p.1228 湖ハ、ミヅウミト云フ、水海ノ義ニシテ、水トハ鹹水ニ對シテ淡水ヲ謂ヘリ、但シ湖ニハ希ニ鹹水ノ通ズルモノアリ、遠江ノ濱名湖、若狹ノヒルガ湖ノ如キ是ナリ、湖ノ最モ大ナルモノヲ近江ノ琵琶湖ト爲ス、其風景ノ明美ナルハ、駿河ノ富士山ノ壯麗ナルト對照シテ、夙ニ邦人ノ誇トスル所ナリ、
p.1228 湖 廣雅云、湖音胡、大池也、〈和名三都宇美〉
p.1228 按美豆、淡水也、湖者淡水而廣大如レ海、故名二美豆宇美一也、〈◯中略〉廣雅十卷、魏張揖撰、所レ引釋地文、原書無二大字一、按楚辭九歎注、湖大池也、與レ此合、又説文、湖大陂也、又云、陂一曰池也、然則大陂亦猶レ言二大池一也、尚書禹貢正義、大澤畜レ水、南方名レ之曰レ湖、風俗通、湖者都也、言下流二瀆四面一所中猥都上也、
p.1229 湖〈音胡〉 〈水ウミ〉
p.1229 海は 水うみ
p.1229 湖 ころしま〈俊抄〉 ころひな にほてる しなてる みづうみ しほならぬうみ 近江には、八十の泊有、
p.1229 ちくぶしまにまうで侍ける時、もみぢのかげの水にうつりて侍ければ、 法橋觀教 水うみ(○○○)に秋の山邊をうつしてははたばりひろき錦とぞ見る
p.1229 湖〈音胡〉 和名美豆宇三 湖、大陂也、〈◯中略〉 按、湖似レ海而其水淡、故名二水海一、江州湖形似二琵琶一、故名二琶湖一、其長可二二十四里一、遠州之江湖亞レ之、故得二近江遠江之名一、信州諏訪湖、其湖中、有二温湯一亦一異也、佐渡布勢湖、其外奧州、賀州、因州亦有レ湖、
p.1229 湖ミヅウミ 水海也、古時湖水をばアフミノミと云ひけり、萬葉集抄に、アハウミとは、シホウミにあらざる水海なるをいふなり、と見えしこれなり、海と云ひしは、其水大きにして海の如くなるが故なり、近江國をチカツアフミといひ、遠江國をトオツアフミと云ひしが如きこれなり、其近遠をわかちいひしは、京畿を相去るの近遠をいふ也、〈◯註略〉又古には、湖の字讀てミナトともいふ、阿波國風土記の中湖、讀て中の水門といふ此なり、
p.1229 みづうみ 倭名抄に、湖をよめり、水海の義也、古へ淡海といへり、近江の湖を琵琶湖といふは、其形の似たる也、海東諸國記に、崇神天皇元年、開二近江州大湖一といふは、我邦此説ある事久し、もとより妄也、讀書管見に、南方止水深濶通謂二之湖一、北方止水深濶謂二之海子一と見えたり、西湖の如きは、船の往來する河也といへり、石花の海は、萬葉集長歌に見ゆ、駿河國富士山の戌亥
p.1230 の隅にある大湖也、猪苗代の湖は、陸奧國若松の東笹山近き所也、共に近江に續ての大湖也、
p.1230 海 あふみの海〈近 夕波千鳥〉にほの〈同、にほの水海、源氏、〉みほの水〈同 已山水海〉よこ〈同〉ちくまの〈同◯中略〉あしりの〈近 万、たか島の湖也◯中略〉ふせの〈同(越中)万、 水海也◯中略〉すはの〈信 水海、氷上渡、〉
p.1230 海〈同名所〉 伊香海〈近江、みるめ◯中略〉濱名海〈とほたうみ、むすばぬ浪、◯中略〉鳥羽淡海〈常陸 秋風、白なみ、◯中略〉足利海〈近江 たかしまのあしりの海を漕すぎてしほつしが浦今かこゆらむ◯中略〉蘆海〈相州 けふよりは思みだれてあしのうみのふかきめぐみを神にまかせて◯中略〉志賀海〈近江〉比良海〈右同 玉も、あま、〉
p.1230 濱名湖 濱名は郡名也、國號遠江も此湖水に其也、一名猪鼻湖、又は遠湖ともいふ、和名抄に、近江を知加津阿不美、又淡海とも書す、故に遠江をとほつあふみと對する也、契冲の代匠記にも、ちかつあふみ、とほ津うみの事具にみへたり、又近きとし、蝶夢幻阿彌が遠津湖記に、もろこしの西湖といふ所のさま、繪にうつせしを、今思ひあはすに、孤山といふ所に露たがはず、此水うみのほとりの第一の景地ならし、おほよそ湖の廣さ、北に入事五里にあまり、東西四里にすぐ、南はひたぶるの大海也、山々三方にならび立りと云々、
