https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0930 江戸ハ武藏國ノ一部ニシテ、其地名ハ鎌倉幕府時代ヨリ既ニ史乘ニ見エタリ、蓋シ其名ノ漸ク世ニ知ラレシハ、康正年間、太田資持ノ居城ヲ此地ニ築キシ時ニ在リトス、然レドモ當時ハ疆域未ダ廣カラズ、人衆甚ダ密ナラズ、蕭條タル一漁村ニ過キザリシガ、天正年中、徳川氏封ヲ此ニ移シヽヨリ、疆或日ニ廣マリ、戸口月ニ加ハリ、未ダ數年ナラズシテ、一大都會ト成レリ、既ニシテ、徳川氏天下ノ政權ヲ握ルニ及ビ、江戸ノ地ハ、四方輻湊ノ中心トナリテ、益繁榮ヲ加ヘ、丘陵ハ夷ゲラレ、海灣ハ塡メラレ、萬戸忽ニシテ田野ヲ覆ヒ、千帆常ニ河海ニ滿ツルヲ看ル、故ニ夙ニ山城ノ京都ト、東西相對峙シテ、私ニ江都若シクハ東都ト號セリ、 明治元年、王政復古シ、龍駕東幸スルヤ、爰ニ江戸ヲ以テ、帝都ト爲シ、詔シテ曰ク、江戸ハ東國第一ノ大鎭、四方輻湊ノ地、宜シク親臨シテ其政ヲ視ルベシト、乃チ江戸ヲ改メテ東京ト稱ス、實ニ皇國ノ首府ニシテ、今ノ東京市即チ是ナリ、

名稱

〔倭訓栞〕

〈中編三衣〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0930 えど 江戸は武藏國也、鎌倉將軍の時、江戸能範あり、

〔武藏演路〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0930 江戸〈或荏土、風土記ニみゆ、〉江ハ大河ヲ曰、江戸ハ戸口ヲ云、 江戸之號の事可成談に、江戸、水戸、坂戸、今戸、花川戸抔云地名に多し、戸口に寄ての名なるべしと云々、 或云、江戸の名至て古く、東鑑に江戸太郞重繼、〈又重長と云〉太平記に江戸遠江守とみゆ、

〔南向茶話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0930 或日、例のごとく二三の友參りつどひ、古今の談に、或人問て曰、抑當御地を江戸と號し

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0931 候事、何れを指して申候哉、 答曰、仰のごとく、近代當所名跡等を記し候書も數多相見へ候得共、江戸の號の事慥ならず候、愚〈〇酒井忠昌〉が管見仕候に、山中氏被相記候中古治亂記十五卷、江戸城草創之條下、其略に、扇谷上杉修理大夫定政之老臣を、太田備中守資清入道道眞と云、武州都筑郡太田郷之地頭也、其嫡男鶴千代丸と云、成長之後、太田源六資持と號す、後に受領して任備中守、改資長、剃髮して道灌と稱す、當御城を康正二年に普請、初め繩張して、長祿元年四月迄僅兩年之内、巧匠の功成就しける、都五山之都万里和尚、古詩を引て是地を美たる詩に云、窗含西嶺千秋雪、門繁東呉萬里船、又五山より被贈たる詩之内に、江戸城高不攀、我公豪氣早東關、三州富士天邊雪、快作青油幕下山と云々、右之詩の句にも江戸城と有之、別號なし、しかれば道灌城築の時に、其地名に依つて直に名付たるべし、既に鎌倉將軍の時代より江戸といふ稱號の士あり、此は平氏類葉よりして、武藏の士と稱すれば、江と云地名其前有べし、愚案に、江に望める意成べし、抑當御城天正年中御入國以前、今の雉子橋の外より北の方大沼にて、此より西の方もちの木坂下迄入江にて有し由、小川町も寛永年中、外廓無之以前は、牛込よりの流は、どんど橋の向へ直ぐにもちの木の方へ流れ行、又小石川の流は、今の土手三崎稻荷の邊より、一ツ橋の御堀の川江流行しよしなり、然ば、唯今御城内、古へより江戸と名付所なるべし、總名となり候事は、其頃近邊の根城たるによりて也、

〔武江披抄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0931 南留別志云、江戸、水戸、りうと、つくと、今戸、花川戸など地名に多し、戸口によりての名なるべし、覃按、此説非なり、沙石集六〈下〉武藏の江所(エド)トアリ、是江戸ノコトナリ、入江ノアル所ヲ江所(ド)ト云シナルベシ、靈岩島ノ古名ヲ江戸中島ト云、江戸橋ナド云名モフルキコトニテ、此邊眞ノ江戸ナルベシ、

〔江戸紀聞〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0931 江戸大意

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0932 江戸の地、その名義を詳にせず、或書に云く、荏土とかけるを見れば、荏の多き地ゆへかく名付しなる也、荏原郡あるも是ゆへなりと、〈〇中略〉元來江戸の地は郡にあらず、又郷にもあらず、いにしへよりの庄の名なるべし〈或書に峽田領江戸といふ、正しき書にのするを未見ず、〉東鑑にも江戸庄といへるは見へざれど、川越庄、澀谷庄、長井庄、六浦庄などいへるに同じかるべし、

〔御府内備考〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0932 江戸總説 江戸は上古武藏野の内なりしよしは、諸記紀行の類にも載たり、後年墾闢して郡郷を定られし後も、江戸といふ名は猶聞えざりしなり、中古は郷名に唱へり、相州鎌倉圓覺寺所藏文書の内、建武四年〈延元二年なり、關東此號を用ひずといふ、〉七月十日、左馬頭某〈花押及年歴を推に、尊氏の弟直義なり、〉が寄附状に、當寺領〈中略〉武藏國江戸郷内前島と記し、永和三年十二月十一日同寺の下文に、武藏國江戸郷内前島村と記し、應永二十六年十二月十七日の寄進状に、武藏國江戸前島内森木村と載たり、此前島森木などいふ地は、いづれの處なりしにや、後世聞えざる地名なり、今姑く前島といふに因て推考るに、恐くは今の芝邊より御城までの内なるべし、是後年村落を廢して、屋舖地寺社地及町並となりし處なれば、おのづから古名を失ひしならん、其餘豐島荏原二郡の内に、前島森木などいふ名は、小名字にも傳ふるをいまだ聞ず、元より此文書に記せし郷といふもの、上古朝庭より定められたる郷とは異るべけれど、現に江戸郷内前島村と書る時は、後世〈天文永祿頃の文書をいふ〉村を某郷と書しとは、又おのづから別なるべし、新井白石の輩、江戸を庄名ならんといひしは、是等の文書あることを知らざる管見の臆説といふべし、按に武藏國七黨系圖に、秩父太郞大夫重弘が五男を江戸太郞重繼といふ、この重繼が時はじめて江戸の地におり、江戸をもつて稱とせしなり、是より前江戸の名諸記にあらはるヽをいまだ見ず、

疆域

〔江戸紀聞〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0932 江戸大意

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0933 武藏國江戸は、豐島郡荏原郡二郡にかヽれり、上古はすべて武藏野の内にて、廣漠の野なり、此野は、その境もさだかならざれど、古き文書に云、凡十郡に跨りて、西は秩父根、東は海を限り、南は向が岡都筑原(ツヾキガハラ)、北は入間郡河越に至れりと或書に見ゆ、江戸はその東の方にて、中古中武藏ともいへり、〈〇中略〉當國の全圖を以て考ふるに、豐島郡東は隅田川をかぎり、西は落合村柏木村の邊をさかひとし、南は麻布澀谷村にとヾまり、北は岩淵志村の邊に至れり、荏原郡は、東北三田村、白金村、世田谷村の邊にいたり西南は品川大森をかけ、多磨川をさかひとせり、此二郡にわたるものは、則江戸の地なり、

〔日本地誌提要〕

〈二東京〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0933 疆域 東西貳里六町三拾七間、南北貳里貳拾九町三拾八間、

〔東京市統計年表〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0933 市區ノ廣袤

〔武藏演路〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0934 南向亭追考ニ、古老云、平河一水を隔て、今の二之丸の方は江戸の郷、日輪寺の方は神田の郷也と云、以是考れば、今の西丸邊の所わづかの地を、江戸の郷と云しと思はるヽ也、 又往古いまだ町々ならざる頃は、江戸宿と云しよし、古キものにみゆ、又古へ江戸の邊を中武藏と云しよし、是も古書に出す、又寛文江戸古圖に、武州江戸庄とあり、 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0935 又延寶古圖に、日本橋邊より白銀町を限りて、此所に、此土手より北は神田、南は江戸とあり、 今江戸と云地は、大城を以て中央とし、大凡行程四里四方にして、其眞中を府内と稱す、 江府内外を分ツ傍示杭、江戸橋々已上二十九ケ處ニ有之、元祿十一寅年ニ被建、右府外町並といへども、御年貢御代官御支配、其外万事町御奉行所御支配也、

〔江戸名所圖會〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0935 江戸 豐島郡峽田領とす、其封境往古は廣くあらざるに似たり、〈〇註略〉武藏國風土記に、荏土に作る、傳云、此地は大江に臨故に江戸と稱せりといふ、〈甲陽軍艦に、江戸の邊りを中武藏と唱ふるとあり、義經記に云く、江戸太郞重長は八箇國の大福長者とあり、しかる時は、江戸の地は其頃なべて重長領せしなるべし、南向亭いふ、平川一水を隔て、今の三の丸の地は江戸の郷、日輪寺の方は神田郷なりと、こゝに平川と云は、今の飯田町の下よりつゞく入堀の水脈是なりと、又同じ説に、今の御城の邊り、いにしへ江戸ととなへし地なるべし、攝州大坂御城内の雁水坂、舊名を大坂と號く、後世御城の號に呼れしより、彼地の總名となる、江戸の名も此類なるべしと云云、寛永二十年開板のあづまめぐりといふ册子に、行へいかにと白露の、葉末にむすぶ淺草を、打越ゆけばほどもなく、むさしの江戸につきにけりとあるも、上の意にひとし、よつていにしへの封域、今の如くに廣大ならざるをしるべし、〉天正已降、江戸を以て御居城の地となし給ふ、故に日を重ね月を追ひ、益繁昌におよび、今は經緯拾里におよむで、都て江戸と稱せり、萬國列侯の藩邸、市鄽商賣の家屋鱗差して、縱横四衢に充滿し万戸千門甍を連ねたり、實に海陸の大都會にして、扶桑第一の名境といひつべし、

〔南向茶話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0935 相州箱根金湯山早雲寺什物 一北條家分限帳之内に江戸廻りと稱する分 南 上平川 下平川 櫻田 國府方 阿左布 比々谷 大根原 目黒本村 下澀谷 三田 新倉 銀 三田之郷 品川南北 馬込 世田ケ谷 川崎 局澤 六郷 大師河原 大井 前野 泉邑 西 牛込〈大胡領〉小日向〈領主興津加賀守〉落合 中新居 千駄ケ谷 小石川 雜司ケ谷 富塚 原宿 市ケ谷 石原 板橋 大谷郷(板橋之内) 志村 練馬 高田 葛谷 横山 土志田 比留方

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0936  山中分(戸塚之内) 金谷 北 下谷 湯島 本郷 駒込 芝崎 鳥越村 廣澤〈内〉 代山 根岸 赤塚 神田 新堀間 中栗 新堀 蓑輪寺屋〈平塚之内〉 西原 田端在家 三河島 石濱 豐島瀧ノ川 十條 江古田 尾久 上野 金杉 千束 石神井〈内〉 谷原在家 無戸分 阿佐谷 池袋 梶原 堀之内

〔再訂江戸總鹿子新増大全〕

〈六下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0936 江都内外を分ツ傍示〈元祿十一寅年建、長サ一丈、七寸角、〉  下谷御徒歩町 同廣徳寺前 駒込竹町 淺草 新堀 同追分 谷中清水谷 目赤不動 小日向水道町 市ケ谷柳町 牛込榎町 市ケ谷片町 同加賀屋敷 四谷大番町 紀伊國坂 青山御そうじ町 芝切通し 麻布雜色 澀谷筓橋 二本榎猿町 牛町喰違 深川高橋 深川萬年橋 本所辻の橋 同横ほり 本所業平橋 同所扇橋 小梅源森橋 小石川蓮花寺前 已上 此御定杭、一書には江都の内外を分ツ傍示としるす、又一書には、小荷駄馬口附不乘町口所々傍示杭と有て、都合十二ケ所とあり、甚疎し、米山翁が書甚委し、今彼書に從ふ、實も小荷駄の口附乘打を禁制あれば、内外をわかつ傍示といふとも論なき事か、

〔徳川禁令考〕

〈四十七府内外區域〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0936 天明八申年十二月 御府内御府外之境心得之儀ニ付、評定所一座評議之事、 御府内御府外境之儀、御定書并科條類典、其外前々被仰出候御書留にも、何方を限り内外之境と申儀は無御座、江戸拂御構場所を限り可申哉、亦は倒死、病人、水死、其外變死、迷子等有之候節、芝口

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0937 町河岸江建札いたし候場所を限可申儀にも可之哉、依之評議仕候處、 御定書 一江戸拂 〈品川板橋 千住本所深川 四ツ谷大木戸〉 より内 右之通有之、科條類典元例をも相糺候處、寛延元辰年二月、江戸拂御仕置之儀本所深川町奉行支配限リ構之地ニ可申付旨、御定書ニ書入可申段被仰出候御書付之趣を似、相極り候旨有之候、 倒死人、水死、其外變死、迷子等有之候節者、所より訴出次第、年頃并衣類等之品認、芝口町河岸建札可致旨之御定ケ條ニ、 一南ハ品川より長峯六間茶屋町限 一西ハ代々木村上落合村板橋限 一北ハ下板橋村王子川尾久川限 一東ハ木下川村川通中川通八郞右衞門新田村限 右兩様之御定を見合、建札之ケ所、大概江戸拂御構場所ニ相當り候得共、建札之ケ所を限り候内にハ、町奉行支配外、御料私領寺社領之村方も少々ハ入交リ有之、御定書目安裏書初判之ケ條ニ、 一寺社云云 一江戸町中云云 一關八州云云 右ニ見合候而ハ、御府内ハ町奉行支配場と相見候處、前書之通、芝口建札之ケ所を限候内ニハ、御料私領寺社領之村方も籠り有之候ニ付、右を御府内とハ難決、然上者江戸拂御構場所者、町奉行支配場限之元例も御座候間、右御構場所同様、品川、板橋、千住、本所、深川、四谷大木戸より内を御府内と相心得可申候哉、奉伺候、

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938  十二月(申) 右之通相伺可申哉と、評議有之候處、不伺評議ニ而極ル、

