https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1033 温泉ハ、即チ天然ニ涌出スル所ノ湯泉ニシテ、舊クハ之ヲイデユト云ヒ、又音讀シテ、ウンセントモ稱セリ、我國元ト火山ニ富ム、故ニ温泉頗ル多シ、就中攝津ノ有馬、伊豆ノ熱海、相模ノ箱根、信濃ノ筑摩、上野ノ草津、下野ノ那須、陸前ノ名取、羽前ノ温海、加賀ノ山中、但馬ノ城崎、紀伊ノ牟婁、伊豫ノ道後、筑前ノ武藏、豐後ノ速見等ハ、古來最モ有名ノ温泉ナリ、 我國人ガ、温泉ニ浴シテ病痾ヲ療治セシコトハ、其起原遠ク神代ニ在リ、而シテ舒明、孝徳、齊明、文武等ノ天皇ガ、有馬、牟婁、伊豫等ノ温泉ニ屢々行幸シ給ヒシ事ハ、國史之ヲ載セ、聖徳太子ガ、伊豫ノ温泉ニ浴シテ、碑ヲ湯岡ニ立テタル事ハ、伊豫國風土記ノ記スル所ナリ、〈伊豫國風土記ニハ、景行仲哀ノ二帝モ、伊豫ノ温泉ニ行幸アリシコトヲ記セリ、〉又中古以後ニハ、官人ノ浴湯ニ公暇ヲ賜ヒ、其往還ニ官符ヲ https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1034 給セシコトナドモ見エタリ、以テ當時頗ル浴湯ヲ重ンゼシコトヲ知ルベシ、後世浴湯ノ効能、及ビ浴法等ニ就キテ、之ガ研究ヲ試ミタルモノハ、實ニ後藤艮山、香川太仲等ニ始マル、又湯性ヲ考ヘテ假温泉ヲ造クルコトモ、太仲等ノ創始スル所ナリ、 古ク鹽湯ト稱スルモノアリ、思フニ海水ヲ煮テ温湯ヲ造リ、以テ浴療ヲ試ミシナラン、或ハ直ニ海水ニ浴シタルモノモアリシナルベシ、

名稱

〔倭名類聚抄〕

〈一河海〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1034 温泉〈流黄附〉 冥都山川記云、佷山縣有温泉、百病久病入此水多愈矣、一云温泉、〈和名由〉

〔箋注倭名類聚抄〕

〈一水土〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1034 温泉出文選東都賦、抱朴子暢玄篇、舒明紀、孝徳紀、齊明紀温湯同訓、按温泉其煖如湯、故云由、或云以天由、出湯也、〈◯中略〉初學記、太平御覽並云、袁山松宜都山川記、今無傳本、新唐書有李氏宜都山川記一卷、未是否、初學記引作佷山縣有温泉大溪、夏纔煖、冬則大熱、上常有霧氣、百病久疾、入此水多愈、此節是文也、水經、夷水出巴郡魚復縣江、東南過佷山縣南、注云大溪南北、夾岸有温泉對注、夏煗冬熱、上常有霧氣、瘍疾百病、浴者多愈、即其事也、按説文、温水出楗爲涪、南入黔水此義、説文又有昷字、云仁也、轉爲昷煗字、後人從水作温也、與温水字自別、

〔伊呂波字類抄〕

〈由地儀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1034 温泉〈ユ上烏混反〉 湯泉〈同〉 硫黄〈ユノアハ、ユワウ、〉

〔運歩色葉集〕

〈宇〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1034 温泉(セン)

〔和爾雅〕

〈一地理〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1034 温湯(イデユ) 温泉(同)〈湯泉沸泉並同〉

〔倭訓栞〕

〈中編二伊〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1034 いでゆ 温泉をいふ、出湯の義也、神代より、大己貴命濟民のため、温泉に浴し病を療するの法を定めたまへり、よて本邦には温泉諸國に多し、又温泉の神は多く大己貴命也、

〔倭訓栞〕

〈前編三十五由〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1034 ゆ 倭名鈔に温泉をよめり、日本紀に湯と見えたり、

〔雅言集覽〕

〈三以〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1034 いでゆ 出湯、温泉の事也、〈後拾、戀一、さがみ、〉 つきもせず戀に涙をな〈わ、季吟本、〉かす哉こやなヽくりの出湯なるらん、〈千、神祇、資賢、〉めづらしく〈き、季吟本、〉御幸をみわの神ならばしるし有馬の出湯なるべ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1035 し、

〔雅言集覽〕

〈四十八由〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1035 ゆ 温泉、〈古、覊旅、〉但馬の國の湯へまかりける時に云々、

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1035 いでゆ 出湯 温泉 温湯 温水 湯泉

〔古史傳〕

〈十八神代〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1035 温泉は、和名抄に、温泉、一云湯泉、和名由とあれど、伊傳由と訓べし、泉は出水の義なるに對へて、出湯の義なり、〈たヾに由と訓よりは語の調もよろし、歌には出湯と詠ならへり、〉

〔和漢三才圖會〕

〈五十七水〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1035 温泉 按日本温泉所在不勝計也、多有硫黄氣、能治疥癬一切瘡毒痔漏脱肛折傷金瘡痿躄、但氣血有餘、而不順者宜、如氣血虚弱勞症者可浴耳、攝州有馬温泉、爲天下第一、而鹹泉者不多、 有馬〈攝州〉鎌崎〈奥州〉熱海〈豆州〉湯江〈作州〉此等鹹泉(○○)也、道後〈豫州〉山中〈賀州〉湯峯〈本宮〉龍神、湯崎、〈田邊〉二河、〈以上共紀州〉岩城、鳴子、青根、〈奥州〉草須、浦野、淺間、〈信州〉城崎、〈但州〉大牧、山田、〈越中〉塔澤、湯本、氣賀、宮下、底倉、堂島、蘆野、〈相州〉伊藤、修禪寺、〈豆州〉伊香保、二荒、峯上湯、〈下野〉關山、〈越後〉 温井 湧於井者、豐後〈五處〉肥前〈二處〉有之、 海泉(○○) 別府村〈豐後〉硫黄洋之海邊也、有温泉、潮盈時湯爲海中、能登海中、信州諏訪湖中、亦有温湯、代酔篇云、詔州府城東南五十里有温泉、其泉中時見赤魚遊泳、 肥前温泉山湯中、見赤魚浮遊、凡温泉不汥流、人亦不汲者、夏月生孑孑(ボウフリムシ)、而其湯稍熱不理曉者也、〈◯中略〉 草木子邵康節曰、世在温泉而無凉火、蓋陰能從陽、陽不陰也、此説固然、乃常理也、然北方蕭山則有凉火也、

〔怪異辯斷〕

〈六地異〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1035 沸湯泉 則温泉ナリ 温泉ハ、和漢トモニ多有之、皆地中ニ硫黄有ノ所、則温泉アリ、博物志ノ説其理盡セリ、驪山ノ泉湯

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1036 ハ、神女ノ始皇ノ爲ニ湯泉ヲ出シテ、始皇ノ瘡ヲ療ゼシムト云リ、日本有間ノ泉湯モ、行基菩薩ノ神變力ニテ始テ堀出セリト云傳ヘタル類ヒ、何レモ妄説ナリ、有間ノ泉湯ハ、舒明天皇三年ニ、津國有間ノ温湯湧出ス、則天皇有間ニ行幸アリ、舒明帝ハ、人王三十五代、行基法師ハ人王四十五代聖武帝ノ時ナリ、大ニ時代前後相違ス、況ヤ日本紀ニハ舒明帝三年九月朔、攝津國有間ノ温湯ニ幸ス、十二月朔還幸アリシ事而已有テ、湯泉始テ湧出ノ事ハ無之、如何サマ舒明以前ヨリ温泉ハアリテ、行幸ノ始ハ舒明ナルベシ、然レバイヨ〳〵行基法師ノ堀出セルト云ハ妄説ナリ、行基ハ泉湯ヲ修理再興ノ願主ナンドニテアリタルナラン、有間ノ湯ハ鹵水(ロスイ/シホ)也、如何サマ地下ノ水脈海中ニ貫通シテ、其氣往來スルナラン、傳聞西戎國ノ海中ニ有一島、其地有疾病之人來住於此、則其疾愈、故諸邦有疾病之人多來云々、是其水土藥石硫黄ノ性氣厚キニ由テナラン歟、又奇怪ナルモノアリ、左ノ如シ、〈◯中略〉、 已上ヲ按ニ、如斯ノ類、皆硫黄ノ所爲ナリ、井底ニ硫黄有テ、火氣常ニ有リ、井ノ中邊ニ湧泉ノ冷水有リ、下ニ又漏出ノ穴有テ、井底ノ沸湯ヲバ漏シ、中邊ノ冷水傍ヨリ湧出スル事甚ダ強ク、井底ノ温水ノ上ニ、且漏レ且湧キ加ハル故ニ、井底ニ火氣有ト云トモ、上ノ水ハ冷ナルモノ也、竹樋ヲ立テ井底ニ至ラシメ、上ノ口ヲ釜臍ニ當テ、鹵水ヲ釜ニ入レバ、烘々トシテ沸ルモノハ、井底ノ火氣、竹樋ノ虚中ヨリ直ニ上ニ升テ、鹵水ノ極陰ト奮擊シテ滾沸スルモノ也、井底ノ火氣ハ冷水ニ制セラレテ、伏鬱シテ上ニ達スル事ヲ不得、竹樋ヲ得テ上ニ達シタル也、水中ノ火氣未ダ物ニ不付故ニ、其體ヲ不見、水ノ冷寒ノ氣ニ克セラルヽ故ニ、竹樋ノ中無焦燒モノナリ、奇ニシテ又奇ニ非ズ、上ニ出ス一統志四川ノ火井ト、此ニ出ス所ノモノト相似タリ、上ノ地燃ノ處ト交ヘ考ベシ、一統志ノ説ノ如キハ、家火ヲ投ジテ火絶スト、其是非ヲ知ガタシ、此ニ言ル如クナレバ、火焰終ニ無フシテ、火ノ精神ノミアリト見ヘタリ、

所在

〔枕草子〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1037 湯は なヽくりのゆ 有馬のゆ 玉つくりの湯

〔八雲御抄〕

〈五名所〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1037 温泉 あしかりのゆ〈相万〉なヽくりのいでゆ〈信〉相模歌 ありまのいでゆ〈攝千〉しなのヽみゆ〈伊〉 なヽくり同所也 いよのゆ〈伊〉有御幸所也 なすの〈拾遺短歌〉 なとりのみゆ〈陸有大和物語〉 つかまの〈信 後拾遺〉 いぬかひのみゆ〈拾 信乃歟〉

〔藻鹽草〕

〈五水邊〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1037 温泉〈同名所〉 鹽温 いづる温、御温、いで温、つくしのゆ〈古今の詞に侍り、九州何の所可勘、〉伊豫温〈いよのゆのゐげたはいくつ數しらずかぞへずよまず君はしるらん、ゆげたは多事にいへり、源氏、〉有馬温〈攝津、行基開給、三輪神まします、珍しきみゆきを三輪の神あらばしるし有馬の出湯なるべし、〉走温〈いづの國山の南にいづるゆのはやきは神のしるしなりけり、〉那須温〈下野那須の郡、神社あり、なぞもかく世をしもおもひなすのゆのたきかゆへをも、〉犬飼御温〈しなの、鳥の子はまだひなながらたちていぬかいの見ゆるはすもりなりけり〉筑摩温〈同上、又筑摩御温共云り、〉七久里温〈同 つきもせず戀に涙をつくすかなこや七くりのいでゆなるらん〉蘆苅温〈相模蘆かりのとひの河内に出るゆの世にもたまらずいはなくに〉ましらこの浦の走温〈きの國、或いせ、〉かつまたのみ温〈美作〉まくまのゝ温〈きの國〉御熊野温〈同上、みくまのヽゆこりの丸をさすさほ、〉さはこの御ゆ〈陸奥 よとヽもになげかじ君をみちのくのさはこのみゆといはせてしがな〉名取御温〈同上 おぼつかな雲のかよひぢ見てしがなとりのみゆけはあとはかもなし〉

〔日本歌謠類聚〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1037 温泉揃 夫れ國々に出湯多しと申せども、まづ四國には伊豫の湯の、湯桁の數は左八つ、右は九つ中は十六ありとかや、扨五畿内に至つては、又とならびも夏野ゆく、男鹿の角の津の國に、きどく有馬の一二の湯、よし足引の大和には、入れば病もはや愈えて、家路に急ぐ十津川や、人の心はあさもよひ、紀の關守がたづかゆみ、いるさの月の影清く、湧く泉をや熊野の湯、因幡に外山、美作に湯原、但馬にきのざきや、伊豆には伊東熱海の湯、相模に湯本塔の澤、木賀宮の下堂が島、そこ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1038 くら、葦の湯、下野には日光山、中禪寺、鹽原那須の湯、信濃には、上の諏訪下の諏訪、越後に湯澤、おほちぶち、加賀にはおくそ山中や、出羽にはあつみてんねいじ、又はじげんじ、かみの山、奧州にいヽでさんあをね、たまざき田中の湯、扨東國にとつては、そもげにたま〳〵に玉鉾の、道ゆく人も結びおく、言の葉しげき草津の湯、まんざすがはにかわらはた、大師の加治のかわばの湯、其外諸國七道に、温泉はてしも侍らはず、何れも寒熱相まじへ、ほしやとり〴〵に備はりて、皆それ〳〵の苦惱あり、中にも此伊香保の湯は、體を養ひせいきを増し、諸病を治する奇妙さは、神仙に異ならずと、詞の花の色深く、しなたをやかに語りしは、鄙に似合ぬ優しやとて、大將御感淺からず、上中下に至るまで、數盃を傾け給ひけり、

大和國/十津川温泉

〔和漢三才圖會〕

〈七十三大和〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1038 葛上郡 十津川 有温泉、縁起詳、

〔大和名所圖會〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1038 湯原温泉〈二所にあり、一所は十津河莊湯原村にあり、一所は同莊武藏村の東泉寺にあり、浴する時に則痼疾は治す、湯原は類字名所に大和國にあり、十津川の温泉にこそ侍らめ、〉

〔宇野主水記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1038 天正十四年四月三日、御門跡様御養生ノタメニ、和州十津川ノ御湯治、今日發足、和州今井ニ御逗留、御門徒御禮ナドアリ、五日ニ下市マデ、六日下市御立、是ヨリ三日目ニ湯ヘ御著ナサルベキ由案内者候也、下市ニテモ、御門徒寺様御禮アリ、則八日ニ湯ヘ御著アリ、御供刑部卿、上様ニハ下市ヨリ吉野山青葉御覽アリテ、夫ヨリ御歸寺ナリ、路次不之、御兒様モ渡御、

攝津國/有馬温泉

〔運歩色葉集〕

〈阿〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1038 有馬湯〈攝州〉

〔羅山文集〕

〈十五記〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1038 攝州有間温湯記 本邦攝州有間郡山口莊之湯泉、未其始也、舒明天皇三年秋九月、行幸于此、十年冬行幸于此、孝徳天皇三年冬十月朔行幸于此、十二月晦出温泉宮、還于務古行宮、〈務古、後曰武庫、今之兵庫也、〉然則此温泉之所

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1039已久矣、〈◯中略〉此山有三神、一曰湯山權現者藥師、一曰三輪大神者毘盧舍那、一曰鹿舌明神者千手大悲也、爾來浴者、其病多愈、蓋依佛神加被力乎、承徳元年了丑、天作淫雨、洪水崩山溺家、九十五年後、和州吉野僧仁西、詣熊野神、一夕夢神告曰、攝州有間山中有湯、近歳荒廢甚矣、汝可往從一レ事、西曰、以何爲證、神曰、庭樹葉有蜘蛛、宜其絲所一レ牽以赴焉、翌旦覺而見果然、旣而至中野村二松下、失蜘蛛、西迷道而立、俄有一翁、導西登山、投木葉曰、葉落處必是靈地、忽不翁所一レ之、遂就其攸舊跡、浚湯源、建寺及十二坊舍、置湯人、時建久二年辛亥二月也、享祿元年、及天正四年、再罹鬱攸之災、堂舍人屋皆爲烏有、十三年乙酉、羽紫秀吉公之夫人鼎建寺院封田、今之巍然者是也、原夫名山岩谷、其下有石硫黄者、發爲温泉、又有共出一壑半温半冷者、又有朱砂涌出湯泉、又有潮汐之信而沸者、皆在在有之、中華朝鮮、及本朝悉然、或若記所一レ稱、呂政之時、驪山神女出温泉、以洗除瘡疾、則山靈之所爲、亦未必無一レ之、凡天地之際、陰陽之運、水火之交、無處不一レ之、或蘊伏、或發出、或流行、或停止、及其觸激、而寒煖之氣、臭味之性、各有其能毒、於是人身由此有疾焉、有疾焉、此天地之五行、與人身之五行相感通而無二故也可辯乎、本邦之昔、此山本固有神、神旣有、則湯泉豈不於神哉、所謂湯山神、三輪神、鹿舌神是也、是故舒明孝徳行幸之時、未謂藥師佛云者也、大己貴神、少彦名神闢我邦、而始製藥術、救民命、則以三輪神此山主、固可以爲一レ其實、其三輪大神者、即是大己貴之謂也、后來行基之徒、假佛名而亂神迹、掠神山而爲僧居、挾恠異之巧詐、而欺誣世俗、人人未之覺、遂使闔國之名山、皆至於爲伊蒲塞桑門之窟宅、吁惜夫、盍其本哉、神者聰明正直而壹者也、我豈媚神而爲此言乎、神夫歆我言耳、余去歳在東武之江戸、患小瘍、旣復故、然氣宇不恒、因是賜公暇洛、今玆來浴乎湯泉、泉之直出正出者數處、清而鹹、日夜流注而不窮、屢酌而常湛、底石以甃、一室板壁間隔、曰一湯、曰二湯、其浴槽方丈許、甚熱則注筧水以和之、不熱不冷、而得其宜、浴者先手杓酌湯、瀝首及肩背、而後入槽、或濳泳、或拍浮、有數婢、以監湯、或卑賤無遮之者、浴久不出、則婢呼叱而退之、是行也、余僦御所房以㞐、遮無遮者、獨入

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1040 第一湯、同來四三人、竟日情話、讀書寫字、或體倦則行觀皷瀧、登藥師堂、或遊地獄谷、而對望中之山林緑樹、經日愈浴愈快、不亦可乎、聞説、夫華清池雖諸湯之甲、而有凝脂之膩、傾國之汚、今余決不之也、唯有吟風弄月、吾與點之氣象、亦庶幾哉、於是乎記、以告諸山靈、 元和七年辛酉之夏 先生赴有馬

〔和漢三才圖會〕

〈七十四攝津〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1040 温泉 在山口庄 風土記云、有馬郡有鹽原山、山間有鹽湯、因爲名矣、欽明天皇三年温泉始涌出、同九月帝行幸、後孝徳亦行幸、〈見于日本紀◯中略〉 當山以三輪神社、歌亦及之矣、聖武天皇朝、昆陽寺行基大僧正自寫如法經于泉底、作等身藥師石像、建一宇置之、號常喜山温泉寺是也、〈◯中略〉 堀川院承徳元年、洪水崩山潰泉〈以後九十五年滅亡〉後鳥羽院建久二年、和州吉野僧仁西詣熊野而有瑞夢、隨神託當山、浚温泉十二坊舍興之、旣天正十七年、太閤秀吉公入湯以來、倍繁昌、今有二十坊、湯槽方一丈許、有二、南名一湯、北名二湯、〈大湯女、小湯女、各二十人、〉

〔有馬名所鑑〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1040 湯本坊舍 仁西上人温湯再興の時、十二坊舍をたて、諸國より集る湯入の次第を、彼十二坊に奉行させられしと也、かヽりければ、湯入のかたく跡先をあらそひ、或は湯壺より久しく出やらぬ者ありて、とく出よなどいひあがりて、鬪諍度々に及ければ、いづれの時よりか婢女をこしらへ、湯入の支配させつヽ、今に其わざ替言なし、されば湯壺よりをそくあがる者ありて、縱あらけなくいかり、わろ口いふにも、もとよりやさしきかたある女の事なれば、いらふ人もなくして、年々二六時中難波のよしあしに付ても、優々としていとめでたし、

〔有馬山温泉記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1040 此地温泉は、たヾ一所あり、其間板をもつてへだてヽ二所とす、南を一の湯とし、北

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1041 を二の湯とす、湯入の客の宿する家二十坊あり、寺にはあらずといへども、坊の名あり、其内一の湯に十坊、二の湯に十坊有、御所坊は秀吉公入湯し給ふときの御宿なるゆへ名付とかや、湯を守るものは皆女なり、湯女と云、湯浴の人をよび、湯の出入をつかさどる、一坊に老若二人あり、廿坊に凡四十人あり、

〔攝津名所圖會〕

〈有馬郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1041 有馬温泉 湯山町の中間にあり、京師より十四里、大坂より九里、浴室一宇、湯槽の深サ三尺八寸、横の廣サ壹丈貳尺五寸、竪の長サ貳丈壹尺、底は鋪石にして、其石の間々に竹筒を挾む、其中より沸泉す、味鹹して潮水の如し、室内を中分にして、南向を一之湯といひ、北向を二之湯といふ、〈◯中略〉 當山藥師佛の十二神將を表して、十二坊あり、後世温泉繁昌し、八坊を加て今廿坊となれり、みな二階三階造りにして入湯の旅客を泊る、これより以外の民屋旅客を止る家七十餘軒あり、これを小宿といふ、二十坊の家毎に二婢あり、一人を大湯女と稱し、都てこれを薩々(カヽ)と呼ぶ、一人は十三四才より十八九歳までの若婦、美顏を撰んで紅粉を施し、容色を莊る、これを小湯女といふ、その家々に名を定て代々に傳ふ、これを通り名といふ、二婢共に入浴の旅客に隨從して、入湯の時刻をしらせ、浴衣を肩にかけて案内し、衣類を預りなどして、侍女の如くす、あるひは酒宴の席に出て歌を諷ふ、これを有馬節といふ、鄙びたる調子のうち上て諷ふさま、古雅にして殊勝に覺へ侍る、

〔萬葉集〕

〈三挽歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1041 七年乙亥、大伴坂上郞女悲歎尼理願死去作歌一首并短歌、〈◯歌略〉 右新羅國尼曰理願也、遠感王徳化聖朝、於時寄住大納言大將軍大伴卿家、旣https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001bf81.gif 數紀焉、惟以天平七年乙亥、忽沈運病、旣趣泉界、於是大家石川命婦、依餌藥事有間温泉、而不此哀、但郞女獨葬送屍柩旣訖、仍作此歌贈入温泉

〔釋日本紀〕

〈十四述義〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1042 攝津國風土記曰、有馬郡又有鹽之原山、此近在鹽湯、此邊因以爲名、久牟知川、右因山爲名、山本名功地山、昔難波長樂豐前宮御宇天皇世、爲車駕幸温泉、作行宮於湯泉之、于時採材木於久牟知山、其材木美麗、於是勅云、此山有功之山、因號功地山、俗人彌誤曰久牟知山、又曰、始得鹽湯等云々、土人云、不時世之號名、但知島大臣時耳、

〔空穗物語〕

〈藏開下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1042 かのおとヽ九の君おはします、こだちいとおほくさぶらふ、かくてゆきまさつのくにありまのゆ(○○○○○)がりいきて、おもしろき所々ありきて、おしき所々みるにも、物思いでられつつ、哀とおぼゆるときに、 しほたるヽことこそまされ世中を思なかすのはまかはなくて

〔榮花物語〕

〈二十七衣珠〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1042 其のち兵衞督〈◯藤原公信〉ものヽみ心ぼそくおぼえて、こヽちもれいならず覺え給ければ、風などいひければ、ありま(○○○)へといでたち給へど、此ひめぎみのうしろめたさに、えおはせですぐし給ける、

〔古今著聞集〕

〈二釋教〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1042 行基菩薩、もろ〳〵の病人をたすけんがために、有馬の温泉にむかひ給ふに、武庫山の中に壹人の病者ふしたり、上人あはれみをたれてとひ給ふやう、汝なにヽよりてか此山の中にふしたる、病者答ていはく、病身をたすけんために温泉へむかひ侍る、筋力絶盡て前途達しがたくして、山中にとヾまる間、粮食あたふるものなくして、やう〳〵日數ををくれり、ねがはくは上人あはれみをたれて、身命をたすけて給へと申、上人此言葉を聞て、いよ〳〵悲歎の心ふかし、則我食をあたへて、つきそひてやしなひ給ふに、病者いはく、われあざやかなる魚肉にあらではしよくする事をえずと、是によりて長淵のはまに至りて、なましき魚を求てこれをすヽめ給ふに、同じくは味をとヽのえてあたへ給へと申せば、上人みづから鹽梅をして、其魚味をこヽろみて、あぢはひとヽのふる時すヽめ給ふに、病者是をぶくす、かくて日を送る、又云、我病温泉の

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1043 効驗をたのむといへども、忽にいえん事かたし、苦痛しばらくもしのびがたし、たとへをとるに物なし、上人の慈悲にあらでは、誰か我をたすけん、ねがはくは上人我いたむ所のはだへをねぶり給へ、しからばおのづから苦痛たすかりなんといふ、其體燒爛して、その香ひはなはだくさくして、少もたへこらふべくもなし、しかれども慈悲いたりてふかきゆへに、あひ忍て病者のいふにしたがひて、其はだえをねぶり給に、舌の跡紫麻金色と成ぬ、其仁を見れば藥師如來の御身也、其時佛告云、我はこれ温泉行者也、上人の慈悲をこヽろみんがために、病者の身にげんじつる也とて、忽然としてかくれ給ひぬ、其時上人願を發して、堂舍を建立して、藥師如來を安置せんと願し、其跡を崇と思ふ、必勝地をしめせとて、東にむかひて木葉をなげ給、〈山良の木〉すなはち其木葉の落る所を其所とさだめて、今の昆陽寺を建給へる也、畿内に四十九院を立給へるその一也、

〔走衆故實〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1043 一惠林院殿様〈◯足利義稙〉御代、有馬の湯へ被入候時、右京兆〈高國〉往古より加様の御用心の時、又遠路などにて候へば、管領より廿人走衆被參候つる由候、御輿をもひかせ候はん間、被參候はん由被申候、

〔宗長手記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1043 有馬の湯治の次でに、兒屋寺にて、 しながどりゐな野をゆきのあした哉 有明やそらに霜がれのはなすヽき

〔嚴助往年記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1043 弘治二年四月日、勢州黄門入道侍從同道上洛、入道有馬湯治云々、

〔宇野主水記〕

〈附録〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1043 天正十一年閏正月廿二日、御湯治ニ付、鷺森御發足、廿四日、有馬御著、二月十日湯山御アガリ、今夜神崎ヨリ夜舟ニテ橋本迄、夫ヨリ陸地、十一日京著、

〔宇野主水記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1043 天正十三年正月廿二日、秀吉有馬湯治、密柑二折、鳥目十疋、使河野、廿五日發足、二月三日大坂歸城、御ウヘニモ今度御湯治也、 九月十四日、今日關白殿有馬御湯治之便路ニツキテ、當

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1044 門跡へ光臨、北ノ方御座敷ヘ請ジテ飯マイル、御盤〈二三〉イヅレモ金ニタマルナリ、北ノ方モ御座敷へ御出アリ、石田治部少輔、増田仁右衞門、大谷紀伊伊御供也、抛筌齋、藥院、宗久、宗薫、御供也、御亭ニテ飯マイル、侍五十二人、

〔駒井日記〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1044 〈後九〉十一日〈◯文祿二年〉一太閤様、有馬御湯治爲御見廻、從關白様熱海去六日之御書共到來、 一有馬御湯治御相應候哉、承度候而言上候、就中我々事、先書如申入、彌得快氣之由宜申上候也、 閏九月六日、秀次御判、木下半介どのへ、一ありま御たうぢのよし、みまひとして申候べく候、さだめてゆもふさひ申候はんとおぼえさせおはしまし候、わが身もたうぢゆへ、このほどは、なを〳〵心よく候まヽ、めでたくやがてじやうらく申候て、くはしく申まいらせ候べく候、大かうの御かたへも文にて申候、なをかさねてめでたき御事ども申うけ給候べく候、此よし心え候て申べく候、かしく、九月六日(のちの)、ひで次、北政所殿上らうのかたへ、 一みまひとして、おほせつかはされ候御ひろひ、いよいよ御そくさいにおはしまし候や、てんがたうぢゆへ心よく候まヽ、きづかひあるまじく候、さては大かうの御かた、ありま御たうぢ、さだめてゆふさひ候はんと、をしはかりまいらせられ候、このよし心え候て申候やにて候、かしく、九月六日(のちの)、ひで次、大坂二丸殿つぼねかたへ、

〔太閤記〕

〈十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1044 秀吉公有馬御湯治之事 卯月廿九日、御湯治に付てれき〳〵の御伽衆十九人つれられ、御慰のかず〳〵云はんかたもなし、御逗留中方々より捧物其數をしらず、有馬中へ鳥目二百貫、湯女(ユナ)共に五十貫くだされ、谷中のにぎはひいと目出見えし、五月十二日御上りなされけり、

〔一話一言〕

〈三十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1044 攝州有馬湯山町古文書〈◯中略〉 攝洲有馬山御藏米御算用状

