http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0915 筑前國ハ、チクゼンノクニト云フ、本ト筑後ヲ合セテ筑紫國ト稱セシヲ以テ、舊クハ又ツクシノミチノクチトモ云ヘリ、西海道ニ在リテ、東ハ豐前ニ接シ、西ハ肥前及ビ海ニ至リ、南ハ豐後、筑後、肥前ニ界シ、北ハ海ニ臨ム、東西凡ソ十八里、南北凡ソ十七里、其地勢ハ山脈東ニ起リテ南走シ、更ニ西北ニ趨キ、沿海ノ地、港灣多ク、島嶼參錯シ、全州概シテ山海ノ利ニ乏シカラズ、此國ハ、古ヘ國府ヲ御笠郡ニ置キ、怡土(イト)、志摩(シマ)、早良(サハラ)、那珂(ナカ)、席田(ムシロダ)、糟屋(カスヤ)、宗像(ムナカタ)、遠賀(ヲカ)、鞍手(クラテ)、嘉麻(カマ)、穗浪(ホナミ)、夜須(ヤス)、下座(シモツアサクラ)、上座(カミツアサクラ)、御笠(ミカサ)ノ十五郡ヲ管シ、延喜ノ制、上國ニ列ス、後世遠賀郡ヲ御牧郡ト稱セシコトアリシガ、明治維新ノ後、嘉麻、穗波ノ二郡ヲ合シテ嘉穗郡ヲ置キ、席田、御笠、那珂ノ三郡ヲ合シテ筑紫郡ヲ設ケ、怡土、志摩ノ二郡ヲ合シテ糸島郡ト稱シ、夜須、上座、下座ノ三郡ヲ併セテ朝倉郡ヲ立テ、新ニ福岡市ヲ設ケ、福岡縣ヲシテ一市九郡ヲ治セシム、

名稱

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0915 西海國〈◯中略〉 筑前〈筑紫乃三知乃久知〉

〔饅頭屋節用集〕

〈知天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0915 筑前(チクゼン)〈筑州〉

〔日本風土記〕

〈一寄語島名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0915 筑前〈職骨前(チツクツセン)〉

〔易林本節用集〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0915 筑前、〈筑州〉上、管十五郡、南北四日、米、粟、珍寶、器械備也、中上國也、

筑紫國

〔運歩色葉集〕

〈津〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0915 筑紫(ツクシ)

〔地名字音轉用例〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0916 タノ行リノ音同シ行リ通用セル例 つくし 筑紫國 筑(チク)〈又竺トモ作リ〉ヲツクニ用ヒタリ

〔釋日本紀〕

〈五述義〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0916 筑紫洲 私記曰、問、此號若有意哉、答、先儒之説有四義、一云、此地形如木兎之體、故名之也、木兎鳥之名、此云都久、二〈◯二下恐脱云字〉公望案、筑後國風土記云、筑後國者、本與筑前國合爲一國、昔此兩國之間山有峻狹坂、往來之人所駕鞍韀被摩盡、土人曰鞍韀盡之坂、三云、昔此堺上有麁〈◯麁原作庶、據一本改、〉猛神、往來之人半生半死、其數極多、因曰人命盡神、于時筑紫君肥君等占之、今筑紫君等之祖甕依姫爲祝祭之、自爾以降、行路之人不神害、是以曰筑紫神、四云、爲其死者、伐此山木、造作棺輿、因玆山木欲盡、因曰筑紫國、後分兩國〈◯國原脱、據一本補、〉爲前後

〔筑前國續風土記〕

〈一總論〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0916 此國を筑前と名付し事、古は筑前筑後一國にして、これを筑紫といへり、故に日本紀等の古書に筑紫といへるは、多くは筑前筑後をさせり、又九國をすべて筑紫と稱し、或は九州の内筑前筑後の外をも、筑紫と云し事も間これあり、筑前は古へ官府のありし國にて、九州二島をすべてまつりごちし所なれば、その國の名をとりて、九國をもすべて筑紫といへり、たとへば大和に帝都在し故、日本をすべてやまとヽ稱せしがごとし、唐土にも亦いにしへかヽるためし多き事になん侍る、〈◯中略〉筑紫と名付し意を考ふるに、釋日本紀にいはく、〈◯中略〉右四説の内、初の説は此國の形、木兎に似たりといへり、今案ずるに、筑前筑後のかたち、木兎の形に似たりとも見え侍らず、九州の總圖を見るにも、其形木兎に似ず、然れば木兎に似たりと云説信じがたし、後の三説はみな盡の義をとれり、いにしへ筑紫と名付し事、一定の説なくして、民間にさま〴〵云傳へたる言ばを、風土記を作れる人考へに備んため、こと〴〵く載侍るならし、何れも決定すべき説なし、〈◯中略〉ひそかにおもふに、いにしへ異國より賊兵襲來るをふせがんとて、筑前の北海

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0917 の濱に石垣を多くつけり、其故につく石といへる心なるを、略してつくしと云成べし、雜書の説に、上古の時、西蕃の國より度々日本を侵したる事あり、其後仲哀帝も、異國より來り侵せし賊の流矢にあたりて崩じ給ふといへり、菅丞相のうたに、筥崎や千世の松原石だヽみ崩れん世まで君はましませ、是いにしへ筑前の海邊、筥崎博多のあたりに、石垣ありし證なり、昔より博多は唐土船の著し所にて、要害堅固にして、石垣多かりしにや、博多の別名を石城府といふ事、僧萬里の梅庵集、及異國の人作りし海東諸國記にも見えたり、近代龜山後宇多の御時、蒙古の賊兵多く攻來りしに、博多の濱に石垣をつきし事は、上代より有し石垣を修補したるなり、此時始てつきたるにはあらず、鎌倉の北條家より、筑前の太宰少貳に書を遺して、昔よりありし石垣を修復すべきよしを、催せしを少貳より又此邊の士に下知せし證文あり、其石垣は今も博多の西、古道松原、生のまつ原、今津邊、所々に少殘れり、然れば昔この國をつくしと名付し事は、筑石といふことばをとれる成べし、是前人のいまだいはざる所〈篤信〉が臆見なれど、しばらく記して識者の是正を待のみ、

〔古事記傳〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0917 筑紫國、萬葉五〈二十三丁〉に都久紫能君仁とあり、後に二國に分れたり、和名抄に、筑前〈筑紫乃三知乃久知〉筑後〈筑紫乃三知乃之里〉とある是なり、風土記に、筑後國者、本與筑前國合爲一國と云り、〈◯中略〉さて如是二に分れしは、何御代とも知れず、書紀景行卷十八年下に、筑紫後國とあれば、其より前か、はた分しは後なれど、前へも及してかくは書るか、都久志と云名義は、筑後風土記に三説ある中の一に、昔この前と後との堺なる山に、荒ぶる神ありて、往來人多に取殺されき、故其神を人命盡神(ヒトノイノチツクシノカミ)となむ云ける、後に祝祭て筑紫神と申すとあり、此説さもありぬべく聞ゆ、〈今二の説も共に盡の意なれど、ひがごとヽきこゆ、又書紀私記に、國形の木兎(ツク)に似たる故とあるを、世世の物知人も用たれど、此もひがごとゝきこゆ〉、式に筑前國御笠郡筑紫神社あり、此神なるべし、〈又近世に、貝原某が釋名てふ物に、古異國より冦來を防むがために、筑前の北方の海濱に石垣を多く築せ賜ひし故に、築石の意ならむと云る、是も由ありて思ゆれど、異國の賊を防がれしこと〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0918 〈は、上代には無き事なり、〉

〔古事記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0918 伊邪那岐命〈◯中略〉妹伊邪那美命〈◯中略〉御合〈◯中略〉次生筑紫島、此島亦身一而有面四、毎面有名、故筑紫國謂白日別

〔古事記〕

〈中神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0918 神倭伊波禮毘古命、與其伊呂兄五瀬命、〈上伊呂二字以音〉二柱坐高千穗宮而議云、坐何地者、平聞看天下之政、猶思東行、即自日向發幸御筑紫

〔先代舊事本紀〕

〈十國造〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0918 筑志國造 志賀高穴穗朝〈◯成務〉御世、阿倍臣同祖大彦命五世孫、田道命定賜國造

〔日本書紀〕

〈四孝元〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0918 七年二月丁卯、立鬱色謎命皇后、后生二男一女、第一曰大彦命、〈◯中略〉大彦命、是〈◯中略〉筑紫國造、〈◯中略〉凡七族之始祖也、

〔日本書紀〕

〈十七繼體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0918 二十一年六月、筑紫國造磐井、陰謨叛逆、猶豫經年、恐事難一レ成、恒伺間隙、新羅知是、密行貨賂于磐井所、而勸遏毛野臣軍、於是磐井掩據火豐二國、勿使修職、〈◯下略〉

〔古事記〕

〈中仲哀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0918 故其政未竟之間、其懷姙臨産、即爲御腹、取石以纏御裳之腰而渡筑紫國、其御子〈◯應神〉者阿禮坐、〈阿禮二字以音〉故號其御子生地宇美也、亦所其御裳之石者、在筑紫國之伊斗村

位置

〔地勢提要〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0918 各國經緯度〈附里程〉 筑前福岡、〈簀子町〉極高三十三度三十五分半、經度西五度二十分、從豐前小倉〈長崎街道自木屋瀬蘆屋〉一十九里二十六町半、三百二里三十四町三十六間半、〈◯從東都〉 筑前宰府村大町、極高三十三度三十一分半、經度西五度一十一分、從東都、〈東海道西國街道、自小倉長崎街道、從山家宰府通〉三百三里三十三間、

〔日本經緯度實測〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0918 北極出地 筑前 福岡 三三度三五分三〇秒 宰府 三三度三一分三〇秒 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0919 秋月 三三度二七分三〇秒〈◯中略〉 東西里差 山城 京 〇度〇〇分〇〇秒〈◯中略〉 筑前 福岡西五度二〇分〇一秒

疆域

〔筑前國續風土記〕

〈一提要〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0919 總論 此國平地廣濶にして村里絡繹せり、北方には海を請、戌亥の方は遠く異國に向ひ、西は山を隔てて肥前にさかひ、南は平田遠くつらなれり、山野つヾきて、肥前筑後豐後豐前に隣りし、東も亦山つヾきて豐前に相並べり、東西二十六里、南北十二里あり、

〔日本地誌提要〕

〈六十五筑前〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0919 疆域 東ハ豐前、南ハ豐後、筑後、肥前、西ハ肥前及海、北ハ海ニ至ル、東西凡壹拾八里、南北凡壹拾七里、

島嶼

〔日本實測録〕

〈十一島嶼〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0919 筑前國怡土郡 實測 羽島、周廻五町一十八間、 遠測 一ノ瀬 箱島 志摩郡 實測 姫島、周廻二十八町三十三間、 亥界島、周廻三十五町二十六間、 遠測 烏帽子島〈姫島〉 女瀬 コソ島 渡磯 烏帽子島〈櫻井村〉 雀島 釋迦牟尼島 机島 柱島 黒瀬 アンケン島〈又呼寶ケ島〉 小呂島 早良郡 實測 殘島、周廻二里九町四十八間、 遠測 立岩 鵜來島 那珂郡 實測 志賀島、周廻二里一十四町一十七間半、志賀島浦三十二度三十九分半、 遠測 沖津島 中瀬 虎島 糟屋郡 實測 妙見島、周廻三町二十三間、 藍島、周廻一里一十八町四十五間、 遠測 ミツ瀬 ハナクリ瀬 宗像郡 實測 勝島、周廻一十九町一間半、 大島、周廻三里一十四町八間、 地島、周廻一里二十八町五十間、 遠測 鞁島 立神岩 丸山 笠瀬 洞島 二俣瀬 大瀬〈地〉 大瀬〈沖〉 サヤ山

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0920 千草岩 倉良瀬 奧津島〈又呼御沖島〉 遠賀郡 實測 洞山島、周廻四町三十一間半、 葛島、〈又呼資波島〉周廻四町五十間、 二子島、〈地〉周廻二町一十四間、 二子島、〈沖〉 周廻一町三十七間、 鼠島、周廻一町五十間、 中島、〈又呼河㪶島〉周廻六町八間、 遠測 洞山 前瀬 白島雄島 白島雌島 洞山島 干石島 中瀬 六良島 松瀬〈大〉 松瀬〈小〉

〔筑前國續風土記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0920 海島〈大島十三小島廿三〉合三十六 志賀島、〈那珂郡〉福岡より三里西北にあり、民家三百十二、 戸農商海人相交れり、田畠高千七十三石、周二里七町十三間東西十八町三十間、南北二十七町、高さ一町十二間に、勝馬と云枝村有、神社寺院有、 殘島、〈早良郡〉民家七十九戸、田畠高四百二十八石、周二里二町十三間、東西十五町、南北三十町、高一町二十四間、神社寺院有、 玄界島、〈志摩郡〉福岡より六里、唐泊より一里、民家あり、周三十三町六間、東西十町、南北十町廿間、高さ一町五十四間、 姫島、〈同郡〉岐志の野邊崎より二里、福岡より十里、民家あり、田畠あり、周二十六町五十八間、東西八町三十間、南北十町十二間、高さ一町三十六間、 於呂島、〈同郡〉西の浦より亥の方十三里、民家有、人口百人にたらず、周二十六町七間、東西五町十八間、南北十一町、高さ五十七間、 阿部島、〈粕屋郡〉民家三十八戸、田畠高百八十石、周一里十四町二十六間、東西十六町三十間、南北十町三十間、高三十三間、今俗藍島とかく、 大島〈宗像郡〉神湊より三里北に在、民家二百餘戸、田畠高七百三十八石、周三里三十七間半、東西三

