亨元年にあたりて、年も文も同じければ、かの唐書をとりて書たる物にて、論にたらず、すべて東國通鑑は、かくさまのうけがたき事のみぞおほかる、日本としもつけたまへる號の意は、萬國を御照しまします、日の大御神の生ませる御國といふ意か、又は西蕃諸國より、日の出る方にあたれる意か、此二つの中に、はじめのは殊にことわりにかなへれども、そのかみのすべての趣を思ふに、なほ後の意にてぞ名づけられけむ、かの推古天皇の御世に、日出處天子とのたまひつかはしヽと同じこヽろばへなり、

〔唐書〕

〈二百二十東夷列傳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0008 日本古倭奴也、〈◯中略〉咸亨元年、遣使賀高麗、後稍習夏音、惡倭名更號日本、使者自言、國近日所一レ出、以爲名、或云、日本乃小國、爲倭所并、故冒其號、使者不情故疑焉、

〔舊唐書〕

〈一百四十九上東夷〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0008 日本國者倭國之別種也、以其國在日邊、故以日本名、或曰倭國、自惡其名不一レ雅、改爲日本、或云、日本舊小國、併倭國之地、〈◯下略〉

〔日本書紀〕

〈二十五孝徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0008 大化元年七月丙子、巨勢徳大臣詔於高麗使曰、明神御宇日本(○○)天皇詔旨、〈◯中略〉 二年二月戊申、天皇幸宮東門、使蘇我右大臣詔曰、明神御宇日本倭(○○○)根子天皇詔於集侍卿等臣連國造伴造及諸百姓、〈◯下略〉

〔令義解〕

〈七公式〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0008 詔書式〈◯義解略〉 明神御宇日本天皇詔旨〈謂以大事於蕃國使之辭也〉云々咸聞〈◯下略〉

〔大師御行状集記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0008 御生土條第一有書曰、大日本國(○○○○)讃岐國多度郡、

〔朝野群載〕

〈三文筆〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0008 尊星王供告文 式部大輔正家 維康和二年歳次庚辰十月朔甲午十一日甲辰、南瞻部州大日本國(○○○○)皇帝諱謹敬白、〈◯下略〉

〔本朝神社考〕

〈序〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0008 夫本朝者、神國也、〈◯中略〉中世寢微、佛氏乘隙、移彼西天之法、變吾東域之俗、王道既衰、神

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0009 道漸廢、而以其異端離我而難一レ立、故設左道之説曰、伊弉諾、伊弉冉者、梵語也、日神者、大日也、大日ノ本國故、名曰日本國

〔南留別志〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0009 一大日本國をきりて、大日の本國といふは、物わらひなる滑稽なり、

ひのもと

〔神代卷口訣〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0009日本(ヤマト)者、從日始出吾國之義、【比乃茂止】(ヒノモト)者、而自讀、

〔國號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0009 日本(ニホム)〈比能母登といふ事をも附いふ◯中略〉 比能母登(ヒノモト)といふ號は、古の書に見えず、日本(ニホム)といふは、意はその意なれども、もと異國へしめさむために設けたまへるなれば、ひのもとヽはよまず、始めより爾富牟(ニホム)と字音にぞいひけむ、萬葉集に日本之とあるを、ひのもとのと訓るところ多かるは、後人のしひて五言によまむためのひがことにて、皆四言にやまとのとよむべきなり、たヾ三の卷なる不盡山の長歌に、日本之(ヒノモトノ)、山跡國乃(ヤマトノクニノ)云々とあると續後紀十九卷、興福寺の僧の長歌に、日本乃(ヒノモトノ)、野馬臺乃國遠(ヤマトノクニヲ)云々、また日本乃(ヒノモトノ)、倭之國波(ヤマトノクニハ)云々、などヽある、これらのみは、ひのもとのなり、されどこは國號にいへるにはあらず、倭といはむ枕詞なり、それにつきて、おのれ〈◯本居宣長〉いまだわかヽりし程に思へりしは、やまとを日本と書故に、その字のうちまかせたる訓を、やがて枕詞におけるにて春日の春日(ハルヒノカスガ)、飛鳥(トブトリ)の飛鳥(アスカ)などヽ同じ例なりと思へりしはあらざりき、まづ春日のかすがとは、春の日影のかすむといふ意につづけ、飛鳥のあすかとは、書紀に、天武天皇の十五年、改元曰朱鳥元年、仍名宮曰飛鳥淨御原宮とある、これ朱鳥の祥瑞の出來つるをめでたまひて、年號をも然改めたまひ、大宮の號をも、飛鳥云々とはつけたまひしなり、さればこれは、とぶとりの淨御原宮とよむべきなり、あすかの淨御原といはむは、本よりの地名なれば、ことさらにこヽに、仍名宮曰云々、などいふべきにあらざるをおもふべし、とぶ鳥とは、はふ虫といふと同じくて、たヾ鳥のことなり、さて大宮の號を然いふから、その地名にも冠らせて、飛鳥の明日香(アスカ)とはいへるなり、さてかすがを春日、明日香(アスカ)を飛鳥ともか

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0010 くことは、いひなれたる枕詞の字をもて、やがてその地名の字となせる物なり、そはかのあをによし、おしてるなどいふ枕詞を、やがて奈良難波の事にしていへると、心ばへ相似たり、かヽれば春日のかすが、飛鳥の明日香といふはその地名の字のうちまかせたる訓を、枕詞になせるにはあらざれば、ひのもとのやまとも、然にはあらず、又これは枕詞のひのもとてふ字をもて、國名の夜麻登の字として、日本とかくにもあらざれは、かの二つの例にもあらず、たヾ日の本つ國たる倭といふ意にぞ有ける、それにとりて此枕詞、もしいと古くより有しことならば、孝徳天皇も、日本といふ名は、これをおもほしてや建たまひけむ、されどかの不盡山の歌は、いとしも古からず、それよりあなたには見えざれば、こは日本といふ號のこヽろをおもひて、後にいひそめつるにもあらむか、その本末はわきまへがたくなむ、

〔萬葉集〕

〈三雜歌〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0010不盡山歌一首 奈麻余美乃(ナマヨミノ)、甲斐乃國(カヒノクニ)、打縁流(ウチヨスル)、駿河能國與(スルガノクニト)、己知其智乃(コチゴチノ)、國之三中從(クニノミナカユ)、出立有(イデタテル)、不盡能高嶺者(フジノタカネハ)、〈◯中略〉【日本】之(ヒノモトノ)、山跡國乃(ヤマトノクニノ)、鎭十方(シヅメトモ)、座神可聞(イマスカミカモ)、〈◯下略〉

〔續日本後紀〕

〈十九仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0010 嘉祥二年三月庚辰、興福寺大法師等爲奉賀天皇寶算滿于四十〈◯中略〉副之長歌奉獻、其長歌詞曰、【日本】乃(ヒノモトノ)、野馬臺能(ヤマトノ)國遠(クニヲ)、〈◯下略〉

〔十六夜日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0010 さらにおもひつヾくれば、やまとうたの道は、たヾまことすくなく、あだなるすさみばかりとおもふ人もやあらん、ひのもとの國(○○○○○○)に、あまのいはとひらけし時、よもの神だちのかぐらのことばをはじめて、世をおさめ物をやはらぐるなかだちとなりにけるとぞ、

〔續古今和歌集〕

〈十羈旅〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0010 もろこしに渡りて侍りける時、秋の風身にしみける夕、日本にのこりとまれりける母の事など思ひてよめる、 權僧正榮西 唐土の梢もさびし日の本のはヽその紅葉散りやしむらむ

〔玉葉和歌集〕

〈二十神祇〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0011 神祇の歌の中に 後京極攝政前太政大臣〈◯藤原良經〉 我國はあまてる神のすゑなれば日の本としもいふにぞ有ける

日出國

〔日本書紀纂疏〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0011 日本、吾國之大名、在東海中、近於日所一レ出也、

〔隋書〕

〈八十一倭國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0011 大業三年〈◯推古天皇十五年〉其王多利思比孤〈◯舒明天皇、號息長足日廣額、〉遣使朝貢、〈◯中略〉其國書曰、日出處天子(○○○○○)致書日沒處天子、無恙云々、帝〈◯隋煬帝〉覽之不悦、

〔日本書紀〕

〈二十二推古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0011 十六年九月辛巳、唐客裴世清罷歸、則復以小野妹子臣大使、〈◯中略〉副于唐客而遣之、爰天皇聘唐帝、其辭曰、東天皇(○○○)敬白西皇帝、〈◯下略〉

日域

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0011 日本〈日域(○○)〉

〔同〕

〈二乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0011 日域(ジチイキ)〈日本一名、師古云、日初出之處、〉

〔和爾雅〕

〈一地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0011 日本國異名 日域(ジツイキ)〈長楊賦、東震日域、師古云、日初出之處也、故吾邦人取用之、〉

〔日本略記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0011 一三國之名目之事、天竺をば月を像て月氏國と言、唐土をば星を象て震旦國といふ、日本をば日を像て日域といふ也、

〔朝野群載〕

〈三文筆〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0011 對馬貢銀記 作者江納言 對馬島者、在本朝之西極、〈◯中略〉欽明天皇之代、佛法始渡吾土、此島有一比丘尼、以呉音之、因茲日域經論皆用此音、故謂之對馬音

〔武將感状記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0011 一平松金次郞ハ、生資驍勇ニシテ外貌温順ナリ、〈◯中略〉長久手合戰ノ前ニ、平松朱柄ノ鎗ヲコシラヘタリト云、人相見テコレヲ笑フ、白柄ノ鎗ヲ以テ敵ト鋒ヲマジヘ、鎗ニ血付ルコト度々ニ及デ後ナラデハ、朱柄ノ鑓ヲ持セザルハ、日域ノ武夫ノ法ナリ、〈◯下略〉

日東/烏卯

〔和爾雅〕

〈一地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0011 日本國異名 日東(ニツトウ)〈華人稱日本日東、自古而然、近世宋景濂作日東曲十首、〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0012 烏卯(ウバウ)國〈華人稱日本烏卯、言烏日也、卯東也、見于善無畏碑、〉

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0012 日東(ジツトウ)〈事苑、則日本國也、〉 烏卯(ヒノモト)〈支那人斥本朝爾、蓋烏日也、卯東方也、猶日東、見善無畏碑、〉

大八洲國

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0012 十八洲國(ヲホヤシマクニ)〈日本一名〉 八洲(ヤシマ)〈日本一名、并畿内七道之義、見日本紀、〉

〔國號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0012 大八島(オホヤシマ)國 皇大御國の號、神代に二つあり、一ツには大八島國(オホヤシマクニ)、二ツには葦原中國(アシハラノナカツクニ)なり、その大八島國といふは、古事記に、〈◯中略〉故因此八島先所一レ生、謂大八島國と見えたり、書紀にも生坐る次第などは、傳々異なれども、八ツの數は同ジくて、由是始起大八洲國之號焉とあり、そも〳〵志摩(シマ)とは周廻(メグ)りに界(カギリ)限のありて、一區なる域をいふ名なり、〈◯中略〉さてこの大八島の島も、海の周りて隔れる一界の國をいへるにて、その例は、書紀の神代卷に三韓國をも韓郷(カラクニ)之島といひ、萬葉集の歌には、海をへだてヽは、大和國の方をさしても倭島とよみ、又此大八島をすべても、倭島根とよめるなど是なり、さて八島としもいふは、海を隔てずて一連なるをば、幾國にまれ一島として、その數八なればなり、かくてその八(ヤ)は例の彌(イヤ)にて、もとはたヾ島の數の多かる意の號なりけむを、やヽ後に八つの意にとりて、その數をとヽのへていひ傳へたるかとも疑はるめれども、古事記にしるされたる八つにて、畿内七道(ナヽミチ)の諸國(クニ〴〵)みな備はり、又他の島々は一ツもまじらずして、餘れるもなく足ざるもなければ、本より八ツの數は動かざるにこそ、書紀の傳々には、此内に他の島々もまじれヽば、八ツの數動けれども、古事記の正しきにつきて定むべきなり、さて此號(ナ)は、外國に對はず、ひとりだちて天の下を統言號なり、

〔古事記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0012是伊邪那岐命、〈◯中略〉伊邪那美命〈◯中略〉御合、生子淡道之穗之狹別島、〈訓別云和氣、下效此、〉次生伊豫之二名島、〈◯中略〉次生隱伎之三子島、〈◯中略〉次生筑紫島、〈◯中略〉次生伊伎島、〈◯中略〉次生津島、〈◯中略〉次生佐度島、次生大倭豐秋津島、〈◯中略〉故因此八島生所一レ生、謂大八島國(○○○○)

〔日本書紀〕

〈一神代〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0013是陰陽〈◯伊弉諾尊伊弉冉尊〉始遘合爲夫婦、及産時、先以淡路洲胞、意所不快、故名之曰淡路洲、迺生大日本(オホヤマト)〈日本此云耶麻騰、下皆效此、〉豐秋津洲、次生伊豫二名洲、次生筑紫洲、次雙生隱岐洲與佐度洲、世人或有雙生者象此也、次生越洲、次生大洲、次生吉備子洲、由是始起大八洲國(○○○○)之號焉、

〔古事記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0013 此八千矛神、將高志國之沼河比賣幸行之時、到其沼河比賣之家、歌曰、夜知富許能(ヤチホコノ)、迦微能美許登波(カミノミコトハ)、【夜斯麻久爾】(ヤシマクニ)、都麻麻岐迦泥氐(ツママギカ子テ)、登富登富斯(トホトホシ)、故志能久邇邇(コシノクニニ)、佐加志賣遠(サカシメヲ)、阿理登岐加志氐(アリトキカシテ)、久波志賣遠(クハシメヲ)、阿理登伎許志氐(アリトキコシテ)、〈◯下略〉

〔古事記〕

〈中景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0013 爾其熊曾建白言、莫其刀、僕有白言、爾暫許押伏、於是白言、汝命者誰、爾詔吾者坐纏向之日代宮、所大八島國、大帶日子淤斯呂和氣天皇之御子、名倭男具那王者也、〈◯下略〉

〔令義解〕

〈七公式〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0013 詔書式〈◯中略〉 明神御大八洲天皇詔旨、〈謂用於朝廷大事之辭、即立皇后皇太子、及元日受朝賀之類也、〉云々、咸聞、

葦原中國

〔下學集〕

〈上天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0013 豐葦原(トヨアシハラ)〈日本總名也亦云葦原之三穗國也、或書云、二神以矛探海底物碍矛、神曰碍矛物何哉、今地主權現日吉答曰、碍矛物即葦也、故云葦原國也、〉

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0013 葦原國(アシハラコク)〈日本一名〉

〔國號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0013 葦原中國(アシハラノナカツクニ)〈水穗國をも附いふ〉 葦原ノ中ツ國とは、もと天つ神代に、高天原よりいへる號にして、此御國ながらいへる號にはあらず、さて此號の意は、いと〳〵上つ代には、四方の海べたはこと〴〵く葦原にて、其中に國處は在リて、上方より見下せば、葦原のめぐれる中に見えける故に、高天ノ原よりかくは名づけたるなり、かれ古事記、書紀に此號はおほく天上にしていふ言にのみ見えたり、心をつけて考ふべし、その中に此御國にていへるも、いと稀にはなきにしもあらざれども、そは御孫命の天降坐て後には、此御國にても、もと天上にありて、いひならへる號をもて呼べることも有しよりおこれるなり、さてよもの海邊のこと〴〵に、葦原なりしことは、續後紀に、仁明天皇の四十の御賀に、興福寺の僧等

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0014 の獻れる長歌に、日本乃(ヒノモトノ)、野馬臺能國遠(ヤマトノクニヲ)、賀美侶伎能(カミロギノ)、宿那毘古那加(スクナビコナガ)、葦菅遠(アシスゲヲ)、殖生志川々(ウヱオフシツヽ)、國固米(クニカタメ)、造介牟與理(ツクリケムヨリ)云々とよめる、此書今傳はれる古事どもには見えざれども、かくよめるは、必そのかみ據ありけむ、さればもと大穴牟遲、少名毘古那二柱ノ御神の、國造堅めむために、植生し廻らしたまへるなりけり、かくて中昔のころまでも、海の渚には、いづくにも葦の多かりしこと世々の歌どもなどを見てもしるべし、さて此葦原ノ中ツ國てふ號には、くさ〴〵説あれども、皆古の意にかなはず、そのわろき由は、こと〴〵に論はむも、わづらはしければもらしつ、〈◯中略〉 豐(○)また大(○)てふ稱辭 葦原中國、秋津島などに、豐てふ言を冠らせて豐葦原中國、豐秋津島といひ、八島、倭などには、大てふ言を冠らせて、大八島、大倭といふ、これらの國號のみにもあらず、凡て豐とも大ともいへる例多き、みな上つ代の稱辭なり、然るを大日本などいふ大は、もろこしの國にて、當代の國號をたふとみて、大漢、大唐などいふにならへる物ぞといふ説のあるは、古のことをしらぬ、例のおしあてのみだりごとなり、もし然いはヾ、かの豐葦原などの豐は、いかにとかいはむ、こはかの國にはさらに聞えぬ美稱なるものをや、又もろこしにては、王の母を大后とはいふを、皇國の古には、當御代の嫡后を大后と申せりき、これらも、大といふこと、すべてかの國にならへるにあらざる證なり、然るを書紀には、古稱をたがへて、大御母をしも、皇太后と記されたる、これぞ彼國にならへるにては有ける、書紀にはかく彼國にならひてかヽれたる事もおほきからに、神代よりありこし事をも、かれと似たるをば、皆ならへるにやとは疑ふなり、抑大てふ美稱は大臣、大連などいふたぐひ猶多し、みないと上つ代よりのことにて、大倭といへるも、古事記の景行天皇御段に、熊曾建が詞に、大倭國と見え、また懿徳天皇、孝安天皇、孝靈天皇、孝元天皇などの大御名、又古事記には、意富夜麻登玖邇阿禮比賣(オホヤマトクニアレヒメ)命と、假字に書る御名さへあるをや、

〔古事記傳〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0015 或書に葦牙(アシカビ)に喩しより名る由云るは、上ツ代の意に非ず、さては原と云ヒ中と云こと由なし、又中ツ國と云を、漢國の人のみづからほこりて、中華、中國と云と同じさまに説(トキ)なすも、彼をうらやみたるひがことなり、たヾ葦原の中なる物をや、又この葦原ノ中國といふは、西ノ九州(コヽノクニ)をさすと云は、高天ノ原を大和ノ國のことぞと誤り思ふから出たる強説なり、

〔古事記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0015 爾伊邪那岐命告桃子、汝如吾、於葦原中國(○○○○)有宇都志伎〈此四字以音〉青人草之落苦瀬而患惚時、可助告、賜名號意富加牟豆美命、〈自意至美以音〉

〔大三輪神三社鎭座次第〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0015 初伊弉諾伊弉册二神共爲夫婦、生大八洲國及處々小島、而地稚如水母浮漂之時、大己貴命與少彦名命、戮力一心、殖生蘆葦、固造國地、故號曰國造、大己貴命因以稱曰葦原國(○○○)

瑞穗國

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0015 瑞穗國(ミヅホノクニ)〈日本一名〉

〔國號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0015 葦原中國〈水穗國(ミヅホノクニ)を附いふ◯中略〉 これを豐葦原之水穗國(○○○○○○○)ともいへり、豐は美稱にて、大八島の大(オホ)のたぐひなり、そは此ノ國號へすべて係れり、葦のみにかけて云にはあらず、葦原は上件にいへるが如し、水の字は借字にて、物のうるはしきをほむる言にて、これは穗をほめたるなり、書紀に瑞字を書れたるはあたらず、彼字につきて、祥瑞などの意とな思ひまがへそ、穗は稻穗をいへり、葦のにはあらず、凡て稻穗をたヾに穗とのみいへるは、萬葉に秋穗などもいひ、書紀に天照大神又勅曰、以吾高天原所御齋庭之穗、亦當於吾兒とあるがごとし、さて皇國は萬の事も物も、異國にはまされる中にも、稻は殊に萬ノ國に比ひなく、はるかにすぐれて、いと美好(メデタ)きこと、神代よりかくのごとく深き由緒のありて、今に至るまで、まことに水穗國の名に負へるたふとさ、いふもさらなるを、天の下の諸人、かヽるめでたき稻をしも、朝夕に給(タウ)べながら、皇神の御惠をおろそかに思ひなすべきわざかは、

〔古事記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0015 天照大御神之命以、【豐葦原之千秋長五百秋之水穗國】(トヨアシハラノチアキナガイホアキノミヅホノクニ)者、我御子正勝吾勝勝速日天忍穗

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 耳命之所知國、言因賜而天降也、

〔神代卷口訣〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 神代之本名、豐葦原千五百秋瑞穗國(トヨアシハラチイオアキノミヅホノクニ)也、

〔日本書紀〕

〈三神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 神日本磐余彦天皇、〈◯中略〉及年四十五歳、謂諸兄及子等曰、昔我天神高皇彦靈尊、大日孁尊、擧此豐葦原瑞穗國(○○○○○○)、而授我天祖彦火瓊瓊杵尊、〈◯下略〉

〔延喜式〕

〈八祝詞〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 大殿祭 皇我宇都御子皇御孫之命、此乃天津高御座爾坐氐天津日嗣乎萬千秋(ヨロヅチアキ)乃長(ナガ)秋爾大八洲豐葦原瑞穗之國乎安國止平氣久所知食止、〈古語云、志呂志女須、〉言寄奉賜比氐、〈◯下略〉

やまと

〔下學集〕

〈上天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 【山迹】(ヤマト)〈即大和(○○)也、日本總名也、日本記(記下恐脱私記二字)云、天地闊始時、人皆住山、其地未堅、人迹見矣、是以云山迹也、又云山止、人皆止住山故云爾、〉

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 大和(ヤマト)〈又作大倭、日本一名、今按大和國、本朝人皇帝都始故、稱之、猶文王起周而名周世、高祖起漢而名漢世之類者乎、〉 山迹(同)〈事見日本紀、神皇正統記、〉日本(同)

〔日本書紀〕

〈一神代〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016是陰陽〈◯伊弉諾尊伊弉冉尊〉始遘合爲夫婦、及産時、先以淡路洲胞、意所快、故名之曰淡路洲、迺生大日本〈日本此云耶麻騰(○○○)、下皆效此、〉豐秋津洲

〔國號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 日本(ニホム)〈比能母登といふ事をも附いふ◯中略〉 夜麻登(ヤマト)といふに、日本といふもじを用ふることは、書紀よりはじまれり、そはいまだ例なき事にて、世人のまどふべき故に、神代卷に、日本此云耶麻騰、下皆效此、といふ訓注はあるなり、古事記は、大化の年よりはるかに後に出來つれども、すべての文字も何も、ふるく書傳へたるまヽにしるされて、夜麻登にもみな倭字をのみかきて、日本とかヽれたる所はひとつもなきを、書紀は、漢文をかざり、字をえらびてかヽれたる故に、あらたに此嘉號をあてヽかヽれたるなり、但し畿内の一國のやまとには、おほく倭とかき、天の下の大號のには日本とかき、又一國の名の時も、おほやけにかヽれるをば日本とかヽれて、紀中おほかた此例なり、人名も此こヽろばへにて、天皇の大

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0017 には日本、さらぬ人のには倭とかヽれたり、神日本磐余彦天皇、倭姫命などのごとし、日本武尊は、天皇の大御父に坐て、よろづ天皇とひとしきゆゑに、日本とはかヽれつるなり、

〔日本書紀〕

〈六垂仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0017 二年、是歳任那人蘇那曷叱智請之、欲于國、〈(中略)一云、御間城天皇(崇神)之世(中略)意富加羅國王之子、名都怒我阿羅斯等、亦名曰于斯岐阿利叱智干岐、傳聞日本國有聖皇、以歸化之、到于穴門、◯下略〉

〔日本書紀〕

〈二十二推古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0017 二十九年二月、高麗僧惠慈聞上宮皇太子薨、以大悲之、〈◯中略〉誓願曰、於日本國聖人、曰上宮豐聰耳皇子、固天欣縱、以玄聖之徳、生日本之國

〔神代卷口訣〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0017 神武天皇都開大倭國、以本處之名稱大八州(ヲホヤシマヲ)、〈天平勝寶改爲大和(○○)

〔續日本紀〕

〈二十孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0017 天平寶字二年二月己巳、勅曰、得大和(○)國守從四位下大伴宿禰稻公等奏偁、〈◯下略〉

〔國號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0017 豐また大てふ稱辭〈◯中略〉 大和と書たるは、かならず意當夜麻登(オホヤマト)とよむことなり、和名抄に、畿内の大和も、又その國の城下郡なる大和郷も、ともに於保夜萬止とあるをもて知べし、然るをつねの語に、たヾ夜麻登とのみいふから、大字の添へるをも、たヾ夜麻登とのみよみ、また夜麻登といふに、かならず大字を添てかく事と心得たるなど、みなひがことなり、たヾ夜麻登といふには、和字のみかけり、但し諸國の名、又郡郷の名、皆必二字に書べしとの御定なれば、畿内の國名、又その國名には、必大字を添書て、意富夜麻登と訓ぞ正しかりける、

〔萬葉集〕

〈三雜歌〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0017 柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首 名細寸(ナクハシキ)、稻見乃海之(イナミノウミノ)、奧津浪(オキツナミ)、千重爾隱奴(チヘニカクリヌ)、【山跡島根】者(ヤマトシマネハ)、〈◯一首略〉

〔弘仁私記序注〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0017 日本國〈◯中略〉古者謂之倭國、〈◯中略〉通云山跡(ヤマト)、山謂之耶麻(ヤマ)、跡謂之土(ト)、音登戸反、下同、夫天地剖判、泥濕未http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001eee0.gif 、是以栖山往來、因多蹤跡、故曰耶麻土(ヤマト)、又古謂居住止、言止住據〈◯據原无、據元元集補、〉於山也、音同上、

〔古今集序注〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0018 今注云、ヤマト者斯國之總名、通云山跡也、山謂耶麻、跡謂止也、夫天地剖判、泥濕未http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001eee0.gif 、栖山往來、因多蹤跡、故云山跡、又古語謂居住止、言住於山也、仍云山止

〔釋日本紀〕

〈一開題〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0018 日本國 倭國〈◯中略〉 延喜開題記曰、師説、大倭國草昧之始、未居舍、人民唯據山而居、仍曰山戸(ヤマト)、是留於山之意也、又或説云、開闢之始、土濕而未乾、至于登一レ山、人跡著焉、仍曰山跡(ヤマト)、問云、諸國人民倶據山而居耶、將只大和國人民獨據山耶、説云、大和國獨有此事、問、本國之號、何獨取大和國國號耶、説云、磐余彦天皇定天下大和國、王業始成、仍以王業之地國號、譬猶周成王於成周王業、仍號上レ周、問、初國始祖天降筑紫、何國偏取倭國國號、説云、周后稷封邰、公劉居豳、王業雖萌、至武王居一レ周、始定王業、仍取周爲號、本朝之書亦其如此、

〔神代卷口訣〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0018 耶麻止(ヤマト)者山跡(ヤマアト)也、於神代天香山之金以作日矛〈日矛者寶鏡也〉靈所、故名其地山跡(ヤマト)、于時神慮大倭以(ヲホイニヤハラク)取義、故云大倭

〔神皇正統記〕

〈神代〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0018 大日本(おほやまと)は〈◯中略〉耶麻止といふ、これは大八洲の中津國の名なり、第八にあたるたび天御虚豐秋津根別といふ神を生給ひし、是を大日本豐秋津洲と名づく、今は四十八箇國にわかてり、中州たりし上に、神武天皇東征より代々の皇都なり、よつてその名をとりて、餘の七州をもすべて耶麻土といふなるべし、〈◯中略〉耶麻土といへることは、山迹(やまと)といふなり、むかし天地わかれて泥(かび)のうるほひいまだ乾かず、山をのみ往來して、その跡おほかりければ山迹といふ、あるひは古語に居住を止(と)といふ、山に居住せしによりて、山止なりともいへり、大日本(やまと)とも大倭(やまと)とも書