p.1230 新井〈◯中略〉 荒之崎〈◯中略〉 寶永四年、關司政愈書曰、〈◯中略〉明應八年六月十日甚雨大風、潮海與二湖水一之間驛路沒、日箇崎千戸水沒、 ◯按ズルニ、富士歴覽記ヲ檢スルニ、八年六月飛鳥井雅康遠江ニ在リ、其記事絶テ風雨ノコトニ及バズ、而シテ七年八月二十五日ニ地震風雨アリシコト諸書之ヲ記ス、八年六月ハ、恐ラク七年八月ノ誤ナルベシ、
p.1231 義晴御誕生之事 同年〈◯永正七年〉ノ八月七日ノ夜、大地震ヲビタヾシクシテ、國々堂舍佛閣顚倒シ、〈◯中略〉其地震七十餘日不レ止ニシテ、アマツサヘ、八月廿七日、廿八日兩日ノ間ニ、遠江國エ大浪オビタヾシク來リ、陸地忽ニ海トナル、今ノ今切ノ渡ト申ハ是也、 ◯按ズルニ、今切渡ノ事ハ、渡篇荒井渡條ニ詳ナリ、參看スベシ、
p.1231 十一日〈◯貞應二年四月〉に橋本をたつ、橋のわたりより行々たちかへりみれば、跡にしらなみのこゑは、すぐるなごりをよびかへし、路に青松の枝は、あゆむもすそを引とヾむ、北にかへりみれば、湖上はるかにうかんで、なみのしは水の顏に老たり、西にのぞめば湖海ひろくはびこりて、雲のうきはし風のたくみにわたす、水郷のけしきは、かれも是もおなじけれども、湖海の淡鹹は氣味これことなり、浥のうへには浪に翥、みさご涼しき水をあふぎ、舟の内には唐櫓おすこゑ、秋のかりをながめて夏の空にゆく、本より興望は旅中にあれば、感腸しきりに廻りておもひやみがたし、
p.1231 橋本と云所に行つきぬれば、きヽわたりしかひありて、氣しきいと心すごし、南には湖海あり、漁舟波にうかぶ、北には湖水有、人家岸につらなれり、其間に洲崎遠くさし出て、松きびしく生つヾき、嵐しきりにむせぶ、松のひヾき波のをと、いづれときヽわきがたし、行人心をいたましめ、とまるたぐひ夢をさまさずといふ事なし、みづうみにわたせる橋を濱名となづく、ふるき名所也、
p.1231 濱名湖〈十三日、出二大昌寺一、疾風暴雨、午後嘗二大岩寺人見石(ヒトミイシ)、熊坂(クマサカ)石等嶮一、晩間歴二駿河一入二遠江黍(キヒ)里一見二此湖一、寔如二畫圖一、〉 漸過二三河一入二遠江一、濱名湖上置二佳郷一、願言喚起龍眠老、一軸中間令二筆忘一、〈陽唐與レ江通、見二山谷詩一、〉
p.1231 今切
p.1232 遠州荒井の濱より、奧の山五里ばかり海となりて、大船も出入事、むかしは山につヾきたる陸地なりしが、中比山より、ほらの貝おびたヾしくぬけ出て海へ入ける、其跡かくのごとく海となりて、今切と名づくるよし、古老いひつたへたり、我國は伊弉諾、伊弉册のうみ給ひ、大己貴、少彦名のつくられけるといへば、其むかしはいかヾ侍りけむ、もろこしの華山を、巨靈が擘開して水をやりける事も侍るにや、 一葉扁舟寄二旅身一 潮波通レ信遠州濱 海山何借二巨靈手一 我國元來造化神
p.1232 筥根湖水 此湖水長サ三里許、幅或ハ一里、或三十町、或ハ二十町許ノ所モアリ、北ノ方ニ湖水ニ落ル所ヲ海尻ト號ス、駿州之御厨ト云所ヨリ、荷物ヲ海尻エ上テ、小船ニ積テ峠ノ驛、并ニ元箱根ノ宿ヘ運送ス、 此湖ノ水底ニハ杉ノ大木多ク沈テアリ、何ノ代ニ沈ミケルヤラン、于レ今不レ朽シテ多ク在ト云々、稻葉美濃守正則小田原ノ城主タリシ時、此湖水ノ大杉一木ヲ引上テ、紹大寺ノ造營ノ用木トセラルヽ、其幅一丈餘ノ杉板アリト里俗ノ説ナリ、
p.1232 筥根湖水 一名蘆の湖(○○○○○)といふ、富士八湖の其一也、箱根の山嶺にあり、長サ三里許、巾一里餘、其中に左尾崎、右尾崎、三ツ石、塔ケ島等の字あり、産物は鱒腹赤也、䱱魚は山中の溪川に生ず、小兒五疳の妙藥に用ゆ、
