p.1021 泉ハ、イヅミト云フ、地下ヨリ湧出スル水ヲ謂フナリ、清水ハシミヅト云フ、澄ミタル水ヲ謂フナリ、或ハ清泉、寒泉等ノ文字ヲシミヅト訓ズルヲ見レバ、其間固ヨリ畫然タル區別ナキガ如シ故ニ今之ヲ一篇ノ中に收ム、
p.1021 泉
p.1021 泉〈イツミ水面〉
p.1021 泉(イツミ)
p.1021 泉(イヅミ)〈活法、水本曰レ源、源曰レ泉、〉
p.1021 泉〈音全〉 濫泉 沃泉 汎泉 和名以豆美〈◯中略〉 按、泉、和名出水之略言也、凡井泉湧而不レ溢者、水氣與二地氣一相持也、猶二血與一レ肉、故高峯亦有レ水、卑地泉水亦不レ溢、是自然理也、
p.1021 泉イヅミ 出水也、飛泉をタキといふはタキツ也、〈タキといふ、キの音に、ツの音を納めて呼びしなり、〉舊事紀、日本紀に見えし湍津姫命、古事記に多岐都比賣命としるせしが如き是也、タキツとは即立水也、萬葉集抄に、水にタチミヅ、フシミヅといふあり、伏水とは出て流るヽ事なき水をいふ、立水とは湧出て流るヽ水也といひけり、〈タキといひタキツといふは轉語にて、ツとは、萬葉集抄に、ツといふは水也といふ即此なり、詞助にはあらず、〉延喜式の祝詞にも、また中臣の祓の詞にも、高山の末、短山の末より、佐久奈谷に落瀧津、速川の瀬など云ふ事もあるは、タキツといふは、即激(タギル)の謂にて、沸泉の義なる也、古に湍の字讀てタキとせしは、飛湍の義によれるなり、後に湍の字をば讀てセといひ、瀧の字讀てタキといふ、倭名抄には唐韻に南人名レ湍曰レ瀧の説を引用ひたり、
p.1022 いづみ 泉をいふ、出水の義なり、
p.1022 和泉の和字の事 國名のいづみを、和泉とかく、和の字は、いかなる故をもて、添られたるにか、としごろいぶかしかりつるを、つら〳〵思へば、まづいづみといふは、和泉(イヅミノ)郡ありて、上泉下泉(カミイヅミシモイヅミ)てふ郷もあれば、そこより出たる國の名なることは論なし、かくてその郷の内、府中村といふに、今も和泉の井とて、いとめでたき清水ありて、そこに泉ノ井ノ上ノ神社、和泉神社なども有て、式にも見ゆ、然るに並河氏がかける、和泉志を見れば、此和泉ノ井を擧て、其水清且甘と記せるをもて思へば、此清水上つ代よりいと清くて、甘かりし故に、にぎいづみと號て、和泉(ニギイヅミ)と書たりしを、其里人などは、たヾ泉(イヅミ)とのみいひならへるが、ひろごりて、名高き水なれば、京人なども、泉とのみいひあへりしまヽにて、郡の名にも國の名にもなれるを、すべて國郡などの名、二字にかく事なる故に、文字にはかならず、本の名のごとく、和泉とは書なるべし、〈◯下略〉
p.1022 妙美井 日本紀云、妙美井〈之三豆(○○○)〉 石清水
p.1022 日本紀无二妙美井字一、神代紀下有二好井一、訓二之三川一、則妙美井恐好井之誤、然袖中抄引二童蒙抄一有妙美水字一、似僞二妙美井一、今不二徑改一、昌平本有二和名二字一非レ是、景行紀寒泉同訓、新井氏曰、之美豆、須美美豆之急呼、下總本下有二石清水以波之三豆八字一、與二類聚名義抄一合、然日本紀无一石清水一、恐非二源君舊一、廣本是條之次標二石清水三字一无二訓注一、按伊呂波字類抄不レ載二石清水一、
p.1022 石清水〈イハシミツ〉
p.1022 清(シミヅ) 妙美井(同)〈日本紀〉
p.1022 しみづ 倭名鈔に清水をよめり、すみ反し也、神代紀に、好井、又妙美井をよめり、
p.1022 清水は、斯美豆(シミヅ)と訓べし書紀には、好井、寒泉などをも然訓り、〈◯中略〉斯は須美の切
p.1023 りたるなり、
p.1023 一書曰、門前有二一好井(シミヅ)一、井上有二百枝杜樹一、〈◯下略〉
