https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0562 港ハ、湊トモ書シ、ミナトヽ訓ズ、原ト水門(ミノト)ノ義ニシテ、河水ノ海ニ入ル處ヲ謂フナリ、後世ハ、專ラ船舶ノ會集止泊スル地ヲ稱シ、以テ古ノ津(ツ)ト混ズルニ至レリ、蓋シ河水ノ海ニ入ル處ハ、船舶ノ會集止泊スルニ便ナレバナルベシ、

名稱

〔倭類聚名抄〕

〈一涯岸〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0562 湊 説文云、湊水上人所會也、音奏、〈和名三奈止〉

〔箋注倭名類聚抄〕

〈一水土〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0562 按、瀰儺度、見武烈紀、齊明紀御歌、蓋水之門之義、〈◯中略〉所引水部文、按、美奈度、水之門也、謂河水入海之處、居處部水門條詳辨之、湊謂河水入一レ海、而海舶止泊之處、則宜、訓都、都爲物止住之義、附訓都久、積訓都牟。集訓都度布、皆是也、雖古人用津爲一レ都、然津水度之處、宜和多利、非都也、

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0563 湊(ミナト)〈説文、水上人所會也、〉港口(同) 水門(同)〈日本紀〉

〔東雅〕

〈三地輿〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0563 津ツ〈◯中略〉 ミナトといふは水門なり、舟船の出入る所なれば然いふなり、〈ミナトといふナ、またノといふ詞なり、〉阿波國風土記には、湖の字讀てミナトといひ、倭名鈔には、説文の水上人所會なりといふ説を引て、湊の字讀てミナトといふなり、

〔倭訓栞〕

〈前編三十美〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0563 みなと 常に湊をよめり、水上人所會也と注すれば、水人の義にや、或は港をよめり、日本紀に、水門をよめれば、みとヽ意同じ、古事記には水戸と書り、紀の歌、萬葉集にも、みなととよめり、又萬葉集に湖もよめり、

〔類聚名物考〕

〈地理二十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0563 水門〈古事記〉 みなと 湊 湖〈萬葉〉 水のあつまる門戸故に、水のかどヽいふなり、乃加の約は奈となれば、すなはちみなとヽいふ、みは水の約なり、湊は唐の文字にて、萬葉集には湖を訓ぜるは、これも水のあつまる所故なるべし、〈◯中略〉 湊 みなと 水門 湖〈萬葉九〉 湊は輻湊などつヾけば、物のあつまることをいふなり、萬葉集、延喜式には湖字を書り、水海とは異なり、日本紀〈十四雄略〉にもみな水門と書り、水のせまれる所なり、迫門せとヽいふも、せまる戸なり、是は海門をいふ、門戸にたとへたるなり、〈◯下略〉

〔古事記傳〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0563 水戸(○○)は〈水門と書るも同じことなり〉美那斗と訓べし、〈古く美斗と云訓も有て、今はたさる地名もあるなれば、然讀むも惡きにはあらず、土左日記に、あはのみとを渡るとあり、〉書紀、武烈卷の大御歌の之裒世を、一本に彌儺斗と有と分注あり、又齊明卷の大御歌にも、瀰儺斗と云ことあり、萬葉歌にも多し、〈美斗とよめるは見えず〉即水之門の意にて、門は海の出入る戸口なり、〈島門、河門なども云、〉書紀、神代卷に、乃往見粟門及速吸名門、然此二門云々、仲哀卷に、自穴門向津野大濟東門、以名籠屋大濟西門などあり、那は之に通辭なり、〈右の速吸名門の名を、神武卷には之と作るにて知べし、猶例多し、和〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0564 〈名抄には、湊和名三奈止とあり、俗にも此字を用ふ、〉

〔古事記〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0564是大穴牟遲神、教告其菟、今急往此水門、以水洗汝身、即取其水門之蒲黄敷散而、輾轉其上者、汝身如本膚必差、〈◯下略〉

〔古事記傳〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0564 上に云る如く、水門(ミナト)は河の海に落る戸口にて、河と海との交際(サカヒ)なるが、此は眞水(マミヅ)を用ひむ爲に、水門と云るなれば、河ノ方へよりて、潮の交らぬ所とすべし、然らばたヾに河とこそ云べきを、まぎらはしく水門と云るは、いかにと云に、此處は海邊なれば、河即水門なればぞかし、

〔萬葉集〕

〈三雜歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0564 高市連黒人羈旅歌八首〈◯七首略〉 吾船者(ワガフ子ハ)、牧乃湖爾(ヒラノミナトニ)、搒將泊(コギハテム)、奧部莫避(オキベナサカリ)、左夜深去來(サヨフケニケリ)、 若湯座王歌一首 葦邊波(アシベニハ)、鶴之哭鳴而(タヅガ子ナキテ)、湖風(ミナトカゼ)、寒吹良武(サムクフクラム)、津乎能埼羽毛(ツヲノサキハモ)、

〔萬葉集抄〕

〈二下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0564 阿波國にみなとあり、中湖といふは牟夜戸與咲湖中ニあるが故に中湖を名とす、阿波國の風土記にみえたり、

開港

〔亞墨利加國條約幷税則〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0564 帝國大日本大君と、亞墨利加合衆國大統領と親睦の意を堅くし、且永續せしめんために、兩國の人民貿易を通ずる事を處置し、且交際の厚からん事を欲するがために、懇親及び貿易の條約を取結ぶ事を決し、日本大君は、其事を井上信濃守、岩瀬肥後守に命じ、合衆國大統領は、日本に差越たる、亞墨利加合衆國のコンシユルゼ子ラール〈官名〉トウンセントハルリス〈人名〉に命じ、雙方委任の書を照應して、下文の條々を合議決定す、〈◯中略〉 第三條 下田箱館(○○○○)の港の外、次にいふ所の場所を左の期限より開くべし、

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0565 神奈川(○○○) 午三月より凡十五ケ月の後より 西洋起元千八百五十九年七月四日 長崎(○○) 同斷 同斷 新潟(○○) 同斷凡二十ケ月の後より 千八百六十年一月一日 兵庫(○○) 同斷凡五十六ケ月の後より   千八百六十三年一月一日 若新潟港を開き難き事あらば、其代りとして同所前後に於て一港を別に撰ぶべし、 神奈川港を開く後、六ケ月にして下田港は鎖すべし、此箇條の内に載たる各地は、亞墨利加人に居留を許すべし、〈◯中略〉 第七條 日本開港の場所におゐて、亞墨利加人遊歩の規定左の如し、 神奈川 六郷川筋を限とし、其他は各方へ凡十里、 箱館 各方へ凡十里 兵庫 〈京都を距る事十里の地へは、亞墨利加人立入ざる筈に付、其方角を各方へ十里、且兵庫に來る船々の乘組人は、猪名川より海灣迄の川筋を越べからず、〉 都て里數は、各港の奉行所、又は御用所より陸路の程度なり、〈一里は亞墨利加の四千二百五十五ヤールト、日本の凡三十三町四十八間一尺貳寸五分に當ル、〉 長崎 其周圍にある御料所を限とす 新潟は治定の上、境界を定むべし、〈◯中略〉 本條約は、〈◯中略〉此取極のため、安政五年午六月十九日、〈即千八百五十八年、亞墨利加合衆國獨立の八十三年七月廿九日、〉江戸府において前に載たる兩國の役人等名を記し、調印するもの也、 井上信濃守〈花押〉 岩瀬肥後守〈同〉

〔開國起原〕

〈慶應年間邦内之形勢四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0566 兵庫(○○)御開港ニ付、商社取建方、并御用途金見込之儀申上候書付、此度兵庫港御開可相成ニ付而は、是迄長崎横濱(○○○○)兩港之仕來ニ而は、開港に相成候度毎ニ御損失ニ相成、西洋各國おゐて、港を開き政府之利益を得候方法とは相反し、實以奉恐入候次第、右は全く商人組合之仕法無之、薄元手之商人共、一己々々之利慾に而已耽り候故之儀と奉存候、將又兵庫并大坂え外國人居留地御取設相成候ニ付而は、兩所地平均築立等ニ而、凡貳拾万兩程は相掛り可申、其餘運上所、波戸場、常夜燈掃除方、役々御役宅、西國往還、西之宮ゟ兵庫迄之間道附替、其外に而總計いたし、八九拾万兩は、當年之御出方ニ相成可申、尤地平均築立等は、居留地御貸渡ニ相成候へば、御入費元高は相返り可申候得共、借受人急速無之節は、一時ニ繰戻し候譯ニは參り不申、運上所以下御用途金は、年々税銀ニ而御仕埋之積りニは候得共、是等も一時ニ繰戻兼可申、兎も角も差向候處、當年丈ニ而八九十万兩之御出高に有之可申候處、近來御多端之折柄、御用途も相嵩、當年中ニ而八九拾万兩之臨時御出高不容易義ニ而、假令御差繰相成候共、當節之形勢少も御貯蓄ニ相成置、非常之急需ニ御差向置之方可然、就而は右御開港ニ付、商社取建方、并御用途金出方之儀勘辨仕、存付候儀、左ニ申上候、一大坂町人共之内、身元宜敷者廿人程人撰仕、兵庫開港場、交易商人頭取申渡、右之者組合諸商買取引いたし、其餘望之者は、右廿人之組合に入、取引致候積、一體交易筋は、商人共一己之利益のみを貪り、薄元手之者共、互に競ひ取引いたし候様に而は、元手厚之外國人之爲に利權を得られ、當時横濱表商人之如く、今日僅に千金之益あり候共、明日直ニ壹万之損失出來候義は、全くは商人組合不申、一己々々ニ而取引致候より、右様之次第ニ陷り候儀、右は商人一己之損失計之様ニ相見候へ共、一商人其利を得ざるは、一夫其所を得ざると同じ理ニ而、即御國内おゐて夫丈之損失ニ相成、十商人之損失も、百商人之損失も、其商丈御國之損失ニ相成、遂ニ全國之利權を失し、外國

