http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0740 相模國ハ、サガミノクニト云フ、東海道ニ在リ、東北ハ武藏、西ハ甲斐、駿河、南ハ伊豆及ビ海ニ至ル、東西凡ソ十四里、南北凡ソ十一里、其地勢ハ、相模川國ノ中央ヲ貫流シテ、自ラ東西ニ兩分シ、東部ハ概ネ平坦ニシテ、其南方ニ於テ、僅ニ丘陵ノ起伏スルヲ見ルノミ、西部ハ山嶽重疊シ、殆ンド平坦ノ地ナシ、而シテ三浦半島ハ東南ニ突出シテ、實ニ東京灣ノ右翼ヲ爲ス、此國ハ古ヘ國府ヲ大住郡ニ置キ、足上(アシガラノカミ)、足下(アシガラノシモ)、餘綾(ヨロギ)、大住(オホミス)、愛甲(アコカハ)、高座(タカクラ)、鎌倉(カマクラ)、御浦(ミウラ)ノ八郡ヲ管シ、延喜ノ制、上國ニ列ス、後世國ノ西北隅ノ一部ヲ分チテ津久井縣ト稱シ、恰モ郡ノ如クセシガ、明治維新ノ後、餘綾、大住ノ二郡ヲ合シテ中郡ト號シ、津久井縣ヲ廢シテ津久井郡ト稱シ、新ニ横須賀市ヲ設ケテ、一市八郡ト爲シ、神奈川縣ヲシテ之ヲ治セシム、

名稱

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0741 相模(サガミ)〈佐加三〉

〔饅頭屋本節用集〕

〈左天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0741 相模(サガミ)〈相州〉

〔地名字音轉用例〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0741 ウノ韻ヲカノ行ノ音ニ轉ジ用ヒタル例 さがむ 相模〈國〉佐加三 相ハサウノ音ナルヲ、韻ノウヲ、轉ジテサガニ用ヒタリ、〈此國名ハ、モトサガム(○○○)ナリシテ、和名抄ニ佐加三ト注シタルハ、後ノ唱ナリ、古事記相武ト書キ、歌ニモ佐賀牟トアリ、摸字モモノ音ナレバ、ムニ近クシテ、ミニハ遠シ、〉

〔倭訓栞〕

〈前編十一佐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0741 さがみ 相模は、さがはさうの轉、みはもの轉也、相樂をさがらとよむも同じ、もと坂見の義にて、足柄筥根より見下す國なる故也といへり、又牟佐上のむを略したる也、むさしにむかへていふともいへり、

〔古事記傳〕

〈二十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0741 相武國、武字、諸本に模も作り、〈書記釋、又神名秘書などに引るも同じ、〉今は眞福寺本延佳本に依れり、〈記中には、武字は假字に用ひたる例は無けれども、凡て國名地名には、常の假字には用ひざる字を書たる例多し、吉備の吉字、高志(コシ)の高字、伊賦夜坂、波邇賦坂などの賦字、伊服岐(イブキ)山の服字、當藝野、當岐麻などの當字などの如し、これらも記中には、常にはをさ〳〵用ひざる假字なり、此の武字も右の類なり、さて又記中國名の字、凡て尋常に異なる多し、山代、无邪志、三野、科野、高志(コシ)、多遲麻、稻羽、針間、阿岐などの如し、是上代より書來し隨と見えたり、さればこゝも其類にて、本は相武とありけむを、今の本多く相模と作るは、後人のさかしらに書易たるなるべし、然る例もこれかれ見えたり、美濃は三野とのみ書るに、上卷に一所美濃とかき、近淡海とのみ書る例にて、遠江も遠淡海とこそあるへきに遠江と書るなども、皆後のしわざと見ゆ、〉元正紀に、酒部連相武(サガム)と云人名も見えたり、是此國名を、古は如此書たりし一の證なり、〈國造本紀にも此字を書たり、〉さて和名抄に、相模佐加三とあれども、元は佐賀牟なり、下なる歌にも然あり、模字を書るもムの假字なり、〈此字ミの假字には遠し、大隅國の郡名の馭謨も五牟とあり、謨模同音の字なり、東遊の一歌に、左加安无乃於禰(サガアムノオネ)とあるは、相模の峯と云ことなるべし、萬葉十四に、相模禰乃乎美禰(サガムネノヲミネ)とある相模などをも、サガムと訓べきなり、佐賀美と云は、後に轉れる唱なるべし、上總國の郡名、夷灊も和名抄には伊志美とあれども、此記には伊自牟とあり、〉國名義の事は、下なる歌の處に云べし、

〔諸國名義考〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0741 相模 和名抄に相模〈佐加三、國府在大住郡、〉名義は、或書に神倭磐余彦天皇、欲東夷之時云々、自大山之中津峯、遥

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0742覽之、而勅嵯峨身哉、此軍之諸人、依之有嵯峨見之名云々、足輕明神昔狩人也、或時離寵妻悲傷、故常見亡妻之鏡、思之相模、如其亡妻、故曰相模といへるは、いと〳〵みだりなり、わきて鏡の説は字義になづみたる、いみじき妄説なり、皇國のいにしへ、音もていへる事なし、縣居大人は身狹(ムサシ)の國なり、西國北國にては前後もて國を分け、東國にては上下もて分る例あれば、こは身狹上の略なりと云れつれど、穩ならず、上下と分つにも又例ある物をや、國名には、上(カミ)某下(シモ)某といふはあれど、某上某下といふはなし、されど郡名にはあれどそは異なり、古事記日代宮の段の弟橘比賣命の歌に、佐泥佐斯(サネサシ)、佐賀牟能袁怒邇(サガムノヲヌニ)云々とあり、

〔類聚名物考〕

〈地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0742 相模 さがみ 思ふに、相模國は足柄の二郡みな山にして、その外も多くは山のみにして、海にそへる所わづかに平地なれば、嶮上の意にていふ成べし、土佐の國も、とき坂の略語と見ゆれば、此も同じ意成べし、

〔古事記〕

〈中景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0742 爾其后、名弟橘比賣命白之、妾易御子而入海中、〈◯中略〉爾其后歌曰、【佐泥佐斯】(サ子サシ)、【佐賀牟】能袁怒邇(サガムノヲヌニ)、毛由流肥能(モユルヒノ)、本那迦邇多知氐(ホナカニタチテ)、斗比斯岐美波母(トヒシキミハモ)、

〔古事記傳〕

〈二十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0742 佐泥佐斯(サ子サシ)は、相模の枕詞とは聞ゆれども、いかなるごととも未考へ得ず、〈されど誠に強ていはゞ、佐斯は國名にて、佐泥は眞と云と同く、美たる言ならむか、即眞字を佐泥ともよみ、さねかづらなども、眞かづらと云意の名と聞ゆ、其をさなかづらとも云は、稻を伊那、金を加那と云格なり、又万葉集十四に、萱を佐禰加夜ともよめり、されば佐斯てふ國をほめて、佐泥佐斯とは云ならむ、さて佐斯を國名と云は、駿河、相模、武藏の地を、總て本は佐斯國とぞ云けむを、二に分て、相模武藏とはなれるならむ、駿河は後に又相模より分れたること上に云るが如し、かくて其相模と云名は、佐斯上の斯を省き、武藏は、身佐斯の意なるべし、(中略)さて佐泥佐斯佐賀牟とつゞけ云は、御吉野の吉野、佐檜前檜前など云例の如し、延隹云、佐下斯上脱泥字乎、下卷輕皇子歌、佐泥斯佐泥氐婆、万葉集、左宿左寐氐許曾と云るはわろし、此はさね〳〵しと云ては、末句にかなはず、又契冲云、相模の枕詞なり未詳、今按に舊事紀并に此紀に武藏を胸刺と書たれば、牟泥佐斯を略て、牟佐斯とは云なれば、今は、狹胸刺(サム子サシ)の牟を略て云るにや、武藏相模は、もと一にてあるべければ、かくはつゞけたるにや、相模國は武藏より小ければ狹胸刺と云かと云れど、此記には、武藏は牟邪志とこそ書たれ、胸刺とは書たることなし、舊事記にも、牟邪志と胸刺〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0743 〈とは別に擧たりいかゞ、又師(賀茂眞淵)云、佐は發語、泥は奴に通ひ、奴と牟とは又通へば、牟佐斯なり、古武藏と相模と、一國にて分れぬ時には、かくもよむべしと云れたるもいかゞ、牟佐斯を泥佐斯とはいかでか云べき、又或人相模國は小き峯の多き國なるに因て、小峯刺(サ子サシ)の意なり、刺は立なりと云るもいかゞ、又己も前に思へるは、佐は例の眞の意、泥は峯にて富士山を眞峯とほめ云、佐斯は立ならむ、駿河も舊相模なれば、富士山を以て、枕詞とせるなるべしと思ひしもわろし、〉

位置

〔地勢提要〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0743 各國經緯度〈附里程〉 相模小田原、〈本町〉極高三十五度一十五分、經度東三度二十四分、從東都〈東海道〉二十二里一十五町一十四間半、

〔日本經緯度實測〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0743 北極出地 相模 大磯 三五度一八分〇〇秒 小田原 三五度一五分〇〇秒 箱根 三五度一二分三〇秒〈◯中略〉 東西里差 山城 京 〇度〇〇分〇〇秒〈◯中略〉 相模 小田原 東三度二三分五三秒

疆城

〔新編相模國風土記稿〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0743 圖説 本州ノ地ハ、山野及ビ海ニ屬ス、水土考ニ、北極出地三十五度ト見ユ、東北ハ武州ニ接シ、西北ノ際、三國嶽ニ躓キ、甲州ニ隣リ、南方ハ海ニ面シ、西南ハ足柄箱根ヲ攀テ、駿豆二州ニ界ス、南北凡九里餘、東西凡十六里餘、西北ノ方、疊嶂複嶺ニシテ、人跡ノ通ゼザル所、凡方七八里、

〔日本地誌提要〕

〈十七相模〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0743 疆城 東ハ武藏、西ハ甲斐、駿河、南ハ伊豆、及海、北ハ武藏ニ至ル、東西凡壹拾四里、南北凡壹拾壹里、

島嶼

〔日本實測録〕

〈九島嶼〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0743 相模國三浦郡 遠測 中島 城ケ島 天神島 鎌倉郡 實測 江島 周廻一十七町五十三間 足柄下郡 遠測 大根〈山西村〉 浮根 コウシロ根 大根〈根府川村〉 辨天島〈岩村〉 鈴島〈眞鶴〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0744 〈村〉 笠島 大根〈眞鶴村〉 鵜根 辨天島〈吉濱村〉

地勢

〔易林本節用集〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0744 相模〈相州〉上、管八郡、四方三日、地厚一丈、生産肥、山淺而無材木、只海藻與魚鼈多、中下圀也、

〔新編相模國風土記稿〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0744 圖説 本州ノ地ハ、山野及ビ海ニ屬ス、〈◯中略〉地形、東ハ低ク、西ニ至テハ、漸々ニ高シ、故ニ多ク東方ニ村落ヲナセリ、西方ノ山村ニ至テハ、專採薪ヲ業トシテ、農業ニ疎シ、モトヨリ國ノ中央ヨリ西ニ至テハ、山野ニシテ水田ヲ開ク所少ナシ、〈◯中略〉本州海陸ノ便利ヨク、殊ニ海路便宜ノ地ニシテ、諸産ノ品物ニ富ミ、諸國ノ士民輻湊スルガ故、自然都下ノ習俗ニ移レリ、

道路

〔日本實測録〕

〈二街道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0744東京東海道至西京〈◯中略〉 相模國鎌倉郡戸塚 二里二町一十四間 高座郡藤澤宿、三十五度二十一分半、 二十八町二十八間 辻堂村四ツ谷 二里一十八町一十二間半〈至茅ケ崎村南湖一里一十九丁二間、從南湖馬入川岸二十四丁五十三間〉 大住郡平塚新宿 九町三十三間半 平塚宿、三十五度二十分、 三十町七間半 淘綾(ユルギ)郡大磯宿、三十五度一十八分半、 四里一十町四十間〈至山西村梅澤一里二十八町五十一間、從梅澤小田原高梨町、二里一十四町三十七間、〉 足柄下郡小田原本町、三十五度一十五分、 一里一十二町三十三間 湯本町 二里二十二町二十間 元箱根八町坂 一十八町四十二間〈至關所一十四丁四十八間〉 箱根宿、三十五度一十一分半、 三里一十九町五間〈至國界一十三丁五十八間半〉 伊豆國君澤郡三島宿傳馬町〈◯中略〉 從東京大山及御殿場大月〈◯中略〉 相模國高座郡下鶴間村 二里三十四町三十三間 愛甲郡厚木町相模川岸〈歴依智當麻村二里一十九丁五十間、從當麻橋本村一里三十三丁二十七間半、〉 五町五間 厚木町、三十五度二十六分半、 二十九町 大住郡酒井村 二里四町四十八間 上糟屋村石倉 五町二十一間 上糟屋村子易 一十九町一十三間半 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0745 大山新町、三十五度二十五分、 五町三十三間 同別所町〈至石尊大瀧三丁二十三間〉 四里三十四町四十三間〈至前不動一十三丁三十六間、從前不動不動堂九丁四十四間半、〉 足柄上郡神山村清水 一里二十町五十六間 和田河原村〈至塚原村二十一丁四十二間、從塚原小田原高梨町一里三十二丁一十九間、〉 九町 關本村追分〈歴道了權現華表前最乘寺三十四丁五十五間半、從華表前道了權現社三丁六間、〉 一町三十六間 關本村、三十五度二十分、 一里四町二十四間 矢倉澤村、三十五度二十分、 二里一十九町三十六間〈至矢倉澤關所前、一丁一十八間、從關所前國界一里一十一丁五十間、〉 駿河國駿東郡竹之下村

〔日本實測録〕

〈三街道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0745東京甲府下諏訪〈◯中略〉 相模國津久井縣與瀬村小原宿 二十町五十六間半 同與瀬宿 二十九町五十八間 吉野宿 二十八町二十四間 小淵村關野宿 三十三町三十六間〈至國界八丁四十八間〉 甲斐國都留郡上野原村

〔日本實測録〕

〈一沿海〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0745東京沿海至大坂〈◯中略〉 相模國三浦郡横須賀村、三十五度一十七分、 一里三十五町六間 走水村、三十五度一十六分、 二里一十二町三十六間〈至走水觀音堂二十町一十二間〉 西浦賀 七里三十四町二間半〈至上宮田村三里一十町三間半〉 三崎 八里二十三町四十八間〈至網代村一里九町一十一間〉 鎌倉郡材木座村〈至光明寺二町一十一間〉 一十四町四十五間 同由井ケ濱〈至鶴ケ岡八幡社一十五町一十六間〉 一里一十二町四十三間〈至稻村岬一十三町四十一間〉 片瀬村〈至江之島四町一十七間〉 三里三十五町五十六間半〈至茅ケ崎村二里一間〉 淘綾郡大磯宿 四里五十一間〈至梅澤一里三十二町二十三間〉 足柄下郡小田原 一里二十九町二間 根府川村、三十五度一十二分半、 一里三十一町二間 眞鶴村、三十五度九分半、〈眞鶴崎徑測四町二十五間〉 一里三十四町六間〈至眞鶴崎二十四町六間〉 吉濱村、三十五度九分半、 九町四十五間 門川村〈至宮上村湯ケ原一里二町三十五間〉 二十九町二十四間〈至國界一町一十五間〉 伊豆國賀茂郡伊豆山走湯

宿驛

〔延喜式〕

〈二十八兵部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0745 諸國驛傳馬〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0746 相模國驛馬〈坂本廿二疋、小總、箕輪、濱田、各十二疋、〉傳馬〈足上、餘綾、高座郡、各五疋、〉

〔新編相模國風土記稿〕

〈四十八大住郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0746 平塚(○○)宿〈比良都可志久〉 東海道宿驛ノ一ニシテ、江戸日本橋ヨリ十五里半、

〔新編相模國風土記稿〕

〈六十高座郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0746 藤澤(○○)宿〈布知佐波志久〉 郡ノ艮方ニテ鎌倉郡ニ跨レリ、當郡大久保町、坂戸町、及鎌倉郡大鋸町ヲ合テ一宿トシ、藤澤宿ト唱フ、此宿東海道五十三驛ノ内、江戸ヨリ第五ノ驛郵ニテ、行程十二里ヲ隔ツ、

