p.1249 海ハ、ウミト云ヒ、古クハアマ、又ハワタトモ云フ、而シテ其大ナルモノヲ、ウナバラ、若シクハ、ワタノハラト云ヘリ、ウミノ稱ハ、常ニ鹹水ノ渺茫タルモノニ用ヰレドモ、希ニハ淡水ノ廣大ナルモノ、即チ湖沼等ニ通スルコトアリ、
p.1249 海 四聲字苑云、百川所レ歸也、音改、〈和名宇三〉 溟渤 冥勃二音、〈和名於保岐宇三〉見二日本紀一也、 滄溟 四聲字苑云、滄音倉、〈阿乎宇三波良〉
p.1249 按海或訓二阿万(○○)一、如二海犬養海人一是也、宇美蓋阿万之轉、阿万與レ天同語、謂二蒼々無一レ際也、〈◯中略〉説文、海天池也、以納二百川一者、即此義、釋名、海晦也、主レ承二穢濁一、其色黒而晦也、〈◯中略〉溟渤、滄溟並見二神代紀上一、溟渤出二文選鮑昭、代君子有所思詩一、滄溟出下文選謝眺、拜二中軍記室一、辭二隨王一牋、南齊書樂志聖主曲辭上、按溟古作レ冥、莊子釋文、北冥、本亦作レ溟、北海也、嵆康云、取二其溟漠無一レ厓也、梁簡文帝云、窅冥無レ極、故謂二之冥一、東方朔、十洲記云、水黒色謂二之溟海一、然則從レ水後世俗字、與二説文小雨溟々字一自別、又説文云、澥勃澥海之別也、是冥勃字從レ水作レ渤亦俗字、滄海亦當レ作二蒼海一、海水其色蒼々、故名二蒼海一、作レ滄俗字、與下説文訓二寒滄一字上自別、曲直瀬本蒼作レ倉、廣本同、並與二廣韻一合、然蒼或去聲讀、倉又在二紐首一、作レ倉似レ勝、山田本、昌平本、下總本、奈作レ美、廣本同、與二伊呂波字類抄一合、阿乎宇奈波良、與二釋日本
p.1250 紀、今本神代紀傍訓、及類聚名義抄一合、萬葉集亦云二阿乎宇奈波良一、作レ奈似レ是、
p.1250 海〈音改 ウミ和カイ〉 〈古〉
p.1250 海〈音改〉 溟渤 於保岐宇三 滄溟 阿乎宇三波良 釋名云、海晦也、主レ承二穢濁一、其水黒如レ晦、説文云、海以納二百川一者也、莊子云、水莫レ大二於海一、萬川歸レ之而不レ盈、 古今わたつ海の波の千里や霞らんやかぬ鹽屋にたつ煙哉 中務親王 海水常無二増減一、華嚴經云、大海有二四熾燃光明大寶一、其性極熱、常能歡二縮百川所流大水一、是故天雨常降、萬川流入、而大海無レ有二増減一、
p.1250 海ウミ 太古の時に、アマト云ひしは即海なり、天もと呼びてアメといひしを、其語轉じてアマともいへば、其代にアマといひし語、天と海と相混ぜし事ども多かりき、〈古語にアマといひし天と、海と相混ぜしといふは、たとへば垂仁天皇の御代に來れりといふ、新羅王の子と云ふものヽ名、古事記には、天之日矛と見え、日本紀には、天日槍と見え、姓氏録には、天日桙と見えて、其記せし所各異なりといへども、天の字讀てアマといふ事は皆同じ、古語拾遺には、海檜槍としるしたりけり、此書は殊更に舊説を録して奏上せしなれば、しるせし所必誤るべからず、此等の事の如きは、我國の古書を讀む人の心を潜むべき事にや、〉ウミといひしことば、轉じてアマ(○○)といひ、又ワタ(○○)など云ひし如きは、古の方言同じからぬによりしにや、ウミと云ふは大水なり、古語に大をウといひけり、舊事紀、日本紀等に、大人の字讀てウシといひ、萬葉集に、大鹿の字ウカと讀むが如き即此なり、ワタの義は不レ詳、〈海をワタと云ふは、韓地の方言と見えけり、日本紀に、海をホタイといふは、百濟の方言なり、今も朝鮮の俗ハタヒといふなり、并にこれワタの轉語なり、秦姓をハタといふも此義なるべし、濁海檜槍などいふが如し、〉ワタツミと云ひしは、ワタとウミとの二語を合はせいふ、ツといひしは詞助なり、〈ワタノハラといふは、猶海上といふが如し、〉又オキウミ、オキツウミなどいひしは、大海なり、日本紀に、溟渤の字、讀てヲキウミといひしを倭名抄には、讀てヲホキウミといふ、また日本紀釋に、瀛津の字、讀てヲキツといふ、さらばヲキツウミといひしは、瀛海なり、其のツと云ひし是も亦語助なり、
p.1250 うみ 海をいふ、全水の義にや、又産の義、魚鰕珍恠を錯り出すよりいふといへり、
p.1251 萬葉集に、池を海とも海原ともよめり、湖を水海といふが如し、
p.1251 あま(○○) 海をいふは、日本紀、萬葉集に見ゆ、あをみの轉語にして、蒼海の義成べし、
p.1251 【海原】(ウナハラ)〈俗字〉
p.1251 うなばら 海をよみ、海原と神代紀に見えたり、原は廣平を稱す、
p.1251 此時伊邪那岐命、〈◯中略〉詔二建速須佐之男命一、汝命者所レ知二海原一矣事依也、
p.1251 最最後追加〈◯詠二領巾麾之嶺一〉二首〈◯一首略〉 【宇奈波良】能(ウナハラノ)、意吉由久布禰遠(オキユクフネヲ)、可弊禮等加(カヘレトカ)、比禮布良斯家武(ヒレフラシケン)、麻都良佐欲比賣(マツラサヨヒメ)、
p.1251 宇奈波良乃(ウナハラノ)、根夜波良古須氣(ネヤハラコスケ)、安麻多阿禮婆(アマタアレバ)、伎美波和須良酒(キミハワスラス)、和禮和須流禮夜(ワレワスルレヤ)、
p.1251 右の如く萬葉に、波は皆清音の假字をのみ書れば清てよむべし、つねに濁るはいかヾ、
p.1251 天皇〈◯舒明〉登二香具山一望レ國之時御製歌 山常庭(ヤマトニハ)、村山有等(ムラヤマアレド)、取與呂布(トリヨロフ)、天乃香具山(アメノカグヤマ)、騰立(ノボリタチ)、國見乎爲者(クニミヲスレバ)、國原波(クニハラハ)、煙立籠(ケブリタチコメ)、海原波(ウナハラハ)、加萬目立多都(カマメタナタツ)、怜㥓國曾(ウマシクニソ)、蜻島(アキツシマ)、八間跡能國者(ヤマトノクニハ)、
p.1251 海原は、香山の麓埴安の池、いと廣くみゆるを、海原とよみ給へる也、卷三、獵路池にて、人万呂、おほきみは神にしませばま木のたつあら山中に海をなすかも、同卷香山の歌に、池波さわぎおきべにはかもめよばひともよめり、
p.1251 【滄海】(アヲウナバラ)〈東海一名〉 蒼溟海(同)
p.1251 あをうなばら 萬葉にみゆ、祝詞に、青海原と見ゆ、神代紀に、滄溟、また滄海之原をよめり、倭名抄、三河郡碧海を、あをみとよめり、されば祝詞などに、青海原を、あをみはらとよめるを是とすべし、
p.1252 伊弉諾尊、伊弉册尊、立二於天浮橋之上一共計曰、底下豈無レ國歟、廼以二天之瓊〈瓊玉也、此曰レ努、〉矛一指下而探之、是獲二滄溟(○○)一、
p.1252 是獲二滄溟一〈コヽニアヲウナハラヲエキ〉
p.1252 祈年祭〈◯中略〉 奧津御年乎(オキツミトシヲ)、八束穗能(ヤツカホノ)伊加志穗爾(イカシホニ)、皇神等能(スメカミタチノ)依左志奉者(ヨサシマツラバ)、〈◯中略〉【青海原】住物者(アヲウナハラニスムモノハ)、鰭能廣物(ハタノヒロモノ)、鰭能狹物(ハタノサモノ)、奧津藻菜(オキツモハ)、邊津藻菜至氐爾(ヘツモハニイタルマデニ)、◯中略〉稱辭竟奉牟(タヽヘコトオヘマツラム)、〉
p.1252 二月〈◯天平寶字二年〉十日、於二内相〈◯惠美押勝〉宅一餞二渤海大使少野田守朝臣等一宴歌一首、 【阿乎宇奈波良】(アヲウナハラ)、加是奈美奈妣伎(カゼナミナビキ)、由久左久佐(ユクサクサ)、都都牟許等奈久(ツヽムコトナク)、布禰波波夜家無(フネハハヤケム)、 右一首、右中辨大伴宿禰家持、〈未レ誦之〉
p.1252 わた(○○) 海をよむは渡る義也、古來山に越といひ、海に渡るといふは套語也、舊事紀、及古事記に、多く綿の字をもちう、よて波の白きを比すといへるはあしヽ、
p.1252 廣海(ワタヅミ/ワタノハラ)〈又作二廣原海一〉 方便海(同)〈万葉〉 渡津海(同)レ〈同上〉 海底(同)〈喜撰式〉
p.1252 わたつみ(○○○○) 神代紀に、海、又女童を訓ぜり、海つ神の義なるべし、〈◯中略〉海をいふも少童より出たり、萬葉集に、渡津海と書れば、渡る海の義とし、わたつうみなどよめるは古意に非ず、又方便海など書り、方便も濟度の意を取にや、一説に、渡津持也、津は助辭、 わたのはら(○○○○○) 海の原也、うなはらに同じ、
p.1252 師説に、海を和多と云は、渡ると云ことなり、古書に、山には越といひ、海には渡るといへり、〈今云、書紀齊明天皇の大御歌に、山こえて海わたるともなど有、〉萬葉一卷に、對馬乃渡渡中爾などよめるを思へとあり、此外の説はひがことなり、大綿津見神名義、師説に、綿は海、津は例の助辭、見は毛知の約りたるにて、海津持てふ意なり〈◯中略〉とあり〈(中略)又師説に、綿津海など書る、綿も海も借字にて意なし、又わたづみを只海のことゝ云は、此神の名より轉れるなり、故いと上代には、〉
p.1253 〈神名の外に、わたづみてふことは見えず、海をも然云は、大津飛鳥などの御代のころよりや始りけむ、又和多都宇美と云は、いよヽ後のひがことなり、延喜式などまでも、たゞ和多都美とのみあり、多を濁もひがことなり、綿字を借、又假字もみな清音を書り(中略)とあり、◯中略〉此説に依べし、
p.1253 海 わたつうみ 〈わたつみ〉わたのそこ わたのはら うなはら をしてる わたつ海のてにまきもたる玉といへり やへのくま〈海神居所〉浪せく海〈清輔説〉海のもくつ〈基俊、川にこそよめと難ず、但在二後撰并狹衣歌一、〉あさなき 夕なき あら海〈万〉 あらつヽ〈万〉 あを ありそ〈或北陸道海〉 よそ〈四海也、仲平云歌、〉おほ こしの 西の