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0019 ことは、此國漢字傳て後、國の名をかくに、字をば大日本と定めて、しかも耶麻土と讀せたるなり、大日孁の御國なれば、その義をもとれるか、また日の出るところにちかければ然いへるか、義はかはれど、字のまヽに日のもとヽは讀ず、耶麻土と訓ぜり、我國の漢字を訓ずることおほくかくのごとし、おのづから日のもとなどいへるは、文字によれるなり、國の名とせるにあらず、また古へより大日本とも若は大の字を加へず、日本とも書り、州(くに)の名か、大日本(おほやまと)豐秋津といふ、懿徳、孝靈、孝元等の御諡、皆大日本の字あり、垂仁天皇の御女大日本姫といふ、これ皆大の字あり、〈◯中略〉その後漢土より字書を傳ける時、倭といひて此國の名に用ひたるを、即領納してまたこの字を耶麻土と訓じて、日本のごとくに大を加へても、又除きても同じ訓に通用しけり〈◯下略〉

〔日本書紀纂疏〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0019 日本此訓曰耶麻止(ヤマト)、猶山跡(ヤマアト)也、舊云、上古之世、天地初判、水土未燥、故百姓往來於山、山多人跡、又云、耶麻止猶山止( /ヤマニトヾマル)也、古語謂居住止、又云、百姓住山爲戸、故名曰山戸、以上三義大同小異也、舊説問曰、耶摩止今爲畿内一國之名、其爲天下之號何也、曰、神武皇帝、初都於大和國磐余之地、因以耶麻止天下之號、〈◯中略〉又問、支那天子因世改國號、此邦不爾何也、曰、異邦帝者、乘亂簒立、數易姓氏、故有天下之號非一、獨吾國神武皇胤相繼而不他氏、故耶摩止(ヤマト)之名、亦百世不易者也、

〔日本紀神代抄〕

〈起〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0019 日本題號事〈◯中略〉 ヤマト(○○○)ヽ云ニ就テ三義アリ、一ニハ山迹也、上古ノ世、國ノ初メ、海水ノ潤アリテ、土イマダ堅マラヌ故ニ、人皆山ニ往來シテ、其跡多ガ故ニ山跡ト云、一ニハ山止也、人ノ居住スルヲ止ト云、故ニ山ニ止ル心ニテ山止(ヤマト)トモ云、巣居穴居ノ心ゾ、一ニハ山戸(ヤマト)也、昔萬民ノ住所スル形ヲ戸ト云、故ニ山戸トモ云、以上三義ハ和歌ノ抄物等ニ見タリ、實ニハ天地ノ開ル音、ヤアトヒヾク也、此國ハ三界ノ源ナレバ、自開闢ノ聲ヲ以テ、ヤマトヽ云、ヤハ聲ノ初、マトトハ的ノ字也、天地開闢ノ端的ト云心也、ヤマトト云ニ字聲アリ、古今序ニヤマトウタト云ハ、此書ノヤマトフミト云ニ、字聲同ジカラ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0020 ズ、假令大和國此聲、ヤマトウタノ聲ハ山跡ノ義也、定家卿説、ヤマトフミト云聲ハ、山戸(ヤマト)、山止ノ義也、〈六條家ノ説〉三説ヲ以テ見レバ、ドチヘモ讀ベキ歟、日本トモ倭トモ書テ、共ニヤマトト讀也、和ノ字ヲカクハ音通ズル故也、大日本トモ大倭トモ書ドモ、必ヲホヤマトト讀マズ、只ヤマトト讀也、日本ヲヤマトト讀ハ義訓也、〈◯下略〉

〔日本釋名〕

〈上地名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0020 大和 やまとの訓 山迹(ト) 山止(ト) 山戸(ト) 古人此三説あり、〈◯中略〉篤信おもへらく、古人の説は後人まことにみだりに議すべからず、されど此三説皆みだりにおしはかりて附會せるやうに聞え侍べれば、信用しがたし、神武帝の日向より東征し給ふ時、先難波より枚(ヒラ)方にのぼらせ給ひ、それよりいこま山をこえて、大和に入給ふ、膽駒山の外(ソト)にある國なる故に山外(ト)と云、とは外也、淀河の内にある國を河内と云、山外(ト)とは河内に對して名づけけらし、又いこま山のうしろにある故、山背(シロ)と云、うしろは北也、やまとを日本の總名とせしは、大和國に都有しゆへ也、しき島に都ありしゆへ、日本の總名を敷島と云しがごとし、もろこしに此ためし多し、〈◯下略〉

〔秦山集〕

〈雜著十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0020 日本稱倭辨〈壬申〉 耶麻騰之爲國號也、昉乎神代於皇朝、有山迹山戸山止之三義、而猶有祕訓塡一レ之、以日本二字者、原於舊俗比濃茂騰之名、而亦有大日孁貴之訓傳、其義精矣、若夫倭字西土之所號、和字後世之所轉、皆非我之稱、而訓之爲耶麻騰、亦特隨乎流俗之所馴習爾、非嘉而從一レ之也、舍人親王筆日本書紀於神代卷倭字、至於人皇紀、假用爲大和一國之號、以別之全國耳、未嘗爲天下之號也、其辨嚴矣、〈應神紀大倭木滿致、蓋從百濟之所一レ稱也、以下外國所稱倣此、孝徳紀我大倭、及天武紀銀在倭國、偶洩於改削耳、孝徳二年日本倭根子天皇、是合倭字、而誤存之者、其攺正手段於此可、〉其他外國之稱我者尚多、文人詞客可而用之、莫其實焉鄙哉、〈◯中略〉曰、耶麻騰之名、創乎神武天皇、蓋天皇定天下、到大和國、王業始成、仍以王業之地國號、猶武王於岐周王業、故國號上レ周、此説諸家相承已久、而貝原損軒亦曰、神武帝之東征也、自浪速於河内、將於膽駒山而入于大和、其方六軍於膽駒山之

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0021 西也、以其地在乎淀河之内、故號其國河内、以其地在膽駒山之外、故號曰山外、蓋對河内而爲言也、恐非山迹、山止之謂、其以膽駒山之北、號其國山背、此説近於人情、切于地界、而耶麻騰之爲神武以來之名益分明矣、吾子未之聞乎、曰耶麻騰之爲天下號尚矣、二神之生國也、有大日本之名、而伊弉諾尊、目以日本浦安國、饒速日命呼爲虚空見日本國、此皆橿原御宇以前之稱、豈得悉指爲後世之追號乎、損軒之説、誠如子之所一レ稱、但舊事、古事、及日本紀有山背號、而無山外字、且日神都於天安河舊矣、故神武紀稱爲中州、豈以一膽駒之東、斥爲山外哉、蓋嘗反覆考之、山外之説、恐亦傳會耳、譬如釋徒稱大日孁貴大日如來、雖極切近而非事實也、蓋古者稱國之墺區、往々以同名、土左國有土佐郡、河内國有河内郡、其類寔繁、何害乎先有大日本國、然後其墺區有一小日本國耶、故神代卷曰日本國之三諸山此可正名矣、何煩假岐周以爲説哉、且山背國亦以山而名耳、猶河内國有淀河之内、日向國之向上レ日、蓋據各國之形勢而名也、何必遙主膽駒山乎、夫神聖之創業立政、當緩急本末、神武當時駐六軍於膽駒也、會戰神策日不暇給、其豈遽爾制王趾未加三國之名、以張虚勢哉、帝王之擧措、恐不此也、損軒拘拘膽駒執而用之、不其乖於物情之甚、豈其千慮之一失歟、抑俗學之誤稱呼也、扶桑若木等、固不枚擧、而其號山城雍州、平安城爲洛陽、武藏爲武陵之類、詎啻千百、然其鄙陋無稽、皆爲見焉、獨呼日本倭、則雖博雅名賢、亦有此誤、因推演所一レ諸我師新蘆翁〈◯保井春海〉爲之説、併俟當世有識之折衷云、

野馬臺

〔下學集〕

〈上天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0021 野馬臺(ヤマト/ヤバタイ)〈日本總名也、支那人呼大和野馬臺、是以字音倭訓也、見鶴林玉露雨云下(ア)米、呼硯云蘇松利(ススリ)之類也、然本朝連要抄云、野馬臺蜻蜓也、日本地形似蜻蛉、故云蜻蜓也、愚謂此義大誤歟、野馬臺義已注于上矣、所詮蜻蛉與蜻蜓同虫而不別、共六足四翼之虫也、然則連要抄誤用秋津島之注野馬臺之注歟、日本六十餘州最初大和州出生、故曰日本總名大和野馬臺也、蓋不其國初也、支那西遷都記曰、倭國始云野馬臺、唐則天皇后之時、改曰日本國也、莊子注云、野馬陽燄也、今不莊子注意、只假字音耳、〉

〔後漢書〕

〈八十五東夷列傳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0021 倭在韓東南大海中、依山島居、〈◯中略〉其大倭王居邪馬臺國、〈按今名邪摩堆、音之訛也、〉

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0021 耶麻堆(ヤバタイ)、〈後漢書、三國志、〉野馬臺(同)、〈共以日域通稱〉

〔釋日本紀〕

〈一開題〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0022 日本國 倭國〈◯中略〉 問、大倭、倭奴、日本、三名之外、大唐別有此國之號哉、答、師説、史書中、耶馬臺(○○○)、耶摩堆(○○○)、耶靡堆〈◯耶靡堆三字原脱、據一本補、下同、〉倭人、倭國、倭面等之號甚多、但史官所記、只通音而曰更無他義、〈◯中略〉 又問、耶馬臺、耶摩堆、耶靡堆之號、若各有心哉、答、師説、雖三號、其義不異、皆取倭之音也、問、倭國之中有南北二倭、其意如何、答、師説、延喜説云、北倭(○○)可此國、南倭(○○)女國云々、此説已無證據、未全得、又南北二倭者、是本朝南北之邊州也、無指別由

〔續日本後紀〕

〈十九仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0022 嘉祥二年三月庚辰、興福寺大法師等爲天皇寶算滿于四十、〈◯中略〉副之長歌奉獻、其長歌詞曰、日本乃(ヒノモトノ)、【野馬臺】能(ヤマトノ)國遠(クニヲ)、賀美侶伎能(カミロギノ)、宿那毘古那加(スクナヒコナガ)、葦菅違(アシスゲヲ)、殖生志津津(ウヱオホシツツ)、國固米(クニカタメ)、造介牟與理(ツクリケムヨリ)、〈◯下略〉

浦安國/細戈千足國/磯輪上秀眞國/玉牆内國/虚空見日本國

〔日本書紀〕

〈三神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0022 三十有一年四月乙酉朔、〈◯中略〉昔伊弉諾尊目此國曰、日本(ヤマト)者【浦安國】(ウラヤスノクニ)、【細戈千足國】(クハシホコノチタルクニ)、【磯輪】上秀眞國(シワカミホツマクニ)、〈秀眞國、此云抱圖莾勾儞、〉復大己貴大神目之曰【玉牆内國】(タマカキノウチツクニ)、及饒速日命乘天磐船而翔行太虚也、睨是郷而降之、故因目之曰【虚空見日本國】(ソラミツヤマトノクニ)矣、

〔釋日本紀〕

〈一開題〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0022 日本國 倭國〈◯中略〉 問、虚盈倭、虚見倭、秋津島倭、此三倭總是稱此國倭之義云々、如此稱號濫觴如何、答、〈◯中略〉虚盈者、與虚空見訓讀通之、無別義歟、

〔古事記〕

〈下仁徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0022 亦一時、天皇爲豐樂而、幸行日女島之時、於其島雁生卵、爾召建内宿禰命、以歌問雁生卵之状、其歌曰、多麻岐波流宇知能阿曾(タマキハルウチノアソ)、那許曾波(ナコソハ)、余能那賀比登(ヨノナガヒト)、【蘇良美都】(ソラミツ)、【夜麻登能久邇】爾(ヤマトノクニニ)、加理古(カリコ)

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0023 牟登(ムト)、岐久夜(キクヤ)、

秋津島

〔下學集〕

〈上天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0023 秋津嶋(アキツシマ)〈日本總名也、神武帝始爲日本名也、嶋或作洲也、秋津者蜻蜓也、日本地形、如蜻蜓展兩翅、故云秋津嶋也、〉

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0023 秋津洲(アキツス/アキツシマ)〈同上(日本一名)蓋秋津者蜻蜓也、本朝地形如蜻蛉展兩翅故名、見舊事紀、〉

〔倭訓栞〕

〈前編二阿〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0023 あきつしま 秋津洲と神代紀に見えたり、歌にあきつすとも見えたり、千五百秋瑞穗國といへるに同じ、神武天皇蜻蛉のたとひは、別に一義を發したまふ成べし、後撰集に、 あきつはのすがたの國に跡たるヽ神のまもりや我君のため、日本の國形秋津虫の東に向たるに似たりという説も、此歌の心なり、

〔釋日本紀〕

〈五述義〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0023 大日本豐秋津洲 私記曰、可我國之總名歟、而大八洲之專一也、是爲何國哉、答、代々講書之時、不此問答、但先師相傳云、此今大倭國、陰陽二神、最初依此國、以我國之總名之、又問、神武天皇御宇、始有秋津島之號云々、而神代注此號如何、答、如此之名字、上代雖其號、以史書撰述時之名字、載之者、倭漢之例也、且此書之中、天聚雲劒者、迄于景行天皇御宇日本武尊愷旋之歳、改號草薙劒、然而神代卷注後號耳、又曰、如大字者、貴我國、如豐字者、祝我國之義也、是先師説耳、先師説云、總而謂之者、日本國之號也、別而謂之者大和國也、且當紀一書文、大己貴幸魂奇魂、欲於日本國之三諸山云々、以大和國日本國是也、

〔國號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0023 夜麻登(ヤマト)〈秋津島師木島をも附いふ◯中略〉 秋津島(アキツシマ)は、古事記に、大倭帶日子國押人命、〈◯孝安〉坐葛城室之秋津島宮天下也と見え、書紀にも此御卷に、二年冬十月、遷都於室地、是謂秋津島宮と有て、もと此孝安天皇の都の地名なり、かの神武天皇の、猶如蜻蛉之臀呫と詔へりしは、即此地のことにて、かの大詔より起れる名なり、腋上も嗛間丘(ホヽマノヲカ)も室も、みな相近きところにて、大和國葛上郡なり、さて孝安天皇の百餘年久しく敷坐りし

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0024 京師の名なるから、秋津島倭とつヾけていひならひ、その倭に引れて、つひに天の下の大名にもなれることは、師木島と全同じ例なり、次に委くいふを合せ見べし、然るにかの神武天皇の國状を御覽して、蜻蛉の臀呫せるが如しとのたまへるを、或は天の下のこととし、或は大和一國の事とするから、此秋津島てふ名をも然心得めれども、然にはあらず、國状とあるにつきては、なほ疑ふ人もありぬべけれど、古は後に郡郷などになれるほどの地をも某國といへる、常のことなれば、なにごとかあらむ、さて雄略天皇の吉野に幸行し時に、虻の御腕を咋たるに、蜻蛉飛來て、その虻を咋ける時の大御歌に、手(タ)こむらに、虻(アム)かきつき、其あむを、阿岐豆(アキヅ)はやくひ、かくのごと、名に負むと、そらみつ倭の國を、阿岐豆島(アキヅシマ)と云、とよませたまひ、それより其地を阿岐豆野と名づけられし事、古事記に見えたり、此御歌の意は、古より此倭國を秋津島といふことは、今かくの如く、其名に負て、蜻蛉が功あらむとてなり、よみたまへるなれば、秋津島の事にはあづからず、然るを書紀には、此御歌の詞、はふ虫も、大君に、まつらふ、汝がかたは置む、秋津島倭とあり、是はすなはち汝が名におへる、此秋津島倭國に、形をのこしおきて、此地を蜻蛉野と名づけむ、とのたまふ意なるべし、されどこはよくせずば、此時の蜻蛉の功によりて、國名を秋津島と名づけたまへるごと聞えて、まぎれぬべし、さてまた秋津の津は古事記、書紀、萬葉など、古書にあまた出たる假字には皆阿岐豆(アキヅ)と濁音の豆をのみ書て、清音の假字書るは一つもなし、後世に清てよむは訛なり、虫の名も同じ、又この島を洲とも書るにつきて、阿岐豆須ともいふは、ことにひがことなり、洲字は須に用ゐるはつねのことなれども、秋津洲のとき然いふことは、例もなくことわりもかなはぬことなるをや、さて又海なき地に島といふ名のあることは、志麻とは、もとは必しも海の中ならねども、山川などにまれ、周れる界隈のある地をいふ名なること、始にいへるが如くなれば、此秋津島なども、山のめぐれるをもていふなり、蜻蛉の臀呫せるが如しとのたまへるも、青山のめぐれる

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0025 さまなるを思ふべし、またそのあたりを室といひしも、さる由にてつけたる名にやあらむ、猶他にも例多し、書紀に、越國を大八洲の一つにとりて、越洲といへるも、海は隔たらねども、彼國は、いづくよりも山を隔てヽ、別に一區なるが如くなればなるべく、筑紫の宇佐を宇佐島とあるも、山川などめぐりて、一區の地なる故なり、又應神天皇の都は、大和國高市郡の輕といふ所なるを、輕島といひ、欽明天皇の都は、師木(シキ)といふ所なるを、師木島といへるなども皆同じ、此餘にも海なき國々に、某島といふ地名のおほかる、多くは此例にてぞつけつらむ、その中にはかならずいちじるき界限はなき地をも、ことさらに一區としめ定めて、名づけたるも有ぬべし、それもなづくる意は同じ事なりかし、

〔日本書紀〕

〈三神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0025 三十有一年四月乙酉朔、皇輿巡幸、因登腋上嗛間丘、而廻望國状曰、姸哉乎國之獲矣、〈姸哉、此云鞅奈珥夜、〉雖内木綿之眞迮國如蜻蛉之臀呫(アキツノトナメセル)焉、由是始有秋津洲(アキツシマ)之號也、

〔日本書紀通證〕

〈二神代〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0025 兼良曰、〈◯中略〉秋津蜻蛉之名、神武帝始呼之也、〈玉木翁曰、豐秋津祝饒富之名、猶千五百秋也、神武帝則因此名以發一義、與雄略帝御歌意同、〉

〔日本書紀〕

〈十一仁徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0025 五十年三月丙申、河内人奏言、於茨田堤雁〈◯雁原作鷹、據釋日本紀攺、〉産之、即日遣使令視曰既實也、天皇於是歌以問武内宿禰曰、多莾耆破屢(タマキハル)、宇知能(ウチノ)〈◯知能原倒、據釋日本紀攺、〉阿曾(アソ)、儺虚曾破(ナコソハ)、豫能等保臂等(ヨノトホヒト)、儺虚曾波(ナコソハ)、區珥能那餓臂等(クニノナガヒト)、【阿耆豆辭莾】(アキツシマ)、【揶莾等能區珥】珥(ヤマトノクニニ)、箇利古武等(カリコムト)、儺波企箇輸揶(ナハキカスヤ)、武内宿禰答歌曰、夜輸瀰始之(ヤスミシシ)、和我於朋枳瀰波(ワガオホキミハ)、于陪儺于陪儺(ウベナウベナ)、和例烏斗波輪儺(ワレヲトハスナ)、阿企莵辭摩(アキツシマ)、揶莾等能倶珥珥(ヤマトノクニニ)、箇利古武等(カリコムト)、和例破枳箇儒(ワレハキカズ)、

〔千載和歌集〕

〈序〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0025 あまねき御うつくしみ、秋つしまのほかまでおよび、ひろき御めぐみ、春の園の花よりもかうばし、〈◯下略〉

磯城島

〔下學集〕

〈上天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0025 【敷嶋】(シキシマ)〈日本總名也、無深義歟、愚謂和州有磯城嶋、因之而云歟、〉

〔日本書紀〕

〈十九欽明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0026 元年七月己丑、遷都倭國磯城郡磯城島、仍號磯城島金刺宮

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0026 敷島(シキシマ)、〈日本一名〉磯城島(同)〈同上〉

〔萬葉集〕

〈十三挽歌〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0026 磯城島之(シキシマノ)、日本國爾(ヤマトノクニニ)、何方(イカサマニ)、御念食可(オモホシメセカ)、津禮毛無(ツレモナキ)、城上宮爾(キノヘノミヤニ)、〈◯下略〉

〔冠辭考〕

〈四志〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0026 しきしまの 〈やまとのくに〉 万葉卷十三に、〈人麻呂家集〉志貴島(シキシマノ)、倭國者(ヤマトノクニハ)、事靈之(コトダマノ)、所佐國叙(タスクルクニゾ)、また式島之(シキシマノ)、山跡之土丹(ヤマトノクニニ)、卷九に、〈天平元年〉磯城島能(シキシマノ)、日本國乃(ヤマトノクニノ)、石上(イソノカミ)、振里爾(フルノサトニ)云々、こは崇神紀に、三年九月、遷都於磯城、是謂瑞籬宮、欽明紀に、元年七月、遷都倭國磯城郡磯城島、仍號爲磯城島金刺宮とありて、二代ながら殊にあまた年おはしまして名高ければ、さる比よりおのづから大和の國の今一つの名の如く成にけん、仍て後にこと所の都となりても、猶やまとヽいふには冠らせてよめるならん、奈良朝となりては、既やまとの事として之奇島能(シキシマノ)、人者和禮自久(ヒトハワレジク)としもよみたり、

〔國號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0026 夜麻登(ヤマト)〈秋津島師木島をも附いふ◯中略〉 師木島(シキシマ)は、古事記に、天國押波流岐廣庭命〈◯欽明〉者、坐師木島大宮天下也と見え書紀にも此御代の卷に、元年秋七月丙子朔己丑、遷都倭國磯城郡磯城島、仍號爲磯城島金刺宮と有て、もと此欽明天皇の都の地名なるを、萬葉集の歌どもに、しきしまのやまとの國とよめり、抑かくのごとくしきしまのやまとヽつヾけいへる意は、もとは大和一國をさしてにはあらず、京都をさしてやまとヽはいへるにて、しきしまの都といはむが如し、かの萬葉の歌に、やまとには、鳴てか來らむ、よぶこ鳥、とよめるやまとも、殊に京師(ミヤコ)をさしていへると同じ、又かの秋津島倭とつヾけいふも、もはら同じくて、本は秋津島の京といはむがごとし、さればその秋つしまも、師木島も、共にみな京の名をいへるにて、國の名にはあらず、これらもし一國のことならば、倭の秋津島、倭のしきしまといはでは、ことわりかなはず、さて本はいづれも右のごとく、京師をいへるなれども、かくつヾ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0027 けなれては、やがて一國の倭にも轉じて、秋津島やまとの國とも、しきしまの倭の國ともよめるは、枕詞のごとくにもなれるなり、さてまた轉りて萬葉十九卷に、立わかれ、君がいまさば、しき島の、人はわれじ、いはひてまたむ、とよめるは、大和國をやがてしき島といへるなり、こはかの奈良を青によし、難波をおしてるとのみいへるに似たり、さてまた倭にひかれて、つひに天の下の大號の如くになれることも、秋津島ともはら同じ、又歌の道をしきしまの道といふは、大號より出て、又轉れるものなり、さて此師木島てふ名の起りをとくに、崇神天皇と欽明天皇の二御代の都を兼ていふは誤なり、其故は、すべてかヽることに、古を考へ合せていふは、物しり人のうへのわざにこそ有れ、世間のなべての人は、たヾあとなく、さしあたりたる事よりこそはいひ出る物なれ、古を思ひていふものにはあらず、されば京をしき島といふも、たヾ欽明天皇の御時にいひならへる、當時の京の名を、他京にうつりて後も猶云るが、おのづからなべての京の稱のごとなれるなり、たとへばもろこしにも唐といへるが、後々の代まで、かの國の名になれる、それもたヾ李姓の唐よりいひならへるにこそあれ、古の唐堯の唐をもかねていふにはあらざるがごとく、これも古の崇神天皇の京までを思ひて、いひならへるにはあらず、もしまたはやく崇神天皇の都よりいひ出たりとならば、後の欽明天皇の都までを待べきにあらずかし、

神國

〔神皇正統記〕

〈神代〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0027 大日本(おほやまと)は神國(○○)なり、天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を傳へ給ふ、我國のみ此事あり、異朝には其たぐひなし、此ゆゑに神國といふなり、◯按ズルニ、神國ノ事ハ、神祇部神祇總載篇ニ詳ナリ、

皇國

〔玉勝間〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0027 もろこしの老子の説まことの道に似たる所ある事〈◯中略〉 殊に皇國(ミクニ)は、萬の國の本、よろづの國の宗(オヤ)とある御國なれば、萬國々にわたりて、正しきまことの道は、たヾ皇國にこそ傳はりたれ〈◯下略〉

〔兎園會集説〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0028 蒲の花かつみ 瀧澤解 寛政二年の冬、琉球の使人、入朝しつと聞えしに、故ありてかのともがらと、應接をしつるもの、宇都宮にかへり來るありけり、〈◯中略〉琉人われに問ていはく、皇國は誠に文あり、武あり、大かたならぬよき國なれども、〈◯下略〉

倭國

〔下學集〕

〈上天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0028 倭國(ワコク)〈指日本國倭、烏禾切、〉

〔段注説文解字〕

〈八上人〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0028 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000631048.gif 順貌〈倭與委義略同、委隨也、隨從也、廣韵作愼貌、乃梁時避諱所攺耳、〉 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000631048.gif 順貌〈倭與委義略同、委隨也、隨從也、廣韵作愼貌、乃梁時避諱所攺耳、〉

〔山海經〕

〈十二海内北經〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0028 蓋國在鉅燕、南倭北倭屬燕、〈倭國在帶方東大海内、以女爲主、其俗露紒、衣服無針功、以丹朱身、不忌一男子數十婦也、〉

〔異稱日本傳〕

〈上一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0028 今按、王充論衡曰、禹益并治洪水、禹主水、益主異物、海外山表、無遠不一レ至、以聞見山海經、觀此則山海經者、益之所作、堯時之書也、山海經有倭名、則倭名舊矣、凡異邦人、以我朝倭、此爲權輿乎、然據我舊記、則倭名爲於漢時矣、

〔馭戎槪言〕

〈上之上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0028 後漢の光武が時に、倭奴國奉貢といへるは、倭奴國はいづれの國をいへるにか、さだかならねど、これも凡百餘國といへる中の一つにて、倭國之極南界也とあれば、つくしなどの南のかたつかたなるべし、然るを此後漢書の註にも倭といひ、唐書などに、日本古倭奴也といへるは、いかにぞや、こは本の詞をよくもわきまへず、なほざりに見て、まぎらはしつるひがことなるを、御國の人すらなほわきまへず、倭奴をも、たヾ倭とひとつことヽ心得をるかし、さるからかへりて、かの倭國之極南界也とあるをも倭は國(クニ)の極南界也として訓(ヨメ)るは、いみじきひがことなり、さるつたなき文詞あらんやは、

〔後漢書〕

〈五安帝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0028 永初元年十月、倭國遣使奉獻、〈倭國去樂浪萬二千里、男子黥面文身、以其文左右大小尊卑之差、見本傳、〉 ◯按ズルニ、釋日本紀引ク所ノ後漢書ニハ、倭國ヲ倭面國ニ作レリ、

〔後漢書〕

〈八十五東夷列傳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0028 倭在韓東南大海中、依山島居、凡百餘國、〈◯中略〉建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0029 使人自稱大夫、倭國之極南界也、

〔唐書〕

〈二百二十日本傳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0029 日本、古倭奴(○○)也、去京師萬四千里、直新羅東南海中島而居、東西五月行、南北三月行、國無城郭、聨木爲柵落以草茨屋、左右小島五十餘、皆自名國而臣附之、

〔弘仁私記序註〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0029 日本國〈◯中略〉古者謂之倭國、但倭義未詳、或曰取我之音、漢人所名之字也、