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0567 商人之爲に蔑視され、西洋商人の爲に、東洋おゐて貨殖之地を與る儀に而、實ニ歎息之次第ニ御座候、就而は外國人と取引いたし候には、何れにも外國交易の商社〈西名コンペニー〉之法ニ基き不申候半而は、迚も盛大之貿易と、御國之利益ニは相成申間敷と奉存候、〈◯中略〉 卯〈◯慶應三年〉四月 塚原但馬守 小栗上野介 服部筑前守 星野豐後守 同〈◯慶應三年〉六月壹岐守〈◯小笠原〉相渡 來十二月七日より、兵庫開港、江戸并大坂市中へも、貿易之ため、外國人居留致し候筈ニ付、諸國之産物手廣ニ搬運、勝手に可商賣もの也、 右之趣、御料私領寺社領共、不洩様可觸知候、〈◯中略〉 同年〈◯慶應三年〉十月前同人〈◯稻葉美濃守〉相渡 今度兵庫御開港ニ付而は、交易筋彌盛大ニ可相成ため、商社御取立相成候處、商社之外は、直ニ取引難出來様、存居候者も有之哉ニ相聞候、右は心得違之事ニ候間、商賣を遂候者は、神奈川、長崎、箱館同様勝手次第取引可致候、 右之趣、御料は御代官、私領は領主地頭より、不洩様可相觸候、 ◯按ズルニ、開港ノ事ハ、外交部外交總載篇ニ詳ナリ、

名港

〔八雲御抄〕

〈五名所〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0567 湊 やそのみなと〈近 万 鶴有 たづさはになくといへり、總て近江湖やそのみなとの有なり、但是は其所とよめり、〉ひらの〈同 万〉 みづくきのをかの〈同 万〉 かけの〈石 万 いかしほ〉 ゆらの〈紀 新古長方〉ゐなの〈攝 千隆信〉

〔藻鹽草〕

〈五水邊〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0568 湊 揖保湊〈播州 更る夜にね覺てきけばはりまがたいほのみなとに千鳥鳴なり〉 射水湊〈越中〉 猪名野湊〈攝州 しなが鳥、ふね、月、夕鹽、千鳥、鶴、 うきねする井なの湊にきこゆ也鹿の音おろす峯の松風〉 小野湊〈伊勢 みそぎ、松、いなふね、 ながれあしのすゑ葉も見へずなりにけりをのヽみなとの五月雨の比〉 苧生湊〈同右 いせの海やをふのみなとに引あみのうけくに人をうらみてぞふる〉 織面湊〈筑前 あさくらやをめのみなとにあびきせば〉 唐湊〈薩摩海人〉 顏湊〈出羽 戀しき波〉 掛湊〈丹後 あちかまのかけのみなとに入しほのこてさすくもるわかてねなくも〉 かこの湊〈さしのぼるかこのみなとの夕鹽に松原こしてちどり鳴也〉 よ佐湊〈同右 松たてる、夕凉み、奧つ鹽風、船出す、友よぶちどり、〉 淀湊〈泉州 船ならぬよどのみなとやうらむらん人の心もさだめなき世に〉 高砂湊〈播州 ちどり〉 袖湊〈ちくぜん もろこし舟、あまを舟、里のしるべ、あだ波、うき枕、涙の袖のうきね、月、涙河、よる〳〵さはぐちどり、我袖の見なとや、こひのとまり、〉 難波湊〈攝州 霜がれの難波のあしのほの〴〵と明る湊にちどり鳴也、此外よめる事、潟に同、〉 那古湊〈波さはぐなごのみなとの浦風に入江のちどりむれてたつ也、〉 八十湊〈近江 海みなとはやそちいづくにか君が舟とめ草むすびけん、千鳥、〉 的形湊〈はりま 人しれぬ音をこそなかめまとかたのみなとのち鳥浪にぬれつゝ〉 戀湊〈伊賀〉 袖のみなと 明石湊〈はりま あはぢ島を漕わたらむと思へどもあかしのみなと猶さはぎけり〉 阿度湊〈あふみ あさりする船〉 阿野湊〈伊勢 見わたりの月は秋なるなみの上にまたほに出ぬあのゝみなと田〉 由良湊〈紀州 ひろふてふ玉さかにだに、舟、夕鹽、霞、月、かぢをたえ、〉 水莖岡湊〈あふみ あまぎりあひひかた吹らし水ぐきの岡のみなとになみ立わたる〉 御津湊〈攝州 大舟、花、〉 白菅湊〈とをたうみ 松かげのいり海、かけて舟人、風のたよりもしら菅の、〉 比良湊〈近江 山おろし、さゝなみ、ち鳥、釣する蜓、玉も、舟出するひらのみなとの朝こほり、さほくたくる音、〉 諏方湊〈信州 かちわたり、こほり、〉

和泉國/堺新水門

〔和泉名所圖會〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0568 堺新水門 堺の新水門は、寛政の初より官家の命ありて、遠淺なるを堀、土砂を運びて、むかしにかはらず海舶入津の水門となりて、繁昌の地となれり、眞なる哉神功皇后の御紀に、住吉太神の往來船を見ると宣ひしも、今こそおもひ當りたれ、

攝津國/武庫水門

〔日本書紀〕

〈九神功〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0568 時皇后、聞忍熊王起師以待之、〈◯中略〉皇后之船直指難波、于時皇后之船、廻於海中、以不進、更還務古水門(○○○○)而卜之、

〔日本書紀通證〕

〈十四神功〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0568 務古水門〈倭名鈔武庫郡、風土記曰、埋其兵器處號曰武庫、今所謂兵庫是也、〉

〔日本書紀〕

〈十應神〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0569 三十一年八月、諸國一時貢上五百船、悉集於武庫水門(○○○○)、當是時、新羅調使共宿武庫、爰於新羅停忽失火、即引之及于聚船、而多船見焚、

兵庫港

〔嘉永明治年間録〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0569 安政五年二月廿五日、堀田正睦亞國事件各條ノ勅ニ答フ、 二月廿五日、傳奏衆、議奏衆、堀田備中守旅宿へ行向はれ、亞國一件勅書各條を以て御問合に付、堀田備中守答書、一墨夷應接假條約の趣、無餘儀次第にて開港候共、舊冬十二月廿日被仰進候通、畿内及び皇居近國を相除候様に被思召候間、攝津兵庫(○○)は除候様に相成間敷哉の事、 答、右は應接筆記中にも粗認御座候通、反復辨論を盡し、可相成丈け取縮爲致談判候得共、諸外夷人共、素京、大坂、江戸の大都會深く見込、眼目に致し願立候儀にて、古來泉州堺、外國人渡來交易仕、京地南蠻寺に有之候趣は傳へ聞居、何分承引不仕候得共、種々手段を盡し、追々談判の上、京師十里四方の地へは、アメリカ人不立入筈に聢と取極候、其代り兵庫を開き(○○○○○)、且山城國の方、南尼ケ崎領内猪名川を限り不立越候様、漸承伏候儀に付、只今兵庫相除候様申談方無御座候、右の場合迄押付候儀は、容易の事に無之段は、深く御恕察被在度事に御座候、 一當時皇居寔以て御手薄の儀思召候間、可然大祿の大名堅固警衞出來候様被遊度思召に候事、答、右ハ兵庫開港に相成候得バ猶更の儀、當時關東には專ら取調にて、叡慮を安じ奉る御存意に御座候、猶御沙汰の趣も有之、別て厚評議仕、夫々取計可申心得に御座候事、

〔嘉永明治年間録〕

〈十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0569 慶應元年十一月十四日、攝津兵庫開港ヲ止ム(○○○○○○○○○)、 兵庫表御開港の處御廢止に付、兵庫奉行池野山城守、堺奉行へ轉役被仰付、その以下役々の者、夫夫轉役被仰付

〔嘉永明治年間録〕

〈十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0569 慶應三年六月、兵庫開港ニ付達、

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0570 壹岐守殿書付 來る十二月七日より兵庫開港、江戸並大坂市中へも、貿易のため外國人居留致し候筈に付、諸國の産物手廣に拵造、勝手に可商賣もの也、 右之趣、御領、私領、寺社領とも不洩様可觸知候、

