https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1228 湖ハ、ミヅウミト云フ、水海ノ義ニシテ、水トハ鹹水ニ對シテ淡水ヲ謂ヘリ、但シ湖ニハ希ニ鹹水ノ通ズルモノアリ、遠江ノ濱名湖、若狹ノヒルガ湖ノ如キ是ナリ、湖ノ最モ大ナルモノヲ近江ノ琵琶湖ト爲ス、其風景ノ明美ナルハ、駿河ノ富士山ノ壯麗ナルト對照シテ、夙ニ邦人ノ誇トスル所ナリ、

名稱

〔倭名類聚抄〕

〈一河海〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1228 湖 廣雅云、湖音胡、大池也、〈和名三都宇美〉

〔箋注倭名類聚抄〕

〈一水土〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1228 按美豆、淡水也、湖者淡水而廣大如海、故名美豆宇美也、〈◯中略〉廣雅十卷、魏張揖撰、所引釋地文、原書無大字、按楚辭九歎注、湖大池也、與此合、又説文、湖大陂也、又云、陂一曰池也、然則大陂亦猶大池也、尚書禹貢正義、大澤畜水、南方名之曰湖、風俗通、湖者都也、言瀆四面猥都也、

〔類聚名義抄〕

〈五水〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1229 湖〈音胡〉 〈水ウミ〉

〔枕草子〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1229 海は 水うみ

〔八雲御抄〕

〈三上地儀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1229 湖 ころしま〈俊抄〉 ころひな にほてる しなてる みづうみ しほならぬうみ 近江には、八十の泊有、

〔拾遺和歌集〕

〈三秋〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1229 ちくぶしまにまうで侍ける時、もみぢのかげの水にうつりて侍ければ、 法橋觀教 水うみ(○○○)に秋の山邊をうつしてははたばりひろき錦とぞ見る

〔和漢三才圖會〕

〈五十七水〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1229 湖〈音胡〉 和名美豆宇三 湖、大陂也、〈◯中略〉 按、湖似海而其水淡、故名水海、江州湖形似琵琶、故名琶湖、其長可二十四里、遠州之江湖亞之、故得近江遠江之名、信州諏訪湖、其湖中、有温湯亦一異也、佐渡布勢湖、其外奧州、賀州、因州亦有湖、

〔東雅〕

〈二地輿〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1229 湖ミヅウミ 水海也、古時湖水をばアフミノミと云ひけり、萬葉集抄に、アハウミとは、シホウミにあらざる水海なるをいふなり、と見えしこれなり、海と云ひしは、其水大きにして海の如くなるが故なり、近江國をチカツアフミといひ、遠江國をトオツアフミと云ひしが如きこれなり、其近遠をわかちいひしは、京畿を相去るの近遠をいふ也、〈◯註略〉又古には、湖の字讀てミナトともいふ、阿波國風土記の中湖、讀て中の水門といふ此なり、

〔倭訓栞〕

〈前編三十美〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1229 みづうみ 倭名抄に、湖をよめり、水海の義也、古へ淡海といへり、近江の湖を琵琶湖といふは、其形の似たる也、海東諸國記に、崇神天皇元年、開近江州大湖といふは、我邦此説ある事久し、もとより妄也、讀書管見に、南方止水深濶通謂之湖、北方止水深濶謂之海子と見えたり、西湖の如きは、船の往來する河也といへり、石花の海は、萬葉集長歌に見ゆ、駿河國富士山の戌亥

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1230 の隅にある大湖也、猪苗代の湖は、陸奧國若松の東笹山近き所也、共に近江に續ての大湖也、

名湖

〔八雲御抄〕

〈五名所〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1230 海 あふみの海〈近 夕波千鳥〉にほの〈同、にほの水海、源氏、〉みほの水〈同 已山水海〉よこ〈同〉ちくまの〈同◯中略〉あしりの〈近 万、たか島の湖也◯中略〉ふせの〈同(越中)万、 水海也◯中略〉すはの〈信 水海、氷上渡、〉

〔藻鹽草〕

〈五水邊〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1230 海〈同名所〉 伊香海〈近江、みるめ◯中略〉濱名海〈とほたうみ、むすばぬ浪、◯中略〉鳥羽淡海〈常陸 秋風、白なみ、◯中略〉足利海〈近江 たかしまのあしりの海を漕すぎてしほつしが浦今かこゆらむ◯中略〉蘆海〈相州 けふよりは思みだれてあしのうみのふかきめぐみを神にまかせて◯中略〉志賀海〈近江〉比良海〈右同 玉も、あま、〉

遠江國/濱名湖

〔東海道名所圖會〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1230 濱名湖 濱名は郡名也、國號遠江も此湖水に其也、一名猪鼻湖、又は遠湖ともいふ、和名抄に、近江を知加津阿不美、又淡海とも書す、故に遠江をとほつあふみと對する也、契冲の代匠記にも、ちかつあふみ、とほ津うみの事具にみへたり、又近きとし、蝶夢幻阿彌が遠津湖記に、もろこしの西湖といふ所のさま、繪にうつせしを、今思ひあはすに、孤山といふ所に露たがはず、此水うみのほとりの第一の景地ならし、おほよそ湖の廣さ、北に入事五里にあまり、東西四里にすぐ、南はひたぶるの大海也、山々三方にならび立りと云々、