〔新編相模國風土記稿〕

〈九十九鎌倉郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0746 戸塚(○○)宿〈止津加之由久〉 江戸ヨリ行程十里、小坂郷ニ屬ス、當所及ビ隣村、吉田、矢部兩町ヲ加ヘ、戸塚三ケ町ト唱ヘ、東海道五十三驛ノ一ナリ、古ハ富塚ト書ス、今ノ文字ハ正保ノ改ニ草創ス、中古ハ町ト稱セリ、〈◯註略〉專宿ト書紀スル事ハ、元祿已後ノ事ナリ、

〔新編相模國風土記稿〕

〈四十一淘綾郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0746 二ノ宮庄 大磯(○○)宿〈於保伊曾志久〉 江戸ヨリ行程十六里、當所ハ東海道五十三驛ノ一ナリ、延喜兵部式、當國傳馬ノ數ヲ記セシ條ニ、本郡五匹ト見エタルモノ、他ニ斥ス所ナク、全當所ニ的シテ、古ヨリ驛路タル事識ルベシ、

〔新編相模國風土記稿〕

〈二十四足柄下郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0746 早川庄 小田原(○○○)宿〈乎陀波羅志久〉上 郡ノ南方海岸ニ傍テ平衍ノ地ナリ、東海道五十三驛ノ一、江戸日本橋ヨリ行程二十里十町三十八間、小淘綾里ト唱フ、〈東山王原村、西板橋村、南海、北城内、〉當宿ノ地形、小田原城ノ東南ヲ擁セリ、城下町都テ十九町ノ内、東海道ノ大路ニ値レル所ヲ通町ト稱ス、其長東西二十町五十六間、〈道幅五間〉其町々ハ新宿、萬、高梨、宮ノ前、本、中宿、欄干橋、筋違橋、山角ノ九町ナリ、其餘十町ハ、東海道ノ南裏、及甲州道ノ通衢ニ連レリ、

〔新編相模國風土記稿〕

〈二十七足柄下郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0746 早川庄 箱根(○○)宿〈波古禰志由久〉 足柄郷ニ屬ス、江戸ヨリ行程二十四里、東海道五十三驛ノ一ナリ、〈正保及元祿ノ國圖、并ニ箱根〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0747 〈町ト記ス、〉相傳フ此地宿驛越置レシハ、元和以後ノ事ナリ、關西ノ諸侯朝覲往還ノ時、箱根山ノ嶮峻ニシテ、且郵驛路遠ク、易ヲカラザルヲ以テ、元和四年、松平右衞門大夫正綱仰ヲ奉リ、山野ヲ闢キ、三島、〈豆州ノ屬〉小田原兩驛ノ民ヲ遷サレ、此地ニ新驛ヲ置ル、是ヲ以テ今宿内ニ三島町、小田原町ノ二名アリ、

〔續日本紀〕

〈三十一光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0747 寶龜二年十月己卯、太政官奏、武藏國、雖山道、兼承海道、〈◯中略〉今東海道者、從相模國【夷參(イサマ)驛】、達下總國、其間四驛、往還便近、〈◯下略〉

〔吾妻鏡〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0747 元暦二年〈◯文治元年〉五月十五日丁酉、延尉使者〈景光〉參著、相具前内府父子參内云、去七日出京、今夜欲酒勾驛(○○○)、明日可鎌倉之由申之、北條殿爲御使、令酒勾宿給、

〔吾妻鏡〕

〈四十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0747 建長二年十二月十三日甲辰、今日相州室被姙帶、鶴岡當別法印〈隆辨〉加持之、法印去九月以後住持之處、依此請、態所遣之飛脚、相逢于萱津驛(○○○)之間、競寸陰今夕走著云云、

〔廻國雜記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0747 大磯の宿(○○○○)といへる所は、いにしへとらといひける、好色のすみける所となんある、同行にたはぶれに申きかせける、 今は又とらふすのべとあれにけり人は昔のおほいその里

建置沿革

〔日本國郡沿革考〕

〈二東海道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0747 相模 古作相武、〈古事記、國造記、〉上國、管九郡、〈延喜式八郡〉六百七十一村、 三浦〈七十八村 延喜式等作御浦〉 鎌倉〈八十九村〉 高坐〈百十八村 天武紀作高倉〉 足柄上〈九十四村 古足柄郡、折爲上下、未何時、延喜式作足上、〉 足柄下〈八十三村 延喜式作足下〉 陶綾〈十九村 延喜式等作餘綾、萬葉集余呂伎能波麻、即此地、國造記所謂師長國造、即餘綾郡磯長郷、〉 大住〈百十八村古府治〉 愛甲〈四十五村〉 津久井縣〈延喜式等不載、置未何時、〉

〔新編相模國風土記稿〕

〈二建置沿革〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0747 抑當國ノ號、正史ニ見エシハ、古事記、日本紀、共ニ景行帝ノ條ニ出ルモノ、是ヲ始ト云フベシ、〈◯中略〉國造本紀ニ據レバ、此朝、意富鷲意彌命ヲモテ師長國造トセラル〈曰、師長國造、志賀高穴穗朝御世、茨城國造祖、建許呂命兒、意富鷲意彌命、定賜國造、〉師長ハ即倭名鈔當國餘綾郡ノ郷名ニ、磯長トアル是ナ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0748 リ、今是ニ據テ、上古ハ全ク相模、師長二國タリシトモ云フベキナレド、猥ニハ、然定難キナリ、サレド北方山間嶮岨ノ地ハ、左加牟ト唱ヘ、南方磯邊ノ地ハ、磯長ト稱シ、自然區別セシ事ハ、識ルベカラズ、〈◯中略〉斯テ頼朝平家追討有テ、鎌倉ニ府ヲ開キ、建久三年、征夷將軍トナルニ及ビ、海内ノ諸士靡キ從ヒ來タリテ、府下ニ仕フル者、各便宜ニ就テ、邸宅ヲ經營ス、就中府下ニ屬スル所ハ、更ニ山林ヲ闢テ、昵近ノ諸士居宅ヲ構ヘ、市廛周匝シテ、頗繁榮ノ地トナリ、國地ノ風俗、玆ニ一變セリ、元弘已來、又戰爭ノ地トナリシカバ、漸古制廢蕪シテ定規ヲ失フ、玆ニ至テ郡郷邑里モ紛紜シ、疆域稱呼モ定カナラザリシ事識ルベシ、故ニ此際ノ事状、今ヨリ測リ得ベキニ有ザレバ、措テ辨ゼズ、又此際郡界變遷シ、餘綾郡ノ地大住郡ニ入ルモノアリ、或ハ大住郡ヨリ高座郡ニ隷入シ、鎌倉郡ヨリ三浦郡ニ分隷スルモノアリ、其年紀古傳ナケレバ詳ナラズ〈事ハ各郡ノ條ニ辨ズ、此他村里ニ至テモ、或ハ荒蕪シ、或ハ新開ノ地アリ、是等ハ村里部ニ干係スレバ、玆ニ贅セズ、〉足利管領九代ノ際、又治亂定マラズシテ、地理ノ事記載スベキナシ、明應ニ至リ、北條新九郞長氏、伊豆國ニ起リ、尋テ當國ニ移リシ後、稍治平シテ九十餘年、本州全ク北條氏ノ有トナル、當時各郡ノ唱ヲ廢シ、三浦郡ノ外ハ、闔稱シテ東郡〈鎌倉高座二郡〉西郡〈足柄上上二郡〉中郡〈愛甲、大住、淘綾三郡、〉ト呼ビ、今ノ津久井縣ノ地ハ、元來愛甲、高座二郡ノ所屬タレドモ、自然區別ヲナシ、當時分テ奧三保ト唱ヘ、或ハ津久井領ト呼ベリ、天正十八年、豐臣太閤ノ爲ニ、北條氏滅亡シ、東國總テ御分國トナリシ後ハ、各郡舊稱ニ復セリ、但シ足上足下ヲ足柄上、足柄下、餘綾ヲ淘綾ト書改シモ、此頃ヨリノ事カ、今詳ニシ難シ、〈按ズルニ、治承ノ昔、頼朝鎌府ヲ開キシヨリ後、郡名ヲ唱フル事稀ニシテ、多クハ郷庄ノ唱ヲモテ呼ベリ、サルガ故、郡名ハ全ク廢セシ如シ、サレバ其文字モ唱モ、當時定カナラザリシ事識ルベシ、此他多加久良ヲ多加左、阿由加波ヲ安以加不、與呂岐ヲ由留岐ト唱ル事モ、其權輿詳ナラズ、各郡ノ總説、併テ見テ考フベシ、〉其後正保中ノ改定ニ、彼津久井領別區ノ地、全ク分チテ津久井郡トス、即高座郡ノ所屬十村、〈上下川尻、中澤、三井千木良、與瀬、吉野、澤井、小淵、佐野川等ナリ、〉愛甲郡ノ所屬十九村ナリ、〈葉山島、小倉、根古屋、大井、荒川、中野、又野、三ケ木、青山、關、鳥屋、寸澤嵐、若柳、青野原、日連、名倉、牧野、青根、長竹等ナリ、〉サレド正シク定ラレタルニハ有ザリケン、夫ヨリ已後ノ御朱印ニ猶所屬ノ郡名ヲ係テ記

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0749 サレタリ、斯元祿四年ニ至リ、山川金右衞門奉ハリ、更ニ分割シテ津久井縣ト稱ス、今ニ至テ然リ、〈尚委シクハ、高座愛甲二郡、津久井縣ノ總説、併セ見テ識ルベシ、〉又豆相ノ國界、正保ノ改定ニハ、足柄下郡西方、峯通リヲ國界トス、然ルニ元祿十一年爭論アリシカバ、同十三年糺決アリテ峯通ヨリ此方、門川ノ中流ヲ限テ、國界ト定ラル、〈事ハ足柄下郡土肥宮上村條、併セ見テ識ルベシ、〉又駿相ノ國界モ、玆年改定アリ、舊ハ足柄上郡西方、足柄峠峯通リ、國界タリシガ、此時峯ヨリ此方十町餘ヲ下リテ、二州ノ界トス、今ニ至テ然リ、

〔日本地誌提要〕

〈十七相模〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0749 沿革 古ヘ國府ヲ大住郡ニ置、〈府址未詳、今淘綾郡ニ國府本郷村アリ、〉源頼朝ノ興ル、府ヲ鎌倉ニ開キ、總追捕使トナリ、兵馬ノ權ヲ握リ、本州、及伊豆、駿河、武藏、上總、下總、信濃、越後、豐後九國ヲ以テ、其管國トス、文治中、後白河法皇特旨ヲ以テ、本州ヲ頼朝ニ賜ヒ世襲セシム、建久三年、征夷大將軍ニ拜ス、頼朝ノ後二世ニシテ嗣絶エ、其臣北條氏、世執權トナリ、州守ニ任ジ、將軍ヲ廢立スル者六世、〈藤原頼經父子、及親王四世、〉元弘三年、後醍醐天皇北條高時ヲ誅シ、建武元年成良親王ヲ東國管領ニ任ジ、足利直義ヲ執權トシ、鎌倉ニ鎭ス、明年、足利尊氏東下、遂ニ反シテ自ラ將軍ト稱シ、府ヲ鎌倉ニ定メ、京師ヲ犯ス、子義詮ヲ留守トシテ八州ヲ控制セシム、正平ノ初、其弟基氏、代テ關東管領トナリ、鎌倉ニ居リ本州ヲ領ス、永享ノ末、基氏曾孫持氏ニ至リ、其執事上杉憲實ト隙ヲ生ジ、遂ニ將軍義教ニ滅サレ、山内ノ上杉清方、管領ノ事ヲ行ヒ、州事ヲ知ル、文安中、持氏ノ子成氏再管領トナリ、舊怨ヲ修テ憲實ノ子憲忠ヲ誅ス、其弟房顯自ラ管領ト稱シ、兵ヲ擧ゲテ之ト抗ス、成氏連戰克タズシテ、下總古河ニ奔リ、山内氏遂ニ本州ヲ掠取ス、長享ノ初、扇谷ノ定正、山内ノ顯定ト相攻メ、遂ニ其地ヲ取ル、〈山内ノ上杉ハ憲顯ヨリ出、顯定ハ其八世ノ孫ナリ、扇谷ノ上杉ハ憲顯ノ伯父重顯ヨリ出デヽ、世相模ノ大場城ニ居リ、後武藏川越ニ移ル、定正ハ重顯七世ノ孫ナリ、〉既ニシテ北條長氏伊豆ニ興テ、小田原〈大森藤頼〉新井〈三浦義同(アツ)〉諸城ヲ陷レ、上杉氏ヲ遂ヒ、終ニ全州ヲ併呑シ、治ヲ小田原ニ定ム、相傳ル五世、天正十八年、豐臣氏東征、北條氏亡ビ、徳川氏關東ニ遷リ、大久保忠隣(チカ)ヲ小田原ニ移封ス、後稻葉氏之ニ代リ、貞享中、再大久保忠朝

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0750 ニ賜ヒ、其支封ヲ荻野山中トス、〈大久保忠朝ノ第二子教寛〉又奉行ヲ浦賀ニ置キ、船舶ノ出入ヲ監ス、王政革新、改テ縣トナス、既ニシテ廢シテ足柄縣ヲ置、

〔先代舊事本紀〕

〈十國造〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0750 相武國造 志賀高穴穗〈◯成務〉朝、武刺國造祖、神伊勢都彦命三世孫弟武彦命、定賜國造、 師長國造 志賀高穴穗朝御世、茨城國造祖、建許呂命兒意富鷲意彌命、定賜國造

〔續日本紀〕

〈八元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0750 養老三年七月庚子、始置按察使、令〈◯中略〉武藏國守正四位下多治比直人縣守、管相模(○○)、上野、下野三國

國府

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0750 相模國〈國府在大住郡、行程、上二十五日、下十三日、〉

〔拾芥抄〕

〈中末本朝國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0750 相模〈上遠〉八郡〈◯中略〉 大住〈府〉

〔伊呂波字類抄〕

〈左國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0750 相模國〈◯中略〉 餘綾〈府〉

〔新編相模國風土記稿〕

〈二建置沿革〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0750 往古、國造、伴造等ヲ置レシ地ハ詳ナラズ、今淘綾郡ニ國府本郷、同新宿ノ二アリテ、新宿ノ地ニ、本州ノ總社ト稱スル、六所明神社勸請アルニ據レバ、〈社傳ニ、崇神帝ノ朝、勸請ストアレバ、最舊社タル事識ルベシ、〉此二村ノ地、府廳ノ遺蹤タル論ナケレド、〈淘綾郡總説、玆ニ國府本郷村條、併セ見ルベシ、〉上古相模、磯長ノ區別アリシトスル時ハ、今ノ淘綾郡ノ地ハ、所謂國造本紀ニ見エシ師長國造所在ノ遺蹤ニシテ、相模國造所在ノ地トハ云ヒ難キ歟、然レドモ當時區別ノ疆界ヲ詳ニセザレバ、如何ニトモ辨ジ難シ、是等最上古ノ事ニシテ、後世ニ於テ容易ク推考スベキニアラズ、〈◯中略〉當國國司ノ府、及ビ各郡、郡家所在ノ地、フツニ其傳ヲ失フ、倭名鈔ニハ國府大住郡ニアリト見エタレド、今彼郡中、其遺蹤ト思シキ地、考フル所ナシ、前條ニ辨ゼシ如ク、淘綾郡、國府本郷、同新宿ノ地、府廳ノ遺蹤タルハ論ナケレド、是ハ上古已來國造ノ府跡ニシテ、司ノ遺蹤ニハ有ザルニヤ、又高座郡ニ國分村ア

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0751 リテ、今尚國分寺舊刹遺レリ、彼寺多クハ國府ニ建ラル、是ニ據レバ、天平ノ昔ハ、國府高座郡ニ在シトモ云フベシ、トカクハ往古此彼府ヲ移サレシナレド、其遺名ダニ、後世ニ傳ヘザルナラン、今ニ於テハ、正シク辨別シ難シ、斯テ治承已來、頼朝鎌倉ニ在住シ、國守ハ執權ノ兼任トナルニ及テ、別ニ司ノ府廳アルベカラズ、又國中ノ邑里、過半昵近ノ諸士等ガ私有トナリ、且當時諸國ニ國衙ヲ建テ守護使ヲ置キ、庄園ニ地頭職ヲ定ムルニ及テ、司ノ府廳ハ更ナリ郡家モ必玆ニ廢セシナルベシ、サテ本州ハ將軍府下ノ地ナレバ、他ト異ニシテ、別ニ國衙ヲ建テ、守護使ヲ置ルヽ事ハ有ザリケン、

