http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1269 蝦夷ハ、古ク、エミシト稱シ、後ニ、エゾト謂ヘリ、本土ノ北邊ニ在リテ、南ハ津輕海峽ヲ隔テヽ陸奧國ニ對シ、北ハ宗谷海峽ヲ隔テヽ樺太州ニ對シ、千島列島ハ其東北ニ走リテ、露領柬察加ニ連ル、東西凡ソ百二十五里、南北凡ソ百十九里、其地勢ハ、石狩十勝ノ二嶽、全島ノ中央ニ對峙シ、支脈四布、諸大川率ネ源ヲ此ニ發セリ、原野曠漠、土壤頗ル肥沃ナリト雖モ、土人唯漁獵ヲ業トシ、曾テ耕稼ヲ知ラズ、風俗、言語、皆内地人ト異ナリ、 此地、固ト國郡ノ名ナシ、東蝦夷、西蝦夷、北蝦夷等ニ大別シ、所々部落ノ稱アリ、明治維新ノ後、箱館府ヲ置キシガ、後廢シテ開拓使ヲ置キ、蝦夷ヲ改メテ北海道ト稱シ、分テ渡島(ヲシマ)、後志(シリヘシ)、石狩(イシカリ)、天鹽(テシホ)、北見(キタミ)、膽振(イブリ)、日高(ヒタカ)、十勝(トカチ)、釧路(クシロ)、根室(ネモロ)、千島(チシマ)ノ十一國トシ、渡島國ニ、龜田(カメダ)、茅部(カヤベ)、上磯(カミイソ)、福島(フクシマ)、津輕(ツガル)、檜山(ヒヤマ)、爾志(ニシ)ノ七郡、後志國ニ、久遠(クドウ)、奧尻(ヲカシリ)、太櫓(フトロ)、瀬棚(セタナ)、島牧(シマコマキ)、壽都(スツヽ)、歌棄(ウタスツ)、磯屋(イソヤ)、岩内(イハナイ)、古宇(フルウ)、積丹(シヤクタン)、美國(ビクニ)、古平(フルヒラ)、余市(ヨイチ)、忍路(ヲシヨロ)、高島(タカシマ)、小樽(ヲタル)ノ十七郡、石狩國ニ、石狩(イシカリ)、札幌(サツホロ)、夕張(ユウバリ)、樺戸(カバト)、空知(ソラチ)、雨龍(ウリウ)、上川(カミカハ)、厚田(アツタ)、濱益(ハマシケ)ノ九郡、天鹽國ニ、増毛(マシケ)、留萌(ルヽモツヘ)、苫前(トママイ)、天鹽(テシホ)、中川(ナカカハ)、上川(カミカハ)ノ六郡、北見國ニ、宗谷(ソウヤ)、利尻(リイシリ)、禮文(レフンシリ)、枝幸(エサシ)、紋別(モンヘツ)、常呂(トコロ)、網走(アハシリ)、斜里(シヤリ)ノ八郡、膽振國ニ、山越(ヤムクシ)、虻田(アフタ)、有珠(ウズ)、室蘭(モロラン)、幌別(ホリベツ)、白老(シラオイ)、勇拂(ユウフツ)、千歳(チトセ)ノ八郡、日高國ニ、沙流(サル)、新冠(ニイカフ)、靜内(シヅナイ)、三石(ミツイシ)、浦河(ウラガハ)、様似(サマニ)、幌泉(ホロイヅミ)ノ七郡、十勝國ニ、廣尾(ヒロヲ)、當縁(トウフチ)、大津(オホツ)、中川(ナカカハ)、河東(カトウ)、河西(カサイ)、十勝(トカチ)ノ七郡、釧路國ニ、白糠(シラヌカ)、足寄(アシヨロ)、釧路(クシロ)、阿寒(アカン)、網尻(アハシリ)、川上(カハカミ)、厚岸(アツケシ)ノ七郡、根室國ニ、花咲(ハナサキ)、根室(ネモロ)、野付(ノツケ)、標津(シヘツ)、目梨(メナシ)ノ五郡、千島國ニ、國後(クニシリ)、擇捉(ヱトロフ)、振別(フレヘツ)、紗(シヤ) http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1270 那(ナ)、蘂取(シヘトロ)ノ五郡等總テ八十六郡ヲ置ケリ、後開拓使ヲ廢シ、札幌、箱館、根室ノ三縣ヲ置キシガ、更ニ北海道廳ヲ建テ、之ヲ治セシム、而シテ蝦夷ノ事ハ、尚ホ外交部露西亞篇、人部蝦夷篇等ニ載セタレバ、宜シク參考スベシ、 樺太州ハ、カラフトシウト云フ、蝦夷ノ一部ニシテ、本ト皇國ノ版圖ナリシガ、安政元年ノ通好條約ニ於テ、遂ニ兩國雜領ノ地トナル、明治八年ニ至リ、樺太全州ヲ露國ニ讓與シ、其代トシテ、我國ハ千島群島ノウルツプ島以下十八島ヲ得タリ、同三十八年九月、日露講和條約ニヨリ、露國ハ樺太州北緯五十度以南ヲ我國ニ割讓ス、是ニ於テ樺太州ノ半部ハ、復タ我版圖ニ歸セリ、

名稱

〔下學集〕

〈一天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1270 蝦夷島(エゾガシマ)

〔饅頭屋本節用集〕

〈江天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1270 夷(エゾ)千島(ジマ)

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1270 蝦夷(エミシ/エゾ)〈東奥附庸〉毛人(同/同)國

〔袖中抄〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1270 どくきのや〈ちしまのえぞ〉 あさましやちしまのえぞの(○○○○○○)つくるなるどくきのやこそひまはもるなれ 顯昭云、〈◯中略〉えびすのしまはおほかれば、ちしまのえぞとぞ云也、

〔倭訓栞〕

〈前編五衣〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1270 えぞ 毛人島(○○○)をいへり、明人輿地の圖説に【野作】(エゾ)と書せるは、音をとれり、えぞの千島(○○○○○)といふは、毛人島に沿たる多くの小島を指ていへり、毛人は宋書に見え、續日本紀に蝦狄と見え、蝦蛦は唐書に見えたり、兩山墨談には交易國ともへり、〈◯中略〉周廻凡そ八百里といふ、男は總身毛生て熊の如し、女は色白く、共に耳がねをせり、今津輕南部にも蝦夷人あり、是往古よりといへば、日本紀に書せる如し、〈◯中略〉日本人よりえぞをあひの國(○○○○)といふ、日本と唐山との間の義也、えぞといへば、蝦夷人しよもないかたなどいふて怒る、しよもないは、いやなどいふ事也、

〔比古婆衣〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1271 えみし まづ日本書紀神武卷〈戊午年十月〉に、大倭の國見丘にて、八十梟帥を誅たまひ、また道臣命に勅して、其餘黨をうたせ給へる時、皇軍密旨を奉てうたへる歌二首の中に、愛瀰詩烏、毘囊利毛々那比苔、比苔破易倍迺毛、多牟伽比毛勢儒と、みえたる愛瀰詩は、八十梟帥等をさしていへる稱なり、〈◯中略〉さてまたえぞが島より、陸奧に渡り來て暴行ぶる黨類をも、愛瀰詩といへるなるべし、しかるに大倭なるは、〈そのほかにありけむも〉はやくなごりなく滅亡せたりしかば、おのづから陸奧わたりなるをのみ呼ぶ名となりて、やがてそれが本郷の號にもおふせて、えみしの國と稱ふ事とはなりしなるべし、〈但し上代には、その愛瀰詩の、本郷あることをばしらで、たゞ其種類を然呼びてありつるを、後にその本郷の知られたるなるべし、〉かくてそのえみしを、蝦夷とかくは、古事記景行段に、はじめて見えたり、そははやくより蝦字の訓を借りて、夷字に加へて、書くことヽ定められたりつるものなるべし、

〔野史〕

〈二百八十八外國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1271 蝦夷〈◯中略〉 北陸杞憂云、松前之地、在西蝦夷、即古所謂毛人國、緬惟古昔奧羽之土、津輕、秋田、〈古作飽田〉野代、〈古作渟代〉概稱蝦人、〈山海輿地圖作野作、蓋訛言也、〉今所謂蝦夷、古謂之島蝦夷(○○○)、〈日本書紀作海蝦夷、言所渡海來之夷人也、按文獻通考、其人鬚長四尺、其稱蝦者蓋取瑕鬚之美、又按、八紘澤史云、則有蝦人國即其瑕國、不此同、〉

〔日本書紀〕

〈一神代〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1271 陰陽始遘合爲夫婦、〈◯中略〉迺生大日本〈日本此云耶麻騰、下皆效此、〉豐秋津洲、〈◯中略〉次生越洲(○○)

〔日本書紀通證〕

〈二神代〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1271 今按、夫水繞其外之洲、則八洲各應別島、恐不陸續之地二洲也、今也越洲旣接秋津洲中、且以角鹿坂名、倶爲疑、或謂、北越地方、山嶽重阻、其初難通、故立堺限、亦得此名也、蓋蝦夷(○○)初見景行紀、而齊明紀謂之渡島(○○)、此島自古屬我邦、不外國、西土諸籍所載亦然、或内附、或背叛固其常、而紀中動並稱隼人蝦夷、蓋謂國之西戎東夷也、因是觀之、北陸五國、則固爲秋津洲中、此所(○○)謂越洲(○○○)、疑今毛人島歟(○○○○○○)、渡島之名義亦相近、蓋奧羽三越、其所往來以取一レ用、故後世三

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1272 越之地亦得此名、猶安房出一レ阿波然耳、

位置

〔地勢提要〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1272 各國經緯度〈附里程〉 松前(蝦夷)、極高四十一度二十八分半、經度東四度四十四分半、從陸奧三厩〈渡海直徑〉一十里、 二百二十八里三十二町四間〈◯從東都〉 箱館、極高四十一度四十七分、經度東五度二十三分、從松前〈沿海至福島同所街道シリウチヌ沿海〉二十六里九町、二百五十五里五町六間半〈◯從東都〉 江指、極高四十一度五十二分半、經度東四度四十九分半、從松前〈西沿海〉一十六里二十六町半、 二百四十五里二十二町二十五間〈◯從東都〉 ソーヤ、極高四十五度二十八分半、經度東七度二分、從松前〈同上〉一百九十七里二十六町、 四百二十六里二十二町五間半〈◯從東都〉 アツケシ、極高四十三度二分、經度東九度五十分、從松前〈東沿海至有川、自同所街道ヤナキツラヌ沿海〉一百九十一里三十二町半、 四百二十里二十八町四十二間半〈◯從東都

〔日本經緯度實測〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1272 東西里差 山城 京 〇度〇〇分〇〇秒〈◯中略〉 松前 箱館 東五度〇〇分〇〇秒

〔東蝦夷測量記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1272 東都以北及蝦夷地北極出地度方位里測量 地名 北極出地六十分算 自東都方位〈一支三十分◯中略〉 松前 四十二度二十八分半 同〈◯子〉三分 福島 四十一度三十〇分 同四分 知内 四十一度三十七分 同六分 箱館 四十一度四十七分 同八分 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1273 大野 四十一度五十一分 同七分 鷲木 四十二度〇五分 同六分 ヤマコシナイ 四十二度一十四分 同五分 ヨンヤマンヘ 四十二度三十一分 同五分 ノツンケ 四十二度三十四分 同六分 アブタ 四十二度三十一分 同七分 モロチン 四十二度二十二分 同八分 ヱトモ 四十二度二十一分半 同九分 ホロベツ 四十二度二十三分 同九分 シラヲイ 四十二度三十〇分 同十二分 ユフブツ 四十二度三十六分 同一十三分 モンヘツ 四十二度二十八分 同一十五分 ニイカツブ 四十二度二十一分 同一十七分 ミツイシ 四十二度一十三分 同一十九分 ムクチ 四十二度〇八分 同一十九分 ヤシマニ 四十一度〇七分 同二十一分 ホロイツミ 四十一度〇三分〈未審〉 同二十三分 サルヽ 四十二度〇七分 同二十三分 ヒロウ 四十二度一十七分 同二十三分 トフツイ 四十二度三十一分 同二十三分 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1274 タホツナイ 四十二度六十九分 同二十三分 シヤラベツ 四十二度五十二分 同二十四分 シラスカ 四十二度五十六分 同二十四分 クスリ 四十二度五十八分 同二十六分 コンラムイ 四十二度五十八分 同二十六分 センホウチ 四十二度五十七分 同二十七分 アツケシ 四十三度〇二分 同二十七分 アンベツ 四十三度一十六分 同二十八分 ニシベツ 四十三度二十三分 同二十八分〈◯中略〉 寛政十二年庚申十二月 伊能勘解由謹圖

〔夷諺俗話〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1274 天度之事 今年〈◯寛政四年〉蝦夷地え趣く事、當春二月急々に事極、支度も早々取調べたる事故、北極出地測量の儀器も、師傳の如くためすには甚手重く、儀器急ぐには出來兼る故、予〈◯串原正峯〉が新案の儀器を考へ作らしめ、周髀儀と名付、是を持參せしめ、津輕三厩より、松前蝦夷地の端ソウヤ場所迄の北極出地度を測り得たる處、左の如し、 奧州津輕三厩 四十二度弱 同松前 四十二度 同松前石崎村〈松前より十一里〉 四十二度三十〇分 西蝦夷地セ(カイ)キナイ〈同二十八里半〉 四十二度七十三分 同カイジヽ〈同四十六里半〉 四十三度四十二分 同フルウミ内「イスルシ」 四十三度半 同テニシカ〈同百十四里〉 四十五度弱 同トマヽイ〈同百二十里〉 四十五度 同テシヲ 四十五度強 同ソウヤ〈同百七十七里〉 四十六度二十三分 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1275 宗谷は蝦夷地之極奧にて、三國通覽には、松前より四百里と記したり、其外松前人々に問にも、區區なる答にて、貳百里或は貳百五十里などいふて、決定したる事なく、如此里數定かならざるも、獵場計にて、田畑といふなき事故、境も等閑にて、里數は人々の目分量にて言事なれば、取用ひがたし、殊に蝦夷地場所々々持場廣く、宗谷場所の内も、南の方テシヲ境イキコマナイと言所より、内場所の内、北の方シレドコといふ所迄、凡百十四里半あり、此里數之内は、みな宗谷の持場也、斯持場廣き事故、手行屆かず、里數を改る事もなく、中勘相當の里數凡をいふ事也、此度松前より出帆せしより、船中にて空眼見積をも様し、其場所々々へ數往來なしたるものに委しく聞糺し、野帳に付置、宗谷會所迄之道法、松前より行程凡百七十七里と記し得たり、北極出地松前は四十二度、宗谷は四十六度二十三分相減じて、差四度二十三分也、天の壹度は地球皮にては二十九里半強として里數を積り見るに、松前より曹谷までは、直徑百二十五里餘なり、曹谷は松前より正北に當れ共、路程屈曲あれば百七十七里と記したるも、遠く失せじと思ふ也、

疆域

〔蝦夷島記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1275 一蝦夷島の廻り、船にて乘廻り候へば三百里程有之よし、此島南部津輕に出向候、此島の日本より船著を松前と申候、

〔北海道志〕

〈二地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1275 疆域 北海道ハ北緯四十一度二十五分ヨリ起リ、四十六度廿零分ニ至リ、西經零度一十五分〈奧尻島〉ニ起リ、東經一十度廿零分ニ至ル、東ハ千島國ニ至リ、群島散布シテ露領柬察加ニ對シ、北ハ北見國宗谷海峽ヲ隔テ、露領薩哈嗹〈樺太〉ニ對シ、南ハ渡島津輕海峽ヲ隔テ陸奧國ニ對シ、西ハ海ヲ以テ限リ、遙ニ滿州地方ニ向フ、東西百二十五里、〈極東端根室國納紗布岬ヨリ、極西端後志國島牧郡持田岬ニ至ル、〉東北凡百十九里、〈極北端北見國宗谷岬ヨリ、極南端渡島國松前郡白神岬ニ至ル、〉周圍六百五十里、〈千島州並島嶼ヲ除ク、下同、〉面積五千八百六十方里、〈此地東西狹ク、南北長シ、東西凡四五十里ヨリ二三十里ノ所アリ、南北凡百四五十里ヨリ二百里許ニ及ブ幅員ノ大九州ニ比スレバ之ニ過ギ、四國ヲ合スレバ少ク及バズト云〉島嶼西部

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1276 ニ屬スル者八、而テ奧尻、利尻、禮文最モ大ナリ、其東部ニ屬スル者二十、而テ水唱、志古丹最モ大ナリ、千島國ニ在ル者二十三、而テ國後、擇捉、得撫、新知、占守最モ大ナリ、夫蝦夷ノ我版圖タル古來然リ、唯其華夷ヲ限ル、時ニ從テ同ジカラズ、天平寶字六年、多賀城ノ碑ニ蝦夷國界ヲ去ル一百廿里ト是ヲ古法六町一里ヲ以テ算スレバ、其界桃生郡ノ邊ニ在リ、延暦年間、征東將軍坂上田村麻呂大ニ北邊ヲ征伐シ、南部大澗津輕外ケ濱ニ至リ、海ヲ限リテ、華夷ヲ定ム是ヲ中古ノ國界ト爲ス、後六百餘年、享徳中、武田信廣海ヲ渡テ蝦夷ヲ服從シ、地ヲ得ル七十里、東ハ龜田、西ハ熊石ヲ界ト爲シ、以テ内地ニ屬シ、〈一ニ陸奥國ニ屬スト〉其以北ヲ蝦夷地ト爲ス、是近古ノ國界ナリ、明治ノ初、蝦夷ノ稱ヲ廢シ、北海道ト號シ、八年、樺太千島交換アリテ後、國界又一變シテ今日ノ域ニ至レリ、

島嶼

〔日本實測録〕

〈十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1276 北海道 島嶼 實測 ヤンゲシリ島、周廻二里二十三町三十間、シロゲシ四十四度二十五分、 テウレ島、周廻二里三十二町一十六間、ワツカクシナイ四十四度二十六分半、 辨天島、周廻二十一町五十六間、 クナシリ島、〈從チカツブナイワタラチヤシ〉三十二里一十六町一十五間、〈從トーケムライ岬二里五丁七間、從モシリノシナトーブツ、徑測二里四丁八間、從ニシキシヨロフルカヱツブ、徑測二里二十八丁二十五間、〉 カー子シトクル島〈從西岬東岬〉三町三十六間、 ヲン子イルリ島、〈從立岩岬白石岬〉一十五町、 キークツブ島〈從ハイゲシュイ岬ヤンゲシナイ岬〉一里一十七町四十四間、 ケ子ボク島、〈從岩壁岬砂濱メオクル岬〉一十七間〈◯間恐町誤〉五十四間、〈從砂濱北岬、六丁二十四間、〉 モシリカ島周廻四町五十一間、 チケレブ島、周廻三町二十四間、 築(ツキ)島、周廻三町四十八間半、 遠測 イツ岩 ヨシカ島〈根部田〉 小島 大島 ヲト岩〈雨垂石〉 サーダラ岩 ヒラ島 ヨシカ島 タテ岩〈田澤〉 ノコロブ 小ハシラ石 マト岩 カナシキ岩 ヲー岩〈蚊柱〉 タチマチ ヲコシリ 小ロシマ セタワキ フレ島 メナシトマリ チシヤ岩 リーシリ レブンシリ シヨトヤ チシヤ モシリボ ヲチシ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1277 ベ島 アバシリ クナシリ岩 ヲン子イン シコタン イシヨシラ 辨天 ルイカ カサルイカ イタシニベル磯 トマツブ岩 モイルリ岩 タテ岩〈ヲン子イルリ〉 白岩 バイケシユイ岩 モヨモシリ フシワタラ岩 ワタラウシチロツブ岩 モシリカ ムイ岩 ホロビ岩 サカツキヲイ岩 通計五十九島

地勢

〔和漢三才圖會〕

〈六十四蝦夷島〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1277 蝦夷島〈獲服(エソ)、東夷、日高見國、毛人國、〉 按、蝦夷在日本東北海中島也、其地南北長、而北隣韃靼地、東乃大洋海也、山嶽多嶮岨、不陸行、又有大河、名石加利河、水甚急飛石、不以得渉行、船亦不漕行、故未其河源幾里程

〔蝦夷志〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1277 蝦夷地圖説 蝦夷在東北大海中、依山島國、地多山險、僅通禽鹿徑、夷人輕捷驍健、且善沒水、行不阻、此間之人往來所由、唯其水路而已、故夷地幅員廣狹、不詳、我東北海岸、距蝦夷南界甚相遠、而其間海潮駛急、〈蝦夷東南地角、突然而出者、名曰シウカミ崎、相距南部地方、只隔一衣帶水而巳〉、自津輕之地小泊、發舟北行八里、而到松前、亦由御厩津西北行十四里、而到松前、〈四時此路常通〉松前者夷地之南界也、〈國史所謂渡島津輕津者蓋此〉繇是而北、亦皆水行東路、則乍東乍北、順風約五晝夜、可其東港、〈地名曰ノツサフ〉去此亦東北行、順風約六晝夜、可其北港、〈地名曰ソウヤ〉其間沿海可船之處凡十二、西路則乍西乍北、順風約五晝夜、可其北港、〈即ソウヤノ地方ナリ〉其間沿海可船之處凡十七、其北渡海七里、復有國、皆夷種、其地幅員略與南同、蓋其西北即韃靼海也、〈俗以爲奥蝦夷、其地總稱カラト島、〉東北相離十三里、五島相錯而在于海中、又其東北海中有三十二國、亦皆夷種云、地方遠絶疑不明、〈東北海島凡三十七總稱クルミセ、又名曰ラツコ島、詳見于後、〉西北繇海有四島相離、近者七里、其遠者十五里許、〈西南一島總名曰ヘウン、其地一島名曰レンリ、又在其北名曰レソシリ、〉此蝦夷地境所盡也、

〔蝦夷拾遺〕

〈元地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1277 島形、蜻蛉ニ化スル水蠆ノ曲レルニ似テ、〈◯註略〉首ノ突然ト出タル如クノ地、白紙崎〈津輕郡三馬屋ノ渡ヨリ凡五六里〉背ハ北ソウヤノ界ニ盡キ、尾ハ丑寅ニ添テ終ヲシレトコト云、都テ周廻七百餘

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1278 里、

〔笈埃隨筆〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1278 松前 其地山嶽重疊として、大河多し、則北は韃靼に隣り、東は大海、南は津輕、西は海中島々多し、國の形は南北に長く、凡四百八十里なり、東西は狹くして三百六十里といへり、一國の大ひ成事、察して知るべし、

〔日本地誌提要〕

〈七十六北海道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1278 形勢 渡島、南方陸奧ノ北郡ニ向ヒ、其状頸ヲ伸ベ頤ヲ張ルガ如ク、宛折シテ東北ニ趨キ、膽振、後志トナリ、石狩夤脊ノ要ニ直リ、天鹽、北見、日高、十勝、南北ニ排シテ、左右翼ノ如ク、釧路其臋トナリ、根室ノ地岬角左右相望テ之ガ股トナリ、千島其後ニ曳テ之ガ尾トナル、石狩十勝ノ二高嶽、全道ノ中央ニ對峙シテ、支脈四布、諸大川大率源ヲ此ニ發シ、衆水ノ分流スル者、西ハ石狩川、西北ハ天鹽川、北ハ常呂川、南ハ大津川トナス、土人漁獵ヲ業トシ、耕稼ヲ知ラズ、石狩十勝等ノ原野曠漠、土壤肥沃ト雖モ、産業未ダ開ケズ、風俗鄙朴、言語衣服皆内地ト異ナリ、氣候冱寒、西方諸州稍暖ナリ札幌極暑八拾六度、極寒貳拾度、

道路

〔日本實測録〕

〈十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1278 北海道〈從陸奥國津輕郡三厩松前、渡海直徑一十里、〉 從松前東沿海至ヲシヨロコツ 渡島(ヲシマ)國津經郡松前、四十一度二十八分半、 一十九町五間〈至ヲーマツマヘ川三丁四十二間〉 及部(ヲヨベ) 一十二町 根森(ネモリ) 三町一十八間 大澤 一十五町三十六間 荒谷(アラヤ) 一十五町四十八間 炭燒澤 一里二十九町五十四間〈至シラカミ岬一十一丁〉 福島郡禮髭(ヒゲ) 二十町三十間 吉岡 一十四町二十四間 宮野歌(ミヤノウタ) 一十町四十八間 白府(シラフ) 一十五町四十八間 福島、四十一度三十分〈至ツキノ澤一十三丁六間、從ツキノ澤コハベ岬、一里三十一丁〉 七里四町五十五間半 知内(シリウチ)四十一度三十七分、 一十九町五十八間 ヲムナイ〈至ワキモト一里一十五丁二十一間〉 一里三十三町二十四間 上磯郡木古内(キコナイ) 三十町二十四間 札苅(サツカリ) 一

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1279 里一町二十四間 泉澤 一里二十六町五十七間 釜谷(カマヤ) 三十一町一十二間 三ツ石 一十七町 當別(タウベツ) 三十四町一十七間 茂邊地(モベチ) 一里二十二町三十三間 富川 五町一十八間三谷(ミツヤ)〈至タキノ澤一里四十八間〉 一十八町六間 龜田郡邊切(ヘキリ)地〈至野崎一里九丁一十間〉 四町 有川〈至龜田濱二里五丁三十六間、從龜田濱龜田、八丁二十九間、從龜田上山、一里一丁五十九間、從上山赤川、一里七丁二十一間、從赤川ナカツクラ、三十二丁二十四間、又從龜田濱大森濱、二十三丁一十六間、從大森濱尻澤部濱、徑測五丁三十間、又從大森濱箱館地藏町五丁四十一間、北極高四十一度四十七分、從地藏町(町下恐脱至字)辨天岬一十五丁一十八間、從岬至尻澤部、一里二十一町四十七間、從尻澤部尻澤部濱、一十四丁三十六間、從尻澤部濱タカモリ、三十丁三十六間、〉 二里四十八間 大野、四十一度五十三分、 一十二町三十六間 一ノ渡 七里一十町九間 茅部郡ヤナギハラ 一十六町五十六間 鷲木、四十二度五分、 三里一十八町三十二間 落部(オトシベ) 一里一十一町一十二間 野田追(ノタオヒ) 一里九町二十六間 膽振國山越郡ヤムクシナイ、四十二度一十四分、五里一十五町三十間 ホロナイ 三里二十町四十二間 ヲシヤマンヘ、四十二度三十一分、〈越山至クルマツナイ、五里一十五丁四十間、從クルマツナイヲタシユツ、三里一十七丁四十四間、〉 六里五町三十間 虻田(アブタ)郡レブンゲ 一里二町五十八間 ヲブケシ〈至ヲブケシ岬三丁一十八間〉 四里五町五十六間 アブタ、四十二度三十一分、 一十二町四十八間 有珠(ウズ)郡ウズ一十三町一十九間 マクコタン〈至ウクハチ岩四丁二十六間〉 五里一十六町五十六間 室蘭郡モロラン、四十二度二十二分、二里一十八町四十六間 チフタランナイ〈至ホコイ三十二丁五十四間、從ホコイヱントモ二里六丁四十六間、從ヱントモ、至ホンヱントモ、七丁一十二間、又從ホコイヲイナウシ一十四丁四十二間、〉 二十二町三十六間 ベシボク〈至トカリイシヨ一十六丁一間〉 一里六間 幌別(ホロベツ)郡ワシベツ川岸〈沿川至川口、四丁三十六間〉 五町三十六間 ワシベツ〈至コトヽイ九丁二十七間〉 一里五町一十八間 ホロベツ、四十二度二十三分、七里一十五町五十一間 白老郡シラヲイ、四十二度三十分、九里三十三町一十六間 勇拂(ユウフツ)郡ユウブツ、四十二度三十六分、 五町二十四間 同追分〈沿川至ヒヽイムコ、四里二十五丁四十四間、從ヒヽイムコ千歳川、一里二十九丁九間、從千歳川マヽツ一十六丁又從千歳川ヲサツ川岸、二里七丁六間從川岸シコツ、一十七町、又從ラサツ川岸イベツブト、一十一里一十九丁五十二間、從イベツフト沿本川ホロモイ、四里一十二丁四十八間、又從イバツブトイシカリ、一十一里一十二丁五十六間半、〉 八里二十二町四