〔遠江國風土記傳〕

〈一濱名郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1230 新井〈◯中略〉 荒之崎〈◯中略〉 寶永四年、關司政愈書曰、〈◯中略〉明應八年六月十日甚雨大風、潮海與湖水之間驛路沒、日箇崎千戸水沒、 ◯按ズルニ、富士歴覽記ヲ檢スルニ、八年六月飛鳥井雅康遠江ニ在リ、其記事絶テ風雨ノコトニ及バズ、而シテ七年八月二十五日ニ地震風雨アリシコト諸書之ヲ記ス、八年六月ハ、恐ラク七年八月ノ誤ナルベシ、

〔足利季世記〕

〈二舟岡記〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1231 義晴御誕生之事 同年〈◯永正七年〉ノ八月七日ノ夜、大地震ヲビタヾシクシテ、國々堂舍佛閣顚倒シ、〈◯中略〉其地震七十餘日不止ニシテ、アマツサヘ、八月廿七日、廿八日兩日ノ間ニ、遠江國エ大浪オビタヾシク來リ、陸地忽ニ海トナル、今ノ今切ノ渡ト申ハ是也、 ◯按ズルニ、今切渡ノ事ハ、渡篇荒井渡條ニ詳ナリ、參看スベシ、

〔海道記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1231 十一日〈◯貞應二年四月〉に橋本をたつ、橋のわたりより行々たちかへりみれば、跡にしらなみのこゑは、すぐるなごりをよびかへし、路に青松の枝は、あゆむもすそを引とヾむ、北にかへりみれば、湖上はるかにうかんで、なみのしは水の顏に老たり、西にのぞめば湖海ひろくはびこりて、雲のうきはし風のたくみにわたす、水郷のけしきは、かれも是もおなじけれども、湖海の淡鹹は氣味これことなり、浥のうへには浪に翥、みさご涼しき水をあふぎ、舟の内には唐櫓おすこゑ、秋のかりをながめて夏の空にゆく、本より興望は旅中にあれば、感腸しきりに廻りておもひやみがたし、

〔東關紀行〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1231 橋本と云所に行つきぬれば、きヽわたりしかひありて、氣しきいと心すごし、南には湖海あり、漁舟波にうかぶ、北には湖水有、人家岸につらなれり、其間に洲崎遠くさし出て、松きびしく生つヾき、嵐しきりにむせぶ、松のひヾき波のをと、いづれときヽわきがたし、行人心をいたましめ、とまるたぐひ夢をさまさずといふ事なし、みづうみにわたせる橋を濱名となづく、ふるき名所也、

〔梅花無盡藏〕

〈二七言絶句〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1231 濱名湖〈十三日、出大昌寺、疾風暴雨、午後嘗大岩寺人見石(ヒトミイシ)、熊坂(クマサカ)石等嶮、晩間歴駿河遠江黍(キヒ)里此湖、寔如畫圖、〉 漸過三河遠江、濱名湖上置佳郷、願言喚起龍眠老、一軸中間令筆忘、〈陽唐與江通、見山谷詩、〉

〔丙辰紀行〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1231 今切 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1232 遠州荒井の濱より、奧の山五里ばかり海となりて、大船も出入事、むかしは山につヾきたる陸地なりしが、中比山より、ほらの貝おびたヾしくぬけ出て海へ入ける、其跡かくのごとく海となりて、今切と名づくるよし、古老いひつたへたり、我國は伊弉諾、伊弉册のうみ給ひ、大己貴、少彦名のつくられけるといへば、其むかしはいかヾ侍りけむ、もろこしの華山を、巨靈が擘開して水をやりける事も侍るにや、 一葉扁舟寄旅身 潮波通信遠州濱 海山何借巨靈手 我國元來造化神

相模國/蘆湖

〔東遊行嚢抄〕

〈十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1232 筥根湖水 此湖水長サ三里許、幅或ハ一里、或三十町、或ハ二十町許ノ所モアリ、北ノ方ニ湖水ニ落ル所ヲ海尻ト號ス、駿州之御厨ト云所ヨリ、荷物ヲ海尻エ上テ、小船ニ積テ峠ノ驛、并ニ元箱根ノ宿ヘ運送ス、 此湖ノ水底ニハ杉ノ大木多ク沈テアリ、何ノ代ニ沈ミケルヤラン、于今不朽シテ多ク在ト云々、稻葉美濃守正則小田原ノ城主タリシ時、此湖水ノ大杉一木ヲ引上テ、紹大寺ノ造營ノ用木トセラルヽ、其幅一丈餘ノ杉板アリト里俗ノ説ナリ、