〔徳川禁令考〕

〈四十七府内外區域〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 文化元子年十一月 江戸拾里四方之事 石川左近將監 隱鐵炮致所持候もの、江戸拾里四方と、右之外とは御仕置差別有之儀ニ候處、江戸拾里四方は、日本橋より四方江五里宛之儀ニ候哉、又者何方迄と申取極等有之候哉、此段及御問合候、 子十一月 御書面、江戸拾里四方鐵炮改之儀、享保十四酉年三月廿六日、水野和泉守殿御書付を以、御拳場并江戸拾里四方と有之ハ、日本橋より東西南北江五里宛と可相心得旨、被仰渡之候、以上、 子十二月朔日 久田縫殿頭 文政元寅年 御府内と唱候場所之事 御府内と唱候場所心得方之儀、取調候趣申上候書付、 榊原主計頭 土屋紀伊守 去月十四日御渡被成候牧助右衞門伺書一覽仕候處、御府内と唱候ハ、何れより何方迄と心得可申哉之旨問合候向も有之候得共、御目付方聢と書留等無之候ニ付、取調候處、寛政三亥年、松平越中守殿、中川飛騨守御目付勤役中、大目付桑原伊豫守連名ニ相伺候ハ、遠方神社寺院等江參詣、并下屋敷ニ罷在候一類共方江罷越候儀、心得區々ニ而、他役より承合候節、挨拶一同不仕候儀も可御座、明和二酉年、御書付之趣ニ寄候而も、江戸内外之所、何方迄と申儀、引當可申御定も不相見候ニ付、以來之儀、凡御曲輪内より四里内外之所、江戸内之心得ニ而不御屆、罷越候之様可仕候

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0939 哉之趣相伺候處、右里數之内ニ而も、御關所有之場所、船渡等有之所ハ御屆申上、其外伺之通、被仰渡候書留相見候得共、御府内之境目、何方迄と申儀書留無之候ニ付、問合候向江及挨拶兼、猶大目付江も相談仕候處、去々子年、越後國頸城郡高田金剛院、御府内限勸化被仰付候節、寺社奉行より申渡候趣ハ、  東〈砂村 龜戸 木下川 須田村〉限り 西〈代々木村 角筈村 戸塚村 上落合村〉限り 南〈上大崎村より 南品川宿迄〉 北〈千住 尾久村 瀧野川村 板橋〉川限り 右之通ニ付、御曲輪内より四里迄之所を御府内と相心得、御曲輪内よりと申上候ハ、東之方ハ常盤橋御門より、西之方ハ半藏御門より、南之方ハ外櫻田御門より、北之方ハ神田橋御門より、右村村迄を御府内と相心得、問合候向江挨拶可仕哉之段相伺申候、 御書取 別紙繪圖面朱引内を御府内と相心得候趣、御目付江相達候、御仕置筋之儀ハ、御定書之通可相心得候事、

〔徳川禁令考〕

〈六十戸籍〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0939 天保十四卯年三月 諸國人別改改正 此度被仰出候御府内人別改之儀ニ付、品々伺并御下知、〈〇中略〉 一場末ニ而ハ、在方御一方御支配場と、御町方御支配場と、地面毎ニ入組候場も有之、此分免許状ニ而ハ差支候哉も難計候間、右入込之在方町屋、并四宿之分ハ、市中同様、名主共書送ニ而引越等取計可申哉、尤此儀歸郷勸農之厚御趣意ニ付、御町方御支配場境ニ而、嚴重ニ御仕法相立不申候而ハ不相成儀ニ御座候心得ニ候得共、下々差支勝ニ付奉伺候、 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 但申上候ハ奉恐入候得共、右四宿、其外入組場所者勿論、都而御府内と御定之在町之分ハ、市中同様之取計ニ相成候ハヾ、追年下女下男、其外市中荒働致候出稼之者、差支申間敷、下々弁利之様奉存候間、可相成御儀ニ御座候ハヾ御府内在町ハ、市中と一束ねニ、町役人送書ニ而通路仕候方、弁利之様奉存候、此儀御聞濟ニ相成候共、御府内在町と限候儀ニ付、猥ニ相成候筋無御座様奉存候、 本文境 東 砂村 龜戸村 木下川村 隅田村迄 西 代々木村 角筈村 戸塚村 上落合村迄 南 上大崎村 南品川御支配場限リ 上落合村迄 北 千住筋 尾久村 瀧野川 板橋宿迄 四宿并在町支配入組候場所全出生之者ハ、伺之通取計、縱令右場所ニ店持居候共、他村出稼之者ハ、免許状取店貸可申候、

地勢

〔江戸方角安見圖鑑〕

〈乾〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 按に云ク、當地繁昌有由哉、土地方角扶桑無比、地理尤勝たり、先ツ金城東面にして朝日を請け、南方を開ひて陽氣を入レ、西北高クして陰を蜜ス、蒼海の入江在て、万國の運送自由也、要害を以テ謂之、東ハ海岸にして、諸候列臣館を並べ、西は武藏野平々として、千有餘里の曠野たり、南に多波川の落るあり、北に十根入間(ト子イルマ)の大河流る、又云、東海道には箱根山峻、馬入に相模川あり、中山道に臼井峠嵩て、戸田の渡り角田川に流出る、如此の地理、自然と備て、更に不儲所也、

〔日本地誌提要〕

〈二東京〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 形勢 武藏國豐島、荏原、葛飾三郡ニ跨ル、東南裏海ヲ抱キ、西北沃野ニ連リ、墨田川其東ヲ繞ル、市街廣壯、車馬絡繹、漕運共ニ便ニシテ、百貨此ニ雲集ス、元江戸ト號ス、明治元年戊辰〈紀元二千五百二十八年〉陞テ東京トナシ、乘輿東臨ス、

〔東京市統計年表〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 市ノ面積及土地ノ高低

〔紫のゆかり〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0942 こヽなるむさしの國は、四方に山なく、いとたひらかに、うちひらきて、たてとよことひとしく、あゆみ行みちの程をもてはからば、二日三日を越べし、そのさかひは、安房、かみつふさ、しもつふさ、かひの國によれり、いにしへより、國のさかひひろごりて、こほりもかずまさり、今ははたちあまりふたつとぞなれりける、くだ〳〵しければ其名はもらしつ、こヽの大城、うちのへとのへ、おほきなるいふべくもあらず、〈〇中略〉ふたへの御くるわのとよりは、市の家ゐ軒をならべ、いづれも〳〵おとるまじうたてつヾけたり、おほぢはたてざま、よこざま、いとをひきはへたるがごとく、小路は星のまつへるにひとし、西北は高く、東南はひきし、高きにのぼりて、はるかにみれば、家ゐはたヾ山のかさなりたるやうにて、また波のうごきたつけしきにもにたり、南は品川の入江近く、入つどふ舟どもに、眞帆片ほ風にまかせて、鷺かもめなどのとぶかとみゆ、うまやぢの家々、かたはらは山にそひ、かたはらは入江にのぞみて、たかどのめくつくりざま也、内にはかけはしわたして深くみやらるヽに、塵打はらひ、すヾしげにて、かりのやどりにも心こむべきをうなうちむれて、なまめきあひたり、にしの國いとおほければ、行かふ旅人もことにおびたヾし

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 く、いとにぎはしき所也、

沿革

〔江戸紀聞〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 江戸大意 按に、武藏七黨系圖に、秩父太郞大夫重弘が五男江戸太郞重繼と云、この重繼が時、はじめて、江戸の名諸記にあらはるヽをいまだ見ず、重繼が子を江戸太郞重長と云、砂石集に云、〈〇全文在前故略〉この壹岐前司と云は、則葛西壹岐守清重がことなるべし、清重は豐島權守清光が二男也、江戸は則太郞重繼がことなるべし、江戸系圖によるに、豐島江戸は、秩父六郞將恒が子より別れて、同じ流の家なれば、かくしたしき者とはいへるなり、東鑑に云、治承四年九月二十八日丁丑、遣御使江戸太郞重長、依景親之催、〈按に、景親は大庭三郞なり、〉逐石橋合戰、雖其謂、守令旨相從、重能有重折節在京、於武藏國當時汝已爲棟梁、專被思食之上者、催其便宜勇士等、可豫參之由云々、又云、十月五日甲申、武藏國諸雜事等、仰在廳官人并諸郡司等、可沙汰之間、所江戸太郞重長也云々、是らによれば、重繼重長江戸の地を一圓に沙汰せしこと見るべし、その後上杉家武藏國を領せしかば、かの家人等が所領江戸の地にあまたありしと見ゆ、長祿文明のころは、太田入道道灌江戸の城にありて、この所を指揮せり、道灌卒してのち、北條氏當國の半を領せし時、江戸の地は又かの家人等が領知となれり、されどむかしより江戸と稱する所、何の地までをさして云しや詳なるをしらず北條家の分限帳を見るに、荏原郡六郷大森の邊、多磨郡泉村のあたり、豐島郡練馬村、赤塚村、志村、岩淵村、十條村、尾久村、石濱村、石原村、牛島をかけて、皆江戸のうちとせりし、永祿のころかくいへば、ふるき世もおほやうおしてしるべし、御當代となりては、相傳ふ日本橋より四里四方をさして江戸とすと、その定められし年歴をつまびらかにせず、

〔吾妻鏡〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 治承四年九月三日壬子、被御書於小山四郞朝政、下河邊庄司行平、豐島權守清元、葛西三郞清重等、是各相語有志之輩、可參向之由也、就中清重於源家貞節者也、而其居所在江戸(○○)河越

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 等中間、進退難治定歟、早經海路參會之旨、有慇懃之仰云云、

〔沙石集〕

〈六下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 芳心有人事 故葛西壹岐前司トイヒシハ、秩父ノスヱニテ、弓箭ノ道エタリシ人也、輪田ノ左衞門世ヲミダリシ時、葛西の兵衞トイヒテ、アラ手ニテ鬼コヽメノヤウナリシ輪田ガ一門ヲカケチラシタリシ武士也、心モタケク、ナサケモ有ケル人也、故鎌倉ノ右大將家ノ御時、武藏ノ江戸子細アリテ、彼江戸ヲメシテ葛西ニタビケルヲ、葛西ノ兵衞申ケルハ、御恩ヲ蒙リ候ハ、親キ者共ヲモカヘリミムタメナリ、身一ツハトテモカクモ候ヌベシ、【江所(エト)】ハシタシク候、僻事候ハヾ、メシテ他人ニコソタビ候ハメト申ニ、イカデ給ラザルベキ、モシ給ハラズバ、汝ガ所領モ召取ルベシト、シカリ給ケレドモ、御勘當蒙ルホドノコトハ、運ノキハマリニテコソ候ハメ、力ラヲヨバズ、サレバトテ給ハルマジキキ所領ヲバ、爭カ給ベキト申シケレバ、江所モヱトリ給ハズ、

〔相州文書〕

〈圓覺寺亨〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 當寺領、〈〇中略〉武藏國江戸郷(○○○)内前島、〈〇中略〉 地頭職事、任去々年十一月八日官符、并關東安堵等、可知行之状如件、 建武四年七月十日 左馬頭〈花押〇足利直義〉 謹上 圓覺寺長老

〔春波樓筆記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 永祿年間の江戸の圖を見るに、南は金洲崎、白銀臺、西は麻布、飯倉、今井村、今の江戸見坂邊を云ふ、櫻田村、今の霞が關なり、北は神田川、湯島、忍ケ岡、今の上野なり、不忍池より下谷の方へ流る川あり、また荒川は、今の千住川、淺草觀音は島の如し又芝通、日本橋邊の町々、小川町、下谷、本所、深川、皆淺海にして、池の如し、淺草海苔の名明らかなり、海の漸々皐となる事は、爰を以て知るべし、今より十億萬年を經る時は、此日本、亞墨利加の地と接し續くなるべし、

〔望海毎談〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 一武藏の國にて、今の上野を忍の岡と云、湯島天神の臺を向ふの岡と云、谷中の方を入

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0945 砂の岡と云、昔は芝浦の海の潮、此所迄入來る入江の續にて、斯三ツの岡の相續を以て、谷中の岡に三(さん)崎と云地名有、其中間に有る池の大さ十二萬坪有と云傳ふ、此池東は忍の岡の岸、西南の方は向ふの岡の岸、北東は入砂の岡の岸迄にて、其頃は今の池の岸べりの民家通りの道もなしとなり、此池を不忍の池ト名付け、東の岡を忍の岡と名付けしことは、其むかし忍岡の東、今の清水村に關野喜内光耀といふものあり、其地に清水出る故に、關野氏が住居せし所なれば近江の名を引寄て、關の清水と人呼たり、今は根岸の方にて、本阿彌某が隱居したる所に跡有と言傳ふ、忍の岡入砂の岡に對して、池の西の方を向ふの岡と呼ぶ、

〔慶長見聞集〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0945 江戸町の水道の事 見しは昔、江戸町の跡は今大名町になり、今の江戸町は、十二年以前までは、大海原なりしを、當君〈〇徳川家康〉の御威勢にて、南海をうめ陸地となし、町を立給ふ、然に町ゆたかにさかふるといへども、井の水へ鹽さし入、萬民是をなげくと聞召、民をあはれみ給ひ、神田明神山岸の水を北東の町へながし、山王山本の流を西南の町へながし、此二水を江戸町へあまねくあたへ給ふ、

〔慶長見聞集〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0945 南海をうめ江戸町立給ふ事 見しは昔、當君武州豐島の都江戸へ御打入よりこのかた町繁昌す、しかれ共、地形廣からず、是に依てとしまの洲崎に町をたてんと仰有て、慶長八卯の年、日本六十餘州の人歩をよせ、神田山をひきくづし、南方の海を四方三十餘町うめさせ、陸地となし、其上に在家を立給ふ、〈〇中略〉此町の外家居つヾき廣大なる事、南は品川、西はたやすの原、北は神田の原、東は淺草まで町つヾきたり、

〔落穗集追加〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0945 江戸町方普請の事 一問曰、關東御入國後、町方の普請之義、何れの所より始て被仰付るヽや、答曰、右長崎小木曾抔常に申は、只今の日本橋筋より、三河町川岸通りの竪堀の堀るヽが初めにて、夫より段々と竪堀

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0946 横堀共に出來、其上ゲ土をば堀ばたに山の如く積上けるを、諸國より參る人ごとに願ひ出し、町屋を割被下候に付、勝手次第に右の上ゲ土を引取り、地形を築立、屋敷取りをいたし、表通りには先葭垣などをいたし置、追て家作を仕り引移と有之、初ての程は町家願の者も多無之所に、勢州の者共あまた來り、屋敷望仕る由沙汰有之、其町屋敷出來候以後、表に掛たるのうれんを見候得ば、一町の内に半分は伊勢屋と申書付見へしと也、但の〈〇但の有誤脱〉方などは地形卑く、御城内へもへだヽり候を以、繁昌いたし兼しと有之義、御上へも相達し、遊女町を御免遊ばし、葭原の場所を拜領仰付るヽ故、四方に堀を堀て地形をつき立、家作を調へ、遊女共あまた集め置を以、晝の間は諸人參り候得共、其道筋左右共に葭原の中にてぶつそうに有之候に付、暮るれば人通り無之故、渡世致難き旨願上ければ、女歌舞妓を御免被遊被下候様にとの願之通御免に付、町中に舞臺を建、棧鋪を掛け、芝居を初め候に付、其比京大坂にも無之見物事と申て、貴賤共に入込、殊之外繁昌いたし、細道の左右にある茨原も切り拂、江戸中より出店をいたし、茶屋抔も多立並しと也、〈〇中略〉 鳶澤町の事 一問曰、御入國の砌は町方盜賊共多入込、殊之外難義いたす處に、御仕置を以、件の盜賊共追散申候と有之は實や、答曰、其義を我等〈〇大導寺友山〉若年の頃承り及は、其元御申の通り、盜賊共諸方より入集り、以の外ぶつそうに有之由、權現様聞召され、何卒致し盜賊の張本たる者一人召捕へさせる様にと、奉行中へ被仰付候所、其頃關東に名を得たるすり大將、鳶澤と申者を搦取、牢舍を被申付候と有るを申上れば、其盜賊を召出し御仕置きなるべく所、一命を御助け被成候間其働を以、他方の盜賊を御當地へ入り込申間敷由にと、被申付候様にと被仰出に付、奉行中より右之通り御申渡し候得ば、鳶澤承り、命を御助け被遊るヽ段、ありがたく奉存候得共他方より

