p.0755 七高山 比叡 比良 伊吹 神峯 愛宕 金峯葛木并七 今按比叡〈在二近江國志賀郡一〉 比良〈在二同國高島郡一〉 伊吹〈在二美濃國不破郡一〉 神峯〈在二攝津國島上郡一〉 愛宕護〈在二山城國葛野郡一〉 金峯〈在二大和國吉野郡一〉 葛木〈在二同國葛木郡一〉 已上承和三三十三符、春秋二季各卌九箇日修レ之、毎寺給穀五十石、
p.0755 七高山トハ何レゾ 比叡(ヒヱ) 近江國志賀ノ郡ニアリ 比良(ヒラ) 同國高島郡ニアリ 伊吹(イブキ) 美濃國不破郡ニアリ、本ハ異吹(イブキ)ト書ク也、 愛宕護(アタゴ) 山城國葛野(カツラノ)郡ニアリ 神峯 攝津國清島上ノ郡ニアリ、金峯(キンプ) 大和國吉野ノ郡ニアリ 高野(カウヤ) 紀伊國伊都(イト)ノ郡ニアリ 但異説アル歟、是一義ノ分也
p.0755 本朝富士山爲二至高一、其次則越之白山也、又有二七高山一、 比叡山〈在二江洲志賀郡一〉 比良山〈在二江洲高島郡一〉 伊吹山〈在二濃洲不破郡一〉 愛宕(アタコ)山〈在二城州葛野郡一〉 金峯(キンプ)山〈在二和州吉野郡一〉 神峯山〈在二攝州島上郡一〉 葛木山〈在二和州葛上郡一〉
p.0755 日本高山 富士山 金峯山 白山 葛城山 大山〈伯耆〉 日光山 淺間山 御嶽 駒嶽 湯殿山 立山
p.0756 妙高山 筑波山 赤城山 白峯嶽 雲邊 膽吹山 脊振山 霧島 大山〈相模〉 妙義山
p.0756 愛宕護山〈アタコヤマ 山城葛野郡、七高山之一也、〉
p.0756 愛宕(アタゴ)山〈城州葛野郡、號二手白山白雲寺一、祭神二坐、伊弉册尊、火産靈尊、本地勝軍地藏、〉
p.0756 愛宕山 王城の正方西也、行程三里餘、京三條通より西へ出て、さいしやうがはら、惟子(カタビラ)の辻、太秦(ウヅマサ)、さが迄二里也、さが中の院より一の鳥居にかヽる、是より坂道五十町也、試(コヽロミ)の峠爰にくつかけの松有、清(キヨ)瀧川橋有、火打權現清瀧より四丁、境の松迄五丁目、是より高雄栂尾(トガノヲ)みゆる、杉の本は大なる杉有、是より月の輪觀音堂みゆる、日ぐらしの瀧あり、是より興にかはらけを谷間へなぐるなり、大岩二十六丁目、是より丹波龜山の城みゆる、 下の茶屋上の茶や、此所ちまきの名物也、
p.0756 あたご 愛宕をよめり、神名式に、丹波國桑田郡阿多古神社とみゆ、〈◯中略〉登壇必究にも、日本愛宕山と見えたり、今は山城に屬せり、一説に、神社もと洛北鷹峯の東に在しを、光仁帝の元年に、慶俊今の地に移して、愛宕護山と號すといふ、
p.0756 愛宕護山 諸社根元記云西ニ八咫(ヤタ)ノ嶺アリ、日ノ神岩戸ヲ出サセ給フ、其御光ノサシムカフケシキ、八咫ノ鏡ニ顯レタルヲ、名付テヤタノ峯ト云フ、後世ノ人アタゴノ山ト云、 〈拾遺〉なき名のみ高をの山といひ立る人はあたごの峯にや有らん、八條おほい君、 〈玉吟〉我宿はそなたを見てぞなぐさむる誰かあたごの山といひけん、家隆、
p.0756 鞍馬山 都の北に當りて行程三里也、寺町通北の頭くらま口より、御ぞろ池畑枝(ハタエダ)と云在所へかヽり市原村へ出る、又室町通よりかもへ行すぐに、市原へ出る道有、鞍馬山下向に僧正が谷へ出、きぶねへ出ル道者、僧正が谷に義經の名跡數多有、
p.0757 くらまにまうでしに、きぶねにみてぐらたてまつらせしほどに、いとくろうなりしかば、 ともすらんかたヾにみえずくらま山きぶねの宮にとまりしぬべし
p.0757 鞍馬天狗 〈シテ詞〉加様に候者は、鞍馬の奧僧正が谷に住居する客僧にて候、扨も當山にをひて、花見の由承及候間、立越よそながら梢をも詠ばやと存候、〈狂言〉是は鞍馬の御寺に仕へ申者にて候、扨も當山にをひて毎年花見の御座候、殊に當年は一段と見事にて候、去間東谷へ唯今ふみを持て參候、いかに案内申候、西谷より御使に參りて候、是に文の御座候御覽候へ、〈◯中略〉 〈上歌同〉花さかば告んといひし山里の〳〵、使は來り馬に鞍、くらまのやまの雲珠櫻、手折枝折をしるべにて、奧も迷はじ咲つヾく、木陰になみゐていざ〳〵花をながめん、
p.0757 吉野山(ヨシノヤマ)〈又作二芳野一、和州吉野郡、〉
p.0757 吉野郡 吉野山 一名金峯山(○○○)、〈又名二國冉山一◯中略〉本朝七高山之内、其土皆黄金也、因稱二金御嶽一、〈◯中略〉凡南北山深遠未レ知二里程一、東西不レ過二三里一、
p.0757 【金峯山】(キンプセン)〈和州吉野郡、義楚、日本國都城南五百餘里、有二金峯山一、〉
p.0757 金峯山〈ミタケ 大和國吉野郡、七高山其一也、〉
p.0757 【御嶽】(ミタケ)〈和州土俗、斥二金峯山一、曰二金御嶽一、〉
p.0757 【金峯】(カムノミ子)〈同吉野郡十坐内、名神大月次相嘗新嘗、〉
p.0757 釋迦ケ嶽 金峯山(キンプセン)より釋迦が嶽まで十三里、釋迦が嶽より神山まで六里半ありとなり、俗には金峯山を大峯とこヽろへたれど、そは誤なり、金峯山は御(ミ)たけにて、大みねと
p.0758 いふは神仙のあたりなり、千載集詞書にも、みたけより大峯にまかりはいりて、神仙といふ所にてとあり、
p.0758 凡此山は、六田の方の麓より、奧の院まで百餘町の間、民家なき所は、左右皆並木の櫻也、又左右の傍も、下の谷も、左右のかげなる所々の谷々にも、皆櫻多し、まれに杉有、二三月は花の世界と云つべし、榧(カヤ)は谷底に多くして、山にはなし、春は麓より先花開初て、やうやく山に咲のぼりて、奧の院にておはる、麓の花盛過て、中の花盛になる、中の花盛過て、上の花盛に開く、其間大やう三十日許有、又晩櫻は麓にも所々に在て、春の季、奧の院の花盛の比、盛に開く有、初櫻は高き所にあるも早く咲也、凡此山の櫻は、皆一重なり八重櫻は山中及民家僧坊に一株もなし、寒風はげしき年、或風雨久しく續けば、花の容色あしヽ、故に年に寄て好否あり、山僧の曰、此四十年以前は、今よりも此山に櫻多し、今は昔より少なし、山僧又曰、凡此山の花、上中下一時に不レ開といへども、大やう立春より六十五日に當る比を盛の最中とす、又里人數人に問にも、皆如レ此いへり、但年の寒温によりて遲速あり、是町より前の櫻多き所のさかりにあたる、吉野の町より少前東の方に山のさし出たる所有、櫻のさかり此あたりより、左の谷の内まへよりむかひ、左より右およそ方二十町ばかり、たヾ一目に見えて、皆花の林なり、おもしろき事たとへていはんかたなし、雪のあけぼのはたヾひたしろにて、わいだめなし、此所花のところ〴〵にさきほころびたるよそほひ、うき世の外の物にやとあやしまる、およそ櫻は雲すきに見えたるはあやなし、山のかたほとり、又谷そこにありて、むかひにすき間なき所にあるを見たるがよき也、此所の花は、四邊の山のかたはら、谷のそこにあるを、たかき所よりのぞみ見て、たとへば大なる盆などの内を見るやうにぞ侍る、かうやうのめでたき見ものは、やまとには云におよばず、おそらくは見ぬもろこしにもあらじとぞ思ふ、其外のあだし國はさら也、子守より上の花はおそし、此山にて櫻を切事を甚禁
p.0759 ず、櫻木を薪にせず、故に樵夫櫻を賣らず、若薪の内に櫻あれば、里人是をゑらびすつ、是里人の偏に櫻を愛するにもあらず、藏王權現の神木にて惜み給ふと云つたへて、神の祟を畏るヽ故なり、
p.0759 本朝五奇異 金峯山〈大和國、慈尊出、世其土石、可レ爲二能金一、〉
p.0759 閻浮檀金軟挺(エンプダンゴンナンリヤウ)ナンド云ハ、何ナル金ゾ、 凡金ハ、三國ニ有共、昔ハ此國ニハ希也、サレバ聖武天皇東大寺御建立ノ時、大佛ノ薄(ハク)ノ爲ニ金ヲ求メ給フニ、无カリシカバ、和州金峯山ハ、金ノ山也ト申セバトテ、良弁僧正ニ仰テ、藏王權現ニ申請サセ給ヒケルニ、夢中ニ示シテノ曰、我山ノ金ハ、慈尊出現世ノ時、大地ニ布ン爲ナレバ、取事不レ能、近江國志賀郡水海岸ノ南ニ一ノ山アリ、大聖垂迹ノ處也、彼ニ行テ祈可レ申ト、仍僧正彼山ヲ尋給フ處ニ、老翁有テ鉤ヲ垂ケルガ、良弁ニ語テ曰、此山之上ニ一之靈崛アリ、八葉之蓮花之如シ、紫雲常ニ聳(タナビキ)、瑞光頻輝、是觀音利生砌也、我ハ亦當山ノ地主、比良ノ明神也トテ、忽ニ隱給ヌ、
p.0759 今はむかし、七條に薄うちあり、みたけまうでしけり、まゐりてかなくづれをゆいてみれば、まことの金の様にてありけり、うれしく思て、件の金を取て、そでにつヽみて、家にかへりぬ、おろしてみければ、きら〳〵として、まことの金なりければ、ふしぎの事也、此金とれば、神なりぢしん雨ふりなどして、えとらざんなるに、これはさる事もなし、この後も、此金をとりて、世中をすぐべしと、うれしくて、はかりにかけてみれば、十八兩ぞ有ける、
p.0759 金峯山(キンプセン) 吉野山 國軸山 和州在二吉野郡一 南北深遠東西止二一峯一、凡三里許、〈◯中略〉 按、金剛藏王菩薩、〈出二于圓覺經首楞嚴經一、〉役小角始入二當山一、後所二安置一佛矣、當山祭神未レ詳、延喜式謂二金峯神社一、不レ曰二神名一也、或云少彦名命、或云安閑天皇、
p.0760 或紀云、宣化天皇三年八月、勾大兄天皇〈安閑天皇〉現二魂於金峯一、告二吉野國縣主物部吹荒子(カサラコ)一曰、我是勾大兄丸也、元在二戸科外天(トシトノノ)内津宮明津宮一、昔成二天皇一取二國政一焉、今成二此山神一、吾是權現神、護二寶祚一守レ國、叶二乎民之願一、權現神名始二於此時一、 按、此事不レ載二乎實録一、故未審(イブカシ)、任他此(サモアラバアレ)神靈驗、古今所二人識一也、其山多有レ金、然無二掘取一、
p.0760 凡僧尼有二禪行一〈謂禪靜也〉修レ道、意樂二寂靜一、不レ交二於俗一、欲下求二山居一服餌上者〈謂服二辟穀藥一而靜居、靜行レ氣也、雖レ不二服餌一、亦聽二山居一也、〉三綱連署、在京者僧綱經二玄蕃一、在外者三綱經二國郡一、勘レ實並録申レ官、判下二山居所レ隷國郡一、〈謂假如山居、在二金嶺(○○)一者、判下二吉野郡一之類也、〉毎知レ在レ山、不レ得三別向二他處一、
p.0760 日本國 亦名二倭國一、東海中、秦時徐福、將二五百童男、五百童女一止二此國一也、今人物一如二長安一、又顯徳五年、歳在戊午、有二日本國傳瑜伽大教弘順大師賜紫寬輔一、又云本國都城南五百餘里有二金峯山一、頂上有二金剛藏王菩薩一、第一靈異、山有二松檜名花軟草一、大小寺數百、節行高道者居レ之、不二曾有レ女人得一レ上、至レ今男子欲レ上、三月斷二酒肉欲色一、所レ求遂云、菩薩是彌勒化身、如二五臺文殊一、
p.0760 金峯山ノ御在所ニハ、九月九日ヨリ後三月三日マデ、人マヰラズ、コレハタヾ寒氣ニヨリテノミニアラズ、天人クダリテ供養シ給トモイヒ、又邪魔ヒマヲウカヾヒテ充滿ストモイフナリ、
p.0760 天皇〈◯天武〉幸二于吉野宮一時御製歌 淑人乃(ヨキヒトノ)、良跡吉見而(ヨシトヨクミテ)、好常言師(ヨシトイヒシヨシ)、芳野吉見與(ヨシヌヨクミヨ)、良人四來三(ヨキヒトヨクミツ)、 紀曰、八年己卯五月庚辰朔甲申、幸二于吉野宮一、
p.0760 天皇〈◯天武〉御製歌 三吉野之(ミヨシヌノ)、耳我嶺爾(ミヽガノミ子ニ)、時無曾(トキナクゾ)、雪者落家留(ユキハフリケル)、間無曾(ヒマナクゾ)、雨者零計類(アメハフリケル)、其雪乃(ソノユキノ)、時無如(トキナキガゴト)、其雨乃(ソノアメノ)、間無如(ヒマナキガゴト)、隈毛不落(クマモオチズ)、
p.0761 思乍叙來(モヒツゝゾコシ)、其山道乎(ソノヤマミチヲ)、 或本歌三芳野之(ミヨシヌノ)、耳我山爾(ミヽガノヤマニ)、時自久曾(トキジクゾ)、雪者落等言(ユキハフルトフ)、無間曾(ヒマナクゾ)、雨者落等言(アメハフルトフ)、其雪(ソノユキノ)、不時如(トキジクガゴト)、其雨(ソノアメノ)、無間如(ヒマナキガゴト)、隈毛不墮(クマモオチズ)、思乍叙來(オモヒツヽゾコシ)、其山道乎(ソノヤマミチヲ)、 右、句々相換、因レ此重載焉、
p.0761 幸二于吉野宮一之時、柿本朝臣人麿作、 八隅知之(ヤスミシヽ)、吾大王之(ワガオホキミノ)、所聞食(キコシメス)、天下爾(アメノシタニ)、國者志毛(クニハシモ)、澤二雖有(サハニアレドモ)、山川之(ヤマカハノ)、清河内跡(キヨキカワチト)、御心乎(ミコヽロヲ)、吉野乃國之(ヨシヌノクニノ)、花散相(ハナチラフ)、秋津乃野邊爾(アキツノノベニ)、宮柱(ミヤバシラ)、太敷座波(フトシキマセバ)、百磯城乃(モヽシキノ)、大宮人者(オホミヤビトハ)、船並氐(フ子ナメテ)、旦川渡(アサカハワタリ)、舟競(フナギホヒ)、夕河渡(ユフカハワタル)、此川乃(コノカハノ)、絶事奈久(タユルコトナク)、此山乃(コノヤマノ)、彌高良之(イヤタカヽラシ)、珠水激(イハヾシル)、瀧之宮子波(タギノミヤコハ)、見禮跡不飽可聞(ミレドアカヌカモ)、 反歌 雖見飽奴(ミレドアカヌ)、吉野乃河之(ヨシヌノカハノ)、常滑乃(トコナメノ)、絶事無久(タユルコトナク)、復還見牟(マタカヘリミム)、
p.0761 三吉野之(ミヨシノヽ)、【御金高】爾(ミカ子ノタケニ)、間無序(ヒマナクゾ)、雨者落云(アメハフルトイフ)、不時曽(トキジクゾ)、雪者落云(ユキハフルトイフ)、其雨(ソノアメノ)、無間如(ヒマナキガゴト)、彼雪(ソノユキノ)、不時如(トキナラヌゴト)、間不落(ヒマモオチズ)、吾者曾戀(ワレハゾコフル)、妹之正香爾(イモガマサカニ)、
p.0761 左のおほいまうちきみ もろこしのよしのヽ山にこもるともをくれんと思われならなくに
p.0761 もろこしのよしのヽ山にこもるともをくれんと思ふわれならなくに 此歌、ものしりたりとおぼしき人は、李部王の記に、吉野山は五臺山のかたはしの、雲に乘て飛きたるよし見えたり、さればもろこしの吉野の山といふ也など申せども、今案とぞきこゆる、たヾ心ざしふかきよしをいはんとて、もろこしのよしのヽ山とは、いまいひでたることなり、
p.0762 從三位中納言丹墀眞人廣成三首 五言、遊二吉野山一、 山水隨レ臨賞、巖谿逐レ望新、朝看度レ峯翼、夕翫躍レ潭鱗、放曠多二幽趣一、超然少二俗塵一、栖二心佳野域一、尋問二美稻津一、七言、吉野之作、 高嶺嵯峨多二奇勢一、長河渺漫作二廻流一、鐘地超レ潭豈凡類、美稻逢レ仙同二洛洲一、
p.0762 葛木〈カツラキ、大和國葛上郡、七高山之一也、〉
p.0762 葛城(タカキ)山〈王吉野〉
p.0762 葛城山(カヅラキヤマ)〈和州、今按、蟠二根葛上葛下忍海三郡一者、〉 【金剛山】(コンガウセン)〈和州葛上郡〉
p.0762 葛上郡 金剛山 在二和州河州界一、〈◯中略〉相傳曰、當山與二金峯山一同、金山而金剛砂亦出二於此一、凡生二當山一藥品皆佳、
p.0762 葛城(カツラキ)山 篠峯(シノミ子)の南にあり、篠峯より猶高き大山也、是金剛山也、山上に葛城の神社有、山上より一町西の方に、金剛山の寺あり、轉法輪寺と云、六坊有、山上は大和なり、寺は河内に屬せり、婦人は此山に上る事をゆるさず、大和の方のふもとより一里有、河内の方のふもと水分の社より六十六町あり、或説に、日本四番の高山なりと云、此山に登れば、大和、河内、攝津、其外諸國眼下に見ゆ、
p.0762 よひのまぎれに、かしこに參りぬ、おとヾはかしこきをこなひ人、かづらき山(○○○○○)よりさうじ出たる待うけ給て、加持參らせんとし給、御修法讀經なども、いとおどろおどろしうさわぎたり、
p.0762 生駒山(イコマヤマ)〈和州平群(クリ)郡〉
p.0762 平群郡
p.0763 生駒山 東屬二當郡一、西河州河内郡、其嵿曰二闇上(クラガリ)峠一、是乃境目也、
p.0763 戊午年四月甲辰、皇師勒レ兵、歩趣二龍田一、而其路狹嶮、人不レ得二並行一、乃還更欲下東踰二膽駒山(○○○)一而入中中洲上、
p.0763 妹許跡(イモガリト)、馬鞍置而(ウマニクラオキテ)、【射駒山】(イコマヤマ)、擊越來者(ウチコエクレバ)、紅葉散筒(モミヂチリツヽ)、
p.0763 宇陀郡 國見山 在二伊賀見村一〈伊勢大和之國界〉
p.0763 國見山〈伯母谷村の西南にあり、巖巒聳へ、林壑邃深にして、山路險しく、人跡絶たり、これより西南を總て峯中といふ、〉
p.0763 戊午年九月戊辰、天皇陟二彼菟田高倉山之巓一、瞻二望域中一、時國見岳(○○○)上則有二八十梟師一、十月癸巳朔、天皇嘗二其嚴瓫之粮一勒レ兵而出、先擊二八十梟師於國見丘一、破斬レ之、是役也、天皇志存二必克一、乃爲御謠之曰、伽牟伽筮能伊齊能于瀰能(カムカゼノイセノウミノ)、於費異之珥夜(オホイシニヤ)、異波臂茂等倍屢(イハヒモトヘル)、之多儾瀰能(シタヾミノ)、之多儾瀰能(シタヾミノ)、阿誤豫(アゴヨ)、阿誤豫(アゴヨ)、之多太瀰能(シタヾミノ)、異波比茂等倍離(イハヒモトヘリ)、于智氐之夜莽務(ウチテシヤマム)、于智氐之夜莽務(ウチテシヤマム)、謠意、以二大石一喩二其國見丘一也、
p.0763 富士山〈万葉集之不盡山、此山至高、瞻望不レ盡故也、又四時雪不レ盡故也、今日此山體女體也、欲レ富二男子一、故世俗祝以テ名也、人皇第七代孝靈帝善記三年日辰三月十五日、一日夜從レ地涌出ス、其高一由旬也、至二天文十七年戊申一千二十五年也、〉
p.0763 富士山(フジサン)〈不盡、不死、不二並通用、駿州富士郡、本朝文粹、古老傳云、山名二富士一取二郡名一也、又宋景濂日東曲、蟠根直壓三州間云々、今按三州謂二駿豆甲一也、〉
p.0763 富士山 桐葉集〈名二玉露藁一〉富士の異字同名種々有〈万葉集歌集の證跡出すものなり〉 不二の高ね 不盡のたかね 時しらぬ山 消せぬ雪根 二ツなきみね 不二の芝山 富士の小山 ふじの高山 不二の糸山 をそ見山 老せぬ山 よもぎふ山 不二の雪山 初雪やま 大やま ちはやぶるおほね山
p.0764 ふじのなるさは〈◯中略〉 富士とは、郡の名をとれる也、
p.0764 君子國有二一卷石一、兼山艮之象也、喚而名二富士山一、一曰柴山、一曰二井山、蓬萊山者其別號、吾邦之地鎭也、或曰取二郡之名一而名レ山也、或曰取二山之名一而名レ郡也、未レ知二孰是一、世俗殊二其字義聲音一、而附二會其説一、頗似レ有レ據、珠玉玲々瑲々而出、材木鬱々蘩々而饒、徳澤以富二士民一、故曰二富士一、昔山麓有二老翁老孃一養二鶯卵一、卵化而成二女兒一、容色驚レ人、而又得二黄金於竹林一而富レ家、故曰二富兒一、其女兒長而與二帝王一契、而後其婦昇レ天去、故曰二婦盡一、比二之他之積土一、挺秀而不レ二故曰二不二一、四序含二六出一、旦暮吐二烟霧一、而千古萬今使レ不レ盡、故曰二不盡一、禁二戒殺生一、慈二育禽獸一、庶而富、故曰二富慈一、有二神僊一而居、藏二不死之藥一、故曰二不死一、又曰山者仁者之象也、仁者壽、故曰二不死一、萬葉集用二或布仕、或布士、或不自、或布時、或布自之字一、皆假二其音一而已、〈◯下略〉
p.0764 福慈ノ岳は、即富士ノ山なり、和名抄郡郷部に、富士浮志(フジ)とあり、諸書に又不盡、布士、不自、富岻等、尚色々に書るは、福慈(フクジ)の省言なり、抑福慈と書る字は、常陸風土記に所見(ミエ)たるが、此は富久士(ホクジ)とも布久土(フクジ)とも讀べくおぼゆ、其は既に出たる氏の伊福部(イフクベ)を五百木部(イホキベ)とも稱ひ、御吹玉(ミフキタマ)を御富伎玉(ミホギタマ)とも云を思に、此山の名はもと富久士(ホクジ)なりしを、布久士(フクジ)と云ひ、省て富士(フジ)と云りと通(キコユ)ればなり、〈前には福は布の假字にも用べき字なれば、福慈を乃チフジと讀べく思れど、後に熟思ば、こは必ずホクジと讀べく書たるなり、玄道云、或人も、富(ホ)は古事記に意富岐美(オホキミ)、又意富祁(オホケ)命、淤富美夜(オホミヤ)、又富良(ホラ)富良等、皆保の假字に用られたりと云へりき、〉然らば富久士(ホクジ)とは、何なる意ならむと云に、富(ホ)は穗(ホ)なり、久士(クジ)は彼高千穗之久士布流峯(クジフルタケ)の久士と同く奇(クシ)の義にて、此山の卓て高く、天進(アマソヽリ)て穗の如く奇靈(クシビ)に立たる義なるべく、其郡名を富士と云は、此山の立たる故の名なるべし、〈下に引く都良香朝臣の富士山記に、古老傳云、山名富士取二郡名一也と有は、本末を違し説なり、(中略)玄道云、(中略)取二郡名一とは、袖中抄神社考に引る縁起も同説なれど、皆彼記の謬を襲しなめり、さるを釋常庵集に、駿州富士之郷囶也、置レ郡者七、富士其一也、蓋由レ山得レ名、猶下會稽山之在二會稽郡一金華山之在中金華郡上耶と云るは、師説に符ていと珍たし、〉
p.0764 【甲斐】【白嶺】(シラ子) 〈又云〉【甲斐之嶺】(カヒカ子)
p.0765 〈後拾遺〉何國ともかひの白ねはしらね共雪降毎に思ひ社やれ
p.0765 かひがね 古今集にみゆ、甲斐が嶺也、又かひのしら嶺ともいへり、後拾遺集にみゆ、
p.0765 甲斐白嶺 かひのしらね 甲斐國 かひがねに同じ所なり、國府より北西の方に在り、
p.0765 白根が嶽〈西方〉 富士につヾきての高山、初夏迄も白雪ありて、名のらずして見ゆる甲州一の大山、名所和歌多し、所跡の下に記す、名月過よりは嶺に雪見へ、四月末迄あり、
p.0765 白嶺 かひがねとも、かひのしらねとも云、名所なり、此山四時雪あり、駿河の國大井川の源は、此山中より出る、一説にかひがねは、一山の名にあらず、すべて甲斐の高山をいふといへり、〈◯下略〉
p.0765 巨麻郡西河内領 一白峯(シラ子) 此山本州第一ノ高山ニシテ、西方ノ鎭タリ、國風ニ所レ詠ノ甲斐ガ根是ニシテ、白根ノ夕照ハ八景ノ一ナリ、南北ヘ連ナリテ三峯アリ、其北ノ方最モ高キ者ヲ指シテ、今專ラ白峯ト稱ス、中間嶺ヲ隔テヽ、武川筋蘆倉村ニ屬セリ、本村ヨリ絶頂ニ至ル凡拾里許、正ク西ニ當レリ、若シ其絶巓ニ攀登セント欲スル者ハ、必ズ盛暑ノ時ヲ以テ候トス、再宿シテ應サニ還ルベシ、相傳日神ヲ祀ル、〈◯中略〉中峯ヲ間(アヒ)ノ嶽、或ハ中ノ嶽ト稱ス、此峯下ニ、五月ニ至リテ雪漸ク融テ、鳥ノ形ヲナス所アリ、土人見テ農候トス、故ニ農鳥(ノウトリ)山トモ呼ブ、其南ヲ別當代(ジロ)ト云、皆一脈ノ別峯ニシテ、總テ白峯ナリ、奈良田、湯島諸村ノ西ヘ連亘シテ、信州伊奈郡ニ界セリ、又駿遠ノ間ニ出ル、大井川モ此山ノ西南ヨリ發スト云、
p.0766 益右而農鳥、農牛二山、鳳凰、地藏、巨摩諸岳、次第環匝、以與二金峯一相接、〈◯中略〉 巖二然乎二農之上一者、白嶺(シラミ子)也、望レ之稜々乎可レ畏、似二窮髮之地一、毎冬先雪、以三其無二草木一、尤爲二皎然無玷一、故得レ名云、風人之咏、藉二甚今古一、 白嶺横連臥遠曛、莊添月色難分、歸鞭早晩雞鳴後、欲下採二國風一報中我君上、 茂卿 誰聳二白嶺一插二雲漢一、遙照仙人十二樓、不下借二餘輝一映中征袂上、行二過十里一尚回レ頭、 省吾
p.0766 黒駒開關之願状 日本有レ山名二富士一、其山峻三面是海、一朶上聳頂有レ煙、日中上有二諸寶流一、下レ夜即郊上常聞二音樂一、古來六月上二此山一、不下曾有二女人一得上レ上、至レ今男子欲レ上、三月斷二酒肉欲色一、所レ求皆遂云、因レ兹關東關西之人、無レ不二競望一古人云、雖レ跨二三州一、過半吾甲陽之山也(○○○○○○○○)、處レ今韶陽之一字、透得者希、自二天正丁丑一、拔二却黒駒關鍵一、而而不レ碍二往來一、通二車馬一、是太平得レ路之謂乎、伏冀以二這開關力一、忠勇馳二八極一武威傾二九州一、而掌上舞二天下一、量外致二太平一者、算レ日竢レ之、至祝至禱、稽首敬白、 奉レ納二富士神前一 天正丁丑季夏六日 勝頼
p.0766 甲斐國 同國富士山是は古歌にも駿河の不二と詠じ、又世俗にもするがのふじとのみ、心得たるなれども、もと此山は甲州の山なるべし、其故いかんとなれば、甲州上吉田村表口に、三國第一山と勅額かヽり有也、鳥居の高サ四丈三尺也、駿河村山口より大刀三振、青指三貫文を、甲州郡内の御代官陣屋へ年ごとに上納せしと也、これは駿河のふじといわせまじき爲にや、其始をしらず、當御代吉宗將軍、彼大刀三振の代りに小刀三本、青指三貫文の代りに、青銅三百文上納すべきむねを命ぜらるヽ、有がたき御仁政なり、又駿河大納言様、富士山の道のりを改めさせられしに、其節も甲州吉田村大鳥居より、山上道法三百五拾七町十七間ありと云、古來は吉田より參詣のもの多く
p.0767 有しと也、今はすばしり口より參詣多しといふ、よつてこれを表口といふ由、
p.0767 其迦葉阪上、皤然可レ觀者、芙蓉峯也、載籍以來、以レ山隷二駿州一者、蓋取二諸海東瞻仰之有一レ在也、其實則山之在二本州一者六之三、駿爲レ二、豆爲レ一、古人鹵 之甚、可二以痛恨一、有レ詩、 美人微咲立二雲端一、向背誰言都一般、欲レ識二士峯眞面目一、却從二甲斐國中一看 茂卿 請聽甲人論二富兵一、全身在レ北面東臨、天下浪傳駿風語、未三必山靈爲二腹心一、 省吾
p.0767 此山の今の委き有状は、富士山内記と云書に、富士山は、甲斐國都留郡の西南、曠野の中に兀立孤絶す、山の東北は都留郡、西南は駿河國駿東郡富士郡なり、山足の曠野、甲斐駿河を合て周回三十八九里許なるべし、〈武田勝頼の願書に、三州に跨と書たれど、甲斐駿河の外に跨る國なし、衆皆駿河は四分の三、甲斐は其一を有と云ど、駿河は三分の二、甲斐は其一を有つ、是定説なり、玄道云、釋常庵集に、富士之爲レ山也、其高逾二一由旬一、而横跨二豆駿相三州一と云、物茂卿が峽中記行に、載籍以來、以レ山隷二駿州一者、蓋取二諸海東瞻仰之有一レ在也、其實則山之在二本州一者六之三、駿爲レ二、豆爲レ一、古人鹵莾を免ず、或は跨二于四國一と記る等は、更に論にも足ず、又二國のみに跨て、相模にかヽらずとは、甲斐國志裏見寒話にも説、國志には七分を甲斐の山也といへり、地藏靈驗記に、駿河富士の御岳を拜し給に、三國无雙の御山、峯は半天をさヽへて、雲に入り、夏の夜なれども霜を副へ、麓は群峯重疊せり、春の日ながらも錦を暴(サラシ)て、星は緑野に連り、日は海底より出給なれば、巍々たる勢、蕩蕩たる粧、喩るに物なしとも見ゆ、〉
p.0767 富士山の高(○○○○○) 駿河の富士山は、三國にまたがりて、吾邦に無比の高山にして、その高さいくばくといふことはかるべからず、塵塚物語に、直に立つれば九十六町ありとひ、月刈藻集に直立して二十五町ともいへり、何れが正しきというをしらず、近きころ享保十二年の夏、福田某といふ人測量せしに駿河の吉原宿より、富士山の頂まで、二百十六町二分一六、〈二十間四方の盤にてこれをはかる、差一寸八分五厘、〉里數にすれば六里◯◯六◯◯六となれり、山の高さは三十五町六分二一六三〈兩柱の間一丈一尺にて、高差一尺九寸七分三厘、〉と、ある筆記に見えたり、こは町見の測法なるべければ、正しき積りなるべし、
p.0767 本朝文粹に、都良香朝臣の富士山記に、富士山者在二駿河國一、峯如二削成一直聳屬レ天、其高(○)
p.0768 不(○)レ可(○)レ測(○)、歴二覽史籍所一レ記、未レ有下高二於此山一者上也、〈(中略)此文に其高不レ可レ測と有ど、諸書に或は直に立ツれば、九十六町と云、或は二十五六町ありなども云れど、宲は地平より二十二町許りの直徑なりとぞ、〉
p.0768 うきしまが原をとをりて、車がへしといひし所より、甲斐國に入て、信濃へと心ざし侍しに、さながら富士の麓を行めぐり侍しかば、山の姿(○○○)いづかたよりもおなじやうに見えて、誠にたぐひなし、すそのヽ秋のけしき、まめやかに心こと葉もをよびがたくおぼえ侍て、 北になし南になしてけふいくかふじの麓をめぐりきぬらん
p.0768 富士山〈降土、南西駿州、東北相州、北西甲州、巽略跨二豆州一、〉三國無雙名山、關八州望レ之、其形不レ異、蓋其嵿加二八葉蓮花一、故所レ向三峯、而甚嶮也、譬以二十本骨摺扇一、中折二摺一間一、爲二九本骨一倒レ之、形能彷彿焉、〈自二箱根一見レ之五峯、自レ原見レ之四峯、自二江尻一見レ之三峯也、〉
p.0768 ふじのなるさは さぬらくはたまのをばかりこふらくはふじのたかねのなるさはのごと 顯昭云、ふじのなるさはとは、ふじのやまのみねに、いけのごとくにおほきなるさはあり、その水と火と相劇して、けぶりと水氣と相和してたちのぼる、火もえ水のわきかへるをと、つねにたえず、されば鳴澤(ナルサハ)とは申と云々、〈◯中略〉 童蒙抄云、なるさはとは、ふじのやまのうへにあり、つねにながれてをとたえせぬなり、さぬらくはとは、すこしぬることはたまのをばかりにて、こふることはさはのごとくにたえずとよめるなり、〈◯中略〉 古老傳云、山に神ます、淺間(アサマ)の大神となづく、いたヾきの上に、平地一里許、中央の外にして、體こしきをかしくがごとし、こしきのそこに神池あり、池のなかに大石あり、石體あやしくてうずくまれるとらのごとし、そのこしきのなかに、つねに氣あり、その色純青也、そこをみれば湯の
p.0769 ごとくにわきあがる、とをくしてのぞめば常に煙火のごとし、宿雪はるなつきえず、山のこしよりしも腹(フトコロ)のもとにとヾまり達することえず、白沙のながれくだる故也、廣言がなるさの義は、このながれくだる白沙の心歟、ふじのなるさはといふべからず、
p.0769 古老曰、昔祖神尊巡二行諸神之處一、到二駿河國副慈岳(フジノタケ)一、卒遇二日暮一、請欲二寓宿一、此時福慈神答曰、新粟初嘗(ニヒナベスルニハ)、家内諱忌(ヤヌチモノイミセリ)、今日之間(ホドハ)、冀許不レ堪(エユルシマヲサジト)、於レ是祖神尊恨泣詈告曰、即汝親何不レ欲レ宿、汝所レ告山、生涯之極、冬夏雪霜、冷寒重襲、人民不レ登、飮食勿二奠者一、更登二筑波岳一、亦請二容止(ヤドリ)一、此時筑波神答曰、今夜雖二新粟嘗一、不二敢不一レ奉二尊旨一、爰設二飮食一、敬拜祇承、於レ是祖神尊歡然謌曰、愛乎我胤(ウツクシキカモアガスヱ)、巍哉(タカキカモ)神宮、天地並齊、日月共同、人民集賀、飮食富豐、代代無レ絶、日日彌榮、千秋萬歳、遊樂不レ窮者、是以福慈岳常雪不レ得二登臨一、其筑波岳往集、歌舞飮喫、至二于今一不レ絶也、〈已下略レ之〉
p.0769 富士山〈◯中略〉 相傳、孝靈帝五年始見矣、蓋一夜地拆爲二大湖一、是江州琶湖也、其土爲二大山一駿州之富士也、〈國史等無二其事一、亦非レ無レ疑、〉四時有レ雪、絶頂有レ烟、江州三上山自レ簣(モツコ)溢成、故形略似二富士一、 秦徐福入二蓬莢山一者、即當山也、〈當二孝靈帝時一〉而後役小角始入二當山一、蹊徑焉、〈雖レ屬二駿州一、鳥居在二北面一、甲州地也、◯中略〉 平城天皇大同元年、山上本宮社建、凡毎年六月多登山、則百日浴水潔齋也、惟江州人則七日潔齋而登、亦所三以有二因縁一矣、其山砂多、故隨レ人而砂流下、夜則却砂上如レ舊、一山多有二欅木一、〈◯中略〉 按俗傳、謂三琶湖土爲二富士山一者妄也、駿江相去百有餘里、何能 レ之乎、忽然山生、或海涌者、不レ可レ訝、異國亦有、東國通鑑云、〈高麗穆宗十年、宋景徳四年、〉有レ山湧二于耽羅海中一、〈朝鮮之南〉其始出也、雲霧晦冥、地動如レ雷、七晝夜始開霽、山高可二百餘丈一、周圍可二四十餘里一、無二草木一、煙氣冪二其上一、望レ之如二石硫黄一、遣二大學博士甲拱之視一レ之、至二山下一圖二其形一以進、
p.0769 孝靈五年、近江湖水始湛、富士山始出、
p.0770 福慈岳は即富士山なり、〈◯中略〉さて古く此山の奇靈なる由を稱たるは、萬葉三卷、山部赤人望二不盡山一歌に、天地の分し時ゆ、神佐備て高く貴き、駿河なる布士の高嶺を、天原振放見れば、度日の陰も隱ろひ、照月の光も見えず、白雲も伊去はヾかり、時自久ぞ、雪は落ける、語つぎ、言繼ゆかむ、不盡の高嶺は、〈◯中略〉此山を詠る歌、是らより古きは有事なし、然れど天地の分し時ゆ、神さびてと云る如く、神世より立たる事は云も更なり、〈和漢合運圖など、舊き年代記の類、又林道春の神社考に引る、富士縁起などに、孝安天皇九十二年六月、富士山涌出と云、或は孝靈天皇の五年に、近江國に水海湛、駿河國に富士涌出と云る説も有ど、舊き俗説にて取に足ず、〉
p.0770 貞觀二年五月五日甲寅、駿河國言、富士山上五色雲見、
p.0770 貞觀十七年十一月五日、駿河國吏民似レ舊致レ祭、日加レ午、天甚美清、仰觀二富士峯一、有二白衣美女二人一、雙二舞山巓上一、去二山巓一一尺餘云々、
p.0770 富士山記 都良香 富士山者、在二駿河國一、峯如二削成一、直聳屬レ天、其高不レ可レ測、歴覽二史籍所一レ記、未レ有下高二於此山一者上也、其聳峯鬱起、見在二天際一、臨二瞰海中一、觀三其靈基所二盤連一、亘二數千里間一、行旅之人、經二歴數日一乃過二其下一、去レ之顧望、猶在二山下一、蓋神仙之所二遊萃一也、承和年中、從二山峯一落來珠玉、玉有二小孔一蓋是仙簾之貫珠也、又貞觀十七年十一月五日、吏民仍レ舊致レ祭日加レ午天甚美晴、仰觀二山峯一、有二白衣美女二人一、雙二舞山巓上一、去レ巓一尺餘、土人共見、古老傳云、山名二富士一、取二郡名一也、山有レ神名二淺間大神一、此山高極二雲表一、不レ知二幾丈一、頂上有二平地一、廣一許里、其頂中央窪下、體如二炊甑一、甑底有二神池一、池中有二大石一、石體驚奇、宛如二蹲虎一、亦其甑中、常有レ氣蒸出、其色純青、窺二其甑底一、如二湯沸騰一、其在レ遠望者、常見二煙火一、亦其頂上匝池生レ竹、青紺柔愞宿雪春夏不レ消、山腰以下生二小松一、腹以上無二復生木一、白沙成レ山、其攀登者止二腹下一、不レ得レ達レ上、以二白沙流下一也、相傳昔有二役居士一、得レ登二其頂一、後攀登者、皆點二額於腹下一、有二大泉一出レ自二腹下一、遂成二大河一、其流寒暑水旱、無レ有二盈縮一、山東脚下有二小山一、土俗謂二之新山一、本平地也、延暦廿一年三月、雲霧晦冥、十日而後成レ山、蓋神造也、
p.0771 久安五年四月十六日丁卯、近日於二一院一有二如法大般若經一部書寫事一、卿士大夫男女素緇多營レ之、此事是則駿河國有二一上人一、號二富士上人一、其名稱二未代一、攀二登富士山一已及二數百度一、山頂構二佛閣一、號二之大日寺一、 ◯按ズルニ、富士行者ノ事ハ、神祇部神道篇富士講ノ條ニモ見エタリ、
p.0771 是よりは駿河の國なり、〈◯中略〉富士の山はこの國也、我生出し國にては、にしおもてにみえし山なり、その山のさま、いと世に見えぬさまなり、さまことなる山のすがたの、紺青をぬりたるやうなるに、雪のきゆる世もなくつもりたれば、色こき衣に、白きあこめきたらんやうに見えて、山のいたヾきの、すこしたひらぎたるより、けぶりは立のぼる、ゆふぐれは火のもえたつもみゆ、
p.0771 廿六日、暮かヽるほどきよみが關をすぐ、〈◯中略〉富士の山を見れば、煙もたヽず、むかし父の朝臣にさそはれて、いかになるみの浦なればなどよみしころ、とほつあふみの國まではみしかば、富士のけぶりのすゑも、あさゆふたしかにみえしものを、いつの年よりかたえしととへば、さだかにこたふる人だになし、 たが方になびきはてヽか富士のねの煙の末のみえずなるらん、古今の序のことばまでおもひ出られて、いつの世のふもとの塵かふじの嶺を雪さへ高き山となしけん
p.0771 應安四年二月一日、大雪、午后掃レ雪登二一覽亭一、與二諸公一同時々雪晴、斜暉暎二遠岫一、海水一帶碧色、遍界皆白、獨富士山不下與二他山一同上、蓋他山無レ雪、則此山獨白、今則諸峯皆白、此山獨青、余感云、賢士之處レ世也、通斤不二與レ俗同一、此山類焉、乍見二筥根山上一、一點蒼烟如レ狗、須臾變レ白、杜陵之句不レ虚也、又來者楷朝與二杭園哲東漂善現一、恰是與二藥山十禪客一相似、
p.0772 此後藤と云者は、日本松前之者なり、獵船に乘、風に放され、せいしうへ著、廿年彼所に居住するに依て、おらんかい口をも、日本口をも自由に遣ひよき通詞故、清正重寶せられ、則二郞と名も付、あなたかなたの案内を申付られし、せいしうより、天氣能時は日本の富士山殊之外近くみえ申候、彼所よりはひつじさるにあたり、松前より北なり、
p.0772 富士山異國より見ゆると云説并長白山 高麗陣日記上卷、〈十七丁ウ〉セルトウスヲ生捕事ノ條に、ヲランカイより、天快霽の時は、未申にあたり、日本ノ富士山近ク見ユル也とあり、清人遂安ノ方象瑛渭仁が封二長白山一記に、登二一山一升レ樹而望、遙見二遠蜂白光片々一、長白山也云々、志稱、長白山横亘千里、高二里、巓有レ潭、周八十里、南注二鴨緑江一、此流二混同一云々とあれば、此長白山を富士山と見まがへたるにやありけん、
