http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0001 道路ハ、ミチト云ヒ、古クハチトノミモ云ヘリ、大化改新ノ制京師ヲ發シテ四方ニ達スル大道ヲ驛路ト云フ、即チ國道ナリ、後之ヲ東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海ノ七道ニ分ツ、七道ノ名モ亦原ト國道ノ稱ニシテ、其道ノ遠近ニヨリテ、國々ノ行程ヲ定メ、其前後ヲ分チタリ、古史ニ、道ノ口、道ノ後ナド書シ、國ヲ割キテ前後上下ヲ稱セシガ如キ即チ是ナリ、徳川幕府ノ時ニハ、東海道、中山道、日光道中、奧州道中、甲州道中ヲ五海道ト稱シ、共ニ江戸ヲ起點トス、又水戸佐倉海道、伊勢路、中國路等アリ、之ヲ本海道ト稱シ、其他ノ支路ヲ脇往還ト稱ス、行程ヲ稱スルニ、上代ハ日程ヲ以テシ、後世ハ里程ヲ以テス、里程ニハ六町ヲ一里トスルアリ、三十六町ヲ一里トスルアリ、或ハ五十町一里トスルアリテ、地方ニヨリテ往々其法ヲ異ニシタリシガ、徳川幕府ノ時ニ至リテ、三十六町一里ノ法ニ從ヘリ、當時道路ニハ、一里ゴトニ堠アリ、是ヲ一里塚ト云ヒテ、里程ヲ知ルニ便ニシ、又道ノ兩旁ニ並木アリ、以テ休憩及ビ寒暑ヲ避クルニ便ニセリ、此篇ハ、地總載篇七道條、皇都篇京城區畫條、諸國篇道路條、及ビ政治部驛傳篇等ニ關聯スル所アレバ、宜シク參看スベシ、

名稱

〔伊呂波字類抄〕

〈見地儀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0001 路〈ミチ大路小路〉

〔運歩色葉集〕

〈多〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0002 道路

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0002 道(ミチ)〈爾雅、一達謂之道路、釋名道踏也、路露也、人所踏而露見、〉 路(同)〈説文、道路也、字苑、阡陌總名也〉 猷(同)〈説文同上〉 豪(同)〈釋名、城下路曰豪、〉馗(同)〈九達之道、又謂之龜背活法、〉 陘(同)〈廣韵、連山中絶也、〉

〔日本釋名〕

〈上地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0002 道(ミチ) みはあゆみ也、ちはつち也、人のあゆみ土也、

〔東雅〕

〈三地輿〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0002 道ミチ 義不詳、上古には道をばチといひしなり、道早振といひ、伊都之道別なども云ひし是なり、又ミチといひしは、ミとは御なり、チは即道なり、古事記に御路の字を用ひてミチと讀む、たとへば嶺をミ子といひ、崎をミサキなどいふが如し、南北を阡とし、タテシノミチといひ、東西を陌として、ヨコシノミチといひ、大路はヲホヂといひ、小路はコウヂといふ、又街衢等の字讀てチマタといふは、道の分るヽ所なり、猶水のわかるヽ所をミナマタといひて、派また沱の字を讀てミナマタといふが如し、辻の字を用ひて讀む事、十字の如くなるは、我國の俗、創造れる所なり、經路讀てタヾチといひ、間道讀てカクレミチといふなり、〈タヾチといふは、タヾは直なり、今俗にスグミチといふ是なり、カクレミチとは、あらはに人の通はぬをいひしなり、〉

〔倭訓栞〕

〈前編三十美〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0002 みち 道路をいふ、神代紀に術方もよみ、皇代紀に學業もよめり、又充るの義、往として有ざるかたなき意也といへり、爾雅に道直也、注に无屈也と見ゆ、〈◯中略〉神代紀に御路も訓ぜり、御は火々出見尊に就ていふにや、一説には眞路の義とす、又ちは本語、みちは御路よりいふ也ともいへり、

〔古事記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0002 於是其弟、泣患居海邊之時、〈◯中略〉鹽椎神云、我爲汝命善議、即造无間勝間之小船、載其船以教曰、我押流其船者、差暫往、將有味御路(○○)、乃乘其道往者、如魚鱗造之宮室、其綿津見神之宮者也、

〔古事記傳〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0002 此に御路と書る、これ美知の本義なり、〈此處にのみ、此記にも書紀にも、道と書ずして、御路としも書る所以は、まづ常には、たヾ知といふべきにも、美知と云て、けぢめなけれども、美知はもと、道をほめて、御てふ言を添たる名なり、かくて此處は、甚善道なる由をいふ處にて、美てふ言、用有て重きが故に、本義の隨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0003 〈に書るなるへし、〉

〔八雲御抄〕

〈三上居所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0003 路 舟〈ち、みち、二ながらなり、〉 山 家 苔 かけ 野 關 浦 濱 浪 雲 とを 磯通 通 夢 別 ふる 中〈源氏〉 下 上 しほ 細 川〈源氏に、川邊の中やとりにと云り、〉 東 こし つくし〈萬〉 山と〈大和にも、つくしにもやまとは有、〉 はりま 信濃 近江 伊勢 なら ならのおほぢ なには 足〈萬〉 ゆ〈萬〉 海つち 宮 宮こ〈後〉 宮け〈萬〉 こせ 御こし〈萬、三越、越前、越中、越後、〉 とを〈貫之〉 若狹 丹波 播磨 紀伊 伊賀 出雲 あへの市〈萬〉 雲ゐぢ〈陸奥をいへり、とをき由也、〉 ひなのながぢ〈萬〉かげふむ道〈柳などの下也〉 ゐでの中道 ふるの中道 ふたみち〈萬〉 おほの〈萬、大和也、〉 さほ〈萬〉 とよはつせぢ〈萬〉 たつた きそぢ ふたみ〈三河〉 ふすま〈萬、衾、ひきての山とつヾけたり、〉 紅のすそひくみち〈萬〉をのヽほそみち いはのかげみち

〔倭訓栞〕

〈前編三十美〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0003 みちのくち(○○○○○) 道口也、凡そ國に前と稱するは、皆かく訓ぜり、皇都に近きを口といふ也、東鑑に、伊勢國道前郡とあるも是也、道は七道をいふめり、

〔古事記〕

〈中孝靈〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0003 大吉備津日子命、與若建吉備津日子命二柱相副而、於針間氷河之前忌瓮而、針間爲道口(○○)、以言向和吉備國也、故此大吉備津日子命者、〈吉備上道(○○)臣之祖也〉次若日子建吉備津日子命者、〈吉備下道(○○)臣笠臣祖〉

〔古事記傳〕

〈二十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0003 道口とは、其入初る處を口と云、奧方を尻と云、〈人體の口と尻とも同じ〉其に前後ノ字を用ひて、北陸道にては、古之乃三知之久知は越前、古之乃三知乃奈加は越中、古之乃美知乃之利は越後と云、山陽道にては、岐比乃美知乃久知は備前、吉備乃美知乃奈加は備中、吉備乃美知乃之利は備後と云、西海道にては、筑紫乃三知乃久知は筑前、筑紫乃三知乃之里は筑後、比乃三知乃久知は肥前、比乃美知乃之利は肥後、止與久邇乃美知乃久知は豐前、止與久邇乃美知乃利は豐後と云り、並和名抄に見えたり、此は吉備國に將入る道口にて、後までも播磨は、山陽の道口にてぞある、さて此に爲道口と云る由は、水垣宮段に、東方十二道とある處〈傳廿三の五十八葉〉に委云べし、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0004 考合すべし、凡て道口道尻と云も、其國を治に、京よりゆく路の次序につきて云名なり、

〔倭訓栞〕

〈前編三十美〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0004 みちのしり 道後也、凡そ國に後といふものは、皆かく訓せり、神宮雜例集に、員辨、三重、朝明を道前三郡とし、神三郡を道後といへるも、此義也、古事記に道尻とみゆ、伊豫に地名道後あり、

〔古事記〕

〈中應神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0004 爾建内宿禰大臣請大命者、天皇即以髮長比賣于其御子、〈◯中略〉故被賜其孃子之後、太子歌曰、【美知能斯理】(ミチノシリ)、古波陀袁登賣袁(コハダヲトメヲ)、迦微能碁登(カミノゴト)、岐許延斯迦杼母(キコエシカドモ)、阿比麻久良麻久(アヒマクラマク)、又歌曰、【美知能斯理】(ミチノシリ)、古波陀袁登賣波(コハダヲトメハ)、阿良蘇波受(アラソハズ)、泥斯久袁斯叙母(ネシクヲシゾモ)、宇流波志美意母布(ウルハシミオモフ)、

〔古事記傳〕

〈三十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0004 美知能斯理は道之後なり、凡て道前道後の事は、黒田宮段〈傳廿一の五十葉〉に云り、此の道後は、日向國を指て詔へるなり、其は京より下る道の次第に因て、筑紫の國々は北なるを前とし、南なるを後として、〈筑前筑後、豐前豐後、肥前肥後、皆然り、〉日向〈大隅薩摩〉は、筑紫の南極なるが故なり、〈又は諸縣郡を指て詔へりとも云べし、此郡は日向國の南の極なり、和名抄に擧たる、彼國の郡の次第も、北より初まりて南に終れり、又伊勢國にて度會多氣飯野三郡を神三郡と云、又云道後と神宮雜例集と云物に云る、是も彼三郡は、彼國の南極にて、京より下る道後なればなり、されど此はなほ廣く日向國とするぞまさるべき、〉萬葉十一〈七丁〉に、路後、深津島山とあるは、備後を云り、〈又十七に、美知乃奈加とあるは、越中なり、〉

〔古事記傳〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0004 道奧(○○)、〈◯中略〉奧は口に對云稱にて、道口道後の後に同じ、京より行に、初の地を道口と云、終を後とも奧とも云り、此國は東北の極に在て、實に道の奧なり、〈筑紫にても、大隅薩摩を奧の國と云ること、檜垣家集に見ゆ、又陸奥國にても、黒川郡より北を奥郡と云、大同五年の官符に見えたり、源氏物語若菜卷には、播摩國内にて、此國の奥郡と云ることあり、〉

大路/中路/小路

〔倭名類聚抄〕

〈十道路〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0004 大路 唐韻云、道路〈音露、毛詩有遵大路篇、大路和名於保美知、〉南北曰阡(○)、〈音千、日本紀私記云多知之乃美知、〉東西曰陌(○)、〈音百、日本紀私記云與古之乃美知、〉四聲字苑云、路阡陌總名也、

〔大戴禮記〕

〈十三易本命〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0004 凡地東西爲緯、南北爲經、

〔日本書紀〕

〈七成務〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0004 五年九月、令諸國以國郡立造長、〈◯中略〉隨阡陌以定(タヽサノミチヨコサノミチ/タチシノミチヨコシノミチ)邑里、因以東西爲【日】【縱】(タヽシ)南北爲【日】【横】(ヨコシ)

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0005 山陽曰【影面】(カケトモ)、山陰曰【背面】(ソトモ)、是以百姓安居、天下無事焉、

〔日本書紀通證〕

〈十二成務〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0005 孝徳紀、方字訓多多佐、與古佐、萬葉集云、多多佐爾毛、可爾母與己佐母、〈◯中略〉前食貨志、秦孝公用商鞅井田阡陌、註南北曰阡、東西曰陌、〈◯中略〉大戴禮曰、凡地東西爲緯、南北爲經、此與我邦相反、

〔萬葉集〕

〈一雜歌〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0005 藤原宮御井歌八隅知之(ヤスミシヽ)、和期大王(ワゴオホギミ)、高照(タカヒカル)、日之皇子(ヒノミコ)、麁妙乃(アラタヘノ)、藤井我原爾(フヂヰガハラニ)、大御門(オホミカド)、始賜而(ハジメタマヒテ)、埴安乃(ハニヤスノ)、堤上爾(ツヽミノウヘニ)、在立之(アリタヽシ)、見(ミシメ)之賜者(タマヘバ)、日本乃(ヤマトノ)、青香具山者(アヲカグヤマハ)、【日經】乃(ヒノタテノ)、大御門爾(オホミカドニ)、春山路(ハルヤマト)、之美佐備立有(シミサビタテリ)、畝火乃(ウネビノ)、此美豆山者(コノミヅヤマハ)、【日緯】能(ヒノヌキノ)、大御門爾(オホミカドニ)、彌豆山跡(ミヅヤマト)、山佐備伊座(ヤマサビイマス)、耳高之(ミヽナシノ)、青菅山者(アヲスガヤマハ)、【背友】乃(ソトモノ)、大御門爾(オホミカドニ)、宜名倍(ヨロシナベ)、神佐備立有(カミサビタテリ)、名細(ナグハシ)、吉野乃山者(ヨシヌノヤマハ)、【影友】乃(カゲトモノ)、大御門從(オホミカドユ)、雲居爾曾遠久有家留(クモヰニゾトホクアリケル)、高知也(タカシルヤ)、天之御蔭(アメノミカゲ)、天知也(アメシルヤ)、日御影乃(ヒノミカゲノ)、水許曾波(ミヅコソハ)、常爾有米(トコシヘナラメ)、御井之清水(ミヰノマシミヅ)、〈◯短歌略〉

〔伊呂波字類抄〕

〈於地儀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0005 大路〈オホミチ〉

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0005 小路(コウヂ)

〔日本釋名〕

〈上地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0005 小路(コウヂ) こみち也、うはこの字の引音也、

〔倭訓栞〕

〈前編九古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0005 こをぢ 小路をよめり、をはこの響き也、大路にむかへていへり、字書に徑は小路也と見ゆ、院中の女房に小路名あり、綾ノ小路、梅ガ小路、勘解由ノ小路等也、江戸に藪小路、式部小路、浮世小路などいへれど、又よこ町といふ也、催馬樂にこんぢと見ゆ、

〔俚言集覽〕

〈古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0005 小路 倭訓栞、コヲヂ小路をよめり、ヲはコの響也、〈◯中略〉愚按、コの音ならばオ也、コヲの假字にあらず、此はコミチのミをウと云、コウの假字なるべし、

〔物類稱呼〕

〈一天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0005 小路、こうぢ、 京都にて稱す、江戸にて横丁と云、〈但式部小路、藪小路、又浮世小路など呼有り、〉大坂及伊勢松坂にて小路(しやうぢ)と云、勢州山田にて世古と云、

〔令義解〕

〈八厩牧〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0006 凡諸道置驛馬、大路〈謂山陽道其太宰以去、即爲小路也、〉廿匹、中路(○○)〈謂東海東山道、其自外皆爲小路也、〉十匹、小路(○○)五匹、

〔令集解〕

〈十二田〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0006 釋云、大路、使屢經過之處、以使稀少中少耳、朱云、定大中少路者、可式者、

〔續日本紀〕

〈二十九稱徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0006 神護景雲二年三月乙巳朔、先是東海道巡察使式部大輔從五位下紀朝臣廣名等言、〈◯中略〉下總國井上、浮島、河曲三驛、武藏國乘瀦、豐島二驛、承山海兩路、使命繁多、乞准中路、置馬十匹、奉勅依奏、

〔日本後紀〕

〈十七平城〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0006 大同三年六月壬申、省因幡國八上郡莫男驛、智頭郡道俣驛、馬各二匹、以大路、乘用希也、

徑路

〔倭名類聚抄〕

〈十道路〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0006 徑路 唐韻云、徑〈音敬、與逕同、和名多々知、徑逕也、字或通見下、〉歩道也、四聲字苑云、徑道〈徑音古定反〉容牛馬道、一云歩道也、

〔倭訓栞〕

〈前編十四多〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0006 たヾち 新撰字鏡、倭名鈔に、徑ノ字をよめり、歩道也と注す、万葉集に直道と書、直ノ字もよめり、歌に夢のたヾちなどもよめる也、今すぐみちといへるが如し、

〔常陸國風土記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0006 常陸國〈◯中略〉所以然號者、往來道路、不江海之津濟、郡郷境堺、相續山河之峯谷、取近通之義、以爲名稱焉、

〔萬葉集〕

〈十一古今相聞往來歌〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0006 正述心緒 月夜好三(ツキヨヨミ)、妹二相跡(イモニアハムト)、直道柄(タヾチカラ)、吾者來雖(ワレハクレドモ)、夜其深去來(ヨゾフケニケル)、

〔古今和歌集〕

〈十二戀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0006 寛平の御時、きさいの宮の歌合の歌、 藤原としゆきの朝臣 戀わびて打ぬるなかに行がよふ夢のたヾちはうつヽならなむ

〔倭名類聚抄〕

〈十道路〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0006 巷 唐韻云、巷〈胡綘反、知名知末太(○○○)、〉里中道也、

〔伊呂波字類抄〕

〈知地儀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0006 衢〈チマタ〉 街 衝 巷 術 岐路

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0006 阡(チマタ)〈漢書作仟、風俗通路南北曰阡〉 陌(同)〈漢書作佰、風俗通東西曰佰、増韵市中街曰阡陌、〉岐(同)〈爾雅、道路二達曰岐旁、〉 街(同)〈説文、四通也、〉衢(同)

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0007 〈同上、書言大全、四達之路曰衢、俗云、十字路是矣、〉 巷(同)〈説文、邑中道也、増、韵直曰街、曲曰巷〉

〔日本釋名〕

〈上地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0007 岐(チマタ) ちは道也、または肢也、道のわかるヽ所也、

〔倭訓栞〕

〈前編十五知〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0007 ちまた 神代紀に衢をよみ、倭名鈔に巷をよみ、靈異記に巷陌をよめり、路岐の義也、よて新撰字鏡に岐をよみ、又洈をよめり、水別也と見えたり、

〔倭名類聚抄〕

〈十道路〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0007 十字 呉均行路難云、縱横十字成阡陌、〈今按、十字者東西南北相分之道、其中央似十字也、俗用辻字、本文未詳、〉

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0007 十字(ツジ)〈出北史李庶傳、又順和名、東西南北相分之道、其中央似十字也、〉 辻(同)〈本朝俗字〉

〔和漢三才圖會〕

〈五十六山〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0007 街(つじ)〈音皆〉 衢〈音渠〉 辻〈俗字〉 和名豆之 按、十〈街之本字〉一爲東西、〈横也〉亅爲南北、〈縱也〉四方中央備矣、俗用辻字、从十从辵、會意也、又巷者道岐〈上略之訓〉也、

〔日本釋名〕

〈上地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0007 衢(ツヂ) かた〴〵にゆく道ある所をつぢと云、つとはつどふ也、あつまる也、ちはみち也、あつのつと道のちをとりて上下を略す、あつまるみち也、つじともかく、ちとしと通ず、からの書に十字街頭とあるも、つじ也、道の四方にわかれたるちまた十字のごとし、

〔物類稱呼〕

〈一天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0007 小路、こうぢ、〈◯中略〉 辻子(づし)、京にていふ、江戸大坂ともに、ろじといふ、

〔倭訓栞〕

〈前編十六都〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0007 つじ 街衢をいへるもつむじの略なるべし、和名抄に、十字者、東西南北相分之道、其中央似十字也、俗用辻字、本文未詳と見えたり、俗によつヽじなどいへり、法然行状記に辻子と見ゆ、

〔類聚名物考〕

〈地理六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0007 四通之衢 俗に云四辻なり、十字街ともいへり、

〔守貞漫稿〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0007 江戸市街ハ、路上ニ、木戸、自身番所、番小屋、髮結所、井戸等有之、民居ノ列高低アリテ、自ラ一覽紛々タリ、京坂路上ニ出ルモノ木戸ノミ、加之民宅高低ナク、一望自ラ整然タリ、

追分

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0007 追分(ヲヒワケ)〈本朝俗斥左右相分之街頭爾、從是追分牛馬於兩岐之謂也、〉

〔類聚名物考〕

〈地理六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0008 三叉路口 おひわけ 追分 三叉口 みつまた 今道の兩股に分りたる所を、俗に追分といふ、是即三叉口にして、簪の股の形に似たればいふ也、この事歌によみ、物語に書るをいまだ見ず、さきに紀行しるせし時に、道は琴柱の如くわかれたりと書し事有き、簪の如くともいふべし、五色石〈第二〉に、三叉路口と見えしは、三股の追分也、

驛路

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0008 驛路(ムマヤヂ/ムマツギ)

〔倭訓栞〕

〈中編二十六牟〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0008 むまやぢ 驛路の義なり、むまつぎともいふ、延喜式に驛子あり、馬子の如し、

〔扶桑略記〕

〈二神功〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0008 五十年二月、始造路驛

〔萬葉集〕

〈十一古今相聞往來歌〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0008物陳思 【驛路】爾(ハユマヂニ)、引舟渡(ヒキフネワタシ)、直乘爾(タヾノリニ)、妹情爾(イモガコヽロニ)、乘來鴨(ノリニケルカモ)、

〔類聚三代格〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0008 乾政官符 應畿内七道諸國驛路兩邊遍種菓樹事 右東大寺普照法師奏状偁、道路百姓來去不絶、樹在其傍疲乏、夏則就蔭避熱、飢則摘子噉之、伏願城外道路兩邊、栽種菓子樹木者、奉勅依奏、 天平寶字三年六月廿二日