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0947 入込のあまたの盜賊共を、私一人の力にて防ぎ候と有之義はなり難く候へば、何方に於てなりとも、屋鋪地を被下置候はヾ、私手下の者共を呼集め差置、其者共の盜を相止、吟味爲致度奉存候、右手下の者盜を相止候ては、渡世の仕方無之候間、御當地にて武家町屋を不限、外の者共の古手を買候義御停止に被仰付、私義を古手買の元締役に被仰付下候様にと申に付願之通とて、遊女町の近所に於て、一ケ所四方の茨原を屋鋪に被下候に付、夫より切りひらき、鳶澤町と名付、町屋に取立、〈〇中略〉盜賊の沙汰も無之に付、古著買之義も相止、鳶澤町の義も、今程は富澤町と文字をかへ、葭原町の義も何れの頃より、吉原町と文字相改申候也と也、

〔白石紳書〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0947 一丙申の冬、雀部六太夫入道重羽のものがたりに、我父など駿河より此所へ引移りし比に、今の駿河臺の邊ひらけたり、〈此事金地院日記にも見ゆ〉駿河衆の屋敷被下候故に、駿河臺といふ也、其此には江戸川といひて、今ニ龍慶橋の筋の川南へ流れて、平川に落合たり、今水戸殿の前の土堤の少しひきく見ゆる所、即其川筋也、それを埋みしかど、後に又落入たれば、又築しかど地落入て少しひきヽ也、さてその流の平川に落入らむとする筋は、唯今の内藤駿河などの屋敷也、それ故に内藤やしきに今も池ありといふ、これ其時の川筋の水の殘り也、此所に鶴の下りしを聞召し、台徳院殿〈〇徳川秀忠〉御あわせあるべしとて、御出の時に、御番衆の二三人見んとて、御番所より私に御尋につきて來りしを、土井大炊頭の見付て、皆は當番にてはなきかと問ふ、いかにもと答へしかば、御番所を仰もなくてうちあけて參りては、必ず御しかりに逢ふべし、我あとより參れ、よきにすべきといふほどに、しりにつきて來るに、鶴とらせられて御氣色よかりし時に、わかきものども、御鷹の鶴とり候事をつゐに見ぬとて、御あとにつきて參りて候と申されしかば、御覽じて誠に彼等はいまだ見し事はあらじと、御わらひなされたりといふ、今の猿樂町といふには、觀世太夫が屋敷ありて、座のもの少々居たりき、さてかの駿河衆引うつるに至て、今のごとくに水戸

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0948 殿の前の堀を淺草へほりつヾけて、其土を以て土堤をつかれて、内外の隔出來て、こなたを駿河台と名付たり、其後に又陸奧守へ被仰付て、いよ〳〵其堀を深くせられし也、觀世やしきも他所へ引うつされて、その跡にやしきわり渡して、猿樂町の名殘れりといふ、某問ふ、さては今の牛込御門の前の塀も、其時に出來しやと問ふに、牛込前の堀の事、いまだしらず、龍慶橋筋の水を江戸川といひしは、平川へ落合ふをふさぎて、淺草川へ落す事は、前にいふがごとく承りたりといふ也、 按ずるに、ふるき人のいひしは、〈長野治右衞門のいひし也〉芝口の町も京橋邊迄にて、それよりこなたは後に出來し也、これによりて京橋邊の町の名に、今も大坂町住吉町などいふあり、これはその所に傾城町有し也、中頃に今の境町へそれをうつされ、丁酉〈〇明暦三年〉火事後、又今の新吉原へうつされたり、されば京橋邊よりして、日比谷門の邊迄は、海入込たり、これによりて今の芝口の邊、井上玄徹やしき前むかしの肴市場故に、今も市たつなり、又今の日比谷門のあたりも、町屋なるを、後に武士やしきになされし故に、町は引移されて、日比谷といふ町有、今の門よりは大きに程へだヽりたり、今の日比谷のあたりを、陸奧守の地を築たてしといふは、その海邊を築たてし也といふ、又伊賀衆より出し書付を見るに、寛永の初迄は、赤坂の邊糀町邊は、伊賀衆の知行所の田地なるを他所へ引うつされ、ため池をほられて、其土をば今の安藝守の屋敷などの臺となり、それより堀をほり廻されしといふ也、さらば牛込などをつヾけられしも、其時に出來しなるべし、淺草橋御門は、越前の宰相殿の御承りなりきと、越前衆のいふ也、これは今の松平中務の屋敷は、もと上總介殿の御やしきを、後に越前の下やしきに被下候故、屋敷近くの故なるべし又重羽いふ、今の靈巖島は、母方の祖母の旦那の靈岩寺の雄譽の望給ふて、島をつきだせしといふ、按ずるに、此靈岩島は、右にしるす京橋よりこなたの地をつかれて後には、町堀

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 の地を築出し、その後の事にや又それよりさきの事にや、詳ならず、又按ずるに、糀町は江戸御打入りの時にひらかれしとて、山王祭にも第一ニ十二町の笠鉾をわたす也、又赤坂にも傳馬町有、是をおもふに、最初江戸の町は、上方よりしては、京橋の邊よりあなたにて、赤坂へかヽりて城下へ入りしが、御入國後に、糀町ひらかれしなるべし、其時にて、京橋筋よりは、今の西北下を往來の道とし、大手の前より本町へ通りしなるべし、奧のかたへの町の終りは、今の神田の旅籠町これ也とこれも長野のいひし也、今の常盤橋を大橋と名付しといへば、これはむかしよりありし也、平川より海へ落入る水かけし橋と見へし、其後に京橋より本町筋迄の町出來るに至て、川筋をほりひらけて、日本ばし、江戸橋といふも出來しなるべし、これらは慶長五年、關東事終りし後の事なるべし、それより前の事は、右のごとくと見へたり、大猷院様〈〇徳川家光〉御代迄、西丸御普請といひしは、今の西丸の大手の廓と、又は西丸下の外櫻田門より和田倉迄の廓など築れし事なるべし、 重羽又云、其後小日向の邊ひらかれし時は、我等が父の奉行を承りたり、此邊に町家なくしてはいかヾと申上ければ、町をもわり渡し候へとの事也、其時は奉行の心々なれば、今の室新助の父の醫師なるに、屋敷一つ割あたへし事などあり、むかしは如斯なりしといふ、

〔江戸紀聞〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 江戸總説 江戸の大都會なる、古へ京坂の盛んなりしといへども、比すべくもあらじ、それもわづかに二百年來の事にして、天正十八年の前は、北條家の家人等が居宅ありしのみにて、餘は多く田野の地なりしと見ゆ、神祖江戸の城にうつり給ひしより、三河遠江等の御家人等つどひ集りしかば、城下にして、こと〴〵く邸宅の地を給へる、もとより當國の住人もありしなるべし、其後元和二年、駿河の御家人ら此地にうつるべし、さもあらんには、居宅の地せまかるべしとて、江戸川を〈今の小石〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 〈川御門のうちに有しなり〉東北の方へ堀まはし、その中を廣くし、屋舖の割を命ぜらるべきよし、初は吉祥寺の後より本郷の臺をほり通すべきむね評議ありしが、後におもむきかはりて、吉祥寺の前を堀わり、田安御門の北東の方に引ならし、神田神社、其外萬隨寺等を外へうつせり、明神は神田のだい、萬隨寺は下谷と定られ、本明寺其外は小石川などへうつし、かの御堀の土をもて築き立、屋敷がまへなりしと云、この頃御曲輪内の大名旗本の屋舖は、ほヾ定りしなるべし、又商家などもいにしへよりありて、ことに今の日本橋のあたりは、諸國のあき人等つどふ所にて賑ひしと見へたり、蕭庵の靜勝軒の詩の序ニ云、城之東畔有河、其流曲折而南入海、商旅大小之風帆、漁獵來去之夜篝、隱見出沒於竹樹烟雲之際、到高橋下纜閣櫂、鱗集蛾合日々成市、則房之米、常之茶、信之銅、越之竹箭、相之旗旄騎卒、泉之珠犀異香、至鹽魚漆枲巵筋膠藥餌之衆、無彙聚區別者、人所頼也と、又萬里和尚の詩の序ニ云、宜哉、公以靜勝軒矣、倉廩紅陳之富、裁栗而雜皂莢、市鄽交易之樂、〈城門前設市場〉擔薪而換柳絮、僉曰一都會也、これ長祿文明の頃にして、太田道灌江戸の城にありし時なり、此頃商家もありしとみゆれど、今とはさまことなりしなるべし、或書に云、江戸町屋のはじまりは、今の日本橋よりも道三河岸の竪堀をほられしを初にて、それより次第に竪堀横堀などいでき、其揚たる土を堀の端に山のごとく積あげてありしを、諸國より集りし町人こひ奉りしかば、町家にわりて給はりしにより、おのがまヽに揚土を引とり、地面を築き、かまひを定め、表の方へは、松葭などもて垣とし、其後次第に家居をたてヽ引うつりしが、初の内は町家を願ひしものも少なかりしに、伊勢國よりあまた來りてこひしかば、ほどなく町屋多く出來て、一町のうちなかばヽ伊勢屋をもて稱とせしと、按に、かく町屋の建し年歴を詳にせず、されども慶長十四年正月四日、江戸本町五町ほど、又石川玄蕃頭屋舖も燒失せしと慶長記にのす、是によれば、本町などは初載る所より前に立しと見ゆ、或書ニ、日本橋より道三河岸の堀をほりしと云、慶長十六年より後の事

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0951 なるべし、慶長記に云、十六年十二月七日、安藤對馬守に命ぜられ、來年江戸船入をほらしめ、運送の船つきの通路の自在なるべきやうに、中國九州の諸大名におほせて、人夫を出さしむべきよし仰あり、明る十七年二月十五日、今日安藤對馬守御使として駿府に至り、江戸御普請船入の繪圖を奉り、仰をうかヾふと云々、同き年六月二日、江戸新開の地町割の事なるべしと、後藤庄三郞光次に命ぜられ、京師堺津の商人を呼下し、屋舖を給ひしと云、是より後諸國の商人どもあつまりて、比屋町屋となりしなるべし、されどいく程なく、同き十九年二月二十一日、江戸町中大火ありしよし同記にのすれば、この時多くは烏有となりしと見ゆ、寛永五年、御城外北輪の石壁を築くべきよし命ぜられ、明年の春より諸大名その事をつとむ、〈寛永十三年、江戸御城外の總石垣、見付升形、その外總堀の普請を諸大名に命ぜらるヽと云、是は五年のことヽは、おのづから別なりや、詳にせず、〉この時外曲輪の御門に全くなりしなり、すべて外曲輪内を府内とし、外を府外といへり、又この頃江戸辻々にて、ゆきヽのものを故なく害することあり、此年の春より、江戸中辻々に番所といへるものを建て守らしめしかば、後みだりに人を害するものなしと、同十二年、又命ぜられて、江戸中大名旗下の小路ごとに辻番をおかれ、其外町中端々には、巷門を建しめしらる、爰にして御家人の居宅、商家の家居などもほヾ定りしとみゆ、其後明暦の變にかヽりて、江戸の地三分の二は一變せしとみゆ、〈〇下略〉

〔太政官日誌〕

〈四十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0951 詔書寫 朕今萬機を親裁し、億兆を綏撫す、江戸は東國第一の大鎭、四方輻湊の地、宜しく親臨して其政を視るべし、因て自今江戸を稱して東京とせん、是朕が、海内一家東西同視する所以なり、衆庶此意を體せよ、 辰〈〇明治元年〉七月 慶長年間、幕府を江戸に開きしより、府下日々繁榮に趣き候は、全く天下の勢斯に歸し貨財隨

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0952 て聚り候事に候、然るに今度幕府を被廢候に付ては、府下億万の人口、頓に活計に苦しみ候者も可之候哉と、不便に被思召候處、近來世界各國通信の時態に相成候而は、專ら全國の力を平均し、皇國御保護の御目途不立候而は不相叶御事ニ付、屢東西御巡幸、万民の疾苦をも被聞度深き叡慮を以、御詔文之旨被仰出候、孰れも御趣意を表戴し、徒に奢靡の風習に慣れ、再び前日の繁榮に立戻候を希望して、一家一身の覺悟不致候而者、遂に活計をも失ひ候事ニ付、而後銘々相當之職業を營み、諸品精巧、物産盛ニ成行、自然永久之繁榮を不失様、格段の心懸可肝要事、

道路

〔江戸鹿子〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0952 日本橋より諸方道積 品川ヘ二里 高井戸ヘ三里 板橋ヘ二里 千壽ヘ二里 葛西ヘ二里半 鐵鉋津ヘ二十丁 小松川ヘ一里八丁 角田川ヘ一里十二丁 箕輪橋ヘ一里 駒込富士ヘ一里六丁 本郷追分ヘ三十丁 僧司谷ヘ一里十丁 四谷追分ヘ一里 目黒不動ヘ二里 京ヘ百十九里半十六丁 大坂ヘ百三十二里半十五丁 長崎三百四十八里半十五丁 日光ヘ三十一里十八丁 江島ヘ〈相州〉十三里 鎌倉雪下ヘ十二里 箱根湯本ヘ二十二里 あたみヘ二十六里

〔江戸方角安見圖鑑〕

〈乾〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0952 大道之法 一東海道品川ノ驛より(南口) 日本橋ヘ 二里 一甲州口高井戸ノ驛より同所へ(西口) 三里 一中山道板橋ノ驛より(乾口) 同所ヘ 貳里 一奧州道千秋(センシユ)ノ驛より北口 同所へ 貳里 一總州葛西(カサイ)ノ驛より艮口 同所へ 貳里半 一安房上總より舟路〈行徳ノ濱より〉同所へ(東口) 三里 小路之法〈但日本橋より〉 一鐵炮洲之湊ヘ(巽ノ方) 廿町 一小松川ノ渡シヘ(東ノ方) 一里八町 一角田川之渡シヘ(艮ノ方) 一里十二町 一箕輪(ミノワ)橋ヘ上同 一里 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0953 駒込ノ富士へ(北ノ方) 〈わうちへ 十町 いわつちへ一りよ 日光道〉 一里六町 一本郷追分ヘ(上同) 卅町 一像師が谷ヘ(乾ノ方) 一里十町 一四谷追分ヘ一里(西ノ方)〈是より淀ばしへ十町餘、此間かしわぎのなるこじゆく、〉 一妻驪不動へ(坤ノ方) 二里

〔望海毎談〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0953 一古來上方筋より關東への道筋、當國へ入ては小机より神奈川へ通り、六郷の川上を渡り、世田谷より澀谷へ通り、二本榎より赤坂の一ツ木、溜池の東岸を北へ、山里の西脇手を下谷淺草へ通り、橋場の渡場を越し、千住へ行、又湯島本郷へ通りて、上下の板橋へ被行江戸繁昌に付て、御城中を初、方々廣がり、古來の道筋は今は語り傳ふる人もなし、御城より東の方は沼深田にて、夫より先は海手にして、其所迄は船共も入繫しかば、道灌泊船の亭を設け、詩歌の詩吟あり、