p.1253 海 〈同名所〉 わたつうみ〈わたつみ共云也、然共只うの字なきをも、うの字を入て云也、次わたつ海とは大海共書也、海の名也、只海路と可二心得一也、或海底と書てわたつみとよむ、山神をも山つみと日本紀によむと云々、されば海神と書てもわたつみとよむ也、又わたつみと、うの字なくても書也、又わたつうみのてにまきもたるとよめるは、わたむしる事を海によせて云歟、わたむしるてをばつむと言也、しからばわたつむ歟、みとむと同五音の故也、わたつ海の手となくは海也、手とあれば此儀は綿の事也と云々、〉わたのそこ わたのはら うなはら あらうみ ありそ海〈或は北陸道海只海の總名也〉 青海 よそ海〈四海也〉をしてる〈をしてるや難波と讀り、をしてるとはうみを云也、にほてるとは潮を言云々、なにはの外ををしてるとよめる、歌なし、然ばうみの總名と云は不審也、又をしてるやみつのほり江とよめる歌あり、但是も難波に近ければ同心歟、又云、舟をゝし出由の詞也、なにはより船に乘所なれば、をしてるやと舟をゝにし出よしの詞によむを、しほうみにはいづこにもよむ事になれり、又云、をしてるは押照也、にほてるは湖也、〉ありそのめぐり やへのくま〈海神の居所〉波せく海〈清輔説と八雲御抄〉海もくつ〈基俊、河にこそよめと難、但後撰、并狹衣、〉あさなき あさけのなき なきたる海 夕なき〈かせも夕ゐよしと云も夕なきの事也、なきと云は波風しづかなる也、先大方風のなき也、〉おほ海 ししの海 西の海〈あをきがはら〉には〈うみの面のしづかに平々たる也、又只うみの面也、又云、西へさす鹽をにはと云、東へさす鹽をばうらしほと云也と云々、にはよくとはしづかなる也、〉四の海 海のふすま〈すまに付也、是は海の晴やらぬ氣色也、〉海のと中〈但これ猶可レ尋いかゞ〉おほき海 しなてる〈海の枕言也〉へた〈海へたと云り、淺き所を云也、〉海へ とあさ 海つら〈海濱ともかけり〉みるもなくめもなき海〈後撰、是は湖也、〉 海山かけて 入海 四方の海〈もゝづたふやそしまかけて見わたせば空こそ海のきはめなりけれ〉
p.1253 やよひのついたちにいできたるみのひ、けふなんかくおぼすことある人は、みそ
p.1254 ぎし給べきと、なまさかしき人の聞ゆれば海づら(○○○)もゆかしくて出給ふ、〈◯中略〉うみのおもて(○○○○○○)はうらうらとなぎわたりて、行ゑもしらぬに、〈◯下略〉
p.1254 成親卿流罪事 備前國阿江ノ浦ヨリ、内海(○○)ヲ通テ、兒島ト云所ニ著給フ、
p.1254 潮〈達驕反、平、淖也、志保彌豆、〉
p.1254 潮 四聲字苑云、海水朝夕來去波涌也、直遙反、又作レ淖、〈和名宇之保(○○○)〉周處風土記云、海神上朝二於天一、鰌鯨迎二送海神一、出二入於穴一、令二水進退爲一レ潮、又抱朴子云、天河與二地河一海水相搏擊、五水相盪激涌而成レ潮、
p.1254 説文、淖从レ水朝省、玉篇、淖潮同レ上、于之襃、見二齊明紀御歌、及後撰集一、仁徳紀、海潮、宣化紀、海水同訓、神代紀、天武紀、潮訓二之保(○○)一、新撰字鏡、潮訓二志保彌豆一、按宇之保、蓋海鹽之急呼、云レ海以別二燒成鹽一也、〈◯中略〉文選江賦注、引二抱朴子一云、朝者據レ朝來也、説文、淖、水朝二宗于海一、〈◯中略〉隋書云、風土記三卷、晉周處撰、唐書云、一卷、今無二傳本一、宣十二年左傳正義引、作下鯨鯢海中大魚也、俗説、出二入穴一、即爲中潮水上、太平御覽引、作下俗説鯤一名海鰌、長數千里、穴二居海底一、入レ穴則水溢爲レ潮、出レ穴則水入潮退、出入有節、故潮水有上レ期、與二此所一レ引頗不レ同、〈◯中略〉抱朴子八卷、晉葛洪撰、所レ引文、今本無レ載、太平御覽引、作下天河從二北極一分爲二兩頭一、至二於南極一、其一經二南斗中一過、其一經二東斗中一過、兩河隨レ天、轉入二地下一、過而與二下水一相得、又與二海水一合、三水相蕩而天轉排レ之、故激涌而成中潮水上、此所レ引蓋節二其文一也、五水當レ作二三水一、風土記抱朴子二條、舊、及山田本、尾張本、昌平本、曲直瀬本、下總本皆無、獨廣本有レ之、今附存、
p.1254 潮〈音朝、ウシホ、アサシホ(○○○○)、シホ、和同、〉潮汐〈アサシホ、ユフシホ(○○○○)、〉
p.1254 海ウミ〈◯中略〉 潮をば、古語にはシホといひしを、倭名抄には、潮字讀てウシホと云ひけり、シホと云ひし義不レ詳、ウシホといふは海潮なり、古事記には、海鹽としるしたりき、食鹽をもシ
p.1255 ホといへば、其名を分ち云ひしなるべし、朝を潮といひ、夕を汐といふと見えたれば、アサシホといふは潮にして、ユフシホといふは汐にてこそあるべけれ、〈或説に、霜をシモといひ、潮をシホといふ、并にこれシムといふ語の轉ぜしにて、其身に、しむをいふなりといへり、されど古語にシといひし詞には、白きをいふなり、霜をシモといひ、潮をシヲといふが如きは、その色に因りしとこそ見えたれ、海濱の鹹土は、霜のおきし如くに其色の白きものなり、潮を煮し後に始て其色の白きのみにはあらず、シホといひシモといふが如き、もと是轉語なるは勿論なり、〉
p.1255 うしほ 潮をよめり、古事記に、海鹽を書り、燒たる鹽に對へていふなり、新撰字鏡には、しほみづとよめり、字彙に、潮者地喘息也、隨レ月消長、早曰レ潮晩曰レ汐、所二以應一レ月者、從二其類一也、
p.1255 伊弉諾尊、伊弉册尊、立二於天浮橋之上一、共計曰、底下豈無レ國歟、廼以二天之瓊〈瓊玉也、此曰レ努、〉矛一指下而探之、是獲二滄溟一、其矛鋒滴瀝之【潮】(シホ)、凝成二一島一、名之曰二磤馭盧島一、〈◯中略〉即對馬島、壹岐島、及處處小島皆是潮抹(シホノアハ)凝成者矣、亦曰二水沬凝而成一也、
p.1255 故其猨田毘古神、坐二阿邪訶一〈此三字以レ音、地名、〉時爲レ漁而、於二比良夫貝一〈自レ此至レ夫以レ音〉其手見二咋合一而、沈二溺海鹽(○○)一、〈◯中略〉其海水(○○)之都夫多都時名、謂二都夫多都御魂一、〈自二都下一四字以レ音〉
p.1255 海鹽は、〈鹽は借字〉齋明紀の御歌に、于之裒とあるに依て然訓べし、下なる海水も同じ、〈師はウナシホと訓れつれども、據なし、〉
p.1255 十一年四月甲午、詔二群臣一、曰、今朕視二是國一者、郊澤曠遠、而田圃少乏、且河水横逝、以流末不レ駃聊逢二霖雨一、【海潮】(ウシホ)逆上、而巷里乘船、道路亦埿、 十六年七月戊寅朔、天皇以二宮人桑田玖賀媛一、示二近習舍人等一曰、朕欲レ愛二是婦女一、苦二皇后之妬一不レ能レ合、以經二多年一、何徒棄二其盛年一乎、〈◯中略〉於レ是播磨國造祖速待、獨進之歌曰、【瀰箇始報】(ミカシホ)、破利摩波揶摩智(ハリマハヤマチ)、以播區 輸(イハクヤス)、伽之古倶等望(カシコクトモ)、阿例揶始儺破務(アレヤシナハム)、
p.1255 瀰箇如報〈三日潮也、私記曰、師説三日之潮、其沈急速、故欲レ讀二早待一之、發語置二此言一乎、〉
p.1255 元年五月辛丑朔詔曰、〈◯中略〉夫筑紫國者、遐邇之所二朝屆一、去來之所二關門一、是以海表之國、候二海水(○○/ウシホ)一以來賓、望二天雲一而奉貢、〈◯下略〉
p.1256 四年十月甲子、幸二紀温湯一、天皇憶二皇孫建王一、愴爾悲泣、乃口號曰、〈◯中略〉瀰儺度能(ミナトノ)、【于之裒】能矩娜利(ウシホノクダリ)、于那倶娜梨(ウナクダリ)、于之廬母倶例尼(ウシロモクレニ)、 岐底舸庾舸武(ヲキテカユカン)、〈其二〉于都倶之枳(ウツクシキ)、阿餓倭柯枳古弘(アガワカキヲ)、 岐底舸庾舸武(ヲキテカユカン)、〈其三〉
p.1256 天皇〈◯天武〉崩之後八年九月九日、奉二爲御齋會一之夜、夢裏習賜御歌一首、〈◯中略〉 神風乃(カミカゼノ)、伊勢能國者(イセノクニハ)、奧津藻毛(オキツモモ)、靡足波爾(ナビキシナミニ)、【鹽氣】能味(シホケノミ)、香乎禮流國爾(カヲレルクニニ)、味凝(アヂゴリ)、文爾乏寸(アヤニトモシキ)、高照日之御子(タカヒカルヒノミコ)、
p.1256 題しらず よみびとしらず わたつ海のおきつ鹽あひ(○○○)にうかぶ淡の消ぬ物からよる方もなし
p.1256 寛元五年〈◯寶治元年〉三月十一日甲子、由比濱潮變(○○)レ色(○)、赤而如(○○○)レ血(○)、諸人群集見レ之云云、 五月廿九日辛巳、三浦五郞左衞門尉、參二左親衞御方一申云、去十一日、陸奧國津輕海邊、大魚流寄、其形偏如二死人一、先日由比海水赤色事、若此魚死故歟、隨而同比奧州海浦波濤、赤而如(○○○)レ紅(○)云云、〈◯下略〉
p.1256 しほのみちひ 潮の滿乾也、天地の壽數十二萬九千六百年、其息晝夜に、二呼二吸也、引息には元氣升り、地沈むによりて、海水溢る、出る息には地もとの如く浮によりて、汐ひるといへり、
p.1256 潮之説 或問、潮のさし引は一分を増(マサ)ず、一分を減ぜず、いか成道理にや、又潮の滿來る事、皆東の方よりさす也、委敷其説を聞ん、 對曰、潮の説、古來紛々として一ならず、案ずるに、潮は天地の呼吸の氣息なり、呼吸の氣息といふは、人の日夜の呼吸のごとし、天地の間の自然の呼吸なり、〈◯中略〉凡天地の壽數は一元の氣にして、十二万九千六百年也、子の會に天闢、亥の會に天地塞るの間也、故に其息も緩くして一晝夜に二呼二吸なり、其二呼二吸は是氣の升降也、地は水に浮び、水は元氣と升降す元氣升る時