〔續日本紀〕

〈二十七稱徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0008 天平神護二年五月丁丑、太政官奏曰、備前國守從五位上石川朝臣名足等解偁、藤野郡者、地是薄塉、人尤貧寒、差科公役、觸途忩劇、承山陽之驛路、使命不絶、帶西海之達道、迎送相尋、馬疲人苦、交不存濟、加以頻遭旱疫、戸纔三郷、人少役繁、何能支辨、伏乞割邑久郡香登郷、赤坂郡珂磨、佐伯二郷、上道郡物理、肩背、渉石三郷、隷藤野郡、〈◯中略〉奏可、

〔日本紀略〕

〈桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0008 延暦十四年七月辛卯、遣在兵衞佐橘入居、撿近江若狹兩國驛路

〔吾妻鏡〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0008 文治六年〈◯建久元年〉十月五日丙戍、於關下邊、陸奧目代解状到來、仍彼國地頭所務間有

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0009 事等、雖路驛(○○)、猶及此御沙汰、繁務不寸蔭之故也、

〔吾妻鏡〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0009 正治三年〈◯建仁七年〉九月七日甲寅、紀内所行景鞠足、依上皇仰下著、蓋是左金吾〈◯源頼家〉依申請也、今日到著于大膳大夫廣元朝臣亭、下向間、彼朝臣所汰驛路雜事等也、

本海道/脇往還

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0009 【海道】(カイダウ)

〔俚言集覽〕

〈加〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0009 海道 諺草、納麟傳を引、且云、今俗に陸路を海道と云はあしヽ、街道(○○)といはんが然らん、愚按、陸路に海道の字を用ゐる事は、東海道に對して木曾海道と云、夫より轉じて凡て旅驛の公路を、海道又本海道(○○○)と稱ふ、かくの如くに轉ずる事、俗語の常也、陸路なれば街道の文字然るべしといふは、一通りは道理のやうに聞こゆれども、實は非にて、私に充たる字也、然れども今間々に街道の文字を用ゐる書ども有り、

〔徳川禁令考〕

〈五十二諸法度〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0009 明和四亥年十二月 病人倒人等取計之儀ニ付御觸書 加納遠江守殿御渡 東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奧州道中、右宿々旅籠屋は勿論、脇往還(○○○)其外之村々ニ而宿を取候旅人煩候はヾ、其所之役人立合、醫師を掛、療養を加置、其旨御料は御代官、私領は領主地頭江相屆、五海道は道中奉行江も宿送を以致注進、右旅人早速快氣無之趣ニ候はヾ、其もの在所之村役人等江申遣、親類呼寄、對談之上可存寄、若療養も不加、宿繼村繼抔に而送候儀顯におゐては、五海道は旅籠屋年寄、其餘之村々は致宿候もの、村役人共江急度御仕置可申付候、〈◯中略〉 右之趣、可相守もの也、 十二月 右之通相觸候間、可其意候、

〔道中秘書〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0010 脇往還ニ而駄賃之懸札不相成事 明和九辰年九月、安藤彈正少弼〈◯勘定奉行〉掛、伊奈半左衞門〈◯關東郡代〉出 一下總國釋迦村人馬賃錢掛札之儀ニ付伺 書面、釋迦村、脇往還之繼場ニ付、駄賃之懸札ハ容易に難成候間、其旨申渡、證文取之可差出候、以上、 辰九月

〔道中秘書〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0010 山崎通旅行之義、願之上ニ無之候而は不相成事、 中國四國九州より參勤交替之面々、前々は伏見、淀、枚方、守口、大坂、尼ケ崎、西宮、兵庫と通行有之候處、淀より山崎道江掛り尼ケ崎江出、被旅行候面々多有之由、然處山崎通之義は、脇道(○○)之繼場故、人馬も少く、雇人馬等繼合いたし候故、自耕作も怠り候様相成、及困窮候趣度々申立候、脇道通行相成候而は、本海道(○○○)之詮も無之事ニ候間、向後可成丈東海道旅行可之候、若勝手を以、山崎通旅行候とも、右は脇道之事に候條、人馬繼合差支之義可之間、可其意候、 右之趣、可相觸候、 閏十二月〈安永四未年〉 中國四國九州より參勤交替之面々、近來山崎通旅行多相成候、右筋村方及困窮候ニ付、向後可成丈本道(○○)旅行可之候、若勝手を以、山崎通旅行候とも、脇道之事ニ候條、人馬繼合差支之義可之旨、先達而相觸候、向後萬一勝手を以、山崎通旅行有之度面々は木曾路同様、相願候上旅行可之候、 右之趣、可相達候、 五月〈安永五申年〉

〔牧民金鑑〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0011 文化二丑年七月〈◯中略〉 一神社佛閣參詣之道筋、五海道往還筋より、夫々脇往還極り有之處、往來筋に無之道江入込、或は古來に無之乘船渡海等ニ而、本道を除候も有之趣に相聞、右は宿方并間之村々ニ而案内致候故之儀、不埒之事に候、旅人にもかぎらず、前々より本道に掛候諸荷物も、近來本道を省、脇道江掛、或は船積ニ而運送相勤候場所も有之趣に相聞、是又不埒之事に候、旅人并諸荷物とも、新規之道通行之繼立、或は船差出候儀は、其所より奉行所江願出可申儀ニ付、五海道とも右體の場所有之ば、宿々より可訴出候、 右之趣、相觸候條可之候、若相背もの有之におゐては、吟味之上、急度咎可申付もの也、丑七月 左近〈◯道中奉行〉 美濃〈◯同上岩瀬〉 〈東海道品川宿より守口宿迄佐屋路共 宿々〉 本陣 問屋 年寄 〈右間之村々〉 名主 組頭 右道中奉行觸書、中山道、日光道中、奧州道中、甲州道中共、同文書、

〔道中秘書〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0011 脇往還人馬繼立賃錢無之事 〈伺方〉組頭中 脇往還江州鎌掛宿人馬賃錢定之儀ニ付、京都町奉行より之添簡を以、別紙之通願出候、右は御勘定所ニ而取扱可然品と相見候間、取調否可申聞候事、 御書面、脇往還江州鎌掛宿人馬賃錢定度願之儀ハ、公事方御勝手方御一同之御掛リニ而、取調方ハ御勘定所ニ而取扱候間、則別紙願書之趣取調候處、右宿方人馬賃錢定無之故、賃錢不足ニ拂候ものも有之候得共、強而受取候儀も難相成候間、此度御定被下候様申立、右ハ都而脇往還宿方人馬賃錢之儀ハ、仕來を以受取候ハヾ格別、願ニ依而賃錢御定被成遣候儀ハ、是迄例も無

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0012 之、書面願之趣ハ難相立筋と奉存候間、不御沙汰段被仰渡候方と奉存候、依之受證文相添、此段申上候、 辰十二月 平岩右膳 大井勘右衞門 差上申一札之事 私共宿方之儀ハ、東海道土山宿より分れ、北國海道安土越往還繼宿ニ而、其上京都より伊勢兩宮御代參等多分有之候ニ付、前々より難澀仕候得共、助合等も無之、人馬賃錢御定無御座候故、是迄最寄宿方振合を以受取來候處賃錢不足ニ相拂候向も多分有之候得共、右賃錢御定等無御座候ニ付、強而受取候儀も難相成難儀仕候間、此度相應之人馬賃錢御定被下置候様奉願候處、右人馬賃錢之儀、是迄仕來之通、最寄宿方之振合を以受取候ハヾ格別、今般願之趣ハ不容易儀ニ付、不及御沙汰段被仰渡、承知奉畏候、且願書御差戻被遊奉受取候、仍御受證文差上申處如件、 井上龜丸領分江州蒲生郡鎌掛宿總代 文政三辰年十二月十日 〈問屋〉三左衞門 道中御奉行所

〔驛肝録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0012 文政六未年六月 一並木之儀、〈◯中略〉并白澤氏家之間、脇道江旅人掛る節、諸荷物繼立之儀ニ付觸流し、 觸書〈◯中略〉 一白澤氏家之間脇道江旅人相掛る節、右村方ニ而荷物繼立いたし候由相聞、心得違ニ候條、以來右體之義不致、若差支も有之ば、其始末可訴出候、 右之趣於相背者、可曲事もの也、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0013 未六月十二日 主水、〈◯道中奉行石川〉 伊豫〈◯道中奉行岩瀬〉 日光奧州水戸道中 年寄(右宿々) 問屋 岩槻佐倉道 名主(間之村々) 組頭

間道

〔倭名類聚抄〕

〈十道路〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0013 間道 日本紀私記云、間道、〈賀久禮美知〉

〔伊呂波字類抄〕

〈加地儀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0013 間道〈カクレミチ〉

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0013 間道(カンダウ/カクレミチ)〈間者空隱也、師古云、微道也、史索隱他道也、猶若反間之義、〉 間路(同/同)〈事文雜集、間道曰間路、出韓信傳、〉

〔吾妻鏡〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0013 治承四年八月十七日丁酉、非明日、各早向山木雌雄、以今度合戰生涯之吉凶之由被仰、亦合戰之際先可放火、故欲其煙云云、士卒已競起、北條殿被申云、今日三島神事也、群參之輩下向之間、定滿衢歟、仍廻牛鍬大路者、爲往反者咎之間、可蛭島通者歟、武衞被報仰曰、所思然也、但爲事之草創、難閑路(○○)、將又於蛭島通者、騎馬之儀不叶、唯可大道者、

險道

〔東海道名所記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0013 親しらず子しらず(○○○○○○○○)、こヽは左の方は山にて高く、右は大海なり、海ばたは一騎うちの道にて、打寄する浪大なり、道行人さらにあとをかへりみるいとまなしさてこそ親しらず子しらずとは名付たれ、北國の道中にも此名ある所、これも同じく波うちぎはなり、明暦元年乙未九月に、朝鮮國より使官來朝せり、此ために親しらずの道をとヾめて、薩埵山をひらきて海道とせられたり、

〔東遊記〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0013 親不知 越中越後の堺に、親不知子不知といふ所あり、北陸道第一の難所としてあまねく人のしる所也、越中立山の裾、北海へ張出たる所にて、市振といふ驛より、歌といふ所迄を山の下と稱して二里半あり、立山の裾なる故に、斷巖絶壁にて路徑も付がたき故に、波打際を旅人通行する事なり、一方は壁を立たるごとき山、一方は大海なり、風無く波靜なる日は、旅人通行する道幅七八間或は

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0014 十間計あり、又所によりて半丁一丁もある所あり、然るに風起り波荒き時は、直に彼絶壁の所へ波打かけて通路なし、右二里半のうちに、一か所長さ五六丁の間、別て路幅狹き所あるを、世に親不知子不知といふ、甚難所にして、親も子を思ふにいとまなしといふ心より、土俗稱し來りたる也、其間絶壁の根に岩穴ありて、十間程づヽ置て、其穴いくつも有り、波の打よする時は、通行の人此穴へ走り入て、波の引時を見合て走り過、又波來れば次の穴に入て是を避く、もし北風強き時は、數日を歴るといへども通行ならずとなり、去々年も越後の商人越中に越るとて、此所を無理に通りかヽり、中程にて波風殊に強くなり、件の穴に逃入たるに、穴際まで大浪打かけて走り過べき際なく、八日が間其穴の中に居、やう〳〵波風靜り、命たすかり、其穴を出たり、其間の饑渇心遣ひ、いふに詞なしと語れり、波高き日無理に通りかヽり、穴中に避隱れて出べき際なく、二日三日穴に居る人は、年々多き事とぞ、余が通行せし時は、雨天にて波風はさのみ強からざりしかども、上の山は傾くがごとく聳え、寄せ來る浪は足を引去れば甚恐しき事今に忘れず、余が友富山の佐伯某此所を通りしには、其身は肩輿に乘り居しが、人足二三十人にて其肩輿を守護し、波の間を走りぬけては穴へ隱れ、走りぬけては穴に隱れて、やう〳〵に過しと語れり、總じて此邊の人足は、浪を避けて走ることに妙を得たり、されば此地の人夫大勢を召連れ行時は、大抵の浪風には滯ることなしといへり、扨此親不知を過て、少し山のふところに人家ある所を歌村と云、其村を過、又波打際を行けば駒返りと云難所あり、此所は波風なき時といへども、常に山の根へ波打かけ、通路なりがたきゆゑに、絶壁の中半に岩を穿ちて細き道を付、旅人通行す、其間纔の所なれども、馬上なりがたき故に駒返りと名付く、馬は兩方の驛より牽來り、荷物は其纔の所を人夫にて送り越すことなり、歌村より一里半にして青海といふ驛あり、此所は山下を通りぬけて少し廣み也、市振より青海まで四里の所難所なり、風波の時は王侯の勢ひにても越ること成難し、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0015 誠に一人是を守れば、萬夫も過ることあたはざるの要害の地也、故に市振は御領所にて關あり、往來の人を改る、余醫者にて總髮なる故に、別て丁寧に吟味ありき、誠に左もあるべし、他所と違ひ、一方は大海、一方は萬仭の高山、南の方へ數十里連り聳えたれば、廻りても通るべき道なし天險とはかヽる所をいふべしかほどの難所なれども、夏の頃天氣格別晴朗にして、風波靜なる日は道路に少しの高低もなく、糸を引たるごとき波打際の事なれば、難所ともしらず、只風景のよき所とのみ思ひて、通行する人多しとなり、

〔倭名類聚抄〕

〈十道路〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0015 碊道 文字集略云、碊道〈士輦反、上聲之重、漢語抄云、夜末乃加介知、〉山路閣道也、

碊道

〔類聚名義抄〕

〈一辵〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0015 碊道〈ヤマノカケチ〉

〔伊呂波字類抄〕

〈加地儀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0015 碊道〈カケチ〉

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0015 峪(カケ) 碊(同)

〔倭訓栞〕

〈前編六加〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0015 かけぢ 倭名鈔に碊道、やまのかけぢと見えたり、歌に岩のかけぢ、そはのかけぢなどもよめり、石をわたし掛たる道をいふ也、或は缺路の義とす、

〔増補雅言集覽〕

〈十七加〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0015 かけぢ〈石ある山路をいふ〉

〔源氏物語〕

〈四十五橋姫〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0015 うちつけにあさき心ばかりにては、かくもたづねまいるまじき、やまのかけぢに思たまふるを、〈◯中略〉雲のゐる峯のかけ路を秋ぎりのいとヾへだつるころにも有かな

〔夫木和歌集〕

〈三十六眺望〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0015 千五百番歌合 前大納言忠良卿 山たかみかけぢのくものたえまよりふもとのなみをいづる月かげ

〔夫木和歌集〕

〈十七水鳥〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0015 仁安二年歌林菀歌合水鳥 源季廣 谷河はこほりしにけりあさ日さすいはのかけぢにかもめむれゐる

〔千載和歌集〕

〈十八雜〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 山寺にこもりて侍ける時、心ある文を女のしば〳〵つかはし侍ければ、よみてつかはしける、 空人法師 おそろしやきそのかけぢの丸木橋ふみみるたびに落ぬべきかな

〔新續古今和歌集〕

〈十羈旅〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 羈旅の心を 稱名院入道内大臣 こえ暮て獨やねなん里遠き山のかけぢの苔のさ筵

〔謠曲〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 紅葉狩 〈上歌同〉馬よりおりて沓をぬぎ、〳〵、道を隔て山陰の、岩のかけぢを過給ふ、こヽろづかひぞたぐひなき、〳〵、

〔倭名類聚抄〕

〈一田園〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 畷 四聲字苑云、田間道、昌雪反、漢鈔云〈奈八天、〉

〔類聚名義抄〕

〈二田〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 畷〈音綴、昌雪反、ナハテ、〉

〔伊呂波字類抄〕

〈奈地儀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 畷〈井田間道也、ナハテ、〉 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001a557.gif 〈同〉 阡〈音千、行南北爲阡、東西爲陌、〉 陌〈陌行東西〉 畔 疇 培 塿〈已上同〉

〔下學集〕

〈上天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 繩手(ナワテ)〈直路(スクミチ)也〉

〔運歩色葉集〕

〈那〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 畷(ナハテ)

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 畛(ナハテ)〈韻會、井田間陌也、〉 畷(同)〈同上、並出太〉 繩手(同)〈俗字〉

〔日本釋名〕

〈上地理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 畷(ナハテ) 田間の道を云、なはヽ繩也、なはのごとくほそき也、てはちと通ず、ちは路也、なはみち也、又なはヽ直(ナヲ)なり、すぐなるみち也、

〔倭訓栞〕

〈前編十九那〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 なはて 和名鈔に畷をよめり、繩手の義、直なる道をいへり、籍田賦に、遐阡繩直邇陌如矢と見えたり、字書に、畷は田間道といへり、〈◯下略〉

〔太平記〕

〈二十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0016 四條繩手合戰事附上山討死事 武田伊豆守ハ千餘騎ニテ、四條繩手ノ田中ニ馬ノ懸場ヲ前ニ殘シテ扣ヘタリ、

新開/修理

〔日本書紀〕

〈十一仁徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0017 十四年十一月、是歳作(○)大道(○○)於京中、自南門直指之至丹比邑

〔日本書紀〕

〈二十二推古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0017 二十一年十一月、自難波京置大道

〔日本書紀〕

〈二十五孝徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0017 白雉四年六月、脩治處々大道

〔續日本紀〕

〈二文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0017 大寶二年十二月壬寅、始開美濃國岐蘇山道(○○○○)

〔續日本紀〕

〈六元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0017 和銅六年七月戊辰、美濃信濃二國之堺、徑道路險阻、往還艱難、仍通吉蘇路

〔三代實録〕

〈三十六陽成〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0017 元慶三年九月四日辛卯、令美濃信濃國以縣坂上岑國堺、縣坂上岑在美濃國惠奈郡、與信濃國筑摩郡之間、兩國古來相爭境堺、未决、貞觀中勅遣左馬權少允從六位上藤原朝臣正範、刑部少掾從七位上靱負直繼雄等、與兩兩司地相定、正範等撿舊記云、吉蘇小吉蘇兩村、是惠奈郡繪上郷之地也、和銅六年七月、以美濃信濃兩國之堺、徑路險隘、往還甚難、仍通吉蘇路、七年閏二月、賜美濃守從四位下笠朝臣麻呂封邑七十二戸、田六町、少掾正七位下門部連御立、大目從八位上山口忌寸兄人各進位階吉蘇路也、今此地去美濃國府行程十餘日、於信濃國最爲逼近、若爲信濃地者、何令美濃國司遠入關通彼路哉、由是從正範所一レ定、

〔續日本紀〕

〈六元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0017 靈龜元年六月庚申、開大倭國都祁山之道(○○○○)

〔續日本紀〕

〈十二聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0017 天平九年四月戊午、遣陸奧持節大使從三位藤原朝臣麻呂等言、以去二月十九日、到陸奧多賀柵、與鎭守將軍從四位上大野朝臣東人共平章、且追常陸、上總、下總、武藏、上野、下野等六國騎兵總一千人、開(○)山海兩道(○○○○)、夷狄等咸懷疑懼、仍差田夷遠田郡領外從七位上遠田君雄人海道、差歸服狄和我君計安壘山道、並以使旨慰喩鎭撫之、〈◯中略〉二十五日、將軍東人從多賀柵發、四月一日、帥使下判官從七位上紀朝臣武良士等、及所委騎兵一百九十六人、鎭兵四百九十九人、當國兵五千人、歸服狄俘二百四十九人、從部内色麻柵發、即日到出羽國大室驛、出羽國守正六位下田邊史難破、將部内兵五百人、歸服狄一百四十人此驛、相待以三日、與將軍東人共入賊地、且開道而行、但賊地

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0018 雪深、馬蒭難得、所以雪消草生、方始發遣、同月十一日、將軍東人廻至多賀柵、自導新開通道總一百六十里(○○○○○○○○○○)、或尅石伐樹、或塡澗疏峯、從賀美郡出羽國最上郡玉野八十里、雖總是山野形勢險阻、而人馬往還無大艱難、從玉野賊地比羅保許山八十里、地勢平坦無危嶮、狄俘等曰、從比羅保許山雄勝村五十餘里、其間平、唯有兩河、毎水漲并用船渡、

〔續日本紀〕

〈十四聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0018 天平十四年二月庚辰、是日始開恭仁京東北道(○○○○○○)、通近江國甲賀郡

〔日本紀略〕

〈桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0018 延暦廿一年五月甲戌、廢相模國足柄路筥荷途(○○○)、以富士燒碎石塞一レ道也、 廿二年五月丁巳、廢相模國筥荷路、復(○)足柄舊路(○○○○)