市坊

〔武藏演路〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0953 江府町數凡一千六百五十有餘町 町鑑之内 内〈町方分 一千二百有餘町許 寺社門前分 四百有餘町許〉

〔春波樓筆記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0953 江戸の町は、御入國此方の事にて、〈〇中略〉町數八百八町ありしに、千八百八町となりぬ

〔日本地誌提要〕

〈二東京〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0953 市坊 壹千壹百七拾七町、六大區ニ分チ、七拾小區ヲ置、

〔續江戸砂子〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0953 江府町名目 江戸町年寄〈月番一月替〉本町二丁目樽屋藤左衞門 同一丁目奈良屋市右衞門 同三丁目喜多村彦右衞門 名主十八組〈名主支配の町々の前に合印を以記す、但寺社御支配の名主は組の外なり、〉 一番組 本町 石町 白銀町 室町 本船町 小船町 大傳馬町 堀江町 小網町 箱崎町 三河町 鎌倉町 龍閑町 塗師町等の構 二番組 小傳馬町 馬喰町 横山町 米澤町 田所町 堺町 大坂町 高砂町 富澤町 濱町 橘町 村松町 橋本町 神田紺屋町の構ヘ 三番組 淺草筋 久右衞門町 淺草茅町 旅籠町 猿屋町 元鳥越町 諏訪町 田原町

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0954  並木町 花川戸町 今戸町 端場町 山谷町 新鳥越 四番組 日本橋より中橋迄の中 日本橋通四丁 万町 本材木町四丁目迄 呉服町 檜物町 槇町 平松町 左内町 箔屋町 坂本町等のかまへ 五番組 中橋より京橋迄の中 南傳馬町 桶町 南鍛冶町 疊町 大鋸町 正木町 鈴木町 具足町 南槇町 本材木町五丁目より八丁目迄 六番組 京橋より新橋迄の中 銀坐町 尾張町 竹川町 南紺屋町 錢屋町 弓町 南鍋町 山下町 總十郞町 彌左衞門町 山王町 加賀町 八官町 三十間堀 木挽町七丁分 七番組 靈嚴島の中不殘 南茅場町 龜島町 北八丁堀 幸町 水谷町 金六町 北紺屋町 南八丁堀 鐵炮洲の中不殘 築地の内のこらず つくだじま 八番組 芝口町 源助町 露月町 神明町 濱松町 三島町 芝富山町 同永井町 同岸町 同新網町 櫻田の中不殘 増上寺中門前 九番組 芝金杉 本芝 芝田町 車町 飯倉町 まみ穴 永坂町 日が窪 一本松 六本木 三田の中不殘 伊皿子 十番組 麻布之内市兵衞町 谷町 今井町 宮益町 龍土町 高輪町 赤坂傳馬町 元赤坂町 平尾町 白金之内 青山の内 赤坂田町 十一番組 神田筋 鍛冶町 鍋町 須田町 連雀町 多町 大工町 新銀町 雉子町 永富町 皆川町 三河町二丁目三丁目四丁目 十二番組 湯島六町 本郷六町 佐久間町四町 松永町 濱松町 神田はたご町 金澤町 豐島町 元町 金助町 春木町 竹町 十三番組 下谷筋 天神前 明神下 上野町 長者町 山崎町 御切手町 池の端 谷中

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 筋 十四番組 小石川筋 春日町 富坂町 傳通院前 菊坂町 駒込片町 追分 白山前 戸崎町 丸山の内 小石川金杉の内 小日向筋 巣鴨筋 大塚筋 十五番組 牛込筋 小日向筋 茗荷谷 改代町 關口邊 市谷筋 田町 八幡町 大久保 千駄ヶ谷 麴町 平川町 谷町 元飯田町 四谷筋 傳馬町 伊賀町 内藤宿 鮫ヶ橋 十六番組 本所筋 尾上町 相生町 緑町 松井町 林町 柳原町 菊川町 茅場町 徳右衞門町 三笠町 吉田町 十七番組 深川筋 六間町 森下町 扇橋 猿江町 海邊大工町 佐賀町 大島町 永代町 万年町 久右衞門町 伊勢崎町 木場 六万坪 三十三間堂 十八番組 南本所 横網町 石原町 番場町 元町 北本所 荒井町 出村町 小和泉町 中之郷 小梅の内 柳島町 龜戸町

〔江戸鹿子〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 江府異名 浮世(うきよ)しやうじ〈日本橋北三丁目東横町をいふ〉 六本木(ろつぽんぎ)〈かわらけの町より西の方をいふ〉 魔魅穴(まみあな)〈かわらけ町より西の方をいふ〉 鼠穴(ねづみあな)〈糀町一丁目御門内入込を云〉 本郷〈湯島末六丁の内をいふ〉 靈嚴島〈北八丁堀末をいふ〉 赤坂〈赤坂御門ノ外をいふ〉 四谷〈四谷御門ノ外をいふ〉 市谷(ちいかひ)〈市谷御門ノ外をいふ〉 牛込(うしこみ)〈牛込御門ノ外をいふ〉 小石川〈小石川御門ノ外をいふ〉 駒込(こまこみ)〈小川より四方をいふ〉 高輪〈品川入口をいふ〉 芝〈金杉橋より南の方をいふ〉 二本榎〈芝いさらごの先をいふ〉 白銀〈二本榎より北西の方をいふ〉 長者丸(ちようじやがまる)〈澀谷近所に有〉 澀谷〈青山宿先百人丁末をいふ〉 香貝〈麻布百姓丁近所をいふ〉 鐵炮津〈南八丁堀より南の方をいふ〉 伊佐柄子〈芝田町九丁めより西方をいふ〉 柳原〈筋違橋より淺草橋迄間をいふ〉 赤羽〈かわら町下をいふ〉 麻布〈溜池より南西の方大様いふ〉 淺草〈淺草橋より北をいふ〉 染井〈駒込之先をいふ〉 小日向〈小石川の先を大様いふ〉 高田〈牛込の先をいふ〉 青山〈赤坂西をいふ、青山宿とも云、〉 山ノ手〈糀町近所をいふ〉 淺草追分〈淺草山ノ宿に有、右へははしば、左は千手へ行道也、是奧州海道也、〉 四谷追分〈四谷末に有、板橋と八王子とへ分ル也、〉 本郷追分〈本郷先森川宿有、右へは日光王子へ行道也、左は板橋へ行道、此海道木曾海道也、〉薮小路

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 〈愛宕ノ下細川丹後守殿屋敷前をいふ〉 松原小路〈糀町一丁目御門之内云也〉 式部小路〈日本橋南二丁目東新道を云〉 小身小路〈愛宕下田村右京殿屋敷前を云〉 若宮小路〈牛込之御門ノ外臺をいふ〉 佐久間小路〈愛宕下佐久間備中殿屋敷前をいふ〉 森川宿〈本郷の末をいふ〉 内藤宿〈四谷の末をいふ〉 山ノ宿〈淺草金龍山近所をいふ〉 大窪〈高田西南をいふ〉 日ケ窪〈麻布六本木より下ル谷をいふ〉 皮多窪〈牛込ノ先をいふ〉 西窪〈愛宕山後をいふ〉 鍛冶窪〈赤坂奧をいふ、此所に火打鍛冶上手有ゆへいふなるべし、〉 蛇窪〈川崎村六郷之近所〉 神田〈白銀町土手より北西之方大様いふ也〉 三田〈芝増上寺うしろ西南之方をいふ〉

〔武藏演路〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 内廓四方 城東 日本橋南北〈神田京橋新シ橋俗ニ下町ト云〉 城西 麹町番町 城南 外櫻田 城北 田安 小川町 外廓四方 北 淺草 三谷 今戸 橋場 新吉原 下谷 上野 箕輪 金杉 谷中 三崎 湯島 本郷 駒込 染井 大塚 巣鴨 小石川 小日向 關口 南 芝口 愛宕下西窪 飯倉 三田 白銀 高輪 西 四谷 一谷 大窪 牛込 高田 赤坂 青山 原宿 麻布 澀谷 東 本所 小梅 牛島 龜戸 隅田 深河 洲崎 小名木澤 猿江 砂村

〔御府内備考〕

〈八御曲輪内〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 町地名并里俗呼名〈附雜話〉 日本橋川筋より北の方神田堀内に屬する町名、并里俗呼名、此邊をしなべて下町(○○)と云、〈按ずるに下町は、御城下町と稱せる略なるべし、此下町の地は、元豐島郡の洲崎なりしを、慶長頃より築立て、町地に割渡されし事は、江戸總説の條にいへり、〉

〔玄同放言〕

〈一下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 江戸古圖略説 附けていふ、今俗日本橋以西、四ツ谷青山、市ケ谷、北は、小石川本郷をすべて山の手(○○○)といふ、物には山ノ壇(テ)と書きたるもあり、按ずるに、やまのては山ノ里(て)なるべし、里字にての訓あり、萬里小路をまてのこ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 うぢと讀まするが如し、山城の井堤、又井出、或は堰堤に作る、これも井里なるべし、

飯田町/麹町

〔御府内備考〕

〈八御曲輪内〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 飯田町麹町邊町名并里俗呼名 元飯田町、里俗呼名、中坂、中通りを云、もちのき坂、北裏通りなり、 麹町一丁目 麹町二丁目 麹町三丁目 麹町四丁目 麹町五丁目 麹町六丁目、里俗呼名、善國寺谷、五丁目六丁目横町を云 麹町七丁目 麹町八丁目 麹町九丁目、里俗呼名、藥師横町、北横町と云、 麹町拾丁目、里俗呼名、成瀬横町、北横町を云、 麹町平河町一丁目 麹町平河町一丁目續教授所付町屋鋪 麹町平河町二丁目、里俗呼名、蛤店又は肴店、 麹町平河町三丁目、里俗呼名、けだ物店、 麹町平河町三丁目脇木挽町四丁目裏上納地替地、里俗呼名、麹町貝坂、 湯島三組町續拜領屋鋪切地代地 湯島龜有町代地麹町山元町、里俗呼名、わら店、平河町一丁目之方表通を云、材木店、平河町二丁目三丁目の方を云、 麹町隼町、里俗呼名だるま門前、赤坂御門内を云、 麹町谷町、里俗呼名、三丁目谷、四丁目谷、清水谷、八丁目、南横町を云、三軒屋、平河天神前通り元山王の内なり、 麹町龍眼寺門前 永田馬場山王門前〈〇中略〉 以上記す町名及里俗呼名は、下谷山崎町名主藤八が藏する、文政四年改定の町鑑に據て編録す

〔新編江戸志〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 飯田町 求凉雜記云、往古は千代田村と云て、田安に續く田畑也、御入國の時、初て田安邊へ御成の時、此所の里民を召させられしに、其砌は民家十七軒ならではなく、皆々田畑へ出て、只飯田喜兵衞と云者壹人罷出て、所の巨細をも申上ければ、此以來此所の名主たるべきよし命ぜられ、此所を飯田町と呼ぶべしと也、

〔燕石襍志〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 わがをる町 今もちの木坂と唱るは、舊名万年坂なるよし、古老いへり、寛永中の地圖を按ずるに、町屋は今九

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 段坂と唱る處にありけり、こヽらの町屋を後に築地へうつされて、元飯田町、築地飯田町とわかれてき、九段坂の上、は寛永のころ、飯田口と唱たり、この飯田口のほとりなる町屋なれば、やがて飯田町といふなり、慶長年間、飯田某開發せしと、土俗の口碑に傳ふ、是不はしらず、

〔江戸砂子〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 番町〈東西十六町南北七八町〉四谷市谷牛込の三御門の間、御外廓の内を云、此内御旗本衆のやしき也、一番町より六番町にいたり、うら表新道土手何番町などヽありて、むづかしきやしき町也、一書曰、御旗本御番方の武士を御城西の方に置るヽ、町割を賽の目を用ひられ、番町とせらるヽものは、慶長の御下知たり、二四六の偶目は陰なるゆへに裏町を用ひられ、奇目は陽なるゆへ、その町一町づヽ也と云、又曰、今の愛宕山後天徳寺の西城山といふ所より、西北の方上高田下高田といふ地まで、牛込忠左衞門殿先祖知行三千石の場なりと、

〔南向茶話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 問曰、番町の名目壹より六迄有之候事、由來も有之候哉、 答曰、此地に數代居住せし古老の物語に、御入國の始、麾下の士に此地を下され候刻、六組に分て勤仕致し、故に壹より六迄の名目ありて、前後入込候由、五番町と申所は、只今小計殘り候は、糀町の内へ入申候由なり、又彼老人の物語に、六番町の方へ市ヶ谷御門より上る坂を、三年坂と呼び候事、寛永十三年、外廓出來の刻、新に開ける坂故に云爾と云々、是に付て思ふに、牛込神樂坂より北へ築土へ出る、小坂をも、三年坂と號するも同意なるべし、京都東山清水觀音門前より横へ北へ下る坂をも、三年坂と號するは、清水は大同二年に草創、同三年に此坂を開ける故に云爾と、舊記に載之と同日の談なるべして、又麹町貝坂は、元は芝青松寺の舊地にて、此寺青松甲斐と云人の草創由、此所當時玉虫氏の屋敷に其跡あり、故に甲斐坂と云よし、

櫻田

〔江戸砂子〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 櫻田 山下御門幸橋の内より、虎御門の外までの總名也、風土記殘卷號櫻田者、以其郷之岡及野櫻樹多也とあれば、むかしは櫻木の多くありし所なり、荏原郡のうちとあり、今は豐

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 島郡の内也、

〔御府内備考〕

〈八十二櫻田〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 櫻田は、西丸下より愛宕芝邊まで及びたる郷名と見へたり、和名抄荏原郡の郷名に櫻田と載す、〈正保國圖、元祿改定國圖、皆中芝以北を豐島郡に屬す、郡界の攺りしは古きよりの事と見ゆれど、その年代等未だ考ふる所なし、〇中略〉北條役帳に、大田源七郞拾九貫文、江戸邊櫻田村、西村分興津加賀守買得三拾貫七百文、櫻田内平尾分、太田新次郞貳貫三百文、江戸櫻田池分を領するよし載たり、池分と云は、今の溜池その殘りしならん、是等に據ても廣き郷なること推てしるべし、今の櫻田七ケ町は、元西丸下、及外櫻田御門外、霞ケ關邊等に在しを、後年虎御門外に移され、麻布櫻田町も、皆同所に在しを、後年葵坂邊に移され、再び今の地へ轉ぜられしと云をもて、櫻田を虎御門内に限れると云は誤なるべし、たヾ西丸下邊は城下の町並なりしを、櫻田内の野地に移され、霞ヶ關邊も、恐く民家の群住せしを、その宅地を村内の遠地に移されしに過べからず、〈〇中略〉又北條役帳に、島津孫四郞、飯倉の内櫻田三十八貫百五拾文を領する書、されば飯倉の邊まで入會し地なる事もしるべし、