〔吾妻鏡〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0751 治承四年十月二十三日壬寅、著于相模國府給、始被勳功賞

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0751 相模國〈◯註略〉管八、〈◯註略〉足柄上、〈足辛乃加美〉足柄下、〈准上〉餘綾、〈與呂岐〉大住、〈於保須美、國府、〉愛甲、〈阿由加波〉高座、〈太加久良〉鎌倉、〈加末久良〉御浦、〈美宇良〉

〔延喜式〕

〈二十二民部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0751 相模國上〈管 足上 足下 餘綾 大住 愛甲 高座 鎌倉 御浦◯中略〉 右爲遠國

〔皇國郡名志〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0751 相模國〈舊八郡今九郡〉 足柄上(アシカラノカミ) 〈●酒匂川 ●關本 ●矢倉澤廿 足柄 △道了權現 駿甲界ヨリ海ニ貫〉 足柄下 〈小田原 湯本 ●箱根廿 ●土肥 ●根府川廿 豆駿ノ界山ニ一圓〉 餘綾(ヨロキ) 〈川原 ●大礒 香津 一ノ宮 海邊ニ付小郡〉 大住(オホスミ) 〈馬入 駿河町 ●平塚 <厚木 ●伊セ原 ●坪内 萩原 御馬 △大山 國中ヨリ海ニ出〉 愛甲(アイコウ) 〈●ヱチ ●三増 ●筑井 ●久保澤 ハン原 スヽカヤ 萩ハラ 金田 武界〉 高倉(タカクラ) 〈シナノ坂 ●戸塚 ●藤澤 小和田 茅サキ 早川 國分 武界ヨリ海ニ貫〉 鎌倉(カマクラ) 〈<雪ノ下 △鶴ケ岡 △江ノ島 武界ヨリ南海ニ貫、街道ヨリ東南方也、〉 御浦(ミウラ) 〈和田 野島 衣笠 浦河 長屋 林 南海出崎一國ニ三浦郡〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0752 津久(ツク) 〈●關野 ●吉埜 ●小原 青原 鼠坂 武界北ノ方ノ郡 今加津久郡〉 ◯按ズルニ、本書及ビ次下郡名異同一覽ノ符號ハ、山城國篇郡條ニ引ク所ノ、二書ノ凡例ヲ參照スベシ、

〔郡名異同一覽〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0752 相模 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_1_0752_001.gif http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_1_0753_001.gif

足上郡

〔伊呂波字類抄〕

〈左國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0753 相模國〈管八◯中略〉 足上〈アシノカミ〉

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0753 相模 足上〈アシカミ〉 足柄上〈アシカラカミ〉

〔新編相模國風土記稿〕

〈十二足柄上郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0753 圖説 本郡ハ、國ノ西邊ニ在ヲ以テ、北條氏割據ノ頃、國中ヲ東西中三分ニ闔稱セシ時、足柄上下ノ二郡ハ、西郡ト唱ヘシコト、北條役帳、及當時ノ古文書等ニ往々見エタリ、郡ノ東邊中村郷ノ地倭名鈔ニハ、淘綾ノ郷名トナス、サレド是ハ郡界選替アリテ、後足柄上下二部ニ分隷セシナルベケレド、今古圖ノ傳フルモノナケレバ、古ノ沿革知ルニヨシナシ、〈◯中略〉 足柄上郡ハ、國ノ西邊駿甲二州ノ界ニアリ、〈◯中略〉本郡ハ、都テ山嶽多キ地ナレバ、酒勾川ノ兩邊平夷ノ地ニ、多ク村落ヲナセリ、闔部ノ形状、宛モ瓢ノ如ク、東ヲ首トシ西ヲ尾トス、其四至、東ハ大住郡ニ接シ、南ハ足柄下郡ニ隣リ、西ハ駿甲二州ヲ境トシ、北ハ愛甲郡及津久井縣ニ邊セリ、地形東ヨリ西ヘ漸々高ク、最西ハ猪ノ鼻矢倉ノ二高嶽ニ至レリ、サレバ陸田多ク〈畠段別二千百十二町一段七畝三歩一厘〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0754 水田少シ、〈田段別、千七百六十六町五畝十二歩〉用水ニハ、專ラ酒匂川ノ水ヲ引沃ギ、川音川狩川等ノ諸流ヲ灌漑シ、或ハ山間ノ清水ヲ引テ耕植ス、土性ハ多ク赤黒ノ兩種ニシテ、又砂礫錯レル地モ少クアリ、農業ノ外、專ラ薪ヲ採炭ヲ燒テ、生産ノ資トス、固ヨリ富饒ノ戸口乏シ闔郡ノ村數、正保ノ改メニ九十八、元祿ノ改メニ九十五、〈按ズルニ、透間、諸淵、大藏、野嶺四村ヲ合シテ一村トシ、川西村ト闔稱シ、又境原村ヲ境村ニ併入シ、總テ爰ニ四村ヲ滅ズ、又都夫良野村内小畑ヲ枝郷ト唱ヘ別村トシ、更ニ數ニ入、故ニ減ズルモノ凡テ三村ナリ、〉今ハ一村ヲ減ジテ九十四、〈元祿圖ニ輾スル都夫良野村枝郷小畑ヲ、本村ニ併入セリ、〉石高、正保ノ改ニ、二萬三千七百七十三石七斗一升三合、元祿ニ至テ三萬二百四十九石六斗二升三合トナル、前ニ増加スル事、六千四百七十五石九斗一升、今又三千五百五十石一斗二合ヲ増加シ、總高三萬三千七百九十九石七斗二升五合ニ至ル、此餘寺社除地、三百三十八石五升八合餘、

〔續日本紀〕

〈六元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0754 靈龜元年三月丙午、相模國足上郡人、丈部造智積、君子尺麻呂、並表〈◯表原脱、據一本補、〉閭里、終身勿事、旌孝行也、

足下郡

〔伊呂波字類抄〕

〈左國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0754 相模國〈管八〇中略〉足下〈アシノシモ、今名西富、〉

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0754 相模 足下〈ノ字計リ アシノシモ〉 足柄下〈アシカラシモ〉

〔新編相模國風土記稿〕

〈二十二足柄下郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0754 圖説 本郡ハ國ノ西邊ニアルヲ以テ、北條氏分國ノ頃、國中ヲ三分シテ、東中西ノ三郡ニ闔稱セシ時、足柄上下ノ二郡ハ、專ラ西郡ト唱ヘシコト、北條役帳、及ビ當時ノ古文書等ニ見エタリ、古圖ノ今傳フルモノナケレバ、古ノ沿革ハ知ベカラズ、サレド郡ノ東ノ方中村郷ノ地、〈中村原以下八村屬ス〉古ヘ淘綾郡ニ屬セシナリ、和名抄郷名ノ條ニ、中村郷ヲ以テ彼郡内ニ係タリ、是其證左トスルニタレリ、〈◯中略〉 足柄下郡ハ、國ノ西南堺ニアリ、〈◯中略〉郡東ハ總テ平夷ノ地ニシテ、郡ノ中央ヨリ以西ハ、山巒重疊シ、村落ヲ結ベルモ數山ノ踵趾、若クハ峽間ニ在リ、サレバ闔郡ノ廣袤計リガタシ、大抵東ヨリ西

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0755 ヘ長ク廣七里許、〈東限羽根尾村邊ヨリ、西方箱根宿豆相ノ國界ニ至ル里程ナリ、〉南北袤リ、東邊ハ纔ニ一里次第ニ廣ク、中央ハ三里餘、西邊豆相ノ國界ニ至テハ、五里餘ニ至ルベシ、其四至東ハ淘綾郡ニ邊シ、南ハ海濱ニ至リ、北ハスベテ足柄上郡ニ隣リ、西ハ伊豆國加茂君澤二郡ニ堺フ、但シ北邊ニ偏シテハ、少シク駿河國駿東郡係レリ、地形東ヨリ西ヘ次第ニ高ク、最高頂ハ箱根ノ諸嶽ニ至レリ、水田ハ陸田ニ比スレバ頗ル多シ、〈水田ノ段別千五百八十九町餘、陸田ノ段別千三百十六町餘、〉土性ハ多ク赤黒ノ兩種ニシテ、砂礫錯レル地モ頗ル多シ、又眞土野土糯米土(ヘナツチ)ノ地モ少シクアリ、農業ノ外、山村ハ采薪、海濱ハ漁釣ヲ專トシ、生産ヲ資ク、固ヨリ富饒ノ戸口乏シ、闔郡ノ村數、正保ノ改ニ八十一、〈數内某村ノ内某村ト題スルモノ四村〉元祿ノ改ニ三ヲ増シ八十四、今又八ヲ増シ、都テ九十二村トナレリ、本郡ノ石高、正保ノ改ニ二万三千二百七十五石九斗七升二合、元祿ニ至テ二万五千九百四石四斗三升四合四勺トナリ、前ニ増加スルコト二千六百二十八石四斗六升二合四勺、後又三千二百二十三石三斗七升六合二勺ヲ増加シ、今ハ二万九千百二十七石八斗一升六勺ニ至ル、其餘持添新田ト號スルモノ、五十五石七斗一升九合、〈後世墾闢ノ地ニシテ、小田原宿ノ商人持添トス、〉寺領三十五石三斗餘、〈御朱印地ノ高ナリ〉寺社除地七百八石餘、〈但段別ノミニテ高ニ入ザル撮爾タル除地ハ、此數ニ入レズ、〉アリ、

〔萬葉集〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0755 天平勝寶七歳乙未二月、相替遣筑紫諸國防人等歌、 夜蘇久爾波(ヤソクニハ)、那爾波爾都度比(ニハニツドヒ)、布奈可射里(フナカザリ)、安我世武比呂乎(アガセムヒロヲ)、美毛比等母我母(ミモヒトモガモ)、 右一首、足下郡上丁丹比部國人、

餘綾郡

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0755 相模 余綾〈ヨロキ〉 淘綾〈ユルキ〉

〔新編相模國風土記稿〕

〈三十九淘綾郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0755 圖説 本郡、往昔ハ今ト異ニテ、最廣カリシト見エ、倭名鈔載ル所、本郡ノ郷名ニ、中村、〈今足柄上下兩郡ニ跨ガレリ〉幡多、〈今大住郡ノ屬〉金目〈同上〉等アリ、今皆他郡ニ隷セリ、是其證トスベシ、又同書ニ載スル、大住郡ノ郷名高

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0756 來ハ、今本郡中、高麗寺村ノ古名ナリトスル時ハ、彼郡中ノ地モ、又本郡ニ併入スト云ンカ、但此事詳ナラズ、〈委シクハ、高麗寺村ノ條ニ辨ズ、〉小田原北條氏割據ノ頃、國中ヲ三分シテ闔稱セシ時、當郡及ビ愛甲大住ノ三郡ハ、中郡ト唱フ、又中郡ヲ大小ニ二分シテ唱ヘシ頃、本郡ハ小中郡ト稱シ、大住郡ハ大中郡ト唱フ、〈天正中、寺社ニ賜ヒシ御朱印ニモ、シカ見エタリ、〉古今ノ際、疆域沿革ノ事、古傳ナケレバ強テ知ニ由ナシ、〈◯中略〉 淘綾郡ハ、國ノ南方海邊ニアリ、〈◯中略〉郡名舊クハ餘綾ト書シ、余呂岐ト唱フ、〈◯中略〉郡名ヲシカ唱ヘシコト、上リタル世ニハ聞エズ、下リテ享祿年間ノ物、〈山西村等覺院藥師像、享祿五年ノ背銘〉ニ、始テ動木郡ト記セルヲ見ル、今淘綾ノ文字ヲ宛ツルコトハ、最近世ノ所爲ナル事、論スベカラズ、〈◯中略〉郡中、南ハ總テ海ニ瀕シテ平坦ナリ、北ハ山ヲ負ヒ、西ヘ漸々高シ、闔郡ノ廣袤、東西ヘ長ク、二里二十町餘ニ至リ、〈東方、大磯宿、及ビ高麗寺村ヨリ、西方、川勾村迄ノ里程ナリ、〉南北ハ狹ク、平均大抵一里許モアルベシ、其四至、東ヨリ北ヘ廻リテ、大住郡ニ邊シ、又足柄上郡ノ地モ僅ニ係レリ、西ハ足柄下郡ニ堺ヒ、南ハ都テ海ニ添リ、水田少ク、〈二百五十八町八段四畝二十七歩〉陸田多シ、〈六百四町四段七畝十一歩四分五厘〉土性ハ多ク眞土、赤土ノ二種ニテ、海邊ニ近キハ、砂礫錯レリ、用水ニハ井口川ノ下流ヲ引テ、耕穡スル村四村、〈中里、一色、二宮、國府新宿〉又大住郡ヨリ沃グ、五箇村組合堰ノ餘水ヲ灌漑スル村二村、〈山下、萬田、〉其餘ノ諸村ハ、天水及ビ山間ノ涌泉等ヲ用ヰル、農間ノ餘資、山寄ノ村ハ、男ハ薪ヲ採リ、筵ヲ織リ、女ハ糸ヲ操リ布ヲ織ル、海邊ノ諸村ハ、專漁釣ヲナシ、驛路ニ連住スル家ハ便宜ニ依テ、或ハ旅客ヲ止宿セシメ、或ハ是ガ爲ニ酒食諸品ヲ鬻グモアリ、サレド富饒ノ戸口乏シ、村數、正保ノ改ニ、十九、元祿ノ改ニ、二ヲ増加シ、〈大磯加宿小磯村、同所新田ヲ二村トシテ數ニ入、〉一ヲ減ジテ〈鹽海村ヲ二宮村ニ併入ス〉凡テ二十、今ハ又一ヲ増シ、〈高麗寺村〉二ヲ減ズ、〈加宿東小磯、同所新田ヲ併セ、共ニ本宿ニ隷ス、〉故ニ又十九村トナレリ、本郡ノ高、正保ノ改ニ、七千五百三十七石九斗七升五合、元祿ニ至リテ、七千八百三十石四斗二升五合一杓、前ニ増加スルコト、二百九十二石四斗五升一杓、後又十二石六斗六升六杓六

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0757 撮ヲ増加シテ、今高七千八百四十三石八升五合七杓六撮ニ至レリ、此餘寺社領、二百六十七石一斗、寺社除地、二十八石四斗餘、

大住郡

〔新編相模國風土記稿〕

〈四十二大住郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0757 圖説 當郡ノ圖、正保四年改定ノ官本ヲ舊シトスレバ、往古ノ沿革ハ知ルベカラズ、サレド倭名鈔ニ載ル、淘綾郡郷名ノ内、金目、幡多等ハ、今本郡ニ屬シ、當郡ノ郷名、中島ノ遺名、高座郡ニ存スルアリ、〈今村名トナル、蓋其地相模川ニ邊スレバ、洪水ノ時、水流變遷シテ、彼郡ニ屬セシナラン〉又郡中五分一村ハ、足柄上、淘綾ノ二里ニ孕マリ、全ク郡ノ地域ヲ離レタリ、是等ヲ以テ想フニ、往古トハ郡界大ニ改マリシナリ、サレバ村里ノ境界ニ至テハ、尤沿革多カルベケレド、土人ノ口碑ニモ傳フル事稀ナレバ、今ヨリ知ルニ由ナシ、又往古荒廢ノ田、或ハ空閑ノ地ヲ開闢アリシ事、三代實録ニ見エタリ、〈其文下ニ註ス〉夫ヨリ遙ノ後モ猶廣野ノ地〈高見原、實蒔原、波多野等ナリ、〉多カリシガ、勝國以前ニ開墾アリシト見エ、後世ノ新田ハ少シ、〈◯中略〉 大住郡ハ國ノ中央ニテ、〈◯中略〉郡ノ形状、巽ヲ首トシ、乾ヲ尾トス、東田村ノ境ヨリ、西澀澤村マデ五里半、南根坂間村ヨリ、北日向村マデ三里餘、四境、東ハ相模川ニカギリ、高座郡、西ハ足柄上郡、南淘綾郡及ビ海面、北愛甲郡ナリ、土地平坦ニシテ、西北ノ隅ニイタリテ山嶺アリ、所謂大山、堀内等ナリ、サレバ村落ヲナスニ便アリテ、空閑ノ地少シ、土性ハ野土黒眞土砂交レリ、水田少ク、陸田多シ、〈水田二千九百五十七町二段一畝十歩五厘、陸田四千九百五十二町五段八畝二十八歩六厘、〉用水ハ玉川、鈴川、金目川ヲ引用ヰル、郡ノ村數、正保ノ改ニ百七村、元祿ノ改ニ百二十七、前ニ比スレバ増加スルコト二十、〈按ズルニ、一村ヲ上下ニ分ツモノ四村、某村枝郷ト稱スルモノ六村、某村内ト唱フモノ二村、全ク別村トナリシモノ八村、〉今十村ヲ減ジ、百十九村トナレリ、〈按ズルニ、三村ヲ合テ一村トスルモノ一、又枝郷或ハ某村内ト唱ヘシ地ヲ、本村ニ合スルモノ七村、又一村ヲ上下ニ分ツモノ一所アリ、全ク地ノ減ジタルニアラズ、〉郡ノ石高、正保ノ改ニ六万六百二十一石二斗五升七合、元祿ニ至テ、六萬四千四百二十四石二升三合七撮、前ニ比スレバ増加スルコト、三千