〔松の落葉〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0018 筥根路 萬葉集の歌に、足柄乃(アシガラノ)、筥根飛起(ハコネトビコエ)、行鶴乃(ユクタヅノ)、乏見者(トモシキミレバ)、日本之所念(ヤマトシオモホユ)、とよみたるをおもへば、はこねもあしがらにてはあれども、その足柄のうちに、ことに足柄といひし山ありて、筥根とはことにいへり、そは日本後紀延暦二十一年のところに、廢相模國足柄路筥荷途、〈◯中略〉と見え、同二十二年のところには、廢相模國筥荷路、復足柄舊路とみえたるにてもしられたり、筥荷路といふは、足柄路と同じくにのうちにて、ともに東にゆく道なれば、今の筥根路なるべし、いにしへははこねとも、はこにともいひたりけん、詞したくしくかよへり、此路延暦のころひらかれてよりのちは、ちかくてたよりよきまヽに、廢筥荷路とはあれども、なほたえずして、やう〳〵に人のゆきヽおほくなれるさまなり、はこね路をわがこえくればいづのうみや沖の小島になみのよる見ゆ、と鎌倉のおとヾのよみたまひたれば、これも大路なりけり、又阿佛のいざよひの記に、二十八日、伊豆のこふをいでヽ、はこねぢにかヽる云々、あしがら山はみち遠しとて、はこねぢにはかヽるなりけりといへるを見れば、足柄路はとほくて、たよりあしければ、はこね路にかかれるにて、かなたはゆきヽのすくなくなりて、つひにみちたえぬべきさま見えたり、されど

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0019 眞須鏡七の卷に、いらぬまの判官といふもの、さきの將軍のぼりたまひしみちもまが〳〵しければ、あとをもこえじとて、あし柄山をよきてのぼるなどぞ、あまりなる事にやといへれば、正應のころまでも、なほ足柄路をたヾしき道とはしけるよしなるに、いつのころにかたえて、今の筥根路ひとすぢとはなりけん、くはしうはしられず、

〔類聚名物考〕

〈地理六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0019 はこねぢ 箱根路 國史を考ふるに、延暦十一年に、不盡の山燒て、沙石の飛ちりふたかれるに依て、足柄の道かよひ絶しほどに、初て箱根の道をひらかれけれども、次の年に、又もとの足柄の道にかへされたる事見ゆ、しかるに今は此道のみ通へる事となりて、いつしかに足柄の道は往來まれなり、萬葉集の防人の往來など、みな足柄の道にかヽりて、手兒のよひ坂など云、みな此道の事なり、その後も更級日記なども、此道を通りて箱根へかヽらず、今の矢倉澤關の道にて、大山の麓をめぐりて、駿河へ出たる道也、太平記などの比は、此箱根の戰たび〳〵見ゆ、其外海道の紀行、みな箱根を越たり、貞觀六年七年の比も、富士燒て甲斐駿河の地埋れし事など見ゆれば、延暦より貞觀の比まで、富士の烟も立にしを、大きに燒ぬる故に、火氣のちりて、その後は絶しにや、延喜の比には、すでに烟不立といへるにてしるべし、昔は箱荷といへり、萬葉集にも東人の荷前の箱ともよみ、又公に荷前の使など云事もある也、それは思ふに、二子山中に在て、この山をめぐれる道なればいふ歟、二子は二山相似て並立るよりていへるを、箱の蓋と懸子によせて、箱荷とはいへる成べし、荷を今根といふは、借字にて箱峯の略也、

〔中右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0019 承徳元年二月十日乙未、爲行幸點地向南京也〈并明日春日祭分配也◯中略〉路行列次第、左右京職、木工、修理、使部、辨侍、官掌、史生、史并撿非違使、人々共人等、木工下部次第立札、可橋所、或可垣所皆立札、國々宛所必立札置、九條京職官人等留了、慥可道由仰含之、〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0020 路次候次第 左京職 〈從皇居閑院北二條朱雀南行四條以北〉 右京職 〈朱雀大路四條以南至九條〉 山城 〈從九條南桂河南岸〉紀伊(本和泉所課今度相替也ゝ)〈從桂河南岸樋爪橋南小路〉 和泉(本紀伊國所課) 〈從樋爪橋南小路淀川〉 近江(件國所課道甚難也ゝ可大國也ゝ) 〈從淀川奈良河原八幡宮御領畠南〉 但馬(新司勤之) 〈從八幡御領畠南薦集寺大門南河岸〉 攝津 〈從件寺南門前川岸土師河北岸〉河内(可宛丹後也) 〈從土師北岸大和界〉 大和 〈從國界社頭〉 浮橋國々、作道國不浮橋歟、〈◯中略〉行事所召物、今年得替國前司勤之、但至道作者、新司勤之也、

〔朝野群載〕

〈四朝儀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0020 伊勢齋王歸京國々所課〈◯中略〉 大和國〈◯中略〉 路橋〈◯中略〉 伊賀國〈◯中略〉 道橋〈◯中略〉 伊勢國〈◯中略〉 路橋〈◯中略〉 大神宮 路橋〈◯中略〉 嘉承二年十一月廿八日

〔吾妻鏡〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0020 養和二年〈◯壽永元年〉三月十五日乙酉、自(○)鶴岳社頭(○○○○)至(○)由比浦(○○○)、直(○)曲横(○○)而造(○○)詣往道(○○○)、是日來雖御素願、自然渉日、而依御臺所御懷孕御祈、故被此儀也、武衞手自令汰之給、仍北條殿已下各被土石云云、

〔松屋筆記〕

〈百五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0020 段葛置路 鎌倉志一卷〈九丁オ〉に、八幡社前より濱マデノ道、其中ノ一段高キ所ヲ段葛と名ヅク、又ハ置路トモ云ナリ、東鑑ニ、壽永元年三月十五日、鶴岡ノ社頭ヨリ由比濱ニイタルマデ、曲横ヲ直シテ詣往ノ道ヲ造ラル、御臺所〈政子〉御懷孕ノ御祈ニ依テ、此儀ヲ始メラル、頼朝手自沙汰シ給フ、仍テ北條殿已下各々土石ヲ運バルトアリ云々、段葛といふ名義未考、

〔吾妻鏡〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0020 建久五年四月十日辛丑、被鎌倉中道路(○○○○○)、梶原景時奉行之

〔吾妻鏡〕

〈三十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0020 延應二年〈◯仁治元年〉十一月卅日己未、鎌倉與(○○○)六浦津(○○○)之中間(○○○)、始可道路之由有議定

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0021 今日曳繩、打丈尺、被分御家人等、明春三月以後可造之由被仰付

〔吾妻鏡〕

〈三十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0021 仁治二年四月五日癸亥、六浦道被造始、是可急速沙汰之由、去年冬雖評議、被新路大犯土之間、明春三月以後可造之旨重治定云云、仍今日前武州令臨其所給之間、諸人群集各運土石云云、

〔葉黄記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0021 寛元四年正月十七日丁未、參日吉、〈◯中略〉歸路用今路、志賀山越(○○○○)也、其行程三里云々、自舊年山門之沙汰此路、三井寺僧不之、

〔吾妻鏡〕

〈四十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0021 建長二年六月三日丁酉、山内(○○)并六浦(○○)等道路事、先年輙爲通鎌倉、雖險阻、當時又土石埋其閭巷云云、仍如故可沙汰由、今日被仰下

〔信長記〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0021 道橋修理事 去程ニ累年ノ亂逆ニヨリ、邊土遠境ハ云ニモ及ズ、東山東海ノ大路モ虧テハ失レドモ、繕フ事モナケレバ、道セバク橋板朽去リ、山路元來絶果テ、谷ニ下リ峯ニ攀、往還ノ人馬不勞ト云事ナシ、サレバ天正三年正月五日、信濃公篠岡八右衞門尉、坂井文助、高野藤藏、山口太郞兵衞尉ヲ召テ、正二兩月ハ強テ農桑ノ時ニ非ズ、其暇ヲ以四人奉行シテ、海道筋廣サ三間半(○○○○○○○○)、佐々ノ大道三間道ノ多ク曲タル所ヲバ見計直ニツケ(○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○)、石ヲ除、牛馬ノ蹄勞セザルヤウニシテ、道ノ兩邊ニ松柳可植、道ハ不踏者ナケレバ、士農工商共ニ申懸、二月中ニ其功ヲ終ベシ、尚萬民不痛様ニト宣テ、黄金百兩、八木五百石、彼四人賄賂トシテ下シ給フ、是萬民ニ臨時ノ課役ヲ懸ラレン事ヲ厭ヒ思召ニ依テ也、澤昆蟲マデニ及トハ、カヤウノ事ヲヤ可申、サレバ奉行ノ者モ、糠藁計コソ其所々ニシテ請取、其外ハ塵ヲモ受ザリキ、角テ二月下旬ニハ、道橋悉ク出來セシカバ、往還ノ旅人喜悦ノ思ヲ含ンデ、此君ノ福ハ堯舜、壽ハ彭祖東方朔ニモマサラセ給ヘト、市堅孩童ニ至マデ、祝シ奉ラズト云事ナシ、

〔鹽尻〕

〈四十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0022 一信長諸國の驛路を廣くし、横五六間(○○○○)に造り、左右へ柳櫻を植しむ、時に田畑の費多し、時の人落書に、 世は地獄道は極樂人は鬼身は獨酒しぼりとらるヽ 按、此時一里塚も出來歟、

〔嚴有院殿御實紀〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0022 明暦元年二月廿六日、この八月朝鮮國信使來聘するにより、品川芝浦海濱の道路(○○○○○○○○○)を修治せしめらるヽとて、御側久世大和守廣之監視にまかる、こは先年波濤のために崩れたるゆへなり、

賞開道者

〔續日本紀〕

〈六元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0022 和銅七年閏二月戊午朔、賜美濃守從四位下笠朝臣麻呂封七十戸、田六町、少掾正七位下門部連御立、大目從八位上山口忌寸兄人各進位階、并從六位上伊福部君荒當賜田二町、以吉蘇路也、

〔令集解〕

〈二十二考課〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0022 古記云、殊功、謂笠大夫作伎蘇道封戸、須芳郡主帳作須芳山嶺道正八位之類也、 ◯按ズルニ、笠大夫ハ笠朝臣麻呂ノ事ニシテ、須芳郡ハ今ノ信濃國諏訪郡ナルベシ、

〔續日本紀〕

〈三十八桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0022 延暦三年十月戊子、越後國言、蒲原郡人三宅連笠雄麻呂、蓄稻十萬束積而能施、寒者與衣、飢者與食、兼以修造道橋、濟利艱險、積行經年、誠令擧用、授從八位上

〔類聚國史〕

〈八十三政理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0022 天長九年六月己丑、越前國正税三百束、給彼國荒道山道人坂井郡秦乙麻呂

制度

〔令義解〕

〈六營繕〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0022 凡津橋道路、毎年起九月半當界修理、十月使訖、其要路陷壞停水、交廢行旅者、不時月、量差人夫修理、非當司能辨者申請、〈謂當司者、當國之司也、辨者具也、治也、〉

〔類聚三代格〕

〈十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0022 太政官符 應在宮外諸司諸家掃清當路事 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0023 右太政官弘仁六年一月九日下兩職符偁、右大臣宣、奉勅、如聞頃者京中諸家、或穿垣引水、或壅水浸途、宜仰所司、咸俾修營、不流水於家内、唯禁汙穢於墻外、仍須毎竇量樋通水、如有符後卅日不制、諸家司并内外之主典已上貶考奪祿、四位五位事業及雜色番上已下不蔭贖、當處馬上而決笞五十者、〈◯中略〉 弘仁十年十一月五日

〔延喜式〕

〈四十二左右京〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0023 凡京路、皆令當家毎月掃除、其彈正巡撿之日、官人一人、生史一人、將坊令坊長兵士等祗承、〈四月八日、七月十五日、巡察東西寺此、〉 凡大路建門屋者、三位已上及參議聽之、雖身甍卒、子孫居住之間亦聽、自餘除門屋制限、其城坊垣不開、 凡道路邊樹、當司當家栽之、凡京中路邊、病者孤子、仰九箇條令、其所見所遇、隨便必令送施藥院及東西悲田院

〔吾妻鏡纂補〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0023 延應二年二月二日丁酉、鎌倉中可停止條々事、今日有沙汰治定、相分保々奉行人、固可禁遏之由云云、其状曰、 鎌倉中保々奉行可存知條々〈◯中略〉 一成(○)小路狹(○○○)事(○)

〔吾妻鏡〕

〈三十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0023 寛元三年四月廿二日丙戌、鎌倉中保々奉行人等、令知可沙汰條々、今日被定、佐渡前司基綱爲奉行、 保司奉行人可存知條々 一不道事 一差出宅檐於路事 一作町屋漸々狹路事 一造懸小家於溝上事 一不夜行事右以前五箇條、仰保々奉行禁制也、且相觸之後、七日於之者、相具保奉行人者使者、可破却

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0024 之状、依仰執達如件、 寛元三年四月廿二日 武藏守 佐渡前司殿

〔吾妻鏡〕

〈四十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0024 建長三年十二月三日戊午、鎌倉中在々處々小町屋、及買賣設之事、可制禁之由、日來有其沙汰、今日被彼所所、此外一向可停止之旨、嚴密觸之被仰之處也、佐渡大夫判官基政、小野澤左近大夫入道光連等奉行之云云、鎌倉中小町屋之事被定置處々、 大町 小町 米町 龜谷辻(カメカヤツノ) 和賀江 大倉辻 乘飛和坂山上 不牛於小路事 小路可掃除事 建長三年十二月三日

〔長曾我部元親百箇條〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0024 掟〈◯中略〉 一本道(○○)六尺五寸間可二間、同道事、在々山里浦々共、庄屋堅可申付、若道惡時者、其地頭百姓より 科錢壹貫爲庄屋取集、奉行中へ可相渡事、〈◯中略〉 一横道(○○)堅停止之事、押而通もの於之者、科錢可壹貫事、

〔徳川禁令考〕

〈五十九道路橋梁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0024 慶長十七子年十月十六日 道橋堤等之儀下知 覺 一大道小路共、馬さくり候所には、砂ニ而も石ニ而も、かたまり候様被仰付、道之脇ニ水やり仕候様尤候事、 附、ぬかり候處右同前、砂成共石成共入、かたまり候様可仰付事、〈◯中略〉 慶長十七子年十月十六日 青 圖書 安 對馬 土 大炊

〔徳川禁令考〕

〈四十七道路家屋橋梁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0025 慶安四卯年二月 道路築方、并下水さらゐ方之儀町觸、 一町中道あしき所へは淺草砂を敷、中高に作り可申候、勿論どろあくたにて築申まじき事、

〔享保集成絲綸録〕

〈二十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0025 寛文八申年二月 一町中海道をほり、諸道具を埋置申ニ付道せばく、往行之さわりニ罷成候間、自今以後、海道江諸道具埋間敷候、今ほど埋置候者、早々ほり出し、海道を能作りなをし可申候、若相背候ハヾ、急度可仰付候間、少も油斷有間敷候、以上、 二月

〔徳川禁令考〕

〈四十七道路家屋橋梁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0025 寛文十戌年八月 跡々より御免之外、河岸通に土藏無用之事、 一町中河岸通に土藏立候事、跡々より御赦免被成候河岸之外、堅無用に可仕、縱御赦免被成候河岸通たりといふとも、新規に土藏造申候ハヾ、兩御番所江御意を請作り可申候、但瓦土藏、ぬりたれ藏之外ハ、板葺かや葺之家など立置候ハヾ、早々崩し取可申事、八月

〔徳川禁令考〕

〈四十七道路家屋橋梁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0025 明暦三酉年自三月八月 普請作事之定 一町中作事仕候砌、地形築候とも、兩頰高下無之様に申合、並能地形築可申候、海道隣町之つり能やうに築可申候、むさとまヽに築申間敷事、 三月

〔享保集成絲綸録〕

〈二十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0025 明暦三酉年四月 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0026 一跡々改、道はヾ相究候所者、道ハヾ或京間五間、或六間、日本橋通町之分は、田舍間拾間、本町通ハ京間七間、庇之分取候而作事仕度者ハ、早々可仕候、前篇如相觸候、本間之外、三尺之釣ひさし、柱なしに可仕候、但表之下水ハ、ぬきにてすのふたを可仕候、御定之外、道江少も作り出申間敷事、 一于今改不申撿地究不申候町ハ、近日罷出改可申候間、角屋之者ハ、表裏之境目、町中立合、隣之境究杭を打置可申事、 一作事仕候とも、長屋者不申、裏棚居間之分茂、三間梁より大キニ作り申間敷事、 四月

〔享保集成絲綸録〕

〈二十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0026 明暦三酉年六月 一先日も如申觸候、此以前撿地仕候處者、不相改候間、普請仕度者ハ、御公儀之ひさし壹間引込可仕事、 一通町本町通表向、三尺之釣ひさしに、柱御赦免被成候間、三尺之ひさしの外に、自分之地之内を、三尺切ひさし下壹間之通り道仕、柱を立作事可仕事、 但自分之地之内、三尺切候儀、迷惑ニ存、釣ひさしニ仕度町ハ、片かわ切、又ハ壹町切ニ釣ひさしニ成共可仕候段、迷惑ニ存候者有之候とも、其町之者存寄候多分次第ニ、隣町なみ棚下壹間ニ可仕事、 一河岸通表向之ひさしハ、如前々之仕候、并川岸端橋詰ニ、小屋かけ商賣人置申間敷候、若小屋かけ居申者ハ、兼而相意得取可申事、 六月

〔享保集成絲綸録〕

〈二十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0026 明暦三酉年六月 一先日も如相觸候、跡々相改道ハヾ究、本柱通りニ杭を打置候所ハ、道ハヾ京間六間明ケ候而家

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0027 作り可申候、此度改候所茂、通町者田舍間拾間、本町ハ京間七間、或ハ六間或は五間、杭之通本柱を立、但本町通之分者、庇柱立申度町者、手前之二拾間之内半間切、海道半間之釣ひさしともニ、壹間之庇ニ致、柱を立、庇之内、往行之通ニ可仕候、若一町之者釣庇しニ仕度者有之候共、多分ニ付可申候、前後之町通道明候ハヾ相談致シ、其通ニ可致事、 一當年相改、或ハ京間六間、或ハ五間、其外相定候道ハヾ、杭之通本柱を立、横町之分ハ、海道江半間之釣庇に可仕事、 一表之雨落之下水、釣庇之所ハ、半間之所ニ溝を掘、ふだをいたし、往行之者ふみ込不申様に可仕事、 右之通相觸候之間、作事仕度者ハ町中相談之仕、早々作事可仕候、以上、 六月 明暦三酉年八月 一内々如相觸候、町中作事仕候ハヾ、御定之外、海道江少茂作り出申間敷候、通町筋本町通之外之町者、彌三尺之釣ひさしニ可仕候、縱自分之地之内、三尺出し候共、釣ひさしニ柱立申事、堅可無用事、 一河岸通、并魚棚、鳥棚、青物棚、庇杭之通ニ本柱を建、夫より壹間之ひさしに可仕候、本間之外江少茂作り出し申間敷候事、 八月

〔徳川禁令考〕

〈四十七臨時町觸〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0027 覺〈◯中略〉 一道中道惡敷所ハ、高下を直シ、海道之掃除可仕候、材木竹薪、其外商賣物、從前々御定、積置可申候、若相背高く積候ハヾ御取上ゲ、可成候間、此旨相守可申事、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0028 申〈◯享保元年〉九月 右之通町中不殘入念相觸、其町々名主月行事印判持來、朔日奈良屋所江可持參候、以上、 九月廿八日 町年寄三人

〔徳川禁令考〕

〈四十七諸法度〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0028 享保四亥年四月 路次之上に家根仕間敷旨 一當二月類燒之町々、家作仕候ハヾ、路次之上に屋根仕間敷候、當分之小屋掛ハ勿論、重而普請仕候共、右之通可相心得候、且又路次之口も戸計にいたし、上に鴨居等之物付候儀、無用可仕候、 一類燒以後、路次には屋根不仕、路次通之庇並に仕付候場所も可之候、ケ様之所は路次通之庇は、路次并庇をも取はなし可申候、 一當二月類燒之町々之外、前々類燒之町々も、路次には屋根不仕、路次通之庇家並に仕付候所も、路次通之庇は取はなし可申候、 一前々類燒之町々、路次之上屋根仕付候所は、當分其通に差置可申候、重而本普請之節は、右之通可相心得候、路次屋根并庇無之所、路次之口戸計に致、鴨居等之物一切差置申間敷候、 一路次之奧に、裏店に而無之、家主など住居致し、路次を門に用ひ來り候而、路次之上に屋根無之候而は、殊之外迷惑に候者も有之候はヾ、委細繪圖に相認候而奈良所江可差出候、 四月 右之通、先達而申渡候處、今以其儘差置候町々可申付候、追而見分相廻り候儀も可之候間、少も油斷有間敷候、以上、

〔道中秘書〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0028 道中方勤方申上 加役道中奉行勤方之儀申上候書付 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0029 松平石見守 伊勢伊勢守 一道中道橋新規御普請修復等、前々は御代官より伺次第、御勘定所ニ而吟味之上申上候處、與力同心被仰付候以來、御普請修復之品に寄、組之もの見分に差遣、御普請差延不苦分、又は御普請申付可然分は、委細吟味之上、御勘定所江申談、御入用掛り不申様詮議仕候ニ付、跡々は御入用減申候、 ◯按ズルニ、松平石見守、伊勢伊勢守ノ二人ハ寶永享保年間ノ道中奉公ナリ、

