http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0985 豐前國ハ、ブゼンノクニト云ヒ、舊クハ、トヨクニノミチノクチト云フ、本ト豐國(トヨクニ)ト稱シ、豐前豐後一國タリ、西海道ニ在リテ、東南ハ豐後、西ハ筑前ニ界シ、東北ハ海ニ至ル、東西凡ソ十六里、南北凡ソ十五里、其地勢ハ、山脈北ニ起リ、南走シテ筑前ヲ界シ、更ニ東折シテ豐後ヲ限リ、東北周防灘、及ビ馬關海峽ニ面シ、國内ノ諸水皆之ニ歸ス、實ニ鎭西ノ要衝タリ、此國ハ古ヘ國府ヲ京都郡ニ置キ、田河(タガハ)、企救(キク)、京都(ミヤコ)、仲津(ナカツ)、築城(ツイキ)、上毛(カムツミケ)、下毛(シモツミケ)、宇佐(ウサ)ノ八郡ヲ管シ、延喜ノ制、上國ニ列ス、明治維新ノ後、築城上毛ノ二郡ヲ合シテ築上郡ト稱シ、仲津郡ヲ廢シテ京都郡ニ併セ、都テ六郡ト爲シ、新ニ門司、小倉ノ二市ヲ設ケ、田河、企救、京都、築上ノ四郡ト共ニ、福岡縣ヲシテ之ヲ治セシメ、宇佐、下毛ノ二郡ハ大分縣ニ隷屬セシム、

名稱

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0985 豐前〈止與久邇乃美知乃久知〉

〔饅頭屋本節用集〕

〈不天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0985 豐前(ブゼン)〈豐州〉

〔日本風土記〕

〈一寄語島名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0985 豐前〈孛前(ブセン)〉

〔易林本節用集〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0985 豐前、〈豐州〉上、管八郡、南北四日、鄰唐藥種重器充、以錦帛貢也、大中國也、

豐國

〔豐後國風土記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0985 郡捌所、〈郷四十、里一百十、〉驛玖所、〈並小路〉烽伍所、〈並下國〉寺貳所、〈僧寺尼寺〉 豐後國者、本與豐前國、合爲一國、昔者纒向日代宮御宇大足彦天皇、〈◯景行〉詔豐國直等之祖莬名手、遣

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0986 豐國、往到豐前國仲津郡中臣村、于時日晩僑宿、明日昧爽、忽有白鳥、從北飛來翔集此村、莬名手即勸僕者、遣其鳥、鳥化爲餅、片時之間、更化芋草數千許株、花葉冬榮、菟名手見之爲異、歡喜云、化生之芋、未曾有一レ見、實至徳之感、乾坤之瑞、旣而參上朝庭、擧状奏已上聞、天皇於玆歡喜之有、即勅菟名手云、天之瑞物、地之豐草、汝之治國、可豐國、重賜姓曰豐國直、因曰豐國、後分兩國、以豐後國

〔倭訓栞〕

〈中編十六登〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0986 とよくに 豐かなる國の義也、神代紀に豐國主尊まします、九州の豐前豐後ももと豐國といひたり、義字の如し、

〔古事記傳〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0986 豐國は登與久邇と訓べし、何書にも皆然有り、〈登與乃久爾とはいはず〉最も後に二國に分れて、和名抄に、豐前〈止與久爾乃美知乃久知〉豐後〈止與久爾乃美知乃之利〉とあり、分れしは何時ともしれず、さて書紀景行卷十二年下に、遂幸筑紫豐前國、長峽縣興行宮而居、故號其處京也、冬十月到碩田國、其地形廣大亦麗、因名碩田也とあり、風土記にも此事あり、されば其國の大名を豐國と云も、此意なるべし、〈豐はゆたけく大きなる意なり、豐後國風土記の、豐國の名の説はいかゞ、〉碩田は後に郡となれり、〈和名抄に、豐後國大分郡これなり、又大隅國桑原郡にも、大分豐國てふ二郷ならびてあり、是は別ながら由あることなるべし、〉

〔豐前志〕

〈一總論〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0986 按ずるに、豐國の前後と二に分れしは、何の御世にかあらむ、先づ國史に見えたるは、日本紀景行天皇十二年の下に、遂幸筑紫、到豐前國、と有ぞ始なる、然れば其より以前か、將別れしは後なれど前へ及して如是は書る歟、〈古事記志賀宮卷に、定賜國々之堺と云ことあり、また姓氏録、攝津國皇別に、坂合部大彦命之後也、允恭天皇御世、造立國境之標、因賜姓坂合連、と云ことも見えたり、此の二御世の際に、分られたるにてもありぬべし、〉

〔日本書紀〕

〈七景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0986 十二年九月、天皇遂幸筑紫、到豐前國(○○○)長峽縣行宮而居

〔古事記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0986 伊邪那岐命〈◯中略〉妹伊邪那美命、〈◯中略〉御合、〈◯中略〉次生筑紫島、此島亦身一而有面四、毎面有名故〈◯中略〉豐國謂豐日別

〔先代舊事本紀〕

〈十國造〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0986 豐國造 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0987 志賀高穴穗朝〈◯成務〉御代、伊甚國造同祖宇那足尼定賜國造

位置

〔地勢提要〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0987 各國經緯度〈附里程〉 豐前小倉〈船頭町〉極高三十三度五十三分半、經度西四度五十分、從東都〈東海道西國街道、自赤間關渡海直徑三里、〉二百八十三里八町八間半、

〔日本經緯度實測〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0987 北極出地 豐前 中津 三三度三六分三〇秒 小倉 三三度五三分三〇秒〈◯中略〉 東西里差〈◯中略〉 山城 京 〇度〇〇分〇〇秒〈◯中略〉 豐前 小倉 西四度四九分五八秒

疆域

〔豐前志〕

〈一總論〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0987 國の大體西北を首とし、東西を尾とす、東は豐後國速見郡に隣り、南は同國玖珠日田の二郡に連り、西は筑前國遠賀鞍手の二郡に接り、何れも山を境界とせり、北は海に屬けり、東西二十里、南北十里餘なり、

〔日本地誌提要〕

〈六十七豐前〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0987 疆域 東南ハ豐後、西ハ筑前、東北ハ海ニ至ル、東西凡壹拾六里、南北凡壹拾五里、

島嶼

〔日本實測録〕

〈十一島嶼〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0987 豐前國企救郡 實測 和合良島、周廻五町四十三間、 鐘ケ崎島、周廻九町一十間、 馬島、周廻二十五町四十八間、 天子島、周廻三町二十間、 藍島、周廻一里一十三町二十一間、 中瀬戸島、周廻三町四十四間、 貝島、周廻四町二間半、 姫島、周廻一町三十間、 津村島、周廻六町四十七間、 間島、周廻八町三間、 遠測 片島 末ケ島 甑瀬 篠瀬〈又呼與次兵衞瀬〉 輕子島 笠縫島 毛無島 京都郡 實測 神ノ島、周廻一十三町四十二間 仲津郡 實測 蓑島、周廻二十三町一十間、 遠測 小島〈又呼又神島〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0988 上毛郡 實測 鵜島、〈從南岬北岬〉二町三十間、 下毛郡 遠測 龍宮島 中洲