p.1257 は地沈、是故に海水溢れあがる又元氣降る時は地始のごとく浮む、是故に海水縮りて潮虚涸也、さるによりて潮晝夜に二度滿、二度干る也、又大潮小潮にて遲速の有は、月の盈虚順環に依て替りあり、然れば天地の呼吸と見たる説是也、又一説には、余襄公海潮賦の序に、潮の消息は皆月に繫れり、月卯酉の間に望む時は、潮南北に平也、〈卯ノ方ハ東也、酉ノ方ハ西也、〉彼は滿、爰は竭、〈竭トハ干コトナリ〉往來絶へず皆月にかヽるなりといへり、又王柏が造化論には、潮は陽の精にして、陰の依從ふ所なり、月は陰の靈たり、潮の附する所也、朔日十五日は、月の環(メグリ)日に近し、故に月のめぐり早くして、潮の應ずる事もすみやか也、朔望の外は〈朔トハ朔日ノ義、望トハ十五日ノコト、〉月も日に遠ざかるゆへに、月のめぐり遲くして、潮も又應ずる事小也といへり、是等の説おもしろし、又蟸海集に、凡日子に臨む時は、海水必起る、但上十五日は晝を潮とし、夜を汐とす、下十五日は、晝を汐とし、夜を潮とす、此時月皆子午の位也とあり、如レ是説まち〳〵なりといへども、愚案には、天地の呼吸といへる説を可也とす、山海經、水經等に載するがごとき、海鰌の洞より出る時、潮干洞に入る時は潮滿る抔といへるは異説怪誕にしていふにたらず、何ぞ大魚の出入によつて、天地の潮異なる事あらんや、五雜俎には、潮汐の説、誠に窮詰難し、然るに近キ浦、淺き岸のみ、其滿干を見る、大海の體は、誠に一毫も増減なしと述たり、是をもつて見れば、彌天地の一呼一吸といふ理に過ず、〈◯中略〉扨又潮の消息は、いつも東よりさす事は其理あり、夫百川の水は皆東に流れ趣く物なり、是其氣の至るに依て也、又東の方は地僻なる故也、潮は又東よりさす、是本に歸るの義也、抑東の方は卯辰の位にして、升氣の盛成方也、辰は龍變の郷也、是故に潮は東に起て西海に注ぐ、是本に歸する理也、
p.1257 海神乃延二彦火火出見尊一、從容語曰、天孫若欲レ還レ郷者、吾當レ奉レ送、便授二所レ得釣鈎一、因誨之曰、以二此鈎一與二汝兄一時、則陰呼二此鈎一曰二貧鈎一、然後與之、復授二潮滿瓊(○○○)及潮涸瓊(○○○)一、而誨之曰、漬二潮滿瓊一者則潮(○)
p.1258 忽滿(○○)、以レ比沒二溺汝兄一、若兄悔祈者、還漬二潮涸瓊一、則潮自涸(○○○)以レ此救之、如レ此逼惱則汝兄自伏、
p.1258 幸二于伊勢國一時留レ京柿本人麿作歌〈〇中略〉 【潮佐爲】二(シホサヰニ)、五(イ)十等兒乃島邊(ラコノシマベ)、搒船荷(コグフネニ)、妹乘良六鹿(イモノルラムカ)、荒島回乎(アラキシマワヲ)、
p.1258 潮の滿る時、波の佐和具を、しほさゐといふ、ゐは和藝の約め也、卷四、浪乃鹽左猪島響といひ、卷十一、おきつし保佐爲(ヰ)たかく立きぬなどよめり、
p.1258 天平二年庚午冬十一月、太宰帥大伴卿被レ任二大納言一、〈兼帥如レ舊〉上レ京之時、陪從人等別取二海路一入レ京、於レ是悲二傷羈旅一、各陳レ所レ心作歌十首、〈〇中略〉 荒津乃海(アラツノウミ)、【之保悲思保美知】(シホヒシホミチ)、時波安禮登(トキハアレド)、伊頭禮乃時加(イヅレノトキカ)、吾孤悲射良牟(ワガコヒザラム)、
p.1258 處女等之(ヲトメラガ)、麻笥垂有(ヲケニタレタル)、續麻成(ウミヲナス)、長門之浦丹(ナガトノウラニ)、朝奈祇爾(アサナギニ)、【滿來鹽】之(ミチクルシホノ)、夕奈祇爾(ユフナギニ)、依來波乃(ヨリクルナミノ)、波〈〇波恐彼誤〉鹽乃(シホノ)、伊夜益升二(イヤマスマスニ)、彼浪乃(ソノナミノ)、伊夜敷布二(イヤシクシクニ)、吾妹子爾(ワギモコニ)、戀乍來者(コヒツツクレバ)、〈〇下略〉
p.1258 月さして、しほのちかくみちきける跡もあらはに、なごり猶よせかへる浪あらきを、柴の戸をしあけて、詠めおはします、
p.1258 尾張の國なるみの浦を過るに、夕しほ(○○○)たヾみちにみちて、こよひやどからんも、ちうげんにしほみちきなば、こヽをも過じと、ある限りはしりまどひすぎぬ、
p.1258 太田左衞門大夫持資は、上杉宣政の長臣也、〈〇中略〉宣政下總の廳南に軍を出す時、山涯の海邊を通るに、山上より弩を射かけられんや、又潮みちたらんや、はかりがたしとてあやぶみける、折ふし夜半のこと也、持資いざわれ見來らんとて馬を馳出し、やがて歸りて潮は干たりといふ、いかにしてしりたるやと問ふに、遠くなりちかくなるみの濱千鳥鳴音に潮のみちひをぞ知る、とよめる歌あり、千鳥の聲遠く聞えつといひけり、
p.1258 しほのやほへ 神代紀に、潮八百重と見えたり、中臣祓に、潮の八百道、又潮の八
p.1259 百會とも見えたり、源氏にも、しほのやほあひとよめり、〈〇中略〉南海の潮道、入落たる船は留るよしなく、遂にかへらず、此道八丈が島に中るといへり、
p.1259 大海のいと澳に、潮道といふありて、瀧よりも疾く、東へのみながるといへり、潮道は八方よりも有べけれど、その八百會までは、知べからねば、播磨と豐後日向の、潮道の行會もて、思はかるべき也、
p.1259 後釋〈〇中略〉現に聞及ぶ潮道も、國々の海に、これかれある中に、伊豆國より、八丈島へ渡る海中にある潮道、廣さ廿町ばかりがほど、いみじく早く、東へ流るとぞ、又紀國熊野の南の澳にも有て、東へ流るといふは、かの八丈の道なると、同じすぢにやあらん、
p.1259 六月晦大祓〈十二月准レ之〇中略〉 遺罪波不レ在止祓給比清給事乎、高山之末、短山之末與理、佐久那太理爾落多津速川能瀬坐須、瀬織津比咩止云神、大海原爾持出奈武、如レ此持出往波、荒鹽之鹽乃八百道(○○○○○)乃、八鹽道(○○○)之鹽乃八百會爾座須、速開都比咩止云神持歌呑氐牟、
p.1259 爾袁祁命亦立二歌垣一、〈〇中略〉於レ是王子亦歌曰、【斯本勢】能(シホセノ)、那袁理袁美禮婆(ナヲリヲミレバ)、阿蘇毘久流(アソビクル)、志毘賀波多傳爾(シビガハタデニ)、都麻多氐理美由(ツマタテリミユ)、
p.1259 斯本勢能は、潮瀬之なり、凡て海には潮の筋ありて通れるものなる、其を潮瀬と云、書紀に、此御句を一本易二彌儺斗一とあり、
p.1259 あやしきあまどもなどの、〈〇中略〉この風いましばしやまざらましかば、しほのぼりてのこる所なからまし、かみのたすけをろかならざりけりといふを、きヽ給もいと心ぼそしといへばをろかなり、 海にますかみのたすけにかヽらずばしほのやをあひ(○○○○○○○)にさすらへなまし
p.1260 右大臣に侍ける時、家に歌合し侍りけるに、霞の歌とてよみ侍ける、 攝政前右大臣 霞しく春のしほ路(○○○)を見渡せばみどりを分る沖つしら浪
p.1260 源平侍遠矢附成良返忠事 判官〈〇源義經〉ハ軍負色ニ見エケレバ、鹽瀬(○○)ノ水ニ口ヲ潄、目ヲ塞テ合掌、八幡大菩薩ヲ祈念シ奉、
p.1260 題しらず 大江忠成朝臣 なるみがた鹽せ(○○)の波にいそぐらし浦のはまぢにかヽる旅人
p.1260 兵庫海陸寄手事 鹽路(○○)遙ニ見渡セバ、取梶面梶ニ搔楯搔テ、艫舳ニ旗ヲ立タル數萬ノ兵船、順風ニ帆ヲゾ擧タリケル、
p.1260 六日〈〇康應元年三月〉御舟いでヽ、〈〇中略〉まゐのす、つちのとなとヾいひて、かたき所々、いまぞとをらせ給、此所はしほのかなたこなたに行ちがふめり、宇治の早瀬などのやうなり、しほの落合て、みなはしろく流れあひて、しほさい早くのぼればくだるなり、稻舟ならましかば、さほとりあへじかしとみゆ、つちのとといふは、大づち、こづちとて、島山ふたつ北南にならびたるあはひをとをるせとなるべし、早しほ(○○○)にをし落されじと、舟子ども聲をほにあげて、こぎなめたり、
p.1260 八丈の渡海は至て險難にて、凡日本より渡る所、中華、朝鮮、琉球、および壹岐、對馬、佐渡、松前、何れも易すからずと雖も、八丈島を以第一とす、豆州下田より巳午の間に當り、百里と雖へども定かならず、先三宅島に渡り、此風にてはたやすかるべしといふほどの日和を待得ざれば船出さず、三宅島よりは未にあたりて五六拾里といふ、此間に早潮黒潮(○○○○)の來る方二段三段とな
p.1261 りて、逆浪立あがりて其音雷の如く、聽人膽を冷し魂を消す、黒潮は海面に墨をすりし如く、幾百ともなく渦ばかり流るヽゆへ、見る者怪しく是をみず、目くるめかずといふ人なし、晴天にて日和よければ、海上穩かにして、右の早潮黒潮もみえず、是を見るほどの天氣なれば、決て船をつかはさず、故に見しと云人は稀なり、もし右の潮にあたれば、何國ともなく押し流がされて、再び歸る人なき故、是は語りも傳へず、遠くみて早潮ならんと察るのみなり、順風にて日和もよしといふ日にも、大浪船を打越す事は度々なり、
p.1261 水波(○○) 釋名云、風吹レ水成二波文一曰レ漣、音連、波體轉相連及也、又波浪濤瀾漪字、〈知名奈三(○○)〉泊漪(○○) 唐韻云、淺水貌也、白柏二音、文選師説、〈左々良奈三(○○○○○)〉
p.1261 潺〈仕纏仕山二反 ナカルヤリミツ サヽラナミ〉 浪〈盧宕反 ナミ ウカフ ウコカス 又魯浪反、和ラウ、〉 波〈音皤 ナミ 和ハ〉
p.1261 浪(ナミ)波〈二字義同〉
p.1261 波ナミ 揚水也、亦鳴水也、古語にナと云ひしに、擧揚の義あり、されば舊事紀、日本紀に、擧の字、讀てナといひけり、鳴るといひ、鳴くといふも、聲を擧るの義也、鳴水とは、その音あるに因れるなり、たとへば阿波國風土記に、奈汰云者、其浦波の音無二止時一、依而奈汰云といふ義の如し、〈地名に、鳴海、鳴渡などいふが如き、古語にナミといひ、ナタといふ事の如し、ナミと云ひしは、鳴海といふ語の如く、ナダと云ひしは、鳴渡といふ語に同じ、タといひ、トといふは并に轉音なり、〉浪讀む事また同じ、