〔道造り〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0029 一寶永四亥年春、本所中道不陸成候由、御支配方御沙汰(○○○○○○○)有之付三淵縫殿介、小笠原外記、本所中武家屋敷家來立合、小屋ヘ呼寄、右之段申渡、品々道不陸直シ可申付候、及遲滯候所有之候はヾ、稻垣對馬守殿江其段申上候由申渡相濟候事、〈◯中略〉 南本所總道造り 一長貳百拾八間 〈道幅四間 高サ平均壹尺五寸〉 置土〈中貳尺端壹尺〉此土坪貳百拾八坪 是ハ大川端松平遠江守南角より、堀田伊豆守前御船藏門迄、 一銀五百貳拾六匁四分 堀方之者 壹人ニ付貳匁三分 此人數貳百貳拾八人九歩 右之土道法リ七歩之所、持込壹町土壹坪ニ付壹人半掛リ、〈◯下略〉

〔浚道造一件〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0029 大川通御船藏前、附洲本所筋川々浚、并道造御普請(○○○○○)御入用之儀ニ付相伺候書付、 中川飛騨守 金澤瀬兵衞〈◯中略〉 一金壹万八千貳百七拾八兩餘 〈竪川、小名木川、横川、拾間川、其外六間堀、五間堀、石原町入堀浚とも、◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0030 一金貳万千百壹兩餘 〈本所道造、郡代懸り場、并町奉行縣場共、不殘道造入用、〉 金壹万三千九百六拾九兩餘郡代懸り場之分 内 金六千五拾四兩餘 町奉行縣場之分 金千七拾八兩餘 諸組大繩屋敷往還之分 是者本所道造、延長四万五千四百貳拾六間餘、下水浚切上笧、其外關板、下水吐埋樋、往來筋砂利敷、石橋、板橋、土橋等御普請之積り、〈◯中略〉 右者川々浚、并道造共、見分目論見仕候處、書面之通ニ御座候、〈◯中略〉右金高を以、川々俊、并道造共御普請可仰付候哉、〈◯中略〉此段奉伺候、以上、 酉〈◯享和元年〉正月

〔驛肝録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0030 道中筋道幅并並木敷地之儀ニ付、諸向より問合有之節挨拶振之心得、 道中筋道幅(○○○○○)は、其場ニ寄、不同に候得共幅貳間以上無之候而は、駄荷引違も難成、尤高崕切通、又は堀川等江掛渡候橋之内ニ而、貳間ニ不至分も可之候得共、右は互に待合罷通候而も、僅之所ニ而差支も無之、其餘は前書之通、貳間以上之心得、若道幅貳間ニ難成所も有之候はヾ、前後見合、委細繪圖面を以可申聞候、且並木敷地(○○○○)は、九尺以上に無之候而は、風烈之節、根返り等も有之事故、追々田畑之内江切添之場所も有之候はヾ、元形之通り築足、以來切添不致様取締之儀申觸候事、右は文政六未年十二月、竹中主税助家來より問合有之、下道中方ニ而御挨拶取調、右振合ニ而御評議相決、此上問合有之候節、心得之ため極置候事、申年正月十九日前書之書面主水正殿〈◯道中奉行石川〉へ上置候事、

一里塚

〔和漢三才圖會〕

〈五十六山〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0030 封堠(一里つか) 里堡〈音寶〉 俗云一里塚 五里有一堠 封堠、里堡也、事物紀源云、神農度地形度四海、東西九十萬里、南北八十一萬里然則炎帝始有里數

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0031 矣、 按一里堡(ツカハ)、毎一里垐(ツキ)小山、樹以松或榎、古(ムカシ)道〈五十町〉今道〈三十六町〉有異、如中夏五里一堠、則〈三十町〉其五里、不於和之一里

〔北史〕

〈六十四韋孝寛〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0031 韋叔裕字孝寛、〈◯中略〉廢帝二年、爲雍州刺史、先是路側一里置一土堠、經雨頽毀、毎須之、自孝寛臨一レ州、仍勒部内當堠處槐樹之、旣免修復、行旅又得庇蔭、周文後見、怪問知之、曰豈得一州獨爾、當天下同一レ之、於是令諸州來道一里種一樹、十里種三樹、百里種五樹焉、

〔新編常陸國誌〕

〈三十九墳墓〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0031 一里塚 大道中路凡テコノ塚アリ、三十六丁ニシテ道路ノ左右ニ必ズコノ塚ヲ置ク、墳上榎樹ヲ植ユ、古クハ一里山トモ云シニヤ、延寶路程記ニハ一里山トアリ、此塚ヲ始メ置カレシ時代諸説多シ、一ニ云、信長ノ時ナリ、一ニ云、秀吉ノ時ナリ、皆非ナリ、神祖ノ御代ナリ、信長ノ時ト云モノハ是ニアラズ、何トナレバ、信長武將ノ位ニ居ルトイヘドモ、未ダ天下ヲ一統スルコトナクシテ薨ズ、且關東奧羽三十六丁ヲ以テ一里トスルモノハ秀吉ノ制ナリ、信長ノ時置カレシト云モノヽ非ナルヲ知ルベシ、

〔地方凡例録〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0031 一壹里塚始之事 上古は一里之法不定、里より里迄を一里と云しと也、依て間數には悉く長短有り、中華は六丁を以一里とす、本朝も是に效ひ、六丁を一里と定たる由雖申傳、時代不詳、其遺風にて今も奧州は六丁一里之所多し、多賀城坪之石碑之里數も六丁を以一里とす、中頃人皇百七代正親町院之御宇、天正年中、三拾六町を以一里と定らる、一歩は六尺、一段は六間、一町は六拾間、一里は六百間、此坪數六々の數を伸て、三十六丁一里と極りたる由、其頃一里毎に塚を築しめ、印之木を植させらるる時、松杉を可植哉と、時之武將信長公江伺しに、松杉は類ひ多ければ、餘之木を可植と有しを、役

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0032 人榎と聞違ひ、榎を可植由村々江申付しにより、今一里塚之木都て榎なる由、世事談に見ゆれ共、一里三拾六丁に定りたるは、信長公代にも有べけれ共、一里塚始り國々江築立、榎を植たるは、台徳院様〈◯徳川秀忠〉御治世、慶長十七壬子年、大久保石見守奉行として、從江戸諸國江道中筋一里塚を築せらる、下掛り江戸町年寄樽屋藤左衞門、奈良屋市右衞門兩人江被命、同年二月初旬始之、五月下旬迄に、諸國一里塚悉成就す、仍て塚上に印の木を植るは如何と石見守伺し處、一段可然との嚴命に付、何木を可植哉と重て伺しに、よい木を植よとの命を、石見守、榎と聞違ひ、都て榎を植たる由、或書にも見へ、又樽屋奈良屋掛りたる事は、有徳院様〈◯徳川吉宗〉御代御府内其外國々諸事御糺明之砌、享保十乙巳年八月、改革の際、町奉行中山出雲守、大岡越前守江、町年寄共由緒書差出たる内に、一里塚成就之上拜領物等迄有、委くは江都官鑰秘鑑に詳なり、信長公上方筋は一圓に雖拜領、天正之頃、關東は北條領之、海道筋には御當家、今川家甲州は武田家有之、戰國之砌、日本一統に一里塚可築様なし、世事談之説は、御當家之命を、信長公之時、一里三十六町に成たるに附會したる説なるべし、海内國々に有一里塚なれば、御當家に成て出來たる事歴然たり、一里三十六丁と云も、未行渡國々あり、伊勢之國は五十町壹里多し、紀伊國にも伊勢近き所は五十町壹里有り、九州之内、肥後肥前等にも、五十町壹里之處有り、併九州は多分三十六町一里なり、四國之内に四十町壹里之處もある由、奧白川領より東は六町一里なり、一里之町數區々成事は發り不詳、案るに天正年中、海内三十六町に雖命、奧羽、九州、四國等之片鄙は、國命之不行屆ゆへ、古來より之仕來りを不改、今も區々の町數有るは、國々古來之儘差置たる事と見へたり、一里之町數改り、塚に榎を植る事、前書の如く記といへ共、慥成引書も無く、朱書に見ゆるのみにて出所正からざれども、任申傳記置もの也、

〔聞見集〕

〈坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0032 一昔より道中何里々々と定り有之といへども、いつわり多く候つる、秀吉公御代に繩

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0033 を御はらせ、三十六町を一里と御定め、塚を一里ごとに御築せ候、其後家康様御代に、江戸日本橋を道のはじめと被成、東西南北の國々へ繩を張、これも三十六町を一里にして、一里毎に塚を御築せ、塚ごとに上に榎木を植申候、

〔碩鼠漫筆〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0033 一里塚起原 諸國に一里塚を築かせられしは、慶長九年と云を正しとすべし、〈◯中略〉さるを江戸町年寄樽藤左衞門由緒書に、慶長十七子年、東海道、中山道、一里塚出來候御用、樽藤左衞門、奈良屋市右衞門兩人江被仰付、藤左衞門道中 罷越、差圖仕爲築立罷歸候、銀子拜領仕候、〈奈良屋市右衞門由緒書亦同〉とあるは誤りなるべし、〈◯中略〉さて此一里塚は、織田家御當家等の新儀にはあらず、漢土の古事に據られしなり、さるは北史卷六十四〈列傳五十二韋孝寛傳〉に、廢帝二年、爲雍州刺史、先是路側一里置一土堠、經雨頽毀、毎須之、自孝寛臨一レ州、仍勒部内、當堠處植槐樹之、旣免修復、行旅又得庇蔭、周文後見、怪問知之、曰、豈得一州獨爾、當天下同一レ之、於是令諸州夾道一里種一樹、十里種三樹、百里種五樹焉、とあるをみるべし、土堠は則一里塚にて、こは慶長九年より、千百餘年の古へに係れり、但先是とあれば、猶上古より有けるなるべし、

〔徳川禁令考〕

〈五十九經壤端界〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0033 慶長九辰年二月 諸海道ニ一里塚を築く事 二月四日 一將軍家被仰出、諸海道ニ一里塚つき可申由、右大將家江被仰越、則諸代官ニ被仰付、道中ニ是を築、道之兩方ニ松を植可申由、右大將家より本多佐大夫、永井彌右衞門奉行に被仰付、東海道中山道より築初むる、〈當代年録、但月日雖詳、今據家忠日記、慶長日記今日、慶長日記云、公ヘ松ヲ植申ベキカト問處ニ、ヨノ木ヲ植サセヨト有シヲ聞チガヘ、榎木ヲ植シトイヘリ、松ハ御稱號ヲ賢慮有テナリ、創業記係八月云、秀忠公ヨリ諸國道路可作ノ由御使相上、廣サ五間也、一里塚五間四方ナリ、關東奥州迄右之通也、木曾路同如此、〉

〔東照宮御實紀〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0034 慶長九年二月四日、右大將殿〈◯徳川秀忠〉の命として、諸國街道一里毎に堠塚〈世に一里塚といふ〉を築かしめられ、街道の左右に松を植しめらる、東海中山兩道は永井彌右衞門白元、本多左大夫光重、東山道は山本新五左衞門重成、米津清右衞門正勝奉行し、町年寄樽屋藤左衞門、奈良屋市右衞門もこれに屬してその事をつとめ、大久保石見守長安これを總督し、其外公料は代官、私領は領主沙汰し、五月に至て成功す、

〔創業記考異〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0034 慶長九年八月、當月中秀忠公、諸國道路可作ノ由御使相上、廣サ五間也、一里塚五間四方也、關東奧州迄右ノ通也、木曾路同如此、

〔新編相模國風土記稿〕

〈四十淘綾郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0034 山西村 一里塚 立場茶屋ノ東ニアリ、雙堠相對ス、〈南側高一丈餘、榎樹ヲ植、北側高一丈二尺餘、槻樹ヲ植、〉東ハ郡中國府新宿西ハ足柄下郡小八幡村ノ里堠ニ續ク、

〔新編相模國風土記稿〕

〈二十四足柄下郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0034 小田原宿 一里塚 江戸口ノ外南側ニアリ、〈高六尺五寸、幅五間許、〉塚上榎樹アリシガ、中古槁レ、今ハ松ノ小樹ヲ植ユ、古ハ雙堠ナリシニ、今隻堠トナレリ、蓋海道ノ革マリシ頃、一堠ハ海中ニ入シナラン、此ヨリ東ハ小八幡村、西ハ風祭村ノ里堠ニ續ケリ、

〔新編武藏風土記稿〕

〈十二豐島郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0034 下板橋宿 一里塚〈宿ノ東往還ノ左右ニアリ、塚上ニ榎アリ、〉

〔佐州年表〕

〈蠧餘一得參集八所收〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0034 此年〈◯慶長九年〉東海東山北陸道に一里塚を築く、當國は其事を爲すに遑あらず、今に至て五十町一里なり、

並木

〔松屋筆記〕

〈八十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0034 道路の廣狹〈並〉並樹(ナミキ) 道路の廣狹、大中小路等の事、令式など所見おほし、平信長、諸國の驛路をひろくし、横五六間に造

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0035 り、左右に柳櫻をうゑさせけるよし、鹽尻十五に見ゆ、路傍に菓樹を植し事、續紀三代格などにあり、櫻を植しは義家朝臣の歌によめり、松の並木松平の義にや、

〔類聚三代格〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0035 乾政官符 應畿内七道諸國驛路兩遍種菓樹事 右東大寺普照法師奉状偁、道路百姓、來去不絶、樹在其傍、足疲乏、夏則就蔭避熱、飢則擿子噉之、伏願城外道路兩邊、栽種菓子樹木者、奉勅依奏、 天平寶字三年六月廿二日

〔類聚三代格〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0035 太政官符〈◯中略〉 一應制斫損路邊樹木事 右同前解偁、道邊之木、夏垂蔭爲休息處、秋結實民得食焉、而或頑民徒致伐損、去來之輩並失便宜、望請特加禁制、莫更然者、依請、 以前右大臣宣、奉勅如件、諸國宜此、 弘仁十二年四月廿一日

〔延喜式〕

〈五十雜〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0035 凡諸國驛路邊植菓樹、令往還人得休息、若無水處、量便掘井、

〔徳川禁令考〕

〈五十九經壤端界〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0035 延寶七未年三月廿九日 並木之松植立之儀達 一奧州海道之道筋、並木之松ニきれ候所數多有之由ニ候間、早々手代遣之爲見分、相應之松木植候様ニ可申付候、大成木つきかね可申候間、小ぶり成木を植させ可申候、但右之松木植候人足扶持、今度ハ從公儀下候條、木數人數等吟味之上、委細書付記之、可下知候、若相應之松木、御代官所之内近邊ニ無之候ハヾ、何様ニ被致候而成共、植可申哉、其段も可申越候、並木之

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0036 松荒候儀ハ、日來心付無之故、右之通と相見ヘ候、油斷之至候、其所之者共ハ衆ニ無構儀不屆ニ候、向後荒候ハヾ、其所之もの可越度候間、常々心を付、自然枯候歟、風雨ニ而倒候儀有之時ハ、所之者役ニ掛、植立候様急度申付可置候、不申候得共、面々御代官所之分ハ、折々手代差遣、爲見分、不荒様可申付候、以上、 延寶七〈未〉三月廿九日

〔憲法部類〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0036 東海道、中山道、日光道中、奧州道中、甲州道中、往還並木植帳、并道造等之義、先達而道中奉行より相達候、 右五海道之外往還、并脇往還共、驛場有之道筋、並木風折枯木根返り等之跡へ、早速植繼且右處地根際迄掘付之所は、壹貳間も土手形ニ築立、田畑境ヘ定杭建之、道幅狹所ハ前後同様に道繕、尤相應之所も、以來不狹様往還付、村々より無懈怠手入旨、御料は御代官、私領は領主地頭より可申付候、 右之趣、松平左近將監殿被仰渡候に付相達候、 十二月

〔憲法部類〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0036 五海道並木有來候場所間遠之所、或は立枯倒木等之跡江代木松木爲植直候様可致旨、先達而相觸候通り可相心得候ヘ共、並木之儀、御普請役御用ニ付、通行之時分、御料村之並木植方等、不宜場所も有之候得ば、村方江も右之段申聞、爲相糺候間、其節ハ名主組頭無遲滯罷出候様可請旨、村方ヘ可申渡候、尤御用ニ付、手代等支配所往返之節も、並木心ヲ付植足、未熟ニ無之様可致候、尤往還筋ヘ、誰支配何村地内と申義柱ニ可打置候、

〔牧民金鑑〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0036 寛政二戌年九月 道中奉行江 五海道往還並木之儀、手入植足シ、并土手築立、田畑境定杭立木之儀迄、寶歴年中も相觸、其後安永

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0037 年中も、猶又並木敷地は定杭立植足之儀、委細達候上ハ、風折、退返、立枯等有之候ハヾ奉行所江も相屆、伐取之儀可申付筈ニ候、以來猶更道中筋並木之儀ハ、何ニ不依一己ニ取計申間敷候、尤枝折退返等有之、通路之差支ニ相成候ハヾ、早速取除置、其段相屆、其外手入植足之儀ハ、先年觸候通、彌以無遺失嚴敷可申付候、右之趣其向々江可達候、 右之通、松伊豆守殿〈◯老中松平信明〉被仰渡候間、被其意、宿場并間之村々江可申渡、各々も無怠慢心得候、勿論御勘定所より差遣候御用往來之者江、並木之様子見分爲致、若等閑之取計方候ハヾ、急度相糺ニ而可之條、此旨可相心得候、 九月

〔驛肝録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0037 文政六未年六月 一並木之儀〈◯中略〉 觸書 追而此觸書早々相廻し、承知之旨別紙受書相添、宿送りを以、主水正〈◯道中奉行石川〉役所江可相返候、以上、 往還筋宿々并間之村々道幅、并並木敷地之内、左右田畑用惡水路等江切添、又は並木立木立枯跡、小苗木不栽立、定杭紛失之儘差置、其上下草刈拂も不致故、野火燒失等に而、立枯に相成候類も有之、不埒之事に候、前々申渡置候趣堅相守、並木立枯跡は勿論、一體間遠之場所は小苗木栽立、生木之分は時々下草刈拂、定杭紛失之分は、其支配御代官領主地頭江申立打建、並木敷地欠崩等は修復を加へ、左右田畑用惡水路等江切添、場所は元形之通可築立候、〈◯中略〉 右之趣、於相背者、可曲事もの也、 未六月十二日 主水〈◯道中奉行石川〉 伊豫〈◯道中奉行岩瀬〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0038 日光奧州水戸道中 年寄(右宿々) 問屋 岩槻佐倉道 名主(間之村々) 組頭

〔道中秘書〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0038 道中筋並木高札之義伺濟之事 中山道往還並木高札之儀に付申上候書 書面伺之通、可申渡旨被仰渡、奉承知候、 岩瀬伊豫守 〈申〉六月廿八日 石川主水正〈◯二人並道中奉行〉 戸田采女正御預所、中山道濃州厚見郡鏡島村地面往還並木之内、根返り虫付等に而立枯に相成候節、伐取候跡江苗木植付候而も、往來之旅人踏荒し、又は手折候ものも有之、根付方不宜枯木に相成、村方難澀いたし候に付、爲取締御預所手限之高札相建度旨申立候に付、評議仕候處、御預所手限之高札に而は、用方も薄く可之、其上寛政之度、東海道見附濱松兩宿之間、天龍川渡船場際、池田村より脇道を旅人忍び通候に付、通行差留候高札、伺之上相渡候先例も有之候間、道中奉行と認候高札相立候はヾ、取締にも相成可申と奉存候間、右は采女正御預所に限候義にも無御座、都而街道筋並木近邊に而焚火いたし、並木根返り過半燒候も有之、又は枝折取候も相見、自然立枯に相成候趣相聞候間、以來向々より同様之義申立候はヾ、別紙高札案之通相建候様可申渡と奉存候、以上、 申〈◯文政七年〉五月 別紙高札案 定 往還並木近邊ニ而たき火いたし、又はうゑ付置苗木、枝折取荒すべからず、若相背におゐては曲事たるべき事、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0039 月日 奉行

道法

〔和漢三才圖會〕

〈五十六山〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0039 里數 公羊傳注云、古者方六尺爲歩、方一里計十二萬九千六百歩、 按、是乃合元會運世之數矣、其十二萬九千六百歩開平法、知方三百六十歩、乃日本六町也、中叔舟海東諸國記云、道路用日本里數、其一里准華之十里、 按、倭一里、古者五十町、〈其一町六十歩也、其一歩六尺五寸、〉諸國記之説大概合焉、中古以來、用三十六町、〈其一歩用六尺〉當華之六里、今亦和河泉伊勢等之南海道多用古道、〈其餘用三十六町〉又奧州驛路外、多以六町一里之、

〔玉勝間〕

〈十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0039 三十六町を一里とする事 道のほどを卅六町を一里とするは、いつの世よりのさだめならむ、ある説に、織田大臣の世よりの事なりといふはたがへり、堯孝僧都の富士の道記に、近江のむさの宿を、都より十三里といひ、美濃のたる井を、むさより十四里などいへる、すべて今の世のさだめと同じ、此事なほ他書にもあるべきを、心つかず、これはたヾふと心づきたるまヽに書おけるをあげたるなり、