〔東海道名所圖會〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1232 筥根湖水 一名蘆の湖(○○○○○)といふ、富士八湖の其一也、箱根の山嶺にあり、長サ三里許、巾一里餘、其中に左尾崎、右尾崎、三ツ石、塔ケ島等の字あり、産物は鱒腹赤也、䱱魚は山中の溪川に生ず、小兒五疳の妙藥に用ゆ、

〔東關紀行〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1232 猶ゆきすぐるほどに、筥根の山にもつきにけり、岩がねたかくかさなりて、駒もなづむばかり也、山のなかにいたりて水うみ廣くたヽへり、箱根の湖となづく、又蘆の海(○○○)といふもあり、權現垂跡のもとゐけだかくたふとし、朱樓紫殿の雲にかさなれる粧ひ、唐家驪山宮かとおどろかれ、巖室石龕の波にのぞめるかげ、錢塘の水心寺ともいひつべし、

〔日本實測録〕

〈十二湖沼〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1233 相模國 蘆湖 周迴四里三十町五十九間半

常陸國/蒜間湖

〔新編常陸國誌〕

〈六山川〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1233 蒜間湖〈比留麻乃衣〉 舊名阿多可奈湖、〈如字〉鹿島、茨城二郡ノ間ニアリ、東西十四里、南北二里バカリ、古ヲ以テコレヲ推セバ、那珂、鹿島ノ堺ナリ、俗或ハ日沼〈比奴麻〉ニ作ル、舊誌涸沼湖〈訓同上〉ニ作レルモ、亦俗言ニヨレルナリ、今湖邊ノ土人ニコレヲ尋ヌルニ、言所一ニアラズ、或ハ比奴麻宇良、或ハ比留奴麻、或ハ比呂宇良トモ云ノ類、紛々辨ジ難シ、タヾコノ湖ノ水源、大橋村ノ土人傳ル所ハ、全ク比留麻ナリ、其水路ニテ、笠間、長岡ノ邊、傳ヘ云ヘルモ亦同ジ、ヨク其語ヲ傳ヘタルモノナリ、風土記香島郡ノ堤堺ヲイヘル處ニ、北ハ那賀香島ノ堺、阿多可奈湖トアルコレナリ、コノ名義考フベカラズ、或云、阿多可奈湖トハ、暖湖ナリ、蓋コノ湖水勢疾カラズ、水留滯シテ清冷ナラズ、故ニコノ名アリ、且風土記ニ、香島郡ノ内ニ大沼アリ、コレヲ寒田ト稱スト載タレバ、暖湖寒田相對セルノ名ナルベシト云ヘリ、然レドモイマダ定論トシ難シ、後蒜間ニ更ムルモノ、何レノ時ニアルヲ知ラズ、將門記ニ、吉田郡蒜間之江邊、拘得掾貞盛源扶之妻云々ト見エタリ、吉田郡ハ古ノ那珂郡ノ内ナリ、湖東平戸村ニ、貞盛ノ宅跡今猶存セリ、蒜間ヲ以テ名トセルモ、亦日中ヲ比留麻ト云ヘル義ニテ、亦暖湖ノ意ヲウケタルモノニヤ、タシカナラズ、〈原本頭書再按、ヒルマハ廣間ノ轉ニテ、セヌマニ對セシ名ナリ、一郡ノ内ニ大小ノ二湖アル故ノ俗稱ト見エタリ、セヌマハ千波ナリ、〉大掾傳記ヲ按ズルニ、吉田郡一門ノ中ニ蛭町氏アリ、蛭、蒜其訓同ジ、蓋又コノ湖邊ノ著姓ト見エタリ、コノ湖水源、茨城郡大橋村ヨリ出、〈古ノ那珂郡〉南流シテ蒜間川トナリ、笠間城ノ西ヲ歴テ、更ニ東ニ轉折シテ、宍戸ノ南ヨリ村ニ至テ、〈已下原文缺〉 補、水戸領地理誌云、土人廣浦ト稱ス、三石崎、駒場、海老澤、皆湖ニ濱シ、松川、田崎、網掛、宮ケ崎等ノ地ニ對セリ、小鶴川ノ下流、駒場、上石崎ノ間ニテ湖ニ合シ、又二三ノ小流アリ、皆湖ニ入ル、湖長二里十二町餘、幅十二町ヨリ二十四五町ニ至ル、大貫、島田ノ間ヲ流レ、川又ニテ、那珂川ニシテ合シ海ニ入ル、鯉、鮒、鱸、鱣、白小魚ノ屬ヲ産シ、雁、鴨、鸕、鶿等ノ諸鳥多シ、湖汐出入シ、舟船來往ス、常