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1045 一六拾壹石九斗三升 文祿四年拂殘 一百五拾石 慶長元年納物成 一百五拾石 同貳年納物成 合三百六拾壹石九斗三升 右之はらひ 一拾石 〈大藏卿局御湯治の間のまかないに被下、大藏卿局さし紙有之、〉 一貳百拾四石貳斗六升 〈湯の山御うへ御殿、大ちしんにそこね申候をつくろい申候入用、〉 一三拾七石貳斗六升 〈同所御けしやうの間つくろいの入用〉 一拾九石貳斗三升 〈同所御湯殿のつくろい入用〉一拾九石壹斗 〈同所御せつちんつくろいの入用〉 一拾八石七升 〈同所御ゆやのつくろい入用〉一拾四石壹斗六升 〈同所御すきやのつくろい入用〉 一六石三升 〈上様御湯治被成候ニ付、かりの御殿立申候入用、〉 一八石三升 〈右材木入置申候小屋之入用〉 一拾石七升 〈御くみ湯の樽の入用、並人足飯米小日記に在之、〉 一拾八石貳斗壹升 〈新湯かりのゆや、同ゆのわき候水船之入用、〉 一貳拾五石六斗三升 〈同所御馬や貳間半に五間半之入用〉 はらひ 合四百石五升 過上三拾八石壹斗貳升

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1046 右之外 一銀子貳拾四枚 御朱印 慶長三年分 一銀子貳拾四枚 只今迄 同貳年分 右皆濟也 右拂御朱印並小帳請取申候、此日付以前之拂、 御朱印小帳等雖之、重而御算用に相立間敷候也、 慶長三 十二月廿九日 長束大藏大輔判 石田治部少輔判 増田右衞門尉判 淺野彈正少弼判 徳善院 判 善福寺 池之坊 掃部 禁制 攝州湯山 一軍勢甲乙人等亂妨狼藉事 一新儀課役事 一理不盡入鑓責使事 右如先規、今停止訖、若於違犯之輩者、速可嚴科者也、仍下知如件、

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1047 天正八年三月 同判 太閤様御湯治之時、當所地下人酒さかな、以下なにてもかい候て、進上申候事、かたく御停止なされ候、其外之物も無用被思食候へども、げに上度候はヾ、な大こんごばう、又もちなどのやうなる、手つくりのたぐひは、ぬし次第に可進上之由、被仰出候也、 文祿三年十二月八日 木下大膳大夫判 有馬總中 禁制 湯山中 一亂妨狼藉之事 一放火之事 右條々相そむくともがらにおゐては、くせ事たるべく候、 九月廿日 羽柴左衞門大夫判 羽柴三左衞門判

〔集古文書〕

〈七十五書牘〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1047 天正年間書〈所藏不詳〉 爲殿下御湯治御見廻一筆令啓候、仍菓子一折輕微之至候、進獻之候、可然様於披露者、可爲悦候、穴賢、 霜月九日 尊朝 前田主水殿

〔武徳編年集成〕

〈五十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1047 慶長九年四月二十一日、尾陽候薩摩守忠吉、〈初下野守〉攝州有馬温泉ニ入湯、是瘡疾アルユヘ也、

〔和漢三才圖會〕

〈七十四攝津〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1047 妬湯(ウハナリユ) 在湯本之東〈名谷之町

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1048 路傍有尺許泉穴、人到傍詈之則忽熱湯湁潗爲又如叫喚、俗呼曰後妻湯、〈詳于水部温泉下〉蓋能治金瘡、灌之佳、 【洗眼湯】(メアラヒユ) 在右近處 泉穴状似妬湯、能治眼病、洗之佳、

〔和漢三才圖會〕

〈五十七水〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1048 妒女泉(うはなりゆ) 〈咄泉 俗云後妻湯宇波奈利由〉 陳眉公祕笈云、并州有妒女泉、婦人靚粧綵服、至其地必興雲雨、 寰宇記云、安豐郡咄泉、在淨戒寺北、至泉旁大叫則大湧、小叫則小湧、若咄之其湧出彌甚、世人奇之、號曰咄泉、 按、有馬温泉之傍有後妻湯、人向之罵詈急湧上、宛然怒恚貌、俗呼曰後妻湯、 駿州有媼之池、〈江尻近處〉相傳、有一婦性頑妬、而文祿二年八月八日投于池死焉、人至池涯、呼曰媼則忽泡沬湁潗、若大叱之則彌湧甚、蓋爲彼靈所業者妄誕也、自然陰陽攻伐之氣令然也、但妒婦後妻名、和漢共附會耳、

〔羅山詩集〕

〈三紀行〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1048 妬湯〈此湯善治金瘡云〉 湯泉之傍數十歩、有一小湯、形如盆池、其沸少許俗名曰妬湯、夫愚溪之愚、貪泉之貪https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/000000019f40.gif 、泉之https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/000000019f40.gif 之類、中華旣有之、豈可枚數哉、呉隱之酌貪泉曰、試使夷齊飮、終不此心、由是觀之、若文王在上、任姒在内、使天下無曠夫、無怨婦、則此妬湯縱至於瀰漫、何得使人爲娟妬乎、奈其不一レ然何哉、彼長門宮未妬湯也、而陳皇后頗妬忌、方今闔國適妾亂、而貴賤混、婦姑勃磎、而閨門娶麀、豈此妬湯云乎哉、崇替去來之甚者、其寵惑乎、掌上有蓮、眼裏有棘、以新間舊、故以色而事人者、色衰而愛弛、是嬖惑之害也、豈翅男女之欲而已哉、君子小人亦然、故書曰、人之有技、娟疾以惡之、不子孫黎民、亦曰、殆哉、嗚呼不懼而戒矣、

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1049 坊部紅顏嘆琵琶、上陽白髮向窗紗、長門花泣萬行涙、流作温湯波浪花、 洗目湯〈善治眼疾云〉 湯在温湯谷之側、其形如妬湯、昔伊弉諾神行筑紫橘之小戸、以潮滌眼、夫潮水由地中行、故闕地而何處不水哉、然則以此洗眼湯、謂之橘小戸之支流、亦何害焉、夫眼有數種焉、有肉眼凡眼、有法眼、有道眼、有天眼、有仙眼、有佛眼、夫見而不見、不見而見者佛眼也、仙眼也、見三千刹界掌上菴摩果者天眼也、道眼也、觀心見性者法眼也、視而不知者凡眼也、一翳作障者肉眼也、今此湯洗何眼目耶、一洗了淨躶躶、又洗了明歴歴、金篦刮膜、要汝眼、試豁開看奈何、若在我儒之、則仰觀俯察者伏羲之眼也、達四目者有虞氏之眼也、不見是圖者夏后氏之眼也、望道而未見者文王之眼也、視觀察者孔子之眼也、非禮勿視者顏子之眼也、十目所視者曾子之眼也、視其眸子者孟子之眼也、聖賢之眼目洗之以何哉、不湯也、況外藥乎、然則如何哉唯還吾、宜讀書一隻眼、 誰道三年曾患眼、瘳由洗滌涌湯功、細流不一涓滴、明月清風銀海中、

〔夫木和歌抄〕

〈二十六温泉〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1049 文治六年五社百首〈有間湯攝津〉 皇太后宮大夫俊成卿 ありま山雲間もみえぬ五月雨にいで湯のすゑも水まさりけり 題不知 よみびとしらず あひ思ふ人をおもはぬやまひをばなにかありまのゆへも行べき 永久四年百首出湯 源兼昌 わたつうみははるけき物をいかにしてありまの山にしほゆ(○○○)いづらん

〔後拾遺和歌集〕

〈三夏〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1049 四月ばかり、有馬の湯より歸り侍りて、郭公をなんきヽつると人のいひをこせて侍ければ、 大中臣能宣朝臣 聞き捨てヽ君がきにけむ鵑尋ねに我は山路こえみむ

〔詞花和歌集〕

〈十雜〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1050 有馬の湯にまかりたりけるによめる 宇治前太政大臣 いざや又つヾきもしらぬ高嶺にて先くる人に都をぞ問ふ

伊勢國/薦野温泉

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1050 薦野湯〈こもののゆ〉伊勢 此湯いまだ物に見えず、伊勢新名所歌合可考、

〔鹽尻〕

〈四十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1050 後の文月初、〈六日〉御いとましばしなりて、勢州菰野山の温湯にまかりし、嶺の雲、谷の霧珍敷かの造化のおしめる景勝を、たやすく見侍るも嬉しく空おそろし、其程の事、旅亭の徒然に、凉窗燈下筆に任せ、後の紀念にもと爰に記し侍る、 此温泉は、養老の比沙門淨薫、藥師善逝の靈告により神井を尋、神祠を建て、土地を起し、痾を療し、性を保する水源を開けり、川端神明、淨薫塚今に在り、 其后傳教大師、小谷の靈地に精舍を營し、冠峯山三岳寺と號し給へり、覺信僧都をして住せしめ、本尊瑠璃光如來は、大師自彫刻の尊像也、星移り物換り、温泉も空しく絶、古寺廢亡、〈慶長中炎燒〉然るに貞享四年丁卯、官に請、舊地新たにし、温泉再びむかしにかへれり、賢按、後世取立の温泉ゆへ、湯少しぬるきよし、

〔駒井日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1050 文祿二年後九月九日 一三位法印様、勢州こものヽ湯江御湯治付而、人足割符、 一十一日、京ゟ草津迄四十人、 民法 一十二日、草津ゟ水口迄四十人、 爲心 一十三日、水口ヨリ勢州こもの迄、〈廿五人藤玄蕃、十五人丹羽勘介、〉 十日 態令啓上候〈但早道遣◯中略〉 一三位法印様大かみ様、并御子様達、彌御息災に御座候、三位法印様、明日十一日より、勢州こものへ御湯治被成候、御氣色指當惡敷儀も無御座候、爲御養生人候、則路次人足以下、念を入申付候、然者上様御氣色御様子、御報に可仰下候、恐々謹言、閏九月十日 〈駒井益庵〉 壽命庵

伊豆國/走湯温泉

〔和漢三才圖會〕

〈六十七伊豆〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1051 伊豆御山、〈一名伊豆高嶺〉突出於海、山中有温泉、名走湯

〔東海道名所圖會〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1051 走湯山〈三島より南六里許にあり、走湯權現山嶺にあり、伊豆御山と稱す、頼朝卿蛭小島に於て、法華經書寫千部の願望ありしに、出陣急になりしにより、八百部走湯山に藏めらるヽ事、東鑑に見へたり、本社壯麗也、石階を昇る事三町にして山頂に鎭座す、別當を般若院と稱す、◯中略〉瀧之湯〈二町許山下にあり、巖洞より涌出して海岸に流落る、其疾事矢の如し、故に走湯の名あり、 瀧は二所に、一は浴室ありて、諸人こヽに浴す、〉

〔金槐和歌集〕

〈雜〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1051 走湯山に參詣の時歌 わだ津海の中に向ひて出るゆのいづのお山とむべもいひけり 伊〈◯伊下恐脱豆〉の國山のみなみにいづるゆのはやきは神のしるし成けり はしるゆの神とはむべもいひけらし早きしるしのあれば也鳬

〔走湯山縁起〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1051 大鷦鷯帝廿七年八月五日、忽然此神鏡放光明禁闕、〈攝津國難波高津宮也〉響驚叡聞、公臣奇怪、爰武内宿禰大臣奏聞云、先皇稚櫻宮御宇、攻三韓時、高麗國零沛郡之深沙湯有一神人、與皇后契約謂、來影于我大日本國、覆養黎元護國家、加之吾胤尊可東征云々、以其厚契臨此州歟耳、若欲事實、令宣使、依之差泊瀬大瑞、百濟薗部等、兩使承勅東降、見聞社屋問子細、若是神歟、將又祇歟、仙童答云、神者天地之精氣、人臣父母、神自無言、若欲由來、須卜占、又可靈託、勅使諾此、謂、雇一老巫神託、即時神靈附託而自稱云、吾是異域神人也、又是日輪之精體也、昔西天之月蓋依釋迦文佛之勅、取閻浮檀金鑄如來眞像、吾胤尊重此金像、故下高天原月氏之境、又以本誓出温泉、濟度蒼生、因之呼吾曰沙訶沙羅、〈湯泉之梵語歟〉爰如來化縁已盡、催東漸之幸、我隨此亦東向棲宿三韓國、〈高麗百濟新羅也〉爰神后討三韓之時、自進幸、我卜宅深沙湯之許、誘云、吾是豐葦原大和國主第十五代帝君也、今以神威三國、自今以後以大養徳國本首、以三韓、爲邊畔、然則湯神客來達于本朝、又所歸依之金像、可接我朝云云、〈礒城島宮御宇、百濟國之濟明王奉金像於吾朝、〉我聞、神后誘承諾已畢、早出本國臨倭朝時節云到、旣達叡聞、今勅使尋來、斯甘心也、但於此州多歳、非有縁之勝地、若公等可與仰崇者、兼

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1052靈地、謂湯出州新礒濱二色浦片平郷、是有縁之地形也、我本自在西天好玩甛子波藻、以其種子兼蒔植于彼地、又兼令出靈湯、已託宣事終、神鏡乘飛龍之背虚空、到山頂松朶、爰仙童老巫、并勅使等瞻光雲之聳、効香郁之薫、尋入當山、凡青巖側立峨々、祥樹茂生森々、履蘿徑谷澤、遂而攀登日金之巓、夫爲山之體、望離白浪之海、蒼々、顧坎翠嶺之岫峻々、水石聳湛、林花開結、乾坤虎蹲、震兊龍偃、靈湯沸涌、神崛杳洞、奇仙異人、卜宅連々、天地之間無地于比一レ之、

〔古史傳〕

〈十八神代〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1052 伊豆風土記に、走湯者不然、養老年中開基とあるは、箱根山なる湯どもは、伊豆國の神湯を元湯にして、此の二柱神の始メ給へるなれど、走湯は此二神の始メ給へる湯には非ず、元正天皇の養老年中に開基たる湯ぞと云るなり、〈行囊抄に、舊記云、仁明天皇承和二年、豆州温泉出、謂之走湯と云へれど、其舊記の名も知られず、然れば風土記に、養老年中と云るに依るべし、箱根の湯をも、養老年中に万卷上人が開けるよし、彼山の縁起に見え、熱海の湯も、彼僧が開ける由なれば、此も彼が開けるならむも亦知べからず、〉こは伊豆山とも、走湯山とも云山にて、熱海の北に當りて、共に伊豆國加茂郡なり、箱根より南の山なるが、海にさし出て、山中に湯あり、謂ゆる走湯是なり、此山に座す神を走湯神と申す、

〔丙辰紀行〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1052 走湯山 走湯山は、伊豆の山の事にて侍る、爰にまします神をば走湯權現とぞ申しける、昔鎌倉右大將、伊豆箱根を信じ、常に蘋蘩の禮をいたし給ふ、二所參詣といへるは是なり、此ところに出湯あり、石はしる瀑の如し、走湯の名も温湯によりての故にや、又一里許西に温泉あり、その所を熱海と名づく、人のよろづの病あるもの浴すればたヾ驗あり、先年余も人にさそはれて湯に入り侍りし、其湧く所を見るに、潮の進退によりて、岩の間より烟むしあがりて、人の近づくべくもあらぬほどあつきに、熱湯わき出て流れ走るを、筧をかけて家々にとり、槽に湛えて人々に入らせけり、絶境靈蹤亘古今、尋名吾輩亦登臨、走湯權現救人處、便是驪山神女心、

〔集古文書〕

〈三十七掟〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1052 北條氏康定状〈伊豆國伊豆山般若院藏〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1053 定法度之事〈◯中略〉 一走湯山之湯、自國他國之人、不貴賤、不湯治事、〈◯中略〉 右所相定此、状如件、 天文〈辛丑〉二月二十二日

熱海温泉

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1053 熱海(アタミ)〈豆州賀茂郡温泉之地〉

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1053 熱海〈温泉〉 〈あたみのいでゆ〉 伊豆國〈加茂郡〉

〔和漢三才圖會〕

〈六十七伊豆〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1053 熱海温泉 自伊豆權現十八町、〈伊豆與相模堺〉入湯人衆、

〔古史傳〕

〈十八神代〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1053 神湯とは、神の始給へる意は元よりにて、其湯の神々しき義なるべし、〈右に擧たる風土記の文に、非尋常出湯云々と云へる趣にも思ふべし、〉さて伊豆國は、温泉の多かる國なれば、何の温泉のことならむと、國人に逢ごとに、如此言ひ傳ふる湯ありやと探ぬるに、今は此名を知れる人稀なるが、熱海の温泉を舊く然も云へるよし、古老の物語なりと云人あり、是に依て、此國の事記せる書どもを集めて見るに、まづ熱海と云地は、東北の極にて、走湯山に近く、今は町屋も多く立並たるが、温泉の源は町より西北に在て淖(しほ)の滿干に從ひ、晝夜に六度ばかり沸騰こと甚烈く、鹽辛きこと淖に異ならず、其湯源の上に、湯ノ宮と云社あり、町家なる湯は、此湯源より竹樋を通して引來るとぞ、〈林羅山先生の丙辰紀行にも、走湯より一里ばかり西に温湯あり、其名を熱海と名づけて、人の萬の病あるもの浴すれば驗あり、先年余も人に誘はれて湯に入はべりし、其涌ところを見るに、淖の進退によりて、岩の間より煙むし上りて、人の近づくべくもあらぬほど熱きに、熱湯涌出て流れ走るを、筧をかけて家々にとり、槽に湛へて人々を入けりと記されたり、〉上に引たる風土記説によく符へり、湯宮と云は、此の二柱神なること言まくも更なり、〈熱海温泉記と云物を見れば、熱海の温泉は、往昔この海中に、温湯俄に涌出たり、是に依て、彼邊の魚類忽に爛死て、礒にうち揚ること山の如し、人更に海中に温湯ある事を知らず、爰に万卷上人と云沙門あり、たまたま此所に來れるが、海に温泉あるべしとて、海人を入れて尋させけるに、果して温泉ありしかば、藥師の冥慮を仰ぎ、此温泉を里に祈よせて、諸人の爲に功徳せむとて、一七日祈りけるに、忽に温泉山下に涌出たり、里人奇み思ひけるに、藥師如來里人の夢に告て、病ある者この温泉に浴すべしと、一同に告て、里人一致して、即社を草創して、温湯守護神と崇め奉る、今の湯前權〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1054 現是なりとて、委く此湯の功能をも記せり、功能は然る言なれど、上件の趣は、二柱神の此所に湯を出し給ひけむ古傳の遺れるに、例の佛風の説どもを打交へて妄説せる物と見えたり、二柱神を藥師と申せること、更に珍らしからず、

〔東海道名所記〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1054 社〈◯走湯權現〉より西のかた一里ばかりに温泉あり、熱海と名づく、うしほのみちひにしたがひて、岩のはざまより煙むしあがりて、ことの外にあつき湯出てはしるを、筧にて家々にとり、槽にたヽへて人々に入せ侍る、よろづの病によしといふ、

〔東海道名所圖會〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1054 熱海温泉〈走湯山の西の方一里にあり、潮の滿干に隨ひ、岩のはざまより湯氣蒸上りて、殊の外熱き湯はしり出る、これを筧にとりて、家々にて諸人入湯す、平左衞門、法齋湯、野中湯、風呂湯、川原湯、濱の湯等の名あり、土人云、湯の名を呼ば大に涌上るといふ、湯前權現は、上の町にあり、今宮權現七面祠、木宮明神、天神祠、柿本貴僧正の祠等新宿にあり、〉

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1054 伊豆國賀茂郡熱海温泉記 倩熱海なる出湯の年經りし由來を考へ侍るに、〈◯中略〉抑此里は、名にし負伊豆がねの尾にして、海邊より三丈餘り高き岡に、巖の底より自然鹽湯の涌出て、立登る煙りは富士淺間にもたぐへやは見ん、晝夜六度宛、時に臨みては沸り出る響雷鳴かとあやしむ、溢れ流るヽは大河の如し、かヽる不測の靈湯ありつれど、上代は民屋も乏く、知人なくて徒に幾年月をふりにたり、かくて孝謙天皇の天平勝寶元年己丑睦月ばかり、里の小童に神託て云はく、此高き岡に温泉あり、汲取て浴せよ、病咸愈べしと、頓に小童は醒てかヽりし事をも不知、默然として眠る、こヽに村民等恭畏て、神の教のまに〳〵、湯槽を居置桶渡し、浴室を作曳入ゆあみしけるに、衆病愈て妙なる事神の如し、よりて清地を撰み、湯の上なる岩境に神籬を建、湯前神社を齋ひ、少彦名命を安鎭まつり敬ければ、里も榮へて、いや増に効驗なれば、千年の今猶絶ずなん有ける、寛平四年、中納言紀長谷雄卿といひし博士、伊豆國の任なりしにや、來り給ひける時、温泉の源を探見んとて、數多の村民に命て堀穿けるに、滑石及開之(シキナミ)熱湯沸出る事猶前の如し、かヽりしかば、恐退て止ぬとかや、元來神徳

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1055 成事しるし將多に、湯の流ければ、里の名を湯河原と唱ひしが、又海面もそヾろに熱かりければ、後改て熱海といふめる、東鑑に云、建暦三年十二月、修理亮泰時、伊豆國阿多美郷の地頭職と云云見ゆれば、名に流れしもいとはるけくなんおぼゆる、慶長二年三月、恐くも大神君御臨湯(みゆあみ)ましましぬ、其後寛永三年の頃、大猷君被成御催して有て、假御殿建しが、故有てや止ぬ、其御殿跡とて、今猶遺れり、

〔熱海温泉圖彙〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1055 熱海七湯〈大湯の外、時を期してわくものなし、湯の味もおの〳〵異なり、〉 野中の湯(○○○○)、上の町より一町餘北のかた山の麓にあり、そのほとりの土丹のごとし、里人此土をもつて壁をぬる、又砂中に礫ありて金色あり、此湯わく事淺し、ゆゑに湯升をもうけず、 清左衞門湯(○○○○○)下の町の北にあり、里説に云、むかし馬走清左衞門と云もの、馬をはせて此湯壺に墮て死せり、今において湯壺にむかひ、清左衞門ぬるしと叫ば、聲にしたがつて沸いづる、大に叫ば大にわき、小しくよべば小にわくといふ、唐土壽州の咄泉の類なるべし、 平左衞門湯(○○○○○)、法齋湯ともいふ、上町の北にあり、人その名を呼ば聲に應じて沸事、清左衞門湯に同じ、唐土茅山の泉、手を打ばわき、又岳陽の泉、人の聲を聞て沸き、西寧の泉、人の足音に應じてわくの類、和漢同日の談なると、前にもものしり人いへりと、里人がものがたりぬ、 水湯(○○)、本町の北、坂町のほとりにあり、此湯にかぎりて鹹氣なく、水を沸したるごとくなるゆゑに水湯といふ、水湯の源より南の方五尺ばかりへだてたる所に湯の湧所あり、此湯は鹹氣あり、地中の泉脈はかりしるべからず、 風呂の湯(○○○○)、水湯の西在家の〈高砂や大介〉庭中にあり、そのかたはら三尺ほど東の方の石の間より、細流の湯を湧いだす、此湯鹽氣さらになし、しほけあるゆとしほけなき湯と相隣る事僅に三尺をさらず、もろこし江乘縣の泉、其績塘の湖水、半は冷に半は熱しといふも、此湯に比すれば奇とするにたらず、 左次郞の湯(○○○○○)、醫王寺の門前にあり、左次郞と云ものヽ庭中にあるゆゑに名づく、 河原の湯(○○○○)、下町の

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1056 東、濱のほとりにあり、

〔空華日工集〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1056 應安七年甲寅二月十五日、赴管領甲第、領問政事之要、余曰、凡政事當先賞而後罰、不人憂、則可善政矣、仍乞湯醫之暇、入府、亦乞七七日爲湯醫(○○)熱海、宿山崖家、適與九峯于接待庵、 十八日、九峯出示故梅州老人舊題、及自和者、余乃次其韻、題温泉廣濟接待庵云、温泉亂浴汗淋浪、接待知消幾杓湯、宿客毎分鰲店榻、詩人偏愛賛公房、陶成什器輕於土、煮出官鹽白奴霜、暫借僧窗同遠眺、東南目斷水茫々、 三月十一日、自熱海歸、 永和元年二月十一日、余赴熱海、爲湯醫也、隨從者、高諲二子、行奴各人僦于山一涯舊館而宿矣、 康暦三年二月廿三日、過管領宅、告退寺赴湯醫之事、管領曰、退院必不可、湯醫即得云々、 廿四日、島田遠州傳管領之命曰、府君免湯醫、但退院則不答、 廿六日、大休寺年忌、清谿拈香、府君管領入寺、點心罷、余揖歸歇處、君即問、湯治何日、余答、今月盡頭必定矣、君曰湯治則不妨、切勿告退、余曰老病交侵、尚居官寺倦甚、伏望賜歸山林、隨意湯醫、君曰湯醫則隨意、不必論幾日、退則甚不可云々、 廿八日、會茶首座維那都管等、屬以留守、又屬香衣二侍者、以守方丈、旣雇板輿温泉、從者僧行僕數人而已、路上北望箕勝兩山木、能一遊、作詩以約回時、曰征途北望兩山青、隱々構臺插杳冥、寄謝雲間高臥客、回程有約叩岩扃、 廿九日、抵于瀬波、忽見今管領令弟將作公、洎快古劍回温泉、時行人爭渡、公命舟人余、余後作詩謝之曰、水生溪漲路難通、人馬爭舟急似風、逢著明公濟川手、小僧省得笠浮空、晡時達于温泉、以藥師堂律長老名圓印命、館于一御所者、乃迫第一湯者也、清祖藏主及諸姪亦先萊浴、是日余入浴一次、

〔宗長手記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1056 大將修理大夫氏親〈◯今川〉同〈◯永正元年〉十月四日鎌倉まで歸陣、一兩日逗留、豆州熱海湯治一七日、韮山二三日陣、勞休られ歸國ありしなり、〈◯中略〉 大永六年七月〈◯中略〉興津左衞門の館、しほ風呂興行一七日湯治此次熱海湯治隨體これより東邊

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1057 の古知人をも尋ね見ばやのあらまし、折節痢病散々式、結句脚氣さへ發あひ、車におされたる犬のごとくはいありきの體、不旅行

〔當代記〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1057 慶長九年三月朔日、將軍立江戸、御上、先一七日熱海ヱ湯治、

〔伊達政宗記録事蹟考記〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1057 記録拔書五 一慶長九年三月朔日、權現様爲御上洛江戸御發駕被遊候、此節伊豆熱海之湯へ御入被遊、御獨吟連歌被遊、政宗家來法橋猪苗代兼如、御合點被仰付、右御連歌、 春の夜の夢さへ波の枕哉 曙ちかくかすむ江の舟 一村の雲にわかるヽ雁鳴て

〔漫游文草〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1057湯泉 余已讀由來記、案内記、及地圖、而文獻不徴、子野搨湯前祠碑以示、近時所建、其言但據由來記耳、其説之怪僻姑置、相傳、天平勝寶年祀少彦名、因呼做湯權現、然祀典神名未之聞也、熱海之稱、古書所載、萬葉集温泉歌果指此耶、亦已久矣、由來記又云、慶長年神祖浴焉、〈按、松荣記其事在九年、〉寛永十六年、猷廟將此地、命構行殿、殿址寔存、今茲甲辰八月、官命地方官、挹泉以致殿内、沸泉之側、新構署舍、有司眼同實湯於桶、以傳送、余來路觀解湯桶、極嚴都下相傳、前此細川侯浴疾而驗、故有命云、其泉涌出岩下、涌有期、晝夜各三次、涌時雷鳴烟發、望之如鯨鯢噴一レ沫、如火之燎一レ原、沸騰盪晦、不嚮邇、聞之土人、遠近穿地、泉皆沸湯、海之濱潮、退沙面小孔無數、如蟹眼、沸爾、是其所以名熱海耶、熱海村隷伊豆國加茂郡、温泉爲業、其民二百餘家、街衢東西半里、南北少殺、土地磳确、不墾菑、實獸蹄所盤旋、而都人士輻湊成蹊、非人力也、走湯山祠在來路、距此可三里、嘗聞、寺藏舊物、十有三日、飯後拉同舍客及温泉寺僧而游、其地清間、祠下鐵蕉高數丈、蜿曲如龍蛇、祠司有事、不遽啓寶藏、徒空手而歸、事在子野紀行、不

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1058

修善寺温泉

〔和漢三才圖會〕

〈六十七伊豆〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1058 桂谷山修善寺 在修善寺村〈◯中略〉 寺前有川、名修善寺川、川中有温泉、自疊磐爲方圍

小名温泉

〔吾妻鏡〕

〈三十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1058 嘉禎二年四月八日甲午、將軍家〈◯藤原頼經〉依御于伊豆國小名温泉、以來十七日御進發日、而去一日若宮蟻怪異事、動搖不安之由占申之上、又宿曜師珍譽法印、可愼遠行之旨言上、陰陽師不快之由占申、仍今日有議定、遂思食止云云、

甲斐國/湯島温泉

〔諸州奇跡談〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1058 甲斐國 湯島村、此處に温泉有、東照神君此温泉に浴し給ふと云、其比名主久左衞門と申者に、御鐵炮壹挺被下置、今に是を所持す、これは天正三年三月五日の事也と云、御墨付あり、

相模國/葦刈温泉

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1058 葦刈湯 あしかりのゆ 相模 足柄郡

〔萬葉集〕

〈十四東歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1058 阿之我利能(アシガリノ)、刀比能可布知爾(トヒノカフチニ)、伊豆流湯能(イヅルユノ)、余爾母多欲良爾(ヨニモタヨラニ)、故呂何伊波奈久爾(コロガイハナクニ)、

箱根温泉

〔東海道名所圖會〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1058 箱根温泉、七ケ所にあり、七湯巡といふ、箱根權現坂を通て、街道に標石あり、これより左の方へ入、〈◯中略〉 蘆之湯(○○○)、七湯の其一箇也、權現坂よりこれまで一里、浴屋は町の中にあり、一二三と仕切て入湯す、氣味澀く苦し、又硫黄の香強し、流れ湯みな黄色なり、功能は、癩病、黴病、五痔、一切の腫物に相應して早く治す、浴屋の前兩側に、一町許入湯の宿舍ありて、奇麗なり、 小地獄(○○○)、蘆の湯より八町許にあり、山腹に湯氣盛んに立て、手を入るればはなはだ熱し、按ずるに、積陰懲聚りて火氣を生じ、土精熱して硫黄となる、これ温泉の源なり土人云、鍛冶屋の地獄、酒屋の地獄、紺屋の地獄ありといふ、地氣少しづヽ色變る也、又これより山奧五里許に、大に地氣立昇る所ありとぞ、里諺にこれを大地獄とよぶ、