地勢/氣候

〔西遊雜記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0988 豐前國は、海邊に寄程風土よくして、西國は山連々としてあらく、九州の内にては上國といへども、中國筋にくらべ見れば、人物言語劣りて、諸品の自由とも云がたし、

〔萬國夢物語〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0988 下之關ヲ經テ、小海三里ノ渡ヲ踰、九州ノ地ニ入、豐前ノ小倉ニ至ル、此州九州ノ西北ノ隅也、西南長門ニ對ス、東ヨリ南ヘ回テ、筑前ニ境東ヨリ北ヘ回テハ豐後ニ境也、上管八郡、田河、企救、京都、仲津、筑城、上毛、下毛、宇佐也、高卅二万六千石餘、中津小倉新田城下ニテ、高合廿六万石許、大名領也、氣候四國ニ似タルベシ、暖國也、風俗義寡者多ク、變轉常無シ、

〔日本地誌提要〕

〈六十七豐前〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0988 形勢 山脈北ヨリ起リ、東西ニ分チ、南走シテ筑前ヲ限リ、更ニ東折シテ豐後ノ界ヲナス州ノ北角、僅ニ海峽ヲ隔テ長門ニ對シ、西海道ノ要衝タリ、地味豐腴、五穀ニ宜シ、風俗淳茂、氣候極暑九拾五度、極寒三拾六度、

道路

〔日本實測録〕

〈七街道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0988豐前國小倉街道長崎 豐前國企救(キク)郡小倉船頭町、三十三度五十三分半、 一町九間 同室町 五町二十一間〈至小倉城大手前三丁一十二間〉 同大門町 二里四間〈至國界一里一十五丁六間〉 筑前國遠賀郡尾倉村〈◯中略〉 從豐前國小倉秋月松崎 豐前國企救郡小倉船頭町 二十一間 同寶町〈至門司口一十丁三間〉 二十八町四十一間半 新村 一里九町八間 徳力村 二里六町三十九間 呼野村 一里一十七町三十間半 田川郡採銅(サイトウ)所町 三十五町一十一間 香春町三十三度三十九分半、 二町四十八間 下香春村 二里三十五町四十五間半〈至田川座神社華表前五丁二十七間半〉 猪膝(ヰノヒザ)町二里三十九間〈至國界二十九丁五十四間〉 筑前國嘉麻郡大隈村大隈町 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0989豐前國新村樋田宇曾 豐前國企救郡新村 一里一十五町四十五間 葛原村 二町二十四間 下曾根村 一里二十九町四間 京都郡刈田(カンタ)村 一里二十四間 與原村 二十八町五十間半 仲津郡大橋村、三十三度四十四分、 三里一十二町七間半 築城(ツイキ)郡椎田村、三十三度三十九分半、 四町四十二間 湊村、三十三度三十九分半、 二里六町五間 上毛郡八屋村濱 一町三十四間 八屋村、三十三度三十七分、 二里一十三町三十九間半 下毛郡湯屋村 二里一十六町一十九間 樋田村、三十三度三十分半、 二町六間 同高瀬川岸 一里二十三町二十一間 平田村、三十三度二十八分、 二里一十一町一十八間 宮園村高瀬川岸、〈至宮園村宿所二丁三十三間〉三十三度二十五分、 一里三十町三十三間 宇曾(ウソ)村  〈從新村宇曾〉街道、通計二十一里一十八町五十二間半、 從豐前國湯屋下郡及久住小里 豐前國下毛郡湯屋村 三十五町五十九間 福島村、三十三度三十四分、 二里二十町三十三間 宇佐郡四日市村 一里九町五十間 宇佐村御祓(ミソキ)馬場、三十三度三十一分半、〈至宇佐八幡社二丁五十九間〉 三里七町〈至國界二里七丁一十八間、從國界立石陣屋裏門前一里九丁三間、〉 豐後國速見郡立石〈◯中略〉 從豐前國樋田森至堀田 豐前國下毛郡樋田村高瀬川岸 二十町一十一間半 跡田村〈至羅漢寺一十丁四十間半〉 一里十七町四間 西谷村、三十三度二十六分、 二里二十五町一十間〈至國界亂橋二里二十五丁一間〉 豐後國玖珠郡太田村〈◯中略〉 從豐後國陣屋廻宇曾英彦山〈◯中略〉 豐前國下毛郡守實村、三十三度二十三分半、 三町三間 宇曾村 四里一十三町五十二間半 田川郡英彦山豐前坊前〈至豐前窟◯下有墨滅〉 二十七町五十二間半 同中谷町〈至女體嶽二十二町九間〉 一十二町

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0990 五十二間 英彦山小貳川 〈從陣屋廻英彦山〉街道、通計九里二十二町二間、 從豐前國香春英彦山渡里村 豐前國田川郡香春町 二里三十一町四十七間半 添田町 三里七町五十一間 英彦山小貳川 二里三町三十七間〈至國界一里二十八丁一十九間〉 筑前國上座郡小石原村

〔日本實測録〕

〈六沿海〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0990豐前國小倉沿海至鹿兒島 町前國企救(キク)郡小倉船頭町、三十三度五十三分半、 一里二十一町四十四間〈至小倉門司口九町五十三間〉 大里(ターリ)村、三十三度五十五分、 一里三十一町四十八間〈至楠原村納屋濱一里一十一町十間〉 門司(モジ)村 一里一十八町二十四間 田野浦村 二里一十八町一十八間 大積村 一里二十三町一十四間半 柄杓(シツクダ)田村 一里三十四町二十二間 恒見村、三十三度五十二分、 二里一十七町五十九間〈至吉田村練崎一里一十町三十三間〉 葛原村 二町二十四間 下曾根村、三十三度五十分半、 三里一町五十四間 京都(ミヤコ)郡苅田村、三十三度四十七分半、 一里三十四町六間〈至與原村一里二十四間〉 仲津郡大橋村小波瀬川口〈至街道一十三町九間半〉 三里二十四町三十間 築城(ツイキ)郡湊村 二里六町五間 上毛(カウケ)郡八尾(ハチヤ)村 二里六町四十一間半 小祝浦見牛〈沿川至小祝浦、五町五十四間、〉 一十一町三十六間 小祝浦 七町二十三間 下毛郡中津新博多町、三十三度三十六分半、 二里二十五町五十一間 今津、三十三度三十四分半、 二里二十六町二十三間 宇佐郡住江村、三十三度三十四分、 四里一間〈至國界三里八町四十七間〉 豐後國國東郡高島村〈◯中略〉 從肥前國長崎沿海至小倉〈◯中略〉 豐前國企救郡平松浦〈至大門崎二丁三十間〉 六町二十七間半 小倉室町 一町九間 同船頭町 〈從長崎小倉〉沿海、通計二百六十一里五町二十四間、

宿驛

〔延喜式〕

〈二十八兵部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0990 諸國驛傳馬〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0991 豐前國驛馬〈社埼、到津各十五疋、田河、多米、刈田、築城、下毛、宇佐、安覆各五疋、〉