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0921 十町、南北三十町二十一間、高二町十八間、町の長六町後町もあり、商家海人相まじれり、 奧島、〈同郡〉島の周一里、民家なし、田畠なし、國君より島守を遣され、交替の番を勤む、大島より二十里ばかりあり、此島の前二十町計、島の巽の方に小屋島とて小島あり、周百間計、高さ水面より七丈許、皆岩なり、又荒船御社ある所も別の小島なり、おきの島の前にあり、 地島、〈同郡〉民家多し、田畠高百八十石、周一里十八町四十一間半、東西八町十八間、南北十五町、高さ一町二十四間、白濱といふ枝村あり、此所にも民家多し、 臑島、〈同郡〉民家二三戸有、周十六町四十九間、東西四町、南北七町、高さ五十間、 遠賀島郷 東西五里、南北一里、村數二十七、田畠高七十石、〈遠賀との間入海道なり、其間東の廣き所は大渡川と云、西のせばき所は洞のうみと云、〉 白島雄島、〈遠賀郡〉雄島雌島二をすべて白島と云、二島脇田脇浦の沖にあり、雄島は東にあり、周二十一町十九間、東西三町廿四間、南北九町十八間、高さ四十八間、 白島雌島、〈同郡〉雄島相去事十八町西に在、周二十一町、東西六町二十四間、南北三町六間、高さ二十八間、已上大島とす 小島の類 柱島 玄界の乾五町許に在、周三町許、高さ五十間許、皆石の柱を立たるなり、土なし、〈志摩郡にあり〉 釋迦牟尼島 俗に大机といふ、島の大さ方百間許、唐泊より乾の方二十七八町許、玄界より坤の方七八町、洞ありて北より西へ舶通る、〈同郡〉 小机島 大机より南四五十間に在、東西二十四五間、南北十餘間、ひき、洞あり、小舟通ず、〈同郡〉 烏帽子島 芥屋村より七里沖にあり、烏帽子の形に似たり、周五六町、土島なれども岩多し、畠なし、〈同郡〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0922 寶島 濱島の東にあり、石多し、〈同郡◯下略〉

地勢

〔筑前國續風土記〕

〈一提要〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0922 總論 此國平地廣闊にして、村里絡繹せり、〈◯中略〉北海を帶び、南山を負たれば、魚鹽多く、薪材乏しからず民部式に上國と定めしも宜成かな、且四方運漕の便よければ、此國の商賣しば〳〵諸國に往來して、有無を交易す、又京大坂諸州の商客も、多く此地に來りて、貨財を商ふ、長崎に近くして、異國の物産を求め置に便宜し、肥前、對馬、中國、四國、和泉、紀州、北國、出羽、奧州等諸國の客船も、其土物を載せて多く爰に至り集る故、民生日用のたから滿ちて乏しからず、故に九州二島の諸國の人は、此國の城下福岡博多を一都會として來りつどひ、萬の資用を買調ふ、誠に天府の國と云つべし、

〔日本地誌提要〕

〈六十五筑前〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0922 形勢 東疆ノ連山、南走シテ更ニ西北ニ趨ク、沿海ノ地、岬嶴島嶼、參錯相望ム、曠衍ノ地少シト雖モ、東南二大河アリ、灌漑運輸兩ナガラ其利ヲ得、土宜富贍、紡織頗工ナリ、其俗南鄙ハ質實、瀕海ノ郷ハ輕薄捷給ノ風アリ、

道路

〔日本實測録〕

〈七街道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0922豐前國小倉街道至長崎〈◯中略〉 筑前國遠賀(ヲンガ)郡尾倉村 三十三町二十五間半 黒崎宿、三十三度五十二分、 三里五町二十一間 鞍手郡木屋瀬村、三十三度四十六分半、 四町三十九間 同追分 一里一十三町四十一間半 山邊村直方(ナホカタ)町 三里一十五町二間半 穗波(ホナミ)郡飯塚村、三十三度四十分、 一里一十三町五十四間 瀬戸村〈至夜長郡下秋月村三里二十七丁二十二間〉 二里二町四十四間 内野村 二里二十二町一十七間〈至冷水峠三十三丁三十三間〉 御笠郡山家(ヤマヘ)村、三十三度三十分、 二町五十四間半 同追分 三町一十五間 同大股 四町二十七間 夜須(ヤス)郡朝日村二村町 三十二町四十六間半 御笠郡原田村森之本〈至針摺村針摺町三十五町四間〉 四町二十三間 同原田驛、三十三度二十七分、 一里二町五十間半〈至國界一十八丁五十間〉 肥前國基肄郡宮浦村〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0923豐前國小倉秋月松崎〈◯中略〉 筑前國嘉麻(カマ)郡大隈村大隈町 二十三町三十六間 東千手(センジユ)村千手新町 二里二十一町一十九間 夜須郡下秋月村 一十六町二十間 秋月上町、三十三度二十七分半、〈至下座郡三余木村横大道十文字二里一十五丁二十二間〉 一十五町二十八間半 千手村夫婦(メヲト)石〈至日木村嶺町一里八丁九間、從嶺町筑後國下妻郡本郷村上町、一里一十四丁五十二間半、〉一里六町四十三間〈至彌永村大己持神社前二十八丁一間〉 依井村西口 一町九間 同追分 一十八町二十七間 依井村野中新町 一里五町四十五間半〈至國界一十七丁三十間〉 筑後國御原郡上岩田村松崎町 〈從小倉松崎〉街道、通計一十八里二十九町四十一間半、〈◯中略〉 從豐前國香春英彦山至渡里村〈◯中略〉 筑前國上座郡小石原村 二里一十五町五十二間半〈至國界三里九丁四十九間半〉 豐後國日田郡中島村大肥川岸〈◯中略〉 從筑前國木屋瀬福岡及唐津名古屋 筑前國鞍手郡木屋瀬村 六町三十間 植木村 三里二十八町五十四間 赤間村 二里二町四十三間半 宗像(ムナカタ)郡畝町(アセマチ)村 二里三町二十一間 糟屋郡青柳村青柳町 二里七町五間 濱男(ハマヲ)村 六町三十間 香椎(カシヒ)村〈至香椎社九丁二十七間〉 八町五十八間 松崎村布橋 一十八町一十八間 多田羅村 一十八町一十五間 箱崎村箱崎橋 七町四十八間 箱崎宿馬場町、三十三度三十六分半、 二町三十間 同宮ノ前町〈至海岸四丁二十七間〉 二十町一十八間半 那珂郡博多(ハカタ)津呉服町、三十三度三十六分、 五町六間半 同橋口町〈至鰯町海岸六丁六間、又從橋口町櫛田社家町、五丁五十二間、從社家町住吉村住吉社、七丁四十八間、又從社家町櫛田社、二丁一十三間半、〉 二町八間 同中島町西中橋〈至住吉村八丁三十間半〉 七町三十二間 福岡萬町〈歴脊根山五箇山村、五里丁五十間、從五箇山國堺、十八間、從國界肥前國神埼郡田手村、二里二十五丁四十五間、〉 七町二十七間 福岡本町 三町四間 早良(サヲラ)郡福岡簀子町、三十三度三十五分半、 二十一町一十間 鳥飼村西新町〈至海岸五丁二十一間〉 一十

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0924 町二十七間 麁原村西新町 二十六町五十二間 姪濱(メイノハマ)村旦過(タンクワ)町〈至江傍二十二間〉 一十九町四十間 下山門村生松原 二十九町二十九間半 志摩郡谷村今宿町 一町三間 同松原町、三十三度三十五分 一里一十一町四十八間 波多江村〈至志登村志登神社一十一丁三十六間〉 二十一町三十間 前原村前原町三十三度三十四分、 二十町三十三間 怡土(イド)郡神在村多久川岸〈沿川至海岸、五丁一十二間、〉一里一十四町三十三間 松末村下松末 二町六間半 深江町 一十七町九間半 大入村 一十六町四十七間半 同佐波 一十二町三十四間〈至瀬崎濱二丁四十七間、從瀬崎大入川岸、五丁一十八間半、〉 福井村 一十四町二十一間 福井浦、三十三度三十分半、 一里一町三十九間 鹿家村藤之谷〈至海岸一丁三十七間半〉 一十町五十七間 鹿家村小畑 二十九町一十二間〈至國界一十一丁六間〉 肥前國松浦郡淵上村玉島川口〈◯中略〉 從筑前國博多宰府朝日村 筑前國那珂郡博多津呉服町 二里一十二町二十四間 井相田村雜餉隈(サツヒウノクマ) 一里七町四十六間半 御笠郡坂本村關屋〈至二日市村一十一丁一十五間〉七町三間 觀世音寺村築山〈至都府樓舊跡一丁四十五間〉 四町五十一間 觀世音寺村〈至觀世音寺一丁三十九間〉 四町一十九間 宰府村下町〈至大町一華表前九丁一十五間、北極高三十三度三十一分半、從華表前宰府天神樓門、四丁五間、從樓門宰府村三條口、四丁二十三間半、從三條口竈門山寶滿宮一里一十二丁一十六間半、又從三條口糟屋郡宇美村八幡社、一里三十二丁、〉 一十七町一間 二日市村 二十八町二十二間 針摺村針摺町 二十六町五十一間 夜須郡朝日村二村町 〈從博多朝日村〉街道、通計六里三十七間半、〈◯中略〉 從筑前國麁原川上及小城田平 筑前國早良郡麁原村西新町 一里一十六町一十八間 田村、三十三度三十二分、 一里一十九町五十六間 怡土郡飯場村 四町五十二間 早良郡曲淵村、〈至曲淵村宿所四町三間〉三十三度二十九分半、 一里二十二町四十五間〈至國界三十丁四十九間〉 肥前國神崎郡三瀬山村〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0925筑前國中牟田日田及大津湯町 筑前國夜須郡中牟田村石櫃 一里二十八町三十七間 依井村西口 一町九間 同追分 一十八町三十三間 甘木村嶺町 一里五町五十一間 下座(ゲザ)郡三奈木村横大道十文字〈至桑原村宿所二十一丁三十六間、北極高三十三度二十三分、從宿所片延村三奈木神社、一十八丁二十一間、〉 上座(カウサ)郡山田村惠蘇宿、三十三度二十二分、〈至齊明帝陵一丁五十一間〉 一十六町五十七間 志波村志波町〈至麻底良布神社一十四丁四十八間〉 二十六町三十六間 久喜宮町、三十三度二十一分半、 二里二十五町四間半〈至國界一里九丁二十八間半〉 豐後國日田郡高野村茶屋瀬