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1280 十二間 日高國沙流(サル)郡モンベツ、四十二度二十八分、 五里三十二町一十八間 新冠(ニヒカウ)郡ニヒカツブ、四十二度二十一分、 二里二十四町二十五間 靜内郡ウセナイ 一里三十二町三十六間 シヅナイ 二里一町 三石郡ミツイシ、四十二度一十三分、 九里四町二十一間〈至ウラカハ五里二十八丁二十一間〉 ムクチ、四十二度八分、 二里三十二町 様似郡シヤマニ 六里一十八町一十六間 縨泉郡ホロイヅミ 七里一十二町一十七間〈至ヱリヒ岬三里一十六丁三十九間〉 シヨーヤ 二里二十六町三十七間 サルヽ、四十二度七分、五里六町三十六間 十勝(トカチ)國廣尾郡ビロト、四十二度一十七分 六里三十三町一十八間 當縁(タウブチ)郡タウブチ 六里二十二町 十勝(トカチ)郡ヲコツナイ、四十二度三十九分、 七里一十九町一十八間 釧路(クシロ)國白糠郡シヤクベツ、四十二度五十二分、四里八町四十八間 シラヌカ、四十二度五十六分、 六里三十二町一十四間 釧路(クシロ)郡クスリ、四十二度五十八分、 四里七町二十八間 コンブムイ、四十二度五十八分、 五里二十八町一十七間〈至トーブツ三里二十七丁五十一間〉 ホンセンホウシ〈至シリバ岬一里二丁五十七間〉 五里二十六町一十七間〈至アツケシトーク子五里五丁四十一間〉厚岸郡アツケシ、四十三度二分、〈歴ノコベリベツカニ子ベツ、汎測一十二里三丁北極高四十三度一十八分、〉 七里二十四町一十四間 ビハセイ 一十一里三十町二十八間 ラツチン 六里二十町一十四間〈至イヌ、ウシ、五里一十六丁一間半、〉根室(ネモロ)國根室郡子モロ〈至ノツシヤム岬七里一十九丁三十三間〉 九里一十三町五十九間〈至ヲン子トーロ三里一十九丁八間、從ヲン子トーロフーレントーロ、二里一十六丁二十七間、〉 野付郡ニシベツ、四十三度二十三分、 七里二十二町三十二間 コイトイ〈至ノツケ五里一十丁三十七間、從ノツケセフヲタ一十六丁、又從ノツケノツケ會所、三丁四十五間半、〉 一里一十七町四十三間 標津(シヘツ)郡シヘツ 三十二町五十二間 イチヤメル 一里六町四十八間 チウルイ 一里二町 目梨郡コタンヌカ 一里二町三十六間 クン子ベツ 三十一町二十七間 ムイ 一十一里九町一十四間 ヲシヨロコツ 東沿海通計二百五十二里三十町五十五間半 從松前西沿海至ホロベツ 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1281 渡島國津輕郡松前 一里三十四町一十八間 根部田 一十九町六間 札前(サツマヘ) 一十五町五十四間 赤神(アカカミ) 一十五町一十二間 雨垂石 六町四十八間 茂草(モクサ) 三十四町五十五間 清部 二十二町五十四間 江郞町 一里三十町 原口、四十一度三十八分 一里二十町三十間 檜山郡小砂子 一里三十四町四十一間 石崎 一里三町二十四間 鹽吹 二十八町三十六間 木野子 二里四町三十間 上國 二里七町三十二間 江指、四十一度五十二分半、 二十一町三十九間 泊 一十一町三十九間 田澤 一十三町一十八間 伏木戸 一十六町〈至アツシヤフ川口九丁三間〉 ウグイガハ 一里九町四十二間 爾志(ニシ)郡乙部(ヲトベ) 三十一町一十二間 小茂内 九町六間 大茂内 一十九町三十六間 突府 一十五町三十六間 三谷 三十二町五十四間 蚊柱 一里一町四十四間 相沼内(アヒヌマウチ) 二十六町一十間 泊川 二里四町二十三間 態石 五里二十町三十七間 クトー 六里七町四十四間 フトロ 二里一十五町三十間 セタナイ 四里一十六町一十八間 スツキ 七里一十四町五十四間 後志(シリベシ)國島牧郡シマコマキ〈至ヘニケウ岬五里一十二丁四十八間〉 六里一十九町二十間 壽都郡スツツ 二里一十七町〈至山越追分、二里五丁四間、〉 歌棄(ウタスツ)郡ヲタシナツ 三里二町一十二間 磯屋郡シリベツ 四里三十町一十八間 岩内郡イハナイ 六里一十五町五十四間 古宇(フルウ)郡フルー 一十里二十七町五十七間〈至カムイ岬七里一十六丁三十三里◯里間誤〉 積丹(シヤコタン)郡シヤコタン 五里三十二町三十間 美國郡ビクニ 六里二十六町三十八間 余市郡下ヨイチ 九町五間 上ヨイチ 一里二十九町四十二間 忍路郡(オシロ)郡オシヨロ 五里四町三間〈至シクトル岬四里四丁一十八間〉 高島郡タカシマ〈越山至ホロビー、一十六丁二十六間、〉 一十三町二十五間 ホロビー 一里六町三十三間 小樽郡ヲタルナイ 九里一十五町一十八間 石狩國石狩郡イシカリ 三里二十九町一十九間 厚田郡ヲシヨロコツ 一十三里二十九町四十三間 トフラシナイ〈トフラシナイ岬廻三丁五十六間〉 五里四十間 天鹽國増毛郡ホロトマリ、四十三度五十一分、 四里七町四十

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1282 六間 留萌(ルヽモツベ)郡ルヽモツベ、四十三度五十八分、 五里三十町五十五間 ホンヲニシカ 四里三十町五十二間 苫前郡トマヽイ、四十四度一十八分、 二里四町二十一間 ハホロ 六里三町五十五間 フレツブ 一十五里二十町一十七間半 天鹽郡ワツカシヤクナイ 六里一十五町九間 北見國宗谷郡ハツカイベ 四里一十五町二十三間 ノツシヤム岬 七里一十八町二十七間 ソーヤ、四十五度二十八分半、〈馬場貞歴所測〉 六里一十一町五十七間〈至シルミツ岬一里三十一丁九間〉 チヱトイヲマイ 二里三十一町六間 ヲニシベツ 一十四里一十五町四十二間 枝幸(エサシ)郡エサシ 二十里二十一町二十二間 紋別郡サルヽヽ 三里二十一町四十二間 モンベツ 六里一十九町三十六間 ユウベツ 九里二十九町一十五間 常呂(トコロ)郡トコロ 六里二十三町一十三間〈至ノトロ岬三里二十一丁五十間〉 網走(アバシリ)郡アバシリ 九里一十九町 斜里(シヤリ)郡シヤリ 九里二十町五十三間 ホロベツ川 西沿海通計二百八十七里二十三町四十七間半 北海道東西沿海總計五百四十里一十八町四十三間 〈蓋從ヲシヨロコツ、至ホロベツ川、未測定之、〉

沿革

〔蝦夷志〕

〈序〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1282 蝦夷一曰毛人、古北倭也、〈北倭出山海經〉漢光和中、鮮卑壇石槐聞倭善網捕、東擊倭人國、得千餘家、徙置秦水上、令魚以助糧食、鮮卑東胡種、即今韃靼東北地、所謂倭人即北倭也、夷俗善沈沒、捕魚、於今亦然矣、夷多種落、曰渡島蝦夷、其在東北海中者曰北蝦夷、曰東蝦夷、其徙居于内地者、北謂越國、東謂陸奧國、曰齶田、〈一作飽田、今作秋田、〉曰渟代、曰柵養、〈一作城養〉曰津刈、〈一作津輕、又作都加留、〉皆東北之別也、宋書曰、毛人五十五國唐書曰、倭國東北限大山、其外即毛人、總言其内外種落也、夷種分居内地、其始不詳、景行天皇征東、詔曰、東夷犯邊界、以略人民、往古已來未王化、由是觀之、其侵犯内地、蓋由來旣久矣而叛服亦屢矣、齊明天皇四年、遣阿倍臣率船師蝦夷、齶田、渟代、酋帥迎降、渡島蝦夷亦來會、乃定渟代津輕二郡郡領而還、五年復遣阿倍臣、率飽田渟代津輕謄振鉏等首帥、以伐蝦夷、乃徇其地、遂置治於後方羊蹄而還、〈後方羊蹄讀云之利邊之、即今南部之利邊之之地也、〉是歳、秋遣使率陸奧蝦夷以聘于唐、唐書曰、永徽中我行人與

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1283偕來、即此也、時高宗問我行人曰、蝦夷幾種、對曰類有三種、遠者都加留、次者麤蝦夷、近者熟蝦夷、今此熟蝦夷、所謂三種、擧其在荒服及内地而言也、〈出日本紀註所載伊古連博徳書、都加留即津輕、是其在内地而遠者也、麤猶荒也、是其在荒服、即次遠者、熟謂其居内地而近者也、〉厥後凡稱蝦夷者、皆謂其在内地也耳、天平實字六年、東海東山節度使藤原惠美臣朝獦、刻石於鎭守府門、以誌四方道里相距近遠曰、去蝦夷國界一百二十里、其石於今見府城舊址、〈其石古俗所謂壺碑〉則知宮城郡北方數百里、盡沒于夷地、〈古謂百廿里、準之今方二十里、〉至其驅之荒徼悉收東山地、因海爲上レ塞、則征東將軍坂上大宿禰田村麻呂之功、蓋以爲大也、史闕不其事、可歎哉、〈嘗聞之津輕人、坂將軍行營之地往々而有焉、土人亦説其事、猶如前日、唯其文獻無以徴云、〉厥後六百五十六年、若狹守源信廣越海入于夷中、遂取其南界以定北地、是歳嘉吉三年也、〈信廣若狹國人、始稱武田太郞、後稱蠣崎、又改稱松前、蓋因地名也、〉自此以降子孫世々據守其地、而迄于今、東顧之憂久絶矣、

〔日本地誌提要〕

〈七十六北海道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1283 沿革 北海道舊蝦夷(エゾ)ノ地タリ、古ヘ陸奧出羽ノ北境、夷種雜居シ、渡島以北ノ夷ト併セテ蝦夷ト云、景行天皇ノ御宇、日本武尊武内宿禰、北方ヲ巡視シテ夷地ニ至ル、其後叛服常ナシ、齊明天皇ノ御宇、阿部比羅夫ニ命ジテ北伐シ、政所ヲ後方羊蹄(シリベシ)ニ置ク、嗣後王化日ニ弘マリ、渡島以北ヲ指シテ蝦夷トナス、旣ニシテ内地多事、邊境置テ問ハズ、一條天皇ノ御宇、蝦夷亂ヲ作ス、陸奧ノ人安倍國東(ハル)、伐テ之ヲ定ム、源頼朝ノ陸奧ヲ征スル、安倍貞任〈國東ノ裔〉五世ノ孫安藤季信ヲ以テ津輕ノ守護トナシ、後之ヲシテ蝦夷ヲ管セシム、南北朝ノ初、其族安東貞季代テ津輕ヲ領シ藤崎〈津輕郡弘前ノ北ニアリ〉ニ居ル、正長元年、貞季ノ孫教季、南部守行ニ遂ハレ、嘉吉三年、松前ニ到リ、島民ヲ撫懷ス、是ヲ下國(シモノクニ)氏トナス、享徳三年、若狹ノ人武田信廣松前ニ航シ、上國(カミノクニ)ノ蠣崎季繁ノ女婿トナリ、島夷ヲ服從シ、天河ニ居リ、蠣崎氏ヲ冒ス、永正十一年、其孫義廣松前ニ徙ル、天正十八年、豐臣氏東征ノ後、義廣ノ孫慶廣款ヲ納レテ内附ス、慶長五年、福山ニ城テ治所トナシ、松前氏ト稱ス、明和中ニ至テ、魯西亞人、始テ東蝦夷得撫島ニ留住ス、松前道廣〈慶廣八世ノ孫〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1284 制スル能ハズ、寛政ノ末、徳川氏、吏ヲ遣テ東蝦夷ヲ經理シ、松前領ノ本蝦夷東部ヲ收ム、〈浦川ヨリ、知床(シレトコ)ニ至ル、〉松前氏猶其西部ヲ領シ、且采色ヲ内地ニ賜フ、〈五千石〉享和ノ初、箱館奉行ヲ置、文化四年、松前章廣〈道廣ノ子〉ヲ陸奧梁川ニ徙シ、〈九千石〉其西部ヲ收メ、松前奉行ヲ置キ、全島ヲ總管シ、北蝦夷ノ地ヲ撿視セシム、文政四年奉行ヲ罷メ、章廣ヲ復封ス、安政ノ初、再ビ松前崇廣〈章廣ノ少子〉ノ封ヲ收メ、箱館奉行ヲ置キ、全島ヲ統シメ、崇廣ニ邑ヲ内地ニ賜ヒ、〈三萬石〉福山ニ居ラシムル故ノ如シ、王政革新、箱館府ヲ置、福山ヲ改テ館ト稱ス、明治二年八月、全島ヲ以テ北海道ト稱シ、十一州ニ分チ、開拓使ヲ置キ之ヲ管ス、北蝦夷舊ニ依テ樺太(カラフト)ト稱シ、魯人雜居ヲ許ス、旣ニシテ館藩ヲ廢シ、渡島ヲ青森縣ニ併ス、五年九月、之ヲ開拓使ニ隷シ、使廳ヲ札幌ニ定ム、

〔日本書紀〕

〈二十六齊明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1284 四年四月、阿倍臣〈闕名〉率船師一百八十艘、伐蝦夷、〈◯中略〉遂於有間濱、召聚渡島蝦夷等、大饗而歸、五年三月、是月遣阿倍臣〈闕名〉率船師一百八十艘蝦夷國、阿倍臣簡集飽田渟代二郡蝦蛦二百四十一人、其虜三十一人、津輕郡蝦蛦一百十二人、其虜四人、膽振鉏蝦夷二十人於一所、而大饗賜祿、〈膽振鉏此云伊浮梨娑陛〉即以船一隻與五色綵帛、祭彼地神、至肉入籠、時間菟蝦夷膽鹿島、菟穗名二人進曰、可後方羊蹄政所焉、〈肉入籠、此云之之梨姑、問莬此云塗毘宇、莬穗名此云宇保那、後方羊蹄此云斯梨蔽之、政所蓋蝦夷郡乎、〉隨膽鹿島等語、遂置郡領而歸、

〔釋日本紀〕

〈十四述義〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1284 飽田 渟代、津輕、謄振鉏、肉入籠、問菟、後方羊蹄、兼方案之、皆是蝦夷國之郡號也、

〔日本書紀〕

〈三十持統〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1284 十年三月甲寅、越度島蝦夷伊奈理武志與肅愼志良守叡草、錦袍袴、緋紺絁、斧等、

〔續日本紀〕

〈八元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1284 養老四年正月丙子、遣渡島津輕津司從七位上諸君鞍男等六人於靺鞨國、觀其風俗

〔諸家系圖纂〕

〈四ノ二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1284 若州武田之系圖 信廣〈若狹守〉――――――光廣〈松前祖、蠣崎修理大夫、〉

〔吏徴附録〕

〈廢職〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1285 松前奉行(○○○○)二人〈◯中略〉 享和二年壬戌二月廿三日、始置蝦夷地奉行二人、〈◯中略〉 同年五月十日改御役名箱館奉行(○○○○)、 文化四年丁卯十月廿四日、箱館御役所を松前に移す、改稱松前奉行、員を増し四人となる、文政四年辛巳十二月七日、廢當職

〔慶應元年武鑑〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1285 箱館御奉行 芙蓉間〈當御役文北新規、其後絶、嘉永七寅六月ヨリ、〉

〔北海道志〕

〈十五風俗〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1285 職官一〈上代、幕府、◯中略〉 渡邊胤、寛政十年目付ヲ以テ、蝦夷地ヲ巡察シ、松前ニ止ル、大河内政壽、寛政十年使番ヲ以テ、東蝦夷地ヲ巡察シ、様似ニ至ル、三橋成方、寛政十年、勘定吟味役ヲ以テ、西蝦夷地ヲ巡察シ、宗谷ニ至ル、松平忠明、寛政十年、書院番頭ヲ以テ、蝦夷地警衞ノ事ヲ掌ル、石川忠房、寛政十一年、勘定奉行ヲ以テ、蝦夷警衞ノ事ヲ掌ル、羽太正養、寛政十一年、目付ヲ以テ、蝦夷地警衞ノ事ヲ掌リ、箱館奉行ニ拜シ、安藝守ニ任ズ、著ス所休明光記、邊策私辨、正養院家訓アリ、村上常福、寛政十一年、寄合ヲ以テ、蝦夷地ヲ巡察ス、遠山景晉、寛政十一年、西丸小姓組番士ヲ以テ、蝦夷地ヲ巡察ス、著ス所未曾有記アリ、長政忠七郞、寛政十一年西丸書院番士ヲ以テ、蝦夷地ヲ巡察ス、松山揔右衞門、寛政十一年勘定組頭ヲ以テ、五有司〈松平忠明、石川忠房、羽太正養大河内政壽、三橋成方、〉ニ隨從シ、蝦夷地ヲ巡察ス、〈◯中略〉 近藤守重、寛政十一年以下同上、著ス所邊要分界圖考、續蝦夷草紙、蝦夷奏議、近藤巡夷録、擇促談等アリ、〈蝦夷ニ係ル者ノミヲ擧グ◯中略〉 最上常矩、寛政十一年以下同上、後箱館奉行支配調役並ト爲ル、著ス所蝦夷草紙、西蝦夷地上地一件アリ、戸川安倫、寛政十二年箱館奉行ニ拜シ、筑前守ニ任ズ、〈◯中略〉 川尻貞勝、文化五年箱館奉行ニ拜シ、肥後守ニ任ズ、村垣貞行、文化六年、箱館奉行ニ拜シ、淡路守ニ任ズ、小笠原長幸、文化七年、箱館奉行ニ拜シ、伊勢守ニ任ズ、 荒尾成章、文化九年、箱館奉行ニ拜シ、但馬守ニ任ズ、服部貞勝、文化十年、箱館奉行ニ拜シ、備後守ニ任ズ、〈◯中略〉 本多繁文、文化十二年、箱館奉行ニ拜シ、淡路守ニ任ズ、 夏目信平、文化十四

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1286 年、箱館奉行ニ拜シ、左近將監ニ任ズ、竹内保徳、安政元年、箱館奉行ニ拜シ、下野守ニ任ズ、新藤方凉、安政元年、箱館奉行支配組頭ト爲リ、文久三年、箱館奉行格ニ拜ス、〈◯中略〉 堀利熙、安政二年、箱館奉行ニ拜シ、織部正ニ任ズ、〈◯中略〉 村垣範正、安政三年箱館奉行ニ拜シ、淡路守ニ任ズ、〈◯中略〉 津田正路、安政五年箱館奉行ニ拜シ、近江守ニ任ズ、〈◯中略〉 勝田充、萬延元年、箱館奉行ニ拜シ、伊賀守ニ任ズ、栗本鯤、萬延元年、箱館奉行支配組頭勤方ト爲リ、慶應三年、外國奉行兼勘定奉行箱館奉行ニ拜シ、安藝守ニ任ズ、〈◯中略〉 糟谷義明、文久元年箱館奉行ニ拜シ、筑後守ニ任ズ、〈◯中略〉 小出秀實文久二年、箱館奉行ニ拜シ、大和守ニ任ズ、〈◯中略〉 杉浦勝誠、慶應二年、箱館奉行ニ拜シ、兵庫頭ニ任ズ、 ◯按ズルニ、箱館奉行ノ事ハ、官位部遠國奉行篇ニ詳ナリ、

開拓/守備

〔本田利明異國話〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1286 蝦夷土地開發成就して良國と可成事 すべて庶人のおもはく、蝦夷の土地は雲霧深くして、濕地なれば、住馴れざる日本の人抔は、中々以て住居難成土地也、假令おして住居するとも、五穀も生ぜざれば食物乏しく、因て忽ち飢に及ばん、殊更に濕氣を受、病を發して、廢人と成べし、亦往古より日本の農民度々渡海して、耕作種々に蒔植仕付等して試たる事有といへども、終に稔りし例なし、依て今に至りても開發せざるべし、〈◯中略〉天下萬邦、各南北兩極出地凡そ二十三度計りより六十二三度に距りても、四季有て、百菓百穀出産して、人民の住居又大同小異なり、然るに蝦夷土地に限りて、霧至て深く濕地成べき筈なきに、如何となればはやく云へば土地に人民乏敷して、耕作の地面なきゆへ、山岳曠野悉く大樹、或は柴草繁茂せし故、是に覆はれ、地面の陰冷の濕氣、大陽の温熱の乾氣、各霄壤に昇降せず、地面に屯鬱するゆへ、雲霧悉く土地を蔽ふ、〈◯中略〉此地面を覆ふ所の雲霧を悉く逐ひ拂ひ、霄高く押し揚、常の雲となる大計策は、其最初は仁政よりはじむ、御料私領寺社領に毎年死刑に行ふべき

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1287 罪人を、悉く助命せしめ、左遷の士をも、倶に蝦夷土地に送り遣はし、是に監副の明を加へて守護させしめ、能々蝦夷の土人を教育せしめ、〈◯中略〉於是江州の流水を招き、山岳の溪水を導き、或は井を堀溝を穿ち、用水の流行等の便理を量りて田畑を墾耕して百穀を蒔、農業を爲さしめば、終に良田畑と成事慥なり、依之鍛冶木匠を始に遣はし、諸職人も追々遣はし、家宅器財等の制作あるべし、依之銅鐵早速に入用有べし、又土地に金銀銅鐵錫の山岳多くあり旣に往古日本より數千人ゆきて砂金を採り、又は山嶽を穿ち、黄金を堀採りたりしが、寛文己酉年〈◯九年〉に、彼地サルと云處の長夷シヤムシヤインシヤウセン一揆の時より、日本の金堀の者共を悉く追ひ拂ひ、其後金堀砂金採を松前氏より停止せしといへり、扨又土民撫育教導の制度は、其土地に是迄用ひ來りたる禮義あり、此内の宜敷に據り採りて、日本の法令を以て保助せしめ、蝦夷土地に都而長者(おとな)といふて、長夷あり、是を直に郷村の名手或は庄屋と役名賜りて、その郷村に法令を是に傳ひ土人に布くべし、天監師を賜はりて、民間暦を制作し、博く國中に頒行あらば、後々は人道備り良民と成、良國と成べきなり、彼地いまだ佛法の沙汰なし、依之是を幸ひに斟酌有べし、前にもいへるごとく、北京王城の土地は、北極出地四十度七十五分にして、百草百穀豐饒なり、蝦夷土地も北極出地凡四十度より五十三四度に距る土地なれば、甚廣大にもあり、北極出地に依りて勘考すれば、諸土産も良菓良穀を出すべき道理有、

〔松前若狹守に被仰渡候御書付〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1287 松前若狹守 今度異國境御取締被仰付候に付、東奧蝦夷地之内島々迄、當分御用地に被仰付候間、其趣可存候、尤右土地より、是迄年々其方收納之儀者、御用地中從公儀御取替金御下げ可成候、右之御用は、書院番頭松平信濃守、御勘定奉行石川左近將監、御目付羽太庄左衞門、御使番大河内善兵衞、御勘定吟味役三橋藤右衞門、右五人之面々出立被仰出、右土地之蝦夷人教育之儀を始、交易之趣、彼

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1288 等萬端差引進退可仕旨、被仰出候間、是又被其意、右之差圖に任せ候様可致候、委細之儀は、掛之面々より可申談候旨相達候條、得其意申談候、 二月〈◯寛政十一年〉十六日 蝦夷地御用被仰付候面々〈江〉御書付 今度異國境御取締被仰付候に付、東奧蝦夷地之内島々迄、當分御用地に相成、其方〈江〉右御用被仰付候、是迄松前若狹守、右之土地より年々收納之分、從公儀若狹守〈江〉相渡候様被成下候に付、右場所に而、萬端其方共さし圖に任せ候様、若狹守〈江〉申渡候間被其意、猶土地之様子も追々申談候上、見分有之、蝦夷人教育之儀を始、風俗相替候儀、并交易之趣法迄存寄に任せ、一體開國之御趣意を含、服從致候儀第一に可心得候、右御用之儀は、深き御趣意に而被仰出候儀有之、御國境之事にも候得者、其心得を以、銘々粉骨を盡、此度之御趣意不違様、進退差引精勤可致候、尤不止事儀は不窺取計可申候、御入用向之儀は、不少分外も可之候之間、追々可相伺候、 松平信濃守 石川左近將監 羽太庄左衞門 大河内善兵衞 三橋藤右衞門 右正月七日被仰出候 松平伊豆守殿御書取 ゑぞ地御用の趣意被仰渡候寫祕書 今度蝦夷地御用之御趣意は、彼島未開地に有之、夷人共衣食住の三ツも不相整、人倫之道も辨ざる不便の次第に付、此度御役人被遣、御徳化を及し、教育をたれ、漸々日本之風俗に歸し、厚く服從いたし、萬々一外國より懷け候事など有之候共、心底動かざる様存込せ候儀、御趣意之第一に候得共、しかれども只今俄に事を弛め、或は猥に物を與へ、急速に服從を取候様に而者、往往際限も無之却而永續もいたし間敷候間、先當時之處は土地に仕馴し、交易の業を以、夷人ども潤ひ候様可致候、此交易之儀、是迄之通町人ども計に而者、彼是不正之趣も有之やと相聞え

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1289 候間、此度者御直捌に相成、夫々御役人交易場に罷在、取揃候筈候、扨此御仕法御救ひの故とは申ながら、猥に弛め候而は不宜候間、交易之極めは、やはり是迄之姿に居置、升目秤目等不足に無之、并惡敷品等不相渡、聊以不正之筋無之様精々吟味致し、夷ども相歡び、稼方出精いたし候様可取計候、右體交易方正しく相成候に付而は、追々出荷物等も相増可申候得共、今度之御趣意曾以御益を謀り候儀にて者無之候間、其所に目をつけず、只々夷人ども潤候儀、專要之目當に致し取計可申候、 一往々者耕作之道を教へ、穀食を以命をつなぎ候事を覺させ、漸々本邦之風儀に教育可致事、 但耕作之道、未整之内とても、成べき丈連々に肉食に遠ざかり、穀食を仕習ひ候様教へ置、穀食は肉食よりは尊きものと申譯を、能々得道可致置候、左候得者、追日農事を施し候節、格別進み方宜敷、成功揃行可申候、此段兼而相含可取扱候、 一此度之御趣意難有段、銘々に、説聞せ可申は勿論に候得ども、必其言を實と違ざる様可取扱儀第一に候、渠等者邊鄙之夷狄にて、其性却而誠實に可之候間、聊たりとも僞を施し、本邦は無實の國風之様に存込候得ば、先入主と成候而、以之外服從之妨に相成候、此所專要に心かけ、實意を以示し可申候、 一夷人共人足其外に遣ひ候節、賃米之儀、別紙定之通、遠近に隨ひ、少しも無間違相渡、聊も疑惑を生じ不申候様可取扱候、尤其内にも働格別之者は、賃米之外も少々づヽも品物なりとも指遣候歟、又は酒飯を給させ候歟、其時宜によりて取計ひ、功を賞し可遣候、乍去姑息に流れ不申様勘辨致し、己々が働きの甲乙によつて、御恩澤厚薄有之譯を能々知らしめ、銘々其職に進み、稼方出精致候様可取計候事、 一夷人ども日本詞遣ひ候事、制禁之由に候得共、此度御用地の内は、其禁を相止、專ら和語を遣ひ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1290 候様申教へ、往々和人に變化致候様教育可致事、 但此方之人、蝦夷詞遣ひ候儀決而不致、ひたすら夷人に和語を遣はせ候を專一に可心掛候、 一夷人ども追々御徳化に感じ、御主法に馴れ、和人の風俗に相成度由望の者も有之候はヾ、夫々月代も致させ、日本の服をも與へ、猶其者稼方等出精いたし、餘人をも励し候様の者共に候はば、日本風之家作をも拵へ遣し、外々之物迄も追々見習ひ、風俗を賛候様可取計事、 かならず氣情に拘り、成就致間敷候、渠等が方より相望は、時節を待て可取計候、女之風俗抔改め候儀、尚更之事に候、 一上を崇め候儀者、不申、親に孝し、兄に弟し、親族にむつましく、朋友に信を盡し候道ども、追々にさとらせ、且いろは文字并數の文字抔、連々に教へ、往々文算之開候様可心掛事、 一彼地の習にて、有徳なる者は妻を大勢持、貧しきものは無妻にて暮し候由に付、おのづから出生も少く、土地に合候而者人別不足之儀と被存候、此儀も純一にいたし度ものに候得共、急に令を下し候はヾ、其氣情に拘り可申候、往々人倫の道をも辨へ、夫々男女とも獨身のもの無之、子孫多く生じ候様致度事に候、急に其行ひがたき筋に候得共、兼而其趣を含取扱可之事、 一夷人ども病氣のもの有之候はヾ、品に寄臥具等も與へ、藥用其外可成丈手當いたし、死者多く無之様取計可遣事、 右之外此ケ條に洩候儀者、其場所に請取之面々、器量次第十分之力を盡し、一體開國の御趣意を基本にいたし、專ら教育可致候、何方なりとも教育服從之整ひ候方、其場所預り之面々手柄に候條、相互に励み合、粉骨を盡さるべき事に候、 未〈◯寛政十一年〉二月