〔徳川禁止令考〕

〈十三國事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0570 慶應三丁卯年六月四日 兵庫開港之儀、御所被仰出旨達書、 大目付江 兵庫開港之儀ニ付、別紙之通御所より被仰出候旨、京地より申越候間、此段萬石以下之面々江可達候、 六月 別紙 一兵庫被停候事 一條約結改之事 右取消之事 兵庫開港之事 元來不容易、殊ニ先帝〈◯孝明〉被止置候得共、大樹〈◯徳川慶喜〉無餘儀時勢言上、且諸藩建白之趣も有之、當節上京之四藩も同様申上候間、誠ニ不止、御差許ニ相成候、就而者諸事屹度取締相立可申事、 六月 右周防守殿御渡

神戸港

〔兵庫名所記〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0570 一神戸村 宇治川のつヾき往還の村、太平記に紺部(○○)とあり、西の口を走水、次を二

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0571 つぢや屋東を神戸と申て、三所相つヾく、此所より諸國の回船、ふなもちおほし、〈和名類聚に、神戸村と是あり、〉

〔太平記〕

〈十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0571 經島合戰事 四國ノ兵共、大船七百艘、紺部(○○)ノ濱ヨリ上ラントテ、礒ニ傍テゾ上リケル、兵庫島(○○○)三箇所ニ控ヘタル官軍五萬餘騎、船ノ敵ヲアゲ立ジト、漕行船ニ隨テ、汀ヲ東ヘ打ケル間、〈◯下略〉

〔神戸開港三十年史〕

〈凡例〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0571 慶應三年十二月七日、兵庫開港(○○○○)の式は行はれたれども、未だ曾て神戸開港の事なし、〈◯中略〉抑も安政條約は獨立國對等の條約にあらずして、彼は治外法權を有し、我は内地雜居を許さず、此に於て外人居留の神戸村地内に設定さるヽや、神戸、二ツ茶屋、走水の三村を以て互市場と爲せり、而して此時未だ神戸港なる名稱は生ぜざるなり、明治元年更始の新政を施行さるヽに及び、神戸、二ツ茶屋、走水の三村を合して神戸町と命名し、其際創めて公文上に神戸港(○○○)なる文字を見るに至る、故に兵庫開港と云へるは、單に其名のみにして、兵庫港は最初より内外互市に關係する所なし、

〔神戸開港三十年史〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0571 小野濱より正南大約六千九十尺、和田岬より東北約七千百四十尺を神戸港港界線とし、其以内を神戸港(○○○)と爲す、湊川其中央に注ぎて、神戸及兵庫の兩部に區分す、和田岬は直徑相距ること大約一萬二千二百尺にして、明治二十八年、海軍水路部の實測に據れば、湊川の流末は、此和田、生田兩岬を連續せる直線より距ること千六百九十尺とす、湊川より北方生田岬に至る直徑五千九百七十尺、沿岸大約一萬尺の地は、即ち神戸港本部にして、南方和田岬に至る直徑六千百三十尺、沿岸一萬六百尺の地は、即ち兵庫部にして、明治二十五年十月、始めて神戸港區域内に編入されし所なり、

猪名港

〔攝津名所圖會〕

〈六豐島郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0571 猪名〈むかし大物の浦より、今の伊丹池田の邊、東は吹田江口のほとりまで入江にして通船あり、又所々に島ありて濱湊の名あり、〉

〔萬葉集〕

〈七雜歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0571 羈旅作

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0572 大海爾(オホウミニ)、荒莫吹(アラシナフキソ)、四長鳥(シナガドリ)、【居名之湖】爾(ヰナノミナトニ)、舟泊左右手(フ子ハツルマデ)、

〔神樂歌〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0572 大前張 階香取しながどりゐなの湊に(本)、あいぞいる船の、かぢよくまかせ、舟かたぶくな、舟かたぶくな、〈◯下略〉

伊勢國/大湊

〔伊勢參宮名所圖會〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0572 大湊〈高城濱海を隔てゝ向にあり、今一色村より船わたしにて渡る、人家多く廻船つどひて、稍繁昌なり、浪除の堤洲さきに築事、凡百二十間計也、入江あり、なるこ川といふ◯下略〉

〔勢陽五鈴遺響〕

〈渡會郡十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0572 大湊 小林村ノ東ニアリ、小林東口ヨリ大湊西口ニ至リ十五町三十一間半、此間ニ豐宮河ノ下流ノ分流アリ、中小河ト稱ス、〈◯中略〉湊船掛リ、本邑ノ前洲崎ヨリ南北ノ間湊口ノ内ナリ、干汐ノトキ深四五尺ノ處二町アリ、深七尺ヨリ一丈ニ至ル處、長二町、幅一町二十間アリ、潮干ノトキ五百石ヨリ千石ニ至ル舶二十艘餘繫グニヨシ、百石二百石ノ舶ハ百艘許繫グベシ、大風暴浪トイヘドモ如是ニシテ其患ナシ、又滿潮ノトキハ深一丈三四尺、五百石ヨリ千石ニイタリ、海舶百艘モ繫グベシ、百石或ハ二百石ノ舟ハ三百餘艘モ繫グベシ、七八月暴風ノトキハ船ヲ繫グニ惡シ、南北ノ風ニ不佳、東西ノ風ハ妨ナシ、又湊口ヨリ八町半澳ニ標木アリ、即水尾木ト云フ、潮干トノキハ深二尺、或一尺、或ハ一尺五寸、潮滿トキハ深八尺餘アリ、此八丁半ノ間ハ舟ヲ繫グニ宜シカラズ、此湊口ニ海船ヲ繫グニ干滿ニ隨テイタル、滿潮ニ非ルトキハ標木ノ際ニ至リテ、此湊口ニ入ルコト能ハズ、總ジテ諸州ヨリ關東ニ至ル海舶ハ、此湊口ヨリ洋中三里ニアリテ泊スルナリ、其地ヨリ小船ニ運漕シテ此湊ニ入ル、故ニ巨舶ハ多ク此湊口ニ維グナシ、〈◯中略〉本邑ハ諸州海舶ノ湊集スル處ニシテ、常ニ造舟ノ工匠修補ノ巧ヲ盡シ、船材帆檣等ヲ賈スル家多シ、猶粉黛ノ女肆アリ、故ニ民屋近邑ニ勝テ最繁富ナリ、往昔豐臣將軍朝鮮ノ役ニ、軍船ヲ此地ニシテ、九鬼長門守嘉隆ニ命ジテ造リ役ス、〈◯下略〉

〔諸國湊附〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0572 伊勢

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0573 一同國大湊川湊、口之廣サ半町餘、深サ潮滿ニ六七尺、大船六七拾艘掛ル、沖之懸リ場吉、北請間の内しけニ不構、津より戌亥之風眞艫、

志摩國/鳥羽港

〔伊勢路のしるべ〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0573 鳥羽 鳥羽侯の居城あり、加茂より一り、 山に傍、海に臨て、町屋千軒餘、東南海第一の湊にて、繁昌之所也、山田へ行程三り、〈◯下略〉

〔諸國湊附〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0573 志摩 一鳥羽津湊、前ニ島有、三方ゟ入ル、深サ五丈計、東請、沖之掛り場惡し、大船何程も懸ル能湊也、〈◯中略〉伊豆の下田ゟ鳥羽迄、海上五十五里、寅の風眞艫、參州之伊呂子崎ゟ鳥羽江十三里、

遠江國/白菅湊

〔類聚名物考〕

〈地理二十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0573 白菅湊 しらすげのみなと 遠江國 東海道の遠江國に白菅の湊と、俗に云ひ傳ふる所なり、或人云ふ、鹽見坂を下りて、本白須賀といふ里あり、此を白菅の湊といへど、いかにぞやと思ふ、是も後の世の事好む者のわざにや、一里程入ゆきて、荒居の方、右の濱邊にきらか松山といふ里あり、そこの道の間に、南の大海よりさし入濱有り、昔は此海もと白須賀の里の東にて、横に入て有りしが、寶永の比、大地震に山をゆり崩せし時埋れて、今は岡と成たるとぞ、里の翁のいへり、白須賀の里のうつろひしも、その年に有るべし、思ひ合せ見れば、白須賀の湊といふ名も有りぬべしといへり、今案に、白須賀しらすげ、その詞の近ければ、訛てかくも云ひぬべし、白須賀はいにしへのしかすがの渡りを、よこなまれるなり、さらば異所なるべきか、白菅浦といへるは、この白菅湊同所にや、