〔日本實測録〕

〈六沿海〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0925肥前國長崎沿海至小倉〈◯中略〉 筑前國怡土(イト)郡鹿家村小畠 一里二十六町二十一間半〈至鹿家岬一十八丁四十七間半、從鹿家岬野島岬、一里五丁一十七間、〉 福井村 三十一町二十三間半 大入(ダイニフ)村川口 二十六町四十四間半 大入村 一十七町一十八間〈至羅漢川口、一十一丁六間〉 深江町 二町四十二間半 松末村下松末 二里八町三十二間半〈至羅漢川口五丁二十四間、從川口松末村田浦廿一丁二間〉 神在(シイザイ)村多久川口 四町四十五間 志摩郡萩浦村泉川口〈沿川至前原村、一十二丁三十九間、〉 一里三十三町三十三間半 久家浦南濱 一里九町三十一間〈至鷺首岬一十七丁四十五間〉 同北濱 六町六間 久家浦、三十三度三十四分、 一十六町三十一間 岐志浦 二里二十二町二十八間〈至佛崎一里一十九丁一十間、從佛崎大戸岬、三十二丁三十六間、〉 芥屋(ケヤ)村、三十三度三十五分、 一里一十七町三十七間半 野北村野北浦 二里三町四十二間 西浦村前濱 三里五町五十四間〈至西浦岬一十八丁五十九間半〉 今津村野間〈至今津浦徑測三丁三十間〉 三十五町五十一間 濱崎浦〈至洲岬三丁一十五間〉 一十八町四十間半 今津浦 一里一十二町三十一間〈至横濱浦一里一十二間〉 谷村今宿町 二十九町二十九間半〈至長垂岬一十丁三十三間〉 早良(サヲラ)郡下山(シモヤマ)門村生ノ松原 三十四町四十二間半 姪(メイ)ノ濱浦當方川口〈沿江至惠美須濱、六丁五十八間半、〉 四十八間 姪ノ濱浦惠美須濱 三十二町三間 鳥飼村西新町濱 二十八町二十三間 福岡湊町 一十町三間半 同簀子町 一十八町四十七間〈至中川口一十八丁五間〉 那珂郡博多津鰯町濱 二十二町二十七間 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0926 糟屋郡箱崎村 二十五町二十二間半 同多田羅川口〈沿川至箱崎橋、二十二丁二間半〉 一町二十四間 松崎村多田羅川口〈沿川至多田羅村二十五丁〉 二十三町三間〈至辨天崎五丁二十四間〉 同布橋 八町五十八間 香椎(カシヒ)村 六町三十間 濱男(ハマヲ)村、三十三度四十分、一里二十六町五十三間半 奈多浦寶ノ塜〈至三苫村徑測一十三丁五十一間〉 三十五町四十五間 同鰶(コノシロ)塚〈至北濱徑測五丁四十二間〉 二里三町一間半 那珂郡海中道(ウミノナカミチ)洲岬〈至志賀島六丁八間半〉 一里一十二町五十四間 糟屋郡奈多浦鰶塚北濱 三十四町五十五間 三苫村 一里二町三十間半 新宮浦、三十三度四十三分、二里一十九町九間 宗像(ムナカタ)郡津屋崎浦、三十三度四十七分、二十九町五十間半 渡村梅津〈至勝浦村鹽江濱徑測一十丁一十四間〉 一十一町七間 同勝山〈至京泊徑測四丁二十八間半〉 一十三町二十三間 渡村〈歴楯崎山北濱八丁七間半〉 三十四町五十四間 同北濱 三十五町一十七間半 同京泊 一十四町四十六間 勝浦村鹽江濱 一十二町三十間 同桂潟〈至勝浦村宿所七丁一十七間、北極高三十三度四十九分半、〉二十二町三十間 勝浦濱浦〈至神湊洋四ツ塚、徑測、三丁五十七間、〉 一十九町五十三間半 神湊(カウノミナト)浦四ツ塚 四町一十五間 神湊浦濱〈至神湊浦宿所一丁三間〉三十三度五十分半、〈從宿所田島村宗像神社、三十二丁三十九間、〉 一里一十町五間 鐘ケ崎浦、三十三度五十三分、八町三十間 上八村〈歴織幡社前鐘ケ岬燈明堂、五丁三十三間、〉 二町一十五間 同東濱〈至鐘ケ岬、二丁一十八間〉 三里二十二町四十五間半〈至手野村濱一里三十丁一十八間〉 遠賀(ヲンガ)郡蘆屋(アシヤ)浦遠賀川口〈至蘆屋村市場一丁八間、北極高三十三度五十四分、從市場赤間村、三里一十一丁五十八間、又從市場沿江至猪熊村、二十三丁四十一間半、從猪熊沿川至植木村、三里二十二丁七間、又從猪熊淺川村山鹿橋、一十丁一十五間半、〉 三十六間半 山鹿村遠賀川口〈至山鹿浦二丁二十七間、從山鹿浦沿江至後水、六丁二十四間半、又從山鹿浦後水淺川村山鹿橋、二十二丁一十二間、從山鹿橋沿鴨生田川本城村川口、一里一十九丁一間半、〉 一里一十七町二十七間〈至柏原浦八丁三十六間〉 岩屋浦 一十二町一十五間〈至妙見崎七丁一間〉 有毛村 一里三十町一十五間 脇ノ浦 一里三十町三十六間 若松村若松浦、三十三度五十四分、二里一十町四間〈至二島村鴨生田川口、二里九丁三十八間、〉 本城村鴨生田(カモヲダ)川口 一里二十町四十一間 藤田村〈至黒崎宿二丁五十二間〉 三十三町一十八間 尾倉村〈至街道三丁四十一間半〉 一里一十町五十六間 戸畑村 一里二十四町五十六間〈至名護屋崎一十五丁五十九間、從名護〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0927 〈屋崎國界、二十二丁二十八間、〉 豐前國企救郡平松浦

宿驛

〔延喜式〕

〈二十八兵部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0927 諸國驛傳馬〈◯中略〉 筑前國驛馬〈獨見、夜久各十五疋、島門廿三疋、津日廿二疋、席打、夷守、美野各十五疋、久爾十疋、佐尉、深江、比菩、額田、石瀬、長丘、把伎、廣瀬、隈埼、伏見、綱別各五疋、〉傳馬〈御笠郡十五疋〉

〔萬葉集〕

〈四相聞〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0927 五年〈◯神龜〉戊辰、太宰少貳石川足人朝臣遷任餞于筑前國蘆城驛(○○○)家歌三首、〈◯二首略〉 天地之(アメツチノ)、神毛助與(カミモタスケヨ)、草枕(クサマクラ)、羈行君之(タビユクキミガ)、至家左右(イヘニイタルマデ)、

〔古今著聞集〕

〈十九草木〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0927 經信卿太宰帥に任じて下向の時、八月十五夜に、筑前國筵田驛(○○○)につきたりけるに、天はれ月あきらかなるに、館の前に大きなる槻ありけり、枝葉ひろくさしおほひて月をへだてければ、人をめしあつめて、たちまちに其木を切はらはせて、月にむかひて夜もすがら琵琶をかきならして、心をすまして、天あけぬればたヽれにけり、かヽるすき人も、今はなき世なりけり

〔筑前國續風土記〕

〈五席田郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0927 〈篤信曰、〉筵田の驛、古へ此郡〈◯莚田〉の内いづちにありしにや、今は其所しれず、若し今月隈と云所、彼經信の卿月を見られし所なるか、大なる槻の木有し由、著聞に記し侍れば、槻隈と書りしを、後訛りて月隈とかくにや、月隈は此郡の東山下に有、此所往昔の道有て、宿驛ありしにや、

建置沿革

〔日本國郡沿革考〕

〈三西海道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0927 筑前 古筑紫國、或作筑志、又竺志、〈國造記 杜氏通典作竹斯、筑前四部稿等竺前、〉分爲前後、末何時、〈筑紫後國之名、既見景行十八年紀、蓋其前所分析、〉延暦十六年九月、廢筑前太宰府、大同三年五月再置、上國、管十五郡、九百一村、 遠賀〈九十五村 神武紀作崗、筑前風土記所謂瑦舸縣、即是、〉 宗像〈六十四村 萬葉集作宗形郡、筑前宗像社記、作身形郡、〉 鞍手〈七十七村〉 穗波〈六十二村 延喜式等作穗浪、安閑紀穗波屯倉、即是、〉 嘉麻〈六十八村 安閑紀鎌屯倉、即是、〉 上座〈三十八村〉 下座〈度會延佳曰、竺志末多國造、見國造記、即下座郡馬田郷之地、〉 夜須〈五十六村 和名抄注東西、蓋中古分爲東西二郡、後復併爲一者、神功紀云、滅熊襲我心則安、故號其處安、即是、〉 御笠〈五十九村 古太宰府及國府之地、按天平十年、廢太宰府、建筑紫鎭西府將軍、十七年、復太宰府、 神功紀云、自橿日宮、遷于松峽宮時、瓢風忽起、御笠隨風散落、故時人號其處御笠、〉 糟屋〈八十四村 繼體紀糟屋屯家、即是〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0928 席田〈九村〉 那珂〈八十一村 和名抄作那珂注東西、蓋中古分爲東西二郡、後復併爲一者、仲哀紀儺縣、即是地、〉 早良〈五十二村〉 志摩〈五十一村 延喜式等作志麻、推古紀作島郡、〉 怡土〈六十三村 古事記伊斗村即此地、 仲哀紀云、伊覩縣主祖五十迹手、參迎于穴門引島、天皇美曰伊蘇志、故時人號其本土伊蘇國、今謂伊覩者訛也、 魏志作伊都國

〔筑前國續風土記〕

〈一提要〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0928 總論 むかしは、當國に太宰府あり、帥已下官人多く是に居て、九州二島の政事をとり行ひ、蕃客にも對接せり、故に西の都と稱して、富庶の所なりしとかや、源頼朝卿、總追捕使たりし後、關東の士武藤小次郞と云者、泰衡退治の時軍功あり、その恩賞として太宰少貳に任ぜられ、筑前、豐前、肥前、壹岐、對馬の守護職たり、其子孫世々少貳と稱、伏見院永仁元年に、鎌倉より探題職を此國に置て、九州二島の政事を司どらしめられしかば、猶いにしへにもをとらぬ繁華の地なりしが、天文の頃、天下大に亂れし頃、九州は偏地なれば、亂擾殊に甚し、天正の時に至り、薩摩に島津、肥前に龍造寺、豐後に大友、この三家、鼎のごとく持ちて、國をあらそひ境をおかして、合戰止時なく、中につゐて此國は襟矜の地なれば、戰陣のちまたとなりて、諸民居を安くせず、多くは家を出て、山林に身を隱し、侵掠にあふて資財を失ひ、終に壞亂の地となれり、國中にて、少貳、宗像、原田、秋月、麻生の五家大身にて、其家人をわかちて瑞城を守らしめ、各部村を諍ひ、戰鬪を事としてむなしき日なしかヽりし所に、天正十五年、秀吉公九州を征伐して、亂をしづめ治に復し、此國を以て、毛利元就の三男小早川左衞門〈後任中納言〉隆景に賜りける、隆景天性知慮深くして、よく民をなつけ、衆を撫られしかば、猶亂世に近き時なれど、國中に叛逆なすものなく、四境の内治りて百姓悦服しける、又廢たるを起し、絶たるをつぐ志有て、神社を貴び、造復せらる、されども國を治ること只八年にして、其養子秀秋にゆづりて、備後の三原に隱居せらる、秀秋天性昏暴の人にて、養父隆景の舊制にそむき、國政正しからず、萬民困みあへり、此由秀吉公聞給ひ、隆景逝去の後、國を沒收し、慶長二年に、越

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0929 前府中にて十六万石の地を給ひ、彼地に移られしかば、此國には主なく成て、石田治部少輔三成代官として、三年の間かりに國の政事を取行ふ、〈今も國中農人の家に、三成下知の状證文所々にあり、〉同四年正月、東照君の御侘言によりて、秀秋再此國主となれりける、同五年の秋、石田治部少輔亂を發し、天下麻の如く分れ、萬民累卵の憂をいだけり、されども東照君文武の徳おはしまして、一度戎衣して天下を平げさせ給ひしかば、四海忽安靜にして、民今に至るまで其賜をうく、此時にあたりて、黒田孝高入道如水公、其子甲斐守長政公は、元來二心なく東照宮の御方に參て、父子ともに莫大の忠義を盡されしかば、其勳功の賞として、此國を以て長政に賜へり、如水公は英雄の才世をおほひ、明哲の智衆に抽んでたりしかば、能功をなして其身を保ち給ふ、されば若きときは秀吉公を助けて非常の功を立、時機を見禍をさけて、四十餘り強壯の盛に早祿地を辭して、令子長政公にゆづり、年老て東照宮の御爲に兵を起して、大友を虜にし、筑紫をしづむ、長政公は若き時より日本朝鮮におゐて、數度の武功を立つ、只亂に勝の力群に越たるのみならず、治を致すの徳も亦群衆に拔んで給ひしかば、古き道を聞用ひて、國中の臣民にのぞみ、賞罰正しく、法則嚴にして、自儉約を守り、民の非を禁じて能國を治め給ひし故、國豐に民安くして、又むかしの世に立歸りぬ、長政公此國を治め給ふ事、慶長五年以來二十四年にして、元和九年閏八月四日、京都報恩寺にて逝去し給ふ、

〔日本地誌提要〕

〈六十五筑前〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0929 沿革 古へ筑紫ノ國、前後二州ヲ分ツ、齊明天皇西巡シテ、朝倉〈今上座郡須川村〉ヲ以テ行宮トナシ、師ヲ出シテ百濟ヲ救ヒ、唐人ト戰フ、天皇遂ニ行宮ニ崩ジテ師ヲ班シ、尋テ太宰府ヲ御笠郡ニ置キ、〈今觀音寺村ノ西、府址アリ、國府亦同郡ニ置、遺址未詳、〉九州ヲ總轄セシム、壽永元年、平氏安徳天皇ヲ奉ジテ來奔シ、太宰府ヲ以テ行在所トナス、州豪原田種直平氏ニ從ヒ功アリ、因テ州守ニ任ズ、旣ニシテ平氏亡ビ、源頼朝天野遠景ヲ以テ鎮西奉行トナシ、太宰府ニ鎮ス、建久七年、武藤資頼之ニ代リ、太宰少貳ニ任ジ、子孫職ヲ襲ギ、少貳ヲ以テ氏トシ、内山(ウチヤマ)城〈御笠郡〉ニ居リ、本州、及豐前、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0930 肥前、壹岐、對馬ノ事ヲ管ス、弘安四年、蒙古大擧シテ入寇ス、資頼ノ子資能、西海諸將ト共ニ拒戰シ、疵ヲ蒙リテ卒ス、旣ニシテ颶風大ニ作リ、悉ク蒙古ノ戰艦ヲ覆沒ス、五年、北條時宗、同族爲時ヲ以テ筑紫探題トナシ、博多ニ鎮ス、建武中興、少貳貞經〈資能ノ曾孫〉大友菊池二氏ト共ニ探題北條英時ヲ滅ス、貞經因テ守護ニ補ス、足利尊氏ノ反スル、貞經首トシテ之ニ應ジ、菊池武敏ト戰テ敗死ス、旣ニシテ尊氏來奔シ、九州響應ス、尊氏貞經ノ子頼尚ヲ以テ守護ニ補シ、一色範氏ヲ留テ九州ヲ鎮セシメ、又一色頼行、仁木義長、高橋光種ヲ以テ筑紫三撿斷トシ、筑ノ前後州ニ居テ、頼尚ト九州ノ事ヲ協議セシム、正平九年、頼尚足利直(タヾ)冬ニ應ジテ歸順シ、菊池武光ト共ニ範氏ヲ攻テ之ヲ逐フ、旣ニシテ頼尚復畔ク、十四年、武光之ヲ討ジテ筑後川ニ戰ヒ、大ニ之ヲ破ル、十六年、頼尚終ニ奔テ、宗像大宮司氏重ニ依ル、武光太宰府ニ入リ、征西將軍ヲ奉ジテ博多ニ鎮ス、明年、足利義詮其將斯波氏經ヲ以テ探題トナシ、西侵シテ豐後ニ入ル、武光擊テ之ヲ却ク、建徳二年、足利義滿其將今川貞世ヲ以テ探題トナシ、菊池氏ヲ擊ツ、九州大姓多ク之ニ應ズ、文中元年、武光太宰府ヲ棄テ肥後ニ歸ル、貞世因テ府ニ入リ、頼尚ノ子冬資舊封ヲ復ス、尋テ貞世ニ殺サレ、弟頼澄代リ立ツ、應永ノ初、貞世東歸シ、澀川滿頼代テ探題トナリ、徙テ肥前ノ綾部城ニ治ス、永享五年、頼澄ノ孫滿資復叛シ、大内持世ト戰テ敗死シ、二子嘉頼教頼對馬ニ奔ル、文明元年、教頼ノ子政資太宰府ニ入リ、大内氏ノ戍兵ヲ逐ヒ、故地ヲ復ス、明應中、大内義興、政資ヲ攻テ之ヲ殺シ、全州ヲ併ス、天文ノ末、大内氏亡ビ、毛利元就大友氏ト本州ヲ爭ヒ、兵連ツテ解セズ、時ニ筑紫氏ハ筑紫城、〈御笠郡〉原田氏ハ高祖(タカス)城、〈怡土郡〉秋月氏ハ秋月城、〈夜須郡〉宗像大宮司ハ宗像郡ニ據リ、各統屬セズ、後大友氏擊テ之ヲ降シ、或ハ之ヲ滅シテ、遂ニ全州ヲ併セ、立花宗茂ヲ立花城〈糟屋郡〉ニ置キ、之ヲ鎮セシム、天正十四年、島津氏九州ヲ荐食スルニ及ビ、立花城獨リ降ラズ、豐臣氏西征シ、宗茂ヲ筑後柳河ニ移シ、小早川隆景ニ全州ヲ賜ヒ、名島(ナジマ)〈糟屋郡〉ニ治ス、關原役畢リ、徳川氏、隆