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0758 八百二石七斗六升六合七撮、今百二十七石八斗八升七撮ヲ減ジテ、六萬四千二百九十六石一斗四升三合トナレリ、是ハ中古相模川、玉川等堀替アリシ時、川敷トナリ、石高減ジタルナリ、〈某村々ノ條ニ辨アリ〉此餘寺社領、三百七十八石、寺社ノ除地少許アリ、〈一石八斗九升五合、六勺七撮、及段別二町四段三畝九歩餘ノ地ナリ、〉

〔日本後紀〕

〈十三桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0758 延暦廿四年十一月庚辰、相模國大住郡田二町、賜從四位下百濟王教法

〔續日本後紀〕

〈九仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0758 承和七年二月壬申、相模國大住郡大領外從七位上壬生直廣主、代窮民私稻一萬六千束、戸口増益五千三百五十人、褒此善状、假外從五位下

〔三代實録〕

〈六清和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0758 貞觀四年十二月七日辛丑、相模國大住郡荒廢田三十二町、奉冷然院

〔三代實録〕

〈十清和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0758 貞觀七年三月廿八日己酉、以相模國大住愛甲兩郡空閑地四百町内見開田十五町、充淳和院

〔三代實録〕

〈二十七清和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0758 貞觀十七年六月壬子朔、相模國言、大住郡河水變赤、

愛甲郡

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0758 相模 愛甲〈アヘカハ アイカフ アイカフ〉

〔地名字音轉用例〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0758 入聲フノ韻ヲ同行ノ音ニ通用シタル例 あゆかは 愛甲〈相郡〉 阿由加波甲(カフ)ヲカハニ用ヒタリ

〔新編相模國風土記稿〕

〈五十四愛甲郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0758 圖説 本郡古ノ形状ヲ考ルニ、總テ空閑ノ地多カリシヲ、承和貞觀ノ頃、年ヲ追テ開墾アリ、事ハ三代實録、類聚三代格等載スル所ニ就テ知ベシ、〈其文後ニ詳ナリ〉北條氏分國ノ頃國中ヲ三分セシ時、當郡ハ國ノ中程ニアルヲ以テ、中郡ノ内トス、〈役帳以下當時ノ古文書等、多ク所見アリ、〉北隣津久井縣ハ、古大抵當郡ニ屬セシヲ、後分裂セシトイヘリ、〈下ノ條ニ詳ナリ〉東方相模川ニ邊セシ地ハ、水路ノ變遷ニヨリ、高坐郡ト其境界互ニ混淆セシ處モ多カルベシ、今古圖ノ傳フル物ナケレバ、沿革ノ詳ナルヲ知ル由ナシ、〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0759 愛甲郡ハ國ノ中央ヨリ少シク北ニ寄レリ、〈◯中略〉闔郡ノ形状、東ヲ首トシ、西ヲ尾トス、東上依智村ヨリ西丹澤山中迄八里餘、南厚木村ヨリ北三増村迄凡四里、郡ノ四境、東ハ相模川ヲ限リ高座郡ニ界ヒ、南ハ大住郡ニ隣リ、接壤及山嶺ヲ以テ界域トナス、西ハ足柄上郡、北ハ津久井縣ニ界ヘリ、共ニ山嶺ヲ以テ界トセシ所多シ、地形、東ハ低ク、漸々西上シテ高燥ノ地トナリ、中程ヨリ西界ニ至テハ、山巒重疊シ、所謂丹澤山巍然トシテ足柄上郡等ノ深山ニ續ケリ、サレバ中程ヨリ以東ニ多ク聚落ヲナシ、又北ノ方ニ至テハ、數山ノ踵趾、或ハ峽間ニ孤村ヲ結ベリ、陸田多ク水田ハ僅ニ三分ノ一ニ當レリ、〈◯中略〉闔郡ノ村數、正保ノ改ニ三十六、〈數内某村ノ内某村ト題スルモノ二村〉元祿ノ改ニ十一ヲ増テ四十七、〈數内一村ヲ五村ニ分ツモノ一村、上下二村トスルモノ三村、上中下トナスモノ一村、某村枝郷ト題スルモノ二村、〉今ハ又四ヲ減ジ、都テ四十三村トナレリ、〈元祿ニ比スルニ、上下ヲ合テ一村トスルモノ三村、上中下ヲ合スルモノ一村、新田及枝郷ヲ本村ニ併入スルモノ三村ニテ、其地ノ減ゼシニアラズ、概シテ是ヲ計レバ、新田四村ヲ増加セシナリ、〉本郡ノ石高、正保ノ改ニ、壹萬七千四百二十一石八斗一升四合、元祿ニ至リテ、二萬五百九十六石九升九合七杓五撮、前ニ増加スルコト、三千百七十四石二斗八升五合七杓五撮、又四千八百九十九石五斗八升餘ヲ、増加シ、今ハ二萬五千四百九十五石六斗八升餘ニ至リ、此餘寺社領三百三十四石六斗餘、

高座郡

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0759 相模 高座〈クラト計リ タカクラ タカクラ〉

〔新編相模國風土記稿〕

〈五十九高座郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0759 圖説 本郡古ハ原野ノミ多ク、僅ニ瀕海及河傍ノ地開ケテ、廣野ノ四邊ニ村落ヲナセリ、夫ヨリ往々原野ヲ開キ、今ニ至テ、猶開墾ヲ企ル所アリ、北條氏國中ヲ三分セシ時、當郡ハ東郡ニ屬ス、且北隣津久井縣ハ、古當郡及ビ愛甲郡ニ屬セシヲ後分割セシト云フ、〈下ノ條ニ辨ズ〉又郡界相模川ニ邊セシ地ハ、愛甲大住二郡境、川ニ傍シ地ハ、當國鎌倉郡及ビ武州多磨郡ト接壤スレバ、川瀬ノ變遷ニヨリテ、一村兩郡ニ分拆セシ地モ多カルベシ、〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0760 高座郡ハ、國ノ東方ニアリ、〈北條役帳ニ東郡ト記ス◯中略〉闔郡ノ形状、南ヨリ北ニ袤リ九里程、東西ノ廣サ南邊東海道ノ貫ケル所ハ三里許、中程ニ至テ二里半ニ餘リ、夫ヨリ北方次第ニ狹マリ、西北ノ方ヘ少ク曲レル様、郡圖ノ如シ、〈東北二方ハ境川ニ限リ、鎌倉郡及武藏國多磨郡南方ハ、槩シテ海西ハ相模川ヲ境ヒ、津久井、愛甲、大住ノ三郡、但川ヲ以テ境界トスル所ハ、水溢ノ爲水路變選アリ、故ニ中古少ク郡界ヲ改ル所アリト雖ドモ、其川ノ條ニ註シテ爰ニハ略ス、〉津久井縣ハ、當郡愛甲ノ二郡ヨリ分割セシ地ニテ、其年代ヲ失タレバ、正シク辨ジ難ケレドモ、地形ヲ推考スルニ、縣内相模川北方ノ村落ハ、〈上下川尻、上下中澤、三井、千木良、與瀬、吉野小、淵、澤井、佐野川等十一村ナリ、〉當郡ヨリ分裂セシ地ナルベシ、今中澤佐野川二村ハ、尚當郡ノ庄名澀谷ノ唱ヲ存セリ、其餘ノ村落ハ、〈葉山島已下凡十八村〉愛甲郡ヨリ分拆セシ地ナラン、〈尚愛甲郡津久井縣總説併見ルベシ〉地ノ高低、郡ノ南海岸ヨリ、東海道ノ左右ハ凡テ低ク平夷ナリ、夫ヨリ東北ノ方ヘ漸々ニ高ク、村落及相模野ノ邊、武藏ノ國境ニ至迄、高燥ニシテ、土地平ナリ、又東方境川ノ邊ハ、郡ノ中程ヨリ南方ハ低シ、西方相模川ニ傍タル地ハ殊ニ低ク、所々水除ノ堤ヲ設ケタレド、水溢ノ患ヲ免カレズ、土性高燥ノ地ハ、黒野土或ハ砂交レリ、其餘ハ總テ眞土ニシテ、是モ砂交レル所アリ、郡内陸田多ク水田ハ三分ノ一ナリ、闔郡ノ村數、正保ノ改ニ、九十五、元祿ノ改ニ百十八、前ニ比スレバ、増加スルコト二十三、今ハ九ヲ減ジテ百九ナリ、〈按ズルニ、元祿ノ改ニハ、宮山村ヲ五村ニ分チ、大庭村ノ小名、稻荷ト唱フル地ヲ、別村トシ、或ハ一村ヲ上下ニ分ツノ類ニシテ、其實ハ地ノ増減アルニアラズ、〉村高正保ノ改ニ、三万八千百五十石餘、元祿ニ四万七千百二十八石餘、前ニ比スレバ、増加スルコト八千九百七十八石、今ハ二千五百三十九石餘ヲ増加シテ、四万九千六百六十七石餘ニ至ル、〈村數元祿ニ増加セズトイヘドモ、各村内近世墾闢ノ地多キガ故ナリ、〉

〔日本書紀〕

〈二十九天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0760 四年十月庚寅、是日、相模國言、高倉郡(○○○)女人生三男

〔續日本後紀〕

〈十仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0760 承和八年八月辛丑、假相模國高座郡大領外從六位下勳八等壬生直黒成外從五位下、代貧民進調布三百六十端二丈八尺、庸布三百四十五端二丈八尺、正税一萬一千一百七十二束二把、給飢民稻五千五百四束、戸口増益三千一百八十六人、就中不課二千九百四十七人、課二

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0761 百三十九人、仍裒其身也、

鎌倉郡

〔新編相模國風土記稿〕

〈六十九鎌倉郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0761 圖説 本郡ハ國ノ東方ニアルガ故、北條氏關東ニ跨有シ、國中ヲ東中西ノ三郡ニ分稱セシ時、即東郡ト唱ヘシコト、北條役帳ニ見エタリ、往昔右大將頼朝ノ、鎌府ヲ開キシ後、元仁元年十二月、鎌府四境鬼氣祭ヲ行ハル、其四境、東ハ六浦、南ハ小壼、西ハ稻村、北ハ山内ナリト、東鑑ニ見ユ、是ニ據レバ、六浦小坪ハ、當時鎌倉府下ノ地ナリト覺ユ、今六浦ハ武藏國久良岐郡ニ屬シ、小坪ハ當國三浦郡ニ隷セリ、郡界ノ改革、文獻ノ徴トスベキナケレバ、今考據ヲ得ガタシ、〈◯中略〉 鎌倉郡ハ國ノ東邊ニ在リ、〈◯中略〉地形、其四至、東ハ三浦郡、及ビ武藏國久良岐郡ニ隣リ、南ハ海ニ邊シ、西ハ總テ高座郡ニ堺ヒ、北ハ武藏國都筑郡及ビ橘樹郡ニモ少シク接セリ、東西ヘ長ク、大抵四里半許ニ至リ、南北ハ廣キ處ニ至テ凡三里餘ニ及ビ、狹キ所ニテハ三十町ニ足ザル處アリ、陸田多ク水田少シ、用水ニハ專戸部川ノ水ヲ引沃ギ、鼬川、砂押川、境川等ノ諸流ヲモ灌漑ス、サレド三分ノ二ハ、山間ノ涌泉ヲ引キ、溜井ヲ構ヘ、天水ヲ仰テ耕植セリ、故ニ旱損ノ患多シ、土性ハ砂礫錯レル地多ク、眞土是ニ次グ、野土糯米土ハ少シ、農間ノ餘資、海邊ノ村々ハ專漁釣ヲナシテ、江戸ニ運送シ、鶴岡江島等ノ道側ニ、連居セル家ハ、參詣ノ遊客ニ、酒食及ビ諸物ヲ鬻ギ、東海道係ル處ハ、往來ノ旅客ヲ休泊シ、其他ハ採薪等ヲ業トス、富饒ノ戸口ハ稀ナリ、村數正保ノ改ニ八十一、元祿ニ至リ八村ヲ増加ス、〈秋葉村、西村、山谷新田、腰越村、坂之下村、亂橋村ヲ増シ、野場ヲ二村ニ分チ、柏尾村モ上下トセリ、〉今又二ヲ増シ、〈瀬谷野新田、江島獵師町、〉九十一村ニ及ベリ、高正保ノ改ニ、二萬三千七百三十五石八斗一升五合、永千五百九十六貫七百四十二文、元祿ニ至リ、高二萬七千六百四十五石一斗四升五合六杓トナル、前ニ増加スルコト、三千九百九石三斗三升六勺、永ヲ減ズルコト、二百四十七貫九百四十一文ナリ、今又増加シテ、總高凡二萬七千九百八十三石六斗九升餘ニ及ビ、永ハ減ジテ、凡千三百十三貫四百文餘トナレリ、此

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0762 餘寺社除地ノ分ハ省ケリ、

〔萬葉集〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0762 天平勝寶七歳乙末二月、相替遣筑紫諸國防人等歌、 奈爾波都爾(ナニハヅニ)、余曾比余曾比氐(ヨソヒヨソヒテ)、氣布能日夜(ケワノヒヤ)、伊田氐麻可良武(イデテマカラム)、美流波々奈之爾(ミルハヽナシニ)、 右一首、鎌倉郡上下丸子連多麿、

〔三代實録〕

〈十清和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0762 貞觀七年三月廿一日壬寅、相模國鎌倉郡人太皇太后宮少屬從八位上村主眞野、武散位從八位上上村主秋貞等、改本居河内國大縣郡

三浦郡

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0762 相模 御浦〈ミウラ〉 三浦

〔新編相模國風土記稿〕

〈百七三浦郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0762 圖説 本郡ハ、國ノ東邊ニ在テ、三面海濱ニ陸出シテ、地形他郡ト同カラズ、故ニ北條氏分國ノ頃、各郡別稱セズ、東郡、中郡、西郡ト闔稱セシ時、當郡ハ其員ニ入ラズ、單リ郡名ヲ唱ヘシコト、北條役帳ニ見ヘタリ、郡界ノ變遷ヲ推考スルニ、東鑑元仁元年十一月、鎌倉ノ四境ヲ記セシ條ニ、東小坪ト載ス、〈原文ハ小坪村ノ條ニ註ス〉圓覺寺塔頭黄梅院所藏康安ノ文書ニモ、鎌倉郡小坪ト記ス、〈文書ハ黄梅院ノ條ニ出ス〉倭名鈔鎌倉郡ノ郷名ニ沼濱アリ、鎌倉郡中其遺名ナケレバ、當郡今ノ沼間村ナルベシ、〈事ハ沼間村ノ條ニ辨ズ〉小坪沼間共ニ今本郡ニ屬スレドモ、鎌倉郡ニ接邇セル地ナレバ、其頃ハ彼郡ニ隷セシナルベシ、猶古ノ沿革ハ古圖ノ傳ルナケレバ知ルニヨシナケレドモ、郡中桑海ノ變希ニシテ、新墾モ多カラザレバ、他郡ニ比スルニ沿革尚鮮シ、〈◯中略〉 三浦郡ハ、國ノ東端ニアリ、〈◯中略〉闔郡ノ形状宛モ島嶼ノ如ク、東西南ノ三方ハ皆海ニ瀕シ、北ノ一方武州久良岐郡、本國鎌倉郡ニ界ス、其廣袤ハ北ヨリ南ヘ長ク、袤リ六里、東西ノ廣サ南邊ハ纔ニ一里餘、中央ハ四里ニタラズ、北邊ハ又狹リテ凡二里ニ過ズ、地形郡ノ中央尤高ク、四邊ハ漸々ニ低シ、其際山岳高低盤紆シテ平夷ノ地ハ希ナリ、陸田ハ水田ヨリ少シク多シ、土地都テ天水ヲ仰

