p.1245 對馬國ハ、ツシマノクニト云フ、西海道ニ屬シ、壹岐島ノ西北約十二里半ニ在リテ、殆ド我國ト朝鮮トノ中間ニ介セリ、其地形ハ、中央劈開シ、二部トナル、其南部ヲ上ノ島〈下縣郡〉ト稱シ、周廻凡ソ五十里餘、其北部ヲ下ノ島〈上縣郡〉ト稱シ、周廻凡ソ百三十五里餘アリ、此國ハ古ヘ國府ヲ下縣郡ニ置キ上縣下縣(カムツアガタシモツアガカ)ノ二郡ヲ管シ、延喜ノ制、下國ニ列ス、現今長崎縣ヲシテ之ヲ治セシム、
p.1245 對馬島〈都之萬〉
p.1245 對馬(ツシマ)〈對州〉
p.1245 雜(クサ〴〵)の轉用 つしま 對馬〈國〉都之万(ツシマ) 古事記ニ津島トアリ、此意ノ名也、然ルヲ對馬ト書ルハ、漢籍魏志ニ見エタリ、サレバ此ハモト、彼國ニテ譯シタル字ナルヲ、ソノマヽニ用ヒラレタルモノナルベ
p.1246 シ、其故ハツシニ對ノ字ヲ書ル假字ノサマ、當昔(ソノカミ)皇國ノ假字ノ用ヒザマニハ似ザレバ也、
p.1246 對馬、〈對州〉下、管二郡、四方一日、離二日本地一、故號レ島、有二異珍之類一、勸二請神一、動隨レ唐、是故被レ置二探題職一也、小下國也、
p.1246 對島州 津島 〈舊事本記〉 津島〈古事記〉 對馬島 對馬洲 對馬國〈日本書紀〉 集島 〈大和本記〉 西海國對馬島〈都之萬、和名類聚抄、〉
p.1246 津島、名義は萬葉十五〈廿六丁〉に、毛母布禰乃波都流對馬とよめる如く、韓國の往還の舟の泊々津なる島なり、〈魏志と云から書に、此島のことを對馬國とあり、こは此方にて古より如レ此書るを見て取れるかとも思へど、さには非ず、彼書のいできつるは晉の世なり、そのかみ御國にかゝる假字のつかひざまあるべくもあらず、たゞ津島と云を、彼國にて聞傳へ誤りてかくは書る物なり、さて書紀にやがて此文字を假字に取用て對馬島とかゝれたり、津島の假字に對馬とかゝむは、さる例あれば、さも有なむを、島字を添られたるこそ、いと心得ね、島々と重ねて云名はあるべきことかは、淡海の海など云例とは異るをや、敏達御卷には、津島とかゝれたるところあり、是れ古の書ざまなり、〉
p.1246 つしま 對馬は馬韓に對する稱、中山傳信録に、黄帽對馬三十人と見えたり、されど古事記日本紀に、もと津島と書り、三韓往來の津也、よて萬葉集にも、百船のはつる對馬とよめり、
p.1246 神代の卷の纂疏に云く、對馬の和訓は、津といふ心もちにて、海島の中にある津といふ事なり、神代の卷鹽土傳に、對馬は古津島と書く、是西北の津なり、又云、津とはつどふなり、釋日本紀に、對馬島、私記に云く、問ふ、古事記を考れば、唯津島といふ、今爰に對馬の島といふはいかにや、答へていはく、其義まさに同じ、今の俗對馬の二字を讀てつとするなり、島の字は文字の如し、しかるに今の人、都志麻の志麻と讀ものは誤なり、但此島と壹岐の島との名義は未詳ならず、沙門義堂が撰びし日用工夫略集に、對馬は馬韓に對するの義なりと、本州の儒士に、山撲〈俗名朝三〉著せし州府院石亭の記にも、小島の中に津あればなり、對馬の字を用ふる事は、地馬韓に對すれば
p.1247 なりと、字書にも濟渡の州を津といふと、鹽土傳に島は住むと讀、人のすむ處なりと見へたり、日本紀にいはく、素盞嗚尊御子五十猛命を伴ひて、新羅の國に到り、曾戸茂利の處に居給ふと、新羅に降給ひし時は、この國より行たまひしとなん、傳ていちじるし、津島の號は此時に始ける、傳いふ則和漢大海の間にある島にして、兩國往來の津湊なればなり、藤仲郷〈俗名兵内〉の云く、對馬の字を用ふる事は、もろこしの人、この國の名を問ければ、州人答て津志麻といひしを、彼人おのが音聲によりて、ついまあかといひて當て、對馬の二字をしるしぬ、これ是れによるならん、〈平戸を飛鸞土博多を覇可臺、松浦を末盧と書し類ならん、對馬の字ついまなれば音ちかし、〉本邦上代の風俗は、音によりて文字にかヽはらざりしゆへ、假りて是を用ひしなり〈愚按ずるに、對馬の字を用て、つしまと讀もの、たとへば近淡海を近江とし、母木を伯耆と改られし類にて、字義は當らざれども、古きとなへを捨られざるがごとくならん、〉陶山存〈俗名庄右衞門〉云く、對馬の字を用る事、地馬韓に對するによれりと、しかれども舊事本紀、古事記、日本書紀等に馬韓の號を載られず、三韓と稱せるものは有り、新羅百濟高麗をいふ、〈高麗は東國通鑑にいへる高句麗の事なり〉これによりて見れば、本朝新羅と相通ずるの始は、馬韓亡びしの後なれば、なにしに馬韓辰韓辨韓の號あらん、そのかみ書を作れる人のしらざりしならん、されば本州の號をしるす、何すれぞ馬韓に對するの義をとれるや、本州馬韓に對するの説は、後漢書に馬韓の南倭と接するの語に本づくならん、陳壽が三國志の倭人傳に對馬國の號あり、陳壽は晉の武帝惠帝の時の人にして、日本應神天皇の御宇に當る、本邦の人經書を讀み、文字をしる事も、應神の朝に始りければ、本州の名をしるすに對馬、又は津島の字を用ひ初たるは、此時より始りけん、〈◯中略〉むかし、島と號へしを、天智天皇の御時更めて國とせられ、文武天皇の御宇に、又島と稱せらる、後花園院の朝嘉吉年以來、太宰府及び本州の書物には、定て國としるし、他國にては國又は島としるして一定せず、これ兵亂治らず、朝命通ぜざりしゆへならん、天正年以來、公私一定して國と稱せり、三國志に對馬國を記せり、三國志を撰びしは應神天皇の御時なれば、本州の事を、中國に
p.1248 て國と稱せしは久き事に侍りぬ、
p.1248 於レ是伊邪那岐命、〈◯中略〉妹伊邪那美命、〈◯中略〉如レ此言竟而御合、〈◯中略〉次生二筑紫島一、〈◯中略〉次生二津島(○○)一、亦名謂二天之狹手依比賣一、