p.1261 なみ 波浪をいふは、鳴水の義なるべし、よてさわぐをなみといふ、靜かなるを波なしともいへり、おほなみ(○○○○)を濤、こなみ(○○○)は淪也、
p.1261 めなみおなみ(○○○○○○) 波のうつに、一たびは高く、一たびは卑し、よて男女を分てるなり、
p.1261 和歌浦、〈〇中略〉俗説に此浦におなみ有て、めなみなし、故に片男波と云、此説非
p.1262 也、男波とは大なみ(○○○)なり、め波とは小波(○○)也、われもとより其誤を信ぜず、あめつちの内、などてかヽるつねの理にたがひぬる事やあるべきとおもひしかば、かへりて後人にもかたり、其迷をさとさんため、わざと此濱邊にやすらひて、心をとめて久しく見侍りしに、いさヽか俗説のごとくにはなし、只よのつねの所のごとく、おなみ、めなみともに、いくたびもたち來れり、和歌の浦にしほみちくればかたをなみと、古歌によめるは、俗説の意にあらず、しほみち來りて、潟(カタ)なくなると云意也、其故あしべの方にたづ鳴來れるといふ意明らかにきこゆ、萬葉第六卷に此歌あり、滷乎無美(カタヲナミ)とかけり、此文字にて歌の意明らかなり、乎(ヲ)はやすめ字也、しほみちくれば潟(カタ)なくなると云意也、
p.1262 反歌 阿古乃海之(アゴノウミノ)、荒礒之上之(アリソノウヘノ)、【小浪】(ササラナミ)、吾戀者(ワガコフラクハ)、息時毛無(ヤムトキモナシ)、
p.1262 寄レ物陳レ思 登能雲入(トノグモリ)、雨零河之(アメフルカハノ)、【左射禮浪】(サザレナミ)、間無毛君者(マナクモキミハ)、所念鴨(オモホユルカモ)、
p.1262 此速秋津日子、速秋津比賣二神、因二河海一持別而生神名、沫那藝(○○)神、〈那藝二字以レ音、下效レ此、〉次沫那美(○○)神、〈那美二字以レ音、下效レ比、〉次頰那藝神、次頰那美神、〈〇下略〉
p.1262 故思に、書紀一書に國常立尊云々、天萬尊生二沫蕩尊一、〈沫蕩、此云二阿和那伎一、〉沫蕩尊生二伊弉諾尊一とある、是はいと異なる一傳なり、かくて那伎に蕩字を書れたるは、平の義を取て、〈詩に、魯道有レ蕩などいふ蕩字のこヽろなり、〉水上の和たる意なるべし、〈或人も然云き〉さて此に那美と對たるは、那美は水上の騷ぐを云言にて、波と云名もそれより出たるなるべし、
p.1262 故大國主神、坐二出雲之御大之御前一時、自二波穗(○○)一乘二天之羅摩船一而、内二剥鵞皮一剥、爲二衣服一有二歸來神一、〈〇下略〉
p.1263 戊午年二月丁未、皇帥遂東、舳艣相接、方到二難波之碕一、會下有二【奔潮】(ハヤキナミ)太急上、因以名爲二浪速國一、亦曰二浪華一、今謂二難波一訛、 六月、海中卒遇二暴風一、〈〇中略〉三毛入野命亦恨之曰、我母及姨並是海神、何爲【起】二【波瀾】(ナミ)一、以灌溺乎、則踏二【浪秀】(ナミノホ)一、而往二乎常世郷一矣、
p.1263 むかし男有けり、京に有わびて、あづまにいきけるに、いせおはりのあはひの海づらをゆくに、なみのいとしろくたつをみて、 いとヾしく過ゆくかたのこひしきにうら山しくもかへるなみかな、となんよめりける、
p.1263 けふ〈〇承平五年正月二十二日〉海あらけにて、いそに雪ふり、なみの花さけり、あるひとのよめる、 なみとのみひとへにきけどいろみればゆきとはなとにまがひぬるかな
p.1263 渚 韓詩注云、一溢一否曰レ渚、昌與反、〈和名奈木左〉
p.1263 韓詩二十二卷、漢薜氏章句、見二隋書一、今無二傳本一、經典釋文引與レ此同、西京賦李善注引有二少異一、爾雅小洲曰レ渚、釋名渚遮也、體高能遮レ水、使二旁回一也、廣雅、渚、處也、按説文、渚水出二常山中丘蓬山一、東入レ渇、非二此義一、説文又云、者、別レ事詞也、諸、辯也、段玉裁曰、辯也、當レ作二辯詞一也、辨、判也、者與レ諸音義同、釋魚、前弇諸果、後弇諸獵、諸即者、郊特牲、或諸遠人乎、亦作二或者遠人乎一、凡擧二其一一、則其餘謂二之諸一以別レ之、因レ之訓レ諸爲レ衆、然則者亦有二衆義一、故轉一溢一否謂二之者一、再轉謂二小洲一爲レ者、後人从レ水作レ渚、與二渚水字一自別、古事記、海神之女豐玉毘賣命白、天神之御子不レ可レ生二海原一爾、即於二其海邊波限一造二産殿一註訓二波限一云二那藝佐一、按奈岐佐、水與レ陸之界、正波之所レ寄也、後多與二美岐波一混言、神代紀、波瀲同訓、新井氏曰、奈岐佐、浪際之義、波佐同韻、
p.1263 岸キシ〈〇中略〉 渚をナギサともいふは、波の限れる所なれば、舊事紀には、波瀲の字用ひられしかども、古事記には波限の字を用ひたりけるなり、古記にキと云ひしは、限りの義ありしかば、ミナギハとも、キシとも、ナギサとも云ひしと見えたり、
p.1264 なぎさ 渚をよめり、〈◯中略〉なみぎはをなぎさといふは、はとさと同韻の轉也、
p.1264 於レ是海神之女、豐玉毘賣命、〈◯中略〉爾即於二其海邊波限(○○○○)一、以二鵜羽一爲二葺草一造二産殿一、於レ是其産殿未二葺合一、不レ忍二御腹之急一、故入二坐産殿一、〈◯中略〉是以名二其所レ産之御子一、謂二天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命一、〈訓(○)二波限(○○)一云(○)二那藝佐(○○○)一、訓二葺草一云二加夜一、〉
p.1264 海邊(ウミベタ)と波限(ナギサ)とは同じことの如くなれども、海邊と云は廣く、波限は正しく波の打寄る際なり、〈又波限とは、川池などにも云故に、海邊のとはことわれるにもあるべし、〉
p.1264 都乃久爾乃(ツノクニノ)、【宇美能奈伎佐】爾(ウミノナギサニ)、布奈餘曾比(フナヨソヒ)、多志埿毛等伎爾(タシテモトキニ)、阿母我米母我母(アモカメモカモ)、 右一首、鹽屋郡〈◯下野國〉上丁大部足人、
p.1264 屋島合戰附玉蟲立レ扇與一射レ扇事 即荒手ノ兵ヲ指向テ、入替入替戰ケリ、源平互ニ甲乙ナシ、兩方引退キ、又強建處ニ、沖ヨリ莊(カザリ)タル船一艘、渚(○)ニ向テ漕寄、
p.1264 へ 邊は經の義、音にあらず、奧に對しいふ、万葉集にも奧へ往、邊ゆきと見えたり、又端の義、はし反ひ、よて海邊をうなび、はま邊を濱ひ、岡邊ををかびと古歌によめり、
p.1264 一書曰、〈◯中略〉豐吾田津姫、恨二皇孫一不二與共言一皇孫憂之、乃爲レ歌之曰、憶企都茂幡(ヲキツモハ)、【陛】爾幡譽戻耐母(ヘニハヨレドモ)、佐禰耐據茂(サネドコモ)、阿黨播怒介茂譽(アタハヌカモヨ)、播磨都智耐理譽(ハマツチドリヨ)、
p.1264 高安王裹レ鮒贈二娘子一歌一首 奧幣往(オキヘユキ)、邊去伊麻夜(ヘニユキイマヤ)、爲妹(イモガタメ)、吾漁有(ワガスナドレル)、藻臥束鮒(モブシツカフナ)、
p.1264 海 へた(○○)〈海へたと云り、淺き所を云也、〉
p.1264 海邊(ウミバタ/ウミベ)〈舊事紀〉
p.1265 へた 日本紀、萬葉集に、海邊をよみ、又邊をへたと訓ぜり、はたと通ず、澳に對しいふ也、伊勢阿濃の津に部田あり、海濱也、萬葉集に、淡海の海へたは人しるおきつ波とよめる是也、後撰集に、何せんにへたのみるめをおもひけんおきつ玉もをかづく身にして、
p.1265 海邊は宇美辨多(○○○○)と訓べし、書紀に、海畔、古今集〈戀三〉に、世をうみべたに云々とあり、萬葉十二〈廿丁〉に、淡海之海(アフミノウミ)、邊多波人知(ヘタハヒトシル)、後撰集に、へたのみるめ、
p.1265 於レ是其弟泣二患居海邊(○○)一之時、鹽椎神來問曰、何虚空津日高之泣患所由、〈◯下略〉
p.1265 二十三年八月丙子、天皇疾彌甚、〈◯中略〉崩二于大殿一、〈◯中略〉是時征二新羅一將軍吉備臣尾代、行至二吉備國一過レ家、後所レ率五百蝦夷等、聞二天皇崩一、〈◯中略〉乃相聚結侵二寇傍郡一、於レ是尾代從レ家來會二蝦夷於娑婆水門一合戰、而射二蝦夷等一、或踊或伏、能避二脱箭一、終不レ可レ射、是以尾代空二彈弓弦於【海濱】(アマハタ)上一射二死踊伏者二隊一、〈◯下略〉
p.1265 寄物陳レ思 淡海之海(アフミノウミ)、【邊多】波人知(ヘタハヒトシル)、奧浪(オキツナミ)、君乎置者(キミヲオキテハ)、知人毛無(シルヒトモナシ)、
p.1265 志賀のからさきにて、はらへしける人のしもづかへに、みるといふ侍けり、〈◯中略〉 くるまよりくろぬしにものかづけける、そのものこしにかきつけて、みるにをくり侍ける、 くろぬし なにせんにへた(○○)のみるめを思ひけんおきつ玉もをかづく身にして
p.1265 沖(ヲキ)〈韵瑞、湧搖也、又深也、〉 澳(同)
p.1265 おき 海のおきは、日本紀に、瀛字、古事記に、澳字を用ゐたり、奧の義也、澳字は龍龕に見えたり、沖をよむも深也と注せるをもて也、川にもおきとよめる事、萬葉集、古今集に見えたり、
p.1266 溺死出雲娘子火二葬吉野一時、柿本朝臣人麿作歌二首、〈◯一首略〉 八雲刺(ヤクモサス)、出雲子等(イヅモノコラガ)、黒髮者吉野【川】(クロカミハヨシノノカハノ)【奧】名豆颯(オキニナヅサフ)、
p.1266 をき火 みやこのよしか ながれいづるかただにみえぬ涙川をき(○○○)ひん時やそこはしられん
p.1266 鴨君足人香具山歌一首并短歌 天降付(アモリツク)、天之芳來山(アメノカグヤマ)、霞立(カスミタチ)、春爾至婆(ハルニイタレバ)、松風爾(マツカゼニ)、【池】浪立而(イケナミタチテ)、櫻花(サクラバナ)、木晩茂爾(コノクレシゲニ)、【奧邊】波(オキベハ)、鴨妻喚(カモメツマヨビ)、【邊津方】爾(ヘツベニ)、味村左和伎(アヂムラサワギ)、〈◯下略〉