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1234 野ノ諸荷物運送第一ノ所ナリ、

仙波湖

〔新編常陸國誌〕

〈六山川〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1234 仙波湖〈用音〉 補、舊誌云、在茨城郡水戸大城南郭外、源出那珂河、東流至河股村、復會那珂河海、水戸領地理志云、東西三十町餘、南北六七町餘アリ、漁獵ヲ禁ジ、鯉鮒鰕鱣ノ屬多ク産ス、又芰荷蓴菜アリ、漫遊紀談云、水戸城要害ノ第一ニシテ、西南ノ郭外ヲ遶レリ、其源池野邊ヨリ出デ、箕川等ノ地ヲ經、笠原山下ヲ過ギ、東流シテ川股村ニ至リ、那珂河ニ合シテ海ニ入ル、湖中新ニ堤ヲ築キ、楊柳楓樹ヲ兩行ニ殖ユ、所謂西湖ノ蘇堤トモ云ベシ、〈以上〉湖水ノ東流スルモノヲ伊奈堀ト云フ、水戸領地理志云、千波ノ湖水市中ヲ經テ濱田村ニ通ジ、坂戸町付ノ地ニ至リテワカレ、一ハ谷田、六反田、栗崎、東前、大串、鹽崎、平戸ノ地ヲ流レテ、島田ニ至リ、涸沼ノ下流ニ合シ、一ツハ澀井、吉沼、上大野西、上大野東ノ地ヲ過テ那珂川ニ合流ス、慶長十五年伊奈備前守令シテコレヲ穿チ田ニツヅカシム、因テ伊奈堀ト稱セシ由、土人亦備前堀トモ云フ、

〔桃源遺事〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1234 一水戸城邊の仙波の池は、湖水ともいふべき程の池也、その中に堤有、〈長十八町〉此堤を行かふ人多し、されば炎天に木陰なく、行人暑に苦まんことを思召、又其景色の爲に西湖の蘇堤に准へ、兩岸に楊柳をひしと御うゑさせ、柳が堤と御名付候、夫よりして夏日のあつき日も、柳陰連り、かげ涼しく、堤に休ふ者おほく、四時の景色またこと也、〈◯下略〉

近江國/琵琶湖

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1234 琵琶湖(ヒハコ)〈江州湖水、其形似琵琶、故名焉、事見草山集、〉

〔運歩色葉集〕

〈丹〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1234 【湖海】(ニヲノウミ)

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1234 湖海(ニホノウミ)〈又作鳰海(○○)、跨江州十二郡之大湖、一名琵琶湖、〉

〔皇代記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1234 孝靈五年、近江湖水始湛、富士山始出、

〔近江國輿地志略〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1234 湖水 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1235 湖 近江の國十二郡に繫れる大湖なり、當國を古へ淡海國といひ、今近江國と云も、ともにこの湖あるによつてよべり、江といへるも湖のことにして、池の大なるものなり、すでに廣雅にも、湖は池なりとしるせり、水うみといへるは、海に對して、潮にあらずとの言ばなり、源氏物語、その餘の歌書の類、みな以て鹽ならぬ海ともかけり、淡海といへる訓は、鹽なくて味あはきといふことなり、みづうみの訓は、水のみを湛へて、海のごとく大なる池といふ意なり、海はうかむの義にて、船の浮ぶ處なり、うかみのかを中略せるなり、亦ふかみの意もあり、ふとうとは通ずるなり、凡日本に其國々湖水あるところ多し、然ども當國のごとき大なるはなし、比良、比叡、突兀と西へ聳へ、群峨高低として、北の方若狹路に列り、三上山、鏡山東に峙、其餘の峯々崺峛として畫屏を圍むがごとく、翠憶を張に似たり、四時の景ひとしからず、朝暮の景方たり、古人是を西土の岳州洞庭湖に比し、または杭州の西湖になぞらふ、瀟湘八景に比して詩を賦し、歌を詠ずるもの多し、〈◯中略〉凡湖、勢多より貝津に至て南北二十里、東西の廣きところは九里十里にをよべり、其水ふかきこと、貝津の邊にては七十尋百尋にも及べり、南にいたり黒津の邊までは漸く尺寸を以て數ふ、貢御の瀬、旱する年には渡る者脛をうつに過ず、此湖山谷の滴るところ、八百八川落來て湖となり、勢多にては流て關の津鹿飛の急流となり、宇治川となり、伏見にゆき、淀へながれ、木津川、桂川と合し、大坂に至り、川口傳法にいたつて、海に入朝するなり、西土の人も知れるにや、海東諸國記に、近江州湖、ながさ三十里、廣さ十八里と記せり、一湖なれども、北にては足利のうみといふ、高島郡にての稱なれば、詠歌みな高しま郡の條下にしるす、詩人呼て、一名を琵琶湖といふ、其象似たるを以てなり、〈◯中略〉歌仙多詠じて丹穗の湖と云、言意は、一説には鸊鷉(にほ)湖水に多くあるものゆへ、鸊鷉の湖と云といへり、

〔伊勢參宮名所圖會〕

〈附録〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1235 湖水 あふみとは元淡海なりしを、天智帝大宮に近き江なりとて、近江

