p.0896 林ハ、生(ハヤ)シノ義、即チ樹木ヲシテ蕃殖セシムル地ヲ謂ヒテ、主トシテ平坦ノ處ヲ指セルモノノ如シ、太古素盞嗚尊父子ノ、意ヲ殖林ニ用ヰ給ヒシハ、蓋シ我國ニ於ケル林政ノ初見ナルベシ、徳川幕府時代ニ至リテハ、此事漸ク盛ニシテ、學者ノ之ヲ論ズルモノモ亦多ク輩出セリ、 杣ハ、我國ノ製字、之ヲソマト訓ズ、ソマトハ、蓋シ山中ニ樹木ヲ殖ヱテ材ヲ採ル處ノ名ナリ、故ニ採材ノ人ヲソマビト、又單ニソマトモ云ヘリ、
p.0896 林 説文云、平地有二藂木一曰レ林、力尋反、〈和名八也之〉
p.0896 所レ引林部文、厚書地作レ土、釋名、山中叢木曰レ林、林森(○○)也、森森然也、白虎通、林者衆也、萬物成熟種類衆多也、廣雅林衆也、按波夜之、令レ生之義、令二樹木蕃殖一之謂也、
p.0896 林 謹按、詩云殷商之旅、其會如レ林、傳曰、山林之士、往而不レ能レ反、禮記將レ至二泰山一、必先有レ事二於配林一、林樹木之所二聚生一也、
p.0896 林〈ハヤシ、説文云、平地有二藂木一曰レ林、〉
p.0896 林〈音臨〉 林和名波也之〈◯中略〉
p.0897 説文云、平地在二草木一曰レ林、又云、野外曰レ林、又云、草曰レ薄〈訓二久佐無良一〉木曰レ林、〈月清〉紅葉ふく嵐に付て聞ゆ也林のおくのさほしかの聲、〈後京極〉
p.0897 林ハヤシ 義詳ならず、出雲國風土記に、意宇郡拜志郷の事を記して、昔國造られし大神大穴持命、越の八口を平げむがために、此地樹林茂盛の所に至りまして、吾御心之波夜志との給ひし故に林といふ、神龜三年の詔に依りて、拜志としるすと見えたり、これ上古の時の事をしるせしには、ハヤシと云ひし語の聞えし始也、〈越は、則上古の時、古志國也、古事記によるに素盞烏神の時、八岐大蛇がすみし地、八口は、延喜式によるに、大原郡に八口神社あり、風土記に矢口神社と見えし是なり、後に古志之地を割て郡縣を置れしに及びて、大原郡に隷せしなり、もとの古志の名は、わづかに神門郡の郷名に遺れり、此國拜志郷の外、諸國諸郡の名に、ハヤシといふもの多かり、或ハ拜志とも、拜慈とも、拜師ともしるして、林字用ひしは、甲斐備中等國にたヾ三つありて、また其國にハヤシといふ地ある處を、林神社、波夜志神社、幣志神社など見えし、こヽかしこに多し、意賀美神社としるせしもすくなからず、かれこれを併見るに、古の時にはハヤシと云ひしものは、モリなどいふものヽ如く、神社ある所の藂木の地をさし云ひしと見えたり、琉球國にして、オカミハヤシといふは、即神林なり、外國の事にはあれど、彼國の人の語には、我國の古語と覺しきは今もあるなり、以レ鳥記レ官、郯子の徴とせし事あれば、是又一つの徴なりともいふべし、〉また顯宗天皇紀に見えし室壽(ムロホキ)の詞に、築立柱(ツイタテルハシラ)者、此家長(キミ)御心之鎭(シツメ)也、取擧棟梁者(トリアグルムナギハ)、此家長御心之林也といふ事見えけり、舊事、古事、日本紀等の書に、上世の事共しるせし所に見えし林の字、皆よむでハラといふ、〈原の註に見えたり〉讀てハヤシといふ事は、この天皇紀を始とす、その後また皇極天皇紀に蘇我入鹿臣、また林臣といふと見えしは、林讀てハヤシといひけり、萬葉集の歌に、綜麻形(ウマカタ)之林始しと見えしを、抄には杣山などの如くに、木をはやし初るなりと見えけり、いまも俗に凡物を生し立るを、ハヤスなどいふ是なり、されば林をハヤシといひしも、其初神社を守りぬべきために、樹を生し立ぬるをいひしを、また此事によりて、凡竹樹の類、生し立ぬる所をも呼びて、ハヤシといふ事になりしとぞ見えたる
p.0897 はやし 林をよめり、生すの義也、よて俗にはえともいへり、日本紀に、取擧棟梁者、此家長御心之林といひ、萬葉集に、吾角者御笠のはやし、吾宍者みなますはやしなどいへる
p.0898 は映すの義成べし、
p.0898 拜志郷、郡家正西廿一里二百一十歩、所レ造二天下一大神命、將レ平二越八口一爲而幸時、此處樹林茂盛、爾時詔、吾御心之波夜志詔、故云レ林(○)〈神龜三年攺二字拜志一〉即有二正倉一、