p.0772 富士山 富士山の名、ひとり我朝に鳴るのみならず、遠く中華まできこゆ、赤人が歌は萬葉にのせ、都良香が記は文粹に見えたり、徐福、藥を尋ねてこの山にとヾまり、是を蓬萊山と名づくる事は、義楚が帖にあらはし、六月雪花飜二素毳一、何所深林覓二白鷴一、といへるは、宋濂が曲にあらずや、加之羽客釋流の此山に跡を殘す事は、役處士がはじめて攀躋りしより以來、空海、圓珍、岩石をきざみて佛軀を彫るもの、山上に多かり、白衣天女の形をあらはし、淺間大神の跡を垂まします、誠に我朝無雙の名山なり、近代叢林の詩僧、この山を題せし中に、富士千仭雪崚嶒幾度思レ登病未レ能、送レ汝錫飛三伏裏、歸來分レ我一壺氷、といへるは信義堂なり、大地撮來無二寸土一、當レ空還見此山成、海濶纔浸二半邊影一、多少漁舟載レ雪行、といへるは乾峯なり、絶頂雪殘春夏秋、暮烟一抹畫眉修、吾疑上有二望夫石一、不レ耐二閑愁一獨白頭、といへるは岩惟肖なり、六月雲間積雪新、東遊未レ踏玉嶙峋畫師今有二移レ山力一、一洗京塵困レ暑人、といへるは惺瑞岩也、富士峯宇宙間、崔嵬豈獨冠二東關一、唯應二白日青天好一、雪裏看レ山不レ識レ山、といへ
p.0773 るは彦希世なり、富士耳聞身未レ遊、畫圖相對與悠々、東關千里吟二鞍上一、晴雪趂人三五州、といへるは沅南江なり、五須彌外有二須彌一、呼作二士峯一吁是誰、六月雪飛寒徹レ骨、擘二開芥子一欲レ藏レ之、といへるは澤天隱なり、莫レ言北闕隔二東關一、富士朝々如レ對レ顏、四海一家皆帝力、千秋白雪御前山、といへるは三横川なり、士峯秀出海之東、名在二景濂詩句中一、若把二白鷴一論二白雪一、扶桑六十一雕籠、といへるは九萬里なり、天台四萬八千丈、若在二吾邦一立二下風一、といへるは瑾之嶺なり、工拙は具眼の人の知る事なれば、書ならべて置き侍るなり、其外騷人墨客の詠じもらせるはあるまじきにや、此比人の作れるとて、青天忽見素羅笠擔中、といふ句を聞きはんべるぞ珍らしきにや、我輩の今更口をひらかむ事は、人の涎を舐て事あたらしきやうなれど、さりとていはざらんも懶惰のおそれあれば、聊申つヾけ侍る、かの不下與二浮雲一齊上、といへるは此たかきにや、嵌空大始ノ雪とあるは此雪にや、衆山之山峛崺なるを知るは、此山に登りての事にや、天下をすこしきに歩する人もあるべきにや、蓮花は早く崆峒は薄しといへるも、此山に對しての事にや、 一山高出二衆峯巓一、炎裏雪冰雲上烟、大古若同二仁者樂一、蓬萊何必覓二神仙一、
p.0773 我朝富士山之名、播二于異域一者、義楚六帖云、日本國最高山號二富士一、一曰二蓬萊一、秦時徐福來レ此、又宋濂日東曲有二富士山絶句一、而我國沙門津絶海入二大明一、明太祖問二徐福事一、津賦二絶句一、謂徐福祠在二熊野一、又南禪寺僧岩惟肖謂、凡指二蓬萊一者三處、一曰富士、一曰熊野、一曰尾州熱田、
p.0773 日本國 東北千餘里、有レ山名二富士一、亦名二蓬萊一、其山峻、三面是海、一朶上聳、頂有二火煙一、日中上有二諸寶一流下、夜即却上、常聞二音樂一、徐福止レ此謂二蓬萊一、至レ今子孫皆曰二秦氏一、彼國古今無二侵奪者一、龍神報護、法不レ殺レ人、爲レ過者、配二在犯人島一、其他靈境名山、不レ及二一二記一レ之、
p.0773 宋景濂蘿山集第四
p.0774 賦二日東曲一十首、問二海上僧一、僧多不レ能レ答、時辛酉冬十月也、〈◯中略〉其三 絶入層霄富士岩、蟠根直壓三州間、六月雪花飜二素毳一、何處深林覓二白鷴一、〈富士國中最高山、六月山上有レ雪、三州謂二豆駿相一也、〉
p.0774 題二富士山一 朝鮮松雲大師〈慶長十年歳在乙巳、來朝獻貢、〉 是山耶又是雲耶、亘二一由旬一天一涯、老眼分明看不レ得、峯頭雪似二霧中花一、 題二富士山一〈寛永元年歳在甲子冬十二月、朝鮮專正副三使來朝而往二東武一製レ之、〉 通議大夫鄭山鄭岦立〈荷潭〉 瀛海東頭第一峯、亭々玉立鎭二鴻濛一、半天不レ霽千年雪、大地長鳴萬壑風、稜氣遙撑二南斗外一、寒光直射二北溟中一、若爲三羽化凌二高頂一、故國山河眼底窮、 同 通議大夫姜弘重〈龍溪〉 曾展二輿圖一認二富山一、此來天外見二眞顏一、根盤二百里一臨二滄海一、雪壓二孤峯一掩二翠鬟一、翔翥却疑二群鶴舞一、去來唯有二白雲閑一、還將二玉柱一撑二南極一、千古長寒宇宙間、 同 辛啓榮〈孤山〉 融液專凝日域東、花峰突兀浮空頂留二晴雪一天衢近、腰帶二歸雲一地勢崇、俯壓二千山一殊不レ讓、孤撑二一氣一獨爲レ雄、却疑玉柱擎二南極一、冷影玲瓏落照中、 富士山 清柮 海國山王是此山、遠臨二西洛一近二東關一、群峯下列皆侯伯、萬古高名配二淺間一、
p.0774 あるとき富嶽のいとよく晴渡りたるを見玉ひ、酒井讃岐守忠勝にいかにとのたまふ、忠勝丸く白くいと面白き山なりといふ、松平伊豆守信綱は、三國一の山といひならはせし如く、げにたぐひなき様なりといふ、柳生但馬守宗矩をめしてとはせ玉ふに、宗矩劒法の心もて思ひはかるに、そのおもしろさ、何といふべき詞も侍らずと答奉れば、公さなり、わがおもう所もおなじとのたまひて、ゑつぼにいらせ玉ひしとぞ、
p.0775 元祿寶永の比、相州にかしく坊といひし者あり、常に駿河に行きて、富士の風景をのみ樂しむ、臨終に一首の歌あり、 ふじの雪とけて硯の墨衣かしくは筆のをはりなりけり、げにも生涯富士を愛したりとしられぬ、
p.0775 富士山上略説 富士山ハ甲州都留郡ノ西南曠野ノ中ニ兀立孤絶ス、山ノ西南ハ駿州駿東郡、東北ハ都留郡ナリ、都留郡ヨリ登ル道ヲ北口ト云ヒ、駿州ヨリ登ル路ヲ南口ト云フ、山足ノ曠野十三里許、駿州ヲ合セバ周回三十八九里許ナルベシ、武田勝頼ノ願書ニ、三州ニ跨ルト書シカドモ、甲駿ノ外ニ跨レル國ナシ、〈衆皆曰、駿州四分ノ三、甲州其一ヲ有スト、特子與ガ言コレニ反ス、〉北口ヲ吉田口ト云南口ヲ須走口村山口、〈此二口駿東郡〉大宮口〈富士郡〉ト云フ、四口各村名ヲ以テ呼ブ也須走口ハ山上八合目ニ至リ、吉田口ト合シ、村山口ハ大宮口ト合ス、故ニ山上ニハ南北二口アルノミ、南ヲ表トシ、北ヲ裏トスレドモ、昔ヨリ北口ヲ登ル者多シ、〈◯中略〉毎年六月朔日ヲ山開トシ、七月二十七日ヲ山仕舞トス、サレドモ強テスル者ハ、三月下旬ニ二合目〈解ハ下ニアリ〉マデ登リ、九月上旬ニモ五合目マデノボル也、〈◯中略〉 マヅ吉田村仙元ニ詣ズ、〈淺間ヲ仙元ト書事下ニ録ス、身祿派ノ行者吉田ノ師職等用レ之、川口ニハ不レ用、身祿派ノ檀家ナケレバ也、〉吉田村淺間ノ社、〈二合目小室ヲ上ノ淺間ト云ニ對シテ、當社ヲ下ノ淺間ト云ナリ、〉 巍然タル大社ナリ、祭神三座瓊々杵尊、大山祇命、木花開耶比賣命、〈◯中略〉大鳥居高五丈八尺、柱間六間、是富士山ノ鳥居ニシテ當社ノ鳥居ニアラズ、額縱七尺五寸、横四尺七寸、三國第一山ト書ス、寛永十三年二月、曼珠院宮無障金剛入道二品親王良恕書トアリ、〈◯中略〉隨身門ヨリ御手洗川マデ二十間、御手洗川ヨリ大門前マデ三十五間アリ、大鳥居ヨリ富士山頂マデ三百五十七町七間半アリト、駿河大納言様御改ニテ定タル由、採藥小録ニ載タリ、詣人ハ登山門ヲ出テ南行ス、三町計ニ
p.0776 シテ左旁ニ一堆邱アリ、大塚ト云フ、塚上ニ武尊ノ小祠アリ、遙拜ノ陣跡ト云フ、口碑ニ傳ル歌アリ、東路ノ蝦夷ヲ平シ此御子ノ稜威ニ開ク富士ノ北口、松林ヲ行ク事、十一町計ガ間ヲ諏訪森ト云フ、夫ヨリ十町計ニシテ小坂アリ、御茶屋ト云フ、其謂ヲ不レ知、〈◯中略〉 此邊眼ヲ盡シテ曠野ナリ、土人裾野ト云リ、一歩々々ヨリ高キ故ニ、地ヲ踏ム者ハ其高キヲ覺エザレドモ、遠ク望メバ山勢ヲナセリ、是ヨリ十町餘ニシテ、路初メテ高キヲ知ル、騮ガ馬場ト云フ、漸山足ニ迫リテ、鈴原トモ馬返シトモ云、〈◯中略〉此地ヲ一合目ト云フ、〈◯中略〉 二目合、淺間ノ社アリ、社地五町、四方北室仙元堂ト云フ、小室淺間トモ云フ、上ノ淺間ト云フハ是ナリ、〈◯中略〉社ノ西ニ役行者ノ堂アリ、役錢場也、〈上ニ記ス〉少シク西ニ登レバ、濶サ數十丈ノ一片石上ヲ行ク、滑ニシテ歩シ難シ、石面ニ空地アリ、徑二尺計、深七八尺、御釜ト云リ、是ヨリハ女人禁制ノ地ナリ、二町計行ケバ道祖神ヲ祭ル小屋アリ、此所ニテ金剛杖ヲ賣ル、料八文ハ師職ニ渡シ置タル故、無代ニテ杖ヲ受取ル、〈◯中略〉 三合目、茶屋二軒アレドモ、三軒茶屋ト云處ナリ、小祠アリ、道了秋葉飯繩ヲ祭ル、三神ノ銅像アリ、元祿元年行者五世月行〈月音中音從共ニ富士行者ノ曾造也、僞字、〉 ト云者、告ヲ蒙リテ造立ス、 三合五勺、茶屋一軒アリ、大黒天ヲ安ズ、 四合目、大ナル巖石アリ、高サ五丈、竪廣サ六七間、上ニ淺間ノ小祠アリ、御座石淺間ト云フ、小山田信有ガ永祿七年ノ文書ニモ見エタリ、旁ニ武尊ノ小祠アリ、四合五勺、昔ハ茶屋アリシ地ナリ、櫻屋地ト云フ、近世マデ櫻ノ大木アリテ、五月花盛ニシテ五六里ノ外迄雲ノ如ク見エシトナリ、五合目、茶屋五軒アリ、〈◯中略〉 六合目、此邊スベテカマ岩ト云フ、遠望スレバ岩形カンマンノ梵字ニ似タリト云フ、然レドモ妙
p.0777 法寺ノ舊記ニ、永正八年鎌岩燃ルト有バ、カンマンハ附會シテ云歟、煙ハ今モ立コト有ト云フ、七合目、此邊路並險ナリ、此間小屋九軒アリ、駒ガ嶽ト云所ニ、聖徳太子并ニ銅馬ヲ安ズ小屋アリ、〈◯中略〉 七合五勺、小屋三軒アリ、此所ヨリ遠望スル諸山ノ方位、大抵谷村ノ縣吏菊田叔徳測量ノ術アリ、丙子七月、登臨スルトコロヲ手記シ歸ル、今モ記ニ從フ、 甲州八ツガ岳亥ノ二分信州淺間山〈亥ノ八分、此地ヨリ測量スルニ、低キコト三町計ト云フ、〉上州三國峠〈子ノ七分〉野州日光山〈子ノ九分〉武州高尾山〈丑ノ六分〉相州大山〈寅ノ七分〉江ノ島〈卯ノ四分〉此等皆兒孫ノ如ク、堆雲ノ間ニ點綴ス、此地既ニカクノ如シ、快晴ノ日、絶頂ヨリ臨メバ、志州ノ鳥羽ノ湊マデ見ユルト云フ、 東ニ突出スル岩ヲ龜谷ト云フ、形状ノ似タレバナリ、ワヅカニ上レバ烏帽子岩ト云フ岩アリ、行者六世身祿入滅ノ地ナリ、遺骨年久シク存セシヲ、彼ガ派ノ隆ナルヲ妬ム者アリテ打碎タルニヨリ、身祿ガ法弟田邊十郞右衞門〈吉田口師職〉拾ヒ收テ別地ニ埋ム、其地ハ一子相傳ニシテ、信心ノ行者モ知ルコトナシト云フ、烏帽子岩ヨリ上愈險惡ニシテ定マレル路ナシ、人々意ニ任セテ焦土ヲ行便ニ隨テ砂石ヲ踏ム、一歩進レバ半歩退キ、雲霧ハ跟底ヨリ生ジ、乍晴乍陰ル、 八合目、駿州須走口此ニ合シテ一路トナル、故ニ大行合ト云フ、吉田ノ管スル小屋五軒、内大小屋ト云フ者一軒、須走ノ管スル小屋二軒アリ、渾テ此ヨリ上ハ一切駿河ノ持分ニテ、吉田ハ關ルコトナシ、登攀ノ者、早天ニ吉田ヲ發シ、日暮ニ此ニ到ル、須走口モ亦同ジ、故ニ此ニ投宿スル者、十ニ八九ナリ、打火料百六十四文、蒲團一ツノ料百文、薄キコト紙ノ如ク、冷ナルコト鐵ノ如シ、食ハ雜炊糜粥ノ類、飯ハ麁糲ニシテ食シ難シ、スベテ麓ヨリ各人齎來ル、食モ梅干ノ外味變ゼザル物ナシト云リ、此地暮雲日色ヲ帶、亥ノ刻頃マデ散ゼザル故、夜甚暗カラズ、丑ノ刻ニハ東方既ニ白ム
p.0778 トナリ、大小屋ニ懸鏡アリ、天正十九年、駿州ノ人奉納ノ由彫付アリ、上ノ小屋ト云ルニ銅像ノ地藏アリ、雨天ニハ水氣ヲ含ム故、汗カキ地藏ト云フ、是ヨリ上ハ詣人雨具ヲ持ズ、行者ハ小室、或ハ中宮、或ハ七合目ヨリ不レ持、尊敬ノ至リナリト云フ、サレバ自餘ノ詣人ハコレニ拘ラザルニ似タレドモ、實ハ七合目以上ハ下ヨリ雨ヲ吹上ゲ、蓑ハ頭ニ覆ヒ、笠ハ飛テ烏有トナリ、共ニ用ニ足ラザル故也ト云リ、光清派ノ行者ハ初ヨリ雨具ナシ、モシ雨ニ遇フトモ、行ノ徳ニテ濡レズト云フ、可レ怪ノ甚シキ也、〈余客中濡ザル者二人ヲ知ル、一ハ旅商人長兵衞、一ハ谷村中町河口屋下代ノ者也、長兵衞ハ行者ナレバ虚實知ベカラズ、奇ヲ説ノ疑アリ、河口屋ノ下代ハ行者ト同道シタ計リデ濡マセナンダト、肝ヲ消テ語レリ、〉 九合目、小屋一軒アリ、向フ藥師ト云フ、是ヨリ最險惡ノ所ニテ、少シク登レバ日ノ御子ト稱スル石アリ、詣人此ニ日出ヲ拜ス、此ヨリ上ヲ胸突ト云フ、其險難想フベシ、胸突ヲ經テ鳥居御橋ト云フ所ニ到ル、〈役錢場也〉兩邊ニ攫ヲ立テ、石ヲ盛テ階ノ如クシ、左右ニ扶手アリ、之ニ傍テ升降ス、 頂上、升リ得タル所ヲ藥師ガ嶽ト云フ、藥師ノ小堂アリ、〈役錢場也〉別當富士郡大宮ノ大宮司ナリ、小屋八間アリ、團子牡丹餅ヲ賣ル、〈團子ハ宇都山ノ十團子ヨリ少シ大ブリニテ、五ツ五文、牡丹餅ハ余ガ舊職ニ御膳ト稱シテ調進セシ大サニテ、一ツ五文、勿論砂糖ナシノ豆粉バカリ也、湯水茶イヅレモ一盌五文宛也、〉スベテ五合目ヨリ上ハ薪ナク、水ナシ、薪ハ五合目ヨリ下ノ深谷ニ採テ負擔シ上リ、水ハ冰雪ヲ持來リ屋上ニ置キ、日陽ノ力ヲ得テ屋隙ヨリ滴ヲ桶中ニ貯フル故ニ、飮ムニ臭氣アリト云フ、〈余コレヲ聞テ直ニ氣死セントス、モシ一飮セバ乍チ下半生ヲ結果スベシ、〉絶頂周回一里ニシテ數峯兀立ス、コレヲ八葉ト云、皆佛號ヲ以テ喚ブ、〈八葉トイヘドモ、數八ツハナシ、諸人ハ訛リテ御八リヤウヲ巡ルト云フ也、妙法寺記ニハ、大永二年、武田殿富士參詣有レ之、八葉メサルナリト有、訛ナル事知ルベシ、〉中央ニ空坎アリ、内院ト云フ、深サ十町餘此ヨリ忽チ雲ヲ生ジ、忽チ風ヲ生ズ、坎中南ヨリ差出タル岩アリ、虎石トモ獅子岩トモ云フ、都良香ノ記ニ、石體如二蹲虎一トアルハ、豈是ヲ謂フ歟、八合目ヨリ上ニ異鳥アリ、内院燕ト云フ、形鵲ノ如シ、高ク飛テ下ル事ナク、雲際ニ群飛スルヲ看レバ、檐端ノ蚊陣ノ如シト云リ、藥師ケ嶽ヨリ左ニ巡リテ、吉田須走ヨリ登ル者ノ拜所
p.0779 アリ、〈空濶ナル内院ヲ、仙元大菩薩ト觀ジテ拜スルナリト云フ、〉夫ヨリ勢至ガ窪ニ出ヅ、〈◯中略〉駒ガ嶽ヘ向ヘ下レバ、大日堂アリ、〈是ヲ表大日ト云ヒ、藥師ガ嶽ノ藥師ヲ裏藥師ト云フ也、村山口大宮口ヨリ登ル者、此所ニ出ヅ、◯中略〉焦石ノ間ニ川アリ、六七月ハ水涸レテ空濶ナリ、兩後或ハ雪霽ノ時ハ、流レテ内院ニ入ル、此所ヲコノシロガ池ト云フ、其謂ヲ知ラズ、是ニ因テ郡内鱅(コノシロ)魚ヲ不レ喰、此川ニ小橋ヲ架ス、梯子ヲ伏セタル如シ、是ヲ渡リテ劒ノ峯ノ麓ニ到レバ、銅像ノ大日アリ、寛永九年、伊勢ノ人ノ建立ナリ、〈是等皆施主ノ姓名アレドモ、盡クコヽニハ省キタルト可レ知、〉又鐵像ノ大日アリ、〈延徳二年建立〉劒ノ峯ノ阪路ニモ大日アリ、〈天文十二年、濃州ノ人建立、〉親不レ知子不レ知ト云フ所アリ、路内院ニ傾キ、半歩ヲ失ヘバ砂石トトモニ數千丈ノ内院ニ顚墮ス、〈余此名義ヲ思フニ、上ニ親アルコトヲ知ラズ、下ニ子アルコトヲ知ラズ、不孝不慈ノ者バカリ登ル山ト見エタリ、谷村ノ豪農森島子懋ガ、吾輩小前ノ百姓ナレドモ、無事ニ百姓相續サセヤウト思フ子ヲバ、富士山ヘハヤリマセヌト云シハ、殊勝ノ少年ナリ、又小沼村淺間ノ祠祝小佐野子延ガ、富士山ハ下カラ形バカリ御覽ジロ、上ヘ登ルト屎ダラケデ穢イ山デゴザル、夫故古歌ニモ上ヘ登ツタハ一首モゴザラヌト云シモ理也、郡内人旣ニ然リ、況ヤ他邦ノ人ヨク思フベシ、〉劒ノ峯ハ八葉第一ノ高峯ニテ、遠ク望メバ劒ヲ立タル如シ、詣人險ヲ畏レテ多クハ此ニ登ラズ、此山巓ヨリ臨メバ、豆駿ノ海洋脚下ニ在リ、此山海中ニ兀立スル歟ト疑フト云リ、此ヨリ西ノ齋ノ河原ニ到リテ、路燕尾ヲナス、馬背山ヲ右ニシテ行ヲ外濱ト云ヒ、左ニシテ行ヲ内濱ト云フ、此邊實密滑澤ノ小石焦土ニ雜レリ、一奇ナリ、外濱ヲ行ク者ハ、雷石、〈文化ノ初、雷岩ヨリ雷鳴發シ、雷獸一頭、八合目ノ石室ニ走リ入シヲ、投宿セシ者共、集リテ手捕ニセシト云フ、〉阿彌陀ガ窪ヲ歴テ、釋迦ガ嶽ニ到ル大石アリ、釋迦ノ割石ト云フ、高サ五丈許ニシテ行路ノ上ニ臨ミ、裂テ墮ントスルノ勢アリ、傍ニ一丈許ノ怪石兀立シテ路ヲ挾ム、其間僅ニ一人ヲ通ズ、此邊四時雪アリ、岩ニハ氷柱アリ、酷暑ノ節寒風堪ガタク、手龜ルトナリ、快晴ノ日ニ登ル者、險難ニ疲レテ寒ヲ覺エザレドモ、暫モ佇立スレバ、寒烈骨ニ逼リ、大陽ノ力ハ其季候ノ如ク、頭上ノ暑キ事堪ガタシ、〈余之ヲ聞テ思フニ、八寒焦熱ノ苦患一身ニ在、嗚呼富士山嗚呼地獄ナル哉、世間多少ノ尼道心、再生此山ニ登ラヌヤウニ、隨分後生ヲ願フベシ、〉岩崛アリ、中ニ大日ノ懸鏡アリ、文龜三年所レ鑄ナリ、旁ノ石上ハ延寶五年五月、安山禪師入寂ノ地也、少シク下レバ、徒弟久圓師ニ隨テ入寂セシ地アリ、久圓ハ元駿州宇都山ノ賊也、禪師ノ
p.0780 徳ニ感ジ得道セシ者ト云フ、師弟一雙ノ骸骨、近世マデ存セルガ、大地震アリテ深谷ニ墮失タリ、此ヨリ少シク東ニ一骸骨アリ、六七十年前、或行者入寂ノ骨ナルヲ、今人安山ガ遺骨トスルハ非也ト云フ、〈是モヨクヨク聞ケバ、須走カ大宮カノ者、賽錢ヲ貪ランガ爲ニ、谷陰ニハ澤山ナル骸骨故ニ、密ニ此ニ持出シテ、名モナキ者ニ名ヲ付シナリト云フ、〉此ヨリ下レバ井ノ如キ水アリ、金名水ト云フ、行者身祿此水ヲ汲テ御身貫(オミヌキ)〈富士山ノ名號ノヤウナル者也、下ニ摸出ス、〉ヲ書シト云フ、今行者共、吉田ヨリ竹筒或ハ備前徳利ヲタヅサヘ、汲歸リテ御水ト稱スル者是ナリ、〈今モ吉田ノ師職田邊十郞右衞門、此水ヲ以テ御身貫ヲ書行者ニ與フ、初穗ハ金百疋也、〉内濱ヲ行ク者ハ釋迦ガ嶽ニ到ラズ、阿彌陀ケ窪ヲ左ニシテ此所ニ出ヅ、共ニ藥師ガ嶽ヨリ元ノ路ヲ下リテ八合目ニ到リ、スベリ道ト云フ所ヲ下ル、マヅ走草鞋ト云フ物〈大サ平常ニ倍シ、形ハ平常ノ如シ、〉二重バカリヲ著、一歩進ムレバ砂礫トトモニ走リ下ルコト七八尺、〈此時後ヨリ巨石ノ轉ビ落ルコトアレバ、跡ヨリ下ル者聲ヲカケテ知ラスルナリ、モシ聞ツケザレバ巨石ノ爲ニ壓死セラルヽ者アリト云フ、〉疲ヲ覺ユレバ、處ニ隨テ仰キ臥シ、或ハ杖ヲ石隙ニ撑フ、カクノ如クシテ下ル事一瞬數百歩、五合五勺目砂篩ヒト云フ所ニ下リテ止ム、小屋アリ、〈◯中略〉此ヨリ左ニ下レバ小御嶽、右ハ中宮ニ下リ、初ノ道ヲ下向ス、
p.0780 富士山 抑富士峯の秀麗たる、本朝に古今賞するのみにあらず、異國の史籍にも又詳也、謝肇制曰、莫レ高二於娥眉一、莫レ秀二於天都一、莫レ險二於大華一、莫レ大二於終南一、莫レ奇二於金山一、莫レ巧二於武夷一、其他雁行而已と、富士皆是を兼たり、實に三國第一山といはんに耻べからず、其神秀なる面向不背にして、兒女といへども、其名をしり、見ずして其形を知るは此山のみ、西南駿州大宮口を表とし、東北は相州走口、北西は甲州吉田口、此三ケ所より登山す、甲駿豆相の四州に跨り、吉田口一の鳥居より頂上迄、直に登事三百五十七間と云、峯は八葉の花形に傚(ナゾラ)へ芙容峯といふ、祭神木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)命、則淺間大權現と稱す、梺の三所各々〈新宮あり、神職僧坊多し、〉社頭嚴重也、役行者初て登山有しより、表口を大日とし、裏口を藥師とす、今登山のものには、淨衣の上に、牛王寶印を押て禪定の證とす、總じて山形關八州に望み、見るに
p.0781 異なる所なし、唯北面足長く、東北に八湖有、各廻り百餘町、あたりに村里有て、湖中に舟を出して漁りす、又山中の一奇也、表口は道嶮にして、砂走よし、吉田砂走は上下道を異にす、先中宮といふに至る、廣野三里也、駒留といふ、是迄は馬も往來す、是より上は木山貳里有り、夫より一合貳合として、合毎に石室をもふけて、風雨の防ぎ飮食の助とす、高さ六尺餘方丈計り、中央に地爐掘て木を焚也、氷を外面に置て、其滴りを湯にして飮しむ、五合以上にては一天瑠璃の如く、星の光り手に取計りに見ゆ、正午時より上り、八合の上に至らざれば、あくる曉天の來迎といふを見難し、其八合九合目は嶮岨いふ計りなし、岩角にすがり行に、いかなる剛力のものも、呼吸喘ぎ胸押が如く、一息に三足とは進み難し、絶頂を望むに、頭上に覆ふが如し、爰を胸突といふ、一足を過てば山下に轉んで、再び顧る事なからんかし、扨來迎といふ事、或は小史に、唐土の娥眉山に佛現の事を證として、此山中の事跡も同じとせるは擔板漢也、彼國にいふ處は、其見る人の影、日暈(カサ)の中に移る也、故に其人點頭(ウナツケ)ば其佛も點頭といふ、いぶかし、日に向ふ人影の、後に移らずして、日暈の中に移るべき理なし、笑ふに堪たり、世に來迎といふも、佛出現とするは論に及ばず、其事實は附録に詳なれば爰に不レ載、唯一を述て少き義を解す、先夜明なんとする前、東方の中奧に一筋の白雲、帶を引たる如く顯る、須臾にして地下より紅の日輪傘ばかりなるが、差上る事速也、此時彼白雲、青朱紅紫の粉雲と變じて舂き動く、既に地上一端計りも離ると見れば、光明閃々として再び目を向ひ難し、斯て四方を眺望するに、世界の山岳唯一面の平地の如く見下して、曾て山有とはしれず、西北の方に尖なる山一ツ雲間にあり、山人にとへば信州駒ケ嶽なるよしいへり、絶頂の八峯嵯峨と峙より中は、堅氷綴て餘物を見ず、頓て八葉を下山す、草鞋三足を重ねて履、其身を眞直に立ながら砂礫と倶にすべり下るに、一息の間斷なく、僅に一時ならで本の中宮に歸り、此にて草鞋を脱すてヽ、新に履替て、御師の元に歸りぬ、〈◯下略〉
p.0782 富士の農男并淺間の辨 享和壬戌夏五月、囊を擔、杖を曳、ゆき〳〵て駿河の府中にあそぶ、彼地の人の説に、四五月の頃、富山の雪やヽ消殘りたるが、寶永山の邊凹なる所に、人の形の如く雪の殘る事有、是を農男と名付、此殘雪の見ゆる年もあり、又見へざる年も有、田子の土人曰、農男見ゆる年は、必ず五穀熟すと、又昆陽漫録に載する處の、富士の根がた、水田中に麥熟と是を水入麥といふ、是雪水 (コヤシ)と成て麥みのるといふ、駿河の人に此事をとへば、然る事ありといへり、凡此山の眺望は、駿州有渡郡大野村〈府中より三里〉龍華寺の本堂より見るを第一とす、清見寺これに亞、原よし原の間又好景、三島沼津より見れば大にひきく、岩淵薩陀峠よりみれば、胸につかへる様にて凄じ藐姑峯は齋の川原より、壹の平らまで、ふじを右に見る、一の平最よし、西行法師の、山の上なる山は、ふじの根とよみたりしは、此所なるべし、予庚申年豆相二州を遊歴せし日、三島の客店に士峯を賞す、暫時百景目前に有、あした毎に雲起て巓を覆ふ、土俗是を笠雲といふ、其雲西へ行時は、三日を出ずして雨あり、東へ行時は快時すと、これを試るに果してたがはず、〈◯中略〉天正十八年、小田原陣の時、細川幽齋ふじの歌よまんとて、歌書おほく携給ひしが、古人の名歌に耻て、終に歌なかりしとかや、近時俳諧師芭蕉、生涯富士の發句なく、丸山應擧富士を畫ずといふ、ばせをは佳句の得がたきを嘆じ、應擧は富士を見ざるをはづ、視て句のなきと、見ずして畫せざると、うらみそれいづれか深き、共に道に心を用る人といふべし、
p.0782 吾國にて奇妙なるは富士山なり、此は冷際の中、少しく入りて、四時雪峯に絶えずして、夏は雪頂きにのみ消え殘りて、眺め薄し、初冬始めて雪の降りたる景、誠に奇觀とす、富士は駿河の國内より見たるはあしく、二十里三十里隔たりて、遠くより望む時は、山を高く見る、低き地より望みては景色なし、此山のかたちは、世界中になし、元市場と云ふ處は、白酒を賣る處なり、爰
p.0783 にて富士山の圖を板行に彫りて、埒もなく押してあるを、蘭人往來する時、何枚も需むる事なり、さて此山は、神代の以前より燒出し、數千年を經て、四面に砂を吹きふらし、如レ此かたちとはなりぬ、我壯年の時までは、頂より煙立ちけるが、今は煙なし、山嶽は皆世界の不レ開前の物にて、波濤の形あり、此富士のみ、出現の山なり、遠く望むべし、山には登るべからず、天の逆鉾の如き、埒もなき物よりは、此富士を稱歎すべし、夫故予も此山を摸寫し、其數多し、蘭法蠟油の具を以て彩色する故に、髣髴として山の谷々、雪の消え殘る處、或は雲を吐き、日輪雪を照し、銀の如く少しく似たり、吾國畫家あり、土佐家、狩野家、近來唐畫家あり、此富士を寫す事をしらず、探幽富士の畫多し、少しも富士に似ず、唯筆意筆勢を以てするのみ、〈◯下略〉
p.0783 三國に秀し富士の御山、拜せん事をとて、能登の七尾の俳士笑鴉といへる老人、夏比行脚なして、不二の根かたにいたる、其地のものども登山をすヽむれども、さらにきヽいれずして、たヾ富士の根方を、十餘日の日數をへつくしてめぐりおほせ、またその地へ來たりていへるには、あら尊とや有がたや、その日〳〵の景色同じからずして、中々こと葉には述がたしと、なみだをこぼして語りしとかや殊勝なる俳人なり、ゆへありてきくに、富士の大宮司は、千四百石の御朱印たり、此神主一度も登山せず、たヾ〳〵麓より拜し奉るとなん、かけまくもこの花さくやひめの御神にてましませば、はるかに拜し敬ひ奉るこそ有がたけれ、むかしよりことわざに、登りてよければ西行が登るといひしも、むべなりけらし、
p.0783 萬延元申年八月廿二日 英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ屆書、此日寺社奉行松平伯耆守へ富士大宮司屆書寫 英國人不士山登山去る七月十八日出立、廿三日大宮泊の先觸に候處、廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし、其日
p.0784 不士山一の木戸迄下り、廿七日村山迄下山、同所晝休に相成り、無レ滯登山相濟申候間、此段不二取敢一御屆奉二申上一候、以上、 不士大宮不士本宮淺間大宮司不士亦八郞 寺社御奉行所 巷説、今度英人九人富士山測量、高サ四十二町(○○○○○○)、此後箱根山も測量、高さ廿八町と云、
p.0784 江都旅程記の二 第二十三日、〈本邦の二月一日〉吉原にて干飯を喫し、原驛に至り、一の豪家に憩ふ、〈◯中略〉此日天氣妍晴にて、富士山朗然として其全體を露はせり、殊に其官道は、即ち此大麓にして、地勢坦平、廓落として、美景云ふ許りなく、我等時々佇立して、覺へず激賞せり、實に其地位と云ひ、山容と云ひ、我兼て相像せしよりは、逈に迢絶したり、嗚呼日本人の常に繪畫に傳寫するも、亦た宜なりと云ふべし、又此山久く發燄の災なし、故に當時は麓の邊圍に、人家夥しく有りて、亦た多く田畝を闢けり、此夜沼津に泊る、
p.0784 山部宿禰赤人望二不盡山一歌一首并短歌 天地之(アメツチノ)、分時從(ワカレシトキユ)、神左備手(カムサビテ)、高貴寸(タカクタフトキ)、駿河有(スルガナル)、布士能高嶺乎(フジノタカ子ヲ)、天原(アマノハラ)、振放見者(フリサケミレバ)、度日之(ワタルヒノ)、陰毛隱比(カゲモカクロヒ)、照月之(テルツキノ)、光毛不見(ヒカリモミエズ)、白雲母(シラクモモ)、伊去波代加利時自久曾(イユキハバカリトキジクゾ)、雪者落家留(ユキハフリケル)、語告(カタリツギ)、言繼將往不盡能高嶺者(イヒツギユカムフジノタカ子ハ)、 反歌 田兒之浦從(タゴノウラユ)、打出而見者(ウチイデヽミレバ)、眞白衣(マシロニゾ)、不盡能高嶺爾(フジノタカ子ニ)、雪波零家留(ユキハフリケル)、
p.0784 詠二不盡山一歌一首并短歌 奈麻余美乃(ナマヨミノ)、甲斐乃國(カヒノクニ)、打縁流(ウチヨスル)、駿河能國與(スルガノクニト)、己知其智乃(コチゴチノ)、國之三中從(クニノミナカユ)、出立有(イデタテル)、不盡能高嶺者(フジノタカネハ)、天雲毛(アマグモヽ)、伊去波伐加利(イユキハバカリ)、飛鳥母(トブトリモ)、翔毛不上(トビモノボラズ)、燎火乎(モユルヒヲ)、雪以滅(ユキモテケチ)、落雪乎(フルユキヲ)、火用消通都(ヒモテケチツヽ)、言不得(イヒカネテ)、名不知(ナヅケモシラニ)、靈母(アヤシクモ)、座神香聞(イマスカミカモ)、石花(セノ)
p.0785 海跡(ウミト)、名付而有毛(ナヅケテアルモ)、彼山之(カノヤマノ)、堤有海曾(ツヽメルウミゾ)、不盡河跡(フジカハト)、人乃渡毛(ヒトノワタルモ)、其山之(ソノヤマノ)、水乃當烏(ミヅノタギチゾ)、日本之(ヒノモトノ)、山跡國乃(ヤマトノクニノ)、鎭十方(シヅメトモ)、座神可聞(イマスカミカモ)、寶十方(タカラトモ)、成有山可聞(ナレルヤマカモ)、駿河有(スルガナル)、不盡能高峯者(フジノタカネハ)、雖見不飽香聞(ミレドアカヌカモ)、 反歌 不盡嶺爾(フジノネニ)、零置雪者(フリオケルユキハ)、六月(ミナヅキノ)、十五日消者(モチニケヌレバ)、其夜布里家利(ソノヨフリケリ)、 右一首、高橋連蟲麻呂之歌中出焉、以レ類載レ之、
p.0785 富士の山には、雪のふりつもりてあるが、六月十五日にその雪のきえて、子の時よりしもには、又ふりかはると、駿河風土記に見えたりといへり、
p.0785 安麻乃波良(アマノハラ)、【不自能之婆夜麻】(フジノシハヤマ)、己能久禮能(コノクレノ)、等伎由都利奈波(トキユツリナバ)、阿波受可母安良牟(アハズカモアラム)、 【不盡能禰】乃(フジノ子ノ)、伊夜等保奈我伎(イヤトホナガキ)、夜麻治乎毛(ヤマヂヲモ)、伊母我理登倍婆(イモガリトヘバ)、氣爾餘婆受吉奴(ケニヨハズキヌ)、 可須美爲流(カスミヰル)、布時能夜麻備爾(フジノヤマベニ)、和我伎奈婆(ワガキナバ)、伊豆知武吉底加(イヅチムキテカ)、伊毛我奈氣可牟(イモガナゲカム)、 佐奴良久波多麻乃緒婆可里(サヌラクバタマノヲバカリ)、古布良久波(コフラクバ)、【布自能多可禰】乃(フジノタカ子ノ)、奈流佐波能其登(ナルサハノゴト)、 或本歌曰、麻可奈思美(マカナシミ)、奴良久波思家良久奈良久波(ヌラクハシケラクナラクハ)、伊豆能多可禰能(イヅノタカ子ノ)、奈流佐波奈須與(ナルサハナスヨ)、 一本歌曰、阿敝良久波多麻能乎思家也(アヘラクバタマノヲシケヤ)、古布良久波(コフラクバ)、布自乃多可禰爾(フジノタカネニ)、布流由伎奈須毛(フルユキナスモ)、右五首、駿河國歌、〈◯一首略〉
p.0785 むかしをとこありけり、〈◯中略〉あづまのかたにすむべきくにもとめにとてゆきけり、〈◯中略〉ふじのやまを見れば、さ月のつごもりに雪いとしろうふれり、 時しらぬ山はふじのねいつとてかかのこまだらに雪のふるらん、その山はこヽにたとへば、ひえの山をはたちばかりかさねあげたらんほどして、なりはしほじりのやうになんありける、
p.0785 冬歌 見渡せば雲ゐはるかに雪白し富士の高根の曙の空
p.0786 なか田といへる所にて、はじめてふじをながめて、 言のはの道も及はぬふじのねをいかで都の人に語らん、夕あけぼのに、ながめのかはれることを、 俤のかはるふじのね時しらぬ山とは誰かいふべあけぼの、かの嶽は、遠く行に隨ひて、空にも及ぶ計に侍ければ、 遠ざかりゆけばま近く見えて鳬外山を空に登るふじのね
p.0786 道春駿河の國に侍し時、妙壽院藤歛夫のもとに文つかはすついでに、よみてたてまつれる歌、いく千代といはふ心をするがなるふじのくすりをもとめまくほし 藤歛夫のかへし ありてうき身のさがなさにおもふかなふじのくすりもやきすてし世を ふじの雪におもひもいでよ見そめてし二十あまりの山の端の月 なれよ富士雲の上までいやたかき名のまことをもしかれとぞおもふ
p.0786 一不二の高嶺は、わが國のしづめともいひつたへて、こと山にすぐれたる事は、いひ出でんも今さらなることなりや、此山をよめる古歌、萬葉集よりはじめて、世々の勅撰私集に入りたる名歌ども、あげてかぞへつくしがたし、いにしへは置きていはじ、ちかく水無瀬中納言殿〈氏成卿〉の富士百首といふものあり、世にしる人なし、近き比もとめえたるに、よき歌ども多し、その一二をいはヾ、 ふじのねやのどかにわたる春風もたヾ世のなかのあらしなるらん うつしゑの筆かぎりある不二のねをかぎりもあらぬ雲井にぞ見る
p.0787 もろこしの人にとはヾやふじのねの外には山のありやなしやと かたるにもよむにも盡きぬ言の葉の不二の山としよにつもるらん 西の海やもろこしさして行く船のうへにもふじはいくかみるらん 山をぬく人にはありともふじのねを見ては及ばぬものとしるらん わすれてはそらにも雪のつもるかと見れば雲間にはるヽふじのね 積りしはきのふのもちに消えはてヽけさみなづきの不二のはつ雪 うつしゑを見るごとなれやふじのたけまた見るごとに寫繪もあり これらにならへる契冲阿闍梨の百首、長流隱士の三十首、いづれもめづらしく巧によみかなへられたり、縣居翁の長歌、殊にたへにして、人麻呂赤人の長歌にも、をさ〳〵おとれりとはみえずぞあるあがたゐの長歌の反歌に、 するがなるふじのたかねはいかづちの音する雲のうへにこそ見れ ふじのねのふもとをいでヽゆく雲は足柄山のみねにかヽれり また記行の中に いつのよのちりひぢよりかなりいでヽ不二ははちすの花と見ゆらん 三首ともに秀逸ときこゆる中に、あしがら山のうたは、五條三位のうたに、〈◯歌闕〉 とあるにむかへみるに、こヽろおなじくて、歌がらは縣居の歌、たちまさりてこそおぼゆれ、又荷田東萬侶大人の歌に、 きヽしよりも思ひしよりもみしよりものぼりて高き山はふじの根 又平高保が富士二百首といふものあり、契冲阿闍梨百首に、ならへるなるべし、其中の一二をいはヾ
p.0788 ふる雪にうづもれながらたかき名の四方にかくれぬ山はふじのね いづくよりむかふもおなじおもて〳〵空にそむかぬ山はふじのね ひさかたの空に月日をみすまるの玉とうながせるふじの山姫 天地のあしけき氣をばしら雪のよけて世をふる山はふじのね 世の中の山てふ山をかさぬとも不盡のみたけにきそひあへんやは 枝直が歌に 天のはらてるひのちかき不盡のねに今も神代の雪はのこれり 芳宜園の歌に はこねぢや神のみさかをこえきてもなほふじのねは雲井なりけり などよきうたと、人もいひあへり、吾師の歌に、 こヽろあてに見し白雲はふもとにて思はぬ空にはるヽ不二のね 此うたさまでの秀逸ともおもはざりしに、いにし文化四年、おのれ伊豆の出湯あみがてら、熊坂の里なる竹村茂雄がもとへと、心ざして旅だてる頃、熱海の出湯をいでヽ、弦卷山の頂へかヽりしに、浮雲西の空にたちかさなりたりしかば、ともなへる人にむかひて、不二はいづくの雲のあなたにか、あたりて見ゆると問ひしに、はるかにゆびざして、あしこの雲のうちにこそといふほど、いつしか浮雲はれのきけるに、其指ざしをしへたる雲よりは、はるかに高く、空に聳えて、ふりあふぎ見るばかりなりしかば、さて其時ぞ師の歌をおもひ出でヽ、めで聞えたりき、〈近きころ東海道名所圖會といふ書の、不二のかた畫ける所に、大菅中養父の國歌八論斥非といふに、人の歌とて、心あての雪間は猶も麓にておもはぬ空に晴るヽ不二のね、とあるは、師の歌によく似たり、されどいささかのたがひにて、いみじく歌がらのをとりて、聞ゆるやうにこそ覺ゆれ、〉おのれは、かくいにしへ今によみ盡し來れるふじの山なれば、中々なる言葉にいひけがさんこと、いかヾとおもひて、名所山などいふ題にて、うたよむに
p.0789 も、此高嶺をばよまじとせり、こは此高嶺におよぶべき言の葉のいひうまじければなり、ある人この高嶺の畫に歌よみてよとこひたりしかど、しか思ひかまへしことなれば、かくさへ聞えしを、猶しひてといひしかば、そのとき、 神世より雪にみがける山なればいひけがすべき言の葉もなし、とかいつけてかへしやりき、
p.0789 琉人詠歌 明和癸未歳來聘セル中山王ノ使者、讀谷山(ヨミタニサ)王子ガ詠歌若干首、予ガ撰スル所ノ琉球談ニ載セタリ、其後寛政己酉歳來聘セル義灣(ギノワン)王子ガ詠歌アリ、 蒲原ノ間ニテ富士ヲ見テ詠メル カギリ無キ山ヲ幾重カナガメ來テソレゾトシルキ雪ノ富士ノ根、安ラカナル調ナリ、因ニ云、俗ニ富士ノ砂、麓ニ落ツレバ、其夜ノ中ニ巓ヘ還ルト、事文類聚ニ載ス、陝西鳴砂山、砂州南、其砂或隨二人足一而墜、經レ宿復還二於山上一、同日ノ談ト云フベシ、又呉越春秋云、一夕自來曰二怪山一、富士山モ怪山ナル可シ、
p.0789 富士山 藤〈字歛夫〉 遠爲二士峯一成二此遊一、吟眸處々幾回レ頭、青天忽見素羅笠、羅笠檐中十五州、 同 林道春 一山高出衆峯巓、炎裏雪氷雲上烟、太古若同二仁者樂一、蓬萊何必覓二神仙一、 同 同 士峯左股是蓬丘、溟海漫々弱水流、烟際飛仙開二藥竈一、空中羽客築二瓊樓一、六花白盡萬餘里、一朶先寒十五州、風度二陰山一無二九夏一、窗含二西嶺一有二千秋一、宋濂新唱日東曲、徐福曾成二物外遊一、昔聽登レ高天下小、今看縮レ地眼邊收、孱顏歡笑相迎送、不レ問二前程一消二我憂一、
p.0790 富士山〈絶頂有二神烟一〉 石川氏丈山 仙客游磐雲外巓、神龍栖老洞中淵、雪如二紈素一烟如レ柄、白扇倒懸東海天、 題富士山 菅玄同 峯下簾珠 峯池竹影染誰 峯頂烟籠千古青拾 峯雲直欲レ繞二蓬丘一日紺得 峯秀山圓冠二本州一秋鉤遊 峯腰雪積萬今玉仙 峯外桂光垂見 峯天盛世
p.0790 行路富士山 虎關 數日行程長似レ隨、近無二必大一遠彌巍、山山雖三暫作二遮隔一、過了顧看一翠微、 辛亥之秋余居二駿州一與二富峯一密邇偶作二二偈一 虎關 昔日仰望難レ及間、今朝廻顧屋頭山、不下將二遠近一改中吾眼上、頂上雪花舊玉鬟、 蒼青色可レ異二凡岑一、砂礫燼餘丹雘深、新雪此秋未二全覆一、夕陽交射紫麻金、 讀二宋景濂富士山詩一 江西 士峯曾入二景濂詞一、其地至レ今多産レ奇、座上近レ公如二白雪一、大明國裏唯吟レ詩、〈◯中略〉 船上看二富士一圖 瑞溪 富士飛來入二碧波一、波淘不レ散雪嵯峨、禪翁一咲支レ橈立、舟自二最高峯頂一過、〈◯中略〉