p.1266 是以伊邪那岐大神詔、〈◯中略〉故吾者爲二御身之禊一而、到二坐竺紫日向之橘小門之阿波岐〈此三字以レ音〉原一而禊祓也、故〈◯中略〉於二投棄左御手之手纒一所レ成神名、奧疎神、〈訓レ奥云二淤伎一、下效レ此、訓レ疎云二奢加留一、下效レ此、〉次奧津那藝佐毘古神、〈自レ那以下五字以レ音下效レ此、〉次奧津甲斐辨羅神、〈自レ甲以下四字以レ音、下效レ此、〉次於二投棄右御手之手纒一所レ成神名、邊疎神、次邊津藝佐毘古神、次邊津甲斐辨羅神、
p.1266 左の御手纒に成る三神を奧と云ひ、右のに成る三神を邊と云、奧は海の奧、邊は海邊にて、常にも對言なり、さて左を奧に當るは、師説に、萬葉九に、吾妹兒者、久志呂爾有奈武、左手乃、吾奧手爾、纒而去麻師乎とある即此意なりと云れき、〈◯中略〉さて淤伎と淤久とは同言なり、邊は端方なり、波志を切て比となり、此倍を切て閉となれるなり、〈故海邊を宇那備、濱邊を波萬備、岡邊を乎加備とも古歌によめり、〉
p.1266 大寶元年辛丑冬十月、太上天皇〈◯持統〉大行天皇〈◯文武〉幸二紀伊國一時歌十三首、〈◯十二首略〉 爲妹(イモガタメ)、我玉求(ワレタマモトム)、於伎邊有(オキベナル)、白玉依來(シラタマヨセコ)、於伎都白浪(ヲキツシラナミ)、
p.1266 寄レ石戀といへる心を 二條院讃岐 我袖は鹽干に見えぬ沖の石の人こそしらね乾くまもなき
p.1267 洋(ナダ)〈海之大者〉 灘(同)〈増韻、瀬也、本朝俗、用爲二大洋之義一謬乎、〉
p.1267 なだは、なといふはなみなり、阿波國風土記云、奈汰〈奈汰云事者、其浦波之音無二止時一、依而奈汰云、海邊者波立者奈汰等云、〉たと云はたかき義也、海の面渺々として波たかき所也、
p.1267 波ナミ〈◯中略〉 鳴水とは、その音あるに因れるなり、たとへば阿波國風土記に、奈汰(ナタ)云者、其浦波の音無二止時一、依而奈汰云といふ義の如し、〈地名に、鳴海、鳴渡などいふが如き、古語にナミといひ、ナダといふ事の如し、ナミと云ひしは、鳴海といふ語の如く、ナダと云ひしは、鳴渡といふ語に同じ、タといひトといふは并に轉音なり、〉
p.1267 なだ 洋をいふ、仙覺説に、波高の義といへり、されど神代紀にいふ、名門の轉ぜるなるべし、灘字をよむはあしヽ、
p.1267 卅日〈◯承平五年一月〉雨風ふかず、〈◯中略〉とらうの時ばかりに、ぬじまといふ所をすぎて、たながはといふ所を渡る、からく急ぎて、いづみのなだ(○○○○○○)といふ所に到りぬ、けふ海に浪ににたるものなし、神佛のめぐみ蒙れるににたり、
p.1267 むかし男、津の國むばらの郡あしやの里にしるよししていきて住けり、むかしの歌に、蘆のやのなだ(○○○○○○)のしほやきいとまなみつげの小ぐしもさヽずきにけり、と讀ける、
p.1267 文がくながされの事 去程にいせの國あのヽ津より、舟にて下りけるが、遠江國天龍なだ(○○○○)にて俄に大風吹、大波立て、すでに此舟を打返さんとす、
p.1267 奧州下向勢逢二難風一事 兵船五百餘艘、宮ノ御座船ヲ中ニ立テヽ遠江ノ天龍ナダヲ過ケル時ニ、海風俄ニ吹アレテ、逆浪忽ニ天ヲ卷翻ス、
p.1268 三尊窟 伊豆國は、駿河相模の二國にはさまり、箱根より南海中へ二十五里出張りたる國なり、〈◯中略〉志摩國鳥羽の湊より、此國の下田の湊まで七十五里の海を遠州灘(○○○)と稱して、日本第一の大洋とす、〈◯下略〉
p.1268 御藏島は、〈◯中略〉三宅島よりは五里ばかり南へはなれ、八丈灘(○○○)に近き島ゆへ、汐行甚だ早し、
p.1268 天平二年庚午冬十一月、太宰帥大伴卿被レ任二大納言一〈兼レ帥如レ舊〉上京之時、陪從人等別取二海路一 入レ京、於レ是悲二傷羈旅一、各陳レ所レ心作歌十首、〈◯中略〉 昨日許曾(キノフコソ)、敷奈底婆勢之可(フナデハセシカ)、伊佐魚取(イサナトリ)、【比治奇乃奈太】乎(ヒヂキノナダヲ)、今日見都流香母(ケフミツルカモ)、
p.1268 伊豫に下るに、よしあるうかれめに、 音にきヽめにはまだみぬ播磨なる響のなだ(○○○○)と聞はまことか
p.1268 李部王記云、天慶〈◯慶原作レ徳、今改、〉四年六月十一日、是日備前、備中、淡路等飛驛至、備前使申云、賊二艧、〈純友等也〉從二響奈多一捨舟脱遁、疑入レ京歟云々、
p.1268 はや船といひて、さまことになんかまへたりければ、思ふかたの風さへすヽみて、あやうきまで走りのぼりぬ、ひヾきの灘もなだらかにすぎぬ、〈◯中略〉うきことに胸のみ騷ぐひヾきにはひヾきの灘もさはらざりけり
p.1268 周防の國を北の見、四國を南に見る、海上荒潮の色蒼茫たり、いはゆる周防灘(○○○)なり、〈◯中略〉苅田の宿〈小倉より是迄三里半〉に至る、此所も小倉の殿の御領なり、濱邊にて人家六十軒計あり、多くは漁者農夫なり、宿屋少うして問屋場に本陣を兼たる林田五郞左衞門といふ人の家に宿る、座席廣々として、縁先より見渡せば、周防灘の白浪殘る所なく望中にあり、近くは十丁許り東の方の
p.1269 沖中に、おうの島といふ小島、面白く浮みたり、杉の生垣のきりそろへたるが濱手にひきく見おろさるヽなど、風景甚よし、
p.1269 【玄界灘】(ゲンカイナダ)〈又作二源海一、筑前、〉
p.1269 泊二天草洋(○○○)一 雲耶山耶呉耶越、水天髣髴青一髮、萬里泊レ舟天草洋、烟横二篷窻一日漸沒、瞥見大魚波間跳、太白當レ船明似レ月、
p.1269 迫渡(セト)〈海川合レ水之處〉湍門(同)〈万葉〉
p.1269 せと 神代紀の歌にみゆ、萬葉集に、湍門、迫門と書り、常に瀬戸と書も同じ、
p.1269 大伴郞女和歌四首〈◯中略〉 千鳥鳴(チドリナク)、佐保乃【河門】乃(サホノカハトノ)、瀬乎廣彌(セヲヒロミ)、打橋渡須奈(ウチハシワタスナ)、我來跡念者(ワガクトオモヘバ)、
p.1269 渡〈◯中略〉 あかしのと〈播 万、あかしのせとヽいふ、〉 なるとの〈阿 万、たヾなるとヽも、◯中略〉 つしまの〈對馬、万、あかねよし、◯中略〉 むしあけのせと〈狹衣〉 ゆらのと〈紀、好忠、〉 さつまのせと〈薩摩、万、◯中略〉 おほしまのなると〈後撰〉
p.1269 金華山〈◯中略〉 すべて海中の難所といふは、打開きたる大海にはあらず、唯山と山との幅狹くなりたる所を迫門(○○)といひて、潮の勢も急に成り、波浪も逆立て渡りがたきなり、幅狹き所、底淺き所のみ恐ろしヽ、余なども初は海を渡らば、隨分里數短かく、幅狹き所の、しかも底淺き所をこそ撰むべしと思ひしが、赤間關の渡りを越えて、其潮勢の猛なるをおそれしより、松前の渡り場の急潮を考へ合せ、諸國の迫門を乘りて、底淺ければ浪逆立、幅狹ければ潮急なるを知りて、唯海は廣く深き所を撰りて乘るやうになりたり、理はよくしれたることなれども、實境に逢ざれば心得違ふ事も多き
p.1270 ものなり、
p.1270 柿本人麻呂羈旅歌八首〈◯中略〉 天離(アマザカル)、夷之長道從(ヒナノナガチユ)、戀來者(コヒクレバ)、自【明門】(アカシノトヨリ)、倭島所見(ヤマトシマミユ)、
p.1270 【虫明迫門】(ムシアケノセト)〈備前〉
p.1270 虫上狹渡岸上古寺 同人〈◯釋蓮禪〉 楓柳江頭舟宿辰、枕涯晩寺影奫淪、晴沙日照庭無レ夜、白浪花飛砌有レ春、鐘響不レ驚林底鳥、佛恩暗浴水中鱗、檀那昔日利生願、一禮征人結二善因一、
p.1270 海のおもては、きしかた行末も見えず、はる〴〵と見わたされたるに、よせかへるなみばかり見えて、ふねのはるかにこがれ行が、心ぼそき聲して、むしあけのせとへ、こよひとうたふも、哀にきこゆ、
p.1270 備前守にてくだりける時、むしあけといふ所のふる寺の柱に書つけける、 平忠盛朝臣 むしあけのせとの明ぼのみるおりぞ都のこともわすられにける
p.1270 むさけのせとヽいふ所にてよめる たのもしやむさけのせとをいる程は立しらなみもよらじとぞ思ふ
p.1270 おんど おんどのせど(○○○○○○)、安藝の海にあり、昔平相國堀通らせられたる所也、瀧のごとくに潮はやく狹き所也と、嚴島詣記にみえたり、
p.1270 十日、〈◯康應元年三月〉またごき出させ給、〈◯中略〉おむどのせとヽいふは、瀧のごとくにしほはやく、せばき處なり、舟どもをしおとされじと、手もたゆくこぐめり、
p.1270 隱戸の瀬戸
p.1271 安藝の國隱戸の瀬戸といふ海あり、此所は國の南の山遙に突出て、六七里海上に出たり、其山の陸地に連る所甚だ細ければ、海へ出たる所程を山をほり窟て切り通ふして、舟のかよふ海路を別に造りしなり、其所人力を以て切明たりし事なれば、兩方の岸せまり居て、其間の潮行甚急にして、舟人の恐るヽ所なり、何人の切通せし事にやと尋るに、むかし平清盛安藝守にて此國に居給ひし時、舟にて毎度往來に此所に至り、出崎の山にさへられて、遙の南の方へ廻りて、十里餘も海路遠くなれば、此所を通り給ふ度毎にいかりて、此出崎の山を切通し、舟を眞直に遣るべしと下知し給ふ、人皆此事を人力の及ぶ所にあらざるべしと恐れしかども、清盛の下知やみがたくて、數万人の力を以て、終に陸路に連る所を斷切て、舟の通ふ海を造りなせり、其後は數百年の後も其恩をかふむりて、上り下りの舟路近く行事を得るなりとぞ、余〈◯橘南溪〉兵庫に遊びし時、築島を見て、清盛の志の大にして豪邁なる事を感じ驚きしが、又此事を聞て、一世に威をふるひ給ひしも、其故なきにあらざりしと、其世の事までを思ひやりし、