〔釋日本紀〕

〈一開題〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0029 日本國 倭國〈◯中略〉 問、倭字之訓、其解如何、答、延喜説、漢書晉灼如淳各有注釋、然而總無訓字、今案諸字書等中、又指無訓讀、東宮切韻曰、陸法言云、烏和反、東海中女王國、長孫訥言云、荒外國名、薩珣云、又於危反、順貌、孫愐云、從貌、東海中日本國也、玉篇曰、於爲反、説文云、順貌、詩云、又爲禾反、國名、〈◯中略〉 問、唐國謂我國倭奴國(○○○)、其義如何、答、師説、此國之人、昔到彼國、唐人問云、汝國之名稱如何、自指東方答云、和奴〈◯奴原作加、據一本攺、〉國耶云々、和奴猶我國、自其後謂之和奴國、或書曰、筑紫之人、隋代到彼國、稱此事、又問、若然者、和奴之號、起隋代歟、答、此號非隋時、然則或書之説、未全得、〈◯中略〉 又問、倭面(○○)之號、若有見哉、答、後漢書云、孝安皇帝、永初元年冬十月、倭面國遣使奉獻、注曰、倭國去樂浪萬二千里、男子皆黥面文身、以其文左右大小、別尊卑之差

〔秦山集〕

〈雜著十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0029 日本稱倭辨〈壬午〉 或問、西土何以名我國倭也、曰釋日本紀云、吾邦人始至西土、彼人曰、汝國之名稱如何、自指東方答曰、謂吾國哉、漢人即取吾字之初訓之曰倭、近世武江人見友元曰、倭與矮通、短人也、異邦慢

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0030 之號二説未孰是、但以後漢倭奴、倭面之號、及唐書倭國、自惡其名不一レ雅之言之、後説恐爲是蓋據前説則俯、就漢人之訛、據後説則甘受漢人之慢、以此爲我國之號豈理也哉、中葉以降曰倭歌、曰倭訓、曰倭琴、因循流傳至改、是可歎也、

〔國號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0030 倭の字 倭の字は、もともろこしの國よりつけたる名にて、その始めて見えたるは、前漢書地理志に、東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不一レ行、設桴於海、欲九夷、有ル㠯也夫(ユヱカナ)、樂浪海中有倭人、分爲百餘國、㠯歳時來獻見云、といへる是なり、その後の書どもにも、みなかく倭人といひ、又はぶきて倭とのみもいへり、さて倭とは、いかなる意にて名づけつるにか、その由はさだかに見えたる事はなけれども、かの漢書に、東夷天性柔順と書出して、有倭人とつらねいへるを思へば、班固が意は、説文に此倭ノ字の本義を順貌と注したると同じくて、柔順なる故に倭人とはいふと心得たるごとく聞ゆめり、されどそれも字につきてのおしはかりなるべし、また皇國の舊説に、此國之人、昔到彼國、唐人問云、汝國之名稱如何、自指東方答云、和奴國耶云々(ワヌクニヤトイヘリ)、和奴(ワヌ)ハ猶我也、自其後謂之和奴(ワヌ)國也、と釋日本紀元々集などに載られたれども、これも信がたき説なり、そのゆゑは、まづ和奴國(ワヌクニ)といふ名は、後漢書にはじめて見えて、倭國之極南界也とあれば、皇國の内の南の方の一國の名なるを、唐書などにこヽろえあやまりて、皇國の舊の大號のごとく書るを、そののちみな此誤りを傳へて、かしこにてもこヽにても、たヾさる事とのみ思ひ居るは、いみじきひがことなり、この事おのれ馭戎槪言につばらかに辨へ論へり、されば倭奴(ワヌ)は、もとより國名にまれ、又我といふ意にて答へたるにまれ、皇國の内の一國の名なれば、これをもて、大號の倭てふ意を説べきにあらず、又或説に、倭奴國を唐國の音にていへば、於能許(オノコ)にて磤馭廬(オノゴロ)島といふ事なりといへるもひがことなり、磤馭廬島(オノゴロシマ)は、大八洲より先には出來つれども、淡路島のほとりにある一つの小島の名にて

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0031 こそあれ、神代より天の下の大號にいへることさらになし、然れば皇國人のいはぬ名を、外國の人の知て名づくべき由あらめやは、此説はもと、近き世に神道者といふものヽ、此おのごろ島を、皇國の本號のごと説なせるによりていへるなり、また倭奴國といふはおのごろ島、おのころ島は丈夫(ヲノコ)島といふ意なりといふ説は、殊にあたらぬ事なり、こは於(オ)と遠(ヲ)と音の異なるをだにもしらぬみだりごとぞかし、夜麻登(ヤマト)といふに、やがて此倭の字をあてヽ書ク事は、いと〳〵古ヘよりのことヽ見えたり、古事記にもみな此字をかき、又書紀にも、日本と書て夜麻登と訓(ヨム)事は、神代卷に此云耶麻騰、と註あれども、倭の字を書るにはかヽる註もなければ、世にあまねく用ひならへることしられたり、すべて文字は、萬の物の名も何も、もろこしの國のを借用る例なれば、これもかの國より名づけて書る字を、そのまヽに用ひむ事、さもあるべきわざなり、然るを此字嘉號にあらずといひて、嫌ふ人あれども、字の意はいかにもあれ、皇大御國の號となりては、すなはち嘉號なるをや、さて此倭の字、もろこしより名づけたるは、大號のみにて、畿内のやまとをば皇國人のいへるを聞てかけりとおぼしくて、後漢書魏志などに耶馬臺(ヤマト)、隋書、北史などにも耶摩堆(ヤマト)といへり、然れども皇國にては、畿内のにも通はして、みな倭の字を用ひたり、

〔日本書紀〕

〈二十九天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0031 三年三月丙辰、對馬國司守忍海造大國言、銀始出于當國、即貢上、由是大國授小錦下位、凡銀有倭國初出于此時

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0031 【和國】(ワコク)〈異域之書稱日本倭、山海經爲始、〉

〔國號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0031 和の字 和といふは、皇國にて後に改められたる字なり、さる故に、異國の書に、大號に此字を書ることさらになし、思ふにこれは、古ヘより倭の字を用ひ來つれども、もと異國よりつけたる名にして、美字

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0032 にもあらずとしてぞ、同音の好字をえらびて、改められたりけむ、さるに古はたヾ、夜麻登といふ名をのみむねとはして、文字はいかにまれ、假の物なれば、よきあしきさたにも及ばず、あるまヽに倭の字を用ひ來にしを、やヽ後には、文字の好惡きをもえらばるヽ事になれりしなりけり、さて此和の字の事、上に引る漢書の文、又順貌と注せるなどに、和順などヽもつヾくを合せておもへば、倭と字義も遠からず、また書紀の繼體天皇ノ御卷の詔詞に、日本邕々(ヤマトヤハラギテ)名擅天下云々とある、邕は雝と通ひて、詩の大雅に雝々といふ註に、鳳凰鳴之和也とも、和之至也ともいへる、又聖徳太子の憲法の首に、以和爲貴とある、又もろこしにて雍州といふは、もと王都の國の名なる故に皇國にても後世にこれにならひて、山城國を雍州といふ、此雍字も雝と通ひて、和也といふ註ある、これらみな由あれば、いづれにまれその義を取れたるかとも思はるれど、それまでもあるべからず、すべての事後に考ふれば、おのづから由ある事どもはくさ〴〵いでくる物なり、また子華子てふ書には、太和之國といふこともあれども、これらはさらに由なし、倭をのの和の字に改められつるは、いづれの御代にかと考るに、齋部正通の神代卷口決に、天平勝寶改爲大和と見え、拾芥抄にも、天平勝寶年月日改爲大和とあり、これらは後世の書なれども、よりどころありげに聞ゆる故に、なほ古書どもを考へ見るに、まづ古事記はさらにもいはず、書紀にも和の字にかけることは見えず、續紀に至りて、はじめて此字にかけること見えたり、これによりて、かの天平勝寶とあるが、妄にもあらざることをかつ〴〵しりぬ、されども然改められたることはしるされず、故なほ委く彼紀を考ふるに、はじめのほどは倭の字をのみ書て、そのあひだには、和の字に書るは一つも見えず、元明天皇の御代、和銅六年五月の大命に、畿内七道諸國郡郷名著好字とあれども、これは改らずと見えて、其後も猶もとのまヽに倭ノ字なり、さて聖武天皇の御代、天平九年十二月丙寅、改大倭國大養徳(オホヤマト)國、同十九年三月辛卯、改大養徳國舊爲大倭

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0033とあれば、此時もなほ倭の字なりしことしられたり、其後も孝謙天皇の天平勝寶四年十一月乙巳日の下に、以從四位上藤原朝臣永手大倭守とあるまでは、みな倭字にて、その後天平寶字二年二月己巳日の勅に、はじめて大和國(○○○)と見えたる、これより後は、又みな和の字をのみかヽれたり、これにてまづ、勝寶四年十一月より、寶字二年二月までの間に改められたりとはしられたり、それも何となく和の字を書出せるにはあるべからず、かの養徳と改められし時の例を思へば、此和の字も、かならず詔命にて著られたりけむを、紀にはその事しるし漏されたるなるべし、類聚國史などにも見えざれば、後に寫し脱せるにはあらじ、さて又萬葉集を考ふるに、十八の卷までには、歌にも詞にも、和の字を書る所はなくして、十九の卷、天平勝寶四年十一月二十五日、新嘗會肆宴應詔歌六首の中に、右一首大和國守藤原永手朝臣とある、これ和の字を書る始めなり、又二十ノ卷に、先太上天皇詔陪從王臣曰、夫諸王卿等宜和歌而奏云々、右天平勝寶五年五月云々とある、これに始めて和歌とも書り、そも〳〵かの永手朝臣を大倭守とせられしは、上に引る紀の文のごとく、勝寶四年十一月乙巳日にて、乙巳は二日なるに、そこにて猶倭の字をかけると、此萬葉に、その同月の二十五日の事に、和の字を書るとを引合せておもへば、まことに天平勝寶四年十一月の、三日より二十四日までのあひだに、改められたるなりけり、さて又大倭宿禰といふ姓は、かの養徳と改められし時も、その字にしたがひて、大養徳宿禰とかヽれたれば、和の字に改まりたる時も、それにしたがふべきわざなるに、寶字元年六月の所までも、なほ倭字をかきて、同年十二月の文より始めて大和宿禰とあり、そのころは既に姓氏の文字なども、私に心にまかせてはかヽず、必おほやけより勅有て、定められし事なれば、國名の和の字に成しとき、此姓の字も、然改むべき勅あるべきに、其後しばしなほ舊のまヽに書しは、此姓の字改むべき勅は、寶字元年に至りて有しなるべし、さて寶字元年の所に、此姓を大和宿禰と書るにて、國名の方は、それより

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0034 さきに既に改まりつること、いよ〳〵いちぢるし、すべて續紀には、はじめに倭の字、なかほどはみな倭の字をのみ書て、和と書ることなく、和の字に書キ始めて後は、又みな和の字のみにて、倭を書雜へたることはなければ、改められつる年月も、おのづから右のごとくには考へしらるヽなり、然るを田令の中に、大和と書る所あり、又書紀ノ崇神ノ御卷にも、和と書る所一つあり、又續紀八の卷にも、二所大和國とかき、和琴ともかき、又萬葉集七の卷にも、和琴とかける、これらはみな後に寫し誤れるものなり、その前にも後にも、いとおほかるやまとに、みな倭の字をのみ書る中に、いとまれ〳〵に一つ二つ和と書クべき由なければなり、後ノ世には、心にまかせて通はし書く故に、ただ同じことヽ心得居て、ふと寫したがへたるなるべし、又和銅てふ年號もあれども、此和はやまとの義にはあらず、さて上件續紀に出たるは、皆畿内の大和一國の名の字にて、天の下の大號のやまとのさたにはあらず、大號のには、書紀よりして、おほくは日本といふ字を用ひられたりし故に、そのさたには及ばざりしにや、和の字に改まりて後も、畿内の國名ならぬには、なほ倭の字をも廢ずして、すなはち續紀などにも、倭根子天皇などヽかヽれ、その外にもおほく見えたり、しかはあれども、大號も本はかの一國の名よりおこれるに、その本を改められつるうへは、何事にもみな、和の字を用ひむをや宜しとはいふべからむ、

〔日本書紀〕

〈五崇神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0034 六年、先是天照大神、和〈◯和諸本作倭、永享本作大倭、〉大國魂二神並祭於天皇大殿之内、〈◯下略〉

〔令義解〕

〈三田〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0034 凡畿内置官田、〈◯義解略〉大和攝津各卅町、〈◯下略〉

〔秦山集〕

〈雜著十七甲乙録三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0034 木下氏博學固然、然格致之功、恐無觀焉、木下氏曰、倭人自堯時已朝貢見山海經、予曰、山海經文注者、固當日本、然既曰北倭南屬一レ燕、則非日本見、燕與日本風馬牛尚不比也、木下又曰、黒齒國、君子國、扶桑國皆日本也、予曰、染齒我國中古之事也、上古無之、木下曰、他曾無齒國、又無倭國、予雖湖葦之老、木下又益耄矣、故予不爭而止、今太平之餘、來貢之國多矣、近來因録

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0035 各國之俗、有華夷通商考刊行、予考之、應天府下有和州、東京政趾、男女皆染齒木下豈不之考歟、史記、漢書、及我國史、不山海經之妄説、山海經後世之僞作歟、或兩國史眼目明歟、木下氏雖博學、其無識見此可見、

東海女國/姫氏國

〔和爾雅〕

〈一地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0035 日本國異名 姫氏(キシ)國〈◯註略〉 東海女國(トウカイジヨコク)

〔弘仁私記序註〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0035 日本國〈◯中略〉武玄之曰、東海女國也、

〔釋日本紀〕

〈一開題〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0035 日本國 倭國〈◯中略〉 問、此國謂東海女國、又謂東海姫氏國、若有其説哉、答、師説、梁時、寶志和尚讖、云東海姫氏國者、倭國之名也、今案、天照大神始祖之陰神也、神功皇后又女主也、就此等義、或謂女國、或稱姫氏國也、謂東海者、日本自大唐東方之間、唐朝所名也、

扶桑國

〔下學集〕

〈上天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0035 扶桑國(フサウコク)〈日本總名也、朝噋必昇於若木扶桑之梢、故呼日本扶桑國也、杜子美詩云、至今有遺恨、不扶桑國、〉

〔淮南子〕

〈四墜形訓〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0035 扶木在陽州、日之所http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000650bf8.gif 、〈扶木、扶桑也、◯下略〉

〔和爾雅〕

〈一地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0035 日本國異名 扶桑(フサウ)國〈淮南子曰、日出于暘谷、浴于咸池、拂于扶桑、吾邦人以之稱本邦扶桑國、案南史云、扶桑在大漢國之東二萬餘里北、在中國之、東、其土多扶桑木、故以爲名、扶桑葉似桐、初生如笋、國人食之、實如藜而赤、績其皮布、又云、國無兵甲攻戰、有輕罪南獄、重罪者入北獄、有牛角甚長載物至勝二十斛、以此説之、本朝嘗無此之事跡、然則古來雖吾邦之號是、〉

〔大扶桑國考〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0035 諸越(モロコシ)の古書どもを閲するに、其國の古傳説に、東方大荒外に扶桑國と稱する神眞の靈域、君師の本國ありて、その國初に出興せし、三皇五帝など云ふは、謂ゆる扶桑國より出て、萬づの道を開きたる趣に聞ゆるを、採り集めて熟に稽ふるに、其扶桑國としも謂へるは、畏きや吾が天皇命(スメラミコト)の神ながら知食(シロシメ)す皇大御國(スメラオホミクニ)の事にして、其三皇五帝と聞えしは、我が皇神等(スメガミタチ)になも御坐しける、其は固より然るべき道理なるを、今その由緒を述て、なほも天照坐大御神(アマテラシマスオホミカミ)

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0036 の、本つ御國の大御光を輝さむと爲るに、既(ハヤ)く此方の古人たち、其扶桑と云ふを、皇國の漢名と爲して、詩賦文章の類にも往々用ひ、〈◯註略〉また歌文の集、紀事の書の名にも負せたるを、近世の學者たちは、其を非(ヒガコト)と論へるも許多あり、然れど此は古人の、皇國に當たるが實に叶ひて、其を非と云へる後人の論ぞ、却りて非には有ける、〈◯下略〉

〔元元集〕

〈一本朝造化篇〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0036 或書曰、日本國者自大唐而所名也、斯國自大唐東方萬餘里、居于東極、日出東方于扶桑、已近日所一レ出、故云日本也、仍又號扶桑國也、

〔豫章記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0036 夫吾朝日本秋津洲豐葦原中津國者、大洋海之東、扶桑州也、

〔夫木和歌抄〕

〈三十六跋〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0036 此夫木和歌抄者、藤原朝臣長清自撰也、〈◯中略〉此鈔之名を思案して、少しまどろみて有ける夢の中に、白衣之老翁一人來曰、〈◯中略〉倭國之風俗なれば、扶桑集と可名付と謂れけるを、〈◯中略〉此由を冷泉黄門爲相卿に被申ければ、爲相卿〈◯中略〉扶桑者日本國總名也、可其憚、扶之字之つくり桑之字之木を取合て、夫木和歌抄と名付、

君子國

〔續日本紀〕

〈三文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0036 慶雲元年七月甲申朔、正四位下粟田朝臣眞人自唐國至、初至唐時、有人來問曰、何處使人、答曰、日本國使、〈◯中略〉唐人謂我使曰、丞聞、海東有大倭國、謂之君子國、人民豐樂、禮義敦行、今看使人儀容大淨、豈不信乎、語畢而去、

〔山海經〕

〈九海外東經〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0036 君子國在其〈◯大人國〉北、衣冠帶劒食獸、使二大虎在一レ旁、其人好讓不爭、有薫華草、朝生夕死、一曰在肝楡之尸北

阿毎郷

〔和爾雅〕

〈一地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0036 日本國異名 阿毎(アメ)郷〈按續三綱行實、稱日本謂、杳杳滄波阿毎郷、是據于隋書所謂日本國王姓阿毎之説、〉

ヤアパン

〔采覽異言〕

〈三亞細亞〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0036 ヤアパン 日本 國在東方極界、赤道已北三十一度、至三十八度、其地東西長而南北狹、四時平而風氣和、眞壽國也、

ジツパン

〔船長日記〕

〈上池田寛親著〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0037 扠かの臺の上へ、日本の繪圖いとくはしく書たるをのべて、ベゲツ初メ三人にて圖をさし示し、ジツパン(○○○○)〳〵と云へども、何のわけかもしれず、又指にて圖をさしをしへて、ミヤコ、キウシウ、エド、スルガといふを聞て、扠は日本の人にて、いづくの人にかと尋るならんと思ひて、〈◯中略〉重吉我身をさして、ジツパンといひ、扠三人の身をさして、いかにといふ仕方をすれども、通ぜぬ故、同じ事を十遍ばかりしたれば、漸思ひ得たりと見えて、ランダンとぞいひける、〈◯中略〉日本の事をジツパンといへば、少しは言葉の違ふ事も有べし、〈◯下略〉

位置

〔日本國郡沿革考〕

〈一總説〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0037 按本朝立國於亞細亞洲之東南、有北控大陸、南制群島之勢、而地亦適寒燠之中、〈京都、北緯三十五度零分三十秒、英國緑威起線東經百三十五度五十五分四十五秒、 江戸淺草司天臺、北緯三十五度四十一分三十秒、京都起線東經四度四分四秒、英東經百三十九度五十分四十九秒八、 肥前長崎出島、北緯三十二度四十分、英東經一百二十九度五十二分十三秒、英變時八時三十九分廿八秒八、〉民口極多、物産豐饒、〈◯下略〉

疆域

〔拾芥抄〕

〈中末本朝國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0037 本朝四方隅 追儺祭文云、追疫鬼云東方、〈陸奧〉西方逮遠値嘉、〈肥前島云云〉南方土左、北方佐渡與利乎知乃所ヲナムタチ疫鬼之住ナリ云々、

〔儀式〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0037 十二月大儺儀 陰陽師進讀祭文、其詞曰、〈◯中略〉事別天詔久、穢久惡伎疫鬼能、所所村村爾藏里隱布留乎波、千里千里之外、四方之堺、東方陸奧、西方遠値嘉、南方土左、北方佐渡與里乎知能所乎、奈牟多知疫鬼之住加登定賜比行賜氐、〈◯下略〉

〔日本地誌提要〕

〈一總國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0037 疆域 四方皆、海、西北ハ日本海ヲ隔テ朝鮮ニ對シ、北ニ樺太島アリ、尼哥勞斯(ニコライスク)海峽ヲ隔テ魯西亞ニ接ス、東北千島諸島斷續シテ、魯西亞ノ堪察加(カムサツカ)ニ連ル、東南ハ太平洋ニ面シ、西南ニ琉球諸島アリテ、臺灣及ビ支那地方ニ對ス、長凡五百餘里、廣凡三拾餘里、或六拾餘里ニ至ル、

廣袤

〔拾芥抄〕

〈中末本朝國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0037京陸奧際行程三千五百八十七里〈六町爲一里定〉自京長門西濱行程一千九百七十八

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0038 里、〈六町爲一里定

〔源平盛衰記〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0038 丹波少將召下附日本國廣狹事 少將被思ケルハ、〈◯中略〉日本國ハ東西ヘ去事二千七百五十里、南北ハ五百三十七里也、筑紫ヨリhttp://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001e880.gif (ハラカ)ノ使ノ上ルコソ、行程十五日トハ聞エシカ、是〈◯福原〉ヨリ奧鎭西ナンドヘ下ランコソ、假令十二三日ニモ行ンズレ、備前備中サシモノ大國トハ聞ザリシモノヲ、父ノ御座所ヲシラセジトテ、角ハ云ヨト被思ケレバ、其後ハ又問事モナカリケリ、

地勢

〔南海通紀〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0038 日本地勢記 通考 愚謂ク、天ニ北斗七星アリ、是兵ノ形トス、四星方ニ布テ其中間廣シ、三星曲ニ布テ其間狹ク長シ、是ヲ四三ノ星ト云フ、其先鋒ヲ破軍星ト云フ、其中間ニ輔星アリ、故ニ名ハ七星トイヘドモ、數ハ八ツアリ、蓋シ吾邦ノ地勢モ亦是ニ彷彿タリ、東北ハ山ニ據リ、其地方ニシテ廣シ、西南ハ海ニ濱シ、其地曲ニシテ狹ク長シ、西州ニ力ノ不足トコロヲ救フ時ハ、其形ノ七星ニ似タリ、吾邦ハ武勇萬國ニ勝レタル所以ノ者ハ是ニ因ルカ、夫日本國ハ土地褊少也トイヘドモ、中華ノ廣大ナルニ不恐、東海ノ中ニ獨立シ、兵威ヲ以テ外域ヲ壓シ、諸蕃ノ來リ侵ス事ヲ得ズシテ、國家安寧ナルモノハ、誠ニ雄偉ト云ツベキ也、上古ヨリ以來天子ヲ立、我王命ヲ尊ミ、我神明ヲ崇メ、我庶民ヲ傾壞セザル所以ノモノハ、地勢ノ宜ヲ得タルニ依テ也、我神明威靈ニシテ加護アリ、我民人正直ニシテ武勇アル事モ、壤地ノ美シカラシムル所ナリ、

〔日本地誌提要〕

〈一總國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0038 形勢 地形修長、山脈北ヨリ起リ、陸羽ノ間ニ至リ、奧峻ヲ極メ、分レテ數脈トナリ、皆蜿蜒西走シ、東海、東山、北陸三道ヲ界ス、其信濃ニ至ル淺間山ト爲リ、甲駿ノ間ニ至ル者、富士山ト爲リ、東海ニ挺立ス、其分脈南出シテ、伊豆半島ヲナシ、更ニ海南群島ニ連ル、北陸道ノ一脈、加越ノ間ニ至テ、白山、立山ト爲リ、其近江ニ至ル者、兩支ヲ分チ、其一伊勢大和ヲ經、吉野

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0039 山ニ攅集シテ、紀伊ニ趨キ、其一西ニ去テ、山陰山陽二道ヲ界シ、西海道ニ至リ、筑豐ヲ經、南折シ、阿蘇、霧島等數峯、肥後日向ノ間ニ盤踞シ、琉球群島ニ至ル、山陽及紀伊ノ餘脈、淡路島トナリ、終ニ四國ニ連リ、雲邊山、石鎚山諸山ト爲ル、淡路島以西、山陽四國ノ間、島嶼碁布、是ヲ瀬戸内海ト云フ、其東口ヲ明石峽トナシ、其東南口ヲ鳴門峽トナシ、其西北口ヲ下關峽ト云フ、東海北陸ノ大川、皆源ヲ東山ニ發ス、其東流スル者ヲ、利根川トナス、其北注スル者ヲ、信濃川ト稱シ、南注スル者ヲ、天龍川ト云ヒ、西注スル者ヲ、木曾川ト云ヒ、近江湖ニ發スルヲ、淀川ト云、山陰道江川アリ、四國吉野川アリ、西海道筑後川アリ、皆海内ノ巨川トス、武總ノ際平坦膏美、所謂沃野千里ノ地ナリ、全國氣候、寒暑大率中正、北方早寒多雪、極南恒燠、物産豐饒、尤五穀ヲ殖シ、五金ノ礦ニ富ム、

沿革

〔地誌解題〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0039 大日本 我邦の總稱、史にあらはるヽものは、神代卷に始起大八洲國之號焉とあれば、太古には大八洲と號せしなるべし、〈◯中略〉百四十四國〈◯註略〉の國造をおかれしよし本紀に見ゆれど、今の郡郷をもて國と稱せしゆゑ、其一國といふもの、大小經界今よりはしるべからず、〈◯中略〉文武〈四十二代〉の御時、慶雲三年使を諸國に發して、始て田租の法をさだめ、七道の名此時にはじまる、〈◯中略〉此時〈◯嵯峨天皇弘仁十四年〉にいたつて、始て六十六國二島〈◯註略〉に定り、今にいたつてかふる事なし、〈◯中略〉扨各國の首長たるもの、神武天皇よりこのかた今にいたりて、すべて五變に及べり、初は國造をおかれ、次に國司となり、又國主とかはり、公武わかれて國主守護並びたち、戰國をへて今の制にいたれり、

〔大日本史〕

〈國郡一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0039 夫八洲之域、山河秀靈、環以滄瀛、西臨三韓、南通隋國、北控靺鞨、自太祖定封建之制、世建國造、至繼體帝時、爲國凡一百四十四、而縣主邑君屬之、厥後國造見史、寥寥無幾、蓋微弱者不自振、強大者僣亂失封、而大臣大連權勢太盛、兼并縣邑、規錮山澤、其弊不勝言、大化改新、悉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0040 停廢之、創國郡之治、國守郡領、考績黜陟、海内清肅、生民頼安、抑太祖以來、屢遷皇都、率不於大和之地、然天下形勢、西輕東重、其居西南、以制東北、宜矣蝦夷、久梗王化也、中宗即位、徒都淡海、天武帝將都信濃果、皆志在東方也、桓武帝一擧勦蕩、建碑北陲、勒曰日本中央、以成皇祖皇宗之志、嗚呼何其烈也、先是、三韓臣屬、建日本府之、欽明以後、爲覊縻國、隸之太宰府、南海有琉球、置島司之、後屬大隅、至嵯峨帝、置鎭守府于陸奧、特重其任、以鎭民夷、有事則發坂東兵之、於是乎、無復東顧之憂矣、然以威信之人、臨要勝之地、士馬精強、武斷郷曲、及其久焉勢不自立之計、至源頼朝據鎌倉覇府、以勳舊將士、爲守護地頭、私割莊園之、於是國郡之制始壞、守護地頭之權漸重、則莊園廢置、郷保沿革、關于大勢、豈鮮少乎哉、故具其名稱、以觀變遷、若夫圖籍之撰、始于大化、成乎延長、諸國進風土記、民部勒成圖帳、可備矣、惜哉中世亂離、載籍湮滅、其詳不得而考