相模國/浦賀港

〔新編相模國風土記稿〕

〈百十三三浦郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0573 東浦賀(○○)〈比賀之宇良賀〉江戸ヨリ行程十七里〈◯中略〉 湊(○) 東西浦賀の中間ニ斗入セリ、南ヲ首トシ、北ヲ尾トス、〈長二十町餘、幅二町餘、深サ湊口ニテハ五丈餘、〉海路江戸マデ十二里、三崎ヘ四里アリ、房總ノ出崎ト海ヲ隔テ相對ス、其間四里餘、道興准后ノ記ニ據ニ、鎌倉右大將家ノ頃ヨリ開ケシ湊ナリト見ユ、〈回國雜記曰、浦河ノ湊トイヘル所ニ至ル、コヽハ昔頼朝卿ノ鎌倉ニスマセ給フ時、金澤、榎戸、浦賀トテ、三ツノ湊ナリ〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0574 〈ケルトカヤ云々、按ズルニ、西浦賀分郷、小名久此里ノ屬ニ元浦賀ノ名アリ、蓋古ノ湊ニシテ、後年此地ニ移リシナランカ、正保ノ攺メニハ、今ノ地則湊トナレリ、〉享保五年、豆州下田ノ番所ヲ此ニ移サレ、諸國ノ廻船江戸ニ入津スルモノ皆此湊ニ懸リ、番所ノ改ヲ請ク、故ニ日夜衆船輻湊ス、〈其大數月毎ニ三百餘艘、或ハ四百餘艘ニ至レリト云フ、〉又常ニ此湊ニ大小ノ船若干ヲ〈五大力船十一艘、小船五十艘、傳馬船百五十艘、〉繫置テ運漕ニ便ス、港中ニ渡船場アリ、〈幅百間餘〉西浦賀ニ達ス、

〔諸國湊附〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0574 相模 一相州浦賀津湊、口之廣サ三町程、深サ五丈計、東請、沖の懸場、潮早き所ニ而不自由、口ニはへ有、此はへをあしか島と云、登船ニ者構なし、下り舟ニは面揖に置内に入、品川ゟ浦賀迄海上拾三里、北風眞艫(マトモ)、

横濱港

〔横濱開港見聞誌〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0574 四方の波しづかにして、士農工商萬歳をしゆくして、民のかまどは烟り高く立登り、南は長崎、北は蝦夷、唐太、千島に至るまで、人心異る事なく、然もつよし、是を異州へも聞へありて、我日本の勢能をしたひ來る、亞墨利加國一將ペルリといふ者の願ひに御免ありて、江府の南海中、横濱てふ所に新に港御開ありて、中央に運上所を建玉ひ、西の方に我國の商家をつらね、これを本町と云、東の方につヾきて異人商館を立させ玉ひ、万里の波上を越へ、積來る産物を又我國の産に交易のにぎはひ、銀錢の賣上げ、數百万の商ひ、おのづから民の幸、民のよろこびとは成ぬべし、〈◯下略〉

〔横濱沿革誌〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0574 抑モ安政六巳年六月、横濱ヲ開キ互市場トナセシヨリ、内外人陸續來テ開店シ、專ラ貿易ニ從事セリ、爾來今日ノ隆盛ニ赴キシヨリ、當初ノ形跡ヲ尋子ント欲スルモ、今ハ容易ク之レヲ知ル能ハザルニ至レリ、現時横濱市ハ、舊横濱村、同新田、太田屋新田、野毛浦、戸部村、吉田新田、太田村、平沼新田、石川中村、北方村、根岸村、本牧本郷村ノ拾貳ケ村ニ跨リ、猶ホ其幾分ハ郡部ニ屬セリト雖ドモ、數年ナラズシテ市内ニ、編入スベキヤ必セリ、盛ナリト謂ベシ、〈◯中略〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0575 横濱開港顚末 坂田諸遠手記 弘化三年閏五月、北亞墨利加軍艦貳艘、相模國浦賀港へ渡來、船將ヒツテレ、同所奉行大久保因幡守忠豐ニ就テ互市ヲ請フト雖ドモ幕府聽サズ、貳艦空ク去ル、其後嘉永六年六月三日、同國水師提督ペルリ、更ニ大艦四隻ヲ率ヰ、兵五百ヲ聯隊シ、同所ニ入港ス、〈◯中略〉同月六日、米艦進ンデ本牧沖ニ至リ投錨ス、是武藏海ニ外國艦ノ入來セシ始ナリ、〈◯中略〉安政元年正月十三日、米使ペルリ、軍艦七隻ヲ帥ヰ、將ニ内海ニ入ラントス、番吏追テ之ヲ還サントスレドモ肯ゼズ、次日進デ本牧ニ投錨シ、空砲ヲ發シ、海底ヲ測量ス、〈◯中略〉浦賀ニ於テ應接スルハ、到底彼ノ肯ゼザル所ナルヲ察シ、神奈川ニ於テ應接セントノ議アリシガ、〈◯中略〉同所ハ東海道ノ街路ニ當リ、往還頻繁應接所ヲ開クハ煩雜アランコトヲ遠慮シ、江戸表ヘ稟議ノ上、久良岐郡横濱村ニ應接所ヲ新設シ、〈◯中略〉三月三日、横濱村應接所ニ於テ、健、覺弘、政義、長鋭、松崎某等、ペルリト通親永世不朽ヲ締盟シ、下田箱館二港ヲ開キ、總テ十二條ノ約書ヲ交換シ、同月十三日、米艦神奈川ヲ出帆、同月廿一日迄ニ悉ク下田港ニ入ル、以上横濱ニ外國船渡來ノ權輿ナリ、〈◯中略〉 横濱村ハ、舊幕府旗下、荒川金次郞ノ采地ニシテ、新田ハ代官小林藤之助之ヲ支配セリ、安政六己未年、豆州下田港ヲ鎖シ、米英佛魯蘭ノ五國ト和親條約ヲ締ビ、武州神奈川ニ於テ貿易センコトヲ約シ、其筋ノ役々神奈川ニ出張ス、〈◯中略〉先ヅ横濱ニ於テ内外居住ノ地、及役所取締場ノ地位ヲ査定シ、著手順序ヲ計畫ス、〈◯中略〉 宮本小一君曰、亞米利加使節ハルリス、日本政府ニ請テ一旦下田ヲ開カシメ、更ニ神奈川ニ轉ゼシハ、ハルリスノ失策ナリト云ヘリ、蓋シ下田ハ港灣狹隘ニシテ、大互市場トハ爲シガタキヲ、下田ト定メシハ失策ト云ベシ、是或ハ最初ヨリ江戸近ク開港ヲ求ムルトモ、幕府之

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0576 レヲ承知セザレバ、漸ヲ以進ムノ考ニシテ、失策トハ云ガタカランカ、而シテ神奈川ヲ強テ請求シ、幕府之レヲ聞屆タルニ及ビ、彼レハ神奈川驛ノ方ヘ居留地ヲ開ク見込ナリ、然ルヲ此方ニテハ、横濱ヘ一時被理、上陸調印ノ場ナルヲ以、是非此處ト推付ケ談判ス、彼レハ神奈川トアルヲ押ヘテ、街道ニアラザレバ肯ゼズ、我レハ街道ニテハ諸人通行多ク、取締ニ不便ナレバ横濱ト主張ス、彼レハ神奈川驛ハ大名ノ參勤交代通行多ク、隨テ物品賣捌キ方宜カルベケレバ、是非トモ驛ノ方ヲ望ムト主張ス、外國奉行等大ニ困究ス、水野筑後守英斷シ、横濱ノ方ヘ土木ヲ起工シ、我商民ヲ誘ヒ移住セシメ、其勢ヲ以各國人ヲモ承伏セシメ、遂ニ横濱ヘ決ス、然レドモハルリスハ前約ヲ堅ク執テ承知セズ、遂ニ領事丈ケハ各國其國ノ旗ヲ建、驛ノ寺院ヲ借テ寓ス、夫レガタメ此取締等ニ、外國奉行ノ方ニテハ甚ダ手數ト費用トヲカケシナリ、此領事ノ宿守ハ、萬延元治ノ頃迄打續キ居リ、屢々賊徒ノ忍入ル等ノ事アリシガ、横濱隆盛ナルニ隨ヒ、南北ノ相隔リ不便ナレバ、彼モ我慢ヲ折リテ、横濱ノ方ニ段々ト移ル、移ル度毎ニ外務掛ニテハ大ニ安心シテ、一ケ所ヅヽ厄介ノ減ズル心持セリ、

安房國/淡水門

〔日本書紀〕

〈七景行〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0576 五十三年十月、至上總國、從海路、渡淡水門(○○○)、是時聞覺駕鳥之聲、欲其鳥形、尋而出海中、仍得白蛉

〔古事記〕

〈中景行〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0576 此之御世定田部、又定(○)東之淡水門(○○○○○)

〔古事記傳〕

〈二十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0576 淡は安房國なり、〈東之と云は、四國の阿波と分むためなり、◯中略〉そも〳〵此時淡は、いまだ一國の名には非ず、上總國の内にて、其水門と云は、安房と、相模國御浦郡の御崎〈今も御崎と云〉との間を、大海より入海に入る海門なり、〈此入海は、東は上總、西は武藏、北は下總にて包めり、淡水門は、其南方の口なり、さて今天皇の、此水門を渡坐しとあるは、還り上坐道にて、上總より相模へ渡り賜ふなり、〉さて此に定と云は、天皇の渡坐しにつきて、始めて此名を定賜へりとにや、又始めて此海路の開けしを云にもあるべし、