p.1232 猶ゆきすぐるほどに、筥根の山にもつきにけり、岩がねたかくかさなりて、駒もなづむばかり也、山のなかにいたりて水うみ廣くたヽへり、箱根の湖となづく、又蘆の海(○○○)といふもあり、權現垂跡のもとゐけだかくたふとし、朱樓紫殿の雲にかさなれる粧ひ、唐家驪山宮かとおどろかれ、巖室石龕の波にのぞめるかげ、錢塘の水心寺ともいひつべし、
p.1233 相模國 蘆湖 周迴四里三十町五十九間半
p.1233 蒜間湖〈比留麻乃衣〉 舊名阿多可奈湖、〈如レ字〉鹿島、茨城二郡ノ間ニアリ、東西十四里、南北二里バカリ、古ヲ以テコレヲ推セバ、那珂、鹿島ノ堺ナリ、俗或ハ日沼〈比奴麻〉ニ作ル、舊誌涸沼湖〈訓同上〉ニ作レルモ、亦俗言ニヨレルナリ、今湖邊ノ土人ニコレヲ尋ヌルニ、言所一ニアラズ、或ハ比奴麻宇良、或ハ比留奴麻、或ハ比呂宇良トモ云ノ類、紛々辨ジ難シ、タヾコノ湖ノ水源、大橋村ノ土人傳ル所ハ、全ク比留麻ナリ、其水路ニテ、笠間、長岡ノ邊、傳ヘ云ヘルモ亦同ジ、ヨク其語ヲ傳ヘタルモノナリ、風土記香島郡ノ堤堺ヲイヘル處ニ、北ハ那賀香島ノ堺、阿多可奈湖トアルコレナリ、コノ名義考フベカラズ、或云、阿多可奈湖トハ、暖湖ナリ、蓋コノ湖水勢疾カラズ、水留滯シテ清冷ナラズ、故ニコノ名アリ、且風土記ニ、香島郡ノ内ニ大沼アリ、コレヲ寒田ト稱スト載タレバ、暖湖寒田相對セルノ名ナルベシト云ヘリ、然レドモイマダ定論トシ難シ、後蒜間ニ更ムルモノ、何レノ時ニアルヲ知ラズ、將門記ニ、吉田郡蒜間之江邊、拘二得掾貞盛源扶之妻一云々ト見エタリ、吉田郡ハ古ノ那珂郡ノ内ナリ、湖東平戸村ニ、貞盛ノ宅跡今猶存セリ、蒜間ヲ以テ名トセルモ、亦日中ヲ比留麻ト云ヘル義ニテ、亦暖湖ノ意ヲウケタルモノニヤ、タシカナラズ、〈原本頭書再按、ヒルマハ廣間ノ轉ニテ、セヌマニ對セシ名ナリ、一郡ノ内ニ大小ノ二湖アル故ノ俗稱ト見エタリ、セヌマハ千波ナリ、〉大掾傳記ヲ按ズルニ、吉田郡一門ノ中ニ蛭町氏アリ、蛭、蒜其訓同ジ、蓋又コノ湖邊ノ著姓ト見エタリ、コノ湖水源、茨城郡大橋村ヨリ出、〈古ノ那珂郡〉南流シテ蒜間川トナリ、笠間城ノ西ヲ歴テ、更ニ東ニ轉折シテ、宍戸ノ南ヨリ村ニ至テ、〈已下原文缺〉 補、水戸領地理誌云、土人廣浦ト稱ス、三石崎、駒場、海老澤、皆湖ニ濱シ、松川、田崎、網掛、宮ケ崎等ノ地ニ對セリ、小鶴川ノ下流、駒場、上石崎ノ間ニテ湖ニ合シ、又二三ノ小流アリ、皆湖ニ入ル、湖長二里十二町餘、幅十二町ヨリ二十四五町ニ至ル、大貫、島田ノ間ヲ流レ、川又ニテ、那珂川ニシテ合シ海ニ入ル、鯉、鮒、鱸、鱣、白小魚ノ屬ヲ産シ、雁、鴨、鸕、鶿等ノ諸鳥多シ、湖汐出入シ、舟船來往ス、常
p.1234 野ノ諸荷物運送第一ノ所ナリ、
p.1234 仙波湖〈用レ音〉 補、舊誌云、在二茨城郡水戸大城南郭外一、源出二那珂河一、東流至二河股村一、復會二那珂河一入レ海、水戸領地理志云、東西三十町餘、南北六七町餘アリ、漁獵ヲ禁ジ、鯉鮒鰕鱣ノ屬多ク産ス、又芰荷蓴菜アリ、漫遊紀談云、水戸城要害ノ第一ニシテ、西南ノ郭外ヲ遶レリ、其源池野邊ヨリ出デ、箕川等ノ地ヲ經、笠原山下ヲ過ギ、東流シテ川股村ニ至リ、那珂河ニ合シテ海ニ入ル、湖中新ニ堤ヲ築キ、楊柳楓樹ヲ兩行ニ殖ユ、所レ謂西湖ノ蘇堤トモ云ベシ、〈以上〉湖水ノ東流スルモノヲ伊奈堀ト云フ、水戸領地理志云、千波ノ湖水市中ヲ經テ濱田村ニ通ジ、坂戸町付ノ地ニ至リテワカレ、一ハ谷田、六反田、栗崎、東前、大串、鹽崎、平戸ノ地ヲ流レテ、島田ニ至リ、涸沼ノ下流ニ合シ、一ツハ澀井、吉沼、上大野西、上大野東ノ地ヲ過テ那珂川ニ合流ス、慶長十五年伊奈備前守令シテコレヲ穿チ田ニツヅカシム、因テ伊奈堀ト稱セシ由、土人亦備前堀トモ云フ、
