http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0593 關トハ國境、若シクハ要害ノ地ニシテ、出入與ニ之ニ由ラザル可ラザル道路ニ設置シ、往來ノ人ヲ譏察シテ、以テ不虞ヲ警戒スル門ナリ、是ヲセキト云フハ、塞キ止ムル義ニテ、又セキトト稱ス、トハ門ノ意ナリ、抑々關ノ濫觴ハ未ダ詳ナラズト雖モ、神功皇后攝政ノ時、針間ト吉備トノ界ニ、和氣關ヲ置キタルコトノ新撰姓氏録ニアルハ、蓋シ史籍ニ見エタル始ナルベシ、大化改新ノ時、始テ關制ヲ立テ、凡ソ諸國の關塞ニハ必ズ鈴契ヲ給シ、國司ヲシテ之ヲ掌ラシム、大寶ノ令成ルニ及テハ、其制漸ク備ハリ、伊勢ノ鈴鹿、美濃ノ不破、越前ノ愛發〈後近江ノ勢多ニ代ヘ、復タ逢坂ニ改ム、〉ヲ以テ三關ト稱シ、武器ヲ備ヘ兵士ヲ配シ、以テ京師ノ守衞ニ備ヘタリ、桓武天皇ノ朝、中外隔絶シ、公私ノ往來稽留ヲ致スノ故ヲ以テ、一旦並ニ之ヲ停廢セシガ、後久シカラズシテ舊ニ復シヌ、此三關ハ天下事アレバ必ズ先ヅ之ヲ鎖サシム、之ヲ固關ト云フ、固關トハ、天皇ノ讓位崩御、若シクハ上皇皇后ノ崩御、攝政關白ノ薨去等、凡テ非常ノ事有ルニ臨テ、不時ニ行フモノニシテ、固關使ヲシテ、木契及ビ勅官ノ二符ヲ携ヘシメ、馬ニ騎リ鈴ヲ振リテ赴カシムル儀アリ、固關數日ニシテ、再ビ使ヲ發シテ關ヲ開カシム、之ヲ開關ト云フ、 開關ノ儀ハ、大概固關ノ時ニ同ジ、開關使歸リ來レバ契ヲ御所ニ納レ、或ハ局ニ就テ之ヲ破 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0594 却スト云フ、後ニハ其儀ヲ行フニ止マリテ、使ノ下向スルコトモ久シク絶エシガ、後堀河天皇ノ頃トナリテハ、其儀ヲモ併セテ行ハザルコトアリテ、漸ク弛廢スルニ至レリ、當時關ヲ通行セント欲スルモノハ、皆本司本貫ヲ經テ過所ヲ請ハシム、 過所トハ、關所通行ノ免状ニシテ後ノ謂ユル關切手ナリ凡ソ三十日ヲ以テ一限ト爲シ、限ヲ過レバ復ビ之ヲ請ハシメタリ、人ノ名ヲ冒シテ、過所ヲ請ヒテ關ヲ度ルヲ冒度トシ、過所ヲ請ハズシテ度ルヲ私度トシ、關門ニ由ラザルヲ越度トス、皆律ノ禁ズル所ナリ、後世過所ヲ過書ト書スルハ、蓋シ字音ノ相同ジキガ故ニ誤レルナルベシ、源頼朝府ヲ鎌倉ニ建ツルニ及テ、關ヲ通行セントスルモノハ、僧侶山伏ノ外、必ズ關手ヲ出サシメタリ、 關手ハ、一ニ之ヲ山手ト云フ、テハ價直(アタヒ)ノ義ニシテ、萬葉集ノ加利氐ノ氐、今日ノ言ノ酒手ノ手ノ如シ、故ニ又稱シテ關錢、關賃ナドモイヘリ、初ハ關吏ノ粮食ニ當ツルガ爲ニ之ヲ徴セシト雖モ、旅人ノ困難トナルヲ以テ、建保ノ頃之ヲ廢シテ、別ニ料田ヲ置キ、其代トナサシム、然レドモ猶ホ商賈往來ノ苦ヲ致シ、年貢運送ノ煩ヲナスヲ以テ、後醍醐天皇即位ノ始、大津葛葉ノ二關ヲ除ク外、悉ク諸國ノ新關ヲ廢セラル、足利氏ノ末葉ニ至リテハ、爭亂相繼ギ、國用漸ク足ラズ、爲ニ復タ新ニ關ヲ設テ關錢ヲ取リ、之ヲ以テ或ハ社寺ノ營繕料トナシ、或ハ内裏ノ修理料トナスモノアルニ至レリ、加之當時又別ニ關役ト稱シテ、關吏ヲシテ公用ヲ務メシメ、關錢ノ幾分ヲ納メシムルコトアリシガ、動モスレバ之ヲ通行ノ船舶ニ課シ、役錢ヲ合セテ責メ取ルコトナド起リテ、其弊ノ臻ル所益々甚シクナレリ、織田氏大ニ玆ニ鑑ミ、天下漸ク定ルニ及テ、已ムヲ得ザルモノヽ外、盡ク諸國ノ關ヲ除キ、以テ豐臣氏ノ時ニ至ル、徳川氏豐臣氏ノ後ヲ承テ、天下ニ令スルニ及テ、新ニ制ヲ立テ、諸國緊要ノ地ニハ必ズ關ヲ設ケ、奉行ヲ置テ之ヲ司ラシメ、特ニ相模ノ箱根、浦賀、武藏ノ小佛、栗橋、上野ノ碓氷、下總ノ松戸、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 市川ノ七關ヲ嚴ニシテ、以テ江戸ノ守衞ニ當テタリ、元祿ノ頃奉行ヲ廢シテ、所在ノ領主ヲシテ之ヲ預ラシム、領主ハ更ニ與力、同心、又ハ番頭、常番、足輕、中間等ヲ遣リテ、之ヲ守ラシメタリ、此時ニ當リテ古ノ過所ハ既ニ其名ヲ失ヒ、新ニ通手形ノ稱起レリ、 通手形トハ、關所通行人ノ身分容體所用物品等ヲ明記シ、之ニ身元引請人、又ハ主人頭支配等ノ直判ヲ押セル證文ニシテ、大抵二箇月ヲ以テ通用期限トシ、之ヲ過レバ必ズ勘定所ヲ經テ、留守居ノ添状ヲ請ハシメタリ、武器ノ運搬、婦女ノ通行ハ殊ニ嚴察スル所ニシテ、鐵砲、弓、長柄等、領主行列ニ用ヰルモノヽ外ハ、必ズ老中〈稀ニハ留守居ノ裏印ヲ用ヰルコトアリ〉ノ裏書ヲ請ハシメ、女手形ニハ留守居ノ證文ヲ添ヘ、且ツ檢閲ノ女ヲシテ子細ニ其容貌ヲ査覈セシメタリ、是故ニ若シ私ニ關ヲ通行スルモノアレバ、輙チ之ヲ主殺、親殺、師匠殺ノ三罪ニ準ジ、以テ磔刑ニ處セリ、慶應三年大ニ改革ヲ行ヒ、從來ノ制ヲ弛メテ印鑑引合ヲ廢シ、鐵砲手形女手形ト雖モ、別ニ裏書ヲ要セザルコトヽナリシガ、明治維新ノ初ニ悉ク天下ノ諸關ヲ除キ、今ハ全ク其跡ヲ止メザルニ至レリ、

名稱

〔倭名類聚抄〕

〈十居處〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 關 蔡邕月令章句云、關〈古還反、字亦作關、日本紀私記云關門也、世岐度、〉在境所以察出禦一レ入也、

〔類聚名義抄〕

〈七門〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 關〈音擐セキ〉 關〈二正〉 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f00006520cb.gif 〈俗〉 閞〈俗又弁飯二音、門槫攎、〉 關門〈セキト〉

〔伊呂波字類抄〕

〈世地儀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 關〈セキ、俗作閞亦作閞、天武天皇八年己卯十一月、始置關門之由見弘仁格、説文云以木横持門戸也、〉 剗〈セキ〉

〔運歩色葉集〕

〈勢〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 關所 關戸 關ノ鎖(トサシ) 塞 關 ◯按ズルニ、職員令大國守ノ條、關剗ノ義解ニ、關者撿判之處、剗者塹柵之所トアリ、

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 關(セキ)〈月令章句、關在境、所以察出禦一レ入也、韵會、要會也、又城塞門也、〉

〔東雅〕

〈三地輿〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 關セキト セキとは塞(セキ)也、トとは所也、要路を塞て非常に備るをいふ、孝徳天皇大寶二年、初て關塞、斥候、防人を置れしと見えしは、是等の事の始なり、〈◯下略〉

〔倭訓栞〕

〈前編十三世〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 せき 關をよめり、倭名鈔にせきとヽよめり、關門の義也、眞名伊勢物語に塞もよめり、人を防き留むるの義、剗も訓同じ、伊呂波字類抄に見ゆ、日本紀略に相坂剗と書せり、史記に、蜀剗道、正字通に剗俗作http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f00006520cc.gif といふ是也、〈◯中略〉諸國關多しといへども、專ら關といふは、相坂を指といへり、關所は關寺のあたりといふ、〈◯下略〉

〔類聚名物考〕

〈地理五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 關戸 せきのと 關扉 關のとざしとも、關のとぼそともいへり、連歌の家には、關の岩かどをも、門と角との兩意有るよしに定めたり、

〔伊勢參宮名所圖會〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 逢坂關舊跡〈(中略)昔の關はかならず國境に置て、是を【關戸】(せきと)關津(○○)といへり、〉

〔源公忠朝臣集〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 近江守にてくだるに、貫之が許よりおこせたりける歌ふたつ、かへし、 關の戸ぞおどろかれける君がため心とヾめぬ時のなければ

〔續千載和歌集〕

〈四秋〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 關月を 權中納言爲藤 秋の夜は關の戸ざし(○○○○○)もゆるさなむ行とまるべき月の影かは

〔類聚名物考〕

〈地理五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 關山(○○) せきやま 非名所 關門の有る所のほとりの往來の道を、いづかたにてもいふなり、相坂にも足柄にもよめるにて知るべし、關路せきの戸など云ふ、みなこの類ひなり、

〔馬内侍集〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 返しはせでしばし有て、いし山へまうづときヽて、 逢坂のせき山こゆるけふさへやなをやなみだの盡せざるらん

〔類聚名物考〕

〈地理五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 關路(○○) せきぢ せきみち 冷泉爲久卿、古本の假名せきのみちなり、當時はせきじといふと、の給ひつれども、後撰集に、不破のせきじと訓り、

〔後撰和歌集〕

〈十九離別〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 おなじ家にひさしう侍りける女の、美濃國におやの侍ける、とぶらひにまかりけるに、 藤原きよたヾ 今はとて立かへりゆくふるさとのふはのせきぢにみやこわするな

初見

〔新撰姓氏録〕

〈右京皇別〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 和氣朝臣 神功皇后、征伐新羅、凱旋歸、明年、車駕還都、于時忍熊別皇子等、竊構逆謀、於明石堺、備兵待之、皇后臨識、遣弟彦王、於針間吉備堺、造關防之、所謂和氣關是也、〈◯下略〉 ◯按ズルニ、是レ關ノ史册ニ見エタル初ナリ、

〔和漢三才圖會〕

〈六十五陸奥〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 白川關 在白川郡〈城下〉 地名雖川非川、而山溪間也、孝徳天皇朝所立、是諸國關之最初也、 ◯按ズルニ、享祿本類聚三代格ニ載スル所ノ、承和二年十二月ノ官符ニ、應長門國關過白河菊多兩剗事ト題シテ、其文ニ、右得陸奧國解偁、撿舊記剗以來、于今四百餘歳矣、ト見エタリ、今之ヲ逆算スルニ、凡ソ允恭天皇ノ朝ニ當レリ、果シテ此ノ如クナラバ、三才圖會ノ説ク所、恐クハ誤アルベシ、

關屋

〔運歩色葉集〕

〈勢〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 關屋〈源氏卷之名〉

〔類聚名物考〕

〈地理五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 關屋 せきや 關所有る所のその屋かたをいふ、下總國に關宿といふ所有り、是もせきやどりの所なるべし、源氏物語に關屋の卷あり、

〔續日本紀〕

〈三十六光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 寶龜十一年六月辛酉、伊勢國言、今月十六日己酉巳時、鈴鹿關西内城(○○○)、大鼓(○○)一鳴、天應元年三月乙酉、伊勢國言、今月十六日午時、鈴鹿關西中城門大鼓、自鳴三聲、五月甲戌、伊勢國言、鈴鹿關城門(○○)并守屋(○○)四間、始十四日十五日自響不止、其聲如木衝一レ之、

〔源氏物語〕

〈十六關屋〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0598 伊豫のすけといひしは、こ院かくれさせ給て又のとし、ひたちになりてくだりしかば、かのはヽきヾもいざなはれにけり、〈◯中略〉又のとしの秋ぞ、ひたちはのぼりける、關いる日しも、この殿〈◯源氏君〉石山に御願はたしにまうで給けり、京よりかのきのかみなどいひしこども、むかへにきたる人々、この殿かくまうで給べしとつげヽれば、みちのほどさはがしかりなんものぞとて、まだあかつきよりいそぎけるを、女車おほく所せうゆるぎくるに日たけぬ、うちいでのはまくるほどに、殿はあはだ山こえ給ぬとて、御ぜんの人々みちもさりあへずきこみぬれば、せき山にみなおりゐて、こヽかしこの杉のしたに、車どもかきおろし、木がくれにゐかしこまりてすぐし奉る、〈◯中略〉九月つごもりなれば、紅葉の色々こきまぜ、霜がれの草むら〳〵をかしうみえわたるに、せきや(○○○)よりざとはづれ出たる旅すがた共の、色々のあをのつき〴〵しきぬひ物、くヽりぞめのさまもさるかたにをかしうみゆ、御車はすだれおろし給て、かのむかしのこ君、いまは右衞門のすけなるをめしよせて、けふの御關むかへはえ思ひすて給はじなどの給、御こヽろのうちいとあわれにおぼし出ることおほかれど、おほぞうにてかひなし、女も人しれずむかしのことわすれねば、とり返してものあはれなり、 ゆくとくとせきとめがたきなみだをやたえぬし水と人はみるらん、えしり給はじかしとおもふ、にいとかひなし、

〔今昔物語〕

〈二十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0598陸奧守人付金富語第十四 今昔、陸奧ノ守ト云人有ケリ、亦其時ニト云者有ケリ、互ニ若カリケル時ニ、守心ヨリ外ニ頗ル妬シト思ヒ置タル事ノ有ケルヲ、不知シテ守ニ付タリケルヲ、守艶ス饗應シケレバ、喜ト思テ有ケルニ、陸奧ノ國ニハ厩ノ別當ヲ以テ一顧ニ爲ニゾ、京ニシテハ然様ノ事共ヲモ未ダ定メ子ドモ、自然ラ出來ケル馬ノ事共ヲバ、此人ニ沙汰セサセナドシテ、厩ノ別

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0599 當ニ可仕様ニ持成ケレバ、人皆此人コソ一ノ人也ケレト思テ、下衆共モ數付ニケリ、然テ守國ヘ具シテ下ルニ、京出ヨリ始テ、此人ヨリ外ニ物云ヒ不合ケレバ、道ノ程從者多ク被仕テ鑭メクモ理也、然レバ肩ヲ並ブル人无テ下ル程ニ、既ニ國ニ下著ヌ、其ニ古ハ白河ノ關ト云所ニテ、守ノ其關ヲ入ニ供ノ人ヲ書立テ、次第ニ關ヲ入テ、入レ畢テ後ニゾ木戸(○○)ヲ閉ケル、然レバ、此守共ノ書立ヲ、目代ニ預ケテ守ハ入ヌレバ、此様ノ事ノ沙汰モ我ニゾ行ハセンズラムト思ケルニ、然モ无テ異人ノ沙汰ニテ、關ノ者共並ビ立テ、何主ノ人入レ、彼主ノ人入レト呼テ、主從者次第ニ入ルニ、先我ヲ呼立ンズラムト聞ニ、四五人マデ不呼上ケレバ、吾ヲ尻卷ニ入ンズルナメリト思テ、從者共引將テ待立ル程ニ皆人入畢テ後、我入ンズラムト思フニ、木戸ヲ急ト閉テ棄テ入ザレバ、奇異ク云甲斐无テ返ランズルニモ、霞ニ立テ秋風吹際ニ成ニタリ、菅无クトモ國ニ暫モ可有ニハ被指出ニタリ、

〔更科日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0599 曉より足柄山をこゆ、〈◯中略〉からうじて越はてヽ、關山にとヾまりぬ、是よりは駿河なり、よこばしりの關のかたはらに、いはつぼといふところ有、〈◯中略〉清見が關はかたつかたは海なるに、關屋(○○)どもあまたありて、海までくぎぬき(○○○○)したり、けぶりあふにやあらん、清見が關の波もたかくなりぬべし、〈◯中略〉美濃の國なる〈◯中略〉不破の關、あつみの山などこえて、近江の國おきながといふ人の家にやどりて、四五日あり、〈◯中略〉しはすの二日京にいる、〈◯中略〉關ちかく成りて山つらにかりそめなるきりかけといふものしたるかみより、丈六のほとけのいまヽであらづくりにおはするが、かほばかりみやられたり、〈◯中略〉こヽらの國々を過ぎぬるに、駿河の清見が關と、相坂のせきとばかりはなかりけり、

〔堀河院御時百首和歌〕

〈雜〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0599 關 隆源 もる人もまたたえなくに川口の關のくぎぬき(○○○○)はや朽にけり

〔十六夜日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 不破の關やのいたびさし(○○○○○)は、いまもかはらざりけり、 ひまおほきふはの關屋はこの程の時雨も月もいかにもるらん

〔底倉之記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 元中四年二月、伊達信夫南部下山田村庄司岩城刑部大輔忠門、相馬下野守以下、靈山ニ會合シテ、著到ノ勢二万七千餘騎、義隆貞方兩大將トシテ白河ヘ發向ス、親朝是ヲ聞、今度ハ宮方目ニアマル大軍ナレバ、平場ノ掛合ハカナフマジ、難所ニ引籠リ討出フセグベシト、白河ノ關ヲサシ固メ、渡リ櫓(○○○)、高矢倉(○○○)三十餘ケ所ニカキナラベ、強弓ノ精兵ヲスグリ上セ置キ、塀(○)ウラニ大木大石ヲツミタクワヘ、用心嚴シク待カケタリ、味方ノ勢ハ三月一日白河近ク寄、〈◯中略〉關近クナリケル時、木戸(○○)ヲ押開キ、眞先ニ結城ノ一族佐原備前守ト名乘テ、〈◯中略〉大勢ノ中ヘ打テ入〈◯下略〉

〔小島のくちずさみ〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 不破の關屋はむかしだにあれにければ、かたのやうなる板びさし(○○○○)、竹のあみど(○○○○○)ばかりぞのこりける、げにあき風もたまるまじうみえたり、 昔だにあれにしふはの關なれば今はさながら名のみ成けり

〔覽富士記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 不破の關すぎ侍りしに、もるとしもなきのとぼそ苔のみふかくて、中々見どころ有、 戸ざし(○○○)をばいく世忘れてかくばかりこけのみとづるふはの關や(○○)ぞ

〔美濃明細記〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 永享四年富士見に下向の時に、俄に關屋をふきかへければ、 將軍普廣院義教 ふきかへて月こそもらね板びさし(○○○○)とくすみあらせ不破の關守

〔伊勢參宮名所圖會〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 關〈今驛宿の名とはなりたれども、いにしへ鈴鹿の關と云は此所なり、〉關屋の事、關の驛西の入口より二三町東を中木戸町(○○○○)といふ、此所人家の間に細き小路を南へ通る所、昔の關屋の跡なるよしいひ傳ふ、

〔新編相模國風土記稿〕

〈二十二 足柄下郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 關所二 箱根、〈箱根宿ノ屬〉根府川、〈根府川村ノ屬〉并大久保加賀守忠眞預レリ、〈◯中略〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0601 遠見番所(○○○○)一 箱根、〈箱根御關所ノ山上ニアリ〉是モ加賀守忠眞進退ス、

〔新編相模國風土記稿〕

〈二十七足柄下郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0601 箱根御關所〈◯中略〉 時鐘所(○○○) 小田原町ノ東屋背ニアリ、鐘ハ寛保三年七月新鑄スル所ナリ、小田原領主ノ置所ニテ、關門開閉ノ爲、時ヲ報ズル所ナリ、

關明神

〔源平盛衰記〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0601 三井寺僉議附淨見原天皇事 宮名乘テ憑マントオボシテ、丸ハ淨見原ノ宮也、深ク汝ヲ憑ト宣ヘバ、長者畏テ聟ニ取奉テ隱シ置奉ル、年月ヲ經テ、王子二三人出キ給ヘリ、其後長者東夷ヲ催テ、白鳳元年壬午、始テ不破關ヲ置テ、美濃國ニテ軍構シ給ヘリ、〈◯中略〉宮都ニ上給ヒ即位給ニケリ、天武天皇トハ是也、淨見原天皇共申、天皇崩御ノ後、關ノ長者ノ恩ヲ思召ケルニヤ、神ト被祝給ヘリ、關明神(○○○)ト申ハ是也、關所ノ殿原ト云ハ、彼長者ノ女ニ儲給ヘル末葉也、

〔吾妻鏡〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0601 文治五年七月廿九日丁亥、越白河關給、關明神御奉幣、此間召景季、當時初秋也、能因法師古風不思出哉之由被仰出、景季扣馬詠一首、 秋風ニ草木ノ露ヲ拂セテ君ガ越レバ關守モ無シ

〔長明無名抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0601 一會坂に關の明神と申は、昔の蝉丸なり、かのわらやの跡を失はずして、そこに神となりてすみ給なるべし、いまもうち過るたよりにみれば、昔深草のみかどの御使にて、和琴ならひに良峯宗貞、良少將とて、かよはれけんほどの事までも、おもかげにうかびて、いみじくこそ侍れ、

〔伊勢參宮名所圖會〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0601 【關守神】(せきもるかみ)〈◯中略〉 今山〈◯逢坂山〉上に蝉丸宮二座東西にあり、〈◯註略〉これを關守神といふ、蝉丸と名付しは、近來の所爲なるべし、尤上下に有し事は、秀吉連歌の端書に見へたり、昔關所ごとに神祠を置り、市に市姫の神、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0602 橋に橋姫の神を祭るがごとし、東鑑第八に、越の白川關の明神に奉幣と有も、關守神にして、今も關戸明神(○○○○)とて、所々殘りたるも有也、