p.1248 伊弉諾尊、伊弉册尊、〈◯中略〉陰陽始遘合爲二夫婦一、〈◯中略〉迺生二大日本〈日本此云二耶麻騰一、下皆效レ此、〉豐秋津洲一、〈◯中略〉由レ是始起二大八洲國之號一焉、即對馬島、壹岐島及處々小島、皆是潮沫凝成者矣、
p.1248 各國經緯度〈附里程〉 對馬府中、〈中須賀町〉極高三十四度一十二分、經度西六度二十五分、從二壹岐一〈勝本浦渡海直徑〉一十二里廿町半、三百四十里八町四十四間半〈◯從二東都一〉 對馬鰐浦村、極高三十四度四十一分半、經度西六度一十七分、從二府中一〈街道歴二仁諸一〉二十四里三十五町、三百六十八里七町四十七間、〈◯從二東都一〉
p.1248 北極出地 對馬 府中 三四度一二分〇〇秒 鰐浦村 三四度四一分三〇秒〈◯中略〉 東西里差 山城 京 〇度〇〇分〇〇秒〈◯中略〉 對馬 府中 西六度二五分〇〇秒
p.1248 對馬貢銀記 作者江納言 對馬島者、在二本朝之西極一、屬二大宰府一、孤二立海中一、四面絶壁、其名兼見二於隋唐史籍一、自二筑前國博多津一、西向飛レ帆一日、到二壹岐島一、自レ斯又到二對馬島一、一日、自レ非二大風一不レ得レ渡矣、與二高麗一隔レ海北金海府牧野之馬、掛帆之布、分明亘見、其近可レ推、
p.1248 世にいふ、肥前の地より對馬へ海上四十四里、對馬より朝鮮へ海上四十八里といふ、然ども肥前より朝觧への海上九十六里也、すべて海上の里數は風による物故に、唯吟味するも
p.1249 のなく、大概をいふのみにして定かならず、對馬は南北に長き島國にて、府中は北にあり、肥前より、四十八里といふは、府中への事なるや、是とても定かならず、府中より朝鮮への渡海口、鰐の浦までは海上を廻りて三十餘里、鰐の浦より朝鮮の釜山浦の海上わづかにして、漁舟一汐に渡海すといふ也、かくのごとく朝鮮へは近き對馬なれども、いにしへより手指もせぬ事、日本の勇強なるを知らぬ人多し、己が眉毛己が目に見へぬといふたとへは是歟、
p.1249 本州は、本邦と朝鮮との間にありて、東西何れも大海を隔て固に遠き離島なるに、本邦の内なる證據には、朝鮮に産して本邦に産せざる物は、この島にも産せず、本邦に産して朝鮮に産せざるもの此國にも産せず、そのうへ國民の言語にも本邦と同うして、朝鮮とは違へり、州中の人傳へいひけるは、州の南方豆酘崎の長瀬は、肥前の國の五島に連なり、州の北方鰐浦の舞髮瀬(ハヘノセ)は、石見の國の高島に續きて日本の地を斷ぜず、是にても本州は本邦の内なりし事を知ぬべし、
p.1249 對馬國上之島、〈◯中略〉沿海、周廻五十里一十四町二十一間半、 對馬國下之島、〈◯中略〉沿海、周廻一百三十五里三十一町一十九間半、
p.1249 疆域 壹岐ノ西北ニアリ、二島ニ分ル、南ヲ上ノ島ト云、周回五拾里壹拾四町貳拾壹間東西貳里貳拾八町、南北五里貳拾町、北ヲ下ノ島ト云、周回壹百三拾五里三拾壹町壹拾九間、東西四里六町、或貳里貳拾八町南北九里貳拾六町、壹岐壹岐郡勝本ヨリ下縣郡嚴原ニ至ル、海上直徑壹拾貳里貳拾町、
p.1249 對馬國下縣郡 實測 島山島、周廻一十一里三十五間、島山村三十四度一十八分半、 相島〈從二西岬二至二東岬一〉一町一十八間、 輪島、周廻四町三十九間、 内院(ナヰン)島、周廻一十四町一十九間半、馬耙(マンクハ)島、周廻二町五十七間、 志賀島、周廻一町三十九間、 大島、〈加志村〉周廻一十二町二間、 經島、
p.1250 〈加志村〉周廻二町一十三間、 九郞太郞島、周廻二町一十六間半、 ヘタノ島周廻四町三十九間半、沖島〈大 吹崎村〉周廻五町一間半、 沖島〈小 吹崎村〉周廻一町二十七間、 盜人島、周廻二町二十七間、 鼠島、〈竹敷村〉周廻一十一町、 ヲタイガ島、周廻四町九間、 車島、周廻六町四十五間、 アジサキ島、周廻八町四間半、 鹿島、周廻一十八町一十八間、 鹿小島、周廻三町四間半、 ズンギリ島、周廻二町四十二間、 茶木島、周廻四町八間、 六郞島、周廻三町五十四間、黒ミサキ島、周廻一里一十八間、千切島、〈島山村〉周廻三町一十二間半、 ハントウ島、周廻二町三十三間、 琵琶島、周廻六町二間、 三ツノ島、周廻八町四間半、 麥島、周廻四町三間、 沖ノ島、〈大山村〉周廻一十二町五十三間、 中ノ島〈同前〉周廻一十一町一十六間半、 丸島、〈同前〉周廻六町三十六間半、 〈從二沖島一、至二丸島一總稱二三室島一、〉 夷島、〈大山村〉周廻二町二十八間、 京島、周廻一十五町一十七間、 沖京島、〈又呼、干切島、〉周廻三町五十三間、 草島、周廻一十四町一間半、 彌五郞島、周廻二町四間、 多田島、周廻三町四十八間、 塔ケ崎島、周廻一十一町一十間半、 黒島、〈唐洲村〉周廻六町一十三間、 ヲデンカ島、周廻三町九間、 横島、〈唐洲村〉周廻六町五十六間、 牛島、〈從二東岬一至二北岬一〉五十七間、 寺崎島、周廻五町五十七間半、 カウ島、周廻一十二町四十三間、中ノ島、〈小綱村〉周廻七町五十七間、 榎島、周廻一十六町二間半、 カノ島、周廻二町四十二間、 〈從二カウノ島一至二カノ島一、總稱綱島〉 丸島、〈田村〉周廻三町三十二間、 立場島、周廻二町四十五間、 八兵衞島、周廻三町四間半、 御崎島、周廻二町一十五間、 的島、〈又呼二松島一〉周廻二町八間、 干切島、〈横浦村〉周廻四町三十三間、鷺島、〈大〉周廻三町一十六間、 鷺島、〈小〉周廻一町五十六間、 鼠島〈賀谷村〉周廻七町五十九間、 東風泊(コチトマリ)島、周廻一十三町四十一間、 赤島、周廻一里一十一町三十九間、 本ノ島、〈又呼二ミサゴ瀬一〉 〈從二西岬一至二東岬一〉二町三十九間、 中島、〈赤島〉周廻五町九間、 八天島、周廻二町四十八間、 沖島、〈鴨居瀬村〉周廻四里廿七町一十九間半、 鏡島、周廻二町一十九間、 北隱島、周廻六町五十二間半、 唐船島、周廻二町三十五間、黒島、〈鴨居瀬村〉周廻一里三十町三間、 仁兵衞島、周廻二町五十六間、 鮑島、周廻三町、 經島、〈鴨居瀬村〉周廻