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1059 氣賀湯(○○○)、蘆の湯よりこれまで一里なり、此間に明礬を制する所あり、氣賀の中に、岩湯、上湯、平の湯、大瀧等の四ケ所あり、いづれも氣味鹹して明礬の香あり、中風疝氣を治す、 底倉湯(○○○)、氣賀より半里、中むかし地震ふて、名物石風爐も絶て、今纔に内湯二三ケ所あり、此所の民家、箱根名物挽物細工を業とす、 宮下湯(○○○)、底倉湯より二町ばかりにて、大略家續き也、内湯、瀧湯あり、内湯とは、温泉の水脉より、樋にて家々にとり入湯す、瀧湯とは、樋より筧にとりて、家の内にて瀧のごとく温泉を落し、これに打るヽ也、頭痛、痃癖、腰の痛を治す、打るヽに氣味快きものなり、 堂島湯(○○○)、宮の下より五町ばかり山下なり、内湯、瀧湯あり、氣味鹹はゆくして、積聚疼痛を治すなり、塔之澤湯(○○○○)、堂が島より一里半あり、七湯の中にて、地境廣くして風景の勝地なり、山を勝麗山と號し川を早溪といふ、〈いさよひに記〉あづま路の湯坂をこえて見わたせばしほ木流るヽ早川の水、 橋を玉緒橋といふ、水戸黄門光圀卿、明人舜水と共にこヽに逍遙し給ひ、此號をはじめて呼せらる、浴舍美麗にして廣く、書院、數寄屋、庭中何れも佳景なり、江府より諸侯時々こヽに湯治し給ふ、元湯を秋山彌五兵衞、一之湯を小川澤右衞門、内湯は田村久兵衞、藤屋喜八、喜平治、小兵衞等なり、都て家數廿三軒あり、此温泉は氣味輕くして養生湯なり、諸病を治す、 湯本湯(○○○)、塔澤よりこヽまで十町あり、町の中に浴屋ありて、四間に仕切る、内湯も二三ケ所あり、腫物、瘡毒、黴病の類によし、これより三枚橋へ五町許あり、岨を歩て橋の東爪へ出る、これより本道東海道なり、

〔古史傳〕

〈十八神代〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1059 箱根は、桓武天皇紀には筥荷とも有て、相模と駿河との堺なるが、相模に屬る足柄山の嶺續にて、万葉に、足柄乃筥根飛超行鶴乃云々、また安思我良能波姑禰乃夜麻爾云々など、足柄のと詠たれば、古より相模國に屬たり、〈◯註略〉箱根之元湯是也とは、箱根に、蘆湯、木賀、底倉、宮城野、湯

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1060 本を始め、數所にある湯の元は、伊豆國の神湯なりと云る義と通ゆ、然れば其間は隔たれど、大分速見の湯を、下樋より伊豫國に渡し坐るに準へて思へば、此も地下には幾筋も下樋も通して、神湯を渡し給へるなり、斯て此嶺に、式外なるが大社あり、祭神を書等に、天忍穗耳尊とも、彦火瓊々杵尊とも、彦火々出見尊とも有れど、此國邊に右の天皇命神だちの齋はれ給ふべき由なし、〈此由は古學に明ならむ人は自に辨へなむ、〉然れば決めて此段なる二柱神を祭れる社なるべし、

〔東海道名所記〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1060 湯本の橋より右の方川邊をゆけば、半里あまりに湯の澤(○○○)といふ在所あり、温泉あり、人おほくあつまれり、湯本の地藏は海道の右にあり、總恩寺といふ寺有、

〔東海道名所圖會〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1060 箱根七温泉の中に塔澤(○○)は殊に山水の美景なり、風流なる房をしつらひ、内湯とて温泉を筧にとりて瀧湯にし、肩膝腰など、病ある所をうたるヽ也、あるは湯槽に浴しても、晝夜流るヽゆへ清き事泉の如し、其間々は、絲竹の音、楊弓、軍書讀の席にて興を催すも、みな養生の一つなるべし、

〔集古文書〕

〈三十六禁制状〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1060 天正十三年禁制状〈所藏不詳〉 禁制 一湯治之面々、薪炭等其外地下人役申付事、 一材木申付役もひと地下人に申付事 以上 右之兩條、縱如何様之者有之申懸共、地下人打合間敷候、但虎之御印判、又久野印判於之、無沙汰可之者也、任先御證文、爲後日件、 天正十三年〈乙酉〉十一月四日 花押(○○) 底倉百姓中

〔慶長見聞録案紙〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1061 慶長九年五月七日、下野守殿〈忠吉〉相州底倉江御湯治、其後同州宮城野江御入湯、

〔大猷院殿御實紀〕

〈十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1061 寛永七年十二月、大御所今年相模國底倉の湯治し給ふ思召にて、神奈川御旅館作事奉行を、新庄宮内少輔直房に命ぜられ、目付仙石大和守久隆、底倉の御旅館構造の命蒙り、子右近久邦ともに撿點にまかる、されど夏の御病によて御事停廢せられき、

武藏國/小河内温泉

〔武藏演路〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1061 多摩郡 小河内温泉 總名原と云 日本橋より青梅迄拾二里、青梅より原迄八里、 此出湯は、熊野權現夢想と云、打身、切きず、腫物立所に愈ゆ、但し服忌あるものを入湯をゆるさず、

〔新編武藏風土記稿〕

〈二十七多摩郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1061 原村 熊野社〈除地一段七畝十八歩、小名湯場ニアリ、◯中略〉温泉場〈當社除地ノ内ニアリ〉湯壺〈社ノ東石垣ノ下ニアリ、湯壺ハ廣サ四尺四方、内ニタヽエタル湯平生ハ少シク温ナレドモ、曉天午時黄昏ノ三次ハ、日毎ニ煙出ル許リニ熱セリ、是ヲ汲來リ居風爐トナシテ浴セリ、◯中略〉虫湯〈社ノ前多摩川ノ際ニアリ◯中略〉目湯〈社ヨリ四五間西ニテ、コレモ多摩川ノ際ニアリ、〉

常陸國/袋田温泉

〔常陸紀行〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1061 袋田村の瀑布、其高さ四十有餘丈にして、本國中最第一の勝景たり、月居(つきをれ)山下に在り、此山一名月折とも書けり、昔時野内大膳なるものヽ居城なりといへり、又温泉あり、本國中の名湯たり、京都香川氏の一本堂藥選にも見えて、其名高しといへども、近時人知るものまれなり、

飛驛國/下呂温泉

〔飛州志〕

〈一土地〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1061 下呂温泉 同郡同郷湯島村ニアリ、本朝上古ノ温泉三處アリ、所謂攝州有馬、野州草津、飛州湯島是也、國説ニ云ク、天暦年中、此地ノ山中ニ初テ温泉涌出セリ、地名ヲ湯峯ト云フ、然ルニ文永二年乙丑冬十月、湯峯ノ温泉出止テ、山下今ノ地ニ涌出セリ、是則益田川ノ河原ニシテ、常ニ温湯ノ涌出ルニテハナシ、人浴セントスルトキ、河原ノ砂石ヲ除キテ僅ニクボメヌレバ、其所ニ忽チ温湯出ル也、尤清

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1062 泉タリ、猶其河水ニ近キ所ハ、甚熱湯也、然レドモ其河水ニ於テハ、曾テ温湯ノ氣味ナシ、又此地ニ温泉藥師ト稱スル靈像アリ、口碑ニ傳フル處、文永年中、温泉此地ニ涌出セシトキ、湯ノ島ノ樹下ニ於テ光アリ、村民アヤシミ、其光明ヲタヅ子行テ見ルニ、藥師ノ尊像ヲ得タリ、故ニ一宇ノ艸堂ニ安置シテ、温泉藥師ト稱セリ、然ルニ寛文年中、同郡萩原郷中呂村龍澤山禪昌禪寺第八世、剛山祖金和尚、此地ニ於テ一寺ヲ建立シテ、彼靈佛ヲ安置ス、醫王山温泉禪寺ト稱セリ、 羅山林先生詩集卷第三曰、〈紀行三、西南行日録、元和辛酉孟夏二十五日之條下、〉有馬山温湯、 温泉㵒沸石磐間、病可除兮垢可删、這裏提醒長水子、本然清淨忽生山、 我國諸州多有湯泉、其最著者、攝津之有馬、下野之草津、飛騨之湯島、是三處也、〈下略〉今有馬、草津ハ、廣ク世ノ知ル所也、湯島ハ古來ノ靈湯タルコト、遠ク知ルモノ少シト云ヘドモ、入湯スル人ハ、其驗ヲ得ザルコト無シトナリ、

信濃國/筑摩温泉

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1062 つかまのゆ 筑摩湯 信濃筑摩郡

〔後拾遺和歌集〕

〈十八雜〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1062 修理大夫惟正、信濃守に侍りける時ともにまかり下りて、つかまの湯(○○○○○)をみ侍りて、 源重之 出づる湯のわくに懸れる白絲はくる人絶ぬ物にぞ有ける

〔夫木和歌抄〕

〈二十六温泉〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1062 百首歌〈戀〉 〈つかまのみゆ信濃〉 段富門院大輔 わきかへりもえてぞ思ふうき人はつかまのみゆかふじのけぶりか

〔宇治拾遺物語〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1062 今はむかし、信濃國につくまの湯といふところに、よろづのひとのあみけるくすりゆあり、そのわたりなる人の夢にみるやう、あすのむまのときに、觀音湯あみ給ふべしといふ、いかやうにてかおはしまさんずるととふに、いらふるやう、とし卅ばかりのおとこのひげくろきが、あやい笠きて、ふしぐろなるやなぐひ、皮まきたるゆみもちて、こんのあをきたるが、夏げのむかばきはきて、あしげの馬にのりてなんくべき、それを觀音としりたてまつるべしといふ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1063 と見て夢さめぬ、おどろきてよあけて、ひと〴〵につげまはしければ、人々きヽつぎて、その湯にあつまることかぎりなし、ゆをかへめぐりを掃除し、しめを引、花香を奉りて、ゐあつまりてまちたてまつる、やう〳〵午時すぎ、ひつじになるほどに、たヾこの夢に見えつるに露たがはず見ゆる男の、かほよりはじめ、きたる物、馬なにかにいたるまで、夢にみしにたがはず、よろづの人にはかに立てぬかをつく、このおとこ大におどろきて、心もえざりければ、よろづの人にとへども、ただおがみにおがみて、その事といふひとなし、〈◯下略〉

犬飼温泉

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1063 犬飼御湯 いぬかひのみゆ 信濃國〈安曇郡〉

〔和漢三才圖會〕

〈六十八信濃〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1063 犬養山〈安曇(アツミ)郡〉犬養ノ温泉(ミユ) 筑摩温泉〈筑摩郡〉那須温泉 七久里(ナヽクリ)湯、諏訪温泉等、處處有湯、

〔拾遺和歌集〕

〈七物名〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1063 いぬかひのみゆ 讀人しらず 烏のこはまだひなヽがらたちていぬかひのみゆるはすもりなりけり

七久里温泉

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1063 七久里湯(ナヽクリノユ)〈信州筑摩郡 世云信濃温泉

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1063 七久里湯 なヽくりのゆ 信濃〈一云〉伊勢〈◯中略〉 今案に、信濃國人の云、今名目栗(なめくり)といふ村有、湯の所といふ、今は湯出ずといへり、伊奈郡の中なりといふ、猶可考、〈◯中略〉 契冲名所補翼抄に云、六帖に、かみつけやいちしの原とよめり、此二首いちしなると有れば、此湯もしそこに有にや、〈此湯は信濃とて出せり〉或人云、伊勢國一志郡に出湯有り、今は榊原の湯と云ふ、此所歟、俊綱歌に、かひなきと讀たるは、榊原の湯の邊の山より、石貝とてさま〴〵介のかたなる石出れば、夫をよめる乎、

〔輶軒小録〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1063 七くりの湯之事

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1064 清少納言枕草紙に、湯は七くりの湯、有馬の湯、玉造湯云々、ありまのゆ天下にあらはる、玉造の湯、何處にあることを知らず、七くりのゆは、伊勢榊原にあり、今に至りて湯治のために往來するもの多し、奧田蘭汀生の物語なり、津の領内の由となり、

〔夫木和歌抄〕

〈二十六温泉〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1064 〈なゝくりのゆ信濃〉 橘俊綱朝臣 いちしなる岩ねにいづるなヽくりのけふはかひなきゆにも有哉 此歌は、ふしみにゆわかして大納言〈經信卿〉をよび侍けるにこざりければ、つかはしけると云云、 返事 大納言經信卿 いちしなるなヽくりのゆも君のためこひしやまずときけば物うし 家集題不知 二條太皇太后宮肥後 よの人のこひのやまひの藥とやなヽくりのゆのわきかへるらん

上野國/草津温泉

〔運歩色葉集〕

〈久〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1064 草津湯(クサツユ)

〔草津温泉來由記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1064 上州吾妻郡草津の邑に温泉あり、〈◯中略〉此湯硫黄明礬の精氣流れ出て、除病の効いちじるしと、抑硫黄は性熱にして、病瘡を除き、陽精をさかんにし、寒冷を拂ふ、明礬は其味ひ酢くして、諸毒を解し、治症多能也と醫典に云侍り、しかはあれど、吾が所見のごときは、山は山、水は水、自然の温泉にして、自然の功用を具せり、他の湯多くは此二氣によるといへば、此説も又宜べなり、〈◯中略〉建久三のとし秋八月の日、將軍源頼朝公、兼て此靈湯名を、荒草の際に沒し、歩を古徑の邊に絶し事を歎き、再び此湯を開き、試に浴せんとて、群臣を率し此所に來りて、一幽谷を臨給ふに、沸湯空を吐て、恰も鑊湯のごとくなるを見て、すなはち欣躍して開湯し給ひ、數ケ日の湯䨟をわかち其効驗品々あり、或は將軍初て浴を試み給へば、御座の湯と稱し、又冷暖相和ひて幼老を

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1065 あたヽめ、安樂あらしむるにより、綿の湯とも名り、惡血邪濕をとらかし、痼疾癩瘡を治するは、唯瀧の湯を第一とせり、又鷲の湯、脚氣の湯といふも故あるをや、

〔宗祇終焉記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1065 此暮より又わづらふ事さえかへりて、風さへくはヽり日數へぬ、きさらぎの末つかたをこたりぬれど、都のあらましは打置ぬ、上野國草津と云湯に入て、駿河國に罷歸らんのよしおもひ立ぬるといへば、宗祇老人、我も此國にしてかぎりを待侍れど、命だにあやにくにつれなければ、こヽらの人々のあはれびもさのみはいとはつして、又都に歸りのぼらんも物うし、美濃國にしるべありて、のこるよはひのかげかくし所にもと、たび〳〵ふりはへたる文あり、哀ともなひ侍れかし、富士をも今ひとたび見侍らんなどありしかば、うちすて國に歸らんもつみえがましくいなびがたくて、信濃路にかヽり、ちくま河の石ふみわたり、菅のあら野をしのぎて、廿六日といふに草津といふ所につきぬ、

〔北國紀行〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1065 重陽の日、上州白井と云所にうつりぬ、〈◯中略〉是より棧路をつたひて、草津の温泉に二七日計入て、詞もつヾかぬ愚作などし、鎭守の明神に奉りし、〈◯下略〉

〔東路の津登〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1065 きぬ川、中川などいふ大河ども洪水のよしいへば、こヽにいつとなくやすらはんも益なし、草津湯治遲く成ぬべし、さらば立歸りねと定まる、〈◯中略〉新田の庄に、大澤下總守宿所にして、草津湯治のまかなひなどに六七日になりぬ、〈◯中略〉大戸といふ所、海野三河守宿所に一宿して、九月十二日に草津へ著ぬ、同行あまたありしまで、馬人數多く、懇切の送りども成べし、廿一日、草津より大戸へ歸り出侍りぬ、兼約とて一座興行、 時雨かは紅葉の中の山めぐり

〔漫游文草〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1065 草津湯泉游記 余久抱烟霞之疾、自謂、非山水醫也、嘗聞、毛之草津有湯泉、能起廢有奇驗、欲一浴此泉者久矣、偶

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1066同病可一レ偕、而余意先決、其人疑難不果、遂負游具於家僕、以七月望二日江戸、自板橋信之沓掛、直往二百許里、僻地有厭、風景無記、獨妙義山奇峻、未登而先知其靈境、爾廿一日、發沓掛驛、北折忽入山路、路與淺間巓咫尺、北風栗烈、寒氣徹骨、不騎也、乃下馬而歩、聞之、淺間之高與富士相伯仲焉、或然、行十餘里、有關砦、曰狩宿、俗傳、鎌倉公獵淺間之所次也、又行可十里、淺間忽焉在後、又面白根而行、白根山又與淺間相伯仲焉、白根與草津相距六里、山皆硫黄、湯泉根于此云、得一小驛、曰羽尾、过此無人居、山路阻陀、草樹不殖、爲硫黄故、已自沓掛、至此迂曲登下六十餘里始抵草津、連詹二百餘家、乃湯之成蹊也、民居如環、環中有湯池、流如大川、先得一快、日猶晡時、賃宿而休、濯足前槽、槽上引流作瀑、瀑小大十有五、高者二十許尺、最卑尚十許尺、浴者隨意拊患所、槽中常數十許人、自傍望之、恰禦中魚、又似佛説所謂墮在焦熱地苦者、余不敢沒入、輕々漬身而止、翌旦飵畢、輒往遂不魚爲受苦耳、自此日浴三四次爲度、兩三日後腹中微痛、下利二三行、但食日加、是以意益暢、三四日後心下痞痛、乃延鍼醫以療焉、五六日後傷風頭痛、故不浴、因散歩村中、登藥師堂、堂鬻温泉奇功記、記陋拙、罕可取者、然舍此何徴、亦惟在夷狄之爾、 記曰、建久三年、鎌倉公始浴此湯、至今浴者輻湊、行李往來、秋夏之交、動輒至萬人云、今茲遠近有水災、以故浴者少於常也、然今留宿者不千數百、槽凡七所、治功不同、然大抵諸惡瘡、頭痛、打撲、寒仙、積聚、五痔、癜風、諸癩爲主治、泉爲硫礬蒸、其味酸苦、不飮也、飛瀑之湯最酷、四十已上人不專浴此槽、諸槽互浴爲妙云、若拊瀑者、自頭盧下部、而後及患所、起下而及背、至頭亦不妨、直拊患所、動致瞑眩、瀑之小大強弱自擇、不必勉強、然小之多時、不大之少時也、但禁胸腹及背面五六椎也、其在槽時、勿躁勿悶、先定氣而後漬身、稍就瀑、其出槽亦同、日飮湯一口、不多飮、多則動搖齒牙、下利生害、若便祕者、飮一盌、以取利、余試飮之、湯氣似毒、不復口也、十四五日後、有兩股睪丸糜爛出一レ汁、不治亦自愈、甚者以綿包裹、自然乾燥、蓋浴之治疾、以寛爲善、不必拘臈數、以愈爲度、浴次亦漸加、若虚羸過常者、初來

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1067即入浴、一二日身慣地氣、而後就浴、此法最善、時候以四月八月善、五六七月亦不妨也、是亦以草津之、他方固不此限、浴時浴後切忌房、浴中不肉食、但禁過酒、浴二臈者將息、亦二臈、却禁酒肉油物、三臈四臈以此爲度、此法亦極善、俗以七日一臈也、此湯名於治一レ癩、故四方來聚、殆不其穢、但飛瀑如川、暫不其穢、人是以不厭、然斯疾意不愈、不亦可一レ哀乎、但腐爛、者、就瀑而洗其穢、僅可日耳、其深者、頓促命期、是故毎歳客死此土、不數十人云、

〔塵塚物語〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1067 信州草津の湯の事附地ごくあなの事 信州おく山の中に、草津といふ所あり、其所に熱泉あり、此所いたりて山中にして、人倫まれなる所なり、淺間の山のふもとより七八里も奧山也と云ふ、此温湯きはめてあつくして、勢ひ又強く、其味しぶれり、是いはゆる佛説に、東海の北國に草津といふ所あり、其所に熱湯ありて、衆痾を治すと云々、則此湯なりといひつたへたり、しかれども、此湯の性つよくさかんなるがゆへに、病によりて忌之といへり、凡瘡毒難治にして骨にからみ、又惡血ありて腫物を發し、春秋寒暑の節にいたりて再作するの類は、かならず十人に八九は治すと云、されば此湯を頼むものは、まづ深切にその人の虚實強柔の質器を見あきらめて、しかふして後に可之と云、〈猶此事醫術の人に相談し、且又此湯を用ひたる人に再往たづねとふべし、〉此事は、前年彼湯にいりて、しば〳〵其しるしをゑたるものかたり侍し、和國第一の熱泉也、一たび湯治してかへるもの、其太刀、脇差、衣服、器財の類、總じて色を變ぜずといふことなし、てぬぐいを彼湯にひたすに、白潔の布たちまち柿澀の汁にて染たるがごとし、やぶるヽ事なくして、其布かさね疊む所の折目よりすなはちおれ切るといへり、かやうの湯もある事にや、扨三月より中秋まで、遠近のもの爰に來り、其程すぎぬれば、入湯難叶と云〈其所の民俗語テ云ク、九月より以後は、此所の山神參會し給ふ故、重陽の比より此所の旅館の人も去て里に下り、又來年の期を待て此所に來たりて旅人をもてなしあつかふと云、私云、もし此説然れるか、又重陽より以後は、至て寒さが故か、兩條いかゞ〉又此湯より猶おく山へいれば、をそろしく燒上ル山おほしと云、晝は其やくる時い

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1068 たりても見分がたし、夜に入て燒る刻限には、四面皆火也と云、外國のもの、たま〳〵此事をきけば、身の毛もよだつてをのヽく事也、 ◯按ズルニ、此書草津ノ所在ヲ信濃トセシハ誤ナリ、蓋シ草津ハ殆ド上野ト信濃トノ境ニアレバ、當時或ハ信濃ノ草津トモ云ヒシカ、

伊香保温泉

〔宗祇終焉記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1068 おなじ國〈◯上野〉に伊香保といふ名所の湯あり、中風のためによしなど聞て、宗祇はそなたにおもむきて二かたになりぬ、此湯にてわづらひそめて、湯におるヽ事もなくて、五月のみじか夜をしもあかしわびぬるにや、いかにせむ夕告鳥のしだりおに聲恨むよの老のねざめを

〔北國紀行〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1068 山中をへて、いかほの出湯に移りぬ、〈◯中略〉 一七日いかほに侍りしに、出湯の上なる千巖の道を遙々とよぢ上りて、大なる原あり、其一かたにそびえたる高峯あり、ぬの岳といふ、麓に流水あり、是をいかほの沼といへり、

〔日本洞上聯燈録〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1068 上州青龍山茂林寺大林正道禪師、濃州人、俗姓源、土岐之族也、弱冠從父宦遊相府、一日抵圓覺寺、悵然發出纒志、遂薙染、徧扣洛下相州諸尊宿、復還郷省親、因參龍泰花叟和尚、執侍三年、一日叟問曰、江南野水碧於天、中有白鷗間似一レ我、汝道是明甚麼邊事、師下語不契、後如上州伊香保温泉次、忽爾有省、直赴濃州所解、叟可之、相隨旣久、蓋到堂奥矣、應仁改元年受請住最乘、乳香供花叟之法恩

四萬温泉

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1068 四万温泉之來由記 抑上野國吾妻郡四万の郷の温泉は、昔日延暦年中、坂上田村丸爲東征に此郡に來り、此山巡狩し給ふ折節、御心不例おはします時、一人り老翁忽然として田村丸の前に來りて告テ曰、此所に名湯有り、將軍此湯にて浴し給ば、則病苦を治し給ふべし、又は諸人のため、願ば將軍此地江温泉を

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1069 開き、并醫王の尊像を安置して、衆生の病苦を救ひ給ば、武功も益天下に揚らんと云おはつて不見、田村丸老翁の教にまかせて、山中を見れば、果して温泉あり、わき出る事四万所、名郷曰四万、淡味在、鹹味有、或は浴、或は蒸、能百病ヲ治る事妙ニして、誠に無雙の名湯也、便於此所田村丸一宇建立シ、傳教大師御作藥師如來之像安置し給ふ、しかりといへども、未だ時節至ざる歟、世に知る人すくなし、依て予謂、今新ニ、縁記を書拔、世にあらわさば、病を愁ル人のため、又は當地の繁榮ともならんかし、委クハ本書有之、略シテ出之者也、〈◯下略〉

〔漫游文草〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1069 浴泉記略〈代又〉 蓋毛之野、温泉甚多、草津伊香保最著、非其效不一レ驗、然主治專于一病、是以毀譽亦無常、獨四萬泉之良、百病莫不可、特宜羸弱人、大氐羸弱人、其腹有積聚結瘀、而此泉能消化積聚、融和結瘀、積聚結瘀之變、其症無數、是其所以治百病也、且夫泉之成湯、非礜礬則硫黄爲之根、是以臭氣撲鼻、襲衣、飮之澀濇不之也、唯此泉、潔白清徹、無臭氣、其味鹹而甘、飮之多々益人、湧源沸然、鹽凝成花、可以烹肉瀹一レ卵矣、嘗游此地、宿儒老醫號稱海内無雙、非妄誇我弊帚也、如此不翅、他方之泉、皆是浴、獨此湯有蒸法、是其效所以殊異也、蒸浴之法、乃有訣而存、其槩以漸爲要、始至之日、不遽浴、一日二日、唯浴于槽、二三次自汲灌頂上數十遍、稍加至百餘遍、三日已後始入蒸室、先濺湯頂處、平心端坐、如貴人、如叩頭状、以蒸頭顱上、不瞑、不臥、久坐爲妙、若瞑則不于眼、臥則㿂辟動搖、皆有害、其初坐室一伏、則一霎時強弱自裁焉、出室而飮湯、一兩口復浴于槽、灌頂如初、浴後速更浴衣、切戒假寐、寂則冷入邪隨、非徒不一レ疾、陰醸巨害、其他在浴時不冷水、不冷物、凡生菜異食、皆不宜、且禁房事、忌服藥、灸唯三里一穴不妨、若療諸痔、別設小屋、以蒸患所、大凡浴者、胸腹快豁、能食固其宜也、五六日後、或下利、或腹痛、亦治驗也、罷浴一二日、自然而愈、若其全功、必待十餘日後而見矣、故將息法、亦以臈數限、臈多將息亦如其日數、其際不常湯、灸必待二閲月後焉、是爲浴治之要略、如其小節、請待口授而已、蓋是我

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1070 土古來相傳之訣也吾儕不敢増損、謹録聞、以告四方來顧君子、若夫山川勝概、自是游者之雅致、身已在廬山中、其復何言、壬寅仲夏一日、郷人田村清民撰、

〔漫遊文草〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1070四萬温泉記 余〈◯平澤元愷〉與伯經四萬湯泉、雖烟霞、亦爲疾已、地僻而山水不甚奇其復何記、二人已試浴三四日、泉性頗慣、夏日無事、浴法切忌宰我氏好、浴後駸々然將睡魔界者數四、遂相警勉強以記耳、蓋四萬之溪、在山田川上游、而距高崎治百里許、山田里以東、泉之成蹊十有八里、傍溪而家焉、家之房如水渦、屬于湯槽以待來者、湯泉之成業、亦皆爲然、獨四萬之泉、別有蒸室、而治驗亦在蒸浴、其法矮屋數間、架之屋下、其室三四相連、小於維摩之居、而病者默坐、寔容四萬之衆而不狹、但坐下與焦熱地獄、僅隔一箔、是以不久坐、唯獦獠亦具佛性、故能堪久、如余爲理障、所逐出耳、又入又出、心猿奚躁、余室中語伯經曰嘗聞、賊忠彌責問不拱、獄吏布青竹於火上、躶坐其上、何太相似、吾曹果首何事、伯經胡盧不答、遂出日々謔浪、猶恐睡魔窺一レ隙耳、已而余二人與隨跟亦皆健、食日加、應知妙智無量之方便、順逆不二也、余之足西履長崎、東北抵蝦夷之地、其際所經湯泉甚多、不詳記、然如四萬蒸湯、未之有也、先余游者、或紀山川風土、或録治驗所一レ試、其言曰、香太冲以(○○○○)城崎(○○)爲(○)稱首(○○)、未(○)知(○)有(○)四萬(○○)也、然其稱四萬泉根于乳石者、乃阿好之説、不據也、余與伯經、一日登水晶山、尋謂乳石所一レ産、殊不其言也、但山之石生水晶、閃々如鍼、如棘刺、一拳一塊、無石不一レ然、纎微如毛、亦必圭頭六面、寔性也、疊巒重巘、茁乎百里外、簇々無其際、澗水發流幽谷、漰涒澩灂、日夜不休、惟此深山、不龍蛇、其氣鬱結、湯泉以涌、成蹊成村、其戸數十餘、其口數百餘、含哺鼔腹、各樂其生者、豈復偶然哉、余與伯經游、雖疾、亦惟烟霞爲崇耳、伯經乃命石工、勒題名并一小詩於溪石、因戯打之、石肌麻起、不字、乃笑而措、其它作畫作字、吟咏以消閑、五月五日再臈滿、賖酒相賀、厥翌冒雨而發、〈前日宿田子孝家、田書請歸路再過、五月初六又宿山田里、而續記未、〉