p.1234 一水戸城邊の仙波の池は、湖水ともいふべき程の池也、その中に堤有、〈長十八町〉此堤を行かふ人多し、されば炎天に木陰なく、行人暑に苦まんことを思召、又其景色の爲に西湖の蘇堤に准へ、兩岸に楊柳をひしと御うゑさせ、柳が堤と御名付候、夫よりして夏日のあつき日も、柳陰連り、かげ涼しく、堤に休ふ者おほく、四時の景色またこと也、〈◯下略〉
p.1234 琵琶湖(ヒハコ)〈江州湖水、其形似二琵琶一、故名焉、事見二草山集一、〉
p.1234 【湖海】(ニヲノウミ)
p.1234 湖海(ニホノウミ)〈又作二鳰海(○○)一、跨二江州十二郡一之大湖、一名琵琶湖、〉
p.1234 孝靈五年、近江湖水始湛、富士山始出、
p.1234 湖水
p.1235 湖 近江の國十二郡に繫れる大湖なり、當國を古へ淡海國といひ、今近江國と云も、ともにこの湖あるによつてよべり、江といへるも湖のことにして、池の大なるものなり、すでに廣雅にも、湖は池なりとしるせり、水うみといへるは、海に對して、潮にあらずとの言ばなり、源氏物語、その餘の歌書の類、みな以て鹽ならぬ海ともかけり、淡海といへる訓は、鹽なくて味あはきといふことなり、みづうみの訓は、水のみを湛へて、海のごとく大なる池といふ意なり、海はうかむの義にて、船の浮ぶ處なり、うかみのかを中略せるなり、亦ふかみの意もあり、ふとうとは通ずるなり、凡日本に其國々湖水あるところ多し、然ども當國のごとき大なるはなし、比良、比叡、突兀と西へ聳へ、群峨高低として、北の方若狹路に列り、三上山、鏡山東に峙、其餘の峯々崺峛として畫屏を圍むがごとく、翠憶を張に似たり、四時の景ひとしからず、朝暮の景方たり、古人是を西土の岳州洞庭湖に比し、または杭州の西湖になぞらふ、瀟湘八景に比して詩を賦し、歌を詠ずるもの多し、〈◯中略〉凡湖、勢多より貝津に至て南北二十里、東西の廣きところは九里十里にをよべり、其水ふかきこと、貝津の邊にては七十尋百尋にも及べり、南にいたり黒津の邊までは漸く尺寸を以て數ふ、貢御の瀬、旱する年には渡る者脛をうつに過ず、此湖山谷の滴るところ、八百八川落來て湖となり、勢多にては流て關の津鹿飛の急流となり、宇治川となり、伏見にゆき、淀へながれ、木津川、桂川と合し、大坂に至り、川口傳法にいたつて、海に入朝するなり、西土の人も知れるにや、海東諸國記に、近江州湖、ながさ三十里、廣さ十八里と記せり、一湖なれども、北にては足利のうみといふ、高島郡にての稱なれば、詠歌みな高しま郡の條下にしるす、詩人呼て、一名を琵琶湖といふ、其象似たるを以てなり、〈◯中略〉歌仙多詠じて丹穗の湖と云、言意は、一説には鸊鷉(にほ)湖水に多くあるものゆへ、鸊鷉の湖と云といへり、
p.1235 湖水 あふみとは元淡海なりしを、天智帝大宮に近き江なりとて、近江
p.1236 の文字を作り、遠き江を遠江と號す、故にこれをちかつあふみ、とふだあふみともいふ、山谷の瀝滴所八百八河とはいへども、是はたヾ物の多きをいふのみ也、凡湖邊山谷の流末大なるは四十ヶ所ばかりにて、其餘數しれず、水海とは滿干なき故なり、鹽ならぬ海ともいふ、又あふみの海とも云、歌にはにほてるやあふみのうみとよめり、鳰の海といふは、いかなる事とも未レ詳、うたがふらくハ難波の枕詞、をしてるといふに同じかるべし、おしてるは襲ひてるとの義なれば、にほはにほひにて、うすく照るの義にもあるか、又鳰島とは、此鳰の海に多く住ものなれば名付たる 俗にカイツブリと云、琵琶の海とは、海の形似たるを以て號けたり、凡勢田より海津まで南北二十里、東西の廣き所凡九里、今津と佐和山の間尤廣し、北は濱村、西は海津、中は大浦、東は鹽津也、北は山を隔て越前に隣る、〈◯中略〉狹々浪とは、日本紀神功紀に、さヾ浪と計にてあふみの事とす、サヽは小の意にて、淺水の貌なり、萬葉に、石走る近江の國、樂波の大津の宮ともよめり、三津の浦といふは、志賀の浦をいふ、これも元は御津也、大津なり、 傳曰、孝靈四年、江州の地拆て湖水始て湛、駿州富士山忽出焉、景行十年、湖中竹生島浦出云々、〈或云、此説信ずべからず、〉