p.0791 甲午歳九月、台駕謁二于勢州神祠一之途中、海日新晴、陰雲四捲、縱觀二富士山於千里之外一、歸請二諸老宿一、各賦二一偈一、予亦預二其數一、輙以上呈、 西胤 千嶂雲開海日晴、士峯雪照勢州城、神靈不レ欲レ煩二台駕一、縮得東遊數十程、〈◯中略〉 御方原望二富士一〈未刻歩二遠江之原一、始望二富士峯形一絶呼擲レ笠、〉 萬里 天邊萬仭似レ看レ形、高呼二奇々一卸レ笠行、猶秘二士峯眞面目一、亂雲送處未二分明一、 船上見二富士一 雲霧遮レ腰雪裹レ峯、始知富士爲レ吾容、未レ開二一覽亭前睫一、二十里間船上逢、〈◯中略〉 登二富士山一 虎關 太易未レ形占二艮宮一、刧灰散後積塵豐、看來大地恰如レ粟、除二却須彌一別有レ峯雪貫二四時一磨二璧玉一、嶽分二八葉一削二芙蓉一、至高本是無二隣近一、走獸飛禽自絶レ蹤、 虎關 二日行レ林少二日穿一、一朝寸草不レ生レ巓、帶レ雲衆嶺同二滄海一、歩レ月吾人上二碧天一、大竇當レ中燒列レ岸、小池徹底凍無レ漣、暫時欲レ送登望眼、凛々寒風先聳レ肩、 扇面水底富士 水底一團雪、春風吹不レ融、料知士峯影、寫在二碧波中一、 富山千仭雪崚嶒、幾度思レ登病未レ能、送レ汝錫飛三伏裏、歸來分レ我一壺氷、〈◯中略〉 信義堂 富士 雲居(妙心寺) 突兀洛陽千里東、四時戴レ雪聳二虚空一、孤峯頭白衆山縁、恰似三群兒圍二老翁一、
p.0791 蘆高山(アシタカヤマ)〈本字愛鷹、駿州駿東郡、〉
p.0791 足高山 ふじより東にあり、此山唐よりふじと長くらべせんとて、日本へ來り
p.0792 けるを、足柄の明神けくづさせ給ひて、ふじよりひきしと云傳へり、
p.0792 駿河の國には富士山葦高山とて、高き山ふたつあり、ふじのやまは、いたヾきには葉(えう)の嶺あり、淺間大菩薩と申神まします、本地胎藏界大日也、葦高山は五の嶺あり、葦高大明神と申御神まします、本地金剛界の大日也、この富士葦高兩山の間、昔は東海道の驛路也けり、さてその中によこばしりの關なんど云所も有ける也、あしがら清見がよこばしりなんど云ことの侍るは是也、横ばしりの關は、富士あしたかのあはひ也、さて此みちをむかしの旅人とをりける間重服觸穢のものども、朝夕とをりけるを、あしがらの明神いとはせ給ひて、今のうきしまがはらと云は、南海の中に浪にゆられてありけるを、うちよせさせ給ひてけり、さて其後今の道はいできにけりとなむ申つたへて侍べる也、然ればうちよする駿河の國といへるは、この本縁にもや侍べるらん、
p.0792 樂翁ノ話ラレシハ、世ニ一富士、二鷹、三茄子ト謂コトアリ、此起リハ神君駿城ニ御坐アリシトキ、初茄子ノ價貴クシテ、數錢ヲ以テ買得ルユヱ、其價ノ高キヲ云ハン迚、マヅ一ニ高キハ富士山ナリ、ソノ次ハ足高山ナリ、其次ハ初茄子ナリト云シコトナリ、彼土俗ハ足高山ヲタカトノミ略語ニ云ユヱナルヲ、今ニテハ鷹ト訛リ、其末ハ三物ハ目出度モノヲヨセタルナド心得、畫ニカキ掛テ翫ブニ至ルハ餘リナルコトナリ、
p.0792 世の人、此山を夢見る時は吉瑞なりとて、一ふじ、二鷹、三茄子とて、同く吉兆とす、或人曰、此三事夢の判にはあらず、皆駿州の名産の次第をいふ事也、富士は更也、二鷹は富士より出る鷹は、唐種にて良也、こまがへりといふ、三茄子は、我國第一に早く出す處の名産なればなりといへり、
p.0792 駒嶽 信濃高遠領の境なり、往昔名馬出しと云傳、高遠にては前嶽と云、峯に
p.0793 數千仭の巖あり、そを回りて絶頂にいたる、十歩許りの平地あり、石佛の觀音一區有、此山の西に木賊(トクサ)川とて、高遠へ流るヽ川有、風土記に、巨麻郡、西限二木賊川一と云は是也、又甲斐の方に流るヽ川は釜無川と云、
p.0793 駒ケ嶽〈戌方〉 聖徳太子金蹄馬に召され、天より此絶頂へ降り給ふ、其跡山の形、馬に似たりと云、山形馬の面に似たり、大風吹んとしては、此巓に綿の如くなる雲かヽる、間もなく、西北の大風落し來る、信州堺なり、峻嶺なれば、人跡絶るといふ、
p.0793 巨摩郡武川筋 一駒ガ嶽 横手、臺ガ原、白須諸村ノ西ニ在リ、樵蘇スル者、山租若干ヲ貢ス、山上ヲ甲信ノ界トス、大武川ニ沿テ、南ノ方山中ニ入ルコト若干里ニシテ、石室二所アリ、下ヲ勘五郞ノ石小屋ト呼ビ、上ヲ一條ノ石小屋ト呼ブ、此ヨリ上ハ絶壁數拾丈ニシテ攀躋シ難ク、樵夫獵丁ト雖モ至ラザル所ナリ、遠ク望メバ、山頂ノ巖窟ノ中ニ、駒形權現ヲ安置セル所アリ、尾白(ヲジラ)川山上ヨリ發シ、瀑布ト爲リ、級ヲ拾ヒテ懸巖ヲ下リ、其下ハ潭トナル、是ヲ千箇潭(センガフチ)ト名ク、奇勝殊絶ナリト云、又釜無川、大武川モ、皆ナ此山ヨリ發源ス、
p.0793 轎前望二駒嶽一甚近、山之不毛者三成、皆似二焦石疊起者一、岩稜歴々可レ數、形勢獰然、不レ似二前此芙蓉咲容相迓者一、候迎者云、上宮大子驪駒、乃呑二此山谷所レ出泉流一而生、山上無レ有二祠宇一、相傳山臊木客往々而在、故土人不二敢登一、昔有二一人一、戇而勇、齎レ糧躡、絶頂見二一老翁一、相責曰、此上仙福地、非二汝曹當レ詣處一、言訖猝二其髮一放二岩下一、則在二己屋山後一、二子有レ詩、 仙人曾此啓行厨、青鳥忽傳玉帝呼、鉢裏胡麻喫殘去、留爲雲際黒糢糊、 茂卿 神仙蹤 見須臾、十二玉樓忽有無、帝子朝天駕二天馬一、猶望二紫氣一繞二星樞一、 省吾
p.0794 七面山 高山にして、甲府、駿河、伊豆、安房など七面見ゆる、七の面有、蛇地中に住むといふは非なりといふ、十月會式には、近國の老若七面に詣づ、絶嶮岨にして、辛うじて上るといふ、
p.0794 七面山 身延山の奧の院と云、身延山より三里餘有、七面明神の祠あり、山上に池有、七面明神の縁記あり、略レ之、一説に、七面明神は江州坂本の山王七社權現を遷し祭る、故に七面の名有と云、
p.0794 巨摩郡西河内領 七面山 祀二七面明神一爲二護神一、身延本院ヨリ西ノ方行程貳百八町ニ在リ、山峯連綿シテ、中間ニ赤澤村十万部ト云坊アリ、朝日ノ祖師ト云日蓮ノ像ヲ安ゼリ、自レ是拾八町下リ、春氣(ハルキ)川ヲ濟ル、圖經ニ羽良橋ト名ヅケリ、小繩〈高住赤澤〉村ノ域ニテ三處ニ分レテ叢居アリ、是マデ三里、皆五十町積リナリ、川向ヒ一ノ鳥居ヨリ登リ五拾町、〈◯中略〉日孝ノ七面大明神ノ縁記見二于圖經一、寛文六年元政ガ深草山七面大明神縁起ニ曰、七面山在二身延峯之西春氣川之上一、乃吉祥大垂迹大明神示現之靈區也、山閉二鬼門一而開七面一、故名焉、相傳、金輪際湧出而、黄金所レ成矣、絶頂有レ池、〈◯下略〉二書説二奇瑞一コト巧ニシテ、其趣ハ大氐同ジ、池水ハ春氣川ノ起源、池大神ハ雨畑村ノ所レ祀ナリ、身延鏡ニ、七面社ハ山ノ七分ニ在リ、此ヨリ貳拾町登リ、奧ノ池トテ神靈ノ所レ鍾ナリト云々、北麓ト云路ハ、早川ノ方ヨリ登ル、是モ五拾町ナリ、一ノ鳥居ノ傍ニ僧坊一宇アリ、影向石ノ社ト云、此ニモ七面明神ヲ祀レリ、巨石アリテ名レ之、夫ヨリ本社マデハ八町ナリ、
p.0794 鳳凰山 地藏が嶽、藥師が嶽と云山有て、鳳凰山と峯つヾけり、是を三嶽と云、麓の柳澤と云所に宿りて登る、山中に一夜伏て、翌日又柳澤に歸る、諏訪の湖水見へて佳景なり、絶頂の岩の上に、黄金にて鑄たる、三寸許りの衣冠の像あり、鳳凰權現と云、是奈良の法皇の御影
p.0795 なりとぞ、
p.0795 地藏ケ嶽〈酉戌方〉 此山上に、自然と地藏の形したる大磐石ありといふ、天氣快晴なれば、地藏の形したるもの、府下より見ゆる、麓の村よりは、縁日ありて半覆迄は上るといふ、駒がたけにならびて峻嶺なり、
p.0795 金峯山、〈北隅〉芳野山のうつしといふ、 絶頂に御嶽權現の小社、勝手明神有といふ、御嶽より七里奧の院、荒川は爰より流れ出る、此山より、淺間山、越中立山、加州白山、妙義山、榛名山、佐渡の國等、快晴の時は見ゆる、
p.0795 金峯山、〈屬二山梨郡一〉絶頂に祠有、藏王權現を祭る、御嶽の社の本宮也と云、國民八九月の頃登る、水精磁石等を産す、荒川の源は此山より出る、又北へ流るヽ水は、信濃の佐久郡へ出、千曲川となる、一説に、此山をいくかのみねと云は、風雅集に、順徳院の御製、ちくま河春行水はすみにけりきえていくかの峯の白雪、といへる御歌より云なるべし、予按ルに、唯きえていくかに成ぬる峯のしら雪と云意成べし、金峯山の名を、いくかのみねと云は、後人の鑿説ならん、
p.0795 巨麻郡北山筋 一金峯山(キンブセン) 府北拾貳里、山頂ニ藏王權現ヲ祀レリ、州ノ北鎭ニシテ、享保中勅許、八景ノ一ナリ、背面ハ信濃、武藏、上野等ニテ、凡方貳拾里ニ跨ガルト云、山口九所アリ、所レ謂南口ハ、吉澤、塚原、龜澤、東口ハ、萬力、西保、杣口、西口ハ、穗坂、江草、小尾、各里宮、鳥居嶺、精進川、帶締川ナド云處アリ、〈◯中略〉山上ヨリ四方ヲ臨眺スレバ、信、越、二毛、武、相、豆、駿、遠、三、濃、飛、諸州ノ高山、一覽シテ盡スベシ、抑、金峯ノ爲レ山、土肥巖ハ靈ニシテ、御嶽ノ杉柏本州ニ冠タリ、其餘、良材、奇草、水晶、石英、磁石、玄石等ヲ産ス、又金礦多シ、號シテ神物ト稱シ、古ヨリ山ヲ鑿チ採ルコトヲ禁ズ、又水脈多ク、笛吹川、荒川、鹽川、信州ノ千隈川等、皆ナ此山ヨリ發源シ、古人所レ謂金生二麗水一ト云モノ不レ誣ナリ、峽中紀行ニ、北
p.0796 之山、其最遠最峻、而岝㟧剌レ天者、金峯也、藏王宮レ之、皆黄金地、神所二甚愛惜一、以レ故人往者、還必棄二其鞋山中一、跣足出、不レ得レ拾二其一塊石一ト云ガ如シ、臆乘曰、古圖ニ金峯ヲ玉壘トス、多麻賀畿(タマガキ)ト訓ズベシ、今小尾、比志等ノ里人、此山ノ麓ヲ指テ瑞壘(ミヅガキ)ト呼ブ、蓋シ古名ノ偶存シタルナラント、地名筌曰金峯州之北鎭也云云、山神秀而産二靈藥珠玉一、古人比二之玉壘一、蜀都賦、包二玉壘一爲レ宇、坑二峨盾之重阻一、府城南面亦有二峨嶽一、則近レ蜀之稱、不二豈信然一乎、江賦玉壘爲二東別之標一、川流之所二歸湊一、雲霧之所二蒸液一、珍怪之所二化産一、塊奇之所二窟宅一云云、又云、玉巖出二湔水一、即荒河者湔水也、湔與レ荒方言轉、蓋誤矣、〈荒川ハ後ニ記セリ〉又殘簡風土記ニ、山梨郡西限二玉緒〈一作レ諸〉川一トアルモ、玉壘ノ名ニ於テ所レ由ナキニ非ズ、又州人金峯ヲ幾牟夫宇(キムフウ)ト唱フルハ方言ナリ、信玄ノ文書ニモ、亦金風山ニ作レリ、方言ニ從テ書スルハ、當時ノ風習ナリ、別稱ニ非ズ、〈信州ノ人ハ、幾牟凡字ト呼ブ、〉又幾日峯(イクカノミ子)ヲ、此山ノ別名ナリト云ハ、續千載集、順徳院御製百首ノ中ニ、千隈川春行水ハ澄ニケリ消テ幾日ノ峯ノ白雪〈風雅集ニモ載セタリ〉トアリ、是ニ因テナルベシ、
p.0796 金峯山、〈大山巖壁ナリ〉峯通二國境一、〈前後共ニ前山多し、甲斐國ニテモ同名、大椹峠ヨリ西ニ當ル、〉是ヨリ原村出口道マデノ間、國境知レズ、原村ヨリ甲州小尾村ヘ越ス道、〈金峯山ノ西ナリ、道程三里一丁五十間餘、〉此所峯通二國境一、此所ヨリ西川際ノ間、國境知レズ、此山中ヨリ澤川流ル、是ヨリ川ノ中央國境、
p.0796 箱根權現 在二箱根山一〈上四里、下四里、〉 當山、相州豆州兩國界、其山嵿有二湖水一、東西狹南北廣、凡五十町、晴天則富士山影寫、 山奧有二地獄塞河原一
p.0796 羈旅作足柄乃(アシガラノ)、筥根飛超(ハコ子トビコエ)、行鶴乃(ユクタヅノ)、乏見者(トモシキミレバ)、日本之所念(ヤマトシオモホユ)、
p.0796 廿八日いづのこふをいでヽ、はこねぢにかヽる、いまだ夜ぶかヽりければ、
p.0797 たまくしげはこねのやまをいそげどもなほ明がたき横雲の空、あしがら山は道遠しとて、箱根路にかヽるなりけり、 ゆかしさよそなたの雲をそばだてヽよそになしぬる足柄の山、いとさかしき山をくだる人の、あしもとヾまりがたし、湯坂とぞいふなる、
p.0797 足柄山
p.0797 足柄山〈同關〉 箱根山の北也、古への海道なり、今は箱根路を海道とせり、
p.0797 あしがらをぶね 足柄小船也、萬葉集に見えたり、又、とぶさたて足柄山に船木きりともいへる、此所より出るをもて名付くるにや、足柄山は相模にあり、又足輕の義を取て名とせるにや、新千載集に、足はや小舟と見えたり、
p.0797 あしがら小船の事〈◯中略〉 相模國風土記に云、足輕山は、此山の杉の木をとりて船につくるに、あしの輕き事、他の材にて作れる船にことなり、よりてあしがらの山と付たりと云々、とぶさたてあしがら山に船木切とよめるも、萬葉のうたなり、
p.0797 自レ其入幸、悉言二向荒夫琉蝦夷等一、亦平二和山河荒神等一而還上幸時、到二足柄之坂本一、於二食御粮處一、其坂神化二白鹿一而來立、爾即以二其咋遺之蒜片端一待打者、中二其目一乃打殺也、故登二立其坂一三歎、詔云、阿豆麻波夜、〈自レ阿下五字以レ音也〉故號二其國一謂二阿豆麻一也、
p.0797 足柄之坂本(アシガラノサカモト)、和名抄に、相模國足柄上〈足柄乃加美〉郡、足柄下〈准レ上〉郡とありて、〈古本には、上下郡共に柄ノ字なし、其正しかるべし、凡て諸國郡郷の名、必ス二字につゞめて書クことなる故に、字を省ける例多し、然るを省かず、三字にも書は、其ノ國にての私シわざなり、其も又例多し、〉下ノ郡に足柄〈阿之加良〉郷もあり、万葉三〈四十丁〉に、鳥總立(トブサタテ)、足柄山爾、船木伐、七〈十五丁〉に、足柄乃、筥根飛超、行鶴乃、九〈三十二丁〉に、過二足柄坂一云々、十四〈五丁〉に、安思我良能(アシガラノ)、乎氐毛許乃母爾(ヲテモコノモニ)、又、〈六丁〉安思我良能、波姑禰乃夜摩爾(ハコ子ノヤマニ)、
p.0798 又、〈七丁〉安思我良乃、美佐可加思古美(ミサカカシコミ)、廿〈二十七丁〉に、阿志加良能、美佐可多麻波理、又、〈四十丁〉安之我良乃、美佐可爾多志氐、又〈四十四丁〉安之我良乃、夜敝也麻故要氐(ヤヘヤマコエテ)などあり、十四には阿之我利とよめる歌もあり、後の歌には關を多くよめり、此ノ山駿河と相模の堺なり、東ノ國の道、今は筥根を越れど、古ヘは足柄を越るぞ大道なりける、此ハ甲斐ノ國に幸す道なれば更なり、〈此ノ道は相模より此ノ坂を越て、富士の東北ノ方の麓を經て、甲斐に出る道なり、〉坂本は相模の方より上る坂本なり、
p.0798 造二筑紫觀世音寺一別當沙彌滿誓歌一首 鳥總立(トブサタテ)、足柄山爾(アシガラヤマニ)、船木伐(フナギキリ)、樹爾伐歸都(キニキリユキツ)、安多良船材乎(アタラフナギヲ)、
p.0798 和我世古乎(ワガセコヲ)、夜麻登敝夜利底(ヤマトヘヤリテ)、麻都之太須(マツシタス)、【安思我良夜麻】乃(アシガラヤマノ)、須疑乃木能末可(スギノコノマカ)、 【安思我良能】(アシガラノ)、【波姑禰乃夜麻】爾(ハコ子ノヤマニ)、安波麻吉氐(アハマキテ)、實登波奈禮留乎(ミトハナレルヲ)、阿波奈久毛安夜思(アハナクモアヤシ)、〈◯中略〉【安思我里乃】(アシガリノ)、【波姑禰能禰呂】乃(ハコ子ノ子ロノ)、爾古具佐能波(ニコクサノハ)、奈都豆麻奈禮也(ナツツマナレヤ)、比母登可受禰牟(ヒモトカズネム)、〈◯中略〉 右十二首、相模國歌、
p.0798 和我由伎乃(ワガユキノ)、伊伎都久之可婆(イキツクシカハ)、【安之我良乃】(アシガラノ)、【美禰】婆保久毛乎(ミネハホクモヲ)、美等登志怒波禰(ミトヽシヌバ子)、右一首、都筑郡上丁服部於田、
p.0798 予江戸にありしころ、武甲山にまうで、日本武尊の舊地を拜せんと、雨降山かけて、人のまうづるにともなはれ、青梅村より御嶽山に登れり、このあたり承平のころ、平の將門が舊壘多く、すべて古戰場とぞ、道しるべするもの江戸の人にして、もとこのあたりの産なりといへり、 武野古戰場記に云、武を崇め、嶽の高きに藏して、神威を承平の和にしめし、文を黎民の際にやはらげ、徳を國家の仁政にしきぬる、むさしの國御嶽の山は、叔倉子義を違へぬ標有梅の、青梅の里まで、江戸を去ること十有三里にして、行程に山河橋陵なし、青梅村中金剛精舍、古樹の梅あり、四時實を結び、熟すれども、緑のいろをかへざるが故に、青梅の名あり、連山西北をめぐりて、さな
p.0799 がら絶壁に似たり、閭巷を過ぐること十町ばかり、貉澤を下れば溪路斜にして棧あり、村落に流れ入れたり、ひなたの和田といふ、朝日にむかふ名なるべし、一顧すれば多摩川の流れをへだてて、山々水にそばたち、石にむせぶ流の音、谷にひヾきて人のあらそひわたるが如し、山河すべて縈糾して、數里の間に屈曲し、岑にかくれ谷にあらはれ、さらす調布さら〳〵にと詠じたる昔の歌の姿なり、山聳えては頂に露臺のあとをとヾめ、岸崩れては石に楯澤の名を殘し、往古に戰場の樞要たるも、陰鬱たる叢澤となりて、僅に山がつの樵路をわかち、露深くして草舊壘の礎を埋め、月さびしうして尾花白刃のひかりをまじへ、旌旗風にひるがへりて、松に白鷺を宿し、翠桃枝をたれて、丘に弓絃の糸をたち、利鏃いたづらに田園にくじけ、寶刀むなしく壤の中にうづめり、花鳥に時を感ずれば、歌舞の榮華もまのあたりにして、月にむかしをしのべるときは、錦繡にほこれる盛衰も、紅葉の色のうつろふに見えたり、殺氣長く昇平の日影に消えて、戰塵に似し雲もなく、人家軒をならべて、路に竈のにぎはひを列ね、ゆくかた〴〵に踏み分けし、數多の道も街となり、ありといふなる逃水も、俊成卿の比興とはなりぬ、
p.0799 筑波山(ツクハヤマ)
p.0799 筑波嶺(ツクバ子)〈常州筑波郡〉
p.0799 筑坡(ツクハ)山〈筑坡嶺(ツクハ子)〉 水名野(ミナノ)川 筑坡山、麓有二小川一、名二櫻川一、山中櫻樹多有、故名、至レ末名二水名野川一、
p.0799 つくば 常陸筑波山は、二尊を祭れりといふ〈◯中略〉常陸風土記の説に、筑波神社は、木花咲耶比 を祭ると見ゆ、筑波山に、男體山女體山あり、其顚き相隔つ十八町也、女體山の下に潮呼の鐘あり、此山より海に至る十五六里あり、然るに山に潮來などいひ傳ふ、まヽあらめなど石につけりと云也、海は鹿島を近しとす、男體山女體山の間より、みなの川流る、下に至りてさ
p.0800 くら川と云、戀をよめるによれば、二尊を祭に近し、又さくら山に多し、櫻川の名によれば、木花開耶姫なるべくや、
p.0800 筑波山中禪寺 夫此山は、原本名筑坡と書す、いにしへ東海逆流して波たつ事多し、故に堤防を築てこれを避る、これによつて築坡と書す、後人訛りて筑波と名づく、二神登山し給ひて水波を鹿島の海に退け、こヽに鎭座し給ふ、〈◯中略〉男體女體の峯よりおつる一流の瀧のながれを美那濃川と號す、これ女男の神の靈泉たれば、多く戀に詠じ、みたらしと名附、陰陽和合の流れなり、故に此山女人結界にあらず、坂東五番の靈山なり、特には東關官家の御歸依あれば、日々繁昌し、詣人道を遮る、こヽを東路の靈嶽、まだ敷島の道の御神と仰ぐも、恐れありとしられける、抑此筑波山は、漢土の五臺山の西南劈開けて、こヽに飛來したるといふ、故に山中に異草珍木多し、名を中禪寺といふ、江府の宿坊を護持院と號し、眞言宗にして、寺領貳千七百石、筑波の町長くして、奇麗なる旅房多く、亦商家も多し、先は當國の名嶽にして、みな此御神の惠みなるべし、一ノ鳥居〈町端れにあり、傍に句碑あり、〉雲はまうさずまづむらさきの筑波山 嵐雪
p.0800 古老曰、昔祖神尊巡二行諸神之處一、到二駿河國福慈(フジ)岳一、卒遇二日暮一、請欲二寓宿一、此時福慈神答曰、新粟初嘗(ニヒナベスルニハ)、家内諱忌、今日之間、冀許不レ堪、於レ是祖神尊恨泣詈告曰、即汝親何不レ欲レ宿、汝所レ居山、生涯之極、冬夏雪霜、冷寒重襲、人民不レ登、飮食勿二奠者一、更登二筑波岳一、亦請二容(ヤドリヲ)止一、此時筑波神答曰、今夜雖二新粟嘗一、不三敢不一レ奉二尊旨一、爰設二飮食一、敬拜祇承、於レ是祖神尊、歡然謌曰、愛乎我胤、巍哉神宮、天地並齊、日月共同、人民集賀、飮食富豐、代代無レ絶、日日彌榮、千秋萬歳、遊樂不窮者、是以福慈岳常雪、不レ得二登臨一、其筑波岳ハ往集歌舞飮喫、至二于今一不レ絶也、 夫筑波岳、高秀二于雲一、最頂西峯崢嶸、謂二之雄神一、不レ令二登臨一、但東峯四方磐石、昇降決屹、其側流泉、冬夏不
p.0801 レ絶、自レ阪以東諸國男女、春花開時、秋葉黄節、相擕駢闐、飮食齎賚、騎歩登臨、遊樂栖遲、其唱曰、〈都久波尼爾、阿波牟等伊比志、古波、多賀己等岐氣波、加彌尼阿須波氣牟也、都久波尼爾、伊保利氐、都麻奈志爾、和我尼牟欲呂波、波夜母阿氣奴賀母也、〉詠歌甚多、不勝二載車一、俗諺曰、筑波峯之會、不レ得二娉財一者兒女不レ爲矣、
p.0801 登二筑波岳一丹比眞人國人作歌一首并短歌雞之鳴(トリガナク)、東國爾(アヅマノクニニ)、高山者(タカヤマハ)、左波爾雖有(サハニアレドモ)、明神之(アキツカミノ)、貴山乃(タフトキヤマノ)、儕立乃(ナミタチノ)、見果石山跡(ミガホシヤマト)、神代從(カミヨヨリ)、人之言嗣(ヒトノイヒツギ)、國見爲(クニミスル)、筑羽之山矣(ツクハノヤマヲ)、冬木成(フユゴモリ)、時敷時跡(トキジクトキト)、不見而往者(ミズテイナバ)、益而戀石見(マシテコヒシミ)、雪消爲(ユキゲスル)、山道尚矣(ヤマミチスラヲ)、名積叙吾來前二(ナヅミゾワガコシニ)、 反歌 筑羽根矣(ツクハ子ヲ)、四十耳(ヨソノミ)、見乍有金手(ミツヽアリカ子テ)、雪消乃道矣(ユキゲノミチヲ)、名積來有鴨(ナヅミケルカモ)、
p.0801 撿税使大伴卿登二筑波山一時歌一首并短歌 衣手(コロモデノ)、常陸國(ヒタチノクニノ)、二並(フタナミ)、筑波乃山乎(ツクハノヤマヲ)、欲見(ミマクホリ)、君來座登(キミキマセリト)、熱爾(アツケキニ)、汗可伎奈氣(アセカキナゲキ)、木根取(コノ子トリ)、嘯鳴登(ウソムキノボリ)、岑上乎(ヲノウヘヲ)、君爾令見者(キミニミスレバ)、男神毛(ヲノカミモ)、許賜(ユルシタマヘリ)、女神毛(メノカミモ)、千羽日給而(チハヒタマヒテ)、時登無(トキトナク)、雲居雨零(クモ井アメフル)、筑波嶺乎(ツクハ子ヲ)、清照(サヤニテラシテ)、言借石(イフカリシ)、國之眞保良乎(クニノマホラヲ)、委曲爾(ツバラカニ)、示賜者(シメシタマヘバ)、歡登(ウレシミト)、紐之緒解而(ヒモノヲトキテ)、家如(イヘノゴト)、解而曾遊(トケテゾアソブ)、打靡(ウチナビク)、春見麻之從者(ハルミマシユハ)、夏草之(ナツグサノ)、茂者雖在(シゲクハアレド)、今日之樂者(ケフノタノシサ)、 反歌 今日爾(ケフノヒニ)、何如將及(イカヾオヨバム)、筑波嶺(ツクハ子ニ)、昔人之(ムカシノヒトノ)、將來其日毛(キケンソノヒモ)、
p.0801 登二筑波嶺一爲嬥歌會日作歌一首并短歌 鷲住(ワシノスム)、筑波乃山之(ツクハノヤマノ)、裳羽服津乃(モハキツノ)、其津乃上爾(ソノツノウヘニ)、率而(イザナヒテ)、未通女壯士之(ヲトメヲトコノ)、往集(ユキツドヒ)、加賀布嬥歌爾(カヾフカヽヒニ)、他妻爾(ヒトヅマニ)、吾毛交牟(ワレモカヨハム)、吾妻爾(ワカツマニ)、他毛言問(ヒトモコトトヘ)、此山乎(コノヤマヲ)、牛掃神之(ウシハクカミノ)、從來(ムカシヨリ)、不禁行事叙(イサメヌワザゾ)、今日耳者(ケフノミハ)、目串毛勿見(メクシモミルナ)、事毛咎莫(コトモトガムナ)、 嬥歌者東俗語曰二賀我比一 反歌男神爾(ヲノカミニ)、雲立登(クモタチノボリ)、斯具禮零(シグレフリ)、沾通友(ヌレトホルトモ)、吾將反哉(ワレカヘラメヤ)、
p.0802 右件歌者、高橋連蟲麻呂歌集中出、
p.0802 常陸 筑波根のこのもかのもに蔭はあれど君がみかげに増す蔭はなし 筑波根の嶺の紅葉おち積りしるもしらぬもなべて悲しも
p.0802 源重之 筑波山はやましげ山しげヽれど思ひいるには障らざりけり
p.0802 ひたちにまかりてよみ侍ける 能因法師 よそにのみ思ひをこせしつくばねの峯のしら雪けふみつるかな
p.0802 文安六年〈◯寶徳元年〉七月四日、命二城呂一話二平家一者三句、最初話二後白河法皇御宇之徳一、曰、仁流二於秋津洲外一、慶繁二於筑波山陰一云々、予問、筑波山在二何處一、呂曰、在二常陸州一、蓋俗傳、自二天竺一飛來、故山中多二異草珍木一云々、平家語取二于樹陰最繁一、以爲レ喩耳、
p.0802 翌日〈◯天明十八年九月二十四日〉筑波山に參詣し侍りけるに、初雪ふりて紅葉ばうす紅に見えければ、何れをか深し淺しとながめましもみぢの山のけさの初雪、神前にて詠じ奉りける、 さはりなくけふこそこヽにつくばねや神の惠のは山繁山、誠にこのもかのもと詠せしもことはりにて、山々の紅葉たとへん方もなく侍り、道すがらくちすさびける歌、 筑波山此面彼面のもみぢ葉に時雨も繁き程ぞしらるヽ、みなの川は、此山の陰に流れ侍り、戀ぞつもりてと詠ぜし歌を思ひいでヽ、筑波ねのもみぢうつろふみなの川淵より深き秋の色かな
p.0802 比叡山
p.0803 比叡山〈始曰二日枝山一〉
p.0803 比叡山(ヒエ井サン/ヒエノヤマ)〈天台山、艮岳、台岳、北嶺並同、江州志賀郡本尊藥師、鎭守山王、又畿内土俗不レ斥二其名一、直稱レ山稱レ寺者、當山與二三井寺一而已、〉
p.0803 ひえ 日吉をひえともいふは、住吉をすみのえといふが如し、舊事紀に日枝、懷風藻に稗叡ノ山と見えて、麻田ノ連陽春が作を見れば、傳教より前に、此山を開きしと見えたり、東鑑に金子山といふ、三代實録に大比叡神小(ヲ)比叡神と見ゆ、大嶽を大ひえといひ、西塔と横川と間を小ひえといへり、扶桑明月集に、崇神天皇元年甲申、近江國滋賀郡小比叡東山金大巖ノ傍天降矣と見ゆ、今山王と呼は、天台山の地主の金毘羅神を、山王と稱せしをもて、傳教大師延暦寺を建し後、七社を比して名くるなり、佛祖統紀道邃傳附録に、日本國最澄、遠來求レ法、泛レ舸東還、指二一山一爲二天台一、創二一刹一爲二傳教一と見ゆ、日枝の坂下に、福成明神の社あり、是傳教大師入唐の時の從者に、舟幅成といへる者ありし事、入唐の時、天台山拜巡の路引の一紙に見ゆ、
p.0803 比叡山 ひえのやま 〈又〉日吉 〈又〉日枝 近江國 比叡、稗叡は假名なり、本は日吉と書り、是も假名の訓なり、日吉山の神を、今は日吉(ヒヨシ)と訓て、山をば日吉(ヒエ)の訓なるを忘れて、比叡を正字と心得て、俗にハ字のまヽにヒエイと云ふ、又は叡山なども云ふは、いよ〳〵誤りを重ねしなり、住吉も、古へすみのえにて、吉をエの假名に用ゐたり、今も吉方をエホウと訓は、音訓相交へたれども、吉の訓は、古へをうしなはざるを、俗には得方とさへ書たがへたり、この類甚多し、心を付ておろそかに見る事なかれ、大ひえ小ひえの山は、一山の中にて、嶺の大小によりて云ふなり、
p.0803 比叡山 王城の丑寅也、行程三里半也、京極今出川小原口よりかはらへ出、松が崎の東に、山はなと云村へ出る、修學寺より雪母(キラ)坂越に道あり、難所也、又直に高野と云所へ出、矢背(ヤセ)の里より行道すなほなり、矢背より六十丁の坂道也、此山の名、大比叡、〈又日枝と書り〉大嶽、都の富士、鷲ノ
p.0804 峯、吾立杣、杉の洞共云、小比叡は西塔横川の中間也、
p.0804 比叡山 當郡の西極、長等山の北にある山なり、皇都の艮(コン)岳にして、皇城の鬼門を鎭護すといへり、慈鎭の拾玉集に、我山は花の都の丑寅に鬼いる門をふたぐとぞきく、此山西の山麓は、山城國にして、西塔も亦山城國に屬すといへども、比叡山といふ時は、近江の國内たる故に、西塔の事をも書記す、此山至て高し、春に及で尤雪あり、拾芥抄に、本邦の七高山を載たり、比叡其一なり、此山麓より攀躋する時は五十町餘あり、坂本とより頂上大嶽まで、直立すれば六町餘なり、貞享年中、京都御所司代土屋相模守殿、京地より是を考撿し玉ふにも六町餘なり、自レ古此山を、專都の富士と云、徹書記物語に曰、愛宕山の一の鳥居より望ば、叡山は宛も駿河の富士山に似たりと云々、むべなり、〈◯中略〉拾遺集に、讀人しれず、我こひのあらはにみゆるものならば都の不二といはれなましを、近衞稙通公の嵯峨記曰、比叡山を見やりて、降つもる雪のころなをさぞなとも都の富士の嶽の曙、其外世々の歌仙多詠ず、管見記曰、叡山の雪、誠に可レ謂二都富士一也、如レ此都の富士といふを以、人或は山城の國なりと思へり、非なり、舊事本紀曰、近淡海國比叡山、古事記曰、近淡海國日枝山、是を以山城の國にあらざる事を知べし、〈臣〉按ずるに天地の物あるや、皆理に陰陽あり、形に前後あり、山の形平なるを前とし、險なるを後とす、此山東はなだらかにして前なり、西はするどにして後なり、近江は前なり、山城は後なり、〈◯中略〉亦此山に異名をよぶ、天台山、我立杣、鷲の山、台嶺、地嶺、山門、艮岳、是皆傳教大師延暦寺草創以來の名なり、
p.0804 都の富士 比叡山は、江州を表として、京より見る所は後面也、されど洛中より見るけしき、駿河の名山に彷彿たれば、富士の名あり、其眺望いづくにもあれど、堀川の西、一條戻橋の南、鍜冶對馬様といふ者
p.0805 の門より見る處、千門萬戸の上に高く聳へ、家々の庭の松の梢に、雪の高根の名殘なく見へ渡れるは、田子の浦半の眺めよとあやまたる、
p.0805 外從五位下石見守麻田連陽春一首〈年五十六〉 五言、和下藤江守詠二稗叡山(○○○)先考之舊禪處柳樹一之作上、 近江惟帝里、稗叡寔神山、山靜俗塵寂、谷閑眞理專、於穆我先考、獨悟二闡芳縁一、寶殿臨レ空構、梵鐘入レ風傳、煙雲万古色、松柏九冬專、日月荏苒去、慈範獨依々、寂寞精禪處、俄爲二積草墀一、古樹三秋落、寒草九月衰、唯餘兩楊樹、孝烏朝夕悲、
p.0805 七言、冬曰登二天台(○○)一即事、應二員外藤納言教書一、〈八韻并序〉天台奇秀甲二天下山一、名花異草非二佛種一不レ生、香象白手唯法輪所レ轉、衆山屬二其足一、巖扃有レ道、大湖在二其前一、水鏡無レ私開レ霧則見二青顏一、類三周文遇二師父一、渉レ海則聞レ浪、迹譏三漢武之求二神仙一、至如夫近二白日一而人難レ及、倚二青天一而鳥纔通、觸レ石雲興、旱天作二霖雨之用一、含レ玉木潤任レ土貢二廊廟之材一者也、若以二此山一比二君子徳一、員外藤納言近レ之矣、是以同類相求登二善根山一、一心不退、尋二功徳院一、所率者虎牙蝉冕、策二逐日一而景從、所レ談者鶴勒馬鳴、叩二凝氷一而響應、數往二來于此場一、誠有レ以矣、時也十月餘閏、景物幽奇、納言尊閣命一儒生、吾有二法門師友一、已以レ道通二交情一、汝爲二翰林主人一、宜三以レ詩作二佛事一、匡衡避レ席垂レ涙曰、多年未レ遇二知己一、徒老二尼山之雪一、今日被レ引二善縁一、幸攀二台嶽之雲一、不二敢辭一レ死、況於レ詩乎、若不二記録一、謂洛無レ人云爾、 相尋台嶺與レ雲參、來レ比有レ時遇二指南一、進退谷深魂易レ惑、升降山峻力難レ堪、世途善惡經レ年見、隱士寒温近日諳、常欲レ掛レ冠縁レ母滯、未能レ晦レ迹向レ人慙、心爲二止水一唯觀月、身是微塵不レ怕レ嵐、偶遇攀雲龍管駕、幸聞披霧鷲臺談、言レ詩讃レ佛風流冷、感レ法禮レ僧露味甘、恩煦豈圖兼二二世一、安知珠繫酔猶酣、
p.0805 春日遊二天台山(○○○)一 藤原通憲 一辭二京洛一登二台嶽一、境僻路深隔二俗塵一、嶺檜風高多學レ雨、巖花雪閉未レ知レ春、琴詩酒興蹔抛處、空假中觀閑
p.0806 念辰、紙閣燈前何所レ聽、老僧振レ錫似二應眞一、
p.0806 ゑしうといふ法師、〈◯中略〉ふかき山にいりなんとすといひていにけり、ほどへて、いづくにかあらんといひて、ふかきやまにこもり給ひぬとありしは、いづくぞといひやり給ひたりければ、 なにばかりふかくもあらずよのつねのひえをとやまとみるばかりなり、となんいひたりける、よかはといふ所にあるなりけり、
p.0806 比良山〈ヒラノヤマ〉
p.0806 比良山〈江家万〉
p.0806 比良嶺(ヒラノミ子)〈江州高鳥郡〉
p.0806 比良山(ヒラヤマ)、〈小松山ともいふ、俗に比良がたけ、〉日本紀齊明天皇紀に、平山と書たるは、すなはち是なり、竪八町計あり、山上に樹木なし、本朝七高山の内、雪は常盤にあり、 〈新古今〉花さそふひらの嵐やさむからんまのヽ浦人ころもうつなり 〈千載〉櫻ばなひらの山風吹までに花に成行志賀のうらなみ 〈左近中將〉良經 比良山獅子谷八境〈無露頂 佛座峯 紫雲峯 法華灘 櫻桃溪 暴布泉 粟原村 龍華寺 右扶桑名勝集に見ゆ〉
p.0806 比良嶽 近江國比叡の峯は、七高山の一也、往古は二月二十二日、叡山の衆僧登山して八講あり、今は此日一僧來りて讀經あるに、必海上風荒く、浦々よりも出舟せずして、水面に塵をだにも置じとの事也と俗にいひ傳ふ、〈◯中略〉嘉栗子紀行に、比良嶽へ登り、山谷は皆紅葉して、ゑもいはれず、上り行く、頂上へは、所の人とても不レ行といへり、押て上り見んと、路もなき笹原を十五六町も行ば、峯は殊に風烈しく、湖水は元より、山城國中、淀、男山も見へ渡り、北面は越前、若狹、丹波の山々、東は伊吹、三
p.0807 上、或は彦根、觀音寺山、野洲、横田川、大津、粟津、勢田迄幽に見へ、目の及ぶ限り、絶景極りなく、頂上少し下れば、小チヨンホの池あり、〈◯中略〉此比良山の尾崎、湖水へ差出たる所に白髭明神の御社有、鳥居は街道に立り、故に此池を根颪とも打颪ともいふ、
p.0807 弘仁九年十二月辛亥、禁レ伐二近江國滋賀郡比良山林木一、以レ備二官用一也、
p.0807 槐本歌一首 樂波之(サヽナミノ)、【平山】風之(ヒラヤマカゼノ)、海吹者(ウミフケバ)、釣爲海人之(ツリスルアマノ)、袂變所見(ソデカヘルミユ)、
p.0807 膽吹(イフキ)山〈美濃國不破郡、七高山之一也、〉
p.0807 伊吹山(イブキヤマ)〈又作二膽吹一、文徳實録作二伊富岐一、江州與二濃州一之界、但屬二江州坂田郡一、〉
p.0807 いふき 近江坂田郡の膽吹山も、山神毒氣を吹しよりの名也、日本武尊の故事日本紀にくはし、十訓抄に、美濃ノ國伊吹の山とあり、延喜式に不破郡伊富伎ノ神社あり、さしも草よめるいぶきは、下野國にあり、六帖になをざりにいぶきの山のさしも草とも、下野やしめづが原のさしも草ともよめり、
p.0807 伊吹嵩 いぶきのたけ 近江、美濃、下野、 伊吹山に同じ、いぶき山は、近江と下野と兩國に在り、歌によりて辨へしるべし、朝妻などよみ合せたるハ、きはめたる近江なり、
p.0807 伊吹山ハ、七高山ニ列シテ、一名ヲ彌高山トイフ、此山江濃ニ跨ケル故ニ、神社モ亦兩國ニ立ルコト、譬バ富士ノ駿甲ニ於ルガ如シ、此夏ニ引替テ、麓ナル草野、姉川、藤川等、何レモ水患ナク打過テ、玉ノ宿ニ憩シ、關原ヘ出ル、
p.0807 伊布貴 伊富貴共伊吹共、又膽吹共書ト云ヘリ、此山ハ、本朝七高山ノ中ノ一ツ也、往古神代ニ、當山ニハ天照大神御遊覽ノ時、大寶劒ヲ此山ニ落サセ給フ、然處出雲國ニテ、素
p.0808 戔烏命八岐ノ大蛇ノ尾ヨリ、其劒ヲ取出シ給フ、大蛇ハ伊吹大明神也ト云云、其後日本武尊、此山ノ麓ヲ通ラセ給フ時、天叢雲ノ劒ヲ帶セ給フ處、大蛇ノ祟リニ逢給ヒ、千々ノ松原ニ崩御也、嶺ニ池水有テ、風水龍王在ト云、是大明神ナルヤ、石ヲ積テ彌勒佛在ス、此奉〈◯奉恐智誤〉證大師ノ開基共云、又飛行上人開基共云、故ニ飛行上人奏シテ、伊布貴大明神ニ正一位ヲ授ケ、額ヲ勅下也ト云、
p.0808 四十年十月、於レ是聞三近江膽吹(イフキ)山有二荒神一、即解レ劒置二於宮簀媛家一而徒行之、至二膽吹山一、山神化二大蛇一當レ道、爰日本武尊、不レ知二主神化一レ蛇之、謂是大蛇必荒神之使也、既得レ殺二主神一、其使者豈足レ求乎、因跨レ蛇猶行、時山神之興レ雲零レ水、峯霧谷曀、無二復可レ行之路一、乃捿遑不レ知三其所二跋渉一、然凌レ霧強行、方僅得レ出、猶失意如レ酔、
p.0808 此ノ山は、近江ノ國と美濃ノ國との堺に在て、〈西は近江の坂田郡、東は美濃の不破郡池田郡なり、〉神名帳に、近江國坂田郡伊夫伎ノ神社、美濃國不破郡伊富岐ノ神社あり、〈今坂田ノ郡にも、不破ノ郡にも、伊吹村と云あり、〉三代實録三十三に、詔以二近江國坂田郡伊吹山護國寺一列二定額一、沙門三修申牒偁云々、此山即是七高山之其一也云云、〈藤原武智麻呂公傳と云物に、徙爲二近江守一云々、於レ是因二按行一至二坂田郡一、寓二目山川一曰、吾欲下上二伊福(イブキ)山頂一瞻望上、土人曰、入二此山一、疾風雷雨、雲霧晦冥、群蜂飛螫、昔倭武皇子、調二伏東國麁惡鬼神一、歸到二此界一、仍即登也、登欲レ半、爲レ神所レ害、變爲二白鳥一、飛レ空而去也、公曰云々、率二五六人一、披二蒙籠一而登、行將レ至レ頂之間、忽有二兩蜂一、飛來欲レ螫、公揚レ袂而掃、隨レ手退歸、從者皆曰、徳行感レ神、敢無二被レ害者一、終日優游、徘佪瞻望、風雨共靜、天氣清晴、此公ノ勢力之所レ致也と云り、此は僧の作れる書にて、例の信(ウケ)がたきこと多し、源平盛衰記に、寶劒の由來を云る處に云、素盞嗚尊、即天照大神に奉る、大神大に悦びまし〳〵て、吾天岩戸に閉籠りしとき、近江國膽吹(イブキ)が嶽に落たりし劒なりとぞ仰せける、彼大蛇と云は、膽吹大明神の法體なり云々と云り、さて伊服伎(イブキ)と云名の義は、山の神毒氣を吹よしなりと谷川氏云り、さもあるべし、さて萬葉には、此山の歌無し、又六帖などに、さしも草をよめる伊吹山は、下野國なりと、顯昭が袖中抄にも見え、契冲も、清少納言が草子に、まことや下野へ下ると云ける人に、思ひだにかヽらぬ山のさせも草たれかいぶきのさとは告しぞ、ともあれば、下野國なること必定なりと云り、〉曾禰好忠歌、冬深く野はなりにけり近江なる伊吹のとやま雪ふりぬらし、〈續古今集に入れり〉