〔新千載和歌集〕

〈十三戀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0602 題しらず 二條院さぬき こえて後物思ひけるあふ坂は關もる神やゆるさヾるらん

關寺

〔更科日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0602 霜月の廿よ日いしやまにまいる、雪うち降つヽみちのほどさへをかしきに、あふ坂の關を見るにも、むかし越えしも冬ぞかしと思ひいでらるヽに、そのほどしもいとあらうふいたり、 あふ坂の關の山風吹聲は昔聞しにかはらざりけり、關寺(○○)のいかめしうつくられたるをみるにも、その折あらつくりの御かほばかりみられし折、思ひでられて、年月の過にけるもいとあはれなり、

所在

〔令義解〕

〈五軍防〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0602 凡置關應守固者、〈◯中略〉其三關者、〈謂伊勢鈴鹿、美濃不破、越前愛發等是也、〉

〔令抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0602 三關國 愚謂、伊勢鈴鹿關、美濃不破關、越前愛發關、謂之三關國也、

〔二中歴〕

〈六關路〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0602 三關 勢多(○○) 鈴鹿 不破關 今案、勢多〈在近江國栗太郡〉 鈴鹿〈在伊勢國鈴鹿郡〉 不破〈在美濃國不破郡〉義解令云、三關者、鈴香、不破、愛發也、愛發者在越前國敦賀郡、而今以勢多關者、

〔拾芥抄〕

〈下本三關〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0602 三關 勢多〈在近江國栗太郡〉鈴鹿〈在伊勢國鈴鹿郡〉不破〈在美濃國不破郡

〔名目抄〕

〈公事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0602 三關〈會坂(○○)、鈴鹿、不破、固關之時、此三關也、〉

〔増補下學集〕

〈上一天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0602 文司關 奈古曾關 不破關〈信州〉 徒越關〈在枕草紙〉 霞關〈武藏〉 刈萱關〈筑前〉

〔枕草子〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0603 せきは あふさかのせき、すまの關、すヾかのせき、くきだの關、しら川のせき、衣の關、たヾこえのせき、はヾかりのせきと、たとしへなくこそおぼゆれ、よこばしりの關、きよみがせき、見るめの關、よしなしのせきこそ、いかにおもひ返したるならんと、いとしらまほしけれ、それをなこその關とはいふにやあらん、あふ坂などをまで思ひ返したらば、わびしからんかし、あしがらのせき、

〔八雲御抄〕

〈五名所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0603 關〈◯中略〉 あふさかの關、〈近 古今 万男、いはし水、祓、〉 見るめ〈同〉 よし〳〵の〈同〉 ふはの〈美乃、後撰清正〉 きの〈紀 万〉 となみの〈越中 万 やきたちを關〉 なこその〈陸 後師賢〉 ころもの〈同 後〉 あしがらの〈相 後〉 しらかはの〈陸 拾兼盛〉 はヾかりの〈同 後拾〉 清みが〈駿 海邊ふじのすそ也、詞花、 平祐岑〉すまの〈攝與播同歟 新古忠見、海邊、〉 もじの〈筑前 海邊 金 顯輔〉 したひもの〈東國 詞甲斐歌〉 すヾかの〈伊勢〉 くきだの〈同 源氏〉 かすみの〈東國武藏也〉 たヾこえの〈清少納言草ね〉 よこばしりの〈同、又在天暦御記、駿河也、〉 みるめの〈同〉 うるまの〈美乃 開とはなけれども、在重之歌、〉 いはでの〈陸〉 いなむやの〈出羽 むや〳〵のせき同名也〉 てまの〈出雲〉 異説、とや〳〵とりのむや〳〵の關鷹をいふ、せきはすヾかといふ不用也、いはとのせきとよむはそらなり、非關、あくと云は夜のあくる也、

〔出雲風土記〕

〈神門郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0603石見國安農郡堺多枳々山卅三里、〈路常有剗〉通同安農郡川相郷卅六里、〈徑常剗不有、但當政時權置耳、〉

〔出雲風土記〕

〈仁多郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0603 通伯耆國日野郡堺阿志毘縁〈◯縁緑歟〉山卅五里一百五十歩、〈常有剗〉通備後國惠宗郡堺遊託(ユキ)山卅七里、〈常有剗〉通同惠宗郡堺比布山五十三里、〈常無剗、但當政時權置耳、〉

〔今昔物語〕

〈二十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0603 近衞舍人於常陸國山中歌死語第卌五 今昔ノ比ノト云近衞舍人有ケリ、神樂舍人ナドニテ有ルニヤ、歌ヲゾ微妙ク詠ケル、其レガ相撲ノ使ニテ東國ニ下タリケルニ、陸奧國ヨリ常陸ノ國ヘ超ル山ヲバ、燒山ノ關(○○○○)トテ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0604 極ク深キ山ヲ通ル也、

〔源平盛衰記〕

〈二十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0604 平氏清見關下事 平家ハ東路ニ日數ヲ經ツヽ、路次ノ兵召具シテ五萬餘騎ニテ、駿河國清見ガ關(○○○○)マデ攻下レリ、旅ノ空ノ習ハ、哀ヲ催事多ケレ共、此關コトニ面白シ、實ニ傳聞シヨリモ猶興ヲ催ス、南ト西トヲ見渡セバ、天ト海ト一ニテ、高低眼ヲ迷ハセリ、東ト北トニ行向バ、磯ト山ト境テ、嶮難足ヲツマダテタリ、岩根ニ寄ル白浪ハ、時サダメナキ花ナレヤ、尾上ニ渡ル青嵐モ、折シリガホニイト冷、汀ニ遊鷗鳥群居テ水ニ戯レ、叢ニ住蟲ノ音トリ〴〵心ヲ痛シム、

〔北條分限帳郡村略考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0604 武州關戸 永五拾貫文 武州多摩郡ノ内玉川涯、古しへ山田の關(○○○○)と云所なり、古しへ鎌倉の驛路なり、府中明神近所、〈◯下略〉

〔新編相模國風土記稿〕

〈二十七足柄下郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0604 箱根御關所(○○○○○) 宿〈◯箱根〉ノ東方ニアリ、世々小田原領主ノ預リ警衞スル所ニシテ、〈寛永譜曰、稻葉丹後守正勝、寛永九年相州小田原ノ城ヲ賜ハリ、八万五千石ヲ領ス、且鈞命ヲ受テ箱根ノ關ヲ守ル、是要地タルニヨリテナリト云々、按ズルニ、此時初テ小田原城主ノ預レル所トナリシナルベシ、此以前ハ御番城、或ハ小諸侯タルヲ以テ、官家ノ進退ナリシナラン、〉今大久保加賀守忠眞奉リ、家士若干ヲ置テ守ラシム、此地ハ西面ノ要害ニシテ譏察尤嚴ナリ、

〔新編相模國風土記稿〕

〈二十八足柄下郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0604 箱根三社權現社上、關所跡二、一ハ末社護法神ノ社地、其舊跡ナリト云、此關後ニ今ノ仙石原村ヘ〈足柄上郡ノ屬〉移サレシト傳フ、一ハ舊跡横大門鳥居ノ邊ナリト、〈寺傳ニ古ヘ箱根水呑ノ關ト唱ヘシハ是ナルベシト云、此地平常水湧出シテ、イカナル旱魃ニモ枯ル事ナシ、サレド今相豆堺木ノ西、豆州ノ屬ニ水呑ト唱フル所ニ其舊蹟アレバ、此地ト云ハ信用シガタシ、〉此關今ノ箱根御關所ニ移サレシト云、

廢置

〔日本書紀〕

〈二十八天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0604 元年六月甲申、〈◯中略〉至伊勢鈴鹿、爰國司三宅連石床、介三輪君子首、及湯沐令田中臣足麻呂、高田首新家等、參遇于鈴鹿郡、則且發五百軍、塞鈴鹿山道川曲坂下而日暮也、以皇后疲之、暫留輿而息、然夜曀欲雨、不淹息而進行、於是寒之、雷雨已甚、從駕者衣裳濕、以下寒、及

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0605 重郡家、焚屋一間而令寒者、是夜半、鈴鹿關司、遣使奏言、山部王、石川王、並來歸之、故置關焉、天皇便使路直益人徴、 丙戌、〈◯中略〉益人到之、奏曰、所關者、非山部王石川王、是大津皇子也、便隨益人參來矣、〈◯下略〉

〔帝王編年記〕

〈十天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0605 二年七月、始立不破關、〈美濃國不破郡〉

〔日本書紀〕

〈二十八天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0605 元年六月壬午、〈◯中略〉差發諸軍、急塞不破道、〈◯中略〉男依〈◯村國連〉乘驛來奏曰、發美濃師三千人不破道

〔日本書紀〕

〈二十九天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0605 八年十一月、是月、初置關於龍田山、大江山、仍難波築羅城

〔續日本紀〕

〈二十孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0605 天平寶字元年七月庚戌、勅使又問奈良麻呂、〈◯中略〉欵云、〈◯中略〉置剗奈羅己大憂、

〔續日本紀〕

〈二十二淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0605 天平寶字三年十月戊申、去天平勝寶五年、遣左大辨從四位上紀朝臣飯麻呂、限伊勢大神宮之界樹標已畢、而伊勢志摩兩國相爭、於是遷尾垂剗(○○○)於葦淵

〔出雲風土記〕

〈飯石郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0605備後國惠宗郡堺荒鹿坂卅九里二百歩、〈徑常有剗〉通道〈◯通道重出也〉並通備後國之三次郡三坂八十一里、〈徑常有剗〉波多徑須佐徑剗但志志都美徑以上三徑常無剗、〈◯剗恐志衍〉但當政時權置耳、並通備後國也、

〔續日本紀〕

〈四十桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0605 延暦八年七月甲寅、勅伊勢美濃越前等國曰、置關之設、本備非常、今正朔所施區宇無外、徒設關險、勿防禦、遂使中外隔絶、既失利之便、公私往來、毎致稽留之苦、無時務、有民憂、思革前弊以適變通、宜其三國之關(○○○○)、一切停廢、所有兵器粮糒、運收於國府、自外館舍、移建於便郡矣、

〔日本紀略〕

〈桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0605 延暦十四年八月己卯、廢近江國相坂剗

〔日本後紀〕

〈十三桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0605 大同元年三月丙戌、日赤無光、兵庫夜鳴、是夜月蝕之、上謂公卿曰、奄丁酷疚、若湯火、今災眚頻見、責深在予、但崇徳消災著在前修、内外群官、勤匡治道、以補逮、其近仗之甲、盡從脱却、其諸國關津、宜其守、公卿言、近仗著甲、及固守關津、往古恒制、不唯今日、報曰、大行天皇、聖徳弘茂、海内

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0606 清平、有何疑貳、喪服加甲、非以枕伏草土、攀慕哀號者也、又固絶關津、令人擁滯、煩民害農、無於此、宜所司、咸以開通

〔文徳實録〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0606 天安元年四月庚寅、始置近江國相坂、大石、龍花等三處之關剗、分配國司健兒等鎭守之、唯相坂是古昔之舊關也、時屬聖連、相門鍵、出入無禁、年代久矣、而今國守正五位下紀朝臣今守、上請加二處關而更始置之也、

〔享祿本類聚三代格〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0606 太政官符 應相模國足柄坂、上野國碓氷坂、置關勘過事、 右得上野國解偁、此國頃年、強盜蜂起、侵害尤甚、靜尋由緒、皆出馬之黨也、何者坂東諸國、富豪之輩、啻以駄運物、其駄之所出、皆縁掠奪、盜山道之駄、以就海道、掠海道之馬、以赴山道、爰依一疋之駑、害百姓之命、遂結群黨、既成凶賊、因當國隣國共以追討解散之類、赴件等堺、仍碓氷坂本、權置遉邏、令勘過、兼移送相模國既畢、然而非官符、難據行、望請官裁、件兩箇處、特置關門、詳勘公驗http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/0000000193dd.gif勘過者、左大臣宣、奉勅、宜依件令置、唯詳拘姧類、勿行旅、 昌泰二年九月十九日

〔吾妻鏡〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0606 文治五年九月廿七日甲申、二品歴覽安倍頼時〈本名頼義也〉衣河遺跡給、郭土空殘、秋草鏁兮數十町、礎石何在、舊苔埋兮百餘年、頼時掠領國郡之昔、點此所家屋、〈◯中略〉八人男女子宅並簷、郞從等屋閨門〈◯閨門恐對門誤〉西界於白河關、爲十餘日行程、東據於外濱乎、又十餘日、當其中央遙開關門、名曰衣關、宛如函谷、左隣高山、右顧長途、南北同連峯嶺、〈◯下略〉

〔明日香井集〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0606 あづまのみちにて讀ける歌中に 雅經 足がらの山の關守いにしへはありもやしけんあとだにもなし

〔新編相模國風土記稿〕

〈二十一足柄上郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0606 飛鳥井參議雅經ノ歌ニヨレバ、承元建保ノ頃ハ、定マル關ハア

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0607 ラザリシト見エタリ、〈◯註略〉雅經ハ承久三年五十二歳ニシテ薨ゼシ人ナリ、全ク廢蹟トナリシ年暦ハ傳ヘズ、關東御打入ノ後ハ、今ノ處ニ關所ヲ建ラレシナリ、

〔太平記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0607 關所停止事 夫四境七道ノ關所ハ、國ノ大禁ヲ知シメ、時ノ非常ヲ誡メンガ爲也、然ルニ今壠斷ノ利ニ依テ、商賈往來ノ弊、年貢運送ノ煩アリトテ、大津葛葉ノ外ハ悉ク所々ノ新關ヲ止ラル、

〔大乘院寺社雜事記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0607 長祿三年九月二日、自大閤〈◯藤原教房〉御返事到來、爲室町殿、〈◯足利義政〉所々關共被破之、神社關一所可殘之云々、殿下御關同被破之云々、 文明十三年正月十一日、七口關所事、自御臺〈◯足利義尚妻〉又可立之云々、仍近所之土民共、申合可破由支度之間、不立之云々、

〔織田軍配〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0607 新公方御凱陣將軍宣下并御能附關所停止事 同月〈◯永祿十一年十月〉廿四日、〈◯中略〉今日諸國ノ軍兵等各御イトマ被下、皆己ガ國ヘ歸ル、又諸國關所ノ儀、天下旅人ノ煩ナリ、亂世ニテハ加様ノ事モ被相止、諸人ノ煩ナキ様ニト、信長様々執シ申シ上ラレケレバ、今日諸國關所ノ儀一向儀一向可停止由、只管要ノ地バカリヲ可相守旨被定ケリ、

〔信長記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0607 關役所停止之事 角テ勢州平均ニ打シタガヘ給ヒシカバ、且政道可取行トテ、宗徒ノ人々ヲ召集メテ仰セケルハ、當國關役所悉ク可停止ト思フハイカニ、往還ノ費ノミナラズ、殊更參宮ノ輩モ過半セリ、萬人ヲ安ンズル事ハ、國家ヲ保ツ者ノ樂トスル所也、〈◯中略〉是ヲ傳聞人々、イカサマ天下ヲ能治メン人ハ、一定信長殿ニテオハスベシト咡カヌ者モナカリケリ、〈◯中略〉十一月〈◯永祿十二年〉十日、千種越ニ懸リ急ガセ給フ程ニ、翌日上京有テ、今度於勢州凶徒等悉攻亡シ、萬民撫育ノ功ヲ立、諸關令停止、往還ノ累無キ様ニ致沙汰ツル趣、被申上ケレバ、義昭公不斜御感有テ、國光ノ御脇指マイラセ給ヒケリ、

〔新編相模國風土記稿〕

〈二十七足柄下郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0608 箱根御關所 宿〈◯箱根〉ノ東方ニアリ、〈◯中略〉建置ノ始ヲ詳ニセズ、或ハ元和四年箱根新驛開ケシ頃ノ事ナルベシトイヘリ、〈安國殿御家譜ニハ、慶長十五年頃ノ事トナス、〉抑箱根山中ニ關隘ヲ置シハ尚シキ事ナレド、其地ハ變遷アリシトミユ、承久ノ亂ニ鎌倉ノ評定ニ、足柄箱根兩道ニ關ヲ固メ、官軍ノ下向ヲ待ベキノ議アリ、〈◯註略〉此頃既ニ關アリシ事知ルベシ、其地ハ何レノ所ナリヤ考フベカラズ、康暦二年六月、箱根蘆川宿ノ邊ニ關ヲ置、其征錢ヲ鎌倉圓覺寺修理ノ料ニ宛シ事見ユ、〈◯註略〉コレ當今關所ノ邊ナルニヤ、サレド蘆川宿ヲ元箱根ノ邊ト云説アレバ、彼所ノ事ナルモ知ルベカラズ、〈現ニ元箱根ニモ古關ノ蹟アリ〉應永十三年六月ノ文書ニ、箱根山水飮關所ノ事ヲ載ス、〈◯註略〉水飮トイヘルハ箱根山中ニテ、豆州君澤郡山中村ノ屬ナリ、天正十年十二月、朝比奈彌太郞、小田原ヨリ日金越ニ駿河ニ歸リシニ、箱根山中ニテ異形ノ女ニ出會、山ノ麓玉澤ト云所〈豆州ノ屬〉ニ至リ、山中ノ關守半田ト云ル人ノ女ヲ荼毘セルヲ見テ、先ノ女ハコノ幽魂ナラント思ヒ誤リシ事アリ、〈小田原記所載〉此頃ハ尚豆州山中ニ關アリシナラン、同十七年十月、豐大閤、小田原出陣ノ用意トして、北條氏ヨリ山中城ヲ増廣メ修營セシ時、前ノ岱崎ヲ城構ニ取入ル、是ハ昔ノ關所ノ蹟ナリトミユ、〈同書〉然レバ此頃山中ノ關ハ既ニ廢蹟トナリシ事知ラル、又箱根社傳ニハ、箱根ノ古關ハ横大門鳥居ノ邊ニアリシヲ、後ニ今ノ地ニ移サレシトナリ、

〔嘉永明治年間録〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0608 文久三年十二月五日、關門ヲ江戸武家小路各所ニ置ク、 今度御上洛御留守中、武家屋敷爲取締、所々關門新規御取建に付、番人ハ士分一人、足輕一人、中間一人、辻番組合より差出し、朝正六ツ時より開き、夜ハ五ツ時しめ切可申、御用筋、又ハ病人有之醫師呼寄、或ハ用辨手間取、時刻後れ、無據子細有之分ハ、往先場所を尋ね、何時にても潛りより相通し可申候、但木戸門開閉の儀ハ、辻番所有之場所ハ番人相心得可申、自然番所無之場所ハ、新規假番所取建可申事、

〔徳川禁令考〕

〈三十五關所并渡船場〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 元治元子年九月二日 長崎表新關取建ニ仕御書付 和泉守殿御渡 三奉行江 此度、長崎表出入之口々、日見、西山、浦上、茂木、四ケ所江新關取建候ニ付而ハ、諸家家來所用ニ而通行候ハ勿論、假令主人用向たりとも、兼而主人又ハ其役方之者より、長崎奉行所江判鑑差出置、右可引合判鑑持參不致者ハ、右關所おゐて出入共差留候筈ニ候、且百姓町人職人之類、商賣又ハ稼之ため、或ハ所用有之通行之者ハ、其所之村役人、町役人之印紙持參出入可致旨、御料ハ御代官、私領ハ領主地頭より不洩様可相觸候、 右之趣可相觸候 九月

〔嘉永明治年間録〕

〈十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 慶應三年十二月、關ヲ江戸四方ニ置ク、 爲市中在取締、當分の内、御府内出口所々へ關門御取建相成、諸士の分ハ主人、又ハ重役より何方へ家來幾人差遣旨斷書、百姓町人ハ所役人の添書持參無之に於てハ、出入共一切通行差留置、斷書添書其關門にて相改め、疑敷子細も無之候へバ、於同所切手相渡候間、右切手所持不致旅人は、御府内ハ勿論、道中筋並在々にても、決て旅宿爲致間敷候、右改不受押て通行可致と仕り、又ハ旅行切手所持不致旅人ハ無用捨召捕、若及手向候ハヾ切捨候筈に候、尤當時出府途中にて、關門通行方不相辨者共ハ、於關門篤と相糺し、疑敷筋無之候へバ相通候筈に候、 右之趣、御料私領寺社領とも、不洩様可相觸候、

〔憲法類編〕

〈十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 諸道關門廢止等ノ事 一諸國街道筋ニ於テ(戊辰(明治元年)五月十七日御布告)、私ニ關門或番所等取建候儀、被停止候事、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0610 但是迄被建置候諸道關門、廢止被仰出候事、 今般大政更始(己巳(明治二年)正月廿日御布告)、四海一家之御宏謨被立候ニ付、箱根始諸道關門廢止被仰出候事、

制度

〔日本書紀〕

〈二十五孝徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0610 大化二年正月甲子朔、賀正禮畢、即宣改新之詔、〈◯中略〉其二曰、初脩京師、置畿内國司、郡司、關塞、斥候、防人、驛馬、傳馬、及造鈴契山河、〈◯中略〉凡諸國及關、給鈴契、並長官執、無次官執、

〔令義解〕

〈九關市〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0610 凡行人出入關津者、〈謂行人者公私皆是也、津者攝津、其要路津濟置船運度、自依雜令此條、〉皆以人到先後、不停擁、〈◯中略〉 凡丁匠上役、及庸調脚度關者、皆據本國歴名、〈謂此令歴名與律總歴義同也、〉共送使勘度、其役納畢〈謂丁匠役畢、調庸納畢也、〉還者、勘元來姓名年紀、〈謂丁匠初度、皆有歴名、關司寫録、以立注記、當其還時、據此勘放、〉同放還、〈◯中略〉 凡蕃客初入關日、所有一物以上、關司共當客官人具録申所司、〈謂關者、初所經之關、若無關處者國司撿挍、當客官人者、領客使也、所司者治部省也、〉入一關以後、更不撿、若無關處、初經國司亦准此、〈◯中略〉 凡關門並日出開、日入閉

〔類聚三代格〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0610 太政官符 應制孫王任意出入畿外事 右得美濃國解偁、此國停關之後、不往來、由玆東海道諸國牧宰五位已上任意枉道、亦孫王擅以出入、人民騷動、郡内不靜、雖禁止、積習不遵望請特下嚴制、令將來、謹請官裁者、右大臣宣、奉勅、宜五位已上、依法禁制、但至于孫王、未此制、自今以後、同以禁止、自餘諸國亦宜此、若有違犯、録名言上、 仁壽三年四月廿六日