p.1251 三町一十一間、 海賊島、周廻六町八間、 イヤ島、周廻二町四十四間、 カツマ島、周廻一町三十二間、 大佛島、周廻一町四十七間、 上根緒島、周廻六町四十八間、 下根緒島、周廻五町五十三間、小浦島、周廻四町一十一間、 南室(ナムロ)島、周廻四町一十一間、 遠測 霧坊瀬 星小島、 千鳥瀬〈西内院村〉 コウノ瀬 小島瀬〈上槻村〉 鵜瀬〈椎根村〉 鵜瀬〈阿速村〉 立瀬 ヲコ島 六郞瀬 鋤島 カヤリ島 辨天島〈尾崎村〉 サキノ島 烏帽子瀬 ユルキ瀬 千鳥島〈大舟越村〉 千鳥島〈島山村〉 廻島〈地〉 廻島〈沖〉 五合島 三郞島 一クワン島 千鳥島〈仁位村〉 白銀島 浮瀬〈貝口村〉 小島〈貝口村〉 泉島 二子島〈大 貝口村〉 二子島〈小 貝口村〉 新島瀬 唐洲岩 鳥ケ瀬 ホケ島 メウ瀬〈地〉 メウ瀬〈沖〉 沖カノ島 甑瀬 千鳥瀬〈榎島〉 金吾瀬 ウニ島〈小〉ウニ島〈大〉 千鳥島〈鑓川村〉 元島 小島〈横浦村〉 裸島〈大 横浦村〉 裸島〈小 同上〉 コトヲ瀬 ヒシケ島〈大〉 ヒシケ島 猪島 馬子島 駒島 小佛島 保島〈黒島〉 浮瀬〈久須保村〉 郷瀬 鵜瀬〈根甲村〉 釜蓋瀬 二ツ瀬 琴瀬 口瀬 折瀬 上縣郡 實測 海泉島、周廻二十一町一十四間、地海老島、周廻四十三間半、 沖海老島、周廻二町一十七間、 大島、周廻四町二十二間半、 高島〈從二西岬一至二東岬一〉三十間、 中島、〈從二西岬一至二東岬一〉三十六間、 志古島、周廻一十三町五十五間、 小島、周廻三町三十一間、 妙見島、周廻二町一十五間、 品木島、周廻九町五十六間、 鷺首島、周廻三町三十六間、 荻(タテク)島、周廻八町三十九間、 島浦島、周廻二町二十四間、 錢島、周廻五町五十九間半、 黒島、周廻四町三十九間、 コシヤウ島、周廻三町七間半、 遠測 呼瀬 平瀬〈吉田村〉 立瀬 沖瀬 大千鳥瀬 錢島〈鹿見村〉 赤子(シヤクシ)瀬 舟瀬 トロク瀬 本瀬 鵜瀬〈大谷村〉 立岩 ハイノハ瀬〈大〉 ハイノハ瀬〈小〉 小太郞島 横瀬 島瀬 北瀬 鯨瀬 釜蓋瀬〈豐村〉 錢島〈豐村〉 ミサコ瀬〈豐村〉 小島〈豐村〉 地椎根島 沖椎根島 小島帽子 睢鳩瀬〈西泊村〉 梶カキ瀬 轟島 轟島〈小〉 ツハツイ瀬 鵜瀬〈大増村〉 千鳥島〈舟志村〉 京島 鳥帽子瀬〈五根緒村〉 臼石 淺黄瀬 平瀬〈葦見村〉 赤瀬 松島 中瀬〈小鹿村〉 下瀬〈小鹿村〉 裸島〈志多賀村〉 離島 釜蓋瀬
p.1252 〈佐賀村〉
p.1252 本州北を上縣郡とし、南を下縣郡とす、南北廿六里、〈豐村より豆酘村まで南北道法廿五里卅四町半、廿六里は成潮なり、南北豆酘崎より鰐浦垂髮瀬韓崎までの直經ハ十六里十八町有レ之、東西の廣狹は村の處に記し置くなり、〉東西或は四五里或は二三里、〈陶山存云く、本州を平地として積るときは縱十七里計、横二里半計、凡一坪にしてこれを積れば、四十二坪半ばかり、その内田畠也(地の平なる處を坪と云ふ)愚按るに、州内の土地多くは白色なり、是西方の正色をあらはすものか、山地はすべて赤地勝火剋金にて、國土の性に剋するの色なりしゆへ、穀物宜からざるならん、武用辨略に對馬四方一日半、小下國なりと記せり、〉周り百八十三里三町五十七間三尺九寸、〈海汀の出入を細に引廻し里數なり、浦々等を除き、大方を引廻せば四十里と十九町五十六間一尺八寸二分、是大外の周なり、〉山多くして田少なく、土地惡くして民貧き故下國とす、
p.1252 對馬島 郡八、人戸皆沿二海浦一而居、凡八十浦、南北三日程、東西或一日、或半日程、四面皆石山、土 民貧、以二煮レ鹽捕レ魚販賣一爲レ生、宗氏世爲二島主一、其先宗慶死、子靈鑑嗣、靈鑑死、子貞茂嗣、貞茂死、子貞盛嗣、貞盛死、子成職嗣、成職死而無レ嗣、丁亥年島人立二貞盛母弟盛國之子貞國一爲二島主一、郡守而下士官皆島主差任、亦世襲以二土田鹽戸一分二屬之一、爲二三番一、七日相遞、會守二島主之家一、郡守各於二其境一、毎年蹈二驗損實一、收税取二三分之一一、又三二分其一一輸二二于島主一、自用二其一一、島主牧レ馬場四所、可二二千餘匹一、馬多二曲背一、所レ産柑橘木楮耳、南北有二高山一、皆名二天神一、南稱二子神一、北稱二母神一、俗尚レ神、家々以二素饌一祭レ之、山之草木禽獸、人無二敢犯者一、罪人走入二神堂一、則亦不二敢追捕一、島在二海東一、諸島要衝、諸酋之往二來於我一者、必經之地、皆受二島主文引一、而後乃來、島主而下各遣二使船一、歳有二定額一、以下島最近二於我一而貧甚上、歳賜レ米有レ差、
p.1252 形勢 日本海ノ西北隅ニ位シ、島形東西ニ狹ク、南北ニ長シ、中央劈開シテ一大灣ヲ成シ、大艦巨舶ヲ容ルベシ、島内峯巒相接シ、地多ク薄瘠、播殖ニ宜シカラズ、居民穀ヲ内地ニ仰ギ、利ヲ海ニ採リ、朝鮮ノ互市ヲ以テ、營生ノ主ト爲ス、風俗固陋、氣候極暑九拾度、極寒三拾度、