〔日本地誌提要〕

〈一總國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0040 沿革 皇國上古大八洲トイフ、神武天皇都ヲ大倭ノ橿原ニ定メ、功臣椎根津彦等ニ地ヲ賜フテ、國造トセシヨリ、疆域日ニ闢ケ、成務ノ朝ニ至リ、國境ヲ分チ、其後治化益弘リ、國造凡百四十四、推古以降國司ヲ交ヘ置キ、孝徳ノ朝、始テ各州國司ヲ設ケ、郡司諸吏、多ク國造ヲ以テ之ニ任ジ、漸ク國ヲ省テ郡ニ改ム、大寶中、畿内七道ノ稱始テ定リ、國司限年遷任、治所ヲ國府ト稱ス、嵯峨ノ朝ニ至テ、大國十三、上國三十五、中國十一、下國九、凡テ四等、六十八國、是ニ於テ古制一變シテ郡縣ノ治トナル、昇平日久ク、藤原氏權ヲ專ニセシヨリ、國司多ク京ニ在テ、吏ヲシテ代治セシメ、公卿ノ莊園、皆家人ヲ以地頭トシ、殆ンド七道ニ偏ク、治體漸變ズ、源頼朝府ヲ鎌倉ニ開キ、兵馬ノ權ヲ執ニ及テ、地ヲ裂テ家臣ニ授ケ、文治元年、奏請シテ守護地頭ヲ置テ之ニ補シ、往々世襲、國司復タ任ニ趣カズ、是ニ於テ始テ封建ノ漸ヲ成、建武中興、功臣ヲ守護トシ、國司ヲシテ治所ニ就シム、足利氏ニ至テ國郡ヲ分チ、家臣ヲ封ジテ守護ト稱シ、三管領四職以下、皆地ヲ以テ子孫ニ傳ヘ、正平四年、關東管領ヲ置キ、鎌倉ニ鎭シテ、八州及ビ奧羽ヲ統

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0041 シム、是ニ於テ形勢終ニ一變シテ封建トナル、應仁以降天下大亂、群雄諸道ニ割據シテ、互ニ相呑滅ス、織田氏興テ、東海、東山、畿内、山陰ノ地ヲ略定シ、豐臣氏之ニ繼テ海内ヲ盪平シ、群雄服從、其大者六姓、〈徳川、島津、毛利、上杉、前田、佐竹、〉其次三十餘家、慶長五年、關原役畢リ、徳川氏諸氏ヲ統率シ、子弟功臣ヲ封ズル者數十、其後加削増減一ナラズ、慶應中、凡二百七十一藩、王政革新、更メテ藩ヲ建ル者十四、既ニシテ奧羽ヲ分テ七國トシ、蝦夷ヲ以テ北海道ト稱シ、十一國ニ分チ、明治四年、諸藩ヲ廢シテ縣トナシ、郡縣ノ治ニ復ス、凡ソ五畿七道、七十三國、二京、三府、六鎭、六十縣、皇居ヲ東京ニ定メ、開拓使ヲ置テ、北海道十一國ヲ經理シ、琉球ヲ封ジテ藩屬王國トス、此古今沿革ノ大略ナリ、

地名/命名

〔日本國郡沿革考〕

〈一總説〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0041 享保十五年五月令、今後有墾闢之地新建一レ村、宜以某新田(○○○)之、勿某村

地形爲名

〔出雲風土記〕

〈秋鹿郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0041 惠曇郷、郡家東北九里卅歩、須佐能乎命御子、磐坂日子命、國巡行坐時、至坐此處而詔、此處者國稚美好、有國形如畫鞆哉、吾之宮者是處造事者詔、故云惠伴、〈神龜三年攺字惠曇

〔日本書紀〕

〈七景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0041 十二年十月、到碩田國、其地形廣大亦麗、因名碩田也、〈碩田此云於保岐陀〉 十七年三月己酉、幸子湯縣于丹裳小野、時東望之謂左右曰、是國也直向於日出方、故號其國日向也、

〔豐後風土記〕

〈日田郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0041 鏡坂〈在郡西〉 昔者纏向日代宮御宇天皇〈◯景行〉登此坂上覽國形、即勅曰、此國地形似鏡面哉、因曰鏡坂、斯其縁也、

境界爲名

〔和泉志〕

〈二大鳥郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0041 村里 堺南莊〈大街一條自東達西謂之大正路、乃攝州分界、因有堺名、〉

〔攝津志〕

〈二住吉郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0041 村里 堺北莊〈(中略)乃泉州界也〉

外國名爲名

〔續日本紀〕

〈七元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0041 靈龜二年五月辛卯、以駿河、甲斐、相模、上總、下總、常陸、下野七國、高麗人千七百九十九人、遷于武藏國、置高麗郡焉、

〔播磨風土記〕

〈飾磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0041 枚野里〈◯中略〉所以號新良訓者、昔新羅國人來朝之時、宿於此村、故號新羅訓

〔續日本紀〕

〈二十一淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0042 天平寶字二年八月癸亥、歸化新羅僧卅二人、尼二人、男十九人、女廿一人、移武藏國閑地、於是始置新羅郡焉、

方位爲名

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0042 河内國〈◯中略〉丹比〈太知比、爲丹南、爲丹北、〉 攝津國〈◯中略〉東生〈比牟我志奈里〉西生〈邇之奈里〉

〔南海通紀〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0042 香西藤尾八幡宮記 香川郡ヲ追テ香東香西トスル事ハ其例多シ、〈◯中略〉横ニ行ヲ條トス、流ニ從フヲ上下ト云ヘリ、

天象爲名

〔肥前風土記〕

〈基肄郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0042 昔者纏向日代宮御宇天皇、〈◯景行〉巡狩之時、御筑紫國御井郡高羅之行宮、遊覽國内、霧覆基肄之山、天皇勅曰、彼國可霧之國、後人改號基肄國、今以爲郡名

〔肥前風土記〕

〈松浦郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0042 賀周里〈在郡西北〉 昔者此里有土蜘蛛、名曰海松橿媛、纏向日代宮御宇天皇、〈◯景行〉巡國之時、遣陪從大屋田子、〈日下部君等祖也〉誅滅時、霞四含不物色、因曰霞里、今謂賀周里訛之也、

〔常陸風土記〕

〈行方郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0042 郡南二十里香澄里、古傳曰、大足日子天皇〈◯景行〉登坐下總國印波鳥見丘、留連遙望、顧東而勅侍臣曰、海即青波浩行、陸是丹霞空朦、國在其中、朕目所見者、時人由是謂之霞郷

社名爲名

〔肥前風土記〕

〈基肄郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0042 姫社郷 此郷之中有川、名曰山途川、其源出郡北、山南流而會御井大川、昔者此門之西有荒神、行路之人、多被殺害、半凌半殺、于時卜求祟由、兆云、令筑前國宗像郡人珂是胡祭吾社、若合願者、不荒心、覓珂是古令神社、珂是古即捧幡祈禱云、誠有吾祀者、此幡順風飛往墮吾之神邊、使即擧幡順風放遣、于時其幡飛往、墮於御原郡姫社之社、更還飛來落此山途川邊之田村、珂是古自知神之在、家其夜夢見、臥機〈謂久那毘枳〉絡垜〈謂多多利〉儛遊出來、壓驚珂是古、於是亦織女神即立社祭之、自爾已來、行路之人、不殺害、因曰姫社、今以爲郷名

〔東海道名所記〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0042 宮より桑名まで七里舟渡し〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0043 亭主立出て、さま〴〵物がたりし侍べりける中に、爰を宮と申す事は、熱田の大明神おはします故に、熱田を略して、只宮と計申すなり、

〔土佐州郡志〕

〈土佐郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0043 一宮庄〈◯中略〉 一宮〈在村東北、正一位高加茂大明神、◯下略〉

〔武藏演路〕

〈六足立郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0043 簸川神社 大宮宿 一鳥居より本社迄十八町、武藏國一ノ宮、神領三百石、今氷川大明神ト稱、

〔攝津志〕

〈十二矢田部郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0043 神廟 生田神社〈(中略)生田宮村〉

寺號爲名

〔雍州府志〕

〈四寺院〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0043 愛宕郡 淨土寺 古天台門主有淨土寺之號、今寺絶爲村名

〔大和志〕

〈二添上郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0043 佛刹 紀寺、〈紀寺町◯中略〉元興寺、〈元興寺町◯下略〉

〔攝津志〕

〈八河邊郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0043 佛刹 滿願寺、〈滿願寺村◯中略〉中山寺、〈中山寺村◯中略〉多田院、〈多田院村◯中略〉大覺寺、〈尼崎大覺寺町◯下略〉

〔和泉志〕

〈三和泉郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0043 佛刹 國分寺〈國分村〉

〔江戸名所圖會〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0043 醫王山國分寺 最勝院と號、國分寺村にあり、

〔地勢提要〕

〈坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0043 郡邑島嶼奇名 下總〈◯中略〉 神宮寺(ジゲジ)村

〔若狹國志〕

〈二遠敷郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0043 村里 神宮寺〈類聚國史所謂神願寺在于此、後攺神宮寺、故村名亦從之、〉

〔大宰管内志〕

〈肥前三佐嘉郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0043 白山高寺 同書〈◯肥陽古跡記〉に、〈◯中略〉昔年熊襲退治御時、龍艦の著岸せし地を龍䒃島と云、即其處に寺院をたて、龍造寺と號す、〈◯中略〉處名をも龍造寺村と云、

官衙爲名

〔倭訓栞〕

〈中編八古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0043 こくが 國衙と書り、國司の政を行ふ所也、今尾張中島郡に國衙庄ありて、司館の趾を國衙畠といへり、

〔河内志〕

〈十四志紀郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0044 村里 國府〈屬邑一〉

〔倭訓栞〕

〈中編二十二不〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0044 ふちう 文選注に、府中大將軍幕府也、古文後集に、府中大臣宰相所居ともいへり、駿河國に府中と稱する所有、

〔江戸名所圖會〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0044 府中驛舍 甲州街道の官驛にして、〈◯中略〉舊名を小野縣と稱す、武藏國府にして、上古國造居館の地なり、

官職爲名

〔出雲風土記〕

〈出雲郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0044 健部郷、〈◯中略〉纏向檜代官御宇天皇、〈◯景行〉勅不朕御子倭健命之御名、健部定給、爾時神門臣古禰健部定給、即健部臣等、自古至今、猶居此處、故云健部

〔豐後風土記〕

〈日田郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0044 靱編郷〈在郡東南〉 昔者磯城島城島宮御宇、天國排開廣庭天皇〈◯欽明〉之世、日下部君等祖邑阿自、仕春靱部、其邑阿自、久就於此村、造宅居之、因斯名曰靱負村、後人改曰靱編郷

〔出雲風土記〕

〈意宇郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0044 舍人郷、郡家正東廿六里、志貴島宮御宇天皇〈◯欽明〉御世、倉舍人君等之祖、日置臣志毘、大舍人供奉之、即是志毘之所居、故云舍人

〔雍州府志〕

〈八古蹟〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0044 愛宕郡 仕丁町 在新町中立賣通南、此處人舁鳳輦、故謂仕丁町、是故無課役

神名爲名

〔播磨風土記〕

〈飾磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0044 英賀里、〈土中上〉右稱英賀者、伊和大神之子、阿賀比古阿賀比賣二神、在於此處、故因神名、以爲里名

〔常陸風土記〕

〈香島郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0044 古老曰、〈◯中略〉其處所有、天之大神社、坂戸社、沼尾社、合三處總稱香島之大神、因名郡焉、

〔日本書紀〕

〈七景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0044 十八年六月丙子、到阿蘇國也、其國郊原曠遠不人居、天皇曰、是國有人乎、時有二神、曰阿蘇都彦、阿蘇都媛、忽化人以遊詣之曰、吾二人在、何無人耶、故號其國阿蘇、 七月丁酉、到八女縣、〈◯中略〉水沼縣主猿大海奏言、有女神名曰八女津媛、常居山中、故八女國之名由此起也、

人名爲名

〔常陸風土記〕

〈筑波郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0045 古老曰、筑波之縣、古謂紀國、美萬貴天皇〈◯崇神〉之世、遣采女臣友屬筑波命於紀國之國造、時筑波命曰、欲身名者著國而後世流傳、即改本號、更稱筑波者、

〔日本書紀〕

〈六垂仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0045 二年〈(中略)一云、御間城天皇(崇神)之世、額有角人乘一船于越國笥飯浦、(中略)是時遇天皇崩、便留之仕活目天皇(垂仁)逮于三年、(中略)天皇詔阿羅斯等曰、汝不道、必速詣之、遇先皇而仕歟、是以攺汝本國名、追負御間城天皇御名、便爲汝國名、仍以赤織絹阿羅斯等、返于本土、故號其國、謂彌摩那國、其是之縁也、〉

〔播磨風土記〕

〈揖保郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0045 越部里、〈舊名皇子代里〉土中中、所以號皇子代者、勾宮天皇〈◯安閑〉之世、寵人但馬君小津、蒙寵賜姓爲皇子代君而、造三宅於此村、令仕奉之、故曰子代村

〔播磨風土記〕

〈宍禾郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0045 比治里〈土中上〉所以名比治者、難波長柄豐前天皇〈◯孝徳〉之世、分揖保郡、作宍禾郡之時、山部比治任爲里長、依此人名、故曰比治里

〔播磨風土記〕

〈飾磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0045 伊和里〈◯註略〉右號伊和部者、積幡郡伊和君等族、到來居於此、故號伊和部

〔雍州府志〕

〈八古蹟〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0045 愛宕郡 大心院町 在安樂小路北、曾大心院細川政元宅在此處、今爲民家、〈◯中略〉 徳大寺町 在新町武者小路北、古堂上徳大寺家宅在斯處云、

〔甲子夜話〕

〈四十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0045 林氏曰、居宅ノ地名世上ニテ、ヤヨスガシト云、是モト諳厄利亞人ヤンヨウスト云シ者ノ僑寓セシヨリ地ノ字トナリ、ヤヨスガシト云、從來ハ蠻語ナリ、夫ヲ類音ニテ取ナシ、昔ハ八重洲河岸ト書ク、家ノ鳳岡文集ニ此如ク見ヘシカバ、御普請役所ノ古帳檢點ノコトヲ、先年奉行ニ頼シニ、元祿頃ノ古記、皆八重洲ノ字ヲ用テ書クト、因テ官ヘ呈スル文書並ニ世間文通ノ書牘、ソノ外ニモ予家ニテハ、舊ノマヽヲ用ユ、他ニテハ今ハ兎角八代洲ト書クナリ、

〔江戸砂子〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0045 八官町 八官と云異國人に、此所にてやしき下されしと也、

動物爲名

〔日本書紀〕

〈三神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0045 戊午年十二月丙申、皇師遂擊長髓彦、連戰不取勝、時忽然天陰而雨氷、乃有金色靈鵄、飛來止于皇弓弭、〈◯中略〉時人仍號鵄邑、今云鳥見是訛也、

〔常陸風土記〕

〈行方郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0045無梶河、達于部陲、有鴨飛度、天皇〈◯倭武尊〉躬射、鴨迅應弦而墮、仍名其地之鴨野

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0046 〈◯中略〉 郡南七里男高里、〈◯中略〉南有鯨岡、上古之時、海鯨匍匐、而來所臥、〈◯下略〉

植物爲名

〔古語拾遺〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0046于神武天皇東征之年、〈◯中略〉天富命更求沃壤、分阿波忌部往東土、播殖麻穀、好麻所生故謂之總國、穀木所生故謂之結城郡、〈古語麻謂之總也、今爲上總下總二國是也、〉

〔古事記〕

〈中神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0046是其伊須氣余理比賣命之家、在狹井河之上、〈(中略)其河謂佐韋河由者、於其河邊、山由理草多在、故取其山由理草之名、號佐韋河也、山由理草之本名云佐韋也、〉

〔播磨風土記〕

〈揖保郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0046 萩原里、〈土中中〉右所以名萩原者、息長帶日賣命、〈◯神功〉韓國還上之時、御船宿於此村、一夜之間生萩、根高一丈許仍名萩原

金石爲名

〔播磨風土記〕

〈宍禾郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0046 大内川、小内川、金内川、〈◯中略〉生鐵者稱金内

〔播磨風土記〕

〈神前郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0046以云砥川山者、彼山有砥、故曰砥川山

〔豐後風土記〕

〈海部郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0046 丹生郷〈在郡西〉 昔時之人、取此山沙、該朱沙、因曰丹生郷

〔出雲風土記〕

〈意宇郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0046 黒田驛、郡家同所、〈今郡家西北二里、有黒田村、〉土體色黒、故云黒田

器物爲名

〔播磨風土記〕

〈飾磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0046以稱筥丘者、大汝少日子根命與日女道丘神期會之時、日女道神猶丘備食物及筥器等具、故號筥、

〔古事記〕

〈中神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0046 故從其國上行之時、經浪速之渡而、泊青雲之白肩津、此時登美能那賀須泥毘古〈自登下九字以音〉興軍、待向以戰、爾取御船之楯而下立、故號其地楯津、於今者云日下之蓼津也、

〔日本書紀〕

〈九神功〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0046 九年〈◯仲哀〉三月戊子、皇后〈◯神功〉欲熊鷲而自橿日宮、遷于松峽宮、時飄風忽起、御笠墮風、故時人號其處、曰御笠也、

〔肥前風土記〕

〈松浦郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0046 登望驛〈在郡西

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0047 昔者氣長足姫尊、〈◯神功皇后〉到於此處、留爲雄裝、御臂之鞆、落於此村、因號鞆驛

事業爲名

〔常陸風土記〕

〈久慈郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0047 郡西里靜織里、上古之時、未綾之機、未知人、于時此村初織、因名之、

〔播磨風土記〕

〈宍禾郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0047 石作里〈本名伊和〉土下中、所以名石作者、石作首等、居於此村、故庚午年爲石作里

〔豐後風土記〕

〈海部郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0047 此郡百姓、並海邊白水郞也、因曰海部郡

〔日本書紀〕

〈五崇神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0047 七年八月己酉、天皇得夢辭益歡於心、布告天下大田田根子、即於茅渟縣〈◯和泉〉陶邑大田田根子而貢之、

〔三代實録〕

〈二清和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0047 貞觀元年四月廿一日丙牛、河内和泉兩國、相爭燒陶伐薪之山、〈◯下略〉

〔雍州府志〕

〈六土産〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0047 材木〈◯中略〉 於京師二條北東堀河并春日通西之、則號丸多町

〔江戸砂子〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0047 四日市 江戸ばし南詰廣小路の所 此所むかしは四日市場と云村にて、四々の日市立し所と云つたふ、

由縁爲名

〔日本書紀〕

〈三神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0047 戊午年五月癸酉、軍至茅渟山城水門、〈亦名山井水門、茅渟此云智怒、〉時五瀬命矢瘡痛甚、乃撫劒而雄誥之曰、〈◯中略〉時人因號其處、曰雄水門

〔古事記〕

〈中景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0047 倭建命、〈◯中略〉爾到相武國之時、〈◯中略〉其國造火著其野、〈◯中略〉於是先以其御刀撥草、以其火打而打出火、著向火而燒退、還出、皆切滅其國造等、即著火燒、故其地者於今謂燒遣也、

〔古事記〕

〈中景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0047是零大氷雨、打惑倭建命、〈◯註略〉故還下坐之、到玉倉部之清泉、以息坐之時、御心稍寤、故號其清泉、謂居寤清泉也、自其處發、到當藝野上之時、詔者吾心恒念虚翔行、然今吾足不歩、成當藝斯形、〈自當下三字以音〉故號其地當藝也、自其地差少幸行、因甚疲、衝御杖稍歩、故號其地、謂杖衝坂也、〈◯中略〉自其地幸、到三重村之時、亦詔之、吾足如三重勾而甚疲、故號其地、謂三重

〔日本書紀〕

〈九神功〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0047 九年〈◯仲哀〉四月甲辰、北到火前國松浦縣、而進食於玉島里小河之側、於是、皇后勾針爲鈎、取粒爲餌、抽取裳糸緡、登河中石上、而投鈎祈之曰、朕西欲財國、若有事者河魚飮鈎、因以擧

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0048 竿、乃獲細鱗魚、時皇后曰、希見物也、〈希見此云梅豆邏志〉故時人號其處梅豆羅國、今謂松浦、訛焉、 十二月辛亥、生譽田天皇〈◯應神〉於筑紫、故時人號其産處、曰宇瀰也、

〔播磨風土記〕

〈飾磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0048 賀野里、幣丘、〈◯中略〉所以稱幣丘者、品太天皇〈◯應神〉到於此處幣地祇、故號幣丘

〔出雲風土記〕

〈意宇郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0048 忌部神戸、郡家正西廿一里二百六十歩、國造神吉詞奏參向朝廷時、御沐之忌里、故云忌部

〔雍州府志〕

〈八古蹟〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0048 愛宕郡 吉水 在丸山下、凡斯邊依此水、總稱吉水、〈◯中略〉 徒斯(デイス)辻子 在一條北油小路與堀河之間、近世耶蘇宗門之寺在斯町、倭俗誤徒斯太宇須、故今稱大宇須辻子

攺撰文字/取嘉名

〔續日本紀〕

〈六元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0048 和銅六年五月甲子、畿内七道諸國郡郷名著(○)好字(○○)、其郡内所生、銀銅、彩色、草木、禽獸、魚虫等物、具録色目、及土地沃塉、山川原野名號所由、又古老相傳舊聞異事、載于史籍言上、

〔延喜式〕

〈二十二民部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0048 凡諸國部内郡里等名、並用(○)二字(○○)、必取(○○)嘉名(○○)

〔出雲風土記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0048 右〈◯中略〉其郷名字者、被神龜三年民部省口宣之、

〔萬葉集抄〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0048 たまきはるうちのおほ野にむまなへて云々〈◯中略〉 内野といふは、大和の國宇知の郡の野なり、今内野と書るは、いにしへはかくのごとくかきけるにや、又ことばだにもたがはざれば、ともかくもかける常事也、於國郡郷村等二字好字、元明天皇御宇和銅六年被諸國風土記時事也、其以前國郡郷村名、或一字二字、又郷村等眞名假名にて、或は三字四字もありける也、而令進風土記之時、任太政官下之旨、各定二字好字也、

〔地名字音轉用例〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0048 凡ソ諸國ノ名、又郡郷ナドノ名ドモ、古ヘハ文字ニカヽハラズ、正字ニマレ借字ニマレ、アルベキマヽニ、身刺(ムサシ)、三野(ミノ)、科野(シナノ)、道奧(ミチノク)、稻羽(イナバ)、針間(ハリマ)、津島(ツシマ)ナドヤウニ書キ、或ハ上毛野(カミツケノ)、下毛野(シモツケノ)、多遲麻(タヂマ)ナド、字ノ數ニモカヽハラズ、三字ナドニモ書キタリシヲ、ヤヽ後ニナリテ字ヲ擇ブコト始マリ、又

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0049 必ズ二字ニ定メテ書クコトヽハナレルナリ〈◯中略〉出雲風土記ニ、郷名ドモ、神龜三年改字トシルセル多ケレバ、和銅ノ後ニモ、ナホツギ〳〵改メラレシモ有シナルベシ、又必二字ニ定メラレタルモ、延喜式ヨリ始マルコトニハ非ズ、既ク奈良朝ノホドヨリ、多クハ二字ニ書リト見エタリ、サテ國郡郷ノ名、カクノ如ク好字ヲ擇ビ、必ズ二字ニ書クニツキテハ、字音ヲ借リテ書ク名ハ、尋常ノ假字ノ例ニテハ、二字ニ約メガタク、字ノ本音ノマヽニテハ、其名ニ叶ヘ難キガ多キ故ニ、字音ヲサマ〴〵ニ轉ジ用ヒテ、尋常ノ假字ノ例トハ、異ナルガ多キコト、相模ノ相(サガ)、信濃ノ信(シナ)ナドノ如シ、カヽルタグヒ皆是レ物々シキ字ヲ擇ビテ、必ズ二字ニ約メムタメニ、止ム事ヲ得ズ、如此ザマニ音ヲ轉用シタル物ナリ、然ルニ後ノ世ノ人、此義ヲタドラズシテ、國郡郷ノ名ドモノ、其字音ニアタラザルコトヲ疑フ者多シ、殊ニ漢學者ナドハ、タヾ漢籍ヲ見馴レタル心ニテ、字ヲ本ト心得ルカラ、其音ニ當ラザル地名ヲバ、後ニ訛レルモノトシテ、タトヘバ相模ハモトサウモ、信濃ハシンノウナリシヲサガミ、シナノトハ、後ニ訛レルナリトヤウニサヘ思フメリ、是イミジキヒガコトナリ、サガミ、シナノハ、本ヨリノ名ナルニ、相模、信濃ナドノ字ハ、後ニ塡タルモノニテ、末ナルコトヲ辨ヘザルモノナリ、

〔閑田耕筆〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0049 國里の名に、唱へと文字と異なるもの、近江はもと淡海なれども、都近き江といふより、今の字に改れり、遠江も是に對す、上毛(カミツケ)下毛(シモツケ)も唱へは殘りて、文字は上野下野に改れり、むさしさがみも武藏相模の文字にては、いかにもよむべからず、むさしもむさかみの略、武者のこゝろなりと加茂氏はいへり、慶雲年間諸國好文字に改給ひし時の所爲にや、今はいふ人も書人も馴てあやしまざるなり、里の名もかすがを春日と書るは、春はかすむ義、日はいくかといふかにや、滓鹿とも古書に見ゆるは明らかなり、河内國交野郡に私部私市と書て、きさべ、きさ市といふ、私ノ字きさとよむこと心得がたし、もとささとかなを付たるさに一點を誤りそへて、きになりたるにやあらん、ひらかたを牧方とかけるは、枚字につめを添たる誤は誰も知べし、淀の隣村に一口

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0050 と書ていもあらひと唱ふるもいぶかしきを、ある人はいふ、一はいなり、口はもらひと義訓せるか、いもらひとも稱ふるなりといへり、備後國世良郡の邊鄙に、小童村と書、ひちむらといふ所あり、其所の人も義はしらずといふ、又伊勢國三重郡に、四足八鳥村と書て、ろくろみ村とよむも同じく解べからず、是等はもしひちといひ、ろくろみといふ名あるがうへに、又小童とよび、四足八鳥とよぶ名をおほせて、兩名の文字と唱へと混じたるにや、其文字も唱へも、其時には各所由あるべけれど、後には倶にしられずなりたるならし、近江愛知川の近邑に、いんでといへるは位田と書り、是は昔菅家の位田に充給ひし所にて、音便にて轉じたるならん、北近江坂田郡馬渡まうたりと稱するも同例也、

〔出雲風土記〕

〈意宇郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0050 母理郷、〈◯中略〉故云文理、〈神龜三年、攺字母理、〉 屋代郷、〈◯中略〉故云社、〈神龜三年、攺字屋代、◯中略〉 飯梨郷、〈◯中略〉故云飯成、〈神龜三年、攺字飯梨、◯中略〉 拜志郷、〈◯中略〉故云林、〈神龜三年、攺字拜志、◯下略〉

〔出雲風土記〕

〈出雲郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0050 漆沼郷、〈◯中略〉故云志司沼、〈神龜三年、攺字漆沼、◯中略〉 杵築郷、〈◯中略〉故云寸付、〈神龜三年、攺字杵築、◯下略〉

〔肥前風土記〕

〈神埼郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0050 三根郷〈◯中略〉 因名御寢、今改寢字根、

〔羅山文集〕

〈三十七傳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0050 二荒山神傳 本朝青史公、讀延喜式、至于神名帳所載下野國河内郡二荒山神社、曰、是何神耶、二荒(○○)訓云布他阿羅、而今云補陀洛(○○○)、以爲觀音之所一レ坐、又轉二荒音日光(○○)、而云大日遍照之山、皆是浮屠者之誣世俗盲聾、而援神入佛之姦謀也、世之人不之察、遂至於使本朝之名神、合汚于胡鬼、而奪神宮梵字、掠社戸

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0051僧俸焉、豈不惑乎、亦不悲乎、

〔南留別志〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0051 二荒を、補陀落とし、音にてよみて、にくわうといふを、日光とかき替たるを見れば、ふるき事は、考へ得がたき事おほかるべし

攺地名

〔出雲風土記〕

〈出雲郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0051 健部郷、〈◯中略〉故云宇夜里、而後改所以號健部之〈◯下略〉