神田

〔江戸往古圖説〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 神田村 北條分限帳にも神田の名みへたり、〈〇中略〉 神田之名義、往古は一國に一所ヅヽ神田と號せし地有て、其歳の初穗を伊勢兩宮へ獻ずる舊例也とぞ、今絶て此義なし、然るに此地柴崎村を以神田とす、故に神田大明神と云、往古此わたりは皆田畑曠野の地の田、古き書に見えたり、小川町邊も三崎村とて、田畑茅野なりと、三崎神社の縁起にもみゆ、此三崎稻荷の祠至て舊社のよし、しかれども鎭坐年代は、不知と云、今の三川町の地も、三ツの小流れ有しゆへ此名ありと云、小川町も小川の流れありしゆへと云、又其後の比に至り、國初の比は、通り町と三川町のみにて、外は田畑寺院のみ也と云、

〔御府内備考〕

〈八御曲輪内〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 神田堀より北の方神田川内に屬する町名、并里俗呼名、此邊おしなべて神田と云、たヾ柳原土手近き處を、柳原某町と云、

〔江戸名所圖會〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0960 神田橋 大手より神田への出口に架す、御門あり、昔此地に土井大炊侯の第宅ありし故に、又大炊殿橋とも號たるとなり、〈事跡合考に云く、昔は神田橋の外に茅商人あまた住す、今の八丁堀の茅場町是なり、又其後本所にも遷さるヽ今本所の茅場町といふはこの故なりと云云、〉此御門の外の町を、すべて神田と號く、

〔江戸砂子〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0960 小川町 鷹匠町 御旗本衆のゆきヽ多し 此處むかしは田畑なりしをうづみて、御旗本衆の屋敷に下さるヽ、畔道を直に小路になしたるゆへ、其道筋曲りて屋敷形のひづみありと云、又此所を錦の切と云は、小身衆なれども、御大切に思召との事なりとぞ、

外神田

〔御府内備考〕

〈九外神田〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0960 外神田は、神田川内なる神田町々に對して、私に稱せる名なり、此外神田町の内、昔より神田の地に隷して、其のまヽ町に取建し所もあれば、多は神田川内に置れし町を、後年鳥越、及下谷の地に移轉せられしなり、又他所より代地に移されしも少なからず、されば元より下谷鳥越に屬する町にはあらず、又下町にも附しがたし、

日本橋

〔江戸砂子〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0960 日本橋 南北にかヽる長凡二十八間 江府の中央と云、諸方への道法此はしを元とす、北の橋詰室町一丁目、此西側を尼店と云、尼崎屋又右衞門拜領やしきなれば也、ぬり物見世なり、此所に前店とて、庇より又庇をさしくたして見世をかまへ、荷馬の具、其外小間物を商ふ、東の方河岸は大船町也、肴店にて毎日魚市立、

〔慶長見聞集〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0960 里づかつき給ふ事 日本橋は慶長八癸卯の年、江戸町わりの時節、新敷出來たる橋也、此橋の名を人間はかつて以て名付ず、天よりやふりけん、地よりや出けん、諸人一同に日本橋とよびぬること、きたいの不思議とさせたり、然に武州は凡日本東西の中國にあたれりと御諚有て、江城日本橋を一里塚のもとヽ定め、三十六丁を道一里につもり、是より東のはて西のはて、五畿七道殘る所なく一

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0961 里塚をつかせ給ふ、

京橋

〔新編江戸志〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0961 京橋南筋 京橋の通りは銀座四町目迄あり、夫より尾張丁二丁、竹川丁壹町、出雲町壹町あり、夫より新ばし也、

〔御府内備考〕

〈八御曲輪内〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0961 京橋川筋より南の方、新橋川筋内に屬する町名、并里俗呼名、 新兩替町一丁目、里俗呼名、蛤新道、西裏通弓町南紺屋町地境を云、 新兩替町二丁目 新兩替町三丁目 新兩替町四丁目 以上四ケ町、銀座何町目とも云、 尾張町一丁目元地 尾張町一丁目新地 尾張町二丁目 竹川町 出雲町 與作屋鋪 京橋金六町 京橋水谷町 三十間堀一丁目、里俗呼名、花町、一丁目二丁目横町紀伊國橋通りを云、三十間堀二丁目 三十間堀三丁目 三十間堀四丁目 以上四ケ町、銀座何丁目裏河岸とも云、 三十間堀五丁目 三十間堀六丁目 以上二ケ町尾張町何丁目裏河岸とも云、 三十間堀七丁目、竹川町裏河岸とも云、 三十間堀八丁目、出雲町裏河岸とも云、 松村町 木挽町一丁目 木挽町二丁目 木挽町三丁目 木挽町四丁目 木挽町五丁目 木挽町六丁目 木挽町七丁目 木挽町四丁目新屋鋪 木挽町續氷川屋鋪 芝西應寺町代地 南紺屋町、里俗呼名、太刀賣、 休伯屋鋪 西紺屋町 弓町、里俗呼名、觀世新道、新兩替町二丁目裏通りを云、 新肴町、里俗呼名、宇知町、 彌左衞門町 鎗屋町 元數寄屋町一丁目 勘左衞門屋鋪 元數寄屋町二丁目 元數寄屋町三丁目 元數寄屋町四丁目 南鍋町一丁目 南鍋町二丁目、里俗呼名、古木店、此二丁目及元數寄屋町四丁目新道并同三丁目新道共古木店と云、 山下町 南佐柄木町 瀧山町 守山町 總十郞町 金春屋鋪 加賀町 筑波町 山城町 佐兵衞町 喜左衞門町 八官町 山王町 丸屋町 寄合町 南大坂町 内山町

〔南向茶話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0962 問曰、芝邊品川筋之儀に、聞及も候はれける事も候哉、承度候、 芝邊之事、居住不仕候故、聞傳へ稀に候、芝之事、近頃東海子平維章と申仁之編集せし不問談と云る書に云、江戸斯波を芝と云は誤也、足利家の管領に斯波氏あり、〈下文不相見〉仍而考るに、昔時斯波氏の居住せしにや、

〔南向茶話追考〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0962 芝の稱號の事、彼地の古老云、芝といふ此海邊の總名を芝浦と云、子細は海岸近き所に、木の小枝をならべ置て、海苔懸り候を取る、木の小枝を俗に芝といふ、故に此浦所々に、右のごとく海苔を取る故、總名を芝の浦と呼び來るといふ、

〔御府内備考〕

〈八十八芝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0962 芝は芝浦などヽ呼びて、古き世よりの名なり、古へ此邊みな海邊なる事しるべし、山岡明阿云、むかし此邊芝生にて、武藏野の末なりしゆへ、芝といへるなるべしと、一説〈南向茶話〉に、此地の古老云、すべて此海邊を芝浦と云は、海岸近き所に木の小枝を並べ置て、海苔をとれり、木の小枝を俗に芝と云ゆへに、總名を芝浦とよび來れりと云は誤れり、近き世にこそ海苔をも取しなるべけれど、地名のこれより起りしとするは無稽の説なり、按に本芝二丁目名主内田源五郞所藏古文書の内、天正十五年、小田原北條家より出せし文書に、蒔田御領分、芝村舟持中と記たれば、此頃は村名に唱へしと見ゆ、又天文廿二年、永祿七年、同じ北條家より出せし文書に、柴舟持中と記し、及永祿三年、柴代官百姓へ渡せし浦賀番船の文書、又江戸刑部小輔充の文書に、柴船六艘從前に出來儀候、船橋舟何時も動之刻、觸次第無遲々様專一候などもみへたれば、古くより船持多く住せし處なる事知るべし、されど此比芝といへるは、金杉本芝邊のみとおもわれたり、今の芝口町は始日比谷の代地に賜はりて、日比谷町と稱せしを、寛永年中、芝口御門を建させられし比より、芝口町と改名せらるヽよしなれば、それより前は何れに屬せし地なる事を知べからず、神明町の邊は飯倉に屬せしにや、飯倉神明なども稱せり、今は芝口町以南、上高輪町、〈芝田町、芝車町、〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0963 〈芝二本榎、芝伊皿子町と分て唱ふ、〉車町までをおしなべて芝といひ、又増上寺の表門芝に出たれば、芝の増上寺と稱するより、切通し土器町邊までも芝と唱ふれど、是は全く増上寺の地名よりおしうつりしに過べからず、其質は飯倉もしくは櫻田に屬せし地なるべし、

三田

〔御府内備考〕

〈九十九三田〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0963 三田は古代の郷名なり、和名抄に、武藏國荏原郡御田と載せ、及日本總國風土記に、武藏國荏原郡御田郷、〈或箕多〉公穀三百六十七束、假粟田三十九丸、貢松竹蕨等、又有諸禽大膳或木工寮と記すもの是なり、〈〇中略〉又御田を三田と書改めしも古き事にや、正保改の國圖、及郷帳とも、既に三田の字を用ひたり、〈〇中略〉今三田と稱する地域、東は大やう芝に隣り、たヾ南よりの方のみ少しく高輪に交わり、西は新川を境として麻布に並び、〈川を隔て少しく飛地ある事は、既に麻布の條に辨ず、〉南は白金に續き、北は赤羽川に限れり、その内在方分に屬する年貢地も少しくあれど、多くは抱地と成りて、屋鋪々々の匝込となれり、此餘三田臺と稱して、高輪白金境に飛地あり、又白金村内にもわづかなる飛地ありて、三田老松町といふ、

高輪

〔御府内備考〕

〈一百六高輪〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0963 高輪は高き繩手と云の下略なりしを、後に文字を書改めしなるべし、〈地名に何繩手と云ものは、郡中大森村内にさは繩手と云に名あり、是北條役帳に、六郷殿三貫四百文六郷内に花和と載たる地なりと云類あればなり、〉此邊町と成しは古くよりの事にて、正保の郷帳にも、上高輪町、下高輪町とみゆ、元祿改の郷帳にもしか記たり、今は上高輪町を變名して芝田町と稱し、車町、二本榎、伊皿子町も、おしなべて芝と唱へ、〈是町方にての通稱なり、郷帳等には、今も上高輪町と書す、〉下高輪町のみ舊名に從へり、

〔江戸名所圖會〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0963 高輪大木戸(○○○○○) 寶永七年庚寅、新に海道の左右に石垣を築せられ、高札場となし給ふ、〈其初は同所田町四丁目の三辻にありし故に、今も彼地を元札の辻と唱ふ、〉此地は江戸の喉口なればなり、〈田町より品川迄の間にして、海岸なり、〉

白銀

〔新編江戸志〕

〈七下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0963 白銀 相傳て云、往古此所に白銀長者といふあり、代々富饒にして住す、ゆへに爰を白銀と云よし、北條

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0964 分限帳にも白銀村あり、江戸砂子、村有凡八百石程の高なりと云々、

目黒

〔新編江戸志〕

〈七下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0964 目黒 大崎 目黒は往古よりの名にして、北條分限帳にもあり、永祿元龜の比の繪圖にも見へたり、上中下三ケ村有りと也、

〔御府内備考〕

〈一百五目黒〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0964 目黒は今も上目黒村、中目黒村、下目黒村と分れて、廣き地名なり、〈〇中略〉目黒町と稱せる處は、永峯町續より、瀧泉寺脇通り不動の門前までにして、全く不動への道筋なれば、往來も多かりしゆへ、町に開きしものと見へたり、

麻布

〔江戸砂子〕

〈五上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0964 麻布〈又阿左布と書〉 平尾 麻生 又麻布〈本名〉淺生村 龍土 櫻田 谷町 市兵衞町 六本木 上ノ町 雜色 これらいづれも所の小名也、麻布七村といふ、麻布は矢盛庄七郷の内にて、古き名也、麻布七村といふは、近き事にや、いぶかし、

〔新編江戸志〕

〈七下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0964 麻布 阿在布共 又麻生共 麻布の號は、此所多摩川より近きゆへ、此所にて往古は麻など多く植置き、布など織出せるよりの名ならん、多摩郡にも布多村と云有と、手調布など多く在なり、織出るよし、參考太平記に武藏野合戰の條下に、兒玉黨淺羽、〈毛利家本作淺生〉四方田庄櫻井と書、いづれも武藏の住人なれば、麻生とあるは此麻布なるべし、

〔御府内備考〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0964 七十五麻布

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0964 江戸志云、此所は多摩川へもほど遠からざれば、古へこの地に麻を多くうへおき、布をもおり出せるよりの名ならん、多摩郡にも布多村といふあり、手調布を多くおり出せしよし、又或人云、あさふは麻布にはあらず、此邊昔は山畠にて麻を作りしゆへ、麻田をあさふとよめり、日本紀にも、豆田粟田をまめふあはふと訓ずるがごとく、此外にも蓬生又淺茅生の類に

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0965 同じ、武藏國には調布を玉川にさらして、貢物にも奉りしゆへ、此邊麻田なるべし、延喜式萬葉集の歌にものする所なりと、是等の説皆文字にもとづきての牽強にして、その據をしらず、又麻生山善福寺の傳へに、かの山へ往昔麻のふりし事あるゆへ、麻布留山といひしを、中略して麻布山と唱へしより、後年廣き地名となれるなどもいへり、これは殊に甚しき附會の説なり、〈〇中略〉江戸古圖には、麻生村をのす、又北條分限帳にも、江戸廻り阿佐布五十三貫二百文の地、狩野大膳亮領せしよしみゆと、今案に、正保頃の郷帳に阿佐布村高七百四拾五石餘内四百二十八石餘、伊奈半十郞御代官所、百三十七石餘、山王領六十六石餘、大養寺領五十八石餘、天徳寺領三十八石餘、神田明神領十六石餘、柴明神〈神明の誤なるべし〉領屋敷四町五反八畝拾五歩、上ヶ屋敷伊奈半十郞御代官所、外高拾石善福寺領と載せ、元祿改の郷帳には、高二百九十六石餘阿佐布町、高拾壹石餘阿佐布町の枝郷坂下町と出せり、正保の頃七百四十五石餘なりしを、元祿改に二百九十六石餘と有しは、此際拜領屋敷寺地など多く置れしゆへなるべし、今麻布の在町を合せて、その地域をいはヾ、東南は大抵麻布新堀川に限りて三田に對し、〈川向に麻布の飛地少しく在り、川の手前に三田の飛地少しくあり、こは新川成し時、村界に拘らずして堀割ありし故なり、〉北は飯倉赤坂に續き、西者澀谷青山に境へり、

飯倉

〔御府内備考〕

〈八十四飯倉〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0965 此地は、飯倉村とて、ことに古き地名にて、又廣き村なりとみへし、〈〇中略〉江戸古地圖にも飯倉村あり、北條役帳に、飯倉彈正忠某といへるもの、此地を三貫八百七拾文領せしよしみゆ、この彈正忠が家、世々この所の領主として、その地の名により、飯倉を氏とせしなるべし、又太田新六郞某も、同じ比飯倉内小早川十四貫文の地を領せしよし、北條役帳にいづ、〈〇中略〉すべて西久保芝神明邊なども、飯倉のうちなりしとみえ、政隨録に、飯倉西久保石河藏人町屋敷など記し、神明を飯倉神明ともいへり、今は飯倉町六町、飯倉狸穴町、飯倉片町、飯倉永阪町等の飯倉の名殘りて、芝麻布西久保の間に挟れる地名となれり、

澀谷

〔新編江戸志〕

〈七上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0966 澀谷 往古は矢盛の庄と云より龍見左京貞重入道此所を領す、家系に云、貞重子龍見平次左衞門重明武州澀谷に住す、元弘三年癸酉三月十六日、武州入間郡の合戰に討死すとなり、