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1236 の文字を作り、遠き江を遠江と號す、故にこれをちかつあふみ、とふだあふみともいふ、山谷の瀝滴所八百八河とはいへども、是はたヾ物の多きをいふのみ也、凡湖邊山谷の流末大なるは四十ヶ所ばかりにて、其餘數しれず、水海とは滿干なき故なり、鹽ならぬ海ともいふ、又あふみの海とも云、歌にはにほてるやあふみのうみとよめり、鳰の海といふは、いかなる事とも未詳、うたがふらくハ難波の枕詞、をしてるといふに同じかるべし、おしてるは襲ひてるとの義なれば、にほはにほひにて、うすく照るの義にもあるか、又鳰島とは、此鳰の海に多く住ものなれば名付たる 俗にカイツブリと云、琵琶の海とは、海の形似たるを以て號けたり、凡勢田より海津まで南北二十里、東西の廣き所凡九里、今津と佐和山の間尤廣し、北は濱村、西は海津、中は大浦、東は鹽津也、北は山を隔て越前に隣る、〈◯中略〉狹々浪とは、日本紀神功紀に、さヾ浪と計にてあふみの事とす、サヽは小の意にて、淺水の貌なり、萬葉に、石走る近江の國、樂波の大津の宮ともよめり、三津の浦といふは、志賀の浦をいふ、これも元は御津也、大津なり、 傳曰、孝靈四年、江州の地拆て湖水始て湛、駿州富士山忽出焉、景行十年、湖中竹生島浦出云々、〈或云、此説信ずべからず、〉

〔こし地紀行〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1236 近つ淡海の湖、波に似たる物なく、いと平かたして蒼々たり、見るが中に山颪波を起して、秋の景色定まらず、つく〴〵と眺めて打過ぬ、 夫琵琶湖、南北十九里、東西七八里、里俗稱九十九浦名、是日域大湖也、若狹三方、越中布施、信州諏訪、雲州松江、奧州磐梯、雖諸湖、豈較其廣狹、況地接京城、風人雅士多來此留題、眞奇觀也、其藻臥、束鯽等、湖中美産也、 渺々琶湖徑 北南十九程 烟波船出沒 砂艸鳥縱横 瀟湘曾同景 龍宮長閟城 魚蝦皆美物 吟咏古人情 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1237 又 行盡近江湖水頭 浪聲日夜盧蘆洲 旅鴻新見報消息 先問天涯紫塞秋

〔西北紀行〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1237 凡そ淡海の湖は、勢田より貝津まで南北二十里、東西の廣き所九里あり、今津と佐和山の間、東西最廣し、湖の北の濱は、西は貝津、中は大浦、東は鹽津なり、此三所皆湖邊に民家ある所にて、北の山を隔てヽ越前に隣れり、此湖の形は能く琵琶に似たり、堅田より北十七里は東西廣し、琵琶の腹に似たり、堅田より勢田まで四里は東西狹く、一里の内外あり、譬へば琵琶に鹿首あるが如く狹し、勢田より宇治までは彌狹し、琵琶の海老尾に比し、竹生島を覆手に比すと云り、故に此湖を琵琶湖と云、大津の邊より山田矢橋の方を見たるよりも、堅田より北は甚だ廣大にて、恰も大海の如し、今津より勢田へ十七里、大溝へ四里、京へ十七里、越前敦賀へ十里半、今津より貝津へ四里、貝津より敦賀へ七里半、此間荒茅山なり、敦賀より京へは二十七里半あり、今津より船にて竹生島に到る、湖上三里あり、

〔日本實測録〕

〈十二湖沼〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1237 近江國 琵琶湖〈◯中略〉 湖邊周廻七十三里三十一町三十四間

〔六十五大川流域誌〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1237 琵琶湖 近江全國諸川、此湖ニ集合シ、勢田川ニ注グ、其河川左ニ載之、 東西五里 南北十五里〈◯下略〉

〔淡海地志〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1237 舟路行程 一大津より鹽津へ十九里半 一同海津へ十六里 一同米原へ十六里 一同竹生島へ十六里 一同木濱へ四里 一同長命寺へ七里 一同支那へ三里 一同關津へ三里 一同長濱へ十八里 一同松原へ十四里半 一同大溝へ十里 一同八幡へ八里 一同堅田へ三里 一同沖津へ八里 一同矢橋へ五十町 一同今津へ十四里 一西ハ唐崎、東ハ山田江壹里半、 一西ハ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1238 堅田、東ハ木濱ヘ貳拾壹町、常ニ舟渡し、 一西ハ小松、東ハ長命寺へ七里、 一西ハ大溝、東ハ沖島ヘ三里半、 一西ハ舟木、東ハ白石ヘ貳里、 一西ハ沖島、東ハ長命寺ヘ、南ハ壹リ、北ハ半リ、 一西ハ舟木、東ハ松原ヘ七里、 一勢田川東西ハヾ粗百間 一西膳所城、東矢橋貳十町、 一竹生島海津今津より三里、大崎より壹り、 早崎より壹り、長濱より五里、松原より六里、津々ら崎より貳十町、 ◯按ズルニ、近江八景ノ事ハ、地部近江國篇ニ載ス、宜シク參照スベシ、