〔豐後風土記〕

〈直入郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0051 俗曰直生村、後人改曰直入郡

〔肥前風土記〕

〈養父郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0051 鳥樔郷〈◯中略〉 因曰鳥屋郷、後人改曰鳥樔郷

〔播磨風土記〕

〈揖保郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0051 大家里〈舊名大宮里〉土中上、品太天皇〈◯應神〉巡行之時、營宮此村、故曰大宮、後至田中大夫爲宰之時、改大宅里、 大法山〈今名勝部岡◯中略〉 少宅里、〈本名漢部里〉土下中、所以號漢部者、漢人居之此村、故以爲名、以後改曰少宅者、〈◯下略〉

〔宇治拾遺物語〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0051 今はむかし、せいとくひじりといふ聖ありけるが、〈◯中略〉けちえんのために物まいらせてみんとてよばせ給ひければ、いみじげなる聖あゆみまいる、〈◯中略〉さて出て行ほどに、四條の北なる小路にゑどをまる、此しりにぐしたるものしちらしたれば、只墨のやうにくろきゑどを、ひまもなくはる〴〵としちらしたれば、げすなどもきたながりて、その小路を糞の小路とつけたりけるを、帝聞せ給て、その四條の南をば何といふといはせ給ければ、綾の小路となん申と申ければ、さらばこれをば錦の小路といへかし、あまりきたなきなかな、と仰られけるよりしてぞ、錦の小路とはいひける、

〔豐鑑〕

〈一長濱眞砂〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0051 明る天正二年の春、小谷山は北にさかひ、雪いとふかく、さえまさる空のくるしみあり、三里餘のいぬゐにあたり、今濱とて古き城所あり、海にそひて雪淺く、舟の往來も便ありて、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0052 今信長の御座安土山へも程遠からねば、かふり仕るに煩なし、此所にすまむとて、堀をふかくし石ぐらを打まはし、とのつくりしてうつり給ひぬ、今濱のなを改めて長濱となん、 君が代も我よもともに長濱の眞砂の數のつきやらぬまで、たれ人のよみしといふことも忘れにけり、

〔藝藩通志〕

〈六安藝國廣島府〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0052 疆域形勢 廣島府は地安藝廣島二郡に亘る、大抵京橋川より東は安藝郡、西は沼田郡なり、舊稱五箇庄、〈◯中略〉其廣島と名けしは、その地廣く四方水にて繞れるを以なるべし、俗傳る説あれども今取らず、

避諱

〔日本後紀〕

〈十四平城〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0052 大同元年七月戊戌、改紀伊國安諦郡(○○○)在田郡(○○○)、以詞渉天皇諱〈◯平城諱安殿〉也、

〔日本紀略〕

〈嵯峨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0052 大同四年九月乙巳、改伊豫國神野郡(○○○)新居郡(○○○)、以上諱〈◯嵯峨諱賀美能〉也、

〔續日本後紀〕

〈二仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0052 天長十年七月癸巳、天下諸國、人民姓名及郡郷山川等號有諱者、皆令改易

〔古京遺文〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0052 石川朝臣年足墓志 御史大夫正三位兼行神祇伯年足朝臣、當平城宮御宇天皇之世、天平寶字六年歳次壬寅九月丙子朔乙巳、春秋七十有五薨于京宅、以十二月乙巳朔壬申于攝津國島上郡白髮郷(○○○)酒垂山墓、〈◯中略〉 右墓志、文政三年正月、攝津國島上郡眞上光徳寺村民徳左衞門、鑿其宅後荒神山而獲之、〈◯中略〉倭名類聚抄、島上郡有眞上郷、無白髮郷、按、續日本紀、延暦四年五月、詔曰、臣子之禮、必避君諱、比者先帝御名、及朕之諱、公私觸犯、猶不聞、自今以後、宜並改避、於是改姓白髮部眞髮部、山部爲山、然則白髮郷之爲眞上、亦係延暦所一レ改、是志在詔前二十四年、故猶不避也、〈常陸國眞壁郡、本名白壁郡見風土記攺爲眞壁、亦蓋在是時也、〉

〔常陸風土記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0052 白壁郡(○○○)〈東筑波郡、南毛野河、西北並新治郡、〉

〔訂正常陸風土記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0052 按白壁郡即今眞壁郡(○○○)也、續日本紀延暦四年、詔改姓白髮部、爲眞髮部、是避光仁

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0053 天皇諱〈◯白壁〉也、據此則郡名亦當時所改也、

〔冠辭續貂〕

〈二於〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0053 大伴の 〈三津〉 高師〈◯中略〉 攝津の風土記に、夢野は【雄伴(ヲトモ)郡】に在と見え、又大和の法隆寺の資財牒に、攝津國雄伴郡宇治郷宇奈五岳壹地と見えたり、和名抄には此郡名なきは、淳和天皇の御諱を大伴と申奉りしかば、大伴氏を伴氏と改めし時、雄伴郡を八田部(○○○)と改ためけん、此事日本後紀、日本逸史等に見えざるは、脱漏なるべし、是よりさきに、桓武の御名を山部と申せしかば、山部氏を山氏と改め、平城の御名をさけて、紀の國の安提郡を在田郡と改め、嵯峨の御名をさけて、伊與の神野郡を新居に改めらるる例也、

移地名

〔古語拾遺〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0053于神武天皇東征之年、〈◯中略〉天富命更求沃壤、分阿波忌部往東土、播殖麻穀、〈◯中略〉阿波忌部所居、便名安房郡、〈今安房國是也〉

〔播磨風土記〕

〈飾磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0053 英保里、〈土中上〉右稱英保者、伊豫國英保村人到來、居於此處、故號英保村、美濃里、〈繼潮〉土下中、右號美濃者、讃伎國彌濃郡人到來居之、故號美濃

〔播磨風土記〕

〈揖保郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0053 大田里、〈土中上〉所以稱大田者、昔呉勝從韓國度來、始到於紀伊國名草郡大田村、其後分來移到於攝津國三島賀美郡大田村、其又遷來於揖保郡大田村、是本紀伊國大田以爲名也、

〔江戸砂子〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0053 三河町 御入國の時、三河の町人に此地に下され、町屋を作ルと也、

地名訛誤

〔日本書紀〕

〈三神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0053 戊午年二月丁未、皇師遂東、舳艫相接、方到難波之碕、會奔潮太急、因以名爲浪速國、亦曰浪華、今謂難波訛、〈訛此云與許奈磨盧〉 四月甲辰、皇師勒兵、歩趣龍田、〈◯中略〉更欲東踰膽駒山、而入中洲、時長髓彦、〈◯中略〉徼之於孔舍衞坂、與之會戰、有流矢、中五瀬命肱脛、〈◯中略〉初孔舍衞之戰、有人隱於大樹而得難、仍指其樹曰、恩如母、時人因號其地、曰母木邑、今云飫悶迺奇訛也、

〔日本書紀〕

〈五崇神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0053 十年九月、天皇〈◯中略〉復遣大彦和珥臣遠祖彦國葺、向山背埴安彦、爰以忌瓮

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0054 於和珥武鐰坂上、則率精兵進登那羅山而軍之、時官軍屯聚而http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001bde4.gif 跙草木、因以號其山那羅山、〈http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001bde4.gif 跙此云布瀰那羅須〉更避那羅山而、進到輪韓河、埴安彦、挾河屯之、各相挑焉、故時人改號其河挑河、今謂泉河訛也、埴安彦望之問彦國葺曰何由矣、汝興師來耶、對曰、汝逆天無道、欲王室、故擧義兵汝逆、是天皇之命也、於是各爭先射武埴安彦、先射彦國葺中、後彦國葺射埴安彦、中胷而殺焉、其軍衆脅退、則追破於河北、而斬首過半、屍骨多溢、故號其處羽振菀、亦其卒怖走、屎漏于褌、乃脱甲而逃之、知免叩頭曰我君、故時人號其脱甲處伽和羅褌屎處曰屎褌、今謂樟葉訛也、又號叩頭之處、曰我君、〈叩頭此云迺務

〔古事記傳〕

〈二十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0054 万葉三に、【燒津】(ヤキツ)邊吾去(ヘワガユキ)しかば、駿河なる、阿倍(アベ)の市道(イチヂ)に、逢し兒等はも、神名式に、駿河國益津郡燒津神社〈今も燒津村と云あり、又野燒村と云もあり、野脇ともいふ、〉和名抄に、同國益頭(○○)〈末志豆〉郡益頭〈万之都〉郷と見え、かの風土記にも、麻賤(マシヅ)郡など書れど、益頭は音を取れる字にて、即燒津なり、〈此事谷川氏も云りき、頭字音を取れゝば、益もヤクの音を轉じて、ヤキに用ひたるなり、然るを麻志豆としも云は、やゝ後に燒と云ことを忌惡みて、其字の訓に唱へ更たる物なるべし、然る例他にもあるなり、〉

地方汎稱

〔日本略記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0054 一四方名之事、京より東を關東(○○)と言、又は東(○)ともいふ、京より南を關南(○○)と言、又は南方(○○)ともいふ、京より西をば、關西(○○)といひ、又は鎭西(○○)ともいふ、又は西國(○○)ともいふ、京より北をば關北(○○)と言、又は北陸(○○)とも又は北地(○○)ともいふ、

〔日本國郡沿革考〕

〈一總説〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0054 按、古時置逢坂關於近江國滋賀郡、稱關以東三十三國、曰關東(○○)、稱國以西三十三國關西(○○)、後及于廢逢坂關、〈日本紀略、延暦十四年、廢近江國相坂剗、〉更稱筥根關以東至常陸之八國關東、或稱坂東(○○)、〈則武藏、相模、安房、上總、下總、常陸、上野、下野之八國也、北條氏據關東、以常陸非其所轄之、另加伊豆、仍以板東八國之、又東鑑卷十七、所謂關東關西者、以五畿及東山東海二道二十八國關東、以北陸山陰山陽南海西海五道三十八國關西、與上文其制、〉今世加之以伊豆、甲斐、出羽、陸奧、四國、稱關東十二國(○○○○○)、或又稱關東筋(○○○)、〈猶道也〉又五畿内及近江、丹波、播磨之八國、稱上方筋(○○○)、或稱五畿内三州(○○○○○)、呼山陽道中國筋(○○○)、南海道稱四國筋(○○○)、西海道稱西國筋(○○○)、或稱九州筋(○○○)、北陸道稱北國筋(○○○)、東海道稱東海道筋(○○○○)、是素俗間所稱之文字、而官府

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0055 亦沿稱之、雖雅馴、遂不強更者、 ◯按ズルニ、逢坂關ハ桓武天皇ノ朝ニ廢シタレドモ、文徳天皇ノ時、復ビ之ヲ置ケリ、尚ホ關ヲ廢置セシ事ハ關篇ニ詳ナリ、參看スベシ、

中洲/邊遠/緑海國

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0055 邊要(ヘンヨウ)〈延喜式、陸奧、出羽、佐渡、隱岐、壹岐、對馬、爲之邊要、〉邊鄙(ヘンヒ)、邊土(ヘンド)、邊境(ヘンキヤウ)、邊陲(ヘンスイ)、邊夷(ヘン井)、

〔令義解〕

〈三賦役〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0055 凡邊遠國(○○○)有夷人雜類〈謂夷者夷狄也、雜類者亦夷之種類也、〉之所、應調役者、隨事斟量、不必同華夏(○○)、〈謂中國(○○)也〉

〔延喜式〕

〈二十二民部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0055 陸奧國、出羽國、佐渡國、隱岐國、壹岐島、對馬島、 右四國二島爲邊要(○○)

〔拾芥抄〕

〈中末本朝國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0055 邊要國(○○○) 陸奧 出羽 佐渡 對馬 多襼 已上四國三島爲邊要之、可式、

〔日本書紀〕

〈七景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0055 五十一年、所神宮〈◯日本武尊奉獻〉蝦夷等、晝夜喧譁出入、無禮、時倭姫命曰、是蝦夷等不就於神宮、則進上於朝庭、仍令置御諸山傍、未幾時、悉伐神山樹、叫呼隣里而脅人民、天皇聞之、詔群卿曰、其置神山傍之蝦夷、是本有獸心、難【中(ウチ)ツ國】、故隨其情願、令邦畿之外、是今播磨、讃岐、伊豫、〈◯伊豫原作伊勢、據一本攺、〉安藝、阿波、凡五國佐伯部之祖也、

〔續日本紀〕

〈九元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0055 養老六年閏四月乙丑、太政官奏曰、迺者邊郡人民暴被寇賊、遂適東西、流離分散、若不矜恤、恐貽後患、是以聖王立制、亦務邊(○)者、蓋以中國(○○)也、望請陸奧按察使管内百姓、庸調浸免、勸課農桑、教習射騎、更税助邊之資、使賜夷之祿

〔續日本紀〕

〈三十六光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0055 寶龜十一年七月丁丑勅、安不危古今通典、宜仰緑海諸國(○○○○)勤令警固、其因幡、伯耆、出雲、石見、安藝、周防、長門等國、一依天平四年節度使從三位多治比眞人縣守等時式、勤以警固焉、又太宰宜同年節度使從三位藤原朝臣宇合時式、 戊子、勅曰、筑紫太宰僻居西海、〈◯中略〉須緑海村邑(○○○○)見賊來過者、當即差使申於國、〈◯下略〉

〔文徳實録〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0055 仁壽二年二月乙巳、參議正四位下兼行宮内卿相模守滋野朝臣貞主卒、〈◯中略〉嘉祥二年春、兼尾張守、于時太宰府吏多不良、衰弊日甚、貞主上表曰、夫太宰府者、西極(○○)之大壤、中國(○○)之領袖也、〈◯下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0056 〈略〉

〔三代實録〕

〈十四清和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0056 貞觀九年五月廿六日甲子、造八幡四天王像五鋪、各一鋪下伯耆、出雲、石見、隱岐、長門等國、下知國司曰、彼國地在西極堺(○○○)、近新羅警備之謀、當他國、宜命尊像勤誠修法調伏賊心却灾變、仍須擇地勢高敝、瞼瞰賊境之道場、若素无道場、新擇善地、建立仁祠、安置尊像、〈◯下略〉

〔類聚三代格〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0056 太政官符 應諸國弩師秩限一准史生事 右得式部省解偁、撿案内、弩師之興始邊要、陸奧、出羽、太宰府、及壹岐、對馬島〈◯島原脱、據一本補、〉皆准史生五年、伯耆隱岐二國亦准史生四年、而因幡出雲長門等國、偏依〈◯依原脱、據一本補、〉國解徒限六年、伏尋物情、陸奧出羽之在絶遠(○○)尚限五年、因幡出雲之居中國(○○)何得六年、求之物情竊所安、〈◯中略〉 元慶二年二月三日

〔釋日本紀〕

〈八述義〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0056 天日隅宮〈◯中略〉 答、陰陽二神生大八洲之時、最初生大日本豐秋津洲、此今大倭國者、日本之中洲(○○)也、然則雖神代大倭國中國(○○)、仍雲州依西北之隅、定其方角耳、

東國/西國

〔日本書紀〕

〈五崇神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0056 四十八年正月戊子、天皇勅豐城命、活目尊曰、汝等二子慈愛共齊、不曷爲一レ嗣、各宜夢、朕以夢占之、二皇子於是被命、淨沐而祈寐、各得夢也、曾明兄豐城命以夢辭于天皇曰、自登御諸山、向東而八廻弄槍、八廻擊刀、〈◯中略〉則天皇相夢謂二子曰、兄則一片向東、當東國(○○)、弟是悉臨四方、宜朕位

〔古事記〕

〈中景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0056 倭建命、〈◯中略〉幸于東國、悉言向和平山河荒神及不伏人等

〔今昔物語〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0056 京住女人依地藏助活語第廿八 今昔、京ノ大刀帶町ノ邊ニ住ケル女有ケリ、本者東國(○○)ノ人也、〈◯下略〉

〔元亨釋書〕

〈十感進〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0057 釋増賀、平安城人諫議大夫橘恒平之子也、誕質後數月、父母赴東州(○○)

〔後撰和歌集〕

〈十五雜〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0057 小野好古の朝臣、西の國(○○○)のうての使に罷りて、二年といふ年、四位には必まかりなるべかりけるを、さもあらずなりにければ、かヽる事にしもさヽれにける事の、安からぬ由を憂へ送りて侍りける文の返事の裏に、かきつけ 遣はしける、 源公忠朝臣〈◯歌略〉

坂東/坂西

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0057 坂東(バントウ)〈又云關東〉坂西(バンセイ)〈又云關西〉

〔令義解〕

〈七公式〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0057 凡朝集使、東海道坂東(○○)、〈謂駿河與相模界坂也〉東山道山東(○○)、〈謂信濃與上野界山也◯下略〉

〔小右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0057 寛弘二年十二月廿一日乙未、左大臣申云、如今常寧殿被許宜歟、〈◯中略〉仍配宛國々多以不足、至坂東(○○)已弊國、不敢宛者〈◯下略〉

〔官職秘抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0057 諸國〈◯中略〉 掾〈◯中略〉 内舍人任坂東(○○)、諫弓馬之故也、文章生任北陸西海、練文法蕃客也、

〔續日本紀〕

〈二十二淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0057 天平寶字三年八月庚寅、遷坂東八國(○○○○)并越前、能登、越後四國浮浪人二千人、以爲雄勝柵戸

〔太平記〕

〈十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0057 本間孫四郞遠矢事 本間弓杖ニスガリテ、其身人數ナラヌ者ニテ候ヘバ、名乘申共誰カ御存知候ベキ、但弓箭ヲ取テハ、坂東八箇國ノ兵ノ中ニハ名ヲ知タル者モ御座候ラン、〈◯下略〉

〔平家物語〕

〈十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0057 大さかごえの事 判官、また坂西(○○)の近藤六ちか家を召て、八島には平家の勢いか程有ぞと問給へば、千ぎにはよも過候はじと申す、

關東/關西

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0057 關西(クハンゼイ)〈坂西、鎭西、並同、〉關東(クハントウ)、〈關左、坂東、並同、〉

〔屠龍工隨筆〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0057 關の東(○○○)とは逢坂より東を云、關東(○○)とは足からより東を云ふならん、

〔三代實録〕

〈三十四陽成〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 元慶二年九月廿九日辛酉、夜地震、是日關東諸國(○○○○)地大震裂、相模武藏特爲尤甚

〔吾妻鏡〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 治承五年〈◯養和元年〉正月五日壬子、關東(○○)健士等廻南海花洛之由風聞、

〔吾妻鏡〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 建仁三年八月廿七日壬戌、將軍家御不例、縡危急之間、有御讓補沙汰、以關西三十八箇國(○○○○○○○)地頭職、被舍弟千幡君、〈十歳〉以關東二十八箇國(○○○○○○○)地頭并總守護職、被御長子一幡君、〈六歳〉

〔太平記〕

〈十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 諸將被早馬於船上事 勘解由次官光守、諫言ヲ以テ被申ケルハ、〈◯中略〉賤キ諺ニ、東八箇國(○○○○)ノ勢ヲ以テ、日本國ノ勢ニ對シ、鎌倉中ノ勢ヲ以テ、東八箇國ノ勢ニ對ストイヘリ、

〔建武年間記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058決斷所沙汰條々〈◯中略〉 一關東十ケ國(○○○○○)成敗事〈◯中略〉 已上被決斷所

〔北條五代記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 小田原北條家旗馬じるしの事 見しは昔、北條氏直公時代、關八州(○○○)の武士の旗、家々に傳ふる紋をあらはし、さし物は其身一代にかはると見えたり、

〔南方紀傳〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 南帝興國元年北朝暦應三年二月下旬、一品親房於常陸國小田城職原抄二卷、奉獻吉野行宮、〈◯中略〉素雖廣才大智、今在東關(○○)逆旅、〈◯下略〉

吾妻國

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 東(アヅマ)、〈從合坂關以東都稱東〉吾妻(同)〈義同上、日本武尊登碓氷峠、慕橘媛之故事、見日本紀、〉邊鄙(同)〈西京賦註、邊邑也、〉

〔日本書紀〕

〈七景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 四十年十月癸丑、日本武尊發路之、〈◯中略〉於是日本武尊曰、蝦夷凶首咸伏其辜、唯信濃國、越國、頗未化、則自甲斐北轉、歴武藏、上野、西逮于碓日坂、時日本武尊、毎有弟橘媛之情、故登碓日嶺、而東南望之、三歎曰、吾嬬者耶(アガツマハヤ)、〈嬬此云莵摩〉故因號山東諸國、曰【吾嬬國】(○○○/アヅマ)

〔常陸國風土記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 常陸國司解申、古老相傳舊聞事、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0059國郡舊事、古老答曰、古者自相模國足柄岳坂、以東諸縣、總稱【我姫國】(○○○/アヅマ)、〈◯下略〉

〔萬葉集〕

〈三雜歌〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0059筑波岳丹比眞人國人作歌一首并短歌 【雞之鳴東國】爾(トリガナクアヅマノクニニ)、高山者(タカヤマハ)、左波爾雖有(サハニアレドモ)、明神之(フタガミノ)、貴山乃(タフトキヤマノ)、儕立乃(ナミタチノ)、見果石山跡(ミガホシヤマト)、神代從(カミヨヨリ)、人之言嗣(ヒトノイヒツギ)、國見爲(クニミスル)、筑羽乃山矣(ツクバノヤマヲ)、冬木成(フユゴモリ)、時敷時跡(トキジクトキト)、不見而往者(ミズテイナバ)、益而戀石見(マシナコヒシミ)、雪消爲(ユキゲスル)、山道尚矣(ヤマミチスラヲ)、名積叙吾來前二(ナヅミゾワガコシ)、

〔萬葉集〕

〈九挽歌〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0059勝鹿眞間娘子歌一首并短歌 鷄鳴(トリガナク)、【吾妻乃國】爾(アヅマノクニニ)、古昔爾(イニシヘニ)、有家留事登(アリケルコトト)、至今(イママデニ)、不絶言來(タエズイヒクル)、勝壯鹿乃(カツシカノ)、眞間乃手兒奈我(マヽノテコナガ)、〈◯下略〉

〔萬葉集〕

〈十二古今相聞往來歌〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0059別歌〈◯中略〉 氣緒爾(イキノヲニ)、吾念君者(アガモフキミハ)、鷄鳴(トリガナク)、【東方】坂乎(アヅマノサカヲ)、今日可越覽(ケフカコユラム)、

〔冠辭考〕

〈六登〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0059 とりがなく 〈あづま〉 萬葉集卷二に、〈人麻呂〉鳥之鳴(トリガナク)、吾妻乃國之(アヅマノクニノ)、卷三に、〈筑波山の歌〉鷄之鳴(トリガナク)、東國爾(アヅマノクニニ)、卷二十に登利我奈久(トリガナク)、安豆麻乎能故波(アヅマヲノコハ)云々、〈猶多し〉こは鷄は夜のあか時になく故に、明(アカ)といひかけたる也、いかにぞなれば、古事記に、倭建命還上幸時、到足柄之坂本云云、〈紀には碓氷坂とす〉登立其坂、三歎、詔云阿豆麻波夜、故號其國阿豆麻也といへり、この阿豆麻を景行紀には吾妻と書、仁賢紀には吾夫を訓て阿我圖摩(アガツマ)ともあれば、阿豆麻の阿は阿賀(アガ)を略きていふ也、然れば鷄が鳴あと一語にかヽれる如くなれど、實は吾(アガ)てふもとの語によりて、明(アカ)といひかけたる也けり、本語によりてつヾけたりとみゆる類は、前にも後にも擧たり、且吾(アガ)と明(アカ)と清濁を嫌はぬこと、既にいへる妹爾戀明すてふを、吾能松原(アゴノマツハラ)にいひかけ給へるが如し、

〔伊勢物語〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0059 むかし男有けり、京に有わびて、あづま(○○○)にいきけるに、いせおはりのあはひの海づらをゆくに、なみのいとしろくたつをみて、〈◯歌略〉

〔古今和歌集〕

〈八離別〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0059 友の吾妻(○○)へまかりける時によゆる 良峯ひでをか 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0060 白雲のこなたかなたにたち別れ心をぬさとくだく旅かな

〔玉葉和歌集〕

〈八旅〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0060 小一條左大臣藏人頭に侍りける時、東(○)へ下る女に、櫛の筥鏡など送りて侍りけるに、よみてつかはしける、 讀人しらず〈〇歌略〉

〔今昔物語〕

〈二十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0060 大江匡衡和琴讀和歌語第五十二 今昔式部大夫大江匡衡ト云人有キ、〈◯中略〉匡衡ヲ呼テ女房共和琴ヲ差出シテ、万ノ事知リ給ヘルナレバ、此レヲ彈キ給ラム、此レ彈給ヘ聞カムト云ケレバ、匡衡其ノ答ヘヲバ不云シテ、此ナム讀懸ケル、 アフサカノ關ノアナタモマダミ子バアヅマ(○○○)ノコトモシラレザリケリ

奧羽

〔奧羽永慶軍記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0060 奧州兵亂之起ノ事 東照大權現宮ノ御代ト成テ、永ク御政務正シク、奧羽(○○)ノ二州モ靜謐ニ治リ、江府ニ從ヒ奉ラズトイフ事ナシ、

〔憲法類編〕

〈十國郡府縣〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0060 奧羽兩國ヲ七國ニ分國ノ事 戊辰〈◯明治元年〉十二月七日御布告 ◯按ズルニ、此ニ掲クル布告ノ全文ハ、陸奧國篇建置沿革條ニ載ス、

北國

〔平家物語〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0060 飛きやくたうらいの事 鎭西の者共、〈◯中略〉一向平家をそむいて源氏に同心の由申たりければ、平家の人々、東國北國(○○)のそむくだに有に、〈◯下略〉

〔續應仁後記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0060 紀州兵亂事附畠山卜山禪門病死事 今茲天文三年ノ春三月、當國ノ住人野邊(ノンヘ)六郞左衞門ト云者、是モ卜山命ニ叛ク、卜山禪門大ニ怒テ、此野邊ヲモ沒收シテ北國(○○)エ改易スベシト議セラル、

中國

〔太平記〕

〈二十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0061 直冬西國下向事 左兵衞督〈◯足利直義、中略、〉備後ノ鞆ニ座シ給テ、中國(○○)ノ成敗ヲ司ドルニ、〈◯下略〉

〔武家名目抄〕

〈職名二十七上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0061 長門探題〈又稱中國探題〉 見聞雜録云、兼ては禁中より、信長方被仰下候は、天下の支配いたし候共、中國十六ケ國(○○○○○○)の儀は、毛利家を以て探題とすべし、〈◯下略〉

四國

〔運歩色葉集〕

〈志〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0061 四國(○○)〈阿波 讃岐 伊與 土佐〉

〔書言字考節用集〕

〈十數量〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0061 本朝四國(ホンテウノシコク)〈阿波、讃岐、伊豫、土佐、〉

〔古事記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0061 次生伊豫之二名島(○○○○○○)、此島者身一而有面四、毎面有名、故伊豫國謂愛〈上〉比賣、〈此三字以音、下效此也、〉讃岐國謂飯依比古、粟國謂大宜都比賣、〈此四字以音〉土佐國謂建依別

〔今昔物語〕

〈三十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0061四國邊地僧行不知所被成馬語第十四 今昔、佛ノ道ヲ行ケル僧三人伴ナヒテ、四國ノ邊地ト云ハ、伊豫、讃岐、阿波、土佐ノ海邊ノ廻也、其ノ僧共其ヲ廻リケルニ、思ヒ不懸ズ山ニ踏入ニケリ、

〔玉葉和歌集〕

〈二十神祇〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0061 そのかみよりつかうまつりなれけるならひに、世を遁れて後も、賀茂の社に參りけるを、年たかくなりて、四國のかたへ修行しけるが、又歸りまゐらぬこともやとて、仁安三年十月十日夜、參りて幣まゐらすとて、たなをの社のもとにて、靜かに法施奉りける程、木の間の月ほの〴〵にて、常よりも神さびあはれに覺え侍りければ、 西行法師〈◯歌略〉