p.1271 かまかりといふ小湊あり、人家百軒程ありといへり、此邊の船路をかまりの瀬戸(○○○○○○)といふ、また半里程にして長濱左にみゆ、人家あり、此邊より西の方は南海の地廣遠にみゆ、伊豫の國界なり、かまかりより南、かろふとヽいふ湊をすぎて、おんどにいたる、またおんどの瀬戸(○○○○○○)といふ、〈忠海より此所まで十三里餘〉山を後にしたる小みなとにて、人家二百軒ばかり、南より東へむけて濱邊にたちつヾけり、寺三四箇寺みゆ、昔平相國清盛公、嚴島の御神を拜まむと祈誓ありしに、明神大蛇と化して見へさせ給ひければ、相國恐れたまひて、東のかたに漕戻させ給ふに、折しも向ひ汐にて、船のぼりがたかりしかば、相國怒り給ひて、舳先にたちて海上を疾視給ひしかば、汐逆に上のかたに引しとなり、さるによりて此瀬戸の一名を清盛のにらみの瀬戸(○○○○○○○○○)ともいふとぞ、例の船人はかたりける、瀬戸間一丁ばかりにして、至て狹く淺瀬おほし、此瀬戸をすぎて西の方四里程にし
p.1272 て、館岩といふ所にいたる、このあたりの山水の形状、誠に畫景とはいひつべし、
p.1272 三十一年八月、初枯野船爲二鹽薪一燒之日、有二餘燼一、則奇二其不一レ燼而獻之、天皇異以令レ作レ琴、其音鏗鏘而遠聆、是時天皇歌之曰、訶羅怒烏(カラヌヲ)、之褒珥椰枳(シホニヤキ)、之餓阿摩離(シガアマリ)、虚等珥菟句離(コトニツクリ)、訶枳譬句椰(カキヒクヤ)、【由羅能斗能】(ユラノトノ)、斗那訶能異句離珥(トナカノイクリニ)、敷例多菟(フレタツ)、那豆能紀能紀(ナヅノキノキ)、佐椰佐椰(サヤサヤ)、
p.1272 戀 由良のとを渡る舟人かぢをたえ行へもしらぬ戀の道かな
p.1272 海路 權中納言匡房 おほしほや淡路のせと(○○○○○)の吹わけにのぼり下りのかたほかくらん
p.1272 和田岬、からすざきなんどいふ岬をまはりて、午刻ごろ淡路の瀬戸といふ所をゆく、此瀬戸は幅五十丁ありといふ、淡路島よりは北、舞子濱よりは南にあたれり、舞子濱の方を望めば、浪際より小松ども數千本並立て、全く畫景に異ならず、午刻すぐる頃風かはりて、〈坤の風也〉船人どもは帆綱引かへ揖とり直して、眞切走といふ事をしてゆく、淡路の松帆のみさきの岩屋の鼻といふに、ふねをちかづく、この岬も小松ども幾千本ともなくおひしげりて、其中に小き堂有て、堂の前に石燈籠のならびたるも見えて、景色いとよし、
p.1272 なると(○○○) 鳴門と書り、阿波の鳴門は淡路に近く、阿波の地つヾきなりしが、波にきれたる如く見ゆ、尾閭也といへり、莊子に、水莫レ大二於海一、尾閭泄レ之とみゆ、
p.1272 山川 小鳴門(○○○)〈在二北泊一、距二堂浦一千八十歩許、此間兩岸對立如レ門因名、◯中略〉 鳴門〈在二阿淡之間一、古稱二速吸名門一、日本書紀所レ謂、伊弉諾尊、往觀者是也、東岸斗出者、淡路行者嶽也、西距二孫埼一二千四百歩許、其間有二石灘一稱二中瀬一、暗礁數百歩、波濤之激、盤渦輪轉、大者往〻數十歩、行舟畏之、颶風將レ起、海水怒號聞二于四方一、潮迅去則漁艇來集、有二島二一、西稱二裸島一、勢圓而小、東稱二飛島一、險絶不レ可レ陟、裸島之南磯石平敷十餘丈、呼曰二千疊鋪一、西崖平坦有二礎石一、即公駕遊憩之處、〉
p.1273 鳴門 阿波淡路の境にして、阿波の國板野郡撫養浦にあり、門の間十七八丁、大海より滿來る潮も、中國の海より于る汐も、滿于ごとに此門にあつまれば、汐のはやき事矢のごとく、水勢のつよき事、盤石の轉倒にたとへんもさらなり、されば順水にあらざれば、風帆も此門を渡事かたし、此門の間阿波地より淡路潟へ、瀬の巖つヾきて見ゆれば、水底深しとも見へざりき、瀬の左右は深き事底をしらず、此門于汐の時は一方ひくヽなりて、一方より落る水瀧の如く、滿汐の時は、大海より汐みちくれば、瀬あたりて立のぼる、浪落ればこと〴〵く渦となる、其高く卷あがりたる白浪に、朝日影のうつろふ景色、また門わたる舟の汐にひかれて、飛鳥のごとくなるありさま、畫にもいかでとおもふ絶景なり、尋常の汐の滿于だにかヽる景あり、三月三日の汐于は、海原大に高下ありて、倭國第一の瀬戸なれば、鳴門の汐于とてなだヽり、
p.1273 卅日〈◯承平五年一月〉雨風ふかず、海賊は夜あるきせざるなりときヽて、夜中ばかりに船を出して、あはのみと(○○○○○)を渡る、夜中なればにしひんがしもみえず、おとこをんな、からく神佛を祈りてこのみとを渡りぬ、
p.1273 觀濤記〈天明改元四月〉 加藤景範 磯よりさし出たる島を、あふの島といふ、そのさきより大毛山にかヽり、岨道を廻りて峯にのぼれば、海は鏡のやうにかヾやく、かく波風のなぎたるを正民見て、舟にてくべかりけるものをば、船長が何に得はからぬかたひ也けりとつまはぢきす、此峯のはてなる所に茶亭あり、こヽに居て見れば、こなたの磯はなれたる所に、峙てる島をはだか島といふ、むらいなる名は、たがきせけるぬれぎぬにかあらん、松おほくしげりて、あらはにもあらず、その南に黒き岩山をとび島といふ、東は淡路島にて、このひた表にむかふ、峯の西のかたへつらなり出たるが、そのしま根と、はだか島と一里ばかりなるが、あはひ岩瀬のやうに白浪さわぐ所鳴門なり、そのあたり渦まく、おも
p.1274 ふに此海の底とこなめの岩にて、その間にありかね、土の底とほりたるに、穴いくそばくとなく有なるべし、唐土に鰌穴尾閭澤焦など、あらぬことわりをかまへ出せるも、此たぐひなるべし、落潮のさかりのさまをきくに、波の上に數しらずうずまくが、見るがうちにくぼかに心やをちいりてふかく入り、海づら高くひきく、際だてヽ彼渦の中へ瀧をなして落る、そのひヾきは山とヾろき巖ゆする、此南より北より落くるうしほ、こヽに行あふほどに、山のごとき波をおとすめり、その潮のとき事、矢をたとふるもにぶく、みるにめくるめくとなん、今少しはやからば、それを見るべきにと、口々にうらむるに、峯久は耳を何方へもやらまほしげなり、とかくするほどに見し波もしづまりぬ、正民は猶はらふくらせるをなぐさめて、翁、 立かへりまたきて見よや高波を鳴門の神やとくしづめけん、よしやくるヽまで有て、さす潮をだに見んとて、正民も翁も礒にくだり、はだか島に上らんとするに、〈◯下略〉
p.1274 與次兵衞瀬(○○○○○) 中國の九州と分れたる地は、長門の國と豐前國なり、赤間が關と内裏とさしむかひて、纔に一里の海をへだてたり、小倉へは筋違にて三里なり、此所兩國の山迫たれば、海の幅狹く、さし潮、引しほともに、其汐先き甚急にして、誠に大河の如し、其故に此所の渡海は汐の滿合たる時にのみわたる事なり、汐先きには渡海なし、予〈◯橘南溪〉が赤馬が關にいたりし時に、渡りの時刻を過て、便船一艘もなく、明日まで逗留すべしといふ、いたづらに時日を移さん事も心なくて、纔なる海の面なれば、何とぞして渡るべき手だてやなきと人に問ふに、獵船をかり切りて渡り玉はヾ、今半時が程猶わたるべしといふ、さらばとていそぎ獵船をかり、予僕と二人、船頭二人、都合四人乘て渡りぬ、初の程はさもなかりしが、中流に至れば、誠に大河の如く、逆卷大波漲り落つ、常に手なれし船頭なれど、急流に押落されて、遙に筋違にこそ渡りぬ、其水勢只川の如くにて、海のやうにあらず、
p.1275 小舟なれば、木のはの如くゆらめきて、座すべくもあらず、僕はとく病臥しぬ、予も急流の目ざましきにいと珍敷おもひて眺め居たりしが、あまりに強くゆられて、心地も常ならねば、面目風景も眺つくさず、辛うじて渡り付ぬ、誠に潮の流るヽ事もすさまじきものなり、又此渡りの中流に、岩山の長きが一ツ水の上纔に出たり、是を與次兵衞瀬といふ、通船恐るヽ瀬なり、いかなるゆへに名付しやと問ふに、太閤秀吉公朝鮮御征伐の時、肥前の名古やまで御出陣ありしに、此海をわたり玉ふとて、汐先に押ながされ、御座ぶね此瀬に流かヽり、すでに碎けて海中に沈んとせし所を、四方よりたすけ船馳來り助け乘奉り、無難に渡り付給ひしとぞ、其時の船頭を與次兵衞といひしが、大かたならぬ不調法なれば、即時に此瀬に上り、切ふくして失たり、其後此瀬を與次兵衞とは名付しなり、太閤の御座船さえ流れたりし事、其汐先の強きをしるべし、
p.1275 又長田王作歌一首 隼人乃(ハヤビトノ)、【薩摩乃迫門】乎(サツマノセトヲ)、雲居奈須(クモヰナス)、遠毛吾者(トホクモワレハ)、今日見鶴鴨(ケフミツルカモ)、
p.1275 三馬屋浦にて浦人を招き、松前渡海の里數を尋ね聞に、皆々海上七里といふ、予遠見せるに信じがたく、〈◯中略〉町端に手習師匠せし若ものに佐兵衞といふ人有、此もの萬事に才有よしを聞て、其儘尋行て、海邊の地理を尋見しに、所不相應の才子たりしゆへ、大に嬉しく、海上の汐の行事をも委しく聞し事なり、〈◯中略〉三馬屋より龍飛鼻迄三十六丁道にして三里に近し、龍飛鼻より白神鼻迄七里、然ば松前の津までは十里に少し近し、右のごとくわづかなる海上といへども、西の方數千里の大海より、東海へ行汐汐にて、其急なる事瀧の水のごとし、海上に三ツの難所あり、所レ謂龍飛の汐、中の汐、しら神の汐と稱し、龍飛の汐といふは、汐の流れ龍飛の岩石に行當り、其はね先至て強く、汐行一段高し、中の汐といふは、龍飛鼻よりはけ出す汐さきと、白神鼻よりはけ出す汐先と、中にて戰ふゆへに、逆浪立あがりて、時として定かならず、此汐行汐位不案内に