餘吾湖

〔運歩色葉集〕

〈與〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1238 余吾湖(ヨコノウミ)〈近江〉

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1238 餘吾湖(ヨゴノウミ)〈江州伊香郡〉

〔淡海温故録〕

〈四伊香郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1238 余江 余古、又余湖、又余呉共カク、余江ハ一里許四方ノ入江也、小舟モアリ、漁人、鮒、ウグヒノ類ヲ捕ル、余呉鮒トテ名産也、此鮒、十一月十二月ノ比、雪降江面一遍ニ氷ザレバ取レズ、尤佳品也、他月ハ味惡シ、

〔柴田退治記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1238 天正十一年卯月廿日、佐久間玄蕃助爲大將、通余呉之海馬手

信濃國/諏訪湖

〔西遊行囊抄〕

〈四上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1238 諏方湖 下ノ諏方ノ驛ヲ出テ、左ノ方ニ漫々ト見ユル、富士山湖水ニ移リテ、其景言語道斷也、〈◯中略〉此湖名所也、諏訪ノ海トモ、又諏訪ノ湊共ヨメリ、

〔千曲之眞砂〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1238 すわ(諏訪)の湖并ころも(衣)が崎 烏丸殿丙寅の紀行にも、はこねの峯より見る湖よりはひろく長く、四方かぎりくまもなく見ゆ、近江の湖には及ばざれど、なか〳〵見渡し、島もなくいさぎよく湛へたるは、近江よりげにぞ覺ゆると書給へば、城の湖へつき出したるさまは、いとおもしろく筆に及び難し、又衣が崎といへるは、高島の城の大手を入れて、二の門の橋をヱトのはしとなんいふ、其橋のむかふへ富士の影湖水へうつる、海上の風景いわんかたなし、そのむかふなる崎を衣が崎とも、これもが御崎とも

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1239 いへり、

〔信濃奇勝録〕

〈四諏訪郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1239 須波の海 日本紀、元正天皇養老五年六月、信濃國を割て始て諏訪の國を置、聖武天皇神龜元年、配流の遠近を定め給ふに、諏訪國、伊豫國を中流とす、其後天平三年、廢諏訪國信濃國云々、湖水の順道三里とはいへども、洪水の毎度に埋りて、七島の名のみ殘りてみな陸地となれり、今は徑一里、或は一里半、深さ七尋ばかり、西に至りては深さ勝りて幾ばくといふ事をしらず、魚鱗は、鯉、鮒、鯰、鰻、鬪魚、鯇あり、近年小海老を産す、めぐりに浦々ありて民家多し、漁父常にすなどりをなして生計の便とす、南は駿河なる不二の高根を遙に望み、四方に衆山連綿して風色斜ならず、此水の落口を尾尻といふ、伊那郡を流れて遠州へ出る、天流川の水上なり、冬は湖一面に氷はりふさぎて、其上を人通行す、春は正月の末、又年の寒温によりて、二月の半までも氷のうへをゆきヽす、氷の厚さ一尺より二尺餘、其上を何程の大木大石を引けども破る事なし、氷のうへすべる故に樏をはきて通る、其上に雪積れば、常の如く草履草鞋にて行、馬はすべる故渡らず、此湖氷はりて、漁人氷の下に網を引を氷引といふ、氷を一所長くうがちて、其所より網を入、また其先をうがち、竹の竿を持て次第に先のうがちたる方まであみを送りやりて、幾所もかくのごとくにうがちて、網を廣くはりて魚をとる、此時漁人は腰に長き竿を挾む、若あやまりて落入るときも、竿にて死をまぬがるヽといへり、昔はかくする事を知らずして、冬春は漁人すなどりをせずといへり、 此湖を騷人鵞湖と稱す、三體詩に、鵞湖山下稻、粱肥、注に鵞湖は在信州鉛山縣西南十五里とあるをもて、信州の大湖なれば、なずらへていふなり、 或本朝年代記ニ云、後深草院建長三年二月十四日、諏訪神前湖大島、又唐船出現、片時間消失云々、是は西國北國にて蜃氣樓をみると云類なるべし、

〔木曾路名所圖會〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1240 須波の湖 周十一里餘、亘三里許、鯉、鮒、龜甲あり、今は水治りていにしへに及ざるもの歟、玄冬の頃、湖面風ひヾらひでより氷鏡のごとし、〈◯中略〉此湖まどかにして、深きところ七尋ばかりあり、めぐりに浦々ありて、民家衆し、四方には山々ありて風色斜ならず、漁父あまた有て魚鱗をすなどる事多し、漁舟の外船に乘ことを禁ず、この湖冬の頃より春にいたり、氷はりて尺寸も透間なく、湖一面にふさがり、年の寒温によりて、霜月のうち、あるひは師走の初より氷はりて、後人其上を通る、〈◯中略〉日本國中に湖多しといへども、かくの如く氷はる所なし、信濃は日本にて地高くして、寒氣深き國なる故也、〈◯下略〉