建置沿革

〔日本國郡沿革考〕

〈三西海道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0991 豐前 古豐國〈安閑紀、國造記、〉分爲前後、未何時、〈豐前之名既見景行紀十七年〉上國、管八郡、六百七十七村、 企救〈九十五村 令義解作規矩〉 田川〈六十二村 延喜式等作田河、景行紀高羽川即是、〉 京都〈六十三村 古國府、今昔物語作宮子、景行十二年紀、到豐前國長峽縣行宮、號其處京即是、〉 中津〈七十四村 延喜式等作仲津〉 築城〈三十九村〉 上毛〈七十三村 筑後風土記上膳縣即是〉 下毛〈八十一村〉 宇佐〈百八十六村 古宇佐國見國造記、古事記作宇沙、景行紀作莵狹、〉

〔日本地誌提要〕

〈六十七豐前〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0991 沿革 古ヘ國府ヲ仲津郡ニ置、〈今草塲村ニ在廳屋敷アリ、蓋シ其遺址ナリ、〉建久六年、宇都宮信房ヲ以テ守護トシ、仲津郡城井(キヰ)郷ニ居ル、子孫因テ城井氏ト稱ス、其後大友能直、本州及豐後ノ守護トナリ、嘉祿ノ初ヨリ、少貳氏本州ノ事ヲ兼管ス、足利尊氏ノ反スル、城井冬綱〈信房五世ノ孫〉之ニ屬シ、因テ守護トナル、正平中、肥後ノ菊池氏日ニ強ク、來テ西境ニ據リ、新田義基ヲ馬嶽城〈京都郡大谷村〉ニ置キ、之ヲ鎭ス、天授ノ初、足利義滿、大内義弘ニ守護ヲ與ヘテ西伐セシム、九州平定ノ後、本州永ク大内氏ニ屬ス、天文ノ末、大内氏亡ビ、毛利元就將ヲ遣テ來リ窺フ、弘治ノ初、大友義鎭亦入侵シテ城井氏ヲ降シ、州ノ大半ヲ略シ、毛利氏僅ニ企救京都二郡ヲ得タリ、天正ノ末、島津氏州内ヲ侵攘ス、豐臣氏西征ノ後、黒田孝(ヨシ)高ヲ中津ニ、〈六郡ヲ領ス〉毛利勝信ヲ小倉ニ封ズ、〈田川企救二郡ヲ領ス〉關原ノ役、黒田孝高、加藤清正ト共ニ東軍ニ應ジ、九州ヲ徇ヘ、勝信ヲ降ス、徳川氏、孝高ヲ筑前ニ移封シ、細川忠興ニ全州ヲ賜ヒ、小倉ニ治ス、寛永九年、細川氏轉封ノ後、小笠原忠眞ヲ小倉ニ封ジ、九州探題ノ事ヲ司ル、忠眞其四子眞方ニ新田萬石ヲ分ツ、又小笠原長次ニ中津ヲ賜フ、〈八萬石〉五世長興、播磨〈安志〉ニ轉ジ、奧平昌成之ニ代リ、凡テ三藩、慶應ノ初、小倉藩毛利氏ニ陷サレ、徙テ香春ニ治ス、王政革新、香春ヲ改テ豐津トシ、其支封ヲ千束ト稱ス、旣ニシテ皆廢シテ縣トシ、又合併シテ小倉縣ヲ置、

〔先代舊事本紀〕

〈十國造〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0992 宇佐國造 橿原朝、〈◯神武〉高魂尊孫宇佐都彦命定賜國造

〔續日本紀〕

〈十六聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0992 天平十八年九月己巳、從五位下大伴宿禰百世爲豐前守

〔大友記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0992 大友由來之事 大友豐前守左近將監能直ト申ハ、右大將頼朝公之御息也、其謂ヲ尋ルニ、上野國大友四郞大夫經家之息女ヲ頼朝寵愛マシ〳〵、懷妊トナラセタマヒシ時、大友齋院之次官親義ニタマヒテ、後誕生ナリシオンサウシヲ、市法師殿ト申サレシハ此人ナリ、〈◯中略〉去程ニ、頼朝公富士之御狩ヲナシタマヒシ時、曾我兄弟カタキノ工藤祐經ヲ討取、剩御料之御陣ニ亂イル、頼朝公スグニ鎧ヲ著シ、打イダシタマフ所ニ、彼市法師殿、其比十一歳ニヲハセシガ、頼朝ノ御キセナガニトリツキ、君ハ是征夷大將軍ニテワタラセ給フニ、是程ノ夜討ナンドニ、カロ〳〵シク物ノ具メサルベキニ非ズト、頻ニ留メ給ヘバ、頼朝公尤ト思召トヾマリタマフ其後幼少之モノヽ、キドクナル事ヲ申タルト御感アツク、豐後豐前兩國ヲタマハリ、豐前守左近將監能直ト號、官位五位上、大友ハ氏タリトイヘドモ、能直正ク頼朝ノ御子ナルニヨツテ、ミナモトノ氏ヲクダサレ、義直ヨリ源氏ニナリタマヒケリ、カクテ能直豐後國府内ニ下著アリ、累代年久ク、今ノ義鎭公マデ十八代、メデタクサカエ給ヒケリ、

〔太閤記〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0992 大隅日向知行割之事 七月〈◯天正十五年〉朔日、秀吉箱崎を御立なされ、宗像に御宿陣、三日、小倉之城につかせ給ふて、豐前八郡之内六郡、黒田勘解由に被下、二郡は毛利壹岐守に被下、則小倉を居城に致し可申旨也、黒田は馬嶽居城に宜しからんやと、自由せさせ給ふ、

〔川角太閤記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0992 一豐前國小倉、森壹岐、六萬石、是は大坂へ籠申候豐前親也、黒田官兵衞豐前の中津

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0993 にて十三萬石、豐前一國の内は大名衆竹中源助、扨其外御臺所入、

國府

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0993 豐前國〈國府在京都郡

〔豐前志〕

〈五仲津郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0993 在廳屋鋪 草場村に、在廳屋鋪と稱ふ處あり、是れ國府の蹟なるべし、〈◯中略〉按ふに、在廳は國府に在る土著の官人を云ひ、其の官人の居る府をも、在廳と云ふなり、神宗定〈前記官幣宮祠官◯豐日別國魂宮〉が所藏の天文十年、大内家の文書には、太宰府をも在廳と云へり、出雲風土記、兵部式、三代實録等に、國廳と見えたるも、在廳と同じく國府を云ふなり、扨和名鈔に、國府在京都郡とあるは、甚疑し、若くは誤には非るか、或は往方京都郡なりしを、後に此の郡に移せる事のありしか、後紀に、延暦廿三年正月壬寅、遷但馬國治於氣多郡高田郷、同四年十一月乙酉、遷攝津國治於江頭など見えたるは、國府を遷せる例なり、〈三代實録に、出羽國府を移せる事も見ゆ、〉但總社、國分寺、續命院など、皆當郡にて、近く隣村なるに、京都郡には、然る名の存れる事も聞えざるは、是は必源順ぬしの誤とぞ所思(おぼゆ)る、且草場、國作兩村の西方に、高貴人の墳墓と思しきもの廿三あり、是れ國司四等の官人等を葬りたる所にても有りぬべく思ゆれば、旁國府は草場村なりし事、疑なかるべし、