〔安齋隨筆〕

〈前編十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0039 一道路里數 勘者御伽雙紙に云、塵劫記ニ云、曲尺六尺五寸を一間とし、六十間を一丁とし、三十六町を一里とす、或人云、伊勢道は四十八町を一里とすといひ傳へたり、近ごろ一算士の説を聞くに、伊勢道四十八丁と云は僞なり、馬子駕籠かきの類の爲にする事ある故、かヽる事をいひなすなり、東海道の里程は、曲尺六尺を一間とし、六十間を一町とし、三十六町を一里とす、伊勢道は只六尺五寸を一間とするのみたがひて、餘數は東海道に替る事なしといへり、然れば伊勢道は一里六尺間の三十九町にあたるなり、一里ごとに三町多し、伊勢道の十二里は、東海道の十三里に當るなり、いかなる故に四十八町を一里とするぞといへるを考るに、山田の外宮宇治の内宮の間、四十八町あり、是を所の人一里と稱するより起るなるべしといへり、又或儒者の云、西國はみな四十八町を一里とすといへり、又延喜式東西兩京の丈尺を記するにも

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0040 とづきて算ふる時は、一町は四十丈なり、若し是を六十間とみれば、一間は六尺六寸六分有餘なり、一間の尺寸和漢ともにいぶかし、〈右御伽雙紙は、算術士中根保之丞法艘所著、〉

〔筆のすさび〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0040 一里程 我邦の一里は、西土の十里にあたること、彼方の書にても、しば〳〵見ゆれば、記事の文、或は詩にても、吾土の一里は十里といひても通ずべきこと論なし、然れども誦して響のよろしからぬ事もあるやうにおもはるれば、是を竹山先生に問ひしに、竹山の云へるは、周の時の書に、なほ夏正を用ふるもの多し、吾邦の里程、今の法に改りしは、何時の事か明ならざれども、奧羽の地は、猶昔の里程にて計るとぞ、されば官府へ奉る文書にもあらず私に記するには、いづれにても然るべきならんと、これによりて、余が詩にも百里を千里と用ひしなり、

〔新編常陸風土記〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0040 行路 凡古ノ里數ハ三千六百歩ヲ一里トス、俗間ニ所謂六町一里ナリ、天正文祿ノ際、豐臣太閤ノ制ニヨリ、ナベテ三十六町ヲ一里トス、神祖又其法ニ准ジテ一里塚ヲ築ク、コレヨリ後悉ク是制ニ從フ、

〔梅園日記〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0040 一里町數 玉勝間に、道の程を三十六町を一里とするは、いつの世よりのさだめならん、〈◯中略〉とあり、按ずるに語林類葉に、上の文を擧て、又云、太平記卷十三、〈龍馬奏進の條〉今朝卯の刻に、出雲のとんだを立て、酉の刻のはじめに京著す、其道すでに七十六里とあり、拾芥抄田籍部云三十六町爲一里とあるは、富士の道記よりは、太平記先なりとの意なるべし、なほ先なるは、東大寺造立供養記に、文治二年周防國より材木を出しヽ事を記して、木津至于海七里、注に三十六町爲一里とあるは、東國の一里は六町にてたがへば也、明惠上人渡天行程記に、從大唐長安京、到摩訶多國王舍城五萬里、〈小里定也、六町一里定、按に原本此注逸す今補ふ、〉即當八千三百卅三里十二町也、〈大里(○○)定也、三十六町一里定、〉百里〈小里(○○)〉十六里廿四町〈大里定也〉とある

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0041 は、唐土は六町一里といひけん故に、かく記したるならん、又平家物語〈瀬尾最期條〉に、備前國福隆寺繩手は、はたばり弓杖一杖ばかりにて、遠さは西國道の一里也とあるも、三十六町一里なるべし、長門本平家物語に、〈兵庫島のことを云て〉はたよりおきへ一里三十六町出してぞつき出したりけるといひ、沙石集に、高野の大塔は不二の總體なり、それより改所へ五り百八十町に彌勒の御座は云々といへるは、一里と三十六町、五里と百八十町には非ず、三十六町を一里とし、百八十町を五里〈是も三十六町の一里なり〉としたるをしらせたるなり、梅松論に、建武三年三月二日、筑前の道を記したるも、又此定めなり、又東國の里程は、吾妻鏡に、文治五年九月十一日、今朝令陳岡給、自是厨川柵者、依廿五里行程、未黄昏、著御件館とあるは、陸奧の事なり、虎關の濟北集に正和壬子四月十二、相之海水變赤、西自豆駿東距武總、沿海濱三百餘里、朱瀾丹濤汪々然也、最須敬重繪詞に、如信上人ハ、奧州大網東山トイフ所ニ居ヲシメ給ケルニ、カノ禪室ヲサル事、坂東ノミチ三十里、西ノ方ニヨリテ金澤トイフ所ニ、乘善坊トイフ人アリナドイヘルハ、皆六町一里ナルベシ、〈此後廻國雜記、梅花無盡藏、宗長手記、河越記にしるせるも皆此定也、〉又語林類葉に引たる外にも、太平記に三十六町を一里といひたるは、第五卷に、切目王子より十津河迄を三十餘里といひ、七卷に、麻耶より京迄を二十里といひ、十一に、書寫山より比叡山までを三十五里といひ、兵庫より京までを十八里といひ、十八に、山路八里といひ、廿一に、京より湊川までを十八里といひ、〈流布本八里とあるは誤なり〉湊川より賀久川迄を十六里といひ、廿五に、楠が館へ七里といひ、廿九に、七里半の山中といひ、三十八に、白峯と歌津と其あはひ二里といへるなどは、皆三十六町一里なり、又同書に、六町一里をいへるは、十卷に四方八百里に餘れる武藏野といひ、三十一に、小手差原より石濱まで、坂東道四十六里といひ、三十九に、宇都宮より武藏國迄を、坂東道八十里といへるなど、みな六町一里なり、〈十卷に、義貞三里引退て、入間川に陣をとる、鎌倉勢も三里引退て、久米川に陣をぞ取たりける、兩陣相去其間を見渡せば、三十餘町に足ざりけりとあり、此文を見ては、六里を三十餘町にたらずといふごとく思はるれども、あゆみては三十六町あれば六里なれども、さしわたしには三十餘〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0042 〈町にたらずといふ事にて、これも六町一里なり、〉甲陽軍艦にも、上道東道といふ事多く見えたり、其中にも謙信他界の跡さだつ事といへる條に、三郞殿たまらずして、越後の内、府中のお館といふ城へ取籠給ふ、春日山城よりお館の城へは、上道一里半、東道九里也とあり、是にて上道は三十六町一里(○○○○○○○○○)、東道は六町一里(○○○○○○○)なる事明かなり、相模の七里が濱、上總の九十九里の濱、みな此定めなり、又百因縁集〈花園左大臣事〉に、京ヨリ男山ハ遙ノ程ゾカシ、注に及二十里、大王里也とあり、王は三の誤にて、大三里也なるべし、此書正嘉元年常陸にての作なれば、京の事をも、東國の六町一里にて記したるなり、大三里は渡天行程記にいへる大里にて、三十六町一里なり、〈六町一里にて二十里は百二十町なれば、三十六町一里にすれば三里と十二町なれど、成數をいへるなるべし、〉 附識す、渡天行程記に、六町一里を記したるは、唐土此定めなりといふこと、むかしもいひしならん、されども六町一里にあらず、其證は揚萬里誠齋詩話に、東坡詩云、臥占寛閑五百弓、七尺二寸爲一弓、事見譯梵、一尺八寸爲一肘、四肘爲一弓、今通鑑二百四十八卷、史炤釋文引薩波多論云、西天度地以四肘一弓、去村店五百弓、不遠不近、以閑靜處蘭若、今以唐尺之、蓋二里許也とあり、一弓七尺二寸なれば、五百弓は三百六十丈なり、さて二里許といへるを二里とすれば、一里は百八十丈也、皇朝の一町六十間は三十六丈なり、是にて百八十丈〈宋の時の尺、皇朝と多くは違はじ、〉を除すれば五となる、即皇朝の五町なり、又楊氏東坡が詩といへるは誤也、鶴林玉露雜組等に、王荊公詩とあるを是とす、

〔年山紀聞〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0042 壺碑〈◯中略〉 多賀城 去京一千五百里 去蝦夷國界一百廿里 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0043常陸國界四百十二里 去下野國界二百七十四里 去靺鞨國界三千里 此城神龜元年歳次甲子、按察使兼鎭守將軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置也、天平寶字六年歳次壬寅、參議東海東山節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也、 天平寶字六年十二月一日 按ずるに、〈◯中略〉天平寶字は孝謙天皇の年號、六年は廢帝即位の四年なり、〈◯中略〉又按、續日本紀天平勝寶六年の下に、太宰府に勅して、國の行程を牌ニしるさしむといふ事あり、壺の碑もその類とみえたり、

〔東大寺造立供養記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0043 文治二年春、被周防國、〈◯中略〉木津至于海七里〈三十六町爲一里

〔長門本平家物語〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0043 なかにもふくはらの經島つかれたるこそ、人のしわざともおぼへず、〈◯中略〉はたよりおきは一里三十六町いだしてぞつき出したりけり、

〔甲陽軍鑑〕

〈二品第十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0043 信長、岐阜に居ながら、項をかたふけ罷在候が、岐阜と大寺の間は、上道(○○)十里に少遠く候に是まで取つめ給ふ、〈◯下略〉 ◯按ズルニ、上道ハ三十六町一里ニシテ、東道ノ六町一里ナルニ對シテ云ヘルモノナルコト、上文ニ引ク所ノ梅園日記ニ説アリ、

〔桃源遺事〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0043 一西山公〈◯徳川光圀〉御風雅なる御事も、今の世には稀なるべきか、その片端を申さば、或年、水戸城より南に當りて、小幡〈茨城郡〉といふ所の往還の傍に、類ひなき櫻有、一とせ花の比、春雨の晴間もなくふりける日、この櫻の事を覺し召出され、雨中の花一しほにこそとて、御笠を召れ、遙

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0044 遙と彼木の下へ至り給ひ、宴を披き詩を吟じ歌を詠じ、終日御詠候、西山より此所迄は、行程五十七里、〈是は板東道(○○○)の積也◯下略〉

〔東遊記〕

〈後編二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0044 三本木臺 南部の地は、今も六丁を一里と云、余初め宿より宿の間を尋るに、或は二十五里、三十二里抔いひしに驚しが、後には馴て常に成たり、道平なる所などは、馬に乘りて道をいそぎし事ありしが、南部の地にては、一日に七八十里、又は百里も徑行せし事ありき、仙臺領津輕領も南部に近き地は、たヾ六丁を一里と云、六十丁を大道一里と云、其地の人に里數を尋るに、其人大道(○○)か小道(○○)かといひて、幾里ありと答ふ、總而古風なる事多し、

行程

〔延喜式〕

〈二十四主計〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0044 畿内 山城國 大和國〈行程一日〉 河内國〈行程一日〉 攝津國〈行程一日〉 和泉國〈行程上二日、下一日、〉 東海道 伊賀國〈行程上二日、下一日、〉 伊勢國〈行程上四日、下二日、〉 志摩國〈行程上六日、下三日、〉 尾張國〈行程上七日、下四日、〉 參河國〈行程上十一日、下六日、〉 遠江國〈行程上十五日、下八日、〉 駿河國〈行程上十八日、下九日、〉 伊豆國〈行程上廿二日、下十一日、〉 甲斐國〈行程上廿五日、下十三日、〉 相模國〈行程上廿五日、下十三日、〉 武藏國〈行程上廿九日、下十五日、〉 安房國〈行程上卅四日、下十七日、〉 上總國〈行程上卅日、下十五日、〉 下總國〈行程上卅日、下十五日、〉 常陸國〈行程上卅日、下十五日、〉 東山道 近江國〈行程上一日、下半日、〉 美濃國〈行程上四日、下二日、〉 飛騨國〈行程上十四日、下七日、〉 信濃國〈行程上廿一日、下十日、〉 上野國〈行程上廿九日、下十四日、〉 下野國〈行程上卅四日、下十七日、〉 陸奧國〈行程上五十日、下廿五日、〉 北陸道 若狹國〈行程上三日、下二日、〉 越前國〈行程上七日、下四日、〉海路六日 加賀國〈行程上十二日、下六日、〉海路八日 能登國〈行程上十八日、下九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0045 〈日、〉海路廿七日 越中國〈行程上十七日、下九日、〉海路廿七日 越後國〈行程上卅四日、下十七日、〉海路卅六日 佐渡國〈行程上卅四日、下十七日、〉海路卌九日、 山陰道 丹波國〈行程上一日、下半日、〉 丹後國〈行程上七日、下四日、〉 但馬國〈行程上七日、下四日、〉 因幡國〈行程上十二日、下六日、〉 伯耆國〈行程上十三日、下七日、〉 出雲國〈行程上十五日、下八日、〉 石見國〈行程上廿九日、下十五日、〉 隱岐國〈行程上卅五日、下十八日、〉 山陽道 播磨國〈行程上五日、下三日、〉海路八日 美作國〈行程上七日、下四日、〉 備前國〈行程上八日、下四日、〉海路九日 備中國〈行程上九日、下五日、〉海路十二日 備後國〈行程上十一日、下六日、〉海路十五日 安藝國〈行程上十四日、下七日、〉海路十八日 周防國〈行程上十九日、下十日、〉 長門國〈行程上廿一日、下十一日、〉海路廿三日 南海道 紀伊國〈行程上四日、下二日、〉海路六日 淡路國〈行程上四日、下二日、〉海路六日 阿波國〈行程上九日、下五日、〉海路十一日 讃岐國〈行程上十二日、下六日、〉海路十二日 伊豫國〈行程上十六日、下八日、〉海路十四日 土佐國〈行程上卅五日、下十八日、〉海路廿五日 西海道 太宰府〈行程上廿七日、下十四日、〉海路卅日 筑前國〈去府行程一日〉 筑後國〈行程一日〉 肥前國〈行程上一日半、下一日、〉 肥後國〈行程上三日、下一日半、〉 豐前國〈行程上二日、下一日、〉 豐後國〈行程上四日、下二日、〉 日向國〈行程上十二日、下六日、〉 大隅國〈行程上十二日、下六日、〉 薩摩國〈行程上十二日、下六日、〉 壹岐島〈海路行程三日、〉 對馬島〈海路行程四日◯節略〉

〔和漢三才圖會〕

〈七十二山城〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0045 山城 從京師諸國行程大略 武州江戸 百二十四里 常州鹿島 百五十三里 相州鎌倉 百十九里 野州日光山 百五十八里 甲州身延山 九十九里 豆州箱根山 百一里 駿州富士麓 九十二里 信州善光寺 百十二里 越前敦賀 二十九里 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0046 賀州金澤 六十七里 越中立山 百四十六里 奧州仙臺 二百十二里 奧州索規(ソトノ)濱 三百廿五里 和州奈良 十一里 和州吉野 二十三里 和州大峯 二十九里 紀州熊野 四十七里 紀州弱(ワカ)山 二十八里 江州大津 三里 羽州湯殿 二百五十二里 尾州熱田 三十七里半 江州多賀 十六里 伊勢山田 四十三里半 伊勢鈴鹿 十八里 若狹小濱 十八里 丹波龜山 五里 攝津大坂 十三里 攝津高槻 六里 凡西國筋先出于大坂行、海陸可意、其里程見于攝州之卷

四道

〔日本書紀〕

〈五崇神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0046 十年七月己酉、詔群卿曰、導民之本在於教化也、今旣禮神祇、災害皆耗、然遠荒人等猶不正朔、是未王化耳、其選群卿于四方朕憲、 九月甲午、以大彦命北陸(○○)、武渟川別遣東(○)海、吉備津彦遣西道(○○)、丹波道主命遣丹波(○○)、因以詔之曰、若有教者、乃擧兵伐之、旣而共授印綬將軍、 十月乙卯朔、詔群臣曰、今返者悉伏誅、畿内無事、唯海外荒俗、騷動未止、其四道(○○)將軍等今忽發之、 丙子、將軍等共發路、 十一年四月己卯四道將軍以戎夷之状奏焉、

〔古事記傳〕

〈二十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0046 四道は上に見えたる北陸、東海、西道、丹波なり、さて西道とは山陽道を云りと聞ゆ、西海道までを兼たるにはあるべからず、

〔古事記〕

〈中崇神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0046 此之御世、大毘古命者遣高志道(○○○)、其子建沼河別命者遣東方十二道(○○○○○)、而令平其麻都漏波奴〈自麻下五字以音〉人等、又日子坐王者遣旦波國(○○○)、令玖賀耳之御笠、〈◯中略〉故大毘古命者、隨先命而罷行高志國、爾自東方遣建沼河別、與其父大毘古共往遇于相津、故其地謂相津也、

〔古事記傳〕

〈二十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0046 高志道、高志は越國にて上卷に出、〈傳十一の〉道の事は次に云、〈式に越中國射水郡道神社、加賀國石川郡味知神社あり、姓氏録に道公、大彦命孫彦屋主田心命之後也なども見ゆ、此らは此の道には縁なきことなるべけれど且く出しつ、◯中略〉東方十二道、東方は、比牟加

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0047 志能加多と訓べし、〈方を師の倍と訓れたれど、かかる處にては倍はわろし、〉古は凡東西北北みな加多と云ことを多く添て云る例なり、十二道は十二國を云なり、國造本紀〈上毛野國造條〉に東方十二國とあり、上の高志道も下文には高志國とあり、又孝徳紀に、前以良家大夫使東方八道、旣而國司之任、六人奉法、二人違令云々とある、此に國司八人の事を云るにて、八道は八國なること明らけし、〈八國は此の十二國の内の八國なるべし、〉さて十二は何れの國々を合せたる數にか今さだかに知がたし、されどこヽろみに云は、伊勢、〈伊賀志摩は、此國に屬べし、〉尾張、參河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武藏、總〈上總下總なり、安房は、後に上總より分れたり、〉常陸、陸奧、〈此國は、後には東海道には入ざれども、下文に、往遇于相津とあれば、此十二國の内なり、又倭建命段にも東方十二道とありて、蝦夷を言向たまひし事の見えたるをも思ふべし、〉なるべきか、倭建命段にも東方十二道とあり、是上代の定めなりけむかし、さて國を道と云は、朝廷より其國を治めに人を遣すに就て云稱なり、先神代に、天尾羽張神の言に、恐之仕奉、然於此道者、僕子建御雷神可遣とあるは、天神の御使に答白し賜へる言にて、此道とは、葦原中國を言向に罷ことを云り、さて黒田宮段に、針間爲道口、以言向和吉備國とあるも、針間を言向る國の初とするを、爲道口と云るなり、又丹波道主と申す王の名も、丹波國を治めに遣され賜しに因て、道主とは申せるなり、此等其段々〈傳廿一の五十一葉同廿二の六十二葉〉を見て考合すべし、上に高志道とある道も此意なり、〈此を書紀には、北陸とあるに依て、たゞ後に云北陸道のことぞとのみ心得ては、道と云る義足はず、〉されば後に、東海道東山道など云名を建て、天下を總て、畿外を七道と分定められたるも、まづは漢國の制〈唐太宗が時に彼國内を分て初て十道と定めたり、〉にならひ、且は上代より云來つる稱にも沿賜へる物なるべし、

〔古事記〕

〈中景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0047 爾天皇亦頻詔倭建命、言向和平東方十二道(○○○○○)之荒夫琉神、乃摩都樓波奴人等而、副吉備臣等之祖、名御鉏友耳建日子而遣之時、給比比羅木之八尋矛、〈◯中略〉自其入幸、悉言向荒夫琉蝦夷等、亦平和山河荒神等而還上幸時、到足柄之坂本(○○○○○)、〈◯中略〉故登立其坂、三歎詔云、阿豆麻波夜〈自阿下五字以音也〉故號其國阿豆麻也、即自其國越出甲斐(○○)酒折宮之時、〈◯中略〉自其國科野國(○○○)、乃言向科野之坂神

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0048來尾張國(○○○)

〔古事記傳〕

〈二十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0048 此段書紀には、蝦夷旣平、自日高見國還之、西南歴常陸甲斐國、居于酒折宮云云、於是日本武尊曰、蝦夷凶首咸伏其辜、唯信濃國越國頗未化、則自甲斐北轉歴武藏上野、西逮于碓日坂、時日本武尊毎有弟橘媛之情、故登碓日嶺而東南望之、三歎曰、吾嬬者耶、故因號山東諸國吾嬬國也、於是分道遣吉備武彦於越國、令察其地形嶮易、及人民順不、則日本武尊進入信濃とあり、此記と異なること多し、其差を論らはむに、先其路次、此記の趣は蝦夷を言向て還坐、相模より足柄山を越て甲斐に到坐、其より信濃を經て尾張に還坐る國の次第、皆よくかなへるを、書紀には歴常陸甲斐國とありて、後に自甲斐北轉歴武藏上野、西逮于碓日坂云々、進入信濃とあるは路次順はず、〈其故は、常陸より甲斐に到る間には、武藏もあり、或は相模もあるを、其を云ハで、直に歴常陸甲斐と云るは、連きたる國のごとくにていかゞ、歴常陸武藏などこそ云べけれ、但し常陸をのみ殊に云るは、御歌に其國の地名あるがためにてもあるべし、さて又甲斐より信濃へ行むに、武藏上野へ轉歴むは、路次いたく違へり、若武藏上野にも背ける者などありて、故に言向に幸るか、然らば其事を必云べし、云ずては由なく聞ゆ、されば此は歴常陸武藏上野、西逮于碓日坂とありけむが、傳のまぎれて前後の亂れつるにやあらむ〉又右の如くにては、甲斐國に至り賜へることも何の由とも聞えず、〈此記の如きは、常陸、武藏、相模、甲斐、信濃と路次なるを、書紀は然らざればなり、若右に云る如く、常陸、武藏、上野を歴て、碓日坂を越て信濃に幸せるならば、甲斐へは、其後に信濃より別に幸せりとせむか、されどさては歌の、九夜十日の日數少くて、あまり速なり、左右に甲斐に幸せる事、由なく聞ゆ、〉さて彼御歎ありし地も、足柄と碓日と傳の異なる、此は何れか正しからむ、決めかねつ、