〔泰平年表〕

〈大御所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1290 享和二年二月廿三日、羽太庄左衞門〈安藝守と改〉戸川筑前守安倫蝦夷地奉行始

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1291 而被仰付、同奉行支配吟味役二人被仰付、〈是より先に寛政十年五月、御目付渡邊久藏胤、大河内善兵衞政壽、御勘定吟味役三橋藤右衞門成方、御勘定組頭松山總右衞門直茂、御勘定太田十右衞門政興等已下八十七人を、松前へ被遣、其地及蝦夷を巡察せしめらる、是蝦夷の邊境を開るゝの始也、同十一年の春、松前領分東蝦夷地、箱館より以東の地御用地に被召上、若狹守(松前資廣)へは替地として武州久喜領五千石を賜る、此時御書院番頭松平信濃守忠明、總奉行と成、御勘定奉行石川左近將監忠房、御目付羽太庄左衞門正養、御使番大河内善兵衞正壽、御勘定吟味役三橋藤右衞門成方等仰を受て松前に至、東蝦夷地の邊境を開き、夷人撫育、魚獵交易等の事を沙汰す、布衣以下にては、御勘定組頭、御勘定吟味方改役、支配勘定等出役にて是を勤、此時南部大膳大夫利敬、津輕越中守寧親に被仰付、人數を出して箱館を守衞す、同十二年より人數を配て、東蝦夷地ヱトロフ等の島々を守る、此頃松前より西蝦夷地は松前の領分なれば御構なし、享和元年までは、右の人々相持にて、東蝦夷地の事を執れり、同二年冬、蝦夷地奉行を箱館奉行と被改、〉

〔嘉永明治年間録〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1291 安政二年乙卯三月二十七日、蝦夷地守衞ヲ松平陸奧守等ニ命ズ、 松平陸奧守へ達 此度東西蝦夷地在乙部村東在木古内村島々共、一圓上地被仰付、向後函館奉行御預所に被仰付候に付、其方へ蝦夷地の警衞被仰付候、佐竹右京大夫へも被仰付候間、諸事可申合候、且津輕越中守、南部美濃守へは、兼て被仰付置候條、猶又可申合候、函館表松前地警衞をも可相心得候、佐竹右京大夫へ達、上同文言、松平陸奧守へも被仰付候間、諸事可申合候、四月廿五日に至り、守衞箇所譯け、東蝦夷シラヲイよりシレトコ迄の内、島々共一圓持場の事、エウフツ、子モロ、ヱトロフ、クナジリ、右松平陸奧守へ被命、陣屋取建人數可差出置候、西蝦夷ヲカムイ岬より北海岸邊シレトコ迄總體、並北蝦夷地其外島々一圓持場の事、且又マシケ、ソウヤ出張陣屋取建、夏分蝦夷地應接可相心得候、右佐竹右京大夫へ、函館警衞並江差未乙部村より、西蝦夷地ヲカムイ岬迄持場の事、右津輕越中守へ、函館表出岬警衞可相心得、江差岬より東蝦夷地ホロヘツ迄海岸總體持場の事、右南部美濃守へ、函館表警衞備場の儀は、七重濱より木古内村迄持場の事、右松前伊豆守へ、 十月十七日、蝦夷地開拓ニ就キ、有志ノ者ハ該地ニ移住スルヲ許ス、 阿部伊勢守殿渡書付、五百石以下御目見以上以下、同總領二男三男、厄介、清水附の者、浪人、百姓、町

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1292 人、右は今般蝦夷地一體上地被仰出候に付、御旗本御家人の内、風寒暑濕を厭はず、山野を跋渉し、骨骸を固め、文武の修練心懸候者共相願候へば、元身分に應じ、在住被仰付候間、名前早々取調べ可申聞候、且万石以上以下の家來主人見込の者も有之候はヾ、是又被差遣候間、書面の者共、何れも荒地開發、野馬牧牛の養を始として、食料藥用に充べき生類育方、金銀銅鐵鉛山田畑巨材薪柴伐出し、草木類植付、石炭堀取、器具製作、採藥鯨漁、何に寄ず出産相成候類、並港付等の場所へ休泊所茶店取立度存候者は、望に任せ被差遣候尤も其品に應じ、御手當をも可下、猶又御國益にも相成り、格別出精の廉顯れ候者は、篤と事實相糺し、士人の身分に御取立、農工商の輩は、地所家宅等相渡し、其上御賞賜御手當等も有之候條、右之趣相心得、有志の者は其筋迄可願出候、猶委細の儀は、箱館奉行へ可承合

〔嘉永明治年間録〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1292 安政六年九月二十七日、蝦夷地開拓守衞ヲ、奧羽兩國ノ諸侯ニ命ズ、 松平肥後守 蝦夷地開發守衞の儀、當節の時勢專要の事に付、別段の譯を以て、蝦夷地の内割合領分被成下候、松平陸奧守、佐竹右京大夫、酒井左衞門尉、同様被仰付候間、諸事申談じ、一同入精專開發等、格別行屆候様可取計候、内海御警衞の儀は、御免被成候、且又南部美濃守、津輕土佐守持場の儀は、只今迄の通り相心得、陣屋有之場所にて、相應の地所被下候間、是又申談じ、一同入精相励可申旨被仰出之候、 松平陸奧守 同文言、松平肥後守、佐竹右京大夫、酒井左衞門尉へも同様被仰付候間、右同斷可取計候、尤も函館表松前地へ警衞向の儀は、是迄の通可相心得候、且又南部美濃守、津輕土佐守持場の儀は、右同文言略之、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1293 同文言 佐竹右京大夫 右同文言の内海御警衞御免被成候 酒井左衞門尉 南部美濃守 蝦夷開發守衞の儀、當節時務專要の事に付、割合、松平陸奧守、松平肥後守、佐竹右京大夫、酒井左衞門尉へも領分被成下候、其方並に津輕土佐守持場の儀は、是迄の通可相心得候、陣屋有之場所には、相應の地被下候間、一同申談じ、入精相勤可申旨被仰出候、 同文言 津輕土佐守

國郡

〔憲法類編〕

〈十國法〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1293 第四己巳〈◯明治二年〉八月十五日御布告 蝦夷地、自今北海道ト被稱、十一箇國ニ分割、國名郡名等別紙之通被仰出候事、 北海道十一箇國 渡島(ヲシマ)國 龜田(カメダ)、茅部(カヤベ)、上磯(カミイソ)、福島(フクシマ)、津輕(ツガル)、檜山(ヒヤマ)、爾志(ニシ)、 〆七郡 〈西部〉後志(シリヘシ)國 久遠(クドウ)、奧尻(ヲクシリ)、太櫓(フトロ)、瀬棚(セタナ)、島牧(シマコマキ)、壽都(スツヽ)、歌棄(ウタスツ)、磯屋(イソヤ)、岩内(イハナイ)、古宇(フルウ)、積丹(シヤクタン)、美國(ビクニ)、古平(フルヒラ)、余市(ヨイチ)、忍路(ヲシヨロ)、高島(タカシマ)、小樽(ヲタル)、〆十七郡 石狩(イシカリ)國 石狩(イシカリ)、札縨(サツホロ)、夕張(ユウハリ)、樺戸(カバト)、空知(ソラチ)、雨龍(ウリウ)、上川(カミカハ)、厚田(アツタ)、濱益(ハマシケ) 〆九郡 天鹽(テシホ)國 増毛(マシケ)、留萌(ルヽモツヘ)、苫前(トママイ)、天鹽(テシホ)、中川(ナカカワ)、上川(カミカワ)、 〆六郡 北見(キタミ)國 宗谷(ソウヤ)、利尻(リイシリ)、禮文(レフンシリ)、枝幸(ヱサシ)、紋別(モンベツ)、常呂(トコロ)、網走(アバシク)、斜里(シヤリ)、 〆八郡 〈東部〉膽振(イブリ)國 山越(ヤムクシ)、虻田(アフタ)、有珠(ウス)、室蘭(モロラン)、幌別(ホリヘツ)、白老(シラヲイ)、勇拂(ユウフツ)、千歳(チトセ)、 〆八郡 日高(ヒタカ)國 沙流(サル)、新冠(ニイカフ)、靜内(シヅナイ)、三石(ミツイシ)、浦河(ウラカワ)、様似(サマニ)、縨泉(ホロイヅミ)、 〆七郡 十勝(トカチ)國 廣尾(ヒロヲ)、當縁(トウフチ)、大津(ヲホツ)、中川(ナカカワ)、河東(カトウ)、河西(カサイ)、十勝(トカチ)、 〆七郡 釧路(クシロ)國 白糠(シラヌカ)、足寄(アシヨロ)、釧路(クシロ)、阿寒(アカン)、網尻(アハシリ)、川上(カワカミ)、厚岸(アツケシ)、 〆七郡 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1294 根室(ネモロ)國 花咲(ハナサキ)、根室(ネモロ)、野付(ノツケ)、標津(シヘツ)、目梨(メナシ)、 〆五郡 千島(チシマ)國 國後(クニシリ)、擇捉(ヱトロフ)、振別(フレヘツ)、紗那(シヤナ)、蕊取(シヘトロ)、 〆五郡

渡島國

〔日本地誌提要〕

〈七十六渡島〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1294 疆域 南ハ津輕海峽ヲ隔テ、陸奧ニ對シ、北ハ後志膽振、東西共ニ海ニ至ル、東西凡貳拾壹里貳拾町、南北凡貳拾三里壹拾八町、

〔北海道志〕

〈四地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1294 戸口 渡島國 函館區、〈南ヨリ西ハ山、北ハ海、東ハ龜田郡ニ界ス、〉口三萬二千七百三十八、戸六千百六十、町四十四、〈◯中略〉 龜田郡〈東ヨリ北ハ茅部郡、南ハ函館區及ビ海、西ハ上磯郡ニ界ス、〉口一萬千零四十三、戸二千六百六十、村二十八、〈◯中略〉 茅部郡〈東北ハ海、南ハ龜田郡、西ハ檜山爾志二郡、西北ハ膽振國山越郡ニ界ス、方言カヤウベシト呼ブ、帆形アル所ノ義ナリ、〉口一萬一千六百六十九、戸千九百六十七、村十三、〈◯中略〉 上磯郡、〈東ハ龜田、南ハ海、西北ハ松前檜山二郡ニ界ス、〉口八千六百四十九、戸千三百八十三、村十三、〈◯中略〉 松前郡〈東南西ハ海、北ハ上磯檜山二郡ニ界ス、明治十四年七月八日、福島津輕二郡ヲ併セテ松前郡ヲ置ク、〉口二萬三千八百十八、戸四千三百四十八、町三十四、村十七、〈◯中略〉 檜山郡〈東ハ上磯郡、南ハ松前郡、西ハ海、北ハ爾志郡ニ界ス、〉口二萬零九百六十三、戸三千七百四十、町二十六、村二十一、〈◯中略〉 爾志郡、〈東ハ茅部、南ハ檜山、西ハ海、北ハ後志國久遠郡ニ界ス、〉口七千九百零三、戸千四百零四、村八、

後志國

〔日本地誌提要〕

〈七十六後志〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1294 疆域 東ハ膽振石狩、南ハ渡島膽振、西北ハ海ニ至ル、東西凡壹拾六里、南北凡三拾貳里三拾壹町、

〔北海道志〕

〈四地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1294 戸口 後志國 久遠郡、〈東ハ膽振國山越郡、南ハ渡島國爾志郡、西ハ海、北ニ太櫓郡ニ界ス、方言グウヽンツト呼ブ、土人獵獸ノ爲メ、山野ニ機弓ヲ設ルヲグウヽント曰フ、此地一名牛別ト稱ス、魚多キ川ノ義ナリ、松前藩ノ時厚谷新下支配地タリ、〉口一千百六十二、戸三百三十六、村七、〈◯中略〉 奧尻郡、〈久遠郡ノ西ニ在ル島嶼ナリ、松前藩ノ時東都留守居ノ所領タリ、〉口二百八十八、戸四十九、村四、〈◯中略〉 太櫓郡〈東ハ膽振國山越郡、南ハ久遠、西ハ海、北ハ瀬棚島牧二郡ニ隣ル、方言ビトロナリ、ビツヲ〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1295 〈ロノ略言ニテ、網ノ足ニ作ル、岩アル所ノ義ナリ、〉口四百七十一、戸九十二、村四、〈◯中略〉 瀬棚郡、〈東南ハ太櫓、西ハ海、北ハ島牧郡ニ界ス、方言セタハ、犬ナイハ澤ノ義ナリ、〉口八百七十五、戸一百七十九、村五、〈◯中略〉 島牧郡〈東ハ壽都郡、南ハ太櫓、瀬棚二郡、西北ハ海ニ至ル、名義詳ナラズ、松前藩ノ時、並川吉兵衞支配地タリ、昔隣領ニ棄木ト云地アリ、亦一場所ナリ、土人漸ク减少シテ、纔ニ一人ヲ存スルヲ以テ、天保弘化ノ頃島小牧ニ併ス、〉口一千七百三十八、戸四百零二、村七、〈◯中略〉 壽都郡〈東ハ歌棄、西ハ島牧、北ハ海、南ハ膽振國山越郡ハ界ス、方言シユフノ訛リニテ蘆荻多キ岩崎ノ義ナリ、松前藩ノ時、鈴木儀兵衞支配地ナリ、〉口四千八百零二、戸七百十八、町七、村四、〈◯中略〉 歌棄郡、〈東ハ磯谷、西北ハ海、南ハ膽振國山越郡ニ界ス、方言オタシユツナリ、此所砂濱ト岩石トノ分界アルヲ云フ、〉口一千九百零七、戸三百零七、村六、〈◯中略〉 磯谷郡、〈西ハ歌棄郡、西北ハ海、東北ハ岩内郡、南ハ膽振國虻田郡ニ界ス、方言イソヤハイシヨウノ訛リ、岩磯ノ義ナリ、此地松前藩ノ時、下國舍人支配地タリ、〉口一千九百零七、戸三百二十七、村四、〈◯中略〉 岩内郡、〈東ハ余市、西ハ海、北ハ古字、古平二郡、南ハ磯谷及膽振國虻田郡ニ界ス、方言イワウナイハ、硫黄アル所ノ義ナリ、〉口五千零二十七、戸六百三十四、町七、村九、〈◯中略〉 古宇郡、〈東ハ古平、南ハ岩内、西ハ海、北ハ美國積丹郡ニ界ス、方言フルト呼ブ、名義詳ナラズ、〉口二千八百七十二、戸四百三十一、村六、〈◯中略〉 積丹郡、〈東ハ美國、南ハ古宇、西北ハ海ニ至ル、方言シヤツコタント呼ブ、夏ノ所ノ義ナリ、昔時煎海鼠蚫ノ如キ夏漁多シ、故ニ名ク、松前藩ノ時藤倉八十八支配地タリ、〉口一千五百九十六、戸二百四十五、村八、〈◯中略〉 美國郡、〈南ハ古宇、西ハ積丹、東ハ古平、北ハ海ニ至ル、方言ビクウニト云、ビクハ小石、ウニハアルト云義ナリ、〉口一千二百零一、戸二百七十七、村五、〈◯中略〉 古平郡〈東ハ余市、南ハ岩内、古宇、西ハ美國、北ハ海ニ至ル、方言フルハ小山、ヒラハ崩ルヽ義、山崩レアル所ヲ云、松前藩ノ時新井田嘉内支配地タリ、〉口二千九百五十五、戸五百二十一、町五、村四、〈◯中略〉 余市郡、〈東ハ小樽、忍路、西ハ岩内、古平、北ハ海、南ハ膽振國虻田郡ニ界ス、方言イワヲナイト呼ブ、温泉アル所ノ義ナリ、余市川ノ源ニ温泉アリ、故ニ名ク、松前藩ノ時、下余市ハ松前左膳、上余市ハ松前八之丞支配地タリ、〉口一千六百二十七戸九百二十七、町七、村七、〈◯中略〉 忍路郡、〈東ハ高島、南ハ小樽、西ハ余市、北ハ海ニ面ス、方言ウシヨロト呼ブ、灣ノ義ナリ、〉口二千百九十七、戸三百七十八、村四、〈◯中略〉 高島郡、〈東北ハ海、南ハ小樽、西ハ忍路ニ界ス、此地本名ツカリイシヨト呼ブ、水豹居磯ノ義ナリ、高島ハ海中ニ岩島高ク聳ル故ニ、邦人ノ名ル所ナラン、一説ニ此島ニ鷹多ク集ル、故ニ名クト、敦カ是ナルヲ知ラズ、〉口二千二百八十四、戸二百九十六、町四、村二、〈◯中略〉 小樽郡、〈東ハ石狩國札幌郡、南ハ膽振國虻田郡、西ハ余市高島二郡、北ハ海ニ至ル、オタルハ方言沙路ノ義ナリ、松前藩ノ時、氏家新兵衞支配地タリ、〉口九百八十三、戸千零五、町二十五、村五、

石狩國

〔日本地誌提要〕

〈七十六石狩〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1295 疆域 東ハ釧路、北見、南ハ膽振、十勝、西ハ後志及海、北ハ天鹽ニ至ル、東西凡

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1296 四拾三里貳拾貳町、南北凡貳拾五里三拾町、

〔北海道志〕

〈四地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1296 戸口 石狩國 札幌區〈東ハ空知、南ハ膽振國千歳有珠二郡、西ハ同國虻田郡、及ビ後志國小樽郡、北ハ海ヲ帶テ石狩ニ連ル、〉口一萬四千零八、戸三千零十六、町二十九、村十八、〈◯中略〉 石狩郡〈東ハ空知、南ハ札幌、西ハ海、北ハ厚田樺戸二郡ニ界ス、方言イシカリハ塞ノ義ナリ、水脈屈曲シ、上流塞ル如クニ見ユ、故ニ名トス、〉口二千八百三十五、戸五百六十五、町十、村五、〈◯中略〉 夕張郡、〈東北ハ空知郡、南ハ膽振國千歳、日高沙流、西ハ札幌ニ界ス、夕張ハ往昔千歳領ニシテ、千歳土人ノ往來スル所ナリ、然ルニ其地嘗テ人ナシ、十勝土人郷飮ノ時違言アリ、郷隣ノ惡ム所トナリ、其妻之ニ由テ死ス、因テ此ヲ去テ沙流厚別ニ之キ、其頭目コクワヌニ依ル、年アリ、コクワヌ問テ曰、儞郷ニ歸ラント欲スル乎、曰願ハザルナリト、遂ニ沙流ノ聚ニ貫ス、居ル數年、コクワヌ曰、夕張山其麓小川數條、鮭多ク、鷲獺其他ノ毛物ニ富ミ、且土地肥沃、千歳川亦近シ、彼地ニ移ル如何ト、其人遂ニ移テ此ニ家ス、後千歳川ノ下モチカヱ村ノ女ヲ聚リ、子三四人ヲ生ム、長シテ兄弟不和、別居シテ、マヲイシユクハイニ家スル者アリ、其地ハ毎夏千歳土人來テ耕耘ヲ爲シ、遂ニ相親睦嫁聚スルニ至ル、因テ千歳ランコウシヨリ預目土人移居シ、漸ク村落ヲ成セリ、此夕張ノ開クル所以ニシテ石狩領ノ土人原ト此ニ在ラズ松前藩ノ時、上夕張ハ松前監物、下夕張ハ蠣崎三彌支配地タリ、〉口二十七、戸八、村〈未定〉 樺戸郡、〈東ハ雨龍、南ハ石狩、空知、西ハ厚田、濱益、北ハ天鹽國増毛留萌二郡ニ界ス、〉口十八、戸二、村一、〈◯中略〉 空知郡、〈東ハ上川、及ビ十勝國上川郡、南ハ夕張及ビ日高沙流、西ハ石狩樺戸、北ハ雨龍郡ニ界ス、〉口二十七、戸六、村〈未定、〉 雨龍郡、〈東ハ上川及ビ天鹽國上川、南ハ空知、西ハ樺戸、及ビ天鹽國留萌苫前二郡、北ハ同國天鹽中川ニ界ス、〉口二十三、戸五、村〈未定、〉 上川郡、〈東ハ十勝國上川郡、西南ハ空知、西北ハ雨龍及ビ天鹽國上川郡ニ界ス、松前藩ノ時、土谷丹下支配地タリ、〉口一百十八、戸四十一、村〈未定、〉 厚田郡、〈東ハ樺戸、南ハ石狩、西ハ海、北ハ濱益郡ニ至ル、方言アツタハ、アツシノ皮ヲ取ルノ義ナリ、〉口一萬二千二百五十四、戸一千五百九十二、村十、〈◯中略〉 濱益郡、〈東ハ樺戸、南ハ厚田郡西ハ海、北ハ天鹽國増毛郡ニ界ス、此地本名マシケナリ、濱ヲ加ルハ、後世幌泊ヲ麻志計ト唱ル故ナリ、麻志計ハ鷗居ルノ義ニテ、漁時ニ鷗多キ故ニ名トス、一説甘麻志計ト稱ス、穀ヲ擔フノ義ナリ、此地昔時穀ヲ作リ、他方ヘ運搬セシ故ニ此名アリト、〉口一千百四十六、戸百三十三、村六、〈◯下略〉

天鹽國

〔日本地誌提要〕

〈七十七天鹽〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1296 疆域 東及北ハ北見、南ハ石狩、西ハ海ニ至ル、東西凡三拾里、南北凡三拾九里貳拾七町、

〔北海道志〕

〈四地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1296 戸口 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1297 天鹽國 増毛郡〈東ハ留萌、南ハ石狩國濱益、西ヨリ北ハ海ニ面ス、南留別志ニ、増毛ハ麻志計伊ノ縮語ニテ、善キト云フ義ナリ、〉口二千二百十四、戸三百九十八、町七、村五、〈◯中略〉 留萌郡、〈東ハ石狩國雨龍郡、南ハ増毛、及ビ石狩國樺戸郡、西ハ海、北ハ苫前郡ニ界ス、方言ルヽヲツヘト呼ブ、海水靜ニ入ル所ノ義ナリ、〉口一千百零三、戸一百九十四、村五、〈◯中略〉 苫前郡、〈東ハ石狩國雨龍郡、南ハ留萌、西ハ海、北ハ天鹽郡ニ界ス、方言トマヲマイト呼ブ、延胡索アル所ノ義ナリ、〉口一千零三十六、戸一百九十六、村五、〈◯中略〉 天鹽郡、〈東ハ中川、南ハ苫前、及ビ石狩國雨龍郡、西ハ海、北ハ北見國宗谷郡ニ界ス、〉口八十七、戸三十、村四、〈◯中略〉 中川郡、〈東北ハ北見國枝幸郡、南ハ上川及ビ石狩國雨龍郡西ハ天鹽郡ニ界ス、〉口十三、戸六、村〈未定、〉 上川郡、〈東ハ北見國紋別釧路國足寄二郡、南ハ十勝國河東、上川二郡、及石狩國上川、雨龍二郡、西北ハ中川郡ニ界ス、〉口二十一、戸八、村〈未定、〉

北見國

〔日本地誌提要〕

〈七十七北見〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1297 疆域 西ハ天鹽、南ハ釧路、東南ハ根室、西及北ハ海ニ至リ、宗谷海峽ヲ隔テ樺太ニ對ス、東西凡七拾八里、南北凡壹拾七里七町、

〔北海道志〕

〈四地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1297 戸口 北見國 宗谷郡、〈東ハ枝幸郡、南ハ天鹽國天鹽郡、西ヨリ北ハ海ニ至ル、方言蜂ヲソウヤト呼ブ、此地石ノ蜂ニ似タルアリ、故ニ以テ名トス〉口三百七十、戸八十六、村六、〈◯中略〉 利尻郡、〈拔海ノ西海ニ對スル島嶼ナリ、方言リイシリハ、高山アル島ノ義ナリ、〉口四百零三、戸百零八、村六、〈◯中略〉 禮文郡、〈累蘭ノ正西ニ當ル島嶼ナリ、方言レフンシリハ、沖ノ島ノ義ナリ、〉口三百十、戸四十八、村四、〈◯中略〉 枝幸郡、〈東ハ紋別郡、南ハ天鹽國中川郡、西ハ宗谷郡、北ハ海ニ至ル、方言アシヤシト呼ブ、山ノ海岸ヘ出タル崎ノ義ナリ、〉口一百七十一、戸四十六、村四、〈◯中略〉 紋別郡〈北ハ海、南ハ常呂郡、及ビ釧路國足寄郡、西ハ枝幸郡、及ビ天鹽國上川、中川二郡ニ界シ、北ハ海ニ面ス、方言モベツト呼ブ靜ナル川ノ義ナリ、〉口三百九十九、戸九十四、村十、〈◯中略〉 常呂郡、〈東南ハ網走郡西南ハ釧路國足寄郡西ヨリ、北ハ、紋別郡、東北ハ海ニ至ル、方言ヅコロト呼ブ山崎ノアル所ノ義ナリ、〉口一百二十二、戸三十一、村七、〈◯中略〉 網走郡〈東ハ斜里郡、南ハ釧路國川上、阿寒二郡、西ハ常呂郡、及ビ釧路國足寄郡ニ界シ、北ハ海ニ面ス、方言アバシリハ漏ル所ノ義ナリ、此地岩窟アリ、水常ニ滴ル、故ニ名ク、明治十四年七月、釧路國網尻郡ヲ併ス、〉口三百二十四、戸八十六、町一、村十四、〈◯中略〉 斜里郡〈東ハ根室國目梨郡、南ハ同國標津釧路國川上郡、西は網走郡ニ界シ、北ハ海ニ面ス、方言シヤリ、或ハシヤルト呼ブ、濕澤ノ義ナリ、〉口二百二十五、戸五十八、村五、〈◯下略〉

膽振國

〔日本地誌提要〕

〈七十六膽振〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1298 疆域 東ハ日高、西ハ後志、南ハ渡島及海、北ハ後志石狩ニ至ル、東西凡四拾四里貳拾五町、南北凡壹拾四里三町、