p.0808 元慶二年二月十三日己卯、詔以二近江國坂田郡伊吹山護國寺一列二於定額一、沙門三修申牒偁、少年之時、落髮入道、脚歴二名山一莫レ不二周盡一、仁壽年中登二到此山一、即是七高山之其一也、觀二其形勢一、
p.0809 四面斗絶、人跡希至、昔日深草聖皇、〈◯仁明〉令下建二一精舍一修中藥師念佛上、三修居止以降、歳月漸積、堂舍有レ數、誠非三雲構庶二幾靈山一、望請天慈賜レ預二定額一、故從二其所一レ請、
p.0809 養老七年癸亥下云、古老傳曰、〈◯中略〉霜速比古命之男、多々美比古命是謂二夷服岳(○○○)神一也、女須佐志比女命、是夷服岳神之姉、在二久惠峯一也、次淺井比咩命是夷服神之姪在二於淺井岡一也、是夷服岳與二淺井岳一相二競長高一、淺井岡一夜増レ高、夷服岳怒拔二刀劒一殺二淺井比賣之頸一、墮二江中一而成二江島一、名二竹生島一其頭乎、
p.0809 龍之雲 高山へ登り、風雨雲霧の變に逢ふも、此海上の事に似よりしものなり、昔年高元泰が輩、日向の霧島山〈高千穗峯〉に登り、彼ノ逆鉾の邊に至りしかば、俄に山鳴り雲起り、面前眞黒になり、おそろしといふもおろか也、青木主計頭、〈長崎の祠官也〉いつの間に用意しけん、袖より粟粒の類を取出し、疾風急雨に打向ひ、投かけ〳〵せしかば、やがて風靜まり、雲晴たり、これは彼ノ天孫の昔を思ひよれるか、〈白石先生有レ記〉いづこの山も、高山はかヽる事有ものなり、心得すべし、此邊にても美濃國惠那郡惠那山(○○○)は、國中第一の高山なり、此山の祭りに郡中の村々より馬を引て登る事也、其日には必大風雨する、是を土人の説に、大勢が登り、二便して御山を穢すから、神きたなくおぼして、洗ひ淨め給ふ雨なりと云ふ、是は神の御心とも覺へず、穢はしとおぼさば、祭うけ玉はぬがよし、客を請じて客の座敷よごせるを腹立るは、好主人にはあらず、まして終日山中に居て、二便せぬものやはある、おもふに深山窮谷中に、鬱蒸積充する雲霧濕氣、數萬人の聲にひヾき動かされて、俄にさわぎ起るものならんかと、或人いへり、此モ亦理あり、
p.0809 嶽 騎鞍嶽、高山國府ヨリ辰ニ當ル、同郡阿多野郷、阿多野郷村、野麥村、大野郡小八賀郷池俣村、岩井村、吉城郡高原郷、平湯村等ノ山々、此嶽ニ接ス、後ハ信州ノ界也、
p.0809 騎鞍權現
p.0810 在二于本土一、騎鞍嶽、祭神未レ詳、 按ズルニ、當山ハ州内第一ノ高嶽ニシテ、益田、大野、吉城ノ三郡ニ跨リ、阿多野、小八賀、高原三郷ノ村里多ク其麓ニ連ル、後地ハ信州ニ續ケリ、此山ノ頂凹ノ如ク、鞍ニ前後ノ輪アルニ似タリ、故ニ此稱アルニヤ、嵿上ヲサシテ御前ト號ス、神祠等アリト云ヘドモ、何レノ時イヅレノ人、其所ニ至ツテ拜シタル事實モ無ク、絶頂ノ沙汰ニ於テハ、古人未二分明一、人倫不通ノ地ト聞エタリ、夏日ト云ヘドモ山上ノ雪盡ズ、麓ヨリ二三里バカリノ間ハ諸木アリ、夫ヨリ上ハ生木無シ、適高サ三四尺バカリノ椵(モミ)ノ木アリ、嚴滑ラカニシテ、草栢植(ツゲ)多ク生ジテ苔ノ如シ、又藤松ト云フモノ地ニ敷ケリ、是姫子ト云ヘル木也、凡テ深雪暴風ニ腦マサレテ、高ク延ルコトヲ得ザレバ、自然ト蔓(ツル)ノ如クニ、地ヲ這フテ編タル如シ、其上ヲ踏ンデ歩ミ行所多シ、土石山水其色赤ク、信州淺間山ニ似タリ、半腹ヨリ上トヲボシキ所ニ廣原アリ、凡廿餘町ニ四五十町餘有ランカ、〈此廣原ノカタハラニ亘リ、六七尺バカリノ穴二ツアリ、其故ヲ不レ知、〉此邊ニ至レバ、ヱナラズ臭氣甚シク、眼ニ入ツテ痛メリ、是ヨリ又遙ニ登レバ、土地ノ氣色變ジ、清淨ナルコト海濱ノ如シトモ謂ベシ、燒石ノ如キモノ砂石ニ交レリ、此所ノ石間ヨリ初メテ冷水涌出セリ、山中稀有ノ清泉也、然レドモ臭氣ノ眼裏ニ入ツテ痛ム事ハ増々甚シク、更ニ眼ヲ開キ難シ、故ニ是ヨリ嵿ニハ至リ得ザルト也、今世國人騎鞍禪定ト號シテ、夏日登山スルハ、南ノ方高原郷ヨリ登レバ、半腹ニ騎鞍權現ノ遙拜所アリ、是ニ詣フヅルヲ云ヘリ、嵿上ニ至ルニテハ無シ、又下民ノ口碑ニ傳フル處、此山上ニ沼池ノ數四十八アリト云フ、今其名目在所等分明ナラズト云ヘドモ、ニゴリ池、アヲタル池、アカ池、カミノ池、シモノ池、野ノ池、ヒウチ池、スナバチ池、マガリ池、ヒラ池、ツチトヨ池、雄池、雌池、ヲウニウガ池等、十三池ハ其名ヲ呼ベリ、中ニモ此ヲウニウガ池ハ、高原郷ノ村里旱魃ノトキ、請雨ノ術盡ヌレバ、郷民議シテ數百人一列シ、日沒ノ比ヨリ簑笠ヲ携ヘ、鉦ト太鼓ヲ打、松明ヲ燃シテ、此ヲウニウガ池マデ登山スルヲ、祈雨ノ例トセリ、池邊ニ至ラザルニ、必ズ大雨降ラズト云事無シ、其行程往來一夜半日ホ
p.0811 ド也、昔ハ俗魔所ト稱シテ、人ノ至ル事曾テ無カリシガ、僧圓空ト云フ人、此山中ニ籠リ居テ、若干ノ佛像ヲ造リ、池底ニ沈メテ供養セリ、自レ是以來池ノホトリマデ、人ノ登山スル事ヲ得タルト云ヘリ、其餘俗説甚多シ、略レ之、
p.0811 信越ノ界、ゑびらが峯の南ニアル乘鞍嶽ノコトハ、前ニ記シタリ、但シ横前鞍風吹ト云ヘルハ、此嶽ニ並ベル小名所ナルベシ、此乘鞍嶽ノ西面ハ、越後越中國界ナリ、又松本領鹽島新田ノ西ニアル乘鞍嶽ニ付キ、委細ノコトヲ重テ記スベシ、總テ松本領ニ乘鞍ト號スルモノ三ツアリ、内二ツハ隣國ニ堺セルモノニテ、既ニ前ニ記シタリ、今爰ニ載スル所ハ、當與鹽島新田分ノ山ナリ、元祿年中、改メラレテ官庫ニ收マル所ノ、國繪圖ニ載セタル乘鞍嶽ハ、國境ニアル所ノ二ツヲ記セルノミニテ、此鹽島新田ノ乘鞍ハ、他國他郡ニ交ハラザル故、略シテ載セザリシヲ、享保七年、公命アリテ山見通シノ爲メ、建部彦次郞ヨリ御指圖トシテ、官庫ノ繪圖ニ載スル所ノ乘鞍ヨリ、埴科郡妻女山ト、小縣郡根津領湯ノ丸山ヘ見通シノコト、仰付ラレシ時、清水次郞右衞門木藤仙右衞門、長谷川繁右衞門、中根又右衞門ノ四人ヲシテ、山々ヲ見分セシムル所ニ、越後界ノ乘鞍嶽ハ、當與石坂村ノ西ニアレドモ、極メテ高キ山ニモアラザレバ、前ノ高峯ニ支障セラレテ、右命ゼラレシ見通シノ山々少モ見エズ、然ルニ此鹽島新田村分ノ乘鞍嶽ハ、峯モ極メテ高ク、鹽島村ヨリ凡ソ七里程登リテモ、絶頂マデハ岩壁嵯峨トシテ至ルコト叶ハズ、乃チ乘鞍ノ前輪後輪ト云ヘル、峯ノ央居木ニ似タル平ヨリ之ヲ望ムニ、見通シ分明ナレバ、〈此乘鞍嶽ハ越後界ノ乘鞍ヨリ、遙ニ南ニアリテ、西裏モ猶信濃ノ地ニテ、山々並ビ續ケリ、〉此旨公聽ニ達シタリシニ、鹽島千國ノ西ニ當レル乘鞍ヨリ、見分スベキ旨命ゼラルヽニ依リ、此山ニ登リテ右ノ山々ヲ見通シ、後チ委ク言上セシニ、見分ノ詳細ナルコト遠ク他ニ優レタリトテ、建部彦次郞ヨリ賞美アリシナリ、〈其節ノ事、猶委ク家譜ニ見エタリ、〉今按ズルニ、元祿年中ノ國繪圖ハ、他國ニ隣レル所々ノ山川ニ至ルマデ、兩國ヨリ附ケ合セテ、國界ヲ定ムル故ニ、其
p.0812 方角ヲ郡中ニテ見レバ、違ヘル所ナキニシモアラズ、況ヤ村里ノ號ハ、名ト穀高トヲ專ラトシテ、其所在ハ方角ヲモ正スニ及バザルヲヤ、然ル所以ハ、一國ノ繪圖ニ於テハ、其大概ヲ載スルガ故ニ、土地ノ廣狹ニ於テ、悉ク校ヘ正サズ、故ニ比乘鞍嶽モ、官庫ノ圖ニ任セテ命ゼラレシモノニテ、越後界ノ乘鞍トハ異ナリタレドモ、鹽島ノ山トアレバ、一向違ヘルニモアラズ、故ニ此山ニ登リ分見セシトナリ、繪圖ニ見エタルハ、福島村ノ西ニ載タレドモ、畢竟越後界ノ乘鞍ナルベシ、子細ハ繪圖端書中ニ其意見ユ、然レバ今此見通ノ山トハ異ナレドモ、同與ノ中近邊ニ同名アレバ、時トシテ紛レ誤ルマジキニモアラズ、官庫ノ大繪圖ハ、今復タ改ムベキニモアラザレバ、此斷リヲ委ク記シ置クモノナリ、
p.0812 往々て右に我鬼山在、〈◯中略〉左に乘鞍ケ嶽幽に見ゆる、雲覆二頂上一、 白雨(ユダチ)まだ次道(ジミチ)に歩行(アリク)からの脚 不角
p.0812 嶽 御嶽(ヲンタケ) 高山國府ヨリ丑寅ニ當ル、益田郡阿多野郷日和田村胡桃(クルミ)島村、同郡小坂郷落合村ノ山々是ニ接ス、後ハ信州也、世俗木曾ノ御嶽(○○○○○)ト稱ス、是也、
p.0812 御嶽(おんたけ) 御岳は、信濃一州の大山なり、嶽の形大抵淺間に類して、清高これに過、毎年六月、諸人潔齋して登る、福島より十里、全く富士山に登るが如し、黒澤より四里にして、堂あり、夜中炬を照して峯に至る、祠あり、金剛童子と云、こヽに熄(いこ)ひて明るを待、此邊五粒松多し、名づけて御松といふ、盛夏といへども山間に積雪有、草木生ぜず、又三里登れば絶頂に至る、二祠あり、一を王の權現といひ、一を日(ひの)權現といふ、
p.0812 御嶽(ミタケ)は、信濃一州の大山なり、西野、黒澤、未川(せいかは)、王瀧等其麓に有、黒澤より獨奉祀
p.0813 す、毎年六月十二日十三日、諸人潔齋して登る、全く富士山に登るが如し、絶頂に小祠あり、且三ツの池ありて、其側巨巖矗々たり、四季に雪あり、靈境といふべし、山に登るに、四里にして堂あり、夜中炬を照して峯に至る、祠あり、金剛童子といふ、こヽに憩ひて天明を待、此邊五粒松多し、枝を垂て虬龍の如し、これを名づけて御松といふ、盛夏といへども山間に積雪あり、草木生ぜず、又三里登れば絶頂に至、二祠あり、一を王權現といひ、一を日權現といふ、其西北の峯に三祠あり、一を倶利迦羅といひ、一を八王子といひ、一を土祖權現といふ、其東の峯に三池あり、一ツの池は水涸てなし、一ツの池は水少し、一ツの池は水滿て西野に流る、其北を地獄谷といふ、硫黄多く、溪川ありて王瀧にいたる、濁川といふ、是硫黄の氣にして、其水甚だ嗅氣あり、又山上に鳥あり、形鳧の如し、毛色雌雉のごとし、人を見ても驚ず、山上に一草を生ず、葉蘼蕪に似たり、小花咲く、状菫菜のごとし、色紅紫なり、名づけて駒草といふ、又一草あり、蓼に似て大なり、葉軟にして、里人採て喰ふ、これを御蓼といふ、
p.0813 八ケ嶽、峯通二國境一、〈甲斐國ニテモ同名、〉平澤村出口道ノ境川ヨリハ酉ノ方ニ當リ、金峯山ヨリハ酉戌ノ方ニ當ル、此八ケ嶽、當國ノ方、北面峯ノ半ヨリ佐久郡、西ハ諏訪郡ナリ、〈右八ケ岳、享保七年壬寅山見通シノコト命ゼラレシ所ナリ、此山ニテ磁石ノ働キ成難ク、方角見定メラレザル由、見分ノ者申ニ付、再ビ公儀ヨリ、若シ磁石山ニテモアルベキヤ見屆クベキ旨命アリテ、正眞ノ磁石ヲ渡サレタルニ依テ、重テ差遣スノ所ニ、果シテコレヲ見出シ、取リ來テ上レリ、但シ本ノ石ヨリ其氣少シ弱シトイヘドモ、紛レナキモノナリシト、此山峯總テ八ツアリ、中ニ權現嶽ト云嶺アリテ、此峯ニ件ノ石アリケルトナリ、〉右甲州境八ケ嶽ノ峯ヨリ、遙ニ亥子ノ方ニ當レル處ニモ、亦八ケ嶽ト云フ山アリ、〈此峯モ亦八ツアルガ故ニ爾云フ〉是マデノ間山深クシテ嶮岨ナルガ故ニ、諏訪郡ヘ越スベキ線路一ケ所モナシ、何レモ山山峯通ヲ堺トス、是ヨリ酉戌ノ方、たてしな山ノ南、麥草ト云フ所、諏訪ノ方にやしか峯ト云フ山アリ、此等ノ峯通郡界ナリ、此西ヨリ北ヘハ小縣郡ノ界、東ハ横笹山ノ西ニテ、境目越口道前
p.0814 ニ見エタリ、
p.0814 八嶽 此山西は信濃國諏訪郡、北は佐久郡なり、嶺分れて八有、故に八が嶽と云となん、麓の小荒間より絶頂まで四里許り有り、小荒間村に法性院と云禪院有、武田機山侯建立し給ふとぞ、村の東の方は、天文九年二月十八日、信濃の村上氏と武田勢合戰有し地なり、今に劒戟の折たる、或は鏃などありとなん、四間ばかりの大石あり、機山侯登りて遠見し給ひし石也とぞ、又御座石と云あり、大サ六間四方、高サ一丈ばかりも有、遙東の方然場(子ンバ)の原と云有、信濃佐久郡へ行道あり、此原は天文八年閏六月廿日、武田勢村上勢合戰有し地なり、
p.0814 八ケ嶽〈亥子方〉 峯八ツに分れて見ゆる、至て嶮岨なる山也、雪のつもりし時は、別てすさまじ、〈八ツケ嶽は、信州分のやうに覺へたり、予が覺違か、〉
p.0814 巨摩郡逸見筋 一八ガ嶽 長澤、西井出、谷戸、小荒間諸村ノ北ニ在リ、其南麓、西ハ小荒間村ノ北花鳥屋(ハナトヤ)ヨリ、東ハ界川ニ至ル、四五里ノ間、諸村入會ノ草場ナリ、峯巒岝㟧トシテ八葉ニ分ルヽ故ニ名トス、其一峯ヲ檜ガ嶽ト云、雷神或ハ石長(イハナガ)姫ヲ祀ル、三代實録ニ所レ謂檜峯ノ神ナリト云、谷戸村ヨリ三里許アリ、毎年八月十一日ヲ祭日トス、凡ソ八月ヲ登躋ノ候トス、本州ノ諸高山皆ナ然リ、權現ガ嶽、小嶽、赤嶽、麻姑巖、風ノ三郞ガ嶽、編笠山、三ツ頭、其餘種々ノ稱呼アリト云、其山脈北ヘ延テ、信州蓼科(タデシナ)山、大門嶺、和田嶺等ニ接ス、其中間ニ神池アリ、山ノ東面ハ佐久郡、西面ハ諏方郡ナリ、又山中ニ烽火台アリ、富嶽嶽ノ絶頂ヨリ望ムニ、此山及ビ白峯、金峯ノ三山ハ、本州諸山ニ卓絶シテ雲表ニ見ハル、又上州武州ノ地ヨリモ、遠望シテ認ムベシト云リ、其靈秀高大ナル知ルベキナリ、良材、黄連、石耳、磁石等ヲ産ス、又泉源多クシテ、國ニ益アルコトハ、前後ニ録スルガ如シ、
p.0815 八嶽(やつがたけ) 又谷鹿岳(やつがたけ)と作(か)く、長澤西井出谷戸(やと)小荒間、上笹尾、小淵澤等の諸村の北に峙立て、檜峯、〈權現岳とも云〉小岳、三頭岳、赤岳、箕蒙(みかぶり)岳、毛無岳、風三郞岳、編笠山等、八稜に分るヽゆゑに此名あり、檜峯には石長姫、八雷神を配祀り、八嶽權現といふ、〈西井出村に八岳神社と云あり、建御名方命を祀る、〉三代實録に載たる檜峯神社なりといへり麓の諸村より三里餘、秋分の頃までは、參拜ことを禁む、岳の中腹に前宮あり、〈此處までは平日に參詣者多し、祭日は三月十一日なり、〉其山足北に延て、信州蓼科山、大門嶺等に接けり、山の東面は佐久郡、西面は諏訪郡なり、其峯々は岝㟧(するど)くして、霄漢を衝が如し、俚俗の諺に、此山の高さは富士山と僅に馬の沓の丈程の差なりと云ふ、これ其靈秀高大なる事推して知べし、良材、黄連、石耳、磁石等を産す、又泉源數多ありて、其利を受る地多し、
p.0815 四阿山(あづまやさん) 四阿山は、上野の堺にして、此邊の高山なり、山頭は何方より見ても屋の棟の如し、故に四阿と名く、此山、東は上野、南は小縣、西は埴科、北は高井郡に多くかヽれり、眞田(さなだ)より登る、峯まで三里半、草深くして路なし、一丁毎に石祠を立て道のしをりとす、中央の岩室に圓形の銅版あり、長さ七寸ばかり、中に立像あり、大己貴命の神體として、地主神とす、此所より西を望めば屏風岩と云あり、徑六七間、高七八尺、褐色にして文理氷裂の如し、夫より絶頂に至る、二祠あり、東は菊理(クラヒメ)媛命にて、上州祠(ミヤ)と云、西は井弉册尊を祠て、信州祠と云、其回に岩石を積て風を除く、此兩祠の央を信上の堺とす、六月十三日諸人登山す、此山常に寒氣強き事富士よりも甚し、頂上より見渡せば、隣國の高山凡十二州にかヽりてみな見ゆる、中にも子の方に當りて、兩山開る所北海を見る、烟靄の中、佐渡の山杳にして黛のごとし、 〈山家集〉かみな月時雨はるればあづまやの岑にぞ月はむねとすみける 西行
p.0815 立科山〈非二名處一〉
p.0816 佐久郡蓼科山は、三のこほりによこたはりて、〈諏方小縣〉登る事おの〳〵三十里、水のひヾきのあはれも過て、さえだをしをりぬすヾを分て山に入、いかづちの床なんどいふ所を經て、〈酉陽雜俎所謂二潛龍地一乎〉背向(ソカヒ)にいづ、是より仰ばまかべなす峯あり、磐石を階(キダ)にふみて登こと三百歩、姫子といへる松のばへわたりて、砠(イシヤマ)をつヽみ、霧もる日に映ずれば、衣はみどりにそみて、神彩たとへをとるにものなし、すべて頂に土なし、磐石は瓦を鋪たる如く、松は席(ムシロ)をしくに似たり、鳥ありて其中に栖む、爰にあめをいたヾき、雲を踏て、蓼科の神祠をあがめまつる、又四時此峯に白雪あれば、飯盛の山ともよべり、〈甲賀三郞巖、穴獅子嵒、石井、無音川等の地名あり、〉
p.0816 立科(タテシナ)山〈三代實録ニ蓼科〉 此山、八ケ嶽につヾきて、諏訪小縣佐久の三郡によこたはる、頂上に神祠あり、陽成天皇元慶二年叙位の事、三代實録にみえたり、六月八日より二十八日まで登山す、就レ中十五日登山の人多し、何方より登るも五里程なり、故に山中に一夜をあかす、此山峯に雪の降積る事、外(ト)山よりも早く、春にいたり解るも又遲し、遠く望めば飯を盛りたる如くなれば、飯盛(いもり)山ともよべり、巓は渾巖石にて、松一面に延回りて、根も末(うら)もなきが如し、葉は姫小松に似たり、俗に延(はひ)松と云、此巖石の間に鳥ありて栖む、たま〳〵出て遊ぶを、登山の人見る事あり、加賀の白山の雷鳥と云に似たり、〈◯中略〉這(はひ)松の中を踏わけ、南へたどる事五丁ばかりにして、櫻谷といふ所あり、此地おしなべて櫻のみにして異木なし、然ども吉野はつ瀬の風情にはあらで、高さ三尺にみたずしてみな藪木となる、是高寒に堪ざるがゆゑなり、花も浮世の春にはもれて、水無月半より發初め、下旬に至て稍盛なり、まことに花より外にしる人もなし、山中に甘露梅と云草あり、葉は黄楊の如くにて、大小あり、大なるは實白く、小なるは赤し、採て嘗れば、味ひ梅のごとし、不老草は、常世草ともいへり、諸毒を治し、瘟疫をはらふ、檀栟㯕(だんへいじ)は、杖にして、中風痿癖の病を避け、小兒これを佩て、驚癇の煩をふせぐ
p.0817 と云、其外異草多し、藥品は黄蓮、人參、〈チクセツ〉中にも柴胡(サイコ)は絶品なり、一年糠尾村の醫生宮原某、採藥に登りて見出し、採歸りて試るに、功能他に勝れり、因レ之京都の物産家に鑒定を請に、海内第一品と賞す、往古より柴胡は漢渡なし、銀州の産を銀柴胡とて、最上とすといへども、得る事易からざる故にや、舶來の物なし、和産にも二種あり、沙(かはら)柴胡は大に別なり、
p.0817 淺間嶽(アサマタケ)〈信州小縣郡〉
p.0817 淺間嶽 在二當國之艮一、頂上常燒烟起、
p.0817 あさま 口語にいふは淺間の義、あさばともいへり、〈◯中略〉世に其名を專らにするは、信濃佐久郡也、天武紀に、灰零二于信濃國一と見ゆ、此嶽高峻といへども、驛路其肩をめぐり、路ゆき人も遠大をしらず、淺間にありて、深邃を見ざるよりの名にや、絶頂に大坑あり、徑十町ばかり、常に煙立のぼりて、硫黄の氣あり、大燒の時は、五七里が間鳴動し、茶碗皿鉢の類も、響きて破るヽ事ありといへり、
p.0817 淺間が嶽は、極て高しといへども、此邊の麓の地高きゆへ、甚高くは見え侍らず、峯に常に煙たつ事、甑のいきの上るが如く、又雲のごとし、朝より午時頃までは立ず、大略夕がたに煙たつ、この山は半より上に草木生ぜず、一日の中しばし煙なき時あり、大燒する時は、五里七里の間夥しく鳴動す、皿茶碗の類ひもひヾき破るヽ事あり、燒石も飛ぶ也、此燒石道のかたはらに多くあり、常の石よりは輕し、色は灰色にして少し黒く、耕作の妨なるゆへ、所々に集て積上たり、大燒はまれなり、小燒は時々あり、江戸のあたりへも、此山大燒の折ふしは、灰の飛來る事有といふ、此山は江戸の方へ近く、美濃尾張の方へは遠し、伊勢物語に、業平の道行の次第、伊勢尾張の邊よりあさまがたけを見て、歌をよみたる様に書れしかども、伊勢尾張の方よりは道のほど遠く、山隔りて見えず、駒が嶽は能見ゆる、業平の武藏上野のほとりにて、淺間が嶽をよめる歌を、
p.0818 伊勢物語を編る人、前に書入にや、追分の驛より此麓まで三里あり、又麓より嶺まで三里半なり、嶺に巖窟ありて、虚空藏の石佛を案ず、絶頂の大坑より、常に煙立のぼる事は硫黄の氣あり、硫黄滿る時は地火突發し、大石ほとばしり、砂石を降して麓をやく、其おと數百里に聞ゆ、此山今夏月の雪まれなれど、立春の後百餘ケ日、霜冱て雪の晨の如し、又中秋より露寒く、あるひは霜早く來て毛作を惱す、又此山に落葉松生ず、富士松の如し、又紫草生ず、佳品とす、麓の追分より輕井澤まで、土地別して高き所也寒氣甚つよし、五穀不毛の地といひつべし、
p.0818 山中をへて、いかほの出湯に移りぬ、雲をふむかと覺る所より、淺間嶽の雪いたヾき白くつもり初て、それより下は、霞のうすく匂へるがごとし、 半ばよりにほふがうへの初雪をあさまの嶽の麓にぞみる ◯淺間山ノ事ハ、又火山ノ條ニアリ、參看スベシ、
p.0818 戸隱山(トガクシヤマ)〈信州水内郡〉
p.0818 戸隱山(トガクシヤマ) 戸がくし山は、信濃國の北の方によりて、越後へ出る方にあり、信州は總體山國にて、連山波濤のごとくなるに、此戸隱山は基を別にして、京近邊にていはヾ、生駒山を望むがごとくなる山なり、手力雄命を祭れりといふ、 ◯戸隱山ノ事ハ、神祇部戸隱神社篇ニモアリ、參看スベシ、
p.0818 駒嶽〈木曾東嶽なり、其高數千仭、數峯連續して、其一峯の嵿に石あり、形は馬のごとしといふ、〉
p.0818 信州駒ガ嶽 富士禪定の人の云るは、絶頂より近國の諸山を見渡すに、箱根櫓澤、信州胞衣(ヱナカ)嶽、御岳、飛騨、越後、上州邊高岳有といへども、其山と指て云べきは見えず、只眼下に一面の土堤を築きたる如し、但乾
p.0819 と覺しき方に雪を帶て、兀々たる山參差たり、誠に層巒ならん、信州淺間にやあらんと問に、左には非ず、淺間は是よりは見えず、あれは駒ガ嶽なりと答ふ、是を見るに、士峯より目八分に見る程なれば、至て高嶽ならめと兼て思ひしに、寛政元年東行する折柄、其麓を過るまヽに倩(ツラ〳〵)眺に、實も峻嶺也、されど富士に對すべき物かはと不審かしかりしが、能く考れば、都て信濃は土地至て高し、上州、越後、甲斐、美濃より入ルに、何方よりも登らずと云事なし、國中の川水皆四方へ落る、此を以其高さを知れり、故に雪深からねど、寒氣の烈しき北越に過たり、駒が嶽の事を、福島の土人に問へば、此山には拜すべき神仙もましまさねば、參詣すべき事もなし、適旱魃する年、雩(アマコヒ)に登山する也、五年程前に大に旱して、近郷より登山す、我も其時登れり、福島と宮の腰の間に川有、大原川と云、此川の上に大原村と云有、是其麓也、此より二里あり、此所に權現宮有、宮官の寺も有、此時人數六十人、各壯年にて達者なるを撰て登る、麓より三里許は、樹木叢茂として更に登るべき道なし、大木共雪に押へられて、枝撓り伏シて、網を張たる如き上を匍匐て登る、其下を覗き見れば、地形は一丈或は二丈許下に在り、各梢をつたひて宙を行也、其梢の下には雉の如くにて、尾は永からぬ鳥、幾等も群居る、土人は此鳥の名を不レ知、按るに是雷ノ鳥成べし、加州白山に此鳥有て、雷を食ふ故に、此鳥を圖して家に掲置キ、處の難を避ると云習はして、今專ら世上に此事をなす、是に付て色々奇説有ども略レ之、都て甲州上州邊の山内には、此鳥甚多しと也、扨三里登れば、夫より上は樹木なく、砊々たる岩間を攀上る事二里にして、既に絶頂近き程に、駒石とて高サ十八間、長十間餘の大石有、形馬の蹲たる如く、北を向て貳里、夫を過て頂上へ登る、巓に御池と稱して、小き水を湛し處有、其水深さ僅に二寸許有、六十人之者手に〳〵是を汲干さんとするに、一時を經ても更に盡ず、兎角して下山に及ぶ、未明より上りて晝八頃也、初登山の時、是迄下りて宿すべきと思ふ所に、栞なんど目印をよくして置し場所へ立歸り臥す、元より寒氣堪がたければ、木の枝を折來て火
p.0820 を焚、夜と倶にあたり、糧は燒餅、又は煎物、飯を持者は、能燒て肌に付たり、火を通さヾる物は凍て食ひがたし、尤水なき場所にて渇飮すれば、其所を究メ印を立置こと也、斯て夜明て下山し、午時過て麓ニ著ク、六十人の内、十九歳に成る血氣の若者、人に勝れて元氣健(スコヤカ)成しが、麓に於て氣分不レ勝、途中にて死、又四十歳計の男一人、山に酔て正體なかりしが、是は四五日惱みて快氣せりと云、按るに、此若男は血氣に任せて自ら根氣を失ひし也、都て斯る高山に登るに、必強氣なるは惡し、專ら元氣を丹田によく治て、平氣にして少も急がず登るがよし、是峻嶺に登るの一法也、山に酔ことは間あること也、それは元氣薄きによれり、兎に角に一氣臍下に凝然たれば、山に酔こともなく、又靈異あるも、よく正敷觀る事也、御嶽山權現〈土人ハ御嶽ト云〉は世に知る靈山也、麓に社家有、寺あり、六月十二日十三日祭禮也、近郷の男女群參す、此日五穀成就の祈禱、大般若轉讀勤行也、御山禪定は百日精進せずしては上り得ず、其間は行場に入て修行をなす、晝夜光明眞言を誦し、水垢離をとる也、其料金三兩貳分、百日が間の行用とす、如レ斯なれば、輕賤の者は登り得ず、生涯大切の旨願ならねば籠らずと也、頂山に至る事一里半、大日如來を安置せりとかや、 社家は、御祭日神前にて祓祝辭を申、此兩日市をなして、賑ひ夥しと也、 信州にては、此兩山聳て目に立也、御嶽は北に在、駒が岳は南に在、又東南に惠那が嶽とて高山有り、土俗云、此山の神は、伊勢大神宮御母神なれば、二十一年毎の御遷宮には、必御柱木は此山より出る也といふ、册尊を祭奉るにや、然らば惠那が嶽は胞衣(ヱナガ)嶽成べし、
p.0820 駒岳(コマガタケ) 駒が岳は、木曾と伊那の間に秀、十餘里に連亘して、實に屏風を立たるが如し、俗に三十六峯八千谿と云、續日本紀曰、天平十年八月、信濃國獻二神馬一、黒身白髮尾云々、駒岳の名此に出るか、宮所小野牧、みな其下に有、今村に龍飼山あり、宮所に龍が崎あり、皆是山脉、因て龍を以て號るなるべし、〈馬八〉
p.0821 〈尺以上曰レ龍〉亦龍崎觀音、及び羽廣の觀音、みな馬の疾を祈るに、驗有といへるも、駒が岳の説に出るなり、〈◯中略〉往古は登る事稀なり、近來は其邊の里俗をり〳〵登山す、元文寶暦の一覽記あり、其大意、山中廻り九里餘、日數二日半にて歸る、宮田小出より登る事、二里程行て權現釣根と云所より、諸木野薦(のすヾ)しげりて道なし、大木の倒れたる上をまたがり下を俛(クヾリ)て登る、まな板倉などいふ所嶮岨なり、延(ハヒ)松芝の如くなる上を、枝に取つき登る事數十丁、是よりは露氣なし、夜も物濕ず、此松の外には九輪草の如き草、又黒色の百合あり、常の百合よりは少し小なるばかりなり、紅白の五月躑躅花至て小し、右の草木里に植るといへども、暑氣に至て保たずといへり、のうが池と云有、都て山中に三所池あり、何れものうが池と云、此所の池、東は御所山、南は駒形ある山、西は岳つヾき、北は大澤なり、其中に西より見おろす所、長百間、幅六十間と云、水面青き事藍の如し、中に赤き筋あり、其形龍のごとく、南よりうねりて、北の方細く、少し西へひねりたり、此池より三町ばかり登りて、本岳は雲を帶て南に高く、峻巒重り、谷々を見下せば、數十丈漫々たる海上をみるが如く、白雲靉靆たり、是より峯まで皆巖石を疊、嶮岨いふばかりなし、小松希に生て、岩間白沙ばかりなり、巖にすがり、又は岩より岩へ飛移り、からうじて登る事十丁餘り、峯は鍋を伏たる如にして、少し南へ長く平也、萱草に似て重ねうすく、蔦の紅葉したる如き草所々にあり、夏の頃花咲ぬるや、希に實の結びたるあり、頂上より見渡せば、南はうつき岳の大山有て、飯田の方は見えず、西は尾州、伊勢浦、東北は富士、淺間、遠山をはじめ、近國の高山みな見ゆるといへども、村里は一面に平なるのみなり、
p.0821 碓氷(ウスヒノ)紅葉 碓日嶺、熊野の神祠の邊、楓樹多くして、暮秋の頃紅葉盛には、山々錦繡をまとふが如し、實に無雙の景色、いはんかたなし、又散かふ頃は山路にみちて錦を摛(のぶ)が如く、繡を布が如し、
p.0822 うすひ山 是は信濃上野の境にて、嶺より西は信州、嶺よりあなた東は上州也、さればうすひの坂といはヾ上野、うすひの山といはヾ信濃なるべしと、ある人申きたれど、山とも坂とも通用して讀來るなるべし、穿鑿に渉るべからず、此所十尾といへる谷合の紅葉、近國無雙の景なり、暮秋の後は目を悦ばしめ、誠に錦繡の山とも謂べし、ひとヽせ中院大納言殿、此紅葉を賞し、詠歌あり、それより後は、領主より毎年紅葉の盛に人を遣はし、これを取紙に挟み、長櫃にをさめ、京師の堂上、東武の數奇人風雅好事の人々へ遣り給ふ、いまは是例となりて廢する事なく、名産となりぬ、享保の末、元文のはじめの頃なるべし、ある歌人、碓氷の紅葉の頃こヽを通りて、甚是を賞し讀るうた、里人聞とめて、書つけ置たるを見たり、惜い哉、其名をも所をも書とめず、讀人不レ知としてあり、堂上たるや、地下たるや、其名をしらぬこそかへす〴〵も口をしけれ、 山の名はうすひといへど幾ちしほ染て色こき峯のもみぢ葉、誠に歌がら唯人の詠ならじと、人々申あひぬ、
p.0822 四十年七月戊戌、天皇詔二群卿一曰、今東國不レ安、暴神多起、亦蝦夷悉叛、屢略二人民一、遣二誰人一以平二其亂一、群臣皆不レ知二誰遣一也、〈◯中略〉則自二甲斐一北轉、歴二武藏上野一西逮二于碓日坂一、時日本武尊毎有下願二弟橘媛一之情上、故登二碓日嶺(○○○)一而東南望之、三歎曰、吾嬬者耶、〈嬬此云二莵摩一〉故因號一山東諸國一曰二吾嬬國一也、
p.0822 鳥居峠〈四阿山ノ南ナリ〉御茶屋久保國境、上野國マデモ同名、大日向村ヨリ上野國田代村マデ二里半、但シとあひの橋長サ七間、幅二間、此川鳥居峠ノ方ヨリ出テ、大日向村ノ南ヲ流レテ、矢手澤川加賀川ノ水上ナリ、此とあひノ橋ハ、高井郡ヨリノ越口ナリ、此路三筋トモニ、埴科郡ノ界、白攝峠ノ路ト共ニ出合所ノ橋ナリ、皆山中ノ路艱所ナリ、十一月ヨリ二月マデ、雪積レバ牛馬ノ通行ナシ、
p.0823 鳥居峠 吾妻屋山、四阿山トモ書リ、 大笹田代ノ奧、信州大日向へ越ル嶺ヲ鳥居峠ト云テ、石ノ鳥居アリ、石ノ祠ニ社アリ、日本武尊橘姫ヲ祀リテ、吾妻權現ト稱奉ル、此所ヲ日本武尊ノ越エ玉ヒシ道ノ眞跡也ト云、大古ハ此アタリ迄碓氷也シヲ、吾嬬者耶ノ御言ヨリ、吾妻郡トナリシナルベケレバ、ゲニモイニシヘノ碓氷ノ峠ハ、コナタニテアリケン、 傳説雜記ニ、碓氷峠、鳥居岑ハ別々ノ峠ナレドモ、峯續ノ峠ナレバ、往昔鳥居ヲモ碓氷ト云シト見エタリト云、
p.0823 妙義山ハ、夏雲多二奇峯一トイフベキ山ナリ、妙義法師ヲ祭テヨリ、波古曾ノ神ハ、余所ノ白雲トナル、山中ニ一宿シテ、明レバ貫前ノ宮ニ赴ク、〈◯中略〉 西上州記、妙義山ハ頂上マデ黒キ巖ニテ、嶮岨ナリ、或説ニ、黒髮山トハ是ナリトイヘリ、常ニ白雲覆フ故ニ、白雲山トイフ、妙義トハ權現鎭座已後ノ名ナリ、此御神ハ天台座主法性坊ト申セシガ、我慢ニ支ラレテ天狗トナリ、此山ニ示現マシマシヽトナリ、
p.0823 妙義 上野國妙義山は、岩山にて、岑々鋭に尖て嵒々とし、鉾を立たるごとく、樹木なく、たヾ繪にある唐の山に似たり、東の方厩橋總社の邊より此山を見れば、峯ちかき所に眞丸なる穴あり、月輪を見るごとし、あなたの雲所たヾしく見ゆなり、土人の云く、百合若大臣の射拔たる箭の跡なりと云り、山の麓安中松井田より見れば、此穴なし、是は巖と〳〵の行合にて、ふりによつて山穴のやうに見ゆるなり、或云、人のうへに自といふ事は、水柄といふ事にて、かく峠たる嶮山の滴にて育つ人は、其心極て嶮なり、又京奈良などの、寛なる山の水にて、養れたる人の心は柔和なり、江戸大坂などの曠野大河の流を飮人心は、至て廣しといふは、その理なきにしもあらず、
p.0824 白雲山高顯院〈俗に妙義山と號す、松井田より入る、又横川よりの道あり、門前に旅舍多し、〉 それ當山は、波古曾神社、往古よりの地主神なり、延喜帝の御宇、延暦寺第十三の座主法性坊尊意僧正、此御弟子菅丞相ゆくりなき、左遷給ふをうき事におもひ、台岳を退き、此妙義山に閑居し給ふ、抑此御山は、青岩峭壁として、山靜に幽人偏に愛すべき靈嶽なり、遷化の後、こヽに妙義權現と崇め、貴賤の尊信怠る事なし、特に今より百五十年前、奇特ありて、それより宮舍殿閣壯麗に再興ありて、日夜詣人絶る事なし、本坊を石塔院と稱して、天台宗東叡山に屬す、例祭九月九日山中に大杉七本あり、何れも四尋五尋まはり有、奧院は、本社より二十五町あり、岩角をつたひ登れば大日尊を安ず、門前の旅舍は、貳町許軒をならべて、山岸に書院を調ひ、詣ずる人の宿りとす、春の頃は一家に百餘人も泊りて賑はひいはん方なし、靈驗ありとて、關東の人民はなはだ尊敬渇仰なす、故に常にも詣人多し、まづ當國の靈地にして、此山のすがた、世に類ひなき奇異の分野なれば、神靈ある事むべ也、かヽる名山に、かならず靈あり、故に祈ればしるしありとぞしられける、
p.0824 赤城山ハ東上州無雙ノ靈嶽ナルベシ、拜畢テ、前橋大渡ヨリ水澤ヲ過テ、伊香保ニ到ル、〈◯中略〉 赤城山ハ、相傳ニ履中天皇ノ御宇、初テ社ヲ建テ祭ル、栢原ノ帝ニ至テ、詔シテ今ノ地ニ遷サレ、舊地ヲバ三夜澤トテ、東ノ方一里許ニアリ、東ノ宮ハ日本武尊、左ハ大己貴命、右ハ少彦名命、西ノ方豐城入彦命、相殿二座、左ハ天照大神、右ハ大山祇命ヲ祭ルトイフ、
p.0824 赤城山 數峯群聚總稱二赤城一、〈峯巒之名、一々記レ之〉 黒檜山(○○○) 赤城ノ最高峯也、神祠アリ、 〈此山ヲ千眼ト云、千手千眼ナリ、別當ハ荻原ノ善應寺、天台宗ナリ、〉
p.0824 建長三年四月廿六日丙辰、去十九日、上野國赤木嶽(○○○)燒、爲二先例兵革兆一之由、令二在廳等申一之由云云、
p.0825 日光山(ニツクハウザン)〈野州河内郡始號二二荒山一、事見二釋書一、〉
p.0825 一二荒(ふたあら)を補陀落(ふたら)とし、音にてよみて、にくわうといふを、日光とかき替へたるを見れば、ふるき事は考へ得がたき事おほかるべし、
p.0825 二荒山 ふたらやま 日光山 いにしへは二荒をふたらと訓しを、慶長の頃に、東照大權現の宮柱ふとしき立しづもりませしより、御神のいさをしにちなみて、やがて日光に音をかりて、文字を書改められしより、黒髮山にさしむかふ、日のひかりもいちしろく、照りまさり給ふことヽなりにけり、
p.0825 二荒、倭訓近二補陀洛一、故僧勝道以爲二山號一、推稱二觀音堅坐之地一、二荒音轉爲(○○○○○)二日光(○○)一、故密宗 者流以爲二山名一、推稱二毘盧遮那之場一、皆是奪掠剽竊之術也、識者奈何云々、 岩有二飛瀧一嶺有レ湖、我邦神跡占二靈區一、豈圖西域黠胡鬼、來二山中一作二野狐一、
p.0825 日光山社 在二河内郡一〈◯中略〉 開山勝道上人 祭禮九月九日 勝道〈姓〉若田氏、當國芳賀郡人、早出二塵累一、鑽二仰勝業一、州有二二荒山一、峯巒峻峙、振古未レ有二陟者一、稱徳帝時、〈神護景雲元年秋七月〉勝道始企二跋渉一、路險雪深、不レ能レ升、止二山腹一凡經二三七日一而還、今歳又興二先志一、漸達二于頂一、衆峯環峙、四湖碧深、奇花異木、殆非二人境一、乃結二小菴於西南隅一、居數載、遂就二勝處一建二伽藍一、號二神宮寺一、崇二權現一、安二丈六千手觀音像一、盡二荒〈訓二布太阿良一〉今云二補陀洛一、以爲二觀音之所坐一、空海登山、改二日光一、以爲二大日遍照之山一、而後圓仁居住唱二法華一、遂爲二天台一、叡山座主兼帶爲二寺務一〈元和二年〉祭二祀東照神君尊靈於當山一以來、滿山莊嚴、其美言語絶、
p.0825 沙門勝道歴二山水一瑩二玄珠一碑并序、沙門遍照金剛文并書、 蘇巓鷲嶽、異人所レ都、達水龍坎、靈物斯在、所二以異人卜宅一、所二以靈物化産一、豈徒然乎、請試論レ之、夫境隨