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0931 景ノ嗣秀秋ヲ備前ニ徙シ、黒田孝(ヨシ)高ヲ全州ニ封ジ、福岡ニ城キ世襲、其支封ヲ秋月、〈黒田長興〉直方〈黒田高政、享保五年封絶、〉トス、王政革新改テ福岡秋月二縣トナシ、尋デ秋月縣ヲ廢シ、福岡縣ニ併ス、

〔令義解〕

〈一職員〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0931 太宰府〈帶筑前國

〔續日本紀〕

〈十四淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0931 天平十四年正月辛亥、廢太宰府、遣右大辨從四位下紀朝臣飯麻呂等四人、以廢府官物筑前國司

〔續日本紀〕

〈三十一光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0931 寶龜二年十二月己未、罷筑前國官員太宰府

〔日本後紀〕

〈十七平城〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0931 大同三年五月乙未、從五位下紀朝臣長田麻呂爲筑前守、是日置筑前國司介掾大少目各一員、先是令府官攝行國政、彼此相讓非專一、事多廢闕、因玆改焉、

〔類聚三代格〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0931 太政官謹奏 省太宰府監典各二員筑前國司事 守一員 介一員 掾一員 大少目各一員 右謹案令條、太宰府帶筑前國、自爾已來或別或隷、至延暦十六年、又廢國隷府、〈◯中略〉臣等商量、承前府帶之時、或下官符而定別當、或府司相量分置其人、同僚之官兼預國務、勘責雜怠比國、望請省大同元年所増監典便充補國司、庶令守有別各濟繁劇、謹録事状伏聽天裁、謹以申聞、謹奏、聞、 大同三年五月十六日

國府

〔武藤系圖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0931 資頼〈號筑後守(中略)建久二年、被賜大宰府守護、〉

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0931 筑前國〈太宰府並國府在御笠郡

〔檜垣嫗集〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0931 しりたる人のむかへたれば、筑前國にしばしあるほどに、〈◯中略〉女出ゐて、かヽる雨にはいかでかなどいふに、むかへの人みのかさなどあり、〈◯中略〉 ふらばふれみ笠の山のちかければみのしまヽではさしてゆきなん 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0932 筑前のこふ(○○)をぞ、御笠の山とはいひける、

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0932 筑前國〈◯註略〉管十五〈◯註略〉怡土〈以止〉志摩 早良〈佐波良〉那珂〈東西〉席田〈牟志呂多〉糟屋〈加須也〉宗像〈牟奈加多〉遠賀 鞍手 嘉麻〈加萬〉穗浪 夜須〈東西〉下座〈下都安佐久良〉上座〈准上〉御笠〈美加佐〉

〔延喜式〕

〈二十二民部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0932 筑前國、上、〈管 怡土(イト) 志麻(シマ) 早良(サハラ) 那珂(ナカ) 席田(ムシロタ) 糟屋(カスヤ) 宗像(ムナカタ) 遠賀(ヲカ) 鞍手(クラテ) 嘉麻(カマ) 穗浪(ホナミ) 夜須(ヤス) 上座(カミツクラ) 下座 御笠(ミカサ)◯中略〉 右爲遠國

〔日本鹿子〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0932 筑前國十一郡(○○○)〈◯中略〉 志麻 夜須 志賀島 御笠 宗像(ムナカタ) 遠賀 席田 稻波 早磨(サウマ) 那珂 糟屋

〔皇國郡名志〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0932 筑前國〈十五郡〉 怡土(イト)〈●吉井●深江 肥界小郡〉 志摩(シマ)〈●今宿 怡土ニ並出崎〉 早良(サハラ)〈●生ノ松原 〈福岡 志摩ニ並〉 那珂(ナカ)〈●博多 箱崎 △八幡社 早良福岡ニ並〉 席田(ムシロタ)〈●青柳 外二ケ村 國中小郡〉 糟屋(カスヤ) 〈驛町無シ △香椎宮 箱崎ニ並出崎〉 宗像(ムナタカ)〈●赤間 △モロミ川 ●鐘岬 北ノ出崎〉 鞍手(クラテ) 〈初瀬此一村限 小郡〉 嘉麻(カマ)〈●大隈 豐前界小郡〉 穗波(ホナミ) 〈此郡山バカリニテ漸二ケ村 國中〉 上座(カミツアサクラ) 〈驛町無シ 三ケ村限 豐前後筑後三國界ニテ小郡〉 下座 〈驛町無シ 筑後界秋月ニ並〉 御笠(ミカサ) 〈宰府 △天神社 肥前筑後界〉 遠賀(ヲカ)〈●木屋瀬 ●黒崎 豐前小倉界〉夜須(ヤス) 〈秋月 ●野町 筑後界〉 ◯按ズルニ、本書及ビ次下ノ郡名異同一覽ノ符號ハ、山城國篇郡條ニ引ク所ノ、二書ノ凡例ヲ參照スベシ、

〔郡名異同一覽〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0932 筑前

怡土郡

〔筑前國續風土記〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0934 怡土郡 日本紀には伊覩、伊都など書り、〈◯中略〉此郡は、南に高山長く連り、東に高祖山そびへ、其西北は廣平の田地にして、村里多く相ならべり、北に志摩郡ふさがるといへども、海遠からずして魚鹽とぼしからず、山野近くして薪木の便あり、川淺く下流塞がらずして、水患なし、多久村より西の方包石に至るまで、其行程五里は海に近し、此間は國の西裔にて、其形漸くせばし、凡國中にて、郡の長きは遠賀と怡土郡にしくはなし、此郡東は上原より、西は包石に至り、其長さ六里餘、南北は廣き所二里半計有、田地廣く、山川美にして古跡しげし、村民に原田家司の子孫多し、田夫といへども

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0935 言語賤しからず、頗る世事に馴れたり、只恨らくは風俗質朴ならず、誠實すくなし、

〔釋日本紀〕

〈十述義〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0935 筑前國風土記曰、怡土郡、昔者穴戸豐浦宮御宇足仲彦天皇、〈◯仲哀〉將球磨噌唹筑紫之時、怡土縣主等祖五十跡手、聞天皇幸、拔取五百枝賢木、立于船舳艫、上枝挂八尺瓊、中枝挂白銅鏡、下枝挂十握劍、參迎穴門引島之、天皇勅間、阿誰人、五十跡手奏曰、高麗國意呂山自天降來日桙之苗裔五十跡手是也、天皇於斯譽五十跡手恪手、〈謂伊蘇志〉五十跡手之本土可恪勤國、今謂怡土郡訛也、

〔日本書紀〕

〈八仲哀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0935 八年正月壬午、幸筑紫、〈◯中略〉筑紫伊覩縣主祖五十跡手、聞天皇之行、拔取五百枝賢木、立干船之舳艫、上枝掛八尺瓊、中枝掛白銅鏡、下枝掛十握劒、參迎于穴門引島而獻之、〈◯中略〉天皇即美五十迹手、曰伊蘇志、故時人號五十跡手之本土伊蘇國、今謂伊覩者訛也、

〔續日本紀〕

〈三十三光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0935 寶龜六年十月壬戌、前右大臣正二位勳二等吉備朝臣眞備薨、〈◯中略〉勝寶四年爲入唐副使、廻日授正四位下太宰大貳、建議創作筑前國怡土城(○○○)、寶字七年功夫略畢、

〔朝野群載〕

〈二十大宰府附異國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0935攻刀伊國賊徒状 太宰府解 申請官裁事 言上刀伊國賊徒或擊取或逃刧状 右件賊船、五十餘艘、來著對馬島、刧略之由、彼島去月廿八日解状、今月七日到來、〈◯中略〉同日襲來筑前國怡土郡志摩早良等郡、奪人物民宅、〈◯中略〉且録在状、謹解、 寛仁三年四月十六日 正六位上行大典上毛野朝臣師善

〔檜垣嫗集〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0935 いとのこほりに、ものいひし府官の心かはりて、めまうけて、そこにのみつきて、いとたまさかにおとづるヽに、たヾならんやは、おなじさまの人のみゆるに、いづちぞとヽへば、いとへぞまかるとたはぶるヽに、このところをいとしまのこほりとぞいふかし、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0936 いとしまをかけてとぶとはまてやとりおにもはねにもことづたへせむ

〔大内家壁書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0936山口御分國中行程日數事〈◯中略〉 筑前國 怡土郡七日、請文十九日、〈◯中略〉 寛正二年六月廿九日 備中守〈奉〉秀明〈◯下略〉

志摩郡

〔筑前國續風土記〕

〈二十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0936 志摩郡 續日本紀元明天皇和銅二年、筑前國島の郡の少領に姓を給りし事あり、是此郡の事、國史に見えし始なり、また萬葉集の十五卷にも、筑前國志摩郡の翰泊とかけり、三代實録卷二、貞觀元年正月、太宰府言、筑前志摩郡兵庫皷自鳴と云々、この郡を志摩と名附し事、むかしは今津のまへ、衰魔山の後の入海西へ通り、桑見元岡の前より前原にいたり、此間皆海にして、西北の諸村諸山みな海中にありしゆへ志摩とは名附けり、志摩とは、島の字をわかちて二字にかけるなり、百年以前入海漸田となりて、島にありし西北の諸村、今はみな陸地につらなれり、近年まで東西のはしは猶かたのこりしが、是又近年すでに新田となれり、むかしの入海より向ひに泊村あり、是むかしの海の入江にて、舟の泊りし所にして、唐船をもこヽにつなげりと云、田の字にも浦の字の付たる名多し、亦南に浦志村あり、是又海邊にありしゆへに名付しならん、此入海なりし所の田のそこをかへせば、今もかき蛤のから多し、陵谷變遷の理、古今そのためしすくなからず、昔の海なりし筋よりこなたにも、亦志摩郡の内、青木、如原、谷村、今宿、田尻、太郞丸、板持、高田、志登、池田、波多江、洞浦、志前原等諸村あり、すべて中通と云、此諸村はみなむかしの入海より東南にありて、怡土郡の方につらなり、島のかたにはつヾかざれど、入海のほとりに近ければ、志摩郡に屬しけるにや、また此諸村、むかしは怡土郡なりしを、後に亂世の時、みだりに領地をわかちとりて、志摩に屬しけるにや、されば延喜式神名帳に、志登神社を怡土郡とかきしも、志登村はむかしの入海より南にあ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0937 れば、いにしへは怡土郡に屬せしを、近代志摩に入れしにや、いぶかし、凡怡土志摩は、その地相ならび隣りて、國の西裔にあれば、おなじくつらねて怡土志摩と稱す、然れば怡土郡は山川そなはり、新材多く、平原ひろくして良田多し、此郡は海に近くして、所々に漁家あるゆへ鮮魚多し、海味ともしからず、運送の便よしといへども、山に林木なくして、柴薪材木ともし、山間及海濱に村里多くして、平原すくなく、地やけて良田すくなし、たヾ麥豆によろし、川小にして水災なし、怡土郡に比しがたきのみにあらず、國中の諸郡にたくらぶるに、最下郡とすべし、

〔日本書紀〕

〈二十二推古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0937 十年四月戊申朔、將軍來目皇子到于筑紫、乃進屯島郡(○○)、而聚船舶軍粮

〔東大寺正倉院文書〕

〈三十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0937 筑前國太寶二年戸籍 筑前國島郡戸籍川邊里 太寶二年 戸主ト部乃母曾年肆拾玖歳 正丁 課戸〈◯下略〉

〔續日本紀〕

〈四元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0937 和銅二年六月乙巳、筑前國御笠郡大領正七位下宗形部堅牛、賜益城連姓、島郡少領從七位上中臣部加比中臣志斐連姓、

〔三代實録〕

〈二清和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0937 貞觀二年正月廿二日己卯、太宰府言、筑前國志摩郡兵庫鼓自鳴、庫中弓矢有聲聞外、