〔享祿本類聚三代格〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0610 太政官符 應斷諸人濫入關門事 右得陸奧守從五位上小野朝臣俊生解状偁、撿案内、關門有禁、其來久矣、而頃年遊蕩之輩、往還任情、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0611擾吏民、雖嚴制、習俗難革、望請官裁、内外官人、及諸司諸家雜色等、非公事、犯法濫入者、禁固其身、即將言上、但毎月結番、差一分一人、令關門、若致脱漏者、解却見任、以懲將來者、從二位行大納言兼左近衞大將源朝臣多宣、奉勅依請、 元慶四年九月五日

〔建武以來追加〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0611 諸國新關〈并〉津料事 成諸人往來上下之煩之條、太以不然、早本新共、可廢之歟、〈◯中略〉 同守護人非法條々 一大犯三箇條〈付刈田狼藉使節遵行〉外、相http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001ad4e.gif 所務以下地頭御家人煩事、〈◯中略〉 一搆新關津料山手(○○)河手、成旅人煩事、 以前條々非法張行之由、近年普風聞、雖一事違犯之儀者、忽可易守護職、若正員不存知代官結構、之條、蹤跡分明者、則可上彼所領、無所帶者、可遠流之刑矣、〈◯中略〉 新關事 近年御免分、且可其沙汰、其外自由之新關者、嚴密可停廢之由、可仰下歟、

〔上杉古文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0611 關東進物事、度々雖之、於諸關尚及違亂之條太無謂、就中細々上下等、以判留壹岐入道印相違候趣、同被仰之處不承引云々、招其咎歟、所詮向後有異儀族者、可罪科旨、可觸尾張遠江兩國中關所由也、仍執達如件、 寶徳三六月十八日 永存〈在判〉 性通〈在判〉 守護代

〔上杉古文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0611 關東進物并上下等事、以判留壹岐入道方印、國中諸關渡不相違候之處、背其旨

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0612 異儀之條不然候、所詮於向後其煩之旨、所々江堅可相觸之由候、恐々謹言、 六月〈◯寶徳三年〉廿一日 政元〈在判〉 高俊〈在判〉 矢部遠江守殿

〔教令類纂〕

〈九十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0612 寛永二乙丑年八月廿七日 定 一往還之輩、番所之前ニ而笠頭巾ヲぬがせ相通べき事、 一乘物ニて通候者、乘物之戸をひらかせ相通すべし、女乘物ハ女ニ見せ通すべき事、 一公家御門跡、其外大名衆、前廉より其沙汰可之候、改るニ及べからず、但不審之事あらば格別たるべき事、 右此旨ヲ相守るべき者也、仍而執達如件、 寛永二年八月廿七日 奉行 寛永十五戊寅年 京都又者從江戸、以人馬御朱印急相通輩者不沙汰、大坂御定番衆、兩町奉行證文次第急可相通、子細於文言者、夜中可之、其外所々守護人、所之奉行人慥成證文有之者不夜中之候、注進之旨趣於分明者、穿鑿之上可之候、此外夜中一切不之もの也、 月日 美濃 豐後 三宅半七郞殿 土屋忠次郞殿

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0613 慶安四辛卯年十二月廿日 覺 一箱根 今切 氣賀 右之所々、上使并繼飛脚之外者、夜通し一切通し申間敷事、 一桑名 熱田渡海 右は不晝夜往還之者不苦、但不審成者、夜通し渡海可相留事、 明暦三丁酉年二月廿三日 一從鎌倉大山つく井小佛筋 一從葛西幸手はとがひ鴻巣筋 一從八王子山のね筋關所之内 右之通り三組ニいたし、關宿、岩附、忍、川越、高崎、安中、小田原城下を除、手ニ合候様ニ可相迴事、 以上 酉二月廿三日 武州相州 武州總州 武州 左原三郞兵衞 内藤加兵衞 野呂一郞右衞門 山本九兵衞 久保寺小左衞門 下枝忠兵衞 寛文六丙午年十月 定 一此關所番所ノ前ニ而、往還之輩頭巾をぬぐべき事 一乘物ニ而通る面々、乘物之戸をひらくべし、但女乘物者、番之輩差圖に而女に見せ可通事、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0614 一公家門跡諸大名參向之時者、前廉より其沙汰可有之間不之、自然不審之儀於之者、可格別事、 一鐵炮之儀、以相定證文之事、 右此旨可相守者也、仍下知如件、 寛文六年十月五日 奉行 寛文七丁未年五月、今切御關所改次第、 一與力貳人、同心六人宛、五月代勤之、從先規勤來候奉行家來(○○○○)之者貳人、與力、番所江差加候事、 一女并鐵炮を第一改可申候、欠落者等者、先規より構無之、但品ニ寄候事、 一關東西國渡海之船、今切ニ掛候分者可改事、 一登下之者、脇々より船之出入いたさせ間敷事、 一渡船之儀、一日ニ水主頭壹人、同組頭四人、水主百貳拾人ヅヽ三番ニ可相勤事、 一夜中一切不之、但御定之面々者格別之事、 一下り之鐵炮ハ、總而御老中御證文ニ而通し申候、登り者ハ構無之事、 一長三尺以上之下り荷物計改、長持類ハ登りをも改之事、 一鐵炮置手形并夜通之事、兩鑑板之面之通可之事、 一女者上下共改之、坊主并前髮有之者、比丘尼小女に紛候故、見明候而改通候事、 一御番所長屋之内ニ妻子有之者兩人差置、乘物ニ而參り候女をバ、右之女房出之見せ改申候、町人之妻女等者、御番所前ニ而乘物之戸開之、同心共改見候而通べく之事、 一歴々之女中者、宿改と申候而、町屋ニ而改候事、 一登下之女、新居舞坂邊に而出産、依之證文ニ者、出生之女子載不申候共、右之産仕候宿、請人ニ立

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0615 候ハヾ可之、但他所ニ而出産證據等不分明ニ候ハヾ、奉行中へ伺可申事、 一登女手形帳ニ仕、二月八月御留守居衆江可返事、 以上

〔柳營秘鑑〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0615 諸關所御條目 一此關所を通る事、番所之前にて笠頭巾ぬぐべき事、 一乘物ニて通る面々ハ、乘物之戸を開くべし、但女乘物者、番之輩差圖ニて見せ可通事、 一公家門跡方諸大名參向之節ハ、前廉より其沙汰可之候間不之、自然不審之儀あらば、可格別事、 右可守此旨者也、仍執達如件、貞享三年四月日 奉行

〔初心階梯集〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0615 道中筋往來心得之事 一御關所ハ、馬駕籠共下乘し笠を取、番人詰居候所に罷越、元〆之手形可差出、通り候様申聞候ハバ可相通事、〈◯中略〉 一御料私領口留番所ハ、多分乘打いたし候へども、加賀の國の口留番所ハ、領主之番所にて大造にいたし置、女にても下乘爲致候仕來之由、彼是相拒候、然れども女ハ強而申張候へバ、乘物之まヽ通し候、右體之所え差懸り候ハヾ、病人ハ格別、無左ハ何となく歩行にて通るべし、男ハ勿論なり、彼是論じ候て益なし、耻辱にも外聞にもなるまじき事、

〔徳川禁令考〕

〈三十五關所并渡船場〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0615 寛政三亥年五月 御目見以下之者、御關所通行之節、下乘可致旨達、 諸國御關所御目見以下之者、通行之節、下乘致罷通候様可仕旨、兵部少輔殿被仰渡候、此段御關所

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0616 預リ御代官、并御目見以下之御支配向江御達可之候、依之御達申候、以上、 五月 坂部十郞右衞門

〔代官例要〕

〈四御關所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0616 一御關所御目見以下ノ者通行心得之事 諸國御關所御目見以下之もの通行ノ節、致下乘罷通候様、兵部少輔殿被仰渡候、諸家中ノ義も御目見不仕家來者、下乘仕候様被仰渡候、尤右家來之内、御目見茂仕候者ハ、是迄之通、駕籠ニ而罷通候様被仰渡候、依之申達候、以上、 七月(寛政三亥年(朱書)) 坂部十郞右衞門 別紙御書取〈◯中略〉之趣意、不殘御組御支配向江御達有之筋候ニハ無之、御文言之内、御達可然義計、御組御支配江御達可之事、 御關所通行之儀ニ付、兵部少輔殿江猶又御趣意相伺候處、御目見仕候家來者、一同駕籠ニ而罷通候様相達候譯ニ者無之、只今迄御目見仕候陪身ノ内ニ者、駕籠ニ而通來ことも有之候間、右之分者、是迄之通りニ而相替儀無之事ニ候旨被仰聞候、依之尚又爲御心得申達候、以上、七月(寛政三亥年(朱書)) 坂部十郞右衞門

〔青標紙〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0616 諸御關所通行的例 寛政四子年、井伊兵部少輔殿被仰達候、 一諸國御關所、御目見以下者、通行之節、致下乘罷通可申旨、但御目見以上ハ、諸御關所、駕籠ニ乘通り候事、如先規相心得候事、

〔青標紙〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0616 諸御關所通行的例 福島御關所之事 鐵炮數筒者、御老中御證文ニ而通候事、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0617 一下リ鐵炮、御老中御證文ニ而通候事、 一弓長柄等數多節者、其家之家老手形ニ而相通候事、

〔代官例要〕

〈四御關所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0617 一房川渡中田御關所改方ノ事 寛政十午年、菅沼下野守より中川飛騨守江、右御關所囚人通方(○○○○)問合候處、囚人江戸表江呼出しノ節、目籠ニ而手鎖腰繩ニ而茂、囚人ニ差添罷越候もの、印形書付ニ而相通候事ニ候、則振合左之通、 覺 何國何方 〈百姓歟無宿歟〉 一囚人何人 たれ とし 右之もの共、目籠か手鎖腰繩ニ而、何國何郡何村より江戸表何方迄差出申候、其御關所無相違御通可下候、以上、 年號月 何ノ誰(何ノ何役 何之誰組 何之誰家來) 〈房川中田〉御關所 御番衆中 房川渡中田御關所女通方ノ儀 文政八申閏八月、太田攝津守より曾我豐後守江問合ニ付、右支配山田茂左衞門江御尋、答書左之通、〈◯中略〉 一江戸入繩附女通方ノ事 此儀、男囚人同様、懸リ之役人、諸家之家來、又ハ村役人等ノ手形ニ而相通申候、

〔氏家叢書〕

〈七關所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0617 享和四子六月、松浦越前守様御用人迄問合、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0618 覺 一面體襟咽乳より上、并手足之内見へ渡候處、 疵 灸之跡 一髮之中 出來物 疵 灸之跡 釣ぬけ 釣はげ 小枕摺 櫛摺 左右之髮切延立 中挾之髮延立 生れ付又は煩ニ而 髮至而薄 同斷ニ而 髮先を不揃 同斷ニ而 髮至而短 但是は箇成ニたぼ出し候上、箇成ニ女まげニ出來候髮之心得、 同斷ニ而髮短く 髮ニ紛敷女 但是は箇成ニたぼ出し候上、箇成ニ女まげニ不相成候程之髮之心得、 前髮切 小枕下タ中剃 前髮下タ中剃 右は御關所、女御手判相願候節、書載ニ不及候品、并書載候品、兼而心得罷在度、御問合申上候、以上、 内藤帶刀家來 六月六日 直井三右衞門 文化十三子年四月、中川御番坪内玄蕃様御用人江、左之問合差出附札濟、尤別段之間柄、殿之書面也、 甲斐守様御家來、上總國山邊郡東金御領分江往來共、中川御關所前船ニ而罷通候節、鑓爲持候者は、御關所前江船漕寄候得共、下番之衆被出候節、船中より口上ニ而左之通、 板倉周防守家來何之誰、上總國山邊郡東金領分江罷越申候旨、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0619 但出府之節者、江戸屋敷江罷越候旨、 下ゲ札  http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_3_0619_001.gif 御書面之通ニ而宜御座候、但鑓持有之上下三人ニ候得者、改相通申候、上下貳人ニ而鑓通不申候、 一鑓不持者ニ而、前同斷之口上斷ニ而、宜御座候哉、 下ゲ札  http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_3_0619_002.gif 御書面之通ニ而宜御座候、但鑓不持者は通り掛り通候旨、船頭斷ニ而も相濟申候、 一右兩様、駕籠ニ而罷通候節者、駕籠より船中江罷出、駕籠之戸左右江明ケ置候心得ニ而御座候、 下ゲ札  http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_3_0619_003.gif 御書面之通ニ而宜御座候 一跡付有之候得者、其段相斷候心得ニ而御座候事、 下ゲ札  http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_3_0619_004.gif 御書面之通ニ而宜御座候、但鑓武器等無之跡付計ニ候得者、跡付持場跡付之よし斷罷候而已宜御座候、 右之通、御内々御問合申候、乍御面倒御付札可下候、以上、 四月五日 水野石右衞門

〔嘉永明治年間録〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0619 慶應二年四月、此月鐵炮ヲ齎シ關所通行規則、 周防守殿渡書付 諸家領分、其外へ鐵炮相廻し候節、關所通行方の儀、重立候家來の印紙へ員數相認め、直に關所々々へ差出し、通行可致旨、先年相觸候處、向後ハ其筋より斷無之てハ不相通筈に付、萬石以上以下とも、前以て砲數玉目等取調べ、相屆候様可致候、且供連の内、持せ候

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0620 分、荷造りたるも、是迄の通り可心得候、 右之通、万石以上以下の面々へ可達候事、

〔徳川禁令考〕

〈三十五關所并渡船場〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0620 慶應三卯年七月二十日、關所通シ方改正ニ付御書付、 美濃守殿御渡 大目付江 關所通し方之儀、前々より御規定之趣も有之候處、今度御變革被仰出候、來ル八月朔日より別紙之通ニ可相心得候、尤是迄御留守居ニ而取扱候廉も、以來都而關所懸リ御目付取扱候筈ニ候、 七月 條々 一婦人通し方之儀、別段之改無之、總而男子同様之振合を以相通シ、小女も振袖留袖勝手たるべき事、 一剃髮、總髮、かぶろ等、總而別段之改無之候事、 一首、死骸亂心手負囚人等手形無之候共、差添之者より證書差出通行可致事、 一諸役人急御用之節、上下共夜中も通行不苦候事、一鐵炮武器ハ御品ニ差添之者より、證書差出通行可致事、 一是迄印鑑引合通行之分、以來其儀ニ不及候事、 右之通可相心得候、以上、

〔代官例要〕

〈四心得方〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0620 一今切御關所通行心得之事 御關所通行之節、前日泊り又ハ前宿抔江本陣宿役人共罷出、御關所通行方案内可致旨申立候儀有之、既ニ拙者通行之砌茂前夜罷出、案内之義申込候ニ付、御用ニ付御關所通行いたし候迚、本陣

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0621 罷出、案内可致由申立候者、以ノ外心得違ニ而、本陣ハ旅宿等之世話引受可致者勿論ノ事ニ候處、前宿又ハ途中ヘ出、御關所案内可致身分ニ無之宿役人迚も、同様ノ旨嚴鋪叱リ、以來御關所通行方江、決而携申間鋪旨申聞差歸申候、兎角旅行ノ役人不案内江附込、夫丈之謝禮可請與、心得違之取計いたし候儀ニ而、旅行之面々ニ茂御關所通リ方、手重ニ心得懸念ヲ遣ひ、本陣宿役人等相頼候者、是又心得違之事ニ候、依之拙者義、天保二卯年九月四日、御關所通行方左之通り、 一今切御關所通之節、御關所番江家來差遣し姓名申述、其身者駕籠之儘、左右之戸ヲ五寸程宛明ケ、會釋もなく致通行候、尤長持其外御關所前へ揃置、鍵ヲ家來ニ爲持、番人江鍵ヲ爲見、改請度旨申込候得者、一ト通及見候迄ニ而相通申候、其節附添ニ召連候手附田中八十次郞ヲ以て、御關所詰合ノ同心内藤正平江、家内引請之節、通行心得方問合候處、左之通挨拶有之候、 一御關所通行ノ節、前廣川役人、又ハ宿役人、或者本陣抔より沙汰有之候得バ宜よし、内藤正平相答候へ共、拙者通行之時者、家來遣し相斷、宿役人本陣等ヘハ決而相頼不申候、 一家内御關所通行之砌、御門際江駕籠ヲ留置候ヘバ、婆々壹人罷出、戸ヲ明ケ髮ヲ少しとき、又ハ笄抔拔、髮ノ長短ヲ改め候仕來ニ而、御手判文面ニ者無之とも、右之通取計候由相答候、 一鐵漿附小女共、都而振袖ヲ著用いたし候事相答候、 一改候婆々江目録等請取候由ノ義者、一向ニ及承不申旨相答候、 右之通ノ心得之由、内藤正平相答候、 〈見合ノため出之(朱書)〉天保三辰二月(朱書)、拙者家内、和州五條陣屋江引越ノ節、 箱根御關所ニ而者改候婆々江 妻 金百疋

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0622 娘 金貳朱 下女貳人ニ而金壹朱 今切御關所ニ而者 妻 金貳朱 娘 金壹朱下女兩人ニ而錢四百文遣ス 是者改方一ト通ニ付、箱根同様祝儀遣候而も宜し、 右朱書之通、拙者家内引越候節、爲取計申候、不案内ノ方ハ無益ニ多分ノ目録遣、且案内ニ出候、本陣宿役人江も、夫々祝義遣候向も有之由ニ付、見合ニ記し置候、然ル上者、御關所ニ而定法之通、老婆立出、悉ク髮抔改、下女抔も同様嚴重ニ改候ハヾ、目録聊ニ而も不遣心得ニ有之候、一ト通改候計ニ候ハヾ、朱書之通、祝義心入ヲ以遣ひ候事與存候、 一下女兩人ノ内、壹人者引戸駕籠、壹人者乘物駕籠ニ乘セ候處、箱根今切ニ而下女之分者、駕籠よりおろし可申哉之段、附添ノものより、御關所番人江問合候處、勝手次第ニ可致旨挨拶有之候間、兩御關所とも、駕籠ニ乘候儘罷通り申候、 附録 天保三辰年十二月、御留守居石川左近將監江青山九八郞より問合挨拶、 御問答書 青山九八郞 東海道 〈箱根新居〉御關所 中山道

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0623 〈碓氷福島〉御關所 右御關所支配所ヘ引越ニ付、家内之もの通行ノ節、鐵附小女とも振袖ヲ著用いたし候事ノ由、既ニ新居御關所通行之砌、御關所同心内藤正平江、家來より女通行心得方問合候之節、都而鐵附小女とも振袖著用爲致候由申聞候、依之私家内之もの共ハ、手當も爲致可申候得共、手附手代又者足輕抔、至而身輕之もの迄、振袖著用不致候而者、通行難相成御規定ニ御座候哉、一體手代已下など、振袖著用可致身分にも御座有間鋪哉ニ候得共、於御關所ハ、如何様身輕きもニ而も、著用不致候而者難相成儀ニ御座候哉、此段心得方伺置度奉存候、以上、 辰二月 御書面、關所之小女并鐵漿附小女共通行之節、振袖著用之義、御問合之趣致承知候、手附手代并身輕ノ者、百姓町人之娘ニ而も、於關所振袖著用爲致可請事、 但新居與御認有之候得共、今切關所與相認可申事、 天保二卯十月、箱根御關所女通行心得方ノ儀、水野出羽守殿家來ヲ以て、大久保加賀守殿家來江同問合いたし候處、左之通、 箱根御關所御用ニ付、遠國江家内引越等之節、通行心得方御問合申候、 一御御見以上ノ乘物并下女之分とも、御關所御門際江駕籠之儘留置、尤通行前家來江、御關所手形爲持通達いたし候心得ニ候、 此箇條本文之通ニ而宜御座候 一改與して老婆罷出候由、御手判ニ者無之候共、悉ク髮ヲ解改候御規定ニ候哉、承知いたし度候、 此箇條本文之通ニ而宜御座候 一鐵漿附小女とも、振袖ヲ著用不致候而者、通行方不相成御規定ニ候哉、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0624 此箇條口達可致候 一改ノ老婆江謝禮與して目録等遣候儀も有之哉、左候ハヾ御目見以上之分何程、御目見以下之分ハ何程、下女者何程宛遣候事ニ候哉、 一通行之節、本陣又ハ宿役人等ヲ以、案内爲致候筋者有之間敷、通行前家來差出候ヘバ、差支も有之間敷事與存候、 此箇條、本陣又者宿役人等ヲ以、案内ニ不及、御家來ヲ以御差出被成候而も宜筋ニ御坐候、 右之趣承知仕候、以上、 卯十月 右挨拶下ゲ札ノ外、内々書状ニ申越候趣左之通、勿論表面之挨拶ニ而者決而無之候得共、心得之爲寫置候、〈◯右以下四十四字朱書〉 御關所前ニ而髮ヲ解、能漉結び置候而爲改候事ノ由、 眉無之女振袖ニ不及、鐵漿附ニ而も眉有之候得バ、小女同様之扱ニ而、振袖之御定ニ候由、併袖脇さへ明居候ヘバ、振袖ノ扱ニ相成、差支無之候由、改之老婆心附ノ義者、御關所ニ而者、一向存不申事ニ御坐候得者、差留筋合ニ付、此義者何とも御咄出來兼候よし、 私ニ承り候處、内々者髮改方等、故障筋申立如何様ニ心付いたし候哉、但平人貳百文、其上者一朱南一位、心付候哉ノ噂ニ候事、 一通行ノ節、本陣宿役人等頼候義、決而夫ニ不及、直ニ被差出候而宜しく、鎗ヲ爲持候身分者、伴頭ノ詰所江、證文被差出候而宜候得共、其以下之ものを被差出候得ば、定番人ノ前江被差出候事ノ由、御關所者何も六ケ敷儀者決而無之候得共、兎角右之本陣宿役人等、彼是六ケ敷申成、取扱振ヲ働候哉之由、右御問合之趣、内々心得罷在候處ヲ御答申上候事ニ而、表立御問合御座候思

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0625 召ニ而者迷惑いたし候、万一何か行違之義有之節、江戸屋鋪ニ而御問合有之候旨、御答被成度思召ニ而之御問合ニ御坐候ハヾ、表立被仰込候様いたし度、別段者極内々聞合候振合に御坐候事、