p.1023 十八年四月壬申、自二海路一泊二於葦北小島一而進レ食、時召二山部阿弭古之祖小左一、令レ進二冷水一、適是時島中無レ水、不レ知レ所レ爲、則仰之祈二于天神地祇一、忽【寒泉】(シミヅ)從二崖傍一涌出、乃酌以獻焉、故號二其島一曰二水島一也、其泉猶今在二水島崖一也、
p.1023 此之御世、免寸河之西有二一高樹一、〈◯中略〉故切二是樹一以作レ船、甚捷行之船也、時號三其船謂二枯野一、故以二是船一、旦夕酌二淡道島之寒泉(○○)一、獻二大御水一也、
p.1023 寒泉は志美豆と訓べし、書紀景行卷にも寒波(シミヅ)とあり、
p.1023 題しらず 西行法師 道の邊に清水(○○)ながるヽ柳陰しばしとてこそ立止まりつれ
p.1023 ましみづ(○○○○) 眞清水 寒水 清泉をしみづとよめり、まとはすべて賞美の詞にて、なににもつけていふ事にて、眞實の意なり、増水など書るは借字なり、増減の意にはあらず、和名抄に妙美井をよめり、
p.1023 河原院にてよみ侍ける 大江嘉言 里人のくむだに今はなかるべし岩井のしみづ(○○○○○○)みくさゐにけり
p.1023 石清水(○○○) いはしみづ 山城國 雄徳山、または男山とも、鳩峯ともいふ、そのもと石間の清水によりて、山の名にも名付たれども、今元によりて水の條に出す、
p.1023 いはしみづ松が枝ふかくかげみえてたゆべくもあらぬ万代のかぜ
p.1023 朧清水(○○○) おぼろのしみづ 山城國〈大原〉
p.1024 良暹法師大原にこもりゐぬと聞て、つかはしける、 水草におぼろの清水そこすみて心につきの影はうかぶや
p.1024 月をよめる 大原やおぼろの清水里遠み人社くまね月はすみけり
p.1024 のなかのしみづ〈おぼろの志みづ、せかいの志みづ、◯中略〉 又古歌云 大原やおぼろのしみづよにすまば又もあひみんおもかはりすな 此歌を本にて、野中のしみづのやうに、おぼろのしみづと云事も、もとあひたらんなからひなどによむべし、能宣朝臣が伊勢よりのぼりけるに、京にてたづねんと思女の、あふさかのせきにあひたりけるをたづねければ、おとこにつきてあづまへまかりければ、よみてつかはしたりける、 ゆく末の命もしらぬわかれぢはけふあふさかや限なるらん 女の返事に、おぼろのしみづと申せとなんいひける、これは大原やおぼろのしみづの歌の心をとりていへりけるにこそと、六條修理大夫の給ひきとぞ、左京兆申されし、但シ考ニ能因歌枕云、おぼろの清水は、山城國大原郷に有といへり、或人の申侍しは、江文のひんがしにあり、良暹が大原の山庄の邊云々、後拾遺に良暹法師大原に籠居ぬと聞てつかはしける、 素意 みくさゐしおぼろのしみづそこすみて心に月のかげはうかむや かへし 程へてや月もうかばん大原やおぼろのしみづすむ名ばかりそ 考、伊勢物語云、むかしおとこ、女をぬすみて行道に、水ある所にておとこのまむとや思ふといふ
p.1025 に、うなつけば、てにむすびてのます、さてゐてのぼりにけり、おとこはかなく成にければ、もとの所へかへりゆくに、かの水のみし所にて、 大原やせかいの水をむすびあげてあはやととひし人はいづらは 又神樂取物の中に杓歌 大原やせかいの水をひさごもてとるはなくともあそびてゆかむ これはいづこのほどにあるにか、大原におぼろのしみづ、せかいのしみづ(○○○○○○○)あるにこそ、然者おぼろのしみづは、大原にあれど、もとのめにもよせてよむべきにこそ、野中のしみづは、いなみ野にあれど、さやかによみたちぬれば、水題などにはいともよまず、おぼろのしみづはその心ならねど、みなよみ侍めり、
p.1025 子安清水 同所長光山妙典寺にある所の池をいふ、旱魃にも涸れずといふ、相傳ふ、日蓮大士、此池水をもつて安産の符を書給ひ、時光が妻に與へられし加持水なりといふ、