p.1253 對馬國上之島〈從二壹岐國壹岐郡勝本浦一至二對馬國下縣郡嚴原渡海一、直徑一十二里二十丁二十四間、〉 下縣郡嚴原〈本府中〉濱町 一十六町二十八間 久田村〈歴二板置峠一至二北瀬村一三里七丁三十六間半、從二北瀬一至二南瀬村一、五丁四十二間、〉 二里一十七町〈至二輪島岬一一里十丁五十一間〉 安神村龍野崎 二里八町五十二間半 東内院(ヒカシナヰン)村 一里二十町一十九間半 西内院村松ナシ 二里三十五町一十八間半〈至二神崎一三十丁三十三間、從二神崎一至二卒土濱一、二十二丁二十七間半、〉 豆酘(ヅヾ)村前濱〈至二觀音前一四丁六間、從二觀音前一、歴二豆酘峠一至二南瀬村一、三十一丁五十四間半、又從二觀音前一至二觀音堂一六丁〉 二里一十一町五十二間〈至二豆酘崎一二十三丁四十八間〉 北瀬村内山川口〈至二街道一四丁七間半〉 二十七町八間半 久根濱村久根川口〈至二久根濱村一三丁二十四間、從二久根濱一至二北瀬村一、二十二丁六間、又從二久根濱一至二久根田舍村銀山上神社一、一十七丁三十間、〉 二里六町一十八間半 小茂田村〈歴二下原村一至二佐須峠一、二里四丁三十七間〉 一里九町五十八間半 阿連村〈至二雷舍神社一五丁三十五間〉 四十五間 阿連村阿連濱〈至二今里村中川口一徑測三十三丁一十五間〉 二里八町九間 今里村郷崎 二里一十五町四十一間半〈至二尾崎村一一里五丁卅三間半〉 同中川口 一町三十九間 今里村〈至二加志村一六丁四十八間半、從二加志一至二加志川岸一、一十四町三十三間、從二川岸一至二太祝詞神社一、三丁五十一間、又從二川岸一至二箕形村千之木濱一、二十二丁七間、〉 二十町一十二間 加志村加志川口〈至二街道一二丁五十五間半〉 二里二十五町三間〈至二大首岬一一里一十七丁四十五間〉 吹崎(フクサキ)村 二十五町一十九間 箕形村千之木濱 八町三十三間 同針浦 三里四町四十八間〈至二城八幡社前一一里七丁三十九間〉 黒瀬村坂無浦〈至二洲藻村汐越浦一徑測六丁三十二間〉 二里九町四十七間 黒瀬村中崎 二里二十一町一十六間 竹敷村子ツトク崎 二里二十四町五十一間半 洲藻村汐越浦 一十九町五十七間 鷄知村久須浦〈至二街道肥川一六丁四十二間〉 一里一十三町三十三間 同樽濱〈至二街道一三町五十一間半〉 一里三町四十四間半 竹敷村寸斷(スンキリ)島岬 一里一十九町五十三間 大船越村鹿燒浦〈至二狹間浦一徑測二丁一十八間〉 二十六町四十間半 同狹間浦 二十八町三十五間 同角兵衞濱〈至二街道新右衞門開一二丁五十七間半〉 八町四十五間 大船越村小田山 一里二十七町三十九間半 鷄知村高濱 二十九町四十八間 根緒(ネヲ)村 一里三十四町二十四間 小浦村 八町三十六間 嚴原〈本府中〉犬阿須 二十八町五十一間 同遠見崎 一十七町四十三間半 同本川口〈至二横町一二丁三十四間〉 二町五十一間 同濱町 沿海、周廻五十里一
p.1254 十四町二十一間半、 對馬國下之島〈至二大船越村上之島小田山一、至二下之島瀬戸口渡一、直徑二十四間、〉 下縣郡大船越村瀬戸口〈蓋大船越村跨兩島〉 一町五十七間 大船越村、三十四度一十六分半、 一里二町五十一間半 久須保村〈至二街道一二丁四十九間〉 一里六町四十五間半〈至二新之浦一五丁四間半〉 同玉調浦〈沿レ江至二大山村玉調浦一三丁三間〉 二十四町四十二間 大船越村六郞岬〈沿レ江至二小野瀬一、三丁一十八間、〉 五町四十八間 同中小野瀬〈至二江奥一三丁四十八間〉 三十四町五十七間 同狹瀬戸炭燒浦 一十五町五十六間半 小船越村新之浦 九町五十一間 同炭燒岬 一十一町一十六間半 小船越村内之浦 三十一町一十五間〈至二燒白岬一二十七丁四十八間〉 大山村滿切岬〈干切岬廻四丁三十一間半〉 三十四町三十六間 同岡崎〈岡崎岬廻九丁五間〉 一里二十町二十三間半 小船越村關本 五町四十八間 大山村關本 一里二十九町一十七間半 濃部村三十四度二十九分 一十九町一十二間 同柳ケ浦 一里二十一町二十八間半〈至二聖王崎一二十丁四十八間〉 仁位村和坂惠美須川口〈至二街道一四丁二十一間〉 二里二十二町五十八間半 嵯峨村カシコウ浦〈至二嵯峨村一徑測一十丁二十八間〉 三十五町四十間〈至二多田島岬一二十丁六間〉 嵯峨村佛浦〈至二街道一三丁四十四間〉 一里三十四町二十五間 貝鮒(カヒフナ)村 八町四十六間 同ミコドウ浦 一里六町一十四間 嵯峨村 一里二十町四十四間 同塔崎 一里三十三町四十五間半 仁位村仁位川口〈至二橋口一一十二丁三十九間〉 三里八町一十間〈至二卯麥村一一里六丁五十七間半〉 佐志賀村笹華浦〈至二佐保村生石濱一徑測三丁五十二間〉 二里一町四十六間 貝口村小路浦 一里二十八町三十九間半 貝鮒村小島崎 一里一十五町六間〈至二深浦一一里八丁五十七間〉 貝鮒村ユリ越浦 二十一町九間 同西浦 一里七町一十二間 唐洲村唯越岬 一十七町一十一間半 廻(マハリ)村瀬戸間 二十三町二十七間 廻村 二里二十町一十五間〈至二曲崎一三丁二十一間〉 佐保村イキシ濱 一里二十六町三十間半 志多浦村トウノ崎 三十二町五十七間 小綱村〈歴二田村下村一至二平口川口一、二十丁三十九間、〉 三里二十三町二十間半〈至二丸高瀬戸一三里一十二丁三間〉 田村平口川口 一里三十三町一間 上縣(カミアガタ)郡吉田村
p.1255 三十町二十五間半 三根村田口 一町四十二間 同鹽坪 二里四町七間半 木坂村 三里二町四十三間半〈至二女連村ミツツル濱一一里二十五丁一十五間〉 久原村 九町 鹿見村 三町五十三間 同鹿見川口 二里一十六町五十一間半 樫瀧村弓原 一町 樫瀧村仁田川口 一里三十三町四十間半 越高村 三町 同伊奈越元濱 二十六町六間 伊奈村伊奈川口 二町一十五間 伊奈村 一十八町四十八間〈至二志多留村一一十三丁一十二間〉 志多留村志多留川口 一里三十三町五十四間〈至二伊奈岬一一十九丁四十八間〉 同苅生 二里二十四町三十五間 湊村佐護川口〈至二惠古村一一里二丁三十九間〉 二里二十一町一十三間 佐須奈村佐河内川口 三町二十七間 佐須奈村船附 二町二十間 同番所下〈至二遠見番所一七丁二十一間〉 一里八町五十七間半〈至二向番瀬岬一一十五丁二十間〉 同佛崎 二里九町二十六間 河内村佐河内 一町一間 同河内濱 七町三十六間半 大浦村濱町 三町七間 同大浦川口 一十五町二十五間 同綱濱浦〈至二鰐浦一一十五丁二十七間〉 二里一十七町一十四間〈至二女瀬岬一二十五丁二十四間〉 鰐浦村 二里七町五十九間 豐村本川口 一十六町六間 