七道

〔伊呂波字類抄〕

〈見地儀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0048 道〈ミチ、七道東海道、東山道、南海道西海道、北陸道、山陰道、山陽道、〉

〔西宮記〕

〈四月〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0048 一郡司讀奏 上卿目輔令讀、先讀畿内七道六十國銓擬大少領數、次讀道名、東海道(ヒガシノウミチ)〈又ウミヘツミチ、ウヘツミチ、〉東山道(ヒウカシノヤマノミチ)〈又ヤマノミチ、又東ノミチ、〉北陸道(クガノミチ)〈又キタノミチ、クルマノミチ、〉山陰道〈是止モノミチ、又カケ止モノミチ、〉山陽道〈カゲトモノミチ、又是トモノミチ、〉南海道〈ミナミノミチ、又ミナミノウミノミチ、〉西海道〈ニシノミチ、又ニシノウミノミチ、〉次讀國名、〈◯下略〉

〔北山抄〕

〈三拾遺雜抄上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0049 讀奏事〈◯中略〉 東海道〈宇女都美千、又宇倍都道、〉東山道〈山乃道、又東乃道、〉北陸道〈久流加乃道〉山陰道〈曾止毛乃道、舊説加介止毛乃道、〉山陽道〈加介止毛乃道、舊説曾止毛乃道、〉南海道〈南乃道〉西海道〈西乃道〉

〔玉勝間〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0049 畿内七道のよみ又郡司のよみ 此二書〈◯西宮記北山抄、〉を合せて考るに、西宮記の方に、東海道を、ウチベツミチとある、上のチ(○)は寫し誤にて海邊ツ道なるべし、へ(○)もじ濁るべし、ウベツアチは、うみべのみ(○)を省きたるにて、是も海邊つ道なるべし、アチは、即道なり、昔の片假字には、ミ(○)をもア(○)と書ること、書紀の訓などにも多く有て、まぎらはしきなり、これ必差ありけむを、今は見分がたくなりぬ、ヒウガシは、ひんがしといふと同じ、こはもとひむかしにて、むは、たしかにむといひ、かも清たる言なるを、音便にて、むをうとも、んともいひ、それに引れて、か(○)をも濁るなり、日向(ヒムカ)を、ひうがといふも同じ、東山道を、ウメツミチ、北海道を、ヤマノミチとあるは、後に寫すとて、所を誤れるなり、ウメツミチは、東海道の讀、ヤマノミチは、東山道の讀なり、北山抄正し、さてウメツは、かのウベと同じくて、べ(○)を通はしてメといへるなり、北陸道を、クルガノミチとある、クルガは、くぬがを唱へ誤れるなるべし、くぬがは、今世にも陸といふ是なり、山陰道を止モノミチとあるは、止の上は、曾字有しが脱たるなり、そも〳〵西宮記おのが見たるかれこれの本どもは、みな上の件のごとくなるを、寫し誤とおぼしきところ〴〵は、善本今も有べきなり、北山抄のかたは、すべて正しく見ゆ、其中に、北陸道に、キタノミチといふ讀なきは、落たるにや、南海道西海道の例によるに、これも北の道ともいふべきなり、又二書ともに、山陰道にカゲトモノミチ、山陽道にソトモノミチとある説は、ひがことなり、かげともは影面にて、南をいひ、そともは背面にて北なるを、さる意をもしらぬ人の、陰字によりて、ゆくりなくさかしらに入れかへたるなるべし、さて又東海道は、ヒウ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0050 ガシノウミノミチ、東山道はヒウガシノヤマノミチなどあるぞ、字にあたりて、正きさまに聞ゆめれど、此たぐひは、中々に後の訓にて、東海道は、ウメツチなどいひ東山道は、東の道又山の道といひ、北陸道は、クルガ道、又キタノ道といひ、南海道はミナミの道、西海道はニシノ道といへるぞ、返りて正しかるべき、こは互にまぎるヽことなきかぎりは、言を省きて、つヾまやかに短く定めたるものと聞ゆればなり、書紀の卷々に見えたる訓も、畿内はウメツクニ、東海道は、ウベツミチ、又ウミツミチとも、東山道は、ヤマノミチ、又アヅマノヤマノミチとも、北陸道は、クヌガノミチ、又クニガノミチ、又クムカノミチ、又クルガノミチとも、山陰道は、ソトモノミチ、山陽道は、カゲトモノミチ、南海道は、ミナミノミチ西海道は、ニシノミチとあり、〈◯下略〉

〔享保集成絲綸録〕

〈二十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0050 正徳六申年四月 五畿七道之中に 東山道(トウセンダウ) 山陰道(センインダウ) 山陽道(センヤウダウ) いづれも山の道をセンとよみ申候、東山道の内の中筋の道に候故に、古來より中山道と申事に候、

〔東雅〕

〈三地輿〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0050 京畿の外、東西南北の國を七道に分たれし事の初、崇神天皇の御時、大彦命、武渟川別、吉備津彦、丹波道主命等を、北陸、東海、西海、丹波の四道へわかち遣はされしと見えしは、北陸東海などいふ事の見えし始なり、〈北陸東海の事は、前の方位の條に見えたり、されど是らもまた國史に見えし所をいふなり、〉其後景行天皇の御時、彦狹島王を東山道十五國都督となされしと見えしは、東山道といふ事の始なり、又其後成務天皇の御時、國縣を分て邑里を定め、以東西日縱、南北爲日横、山陽曰影面、山陰曰背面と見えしは、山陽山陰などいふ事の始なり、又其後孝徳天皇の御時、畿内國を定られしと見えしは、畿内といふ事の始なり、天武天皇十四年九月、東海、東山、山陽、山陰、南海、筑紫に使者を遣されしと見えしは、南海といふ事の始なり、文武天皇大寶元年六月、凡國宰郡司、其庶務一依新令と勅せられ、是日遣使七道、宣告依新令上レ政せられしに至りて、遂に畿内、東海、東山、北陸、山陰、南海、西海の七道を定め置

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0051 れし事の始なりけり、

〔古事記傳〕

〈二十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0051 抑畿外を都て七道と分ち、又其名どもを定められたるも、何れの御世と云こと詳ならず、按に孝徳天智ばかりの御世にもやありけむ、孝徳紀二年に畿内の疆を定められしことは見えたれども、其處にも七道のさだは見えずして、同年の文に東方八道とあるは、なほ上代の稱格なれば、是時いまだ都てを分て七道とせる制りは無かりしこと知られたり、然るに彼紀の此御卷にしも、東海北陸などあるは、後に出來たる名を以て、記されたる物にして、當昔の名には非ず、此記に東方十二道、高志道などあるぞ古の稱にはありける、又景行紀に東山道とあるも同じことなり、凡て孝徳紀より前にかヽる名どもの見えたるは、後のを以て記されたるものぞ、成務紀に山陽山陰とあるは、何地にまれ、山南山北と云ことにして、山陽道、山陰道を云るには非ず、さて七道と云ことは、文武紀に始めて見えたり、

〔令義解〕

〈七公式〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0051 凡朝集使、東海道坂東、〈謂駿河與相模界坂也〉東山道山東、〈謂信濃與上野界山也〉北陸道神濟以北、〈謂越中與越後界河也◯中略〉皆乘驛馬

〔日本書紀〕

〈二十九天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0051 十四年九月戊午、直廣肆都努朝臣牛飼爲東海(○○)使者、直廣肆石川朝臣虫名爲東山(○○)使者、直廣肆佐味朝臣少麻呂爲山陽(○○)使者、直廣肆巨勢朝臣粟持爲山陰(○○)使者、直廣參路眞人跡見爲南海(○○)使者、直廣肆佐伯宿禰廣足爲筑紫(○○)使者

〔扶桑略記〕

〈五天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0051 十五年八月、七道(○○)諸國遣巡察使

〔續日本紀〕

〈三文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0051 大寶三年正月甲子、遣正六位下藤原朝臣房前于東海道(○○○)、從六位上多治比眞人三宅麻呂于東山道(○○○)、從七位上高向朝臣大足于北陸道(○○○)、從七位下波多眞人余射于山陰道(○○○)、正八位上穗積朝臣老于山陽道(○○○)、從七位上小野朝臣馬養于南海道(○○○)、正七位上大伴宿禰大沼田于西海道(○○○)、〈◯下略〉

東海道

〔釋日本紀〕

〈十七秘訓〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0051 東海〈ウメツミチ〉

〔倭訓栞〕

〈中編三宇〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0052 うめつみち 東海道をいふ、北山抄に見ゆ、日本紀同じ、うへつみちとも見ゆ、うめはうみの轉成べし、

〔簾中抄〕

〈下諸國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0052 東海道〈十五ケ國〉あづまぢといふ、

〔類聚名物考〕

〈地理六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0052 吾妻路(○○○) あづまぢ〈又〉東路 東海道、中山道ともに都より關東八國へ下る道を、すべてあづま路といへり、諸國より京へ入道を都路(○○)といふに同じ、

〔松屋筆記〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0052 東海道を字音によみたる歌 元眞家集に、武藏の守ひでしげが、鶴のかたのとうがい、あぜち殿に奉れり、其文に、しろかねのかめの箱に藥いれたり、それに ことしより君に千年をゆづるをぞとうかいだう(○○○○○○)に求いでたる

〔日本書紀〕

〈二十五孝徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0052 大化二年三月甲子、詔東國國司等曰、集侍群卿大夫及臣連國造伴造并諸百姓等咸可之、〈◯中略〉朕復思欲蒙神護力卿等、故前以良家大夫使東方八道(○○○○)、既面國司之任、六人奉法、二人違令、毀譽各聞、〈◯下略〉

〔典籍解題〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0052 東海道 宇女都美知、又宇倍都道、〈北山抄〉又うみへつみち、又うへつみち、又ひうかしのうみのみち〈西宮記郡司讀奏條〉など訓ず、民部省圖帳には東海濱道とありて、うなづちと訓ず、案るにこの道に屬せる國は、沿海卑濕の地のみにして、神武御時ひらかれたるは、伊賀素賀にかぎれると、崇神御時信濃知々夫等の國造たつ、當今の海道は斥鹵の地なるを、成務の御時に伊賀よりはじめて、陸奧の半にいたつて、數多の國造おかれて、今の東山の國出羽にいたるまでも、おなじく一道たり、應神仁徳の間に及て、下總下野等わかれ、七道の目定りて、今の經界とはなれり、

〔類聚名物考〕

〈地理六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0052 東海道 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0053 昔の道は、今の往來とは少しく異なり、中山道のうちへかヽりて、美濃路をへて尾張へ出て、今の道を通りて、駿河より足柄關を越て、小田原の下へおりたり、その比の紀行、太平記等に出るさまにてしられたり、 太平記〈卷二〉俊基朝臣再關東下向之事〈文繁ければ此に略てしるさず、地名のみを書す、〉帝都 相坂關 打出濱 水海 勢田橋 宇根野 守山 篠原 鏡山 老曾の森 番馬 醒井 柏原 不破關〈美濃〉 尾張 熱田八劒 鳴海 遠江 濱名橋 池田宿 天龍河 小夜中山 菊川 大井川 島田 藤枝 岡部 宇都山 清見潟 三保ケ崎 奧津 かん原 富士 浮島ケ原 車返 竹下道 足柄峠 大磯 小磯 小ゆるぎ 鎌倉 右元徳二年七月十一日に、六波羅へ召とられ、關東へ下向あれば、十二三日の比、京を出られしと見ゆ、末に七月廿六日の暮程に、鎌倉に著給ひしよし見ゆれば、十五六日の日數にて下られしなり、

〔大乘院記録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0053 應仁二年十二月十五日、自京都鎌倉宿次第、 大津〈三里〉 勢田〈五十町〉 野路〈二里〉 守山〈二里〉 鏡〈二里〉 武佐〈一里〉 蒲生野〈二里〉 愛智川〈一里〉 四十九院〈二里〉 小野〈五十町〉 馬場〈五十町〉 佐目伽井〈五十町〉 柏原 居増〈一里〉 山中〈五十町美濃國〉 垂井〈二里〉 赤坂〈三里〉 墨股〈二里五十町〉 黒田〈三町尾張〉 折戸〈三里〉萱津〈三里〉 熱田〈五十町〉 鳴海〈十五町〉 沓懸〈五十里〉 八橋〈二里三河國〉 矢波木 作岡〈五十町〉 山中〈五十町〉 赤坂〈二里〉 渡津〈一里〉 今橋〈五十町〉 橋本〈五里遠江國〉 匹馬〈二里〉 池田〈五十町〉 國府〈二里〉 袋井〈二里〉 懸河〈三里〉 西坂〈五十町〉 菊町〈一里〉 鎌塚〈五十町〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0054 島田〈五十町駿河國〉 前島〈一里〉 藤枝〈二里〉 岡部〈五十町〉 漏利子〈一里〉手越〈一里〉 國府〈一里〉 瀬無川〈二里〉 高橋〈一里〉 興津〈二里〉 湯井〈一里〉 蒲原〈五十町〉 車返〈五十町〉 三島〈五里〉 葦河 湯本〈五十町相模國〉 小田原〈一里〉 酒勾〈一里〉 郡水〈二里〉 志保見 平塚〈二里〉 懷島〈三里〉 鎌倉 以上百廿餘里、自京大津加三里六十三宿之畢

〔實曉記〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0054 一自京鎌倉マデノ宿次ノ次第 大津〈三里〉 勢多〈五十町〉 野路〈二里〉 鏡〈二里〉 武佐〈一里〉 蒲生野〈二里〉 愛智河〈一里〉 四十九院〈二里〉 小野〈五十町〉 馬場(バンバ)〈五十町〉 佐目加井〈五十町〉 柏原 居増(イマス)〈一里〉 山中〈五十町美濃國〉 垂井〈二里〉 赤坂〈三里〉 墨俣(スノマタ)〈二里〉 黒田〈三里尾張國〉 折戸〈二里〉 萱津(カイツ)〈三里〉 熱多〈五十町〉 鳴海〈五十町〉 沓懸〈五十町〉 八橋〈二里三河國〉 矢波木〈二里〉 作岡〈五十町〉 山中〈五十町〉 赤坂〈二里〉 渡津〈一里〉 今橋〈五里〉 橋本〈五里遠江國〉 疋馬〈二里〉 池田〈五十町〉 國府(コウ)〈二里〉 袋井(ホイ)〈二里〉 懸河〈三里〉 西坂〈五十町〉 菊河〈一里〉 鎌塚〈五十町〉 島田〈五十町駿河國〉 前(サキ)島〈一里〉 藤枝〈二里〉 岡部〈五十町〉 滿利子〈一里〉 手越〈一里〉 國府〈五十町〉 瀬無河〈二里〉 高橋〈一里〉 興津(コウヅ)〈二里〉 湯井〈一里〉 蒲原〈五十町〉 車返〈五十町〉 三島〈五町〉 葦河 湯本〈五十町相模國〉 小田原〈一里〉 酒句(シユグ)〈一里〉 郡水(コホリミヅ)〈二里〉 志保見 平塚 懷島〈三里〉 鎌倉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0055 以上百二十餘里、自京大津へ加三里定、〈六十三宿在之〉 永祿元〈戊午〉潤六二十四日寫

〔續日本紀〕

〈三十一光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0055 寶龜二年十月己卯、太政官奏、武藏國雖(○○○○)屬(○)山道(○○)、兼承(○○)海道(○○)、公使繁多、祗供難堪、其東山驛路、從上野國新田驛下野國足利驛、此便道也、而枉上野國邑樂郡五箇驛武藏國、事畢去日、又取同道下野國、今東海道者、從相模國夷參驛下總國、其間四驛、往還便近、而去此就彼、損害極多、臣等商量、改(○)東山道(○○○)屬(○)東海道(○○○)、公私得所、人馬有息奏可、

〔新編常陸國誌〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0055 行路 海道 海道ハ東海ノ大道ナリ、伊賀伊勢以東本國ニ至ルマデ十五箇國、皆東海道ノ域ニ屬ス、故ニ往來ノ大道コレヲ海道ト稱ス、古代石背石城ノ國イマダ陸奧ニ隷セザリシ間ハ、東海道ニ屬ス、故ニ今ニ至テ石城、石瀬、菊多、岩崎等ノ四郡呼テ海道四郡ト稱ス、陸奧國中に海道ノ稱アリシコトハ、日本後紀ニ、弘仁二年四月乙酉、廢陸奧海道十驛、更於常陸長有高野二驛ト見エタルニテタシカナリ、海道ノ十驛トイヘルハ、本國多珂郡奈古曾關ヲ越テ菊多郡ニ入シヨリ、海道四郡ト稱セル内ノ驛家ヲイヘリ、更ニ長有高野ノ二驛ヲ置トイヘルハ、白河郡ノ内ニテ、本郡久慈郡ニ通ズル道ナリ、

〔屠龍工隨筆〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0055 古への東海道は、駿河、甲斐、伊豆とつヾきたれども、後に街道のつけ替りたるゆへ、甲斐國は通はざるなり、

東山道

〔釋日本紀〕

〈十七秘訓〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0055 東山道〈ヤマノミチ〉

〔倭訓栞〕

〈中編二十七也〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0055 やまのみち 東山道をいふ、日本紀北山抄にみゆ、今中山道といふ、

〔簾中抄〕

〈下諸國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0055 東山道〈八ケ國〉これもあつまち(○○○○)

〔典籍解題〕

〈十四別紀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0055 東山道 ひうかしのやまのみち、又ひうかしのみち、又うめつみち、〈西宮記〉又山の道、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0056 東のみち〈北山抄〉など訓ず、古事記に、東道とあるは、今の東山道なり、按るに、崇神御時、四道將軍を遣されしころは、國おほくひらけず、東道といふは、近江、美濃、信濃、〈按るに、此信濃といふは、今の松本領飯山領のあたりなるべし、〉上野等の高き所のみひらけて、臼冰峠より未はいまだ道通ぜず、それより後國次第にひらけて、東山道、近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、秩父、甲斐となる、續紀光仁寶龜二年、秩父甲斐を東海道へ屬し、陸奧出羽を加ふ、〈◯下略〉

〔日本書紀〕

〈七景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0056 五十五年二月壬辰、以彦狹島王東山道(○○○)十五國都督

〔續日本紀〕

〈一文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0056 四年二月壬寅、遣巡察使于東山道、撿察非違

〔續日本紀〕

〈十二聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0056 天平九年四月戊午、遣陸奧持節大使從三位藤原朝臣麻呂等言、以去二月十九日陸奧多賀柵、與鎭守將軍從四位上大野朝臣東人共平章、且追(メシ)常陸、上總、下總、武藏、上野、下野等六國騎兵總一千人開(○)山海兩道(○○○○)夷狄等咸懷疑懼、仍差田夷遠田郡領外從七位上遠田君雄人海道(○○)、差歸服狄和我君計安壘遣山道(○○)、並以使旨慰喩鎭撫之、〈◯下略〉

〔日本後紀〕

〈二十一嵯峨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0056 弘仁二年四月乙酉、廢陸奧國海道十驛、更於常陸長有高野二驛、爲機急也、

〔吾妻鏡〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0056 文治六年正月八日癸亥、依奧州叛逆事、被遣軍兵、海道大將軍千葉介常胤、山道(○○)比企藤四郞能員也、而東海道岩崎輩雖待常胤、可先登之、由申請之間、神妙之言被仰下、仍彼輩者雖奧州住人、不上レ貳歟、各無隔心具之、可合戰之趣、今日付飛脚遣奧州守護御家人等許云云、

北陸道

〔釋日本紀〕

〈十七秘訓〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0056 北陸〈クヌガノミチ〉

〔運歩色葉集〕

〈保〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0056 北陸道(ホクロクダウ)

〔倭訓栞〕

〈前編八久〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0056 くぬがのみち 日本紀に北陸をよみ、北山抄には北陸道をくにがのみちと訓ぜ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0057 り、

〔典籍解題〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0057 北陸道 久流加乃道、〈北山抄〉またくるがのみち、又きたのみち、又やまのみち、〈西宮記〉とも訓ず、七州皆北海をうけたるを以て、東海東山に對し北陸道といふ、〈扶桑紀勝〉

〔簾中抄〕

〈下諸國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0057 北陸道〈七ケ國〉こしち(○○○)といふ

〔類聚名物考〕

〈地理六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0057 越路 こしぢ 三越道みこしぢ 越前越中越後の三國を、むかしはひとつに越の國と言へり、古事記には高志と假名にも有り、京より往來の道をこし路と云、又はみこし路ともいへり、三越へ通ふ故に、三はみなりといふ事もあれども、三吉野三熊野の類ひ、みは眞といふに同じく、賞美の詞にて、眞玉眞金の類ひ是なり、但攝津近江の三津の類ひも、賞美の詞も有、又三所津の名有は、かねていふも有は、必しもかぎりて云にはあらず、三熊野、三山、三越、三坂の類相同じ、