p.0898 白髮天皇〈◯清寧〉二年十一月、播磨國司山部連先祖伊與來目部小楯、於二赤石郡一親辨二新嘗供物一、〈◯註略〉適會二縮見屯倉首縱賞新室以レ夜繼レ晝一、〈◯中略〉天皇次起自整二衣帶一爲二室壽一曰、〈◯中略〉取擧棟梁者、此家長御心之林也、
p.0898 林 そまかた〈万、木のしげきなり、〉 竹林 鶴林 佛滅所也〈木之枯て似レ鶴〉
p.0898 林 そまかた〈木のしげき也〉竹の林 鶴林〈ぶつめつ所也、木の枯て似レ鶴、之娑羅林也、此林はこと〴〵くにしはや、〉 松林 林はじめ〈はやしをはじめてはやすを云也と云々〉 秋の林ぞにしきしく〈紅葉なり◯中略〉かたやふ 林しかくれ 林しわかぬ〈草木のしげりたる也、竹にかぎらずわかぬと云は、所をわかぬ也、但又何の木をもわかぬと云心も有べきか、〉日のひかりやぶしをわかぬ〈をしなべてなり〉やがくれ
p.0898 新林(○○)は地續に林無レ之一場立之地所に、木を植立候をいふ、有來古林(○○)之地續に、木を植立候を立出(○○)といふ、
p.0898 一新林立出(タテダシ)之事 百姓持反別ある林にても、又は無反別にても、年貢か役永林錢等相納む、又林續きの空地に、多分植出し致ば、反別有レ之分は立出の反別を相改め、無反別の場處は、廣狹を見計、年貢林錢(○○○○)等を相増す、勿論空地に新林を仕立るは、願の上年貢か林錢を相納、仕立候様申付取計候事也、一體切添立出と言葉つヾきに候へば、同様に唱共、切添は田畑、立出しは藪林之事、 ◯按ズルニ、林ト森トノ差別、及ビ古林ニ、公儀御林、地頭林、井根林、百姓林等ノ種類アル事ハ、林税條引ク所ノ地方凡例録ニ詳ナリ、
p.0899 森林之事 付〈◯中略〉木立見立之事〈◯中略〉山林竹木仕立方之事〈◯中略〉 一總て御林を見立るに、峯通りは風強く、木の育方惡敷、延丈ケ無二甲斐一、雜木は少く、松多して曲木勝成物也、然共峯通の松は、風雨にもまれて、小木の時より木筋ねぢれて堅く育上る故、梁引物に遣ふて格別に強し、水にも腐遲し、山の中腹は、木立茂るものなり、然て大木は少く木の延はよし、裾通りは別て育よし、大木も有り直成木多し、檜杉の類は濕氣水氣好故、裾通り谷間等吉、中腹より岸峯には育立悉く惡し、すべて海邊汐風強當る林は、木立不レ宜、適々大木有ても、節曲木而已なり、又北請之山は、木聳へて育立惡敷、杉檜はよし、尤日請風當等之様子に隨ひ、何れ一様には云ひ難し、〈◯中略〉 一山林竹木仕方、凡木を植る處は、深山幽谷土地厚き處吉、高岡は其次也、松は峯に宜、杉は谷に宜、平地にても杉檜松桐樫等之太り安き木、肥地に植れば、拾箇年之内外にて材木に成、又薪に用雜木は四五ケ年之内也、四木の類、或栗柹桃梨は實植、又は接木にしても二三年の内に實を結地味を考へて植べし、田家に木を植るは、西北之方に吉し、竹は東北角に植、陽氣を包み又盜賊之防ぎ、火難之防、枝葉薪に用、落葉はこやしに成る、旁吉、垣には枸杞五架葉枳穀を植、眞木栗枇杷桃之類を植べし、扨又新林仕立方を用木の爲ならば、松杉はよし、三四尺づヽ間を置植、次第に茂るとき木振惡敷は伐り、又は植替べし、實生三年目苗木を植るが吉、野地萱原地等其儘植るは育ち遲し、切開て何ぞ一作して、其跡を畝ひて植れば、よく附て早く成木す、養ひは下糞吉したる肥しにて植れば、千万本に一本も枯るヽ事なし、育立に隨ひ、追々枝を打薪にすべし、松の枝は本木際より伐、杉は枝を壹寸計殘して切、殘りたる所を本木之際より皮をむきて置ば、節入に不レ成、又薪の爲の林は檞山楢榎抔取交植べし、小木の内落葉取れば育立遲し、不レ取ば朽て