同長崎〈長崎廻四丁六間〉 三町三間 同椿ケ浦 二十町二十一間 同深浦 一里二十三町四十九間半 泉村 二里二十三町五十間 西泊村初崎 一里五町五間〈至二鯨浦一二十四丁一十四間〉 西泊村 一十八町一十八間 比田勝村小平次浦 一町三十三間 同比田勝磯 二里三十町一十一間〈至二妙見崎一一十六丁六間〉 富浦村尉殿崎 一里三十四町九間〈至二波戸崎一二十七丁三十六間〉 唐舟(タウシウ)志村〈東風坊崎廻二丁四十六間半〉 一里六間〈至二ノコノ濱一一十九町三間半〉 濱久須村牟理屋 二町五十四間 同藥師堂濱 一町三十間 同氏神之本 八町二十三間 同立目浦 五町四十間半 大増村立目浦 一里二十八町五十七間〈至二井口下一一十九丁五十四間半〉 同田之藏 二十町五十七間〈至二入道浦一七丁三十三間〉 舟志村前濱川口 一里一十四町四十八間 五根緒(ゴネヲ)村 二里二十六町九間 同鼻フリ崎 一里二十町八間半〈至二琴崎一二十八丁一十一間半〉 琴村琴之浦 三十三間 同葦見(アシミ)坂 一里四町八間 葦見村江川口 一十二町三十間半 一重村 二町一十二間 同坂口原 三十四町四十八間 小
p.1256 鹿村 二里五町一十八間 志多賀村 一里二十四町二十四間 佐賀村志内浦 二十二町四十五間 同田ノ浦 二里五十四間〈至二錢龜崎一一里六丁二十一間〉 櫛村内田浦 一十六町三十九間〈至二本颪岬一一十四丁一十五間〉 同於呂浦 二十五町三十三間〈至二徳意浦一一十一丁一十八間〉 下縣郡曾村大地石浦 二十三町一十四間半〈至二缶浦一一十一丁一十一間半〉 同濱中 一里二十八町〈至二觀音崎一、一十六丁五十一間半〉 千尋藻村 一里一町一十九間半〈至二殿ノ浦一七丁四十五間〉 鍵川村、三十四度二十四分、 二十六町 同浦底 二十七町一十五間 横浦村〈至二見世越濱一徑測九丁一十八間〉 一里二十四町二十八間〈至二立場岬一一十八丁一十九間〉 同大羽ノカケ浦〈至二長岬一一十八丁〉 二里三十一町一十間半 同見世越濱 二里一十六間 賀谷村大瀧 一里三十二町八間 蘆浦村寺越濱〈至二小船越村一徑測七丁一十間〉 二里一十四町二十五間 鴨居瀬村モロ首〈モロ首岬廻二丁一十二間〉 二十三町七間半 鴨居瀬村、三十四度二十分、 一里六町三十七間 小船越村 二十七間 同追分 二十二町三十四間半 小船越村志上路浦 二町五十三間 同追分 二十九町三十五間半〈至二呼岬一一十一丁五十三間半〉 同畑崎 二里一十四町二十間半〈至二カセノ浦一二十一丁十八間〉 犬吠浦カセ浦西濱 三十五町五十五間半 大山村下積 一里一十七町五十二間半〈至二袋濱一三十丁四間半〉 久須保村木下濱 一十町五十間半 同万積浦 二里一十六町九間〈至二久須保村一五丁四十五間〉 緒方村鷲巣崎 二里七町三十六間半〈至二折瀬岬一一里一丁一十七間半〉 大船越村綱掛崎 一十二町九間 大船越村瀬戸口 沿海、周廻一百三十五里三十一町一十九間半 從二對馬國嚴原(イヅハラ)〈本府中〉街道一歴二仁位一至二鰐浦一 對馬國下縣郡嚴原濱町 二町三十九間 同大名小路〈至二横町一一丁一間、從二横町一至二中須賀町一二十一間、北極高三十四度一十二分、又從二大名小路一至二金石館一、四丁二十一間、〉 二町三十三間 同八幡前〈至二朝鮮館一一丁三十九間〉 一十三町四十四間 同番所前〈至二大阿須一六丁五十四間、從二大阿須一歴二根緒峠一、鷄知村高濱一、一里二十五丁三間、從二高濱一至二鷄知川岸一、七丁三十三間、〉 八町二十五間 同笠谷〈至二佐須峠一一十九丁一十二間半、從レ峠至二有明峯一、二十二丁五十四間、〉 二里二町二十四間〈至二七曲坂一七丁〉 鷄知村〈至二肥川岸一四丁四十八間、從二川岸一歴二万積峠及洲藻村一至二箕形村針浦一、一里一十四丁二十一間、〉
p.1257 七町二十間 鷄知村追分 九町一十八間 同樽之濱 二十六町三十間 大船越村新右衞門開 一十町三十九間 同小田山〈從二上之島一至二下之島渡一直徑〉 同瀬戸口 二十一町五十七間 久須保村 七町三十九間 同木下濱 一里一町一十八間 小船越村志土路浦 二町二十四間 小船越村追分 一十四町六間 小船越村〈沿レ江至二關之本一、四丁二十七間〉 二十七間 同追分 一里一十五町二十一間 仁位村柳ケ浦 二十四町三十四間半〈至二大道珠一一十二丁一間半、從二大道珠一至二和坂惠比須川岸一、二十一丁三十四間半、〉 同和坂二十八町六間 同橋口 三十三町三十三間 田村上村〈至二田村下村一七丁二十二間半〉 一里一町四十二間 上縣郡吉田村吉田川岸 二十町五十四間 三根村田口 一町四十二間 三根村鹽坪 一理三十四町二十九間半 久原村 五町三十三間〈至二鹿見村一一丁三十九間〉 鹿見(シヽミ)村鹿見川口 一里一十一町一十三間 樫瀧村弓原 一町 同仁田川口 一里一十二町五十九間 越高村 一十八町四十間〈至二伊奈越濱一三丁〉 伊奈村伊奈川口 六町一十四間 志多留村 五町四十二間 同志多留川口 二里九町五十五間半 深山村佐護川岸〈至二天諸羽命神社一四丁一十八間〉 五十一間 惠古村 一里二十一町三十三間 佐須奈村〈至二島大國魂御子神社一五丁二十間〉 四町 同佐河内川口〈歴二舟志坂峠一至二舟志村原一、徑測一里一十七丁三十三間半、〉 三町二十七間 同船附 一里一十七町八間 河内村佐河内 五町五十八間〈至二河内濱一一丁一間〉 大浦村 三町七間 同大浦川口 三十三町三十間〈至二豐坂峠一一十五丁三十六間半〉 豐村元越 一十四町三間〈至二元越一五丁四十八間、從二元越一至二本宮下一、五丁九間半、〉 鰐浦村、三十四度四十一分半、 〈從二嚴原一至二鰐浦一〉街道、通計二十四里三十五町二間半、 從二對馬國仁位一街道歴二志多賀一至二豐村一 對馬國下縣郡仁位村和坂 一里二十三町一十六間 曾村、三十四度二十五分、〈至二千尋藻村殿浦一徑測一十三丁二間〉 一十二町二十四間 同缶(ホトギ)浦 一十一町二十四間 上縣郡櫛村大地石川口 九町一十八間半 同徳意浦 二十町五十七間 同志内浦 八町七間半 佐賀村 一里四町三十六間〈至二佛〉