早良郡

〔筑前國續風土記〕

〈十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0937 早良郡 此郡福岡城下の西に有て近し、福岡の城も、町の西の方三分が一は早良郡に屬せり、此郡北に海ありて、三方高山あり、廣平の村里多く、水田多し、中に早良川流る、故に山林河海そなはりて、薪材乏しからず、魚鹽多し、河水多けれども、滯なくして水旱の患稀なり、されども平田は肥饒ならずして種植豐ならず、凡此國の内、那珂、筵田、表粕屋、御笠、夜須、下座、上座の七郡は、南北に境つらなりて、其間に山隔たらず、嘉摩、穗波、鞍手、遠賀四郡も又しかり、宗像、裏粕屋は、東西並びつヾけり、怡土、志摩兩郡も南北に地つらなれり、只早良郡のみ、東西南三方には高山有て、他郡にへだヽり、北は

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 海なり、是他郡に同じからず、

〔地名字音轉用例〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 雜ノ轉用 さはら 早良〈筑前郡〉佐波良 ウノ韻ヲハニ用ヒタリ

〔日本紀略〕

〈一醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 延喜十六年八月廿二日甲辰、太宰府言上、筑前國早良郡司、今月八日解云、十〈◯十恐件誤〉郡司三宅春則宅、今月三日未刻、牝牛生犢、頭兩分、胸腹合體、前足有四、後脚有兩、圖其形體言上者、府令卜筮

那珂郡

〔筑前國續風土記〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 那珂郡 日本紀神功皇后紀に儺縣とあり、是此郡の事、國史に見えたる初めなり、日本後紀に、淳和天皇天長三年七月七日慶雲に筑前國那珂郡とあり、此時は已に那珂と書り、この郡西は早良郡に隣り、束は糟屋、席田、御笠郡に續き、南は山を隔て肥前に接し、北は海濱にいたる、東西短く南北長し、中に那珂川流れ、源より六里にして海に入る、水勢盛にして田地に漉事廣し、故に大旱の歳といへども旱損の愁なし、深山少くして美材乏し、然れども郡中に福岡博多有、故貨財を交易するに宜敷、大底國の東西の中央に有て、四方運送の便よし、國なかに有郡なれば、那珂と名付るにや、

〔日本書紀〕

〈八仲哀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 八年正月壬午、幸筑紫、 己亥、到儺縣(○○)、因以居橿日宮

〔類聚國史〕

〈八十七刑法〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 延暦十二年八月戊辰、遞送筑前國那賀郡(○○○)人三宅連眞繼於本郷、莫入京、以其在京中、屢有濫行也、

〔大内家壁書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938山口御分國中行程日數事〈◯中略〉 筑前國〈◯中略〉 那珂郡五日請文十五日〈◯中略〉 寛正二年六月廿九日 備中守〈奉〉秀明〈◯下略〉

席田郡

〔筑前國續風土記〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 席田郡 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0939 此郡は、御笠郡那珂郡と糟屋郡との間にはさまり、國中にて最小なる郡なり、只八村あり、八村皆東の山の麓に在て、南北に連れり、〈◯中略〉篤信ひそかに謂、筵田郡は、甚小にして、那珂、糟屋、御笠につづけり、地勢を見れば、分つべき所にあらず、されども右三郡何れとも大なり、若其上に又席田郡に有所の戸數を加へば、千戸に過なん事をおそれて、戸數少なけれども、別に此郡を分ちたるならん、其故に此郡は甚小なるべし、

〔大内家壁書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0939山口御分國中行程日數事〈◯中略〉 筑前國〈◯中略〉 席田郡五日、請文十五日、〈◯中略〉 寛正二年六月廿九日 備中守〈奉〉秀明〈◯下略〉

糟屋郡

〔筑前國續風土記〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0939 糟屋郡 此郡東には高山有て、穗波鞍手の兩郡に隣り、南は御笠に接し、西南に席田郡有、西北に海をおふ、且裏粕屋は東は宗像郡に交れり、表裏を合すれば、南北は長く、東西は短し、土地肥饒して良田多し、山多く海廣く、川流れて魚鹽薪材ともしからず、郡中に宿驛有て、諸方の旅人に對接し、且城邑に近くして便利多し、長政公入國の後、大郡なればとて表裏にわかれて、伊野香椎の山の南表糟屋とし、北を裏糟屋と稱す、

〔日本書紀〕

〈十七繼體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0939 二十二年十二月、筑紫君葛子恐父誅、獻糟屋(○○)屯倉死罪

〔大内家壁書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0939山口御分國中行程日數事〈◯中略〉 筑前國〈◯中略〉 糟屋郡五日、請文十五日、〈◯中略〉 寛正二年六月廿九日 備中守〈奉〉秀明〈◯下略〉

宗像郡

〔筑前國續風土記〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0939 宗像郡 日本紀第一卷には胸肩と書り、舊事記には宗像とし、古事記には宗形とす、凡和語のならひ、訓同

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 じければ、文字相用るは常の事なり、宗像と名付し意は、宗像社記に云、筑前國風土記曰、宗像大神自崎門山天降之時、以http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000650d41.gif奧津宮之表、以八坂瓊紫玉中津宮之表、以八咫鏡邊津宮之表、以此表神體之形、而納三宮、即納隱之、因曰身形郡、釋日本紀云、先師説云、胸肩神體爲玉之由、見風土記、然則尋其由來其神像者也、今この説によりて案ずるに、宗像と名付し事、三神の御身の形をもつて三宮に納しゆえ、身の形の社といふ、三神のいますところなる故、身形郡と號す、みのとむなと相通ずればいにしへ和語のならひ、轉じてむなかたと名付しならん、 一凡此郡は北に海をうけ、海中に島あり、東は遠賀郡にとなりて、高山を以て限とし、南は鞍手郡にさかひて、また山を隔て、西は原野にて糟屋郡につヾけり、郡中にも山野多くして、所々に小川あり、凡河海の利乏しからず、只北海に近くして、時に颶風の災あるのみ、

〔續日本紀〕

〈一文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 二年三月己巳、詔、筑前國宗形(○○)、出雲國意宇二郡司、宜任三等已上親

〔續日本紀〕

〈四元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 和銅二年五月庚申、筑前國宗形郡大領外從五位下宗形朝臣等柹、授外從五位上

遠賀郡/御牧郡

〔筑前國續風土記〕

〈十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 遠賀郡 日本紀に、仲哀天皇の八年春正月己卯朔壬午、筑紫に幸し給ふ時に、岡縣主の祖熊鰐と云し人、天皇の筑紫に幸し給ふ事を聞きて、周芳の沙歴の浦に參迎へ奉りしことあり、岡縣とは則此遠賀郡の事なり、遠賀とは岡の字を眞名倭字に書たるなり、仙學萬葉注に、筑前風土記を引て、瑦舸縣と書けり、内浦の西原村より蘆屋までの海邊に高き岡つヾけり、故に其邊を岡と稱し、郡の名を是によりて名附しならん、又むかしは此郡所々に馬牧多くして、村井、熊村、波津浦抔に牧ありし其地あり、猶この外にも多かりしとかや、故に中頃より、此郡を御牧郡(○○○)と稱せり、僧万里が梅庵集に、宗悦大人者、筑之前州御牧香月郷其扮里とかけり、又天文年中、大内義隆大府定降も、筑前御牧郡といへり、寛文四年に、國郡の名皆舊に復すべきよし台命あり、是よりして古き名にかへりて、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 遠賀郡と改む、此郡北に海あり、東は豐前企救郡に隣りて、大山をへて、西は宗像郡に對して、山を境とし、南は鞍手郡に平地つヾけり、山遠地平らかに、田地多くして境内廣し、土肥て穀ゆたかなり、大河あり、海近くして運漕の便よく、海味もともしからず、魚多く、國中第一の大郡なり、然れども深山すくなくして、水損多し、故に旱歳には他郡より豐作なれども、雨どしには凶饑にたえず、

〔日本書紀〕

〈三神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 其年〈◯甲寅〉十有一月甲午、天皇至筑紫崗水門

〔日本書紀〕

〈八仲哀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 八年正月壬午、幸筑紫、時岡縣(○○)主祖熊鰐、聞天皇車駕、〈◯中略〉參迎于周芳沙歴之浦、而獻魚鹽地、〈◯中略〉旣而導海路山鹿岬、廻之人崗浦、〈◯下略〉

〔續日本紀〕

〈十三聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 天平十二年九月戊申、大將軍東人等言、〈◯中略〉間講〈◯講當諜〉申云、廣嗣於遠河郡(○○○)家軍營、儲兵努而擧烽火、徴發國内兵矣、

〔大内家璧書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941山口御分國中行程日數事〈◯中略〉 筑前國〈◯中略〉 御牧郡(○○○)三日、請文十一日、〈◯中略〉 寛正二年六月廿九日 備中守〈奉〉秀明〈◯下略〉

鞍手郡

〔筑前國續風土記〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 鞍手郡 此郡は、東は豐前に境ひ、南は嘉摩穗波に向ひ、北は遠賀郡につヾき、西は山をへだてヽ宗像粕屋に隣る、山高く大河流れて、山川の利少からず、土地肥饒にして、五穀ゆたかに、草木蕃茂して、薪材ともしからず、國中にて上座郡につぎては、上郡とすべし、中につゐて若宮吉川の河内は、たぐひまれなる佳境なり、〈聖徳太子の傳に曰、守屋二男片野回連、四男辰狐連等を筑前國鞍手郡に流す、〉

〔大内家壁書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941山口御分國中行程日數事〈◯中略〉 筑前國〈◯中略〉 鞍手郡四日、請文十三日、〈◯中略〉 寛正二年六月廿九日 備中守〈奉〉秀明〈◯下略〉

嘉麻郡

〔筑前國續風土記〕

〈十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0942 嘉摩郡 日本紀安閑天皇二年五月、筑紫穗波の屯倉、鎌屯倉をおくと有、嘉摩穗波の事、國史に見えたる初なり、此郡は穗波郡と相ならんでつヾけり、恰一郡の如し、南は穗波の上流にありて穗波とならばず、北は穗波と東西にならびて、嘉摩郡は東にあり、穗波は西にあり、凡穗波の東南に當れり、此郡の東は豐前田川郡につらなり、三方は大山あり、中に大河あり、薪材木ともしからず、山林の利多し、田畠肥饒なり、村里皆山中に有て、土民の風俗質朴なり、好郡といふべし、凡此郡に四河内あり、千手川は下臼井村にて大隈川に落る、長野河底千手是一河内なり、桑野河内より出る川は、大隈川にして、是本川なり、その東山田河内の川は、蒲生に出て、大隈川に落る、庄内河内の川は鹿毛馬勢田に出る、

〔萬葉集〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0942 神龜五年七月二十一日、於嘉摩郡撰定、筑前國守山上憶良、 伏辱來書、具承芳旨、忽成漢之戀、復傷抱梁之意、唯羨去留無恙、遂待披雲耳、〈◯歌略〉

〔續日本紀〕

〈三十光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0942 寶龜元年七月戊寅、筑前國嘉麻郡人財部宇代獲白雉、賜爵人二級稻五百束

〔大内家壁書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0942山口御分國中行程日數事〈◯中略〉 筑前國〈◯中略〉 嘉摩郡四日、請文十三日、〈◯中略〉 寛正二年六月廿九日 備中守〈奉〉秀明〈◯下略〉

穗浪郡

〔筑前國續風土記〕

〈十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0942 穗浪郡 此郡の名の初て國史に見えたる事、前〈◯嘉摩郡條〉にしるせり、嘉摩郡と同じ、此郡は嘉摩郡と相ならびてつヾけり、嘉摩は東南にあり、南郡一河内に有て、同郡の如し、但南の方は專ら嘉摩にて、北によりては嘉摩穗波東西にわかれ、嘉摩の東にあり、西は穗波なり、山深くして薪材ゆたかに、川流れて炎旱の憂なく、土地肥饒にして種植の利多し邊鄙にして民俗いやしく、言語つたなしとい

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 へども、頗質實にして、厚きに近し、嘉摩穗波皆好郡とすべし、

〔日本書紀〕

〈十八安閑〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 二年五月甲寅、置筑紫穗波屯倉

〔大内家壁書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943山口御分國中行程日數事〈◯中略〉 筑前國〈◯中略〉 穗波郡四日、請文十三日、〈◯中略〉 寛正二年六月廿九日 備中守〈奉〉秀明〈◯下略〉

夜須郡

〔筑前國續風土記〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 夜須郡 日本紀を考ふるに、仲哀天皇九年春三月壬申朔辛卯に、神功皇后層増岐野にいたり、則兵を擧て羽白熊鷲をうつてこれをほろぼし給ひ、左右に謂て曰、熊鷲を取得て、我心則安しとのたまふ、故に其所を號て安と云よししるせり、此郡の號爰におこれり、後に二字に改て夜須と書るならん、此郡は、南は筑後に境ひ、東南は下座に連なり、東北は嘉摩穗波に、山を隔てヽつヾき、西北は御笠に隣れり、境内に山川有て、其利すくなからず、土地肥沃にして、米穀多し、順和名抄に、夜須郡は東西とあり、今も栗田より東を東郷と云、西を西郷と稱す、

〔日本書紀〕

〈九神功〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 九年〈◯仲哀〉三月戊子、皇后〈◯神功〉欲熊鷲、而自橿日宮于松峽宮、 辛卯、至層増岐野、即擧兵擊羽白熊鷲而滅之、謂左右曰、取得熊鷲我心則安、故號其處安也、