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0763 テ、耕植スレバ旱損ヲ免レズ、土性ハ眞土野土ノ兩種ニシテ、何レモ砂交リ、沃腴ノ土ニアラザレドモ、農業ノ外、蠶桑、及漁獵ヲ專トシテ、生産ノ資トスルニヨリ、民戸頗ル富饒ナリ、闔郡ノ村數、正保ノ改ニ五十九、元祿改ニ七十六、前ニ比スレバ増加スル事十七、今又四ヲ増シ、都テ八十村トナレリ、本郡ノ石高、正保ノ改ニ二万千四百四十二石餘、元祿ニ至テ二万千六百二十七石餘トナリ、前ヨリ増加スル事千四百八十五石餘、後又千六百六石餘ヲ増加シテ、今ハ二万四千二百三十三石餘ニ至ル、其餘持添新田ト號スルモノ〈後世墾開ノ地ニシテ、各村ニ隷ス、〉五十五石餘、寺社領ハ百四十四石ナリ、

私稱郡名

〔保暦間記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0763 同〈◯治承四年〉十月十五日、頼朝相模國小坂郡鎌倉ニ始テ館ヲ構ヘタリ、

〔新編相模國風土記稿〕

〈六十九鎌倉郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0763 小坂〈遠佐可〉管スル村二十八〈雪下、西御門、二階堂、淨妙寺、十二所、大町、小町、亂橋、材木座、長谷、坂之下、極樂寺、扇谷、山之内、峠、大船、臺、山崎、小袋谷、岩瀬、笠間、長沼、上倉田、下倉田、戸塚宿、矢部町、常葉、片瀬、〉是鎌倉七郷ノ一ナリ、〈按ズルニ、谷七郷ノ稱ハ、鎌倉大草紙、享徳四年、上杉長尾亂ノ條ニ、鎌倉ヘ亂入、谷七郷ノ神社佛閣ヲ追捕シテ、悉燒拂ト見エ、鶴岡社務次第ニ小坂郷、小林郷、葉山郷、津村郷、村岡郷、長尾郷、矢部郷ト列書ス、其ウチ葉山郷ハ今三浦郡ニアリ、郡界變遷シテ彼郡ニ隷セシナラン、〉保暦間記ニ、小坂郡トノセ、永正六年ノ文書〈圓覺寺龍隱菴藏〉ニモ、小坂郡(○○○)長尾郷ト見ユレド、コハ全ク當時ノ偶記ニテ、郡名ニ唱ヘシ證トハ云ヒ難シ、

津久井縣

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0763 相模 津久井縣(ツクイカタ)〈コノ一郡、郡ノ字ナシニ郡名ニ用ル也、里人ハツクイケン(○○○○○)トイフトモイヘリ、〉

〔新編相模國風土記稿〕

〈百十六津久井縣〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0763 圖説 本縣、往古ハ愛甲高座兩郡ノ内ニ孕マレテ、林巒山嶽多ク、漸クニ原野ヲ開トイヘドモ、皆山間ニシテ曠邈ノ地ナシ、就中西北ノ村落邊裔ノ地ニ至テハ、嵯峨ニヨリテ墾闢シ、往々火耕ノ地モ見エタリ、其間ノ沿革アルモ、滕國以前ノ圖傳ハラザレバ、其詳ナル事知ルベカラズ、〈◯中略〉 津久井縣、國ノ西北隅ニアリ、〈◯中略〉元祿四年、山川金右衞門ガ配隷セシ時、闔境ニ令ヲ下シテ自今已往縣ト唱ヘシムト云、是ヨリシテ、郡名ヲ冠ラシムル事ヲ省ク、〈元祿國圖、津久井縣ト記ス、〉爰ニ於テ、一縣ノ名唱定テ、一郡ノ如ク今猶然リ、〈◯中略〉闔縣ノ形状恰モ科斗ノ形ニ似タリ、西方ハ廣袤崔嵬、南ヨリ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0764 北ニ亘リ、十二里程、西ヨリ東ニ延袤スル事八里ニ餘レリ、中程ニ至リ南北ヘ三里許、夫ヨリ東方次第ニ狹マリ、僅ニ二里若クハ一里ニ足ラズ、〈北ヨリ西ハ甲州都留郡、南ニ逮テハ國中足柄上郡ヲ限ル、同ク險阻崔嵬、皆山嶽ヲ以テ隔閡ス、中ニモ西南間ニハ蛭嶽ナド云ヘル大嶽、郡界ニ跨テ、突出シタル地域ヨリ量ラバ、南北ヘ聯緜スルコト十七八里以上ナランカ、又東西ヘ延袤スルコト十二三里ニモ及ベシ、南ハ愛甲郡ヲ境ヒ、北ハ中程ヨリ、西ニ連テハ武州多磨郡ナリ、但シ山ヲ以テ界トス、中程ヨリ東方ニヨリテハ少シク境川ヲ限レリ、又ハ少シク相模川ヲ限リ、又高座愛甲ノ兩郡、山ヲ以テ皆境界トナセリ、〉土地ノ高低、西ハ論ナク、南ヨリ北ニ逮テ山峯ニ據リタル所ハ、頗ル高燥ノ地多シ、〈◯中略〉闔縣ノ村數、正保ノ改ニ〈正保圖ニ、津久井郡ト書セリ、〉二十九、元祿ノ改ニ〈元祿圖ニ、津久井縣ト書セリ、〉二十七、前ニ比スレバ減ズル事二、〈按ズルニ、正保改ニハ、大井村ノ小名荒川ト唱フル地ヲ別村トシ、青山村ノ小名關ト唱フル地ヲ別村トス、元祿改ニハ、荒川ヲ太井村ニ合テ一村トシ、關ヲ青山村ニ合テ一村トシテ、二ヲ減ゼリ、其實ハ地ノ増減アルニアラズ、〉今ハ二十九、〈按ズルニ、元祿改ニ一村タリシ長竹村、中澤村ヲ、今ハ各上下ニ分チテ四村トナシタレバ二ヲ増加セリ、是亦地ノ増減アルニアラズ、〉村高正保ノ改ニ、四千九百五十七石八斗五升五合、元祿ニ一萬千八百十九石九斗六升三合、前ニ比スレバ、増加スル事、六千八百六十二石一斗八合、今ハ三十六石二斗三升九合ヲ増加シテ、一萬千八百五十六石二斗二合ニ至ル、〈村數、増加セズト云ヘドモ、各村ノ内、近世懇闢ノ地多キガ故ナリ、〉當縣、神社佛寺ノ所領御朱印地、百四十一石八斗三升五合餘、除地三百廿二石八斗九升一合八勺、外ニ段別七町三段五畝二歩、

〈明治十三年〉

〔東京地學協會報告〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0764 國郡沿革考第二回 塚本明毅 相模 津久井郡ハ、愛甲郡ノ餘戸郷ニシテ、鎌倉ノ時、毛利庄ト稱ス、正保圖始テ津久井郡アリ、寛文復古ノ時、之ヲ停メ、元祿四年ニ至リ、代官山川金右衞門ノ時、再ビ分テ、津久井縣ト稱ス、蓋古郡ト異ナレバナリ、明治三年始テ郡ト稱ス、

〔倭名類聚抄〕

〈六國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0764 相模國 足柄上郡 高家〈◯高、高山寺本作豪、〉櫻井 岡本 伴郡 餘戸 驛家 餘綾郡 伊蘇 餘綾〈與呂木〉霜見 礒長 中村 幡多〈◯高山寺本此下有野字〉金目 足柄下郡 高田 和戸 飯田 垂氷〈◯氷、高山寺本作水、〉足柄〈阿之加良〉驛家 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0765 大住郡 中島 高來 川相 片岡 方見 和太 日田 大服 櫛椅 驛家 渭邊 石見〈◯見、高山寺本作田、〉大上 前取 三宅 餘戸 愛甲郡 玉川 英那 印山 船田 六座 餘戸 高座郡 美濃 伊參 有鹿 深見〈布加美〉高座〈多加久良〉渭堤 寒川〈佐無加波〉鹽田〈之保多〉驛家 二寶〈◯寶、高山寺本作實、〉岡本〈乎加毛止〉土甘 河會 大庭〈於保無波〉 鎌倉郡 沼濱 鎌倉〈加萬久良〉埼立 荏草 梶原 尺度 大島 御浦郡 田津 御浦〈美宇良〉氷蛭〈比々留〉御埼〈美佐木〉安慰

〔新編相模國風土記稿〕

〈二建置沿革〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0765 平相國清盛威權并ナカリシ頃ヨリ、諸國莊園ノ地多クナリ、〈◯註略〉本州中モ、多クハ武臣ノ私有トナリ、莊園〈◯註略〉ト稱スル地、居多ニシテ、古昔ノ郷名ヲ廢シ、或ハ私ノ郷名ヲ唱ヘ、或ハ莊名ヲ唱フル地多クアリ、即郷名ニハ、足柄上郡ニ河村郷、〈今郷名ハ唱ヘザレド、遺名猶存セリ、◯中略〉松田郷〈今郡中松田總領、同庶子二村ニ此郷遺レリ、◯中略〉同下郡ニ桑原郷〈今郷名ヲ唱ヘズ、郡中桑原村其舊趾ナリ、◯中略〉土肥郷〈(中略)今此郷名ヲ唱ヘズ〉田島郷〈鶴岡藏、壽永二年ノ文書ニ見ユ、今尚此郷名ヲ唱フ、〉高田郷、〈同ジ文書ニ見エタリ、倭名鈔ニモ出テ舊キ唱ナリ、今ハ稱セズ、高田村其遺名ナリ、〉大住郡ニ波多野郷〈(中略)今此郷名ヲ唱ヘズ〉高部屋郷、〈大山寺藏、元暦元年ノ文書ニ見ユ、今郷名ヲ廢ス、糟屋村其遺趾ナリ、〉坂間郷、〈鶴岡社人金子氏藏、元暦元年ノ文書ニ見エタリ、今ハ唱ヘズ、坂間村其遺稱ナリ、〉高座郡ニ俣野郷〈(中略)今此郷名ヲ唱ヘズ〉鎌倉郡ニ小林郷〈(中略)今尚現存セリ〉大倉郷〈(中略)今此郷名ヲ唱ヘズ、郡中雪下村谷合四ケ村ノ邊舊趾ナリ、〉由比郷〈(中略)今此郷名ヲ唱ヘザレド、由比濱邊ノ邑里ヲ云ヘルナリ、〉村岡郷、〈鶴岡香象院藏、建久二年之文書ニ見ユ、今此郷名ヲ存ス、〉岩瀬郷、〈上ノ村證菩提寺藏、仁治元年ノ文書ニ出ヅ今郷名ヲ失ス、岩瀬村其遺名ナリ、〉倉田郷〈是モ同ジ文書中ニ見エタリ、今郷名ヲ唱ヘズ、上下倉田二村其遺稱ナリ、〉矢部郷〈(中略)今此郷名ヲ唱ヘズ、郡中大矢部小矢部二村其遺蹤ナリ、〉長尾郷〈鶴岡相承院藏、正元元年ノ文書ニ見ユ、此郷名モ今尚存セリ、〉三浦郡ニ矢部郷、〈◯下略〉

〔東大寺正倉院文書〕

〈十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0765 相模國封戸租交易帳 相模國司 解申天平七年封戸租事 合八郡、食封壹拾參處、壹阡參伯戸、田肆仟壹伯陸拾貳町貳段貳伯玖歩、不輸租田壹仟貳伯肆拾肆

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0766 町參段壹伯陸拾壹歩、見輸租田貳仟玖伯壹拾漆町玖段肆拾捌歩、租肆萬參仟漆伯陸拾捌束漆把、〈◯中略〉 皇后宮食封壹伯戸、田參伯參拾玖町肆段參伯肆拾漆歩、不輸租田壹伯貳拾肆町伍段貳伯伍拾壹歩、見輸租田貳伯壹拾肆町玖段玖拾陸歩、租參仟貳伯貳拾參束玖把、 足下郡垂水郷(○○○)伍拾戸、田壹伯漆拾貳町參段貳伯肆拾歩、不輸租田肆拾肆町玖段貳拾肆歩、見輸租田壹伯貳拾漆町肆段貳伯壹拾陸歩、租壹仟玖伯壹拾壹束玖把、 餘綾郡、中村郷(○○○)伍拾戸、田壹伯陸拾漆町壹段壹伯漆歩、不輸租田漆拾玖町陸段貳伯貳拾漆歩、見輸租田捌拾漆町肆段貳伯肆拾歩、租壹仟參伯拾貳束、〈◯中略〉 一品舍人親王食封參伯戸、田捌伯肆拾玖町貳段貳伯肆拾陸歩、不輸租田貳伯捌拾壹町漆段壹伯伍拾歩、見輸租田伍伯陸拾漆町伍段玖拾陸歩、租捌仟伯壹拾貳束玖把、 足上郡岡本郷(○○○)伍拾戸、田壹伯貳拾參町貳伯參拾陸歩、不輸租田壹拾捌町肆段壹伯肆拾歩、見輸租田壹伯肆町陸段玖拾陸歩、租壹仟伍伯陸拾玖束肆把、 足下郡高田郷(○○○)伍拾戸、田壹伯陸拾漆町參段貳伯伍拾玖歩、不輸租田肆拾參町壹段壹伯參拾玖歩、見輸租田壹伯貳拾肆町貳段壹伯貳拾歩、租壹仟捌伯陸拾參束伍把、 餘綾郡〈◯郡下、恐脱餘綾郷三字〉壹伯伍拾戸、田參伯捌拾漆町玖段壹伯肆拾歩、不輸租田壹伯漆拾捌町玖段壹伯肆拾歩、見輸租田貳伯玖町、租參仟壹佰參拾〈◯此間有缺文〉 尺度郷(○○○)〈◯鎌倉郡〉伍拾戸、田貳伯貳拾伍町捌段貳拾漆歩、不輸租田伍拾漆町貳段貳伯陸拾漆歩、見輸租田壹伯陸拾捌町伍段壹伯貳拾歩、租貳仟伍伯貳拾捌束、 荏草郷(○○○)伍拾戸、田壹伯肆拾玖町肆段貳伯參拾陸歩、不輸租田肆拾壹町壹段參伯伍拾陸歩、見輸租田壹伯捌町貳段貳伯肆拾歩、租壹仟陸伯貳拾肆束、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0767 右大臣從二位藤原朝臣食封、大住郡仲島郷(○○○)伍拾戸、田貳伯壹拾陸町漆段參伯肆拾貳歩、不輸租田貳拾漆町肆段貳伯貳拾貳歩、〈◯中略〉 從三位山形女王食封、御浦郡走水郷(○○○)伍拾戸、田壹伯壹拾捌町肆段漆拾陸歩、不輸租田貳拾漆町貳段參伯壹拾陸歩、見輸租田玖拾壹町壹段壹伯貳拾歩、租壹仟參伯陸拾漆束、〈納官六百八十三束五把、給主六百八十三束五把、〉 從三位鈴鹿王食封、高座郡土甘郷(○○○)伍拾戸、田壹伯漆拾捌町陸段參伯伍拾參歩、不輸租田壹伯壹拾町肆段陸拾伍歩、見輸租田陸〈◯此間有缺文〉 從四位下檜前女王食封、御浦郡冰蛭郷(○○○)肆拾戸、田壹伯玖町漆段壹伯伍拾參歩、不輸租田參拾陸町貳段參拾參歩、見輸租田漆拾參町伍段壹伯貳拾歩、租壹仟壹伯參束、〈納官五百五十一束五把、給主五百五十一束五把、〉 從四位下三島王食封、大住郡埼取郷(○○○)伍拾戸、田壹伯漆拾捌町貳段參伯捌歩、不輸租田肆拾捌町漆段玖拾貳歩、見輸租田壹伯貳拾玖町伍段貳伯壹拾陸歩、租壹仟玖伯肆拾參束肆把、〈納官九百七十一束七把、給主九百七十一束七把、〉 從四位下高田王食封、鎌倉郡鎌倉郷(○○○)參拾戸田壹伯參拾伍町壹伯玖歩、不輸租田貳拾玖町捌段壹伯玖歩、見輸租田壹伯伍町貳段、租壹仟伍伯漆拾捌束、〈納官七百八十九束、給主七百八十九束、◯中略〉 天平七年潤十一月十日〈◯署名略〉