p.0826 レ心變、心垢則境濁、心逐レ境移、境閑則心朗、心境冥會、道徳玄存、至レ如下能寂常居以利見、妙祥鎭住以接引、提山垂レ迹、孤岸津梁上、並皆靡レ不下依二仁山一託中智水上、臺鏡瑩磨、俯二應機水一者也、有二沙門勝道者一、下野芳賀人也、俗姓若田氏、神邈二救蟻之齡一、意清二惜囊之齒一、桎二枷四民之生事一、調二飢三諦之滅業一、厭二聚落之轟轟一、仰二林泉之皓然一、粤有二同州補陀洛山一、葱嶺插二銀漢一、白峯衝二碧落一磤二雷腹一而鼉吼、翔鳳足而羊角、魑魅罕レ通、人蹊也絶、借問振古未レ有二攀躋者一、法師顧二義成一而興レ歎、仰二勇猛一以策レ意、遂以二去神護景雲元年四月上旬一跋上、雪深嚴峻、雲霧雷迷、不レ能レ上也、還住二半腹一、三七日而却還、又天應元年四月上旬、更事二攀陟一、亦上不レ得也、二年三月中、奉二爲諸神祇一、寫レ經圖レ佛、裂レ裳裹レ足、棄レ命殉レ道、襁二負經像一、至二于山麓一、讀レ經禮レ佛、一七日夜、堅發レ誓曰、若使二神明有一レ知、願察二我心一、我所二圖寫一、經及像等、當下至二山頂一爲レ神供養以崇二神威一、饒中群生福上、仰願善神加レ威、毒龍卷レ霧、山魅前導、助二果我願一、我若不レ到二山頂一、亦不レ至二菩提一、如レ是發レ願訖、跨二白雪皚々一、攀二緑葉之璀璨一、脚踏一半、身疲力竭、憩息信宿、終見二其頂一、怳惚々々、似レ夢似レ寤、不レ因レ乘レ査、忽入二雲漢一、不レ嘗二妙藥一、得レ見二神窟一、一喜一悲、心魂難レ持、山之爲レ状也、東西龍臥、彌望無レ極、南北虎踞、捿息有レ興、指二妙高一以爲レ儔、引二輪鐵一、而作レ帶、笑二衡岱之猶卑一、哂二崑香之又劣一、日出先明、月來晩入、不レ假二天眼一、萬里目前、何更乘レ鵠、白雲足下、千般錦華、無レ機常織、百種靈物、誰人陶冶、北望則有レ湖、約計一百頃、東西狹、南北長、西顧亦有二一小湖一、合レ有二二十餘頃一、眄レ坤更有二一大湖一、羃計一千餘町、東西不レ闊、南北長遠、四面高岑、倒二影水中一、百種異莊、木石自有、銀雪敷レ地、金華發レ枝、池鏡無レ私、萬色誰逃、山水相映、乍看絶レ腸、瞻佇未レ飽、風雪趂レ人、我結二蝸菴于其坤角一、住レ之禮懺、勤經二三七日一、已遂二斯願一、便歸二故居一、去延暦三年三月下旬、更上經二五箇日一、至二彼南湖邊一、四月上旬、造二得一小船一、長二丈、廣三尺、即與二二三子一棹レ湖遊覽、遍眺二四壁一、神麗夥多、東看西看、汎濫自逸、日暮興餘、強託二南洲一、其洲則去レ陸三十丈餘、方圓三十丈餘、諸洲之中、美華富焉、復更遊二西湖一、去二東湖一十五許里、又覽二北湖一、去二南湖一三十許里、並雖レ盡レ美、總不レ如レ南、其南湖則碧水澄鏡、深不レ可レ測、千年松栢、臨レ水而傾二緑蓋一、百圍檜杉、竦レ巖而構二紺樓一、五彩之華、一株而雜レ色、六
p.0827 時之鳥、同レ響而異レ觜、白鶴舞レ汀、紺鳬戲レ水、振レ翼如レ鈴、吐レ音玉響、松風懸レ琴、坻浪調レ鼓、五音爭奏二天韻一、八徳澹々自貯、霧帳雲幕、時々難陀之羃䍥、星燈電炬、數々普香之把束、見二池中圓月一、知二普賢之鏡智一、仰二空裏慧日一、覺二遍智之在一レ我、託二此勝地一、聊建二伽藍一、名曰二神宮寺一、住レ此修レ道、荏苒四祀、七年四月更移二住北涯一、四望無レ㝵、沙場可レ愛、異華之色、難レ名驚レ目、奇香之臭、叵レ尋悦レ意、靈仙不レ知何去神人髣髴如レ存、忿二歳精之無一記、惜二王侯之不一レ遊、思二餓虎一而不レ遇、訪二子喬一而適去、觀二華藏於心海一、念二實相於眉山一、蘊蘿遮レ寒、蔭葉避レ暑、喫レ菜喫レ水、樂在レ中、乍彳乍亍出二塵外一、九皐鶴聲易レ達二于天一、去延暦中、栢原皇帝聞レ之、便任二上野國講師一、利他有レ時、虚心逐レ物、又建二立華嚴精舍於都賀郡城山一、就レ此往レ彼、利レ物弘レ道、去大同二年、國有二陽九一、州司令二法師祈一レ雨、師則上二補陀洛山一祈禱、應レ時甘雨霶霈、百穀豐登、所レ有佛業、不レ能二縷説一、咨日車難レ駐、人間易レ變、從心忽至、四蛇虚羸、攝誘是務、能事畢、前下野伊博士公、與二法師一善、秩滿入レ京、于レ時法師歎二勝境之無一レ記、要二屬文於余筆一、伊公與レ余故、固辭不レ免、課レ虚抽レ毫、乃爲レ銘曰、 鷄黄裂レ地、粹氣昇レ天、蟾烏運轉、萬類跰闐、山海錯峙、幽明殊レ阡、俗波生滅、眞水道先、一塵構レ嶽、一滴深レ湖、埃涓委聚、畫二飾神都一、嶺岑不レ梯、鸑鷔無レ圖、皚々雪嶺、曷矚二誰廬一、沙門勝道、竹操松柯、仰二之正覺一、誦二之達摩一、歸二依觀音一、禮二拜釋迦一、殉二道斗藪一、直入二嵯峨一、龍跳二絶巘一、鳳擧經過、神明威護、歴二覽山河一、山也崢嶸、水也泓澄、綺華灼々、異鳥嚶々、地籟天籟、如レ筑如レ箏、異人乍浴、音樂時鳴、一覽消レ憂、百煩自休、人間莫レ比、天上寧儔、孫興擲レ筆、郭詞豈周、咄哉同レ志、何不二優遊一、弘仁之年、敦祥之歳、月次壯朔、三十之癸酉也、人之相知不下必在中對面久話上、意通則傾蓋之遇也、余與二道公一生年不二相見一、幸因二伊博士公一、聞二其情素之雅致一、兼蒙レ請二洛山之記一、余不才當レ仁人不二敢辭讓一、輙抽二拙詞一、並書二絹素上一、詞翰倶弱、深恐二玄之猶白一、寄以二瓦礫一、表二其情至一、百年之下、莫レ忘相憶耳、西岳沙門遍照金剛題、
p.0827 日光山にのぼりてよめる、又昔は二荒山といふ(○○○○○○○○)となん、 雲霧もおよばで高き山のはにわきて照そふ日の光かな、此山にや、山菅の橋とて深秘の子細
p.0828 ある橋侍り、委くは縁起にみえ侍る、又顯露に記し侍るべき事にあらず、 法の水みなかみふかく尋ずばかけてもしらじ山すげの橋、瀧の尾と申侍るは、無雙の靈神にてまし〳〵ける、飛瀧の姿、目を驚かし侍りき、 世々をへて結ぶ契の末なれや此瀧の尾の瀧のしら糸、此山の上三十里に、中禪寺とて權現ましましける、登山して通夜し侍り、今宵はことに十三夜にて、月もいづくより勝れ侍りき、渺漫たる湖水侍り、歌の濱といへる所に、紅葉色を爭ひて月に映じ侍れば、舟に乘りて、 敷島の歌の濱邊に舟よせて紅葉をかざし月をみる哉、翌日中禪寺を立出ける道に、數散しける紅葉の、朝霜のひまに見えければ、先達しける衆徒、長門の竪者といへる者に、いひきかせ侍りける、 山深き谷の朝霜ふみ分てわがそめ出す下もみぢかな、かくしつヽ下山し侍りけるに、黒髮山の麓を過侍るとて、われ人いひすてどもし侍けるに、 ふりにける身をこそよそに厭ふとも黒髮山も雪をまつ覽、同じ山の麓にて、迎ひとて馬どもの有けるを見て、 日數へてのる駒の毛もかはる也黒かみ山の岩のかげ道
p.0828 男體山〈又黒髮山ともいふ〉此山に登るに、道巍々として積雪多く、寒風肌に徹る、三社權現、山頂に立せ給ふ、四十八日の行にて、毎年七月七日此峯に登る、此時七月朔日より、中禪寺別所に籠り、一七日があひだ、種々の行ありて登山し、三社を拜し奉る、信心厚き人、奇異の靈驗を得るなり、
p.0828 黒髮山(クロカミヤマ) 都賀郡日光山ノ奧ニアリ、當國第一ノ高山ナリ、俗ニ男體山ト呼ビ來レリ、鉢石ヨリ中禪寺マデ
p.0829 三リ、中禪寺ヨリ黒髮山ノ絶頂迄ハ三リヨアリ、嶮岨ナリ、毎歳七月七日、登山ノモノ群集ス、
p.0829 庚申山 安蘇郡足尾郷赤岩と云所にあり、二子山の峯つヾきなり、日光山より西の方にあたりて七里許あり、黒髮山の南の方にあたれり、さて足尾より凡十町餘り行て、二十町登り、たふげよりまた十町餘り下る、此所より銀山まで、一里のあひだ澤つたひに行、それより登ること三里餘りにして、庚申山の胎内竇(クヾリ)と云岩窟に至る、此所に休息して登るなり、奧の院と唱ふる所まで、其所より一里許、さて胎内竇といへる石室は、凡廣さ十坪許もあるべし、夫より二十間許登りて、左右に大石たてり、高さ五六丈もあるべし、其形彼二王の如し、是天工にして絶妙なり、また登ること一町餘りにして、臺石と呼ぶものあり、廣さ五坪許もあらん、自然にして砥の如し、起て四方を眺れば、此山中の風景坐(ヰ)ながらにして盡すなり、是より下ること二間餘りハ、甚しき險阻にして、鬼の髯礱(ヒゲスリ)と呼る所なり、また下ること二町餘りにして、自然の石橋あり、其長さ二間餘り、廣さ凡五六尺許あり、此橋より少し登りて、自然の石門たてり、是を一の門と云なり、東向にて其大さ二十間餘りなり、中函二間許、左右の小竇各々九尺許、門の形は琴柱に似たり、是より二町餘り行て、左の幽谷より數十丈、峙たる大石あり、塔の如くにしてまた橧に似たり、叢樹頂に生ひ茂りたり、是また奇なり、また下ること二町餘りにして、裏見の瀧あり、水流の幅五六尺もありて、高きことは計難し、すべて日光山の裏見ノ瀧に似て、其奇は彼所に勝れり、是より五町餘り登りて、右の方に白き巖五ツたてり、文字石と名つく、其高きこと計難し、此石に庚申の文字ありと云傳へたれど、慥ならず、また登り下り、一町餘りにして石門あり、是を二の門と云、大さ三間許あり、中央の通り九尺許あり、其岩窟を凡一町餘りくヾり行て、燈籠の形なる石あり、凡高さ四五丈許とも覺ゆ、また登ること數百歩にして、鐘に似たる石はるかに見ゆ、凡高さ二三丈もあらんか、蘿生兎絲生ひて、眞に
p.0830 庚鐘の如し、また下ること數百歩にして石橋あり、其長さ凡十二三間許なり、丘より岑に跨りて、其下を見おろせば、谷深くして雲を生じ、幾千仭とも計りしられず、礄の形は恰も虹に似て雲の梯とも思ふばかりのけはひなり、さてまた種々の石ありて、或は鶴龜、或は釜、或は舟、或は屏風などヽ、其形の似たるに依て名つけたる物、擧てかぞふるにいとまあらず、いづれも自然の大石にして、天造奇構の妙なり、また岩窟も數所ありて、上世穴居の址ともおぼゆるばかりなり、さて奧の院と唱ふるは、嶟々たる三窟ありて、屹として高きこと三丈嶙として近づくことあたはず、其形中はまろく、左なるはうろこのかたち、右なるはまどかなり、いづれも規矩を以て作るが如く、口おの〳〵八九尺許づヽあり、其前に猿の形に似たる活石三ツ並べり、思ひなしにや、視ることなかれ、聽くことなかれ、言ふことなかれの箴とも見ゆ、彼レ是レを思ひあはせて庚申山とは名つけたるなるべし、さて其右の方に登ること數百歩にして、東のつまと云所あり、眺望いふばかりなし、夫より下ること四町餘りにして大石あり、平石と唱ふ、長さ三十間許、高さ一丈餘り、建屏の如し、此石のきれめの間より、下ること八町許にして、はじめの胎内竇の東の方に出るなり、是この神境は、人寰を避ること遠く、ことに絶險の地なれば、昔よりしる人も稀なりしを、元祿年中より、やヽ登山するもの彼是ありといへども、容易に及ぶべき所にはあらざりしを、都賀郡三谷村の佐野一信といふ者、藥品を求めん爲に、この山の岩窟を探り、夫よりこの佳境を開かんと、いさヽか道を造りて、人をみちびくことヽはなりぬ、そのゆゑを文政三年の夏の頃、上總人三橋臣彦と云者にはかりて、山中の荒増をしるし、庚申山記と云ものを書たり、ついでに云、視ざる聽ざる言ざるのことは、傳教大師、天台の不見不聽不言を以て、三諦に表して、三猿の形を作り、三猿堂を建るといへり、そは妄見妄聽妄言せざらんことを欲してなるべし、また猿(サル)と不(ザル)と訓の通ひ、猿と申との字義通ふ、故に庚申の日を以て是を祀るなり、
p.0831 よみ人しらず 見ざる人聞かざる人にかたらばやえもいはざるの山のけしきを
p.0831 一奧州駒嶺、人家有る事なし、而鷄毎に報レ曉となり、
p.0831 石提(イハテノ)山〈又岩手、千載、〉
p.0831 盤提(イハテ)山 在二南部領一、古關所也、岡次有レ里有レ森、
p.0831 飯豐山、高山ニテ四季雪有、羽州置賜郡ニカヽリテ、南ノ方ハ奧州蒲原郡、布山神ヲ祭ル、飯豐權現ト稱ス、夏月ハ登山スル人アリ、若松ヨリ麓マデ八里半、
p.0831 陸奧國風土記曰、白川郡飯豐山、此山者豐岡姫命之忌庭也、又飯豐青尊使三物部臣奉二御幣一也、故爲二山名一、古老曰、昔卷向珠城宮御宇天皇二十七年戊午秋、飢饉而人民多亡矣、故云二宇惠々山一、後改レ名云二豐田一、又云二飯豐一、
p.0831 安積山(アサカヤマ)〈又作二淺香一奥州安積郡〉
p.0831 安積(アサカ)山 〈同沼〉在二安積郡一
p.0831 安積山 日和田以北有二高山一、其山形如二一圓丘一、嶺上有二一樹青松一、臨二山頭一則近郷入二于吟眸一、是乃安積山也、
p.0831 安積香山(アサカヤマ)、影副所見(カゲサヘミユル)、山井之(ヤマノヰノ)、淺心乎(アサキコヽロヲ)、吾念莫國(ワガオモハナクニ)、 右歌、傳云、葛城王遣二于陸奧國一之時、國司祗承緩怠異甚、於レ時王意不レ悦、怒色顯レ面、雖レ設二飮饌一不二肯宴樂一、於レ是有二前采女一、風流娘子、左手捧レ觴、右手持レ水、擊二之王膝一、而詠二其歌一、爾乃王意解脱、樂飮終日、
p.0831 岩城山(イハキサン)權現 在二津輕弘前之南一、〈◯中略〉本社在二百澤寺上山一、登凡三里許、自二八朔一至二重陽一之中、七日潔齋可レ登、他日不レ許、而女人結界山也、俗云、津志王丸祭二姊安壽一之社、故於レ今丹後人不レ許二登山一、如推參者、必受二神祟一云云、元祿年中有二修復一、諸堂最花美、凡當山與二南部岩鷲山一、共似二富士之
p.0832 形一、故稱(○)二奧之富士(○○○○)一、 ふじみずはふじとやいはん陸奧のいはきの嶽をそれと詠ん
p.0832 岩城山は、弘前より麓まで二里半八丁、夫より頂に登る所曲道の坂三里、四季に雪ありといへども、此節殘暑強くして雪なし、岩城山に權現と稱す、小社あり、祭神詳ならず、〈◯中略〉 世に風景を好む人、まヽ多き中に、そのよる所予が好む所と大ひに異なり、既に藝州嚴島を日本の三景に撰びて絶景の地とす、いかにも潮、入江々々にさしいれし、風景いわむかたなく、月夜などの景色、婦人などの目には膽を消す所なり、然れども境内狹く、面前に地の御前といふ所、さてよき眺望更になし、たとへて云ば、一向宗の佛間のごとく、社塔を取除なば、何國にても數多ある風景の地なり、三景の其ひとつに撰びし事、世人誤るものか、岩城山は奇麗なる事も、美々敷所もあらざれども、山の形粗駿州の富士のごとく、白雲峯を包みし時は、其詠一ならず、眺望せる事日日にかわりて、風景のかぎりなし、嚴島などの及ぶ所にはあらず、かヽる勝景にても、所もあしく、好む所によりて、世に歌われざるも、人の世にしられざるがごとし、
p.0832 岩木山(イワキヤマ) 奧州津輕弘前の御城下より、五里西の方に見ゆる高山なり、四季ともに雪とけず、眺ある山なれば、詩歌連誹の遊人、これを賞美して津輕富士といふ、風景をもとめて、野邊に遊觀する人おほし、されども常には此山に登る事を許さず、八月朔日にのみ、山にのぼる事を許す、何人か讀ける歌に、 富士見ても富士とやいはん陸奧の岩木の山の雪の曙 此うたは餘ほど古き歌なるにや、國中にて賤き者までもよくおぼへて、我等が如き旅人に物がたるゆへ、こヽに書しるしぬ、
p.0833 岩鷲(イハワシ)山 在二南部盛岡之西一 當山與二津輕領岩城山一、二共形略彷二彿駿河富士一、故呼曰二奧富士一、
p.0833 岩鷲山は盛岡より西南の間に見へて、行程四里、雲霧峯を隱す時は、駿州富士山に似たり、世に奧の富士と稱せるは此山の事にて、土人は南部の富士とて、津輕の岩城山よりくらべ見れば、此山餘程低し、兩山ともに富士に似たるとて、富士の名をいへども、駿州の富士より見れば、十にして其二ツならんか、予委しく他方の高山と稱せるを一覽して、ます〳〵駿州の富士山に感じぬ、地理に委しからぬ人の愚眼笑ふに絶たり、森岡より東南に南昌山と稱せる山、南部第一の高山有、又姫ケ嶽といふ山も高山にて、岩鷲山に相對せり、
p.0833 鳥海山權現 祭神 未レ詳 慈覺大師始登山云云、最高山、常有レ雪、潔齋六七月可レ登、而山頂無二寺社一、唯見二奇磐窟一也、麓有レ社、傳曰、鳥海彌三郞三郞靈祠也、有レ川、鎌倉權五郞景政與二鳥海彌三郞一戰、被レ射二右眼一、放二答矢一射二殺敵一、後拔レ鏃到二此川一洗レ眼云云、此川有二黄顙魚一、一眼眇也、
p.0833 出羽國 鳥海山は日本四の高山なり、麓の村より山上まで、道法六里餘有、四里半登、古來より四季共に雪消ずといへり、實に雪にて築立たる山の如く見ゆる、享保六年丑年御用に依て予彼國に下り、閏七月朔日此山に登る、午の刻山の六七分に至る比、頻りに大風雨起り、山鳴谷響き、砂石を飛し、風雨面を搏、起居動靜心に任せず、雨巖を洗ひて、千尋の谷に落る水は瀧の如し、此山中に方一里程の湖水有、山の左右に異國までも續くといへり、限なき荒海なり、〈◯下略〉
p.0833 鳥海山は世にしる大山、酒田より見れば卯辰に見〈エ〉、青塚よりは巳寅に見へ、山の風俗異なり、酒田より麓まで三里、夫より頂まで九里、下向道は五里、土人の云、嶮しき道、寛かなる道幾筋もありて、行程一定ならず、山上に鳥海權現の社あり、二間三間、外に柴堂貳ケ所、參詣の人の
p.0834 休所とす、別當龍頭寺といふ、山伏三十家、山の谷々を開て田畑として、各々作り取にして食地とせり、此山は峯いくつともなく折重りて、山中に小なる湖多し、鳥海の湖、鶴卷の湖は大ひ也、遠見せる風景、和國の山と見へず、數十里の外より見ても、其雅なる所いわん方なし、予が思ふ所、當山は富士山につぐ名山なるべし、諸州高山多しといへども度々參詣せしものに尋ね聞て、山上の事を記せり、昔酒田浦に算者ありて、山の高サを積り、鳥海山の高サ拾七丁五拾八間五尺壹寸貳分、月山の高サ拾四丁五拾六間餘、是は御案内のものより御巡見使へ申上る所なり、壹寸貳分迄を知事及びがたし、予コンパツを以て計るに、是も齟齬せり、
p.0834 鳥海山 當郷の北に有て、飽海、由利二郡に跨る、土俗日本第四の高山といふ、丁にして十七丁五十八間五尺一分餘有とぞ、景行天皇御宇、大物忌神社當國へ來現、其後欽明天皇廿五年、この山に御鎭座、其後、平城天皇御宇、明浦村移坐之縁起有、跡に藥師の佛像并十二神跡有、堂長三間、輪二間半、長床四間、輪二間、飽海郡をこの山の表口とし、古は明浦蕨淵兩別當にて、由利を裏口とし、矢島小瀧北澤等に衆徒有、藥師修覆田高二十二石二斗一升八合九勺、蕨岡村に有、彼地黒印百四十石壹斗六升三合の由なり、明浦村寺家の記にいふ、鳥海山に有二三跡一、以二兩所宮一爲レ本、三道は、明浦、杉澤、由利なりと云々、 ◯鳥海山ノ事ハ、又火山ノ條ニアリ、參看スベシ、
p.0834 羽黒山(ハグロヤマ)〈羽州田河郡、推古帝元年、稻魂(ウカノミタマ)來現之地、〉
p.0834 羽黒山權現 在二最上領一〈◯中略〉 羽黒(○○)、月山(○○)、湯殿(○○)、三山爲(○○○)レ一(○)、六七月中雪稍磷時、潔齋可レ登、稱二地獄一處多有レ之、詳二于山類下一、
p.0834 出羽國田川郡羽黒山の略圖、月山湯殿山鼎のあしのごとくあり、月山大ひに高く、羽
p.0835 黒山湯殿山は低し、國民是を三山と稱す、 寺領千五百石餘、請僧三十一坊、山伏家四百餘坊、東叡山の末寺にして、學頭は寶珠院〈寺號名玉寺〉と稱す、制度此寺よりして執行ふ事也、
p.0835 羽黒山〈◯中略〉 羽黒山祭神倉稻魂神、推古天皇元年出現、 按、羽黒山自二酒田一七里東南高地也、麓修驗行者住家數十軒、二里餘登有二神殿及小社一、又少登有二本堂一、本尊十一面觀音、以爲二羽黒權現本地一、〈有二坊舍數十院一〉前有レ池、傍小社數多有、二十町許登至二荒澤一、〈有二三箇寺一〉本堂前有レ瀧、乃此垢離場也、浴水潔齋而登二梵字川馬留一、〈自レ麓六里〉到二彌陀原一、〈少有二平地一〉過二誓之池普陀洛山濁澤一、葉二月山一、〈是迄三里〉少下有二人家一、名二小屋一、〈於レ是一宿昔稱二月山一、刀鍛冶之舊跡有レ之、〉下到二籠山、牛頸淨土口一、〈亦垢離場也〉改爲二白衣一、新二杖鞋等一、詣二湯殿山權現一、瀧後有二三寶荒神堂一、下二不動瀧及御澤一、見二地嶽行勢一、而復歸二淨土口一、〈三里下り〉石刎、〈二里下り〉砂子關、〈一里下り〉本道寺、當寺乃三山行者、南口之宿坊大寺也、
p.0835 出羽の國 月山の麓志津村に旅宿し、夫より湯殿山へ行、淨土江六十四里越と云、六町一里なり、此所を越て、裝束小屋、爰にて衣服を改め、金銀錢其外所持の品を此所に置、是より先の様子人に語る事を堅く禁ず、道の傍に青錢沙の如しといへども、是を取人なし、參詣の輩一心に無量壽佛の稱號を唱るばかり也、然るにかの青錢、旅人の差置る金銀荷物等を、盜賊山越に來りて是を盜み取といへり、依レ之彼の賊を防人、此所に鎗の鞘をはづし、いかめしき番人あり、此入口裝束小屋より、湯殿山の奧の院まで、道法廿町計も下りて、此邊に衣服改め、又誓言場あり、道筋に鐵の鎖數ケ所有、その所に諸の地獄有などヽいへり、湯殿山奧を拜するに四五間廻り程に、地下にて取あつかふ、物詣てする折から、行人などの持る世に梵天とやらん云物を、此所に立並べ、垣の如くにして、此内に彌陀一體〈長サ三尺ほど〉外に二體有、是を拜する所、左右青錢瓦石の如くつ
p.0836 もる、冥途への文など、婦女の説に落入輩、此所にあまた是を置、此邊蚤休あり、〈葉草の名なり〉俗にぼんでん草と云、是より奧の方へ予十町計分入といへども、篠竹のみ多有て行事を得ず、爰より歸る、又山を段々分登り、本道寺口湯殿山月山衣類改所、羽黒山裝束場あり、何れも此邊大難所也、牛の首と云所に石地藏有、此邊直根上人參、その外蚤休あり、羽黒山道荒澤常火堂あり、紀州熊野山と同く、高野山、此燒日本三ケ所の火と云、如何成故にや、その由來を知らず、
p.0836 六月三日、羽黒山に登る、圖司左吉と云者を尋ねて、別當代會覺阿闍梨に謁す、南谷の別院に舍して、憐愍の情こまやかにあるじせらる、四日、於二本坊一俳諧興行、 ありがたや雪をかをらす南谷 五日、權現に詣づ、當山開闢能除大師は、いづれの代の人と云事をしらず、延喜式に、羽州里山の神社と有書寫黒の字を里山となせるにや、羽州黒山を中略して、羽黒山と云にや、出羽といへるも、鳥の毛羽を、此國の貢物に獻ると風土記に侍るとやらん、月山湯殿を合せて三山とす、當寺武江東叡に屬して、天台止觀の月明らかに、圓頓融通の法の灯かヽげそひて、僧坊棟を並べ、修驗行法を励し、靈山靈地の驗効、人貴び且恐る、繁榮長にして、めでたき御山と謂つべし、 八日、山に登る、木綿しめ身に引かけ、寶冠に頭を包み、強力といふ者に道引かれて、雲霧山氣の中に、氷雪を踏みて登る事八里、更に日月行道の雲關に入るかとあやしまれ、息絶え身こヾえて、頂上に臻臻ば、日沒して月あらはる、笹を鋪き、篠を枕として、臥て明くるをまち、日出でて雲消ゆれば、湯殿に下る、谷の傍に鍛冶小屋と云有、此國の鍛冶、靈水を撰びて、爰に潔齋して劒を打終り、月山と銘を切りて世に賞せらる、彼の龍泉に劒を淬とかや、〈◯中略〉總て此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず、仍りて筆をとヾめて記さず、坊に歸れば、阿闍梨の需に依りて、三山順禮の句々短册に書く、
p.0837 涼しさやほの三日月の羽黒山 雲の峯幾つ崩て月の山 語られぬ湯殿にぬらす袂かな 湯殿山錢ふむ道の泪かな 曾良〈◯中略〉
p.0837 山形城下出立、〈三里餘〉中野、〈三里〉天童の驛止宿、〈◯中略〉 此邊より山々を遠見せしに、月山に及ぶ山なし、大働山、帝釋山、葉山、湯殿山、いづれも中國筋西國にはなき高山也、奧州の白坂より入て、數郡殘りなく巡見して、山々の勝劣、第一月山、第二飯豐山、第三吾妻ケ嶽なり、何れも四季に雪あり、大山としるべし、
p.0837 白山(ハクサン)〈元正女帝養老元丁巳十月十七日立、至二天文十六年丁未一八百三十一年也、〉
p.0837 越白嶺(コシノシラ子)〈斥二賀州白山一云レ爾〉
p.0837 白山(シラヤマ)〈世云越(コシノ)白嶺、飛騨加賀越前蟠根之池、〉
p.0837 白山大權現〈又號二妙理權現一〉在二石川郡一 社領二百石〈◯中略〉 本山、西越前、北加賀、東越中、南飛騨、以跨二於四箇國一、四時有レ雪、委見二于山類下一、登二于本山一、則大正持之、東少南隅至二麻生一、自レ此上九里八町也、
p.0837 白山 しらやま 加賀國〈石川郡〉 越の白山とも、越の高嶺とも、越の白ねとも、
p.0837 越白山〈こしの志らやま〉 加賀國 越白ね、越の高嶺とも、たヾ白山ともいへり、清原元輔集、雪ふかみこしの白山我なれやたがおしへしか春をしるらん、源順集、まつ人も見えぬは夏も白雪や猶ふりしけるこしの白山、
p.0837 越山 治部卿通俊 〈千載冬〉をしなべて山の白雪つもれどもしるきはこしの高根成けり
p.0838 曾丹集に、みわたせばこしの高根に雪つもりいさ白山のほどはいづれぞ、是はしら山を、こしの高根とよめる歟、
p.0838 白山上人縁記 敦光朝臣 白山者、山嶽之神者也、介二在美濃、飛騨、越前、越中、加賀、五箇國之境一矣、其高不レ知二幾千仭一、其周遙亘二數百里一、天地積陰、冬夏有レ雪、譬如二葱嶺一、故曰二白山一、夏季秋初、氣暄雪消、四節之花、一時爭開、側聞、養老中有二一聖僧一、泰澄大師是也、初占二靈崛一、奉レ崇二權現一以降、効驗被二于遐邇一、利益及二于幽顯一、參二詣其場一之者、百日斷二葷腥一、來二至其砌一之者、二里禁二涕唾一、依二信心之清淨一、有二感應之掲焉一、
p.0838 加賀國石川郡味智郷有二一名山一、號二白山一、其山頂名二禪定一、住二有徳大明神一、即號二正一位白山妙理大 一、其本地十一面觀自在 、〈◯中略〉南去數十里、有二高山一、其山頂住二大明神一、號二別山大行事一、是大山地神也、聖觀音垂迹也、〈◯中略〉凡山爲レ體、不レ能二委記一、其峯口(サシハサム)二雲漢一、其谷近二水際一、靈草異樹、不レ似二人間一、草木奇巖恠石、誠爲二神仙遊所一、奇玄奇特迄載盡、御在所東谷有二寶池一、人跡不レ通、唯有二日域聖人一、汲二其水一云々、其味具二八功徳一云傳、雖二風不一レ吹、俄疊二白浪一、天晴靜者、忽放二金光一、或空中顯二佛頭光一、或谷現二地獄相一、是十界互顯、善惡並現歟、太男知麓盤石上、有二泉水一、上道人受二其水一助レ喉、若初參輩、不レ知望レ此汲レ之者、尺水忽立二大浪一、其水悉自二石上一振出、人見レ之大驚、發露者、忽水盈滿如レ元、
p.0838 雪を 安嘉門院甲斐 けぬが上にさこそは雪のつもるらめ名にふりにける越の白山
p.0838 白山禪定し侍りて、三の室に至り侍るに、雪いと深く侍りければ、思ひつヾけ侍ける、 白山の名に顯はれてみこしぢや峯なる雪の消る日もなし、下山の折ふし、夕だちし侍りければ、 ゆふだちの雲はしらねの雪げかな、これより吉岡といへる所にしばらくやすみて、
p.0839 旅ならぬ身も假初の世成けりうきもつらきもよしや吉岡、下白山といひて、本の白山の麓に、劒といへる所侍り、そのかみ劒飛來しより、此名を殘しけるとなん、 しら山の雪のうなる氷こそ麓の里のつるぎ成けれ ◯白山ノ事ハ、火山條及ビ神祇部白山咩神社篇ニ在リ、參看スベシ、
p.0839 諸寺 立山大菩薩〈顯給本縁起、越中守佐伯有若之宿禰、仲春上旬之比、爲二鷹獵之、登二雪高山一之間、鷹飛レ空失畢、爲二尋求一之、深山之次熊見射歟然間笑立乍登二於高山一、笑立熊金色阿彌陀如來也、體巖石之山、滕名二一轝一、腰號二二轝一、肩字二三轝一、頸名二四轝一、申頭烏瑟五轝、時有若發二菩提心一、切レ弓切レ髮成二沙彌一、法號慈興、其師薬勢聖人、自二大河一南者、藥契之建立三所上本宮中光明山下報恩寺慈興聖人建立者自天河北三所上蔁峅寺根本中宮、横安樂寺、又高禪寺、又上巖山之頂禪光寺、千柿也、下岩奇峅寺、今泉也、鷲巖殿温岐蓮臺聖人建立、圓城寺胎蓮聖人建立、件寺一王子眞高權現、依レ之康和元年造二草堂中宮一、坐主永源與二所司等徳滿聖人一相語建立、烏瑟之峯坤方一有レ隈、見顯二現八大地嶽一、總一百三十六義句、〉
p.0839 立山(タテヤマ)〈越中新(ニイ)川郡〉
p.0839 たてやま 人を禁じて、草木を伐採ざるの山をいへり、西土に封二綿上山一といへる是也といへり、越中に立山あり、同意なるにや、神は大寶三年に出現すといふ、一ノ宮也、萬葉集には、たちやまとみゆ、麓より本社まで十三里許、山中に一里ほどの湖あり、
p.0839 越中國 同國立山、社僧數ケ所有、 堂五間四面、西向也、此堂に加州より、米五斗入百俵ヅヽ年々寄附あると云、前に天の浮橋有、長サ二十五間、横二間餘、同所に大なる杉の名木あり、十三尋廻りと云、珍敷大木なり、浮橋に歌有り、 浪たかく渡る瀬もなし船もなし昨日もけふも人はこへつヽ、詠人しらず、案内の者語にまかせて爰に記す、此所より立山本社權現まで、大難處九里八丁ありといへども、十三里程有、したり各此邊ゟ木の根にとり付、やう〳〵行處數ケ所あり、其外所によりて腰たけ、川に入渡る處所々にあり、又正明川と云に、長サ二十八間の藤の釣橋有、諸國より參詣の者、十人のうち八九人は此
p.0840 處より歸る、名を伏拜といふ也、諸人此處より拜して、歸るによつて其名あるにや、かの釣橋を越、だん〳〵難處の雪をふみわけて、五里ほどゆけば、又壁を建たるごとくなる處あり、それを一里計升、其上に立山權現の本社あり、九尺二間南向なり、中尊は寶藏ぼさつ、左り彌陀如來、右不動明王也、此處より東の方に日光見ゆる、南の方に信州淺間山、飛州乘鞍山見ゆる、當山開基の慈興上人、大寶元年より元文五申年迄、千四十有餘年に成といふ、此處の寶藏に寶物種々あり、山中に一里ほどの湖水有、此邊より温泉涌出る、これを立山の地獄といふ、參詣の人を迷はし錢を出さしむる、また山中に と云鳥あり、雉子の鴜鳥に似て、とさか有、美き鳥也、此山の名鳥なりと云、立山の險難なること、富士に十度登るよりは、立山江壹度のぼるかた甚だ辛勞すと云り、廻國の僧も、山上まで行とヾまる者、百人に一人もなしと云、六月十日より、同十四日迄、〈予〉此山中に居ること有、今年の時候例年と違ひ、暑熱よわきかたに覺ゆ、此節山上雪ふかきこと四五尺有、水を求るには雪を器に入、そを焚解して水とす、霧強くして甚だ水冷也、煮ものにへかぬる故、食物は糒團子やうのもの外用ひがたし、甚だ險難の地也、彼ふるき雪、例年酷暑の節は、一日のうちにも消ること有といへり、
p.0840 立(タチ)山賦一首并短歌 安麻射可流(アマサカル)、比奈爾名可加須(ヒナニナカカス)、古思能奈可(コシノナカ)、久奴知許登其等(クヌチコトゴト)、夜麻波之母(ヤマハシモ)、之自爾安禮登毛(シヾニアレドモ)、加波波之母(カハヽシモ)、佐波爾由氣等毛(サハニユケドモ)、須賣加未能(スメカミノ)、宇之波伎伊麻須(ウシハキイマス)、爾比可波能(ニヒカハノ)、曾能【多知夜麻】爾(ソノタチヤマニ)、等許奈都爾(トコナツニ)、由伎布理之伎底(ユキフリシキテ)、於婆勢流(オバセル)、可多加比河波能(カタカヒカハノ)、伎欲吉瀬爾(キヨキセニ)、安佐欲比其等爾(アサヨヒゴトニ)、多都奇利能(タツキリノ)、於毛比須疑米夜(オモヒスギメヤ)、安理我欲比(アリガヨヒ)、伊夜登之能播仁(イヤトジノハニ)、余増能未母(ヨソノミモ)、布利佐氣見都々(フリサケミツヽ)、余呂豆餘能(ヨロヅヨノ)、可多良比具佐等(カタラヒグサト)、伊未太見奴(イマダミヌ)、比等爾母都氣牟(ヒトニモツゲム)、於登能未毛(オトノミモ)、名能未母伎吉底(ナノミモキヽテ)、登母之夫流我禰(トモシブルガネ)、多知夜麻爾(タチヤマニ)、布里於家流由伎乎(フリオケルユキヲ)、登己奈都爾(トコナツニ)、見禮等母安可受(ミレドモアカズ)、加武賀良奈良之(カムガラナラシ)、
p.0841 可多加比能可波能(カタカヒノカハノ)、瀬伎欲久(セキヨク)、由久美豆能(ユクミヅノ)、多由流許登奈久(タユルコトナク)、安里我欲比見牟(アリガヨヒミム)、 四月二十七日、大伴宿禰家持作之、 敬和二立山賦一一首并二絶 阿佐比左之(アサヒサシ)、曾我比爾見由流(ソガヒニミユル)、可無奈我良(カムナガラ)、彌奈爾於婆勢流(ミナニオハセル)、之良久母能(シラクモノ)、知邊乎於之和氣(チヘヲオシワケ)、安麻曾曾理(アマソソリ)、多可吉多知夜麻(タカキタチヤマ)、布由奈都登(フユナツト)、和久許等母奈久之路多倍爾(ワクコトモナクシロタヘニ)、遊吉波布里於吉底(ユキハフリオキテ)、伊爾之邊遊(イニシヘユ)、阿里吉仁家禮婆(アリキニケレバ)、許其志可毛(コヾシカモ)、伊波能可牟佐備(イハノカムサビ)、多末伎波流(タマキハル)、伊久代經爾家牟(イクヨヘニケム)、多知底爲底(タチテヰテ)、見禮登毛安夜之(ミレドモアヤシ)、彌禰太可美(ミネタカミ)、多爾乎布可美等(タニヲフカミト)、於知多藝都(オチタギツ)、吉欲伎可敷知爾(キヨキカフチニ)、安佐左良受(アササラズ)、綺利多知和多利(キリタチワタリ)、由布佐禮婆(ユフサレバ)、久毛爲多奈毘吉(クモヰタナビヰ)、久毛爲奈須(クモヰナス)、己許呂毛之努爾(コヽロモシヌニ)、多都奇理能(タツキリノ)、於毛須比具佐受(オモスヒグサズ)、由久美豆乃(ユクミヅノ)、於等母佐夜氣久(オトモサヤケク)、與呂豆余爾(ヨロヅヨニ)、伊比都藝由可牟(イヒツギユカム)、加波之多要受波(カハシタエズバ)、 【多知夜麻】爾(タチヤマニ)、布里於家流由伎能(フリオケルユキノ)、等許奈都爾(トコナツニ)、氣受底知多流波(ケズテワタルハ)、可無奈我良等曾(カムナガラトゾ)、 於知多藝都(オチタギツ)、可多加比我波能(カタカヒガハノ)、多延奴期等(タエヌゴト)、伊麻見流比等母(イマミルヒトモ)、夜麻受可欲波牟(ヤマズカヨハム)、 右掾大伴宿禰池主和之〈四月廿八日〉
p.0841 苗場山(ナヘバヤマ) 苗場山は、越後第一の高山なり〈魚沼郡にあり〉登り二里といふ、絶頂に天然の苗田あり、依て昔より山の名に呼なり、峻岳の巓に苗田ある事甚奇なり、余其奇跡を尋んとおもふ事年ありしに、文化八年七月偶おもひたちて、友人四人、〈嘯齋、擷齋、扇舍、物九齋〉從僕等に食類其外用意の物をもたせ、同月五日未明にたちいで、其日は三ツ俣といふ驛に宿り、次日曉を侵して此山の神職にいたり、おの〳〵祓をなし、案内者を傭ふ、案内は白衣に幣を捧げて先にすヽむ、清津川を渉り、やがて麓にいたれり、巉道を踏、嶮路に登るに、掬樹森列して日を遮り、山篠生ひ茂りて徑を塞ぐ、枯たる老樹折れて、路に横りたるを踰るは、臥龍を踏がごとし、一條の溪河を渉り、猶登る事半里許、右に折れてすヽみ、左
p.0842 りに曲りてのぼる、奇木怪石、千態万状、筆を以ていひがたし、已に半途にいたれば、鳥の聲をもきかず、殆東西を辨じがたく、道なきがごとし、案内者はよくしりてさきへすヽみ、山篠をおしわけ、幣をさヽげてみちを示す、藤蔓笠にまとひ、叢竹身を隱し、石高くして徑狹く、一歩も平坦のみちをふまず、やう〳〵午すぐる頃、山の半にいたり、僅の平地を得て、用意したる臥座を木蔭にしきて食をなし、暫く憩てまたのぼり〳〵て、神樂岡といふ所にいたれり、これより他木さらになく、俗に唐松といふもの、風にたけをのばさヾるが、梢は雪霜にや枯されけん、低き森をなして、こヽかしこにあり、またのぼり少しくだりて、御花圃といふ所、山櫻盛にひらき、百合、桔梗、石竹の花など、そのさま人の植やしなひしに似たり、名をしらざる異草もあまたあり、案内者に問へば藥草なりといへり、またのぼりゆき〳〵て、棧齴(かけはしのやう)なる道にあたり、岩にとりつき、竹の根を力草とし、一歩に一聲を發しつヽ、氣を張り汗をながし、千辛万苦しのぼりつくして、馬の背といふ所にいたる、左右は千丈の谷なり、ふむ所僅に二三尺、一脚をあやまつ時は身を粉碎になすべし、おの〳〵忙怕あゆみて、竟に絶頂にいたりつきぬ、 偖同行十二人、まづ草に坐して憩ふ、時已に下晡なり、はじめ案内者のいひしは、登り二里の險道なれば、一口に往來することあたはず、絶頂に小屋在、こヽにのぼる人必その小屋に一宿する事なりといへり、今その小屋をみれば、木の枝、山さヽ枯草など取りあつめ、ふぢかつらにし匍匐入るばかりに作りたるは、野非人のをるべきさまなり、こヽを今夜のやどりにさだめたるもはかなしとて、みな〳〵笑ふ、僕どもは枯枝をひろひ、石をあつめて假に灶(かまど)をなし、もたせたる食物を調ぜんとし、あるひは水をたづねて茶を烹れば、上戸は酒の燗をいそぐもをかし、さて眺望は、越後はさら也、淺間の烟をはじめ、信濃の連山みな眼下に波濤す、千隈川は白き糸をひき、佐渡は青き盆石をおく、能登の洲崎は蛾眉をなし、越前の遠山は青黛をのこせり、こヽに眼を拭て、扶桑第一の富士を視いだせり、そのさま雪の一握りを置が