〔吾妻鏡〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0061 元暦二年〈◯文治元年〉三月九日壬辰、熊野別當湛増、依廷尉〈◯源義經〉引級追討使、去比渡讃岐國、今又可九州之由有其聞、四國(○○)事者義經奉之、九州事者範頼奉之處、更又被然之輩、匪啻失身之面目、似他之勇士、人之所思尤爲恥云云、

九州

〔和爾雅〕

〈一地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0061 西海道九箇國〈損軒曰、此稱鎭西、又稱九州、或稱筑紫、〉

〔文徳實録〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0062 仁壽二年二月乙巳、參議正四位下兼行宮内卿相模守滋野朝臣貞主卒、〈◯中略〉嘉祥二年春、兼尾張守、于時太宰府吏多不良、衰弊日甚、貞主上表曰、夫太宰府者、西極之大壤、中國之領袖也、東以長門關、西以新羅拒、加以九國二島(○○○○)、郡縣闊遠、自古于今以爲重鎭、〈◯下略〉

〔榮花物語〕

〈五浦々の別〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0062 そのおりの大貳〈◯大宰〉は有國朝臣なり、〈◯中略〉御せうそこ我子のよしなりして申させたり、思がけぬかたにおはしましたるに、京のこともおぼつかなく、おどろきながら參りさぶらふべきに、九國(○○)の守にさぶらふ身なれば、さすがに思のまヽにえまかりありかぬになむ、〈◯下略〉

〔安西軍策〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0062 惠林院義稙卿頼大内義興事 義稙卿ハ鞆ニテ改行年ヲ越給ヘバ、九國(○○)ヨリ大友、菊池、龍造寺、小田、島津、伊藤、星野、松浦、相良、宗像已下、打連々々舞ニ取乘、春風ニ得意、鞆浦ニ著ニケル、

〔川角太閤記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0062 一越中の國佐々内藏助、秀吉は四國九國(○○)えとり出すなれば、定隙入可有と油斷可仕なり、

〔書言字考節用集〕

〈十數量〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0062 九州(キウシウ)〈筑前後、肥前後、豐前後、薩摩、大隅、日向、〉

〔吾妻鏡〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0062 元暦二年〈◯文治元年〉三月九日壬辰、熊野別當湛増、依廷尉〈◯源義經〉引級追討使、去比渡讃岐國今又可九州(○○)之由有其聞

〔簾中抄〕

〈下諸國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0062 西海道〈九國二島〉筑紫(○○)と云、又鎭西、

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0062 筑紫(ツクシ)〈西海道都謂之筑紫、又云九州、事見風土記、〉

〔釋日本紀〕

〈五述義〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0062 筑紫洲 私記曰、問、此號若有意哉、答、先儒之説有四義、一云、此地形如木兎之體、故名之也、木兎、鳥之名、此云都久、二〈◯二下恐脱云字〉公望案、筑後國風土記云、筑後國者、本與筑前國合爲一國、昔此兩國之間、山有峻狹坂

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0063 往來之人所駕鞍韀被摩盡、土人曰鞍韀盡之坂、三云、昔此堺上有麁〈◯麁原作庶、據一本攺、〉猛神、往來之人、半生半死、其數極多、因曰人命盡神、于時筑紫君肥君等占之、今筑紫君等之祖甕依姫爲祝祭之、自爾以降、行路之人不神害、是以曰筑紫神、四云、爲其死者、伐此山木作棺輿、因茲山木欲盡、因曰筑紫國、後分兩爲前後

〔日本釋名〕

〈上地名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0063 【筑紫】(ツクシ) 筑後國風土記に、つくしに四義あり、一義は其國形木兎(ツク)に似たる故也、其餘の三義は皆盡の意、詞林采葉抄曰、凡九州をつくしと名つくるは、此島の形木兎に似たり、紫は島と云詞也、よつてつくしまと云也、萬葉仙覺抄の意も亦同じ、篤信おもへらく、九州のかたち木兎(ツク)に似たれば、九州をすべてつくしと名付しとはいふかし、筑紫とははじめ筑前筑後一國なりし時、一國にかぎりて名付し名なれば、はじめより九州に名づけし名にはあらず、後に筑前に太宰府立し故に、官府ある國をとりて、九州をすべて筑紫といへる也、又此島のかたち木兎(ツク)に似たりと云事しかるべしとも思ひ侍らず、今九州の總圖を見るに、木兎に似たりとも見えず、古人の説はさだめて道理あるべし、されども今わが淺見よりみれば、是其義を得ずして、みだりにつくり出せし詞のやうに聞え侍べる、ひそかにおもふに、いにしへ異國より賊兵の襲來をふせがんとて、筑前の北海の濱に石垣を多くつかせらる、其故につく石(イシ)といへる意なるを、略してつくしと云なるべし、〈◯中略〉むかし筑前筑後一國にて、これを筑紫と云、後にわかれて筑前筑後となる、つくちく音通ず、且つくは訓なれど、筑にちくの音あり、筑前太宰府に官府有しゆへに、九州をすべて筑紫と名づけし事、大和に都ありし故、大和を日本の總名とせしがごとし、〈◯下略〉

〔秦山集〕

〈雜著二十三甲乙録九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0063 重遠謂、築石訓甚佳、然恐亦傳會耳、若上世異國賊兵屢侵、不何證、堂堂神國豈容異賊侵一レ之乎、中古置防人於筑紫、亦備萬一不虞耳、文永年中、我國衰微、胡元猖獗、各極其至、而尚賊兵無噍類、此皆我神國之餘威也、損軒欲築石之訓、誣言上世異賊屢侵、豈不衊我神國乎、且若

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0064 日本釋名所引仲哀帝事、謬妄特甚矣、不惟擧之口、又筆之書悲夫、古傳所謂筑紫國形似木莵、猶日本國形似蜻蛉(アキツ)、蓋太古一種比興之稱、亦我國優豔之俗也、此比損軒傷國體之訓、自不典雅、恐不妄謬上レ之、

〔古事記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0064是伊邪那岐命〈◯中略〉伊邪那美命〈◯中略〉御合〈◯中略〉次生筑紫島(○○○)、此島亦身一而有面四、毎面有名、故筑紫國謂白日別(シラビワケ)、豐國謂豐日別、肥國謂建日向日豐久士比泥別(タケヒマカヒヒトヨクジヒネワケ)〈自久至泥以音〉熊曾國謂建日別、〈曾字以音〉

〔古事記傳〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0064 筑紫(ツクシ)島、萬葉廿〈二十八丁〉に、都久之乃之麻(ツクシノシマ)とあり、これも伊余の如く、もと一國の名より出て、四國(ヨクニ)〈筑紫、豐國、肥、熊曾、〉の總名(スベナ)にはなれるなり、此島後に西海道〈北山抄云西之道(ニシノミチ)〉と云ヒ九國となる、〈俗に九州と云〉有面四とは、筑紫(ツクシ)ノ國と豐國(トヨクニ)と肥(ヒ)ノ國と熊曾(クマソ)ノ國と四ツなり、〈◯下略〉

〔拾遺和歌集〕

〈六別〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0064 筑紫へ下りける道にて 重之 舟路には草のまくらもむすばねばおきながらこそ夢も見えけれ

〔伊呂波字類抄〕

〈知國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0064 鎭西(○○)〈筑紫〉

〔保元物語〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0064 新院御所各門々堅事附軍評定事 抑爲朝〈◯中略〉父不孝シテ十三ノ歳ヨリ鎭西ノ方ヘ追下スニ、豐後國ニ居住シ、〈◯中略〉君ヨリモ給ラヌ九國ノ總追補使ト號シテ、筑紫ヲ隨ヘントシケレバ、〈◯下略〉

〔平家物語〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0064 飛きやくたうらいの事 明る十二日、鎭西よりひきやくたうらい、うさの大宮司公道が申けるは、鎭西の者共、〈◯中略〉一向平家をそむいて、源氏に同心の由申たりければ、平家の人々、東國北國のそむくだに有に、西國(○○)さへこはいかにとて、手を打てあざみあはれけり、〈◯下略〉

〔太平記〕

〈十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0064 西國蜂起官軍進發事 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0065 去程一將軍筑紫ヘ沒落シ給シ刻、四國西國ノ朝敵共、氣ヲ損ジ度ヲ失テ、或ハ山林ニ隱レ、或ハ所縁ヲ尋テ、新田殿ノ御教書ヲ給ラヌ人ハ無リケリ、〈◯下略〉

〔元亨釋書〕

〈五慧解〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0065 釋覺鑁、姓平氏、肥之前州人、〈◯中略〉鑁因幹事西州(○○)

畿内

〔簾中抄〕

〈下諸國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0065 五畿内〈五ケ國〉きない(○○○)といふ

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0065 畿内(キナイ)〈畿與圻同、韵略、天子寰内地、毛詩註、王者所居地、方千里謂之王畿、〉

〔北山抄〕

〈三拾遺雜抄〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0065 讀奏事 畿内〈宇治都久仁(○○○○○)〉

〔諸國名義考〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0065 畿内 日本書紀孝徳天皇卷に、凡畿内東自名墾横河以來、南自紀伊兄山以來、西自赤石櫛淵以來、北自近江狹々波合坂山以來、爲畿内國とあり、訓法は北山抄に、宇治都久仁(ウチツクニ)とありさて民部省圖帳には、五畿【垣内】(カキツ)とあり、畿と云るは、田令に凡畿内云々、義解に謂畿猶壃也、言王畿之内也と見えたり、詩商頌玄鳥之篇曰、邦畿千里惟民所止、また東陽許氏曰、王者所居、地方千里謂之王畿、居天下之中、また文選注天子居千里京畿、また刑法志曰、同十爲封、封十爲畿、畿方千里などいへる外國の號を假用させ給へるなり、

〔令義解〕

〈三田〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0065 凡畿内置官田〈謂畿猶壃也、言王畿之内、〉大和攝津各卅町、河内山背各廿町、

〔日本書紀〕

〈五崇神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0065 十年十月乙卯朔、詔群臣曰、今反〈◯反原作返、據一本攺、〉者悉伏誅、畿内(ウチツクニ)無事、唯海外荒俗騷動未止、其四道將軍等、今忽發之、

〔日本書紀〕

〈二十五孝徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0065 大化二年正月甲子朔、賀正禮畢、即宣改新之詔曰、〈◯中略〉其二曰、初修京師、置畿内(ウチツクニ)國司、郡司、關塞、斥候、防人、驛馬傳馬及造鈴契、定山河、〈◯中略〉凡畿内、東自名墾横河以來、南自紀伊兄山以來、〈兄此云制〉西自赤石櫛淵以來、北自近江狹々波合坂山以來爲畿内國

〔古事記傳〕

〈二十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0066 孝徳ノ卷に畿内の定め見えて、〈此は後の定めとは、其界限(カギリ)いさゝか異なることありき、又此より前、崇神ノ卷仁徳ノ卷、欽明ノ卷などにも、畿内と云ことは見えたれども、其はたゞ文のみなり、〉持統ノ卷に、四畿内と云こと處々に見え、〈こは後の五畿内と同じ、當昔河内和泉は一國なればなり、◯下略〉

〔日本書紀〕

〈三十持統〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0066 六年四月庚子、除四畿内(○○○)百姓爲荷丁者今年調役

〔續日本紀〕

〈二文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0066 大寶二年十二月乙巳、太上天皇〈◯持統〉不豫、大赦天下、度一百人出家、令四畿内(○○○)講金光明經、 ◯按ズルニ、四畿内ハ大倭、河内、難波、山背ノ四國ナリ、

〔續日本紀〕

〈八元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0066 養老五年三月癸丑、勅曰、〈◯中略〉其左右兩京、及畿内五國(○○○○)、並免今歳之調、〈◯下略〉 ◯按ズルニ、是ヨリ先、靈龜二年、始テ和泉監ヲ置ク、因テ畿内五國ノ稱アリ、後聖武天皇ノ天平十二年、和泉監ヲ河内國ニ併合シテ、復タ四畿内ト稱ス、事ハ分割國條ニ詳ナリ、宜シク參看スベシ、

〔續日本紀〕

〈二十孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0066 天平寶字元年四月辛巳、是日、遣内舍人藤原朝臣薩雄、中衞二十人、迎大炊王、立爲皇太子、勅曰〈◯中略〉又東大寺匠丁、造山陵司役夫、及左右京、四畿内(○○○)、〈◯中略〉紀伊等國兵士〈◯中略〉並免今年田租、 五月乙卯、勅曰、〈◯中略〉其能登、安房、和泉(○○)等國依舊分立(○○○○)、 ◯按ズルニ、是ヨリ後永ク五畿内ト稱スルニ至レリ、

〔續日本紀〕

〈二十四淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0066 天平寶字七年正月戊午、詔曰、〈◯中略〉役使造宮、左右京、五畿内(○○○)、及近江國兵士等、寶字六年田租並免之、

〔延喜式〕

〈二十二民部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0066 畿内 山城國上〈◯郡名略、下同、〉 大和國大 河内國大 和泉國下 攝津國上

〔扶桑略記〕

〈三十白河〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0066 應徳三年十月廿日甲辰、公家近來九條以南鳥羽山莊新建後院、〈◯中略〉五畿七道六十餘州(○○○○○○○○)皆共課役、堀池築山、自去七月于今月、其功未了、洛陽營々无於此矣、

〔法然上人行状畫圖〕

〈三十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0067 おりしも最勝四天王院供養に、大赦ををこなはれけるに、その御沙汰ありて、同年〈(建永二年)十月二十五日攺元、承元元年なり、〉十二月八日勅免の宣旨をくだされけり、かの状云、太政官符 土佐國司 流人藤井元彦 右正三位行權中納言兼右衞門督藤原朝臣隆衡宣奉勅、件の人は、二月廿八日事につみして、かの國に配流、しかるをおもふところあるによりて、ことにめしかへさしむ、但よろしく幾の内(○○○)に居住して、洛中に往還する事なかるべし者、國よろしく承知して、宣によりてこれををこなへ、符到奉行、 承元元年十二月八日 左大史小槻宿禰

七道

〔伊呂波字類抄〕

〈見地儀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0067 道〈ミチ、七道(○○)、東海道、東山道、南海道、西海道、北陸道、山陰道、山陽道、〉

〔古事記傳〕

〈二十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0067 抑畿外を都て七道と分ち、又其名どもを定められたるも、何れの御世と云こと詳ならず、按に孝徳天智ばかりの御世にもやありけむ、孝徳紀二年に、畿内の疆を定められしことは見えたれども其處にも、七道のさたは見えずして、同年の文に、東方八道とあるは、なほ上代の稱格(イヒザマ)なれば、是時いまだ都てを分て七道とせる制(サダマ)りは無かりしこと知られたり、然るに彼紀の此御卷〈◯崇神〉にしも、東海北陸などあるは、後に出來たる名を以て、記されたる物にして、當昔の名には非ず、此記に東方十二道、高志道などあるぞ、古の稱(ナ)にはありける、又景行紀に、東山道とあるも同じことなり、凡て孝徳紀より前にかヽる名どもの見えたるは、後のを以て記されたるものぞ、成務紀に、山陽山陰とあるは、何地にまれ山ノ南山ノ北と云ことにして、山陽道山陰道を云るには非ず、さて七道と云ことは、文武紀に始めて見えたり、

〔古事記傳〕

〈二十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0067 さて天ノ下の國々の分屬(キザミ)の、古書に見えたるは、水垣ノ宮〈◯崇神〉段に、高志(コシ)ノ道、〈後の北陸道な〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0068 〈り〉東方十二道(ヒンカシノカタノトヲマリフタミチ)〈日代ノ宮ノ(景行)段にも見ゆ、東海道なり、十二は國の數ぞ、〉書紀ノ同御卷に、北陸東海(クガノミチウミツミチ)、〈崇峻ノ卷に北陸道東海道と見ゆ〉西道(ニシノミチ)〈山陽道なり〉また四道(ヨツノミチ)〈古の北陸東海西道と丹波となり〉景行ノ卷に、東山道(ヒムカシノヤマミチ)十五國など見え、〈◯中略〉天武ノ卷に、山陽(カゲトモノ)道、山陰(ソトモノ)道、〈成務卷に、山陽山陰とあるは、此二道を云るに非ず、〉又東海、東山、山陽、山陰、南海、筑紫と六道並(ナラビ)て見え、〈此に北陸の入ラざるはいかなることにか〉文武紀に、七道と見えたり、〈◯下略〉

〔令集解〕

〈三十四公式〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0068 凡朝集使東海道坂東、〈謂駿河與相模界坂也、釋云、須流河與桑花(桑花恐桑美誤即相模)界内、〉東山道〈跡云奈加津道(○○○○)〉山東、〈謂信濃與上野界山也、釋云、科野與上毛野界山、〉北陸道〈跡云北道(○○)〉神濟〈謂越中與越後界河也、釋云、高志道中、與道後界、〉以北、山陰道〈跡云、影友(○○)、〉出雲以北〈古記云、問山陰道從誰國驛、答從出雲乘限、〉山陽道〈跡云跡止毛(○○○)〉安藝以西、南海道土左等國、〈穴云、於南海道只土左國乘驛耳、〉及西海道皆乘驛馬、自餘各乘當國馬

〔北山抄〕

〈三拾遺雜抄〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0068 讀奏事 東海道、〈宇女都美千、又宇倍都道、〉東山道、〈山乃道、又東乃道、〉北陸道、〈久奴加乃道〉山陰道、〈曾止毛乃道、舊説、加介止毛乃道、〉山陽道、〈加介止毛乃道、舊説、曾止毛之道、〉南海道、〈南乃道〉西海道、〈西乃道〉

〔古事記〕

〈中崇神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0068 又此之御世、大毘古命者遣高志道(○○○)、其子建沼河別命者遣東方十二道(○○○○○)而、令平其麻都漏波奴〈自麻下五字以音〉人等

〔日本書紀〕

〈五崇神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0068 十年九月甲午、以大彦命北陸(○○)、武渟川別遣東海(○○)、吉備津彦遣西道(○○)丹波道主命遣丹波

〔古事記〕

〈中景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0068 爾天皇亦頻詔倭建命、言向和平東方十二道(○○○○○)之荒夫琉神、及摩都樓波奴人等而、〈◯下略〉

〔日本書紀〕

〈七景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0068 五十五年二月壬辰、以彦狹島王東山道十五國(○○○○○○)都督、是豐城命之孫也、

〔日本書紀〕

〈二十一崇峻〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0068 二年七月壬辰朔、遣近江臣滿於東山道(○○○)、使蝦夷國境、遣完人臣鴈於東海道(○○○)、使東方濱海諸國境、遣阿倍臣於【北陸(クヌカ)道】、使觀越等諸國境

〔日本書紀〕

〈二十九天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0068 十四年七月辛未、詔曰、東山道(○○○)美濃以東、東海道(○○○)伊勢以東諸國有位人等並免課役

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0069  九月戊午、直廣肆都努朝臣牛飼爲【東海】(ウミツミチノ)使者、直廣肆石川朝臣虫名爲【東山】(ヤマノミチノ)使者、直廣肆佐味朝臣少麻呂爲【山陽】(カゲトモノミチノ)使者、直廣肆巨勢朝臣粟持爲【山陰】(ソトモノミチノ)使者、直廣參路眞人迹見爲【南海】(ミナミノミチノ)使者、直廣肆佐伯宿禰廣足爲筑紫(○○)使者、各判官一人、史一人巡察國司郡司及百姓之消息

〔扶桑略記〕

〈五天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0069 十五年八月、七道(○○)諸國遣巡察使

〔續日本紀〕

〈三文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0069 大寶三年正月甲子、遣正六位下藤原朝臣房前于東海道、從六位上多治比眞人三宅麻呂于東山道、從七位上高向朝臣大足于北陸道、從七位下波多眞人余射于山陰道、正八位上穗積朝臣老于山陽道、從七位上小野朝臣馬養于南海道、正七位上大伴宿禰大沼田于西海道、道別録事一人、巡省政績、申理寃枉

國/名稱

〔類聚名義抄〕

〈七口〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0069 國〈古或反、クニ、和コク、〉

〔同〕

〈六邑〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0069 邦〈百江反 クニサ カヒ〉

〔段注説文解字〕

〈六篇下口〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0069 國邦也〈邑部曰、邦國也、按邦國互訓渾言之也、周禮注曰、大曰邦、小曰國、邦之所居亦曰國、析言之也、〉从口从或〈戈部曰、或邦也、古或國同用邦、封同用、古惑切一部、〉

〔伊呂波字類抄〕

〈久地儀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0069 國〈クニ列反〉 邦〈古文作時〉 縣〈巳上同〉

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0069 邦(クニ) 國(同) 州(同)、 域(同) 圀(同)〈代酔、唐武后命宗秦客、所製國字、又見五雜組、韵會、〉國土(コクド)

〔日本釋名〕

〈上地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0069 國 上古の自語なるべし、一説に、いにしへは郡邑をも、くにと云事、日本紀に多し、吉野のくに、難波のくになどいへり、郡の音を用てくにといへるなるべし、こゑを訓とせしためしおほし、錢をせにと訓じ、蘭をらにと訓ぜし類なり、

〔東雅〕

〈三地輿〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0069 國クニ 義不詳、古語にはクムとも、クモとも、またクともいひけり、皆其語の轉ぜしにて、上世には天(アメ)に對しいふには、必ずクニをもて稱せし事、たとへば漢に天地と云ひしが如くにぞありける、〈前にしるせし地の條に詳なり〉 舊事古事等の記に、陰陽二神、國土を生成さむ事を相議りたまひし事をしるされ、國土の字讀て、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0070 クニツチといひしを、日本紀には國土の字を改めて、州國の字を用ひられ、讀てクニツチといふは舊事古事等の記に同じ、さらば國(クニ)とは猶土(ツチ)といふ義の如くなりと見えたり、又國と云ひしは分界の義ありとも見えたり、〈前に註せし事の如く、古語に分界の事をクマリといひけり、クニといひ、クムといひ、クモといふが如きは、クマリといふ詞の轉じたるなり、〉たとへば舊事古事等の記に、伊豫二名島といふ、此島は、身一而有面四、毎面有名としるされて、伊豫國、讃岐國、阿波國、土佐國等の名を分ちしるされ、又筑紫洲、亦謂身一而面四、毎面有一レ名としるされて、筑紫國、豐國、肥國、日向國等の名を分ちしるされしが如き是也、さらば天(アメ)といひ、國(クニ)といひしも、一島の内にして、國相分れしも、皆是分界の義あるに似たり、〈或説に、國をクニといふは、郡の字の音の轉ぜし也といふなり、我國ひらけ始りし時に、國常立、國狹土、豐國主等の神おはしませしと見えたり、それらの時に、郡の字の音轉じて、クニといふ詞の如き出來りたらむとも思はれず、凡國郡の名義は別に記せし者あれば、こゝには注せず、〉

〔倭訓栞〕

〈前編八久〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0070 くに 邦國をよめり、與をくみとよめる意にて、相與する土地をいへるにや、神代紀に六合をよめり、八島國とよむも同意也、日本紀萬葉集などに郡、縣、郷、邑をくにといひしもの多しといへり、

〔古事記傳〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0070 師〈◯賀茂眞淵〉の久爾都知(クニツチ)の考を見れば、なほ阿米都知(アメツチ)ぞ古言なりける、彼考に云く、久爾(クニ)と云名は限(カギリ)の意なり、東國にて垣(カキ)を久禰(クネ)と云にて知べし、〈◯中略〉地(ツチ)は天と等しく廣く、國(クニ)は限リあれば狹きに似たり、〈◯中略〉さて久爾(クニ)は限リの意ぞと云フ由は、天照大御神月讀命は、天の日夜(ヒルヨル)を分ちしろしめすなるを、須佐之男命の天に上りたまふ時に、欲我國と天照大御神の詔ひ、月讀命は所知夜食國と皇祖神の詔ひ、又須佐之男命は所知セ海原とありて、次に不所命之國(ヨサセルクニヲ)とも皇祖神の詔ひ、又萬葉二の人麿の挽歌にも、天皇之(スメロギノ)、敷座國等(シキマスクニト)、天原(アマノハラ)、石門乎開(イハトヲヒラキ)、神上(カムアガリ)、上座奴(アガリマシヌ)とよめるなど、みな限りて所知(シロシ)めす處を、天(アメ)にても國(クニ)と云り、これらにて、久爾は本は天(アメ)に對へ云べき名に非ることを知べし、

〔古事記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0071 國稚如(クニワカクシテ)浮脂而、久羅下那洲多陀用幣琉之時、〈琉字以上十字以音〉如葦牙萌騰之物而、成神名宇麻志阿斯訶備比古遲神、〈此神名以音〉次天之常立神、〈◯中略〉次成神名國之常立神、〈◯中略〉於是天神諸命以、詔伊邪那岐命、伊邪那美命二柱神、修理固成是多陀用幣流之國、賜天沼矛而言依賜也、〈◯中略〉爾伊邪那岐命詔、〈◯中略〉爲成國土(クニツチヲ)生奈何、〈訓生云宇牟下效此〉

〔日本書紀〕

〈一神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0071 伊弉諾尊、伊弉册尊、立於天浮橋之上、共計曰、底下豈無國歟、迺以天之瓊〈瓊玉也此曰努〉矛指下而探之、是獲滄溟

〔玉勝間〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0071 國を州(○)といふ事 國々の名を某州といふことは、いづれの御代のおさだめにもあらざることなり、いにしへは、わたくしの漢文などにこそは、いとまれ〳〵には見えたれ、たヾしきおほやけの物には、みな某國とのみありて、州といへることはさらに見えず、然るを近き世の人は、かヽる上の御さだめをもわきまへしらず、みだりにからめかすことをのみ好みて、某國といふよりは、某州といふをうるはしき事に心得て、いひも書キもすなるはいかにぞや、前後上下などに分れたる國の名の、一字にてはまぎるヽをば、野之上州下州、あるは越前州筑後州なども書クめり、そも〳〵國の字も州の字も、同じく久爾(クニ)にはあれども、奈良ノ御代などよりは、かヽることもみな、その文字を定められて、心にまかせてはかヽざることなるをや、又或儒者のいへるは、國といふは封建の制にこそあれ、皇朝も郡縣の制になされたる世には、州などヽこそいふべけれ、國と定められたるは、あたらぬ文字なりといへるは、漢國の今までの例になづみて、中々にかの國のこヽろにもあらず、いみじきひがことなり、まづかの國の今までの例とは、封建といひし代には、齊國魯國などいひつれども、いはゆる郡縣になりてよりは、某國といふことは、今までの代々には例なければなり、されどそれになづめるは、中々にかの國のこヽろにもあらずといふゆゑはすべてかの國にて、かやうの

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0072 物の定めは、さき〴〵の例にはかヽはらず、其時々の王の心にて、いかにも〳〵定むる事にて、その定めわろしとても、用ひざるやうはなし、されば地の分ちざまなども、後の代々には、くさ〴〵有て、先の代に例なきこともあれど、そはとまれかくまれ、その定めにこそはしたがふなれ、さればそのこヽろをもていはヾ、皇朝にても天ノ下を、かの郡縣の制にならひて定められたりし御代にも、其名をば改めず、なほ古ヘより有リ來しまヽに、某國と定め給ひたりしも、天皇の大御心にしあれば、なてふことかはあらん、なほいはヾ、から國のこヽろはいかにまれ、それにかヽはるべきことかは、皇國は皇國なる物をや、

〔年々隨筆〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0072 皇國に某州という制はなきことなるを、城州、和州などやうに稱るは、みだりなる事なり、されど此事いと昔より有ことなり、大同弘仁のころの詩人などやいひそめつらん、すでにしかむかしよりいふ事なれば、今人のいはむ、はたとがむべきにもあらず、

〔隨意録〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0072 方言之習、國名略擧其一字、則必用州字、備擧其二字、則必用國字、我未何謂也、州之與國、字義固不同焉、州者如九州十二州、是大分天下也、又如五黨爲州、五州爲一レ郷、是更分戸數之名也、國者諸侯之封地、周制有三等者也、謂魯國魯州、謂齊國齊州者、則未之嘗見也、