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0993 豐前國〈◯註略〉管八〈◯註略〉田河 企救〈岐多〉京都〈美夜古〉仲津 築城〈豆伊岐〉上毛〈加牟豆美介〉下毛宇佐

〔延喜式〕

〈二十二民部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0993 豐前國上、〈管 田河(タカハ) 企救(キク) 京都(ミヤコ) 仲津(ナカツ) 築城(ツキ) 上毛(カムツケ) 下毛 宇佐(ウサ)◯中略〉 右爲遠國

〔皇國郡名志〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0993 豐前國〈八郡〉 田河(タカハ) 〈●猪膝 △彦山權現 山バカリ 筑前界〉 企救(キク) 〈●川原市 ●石ワリ 〈小倉 ●内裏 ●門司 筑前界長門内海ニ向〉 京都(ミヤコ) 〈●刈田 △ツナシキ天神 企救ニ並郡〉 仲津(ナカツ) 〈山バカリ三ケ村 △彦山ヨリ出ル川郡ノ中央ニ流 國中細ク長シ〉 築城(ツイキ) 〈山バカリ在郷無シ 國中〉 上毛(カムツケ) 〈松江一村限 △高瀬川 下毛ニツヾク郡〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0994 下毛 〈中津 大郡ナレドモ山バカリニテ村號少シ 豐後界ヨリ海ニ貫〉 宇佐(ウサ) 〈●森澤 ●宇佐 △八幡社 豐後界〉 ◯按ズルニ本書及ビ次下ノ郡名異同一覽ノ符號ハ、山城國篇郡條ニ引ク所ノ二書ノ凡例ヲ參照スベシ、

〔郡名異同一覽〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0994 豐前

田河郡

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0995 豐前 田河(川)〈タカハ〉

〔豐前國志〕

〈二上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0995 田川郡名義 此郡の名義は、景行天皇紀、十二年、高羽川、亦彦山紀鷹羽郡、和名抄田河郡、豐前風土紀田河郡云々、今田川郡と書く、此郡は當國西南の方にあり、西は筑前國上坐、嘉摩、鞍手の三郡に堺ひ、南は豐後國日田郡に隣る、東は京都仲津下毛の三郡にさこふ、北は企救郡にとなりて山深し、

〔日本書紀〕

〈七景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0995 十二年九月戊辰、到周芳娑磨、〈◯中略〉爰有女人神夏磯媛、〈◯中略〉參向而啓之曰、願無兵我之屬類、必不違者、今將徳矣、唯有殘賊者、一曰鼻垂妄假名號、山谷響聚、屯結於菟狹川上、二曰耳垂、殘賊貪婪屢略人民、是居於御木〈木此云開〉川上、三曰麻剥、潜聚徒黨、居於高羽(○○)川上、〈◯中略〉其所據并要害之地、

〔續日本紀〕

〈十三聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0995 天平十二年十月壬戌、大將軍東人言、〈◯中略〉降服隼人贈唹君多理志佐申云、逆賊廣嗣謀云、從三道往、〈◯中略〉多胡古麻呂〈不率軍數〉從田河道(○○○)往、

〔續日本後紀〕

〈六仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0995 承和四年十二月庚子、太宰府言、管豐前國田河郡香春岑神〈◯中略〉望預官社、以表祟祠之、

〔大内家壁書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0995山口御分國中行程日數事〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0996 豐前國〈◯中略〉 田川郡四日、請文十三日、〈◯中略〉 寛正二年六月廿九日 備中守〈奉〉秀明〈◯下略〉

企救郡

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0996 豐前 企救〈キク今規矩郡〉

〔延喜式〕

〈二十二民部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0996 〈頭註〉企救郡、今書規矩郡(○○○)

〔豐前國志〕

〈一上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0996 企救郡名義 此郡の名義は、舊事天神本紀天孫降臨之條、筑紫聞の物部と記され、又雄略天皇御卷に、其十八年、伊勢女郞反ク條、築紫聞物部大斧手と云人あり、其後企玖、規矩など書、今企救郡と書く、此郡は國の西北の方にあり、東北は海、西は筑前遠賀郡、鞍手二郡に堺、南は田川京都二郡に隣る、

〔續日本紀〕

〈十三聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0996 天平十二年九月戊申、大將軍東人等言、殺獲賊徒、豐前國〈◯中略〉企救郡板櫃鎭小長凡河内田道〈◯下略〉

〔大内家壁書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0996山口御分國中行程日數事〈◯中略〉 豐前國〈◯中略〉 規矩郡(○○○)三日、請文十三日、〈◯中略〉 寛正二年六月廿九日 備中守〈奉〉秀明〈◯下略〉

〔大友記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0996 藝州勢退散之事 鑑種〈◯高橋〉ハ豐前ノ國規矩郡ヲタマハツテ、小倉ニ在城ス、

京都郡

〔豐前國志〕

〈三下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0996 京都郡の名義 日本紀景行天皇卷、幸筑紫豐前國長峽縣、興行宮而居、故號其處京也と云々、此時より京都郡の名起れりと云、如本文長峽縣にいたりとあれば、是より前の名早く長峽縣と云ふ所と通(キコ)ゆ、此處は平尾の小山長く引出てある故に、長尾と古くより唱來りしものならん、此郡は高山深山もなく分内も狹まし、昔より京都仲津の兩郡は國の中央にして、諸方への街の地なり、郡内土白く、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0997 砂交りに美敷く光りありて、明き土地なりけり、〈長峽の丘山四方に因りて山脈なし〉如長島

〔日本書紀〕

〈七景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0997 十二年九月、天皇遂幸筑紫到豐前國長峽縣、興行宮而居、故號其處京也、

〔日本靈異記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0997 非理奪他物惡行惡報奇事縁第卅 膳臣廣國者、豐前國宮子郡(○○○)少領也、藤原宮御宇天皇之代、慶雲二年乙已秋九月十五日庚申、廣國忽死、逕之三日戌日申時、更甦之而語之曰、使有二人、一頂髮擧束一小子也、〈◯下略〉

〔續日本紀〕

〈十三聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0997 天平十二年九月戊申、大將軍東人言、殺獲賊徒豐前國京都郡(○○○)鎭長太宰史生從八位上小長谷常人 己酉、大將軍東人等言、豐前國京都郡大領外從七位上楉田勢麻呂、將兵五百騎〈◯中略〉來歸官軍

〔大内家壁書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0997山口御分國中行程日數事〈◯中略〉 豐前國〈◯中略〉 京都郡四日、請文十二日、〈◯中略〉 寛正二年六月廿九日 備中守〈奉〉秀明〈◯下略〉

仲津郡

〔豐前國志〕

〈三上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0997 仲津郡の名義 此郡の名義は、豐後風土記に、豐前國仲津郡中臣村に云々、和名抄仲津郡、こヽは國の中央に有故の稱にして、三栗の中津抔よめり、郡内に國分もあり、諸方へ街道の地にして、西は京都田川の二郡に堺ひ、北は海、東は築城郡下毛郡に隣る、分内も廣く、打開きたる土地なり、