〔御府内備考〕

〈七十三澀谷〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0966 澀谷は廣き地にて、今上中下の三村に分れ、又上中下豐澤三村も、元は澀谷の内なりしを、元祿の頃別村と成りし處なり、よりて後人附會して、東鑑、治承五年八月二十八日辛末の條に、澀谷庄司重國の次男、無貳の忠節を竭の間、澀谷下郷を知行すべしとあるを、當所の如く傳へたるは謬なり、相模國高坐郡に、澀谷庄の名今も殘りて、しかもそのかヽる處甚廣ければ、重國等の住居せしは、彼地たりし事明し、殊に東鑑、文應二年五月十三日、佐々木壹岐前司泰綱、澀谷太郞左衞門尉武重と口論に及びし條に、先祖重國は、誠に相模國大名の内なり云々とも見えたり、當所はもしくは彼が氏族の者など住せし地にて、後年村名となりしは知べからず、

赤坂

〔南向茶話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0966 問曰、青山赤坂邊の儀は如何、承度候、 答曰、赤坂之號、〈〇中略〉愚考に、赤坂之號、赤土の地なれば稱する成べし、濃州赤坂も、後に山ありて、山の土赤き事朱のごとし、三州赤坂も、山中赤土の所也、

〔御府内備考〕

〈六十七赤坂〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0966 赤坂は武藏風土記に、荏原郡赤坂庄、公穀三百六十九束、三毛田、假粟貳百貳拾三丸、出黄麥https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000650f77.gif、又貢鷄鷺等と載たり、荏原郡と書るは謬にや、今赤坂と稱する處は、全く豐島郡に屬し、古名赤坂庄貝塚領壹ツ木〈或は人繼とも書す〉村と號せし由云傳ふ、〈〇中略〉紫一本に云、赤根山赤坂、今の紀伊家の中屋鋪をいふと、又加々侯遠清が江砂餘礫には、赤坂の號は、御入國以後松平安藝守下屋敷の地、山赤土なる故に、赤阪といふと記し、江戸圖説には、紀伊國坂を、古へ赤坂といひ、紀伊候御中館の地を、元赤根山といふ、茜を多く作りし地にて、茜山なるを轉じて赤坂といふとも記せり、未だその正しき説をきかず、按に一ツ木は、古へ上一ツ木村下一ツ木村と別ち稱して、廣き

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0967 地名なり、又赤坂は、元此一ツ木中の小名なりしが、後手廣く推及びて、總名となりしなり、猶橋場は、元石濱中の小名なるが、後總名となりしに同じ、今赤坂と稱する地域の大やふは、東の方御堀に限り、西は青山に接し、南は麻布に隣り、北は紀伊殿御屋舖に限たれど、昔は猶四ツ谷御門外邊迄、一ツ木の地域なりしとて、一ツ木町名主八郞左衞門所藏、上り地記録の内に、十一石貳斗四合四勺、寛永十二年、麹町十丁目尾張様へ渡るなど載たり、

青山

〔南向茶話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0967 問曰、青山赤坂邊の儀は如何、承度候、 答曰、〈〇中略〉青山の號不慥、或説に、此地青山氏の屋敷有之ゆへ地名とすと云へり、

〔新編江戸志〕

〈七上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0967 青山〈澀谷の内〉 天正の比、此邊山口修理亮重政住ス、麻布邊まで此屋しき也、其内七万坪を分て、聟高木主人正正次のやしきとする由、 一説にいはく、青山忠政十万石の時は、今の青山の地一圓に屋敷也、其後忠俊幸成兄弟、街道を隔て住せしとなり、按ずるに山口家一度御勘氣の事あれば、其跡の地を青山家に給はりしにや、然れども今に山口家の屋敷も殘りてあり、山口家、高木家、地はみな澀谷の方なり、青山家の地とは餘程隔たり、尚後の人尋ねべし、改撰系譜に云、天正十九年、青山常陸介忠成に此處を宅地に賜ふと有、是より青山と號すと云々、

〔御府内備考〕

〈七十青山〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0967 青山は天正十九年、青山常陸介忠成が宅地に賜りし地なり、〈〇中略〉昔は青山氏の屋鋪殊に廣かりし事知るべし、後年次第に上り地となりて、青山氏の上ゲ地といふべきを、下略して青山と呼しより、おのづから一ツの地名となり、又其近き邊をもかの名をおし及ぼして、ともに青山といひしかば、今は廣き地名となれり、其大略をいはヾ、南の方麻布今井龍土に續き、北は千駄谷恩田鮫ケ橋に及び、東は赤坂にて、西は原宿上澀谷なり、

四谷

〔江戸砂子〕

〈四上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0968 四谷〈内藤宿 大木戸 新宿 中野 佐目河橋 千日谷 千駄谷 高井土〉 四谷と云は、千日谷、茗荷谷、千駄谷、大上谷の四谷也、 前板右のごとし、しかれども千日谷は、御入國よりはるか後に呼たる名也、尤名にかヽはらずといはヾ、猶此餘も谷は多し、四谷は古き名なるよし、永祿天正までは、此邊すべて霞村といひけるよし、古記に見ゆと也、又一説、古むさし野に續て原野也、いづれのあたりにや、家四ツありし故四家といひたりとか、此類多ければ、實とすべくや、

〔南向茶話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0968 問曰、四谷之儀、田舍にて民家の家數により、三軒家、四軒家など申候へば、其例に、以前民家少き時の號なるべしと被存候、左候はヾ、谷之字誤りにて候半か、如何、 答曰、仰の通り、我等にも左様に相心得居候處、彼地に久々居住せし老人物語致され候は、古來此地、今の糀町六七町之内之所谷あり、又今の鹽町の所も谷にて坂有り、其前に民家一軒有之て、夫婦居住せし故に、俗に夫婦と呼し也、寛永十三年外廓出來之刻、御堀揚土を以、東西兩谷埋め候ゆへに、平地となり、谷なしと云とも、舊名殘り、鹽町の入口を坂口と小名に呼び候は此所也と云、此地東西南北ともに谷有ゆへに、四ツ谷と號する由、

〔新編江戸志〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0968 四谷 四ケ所の谷あるゆへに四谷といふ、千日谷、〈四谷のうち〉茗荷谷、〈大久保なり〉千駄谷、〈青山に近し〉大上谷、〈高井戸邊、四谷よりは凡一里半餘も隔たり、〉四谷名主勘四郞に尋るに云、往古はたヾ、武藏野に續たる曠野にて、させる家居もなし、はづかに家四つあり、梅屋、木屋、〈今久保屋といふ〉茶屋、布屋の四軒有り、甲州往來の旅人のやすみ所なり、然るに御當地日々御繁昌に付、江戸傳馬町鹽町の代地、或は糀町邊の寺社の代地替地被仰付、錐を立るの地もなき様になりぬる故に、四つ家名さへ今はうせて、四谷と書かへぬ、されども右四家のうち梅屋保久屋は、子孫今に此地にあり、その地の高札にも、いまだのこりて有り、 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0969 往古此邊は、千駄ケ谷に屬する、北條家舊記に四谷は見えず、千駄ケ谷の地名は見ゆ、江戸砂子に四ツ谷といふは、千日谷、茗荷谷、千駄ケ谷、大上谷等の四谷あるゆへなりといふは非なり、四谷雜談にいふ、寛永の頃までは、外曲輪は所々に空地多く、就中御城西の方糀町の方に至りては、萩薄生茂り、野鷄蟇のみ多く集りて、人のまれなる䕺の内に、人家四つならではなかりし故に、其所を四つ家と云けり、其以後次第に家つヾきになるに隨ひて、自然に四谷と書成れるとぞ、

〔御府内備考〕

〈六十一四谷〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0969 四ツ谷は、〈〇中略〉事蹟合考に云、往古は今の尾陽公の表門の邊に民家一軒、坂町の上の方に一軒、その外の所はさだかならざれど、二軒ありしより、鳴子高井戸の方より四谷と稱して、往來のやすらひ所としたりといひ傳ふと、此餘江戸砂子等に、昔四ヶ所の谷ありしより起りし地名なりと書しは、全く文字につきての臆説にして、取べきものあらざれば省きて載せず、今四谷と稱するの大様、東は四谷御門御堀に限り、西は内藤宿追分に及び、南は紀伊御屋鋪及び鮫ケ橋、千駄ケ谷等に續き、北は市ケ谷、大久保に境ひたれど、地形多く犬牙して定かならず、又内藤新宿は、元四ツ谷の地なれど、元祿年中、新に宿驛を立られしより、御代官の支配となり、四ツ谷外の地となれり、

〔紫の一本〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0969 四ツ谷 麹町を西へ出て四ツ谷なり、麹町の十一丁目、十二丁目、今の四谷の見付の御門御堀に成たるゆへ、町屋引て御堀先にて替地を下さるヽ故に、麹町十一丁目十二丁目は、四谷にあり、

〔江戸名所圖會〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0969 四谷大木戸、〈又大關戸に作る〉甲州及び青梅への街道なり、土俗云、霞が關或は旭の關共云とぞ、御入國の頃迄は、此地の左右は谷にて一筋道なり、此關にて往還の人を糺問せらる、近頃迄江戸より附出す駄賃馬の荷物、送状なきを通さヾりしとなり、今も猶駄賃馬の荷鞍なきをば、江戸宿又は荷問屋等の手形を出して通るは其遺風なり、此故にや、こヽの番屋は町の持なれ共、

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0970 突棒、指脵、錑等を飾置り、是往古關のありし時の遺風ならん、

市谷

〔新編江戸志〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0970 市谷 求凉雜記云、往古は市買と書、按るに、往古此所市の立し所ならんか、今尾州候御やしきにては、都て市買と書く、又或説に、長延寺谷と云谷あるゆへ、市谷といふ、

〔御府内備考〕

〈五十八市谷〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0970 市ケ谷は古之地名と見へて、江戸古地圖に市谷村をのす、又北條分限帳に、太田新六郞江戸市谷三十二貫九百十六文の地を領せしといふ、又同じき人江戸中里市ケ谷にて、二十貫六百十六文の所を知行せしよしも見ゆ、是によれば、市谷は中里までつヾきしやうに見ゆ、〈〇中略〉正保改の郷帳には、市ケ谷高四十三石餘、田方拾五石餘、畑方貳拾八石餘、御代官所と記たり、今市ケ谷と稱するの地域、南は御堀に限り、東北は牛込に續き、西は四ツ谷に隣りて、皆武家屋鋪町並等の地となり、在方分と稱するは、纔にその間に雜り殘りたれど、それも多くは抱地等になれり、

牛込

〔南向茶話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0970 問曰、牛込小日向筋御聞承及も候哉、 答曰、〈〇中略〉牛込の名目は、風土記に相見へ不申候へ共、舊き名と被存候、凡て當國は、往古曠野の地なれば、駒込、馬込、〈目黒邊〉何れも牧之名にて、込は和字にて、多く集る意也、

〔御府内備考〕

〈五十三牛込〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0970 中古上野國大胡之住人大胡彦太郞重治といひし人、當國にうつり、〈年時を詳にせず〉此豐島郡牛込村にすみ、小田原の北條に屬せり、その子宮内少輔重行、天文十二癸卯年の秋、七十八歳にして卒す、その子宮内少輔勝行が時に至り、天文廿四乙卯年〈弘治元年なり〉五月六日、北條氏康に、告て大胡をあらためて牛込氏となれり、此時氏康より判物を賜ひ江戸の内牛込村、今井村、〈今赤坂にあり〉櫻田村、日尾屋村〈今日比谷なり〉を領せり、〈他國の領地は略せり〉勝行天正十五丁亥年七月廿五日卒す、とし八十五歳、〈牛込系圖〉又北條分限帳を見るに、江戸牛込六十四貫四百三十文之地を、大胡某領せしよしのす、

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0971 〈この分限帳は、永祿のころ改めし也、されどこの大胡といへるは、牛込勝行がことなるべし、この頃ははやあらためしなれど、末ふるきによりてかき攺ざりしと見ゆ、〇中略〉今牛込と稱するの大やう、東は小日向、關口、早稻田、中里等に境ひ、南は御堀、及市ケ谷、船河原町に限り、西は都而市ケ谷に續き、北は大久保高田に及ぶ、此餘牛込在方分の地、中里村、早稻田村續に在り

小石川

〔江戸砂子〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0971 小石川〈白山 大塚 巣鴨 板橋〉 小石川と云は、小石の多き小川幾流もあるゆへ也といふ、わけて傳通院のうしろの流、ねこまた橋の川筋、小石川の濫觴といふ、又白山權現は、加賀國石川郡より勸請あれば、それに對しての名ともいへり、

〔南向茶話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0971 問曰、小石川は舊名の由、舊記等にも有之候哉、 答曰、小石川之名目、舊記にも見當り不申候、宗祇の廻國記に、名にしあふ小石川を渡ると云々、然ども回國記は、實書ならぬ様に被存候、宗祇にて無之やうに沙汰有之候、其外は所見なし、總名とする地廣く候、南は小石川御門堀通りより、北は大塚の大道迄は小石川と號す、牛込邊も、上水之通牛天神下迄は小石川之内也、此所今金杉と稱する町やあり、舊名此邊金曾木村といふ所にて、古河公方の家臣、豐前山城守と申仁居住の所なる由、其家傳にあり、宅地の所は、今の新坂、〈俗に今井坂とも云〉其上なるよし申傳ふ、金剛寺坂の下は、舊名小石川鷹匠町と呼し所也、明暦年中出火は、此所より起れりと承候、

〔御府内備考〕

〈四十一小石川〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0971 江戸志に、此地は小石の多き小川幾流もある故、小石川と名付しといふ、こは最古世の話なるにや、詳なる事を聞ず、正保改の武藏國圖には、今の御藥園の西なる田間より、傳通院後の方へ達する流と覺しき川を、小石川と注したり、則江戸砂子に、傳通院の後の流れ、猫また橋の川筋を、小石川の濫觴と書しもの是なり、今は小石川と唱ふる地最廣し、南は小石川御門外なる御堀に限り、北は巣鴨に至り、東は本郷駒込に添ひ、西は小日向に隣り、乾の方は雜司ヶ谷

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0972 村にも少しく接せり、されど北西の方に至りては、水陸の田あり、又在方分に屬する抱地等多ければ、御府内に屬する地は三分の二におれり、又金杉は今小石川の内なれど、古くは別に一村立し地とみへたり、〈〇中略〉按に小石川の地名と成しも古き事にや、回國雜記に、小石川といへる處にまかりて、我方を思ひ深めて小石川いづこを瀬とかこひ渡るらんと、見へたり、是文明十九年の紀行なり、又小田原北條役帳に、島津孫四郞、五貫四百八十文、小石河内法林院分松月分、及櫻井買得五十六貫五百八十壹文、小石川本所方、元有瀧知行などみへたり、又黄葉集〈烏丸大納言光廣卿集〉に、江戸に侍る頃、小石川といふ處にて、久かたの月みる宿のすヾしさも隣ありけり石川の水、と載せたり、一説に神社略記を引て、白山權現は加賀國石川郡より勘請せしゆへ、小石川の名起りしといふ、是最無稽の言なり、白山權現を此地に移せしは、元和元年の事といへり、