〔吾妻鏡〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0767 治承四年八月九日己丑、有近江國住人佐々木源三秀義者、平治逆亂時、候左典厩〈◯源義朝〉御方、〈◯中略〉恃秀衡〈秀義姨母夫也〉赴奧州、至相模國刻、澀谷庄司(○○○)重國感秀義勇敢之餘、令之留置之間、住當國既送二十年畢、二十日庚子、三浦介義明、一族已下、兼日雖重奉輩、于今遲參、〈◯中略〉仍武衞先相率伊豆相模兩國御家人許、出伊豆國、令于相模國土肥郷(○○○)給也、 十月十二日辛卯、寅剋、爲祖宗、點小林(○○)

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0768 郷(○)之北山宮廟、被鶴岳宮於此所、〈◯中略〉本社者、後冷泉院御宇、伊豫守源朝臣頼義、奉勅定伐安倍貞任之時、有丹祈之旨、康平六年秋八月、潛勸請石清水、建瑞籬於當國由比郷(○○)、〈(鎌倉郡)今號之下若宮〉永保元年二月、陸奧守同朝臣義家加修復、今又奉小林郷、致蘋繁禮奠云云、 十六日乙未、爲武衞御願、於鶴岳若宮、被長日勤行、所謂法華仁王最勝王等鎭護國家、三部妙典、其外大般若經、觀世音經、藥師經、壽命經等也、供僧奉仕之、以相模國桑原郷(○○○)、爲御供料所、 十七日丙申、爲波多野右馬允義常、被軍士之處、義常聞此事、彼討手下河邊庄司行平等、未到以前、於松田郷(○○○)自殺、子息有常者在景義之許、遁此殃、義常姨母者、中宮大夫進、〈朝長〉母儀〈典膳大夫久經爲子〉仍父義通就妹公之好、始候左典厩之處、有不和之義、去保元三年春之比、俄辭洛陽、居住波多野郷(○○○○)云云、 廿三日壬寅、河村三郞義秀被公河村郷(○○○)景義、又瀧口三郞經俊召放山内庄、被預實平、此外石橋餘黨雖數輩、及刑法之僅十之一歟云云、

〔吾妻鏡〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0768 文治六年〈◯建久元年〉九月三日甲寅、大庭平太景能申云、河村三郞義秀、於今者可梟首歟者、仰曰、申状太不其意、早可其刑之由雖仰付、景能潛扶之歴多年也、依流鏑馬賞原免訖、今更何及罪科哉者、景能重申云、日來者爲囚人之間、以景能助成命、憖以蒙免許之後、已擬餓死、如當時者被誅事、還爲彼可喜歟者、于時二品頗令咲給、可住于本領相模國河村郷之旨可下知者、

〔集古文書〕

〈四十二寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0768 治承七年寄附状〈伊豆國熱海走湯山東明寺藏〉 奉寄 走湯山上常行堂 相模國長墓郷(○○○)壹所事 右件郷本目雖寺領、殊爲丁鄭勤經御祈請、以彼郷寄御也、然則堂衆等、右令其旨、致旁勤行、可源家安穩、御息災延命、増長福壽、御願成就之由也、仍奉寄如件、 治承七年七月廿五日 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0769 座主 花押

〔集古文書〕

〈四十二寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0769 源頼朝卿寄附状〈相模國鎌倉鶴岡八幡宮藏〉 奉寄 相模國鎌倉郡内鶴岡八幡新宮若中御領事 在當國貳 高田郷(○○○) 田島郷(○○○) 右爲神威増益、爲所願成就、所奉寄也、方來更不窂籠之状如件、 壽永二年二月廿七日 前右兵衞佐源朝臣頼朝〈花押〉

〔集古文書〕

〈十二下文〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0769 源頼朝卿下文〈相模國鎌倉鶴岡八幡宮社司〉 花押〈◯源頼朝〉 下 相模國中坂間郷(○○○○) 可早免除若宮相擈字新三郞家眞給田畠在家等事 田壹町 畠壹町 在家壹宇 右件給田畠在家免除畢、地頭名主等、不三煩之状如件、 壽永三年六月三日

〔吾妻鏡〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0769 文治四年十二月十七日戊寅、式部大夫親能男、一法師冠者能直、任左近將監之由、參賀營中、是無雙寵仁也、依御内擧、去十月十四日雖拜任、此間病被相侵、住相模國大藏支郷(○○○○)、今日始出仕云云、則召御前

〔相州文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0769 鎌倉西御門大藏杉谷郷(○○○)二箇所御地事、御寄進圓覺寺傳宗定照院間、土御門二品親王〈◯二品親王、恐久良親王、〉姫宮令旨如此候、早守先例、可其沙汰之状、依仰執達如件、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0770 建武四年七月十四日 沙彌道光〈花押〉 傳宗庵開山南山和尚〈◯士雲〉御門徒御中

〔集古文書〕

〈四十二寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0770 建久二年寄進状〈相模國鶴岡香象院藏〉 奉寄 鶴岡八幡宮寺吾重法印供米相模國村岡郷内 并 富塚郷(○○○)内田畠屋敷合七町伍反者右爲長日不斷本地供料、所寄進之状如件、 建久二年十一月廿二日 花押〈◯源頼朝〉

〔吾妻鏡〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0770 建久六年十一月十九日庚子、相模國大庭御厨俣野郷(○○○)内、有大日堂、今日寄進田畠、限未來際、被佛聖燈油料、是故俣野五郞景久歸敬之梵閣也、

〔集古文書〕

〈五十讓状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0770 風早禪尼深妙配分状〈大友能直室 肥後家臣志賀太郞助藏〉 嫡男大炊助入道分 相模國大友郷(○○○)地頭郷司職〈◯中略〉 右件所領等者、故豐前前司能直朝臣、賜代々將軍家御下文、無相違知行來也、〈◯中略〉仍爲後日、證文總配分状如件、 延應貳年四月六日 尼深妙〈花押〉

〔集古文書〕

〈四十二寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0770 源頼嗣卿寄進〈相模國鎌倉鶴岡八幡宮藏〉 奉寄進 鶴岡八幡宮御領事 相模國谷部郷(○○○) 則神道加護之所致也、爲敬神寄進件、 寶治元年六月廿日 右少將藤原〈花押〉

〔集古文書〕

〈四十二寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0770 將軍惟康親王寄状〈伊豆國熱海走陽山東明寺藏〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0771 征夷大將軍家 進 相模國千葉郷(○○○)内〈蝕間二左衞門尉〉 右奉仰稱伊豆權現承和往代祠宇祐基以來、一陰陽之尊神、靈驗不測、千手之垂跡、利益傍深、是以奉進一村之田園、祝著万歳之春秋、請或不玄鑒、朝野泰平、州縣卒事安全、黎民愷樂者、依如件、 弘安九年十一月廿九日 左馬權頭兼相模守平朝臣〈花押〉 陸奧守平朝臣〈花押〉

〔杉浦文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0771 永福寺藥師當供僧等代承成與相模國飯田郷(○○○)地頭等相論條々 供米收納斗事 右訴陳之趣、子細雖多、所詮承成則當郷所當米、毎年百八十石也、以當國本斗收納之處、正嘉二年以後、地頭令少收納斗之由申之、地頭亦爲清左衞門尉満定之奉行、被下收納斗之間、供僧所判形也、非本斗之旨陳之者、〈◯中略〉爰於引付之座問答之時、地頭出帶、延應元年九月十二日御下知畢、如状者、可御寺斗之由被之、自餘寺領、又用寺家斗之由、承成所承伏也、彼斗者、被置寺庫云々、然則寺庫之斗可收納也、〈◯中略〉 以前條々、依鎌倉殿仰、下知如件、 正安元年十月廿七日 陸奧守平朝臣花押〈◯北條宣時〉 相模守平朝臣花押〈◯北條貞時〉

〔相州文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0771 鶴岡八幡宮供僧大夫法印圓重與長江左衞門尉政綱相論相模國北深澤郷(○○○○)内供料田壹町五段大分米事 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0772 正和三年以來、政綱致未進之由、圓重訴申之處、如政綱陳状者、當郷者自往古里坪治定之間、供僧等、毎年遂撿見、隨得田、面々作人致直納之條、古例也、云田數作人、政綱不存知之間、給注文進未結解云々者、〈◯中略〉然則於彼供米者、政綱可究濟之状、依鎌倉殿仰、下知如件、 嘉暦三年八月十二日 相模守平朝臣花押〈◯北條守時〉

〔宇都宮文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0772 花押〈◯足利尊氏〉 下 三浦介平高繼 可早領知相模國大介職、并三浦内三崎、松和、金田、菊名、網代、諸石名、大磯郷(○○○)、〈在高麗寺、俗別當職、〉東坂間、三橋、末吉、上總國天羽郡内古谷吉野兩郷、大貫下郷、攝津國都賀莊、豐後國高田莊、信濃國村井郷内小次郞知貞跡、陸奧國糠部内五戸、會津河沼郡議〈◯議恐蟻〉塚、并上野新田〈父介入道道海(時繼)跡本領〉事、 右以人爲勳功之賞、所宛行也者、守先例沙汰之状如件、 建武二年九月廿七日

〔正宗寺文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0772 正續院領相模國秋庭郷(○○○)内信濃村事、近隣地頭御家人動擬、致濫妨狼籍之由有其聞云云、甚不然、嚴密致警固、可寺家知行之状如件、 觀應二年十二月六日 花押〈◯足利直義〉 佐竹和泉前司殿

〔集古文書〕

〈四十二寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0772 等持院尊氏公寄進状〈相模國鎌倉鶴岡八幡宮藏〉 奉寄 鶴岡八幡宮 相模國吉田郷(○○○) 右爲天下安全、武運長久、所奉寄之状如件、 正平六年十二月廿五日 正二位源朝臣〈花押〉

〔集古文書〕

〈三十四禁制状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0772 正續院制札〈下野國鹽屋郡喜連川處士三浦某藏〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0773 制札 正續院所領、於相模國毛利庄内厚木郷(○○○)、至亂妨狼籍者、不甲乙人罪科之如件、 貞治三年十二月二日 三浦介〈花押〉

〔大庭文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0773 鶴岡八番宮御供料所、武藏國青木村内、〈宗興寺林慶昌庵買得之〉并船役同地下人等、〈買得所々〉相模國早河庄久富名内、〈中村掃部助、落合式部入道得買之、〉同國阿久和郷(○○○○)内水田、同國桑原郷内田畠、同國筥根山關所〈落合式部入道同前地〉等事、雖令沽脚爲徳政所返附也、早止買得人http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001ad4e.gif 、如元可知行之状如件、 寶徳二年九月廿一日 花押〈◯足利成氏〉 當社少別當御房

〔擁書漫筆〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0773 相模國鎌倉郡瀬谷村の妙光寺は、日蓮聖人一宿の靈場といへり、〈◯中略〉洪鐘の銘に、〈◯中略〉南贍部州大日本國中、相州瀬谷郷(○○○)住、藤原朝臣山田伊賀入道經光、雖倍々利潤質、本主依之、爲大檀那、奉進妙光寺矣、于時寶徳四年壬申卯月十六日、大工和泉守恒國とゑりたり、

〔集古文書〕

〈四十五寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0773 北條氏綱寄進状〈伊豆國熱海走湯山東明寺藏〉 相州中部徳延郷(○○○)爲御神領、奉寶納者也、仍如件、 永正十七年〈庚辰〉六月五日 氏綱〈花押〉 走湯山衆徒中

〔相州文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0773 卯歳懸錢但六月分 右中島郷(○○○)懸錢前之高辻百九十四文也、來七月晦日を切而、必々可皆濟、相定分錢候間、不催促、急度可皆濟、此上致無沙汰付者奉行人濟々可指越間、自地下中くりやもたひ可致之者也、仍如件、〈◯中略〉 丁卯六月廿四日〈◯永祿十年、有北條家虎朱印〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0774 中島郷〈小代官百姓中〉

〔相州文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0774 定 一於當郷侍凡下、自然御國御用之砌、可召仕撰出、其名を可記事、但八人、〈◯中略〉 右自然之時之御用也、八月晦日を限而、右諸道具可支度、郷中之請負、其人交名以下を者、來月二十日ニ觸口ニ可指上、仍如件、 丁亥七月晦日〈北條家虎朱印〉 岩瀬(○○)〈小代官百姓中〉

〔相州文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0774 掟 一當郷ニ有之者、侍凡下共ニ二十日可倩候、行之子細有之間、悉弓鑓鐵炮、何ニ而も得道具を持、何時成共一左右次第、可罷出事、〈◯中略〉 右七ケ條之旨、能々見屆、可精、愚ニ致覺悟候者所嚴科、又入精候者、爲忠節間、如記右似合々々之望を相叶、可仰付者也、仍如件、 追御出馬御留守之間、御隱居御封判を、被推候、以上、 七月廿二日〈北條家虎朱印〉 酒勾本郷〈小代官百姓中〉

村里/名邑

〔郡名一覽〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0774 相模國(御料私領)〈相州 四方三日〉 九郡 高貳拾五万八千貳拾六石五斗八升貳合貳勺 六百七十九ケ村 ●小田原〈二十里〉 ○萩ノ山中〈二十里餘〉 浦賀〈海上十五里十九里〉 <荒川〈十九里出張〉 ◯按ズルニ、本書ノ符號ハ、山城國篇村里條ニ引ク所ノ、本書ノ凡例ヲ參照スベシ、

〔郡國提要〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0774 相模 九郡、六百七十一村、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0775 高二十八万六千七百十九石七斗五升六合八勺九才(御料私領) 永高千三百四十六貫六百七十文 三浦郡七十八村 鎌倉郡八十九村 高坐郡百十八村 足柄上郡九十四村 足柄下郡八十三村 陶綾(ユルキ)郡十九村 大住郡百十八村 愛甲郡四十五村 津久井縣(ツクヰガタ)

〔地勢提要〕

〈坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0775 郡邑島嶼奇名 相模高座郡鵠沼(クヽイヌマ)村、陶綾郡國府本郷、足柄下郡酒勾(サカワ)村、神山村、風祭(カザマツリ)村、足柄上郡苅野岩(カノイハ)村、大住郡馬入(バニウ)村、津久井縣千木(ツクヰケンチキ)良村、

〔新編相模國風土記稿〕

〈十二足柄上郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0775 今所唱里名 曾我〈楚賀〉 上曾我村、曾我、大澤二村是ニ屬ス、又足柄下郡ニ四村跨レリ、

〔新編相模國風土記稿〕

〈二十二足柄下郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0775 今所唱里名二 曾我〈楚賀〉 曾我谷津村以下四村是ニ屬ス、足柄上郡ニモ跨レリ、〈彼郡内ニ村屬ス〉此里名ハ曾我物語ニ往往見ユ、宗祇ガ名所方角抄ニモ載ス、〈曰大磯ヨリ北ニ野ヲ隔テヽ、曾我ノ里有、〇中略〉又庄名ニモ唱ヘシト見エ、建久元年九月、四年五月ノ記、〈東鑑、并曾我物語、〉曾我庄ノ名見ユ、〈〇下略〉

〔相州文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0775 山内莊秋庭郷内信濃村(○○○)事、以左馬頭殿御判、寄附正續院之上者、甲乙人等不濫妨狼籍、若有違犯之輦者、可重科之状如件、 建武三年五月九日 花押〈◯斯波家長〉