p.1258 〈坂峠一二十五丁六間〉 志多賀村、三十四度二十八分半、 二里一十町九間 小鹿村 二十七町三十一間〈至二枇把峠一一十八丁四十六間〉 一重村坂口原 三町一間〈至二海岸追分一二町一十五間〉 一重村、三十四度三十一分、 一十町二十四間 葦見村 二十二町一十一間 琴村葦見坂 二里六町二十間〈至二針尾川口一三十六間半、從二川口一至二赤坂峠一一里九丁三十間、〉 舟志村、三十四度三十六分半、 一十九町一十六間〈至二小増浦一一十三丁〉 大増村入道浦 一十四町一十八間半〈至二立目浦一一十丁三十四間、從二立目一至二中崎一二丁二十四間、〉 濱久須村立目浦 一十四町三十一間〈至二氏神本一一丁三十三間、從二氏神本一至二藥帥堂濱一一丁二十九間半、〉 同牟理屋 三十五町二十八間半 比田勝村、三十四度三十九分半、 二町一十八間 同比田勝磯 一町三十九間 同小平次浦 二十九町四十七間半 泉村 二十一町四十三間半 豐村本川岸 一十三町二十八間半 同元越 〈從二仁位一至二豐村一〉街道、通計一十四里三十四町九間半、
p.1258 對馬 古作二津島一〈古事記 對馬之字既見二魏志一、是漢人以二邦人之言一塡レ字者、當時非三我邦作二對馬一、至二于後世一假レ之爲二國名一、北史作二都斯麻一、〉下國、管二郡、百四十村、 上縣〈六十五村〉 下縣〈七十五村古國府〉
p.1258 沿革 古へ國府ヲ下縣郡ニ置、〈嚴原國分町〉鎌府ノ時、少貳氏ヲシテ二島ノ事ヲ管セシム、島ノ豪族阿比留(アヒル)國信、其命ニ從ハズ、寛元四年、宗重尚〈平知盛ノ孤知宗難ヲ避テ來奔リ、母氏ヲ冒シ宗氏ト稱ス、其子重尚是ナリ、〉國信ヲ滅シテ終ニ地頭トナリ、少貳氏ニ屬ス、文永中、元虜來寇ス、重尚ノ弟助國力戰シテ死ス、正平中、助國ノ曾孫經茂始テ守護ニ補ス、應永中、經茂ノ曾孫貞茂、三根郷佐賀ニ居ル、〈上縣郡〉嘉吉三年、其子貞盛始テ朝鮮ト貿易ス、文明中、其孫貞國徙テ國府ノ中村ニ居ル、享祿元年、貞國ノ後四世將盛與良(ヨラ)郷金石(カネイシ)ニ治ス、後五傳シテ其少子義智(ヨシトシ)嗣テ立チ、豐臣氏ニ屬シ、州守ニ任ジ、肥前ノ田萬石ヲ加賜ス、關原ノ役西軍ニ應ズ、朝鮮聘事ニ任ズルヲ以テ譴ヲ免レ、封邑故ノ如シ、寛文六年、義智ノ孫義眞、徙テ、棧原(サジキバラ)ニ治シ、府中ト改稱ス、王政革新、府中ヲ改テ嚴原(イヅノハラ)ト稱
p.1259 ス、旣ニシテ縣トナシ、又之ヲ廢シ、長崎縣ヨリ、兼治ス、
p.1259 津島縣直 橿原朝、〈◯神武〉高魂尊五世孫、建彌己己命改爲レ直、
p.1259 三年三月丙辰、對馬國司守(○○○○○)忍海造大國言、銀始出二于當國一、
p.1259 對馬島、〈◯中略〉下縣、〈國府〉
p.1259 國府〈和名類聚抄〉 府中〈日本分形圖〉 府の有所は、下縣郡與良郷の東南なり、此故に和名抄に、下縣の國府と見へたり、海東記に古于に作り、〈國府一に古于と讀めばなり〉圖書編登壇必究に歌に作る、俗に府中といひ、又府内と云、舊き文書に、國府を與良と記せると有、是與良は府の本號なればなり、往古天日神命、又の名は天照魂命と云、津島縣の主と成り給ひし時は、小船越を府とせられ、建彌己々命は豆酘を府とせられ、雷大臣命は始は豆酘に居給ひて、後加志に移給ひ、住居の地一所ならず、
p.1259 對馬島 管二〈◯中略〉上縣〈加無津阿加多〉下縣〈國府〉
p.1259 對馬島、下、〈管 上縣(カムツアカタ) 下縣(シモツアカタ)〉 右爲二遠國一
p.1259 對馬國〈二郡〉 上縣(カミツアタカ) 〈●豐浦 ●鳶浦 ●鰐浦 ●佐須奈 ●大津 ●鳥 北ノ方〉 下縣 〈府中 ●佐須 ●大浦 ●シタリ ●九鬼崎 南ノ方〉 ◯按ズルニ、本書及ビ次下ノ郡名異同一覽ノ符號ハ、山城國篇郡條ニ引ク所ノ、二書ノ凡例ヲ參照スベシ、
p.1259 對馬
p.1260 上縣の下文にかんがたと訓を書せるは誤れるなり、かむつしもつの音によりて、字もまた上ン津下モ津に作り、上縣郡を上ン津郡といひ、下縣郡を下モ津郡といふ、古き文に上縣下縣などヽしるせる時は、上縣郡下縣郡としるさずして、上縣何郡下縣何郡としるす、上ン津下モ津としるす時は、上ン津郡下モ津郡としるし、縣の字を省きて郡の字をかヽげたり、ある人のいへるは、縣と郡と通用す、大小の違ひはあれど譯は同様なりしゆへならん、又本州の郡の名に縣といふ名を用ひしは、上代對馬縣といひしその縣の號を傳へしものならん、〈◯註略〉中比以來津を略して加美阿家多、志毛阿我多といふ、法書に記せる所も皆同じ、民俗その誤をついで、下縣をしも我多といふ、阿我多の阿を略して我多と號ふるは、河内國の大縣、美濃國の山縣、信濃國の小縣、安藝國の山縣の類ひの如くなれど、されども本州の下縣は、ひとり此類ひにあらず、しかるに民俗がたととなふるものは稍略しぬるなり、
p.1260 神護景雲二年二月庚辰、對馬島上縣郡(○○○)人高橋連波自米女、夫亡之後、誓不レ改レ志、其父尋亦死、結二廬墓側一、毎日齋食、孝義之至、有レ感二行路一、表二其門閭一、復レ租終レ身、
p.1260 延暦二十四年六月乙巳、遣唐使第一船、到二泊對馬島下縣郡(○○○)一、
p.1261 三年四月庚申、日神著レ人謂二阿閉臣事代一曰、以二磐余田一獻二我祖高皇産靈一、事代便奏、依二神乞一獻二田十四町一、對馬下縣直(○○○)侍レ祠、
p.1261 弘仁三年正月甲子、太宰府去十二月廿八日奏云對馬島言、今月六日、新羅船三艘浮西海、俄而一艘之船著二於下縣郡(○○○)佐須浦一、船中有二十人一、言語不レ通、消息難レ知、〈◯中略〉遂知二賊船一、