小日向

〔御府内備考〕

〈四十五小日向〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0972 小日向は昔鶴高日向といひし人の領地なり、家絶し後、古日向があとヽいへるを、いつの頃よりかこびなたと云來れりと、〈江戸砂子〉小日向と號するは、鶴高日向が領地なる故名付るよし、小日向名主飯塚三四郞は、鶴高日向が一族のよし、又小日向水道端鶴高山善仁寺は、日向が開基にて、一向宗なり、今に飯塚三四郞檀家なり、〈江砂餘礫〉按に、此説覺束なし、もし古日向が舊領とせんには、こひうがとぞ稱すべきなり、轉じてこびなたといふもの、附會の説に似たり、又鶴高日向と稱せし人は、他の所見なき人なり、又山岡明阿、和名抄豐島郡の郷名日頭といふは、小日向にやといひしと、うけがひがたし、北條役帳に、興津加賀守、拾貳貫九百四十六文小日向分元太田源十郞知行、又太田彌三郞、貳拾貳貫八百四十文、小日向彈正屋敷、但太田新六郞與新堀方所領替、十四年以來致之、大普請之時半役、又恒岡彈正忠、十六貫五百七十文、小日向之内、又本住場寺領、廿壹貫四百四十文、小日向屋敷分太田大膳知行之内入と見へて、古より廣き地名なり、正保頃の郷帳には、小日向村、田方畑方すべて廿五石三斗二升餘、内壹石餘野村彦太夫御代官所十八石餘樽

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0973 屋藤左衞門、奈良屋市右衞門、喜多村彦右衞門、御代官所五名常光院領と見へたり、〈〇中略〉昔の廣狹は詳ならず、今の地形の大様は、東北の方小石川に境ひ、南は牛込に續き、西は關口及護國寺領音羽町櫻木町等に限れり、されど武家屋敷の接界に至ては、半は小石川の地にて、半小日向に屬する類も少なからず、

關口

〔御府内備考〕

〈四十八關口〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0973 總説 關口村は、小石川、小日向、牛込等にとなれり、地名の起りを詳にせず、此所より西の方に行ば、宿坂といへるあり、其處はむかし鎌倉街道にて、宿坂の關といひて、關の有しよしなれば、是等によりて斯唱るにや、何れ古きよりの名なるべし、〈〇中略〉今も在町相半し、その内江戸に屬する廣狹の大様、東は小日向及護國寺領櫻木町に續き、西は高田四ツ家町に接し、南は大抵上水に限りたれど、水道町は上水の南に在り、北は小石川飛地雜司ケ谷に境す、

高田

〔新編江戸志〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0973 高田 或説に、此むかし越後高田領主の館在りしゆへに、高田の號ありといふは誤りなり、南向茶話にも、北條分限帳を引て、高田葛谷横山土志比留方は、戸塚の内にあり、然れば天文年中より、高田の號ある事は明らかなり、

本郷

〔南向茶話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0973 問曰、本郷舊名に候哉、但湯島の本郷にて候哉、〈〇中略〉 答曰、御尋の通、本郷の名目、北條分限帳にも載之、又治亂記にも出候へ共、湯島は風土記に載之候へば、定て湯島の本郷にて有之べく候、其所入込分ちがたし、

〔御府内備考〕

〈三十二本郷〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0973 本郷は古しへ湯島の内にして、その本郷なれば、湯島本郷と稱すべきを、上略して本郷とのみ唱へしより、後世湯島と本郷とはおのづから別の地名と成りしなるべし、〈〇中略〉天正十九年、駒込吉祥寺へ御寄附の文書に、寄進武藏豐島郡本郷之内五十石之事、如先規寄附

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0974 訖云々とあり、及同年小石川祥雲寺に賜ひし御寄附状にも、本郷の内にて五石の地を賜ふ由載たれば、此二寺之領も、古へより、本郷の内にありし事知るべし、今本郷と稱する地域の大様は、東之方湯島に續き、〈松平加賀守屋敷は、湯島と本郷にかヽりて、東の方に多く湯島の内なりと云、〉西は小石川に境、南は神田川に限り、北は駒込に隣り、されど小石川の地にも少しく接はれり、〈武藏屋敷の堺界定メならず、姑くその大略をいへり、〉

湯島

〔御府内備考〕

〈二十九湯島〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0974 湯島は和名抄豐島郡の郷名に出て、由之萬と訓註あり、總國風土記に、湯島、公穀六百七十二束、三字田、假粟三百九十二丸、三字田、貢鹿狐走兎岡領馬牛等と載す、又小田原役帳に、中村平四郞買得三十八貫文江戸廻湯島之内、龍崎文四郞五十三貫百十二文江戸湯島とみえたり、又堯惠法師の北國紀行に、文明十八年筆記、忍の岡の並びに、油井島といふところあり、古松はるかにめぐりで、注連のうちに武藏野の遠望をかけたるに、寒村の道すがら野梅盛に薫ず、是は北野の御神と聞しかば忘れずば、こち吹むすべ都までとほくしめのヽ袖のむめか香、此北野の御神と書しは、恐くは今の鎭守天滿宮なるべし、江戸志に、湯島は和名抄に出たれば、もとより古き地名也、いにしへは湯島本郷は一ツにて、後に本郷別れたるべしと云、此説實を得たるが如し、何れの地にも本郷と云處まヽあり、皆其郷の本たるに依て、直に本郷とのみ言に似たり、然れば本郷かへりて湯島の元地にして、今の湯島は後年その名の廣く推及びし處なるべし、古の如く本郷を合ていはヾ最廣き地域なり、今湯島と稱する地形の大様は、東の方下谷へ並び、南の方神田川に限り、西の方本郷に接し、北の方池の端榊原遠江守等の屋敷に續く、〈案に榊原氏等の屋敷も、元は湯島の内にや、或は本郷に屬せしも知るべからず、今其地不忍池に近きをもて、通じて池の端と言、〉

根津

〔御府内備考〕

〈二十五根津〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0974 根津は下谷池之端につき、谷中三崎に隣れり、依之谷中に近き故、多く今谷中の内に入といへども、實は駒込千駄木の地なり、〈江戸圖説〉案に、根津の地名は、根津權現鎭座以來の唱へなるべし、神社略記根津權現の條に、根津といふは、鼠のいはれにや、是大黒天を祭るならん、こ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0975 とに天井又は繪馬などに、鼠を多く書て見ゆれば、大黒の社なる事決せりと見えたり、社の舊地は、千駄木御林の傍にて、今もその所を元根津と呼べり、

駒込

〔御府内備考〕

〈三十六駒込〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0975 駒込は、古き地名なるよしは、既に駒込村の條に辨せり、今御府内に屬する地域の大概、南は本郷に續き、北は巣鴨、西ヶ原に及び、東は谷中に接り、西は小石川、巣鴨に並べりされどその内年貢上納地、及武家屋敷等入雜りたれば、巨細には辨じがたし、

巣鴨

〔江戸砂子〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0975 巣鴨 板橋街道 よほどの町並也 此わたりいにしへ大なる沼地あまたありて、諸鳥多し、中にも鴨多くありしよりの名也とか、古き記に見ゆると人の申き、

〔南向茶話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0975 問曰、丸山巣鴨の名目如何、承度候、 答曰、〈〇中略〉巣鴨の號の事、風土記足立郡之内に見へ候は、舊地にて候はじ併北條家の分限帳には相見へ不申候、

〔御府内備考〕

〈三十九巣鴨〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0975 巣鴨の名義、及在方に屬する事蹟は、巣鴨村の條に辨ず、今町と稱する處は、大抵中山道板橋への往來にして、南は駒込鷄聲が窪續より、北は庚申塚に及び、その餘中町原町等は、少しく往來の西にさし入、辻町と稱する僅の町、小石川大塚上町に隣れり、町並の外武家屋鋪も數多あれど、その餘は皆村落畊地のみなり、

雜司谷

〔南向茶話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0975 問曰、雜司谷舊地の由申傳へ候、如何、 答曰、法明寺は舊地にて候由、紀州の醫師何某の古紀行に、僧司谷と記せり、判本にて候、其書の名は忘れ候、然れば此處は古へ法明寺より領地して司どりけるにや、

〔御府内備考〕

〈五十二雜司谷〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0975 雜司谷町 一町名起立之儀は、元來地名ニ而、雜司谷村ト相唱候、右は往古禁中雜式相勤居候柳下若狹、戸張

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0976 平司左衞門、長島内匠抔申者、南朝相仕へ候處流浪仕、當所へ參り住居仕候よしニ而、雜司谷と相唱候よし、右之家筋、當時當村方百姓に殘居候、然ル處其後文字之儀モ區々ニ而、藏主ケ谷、僧司谷、差子谷抔、向々相認候處、有徳院様〈〇徳川吉宗〉御成之節、文字區々ニ而及混雜候間、右混雜之雜之字相用可申旨、上意有之候由申傳候へ共、慥成義無御座候、且當所之義は、寛永十八巳年中、大猷院様〈〇徳川家光〉御裏方、尾州千代姫君様御母堂、自證院様御靈屋領として、市谷自證院領相成申候處、其後延享三寅年中、寺社御奉行、山名因幡守様、町御奉行能勢肥後守様、馬場讃岐守様御勤役中、右雜司ケ谷村之内、往還附百姓町屋之分、町方御支配被仰付候、其砌より雜司ケ谷町與相唱申候、

下谷

〔御府内備考〕

〈二十一下谷〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0976 國華萬葉記に、下谷は上野に對したる名なりといへり、今その地形を按ずるに、上野は固り高燥の丘にて、その地に續ける下濕の地なれば、上野に對せし呼名といふ事理あるに似たり、風土記殘篇に、下谷岡と載たるは、上野を指ていへるにや、されどかの記は後人の僞書なりといふ説あれば、いかヾはあらん、永祿改定の小田原役帳に、江戸廻下谷菅野分三十五貫九百文の地を、大谷十郞左衞門領せし由載たり、又松隣夜話に、永祿七年太田三樂、武州下屋と云所にとりでを拵へ、〈砦の跡詳ならず、是も上野の内などにや、〉取續て松山邊へ節々働きいづとも見えて、古き地名なり、地形、古は南の方今の神田川に及び、北は坂本金杉の二村に限り、東は淺草鳥越に續き、西は上野湯島に添ひ、中央不忍池の下流東西に貫きて、南北に分れし村落とおもはる、御入國の後、不忍池の下流を埋られ、おしなべて平衍の水田と成し由は、羅山文集所載、武州刕學十二景の内、下谷耕田の詩、及同題杏庵堀正意が詩の趣にてもおして知らる、〈全詩下に載る聖堂蹟の條に出す〉其後内神田に在し町並を下谷へ移されしより、南の方過半外神田と成り、又西の方不忍池の南岸次第して陸地と成り、仲町茅町七軒町等の町並出來て下谷に屬し、又北の方坂本金杉三の輪龍泉寺四村に及びて、下谷に屬する町並と成しゆへ、地形大に變じたり、今下谷と唱ふる四域は、南の方外神田に境

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0977 ひ、北は小塚原中村町、東は淺草、西は湯島本郷根津に續き、西北の間上野の地差入て、最廣き地名となれり、〈上野町は、野の地の差出たる如く見ゆれど、左にはあらず、元來下谷の内なりしを、東叡山御建立の時、山内より轉地せられし町並なれば、今姑く下谷に附録す、又池の端仲町の邊は、元何れに屬すべしとも定めがたけれど、同じつヾきなる茅町を下谷といへば、是も姑く下谷に屬す、又坂本金杉三の輪龍泉寺町の類は、元來その村々に屬する地なれど、こは當今現に下谷某町といふをもて、そのまヽ下谷に附記す、〉

谷中

〔新編江戸志〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0977 谷中 駒込と上野との谷なるゆへ下谷に對して谷中といふ成るべし、されど古名にはあらざるにや、北條分限帳にも此名あり、

〔御府内備考〕

〈二十七谷中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0977 江戸志云、谷中は上野の山と駒込との谷なるなれば、谷中といふよし、又下谷に對せし言葉なりともいへりと、按に、北條役帳に、遠山彌太郞江戸屋中三十九貫文の地を領せしよし載たるは、今の谷中なるべし、此餘谷中の地名古書に未だ所見なし、

淺草

〔江戸砂子〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0977 淺草〈花川戸 新寺町〉 往古、武藏野より續て、すべて草深き平原なりしが、四谷大木戸の邊より櫻田邊、北は牛込本郷湯島まで山にて、又此邊平原なれども、民家所々にありて、おのづから草も淺きゆへ、淺草といへるとか、

〔南向茶話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0977 問曰、淺草邊の義承り度候、 答曰、淺草の名舊記にも相見へ候得共、其由來しらず、茅町瓦町居民の説、昔は瓦町にて瓦を作り候、茅町は茅の賣買をなしけるといへり、凡八丁堀の茅場町は、往古茅商賣の所なり、其後明暦年中巳後、此所兩國橋向へ被移候、其後元祿初頃に、只今の本所四ツ目へ被移候由也、是は茅問屋數代商賣致候者の物語也、橋場邊の義、此地の古老物語に、いにしへ此處に橋有候故に、橋場と號しけると云、

〔江戸紀聞〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0978 淺草 此地は古の千束郷のうちなりと見ゆ、〈千束郷、後は千束村ともとなへし也、〉既に淺草寺の鐘の銘にも、豐島郡千束郷金龍山淺草寺としるせり、〈此銘は、後小松院の御字、至徳四年にしるす所也、〉淺草の地名も古き世より傳ふる所にして、東鑑等にも載たり、又江亭記に云、東望〈江戸城よりさして云〉則平川漂緲兮、長堤緩廻、水石塊https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000651fda.gif 兮、佳氣鬱芳、謂之淺草濱と云々、〈文明八年の紀なり〉又廻國雜記に云、淺草といへる所にとまりて、庭に殘れる草花を見てと云々、〈歌は略しぬ、此記は文明十八年の記なり、〉又此邊ふるくは工匠、或は刀鍛冶など居りし所と見へて、東鑑、治承五年七月三日の條に、若宮營作の事、その沙汰ありて、鎌倉中を穿鑿ありしに、しかるべき工匠のなかりしに、武藏國淺草の大工字郷司をめし進ずべきのむね、御書をかの所の沙汰人等に下さると、又同月八日の條に、淺草の大工鎌倉へ參上の間、營作を始めらると云々、又北條家分限帳に、淺草の内四貫三百文の地、江戸鍛冶の所領とす、同き書に、千束村四貫二百九拾文の所、江戸番匠領なりと云、是北條家よりあておこなふなり、この比までも、淺草の地は番匠鍛冶など領せし所なれば、世々名だヽる工匠のおりしことしるべし、

〔御府内備考〕

〈十三淺草〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0978 淺草は御城の艮に當り、淺草橋外より、北の方橋場新鳥越に及び、西は下谷に接し、東は大川に限れり、是今淺草と唱るの地域なり、昔は鳥越、橋場、淺草とは自ら分別ありしならむ、又淺草といふ地は、古へ千束郷のうちなりしと見ゆ、〈千束郷、後に千束村とも云、今も千束の名殘れり、〉現に淺草寺至徳四年の鐘銘には、豐島郡千束郷金龍山淺草寺と記せり、されど淺草の地名も、古くより傳ふる所にして、東鑑等の書にも載たり、