p.0900 糞に成、木太り早し、松林は別之木を不レ交、松許が吉、縱一ケ年に貳町四方に、毎年植れば、十一ケ年めには初年の林の内、筋宜く、大木に成べきを見立、少し殘し、其外は不レ殘伐拂、其跡に又小松を植立れば、薪不レ絶段々伐拂ひ、縱ば三尺に一本づヽ植れば貳町四方に六万本程成、枝一束づヽ落しても六万束也、三分一不二用立一共大分の薪也、伐殘たる筋宜分、外之木伐採、小木に成故、格別盛、木も早く良材に成事也、 一松を植替る事、正月廿日頃より、二月社日前迄吉、諸木共栽替るとき、元生たるごとく、木振枝葉抔東西に目印して堀、元の如く植べし、穴を廣く掘、脇根を一通り並、土をかけ少々押付、又根を並べ土をかけ、根の窄まらぬ様に、又東西の不違様に植、大木は鳥居木を立、夫に釣上置、立根を不レ折よふにすべし、松は下にだる肥入、土を細かに碎き、大麥粒を一抓み入て植れば枯ることなし、夏木は春葉の不レ出前か、秋葉落て植替べし、冬木は夏葉茂りたる時、四五月比栽替て吉、菓樹は上之十五日に植れば菓多し、始て熟する時、兩手にて取べし、重ねて實を能結ぶ、必ず一箇二箇不レ可レ取、人取たる後鳥多く取物也、椿は六月十五日より廿日頃まで栽吉、根に牛房の様なる處有、伐て燒て可レ植、枝を伐ことは惡し、杉は差木よし、是は若生を長七八寸許に切り、先をそぎ付割懸、大麥一粒挾み四月中旬差べし、併し今年芽許りは惡し、去年芽の境際より切たるが吉、皮のまくれざる様に可レ差、實のなき杉吉、實の生るは生立遲し、檜も差木吉、尤大木に成ては差木は内にうろ出來安し、實生は盛生は遲けれ共、大木に成うろ以來ず、桑は地際の枝折かけ、土に埋め置、春に至りて一本より四五本宛芽を出し、實植よりよく生立物也、竹を植るは五月十五日頃吉、竹を中程より末をとめ植る事古より多し、然れ共關東の地面には、末を留ては枯ること多し、縱つきたりとも、竹の子の生る事遲し、末を切ざれば、能く付て竹の子多く早く茂る、一所より枝貳本付、節の低きは雌竹也箏多く出る、人家に藪なきは用事かけること多し、空
p.0901 地有ば竹を可植、屋敷の西北吉、東北もよし、南には不レ可レ植、南を開き、北を閉ば夏すヾしく、冬に暖に、菓樹能實結、万事によろし疫病等を不レ入と云、木は六月暗の内に不レ伐竹は八月、是も暗の内に吉、俗に木六月竹八月と云ふ性合格別違ふ、伐時惡き竹木共虫入、別て竹は八月暗に不レ伐ば虫入に成、沿川筋などに葭を植るは、若生壹尺許り、根一節づヽかけて可レ伐、指て能付なり、總て菜菓草木凡て民用を助る品々種を求め、其法に隨ひ作レ之、不用の地なき様に心掛べし、四壁まばら竹木少く家居みへ透く様成村方は、村役人百姓共心掛薄く見故、自ら貧村とみ得る、若し空地あらば雜木等を植置、用水川除普請等の用木の多足とすべし、又土目惡敷畑地何程も養入ても種丈も不レ取、或は山里の間遠き處之畑、惡地の上には猪鹿之防屆兼、年々荒地に成地所は、杉桃等を植、又は荻畑、萱畑或は楢椚林等、地相應之物を仕立て、年貢輕く可二申付一、地味を考へ右の類を仕立、山野に無益の費無レ之様に致すべし、
p.0901 慶雲三年三月丁巳、詔曰、〈◯中略〉頃者王公諸臣、多占二山澤一、不レ事二耕種一、〈◯中略〉自レ今以後、不レ得二更然一、但氏氏祖墓、及百姓宅邊、栽レ樹爲レ林、并周二三十許歩、不レ在二禁限一、
p.0901 太政官符 寺并王臣百姓山野藪澤濱島盡收二入公一事 右被二右大臣宣一偁、奉レ勅、准レ令山川藪澤、公私共レ利、所下以至レ有二占點一、先頻禁斷上、如聞、寺并王臣家及豪民等、不レ憚二憲法一、獨貪二利潤一、廣包二山野一、兼及二藪澤一、禁二制蒭樵一、奪二取鎌斧一、慢レ法 民、莫二過レ斯甚一、自レ今以後、〈◯中略〉墾田地者、未開之間、所レ有草木、亦令二共採一、但元來相傳、加レ功成レ林、非二民要地一者、量二主貴賤一、五町以下、作レ差許之、〈◯中略〉 延暦十七年十二月八日〈◯中略〉 太政官符
p.0902 合四箇條事 一氏々祖墓及百姓裁〈◯裁恐栽レ誤、下亦同、〉樹爲レ林等事 右件案下太政官今年閏六月八日下二五畿内七道諸國一符上偁、氏々祖墓、及百姓宅邊裁レ樹爲レ林等、所レ許歩數具存二明文一者、去慶雲三年三月十四日詔旨偁、氏々祖墓、及百姓宅邊栽レ樹爲レ林、并周二三十許歩不レ在二禁限一者、又去延暦十七年十二月八日格偁、元來相傳加レ功成レ林、非二民要地一者、量二主貴賤一、五町已下作レ差許之、〈◯中略〉斯則官符所レ謂明文、更无レ有レ疑、〈◯中略〉 大同元年八月廿五日