下野國/那須温泉

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1070 那須湯 なすのゆ 信濃、下野那須郡、神社有り、〈◯中略〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1071 抄に、下野或は信濃也と有るは、ひが事といへども、夫木抄に信濃なるとよめれば、それをよしとせんか、契冲が名所補翼抄にも信濃と出せり、

〔松屋筆記〕

〈八十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1071 なすの湯 拾遺集〈九卷雜下〉大中臣能宣が長歌に、しほがまの、うらさびしげに、なぞもかく、世をしもおもひ、なすの湯の、たぎるゆゑをも、かまへつヽ、わが身を人の、身になして、思ひくらべよ云々、能宣家集には、たぎるゆゑをも、かまへつヽを、たぎる胸をも、さましつヽに作れり、世をわびしきものに思ひなすに、那須の湯をよせたり、那須は、下野國那須郡にて、今も高名の温泉あり、平治物語〈三卷〉頼朝擧義兵條に、九郞御曹司云々、信夫に越給へば、佐藤三郞は公私取認テ參ラントテ留リ、弟四郞ハ即チ御供ス早白河ノ關固テケレバ、那須湯詣ノ料トテ通リ給フ云々、參考京師本に、白河ノ關固テケレバ、那須湯ト云山路ニカヽリテ通リ給フ云々なども見ゆ、さるを夫木抄〈廿六卷雜八〉温泉部に、題不知、〈なすの湯信濃〉よみ人しらず、 しなのなるなすのみゆをもあむさばや人をはぐヽみやまひやむべく、とあるより、物に信濃の名所とせるおほかり、和歌名所追考〈百四卷〉下野部に此歌を擧て、初句下野やに作り、異本信濃なるとあり、げに信濃なるは、聞誤にて、下野やの方を正しとすべし、たぎるゆゑをもかまへつヽは、たぎり湧湯坐を構るよしに、故といふ詞をよせたるたるなり、

〔夫木和歌抄〕

〈二十六温泉〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1071 題不知〈懷中なすの湯 信濃〉 よみびとしらずしなのなる(○○○○○)なすのみゆをもあむさばや人をはぐヽみやまひやむべく

〔東遊雜記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1071 殺生石のある地より七八丁下に温泉あり、湯本と稱し、家二十四軒あり、夏月の間は入湯の人もあるよし、冬月には雪ふかき所ゆへに、入湯する人もなし、此湯至て熱湯にて、此邊硫黄の氣強く、何地獄かの地ごくと稱して、湯の沸上る所多く、さゐの河原といふ所もあり、

鹽原温泉

〔鹽原考〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1072 鹽原の湯泉たるや、人皇五十一代平城天皇の御宇、大同元年臘月の比、獵師これを見出すといへども、千巖天に峙ち、万谷雲に埋み、荊棘を分ち難くして、空しく打過しに、其後小山氏何某と云し人、初て此道をひらき、民屋を立られしと也、按ずるに、古町湯泉大明神の鰐口に、謹奉寄附鰐口、下野州鹽谷郡下鹽原醫王山大權現御寶前、于時天文十二癸卯天三月日、鹽原城主小山越前守とあり、此人當地に住し屋形の跡、醫王院の北の方にあり、城跡といひさも有べし、山に添小社貳ケ所有りて、一社は宇都宮明神、一社は春日明神なりと、是屋形の鎭守成べし、引續古家數といふ有家士の住居といへり、何れも境地甚せまし、又旗下戸の上城跡有りて、前に帚川を帶、後に殼堀貳重あり、昔は旗下戸を畑下戸と書しを、小山氏爰に出城を構へてより、旗下戸と出改めしよしなれば、此人の祖此湯泉を開らきしなるべし、

日光温泉

〔日光山志〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1072 湯湖 是は湯元にあり、廣さ凡そ拾四五町に二十町許、 中禪寺温泉 八湯、中禪寺別所より西北に當り、赤沼原を逕、湯元迄三里、日光神橋より六里なり、春も風雪寒威はげしく、三月末迄も餘寒あるゆゑ、四月八日を初として登山し、各湯室を開き初むれども、白根嶽はまだ殘雪多く、五月末より六月に至らざれば浴するものも少し、九月には前山に雪降ゆゑ、九月八日を終として湯室をとじて麓へ下る、日光町方のもの持とす、湯室を開き、日々日光町より米穀園蔬を初め、其餘の諸品を脊負ひ送れり、 河原湯〈甚熱なり、湖水湛る時は熱し、乾く時はぬるし、〉 藥師湯〈第一眼病によし〉 姥湯〈黒苦味(コククミ)〉 瀧湯〈甚冷なり〉 中湯〈熱なり〉 笹湯〈寒暑の濕をはらふ〉 御所湯〈第一金瘡に妙なり〉 荒湯〈熱湯なり〉 自在湯〈平清なり、洪水の時、遣ひ水不自由なる時、此湯にて飯を炊きても匂ひなし、〉 湯平 温泉の浴室九軒あり、毎年始と終とすることは前に記せり、此温泉を開闢せし年代しら

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1073 ず、九軒の屋作り、各間廣に構へたり、地形は大抵平坦にして三四町程も有べけれど、東寄の山際よりの温液生ずるゆゑ、皆東の山寄に連住せり、西北の方に平坦續けども、少しく低く、古は爰等も一面の湯湖にて有し事ならん、今も蒹葭のみ生ひ茂れり、扨此所より上州沼田領への間道あり、

陸奥國/名取温泉

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1073 名取御湯 なとりのみゆ 陸奧

〔奧羽觀蹟聞老志〕

〈五名取郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1073 名取御湯 在名取上流秋保村、郷人曰(○○○)秋保温泉(○○○○)、相傳古昔勅封之地也、故以御湯而稱之、 按、御湯二文字、非本朝、中華亦稱之、古詩所謂、有御湯搖蕩雙龍影、又是胡兒簇馬看句

〔大和物語〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1073 をなじ兼盛、みちのくにヽて閑院の王のみこの女にありける人、くろつかといふ所に住けり、〈◯中略〉かくてなとりのみゆといふ事を、つねたヾのきみの女よみたりけるといふなむ、このくろづかのあるじなりける、 大空の雲のかよひ路みてしがなとりのみゆけばあとはかもなし とよみたりけるを、兼盛のおほぎみおなじところを、 しほがまの浦にはあまやたえにけんなどすなどりのみゆるときなき となんよみける、

〔秋保日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1073 寛延四年、公務のいとまあるころ、城西の秋保村(○○○)にまかりて温泉に浴し侍らんとて、八月三日になんおもむき侍りけるに、中塚氏廣茂のぬしも、同じくまからんとて、草庵に來りていざなひ出ぬ、朝のほどより空くもりて、やがて小雨ふり出ぬれば、雨つヽみなとどかく物して行くまヽに、ほどなく仙府を離れて、村徑田畝に道をもとむ、〈◯中略〉 申の時ばかりに、雨こまかになりぬ、猶空翠客衣をうるほして、よもをのぞむに、朦朧たる中烟り

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1074 一村立のぼれるこそ、これなん温泉の出る所ならめと、いとうれしくて、とり〴〵道いそぐまヽに、ほどなく行つきぬ、以實、 かりぬべきやどりやそれと夕烟一むら見ゆる山もとのさと

佐波古温泉

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1074 佐波古の御湯 さはこのみゆ

〔東遊雜記〕

〈二十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1074 平より南一里、湯本の町、大概の所なり、此地には温泉數多にて、家々に湯壺有り、入湯せる人も多く、濕瘡毒に功有る湯也、當國名所記に、大納言師氏、 夜とヽもになげかしき身を陸奧の三箱(サハコ)の御湯といはせてしがな 此名の事なるや、未詳といへども、外に名づくべき温泉の所なし、

〔拾遺和歌集〕

〈七物名〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1074 さはこのみゆ よみ人しらず あかずしてわかるヽ人のすむ里はさはこのみゆる山のあなたか

〔夫木和歌抄〕

〈二十六温泉〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1074 大納言師氏卿 よとヽもになけかじきみをみちのくのさはこのみゆといはせてしがな

玉造温泉

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1074 今案に、玉造湯、抄にも地未考と有、おもふに玉造郷は、陸奧國にあり、玉造河は播磨國に有り、そのほとりのことにや、未詳、

〔續日本後紀〕

〈六仁明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1074 承和四年四月戊申、陸奧國言、玉造塞温泉石神雷響振、晝夜不止、温泉流河、其色如漿、加以山燒谷塞、石崩折木、更作新沼、沸聲如雷、如此奇怪、不勝計、仍仰國司、鎭謝災異、教誘夷狄

釜崎温泉

〔奧羽觀蹟聞老志〕

〈四名蹟〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1074 釜崎温泉 在八宮以西、筧取之山間、能治諸證、是以佗方久病廢疾者、不千里而輻輳、得驗而歸者亦多、封内之名湯也、湯舍上有善遊堂

青根温泉

〔奧羽觀蹟聞老志〕

〈四名蹟〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1074 青根温泉 〈東北有古温泉、曰女御湯、〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1075今柴田郡前川村、温泉乃其地、東面湯舍牖下望之、名取大倉山大森館等入座上來、屋下設湯舍、東西六間、南北二間有半、板其半、下廼湛湯之處也、其上頭可二間、有温泉而涌出於山間、自是設木筧、長短四架、其二長筧直達舍東而流落、左右短筧亦令其落湯舍、又去湯舍二間許、有土橋、令木筧通于橋下、而至下流、又去此可三間、自玆別設長筧、横三架而旋之及下、湯舍方四間、其筧流噴吐而落舍下、病頭風者受之、則忽得其驗、自泉流此凡二十間、又自坐下小廊、至湛湯舍、此處禁雜浴而不許焉、其下乃衆人群集、雜浴惟多、

湯刈田温泉

〔奧羽觀蹟聞老志〕

〈四名蹟〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1075 湯刈田〈山北有温泉〉 山岳尤峻嶮、荒栗、大森、大刈田、甘塚諸山相並、其北有温泉、能治瘡毒癩病等、仍謂之湯刈田

鳴子温泉

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1075 なるこのゆ 陸奧

〔奧羽觀蹟聞老志〕

〈八玉造郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1075 啼兒(ナキコ)温泉 〈郷俗作(○○○)鳴子字(○○○)非也(○○)、須之事實、〉 在啼兒(ナルコ)村、自岩畔出、克治瘡疾、其下亦有温泉、此地也、相傳、往昔義經北行、夫人開胎于龜毀坂(カメワリサカ)、仍辨慶養之笈中、來於玆地、始出呱々聲、故後人號啼兒、温泉在其地、神名帳所謂、温泉神社是也、

〔奧の細道〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1075 南部道遙にみやりて、岩手の里に泊る、小黒崎、みつの小島を過ぎて、なるこの湯より、尿前の關にかヽりて、出羽の國に越えんとす、此路旅人稀なる所なれば、關守にあやしめられて、漸として關をこす、

大湯温泉

〔東遊雜記〕

〈二十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1075 大湯は町にて、温泉四ケ所に在り、湯の出る處は各違ひあり、二の湯は疝氣中風によし、殘る二ツは濕毒によし、何れも功ありと見へて、入湯せる人も數人有しなり、〈◯中略〉大湯村より西北十和田山の山陰に方三十七八町の湖有、〈◯中略〉すべて此邊の山中には熱湯の湧所多しといふ、何れを聞ても硫黄湯なり、

淺虫温泉

〔東遊雜記〕

〈十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1075 淺虫、御晝休になる、此所は、青森より三里といへども、大に遠く、此地海濱にのぞみ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1076 て温泉有り、至ての熱湯にて、湯壺より流れ出る湯川々へ落て、湯氣の立上る事烟のごとし、すべて津輕の地には、温泉あまたにして、別て岩城山の麓に多く、何れも上方中國筋の如く、功能のある湯にはあらず、

出羽國/上ノ山温泉

〔東遊雜記〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1076 上ノ山、此所は御城主松平山城守侯三万石、市中大概の所なれども、皆々草葦板家根にて見苦敷、町の中に温泉あり、湯涌所は町の西にありて、夫を筧を以て家々へ取て、湯壺に入て入湯する事なり、熱湯にて臭氣もなく、さして功有湯にはあらず、疝癪によしと云、

〔東國旅行談〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1076 上之山之温泉 同國〈◯出羽〉上の山宿の温泉は、後の御城山より涌いづるといふ、此所のはたごやの中村喜兵衞といふ内に湯治場と名づけて、石にて築たて、三間に貳間ばかりの湯溜あり、尤座敷奇麗にしてよき宿なり、諸病よきとて、湯に入る人多くあり、旅人は晝はたご錢を出し、滯留して湯治するも見ゆ、また表のかたに屋根をしつらひ、五間に貳間餘の湯ぶねありて、往來の人の勝手次第に入湯して行と見へたり、此宿の入口は、坂にて家作いづれもかけ造にして、茶屋五七軒もあり、風景よき所なり、東の方はるかに大山みゆる、

高湯温泉

〔東遊雜記〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1076 吾妻が嶽の北方、羽州分に高湯と稱せる温泉あり、到ての熱湯なり、此湯中へ諸の木を入置ば、五六年の間には化して石となる、又熱海中に蟲を生ず、土人湯の蟲と稱す、湯上を走りめぐる、此蟲を取て服すれば、癪氣治せる妙藥なり、夏の内入湯のもの多し、湯に水を汲入て入る事と云々、

〔翹楚篇〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1076 人のやまひをいたましみおぼしめし、御手當の下る事は擧てかぞへがたし、其二三事を擧て、其餘は推て知べし、何年の頃にや、御手水番坂二郞右衞門勤仕、かヽる程にはあらねども、何とか色さめ氣鬱して、虚勞の症にも成なんかとみへし程の事あり、是等の病は旅出に氣を慰め

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1077 て快氣を得る事其例多くあり、此事をおぼしめしけん、最上〈羽州最上郡〉の高湯へ湯治せよとの御内意下り、願書出し、御例のごとく三回二十一日の御暇にて湯治せしに、纔の日數ながら、果して旅中より氣力すヽみ、全快を得て歸りし、〈御家中の諸士、私の旅出叶はぬ事ながら、最上の高湯三回の御暇は、昔ゟ其例も多くあれば、人々高湯湯治の云立にて、高湯には纔一二夜も逗留し、餘の日數にて出羽の熱海、象潟、奥州仙臺、松島なんど見物する事也、是元より上を欺奉る、不屆の事ながら、昔より御宥恕の思召も有けらし、歸湯の上松島の絶景のふけりも人とがめず、おほやけにも御糺なきほどの事に成來りければ、所所慰遊せよとこそのたまはね、畢竟の所は、夫がための思召なりけるとぞ、〉又安永四年の事なり、予兼て壯健の生れながら、頭痛に泥む事他に越たり、此事有がたくも御憂おぼしめし、山上白峯(ヤマカミシラフ)の高湯の、頭痛にしるしある事、人々の唱ふる處、又其驗もおほし、其方が不如意中々自力にてはむつかしからん、手傳ふてやる、湯治せよとの御事にて、小判などたまはり、湯治せし事あり、斯る有がたき湯治なれば、晝となく夜となく、ひた入にあまたヽび浴して、湯瀧に頭をうたせしかども、其後折々はげしき頭痛の發りしは、殊にはげしきやまひなるが、きくときかぬとの人にもよるか、又湯氣に酒氣を勝たしめしゆへか、恐て恐るべき事になん、然ども今年天明九年迄、指を折て十五年なるに、三四年來は希に發る事ありながら、曾て深き泥もなしおもへば湯治のしるしなるか、老には病の漸々に薄らぐか、抑君徳に浴せししるしなるべし、

今神温泉

〔傍廂〕

〈後篇〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1077 今神の湯 出羽國最上郡新庄の戸澤侯の領内に、温泉五箇所ある中に、今神の湯には、熊野神社ありて、入湯の男女晝夜狹き所におしこり居る故に、密通する者あり、人の金錢を盜みかくしおく者あり、さる時は、いづくより來るらん、蛇出でヽ密通の男女へまとひつき、盜み隱したる上に蟠り居て、忽に露顯する故に、人々あつまりてさるをこの者は、早くふもとへおひやらへりとなん、をしへ子なる諏訪光忠が委しくしりてかたれり、

湯濱温泉

〔出羽國風土略記〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1077 一湯濱温泉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1078 湯の濱村、海邊也、大山より一里に足らず、夏月湯治のもの少々有、小瘡に尤効あり、

温海温泉

〔出羽國風土略記〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1078 温海嶽熊野權現 麓に温泉有、名湯にして、頭痛、眩暈、上氣、消渇、痰、打見、脱肛、下血、脚氣、淋病、小瘡、瘡毒、灸瘡、婦人血道を治す、血痰は血積内障外障風等には忌む、或いふ、嶽に祭る熊野權現は、延喜式神名帳に載る田川郡由豆佐の賣神社也と、故に去秋彼地に行て舊記等を乞求るに、寶永元年、領主の御尋有て、書上たる趣を開板したるもの有、其文にいふ、後堀河院御宇嘉祿二年、温海鳴動し河水波立たるを、時の人しらひてと呼けるとぞ、其内に温泉涌出しに、小聖上人藥師如來を安置し給ひけるに、万の難病を助おわしまさんと誓有て、奇瑞さま〴〵なるよし云傳へけるに、今も違はずと云々、外に村肝煎等連名にて書上たる控有、夫には嘉祿二年四月二日、温海嶽鳴動し、河水波立たる時、白髮たる老人呻給ひける、其中に温泉涌出しと有、上人藥師安置の趣はいづれも同じ、連名の上に温海嶽は藥師と有、世人入湯の中、湯屋にて念佛を禁ず、又嶽參詣にも念佛を申さず、正面の湯と云より、四五間上に地藏湯といふ有、熱湯にして野菜茄を其湯の餘を石盤に溜て、村中洗濯湯とす、湯の上に石檀を設て禿倉あり、土人地藏堂といふ、同村東の山際に藥師堂有、本尊の左右に十二神將あり、享保元年に鑄たる鰐口あり、湯藏大權現堂主温泉山長徳寺と彫刻、寺等禪寺にて堂の左にあり、四月八日は講ありとて、古來は濱温海村永叔寺といふ寺家別當たりしとぞ、長徳寺に縁記ありとはいへども、一覽を許さず、或言、近年鶴岡の家中にて出しと云湯藏權現と稱するを見れば、湯の守護神を祭、藥師を本地佛と寺家の稱したるより、檀上に佛像を立並べ、神號を鰐口に湯藏權現とばかり殘りしにや、又村老の話に、湯の邊に祭る所の地藏といふは、則湯藏權現にして、樂師を湯藏權現といふは、享保以來の事にして湯藏を地藏と轉訛せしにや、熊野權現には社家一員、修繕四家あり、

〔東遊雜記〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1079 湯温海といふ所は、海濱より十七八町も山分に入、此町は中々よき所にして、温泉ありて家ごとに湯つぼをして、旅人を入る事也、倡家數十軒、一家に三十人も四十人も賣女の居る事なり、いづれの所より此所へ遊びに來る人のある事にて、賣女の多き事にやと尋るに、功ある温泉にて、入湯せるものも數多にて國中よりも集る所といへり、町の上には巖々たる山計、古人湯温嶽と稱、山の風俗至てよし、

湯原温泉

〔東遊雜記〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1079 湯原と云る所は、街道筋にして、百軒計のよき町にて、温泉十六ケ所、家々奇麗に湯壺をして、旅人を入らしむ、さして功ある湯にはあらず、上逆の症疝氣によしと云々、

加賀國/山中温泉

〔梵舜日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1079 慶長八年九月三日、二位卿〈◯吉田兼見〉女房衆、加州山中之湯ニ御越、拙僧モ可同道之由候間、俄罷越、 八日、金津宿〈◯越前坂井郡〉ヨリ加州之内、山中湯宿〈◯加賀江沼郡〉ヘ付ヌ、其日ヨリ二七日ノ湯治也、十二日加州山中湯宿、藥師硫黄寺へ參詣、 廿二日、二七日之湯治、日數相濟ニ依テ、越前ノ北莊マデ上リ也、

〔奧の細道〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1079 山中の温泉に行くほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ、左の山際に觀音堂あり、花山の法皇三十三所の順禮とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付け給ふとや、那智谷汲の二字をわかち侍りしとぞ、奇石さま〴〵に、古松植ゑならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地なり、 石山の石より白し秋の風 温泉に浴す、其功有馬に次ぐと云ふ、 山中や菊はたをらぬ湯の匂

越中國/山田温泉

〔越中舊事記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1079 山田谷 温泉有、諸瘡并打身を能く治す、

越後國/關山温泉

〔越後名寄〕

〈九頸城郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1080 關山 關山之驛ヨリシテ猶行程三里、山ニ入、妙光山之北之別峯ノ腰也、假令屋ノ旅宿也、万事艱難、遊興之品曾テ無之、調度器物等又無之、 温泉主治、中風、手足不遂、筋骨攣縮、頑痺、疥癬諸病、在皮膚骨節者、痔疾、 温室之有所、山ノ岨甚狹地ニシテ、余慶無之、凍等(ユウタチ)急雨洪水之日押流サルヽ事間有之、人ヲ損ス、雖奇効必不行、難事不何時、可愼怖

大湯温泉

〔越後名寄〕

〈九魚沼郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1080 大湯 上田郷藪神庄 温泉、大湯村ニアリ、サナシ川ノ端也、凡居家十二軒、尾上ヲ町場(テウバ)ト云、昔日白峯ノ銀山盛リシ時ニ、爰ハ邊邑(タニサカイ)、銀山迄八里、人跡無之、万荷物付上、銀鉛ノ付下、驛舍ノ要所ニテ甚賑ヒケリ、 温湯ハ下町川ノ方ニテ、浴人ノ旅店有、湯守櫻井利兵衞、則村之長也、温泉ノ權輿不定、 浴料留湯三百七拾五錢、日數ハ幾日ニテモ、總湯百銅、同幾日ニテモ、總湯ニテ油代毎夜一人一錢宛、座敷代一夜百銅、木錢共ニ定法也、然運上ヲ貢、又湯之谷ノ村里配分シテ割取也、 此當リ駒ガ嶽不遠、雪厚ク嚴寒耐ヘ兼ルニ、湯本ハ雪モサノミ不多、三冬ノ日ニモ鈍寒暖也、此所モ賤地不自由ニテ、小出島ノ市場ニテ用事ヲ達ス、然レドモ松之山ニハ遼勝レリ、〈◯中略〉 温室總長屋作リ、南ノ端一間圍テ、六尺方ノ壺有、深サ座シテ鳩尾ノ當リ、瀧有、是ヲ留湯ト云、出入ノ扉ノ鍵ニ札板ヲ付テ、姓名ヲ印シ、順番ニ入、留湯ニ入ル人、總湯ニ入コトヲ不禁、其次ニ總湯、槽方六七尺ナル三ツ有、一ツノ壺ニ瀧有、共ニ晝夜貴賤入籠ルナリ、北ノ端ニ三間構ヘテ、惡瘡ノ入所トス、又村ノ後サナシ川ノ崖岨ヘ、湯ヲ筧ニテ廻シ下シテ、瀧ヲ作リテウタルヽ也、凡温泉清潔ニテ、甚熱ク、水ヲ加ヘザレバ入難シ、水ヲ交テモ清シ、 羽州温海ノ温泉、嚴ク熱ク清シ、水ヲ加ヘケレバ濁リテ淡白シ、 有馬ノ温湯ニテ幕ノ湯ト稱ス

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1081 ルハ、温室ニ幕打テ、其人獨浴シ、外人ハ皆揚テ不入、幕代銀子一枚也、爰ニテ留湯ト云ガ如シ、主治、中風折傷、打身、疝氣、脚氣、痞積、疥癬、小瘡類、楊梅瘡、癩風、

但馬國/城崎温泉

〔玉勝間〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1081 但馬國の城の崎のいでゆ 増鏡に、安嘉門院、丹後のあまのはし立御覽じにとておはします、それより但馬のきのさきのいで湯めしにくだらせ給ふとあり、此温泉そのほどより名高かりけむ、

〔湯島温泉記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1081 湯島 城崎郡湯島なり、昔は島にて有といひ傳ふ、今此邊新田多し、南より北へ流るる川の端に船著場有、町は少西へ引退きてあり、町中に西より東へながるヽ小川有り、此川上は、竹野といふ所の嶺の麓より落ると也、湯壺も町の家々も、皆此川を狹みて兩方にあり、此川末にては落あひて、津井山田井村の間より北海へ落る也、此川筋、昔ば海にて有しにや、觀音浦、笹の浦、むすぶの浦、二見の浦などいふ所、皆此川上なり、〈◯中略〉 新湯 一の湯二の湯と分て二つ有、是下の町の入口にある湯なり、湯熱くして湯の勢つよし、隔日にして、今日は一の湯をとめ湯にして二の湯を入こみにし、又明日は二の湯をとめ湯にして一の湯を入こみとす、 切に幕は仕舞て、夜は一の湯二の湯男女をわけて入こみとす、爰の湯は有馬のごとく湯壺の底より沸にあらず、一の湯のわきに湯口といひて、岩の下より沸出る也、それをとひを仕かけて、一の湯二の湯へとるなり、此湯口のゆを汲取て、所の者の朝夕つかふ湯とす、湯は甚あつくきれいなり、されど鹽はゆき故に、飮食には用ひがたし、近年爰の湯をもてはやす事、京都の醫師後藤左一郞、此湯の諸病に効有事を考て説廣めしゆへに、畿内より初めて諸國に聞傳へて、入湯の者多し、後藤氏が説にも此新湯を第一に稱して、此湯は氣血をめぐらし、運動して鬱滯を解の功あるゆへに、諸病に効ありと云々、又日によりて湯のあつき時は、外より川の水を汲て、といにて仕かけてぬるくし、又ぬるき時は、湯口の鏨をぬきて、湯をしかけて熱くする

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1082 也、又是より上の湯には、湯壺の底より沸もあり、 中の湯 二つあり、俗に瘡湯と云、これは一切の瘡瘍の類を早く愈すゆへなり、わきて楊梅瘡を煩ふ人のみを、此湯へ入るといふの名にはあらず、中比京都の醫師賀來道節、津田幸庵は、此湯に心をよせて、此湯瘡類ばかりにあらず、諸病によろしと稱美せられしゆへに、其比湯治に來る者は、多く此湯に入しと也、されど近世後藤氏の論には、瘡疹の類も、早く愈すは宜しからず、唯新湯のよく氣血を調和し、瘡瘍のをのづからいゆるにしく事なしといへるゆへに、新湯に入者多し、上湯 一つなり、中の湯の上に並びてあり、これは所の者の洗足の湯に用るなり、總じて此所の者は、平常の浴にも温泉を汲でつかふゆへに、所に風呂居風呂の類希にもなし、此邊は皆下の町にて、上の町は、間に野道の民家を隔て、又一筋の町あり、下の町、温泉の左右皆客舍あり、大津屋、井筒屋、油屋、板屋など云能家十軒ばかり、その外は小家也、總じて湯島の町の能家といふは、皆下の町にあり、

〔古今和歌集〕

〈九羈旅〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1082 但馬國の湯(○○○○○)へまかりける時に、ふたみの浦といふ所にとまりて、夕さりのかれいひたうべけるに、共にありける人々、歌よみけるついでによめる、 ふぢはらのかねすけ 夕づく夜おぼつかなきを玉くしげ二見の浦はあけてこそみめ

〔台記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1082 康治二年八月七日辛卯、參宇治、但馬湯御下向留了云々、

〔増鏡〕

〈七北野の雪〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1082 このおなじころ、安嘉門院、丹後のあまの橋立御らむじにとておはします、それより但馬のきのさきのいでゆめしにくだらせ給ふ、爲家の大納言、光成の三位など御供つかうまつらる、

〔當代記〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1082 慶長九年五月七日、清須下野主、但馬エ湯治、

〔言經卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1083 慶長九年五月十日庚申、倉部等同道、大津ゼヽガサキマデ被行候、下野殿、但州湯治ニ御出也云々、迎ニ罷向、今日ニテハ無之云々、

〔秋山の記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1083 秋の山見にとにはあらで、此三年が間、足曳のやまひに罹づらひて、世のわたらひも何もはか〴〵しからぬ、斯るを、昔は但馬の城の崎の温泉に効驗見しかば、此度も亦思し立るを、後りに立て來る人も、年比深うそみし事あればともにとて、はヽそ葉の仰せのまヽに召連るヽなりけり、長月の十日あまり二日といふ日首途す、〈◯中略〉 扨故郷出でヽ七日と云に、志す所に來たる、なやと云所より輕ま舟もとめて漕れ行く、此間山も川も舊見したヽずまひながら、昔は春山の霞こめたる空の氣色も、己が齡も最若かりし程なりき、今や二十年經し心には、朝立つ河霧の覺束なさヽへ添ひて、古きを忍ぶ涙ぞ、秋の時雨めきたる、江山皆舊游と誦んじつヽ行く、古へ堤の中納言の爰に浴すとて來られし時、夕月夜おぼつかなきをと詠みませし二見の浦は、此わたりと云を聞て、或人、 けふ幾日とりも見なくに玉くしげ二見の浦のあさあけの空

〔筑紫紀行〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1083 六月〈◯享和元年〉十日、城崎郡湯島〈豐岡より是まで三里〉御公領にて、久美濱の御代官所に屬せり、さて此所は一筋の町にて、町の中通に細き溝川あり、上の町、中の町、下の町、合せて人家二百五六十軒、宿屋大小合せて十軒あり、下の町井筒六郞兵衞を大家ときヽて、尋ね入て滯留の宿と定む、家の入口より奧まで、樓上樓下合せて室の數三十に餘れり、さて一室に入て休み居るに、暑氣なうして冷然たり、土地北海に近く、其上山谷の間なればなり、 十一日、巳刻過より曇天になりて、未刻過より雨ふりいでぬ、此所に諸國より湯治のためにきたれる人多けれど、邊國僻地なれば、游觀のために託來るはまれにて、實病の人のみ多ければ、自らしめやかにして、華々しき遊び業もあらず、有馬などとは様かはれり、湯治人旅宿旅籠の價一日二匁なり、朝と未刻頃に茶漬を出し、