〔新編鎌倉志〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0775 鎌倉(○○)大意 源順和名抄ニ、鎌倉郡ノ内ニ鎌倉ノ里アリ、何レノ地ヲ云ン歟不分明、大臣山ヲ鎌倉山トイヘバ、雪下ヲ鎌倉里ト云ンカ、藤實方ノ歌ニ、民モ又ニギハヒニケリ秋ノ田ヲカリテヲサムル鎌倉ノ里、又續古今集ニ、鎌倉右大臣ノ歌ニ、宮柱フトシキ立テ萬代ニ今ゾ榮ヘン鎌倉ノ里、夫木集ニ、藤原基綱ノ歌、昔シニモ、タチコソマサレ民ノ戸ノ煙ニギハフ鎌倉ノ里、又東路ヤアマタ郡ノソノ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0776 中ニイカデ鎌倉サカヘソメケン、中務卿〈宗尊親王〉歌ニ、十年アマリ五年マデモ住馴テナヲワスラレヌ鎌倉ノ里トアリ、按ズルニ東鑑ニ、陰陽權助國道云、所謂四境トハ、東ハ六浦、南ハ小坪、西ハ稻村、北ハ山内トアリ、然レバ此内ヲ鎌倉ト云ベシ、鶴岡記録ニ云、鎌倉谷七郷(○○○○○)トハ、小坂郷、小林郷、葉山郷、津村郷、村岡郷、長尾郷、矢部郷ヲ云ナリ、鎌倉七口(○○○○)トハ名越切通、朝夷名切通、巨福路坂、龜谷坂、假粧坂、極樂寺切通、大佛切通、此外ニ小坪切通、稻荷坂アリ、稻荷坂ハ、十二所村ヨリ池子村ヘ出ル坂也、

〔萬葉集〕

〈十四相聞〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0776 東歌〈◯中略〉 【可麻久良乃】(カマクラノ)、【美胡之能】(ミコシノ)、【佐吉能】(サキノ)、伊波久叡乃(イハクエノ)、伎美我久由倍伎(キミガクユベキ)、己許呂波母多自(コヽロハモタジ)、 麻可奈思美(マカナシミ)、佐禰爾和波由久(サ子ニワハユク)、可麻久良能(カマクラノ)、美奈能瀬河泊爾(ミナノセカハニ)、思保美都奈武賀(シホミツナムカ)、〈◯中略〉 右十二首、相模國歌、〈◯中略〉 譬喩歌〈◯中略〉 多伎木許流(タキヾコル)、【可麻久良夜麻】(カマクラヤマ)能(ノ)、許太流木乎(コタルキヲ)、麻都等奈我伊波婆(マツトナカイハヾ)、古非都追夜安良牟(コヒツヽヤアラム)、右三首、相模國歌、

〔詞林采葉抄〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0776 鎌倉山 凡鎌倉とは、鎌を埋める倉と云詞也、其濫觴は、昔大織冠鎌足、未鎌子と申し奉し頃、宿願の事おはしましけるに依て、鹿島明神へ參詣之時、此由井の郷に宿り給ひける夜、感靈夢て、年來所持し給ける鎌を、今の大藏松岡に埋み給けるより、鎌倉の郡と云、云々、

〔吾妻鏡〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0776 治承四年九月九日戊午、盛長、自千葉歸參申云、至常胤之門前案内處、不幾程請于客亭、常胤兼以在彼坐、子息胤正、胤頼等、在座傍、常胤具雖盛長之所一レ述、暫不言、只如眠、而件兩息、同音云、武衞〈◯源頼朝〉興虎牙跡、鎭狼唳給、縡最初有其召、服應何及豫儀哉、早可領状之奉書、常胤之心

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0777 中、領状更無異儀、令源家中絶跡給之條、感涙遮眼、非言語之所一レ覃也者、其後有盃酒次、當時御居所非指要害地、又非御曩跡速可相模國鎌倉、常胤相率門客等、爲御迎參向之由申也、 十月六日乙酉、著御于相模國、畠山次郞重忠爲先陣、千葉介常胤候御後、凡扈從軍士、不幾千萬、楚忽之間、未營作沙汰、以民屋御宿館云云、

〔吾妻鏡〕

〈三十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0777 文暦二年〈◯嘉禎元年〉十二月廿日戊申、爲御不例御祈、於御所南庭、被七座泰山府君祭、〈◯中略〉及黄昏四角四境祭、〈◯中略〉小袋坂、〈雅樂大夫泰房〉小壺、〈近江大夫親貞〉六浦、〈陰陽少允以平〉固瀬河、〈縫殿助文方〉

〔海道記〕

〈源光行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0777 申の刻〈◯貞應二年四月十七日〉に湯井濱に落著ぬ、しばらく休みて、此所をみれば、數百艘の舟ともづなをくさりて、大津のうらに似たり、千万宇の宅軒をならべて、大淀のわたりにことならず、御靈の鳥居の前に日をくらして後、若宮大路より宿所につきぬ、〈◯中略〉十八日、此宿の南の軒ばに、高き丸山あり、山の下に細き小川あり、峯のあらしこゑ落て、夕の袖をひるがへし、灣水ひヾきそヽぎて、夜の夢をあらふ、年頃ゆかしかりつる所か、いつしか周覽相もよほし侍れども、いまだ旅なれば今日はむなしく暮しつ、〈◯中略〉其後立出てみれば、此ところの景趣は、うみあり、山有、水木たよりあり、廣きにもあらず、狹にもあらず、街衢のちまたは、かた〳〵に通ぜり、實に此聚おなし邑をなす、郷里都を論じて、望まづめづらしく、豪をえらび賢をえらぶ、門㨯しきみをならべて、地又賑り、をろ〳〵將軍の貴居を垣間見れば、花堂たかくおしひらいて、翠簾の色喜氣をふくみ、朱欄妙にかまへて、玉砌のいしずへ光をみがく、春にあへる鶯のこゑは、好客堂上の花にあざけり、あしたをおくる龍蹄は、參會門前の市に嘶ゆ、論ぜず本より春日山より出たれば、貴光たかく照て、萬人みな瞻仰士風塵をはらふ、威驗遠く誡て、四方こと〴〵く聞きにおそる、何ぞ况や舊水源すみまさりて、清流いよ〳〵遺跡をうるほし、新花榮鮮にひらけて、紫殿はるかに万歳をちぎる、凡座制を帷帳の中に廻て、徴肅郡國の間につくめたり、しかのみならず、家室は局をわすれて、夜

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0778 の戸をおしひらき、人倫は心を調てほこるともほこらず、愚政の至り治りて見ゆ、 夜の戸ものどけき宿にひらくかなくもらぬ月のさすにまかせて、此縁邊に付て、おろ〳〵歴覽すれば、東南の角一道は、舟擑の津、商賣の商人、百族にぎはひ、東西北の三方は、高卑の山風のごとくに立廻て、所をかざれり、南の山の麓に行て、大御堂新御堂を拜すれば、佛像烏瑟のひかり、瓔珞眼にかヾやき、月殿畫梁のよそほひは、金銀色をあらそふ、〈◯下略〉

〔東關紀行〕

〈源親行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0778 抑かまくらのはじめを申せば、故右大將家〈◯源頼朝〉と聞え給ふ、水の尾の御門〈◯清和〉の九の世のはつえを、たけき人にうけたり、さりにし治承のすゑにあたりて、義兵をあげて、朝敵をなびかすより、恩賞しきりに、瀧山の跡をつぎて、將軍のめしをえたり、營館をこの所にしめ、佛神をそのみぎりにあがめ奉るよりこのかた、今繁昌の地となれり、中にも鶴岡の若宮は、松柏のみどりいよ〳〵しげく、蘋蘩のそなへかくることなし、〈◯下略〉

〔宗祇終焉記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0778 鎌倉を一見せしに、右大將家のそのかみ、また九代のさかへも、たヾめの前の心ちして、鶴が岡のなぎさの松、雪の下のいらかは、げに岩し水にもたちまさるらんとぞ覺侍る、山々のたヽずまひ、やつ〳〵、しま〴〵、いはヾ筆のうみもそこ見えつべし、

〔東國紀行〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0778 かたせ川こしごえすぎゆけば、ゆゐの濱みなせ河も見えわたるほどなり、愛阿彌、鎌倉よりむかひにきたれり、しるべしてむかしの跡など問きくほど、暮がたに成てつきたり、旅宿は太守より後藤かたへおほせつけられ、清閑をそへられ、幻庵より多田など案内者とてくはへられたれば、いづかたもおほつかなからず、舊跡のたびね其感有、けふは三月〈◯天文十四年〉一日、早朝先鶴が岡八幡宮參詣、松の木のまのさくらさかりにて、石清水臨時の祭、舞人のかざしにおもひまがへられたり、近年御遷宮、あけの玉がきよりはじめ、見るめもかヾやく春の光、わづかにむかしおぼえたり、まづ金澤一見すべしとていそぎ侍れば、後藤案内いたしてうちいづるほど、めにちか

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0779 き谷々、右大將家の御跡、山がつもこヽろあるにや、はたにもなさず、芝しげらせ、はなち飼駒、所へがほなり、するすみ、いけずきひやされしながれ、水さびいでかげもみえず、こヽかしこ過がてにするほど、暮ぬべしといへば、いそぎつきたり、〈◯中略〉暮はてぬほどにぞ、うちはへかまくらへくれば、妙法寺住持たるなとたづさへられ、迎にとてきたられしかば、又ゑひをかさねて、暮すぎたるほど旅宿につきたり、蔭山藤太郞來りて、一座の望のよし内儀申たり、ことに一向若年の執心もさりがたきことにて、例の發句、 こととはヾ花やしら雲代々の春 三代將軍、九代の春もはなはかくこそは、圓覺寺の木末、さかりにみへたる會席なればなり、

〔新編相模國風土記稿〕

〈二建置沿革〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0779 平相國清盛威權并ナカリシ頃ヨリ、諸國莊園ノ地多クナリ、〈◯註略〉本州中モ多クハ武臣ノ私有トナリ、莊園〈◯註略〉ト稱スル地、居多ニシテ、古昔ノ郷名ヲ廢シ、或ハ私ノ郷名ヲ唱ヘ、或ハ莊名ヲ唱フル地多クアリ、〈◯中略〉庄名ハ、足柄上郡ニ、大井庄、〈◯註略〉同下郡ニ、早河庄、〈◯註略〉又此二郡ニ跨ガリテ、中村庄、〈◯註略〉曾我庄、〈◯註略〉大住郡ニ、豐田庄〈◯註略〉糟屋庄、〈系圖纂ニ、閑院冬嗣ノ男良方、相州在國ノ際、男元方糟屋庄ニ出生スト見エ、其男盛方、糟屋庄司ト見エタリ、〉波多野庄、〈◯註略〉愛甲郡ニ、毛利庄、〈◯註略〉高座郡ニ澀谷庄、〈◯註略〉大庭庄、〈保元物語、大庭庄司景房ガ子、相模國住人大場平太景義、同三郞義親トハ、我事ニテ候ト云テ控タル云々トアレバ、當時庄名ヲ唱ヘシナリ、今尚現在ス、〉鎌倉郡ニ山内庄、〈◯註略〉吉田庄〈◯註略〉等アリ、〈按ズルニ、此他尚舊唱有ベキナレド、今僅ニ所見ニ隨テ採録シ、強テ捜求セズ、〉

〔吾妻鏡〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0779 治承四年十月十六日乙未、平氏大將軍小松少將惟盛朝臣、率數萬騎、去十三日、到著于駿河國手越驛之由、依其告也、今夜至于相模國府六所宮、於此處當國早河庄(○○○)於箱根權現、其御下文相副御自筆御消息、差雜色鶴太郞、被別當行實之許、御書之趣、存忠節之由、前々知食之間、敢無疎簡之儀、殊以可丹祈之由也、御下文云、 奉箱根權現御神領事 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0780 相模國早河本庄 爲筥根別當沙汰、早可知行也、 右件於御庄者、前兵衞佐爲源頼朝沙汰、所寄進也、全以不其妨、仍爲後日沙汰、注文書以申、 治承四年十月十六日

〔吾妻鏡〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0780 文治三年六月十三日癸未、故左典厩御乳母參上、則召御前往事、令落涙給、是平治牢籠之後、自京都向相模國早河庄、而爲庄内田地七町作人、令世渡之由言上、仍永可掌彼地之旨被仰下云云、

〔吾妻鏡〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0780 元暦二年〈◯文治元年〉十月二十九日戊寅、爲豫州備州等之叛逆、二品今日上洛給、〈◯中略〉巳刻、令進發給、土肥二郞實平候先陣、千葉介常胤在後陣、今夜止宿相模國中村庄(○○○)云云、

〔吾妻鏡〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0780 文治四年六月四日戊辰、所々地頭沙汰之間事、注條々、令帥中納言〈經房〉給之處、御返報今日到著、於勅答之趣者、爲子細、所獻右中辨定長朝臣奉書也、 相模國大井庄(○○○)事 延勝寺領也、於年貢者、早可寺家、〈◯中略〉 相模國早河庄事 已上三箇所、同家領也、年貢可汰送棟範許之由、先日申上之時聞召畢、 八條院領〈◯中略〉 相模國 山内庄(○○○)〈◯中略〉 以上件庄領年貢、或先々注進、或本文書紛失、平家時分令自由沙汰事も候き、又不庄大小増進事も候き、子細庄家皆存知歟、委捜可計沙汰、〈◯中略〉 以前條々、以此趣計遣之由、御氣色候、恐々謹言、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0781 五月十二日 權右中辨

〔圓覺寺文書〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0781 正續院領相模國山内庄秋庭郷内志奈野村事、自鎌倉置于軍勢、僧食闕如云々、甚無謂、早停止預人等亂、可寺家所務之由、可嚴密催促之状如件、 建武五年二月日 花押〈◯足利直義〉 三浦因幡六郞左衞門殿

〔吾妻鏡〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0781 文治四年八月廿三日丙戌、波多野五郞義景與岡崎四郞義實、於御前對決、是相模國波多野本庄(○○○○○)、北方者義景累代相承所領也、而竊在京之隙、義實望申之、歸參之後、義景申云、當所者、保延三年正月廿日、祖父筑後權守遠茂、讓與二男義通云云、又嘉應元年六月十七日、讓義景之後、無牢籠之處、依何由緒望申哉、就之被召決之刻、義實申云、可孫子先法師冠者之由、有義景先年状云云、義景申云、先法師者、義景外孫也、縱雖讓状、外祖存生、爭可競望乎、是偏義實姧曲也云云、義實雌伏、爲未來、所言上也云云、御成敗云、當所進退宜義景意、義實造意尤不當也、依其科百箇日之間、勤仕鶴岡并勝長壽院等之宿直云云、 十一月廿七日丙辰、景能父景宗墳墓、在相模國豐田莊(○○○)、而群盜競來堀開塚、盜取所納之重寶去畢、雖奔之、不其行方、思此事之始、去比狐斃之由、見出時也云云、人以不思儀云云、

〔吾妻鏡〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0781 建久三年十二月二十日戊午、澀谷輩者、偏備勇敢、尤相叶御意之間、爲公事勤役、以彼等領所相模國吉田庄(○○○)地頭、被申請領家、圓滿院爲請所、御倉納物、所其之貢也、

〔薩藩舊記〕

〈前集十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0781 雜訴決斷所 相模國吉田上莊(○○○○)上深屋村内、北尾屋敷田畠在家立野、美作國河會莊十町南村内土志谷村田畠在家、薩摩國入來院中村内副田村田畠在家等事、 右當知行、不相違者、以牒、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0782 建武元年六月三日 少判事中原朝臣花押 左中辨藤原朝臣花押

〔吾妻鏡〕

〈十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0782 建久四年六月七日壬寅、自駿河國向鎌倉給、而曾我太郞祐信候御共之處、於路次暇、剩免除曾我庄(○○○)乃貢、可祐成兄弟夢後之由被仰下、是偏依彼等勇敢之無一レ怠給也、

〔吾妻鏡〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0782 建久五年八月八日丙申、今曉寅刻將軍家參相模國日向山給、〈◯中略〉因幡前司於下毛利庄(○○○○)、獻駄餉云云、 十月廿九日丙辰三浦矢部郷内、可立一堂之由思食立、爲故介義明沒後也、今日仰仲業撿其地云云、

〔集古文書〕

〈三十四禁制状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0782 覺園寺制札〈同寺藏〉 花押〈◯足利尊氏〉 禁制 覺薗寺領相模國毛利庄(○○○)内安田散田荻野郷等事 右武士甲乙之輩、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001ad4e.gif 辭於左右、令入當所、或致殺生等之狼藉、或伐取竹木之條、甚不然、於向後者、固可停止之、若有違犯之族者、爲罪科、可申交名之状如件、 觀應三年六月十三日