p.1261 貞觀七年三月廿二日癸卯、以二筑前國水田三十町一、充二對馬島上縣(○○)、下縣(○○)兩郡司一、統二領職田一、
p.1261 貞觀七年八月十五日癸亥、太宰府言、對馬島銀穴在二下縣(シモツアガタノ)郡一、自二高山底一穿二鑿巖一、堀入四十許丈、白晝執レ炬而得レ入、
p.1261 貞觀十二年二月十二日甲午、先レ是太宰府言、對馬島下縣郡(○○○)人卜部乙屎麻呂、爲レ捕二鸕鶿鳥一向二新羅境一、乙屎麻呂爲二新羅國一所レ執、縛囚禁二于獄一、乙屎麻呂見二彼國一、挽二運材木一構二作大船一、擊レ鼔吹レ角、簡レ士習レ兵、乙屎麻呂竊問二防援人一、答曰、爲レ伐二取對馬島一也、乙屎麻呂脱レ禁出レ獄、纔得二逃歸一、
p.1261 上縣郡 賀志 鷄知 玉調 豆酘 下縣郡 伊奈 向日 久須 三根 佐護
p.1261 郡郷 古國を分ツて郡とし、郡を分て郷とし、郷を分ちて村とす、〈◯註略〉和名抄に載せられしは、郡名二所、郷名九所なり、今郷名八ケ所とす、左の如し、〈◯註略〉 上縣郡四郷 豐崎〈度與左幾〉 十七ケ村〈枝村壹〉 佐須〈讀の字の如し〉 八ケ村〈枝里四〉 伊奈〈上ニ同〉 十六ケ村〈枝村枝里壹〉 三根〈美禰〉 十ケ村〈枝村一枝里三〉 下縣郡四郷 仁位〈讀の字ごとし〉 十八ケ村〈枝村四枝里一〉 與良〈上ニ同じ〉 三十ケ村〈枝村四〉 佐須〈上ニ同〉 九ケ村〈枝村一枝里五〉 豆酘 三ケ村
p.1262 當今郷村、上縣郡四郷、五十一ケ村、下縣郡四郷、六十ケ村、都合百十一ケ村とす、是に附する所十五ケ村、分ツ所の里十四ケ所有り、村里は時代によりて置、或はやめしもあり、郷村今三千貳百五拾餘軒、一萬八千一百人あり、
p.1262 一對馬國(皆私領) 〈對州〉 貳郡 高ナシ ●府中〈海陸三百七十一里半餘内八十三里海上〉 ◯按ズルニ、本書ノ符號ハ、山城國篇村里條ニ引ク所ノ、本書ノ凡例ヲ參照スベシ、
p.1262 對馬 二郡、百四十村、 無高(皆私領) 上縣郡六十五村 下縣郡七十五村
p.1262 郡邑島嶼奇名 對馬 下縣(シモアカツ)郡、安神(アガミ)村、豆酘(ツヽ)村、鷄知(チチ)村、千尋藻(チヒロモ)村、唐洲(カラス)村、阿連(アレ)村、上槻(カフツキ)村、内院(ナイシ)島、馬把(マングハ)島、南室(ナムロ)島、上縣郡、越高(シタカ)村、御園(ミソ)村、女連(ヲメツラ)村、唐舟志(トウシウシ)村、海栗(ウニ)島、荻島(タテク)、赤子(シヤクシ)瀬、本瀬(モトセ)、雎鳩(ヒサゴ)瀬、
p.1262 延暦二十四年六月乙巳、遣唐使第一船到二泊對馬島下縣郡一、大使從四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏言、〈◯中略〉五月十八日、於二州下賛縣一兩船解纜、六月五日、臣船到二對馬島下縣郡阿禮村(○○○)一、
p.1262 宗對馬守義達 拾万石以上之格(大廣間 從四位侍從文久三亥二月任) 居城對州下縣郡府中〈江戸ヨリ〉三百七十一里半十四丁 領知之外、毎歳拾万石之年租、以二現米一拜二領之一、 〈府中ヨリ大坂迄海上二百四十里、對州府中ヨリ壹岐勝本迄四十八里、此間泊ナシ、勝本ヨリ肥前國相島マデ三十五里、相島ヨリ大坂迄百五十七里、大坂ヨリ江戸迄百三十三里、〉
p.1262 對馬島 管二〈田四百二十八町〉
p.1263 對馬島 本田六百二十町
p.1263 對馬〈二郡(中略)田數五百五十九町〉
p.1263 豐臣秀吉公、諸國の石高を定め給ふに、壹岐までは石高を定られて、本州〈◯對馬〉の高は定められず、是に依て公義御代替の我が君に下されける御判物に、對馬國一圓とありて穀高をのせ給はず、今吾州の出來穗稻三千石、舂て千五百石、麥二万三千七百石餘、精麥一万六千六百石、都合一万八千一百石なり、武用辨略に、對馬の高五千石とし、廣益節用集に、對馬の高二万五千石とし、城主記に一万千八百石餘と記せるは、ともに聞傳の誤なり、本州の農業は、他國の如く精く詳ならずして、田作の仕かた疏末なりし故に、たヾ原野の地びくなる所、うるほひある所に稻を種へ、水を引て地をひたす所は、僅かに數所あり、古筑紫の稻二千石を以て、國司防禦の人々の粮米に宛行れき、〈◯中略〉筑前の水田三十町を以て上縣下縣の兩郡司にあてらる、〈◯中略〉又稻を種るの少きゆへなり、三代實録に、對馬島例格の大豆百石、租地子の穀百石を以て、銀山を堀るの宛行とせらるの事を載せらる〈◯中略〉租地子の穀は稻なり、續日本紀に、神護景雲元年丁未九月朔日、空に五色の雲あり右大臣從二位吉備の朝臣眞備對馬島の田三町一段、畠五町二段、雜穀二万束を獻りて島の儲へとなすとあり、雜穀は粟蕎麥をいふなり、元祿八年定る所畠木庭の秋、穀粟三千三百石、蕎麥八千三百石、大豆四千三百石、小豆八百石、都合一万七千七百石なり、續日本紀に云、天平十七年乙酉冬十月、諸國出擧の正税を論じ定め、國毎に數あり、たヾ多褹對馬の兩島は并に其數に入らず、
p.1263 二郡 高二万五千石
p.1263 天保度御國高調〈◯中略〉 對馬國〈皆私領〉 一無高
p.1264 諸國出擧正税公廨雜稻〈◯中略〉 對馬島、正税三千九百廿束、
p.1264 對馬島 管二〈(中略)本稻三千九百二十束〉
p.1264 天平十七年十月戊子、論三定諸國出二擧正税一、毎レ國有レ數、但多褹對馬兩島者並不レ入レ限、
p.1264 對馬島〈海路行程四日〉 調、銀、
p.1264 對馬 椎(シ井) 同茸 コブ苔(ノリ) 青砥〈塗師利屋用レ之〉 鰤熨斗 此外高麗之珍物 ◯按ズルニ、和漢三才圖會ニハ、以上ノ外ニ、石、鉛等ヲ擧ゲタリ、