陸奥國/石卷港

〔奧羽觀蹟聞老志〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0577 石卷海門(○○○○)斯地也、市店連屋、漁家比隣、商賈群集、農工雜居、繁華輻輳、殆若江都海濱、商舶之出入、漁艇之來往、日夜泛々、朝夕囂々、賣買不乏、交易不虚、生財之有便、貨殖之有利、廼與攝州大坂、越前敦賀、筑紫博多、出羽酒田膏腴、土産豐饒之富、天下第一之津也、

〔東遊雜記〕

〈二十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0577 石の卷は、奧州第一の津湊(○○○○○○○)にて、南部仙臺の産物此地へ出て、江戸に積、大坂へ廻る、故に諸國よりの入船數多にて、繁昌のみなとなり、案内のものより申上しは、市中千四十七軒、寺院十八ケ寺、社十壹といひし事ながら、湊村蚫田村といふ所にては、予がつもるところ三千軒餘もあるべし、娼家も數家見へて、人物言語も大がいよき所なり、

〔日本書紀〕

〈十一仁徳〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0577 五十五年、蝦夷叛之、遣田道擊、則爲蝦夷敗、以死于伊寺水門、 ◯按ズルニ、伊寺水門ハ、即チ石卷港ナルベシ、

出羽國/酒田港

〔東遊雜記〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0577 廿八日〈◯天明八年六月〉大山村出立〈五里廿四丁〉酒田(○○)の浦に止宿、此所羽州第一の津湊(○○○○○○○)、市中三千餘軒商家にて、人物言語大概にて、諸色乏しからず、九州中國及び大坂より廻船交易の爲に往來して、此津に泊して國中の産物を積事也、大船は宮の浦の川口に寄せ、酒田までやう〳〵三百石積の船ならでは入らず、酒田より川口まで三十五丁有、鶴が岡直道僅に七里、

野代港

〔東遊雜記〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0577 野代といふ所は、湊にて千四百軒の地にて、大概のよき町り、野代川流れ、川上は奧州南部より流れ出て、十九里の間は川舟往來して、此邊の産物皆々此湊に出て、北國九州および大坂の廻船も數多入津して、交易の業あるゆへに、商人多く豪家に見へ、娼家もありて、言語も外より見れば大ひに勝れたり、羽州の内にては最上川第一にて、第二は此所を流るヽ野代川なり、

越前國/敦賀港

〔續諸州めぐり〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0577 敦賀 北海の邊に有町也、奧州、出羽、山陰道、すべて日本の北の海邊にある諸國より船のつく湊なり、中について秋田、坂田、津輕、高田などの舟多し、故に民家多く、富る商人おほ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0578 し、米、大豆、材木など多し、かやうのものを、是より京都の方へ人馬にてはこび、近江の貝津へ出し、貝津より舟に積て大津のかたへつかはす、又京都より諸の賣物を大津へ出し、大津より船にのせて貝津へつかはし、貝津より爰にくだすゆへ、往來の人馬甚多してやむことなし、凡諸國より爰に舟の來る事、三月の末より四五六月の間多く來る、又北國は寒きゆへ茶なし、畿内、近江、美濃、尾張より茶を多く持來て此地にてうり、北の諸國へつかはす、我國へ歸る時はあきなひもの多く買て行、茶町有て大なる商家多く、其町長し、茶の問屋多し、此入海東西の横二里ばかりにみゆる、引田よりながるヽ川有て、其川に舟入る、町の東に氣比の大明神有、これ仲哀天皇の御廟なり、〈◯下略〉

〔敦賀志稿〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0578 此郡は上つ御代には、氣比浦といひしを、吾大神譽田別皇太子と大御名かへましヽおほん時よりぞ、世の人皆つのがとはいひならしけむ、ところのさま、群山たちへだてヽ、いさヽかも他境をまじへず、東は南條郡に隣り、東南は近江國伊香、淺井の兩郡にとなり、西は若狹三方郡にとなり、北は海をいだきて、蝦夷まかつにつヾきたる大洋也、〈◯中略〉入海の間、東西のわたり或は一里或は二里、南北五里餘有、山海の眺望さながら畫にもかよひていとおもしろく、目とヾまる處ぞ多かる、此處より松前に至る船路三百餘里が間には、越後國の新潟と、此敦賀と只二所ぞすぐれてよき湊也といふ、濱は白砂にていと奇麗に、海は底ふかくて、大さのかぎりといふ船も、いそぎはちかくよせ來ていかりおろす也、かヽる處外にはなしといふ、さればにや常に出入舟多くして、いと賑はへり、〈◯下略〉

〔諸國湊附〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0578 越前 一敦賀津湊、口之廣サ拾五町、深サ四丈計、はへなし、西請、間之内しけニ不構、大船何程も掛る、沖の懸り場、丹後蒲入より是迄酉申の風眞艫、

越後國/新潟港

〔東遊記後編〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0579 新潟 越後國新潟は、信濃川其外の川に落合て海に入る所なり、海口近くの一二里の所は、川幅廣き事一里二里ばかり、渺々として湖の如く入り海の如し、岸より岸まで水甚深く淺瀬といふものなし、千石二千石の大船といへどもいづくまでも自由に出入りす、誠に川湊にては日本第一ともいふべし、〈◯中略〉四面打開きたる地にて、北海の廻船出入の大湊なれば、越後第一の繁華の地にて、青樓多くしてにぎやかに、又越後一國の米不殘此湊に出るゆゑ、諸大名藏多く建つ、只北方雪國の事ゆゑ、冬に成ぬれば河水氷閉て、舟の通行絶へ、陸地も雪深く、海上は十月より三四月頃までは、廻船も出る事あたはざれば、夏一季住べき國といふべし、

〔新潟繁昌記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0579 越之爲州、東南皆山、西帶海而北走、所謂沃土千里、百二之國、米山嶺自海崛起、横絶州之中央、嶺北隔十數驛、彌彦、角田兩岳、屹立聳空、阿賀川自奧來、信濃川自信至、聞信濃川合八千八水、到新潟而入海、新潟原一沙嘴、舊稱船江、桑海之變、沙漸隆、地漸拓、明暦年間、民棄原村徙焉、〈原村今不詳其所〉當時開莽者三氏、曰齋藤、曰宮川、曰伊藤、〈伊藤氏今絶〉太平之澤被及海隅、人戸漸密、生齒漸滋、萬治年中開渠、控信濃川竪三横五、以界坊、船隻之便、四方往還坐而達、街南爲頭、北爲尾、五道分達、西一道曰寺坊、以佛刹櫛比也、其東一道、曰古坊、此爲驛路、又東二道曰片原新坊、〈或曰本坊〉極東一道曰他門、坊凡三十餘、他門東北隔渠得二洲、曰榛林、曰毘沙門、人戸通計一萬、寺坊之西瀕海有村、曰寄居、負龍推推即海、佐渡島可撫矣、是此港之槩略也、

伯耆國/那和港

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0579 那和湊〈伯州汗入郡〉

〔太平記〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0579 先帝船上臨幸事 主上船底ヨリ御出有テ、膚ノ御護ヨリ佛舍利ヲ一粒取出サセ給テ、御疊紙ニ乘セテ、波ノ上ニゾ浮ラレケル、龍神此ニ納受ヤシタリケン、海上俄ニ風替リテ、御座船ヲバ東ヘ吹送リ、追手ノ船ヲ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0580 バ西ヘ吹キモドス、サテコソ主上ハ虎口ノ難ヲ御遁有テ、御船ハ時ノ間ニ伯耆ノ國名和湊ニ著ニケリ、

出雲國/大濱湊

〔吾妻鏡〕

〈二十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0580 承久三年七月廿七日庚戌、上皇著御于出雲國大濱湊、於此所坐御船、〈◯下略〉

隱岐國/千波湊

〔類聚名物考〕

〈地理二十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0580 千波湊 ちぶりのみなと 隱岐國

〔太平記〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0580 先帝船上臨幸事 判官〈◯佐々木義綱、中略、〉潜ニ彼官女ヲ以テ申入ケルハ、〈◯中略〉義綱ガ當番ノ間ニ、忍ヤカニ御出候テ、千波(チブリ)ノ湊ヨリ御舟ニ被召、出雲伯耆ノ間、何レノ浦ヘモ、風ニ任テ御船ヲ被寄、サリヌベカランズル武士ヲ御憑候テ、暫ク御待候ヘ、義綱乍恐責進セン爲ニ罷向體ニテ、軈テ御方參候ベシトゾ奏シ申ケル、〈◯中略〉忠顯朝臣或家ノ門ヲ扣キ、千波湊ヘハ、何方ヘ行ゾト問ケレバ、内ヨリ怪ゲナル男一人出向テ、〈◯中略〉千波湊ヘハ、是ヨリ纔五十町計候ヘ共、道南北ヘ分レテ、如何様御迷候ヌト存候ヘバ、御道シルベ仕候ハント申テ、主上〈◯後醍醐〉ヲ輕々ト負進セ、程ナク千波湊ヘゾ著ニケル、