p.0843 如し、人々手を拍、奇なりと呼び、妙なりと稱讃す、千勝万景、應接するに遑あらず、雲脚下に起るかとみれば、忽晴て日光眼を射る、身は天外に在が如し、是絶頂は周一里といふ、莽々たる平蕪、高低の所を不レ見、山の名によぶ苗場といふ所こヽかしこにあり、そのさま人のつくりたる田の如き中に、人の植たるやうに、苗に似たる草生ひたり、苗代を半とりのこしたるやうなる所もあり、これを奇なりとおもふに、此田の中に蛙蛗螽もありて、常の田にかはる事なし、又いかなる日でりにも田水枯ずとぞ、二里の巓に此奇跡を觀ること、甚不思議の靈山なり、案内者いはく、御花圃より、〈まへにいひたる所〉別に徑ありて、龍岩窟といふ所あり、窟の内に一條の清水ながれ、そのほとりに古錢多く、鰐口二ツ掛りありて、神を祀る、むかしより如レ斯といひつたふ、このみち今は草木に塞れてもとめがたしといへり、絶頂にも石に刻して苗場大權現とあり、案内者は此石人作にあらず、天然の物といへり、俗傳なるべし、こヽかしこ見めぐるうち、日すでにくれて小屋に入り、内には挑燈をさげてあかりとし、外には火を燒てふたヽび食をとヽのへ、ものくひて酒を酌、六日の月皎皎として空もちかきやうにて、桂の枝もをるべきこヽちしつ、人々詩を賦し歌をよみ、俳句の吟興もありて、やヽ時をうつしたるに、寒氣次第に烈しく、用意の綿入にもしのぎかねて、終夜燒火にあたりて夢もむすばず、しのヽめのそらまちわびしに、はれわたりたれば、いざや御來迎を拜たまへと案内がいふにまかせ、拜所(をがむところ)にいたり、日の昇を拜し、したくとヽのへて山をくだれり、〈別に紀行あり、こヽには其略をいふのみ、〉 百樹曰、余越遊したる時、牧之老人に此山の地勢を委しくきヽ、眞景の圖をも視たるに、巓の平坦なる、苗場の奇異、龍岩窟の古跡など、水にも自在の山なれば、おそらくは上古、人ありて此山をひらき、絶頂を平坦になし、馬の背の天險をたのみて、こヽに住居し耕作をもしたるが、亡びてのち、其靈魂こヽにとヾまりて、苗場の奇異をもなすにやと思へり、國史を捜究せば、其徴する端をも得べくや、博達の説を聞ん、
p.0844 八海山 高山、南信州上州ニ近ク、雪早ク降ル、頂ニ權現ノ万年堂有、〈石ニテ小ニ作リタル小社ヲ、俗ニ万年堂ト云、〉往昔銀ノ出シ事モ有シニヤ、
p.0844 彌彦山 伊夜彦、伊夜日子共ニ同ジ歌枕也、元來三劒山ト云ヘリ、二十餘町上リテ、頂ニ神廟トテ石ノ小社有、此ヨリ國中ノ眺望最モヨシ、東面ニシテ大老ノ松樹生茂リ、麓ノ尾上ニ一宮伊夜日子大明神鎭座也、里ノ名モ彌彦ト云、神領ノ農家ニテ、北陸道ノ驛也、杉ノ木ノ名物良材有、藥種品々有、又南西ノ方ニハ槐讓葉クロモジ等、其外雜木繁茂シ、年々山下ノ村里ニテ伐取故ニ、柴トナリテ大木ナシ、北ノ方ハ石瀬山、西ノ下ハ海渚也、野積村ヨリ間瀬浦ヘ往來スルニ、磯山ノ嶺(タウゲ)ヲ行、大鳥越小鳥越ト云難所也、
p.0844 越中國歌四首 伊夜彦(イヤヒコノ)、於能禮神佐備(オノレカミサビ)、青雲乃(アヲグモノ)、田名引日須良(タナビクヒスラ)、霂曾保零(コサメソボフル)、
p.0844 大江山(ヲホエヤマ)〈丹波丹後境、事見二風土記一、〉
p.0844 大江山二所あり、山城丹波の界、樫原(カタギハラ)の西に、俗老の坂と稱ふるもの、大江山の坂を誤る也、和名抄乙訓郡大江とあり、慈鎭和尚の御歌にも、大江山かたぶく月の影さえて鳥羽田の西に落る雁がね、とあるは是也、此山つヾき小鹽良峯〈今作二善峯一〉と、南へかけて都の西に屏風を引たるごとし、又丹波丹後の界なるものは、酒呑童子といふ賊の籠りし所にて、今千丈が嶽といふ、大江山いくのヽ道の遠ければ、と小式部内侍のよみしは、其母和泉式部、保昌朝臣にたぐひて、丹後に有しほどなれば、そなたなること知べし、
p.0844 寄物陳思
p.0845 丹波道之(タンバヂノ)、大江乃山之(オホエノヤマノ)、眞玉葛(サナカヅラ)、絶牟乃心(タエムノコヽロ)、我不思(ワレハオモハズ)
p.0845 和泉式部、保昌にぐして、丹後國に侍りけるころ、都に歌合のありけるに、小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを、中納言定頼つぼねのかたにまうできて、歌はいかヾせさせ給、丹後へ人はつかはしてけんや、つかひまうでこずや、いかヾ心もとなくおぼすらんなど、たはぶれて立けるを、ひきとヾめてよめる、 小式部内侍 大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立
p.0845 大山(タイサン)〈在二伯耆國一、此高岳山陰道神秀窟、伯耆國仙靈秘之前幾萬歳哉、窟現之後、數千年矣、此山行基菩薩作二蘿蘆一以處始造レ宮立レ殿、以二地藏觀音一爲二本體一、釋迦多寶爲二末像一、面足尊垂跡權現兩頭分身實化所棲三千餘僧徒也、〉 ◯大山ノ事ハ、神祇部大山神社篇ニ在リ、參看スベシ、
p.0845 高野山〈弘仁七年建レ之、弘法大師入定地也、號二金剛峯寺一是也、件處委注、仍略レ之、〉
p.0845 高野山(カウヤサン/タカノヤマ)〈紀州伊都郡〉
p.0845 高野山金剛峯寺 在二伊都郡一 〈至二京師一二十九里、至二弱山一十八里、至二大坂一十六里、〉 嵯峨天皇弘仁七年建立
p.0845 高野 たかの 紀伊國〈伊都郡〉 高野山ともいへり、今俗にはかうやと、音にのみいへり、此地ははるかに山を上りて、その山の上に平なる野の在れば、かくはいへるなり、高き所の野といへる意なり、さればそれを高野山といはん事も、その故聞えたり、しひたるにはあらず、ことに今の世には、寺院には山號とて、必ずその寺の別號の如くに、山號とて、なになに山といへるは、平地里市の中にて云ひ習ひとなれるをや、
p.0845 高野山 紀州高野山の靈場なる事は、世上に皆しれる處也、大師の御廟昔は寶塔なりしに、今は寶形の堂
p.0846 として南向也、〈◯中略〉誠に中華にも又と有難き靈山なれば、清淨いふ計りなく、諸人の糞穢は悉く谷川に流れて少しも止らず、別しては女人魚肉を禁ずる事嚴也、
p.0846 於一紀伊國伊都郡高野峯一被レ請二乞入定處一表、沙門空海言、 空海聞、山高則雲雨潤レ物、〈平〉水積則魚龍産化、〈他〉是故 闍峻嶺、〈他〉能仁之迹不レ休、〈平〉孤岸奇峯、〈平〉觀世之蹤相續、〈他〉尋二其所由一、地勢自爾、又有下臺嶺五寺禪客比レ肩、〈他〉天山一院定侶連上レ袂、〈平〉是則國之寶、〈他〉民之梁〈平〉也、伏惟、我朝歴代皇帝、留二心佛法一、金刹銀臺、〈平〉櫛二比朝野一、〈他〉談レ義龍象、〈他〉毎レ寺成レ林、〈平〉法之興隆於レ是足矣、但恨高山深嶺乏二四禪客一、〈他〉幽藪窮巖希二入定賓一、〈平〉實是禪教未レ傳、住處不二相應一之所レ致也、今准二禪經説一、深山平地尤宜二修禪一、空海少年日、好渉二覽山水一、從二吉野一南行一日、更向レ西去兩日程、有二平原幽地一、名曰二高野一、計當二紀伊國伊都郡南一、四面高嶺、人蹤絶レ蹊、今思上奉二爲國家一、下爲二諸修行者一、芟二荑荒藪一、聊建二立修禪一院一、經中有レ誡、山河地水、悉是國王之有也、若比丘受二用他不レ許物一、即犯二盜罪一者、加以法之興廢、悉繫二天心一、若大若小、不二敢自由一、望請蒙レ賜二彼空地一、早遂二小願一、然則四時勤念、以答二雨露之施一、若天恩允許、請宣二付所司一、輕塵二震扆一、伏深二悚越一、沙門空海誠惶誠恐謹言、 弘仁七年六月十九日 沙門空海上表
p.0846 山川 大劒山〈跨二麻殖美馬兩郡一、山甚靈秀、闔國無比、諸郡山川自レ此而分、至レ冬積雪丈餘、季春纔消白、非二長夏一人不二敢登一、西距二美馬郡菅生名一四里、南距二那賀郡岩倉一可二六里一、東距二本郡蘘荷名一、三里、此間無二人家一、登者戴レ星而往、戴レ星而還、蘘荷名有二大松樹一、今枯、其上六百歩、有レ淵曰二卷淵一、置二小祠一、距レ淵六百歩、有レ溪、曰二垢離取川一、登謁者必浴、其上爲二不動坂一、不動石像在二溪中一、時沒而不レ見、北有二石鏡一、前有二花折祠一、阪盡有レ地、置二祠一基一、稱二前堂一、婦人登謁者、不二敢過一レ此、復行六百歩、有レ池曰二藤池一、距二平村松名一平千二百歩、古藤掩レ之、復登一里、有レ寺、六間五架、相傳、副二一大欅一以造、登謁者宿レ此、其東南差低、稱二鉢窪一、有レ溪曰二御濯川一、此間有二石人石馬一、其上平坦處、名曰二神埒一、可二百八十歩一、躑躅夾之、春時紅白成レ隊、其下短條整々過レ之得二絶頂一、石曰二寶藏亭一、亭傑竪高五丈、西望廣濶、群峯在レ下悉培塿、西南有二二石一、方正而卓立、曰二太郞笈一、曰二次郞笈一、復行三百歩、有レ石、如二削成一、曰二不動一、高二十五丈、其下有二壑谷一、是爲二大小劒之交一、〉
p.0846 伊豫高嶺(○○○○) 周敷郡に聳て、東は新居に渡り、西は浮名郡に及べり、今世に石鐵(イシツチ)山といふ山是なり、此山の東南
p.0847 は土佐國長岡郡にて、神名帳に所謂長岡郡石土神社あり、此社石鐵山の東南の麓にて、俗に是を前神と云、山上の神を奧院と云、此神ノ名は、古事記に次生二石土毘古(イハツチヒコ)神一、註訓レ石云二伊波一とあると同じ神にて、伊波都知なること、後世誤ていしつちといひけるなりと、土佐高明志といふものにみえたりと、玉井春枝かたりき、横峯寺にある正保五年本堂再建の棟札にも、石土山別當大願主權大僧都堯賢敬白と見たり、古は石土と書し事しるし、山容嶮くして、太く神さびて、此國内に秀たる高山也、昔役小角始て此山に登り、其後石仙といふ道人、山路を開き、絶頂に神を祭りけるよし、雪は五六月の頃消て、八九月の頃より積れり、毎年六月、諸人登山するもの多し、大戸といふ所入口なり、麓より九里八町ありと云傳れども、さまではあらず、又大保木といふ所よりものぼる、萬葉集山邊赤人歌に、極此疑伊豫能高嶺(コヽシキイヨノタカ子)とよめる是なり、
p.0847 智行並具禪師重得二人身一生二國皇之子一縁第卅九 伊與國神野郡郷内有レ山、名號二石鎚山一、是即彼山有二石槌神一之名也、其山高崪、而凡夫不レ得二登到一、仕二淨行一人耳、登到而居住、〈◯下略〉
p.0847 六月一日 石搥山前神寺參 伊豫國新居郡にあり四國遍路の札所にして、麓より十二里、常に山上を許さず、詣人は里前神に札を納む、今日より三日の間登山を許す、 石槌山は、四國の一高山にして、嶮難いふばかりなし、登山の者は三十日の間精進をなす、麓より二里半餘登れば、其上に壁を立たる如き岩あり、其岩の頂より、十五間ばかりの鐵鎖を下せり、諸人其鎖に取付、手繰にして登る所貳ケ所、又其上へに二十間ばかりの鎖を下げ、壁立したる巖に登、あやまつて手を放てば、忽ち千仭の谷に陷つ、其危き事言語に絶たり、登山の行人此所までは競ひ登るといへども、此鎖に至て心臆し、間登得ざる者あり、然る時は先達其者を呵責して、罪障
p.0848 懺悔なさしめ、精信にして登るときは、恙なしといふ、絶頂纔に坦なる岩頭に、藏王權現の小祠あり、此所より四邊を望むに、懸崖幾千丈なるを量べからず、澗底朦朧として雲霧遮り、常に烈風あつて巓頭を衝故に、健實の者といへども、岩頭に立事能ず、匍匐して社前に至り、拜し卒て復鎖に縋り下山す、
p.0848 彦山(ヒコサン)〈豐前田川郡、蓋蟠二根豐前、後、筑前三州一、〉
p.0848 彦山は九州第一の高山にて、豐州筑前に跨るといへ共三所權現の御社諸堂豐前の地にあれば、豐前の彦山と稱する也、〈至て大山故に、山の麓は、筑後豐後の地へもかヽるといふ也、◯中略〉扨峯より遠見すれば、周防長門の海面、筑前の浦々、肥後阿蘇山、四國路の山々迄も見ゆるといふ、平生にても、峯には雲霧閉て、晴天の日は稀也、予が登りし日も、頂には白雲滿々て、遠見ならず、山の中途より上は、靈木生(ヲイ)茂て矢もいらぬ深林、獸類も數多にて、目(み)なれぬ諸鳥多しと衆徒の云ひぬ、僧雪舟歸朝の後、當山に六年住居せしといふ舊地あり、畫も殘り、又自ら造りし庭あり、僻地ゆへに岩一ツもとり直さずして、其儘に昔の形殘りてあり、即一見せしに、今は植直し楓樹なども大木と成、自然石の石橋峩峩として、巓も苔むし、古雅成事いはんかたなし、雪舟の氣象迄も思ひ察風情あり、
p.0848 彦山ハ、當國第一ノ高嶽ナリ、三伏ニ山坊ニ宿シテ、終夜冷然、數日ノ苦熱ヲ忘ル、明レバ主僧先達シテ、岩石ヲ攀テ高頂ニ登ル、眺望殊絶ナリ、拜禮畢テ谷々ヲ巡行シ、草萊ノ路ヲ分テ、求菩提山ヘカヽリ、中津ノ方ヘ赴ク、 九州記、彦山ト申ハ、西國第一ノ大山ニテ、豐前豐後筑前三ケ國ニ跨ギ、山中坊數三千ニ餘レリ、彦山大權現、本地ハ西天竺ノ靈神タリ、人王十代崇神天皇ノ御宇ニアタリテ、天竺ヨリ五ノ劒ヲ東ヘ向テ擲玉ヒ、吾縁ノ有方ヘ留ルベシトチカヒ玉フ、一ハ紀伊國室郡ニ留リ、一ハ下野國日光山ニ留リ、一ハ出羽國羽黒ノ嶺ニ留リ、一ハ淡路國乙鶴羽ノ峯にトヾマリ、一ハ豐前國彦
p.0849 山ニ留ル、彼彦山ニ飛來ラセ玉フ時、其形八角ノ水精ニテ、御長三尺餘ニ見ヘ玉フト云傳フ、
p.0849 英彦山事記 抑是なる彦山と申は、西國第一の大山にして、豐前豐後筑前の三が國に蟠り、朝爾夕爾雲立起りて、天上爾聳へ、されば山上高千穗の嶺爾は、二神降臨の地、なほ次第々々爾高神等の止り賜ふ嶺にして、世爾隱れなき名山なり、〈◯中略〉 修驗行の始は、人皇四十代、文武天皇慶雲二年、役行者此山に登り、神勅を請、金剛胎藏兩堺三季の峯を踏開き、是より修驗行法傳燈相續し、今爾至て一千百餘年、懈る事なし、 〈行者の開峯、日本六峯の内、日子山第三の峯也、第一ハ紀伊の大峯、第二ハ大和の金の峯、第三ハ鎭西日子の峯、第四ハ讃岐の石槌山第五ハ出羽の羽黒山、第六ハ攝津の箕面山、是を行者の開給ふ六峯とす、大寶より和銅に至り、異國本朝行返の間、神仙小角、此山爾峯を踏事三十六度也と云々、〉
p.0849 花月 〈次第〉風にまかするうき雲の〳〵泊りはいづく成らん、〈ワキ詞〉是は筑紫彦山の麓に住居する僧にて候、我俗にて候し時、子を一人もちて候を、七歳と申し春の比、いづく共なく失ひて候程に、是を出離の縁と思ひ、加様の姿と成て諸國を修行仕候、〈◯中略〉 〈シテ〉扨も我筑紫彦山にのぼり、七つの年天狗に、〈上同〉とられてゆきし山々を、思ひやる社かなしけれ、〈◯下略〉
p.0849 嫗嶽 在二入田郷南一、一作二鵜羽一、又名祖母、蓋山配二祀豐玉姫命一、以三神武帝爲二皇祖母一故也、其山崔峨峻極、峙二立雲表一、上有二小石祠一、土俗所レ謂嫗嶽上宮是也、事辨二于神原山下一、其東南崖下、名二御花園一、有二一怪石一、兀然突立、奇樹異草、繁植鬱茂、葢仙棲之境也、其足跨二于豐日肥三國一、三二分之一則豐居二其二一、衆山如二兒孫一、環二列腰膝一、肥日二州諸峻、蹲二其西南一、福原倉木鳥嶽、尾平奧嶽拱二其東南一、爭レ嶮競レ秀、擅二美于大野郡一、觀國峯、離山、美女嶽、神原山俵二其東北一、嵐嶺聳二肩其西一、由留木高城甑山接續映帶、實以豐之鎭護也、
p.0850 筑紫國風土記曰、肥後國閼宗縣、縣坤二十餘里有二一禿山一、曰二閼宗岳(○○○)一頂有二靈沼一、石壁爲レ垣、〈計可二縱五十丈、横百丈一、深或二十丈、或十五丈、〉清潭百尋、鋪二白緑一而爲レ質、彩浪五色、絙二黄金一以分レ間、天下靈奇出二兹峯一矣、時々水滿、從レ南溢流、入二于白川一、衆魚酔死、土人號曰二苦水一、其岳之爲レ勢也、中天而僄峙、包二四縣一而開レ基、觸レ石興レ雲、爲二五岳之最首一、濫レ觸分レ水、寔群川之巨源、大徳巍々、諒人間之有一、奇形杳々、伊天下之无雙、居在二地心一、故曰二中岳一、所レ謂閼宗神宮是也、
p.0850 筑紫風土記、閼宗五岳、〈高岳 往生嶽 三御嶽 楢尾嶽 猫嶽〉
p.0850 明ノ世宗、封二我肥後州阿蘇山一曰二壽安鎭國之山一ト、夫我富士山以下、各國名山多キ矣、獨り封二阿蘇一者何乎、 按に、釋日本紀十、有下以二阿蘇一爲二我國中岳一云説上、故義滿、特ニ請レ之然ル乎、 ◯按ズルニ、阿蘇山ヲ壽安鎭國山ト稱シ、又山上ノ沼ヲ神靈地ト稱スル事ハ、神祇部阿蘇神社篇ニ在リ、宜シク參照スベシ、
p.0850 阿蘇山 今よひは阿蘇の大宮司のもとに一すくして、あすこそは峯にのぼらんと心ざせしに、晝過る頃より風の色少しあしうみゆれば、あすになりて雨ふり、登山の縁をうしなはん事もやと思ひめぐらすにぞ、心あはたヾしう成り來て、今よりもと思へど道なし、すぐさんもほいなければ、山の北の麓の的(マト)石といふ里に入りて、あないの人を頼みて、山の北おもてより登る、木こりのみ行かへば、道いと細くけはし、絶頂に至り付ば、日既にくれはてぬ、晝參詣多き時に、商ふためと、旅人などの行くれたるが、宿る爲に茅屋あり、唯むしろもてかこひたるばかりにて、床とてもなし、此内に入りて宿る、名高き峯に登りつめて、空もいと近う、星探るべき程なるに、夜あらしの吹わたる音も物すごくて、一山人倫たえ、四方寂ばくたるに、夜ふくるまで目もあはず、又もゆるあたりも
p.0851 程遠からで、地震ひ山動く、世にある心地にはあらず、夜あけぬれば、きのふをもひしにはことなりて、山かづら引渡せる間に、朝日の影いと花やかなり、夜半のわびしさ引かへて、心いさめり、とく起出てもゆるところにいたる、大なる穴あり、是をみかどヽいふ、中のみかど、北のみかど、法性崎と名付く、都合三が所なり、當時さかんにもゆるは法性崎なり、たとへばふいごの口のごとし、黒煙天を覆ひ、時々火出て、其音のおびたヾしき事、只今此山みぢんに碎る心地す、其勢ひは筆に書つくすべくもあらず、しばし見居たれど、我身も山とともにくだけさるべき心地して、あくまでも、みつくしがたし、少し下れば大なる堂あり、内に額あり、壽安鎭國山と書り、是はもろこしの帝より、むかし此山の靈異なる事を傳へ聞給ひて、此五字をもて山を封じ給ひしなり、堂は傾き損じたり、人はもとより住べき所にあらず、むかしは是より下つかたに、寺院多くありしといふ、すべて絶頂は海濱のごとくにして、硫黄の氣にて白くみへ、石は皆金くその如くにして、土砂ある事なし、しばし下れば土見へ、草ありて、はじめて世界の景色あり、西の方に、はるかに雲仙がだけあり、北の方に、豐前の彦山を望ぞむ、其外の眺望は、四方の山にへだてたり、此阿蘇の山は、目八分の山四方を圍みて、堤を築きたるごとく連りめぐれる、其眞中に、此阿蘇山のみ基を別にして、一峯秀たり、奇妙の地形なり、此山の四方のふもとを阿蘇谷といふ、幅貳三里ほどづヽにして、平田あり、唯西の方のみ、少しばかり四方の圍の堤のごとき山きれて、川流れ出たり、傳へ云、上古の世は、此地湖にて、阿蘇山はみづうみの中の島なりしが、阿蘇の明神、むかし此國の守なりし時、西の方の山を切り通して水を落し、湖を干て田地となせりと、誠に此地の様すを、つら〳〵見るに、湖なりし事虚説にはあらじと思ふ、又人智の古今なき事を感ず、
p.0851 十八年七月甲午、到二筑紫後國御木一居二於高田行宮一、時有二僵樹長九百七十丈一焉、〈◯中略〉爰天皇問之曰、是何樹也、有二一老夫一曰、是樹者歴木(クヌキ)也、嘗未レ僵之先、當二朝日暉一則隱二杵島山一、當二夕日暉一覆二阿(○)
p.0852 蘇山(○○)一也、
p.0852 治暦四年六月廿四日、肥後國阿蘇山雪降、深五六寸、 ◯阿蘇山ノ事ハ、又火山ノ條ニアリ、參看スベシ、
p.0852 高千穗嶺(タカチホノミ子)〈日州宮崎郡、瓊々杵尊降臨之地、〉
p.0852 高千穗嶽 延岡近處、總稱二高千穗莊一、
p.0852 囎唹郡〈舊作レ襲、曾、添、贈於、皆古之襲國也、和名鈔囎唹、曾於、襲疊嶂之義、又曰、膂宍之膂之義、 姓氏録序曰、天孫降襲西化之時、〉 高千穗峯、日本紀、古事記序作二高千嶺一、按、高々山、千獨秀二於千山一之稱、穗者凡物拔二出子上一之稱、亦言三是山之翹二楚於衆峯一也、一説、千穗祝稱也、猶二水穗之穗一、一説、穗即火也、火常炎二山上一、因名焉、一説、峯有レ穭、生二稻穗一、故名焉、大隅日向之界在二山半一、東屬二諸縣郡一、西屬二噌唹郡一、故史多係二諸縣郡一者矣、然日本紀謂二襲之高千穗一、續紀亦謂二贈於郡曾乃峯一、則冝以レ收二囎於郡一、不レ可三以繫二諸縣郡一、今據レ之、後皆倣レ之、 一名槵觸二上峯(○○○○○)、言、靈歴也、二上者此山上二峯突峭、東號二矛峯一、絶頂建レ矛、是大己貴所下以奉レ獻二於皇孫一之物、而皇孫降二臨于兹一、安二置諸山一、以鎭中標天下萬世上者也、西號二火常峯一、火常火上、後世終陷凹、今俗呼二其火坑一稱二御鉢一、臨レ之如二千仭谷一、 史註謂二靈矛一、長八尺許、今其鋒折て幹のみ立り、鋒鐔に近き所、長鼻大眼の面係を左右に記し成せり、其鐔は、昔時山頂炎たりし時移したりとて、今三里許の山麓に安置し奉りて、荒嶽權現と稱す、〈此所都城の内不動堂なり〉鋒の長サ一尺五六寸、鐔の如キ所に雲氣の状を鑄付して見えたり、或云、靈矛は純金なり、餘鋒幹ともに親鑒熟視せしが、其質材何金たること知がたし、山上にあるものは、其色縹緑なり、其鋒は黝黒色なり蓋露處と密藏との異なるべし、日本紀通證などにいふ所は、甚的當せず、 天明初年、麑府下有二黠商池田某一、新鑄二神矛一、配二立其傍一、周圍形製稍倣レ、之、噫名文之不レ正、何一到二于此一、孰知無レ不レ知二林放之嘆一、深可二以疾一矣、而某始立二此僞矛于山上一、時怪異百出、且某發二異疾一暴死、其子又爲二顚
p.0853 疾一無状、至三于自拔レ刃研二位牌一、因問二命於ト者一、曰摸二造神矛一之僭、自致レ招レ咎、全家讋服、倉遑即除二去僞矛一矣一、 同庚戌之夏、源青東遊二京師一、嘗謁二明經博士伏原宣條公一、公曰高千穗山上之靈矛者、實神代舊物、先皇寶器、夫天地之太古、今之遠其變曾幾乎、而屹立以訖二于今一、誠可レ貴哉、雖二公侯一、理當不レ問二輕重一、況庶人乎、比屬如レ聞、有事一賈豎摸二作靈矛一、配二立其上一、有レ諸、清東揚然對曰、山中罕到、未二之聞一也、公曰有別救レ之、必勿レ使下開二僞端一、遂中 越上清東還レ郷、而將告二于官一、既而聞レ除二去之一、因使三余書二其事一、以報レ公、未レ果、公亦沒矣、可レ嘆夫、且通證曰、近世島津義久配二立新矛一、是妄説之甚、未二曾有一レ之矣、
p.0853 霧島山(○○○)ハ、東ヲ日向國諸縣郡、西ヲ大隅國囎唹郡トス、兩社ノ別當、日向ヲ東光坊、大隅ヲ華林寺トイフ、此山十號アリ、一ハ磤馭島、二ハキリ島、三ハ高千穗、四ハ槵觸峯、五ハ襲峯、六ハ高原峯、七ハ最初峯、八ハ大波峯、九ハ生邊峯、十ハ毘盧庶峯ナリトイフ、
p.0853 霧島山ハ、古ノ曾乃峯ナリ、東西日隅ニ跨ケル故ニ、或ハ日向トイヒ、或ハ大隅トイフ、サレバ神社ノ兩國ニ建ルコト、富士淺間ノ駿甲ニ鎭座シ玉フガ如シ、華林寺ニ宿シ、明早拜社畢テ、遂ニ山上ニ登ル、世人此山ニ入レバ、逆矛ヲ見ルヲ以テ口實トス、是果シテ上世ノ物ニヤ、余ガ隻眼ノ及ブ所ニアラズ、
p.0853 我帝祖瓊々杵尊降臨の所は、日本紀に日向國襲の高千穗峯と云々、今の霧島山也、延喜神名式に、日向國諸縣郡霧島神社云々、今は薩摩國鹿兒島領にして、城下より二里餘、東北海邊の高山也、毎に登山の者多し、神代の故實とて登山の人々、稻穗を持せていわく、霧來らば是にて打拂べしといふ、此山黒霧一陣ヅヽ吹越、其色大風の如く、一時瞑々として路を別たず、やヽもすれば、人彼霧にまかれて、他方へ尸を落す事度々有とかや、故に霧來らば、手々に稻穗にて拂事かまびすし、暫の間に天開晴す、〈日向風土記に此事あり、昔より如レ此と見へたり、〉山頂を御鉢といふ、池のごとく窪なる所〈富士山のごとし〉數町四方有、其中に神代の御鉾とて、九尺計なる金鉾一柄建り、〈賢按、此もの石に非ず、金に非ず、希代のものヽよし、領〉
p.0854 〈主義久の頃後に金にて壹本外に添立給ふ、〉いとかうがうしく見ゆ、登山の輩是を拜し奉る、〈山上には社も何もなし〉間々又火大に燃出て、くろ煙天を覆ひ、磐石を數里に飛事あり、是を神火と稱し、諸州ことに恐れ拜すとかや、山嶽海岸に臨んで南をうく、霧島の明神は山下に鎭座まします、祠方三間計、鳥居物ふり、樹木しげり、尤神さびたる靈地なりとぞ、〈肥州長崎の人、太田東作談也、〉 賢按、當時延岡領に高千穗山あり、霧島とは方角違なり、不審、總體地理不案内の者の物語は、まま如レ此事あり、能々改見度事也、追而委舖可レ尋、
p.0854 霧島山は九州第一の深山にて、幽谷嶮岨限りをしる人まれにて、山奧肥後の米良山につヾき、南大隅に跨り、數十里に連りし山也、高山とは稱しがたき山にて、布地廣大也、當山躑躅の木數多にして、花の頃は谷々峯々、猩々緋にて包しごとく、山一面に赤く、朝日夕日には其光りにゑいじて、詠め何とたとへん方なし、春の頃を盛りとし、それより殘花となりても、此山のつヽじは夏まで咲谷あり、上方筋にてきり島と稱せる躑躅の木も、此山の名を付しものにて、色赤しといへども、土地のよしあしによりてや、當山の躑躅の色は、誠に緋のごとく、類すべきものにあらず、東霧島村と西きしりま村とは、曲り道とは言ながらも、行程凡六里餘、西北は都て霧島山にて、谷々麓をめぐりて、小村多く、各山の稱名かはるといへども、總名はきりしまといふ、海内世の人の思ふとは案外にて、中華にもさして劣らぬ程なる廣大なる事にて、かヽる山も有事也、扨此山奧嶮岨の峯、神代に建給ひし天の逆鉾と稱せる數丈の鉾、巖石の上に逆しまにたて、神代の文字にて銘をほりてあるといふ事、昔しより云事にて、誰壹人其所に行て見しといふものなし、京都橘石見介といふ人、〈伊勢國久居人〉故ありて此地に下り、逆鉾の建有る峯に行見しといふ、九州の紀行あり、予是を一見せしに、人家を離るヽ事十餘里計、谷に下り峯を越へて行に、硫黄の燃る谷もあり、煙り爰かしこに立上りて、道を埋み行迷ふ所もあり、刃の上を傳ふやう成岩の上を腹這して
p.0855 行所もありて、十死の地に入がごとし、案内として伴ひし壹人は、今一里計こなたよりおそれおどろきて氣絶す、漸是を介抱して、其人は其地に待せ、石見介一人嶮しき所を、木の根かつらに取付て、逆鉾の建し峯近く至りしに、夫よりは登るべき道なしいかにも巖石の上に、數丈の鉾と覺しき物あり、銘などの事は更に見え分ず、鐵なるや銅なるやそれとわからず、其所より是非なく元の道へ立歸り、彼ともなひし人と打連、命から〳〵麓の里へ下りしと記しあり、予も一見のこころざしにて、國を出し時より望には有しかども、霧島町に止宿し、里正の家に行て鉾の一事を聞しに、むかしより鉾のある事を人々云傳ふ事ながら、十里も人家をはなれ、深山幽谷の道もなき所を行事故に、誰一人も道筋を知るものもなく、生て歸らんとおもふ人の行べき所にあらざれば、此五六里の村里におゐて、我は行て逆鉾を見しといふ者は、聞傳へずとの事なり、予按るに、此鉾何の爲に建置しといふことはりもなく、天よりふりし國とこたちの尊の建置給ひしといふ計の事也、神代にもせよ、數丈の鉾を、人もかよはね岩上の上に建べき道もなく、關羽が青龍刀の鉾よりも大成鉾を、何人か用ひ、何人歟是を作らん、察る處似像石なるべし、造物者の作におひては、岩にても似像のものヽある事也、夫に説を加へて、好事家の奇談と成て、世に傳へしものならんか、土人秘して語る事あり、他國よりやヽもすれば霧島山の鉾の事を尋ね問ひ來る人多し、何と答へんやうもなし、是によつて遠からぬ國の守、銅を以て數丈の鉾を、鍛冶數人集めて作らしめ、夫に銘を彫りて、此山奧の人もかよひがたき嶮山の峯に建給ひしもの也、是を一覽有にも、あやふき嶮山の峯に道も絶し難所を、七里計分入ざれば一覽なりがたし、穴かしこ、新に作り給ひしなどヽいふ事を、我より聞しと人に語り給ふなと、口止めして物語りき、此一事は追々人も知る事と、土人の口どめながら爰に記せる物也、
p.0855 高千穗之久士布流多氣(タカチホノクジフルタケ)、〈久士布流は、書紀に、槵觸と書き、又槵日ともあるに依らば、久志夫流とあるべきに、假字の清濁の違へるは、これ上代〉
p.0856 〈の音便にて、士を濁り布を清々しと聞えて、上なる肥ノ國の亦ノ名も、豐久士比泥別(トヨクジヒネワケ)とあるに同じ、此ノ事、傳五の十四葉に云り、考へ合すべし、多氣の多も、古へは清てぞ唱へけむ、〉此ノ山ノ名、書紀に見えたるは、上に引るが如し、又一書には日向襲之(ヒムカノソノ)高千穗添(ソホリ)山ノ峯ともあり、〈襲(ソ)は姓氏録ノ序にも、天孫降レ襲とあり、此ノ襲の事は、上熊曾ノ國の下(トコロ)、傳五に委しくいへり、〉さて今皇孫ノ命の、此ノ山にしも降著坐りしことは、書紀に猿田彦神に、天鈿女(アメノウズメ)復問曰、汝何處到耶、皇孫何處到耶、對曰、天神之子、則當二到筑紫日向高千穗ノ槵觸(クジフル)之峯(タケ)一云々、果如二先期一、皇孫則到二筑紫日向高千穗槵觸之峯一とあれば、元より然るべき所由ありしことなるべし、〈當到は、イタリマスベシと訓ても、到り給へと數ふるには非ず、到リ坐サむことを知れる故に告るなり、故下に果と云り、〉万葉二十〈五十丁〉に、比左加多能(ヒサカタノ)、安麻能刀比良伎(アマノトヒラキ)、多加知保乃(タカチホノ)、多氣爾阿毛理之(タケニアモリシ)云々、さて此山は、日向國風土記に、臼杵郡内知鋪郷(チホノ)、天津彦々火瓊々杵尊、離二天磐座一、排二天八重雲一、稜威之道別々々而、天二降於日向之高千穗二上之峯一時、天暗冥、晝夜不レ別、人物失レ道、物色難レ別、於レ兹有二土蜘蛛一、名曰二大鉗小鉗一、二人奏二言皇孫尊一、以二尊御手一拔二稻千穗一爲レ粈、投二散四方一、得二開晴一、于レ時如二大鉗等所奏一、搓二千穗稻一爲レ粈投散、即天開晴、日月照光、因曰二高千穗二上峯一、後人改號二知鋪一と見へたり、〈鉗ノ字、万葉抄に引たるには鉺とあり、いづれよけむ、後人攺とは、文字を攺めたるをいふ、〉 名ノ意高千穗は、此ノ風土記に云るが如くなるべきか、〈或説に、皇孫ノ命齋庭(ユニハ)の穗を御(シロシメ)す、故に、其ノ都に供二粢盛一田ある故の名なり、今も其田の蹟ありて、里人不レ蒔レ稻と稱すとなりと云るは、山ノ名には由なく聞ゆ、〉久士布流(クジフル)は、靈異(クシ)ぶるにて、書紀に槵日(クシビ)ともあると同じ、〈槵は皆借字なり〉布流と備とは同ジ言の活用けるなり、多氣(タケ)は万葉に高(タケ)とも書る意にて、〈竹も高く立伸る物なる故の名なり、物の立テる高さを、長と云も此ノ意なり、されば立たる物ならで、凡て物の長さを、多氣と云は誤なり、〉高き山を云り、さて此山の事、上にも云る如く、其とおぼしき二處に有リて、いとまざらはし、其一ツは今も高千穗嶽と云て、かの風土記に見えたる、臼杵郡なる是なり、和名抄にも、日向國臼杵郡智保郷あり、續後紀十三に、日向國無位高智保皇神、奏レ授二從五位下一、〈この日向國三字、印本には誤りて皇神の下にあり、今は古本に依て引り、〉三代實録一に、授二日向國從五位上高智保神從四位上一と見ゆ、〈又和名抄に、肥後國阿蘇郡にも知保郷あるは、日向の智保とつゞきたる地にて、一ツかはた別なるか知らず、〉かくて此ノ山は、日向ノ國の北の極にて、豐後ノ國の堺に近し、〈肥後の宇土八代などより、日向の延岡に通ふ道の北ノ方にあり、〉其ノあたりを今も高千穗ノ莊と云とぞ、〈これ智保ノ郷なるべし、今ノ世延岡なる主の領地、にて、其處に近し、延岡は舊名縣と云し處なり〉今
p.0857 一ツは諸縣ノ郡にありて、霧島山と云、神名式に、日向國諸縣郡霧島神社、續後紀六に、日向國諸縣郡霧島岑神預二官社一、三代實録一に、授二日向國從五位上霧島神從四位下一とあり、此ノ山は日向國の南の極にて、大隅ノ國の堺なり〈神代紀に二上とあるごとく〉東西と分れて、峯二ツあり、〈山ノ下に東霧島西霧島と云村もあり〉西なる峯は大隅ノ國に屬り、續紀に、延暦七年七月己酉、太宰府言、三月四日、戌時當二大隅國贈於郡曾乃峯上一、火炎大熾、響如レ雷動、及二亥時一、火光稍止、唯見二黒烟一、然後雨二沙峯下五六里一、沙石委積可二二尺一、其色黒焉とあるは、此ノ山のことなるべし、書紀に襲之(ソノ)高千穗峯ともあればなり、〈そも〳〵此山の事、委く聞に、霧山とも霧島山とも云て、東なる峯は日向國諸縣郡、西なるは大隅國囎唹(ソノ)郡なり、東なる峯殊に高くして、鉾ノ峯といふ、頂に神代の逆矛とてたてり、詣ツる者これを拜む、語リ傳へて云く伊邪那岐伊邪那美ノ命、天ノ浮橋の上より霧の海を見下し賜ふに、島の如く見ゆる物あるを、天ノ沼矛を以てかきさぐり、其處に天降賜ひて、其矛を逆様に下し給へるなり、霧島山と云も此由なりと云へるは、此邇邇藝ノ命の御古事を、彼ノ二柱ノ神の御事に混へて、傳へひがめたるなるべし、かくて西なる峯はやゝ卑し、頂よりやヽ下、のぼる道の傍なる谷には、常に火燃あがる、さるゆゑに火氣布峯と云、日向の言に、常を氣布と云故なりとぞ、又此火時によりていみじく熾に燃上りて、黒烟天におほひ、石砂遠く飛ヒ散ルことあり、日向大隅薩摩の國人ども、神火と云て畏み拜むとぞ、霧島明神の社は麓にあり、大キなる社なりとぞ、凡そ此山の内、夏のころきりしま、さつきの花盛リは、目もあやなりとぞ、其外あやしき樹どもくさ〴〵あり、山半より上には、樹は一ツもなくて、たヾこまかなる燒石のみなりとぞ、又山の内に、處々大キなる池多く有て、大なる蛇すめりとぞ、さて此山、つねに登詣る人多きを、暴に霧の起りて、大風吹出テ地とヾろき、おどろ〳〵しき音して、闇の夜の如く、暗がりて路も見え分かぬばかりになることありて、ともすれば此ノ霧におぼヽれ、風に吹放たれて亡なる者もあり、然るに神代の故實と云て、いはゆる先達なる者、人に教へて、手ごとに稻穗を持せ行て、もし此霧おこりぬれば、其を以て拂ひつヽゆけば、しばしがほどに天明りて事故なしとぞ、さて峯に立テるかの御矛は、長さ八九尺許りありて、鉄にや石にやわきまへがたし、鉾の方に横手ありて、十ノ字の形の如し、又同じさまなる矛、今一ツ立テるは、近キ世に、島津義久朝臣の、新に造りて建添られたるなりとも、又は鹿兒島の商人池田ノ某と云し者、此山の神を深く仰ぎ奉りけるが、眞鍮を以て造りて建たるなりとも云は、いづれか實ならむ、〉かヽれば臼杵ノ郡なる高千穗山も、諸縣ノ郡なる霧島山も、共に古書にも見え、現に凡ならざる處なるを、〈然るに此ノ二ツの山を、混へて一ツの如く云る説は、いとおほろかにして、委くも考へざるひがことなり、〉皇孫ノ命の天降坐し御跡は何れならむ、〈さだめがたし、其故は、まづ書紀の高千穗と、槵日二上とをば異山として、高千穗は臼杵ノ郡なるを其とし槵日二上は、霧島山とするときは、二處共に其ノ御跡なりと云べけれど、風土記に、臼杵郡なるを、高千穗ノ二上ノ峯とあれば、二上も臼杵ノ郡なる方と聞えたるを、又書紀には、襲之高千穗峯とある襲は、大隅なる地ノ名なれば、此レは高千穗と云も、霧島山の方とこそ聞ゆれ、然るに又臼杵ノ郡なる高千穗山をも、今時二上山と云て、まことに此レも中央に二峯ありて、然云べき山なりと國人語れり、又二神明神と云ふもあり、槵日村槵觸が嶽など云名もありとぞ、然る名どもは、後ノ〉
p.0858 〈世につけたるも知リがたければ、證としがたけれど、風土記にしも二上之峯とあり、凡て風土記は正しく、其國にして古き傳説を記せる物なるに、此臼杵郡なるをのみ記して、霧島の方をば記さぬを思へば、霧島は非るが如くなれども、古の風土記どもは、たヾ書紀ノ釋と、仙覺か万葉抄などとに往々引るのみこそ遺りたれ、全きは傳はらざれば、其全書には霧島山の事も記したりけむを、彼書どもには、其をば引漏せるも知りがたし、霧島山の方も正しく峯二ツ有て二上なり、凡て古に二上山と云るは、皆峯二ある山なり、又風土記には、稻穗の古事も臼杵郡なる方に記せれど、是はた今の現に霧島山にのこれり、又神代の地名、多く大隅薩摩にあり、彼此を以て思へば、霧島山も、必ズ神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく高千穗と云てまがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに何れを其と一方には决めがたくなむ、〉いとまぎらはし、
p.0858 予考ふるに、此鉾何の爲に建て置きしと云ふ理もなく、天より降りしにや、國常立の尊の建て給ひしにせよ、何になると云ふいはれもなく、埒もなき事なり、全く自然天然と、鉾に似たる似象と云ふ者なるべし、吾國神代の事は傳記なし、神代以前は、何れの異國の人住居したるや、播州石の寶殿と云ふあり、四間四面に石を りて造る者人工なり、又因州に熊權現とてあり、皆柱石を以て疊む、是も人工の者にて、何の爲に造りたりと云ふ事を知らず、民俗の云ひ傳へには、古の神、此海へ橋を掛けたまはんとし給ひしとぞ、又蝦夷地にタサリチと云ふ處あり、是は六角の柱石の、數かぎりもなく、海岸皆此石なり、是は人工にはあらず、天然の者なり、近藤氏ヱトロフ島へ五度行かれし時、庄藏とて南部の者、畫をよく描きしに、蝦夷地を寫させ、其圖を予又寫せり、世界の中には、此類いか程もある事にて、蘭書中には、奇妙不思議の山水景色ある事なり、吾日本の人は、僅の天の逆鉾石を見て、奇妙なりとするは、世界の事を知らぬ故なり、
p.0858 喩族歌一首并短歌 比左加多能(ヒサカタノ)、安麻能刀比良伎(アマノトヒラキ)、【多可知保乃】(タカチホノ)、【氣氣】爾阿毛理之(タケニアモリシ)、須賣呂伎能(スメロギノ)、可未能御代欲利(カミノミヨヨリ)、〈◯下略〉
p.0858 山火之事 山の燒くること、日本には處々にあり、富士山古へは常に燒け出づと云へり、富士の烟も、今は燒けずと、何の比よりか燒け止まりしことを知らず、淺間の岳は今も燒くるなり、此外肥後の阿蘇、