p.1236 近つ淡海の湖、波に似たる物なく、いと平かたして蒼々たり、見るが中に山颪波を起して、秋の景色定まらず、つく〴〵と眺めて打過ぬ、 夫琵琶湖、南北十九里、東西七八里、里俗稱二九十九浦名一、是日域大湖也、若狹三方、越中布施、信州諏訪、雲州松江、奧州磐梯、雖レ有二諸湖一、豈較二其廣狹一、況地接二京城一、風人雅士多來レ此留レ題、眞奇觀也、其藻臥、束鯽等、湖中美産也、 渺々琶湖徑 北南十九程 烟波船出沒 砂艸鳥縱横 瀟湘曾同レ景 龍宮長閟レ城 魚蝦皆美物 吟咏古人情
p.1237 又 行盡近江湖水頭 浪聲日夜盧二蘆洲一 旅鴻新見報二消息一 先問天涯紫塞秋
p.1237 凡そ淡海の湖は、勢田より貝津まで南北二十里、東西の廣き所九里あり、今津と佐和山の間、東西最廣し、湖の北の濱は、西は貝津、中は大浦、東は鹽津なり、此三所皆湖邊に民家ある所にて、北の山を隔てヽ越前に隣れり、此湖の形は能く琵琶に似たり、堅田より北十七里は東西廣し、琵琶の腹に似たり、堅田より勢田まで四里は東西狹く、一里の内外あり、譬へば琵琶に鹿首あるが如く狹し、勢田より宇治までは彌狹し、琵琶の海老尾に比し、竹生島を覆手に比すと云り、故に此湖を琵琶湖と云、大津の邊より山田矢橋の方を見たるよりも、堅田より北は甚だ廣大にて、恰も大海の如し、今津より勢田へ十七里、大溝へ四里、京へ十七里、越前敦賀へ十里半、今津より貝津へ四里、貝津より敦賀へ七里半、此間荒茅山なり、敦賀より京へは二十七里半あり、今津より船にて竹生島に到る、湖上三里あり、
p.1237 近江國 琵琶湖〈◯中略〉 湖邊周廻七十三里三十一町三十四間
p.1237 琵琶湖 近江全國諸川、此湖ニ集合シ、勢田川ニ注グ、其河川左ニ載レ之、 東西五里 南北十五里〈◯下略〉
p.1237 舟路行程 一大津より鹽津へ十九里半 一同海津へ十六里 一同米原へ十六里 一同竹生島へ十六里 一同木濱へ四里 一同長命寺へ七里 一同支那へ三里 一同關津へ三里 一同長濱へ十八里 一同松原へ十四里半 一同大溝へ十里 一同八幡へ八里 一同堅田へ三里 一同沖津へ八里 一同矢橋へ五十町 一同今津へ十四里 一西ハ唐崎、東ハ山田江壹里半、 一西ハ
p.1238 堅田、東ハ木濱ヘ貳拾壹町、常ニ舟渡し、 一西ハ小松、東ハ長命寺へ七里、 一西ハ大溝、東ハ沖島ヘ三里半、 一西ハ舟木、東ハ白石ヘ貳里、 一西ハ沖島、東ハ長命寺ヘ、南ハ壹リ、北ハ半リ、 一西ハ舟木、東ハ松原ヘ七里、 一勢田川東西ハヾ粗百間 一西膳所城、東矢橋貳十町、 一竹生島海津今津より三里、大崎より壹り、 早崎より壹り、長濱より五里、松原より六里、津々ら崎より貳十町、 ◯按ズルニ、近江八景ノ事ハ、地部近江國篇ニ載ス、宜シク參照スベシ、
p.1238 余吾湖(ヨコノウミ)〈近江〉
p.1238 餘吾湖(ヨゴノウミ)〈江州伊香郡〉
p.1238 余江 余古、又余湖、又余呉共カク、余江ハ一里許四方ノ入江也、小舟モアリ、漁人、鮒、ウグヒノ類ヲ捕ル、余呉鮒トテ名産也、此鮒、十一月十二月ノ比、雪降江面一遍ニ氷ザレバ取レズ、尤佳品也、他月ハ味惡シ、
p.1238 天正十一年卯月廿日、佐久間玄蕃助爲二大將一、通二余呉之海馬手一、
p.1238 諏方湖 下ノ諏方ノ驛ヲ出テ、左ノ方ニ漫々ト見ユル、富士山湖水ニ移リテ、其景言語道斷也、〈◯中略〉此湖名所也、諏訪ノ海トモ、又諏訪ノ湊共ヨメリ、