〔續日本紀〕

〈十三聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0997 天平十二年九月己酉、大將軍東人等言、豐前國〈◯中略〉仲津郡擬少領无位膳東人兵八十人、〈◯中略〉來歸官軍

〔大内家壁書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0997山口御分國中行程日數事〈◯中略〉 豐前國〈◯中略〉 仲津郡四日、請文十三日、〈◯中略〉 寛正二年六月廿九日 備中守〈奉〉秀明〈◯下略〉

築城郡

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0998 豐前 築城(筑)ツイキ

〔豐前國志〕

〈四上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0998 築城郡名義 此郡の名義は、古き書に見あたらず、和名抄筑城郡、續紀築城郡の擬少領云々、築城といふ稱いづれの比より起りしもの歟、其證を傳へず、西は仲津郡、北は海、南は下毛、東は上毛の三郡に隣り、山海相對したる縣なり、奧山に城(キ)の郷(コフ)と云岩山あり、絶景の地にて、日本圖にも出たり、

〔豐前志〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0998 築城郡〈郷四、村四十七、◯中略〉 重春云、天智天皇紀に、四年秋八月、遣達卒憶禮福留達卒四比福夫築紫國、築大野及椽二城と云ふ事あり、是れ和名鈔に出でたる大野、樢木の二郷なる由は、下に云ふが如し、築城と云ふは、此の城を築きしに因る稱なるべし、 或記云、細川家より御引渡の高、築城郡、二萬二百二十七石六斗六升七合一勺一才、

〔續日本紀〕

〈十三聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0998 天平十二年九月己酉、大將軍東人等言、豐前國〈◯中略〉築城郡擬少〈◯少原脱、據一本補、〉領外大初位上佐伯豐石兵七十人來歸官軍

〔大内家壁書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0998山口御分國中行程日數事〈◯中略〉 豐前國〈◯中略〉 築城郡四日、請文十三日、〈◯中略〉 寛正二年六月廿九日 備中守〈奉〉秀明〈◯下略〉

上毛郡

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0998 豐前 上毛〈カンツミケ カフケ〉

〔豐前國志〕

〈四上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0998 上毛郡名義 此郡の名義は、景行帝此國に久しく坐々て、上膳米を納めし所故、此稱起りし事に思ふ、筑後風土記に、石井の君皇風に反條、豐前國上膳(カミツケ)縣南山曲に終云々、亦御木(ミケ)川、御木村もあり、和名抄上毛(カミツミケノ)郡今上毛(カフゲ)郡と訓、古より米の上品(ヨキ)所なる故の稱と通ゆる也、

〔豐前志〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0999 上毛郡〈郷四、村七十三、◯中略〉 重春云、上毛を、今カウゲと唱ふは、音便に崩づれたるなり、或人が所藏せる正安四年の田地沽渡證文には、下毛をシモツミケと書けり、然れば、上毛をも其頃まではカムツミケと正しく唱へりし事著し、扨上毛、下毛と郡を、上下に分ちたるは、稍後世の事にて、往昔は、美毛(ミケノ)郡と云ひたりけむ、そは上毛、下毛の郡界を流るヽ河を、景行天皇紀に御木川とあるにて知らる、總べて上下前後の名、郡國にあるは、後に別ちたるものにて、豐前豐後は、本豐國なるを前後に分ち、上野下野は、本、毛野國なるを、上下に分てる類皆同じ、猶美毛の名義は、下毛郡大江社の下にて云はむ、 或記云、細川家より御引渡の高、上毛郡、三萬五百七十石八斗一升六合一勺一才、

〔續日本紀〕

〈十三聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0999 天平十二年九月己酉、大將軍東人等言、豐前國〈◯中略〉上毛郡擬大領紀宇麻呂等三人、共謀斬賊徒首四級

〔大内家壁書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0999山口御分國中行程日數事〈◯中略〉 豐前國〈◯中略〉 上毛郡五日、請文十五日、〈◯中略〉 寛正二年六月廿九日 備中守〈奉〉秀明〈◯下略〉

下毛郡

〔豐前國志〕

〈四下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0999 下毛郡 此郡の名義は、和名抄下毛郡、万葉集略解にも上毛郡に付ての名成べしとあり、己も同考也、此郡も米の味美(ヨキ)土地なれば、上下御膳(ミケ)の名あるものならん、

〔豐前志〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0999 下毛郡〈郷七、村百、〉 和名鈔に、上毛を加牟豆美介と訓めれば、下毛には訓は無けれど、志毛豆美介と訓むべき事は推して察るべし、今はシモゲと稱ふなり、正安四年の古文書には、シモツミケノコホリと書けり、其

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1000 の頃までは、猶正しく唱へたりし成るべし、〈◯中略〉或記云、細川家より御引渡の高、下毛郡四萬三千百九十二石四斗三升八合九勺九才、

〔續日本紀〕

〈十三聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1000 天平十二年九月己酉、大將軍東人等言、豐前國〈◯中略〉下毛郡〈◯郡原作野、據一本改、〉擬少領无位勇山伎美麻呂、〈◯中略〉來歸官軍

〔大内家壁書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1000山口御分國中行程日數事〈◯中略〉 豐前國〈◯中略〉 下毛郡五日、請文十五日、〈◯中略〉 寛正二年六月廿九日 備中守〈奉〉秀明〈◯下略〉

宇佐郡

〔豐前國志〕

〈四下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1000 宇佐郡 此郡の名義は、神武天皇菟狹に行幸しヽ時、宇佐津彦命、宇佐津姫命、足一ツ騰の宮をまふけ、大饗(ミアヘ)を獻りし事見へ、其後景行紀菟狹川に至り云々、其後宇佐と云事所々に出たり、古き郡名と通ゆ、一の卷に斷り置し如く、企救の地よりは道法も遠き所なれば、こまかに知得難く、百分の一をもと記し置此郡東は豐後速見玖珠の兩郡、西は下毛郡に隣り、北は海也、郡内都て二百餘村有、當國第一の大郡なり、

〔豐前志〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1000 宇佐郡上〈郷十、村二百十七◯中略〉或記云、細川家より御引渡の高、宇佐郡七萬五千八百九十九石三斗六升八合五勺、

〔日本書紀〕

〈三神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1000 其年〈◯太歳甲寅〉十月辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征、〈◯中略〉行至筑紫國莵狹〈菟狹者地名也、此云宇佐、〉時有菟狹國(○○○)造祖、號曰菟狹津彦菟狹津媛、乃於菟狹川上、造一柱騰宮而奉饗焉、

〔大内家壁書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1000山口御分國中行程日數事〈◯中略〉 豐前國〈◯中略〉 宇佐郡六日、請文十七日、〈◯中略〉 寛正二年六月廿九日 備中守〈奉〉秀明〈◯下略〉

〔倭名類聚抄〕

〈九豐前國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1001 田河郡 香春 雉怡 位登 城田 企救郡 長野 蒲生 京都郡 諫山 本山〈◯山、高山寺本作田、〉刈田 高來 仲津郡 呰見 蒭見〈◯見、高山寺本作野、〉城井 狹度 高屋 中臣 仲津 高家 築城郡 綾幡 桑田 樢木 大野 上毛郡 山田 炊江 多布 上身 下毛郡 山國 大家 麻生 野仲 諫山 穴石 小楠〈◯楠、高山寺本作橋、〉 宇佐郡 野麻 酒井 葛原 封戸 向野 廣山 垣田 高家 深見 辛島