〔日本書紀〕

〈七景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0057 二十五年七月壬午、遣武内宿禰北陸(○○)及東方諸國之地形、且百姓之消息也、

〔徳川禁令考〕

〈五十九道路橋梁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0057 元文二巳年正月 北陸道往還道修復之儀ニ付御書付 御勘定奉行江 大草太郞左衞門(御代官) 去年高波ニ而崩候北陸道往還道、如元修復不仕候而ハ難成候哉、所により繕ひ候而濟候場所も可之候、入用ハ松平河内守より積出し候通ニ候、且又右往還道計ニ無之、外ニ道筋有之候得共、廻り道ニ而、本道より里數いか程違候哉、左程之違も無之候はヾ、只今迄之有來往還道ハ相止、外之道ニ仕、其所江只今迄之在家を引、家造いたし候はヾ、自今浪除之場ニも可然哉、左候はヾ、右入用可相積候、ケ様之儀をとくと可勘辨候、只今迄之往還道、是迄之通ニ兎角不仕候而ハ難成儀候哉、此度之通之高浪又有之間敷儀にも無之候間、右之外にも總體ケ様ニ仕候はヾ可燃と存候

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 儀、心附可了簡候、 右之通可申渡

山陰道

〔釋日本紀〕

〈二十一秘訓〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 山陰〈ソトモノミチ〉

〔倭訓栞〕

〈前編十三曾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 そとも 日本紀に山陰を背面といふと見えたり、萬葉集に背友と書り、背津面の義なり、かげともは影津面の義、つお反と也、背面の國は即山陰道の事なり、北山抄にもさ見えたり、

〔典籍解題〕

〈十八別紀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 山陰道 曾止毛乃道、〈北山抄〉またとものみち、又かげとものみち〈西宮記〉とよめり、成務紀には背面といふ、

山陽道

〔釋日本紀〕

〈二十一秘訓〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 山陽〈カケトモノミチ〉

〔倭訓栞〕

〈前編六加〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 かげとも 日本紀に山陽を影面といふと見えたり、萬葉集に影友と書り、かげつおもの義、つお反と也、北山抄に山陽道をかげともの道とよめり、

〔典籍解題〕

〈十九別紀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 山陽道 加介止毛乃道〈北山抄〉とよめり、成務紀に山陽曰影面(かげとも)、民部省圖帳には山陽陸道とあり、延喜式に、播磨、美作、備前爲近國、備中、備後爲中國、安藝、周防、長門爲遠國といふ、俗に山陰山陽を中國と稱すとは、畿内と筑紫の中にある故なるか、〈扶桑記勝〉

〔日本後紀〕

〈十三桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 大同元年五月丁丑、勅備後、安藝、周防、長門等國驛館、本備蕃客、瓦葺粉壁、頃年百姓疲弊、修造難堪、或蕃客入朝者、便從海路、其破損者農閑修理、但長門國驛者、近臨海邊、爲人所一レ見、宜特加勞、勿前制、其新造者待定様之、

南海道

〔釋日本紀〕

〈二十一秘訓〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 南海〈ミナムノミチ〉

〔倭訓栞〕

〈前編三十美〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 みなみのみち 北山抄に南海道をよめり、日本紀にみなむのみちと見ゆ、

〔典籍解題〕

〈二十別紀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 南海道 南乃道とよめり、〈北山抄〉またみなみのみち、又みなみのうみのみち〈西宮記〉と

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0059 よめり、

〔續日本紀〕

〈八元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0059 養老二年五月庚子、土左國言、公私使直指土左、而其道經伊與國、行程迂遠、山谷嶮難、但阿波國境土相接、往還甚易、請就此國以爲通路、許之、

〔日本紀略〕

〈桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0059 延暦十五年二月丁亥、勅、南海道驛路逈遠、使令難通、因廢舊路新道

〔長門本平家物語〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0059 おりふし、伊豆の國の御家人近藤七國平と云者のぼりたりけるに、文覺をぐせさせて、南海道(○○○)より伊勢路をぞくだしける、

西海道

〔倭訓栞〕

〈中編十八爾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0059 にしのみち 北山抄に西の道とみゆ、西海道をいへり、日本紀同じ、

〔典籍解題〕

〈二十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0059 西海道、にしのみち、又にしのうみのみち、〈西宮記〉或は西の道〈北山抄〉とよめり、民部省圖帳には西海濱道とかけり、延喜式に、この屬國を爲遠國といふ、凡九國二島、按るに、國造本紀に、壹岐島造、對馬縣直と書して、國造とせず、延喜式和名抄にも島としるせり、また文徳實録滋野朝臣貞主上表云、九國二島郡縣闊遠云々、職原抄大宰の下に、凡當府都管九國二島とひたり、拾芥抄にのみ西海道十一國とありて、諸國のなみに守領の名を書す、佐渡隱岐等のごときも今皆すでに國と稱すれば、十一國とせるにしたがふべきに似たりといへども、古書にその例すくなきをもつて、みだりに改る事をせず、

〔續日本紀〕

〈七元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0059 靈龜二年五月辛卯、太宰府言、豐後伊豫二國之界、從來置戍不往還、但高下尊卑不別、宜五位以上差使、往還不禁限、又薩摩大隅二國貢進人、已經八歳、道路遙隔、去來不便、或父母老疾、或妻子單貧、請限六年相替、並許之、

五海道及諸道

〔五街道宿御取扱筋秘書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0059 五海道(○○○)文字之事 一東海道(○○○) 海端を通候ニ付海道と可申 一中山道(○○○) 只今迄仙之字書候得共、向後山之字可之、 一奧州道中(○○○○) 右同斷 一日光道中(○○○○) 右同斷 一甲州道中(○○○○) 日光道

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0060 中同斷 右之通、向後可相心得旨、申〈◯正徳六年〉四月十四日、河内守殿、〈◯老中井上〉松平石見守、伊勢伊勢守〈江◯二人並道中奉行〉被仰渡候、

〔享保集成絲綸録〕

〈二十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0060 正徳六申年四月〈◯中略〉 海なき國と申傳へ候は 下野の國 甲斐の國 此道に、海道と申事のあるべき事にもなく候へば、 日光道中 甲州道中 右之通にて可然候

〔憲法部類〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0060 東海道(○○○)、中山道(○○○)、日光道中(○○○○)、奧州道中(○○○○)、甲州道中(○○○○)、往還並木植帳、并道造等之義、先達而道中奉行より相達候、 右五海道之外往還、并脇往還共驛場有之道筋、並大風折枯木根返り等之跡へ、早速植繼、〈◯中略〉村々無懈怠手入旨、御料は御代官、私領は、領主地頭より可申付候、〈◯中略〉 十二月

〔徳川禁令考〕

〈五十二諸法度〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0060 享保元申年四月 五海道宿々江觸書 道中奉行江 道中筋におゐて、ごまのはい雲助など申もの有之、往來輕きもの之爲に、難儀之由風聞候處ニ此度中島村ニおゐて切殺され候者も、彼類之者由ニ候、總じて此等之類ハ、宿々之者共見知らざる事にも有べからず候得共、其餘黨之爲ニ恨を報ぜられ候所を憚り候故ニ、其通りに仕差置候事と相

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0061 見へ候、自今以後、此等之者之爲ニ難儀致し候者相聞へ候ハヾ、其所前後之宿々、急度其沙汰に及ばるべき事ニ候間、宿々之役人共、常々無油斷心を付ケ候而、見合次第にからめ出し、往來之難儀無之様ニ可仕旨被申付候、以上、 正徳六〈申〉四月

〔徳川禁令考〕

〈五十二拜借錢〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0061 延寶二寅年五月 傳馬宿拜借錢覺 東海道(○○○)〈◯中略〉合六拾六ケ所 内五十五ケ所ハ一ケ所千貫文ヅヽ 由比町三千貫文 橋本守口二ケ所一ケ所四百貫文ヅヽ 舟渡六ケ所同斷 川越二ケ所百貫文ヅヽ 右錢高合六萬千四百貫文 東海道分 中仙道(○○○)〈◯中略〉合七拾九ケ所 一ケ所三百五拾貫文ヅヽ 右錢高二萬七千六百五拾貫文 中仙道分 日光(○○)并奧州海道(○○○○)〈◯中略〉合四十四ケ所 内二十八ケ所 一ケ所三百五拾貫文ヅヽ 六ケ所一ケ所百七拾五貫文ヅヽ 但越ケ谷、大澤、栗橋、川口、岩淵、中田也、 右錢高合一萬四千三百五拾貫文甲州海道(○○○○)〈◯中略〉合三拾五ケ所 一ケ所三百五拾貫文ヅヽ 右錢高合一萬二千二百五拾貫文 佐倉海道(○○○○) 八幡 小松川 小岩 合三ケ所 一ケ所三百五拾貫文ヅヽ 右錢高合千五十貫文 總錢高合拾壹萬六千七百貫文 此金貳萬九千百七拾五兩 但一兩ニ四貫文替 ◯按ズルニ、此書、日光奧州ノ二道ヲ合セ、別ニ佐倉海道ヲ擧ゲタリ、驛肝録亦之ニ從テ佐倉海道ヲ水戸道中ト稱セリ、五街道宿御取扱筋秘書等載スル所ト同ジカラズ、

〔地方凡例録〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0061 一定助郷大助之事付り加宿之事 前々は定助郷大助郷と云て、中山道日光道中等之内は、定助郷と云は稀に有之、東海道之内にも

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0062 定助郷無き驛場も有之たる由、〈◯中略〉當時は五海道共〈東海道(○○○)、中山道(○○○)、甲州道中(○○○○)、日光道中(○○○○)、水戸海道(○○○○)、〉都て助郷相増、不殘定助郷に成故、定之字を拔、助郷と唱、三役之高掛り物御免也、 ◯按ズルニ、此書奧州道中ヲ擧ゲズシテ水戸海道ヲ擧ゲタリ、前掲ノ諸書ト同ジカラズ、

東海道

〔五街道宿御取扱筋秘書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0062 五海道文字之事 一東海道 海端を通候に付海道(○○)と可

〔皇都午睡〕

〈三編中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0062 品川宿は、東海道の咽首なれば、陽氣なる事此上なし、高繩より茶屋有て、品川宿の中央に小橋あり、上は女郞錢店、橋より下を大店と云ふ、

〔一話一言〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0062 五十三驛 山谷詩、鬼門關外莫遠、五十三驛是皇州、 本邦の詩人、東海道を五十三驛といふは、是に本づける歟、〈◯又見倭訓栞三十一

〔五驛便覽〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0062 東海道 一品川(武州荏原郡) 御料 貳里半(江戸より貳里) 一川崎 同 貳里半 一神奈川 同 壹里九町 一程ケ谷 同 貳里九町 一戸塚(相州鎌倉郡) 同 貳里 一藤澤(同國高座郡) 同 三里半 一平塚(同國大住郡) 同 貳拾七町(馬入川舟渡) 一大磯(同國陶綾郡) 同 四里( /酒勾川歩行渡) 一小田原(同足柄下郡) 大久保加賀守城下 四里八町 一箱根〈江川太郞左衞門御代官所大久保加賀守領分〉分郷 三里廿八町(關所あり) 一三島(豆州君澤郡) 江川太郞左衞門御代官所 壹里半一沼津(駿州駿東郡) 水野出羽守城下 壹里半 一原(同) 御料 三里貳拾貳間 一吉原(同國富士郡) 同 貳里半拾貳町( /富士川舟渡) 一蒲原(同國庵原郡) 同 壹里 一油井(同) 同 貳里拾貳町( /興津川舟渡) 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0063 一興津 同 壹里貳町 一江尻(同) 駿府町奉行支配 貳里貳拾五町 一府中(同國安倍郡) 同 壹里貳拾六町( /安倍川歩行渡) 一丸子(同國有渡郡) 同 貳里一岡部(同國志太郡) 御料 壹里貳拾六町 一藤枝(同) 本多伯耆守領分 貳里八町( /瀬戸川あり )一島田 御料 壹里( /大井川歩行渡) 一金谷(遠州榛原郡) 同 壹里貳拾六町 一日坂(同國佐野郡) 同 壹里貳拾九町 一掛川(同) 太田備後守城下 貳里拾六町 一袋井(同國山名郡) 御料 壹里半 一見附(同國磐田郡) 同 四里四町( /天龍川舟渡) 一濱松(同國敷知郡) 井上河内守城下 貳里半拾町 一舞坂(同) 御料 壹里拾八町( /渡海) 一新居(同) 松平伊豆守領分 壹里廿四町( /今切の關所あり) 一白須賀(同國濱名郡) 御料 壹里拾七町 一二川(三州渥美郡) 同 壹里半貳町 一吉田(同) 松平伊豆守城下 貳里半四町 一御油(同郡寶飫郡) 御料 拾六町 一赤坂(同) 同 貳里九町 一藤川(同國額田郡) 同 壹里半七町 一岡崎(同) 本多中務大輔城下 三里半拾壹町貳拾貳間 一池鯉鮒(同國碧海郡) 土井山城守領分 貳里半拾貳町 一鳴海(尾州愛智郡) 尾張殿領分 壹里半六町 一熱田(同) 同〈名古屋ヘ壹里半 岩塚ヘ貳里 萬馬ヘ貳里半 船渡四日市ヘ拾里 桑名ヘ七里〉 一桑名 同〈船路四日市ヘ三里八町佐屋ヘ三里〉 一四日市(同國三重郡) 御料 〈神戸(伊勢)ヘ三里 石藥師ヘ貳里半九町〉一石藥師(同國鈴鹿郡) 同 貳拾五町 一庄野(同) 同 貳里 一龜山(同) 石川日向守城下 壹里半 一關(同) 右同人領分 壹里半六町 一坂下(同) 御料 貳里半 一土山(江州甲賀郡) 同 貳里十七町 一水口(同) 加藤佐渡守城下 三里半 一石部(同) 御料 貳里半拾七町五拾四間 一草津(同國栗田郡) 同 〈守山ヘ壹里半 矢橋ヘ壹里八町 大津ヘ三里半六町〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0064 一大津(同國滋賀郡) 石原清左衞門支配(安永元辰四月より) 〈船路矢橋ヘ五拾町 京ヘ三里 伏見ヘ四里八町〉一伏見(城州紀伊郡) 伏見奉行支配 〈京ヘ三里 淀ヘ壹里拾七町〉 一淀(同國久世郡) 稻葉丹後守城下 〈京ヘ三里 牧方ヘ三里拾貳町〉 一牧方(河州茨田郡) 御 〈大坂ヘ五里 守口ヘ三里〉 一守口(同) 同 〈大坂ヘ貳里〉 從江戸大坂迄、馬繼五拾六ケ宿、外人足役壹ケ宿道法合百三拾七里四丁壹間、船路共、 從江戸京都迄、馬繼五拾三ケ宿、道法合百貳拾六里六町壹間、 ◯按ズルニ、本書此他伊勢路、中國路、中山道、美濃路、佐屋路、本坂道、水戸佐倉道、例幣使道、日光道中、壬生道、奧州道中、甲州道中等ノ宿驛アリ、今之ヲ略ス、

〔和漢三才圖會〕

〈七十四攝津〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0064 至(○)武陽江戸(○○○○)〈高百三十四里〉 大坂〈二十九里半、詳于伊勢道、〉 勢州關〈一里半三條川〉 龜山〈二里少不足、有泉川橋、〉 庄野〈二十三町〉 石藥師〈二里半餘〉 四日市〈三里八町、有町屋川土橋百六十間、〉 桑名〈七里舟渡、木曾川未、〉 尾州熱田宮〈一里半餘〉 鳴海〈二里半十三町〉 參州池鯉鮒〈三里、有矢矧橋二百八間、〉 岡崎〈一里半九町〉 藤川〈二里九町〉 赤坂〈十六町〉 御油〈二里半九町〉 吉田〈二里半餘〉 二川〈二里十二町鹽見坂〉 遠州白須加〈一里十町濱名〉 新井〈一里、舟渡、有番所、〉 舞坂〈二里半十二町〉 濱松〈三里七町天龍川〉 見付〈一里半有三介野橋〉 袋井〈二里十六町〉 掛川〈一里半十一町〉 日坂〈二里菊川小夜中山〉 金谷〈一里、有大井川南北流、〉 駿州島田〈二里〉 藤枝〈一里半八町〉 岡部〈二里九町宇都谷〉 丸子〈一里半阿部川〉 府中〈一里半十一町〉 江尻〈一里二町有三保松原、自此至身延山十四里、〉 沖津〈二里〉 由井〈一里〉 蒲原〈二里半十町有富士川〉 葭原〈二里十六町、富士山麓、〉 原〈一里半〉 沼津〈一里半〉 豆州三島〈三里二十町〉 箱根〈三里半十町、有關所、〉 相州小田原〈四里酒勾〉 大礒〈二十六町〉 平塚〈三里十四町、馬入川舟渡、〉 藤澤〈二里〉 戸塚〈二里〉 武州程ケ谷〈一里〉 金川〈二里半〉 川崎〈二里半〉 品川〈二里〉江戸

〔鹽尻〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0064 一昔東國往來の路、熱田宮下馬の前を東へ通り、上野の道に懸りて往來せしとぞ、今の驛路は何時より始るや不詳、按ずるに撰擇集秘勘、文安元甲子十二月六日所聞の古本奧書に、尾州熱

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0065 田今路正覺院とあれば、後花園院の御宇、今の海道と見得たり、

〔道中秘書〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0065 本坂通り勝手に通行不相成事 覺 東海道新居渡海御普請被仰付候以後、渡海能罷成候ニ付、御用ニ而相越候輩も、新居罷通候間、參勤交替之面々も、新居往還可之候、本坂通ニ相越候義は無用ニ候、併新居江參り掛り、風雨等ニ而渡海難相成儀出來候ば、其節は本坂越旅行之義格別ニ候、以上、 三月〈寶永七寅年〉

〔東海道名所圖會〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0065 御油 本坂越〈これより左の方へ別街道あり、荒井今切の海上を渡らずして陸路を行、遠州濱松の東へ出るを本坂越といふ、〉嵩山(すせ)〈御油より嵩山へ四里、船わたしあり、〉三ケ日〈嵩山より二里半山路なり〉氣賀〈三ケ日より氣賀まで三里、こゝに關隘看街樓あり、〉茅場(かやんば)〈氣賀よりかやんばまで四里、此所本海道にて、遠州濱松より此かやんばまで壹里許江戸の方なり、天龍川まで壹里、都て御油より此所まで十三里半、〉

〔徳川禁令考〕

〈五十九道路橋梁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0065 享保十九寅年三月 品川大森兩村道附替之儀ニ付御書付 一品川宿并大森村之内、海邊御普請所々事、先年より度々修復有之候得共久鋪難持候、依之今度評議之上、山手之方江往還道附替候積りニ候、只今迄之破損所ハ不修復筈ニ候、然上ハ在家をも山手へ被引移候而可之事、 一右之通ニ而ハ、差當り所之者共難儀可致候、且又海邊小破之節早速繕等致候ハヾ、如今迄之大破ニハ成間敷哉、然バ今一度普請可仰付候條、此度普請積り之入用金ニ増を加へ、都合金二千兩、品川大森兩村江可下候條、右之内を以、破損所修復仕立、殘金ハ年々小破繕等之入用ニ除置可申事、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0066 一右御金被下向後、品川大森兩村引請ニ成候得バ、此以後万一大破出來、兩村之手際難叶節ハ、道附替可仰付候間、其節ハ在家引料ハ被下間敷事、 一右普請所兩村引請之儀、往還之道端を第一ニ仕立可申候、宿中家居之邊ハ、道端より普請之仕方劣り候而も不苦候事、 一網干場築出し願之儀、平生浪當強處ニ而、築出シ候而も難保場所ニ候間、其通ニ差置可申候、依之一ケ年ニ見取、永十八文宛上納仕來候得共、此分向後差免可申事、 右村之者共致評儀、普請引請候事難成存候ハヾ、道附替之筈ニ候間、否之儀可申事、

〔道中秘書〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0066 佐屋路旅行之儀ニ付御尋之趣申上候書付 桑原伊豫守 根岸肥前守〈◯二人並道中奉行〉 參勤交代之節、東海道佐屋廻り伊勢路通行仕候儀、病氣又は風雨ニ而渡海難相成節相廻り、其段旅中より御屆申上候儀ニ候哉、夫にも及申間鋪候哉之旨相伺候書付御渡被成、佐屋路之儀は、宿々も有之候義に付、勝手旅行いたし、御屆等申上候にも及間鋪筋は無之哉之段、御尋ニ御座候、 此儀、東海道宿々、人馬百人百疋之定ニ有之、佐屋路之儀は、人馬五拾人五拾疋之持立ニ而、半減之儀ニ付、諸大名參勤交代之節、勝手ニ通行仕候筋ニ罷成候はヾ、渡海を厭ひ候處より、佐屋路通行之面々相増可申哉、左候而は書面之通、外宿々より人馬數も少く、繼立差支可申、且東海道之方休泊、其外往還助成相減難義仕候義故、往來之面々、病氣又は風雨等に而無據節は、其段御屆申上、通行可仕義と奉存候、依之前々より佐屋路通り之方を相廻り、旅行いたし度旨、諸家より私共江問合候節も、本坂通行に准、風雨急病等之節は、格別勝手次第通行相成候と、申筋には有之間鋪と、挨拶仕來候義に御座候、尤右本坂通り之儀は、享保二十卯年之御書付も有之、佐屋路美濃