p.0902 太政官符 一應レ禁三制斫二損水邊山林一事 右禁二大和國解一偁、産業之務、非二只堰池一、浸潤之本、水木相生、然則水邊山林必須二鬱茂一何者大河之源、其山鬱然、小川之流、其岳童焉、爰知流之細太、隨レ山而生、夫山出二雲雨一、河潤二九里一、山童毛盡、谿流涸乾、謹案下太政官去大同元年閏六月八日下二五畿内七道諸國一符上偁、右大臣宣、奉レ勅、山川海島、濱野林原等、一切收入公私共レ之、但山岳之體、或於國爲レ禮、事須二蕃茂一、勿レ令二伐損一、又山城國葛野郡大井山者、河水暴流、則堰堤淪沒、採二材遠處一、還失二灌漑一、因レ玆國司量レ便、禁二制河邊一、諸國若有二此類一者、不レ論二公私一、不レ在二收限一者、然則大堰之岳、專有二禁制一、小川之山、不レ在二禁限一、因レ玆百姓、憚レ遠貪レ近、川上山林、任レ意伐採、至レ有二旱年一、漑乏苗焦、動遭二損害一職此之由也、望請、川谿泉源溝池等縱漑レ田、水邊山林藪澤、不レ問二公私一、悉加二禁制一、並莫二伐損一、謹請二處分一者、依レ請、〈◯中略〉 以前右大臣宣、奉レ勅如レ件、諸國宜レ准レ此、 弘仁十二年四月廿一日 太政官符
p.0903 勅旨并親王以下寺家占地除二墾田地未開一之外不レ可二伐損一事 右撿二案内一、太政官去年八月七日下二諸國一符偁、右大臣宣、奉レ勅、勅旨并親王以下寺家所レ占墾田地、未開之間、所レ有草木、公私共令レ採レ之者、今被二同宣一偁、官符所レ謂草木共令レ採レ之者、是則墾田地未開之間也、非レ謂二自餘山林一、而間愚暗之徒不レ案二符旨一、任レ意伐損、元來相傳加レ功成レ林、并墳山墓地等之類、〈◯此下恐有二脱文一〉此則國宰郡司不レ辨二格意一、亦不レ肅二所部一之所レ致、宜二重下知莫一レ令二更然一、 承和六年閏正月廿五日
p.0903 掟〈◯中略〉 一新林年荒開新開并鹽田之事、遂二上聞一以二下知一可レ開レ之、爲二内々一開隱置事、堅停止之事、
p.0903 京都所司代板倉重宗條目 定 上賀茂〈◯中略〉 一山城國中山林、妄木の根を堀取候事、任二先規例一、彌令二停止一了、此上於二堀取一者、見相搦捕、奉行所へ可二申來一、若於二見隱一者、其在々庄屋肝煎可レ爲二曲事一事、〈◯中略〉 右所二定置一、聊不レ可レ有二相違一者也、 元和八年八月二十日 周防守〈◯花押〉
p.0903 正徳三巳年 諸國御料所諸百姓江被二仰渡一候御書付〈◯中略〉 一公儀の山林はいふに及ばず、百姓所持之山林といふとも、竹木猥に伐採べからざる事、是又古來の定法有レ之處に、近年に及び村方の普請有レ之時、其普請の場所相應せざる大木、其入用之外のもの數等猥に伐採り候由相聞え候、自今以後たとひ其奉行役人以下申付候とも、心得がたき事有レ之におゐては、早速御代官に申屆くべき事、
p.0904 附前々竹木伐採り候跡にて、苗木等植立ざる所々有レ之由相聞え候、是又古來よりの定法に違ひたる事に候間、公儀の山林はいふに及ばず、百姓所持之山林ニ候とも、其時節を違へず苗木等植付候様にすべき事、〈◯中略〉 右條々、去年中被二仰出一候諸國御料巡見之面々、見及び聞及び候所に就て、急度御穿鑿を遂らるべき事共に候得ども、當御所始の時にも候故、別儀を以、先其事に及ばれず候、自今以後、御國目付巡見の御役人等、度々に可レ被二差遣一御事に候間、若其時に至ても、只今迄之様子相改らざる所有レ之におゐてハ、重犯の罪科のがるべからず候、御料所諸百姓急度此旨を相心得候て、相愼み守るべき事に候、然る上は其村之名主庄屋等之事ハいふに及ばず、たとひ御代官所手代役人等之事に候とも、公儀御制條ニ違犯之輩有レ之ニおゐてハ、其事の子細ありのまヽに御代官に訴申すべし、御代官中宜敷裁許之上訴出候者のために、其怨を返し候輩無レ之様、其沙汰可レ有レ之候、若又訴申出べき事有レ之をも隱し置て、御仕置之事、末々之所に至りてハ行屆かず、百姓どもの難儀も不二相止一候儀ニ仕なし候事於レ有レ之ハ、年月を經候後に相顯れ候といふ共、隱し置候輩も、是又違犯之罪科に同じかるべき也、 巳四月 諸國御料所諸百姓