紀伊國/雄水門

〔日本書紀〕

〈三神武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0580 戊午年五月癸酉、軍至茅渟山城水門、〈亦名山井水門、茅渟此云智怒、〉時五瀬命矢瘡痛甚、乃撫劒而雄誥之曰、〈撫劔、此云都盧耆能多伽彌屠利辭魔屢、〉槪哉大丈夫、〈槪哉、此云于黎多棄伽夜、〉被於虜手、將報而死耶、時人因號其處雄水門

〔古事記〕

〈中神武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0580是與登美毘古戰之時、五瀬命、於御手登美毘古之痛矢串、〈◯中略〉從其地廻幸、到紀國男之水門而詔、負賤奴之手乎死、爲男建而崩、故號其水門男水門也、

〔古事記傳〕

〈十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0580 男之水門、神名帳に、和泉國日根郡男神社、〈二座〉和名抄に、同郡呼唹〈乎〉郷あり、〈◯註略〉是なり、日根郡は、和泉郡の南なれば、此も路次よく合り、但紀國とあるは傳の誤ならむか、〈◯註略〉又は古は紀國との堺まで男郷にて、猶古は此郷紀國に屬りしも知がたし、

紀伊水門

〔日本書紀〕

〈九神功〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0580 時皇后、聞忍熊王起師以待之、命武内宿禰懷皇子、横出南海、泊于紀伊水門、皇后之船

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0581 直指難波

長門國/下關港

〔西遊雜記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0581 長門國豐浦郡赤間ケ關〈下ノ關トモ、時ニ赤馬關ト書、〉西國第一の湊にして、浪華より、及中國に及び、九州北國船路往來の咽くびにて、諸國の廻船よらざるはなし、市町及び〈◯及び二字恐衍〉壹万に及ぶ、言語あしからず、諸への便も至てよく、繁昌富饒の地といふべし、

〔諸國湊附〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0581 長門 一下關津湊、口之廣拾町程、深サ五丈計、東請、豐前國田浦之前瀬有、面楫に置、南にしけに惡し、下關之内に竹崎いさきと云湊有、何れも船懸り有、いさきゟ北前〈江〉乘るに小瀬戸有、潮時を考乘、豐前長門の間に大瀬戸と云有、潮早、〈◯下略〉

筑前國/博多港

〔西遊雜記〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0581 博多の地、古き湊にて、むかしは蠻船著岸し、九州第一の湊なりしゆへに、古跡の所も數多にして、名所の古歌も多し、〈ぬれ衣の舊地、尋しに詳ならず、〉湯家も見え、諸國の通路もよき所也、海は深からずして、大船今は入津ならず、〈◯下略〉

岡港

〔筑前國續風土記〕

〈十三遠賀郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0581 岡湊 蘆屋のみなとなり、或岡の津、岡の浦とも稱す、仙覺萬葉の抄には、岡の水門は、筑前國にあり、風土記には、瑦舸(ヲカ)縣の東の側に近く大なる江口あり、名て瑦舸水門といふ、大舶を容るに堪たりといへり、日本紀に、神武天皇、日向國より東征し給ふ時、先筑紫の岡の水門にいたり給ふよし見えつる、然ば人皇のはじめより、すでに此跡の名はいちじるく見えつれば、いと久しき名所なり、或の曰、内浦と吉木村の間、むかしは入海にて、是を岡の湊ならんかといふ、此説非なり、右の仙覺が引ける風土記の説を以て見れば、蘆屋なる事疑なし、いはんや又蘆屋の里民も、むかしより此跡を岡の湊と云傳へてより語り侍ける、歌には、水くきの岡の湊とも讀り、〈◯中略〉此所北面に海有て、其東は遙際なくはるかに、唐土の海に通ずれば、つねの風波あらくして、船客の魂を驚す、されば此

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0582 海は蘆屋洋とて、旅客の甚だおそるヽ所なり、〈◯中略〉永祿元年、秀吉公朝鮮に軍勢を渡し給ひける時、此湊に船をあつめて渡海させらる、池田備中守長吉其事をつかさどれり、此湊近き世まで、三頭の上猪隈の遙迄入海ふかくして、大船滯なく上下せしといふ、今は然らず、

〔日本書紀〕

〈三神武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0582 甲寅十一月甲午、天皇至筑紫國崗水門(○○○)

〔日本書紀〕

〈八仲哀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0582 八年正月壬午、幸筑紫、時崗縣主祖、熊鰐、聞天皇車駕、〈◯中略〉參迎于周芳沙磨之浦、而獻魚鹽地、〈◯中略〉既而導海路、自山鹿岬廻之入崗浦、到水門、御船不進、

〔萬葉集抄〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0582 崗水門は、筑前の國にあり、風土記云、塢舸縣(ヲカノアガタ)之東側、近有大江口、名曰塢舸水門(○○○○)、堪大泊焉、從彼通島鳥旗澳名曰岫門(クキト)、〈鳥旗波多也、岫門久岐也、〉堪小船焉、海中有兩小島、其一曰河㪶島、島生支子、海中出鮑魚、其一曰資波島、〈資波、紫摩也、〉兩島倶生烏葛冬薑、烏葛黒葛也、冬薑迂菜也、

新宮港

〔筑前國續風土記〕

〈十八糟屋郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0582 新宮湊 昔は此所に入海有て、船入し故湊といへり、無題詩集の注に、此所に住吉の神の勸請せし故に、新宮と號といへり、湊の有し、近き世に田となり、今田の底を深く堀ば、蛤蠣の殼多くいづ、此所出崎に神社あり、磯崎大明神と號す、是則住吉の神なり、〈◯下略〉

〔本朝無題詩〕

〈七旅館〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0582舟到新宮湊 釋蓮禪 渡口宿時望地形、幽奇旁似畫圖屏、沙塘岸遠漁村白、松樾山高鳥路青、歸洛老年抛劇霧〈有注〉行舟曉燭插殘星、一留一去春天旅、霞色潮聲入視聽、 藤原周光 征途天曙不形、海渚風流展翠屏、漁戸傍汀春柳暗、靈祠移岸古松青、〈傳聞、住吉靈社移此地、號新宮、故云、〉暫妨解纜千飜浪、渺告歸程一點星、〈謂明星也〉路遠自今唯算日、波卸宜問檝師聽、

肥前國/長崎港

〔長崎港草〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0582 名義 長崎ノ古名數々アリ、昔ハ瓊杵田津トイヒ、又深津江ト云、或ハ瓊浪(タマナミ)浦トシ、瓊

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0583 浦トモ云、又ハ深江浦ト云、後領主ノ氏ニ因テ長崎ト名ヅク、

〔長崎記〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0583 長崎ト名付由來之事 一長崎昔ハ深江浦トテ、片田舍ニテ世上ニ知ルモノ稀也、然ルトコロニ文治ノ比、頼朝公ヨリ長崎小太郞ト云者、此深江浦ヲ給住居ス、彼小太郞深江浦ヲ興立スルニ隨テ、商船等近郷江往來ス、シカレバ於所長崎モノト申、終ニハ深江ノ名ヲ失フ、小太郞末葉於于今大村因幡守家中ニ有リ、

〔長崎港草〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0583 長崎輿地 長崎ハ西海道肥前國彼杵郡ノ屬邑ナリ、其地東ハ抵佐嘉郡廿四里、南海上野母ニ至テ七里、西ハ松浦郡五島ニ到テ四十八里、北ハ藤津郡大村ニ抵テ拾里、至太宰府五十里、到京畿二百拾里、到江府三百三十二里、 形勝 四面ハ皆山ニシテ、襟ニ滄海ヲ帶ビ、東ハ控温泉、西ハ松浦括リ、左ハ睨天草、右ハ接葛城、疊嶂重巒朵々トシテ環拱シ、崇岡峻嶺蝘蜓ノ伏タル如ク、烟雲竹樹上下交〻映ズ、風帆月浦變態無窮ナリ、秀麗明鮮ナル甲於天下、鎭台其中間、上縮下縵、宛鶴翼冲天ノ勢ノ如シ、其地磽确不平、重阻嶮絶ニシテ群山コレガ郭郛トナリ、長江コレガ溝池トナル、マコトニ九州ノ喉ヲ扼ユルノ區ニシテ、富饒ノ地也、

〔長崎記〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0583 長崎町開基并南蠻船初長崎ニ來事 一南蠻船、天文ノ比ヨリ永祿十二年マデハ、大隅ノ内種子島、豐後、又ハ福田、横瀬浦ナドヽイフ所ニ著船シテ、其所々ニテ商賣ヲス、シカレドモ蠻夷コヽロニ應ズル湊ナシ、然ルトコロニ長崎ノ湊海底深ク、三方山高有テ難風凌ヨク、第一ノ湊ナリト見立、元龜元年ニ初テ長崎江著船ス、因玆上方諸國ノ商人假屋ヲ立商賣ス、其比今ノ内町ハ、大村ノ領主大村民部入道理專領知ナリ、就夫理專家來友永對馬ト云者ヲ差越、蠻夷共末々マデモ此地江於著岸ハ、町ヲ可取立ヨシ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0584 約束イタシ、則元龜二年ニ町割ヲナシ、國々所々ヨリ集候モノ同國一所ニ置其國ノ名ヲツケ、豐後町、大村町平戸町、五島町ナドヽ名ヅケ、町ノ頭人定、今ノ町年寄ノ先祖是也、