〔北海道志〕

〈四地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1298 戸口 膽振國 山越郡、〈東ハ海、南ハ渡島國茅部、爾志二郡、西ハ後志國久遠、太櫓、島牧三郡、北ハ虻田、及後志國壽都、歌棄二郡ニ界ス、方言ヤムクシナイハ栗ノ澤ヲ通路ト爲スノ義ナリ、一説ニ、冷水ノ流ル溪ト爲ス、〉口一千二百五十一、戸二百四十七、村三、〈◯中略〉 虻田郡〈東ハ有珠郡、及ビ石狩國札幌郡、南ハ海、西ハ山越郡、及ビ後志國磯谷郡、北ハ同國岩内、余市、小樽ノ三郡ニ至ル、方言アブハ鉤、タハ製作ナリ、鉤製作ノ所ト云義ナリ、〉口一千百三十二、戸一百四十一、村三、〈◯中略〉 有珠郡、〈東ハ室蘭、幌別、白老、千歳四郡、南ハ海、西北ハ虻田郡、東北ハ石狩國札幌郡ニ界ス、方言ウシヨロナリ、今短縮シテウスト呼ブ、灣ノ義ナリ、〉口三千六百四十六、戸六百八十五、村六、〈◯中略〉 室蘭郡、〈東ハ幌別郡、南ハ海、西北ハ有珠郡ニ界ス、方言モロハ數々、ランハ降ルナリ、此地ヨリ鷲別ニ至ル登降數回故ニ名クト、〉口千三百三十四、戸二百三十八、町七、村四、〈◯中略〉 幌別郡、〈東ハ白老郡、南ハ海、西ハ室蘭郡、北ハ有珠郡ニ界ス、方言ホロベツハ大川ノ義、一ニ云、窟川ノ義、水源窟アル故ニ名トス、〉口一千百二十九、戸一百三十六、村三、〈◯中略〉 白老郡〈東ハ勇拂郡、南ハ海、西ハ幌別、北ハ千歳郡ニ界ス、方言シラルヲヒト呼ブ、波生ズルノ義ナリ、此地砂濱ニシテ洪濤泛濫スル故ニ此名アリ〉、口六百三十三、戸一百四十一、村三、〈◯中略〉 勇拂郡、〈東ハ日高國沙流郡、南ハ海、西ハ白老郡、北ハ千歳郡ニ界ス、此地古名ユウブト呼ブ、ユウハ湯ナリ、ブハ港ナリ、又河水ノ合流ヲ云、此河源キムンゲツブトウト名ル、湖水ニテ温暖ヲ帶テ流ルヽ故ニ此名アリト、〉口一千三百十六、戸三百四十四、村六、〈◯中略〉 千歳郡、〈東ハ日高國沙流郡、南ハ勇拂、白老二郡、西及ビ北ハ石狩國札幌、夕張二郡ニ界ス、舊名志古都國音死骨ト通ズ、故ヲ以テ寛政年間、箱館奉行羽大正養改メ名ク、其義ハ此地鶴多ク集ルヲ以テ、鶴齡ノ長キニ取レリト、松前藩ノトキ、オクワコハ蠣崎四郞左衞門、オシツフハ厚谷新下、アツシハ工藤喜内、下マヽチハ木村又八、上ロウサン、ロウサンハ佐藤三郞左衞門、イチヤリハ今井善兵衞、チンメリ、マスハ岡口彦兵衞支配地タリ、〉口四百五十、戸百零七、村六、〈◯下略〉

日高國

〔日本地誌提要〕

〈七十七日高〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1298 疆域 東北ハ十勝、西ハ膽振、南ハ海ニ至ル、東西凡貳拾九里拾四町、南北凡貳拾壹里貳拾貳町、

〔北海道志〕

〈四地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1298 戸口 日高國 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1299 沙流郡、〈東ハ新冠、南ハ海、西ハ膽振國勇拂、千歳二郡、北ハ石狩國夕張、空知二郡、及ビ十勝國河西郡ニ界ス、松前藩ノ時、佐藤藤馬支配地タリ、北藩風土記ニ、此郷ノ夷ヲ御味方蝦夷ト呼ブ、昔時蝦夷蜂起ノ時松前ニ屬シ、其後奥蝦夷ヲ説諭スルノ勞アリ、故ニ毎歳恩賜アリシト云、〉口二千零四十、戸四百五十六、村十八、〈◯中略〉 新冠郡、〈東ハ靜内郡、南ハ海、西ハ沙流、北ハ十勝國河西郡ニ界ス、松前藩ノ時、工藤平右衞門支配地タリ、此亦御味方蝦夷ノ一ナリ、此地舊美朴ト呼ブ、國音雅馴ナラザルヲ以テ、文化六年、改テ新冠ト稱ス、〉口六百四十、戸一百四十、村十一、〈◯中略〉 靜内郡、〈東ハ三石浦河二郡、南ハ海、西ハ新冠、北ハ十勝國河西、中川二郡ニ界ス、松前藩ノ時、新井田兵作支配地タリ、本名佛内ニテ、曾祖母澤ノ義ナリ、往昔此ニ老母神アリシト云、〉口二千四百十八、戸四百六十七、村十六、〈◯中略〉 浦河郡、〈東ハ様似、南ハ海、西ハ三石、北ハ十勝國當縁、廣尾二郡ニ界ス、〉口一千六百十一、戸三百十一、村十一、〈◯中略〉 様似郡、〈東ハ幌泉、南ハ海、西ハ浦河、北ハ十勝國廣尾郡ニ界ス、方言シヤンヲマウニト呼ブ、名山アル所ノ義、或曰女夷ノ名ニ取ルト、〉口七百四十六、戸一百四十一、村八、〈◯中略〉 幌泉郡〈東南ハ海、西ハ様似、北ハ十勝國廣尾郡ニ界ス、〉口一千六百零九、戸四百零九、村九、〈◯下略〉

十勝國

〔日本地誌提要〕

〈七十七十勝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1299 疆域 東ハ釧路、北ハ石狩、西ハ日高、南ハ海ニ至ル、東西凡三拾里貳拾壹町、南北凡四拾七里壹拾八町、

〔北海道志〕

〈四地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1299 戸口 十勝國 廣尾郡、〈東ハ海、南ハ日高國幌泉郡、西ハ同國様似、浦河二郡、北ハ當縁郡ニ界ス、方言ヒロロト呼ブ、今誤テヒロート爲ス、ヒロハ屏所ナリ、此地三面山圍ム、故ニ名トス、〉口四百零七、戸七十三、村一、〈◯中略〉 當縁郡、〈東ハ海、南ハ廣尾、北ハ中川、西ハ日高國浦河郡ニ界ス、〉口五十四、戸十、村三、〈◯中略〉 上川郡、〈東ハ河東、南ハ河西、西ハ石狩國空知、上川二郡、北ハ北見國上川郡ニ界ス、〉口一百二十、戸十四、村二、〈◯中略〉 中川郡、〈東ハ十勝、南ハ當縁、及ビ日高國靜内郡、西ハ河東河西二郡、北ハ釧路國足寄郡ニ界ス、〉口六百二十、戸九十三、村二十二、〈◯中略〉 河東郡、〈東ハ中川、南ハ河西、西ハ上川郡、北ハ釧路國足寄、天鹽國中川二郡ニ界ス、〉口二百二十八、戸三十九、村五、〈◯中略〉 河西郡、〈東ハ中川郡、南ヨリ西ハ日高國靜内、新冠、沙流三郡、北ハ上川、河東二郡ニ界ス、〉口二百三十七、戸七十一、村十二、〈◯中略〉 十勝郡〈東ハ海、南ハ當縁、西ハ中川郡、北ハ釧路國白糠、足寄二郡ニ界ス、方言トカブチト呼ブ、乳房ノ義ナリ、河上ニフシコトカチト名ル地アリ、丘ノ乳房ニ似ルアリ、故ニ名トス、〉口二百四十七、戸百零八、村六、〈◯下略〉

釧路國

〔日本地誌提要〕

〈七十七釧路〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1299 疆域 東ハ根室、北ハ北見、西ハ十勝、石狩、南ハ海ニ至ル、東西凡四拾七里貳

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1300 拾壹町、南北凡貳十九里七町、

〔北海道志〕

〈四地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1300 戸口 釧路國 白糖郡、〈東南ハ海、北ハ阿寒、釧路二郡。西ハ十勝國十勝郡ニ界ス、方言シラリカナリ、今誤テシラヌカト呼ブ、平磯ノ義ナリ、〉口四百五十五、戸一百、村三、〈◯中略〉 足寄郡、〈東ハ阿寒、南ハ十勝國十勝、中川二郡、西ハ同國河東郡、及ビ天鹽國上川郡、北ハ北見國網走、常呂二郡ニ界ス、方言アイヲロノ略言ニテ、矢ヲ納ルヽ義ナリ、奥地ノ土人往返此所ニテ矢ヲ放チ、此地ノ神ヘ捧ル故ニ名ク、〉口一百十七、戸二十六、村四、〈◯中略〉 釧路郡、〈東ハ厚岸、南ハ海、西ハ阿寒、北ハ川上郡ニ界ス、方言クシユルト呼ブ、越ル道ノ義ナリ、此所西別又西地斜里網走等ヘ通路ス、故ニ此名アリ、〉口一千六百三十二、戸三百五十二、町一、村五、〈◯中略〉 阿寒郡、〈東ハ釧路、南ハ白糠、西ハ足寄、北ハ上川、及ビ北見國網走郡ニ界ス、〉口八十二、戸十八、村四、〈◯中略〉 川上郡、〈南ハ釧路、厚岸二郡、西ハ阿寒、及ビ北見國網走、東ハ根室國標津、野付、北ハ北見國斜里、網走二郡ニ界ス、〉口二百四十二、戸五十三、村五、〈◯中略〉 厚岸郡、〈東南ハ海、西ハ釧路、北ハ川上郡、及ビ根室國根室郡ニ界ス、方言阿津計牛ト呼ブ、今誤テ厚岸ト爲ス、土人アツシヲ織ル草ヲ剥ギ、沼ニ哂シ織ノ義ナリ、〉口二千六百九十七、戸二百、町二、村十五〈◯下略〉

根室國

〔知床日誌〕

〈此子モロ(○○○)〈去箱館百九十八里九丁、去厚消三十里三丁、持場沿海六十里十三丁、〉は東部第一の繁昌、地形北は舍利の山々、西はクスリ領より厚消に續き、總て平地、東南に海有、會所元〈◯註略〉は其一岬の北面にして、前にクナシリノツケを遠望して灣をなし、漁場多し、土産〈◯註略〉數ふるにいとまなし、土人〈文化度千二百餘人、當時五百十一人、當所に十一軒、三十六人有、〉所々に散在す、其地名ニムイにして、往古は此所樹木多く有りしが故號しと、ニは木、ムイは灣なり、今訛りて子モロと云よし、〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1300 日本地誌提要

〔七十七根室〕

〈疆域 西及南ハ釧路、西北ハ北見、東ハ海ニ至リ、南北兩角斗出シテ千島ニ對ス、東西凡壹拾九里壹拾八町、南北凡貳拾九里貳拾七町、〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1300 北海道志

〔四地理〕

〈戸口 根室國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1300 花咲郡、〈東南北三面ハ海、西南ノ一隅根室郡ニ接ス、〉口二百一、戸三十六、村九、〈◯中略〉 根室郡、〈東ノ花咲郡、西ハ野付郡、北ハ海、南ハ釧路國厚岸郡ニ界ス、〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1301 口二千六百二十二、戸五百四十六、町十、村六〈◯中略〉 野付郡、〈東ハ根室郡、西ハ標津郡、北ハ海、南ハ釧路國川上郡ニ界ス、〉口四百三十三、戸九十八、村四、〈◯中略〉 標津郡、〈東ハ野付郡、南ハ釧路國川上郡、西ハ北見國斜里郡、北ハ目梨郡、及ビ海ニ界ス、〉口三百四十五、戸一百零三、村二、〈◯中略〉 目梨郡、〈東ハ海、南ハ標津郡、西及ビ北ハ北見國斜里郡ニ界ス、〉口二百九十七、戸八十四、村四、〈◯中略〉

千島國

〔邊要分界圖考〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1301 邾弗加考(チユプカ) 東海ウルツプ島ヨリ、前路シモシリ島ヨリ、カムサスカ地方ニ至ル迄、凡十餘島、〈島ミナ丑寅ニ流ル〉世ノ所謂千島ニシテ、蝦夷人之ヲ稱シテチュプカト云、チュプカトハ、日出處ト云ノ義也、〈蝦夷人ハ日月ヲ指テ、チュプカムイト云、魯西亞國主ヲ稱シテ、チュブカカモイトノト云、魯西亞吏人ヲチュプトノト云、共ニ日出ル處ノ人ト云コト也、一説ニ初メロシヤ人諸島ニ來ルトキ、夷人ニ語テ曰ク、我國ノ帝王ハ日月ノ尊ガ如シト、故ニ夷人チュプカカムイト稱シ、其屬島ヲ、チュプカト云ト亦通ズ、〉蠻書ニ、〈紅毛千七百六十八年、刻スル所ノモノ、〉之ヲクリル諸島ト云、〈蠻書ニ曰、カムサスカノ南ノ出崎ヨリ、南西ノ日本ノ方マデ、大小ノ島連續シタルモノ、大凡二十五、一二日三十六、其餘ハ詳ニシガタシ、カムサスカニ近キハ皆魯西亞ニ屬ス、〉ソノ島大ナル者十六、小ナル者無數、古昔ミナ我蝦夷ノ屬島タリシニ、八十年前、〈正徳中〉魯西亞人カムサスカヲ併呑シテヨリ、漸々ニ諸島ヲ蠶食シテ、三十年前ヨリシモシリ迄ヲ服從シテ、其島々ノ名ヲ改メテ魯西亞ノ名トナシ、二十年前ヨリ夷人ノ風俗ヲ易ヘテ、魯西亞ノ風俗トナシ、往古ヨリ日本ニ屬セシ蝦夷人ヲシテ、髮ヲ辮ミ帽子ヲ被リ、股引ヲ用ヒ靴ヲ穿チ、鐵炮玉藥ヲ與ヘ、魯西亞人ノ言ヲ使ヒ、魯西亞ノ佛ヲ頸ニカケ、魯西亞ヨリ役人并ニ教法師ヲシテ、〈教法師ヲ夷人ハヨウロウシイシヤムト云〉時々諸島ヘ至リ撫順セシメ、其夷人ヲ悉ク魯西亞ニ貢ヲ入ルヽニ至ラシメ、十年前ヨリウルツプ島ニ到リテ土著シ、傲然トシテ去ラザルニ至ル、カムサスカハクルムセノ國地ニシテ、本我蝦夷ノ種族ナリ、其地今魯西亞北海ノ要津トナル、嘆ズベキニ非ズヤ、チュプカ諸島ノ地理、前輩ノ圖書大抵疎漏少カラズ、天明中、最上常矩嘗テウルツプ島ニ至リ、魯西亞人イシユユニケタニ邂逅シテ、其大略ヲ得タリ、然レドモ未ソノ詳ナルコトヲ得ズ、寛政十二年、守重〈◯近藤〉奉命シテヱトロフ島ヲ按察シ、〈ヱトロフ島モ古來日本人往シコト更ニナシ、寛政十年、守重始テ此島ヘ渡リシハ、前後日本人渡海ノ四度目也、其時守重最上常矩ト共ニ此島ヲ見開キ、翌十一年、海路ヲ開キ、十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1302 〈年、山田嘉元ト廻船ニ乘テ、クナシリ島ヨリ同島トリカマイニ著帆シ、ヲイトヱ會所ヲ立ツ、此島日本ノ船ヲ通ジ、日本ノ家ヲ立シ初ナリ、〉魯西亞人立ル所ノ十字ヲ倒シ、〈是ヨリサキ、ロシヤ人イシユユ、ヱトロフヘ七年在留シ、十字ヲ立テ夷人ヘ法ヲ教ヘ、夷人ノ中ソノ佛ヲ受ケ、其風俗ヲ變ズル者有ニ至ル、エトロフ島シヤルシヤムノ夷人ハ、ウシビト云モノハ髮モ魯西亞ノ風トナリ、ソノ佛ヲウケ、符呪ヲ受ルニ至ル、又夷人ヘ名ヲ與ヘテ、ホウナンセト改ルモノアリ、〉同島カムイワツカヲイニ於テ、木ヲ立テ標トス、翌年ヱトロフ島ヲ新開シ、魯西亞人授ル處ノ佛ヲ棄シメ、魯西亞人變ズル處ノ風俗ヲ改テ、本邦ノ風俗トナス、

〔蝦夷島記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1302 蝦夷の千島と申は、東の方松前居られ候、蝦夷島より海上七八十里有之、風はげしく日本の船は通路成りがたく、蝦夷は船にて通路仕候、

〔日本地誌提要〕

〈七十七千島〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1302 疆域 根室州ノ東北群島ヲ合稱ス、幅員五百七拾貳方里八、大者貳島アリ、東ヲ擇捉(エトロフ)ト云、西ヲ國後(クナシリ)ト云、共ニ地形狹長、國後幅員壹百零四方里、周回凡七拾壹里、西南ヨリ東北ニ至ル、凡三拾里、東西廣處凡八里、根室野付岬ト相距ル凡五里ニアリ、擇捉幅員四百六拾八方里七六、周回凡壹百五拾三里、西南ヨリ東北ニ至ル、凡五拾里、東西廣處凡拾里、國後ノ東北凡三里餘ニアリ、又其東北得撫(ウルツプ)群島ニ連リ、魯西亞ノ堪察加(カムサツカ)ニ至ル、

〔北海道志〕

〈四地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1302 戸口 千島國 國後郡、〈東南ハ太平洋、西北ハ疴哥斯科海、西南ハ根室國、東北ハ擇捉郡ニ對ス、〉口七百十、戸八十二、村五、〈◯中略〉 擇捉郡、〈東南ハ太平洋、西北ハ疴哥斯科海、西南ハ國後郡ニ對シ、東北ハ振別郡ニ接ス、〉口一百四、戸十六、村二、〈◯中略〉 振別郡、〈東南ハ太平洋、西北ハ疴哥斯科海ニ對シ、西南ハ擇捉郡、東北ハ紗那郡ニ接ス、〉口一百八十八、戸二十八、村二、〈◯中略〉 紗那郡、〈東南ハ太平洋、西北ハ疴哥斯科海ニ對シ、西南ハ振別郡、東北ハ蘂取郡ニ接ス、〉口三百十、戸三十七、村四、〈◯中略〉 蘂取郡、〈東南ハ太平洋、西北ハ疴哥斯科海、東北ハ得撫島ニ對シ、西南ハ紗那郡ニ接ス、〉口一百七十二、戸三十、村二、〈◯中略〉 得撫郡、〈東南ハ太平洋、西北ハ疴哥斯科海、西南ハ蘂取郡、東北ハ新知郡ニ對ス、〉口三十三、戸十一、村一、〈◯中略〉 新知郡、〈東南ハ太平洋、西北ハ疴哥斯科海、西南ハ得撫郡、東北ハ占守郡ニ對ス、〉口五十七、戸十三、村一、〈◯中略〉 占守郡、〈東南ハ太平洋、西北ハ疴哥斯科海、西南ハ新知郡、東北ハ露領柬察加ニ對ス、〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1303 口二十二、戸六、村二、〈◯下略〉

〔蝦夷草紙〕

〈四附録〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1303 ヱトロフ島(○○○○○)之事 一ヱトロフ島は、クナシリ島の隣島にて、彼島より渡り口西南の地、海邊に峨々たる峻山の下に、イトイヤ、ヘレタルヘといふ二ケ所、クナシリ島に渡海の船、日和を伺う處也、是より北一里程にして、モヨロといふ所に蝦夷村あり、此村の乙名をクテレルといふ、此乙名の稼場にて濱邊に古碇あり、三頭あり、頭の重さ七十貫目程也、〈◯中略〉之より北方には磯邊を副ひ漕ぎ、凡二十餘里にしてアツサノホリといふ高山あり、〈◯中略〉此アツサノホリより、北大凡島中央にモシリノツケといふ所に、ヱトロフツタラといふ岩あり、あげ卷の形に似たり、此岩に因て當島をヱトロフと名づく、昔ヲキクルミ、シヤマイクルといふ二人の神とも謂つべき人、蝦夷北に渡りたるが、其人の太刀の環に提し緒の形に似たるとて、ヱトロフといへり、ヱトロは鼻、フは緒、ツタラは岩といふ義也、此二人は義經と辨慶の兩人也といふ説あれども、いまだに詳なる事をしらず、是より僅此方に、シヤナアといふ所に河あり、水勢漫々として、山奧曠地有て、其地を流れこヽに至ると見へたり、此處は鷲の羽の出る所にして、蝦夷地鷲羽出産最一の場所也、眞羽、薄氷、粕尾の三品、共に比類なき良品の物多し、又シヤナアより北方海濱に四五十里隔て、シヨツ、チキヤという所あり、此處に蝦夷人食物とする土あり、色白く和らかにて餅のごとし、食用に達せんと思ふ時は、まづ水にひたし水飛して、土を去て煎るに、しやうふ糊のごとし、味ひ平淡にして毒なし、土人殊に賞翫する也、又此シヨツ、チキヤより北方西最よりの隅に當り、海路凡十里にして、シヤルシヤムといふ所あり、此處にマウカアイノといふ乙名あり、此乙名の處に、魯齊亞國の人にて赤人と唱ふる者滯留して居たる處にて、彼人卒都婆のごとくなる柱を建て置たり、此柱に彼國の國字を録したり、庭前に建置て信仰し、朝暮に拜禮するといへり、此卒都婆に大説あり、書に載がたき一段なり、時

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1304 を得て具に發語せんと思ふ所也、此所にイバヌシカといふ蝦夷人あり、此イバヌシカは赤人の言語を能習ひ、通詞をする也、依て赤人より名をつけてホヲナンセといふ、此シヤルシヤムより僅北方にゆき、ヒン子ヘツといふ所あり、此處に瀧あり、〈◯中略〉蝦夷地第一の大瀧也といへり、此所までは當島の西浦にて、海上も靜なり、是より東浦に廻れば、實に荒島にて、波浪も高く、潮汐の流も早くして、少し風あれば通船もなり難く、此ヒン子ヘツより東方凡十里程に、モシリハツケといふ處に燒山あり、此燒山の裾通、東南に向て搔き送り、一日の海路をへて、トウシルヽといふ所にいたれば、古碇一頭あり、是は寛文十二年壬子、勢州の舶志摩國を開帆して難風にあい、翌年七月、初て一國にいたるといへり、則此處也、天明丙午年〈◯六年〉まで一百一十五年を經たり、此説三國通覽にも載たり、三十日の旅行を經て、西南の地に至るといふ、爰を以て島の廣き事を考ふべし、此邊は海豹海鹿至て多し、〈◯中略〉 ウルツプ島(○○○○○)の事 一ウルツプ島は、一名獵虎島とも唱ふ也、海獸に獵虎といふ獸、比嶼の周廻の海中にある故に、獵虎島ともいひ、又ウルツプ島ともいふ也、ウルツプは魚にて、此島の周廻の海中に出産す、此魚形鱒のごとく、肉の色至て赤く、味ひ亦美也、扨此島の西浦に、モシリヤといふ所有、予ヱトロフ島より渉海して此處に著船す、此所に海苔の名産有、其品日本若布のごとく、香味ともに至て美し、又海膽多くあり、獵虎是を好て食する也、同島にタブケワタラといふ島あり、モシリヤより北方に僅に隔たる所なり、此處に黄金の山色あり、其山の體を能糺し見るに、隙間(ヒアイ)とて金山の曼ありて、甚だよき寶山となるべき也、比海濱を北に過れば、セクツといふ所あり、海岸の巖頭より温泉湧出て、瀧と成て直に海中に落る、予數日の旅行の間に浴せざれば、此温泉を浴せり、此セクツより磯邊を北方にゆき、西の海中に離れ、ウツといふ岩島あり、此岩島至て險阻也、數十丈の巖頂に、異島

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1305 郡集せり、ヱトヒリカ、フレシャムチリといふ鳥など、産物の條に委し、此岩山の形甚だ險阻にして、風景眺望目を驚かすばかり也、扨又ベウツの北にアタツイといふ所有、此處に赤人の家宅五六戸あり、其造作穴居とも云つべき體なり、此處小河にシユルゴマトいふ異魚あり、國を隔れば、産物も又異形の魚鳥異類の物多し、また此アタツイより北にゆき、ヲタレモイといふ所あり、此所はこの島の西北の隅にて、遙の沖に、西にはマカンルヽ島、北にハレブンチリホイ島、ヤンゲチリホイ島の三島みゆる也、又ヲタンモイより崎を廻りて、東北の沖にヲレムコといふ小島あり、是より遙の沖にヤンケモシリ島、ヲタホ島、レフンモシリ島、カハルモシリ島の四島あり、此外晴天なればシモシリ島もみゆる、此島はヱトロウ島よりは大島なり、扨此ヲレムコより僅南にゆき、チヘヤイムといふ所あり、此處は獵虎の職場にて、赤人此地を改名してシヤバリンと號す、此處赤人の泊有、泊とは船の懸る處をいふ也、天明丙午年〈◯六年〉以前十ケ年に、赤人渉海せし時に、大津浪あり、其節大波濤に彼大船打揚られ、山の谷間に懸りたり、赤人ども引出さんとすれ共其手段なく、その儘大船は山に捨置たりといへり、予是を功覿したり、扨比海を赤人改名してレバキント稱す、赤人假住居の宅五六戸あり、又ワニナウより南に地續き遙に隔て、ノビといふ所あり、都て比邊は獵虎多し、赤人改名してコロシンと名付たり、爰に名産多き島也、

村里/聚落

〔野史〕

〈二百八十八外國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1305 蝦夷或野作、〈増譯采覽異言〉在陸奧北津輕龍飛碕、南部大間嶽、唯隔海水一條耳、凡自四十三度五十三度、大寒國也、東西屈曲、廣狹不一、一州分爲(○○○○)五部(○○)、曰波良岐、是謂東部(○○)、聚落五十一、〈夷語曰女那志久留〉隔直徑百七八十里、曰岐伊多布、是謂東北部(○○○)、聚落七、直徑八九十里、曰宇良耶志遍都、是謂北部(○○)、聚落四、廻北西百四五十里、曰曾宇耶、是謂西部(○○)、〈夷語曰志由牟久留〉聚落四十一、直徑二百餘里、到宇須遍知添兩瀦及大河、是謂中部(○○)、聚落十三、總五部、〈蝦夷記〉

〔松前島郷帳〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1305 一人居村(○○○)數八拾壹箇所 一蝦夷人居所(○○○○○)百四拾箇所 一總島數(○○○)四拾八箇所 一田

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1306 地高無御座候 元祿十三庚辰年正月日 松前志摩守