關契

〔日本書紀〕

〈二十五孝徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0625 大化二年正月甲子朔、宣改新之詔、〈◯中略〉其二日、初脩京師、置畿内國司、郡司、關塞、斥候、防人、驛馬、傳馬、及造鈴契(○○)、〈◯中略〉凡諸國及關給鈴契並長官執、無次官執、

〔令義解〕

〈五軍防〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0625 凡差兵廿人以上者、須契勅〈謂有關國須契、餘國皆待勅符、〉始合差發

〔唐六典〕

〈五兵部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0625 凡親王總戎則曰元帥、文武官總統者則曰總管、以使言之則曰節度使、有大使焉、有副大使焉、有副使焉、有判官焉、若大使加旌節以統軍、置木契(○○)以行動、 ◯按ズルニ、我朝關契ノ製作詳ナラズ、其發兵ニ用ヰルコト、唐六典ニ云フ所ノ木契ニ似タルモノナレバ、蓋シ亦木ニテ造リシナルベシ、但シ後世臨時ニ作ル所ノ木契トハ異ニシテ、即チ常ニハ半ヲ國ニ付ケ、半ヲ御所ニ置テ、天下事アル時、之ヲ合セテ以テ信僞ヲ判ズル用ニ供セシモノナリ、

〔令義解〕

〈七公式〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0625 三關國各給關契〈謂其作契之形制者、須別式、即下條隨身符亦准此也、〉二枚、並長官執、无次官執、〈謂有鈴與一レ契、是以稱並、其長官次官並不在者、主典以上、亦得執掌、〉

〔令抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0625 關契 賊盜律神璽條釋云、問、關契者在御所、隨身符有別以不、答无別、並同罪、後宮職員令云、藏司尚藏一人、掌神璽關契、問、神璽者此司所收歟、讃答、神璽關契此司所收掌、但給三關之斤契(○○)此司掌收、詐僞律云、以僞印鈴契符節修物契、

〔律疏〕

〈賊盜〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0625 凡盜神璽者絞、〈謂踐祚之日壽璽〉關契、内印、鑰鈴者遠流、〈謂利之而非行用〉〈◯下略〉

〔律疏〕

〈職制〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0625 凡用關契、事訖應輸納、而稽留者一日杖一百、一日加一等、十日遠流、

關鑰

〔律疏〕

〈賊盜〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0625 凡盜節刀者徒三年、宮殿門、庫藏及倉廩、筑紫城等鑰、徒一年、〈國郡倉庫、陸奥、越後、出羽等柵、〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0626 〈及三關門鑰亦同〉、〈(中略)謂内外百司及諸關坊市門等、官有門禁、皆是、亦謂貪利之施行、〉

過所

〔易林本節用集〕

〈久言辭〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0626 過書

〔武家名目抄〕

〈職名十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0626 宿次過書奉行 按宿次は驛路の意にして、過書は古の過所なり、所と書と音同じきが故に、俗誤て過書に作りしと見ゆ、此奉行はすべて、路次往還の事をつかさどり、過書を下せる有司なり、〈◯下略〉

〔南留別志〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0626 過所とは關の切手なり、關の切手持ちたる船を過所船といふより、今は其名ばかり殘れり、

〔倭訓栞〕

〈前編八久〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0626 くわそ 過所の音也、續日本紀、關市令、万葉集等に見えたり、釋名に、過所至關津以示也、或云、傳過也、移所在識以爲信と見えたり、今いふきつて也、東鑑には過書とも見えたり、朝野群載に過所牒見ゆ、〈◯中略〉宗白曰古書之帛繻刻木爲契、二物通謂過所也、其所を過るは、官の處分なる故に過所といふ、

〔令義解〕

〈一職員〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0626 左京職〈右京職准比〉 大夫一人〈掌〈◯中略〉左京過所(○○)事、〉 攝津職〈帶津國〉 大夫一人〈掌〈◯中略〉津濟、過所事〉 大宰府〈帶筑前國〉 帥一人、〈掌〈◯中略〉過所事〉大貳一人、〈掌同帥、〉少貳二人、〈掌同大貳〉 大國 守一人、〈掌〈◯中略〉過所事、餘守准此、〉三關國〈又掌關剗〈謂依律關者、撿判之處、剗者塹栅之處是、〉及關契事、〉介一人、〈掌同守、餘介准此、〉〈◯下略〉

〔令義解〕

〈七公式〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0627 過所式 其事云々、度其關、往其國、 其官位姓、〈◯註略〉〈三位以上稱卿〉資人、位姓名〈◯註略〉〈年若干、庶人稱本屬、〉從人、其國其郡其里人、姓名、年、〈奴名年、婢名年、〉其物若干、其毛牡牝馬牛若干疋頭、 年月日主典位姓名 次官位姓名 右過所式、並令式具録二通送所司、所司勘問、即依式署、一通留爲案、一通判給、

〔令義解〕

〈九關市〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0627 凡欲關者、皆經本部本司〈謂本部、本貫也、假有大舍人是京人、而欲關者、依式造過所、先申本寮、寮修許牒於京職、職更判給之類、其外國者、先經本郡、郡亦申國、若有本司者亦經本司也、〉請過所、官司檢勘、然後判給、還者連來文〈謂連來文者、假有行人更欲京國者、皆將來時過所而請還時過所、故云來文也、其依下文即知未去之間、過所仍得隨身、〉申牒勘給、若於來文外更須附者、驗實聽之、日別總連爲案、若已得過所、有故卅日不去者、〈謂既以卅日限、即不滿限者、不更改給、其關司准計行程卅日、亦聽過度也、〉將舊過所申牒改給、若在路有故者、〈謂亦卅日不去者、其雖一處卅日、而通計乃滿限者、亦當國官司具状送關也、〉申隨近國司状送關、雖所部來文者亦給、〈謂假有行人取本部過所來、更亦欲他關國、 而經當所過所者、雖是所部、緑其有來文、亦判給之類也、〉若船筏經關過者、〈謂長門及攝津、其餘不過所者、不此限、〉亦請過所、〈◯中略〉 凡行人度入關津者、皆依過所所載關名勘過、若不詣、別向餘關者、關司不便聽便其入出、凡行人賷過所、及乘驛傳馬入關者、〈謂驛子傳子並无歴名、直計人數勘過、即雖冒度、關司不坐也、〉關司勘過、録白案記、〈謂凡行人及乘驛傳關者、關司皆寫其過所、若官符以立案記、直於白紙録之、不朱印、故云録白也、〉其正過所、及驛鈴傳符並付行人自隨、仍驛鈴傳符、年終録目、申太政官、〈謂附朝集使申送〉總勘、

〔延喜式〕

〈五十雜〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0627 凡京職諸國造過所者、具録馬毛尺寸歳齒、依實勘過、以糺姧欺

〔朝野群載〕

〈二十二諸國雜事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0627 過所牒 某國牒 國路次關々

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0628過某隨身雜物事 右差某國發向、仍可勘過之状、牒送如件、故牒、 年月日 目 守 介 掾

〔續日本紀〕

〈六元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0628 靈龜元年五月辛巳、始今諸國百姓往來過所用當國印

〔享祿本類聚三代格〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0628 太政官符 應過所足柄碓氷等關事 右得相模國解偁、依太政官去年九月十九日符旨、始置件關、爾來部内清靜、姧濫稍絶、而勘過往還之人物、已無本司之過所、因斯無勘據、更致稽擁、望請下知諸司諸國、令過所、將以勘過、其當國以東諸國過所、先令國、國司判署、下關令勘、然則姧濫永遏、人心自肅、謹請官裁者、左大臣宣、奉勅依請、宜仰諸司并東海東山道等諸國、依件令行、 昌泰三年八月五日

〔吾妻鏡〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0628 元暦二年〈◯文治元年〉三月十三日丙申、對馬守親光者、武衞御外戚也、在住之間爲平氏襲之由、依其聞迎取之旨、今日被送參河守之許、剩作過書遣也、 下 西海山陽道諸國御家人 可早無事煩過對馬前司上道事 右彼對馬前司自住國上道也、諸國路次之間、無事煩狼藉勘過之状、所仰如件、 以下 元暦二年三月十三日

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0629 前右兵衞佐源朝臣

〔吾妻鏡〕

〈二十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0629 寛喜元年十月九日、長尾寺院主圓海門弟僧、爲受戒上洛之間、賜路次過書、相州〈◯北條時房〉武州〈◯北條泰時〉連署状也、雖指高僧事、歸依佛法之御志如此云云、

〔伊豆國三島古證文〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0629 禁制 海道路次并宿々狼藉事、或號早馬御持、或稱方々使者、奪取旅人并在地人牛馬、於宿々課雜事、寄事於左右、致種々狼藉之旨有其聞、所詮雖早馬、不過書者不許容、若不制法者、可捕其身之状如件、 元弘三年八月九日 判

〔太平記〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0629 瓜生擧旗事 諸國ノ軍勢共暇ヲモ不乞、己ガ所領ヘ拔々ニ歸リケルヲ押留メン爲ニ、高越後守〈◯師泰〉四方ノ口口ニ、堅ク兵士ヲ居テ人ヲ不通、若ハ所用アリテ此道ヲ通ル人ハ、師泰ガ判形(○○)ヲ取テゾ通リケル、瓜生判官サラバ此關ヲ謀テ通ラント思テ、越後守ノ許ニ行テ、御馬ノ大豆ヲ召進セン爲メニ、杣山ニ人夫ヲ百五十人可遣候、關所ノ御札(○○○○○)ヲ給リ候ヘト云ケレバ、師泰ガ執事山口入道杉板ヲ札ニ作テ、此人夫百五十可通ト書テ判ヲ居テゾ出シケル、瓜生此札ヲ請取テ、下ナル判形計ヲ殘シ置テ、上ナル文字ヲ皆押削テ、上下三百人可通ト書直シ、宇都宮天野相共ニ、深山寺ノ關所〈◯越前國〉ヲ無事故通リテケリ、

〔集古文書〕

〈四十九過書〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0629 寛正四年過書〈屋代弘賢藏〉白川修理大夫連々進上、御馬貳拾匹、人百人、〈荷持在之〉海河之諸關渡、毎度以彼印其煩上下可勘過了、若有異儀之族者、可罪科候、云在所交名、可注申之由所仰下也、仍下知如件、 寛正四年九月廿八日 散位三善朝臣〈花押〉 和泉守清原眞人〈花押〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0630 丹後前司平朝臣〈花押〉

〔親元日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0630 文明五年七月十二日壬寅、關所印被遣之、 關所ヘ被遣一通、如此調之、厚紙一枚ニ書之、端ニ印アリ、伊勢守陣中往還人數并荷物輿馬以下、毎度以此印勘過之由、 七月十二日 御關所  http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_3_0630_001.gif 人何人 〈此内荷持何人〉 輿何丁馬何疋 年號 月日 印 如此以厚紙切紙可通云々、此條以三上大藏丞奉之、

手形

〔武家嚴制録〕

〈三十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0630 一諸家直判、女手形證文(○○○○○)案、 女中上下三十人之内、髮切壹人、小女壹人、乘物壹挻、寄江戸和州郡山まで差遣し候、箱根今切御關所無相違罷通し御手形可下候、是ハ私家來何某と申者之母にて御座候、若此女に付、已來申分候ハヾ、此方ヘ斷可申候、爲後日依如件、 年號月日 苗氏官〈印判 書判〉 苗氏官殿 同斷 同斷 同斷 私曰、右宛所、江戸御留守居衆ヘ之趣也、餘ハ准之、上包、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_3_0631_001.gif

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0631 證文 壹通 私曰、右之證文、程村紙に調之、上包同紙又ハ美濃紙也、御留守居衆月番之方ヘ持參之時、手形出也、月番之方ヲ先に書べし、 一私曰、御在國之衆ハ、書状にて御留守居衆迄被達之、其家之留守居之輩へ證文遣歟、其趣たとへバ、 女上下何人之内、髮切何人、小女乘物何挺、寄江戸何國何所まで差遣之候、箱根今切兩御關所無相違罷通候御手形可下候、是ハ何某家來何と申者之母妹、并下女にて御座候、若此女共に付、已來申分候ハヾ、私罷出斷可申候、何某在所に罷在候に付、證文差上候、爲後日仍而如件、 年號月日 苗氏假名〈印判 書判〉宛所様 同斷 同斷 同斷 右之節、在所より書状之案、 一筆致啓上候、然者我等家來何某與申者之母妹、并下女、今度江戸より何國何所迄差遣之候、留守居之者證文之通箱根今切御關所無異義罷通候御手形可下候、就此女共已來申分候ハヾ、從此方斷可申候、恐惶謹言、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0632 年號月日 苗氏官〈書判〉 宛所様 同斷 同斷 同斷 人々御中 私曰、文言輕重ハ、此方人に依るべし、

〔武家嚴制録〕

〈三十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0632 一町中女手形證文案 女壹人從江戸美濃國何郡何村迄差遣之候間、碓氷小佛御關所罷通候御手形可下候、右之女ハ傳馬町壹丁目家主八左衞門店、源八與申者之何にて御座候、此女に付、已來出入出來仕候はば、人主之義者不申上、此連判之者共罷出申譯可仕、爲後日受状差上候處、依而如件、 年號 人主 五人組 名主 町年寄三人 私曰、右之證文に町奉行衆裏判出る、

〔武家嚴制録〕

〈三十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0632 一女手形之案 女上下三人之内、乘物壹挺、從江戸信州植田村迄、碓氷關所無相違通候、誰殿家來何某與申者之姉之由、誰殿斷に付如此候、以上、 年號月日 誰判

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0633 ――判 ――判 ――判 碓氷人改衆中 女上下拾五人之内、禪尼壹人、髮切壹人、小女壹人、乘物十挺、從江戸上野國草津まで、大戸關所無相違通候、誰殿御母儀并下女之由、誰殿斷ニ付如此候、以上、 年號月日 ――印判 ―――――― ― ― 大戸人改衆中 亂心女壹人、乘物壹挺、從江戸常陸國何所まで、金町松戸御關所無相違通候、――殿家來之由――殿斷に付而如件、 年號月日 ―――――― ―― ― ― 〈金町 松戸〉 人改衆中 女何人從江戸越後國高田迄、碓氷關川關所無相違通候、本町三丁メ、平野源六娘之由致受状候、并奈良屋市右衞門、北村藤左衞門、樽屋彦兵衞致書物、其上村越長門守、渡邊大隅守殿斷に付如

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0634 此候、以上、 年號月日 ―――――― ―― ― ― 碓氷人改衆中

〔柳營秘鑑〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0634 諸國より出ル女之御關所通手形差出候所々 一伊勢 桑名城主 一西三河 岡崎城主 一東三河 信濃〈松本〉城主 一駿河 同所町奉行 一〈丹波近江〉 伏見奉行 一美濃 大垣城主 一越後 高田城主 一〈攝津河内〉 大阪町奉行 一大和 奈良奉行 一山城 京都所司代 〈但シ西國筋より女通手形其地頭代官より斷次第手形出之〉 一甲州筋 甲府在番支配より 右所々より女切手差出之

〔教令類纂〕

〈九十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0634 萬治二亥年六月 一町中より所々御關所女手形申請度者有之候ハヾ、自今以後者、兩御番所江可申上候、兩御番所之御裏判可成由、被仰出候間、向後左様ニ相心得可申事、 六月

〔柳營秘鑑〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0634 關所手形可書載

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0635 假令 女上下何人之内 一乘物何挺 一禪尼 〈是者能人之後室又ハ姉妹抔之髮剃たるをいふ〉一尼 〈是者並通之女髮剃たるをいふ〉 一比丘尼 〈是者伊勢上人、善光寺上人抔之弟子、又者能人之召仕有之、其外熊野比丘尼等也、〉一髮切 〈是者髮之長短ニよらず、少し切候事ハ中はさみ、出來物之上などはさみ候共、何れも髮切也、煩ぬけはへ不揃ハ髮切ニて無之、但是も髮を切候と相見え候ハヾ髮切也、〉 一小女 〈是者當歳より振袖の内ハ小女たるべし、但振袖のてい、不審有之バ可之、〉 〈但小女之内、尼かぶろ髮などハ不之、〉 一亂心 男女共 一手負 男女共 一囚人 男女共 一首 男女共 一死骸 男女共 右之通、手形ニ可載之、若不審之體少も有之バ可改、此外ハ不之、但欠落等之者有之節者、此方より書付可遣之間、隨其意ニ之、次當月之日附ニて來月晦日迄ハ可之、其日限より及延引者不相通、女路次ニて煩、又ハ相果、手形より數不足之分ハ、其斷聞屆可之、勿論多ハ不之者也、 元祿十丑年九月七日 長門守印 主計頭印 丹波守印

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0636 河内守印 玄蕃頭印御關所 人改中

〔柳營秘鑑〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0636 關所手形之内相改覺 一髮切 〈是者髮之長短ニよらず、不殘そろひ切候ハ髮切也、煩ぬけ髮はへ揃はず、少切候 様ニ相見、又者中はさみ、出來物之上などはさみ候ハ、髮切ニてハ無之候間、向後不及之、〉 右之通、髮切之一ケ條今度相改候條、來月朔日之日附手形より、此書面を用可之、其外ハ先規之趣たるべく候、以上、 元祿十四巳年十月廿三日 伊豫守印 長門守印 主計頭印 丹波守印 玄蕃頭印 御關所 人改中

〔教令類纂〕

〈百二十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0636 享保六辛丑年閏七月 申渡覺近頃町方より、御關所女手形願候者、日々數多有之候、畢竟願人物入等も無之、末々輕き者迄も無紛者ニ候ハヾ、相願候様ニとの御事、最前被仰出候處、名主中之内、若心得違も有之、急ニ願出候得バ宜事故、吟味不致、諸親類ニても無之者、又ハ旅人抔不斗頼れ、紛敷儀モ可之哉、町内ニしかと

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0637 住居無之者、願人ニ成可申哉、縱日數二三日手間取候共、とくと人主并女親類之内、無紛旨委細遂吟味、女手形願出可申事、 閏七月 松平和泉守從下總國佐倉出羽國山形江所替之節、御關所通證文并御手判、  http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_3_0637_001.gif 〈栗橋 房川 中田〉渡 御關所證文帳 松平和泉守 拙者儀、今度山形江所替被仰付候、家來之母共、同妻共、同娘共、同祖母共、同姉共、同妹共、同姪共、并下女共、都合女上下九百三十九人、内尼三人、髮切百七人、煩ニて髮拔生不揃髮切紛敷女三人、小女三百十一人、煩ニて髮拔生不揃髮切紛敷小女三人、乘物二百五十二挺、從下總國佐倉羽州山形迄引越申候、拙者家來今井數馬、山川分左衞門印鑑ニ而引合、房川渡、中田御關所無相違、追々罷通候様被仰渡下候、若此女共ニ付、以來出入之儀出來候ハヾ、拙者方ヘ可仰聞候、爲後日證文仍而如件、 延享三丙寅年四月三日 松平和泉守〈居判〉印判 瀧川播磨守殿 内藤越前守殿 酒井越前守殿 土屋兵部少輔殿 丹羽遠江守殿 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_3_0638_001.gif

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0638 判鑑 今井數馬印(松平和泉守家來)山川分左衞門印 延享三丙寅年四月 女上下九百三十九人、内尼三人、髮切百七人、煩ニ而髮拔生不揃髮切ニ紛敷女三人、小女三百十壹人、煩ニ而髮拔生不揃、髮切ニ紛敷小女三人、乘物貳百五十二挺、帳面之通リ、此度松平和泉守殿、羽州山形江所替被仰付候、家來之母共、同妻共、同娘共、同祖母共、同姊共、同姉共、同姪共、并下女共、從下總國佐倉羽州山形迄引越申候、右之女共大勢之事故、名々手形差遣帳面一册并和泉守殿家來今井數馬、山川分左衞門印鑑壹枚差越之候、追々可相通候間、右印鑑引合、房川渡中田御關所無相違通候、和泉守殿斷ニ付如此候、尤引越相濟候はヾ、右帳面印鑑可相返候、三宅周防守仍願御役御免ニ付加印無之候、以上、 延享三寅年四月七日 播磨印 兵部印 越中印 越前印〈房川渡中田〉人改中 安永四乙未年五月 諸國關所女手形之儀、貴賤之無差別、其女之身分引受候者、并其筋々之主人頭支配より證文差出、御留守居之手判可申受儀ニ候處、近來ハ其女之身分ニ不拘、他ノ者より自分之親類ニ相認、其女之身分引受候者よりハ、證文不差出類も有之趣ニ相聞候、左候得者、其女實之身分難相分候間、何

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0639 れニも其女之身分引受候者、并其主人頭支配より證文差出べく候、 但他國之女、江戸表江奉公等ニ出居、身分引受候者、并其頭支配ハ彼地ニ罷在候類ハ、江戸身寄之者、或ハ住居之者、又者旅宿之者より證文可差出候、若し難相分義ハ、其時々御留守居江可承合候、 右之趣、心得違無之様可相心得候、 五月 右之通可相觸

〔徳川禁令考〕

〈三十五關所並渡船場〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0639 寛政八辰年二月 關所々々女通手形之儀ニ付書付 對馬守殿御渡 關所々々女通手形之儀、万石以上、其外布衣以上、御役人寄合迄ハ直斷之手形ニ、女之身分不認、女何人誰斷と被認候由、以來右直斷之分も、誰母誰妻或ハ召遣等、其女之身分をバ手形ニ認之、總而斷人之貴賤ニ不拘様ニ可致候、 右之通御留守居江相達、且亦國々より出候女手形差出候面々、并關所有之領主江致通達候様、大目付江も相達候間、可其意候、尤御料所關所之向々江可申渡候、

〔氏家叢書〕

〈七關所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0639 享和元酉年四月四日、酒井因幡守様江、 諸國御關所、御手判を以罷通候女十人以上御座候得者、御手判貳通被成下候儀ニ御座候哉、左候ハヾ御頼被申候證文も貳通ニ仕差出候方可然哉與奉存候、十人以上ニ而も、壹通之御手判ニ而罷通候御關所も有之候哉、兼而相心得罷在度、此段奉伺候、以上、 四月四日 丸山九八郞(水野左近將監家來)

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0640 御付札 御書面、拾人以上ニ候得者、御證文二通ニ御認被成候儀ニ御座候、尤手判モ貳通ニ而御座候、