p.1238 すわ(諏訪)の湖并ころも(衣)が崎 烏丸殿丙寅の紀行にも、はこねの峯より見る湖よりはひろく長く、四方かぎりくまもなく見ゆ、近江の湖には及ばざれど、なか〳〵見渡し、島もなくいさぎよく湛へたるは、近江よりげにぞ覺ゆると書給へば、城の湖へつき出したるさまは、いとおもしろく筆に及び難し、又衣が崎といへるは、高島の城の大手を入れて、二の門の橋をヱトのはしとなんいふ、其橋のむかふへ富士の影湖水へうつる、海上の風景いわんかたなし、そのむかふなる崎を衣が崎とも、これもが御崎とも
p.1239 いへり、
p.1239 須波の海 日本紀、元正天皇養老五年六月、信濃國を割て始て諏訪の國を置、聖武天皇神龜元年、配流の遠近を定め給ふに、諏訪國、伊豫國を中流とす、其後天平三年、廢二諏訪國一并二信濃國一云々、湖水の順道三里とはいへども、洪水の毎度に埋りて、七島の名のみ殘りてみな陸地となれり、今は徑一里、或は一里半、深さ七尋ばかり、西に至りては深さ勝りて幾ばくといふ事をしらず、魚鱗は、鯉、鮒、鯰、鰻、鬪魚、鯇あり、近年小海老を産す、めぐりに浦々ありて民家多し、漁父常にすなどりをなして生計の便とす、南は駿河なる不二の高根を遙に望み、四方に衆山連綿して風色斜ならず、此水の落口を尾尻といふ、伊那郡を流れて遠州へ出る、天流川の水上なり、冬は湖一面に氷はりふさぎて、其上を人通行す、春は正月の末、又年の寒温によりて、二月の半までも氷のうへをゆきヽす、氷の厚さ一尺より二尺餘、其上を何程の大木大石を引けども破る事なし、氷のうへすべる故に樏をはきて通る、其上に雪積れば、常の如く草履草鞋にて行、馬はすべる故渡らず、此湖氷はりて、漁人氷の下に網を引を氷引といふ、氷を一所長くうがちて、其所より網を入、また其先をうがち、竹の竿を持て次第に先のうがちたる方まであみを送りやりて、幾所もかくのごとくにうがちて、網を廣くはりて魚をとる、此時漁人は腰に長き竿を挾む、若あやまりて落入るときも、竿にて死をまぬがるヽといへり、昔はかくする事を知らずして、冬春は漁人すなどりをせずといへり、 此湖を騷人鵞湖と稱す、三體詩に、鵞湖山下稻、粱肥、注に鵞湖は在二信州鉛山縣西南十五里一とあるをもて、信州の大湖なれば、なずらへていふなり、 或本朝年代記ニ云、後深草院建長三年二月十四日、諏訪神前湖大島、又唐船出現、片時間消失云々、是は西國北國にて蜃氣樓をみると云類なるべし、
p.1240 須波の湖 周十一里餘、亘三里許、鯉、鮒、龜甲あり、今は水治りていにしへに及ざるもの歟、玄冬の頃、湖面風ひヾらひでより氷鏡のごとし、〈◯中略〉此湖まどかにして、深きところ七尋ばかりあり、めぐりに浦々ありて、民家衆し、四方には山々ありて風色斜ならず、漁父あまた有て魚鱗をすなどる事多し、漁舟の外船に乘ことを禁ず、この湖冬の頃より春にいたり、氷はりて尺寸も透間なく、湖一面にふさがり、年の寒温によりて、霜月のうち、あるひは師走の初より氷はりて、後人其上を通る、〈◯中略〉日本國中に湖多しといへども、かくの如く氷はる所なし、信濃は日本にて地高くして、寒氣深き國なる故也、〈◯下略〉