〔東遊記後編〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1240 諏訪湖 信州諏訪の湖は、周廻三里の小湖なり、然れども亂山重疊の中にありて、景色は無雙の地なり、此湖邊より湖上に富士山の北面を見る、富士山峭直にして寶永山を見ず、富士の形は、此湖上より見るも又奇なりと云、扨此湖に世俗にいふ七不思議といふ事あり、其中にも殊更奇妙の事とするは、此湖水冬に至れば、寒國の習ひとて、一面の氷となる、厚さ數尺に及び、金鐵の如くにして平地に異ならず、霜月より翌年の二月までは人馬皆氷の上を往來して、少しも恐るヽ事なく、下の諏訪上の諏訪、其間三里の所たるを、冬は氷の上を一文字に通行する故、纔一里に成りて、甚便利なる事也、いかなる重き荷物を付たる馬車にても、むかしより氷破れて水底に落入りしためしなしとは、不思議なりと問ひしに、冬の初に神渡りといふ事あり、其神渡りありて後は、氷破るヽことなし、春に成り又神渡りあり、其後氷いまだ厚しといへども、恐れて一人も渡るものなし、其神渡りはいかなることぞといふに、冬のはじめ、一夜湖上大なる音して、物を引通る如し、夜明て見れば、氷の上を一文字に格別の大石大木などを引通りたる如く、氷左右にわれ分れて、一筋の道付たり、是は渡り濟みたりと云、此後は人馬往來して過ち無し、二月の末又此事あり、其後は渡

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1241 りをやむる事なり、傳へいふ、諏訪神社は狐を眷屬とし給ふなり、狐は氷を聞ものなれば、此神渡りは明神の使しめの狐の所爲なりとぞ、又諏訪に温泉ありて、諸人入湯する所なり、湖水の中にも温泉あり、常は知れず、只氷りたる時は湖中にて其温泉の湧いづる所ばかり氷らずして、氷に所々穴ありて湯氣のぼる、又下の諏訪の拜殿の板壁のふし穴より、上の諏訪の塔の影さし渡し一里を隔てヽさし入る、又上の諏訪明神のみたらしのほとりは、四季ともに毎日少し計にても雨降らずといふことなし、又明神の廻廊の板敷釘を用ひず、人歩行するに音なし、其外不思議數數あり、東海道にある天龍川は、其源此諏訪湖より流れ出る、小湖なれども底深く、魚鼈甚多くして、此邊利益ある水なり、

下野國/中禪寺湖

〔日光山志〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1241 南湖 中禪寺の湖水と唱ふるものなり、第一の大湖にして、凡東西三里餘、南北凡一里餘、又八功徳池と名附ることは縁起にみえたり、凡山腹山趾に四拾八湖有となん聞る、されど其在所も定かに知れるものなし、大師の記文に載たるが如く、眄坤更有一大湖、羃計一千餘町云云、清潔なる冷水ゆゑ鱗蟲も生ぜず、一點の塵芥もなく、常に白波汀濱に湛へ、旱年又は霖雨にも不耗不溢、そのかみ神護景雲元年、勝道上人遊覽せられしより、今も猶現然として奇觀なる大湖といふべし、

〔木曾路名所圖會〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1241 補陀洛山中禪寺〈日光より山路三里餘◯中略〉湖水長サ三里、幅二里、あるひは一里半許の所もあり、四面に繁樹脩竹あつて、湖上を覆ふといへども、其落葉ひとつも水面に浮まず、底至て深けれども、魚鱗ひとつもすまず、都て此山中に大湖三つあり、其外小さき湖四十八湖あり、かヽる高山の顚に、數多湖水ある事奇異の靈地なり、

〔續古事談〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1241 下野國二荒山ノ頂ニ湖アリ、廣サ千町バカリ、キヨクスメル事タグヒナシ、〈◯下略〉

陸奥國/猪苗代湖

〔東國旅行談〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1241 猪苗代之湖水 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1242 同國〈◯奥州〉若松といふ所は、賑はしきよき所なり、夫より東の方にゆく事六里ばかりと覺ゆ、笹山といふ所にいたり、右の方へ別れ道を、三十町ばかりにして猪苗代の湖水に到、いかにも奧州は大國なり、此湖水さながら近江の湖にことならず、近郷隣村ふねにて世用を便ず、かるがゆへに遠浦の歸帆も見ゆ、東路の遠き奧なれば、世の人かヽる風景こヽに在ことをしらず、惜ひかな知る人すくなし、

〔東遊雜記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1242 五月二十四日、高田村御發足〈五リ餘〉大寺村、〈三リ餘〉猪苗代止宿、二本松への街道は、盤大山と湖の間を往來とす、〈◯中略〉湖の廣サ北南百丁、東西九十丁、若松領二本松領の入組なり、湖にて取魚、鮒、〈大なるは一尺餘〉赤はらと云魚、〈是も一尺餘あるも有〉鮠、此外の魚は更にはし、湖より流出る川を日橋川と稱し、急流にて瀧のごとし、五里餘川下山崎といふ地にて、若松より流出る大川と一流となる也、會津郡と那麻郡の界は、此流を以て堺とす、湖は那麻郡の内なり、