〔吾妻鏡〕

〈二十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0782 建暦三年〈◯建保元年〉五月七日丁未、勳功事、今日先被之、波多野中務丞忠綱事、於無雙軍忠者、雖御疑、於御前對決之時、以義村盲目、爲惡口之上、以賞、可罪科之由有沙汰、所閣也、子息次郞經朝賞事者、被之、又由利中八郞、遂被放所領云々、〈◯中略〉 相模國山内庄〈相州〉 同國菖蒲〈同上〉 同國大井庄〈山城判官〉 同國壞島(エノシマ)〈山城四郞兵衞尉〉 同國岡崎〈近藤左衞門尉〉 同國澀谷庄(○○○)〈女房因幡局〉 坂東田原〈志村次郞〉

〔慈心院文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0782 奉寄 清水寺 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0783 相模國糟屋莊(○○○)豐部郷内、雜色藤五跡田地事、 右爲一天之太平、當家之長久、所寄附件、 建武貳年五月七日 參議花押〈◯足利尊氏〉

〔鎌倉大草紙〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0783 太田備中長尾左衞門が郞等百廿餘人討死して、陣床も取得ず、相州糟谷庄へ引退、

〔古文帖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0783 横山彌一郞 相模國高座郡大高庄(○○○)貳百二十石 右宛行之證、全可知行者也、仍如件、 天正十九年辛卯 御朱印 横山彌一郞どのへ

藩封

〔慶應元年武鑑〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0783 大久保加賀守忠禮(帝鑑間 朝散大夫) 拾一万三千百廿九石餘 居城相州足柄下郡小田原〈江戸ヨリ二十里 北條家在城、天正十八、大久保七郞右衞門忠世、同相模守忠隣、慶長十九、御番城、寛永九、稻葉丹後守正勝、同美濃守正則、同丹後守正通、貞享三正月、依台命再城主大久保加賀守忠朝、以後代々領之、〉大久保出雲守教義(菊之關 朝散大夫) 一万三千石 在所相州愛甲郡荻野山中〈江戸ヨリ二十里餘◯節略〉

田數/石高

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0783 相模國〈◯註略〉管八〈田萬千二百三十六町一段九十一歩〉

〔伊呂波字類抄〕

〈左國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0783 相模國〈管八(中略)本田万千三百卅六町畝九十歩〉

〔拾芥抄〕

〈中末本朝國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0783 相模〈上遠〉八郡〈(中略)田万千四百八十六町〉

〔海東諸國記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0783 相模州 郡八、水田一萬二千二百三十六町一段、

〔前關白秀吉公御檢地帳之目録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0783 十九万四千百四石 相模

〔和漢三才圖會〕

〈六十七相模〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0783 八郡 高十九万四千二百石

〔官中秘策〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0783 相模國 五郡〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0784 一石高貳拾五万八千貳百拾六石餘

〔吹塵録〕

〈五人口及國高〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0784 天保度御國高調〈◯中略〉 相摸國〈御料私領〉 一〈高貳拾八万六千七百拾九石七斗五升六合八勺九才永高千三百四拾六貫六百七拾文〉

出擧稻

〔延喜式〕

〈二十六主税〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0784 諸國出擧正税公廨雜稻〈◯中略〉 相模國、正税公廨各卅万束、國分寺料四万束、大安寺料二万六千九百束、文殊會料二千束、藥分料一万束、鎭守府公廨五万四千卅七束、修理池溝料三万束、救急料七万一千束、俘囚料二万八千六百束、官牧馬牛直五千五百八十三束、

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0784 相模國〈◯註略〉管八〈(中略)本稻八十六萬八千百二十束九把五分、雜稻二十六萬八千四百二十束九把五分、◯二十束九把五分原脱、據一本補、〉

國産/貢獻

〔延喜式〕

〈二十三民部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0784 年料別納租穀〈◯中略〉 相模國〈三千五百石◯中略〉 年料別貢雜物〈◯中略〉 相模國〈筆一百管、零羊角四具、青木香八十斤、牧牛皮◯皮下張數脱、中略、〉 諸國貢蘇番次〈◯中略〉 相模國十六壺〈六口各大一升、十口各小一升、〉 右八箇國爲第一番〈丑未年◯中略〉 交易雜物〈◯中略〉 相模國〈商布六千五百段、豉二石五斗、鹿皮廿張、鹿角十枚、紫草三千七百斤、布一千五百端、鞦十具、鹿革廿張、履牛皮十二枚、櫑子四合、〉

〔延喜式〕

〈二十四主計〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0784 相模〈◯中略〉 右十一國麁絲〈◯中略〉 相模〈◯中略〉 右十國輸絁〈◯中略〉 相模國〈行程、上廿五日、下十三日、〉 調、一窠綾五疋、二窠綾三疋、三窠綾五疋、七窠綾五疋、橡帛十三疋、黄帛八十疋、紺布六十端、縹布卌端、自餘輸絁布、 庸、輸綿布、 中男作物、紙、熟麻、紅花、茜、短鰒、堅魚、海藻、

〔延喜式〕

〈三十七典藥〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0784 諸國進年料雜藥〈◯中略〉 相模國卅二種 黄芩十斤五兩、芎藭廿斤、茵陳藁、䓡苺、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000650cf2.gif 茄、芍藥、黄蓍、前胡各一斤、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/000000019ac0.gif 杞十八斤、藍漆七斤、紫菀八兩、菴蘆子二斤、防風三斤、橘皮十五斤十兩、瓜蔕二兩、款冬花九斤、白頭公一斤、麻黄六斤八兩、署預一斗、麥門冬一升、桃人、胡麻子各三斗、干地黄三升、附子一斗八升、大虵床子一升、莨蓎子二

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 升、荏子二斗、亭藶子五合、石硫黄一斗、猪蹄一具、丹參四斤、豉大五斗、

〔毛吹草〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 相模 鎌倉柴胡 紅花 鼠大根〈鼠ノ手ニ似リト云〉 海老〈伊勢海老ノゴトシ〉 江島江豚(イルカ) 小田原海雀〈魚也〉 透頂香(トウチンコウ) 甲鉢 十間坂星下梅〈日蓮宗數珠ニ用之、玉ニ星一ヅヽ有ト云、〉 大磯盆山敷石〈五色ノ石有之〉 禰布川飛石 秦野野大根

〔日本鹿子〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 同國〈◯相模〉名物出所之部 大根〈秦野と云野原にあり、たねをまかずして、おのれといでくる也、〉 鼠大根〈かまくら邊より出る、鼠の手ににたり、よつてかく云ふ、〉 柴胡〈同所よりいづる〉 紅花〈同所よりいづる〉 海老〈世にかまくらゑびと云〉 江島江豚(イカル) 小田原海雀 同鰹の扣(タヽキ) 同粕漬梅 同足駄 同外郞透頂香 同夢想枕 盆山敷石〈大いそより出る、五色の石也、〉 川村材木 十間坂星下梅〈日蓮宗數珠に用、玉に星一ツ宛有、〉 飛石〈禰布川と云所より出る、小田原近所なり、〉

〔日本書紀〕

〈三十持統〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 六年五月辛未、相模國司、獻赤鳥雛二隻、言獲於御浦郡

〔續日本紀〕

〈六元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 和銅六年五月癸酉、相模、常陸、上野、武藏、下野五國輸調、元來是布也、自今以後、絁布並進、又〈◯中略〉相模、石硫黄、白樊石、黄樊石、 七年正月甲申、令相模、常陸、上野三國始輸絁調但欲布、許之、

〔類聚國史〕

〈三十三帝王〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 延暦十一年十月丁未、停相模國獻橘、伊豫國獻一レ瓜、以路遠也、

〔朝野群載〕

〈二十七諸國公文〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 主計寮移 主税寮 勘送相模國年々正税交易雜物事 治暦參年料 交易調布仟伍佰端 商布陸仟伍佰端 糸鞦拾具 紅花拾漆斤 鹿皮貳拾張 鹿革貳拾枚 鹿角拾枚 御履牛皮拾伍枚 櫑子肆合 紫草參仟漆佰斤 筆佰管 豉參斗伍升 繫飼馬肆疋 同牛捌頭 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0786 右彼寮移偁、撿彼國税帳、頗有物疑者、撿件國年々調帳、所注如件、以移、承保年月日 正六位上行屬 正六位上行允

〔慶長見聞集〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0786 關東衣服昔に替る事 我〈◯三浦淨心〉若きころ、三浦に六十ばかりの翁あり、語りしは、大永元年の春、武藏の國熊ケ谷の市に立しに、西國のもの木綿種を持來りて賣買す、是を調法のものかなと、買とりて植つればおいたり、皆人是をみて次のとし、又西國の者持きたるを、三浦の者ども、熊ケ谷の市に出て買取り植ぬれば、四五年の内三浦に木綿多し、三浦木綿と號し、諸國にて賞翫す、夫より此方關東にて諸人木綿を著ると語る、

人口

〔官中秘策〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0786 相模國 五郡〈◯中略〉 一人數三拾壹万七百九拾六人 内〈拾六万七千七百九拾壹人 男 拾貳万三千五人 女〉

〔吹塵録〕

〈五人口及國高〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0786 諸國人數調〈◯中略〉(文化元甲子年) 一人數貳拾七万八千六拾八人(御料私領) 相模國(高貳拾五万八千貳拾六石餘) 内〈拾四万七千九百貳拾七人 男 拾三万百四拾壹人 女◯中略〉 諸國人數調〈◯中略〉(弘化三丙午年) 一人數三拾万三千貳百七拾壹人(御料私領) 相模國(高貳拾八万六千七百拾九石餘) 内〈拾五万七千六百八拾四人 男 拾四万五千五百八拾七人 女〉

風俗

〔人國記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0786 相模國 相模之國ハ、風俗豆州ニ似ルトイヘドモ、人ノ氣轉變仕安キ所也、榮ル人ニハ縁ヲ以テシタシミ、今日マデナレシ人ニモ、不時而蟄居スルト見ル則ハ遠リ、無科人ニモ科ヲ付テソシリナシ、非

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0787 有ル人ニモ時メク人ヲバ馳走シテ是ヲホウビシ、常ニ榮花ヲ好ミ、好味ヲ求テ酒色ヲ翫ブ風儀、十人ニ八九人如斯也、因茲主ハ被官ニ被放、被官ハ主ヲ捨テ、今日マデ傍輩ト成シ人ヲモ、明日ハ主君ト仰ギ、主ガ被官ニナリ、被官ガ主ニ成風俗也、而モ智アツテ智ニ迷ヒ、義ヲ知テ義ニ迷フ、誠ニ惡ヲ備ル風俗也、

名所

〔日本鹿子〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0787 相模國名所之部 足柄山 同關 箱根山の北也、いにしへの海道也、今ははこね山を海道とせりと云、 秋迄は富士の高根に見し雪を分て越ぬるあしがらの關 竹の下道 足柄山のうち也、續拾遺集旅の歌に、平の長時、 あし柄の山のふもとに行くれて一夜宿かる竹の下道 八重山 はこね山の北なる山をいふ ふりつもる雪の八重山道とぢて行末うときあしがらの關 鎌倉里 北南へ遠き所也、東は山、西は海也、谷々とて谷合々々を居所したる跡あり、入口七ケ所、皆巖土手を切とをしたる總がまへ、所々のこりて今に有、鎌倉右大臣の歌に 宮柱ふとしきたてヽ万代に今ぞさかへんかまくらの里 鶴が岡 かまくら山のうち也、若宮八幡立給ふ、くはしく神社の部に有之、 年へたる鶴が岡部の松の葉の青みにけりな春のしるしに、 六の浦 大倉谷を南へ行、かまくらのうちを出れば此所を通る也 手本の浦 浪の瀬川 片瀬川 ちかきあたりに續きたる名所共なり 派てこし手本の浦のかひあらば千鳥の跡を絶ずとはなん 御浦 越木の礒 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 思ふことまつに月日はこよろぎの礒にや出てけふはうら見ん しぎたつ澤 大礒の宿はづれより、小礒と云所迄のうち也、 心なき身にもあはれはしられけるしぎたつ澤の秋のゆふぐれ〈◯中略〉 大礒 小礒 諸越が原 足合の里 此所みなならびて、ちかく有名所どもなり、 鞠子川 そのかみ、源の頼朝、此川をわたりたまふに、梶原景時がのりたる馬のけ上し水、大將の御馬上にかヽりければ、景時取あへず、 まり子川ければぞ浪はあがりける、かく申けるにぞ、打ゑませ給ひて過させ給ひけると云傳へ侍る、

雜載

〔延喜式〕

〈二十八兵部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 諸國健兒〈◯中略〉 相模國一百人〈◯中略〉 諸國器仗〈◯中略〉 相模國〈甲四領、横刀九口、弓六十張、征箭六十具、胡簶六十具、〉

〔日本後紀〕

〈十二桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 延暦廿四年二月乙巳、相模國言、頃年差鎭兵三百五十人、戍陸奧出羽兩國、而今徭丁乏少、勳位多數、伏請、中分鎭兵、一分差勳位、一分差白丁、許之、

〔萬葉集〕

〈十四東歌〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 相聞 安思我良能(アシガラノ)、乎氐毛許乃母爾(ヲテモコノモニ)、佐須和奈乃(サスワナノ)、可奈流麻之豆美(カナルマシヅミ)、許呂安禮比毛等久(コロアレヒモトク)、 相模禰乃(サガミ子ノ)、乎美禰見所久思(ヲミ子ミソグシ)、和須禮久流(ワスレクル)、伊毛我名欲妣氐(イモガナヨビテ)、吾乎禰之奈久奈(ワヲ子シナクナ)、 或本歌曰、武藏禰乃(ムサシ子ノ)、乎美禰見可久思(ヲミ子ミカクシ)、 和須禮遊久(ワスレユク)、伎美我名可氣氐(キミガナカケテ)、安乎禰思奈久流(アヲ子シナクル)、和我世古乎(ワガセコヲ)、夜麻登敝夜利底(ヤマトヘヤリテ)、麻都之太須(マツシタス)、安思我良夜麻乃(アシガラヤマノ)、須疑乃木乃末可(スギノコノマカ)、 安思我良能(アシガラノ)、波姑禰乃夜麻爾(ハコ子ノヤマニ)、安波麻吉氐(アハマキテ)、實登波奈禮留乎(ミトハナレルヲ)、阿波奈久毛安夜思(アハナクモアヤシ)、 或本歌末句云、波布久受能(ハフクズノ)、比可利與利己禰(ヒカリヨリコ子)、思多奈保那保爾(シタナホナホニ)、〈◯二首略〉 母毛豆思麻(モヽツシマ)、安之我良乎夫禰(アシカラヲブ子)、安流吉於保美(アルキオホミ)、目許曾可流良米(メコソカルラメ)、己許呂波毛倍杼(コヽロハモヘド)、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0789 阿之我利能(アシカリノ)、刀比能可布知爾(トヒノカフチニ)、伊豆流湯能(イヅルユノ)、余爾母多欲良爾(ヨニモタヨラニ)、故呂何伊波奈久禰(コロカイハナクニ)、 阿之我利能(アシカリノ)、麻萬乃古須氣乃(マヽノコスゲノ)、須我麻久良(スガマクラ)、安是加麻可左武(アセカマカサム)、許呂勢多麻久良(コロセタマクラ)、 安思我里乃(アシカリノ)、波胡禰能禰呂乃(ハコ子ノ子ロノ)、爾古具佐能(ニコグサノ)、波奈都豆麻奈禮也(ハナツヽマナレヤ)、比母登可受禰牟(ヒモトカズ子ム)、 安思我良乃(アシカラノ)、美佐可加思古美(ミサカカシコミ)、久毛利欲能(クモリヨノ)、阿我志多婆倍乎(アカシタハヘヲ)、許知氐都流可毛(コチテツルカモ)、 相模治乃(サガミヂノ)、余呂伎能波麻乃(ヨロギノハマノ)、麻奈胡奈須(マナコナス)、兒良久可奈之久(コラクカナシク)、於毛波流留可毛(オモハルヽカモ)、 右十二首、相模國歌(○○○○)、〈◯中略〉 譬喩歌 阿之我里乃(アシカリノ)、安伎奈乃夜麻爾(アキナノヤマニ)、比古布禰乃(ヒコフ子ノ)、斯利比可志母與(シリヒカシモヨ)、許己波故賀多爾(コヽハコガタニ)、 阿之賀利乃(アシカリノ)、和乎可雞夜麻能(ワヲカケヤマノ)、可頭乃木能(カゾノキノ)、和乎可豆佐禰母(ワヲカヅサネモ)、可豆佐可受等母(カツサカズトモ)、〈◯中略〉 右三首、相模國歌、


Last-modified: 2019-03-15 (金) 09:48:57 (387d)