p.0904 五人組帳前書之事 差上申一札之事〈◯中略〉 一自分之居山林、又は四壁之内にても、大木我儘に伐取申間敷候、自然伐取候ハで不レ叶儀有レ之候ハヾ其品申上、御差圖を請、伐可レ申候、勿論小木ニ而も猥に荒シ申間敷候事、〈◯下略〉
p.0904 享保七寅年十一月 百姓新規家作并新規商賣停止其外之儀御書付
p.0905 覺〈◯中略〉 一山林野原之類、新規割合有レ之時ハ、是又高次第ニ入作百姓江も可二割渡一事、 右入作高二ケ條定りたる事たりといへ共、百姓相對を以極置候處其品々區々ニ而不レ宜候間、自今書面之通ニ而急度可二相守一候、 但前々より入作相對にて極置候儀ハ只今迄之通たるべし、〈◯中略〉 享保七年寅十一月
p.0905 各御代官所御領所之内、御林其外空地ノ場所有レ之候ハヾ、撿見廻村之節被レ致二見分一、御林其外空地之場所江、栗松苗木植付候様、村々江可レ被二申渡一候、尤植付候に付而は、村方之内ニ而名主組頭へも被二申渡一、村方猥りに不二入込一様心付、折々見廻り手入等いたし、右植付候木品成木致候様可レ被二申渡一候、且又栗種松苗右場所へ植付候様は、何國付に而も出來可レ致事ニ候得共、若其村内に而出來兼候ハヾ、近村ゟ成共才覺いたし、以來無二懈怠一植付候様被二申渡一勿論、御林守有レ之分にも、右苗木植付候様にも申渡、無二油斷一手入致し、致二成木一候様可二心懸一旨被二申渡一、追而栗成木之上、栗實成候時節ニ相成候ハヾ、取計方之義、御勘定所へ可レ被二相伺一候、一御林守無レ之段木立宜御林に候共、成木之ために候間、平百姓等猥り不二入込一、名主組頭之内、折々見廻り手入等いたし、御林成木候様、常々可二心懸一旨可レ被二申渡一候、右之趣村々へ被二申渡一、栗松苗植付致候分、御勘定所へ可レ被二相屆一候、以上、 申〈◯明和元年〉七月
p.0905 一村限御請申上候一札之事〈◯中略〉 一山林竹木猥りに伐取候義不レ仕義、且又古來御定ニ候處、近年村普請等之節、不相應之大木猥りに伐取候由被レ及二御聞一候、自今ハ縱御奉行御役人中御申付候共難二心得一義ハ、早速御代官様ゟ可二
p.0906 申上一候、尤竹木伐候跡、御林ハ勿論、百姓林たりとも、時節を不レ違、苗木植立候様可レ仕候事、 寶暦九卯年
p.0906 御料所村々御林之義は、場所に支配被二仰付一候上は、一通り見分致、木數等相改、取締方夫々可レ被二申付一は勿論之事ニ候處、檢見之席は一日をあらそひ廻村之事故、御林木延立入候事も難二相調一、麥作等見分之節は可レ調事候得共、是迚も無二其義一ゆへ、御用木伐出、或は御林見分等被二差出一候得ば、御林帳木數ハ多分之増減有レ之、一體不取締に相聞候間、此度之義は別段之御趣旨を以、御林改方被二仰出一候條、往來之仕來ニ不レ拘、支配限手代差出爲二相改一、各江も麥作見分序、又は御用透相考相越見屆候上、御林帳相改候様可レ致候、右見分致候義は、農障之砌、村入用不レ掛様勘辨を加へ可レ被二取計一候、尤支配所一圓ニ見分相濟候ハ、早速ニて相調申間敷候間、最寄御林限リ、見分改取調相濟候分は、御林帳相改御勘定所江可レ被二差出一候、左候得バ御勘定方御普請役外御用序、又は別段ニも見屆として可レ被二差出一候間、此段兼而相心得、格別ニ入レ念可レ被レ申候、右本彈正大弼殿御差圖に付申渡候間、可レ被レ得二其意一候、以上、 丑〈◯寛政五年〉三月 ◯按ズルニ、林制ニ關スル事ハ、尚ホ政治部上編及ビ下編ノ水利篇養水源條ニ在リ、參看スベシ、
p.0906 森林之事 付〈◯中略〉根伐仕立之事〈◯中略〉 一御林の儀大山なれば、御山守有レ之、御扶持方被レ下、致二帶刀一も有り、又一ト通りの御林にては守無レ之、其村の庄屋名主相守、これは扶持方等無レ之、又は居村より格別遠所にて、其御林の邊に百姓家等有レ之、枝郷同然の處は、名主元より遠方、守も屆き兼候故、其枝郷にて頭立たる百姓を御林守(○○○)