若狹國/御形湖/ひるが湖/勺子湖

〔西北紀行〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1242 當國〈◯若狹國〉三方の郡に湖、三あり、御形の湖(○○○○)小濱より六里東北に在り、長さ二里深し、敦賀よりも六里あり、鯉鮒多し、其次に勺子の湖、長さ三十丁、横十四五丁、御形の對ひの山を隔つ、其間一里許りあり、其次にひるがの湖(○○○○○)、是は勺子の湖(○○○○)と並べり、廣さは勺子の湖と同じ、其水甚だ深し、ひるがの湖には潮滿れば海水入る、故に海魚も河魚もあり、

越中國/布勢湖

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1242 布勢海(フセノウミ)〈又云多胡海(○○○)、越中射水郡、〉

〔閑田耕筆〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1242 越中國布勢の湖は、家持卿のうた萬葉集に見ゆるに付て、其邊の地理を國人にとふに、先かの卿を祭れる社湖邊にありて、御蔭明神と稱す、多胡のうらは、今湖をさること半里餘にして、陸地の一邑となれり、此間の湖水は埋れて田となりし成べし、たヾ名におふ藤は大なる古樹今も繁茂せり、澀谷崎は二上山の北の尾のうみに臨む所をいふ、射水河は水源飛彈山中より出て、當國礪波郡井波といふ所にいたり、細き谷口より流出るが、水勢甚急也、さて其水二流に別

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1243 れ、また末にて合し、一大河となるを射水河と號く、兩岸相さること四百間計とぞ、

〔萬葉集〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1243覽布勢水海(○○○○)賦一首并短歌、〈此海者、在射水郡舊江村也、〉 物能乃敷能(モノノフノ)、夜蘇等母乃乎能(ヤソトモノヲノ)、於毛布度知(オモフドチ)、許己呂也良武等(コヽロヤラムト)、宇麻奈米底(ウマナメテ)、宇知久知夫利乃(ウチクチフリノ)、之良奈美能(シラナミノ)、安里蘇爾與須流(アリソニヨスル)、之夫多爾能(シフタニノ)、佐吉多母登保理(サキタモトホリ)、麻都太要能(マツタエノ)、奈我波麻須義底(ナガハマスギテ)、宇奈比河波(ウナヒガハ)、伎欲吉勢其等爾(キヨキセゴトニ)、宇加波多知(ウカハタチ)、可由吉加久遊岐(カユキカクユキ)、見都禮騰母(ミツレドモ)、曾許母安加爾等(ソコモアカニト)、布勢能宇彌爾(フセノウミニ)、布禰宇氣須惠底(フ子ウケスヱテ)、於伎弊許藝(オキヘコギ)、邊爾己伎見禮婆(ヘニコギミレバ)、奈藝左爾波(ナギサニハ)、安遲牟良佐和伎(アヂムラサワギ)、之麻末爾波(シママニハ)、許奴禮波奈左吉(コヌレハナサキ)、許己婆久毛(コヽバクモ)、見乃佐夜氣吉加(ミノサヤケキカ)、多麻久之氣(タマクシケ)、布多我彌夜麻爾(フタガミヤマニ)、波布都多能(ハフツタノ)、由伎波和可禮受(ユキハワカレズ)、安里我欲比(アリガヨヒ)、伊夜登之能波爾(ヤイトシノハニ)、於母布度知(オモフドチ)、可久思安蘇婆牟(カクシアソバム)、異麻母見流其等(イマモミルゴト)、 布勢能宇美能(フセノウミノ)、意枳都之良奈美(オキツシラナミ)、安利我欲比(アリガヨヒ)、伊夜登偲能波爾(イヤトシノハニ)、見都追思努播牟(ミツヽシヌバム)、 右守大伴宿禰家持作之 四月廿四日

出雲國/宍道湖

〔懷橘談〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1243 宍道〈◯中略〉 今按に、竪六里横三里の湖水あり、是を宍道の湖と云、又は佐太の湖とも記には見えたり、末次の里より伯州米子まで七里の舟路也、湖水の中、末次の里のちかくに、よめ島と云あり、古記には見えず、其外赤壁十六禿など云湖水の左右、一歩に一景十歩に十景、水https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f00006520b8.gif (クワツ)々、花粲々、柳葱々、蘆莫々、鳥關々、魚潑々、戸重々、樓亭々、船搖々、人來々、無聲の詩にも有聲の繪にも寫しがたきは此風景也、

神門湖

〔出雲風土記〕

〈下神門郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1243 神門水海、郡家正西四里五十歩、周三十五里七十四歩、裏則有鯔魚、鎭仁須受枳、鮒、玄蠣也、即水海與大海之間有山、長二十二里二百三十四歩、廣三里、此者意美豆努命之國引坐時之綱矣、今俗人號云薗松山、地之形體、壤石並無也、白沙耳積上、即松林茂繁、四風吹時沙飛流、掩埋松林、今年埋半遺、恐遂被埋已與、起松山南端美久我林、盡石見與出雲二國堺中島埼之間、或乎須、或陵磯、


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Last-modified: 2022-07-23 (土) 17:18:52