〔蝦夷拾遺〕

〈元地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1306 地理大概 松前ニ次者 根部田村、〈十戸不足、二十餘人、〉札前村、〈十餘戸、四十餘人、〉赤神村、〈十戸不足、二十餘人、〉兩垂石村、〈十戸許、二十人、〉茂草村、〈二十戸、七十餘人、〉清部村、〈四十餘戸、百四十餘人、〉江良町村、〈百戸許、百八十餘人、〉原口村、〈十戸許、三十餘人、〉小砂子村、〈二十戸許、九十餘人、〉石崎村、〈六十戸餘、百八十餘人、〉羽根差村、〈十戸許、四十人許、〉山子崎村、〈十戸許、十人餘、〉鹽吹村、〈五十戸許、百五十人、〉扇石村、〈十一戸、六十人、〉木子村、〈六十戸、百六十人、〉原歌村〈十戸、十人、〉上之國村、〈二百十餘戸、三百七十人、〉喜多村、〈九十戸、三百六十人、〉大留村、〈六十餘戸、三百三十人、〉五勝手村、〈百餘戸、三百五十餘人、〉江差村、〈千餘戸、三千五百餘人、此地諸國商船來ル、〉泊村、〈百九十餘戸、二百人餘、〉尾山村、〈二十戸許、三十人餘、〉田澤村、〈八十戸許、二百三十人餘、〉伏木戸村、〈三十戸許、百餘人、〉厚澤部村、〈二百三十戸、九百餘人、〉五輪澤村、〈十戸許、十餘人、〉乙部村、〈二百五十戸、八百二十人、〉小茂内村、〈五十餘戸、百九十人餘、〉大茂内村、〈四十戸、百三十人、〉突府村、〈二十戸餘、八十人許、〉三谷村、〈四十戸許、百三十人、〉蚊柱村、〈六十戸許、二百人、〉相沿内村、〈百戸許、二百人餘、〉泊川村、〈九十餘戸、百三十人許、〉熊石村、〈百八十餘戸、六百人、〉小島、〈茂草村ノ沖凡三里餘ニ在、民家ナシ、周廻三十人許、〉大島、〈江良町村ノ沖凡五里ニ在、周廻二十里餘、民家ナシ、常ニ烟ヲ吐ク、〉奧尻島、〈熊石村ヨリ西北ノ沖凡十里餘ニ在、周廻十里許、民家ナシ、〉 以上松前ヨリ西北ニ在、松前ヨリ熊石エ陸路廿六里餘、 下及部村、〈三十戸、凡十餘人、〉上及部村、〈四十戸許、百七十人餘、〉大澤村、〈八十戸許、三百七十人許、〉荒谷村、〈二十戸許、廿餘人、〉炭燒澤村、〈三十戸許、四十人許、〉禮髭村、〈五十戸許、百五十餘人、〉吉岡村、〈五十戸許、二百六十人餘、〉宮歌村、〈八十餘戸、三百三十人餘、〉白府村、〈七十戸、二百五十人、〉福島村〈八十戸、三百四十人、〉知内村、〈七十戸、二百五十人、〉木子内(キコナイ)村、〈五十戸許二百人餘、〉札狩村、〈三十餘戸、百五十人、〉泉澤村、〈五十餘戸、百五十人、〉釜谷村、〈二十戸許、八十人許、〉三石村、〈三十餘戸、百四十人許、〉當別村、〈十戸許、三十人餘、〉茂邊地村、〈六十餘戸、三百人餘、〉富川村、〈三十戸、百四十人餘〉三谷村、〈五十戸、二百卅人餘、〉戸切地村、〈百戸許、三百八十人、〉有川村、〈七十戸、三百六十人、〉濁川村、〈四十戸許、二百餘人、〉文月村、〈三十戸、百餘人、〉上山村、〈五十戸、二百七十人、〉鍛冶村、〈四十戸、百八十人、〉大野村、〈六十戸許、二百五十人、〉一ノ渡村、〈六十戸、二百八十人許、〉七重村、〈五十戸、二百六十人、〉上湯川村、〈三十戸許、百二十人餘、〉下湯川村、〈五十戸許、二百餘人、〉龜田村、〈三十戸、百四十人餘、〉箱館村、〈四百五十戸許、二千五百人餘、此所モ諸國ノ商船湊來リテ、市ヲナスコト松前ニ同ジ、依テ松前江差箱館ヲ三港ト云〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1307 〈ト云、〉尻澤部(シリシマヒ)村、〈四十戸許、百四十人、〉柴海苔村、〈三十戸許、百四十人許、〉錢龜澤村、〈十餘戸、五十餘人、〉汐泊村、〈二十餘戸、九十人許、〉石崎村、〈六十戸許、三百餘人、〉小安村、〈四十戸餘、百六十人、〉世多良村、〈十戸許、二十人許、〉 以上松前ヨリ東南ニ在、松前ヨリ世多良エ陸路三十里餘、都合七十七村、六千八百餘戸、二万六千人餘、 セキナイ〈垂石村ト界ヲ接ヘ海岸行程十里餘、奥ノ島ノ中央ナル山頭ヲ界トス、里數并ヱゾノ戸數詳ナラズ、他國ノ商人來テ諸産ヲ買ヒ集ル商家一戸アリ、松前氏エ運上ト唱ヘ、利潤ノ内チ分チ納ムルヲ以テ、其商家ヲ運上屋ト云、〉 ウスヘチ〈運上屋一戸皆同海岸里數七里〉 セタナイ〈五里ヨ〉 フトロ〈三里ヨ〉 ヲウタ〈十里ヨ〉 スツキ〈十里ヨ〉 シマコサキ〈五里ヨ〉 スツウ〈七里ヨ〉 ヲタスツ〈三里ヨ〉 イソヤ(イソヤノ北川向ヘシリヘツ)〈十里ヨ〉 イワナイ〈三里ヨ〉 フルウ〈十一里〉 シマコタン〈九里ヨ〉 ヒクニ〈十五里〉 フルヒラ〈三里ヨ〉 カミヨイ〈四里ヨ〉 シモヨイチ〈三里ヨ〉 モイレ〈八里ヨ〉 シクスシ〈十里ヨ〉 ヲタルナイ〈七里ヨ〉 イシカリ〈運上屋八戸、海岸里數十里餘也、八戸ノ内一戸ハ鮭一色ヲ出シ、七戸ハ諸色ヲ商フ、此地島中ニテノ大河アリ、ヱゾ皆其流ニ臨テ居ス、(中略)總テ四方ヘ便利ノ地ニシテ、相開ルノ後ハ、國ノ府トモ成ルベキ土地ナリ、〉 アツク〈一戸下テンホ迄同三リヨ〉 マシケ〈十里ヨ〉 トママイ(トマヽイノ北ハホロ)〈十里〉 テンホ〈三十里〉 ソウヤ〈五十里餘舟ヲ繫テ風波ノ憂ナシ、此地ヨリカラフト島エ渡ルベシ、昔ヨリ松前人ノ行至ルハ、此所ヲ以限トス、〉 トウヘツ〈川アリ、エゾノ川舟通ズ、〉 ユウヘツ〈川アリ、暫エゾノ川舟通ズ、〉 トウフツ〈湖水アリ、エゾ舟通ズ、〉 アワシリ〈川及湖アリ、エゾ舟通ズ、〉 ウラマシヘツ〈川アリ、暫エゾノ川舟通ズ、〉 シマリ〈川アリ、暫エゾノ川舟通ズ、〉 ヘレケトマリ〈繫舟風波ノ憂ナキ入江ナリ〉 シレトコ〈トウヘツヨリシレトコマデ、海岸里數百五十里餘、此内地ヘハ、古ヘヨリ松前人行コトアタハズ、故運上屋ナシ、諸産ハソウヤヘ持來テ交易ス、都テノ風土ハ異ルコトナシ、〉 テウレ〈テシホノ沖七里ニ在、周廻六里、運上屋ナシ、マンゲシリヘ來交易ス、〉 マンゲシリ〈テンホノ沖六リニ在、周廻四里ヨ、運上屋一戸、〉 リイシリ〈ソウヤ境内ハツカイヘツノ沖五里ニアリ、周卅里、運上屋一戸、〉レフンシリ〈ソウヤノ境内ノツシマムノ沖十里ニアリ、周七十里、リイシリノ運上屋交易、〉 以上西蝦夷之地ト云(○○○○○○○○○) トイ〈運上屋一戸、タルマヘ迄同ジ、世多村ト界ヲ接ス、此内地海岸里數三里餘、〉 シリキシナイ〈三里ヨ〉 オサルベ〈二里ヨ〉 カマベ〈八里ヨ〉 ノクヲイ〈七里ヨ〉 ユウラツフ〈八リヨ〉 アフタ〈十五里ヨ〉 ウス〈八リヨ〉 エトモ〈十一リヨ〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1308 ホロベツ〈九リヨ〉 シラヲヒ〈七リヨ〉 アヒロ〈二リヨ〉 タルマヘ〈三リヨ〉 シコツ〈十四戸、十里ヨ、六戸ハ海岸ニ在、八戸ハシコツ川ノ岸ニアリ、各境ヲ極メ諸産ヲ買フ、シコツ川ノ末イシカリ川エ落ツ、〉 サルアシヘツ〈一戸十九リヨ〉 ニイカツフ〈一戸七リヨ〉 シフチマリ〈三戸六リヨ〉 ミツイシ〈一戸七リヨ〉 ウラカワ〈一戸十二リヨ〉 アフラコマ〈一戸八リヨ〉 トカチ〈三戸、四十リヨ、〉 シラスカ〈一戸十リヨ〉 クスリ〈一戸七リヨ〉 アツケシ〈一戸、此地江海ニテ東ノ渚ニ商家アリ、海口ニ小島アツテ波ヲ防ギ、舟ヲ繫テハ風ノ憂ナシ、シコタン、クナジリ等ノ諸島ヘワタルニモ便利也、(中略)凡平原ニシテ田畑トナルベキ地廣大也、相開クルノ後、島中第一ノ湊トナルベシ、〉 キイタツフ〈一戸、四十リ、古ヨリ松前人至ル處此地ニ盡ク、〉 サシルイ〈入江アリ〉 モイレフ〈シレトコト接界、サシルイヨリ是迄海岸二十ヨ里、此内地ヘハ古ヨリ松前人行コトアタハズ、産物ハキイタツフヘ持來テ交易、風土異ナルコトナシ、〉 ユルリ〈キイタツフ沖十町餘ニアリ、周リ一里餘ナリ、エゾ家及産物ナシ、商舟此島ニ泊ルコトアリ、〉 シコタン〈キイタツフ東ノ沖凡十里ヨニ在、周二十餘里ヨ、エゾノ戸口詳ナルコトシラズ、産物ハキイタツフヘ持來交易ス、是ニ屬スル十島左ノゴトシ、〉 タラク モシリカ ハルカルモシリ シイウシ ユウル アキロヽ モイモシリ スイシヨ〈商舶是ニ泊スルコトアリ〉 ウカツトキ キナシトマウフ〈十島、人居ニナラヌ小島ナリ、〉 クナシリ〈キイタツフヨリ海行七里ヨ東北ニアリ、周一百里餘ヲトシルベト云所ニ運上屋一戸アリ、エゾ皆此ニ集テ交易ス、松前ノ人至處モ此地ヲ限トス、〉 ヲトシルベ〈キイタツフヨリ此地ニ渡ル舟ヲ、ツナグニ最宜シ、〉 ヘトクリ セシキイ トビウ チヤシマ ルロイ アトイヤ〈此地ヨリヱトロフヘ渡ルベシ、小船ヲ繫グ許ノ風波ヲ防グ隈アリ、〉 ヒラウ ヲン子ヘツ チクニ ハウナケラムイ〈以上十二所ハ各海岸ニ臨テ、エゾ家アリ、此外山ニ入テモ在所アレド戸口詳ナルコトシルベカラズ、〉 以上東蝦夷地ト云、ヱゾ地ニ至テ地名ヲ記ス所ハ、總テ一村ノ稱ニ非ズ、國郡或ハ縣庄ニ類スベシ、東西運上屋凡七十餘戸也、

領/會所/運上屋

〔西蝦夷日誌〕

〈初編凡例〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1308 一其太概は東蝦夷の部に演、依て略す、雖然また東西異る事件も有る故に聊か贅し置く、東の會所(○○)は西にて運上屋(○○○)也、

〔西蝦夷日誌〕

〈初編〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1308 クドウ領(○○○○)〈◯中略〉 クドウ、〈◯註略〉濱形未申向、右コウタ岬、左エナヲ岬にして一灣と成、船泊宜し、〈從箱館海上五十五里〉後方平山つヾき、太田山に至る、樹木多し、〈◯中略〉土人〈文政改五軒廿五人、安政改三軒十一人、〉此運上や元は臼別に在しと、〈寛政改九軒四十九人〉依て仕切判も臼別と今に在り、本名グウウンヅウにて、ク

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1309 ウは弓、ウンは入る、又在に當り、ツウは山崎にて、弓形崎の義也、〈地名解〉又弓形に窪き所とも言り、太田領(○○○) 地名何の轉ぜしや、今は太田と書、是を古老に審に知る者なし、此場所久敷土人絶て有しが故、近年請負人なく、春漁は申に及ばず、蚫海鼠も八ケ村の夏漁の稽古場と成て、無運上の地なり、 太櫓領(○○○)〈◯中略〉 太櫓〈◯註略〉地形西北向なれども、船泊宜し、上は平山、樹木なし、この地本名キリキリ也、フトロは東の川の名なるを、場所の總名とす、其義ビトロにて、ビツヲロの略語、ヒツは小石、鯡網の鎭石にする石の事也、ヲロは有る、〈地名解〉又ビトロにて美敷所ともいへり、〈◯註略〉土人〈文政改十七軒人別六十八人、安政改十八軒七十三人、〉 瀬田内(○○○)〈◯中略〉 瀬田内、〈運上や◯中略〉名義大澤の義、此後ろの川を指て號く、本名セタヲミマヒイナイなり、此所本名エンルンにて、岬の義也、土人多し、總て漁獵の暇畑作を好む、〈文政改十九軒八十六人、安政改十八軒七十三人、〉シツキ領(○○○○) 本名シユフキ、譯して蘆荻也、元一ケ場所にて有しが、土人も追々死絶て、纔に一人〈フクタロ〉殘り居る計也、故に島古卷持と成て有、

〔西蝦夷日誌〕

〈二編〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1309 島古卷領(○○○○)〈◯中略〉 島古卷運上屋、〈◯註略〉昔はホロムイに在しを、此處に移す、上に大岩有、實に奇觀也、濱形西面海面に立岩と云有、其餘種々の奇岩有、産物春彼岸より鯡、夏分海鼠蚫雜昆布、秋は鰑鮭http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001e8fe.gif 鱈、雜魚は四時共に有、土人〈文政五壬午改三十一軒百廿八人、男六十八人、女六十人、安政元改十一軒三十四人、男二十五人、女九人、〉近比大に減ず、此九人の女も皆老婆と子供にて、當時孕む者なし、 壽津領(○○○)〈◯中略〉 スツヽ運上屋、〈◯註略〉當所地名はシユマテレケウシにて、スツヽは川の名也、土人〈文政改十五軒七十六人、安政十六軒六十三人、〉昔は五百餘人も此川筋に在しと、其者今濱に出て住する故、川の名を以て總名とす、土地艮向にして、西にルシヤ岳、〈并て〉トツプ岳を帶、ヲタスツと對して灣をなす、土産鯡を第一とし、鮭、鱒、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001e8fe.gif 、鮃、鱈、海鼠、蚫、駄昆布とて細き昆布、又海草も多し、材木、薪、椎茸有、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1310 ヲタスツ領(○○○○○)〈◯中略〉 ヲタスツ運上屋、〈◯中略〉地形後にヲタスツ岳と云有、濱西向、スツヽと對して灣をなす、土人〈文政改四十六軒二百九人、安政改十五軒五十四人、〉然る處去暮痘瘡にて多く死し、當時女人に不足のよし也、磯谷領(○○○)〈◯中略〉 イソヤ運上屋、〈◯註略〉本名イシヤウヤにて、岩磯岡也、此邊總て暗礁多きが故に號く、地形後に山有、前ライテン岬に對して灣をなし、海中小島有、〈◯中略〉土人〈文政改廿四軒八十三人、安政改五軒十七人、〉今十年も過れば絶んと思はる、

〔西蝦夷日誌〕

〈三編〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1310 岩内領(○○○)〈◯中略〉 イワナイ運上や、〈◯中略〉イワナイの名義はイワヲナイにて、硫黄澤也、其地南五丁なる川也、此地は本名ヲムナイ也、此所土人昔よりイワナイに住る故總名となる也、地形西南山有、東北サ子ナイに對一灣をなす、近くはホリカフに向て灣をなす、船懸りよろし、土人〈文政改七十一軒二百五十人、安政改二十六軒五十六人、〉往古は千餘軒有て、シリフカ川筋に注しと、 フルウ領(○○○○)〈◯中略〉 フルウ運上や、〈◯中略〉地形は後に山有、前砂地、右フイタウシ、左トラセにて灣となり、船懸よし、未向、暖也、傍に大なる奇岩あり、風景よろし、土人〈文政改二十九軒百廿八人、安政改十八軒七十五人、〉往古は所所部落せしが、今爰に集る

〔西蝦夷日誌〕

〈四編〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1310 シヤコダン場所(○○○○○○○)〈◯中略〉 シヤコタン場所〈◯註略〉當所はクツタランにて、シヤコタンと云は、場所の總名なり、濱形戌向にして、後ろ平山、前に島あり、酉戌の方ヲカムイと對して一灣をなしたり、土人多し、〈文化五壬午改十五軒七十五人、安政二乙卯改十七軒七十七人、◯中略〉山嶮にして熊鹿多く、雜樹巨材を出す、地味肥沃にして海に海草多し、 ビクニ(○○○) ビクとは小石の義、ウニは有る、此邊總て小石原なる故に號しもの也、〈◯中略〉ビクニ運上や、〈◯中略〉ビクニは川の名なりしが、今場所の總名となりしなり、本名はヲタニコロといふ也、譯して砂濱の義、土人〈文政壬午改十四軒人別五十四人、安政改七軒十四人、〉如此四分一に成たり、 フルビラ(○○○○)〈◯中略〉 フルビラ運上屋、〈◯註略〉地形左丸山崎、右チヤノセフイ岬の間一小灣をなし、後は

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1311 平山南方に川有、其兩岸澤目平地、丑寅向にして宜しき泊なり、古平は川の兩岸赤崩平の名也、今爰の總名と成し也、土人〈文政壬午改七十三軒三百七十四人、安政乙卯改五十五軒二百四十一人、〉多シ、 ヨイチ領(○○○○)〈◯中略〉 ヨエチ運上や、〈◯中略〉名義はイウヲチなり、イウとは温泉の事、ヲチはある、此水源に温泉有故號る也、其地所は川の事也、此處は本名シユマヲイと云る處也、〈◯中略〉土人多し、〈文政壬午改九十九軒五百六十四人、文政乙卯改七十九軒四百九十三人、〉 ヲシヨロ領(○○○○○)〈◯中略〉 ヲシヨロ運上や、〈◯註略〉名義ウシヨロにして、懷の事也、此處懷の如く灣に成し故號く、〈◯中略〉灣口亥向にして、後に平山つヾき、凡百五六十町にてヲシヨロ岳ありて、雜木陰森たり、また其邊り李花多く、滿開の時は海面に映じて、棹入漁舟は水晶盤裏を渉るかと思はる、土人多し、〈文政壬午三十軒百廿五人、安政乙卯七十一軒二百九十七人、〉 タカシマ領(○○○○○) 高島といへども、本名トカリシユマにして、譯て水豹(アサラシ/トカリシユマ)岩の義也此處灣の中に水豹の多く寄集る岩有、故に號しもの也、また一説には、前の岩の形水豹に似たる故號るともいへり、〈◯中略〉高島運上や、〈◯註略〉前船懸り宜し、地形後山にして、右左とも岬有、内一灣をなし、深くして船繫よし、〈◯中略〉土人有、〈文政壬午四十一軒人別百九十九人、安政乙卯十九軒七十一人、〉 ヲタルナイ(○○○○○) 譯て沙路澤にして、其地は石狩境の川也、今此場所の總名となるは、當所の土人總て、其澤目に住せしが故なり、〈◯中略〉ヲタルナイ運上や、〈◯中略〉地形高島よりアツタ領、コギヒルの大灣の奧に成、丑寅向にして、後はシユマサン岳よりカツナイ岳等聳え、海岸は近年迄歩行路無りしを、今度其岸には棧を架け、岩を鑿、石を碎て、今は可也に通行成様になりたり、〈◯中略〉土人多し、〈文政壬午改四十三軒百五十人、安政乙卯改二十六軒百二人、〉

〔西蝦夷日誌〕

〈五編〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1311 石狩領(○○○)〈◯中略〉 イシカリ元小屋、〈◯註略〉他場所にては運上やと云、此處にて元小やと云は、石狩十三ケ所の元小やと云より起し事なり、〈◯中略〉イシカリ、譯て行詣て先か不見形を云、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1312 其儀何故に號初めしや、水源にイシカリ岳あり、其より來る川なる故なり、又一説に、イとはイシヤにて無と云儀、シカリとは塞ると申事にて、此川筋屈曲して塞り見へざる故號る哉、〈地名解〉地形西北向にして、總て平地、地味濱より七八町上より眞土に成、濕地多く、草生宜しく、追々陸になる程樹木蕃茂したり、昔は當川筋十三ケ處に分たり、〈トクヒタ、シユマヽツフ、上下ツイシカリ、ハツシヤフ、千百七十人、上カハタ三百七十二人、下ユウハリ四百九十二人、上ユウハリ三百七十二人、下サツホロ百九十四人、下カハタ百二人、ナイホ廿九人、上サツホロ百九十四人、シノロ百卅八人、〆三千六十七人、文化六年改、〉其頃は如此人別も有しを、此餘上川には六百人計も別になりしが、今は追々人員減じぬ、實に遺憾ならずや、〈文政壬午改千百五十八人、安政乙卯改六百七十人、〉 アツタ領(○○○○) アツタ、譯して楡皮取(アツタ)といふ儀にて、此川楡皮多きが故に號し也、〈◯中略〉昔し此運上やアツタに有りしが故、場所の總名となせども、今の運上屋の地は、本名ヲシヨロコツと云處なり、其譯懷の地と云、此灣の好きより號しと云、〈◯中略〉ヲシヨロクチ、〈運上や◯中略〉地形酉戌向にして、後ろ平山前は崖に柵を結て、其下暗礁多し、前船泊にして大船を容る、並てニウフツ、石狩、出稼や立並び、頗る繁華の地也、土人多し、〈文政壬午改十九軒七十二人、安政乙卯改九軒四十一人、〉年々和人の入込高壹万人餘もあるべし、 濱益毛(○○○) 本名マシケイにして、宜しきと云儀なれども、是同名あれば、濱の字を冠らしめて、當所の地名とす、〈地名解◯中略〉濱益毛〈運上や◯中略〉地形ヲフイ岬、ヲカムイ岬の大灣中、またアイカフホロクンヘツ岬の小灣をなし、未申向にして、風波常に荒く、左にウカシユマ、右にテキサマの間、澤目深く、後ろ峨々たる高山、〈◯中略〉土人多し、〈文政壬午八十四軒二百九十七人、安政乙卯五十四軒二百〇四人、〉此邊地味宜しく、總て漁事の暇には畑作をなす也、

〔西蝦夷日誌〕

〈六編〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1312 増毛(○○) マシケ、譯て宜敷事に取る也、其義をまた譯せば、マシは鷗の事にして、ケはケイの略にて、成るとの義也、〈◯中略〉マシケ運上屋、〈◯註略〉地形北向ノツカとハシベツ岬の間の一灣をなす、依てホロ泊の名ある也、〈◯中略〉土人多し、〈文政改八十五軒四百三十七人、安政改三十七軒百三十六人、〉此處に十一軒家

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1313 居し、殘りは別苅(ベツカリ)邊に住す、 ルヽモツヘ領(○○○○○○) 本名ルヽモヲツペと云、ルヽは汐、モは靜、ヲツはある入る、ペは水の事也、此川自然と奧深く汐入る故に號く、是運上屋元の川の名也、今此地の總名となる、〈◯中略〉運上屋〈◯註略〉地形亥子向、前にシリエトの岬有、東にエンルと對し、其間一灣をなし、船懸りよし後ろ方川筋、總て平地、〈◯中略〉土人多し、〈文政壬午改九十九軒四百七十二人、安政乙卯改六十二軒二百十一人、〉 苫前領(○○○) トマヽイ、譯して延胡索〈綱目〉有る義、本名トマヲマイ也、總て此邊り延胡索多きが故號しもの哉、〈◯中略〉苫前運上屋、〈◯註略〉北はハホロ、南ノツトの間を一灣とし、戌亥向、〈◯中略〉土地肥沃、雜穀野菜能みのる、〈◯中略〉當節土人人別多くテシホより移住者也、〈文政壬午改四十八軒二百十一人、安政乙卯改二十町百九人、〉

〔東蝦夷日記〕

〈初編〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1313 山越内領(○○○○)〈◯中略〉 山越内〈制札、會所、旅宿所、板藏五、武器藏、備米藏、馬屋二、鍛冶屋、漁屋雜藏、建屋、〉本名ヤムウシ内にて、栗多澤(ヤムウシナイ)の義、其地今のサカヤ川也、昔し其所に會所有し故、場所の總名となる、此所の本名はバロシベウシとて、往古關柵を結し時用ひし木の切株多を以て號しと、 虻田領(○○○)〈◯中略〉 フレナイ〈◯註略〉是をアフタノ會所といへり、其儀は元虻田に有りしが、文政五壬午閏正月十五日、臼岳燒の時、此所へ移したる故、其名殘れるなり、地形西南を受、船懸り惡し、皆アフタに懸り、荷役するなり、海を隔て内浦岳に對し、風景宜し、〈◯中略〉土産鮭是は多く、レリヘツの川筋にて取、馬にて爰に出すもの多し、冬鯡、春鯡、海鼠、昆布、ふのり、鱈、雜魚種々有、又巨材多く、椎葺あつし多く、土人〈文政壬午改百七十軒人口八百人、安政丙辰改百六十四軒人口六百餘、〉多し、

〔東夷竊々夜話〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1313 江友場所(○○○○)大概書上 一江友會所壹ケ所〈◯註略〉 一諸蘭番屋壹ケ所〈◯中略〉 一蝦夷家二拾五軒 一蝦夷男女百十六人、内〈男六十三人 女五十三人〉 右之通御座候、以上、 文化三寅年六月

〔東蝦夷日誌〕

〈二編〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1314 宇須(ウス)〈◯中略〉 ウス〈◯註略〉と云て、場所の總名となれり、東西北地とも、如斯よき灣を皆ウシヨロと稱る處多し、箱館をウシヨロケシと云しは臆(ウシヨロ/フトコロ)の端(ケシ/ハシ)也、西北のヲシヨロ、是ウシヨロの轉し、ウシヨロコツは臆の地所の義、北地のウシヨロも如臆灣よりして號し也、此地本名はメツカ〈會所元〉と云、其義太古の海嘯(ツナミ)に、外は皆流れしが、此所計殘しが故也、是恐は今の辨天社〈◯註略〉の地か、土人多し、〈文政改百三軒、四百十七人、安政改九十三軒、四百六十人、〉 ホロヘツ領(○○○○○)〈◯中略〉 ホロヘツ、〈◯註略〉傍に妙見稻荷社有、此所文化度前は松前家臣細田儀右衞門總所也、其後モロランと一場所の様に成しが、今度又境標を立たり、土人多し、〈文政改五十八軒、二百三十一人、安政改五十二軒、二百六十人、〉 白老領(○○○)〈◯中略〉 シラヲイ、〈◯中略〉土地東南向、素濱船沖懸り、土地平地なり、〈◯中略〉名義シラウは虻の事なり、此地に多きが故號し也、土人〈文政改七十二軒三百三十餘人、安政改八十二軒三百九十九人、〉

〔東蝦夷日誌〕

〈三編〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1314 ユウブツ領(○○○○○)〈◯中略〉 ユウブツ、〈◯註略〉名義イウブツ也、イウとは温泉、ブツは口也、此川上に温泉ある故に號く、元は松前藩十三軒、〈◯註略〉入會の給所にして、土人〈文政改三百十二軒千三百十二人安政改二百二十八軒、千百七十九人、◯中略〉 沙流領(○○○) 本名シヤリにして、濕澤蘆荻叢の義、此邊多きより號く也、〈◯中略〉サル會所〈◯註略〉人別〈文政五改千二百十人、安政三改千三百廿餘人、〉

〔東蝦夷日誌〕

〈四編〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1314 ニイカツフ領(○○○○○○)〈◯中略〉 ニイカツプ〈◯註略〉船々遠淺にて、潟無故に、産物積取時も沖掛り、時化荒候時は逃船とす、〈◯註略〉往昔は松前家臣工藤平右衞門給所なり、ビボクと云しを、文化六年、呼聲の不宜に依て、ニイカツプと改む、名義ニイカツプは、楡松皮の義なり、此川木皮多き故號也、ビボクも此會所元の地名にあらず、此川の名なり、土人皆川筋に住す、〈文政改七十一軒、人別三百九人、安政改九十一軒、人別三百八十一人、〉産物、鮭、昆布、煎海鼠、鰯、椎葺、干鱈、鮫売、其餘雜魚多し、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1315 シツナイ領(○○○○○)〈◯中略〉 シツナイ〈◯註略〉辨天社〈◯註略〉下に小流有、是を以て號し、本名フツナイ也、名義曾祖母澤の義也、往昔此所に老母神の在せしと、其より此場所は廣まりしと、此澤に、昔は人家多く有しや、種々陶器缺け出る也、今に匕目繩め等面白き物有、土人〈文政改壬午改百四軒、人別五百廿三人、安政卯改百廿七軒、人別六百四十一人、〉多く、産物、鯡、鮭、鱒、昆布、鮫、鱈、海草類、椎葺、鹿皮、雜魚、 三石領(○○○)〈◯中略〉 三石〈◯註略〉土地少し岬に成、上は平山下砂濱、午未向、大船五六町沖懸り、小舟岸に繫ぐ、〈◯註略〉本名ミトシとて、樺桶の事なり、從是十町東の川の名を以て總名とす、此處地名はシユフトにて、此澤の口に蘆荻ある以て號し也と、又和人今三石の字を冠らしめ、此沖に三つの大暗礁有故とも云り、〈◯中略〉土人〈文政改五十六軒、二百廿二人、安政改四十九軒、二百廿人、〉多く、土産、昆布、鮭、鰯、鯡、鱈、鹿皮、海鼠、雜魚、粕也、