p.1025 於レ是零二大冰雨一、打二惑倭建命一、〈◯註略〉故還下坐之、到二玉倉部之清泉(シミヅ)一、以息坐之時、御心稍寤、故號二其清泉一謂二居寤清泉(○○○○)一也、
p.1025 四十年、是歳〈◯中略〉日本武尊更還二於尾張一、即娶二尾張氏之女宮簀媛一而淹留踰レ月、於レ是聞三近江膽吹山有二荒神一、即解レ劒置二於宮簀媛家一、而徒行之至二膽吹山一、山神化二大蛇一當レ道、爰日本武尊不レ知二主神化一レ蛇之、謂是大蛇必荒神之使也、旣得レ殺二主神一、其使者豈足レ求乎、因跨レ蛇猶行時、山神之興レ雲零レ水、峯霧谷曀、無二復可レ行之路一、乃捿遑不レ知三其所二跋渉一、然淩レ霧強行、方僅得レ出、猶失意如レ酔、因居二山下之泉側一、乃飮二其水一而醒之故號二其泉一曰二居醒泉(○○○)一也、
p.1025 同國〈◯近江〉名所之部 醒井 岩根よりわき出る水也、東より南へ流たり、石地藏水の中にたち給也、此井をさめが井
p.1026 といふことは、むかし日本武のみこと、東夷征罰し給ひし比、當國伊吹の山に入給ひしに伊吹大明神大蛇と現じ、道の中にわだかまりしを、尊とびこへ給ふとて、御足すこし大蛇のひれにあたり、それよりいたはり給ひ、大ねつきさしけるを、道のほとりにありける清水に、御足をひたし給へば、そのまヽねつきさめけりとなん、さてこそ此名はありけるといへり、汲て知人しもあらば醒井の清き心をあはれとやみん
p.1026 關清水(セキノシミヅ)〈在三相坂關邊一、見二鴨長明集一、〉
p.1026 延喜の御時月次の御屏風に、 貫之 あふ坂の關の清水にかげみえていまや引くらむ望月の駒
p.1026 一ある人のいはく、逢坂の關のしみづといふは、走井とおなじ水ぞと、なべては人しれり、しかにはあらず、清水は別所に有、今は水もなければ、そことしれる人だになし、三井寺に圓寶房の阿闍梨といふ老僧、たヾひとり其所をしれり、かヽれどさる事やしりたると尋る人もなし、我しヽて後はしる人もなくてやみぬべきことヽ、人に逢て語けるよし傳へきヽて、かのあざりしれる人の文をとりて、建暦のはじめのとし十月廿日あまりの比、三井寺へ行、あざりにたいめんしていひければ、かやうにふるきことをきかまほしくする人もかたく侍めるを、めづらしくなん、いかでかしるべつかまつらざらんとて、ともなひてゆく、關寺より西へ二三町ばかり行て、道より北のつらに少したちあがりたる所に、一丈ばかりなる石の塔有、そのたふの東へ三段ばかりくだりて、くぼなる所は、すなはちむかしのせきのしみづの跡なり、道よりも三段ばかりや入たらん、今は小家のしりへになりて、當時は水もなくて見どころもなけれど、昔のなごりおもかげにうかびて、いうになんおぼえ侍し、阿闍梨かたりていはく、この清水にむかひて、道より北に、うすひはだふきたる家ちかくまで侍けり、誰人のすみかとはしらねど、いかにもたヾ人の
p.1027 居所にはあらざりけるなめりとなんとぞかたり侍し、
p.1027 關の清水〈◯中略〉 關の清水の事は、今年京都にあそびて、三井寺のゆきかひに、逢坂の關山をいく度か越るにつきて、關の清水の地ゆかしくて、尋ねたる事有りしに、まづ土俗の云ひ傳へし所二所あり、今うちまかせて人の覺えしは、大津宿〈此所を八町といふなり〉より京の方へよりて、道の北に〈京より下れば左の方に在り〉關清水大明神といふ社あり、石の鳥居立たり、その社の前に石を疊みて、清水の出る所有り、是を御香水と名付て、目を病人、此水にてあらふ事なり、その水洞の如く上を、かこひは一間四方ばかり、深さ三四尺も有るべし、甚だ清らにすみて、底に徹て見ゆ、是誰も知る所なり、さて又一所は此水より猶京の方にて、道の兩傍に山のせまる所在り、〈今は片方は町家にて、北の方は山なり、〉是古への關山なる事疑ひなし、實に孔管道とも云ふべくして、關おかれんには、此所にこそ有るべけれ、山の間わづかに十間に過す、京より下るに、右の方に山の麓にそひて石垣有り、その盡るほどばかりに又家並有り、〈此を井筒町といふ〉その北の山の下に〈京よりは左の方〉南無阿彌陀佛の名號ゑりたる石塔あり、高さ八尺ばかり、その前に石の井あり、二尺あまり四方にて、水もあさくたヽへけり、是を俗には弘法大師の加持水とて、めぐりに垣ゆひ廻し、常には蓋うちきせたれば、かりそめの往來には見えず、〈車道のむかひ山のはらに有り〉此水も眼やむ人の藥とす、花香など手向る人ありと見ゆ、或老人の語りしは、五十年ばかりの昔、此石塔のかたはらに、二抱ほどなる櫻の大木有りしが、ある年の大風にたふれて、此塔のうへさまにかヽりし故、塔もこけたりしが、その塔の下に此清水ありて、古井のさまなり、是ぞ古への關の清水にして、此事知人まれなりと語りぬ、今はその井筒を前にして、塔をばむかひさまへ居えたり、今思ふに、初の大津の宿よりは、十町ばかりも東に有るべし、此所關の舊跡と見ゆれば、有る所はよろしきに似たり、されども賀茂長明の無名抄に、關の清水の事を出して、山中に有るよしい
p.1028 へり、その時だに、水ははやうあせはてヽ、跡だにしられぬと見えたり、まして今千年にちかき時に至りては、いかでそこともしらるべき、しかしながら古歌にとりては、あふ坂の關の清水にかげ見えて今やひくらん望月のこま、とよめるを思へば、關のかたはらに清水は流れて、往來に影のうつりけん事たがひなし、しからばいづれ長明法師の云ひけん、山中なる事はいぶかしくこそ、たヾし今しばらくあたへて論はんには、その山中なりしは清水の源にて、流の末は關のわたりに出けるなるべし、又いまいへる所の清水は、いづれにもあれ、その流の末を認て、こヽこそ清水のあとよといひて、水上は尋ねぬにこそあらん、よりて此地形をよく〳〵見はかるに、水はたとひ涌もいで、あせもすらめど、山のたヽすまひのかはれる事有るべからず、此地桑田の海となるべきかたにもあらず、さらば關屋はたえて久しきことなりとも、關山は今も土俗の本關ごえともいへば、此所にたがひなし、よて思へば、今車道とて、牛車のかよふ路有り、〈此所にては、車道は北の方に有り、〉その所はいとひきく、道より見おろさるヽ所々もあれば、これらや古への小流のあとなどにやあらん、今の世と成て、牛車のしげくかよふにつけて、道行人のさまたげとなるをいとひて、その流を切落し、或はせきふたげて車の通路とせしにやあらんもまたしるべからず、蝉丸の居りたりし所も、まさしく關のわたり成べきに、是も今は蝉丸大明神といふ神にいはひこめて、社たヽし給ふ、是も二所有り、しかし京の方なるが關山にもちかく、山のさまも舊めかしく見ゆ、さだかなる事は、その人の由跡だにしれぬ事なれば、まして居けん庵の在る所も、千年の今にはしるべからず、是も此頃三井寺に在りし時、人の語りしは、志賀郡辛崎の西なる山の裾に、大井村とて、いささかなる里有り、今は穢多といふ乞食の住所なり、その村長を大江の某といへり、是は大江千里の後胤なりといふとかやそれさも有らん、〈大江村を俗に誤て大井村と云ふ〉たヾし延喜帝の皇子の蝉丸の御供とて、此所にくだり住付て有りしといふは、うけられぬことなるべし、此類ひ世に猶多き物語な
p.1029 れども、ことの次にしるしおきぬ、
p.1029 關清水 岩清水 今八町の蝉丸の社内にあれども、長明無名抄に、その時旣に水かれたるよし見へたれば、今さだかにそれとも思はれず、されども八町明神前の町を、關寺清水町といへば、此邊りとは見へたり、 〈古今雜體〉君が代にあふ坂山の岩清水こがくれたりと思ひけるかな 忠岑 〈此歌にて見れば、茂みたる木陰にある岩間などより涌出たるなるべし、〉