p.0907 にして、多分は林下草等を此ものへ取すると有、扨御用木等に伐出有レ之節は、林守名主に案内爲レ致御林見分致し、御用木之寸尺に合ひたる木品を見立、壹本づヽ削り、極印を打、尤多分の伐出し有レ之、拔伐に難レ成程の木數ならば、裾通りより片付て切が吉也、山出しの勝手も宜、左様に山片平も伐ことならば、可レ伐場處見立、鎌苅苗木等之不レ宜分苅除、足場を能くして可レ伐、苅除きたる麁朶、萱等は、束數を改、追て入札を取賣拂に可レ致、其伐跡は伐株を掘らせ、苗木可二植付一、尤も根を取すれば薪に掘取者有もの也、根伐の仕方杣共は功者之有事なれ共、下通りの人足等に伐する時は、役人功者無レ之ては、大木等難レ伐、先根伐をして何方へ可レ倒と、木の倒懸る所を考、峯あらば峯ある方へ返すべし、必谷間の方へ不レ可レ返、山出難レ成、又谷上之木抔伐ては、谷へ可レ落處は、留木迚、外の木より横木を結び、伐たる木の持れ掛る様にして伐ざれば、大木谷へ落ては上るに、悉人夫多く費る事あり、其木品に寄、根より六七尺殘、根伐して、下へ引落せば、立木の儘にて自然と返り、木に損も不レ附、右伐株は別に伐、御用木に可レ成は遣ひ、又御用木にも不レ成ば、御拂にいたす、檜椹等は榑木に成、入札直段も宜敷物也、至て大木本口にて差渡し壹尺も可レ有程之木は、一ト通にて根伐難レ成ければ、燒木と云にするなり、吉木の根元を五六尺、八角十文字に貫穴の如く彫通し、廻りに柱の如く伐殘したる處にて持て居る、其穴へ燒草を入、火をかけ、燒切にすれば、一度に燒落、根の上にそろりと返るゆへ、木に損なし、怪我等の案事もなし、大木を四方より切ては、眞に至りて難レ伐、夫を木の下に行て伐る内に、風吹倒れば大怪我有もの也、根伐したる木、當坐に枝を伐れば、其木は格別重く成物也、これは枝々取可レ發勢の發すること不レ能、本木に勢籠る故成べし、根伐をして四五日も置、枝を取れば、格別輕く成、然て不レ急に材木は伐倒して、四五日にも差置、日柄立て末方、枝葉を伐吉、是山師の秘事なり、且又一山御拂等に成か、又は江戸廻御用木等の爲に伐出に成、請負人等有レ之、杣山師共入て、總山の根伐をいたし、川下海
p.0908 上を積廻し等之様成儀有レ之時は、山之改方、筏組川下の船積等さま〴〵の手段有レ之、奉行人至て功者入る事也、然共是先大にては無レ之儀故、仕方長き儀に付略レ之、勿論御用木とも伐取たる株壹本づヽ極印打伐株と材木員數引合改る事也、
p.0908 森林之事 付林改方并御林帳(○○○)仕立方之事〈◯中略〉 一森と云は、寺社境内、又は居屋敷にも木を植立、繁茂いたすを森と云、林と云は、山河原野方平地等に木を植立茂りたるを林と唱へ、森は多分寺社免地か屋敷反別之内に籠り有レ之故、別段年貢等不レ出、古林は公儀御林、地頭林、井根林、百姓林、所に寄品々有、御林并地頭林は百姓方にて下草刈取、下草錢(○○○)とて反當有レ之、年々相納、尤地頭林には其家々の仕來り、落葉下草は無年貢にて百姓にとらせ、本木は領主用木に遣、家中の諸士家作入用、或は林なき村方百姓家作等之節、願に依て持高に應じとらせる事有り、乍レ去箇様之類は少く、井根林は、御用に付諸役人郷廻り等之節、枝葉薪に用ひ、眞木は堰川除の普請入用に伐渡事也、此井根林といふも、所によりては有ども、稀成義也、百姓林無年貢なれども、間には林錢(○○)納るも有、百姓林たりとも、持主の自由に良材伐遣ふ事ならず、要用にて伐採時は願出、差圖之上伐遣ふ也、又空地に新林仕立、百姓持になれば、林永等相應の年貢申付(○○○○○○○○○○)事也、林に不レ限、百姓四壁或は屋敷前通り抔、大木の類有レ之、格別の大木にて、村中は勿論隣村へも知れたる程の木は、御料私領ともに、持主自由に伐取事ならず、箇様の木は御代官地頭等にて、帳面に記置事也、
p.0908 御林下草錢(○○○) 此ハ覇府ノ領、藩ノ領共ニアル者ニテ、上ノ立林ノ下草ヲ村方ニ於テ刈採ル役永、前々ヨリ定納ト成タル小物成ノ内也、然ドモ或ハ其年ノ草生立ノ様子ニ依テ檏買( /ウケガイ)トナリ、年々不同ナル處モ
p.0909 亦アル者也、此等ハ定納物ニハ入ズシテ臨時ノ浮役物ノ内也、凡林ハ若シ新田新畑等ニ開發スル事ニナリテハ、假令定納ニ極リタル下草永(○○○)ト云トモ差免ス例ナリ、