〔長崎港草〕

〈自序〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0584 夫長崎舊名深江浦、其爲地也、在極西偏陬、而民僅耕山田海濱、以爲生計爾、元弘三年長崎勘解由左衞門、辟兵亂而來、僭領此地、其十二世裔甚左衞門頼純之時、因氏更名長崎焉、而永祿元年明船來、舟最鉅大、多載貨財、以求交易事以聞于京、將軍源義輝卿、命小島備前守、監其事、小島氏振威無憚、於是乎長崎氏狠之、夜襲殺之、奔于筑後、當斯之時、長崎無邑主、元龜元年蕃舶初來、斯定交易場、同二年有馬修理大輔、大村理專、與長崎之邑長等議、建六街以便交易、然後蕃舶歳來、四方商賈群集、日作廛鋪、爲廿三街、聿開繁華之區、於是蕃人邪徒自建寺觀之、教以左道熒惑、以長崎己之有、而天正十五年太閤豐臣公驅遂邪徒、鍋島氏、寺澤氏相繼兼攝、文祿元年村山東安承豐臣公之命、更建數十街、共爲八十街矣、慶長八年、東照神君改置鎭府、寛永十八年置東西兵衞以制邊宼、從是、以來、庶民就安、物各得其所、融朗之化、至今益盛也矣、〈◯下略〉

〔采覽異言〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0584 ポルトガル 波爾杜瓦爾〈◯中略〉 西蕃之來、自此國始、〈◯中略〉元龜元年庚午春、至肥前國求以互市、置場於彼杵海口、兼演其教法、今長崎港即此、

〔長崎夜話草〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0584 黒船入津始之事 元龜元年庚午の歳にや、南蠻の黒船一艘、津の外の西浦福田といふ所に漂ひ來りて、荷物など賣買ぬる次手に、深江の湊を見て、是こそ世界一の湊よと悦び、來年よりは此津に來るべしと約束してかへりぬ、是に依て元龜二年三月に、大村領主の家臣、友長氏なる者に仰せて、諸國商人の旅宿なくてはとて、地割ありて、高來、大村、平戸所々の商人、家宅を營み建つる事五六町なりし、案のごとく其年の夏、亞媽港より黒船二三艘、數千貫目の商物とり積來りぬ、是より年ごとに絶ず、五

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0585 七艘、又は十艘來らぬ年はなかりし、此故に漸く人の住家も數そひ、町も多く成て、今の榮へとはなりしなり、〈◯下略〉

〔長崎港草〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0585 紅毛來長崎 黒船御禁止トナリテ、此津ノ民世渡リスベキ生業ナキコトヲ憐ミ玉ヒ、多年平戸ヘ來リシ紅毛商舶、此港ニ至ラシムベキ旨、江府ヨリノ命アリテ、寛永十八年巳ノ年ヨリ、長崎ノ港ヘ入來レル事トナリヌ、元ヨリ町家ノ住居ハ猥ハシケレバ、蠻夷ノ爲ニ建置タル出島ノ空タルニ籠メ置レケル、夫ヨリ以來渡海毎年絶ルコトナシ、サテ又平戸ヘ紅毛ノ來レル始ハ、慶長十三年ニテ、寛永十八年マデ凡三十餘年ノ間ナリシ、〈◯下略〉

〔本朝世事談綺〕

〈五雜事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0585 長崎港 異國の商舶、上古は筑前の博多に著、二百年以來は、周防或は豐後の府、薩摩の防津、肥前の平戸につきたり、元龜年中、肥前の長崎一ケ所に極る也、始は深江の湊といひし也、大坂より海上凡百四十八里、

〔諸國湊附〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0585 肥前 一同國長崎津湊、口之廣サ貳町計、沖に島有、〈◯中略〉大船何程も懸る、沖之掛り場吉、間之内、しけに不構、〈◯下略〉

平戸港

〔徳川禁令考〕

〈六十二貿易允裁〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0585 元和二辰年八月廿日 伊祇利須船狼藉御法度 條々 一自伊祇利須日本商船、於平戸口賣買、他所不之、縱雖風濤之難、到本邦之地、不異儀并諸役免除之事、〈◯中略〉右可守此旨者也

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0586 御朱印 元和二年八月廿日

〔徳川禁令考〕

〈六十二貿易允裁〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0586 元和三巳年八月十六日 阿蘭陀人江御朱印并松浦肥前守江奉書〈原註、阿蘭陀人ニ再御朱印被下賜文、松浦肥前守江御奉書被成下之、台徳院様御朱印之寫〉 阿蘭陀商船到本邦渡海之節、縱遭風波之難、雖著岸、日本國裏孰地聊以不相違也、 元和三年八月十六日 ケンレイカホロワル 奉書之寫 尚以京都堺商人も、其他へ可罷下候間、相對商賣致候様尤候、 急度申入候、阿蘭陀船於平戸、前々之如くかびたん次第ニ商致候様ニ可成候、不申候得共、伴天連之法ひろめざる様ニ可仰付候、恐惶謹言、 八月廿三日 土井大炊頭 安藤對馬守 板倉伊賀守 本多上野介 松浦肥前守殿 人々御中 元和四午年八月 黒船いぎりす船之儀ニ付奉書 急度令啓候、仍黒船いぎりす船之儀、於長崎平戸商賣之旨、至于諸國諸湊仰出罷上候、寄事於商賣、密々にも不其法様可申付旨上意候、恐々、

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0587 元和四午年八月 右五人衆〈五恐四之誤〉松浦肥前守殿 長谷川左兵衞殿 追而唐船之儀ハ、何方江著候共、船主次第於其所賣買旨被仰出候、

日向國/縣河港/細島港

〔日向經緯略記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0587 日向州〈◯中略〉西ヨリ流レ來ルヲ阿加河ト云ヒ、東ヨリ來ルヲ小出河ト云フ、此二ツノ河南ニ流レテ、八戸(ハツト)村ノ西邊ニ來テ、合シテ一河トナリ、南流シテ栗野名村ト河島村ノ間ヲ流レテ、遂ニ此ノ灣内ニ注グ、此ヲ以テノ故ニ、此海灣ハ頗ル運送便利ノ港ナリ、此ヲ【縣河】(アガタ)【ノ港】ト名ケ、亦東海港トモ云フ、又此ノ縣河港ノ南ミ五里許ニシテ、細島(○○)ト云フ處アリ、此處モ又一箇ノ海灣ニシテ、天然ニ成レル海港ナリ、凡ソ此ノ隣國ニ、細島ヨリ便要ナル港ハアルコトナシ、故ニ日向一國ノ諸候、關東へ交代ノ砌リハ、上ルモ下ルモ皆此ノ處ヨリ舶ヲ出入ス、飯肥ノ伊東侯ナドハ、自國ニモ港ハ數ケ處アレドモ、此處マデ四日路來リテ船ニ駕ルコト常例ナリ、是ノミニテモ此ノ處ノ便要ナルヲ知ルベシ、故ニ此ノ細島ハ、諸國ノ海舶輻湊シ、日州第一ノ都會ナリ、

薩摩國/唐港

〔麑藩名勝考〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0587 唐湊〈即坊津、方角集、◯中略〉 凡港口の廣三町四十間餘、直に西に向ひ、東に入て、更に南に曲り、下濱深浦の曲に至り、凡十有二町、其中に突出する嵒を鶴觜と云、大坊より港中に出る事二町餘、森々たる樹間に朱の玉墻あり、素箋烏尊を祀て、祇園宮と稱す、此港の山形鶴の翔るに依稀するをもて、舞鶴の浦とも、嘴の浦とも云、因て其長く南出るもの即鶴崎とは稱る也、又鶴嘴の東灣は下濱、南灣をば大坊と云、凡港中海の深サ四十有餘尋より三十六尋に至る、故に口狹くして入遠く、底深して中廣し、回岸連り抱き唯西一方を欠く耳大瀛に接すといへども、別に一の瀦海となる、〈◯下略〉