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1084 晝と夕に本膳を出す、又座敷を借るのみにて、食物を自調るもあり、室代一廻三匁にて、米、味噌、薪、其外の諸物、皆宿に出入する商人通ひにて入るなり、又焚出しと稱するあり、其は米を自とヽのへて、宿に付して日に二次焚出さしむ、さすれば宿より一汁一菜をつけて出す、かくて一廻の代一匁五分、座敷代に合せて四匁五分なり、〈◯中略〉温泉すべて五所、一には新湯、下の町の入口にあり、清潔にして甚熱し、一の湯二の湯と二つに隔なせど、同じ泉なり、功能血を運し、胎毒瘡毒を追出し、創傷などは一旦うみてのち癒るなり、二つには中の湯、あしき匂あり、甚ぬるし、腫物切疵の類癒ること早き故に癒湯といふ、されども毒氣を追込故に、程もなく再發するとぞ、三には常湯、四には御所湯、五には曼陀羅湯、此三つ大形あら湯に同じ、曼陀羅湯は此所の温泉の始めなりといへり、外に殿の湯は平人をいれず、非人湯は非人のみ浴なり、さて此地の名物として、賣物は、麥藁細工、柳行李、湯の花、海苔等なり、さて此所にも銀札通用す、十匁より一歩まであり、錢は九十八文を以て一匁とす、此地北海を隔る事僅に一里なり、されば魚類多くして價甚賤し、

出雲國/玉造温泉

〔四方の硯〕

〈花〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1084 枕草紙に、温泉の名どころあつめたるところに、玉造の湯、春曙抄に、其地未詳とあり、家翁、出雲の太守より、彼國産玉造といふところの石を賜りぬ、かの國の門人いふ、其地山川清雅にして、温泉ありて、隣國よりも、病客あつまりゆあみしぬとなん、清少納言は博聞にて、國はしの名どころもくはしかりしぞとおぼゆ、

〔出雲風土記〕

〈上意宇郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1084 忌部神戸郡家正西廿一里二百六十歩、國造神告調望參向朝廷時、御沐之忌玉、故云忌部、即川邊出湯、出湯所在兼海陸、仍男女老少、或道路駱驛、或海中沼洲、日集成、市繽紛燕樂、一濯則形容端正、再浴則萬病悉除、自古至今無驗、故俗人曰神湯(○○)也、

漆仁川温泉

〔出雲風土記〕

〈下仁多郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1084 湯野小川、源出玉峯山、西流入斐伊河上、通道通飯石郡堺漆仁川邊廿八里、即川邊有藥湯、浴則身體穆平、再濯則萬病消除、男女老少、晝夜不息、駱驛往來、無驗、故俗人號云藥湯(○○)

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1085 也、〈即有正倉

海潮温泉

〔懷橘談〕

〈下大原郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1085 海潮 海潮とは古老傳曰、宇能活(イク)比古命、祖次義禰(ミヲヤスキミノ)命を恨て、北の方出雲の海潮を押止て、御祖の神を漂す、此に海の潮至るゆへに得鹽と云、神龜三年に、字を海潮と改む、即東北須賀小川の湯淵村中川の温湯あり、同川上も間林川中に温水出、得鹽の社ありと記せり、今も海潮の湯ありて、瘡疥(カサカユカリ)痲痺の類を患る人行て沐ぬ、

島根温泉

〔夫木和歌抄〕

〈二十六温泉〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1085 〈しまねのみゆ未國〉 神祇伯顯仲卿 よとヽもにしたにたぐひはなけれどもしまねのみゆはさむるよもなし

石見國/温泉津温泉

〔温泉津日記〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1085 文化十とせ癸酉といふとし二月二十二日、石見國温泉津におもむく、さるはおのれ、〈◯篤考〉この六とせばかりさき、脚疾を憂てあしなへふむことあたはざりしを、幸に醫藥効ありて、ひととせばかりをへて本腹せしが、去年の冬又再發して歩行むつかしく、官途こヽろにまかせねば、かの温泉に入治すべく、此春君に願奉り、往來五十日の御暇たまはり、さて思ひたちけるなりけり、〈◯中略〉 廿六日、午前温泉津に著、宿甲屋又左衞門奧なる一間をかりきりのすみどころと定む、温泉は前なる山手の湯屋新左衞門といふ者の家のうちにありて、鍵温泉、おとしゆ、入ごみとわかつ、おのれは鍵湯に浴す、かぎ湯といふは、ゆの門に錠をさして、入浴の度々鍵をもち行、錠を明て入事なり、おとしゆもそのこヽろなり、〈◯中略〉 廿七日、けふより浴度先日に四度と定む、すべて浴度のおほきはいむ事にて、強人五六度、弱人二三度に過べからずといふ掟書あり、されどはじめは度數すくなく、追々に増はよしといふ、〈◯中略〉 此家のあるじ又左衞門話に、此温泉の濫觴いつの事に侍るか、一疋の兎來り、足をいためるやうすなるが、三七日が間此温泉に浴し、平愈せし趣にて飛去けるを、わが先祖見つけて、はじめて試

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1086 けるに、かたの如くの効驗ありて、おひ〳〵繁昌しいでけるよし、又そのかみ、此ところの家とては、今の湯本新左衞門が先祖と、わが家ばかりなりけるを、此温泉のわき出ける場所新左衞門が土地なりけるをもて、今にかれを湯本とし、年々元日にはわが家より入初をする作法に候を、かの證據と申傳侍る、わが家十三代このかたの事は、いさヽかの由緒も候が、以前の儀は、湯本にもわが家にも、その外にさだかなる書付も候はず、さて又この温泉の効驗のいちじるき事は、あげてかぞへがたきうちに、旣に去年の事にて、是より四里ばかり奧なる福原と申在所に、次郞と申百姓十八九にも候はん、風毒をやみけるのち、足のすぢ攣急してのびざるに、同村の人あはれみ、牛にのせてわが家へつれ參り入湯せしむるに、四五日をへて足のび、杖にて温泉へ通ふほどになり、おひ〳〵全快して、つひに歩行にて山道を蹈て歸り候が、ことしもその禮にとてまゐり候、その外まのあたり奇妙なる事ども、常々見るゆゑ、醫心も候はヾかきつけおき候はんに、短才不文くちおしくさふらふといへり、

美作國/勝間田温泉

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1086 かつまたのみゆ 美作〈壬生忠見集〉 藻鹽草に美作と有、類字名所に出さず、勝間田池のみ有、その下に云、八雲之御抄、辨範兼卿五代集歌枕下總國云々、仍當國載之、清輔抄美作云々、彼國有勝間田郡、其所歟、可之、 今案に、八雲御抄に此湯なし

〔夫木和歌抄〕

〈二十六温泉〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1086 家集〈かつまたのみゆ、勝田、美濃、◯美濃恐美作誤〉 忠見 とのやまや道のかぎりとおもへどもかつまたのみゆとほきなりけり

紀伊國/牟婁温泉

〔釋日本紀〕

〈十四述義〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1086 牟婁温湯 紀伊國牟婁郡歟

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1086 武漏温泉 むろのいでゆ、紀伊、武漏は、和名抄に、紀伊國牟婁郡〈牟呂〉と有り、又郷名の内にて、牟婁〈無呂〉と有り、

〔和漢三才圖會〕

〈七十六紀伊〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1087 湯崎温湯 在牟婁郡鉛山村、〈俗云(○○)田邊湯(○○○)〉 山上有堂 本尊藥師〈木像〉温泉有四口、其湯床似藥師佛像、一枚盤也、

〔日本書紀〕

〈二十九天武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1087 十四年四月己卯、紀伊國司言、牟婁湯泉沒而不出也、

〔十寸穗の薄〕

〈四牟婁郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1087 温泉 湯崎温泉ノ名 礦(まぶ)ノ湯 濱ノ湯 元ノ湯 屋形ノ湯 崎ノ湯 粟ノ湯 目洗ノ湯 本宮温泉ノ名 湯ノ峯 舊(もと)ノ湯 上ノ湯 河ノ湯 湯崎湯治記ニ曰、入湯の度數七日を一回りとす、湯治ノ初日、惟一度浴すべし、次ノ日二度浴、第三ノ日ハ三度浴ス、四日目ハ晝二浴夜二浴、合セテ四度入湯而止、第五日目よりは一浴を減、晝二度夜一度、三浴して可なり、六日目ハ晝一度浴シ夜一度浴、兩度而止、終ノ七日目は初日の如し、唯一度浴、是此入湯一回りとする也、蓋一回の内、度數の増減如此ならざれば、湯治の驗なきのみならず、大に其人に害あり、可愼、凡此度を過すときは病にあたり、却て養生の妨をなす、湯治の日數は、幾回すとも宜かるべし、但此説は湯崎浦ノ村老の示を述のみ、他方ノ温泉湯治の心得は、各又別に口授有べし、 房子湯崎道の記に、礦(まぶ)の湯はあつくして、内を發して病を愈す、積(しやく)つかへ、鬱熱の病によし、崎の湯も大方是に同じ湯あつし少しはげし、冷一切痔疾腰下の病をなをす、濱の湯は和らげ、諸病にきく、幾度入てものぼせる事なし、屋形の湯は積をなをし疷(きづ)をいやす、金瘡に殊によろし、愈すことの早をもて、終の湯といひならわす、初のほどはさしひかへてよしといふ、元の湯はぬるけれども、是を湯崎の根元とす、大病人ゆる〳〵入て養生すれば、諸病まつたふ愈ざるはなし、別して瘇物に宜しきゆへ、瘡の湯といふめり、粟の湯はのぼせに吉、足をひたせば上氣の病すべてなをる、六ところ湯の外は、眼病を治する湯あり、遠はなれたる荒磯の岩間より細く流れ出る、眼を洗へ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1088 ばはつきりとせし、熱目なぞは極めてよし、さるは女のさしいでたる、かヽるあやしのすヾろごといわずともと思へ共、所の翁の物語をきヽ、湯の功能を世に示さばやと、ゆく〳〵湯治の人のために、筆のすさみに書とヾめ侍る、

〔湯埼温泉記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1088 海内温泉不勝數、其最顯於古者、莫於豫之熟田津、攝之有間、紀之牟漏、牟婁温泉尤多、其有名者二焉、曰湯埼、曰湯峯、古史所記泛言紀温泉、不其地、故世或疑焉、書紀齊明天皇四年冬十月、帝幸紀温湯、先是、有間皇子來浴牟婁温湯、歸奏曰、其地勝絶、纔渉其境、病自蠲消、帝聞之而南巡之意決矣、帝之幸也、皇太子亦從駕、即天智帝是也、又書紀持統天皇四年九月、天皇幸紀伊、又續紀文武天皇大鳳元年九月、太上天皇幸紀伊國、冬十月、車駕至武漏温泉、蓋此時二帝相偕幸焉、而持統帝則併前兩回、萬葉集所載亦足以徴矣、然則此地温泉之美、海嶽之勝、所於古者、其將奚疑、今村中相傳、稱御船谷御幸芝者、乃臨幸之遺蹤云、蓋茲地横出於瀛海之中、偃蹇蟠屈、如臥龍奔虵、北與田邊城相對、面勢海灣、灣大十有餘里、其間蒼顏秀壁之削立、曲浦長洲之聯亘、漁村之點綴、島嶼之碁散、異態詭峯、状不縷形、憑高望之恍、如僊都、其遠望則峻嶽疊峯、濃淡分彩、而聳拔於雲表、大瀛萬里、眇無際涯、賈帆商舶、往來出沒於風濤煙雲之中者、一擧目而足矣、誠海南之壯觀也、有馬王蠲病之言不虚矣、今温泉五焉、曰元湯、曰屋形湯、曰濱湯、曰埼湯、曰摩撫湯、故老相傳、元湯最舊古之所用信矣、余聞之醫、曰温泉説、本艸以下皆未盡、獨稻若水、香太冲所論確當、其言曰、凡地有火脈水脈、二脈相交則成温泉、其性極熱、觸物則變、又曰、温泉必生硫黄、蓋温泉之滓也、按茲地故稱鉛山、以地出一レ鉛也、鉛之爲性甘寒無毒、極熱觸之、相和且無硫黄氣者、其由斯邪、夫物之峻烈、取効雖速、其害亦多、其唯温柔和煦足以奏一レ功、無後害、所以爲一レ貴也、昔時聖駕相繼臨幸、得此耶、若乃助氣温體、通壅滯、利關節、解結、發痼、愈瘡、諸如此之類、皆此湯所驗、而四方來浴者、各宜自得焉、況有奇偉秀絶之觀、交相輔以蠲病如有間王所一レ稱乎、此皆不以不一レ知也、余奉命巡省此地、邑長某來請曰、吾邑温泉貴於天下、最顯於古、願記

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1089 其事、俾來浴者有一レ考焉、於是乎書刻之石、 天保壬辰歳孟冬 仁井田好古撰

熊野温泉

〔十寸穗の薄〕

〈四牟婁郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1089 温泉 熊野湯ノ峯ノ温泉、世所謂眞熊野湯是なり、温泉論曰、紀州湯峯温泉、其色皎潔、其味微鹹而甘、頗有鐵臭、其氣極熱云、湯ノ峯藥師堂五間四面、豐臣秀吉建立、藥王山東光寺と稱、本尊藥師佛は、昔温泉の泡凝而成石、色黒し、其化石をもて藥師如來の坐像に造る、往古は此藥師の胸ノ間より温泉涌出なり、右ノ胸ノ間湯ノ穴一ツ、御光の内湯穴二ツ有之、温泉四坪、みな筧にて湯を引、東光寺の庭ノ内、東の方巖穴より湯涌出を筧にて取之、上の湯と稱す、不斷留湯なり、温泉湯口は熱氣甚強く、近邊湯煙立昇りて、霧の如く空曇時は尚甚し、湯口にて食物を煮、或は白米を布袋に盛て湯口に浸置ば、暫時飯と成、但諸物の内に大根ばかりは煮ても難煮といふ、其理は得會しがたき耳、

〔夫木和歌抄〕

〈二十六温泉〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1089 〈まくまのミクマノ同事也紀伊〉 俊頼朝臣 まくまのヽゆこりのまろをさすさほのひろひゆくらしかくていとなし

〔夫木和歌抄〕

〈二十六温泉〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1089 〈ましらくのうらのはしりゆ紀伊〉 仲實朝臣 ましらくのうらのはしりゆうらさめていまはみゆきのかげもうつらず

伊豫國/道後温泉

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1089 伊豫温泉 いよのいでゆ

〔河海抄〕

〈二空蝉〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1089 いよのゆげたも、たど〳〵しかるまじうみゆ、 伊與のゆのゆげたはいくついさしらずや、かずへずや、かずへずよまずや、そよや、君ぞしるらんや、〈雜藝、伊與湯、〉 温泉記云、豫州温泉者、其勝冠絶於天下、其名著聞人中矣、纍々出山頭、潺々迨于海口、中底白砂潔、四隅青岸斜、朝宗是幾許、辭海二三里、觀其温泉、上下區以別焉、以貴賤混誑故也、上則構廊宇、開

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1090 戸牖、其裏備屏息居閑之具、下亦左岩右岸、樹其間虞(ソナ)陰(ヘタリ)風陽日之氣、由是來者無憚、浴者有便、〈以下依繁略之〉與州あをしまの渡の潮中にあり、湯のまはるけたのかたち七なみ、七十七段也、 〈風土記〉けたの數五百三十九歟云々、〈素寂説〉

〔愛媛面影〕

〈三温泉郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1090 温泉 道後山の麓に在り、往古は熟田津石湯といひけるを、いつの頃よりか道後の温泉と云、此道後と云事は、平家物語、源平盛衰記等に、道前道後の境なる高繩山とありて、山西をすべて道後といひけんを、松山といふ城下の名におほはれて、今は温泉の邊の名とのみなりぬ、此温泉は神代より始りて、代々の帝王行幸せさせ玉ひし事度々なり、功驗他の温泉にまされば、浴する人千里を遠しとせずして此湯につどへり、昔は幾所にも涌出て、其湯々に湯桁といふ物を架して浴たりと見えて、六花集に、 伊豫の湯の湯桁の數は左やつみぎはこヽのつ中は十六 新葉集に 神さぶるいよのゆげたのそれならでわが老らくの數もしられず 源氏物語空蝉の卷に、いで〳〵およびをかヾめて、十はたみそよそなどかぞふるさま、伊豫の湯桁もたど〳〵しかるまじう見るなどあるをおもへば、かならず一所にはあらざりけむ、〈◯中略〉 されど今は一棟にて上中下の三等に分てり、又養生湯とて、三所の湯の流をつる所を一處に湛たり、少將定行朝臣の建立し玉ひし也とぞ、〈◯中略〉俚諺集云、慶長十九年十月廿五日大地震、湯沒して出ず、其後湯神社前に神樂を奏し、祈て湯湧出る事舊の如し、貞享二年十二月十日大地震、泥湯湧出、後に清湯と成、寶永四年十月四日讃州大地震、温泉沒して不出、仍て湯神社に於て神樂を奏し、社造補あり、玉垣おし渡し、朱鳥居建立、道後町中より千本の神木を御山の麓に植、玉石に假殿

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1091 を營み、奉幣祈念怠事なく、翌年正月廿九日、凡百四十五日を經て涌出、四月朔日より舊の如く浴する事を得たり、是より靈泉いよ〳〵新に妙驗古に倍したり、又安政元年十一月五日、申中刻過大地震、温泉沒して不出、例に依て湯神社に神樂を奏して祈念す、翌年正月末より涌始て、二月末よりぬる湯となり、三月末に至え再舊の如し、

〔古事記〕

〈下允恭〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1091 故其輕太子者流於伊余湯(○○○)也、亦將流之時歌曰、阿麻登夫(アマトブ)、登理母都加比曾(トリモツカヒゾ)、多豆賀泥能(タヅガネノ)、岐許延牟登岐波(キコエムトキハ)、和賀那斗波佐泥(ワガナトハサネ)、

〔古事記傳〕

〈三十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1091 伊余湯、伊余は、上卷に出、湯は、和名抄に、伊豫國温泉〈湯〉郡、神名帳に同郡湯神社あり、此地なり、美き温泉のあるより負る地名なり、〈此に湯と云るは、其温泉のある處と云には非ず、たヾ地名なり、〉書紀舒明卷に、十一年十二月、幸于伊余温湯宮、天武卷に、十三年冬十月、大地震云々、時伊豫湯泉沒而不出、〈◯中略〉など見へたり、後世まで名高き温泉なり、〈中昔の書どもにも見えたり、今世に道後の湯と云是なり、〉

〔萬葉集〕

〈二相聞〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1091 古事記曰、輕太子奸輕太郞女、故其太子流於伊豫湯也、此時衣通王不戀慕而遣往時、歌曰、 君之行(キミガユキ)、氣長久成奴(ケナガクナリヌ)、山多豆乃(ヤマタヅノ)、迎乎將往(ムカヘカユカム)、待爾者不待(マツニハマタズ)、

〔日本書紀〕

〈二十九天武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1091 十三年十月壬辰、逮于人定、天地震、擧國男女叫唱、不東西、則山崩、河涌、諸國郡官舍、及百姓倉屋、寺塔、神社、破壞之類、不勝數、由是人民及六畜、多死傷之、時伊豫湯泉、沒而不出、

〔釋日本紀〕

〈十四皇極〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1091 伊豫國風土記曰、湯郡、大穴持命見悔耻、而宿奈毘古那命欲活、而大分速見湯自下樋持度來、以宿奈毘古奈命而浴瀆者、蹔間有活起居、然詠曰、眞蹔寢哉踐健跡處、今在湯中石上也、凡湯之貴奇、不神世時耳、於今世疹痾萬生、爲除病存身要藥也、

〔萬葉集〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1091 山部宿禰赤人至伊豫温泉作歌一首并短歌 皇祖祖之(カミロギノ)、神乃御言乃(カミノミコトノ)、敷座(シキマス)、國之盡(クニノコトゴト)、湯者霜(ユハシモ)、左波爾雖在(サハニアレドモ)、島山之(シマヤマノ)、宜國跡(ヨロシキクニト)、極此疑(コヾシカモ)、伊豫能高嶺乃(イヨノタカネノ)、射狹庭(イサニハ)

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1092 乃(ノ)、崗爾立之而(ヲカニタヽシテ)、歌思(ウタシヌビ)、辭思(コトシヌビ)、爲師(セシ)、三湯之上乃(ミユノウヘノ)、樹村乎見者臣木毛(コムラヲミレバオミノキモ)、生繼爾家里(オヒツギニケリ)、鳴鳥之(ナクトリノ)、音毛不更(コヱモカハラズ)、遐代爾(トホキヨニ)、神左備將往(カムサビユカム)、行幸處(イデマシドコロ)、 反歌 百式紀乃(モヽシキノ)、大宮人之(オホミヤビトノ)、飽田津爾(ニギタヅニ)、船乘將爲(フナノリシケム)、年之不知久(トシノシラナク)、

〔南郭文集〕

〈三編八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1092 伊豫國温泉碑 國史曰、舒明帝十一年冬十二月、幸伊豫温湯宮、明年夏四月、帝至伊豫、又據伊豫國風土記所一レ載、景行帝嘗幸温泉、仲哀帝亦幸温泉、齊明帝幸時、天智帝天武帝爲太子、諸王亦同從幸、并舒明帝、帝幸凡六云、風土記又稱、上古之時、少名彦命病劇、旣以爲死、當時此地已有温泉、於是大己貴命用以浴灌、少名彦有間乃蘇、亦不自知病已去一レ體、起曰、吾假寐乎、遂健歩如故、蹈旁石去、其跡蓋存云、寔蓋爲吾邦浴温泉之始、則地神氏世、所從來尚矣、非特見一レ於人皇也、後乃祀少名大已於其旁湯神、又有伊佐爾波神祠、亦曰湯築、後更曰湯月、相傳、仲哀帝與神功后温湯、后因有身、生應神帝、應神廟號八幡宮、故應神帝爲主、因并祭仲哀帝神功后、今名曰湯月八幡宮、崇祀最大云、謹按國史諸書所一レ載、吾邦温泉所創、莫於此、又考万葉諸什、國風所采、莫於此湯之前、故有圓石、圍可三尺、名曰玉石、亦古歌所咏、爲神代之表者也、則立太古徴矣、其諸神祠載在祠典、諸帝行宮、今御幸寺是也、夫陵谷變遷、桑海移易、名存實沒、蓋亦不尠、而此湯之出也、蓋自剖判、厥曠遠者、不其始、姑以聞、近者年紀、尚且在地神氏之始、至今數十万載而不絶、浴者起廢、其效日新、豈非造化凝精、神明祐福者邪、風土記又載、聖徳太子所命立碑文、雖世所記聞、然其辭不讀、義多可疑、且其石不存、今不得而考據、故闕焉、爾自寛永中、松山侯食封伊豫國、温泉在疆、距松山治城、東北二十里、於是累世尊崇其湯及神祠、及今侯源定喬、刻石紀其事、志傳永久、乃典故所列、是以徴文獻矣、 銘曰、爰有温泉、在豫之土、厥初養民、夐自太古、人皇錫寵、六降帝武、神后禋祀、載震玆滸、天開靈滋、祉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1093 東方、歴歳千万、原泉彌長、養精蠲穢、疾疣廼忘、億兆一浴、壽考無疆、廼顧其側、神廟奕々、應皇陟降、於穆不斁、二神攸相、永護温液、其永維何、有密玉石、於昭先王、證陳國風、先民自古、其頌于隆、松侯受封、克敬神功、立石勒事、厥圖無窮、

筑前國/武藏温泉

〔温泉小言〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1093 一筑前の國三笠の郡天拜山の麓に温泉あり、村の名を武藏といふ、その温泉まことに右の注文のごとく、異氣に觸ず、異臭異味を帶びず、自然天然のうぶのまヽなる湯の、たヾ硫黄の臭氣を帶て、あつからずぬるからず、身にふれて温柔和煦、旣に浴して後、腹藏肌膚表裏内外煦々温暖の氣、やヽしばしやまず、頻に浴すれ共、肌膚枯燥せず、疥㿍、梅瘡一切の諸瘡ある人これに浴すれば、皆邪毒を排出し、瘀汁を托發し、諸瘡ことの外わかやぎたちて、扨は九日乃至二七日三七日の以後、氣味よく平癒す、實に最上至極の良湯なり、それゆへ入湯の人も、近國よりあまたあり、されども温泉の理に達せざる人は、兎や角やと評論もつけ、有馬などの湯よりは格別おとりたる様におもふべけれ共、左にはあらず、世人はたヾ耳を貴んで目をいやしみ、遠きをしたひて、近きをゆるかせにす、これその常なり、淺間しといふべし、 一むかし釋の蓮禪、はる〴〵と此湯に湯治にくだりて、都へ歸りのぼるとて、長門の壇の浦にて、 夜憶遐郷終入夢 晴望孤島於拳 一尋西府温泉地 治病逗留及兩年 といふ詩を作りし由、無題詩集の中に見ヘたり、西府とは鎭西府の事にして、武藏の邊皆鎭西府の古跡なり、左すれば、此湯いにしへはことの外繁昌せし湯にて、近國のみならず、天下にひびく名湯にて、遠方よりも、はる〴〵と海山を越て湯治に來りし温泉と見ヘたり、又貝原翁の云、或説に、齊明天皇上座の郡朝倉の行宮にとヾまり玉ひし時、むさし村に行幸ありて、御湯治ありしと云といへり、又古今和歌集に、源のさねといへる女、都より筑紫湯治にくだりしに、かみなひの森にて、

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1094 人やりの道ならなくに大かたはいきうしといヽていさかへりなむ といふ歌をよみし由見ヘたり、此さねが湯治せし湯、つくしとばかりありて、いづれの温泉のことヽもさだかならず、つくしといへば、さすところ甚ひろし、今九州の温泉ある所甚多し、左すればいづれの温泉のことヽも極めがたけれ共、釋の蓮禪が、はる〴〵と武藏の温泉に浴せしを以て類推すれば、さねが湯治せし温泉も武藏なるべし、 一その所の人のいヽつたへには、いにしへ將軍虎麻呂といふ人あり、その女疾ありていゑがたかりしに、此温泉に浴せしかば、その疾すなはち平癒せり、故に虎麻呂その湯を經營し、取建しよりこのかた、今にいたるまで浴者絶へずといへり、虎麻呂の本宅は、古賀村の内すだれと云所にありしとかや、今も其宅の跡あり、又温泉の近邊に、虎麻呂建立の藥師堂あり、椿花山武藏寺と號す、その寺の側に、虎麻呂の墓あり、元來虎麻呂といふ人、正史舊記にその事跡見あたらぬ人ゆへに、いつの比の人にや分明ならざれ共、此武藏寺を建立せし人なれば、はるかにふるき世の人と見へたり、

〔古今和歌集〕

〈八離別〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1094 源のさねが、つくし(○○○)へ湯あみんとて罷りける時に、山崎にて別れ惜みける所にてよめる、 命だに心にかなふものならば何か別れのかなしからまし ◯按ズルニ、此ニつくしトノミアリテ、其温泉ノ名ヲ言ハザレドモ、當時筑紫ノ湯トアルハ、皆今ノ武藏温泉ヲ指セルモノヽ如シ、依テ此ニ收ム、

〔本朝無題詩〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1094長門壇即事 同人〈◯釋蓮禪〉 浪驛渉旬猶泛然、愁中有興綴詩篇、隣船礎日引麻布、〈類船之中、有三小坏、以疎布單幕、礙朝日殘暑、故有此興云、〉里社祈風供木綿、〈遠岸有一社、當州稱二宮、於舟中而遙拜、指社頭而奉使、是不日祈順氣、〉夜憶遐郷纔入夢、晴望孤島於拳、一尋(○○)西府温泉(○○○○)、地治(○○)病逗留(○○○)

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1095 及(○)兩年(○○)

〔本朝無題詩〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1095 温泉道場言志 大江隆兼 云名云利兩忘身、日々行々往臻、昨翫水城原上月、今憐湯寺洞中春、呼朋好鳥意同我、驚望新花榮似人、尋地適傳前日跡、〈長久年中、外祖於此地一絶、康和年予亦於此地六韵故云、〉懷郷蹔外朝塵、琴詩酒處雖戯、佛法僧間遂仰眞、累葉文華相畜得、海西弃置是何因、 ◯按ズルニ、水城原上云々トアルハ、大宰府ノ水城ヲ云ヘルニテ、此ニ温泉トアルハ、即チ武藏温泉ノコトナルベシ、

次田温泉

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1095 次田温泉 すいだのいでゆ 筑前〈御笠郡〉

〔萬葉集〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1095 帥大伴卿宿次田温泉(○○○○)鶴喧作歌一首 湯原爾(ユノハラニ)、鳴蘆多頭者(ナクアシタヅハ)、如吾(ワガゴトク)、妹爾戀哉(イモニコフレヤ)、時不定鳴(トキワカズナク)、

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1095 ゆのはら(○○○○) 湯原 筑前〈或云〉大和〈類字非也〉 夫木抄 湯の原に鳴あし田鶴は我如く妹にこふれや時わかずなく 今案に、伊香保の方言に、温泉の流るヽ河を湯河原といへり、

〔散木弁謌集〕

〈六悲歎〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1095 帥大納言〈◯經信〉つくしにてかくれ給にければ、夢などの心地して、〈◯中略〉わざのことはてヽかへりけるに、すいたのゆ(○○○○○)の、むかひに有ければ、たちよりてあみんとはなけれども、あしなどすヽぎけるついでによめる、 悲しさの涙もともにわきかへるゆヽしき事をあみてこそくれ