p.0909 清瀧西念兩寺寺務條々〈◯中略〉 一寺領山木事〈付屋敷樹木〉 凡莊家散在之輩、雖レ爲二一枝一、輙不レ可二切用一、制法代々事舊畢、然而嚴密雖レ加二制法一、動者莊内之土民盜切之條、希〈◯希恐奇誤〉怪之次第也、將又或號二手拾一折二生木之枝一、或以レ抹掘二穿根一條、無方之至極也、所詮十五歳已後付二是非一不レ可レ入レ山、又甲乙人屋敷内至二往古之古木一輙不レ可レ切、若違二背此禁制一領内輩者、懸二主人一隨二所犯輕重一、可レ處二罪科一、〈◯中略〉 應安六年三月十日 沙彌〈花押◯佐佐木高氏〉
p.0909 森林之事 付〈◯中略〉御林木盜伐致したる者御仕置之事〈◯中略〉 一御林木盜伐いたしたる者、古來は死罪、又は其仕形に寄、獄門にも被レ行たる處、享保の頃より一等輕く相成、申合盜伐致したる頭取は重追放、頭取に續たる者中追放、同類過料に相成、近例有レ之なり、
p.0909 林 きべのはやし〈遠、万、あらたまのきべのはやし〉ゑはやし〈万七〉つるの〈後佛滅所〉くものはやし〈山也、〉 〈雲林院紅葉〉〈あふち新古今〉 〈撰肥後〉
p.0909 林〈同名所◯中略〉 月林〈山しろ、かつらをおる、〉雲の林〈同上、むらさきのともつヾけたり、山櫻、あふち、わび人の里、 木のもとにをらぬにしきのつもれるは雲のはやしの紅葉なりけり、〉伎倍林〈遠江、あらたまの林とよめり、またらふすま、〉江林〈みの、八雲御説、〉
p.0910 三年六月、是月〈◯中略〉于レ時有二謠歌三首一、〈◯中略〉其三曰、【烏麻野始】儞(ヲバヤシニ)、倭例烏比岐例底(ワレヲヒキレテ)、制始比騰能(セシヒトノ)、於謀提母始羅孺(オモテモシラズ)、伊弊母始羅孺母(イヘモシラズモ)也、〈◯也字恐衍〉
p.0910 葛上郡有二小林邑一、寄二林臣一、
p.0910 清愼公月林寺にまかりけるに、をくれてまうできてよみ侍りける、 藤原後生 昔わがをりし桂のかひもなしつきの林(○○○○)のめしにいらねば
p.0910 題しらず 讀人しらず 木のもとにをらぬ錦のつもれるは雲の林(○○○)のもみぢなりけり
p.0910 わづらふことありて、雲林院なる所にまかりけるに、人のとぶらへりければつかはしける、 良暹法師 此世をば雲のはやしにかどでして煙とならむ夕をぞまつ
p.0910 〈ときはばやし山城〉 前大納言實冬卿 さがのなるときはばやし(○○○○○○)のなのみしてうつろふいろに秋風ぞ吹
p.0910 相聞 阿良多麻能(アラタマノ)、【伎倍乃波也之】爾(キベノハヤシニ)、奈乎多氐天(ナヲタテヽ)、由吉可都麻思自(ユキカツマシモ)、移乎佐伎太多尼(イヲサキダタニ)、 右二首〈◯一首略〉遠江國歌
p.0910 師賢登山事附唐崎濱合戰事 已ニ唐崎ニ軍始タリト聞ヘケレバ、御門徒勢三千餘騎、白井ノ前ヲ今路ヘ向、本院ノ衆徒七千餘人、【三宮林】(サンノミヤハヤシ)ヲ下降、〈◯下略〉
p.0910 【江林】(エハヤシニ)、次完也物(ヤドルシヽヤモ)、求吉(モトメヨキ)、白栲(シロタヘノ)、袖纒上(ソデマキアゲテ)、完待我背(シヽマツワガセ)、
p.0911 一書曰、〈◯中略〉初五十猛神天降之時、多將二樹種一而下、然不下殖二韓地一盡上、以持歸遂始レ自二筑紫一、凡大八洲國之内、莫レ不三播殖而成二青山一焉、所以稱二五十猛命一爲二有功之神一、即紀伊國所レ坐大神是也、 一書曰、素戔嗚尊曰、韓郷之島、是有二金銀一、若使二吾兒所御之國不一レ有二浮寶一者、未二是佳一也、乃拔二鬚髯一散之、即成レ杉、又拔二散胸毛一、是成レ檜、尻毛是成レ柀、眉毛是成二櫲樟一、已而定二其當一レ用、乃稱之曰、杉及櫲樟、此兩樹者、可三以爲二浮寶一、檜可三以爲二瑞宮之材一、柀可三以爲二顯見蒼生奧津棄戸將臥之具一、夫須レ噉八十木種、皆能播生、于レ時素戔嗚尊之子、號曰二五十猛命、妹大屋津姫命、次抓津姫命一、凡此三神亦能分二布木種一、即奉レ渡二於紀伊國一也、〈◯下略〉
p.0911 貞觀元年四月廿一日丙午、河内和泉兩國、相二爭燒レ陶伐レ薪之山一、依二朝使左衞門少尉紀今影等勘定一爲二和泉國之地一、