下座郡

〔筑前國續風土記〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 下座郡 此郡筑前の南の方端なり、郡の形東西廣く、南北は狹し、南の方、及未申は筑後に隣て、千年川を界とす、寅卯辰巳は上座郡に境ひ、北は夜須郡に連れり、郡中に河流れて水利多く、土肥て播植しける、深山なくして美材ゆたかならずといへども、薪炭ともしからず、民俗朴直にして謙遜なり、

〔大内家壁書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943山口御分國中行程日數事〈◯中略〉 筑前國〈◯中略〉 下座郡六日、請文十七日、〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 寛正二年六月廿九日 備中守〈奉〉秀明〈◯下略〉

上座郡

〔筑前國續風土記〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 上座郡 此郡は筑前の東南の隅に在、南は筑後に隣りて、間に千年川を隔、〈此川幅一町一間、深六尺、或七尺、〉東は豐後豐前に境ひ、北は嘉摩夜須郡に續き、山を隔て嘉摩に隣る、西は下座にならべり、國中第一の膏腴の地にして、種植の利他所に倍せり、福井寶珠山、佐田、黒川、赤谷、小石原など、深山幽谷有て、多く美材を出し、大河流て魚鼈多産す、誠に上郡なり、民俗質實にして、菲薄ならず、凡此郡に深山多き事、國中第一なり、

〔文徳實録〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 齊衡二年十一月癸丑、筑前國奏言、上座郡大領外從七位上前田臣市成、理郡年久、善政日聞、百姓同聲謂之不煩、請假外從五位下、積効爲眞、從之、

〔十訓抄〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 天智天皇世につヽしみ給事ありて、筑前國上座郡朝倉といふ所の山中に、黒木の屋を造りておはしけるを、木丸殿と云、圓木にて造故也、〈◯中略〉さてかの木丸殿は、用心をしたまひければ、入來の人かならず名のりをしけり、 朝倉や木の丸殿に我をれば名のりをしつヽ行くはたが子ぞ、是天智天皇の御歌也、

〔大内家壁書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944山口御分國中行程日數事〈◯中略〉 筑前國〈◯中略〉 上座郡六日、請文十七日、〈◯中略〉 寛正二年六月廿九日 備中守〈奉〉秀明〈◯下略〉

御笠郡

〔筑前國續風土記〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 御笠郡 日本紀神功皇后紀に、仲哀天皇九年春二月壬申朔戊子、皇后羽白熊鷲を討んとて、橿日宮より松峽宮に遷り給ふ、〈松峽は竈門山の西麓有智村上にあり〉時に飄風忽に起て御笠を吹落す、故に時の人、其所を號て、御笠といふ、此郡の名爰に起れり、〈近世は訛て三笠と書侍りしに、寛文四年五月、台命によつて舊名に復す、〉此郡、南は肥前筑後に境、東は

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0945 夜須に連り、峯を越て嘉摩郡に隣りし、西北那珂席田郡につヾき、粕屋には小山を隔てつヾけり、古昔は官府のありし地にして、異國の藩屏として、九州の政を統べ行ひし所なれば、太宰の帥以下、數多の官府しば〳〵交代せし故、遺蹤古蹟碁の如くしき、星の如くつらなれり、其地たる、東西に高峯連り聳へ、南北は他郡の平原の地に通ぜり、泉清く土肥たり、古代の遺風にや、民俗いやしからず、

〔日本書紀〕

〈九神功〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0945 九年〈◯仲哀〉三月戊子、皇后〈◯神功〉欲熊鷲、而自橿日宮于松岟宮、時飄風忽起、御笠墮風、故時人號其處御笠也、

〔續日本紀〕

〈四元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0945 和銅二年六月乙巳、筑前國御笠郡大領正七位下宗形部堅牛、賜益城連姓

〔大内家壁書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0945山口御分國中行程日數事〈◯中略〉 筑前國〈◯中略〉 三笠郡五日、請文十五日、〈◯中略〉 寛正二年六月廿九日 備中守〈奉〉秀明〈◯下略〉

〔倭名類聚抄〕

〈九筑前國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0945 怡土郡 飽田〈安久多〉託杜〈◯杜、高山寺本作社〉、大野〈於保乃〉長野〈奈加乃〉雲須〈久毛波留〉良人 石田〈伊之木◯伊之木、高山寺本作以之多、〉海部 志摩郡 韓良 久米 登志〈度之〉明敷〈安加之岐〉雞永 川邊 志麻 早良郡 毘伊〈比〉能解〈乃計〉額田〈奴加多〉早良〈佐波良〉平群〈倍久利〉田部〈多倍◯高山寺本此下有曾我郷〉 那珂郡 田來 曰佐 那珂 良人 海部 中島 三宅 山口〈也萬久知〉板曳〈伊多比岐〉 席田郡 石田〈伊之多〉大國〈於保久爾〉新居〈爾比井〉 糟屋郡 香椎〈加須比〉志阿 厨戸 大村〈於保牟良〉池田 阿曇 柞原〈久波良〉勢門〈世止〉敷梨 宗像郡 秋〈安岐〉山田〈也萬多〉怡土〈伊度〉荒自〈阿良之〉野坂〈乃佐加〉荒木〈安良木〉海部〈安萬〉席内〈牟之路宇知〉深田〈布加多〉蓑生〈美乃布〉辛家 小荒 大荒 津九 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0946 遠賀郡 埴生 恒前 山鹿 宗像 内浦 木夜 鞍手郡 金生〈加奈布〉二田〈布多多〉生見〈伊無美◯伊無美、高山寺本作以久美、〉十市〈止布知〉新分〈爾比岐多〉粥田〈加都多◯加都多、高山寺本作加以多〉 嘉麻郡 草壁〈久佐加倍〉三緒 大村〈於保無良〉綱別〈都奈和岐〉馬見〈牟馬美〉碓井〈宇須井◯高山寺本此郡有山田郷〉 穗浪郡 三坂〈美左加〉薦田〈古毛多〉土師〈波之〉堅磐〈加多之萬〉穗波〈布奈美◯布高山寺本作保〉 夜須郡 中屋 馬田 賀美 雲提 川島〈◯島、一本作刈、〉 栗田〈◯栗、高山寺本作粟〉、 下座郡 馬田〈無萬多〉青木〈安乎木〉鍫饗〈久波倍〉三城〈美都木〉城邊〈木乃倍〉立石〈多天之◯高山寺本此郡有美囊郷〉 上座郡 把伎〈波木〉壬生〈爾布〉廣瀬〈比呂勢〉柞田 長淵〈奈加布知〉何束〈◯高山寺本作河〉三島 御笠郡 御笠 長崗 次田 大野

〔東大寺正倉院文書〕

〈三十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0946 筑前國太寶二年戸籍 筑前國島郡戸籍川邊里(○○○) 太寶二年 戸主卜部乃母曾年肆拾玖歳 正丁 課戸〈◯下略〉

〔吾妻鏡〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0946 文治三年八月三日辛未、筑前國筥崎宮宮司親重被賞、當國那河西郷(○○○○)、糟屋西郡郷等拜領之云云、平氏在世之時、依彼祈禱、日來聊雖御氣色、所詮於神宮等事者、一向可優恕之由被思食定云云、

〔新編禰寢氏世録正統系圖〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0946 雜訴決斷所〈牒〉 禰寢院孫次郞清成所 大隅國禰寢院南俣地頭、郡司兩職、并筑前國早良郡比伊郷(○○○)田屋敷、同國長淵莊畠地等事、 右件所々、當知行不相違者、以牒、 建武元年六月十六日 左少史高橋朝臣〈花押〉 左少辨藤原朝臣〈花押◯下略〉

〔飯盛神社文書〕

〈兒玉韞採集文書所引〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0946 飯盛三所權現御寶前 爲毎月千度詣料足 戸栗郷(○○○)〈◯筑前〉久富名内〈號下ヒサケト五反〉事 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0947 右田地者、當社御寶前、爲毎月千度詣料田、可丁寧御祈禱状如件、 建武三年卯月十一日 地頭御代官沙彌覺忍花押

村里/名邑

〔郡名一覽〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0947 一筑前國(御料私領) 〈筑州 南北四日〉 拾五郡 高六拾万六千九百八拾壹石四斗二升 九百貳ケ村●福岡 二百九十八里 ●秋月 二百八十八里 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f000063104f.gif ◯皆木〈福岡一万八千石〉黒田美作◯ 按ズルニ、本書ノ符號ハ、山城國篇村里條ニ引ク所ノ、本書ノ凡例ヲ參照スベシ、

〔郡國提要〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0947 筑前 十五郡、九百一村、 高六拾五万千七百八十二石二斗七升八合四勺四才(御料私領) 遠賀郡九十五村 宗像郡六十四村 鞍手郡七十七村 穗波郡六十二村 嘉麻郡六十八村 上座郡三十八村 下座郡四十二村 夜須郡五十六村 御笠郡五十九村 糟屋郡八十四村 席田郡九村 那珂郡八十一村 早良郡五十二村 志摩郡五十一村 怡土郡六十三村

〔地勢提要〕

〈坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0947 郡邑島嶼奇名 筑前 宗像(ムナカタ)郡、上八(カウゼウ)村、糟屋郡、上府村、志摩郡、芥屋(ケヤ)村、女原(ニヨバル)村、怡土(イト)郡、神在(カミアリ)村、周船寺(スセンジ)村、松末(マスエ)村、大入(ニフ)村、鹿家(シカカ)村、遠賀郡上津役(カウツヤク)村、香月(カツキ)村、安屋(アンヤ)村、葛(クツ)島、〈又呼貨波島〉中島、〈又呼河㪶島〉穗波郡、目尾(シヤカノラ)村、樂市(ラクイチ)村、彌山(ヤヤマ)村、御笠郡、山家(ヤマ)村、早良村、金武(カナタケ)郡、夜須郡、甘水(アマミツ)村、下淵(シタフチ)村、上座郡、古毛(コモウ)村、久喜宮(クヽミヤ)村、

〔饅頭屋本節用集〕

〈波天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0947 【博多】(ハカタ)

〔地名字音轉用例〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0947 入聲クノ韻ヲ同シ行リノ音ニ通用シタル例 はかた 博多〈和筑前〉

〔日本風土記〕

〈一寄語島名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0947 花哈嗒(ハアカツタツ/ハカタ)

〔大友文書〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0947 〈包紙〉大友近江入道〈◯貞宗〉館 權左少辨〈花押◯高倉光守〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0948 筑前國博多(○○)息濱、〈◯早良郡〉依勳功之賞、可知行者、天氣如此、仍執達如件、 元弘三年八月二十八日 權左少辨〈花押〉 大友近江入道館

〔太閤記〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0948 大隅日向知行割之事 古しへは博多箱崎之在家十万間有て、泉州堺の津にもおとらざる富家おほかりしが、肥前龍造寺と豐後之大友宗鱗と鉾楯及び、其亂十餘年に及しかば、形ばかりにあはれて、あはれに見えにけり、秀吉絶たるをおこさばやと覺され、竪横の町割十町づヽに定られ、博多の古老を呼出され打渡し給ふ、町人是は有がたき御再興かなと悦び、晝夜を分ず家々のいそぎはなはだし、

〔萬葉集〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0948 謹通尊門記室 筑前國怡土郡深江村(○○○)子負原、臨海丘上有二石、大者長一尺二寸六分、圍一尺八寸六分、重十八斤五兩、小者長一尺一寸、圍一尺八寸、重十六斤十兩、並皆墮圓、状如鷄子、其美好者不勝論、所謂徑尺璧是也、〈或云、此二石者、肥前國彼杵郡平敷之石、當占而取之、〉去深江驛家二十許里、近在路頭、公私往來莫馬跪拜、古老相傳曰、往者息長足日女命、〈◯神功皇后〉征討新羅國之時、用茲兩石著御袖之中、以爲鎮懷、〈實是御裳中矣〉所以行人敬拜此石、乃作歌曰、 可旣麻久波(カケマクハ)、阿夜爾可斯故斯(アヤニカシコシ)、多良志比咩(タラシヒメ)、可尾能彌許等(カミノミコト)、可良久爾遠(カラクニヲ)、武氣多比良宜氐(ムケタヒラゲテ)、彌許々呂遠(ミコヽロヲ)、斯豆迷多麻布等(シヅメタマフト)、伊刀良斯氐(イトラシテ)、伊波比多麻比斯(イハヒタマヒシ)、麻多麻奈須(マタマナス)、布多都能伊斯乎(フタツノイシヲ)、世人爾(ヨノヒトニ)、斯咩斯多麻比氐(シメシタマヒテ)、余呂豆余爾(ヨロヅヨニ)、伊比都具可禰等(イヒツグガ子ト)、和多能曾許(ワタノソコ)、意枳都【布可延】之(オキツフカエノ)、宇奈可美乃(ウナガミノ)、故布乃波良爾(コフノハラニ)、美氐豆可良(ミテヅカラ)、意可志多麻比氐(オカシタマヒテ)、可武奈何良(カムナガラ)、可武佐備伊麻須(カムサビイマス)、久志美多麻(クシミタマ)、伊麻能遠都豆爾(イマノヲツヽニ)、多布刀伎呂可毛(タフトキロカモ)、

〈内務省本〉

〔宗像文書〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0948 雜訴決斷所牒 宗像社大宮司氏範 當社領筑前國山口村(○○○)重恒濫妨事 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 牒、件濫妨事、任去年九月十七日綸旨、今年三月二十日當所牒、止重恒之濫妨、宜所務者、仍牒送如件、以牒、 建武元年十二月二十七日 前筑後守藤原朝臣〈◯小田貞知〉