p.1029 相坂清水(○○○○) おほさかのしみづ 近江 關の清水同所なり、關川といふも此事をよめるなり、關の藤川とは異なり、
p.1029 野中清水(○○○○) のなかのしみづ 播磨國 印南野にあり、野中の水とのみもいふ、
p.1029 題しらず よみ人しらず いにしへの野中の清水ぬるけれどもとの心をしる人ぞくむ
p.1029 のなかのしみづ〈おぼろのしみづせかいのしみづ〉 いにしへの野なかのしみづぬるけれどもとの心をしる人ぞくむ 顯昭云、野なかのし水とは、播磨の稻見野にあり、此歌にはぬるけれどヽよみたれど、件し水みたる人の申しは、めでたきし水也と云々、 但考、能因歌枕云、野中のし水とは、もとのめを云といへり、今案云、其故もなくもとのめをのなかのし水といふべきにあらず、あらましごとに、野中のし水はぬるく共、もとそのし水をしりたらむ人のくまんやうに、むかし心をつくし、いみじくおぼえし人のおとろへたらんをも、もとの有様しりたれば、なをむすぶよしをよめりけるを本として、もとのめをば、野中のし水と
p.1030 はいひならはしたるにこそ、 後撰歌云 いにしへの野中のし水みるからにさしくむ物はなみだなりけり 又もとのめにかへりすむと聞て わがためはいとヾあさくや成ぬらん野中の清水ふかさまされば 拾遺集に、ふかく物いひける人に、元輔がつかはしける、 草がくれかれにし水はぬるくともむすびし身にはいまもかはらず 同集に、けさうする女の更に返事もせざりければ、實方中將、 わがためは玉井のしみづぬるけれどなをかきやらんとくもすむやと 此歌どもはみな、古今のいにしへの野中の清水ぬれけれどヽいふ歌を、ためしにてよめるなり、〈◯中略〉 和語抄には野中のし水は河内(○○○○○○○○)ノ國にも有(○○○○)といへり、 奧義抄云、野中のしみづとは、此しみづの事やうありげに申人も侍れど、させる見えたる事もなし、この水は、はりまのいなみ野にある也、始はめでたき水にて有けるが、すゑにはぬるく成て、人などもすさめぬを、むかし聞つたへたるものヽ、これにはめでたき水ありとこそきけとて、尋てみるに、あさましくきたなげになりてありけれども、これはめでたかりける水也、いかでか、のまで過なんとて、のまれける事をよめるとぞ申める、それより本をしれる事にいひつたへたる也、いまはかたも侍らぬにや、是は人のかたりし事也、見たる心もなければ、たのみがたし、 私云、まことにたしかに見えたる事もなし、此歌につきていへるにこそ、中にもかのし水いまはかたもなしとかヽれたる、いかヾなをめでたきし水にてこそ侍なれ、はりまのいなみのほ
p.1031 ど遠からねば、人みなしれる事也、さればあらましごとに、よめると思ふべし、 基俊が逢不レ逢戀歌に、 いにしへのしみづくみにとたづぬれば野中ふる道しほりだにせず これはたヾまたもえあはぬ心によせたるなり、しほりなどすべき事にはあらぬにこそ、
p.1031 野中の清水事〈◯歌略〉 右野中の清水は、播磨國いなみ野に有、昔はめでたき水にてありける、末の世にぬるくなりぬれど、昔をきヽつたへたる物は、これを尋てのみける心也、能因歌枕には、野中のしみづは、もとの妻をいふといへり、
p.1031 野中清水醸酒記 昔者王猷之盛、凡任レ國者、三歳考レ績、黜二陟幽明一、歴二七考一而入爲二參議一、其參佐僚屬、亦皆遷轉、故當時搢紳之士、東遷西徙、多歴二郡縣一、所レ至必述二悲歌感槪之情一、形二諸賦詠一、其士之風俗、氣候、山水之趣、物産之品、頼以可レ識、而傳至二于今一、凡經二其品題一者、今謂二之名所一、好レ古者稽焉、野中清水此其一也、播之印南郡界有二小池一、東距二明石郡城一、以二今里一計、二里而遠、其南半里許、而山陽往來之途在焉、其池南北五歩許東西倍而稍濶、其水清徹紺寒、冬夏不レ涸、可二以醸一レ酒、今屬二明石城主左兵衞佐源侯之管内一、相傳所レ云野中清水者乃是也、明石治下酒匠有二櫻井氏者一、以二善醸一名、侯爲給二其地一、汲レ池醞製、冬間將レ醸、必遺二吏人一掃除、又以二持明院基時卿搢紳之望一也、請二其歌章一以示二後世一、其好レ古也篤矣、〈(中略)正徳二年壬辰二月〉