p.1276 て、一棹あやまる時は、船を汐におし廻され、危きに至る事にて、日本第一の瀬戸(○○○○○○○)なり、南より北方に渡る海上ながら、南風にて渡りがたし、其故は汐行早き所にて、船を東へおし流し、松前の津へ入がたし、數里の海上皆々石磯にて、船よすべき所なし、箱館の浦へ志すのみ也、〈◯下略〉
p.1276 渡島國 津輕海峽(○○○○) 津輕郡白神岬ト、陸奧國龍飛岬ト相對シ、相距ル海里十二里四分、峽中三ノ潮路アリ、〈◯下略〉
p.1276 北見國 宗谷海峽(○○○○) 宗谷郡ニ在リ、北緯四十五度四十二分五十秒、東經百四十二度一分五十二秒、露西亞領哥爾薩港ト對峙ス、海里二十五里二分五釐、宗谷ヨリ北一里半許、佐内ノ地ニ津口アリ、樺太白主ヘ達ス、西洋人此ヲラプロフス海岐(○○○○○○○)ト云、露人ハアニソ海峽(○○○○○)ト云、峽中二ノ潮路アリ、第一ハ幅五里許、第二ハ幅一里許、波濤壯猛、三馬屋峽ニ讓ラズト、此間潮水東ニ流ル故ニ、舟舶潮勢ニ隨テ行キ、左ニ還テ樺太洋ニ入ル、一説宗谷ノ七潮トテ、潮路七所アリト、昔ハ此ノ渡海二百十日ヲ限ト爲ス、
p.1276 海は 水うみ よさのうみ かはぐちのうみ いせのうみ
p.1276 海〈◯中略〉 なにはの〈攝 万、をしてるみやをしてるといふなり、〉ゐなのヽ〈同 万、しながどり、〉ちぬの〈同 万濱松〉むこの〈同 万、いさりする、◯中略〉いせの〈伊勢万 鶴きよきなぎさ、〉みかたの〈若狹、万、〉いなみの〈播 万 ちへにかくれぬ やまとしまね〉くろうしの〈紀 万、大宮人のあさり、〉けいの〈越前 万、かりごも、〉あごの〈長 万、あさけのしほ、〉するがの〈駿 万、はまつヾら、〉のとの〈能 万〉すヽの〈同 万、なかはまのうら、〉くひの〈越中 万◯中略〉なこの〈同 万七、海中にしかそ島いそのうら、攝津國にも丹波にもあり、〉ありその〈同古、はまのまさご、こしの海、凡北陸海をいふともいへり、〉おふの〈出雲 万、かつらの千鳥、〉い
p.1277 づの〈伊豆万〉かとり〈万 大ふね〉なさかの〈同 万、たまも、〉まつらの〈肥前 万、たらし姫、〉こかたの〈筑前 万、紫の、〉よさの〈丹後 万、あまのはしだて有、〉かはふちの〈清少納言抄〉おまゑのをき〈攝 千、頼實、〉なるをのをき〈千實家〉ひたちの〈常 源氏歌〉いたみの〈石 万、うつたの山につヾけたり、〉いくたの〈攝◯中略〉はくひのかたの きの たかつの〈是は難波海を云也、万、波たかきたかつの海のをきつ波ちへにかくれぬ山としまねはと云り、山としまねは、凡我國の山の名といふなり、〉おくの海〈万、陸奥國海也、〉
p.1277 海 〈同名所〉 伊勢海〈たつあまのしまつかあはひ、玉、あまのたくなは、釣するあまのうけ、鹽ゆくあまの藤衣、戀みるめかつかん、千ひろのはま、あまのまてがた、貝ひろふ、忘がひ、うつせがい、鹽がひ櫻がひ、しほせにかくるあまの釣舟、もしほ木、あみのうけなは、月、千鳥、はま荻、波の花、いもの家づと、雁、螢、をののふる江を添よめり、又はをのゝみなとヽも、〉伊豫海〈いよの海の岩木のしまといへり〉印南海〈はりま 波高きいなみの海の奥つなみ千へにかくれぬやまとしまねは〉伊豆海〈月、しま〳〵いづの海立白波のありつヽもつきなん物をみたれしらめや〉生田海〈攝州 鹽あまつり舟 をくれては生田の海のかひもなししつむみくつにともになりてん◯中略〉石見海〈石州ふかみる〉石花海〈するが〉羽咋海〈能登しほちからたヾこえくればはくひの海あさなぎしたる船のかぢかも、或云、越中、◯中略〉床海〈未レ勘 とこの海の我身こすなみよるとても打ぬる中にかよふこゑかは〉土佐海〈◯中略〉茅渟海〈和泉 いもがために、貝ひろふ、うきみる、鹽干、はまへの小松、ねふかめて、我戀わたる、〉ちくまの海〈八雲御説〉香取海〈下總 大船のかとりの海にいかりおろしいかなる人か物おもはざらん〉かはふちの海〈八雲御説〉與謝海〈丹後 月、しほたるヽ、千鳥、いさり、あまのまてかた、花なし松、螢、わかめ、よさの入海、よさのふけ井共つヾけたり、 よさの海の内外のはまに浦さびて世をうみわたるあまのはしだて〉高津の海〈攝州 岩舟、千への波、沖つなみ、ちへにかくれぬやまとしまねは、〉難波海〈つの國 櫻がひ、おき、をしてる、抑此なむばをなにはと云事は、昔なみのはやくてありし故に、波花といへるを、なにはと略して云と梁塵抄に云り、〉桑古海〈同 又越中に有二同名一、入日をあらふとわたる舟、是は攝州の儀也、ゑつ中のには、あさけの名殘、煙、おきつ白なみ、しき〳〵とかすみ、玉ひろふ、鴨、玉もみなと風、菅、月、はまなつむをとめら、さヽらなみ、 あゆの風いたく吹らしなこのあまのつりするを舟こぎ歸みゆ、 なこの海しほのはやひはあさりしにいでんとたづは今ぞなくなる、又云、阿古海と云も、なこのうみ同事也と云り、但いかヾ、〉名坂海〈ひたち 玉も、有明の空に千鳥なく、鹽、〉鳴海海〈尾州 あまいけるかひをもひろはぬ、八雲霞、〉繩海〈つの國 釣、鹽、彌陀の國、〉武庫海〈同レ右 いさりするあまのつり舟むろの木にわ玉はやすむこのわたり入江のす鳥〉牟婁海〈紀州大舟〉室津海〈すわう むろのつみやかまどを過る舟なれば物をおもふにこがれでぞゆく〉猪名野海〈攝州 しながどり、月、鶴、千鳥、鹽、〉能登海〈のと つりするあまのいさり火、月待、〉大隅海〈大すみ つらき心は大すみの〉苧生海〈勢州 をふの海舟のりすらんわぎもこがあかものすそに鹽滿らんか〉飯宇海〈出雲 千鳥なか鳴こす鹽、鹽干、まこも、五月雨、そかひに見つヽ都へのぼる、〉隱岐海〈おき 我こそは新島守よおきの海のあらきしほかぜ心してふけ〉奧海〈陸奥ちどり、〉
p.1278 〈しほひのかた思、鵜のゐる岩、あまのみるめかり、〉黒牛海〈紀州 くろうしの海紅匂ふ、もヽしきの大宮人のあさりすらしも、〉松浦海〈肥前 さらしひめ見船こぎけん松浦の海いもがたづべき月はへにつヽ〉氣比海〈越前 けいの海にはよくあらしかりこものみだれてみゆるあまのつりふね〉布勢海〈ゑつ中 玉くしげいつかあけん、玉もひろはん、藤、時鳥、あぢむら、花、あま、〉藤江入海〈はりま 鮪つる、しほやく、いさり、月、すヾきつる、かもめ、おきつす、夜舟、〉越海〈同レ右、但ゑちご三ケ國共云、 こしの海のたゆいのうらに旅ねしてみればともしもみやまとしおもほゆ、ゑちぜん也、こしの海しなのヽ濱を行暮しながき春日を忘ておもへや、見はゑつ中歟、歸雁、みやこ鳥、〉粉固海〈ちくぜん 紫のこかたの海にかつく鳥たまかつきてはわがたまにせん〉蘆屋海〈攝州 うきね、あまのつり舟、◯中略〉有磯海〈越中射水郡 濱の眞砂、船よばふ、あしたづ、忘るな、忘れ貝、うつせ貝、千鳥、眞砂の數、葛、戀、又海の總名をもありそうみと云歟、〉阿古海〈長門、或云攝州、 あさけの霜に玉もかり さヽら波ふなのりすらん乙女子があかものすそにしほみつらん◯中略〉安知方海レ〈未勘 春くればあちかたの海一かたにこぐてふいほの名こそおしけれ〉荒津海〈同上 或云、ちくぜん、しほみち、 あらつの海われぬさまつりいはひしてはやうつりませおもかはりせで〉紀海〈きの國 なたかのうらをそへたり、まさご、遠山、花、鯛、引網、月、あらきはまべ、〉三方海〈わかさ 月、北なる、雲、はまきよみ、いゆきかへらずみれどあかぬかも、◯中略〉ひたちの海〈八雲御説、千鳥、〉駿河海〈をしへに生るはまつヾら、戀、〉珠洲海〈能登 かつき、あわぴ、玉、 すヽの海にあさびらきしてこぎくればながはまのうらに月てりにけり〉陬磨海〈つのくに 釣、松、もしほ木、玉も、雁、蘆、みるめ、ちどり、島、神主、みてくら、〉
p.1278 武庫海(ムコノウミ)〈本名務古、万葉、作二六兒一、攝州武庫郡、今云兵庫、〉
p.1278 遣二新羅使一人等悲レ別贈答、及海路慟レ情陳レ思、并當レ所誦詠之古歌、〈◯中略〉 武庫能宇美能(ムコノウミノ)、爾波余久安良之(ニハヨクアラシ)、伊射里須流(イサリスル)、安麻能都里船(アマノツリフネ)、奈美能宇倍由見由、(ナミノウヘユミユ)、
p.1278 戊午年十月癸巳朔、天皇嘗二其嚴瓫之粮一、勒レ兵而出、先擊二八十梟帥於國見丘一破二斬之一、是役也、天皇志存二必克一、乃爲二御謠一之曰、伽牟伽筮能(カムカゼノ)、【伊齊能于瀰】能(イセノウミノ)、於費異之珥夜(オホイシニヤ)、異波臂茂等倍屢(イハヒモトヘル)、之多儴瀰能(シタタミノ)、之多儴瀰能(シタタミノ)、阿誤豫(アコヨ)、阿誤豫(アコヨ)、之多太瀰能(シタタミノ)、異波比茂等倍離(イハヒモトヘリ)、于智氐之夜莽務(ウチテシヤマム)、于智氐之夜莽務(ウチテシヤマム)、
p.1278 幸二伊勢國一之時安貴王作歌一首 伊勢海之(イセノウミノ)、奧津白浪(オキツシラナミ)、花爾欲(ハナニモガ)、得裹而妹之(ツヽミテイモガ)、家裹爲(イヘヅトニセム)、
p.1278 ふる歌奉りし時の目録のその長歌 貫之 ちはやぶる、神の御代により、〈◯中略〉まき〳〵の、中につくすと、伊勢の海の、浦のしほがひ、拾ひあつめ、
p.1279 とれりとすれど、〈◯下略〉