〔南狩遺文〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 尾張三郞、備中權守、千手、秋月已下凶徒、打出筑前國長尾村(○○○)、濫妨所々由、依其聞、所御教書也、早馳向彼所、可軍忠、於恩賞者、可申沙汰候、仍執達如件、 建武四四月十四日 顯康判 田口三郞殿

〈内務省本〉

〔宗像文書〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 藤原氏〈宇伊毛〉申、亡父武藤孫太郞經頼〈◯少貳〉遺領、筑前國土穴村(○○○)地頭職安堵事、申状〈副具書〉如此、所申無相違否、云當知行之段、云支申仁有無、載起請之詞、可注申之状依仰執達如件、 建武四年七月十六日 沙彌〈花押〉 武藤但馬權守殿〈◯少貳貞法〉

〔佐藤元海九州記行〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 一太宰府(○○○)ノ町ハ、三四百軒モ有ベキ、草葺家バカリニテ見苦キ所ナリ、至テ邊鄙ノ地ニシテ、菅公ノ神社ノ無キ者ナラバ、絶テ人ノ來ルベキ里ニハ非ルベシ、

〔筑前國續風土記〕

〈二福岡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 福岡(○○)城〈城内本丸の西石垣の下ひきヽ所は早良郡に屬し、東は那珂郡に屬す、城外は簀子町より西の方早良郡に屬し、東は那珂郡に屬す、〉慶長五年、黒田長政公初て此國を領し給ひて、其年十二月上旬入國し、先名島の城に住給ふ、〈◯中略〉長政公未然を熟々考給ひ、此城地境かたよつて城下狹き故、亂世には宜しけれども、世治ては可久守地に非ずとて、其由を如水公と相議し、別に城郭に宜かるべき地を所々に見そなはし給ふ、〈◯中略〉終に那珂郡警固村の境内、福岡と云所に於て、新に城地を經營して、山に依りて城を築き、堀をほり廻し、郭を構へ、要害堅くし給ふ、〈◯中略〉抑此邑の名を福岡と號せしは、長政公先祖は江州佐々木の一族たりしかば、長政公の曾祖父黒田左近大夫高政公、故ありて備前國邑久郡福岡の産

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 なり、長政公其本を思ひ出して、先祖の住給ひし所の名を用ひて、かく名付給ひしとぞ聞へし、〈◯中略〉 一福岡町數凡二十三町、其郭内に有町は、簀子町、大工町、本町、呉服町、西名島町、東名島町、是他國より城下を通る大道なり、都て六町通と云、西より東へ通る竪町なり、又其東に橋口町有、士の宅なり、是も六町通に續けり、大道なり、傍に有は魚町、萬町、〈此二町は南北に通ず〉洲崎町、鍛治町、西職人町、東職人町、濱町、船町、材木町、〈此七町は東南に通ず〉荒戸新町、〈横竪四町〉以上十一町は、みな福岡の城の郭外にあり、唐人町、新大工町、西町、〈右は城の西郭外有〉藥院町、紺屋町、春屋町、〈竪横數町〉古は城東郭外にあり、

〔西遊雜記〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 福岡の城は、昔し名島の地に有しを、黒田長政朝臣此地に移し給ひし故に、備前福岡の地名を取りて、此所の地名と號し給ふ事と云、筑前北向ふ國にして、朝鮮國に對し、陽をうしろとせる國なれども、如何の地理にや風土至てよく、上國と云べし、博多とは僅の橋を以て隣とし、町續にして、雙方の地中凡一万六千餘軒、人物言語もいやしからずして、諸品自由繁昌の所也、

〔吾妻鏡〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 壽永三年〈◯元暦元年〉四月六日甲戌、池前大納言並室家之領等者、載平氏沒官領注文、自公家下云云、而爲故池禪尼恩徳、申宥彼亞相勅勘給之上、以件家領三十四箇所、如元可彼家管領之旨昨日有其沙汰、令之給、〈◯中略〉 池大納言沙汰〈◯中略〉宗像(ムナガタ)社〈筑前〉 三箇庄(○○○)〈同〉 已上八條院御領〈◯中略〉 右庄園拾陸箇所注文如此、任本所之沙汰、彼家如元爲知行勤状如件、 壽永三年四月六日

〔東寺百合文書〕

〈一ノ五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 七條院 在御判 修明門院御處分御所庄々等〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0951 筑前國 植木庄(○○○)〈法花堂〉 可本所 安貞二年八月五日 七條院 在御判 すめいもん

〔吾妻鏡〕

〈二十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0951 寛喜二年二月八日、勝木七郞則宗返給本領筑前國勝木庄(○○○)也、此所中野太郞助能爲承久勳功賞、雖拜領、依子息兒童、給則宗畢、助能又賜替筑後國高津包行兩名、武州殊沙汰之給云云、

〔古文書類纂〕

〈上處分状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0951 後深草天皇建長二年關白藤原道家處分状 總處分 條々事 一寺院 東福寺〈◯中略〉 寺領〈◯中略〉 筑前國三奈木庄(○○○○)〈◯中略〉 一家地文書庄園事〈◯中略〉 尚侍殿〈◯中略〉 家領〈◯中略〉 別當三位讓進庄々〈◯中略〉 筑前國山鹿庄(○○○)〈◯中略〉 建長二年十一月 日 愚老〈在御判〉

〔集古文書〕

〈二十六下知状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0951 文永九年下知状〈紀伊國高野山三昧院藏〉 金剛三昧院領筑前國粥田庄(○○○)事 右爲寺家沙汰、可行庄務之状、依鎌倉殿仰、下知如件、 文永九年十月十六日 相模守平朝臣〈花押〉 左京權大夫平朝臣〈花押〉

〔東寺百合文書〕

〈一ノ五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0951 最勝光院 注進寺領庄園年貢近年所濟出物等散状事〈◯中略〉 一筑前國 三原庄(○○○)〈東郷西郷〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0952 本年貢米三百石綾比物二重内〈七月ハ八講一重九月ハ月一重〉 小山出羽入道息女(關東備前守) 七月兵士十人 近年所濟二十石内〈東郷四貫文西郷四貫文〉令辨濟之處者、文永七年以來寄事於蒙古人、一向無濟、右就所見注進如件、凡近年背先例返殘於執事公文間御年貢濟本事、委不知之、 正中二年三月日 公文左衞門少尉大江〈花押〉

〔中村文書〕

〈兒玉韞採集文書所收〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0952 筑前國怡土莊(○○○)光岡彌藤三郞入道道圓、去五月二十五日匠作英時誅伐之間令馳參、自同二十六日、付於御著到候畢、以此旨御披露候、恐惶謹言、 元弘三年七月日 沙彌道圓〈上〉 進上 御奉行所 承了 沙彌〈花押◯大友貞宗〉

〔大泉坊文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0952 公方御書下案一通、目安案一通所副下也、〈◯袖書花押〉 筑前國怡土莊誓願寺雜掌法橋光心、申當寺塔免田末武名内田地五町事、香力六郞宗經申給奉書濫妨云々、寺家當知行之條、本主置文并下知状以下分明上者、先沙汰付下地於寺家、於理非者被下目安之上者、可其沙汰之旨、被仰下處也、仍執達如件、 建武元年六月二十五日 左衞門尉〈花押〉 志摩方政所

〔大友文書〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0952 花押〈◯足利尊氏〉 下大友孫太郞氏泰 可早領知筑前國怡土莊〈維貞朝臣(大佛)跡〉事 右所宛行也、早守先例沙汰、之状如件、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0953 建武四年十二月廿八日

〈内務省本〉

〔宗像文書〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0953 雜訴決斷所牒 筑前國宗像社 右如彼社解者、當國宗像莊(○○○)内曲村者、末社七十五社修理料所重色無雙之地也、而天下騷亂之刻、惡黨人等致濫妨狼藉之間、勒子細就經奏聞、當知行不相違之由、去年九月十七日被下綸旨之處、猶以不叙用、致狼藉云々、爲事實者、太不然、早止彼濫妨、任先度綸旨、全所務神用、此上猶令違犯者、爲罪科、可進交名者、以牒、 建武元年三月二十日 西市正中原朝臣〈◯章有〉花押 右中辨藤原朝臣〈花押〉

〔集古文書〕

〈一宸筆〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0953 後醍醐天皇綸旨〈肥後家臣志賀太郞助藏〉 筑前國嘉摩郡綱別庄(○○○)内佐古名、豐前國止毛郡内本今吉名吉木壹町、同國下毛郡安恒名、同國宇佐庄内蔀屋敷等、并田地、豐後國安岐郷内諸田名、松武名諸田名、内龜丸名田畠敷山野荒野等、右所々宇佐氏女當知行、不相違者、天氣如此悉之以状、 建武元年五月一日 式部大丞判〈花押〉 後醍醐天皇綸旨〈肥後家臣志賀太郞助藏〉 豐後國大野庄志賀村半分〈南方〉并下村泊寺院主職地頭職、同國笠和郷富成名内勢久世宇屋敷鹽濱、筑前國三桑木庄(○○○○)内田畠屋敷山野等、志賀藏人太郞忠能法師〈法名正玄〉當知行、不相違者、天氣如此、悉之以状、 建武元年五月一日 式部大丞判 後醍醐天皇綸旨〈肥後家臣志賀太郞助藏〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0954 豐後國大野庄志賀村〈南方〉内泉名、大窪屋敷、田畠、羽月屋敷朝倉名内咲迫屋敷、津留屋敷、定蓮房屋敷付大竹屋敷、并田畠、荒野、筑前國愛束庄(○○○)等地頭職豐前藏人次郞入道寂性當知行、不相違者、天氣如此、悉之以状、 建武元年五月十三日 式部大丞〈花押〉

〔新編會津風土記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0954 花押〈◯足利尊氏〉 下三池杢助入道々喜〈◯安藝貞鑒〉 可早領知筑前國富永莊(○○○)、并肥前國大村太郞跡事 右以人爲勳功之賞宛行也者、守先例沙汰状如件、 建武三年卯月五日

〔宗像文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0954 筑前國楠橋莊(○○○)事、任將軍家御下文之旨、可領掌候、仍執達如件、 建武三年四月十九日 大宰少貳〈花押◯少貳頼尚〉

藩封

〔慶應元年武鑑〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0954 筑前宰相齋溥卿(大廊下 從四位元治元子四月任) 五拾二万石餘 居城筑前早良郡福岡〈江戸ヨリ〉海陸三百九十八里 〈當國名島金吾中納言秀秋居、慶長五、黒田筑前守長政福岡城築、代々領之、松平右兵衞佐忠之代、五万石、弟甲斐守長興配分、〉 黒田甲斐守長徳(柳間 朝散大夫) 五万石 居城筑前夜須郡秋月格〈江戸ヨリ〉海陸二百八十八里 〈慶長五年ヨリ、黒田氏代々領之、◯節略〉

田數/石高

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0954 筑前國〈◯註略〉管十五〈田萬八千五百餘町〉

〔拾芥抄〕

〈中末本朝國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0954 筑前〈上遠〉十五郡〈(中略)田萬九千七百六十三町〉

〔海東諸國記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0954 筑前州 有山、距海濱三里、山頂有火井、日正照、煙焰漲天、水沸而溢、凝而爲硫黄、凡産硫黄島皆同、郡十五、水田一萬八千三百二十八町九段、

〔筑前國續風土記〕

〈一提要〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 總論 天文十二年、日本國中毎國の知行高をしるし、其簿を將軍家に獻ず、是を民俗には天文の繩と云筑前國三十三万五千六百九十石としるせり、小早川中納言秀秋、此國を領せられし時は、田畠の町數二万九千六百九十三町餘、田畠高三十万八千四百六十一石ありしとかや、〈是怡士郡公領を除ての數なり〉近きころに至つては、庶民大平の化に浴し、子孫増々しげくさかへて、年々に口數も増りぬれば、山をひらき野をあらきはりして、田圃年々に多く廣まれり、福岡、秋月、直方、及怡土郡公領、唐津領までかぞへては、田圃凡五萬町計成べし、〈◯中略〉 筑前國十五郡田畠高 那珂郡 四万二千四百六十六石五斗餘 早良郡 四万五千九十五石七斗餘 志摩郡 四万三千七百九十三石九斗餘 怡土郡 一万八千三百九十四石餘 表粕屋郡 四万三百三石二斗餘 裏粕屋郡 二万三千百九十六石三斗餘 席田郡 九千八十四石三斗餘 御笠郡 三万七千四百七十四石餘 夜須郡 一万千九百三石餘 下座郡〈福岡領〉 一万五千百三十六石餘 上座郡 二万五千五百九十六石餘 嘉摩郡〈福岡領〉 一万九千八百八石餘 穗波郡 二万九千四百六十七石五斗餘 鞍手郡〈福岡領〉 三万四千六百九十二石餘 遠賀郡 四万七千六百二十七石七斗餘 宗像郡 五万六千二百五十八石餘福岡領都合田畠高五十万二百九十九石八斗八升餘 内畠高九万三百十九石九斗四升餘

〔日本鹿子〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 筑前國十一郡、中上國、南北四日、〈◯中略〉知行高五十二万二千五百十二石、

〔官中秘策〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 筑前國 廿一郡〈◯中略〉 一石高六拾万六千九百八拾壹石餘

〔吹塵録〕

〈五人口及國高〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 天保度御國高調〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 筑前國〈御料私領〉 一高六拾五万千七百八拾貳石貳斗七升八合四勺四才