p.1264 對馬貢銀記 作者江納言 全無二田畝一、唯耕二白田一、或置二諸租税一、至二此島一、以二大豆一爲二正税一、島中珍貨充溢白銀、鉛、錫、眞珠、金漆之類、長爲二朝貢一、
p.1264 三年三月丙辰、對馬國司守忍海造大國言、銀始出二于當國一、即貢上、由レ是大國授二小錦下位一、凡銀有二倭國一、初出二于此時一、故悉奉二諸神祇一、亦同賜二小錦以上大夫等一、
p.1264 二年十二月辛卯、令三對馬島冶二金鑛一、
p.1264 大寶元年三月甲午、對馬島貢レ金、建レ元爲二大寶元年一、 八月丁未、先レ是遣二大倭國忍海郡人三田首五瀬於對馬島一、冶二成黄金一、
p.1264 天平十一年三月癸丑、詔曰、〈◯中略〉得二太宰少貳從五位下多治比眞人伯等解一偁、對馬島目正八位上養徳馬飼連乙麻呂、所レ獲神馬、青身白髮尾、謹撿二符瑞圖一曰、青馬白髮尾者、神馬也、〈◯下略〉
p.1264 弘安十年七月十三日、内大臣殿令二著陣一給、〈奥〉其後人々著陣、〈◯中略〉
p.1265 官續文〈◯中略〉 從五位下行對馬守源朝臣光經解申請官裁事 請下特蒙二官裁一因准二去仁安治承建仁三箇年例一被上レ成二下官符一雜事參箇條子細状一請下任二色數一仰二管漆箇國一被二催渡一當島年粮米并正税交易貢銀直防人功米等上事筑前國伍佰陸拾壹斛 准米二百廿一斛 見米三百四拾斛 二百四十斛防人拾陸人功料 百斛正税交易貢銀直料 筑後國伍佰肆拾伍斛 准米二百廿斛 見米三百廿五斛 二百廿五斛防人拾陸人功料 百斛正税交易貢銀直料 肥前國伍佰肆拾伍斛玖斗 准米二百廿斛九斗 見米三百廿五斛 二百廿五斛防人拾伍人功料 百斛正税交易貢銀直料 肥後國捌佰肆拾漆斛玖斗 准米二百八十二斛九斗 見米五百六十五斛 四百六十斛防人參拾壹人功料 百斛正税交易貢銀直料 豐前國肆佰漆壹斛漆斗 准米二百四十六斛七斗 見米二百廿五斛 百廿五斛防人捌人功料 百斛正税交易貢銀直料 豐後國肆佰漆拾壹斛漆斗
p.1266 准米二百四十六斛七斗 見米二百廿五斛 百廿五斛防人捌人功料 百斛正税交易貢銀直料 壹岐島陸拾斛玖斗 右光經、謹撿二故實一、當島年貢銀者、是被レ催二渡彼七ケ國年粮米一、下二行採丁等一、或致二採銀之勤一、或所二交易進上一也、此外又島内恒例佛神事有二其數一、皆以二年粮米内一支二配件用途一、且奉レ祇二天長地久國家泰平之由一、且所祈請内安穩貢銀採得之旨也、而近代管國吏、各背二先例一、猥忌二進濟一、仍代々島司申二下官符宣旨一、令レ加二催促一之間、雖レ成二渡一旦之廳宣一、更無二始終之所濟一、因レ茲在廳不レ致二貢銀之營一、雜掌共所濟之計、然而親光任被レ催二渡管七ケ國正税交易米六百斛九斗一、可レ令レ交二易貢銀三百兩一之旨、經二奏聞一之時、被レ成二下依レ請官符一之間、致二沙汰一經二公用一云云、從二往古一被二定置一七ケ國年粮米、本數三千五百餘斛也、當島司資盛俊成能盛親光等、時經二上奏一之日、被レ召二下七ケ國廳宣一、以二官使一催二渡當島一、可レ取二返抄一之由、悉宣下了、望請官裁、早任二彼等例一被レ成二下官符一之後、各召二給廳宣一、正税已下任二色數一、可二寛濟一之由、欲レ被二宣下一者、 一請レ被レ停下止他國住人等押二渡當島一恣犯中用魚貝海藻上事、 右光經謹撿二案内一、當島者本自無二一歩一枝之田桑一、只以二海底之貝藻一、僅備二京庫之調庸一、而他國住人等渡來、恣犯用之條、理可レ然哉、望請二官裁一、早可レ停二止他國住人等犯用一之由、欲レ被二宣下一者、〈◯中略〉 以前之條事、任二代々之例一爲レ被レ成二下依請官符一、勒二在状一、謹解、 弘安十年七月二日 從五位下行對馬守源朝臣光經
p.1266 對馬國 二郡〈◯中略〉 一人數壹万四千八百人 内〈七千六百四拾人 男 七千百六拾人 女〉
p.1266 諸國人數調(文化元甲子年)〈◯中略〉 一人數壹万三千八百六拾貳人(皆私領) 對馬國(高無之)
p.1267 内〈八千百三拾四人 男 五千七百貳拾八人 女◯中略〉 諸國人數調(弘化三丙午年)〈◯中略〉 一人數壹万六千九百四人(皆私領) 對馬國(高無之) 内〈八千六百四拾八人 男 八千貳百五拾六人 女〉
p.1267 むかしの戸數は聞し事なし、本州今の家數五千六百餘軒、人數二万六千六百餘人あり、 ◯按ズルニ、對馬國ノ風俗ハ、壹岐國篇風俗ヲ參照スベシ、
p.1267 同國〈◯對馬〉名所之部 淺茅山 淺茅の里といふ有、淺茅の浦といふも此所也、西より東へ入海有、 竹敷の浦 竹の浦と云も此所也、入海有、 黄葉山(キハヤマ) 府中の近所、海にある山也、
p.1267 竹敷浦船泊之時、各陳二心緒一、作歌十八首、〈◯中略〉 多加之技能(タカシキノ)、母美知乎見禮婆(モミヂヲミレバ)、和藝毛故我(ワギモコガ)、麻多牟等伊比之(マタムトイヒシ)、等伎曾伎爾家流(トキゾキニケル)、
p.1267 對馬貢銀記 作者江納言 欽明天皇之代、佛法始渡二吾土一、此島有二一比丘尼一、以二呉音一傳レ之、因レ茲日域經論、皆用二此音一、故謂二之對馬音一、
p.1267 三年、是歳於二對馬島壹岐島筑紫國等一置二防與一レ烽、 六年十一月、是月築二〈◯中略〉對馬國金田城一、
p.1267 天平四年五月乙丑、對馬島司、例給二年粮一、秩滿之日、頓停二常粮一、比レ還二本貫一食粮交絶、〈◯中略〉依レ請給之、
p.1267 天平寶字三年三月庚寅、太宰府言、府官所レ見、方有二不レ安者四一、據二警固式一、於二博多大津、
p.1268 及壹岐、對馬(○○)等要害之處一、可下置二船一百隻以上一以備中不虞上、而今無二船可一レ用、交闕二機要一、不レ安一也、
p.1268 神護景雲元年九月戊申朔、右大臣從二位吉備朝臣眞備、獻二對馬島墾田三町一段、陸田五町二段、雜穀二万束一、以爲二島儲一、