〔大和事始〕

〈一天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0072 都 或人の云、近世諸の稱呼訛謬多し、〈◯中略〉又尤笑べきものは、諸國號を書するに、必陽(○)の字を以てこれにそふ、武州を武陽とし、攝州を攝陽とし、播州を播陽とし、備州を備陽とし、筑紫を紫陽とし、伏見を伏陽とし、長崎を崎陽とす、其餘皆然り、殊にしらず、陽はもと陰に對するの稱にして、則山南水ノ北の謂也、華陽、岳陽、洛陽、汾陽、感陽の類の如き是也、もし山水の指標すべきものなき時は、則大都通津といへども、又陽を以て、呼べからず、山の北、水の南を陰といふも亦同じ、

〔年々隨筆〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0072 又某陽といふ事は、いつの頃よりいひそめけむ、二百年ばかりの書にはみゆるを、猶

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0073 ふるくも有つらんかし、ふとはえおもひいでず、これはいと〳〵すぢなき事なり、さるはから國に、某陰某陽といふ所の多かるに、ならひてのわざなめれど、かの陰陽は、南北のかへもじにて、山にそひ水にそひたる地の、その山水の南につきてよぶ事にこそあれ、皇國の人の伊勢を勢陽、尾張を尾陽といふたぐひにはあらず、洛陽華陽などきこゆるも、洛華は、山水のぞかし、益州を益陽、荊州を荊陽といへる事はあらじ物をや、〈◯下略〉

〔日本書紀〕

〈三神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0073 其年〈◯甲寅〉十月辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征、〈◯中略〉行至筑紫國(○○○)莵狹〈莵狹者地名也、此云宇佐、〉時有莵狹國(○○○)造祖、號曰莵狹津彦、莵狹津媛、 乙卯年三月己未、徙入吉備國、起行宮以居之、 戊午年二月丁未、皇師遂東舳艫相接方難波之碕、會有奔潮太急、因以名爲浪速國(○○○)、 二年二月乙巳、天皇定功行賞、〈◯中略〉以珍彦倭國(○○)造、〈◯中略〉以釼根者葛城國(○○○)造

〔古事記傳〕

〈二十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0073 大凡諸國の古ヘの分(キザミ)ざまは、後ノ世の國を分て郡とし、郡を分て郷とせられたる如くに、際々(キハ〳〵)しくはあらで、國の内なる地をも、又國と云るたぐひ多し、此記に陸奧ノ石城國造、常道(ヒタチ)ノ仲ノ國造などあるが如き、陸奧も國なるに、其國内なる石城をも、同く國と云、常道の國内の仲をも、同く國と云ヒ又書紀繼體ノ卷の歌に、春日國、萬葉に、吉野ノ國、初瀬國なども云るが如し、是レ後に郡と定められたるほどの地などをも、通はして同く國とも云しなり、〈◯下略〉

〔日本書紀〕

〈七景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0073 十二年十月、到碩田國(○○○)、其地形廣大亦麗、因名碩田也、〈碩田此云於保岐陀〉 十二月丁酉、議熊襲、於是天皇詔群卿曰、朕聞之熊(○)〈◯熊原脱、據一本補、〉襲國(○○)有厚鹿文迮鹿文者、 十八年六月丙子、到阿蘇國(○○○)也、 七月甲午、到筑紫後國御木、居於高田行宮、時有僵樹、長九百七十丈焉、百寮蹈其樹而往來、〈◯中略〉爰天皇問之曰、是何樹也、有一老夫曰、是樹者歴木也、嘗未僵之先、當朝日暉、則隱杵島山、當夕日暉、覆阿蘇山也、天皇曰、是樹者神木、故是國宜御木國(○○○)、 丁酉、到八女縣、〈◯中略〉時水沼縣主猿大海奏言有女神、名曰八女津媛、常居山中、故八女國(○○○)之名、由此起也

〔古事記〕

〈中成務〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0074 建内宿禰爲大臣、定賜大國小國(○○○○)之國造、亦定賜〈◯中略〉大縣小縣之縣主也、

〔古事記傳〕

〈二十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0074 大國小國(オホクニヲクニ)とは、たヾ國々(クニ〴〵)と云ことを文(アヤ)に云るのみなり、〈後ノ世に、大國、上國、中國、下國など品を云るとは異なり、されば何れは大國、何れは小國など定まれるにもあらず、又萬葉に、初瀬小國(ハツセヲクニ)などある小國(ヲクニ)は、ちひさき謂にはあらず、異意なり、〉祝詞に、奧山乃大峽小峽(オホカヒヲカヒ)、また遠山近山爾(トホヤマチカヤマニ)、生立流大木小木乎(オヒタテルオホキヲキヲ)、などある大小の如し、次なる大縣小縣(オホアガタヲアガタ)も同じ、〈◯下略〉

〔日本書紀〕

〈七成務〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0074 四年二月丙寅朔、詔之曰、〈◯中略〉今朕嗣踐寶祚、夙夜兢惕、然黎元蠢爾不野心、是國郡(○○)無君長、縣邑無首渠者焉、自今以後、國郡立長、縣邑置首、即取國之幹了、任其國郡之首長、是爲中區之蕃屏也、

〔日本書紀〕

〈八仲哀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0074 八年正月壬午、幸筑紫、〈◯中略〉筑紫伊覩縣主祖五十迹手、聞天皇之行、〈◯中略〉參迎于穴門引島、〈◯中略〉天皇即美五十迹手伊蘇志、故時人號五十迹手之本土、曰伊蘇國(○○○)

〔日本書紀〕

〈九神功〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0074 九年〈◯仲哀〉四月甲辰、北到火前國松浦縣、〈◯中略〉故時人號其處曰梅豆羅國(○○○○)、今謂松浦訛焉、 伐新羅之明年〈◯元年〉二月、皇后之船直指難波、于時皇后之船廻於海中以不進、更還務古水門而ト之、於是天照大神誨之曰、我之荒魂不皇居、〈◯居原作后、據一本攺、〉當御心廣田國(○○○)、即以山背根子之女葉山媛祭、亦稚日女尊誨之曰、吾欲活田長岟國(○○○)、因以海上五十狹茅祭、亦事代主命〈◯命原作尊、據一本攺、〉誨之曰、祠吾于御心長田國(○○○)、則以葉山媛之弟長媛祭、

〔萬葉集〕

〈一雜歌〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0074于吉野宮之時、柿本朝臣人麿作、八隅知之(ヤスミシヽ)、吾大王之(ワガオホキミノ)、所聞食(キコシメス)、天下爾(アメノシタニ)、國者思毛(クニハシモ)、澤二雖有(サハニアレドモ)、山川之(ヤマカハノ)、清河内跡(キヨキカフチト)、御心乎(ミコヽロヲ)、【吉野乃國】之(ヨシヌノクニノ)、花散相(ハナチラフ)、秋津乃野邊爾(アキツノノベニ)、〈◯下略〉

〔萬葉集〕

〈十三問答〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0074 隱口乃(コモリクノ)、【泊瀬乃國】爾(ハツセノクニニ)、左結婚丹(サヨバヒニ)、吾來者(ワガキタレハ)、〈◯下略〉

定國堺

〔古事記〕

〈中成務〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0074 故建内宿禰爲大臣、〈◯中略〉定賜國國之堺、〈◯下略〉

〔古事記傳〕

〈二十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0074 抑上代の國境(クニトコロ)の御制(ミサダメ)は、細(コマカ)なる事は、詳に知リがたけれども、古事どもに、事にふ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0075 れて往々見えたる趣キに就て考フるに、後ノ世の如く、際やかなることこそ無かりつらめ、大方には元よりも國々の堺限(サカヒ)などもありはしけむを、此ノ御世になほ又慥に定め賜ひしなり、〈此レより先には、堺もなかりしを、初めて定賜ふとには非ず、◯下略〉

〔日本書紀〕

〈七成務〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0075 五年九月、令諸國國郡立造長縣邑置稻置、並賜楯矛以爲表、則隔山河而分(○)國縣(○○)、隨阡陌以定邑里、因以東西日縱、南北爲日横、山陽曰影面、山陰曰背面、是以百姓安居、天下無事焉、

〔新撰姓氏録〕

〈攝津國皇別〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0075 坂合部連 同大彦命之後也、允恭天皇御世、造立國境之標、因賜姓坂合部連

〔日本書紀〕

〈二十一崇峻〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0075 二年七月壬辰朔、遣近江臣滿於東山道、使蝦夷國境、遣完人臣雁於東海道、使東方濱海諸國境、遣阿倍臣於北陸道使越等諸國境

〔日本書紀〕

〈二十五孝徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0075 大化二年八月癸酉、詔曰、〈◯中略〉今發遣國司并彼國造可以奉聞、〈◯中略〉宜國々壃堺、〈◯下略〉

〔日本書紀〕

〈二十九天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0075 十二年十二月丙寅、遣諸王五位伊勢王、大錦下羽田公八國、小錦下多臣品治、小錦下中臣連大島、并判官、録、史、工匠者等、巡行天下、限分諸國之境堺、是年不限分、 十三年十月辛巳、遣伊勢王等諸國界

分割國/國數

〔大和事始〕

〈一天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0075國定境 いにしへ日本の國數、凡百四十四國ありしよし舊事記〈第十卷〉に見えたり、壤地褊小なるを以て、故に漸々に其國を并て總數を減じ、或其國のあまりに大なるは、逐世割分ものも又往々これあり、嵯峨天皇弘仁十三年、越前國を割て、加賀國を置給ひしより後、始て六十六州となる、林逸が節用集に、文武天皇の御宇六十六ケ國に分給ふとあるは誤也、日本紀にこの事なし、況又文武帝の後、國を分れしもの數國あるをや、

〔古事記傳〕

〈二十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0076 さて諸國の總ての數は、古ヘに幾許とも云ること物に見えず、〈舊事紀の國造本紀に擧たる國々なども、なほ漏たるも多かるべければ、據としがたし、〉これも孝徳天皇の御世には、慥に定まりつらむ、〈大凡諸國の古の分(キザミ)ざまは、後世の國を分て郡とし、郡を分て郷とせられたる如くに、際々(キハ〳〵)しくはあらで、國の内なる地をも、又國と云るたぐひ多し、此記に陸奧石城國造、常道仲國造などあるが如き、陸奧も國なるに、其國内なる石城をも、同く國と云、常道の國内の仲をも、同く國と云、又書紀繼體ノ卷の歌に、春日國、萬葉に、吉野國、初瀬國なども云るが如し、是後に郡と定められたるほどの地などをも、通はして同く國とも云しなり、然れば天下なる國の數、都て若干國など、きはやかに定め云ることもなかりけむ、然れども大形を以て云ば、國と云名は廣くして、縣など云しは、國より小く、又里村(サトムラ)など云は、縣より又小し、つねに其國之其縣(ソノクニノソノアガタ)と云、又神功皇后段に、末羅(マツラ)縣之玉島里、書紀崇神卷に、茅渟(チヌ)縣陶邑(スヱノムラ)、景行卷に、八ツ代縣豐村などあるを以て、其稱の大なる小きを辨ふべし、後世の分屬(キザミ)と、大かたは違はざるなり、◯中略〉さて後にも一國を二に分、又二國を一に合せなど、御世々々に彼此變りしもありつるを、嵯峨天皇御世、弘仁十四年に、越前國を割て、加賀國を建られて、六十八國〈此内に壹岐と對馬とをば島と云て、國とはいはず、〉に定まれる後、今の如くにして、永く革(カハ)れること無し、

〔先代舊事本紀〕

〈十國造〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0076 總任國造百四十四國(○○○○○) ◯按ズルニ、舊事本紀ニ載スル所ノ國名ハ、官位部古代官職編國造篇ニ載セタリ、

〔二中歴〕

〈六諸國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0076 今案河内國〈神護景雲四年、停河内職國司、〉 和泉國〈靈龜二年、割河内國大鳥日根兩郡國、〉 攝津國〈延暦十二年、停攝津職國司、〉 安房〈養老二年、割上總國四郡國、〉 出羽〈和銅五年、始置之、十月、割陸奧最上、置賜二郡出羽國、〉 加賀〈弘仁十四年、割越前國江沼加賀二郡國、〉 能登〈靈龜二年、割越中四郡能登國、〉 越後〈同年、割越中國四郡國、〉 丹後〈和銅六年、割丹波國五郡丹後國、〉 美作〈同年、割備前國六郡美作國、〉 大隅〈同年、割日向國四郡國、又天長元年、停http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001b99b.gif大隅國、〉

〈明治十三年〉

〔東京地學協會報告〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0076 國郡沿革考第一回 塚本明毅 總論〈◯中略〉 第二期〈◯中略〉文武天皇大寶二年二月、新令ヲ頒タル國ヲ、大上中下四等ニ分ツ、此時五十八國三島アリ、〈和銅後分置スル所ヲ以テ推ス〉

〔續日本紀〕

〈五元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0076 和銅五年九月己丑、始置出羽國

〔續日本紀〕

〈六元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0077 和銅六年四月乙未、割丹波國五郡、始置丹後國、割備前國六郡、始置美作國、割日向國肝坏、贈於、大隅、姶http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000650bfa.gif 四郡、始置大隅國

〔續日本紀〕

〈七元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0077 靈龜二年四月甲子、割大鳥、和泉、日根三郡、始置和泉監焉、

〔續日本紀〕

〈八元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0077 養老二年五月乙未、割越前國之羽咋、能登、鳳至、珠洲、四郡、始置能登國、割上總國之平群、安房、朝夷、長狹四郡、置安房國、割陸奧〈◯陸奧原作常陸、據一本攺、〉之石城、標葉、行方、宇太、亘〈◯亘原作白、據一本攺、〉理、常陸國之〈◯常以下四字原脱、據一本補、〉菊多六郡、置石城國、割白河、石背、會津、安積、信夫五郡、置石背國、割常陸國多珂〈◯珂原作阿、據一本攺、〉郡之郷二百一十烟、名曰菊多郡、屬石背〈◯背恐城誤〉國焉、 五年六月辛丑、割信濃國始置諏方國

〈明治十四年〉

〔東京地學協會報告〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0077 國郡沿革考第三回 塚本明毅 陸奧〈◯中略〉 石城石背二國ノ廢スル國史ニ見エズ、但神龜五年四月丁丑、陸奧國請置白河軍團、許之トアレバ、此時二國既ニ陸奧ニ併セラレタルナリ、〈分國ヨリ此年ニ至リ十年ナリ〉

〔續日本紀〕

〈十一聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0077 天平三年三月乙卯、廢諏方國信濃國

〔續日本紀〕

〈十三聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0077 天平十二年八月甲戌、和泉監并河内國焉、

〔續日本紀〕

〈十四聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0077 天平十三年十二月丙戌、安房國并上總國、能登國并越中國

〔續日本紀〕

〈十五聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0077 天平十五年二月辛巳、以佐渡國越後國

〔續日本紀〕

〈十八孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0077 天平勝寶四年十一月乙巳、復置佐渡國、守一人、目一人、

〔續日本紀〕

〈十九孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0077 天平勝寶八歳十二月己酉、勅遣皇太子及右大辨從四位下巨勢朝臣堺麻呂於東大寺、〈◯中略〉講梵網經、講師六十二人、〈◯中略〉仍寫六十二部、將六十二國(○○○○)

〔續日本紀〕

〈二十孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0077 天平勝寶字元年五月乙卯、勅曰、頃者上下諸使、總附驛家、於理不穩、亦苦驛子、自令巳後、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0078令、其能登、安房、和泉等國依舊分立、

〔律書殘篇〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0078 日本國六十七(○○○)、郡五百五十五、郷四千十二、里萬二千卅六〈左京條九、防卅六、右京條九、防卅三、〉七道河東十六州、〈◯中略〉 大倭國〈◯中略〉 芳野監 芳野國〈郡二、郷三、里九、〉掾一、七位以下也、〈◯下略〉

〔莊園考〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0078 大館高門所藏无題名古文書〈◯律書殘篇〉に、日本國六十七とありて、和泉國、佐渡國を擧たれば、天平寶字元年、和泉國を立られし後に記せるものとみゆ、然るに芳野監、芳野國、郡二、郷三、里九とあるを思ふに、芳野國と云がありける故に、六十七國なりしなり、されど此書に北陸東山の諸國脱漏したれば、詳かならねど、山城を山代、大和を大倭とかきて文字を改めざれば、奈良の朝の書なるべし、大倭の下には去京里程はなく、山代國の下には、去京行程半日とあるにても、延暦以前なる事は著きものなり、

〔類聚三代格〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0078 太政官謹奏 割越前國江沼加賀二郡加賀國事〈准中國◯中略〉 弘仁十四年二月三日〈◯中略〉 太政官謹奏 停多禰島大隅國事〈◯中略〉 天長元年九月三日

〔平治物語〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0078 頼朝遠流事附盛安夢合事 打鮑六十六本參シハ、六十六箇國(○○○○○)ヲ打被召候ハンズルト合セ申テ候ツト申セバ、〈◯下略〉

〔平家物語〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0078 我身のゑいぐわの事 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0079 日本あきつしまは纔に六十六かこく、平家知行の國卅よか國、すでに半國にこへたり、

〔源平盛衰記〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0079 丹波少將召下附日本國廣狹事 少將被思ケルハ、日本ハ是本三十三箇國(○○○○○)也ケルヲ、六十六(○○○)ニ被分タリ、越前、加賀、能登、越中、越後五箇國ハ、本一國也、中比三箇國ニ分タリシヲ、越前、加賀兩國ノ間ニ四ノ大河アリ、廳參ノ時、洪水ノ爲ニ人多ク損ケレバ、是ハ廳ノ遠キ故也トテ、嵯峨天皇御宇弘仁十四年ニ上奏ヲ經テ、加賀郡ヲ四郡ニ分テ加賀國ト定メ、能登郡廣シトテ、四郡ニ分テ能登國ト定ム、サテコソ五箇國ヲバ越路トテ道ハ一ナレ、又陸奧、出羽兩國是モ一也ケルヲ、二箇國ニ被分タリ、〈◯中略〉又備前、備中、備後、本ハ一國也ケリ、豐前、豐後モ如此、筑前、筑後モ同事、肥前、肥後モカクノ如シ、〈◯下略〉

〔蒼梧隨筆〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0079 日本古今國數之多寡〈◯中略〉 以上日本紀の文、并貝原氏の考を以て合せ考ふるに、成經朝臣の、日本は本と三十三ケ國なりと云れしことは、成務天皇の頃の事なるべし、成務天皇の時に定め給へる國々の名郡郷のことは、今更に考ふべくも非れども、爾來分割ありし國々の事、往々舊記に由て考れば、大抵成務天皇の頃は、其國數三十有餘國なるべし、必定三十三ケ國と云事は知ること能はず、〈◯下略〉

〔太平記〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0079 公家一統政道事 九條民部卿ヲ上卿ニ定テ、御沙汰有ケル間、光經卿諸大將ニ、其手ノ忠否ヲ委細尋究テ、申與ントシ給ケル處ニ、〈◯中略〉此外相州ノ一族、關東家風ノ輩ガ所領ヲバ、無指事郢曲妓女ノ輩、蹴鞠伎藝ノ者共、乃至衞府諸司官女官僧マデ、一跡二跡ヲ合テ、内奏ヨリ申給リケレバ、今ハ六十六箇國ノ内ニハ、立錐ノ地モ、軍勢ニ可行闕所ハ無リケリ、

國等級

〔令義解〕

〈一職員〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0079 大國(○○) 守一人、〈◯中略〉介一人、〈◯中略〉大掾一人、〈◯中略〉小掾一人、〈◯中略〉大目一人、〈◯中略〉少目一人、〈◯中略〉史生三人 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0080 上國(○○) 守一人、介一人、掾一人、目一人、史生三人、 中國(○○) 守一人、掾一人、目一人、史生三人、 下國(○○) 守一人、目一人、史生三人、 ◯按ズルニ、國守以下職員ノ職掌ハ、官位部令制官職編國司篇ニ見エタリ、

〔令義解〕

〈二戸〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0080 凡郡以廿里以下十六里以上大郡〈(中略)其定國大小別式

〔拾芥抄〕

〈中本百官〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0080 諸國司 守 介 掾 目 史生 國掌 郡司 大國十二〈◯中略〉 上國卅五〈◯中略〉 中國十一〈◯中略〉 下國九〈◯下略〉 ◯按ズルニ、延喜民部式ニ由ルニ、大國ノ數十三ナリ、拾芥抄ニ、十二トセルハ恐ラク轉寫ノ誤ナルベシ、

〔延喜式〕

〈二十二民部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0080 畿内 山城國上〈◯郡名略、以下同、〉 大和國大 河内國大 和泉國下 攝津國上 東海道 伊賀國下 伊勢國大 志摩國下 尾張國上 參河國上 右爲近國 遠江國上 駿河國上 伊豆國下 甲斐國上 右爲中國 相模國上 武藏國大 安房國中 上總國大 下總國大 常陸國大 右爲遠國 東山道 近江國大 美濃國上 右爲近國 飛騨國下 信濃國上 右爲中國 上野國大 下野國上 陸奧國大 出羽國上 右爲遠國 北陸道 若狹國中 右爲近國 越前國大 加賀國上 能登國中 越中國上 右爲中國 越後國上 佐渡國中 右爲遠國 山陰道 丹波國上 丹後國中 但馬國上 因幡國上 右爲近國 伯耆國上 出雲國上 右爲中國 石見國中 隱岐國下 右爲遠國 山陽道 播磨國大 美作國上 備前國上 右爲近國 備中國上 備後國上 右爲中國 安

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0081 藝國上 周防國上 長門國中 右爲遠國 南海道 紀伊國上 淡路國下 右爲近國 阿波國上 讃岐國上 右爲中國 伊豫國上 土佐國中 右爲遠國 西海道 筑前國上 筑後國上 豐前國上 豐後國上 肥前國上 肥後國大 日向國中 大隅國中 薩摩國中 壹岐島下 對馬島下 右爲遠國

〔續日本紀〕

〈三十七桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0081 延暦二年六月辛亥、勅曰、夷虜亂常、爲梗未已、追則鳥散、捨則蟻結、事須兵教卒備其寇掠、〈◯中略〉宜坂東八國取所有散位子、郡子弟及浮宕等類、身堪軍士、隨國大小一千已下五百已上專習用兵之道、並備身裝

〔續日本紀〕

〈四十桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0081 延暦九年十一月乙丑、勅曰、公廨之設本爲補欠負未納、隨國大小既立擧式

〔類聚三代格〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0081 太政官符 加賀國定上國事 右太政官、去弘仁十四年三月一日、下式部省符偁、依太政官去二月三日論奏、割越前國江沼加賀二郡加賀國、又定中國者、今件國准諸上國、課丁、田疇、其數差益、被右大臣宣偁、奉勅宣改爲上國、 天長二年正月十日

〔平治物語〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0081 信西子息闕官事附除目事并惡源太上洛事 爰ニ義朝ガ嫡子鎌倉惡源太義平、母方ノ祖父三浦介ガ許ニ有ケルガ、都ニ騷事有ト聞テ、鞭ヲ打テ馳上リケルガ、今度ノ除目ニ參合、信頼大ニ悦テ、義平此除目ニ參合コソ幸ナレ、大國カ小國カ、官加階モ思ノ如ク進ムベシ、合戰モ又能仕レト宣ヘバ、義平申ケルハ、〈◯中略〉世も靜(シヅマリ)テコソ大國モ小國モ官加階モ進ミ侍ラメ、見ヘタル事モナキニ、兼テナリテ何カセン、只義平ハ東國ニテ兵共ニ喚ツケラレテ候ヘバ、本ノ惡源太ニテ候ハントゾ申ケル、

〔類聚名義抄〕

〈六糸〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0082 縣〈胡遍反アカタ〉 〈音玄〉

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0082 縣(アガタ)〈公事根源、田舍曰縣、〉

〔古事記傳〕

〈二十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0082 大縣小縣(オホアガタヲアガタ)〈凡て某縣と云ときは、多くは阿は省く例なれば、此も意富賀多、袁賀多とも訓べし、〉大小は、大國小國の例と同くて、〈後の制の大郡、上郡、中郡、下郡、小郡などの謂には非ず、〉たヾ縣々と云むが如し、さて阿賀多(アガタ)は上(アガ)り田にて、元は畠のことなり、〈書紀仁賢卷に、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001a55b.gif 此云波陀該、和名抄に、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001a55b.gif麥地也、また畠一曰陸田、和名八太介、〉田と云は、田をも畠をも統たる名にて、其中に、水のつかぬを畠とも、上田(アガタ)とも云、水田よりは高く上りたる由なり、〈◯註略〉神代卷に高田(アゲタ)、万葉〈十二〉に、上爾種蒔(アゲニタ子マキ)などあるは、水田の高きに云るなれど、是高處を阿宜(アゲ)と云證なり、さて阿賀多は、元畠のことなりと云據は、上卷八千矛神の御歌に、夜麻賀多爾(ヤマガタニ)、麻岐斯阿多泥都岐(マギシアタ子ツキ)云々、下卷高津宮段大御歌に、夜麻賀多邇(ヤマガタニ)、麻祁流阿袁那母(マケルアヲナモ)云々、などある夜麻賀多(ヤマガタ)は、山阿賀多(ヤマアガタ)の謂なるに、〈郡名の山縣などにて知べし〉求(マギ)し、茜蒔(マケ)る青菜などあるを以て、山なる畠なることを知べし、〈されば諸國に地名の下に、別に附て云縣にはあらで、たゞ縣とも、又某賀多とも云地名、河内に大縣、美濃に方縣、山縣、信濃に小縣、但馬に二方、安藝に山縣、日向に諸縣など云郡名、其外郷里の名にも多かる、皆本は畠より負るなり、さて地名の下に附け云も、其外も、上に言を連ねて、言ときの縣の唱は、上代のは多く阿を省きて、賀多と云りと聞ゆ、右に引る郡名ども、又年魚市縣、松浦縣など云類是なり、然るにやゝ後には、海邊の瀉と混れて、かの年魚市縣、松浦縣などの縣をも、たゞ瀉とのみ心得て、後にはたヾ、海邊の地名にのみ云ことのごとくなれれども、右に擧たる如く、古は海なき國々の地名にも、某縣と云るが多きにや、◯中略〉かくて漢字を用る世になりて、此阿賀多に、縣字を當て書ならひて、やヽ後には、必しも朝廷の御料(メシタマ)ふ地ならねども、彼漢國にて、縣と云にあたる程の地をば、凡て某縣と云ことになれるなり、

〔碩鼠漫筆〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0082 縣の名義 鈴屋翁の説に、阿賀多(アガタ)は上(アガ)り田(タ)にて、元は畠の事なり〈◯中略〉と見えたるは、いひしらず委しけれど、さはいへども信がたかるべし、其故はなぞといふに、阿賀多は上り田にて、本は畠の事なりとあれども、其證とせし神代卷の高田(アゲタ)も、萬葉の上爾種蒔(アゲニタ子マキ)も、ともに水田にて畠ならねば、夜麻賀多(ヤマガタ)は山阿賀多(アガタ)なりとも見ゆれど、其大御歌の前文を見れば、令座其國之山方地、而獻大御飯、是爲