p.0859 薩摩のうんせんも、今に燒くるなり、中國にては聞くことなし、大明一統志を見るに、西北夷に火州と云ふ處、南北朝の比より唐までは、高昌國と云ふ地なり、其國に火焰山と云ふ山あり、山中常に烟氣ありて涌き上り、雲霧なし、夕に至りて、光烟炬火の如くかヽやき見ゆ、禽鼠皆赤しと云へり、亦其隣國に白山と云ふあり、山中常に火烟あり、确砂を産す、此を取る者、木底の鞵を著けて取る、皮なるものは、即焦ぐる、穴有りて、青泥を出だす、外へ出づれば、即砂石となる、只此二國のみ、山の燒け出づることを記す、是も火州は南于闐に抵り、東南肅州に至ると有り、中國より遙に西北夷狄の地なり、
p.0859 地獄(ヂゴク) 按地獄之所在不レ知二何處一、而就二字義一入二地部一、出二名目一耳、日本有二地獄一、皆高山嵿常燒、温泉不レ絶、若二肥前一、〈温泉(ウゼン)〉 豐後〈鷄見〉肥後〈阿蘇〉駿河〈富士〉信濃〈淺間〉出羽〈羽黒〉越中〈立(タテ)山〉越(コシ)乃〈白(シラ)山〉伊豆〈箱根〉陸奧〈燒山〉等之嵿㶡㶡(クハ〳〵)燃起、熱湯汪汪涌出、宛然有二焦熱修羅之形勢一、 豐後〈遠見郡野田村〉有下名二赤江地獄一者上、方十餘丈、正赤湯如レ血流至二谷川一、未二冷定一處、有レ魚常躍游、亦一異也、天竺中華高山皆有二地獄一、不二枚擧一、凡嵌二地獄一者、不レ能二浮出一、
p.0859 愚傳聞、世界ノ中、火山ノ國甚多シ、意大里亞(イタリヤ)國ノ内所所多シ、其中ニ羅馬國ノ火山、晝夜燃テ石ヲ百里ノ外ニ飛スト云リ、其山ニ岩洞一百アリ、其洞穴各病氣ヲ愈ス、何レノ病ハ何レノ洞、其病ハ其洞ニ入テ治スト、各功能有リ、或ハ格落蘭得(コラランテ)ト云國ハ、地中火氣多シ、然レドモ其火氣甚シク燒穿ツ事無シ、故ニ人民地上ニ石ヲ敷テ、其上ニ家屋ヲ造テ居舍トス、家内ノ地ニ火焰到ル處ニ釜ヲ置テ食物ヲ熟ス、薪ヲ不レ用ト云リ、日本ニモ是ニ似タル事アリ、或行脚桑門ノ云ルハ、越後ノ國ニ戸澤氏ノ領地アリ、如法寺ト云處ナリ、民家六軒アリ、其ノ中ノ一民家ニ、土産(ドザ)ノ傍
p.0860 ニ竅アリ、其ノ中ヨリ火焰燃出ヅ、常ニ磨石ノ上石ヲ蓋トシ置タリ、火ヲ出サント欲スル時ハ、硫黄少シ許ヲ、蓋石ノ穴ヨリ捻リ入ルレバ、火焰即燃出ヅ、今マ其火竅ニ竈ヲ併テ圍置タリト也、先年領主其火所ヲ深ク堀セラレシカドモ、土中別ニ異ナル子細無リシトゾ、此等ハ皆火徳神妙不測之自然也、又瑯邪代酔卷三、有二蕭丘寒焰一云々、火焰不レ熱シテ凉キ者也、 辨斷 地上火起リ燃ル事、漢土所々ニ有レ之、蜀中ニ最モ多シト云リ、西蕃ノ國ニモ火井トテ有レ之、其井中常ニ燃ルト云リ、是皆其土地ノ常ナレバ、災異ニ非ズ、日本ニ於テハ、富士、淺間、阿曾、温泉、霧島ナリ、古ヘ盛ニ燃テ、今不レ燃モノアリ、古ヘ不レ燃ノ所、今燃ルモアリ、何モ其地下に硫黄有テ火ヲ生ジ、地上ニ發シテ燃ル者也、硫黄ハ土中燥熱ノ氣ヨリ生ジテ、純陽ノ體ナル故ニ、全ク火ト同氣也、此ノ故ニ能火ヲ生ズ、此火氣上升シテ雷ト成リ、或ハ彗星ト成ト云リ、又附記ス、西戎ノ國ニ火池アリ、常ニ燃、其中ニ鼠居レリ、火鼠ト號ス、其毛甚ダ長シ此毛ヲ以テ布ヲ織、是ヲ火浣布ト號ス、垢ケバ則火ニ入ルニ、不レ燒シテ清白ニナルト云、異物志博物志等ニ委シ、
p.0860 夫山上炎燒者鬱火也、東海富士可二以爲一レ證、上古甚炎燒、煙無レ斷、故古歌多詠煙近世無二炎燒一煙亦無レ見、其山巓、直上炎開二一竅一、故無二抑鬱氣一、無二火生一、故知磐石相壓、抑二上騰氣一、鬱生レ火、若山上有水、則一涌沸爲二温泉一、離火在レ下、坎水在レ上、爲二既濟衆一、或兼二硫黄氣一則治二瘡疥一、或兼二砒石氣一則害レ物、若有二丹石一無二火氣一、則寒泉也、若無レ水惟有レ火、炎燒發レ煙而已、人身鬱火爲レ病、醫療亦其理可二符合一、 磐石幾重壓二峻巓一 復陽抑鬱叵二超然一 痴民妄説地中獄 坐燒摏磨起二火烟一
p.0860 寛元三年結縁往生百首 民部卿爲家 燒山(○○)のけぶりの末はひとつにて霞むくもゐをかへる雁がね
p.0860 清寧天皇三年壬戌三四月、富士淺間山燒崩、黒煙聳レ天、熱灰頻雨、三農營絶、五穀不レ熟、依レ之帝臣驚騷、人民愁歎、天子被レ立二官使一、捧二獻神寶一、〈錦帳玉筐氈毬劒鉾〉
p.0861 天應元年七月癸亥、駿河國言、富士山下雨レ灰、灰之所レ及、木葉彫萎、
p.0861 延暦十九年六月戊辰朔、日有レ蝕、 癸酉、駿河國言、自二去三月十四日一迄二四月十八日一、富士山巓自燒、晝則烟氣暗暝、夜則火光照レ天、其聲若レ雷、灰下如レ雨、山下川水皆紅色也、
p.0861 延暦二十一年正月朔、是日勅、駿河相模國言、駿河國富士山、晝夜恒燎、砂礫如レ霰者、求二之卜筮一、占曰、于疫、宜下令兩國加二鎭謝一、及讀レ經以攘中災殃上、 五月甲戌、廢二相模國足柄路一開二筥荷途一、以二富士燒碎石塞一レ道也、
p.0861 貞觀六年五月廿五日庚戌、駿河國言、富士郡正三位淺間大神大山火、其勢甚熾、燒レ山方一二許里、光炎高二十許丈、有レ雷、地震三度、歴二十餘日一火猶不レ滅、焦レ巖崩レ嶺、沙石如レ雨、煙雲鬱蒸、人不レ得レ近、大山西北有二木栖水海一、所レ燒巖石流埋二海中一、遠三十許里、廣三四許里、高二三許丈、火焰遂屬二甲斐國堺一、
p.0861 貞觀六年七月十七日辛丑、甲斐國言、駿河國富士大山、忽有二暴火一、燒二碎崗巒一、草木焦熱、土鑠石流、埋二八代郡本栖、并剗兩水海一、水熱如レ湯、魚鼈皆死、百姓居宅與レ海共埋、或有レ宅無レ人、其數難レ記、兩海以東、亦有二水海一、名曰二河口海一、火焰赴向二河口海一、木栖剗等海、未二燒埋一之前、地大震動、雷電暴雨、雲霧晦冥、山野難レ辨、然後有二此災異一焉、
p.0861 貞觀七年十二月九日丙辰、勅、甲斐國八代郡立二淺間明神祠一、列二於官社一、即置二祝禰宜一、隨レ時致レ祭、先レ是彼國司言往年八代郡暴風大雨、雷電地震、雲霧杳冥、難レ辨二山野一、駿河國富士大山西峯忽有二熾火一、燒二碎巖谷一、今年八代郡擬大領無位伴直眞貞託宣云、我淺間明神、欲レ得二此國齋祭一、頃年爲二國吏一成二凶咎一、爲二百姓病死一、然未二曾覺悟一、仍成二此恠一、須早定二神社一、兼任二祝禰宜一、潔奉レ祭、眞貞之身、或伸可二八尺一、或屈可二二尺一、變レ體長短、吐二件等詞一、求二之卜筮一、所レ告同二於託宣一、於レ是依二明神願一、以二眞貞一爲レ祝、同郡人伴秋吉爲二禰宜一、郡家以南作二建神宮一、且令二鎭謝一、雖レ然異火之變、于レ今未レ止、遣二使者一撿察、埋二剗海一千許町、仰而見レ之、正
p.0862 中最頂飾二造社宮一、恒有二四隅一以二丹青石一、立二其四面石一高一丈八尺許、廣三尺、厚一尺餘、立レ石之門相去一尺、中有二一重高閣一以レ石構營、彩色美麗、不レ可二勝言一、望請齋祭兼預二官社一、從レ之、
p.0862 貞觀七年の大燒有し後、延喜以前までは、煙立しと見えて、伊勢家集に、人しれず思するがの富士のねは我がごとやかく〈一にかくやとあり〉絶ず燃らむ、はては身の富士の山とも成ぬるか燃るなげきの煙たえねば、など詠み、古今集の序にも、富士の煙によそへて人をこひ、〈玄道云、同集に、人知レず思を常にするがなる富士の山こそわがみなりけれ、又君と云ばみまれ見ずまれ富士のねのめづらしげなく燃るわが戀、又富士のねのならぬ思にもえばもえ神だにけたぬむなし烟を、能宣集に、草深みまだきつけたる蚊遣火と見ゆるは不盡の烟なりけり、重之集に、燒人も有じと思ふ富士の山雪の中より烟こそたて、拾遺集に、千早ぶる神も思の有ばこそ年經てふじの山も燃らめ、大和物語に左大臣、ふじのねの絶ぬ思も有物をくゆるはつらき心なりけり、など數知ず多く、竹取物語の末條にも、其烟未雲の中へ立登とぞ云傳たると、記せるをも思べし、さて或人は此物語なるかくや媛も、此山を主宰す、比賣神の御事より思寄けむともいへり、〉と書つれど、下文に、今は富士の山も煙立ずなりと有を思に、是頃既に煙絶たり、然るに日本紀略に、朱雀院天皇承平七年の所に、十一月某日、甲斐國言、駿河國富士山神火埋二水海一と云事有ば、是より復煙立けり、〈玄道云、道雄説に、此時に埋しは下吉田村の上方、富士の山腹に胎内と稱大穴有て、其邊より押出たる燒石夥く、下吉田と舟津村の間は、一面の燒石なる所有り、舟津より川口まで一里の舟渡有所なるが、此より東に此海口有しを埋たる故に、水の落方なし、地中より伏流して、相模國馬入川の水源山中海より出る桂川に涌出と云、又山中海、明日見ノ海も、元川口と一なりしを埋みて、かく三と成し者ならむと、委く説り、外記日記に、一條天皇長保元年三月七日、駿河國言上せる解文を載て、日者不字御山燒、由二何祟一者、即卜申云、若恠所有二兵革疾疫事一歟者とあり、此治安元年より二十三年許前の事なり、又紀略に、後一條天皇長元六年二月十日丙午、軒廊御卜、駿河國言上、去年十二月十六日富士山火ク起レ自レ峯〈一に嶺とあり〉至二山脚一、又扶桑略紀永保三年二月二十八日癸卯條に、有二富士山燃恠一焉とも見ゆ、考合スべし、〉其は更科日記に、其山の状いと世に見えぬ状なり、状異なる山の姿の紺青(コムジヤウ)をぬりたる様なるに、雪の消る世もなく積りたれば、色濃絹に白きあこめ衣(キ)たらむやうに見えて、山の嶺の少平(タヒラギ)たるより、煙は立チ上る、夕暮は火の燃立も見ゆと云るにて知べし、〈更科日記は、菅原孝標朝臣女の記にて、治安元年父朝臣に從て、上總國より京に上ラれし時の道ノ記なり、〉然るを十六夜日記に、富士の山を見れば煙も立ず、昔父の朝臣に誘れて、いかに鳴海の浦なればなど詠し頃、遠江の國までは見しかば、富士の煙の末も朝夕たしかに
p.0863 見えし物を、いつの年よりか絶しと問へば、さだかに答る人だになし、誰が方に靡果てか富士の根の煙の末の見えず成らむ、古今の序の詞まで思出れて、朽果し名柄(ナガラ)の橋を造ばや富士の烟も立ずなりなば、と云り、然れば此頃復既に絶たるなり、〈此日記は、藤原爲家卿の後妻なりし阿佛尼と云る人の訴事有て、建治三年十月の頃に、鎌倉へ下るヽ時のを、弘安三年に記れたる物なり、又父朝臣に云々とは、續古今集に思事侍比、父平度繁朝臣の遠江國に罷けるに、心ならず伴て、鳴海の浦を過とて詠侍ける、さても我いかになるみの浦なれば思方には遠ざかるらむ、轉寢記にも此歌見えて、後の親と頼る人、遠江より上たるかへさに、誘れて下し由見えて、父とは平度繁朝臣にて、此尼の後親なりと或人説りき、 玄道云、轉寢記に、富士の山は惟こヽもとにぞ見ゆる、雪甚白くて心細し、風に靡く烟の末も、ゆめの前に哀なれど、うへ無き物はと思けつ心のたけぞ、物悲かりけると有は、本文に能符れど、十六夜日記に、爲守主より立別れ、富士の烟を見ても、尚心ぼそさのいかにそひけむ、とある返し、かりそめに立別れても子を思ふおもひを富士の烟とぞ見し、と有は、いかにと云に、京にて知ず詠に詠るに、知られしにて、共に譌(ヲソ)歌なればなり、又海道記は、誰人の作にや知ねど、大かた同比の物なるべきを、富士の高根に烟を望ば、臘雪宿して雲獨むすび云々とも、問きつる富士の煙は空に消て雲になごりの面陰ぞ立つ、と云歌も見ゆ、さて源頼朝卿が、富士野狩の古圖にも、烟の立状を畫けりと、或人も説ひ、平家物語、曾我物語にも、富士の烟の事を記し、新古今集にも、西行が、風に靡く富士の烟の空に消えて行方も知らぬ我心かな、頼朝卿の、道すがら富士の烟もわかざりき晴るまもなき空のけしきに、と有を見ても、其比また燃し事知るめり、詞林採要抄に、俗傳に云、昔は此山もゆる事甚くして、火焰天に上り、黒烟日を隱し、磐石を降し、熱湯をながし、隣國鳴動して草木枯渇、東作西收、民の愁有けるが、清和天皇御宇貞觀年中より、此煙絶て立ずと云り、其昔の燒石、此山の四方の麓に、數十里に及で充滿り、于レ今在レ之云、時知ぬ富士の煙も秋の夜の月の爲にや立ずなりけむ、と記せるは、甚疎考なり、〉是より後の物にては、宗良親王の李花集に、浮島が原を通て車返と云し所より、甲斐國に入て信濃へと心ざし侍しに、然ながら富士の麓を行廻侍り〈一に二字なし〉しかば、山の姿、いづ方よりも同シ様に見えて、誠に類なし、北になし南になして今日いくか富士の麓を廻きぬらむ、〈新葉集には、行廻らむに作る、〉信濃國に行つきぬれば、送の者歸り侍し次に、駿河なりし人の許へ申遣侍し、富士のねの煙を見ても君とへよ淺間の嶽はいかヾ燃ると、と有り、〈こは新葉集をも校へ合て、今の要有事のみを抄キ出せるなり、 玄道云、李花集に、又駿河國貞長が許に興良親王在由聞て、暫立寄侍しに、富士の煙もやどのあつけに立ならぶ心ちして、宲にめづらしげなきやうなれど、都の人はいかに見はやしなましと、先思出らるれば、山の姿などゑにかきて爲家卿の許へ遣とて、みせばやな語ば更に言のはも及ぬふじの高ね成けり、とも見ゆ、さて此は大かた興國より正平初の比になむ有べきを、宗久が觀應即正平五六年の比に、東國に遊し都のつとと云物に、富士の山を見渡せば、甚深く霞こめて、時知ぬ山とも更に見えずとて、富士のねの烟の末は絶にしをふりける雪や消エせざるらむ、と有を見れば、燃もし、或は絶も〉
p.0864 〈したるにや、又元弘元年七月七日大地震に、此山數百丈崩し事、太平記南朝記等に載り、〉此御歌に據ば、興國の頃又煙の立たりし事しるし、是より後の事は博も攷ず、かくて近世の大じき荒びは、寶永四年と云年の神火にぞ有ける、〈此事種々の書に記せる中に、寺島良安が書に、寶永四年十一月二十三日夜、地震二度、鳴動不レ止、巳刻富士山燒炎高煙聳、焦土降二數十里一、南至二岡部一、艮栗橋、翌日稍止、又自二二十五六兩日一、大燒、嵒石碎飛、土砂焦散、灰埋二原及吉原之地一、高五六尺、至二江戸之地一高五六寸、而所二燒出一爲二大空穴一、其旁贅二生小山一、呼稱二寶永山一と云るは、簡にして精き説なり、(中略)玄道云、不盡獄志に、承平長元永保の火の事をも云、元弘紀元七月岳崩數百丈後三百七十餘年有二寶永之災一と記せり、〉
p.0864 承平七年十一月某日、甲斐國言、駿河國富士山神火埋二水海一、
p.0864 長保元年三月七日庚申、午後左大臣、右大臣、内大臣、著二左仗座一、召二神祇官并陰陽寮一仰云、駿河國言上解文云、日者不字御山燒由、何祟者、即卜申云、若恠所有二兵卒疾疫事一歟者、
p.0864 長元六年二月十日丙午、駿河國言上、去年十二月十六日、富士山火、起レ自レ峯至二山脚一、
p.0864 永保三年三月二十八日、有二富士山燒燃恠一焉、
p.0864 天下怪異事 同年〈◯元弘元年〉七月三日、大地震有テ、紀伊國千里濱遠干潟、俄ニ陸地ナル事二十餘町也、又同七日酉刻ニ地震有テ富士ノ絶頂崩ル事數百丈也ト、卜部宿禰大龜ヲ燒テ占ヒ、陰陽博士占文ヲ啓テ見ニ、國王位ヲ易、大臣遭災トアリ、
p.0864 富士山噴火實況覺書〈寶永四年〉 寶永四〈丁〉十月富士山表口駿州大宮之民屋濱其後地震日々無レ止、而月を越十一月十日比ゟ、富士山麓一日之内に、三四度ヅヽ鳴動する事甚し、同廿二日之夜、地震之する事三十度計、翌日之朝六ツに大地震、女人子ども周章顚倒者、其數夥敷、然どひ死者は壹人も無レ之候、同朝五ツに、又大地震、鳴動する事車輪如レ轟、而富士山麓、駿州印野村之上木山と砂山との境より、煙埋卷立登、其音如レ雷に而、民屋も忽潰ごとくに動く故に、壹人も家に居住難レ成、夜に入、右之煙火
p.0865 炎となり、空に立のぼり、其内に鞠の如の白物と、火玉天を突拔ごとくにして上る事夥敷而、如レ晝輝、吹出る煙東へ押拂、雲の内にて鳴動する事如レ雷、天地に響、忽如レ落而、火元より雲先迄如二稻妻一にて、夜は微塵も見へて、晝より輝、〈◯中略〉須走村を始、みくりや領、廿三日晝五ツ時分より暗して、晝夜の分も不レ知、始には白灰をふらし、次には白色にして鹽石のごとく大なる輕き石降、其内に火氣を含、落ては則火炎と燃上る、廿三日之晝七ツに、須走村禰宜大和家ニ火の玉落、忽炎燒、須走町之者、石のふるを凌ぎ立噪處に、夜九ツに又町之内へ火石落不レ殘須走村燒拂、廿三日ゟ廿七日、迄五日之内砂之ふる事壹丈三尺餘、下は御殿場仁杉村を切、東はみくりや領足柄迄、砂のふる事或は三尺或四尺計ヅヽ降積、谷河は埋て平地となり、竹木は色を片て枯山となる、人の住べき様なし、廿七日之夜中より、煙の出事日々薄して、月を越十二月九日之晩、又右之如くに夥敷燒上りて鳴動す、其夜半比、何やら二度火元ゟ東海面へはねるを皆人聞、九日朝自煙消る、十日朝雪降、晝七ツに雲晴てあらはる、右之燒出し穴口より須走村之上へかヽり、富士山麓に大なる如二寶珠一の新山出る、誠に吉田之儀は、本より神職淺間之守護深き故、須走境か古坂を切、下は上の原境を切、郡内領之内少燒煙不レ懸、殊に少も砂のふる所なし、折々煙棚引といへども、西風起て吹拂、片時も暗事を不レ得して、旦那場へ出さる、御師は廿三日ゟ淺間之寶前に集り、日々御山御安全、天下泰平、國土安穩、諸旦那長榮之御祈禱抽二丹誠一、煙鎭迄御宮ニ參籠而、感應成就、村裏無難之御札進上仕候、何も御覽之ため、如レ斯ニ御座候、
p.0865 富士山燒之事 寶永四丁亥年十一月廿日頃ゟ、江府(ゴウフ)中天氣曇、寒氣甚敷、朦朧たるに、同廿三日午刻時分、いづく共なく震動し、雷鳴頻にて、西ゟ南へ墨を塗たる如き黒雲たなびき、雲間ゟ夕陽移りて、物すさまじき氣色成るが、程なく黒雲一面に成り闇夜の如く、晝八時ゟ、鼠色成る灰を降す、江府の諸人魂を
p.0866 消して惑ふ處に、老人の申しけるは、此事八九年以前加様の事有り、是は定て信州淺間の燒る灰ならむと云、仍テ諸人少心を取直しけるに、段々晩景に至、夜に入るに隨て彌強く降しきり、後には黒き砂大夕立の如く降來て、終夜震動し、戸障子抔も響き裂、恐しさたとへん方なし、總じて晝八つ過ゟは、空暗き事夜の如く、物の相色(アイロ)も見へ分(ワカ)ねば、悉家々に燈をとぼし、往來も絶々に、廼通行の人は、此砂に觸れて目くるめき、怪我抔をせしも有とかや、諸人に何の所以を不レ知ば、是なん世の滅するにやと、女ナ童は泣さけぶ處に、翌日富士山燒候由、注進有てこそ、扨は其砂を吹出して如レ此ならんと、始て人心地ぞ付たりける、砂降積る事凡七八寸、所に寄一尺餘も積しとぞ、事畢て、砂を掃除すといへども、板屋抔は七八年過候以後迄も、風立候折には砂を屋根ゟ吹落し、難儀いたしける由、亦翌月ゟ春に至、感冒咳嗽一般にはやり、家々一人も洩ず是に惱さる、其節狂歌に、是やこの行も歸も風ひきて知るもしらぬも大方は咳、前代未聞の事共也、右之刻駿州富士郡ゟ注進之趣、 昨廿二日、晝八時ゟ、今廿三日迄の間、地震間もなく、三十度程ゆり、民家夥敷潰れ申候、扨廿三日晝四時ゟ、富士山夥敷鳴出(ナリイデ)、富士郡一チ面響渡、男女絶入仕ル者多くとも、死人は無二御座一候、然處に山上ゟ煙夥く卷き出し、山大地共に鳴渡、富士郡中一面に烟渦卷候故いか様の譯共不二相知一、人々十(ト)方を失ひ罷在候、晝の内は煙計相見候處、夜に入候へば一遍に火炎に相成候、其以後如何様に成候哉不レ奉レ存、先右燒出シ候節、不二取敢一爲二御注意一罷越候故、委細之義は跡ゟ追々可二申上一候由、 右注進の後、彌火氣熾に成、土砂石礫を吹飛し、遠國廿里四方へ砂石を降せ申候、伊豆、相模、駿河は所々寄て貳丈餘も降積、堂社民屋も埋レ、勿論田畑ノ荒レ夥しく、日を經て稍々燒鎭ぬ、其土砂を吹出せし所穴と成、其穴の口に大なる山を生ず、世俗呼で寶永山と號、本ニ海道の方ゟ眺(ミレ)ば、右流(ナガレ)
p.0867 の半ン腹クに、彼ノ塊(カタマリ)山出來て瘤の如く、左計三ン國無雙の名山ンに、此時少き瑕の出來しこそ恨なれ、
p.0867 富士山燒火覺書〈◯寶永四年〉 覺 富士山燒所之儀、昨晦日、同夜中、今朔日之朝迄、最前申上候通別條無二御座一候、少々宛山上ニ煙登リ候様ニ相見江、震動之儀者最前ゟ減候由、右場所ニ附置候手代方ゟ申越候、駿府邊ゟ見分仕候而茂、煙之様子別條無二御座一、東之方江煙立登申候、勿論駿府邊震動抔仕候儀無二御座一候、以上、 十二月朔日 能勢權兵衞
p.0867 淺間嶽 天武紀曰、白鳳十四年三月、信濃國灰降、草木枯云々、今按、これ恐くは此山の異をあげたるべし、絶頂の大坑つねに煙立のぼり、硫黄の氣あり、〈坑廣大略三百間許〉坑中に硫黄みつる時、地火突發し大石ほとばしり、砂石を降して麓をやく其音數百里に聞ゆ、故に此山ひとり兀として四時すさまじ、貫之ぬしの詠じ給ふ千磐破あさまのだけ、煙のみ立つヾきて、いく千載震動、雲を焦しつ、山のすがたも變るばかりぞあらん、〈◯中略〉淺間が嶽は國のみなかになり出て深からず、驛路其肩をめぐれば、路行人も高をおぼへず、〈或は、あさまは、火の梵語也といふは、うがてるにや、〉されど遠く眺ば、富士に續く何がしのたけなる、明の申叔方海東諸國記に、此山四時白雪をつむといへるは、不盡の高根にまがへるとかや、今夏月の雪まれなれど、立春の後百餘ケ日、霜沍て雪のあしたの如し、又中秋より露寒く、或は霜早く來て、毛作を刺(サス)、故に耕の日せまれり、傳聞、むかしは寒氣強く、鍋釜凍(イテ)破だりと、今はかヽる事なし、されば秦の代に寒強く、漢に至て暖なりと、苛政は虎よりはげし、今難レ有順化にあふて、年の寒燠もそれにしたがへるなるべし、
p.0867 淺間山
p.0868 此山は當國一の大山なり、おもては佐久小縣兩郡へ跨り、裏は上野國吾妻郡也、本朝に燒る山數多あれども、かくの如きはなし、年中一日も燒ざる日なし、大燒は三四年に一度ありて、其時は千雷万雷の如く、巨木をぬきて谷に横たへ、大石を飛して空にひるがへる、其煙幾万仭といふ事なく立のぼり、其煙崩れ倒るヽ時、半天より亂火を降していとすさまし、煙西へなびきかへるを凶とす、常は東へなびき倒るヽ其下は燒たる砂石を降する事、盆をくつがへすが如し、四月八日巳の刻迄に、諸人精進して是に詣ず、午の時に及べば燒出る事あり、よつて詣る事あたはず、宿を宵に出て巳の刻に及て下山するなり、
p.0868 むかしをとこありけり、京やすみうかりけん、あづまのかたにゆきてすみ所もとむとて、友とする人ひとりふたりしてゆきけり、しなのヽくに、あさまのだけにけぶりのたつをみて(○○○○○○○○○○○○○○○○)、 しなのなるあさまのたけにたつ煙をちこち〈◯こち一本作二かた一〉びとの見やはとがめぬ
p.0868 しなのへまかりける人に、たきものつかはすとて、 するが しなのなるあさまの山ももゆなればふじのけぶりのかひやなからん
p.0868 天仁元年九月五日、左中辨長忠、於二陣頭一談云、近日上野國司進二解状一云、國中有二高山一、稱二麻間峯一而從二治暦間一、峯中細煙出來、其後微々也、從二今年七月廿一日一、猛火燒二山巓一、其煙屬レ天、沙礫滿レ國、煨燼積レ庭、國内田畠、依レ之已以滅亡、一國之災、未レ有二如レ此事一、依二希有之恠一、所二記置一也、 廿三日、今日午時許、有二軒廊御卜一、上卿源大納言、〈俊〉上野國言上、麻間山峯事、
p.0868 淺間山の火 抑此淺間山は、信濃國佐久郡と、上野國吾妻郡とに跨り、兩國の界にては、最第一の高山なり、されば先年、〈文化の頃か、猶尋ぬべし、〉國人互に自國の山といふ諍ひ出來て、おほやけに訴へければ、實撿使を
p.0869 も遣はされなどしつれど、とかく事きれずして、年月を經る程に、信濃なる訴訟人は、頗ル世才ある者にや有けむ、心きヽたる者を、京の扇師がりのぼせて、彼山の形状を扇數千本に寫させ、信濃なる淺間が嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ、といふ〈伊勢物語及新古今集羈旅ノ部にいづ〉古歌を賛とし、それの日迄に調ぜよと約して、偖其後は取にも得ゆかず、しらぬ顏して歸國せしかば、扇師はすみやかに折はて、月を經てまてどもたよりもなければ、止事を得ず賣弘めたりけん、程なく此扇都鄙に流布して、おのづから彼公事に關かりたりける、司人(ツカサビト)の手にもいりたりしかば、誠や此古歌こそよき證なれとて、既(ヤガ)て事きれて信濃人は勝チぬと、其國人に聞しことあり、今此上野國司の解状に、國中有二高山一稱二麻間峯一とあるを見れば、彼古歌にこそは信濃なると見えたれ、それは上古のためしなるべし、〈信濃の木曾も古代は美濃に屬(ツケ)り、古今地理の沿革は、此他にも猶多かり、〉中頃より後は轉(ウツ)りて、上野國に屬りしなるべし、もし彼裁許せし公人(オホヤケビト)の、此解状をみしられましかば、何れを勝とか決斷せられむ、
p.0869 大が松といへる所を過侍るとて、〈◯中略〉この所より信濃の淺間の嶽近々と見え侍るを、聞しにも過ぎて、其風情すぐれ侍りき、 今はよに烟をたえてしなのなる淺間の嶽は名のみ立けり
p.0869 廻國雜記に、いまは世に煙をたえて、信濃なる淺間が嶽は名のみ立けり、トヨメルヲ思ヘバ、文明ノ頃ハ煙ノタエシ事アリシニヤ、近キ大燒ハ、天明三年七月ナリキ、富士燒ノ事ハ、國史ニアマタ見ユレド、淺間燒ノ事ハ見アタラズ、日本書紀天武天皇白鳳十四年、灰零二於信濃國一、草木皆枯トアルモ、淺間ヨリ降シナルベシ、〈此事ハ上信日記、信濃地名考等ニモイヘリ、〉
p.0869 慶長八年十二月三日、淺間山三四箇度鳴、此響三州美濃ヘ聞ケル、 十年十一月下旬ヨリ、信州淺間山燒事多レ之、然シテ午ノ正月末ヨリ不レ燒、
p.0870 信州淺間山は、昔より燒て、歌にもよめり、今冬享保七壬寅十月十日比より、烟り立し、十三日より大キに燒侍る、神無月廿六日の夜より、東都灰砂ふる、〈是は山の灰なり、先年富士山燒し時の如し、但シ砂は白き方也、〉是より地鳴動する事夥しとなん、上州沼田城邊の人は、人心地もなく侍りしとかや、〈賢按、其後又天明三卯七月燒出し、關東砂降申候、〉
p.0870 天明三卯年十二月 當秋淺間山燒ニ付、中山道宿々之内砂降宿方、及二困窮一候ニ付、板橋より鴻巣迄、七ケ宿、人馬賃錢二割増、熊ケ谷ゟ輕井澤迄、拾壹ケ宿者、三割増積、 右者當卯十二月十五日ゟ來ル戌十二月十五日迄、中年七ケ年之間、増錢請取候様、宿々江申渡候間、可レ被レ得二其意一候、 右之趣、向々可レ被二相觸一候、 十二月
p.0870 淺間山 天明三年癸卯七月、信濃國淺間山ノ火坑大ニ燒ク、烏雲天ニ覆ヒ、炎氣空ニ接ス、震響二千里一、京師ノ人家、窗戸此ガ爲ニ動搖ス、巨巖大石砂土ノ燒ル者、トモニ數里ノ外ニ飄散シ、田畠皆焦土ニ埋ル、火坑土泥ヲ湧出シ、吾妻河、及利根川壅塞シテ、水流絶エ、河邊ニ連ル村落土泥ニ埋ミ、死傷溺死之人類牛馬其數ヲシラズ、
p.0870 信州淺間燒 嘗聞、天明三癸卯年七月、信州淺間嶽燒の事、六月末頃より其兆有て、七月上旬に至り、夥敷燒出、煙氣東北へ吹覆ひて、信濃路よりは上州の方特に甚し、仍て信濃兩國の荒川ゟの洪水、今古未曾有と沙汰せり、去ながら此事古來無きにしも非ず、延寶天和の頃にや、年暦は聢と不レ考、浩る事有て、
p.0871 江都をも砂灰を吹飛しぬる由、古老の物がたりを承り傳えぬ、今も信濃路の驛には、其時落たりし燒石にて、石垣など積たる所有るよしなり、其後百餘年は、此例を聞かず、その時の荒は、いか程のなりしやいざ不レ知、こだいの咄しは、きくも怖しき事なめり、關所なども崩失せ、何の里、かの村跡方もなくなり、人馬の損亡、万を以て算へがたく、木曾路是が爲に久敷通行なし、たとへば淺間崩し平均して、地形を築たる程に、驛路高く成ぬれども、淺間は却て元よりも、高く成たる様に見ゆるとかや、燒出砂石にて、地形堆高くなれるを取捨んとしても、億万の人足を掛ても之を爲さん事難し、其上取捨べき捨所もなし、せん方なく之を引平均(ナラ)して、立毛を植付試みるに、焦土燒砂なれば、作毛一切立たず、亡所數限も無となん、
p.0871 市中灰降る 天明元年、田沼侯御老職御勝手、同三年關東飢饉、〈下に其略を記す〉 同年七月六日、夕七つ半比、西北の方鳴動、諸人肝を冷す、翌七日猶甚しく、江戸中に灰ふる、是淺間山の燒けたるなり、此時おのれ十五歳なり、六日は時ならぬ風吹き、北烈しかりしゆゑ、屋根などに灰のつもりしを、人々灰ともおもはず、風塵とのみ見すごしけるに、六日の夜中、積りし灰を、七日の朝、人々見て愕然せざるはなし、おのれも硯箱の塗ぶたを、物干にしばし出だし置きたるを取りいれ、指頭にて字を書きて試みしに、霜の厚く降りたるが如し、家内うちよりて是を見て、いかなる天變にやと、いろ〳〵に評しけるに、家翁いひけるやう、寶永四年、不二山燒けたる時、江戸に灰のふりしことあり、昨日鳴動したるは西北の方なり、此方に當りて、江戸近き高山は淺間なり、常にも燒くる山なれば、おそらくは淺間の大燒ならんといはれけるに、人はしかりともおもはず、此日は一日往來もまれなり、八日は快晴無風、灰も降らず、諸人安堵しけるにや、往來常の如し、九日の夕方、亡兄の友なりし、伊勢町の米問屋丁子屋兵衞門が長男斐太郞とて、千蔭翁の書も
p.0872 歌も門人なるが來り、上州よりの書状なりとて見せけるに、淺間の燒けはじめて騷然たり、亡兄家翁が推量の違はざるを感服せられき、家翁は享保七年の生れなれば、近き寶永の燒を、親たちの話しにも聞かれしならん、
p.0872 淺間岳ハ、追分ヲ出テ遙拜スルニ、朝霧ノ間ヨリ焰氣立騰ル、遠近數里ノ沙石ヲ見テ、去ヌル癸卯〈◯天明三年〉ノ變ヲ追想スルノミ、〈◯中略〉 慶長日記、十四年三月、信州淺間山、此春燒ル事夥シ、去慶長元年ノ頃、二三年打續如レ然事アリ、凶相タリシ間、此度モ下臈危レ之、 慶安三年、木曾路記、追分、家六十中ノ宿ナリ、右ニ追分アリ、北ノ道ハ北國道ナリ、此邊淺間ノフモトナリ、先年岳大燒セシ時ニ、飛ケル燒石、馬蹄ノサリアエヌ程多シ、登レバ右ニ淺間ノ岳ヲ見上ル、 岐蘇路記、淺間岳ハ極テ高シトイヘドモ、麓ノ地高キ故、甚高クハ見ヘズ、山上常ニ烟立事、甑ノ氣ノ上ルガ如ク、又雲ノ如シ、此山半ヨリ上ニ草木生ゼズ、一日ノ内シバシ烟ナキ時アリ、大燒スル時ハ、五里七里ノ間夥ク鳴動シテ、皿茶碗ノ類ヒヾキテ破ルヽコトアリ、燒石モ飛トイフ、燒石ノ如クナル石路旁ニ多シ、常ノ石ヨリ輕シ、大燒ハ希ナリ、小燒ハ時々アリ、江戸ノ邊ヘモ、大燒ノ時ハ灰ノ飛來ルコトアリトイフ、 癸卯ノ變ハ、天明三年七月ナリ、是ヲ希有ノ大燒トス、 古クハ、天武紀白鳳十四年三月、信濃國灰降、草木枯ト記セルハ、即此山ノ燒ニヤ、其他天治已前、史籍見ナシ、
p.0872 淺間山 古歌に淺間の烟を詠るは、古今集に、雲はれぬ淺間の山のあさましや人のこヽろをみてこそや
p.0873 まめ、とあるを始とす、此山つねに煙たちのぼるときは大燒なし、烟絶るときは、硫黄の氣、地中にみちて大燒あり、此穴を釜となづく、巡り一里といへり、天明の大燒より穴深き事底をしらず、日本紀に、白鳳十四年三月、信濃國灰降、草木枯とあるは、其時此山大燒ありし故なるべし、中右記云、〈◯中右記文在レ前故略〉大燒の事、其後さだかに記せしものなし、或書曰、大永七年四月大燒、又享祿四年十一月二十二日大雪降つもる事六七尺、二十七日大燒にて、麓二里程の間、石の降事雨のごとし、灰の降こと三十里に及ぶ、二十九日大雨にて燒石を押出し、麓の村々多く流失すといへり、今曠原に磊砢たる燒石は、其時の漂出なるべし、正徳元年二月二十六日大燒、震動半日にして止む、灰の降事一寸、享保八年七月二十日大燒、何事なし、同十四年十月二十日、又大燒云々、此山煙絶、穴埋りて平地となる事年あり、天明三年の春より烟たちのぼる事度々なりしが、五月二十六日大に煙立、中空に綿を重るが如し、六月九日二十九日、又大に烟たつといへども、音はなし、七月朔日より次第につよく、五日六日に至ては、黒煙天を覆ひ、震響百里に及び、八日、山破れて泥水發せし事は、古今未曾有なり、
p.0873 仁和三年七月三十日、大山頽崩、山河溢流、六郡之城廬拂レ地漂流、牛馬男女流死成レ丘、〈扶桑略記〉 按に、千曲川の變なるべし、佐久、小縣、埴科、更級、水内、高井、右六郡なり、 天明三癸卯年迄、凡八百九十八年、 應永三十四年丁未六月四日、富士と淺間山虹吹、四月より雨降つヾき、六月大洪水、川邊通大破、永正十五戊寅七月、淺間山雪降、 大永七丁亥年四月、大燒砂石降、
p.0874 慶長元丙申年四月四日より同八日迄、山鳴、大に燒上る、八日午刻、大石降落、人多く死す、數不レ知、正保二年乙酉四月二十六日、大燒、〈閏五月にあり〉 同四年二月十九日、大燒、 慶安元戊子年閏正月二十六日、辰刻大燒、古老の曰、此時大雪四尺餘、雪解けて追分驛流失すと云、同七月十一日、大燒、同二年己丑七月十日、大燒、 承應元壬辰年三月四日、大燒、 明暦二乙未十月二十五日、卯刻大燒、 萬治二己亥六月五日、卯刻大に鳴燒、 寛文元辛丑三月十五日、大燒、同二十八日、大燒、〈閏八月にあり〉 寶永元甲甲正月朔日、大燒度々、同五年戊子十一月十八日の夜、江戸へ砂降、御撿使來る、〈閏正月にあり〉 享保三戊戌九月三日、前欠山より、火山南岳江飛び、大に鳴る、 同六年五月二十八日、大燒、人拾六人死、〈閏七月にあり〉 〈傳に曰、本庄のもの參詣のよし、〉 同八年癸卯正月朔日、大燒、同八月二十六日、大霜降、〈作毛皆無〉 同十八年癸丑六月二十日、夜四ツ時大燒、黒野皆火になる、 寶暦四甲戌七月二日、大鳴燒、近國灰降、中にも佐久小縣一日煙地を這ひ、朧にして時を知らず、作毛痛れ、秋過迄度々燒、 安永五丙申七月二十三日、卯刻大燒、同六年、燒事度々なり、 〈俗に曰、閏有年登山せずと云傳ふ、先代大やけ、閏年度々有、〉 右古代の記録、委しくは他にあらんや、年をかくしるす、
p.0875 一淺間が岳は、絶頂凹にして底深く、たとへば擂鉢の如し、是を釜と唱ふ、ふちめぐり凡一里餘有、中なる谷々より常に烟出る時は、硫黄解て器物より覆が如くにへ流れける、然る所、明和年中より以來、釜の中次第に砂石こぼれ積り、又底よりも土龍の起す如く、硫黄の氣にて砂石涌上り、數年大燒止ていよ〳〵埋り、四五年已來わけて埋る事數十丈、深き大坑平地にひとし、去寅年望見るに、釜凸にして炭竈の如く、巖石積上げ大山となりぬ、近頃登山見る人毎に、間のあたり大やけあらむ、釜の中埋りたる事不審なりと口々に云傳ふ、是前表とや云はん、 一天明三癸卯年五月二十六日、已刻半雷の如く鳴渡り、黒燒雲の手の如く吹上げ、たヾちに山より東の方へ折て鼻田峠、蒲原村、六里が原、碓氷山つヾきへ横たへ、見渡し數十里、午の刻過て出口のけぶり半分へり、鳴も靜まる、然れども是より日夜烟ふとく絶へず出でたり、
p.0875 信州淺間山上州吾妻山一件〈◯中略〉 原田清右衞門御代官所 高合千六百四十石餘 上州群馬郡 南牧村 北牧村 川島村 合 男二千百七十人 女千二百十人 牛馬百七十疋 家數三百六十軒 右村々近所、上州吾妻山と申山有レ之、去月中旬より淺間山燒砂降候處、當八日、右吾妻山拔出夥敷、一度に大石砂押出、右三ケ村民家悉く打潰、人馬共に利根川へ押流、翌九日利根川權現堂一川江戸川へ流出候様子、大き成立木根付候儘、並家居諸道具悉くこま〴〵に碎ケ、溺死人馬共
p.0876 流候事、前代未聞之由、右川通りより注進有レ之候、 一此間打續日照にて有レ之候所、俄に八日泥水三四尺相増し、右之通利根川流失有レ之候故歟、鯉どじよう鱣の類浮上り、河岸へ寄、千計り手取に相成候由、 一上州利根川邊、所により石砂大木も押埋メ、歩行渡りに相成申候、 一杢之橋御關所流失之由 七月
p.0876 應永十五年正月十八日、野州那須山燒崩、同日硫黄空ヨリ降、常州那珂河硫黄、〈本マヽ〉五六年也、〈◯中略〉同十七年庚寅正月二十一日、又那須山燒崩、麓里打埋、人百八十餘打殺、牛馬其數ヲ知ラズ、同日天鳴事夥、雷ノ聲ノ如ク、空ニハ雲、〈本マヽ〉大島モ鳴、勘状ニハ天狗動ト云ヘリ、
p.0876 【盤大】(バンダイ)【山】 在二猪苗代湖東一、大山嶮岨、嵿有二炎氣一、有レ淵蒼蒼、猛波泝起、俗謂二之地獄一、
p.0876 會津山(○○○) 在二猪苗代湖東一、蒼嶺亘二南北一、而白雲遶二山腰一、積翠聳二青空一、是所レ謂【磐梯】(イハハシ)【山】也、嶺上見二焦烟一、湛二湖水一、碧鱗壘レ紋、山下有二毒石一、觸レ之者乃死、土人曰二之殺人石(ヒトトリ)一、蓋殺生石之屬乎、
p.0876 盤大山、高山ナリト云ドモ、飯豐山トクラブレバ大ニ低シ、山ノ頂ニ盤大權現ヲ崇ル、麓ヨリ西道百十餘丁、夏月參詣の人多し、山ノ半ニ温泉アリ、此山硫黄ノ氣強シテ諸草木ナシ、石色モスヽフリテ悉ク赤シ、鳥獸モ住コトアタハズ、和漢三才圖會此外ノ板本ニ毒石アリト記シ有ハ妄説ナリ、若松ヨリ五里ト云、