〔東大寺正倉院文書〕

〈四十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1001 豐前國仲津郡丁里戸籍 豐前國仲津郡丁里(○○)太寶二年籍(繼目裏書) 戸主丁勝馬手年肆拾肆歳 正丁 課戸〈◯下略〉

〔東大寺正倉院文書〕

〈四十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1001 豐前國上三毛郡塔里戸籍 豐前國上三毛郡塔里(○○)太寶二年籍(繼目裏書) 塔勝稻手年貳拾貳歳 兵士 寄口〈◯中略〉 豐前國上三毛郡加目久也里戸籍 豐前國上三毛郡加目久也里(○○○○○)太寶二年籍(繼目裏書) 女河邊勝賣年拾歳  小女 〈◯下略〉

〔釋日本紀〕

〈十述義〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1001 豐前國風土記曰、田河郡鹿春郷(○○○)、昔者新羅國神自度到來、住此川原、便即名曰鹿春神

〔乙咩文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1001 八幡宇佐宮神官兼豐前國高家郷(○○○)内、大太郞犬丸兩名一方地頭、又五郞清幹、馳參御方候訖、以此旨、可御披露候、恐惶謹言、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1002 建武三年三月十五日 漆島清幹 進上御奉行所 承了〈花押◯高師泰〉

〔黒水文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1002 花押 豐前國下毛郡穴石郷(○○○)武行名内永町島町五町事、任父種榮之讓以下證文、領掌不相違之由、被仰下候也、仍執達如件、 建武四年三月廿九日 左近將監親資〈奉〉 久保彦三郞殿

村里/名邑

〔郡名一覽〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1002 一豐前國(御料私領) 〈豐州 南北四日〉 八郡 高貳拾七万三千八百石八斗四升八合三勺 六百六十八ケ村 ●小倉 二百六十六里 ●中津 二百六十八里 <四日市 二百八十八里 ◯按ズルニ、本書ノ符號ハ、山城國篇村里條ニ引ク所ノ、本書ノ凡例ヲ參照スベシ、

〔郡國提要〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1002 豐前 八郡、六百七十七村、 高三十六万八千九百十三石六斗四升五勺(御料私領) 企救郡五十五村 田川郡六十三村 京都郡六十三村 中津郡七十四村 築城郡三十九村 上毛郡七十三村 下毛郡八十一村 宇佐郡百八十六村

〔地勢提要〕

〈坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1002 郡邑島嶼奇名 豐前 企救(キク)郡、大里(タイリ)村、柄杓田(シツクダ)村、猿喰(サルハシ)村、吉志(キシ)村、朽網(クサミ)村、荒生田(アラフダ)村、到津(イトフツ)村、和合良(ワカウラ)島、天子(アマコ)島、藍島(アイラ)、甑瀬(コシキセ)、京都(ミヤコ)郡、苅田(カンタ)村、上毛(カウゲ)村、三毛門(ミケカド)村、塔田村築城(ツイキ)郡、八田(ハツタ)村、松江(セウヘ)村、宇佐郡、高家(タケイ)村、下毛郡、冠石野(カンシノ)村、田川郡、香原(カハル)町、採銅所町、

〔嬉野家古文書〕

〈佐賀文書纂所收〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1002 豐前國神崎村(○○○)十七分壹〈道智跡〉任綸旨知行之由、國宣所候也、仍執達如

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1003 件、 建武元年十二月二十一日 彈正忠行〈花押〉 宇禮志野六郞殿〈◯通直〉

〔大友文書〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1003 雜訴決斷所牒 豐前國衙 狹間大炊四郞入道正供申當國御沓村(○○○)地頭職〈泰家法師跡〉事 牒、任去月二十五日綸旨、宜汰居正供於下地之状、牒送如件、以牒、 建武元年十二月二十二日 左少史高橋朝臣〈◯俊春〉判

〔豐前志〕

〈五仲津郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1003 豐日別國魂宮〈◯中略〉重春云、〈◯中略〉吾が友神宗定〈當社祠官也〉が所藏せる小早川隆景主の制札の文云、 禁制 草場村(○○○) 官幣大神宮 右諸軍勢甲乙人、濫妨狼藉、并竹木採用之事、堅令停止畢、若於此旨者、可嚴科者也、仍下知如件、 天正十五年二月六日 左衞門佐〈花押〉

〔西遊雜記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1003 小倉(○○)の城は、細川三齋卿の築き給ひし所にて、要害よき城なり、〈主圖合結の圖に違ふ事なし〉 新城故にさしての舊跡なし、産物に小倉木綿といふあり、他國になき上品の木綿也、賣買には甚だ稀也、火打あり、是も産物とし、價金一分迄の火打有、火の出る事尤妙也、

〔安西軍策〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1003 豐前小倉城合戰并中國勢九州渡海事 天正十四年、九州先手之儀、毛利三家可發向之旨、秀吉公ノ命ヲ承、先輝元朝臣ヨリ三浦兵庫ヲ爲大將、三刀屋彈正左衞門、桂兵部、福間彦右衞門等ヲ先トシテ、三千餘騎、豐前小倉(○○)へ差渡、門司ノ城ニ入置給、カヽリケル處ニ、高橋ガ端城小倉ノ城ヨリ足輕ヲ出シ迫合ケル間、先小倉ノ城ヲ攻

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1004 落サント、三浦策ヲ廻シケル、

〔地理總鑑〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1004 中津(○○)城 城地を扇ケ城と號す、平城也、往昔より小館は有之といへども、城と云にもあらず、天正十五年、黒田官兵衞孝高居城とす、〈◯中略〉東は高田津、西は今井津也、其中央に有故に中津と云、此城海濱に據り、前後に川を帶、總堀繞郭、海に續たり、城門に假橋を懸け、往來の道とし、大船出入に便よし、大門三方に設たり、遠干かたにしてよき城也、

莊保

〔志賀文書〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1004 筑前國嘉摩郡總別莊内佐古名、豐前國上毛郡内本今吉名、吉木壹丁、同國下毛郡安恒名、同國宇佐莊(○○○)内蔀屋敷等、并田地豐後國安岐郷内諸田名、松武名、諸田名、内龜丸名、田畠屋敷、山野、荒野等、右所々宇佐氏女當知行、不相違者、天氣如此、悉之以状、 建武元年五月一日 式部大丞〈花押〉

〔住吉神社文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1004 寄進 筑前國一宮〈◯原書此下虫損〉 豐前國河崎莊(○○○)地頭 右今度之義兵、遂本祈天下之安寧家門繁昌、所寄進件、 建武三年三月八日 

〔太宰管内志〕

〈豐前四企救郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1004 門司八幡社 尊氏卿寄附状に寄附門司關八幡宮豐前國苅田莊(○○○)内光國保(○○○)地頭職事、右爲義兵之成就、黎民之安全、當家之繁昌、子孫之長久、所寄附件、建武三年卯月十一日、源朝臣判、