出擧稻

〔延喜式〕

〈二十六主税〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 諸國出擧正税公廨雜稻〈◯中略〉 筑前國正税公廨各廿万束、國分寺料三万二千二百九十三束、修理觀世音寺料一万束、文殊會料二千束、府官公廨十五万束、衞卒料二万二千四百束、〈隨日數増減、下皆同之、〉修理府官舍料六千束、池溝料三万束、救急料八万束、俘囚料五万七千三百七十束、

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 筑前國〈◯註略〉管十五〈(中略)正公各二十萬束、本穎七十九萬六十三束、雜穎三十九萬六十三束、〉

國産/貢獻

〔延喜式〕

〈二十四主計〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 筑前國〈去府行程一日〉 調、絲卅九絇、貲布卅五端、綿紬五疋、席三百六十三枚、大甕九口、小甕百九十五口、瓫一百九十五口、麻笥盤五十六口、水椀三百廿口、海石榴油一斛四斗六升四合、御取鰒二百六十斤、羽割鰒六斤、葛貫鰒一百八斤、蔭鰒一百卅五斤、鞭鰒廿四斤、腐耳鰒一百八十二斤、醬鮒一百廿八斤、鮨鮒二百八斤、海藻三百六十八斤二兩、自餘輸絹、布、鍬、鐵、短鰒、薄鰒、鮨鰒、火燒鰒、鹽、 庸、熬海鼠八百廿八斤、鹽三石九斗七升五合、自餘輸綿、布、鐵、米、鹽、薄鰒、火燒鰒、雜魚腊、 中男作物、木綿、穀皮、麻席、防壁、蒲薦、韓薦苫簀、漆、胡麻油、海石榴油、荏油、鹿脯、鹿鮨、押年魚、烏賊鯛腊、雜魚楚割、腐耳、鰒鮨、鰒腸、漬鰒、鮨鮒、醬鮒、鹽漬年魚、海藻、

〔延喜式〕

〈二十三民部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 年料別貢雜物〈◯中略〉 太宰府〈筆一千一百廿管、兎毛鹿毛各五百六十管、墨四百五十廷以上二種盛韓櫃一合、斐紙二百張、麻紙二百張、斐麻二百斤、麥門冬二石二斗、紫草日向八百斤、大隈一千八百斤、青砥二百顆、赤木南嶋所進、其數隨得、〉 右別貢雜物並依前件、自餘雜藥見典藥式、其運送徭夫、各給路粮、 太宰府〈銀八百五十兩、深紫帛五十疋、淺紫帛一百疋、深緋綿紬廿四疋、淺緋綿紬六十六疋、紺紬十疋、深紫貲布廿端、淺紫貲布廿端、深緋貲布卅端、淺緋貲布卅端、白貲布五十端、紫革卌張、緋革卌張、畫革廿張、洗革一百張、白革卅張海石榴油十石、席二千枚、〉 右管國調物、依件染造、其雜綵并革等、並盛韓櫃、其運脚者並給功食、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 凡太宰府毎年調絹三千疋、附貢綿使進之、又隼人調布除府家三箇年雜用料之外、付使進上、 凡太宰所收調絲、除儲料五百絇之外、毎年附貢綿使進之、 凡太宰府年料、造進朱漆酒海六合〈三合徑二尺、三合徑一尺六寸、〉下食盤六十枚、〈徑一尺七寸〉中盤八十八枚、〈徑一尺〉飯椀一百口〈徑七寸〉羹椀二百口、〈百口徑六寸五分、百口徑六寸〉盤四百五十枚、〈卅枚徑七寸、二百廿枚徑六寸、二百枚徑五寸五分、〉盞二百五十口、〈百五十口徑五寸、百口徑四寸五分、〉墨漆提壺十四口、 右以正税料造進 諸國貢蘇番次〈◯中略〉 太宰府七十壺〈十五口各大一升、卅五口各大五合、廿口各小一升、〉 右爲第五番〈己亥年◯中略〉 交易雜物〈◯中略〉 太宰府〈絹四千匹、履料牛皮廿四張、狸皮十張、銀三百兩、金漆五缶、朱砂一千兩、茜二千斤、紫草五千六百斤、猪膏二石、雜油卅石、檳榔馬【G{草-早}/衣】六十領、同螻【G{草-早}/衣】一百廿領藺帖笠一百卅蓋、黒漆鞍十具、鐵鎧廿隻、〉

〔延喜式〕

〈三十三大膳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 諸國貢進菓子〈◯中略〉 太宰府〈甘葛煎七斗、但木連子者、筑前國部内諸山及壹岐等島所出之中、擇好味者年中貢、〉

〔延喜式〕

〈三十七典藥〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 諸國進年料雜藥〈◯中略〉 太宰府十二種 木蘭皮百五十斤、土http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001e800.gif 石膏各十斤、龍骨六十斤、皂莢卌斤、代赭、禹餘糧各一斗、鬼臼四升、狸骨二具、檳榔子、人參各廿斤、石斛十斤、

〔延喜式〕

〈三十九内膳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 年料〈◯中略〉 太宰府〈御取鰒四百五十九斤五裹短鰒五百十八斤十二裹、薄鰒八百五十五斤十五裹、陰鰒八十六斤三裹、羽割鰒卅九斤一裹、火燒鰒三百卅五斤四裹、已上、調物鮒鮨一百七十八斤五缶、鮨鰒一百八斤三缶、腸漬鰒二百九十六斤九缶、甘腐鰒九十八斤二缶、已上中男作吻、鮨年魚二百廿三斤六缶煮鹽年魚八百卅九斤廿缶、内子鮨年魚卅六斤一缶、已上梁作、鯛醬四斗八升二缶、宍醢二斗三升一缶、蒜房漬一石五斗七升六缶、以上厨作雉腊二輿六十籠、別三翼、腹赤魚筑後肥後兩國所進出、其數隨得、已上別貢、〉 ◯按ズルニ、太宰府管國ノ貢物ハ、各國ニ分載スルコト能ハザルヲ以テ併出ス、

〔毛吹草〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 筑前 野鴈 玉島川鮎 金崎鮑 鮪 名濱鹽 博多練酒 松露 帶〈絹也、ウケ紋有、〉 島織物 折敷 蘆屋釜

人口

〔官中秘策〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 筑前國 廿一郡〈◯中略〉 一人數三拾万七千四百三拾九人 内〈拾七万千八百七拾八人 男 拾三万五千五百六拾壹人 女〉

〔筑前國續風土記〕

〈一提要〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 國中民戸 民戸凡五万六千六百五十八軒 此内 福岡町家數千五百廿五軒〈間數五千百三十七間五尺七寸◯中略〉 國中人數 凡人數三十三萬四千二百十四人之内、男十八万五千五百六拾貳人、女十四万六千五百六拾三人、 社人四百三十九人 僧千三百八十八人 山伏二百人 神子六十二人 陰陽師 福岡町人數一万四千九百五人〈男八千百七十八人、女六千五百八十五人、僧百四十二人、〉 博多町人數一万九千五百十六人〈男一万九百十人、女八千四百五十二人社、人、七人、神子七人、僧百十人、山伏二十七人、◯下略〉 ◯按ズルニ、此書ハ元祿十六年、貝原篤信ノ著ナリ、

〔吹塵録〕

〈五人口及國高〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 諸國人數調(文化元甲子年)〈◯中略〉一人數三拾壹万三千四百貳拾人(御料私領) 筑前國(高六十万六千九百八拾壹石餘 )内〈拾七万八百三拾貳人 男 拾四万貳千五百八拾八人 女◯中略〉 諸國人數調(弘化三丙午年)〈◯中略〉 一人數三拾四万六千九百四拾貳人(御料私領) 筑前國(高六拾五万千七百八拾貳石餘 )内〈拾七万七千九百七拾八人 男 拾六万八千九百六拾四人 女〉

風俗

〔人國記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 筑前國 筑前國ノ風俗、大體飾リ多シ、人之心十人ハ十人ミナ思々ニ違リ、勇氣モ一應ハツトメトグルトイフトモ、カザリ有風俗故ニ、終ニハ何事モ成就ス間敷國風也、西國ニ珍敷キ花奢ノクニ也、酒色ヲ好ム事、千人ニ七八百人如此、總ジテ此國ハ、萬事ノ風俗ワガ爲ニ徳ツクコトナレバ、我ガ親ミ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 中絶スル人ヲモ親ミ寄リ、親ヲ捨テヽモ其人ニシタシムノ風儀甚不然ナリ、

名所

〔日本鹿子〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 同國〈◯筑前〉中名所之部 蘆屋(アシヤ) 遠賀(ヲカ)湊と云は、此所のこと也、北は海、東は入海也、西のかたに岡の松と云あり、無雙の景地也、水ぐきの岡の湊と云も、右の遠賀と云所也、松原有之北は海なり新拾遺春のうたに素暹法師 水ぐきの岡の湊の浪の上にかずかき捨てかへるかりがね 内浦濱(ウチノウラハマ) 是も岡の續き也、濱邊なり、此濱を行ば宗像へ出るなり、 宗像 此つヾきに生松原と云あり、當國第一と申、神の植給ふ松也といへり、北より西へ海邊なり、東は山なり、宗像明神社有、神社の部にくはし、 桂潟(カツラガタ) 宗像より南也、間ちかし、遠干潟せ、神の代に夷國をしたがひ給ひて、かつら嶽と云山にのぼりて、軍にはかつら浦との給ひしより、勝浦と云也、その時の楯ほこ今に岩になりてあり、神代に放し給ふと云馬の牧有之たてさきの藥師と云も、右の岩のうへにたち給ふ也、 身の憂濱(ウキハマ) かつら潟より南也、西は海也、間三りのはまなり、 志加島 あかはた山 東は磯邊山につヾく也、海の中道と云もちかし、はる〴〵と出たる島也、文珠堂有、志賀よりしんくうの濱と云所まで三り也、拾遺戀の歌、 志賀の蜑の釣にともせるいざり火のほのかにいもを見るよしもがな 野古(ノコ)の島(シマ) 志賀より未申のかた也 からどまりのこの浦浪たヽぬ日はあれども君を戀ぬ日はなし 香椎(カシイ)潟 志賀より中間三り也、西は海、東は山也、宮有之、神社の部有之、たぐひなき景地也、金葉雜のうたに、 ちはやぶるかしゐの宮の杉のはを二たびかざすわが君ぞきみ 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0960 筥崎(ハコザキ) かしゐより當所の中間をたヽら潟とて、東へ遠き干潟也、在所は北南へ遠し、八幡宮たち給ふ、社壇西向也、神社の部にくはしく有之、こヽにしるしの松とて有、神前より未申に井垣あり、戒定惠(カイヂヤウエ)の筥埋られし所と云々、依之筥崎と云り、松原北南一り、下は白砂也、無雙の松原也、博多ちかし、北は海也、此所を唐泊(カラドマリ)袖の港と云といへり、拾遺神樂のうたに、重之、 いく代にか語つたへんはこ崎の松のちとせの一ならねば 生松原(イキノマツハラ) 西南東陸、北は海なり、里有、博多より西也、中間一里なり、新古今別のうた、枇杷皇太后宮、 凉しさは生の松原まさるともそふる扇の風なわすれそ 産(ウミ)の社(ヤシロ) 博多より東也、神社の部有之、 三笠(ミカサ)山 森有之、應神生湯を此山にて召れしより、竈間山とも云也、 あやしくも我ぬれ衣をきつる哉三笠の山を人にかられて 西都(ニシノミヤコ) 宰府也 木丸殿 朝倉山 思川 染川 三笠の森 寶滿山麓也、天神の聖廟社壇南向也、府中の西のはし也、かるかやの關などヽ云も此所也、 蘆城山(アシキヤマ) 三笠山より東也、あしき山より府中へ三り也、右之外舊記にとヾめし名所多有之といへども、あまねく人のしらざる分除之、

〔筑紫道記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0960 明れば廿九日〈◯文明十二年九月〉生の松原(○○○○)へと皆同行さそひて立出侍るに、大なる川を打渡り、みれば右に一村の林有、則聖廟の御社なり、〈◯中略〉やがてかの松原に至る、大さ一丈ばかりにて、皆浦風にかじけたるも哀れなり、引入て社有、〈◯中略〉御神のいきよとてさし給ひけん松は早う朽て、その根を人守りにかけしなどかたるも、昔こひしきもよほしなり、社壇の右の方に、大き成松のしかもすがた常ならず神さびたる有、是は末遠くいきの松ともいふべかりけるとみるに、我齡の程たのむかげなきも心細くて、又はかなしことを、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0961 あすしらぬ老のすさみのかたみをや世をへて生の松にとヾめん

雜載

〔延喜式〕

〈二十八兵部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0961 諸國器仗〈◯中略〉 筑前國〈甲四領、横刀十口、弓廿張、征箭卌具、胡簶卌具、〉

〔萬葉集〕

〈五雜歌〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0961 日本挽歌一首 大王能(オホギミノ)、等保乃朝廷等(トホノミカドヽ)、斯良農比(シラヌヒ)、筑紫國爾(ツクシノクニニ)、泣子那須(ナクコナス)、斯多比枳摩斯提(シタヒキマシテ)、伊企陀爾母(イキダニモ)、伊摩陀夜周米受(イマダヤスメズ)、年月母(トシツキモ)、伊摩他阿良禰婆(イマダアラ子バ)、〈◯中略〉 神龜五年七月二十一日 筑前國守山上憶良上


Last-modified: 2019-03-15 (金) 09:48:57 (387d)