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0083 大御羹、採其地之菘菜時云々とありて、この山方の字面を見れば、山阿賀多も猶強説なりけり、〈後の地名に山縣といふがあるも、只山の畠といふ義にはあらず、猶次下にいふを見るべし、〉かヽれば畠といふ説は、從ひ難くおぼゆるに就てさらに又稽ふるに、こは生方(ナリカタ)の轉訛なるべし、生方は禾穀の生出る方にて、別業を奈里杼古呂(ナリドコロ)といふ奈里と等しく、此奈里轉じて安里可多(アリカタ)となり、さて其里(リ)をば省けるなるべし、〈座(ナリ)の里(リ)を省けるは、鳥狩、後取、織田、塗師など其他にも例ある、べし、〉但かくいふも亦なほざりにおもはヾ、強説めきても聞ゆべけれど、これは無稽の臆説ならず、かく論らふ如くなれば、御縣は、御料地なりとはいふべく、高田(アゲタ)とひとつには混ふまじきものぞ、又萬葉集卷七に、青角髮(アヲミヅラ)、依網原(ヨサ〻ハラ)、人相鴨(ヒトアヘルカモ)、石走(イシバシル)、淡海縣(アフミアガタノ)、物語爲(モノガタリセム)、〈此古點はアフミノカタとあれど、今は先輩の訂正に從ふ、〉古今集雜下の端詞に、文屋康秀が三河のざうに成て、あがたみにはえ出たヽじや、といひける返事に云々、土佐日記にある人あがたの四とせ五とせはてヽ云々、伊勢物語四十四段に、昔あがたへ行人に、馬のはなむけせむとて云々などあるをば、領國領所とこヽろうべし、是すなはち生方なり、又この阿賀多に縣字を當しは、玉篇に縣胡絹切、周禮云、九夫爲井、四井爲邑、四邑爲丘、四丘爲甸、四甸爲縣、鄭玄曰、方二十里、又曰、五家爲鄰、五鄰爲里、四里爲鄼、五鄼爲鄙、五鄙爲縣、〈以上〉廣韻に縣郡縣也、釋名曰、縣懸也、懸於郡也、古作寰、楚莊王滅陳爲縣、縣名自此始也云々、などあるを見るべし、縣は田地の名目にて阿賀多には協へる文字なり、〈◯註略〉猶後の地名に山縣と云があるも、山中の生方の義なり、又百寮訓要鈔に、諸國の司をば外官ともいひ、あがたとも申なりとあるは、縣の官人といふべきを、俗習にて略稱せしなり、

〔日本書紀〕

〈三神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0083 戊午年六月、是時大伴氏之遠祖日臣命帥大來目督將元戎、蹈山啓行、乃尋烏所一レ向、仰視而追之、遂達于【菟田下縣(コホリ)】、 八月乙未、天皇使兄猾及弟猾者、〈滑此云宇介志〉是兩人【菟田縣(コホリ)】之魁帥者也、 己未年二月辛亥、層富縣(○○○)波哆丘岬有新城戸畔者

〔日本書紀〕

〈五崇神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0083 七年八月己酉、布告天下大田田根子、即於茅渟縣(○○○)陶邑大田田根子

〔古事記〕

〈中成務〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0084 建内宿禰爲大臣、定賜大國小國之國造、亦定賜國國之堺、及大縣小縣(○○○○)之縣主也、

〔日本書紀〕

〈二十一崇峻〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0084 二年〈◯用明〉七月、物部守屋大連資人捕鳥部萬、〈◯中略〉騎馬夜逃向茅渟縣眞香邑

〔日本書紀〕

〈七景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0084 十二年九月、天皇遂幸筑紫、到豐前國長峽縣(○○○)、興行宮而居、故號其處京也、 十七年三月己酉、幸子湯縣(○○○)、遊于丹裳小野、 十八年四月甲子、到熊縣(○○)、其處有熊津彦者、 五月壬辰朔、從葦北船到火國、〈◯中略〉天皇問其火光處曰、何謂邑也、國人對曰、是八代縣(○○○)豐村、 六月癸亥、自高來縣(○○○)玉杵名邑、 七月丁酉、到八女縣(○○○)、則越前山、以南望粟岬、〈◯下略〉

〔日本書紀〕

〈八仲哀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0084 八年正月壬午、幸筑紫、 己亥、到儺縣(○○)

〔日本書紀〕

〈九神功〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0084 九年〈◯仲哀〉三月丙申、轉至山(○)〈◯山原作小、據一本攺、〉門縣(○○)、 四月甲辰、北到火前國松浦縣(○○○)

〔日本書紀〕

〈十應神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0084 二十二年九月、天皇於是看御友別謹惶侍奉之状而有悦情、因以割吉備國其子等也、則分川島縣(○○○)長子稻速別、是下道臣之始祖也、次以上道縣(○○○)中子仲彦、是上道臣、香屋臣之始祖也、次以三野縣(○○○)弟彦、是三野臣之始祖也、復以波區藝縣(○○○○)御友別弟鴨別、是笠田之始祖也、即以苑縣(○○)兄浦凝別、是苑丘之始祖也、即以織部縣(○○○)兄媛、是以其子孫、於今在于吉備國、是縁也、

〔日本書紀〕

〈十一仁徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0084 三十八年七月、天皇與皇后高臺而避暑時、毎夜自兎餓野鹿鳴、〈◯中略〉明日猪名縣(○○○)佐伯部獻苞苴

〔日本書紀〕

〈十四雄略〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0084 九年二月甲子朔、香賜即逃亡不在、天皇復遣弓削連豐穗、普求國内縣(クニアガタノウチ)、 十六年七月、詔宜桑國縣殖桑、

〔日本書紀〕

〈二十二推古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0084 三十一〈◯一原作二、據日本長暦改、〉年十月癸卯朔、大臣遣阿曇連〈闕名〉阿倍臣摩侶二臣、令于天皇曰、葛城縣(○○○)者元臣之本居也、故因其縣姓名、是以冀之常得其縣、以欲臣之封縣、於是天皇詔、曰今朕則自蘇我出之、大臣亦爲朕舅也、故大臣之言夜言矣夜不明、日言矣則日不晩、何辭不用、然今當朕之世、頓失是縣、後君曰、愚癡婦人臨天下以頓亡其縣、豈獨朕不賢耶、大臣亦不忠、是後葉之惡名則

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0085聽、

〔延喜式〕

〈八祝詞〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0085 祈年祭 御縣爾座皇神等前爾白久、高市(○○)、葛木(○○)、十市(○○)、志貴(○○)、山邊(○○)、曾布(○○)登御名者白氐、此六御縣(○○○)爾生出、甘菜辛菜乎持參來氐、皇御孫命能長御膳能遠御膳登聞食故、皇御孫命能宇豆乃幣帛乎稱辭竟奉久登宣、

郡/名稱

〔類聚名義抄〕

〈六邑〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0085 郡〈求慍反 クニ コホリ〉

〔伊呂波字類抄〕

〈古地儀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0085 郡〈コヲリ〉

〔潤背〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0085 一疑問云、國衙何義乎、衙廳字訓如何、庄保郡郷等、其差別并字訓如何云々、 答曰、〈◯中略〉郡、説文曰、天子地方千里、分爲百郡云々、今按一郡長百里〈三百歩爲一里〉廣又百里也、方百里者有一百、故王畿千里内有百郡也、文選審百郡之廉孝者、言王畿方千里地也、問曰、天子地已千里也、諸侯以何地封國乎、答曰、據周禮之、周公旦依成王命方一萬里國、是則如王畿千里者有一百也、其中心千里爲天子王畿、其九十九爲諸侯卿大夫之地也、故周禮又云、以同姓畿内諸侯、以異姓畿外諸侯者是也、

〔日本釋名〕

〈上地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0085 郡(コホリ) 小わり也、國の内をこまかにわる也、わとはと通じ、はとほと通ず、

〔東雅〕

〈三地輿〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0085 郡コホリ 舊事紀に、神武天皇即位の初、功臣に國造縣主等を寄し賜ひしとしるされ、其後の代々國(クニ)といひ、縣(アガタ)といふ事は見えたれど、郡といふ事の見えしは、成務天皇四年二月、國郡立長、縣邑置首と見え、五年九月、隔山河而分國縣、隨阡陌以定邑里など、日本紀に見えしぞ始なる、其文の如きは、郡と縣とを分ちしるされしなど、其代にかヽる文字ありしにはあらず、是はたヾ國史選述の時によりてしるされし所にて、郡といひ、縣といひ、其名同じからねど、其實異なるにもあらず、されば國郡縣邑などしるされて、又國縣邑里ともしるされ、又縣の字讀てアガタといひしかど、又コホリとも讀み、郡縣の二字引合て、コホリと讀し事も見えたり、〈孝徳記に〉孝徳天皇大化

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0086 二年正月、畿内の國司を置れ、又凡郡の大中小、その郡司の大領、少領、主政、主帳等の官を定められしよりして、古の縣主等の制改りて、これより後代々の令式、皆此時の記によられし所なり、其初縣をアガタといひしは分(ワカツ)也、其國内の地を分て、縣となすを云ふなり、後に郡をコホリといひしは、韓國の言に出しなり、即今も朝鮮の俗、郡をも縣をも并にコホルといふは、即コホリの轉語なり、〈或説にコホリとは、小割(コハリ)なりと云ふ、古語にかヽる義あるべしとも思はれず、〉

〔倭訓栞〕

〈前編九古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0086 こほり〈◯中略〉 天平中に諸國造郡之圖奉ると見ゆ、郡縣をよめるは拾遺集物名、古本催馬樂にみゆ、小治(ハリ)の、義なるべし、一説に今の朝鮮語にこほるといへば、もと韓語成べしといへり、韓地に熊備己富里ある事、日本紀に見えたり、成務紀に國郡縣邑と書れど、縣は郡の古名也、されば類聚國史の國造の條に、延喜の詔に、昔難波朝廷始置諸郡と見ゆ、上野國多胡郡の碑、今池村に現在す、郡を建たる事を記す、古へすべてかヽる事なりしや、〈◯中略〉一郡に一村なるは、遠州磐田郡見附の宿是也、日本紀に背評をへこほりとよめり、今の氏姓にもしかいへり、續日本紀に、本國日高評人、内宮儀式帳に、難波朝廷天下立評給時と見えたり、郡を評といふは、新羅の俗稱なるよし梁史に見えたり、

〔日本國郡沿革考〕

〈一總説〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0086 按上古國郡之制、不後世之法度上レ之、〈◯中略〉或以(○)郡爲(○○)縣(○)、以(○)里屬(○○)之(○)而里又通作(○○○○)邑或村(○○○)、古事記所謂末羅縣玉島里、崇神紀所謂茅渟縣陶邑、景行紀所謂八代縣豐村是也、或稱(○○)國縣(○○)、或稱(○○)國郡(○○)、或邑里併稱(○○○○○)、極不其條理、當時之制度、於今雖其詳、蓋由上古簡朴之風、無一定之制、或史官追書失其實也、強爲之説者、遂屬附會而已矣、

〔古京遺文〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0086 妙心寺鐘 戊戌年四月十三日壬寅、收糟屋評(○)造春米連廣國鑄鐘 戊戌文武天皇二年也、〈◯中略〉糟屋筑前國郡名、〈◯註略〉評造猶郡領、古時郡縣用評字、大神宮儀式帳

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0087 云、難波朝廷天下立評給時、續日本紀天平寶字八年紀載、紀寺奴益人等訴云、本國冰高評人、内原直牟羅、其郡司亦稱評督、或稱評督領、文武天皇四年紀、有衣評督衣君縣、又神護景雲元年紀載、阿波國百姓上言曰、評督丸直麻呂、那須直違提碑云、評督被賜、大神宮儀式帳云、小乙下〈◯下中誤〉久米勝麻呂評督領仕奉是也、〈繼體天皇紀、韓地名有背評、傍訓邊己富里、本註云、背評地名、亦熊備己富里、新羅其邑在内曰、則知古時郡縣用評字、又訓己富里、並韓國方語也、〉

〔日本國郡沿革考〕

〈一總説〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0087 按梁書云、新羅俗、其邑在内曰啄、在外曰評、蓋往代以縣隷國、至孝徳帝之時縣爲郡、而或借新羅所一レ稱、又以評呼之也、衣評氷高評評督等、散見續紀者、皆是謂郡、 新井君美曰、國訓謂郡、爲古保利、本是韓語、今朝鮮人猶訓郡縣古保利、〈按以古保利韓語、似妥帖、却是本朝語、波及于彼、亦未知耳、〉

建郡

〔日本書紀〕

〈二十五孝徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0087 大化元年八月庚子、拜東國等國司、仍詔國司等曰、〈◯中略〉上京之時、不多從百姓於己、唯得使國造郡領、 二年正月甲子朔、宣改新之詔、〈◯中略〉其二曰、〈◯中略〉凡郡以四十里大郡、三十里以下四里以上爲中郡、三里爲小郡

〔皇大神宮儀式帳〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0087 一初神郡度會多氣飯野三箇郡本記行事 右從纏向珠城朝廷〈◯垂仁〉以來、至于難波長柄豐前宮御宇天萬豐日天皇〈◯孝徳〉御世有爾鳥墓村造神庤氐、爲雜神政行仕奉支、而難波朝庭天下立(○)評(○)給時〈仁、◯下略〉

〔類聚國史〕

〈十九神祇〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0087 桓武天皇延暦十七年三月丙申、詔曰、昔難波朝庭、始置諸郡、仍擇有勞於郡領

分割郡

〔延喜式〕

〈二十二民部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0087 凡郡不千戸、若餘五十戸以上者、分隷比郡、地勢不分者、隨状立別郡、其不滿百戸者、隷入他郡、若不已而應分者、別録申官、

〔續日本後紀〕

〈十三仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0087 承和十年五月丙申、石見國美濃郡分割爲兩郡、本郡依舊爲美濃郡、新郡取邑號鹿足郡、其職員者准小郡(○○)、折元四員分取一人、更加一員、總置二員、本郡則准下郡(○○)三員、武藏國那珂郡元來小郡、官員約小、而今戸口増益、結定四郷、政多職少、不須行、據准令條、誠裕下郡、改小爲下、更

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0088一員、又讃岐國大内郡小郡、只有領帳、領則領調入京、帳猶留國、釐務非常、移病无人從一レ公、加之郷戸田數、既堪下郡、改小爲下、加領一員焉、

郡數

〔律書殘篇〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0088 日本國六十七、郡五百五十五、

〔伊呂波字類抄〕

〈古地儀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0088 郡〈コヲリ五百六十三町〉

〔拾芥抄〕

〈中末本朝國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0088 大日本國圖行基菩薩所圖也、〈◯中略〉郡六百四、

〔神皇正統記〕

〈後醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0088 かぎりある地をもちて、限りなき人にわかたせたまはんことは、おしはかりたてまつるべし、〈◯中略〉一郡づヽといふとも、日本は五百九十四郡こそあれ、五百九十四人はよろこぶとも、千万人のひとはよろこばじ、

〔運歩色葉集〕

〈古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0088 郡〈日本郡數六百十也〉

〔南海通記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0088 四國王制記 通考 或書ニ曰、倭國〈◯中略〉凡州ヲ以テ郡ヲ統ブ、郡ハ凡六百三十一也、

〈明治十三年〉

〔東京地學協會報告〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0088 國郡沿革考第一回 塚本明毅 總論〈◯中略〉第二期〈◯中略〉 延喜式ニ載スル者、郡五百九十、而シテ和名鈔ハ郡五百九十二アリ、〈按ズルニ、延喜式薩摩ノ阿多ヲ脱シ、和名鈔別ニ陸奧ノ大沼ヲ加フ、〉其注分ツ所ノ八郡〈和泉ノ泉南、河内ノ丹比南北、上野ノ群馬東西、陸奧ノ高野、伊達、河沼、筑前ノ那珂東西、夜須東西、〉ヲ併セテ共六百郡タリ、靈龜元年置ク所ノ陸奧ノ閉伊郡、及弘仁二年置ク所ノ同國和我、比縫、斯波三郡、皆延喜式及和名鈔ニ載セザルモノハ、蓋覊縻郡ヲ以テ之ヲ待スルナラン、〈◯中略〉寛平以還國史ヲ修メズ、故ニ延喜以後分ツ所ノ諸郡、其年月ヲ考フル能ハズ、加之國司私ニ分ツテ、東西南北トナス所ノ各郡亦頗ル多シ、〈安藝ノ安南、安北、佐西佐東ハ、長元永承ノ國解ニ見ヘ、尾張ノ海東郡ハ、治承四年熱田寄進状ニ出ヅ、〉今皆其何年ニアルヲ詳ニシ難シ、〈◯中略〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0089 第三期〈◯中略〉洞院左府實熙著ス所ノ拾芥抄、蓋應永以前郡國ノ制ヲ記セシナルベシ、其郡數ヲ記シテ、六百有四トナス、和名鈔ノ郡六百中南北東西ノ分郡五ヲ去リ、五百九十五トナシ、拾芥抄載スル所ノ陸奧四郡、〈和賀、斯波、稗縫、岩手、〉因幡ノ八東、備中二郡、〈川上 上房〉美作ノ吉野、阿波ノ海部、共ニ九郡〈此九郡現今存ス、故ニ獨リ之ヲ取ル、〉ヲ加フル時ハ、恰モ六百有四トナル、蓋其南北東西ヲ以テ之ヲ分ツ者、此數ニ入ラザルナリ、拾芥抄載スル所、訛謬極メテ多ク、參據ニ供シ難シト雖ドモ、此書ノ外當時ノ國郡ヲ記セシ者ナシ、

郡等級

〔日本書紀〕

〈二十五孝徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0089 大化二年正月甲子朔、賀正禮畢、即宣改新之詔曰、〈◯中略〉凡郡以四十里大郡(○○)、三十里以下四里以上爲中郡(○○)、三里爲小郡(○○)

〔日本國郡沿革考〕

〈一總説〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0089 按國史云、欽明帝二十二年、於難波大郡、次序諸蕃、皇極帝元年、遣諸大夫於難波郡、檢高麗貢物、天武帝二年、饗高麗邯子新羅薩儒等於筑紫大郡、大化三年、壤小郡而營宮、白雉二年、天皇從大郡居新宮、又石見小郡、筑紫小郡等之稱、散見於敏達持統諸紀、是皆直指官府之所在以爲郡、又隨其官府所轄之廣狹、加之以大小之稱也、蓋是當時之稱呼、自有期者、不郡制之大小視之矣、

〔令義解〕

〈二戸〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0089 凡郡以廿里以下十六里以上大郡(○○)、〈謂郡不千戸、若餘五十戸以上者、隷入比郡、若隷入比郡、地勢不便、或不已而應分者、別録申官、其定國大小別式、〉十二里以上爲上郡(○○)、八里以上爲中郡、四里以上爲下郡(○○)、二里以上爲小郡(○○)

郷/里

〔類聚名義抄〕

〈二田〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0089 里〈音理 サト〉

〔同〕

〈六邑〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0089 郷〈音香 サト〉

〔伊呂波字類抄〕

〈左地儀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0089 郷〈サト 故郷〉 里〈訓同 五家爲隣、五隣爲里、〉 閭 閈〈里也、閭也、汝南平與里門曰里、〉 巷 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000650bfe.gif  http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001e458.gif  http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000650bfc.gif  http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000650bfd.gif  邑 郛〈已上同〉

〔運歩色葉集〕

〈佐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0089

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0089 郷村(ガウソン)

〔同〕

〈二乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0089 郷(サト)〈活法、郷之爲言向也、衆所向也、〉里(同)〈活法、里之爲言止也、衆所止也、〉邑(同)、閭(同)、〈里中門墻〉

〔莊園考〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0090 郷を里と云し證は、東大寺正倉院文書に、大寶二年戸籍を擧て、御野國味蜂間郡春部里、また御野國本簀郡栗栖太里、また御野國加毛郡半布里、山方郡三井田里、肩縣郡肩々里、各務郡中里、またその斷簡、〈美濃國〉戸主弟古湏兒人波自年廿一、正女、大寶二年籍後、嫁出往郡内郡上里戸主君子部波尼多戸々主同族阿佐麿妻、また戸主大田部赤麻呂年廿五、正丁、太寶二年籍、郡内郡上里戸主大田部伊湏伎戸戸主子、今爲戸主、全戸移來、また筑前國島郡川邊里、太寶二年戸籍、また〈同年〉豐前仲津郡丁里上三毛加自久也里とみえたり、この内に丁里は和名抄にみえねど、筑前島郡川邊里は川邊郷、御野國加毛郡半布里は加茂郡埴生郷、また味蜂間郡春日里は安八郡にて、春日部は後に池田郡に隷られしにや、この郡に春日郷ある是にてしるべし、また本簀郡栗栖太里は本巣郡栗田郷とあるものと聞ゆ、これ孝徳より以後、この大寶の頃には、いまだ郷といふ稱なく、後の郷といふをば、此時は里といへりし事を知るべし、常陸風土記に、新治郡云々、昔美麻貴天皇馭宇之世、爲討東夷之荒賊、遣新治國造祖名曰昆奈良珠命、此人罷到即穿新井〈今存新治里云々〉云々、自郡以東五十里、在笠間村、また信太郡高來里云々、乘濱里東有浮島村、また行方郡、自郡西北堤賀里云々、從此以北曾尼村云々、男高里、また郡南二十里、香澄里從此以南十里板來村、また當麻郷〈こゝに郷とあるは、寫手の後世心を以て、里を郷と書るものなるべし、〉云々、相鹿大生里、また香島郡云々、郡南廿里濱里、郡北三十里白鳥里、また那賀郡茨城里云々、片岡之村、久慈郡河内里、靜織里、小田里、また多珂郡道前里飽田村あり、この内新治、高來、乘濱、堤賀、曾尼、男高、麻生、香澄、當麻、相鹿、大生、濱、白鳥、茨城、河内、靜織、太田、道前は、和名抄に新治、高來、乘濱、提賀、曾禰、麻生、香澄、當麻、逢鹿、大生、幡麻、白鳥、茨城、河内、倭文、大田、道口の郷これなり、かくあるによりて古への里は郷なり、里の下にある村は、後の里といふものなる事を知るべし、〈◯中略〉また上野國金井澤村なる神龜三年酉寅二月十九日に建たる碑文に、上野國、群馬郡下賛郷高田里とある里は、後の村に當るべきか、其證

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0091 は河内西琳寺文書に、天平十五年帳云とて、僧沙彌の貫屬を記せる條に、僧行會、攝津國住吉郡大國里云々、戊申〈和銅元ナルベシ〉年四月廿八日、飛鳥寺受戒、受公驗、また僧願忠伊豫國宇麻郡常里主金集史族麻呂弟、得麻呂、己酉〈和銅二〉年三月廿八日、飛鳥寺受戒、僧神耀云々、河内國古市郡下新居郷宮處里戸主文忌寸足閇戸口、神龜三年三月廿三日、藥師寺受戒、僧智藏、河内國丹比郡余戸郷余戸里戸主依網政男廣岡、養老六年三月廿三日、於藥師寺受戒、僧延達、河内國古市郡尺度郷鴨里戸主縣犬養連弓足姓乙麻呂、神龜四年三月廿三日、藥師寺受戒、僧永基、和泉監大鳥郡大村郷山田郷戸主比志貴造牛手男廣田、養老五年十二月廿三日藥師寺受戒〈采要〉大館高門所藏无題名古文書〈◯律書殘篇〉に、國郡郷里の數を擧たる中に、郡五百五十五、郷四千十二、里万二千卅六〈左京條九、坊卅六、右京條九、坊卅三、〉などあるに依て、古く郡郷の下に里と書るは、後世の村なる事を辨ふべし、

〔潤背〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0091 一疑問云、國衙何義乎、衙廳字訓如何、庄保郡郷等、其差別并字訓如何云々、 答曰、〈◯中略〉郷、有通別名、云通者、凡其人之所生地謂之郷、樂府傳、我人詩云凉源郷井、又云古郷迢遰、是皆通名也、云別者、天子畿内方千里内、中心有百里者四謂之郷也、郷地制、一方五十里〈短〉一方百里〈長〉是爲一郷、一郷中有方一里者五百、如此六郷中有方一里者三千也、又方一里中有廿五家、十里中有二百五十家、百里中有二千五百家、五百里中有萬二千五百家、是爲一郷制、總六郷中有七萬五千家、是爲六郷家數、云一家者方六十歩也、六六而有卅六丈、〈六尺爲歩〉六十歩者有六行、則六六而有三千六百歩、是爲四面三十六丈地、今田舍一町是也、三百六十歩爲一段、即三千六百歩當一町歩數也、天子或出軍或出獵之時、促六郷之民、一家出一人、則自七萬五千家七萬五千人也、是爲郷地之制也、

〔日本釋名〕

〈上地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0091 里 さは小也、せばきなり、とは所也、せばき所也、里は都(ミヤコ)にあらずしてせばき所也、

〔東雅〕

〈三地與〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0091 里サト 郷の字、讀むこと亦同じ、郷といひ、里といひ、其字同じからねど、共に讀てサトといへば、相通じ用ゆる事ありと見えたり、たとへば和銅の詔に、諸國郡郷名著好字とありしに、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0092 延喜式には、諸國の郡郷里名、並用二字必取嘉名と見えしが如き是也、郷里の字共に讀て、サトといふは、サは狹(サ)也、トは所(ト)也、其狹き所なるの謂なり、又大化の詔、及び其後代々の令式に見えし、造戸籍之法によれば、凡五十戸爲里と見えたり、郷には寛狹の同じからぬありと見えて、凡居狹郷、有遷就一レ寛を處置すべきの法なり、又度地之法、五尺爲歩、三百歩爲里とも見えたり、さらば汎く言ひてサトといふには、郷里の字通じ用ひぬれど、凡造戸籍地等の法に至りては、里の字を用ひて、讀むで其字の音を用ゆると見えたり、

〔倭訓栞〕

〈前編十佐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0092 さと 郷里をいふ、狹處の義なるべし、眞名伊勢物語に、京をよめるは、日本紀に本けり、〈◯中略〉邑(○)は二里四方なるをいふ、

〔延喜式〕

〈五十雜〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0092 凡天下百姓親勤農業、貯積雜穀、救濟孤獨、戸口増長、夫婦和順、名聞郷里(○○)、親疏相識者、〈◯中略〉申送官

〔日本國郡沿革考〕

〈一總説〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0092 按中古郷里之制、亦有疑者、國史靈龜以來、往々有郷係郡之文、則與出雲風土記之説合矣、然延喜式猶稱郷爲里、未其説、〈◯下略〉

〔日本書紀〕

〈二十五孝徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0092 大化二年正月甲子朔、賀正禮畢、即宣改新之詔曰、〈◯中略〉其三曰、初造戸籍計帳班田收授之法、凡五十戸爲(○○○○)里(○)、毎里置長一人、〈◯下略〉

〔令義解〕

〈二戸〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0092 凡戸以五十戸里、〈謂若滿六十戸者、割十戸一里、置長一人、其不滿十家者、隷入大村、不別置也、〉毎里置長一人、掌挍戸口殖農桑察非違駈賦役、若山谷阻險、地遠人稀之處、〈謂縱山谷阻險、而人居稠密、或雖人居稀疏、而地理平坦者、並不此限也、〉隨便量置、〈謂若滿十戸者、依上法別里、若不滿者、令伍相保、附於大村也、〉

〔出雲風土記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0092 意宇(オウ)郡郷壹拾〈里三十◯中略〉右件郷字者、依靈龜元年式改(○)里爲(○○)郷(○)、其郷名字者、被神龜三年民部省口宣之、

〔通典〕

〈三食貨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0092 大唐令、諸戸以百戸里(○)、五里爲郷(○)、四家爲鄰、五家爲保、

〔出雲風土記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0093 意宇(オウ)郡〈◯中略〉以上壹拾壹郷、別里參、

〔令義解〕

〈三田〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0093 凡國郡界内所部受田悉足者爲寛郷(○○)、不足者爲狹郷(○○)、 凡狹郷田不足者、聽寛郷遙受

〔律書殘篇〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0093 日本國六十七、郡五百五十五、郷四千十二里萬二千卅六、〈左京條九、防卅六、右京條九、防卅三、〉

〔南海通紀〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0093 四國王制記 通考 或書ニ曰、倭國〈◯中略〉郡ヲ以テ郷ヲ統ブ、郷ハ凡テ三千七百七十二也、

〔山州名跡志〕

〈五愛宕郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0093 糺〈所名〉下加茂〈トモ◯中略〉本名蓼倉也、源順載和名集、蓼倉里是也、總ジテ彼書ニ所載ノ村里ノ號ハ、其本郷ノ名ナリ、今民間ニ云處ノ【親里(オヤサト)】ナリ、〈◯下略〉

〔山州名跡志〕

〈十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0093郷爲其郡名所、俗是云【親里(オヤザト)】、列左、 愛宕 在同郡 宇治 在同郡 久世 在同郡 相樂 在同郡 乙訓 在同郡 綴喜 在同郡 葛野 在同郡 紀伊 在同郡

〔東海道名所圖會〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0093 桑名 桑名郡に桑名あるは、これを親里(おやさと)といふ、山州宇治郡に宇治あり、愛宕郡に愛宕あるが如し、〈◯下略〉

〔倭名類聚抄〕

〈六國郡〉