〔二階堂文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1004 下 隱岐三郞左衞門尉行雄法師〈法名行存〉 可早領知薩摩國阿多郡北方田布施郷半分、豐前國金田庄(○○○)内金田村半分地頭職事 右任代々下文、并延慶二年六月廿九日外題安堵、可領掌之状如件、以下、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1005 建武四年三月七日 源朝臣〈花押◯足利直義〉

藩封

〔慶應元年武鑑〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1005 小笠原左京大夫忠幹(帝鑑間 從四位侍從元治元子五月任) 拾五万石 居城豐前企救郡小倉〈江戸ヨリ〉海陸二百六十六里餘 〈冷泉五郞高祐居、後森壹岐守、同豐前守以後、黒田官兵衞孝高、同筑前守長政、慶長五、細川越中守忠興、同越中守忠利、寛永九、小笠原右近大夫忠眞以後代々領之、〉

〔慶應元年武鑑〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1005 奧平大膳大夫昌服(帝鑑間 四品)拾万石 居城豐前下毛郡中津〈江戸ヨリ〉海陸二百六十八里〈天正八、黒田持、慶長五、細川領、寛永九ヨリ小笠原信濃守長次、同内匠頭長勝、同修理大夫長胤、元祿十三ヨリ、小笠原信濃守長圓、同造酒助長邑、享保二ヨリ、奥平大膳大夫昌成、以後代々領之、〉 小笠原近江守貞正(帝鑑間) 一万石 在所豐前小倉新田〈◯節略〉

田數/石高

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1005 豐前國〈◯註略〉管八〈田萬三千二百餘町〉

〔伊呂波字類抄〕

〈不國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1005 豐前國〈管八、(中略)本田万三千二百七十八丁三反二百六十歩〉

〔拾芥抄〕

〈中末本朝國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1005 豐前〈上遠〉八郡〈(中略)田萬三千二百廿一町〉

〔運歩色葉集〕

〈諸國之郡名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1005 豐前八郡〈(中略)田數一万千百六十五町〉

〔海東諸國記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1005 豐前州 郡八、水田一萬三千二百七十八町二段、

〔豐前志〕

〈一總論〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1005 宇都宮家譜云、豐前國八郡、一萬五千餘町也、内三百三十餘町者、宇佐宮御領、同二千五十一町者、十六人地頭職世々配分之、或記云、豐前國總高二十七萬三千八百一石八斗四升八合三勺、〈重春云、是は細川家より、小笠原家に引渡されたる高なり、〉

〔日本鹿子〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1005 豐前國八郡、大中國、南北四日、〈◯中略〉知行高三十三万七百四十石、

〔官中秘策〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1005 豐前國 八郡〈◯中略〉 一石高貳拾七万三千八百壹石餘

〔吹塵録〕

〈五人口及國高〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1005 天保度御國高調〈◯中略〉 豐前國〈御料私領〉 一高三拾六万八千九百拾三石六斗四升五勺

出擧稻

〔延喜式〕

〈二十六主税〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1006 諸國出擧正税公廨雜稻〈◯中略〉 豐前國、正税公廨各廿万束、國分寺料一万四千二百七十四束、文殊會料二千束、府官公廨十万束、衞卒料一万七千五百五十四束、修理府官舍料六千束、池溝料三万束、救急料四万束、

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1006 豐前國〈◯註略〉管八〈(中略)正公各二十萬束、本穎六十萬九千八百二十八束、雜穎二十萬九千八百二十八束、〉

國産/貢獻

〔延喜式〕

〈二十四主計〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1006 凡貢夏調絲者、〈◯中略〉並七月卅日以前納訖、〈◯中略〉 豐前〈◯中略〉右廿五國中絲〈◯中略〉 豐前國〈行程、上二日、下一日、〉 調、綿紬十七疋、自餘輸絹、綿、絲、貲布、烏賊、雜魚楚割、 庸、輸綿米、 中男作物、防壁、韓薦、折薦、黒葛、黄蘗皮、海石榴油、胡麻油、荏油、烏賊、雜魚楚割、鹿鮨、猪鮨漬、鹽年魚、鮨年魚、

〔延喜式〕

〈二十六主税〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1006 凡鑄錢年料銅鉛者、〈◯中略〉豐前國銅二千五百十六斤十兩二分四銖、鉛千四百斤、毎年採送、即以鑄錢司收文官、下所司會税帳 凡備中長門豐前等國、採銅鉛料稻、斤別充三束丸把六分五毫七厘

〔毛吹草〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1006 豐前 芳米(カバシコ) 小倉酒 木綿島 同帶 切熨斗(キリノシ) 内裏馬刀(ダイリマテ)〈外ヨリ勝タリ〉 文司關硯石〈紫也〉 水精 アガノ燒物 彦山蓍木 湯嶽硫黄

〔三代實録〕

〈十六清和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1006 貞觀十一年六月十五日辛丑、太宰府言、去月廿二日夜、新羅海賊乘艦二艘、來博多津、掠奪豐前國年貢絹綿、即時逃竄、發兵追、遂不賊、

〔三代實録〕

〈三十三光孝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1006 元慶二年三月五日辛丑、詔令太宰府採豐前國規矩郡銅、宛彼郡徭夫百人

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1007 客作兒〈◯客作兒原作鎔作、據一本改、〉先潔清齋戒、申奏八幡大菩薩宮

〔佐藤元海九州記行〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1007 一小倉(○○)城〈◯豐前〉ハ、細川三齋ノ所築ナリ、〈◯中略〉物産ハ木綿布、及ビ火打鎌等世ニ名アリ、其他種々ノ物ヲ出ス、近來紙ヲ漉クコトヲ励ミ、半紙ヲ出スコト多ク、且上品ナリ、

人口

〔官中秘策〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1007 豐前國 八郡〈◯中略〉 一人數貳拾四万貳千六百五拾三人 内〈拾貳万九千八拾六人 男 拾壹万三千五百六拾七人 女〉

〔吹塵録〕

〈五人口及國高〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1007 諸國人數調(文化元甲子年)〈◯中略〉 一人數貳拾三万五千九百五拾人(御料私領) 豐前國(高貳拾七万三千八百壹石餘 )内〈拾貳万五千七百貳人 男 拾壹万貳百四拾八人 女◯中略〉 諸國人數調(弘化三丙午年)〈◯中略〉 一人數貳拾四万九千貳百七拾四人(御料私領) 豐前國(高三拾六万八千九百拾三石餘) 内〈拾貳万九千四百四人 男 拾壹万九千八百七拾人 女〉