〔氏家叢書〕

〈七關所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0640 享和三亥年閏正月六日、御留守居酒井因幡守様江下書を以、堀田大藏大輔様衆より間合有之候處、以御付札左之通被仰達候、御證文御直し被差出相濟候段、柿内十兵衞殿より借寫之、女七人、内小女四人髮之内乘物三挺、從江戸下總國佐倉迄差遣申候、小岩市川御關所無相違罷通候様、御手判可下置候、右者堀田大藏大輔家來城左次右衞門與申者之母同妻同娘共、松浦團之進與申者之妻同娘ニ而御座候、若此女共ニ付、以來出入之儀出來仕候者、私罷出申披可仕候、爲後日證文差上申候、如件、 享和三亥年閏正月 倉次勘解由(堀田大藏大輔内)〈印〉判 酒井因幡守様 駒木根大内記様 松浦越前守様 龜井壹岐守様 下ケ札 面體襟咽乳より上、并手足之内、都而見江渡候處之出來物疵灸之跡、髮之中出來物疵灸之跡、釣拔はげ小枕摺、櫛摺、左右之鬢切延立、中挾之髮延立、髮至而薄く短く後レ毛等、右之分已來御認出不及候、 就右酒井因幡守様御用人佐々木要人方迄、猶又外御關所ニ而も、御同様之御事與奉存候得共、問合申遣候處、返書差越候要文書拔左之通、 然者去月六日、堀田大藏大輔様より小岩市川御關所女通證文出候節、下ゲ札ニ、右之分以來御認

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0641成候ニ不及旨申箇條御座候之間、御問合之趣委細承知仕候、右者何レ之御關所與申差別無御座候、御留守居持之御關所不殘江拘リ候儀ニ御座候間、箱根今切ニ而も同様之儀ニ御座候、左様思召可下候、

〔氏家叢書〕

〈七關所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0641 享和三亥年三月廿二日、御留守居駒木根大内記様江差出候處、同廿四日御附札相濟、 箱根御關所ニ而不慮之儀有之、致死去候得者、御手判ニ人數合不申候付、江戸江立歸御手判請直し可申哉、又者泊驛ニ而、本陣又者宿屋より證文取之御手判ニ添、御關所江差出罷通リ可申哉之事、 御付札 箱根關所前ニ而、死去人數不足之儀者、其斷承屆相通申候、宿屋より證文等差出候儀無之様差添之趣、其趣申聞候得者相通申候、 一眉有之候而御關所罷通候節者、振袖著用不致候而は、罷通候儀不相成候哉、又者留袖ニ而茂不苦候哉之事、 書面之儀、一體振袖著用之儀ニ候得共、小給之者拵行屆兼候儀も有之候之間、留袖ニ而も不苦候事、 一箱根御關所罷通候而、不慮之儀有之致死去候ハヾ、其所之寺院江相頼取置にいたし、其寺院并宿屋より證文取之御手判ニ添、今切御關所江差出罷通候而不苦候哉、 御付札 今切關所人數減之儀、箱根關所同様之事、 一途中ニ而致亂心候者は、箱根御關所越候而病氣付候ハヾ、本陣又者宿屋より證文取之、御關所江

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0642 差出罷通可申哉、尤亂心致候而も、人ニ茂疵付不申、其身も怪我等不致候ハヾ、病氣其儘罷通り可申哉、其身怪我いたし候計ニ候ハヾ、其儘ニ而證文取之、今切御關所江差出罷通不苦候哉之事、 御付札 關所前ニ而亂心いたし候儀、是者御留守居江早々被申聞添状差遣申候、尤箱根前ニ而亂心之節者、江戸表へ被差戻候共、又者添状之儀被申聞候共、勝手次第之事、 一途中ニ而俄ニ面部其外見渡ニ出來物致候ハヾ、其儘口上ニ而御關所江御斷之上、膏藥寺付罷通候而も不苦候哉、 御付札 途中俄ニ出來物之儀者、關所ニ而改無之候、出來物認ニ而者改申候、 但此度關所改方伺濟ニ而相減別紙箇條改書不及候、 一箱根罷通候後、川支又者病氣ニ而數日滯驛仕候内、三ケ月ニ茂掛リ、今切通行ニ相成候者、如何相心得可然哉之事、 御付札 箱根罷通候後、川支病氣等ニ而滯、三ケ月ニ茂掛候節者、早々御留守居江申聞、添状差遣申候事、 右何レ茂御手判女中之儀、爲心得承知仕度御伺申上候、以上、 三月廿三日 片桐五郞兵衞(相良志摩守家來) 別紙爲心得御渡候書付 面體襟咽手足之内、都而見へ渡り候處出來物、疵炙之跡、釣はげ釣ぬけ、小枕摺左右之鬢切延

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 立、中挾之髮延立髮至而薄く短く後レ毛等、 右之分、以來御認等ニ不及候、 但一端髮切其儘延し候もの、其譯御認出候事、

〔氏家叢書〕

〈七關所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 文化四卯年十月、左之印鑑中田御關所江差出置、其後左之斷證文ニ而相通候、尤印鑑者御勘定所江差出候由候得共、差掛り候事故、御頼之御關所江向ケ被遣、無相違相通候由、 印鑑 ◯印 船橋清右衞門(松平山城守内留守居役) 右之通、印鑑差出置申候、轉役改名有之節者引替可申候、尤一判ニ而茂御通可下候、以上、 文化四丁卯年十月 房川渡 中田御關所 御番衆中 覺 一長持 但小納戸厩役所詰合長持才領之者江、鍵相渡置候、 右者松平山城守小納戸厩役所詰合長持、從江戸出羽國上山迄差下申候、無相違御通可下候、爲其依而如件、 文化四丁卯年十月十三日 船橋清右衞門(松平山城守内留守居) 房川渡 中田御關所

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0644 御當番衆中

〔氏家叢書〕

〈七關所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0644 文化五辰年五月十一日、御代官伊奈友之助様、小岩市川御關所持ニ付問合候、付札ニ而御挨拶、 小岩市川御關所 一弓 出入共何張位迄者、家來證文ニ而相通候哉、 一鐵炮 出入共何挺位迄者、家來證文ニ而被相通候哉、 但玉目并出入之差別者御座候哉、何挺以上御老中様方御證文ニ而、御通候與申儀ニ而も御座候哉、 一玉藥其外都而陣中相用候武器出入とも、家來證文ニ而相通候哉、 右之通方之儀、兼而心得罷在度、御問合置候、以上、 五月十一日 植栗新左衞門(板倉伊豫守家來) 御付札 鐵炮玉目九匁貳分九挺迄ハ、御持主又者御家來證文ニ而相通、拾挺以上ニ及び、御老中方御證文歟、又者御留守居衆證文無之而者相通不申候、尤出入共改方差別無御座候、 但行列爲持候分者改不申候、御家來中者、其分限ニ應じ爲持候分改不申候得共、若多分ニ候得者、其子細承糺候上相通候、 一弓拾挺九張、矢拾九手迄者、御持主又者御家來證文ニ而相通、右員數より以上ニ及候得者、御老中方證文歟、御留守居衆證文ニ無之候而者相通不申候、尤出入共改方差別無御座候、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0645 一具足九領、鑓拾九筋、長刀九挺迄者御持主、又者御家來證文ニ而相通、右員數より上者御留守居衆證文無之而者相通不申候、尤出入改方差別無御座候、 右之品、御定之員數より少々、御持主又者御家來御證文ニ而、及度々罷通候得者留置、取計方御關所番人伺出申候、一鹽硝鉛硫黄銅、右四品、一品五拾貫目以下者、御持主又者御家來證文相通、以上ニ相成候得者勿論、度々相通候得者留置、是又取計者右同斷伺出申候、 右箇條之外ニ相通候品有之候ハヾ、御書分可遣候、陣中相用候品々數多之儀ニ候得者、品分無之候而者難御挨拶候、 五月

〔氏家叢書〕

〈七關所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0645 文化六巳年八月十五日、在所表江鐵炮差下候ニ付、房川渡中田御關所江差出候通り手形案左之通、 鐵炮通手形 加藤曾平(酒井大學頭内)  http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_3_0645_001.gif 一札之事 一鐵砲玉目三匁五分 八挺 右者酒井大學頭、江戸屋敷より在所羽州庄内松山迄差下候、御關所無相違御通可下候、爲後日依而證文如件、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0646 文化六巳八月 加藤曾平(酒井大學頭内)房川渡中田 御關所 御番人中 右程村竪紙、上包美の紙折掛ケ、

〔氏家叢書〕

〈七關所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0646 文化六巳年九月十六日、御用番青山下野守様へ、左之證文并口上書差出候處、同十八日夕御呼出、御裏印相濟、公用人山室文作方を以被御渡候、 但最初證文案、美濃紙ニ認入御内覽候處、勝手次第差出候様、公用人服部源左衞門を以御差圖有之、本證文者御表ニ而御用人呼出、同人を以差出候、 覺 鐵炮 貳拾挺 内 玉目貳拾目 貳挺 同 拾匁 十挺 同三匁五分 六挺 同 壹匁 壹挺 同 八分 壹挺 右者此度在所羽州上山江差下候ニ付、房川渡中田御關所無相違罷通候様、御裏印被成可下候、以上、 文化六巳年九月 松平山城守〈印〉判

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0647 右程村紙竪、上包みの紙、 御裏書左之通 表書鐵炮貳拾挺、關所無相違相通候、斷者本文有之候、以上、 下野〈印〉 大炊〈印〉 備前〈印〉 伊豆〈印〉 房川渡 中田 關所番中 口上覺 一私在所別紙證文之通、鐵炮貳拾挺差下申度奉存候、依之房川渡中田御關所無相違罷通候様御裏印申請度奉存候、以上、 九月十六日 松平山城守 右御裏印御渡ニ付、爲御禮御連印之四軒様江使者口上勤候事、

〔代官例要〕

〈四御關所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0647 一金町松戸御關所女通方ノ事 文政六未九月、松平伯耆守殿寺社奉行御勤役中、石川主水正江問合ニ付、中村八太夫江相尋答書左之通、 一私當分御預所松戸金町御關所ノ義、御當地より罷出候女者、御留守居手形ニ而罷通候ハ勿論ニ候得共、御當地江罷越候節之通方御尋ニ御座候、此段御當地江罷越候女之儀、手形無之相通申

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0648 候、右御尋ニ付申上候、〈◯中略〉 一御關所手形月限(○○○○)之事 文政八酉四月廿九日附之御關所手形請取、御代官荒井平兵衞手附百々彦市、信州御影陣屋江家内引越候之處病氣ニ而延引いたし、四月廿九日附之手形ヲ以、三ケ月越ニ碓氷御關所江懸リ候處相通不申、依之御留守居添状之儀、平兵衞より御勘定所江相願候處、早速添状相渡候間、彦市江爲持遣、通行いたし候由、右添状手形寫し、 女貳人、内小女壹人、乘物壹挺、御勘定奉行衆斷付、從江戸信州佐久郡御影新田村陣屋迄、碓氷關所無相違通旨、四月廿九日附ニ而手形差遣候處、病氣ニ而相滯、三箇月越相成候得共、無紛候間無相違通候、依而添手形如斯候、以上、 文政八年酉六月十八日 甲斐印 碓氷人改中 碓氷御關所手形御添状ノ義奉願候書付 私手附百々彦市、信州御影陣屋江家内一同引越申付候ニ付、同人妻并娘壹人、碓氷御關所通手形、先達而申上、四月廿九日御手判相添、早速出立可仕處、其後病氣ニ付、此節迄出立見合罷在候處、快相成候間出立爲仕、御關所江罷越候得共、御手判三箇月越ニ相成候間相通し不申、道中止宿仕罷在候間、何卒御留守居衆御添状被遣候様仕度、此段奉願候、以上、 六月十七日 荒井平兵衞 御勘定所〈◯中略〉 一御關所月限手形之事 出入等ニ而關外之女呼出し、吟味相濟、歸村之節、御關所手形、平日者翌月晦日限、三箇月越者不

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0649、極月渡之御手判者、翌正月廿日限ニ而廿一日ニ而者、御關所不通御定法之由、其心得を以て可取計事、 但都而御關所通行方者、右之通ノ取計ニ候哉、御手形申受候節々、其筋糺し之上、月數等勘辨可致事、

〔徳川禁令考〕

〈三十五關所并渡船場〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0649 天保十四卯年十一月 御關所通手形相願候ニ付取計方 乍恐以書付願上候 さの(勝田次郞御代官所 上總國山邊郡 小關新開百姓 五郞左衞門妻) 一鐵漿附女壹人 但 前髮不揃中剃少々有之 前髮切髮 懷妊ニ而ハ無之 右者先達而御吟味ニ付、被召出罷在候處、今般御吟味相濟、歸村被仰付途中、〈小岩市川〉御關所通手形奉頂戴度奉存候間、何卒以御慈悲右願之通、御聞濟被成下置候様奉願候、以上、 卯十一月八日 〈右〉 さの〈爪印〉 〈百姓代〉 茂助 〈印〉 御奉行所様 女壹人從江戸上總國山邊郡小關新開迄差遣申候、小岩市川御關所無相違罷通候様、御手判可下候、右ハ勝田次郞御代官所小關新開百姓五郞左衞門女房ニ而御座候、吟味之儀有之、先達而御 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_3_0650_001.gif http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_3_0651_001.gif

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0652 當地江呼出候處、吟味相濟、此度右在所江差戻申候、若此女ニ付、以來出入之儀出來候ハヾ、拙者方江可仰聞候、爲後日證文仍如件、天保十四癸卯年十一月 鳥井甲斐守〈印〉 駒木根大内記殿 石河美濃守殿 牧丹波守殿 土屋紀伊守殿 初鹿野備後守殿  http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_3_0652_001.gif 女手形(鳥井甲斐守殿斷) 壹枚 女壹人從江戸上總國山邊郡小關新田迄、小岩市川關所無相違通候、勝田次郞御代官所小關新開百姓五郞左衞門女房ニ而候、吟味之儀有之、先達而御當地江呼出候處、吟味相濟、此度右在所江差戻候由、鳥井甲斐守殿斷付如此候、以上、 天保十四年十一月廿日 内記〈印〉 備後〈印〉 紀伊〈印〉 丹波〈印〉 美濃〈印〉 〈小岩市川〉 人改中

〔嘉永明治年間録〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0652 文久三年三月十四日、諸關門婦女通行手形、其主人ノ印紙ヲ用ヰシム、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0653 万石以下の面々、追々土著にも可仰付、就ては當節家族共近國の知所等へ差遣し候儀御差許相成候、依ては關所通行方の儀、御留守居手形を以て相通し候儀に候へ共、此節柄俄に發足等の節、手數も相懸り、自然不都合も可生候間、主人印紙へ人數高相認め、小女髮切尼鐵漿附等の無差別、自分斷りを以て通行候様可致候、尤も此度限りの事に候條、可其意候、 右之通、万石以下の面々へ可達候事、 十九日 兵器ノ運搬、陪臣ノ印紙ヲ以テ關門ヲ通行セシム、 河内守殿渡 兼て相達し候通り、方今の形勢万一非常の儀も難計候に付、御警衞等被仰付候面々、其外共都て武器運送の節、關所通行の儀、是迄の振合にては手數相掛り、自然不都合も可之間、重立候家來の印紙へ員數相認め、直に御關所へ被差出通行可致候、尤も此度限りと可心得候事、 右之通、万石以上以下の面々へ可相達候事、

〔嘉永明治年間録〕

〈十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0653 元治元年五月二十一日、關門前規ノ如クス可キノ達、 諸國關所、并江戸出口宿々、其外番所に於ても、印鑑を以て改受候儀、追て相達候迄、前同様可相心得候、

〔飛州志〕

〈二國法〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0653 要關名數 本土今所在之關數三十一ケ所、〈通稱口留番所〉國界或ハ往來ノ要路ニ建テ、土著ノ役人各交代シテ守之、是自他國ノ僧俗男女ノ出入ヲ改メ、商賣ノ諸品ハ悉ク其員數ヲ正シ、運上ヲ納メリ、〈通稱口役銀口留運上〉是古來定法ノ壁書アツテ沙汰セリ、故ニ州内ヨリ出ルモノハ、高山國府ニ集メ、治所ニ訴エ、各運上ヲ納メ、印證ヲ得テ通行セリ、〈通稱切手(○○)或ハ通手形(○○○)ト云◯下略〉

固關

〔名目抄〕

〈臨時〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0653 固關(コゲン)〈有天下吉凶之事時、固三關、〈曾坂、不破、鈴鹿、〉此時又有警固右賀茂祭恒例儀也、〉

〔儀式〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 固關使儀 當日、大臣以下在政殿、預點使一人、仰左右馬寮、令人馬、〈左右御馬若干疋並被鞍候於建禮門外〉又仰木工寮、令木契、〈長三寸方一寸〉送於内記、〈内記便加撿校於宛具筥而候之〉即召内記勅符、又仰官史官符、大臣手書木契一面云、賜某國〈舊例書之以大臣名字、承和七年右大臣藤原朝臣改書如上、〉訖賜内記、令中務析、〈量字中央而割之〉析畢各相合如故、大臣即令勅符木契及官符等、〈勅符木契納於筥内記持之、官符插符於書杖外記持之、〉詣於御所執令奉覽、木契右片便留於御所、〈按讓國記文、大臣封之、授少納言、令於鈴櫃、〉訖大臣還於本座、外記等各以持置大臣座前差却而候、大臣即仰掃部寮、令踏印案〈立於前殿東廊東第二間北邊〉及敷疊二枚、〈去大臣座南一丈五尺許北上東西面〉又仰主殿寮炭、訖召内豎、令少納言、少納言率中務輔一人内記二人主鈴二人、〈内記持宛具筥、主鈴持函并封緘調度、〉參入就前敷、大臣召近衞將監宣令印、又喚少納言、少納言稱唯、進跪於大臣之前、大臣宣取印、少納言率主鈴、取印還來、大臣喚少納言宣問時、少納言稱唯、還本所内豎、内豎稱唯、來少納言之後、少納言告云問時、内豎稱唯、出問時刻、還申云某刻、少納言轉申於大臣亦如之、大臣召内記名、以勅符之宣記之、内記稱唯、受還本座、於年月日下時刻、訖進於大臣、大臣喚少納言、授勅符及官符、少納言受之踏印、中務輔相執勅符一端、〈若勅符二紙以上者踏印繕背〉訖輔復座少納言執官符一端、令主鈴踏印、訖少納言執勅符於大臣、大臣覆奏如常、訖喚少納言勅符少納言令主鈴封一レ之〈納於木函絲緘、以松脂之、〉又召内記、賜木契之、〈以紙裹之束纒兩端、其中央各注國名字、〉訖内記一人書函上題、〈函上頭書賜其國字、其緘下右注驛傳字左注月日、〉内記一人書革囊短籍題、〈書賜國勅符函字及年月日時刻〉訖主鈴納函於革囊短籍、訖少納言進於大臣、即引主鈴櫃納印取鈴輔内記等退出、大臣召内豎宣、喚左右馬寮稱唯退出、二寮判官已上各一人參入、跪於大臣前、大臣宣、遣固關使等御馬若干、稱唯退出、大臣又召内豎宣喚候使大夫等、稱唯喚之、使人等入日華門、北進列立、大臣宣參來、第一之人稱唯進跪、大臣自授勅符木契宣云々、如此一一召授、少納言各一一授官符鈴等訖退出、到宮城便門騎馬、鈴發去、

〔江家次第〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 固關事

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0655 大臣奉仰豫仰外記、令使人召仰、又令候所司并雜具等、 木契三枚〈長三寸方一寸〉 函三合 以上木工寮以檜木作、進之於内記、 松脂〈左衞門府進之〉 主鈴作奏、令藏人奏請、 柳筥〈内匠寮進之〉 薫革 生絲〈内藏寮進〉 以上皆付主鈴 御馬十二匹〈左右馬寮各六匹牽進〉 大臣參議著陣、大臣令官人召内記、 仰内記勅符、仰辨官官符、〈或云、仰官史、而前例多仰辨、〉外記覽内舍人差文於上卿、見了即返、〈左右近衞差文更不覽之〉次行警固事、〈若諸衞不具者、固關事訖後或行之、〉上卿召内豎、内豎入敷政門小庭、上卿仰云、諸衞召〈世〉、備忘曰、候〈不〉司司召〈世〉、 或曰、諸衞將佐各一人參入、〈皆帶劔執笏〉 入日華門立於軒廊南、〈西上北面、〉雖四位、皆依府次立、若將佐不參之府者、將監若尉帶弓箭後列、 雨儀立軒廊内 上卿宣固護〈備忘曰、司司固衞マツレ、若入夜者先可誰曾、諸衞各稱官姓名入、〉 諸衞同音稱唯退出〈左廻或右廻經下臈前〉 次内記覽勅符草於上卿〈入筥〉勅符、其國司守位姓名介位姓名等、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0656警備事 使官位姓名〈五位〉 内舍人位姓名 右明日可位皇太子、當此際會疑驚物聽、仍爲固彼國、差件人等木契發遣、國宜承知依例勤行、勅到奉行、 年月日 上卿見畢令内記内覽之、次令内記、參弓場殿藏人奏、〈此次或令御畫有無由、依令并儀式有年中行事清凉記有之、〉 次返給復座 次内記清書奉之 合三枚〈書黄紙由見延長八年記〉 伊勢一枚 近江一枚 美濃一枚 件勅符依令不御畫日仍内記可書歟、 上卿見畢蹔置前、次仰内記木契、 次内記取硯筥、進置大臣前、〈加入木契、或入別筥、内記二人進之云々、然而入充具筥之由見式、〉 次大臣執筆、各書木契一面云々、 賜伊勢國 賜近江國 賜美濃國 書畢即給内記之、内記〈預插著小刀并拳石於懷中〉各自字中央之、總六片、如故相合進之於上卿、 上郷加入勅符筥内記、内記退立小庭、 外記插官符於文刺小庭、上卿目之、 外記稱唯進覽之〈三枚〉 太政官符 伊勢國司