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0067 路之義は、前々御書付は無之候得共、道中奉行ニ而は、前書之通相心得、是迄諸向江も本坂ニ准じ、挨拶いたし來候、 右御尋ニ付申上候趣、書面之通御座候、御渡被成候口上書壹通返上仕候、以上、 戌〈◯寛政二年〉四月

〔五驛便覽〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0067 佐屋路一岩塚(尾州愛知郡) 〈熱田ヘ貳里、神守ヘ貳里九丁、 但萬場ヘ壹ケ月之内十五日代リ、〉 一萬場(同國海東郡) 〈熱田ヘ貳里半、神守ヘ壹里半九丁、〉 一神守(同) 壹里半九丁 一佐屋(同) 桑名ヘ船路共三里 馬繼四ケ宿道法合九里 船路共

中山道

〔木曾古道記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0067 一東山道〈◯中略〉中山道とも稱せり、東海道北陸道兩道の中道なればにや、

〔五街道宿御取扱筋秘書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0067 五海道文字之事 一中山道 只今迄仙之字書候得共、向後山之字可之、

〔千曲之眞砂〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0067 東山道木曾路驛傳 私曰、世諺誤て中山道といへり、甚非也、尾州名護屋より清洲へ出、それより美濃大垣へ出る道あり、これ朝鮮人などの通る道なり、東海東山兩道の中を通る陸路故に中山道と稱す、今の木曾路を中山道とはいふべからず、東山道または木曾路といふべし、誤來りて公義の御觸書などにもたま〳〵見ゆ、又武州上州邊の驛宿の分抗にも中山道と云り、いと拙し、又或人のいはく、東海北陸兩道の中を經れば、中山道と名付るといへり、是は猶以然るへからず、七道の一名、豈兩道の間を以て名付といふ事あらんや、僻説といふへし、東山道の木曾路といはんに論あるべからず、

〔道中秘書〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0067 中山道往來之事附甲州道中 正徳四〈午〉年十二月廿一日御渡御書付 覺 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0068 近年東海道可相通面々も、中山道往來有之由相聞候、知行所最寄違候衆中、中山道通候儀如何ニ候、向後最寄違候面々、中山道被通候はヾ、其譯各月番迄相伺、可差圖候、 〈午〉十月

〔皇都午睡〕

〈三編中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0068 板橋宿は、中仙道木曾街道の咽首なれど、品川とは一口に云れず、至極陰氣なり、女郞屋女郞も下品にして、皆錢店ばかり、道中筋女郞と同じ、

〔五驛便覽〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0068 中仙道 一板橋(武州豐島郡江戸より二里)〈貳里十丁〉 御料 一蕨(同國足立郡)〈一里十四丁〉 同 一浦和(同)〈一里十丁〉 同 一大宮(同)〈二里〉 同 一上尾(同)〈三十四町〉 同 一桶川(同)〈原市江 一里廿四丁 鴻巣江 一里三十丁〉 同 一鴻巣(同)〈四里六丁四十間〉 同 一熊谷(同國大里郡)〈常陸道行田江二里〉 阿部能登守領分 一深谷(同國榛澤郡)〈松山へ三里半深谷へ二里九丁〉 御料 一本庄(同國兒玉郡)〈越後道玉村ヘ二里三十丁新町ヘ二里〉 同 一新(上州緑野郡)〈一里半〉 〈落合新町笛木新町二ケ村高新町宿ト云〉 同 一倉賀野(同國群馬郡)〈高崎〉 〈新町ヘ一里十三丁本町ヘ一里十九丁、田町ヘ同斷、〉松平右京亮領分 例幣使道玉村ヘ一里半 一高崎町(同)〈越後道金古江二里半板鼻ヘ同町より一里三十丁新町より二里〉 同人城下 一板鼻(同)〈三十丁〉 御料 一安中(同)〈二里十六町〉 板倉伊勢守城下 一松井田(同)〈二里十五町七間〉 同人領分 一坂本(同)〈二里半十六丁廿七間〉 同 一輕井澤(信州佐久郡)〈一里五丁〉 御料 一沓掛(同)〈一里三丁〉 同 一追分(同)〈小諸ヘ三里半小田井江一里十町〉 同一小田井(同)〈一里七丁〉 内藤志摩守領分 一岩村田(同)〈一里十一丁〉 同 一鹽名田(同)〈二十七丁〉 牧野遠江守領分 一八幡〈三十二丁〉 同 一望月〈一里八丁〉 同 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0069 一蘆田(同)〈一里十六丁〉 同 一長窪(同國小縣郡)〈二里〉 御料(加宿ケ宿) 一和田(同)〈五里八丁〉 同(同) 一下諏訪(同國諏訪郡) 〈甲州上諏訪ヘ一里十一丁鹽尻ヘ二里三十三丁〉 諏訪伊勢守領分 一鹽尻(同國筑摩郡)〈一里三十丁〉 松平若狹守御預所 一洗馬(同)〈三十町〉 同 一本上(同)〈二里〉 同 一熱川(同 是より馬筑迄木曾路十一ケ宿)〈一里三十一丁〉 尾張殿領分 一奈良井(同)〈一里十三丁〉 同 一藪原(同)〈一里三十三丁〉 同 一宮ノ越(同)〈一里廿八丁三十間〉 同 一福島(同)〈二里十四丁四十間〉 同 一上松(同)〈三里九丁〉 同 一次原(同)〈一里三十丁二十三間〉 同 一野尻(同)〈二里半〉 同 一三留野(同)〈一里半〉 同 一妻籠(同)〈二里〉 同  一馬籠(同)〈一里五十六間〉 同 一落合(濃州兩形郡)〈一里〉 同 一中津川(同)〈二里半〉 同 一大井(同)〈三里半〉 同 一大久手(同國土岐郡)〈一里半〉 同 一細久手(同)〈三里〉 同 一御嶽(同國可兒郡)〈一里〉  同 一伏見〈二里土田ヘ一里〉 同 一太田(同國加茂郡)〈二里〉 同 一鵣沼(同國各務郡)〈岐阜ヘ四里廿四丁加納へ四里十一丁〉 同 一加納(同)〈一里半〉 永井大學頭城下 一河渡(同國本留小郡)〈一里七丁〉 御料 一美江寺(同)〈二里八丁〉 同 一赤坂(同國不波郡)〈一里十二丁〉 戸田采女正領分 一垂井(同)〈大垣江二里半七丁關ケ原一里十四丁〉 御料一關ケ原(同)〈北國道玉林ヘ一里牧方ヘ一里、今須江一里、〉 竹中主膳知行一今須(同)〈一里〉 御料 一柏原(江州坂田郡)〈一里半〉 松平甲斐守領分 一醒ケ井(同)〈一里〉 同 一番場(同)〈一里一丁〉 井伊掃部頭領分 一鳥居本(同)〈彦根ヘ一里、北國道米原ヘ二十九丁、高宮ヘ一里半、〉 同 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0070 一高宮(同國犬上郡)〈彦根江一里六町愛知川へ二里〉 同 一愛知川(同國神崎郡)〈二里〉 同一武佐(同國蒲生郡)〈三里半〉 小笠原能登守領分 一守山(同國野淵郡)〈草津へ一里半〉 松平伊預守領分 道法合百二十九里十五丁五十三間(從江戸米津迄)

木曾街道

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0070 【木曾路】(キソヂ)〈本字岐岨、續日本紀作吉蘇、信州安曇郡、〉

〔道中秘書〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0070 木曾路名目之事 天保九戌年三月、尾張殿御城附より書面、中山道須原宿西助郷誓詞之義ニ付、御答下ケ札之内、 木曾路と有之候は、領分中、中山道筋一般の義と相心得可然哉、又は熱川より馬籠迄拾壹ケ宿之義と相心得可然哉之事、 書面、熱川より馬籠迄を木曾路と申習はし候事、(挨拶)

〔遊囊賸記〕

〈二十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0070 木曾路ハ、美濃ヨリ信濃ニ入立總稱ナリ、但右ニ御坂トイフハ、坂本ヨリ惠奈ガ岳ヲ踰テ、伊奈ヘ出ルコトニテ、今ノ馬籠峠ニハアラズトナム、今朝ノ雨ニ雲閉テ行先クラシ、中津川ニ憩ヒ、木曾川ヲ左ニ見テ峻嶮ヲ越ユ

〔橘庵漫筆〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0070 木曾街道(○○○○)は、往古は今のごとく人馬の往來決してなしと見えたり、謠曲の山姥の發端に、善光ぞと影たのむと次第を作れり、一部の趣意は、都の舞女信州善光寺詣を志し、越路へむかひ、越後のあげ路の山にて山姥に逢し旨なり、誠に昔は今の葛橋畚の渡しなども、棧の中にまぢり、中々たやすく他邦のものヽ渡り得べき路程ならず、實に命をつなぐと云しごとく樵夫も行なやみし歟、京都より百里に足らぬ信州善光寺へ、貳百里も有越後廻りをするを見るべし、平家旣に關東へ向ふにも、北陸道へ出たり、木曾殿これに向はるヽに、萬一木曾路自由ならば、美濃路を經て兵を分ち、平家の粮道を斷るべきに、倶利迦羅に向はるヽも、木曾の坂路自由ならずと思はる、加能越を越て信州に至る順路明らけし、しかるに昭平貳百年已來、莫大の人工を以、斷岸

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0071 絶壁を開かれ、驛舍を定給ひて、木曾路の行程川支(かわつかへ)の憂なく、億兆の士民其恩澤を蒙奉ること、實(げに)道廣き御代とは此時なるかな、

〔和漢三才圖會〕

〈七十四攝津〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0071 同至江戸 木曾街道(○○○○) 大坂〈十六里委記于前〉 江州草津〈三里半〉 守山〈三里半鏡山〉 武佐〈二里半〉 愛智川〈二里〉 高宮〈一里半〉 小野〈一里半〉 鳥居本〈一里餘、自此出前原行、北國道、〉 番場〈一里〉 醒井〈一里半〉 柏原〈一里〉 美濃居宣〈一里不破關〉 關ケ原〈一里〉 垂井〈一里十二町〉 赤坂〈二里八町〉 美江寺〈一里六町〉 河戸〈一里半〉 加納〈四里〉 鷺沼(ウヌマ)〈二里〉 太田〈二里舟渡〉 伏見〈一里〉 御嶽〈三里〉 細久手〈二里〉 大久手〈三里半〉 大井〈二里半〉 中津川〈一里〉 落合〈一里有橋、此信美之境、自(○)此爲(○○)木曾路(○○○)、高二十七里、〉 信州馬籠〈二里〉 妻籠〈一里半〉 三留野〈二里半〉 野尻〈一里半〉 須原〈三里九町、此間有寐覺臨川寺、〉 上松〈二里〉 福島〈一里半、有女改關所、〉 宮腰〈二里〉 藪原〈一里半〉 奈良井〈一里半鳥居峠〉 贄川〈二里有櫻澤橋、是迄木曾路(○○○○○)〉、 元山〈三十町〉 洗馬〈二里〉 鹽尻〈三里〉 諏訪〈五里湖水有〉 和田〈二里有峠〉 中窪〈一里半〉 蘆田〈一里半餘〉 望月〈一里〉 八幡〈一里〉 鹽灘〈一里〉 岩田村〈一里〉 小田井〈一里半〉 追分〈一里〉 沓掛〈一里〉 輕井澤〈二里半有笛吹峠、上州信州堺、〉 上州坂本〈◯下略〉

〔木曾古道記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0071 一古道 馬籠 妻籠 御殿 與川 長野 池尻 掛橋 東野 吉野 風越 徳原 川上 大原 原野 宮越 藪原 奈良井 贄川

〔皇都午睡〕

〈三編上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0071 東海道、木曾街道は、馬駕籠とも自由なり、一時木曾の宮の腰にて雨催ひして、風烈しければ心急ぎ、茶店にて馬を拵らへさせしに、馬牝馬にて、馬士も十七八の女なり、簑笠にて出づれば、男女やらわかるべからず、茶屋の店より馬に乘る所、世話する者も女なり、藪原の驛を過て、鳥井峠の絶頂まで三里餘の道を、日の七ツ時より追ふて行、還りは又藪原にて荷物を附て歸り、夜の四ツにもなるべし、纔三百文計の錢を儲んとて、若き女の雨風をこと共せず行事也、

日光道中/奥州道中

〔驛肝録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0072 諸家旅行ニ付、人馬遣高問合之節心得、組不同、〈◯中略〉 〈日光奥州(○○○○)〉道中(○○) 貳拾万石以上 當日并前後二日ヅヽ都合五日、貳拾五人、貳拾疋、〈◯下略〉

〔皇都午睡〕

〈三編中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0072 千住は、奧州街道(○○○○)の咽首にして、板橋よりは宿も廣く、家居も遙に奇麗なり、大橋を中に置て、大千住小千住とて南北に分れり、小千住の方を掃部宿とも云ふ、

〔和漢三才圖會〕

〈六十七武藏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0072 從(○)江戸(○○)到(○)日光山(○○○)行程〈凡三十四里〉 江戸〈二里〉 千壽〈二里八町角田川〉 草加〈一里二十八町、自此下總國、〉 越谷〈二里三十町〉 幽谷〈一里半〉 杉戸〈一里半七町〉 幸手〈二里三町〉 栗橋〈二十町、有川稱坂東太郞、爲兩國界〉 中田〈一里自此復下總〉 古河〈二十六町〉 野木〈二十九町〉 儘田〈一里半自此下野國〉 小山〈一里〉 新田〈一里二十九町、左行日光(○○○○)、右行奥州道(○○○○○)、〉 飯塚〈一里二十二町〉 壬生〈二里二十六町、有壬生川、〉 二連木〈一里二十一町〉 鹿沼〈二里八町〉 文挾〈三十三町〉板橋〈一里二十八町〉 今市〈一里〉 鉢石〈八町〉 日光山 到(○)奧州羽州(○○○○)道筋(○○)〈出下野之小山新田道如左、〉 新田〈下野芋莖新田、自江戸凡十九里半、自此到金井一里近、〉 金井〈一里半〉 石橋〈一里半五町〉 雀宮〈二里〉 宇都宮〈二里半、其地民屋賑〉 白澤〈一里半、有川渡、〉 宇治江〈二里四町〉 喜連川〈三里、有那須與市舊跡、〉 佐久山〈一里半餘〉 大田原〈三里十町〉 鍋掛〈三里餘有那須野原、〉 蘆生〈三里半〉 奧州白坂〈自此至白川于出羽下

甲州道中

〔皇都午睡〕

〈三編中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0072 内藤新宿といふは、大城の眞西に當つて、甲府及び青梅街道の咽(○○○○○○○○○○)首なれば、是又賑はしき驛なり、女郞宿屋も家居廣く、茶屋も甚多けれど、舊内藤侯の屋敷地にて、内藤新宿と呼び、山手にて田舍街道なれば、表手は多く藪か畑か崖地にして閑靜なり、

〔道中秘書〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0072 中山道往來之事〈附〉甲州道中(○○○○) 寛政十一未年、中山道往來之義ニ付、松平伊豆守殿〈◯老中〉道中奉行江被仰渡、同年九月廿九日、井上

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0073 美濃守〈◯道中奉行〉立合於下口勘定所溜へ詰、大廣間、帝鑑間、柳之間、諸家家來江、左近將監〈◯道中奉行石川〉申渡左之通、 申渡 東海道往來ニ而、最寄ニも無之面々、近來中山道、甲州道中往返いたし候諸家家來多有之趣相聞候、右兩道は定人馬も東海道とは違數少、一體農業第一之場所ニ候へば、旅人又は諸家荷物等多往返有之候而は、繼人馬も多、自助郷村々も一統難義之筋にも至り候、依之道中奉行江問合之上、往返可之義ニ候、左候得ば時節等之差略も有之事ニ候間、中山道往返定例之面々は格別、其外は勝手ニ付、中山道甲州道中共、家來并荷物共旅行いたし候義は、いづれも道中奉行江相達、差圖之上、往返いたし候様可取計候、 未九月

水戸佐倉海道

〔徳川禁令考〕

〈五十二諸法度〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0073 正徳二辰年三月 東海道、中山道、日光海道、奧州海道、水戸佐倉海道(○○○○○○)江相渡書付、 定 一公家衆門跡方道中往來之時者、人足三十人、馬三十匹ニ相限り候處、近年者御定人馬之外、添人馬多相立候故、宿々并助人馬出候在々迄困窮ニ及ぶ由相聞候、向後たとひ宿々馳走として人馬差出候とも、御定り之員數、馳走之人馬共、都合五十人三十匹之外、一切差出すべからざる事、〈◯中略〉 右之條々〈并〉前々定之通堅可相守之、若此等之趣ニ相背、向後宿々、又ハ加宿助郷等難儀之由申訴候ハヾ、可越度もの也、 正徳二辰年三月

伊勢路/中國路

〔五驛便覽〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0074 東海道〈◯宿驛名略、以下同、〉 伊勢路(○○○) 中國路(○○○) 中山道 美濃路 佐屋路(○○○) 本坂通(○○○) 水戸佐倉道 例幣使道(○○○○) 日光道中 壬生通(○○○) 奧州道中 甲州道中

〔徳川禁令考〕

〈五十九經壤端界〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0074 年號闕子二月 中國と相唱候國々之儀ニ付、内藤帶刀より問合、 一中國路(○○○) 右ハ何國何之郡より何之驛迄を中國路と相唱候哉 一中國と相唱候國々、何之國を相唱候哉、 右之段、兼而相心得罷在度御問合申候、以上、 九月廿日 〈下ケ札〉書面之趣相糺候處、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隱岐、播磨、美作、備前、備中、備後、安藝、周防、長門、右之國々を中國と相唱候得共、何國何驛迄を中國路と相唱候哉、右體名目差極候而ハ難御挨拶候、 子二月

雜載

〔塵袋〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0074 一熊野ノ道ヲサスト云フ何(イカナル)心ゾ 行歩ノ心ナリ、上林賦ニハ率呼直指云(シユツコトシテタヽチニサスト)ヘリ、コレハハヤラカニアユム心ナリ、呂向ガ注云、指ハ行也ト釋セリ、サレバ道ヲサスト云フ義、ソノイハレゾカシ、

〔日本風俗備考〕

〈三小引〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0074 日本の如き山國には、河海湖澤の畔には、處々佳麗なる村郷城市ありて、貨物の商賈を爲す、其山上谷間も、共に人家あり、或は間々廣濶なる土地ありて、各箇の城市村落の數幾許なるを知るべからず、其家造は歐邏巴の如く、高き塔にて府外の近傍より望み見るべきが如くならず、然れども行旅道路に塡咽して、繁劇なる有りさまは、全國の民人、毎日佳麗なる山水

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0075 を見んとて家を出て、遊行せるならんと思はるヽに至る、嶮咀なる大山の外は道路を修め、常に意を著けて是を修復し、多くは其幅驚くべく廣濶にして、諸侯及び代官相互に往來して出遇ふとも、支梧なきに至れり、其道路には松金松栗櫻などの諸木繁茂す、其平坦なる地は、大抵湖川ありて、人家稠密なる方へ流れ行き、風景佳麗にして、水上數艘の舟、荷物を處々に輸りて、絶へず上下往來する行粧、繁華の景色想ふべし、

〔南向茶話〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0075 問曰、王子村の脇に谷村と申處ありて、畑道の間を、鎌倉海道(○○○○)と申傳へ候、古へ當國の往來筋の由申候、如何承度候、 答曰、仰之通りに予〈◯酒井忠昌〉も承候、此所谷村と呼申候に付、畑道も鎌倉海道と唱へ候哉と被存候所に、古老の説に、當國の方池沼多くして、足入の地なるが故歟、往古の道筋は、今の青山百人町の西北の方、原宿と申所をへて、千駄ケ谷八幡の前〈此地今に所の小名に鎌倉海道と呼ぶ〉大窪へ過、高田馬場より雜司ケ谷法明寺脇通り、護國寺後通り、只今の中仙道の道を横ぎり、谷村瀧の川村を經て、豐島村より千住の方へ古の道筋也といへり、右物語を案ずるに、其間の道筋三ケ所迄舊名殘り候得ば、其據なきにあらず、只今青山百人町より直に相州小田原へ往來道を、俗に中道と呼び、東海道より二里近く、日本橋より相州小田原迄十八里の由也、〈◯下略〉

〔倭名類聚抄〕

〈十道路〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0075 馬道(○○) 辨色立成云、馬道〈俗音米多宇〉向堂之道也、

〔香取神宮古文書纂〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0075 一札之事 一源太祝清五郞堺堀、横七尺五寸之所、今度諸社家相談を以、永々馬道に宛申所實正也、自今以後、兩人屋敷、道普請之節、七尺五寸外、校申間敷候、爲後日件、 元祿四年〈未〉六月 日 案主所 印 田所 印

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0076 録司代 印


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