豐後國/赤湯温泉

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1095 赤湯泉 あかゆ 臥遊漫抄、治城西南三四里程、鐵輪邨側有温泉、呼爲赤湯、闊十許丈、純赤如朱、下足便爛、能熟生物、時

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1096赤魚游泳、風土記曰、其泥土赤、用塗屋牆是也、湯勢回旋、勃々上升、殆如旭彩晩霞、虹霓斜度、南里許有小地、闊二丈餘、深丈許、横有小洞、温水出焉、盈涸自有定候、將盈則霹靂鳴動、熱湯奮發、炎氣特甚、土人呼曰鬼山地獄、且號地獄者、皆温湯也、比落野次有三數處、沸湯沛出、氣若白雲、熱水奇發、地若火、村人相集、熟米飯之、或熟菜蔬、以易火食、南二里程、有別府湯、寒温自協、能療万疾、特不仁瘡癬、斷根而癒、可靈泉矣、余看水經注、有稍類之者、闞駟日縣有湯水、炎勢上升、常若微雷發一レ響、湯側又有寒泉焉、地勢不殊、而炎凉異致、側有石、銘云、皇女湯可以療万疾者也、杜彦達云、熱如沸湯、可以熟米飯一レ之、即南都賦所謂、湯谷湧其後者也、又云、温水出竟陵新湯縣東澤中、口徑二丈五尺、垠岸重沙、端淨可愛、靜以察之、則淵泉如鏡、聞人聲、則揚湯奮發、無復見矣、是也、夫温泉處々多有之、且見于諸書者、比々籍籍、不枚擧、或曰、鐵輪赤湯、眞奇觀也、海寓雖弘、不復見也、余曰、一統志載、討來思在海中、周徑不百里、城近山、山下有温水赤色、望之如火然、嗚呼宇宙之廣、何事無對哉、

〔豐後國風土記〕

〈大分郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1096 赤湯泉、〈在郡西北〉此湯泉之穴、在郡西北竈門山、其周十五許丈、湯色赤而有泥土、用足屋柱、泥土流出外、變爲清水、指東下流、因曰赤湯泉

〔古史 傳〕

〈十八神代〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1096 大分速見は、景行天皇紀十二年の處に、天皇幸筑紫、十月到碩田國、其温形廣大亦麗、因名碩田也、〈碩田、此云於保岐陀〉到速見邑、有女人、曰速津媛一處之長、其聞天皇車駕而、自奉之とあり、碩田を國と云ひ、速見を邑と云へるを思ふに、當昔は速見は碩田國内なりしと通ゆ、後には豐後國の郡となりて、彼國の風土記に、大分郡速見郡と出たり、〈和名抄も同じ、なほ此二郡の事は、景行天皇卷に委く云べし、〉さて湯は、風土記に、速見郡赤湯泉、〈在郡西北〉此湯泉之穴在郡西北竈門山、其周十五許丈、湯色赤而有埿、用足屋柱、埿流出外、變爲清水、指東下流、因曰赤湯泉とあり、是なるべし、〈此風土記の箋釋と云物に、湯今屬石垣莊野田邑、其闊十餘丈、純赤如朱、下足便爛、能熟生物、時見赤魚游泳、然此湯近歳大衰、無舊日之觀、竈門山屬門庄内竈門村、蓋及後世、割郷置莊、始山與湯異其所一レ屬耳、湯今曰古市川、東流入海といへり、〉また玖倍理湯井、〈在郡西、〉此湯井在郡西河直山東岸、口徑丈餘湯色黒、埿常不流、人竊到井邊聲大

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1097 言、驚鳴沸騰一丈餘許、其氣熾熱不向昵、縁邊草木、悉皆枯萎、因曰慍湯井、俗語曰玖倍理湯井と云へる井もあり、〈箋釋に、此湯井、古屬石垣莊鐵輪村、其山多生硫黄、土脈甚熱、處々有温湯、所謂湯井小池也闊二丈餘、深丈餘、旁有小洞、温泉出焉、盈枯自有定候、將盈則霹靂鳴動、熱湯奮發、炎氣特甚、土俗呼曰鬼山地獄、河直山鐵輪山也、久倍理者燒之俗言、猶火爾久倍留也と云へり、〉また大分郡に、酒水、〈在郡西〉此水之源、出郡西柏野之盤中、指南下流、其色如酒、味少酸焉、用療痂癬〈謂盻太氣〉と云る水もあり、〈箋釋に、酒水、今呼曰柏野川、屬賀來郷、南行入堂尻川、療痂癬者、案郡西與速見郡壤、故受鶴見硫礬氣脈、伏行地中于此、故然已と云へり、博物志に、凡水源有石琉黄、其泉則温とも見ゆ、〉しかれば、此地より出る湯を、伊豫國まで下樋を通して流し給へるを、持渡來坐りとは語傳たるならむ、〈下樋とは、地中を通し給ふを云なれば、謂ゆる地脈の事を云なるべし、〉

玖倍理温泉

〔豐後國風土記〕

〈大分郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1097 玖倍理湯井、〈在郡西〉此湯井在郡西河直山東岸、口徑丈餘、湯色黒泥土、常不流、人竊到井邊、發聲大言、驚鳴湧騰二丈餘許、其氣熾熱不昵、範邊艸木悉皆枯萎、因曰慍湯井、俗語曰玖倍理湯井(○○○○○)

〔塵袋〕

〈二地儀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1097 一夏ノ氷ハ宣旨ナケレバ、コホラズト云フ事如何、〈◯中略〉 豐後國速見郡温泉アマタアリ、其ノ中ニ一所ニ四ノ湯アリ、一ヲバ珠灘ノ湯ト云フ、一ヲバ等洔(トチノ)湯ト云フ、一ヲバ寶膩(ホチノ)ノ湯ト云フ、一ヲバ大湯(オホユ)ト云フ、

由布山温泉

〔和漢三才圖會〕

〈八十豐後〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1097 湯嶽 在府中西、有温泉、〈俗云由布山〉而毎流出皆湯也、

肥前國/柄崎温泉

〔筑紫紀行〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1097 廿九日、筑前の久喜宮を出てより、此所迄平道にて、甚行よかりしに、是よりは又山の手にかヽり初ぬ、二十丁計行ば、川原村人家二十軒ばかりあり、十丁餘行ば、柄崎宿、〈北方より是迄一里十三丁〉人家四百軒計、佐賀の家臣衆の領地なり、此所に濕瘡疥瘡などによしといふ温泉あり、遠近の人湯治に來り集る、さるによりて宿屋茶屋も多し、

嬉野温泉

〔筑紫紀行〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1097 廿九日、是より山坂を十餘丁登れば三坂峠、峠より二十丁許り下れば、鹽田越と柄崎道との追分あり、次に下宿人三丁許に立ちつヾきたる、皆農家にて茶屋もなし、十丁許行ば嬉野

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1098 宿、〈柄崎より是迄三里十三丁〉佐賀の御領なり、人家百餘軒、宿屋多く、茶屋もあり、申刻頃大田平七といふにつきて宿る、此所に温泉あり、町屋の南裏の川端なり、川の中よりも湯涌出、湯艚すべて七あり、十文湯二、五文湯三、留湯二なり、湯艚ごとに、湯口水口左右に分れあるを、浴する人の好みに隨ひて加減をし、或は熱を好めるは湯口に近く居、ぬるきを好めるは水口に近く居て浴するなり、効能は腰痛を癒すを第一として、其外も万づによしといへり、

〔肥前風土記〕

〈藤津郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1098 鹽田川〈在郡北〉 此川之源、出郡西南託羅之峯、東流入海、潮滿之時、逆流沂、細流勢大高、因曰潮高滿川、今訛謂鹽田川、川源有淵深二許丈、石壁嶮峻、周匝如垣、年魚多在、東邊有湯泉、能愈人病、 ◯按ズルニ、此ハ今ノ嬉野温泉ナルベシ、

〔日本風俗備考〕

〈二十附録〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1098 江都旅程記の一 嬉野にて午飯を喫ふ、温泉を觀るに、婦女集りて頻りに物を望みし故、細貨を分ち與へたり、夜に入「タケウヲ」に泊れり、此地亦た温泉ありて、美麗なる國主の浴室を觀たり、

温泉嶽温泉

〔和漢三才圖會〕

〈八十肥前〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1098 温泉嶽 在高木郡〈五十町上有普賢嶽〉 往昔有大伽藍、號日本山大乘院滿明密寺、文武帝大寶元年、行基建立三千八百坊、塔有十九基云々、天正年中、耶蘇宗門盛行、僧俗陷邪法者多、當寺僧侶亦然、故破却不正法者、生身(イキナカラ)陷當山地獄池中、礎石或石佛耳、今唯僅有一箇寺及大佛而已、方一里許中、稱地獄穴數十箇處、兩處相並、高五六尺、黒泥煙湧起、名之兄弟地獄、黄白帶青色、沫滓似麴者、名之麴造屋地獄、青緑色似藍汁者、名之藍染(アヲヤ)家地獄、濁白色稍冷似水泔者、名之酒造家地獄之類、名目亦可笑、出猛火等活大焦熱者、亦有矣、其流水稍熱、如湯之小川中、毎小魚多游行、亦奇也、凡一山地、皆熱濕透鞋、跣者難行也、麓温泉多、有浴湯人絶、

〔西遊雜記〕

〈十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1099 雲仙ケ嶽〈俗に温泉がだけといふ◯中略〉谷々の流にも湯氣立上りて、いかにもあやしき山也、麓に温泉あり、湯本といふ、功もありとて入湯の人もある所也、此温泉ばかりにあらず、谷々に温泉有と、土人の物語り也、

〔肥前風土記〕

〈高來郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1099 峯湯(ミネノユ)泉〈在郡南〉此湯泉之源、出郡南高來峯西南之峯、流於東、流之勢甚多、熱異餘湯、但和冷水、乃得沐浴、其味酸、有流黄白土及松、其葉細、有子、大如小豆、令喫、 ◯按ズルニ、此ハ今ノ温泉嶽温泉ノコトナルベシ、

肥後國/日奈久温泉

〔西遊雜記〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1099 田の浦は漁家計、惡敷町也、此地より日奈久(ヒナク)へ三里、此あいだに赤松太郞と稱す佐敷太郞に劣らぬ嶮しき坂有、日奈久は大槩の町にて、熊本侯の御茶屋もあり、温泉も有、入湯の者も折々は來る事にて、功有温泉といふ、

湯ノ浦温泉

〔西遊雜記〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1099 水股より湯の浦へ三里、此間に綱木太郞と稱せる坂有、上下二里、嶮しき事いふ計なし、肥後の片言にて、坂の名を太郞と云て坂とはいはず、此邊は肥後にても風土の能所にて、民家のもやう薩州より勝れたり、湯の浦少しき在町にて、温泉あり、旅人入湯せるに誰とがむる者もなく、明はなしの温泉なり、湯はあしからず、功ある温泉の由、然れども邊鄙の地故に、他方より入湯に來る人さらになし、よく〳〵聞ば、是より山分に入りて、爰にもかしこにも湯涌地數か所有といふ、

薩摩國/霧島温泉

〔薩摩風土記〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1099 九月十九日、きりしま御祭禮、〈西社東社〉ふもとに湯治場あり、湯の瀧三十二あり、

〔薩摩風土記〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1099 一湯治場 南東 伊佐 伊なく いぶすき ちうの水 水のはな すな湯 西北 あんらく いくき ひわく きり島(○○○)

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1100 ゑの湯 いあふ 櫻島 黒かみ ふる里

蝦夷/湯澤温泉

〔東遊雜記〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1100 湯澤といふ所も少しき町也、此所には温泉ありて、入湯のものも數多見へし事也、予も入て見るに、硫黄湯にて見分がたし、土人の云く、北方の地には湯の出る地多しと云へり、蝦夷地内浦ケ嶽の麓は、取廻して湯の湧所と蝦夷人もの語せし事と云々、虚實詳ならずと云へども、土人の云しを記せしものなり、

浴湯初見

〔七湯栞〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1100 温泉濫觴 凡温泉に浸りて病を治る事は、ちはやぶる神代のむかし、天孫いまだ降臨したまはざる時、大己貴尊、宿奈彦奈命と同じく、わが豐葦原中津國を領せさせおはしまして、此民の夭折をあはれみ、醫藥、禁厭、温泉の法をたて、其疾苦をすくひ玉ふ、時に大己貴尊御心地例ならざる事のありしに、宿奈彦奈命、則温泉に浴せしめたまひければ、尊の御病腦即時に平愈あり、是より二神海内を巡行し給ひ、土地のよろしき所々に温泉をもふけたまひし事、舊記に彰然たり、其後舒明、孝徳の二帝も、温泉に浴したまひて御腦を療したまひ、其外代々の人々、入湯して病をのぞきしためし、擧てかぞへがたし、とほき唐土をとふに、秦の始皇帝瘡腫のうれひありて、驪山の温泉に浴せられしかば、その疾頓に愈たるよし、三秦記に見へたり、 ◯按ズルニ、大己貴宿奈彦奈二神浴湯ノ事ハ、伊豫國道後温泉條ニ引ク釋日本紀ニ見エタリ、

温泉行幸

〔釋日本紀〕

〈十四皇極〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1100 伊豫國風土記曰、〈◯中略〉天皇等於湯幸行降坐五度也、以大帶日子天皇〈◯景行〉與太后八坂入姫命二軀一度也、以帶中日子天皇〈◯仲哀〉與太后息長帶姫命二軀一度也、以上宮聖徳皇一度、及侍高麗惠總僧、葛城臣等也、于時立湯岡側碑文記云、法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王、與

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1101 惠總法師及葛城臣遙夷與村、正觀神井、歎世妙驗、欲意、聊作碑文一首、惟夫日月照於上、而不私、神井出於下、無給、萬機所以機〈◯機恐衍〉妙應、百姓所以潛扇、若乃照給無偏私、何異于壽一レ國、隨革臺而開合、沐神井而瘳疹、詎升于落花池而化溺、窺望山岳之巗崿、反冀子平之獨往椿樹相廕、而穹窿實相、五百之張蓋、臨朝啼鳥而戯吐下、何曉音之聒耳、丹花卷葉映照玉菓彌葩以垂井、經過其下優遊、豈悟洪灌霄庭意與才拙實慚七歩、後定君子、幸無蚩咲也、以岡本天皇〈◯舒明〉并皇后二軀一度、以後岡本天皇、〈◯齊明〉近江大津宮御宇天皇〈◯天智〉淨御原宮御宇天皇〈◯天武〉三軀一度、此謂幸行五度也、〈◯又見萬葉集抄三

〔古史傳〕

〈十八神代〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1101大帶日子天皇與太后八坂入姫命、二軀一度也、〈景行天皇紀に、此幸行のこと記し漏されたり、〉以帶中日子天皇與太后息長帶姫命、二軀一度也、〈仲哀天皇紀に此事見えず、二年と云年の三月、南國を巡狩し給へる事あり、其時などの事にや、然れど皇后を留めてと有れば別時にや、〉

〔日本書紀〕

〈二十三舒明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1101 三年九月乙亥、幸于攝津國、有間温湯(○○○○)、 十二月戊戌、天皇至温湯、 十年十月、幸有間温湯宮、 十一年十二月壬午、幸于伊豫温湯宮(○○○○○)、 十二年四月壬午、天皇至伊豫、便居廐坂宮

〔萬葉集〕

〈一雜歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1101 額田王歌 熱田津爾(ニギタヅニ)、船乘世武登(フナノリセムト)、月待者(ツキマテバ)、潮毛可奈比沼(シホモカナヒヌ)、今者許藝乞菜(イマハコギコナ)、 右撿山上憶良大夫類聚歌林曰、飛鳥岡本宮御宇天皇、元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇太后幸于伊豫湯宮、後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西征、始就于海路、庚戌、御船泊于伊豫熱田津石湯行宮、天皇御覽昔日猶存之物、當時忽起感愛之情、所以因制歌詠之哀傷也、即此歌者、天皇御制焉、但額田王歌者、別有四首

〔日本書紀〕

〈二十五孝徳〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1101 大化三年十月甲子、天皇幸有間温湯(○○○○)、左右大臣群卿大夫從焉、 十二月晦、天皇還温湯而、停武庫行宮、〈武庫地名也〉

〔日本書紀〕

〈二十六齊明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1102 三年九月、有間皇子性黠、陽狂云々、往牟婁温湯(○○○○)、僞病、來讃國體勢曰、纔觀彼地、病自蠲消云々、天皇聞悦、思欲往觀、 四年十月甲子、幸紀温湯、 十一月戊子、捉有間皇子、與守君大石、坂部連藥、鹽屋連鯯魚、送紀鯯湯、舍人新田部末麻呂從焉、 五年正月辛巳、天皇至紀温湯

〔萬葉集〕

〈一雜歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1102 額田王歌 未詳 金野乃(アキノノノ)、美草苅葺(ミクサカリフキ)、屋杼禮里之(ヤドレリシ)、兎道乃宮子能(ウヂノミヤコノ)、借五百https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f00006520b1.gif 所念(カリイホシオモホユ)、 右撿山上憶良大夫類聚歌林曰、一書曰、戊申年幸比良宮大御歌、但紀曰、五年春正月己卯朔辛巳、天皇至紀温湯、 幸于紀温泉之時額田王作歌 莫囂圓隣之(ユフツキノ)、大相七(アフキ)兄爪謁氣(テトヒシ)、吾瀬子之(ワカセコガ)、射立爲兼(イタヽセルガネ)、五可新何本(イツカアハナム)、

〔萬葉集〕

〈一雜歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1102 中皇命往于紀温泉之時御歌 君之齒母(キミガヨモ)、吾代毛所知哉(ワガヨモシレヤ)、磐代乃(イハシロノ)、岡之草根乎(ヲカノクサネヲ)、去來結手名(イザムスビテナ)、

〔日本書紀〕

〈二十九天武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1102 十四年十月壬午、遣輕部朝臣足瀬、高田首新家、荒田尾連麻呂於信濃、令行宮、蓋擬束間温湯(○○○○)歟、

〔續日本紀〕

〈二文武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1102 大寳元年九月丁亥、天皇幸紀伊國、 十月丁未、車駕至武漏温泉(○○○○)、 戊午、車駕自紀伊至、

〔千載和歌集〕

〈二十神祇〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1102 有馬の湯(○○○○)に、忍びて御幸ありける御供に侍りけるに、湯の明神をば、三輪の明神 となむ申し侍ると聞きて、物にかき付け侍りける、 按察使資賢 珍しく御幸を三輪の神ならば驗あり馬のいでゆなるべし

〔百練抄〕

〈十四四條〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1102 仁治元年五月十八日辛巳、安嘉式乾兩女院御幸有馬温泉云々、

〔百練抄〕

〈十七後深草〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1102 正元元年十月五日乙亥、自今日主上御湯治、被有馬温泉湯

〔帝王編年記〕

〈二十六龜山〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103 文永四年九月十三日、一院新院、御幸吹田、新院於吹田、可有馬湯云々、

〔鹽尻〕

〈二十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103 一攝州有馬山温泉、我國他に異なる名湯也、〈◯中略〉當山の鎭守は、麻古三輪の二社也、仁西熊野の祠を建そへけるとぞ、夫三輪は大汝の命にて、我醫業の祖也ける、湯の山の神なる事は神記に見へ侍る、〈◯中略〉後奈良院も御幸まし〳〵けるとかや、〈◯下略〉

請假赴温泉

〔朝野群載〕

〈二十大宰府〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103温泉人官府 太政官符 太宰府 應還其姓某丸向其國温泉事 右得某人解偁云々者、其宣、奉勅依請者、府宜承知依宣施行、符到奉行、 辨 史 年月日 一説云、宣奉勅、宜往還、府宜承知依宣行之、路次國且宜此、符到奉行、

〔東大寺正倉院文書〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103 駿河國天平九年正税帳 依病下下野國那須湯從四位下小野朝臣、〈上一口從十二口〉六郡別一日食爲單漆拾捌日、〈上六口從十二口〉

〔扶桑略記〕

〈二十五村上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103 天暦七年三月廿日己亥、權少僧都明珍、申給官符伊豫國温泉病、

〔集古文書〕

〈四十九過書〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103 天文六年過書〈所藏不詳〉 湯治人數十七人、荷物壹荷在之事、上下無其煩、可勘過状如件、 〈天文六〉八月二十七日 長隆 城州攝州 諸役所中

〔憲教類典〕

〈二ノ九御番〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103 寛文八戊申年二月廿日

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1104 御番衆〈江〉申渡覺〈◯中略〉 一休之内、湯治御暇之儀被申候ば、日數常之ごとく、但斷之様子により、五廻も六廻も、又は再篇も遣可申事、 申二月廿日

〔嚴有院殿御實紀〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1104 明暦元年正月廿八日、紀伊宰相光貞卿、豆州熱海浴湯のいとまたまふ、

〔但州浴泉記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1104 寛政庚申の春のころ、予聊なやむ事ありて、但馬の國城崎郡なる温泉に浴せんと志し、其あらましを書付て、閣老織田氏の廳に出て願ければ、早速東都へ上聞ありて御ゆるしを蒙り、四月六日の夜戌の刻計に、平野隨意、鹽原我忍の二子を伴ひ、納屋橋のむかひにて龜屋喜兵衞なる者の所に行、〈◯下略〉

〔有徳院殿御實紀附録〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1104 養仙院のかたの執事、宿谷源左衞門尹行、もと鳥見よりのぼり、口さかしき者にて、時めく人々に媚へつらひ、その心にかなひしかば、世のひともひそかに眉をひそめけり、これよりさき、病に托しいづこのか温泉に赴くとて、そが子縫殿富房を招き、我こたび湯治に赴くなり、たよりよくば京大坂をもみんと思ふといへども、この事もれ聞えなば、我身のみならず、汝までも越度たるべし、かなあしこ、人にないひそ、たヾ汝が心得にあらかじめ告しらするなりといふ、縫殿もとこうの詞もなかりけるが、それより源左衞門こヽかしこ思ふまヽに逍遙し、歸りてのちは少しもつヽまず、令を犯して珍らしき所々みもし、また一興なりなど、はヾかる所なく人にもかたりのヽしりしかば、聞ものおどろきてさヽやきあへり、その後も酒にふけり、宿直の夜も酔に乘じて局々の女房などにたはぶれ、あるは刃をあらはして追ちらしなどして興じしかば、みな人惡みうとみけり、

〔三省録〕

〈後編三住居〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1104 世上にて沙汰ありし富有の町人、紀伊國屋文左衞門と云ものありし、上野中堂御

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1105 普請、請負にて、數萬の金をまふけて、奢はなはだしきものゆえ、兼て目を附て居られし故、元祿十三年の夏、評定所へ出て願ひけるには、只今は御用の間に候まヽ、病氣養生して入湯仕度段申ける、伊豆守大きにいかりて、町人の分として、上を輕しむる奴かな、湯治の願などは、我等が組與力が家來どもまで頼みてねがふべきことなり、然るに今歴々公用の評定の席へ願ひ出ることは、大なる奢者なり、これこの事は、常々御用をもうけたまはる身分なれば、其次第を存ぜざるにはあるべからず、畢竟おのれが身分を高ぶるよりのことなりとて、牢舍申つけられたり、

湯性

〔笈埃隨筆〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1105 温泉 世に温泉の説多して、未だ理盡さず、俗には硫黄の氣伏して温泉をなすといふは總論なり、夫地下に温泉あるが故に、薫蒸して硫黄ありとはいふべし、地下に水脈あり、火脈あり、其二脈一所に會し、或は近く融通するあれば、必水泉温沸す、されば水脈といふものに引れて、地上に出る潮あり、我邦にも奧の鹽井、甲州の鹽の山など是なり、又火脈の勃興せる富士〈駿州〉淺間〈信州〉阿蘇〈肥後〉温泉山、〈肥前〉宇曾禮山、〈南部〉霧島山〈日向〉等也、平地は室の八島、〈下野〉越後地火、〈蒲原郡〉或は海中にも硫黄が島、〈薩州〉八丈島〈伊豆〉あり、必火脈あれば温泉となる、櫻島、〈薩摩〉又松前の邊なる島にもあり、故に海中といへ共眞水あり、是陰中の陽、陽中の陰也、皆同類といふべし、されば六十餘州の内、温泉なき國は少し、就中伊豆は小國にて駿相にはさまり、海へ差出たる地なるに、温泉有事二十餘ケ所、殊更加茂郡葛見庄熱海は、温泉有の地名なり、天平勝寶の年間に出沸すといふ、此に諸國の温泉と大に異なる子細は、毎日晝夜卯巳未酉亥丑の時に涌て、其餘の子寅辰午申戌の刻には、只烟のみ立也此偶數の刻に涌て(○○○○○○○)、奇數の刻には涌ず(○○○○○○○○)といふ事、至て不審也、中華にも似たる事有といへ共、又其理をいはず、須行記に曰、碧玉泉、有曹溪、有泉甚清、一日三潮、以辰午酉三時水必漲滿、三時餘半涸と云々、熱海は潮の大熱湯也、其涌出の所には四方に石垣をなし、常に人の入事を禁ず、其涌時、眞中にたヽみ上た

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1106 る盤石の底より鳴動し、猛烟天を掠め、熱湯迸り出、其凄き事いふ計りなし、是を四方へ筧を以て取て、湯舟は堪え置なり、浴家二十七軒、三軒の本陣有、又一月中一度長沸する事有て、終日涌出す、然る時は、翌日は終日涌出ざる也、又濱邊に瀧湯とて、夥しく山より流れ落、下に大なる湯舟三に堪ふ、神社あり、走湯權現と申、〈◯中略〉都て温泉の地、潮なるはなけれど、硫黄成は鐵器早く錆腐る故に、寺院の鐘先腐壞す、其甚敷は、上州草津也、浴湯の人至れば、先刀劒を宿に預り、箱に入、能々緘して、還るの日出し與ふ、然らざれば、逗留中に錆て用立ざる程也、予九州の歸路、豐後國府内に至る時、九月五日也、此日此所の市〈濱の市といへり〉滿會の日にて、近郷の人夥しく群集す、〈◯中略〉翌日小船をかりて別府へ行けり、笠縫島は磯近くて、棚なし小舟漕行は、古歌の姿を得たり、弓手は四極山海岸に立覆ふ、浦々の風景又珍らし、程なく磯に著て、小き坂路を上り下り、とある濱に人の首七ツ八ツ並び見えたり、コハ怪しき事也と嶝を回り〳〵て、漸く近く見るに、いよ〳〵首也、僧の首も有り、女の首もありて、物いひ笑ふさまなり、餘りにいぶかしければ、道を走り〳〵、頓て其洲崎に至り見れば、各濱の砂を堀穿て支體を埋みたる也、此所に温泉あれども、潮と交りて地上に出ず、故に身を埋めて浸すに、其温暖甚快し、され共潮さしぬれば海と成故、引汐を考て斯くの如くす、至て加減よき程なり、頓て出る時は、側に池の如き湯あり、是にて砂土を洗ひ落し、衣服を著して宿へ歸るなり、別府町にも、家毎舟に湯を湛え置り、誠に興覺る業ながら珍らしく可笑、數十年の旅行の中には、見馴れぬさま〴〵の事多かりき、

〔羅山詩集〕

〈三紀行〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1106 有馬山温湯 我國諸州、多有湯泉、其最著者、攝津之有間、下野之草津、飛騨之湯島、是三處也、有馬湯舊得冷煖之中、而浴者有効、一旦會地震山崩、而后酷熱、觸手如湯、殆似鷄卵而黄白凝結也、故近歳引澗水于筧以注之、始獲浴焉、然其効亦可覩也、按大明曹蕃遊草所載、云遵化之湯泉、臨清之温泉甚詳矣、且援

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1107 褒温湯銘曰、白礬上徹、丹砂下澄、華清駐老、飛流瑩心、今余掬臨清之水之、硫黄氣觸鼻不聞、則果白礬硫黄丹砂爲之根、乃蒸爲煖流耶、吁湯泉夫云何哉、東坡曰、自憐耳目隘、未陰陽故、苕溪曰、湯泉之理不致詰、或云、炎州地性酷烈、山谷多温泉、然炎州餘水未必熱、或云、出硫黄地中即熱、然以硫黄水中、水未温、是地性之説、硫黄之論、共似之、佛迹院中二泉、相去尋常、而東泉甚熱以西泉之、然後調適可浴、然臨潼之湯泉、乃在西方、是亦初不東西南北也、想夫湯泉在天地之間、自爲一類、受性本然、不必有待然後温也、凡物各求其類、而水性尤耿介、得其類則雖千萬里而伏流相通、非其類則横絶徑過、十字旁午而不相入、故二泉之間歩武、而炎凉特異如此、吹氣爲寒、呵氣爲温、而同出於一口、又何疑之有哉、苕溪之説非詳也、而莊周氏猶不云乎、水中有火、乃焚大塊、陰中陽、陽中陰、陰陽之精互藏其宅、陰陽本自一氣、水火亦果不二焉、得陰陽窮理之人而倶言上レ之哉、故其以東坡之博辯、尚云陰陽故、蓋是致恠于湯泉耶、記稱驪山是礬石泉、黄山是朱砂泉、其餘皆多作硫黄氣、王褒等諸人之所言不誣也耶、唯朱砂泉得之、或以得茗、礬石硫黄泉、鼻猶掩之、況不飮乎、今余浴于有間泉、有石硫黄之氣、含之久則染齒牙、若飮則多泄瀉云爾、由是觀之、温泉之出山石、可其理乎、

〔温泉論〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1107 有馬温泉 伏惟、有馬温泉之爲鹽湯、振古以來、天下所共識也、故續日本紀、及風土記等、稱此處鹽原山、意當土處々湧出鹹泉、故名爾、予曩遊浴於此、反覆玩味、肇識是不翅鹽水、別自有朴消硝石之精華而並出焉、蓋其爲味、嚴鹹酸苦、直入于腹雷鳴泄利、是豈獨潮性之力、而磺黄之所純也乎哉、即爲朴消硝石之屬明矣、