p.1031 筑波郡〈◯中略〉 夫筑波岳、高秀二于雲一、最頂西峯崢嶸、謂二之雄神一、不レ令二登臨一、但東峯四方磐石、昇降決屹、其側流泉、冬夏不レ絶、〈◯下略〉
p.1031 貞觀四年九月十七日癸未、是日、京師人家井泉皆悉枯竭、所レ有レ水之處、人相借汲用、是
p.1032 日、勅開二神泉苑西北門一、聽二諸人汲一レ水、
p.1032 貞觀十七年三月廿八日辛亥勅、〈◯中略〉五年三月十五日丁丑、宣二詔五畿七道諸國一云、迺者陰陽寮勘奏状偁、撿二于卜筮一、今玆可レ有二天行之災一、豫能修レ善可レ防二將來一者、加以春雨未レ遍、水泉闕乏、思二民與一レ歳忘二寢與一レ食、〈◯下略〉
p.1032 貞觀五年六月十七日戊申、越中越後等國地大震、陵谷易レ處、水泉湧出、壊二民廬舍一、壓死者衆、〈◯下略〉 ◯
p.1032 七年十一月己亥、遣二沙門法員善往眞義等一、試飮二近江國益須郡醴泉一、
p.1032 養老元年八月甲戌、遣二從五位下多治比眞人廣足於美濃國一造二行宮一、 九月丁未、天皇行二幸美濃國一、 丙辰、幸二當耆郡多度山美泉一、賜二從レ駕五位已上物一各有レ差、 十一月癸丑、天皇臨軒詔曰、朕以二今年九月一到二美濃國不破行宮一、留連數日、因覽二當耆郡多度山美泉一、自盥二手面一皮膚如レ滑、亦洗二痛處一無レ不二除愈一、在二朕之躬一其驗、又就而飮二浴之一者、或白髮反レ黒、或頽髮更生、或闇目如レ明、自餘痼疾咸皆平愈、昔聞、後漢光武時醴泉出、飮レ之者痼疾平愈、符瑞書曰、醴泉者美泉、可二以養一レ老、蓋水之精也、寔惟美泉、即合二大瑞一、朕雖レ痛レ虚何違二天貺一、可下大二赦天下一、改二靈龜三年一爲中養老元年上、天下老人、年八十已上、授二位一階一、若至二五位一不レ在二授限一、百歳已上者、賜二絁三疋、綿三屯、布四端、粟二石、九十已上者、絁二疋、綿二屯、布三端、粟一斛五斗、八十已上者、絁一疋、綿一屯、布二端、粟一石一、僧尼亦准二此例一、孝子、順孫、義夫、節婦、表二其門閭一、終レ身勿レ事、鰥寡惸獨、疾病之徒、不レ能二自存一者、量二加賑恤一、仍令二長官親自慰問一、加二給湯藥一、亡二命山澤一、藏二禁兵器一、百日不レ首、復レ罪如レ初、又美濃國司、及當耆郡司等加二位一階一、又復二當耆郡來年調庸、餘郡庸一、賜二百官人物一各有レ差、女官亦同、 十二月丁亥、令下美濃國、立春曉、挹二醴泉一而貢二於京都一、爲中醴酒上也、
p.1032 昔元正天皇の御時、美濃國にまづしくいやしきおのこ有けり、老たる父を
p.1033 もちたりけるを、此男、山の本草をとりて、其あたひをえて、父を養けり、此父朝夕、あながちに酒をあいしほしがりければ、なりひさごといふものをこしにつけて、酒うる家に望て、つねにこれをこひて、父を養、ある時、山に入て、薪をとらんとするに、苔ふかき石にすべりて、うつぶしにまろびたりけるに、酒の香のしければ、思はずにあやしくて、其あたりを見るに、石の中より水ながれ出る所有、その色酒に似たりければ、くみてなむるに、目出たき酒也、うれしく覺て、其後日々に是を汲て、あくまで父をやしなふ、時にみかど〈◯元正〉此事を聞召て、靈龜三年九月日、其所へ行幸ありて、叡覽ありけり、是則至孝の故に天神地祇あはれび、其徳をあらはすと感ぜさせ給て、美濃守になされにけり、家ゆたかに成て、いよ〳〵孝養の心ふかヽりけり、其酒の出る所を養老の瀧と名付けられけり、これによりて、同十一月に、年號を養老とあらためられけるとぞ、