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0657 使官位姓名〈五位〉 内舍人位姓名 賷勅符一通 驛鈴二口〈一口五剋一口三剋〉 近衞二人從各一人 右爲守彼國、差件等人、給契發遣、國宜承知准固關使例施行、符到奉行、 辨位姓名 史位姓名 年月日 太政官符 近江國司 太政官符 美濃國司 以上同上 上卿見了返給、〈或加入勅符筥内記云々〉外記執之立内記北傍、大臣參上於弓場殿、〈内記在外記前相從〉令藏人奏覽、了返給、 讓國時、木契六片皆返給、自餘時、各一片留御所、〈右片也、謂筆右也、〉上卿還著陣座、内記奉勅符筥退出、〈木契一片被御所之時此歟、内記取硯退出、〉外記奉官符、 上卿取官符勅符筥、外記持文杖退出、即令外記仰掃部寮小庭敷上レ座、敷疊二枚東西對座云々、而天慶三年五月廿三日九記、敷三枚、西二枚、一枚少納言輔、一枚者主鈴云々、東一枚、内記並北上云々、 雨儀敷軒廊東第二間 軒廊立案仰主殿寮炭〈兩座間南寄生之、或記當主鈴前云云、〉 次大臣令内豎、〈令陣官外記之〉内豎入敷政門小庭、大臣仰云、召少納言、〈詞曰少物申之召世、或云召所司非也、〉次少納

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0658 言一人率中務輔一人〈若無輔者以少將代〉内記二人〈一人持硯筥〉主鈴二人、〈一人持印盤宜陽殿砌、一人持函并緘封具、〉 以上入日華門著座、〈或内記出敷政門、〉少納言輔主鈴在西、内記在東、 大臣召近衞司、〈若大將者召政人〈不別左右〉〉將監稱唯、進候小庭、大臣仰云、印、〈或記印令取與〉次召少納言、〈延長八年、貞信公不少納言唯仰將監、少納言起座令出、〉稱唯候膝突、大臣仰云、印、〈或説印取禮〉次少納言起座引主鈴印、將監入日華門相從、此間少納言立長樂門前橋西頭、將監立東頭並北面、〈雨日立廊内〉少納言就案下、將監留立軒廊南三許丈、主鈴置印板於案上、取官符少納言、而退立將監之傍、大臣召少納言、少納言進候如前、大臣仰云、問時〈戸、〉少納言稱唯、還案南内豎、〈二音〉内豎稱唯、趍立少納言後、少納言仰云、問時、内豎稱唯退去、次内豎參申其剋、少納言進申大臣、還立本所、大臣召内記、〈ウチノシルス司〉或云可名、依二人歟、〈濟時卿説〉内記進膝突、大臣取勅符之、宣云記〈世、〉内記稱唯、取符復座、年月日下記時刻之、〈若有御畫日者其左記之〉大臣召少納言、〈驛傳或云目少納言云參來〉少納言著膝突、大臣授勅符及官符、〈入筥給之〉少納言給之、就案踏印、中務輔進執勅符一端、令主鈴踏一レ印、訖少納言進勅符、更取官符著座、 天慶三年五月廿三日固關、清愼公召中務、給勅符印、畢返上時召少納言、給官符飛驛時亦如此、 九條大臣召中務勅符、輔就案下時召少納言官符、而式文如之、 天慶九年讓位時、申大閤任式所行也、 延長八年、貞信公給少納言、 大臣召内記、〈目之見九條記〉 復奏勅符、〈先可内覽歟、令内記御所、木契留座、〉天覽畢返給、大臣復座、召少納言之、〈少納言著座〉次召内記木契、〈右片也直給之〉内記封於一紙之、大臣書名字、〈暫置座前〉又給契於内記、〈左片也〉内記著座、次少納言令主鈴封勅符、〈納木函絲結、以松脂之、〉内記同封之、〈以紙裹之、束結兩端、其中央各注國名、〉訖内記一人書函上題、函上頭書其國緘之處、書封字其緘、 下右注驛傳字、左注年月日

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 其一人書革囊短籍、畢少納言進之、上卿召少納言紙封之木契、少納言給之、即率主鈴印取鈴納木契、〈納於鈴櫃〉自日華門退出、中務輔内記等退出、掃部主殿撤雜具、大臣召内豎、内豎參入候小庭、大臣宣、左右乃馬乃寮召世、内豎稱唯出召之、 左右馬寮允各一人候小庭、〈入敷政門〉大臣宣、遣固關使等御馬、 如式可其員、而例不必仰、允等稱唯退出、大臣又召内豎、内豎參入候小庭、 大臣宣、使爾令候留大夫等召世、内豎出召之、大夫等入日華門、列立於軒廊前、〈依位階國次〉大臣宣、參來第一人稱唯進候膝突、〈依位次國次〉大臣授勅符木契仰云、其乃國爾罷天其乃關衞禮、使稱唯、還立本所、次次使亦同此、訖乃退出、 延長八年、承平元年例、同音稱唯、一一進給、而式及天慶三年九年等例如之、 少納言於日華門外内舍人、給官符驛鈴、次大臣召内豎、内豎參入、大臣宣、左右乃馬乃司兵庫乃司等乃使召世、内豎出召之、使等入日華門外、立軒廊南、 延長八年、一一自敷改門宣、 大臣仰云、左右乃馬乃寮兵庫乃寮罷天固衞禮、 天暦三年十月二日、高明卿一一召膝突之、又始六府召仰之、次仰之、若有先例歟、 使稱唯退 内政撤

〔北山抄〕

〈四拾遺雜抄〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 固關事〈天皇讓位、及崩、并上皇皇后崩、攝政關白薨時、有此事、〉

〔續日本紀〕

〈八元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 養老五年十二月己卯、崩于平城宮中安殿、時春秋六十一、遣使固守三關

〔續日本紀〕

〈二十五淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 天平寶字八年九月乙巳、太師藤原惠美朝臣押勝逆謀頗泄、〈◯中略〉即遣使固守三關

〔續日本紀〕

〈三十六光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 天應元年四月己丑朔、遣散位從五位下多治比眞人三上於伊勢、伯耆守從五位下

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 大伴宿禰繼人於美濃、兵部少輔從五位下藤原朝臣菅繼於越前、以固關焉、以天皇不豫也、 辛卯、是日 皇太子〈◯桓武〉受禪即位、

〔日本後紀〕

〈十三桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 大同元年三月辛巳、天皇崩於正寢、〈◯中略〉遣使固守伊勢美濃越前三國故關

〔日本後紀〕

〈二十嵯峨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 弘仁元年九月丁未、縁遷都事人心騷動、仍遣使鎭固伊勢近江美濃等三國府并故關

〔貞信公記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 承平元年七月廿七日、伊勢美濃國固關使復奏、左金吾令奏陣頭關幟令奏可前例、 廿八日、解關事左衞門督行之、可事別當例、八月三日、右大臣奏伊勢近江解關解文木契等、外記公鑒申云、近江使晦參著、伊勢使今日到來、昨日以前依御物忌奏、

〔本朝世紀〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 正暦元年七月十三日丙戌、午後中納言源保光卿、參議源時中卿、參著左仗座、時中卿起陣座座結政座、停三關固關使、固可警固之由官符令請印了、〈時申三刻〉事訖退出、 八月五日丁未、朝間降雨、前攝政太政大臣以去月二日薨、其後停止尋常之政、〈◯中略〉 十一日癸丑、參議源時中卿著左衞門陣座、而上卿遲參仍無政、午後、大納言源重信、藤原濟時卿、中納言源伊渉卿、參議藤原懷忠卿、著左仗座、伊勢國固關使、〈木〉開關使内舍人口近江國固關使縫殿頭從五位下平朝臣清忠、開關使内舍人正六位上藤原朝臣延慶、美濃國固關使散位從五位下橘朝臣惟憲、開關使内舍人正六位上藤原明利等參入、外記大藏高行候小庭、執申上卿可召者、高行退出、仰參之由、以參入木契國解返抄等常儀、上卿召外記高行參入、以小刀木契國解返抄、次召筥、納件木契等、以高行攝政里第、高行令使部參入、令奉覽返給、還參左近陣、進上卿外記却木契、續納文書等了、

〔日本紀略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 十一條

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 長保元年十二月一日庚戌、巳時、太皇太后宮昌子内親王崩、 五日甲寅、依太后崩諸陣警固、近江美濃伊勢等固關、〈◯下略〉

〔三長記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 建久九年正月十一日己酉、今日有御讓位事、〈◯中略〉次上卿召大内記宗業、被固關勅符事、召左中辨官符事歟、次頭中將又出陣仰宣命趣、〈以爲仁皇子皇太子、即讓位、以關白藤原朝臣行政事、一如忠仁公故事、兼可太上皇尊號并服〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0661 〈御物等事、如寛平九年例歟、其詞不聞、任先規記之、〉上卿召大内記宗業、被宣命趣歟、〈此間事不見及、下日々次、先仰宣命趣、依次仰固關等、是又先規相尋頭中將之處、今度次第如此云々、是又非其謂也、〉次外記令内舍人著符入筥、上卿見了返給、外記退、次大内記覽勅符草、〈入筥〉即令内記内覽、〈宗業參殿下里亭參給也〉頃之内記歸參、次上卿召頭中將於陣、被勅符草、〈上卿進御所奏、宿老之作法歟、〉次返給、次召内記、被清書之由、次進清書、〈書黄紙三枚、伊勢近江美濃也、入筥、〉内記退、次仰内記、令木契并硯筥、〈大内記宗業取硯筥、少内記康業取木契筥相從、宗業著軾、進硯筥之後、又取木契筥進之、笏退軾、少内記退、〉次右府摺墨染筆、取木契銘、〈賜伊勢國近江國美濃國此書之〉書了入筥賜大内記之、〈宗業搢笏給之、即於軾割之、自懷中出小刀石、〈裹紙〉次持木契立筥中、以刀當木契、以石打刀割字半、〈直付割目也〉先伊勢次近江次美濃次第割之也、〉内記割了如本推合進上卿云々、取勅符〈三通〉加入木契筥内記、内記賜之、却立軒廓北庭、〈南面〉次外記覽官符、〈三通插文杖也〉上卿見了返給之、外記如元插文於杖之列立内記傍、〈列内記東〉次上卿進弓場、被勅符官符、藏人二人奏之、〈藏人兵衞尉信綱取勅符木契筥、藏人仲清取官符杖、〉御畫了〈勅符令日十一日三字也〉返給、上卿還仗座、内記進勅符木契等、外記進官符空杖退出、此間入夜主殿寮小庭燒松明、陣座史二人擧燈、次掃部寮敷座於小庭、〈南北行當職間敷之、以西爲少納言中務輔主鈴座、以東爲内記二人座也、〉次主殿寮生炭例也、而上卿命曰、只便可松明火〈件火自本座中央燒之、仍有其便之故歟、〉次掃部寮立案於前庭、〈立東方也東西行〉次上卿令官人召内豎、内豎入宣仁門代〈謂東方也〉候小庭、上卿仰云、所司召セ、〈其詞不聞〉内豎稱唯退出、次少納言高階朝臣隆經、中務權少輔源時賢〈各帶劒取笏〉入月華門代〈謂西方也〉著座、〈牽主鈴二人著座也、而主鈴不著座、〉大内記宗業、少内記中原康業、入宣仁門代〈謂東方也〉著座、次上卿召近衞將監印事、召少納言鈴事、〈各召軾被之〉次少納言將監主鈴等就案下、印置案上、次少納言就案下、將監其北、次主鈴置印於案上退立將監傍、次上卿召少納言仰云、時問ヘ、稱唯、至案北立召内豎、〈二音〉内豎稱唯立少納言後、少納言仰曰、時問ヘ、内豎稱唯退出、即還入申戌三刻之由、〈不四刻之由故實也〉少納言申上卿立本所、次上卿召大内記宗業、參進膝突、上卿賜勅符云注セ、内記稱唯、賜符復座、同下注時刻〈少内記守相具硯等著座之〉進之、次上卿召少納言隆經勅符官符、〈入筥〉少納言賜之就案上、中務輔時賢起座就案下、展勅符捺印、次中務可著本座、而不復座、即退出了、次少納言展官符、主鈴捺印、次少納言取勅符官

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662上卿本座、次上卿進御所、被勅符官符〈入筥大内記宗業持之相從〉藏人勘解次官清長奏之返給、上卿復座召少納言賜之、少納言著本座、次上卿召大内記木契石片宗業、賜之復座、令少内記封一レ之、〈以木契三片一紙、兩端ヲ捻ニハ以紙捻之也、紙之捻等、少内記自本隨身著座、〉封了宗業進之、上卿書名一字〈被直一字也〉敷被座前、次上卿召内記木契左片、内記復座、少納言令主鈴封勅符、〈主鈴兩三人、此期相具函熏革囊絲松脂等、寄進少納言座下歟、以勅符函、以絲二ケ所結之、隨結了少内記康業書函上銘其國、右注驛傳字、左注年月日也、〉大内記令少内記封木契左片、〈以紙裹之、兩端ヲ捻紙結之、其中央各書國名、三片各別裹之、主鈴封勅符内記封木契同時歟、〉勅符木契等書銘、了相具納熏革囊、〈以上囊右別納之、凡以一國木契并勅符函一壺歟、各納了以絲結口、絲口ニ付松脂堅之也、其上又結付短册、少内記書之、已上納壺事等、主鈴等役之也、〉次少納言進之、〈進納革囊之勅符等也、入筥、〉此次上卿賜封之木契、〈以紙令封之木契也〉隆經賜之、率主鈴印取鈴納木契、〈納鈴櫃也〉自日華門代退出、掃部寮撤雜具案等次上卿召内豎、内豎參入候小庭、上卿宣、左右ノ馬寮召セ、内豎稱唯退出、使等仁御馬給、馬允稱唯退出、〈左右馬寮各六疋可引之、相尋外記之處、左右各三疋引之云々、〉次上卿召内豎仰云、使仁令候大夫等召セ、稱唯退出、次三關使〈伊勢散位三善宗基、近江散位藤範資、美濃散位藤康久等也、此外毎一關、驛鈴一口、并内舍人左右近看督使各一人相副之、但應召ノ時、不引卒、下向之時可相具也、實下向之儀久絶了、〉入日華門代立小庭、〈依位階、不國次、〉上宣參來、使稱唯就膝突、上卿授勅符木契、〈入一革囊〉仰云、伊勢ノ國仁罷天鈴鹿ノ關固ク衞禮、使稱唯還立本所、〈近江合坂美濃不破同之〉三人賜了各退出、次少納言ハ於日華門代外内舍人官符驛鈴、次上卿召内豎、内豎參入、上宣左右馬ノ寮兵庫ノ寮等使召セ、内豎出召使等、又三寮使〈左馬寮散位三善盛季、右馬陸奥權守惟宗時賢、兵庫隼人正橘清俊等也、〉入日華門代立小庭、上宣左右馬司兵庫ノ可罷天固衞禮、使等稱唯退出、

〔愚管抄〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662 今上〈◯後堀河〉諱茂仁 承久三年〈辛巳〉七月九日〈辛卯〉受禪、〈十歳〉同年十二月一日〈庚辰〉於官廳即位、〈◯中略〉受禪當日無節會、無宣命、無警固、無固關云々、世以爲奇歟、及八九月、先帝之攝政詔を施行すべき由を有沙汰、外記仰之云々、花山院脱屣の夜にぞさる不思儀にてありけれど、翌日に攝政の詔は大入道殿に下されにけり、節會はなかりけれど固關の事などは行はれけり、今度の事無下のこと哉とも世には申ける、

〔踐祚部類抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 太上法皇〈◯光嚴〉 元弘元年九月廿日丁亥踐祚〈◯中略〉 固關〈付國司之由被仰畢◯節略〉

〔師郷記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 康正二年九月廿九日丙申、今日後崇光院遺詔奏也、上卿三條大納言奉行、頭右中將教國朝臣、權大外記康富御使、四條中將隆言朝臣、固關警固事被行之云々、

開關

〔名目抄〕

〈臨時〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 開關(カイゲン)〈固關有日數開之儀也〉

〔北山抄〕

〈四拾遺雜抄〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 開關 仰外記所司、召内記勅符之由、召辨仰官符之由、外記覽内舍人差文、奏勅符草、奏清書、〈外記奉官符、見畢加入勅符筥、令内記奏之、天慶三年例也、飛驛時又如此、依木契歟、〉敷座立案生火、召内豎少納言、率所司座、召近衞府印、召少納言印、出印立案下、召少納言仰問時、召内豎仰之、少納言申畢、召内記勅符記、記奏畢、召少納言勅符官符、〈入一筥〉中務輔進令捺印畢復座、令主鈴印官符、畢少納言奉勅符、取官符座、目内記覆奏勅符加入木契下給、〈讓位時、上卿加入奏之、延長八年例也、准天慶九年固關例、未召所司之前、可出歟、但出印之次、出奉可宜、〉目少納言勅符、〈入筥〉目内記木契、各封書銘、畢少納言奉之、少納言納印取鈴、率所司退出、所司撤雜具、〈皆同固關〉次召内豎、仰云、召左右馬寮、允等參入、上宣遣開關使等給御馬、又召内豎、仰云、喚使内舍人等、使等入日華門、立軒廊前、仰云、參來、一人參候、給勅符木契、仰云、罷伊勢國鈴鹿關警固、一々如之、〈依關次第〉召内豎仰云、召内豎等、内豎三人入日華門小庭、上宣召左右馬寮兵庫寮使、三寮允各一人參入、令實否、〈内豎兩寮〉上宣、早令參入、〈近例、官入不必參入、〉勅使等參候陣頭、先左右馬寮使入敷政門小庭、上宣解警固、次々如之、訖仰六衞府解陣常、固關使等參時、外記申事由、即召之、使等入日華門、〈内舍人不具者、入敷政門、〉奉木契奏文返抄等退出、〈鈴置陣掖〉上卿召外記封、見畢參上奏之、木契留御所、返給奏文等、上卿復座、給外記、令續納、〈或木契同返給、就局破却云々、〉

〔三代實録〕

〈三十八陽成〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 元慶四年十二月十一日庚寅、〈◯中略〉解三關之警固、内舍人正七位下藤原朝臣有蔭向伊勢、内舍人正七位下藤原朝臣良生向近江、内舍人正八位下藤原朝臣清範向美濃、並賷勅符木契馳到開門合符解固、並給左右馬寮馬

〔本朝世紀〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 久安元年八月廿二日酉刻、待賢門院崩御、 廿九日壬寅召外記廢朝事、〈五ケ日〉召辨被固關宣旨、次被警固、 九月三日丙午、今日須有解陣開關事、而依欠日延引、外記勘申例、 四日丁未、權中納言重通卿被解陣事、〈五府〉召辨被開關宣旨

〔三長記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 建久九年正月十一日、今日有御讓位事、〈◯中略〉 十九日丁巳、召外記開關解陣事諸司可催具之由、此間中宮權大夫新宰相等著參議座、次召内記、大内記宗業參進被勅符事、次召外記覽内舍人差文、即返給、次内記覽勅符草、即令内記内覽、次召辨、右中辨資實朝臣參進、〈不笏、殿上辨故也、〉被官符事、〈此次第頗前後相違歟、召内記勅符事、次即召辨可官符事歟、〉次内記内覽持參勅符草、被清書之由、次少外記覽官符、〈三通插文杖〉次内記覽勅符清書、次上卿進御所勅符清書并官符、〈勅符入筥、大内記持之相從、官符插杖、外記相從、〉予六位一人奏之、〈予取勅符筥、六位一人取官符杖、五位六位相交奏之、不然事也、須六位二人奏之、而一臈重輔逐電、二臈以下少男各不東西、仍予奏之、召少侍中教訓、令官符之時、參殿下御直廬覽之、〉上卿被申云、應徳無勅符御畫日、而内記申云、固關之時有御畫、開關何無御畫哉之由存之、此條又非其謂、可御定、即此趣任應徳例御畫、次返給上卿復仗座、内記進勅符、外記進官符退、〈持空杖外記退之〉次外記仰掃部寮座、〈如固關時〉次立案、次上卿召内豎仰曰、司々召セ、内豎退出、次少納言宗信、中務少輔成家、大内記宗業、少内記等著座、〈如固、關時〉次少納言被出木契之由、〈召内豎仰歟、慥不覽、〉内豎取出木契、〈固關之時、大臣所名一字之木契也、〉置案上、少納言取之進上卿、〈先是少納言宗信立請印案下之、不其要、亦搢笏欲木契、而内豎稱外記説可副笏之由教訓之、仍便亦拔笏取副之進上卿、毎事迷感不左右、〉次上卿召將監印事、〈中次第慥不覺歟〉次召少納言、被時之由、少納言立案下内豎問之、内豎申時刻、少納言進膝突申之、次上卿召内記勅符時、即注了進之、次召少納言勅符官符、〈入一筥〉少納言就案下、次中務輔起座進案下、次令印、〈先勅符次官符〉次少納言取

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 符官符上卿〈於官符者即返給少納言歟、慥不見、〉復座、次上卿進御所勅符木契、〈内記持之相從、木契加之乍裹紙入一筥也、〉予奏之、即返給、〈木契不開之、只返給也、〉上卿復座、召少納言勅符、召内記木契、〈木契開緘紙、各別裹三片入勅符筥也、勅符入函并革囊絲結之、以松脂絲口、其上結付短册事等、一同固關時、〉各封緘、了少納言進之、〈入一筥〉次少納言内記等退、此間少納言召内舍人官符、〈於中門外給之也〉次上卿召内豎、召左右馬允、各一人參進、仰曰、開關使ニ御馬給ヘ、允稱唯退、次上卿令内豎召開關使、〈内舍人三人、各著褐襖袴、尤違例也、可束帶也、〉即參進召軾賜函、〈入囊之函也〉被開關之由、三人給了同時退出、次上卿令内豎召三寮使、〈次五位也〉各參進、被開關之由、〈但其詞慥不聞〉

關吏

〔運歩色葉集〕

〈勢〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 關守

〔日本書紀〕

〈二十八天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 元年六月甲申、〈◯中略〉會明〈◯中略〉是夜半鈴鹿關司(○○)遣使奏言、山部王石川王並來歸之、〈◯下略〉 ◯按ズルニ、是レ關吏ノ史籍ニ見エタル初ナリ、

〔令義解〕

〈四考課〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 最條〈◯中略〉 譏察有方、行人无擁、爲關司之最、〈謂譏者問也、關司依軍防令、國司分當守固、是也、〉

〔令義解〕

〈五軍防〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 凡置關應守固者、〈謂境界之上、臨時置關應守固皆是也〉並置配兵士、分番上下、其三關者〈謂伊勢鈴鹿、美濃不破、越前愛發等是也、〉設鼓吹軍器、國司分當守固、〈謂目以上也、言三關者、國司別當守固、其餘差配兵士、〉所配兵士之數依別式

〔續日本紀〕

〈四元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 和銅元年三月乙卯、勅太宰府帥大貳并三關及尾張守等始給傔仗、其員〈◯中略〉三關國守二人、其考選事力及公廨田並准史生