p.1240 諏訪湖 信州諏訪の湖は、周廻三里の小湖なり、然れども亂山重疊の中にありて、景色は無雙の地なり、此湖邊より湖上に富士山の北面を見る、富士山峭直にして寶永山を見ず、富士の形は、此湖上より見るも又奇なりと云、扨此湖に世俗にいふ七不思議といふ事あり、其中にも殊更奇妙の事とするは、此湖水冬に至れば、寒國の習ひとて、一面の氷となる、厚さ數尺に及び、金鐵の如くにして平地に異ならず、霜月より翌年の二月までは人馬皆氷の上を往來して、少しも恐るヽ事なく、下の諏訪上の諏訪、其間三里の所たるを、冬は氷の上を一文字に通行する故、纔一里に成りて、甚便利なる事也、いかなる重き荷物を付たる馬車にても、むかしより氷破れて水底に落入りしためしなしとは、不思議なりと問ひしに、冬の初に神渡りといふ事あり、其神渡りありて後は、氷破るヽことなし、春に成り又神渡りあり、其後氷いまだ厚しといへども、恐れて一人も渡るものなし、其神渡りはいかなることぞといふに、冬のはじめ、一夜湖上大なる音して、物を引通る如し、夜明て見れば、氷の上を一文字に格別の大石大木などを引通りたる如く、氷左右にわれ分れて、一筋の道付たり、是は渡り濟みたりと云、此後は人馬往來して過ち無し、二月の末又此事あり、其後は渡
p.1241 りをやむる事なり、傳へいふ、諏訪神社は狐を眷屬とし給ふなり、狐は氷を聞ものなれば、此神渡りは明神の使しめの狐の所爲なりとぞ、又諏訪に温泉ありて、諸人入湯する所なり、湖水の中にも温泉あり、常は知れず、只氷りたる時は湖中にて其温泉の湧いづる所ばかり氷らずして、氷に所々穴ありて湯氣のぼる、又下の諏訪の拜殿の板壁のふし穴より、上の諏訪の塔の影さし渡し一里を隔てヽさし入る、又上の諏訪明神のみたらしのほとりは、四季ともに毎日少し計にても雨降らずといふことなし、又明神の廻廊の板敷釘を用ひず、人歩行するに音なし、其外不思議數數あり、東海道にある天龍川は、其源此諏訪湖より流れ出る、小湖なれども底深く、魚鼈甚多くして、此邊利益ある水なり、
p.1241 南湖 中禪寺の湖水と唱ふるものなり、第一の大湖にして、凡東西三里餘、南北凡一里餘、又八功徳池と名附ることは縁起にみえたり、凡山腹山趾に四拾八湖有となん聞る、されど其在所も定かに知れるものなし、大師の記文に載たるが如く、眄坤更有二一大湖一、羃計一千餘町云云、清潔なる冷水ゆゑ鱗蟲も生ぜず、一點の塵芥もなく、常に白波汀濱に湛へ、旱年又は霖雨にも不レ耗不レ溢、そのかみ神護景雲元年、勝道上人遊覽せられしより、今も猶現然として奇觀なる大湖といふべし、
p.1241 補陀洛山中禪寺〈日光より山路三里餘◯中略〉湖水長サ三里、幅二里、あるひは一里半許の所もあり、四面に繁樹脩竹あつて、湖上を覆ふといへども、其落葉ひとつも水面に浮まず、底至て深けれども、魚鱗ひとつもすまず、都て此山中に大湖三つあり、其外小さき湖四十八湖あり、かヽる高山の顚に、數多湖水ある事奇異の靈地なり、
p.1241 下野國二荒山ノ頂ニ湖アリ、廣サ千町バカリ、キヨクスメル事タグヒナシ、〈◯下略〉
p.1241 猪苗代之湖水
p.1242 同國〈◯奥州〉若松といふ所は、賑はしきよき所なり、夫より東の方にゆく事六里ばかりと覺ゆ、笹山といふ所にいたり、右の方へ別れ道を、三十町ばかりにして猪苗代の湖水に到、いかにも奧州は大國なり、此湖水さながら近江の湖にことならず、近郷隣村ふねにて世用を便ず、かるがゆへに遠浦の歸帆も見ゆ、東路の遠き奧なれば、世の人かヽる風景こヽに在ことをしらず、惜ひかな知る人すくなし、
p.1242 五月二十四日、高田村御發足〈五リ餘〉大寺村、〈三リ餘〉猪苗代止宿、二本松への街道は、盤大山と湖の間を往來とす、〈◯中略〉湖の廣サ北南百丁、東西九十丁、若松領二本松領の入組なり、湖にて取魚、鮒、〈大なるは一尺餘〉赤はらと云魚、〈是も一尺餘あるも有〉鮠、此外の魚は更にはし、湖より流出る川を日橋川と稱し、急流にて瀧のごとし、五里餘川下山崎といふ地にて、若松より流出る大川と一流となる也、會津郡と那麻郡の界は、此流を以て堺とす、湖は那麻郡の内なり、