p.0911 清瀧西念兩寺寺務條々〈◯中略〉 一寺僧坊中前後木事 凡山寺坊中殊更以(○)二竹木(○○)一爲(○)二總別之莊嚴(○○○○○)一、然而近年往入之若輩或號二私物一、或不レ辨二當所制法一歟、猥違二犯本願已來代々規式一、任二雅意一切二坊中木一條、不可思議之振舞也、能々可レ有二禁制一、若不二叙用一寺僧、不レ擇二老少一、隨二交名注進一可レ令二追出一、〈◯中略〉 應安六年三月十日 沙彌〈花押◯佐佐木高氏〉
p.0911 御許山佛通寺制札〈◯中略〉 一爲二寺家修造一、代二築山之木并山中植木一失(○)二境致(○○)一、其外於二山林一取二材木已下一、不レ可レ出二寺外一之事、〈◯中略〉 大永五年〈乙酉〉八月六日 當住持瑞〈◯下闕〉 納所瑞〈◯下闕〉
p.0912 侍眞妙〈◯下闕〉 維那曇樹〈◯下闕〉 芥禪院智〈花押◯下略〉 ◯
p.0912 杣 功程式云、甲賀杣、田上杣、杣讀曾萬、所レ出未レ詳、但功程式者、修理筭師山田福吉等、弘仁十四年所二撰上一也、
p.0912 功程式、今無二傳本一、按甲賀近江國郡名、天武紀鹿深即是、田上屬二近江國栗本郡一、萬葉集藤原宮役民歌所レ謂、衣手田上山、即是也、杣字皇國所レ造會意字、非二漢字一、然既見二寶龜十一年西大寺資財帳、及延暦二十三年大神宮儀式帳一、江談抄以爲三山田福吉造二是字一者、蓋誤二讀本書一也、又按、曾万蓋山中殖二樹木一、爲下採二造屋材一之處上、萬葉集大伴家持歌所レ云和豆香蘇麻山、大神宮儀式帳、入杣木本祭、西大寺資財帳有二杣圖一皆是也、至二是處一採レ材者曰二杣人一、萬葉集寄レ木歌云、眞木柱作蘇麻人是也、今俗呼二採レ材之人一爲二曾万一、轉訛也、
p.0912 杣〈ソマ〉
p.0912 杣(ソマ)
p.0912 杣山(ソマヤマ)〈江談、杣本朝俗字、〉
p.0912 國字 杣〈ソマ〉木在レ山也
p.0912 林〈◯中略〉 藂木の山にあるをソマといふ、義亦不レ詳、舊事紀、古語拾遺等に、手置帆負(タオキホオヒ)神、彦狹知(ヒコサシリ)神をして、大峽少峽(オホガヒヲガヒ)之材を伐て瑞殿(ミツノミアラカ)を造られしと見えしは、其事後に杣木を伐りて、宮材引などいふに同じければ、後にソマと云ひしは、上古に大峽少峽などいひしに同じかるべし、
p.0913 そま 杣は倭字也、〈◯中略〉西土の書に木客又山伐とみゆ、是そまの義なりといへり、杣山、杣木、杣人などよめり、萬葉集に追馬喚犬をよめり、古へ馬を追にそといひ、犬を喚にまといひし成べし、
p.0913 袋草紙三の卷に、曾禰好忠三百六十首歌の中に、 なけやなけ蓬が杣のきり〴〵す過ゆく秋はげにぞかなしき といふを、長能が、狂惑のやう也、蓬が杣といふ事やはあるとて、そしれるよしヽるされしに、夫木抄雜十に、家隆信實のしかよまれし歌も三首あり、今按に、古今著聞集飮食部に、道命阿闍梨修行しありきけるに、やまうどの物をくはせけるを、これはなにといふものぞと問ければ、かしこにひたはえて侍るそま麥なん、これなるといふを聞て、よみ侍りける、 ひたはえて鳥だにすへぬ杣むぎにしらつきぬべきこヽちこそすれ〈◯中略〉 杣麥は、しげりあひたるさまの事にて、もとしげり葉の約語しばといふをかよはしいひけるにや、しば山ともそま山ともいへるなどおもひあはすべし、さて木立の葉しげりたるさまを、杣といふよりうつりて、そこにいりて樵取わざするを杣人といひ、そこより伐出せしを杣木ともいへる也けり、〈◯中略〉もじも中國の新字なるに、从レ木从レ山しは、木立の義をとりてつくられたればなるべし、
p.0913 寄レ物陳レ思 宮材引(ミヤキヒク)、泉之【追馬喚犬】二(イヅミノソマニ)、立民乃(タツタミノ)、息時無(ヤムトキモナク)、戀渡可聞(コヒワタルカモ)、
p.0913 一新宮造奉時行事并用物事〈◯中略〉 次取二吉日一爲二正殿心柱造奉一、率二宇治大内人一人、諸内人等、戸人等一、入杣木本祭用物注レ左、〈◯下略〉
p.0913 入杣木本祭は、曾万伊利古乃毛登万豆流とよむべし、入杣は即山入也、〈◯下略〉
p.0914 杣字事 又問云、杣字、誠本朝作字歟如何、被レ命云、杣字本朝山田福吉所レ作也、榊字又見二日本紀一云々、