〔地理纂考〕

〈十一薩摩〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0587 川邊郡坊津村

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0588 坊津(バウノツ)港 往古唐湊(○○)トイヘリ、方角集ニ即チ唐湊トアリ、武備志登壇必究、并ニ坊津ニ作ル、海東諸國記房津ニ作ル、偖坊ノ津ノ名ハ、當郷一乘院往古大寺ニテ、上ノ坊、中ノ坊、下ノ坊等ト數坊アリシガ、遂ニ地名トハナリシナリ、抑此ノ湊ハ、皇國三津ノ一ツニテ、〈筑前博多津、伊勢安濃津、薩摩坊津、〉武備志ニ津要有三津、皆商船所聚、通海之口也、西海道有坊津、〈薩摩州所屬〉惟坊津爲總路云々トアリ、當津ハ皇國西海ノ邊陲ニシテ絶域ニ對望ス、因テ昔時支那西洋ノ通商、互市スル者、此ノ津ニ輻輳テ自由ヲ得タリ、因テ唐湊ト號ク、當時此ノ所ハ市店檐ヲ連子、樓屋甍ヲ並ベ、人煙富庶ナリシヲ、慶長年中、肥前國長崎ノ湊ヲ以テ、諸蕃來朝ノ湊ト定リシヨリ、自然ト繁華地ヲ拂ヒテ、遂ニ一漁村トナリニタリ、然レド良港ナレバ旅船數艘碇泊常ニ絶エズ、且漁獵餘多ナレバ、自然ニ其潤澤アリテ、豪富ナルモ少カラズ、偖此ノ地層岡疊山三面ニ環リ、其内ニ海灣アリテ、湊口西ニ向ヒタルヲ東ニ入ル、更ニ南ニ轉ル、湊口ノ濶キ三町四十間、湊ノ奧マデ十二町餘、周廻三十餘町、深サ三十六尋ヨリ四十餘尋ニテ、高岳三方ニ回リ、只西ノ一方ノミ大瀛ニ接スレド、猶湊口ノ左右ヨリ、其ノ觜、呉(クレ)ノ碕(サキ)ナドイヘル、山岳餘多海中ニ遠ク突出シテ、其嘴喰違タレバ、イカナル大風トイヘドモ更ニ難アル事ナシ、又良港ナルノミナラズ、四面怪嵒奇石連リ、其風景ノ奇絶ナル、唐畫ノ山水ニ似タリ、 ◯按ズルニ、唐港ノ事ハ、津篇坊津條ニ詳ナリ、參看スベシ、

山川港

〔地理纂考〕

〈十四給黎〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0588 山川港 山川鳴川ノ兩村ニ亘レリ、天然ノ海灣ニシテ、其周廻凡一里、港口東ニ射シ、濶凡八町、港底深數十尋ナリ、港ノ形状瓢ニ似タリ、港ノ口瓢ノ頭ニテ、港内ハ其腹ノ如シ、又鶴ノ兩翼ヲ伸タル形チニ似タリトテ、里人ハ鶴ノ港トモ稱ヘリ、此湊ニ泊繫スル大小船、如何ナル大風トイヘドモ更ニ難アル事ナシ、殊ニ薩摩大隅二國ノ間ノ海水、南ヨリ北ニ入ル事數十里ノ裏海ナルニ、此湊其海口ニアリテ、舟船ノ出入停泊便リヨシ、故ニ琉球諸島、及四方ニ往來スル大船巨舶、風候ヲ待ノ所トス、固ヨリ當縣ノ舟舶ハ言モ更ナリ、四方ノ商船賈舶常ニ輻湊スルヲ以

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0589 テ當所ハ艚戸豪賈多クシテ、人烟繁茂セリ、且支那及朝鮮等ノ漂船近地ニ來著セシ時ハ、此湊ニ引入レ、後長崎ニ護送ス、此地海門ノ藩籬ナルガ故ニ、往古島津久豐命ジテ、城下ヨリ鎌田清只兒玉某ヲ此地ニ移シ、非常ニ備ヘシトイフ、

〔西遊雜記〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0589 山川の津は、海深く舟入も能湊にて、町も大概にて、風景も有所也、土人云、むかしは此浦より大守船に乘らせられ、日向洋を渡り、伊與地に添ふて御參勤ありし事也しに、日向灘に至てあしき海上にて、いつの御代にや危き事有し故に、今は其沙汰なし、然共御館船藏御覽の通といひき、いかにも能き御旅館あり、又云、此浦よりぬり舟の飛船に、艫も十挺もたて、眞一文字に南海を押切りて、伊豆の下田浦へ渡海すれば、十日のうちには必著せる事にて、日和さへあしからねば五六日に至るといへり、信じがたき事ながら、さもある事にや、經過の舟路は遠からぬやふにも思はるヽ也、

蝦夷/箱館港

〔東遊雜記〕

〈十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0589 龜田は大概の町にして、此所ゟ箱館(○○)へは圖〈◯圖略〉のごとく三十丁計の所にて、近しといへども、御巡見所にあらざれば至らず、有川の海濱より見るに、賣船數多入津して、白壁なども見へて、よき所とおもひしゆへ、案内のもの其外の人々にも委しく尋聞しに、市中は家千軒餘、松前より東の方の産物は、みな〳〵此所へ出るゆへに、諸州の商船多く入津して交易するゆへ、賣女抔もあまたにて、大きに繁昌せる所なりと言へり、〈◯中略〉松前の御城下を第一として、西の方にて江指浦、東の方にては箱館とて、松前の三ケの津(○○○○○○○)と稱す、何れも聞しに違ひて甚よき所なり、

〔北海道志〕

〈七海〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0589 渡島國 函館港  龜田郡ニ在リ、北緯四十一度四十六分十秒、東經百四十度四十四分三十八秒、東西一里二十町五十八間、南北一里二十四町三十三間、深凡八十九尺、港口西南ニ向フ、安政六年六月、開港シテ互市場ト爲ス、地勢海ニ斗入スルコト凡三十町、盡頭ニ山アリ、屈曲シテ巴字形ヲ爲

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0590 ス、故ニ八風虞ナシ、昔貞享、元祿ノ間ヨリ、此港ノ松前、江差ニ勝ルヲ知リ、海舶漸ク輻湊シ、又漁利多ヲ以テ龜田ノ民居ヲ此ニ移シ、又他邦ヨリ來ル者アリテ、遂ニ繁華ノ地トナレリ、然ルニ此港南部佐井トノ間ニ亦急潮アリテ北ニ瀉グ、和船ハ横絶尤難シ、寛政以來漸ク航路ヲ辨知シ、多ク此ヲ渡ル、但秋冬ハ風濤壯猛、故ニ松前ニ渡ルト云、

〔北海道志〕

〈二圖説〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0590 渡島國、〈◯中略〉蓋聞ク、此地松前(○○)、江差(○○)、函館ヲ三港ト稱ス(○○○○○○○○)、而テ松前ハ昔時ノ首府ニシテ人烟稠密、西十八里ニ江差アリ、地狹ク俗樸ナリ、民吏ヲ懼レ敢テ法ヲ犯サズ、山ニ盜賊ナク、市ニ乞丐ナシ、倉庫ヲ山ニ造リ、監守ヲ置カズ、其風俗ノ美、松前地方ノ及ブ能ハザル所ナリト、唯其風氣日ニ開ルニ至テ、其俗或ハ古謂フ所ノ如クナラザルヲ知ンヤ、松前ノ東二十五里ニ函館アリ、山圍ミ水深ク、泊船風波ノ患ナシ、此三港ヤ、三陸、二羽、加賀、能登、越後、佐渡、大坂、肥前等海舶輻湊、大賈富商有無交通、各北地ノ一都會トス、故ニ其民多ク奢侈ヲ好ミ遊宴ニ耽リ、小利ヲ規セズ、生計ニ疎ナリト、此其習慣然ラシムル所ナリ、幕府再ビ奉行ヲ箱館ニ置クニ及テヤ、五稜郭ヲ建テ、砲臺ヲ築キ、守備ヲ嚴ニシ、開港互市ノ所ト爲ス、今ヤ歐米諸洲ノ船舶日夜入口、貨物麕至シ、〈◯中略〉其繁盛獨三港ノ第一ニ居ルノミナラズ、我邦ノ都會亦指ヲ此ニ屈スベシ、

松前港

〔北海道志〕

〈七海〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0590 渡島國 福山港(○○○) 一ニ松前港(○○○)ト云、松前郡ニ在リ、北緯四十一度廿五分四十一秒、東經百四十度八分三十二秒、東西二十九町十間、南北十五町十八町四尺、深八十七尺、港口北東ニ向フ、此港寒氣峻烈、海風強暴、泊船ニ便ナラズ、

江指港

〔北海道志〕

〈七海〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0590 渡島國 江差港 檜山郡ニ在リ、北緯四十一度五十二分十秒、東經百四十度八分三十秒、東西二十町十一間四尺、南北十三町三十六間四尺、深四十七尺、港口南西ニ向フ、此港ハ鷗島ニ傍フテ舟ヲ泊ス

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0591 ベシ、西風ニ覆溺ノ虞アリ、然ルニ越前敦賀、及ビ長崎、大坂等ヘ通ズルコト便ニシテ、仙臺、南部、津輕等ノ及ブ所ニ非ズト、

小樽港

〔北海道志〕

〈七海〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0591 後志國 小樽港 小樽郡ニ在リ、北緯四十三度十一分三十五秒、東經百四十一度五十五秒、東西十五町、南北十町、深三十六尺、港口東北ニ向フ、舊名手宮灣、明治五年六月改稱ス、但小樽ハ港ノ總稱ニシテ、手宮灣ハ其西北端ニ在リ、小樽ヲ距ルコト一里餘、


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Last-modified: 2022-07-23 (土) 17:18:52