〔續日本紀〕

〈十聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 天平元年五月庚戌、太政官處分、准令諸國史生及傔仗等、式部判補赴任之日、例下省符、符内仍偁關司勘過、自辨官此語、自今以後、補任已訖、具注交名送辨官、更造符乃下諸國

〔續日本紀〕

〈四十桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 延暦八年四月乙酉、先是伊勢美濃等關例、上下飛驛函、關司必開見、至是勅、自今以後、不輙開焉、

〔大日本史〕

〈禮樂九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 按、先是藤原仲麻呂作逆、僞造乾政官符兵、蓋此後慮飛驛有一レ僞、令關司開視、至此復禁之乎、附以備考、

〔日本後紀〕

〈十四平城〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 大同元年七月乙未、勅、關津之制、爲衆違、苟有阿容、何設朝憲、今聞長門國司、勘過失理、衆庶嗷嗷、自今以後、不更然、若有違犯、特寘重科

〔文徳實録〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 天安元年四月庚寅、始置近江國相坂大石龍花等三處之關剗、分配國司健兒等守之

〔吾妻鏡〕

〈二十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 建暦三年十月十八日甲寅、以宗監物孝尚、爲武藏國新關實檢遣、圖書允清定奉行、

〔武徳編年集成〕

〈四十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 慶長七年八月二十九日、頃日結城少將秀康卿中仙道ヲ歴テ、上州碓氷ノ峠ヲ越玉フ、此關所ヲバ麾下ノ隊長等交替シテ勤仕セシガ、秀康卿ノ鳥銃ヲ抑ヘ、貴戚ト雖、公命默止ガタキ由ヲ述ル、秀康卿怒テ曰、列國ノ諸侯ニ至ラバ此事可也、汝等吾ヲ知ズヤ、強テ止ムルニ於テハ、忽其命ヲ斷ント、衞兵驚テ江府ニ注進ス、台徳公〈◯徳川秀忠〉鈞命ニ、是汝等ガ人ヲ知ラザル也、其斬殺セラレザルモ幸ナリト宣フ、

〔元和日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 元祿十五年閏八月十九日、遠州荒井關所守禦之事、命三州吉田城主久世出雲守重之奉行兩人

〔新編相模國風土記稿〕

〈二十一足柄上郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 御關所 小名關場ニアリ、〈總構二十間許〉領主大久保加賀守忠眞預リテ番士(○○)ヲ置ク、〈番頭一人、常番二人、先手足輕一人、中間一人、總テ五人ヲ置テ守ラシム、往來繁キ時ハ、番頭一人、先手足輕一人ヲ加フ、〉建置ノ始詳ナラザレド、土人ノ傳ニ據レバ、〈大庭又五郞ト云モノ、天正小田原落去ノ後、始テ常番人トナルト云、村内江月院ノ鬼薄ニ、又五郞ノ法名ヲ録シテ、慶長十五年八月死スト見ユ、其子又五郞、慶長十九年、小田原御城番近藤石見守秀用ノ手ニ屬シ、寶暦ノ頃ニ至リ、子孫大久保氏ノ藩士トナリシトゾ、〉全ク御入國ノ時、始テ置レシ所ト見ユ、小名本村西方ノ山道ニ裏番所(○○○)アリ、〈常番一人ヲ置ク、又足輕一人、本番所ヨリ兼勤ス、〉

〔柳營秘鑑〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 諸國關所支配并御條目

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 一相州 〈箱根 根府川〉 〈足柄上方道熱海道〉 大久保出羽守(小田原城主) 一上州 〈碓氷 横川〉 〈北國越後信濃等江之道筋〉 内藤山城守(安中城主) 一上州 川脵 〈上野下野館林足利佐野江之道筋〉 阿部豐後守(忍城主) 一上州 〈五料 大渡 關政〉 上州道 酒井雅樂頭(厩橋城主) 一上州 松之橋 越後信濃道 松平右京大夫(高崎城主) 一總州 關宿 〈常陸下總下野筋より通船改〉 久世隱岐守(關宿城主) 一總州 〈松戸 房川 市川〉 〈常陸下總岩城筋、上野下野奥州日光越後筋、上總安房筋、〉 伊奈半左衞門(御代官) 一武州 駒木野〈但小佛共云〉甲斐江之海道也 上坂安左衞門(支配) 〈甲州より出ニ女手形ハ、彼地在番支配より出之、鶴瀬と云所ニ證文納戸鶴瀬之關守より小佛江書替之證文出之、〉 一信州 勢内路 堀 美濃守 一信州 福島 〈飛騨美濃播磨丹波江之道筋〉 山村勘兵衞 一信州 木曾 千村平右衞門 一信州 〈小ノ川浪合〉 〈帶川 石川奥州海道〉 知久監物 一野州 栗橋 〈奥州海道〉 伊奈半左衞門(御代官) 一相州 西浦賀 〈諸國より回船武具、其外旗道具樹木等品々改之、〉 一色宮内 一遠州 荒井 〈上方海道鐵炮改之〉 松平豐後守(吉田城主) 一遠州 本坂 〈荒井通改之諸大名往來御停止之所、謂有之時ハ願ニ而通之、〉 近藤乙藏 一江州 柳ケ瀬 井伊掃部頭 一江州 山中 朽木彌三郞

〔守國公御傳記〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 江戸ノ藩屏緊要ノ地、伊豆安房ノ海岸備禦ノ設無ンバ有可ラザルニ因リ、兼テ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 密ニ建議有シニ、寛政四年十一月十七日總宰ノ命ヲ蒙リ、明年〈癸丑〉三月巡見ナシ玉フ、〈◯中略〉歸路根府川ノ關門ニ至リ、此邊親ク見玉ハン爲ニヤ、歩行ニテ關前ヲ通行ノ時、塗笠ヲ用ヰ玉ヰシニ、關吏馳出、供奉ノ輩ニ就テ、關前ハ笠冠ル間敷法也ト告奉リケレバ、實ニ心得タリトテ脱セ玉ヒヌ、此夜小田原ニ止宿有セラレ、城主ノ老臣ニ關守ノ事語リ玉ヒ、云々ノ事ニテ我モ過ヲ免レタリ、其者ヘ謝詞宜ク執成アルベシト懇語有ケレバ、老臣畏リテ退キ、程ナク侯〈加賀守大久保忠顯〉ヨリ賞トシテ、席ヲ進メ俸ヲ増與ヘラレシトゾ、〈此人大木多治馬トテ、甚篤實ニシテ、平常同輩ノ中サヘ謙遜ナルガ、此關門ニ勤番スルニ付テハ、關ノ法ヲ能ク心得ベシトテ、繰返シ記臆セシ故斯有シト聞玉ヒ、忠篤ノ志ヲ感ジ玉ヒシトナリ、〉

〔萬葉集〕

〈四相聞〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 神龜元年甲子冬十月、幸紀伊國之時、〈◯聖武〉爲從駕人娘子、笠朝臣金村作歌一首并短歌、〈◯中略〉 反歌 吾背子之(ワガセコガ)、跡履求(アトフミモトメ)、追去者(オヒユカバ)、木乃關守伊(キノセキモリイ)、將留鴨(イトヾメムカモ)、

〔本朝無題詩〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668門司關述四韻 釋蓮禪 西鎭古關經過程、兩三守者欲情、門司〈關名〉因例雖警、社牒有威不行、〈香椎宮行牒、威權滿日域、抱關者(○○○)不拘留、故云、〉山潟二崤秋月色、江傳三峽曉波聲、嶺松沙草朝猶暮、唯似畫圖後素成、

關役

〔運歩色葉集〕

〈勢〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 關役

〔香取神宮古文書纂〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 香取大禰宜神主兩職、常陸下總兩國海夫、并戸崎、大堺、行徳等關務(○○)、可知行者、長者宣如此、悉之以状、 應安五年十一月九日 左中辨〈花押〉 香取長房館 香取社燈油料所長島關事、任先例管領者、長者、宣如此、悉之以状、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 應安五年十一月十八日 左中辨〈在判〉 大禰宣長房館 香取社大禰宜長房申條々 一戸崎關務事 一大堺關務事 一行徳關務事 以前條々、自關白家執申、所吹嘘也、神訴異其他歟、早嚴密可遵行之状、依仰執達如件、 應安五年十二月十四日 武藏守〈花押〉 上椙兵部少輔入道殿 香取社大禰宜長房申、燈油料所、下總國風早庄内、戸崎、大堺關務事、實持并實秋跡輩、致違亂云々、甚無謂、所詮止彼妨、全關務、專神用之様、可扶持由候也、仍執達如件、 應安七年十月十四日 智兼〈花押〉 道轍〈花押〉 千葉介殿 香取社大禰宜長房申、武藏國猿㑨關務事、申状〈副具書〉如此、子細見状候歟、可成敗之由、關白殿御氣色所候也、仍執達如件、 十一月九日 左中辨宣方 謹上 安房守殿 香取社大禰宜幸房謹言上 欲早當社領下總國風早庄内、戸崎關務、任公家關東御判、雖知行、號御倉役、不關務間、盡闕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 御神役畢、如先例御倉役、全關務、彌致御祈禱精誠事、 副進 一卷 長者宣、并京都御推擧、關東御教書、同御使山名安富状、千葉介渡状等、 一通 物忌代押書等 右於彼關務者、被長日護摩、同神前御燈油料所處、近年一向號御倉役、不關務之間、令退轉御祈禱畢、此之段欲言上剋、物忌代石神入道久阿、准新關申掠、既誤登存、任公家關東御判、如新關破之由出押書畢、其上去應永二年仁、先御管領御時、如此依直訴、令一社同心、背本所御成敗、獨立致濫訴之條、無謂之旨就歎申、爲難儀之間、無本所御擧并社家推擧者、不訴訟之由、押書状分明也、此上者無本所御擧、同社家推擧者、訴訟者不聞召、然者如先例御藏役、專關務、奉御神事、彌爲武運長久御祈禱精誠、恐々言上、如件、 應永十四年卯月 日

〔香取志〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 祠職 武藏國猿脵(サルガマタ)の關を掌し事有り

〔春日神社文書〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 御判 河上往反舟、并商買船等事、假權門勢家名、押而令運送云々、太不然、仍當時關役失墜之由被聞召訖、如然之類、於向後者所停止也、猶以違犯者、爲罪科注進之旨、可觸學侶、官符等之状如件、 應永十四年十二月十七日 衆徒 興福寺別當僧正御房

〔大乘院日記目録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 嘉吉二年十一月朔日、河上五ケ關務代官職事、年貢無沙汰之間、召放光宣之手、寺門可直務事、申入京都、三面僧坊以下爲修理云々、先度寺門直務の奉書、任申入旨之了、然而光宣引汲族引分、號一寺之儀、七大寺并御社等閉門了、此上者無力如元被付于光宣畢云々、但佛地

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 院僧正孝俊令子細間、法隆寺清水寺不閉門云々、所詮珍事出來、 十一日、前筒井順弘令率立野衆以下、夜前金堂ニ引籠、相違子細在之間、則楯籠眉間寺光宣之坊彌勒院支度云々〈◯中略〉五ケ關事、順弘與光宣相論故、云寺門六親、不和出來、所詮順弘大未練、不取也、 廿七日七大寺以下開門、關務事、如元光宣知行也、就中敵人六方以下七人處重科、進發被官人所了、 十二月十五日、去月十三日御教書到來、及閉門之間、五ケ關所務爲尋之、飯尾山城守、同豐前守被指下云々、 三年九月十六日、實憲以下筒井衆來三條邊兩方合戰、實憲引退、光宣ハ下向筒井館云々就五ケ關務事、總惣寺門方張本輩七人在之、爲光宣方之寺門加罪科、下人住屋進發了、彼七人輩令沒落、相憑豐田頼英之故輕一命了、後日六方學侶以下蜂起、光宣以下加罪科了、文安二年九月十九日、光宣率大勢罷上、爲用心鬼薗山城又構之、筒井順永官符如元、五ケ關所光宣知行事如元、勅免綸旨後之日到來、前方悉以罪科、彼七人衆以下楯籠古市、以後十餘年之間、日々夜夜古市與鬼薗山合戰了、南郷在々所々放火、

〔六波羅密寺古文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 崇徳院御影堂禪衆等謹言上 右當院領、讃岐國北山本新庄、年貢運送國料船〈號福江丸〉事、海河上諸關無其煩勘過之處、限今春兵庫兩關、號新關料、過分之關役申懸、剩以前無爲之役錢共仁責執之條、言語道斷之次第也、所詮應永八年以來之任御教書等旨、彼役錢等被糺返、於國料船者、無其煩勘過旨、嚴密之被下御成敗者、可御祈禱之專一者也、仍粗言上如件、 長祿四年卯月日

〔大乘院寺社雜事記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 文明十一年七月六日、御臺〈◯足利義向妻〉御料所、江州舟木關〈毎月六十貫云々〉自守護方押給之、四五日以前事也、如此間毎事無法量云々、

〔大内家壁書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 兵船渡海關役事御定法

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672九州御對治御在關之時、渡海御勢之事、爲赤間關役仕舟、今日於當關御評定、任先例御定法畢、自今以後、可此分之由、儀定訖、則所殿中日々記、壁書如件、 文明十五年八月一日

〔甲陽軍艦全集〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 天文十六丁未二月二十四日、板垣淺利兩侍大將に、旗本より原美濃を警固にて村上方へ働、〈◯中略〉板垣衆六十騎返して勝負をはじめんとするを、敵見取、早々引揚る、板垣衆跡をしたはんとせし處に、原敵味方の間へのりわり、さいはいにて打廻し、如何にも手早に連て戻る、是は美濃五十歳の時也、敵の馬迄此方へ取來ル此手抦に因て甲州笹子峠關役所を千貫に積り下さるヽなり、

〔織田信長譜〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 永祿十二年、勢州國司北畠具教畏信長之威和、〈◯中略〉具教家人拓植三郞左衞門受信長之密旨、與木造下總守〈後號羽柴下總守〉相謀弑具教、具教多力殺數十人而死、拓植等即納信長兵、故勢州諸城皆陷、信長誅拓植以徇焉、停止勢州關役使信雄居大河内城

關税

〔義經記〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 三の口の關とほり給ふ事 夜もすでにあけたれば、あらちの山を出で、ゑちぜんの國へいり給ふ、あらちの山の北のこしにわかさへかよふ道有、のらみ山に行みちも有、そこを三の口とぞ申ける、ゑちぜん國のぢう人つるがの兵衞、かヾの國の住人井上さゑもん兩人承て、あらちの山の關屋をこしらへて、夜三百人ひる二百人の關もりをすへて、せきやのまへにらんぐひを打て、色もしろく、むかばのそりなどしたる者をば、みちをもすぐにやらず、判官殿とてからめおきて、きうもんしてぞひしめきける、〈◯中略〉扨十よ人の人々、とてもかくてもと、うちふてヽ、せきやをさしてぞおはしける、十町ばかりちかづきて、せいを二手にわけたりけり、はうぐわん殿の御供には、むさし坊、かたをか、いせの三郞、ひたち坊、是をはじめとして七人、今一手には北のかたの御供して、十郞ごんのかみ、ねのを、く

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 ま井、かめ井、するがきさんだ、御ともにて、其あひ五町ばかりへだてける、さきのせいは木戸口に行むかひたりければ、關守是を見て、すはやといふこそ久しけれ、百人ばかり七人を中にとりこめて、是こそ判官殿よと申ければ、つなぎおかれたるものども、ゆくへもしらぬ我等に、うきめを見せ給ふ、これこそ判官の正じんよとおめきければ、身の毛もよだつばかりなり、判官すヽみ出て仰られけるは、そも〳〵はぐろ山ぶしのなに事をして候へば、これほどにさうどうせられ候やらんとの給へば、なんでうはぐろ山ぶし、九郞判官殿にてこそおはしませと申ければ、此關屋の大將軍はたれ殿と申ぞととひ給へば、當國の住人つるがのひやうゑ、かヾの國の井上左衞門と申人にて候へ、兵衞はけさ下り候ぬ井上は金津におはすると申ければ、しうもおはせざらん所にて、はぐろ山ぶしに手かけて、主にわざわひかくな、そのぎならば此おひの中にはぐろのごんげんの御正體、くわんをんのおはしますに、此關屋を御むろ殿とさだめて、八重のしめをひきて御さかきをふれとぞ仰られける、せき守ども申けるは、げにも判官にておはしまさずば、そのやうをこそ仰らるべく候に、主にわざわひをかくべからんやうはいかにぞととがめける、べんけいこれを聞て、かたのごとくせんだち候はんずる上は、山ぼうし原が申事を御とがめ候てはせんなし、やあやまと坊そこのき候へとぞ申ける、いはれてせきやのえんにゐ給へる、是こそ判官にておはしましけれ、辨慶申けるは、是ははぐろ山のさぬき坊と申山伏にて候が、くま野に參りて年ごもりして下向申候、九郞判官殿とかやをば、みのヽ國とやらんをはりの國とやらんより、いけどりてみやこへ上るとやらん承候しか、はぐろ山ぶしが判官といはるべきやうこそなけれと言けれ共、なにとちんじ給へ共、弓に矢をはげ太刀長刀のさやをはづしてぞゐたりける、あとの人々も七人つれてぞきたりける、いとヾせき守共さればこそとて、大ぜいの中に取こめて、たヾ打ころせとおめきければ、北のかたきえ入心ちし給けり、あるせきもり申けるは、しばら

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 くしづまり給へ、判官ならぬ山ぶしころして、後の大事なり、せき手をこうてみよ、昔より今にいたるまてはぐろ山ぶしのわたしちんせき手なす事はなきぞ、判官ならばしさいをしらずして、せき手をなしてとほらんといそぐべし、げんの山伏ならば、よもせきてをばなさじと、これをもつてしるべきとて、さか〳〵しげなる男すヽみいでヽ申けるは、所せん山ぶしなりとても、五人三人こそあらめ、十六七人の人々にいかでか關手をとらでは有べき、せき手なしてとほり給へ、かまくら殿のみげうしよにも、かうげをつけきらはず、せき手をとつて關守共の兵粮米にせよ(○○○○○○○○○○○○○○○○○)と候間、關手を給候はんとぞ申ける、辨慶いひけるは、事あたらしき事を承候ものかな、いつのならひにはぐろ山ぶしのせき手なすほうや有、れいなき事はかなふまじきといひければ、せきもり共是を聞て、判官にてはおはせぬと云も有、あるひは判官なれども、世にこえたる人にておはしませば、むさし坊などヽいふものこそかやうにはちんずらめなど申、又あるもの出て申けるは、さ候はヾ、くわんとうへ人を參らせて左右を承り候はんほど、是にとヾめおき候はんと申ければ、辨慶これはこんからどうじの御はからひにてこそ、關東の御つかひ上下の程、せきやのひやうらうまいにて、道せんくはで御きたう申て、心やすくしばらくやすみて下るべしとて、ちつともさわがず、十ちやうのおひをばせきやの内にとり入て、十よ人の人々むら〳〵と内に入てつヽとしてぞゐたる、猶も關守あやしく思ひけり、辨慶關守にむかつて、〈◯中略〉是にてしばらく日數をへ候はん事こそうれしく候へと物語などして、わらんづをぬぎてせんそくし、思ひ〳〵にねぬおきぬなど、したりがほにふるまひければ、關守共是は判官にてはおはせぬげなり、たヾとほせやとて、せきの戸をひらきたれ共、いそがぬ體にて、一どには出ずして一人づヽ二人づヽしづかに立やすらひ〳〵てぞ出給ふ、ひたち坊は人よりさきに出たりけるが、跡をかへりみければ、判官とむさし坊といまだ關のえんにぞゐ給へり、辨慶申けるは、關手御めん候上は、判官にて

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 はなしといふ仰かうぶり候ぬ、かた〴〵もつてよろこび入て候へ共、此二三日少人〈◯義經ノ妻、女ノ久我大臣ノ假稱〉に物參らせ候はず候へば、心ぐるしく候、關屋の兵らうまいすこし給候て、少人に參らせてとほり候ばや、かつうは御きたう、かつうは御情にてこそ候へと云、〈◯下略〉

〔吾妻鏡〕

〈二十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 建保三年二月十八日丁未、仰諸國關渡地頭、可旅人之煩、但如船賃用途者、立料田其替云云、

〔信長公記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 永祿十二年十月四日、田丸之城初トシテ國中城々破却之、御奉行萬方ヘ被仰付、其上當國〈◯伊勢〉之諸關、取分往還旅人之爲惱之間、於末代御免除之上、向後關錢不召置之旨堅被仰付

〔昨日波今日能物語〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 嵯峨の大かく寺殿へ、をんごくのじゆんれいが參り、これはなにと申所ぞといふ、これは御もんぜきとこたへければ、三文にまけてけんぶつはなるまいかとて、いろ〳〵申た、五文のせき(○○○○○)とおもひしこと、口をしき次第なり、 ◯按ズルニ、當時關錢ノ多寡ニ依リテ其關所ノ呼名トシ、三文ヲ納ムルモノヲバ三文關ト云ヒ、四文ヲ出スモノヲバ四文關ナド稱ヘシヲ以テ、如此御門跡ヲ五文關ト思ヒ誤レルモノアリシナルベシ、

以關税充神社/修理料

〔眞本細々要記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 康永三年十一月十八日夜、神木御遷坐金堂前、當社〈◯春日〉ノ中社以下造替料所楠葉(ウトノ)關ヲ依一切經ノカタギ料所、衆徒訴訟也、

〔鶴岡文書〕

〈新編相模國風土記稿所引〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 松岡八幡宮御修理要脚事、所相模國小田原關所也、早三ケ年ノ間宛取關賃、可修造功之状如件、 永享四年十月十四日、信濃守殿、持氏花押、

〔新編相模國風土記稿〕

〈二十七足柄下郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 早川庄 湯本村〈由毛度牟良◯中略〉古ハ東海道中ノ宿驛ニテ、湯本宿ト唱ヘシ由、古書等ハ多ク湯本宿ト記セリ、〈◯中略〉永享ノ頃ハ當所ニ關門アリ、其征錢ヲ鎌倉大藏稻荷社修理ノ料ニ宛ラル、〈鶴岡神主大伴氏藏文書曰、大藏稻荷社〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 〈修理、並相州湯本關所事、如元當社關務之趣可御成敗候、十月廿二日、修理亮殿、兵庫允清方、按ニ文中ニ如元當社關務云々トアレバ、是ヨリ以前ニ修理料ニ宛ラレシコト知ベシ、清方ハ永享十一年管領トナレリ、〉