p.1279 律 伊勢〈海〉〈一段、拍子十無二空拍〈子〉一〉いせのうみの、いせのうみのきよきなぎさの、しほがひに、なのりそやつまん、かひやひろはん、玉やひろはん、 いせのうみのきよき渚に、今按に伊勢の海は清しといひならへり、後撰集に、忍びてかよひ侍りける人、今かへりてなどたのめおきて、おほやけの使に、いせの國にまかりて歸りまできて、久しくとはず侍りければ、少將内侍、人はかる心のくまはきたなくて清きなぎさはいかですぎけむ、續後拾遺に、仁和御時、大嘗會悠紀、伊勢國風俗歌をよめる、大友黒主、いせのうみのなぎさを清みすむつるのちとせの聲を君にきかせん、など猶多かり、實にゆきて見るに、他國の海よりは清き也、
p.1279 箱根の山を打いでヽみれば、浪のよるこじまあり、とものものに、此海の名はしるやと尋しかば、伊豆の海となん申とこたへ侍しを聞て、 箱根路を我越くれば伊豆の海や沖の小島に波のよるみゆ
p.1279 香取海〈又香取浦トモ云〉今世ハ下利根川ト呼ベリ、古ヘノサマ、津ノ宮地方ヨリ西北ハ常陸行方郡、東北ハ鹿島郡マデ見渡シ、其間三里バカリノ一大江アレバ、此ニハ香取海ト云、〈江ヲ海ト云ハアタラヌコトナレド、漢土ニモ海ト云湖モアレバ、例ナキニモアラズ、〉彼ニハ浪逆浦ト云ヒシ(○○○○○○○)ト見ユ、往時千葉忠常ガ下總ニ叛セシ時、源頼義命ヲ受ケ、兵ヲ常陸ノ鹿島ニ會シ、コレヲ討ズ、忠常海面ニ陣ヲ張リ、柵ヲ構ヘ、幟差物透間モナク夥シク立並ベテ云々ト、物ニ見エタルハ、此下ノ方小見川地方ノ事ナルベシ、後世洲渚次第ニ増加シ、數十ノ村落出來ヌレバ、今ハ南邊ハ一條ノ流トナリ、下利根川ト云ヘリ、北方ハ細流ニテ北利根川ト云、其間ハ田畝又入江トナレリ、
p.1280 波逆海〈奈左可及宇美〉 本國ノ鹿島、行方ト、下總ノ河上、香取ノサシ向ヘル間ナル、兩國ノ界ノ内海ノ名ナリ、〈◯中略〉實ニコノ抄〈◯萬葉集抄〉ニ云シ如ク、近キ比マデモ其名ヲ知ルモノナカリシガ、小宅生順國誌ヲ撰セシ時、初メテ仙覺ノ説ニヨリテ、定メテコノ邊ノ名トセシヨリ、近來ハ好事ノ者多カレバ、サラヌ者マデモ、コノ邊ヲ波逆ト云事トナレリ、仙覺ノ説尤其所ヲ得タレバナリ、但潮ノ滿ル時、波殊ニ逆流スルニ依テ名トセシト云ヘルハ、是ニアラズ、是海ハ鹿島香取ノ間三里ト云テ、其廣大ナレバ、風ノアタリモコトニ強く、波ノ逆立テ水上ノ方ヘ反ルサマ、常ニヨク見ユルナリ、コレ波逆ノ名ヲ得ル所以ナリ、サバカリ廣カラヌ川ニテハ、兩岸近ケレバ風モ強クアタルコトナシ、サレバ波ノ立コトモ希ナリ、 補、水戸領地理誌云、上野ノ利根川下野ノ鬼怒川、絲依川蠶養川等ノ下流、常陸下總ノ間ニテ合シ、數十里ニ水タヽヘ、渺漫トシテ一大湖ヲナス、風土記、所レ謂行方之海生二海松及燒鹽之藻一、凡在レ海雜魚不レ可二勝載一、但鯨鯢未二嘗見一トアリ、今海魚燒鹽等ナシトイヘドモ、土人海ト稱シテ湖トイハズ、〈田間又腐貝多クアリ、玉造ニ貝抦坪アリ、(説延方村ノ條ニ見エタリ)〉其行方、新治ノ間ニアル者、之ヲ西浦(○○)トヨビ、鹿島ニ臨メルモノ、之ヲ北浦(○○)ト云、兩派共ニ行方ノ地ヲ圍メリ、又一派土浦ニサシ入ル者アリ、ミナ鯉、鮒、蝦、鰻ノ屬ヲ産ス、西浦、南上戸、牛堀等ノ地ヨリ北小川玉里ニ至ル十餘里アリ、東西又廣狹アリトイヘドモ、二三里或ハ一里ニ下ラズ、北浦コレニ比スルニ稍狹シ、風土記、倭武天皇幸二大益河一、乘レ艤時折レ梶、因稱二無梶河一、此則行方、茨城二郡之堺トアル者、今其所在ヲ知ラズ、茨城行方ノ堺ニ河アルコトナシ、思フニ今ノ新治ノ地、古ノ茨城ナレバ、即此潮ノ事ニテ、今ノ富田ノ前、遙ニ信田郡浮島ニ臨メル所、是ヲ霞浦(○○)ト稱シ、玉造ヨリ柏崎邊ニ對セル地、之ヲ無梶河ト申セシナラン、今スベテ西浦、又霞浦ト云、波逆海ハ、今潮來、延方ノ前ナリト云、又延方ヨリ鹿島ニ向フ所、古昔或ハ高天浦トモ申セシナラン歟、今コレヨリ串引、鉾田ニ至ル所、スベテ北浦ト呼ブ、郡郷考云、
p.1281 風土記ノ頃ダニ、已ニ三四里ノ洲アリシ海ナレバ、今ハ大カタ村落、又ハ水田トナリ、潮來ト延方トノ水田ノ間、終ニ沼ノ如キ一所ヲ指テ、專ラ波逆浦ト云フ、桑滄ノ變感歎スベシ、
p.1281 相聞 比多知奈流(ヒタチナル)、奈佐可能宇美乃(ナサカノウミノ)、多麻毛許曾(タマモコソ)、比氣波多延須禮(ヒケバタエスレ)、阿杼可多延曾禰(アドカタエソネ)、 右十首、〈◯九首略〉常陸國歌、
p.1281 ひたちのくにヽ、なさかのうみといふは、いづくにあるぞと、としごろあまたの人にたづぬれども、すべてしりたる人なし、名をだにもきかずとなん申す、さればちからをよばぬによりてこれを案ずるに、常陸の鹿島の崎と、下總のうなかみとのあはひより、遠いりたる海あり、すゑはふたながれなり、風土記には、これを流海とかけり、今の人は、うちのうみとなん申す、そのうみ一ながれは、北のかた鹿島の郡、南のかた行方の郡とのなかにいれり、ひとながれは、此のかた行方郡と、下總の國のさかひをへて、信太の郡茨城の郡までにいれり、しかるにかのうちのうみ、鹽のみつるときには、浪殊にさかのぼる、しかれば浪のさかのぼる義によりて、なさかのうみといふべき也けり、
p.1281 海〈◯中略〉 こしの
p.1281 角鹿津乘レ船時、笠朝臣金村作歌一首并短歌、 越海之(コシノウミノ)、角鹿乃濱從(ツヌカノハマユ)、大舟爾(オホブネニ)、眞梶貫下(マカヂヌキオロシ)、勇魚取(イサナトリ)、海路爾出而(ウミヂニイデテ)、阿倍寸管(アヘキツヽ)、我搒行者(ワガコギユケバ)、大夫乃(マスラヲノ)、手結我浦爾(タユヒガウラニ)、海未通女(アマヲトメ)、鹽燒災(シホヤクケブリ)、草枕(クサマクラ)、客之有者(タビニシアレバ)、獨爲而(ヒトリシテ)、見知師無美(ミルシルシナミ)、綿津海乃(ワタツウミノ)、手二卷四而有(テニシマカシタル)、珠手次(タマダスキ)、懸而之努櫃(カケテシヌビツ)、日本島根乎(ヤマトシマネヲ)、 反歌 越海乃コシノウミノ、手結之浦矣(タユヒノウラヲ)、客爲而(タビニシテ)、見者乏見(ミレバトモシミ)、日本思櫃(ヤマトシヌビツ)、
p.1282 柿本朝臣人麿從二石見國一、別レ妻上來時歌二首并短歌、 石見乃海(イハミノウミ)、角乃浦回乎(ツヌノウラワヲ)、浦無等(ウラナシト)、人社見良目(ヒトコソミラメ)、滷無等(カタナシト)、〈一云磯無登〉人社見良目(ヒトコソミラメ)、〈◯下略〉
p.1282 本院〈◯後鳥羽〉はおきの國におはしますべければ、まづ鳥羽殿へあじろ車の、あやしげなるにて、七月六日いらせ給、〈◯中略〉はる〴〵とみやらるヽ海のてうぼう、二千里の外も殘りなき心ちする、いまさらめきたり、しほ風のいとこちたく吹くるをきこしめして、 我こそはにゐじまもりよおきの海のあらきなみ風こヽろしてふけ ◯
p.1282 【海路】(カイロ)
p.1282 爾豐玉毘賣命、知二其伺見之事一、以爲二心恥一、乃生二置其御子一而、白下妾恒通二海道(○○)一欲二往來一、然伺二見吾形一、是甚怍上之、即塞二海坂一而返入、
p.1282 海道は、宇美都治と訓べし、萬葉九〈二十八丁〉に、海津路、書紀景行卷に、海路などあり、
p.1282 二十七年十月己酉、遣二日本武尊一令レ擊二熊襲一、〈◯中略〉然後遣二弟彦等一、悉斬二其黨類一無二餘噍一、旣而從二海路一還レ倭、
p.1282 鹿島郡苅野橋別二大伴卿一歌一首并短歌〈◯長歌略〉 反歌海津路乃(ウミツヂノ)、名木名六時毛(ナギナムトキモ)、渡七六(ワタラナム)、加九多都波二(カクタツナミニ)、船出可爲八(フナデスベシヤ)、
p.1282 角鹿津乘船時笠朝臣金村作歌一首并短歌 越海之(コシノウミノ)、角鹿乃濱從(ツヌカノハマユ)、大舟爾(オホフネニ)、眞梶貫下(マカヂヌキオロシ)、勇魚取(イサナトリ)、海路爾出而(ウミヂニイデヽ)、〈◯下略〉
p.1282 諸國運漕雜物功賃〈◯中略〉 北陸道 若狹國、海路〈駄別稻十束五把〉海流〈自二勝野津一、至二大津一、◯下略〉
p.1283 四日、〈◯仁治四年正月〉石屋ヲタチ乘船、瀧ノ口ニイタリテヲル、海路七里、海路之様、西ハ淡路島、臨行バ奇巖滑石、宛モ如レ見二山水一、東千里、青山ダモハルカニ遠シ、其中ニ眺望末ニアタリテ、幽ニ高野山ミユ、〈◯下略〉
p.1283 一海路往返船事 右或及二漂倒一、或遭二難風一、自然吹寄之處、所々地頭等、號二寄船一、無二左右一押領之由有二其聞一、所行之企、太以無道也、縱雖レ爲二先例一、諸人之歎也、何以二非據一、可レ備二證跡一哉、自今以後、慥隨二聞及一、且令レ停二止彼押領一、且可レ被レ糺二返損物一也、若尚遁二事於左右一、不レ被レ拘二制法一者、可レ被レ注二進交名一之状、依二鎌倉殿仰一、執執如レ伴、 寛喜三年六月六日 武藏守判 相模守判 駿河守殿 掃部頭殿
p.1283 海路測量之儀御書付(文久元酉年七月三日) 對馬守殿御渡 御勘定奉行江 覺 神奈川より長崎箱館江之海路暗礁等多く、是迄度々破船有レ之及二難儀一候由ニ而、此度英國より測量之儀申立、人命ニも拘り候儀ニ付、御差許相成、且御用ニおゐても、追々大船出來、航海いたし候事故、巨細ニ測量不二行屆一候而、ハ、差支可レ申候間、右英國軍艦江外國奉行、御軍艦奉行、御目付、支配向之もの共爲二乘組一、一同測量爲レ致、追而繪圖等出來之上者、夫々江御渡可二相成一候、右ニ付而、場所ニ寄上陸もいたし、測量ハ勿論、食物等爲二積入一候儀モ可レ有レ之、其節ハ乘組之役人より申談次第、總而不都合之儀無レ之様可二取計一候、
p.1284 右之趣、海岸筋御代官江可レ被レ達候事、 ◯按ズルニ、海路ノ事ハ、地部諸國篇道路條、政治部運送篇運賃條、水運條等ニ在リ、宜シク參看スベシ、