風俗

〔人國記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1007 豐前國 豐前國之風俗、譬バ如馬、馬ニ名馬有、曲馬有、色々之毛品有、長ケ高ク、様子ウルハシク、品能キ馬ノ如シ、然レドモ曲有之時難用者也、然バ馬ニ比而是ヲ見レバ、如曲馬ト可知、亦曲馬ニ走ル有、止ル有、喰有、蹈有、其曲無ク中氣ナル有、サレバ是國之風儀、何レノ曲セ有ト考ルニ、唯中氣ノ如馬ニテ、眞實定リタル意地ナク、死生ヲ論ズル場ニ至ル時、人ト而死ハ重キト云事不知ト云事ナシ、然ドモ不止時ハ、爲忠一命ヲ捨、爲孝死ヲ致シ、爲義命ヲ失フ事、常ノ習ヒ也ニ、是國之風俗、忠孝義理ヲ忘レテ命ヲ遁ルヽモノ、千人ニ七八百人如是也、サレバ是理ヲ不知カト思ニ、左ニハ非ズ、能ク知テ能ク失道者也、誠ニ一旦之忿ノ爲ニ命ヲクジク者雖之、義ニ因テ命ヲ捨ル所之者鮮シ、蓋是理ニ本ク人無ク而、唯氣質之儘ニ執行スル所ノモノナレバ、不義不理ナリ、曲馬國トモ可謂乎、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1008 亦自然ニ勤ル處之人有ハ、其氣質之汚レテ能ク削ル人ハ、其志之厚キ事擧而可仰所ナリ、

名所

〔日本鹿子〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1008 同國〈◯豐前〉中名所之部、 規玖(キク) 郡也、高濱長濱などヽ云有也、赤坂と小倉の間也、 是よりや天の河原につヾくらん星かと見ゆるきくの高濱 蓑島(ミノシマ) 當國かんたと云所の東海上一り計也、無雙の景地也、 柴津山(シバツヤマ) 笠結島 古は大歌所の御歌 柴津山打出てみれば笠結の島こぎ歸る棚なし小舟 鏡(カヽミ)の山 宇佐の宮井 文字の關 柳の浦 此浦にて、左中將清經身をなげむなしくなり給ふ所と云、

〔豐前國志〕

〈一下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1008 門司が關(○○○○ )此古跡、今漁夫家あり、應永戰亂記に、甲宗の濱と記せり、長門の赤間が關と違向ひにあり、關所の跡詳ならず、上の山を筆立山と言、甲宗の社あり、古歌多く有、略す、

〔西遊雜記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1008 或説に、文司ケ關の所は、往古は長門の地なりしに、神功皇后の御時に大に地震して大波來りて、今の如く地裂て海と成しと云、

〔豐前國志〕

〈四下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1008 耶馬溪(○○○ )右同書〈◯豐國記〉に云、樋田の先一里、羅漢より五丁計前、左の方川に近所、大岩數十本欹てる所有、其高き事數十丈、或は八九丈、他郡にて未見大岩也、向にも又あやしき大岩あり、 此耶馬溪の名は、頼山陽が名けしと云、此大岩の間、今に赤松の大木立交り、眞に近國無雙の絶景の地也、

〔山陽遺稿〕

〈七記〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1008 耶馬溪圖卷記

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1009 余嘗讀昔人畫、疑其山貌太奇峭、恐非天壤間所一レ有、畫人一時興到、鼓舞其筆墨耳、及豐耶馬溪、乃知造物奇怪畫手亦有寫不到者也、歳戊寅、〈◯文政元年〉遊鎭西、過海、南望彦山於雲際、已覺其有一レ異矣、旣經二肥薩隅、還寓豐後隈邑、臘月五日、入豐前、遇一水北來、蓋發源彦山者、沿焉而東數十里、昏黒覺左右峯巒皆非一レ凡、山溪相迫處、鑿山腹道、又穿牖取明、余買炬以入、遇牖、窺見月在溪水朗然、宿民家、翌大霧、待霽乃發、復沿溪東、愈東愈奇、群峯夾水攅竦、如春笋矗出、有土戴石者、石挾土者、全石者、全石破裂成洞穴者、兩石相鬪、其一欲仆者、石數層累成夏雲状、而樹自石罅、横生縱生倒生而上指、叢生蔽石、如石爭勢而欲一レ之、石又自樹中、奪躍而出、而石陰皆苔、紫緑相間、或沒石半面、或沒全身、又如樹攻一レ石者、大抵峯勢石皴、如董巨刻意圖、時窮冬、多老木葉脱、槎牙瘦古、皆倪黄筆法、而苔枯蹙蒼渇者、王叔明也、古人筆墨不吾欺也、至柹阪孤店、店面石壁數丈、飛泉懸焉、仰則更有高峯、不其幾十丈、余急釋佩酒瓢、命燖之、竈突蕭然、會一獵師新獲豪豬、割而煮之、肪脆如水、連引數大白、又行、溪又數曲、隨峯勢上下、或激雷噴雪、或渟膏凝碧、峯影爲之或碎或全、似水妬山而亂其影也、至屈智林、溪稍開、有小村、過一橋、自此行溪北、開者益開、數十里、詣古城正行寺、寺主含公、余故人、竢余旣久、余先詑曰、君州山水大奇、含公曰、更有奇者、使子目一レ之、居二日、與含公南行、行田塍間、至仙人巖、巖石突立山頂、含公指示余、余不甚賞、其明又徑田塍、至羅漢寺、寺据山、鑿山作洞壑橋梁状、安五百像、余復不甚賞、宿寺前逆旅、挑燈而談、余曰、山不水不生動、石不樹不蒼潤、所以余賞馬溪而不上レ仙巖、至羅漢則人工耳、然皆馬溪之支裔矣、且馬溪溪山相迫、無田塍礙一レ目、而其路坦夷、眞可遊也、然爲二豐通道、過者慣看、況公等生長此土、宜不其奇也、余則再遊不期、將復溯之以諦觀之、含公奮袂與偕早發、過一水、北出馬溪口、峯容樹色、忽覺迴別、自淺入㴱、自平入奇、泝前數曲者、一曲奇一曲、比諸前遊更可喜也、復至絶壁下孤店、店主識余面、驚曰、是前喫猪客也、有何幹、再來此耶、余曰、欲山耳、曰山有何好看、吾不子看也、遂席溪畔、與含公瓢一酔、宿山寺、明、雨、借轎西還、山峯得雨、皆變幻作態、或前以爲一山者、分成

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1010 數峯、如群仙駢肩露其半身、萬松振鬣、鼓濤於雲中、又如廿五菩薩奏樂而至也、還至屈智林、含公慮吾酒盡、預戒家僮、駄樽於馬來、取酔、宿阿保村、翌歸寺、又三日辭去、踰海東歸自海雲中、顧望鎭西山岳、其屬豐前者、皆有別態、彦山其尤大者、耶馬山脈水理、蓋皆自彦山發、故獨絶耳、〈◯中略〉然目此山水、爲海内第一者、乃自頼子成始、〈◯下略〉

雜載

〔延喜式〕

〈二十八兵部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1010 諸國器仗〈◯中略〉 豐前國〈甲二領、横刀八口弓廿張、征箭卌具、胡簶卌具、〉

〔續日本紀〕

〈三文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1010 大寶三年九月癸丑、施僧法蓮豐前國野四十町、褒醫術也、

〔續日本紀〕

〈六元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1010 和銅七年閏二月壬寅、〈◯是月戊午朔无壬寅、閏二月恐三月誤、〉隼人民荒野心未憲法、因移豐前國民二百戸、令相勸導也、

〔類聚三代格〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1010 太政官符 應筑後、肥前、肥後、豐前、豐後五箇國醫師事、〈◯中略〉 承和十二年七月十七日〈◯全文載筑後國篇


Last-modified: 2019-03-15 (金) 09:48:57 (387d)