〔東蝦夷日誌〕

〈五編〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1315 浦河(○○) 會所〈◯註略〉元松前家來北川重次郞給所、濱形未申向、〈◯中略〉名義前に云ふ如し、地名ホンナイノツとて、小澤岬なるに、ウラカワの名有は、昔しウラカワに有しを此所へ移せし故なり、領内土人多し、〈文政壬午七十五軒、人別三百廿七人、安政寅八十八軒、人別四百四十一人、〉土産鮭、鰯、いりこ、鹿皮、鱒、昆布、其外雜魚多し、 シヤマニ(○○○○)〈◯中略〉 シヤマニ( /様似)會所、〈◯註略〉地名ヱンルンなるを、シヤマニヘツに住する土人を遣ふ處故に、如斯改りし也、元は松前家家臣蠣崎藏人の給所なり、此所西南向の一灣にして、潟内に蠟燭岩、ホロシユマ、〈大岩〉ホンシユマ、〈小岩〉と云岩あり、風景また妙なり、船は未申の風に入て、丑寅の風に出帆、東北に高山有、總て暖地、畑作よろし、土人〈文政壬午改廿三軒、百三十二人、安政庚寅改廿八軒、百七十四人、〉村多し、産物鰯、鯡、鮭、鱒、昆布、煎海鼠、布海苔、鹿皮、其外雜魚多し、

〔東蝦夷日誌〕

〈六編〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1315 縨泉(○○)〈◯中略〉 縨泉、〈◯中略〉名義前に云如くホロエンルンにして、岬の名を以て當所の總名とす、此地元松前家の臣蠣崎藏人給地也、其地後にホン岳と云山道、灣は申七分向にして、海に枕み、船泊荒磯多く、七八百石五六艘、千石餘壹貳艘をいる、其餘は皆沖懸也、入津未申、出帆寅

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1316 卯をよしとす、土人〈文政壬午改三十九軒、百七十三人、安政庚寅改二十八軒、百十五人、〉近頃減ず、是當所産物多くして、其遣方苛酷なる故也、處々に部落す、土産鱈、鮭、鱒、ふのり、鮫売、昆布、椎葺、鯖等多し、其餘雜魚海鼠多く、繁昌の地也、〈◯中略〉 十勝(○○)〈◯中略〉 トカチ會所〈從ホロイツミ會所海岸丁間十五里四十四間、從ヒタヽヌンケ海岸三里三十丁、陸通リ從十六里二十四丁五十間、從サヽル山岩所陸通リ五里廿四丁、從箱館百十八里、會所牛向一棟二百四十坪通行屋二十坪、板藏九棟、漁小屋、鍛冶小屋、風呂釜屋、雜藏、大工小屋、雇人小屋、木挽小屋、舟藏、〉前に土手有、〈長九十七間高七尺〉是は昔し非常の爲に礫石もて積上し也、觀音堂稻荷社〈二棟〉土地少し高く巽向、左リラツコ岬、右フンヘムイ岬、其間一灣をなし、後ろ平山雜木立、船は西南風にて入津、戌亥風にて出帆、潟内にヒン子ワタラ〈立石〉、マチ子ワタラ〈平石〉有、甚難場也、當石はヒロウといへる地にて、其名義ヒヲロにて小石の多きに取る也、又岬の陰とも云よし、其名惡き由にて、此場所内に十勝の大河あり、故にトカチと改むと也、會所文化前、下の濱に在しが、餘り地所狹きが故爰に移すと、持場内土人〈文政壬午百七十一軒、千九十九人、安政庚寅百九十五軒、千百廿八人、〉多く、爰に四十五軒〈二百三十五人〉有、土産、昆布、海苔、鰤、鱈、鰯、鯖、鰈、鮭、鱒、其餘雜魚、椎葺等多し、

〔東蝦夷日誌〕

〈七編〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1316 久摺(○○)〈◯中略〉 久摺會所、〈◯中略〉當所領分總家數貳百五十二軒、人別千二百九十八人〈安政辰年改〉有、〈文政壬午二百七十四軒、千三百四十九人、安政戊午改二百七十一軒、千二百九十八人、〉元松前藩飛内龜左衞門給所、〈◯中略〉土産鮭、昆布、鱈、鰯、鯡、鮫、鮹、雜魚、水豹、鷲尾、椎葺、熊皮、アツシ、蒲筵(シウキナ)、シユシヤモチカ粕多し、

〔納紗布日誌〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1316 厚岸(○○)は、今場所の總名と成ども、本地の所は潟の北岸に在也、其譯土人が衣服になす木皮を剥に多しとの儀にて、本名アツニケウシ〈アツニは榆、ケは皮剥、ウシ多し也、〉

〔東夷竊々夜話〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1316 クナシリ(○○○○)場所大概書 箱館より道法二百餘里〈根諸ノツケより海上凡五里程、同所ニシベツより同拾里程、〉寛政十午年迄、元松前若狹守進退之節、アツケシ、キイタツフ、クナシリを三場所と唱へ、手場所と名附、〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1317 一ウロチトマリ 會所〈◯中略〉海岸南請、西北は山あり、暖地にて凌方宜、〈◯中略〉蝦夷家百三拾三軒、總人數五百五拾貳人、内男貳百五拾壹人、 女三百壹人、 東蝦夷地ヱトロフ島(○○○○○)大概書 寛政十一己未年、御用地被仰出、同十二庚申年、新規開發、ヱトロフ島北極出地、〈タン子モイ四十五度十分フウルヘツ アトイヤ四十六度〉此島未申より丑寅に流れて、周廻凡二百餘里、南はクナシリ島に渡り、北はウルツフ島に連り東西は大洋にして、島中には高山並び峙ち、蝦夷村は西浦にありて、東浦には近來土人住居なし、松前より行程凡三百里なり、總蝦夷村拾三ケ村、同家數百八十六軒、人別九百九十四人、内、〈男四百八十八人、女九百六人、〉

都邑

〔蝦夷志〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1317 蝦夷 松前(○○)治城、介居山海之間、東西各有港口、諸州賈舶所幅湊也、東至黒岩、西至乙部此以往陸行路絶、西南海上三島、在南曰小島、其北曰大島、又其北曰奧尻、從此至乙部十八里、〈奥尻島南北二十有五里〉凡松前地界、東西相距八九日程、其北則爲夷地矣、夷人亦皆濱山海居、往々而成聚落、其邑聚左者五十四、

〔蝦夷實地檢考録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1317 松前 東は及部川より、西は總社堂町まで、北は山麓を限り、松前城下の幅員とす、寅向泊川枝ケ崎大松前小松前唐津内博知石生符を緯とし、傳次澤神明澤湯殿澤唐津内澤を經とす、然れども白神より立石野までの大灣澴の内は、一望眸中に在て、應接呼吸の續く所なれば、截て別區と爲べからず、地名考に方言ヲアツナイにて、ヲは有といふ意、マツは婦人、ナヰは溪澤也と説は、誰も思よるほどのことにて、考とするに足らず、或説に昔はマトマヘと云へり、松に非ずとすれど、マトはマツの通聲にて、猶松なり、亦一説に、靺鞨の訛音なるべしとするは、殊に忌しき僻言也、按るにマツは松樹、マヘは前なること論なし、蝦夷は松なき國といふ説もありて、地名は國のひらけし始よ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1318 りあるなれば、松樹のことヽはなし難からめなど、あはめいふ者もあめれど、蝦夷には松なしとはいふべからず、凡闔國幹太(カラフト)の奧までも、五葉松は殊に多く、南方には所々の山中二葉の松も少からず、決て後に移植たるものとすべからず、憶ふに松前は松の並樹など有し故の名なるべく、今外廓の壘上に喬松枝を垂れ、陰を覆ひ、青々の色を易ざるは、伊豆守慶廣、慶長五年、丘阜を删夷し、營砦を構成せし當初、其已前より有し嶺松を、其まヽ殘し置たる遺像なるべし、凡山に据る城堡の制は、必從前所在の喬樹をこそ蔀蔽ともなさめ、新に矮木など植べきにあらず、故に今の松は、千載不拔の根幹也とはいふ也けり、前は國の表となる所には、いつも名づくる例也、抑松前の名は、いづれの時よりか書にも見へ、言にも傳しか詳ならねども、尚時若狹武田の末葉、太郞信廣此國に渡り、五代伊豆守慶廣、慶長四年、始て松前と稱號を改しなれば、所こそ多けれ、松前は殊に名に顯れし故にこそしかいひしならめ、〈◯中略〉松前は南西の海澨、往古渡島の阜頭にて、津輕外ケ濱に近接の地なれば、津輕の蝦夷の航海來復も繁く、白神の蝦夷なども、多く此境に蔓衍棲居せしなるべし、且本邦も蝦夷も、上古國の開くる初は、西より起りしとみへ、海路も早く通ぜしなるべし、上國(カミノクニ)の近郷は、却て優れる所有を以て、松前に先だちて開ぬ、松前は海角にて、大府を開べきの利なき故に、白雉の比、安倍紀氏飽田渟代より航海して、其地を廣視し、遂に東を經略して、後方羊蹄府の擧も有しなるべし、文治中、源義經の航渡せしといふも、三厩より松前へ越て、直に東へ赴き、嘉吉中に、下國安東太の越しも、小泊より松前へ絶りて、東茂別に城し、其他渡黨の人皆多は東に館し、蠣崎季繁は上國に壘す、享徳中、松前の始祖武田太郞信廣は、南部大畑よりhttp://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f00006520fa.gif を解たれど、松前に著ぬることは照然たり、然れども其始一年許は、甚窮約せしといふ傳もあるは、其地航海阜頭なれとも、誰も能く居館を營し土豪と云べき人も居らざりしをしる、否ざれば假令貨賄器用こそ欠乏の時にはありけめ、館主豪族など居るならば、いかで信廣當頭主人と頼まざるべ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1319 き、信廣も決起して東征西伐を爲し、終に上國に終老せるを思へば、松前の晩く開けしを知る、龜田八幡宮の神主藤山長門の家記に、蠣崎若狹守光廣、上の國より相原周防守居城址へ移る、應永十五年云々とあるは、相傳の誤にて、實に松前の剏て開けしは、明應五年、相原周防守の子彦三郞季胤、村上河内守政善、始て松前を守護せるより、著姓の人玆に居る事と成ぬと見ゆ、此は下國定季が、其子山城守經季の放縱なるを以て誅せし其事より、經季に黨し動亂を作さんとするものなど有により、季胤政善に命じて鎭撫せし一時の機策より起りし也、實に松前に豪姓の居を奠めしは、永正十一年三月、三代若狹守義廣、上國より玆に移しを始とすべし、松前の系譜に、二代若狹守光廣康正二年、三代若狹守義廣文明十一年、四代若狹守季廣永正四年、皆松前に誕すと記たり、康正二年は、始祖信廣初て渡海せしより三年に當れば、松前に落魄せし間に生れたりともせん、文明十一年は、光廣上國にをり、永正四年も、義廣上國に住ぬ、父は各上國に在て、其子松前に生るヽも如何なるべし、且松前舊事記に、永正十年、大館合戰、松前の守護相原季胤、村上政善自刃と書たれば、其頃までは、此二人大館に戍衞せし事明かなれば、いよ〳〵光廣義廣は、永正十年已前は、松前に在ざりし證とすべし、翌十一年三月十三日、義廣來て松前を鎭せしは、二人戰死の後代りて大館に在しなるべし、義廣松前の大館に居こと久しく、其孫伊豆守慶廣に至り、慶長五年、福山に營を築きしより、累世裘業を嗣ぎ、雄藩たりしに、文化四年より文政四年までの間、松前蝦夷悉く官に收たまひぬるに、又復故し、今の伊豆守に至り、特旨を欽て新に金城を築き、萬世不朽の基礎を固め、永く北地の藩屏たるは、しかしながら、官の御明斷により、此盛擧は有し也、

〔笈埃隨筆〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1319 松前 松前城下といふは、後に山を負て前は海也、東西家つヾき建つらねて、壹里計り有、城は壘(トリテ)にて、二の櫓あり、大手の兩側は家士の町也、城下の三ケ所に高札を建たり、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1320 一從諸國松前渡海之輩、對夷人商賣堅禁止之事、 一無子細而松前令渡海賣買候者有之候はヾ、急度可注進事、 附蝦夷之人義、雖往來何處、可其心次第事、 一對蝦夷人非分之義不申掛事 右之條々可守之、若於違犯之族者、任當家代々先例之旨速可嚴科者也、 寛文四年

〔東遊雜記〕

〈十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1320 扨松前に上りしに、案外なる事にて、其屋宅のきれいなる事、都めきし所にて、左右の町屋表をひらき、床に花をいけ、金銀の屏風を立、毛氈を敷ならべ、御巡見使御馳走の體と見へ、貴賤の男女千體佛の如く、扨拜見に出し風俗容體衣服に至る迄も、上方筋の人物に少しもおとらぬ、秋田津輕の邊鄙の惡所をもすぎ、僅かなる海里を渡りて、かヽる上々國の風俗あらんとは、風聞にても聞ざりしゆへに、壹人もあきれざるもの更になし、

〔蝦夷實地檢考録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1320 箱館(○○) 箱館、古名ウシヨムケモシリといふ、地名考にウシヨロと同語とし、灣也と解は牽強なるべし、按に海潮受にて、ウケをムケといふは通音也、方言モは又の義、シリは地角の義、モシリハ俗語飛島といふが如し、抑此地往古は礬石の火山にて、煨燼したる處なれば、山中燒埆皆燻灼の痕みゆ、知内嶺の奧にも火山の痕殘れり、惠山駒嶽と必火脈を通ぜしなるべし、其大に燒出たる時より、海をも塡て地容一變して、其以來いよ〳〵壤土も擴まれるか、往古は蜑戸のみ住けらし、文安二年乙丑、龜田郷の領主河野加賀守政通、城を此地に築て移る、其時土を穿て筐筥を得たり、其中鐵器有しとぞ、箱館の名は是より創れり、河野は藤原氏從五位上尾張守某の胤といふ、〈河野の族は越智氏なるべきをこれは奈何なる故にて藤原なるか未詳ならず、〉政通初龜田郷を領し、後箱館に徙る、長祿元年丁丑五月、大に蝦夷と戰

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1321 し人也、又加賀守盛幸といふ人、明應中、箱館に居り、後武田太郞信廣に敗破られて麾下に屬す、永正八年、加賀守の息彌次郞右衞門といふ人、蝦夷の亂に沒し、永祿元龜の間、加賀守好通といふ人、蠣崎義廣の舅となる、文祿の頃、蠣崎慶廣箱館を破墮る、城跡は淨玄寺の東より公廳の前にかヽり、會所町に亘り、塹溝の蹟現に存せり、慶長年間、龜田の人民多く茲に遷れり、商船は昔近江越前より偶來れるのみ、上方船は百四五十年前、大坂道頓堀の橘屋某の船の來るを始とす、然れども猶落船の由を松前へ申すことなりき、後六七年過ての書に、龜田より箱館といふ湊廻船入込、繁昌の處也とみゆ、其逐年殷賑に到る事思知るべし、蠻船の初て港中に入しは、寛政五年、根室へ來し魯西亞人の、茲に入津せしは六月八日也、是より松前へ陸行せしめ、御目付石川將監、村上大學等應接したり、今は北國無雙の都會となり、天下の船艦輻輳するのみならず、海外蠻船も貿易を求、商販を事とし、相競て入港するに到れり、

〔北海隨筆〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1321 蝦夷松前開發 一今の松前城下は、領内の中央を以て府となし〈◯中略〉是より三十里東海路龜田(○○)と云ふ所は、土地平坦にして、一國の都會の地となし、西北は山つらなり、海へ聳て、蝦夷地のかためあり、東南は入江にして、數千艘の舶舟今風波の恐れなし、海を隔て南方は南部領佐伊大間等の港まで八里の渡りにて、しかも潮流おだやかにして、タツヒシラカシの如くなる激流なし、風景優美にして、箱館の山海中に突起し、入江の屏障となれり、此地を以て府中を定る時は、往々仙臺水戸邊の船通路彌仕ならひ、江戸廻船も自由すべし、箱館よりは江戸廻船自由し、江指よりは上方廻船自由する時は、海路にをいて事たりぬべし、

〔東遊雜記〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1321 取勝といふ浦は、至てよき町にて、家數千六百餘軒、はし〳〵に至る迄も貧家と見ゆる家は更になし、濱通りには土倉幾軒となく建ならべ、諸州よりの廻船此日見る所、大小五十

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1322 艘計、町に入見れば呉服店、酒店、小間物屋、此外諸品の店ありて、物の自由なる事上方筋に替らず、御巡見使拜見に出し男女を見るに、縮緬の單へに、白あけの紋などを付、人物言語よくて、邊鄙の風俗なし、委しく聞くに、近郷越前より出店數多く、上方のもの多し、其上長崎の俵もの問屋、湊ゆへに上方の風俗にならひて、斯のごとしといふ、此度江戸を出しより、家居人物言語ともに揃ひてよき所は、此江指町(○○○)と、松前の城下に及ぶ所更になし、奧羽は寒國にして、瓦よはきとて、瓦ぶきの家はなかりしに、此町には瓦ぶきの家も土藏もあり、いかヾの事にて、此所も寒強地に瓦を用る事と思ひしに、何れも上方やきの倉入し瓦ゆへに、寒の強きにも損ぜずといふ、又家々に圖〈◯圖略〉のごとき玄關付なり、小家といへども所の習ひにや、相應の唐破風作りにしてあり、土藏も圖のごとく檜板槇板にて包廻して、奇麗に見ゆる饒なるゆへ、おの〳〵美を飾る風と見へ侍りしなり、世にいふ松前の地にては、昆布にて家根をふきし所もあると云、甚あしき地のやうに風聞もせしが、人物言語も日本を離れし所にて、日本の地よりしては大ひに劣りし事と人思ひし事なりしに、かヽるよき町あらんとは思ひよらず、見るものごとにあきれし事也、是等を以て天地の間至らざる地は計るべからず、所の風にて傾城とも女郞とも云ずして、遊女の總名をいふに、雁の字といふなり、小童に至るまで雁の字と稱して、おやまの女郞の遊女などヽはいはぬなり、予〈◯古河辰〉つく〴〵考へ見るに、此地に右のごときの繁昌なる町ある事、至て不審なる事なり、其上海上濱の辻々は、御巡見使拜見に出る人、所不相應に大人數にて、又江指町に雪踏下駄計を賣見せあり、何方より買用ゆる事にて、商ひのたよりとせる事にや、合點ゆかず、是らの事に心を付て見れば、御巡見使御通行なき所にも、村里のある事にや、くれ〴〵も不審少からず、

〔西蝦夷日誌〕

〈五編〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1322 サツホロ(○○○○)はサツテホロの儀にて、多く乾くの儀、此川急にして干安き故也、

〔西蝦夷日誌〕

〈五編凡例〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1322 一文化度近藤守重が獻策に、津石狩に大府を置んことを書れしが故、余〈◯松浦武四郞〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1323 其地を春の雪融、秋の暴雨にしば〳〵往來して實驗せしが、此地に府を開んには、禹王再誕の後ならで難かるべしとおもふがまヽ、其邊を探索するに、ツイシカリ川三里を上り、札縨樋平の邊りぞ、大府を置の地なるべしとおもふゆへに、是を酋長ルピヤンケ、〈ツイシカリ〉モニヲマ〈サツホロ〉に再三審し、以て鎭將竹内堀村垣の三名に言し置ものなり、 一他日此札幌に府を置玉はヾ、石狩は不日にして大坂の繁昌を得べく、十里を溯り津石狩は伏見に等しき地となり、川舟三里を上り札縨の地ぞ帝京の尊ふきにも及ばん、左有時は、ユウフツ東海岸は北陸山陰の兩道にも及び、手宮高島は兵庫神戸の兩港にも譬ふべき地とならん、また札幌より新道を切らば、臼、虻田、岩内の地も其日の便を得、東上川川筋より、天鹽十勝の地にも何日か馬足を運ばさしめんと、依て此新道をして此卷首にしるし置ものなりと、文久四甲子の仲冬、多氣志樓の主人弘誌

藩封

〔慶應元年武鑑〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1323 松前伊豆守崇廣(柳間 從四位侍從慶應元丑四月任) 三万石 居城奧州松前福山〈江戸ヨリ〉海陸二百九十里餘毎年於御金藏一万八千兩宛拜領 〈從往占松前氏代々領之、文化四年、梁川ニ移、文政四、依台命再蝦夷松前一圓領之、安政二卯年、蝦夷上地、爲代地陸奥出羽國之内領之、〉

〔休明光記〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1323 松前西蝦夷地上地之事 文化四卯年三月廿二日、執政伊豆守信明朝臣より、左之通り書付を以て安倫〈江〉達し給ふ、 箱館奉行〈江〉 松前若狹守 右松前西蝦夷地一圓被召上、新規九千石被下候間、可其意候、 若狹守へは左の如く御達し有けるよし、奧御右筆組頭近藤吉左衞門より其寫しを安倫へ見する、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1324 松前若狹守 蝦夷地之儀者、古來より其方家ニ而、進退致來候得共、異國へ接し候島々、萬端之手當難整様子ニ付、先達而東蝦夷地上地被仰出、從公儀御處置被仰付候、西蝦夷地之儀も、非常之備等、其方手限難行屆段申立、外國之境不容易之事ニ被思召候間、此度松前西蝦夷地一圓被召上候、依之其方〈江〉ハ新規九千石被下候、場所之儀ハ追而可相達候、

〔嘉永明治年間録〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1324 安政二年二月廿二日、松前伊豆守ニ封地ノ内替地ヲ命ズ、 松前伊豆守名代松前伊織へ達 此度御用に付、東西蝦夷地西在乙部村東在木古内村迄島々共、一圓上知被仰付候、替地の儀は追て可下、猶御手當等の儀も、御沙汰可之候、右老中列座備前守申渡之、 十二月四日に至り御達、今度東西蝦夷地西在乙部村東在木子内村迄、島々共一圓上知仰出され、右爲替地、陸奧國伊達郡の内高三万石、込高一万六百五十八石餘共被下置、且又御手當として年々御金藏にて金一万八千兩づヽ被之、以來三万石高家格に被仰付候、

田數

〔北海道志〕

〈五地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1324 田野〈官林牧場〉 田圃ヲ開墾スル元祿年間ニ始ル、其方法夏月茂草ヲ薙シ、中秋火ヲ放チ、明年春鋤犁シテ白田ト爲ス、之ヲ荒起ト謂フ、地味肥沃、培養ヲ用ヒズシテ物熟ス、五年ノ後、地力盡クレバ即チ棄テ他ニ移ス、故ニ段別毎ニ増減アリト云、古來其地稻米ニ適セズト爲シ、唯粟稗蕎麥大小豆等ノ雜穀及ビ菜菓ヲ植ユ、且松前氏ノ時、人民ノ收獲ヲ縱ニシテ、貢賦ヲ課セズ、寛政文化ノ間、幕府直轄スルノ時、上山藤山大川七重等ノ諸村皆墾地アリト雖モ、畝歩零星亦税額ナシ、〈秋田、庄内、南部、津輕等ヨリ民ヲ募テ開ク所ナリ、〉明治以降大ニ舊習ヲ釐革シ、規ヲ設ケ、地ヲ畫シテ之ヲ民ニ授ク、是ヨリ畝歩得テ算スベシ、夫迺疆迺理ハ田ヲ授ルノ方、徂隰徂畛ハ地ヲ闢クノ務、故ニ戸口ニ次テ田野ヲ志ス、 渡島國 田畝 寛政七年、文月村試田一段餘、文化二年、箱館近郷田百四十町、文政五年、箱館近郷

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1325 田二十一町九段二畝、安政元年、箱館近郷田六十四町四段、明治三年、龜田郡二百八十八町八段六畝二十八歩、上磯郡五十八町四段四畝十二歩、〈◯中略〉 白田 文化二年、箱館近郷二十町、文政五年、箱館近郷百五十八町八段二畝十五歩四分、安政元年、箱館近郷三十九町一段五畝餘、蝦夷分三段餘、明治三年、龜田郡六百八十五町六段十二歩七釐、上磯郡五十二町五段四畝五歩、〈◯中略〉 後志國 田畝 享保年間ヨリ粱ヲ種ヘ以テ粮食ニ充ル者、西部ノ地ニ太櫓瀬棚島小牧壽都歌棄磯谷岩内古宇積丹美國古平祝津ト曰フ、段別詳ナラズ、〈◯中略〉 膽振國 田畝 安政年間虻田振内邊幕府官吏石橋某等新田ヲ墾ス、段別詳ナラズ、明治十年有珠郡五段六畝、〈◯中略〉 白田 安政年間虻田振内ノ邊土人墾スル所ノ白田多シ、段別詳ナラズ、〈◯下略〉 ◯按ズルニ、石狩、天鹽、北見、日高、十勝、釧路、根室、千島等ノ諸國ノ田數ハ、明治以後ノ調査ナルヲ以テ省略ス、

物産

〔庭訓往來〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1325 諸國商人旅客宿所、運送賣買津悉令遵行候、交易合期公私潤色、何事如之哉、〈◯中略〉夷鮭、〈◯下略〉

〔毛吹草〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1325 松前 鷹 眞羽(マバ) 鹽鶴 干鮭(カラザケ) 鯡(ニシン) 鰊(カド) 數子(カズノコ) 炙鯨(ヤキクジラ) 昆布 獵虎(ラツコ) 水豹(アザラシ) 熊皮 鹿皮 胡獱(トヾ) 子ツフ アモシツヘイ 腽肭臍 干獨活(ホシウド) 干豆腐 沙金 磁石

〔蝦夷志〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1325 蝦夷 凡物産、異草珍木不盡状、春菊有花白者、百合有花黒者、頗可奇、〈百合根夷中赤啖之〉無牛馬及雉鷮之類、鷹鶻鵰鶚、皆巣于林木深鬱之間、〈蒼鷹及鵰羽方産最貴者〉山有熊羆麋鹿、水有海豹海獺海狗之屬