p.1242 當國〈◯若狹國〉三方の郡に湖、三あり、御形の湖(○○○○)小濱より六里東北に在り、長さ二里深し、敦賀よりも六里あり、鯉鮒多し、其次に勺子の湖、長さ三十丁、横十四五丁、御形の對ひの山を隔つ、其間一里許りあり、其次にひるがの湖(○○○○○)、是は勺子の湖(○○○○)と並べり、廣さは勺子の湖と同じ、其水甚だ深し、ひるがの湖には潮滿れば海水入る、故に海魚も河魚もあり、
p.1242 布勢海(フセノウミ)〈又云多胡海(○○○)、越中射水郡、〉
p.1242 越中國布勢の湖は、家持卿のうた萬葉集に見ゆるに付て、其邊の地理を國人にとふに、先かの卿を祭れる社湖邊にありて、御蔭明神と稱す、多胡のうらは、今湖をさること半里餘にして、陸地の一邑となれり、此間の湖水は埋れて田となりし成べし、たヾ名におふ藤は大なる古樹今も繁茂せり、澀谷崎は二上山の北の尾のうみに臨む所をいふ、射水河は水源飛彈山中より出て、當國礪波郡井波といふ所にいたり、細き谷口より流出るが、水勢甚急也、さて其水二流に別
p.1243 れ、また末にて合し、一大河となるを射水河と號く、兩岸相さること四百間計とぞ、
p.1243 遊二覽布勢水海(○○○○)一賦一首并短歌、〈此海者、在二射水郡舊江村一也、〉 物能乃敷能(モノノフノ)、夜蘇等母乃乎能(ヤソトモノヲノ)、於毛布度知(オモフドチ)、許己呂也良武等(コヽロヤラムト)、宇麻奈米底(ウマナメテ)、宇知久知夫利乃(ウチクチフリノ)、之良奈美能(シラナミノ)、安里蘇爾與須流(アリソニヨスル)、之夫多爾能(シフタニノ)、佐吉多母登保理(サキタモトホリ)、麻都太要能(マツタエノ)、奈我波麻須義底(ナガハマスギテ)、宇奈比河波(ウナヒガハ)、伎欲吉勢其等爾(キヨキセゴトニ)、宇加波多知(ウカハタチ)、可由吉加久遊岐(カユキカクユキ)、見都禮騰母(ミツレドモ)、曾許母安加爾等(ソコモアカニト)、布勢能宇彌爾(フセノウミニ)、布禰宇氣須惠底(フ子ウケスヱテ)、於伎弊許藝(オキヘコギ)、邊爾己伎見禮婆(ヘニコギミレバ)、奈藝左爾波(ナギサニハ)、安遲牟良佐和伎(アヂムラサワギ)、之麻末爾波(シママニハ)、許奴禮波奈左吉(コヌレハナサキ)、許己婆久毛(コヽバクモ)、見乃佐夜氣吉加(ミノサヤケキカ)、多麻久之氣(タマクシケ)、布多我彌夜麻爾(フタガミヤマニ)、波布都多能(ハフツタノ)、由伎波和可禮受(ユキハワカレズ)、安里我欲比(アリガヨヒ)、伊夜登之能波爾(ヤイトシノハニ)、於母布度知(オモフドチ)、可久思安蘇婆牟(カクシアソバム)、異麻母見流其等(イマモミルゴト)、 布勢能宇美能(フセノウミノ)、意枳都之良奈美(オキツシラナミ)、安利我欲比(アリガヨヒ)、伊夜登偲能波爾(イヤトシノハニ)、見都追思努播牟(ミツヽシヌバム)、 右守大伴宿禰家持作之 四月廿四日
p.1243 宍道〈◯中略〉 今按に、竪六里横三里の湖水あり、是を宍道の湖と云、又は佐太の湖とも記には見えたり、末次の里より伯州米子まで七里の舟路也、湖水の中、末次の里のちかくに、よめ島と云あり、古記には見えず、其外赤壁十六禿など云湖水の左右、一歩に一景十歩に十景、水 (クワツ)々、花粲々、柳葱々、蘆莫々、鳥關々、魚潑々、戸重々、樓亭々、船搖々、人來々、無聲の詩にも有聲の繪にも寫しがたきは此風景也、
p.1243 神門水海、郡家正西四里五十歩、周三十五里七十四歩、裏則有二鯔魚、鎭仁須受枳、鮒、玄蠣一也、即水海與二大海一之間有レ山、長二十二里二百三十四歩、廣三里、此者意美豆努命之國引坐時之綱矣、今俗人號云二薗松山一、地之形體、壤石並無也、白沙耳積上、即松林茂繁、四風吹時沙飛流、掩二埋松林一、今年埋半遺、恐遂被レ埋已與、起二松山南端美久我林一、盡下石見與二出雲一二國堺中島埼上之間、或乎須、或陵磯、