〔新編相模國風土記稿〕

〈二十四足柄下郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 禁制 鶴岡八幡宮兩界一切經以下修理料所、相模國小田原宿關所事、右甲乙人等、不違亂狼藉、若有違犯輩者、可罪科之状、依仰下知如件、 寶徳四年四月廿一日、前下野守花押、

〔碧山日録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 長祿三年三月八日庚寅、春公明日與中書令勝秀公伊勢神宮、余之與余徒此行、往告途中相從也、 九日辛卯、寅而飯、與鶖幸俊龍偕發足、三里而抵松本津、掉湖舟而到山漱村、一里而歴草津、與春公於旅亭、勝公過勢多橋而至、家臣之相從者十五騎、而稱其屬者五千餘人、蓋大人貴公詣(○○○○○○)神祠(○○)則關譏而不(○○○○○)征(○)、庶首借(○○○)其餘勢(○○○)透(○)關也(○○)、自草津東折七里、而投暮宿於皆口驛、 九月七日丙戌、近歳諸州路、國俗之強豪者、置關以征之、往來悉難焉、相公、命諸吏而破之、因爲造伊勢之大廟、於安城〈◯京都〉之七路〈自諸州京之路、其數七也、〉前月廿一日各置一關之而已、往來咸喜此也、俗子眞信來語之、

〔雍州府志〕

〈一形勝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 凡自四方京師七道、是謂七口、是自古所之也、於今京師繁華、日増月盛、故七口之外、入京師之道有數箇所、人馬之往來不跡、所謂七口者、東三條口、伏見口、鳥羽口、七條丹波口、長坂口、鞍馬口、大原口是也、

〔長祿四年記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 九月二日、治部河内守飯尾新左衞門尉兩人、爲東海道關破却、去月廿四日下向、仍昨日上洛、兩人御太刀進上、太神宮御造營關、依立置、其外被破却者也、 ◯按ズルニ、諸關ヲ撤シ、入京七路ノ關ヲ存シ、大神宮造營費ニ充テシナリ、

〔寛正記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 寛正三年 造營料山田關事、不日可停廢之由、期仰出進候、執達如件、 五月十六日(寛正三) 〈開闔飯尾左衞門大夫〉之種判

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0677 〈頭人津殿〉之親判 十八日到來、則祭主下知ヲ相副、神宮ニ被告云々、於關屋、者、祭主被壞取、 可尋仰之子細在之、不日可進山田關代官等之由被仰出候也、仍執達如件、 五月十六日(寛正三) 之種判 之親判 祭主二位殿

〔内宮寛正年中記〕

〈勢陽五鈴遺響所引〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0677 寛正四年三月十日、内宮禰宜連署進状云、右仲ノ關等事、小田御關者爲外宮造營料上者不是非、但最初御成敗者可置二俣邊之由被仰下歟、然被小田之條、神慮不應之、喧嘩出來既被破却畢、然又被置神籬之間之條、神慮難測者哉、如最初御成敗二俣中野邊者、神慮可相應云云、

以關税充佛寺/修理料

〔長者補任〕

〈山城名勝志所引〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0677 文永七年四月廿一日、寅刻東寺塔燒失、〈略〉被淀關所急速遂成風功、及永仁元年造畢、

〔圓覺寺文書〕

〈新編相模國風土記稿所引〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0677 圓覺寺造營要脚關所事、〈◯中略〉早於箱根山葦河宿邊在所、限年紀三箇年、嚴密可其沙汰之状如件、 康暦二年六月日、當寺長老、左兵衞督氏滿、花押、

〔圓覺寺文書〕

〈新編相模國風土記稿所引〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0677 箱根山水飮關所之事、任仰下之旨、渡附圓覺寺雜掌候畢、以此旨御披露候、恐惶謹言、 應永十三年六月十六日進上、御奉行所、左衞門尉憲清花押、

〔康富記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0677 寶徳三年九月二日丁酉、後承、是日曉春日社御神木、有動坐于移殿云々、是南郡領攝州河關以下訴訟事、依御裁許遲々入洛之由、兼日所聞也、社官等就便宜此由告申處々云々、 七日壬寅、是日自武家使節於南都、依神木入洛之有一レ聞也、管領畠山左衞門督入道御教書數通被之、同被遣綸旨者、可然之由、武家就御申沙汰下綸旨於寺門社家等云々、〈◯中略〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0678 條々 一兵庫河關事、永代爲南都領、不其煩之由、被御教書

〔釋迦院案文〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0678 寶徳三年〈未〉御動座之時之事書〈光胤已講草案沙汰〉 興福寺學侶衆徒群議曰 攝津國兵庫關者、等持寺殿御代御寄附于當寺當社造營用脚、其濫觴事舊畢、子細非他、深貴春日五所之誓約、歸法相一宗之佛法〈給〉御懇志也、〈◯中略〉當寺之再興在于彼御代、勝定院殿預當關直務之御下知、普廣院殿重被下御判物、累代御願添其色、滿寺之眉目、何事如之乎、今般蔑如代々尊崇御願、被關所停廢下知之條、欝陶之甚、叵翰墨、厥後如元可關務之由御下知云々、雖然明日定反掌歟、大訴不容易、爭獲已哉、就中白鹽船勘過之由來、非八幡宮敬神之儀、奉行人得商人之語、顧私之利潤、構無盡矯飾申沙汰之條令露顯歟、早彼逆類等爲傍輩向後、可非常刑罰、〈◯下略〉

〔大乘院日記目録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0678 寶徳三年九月一日、春日神木遷座于別殿、今度關務、惡行徳本入道所行也、隨而大明神種々御託宣在之、三ケ年内畠山一家可滅亡云々、希代不思儀事共在之、近日畠山權勢無雙也、何事可之哉、如案一家物忩三ケ年内出來、一向如無成下了、

〔釋迦院案文〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0678 春日社兼興福寺領、攝津國兵庫關事、先度被並八ケ所者、不左右、其外雖神社佛寺并白鹽船、公武權門勢家至過書國料、永代被止之訖、此段宣知寺門之由被仰下也、仍執達如件、 寶徳三年九月六日 改陳〈在判〉

〔釋迦院案文〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0678 興福寺學侶衆徒群議曰、〈光胤已講草案◯中略〉所詮彼一郡〈◯宇智〉事、被付于寺社者、彌三千一味之精勤、天長地久之懇祈矣、次河上五箇本關者、爲大伽藍造營用脚之處、近年依新關増倍、本關料逐年減少之條、歎而有餘者乎、急被停廢新關、爲本關務之由、可嚴密之御下知、兩條御沙汰若令

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0679 停滯者、奉五所明神、及滿徒三千之大訴、之由、群議如斯、

〔師郷記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0679 享徳三年六月十一日辛卯、法性寺大路爲東福寺沙汰新關、是間塔婆造立云々、而醍醐山科已下近邊土民令同心、昨今寄于法性寺大路、可東福寺之由企之云々、仍自寺家相防之間及合戰云々、寺官修造司一人討死、長不關之由寺家申之、仍土民等退散屬無爲云々、

〔東寺執行日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0679 享徳三年六月十二日、東福寺三重塔婆爲勸進、於法成寺大路關所立之、仍土一揆寄破之出官僧打死、寺方ニ手負七八十人有之、 ◯按ズルニ、此書師郷記ト日一日ヲ差ヘタリ、蓋シ其一ハ傳聞ノ謬ニ出デシナルベシ、

〔大乘院寺社雜事記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0679 長祿四年〈◯寛正元年〉正月五日、兵庫關訴訟事、不權門高家、於關料者可出旨、被舊冬大晦日御判之間、元日定清五師令下向了、於好嚴五師者、二十八日下向云々、寺訴無爲條珍重者也、傳奏毎事申沙汰令沙汰故歟、今度一向見所云々、是又希代事也、 三月十二日、宗秀五師來、爲寺官來十四日可上洛云々、兵庫關、勘落舟備前小島與兵庫取事、自去年冬初訴訟、于今無一途、仍及訴訟云々、 寛正二年九月五日、春日社兼興福寺造營料、攝津國兵庫關所事、所止新過書國料也、早守先例關務、可寺社營作之状如件、 長祿三年十二月廿六日 内大臣兼右近衞大將源朝臣御判 寛正四年七月廿三日、今度大館兵庫頭教氏與相論條々成下事、 寛正二年〈巳〉分 三十五貫文 細呂宜關料一向無沙汰 同三年〈午〉分

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0680 三十五貫文 同關料一圓無沙汰 十貫文 同〈◯三ケ浦〉新關一圓無沙汰 十一月十六日、攝州兵庫關事、毎年二千餘貫關料也、然而七百貫計致其沙汰、大船共號細川方船、不關料沙汰通故云々、此子細度々爲寺門就訴申入、無裁許之儀、仍昨日學侶大集會於于今者無力可向次第大訴、則當季春日祭若宮祭禮等令押留之旨、令送社家之間、今日〈卯刻〉南曹辨并傳奏方ニ申上了、云御房中寺門、押留一決了、

以關税充内裏/修理料

〔宣胤卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0680 文明十二年十月十日丙辰、爲新關停廢、土一揆蜂起塞通路、北白川邊集會燒拂關所云々、號内裏修理料、亂後七口所新關也、武家自用之外於修理者不沙汰、諸人之所歎也、

私度/越度/冒度

〔律疏〕

〈衞禁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0680 凡私度(○○)關者(○○)徒一年、〈謂三關者、〉攝津長門減一等、餘關又減二等、越度(○○)者各加一等、〈不門爲越、〉〈謂公使有鈴符、軍防丁夫有總歴、自餘各請過所而度、若無鈴符公文、私從關門過者、〉已至越所度者減五等、〈謂已到官司應禁約之處、餘條未度准此、〉〈謂越度之人己至官司防禁之所、未度者減越度五等、餘條未度准此者、謂城及垣籬等有禁約之處、巳至越所而未度者、皆減已越罪五等、若越度未過者、准上條減一等之例、〉即被徒罪以上、抑屈不申、及使人覆訖不理者、聽關國郡具状申訴、所在官司即准状申太政官、仍遞送至京、若無徒以上罪而妄陳者、即以其罪之、官司抑而不送者、減訴之罪二等、〈謂關外有人、被官司枉斷徒罪以上、其除免之罪本坐雖徒、亦同徒罪之法、抑屈不申及使人覆訖不理者、文稱及者使人未覆、亦聽關國郡具状申訴、所在官司、謂近關國郡即准状申太政官、仍遞送至京、若勘無徒以上罪而妄訴者、妄訴徒流、還得徒流、妄訴死罪、還得死罪、妄訴除免皆准比徒之法、謂元無本罪而妄訴者、若實有犯、斷有出入、而訴不平者不此坐、其應禁及散送、並依訴之罪令遞之、若官司抑而不送者、減訴之罪二等、謂枉得死罪官司不送、合徒三年之類、〉 凡不關而給過所、〈取而度者亦同〉若冒(○)名請(○○)過所(○○)而度者(○○○)各徒一年、〈謂有征役番期及罪譴之類、皆不輙給過所、而官司輙給及身不關而取過所度者、若冐他人名過所而度者各徒一年、〉攝津長門減一等、餘關又減二等、即以過所人、及受而度者亦准此、〈謂以請得過所而轉與人、及受他過所而承度者亦徒一年、但律文皆云、度者得徒一年、明知未度者不徒坐、若關司未過所以前、准越關未度各減五等之例、若巳判過所、未關門、同過各減一等、其與過所人既因度成罪前人未度亦同減科、不過所而給者不減例、〉若家内人相冒杖八十、〈謂家人不良賤、但一家之人相冒而度者杖八十、既無名字冒名者無罪、若冒〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0681 〈度私度越度事由家長處分、家長雖行亦獨坐家長、此是家人共犯止坐尊長之例、〉主司及關司知情者與同罪、不情者不坐〈主司謂給過所曹司及關司、知冒度之情、各同度人之罪、不冒情主司及關司倶不坐、〉即將馬牛越度冒度及私度各減度人二等、〈家畜相冒者不坐、〉〈謂毛色齒歳不同相冒、並不罪、〉凡關津度人、無故留難者一日、主司苔廿、一日加一等、罪止杖一百、〈謂依令行人出入關津者、各依先後而度、無故留難不度者、主司即合此坐、此謂非公使之人、若軍機急速、而留難不度致稽廢者、自從廢重論、〉 凡私度者、有他罪重、主司知情、以重者論、不情者依常律、〈謂無過所關門私度、止徒一年、或有死罪逃亡、別犯徒以上罪、是名他罪關司知情者、以故縱罪論、各得度之人重罪、若不罪人別犯之情者、依常律不覺故縱之法、〉凡領人兵關、而別人妄隨度者(○○○○○○)、將領主司以關司論、〈謂有別人妄隨度者、罪在領兵官司、故云將領主司以關司論、知情與同、罪不覺滅二等、若知別有重罪亦依重罪之、〉關司不覺、減將領者罪一等、〈謂關司承將領者文薄、不別人隨度者、減將領者一等、謂減度者罪三等、〉知情者各依故縱法、〈謂稱各者將領主司及關司、倶得人之罪、〉

〔享祿本類聚三代格〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0681 太政官符 應長門國關過白河菊多兩剗事 右得陸奧國解偁、撿舊記、置剗以來、于今四百餘歳矣、至越度、重以決罰、謹檢格律、無件剗、然則雖犯、不輙勘、而此國俘囚多數、出入任意、若不勘過、何用爲固、加以進官雜物、觸色有數、商旅之輩竊買將去、望請勘過之事、一同長門、謹請官裁者、權中納言從三位兼行左兵衞督藤原朝臣良房宣、奉勅依請、 承和二年十二月三日

〔享保度法律類寄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0681 掟背 一關所破(○○○)當人は磔、手引馴合候者獄門、女ハ品によるべし、

〔御定書百箇條〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0681 關所を除、山越致候者、并關所を忍通候もの御仕置之事、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0682 一關所難通類山越等致候者(從前々之例) 磔(於其所) 但男に被誘引山越致候女ハ奴、一同致案内候者(同) 磔(於其所) 一同忍通候者(同) 重追放 但女ハ奴 一口留番所を女を連忍通候者(同) 中追放 但女ハ領主江可引渡〈◯中略〉 一人相書を以御尋に可成者之事〈◯中略〉 一關所破(寛保二年極)〈◯中略〉 獄門 但乍存請に立候もの同罪、吟味之上不存に決候共、主人請人共に過料、〈◯中略〉 拷問可申付品之事〈◯中略〉 一關所破(元文五年極) 右之分惡事いたし候證據慥ニ候得共、不白状もの、并同類之内致白状候得共、當人不白状もの之事、〈◯中略〉 重科人死骸鹽詰之事〈◯中略〉 一關所破(寛保二年極)〈◯中略〉 右之分死骸鹽詰之上御仕置、此外ハ不鹽詰事、(享保六年極)

〔舊幕府御定書例書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0682勾引御關所の外共不存山越いたし候女之事 寶暦三酉年十月御仕置の例 信州上ケ谷村〈百姓彦八娘〉 ろく

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0683 此ろく儀、被勾引何宿に候哉、旅籠屋に四五日罷在、夫より不見知男差添、山駕籠に筵を掛け、往來道筋不見様いたし、所々連歩行、坂本宿にて、損いたし候間、二三年も可賣由申談、何宿に候哉、ろくを差置、右附添候男は歸候間、夜中逃出し、上州水沼村又兵衞方へ駈込候旨申之、御關所の外、山越いたし候哉も一向不存事にの得ば御構無之、親彦八へ可相渡哉と相伺、其通被仰渡候事、

〔時秋物語〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0683 相模のくに足柄山にきにけり、こヽにてよしみつ馬をひかへていはく、とヾめ申せどももちひたまはで、これまでともなひたまへる事、そのこヽろざしふかし、さりながらこのやまのせき、たやすくとほす事もあらじ、よしみつは所職を三拜申て、みやこをいでしより、命をなきものになしてまかりむかへば、いかなるせきにてもはヾかるまじかけやぶりてとほるべし、それにはそのやうなし、是よりかへりたまへといふを、時秋なほうけひかず、またいふ事もなし、〈◯下略〉

〔近代公實嚴秘録〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0683 不破兵左衞門箱根の關破の事 爰に不破兵左衞門と云浪人者有、江戸青山邊に住居しけるが、子細有之、一族の事に付、播州へ赴かずしては不叶用事有、急用と見えたり、しかれば夜を日に繼ても可參所なれども、身貧にして萬事ふつヽか、其上に女子一人十一才、男子一人九才に成るを持けり、〈◯中略〉不破不敵の者にて、二人の子どもを召連、上方へ赴く、然るに女子は箱根の通り手形六ケ敷、御留守居の判なくては難通ければ面倒なりとて、彼女の子を、頭を剃て野郞あたまにして、男子の風俗にかへ、つれておもむきけり、あつはれ不敵の事なり、かくて兵左衞門は子ども召連て箱根へ掛り、關所にて申ことわり、男子二人無相違御通しと申ければ、何事なく欺きおほせて通りけり、〈◯中略〉關所破りと云は、關の外閑道抔を忍び通るをいふなり、關所を欺き僞り通るは關所破りとはいわれず、關守も油

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0684 斷の越度甚し、去れば此者を捕て出す時は、御仕置尤御制法磔の掟なり、然る時は關所の役人も淺深なし咎にて、番頭を始多くの人の落命無疑、〈◯下略〉

〔西遊雜記〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0684 薩摩の米津より肥後の水股迄三里半、此間國境の標木雙方よりたつ、鹿兒島札の辻より三十六丁道にて二十六里三十丁、熊本札の辻迄二十五里二十九間、肥後侯の番所は袋村といふにあり、往來の人をさしてあらためず、薩摩の番所にて旅人の改めむつかし、然れども同道に拔道幾筋もあれば、肥後水股佐鋪の商人薩州への往來は、皆ぬけ道を入るといへり、

〔嘉永明治年間録〕

〈十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0684 常野兩州騷亂之記 元治元年、賊徒中仙道福島ノ關ヲ越ユ、 從夫賊徒追々打越し、十一月廿九日、中仙道木曾路の内、福島の御關所へ賊徒相懸り候、口上の大意、拙者共一橋卿へ兼て申合せし事も有之候に付、今般上京致し候、右に付御關所罷通ると演説して、悠々と相通り候由、右に付、關守山村甚兵衞より、斯々の次第にて支る事相叶はず、無據御關所を相通し候段、京都へ注進致し候由、

雜載

〔日本書紀〕

〈三十持統〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0684 十年八月甲午、以直廣壹多臣品治、並賜物、褒美元從之功與堅守關事

〔續日本紀〕

〈四元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0684 和銅二年九月己卯、遣從五位下藤原朝臣房前于東海東山二道、撿察關剗(○○)巡省風俗

〔續日本紀〕

〈五元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0684 和銅五年九月乙未、禁三關人帳内資人

〔十訓抄〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0684 清原滋藤は、其身征夷使軍監の武藝にいたりしかども、文の方たくみなりけり、〈◯中略〉此人は忠文民部卿、將軍の宣旨を蒙りて、將門追討のためにあづまへ下りける時、伴へりける、駿河國清見が關について、海のはたにやどりたりけるに、 漁船火影寒燒浪 驛路鈴聲夜過山と云古き詩を詠じたりければ、折ふし心すみて將軍涙落しけり、この詩は、杜荀鶴が臨江驛に宿りて作りけり、旅宿の夜のおもひ、同心通ひけんと心すご

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0685 し、〈◯又見江談抄、袋草子、〉

〔千載和歌集〕

〈二春〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0685 みちの國に、まかりける時、なこその關にて、花のちりければよめる、 源義家朝臣 吹風をなこその關とおもへども道もせにちる山櫻かな

〔平治物語〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0685 義朝青墓落著事 不破關ハ敵堅メタリトテ、小關ニ懸テ、小野ノ宿ヨリ海道ヲバ妻手ニナシテ落給ヘバ、雪ハ次第ニ深クナル、〈◯中略〉義朝ハ兎角シテ美濃國青墓ノ宿ニ著給フ、

〔平治物語〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0685 頼朝擧義兵平家退治事 九郞御曹司ハ秀衡ガ許ニ御座ケルガ、佐殿〈◯源頼朝〉既ニ義兵ヲ擧給フト聞ヘシカバ打立給ニ、〈◯中略〉軈テ信夫ニ越給ヘバ、〈◯中略〉早白河ノ關堅メテケレバ、那須ノ湯詣ノ料トテ通給フ、

〔袋草紙〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0685 竹田大夫國行ト云者、陸奧ニ下向之時、白川ノ關スグル日ハ、殊ニ裝束ヒキツクロヒムカフト云々、人問テ云ク、何等ノ故哉、答云、古曾部入道ノ秋風ゾフク白河ノ關ト讀レタル所ヲバ、イカデカケナリニテハ過ント云々、殊勝ノ事歟、 能因實ニハ不向奧州、爲此歌、竊ニ籠居シテ下向奧州之由ヲ風聞云々、二度下向ノ由アリ、於一度者實歟、書八十島記

〔吾妻鏡〕

〈二十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0685 承久三年五月十九日壬寅、晩鐘之程、於右京兆館、相州、武州、前大膳大夫入道、駿河前司城介入道等、凝評議、意見區分、所詮固關足柄筥根兩方道路相待之由云云、大官令覺阿云、群議之趣、一旦可然、但東士不一揆者、守關渉日之條、還可敗北之因歟、任運於天道、早可遣軍兵於京都者、〈◯下略〉

〔建内記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0685 嘉吉元年三月十二日己酉、伊勢國衙内關跡事、任帳面避給之由、先日以状示長野之處、任

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0686 先例下知之由有返報、 八月十九日癸未、播州故直冬子孫僧、〈先日被誅之僧舍兄之僧事也〉號伊原御所、赤松取立之還俗、其名義尊、以彼判形諸方廻文之間、寫彼判觸諸關、於件判之人者、可召捕之由、管領加下知云々、 播州廻文判 義尊〈◯花押〉

〔類聚名物考〕

〈地理五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0686 關迎 せきむかへ やがて來らんとする人を、程をかんがへて、その道の關所まで迎ひに出るをいふ、人を送るも多くはせきまでおくり、舟には湊津まで迎送が如し、唐の人もかヽる事おなじ習ひにや、王維の作れる詩を、今の世迄もひとを送るには、かならず主客たがひにとなへて、別れををしむ事あり、これを陽關三疊といふなり、その結句に、西出陽關故人といふにこそ、八月の駒引に關迎とて、相坂關まで迎に出る事あり、


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