〔蝦夷草紙〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1325 産物の事 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1326 金山 松前所在島の内センケン山、クンヌイ山、ハホロ山等諸書に載たれども、皆是下金といふものにて、土砂の内に交りたる砂金なり、今はなし、又ウラカハといふ所に金山見ゆ、是も堀たらば出べきと思はるヽ、其外ヱリモ邊ラツコ島等にあり、又深山に有べき歟、未開の大國なれば、明細に探索に及び難し、時を得て達すべし、 銀山 古來より銀山の沙汰はなし、カワクシ山、ユウヲツプ山等にあり、西蝦夷地は深山多し、依ておくゆるしけれども、予〈◯徳内常矩〉未到なれば風説は擧がたし、 銅山 東蝦夷地シベツの奧山にあり、箱館在の山に有、 鐵山 箱館在の大森村石崎村等にあり、その外諸所に多し、 鉛山 見市村の春ヲボユ嶽最上たりといふ、先年江指村の堀たる時に、一ケ年に三百箇程出來たり、其外赤神村江技村等にも有也、 黄銅 メツノイヲヽストロフといふ島にあり、此金日本にていまだ不見、生れながら金色なる銅にて、眞鍮の柔かなる様なりと、赤人渉海して予に委細物語せり、 餘糧 ヱトロフ島、シヨツチキヤといふ所にあり、貯置て時々糧に用ひ、食事とす、色白く餅のごとくにて、味ひ淡く、此島に渡海せし時、友船に分れ、米味噌もなく、草の根を焚て此土をいれ、食事とせしに甚かろくたべよき也、 碗青 シヱメン島より取來り、石にて珍らしき品なるに付て、目利者衆評して、佛頭香と名付、瀬戸物を燒に用ゆる土器の模様を畫く繪の具なり、 硯石 箱館村の先石崎村しろゐ濱といふ所へ一圓にあり、又此山陰にヌルイ川といふ川筋にあり、江戸細工人に彫せて、予所持するものなり、日本へ運送易し、 鐘乳石 西蝦夷地大田山の崎地藏安置の岩窟にあるといふ、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1327 石炭 クスリ場所の内、ヘツシャフ村にあり、 海松 松前海邊何方よりも出來るなり、色赤く檜のはのごとし、松前近くに床飾に用ゆ、 汐凝 俗に蝦夷珊瑚といふなり、枝珊瑚に似たり、色紅にて甚だ美しき物也、是も床飾に用ゆ、 明礬 ヱサンに澤山あり、製法いまだ知らず、依之土人捨をくなり、 黒き花の百合 アツケシ邊より奧所々にあり 白花の春菊 此春菊は東蝦夷地諸所々にあり 秋萩 モナシヘ村、ヤモキシナイ村邊にあり、鉢の廻り四寸以上の物あり、 篠竹 シャコタン竹とて西蝦夷地シャコタンといふ所にあり、生れ附て黒き虎斑あり、 牛房 ウス、アブク兩所を最上とす、自然に生て、其根のふとさ廻り一尺餘あり、味ひ甚だ宜しく、和らかにして中心に膸の穴なし、 一角 ウラカワ場所にて得たる事あり、松前家臣北川伊左衞門東都に持來りて、價貴くなりたりといへり、 白熊 ノツイヲヽストロフといふ島より出る、赤人はなはだ賞美せり、 黒狐 松前にててつほふにて捕たるを、專念寺に葬りたるといへり、 銀鼠 東蝦夷地に諸所にあり、いたちより少し小なるものにて、眞に白し、又稀に赤きもあり、 金海鼠 奧州金華山の近所の海上より取るを名物也といへり、他國になき様に思ふ人多し、 東蝦夷地 ムリカラ 大蟹にて手の長さ四五尺計、味ひ甚美なり、 セチコロプ あんかうのごとくなるものにて小なり、肉堅く味美なり、アイテユルベ 赤ゑ如くにて角あり、此角の麁皮を取て箭の根に塗て獸を射るに、一矢にて留

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1328 るなり、角は烏犀角に似たり、 カチコルベ 形は未詳、角一本にて水面に振立て見ゆれども、其形は不見得、依てしらず、近よる時は香氣に酔ふて煩ふ也、 テクンヘコルベ 松前にてシヤリ蟹といふ、首は蟹にて尾は蝦なり、頭中に眞珠あり、紅毛人持渡る、ヲクリカンキリなり、 カカモコルベ 松前にてコツコといふ魚にして鱗なし、鰒のごとし、腹に菊の花のごとき心ほありて、是にて岩に吸付居る、味ひ輕く淡きもの也、 ロコン アツケシの小沼にあり、性は魚にて、形は角なり、總身に刺利有、其形はヲコゼといふ魚に似たり、毒魚なりとぞ、 ヲシユルコマ 鱸の形に似て、肉は鱒のごとし、味ひ至つて美なり、ヱトロフ島の先より島々に多し、 ウルツプ 鱒のごとくにして大也、肉は至て赤く、味ひ甚だ美なり、煮燒て猶また赤く海老のごとし、 レプタチリ 形色ともに烏のごとくにして、頭あかし、クナシリ島よりさきにあり、 ヱトヒリカ 色形とも烏の如く、口觜赤く、ヱトロフ島邊に多くあり、 フンツシヤムチリ 雀のごとくにて大なり、目玉甚だ美しく、眉毛あり、觜の上に毛ありて異形なり、 クシ子レキ 松前にて島鳥といふ、すはかりたる形の高さ二尺計あり、 シリカプ 魚にて形は鮫のごとくにして、身の丈七尺計あれば、上唇の長さ六尺ばかりもあり、不釣合なるものなり、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1329 キナボウ 形ちあんこうのごとくにして、蝦夷人此魚の腹より油腸を取、腹中へ幣をいれ、又海へはなすなり、 ラツコ 首より手は猫の如し、足はなし、鰭ありてヲツトセイに似たり、仰て食物を喰ふなり、ウルツプ島マカンルヽ島より出る、 腽肭臍 ヲシヤマンヤクンヌイアフタ邊にあり、又クナシリ島にもあり、形諸人しる通り海獸也、 ウ子ウヲン子ツ 腽肭臍の大なるものにて、蝦夷地何方にもあり、形をつとせいに似たり、海獸也、 蝶鮫 西蝦夷地よりをもに出る、東蝦夷地のタヲイ邊にも出る、 海鹿 チヤエヽ ユウ レタウ マツ子ツフ イタナシ 五種共皆アシカ也、松前にてはアシカを名付てトヽといふなり、 イルカ ヲコンテレケ子ロンノプ レフンカモイ トワユク コシユンブ イカラカモイ子ハイユイキカモイ イチムケ フンヘヲトキ 九種みないるか 海豹 シロトカリ アザラシ ヲラタン子 ヘカトヌマウシ ホキリ ベケツホユマルヲマムシヘ ニクイ イタシマ ホヒクケシヨウ ヤイトカリ 十三種みなアザラシ 鯨 ノコル トナイ フシンヘ タン子ヘ コクンヘ ヲクリゲン ヘイト子ケレ ヲアヤウシ 凡九種あり、皆鯨也、 錦 松前にて十徳といふ、又ころもといひ二種あり、各綴あり、縫もあり、みな異國の古著也、滿洲の官服也といふ、 段切 卷物にて渡り來る、錦純子繻子の類もあり、各異物もの也、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1330 青玉 大いなるあさぎ色なり、中玉小玉は種々の色有、 タンツウ 織たる毛氈にして、模様種々のかはりあり、多く古ものにて渡る、 煙筒 白銅細工にて彫物あり、硝子を入たる細工にて、日本にて七寶細工也といふ、銘を切りたるもあり、 此外蝦夷産物に イケマ ヱブリコ帆立貝等多し、諸書に載たれば爰に略す、又渡りものには、草金銀錢藥種羅紗猩々緋の類も出るといへども、不定の渡りものゆへ焉に略す、海邊磯邊寄物には、大竹の類網の浮木船具等も、時々には珍器もあれども、諸書に載たるものは爰に略す、

〔類聚三代格〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1330 太政官符 禁斷私交易狄土物事 右被右大臣宣偁、渡島狄等來朝之日、所貢方物例以雜皮、而王臣諸家競買好皮、所殘惡物以擬進官、仍先下符禁制已久、而出羽國司寛從曾不遵奉、爲吏之道豈合此、自今以後、嚴加禁斷、如違此制、必處重科、事縁勅語、不重犯、 延暦廿一年六月廿六日

人口

〔官中秘策〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1330 蝦夷松前 一人數貳万千八百七人 内〈壹万貳千四百六拾六人 男 九千三百四拾壹人 女〉 領主 大名壹人 一蝦夷松前一圓領主 松前志摩守 江戸へ海陸貳百九拾里餘

〔吹塵録〕

〈五人口及國高〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1330 諸國人數調(弘化三丙午年)〈◯中略〉 一人數七万八百八拾七人(御領私料) 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1331 松前蝦夷(高無之) 内〈三万六千七百三拾九人 男 三万四千百四拾八人 女〉 

〔北海道志〕

〈一總敍〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1331 北海道舊土人戸口表 蝦夷戸口、古ヨリ得テ知ル可ラズ、松前建國以來、政教南ヨリシテ北シ、厚岸ハ寛永ニ開ケ、宗谷ハ貞享ニ始リ、根室ハ元祿ニ及ビ、國後擇捉ハ寶暦寛政ノ間ニ漸ス、乃チ地ヲ割テ家臣ノ封邑ト爲シ、領ヲ設テ租税ヲ征ス、然後戸口裁カニ得テ計ル可シ、然ルニ對比貌閲ノ法アルニ非ズ、況ヤ漁獵ヲ事トシ、水草ヲ逐テ遷ル者ニ於テヲヤ、今表スル所、松前領ノ如キハ、古來土人ヲ分タズ、故ニ記スルヲ得ズ、維新以後僅ニ茅部爾志二郡ヲ擧ルノミ、其全島ヲ記スル者ハ、唯文政安政ノ記籍備ルト爲ス、然ルニ安政元年ハ多ク巡見記ニ據リ、無キ者ハ蝦夷雜書ヲ以テ補フ、其他之ヲ古人ノ記行筆記ニ徴スルニ、多ク東ニ詳ニシテ西ヲ略ス、然ルニ一領ノ増減モ亦其地ノ盛衰ヲ考ルニ足ル、故ニ其明晰ナル者ヲ取テ此ニ收ム、明治以降、領ヲ改テ郡ト爲ス、則之ヲ各郡ノ下ニ收ム、但其戸口遽ニ増減アル者ハ、省藩等ノ支配地ヲ定メ、尋テ之ヲ罷メ、請負人ヲ廢シ、直轄ト爲スガ如キ、新舊交代ノ際査閲ニ暇アラザレバナリ、六七年以後ニ至テハ、其實數ヲ獲ル者ナリ、 北海道舊土人戸口表〈◯中略〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1332 ◯此表、原書ニハ郡領ノ戸口ヲ一々擧ゲタレドモ、今之ヲ略シ、此ニ總計ノミヲ掲ク、

風俗

〔倭訓栞〕

〈前編五衣〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1332 えぞ 毛人島をいへり、〈◯中略〉文字なし、繩を結び木に刻して記とす、又醫業なし、死すれば山に埋む、其人の 祕藏せし物は一所に埋み、家は燒すて、殘る家内の者は別に住也、其妻三年の内かむりものし愼む、又再嫁せず、凡て易産にて、直に海に入て血のさわぐ事なし、生兒も海にあらひて虫けづく事あらずとぞ、〈◯中略〉家は鹽がまの如く、入口まがりて、外より内は見えず、晴天に獵船を出す時は、濱邊へ小屋を造り、妻子ともに居とぞ、男少く女多く、一夫に七八婦あるに至る、長壽の地なり、衣服は、木皮、熊皮、狐皮等を用う、家内にて色情をいふはいとはず、他人來居ときに色欲の事などいへば、甚怒りて、七ツの償物を出す、其物は、鎗、太刀、矢筒、煙草、米、餅、衣服也、人家に入ば、三度いたヾきて體をなす、やいくゐしかれしよろれといふは、息災なるといふ挨拶也、父子夫婦兄弟の間、次第分差ありとぞ、

〔東遊雜記〕

〈十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1332 蝦夷と稱せるは、夷の總名にして、島の名にはあらず、古書に奧州蝦夷越後蝦夷と記せるを以てしるべし、〈◯中略〉今世にいふ蝦夷の地は、必ず松前侯の支配にもあらず、島の主といふもなく、領主地頭といふ事はしらぬ所にて、日本にていふ一門々々に、ヲトナと稱せる夷有て事濟なりといふ、元より五穀不生の地、金銀錢も不通にして、おの〳〵山に狩し、海上に漁りを業

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1333 とし、色々の産物を集置て、日本の商船に夫を交易せる事、無智の夷なりといへども、上古の風俗を傳へ、僞りを言事なく、父母に仕ふるに至て孝なり、父母死せる時には夷の法にて、死體を窗より出し、夫を山に葬りて、後は追善などヽ云事は更になく、葬の法ありて、草を結びかけて、おのおの跡ずさりして家に歸る、夫より木の皮を以て笠を製し、天の日を見ずとて、三年の間は門戸を出るには、笠を著せずと言事なし、此外にも風俗の感ぜるもの語り多し、

〔東遊雜記〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1333 乙部浦百餘軒の町にて、漁士計の町なれども、家居あしからず、此地に於ては先例ありて、蝦夷御巡見使御三所へ御目見へに出る事也、〈◯中略〉御目通りへ出る蝦夷、都合十四人なり、扨御前へ出る時には、蝦夷の禮式にや、男夷は男夷計、女夷は女夷計、手と手を取くみ、雁のつらなりしやふに並び立て、夫よりおの〳〵頭を低くさげ、足をよこへ〳〵とふみて、庭へ通りて、男夷はむしろの上に箕(アケウ)居し、兩手を組てひざの上に置て、頭をさげずして座せり、女夷は砂上に横ひざにして並び座せり、頭の髮は赤熊天窗にして、壹人の衣服は、日本の地黒の【G糸・旨】に、五色の糸にて祝義著にせる總ぬひの小袖を、蝦夷衣に仕立直したるを著て、年のころ五十餘に見へし壹人郡内じま、此外何れも日本の古著をなをせし衣服なり、中にも蝦夷にて製せるアツシと稱する衣もあり、是はアツシと云木の皮を以ておりし物なり、婦人の頭にも、髮を切て五六寸計にして、前後左右へ童子の天窗のごとく撫たりせしものにて、生ぎわよりうしろの方は剃てあり、衣は男夷とおなじ仕立にして、是も日本の古著木綿の、紺の染模様なるものなり、帶は日本のさなだおり、或はアツシ、或はくけひも、いろ〳〵ありて、男女とも二重廻して、前にて結びてあり、男夷は髯或は二三寸、或は五六寸ほう〳〵と生、眉毛黒長し、 或書に、眉毛はつヾきて、一文字にはへて有と記せり、此度蝦夷人を見しに、一文字につヾきしはなし、ちよつと見れば、日本人の眉毛よりもふときゆへに、つヾきしやふに見ゆれども、つヾ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1334 きし眉毛は更になし、 眼中するどく、黒目玉にして、顏色赤く、畫る樊噲張飛の顏を見るにひとし、長も低からずして、大成丈なるもの也、婦夷は髭もなく、色も日本人のごとく、生れ付にはさして替りし事なく、男夷女夷とも、小耳には鐶を入てあり、其環に大小ありて、銀或は銅、あるひは鐵も見ゆれども、右圖〈◯圖略〉のごとし、初めに入し穴の切て、環の入れざるは、新に入穴をあくると見へて、破れし穴耳たぶに二つあるもあり、女夷は首にシトケといふものをかけて居るなり、悉くかくるにもあらず、衣服のよきを著たる女夷のかけて居るを見れば、貴賤のわかちなるにや、また富饒の夷なるゆへにや、是又詳ならず、

〔夷諺俗話〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1334 蝦夷地風俗之事 西蝦夷地スツといふ場所の内に、辨慶崎と云あり、又其先イリヤといふ場所の内に、來年の崎といふあり、是は辨慶蝦夷人に對し、來年來るべしと、約諾せし處故、爰を來年崎と云傳ふるよし、其外夷言にも、義經をシヤマイクル、辨慶をヲキクルミなどいふ事、今に其名あり、〈◯中略〉斯日本へ從伏なして二千年に近きといへども、未道ひらけず、髮を被り衣を單衣にして、アツシといふ木の皮にて織たるを著し、左袵になして笠鞋履を用ひず、みな裸跣なり、耳には環を穿て飾となし、身體最も色黒く、眉毛一條に連り、總身熊のごとく毛生ひたるあり、故に上古毛人國ともいひたるよし、其性質正直なるもあれ共、交易に馴たる蝦夷は僞謀の事あり、一體其性勇奸にして直ならず、女は皆唇と肘に入墨して文をなす、扨又文字の暦なき故、甲子記年を知る事なく、寒暖を以春秋を分ち、月の盈缺を見て朔望を知り、金銀の通用なし、古器刀劒を以寶とし、山野海河を獵し、群畜諸魚を獲りて食とし、屋室は只四壁のみにて、夫も熊笹を累ね、或は葭茅等を以て是を圍ふ、家内を見れば、土間へアフスケ是は葭簀の事也、是を敷、其上にキナといふ物を敷、是は管苫の事也、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1335 圍爐裡と鍋計にて食用を足し、いろりの廻り甚むさくろしく、物を喰ても其跡を洗ふといふ事もなく、鍋の内を指にてなで廻しては口へ入れ、如斯して其儘にて差置、又何ぞ煮時は、やはり洗ひもせず、直に其鍋にて煮て食し、食物にも多く魚油をさす事にて、夫ゆへ家内もびた〳〵と滑り、臭き事たとへん様なし、湯浴は勿論、朝起出ても手水遣ふといふ事もなく、手拭も不持ゆへ、海邊より上りても、其濡たる儘にいろりの火に當り干す也、大小便をなしても手も洗はず、草村の中濱邊の岩間にひり散し、夜臥にも襖もなく、アツシ壹枚著たる儘にて寢るなり、夜中外へ出て見れば、予〈◯串原正峯〉が旅宿運上屋前往還に、犬の寐たる様にて雨露にうたれ、土間に臥して居るもあり、誠に野鄙の極也、前文述る如く、日域へ歸伏なしてより以來二千年近く成事なれば、上國の風俗におし移るべき事なるに、多年を經ていまだ開けず、斯淺間鋪體なるは歎はしき事ならずや、

〔蝦夷草紙〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1335 歌の文句の事 一西蝦夷地のソウヤ〈松前ヨリ海上凡二百里也〉邊にて、土人の風俗を見るに、遊の座興の戯れにする事にて、口に糸をくはへ、手指の爪にて彈き鳴らし、此相手には團扇太鼔のごときの物をうち、拍子をとり、囃しに乘じ和し諷ふ歌の章句を、翻譯する事左のごとし、 蝦夷國はじめて開けし時に、十二一重の美服を著したる神と、只一重の麁服を著したる神と、ふた神の天降りける時に、美服を著したる神をば尊く思ひて、此國に神とヾまりたまへと祈り尊敬しけるに、麁服を著したる神をば信じ近よらず、依て其神天上して、終に再び降り玉はず、また美服を著したる神は、此國に留り給ふ、此神は粟稗の神にて、麁服を著したる神は米穀の神なりしが、天上し給ひしゆへ、蝦夷國は酷寒の地なれば、十二一重の神へ此國へ留り玉へと祈りしが、糖穀の多き粟稗の神ともしらず、單衣の神は米の神ともしらず、夷狄なるこそ淺

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1336 猿しけれ、仍て蝦夷國は、此因縁にて、米穀の出來ぬことはり也、

〔蝦夷草紙〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1336 妻妾の事 一蝦夷地は、都て妻をマチ、妾をウツシマチといふ、東蝦夷地クナシリ島の脇乙名に、ツキノイといふものあり、妻妾都合十八人あり、本妻と妾との差別なく、諸所に家を作りて、獨身に住はせおく也或は五六里、或は二三十里を隔て、或は海上を數十里隔てたる島々にも、此ツキノイに限らず、富貴なる蝦夷人は妻妾を數多持つは、土地の風俗なり、或ときツキノイ魚油干魚類を船につみて、クナシリ島の運上小屋に來り、交易して代り物の米と麴と小間物類を請取て、濱邊に丸小屋を懸て逗留し居けるが、其近所五里七里隔たる所に住居せし妾の方へ、米と麴と小間物とを配分す、但し米八升俵麴八升俵也、是を三俵づヽ送り遣せば、妾其米と麴にて濁酒を造り、ツキノイ方へ呼使を遣はせば、ツキノイ旅先へ連あるく妾どもに手をひかれてゆきて到れば、饗應に獨酒を出し、妾と共に酒宴をして遊興するなり、妾ども大勢よりあひても、悋氣嫉妬の意もなく、皆頼母敷睦敷ものなり、蝦夷土地の風俗にて、大身小身に限らず、旅稼旅商等我家内のものを不殘召れ、家財も携へて巡行す、是蝦夷土地の風俗なり、又妾どもには家を造り渡し置のみ、外に衣食の手當もなく閣けども、獨り我身を營成し、ヲヒヤウといふ樹の皮を煉り、アツシといふ太布のごときものを織て衣服となして夫に贈るは、蝦夷の夫人の習はせ也、大身の乙名などには、ウタレとて、家來大勢あり、代々相傳の家來にて、主人旅稼に出る時は、此ウタレどもの妻子も倶に從ひゆく、主もウタレも家内不殘旅先に滯留して、かせぎして營成す、是蝦夷土地の風俗なり、生涯住所を定めず、數十里の海邊に住居す、家屋は皆假小屋にて獵産の卓山なる處へ移りて、又假小屋を作りて住居する也、生涯みなかくのごとし、是耕作の産をしらず、獵産澤山なる故也、

名所

〔北海道志〕

〈十地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1336 名蹟 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1337 渡島國 箱館 龜田郡ニ在リ、文安二年、龜田郷領主河野加賀守政季之ヲ築ク、東西三十五間、南北二十八間七重濱ヨリ望ハ其状箱ノ如シ、故ニ呼テ箱館ト爲ス、〈舊名ヲ宇須岸ト云〉其子季通ノ時、永正八年夏四月、蝦夷ト戰テ敗レ自殺シ、館廢ス、幕府ノ時箱館奉行邸ハ、即河野氏ノ館址ニシテ、今ノ支廳是ナリ、〈◯中略〉 富山泉 函館ニ在リ、文化三年、箱館奉行支配調役富山元十郞、箱館山中ノ水ヲ引キ市街ニ分ツ、箱館奉行羽太正養石ヲ建テ之ヲ記シ、屋代弘賢書并題額、〈(中略)按ニ、此碑蝦地松前氏ニ復セシ日、踣シテ源ヲ塞ギ、又人アリテ碑ヲ遷シテ高龍寺ノ溝ニ架シテ橋トナセリ、安政ノ時、河津三郞太郞開鑿シテ稍舊ニ復セリ、今支廳及ビ其他ニ引テ井ト爲セリ、〉 鼎泉 函館大町ニ在リ、文化四年春箱館奉行戸川安論、羽太正養之ヲ鑿ツ、正養ノ書記、高坂元禎記ヲ作リテ井幹ニ刻ム、〈◯中略〉 釧路國〈◯中略〉 義經橋杭〈釧路海中ニ在リ、暗礁二條海中ヘ斗入ス、潮退ケバ現ル、土人云、昔源義經十勝岬ヘ橋ヲ架セントセシ時ノ柱跡ナリト、天造ト雖モ實ニ奇ト云ベシ、〉 盤螺山 厚岸郡ニ在リ、安政年間官吏喜多野省吾山道ヲ開鑿シ、萬延紀元庚申夏五月、官吏鈴木善教文ヲ作テ之ヲ記ス、〈◯中略〉 根室國 義經事跡〈オシヨマウノ地ハ、義經鯨ノ流寄シヲ切リ、蓬ノ串ニ刺シテ燒キシ所ナリト、ヱシヨマイノ地ハ、公野宿シテ席ヲ投棄セシ所ナリト、マクヲイノ地ハ、昔公合戰ノ時幕ヲ張リシ跡ナリト、◯中略〉 千島國 髯塚 擇捉郡ニ在リ、歸化ノ蝦夷剪ル所ノ鬚髯ヲ聚テ斯ニ埋ム、文化四年三月、箱館奉行安藝守羽太正養、石ヲ建テ之ヲ誌ス、高四尺五寸、横一尺三寸、〈◯文略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1338 標柱 蘂取郡カムイワツカヲイ高山ノ嶺ニ在リ、題シテ從是大日本ト曰フ、寛政中幕府吏近藤守重ノ建ル所ナリ、〈或云、近年此地ニ至レル、吏人、守重自筆ノ柱ヲ以テ歸リ、別ニ柱ヲ建テ舊ニ仍ルト、〉 重松ノ井 國後郡ニ在リ、享和元年七月、箱館奉行羽太正養、屬官重松熊五郞ニ命ジテ鑿タシム、〈休明光記ニ、島中水苦惡、飮者病ム、羽太正養之ヲ憫ミ、重松熊五郞ヲシテ地ヲ相シ井ヲ鑿タシム、其水清冽、人始テ病ヲ免ル、蝦夷古ヨリ井ヲ鑿ツコトヲ知ラズ、初見テ驚キ、邦人ノ知巧測ルベカラザルヲ歎ズ、正養其井ニ名ケ因テ其事ヲ歌フ、歌ニ曰、伊久與與毛汲氐志流良牟都久利奈須伊多以能美豆能布加伎免具美遠、〉

雜載

〔御成敗式目追加〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1338 一犯人斷罪事 右爲夜討強盜之張本、所犯無遁方者、可斬罪也、是則爲鎭傍向後也、其外至枝葉之輩者、可進關東、可遣夷島(○○)也、以前條々存此旨、可沙汰之状、依仰執達如件、 文暦二年三月廿三日 武藏守判 相模守判 駿河守殿 掃部助殿 ◯按ズルニ、罪人ヲ蝦夷島ニ遣ス事ハ、法律部中編流罪篇及ビ同部下編遠島篇ニアリ、參看スベシ、

〔古文帖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1338 蝦夷松前領主松前志摩守所藏 大神君御判物寫 定 一從諸國松前江出入之者共、不理志摩守、夷仁と直商賣仕候儀、可曲事事、 一志摩守江無理而令渡海賣買仕候者、急度可言上事、 附夷之儀者、何方へ往行候共、可夷次第事、 一對夷仁非分申懸儀、堅停止之事、 右條々、若於違背之輩者、可嚴科者也、仍如件、 慶長九年三月廿七日 御朱印 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1339 松前志摩守どのへ

〔正齋與古松軒書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1339 爾後は契濶松竹之壽、愈御安榮御渡光之由、珍重不之候、當春鴻書落手之處、發程間際至而紛雜、旅中より可御報と存候處、日々繁冗無其儀、背本懷候次第に御座候、扨不佞去春松前御用被仰付、四月十五日江戸發程、五月十六日三馬屋渡海、同廿三日松前出立、箱館江罷越申候、兼而老人御編述之東游雜記相携、沿途之勝槩、松前之風物比校いたし候所、過差無之、老人一過眼之地、烟霞之妙察、全く山水之奇骨を被得候事と、感心不啻候、夫より東蝦夷地通り、佐原よりヱトモ江渡海、〈凡七里〉此地は去辰巳兩年、蠻舶〈イキリス〉著岸之處にて、海灣凡五六里、ハクチヨウの沼モロランなど紆回して、ウスを經アブタに至る、ウスは山水尤勝麗にして、頑石之位置、崎嶼之錯曲、恰も盆山家園之如く、東夷地細景之第一なり、アブタは平坦といへども、是よりヲシヤマンベの海岸、青石白巖遙に内浦嶽大里島の眺望亦一絶なり、六月二日アブタ出立、ホロヘツ江出、海濱砂漠シラヲイ、ユウブツ、ムカワ、サル、ニイカツブ、シブチヤリ、ミツイシ、ウラカワ、ジヤマニを經て、ホロイヅミに出る、〈シラヲイより凡八日路〉ヱリモといふは、海中へ凡三里ばかりも突出たる出崎にて、回船は箱館、ヱサシより、此ヱリモを見て乘り、東夷地之風土も此崎之前後にて一變すといふ、シヤマニよりホロイヅミ、ヒロウ之間、嶮岨尤多く、巉巖絶壁突兀として、馬足不通、其間チコシキルイ、トモチクシホの嶮、蟻附蟹歩始て魚腹を免れ、石頭岸牙を躍歩し、飛泉を登り、水中を行て、始てヒロウ江出、是より又海濱砂漠之地、浪烟衣を濡し、砂石面を打、ヲホツチイ、トウブイ、シヤクベツ、シラヌカ、クスリコンブムイ、センボシを經て、海を渡ること三里、アツケシに至る、〈海灣道ありといへども、嶮岨故海を渡るなり、〉此地は湊泊尤よろしく、海面に大黒島といふあり、廻船はヱリモ崎より此島を見て乘るといふ、入江は凡三里餘、奧に湖水あり、廣凡二三里、湖中小嶼數十、皆牡蠣之凝りて島となるもの、奇勝不言、是ウス以來大景之第一なり、アツケシは古來夷中之巨擘と唱へ、夷俗も殊に正しく、人物