〔熱海温泉圖彙〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1107 湯味 鹹氣ありて苦し、此しほけは潮の鹹氣とおなじからず、いかんとなれば、里人此湯に糸をひたして木綿を織るに、その木綿甚だつよし、此湯色絹にふれても暈のつく事なしと聞しゆゑ、京山逗

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1108 留のうち、茶の湯に用うる紫のふくさを、此湯にひたしてこヽろみしに、いさヽかも色のかはる事なきゆゑ、里言の虚ならざるを信ず、湯は玲瓏たる事水晶のごとく、大便つうぜざる人一碗を喫すれば、こヽろよく通ずといふ、 湯潮〈ゆのわき〉 湯の潮(わく)こと、晝夜に三度、長の時に奏潮〈六ツ、四ツ、八ツ時、〉年中時を違ふ事なし、四十日又は五十日目に終日沸潮、是を長沸といふ、次の日はかならづ湧事なし、是を休と云、その次の日湧事時をさだめず、一二日をへてわく事前の如く、湯の沸形勢は、鼎に水を煮るがごとく、はじめは蟹の眼のごとくに湧いで、次第にわきたち、沸湯にいたりては、石龍熱湯を吐がごとく、二間餘もへだてたる大石へ熱湯吐かけるありさま、響は雷のごとく、湯氣は雲のごとく、天に上昇、見るに身の毛もよだつばかり也、此湯を四方の客舍に引き、湯船にたくはへ、冷して浴せしむ、ゆゑに里言に大湯と唱ふ、その圖を下にあらはす、〈◯圖略〉諸國に温泉多といへども、かヽるためしをきかず、天工の機關奇妙不思義の靈湯なり、唐土雞籠山の潮泉に類すれども、それよりは奇とすべし、

〔漫游文草〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1108 草津湯泉游記 余游草津、携香太沖所著藥選一本、來以取則於此、得益固多、雖然在門墻則麾、豈無其辨乎、蓋古人之於湯泉游也、余嘗讀水經酈注、不温泉治一レ疾、亦不此際温泉也、上世我民淳撲、山野固乏湯液之治、於是百病一浴、載疾山谷、余嘗入蝦夷之地、而想上世光景耳、蓋毛之野、可浴者數十所、夏月游浴草津日數百人、何盛、亦惟僻亦惟笨、其謂之古遣耶、若輦下兩都、與通邑大城、豈舍湯液、面求治山谷哉、其浴治者、托之以游耳、近時平安一醫、有後藤生、巧思施治、遽發一識於直情、首唱浴治奇驗、其名高于一時、太沖受業其門、張皇一家之説、著書建言、其説謂、但馬城崎温泉、爲海内第一、其地去都下甚遠、且巴人多和、碌々就人從此、城崎常爲疾之藪、假使其説之是、東奧北埵之多温泉、渠豈咸履而試乎、夏虫

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1109 之斷、適見其妄耳、又其説曰、地中有水脈、有火脈、其相交處、乃成温泉焉、古人所謂硫黄之説、地性之説、皆非也、亦惟夏虫哉、所謂水火脈欲人是小天地耶、醫人哉、蒙恬所斷者水道耶、此土之多湯泉、火脈獨夥於彼耶、海中火、亦火脈耶、堀地者未嘗當火脈、山崩地裂、未嘗見脈之所一レ通、渠斷諸其臆而不疑、何其無忌憚、唯越之妙法寺村發火、似是可一レ火脈矣、然已是一奇異、一奇異何遽律之天下乎、且村中火發地上、旣非火井、與夫淺深之説、亦皆不通也、至硫黄水中而水不上レ温、其説之窮可以見矣、博物志所謂、水泉有石硫黄、其泉則温、今徴之事物而可信矣、又有礜礬爲根者、陳仁錫所謂、温泉所在、白礬、丹砂、硫黄三物爲之根、乃蒸爲煖流、亦爲失耳、但太沖辨浴法、其稗益於浴者、不多、太沖亦一時之良也、惜哉一定權衡、唯拘見、言之無文、鳥能行哉、湯泉治病、固此際舊俗、其有於山野之民廣矣、大人君子非恃也、然有時乎有恃、余亦非徒游也、

浴法

〔臥雲日件録〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1109 寳徳四年四月七日、早赴攝州湯山、有温泉記詩句等、文長略之、 十一日、凡入湯者、諺曰、入湯不入湯、蓋戒多浴也、予續以七事、遂演作八首、毎首四句毎句五字、名之曰湯店舍八詠、然止於八何也、曰沈休文東呉八詠、及杜少陵秋興八首、蘇子瞻鳳城八觀、皆足以爲一レ據、今不必取焉、山中不其價者三物、薪一擔、酒一升、木履一https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001acf0.gif 、皆不八錢、俗以表藥師八日云、予八詠亦擬焉耳、有詩一々不抄、 十二日、午後就隣室茶、壁上掛一書册、題曰湯治養生、表目文字假名、纔三四紙、披而視之、先述鹽湯水湯優劣、曰水湯弱、鹽湯強、強故醫疾太速、又強故多浴則爲害、又曰、諸州多湯、皆水湯、除此山外惟但馬州木崎湯、獨鹽也、凡浴場、初少中多後少、是爲良法、蓋限三七日、第一七少、第二七多、第三七少、乃至限一七、々々可例知爾、

〔有馬山温泉記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1109 入湯の法 凡此湯に入に、彼地の法義あり、湯文(○○)といふ物にしるせり、湯に入には食後よし、うゑて空腹に入事をいむ、一時にひさしく入をいむ、又しげく入事をいむ、つよき病人は一日一夜に三度、よはき病人は一二度をよしとす、三度は入べからず、つよき人も、湯の内にひ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1110 たりて身をあたヽめ過すべからず、はたにこしかけて、先足をひたし、次にひしやくにて湯をくみて、頭よりかたにかけてよし、湯の内に入ひたるべからず、久しくゆをあぶれば、身あたヽまりすぎ、表氣ひうけ汗いで、元氣もれて大にどくとなる、かろく入べし、汗出る事甚あしく、凡湯人の間、尤身をつヽしむべし、ゆあがりに風にあたるべからず、入湯の間、上戸も酒多くのむべからず、氣めぐり、食すヽむとも大食すべからず、酒にゑひて入べからず、湯よりあがりて則酒をのむべからず、味からき物多く食ふべからず、熱性のもの、寒冷の物食ふべからず、性かろきうを鳥少づつ食ふべし、色慾をおかす事はなはだいむ、湯よりあがりて後も二七日いむべし時々歩行して氣をめぐらし、食を消すべし、ひるねすべからず、入湯の日數おはりても、風雨はげしくば歸べからず、天氣しづかになりてかへるべし、湯治の内灸をいむ、あがりて後も數日の間灸すべからず、

〔有馬山温泉記追加〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1110 入湯の法 凡此湯に入人、湯入の間身をつヽしむ事、甚をこたりある故に、病を生じて、却て名湯をそしるの類多し、湯あがりは、温湯の氣、身に徹して寒をおぼへず、故に浴衣ひとへを著て久しく座也、風にやぶらるヽ事をしらず、又入湯は酒食をめぐらする故に、過すに害なしと云て、飮食はなはだ度をこへ酒と和、謳、淫聲のたはれたるにひかれて進み安きゆへに、しば〳〵亂に及ぶ、中にも色慾はわきて湯治にいむなれば、往昔より此地にかたくいましめて、遊女妓童のしばらくもとヾまる事をゆるさず、まして湯女は酒宴の席にのぞむといへども、客に通る事はかたきいましめなれば、おもふにかひなしと知ながら、おろかなる壯男は、見るにきくに心を動して、病を添る種と成ぬ、すべて此地に來るの人、温泉を疎におもふが故に、一日の内わづかにふたヽび廻る幕のあないありても、飮食を心よくせんと欲してうけがはず、あるひは盤上連歌の席の盈ざるを惜み、鞠楊弓の場のなかばなるをいとふが故に、期をはづして養生の節を失ふ、淺ましき事なり、凡湯治に來る人は、四民共におしむべき時日をついやすのみかは、仕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1111 官たる身は、暇なき君邊の勤をかきて此地に來りながら、養生をおろそかにすべからず、唯温泉を君のごとく神のごとく敬ひつヽしみ、是に仕へては温泉の心に叶ひて、病を除くの術を思ふべし、湯入の間、心體を不潔にして、温泉の心に背べからず、 入湯のうち、專風を恐るべし、晝寐すべからず、然ども是をつヽしまんと思ひて、枕はとらざれども、浴後は氣めぐり體ゆるむゆへに、薄衣にして座しながら眠りを催し、却て風に感じ安し、若大につかれて眠に堪がたき時は、晝といへども屏風引廻し、衾かづきて臥べし、久しく臥べからず、かたはらに居る奴婢にはかり、期を定てよびさまさすべし、

〔温泉論〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1111 浴法 湯有一二之目、原是同一脈矣、天正中豐相國大修飾之、泉底甃石、圍之以板、以湯槽、深三尺八寸、縱二丈一尺、横一丈二尺五寸、中分之南北二局、南曰一之湯、北曰二之湯、才氣無二致矣、上設屋宇、四環板床、以便浴者、今所存湯槽、實爲當時遺製、凡浴者、當先以杓酌湯浣煖板面、而後就之、隨取泉波徐徐灌下兩肩及腹背、名曰枕湯(○○)、又湯浸布巾面、及隱曲處平心和氣、眞如穉兒爲水戯、其膚與泉氣相得然後始入槽内、霎時許、必得周身煖透、重出槽外、悠然吹氣解煩、快濶心胸、復浴如初、於是用浴器者、必依其法、若有痛痹攣拘處、必楯拊按排之、唯意所適、毎浴再回爲律、嫌浴者日二次、嗜者日四次、若乃山澗之幽、棲觀之美、寛歩遠眺、絃歌笑語、唯逍遙舒散是事、是浴泉之要法也、 浴度 凡浴一日三次爲律、羸者減之、強人加之、猶各不一二次、過則有害、通俗三臘爲一順、其備預防者、悠優及之、旣病者猶恐及、若夫痼疾沈痾不比例、自二三順四五順差爲徹、蓋浴度限以三臘者、初臘徐之、中臘強之、晩臘速之、是爲良法、按三百年前、文安承徳中、浴度皆然、輓近人情躁進、槩以二臘限、土人亦雷同焉、乖其古律、太似謂也、諸州黴瘡温泉、猶俗及五七臘、況此内治之温湯乎、其功烈

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1112 之不於舊者、固非温泉之罪也、有司之不勗也、且嘗觀之、其犯律偷浴者、謂之逸湯(○○)、日自七八次十餘次、旣經六七日乃充一順之數、曰得其所哉、是不徒勦其形骸、又將戕賊斯血精也、何其殆乎、譬猶鹽之與一レ酒乎、鹽是百飪之帥、而和過則其味也敗、酒是百藥之長、而飮多則其性也亡故不其度、貪飮累酌、一朝欲旬浹之美、則卒然語顚、如鬼如狂、蕩擾困酗、無至、是皆驚動血氣、煩亂心腸之所致也、泉之於過浴也亦然、彼且謂、當土温泉火氣寛柔、不貪不徹、旣浴三日、泉氣漸加倍於他日、於是乎皮膚骨髓、翕然蒸透、不暈者、比々有之、殊不泉味嚴峻、深以刺肌入一レ骨、如之何其可狎犯也、而況添之以一層火熱、如但馬城崎新湯、熊野本宮温泉、誰敢當之、設使斯泉如彼所企望焉、則自有生民以來、其煎殺之、豈唯億萬之麗也乎哉、咄嗟艸野鄙夫、不物理、其致瞽談昧行、往々如此、可嘆乎、 浴禁 凡浴温泉、有禁二十有五焉、今約爲五道、一曰、將浴禁大勞、大飽、大飢、大酔、大汗、二曰、既浴禁高歌、長語、暴泳、過浴、妄飮泉液、三曰、浴已禁假寐、灸灼、入房、久著浴衣、喜食粘硬物、四曰、禁一切瘡疥初發、或病後元氣未復、或孕婦三四月七八月、及産後五十日内、或冒邪風、發宿疾之日、或憂憤過多之時、五曰、禁疾雷暴風、淫雨地震、日月蝕、凡犯此五大禁者、浴後未年歳、必發急病、卒死、水腫、勞瘵、墮胎、崩血、偏枯、大疫、癇瘈諸證、是予所比々目擊也、名之曰湯逆(○○)、是不啻有馬温泉、諸州温泉皆然、

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1112 伊豆國賀茂郡熱海温泉記 古しへ今の年毎に、國司諸侯の方々、其外貴賤のわいだめなく、遠近より集て浴湯する輩は、普く効驗なきはあらぬめり、別て此湯の應る疾の品、書記して後に附侍る、 湯効 腹痛 積痞 疝氣 痔疾 中風 痳病 頭痛 久瀉 骨節痛 齒痛 痰飮 脚氣 逆上潰溺 撲損 赤白帶下 陰中冷 麻木 腰冷伏氣腹痛

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1113 浴中禁 大酒 飽食 房事 假寢 思慮 冷風座 浴準 凡一日に三五度、弱人は二三度、強人は六七度、追日漸増て入湯すべし、先杓にて頭よりそヽぎかけ、暫くして湯の中に入、乳を限りひたし、氣を靜め、腰腹をあたヽめ、額に汗を催時、槽より揚り、四支を伸て浴衣を著、休臥する間暫時ばかりなるべし、浴中若微痢もあり、小便濁あり、腹痛もあり、痞動して痛も有、訝事なかれ、日數を入りて効を知べし、 寶暦十二壬午季夏 石渡親由改梓

〔熱海温泉圖彙〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1113 浴法〈ゆあみのしかた〉 温泉に浴して病を治するは、藥を服するに異ず、ゆゑに其度にかなはざれば功を奏しがたし、初てゆあみする人、第一日は朝夕二度あつきとぬるきとは心次第なれど、はじめはあまりあつきに入べからず、入んとする時、まづ顏をそヽぎ、からだをしめし、さて湯に入りて、いたむ所ある人はその所をもみなどして、總身あたヽまりたる時湯をいで、からだをさばし、再びざつと入りてあがるべし、是を一度の入湯とする也、第二日は食前三度、第三日は食前三度、臥す時一度、第四日同じ、第五日は夜晝六度、〈ひる四度、よは二度、〉第六日第七日同じ、右七日を一まはりといふ、一ト廻りにて病ひ動くもあり、湯の利たる也、次の一まはりにて病を療治し、又の一まはりにて病を補ひ、氣血をとヽのひ、支體を健にす、

〔七湯栞〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1113 入方用捨の次第 筥根七湯は、悉く効驗ことにして、疾病によりて其しるし各異なりといへども、大概は老少男女を論ぜず、養生を主とし、潤身補益の温湯なり、腎を補ひ、筋骨肌膚を固し、脾胃をとヽのへ、食をす

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1114 すめ、津液をまし、五臟をあたヽめ、万病に應變す、其外異病怪病といへども、悉くしるしあり、よく其湯宿(○○)にたづねて病に應ずべきに浴すべし、湯宿又古格あり、博覽の醫といへども、温泉の製は別なり、先浴せんとして湯槽にのぞまば、己が手拭もて、湯壺の端を洗ひ温め、其所へ腰をかけ、兩足を湯壺の中へ浸しながら湯を手に結び面を洗ひ、いかにも氣を平らかにして、夫より兩肩脊中腰の邊を、何遍もそヽぎかけ、自然と總身あたヽまるを待て入べし、尤肩の出ぬ程に入るなり、肩出る時は上氣す、男女ともにかヾむはあしく、手足をのばし、指の股までも湯氣の廻るやうに入るべし、上氣を引下るとて、足ばかりを湯にひたすものあり、決して無用なり、却て上氣してあしヽ、かくして總身自然とあたヽまり、透りたりとおもふ時、靜にあがるべし、もし久しく浴すれば、津液燥て害をなすべし、入湯は一日に三度より六七度迄はくるしからず、度々なれば、湯よりあがりていまだ血おさまらざるうちに又入るゆへ、逆上してあしヽ、此ゆへに、すヽむ時は其ほどを考へて浴し、すヽまざる時は見合せて入るべし、己が氣にうけざれば、血もうけず、氣血和せざれば、湯の廻り遲し、よく〳〵辨ふべし、

〔漫游文草〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1114 草津温泉游記 余駁太沖説、欲其善已、今取其浴度、浴法、浴禁、并余所親試、以告游浴者、太沖曰、其初浴也、胸腹開轄、頻飢能食、湯之應也、四五日若七八日後、或下利、腹微痛、若裏急者、亦治驗也、余浴草津一兩日、日入槽二三次、覺腹中拘㽲微痛、旣而心下痞鞭、皆云腹有痃辟者、不此泉也、余頗疑懼、然亦恃太沖之言矣、果下利二三行、後不復痞也、皆云、此湯以瀑爲要、不拊則効不多、余試拊一日、胸腹如初、用鍼而愈、後拊大瀑、不復痞也、然羸人老人皆不瀑也、余在草津、見及斃瀑下者二人、其一人年三十餘、治之即甦、一人五十餘、快瀑而貪、氣絶而死矣、由是觀之、取一旦陰醸巨害、可戒乎、太沖浴度、一日二三次爲律、羸人一二次強人或三五次、過之則疲勞、草野愚民、一日或至十餘次、不啻不一レ病、將傷害生命、余觀

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1115 草津、大半山野之氓、大抵十次爲常、其不瀑者、自汲以灌其頂數十遍、余亦傚其爲、千百人皆然、如其害、太沖曰、凡浴者、先瀉槽邊可頓處、徐々灌注兩肩及腹背、浸巾洗面、平心和氣、如稚兒爲水戯、而後沒入槽内、霎時温體、必以周身煖透度、灌洗沒入、以再回律、此是浴湯之要、不易者也、余今用此法、日浴三四次、實得其宜耳、太沖曰、浴中最須風寒、浴則汗出、腠理開易寒、是誠然、余非警、早已感冒、可愼已、又曰、浴後戒假寐、誠然、余謂、出浴須速更一レ衣、衣濕引邪氣、若衣濕而不更、則自乾、夏月浴者、多不浴衣、如此水氣、必入後恐生害耳、太沖曰、浴治時禁生冷肉食、豈嫌腹爲一レ鍋耶、殆爲之捧腹耳、草津俗法、禁在浴後、頗得古人將息意、又關西浴後忌常湯、太沖辨之爲是、又俗忌浴後灸、草津俗法、瘡家必用灸、浴後日浴常湯妙、土俗同異耳、余游湯泉少、莫於草津、亦莫於草津耳、〈庚子八月初二、手録草津客舍、〉

〔豐後國志〕

〈三速見郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1115 濱脇温泉在朝見郷濱脇村、海濱砂中有湧泉、浴法甚奇、先發沙瘞全軀、惟頭面出之、泉漸浸洽、快浴一炊時、善治疝瘕痼疾

浴効

〔尺素往來〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1115 尤療病、養生之術、非一者歟、身上按摩、口中飮食、并藥湯、針灸、雖其品多、雜熱小瘡、對治之様、不於蛭飼、中風、脚氣、療養之法、莫於温泉矣、

〔桑韓損箎〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1115 醫員筆語〈◯中略〉 近世温泉盛行、其驗不驗由于病有内外之別耳、未知貴邦亦温泉之法盛行乎、〈卑牧(韓人)答〉我國浴洗温井之法盛行、只用於皮膚之病耳、

〔温泉小言〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1115 一およそ温泉の功は、陽氣を宣通し、留瘀を化導し、肌體をあたヽめ、關節を利し、經絡を通じ、氣血をめぐらし、一切の瘀血を破り、穢瘀邪毒を排托し、壅滯をめぐらし、寒をのぞき、濕をさり、積聚、疝癥、むねはらわきなどの冷痛むる、腰脚などのだるくしびれいたむる、手足筋骨のひきつり、のべかヾみかなひがたき類、脚氣、うち身、くじき、一切の傷損、下疳、便毒、諸痔、脱肛、淋疾、楊梅、瘡

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1116 毒、結毒、疥癬、https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001b068.gif 瘡、紫白、癜風、并に金瘡のいゑんと欲していへかねる類、婦人の血積、瘀血、經行不順の症、滯下腰冷、下部一切の病、これらの諸病はいづれも温泉によろし、 一又温泉によろしからざる病は、氣血虚損、勞倦不足の諸症、もろ〳〵の失血後、津液の乾燥たる病人、脾胃虚勞咳の類は、もとより論ずるにをよばず、邪熱虚熱ある人には甚あしヽ、病をそへてあやうきにいたる、つヽしみて浴すべからず、無病たり共、生質はなはだ虚弱の人亦浴すべからず、

〔温泉小言〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1116 一故に諸國の温泉ある所、一所に湯壺のいくつもある所あり、土地がひとつ所なりとて、その湯に差別なしとおもふべからず、湯壺と相去ること、纔か二三間のあいだにて、その湯の性大に相違するあり、是そのわかす地中の火はおなじ火なれ共、其湯となる水筋の相違、或は又土中にてすでに湯となりて後、その湯のくヾり來るすぢ〳〵に相違ある故なり、肥前温泉山の上に湯壺いくらもあり、その湯壺の相去ること纔か四五間、或は八九間のあいだなり、纔か見へ渡る程の所のことゆへに、その湯に差別あるまじきことなるに、その湯の色、米泔汁を見るがごとく白き湯あり、又青黒色なるあり、砥汁のごときあり、その湯皆極熱にて、人の浴すべき湯にあらず、土人これを名づけて地獄といふ、浴せぬゆへにその性效はしらねども、色さへかくのごとく大相違あるなれば、その性の相違は決定なり、是湯壺の所の土氣に相違もなく沸す地中の火に相違もなき筈なれども、その湯壺々々の水筋の相違、或は土中にて湯となりて後、その湯のくぐり來る筋々に相違あるゆへにかくのごとく色に相違あり、但州城崎の温泉も新湯と瘡湯と、そのあわひ纔かの所なれ共、新湯は瘡を發し、瘡湯は瘡をいやす、曼陀羅湯は、東槽は瘡を發し、西槽は瘡を愈す、これも右之理とおなじことにて、その湯壺々々へ來る湯の、筋々ちがふゆへなり、わかす火に相違あるにあらず、

〔有馬山温泉記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1117 凡此地の温泉は、天下にすぐれたる名湯なり、病に應ずれば甚妙效あり、いづれの温湯にも、浴せんとせば、先其病症に、湯治の相應すると相應せざるとをよく考ふべし、この湯は、相應の病なれば甚しるしあり、手足なへしびれ、筋骨ひきつり、のべかヾめかなひがたく、脚氣の病、高き所よりおち、或落馬し、おしにうたれ、一切の打身、金瘡の愈かぬるによし、皮はだへの病、すべて外症によし、又寒冷の病によし、此等の病に浴すれば大に効あり、他の湯にまされり、氣血不順の症、腹中の滯にも、かろく浴しあたヽめて、氣をめぐらすべし、然れども内症の病には應ぜず、浴すべからず、邪熱虚熱ある人には、はなはだあしヽ、病をそへてあやうきにいたる、必つヽしみて浴すべからず、世上に病症をえらばずして、何の病にもよからんとて入湯する人あり、はなはだあやまれり、相應の病症にあらずは入湯すべからず、益なきのみならず害有、又浴して何のしるしもなく、又害もなき症あり、かくのごとくの症には、浴する事無益なり、およそ浴して益あると害あると、益も害もなきと、此三の病症あり、よく〳〵ゑらぶべし、害有症と益なき病には入湯すべからず、

〔熱海温泉圖彙〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1117 温泉主治 熱海の温泉は、關東第一の名湯なれど、半ば遊山の地とのみ聞て、其功能を詳にせざる人多ければ、其功驗をこヽに記す、 中風にて手足しびれて、歩行心にまかせざるに妙也、眼病、かすみ目、たヾれ目の類は、七日入湯して目をあらへば治する事妙也、 腰の痛 脚氣 筋攣 打身 折傷 諸の蟲 寸白 痔 脱肛 淋病 〈せうかちによし〉 喘息 婦人腰の冷 懷妊せざる人 氣虚 血損 齒の痛〈はのゆるぐには、此湯をふくめば妙也、〉 腫物 金瘡、此湯に入れば、初は其毒をはつし、そのヽち全く愈る事妙也、右いづれも醫療を盡してしるしなきに妙也、けだし水腫、腹滿、癩病は、此湯を禁べし、湯に入る間、房事をつヽしまざれば、きヽみちおそかるべし、

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1118 因に云、文政十三年七月上旬、百樹此地にいたり、渡部氏の客舍にやどりて、温泉に浴したるをりから、主の婦人の物語に、今年春の半、主翁は江戸にいたりて家にあらず、時に甲州の人とて、〈西郡の某氏〉一人の老人、娘とて中年の女二人、下女一人、從者二人を具して宿りけるが、翁のいふやう、我は疝氣の病ひあり、いもとの娘に癪の病ひあり、二ツの病症此湯に妙なりと聞て、はるばるこヽに來りし也、しかるに此姉に一ツの奇病あり、もし此湯にて治する事もやあらんかと保養かた〴〵につれきたれり、その奇病といへるは、六年以前より晝夜眠る事あたはず、神心勞れて見らるヽごとく枯痩、食すヽまずして闇所をこのみ、人に對する事を忌み、時としては心矇々として人事を辨ぜずして、發狂せるが如、かヽる病にも、此湯の利申にやと問ふ、婦人答ていふ、今聞へ給ける疝と癪とは、此温泉に浴し給ひて、全快ありし人々許多あれど、六年の間眠り玉はざる病を治したる事は、聞もおよび候はず、わらはヽ女の身にて、醫療の事は露ばかりも曉し候はねど、眠り玉はざるは、氣血のとヽのひ給はざるならん、此いでゆは氣血を補ひ、精心をさはやかにするを第一の功とすれば、こヽろみに浴し給へ、その功能に應じ給ふ事もあるべし、さはりとなる事は、いさヽかもあるまじといふに、翁いかにもとて、是よりかの女に〈歳ごろ三十餘〉入湯させし事、十餘日なりしに、ある日朝食を喰する時、碗をとり二た口三口にして、頻に眠り、持たる碗をはたとおとしたるが、おどろきもせで、ねぶければいねんといふに、翁かたはらにありて大によろこび、寐所へ入れて臥せけるに、其日も暮て夜もすがらうまく睡、次の朝も目をさまさず、かくて晝夜三日の間、息ある死人のごとくなれば、翁ははじめのよろこびにかはりて、覺束なくおもひ、主の婦人をまねぎ、しか〳〵のよしをかたり、なにはともあれ、三日のあいだ食せざれば、飢てに、病にあしからん、起すべきやなど婦人に問ふ、婦人のいふ、六年が間眠り玉はざりしとなれば、一日を一年として、六日臥給ふともくるしかるまじ、そのまヽ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1119 に甘く眠らせ給へとて、物の音もはヾかりて眠せけるに、第四日の夕かた、みづから目をさまして起立、四日臥したる事はしらず、今は何時ぞといふ、此時主の婦人かたはらにありて、翁に目くばせして、七ツ半も候はんといふに、女うちゑみツヽ、さてもうれしや六年ぶりにてしばしがほどこヽちよくねぶりて、心はれ〴〵としたり、人々は夕けたべ給ひしや、わらはもとて喰をもとむ、翁ほた〳〵よろこび、いざとくといそがするに、婦人ふたヽび翁に目くばせし、六年ぶりにてめづらしくねぶり玉はヾ、めでたく粥をすヽめ給へとて、にはかにてうじたてヽすヽめけるに、常にまさりて心よくはしをとりつヽ、給仕する下女にものいふさまなど、つねにはあらぬ事にて、人のなみ〳〵なりければ、翁かたはらにありて、よろこぶ事かぎりなし、かくて次第に快く、寢食つねのごとくになり、人に面をあはする事を嫌ひたるも、わすれたるがごとく、したしみあさき相客の女にも、ものいひかはすやうになりて、三めぐりあまり浴して、奇病といひしもまつたく愈ければ、翁はさらなり、妹をはじめ、從者までもいさみよろこび、翁も妹も病をわすれて、めでたく故郷へ立かへりぬとものがたれり、此物語のついでに、江戸にて某の人年久しき腫物の、ふしぎにいへたるはなし、又は他の客舍にて、諸病の愈たるものがたるなど、雨のつれ〴〵にあまたきヽたれど、さのみはとてもらせり、

〔七湯栞〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1119 出湯のいさほし 夫温泉は、天地自然の理にして、陰陽交會し、水火妙合して温泉となる故に、是に溶すれば、いつとなく人の肌體、腹臟、表裏關節に貫徹し、陽氣を宣通し、留瘀を化導し、經胳を利し、氣血をめぐらし、邪毒を排托する事、たとへば膏澤の物をうるほし、時雨の物にそヽぐが如く、澳然として鬱をひらき、結を解き、寒を除き、濕を去る事、皆温泉の能也、別て婦人血積、瘀血、經行不順の症、其外帶下、腰冷、下部一切の病によろし、