p.0876 盤大山の炎 陸奧國何郡と聞しが忘たりや、筆記に書おとしたり、所は猪苗代といふ所に湖水あり、景色はなはだおもしろし、東に大山あり、盤大山となづく、嶮々たる高峯の嶺より、炎火たちのぼる事は烈
p.0877 烈として、其煙雲とひとしく、天を焦す勢なり、傍に淵あり、水波灘々とし、時々なみさかだち、風を起し、邊をはらふ氣色、尋常の事にあらず、因て方俗こヽを地獄といふ、
p.0877 燒山 在二南部領一〈自二大畑登三里半計〉 此山不時有レ燒、故名レ之、 開基慈覺大師、作二千體石地藏一、中尊長五尺許、其他小佛、而人取去、今僅存、近頃有二僧圓空者一、修二補千體像一、 商賈有二竹内與兵衞者一、用二唐銅一作二彌陀大日藥師三像一安レ之、 嵿上有二三塗川及塞河原一、層二小石一爲二塔形一、又有二一百三十六地獄一而名二修羅一者、地面皆石、而凡長二十五六丈、幅五六丈、其石面如二血色一者散染、亦一異也、名二劒山一者、滿山石悉有二劒尖一、而如二刀鋒一、然其餘酒造家、藍染家、麴造家等之地獄、皆現二其色状一、凡有二硫黄一山、必火煙出、温泉涌、故自可レ謂二地獄一者有レ之、殊當山與二肥前温泉嶽一、見人莫レ不二驚歎一、
p.0877 おそれ山の事は、燒山と記して、和漢三才圖會にも歌わせし、不時に燒る故に、もつて燒山と稱すとあるは、大虚説也、此山は、青森を出るよりは、日々面白く見る山にて、さしての高山といふにもあらず、浦々にて、此山の燒し事を見しものありやと、案内のものは云に及ばず、人人に尋ねし事なるに、老人の申傳へにも、恐れ山の燒しといふ事は承り不レ申、雲霧の常に峯にかかりしも見れば、煙りのごとく見へる事ゆへ、たま〳〵來し旅人の煙と見て、燒るといひし事なるらん、と皆々云ひし事也、日本僅の國ながらも、其地に至らずして、人の物語を信じて書に顯す故に、大に違ひし事の有と思われ侍る也、
p.0877 南部之燒山 奧州南部領八之戸(へ)より程ちかき所に、大畑〈云〉村より登る山なり、峠までの道法三里半といふ、此山の絶頂は、時として一陽の火おこり、猛火焰々として燃あがり、煙雲を拂ふ有さまなるが、又時
p.0878 いたれば、消て常のごとし、因て燒山といふ、山上みな石にして、諸の地獄をかたどれり、三途川あり、賽の河原は、小石をもつて塔をつみかさねたり、修羅道は石の面みな血に染たり、劒の山さながら鎗鉾のごとく尖ておそろしく、其外それ〴〵の地獄いろ〳〵あり、
p.0878 貞觀十三年五月十六日辛酉、先レ是出羽國司言、從三位勳五等大物忌神社、在二飽海郡山上一、巖石壁立、人跡稀レ到、夏冬戴レ雪、禿無二草木一、去四月八日、山上有レ火、燒二土石一、又有レ聲如レ雷、自レ山所レ出之河、泥水泛溢、其色青黒、臭氣充滿、人不レ堪レ聞、死魚多浮、擁塞不レ流、有二兩大蛇一、長十許丈、相流出入二於海口一、小蛇隨者不レ知二其數一、縁二河苗稼流損一者多、或染二濁水臭氣一、朽而猶不レ生、聞二于古老一、未三嘗有二如レ此之異一、但弘仁年中見レ火、其後不レ幾有レ事二兵仗一、決二之蓍龜一、並云、彼國名神、因三所レ禱未レ賽、又冢墓骸骨汚二其山水田一、是發レ怒、燒レ山致二此災異一、若不二鎭謝一、可レ有二兵役一、是日下二知國宰一、賽二宿禱一、去二舊骸汗一并行二鎭謝之法一焉、
p.0878 天慶二年四月十九日庚寅、諸卿參入、昨日被レ定二官符等一、請二結政請印一、給二彼國使一了、官符三通、皆給二出羽國一、〈◯中略〉一通鎭守正二位勳三等大物忌明神山燃〈有二御占一〉事怪、〈◯此下文闕〉
p.0878 白山(しらやま)〈越乃白山 絶頂有レ池、名二美止利池一云、〉 按、元正天皇養老年中、越大徳〈後號二泰澄大師一〉初開二當山一、〈傳見二越前平泉寺之下一〉四時有レ雪、故呼曰二越乃白山一、又曰二加賀白山一、但在二加越之堺一、又跨二於飛騨越中一大山也、此山開闢百有餘年後、〈弘仁十四年〉分二越前一出二加賀國一、則加賀亦舊越路也、近頃加越有二山論一未レ決、 四條院延應元年白山自燒 後奈良院天文二十三年五月、亦自燒出、而麓地獄出云々、 毎六月中旬以後迄二七月中旬一、候二雪稱解一、登レ山、雖二三伏日一、著二絮衣(ワタイレ)一尚寒、最潔齋可レ登、〈有下登二於加賀一道上、自二越前一登道記二于左一、◯下略〉
p.0878 天文十六年二月二日乙酉、加賀白山燒出云、〈年代略記〉 二十三年五月日、加賀白山燒、〈皇年私記、年代略記、〉
p.0879 修行僧至二越中國立山一會二小女一語第七 今昔、越中ノ國ノ郡ニ、立山ト云フ所有リ、昔ヨリ彼ノ山ニ地獄有ト云ヒ傳ヘタリ、其ノ所ノ様ハ、原ノ遙ニ廣キ野山也、其ノ谷ニ百千ノ出湯有リ、深キ穴ノ中ヨリ涌出ヅ、巖ヲ以テ穴ヲ覆ヘルニ、湯荒ク涌テ、巖ノ邊ヨリ涌出ルニ、大ナル巖動ク、勢氣滿テ人近付キ見ルニ極メテ恐シ、亦其ノ原ノ奧ノ方ニ、大ナル火ノ柱有リ、常ニ燒ケテ燃ユ、亦其ノ所ニ大ナル峯有リ、帝釋ノ嶽ト名付タリ、此レ天帝釋冥官ノ集會ヒ給テ、衆生ノ善惡ノ業ヲ勘ヘ定ムル所也ト云ヘリ、其ノ地獄ノ原ノ谷ニ大ナル瀧有リ、高サ十餘丈也、此レヲ勝妙ノ瀧ト名付タリ、白キ布ヲ張ルニ似タリ、而ルニ昔ヨリ傳ヘ云フ様、日本國ノ人罪ヲ造テ、多ク此ノ立山ノ地獄ニ墮ツト云ヘリ、
p.0879 かくて立山に禪定し侍りけるに、先三途川に到りて思ひつヾけける、 此身にて渡るも嬉しみつせ川さりとも後の世には沈まじ、翌日下山のついでに、もろ〳〵の地獄を廻りけるに、熱湯の體、火炎など取々に淺ましかりければ、 しでの山其しな〴〵や湧かへる湯玉に罪の數をみすらん、禪定する〳〵ととけて、下向し侍る道にて、 都をばとをくこしぢにかへる山ありとなぐさむ旅の空哉
p.0879 鶴見山 在二朝見郷鶴見村一、 巍嶙峋、東方崛峙、西對二由布一、秀拔不二相讓一、兩山接レ裾之處曰二迫途一、由布西北茂林中、自二十月一至二二三月一、群鶴集栖數百、遠望レ之、則白日翺翔如二飛雪一、或名取レ之、山上有二神祠及三池一、法二于神祠下一、故祠之址、老杉數株、凌レ霄矗立、其前山有二巨石一、大九尺計、名二躍石一、其躍上數十丈、聲聞二一里餘一、相謂爲二風雨之兆一、蓋零陵石燕之類也、多産二硫黄礬石一、山常有レ火、自レ古山崩泉溢之災、往々國史所レ紀、注二于祥異之下一、
p.0879 由布山ハ、俗ニ湯ノ嶽トイフ、其高サ三里許、絶頂東西ノ兩嶽向ヒ合テ、其間ニ幾千
p.0880 丈トモ知レヌ谷アリ、所レ謂石窟石室ナド、皆此中ニヤ、又山半ニ池アリ、池城ト名付ク、旱魃ニ雨ヲ乞ヘバ、必靈驗アリトゾ、此山遠望富士ニ似タリトテ、人皆是ヲ豐後富士ト稱ス、
p.0880 豐國紀行、鶴見山ノ西ニ湯嶽アリ、是柚布山ナリ、又木綿山トモイフ、古歌アリ、名所ナリ、俗ニ筑紫ノ富士トイフ、極テ高山ナリ、鶴見嶽ヨリ猶高シ、此山ノ下ニ抽布院トイフ村アリ、所々温泉アリ、
p.0880 雲仙ケ嶽〈俗に温泉が嶽といふ〉は高山にして、昔八寺院三千坊ありて、今の高野山のごとく、食地も多、繁昌せし佛地也しに、元龜年中より、南蠻國より渡りし異僧此山に住して、彼のやうの法を延めて、一山こと〴〵くヤソの宗門に入て、大ひに信用し、當山より僧を九州にめぐらし、ヤソの法を弘む、肥前の國中過半、此法にかたむく、元和の頃、公儀より嚴敷禁じ給ひて、寺院を燒亡し、此法を改め、さる僧徒數百人、血の池と稱せる、熱海の涌出る池へ沈めて、一寺は殘らず破却し給ふ、是より以來異法を禁じ給ふ事、嚴重也といへども、今以九州の地は遺事殘りて、他國と違ひ御吟味つよく、繪踏(ゑふみ/ふみいた)といふ事ありて、異法の本尊を銅板に鑄付、夫を下民にふまする也、大勢の中には、踏事をいやがりて、彼本尊の上をふむまねをして、飛越るものありと風聞す、惡人を集め入には、色々怪異ある法といふ、扨此山におゐて、湯の涌出る所限りもなく、夫を地獄と稱して、さまざまの岩あり、一山硫黄の山にや、山に入ては硫黄の臭氣甚しく、今靈仙寺といふ小院一ケ寺ありて、此寺に止宿もし、茶にてものむ事になるに、茶にても水にても、硫黄の臭氣ありて呑がたく、谷々の流にも湯氣立あがりて、いかにもあやしき山也、麓に温泉ありて湯本と云、功もありとて入湯の人もある所也、此温泉計にあらず、谷々に温泉ありと土人の物がたり也、當山などへは心ある人は登らぬ事也、毒石草もあらんやと思ふ程なる、あやしき山なりき、
p.0880 地獄
p.0881 越中立山奧州宇曾利山、信州淺間嶽、豆州箱根、肥後阿蘇山、奧州外ケ濱等には、天道あり、地獄あれ共、禪定の行者ならずしては、目のあたり見る事なし、故に所説にも虚談多し、又見て眞實を語るとも、人怪しみて信ぜず、又書に傳ふる處もなし、但今昔物語に曰、越中國立山といふ所に、昔しより地獄有といひ傳へたり、〈◯中略〉此等の外、唯口述のみなれば、あるなしの論區々也、猶委しくいはんにも、常に人の至らざる地は、必ず疑ひあやしむなれば記さず、適西州に一大地獄有、此地は行者ならざる者も容易く至る所なれば、形勢を筆して、其見ぬ人に便りとす、予肥前國に遊歴せし頃、肥前國温泉山は、島原の領地也、海中に差出て、三方は海也、後に妙見山普賢山とて雙立り、地續より至れば、其兩山の間を嶝を上り下り行、半途に島原侯の番所あり、入切手を取て行也、春夏は浴湯の人もまヽ有とかや、此地は彦火々出見尊を祭れり、往古は僧坊甍をならべ、魏々たる大伽藍なりしを、切支丹耶蘇宗門に歸依して、一旦破却せられ、今纔に一乘院と云一寺のみ、曠々として哀れ寂しき有様なり、寺邊に少々平地なる所一村有て、浴室の人家あり予は十月半に至りしかば、人跡稀に雪風烈しく、別して寂寞たり、一山皆赤土にして、瓔珞つヽといふ樹木滿山せり、温泉の湯氣にや、歸り花多く咲出たり、其平地に温泉あり、人家の塹溝にも、道路の石間も、熱湯迸り出、湯氣立昇り、山間を覆ふ計り、靄々として晝は湯けぶりと見へしも、夜は皆火の如く燃上り、所所に石鳴ひヾきて唯物すさまじき體也、流出る温湯は、惡臭く鼻を突、土石皆赤く錆て、更に自餘の氣しきなし、翌日地獄廻りすべしとて、案内者に連て行しに、先三途川と名付る細き流れあり、其川向に奪衣婆(ダツヱバ)有、又側に牛頭馬頭石有、何れも地上を出る事四五尺也、近寄見れば、左も尋常の岩なれ共、少し隔て見れば、姥石は川端に臨て、少し俯伏たる様、實に 地獄の繪圖に見るが如し、髮打かぶりすさまじき形と見ゆ、牛鬼の角ある、馬鬼の蹲りたる様、罪人を待けしきに彷彿たり、六道の辻には地藏石ありて、傍に小石多く積たる、宰の河原とやいふ、胎内潛り、岩針の穴通し抔
p.0882 といふあり、淨破梨の鏡石は、あざやかに人影を寫し、業の秤石は、罪の輕重をしるべし、劒の峯は、鋒刃を植たる如く也、扨藍屋の地獄は、池水藍よりも青く、酒屋地獄は、美酒の池水有血の池は朱の鏡の如し、中にも修羅道の恐しき様はいふ計なし、猛烟立覆ひて、熱湯岩間より飛出るに、下より滔々と鳴ひヾきて、岩と岩とは寄擊て相戰ふは、誠に敵するに似たり、其外種々の地獄、世に言傳ふる所の如し、紅蓮、焦熱、無間、叫喚等、經に説處皆備ふ、爰に一所珍らしきおかしき地獄あり、名目も又滑稽也、號て隱し餅の地獄といふ、立より見れば、水なくて泥計りなる池の、方十四五間計り也、暫く彳み見る内、底よりぶつ〳〵と湯涌出て泡と成、其丸さに大小あり、或は盆の如く、又茶碗皿の程に、其數をしらず、池一面に並べ置たるに似たり、斯有てはた〳〵と人音すれば、一時に消失ぬ、又聲をなさず息を詰て見てあれば、頓て初の如く泡沸出る也、幾度も同じ、物音なければ、いつまでも消ずしてあるにぞ、是には恐怖の心も打忘れ、腮を解て時を移しぬ、此奧の一の谷、大きなる原の如く、人力を以て平地とせるあり、予怪しみ問ふに、案内者の曰、此所は八萬地獄と言所にて、殊に大地獄なりしに、近き頃人有て、斯平地となし、打潰して明礬を作るなりと聞て、驚きながら、コハ悦しき事かな、斯の如く地獄を破壞する事、偏に佛法繁昌して、善者多く墮獄のもの少く、今は地獄も無用なりやとて、大に笑ひし、此一件を以て、立山、南部宇曾禮山、豐後湯岳等、皆同事なる事を推察すべし、
p.0882 地獄 肥前國雲仙(○○/ウンセン)が嶽(○○)は、西國の名山なり、山のふもと皆海にて、纔に北の方ばかり、縷のごとく陸に連れり、高さ三里、唯一峯に秀でヽ、甚見事なる山也、唐船などの長崎へ渡るにも、大洋の中にて、此雲仙が嶽を目當とするとぞ、予も長崎より歸る時に、千々輪灘を船に乘り、此山の麓の千々輪といふ村に付て一宿す、此里は天草一揆の時、賊徒の中に名高かりし、千々輪五郞左衞門が在所なり、
p.0883 此千々輪より山に登る、道嶮敷、水なくして誠に難所の山なり、やう〳〵晝過るころに絶頂に登り付く絶頂は平地にて、民家そここヽに見へ、田畑も多く、折しも稻心よく實り、其中に幅三間ばかりの川ながれたり、天外の一小世界にして、實に地上の仙境ともいふべし、向ふをはるかにみれば、茅葺の佛院みへて、撞鐘の音幽に聞ゆ、此寺を一乘院といふ、むかし文武聖武兩朝の御歸依深く、其頃は殊に繁昌し、猶近きころ、天草の亂迄は、寺も多く、四拾八院までありしが、賊徒此山に據りしに依て、公よりこぼち捨られ、今は纔に此一乘いんばかりこそ、むかしの俤を殘せるとぞ、今の院主より六代前までは、京都より堂上家の公達を申下し、住持有けるよし、いかなる御家の公達にてかありけん、かヽる鄙のはてに來り給ふ、其名も聞まほし、一乘院を尋ねしに、院主迎へ入れていろ〳〵物語し、風雅の人、筆の跡のこしたまはれといふ、予も拙しと辭せしかど、強て求るにいなみがたくて、七言絶句一首を作りて與ふ、院主よろこび、晝飯など出してもてなす、それより沙彌案内して、地獄めぐりす、しやう熱地ごくあり、きやうくわん地獄あり、藍屋地ごくあり、餅や地獄あり、鍛冶や地獄あり、酒屋ぢごくあり、其外かず〳〵みなそれ〴〵の模様ありて、多くは皆熱湯の池なり、其湯墨よりもくろく、雷のごとき音して湧上り、或は石ほどばしり、煙卷、炎燃て、其おそろしきこと書つくすべきにあらず、東國にては越中立山、津輕の燒山、皆地ごくありといふ、此類なるべし、もしあやまちて落入らば、たちまち爛れ死すべし、久敷みるべき所にもあらず、十ケ所計めぐりて、沙彌にわかれ下山す、眺望はいふもさらなり、此峯には瓔珞躑躅といふものあり、見事なるものにて、珍敷ものなり、又大なる池あり、池の傍草うるはしく、駒多し、此牧にても年ごとに駒多く育といふ、かく高き山の絶頂に、廣き牧あるも奇妙の地なり、下りには東へ向ひ、島原の方に道す、城下まで下り坂五里なり、其道より天の四郞が籠りし原の城など見ゆる、今の城下よりは南の方にて、やはり此山の裾なり、東南の方に、海をへだてヽ程近く、天草の島なり、
p.0884 予も島原の城下に一宿して、又ふねに乘り、天草に渡れり、
p.0884 一肥前國島原山海大變之一件 當二月、大坂紺屋丁日雇頭、大和屋市右衞門悴惣治郞と申もの、肥前唐津之城主、水野左近將監様御歸城ニ付、右の者御供致し、彼地へ罷下り、同四月五日島原之御城主、松平主殿頭様御參府ニ付、右御道中人足御用承、手代壹人人夫四拾人召れ、島原ニ逗留中、危キ命を助る一件、 島原當月十八日より度々震動致、普賢山と申山々、方六十間程の窪キ所より湯氣立上り、後には火烟に成、〈此麓に温泉有〉夫より段々山々燒ひろがり、大石大に燒落、蜂ケ谷と云所へ燒移り、二月九日頃、彌火強く、三月朔日二日一夜に幾度ともなく地震致し、此時島原の御城櫓二ケ所崩れ申候、 右揔治郞、島原町方に旅宿を取、逗留致候所、四月朔日又々地震致候ニ付、旅宿を逃出んと騷ぎ候へば、例の地震に候間、鎭り居候様にと、宿の者申に任せ、見合居候所、間遠に成候無レ程亦々地震鳴動致候ニ付、最早こらへかね逃出候處、家居諸木とも折倒れ、大地所々貳三尺程づヽ割、往來ニ水かさ腰より上越し、山々の火もむらさき色に燃上り、眞の闇にて、東西南北見へ不レ分、おそろしき事言語に難レ申、男女泣叫逃出候得共、津浪、山より吹出し、泥熱湯と一つに成、如何して可レ叶や、然るに揔治郞は漸逃延、御城内に不明門と申所迄、凡六尺餘の水を凌、石垣に取付、御曲輪の松明燈挑の火にて御城へ逃出、命助り候、此者手代は、追手御門外大溝の中へ打込、面部手足ともに打ぬき、半死半生ニ而上り、所々療治に預り候處、先命無二別條一候、右大坂より召れる日雇の者四十人之内、三人助り、殘り三拾七人は何れへ流行候哉、一向生死相知不レ申候、三人都合五人、四月十九日大坂へ歸著致し、見及候有様、左之通、四月朔日酉ノ刻迄、地震數度南海ノ方ゟ水押上、山々よりは泥吹出し、山燒の火は紫色に相見へ申候、最初燒出、普賢山より城下には、貳里餘り有レ之候、段々山々燒計り、四月朔日頃御城下へ續、二十七丁程之火ニ間相見へ申候、津波半時計の内にて潮引申候、御
p.0885 城下町凡三千軒程有レ之、壹軒も不レ殘流失、漸町屋三十六程殘り候へ共、人は一人も無レ之候、御座船壹艘、御召替壹艘、水主十人、 御要害人御船も無レ之、勿論商船など其數しれず、帆柱計海上所々に相見へ申候、御城下貳里隔り、濱手の方に萩原村と申在所有レ之候、此所に寺有、是は御城主様御菩提所ニ而、此中に大石の石塔など多く有レ之候、右大名御城之裏手、御家中屋敷江流れ來り、右之寺者跡形も無レ之候、肥後と肥前の間拾里、又は五六里隔り候、右之海中に新規に山壹ツ出來申候、島原御城付五万石之内、過半流失之様相見へ申候、 御城下町家之跡、一向砂原と成、死人山のごとく、首或は手足抔ちぎれ〳〵に成、目も當られぬ形勢に候、 御城は先無二別條一、御家中より御城之裏手の分者、水押左程にも無レ之相見へ申候、外曲輪家中共に不レ殘流失之體に相見へ申候、 御家老松平勘ケ由様御屋敷流失、仍而當時板倉八右衞門様と申御家老、御城代御預りに御座候、翌二日、同國佐賀より爲二見廻一人數、騎馬百騎被二差向一、米五千俵、銀子百貫目被レ遣レ之候、御同國大村よりも、御人數并米銀共被レ遣、其外近領よりも、追々御寄物有レ之由承申候、大村よりは御寄物の外に、御醫師數十人被レ遣、藥を木綿大ノ袋に入、後に負せ、又者馬に付來り候へ共、所々者七八分は流死人故、藥用候者は纔にて御座候、御近國御近領に而、島原津浪之節出、命助り候者と申候へば、所々領主様より御養ひ被レ下、此度召歸候私共五人之者、夜中其泊々にて御養被レ下、誠に壹錢も貯無二御座一候處、御影にて大坂へ罷歸り申候、肥後肥前筑後津浪之地、凡四拾里四方と申候、 島原にて、武家町家民家流失之男女、牛馬之斃幾千万人と申、其大數中々急には分り申間敷奉レ存候、
p.0886 肥後國熊本御領、四月朔日津波上り、流家溺死夥敷事、是者熊本問屋より、大坂七軒問屋へ書付差越候よし、凡五万人程の流失と申沙汰にて、右書付未見不レ申候、 寛政四年壬子四月
p.0886 一普賢嶽燒出 寛政四年亥歳、肥前雲仙岳の傍、普賢嶽火もえて、太谷は僅のうちに山となる、終に城に及ばんことをおそれ、人民其難をさけんとするうち、四月一日泥水湧き出でて、過半漂沒す、三郷はあともなくなり、其外、小き山いくつも出來たり、たま〳〵逃れ生きたる人も、其ときのことをおぼえず、あるひは湯の中をはしり遁れたるやうに、覺えたるもあり、また水中泥中、また火中を遁れたるやうに、覺えたるもありとなし、其禍淺間に十倍す、地の沒したるは、肥後の方かへりて多かりしといふ、 又寛政の初、長崎の南の海中に、一里許のうち、潮一方へながれて、瀬をなしヽ處あり、彼方へ通ふ船人、數年あやしみ語りしが、後に雲泉嶽の變あり、山裂け崩れ、潮出でヽ邑里あまた蕩壞して、隔岸の肥後海濱まで漂盡す、此夜逃れ走りて、死をまぬかれし人、熱湯の中を走るごとくなりしといひし、崩壞せしは前山とて、雲泉の前なる山なり、はじめ火の燃え出でし時は、近傍の人こヽかしこに逃れ避けしが、數月なにごともなき故、漸々立ち歸り、後は酒肴などもてのぼりて、遊覽せし人もありしとなり、
p.0886 阿蘇山(あそさん)〈壽安鎭國山在二肥後一〉 大明一統志云、日本國阿蘇山、石火起接レ天、俗異而禱レ之、有二如意寶珠一、大如二雞卵一、色青夜有レ光、〈大明成宗帝永樂初年〉封爲二壽安鎭國山一、 按、阿蘇山之祭神、詳二于肥後國名所一、豐後大利、〈豐後肥後之堺自レ此一里〉笹倉、〈二里〉坂奈志、〈二里〉坊住(バウヂウ)〈則阿蘇宮寺僧行者三十七坊〉自レ此〈登山一里餘〉本堂、〈長十八間横六間〉上宮、中宮、下ノ宮、〈有二七十二社一〉絶頂光煙、青黄赤之三色、而見二於方三里一、〈二里半下〉
p.0887 白川村
p.0887 阿蘇山火 山有三都媛與二彦男一、阿蘇煙靆異邦嵐、前王昔自二西巡一後、火訓肥音是俗談、
p.0887 阿蘇宮 此國にあやしき神池有、此池より日毎のあしに、猛煙たちのぼる事おびたヾし、その立のぼる時は、山なり谷こたふるごとくして、常の人あたりへは立よりがたきよしかたれり、此御神は靈驗すぐれてあらたにおはします御事となり、 ◯按ズルニ、阿蘇山神靈池ノ事ハ、又神祇部阿蘇神社篇ニ在リ、參看スベシ、
p.0887 阿蘇山は、さしもの高山にはあらざれども、古しへよりも燃る山にて、其名世に知る事也、すべて燃る山は硫黄山にして、臭氣甚し、數年燃るは大山にもせよ盡べきに、造物者のなす事にして、盡る事さらになし、かしこき人の癖にして、天地の事にいろ〳〵の理を付、理をうがちて大言をいふ事あり、何れを聞ても尤のやうにても、皆々此方より付し理にして、世に云私なるべし、坊中の町より休所の小屋迄、林道六十餘町といふ、休所に至りて見るに、煙りを吹出せる洞數百間餘、眞黒に見へて、けぶりを吹出せる勢ひおそろしげに見ゆる、春秋は絶て強く燃え、夏少少よはしと云、闇夜に火のひかり有りて、晝は煙り計也、凡四五里の間は煙を見る事也、古人の物語りに、今年より四年以前地動きなりて、烟に交りて灰を吹出ス事おびたヾしく、地上五六寸もつもりて、山の内雷のごとくに鳴ひヾきて、阿蘇郡の村々、逃去らんや、いかにせんやと、爰かしこに群集して、日々いかヾせんと人心もなかりしが、さすがにすみなれし家宅を捨て、他方へも行がたく、死なば一所と忙とくらせしうちに、いつとなく山もしづまりし故、安堵のおもひ有しに、牛馬は山近き村々にては、みな〳〵死せしと也、是は灰のふりかヽりし草を喰し故と云、此邊の
p.0888 石は赤色にて、他國の石とは異也、圖せる所の草木なき山は、ふすぼりしやふに見ゆる事也、山形も嶮にして、信州淺間山と違へり、麓に山伏等此家頭は座主と稱して、熊本侯より百六拾石御寄附地有り、坊中といふ僅の町有、宿屋も見え侍りし也、此山の開祖は元三大師にて、色々の寶物も有よし、常に參詣も有る所なり、燃る洞を上宮と稱して、山の靈を祭りて願望せりといふ、少し解せず、
p.0888 貞觀十六年七月二十九日乙卯、太宰府言、去三月四日夜、雷霆發レ響、通宵震動、遲明天氣蒙、晝暗如レ夜、于レ時雨レ沙、色如二聚墨一、終日不レ止、積地之厚、或處五寸、或處可二一寸餘一、比レ及二昏暮一、沙變成レ雨禾稼、得レ之者、皆致二枯損一、河水和レ沙、更爲二盧濁一、魚鼈死者無レ數、人民有下得食二死魚一者上、或死或病、
p.0888 文永〈龜山天皇〉七年十一月十五日、靈池大ニ震動ス、一時ノ中ニ二十四度、 八年、震動同上、九年二月、後嵯峨上皇崩、蒙古襲來、
p.0888 建武二年五月五日鳴動、同六日辰刻鳴動、火石砂礫ヲ雨シ、烟中ニ物アリ、車輪ノ如シ、〈輪ハ黒ク中ハ白シ〉中北ノ池ヨリ出テ空ニ入、〈按に中北の池とは、中北と北池との事を云へる歟、夫レにても少し聞えかねたり、猶考ふべし、〉堂舍悉破ル、
p.0888 建武二乙亥年二月二十三日、寶池火石砂上黒烟覆レ天、
p.0888 霧島山 東西有二二峯一、而其間六里許最高山、其嵿常燃起、八町上有二禪寺一、夏月映山紅山石榴之花盛而、美景絶二言語一、呼二此樹一名二霧島一、多移二栽于諸國一、蓋當山日向地、隷二薩摩領一、故以爲二薩摩霧島一、自二西霧島一至二大隅正八幡一四里、
p.0888 薩州舊傳記、享保元年申九月二十六日ノ夜半ニ、霧島西嶽震動シテ、神火燒出シ、三里廻程所々燒立、御材木名木ノ山、金胎兩部ノ池、東光坊權現ノ社、高原神徳院、佐野權現ノ社マデ悉炎上、ソレヨリ打續、酉正月マデ、石沙入ノ外城十二ケ所、燒家六百四軒、怪我三十一人、死牛馬四
p.0889 五疋、田畠六千二百四十町八反六畝拾九歩、合セテ損亡六万六千百八十二石餘、
p.0889 一霧島山〈いざなみの命いざなぎの命〉兩御神立給ふ、天のさかほこあり、高さ八尺程出る、四角也、かく四寸ほどあり、ゆるぐなり、青さびにて唐かねのやう也、うてば鳴る、かねのをとなり、山上へふもとより二里ほど登る、大難所なり、硫黄谷あり、年中火燃る、馬の脊こへ、風あれば上られず、まはりの小石、參けいの持あがりてつむ、又山上に木なし、草原なり、外の草あらず、みなにんじんなり、
p.0889 延暦七年七月己酉、太宰府言、去三月四日戌時、當二大隅國贈於郡曾乃峯上一、火炎大熾、響如二雷動一、及二亥時一火光稍止、唯見二黒烟一、然後雨レ沙、峯下五六里、沙石委積可二二尺一、其色黒焉、
p.0889 開聞嶽ハ、海門ニアレバ、海門ガ嶽トモイフ、又鴨著島、空穗島、薩摩ノ富士ナドイフモ皆是ナリトゾ、爰ニ枚聞ノ神鎭座シ玉フ、谷山喜入揖宿ヲ過テ、コノ頴娃ニ到ル、 ◯開聞嶽ノ事ハ、又神祇部枚聞神社篇ニ在リ、參看スベシ、
p.0889 内浦山は、駒ケだけと云燒山なり、山ノ半腹より赤くして草木なく、峯に大石あり、山の裾東西七八里渡テ衆山の内に挻然たりといふ、
p.0889 蝦夷の地の、内浦ケ嶽といふ山、平生大ひに燃る山にして、夥しき煙立上る事也、戸切知よりも能見へ、少し東の方へ行て、有川と云所より見れば、正面に見る山にて、行程三里と云とも、徑は僅に思わるヽ也、予見る所の、肥後の阿蘇ケ嶽、豐後の鶴見が嶽、薩摩の四まんが嶽、信州淺間が嶽、何れも燃る山にして、平生 を見る事なれども、今見る内浦ケ嶽にくらぶれば、燃る勢ひ此内浦ケ嶽第一なり、仙臺の林子平、此内浦ケ嶽の燃る事も洩し、内浦ケ嶽の所を取違へし事也、
p.0889 山崩 辨斷、山崩モ、地裂地陷ト其理同ジ、土中ニ坎穴多クシテ、堅實ナラザル處有テ、分崩スル者ナリ、或ハ
p.0890 土中鬱伏ノ陽氣、時ニ奮發シテ山崩ル、或ハ時節有テ、自然ニ崩ルモアリ、何レモ和漢ニ多キ事也、日本ノ金山、年久シク堀穿チタルモノ、崩レ陷リタルモノアリ、又自然ニ山崩ルヽモアリ、貞享元年四月八日、越前阿胡山鳴動シテ半崩ル、其廣一里ニ及デ湖水ト成、又世俗ノ説ニ、螺貝地中ヨリ出ル時、必ズ山崩ルト云リ、螺貝ノ出ルニ因テ、山崩ルヽ歟、山崩レタルニ因テ、螺貝出タル歟、不レ可レ知、
p.0890 神龜四年十月庚午、上總國言、山崩、壓死百姓七十人、並加二賑恤一、
p.0890 寶龜三年十月丁巳、太宰府言上、去年五月廿三日、豐後國速見郡敵見郷山崩、塡レ澗、水爲不レ流、積二十餘日一、忽決漂二沒百姓卌七人一、被レ埋家卌三區、詔免二其調庸一、加二之賑給一、
p.0890 貞觀九年八月六日壬申、太宰府言、肥後國阿蘇郡正二位勳五等健磐龍神、正四位下〈嫗神媼神〉所居山嶺、去五月十一日夜、奇光照耀、十二日朝震動乃崩、廣五十餘丈、長二百五十餘丈、 八日甲戌、下二知太宰府一、令三肥後國鎭二謝神山崩之恠一焉、
p.0890 貞觀十二年七月廿九日己卯、山城國言、綴喜郡山本郷山頽裂陷、長二十二丈、廣五丈一尺、深八尺、底廣四丈八尺、相去七丈、小山堆起、草木無二變動一、時人疑下陷地入二地中一、更堆起成レ山歟上、
p.0890 延長四年七月十九日癸酉、此日大和國長谷寺山崩、至二于椿市一、人烟悉流、
p.0890 永延二年五月十日、大和國添上郡橘山嶺三町餘許、去二山脚一四町許坤方移置、草木不レ動、嶺上有レ倉、倉中有二佛像一、又不レ動、
p.0890 文化六巳年三月廿五日、御用番牧野備前守様御退出後差出ス 私在所、信州安曇郡中官村枝郷大久保、土谷村持郷吉尾、同宮中石垣村枝郷堀地、同下澤原來馬村枝郷、山ノ中央ニ人家有レ之候處、當二月二十一日より、右山中所々割動拔下り候様子ニ付、人馬共ニ近邊村々江引退候、然ル所同廿四日暮合後ニ至、南北五百間東西九百間餘之場所、一時ニ拔崩、前
p.0891 書四ケ村、枝郷六ケ處、家數二十七軒、田畑とも押埋申候、尤人馬怪我無二御座一候、變事之儀ニ付、此段御屆申上候、以上、 三月十九日 松平丹波守 在所の日附也
p.0891 文政七年陸奧國二本松山崩御屆書寫 私領内、陸奧國安達郡深堀小屋地前嶽山之内、温泉有レ之、湯治人相越候小屋、并湯小屋等有レ之候處、去月三日より大風雨ニ而、同十五日夜、温泉之方ニ鐵山與相唱候山有レ之候處、山之中程より崩落、右小屋之殘少々打潰、土中ニ埋、湯治人并ニ同所居付候者、怪我人即死人も餘程有レ之趣ニ候得共、疾速ニ右員數取調出來兼候間、與レ得調之上、追而御屆可レ仕旨、去月御用番松平右京大夫殿へ御屆申上置候處、右埋候場所、追々取形付候ニ付、相調候次第、左之通ニ御座候、 一家數 十三軒 内〈拾壹軒押埋貳軒 大破〉一湯坪 四ケ所 押埋 一六拾五人 死失人 内〈四十五人 男 貳十人 女〉一五拾壹人 怪我人 右之通、在所役人共ヨリ申來候ニ付、此段御屆申上候、以上、〈壬〉八月二十三日 丹羽左京大夫 文政七申年八月十五日、赤井兵庫方へ丹羽家より爲レ知成候文通寫、 以二手紙一致二啓上一候、左京大夫様御領分、陸奧國安達郡深堀小屋地所山嶽之内、温泉場有レ之候處、去月十三日より大風雨ニ而、同十五日夜、温泉登方山之中程より崩落、湯治人相越居候小屋、并湯坪殘少ニ打潰、怪我人即死人等、左之通御座候ニ付、今日御用番様江御屆被レ成候、
p.0892 一家拾壹軒押埋 一同貳軒 大破 一湯坪四ケ所押埋 一死人六十五人内〈四十五人男 二十人 女〉右之通爲二御知一、其御元様江被二仰遣度一、各様迄宜レ得二貴意一旨被二仰付一、如レ此御座候、以上、〈壬〉八月十一日 赤井兵庫様ニ而 松田蔀 蘆田長左衞門様 戸城傳左衞門
p.0892 文政十一年戊子三月廿八日、伊豆國田方郡田代村江、新ニ山湧出之儀ニ付、本多修理小堀織部より御屆書之趣、私知行所豆州八ケ村之内、田方郡年川村地内、山之中央、字おそろまと申場所、同州天城山大見川より伊東江之往來道筋ニ御座候、去亥年六月中、右道上凡貳百間程崩掛り候處、當子三月廿八日晝八ツ時頃より、右場所俄に崩出、凡高壹丈程、奧行貳丁程、長サ六丁程之所、山下田面江崩落、右道上より山下迄、田畑并杉林壹所ニ相成、右崩落山土大見川江押出し、流れ堰留水湛、村内麥作苗代共水腐仕候、右川向本多修理知行所、同州同郡田代村田面本瀬ニ相成申候、右山中道筋往來留ニ相成候ニ付、最寄御代官江川太郞左衞門方へも相屆候上、不二取敢一右往來相付罷在候由、尤人馬怪我等ハ無二御座一候旨、委細之儀ハ家來差遣、見分吟味之上、追而可二申上一候へ共、先此段御屆申上候、 以上、 五月六日 小堀織部 右者火事場見廻小堀織部殿より、〈永田馬場村〉肥後守殿御屆候書之趣なるよし、
p.0893 山鳴之事、古今多キ事ナリ、皆地中奮氣之所爲ナリ、地中ニ空穴有テ、奮氣吹發スルニ因テ聲ヲナスモノアリ、又其地ノ總體ニ陽氣厚ク、鬱伏ノ氣常ニ有テ、陰氣ト擊シテ鳴コトアリ、日本諸國ノ中、山壑又ハ古塚時有テ鳴事多有レ之、紀州ノ熊野、吉野ノ大峯、富士山、出羽ノ羽黒山ノ類、其外四國中國、或ハ九州ノ内ニモ、山鳴又ハ天狗倒シト號スル者多ク有レ之、皆地氣鬱伏ノ氣多キ所ニシテ、其氣時有テ夜分ノ陰氣ニ感ジテ鳴動スル也、晝ハ無レ之者ナリ、總テ和漢共ニ、大山ニハ奇怪ノ類多シト見得タリ、其怪皆山ノ勢氣ノ變動ニ因テ也、和州葛城大峯、九州彦山ノ類、其外古跡ノ高山ニ、奇怪ノ類多有レ之、此類ノ山、皆自二平地一直立、凡ソ七八町乃至十町ニハ不レ過、富士山ハ平地ヨリ凡二十町ノ山也、富士山絶頂ニ詣デヽ、夜ハ岩穴ニ宿シテ、數日ヲ歴タル者アリ、予ニ語テ曰、富士山ノ半腹以下ニハ、奇怪多有レ之ト云トモ、絶頂ニ於テハ、曾テ奇怪ノ事無レ之、唯風寒嚴キノミト云リ、是ヲ以テ按ニ、平地ノ上七八町十町ノ間ノ一筋ノ所、山精游氣ノ會スル處ニシテ、變怪有レ之ト云トモ、絶頂ニ至テハ、其部ヲ過テ、山精游氣ヲ拔出ル故ニ、郤テ變怪無者ナリ、總テ地氣ノ變動ニハ、様々ノ義有リ、怪ニシテ又怪ニハ非ズ、
p.0893 文治三年四月九日庚辰、春日山鳴動云々、
p.0893 慶長九年七月二十二三日比、三川鳳來寺山夥動搖、衆徒彼山滅亡歟之由ヲ存、本堂エ打寄居ス、
p.0893 享保九年甲辰五月十三日、奧州岩城領、〈内藤丹後七万石〉巳の時より熇暑甚數、人家燻赫にたへず、水を汲て頸を洗ひ、浴するに忽ち湯となる、年寄たるもの、幼き童、及び病床に臥せる輩、一時に正氣を絶し、又即座に死せしもの數をしらず、川澤も蒸熱し、煎したるが如く、池魚林鳥こと〴〵く煩死せしとかや、かヽる事は聞も不レ及とぞ、信州木曾の奧山なる僧の曰、酷暑廻りて雷發すれば、やがて暑氣散ず、雨なくして山嶽温熱の毒氣發せざれば、拔出て山中陰烟ノ氣、昏々として野を衝
p.0894 き、里を行事霧のごとく、嵐のごとし、その通り行所々如レ斯のよしと云々、人物を愼むべし、數十年にたま〳〵あると、岩城の邊定めて山近き所なるべしといへり、
p.0894 山神 内典云山神、〈和名夜萬乃加美〉日本紀云山祇、 ◯山神ノ事ハ、神祇部神祇總載篇ニアリ、
p.0894 山孫〈ヤマヒコ〉
p.0894 山彦〈木玉ノ事也〉
p.0894 やまびこ 菅家萬葉に山彦と見ゆ、もと山靈をいふ也、新撰字鏡に をよめるは心得がたし、萬葉集に山響をよめり、ひこはひヾきの急語也、或は (リヤウ)をよめり、谷中ノ響と注せり、俗にこたまといへり、新六帖に、 世中にむなしき谷のひヾくをばたれ山びこと名づけそめけん、新撰字鏡に龍膽を山びことよめり、
p.0894 山彦 やまびこ 谷響 山彦は、山神の名なり、海神を海童海若などいふが如し、それより轉りて、山谷の間にて物の聲に應へて、響の有るをも山彦といへり、
p.0894 だいしらず 能因法師 山彦のこたふる山の郭公ひとこゑなけばふたこゑぞきく
p.0894 やまびめ(○○○○) 山姬の義、山彦に對へていへり、
p.0894 秋のけしきもしらずがほに、あをき枝の、かたえはいとこく紅葉したるを、 おなじえをわきてそめける山ひめにいづれかふかき色ととはヾや、さばかりうらみつるけしきもなく、ことずくなにことそぎて、をしつヽみ給へるを、そこはかとなくもてなして、やみな
p.0895 んとなめりとみ給も、心さはぎてみヽかしかましう御かへりといへば、きこえ給へとゆづらんもうたておぼえて、さすがにかきにくヽおもひみだれ給ふ、 やまひめのそむるこヽろはわかねどもうつろふかたやふかきなるらん〈◯下略〉
p.0895 歌合し侍ける時、紅葉の歌とてよめる、 左京大夫顯輔 山姫にちへの錦を手向てもちるもみぢばをいかでとヾめん
p.0895 駿河富士足高の山間にも、山男と云もの有、林羅山の筆記にも見へ、所の物に逢ふ、くわしく語る、〈賢按、伊豆山中にも有レ之、山童(○○)ともいふとなり、〉
p.0895 山姥〈ツレ〉恐しや月もこぶかき山陰より、其さまけしたるかほばせは、其山姥にてましますか、〈シテ詞〉迚はやほに出初しことの葉の、氣色にもしろしめさるべし、我にな恐れ給ひそとよ、〈ツレ〉此上は恐ろしながらうば玉の、くらまぎれより顯れ出る、姿詞は人なれ共〈シテ詞〉髮にはおどろの雪を載き、〈ツレ〉眼の光りは星のごとし〈シテ〉扨面の色は、〈ツレ〉さにぬりの、〈シテ〉軒の瓦の鬼のかたちを、〈ツレ〉こよひ始てみる事を、〈シテ〉何にたとへん、〈ツレ〉いにしへの、〈上歌同〉鬼一口の雨の夜に〳〵、かみなりさはぎおそろしき、其よを思ひしら玉か、何ぞととひし人迄も、我身の上に成ぬべき、浮世語りも、恥かしや〳〵、〈◯下略〉 ◯按ズルニ、山男、山姥等ノ事ハ、動物部獸篇怪獸條ヲ參看スベシ、
p.0895 和州金剛山、城州愛宕山、同如意、江州日枝、向州高千穗、此日本五岳(○○○○)也、
p.0895 六年六月壬申、勅二郡國長吏一、各禱(○)二名山岳瀆(○○○○)一、
p.0895 山開(ヤマビラキ) 世語に山開といふ事あり、富士、大峯、三嶽、大山などの高山に、はじめて登る日をいへり、江戸にて
p.0896 深川永代寺の山開などあり、抱朴子内篇二卷〈三十九九丁オ〉仙藥卷に、欲レ求二芝草一入二名山一、必以二三月九月一、此山開出二神藥一之月也云々、呉越春秋にも、赤厪之山開而出レ銅などあり、義は別なれど、字面の出處には引用すべし、