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1340 耆不少候、夷俗之事は、東遊雜記に詳出候得ば、不贅候、乍去奧地之方は、夷人之寶と唱候雜器も多く、人物も逞しく、ウラカワより只夷人大低眉毛兩分、穀食故にも候歟、ヱリモより奧は眉毛相連りて鬢に至る、盡く魚食故にも候歟、其風俗其語頗相違にて、奧蝦夷之方は一切作物を不存、口蝦夷之方は粟稗大小豆作附相貯へ、粟をモンジロ、稗をビヤバと唱へ、昔義經此土へ來り給ゐし時、播種を教へられ候よし申傳へ、已にサルムカワに、義經之故居とて、夷人幣束を立る處有之候、六月廿三日、アツケシ出立、ビバセ、ヲツケシを經て、子モロに至る、此地はキイタツフ領と唱へ、北はクナジリ島、東はノッカマツフの出崎、西はメナシ〈夷言に東の方といふ事〉ニシベツよりシレトコ迄凡七八日路、子モロは去子年魯西亞人伊勢之漂民を送り、渡來候地にて、今尚其故跡殘り有之候、夫より海上凡十七八里、クナジリ島、此島周廻百里に不過といへども、名山奇石實に天造之妙、先セヽキといへるに、海中より温泉沸騰し、クサリナといふは自然方石、幅凡六七寸、長凡一丈半、或一丈ほどなるが、纍々と相疊みて、鎧の草摺のごとく、其傍に冑形之石あり、又其傍上に方石長二三尺なるに、井幹(ヰゲタ)を組し凡六七あり、平地は方石の小口、波浪に磨して龜甲のごとく、奇々妙々不言、夷人は昔義經此地へ甲冑を置給ひしが、化して石となり、其井幹は熊を商なふ處と云傳ふ、不佞は孔明魚腹浦八陣石のごとく、旌旗を建給ひしか、又六花招之隊俉を被試候遺跡かとも存候、夫よりイエンシユマ紫黒之角石、其上頭は種々之像をなし候が、二町ばかりがほど屏風の如くに立並び、海水と相映じて如畫、ヲタチツフといふ砂山は、夏中穿こと凡一二尺なれば、砂下皆々雪にて、是も義經の船化して砂となる由言傳ふ、チヤチヤスフリといふは、高三四里分、高山絶頂に湖あり、湖中に高山秀拔して雲際に聳へ、湖之水島の西へ流れて瀑布となるを、シヨフケベといふ、東へ流れて大川となるをヲン子ベツといふ、此山メナシよりヱトロ迄を一望して、實に海内第一之神山ともいふべきか、此外ルヨウベツの紋巖、パウチの沸湯の如き奇絶無雙、故に不佞クナ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1341 ジリ島の八景を作り、追而鏤梓之積りに候、此島霧靄深く、時として咫尺不辨ことも數日有之、魚類は夥しく、鱒は海面凡一里餘も充滿、海岸は舟底に當り、櫓械も支候程にて、時々手捕にもいたし、一網凡二三千本は入申候、メナシの鮭も同様に候、此等之事餘りに珍敷、曾參が口を不假ば、信を世人に取に不足かと獨笑いたし候、又可喜は此國いまだ修驗浮屠不入がゆゑに、高山大川とも、皆神代渾沌之儘にて、至て清淨に、山奧の夷人は、白鬚髮木皮衣、實に仙家と同じく、大に俗氣を解脱候こそ幸甚と存候、扨同島アトイヤと申所は、ヱトロフ島へ之渡り口にて、松前より凡三百里、極暑は四十五度に有之候、順風相待、七月廿三日、一葉之夷舟無恙渡海いたし候、然るに此渡りは一望纔に六七里に不足候得共、荒汐之強は、三馬屋之汐に二倍も可致、逆浪の面に沸騰、凡一丈五六尺も水底へ淊り可申、十五六間を隔候友舟之帆も互に不相見程にて、尤草根木皮を以綴合候夷舟にて搔渡り、事馴れ候夷人も毎々溺沒之患有之由にて、何レも咒符を唱へ、必死に摺搔渡海いたし候、著岸之比は、汐風にて半面鬚髮皆如雪になり申候、是迄は荒汐の強に恐れ候が故に、日本人更に渡海無之、夷人も年に一度往來のみにて、開闢以來、此ヱトロフ島江日本人渡海候は不佞を合て僅四度に不過候、夫が故に彼島の夷人も、日本人を珍敷覺へ、見物に出候程に候、不佞も旣に溺沒之覺悟窮候事も度々有之、召具之者顏色皆青黒如鬼、或は帶を解き、或は衣を薄して游揚を謀り候得共、不佞固より水練無之、此荒汐一度覆舟候得者、とても無生理、たとへ死して骸を魯西亞外國に暴し候とも、我邦之香を殘し可申と、著籠を著して渡海いたし候、扨ヱトロフ島は、日本人一切渡海不致候故か、山海の様子も事變り、森然と物淋しく、其人物は夜國之人とも覺敷ごとくにて、大に口蝦夷と異候、尤アツシも無之、草を以衣を製し、又は犬熊皮鷲羽を著し候、鯨も多く、頭に牡蠣附候程之大なるが游ぎ戲れ候に、夷舟にて其背へ乘かけ、毒箭を以射申候、不佞も鑓を以突可申と致候程之事に候、魚類は夥敷、試に編を投れば、一餌凡八九尾を釣り、鱈ア

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1342 ブラゴ、カサゴの類、手に應じて釣り得申候、夫より八月廿六日、メナシ領ノツケと申所へ歸舟、九月十三日アツケシ江出、十一二月之内サル、ムカワシユツ〈コウアツより凡八里餘江〉罷越、義經之故蹟を訪ひ候に、サルミ川上ハイビラといふは、昔判官此山上にハイといへる魚吻を立て、〈則カヂキトヲシ〉居を構へ給ひし處にて、世に判官、八面大王の女に通ぜられしに、大王怒て逐ければ、長刀を拔て櫂となし逃去給ふ、今の車櫂は、其遺風也と云傳ふるは此地にて、夫故か此處の夷人は、風俗家居も格別に宜しく、ハイダルとて夷中に稱せられ候由、又同所より凡十里餘、ムカワの川上にキロロイといへる山上に、判官の來て魚を釣、幣を建給ひし處とて、今尚其故蹟あり、又古き甲冑所藏之夷もあり、此川上江凡十日路餘も蹈入、是迄人跡稀なる處にて、ムカワのキロロイ山上は、不佞始て登り候外、夷人も參不申由申事に候、夫より山中川上雪中氷上跋渉いたし候處、極寒にて大川皆氷り、歩渡に成、大水も寒氣にて、立ながら凍れ割れ、夜中夜著の背も、寢息にて霜凝り、爐邊に差置候茶碗に盛候酒も、曉は凍り固り如丸、風立候得ば鬚髮目睫皆氷り、如雪に成也、夫より臘月廿七日ヱトモに越年、正月八日ウス江移り申候、 一當正月夷地ウスに罷在、雪解氷釋を待て、直ちに奧蝦夷地へ進み、クナシリ島ヱトロフ島よりウルツフ島へ渡海、夫より赤人之島々チリ、ホイ、シモシリ島邊へも可成だけ渡海之積りに候處、一先歸府候様、東都より之召状到來候に付、早速ウス出立之處、いまだ山中深雪にて、道路艱難、夷地越年に候得者、當未之暦も不存、正月之大小も不辨、所謂山中無暦日の類にて、又南部松前の私大も謂レあるごとく存當り、福崎へ至り、始て津輕板之柱暦を見て、今年之大小を知り、二月二日白神崎にて大風雪、併同日無恙松前著いたし、同九日三馬屋へ渡海之處、津輕地いまだ深雪、一望皓白、只人跡を見候のみにて、人足は皆猿羚羊の皮を被り、駕籠はソリに載せて引申候、南部野邊地邊は、軒の上まで雪に埋れ、戸口は穴の如くに成居申候、同廿二日仙臺著之處、急ぎ歸府候様にと

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1343 の事にて、九十五里を五日路に、同廿六日江戸安著いたし候、然處舊臘より蝦夷國境御取締御用被仰出、東蝦夷地ウラカツよりシレトコ迄、其外島々迄上地に相成、御役人數人被差遣候折柄、三月十五日、不佞儀不存寄轉役被仰付、是全く去年以來海外之勤勞を被賞候御事にて、同十七日爲御暇金二枚、時服二拜領、同十九日御朱印拜受、東都在宅僅廿三日にて、同廿日又々蝦夷地へ發足いたし、四月廿四日松前渡海、五月九日御用地ウラカワ江入、六月十二日子モロよりクナシリ江渡り、同十九日アトイヤ江著いたし候、何方も昨年順覽之地、山川再會之思をなし、面白覺へ申候、併クナシリ島半途よりは、夷人も住居無之、野宿のみにて、往來風雨飢寒之患も不少候得共、志士溝壑を不忘之一助を獨笑罷在候、又々夷地に越年、來早春ヱトロフよりウルツフ江相進候筈に候、〈◯中略〉先は起居承度、旁任舊契、アトイヤ風待之丸小屋之内、草々如此に候、頓首頓首、 六月廿一日〈寛政十一未年也同十二月晦日備中著〉 守重 古松軒老人

〔笈埃隨筆〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1343 松前 奧州津輕秋田の邊は、すべて北向なれば、常に陰風砂塵を飛して、天色平生ドンミリとして、大虚の碧瑠璃の色を見る事なし、呉竹集に、冷泉爲家卿の歌あり、 胡砂ふかば曇りもやせん陸奧の蝦夷には見せそ秋の夜の月、とよめり、世に傳ふ蝦夷人は日本人と交易するに、若その價ひ相應せずして、夫を責はたらるヽ時は、耻て面を合せかね、胡砂を吹忽ち我姿を隱して遁るヽ故に、此和歌其心を含りとぞ、誠に奇事といふべし、 十方庵曰、紹巴の發句に、春の夜や蝦夷かこさ吹空の月といへり、コサとは彼地の笛の類にして、口に汐などを含み、空に向て吹上、其邊の月影をくもらせて漁捕しけるか、又一説に山中海邊などへ出るもの、落たる木の葉を拾ひ取、きり〳〵と卷て是を吹に、實に笛音出して愁情を

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1344 催せり、是をコサと云なりとぞ、〈◯中略〉 或は蝦夷人は能霧を吐て身を陰すの術有、又は木の皮のいかにも厚きを卷て、簧と覺しき所に小さき竹あり、只空然たるのみ、水に浸して吹ば、只竹を打拔て、吹音の如し、是を胡障(コサ)といふ、胡障は則胡笳也、笛の聲に山氣立登て、月曇るともいへり、是か地の籟なり、

〔年中行事大成〕

〈三上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1344 四月二十八日 此月より北海浪靜なり、故に南部津輕の商人、蝦夷松前に渡つて交易し、九月を限て歸國す、是を松前渡(○○○)といふ、

〔北海隨筆〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1344 蝦夷地圖の事 常憲院殿〈◯徳川綱吉〉御代初に、松前領主へ御尋有て、蝦夷の地理差上られ、狩野祐甫に命ぜられ、寫し取て上りたるといへり、又水戸黄門光圀卿、蝦夷地の周廻御記の爲め、大船を仕立、松前へ遣され、蝦夷へ乘込けるに、順風稀にして日數懸り、西蝦夷マシケといふ所まで渡りけるに、ほどなく秋の末になりて、海上あらく渡りがたきゆへ、ソウヤまでも渡らずして歸りしとなり、殘念の事なり、

〔休明光記〕

〈一凡例〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1344 一都て蝦夷地へ立る碑類に、漢文を用ひざるは、林大學頭乘衡〈◯述齊〉が曰、今度彼地の擧は、新に本邦より處置せしめ給ふ所なれば、和文こそあらまほしけれとなり、故に皆和文を以て記す、

〔蝦夷草紙〕

〈五附録〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1344 異國舶漂著の事 一カムサスカといふ國は、ヲロシヤ國の地續にて、東方の大端也、然といへども元來日本國の蝦夷地也、爰にヲロシヤ國の暦元一千六百四十三年に至りて、彼國の土人にコウフルといふ者、この地に至りて、はじめて見聞たる所也、日本天明丙午の年〈◯六年〉に及て、一千百四十七年になる、其

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1345 後カムサスカ國土人ヲロシヤ國に伏從せしは、日本享保年間に其盟ありてより、今に到りて然り、此頃より東蝦夷地島々の東海を、セイウヱレヲラストシウヱと名け、西海をベンシユンモヲレヤウと名付たり、其以後官舶渉來して開業をなす事盛ん也、此ベンシユンモウレヤウへ落來る大河有、此落口は大港にしてヲポツカといふ、日本享保年間に、奧州南部佐井町商人竹内徳兵衞といふ漂著せし處也、 ◯

樺太州

〔蝦夷志〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1345 北蝦夷(○○○)〈即奥蝦夷(○○○)、夷中呼之曰カラト(○○○)、〉 北蝦夷、其俗與蝦夷同、夷人亦皆濱山海居、部落凡二十二、〈◯中略〉 東際大海、西北乃韃靼、東南海、兩地相去近遠不得詳、厥産青玉、鵰羽、雜之以蠎級文繒綺帛、即是漢物、其所從來蓋道韃靼地方而已、萬國圖中、東室韋地曰野作者、疑此也、凡南北接壤、但隔小海、而波濤嶮惡夷中亦稱畏途、旦其地絶遠、此間之人到者鮮少、不閲歴而知一レ之、故其間廣狹亦不考、

〔本田利明異國話〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1345 松前より西蝦夷陸地を經て海邊に距り、ソウヤと言所あり、此所より海上凡十里を隔て唐太島(○○○)あり、此島殊に大島なり、松前所在島よりは勝れる大島也と云、此島を日本に西奧蝦夷(○○○○)と言なり、北極出地凡四十四五度なり、依之百草百穀豐饒の國と成べし、ムスクバ或山丹に奪れぬ様にありたきもの也、

〔蝦夷東西考證〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1345 西蝦夷(○○○) 蝦夷の西の海際なる宗谷より、船路二十里に足らずして、〈蝦夷拾遺には、此船路を十五里といひ、北海記には十八九里といひ、蝦夷國撿地圖には十八里といへり、或書も是に同じ〉加良敷登洲(○○○○○)に到る、此洲國最も廣くて南北の亘は二百里に餘り、東西は百里に近しといへり、〈其狹き地にては廿五里ばかりなる所ありとぞ〉東蝦夷の來莫後、江濘府、潤津生等の島に對へれば、是を西蝦夷といふ、〈◯中略〉此加良敷登洲を外國の夷等は薩哈連(○○○)〈又沙哈里印とす〉と云、これは於魯志耶國の

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1346 境を經て、滿州山丹より海に入る薩哈連江の末に、此洲の北盡の近く指向へる故に、彼方より號て薩哈連といへるにて、本邦人は用べき名にあらず、

〔北蝦夷地部〕

〈序〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1346 北蝦夷地〈古稱カラフト島〉 此島は蝦夷島の極北ソウヤ〈地名〉の北十三里の海を隔て、北極地を出る事、凡四十六度より五十一度の間に在りて、其地南北に長く、〈凡二百餘里〉東西に短し、〈凡十五六里より狹き處は七八里にせまる〉其周廻凡五百餘里、南は蝦夷島に對し、東は大洋をうけ、西北は東韃滿州の地方に臨める一大島なり、其人物蝦夷島の如き者は島の三分にして、その一に居し、其他は悉くヲロツコ、スメレンクルと稱せる異俗の夷是に居す、往時松前家島を撫するの時、明和年間家臣和田某なる者をして、此島の中東西僅に五十餘里の地理を觀せしめ、終にシラヌシ〈地名〉クシユンコタン〈地名〉の兩處に小府を設け、島夷を撫し、其産物を交易せしに、寛政十戊午年夏五月、信濃守松平忠明命を奉じて夷島を撿するの時に當て、從夷高橋一貫中村意積なる者二人をして、此島東西の地理を窺しむといへども、其蹤僅に百里計にして歸り來りぬ、其地素より不毛にして、居夷亦多からず、徑路ありといへども、大低蓁棘足を傷り、烟霧眼を鎖し、是に加ふるに、人居を絶つの間五十里百里にいたる者あり、故に其後奧地の地理を窺ふ者なかりしかば、或は孤島と稱し、又は滿州地域の岬と稱して、其説紛々たりしに、文化三年寅年、夷島擧て官に上入し、松前に鎭臺を置て島夷を教育せしめらる、同辰年、松田傳十郞、間宮林藏なる者をして、此島の奧地を窺しむといへ共、猶其極界をきわむるに及ばずして歸來りしに、同年秋再び間宮林藏一人をして其奧地に至らしむ、所謂ヲロツコ、スメレンクルの地を經て、終に此島の北界を窮め、海を越へて東韃に入、其假府徳楞哩名と稱る處に至り、清國の官吏に接して島名を問ひ、其作事所業を閲して、冬十一月、松前府に歸り到るといふ、

〔蝦夷島記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1346 から戸島とて、蝦夷島の三分二程有之島御座候、から戸島へは蝦夷島より海上十里程

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1347之よし、から戸島より北西は高麗のよし申候、是も海上十里程隔申候よし、からと島も蝦夷の内なり、

〔日本地誌提要〕

〈七十七北海道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1347 樺太(カラフト)疆域 四至皆海、南宗谷海峽ヲ隔テ、北見州ニ對シ、北ハ尼哥來斯(ニコライス)海峽ヲ隔テ、魯西亞ニ對ス、北緯四拾六度ニ起リ、五拾三度貳拾分ニ至ル、東西凡四拾五里、南北凡貳百七拾三里、 形勢 地形狹長、委蛇南ニ趨キ、東南一隅彎屈シテ一灣ヲ包ミ、極南兩岬對峙シテ、又一灣ヲ容ル、山嶽盤互、陂澤多ク、氣候寒沍冰雪常ニ結ブ、土人數種アリ、各地ニ聚落ヲナシ、魯西亞人ト雜居シテ、開拓ニ從事ス、風俗言語殊ニ陋醜ナリ、

〔各國條約書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1347 日本國魯西亞國通好條約 安政元年甲寅十二月二十一日〈西暦千八百五十五年第二月七日、魯歴第一月二十七日、〉於下田調印、安政三年十一月十日〈西暦千八百五十六年十二月七日、魯暦十一月二十七日、〉於同所本書交換、〈◯中略〉 第二條 今より後、日本國と魯西亞國との境、ヱトロプ島とウルツプ島との間に在るべし、ヱトロプ全島は日本に屬し、ウルツプ全島夫より北の方クリル諸島は魯西亞に屬す、カラフト島に至りては(○○○○○○○○○○)、日本國と魯西亞國との間に於て界を分たず(○○○○○○○○○○○○○○○○○○○)、是まで仕來の通たるべし、〈◯中略〉 安政元年十二月二十一日〈魯西亞暦千八百五十五年第一月廿六日〉 筒井肥前守花押 川路左衞門尉花押 エフイミユス、プーチヤチン手記

〔日本國郡沿革考〕

〈四屬島〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1347 唐太〈一名山丹、又名太來陔(タライカイ)、即北蝦夷地清人名薩哈連、或名庫頁、〉 峩使議國境時、又及茲島之事、幕議欲島中北緯五十度之地國界、然議亦不恊、暫以隨從所

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1348 界、爲約、現今遣吏員、專行開墾之計、 ◯按ズルニ、慶應三年ノ樺太島假規則、及ビ明治八年ノ樺太千島交換條約ハ、外交部露西亞篇ニ載ス、宜シク參照スベシ、

〔官報〕

〈號外〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1348 明治三十八年十月十六日 朕明治三十八年九月五日、亞米利加合衆國ポーツマス(ニユー、ハムプシヤ州)ニ於テ、朕ガ全權委員ト露西亞國全權委員ノ記名調印シタル講和條約ヲ批准シ、茲ニ之ヲ公布セシム、〈◯中略〉 第九條 露西亞帝國政府ハ、薩哈嗹島南部及其ノ附近ニ於ケル一切ノ島嶼、並該地方ニ於ケル一切ノ公共營造物、及財産ヲ、完全ナル主權ト共ニ永遠日本帝國政府ニ讓與ス、其ノ讓與地域ノ北方堺界ハ北緯五十度ト定ム、該地域ノ正確ナル經界線ハ、本條約ニ附屬スル追加約款第二ノ規定ニ從ヒ、之ヲ決定スベシ、 日本國及露西亞國ハ、薩哈嗹島、又ハ其ノ附近ノ島嶼ニ於ケル各自ノ領地内ニ、堡壘其ノ他之ニ類スル軍事上工作物ヲ築造セザルコトニ互ニ同意ス、又兩國ハ各宗谷海峽、及韃靼海峽ノ自由航海ヲ妨礙スルコトアルベキ、何等ノ軍事上措置ヲ執ラザルコトヲ約ス、 第十條 日本國ニ讓與セラレタル地域ノ住民タル露西亞國臣民ニ付テハ、其ノ不動産ヲ賣却シテ本國ニ退去スルノ自由ヲ留保ス、但シ該露西亞國臣民ニ於テ、讓與地域ニ在留セムト欲スルトキハ、日本國ノ法律、及管轄權ニ服從スルコトヲ條件トシテ、完全ニ其ノ職業ニ從事シ、且財産權ヲ行使スルニ於テ、支持保護セラルベシ、日本國ハ、政事上又ハ行政上ノ權能ヲ失ヒタル住民ニ對シ、前記地域ニ於ケル居住權ヲ撤回シ、又ハ之ヲ該地域ヨリ放逐スベキ充分ノ自由ヲ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1349 有ス、但シ日本國ハ前記住民ノ財産權ガ、完全ニ尊重セラルベキコトヲ約ス、〈◯中略〉 明治三十八年九月五日即一千九百五年八月二十三日(九月五日)ポーツマス(ニユー、ハムプシヤ州)ニ於テ之ヲ作ル 小村壽太郞(記名)印 高平小五郞(記名)印 セルジウヰツテ(記名)印 ローゼン(記名)印

〔蝦夷草紙〕

〈五附録〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1349 カラフト島の事 一松前所在島の西蝦夷地ソウヤといふ處有、此ソウヤを出帆し、海上十里を渡海して、カラフト島の内シラヌシといふ所に至る、此シラヌシより西に乘り、同島の内ナヨシといふ所に至る、此處の沖中にトヽシマといふ島あり、此島カラフト島と僅に海上六七里を隔つといへり、又ナヨシより西に磯部傳ひに乘りて、ヲホトヤリといふ處に至る、此處は左右に山崎の峽有て、風波も凌ぎ安き所にて、涯端まで深くして、港とも謂べき處也、又此處ヲホトマリ、西に磯邊傳ひに乘りナヨロウといふ所あり、此處は涯遠淺に濱邊砂地にて、丘陵は平かなり、此所に大河あり、蝦夷舶に乘り、河上に溯る事數日の舟路也といふ、此邊の地中溪間廣き事と見へたり、此河の海へ落口に、大船の泊にも宜しかるべし、同島シラヌシより、此處まで海上搔き漕送り、凡三十日程の舟路なり、其道法三百里に及ぶべし、此ナヨロウより一日路西に乘、クスリナイといふ所あり、此處に河あり、河上へ一日路のりて大なる池有、毎年冬に至れば堅氷はりて陸地のごとく、此期を候ひ、堅氷の上を渡り、山を數峯を打越し、同島東北の地、タライカとふ所に到るといふ、是近道故也、此クスリナイより西北にのりヲツチンといふ所に至る、此處蝦夷土人も多く、山丹土人も渡海

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1350 し、此處に來りて滯留するといふ、ナヨロウより此ヲツチンまで、舟路凡十日程、海上凡一百餘里なり、此處より西北に一日路の乘舟にて、ナツカウといふ所あり、此所は山丹國への渡海場にて、海上凡十里を隔つ、此瀬戸冬中に至れば、堅氷はりて陸地のごとし、此期に至れば、犬に橇を牽せて通行する也、シラヌシより此邊までを西カラフトといふ、又シラヌシより東はウルといふ處に大河あり、是より東北にノシカロナイといふ所あり、此處にも大河有、此河上に池有て、蝦夷舟にて土人渡海して運送を達すといへり、此ノシカロナイの東北にシレトコといふ處あり、此處海岸より沖の方へ出たる山崎有、シラヌシ在ノトロ邊より此邊まで、蝦夷土人多く徘徊し、産業に力を盡すといへり、又同島西北の地タライカといふ所は、西北第一の繁昌の所にて、是より山奧にヲクカタといふ所あり、此處に蝦夷土人多く住居たる大村あり、蝦夷地に稀なる山中に村民あるは、日請よく、土産能土地よき所としられたり、仍而通路の土人も少々故に、産物も出すといへり、此邊を北カラフトといふ、扨又此島の風土は、松前所在島の氣候に等しき地也といへり、北極土地四十六度より四十八九度に至る也、土人の産業獲物は、ソウヤに近きはソウヤへ運送し、山丹にちかきは山丹に運送して交易するに、風俗も山丹に交易する土人は、山丹風俗に移り、ソウヤへ交易する土人は、日本蝦夷土人のまヽ也といへり、此土地の風俗に、家毎に犬を數多飼置、夏中は舟の綱手を牽せ、冬中は橇をひかせ、犬をつかふ事牛馬のごとくす、冬雪中にいたり漁獵も不足して、粮盡れば、其飼置たる犬を第一の食用に達すると也、此島の廣き事、松前在所島より勝れたる大嶼なり、日本國より遙に大なり、松前所在島と、此カラフト兩島にては、凡日本國三増倍に近かるべし、〈◯中略〉 日本人カラフト島に漂著の事 松前家舊記、漂流船の吟味留書を視るに、攝州西宮の船頭徳五郞といふもの、難風にあひ漂流し

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1351 て、からふと島に漂著す、時に寶暦十二年六月廿一日也、船頭徳五郞いづくともしらざれば、たヾ忘然として昊天を望むのみ、數日滯留の内、鳥の翔霄を視るに、鴨とをぼしき鳥の、辰巳の方位を指て翔びゆくを見て、彼鳥は日本に徘徊する鳥也、毎年秋には集るなれば、辰巳の方位に日本あるべしといひ、夫より十八日を經て人里あり、此時九月十八日也、此處は蝦夷地シラヌレといふ村也、此節旣に雪ふりたりと見へたり、予〈◯徳内常矩〉竊に考ふるに、カラフト島の内タライカとヲツチンとの間に漂著せると思はるヽ也、此等を察し日本の舶師の未熟を推量すべし、猶島の廣太なる事を思ふべし、扨又天明丙午年夏、大石逸平といふ者、カラフト島の地方廣狹遠近、及諸産及人物等の撿査の爲に渡海せり、濱邊傳ひに段々と巡撿するに、ナヨロ村に至る所の乙名ヤヱンコロアイといふ、此者の父の名はヤウチウテイといひし、死去して忰ヤヱンコロアイの乙名をする也、父のヤウチウテイは山丹國に渉海し、又松前所在島西蝦夷地ソウヤ村に渉海し、交易を博くせしもの也しが、先年山丹國に渉海せし時に、滿州の官人來居り、ヤウチウテイといふ名を授けたりといへり、其官人有三身の龍を織たる官服を著したる人也といへり、安永七戊戌年、松前家臣工藤清左衞門上乘役にてソウヤに往し時に、彼ヤウチウテイ交易の爲ソウヤ村に來り居たる故、工藤清左衞門此蝦夷人の名を貰ひたる事を尋るに、楷書に楊忠貞と書たる唐紙の一軸を出したり、清左衞門此始末を見て、山丹からふと兩國の精しきに依て、山丹國の地圖を書記とはせければ、大小島都て六箇所を畫したり、 イチヤ ホツトン スムク タムル ハアトメ スチヤトシリ 以上六島なり、所在の體は詳ならずといへども、猶識者の比校をまつ、又蝦夷土人山田久左衞門といふ通詞ソウヤにゆきたるとき、カラフト島の土人よりもらひたる墨跡の一幅を、予精しく聞に、其書法日本の三社の詑に似たりといふ、大字と小字とに書記せし物にて、大字は楷書にて、小字は變字體にて、上と中と下とに三段に朱印を居たる物也といへり、予

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1352 推量するに、朝鮮國の諺文ならんとをもはるヽ也、滿州山丹にも諺文を用ゆるといへり、日本國の伊呂波の様なるものにて、假名也、


Last-modified: 2019-03-15 (金) 09:48:58 (387d)