〔温泉名勝志〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1120 所々湯文(○○) 湯本〈冷湯也〉〈好〉腫物類 筋氣 脚氣 瘡毒 小瘡類 下疳 骨痛 痔 田蟲 瘧 錢瘡 コセ瘡 水蟲 疝氣 寸白 消渇 喉痹 中風 打身 頭痛 胸痛 癜風 灸破 眩暈 腰痛 切疵 突疵 〈禁〉痰 咳嗽 黄疸 腹中 蟲積 虚勞 食傷 痒 疥瘡 塔澤 〈温湯也〉 〈好〉中風 脚氣 筋氣 痹 蟲積 疝氣 頭痛 寸白 虚勞 眩暈 痰 痔類 呢逆 黄疸 打身 折 腫物 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001b068.gif 瘡 田蟲 眼病 口中痛 腹中 經水 長血 宮下〈并〉堂島 〈温湯也〉 〈好〉蟲積類 脚氣 黄疸 筋氣 中風 寸白 疝氣 腹中 喘息 頭痛 眩暈 打身 折 血塊 下腰 痔 痹 虚勞 顚癇 〈禁〉腫物 瘡類 蘆湯 〈温湯也〉 〈好〉打身 筋氣 痢 腫物 金瘡 中風 婦人 崩漏 脚氣 痔 田蟲 腋臭 癜風 瘡類 痰 〈禁〉頭痛 耳 淋病 木賀 〈温湯也〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1121 筋氣 脚氣 中風 上氣 頭痛 痰 喘息 寸白 血塊 下腰 打身 痹 眩暈 顚癇 虚勞 腹中 〈禁〉瘡毒 腫物類 土肥小海 〈好〉蟲 脚氣 打身 筋氣 中風 〈禁〉腫物類 熱海 〈温湯也〉 〈好〉中風 筋氣 痔 蟲 田蟲 癜風 上氣 腫物〈但肉不上佳也〉 血塊 胸痛 腰痛 下冷 淋病 痹 胸否 齒 〈禁〉顚癇 瘡毒 黄疸 小瘡 已上 澀江長怡考

〔草津温泉來由記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1121 温泉能毒大略 御座の湯 〈冷也〉 癩瘡 癰疔 腫物 血虚 氣虚 破血 諸瘡 瀧之湯 頭痛 癩瘡 損傷 打撲 積聚 諸蟲 眼病 癰疔 虚勞 諸痰 諸瘡 五痔 中風 上氣 疝氣 鬱滯 癲癇 癜風 癬疥 諸腫物 脚氣の湯 綿の湯 鷲之湯 右三湯者極熱湯也 冷虫 積聚 筋氣 腰痛 五痔 下血 疝氣 咳嗽 食滯 痰飮 氣鬱 脚氣 麻木

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1122 脾胃虚 胸痛 諸濕 勞察

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1122 四万温泉之來由記 抑上野國吾妻郡四万の郷の温泉は、〈◯中略〉淡味在、鹹味有、或は浴、或は蒸、能百病を治る事妙ニして、誠に無雙の名湯也、〈◯中略〉 一第一血分を増 一頭痛上氣 一蟲一切之しやくつかへ 一腹痛、打身、きだん、わうだん、 一疝氣、すんばく、 一痰、せき、痔、痳病、 一てんかん、かくの煩ひ、ないそんひいきよ、てうまん、中症、下血、吐血、勞症、虚勞、氣のつき、 一女中一切の血煩、月水不順、血懷、血蟲、しやくつかへ、一切眼病に妙なり、其外濕、ひぜん、水蟲、多蟲、なまず、漆かせ、しらくも、がんがさ、面瘡、いぼ、其外何共知れざる煩は、別而功能早速也、 總て虚症の人は精氣を増、其外功能勝計りがたし、有増記之者也、 四万湯本 田村文左衞門

〔鹽原考〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1122 昔は鹽原湯泉八ケ所と云ひしが、今は其所或は廢し或は湯涸れて、延寶の始地震有りて、又鹽原の湯は涸れ失けるよし也、今の所と云ふは、福綿戸、鹽竈、旗下戸、門前、古町、鹽の湯、簀卷、新湯、甘湯等也、〈◯中略〉左に湯泉の効能をしるす、 福綿戸 岩の湯〈薄赤く濁り、色鹽氣あり、〉大熱湯 主治 疝氣 寸白 脚氣 諸虫 積聚 橋本湯〈色清く少し鹽氣有甚あつし、〉中熱湯 主治 腹痛 手足痹 冷の湯〈色清し〉 大冷湯 主治 頭痛 痰 眼疾 鹽竈

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1123 殼風呂 大熱湯 主治 中焦下焦渇 手足痛 諸痔 坂下湯〈少し濁り有〉 大熱湯 主治 痛風 手足痿たるによし 旗下戸 中の湯〈色清く、鹽氣あり、〉 熱湯 主治 脚氣 腰痛 脇痛 血の道 河原ノ湯〈少し濁り、酢く甘し貉(ムヂナ)湯とも云、〉 大熱湯 主治 疝氣 脚氣 下焦の冷 金瘡 次の湯〈少し濁り有〉 中熱湯 主治 逆上を引下ゲ 濕氣を拂ふ 門前の湯〈色清し〉 大冷湯 主治 頭痛 眼病 諸瘡 古町 御所湯〈色清し、鹽氣有、〉 中熱湯〈平穩〉 主治 疝氣 頭痛 氣積 腰痛 角の湯〈色清し〉 中熱湯 主治 打身 金瘡 痰 〈何れの病後にても、是に浴してよしといふ、〉 中の湯〈薄濁り〉 大熱湯〈岩の湯に類す、名湯也、〉 主治 疝氣 寸白 脚氣 筋骨痛 中風 瀧の湯〈色清し〉 冷湯 主治 頭痛 眼病 淋疾 濕氣 不動湯〈少し濁有〉 熱湯 主治 鬱氣ヲ開ク 頭痛 眼病 中風 梅の湯〈色清く、鹽氣有、〉 中熱湯 主治 痰火 腰痛 脚氣 婦人血ノ道病後 簀卷 瀧の湯〈色清し〉 冷湯 主治 頭痛 眼病 濕氣を拂ふ 鹽の湯 岩の湯〈少し濁り有、鹽氣つよし、天狗湯とも云、〉大熱湯 主治 疝氣 眼病 虫 血授 中の湯〈色清し、鹽氣つよし、〉 中熱湯 主治 頭痛 諸瘡 手足痛

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1124 次の湯〈色清し、鹽氣強し、〉 中熱湯 主治 脚氣 心痛甚敷によし 新湯 上の湯〈貳ケ所 鼠色、酢く澀味有、硫黄の氣甚し、〉大冷湯 主治 眼疾 諸瘡によし 瀧の湯〈薄濁り酢し〉 にが湯〈薄黄色、苦酢し、〉 下の湯〈赤白し、澀み、甘み、鹽氣有、〉 右いづれも冷湯にして、主治、上の湯に類すべし、 甘湯〈湯に甘み有とて甘湯と云、和らかにして温也、〉 主治、機織の湯に類すと云へり、 右當地温泉の効能、〈予〉が聞所大略斯の如し、竊に考ふるに、其地により、硫黄、雄黄、辰砂、礬石等の物ありて、其氣になれそヽぐが故に、其所によりて温泉に緩急ありて、効能またかはるといへ共、其山谷の氣は同じく、其温泉の水源は一なるべし、凡温泉の功は、陽氣を宣通し、血氣を廻らし、肌體をあたヽめ、關節を利し、瘀血を破り、滯りを散じ、寒を除き、濕を去り、積聚、疝氣、むねはら、わきなどの冷痛の類、腰脚のしびれだるく痛む類、手足筋骨のひきつり、のびかヾみなり難き類、脚氣、うちみ、くぢき、一切の傷損、下疳、便毒、諸痔、脱肛、淋疾、楊梅、瘡毒、疥癬、雁瘡、紫白、癜風、金瘡愈んとして愈ざる類、婦人の血積、瘀血、經行不順の症、帶下、腰冷、下部一切の病、これらの諸病いづれも温泉によろし、又温泉によろしからざるもの病は、氣血虚損、勞倦不足の諸症、もろ〳〵の諸失血後、津液乾燥たる病人、脾胃虚勞咳の類は浴すべからず、

冷泉有効

〔漫遊雜記〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1124 香川氏曰、温泉不熱者、無于病者、可夏虫之見矣、藝州佐伯郡有泉、曰水内、治腰脚不隨者奇効、其泉頗冷、秋冬難浴、

〔筆のすさび〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1124 安藝州佐伯郡水内和田村の内に、吉と云山の麓に湧泉あり、温泉にはあらず、此泉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1125 水に浴すれば諸痛を治する事いたつて奇効あり冷泉にして、久しく浸し漬る事あたはざる故、筧などをかけ、瀧のごとく水を通はせ、痛所へ打るヽなり、往年江村北海先生、樋口卜齋翁と伴ひ往きて浴せらるヽに、諸症忽退き、効驗ありし話ありしなり、此泉水に錢を浸しおけば、旬日の間にこと〴〵く黄金色に變ず、此を吉の金錢と唱ふ、泉窟に對して向吉(ムカフヨシ)と云山村あり、此地に寺の平七といふ百姓あり、屋後に温泉權現と號し、鎭守といひ傳ふる小祠あり、神體なりとて、方一尺許の石を一顆置、屋上に記版あり、天文十五年丙午二月草創せしよしを記せり、京攝よりは程隔りぬれば、都下の人はこの泉の効を知る人稀なり、此邊の海上、すべて春末三四月の間、棘鬣(たい)魚多く群れ來り、潮上に身を扁して浮く故、漁者これを捕るに勞なく纚(サデ)などにて心易く救ひ捕る、これを浮鯛と名付て、名産とせり、此湧泉に浴しに往くを、湯治とはいはれずとて、水治(○○)といふもをかし、

〔和漢三才圖會〕

〈六十八越後〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1125 温泉 自關ノ山二里半〈在高田之西南三里〉 在寒熱温三湯(○○○○○)、如鼎各相去半町、其寒湯却熱人浴之遍身冷凉、而眼病金瘡能治、又熱湯却冷、人浴之全體熱温、而濕病痔脱肛等佳也、温湯中和尋常人多浴、

湯錢

〔徴古文書〕

〈乙相模〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1125 後藤彌兵衞條目〈天正八年歟〉 定 一底倉湯治之衆、一日ニ湯錢人前より壹錢宛可取事、 一鹿取しへ取きるべからず事 右對地下人狼藉有之ニ付而者、主人ニ申斷、小田原ヘ可申越候也、仍如件、 後藤彌兵衞 辰三月廿八日 花押

〔筑紫紀行〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1126 十一日、城崎郡湯島〈◯中略〉温泉に浴する事、入込湯には湯錢なし、幕湯の價一廻六匁なり、一日に三度づヽ、湯女これをしらす、別に切幕といふあり、一室限に浴するなり、一日に二度づ一廻の價金一歩なり、湯治人初めて宿に著時、祝儀を贈る事定りなし、此度は主の妻に百匹贈り婢四人僕二人に百匹、湯女三人に六匁、湯支配(○○○)菊屋元七に銀一兩贈り與へたり、

幕湯

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1126 幕湯 まくゆ 今の俗、所々の温泉に、幕湯と云事有、貴賤入交りゆあむる事をさけて、幕にて隔て遮りて、他人を交へぬを云、是西土にても有事也、小窻別記に、〈卷二〉石虎が奢靡の事をしるせし所に、又爲四時浴室、用鍮石賦砆堤岸、或以琥珀缾杓、夏則引渠水、以爲池、池中皆以紗縠囊、盛百雜香、漬於水中、嚴氷之時、作銅屈龍數千枚、各重數十斤、燒火色、投於水中、則池水恒温、名曰燋龍温池、引鳳文錦歩帳縈浴所、共宮人寵嬖者、解媟服、宴戯彌於日夜、名曰清嬉浴室、浴罷洩水於宮外水流之所、名温泉渠、渠外之人、爭來汲取、得升合以歸、其家人莫怡悦、至石氏破滅、燋龍猶在鄴城、池今夷塞矣と見えたる、全く幕湯の事也、

〔攝津名所圖會〕

〈有馬郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1126 有馬温泉〈◯中略〉 入湯に品あり、幕湯、幕間、狹嫌、追込等の名あり、其幕湯といふは、浴室の入口に、其入湯の人の宿れる坊屋の印を染たる幕を打て、他の人を止む、室内には晝夜常燈を照らす、これ藥師堂の側なる報恩寺より燈す、開基僧正行基、中興仁西上人の木像、腰輿に乘て毎年正月二日温泉の入浴初あり、其時温泉寺の別當、僧二十宇の坊主、列を糺して浴室にて祝式あり、

汲湯

〔有馬山温泉記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1126 汲湯とて、此地に來らずして、遠所へ汲よせてあたヽめ浴する人あり、寒月には湯の性うせずして、少のしるし有べし、温なるときは、日をへて後陽氣つき、水の性變じてあしくなるべし、鹽湯五木湯などに入にはしかず、

〔吉川家譜〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1127 廣家年老シ多病、世事ニ倦ム、故ヲ以テ常ニ駿武ニ參覲スル能ハズ、同〈◯慶長〉九年甲辰偶上京シテ家康將軍ニ謁セリ、熱海ノ温泉五桶ヲ賜、〈東條式部卿法印ヨリ、福原越後守ヘ添書アリ、〉

〔別本吉川家譜〕

〈十五廣家〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1127 慶長九年甲辰四月、廣家公上洛シ玉フ、〈◯中略〉家康公ヨリアタミノ湯ヲ廣家公ヘ賜フニ依テ、東條式部卿法印ヨリ、福原越後ヘ書ヲ遣ス、 吉川藏人殿、あたみの湯御望の由申上、昨日五桶我等かたへ請取置申候、今朝以使者申候へ者、はや御下候、然者大坂へ被遣舟便ニ御下候て可給候、未大坂ニ御逗留候者、早々飛脚を被遣、御屆頼入候、恐惶謹言、七月十六日 判 福越後様 人々御中

〔諸事留〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1127 天保三辰年四月〈本多修理知行所 伊豆國加茂郡和田村〉願人〈名主〉新左衞門 右和田村之義、温泉有之、慶安三寅年樽詰(○○)に致、爲御用江戸江相廻し候義も有之、其外元祿十七未年津波ニ而浴場并民家一圓に押流し、夫より中絶致候處、舊例も今般右温泉樽詰御府内相廻し、故障之義無之哉、 乍恐以書付申上候事 一和田村湯、何拾年已前ニ出來仕候共不存候、但湯屋立申候義ハ、慶安三年戍年に立申候、年數之義は、當午年迄九十三年ニ罷成申候、 湯能書之覺

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1128 一中氣によし 一すじけによし 一つかひによし 一打身によし 一頭痛によし 一ぢニよし 一くぢきニよし 右之通吟味仕、書付差上申候、 元祿三年 卯四月廿九日 新左衞門 孫右衞門 作右衞門 新右衞門 傳左衞門 棚橋吉太夫様 西方彦助様 右之通、書付差上申候扣也、 右者拙者共、奈良屋市右衞門殿被相呼、前書之趣被申含、市中差障之義も無之哉御尋御座候間、御支配内御取調、差障有無來ル廿日迄、清右衞門方江可仰聞候、 但湯屋渡世之者は、本文御同所ニ而、直ニ御尋有之ニ付、御調及不申候、爲御心得此段御達申候、以上、

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1129 三月十五日 明田揔藏 千柄清右衞門

〔有馬名所鑑〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1129 出湯を樽につめ、馬におほせて他國へつかはすを見て、 伯水 國々へ馬におほせてやる時は一もさながらにの湯にぞなる

造泉

〔温泉論〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1129 造泉 天下之水一也、天下之火無二致矣、況天下之金石乎、今也擧天下之火、以燂天下之水、和之以天下之金石、然而其氣味息色、確乎温湯、其才力亦髣髴乎、眞泉者名之曰家温泉(○○○)、家温泉天下之一大奇貨者也、上自王公姫姜、下至鰥寡孤獨、凡懷久痾長患、不自由者、好擧斯術、則一時縮地於千里、沸泉於咫尺、悠優閑浴、以鎔化累年之痼、猶諸掌、然不亦痛快哉、予昔嘗入馬山、熟觀泉性、退而撰水火辨、遂及泉論、因察金石交會之理、假造温湯、歴試諸人、然後果識家温泉有一レ益於世矣、則予豈敢闇然而懷之哉、向者太沖造假温泉、擬諸但馬温湯、曰温泉即天生花、藥湯即剪綵花、假使形似色類竟乏、天生鮮艷、況於香味乎、誠斯言也、以艸藥則似焉、苟淘汰泉石以醸成泉性、是則人家一種温泉矣、復何香味之損、若夫所謂假温泉(○○○)、用區々糯米殼、或火酒等、亦何異於世俗所用百艸湯、忍冬湯、當歸湯、枸杞子湯等哉、如是者直謂之剪綵花可也、是豈温泉間之物乎哉、欠其天性香味、固其所也、如吾家温泉、果非同日之論也、浴者其辨察之

〔本朝醫談〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1129 服元喬伊豫温泉碑に、神功皇后を擧たるは何に本づきしや、書紀に、温泉の事初て舒明紀に出づ、温泉は、唐土の人さしていはねど、斯邦にはもてはやす事なり、瘀血、壅滯、癥疝、痱痙、手痹、脚痿、攣急諸病、梅瘡、下疳、便毒、痔漏、疥癬、惡瘡、撲損、閃肭、婦人腰冷、帶下等の病に浴するなり、道路の遠して行事ならぬ者の爲に、假温泉(○○○)を作りて浴さする事あり、山村通庵が法は、畸人傳に出せり、

〔近世畸人傳〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1129 山村通庵

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1130 法橋通庵、名は重高、伊勢國松坂の人、北畠の庶流なれども、其先同國山村に住せしより、これを氏とす、爲人無我にして正直、禪に參し、文茶香瓶花のごとき風流の伎藝に通ず醫は後藤左一に學びて、自右一と名のる、薙髮の後、通庵といへり、其言に曰、師は灸治に心を盡せり、我は温泉の効を試んため、諸國に遊び、氣味功能を熟驗す、但馬城崎、上野草津は其徳ひとしく、天下に類なし、然るに路程遙にして或は至りがたきもの有、是がために變方を制すと、即印施の方あり、〈◯中略〉 〈但馬城崎上野草津〉温泉變方 助氣温體、破瘀血、通壅滯、開腠理、利關節、宣暢皮膚肌肉、經絡筋骨、癥疝、痱痙、痹痿、手痹、脚痹、攣急諸痛、消腫、治痔、微瘡、下疳、便毒、結毒、登漏、疥癬、諸惡瘡、撲損、閃肭、婦人腰冷、帶下、大凡痼疾、怪痾、洗浴多効、 潮水五斗〈潮水なき國々にては、常の水に鹽一割入て用ゆ、効同じ、〉 米皮糠壹斗 鵜目硫黄〈六百目、細末にして布の袋に入、糠を煎じたる湯の中へふり出す、〉 右潮水四五斗の内を貳斗分、米皮糠一斗を入、糠の赤くなるまで煎じ、其湯を飯簀にて桶へ漉し、居風呂へ入る、一日に三度づヽ浴す、風呂の湯熱き時は、潮水さし入る也、冬三月は十二三日、他月は六七八日も不變、六七の暑月は、四五日過て上水を取捨、新なる潮水、米皮糠硫黄も初の半ほど入べし、諸病にさはりなし、右印施の儘を寫す、翁歿後四十年に向とし、今は世に殘らぬば因に記して世を惠むの志を嗣のみ、翁はおのれがゆかりなれば也、〈私云、浴湯は遇不遇、その稟賦病症をはかるべし、凡實症にはよろしくして、虚症にはよろしからす、〉

温泉神

〔伊呂波字類抄〕

〈由諸社〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1130 温泉(ユノ)神社〈下野那須三座内 又陸奥 玉造磐城兩郡座〉

〔鹽尻〕

〈十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1130 一或問、我國温泉涌出の地、國神を祀りて鎭ンとす、異邦にもかヽるにやと、曰、三秦記云、驪山温湯舊話に以三性祭、乃得之云々、

〔古史傳〕

〈十八神代〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1131 なほ因に、湯泉のことに就て、此段の二柱神〈◯大己貴命、少彦名命、〉を祭れる社を言はヾ、まづ攝津國有馬郡にも温泉ありて、上代の天皇たちも御幸ありしこと、國史に數見えたり、神名式に、此郡に湯泉神社、〈大月次神嘗〉また有間神社などあるは、共に此二柱神を祭れりとぞ、〈湯泉神社のことは、親長記に湯山明神三輪明神なりと云、千載集に、有馬の湯に忍びて御幸有ける、湯の明神をば、三輪明神となむ申すと聞て、めづらしく御幸を三輪の神ならばしるし有馬の出湯なるべし、と見ゆ、今も湯山町と云に在て、神界に温泉あり、色葉字類抄に、温泉三和社、舊記云、大神温泉鹿舌也、崇神天皇御宇之時七年、始被置神戸云々など見え、有間神社は、熊野、三輪、鹿舌の三座にて、鹿舌の神とは、少彦名命なり、今は香下村なる鹿舌山といふに在て、鹿舌明神と申すと諸書に云ひ、攝津志には、在中村屬邑西尾、今稱山王、近隣七村所祭、村民平日忌穢、婦人産期、出就水涯、分娩未嘗有産死者といへり、何れか是なることを知らず、〉また上野國群馬郡に、伊加保神社〈名神大〉とある社の祭神も、今は湯前大明神といへども、少毘古那神なりとぞ、一説には、元湯彦友命、又名彦由支命と申すと、此社のこと記せる物に見えたり、元湯彦友命、彦由支命といふ神名、古書に未見當らず、決めて少彦名命の亦名なるべく所念ゆ、〈此社のこと、國史に、承和元年九月辛未、以上野國群馬郡伊賀保社名神、同六年六月甲申、奉上野國無位御賀保神從五位下、貞觀五年十月七日、上野國正六位上若伊賀保神從五位下、同十一年十二月廿五日、正五位下伊賀保神正五位上、同十八年四月十日、授正五位上伊賀保神從四位下、元慶四年五月廿五日、授伊賀保神從四位上、同年十月十四日、授正五位下伊賀保神正五位上など見ゆ、但し此十月十四日なる正五位は、正四位の誤なるべし、〉此所に謂ゆる伊加保の温泉あり、また此社に並びて椿名ノ神社とある社は、今榛名山といふ山に在て、俗に滿行宮大權現と云、此神も元湯彦命なりと社説なり、〈一説に、中に伊弉諾、伊弉册尊、左右は國常立尊、大己貴命と云は信がたし、或説に、式に椿字をかけるは、榛の誤なりと云るは然る説なり、〉さて萬葉十四卷上野歌に、伊香保呂能蘇比乃波里波良と詠るが二首あり、〈伊香保呂とは伊香保山なり、呂は詞の助なり、蘇比乃波里波良は傍の榛原(ハリハラ)なり、榛名山の地名に由ありておぼゆ、〉また可美都氣努伊可保乃奴麻爾云々と詠るものあり、

〔伊呂波字類抄〕

〈由諸社〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1131 温泉三和社(○○○○○)〈攝津國有馬郡座、舊記云、大神、湯泉、鹿舌三像大明神者、是一體分身也、故名號三和社、崇神天皇御宇之時七年、始被置神戸、載天慶八年交替帳、三和夫大明神爲護國家、爲益衆生、借名權現跡此土、或現觀音身、或示醫王像、從身中温泉、眼前療病、源藥有効驗、日本紀云、孝徳天皇三年十月、幸有馬温湯、左右大臣群卿云々、行基菩薩草創、此温泉令一切衆生、爲除病命云々、即書如法經温泉底云云、〉

〔和漢三才圖會〕

〈七十四攝津〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1131 湯山權現 在湯本之東南

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1132 祭神三座 有馬神社〈公智神社湯泉神社〉當山地主權現也、凡寺社多南向、當社北向也、

〔延喜式〕

〈九神名〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1132 攝津國 有馬郡三座 湯泉神社〈大月次新嘗〉

〔有馬日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1132 湯の大神にまうづ、所は温泉より一丁ばかり東南にて、いさゝか高くのぼる所、南の山のそばになん、北にむかひてたヽせ給へる、あたはらといふやまひに、としごろなやむよしまうして、此やまひやめ給へ、御湯のしるしあらせ給へと、ねんごろにねぎまうして、こヽにつきける日よりはじめて、朝ごとにまうでぬ日なし、そも〳〵此大神、今は權現の宮と里人は申す、さるは熊野權現、三輪明神、鹿舌明神と申て、三柱をまつれるよしいひつたふ、千載集には、有馬の湯に忍びて御幸ありける御供に侍りける、湯の明神を三輪のみやう神となん申侍ると聞て、物にかきつけて侍りける、按察使資賢、めづらしき御ゆきをみわの神ならばしるしありまのいでゆなるべし、となんあれば、むねとは大汝命をまつれるなるべし、藥の神にまし〳〵て、人の病をたすけ給ふときけば、ことにたのもし、延喜式の神名帳に、湯泉神社としるされたるはこれなるべし、安永二年といひしとし、此わたり寺また人の家どもヽ、そこらやけぬるをり、此御社もやけ給ひぬとて、今はかり殿になんおはします、此東の今一きは高くて平らかなる所は、藥師の御堂の跡なりとて、竹の垣をゆひめぐらしたるに、たくみどもあまたして、大きなるくれざいもくほど〳〵とうちけづるなり、本尊は、今は御社のむかひなる何がしの坊におき奉れると、いと尊くきらきらと大きなる御ほとけなり、此佛のたふときこと、又出湯の深きゆゑよしなんど、此坊につたへて、物にしるしたる、いにしへ大水いで來て、山くづれたるに、湯のあたりも何もうせはてヽ、年ごろへけるに、行基ぼさつといふ法師、すぎやうにありくをりふし、熊野權現といふ神に出あひ奉りて、尊き御さとしごとうけ給はりて、衆生のやまひをすくはんためにたづね來てなん、此御湯

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1133 を二たびおこしけるとかや、そのかみめづらかにあやしきしるしどもなんどあらば、いけるごとなんと、さま〴〵いふなるは、例のおろかなる世人をあざむきならへる、佛の道のくせぞかしと、うるさくてなほざりにのみきヽすぐす、

〔延喜式〕

〈十神名〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1133 下野國十一座〈◯中略〉 那須郡三座〈並小◯中略〉 温泉神社〈◯中略〉 陸奧國一百座〈◯中略〉 玉造郡三座〈並小〉 温泉神社 荒雄河神社 温泉石神社 磐城郡七座〈並小◯中略〉 温泉神社〈◯中略〉 出雲國一百八十七座〈◯中略〉 意宇郡卌八座〈大一座、小卌七座、◯中略〉 玉作湯神社

〔伊呂波字類抄〕

〈由諸社〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1133 湯神社〈伊與温泉郡四座内〉

〔延喜式〕

〈十神名〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1133 伊豫國 温泉郡四座 湯神社

〔古史傳〕

〈十八神代〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1133 和名抄に、伊豫國温泉郡あり、〈訓には、此も湯とあり、〉風土記には湯郡と作き、〈◯中略〉さて神名式に、此郡に湯神社あり、祭神は大己貴命、少彦名命なりと或書どもに云へり、宲然るべし、〈今も松嶺(嶺當山領二字の道後と云處に温泉ありて、諸人浴す、温泉の上なる小社、すななはち湯神社なりと國人の説なり、〉

〔東海道名所記〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1133 伊豆の山は走湯山共いふ、こヽにまします御神をば走湯權現と申奉る、むかしかまくらの右大將、〈◯源頼朝〉伊豆はこねを信じ、つねに二所參詣をいたし給へり、此所に出湯あり、石はしるたきの如くなれば、走湯とは申すとかや、 ◯

鹽湯

〔類聚名物考〕

〈地理三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1134 しほ湯 攝津國潮湯 散木集〈ニ〉津の國にしほゆあみにまかりて、月のもりいりたるをみて、あしのやのあれまをわけてもる月を泪の床にやどしてぞ見る、 今按に、鹽湯は有馬歟、又古へ難波の潮をあみしをもいひしか、知るべからず、夫木抄、慈鎭和尚、誰か聞難波の鹽のみつなへに田箕の島の鶴の諸聲、とも讀たれば、難波の潮にてもや、田箕島は西生郡にあり、夫木抄〈二十五〉九月ばかりに長居の浦といふ所に、鹽湯あみに出て、住吉の長ゐの浦もわすられて都へとのみいそがるヽかな、夫木抄卷未考、源兼昌、わたつ海のはるけき物をいかにして有馬の山に鹽湯出らん、

〔左經記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1134 長元八年二月九日甲子、巳刻參關白殿、今日爲鹽湯、北方相具、令宇治殿給、可然上達部殿上人諸大夫等追縱、公卿或烏帽直衣、或布衣、但僕并左大丞宿衣、諸大夫布衣、女房車二兩見物車馬夾路連々、及晩景到著給、人々間歸京云々、

〔殿暦〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1134 長治元年九月十六日丙戌、右大將自昨日宇治、爲鹽湯也、 永久四年九月三日癸巳、此兩三日依二禁鹽湯、 五日乙未自今日方違、今夜又始鹽湯

〔金葉和歌集〕

〈九雜〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1134 しほ湯あみに、西の海のかたへまかりたりけるに、みるといふものをみづからつみて、都なるむすめのもとへつかはすとて、 平康貞女 磯なつむ入江の浪の立ちかへり君みるまでの命ともがな かへし むすめ 長居する蜑のしわざと見るからに袖の裏にもみつ涙かな

〔山家集〕

〈下雜〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1134 しほ湯にまかりたりけるに、具したりける人、九月晦日にさきへ上りければ、つかはしける人にかはりて、 秋はくれ君は都へかへりなばあはれなるべき旅のそらかな

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1135 かへし 大宮の女房加賀 君ををきて立いづる空の露けさは秋さへくるヽ旅の悲しさ 鹽湯いでヽ京へ歸りまうで來て、古郷の花霜がれにける哀なりけり、いそぎ歸りし人のもとへ、又かはりて、 露おきしにはの小萩もかれにけりいづち都に秋とまるらん かへし おなじ人 慕ふ秋は露もとまらぬ都へとなどていそぎし舟出なるらん

〔宗長手記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1135 大永六年七月、〈◯中略〉興津左衞門の館、しほ風呂(○○○○)興行、一七日湯治、〈◯中略〉中御門殿御在國、折ふし興津しほゆ湯治旅宿へ、文にあそばしそへて、 さむき夜はむかふうちにも埋火のをきつることぞ思ひやらるヽ


トップ   差分 履歴 リロード   一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2022-07-23 (土) 17:18:52