〔吾妻鏡〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0978 治承五年〈〇養和元年〉七月三日丁丑、若宮營作事有其沙汰、而於鎌倉中、無然之工匠、仍可進武藏國淺草大工字郷司之旨、被御書於彼所沙汰人等中、昌寛奉行之、 八日壬午、淺草大工參上之間、被若宮營作、〈〇下略〉

〔廻國雜記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0979 淺草といへる所にとまりて、庭に殘れる草花を見て、 冬の色はまだ淺草のうら枯に秋の霜をものこす庭かな

本所

〔南向茶話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0979 問曰、本庄を本所とも相記し候、いづれか正字ならん、梅若の來由に付て舊地と被存候、 如何御聞つたへも候哉、 答曰、本庄は舊名なるよし、武州熊谷先にも同名あり、元祿年中有故て本所と相改むと云、梅若跡之儀、近年尾州人縁起を相記し、其記には、上古圓融院之御治世之事跡とすといへども、愚按に、足利家之時代亂世之頃之事跡なるべし、〈〇中略〉文明之頃之五山僧横川叟景三の詩集にも、梅若童子悼といへる詩あれば、其頃の事にや、

〔新編江戸志〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0979 本所 里談に云、往古は本庄と云るよしを、元祿の比、本庄家盛んなりし時より、本所と改けるよしみゆ、

深川

〔新編江戸志〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0979 深河 むかしは鱘河とも書り、往古は海邊にして、鱘なども多くありしにや、舊記も、深河の地名有、未其據を得ず、

〔御府内備考〕

〈一百一十一深川〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0979 深川は、慶長の頃、勢州の人、深川八郞右衞門といひしが、此地に來りて新墾せしまヽに、たヾちにその氏をもて地の名とすると云傳ふ、事は末に出す、元町の呈書、及猿江町泉養寺の記録に詳なり、〈泉養寺は即八郞右衞門の開基せる寺にて、昔は深川元町の處に在しといふ、〉江戸志に、昔は鱘河と書て、鱘多くおりし地なりといへるは、おそらくは無稽の説なるべし、此深川と稱するも、もとはわづかなる村なりしが、後に市店屋敷など多く出來て、深川町と改められ、又何の比よりか、此邊の總名とはなれり、今みるところをもていはヾ、東西も南北も、そのわたり凡二十四五丁、南は海岸に邊し、北は六間堀森下丁、富川丁、西丁、猿江丁、大島丁に及び、東は大抵十間川〈十万坪の東を流れ、龜戸柳島の間へ通る川なり、〉に

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0980 境ひ、西は淺草川にそへり、

〔東海道名所記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0980 れいがん島も、江戸の地を離て、ひがしの海中へつきいだしたる島なり、そのむかひ東の方一町半ばかりの海の中に、うし島新田あり、若宮の八幡のやしろある故に、八幡新田と申すなり、新田の北をば深川(○○)といふ、この内にあたけ丸とて、日本一の御舟をつながれたり、深川の北は淺草川のすそなり、

産物

〔續江戸砂子〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0980 江府名産〈并近在近國〉 鹽瀬饅頭 日本ばし通一丁目 鹽瀬山城〈〇中略〉 鹽瀬和巾 茶の湯に用るふくさ也、右山城にあり、〈むらさきの色、仕立共によろし、此家の名物也、〉 鳥飼饅頭 本町一丁目 鳥飼和泉 猿屋饅頭 淺草こまかた堂 子持眞猿屋 壺屋饅頭 元飯田町 壺屋六兵衞 薗の梅 并 唐菓子 本町一丁目 鈴木越後 沙糖漬 〈本店京都〉 本石町二丁目通リ丁 水本河内 丸屋求肥 神田鍛冶町一丁目 丸屋播磨〈〇中略〉 丸山輕燒 淺草誓願寺門前 茗荷屋九兵衞 京都丸山の製を摸す、餅かたくしまり、風味丸山にかはらず、 米屋白雪糕 神田としま町 米屋七兵衞 小兒乳なきに用之に、その代りをなして育す、蓮肉を吉これを製すると云、元祿の比までは湯島に住せり、御用地に成り、代地此所にわたりて則住す、柚餅 かぢばしの外 眞猿屋 米饅頭 淺草金龍山の名物也、根元は慶安のころ、此所に鶴屋といふあり、その娘およねといへ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0981 る製しそめたり、よつておよねがまんぢうといへるを、米饅頭と呼て、一名となれり、 幾世餅 兩國ばし西の詰 小松屋喜兵衞 餅を一やきざつと燒て餡を點ず、風味美也、元祿十七のとしはじめてこれを製す、今諸所に摸して、江都の名物となれり、 助揔麩の燒 〈かうじ町三丁目よこ丁〉 橘屋左兵衞 皮薄紙のごとくにして、餡を裹す、麸のやきはいやしきものとす、此助揔が製は、うへ方にもめされ、あぢはひすぐれて美なり、〈〇中略〉 薄雪煎餅 やりや町 いせ屋次郞兵衞 花饅頭 回向院前 伊勢屋金三郞 名酒 品々あり〈南てんま丁一丁目てつほう町 鳥飼、大和岡本和泉〉 葡萄酒は腰腎を暖め、寒を避く、熱病瘡家齒の病に飮べからず、〈〇中略〉 隅田川諸白 淺草並木町 山屋半三郞 隅田川の水を以、元を造ると云、〈〇中略〉 本江麹 本郷湯島より、江府の酒みそ麹多く出る、芝邊の麹は、増上寺切通しのうへ三田の邊より出る、總じて下町は濕地にて、三四尺下は水也、本郷又は三田邊は、土地高く室をしつらふに煩なし、よつて此職多く右の所に住す、 伊更子麸 芝伊更子當所の麸名物也、齒ぎれよく味ひ美也、 常盤麸〈さま〴〵の花かたあり、此ふ足にてふまず、手にてわく也、〉 芝神明前 越後屋五兵衞 粟麸 粟をまじへて製す、よつて黄也、 〈神田かぢ丁二丁ノひがし影道〉 するがや長兵衞 揚どうふ 疎なし、名物也、〈他のあげどうふは多くうろあり〉 神田多町 山家屋吉左衞門 華藏院豆腐〈かたちまんぢうのごとし、あぢわひつねにすぐれたり、〉 淺草花藏院門前 七軒町 淡雪どうふ ゆしま切通し 山田や權兵衞 兩國ばし日野屋藤次郞 祇園どうふ 湯島天神前茶屋 京祇園二軒茶屋の田樂を摸す、とうふをうすく切、少炙葛溜、蕃

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0982 椒或は生姜を點ず、昔の製は、又異なりといへども、味ひ甘美也、 金龍山奈良茶 淺草金龍山の梺茶屋〈〇中略〉 目川菜飯 淺草雷神門廣小路 東海道石部草津の間、目川村にて製する所の風味を摸す、 大佛餅 淺草並木町 根元は京誓願寺前に有、又方廣寺大佛殿の門前伏見海道にあり、淺草にて製するはこれを傚ふ也、〈〇中略〉 ひやうたん屋そば切 舟切の名物也 かうじ町四丁目へうたん屋佐右衞門〈〇中略〉 深川鮓 ふか川とみよし町柏屋 藤十郞茶 神田紺屋町二丁目 伊勢屋藤十郞 上下品のせんじ茶數品、年々駿遠の山方に至りて、元をたヾすのよし、〈〇中略〉 宇治挽茶 并 煎茶 本石町十軒店 八幡屋覺右衞門 池の端香煎 煮山椒 池のはた中町 酒袋加兵衞 油揚 ゆしま天神切通し 鳥もどき茸もどき品々 車屋心太 大豆粉沙糖を點ず、第一磯の匂なし、 車屋八左衞門(芝橋南詰) ところてん草は、石花菜の事也、こヽろふとヽ云は、こヽろはこヾるも也、〈〇中略〉 編笠燒 又音羽燒とも云 目白下音羽町九丁目 若狹屋 かたちあみ笠に似たり、黄色青色あり、當地やき餅の權輿といふ 匾https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000650de8.gif 木履(けほうあした) 新いづみ町 平四郞 淨林釜 鐵鑄蘆屋風、肌天明風 〈釜極所〉 大西國貞〈〇中略〉(八丁ボリ北島) 新身 播磨物 江府にて一軒の産 神田ぬし町 新身屋久左衞門 國廣鍔 新つば一流 神田かぢ町 鍔志國廣 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0983 藤四郞燒 茶碗水さしの類 淺草聖天丁 高原藤四郞 瀬戸助燒 茶碗水さしの類 すきやがし 瀬戸助 花林尺八一流の細工古今類なし 兩國元町 花林清兵衞 翠簾屋針 京橋四方やしき 勘三釣針 御用御釣針師 兩國東詰 吉川勘三 刃金燧〈所々にてひさぐ、しかれどもこれを根元と稱す、〉 芝神明前 升屋三郞兵衞 神田箒 藁みごの箒也、むかし神田にて製しけるによつて此名あり、今其家とてもなし、所々にて製すといへども、此名を矩摸とす、 堺町雪踏 堺町よこ町長五郞屋敷門並に有、俗にせきだ町といふ也、切廻雪踏と云あり、此所の名産也、〈〇中略〉 淺草紙 漉返し紙也、田原町三軒町の邊にて漉之、〈〇中略〉 今戸瓦 今戸、橋場、本所中之郷、瓦師多し、〈〇中略〉 淺草海苔 雷神門の邊にて製之、二三月の比さかんなり、 品川生海苔 品川大森の海邊にて取ル、淺草にてせいする所ののりは、則此所ののり也、 葛西海苔 葛飾郡 桑川 舟堀 二の江 今井 これらの所にて取り、其所にて製す、名産也、淺草のりに似て又異也、〈〇中略〉 葛西菜 かさいは淺草川より東の總名也、前は下總の内なり、近年武藏に屬す、江府より二里三里ひがし也、此所の菘(な)いたつてやはらかに、天然と甘みあり、他國になき嘉品なり、〈〇中略〉 千住茄子 足立郡也、江戸より二里東に當る、 寺島茄子 西葛西の内也、中の郷の先、江戸より一里餘、〈〇中略〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0984 早稻田茗荷 牛込の内高田の近所 他所にすぐれて大く、美味也、江府のめうが多く比邊より出る、 地覆盆子(ぢいちご) 牛込の先き關口の邊より出る〈〇中略〉 佃の白魚 又麵條魚(しらうを) 又白小(同)と云 初春海にあつて、二月の比川にくる、〈〇中略〉 淺草川の白魚 むかしは此海川になかりしを、寛永の末の比、しら魚の胤をまかせられしと也、 淺草川紫鯉 駒形堂花川戸の邊也、此鯉色金紫也、山州淀川の鯉より勝れたりとす、〈〇中略〉 江戸前鰺 中ぶくらと云、隨一の名産也、總じて鯛平目にかぎらず、江戸前にて漁を前の魚と稱して、諸魚共に佳品也、 業平橋蜆 中之郷なり、平橋の堀にて取る、名産也、〈〇中略〉 鐵炮洲鯊(はぜ) てつほうづ、石川島、永代橋の邊上品也、〈〇中略〉 深川蛤 佃冲、辨天冲、秋の末より冬に至、貝こまかにして、すぐれて大きなるは稀也〈〇中略〉 淺草川手長海老 兩國橋の少上、又本所竪川横川にあり、 揚場川手長海老 牛込御門の外吐水より下手の御堀 八足の内二足すぐれて長し、〈〇中略〉 品川鰒(ふぐ) しほさひといふ、大サ四五寸計、又尺ぐらいも有、味ひ淡し、 深川鰻 大きなるは稀なり、中小の内小多し、甚好味也、 池の端鰻 不忍の池にてとるにあらず、千住尾久の邊よりもて來たるよし、すぐれて大きく、佳味也、〈〇中略〉 千住鮒 かたちひらくして小さし、二三寸計、五寸を大とす、風味琵琶湖の鮒に、おとらず、〈〇中略〉 芝苗蝦(しばあみ) 大さ一寸にたらざる小海老也〈〇中略〉 芝海老 芝浦の名産也、車海老よりちいさく、全身やはらかにして甘美也、秋のすへより初冬に

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0985 至りさかん也、〈〇中略〉 宮戸川鯰 關東には鯰なきよし、古來よりいひつたへたりしが、享保七八の比より淺草川に多し、上方の鯰とはかたち異なれども、大方は似たり、〈〇中略〉 深川蠣 深川冲にて取る、名産也、〈〇中略〉 金魚 所々にて賣 元和年中異邦より渡る、飼魚にて、江河になし、藻の中に子をなす、〈〇下略〉

〔假名世説〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0985 延寶二年、道久下人彦作が書ける國町の沙汰に云、木挽町山村が芝居にて、一心二河白道〈一心二河白道は、丹波國子安の地藏の縁起なるよし、京都にても此佛をくわんじやうし、其名を同號す、土佐少掾上るりを根本ほしかとも是をまなぶ、堺町にて櫻姫に掃部を出だし、木挽町にては類之介を出だす、昔の櫻姫いかで及ばんや、〉二代目とやらん、面白きよし江地の尊卑是をそらざまになし、あゆみをはこぶ、見ずなりなんも口をしく、誰かれぐして行くべしなどヽて遣し、本より望心は深き最上川、のぼればくだるいな舟の、いなにはあらずとて、よろこぶけしきになん見えたり、棧敷もそこそこ、終日の慰にとてさげ重、せいろうの色ことに艷なるに、鹽瀬まんぢう、さヽ粽、金龍山の千代がせしよね饅頭、淺草木の下おこし米は、〈木の下おこし米は、勢州山田の者、來りてこしらへるなり、則木の下のものなる故名付く、〉白山の彦左衞門がべらぼう燒〈べらぼう燒は、ふのやきにして、ごまをかけ、其色くろし、〉八町堀の松屋せんべい、日本橋第一番高砂屋がちりめんまんぢう、麹町の助三ふのやき、兩國橋のちヾらたう、〈ちヾらたうは、風味甚甘美なり、風邪をさり、氣を散じ、諸病に宜とて、今專ら賞翫す、〉芝のさんぐわんあめ、大佛大師堂の源五兵衞餅、〈源五兵衞餅、おまんかたみにせしとて、江地の下俗賞翫す、その色黄にして丸し、おしゆん殊の外好物なり、〉武藏の名物とりとヽのへ、さん敷に忍び入り、終日あく氣色も色もなきは、櫻姫となりし類之助を、露のゆかりの玉かづら、心にかけて思ひ染めつなるべし、 按、延寶の比の江戸の名物こヽに盡くせり、此頃いまだ兩國橋の幾代もち、金龍山の淺草餅、本郷笹屋のごまどうらん、鎌倉がし豐島屋の大田樂市谷左内坂の粟燒などはなしと見えたり、今にのこれるは、麹町の助揔ふのやきばかりなり、洞房語園にふのやきの事みえしは、ふるき

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0986 事なり、

人口

〔江戸人口小記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0986 享保より天保迄子午改 江戸府内人別書拔 御府内人別〈〇中略〉 享保六丑年改〈諸國人數調の初年〉 一五十萬千三百九十四人 同十一午年改 一四十七萬千九百八十八人 同十七子年改 一五十三萬三千五百十八人 元文三午年改 一四十五萬三千五百九十四人 延享元子年改 一四十六萬百六十四人 寛延三午年改 一五十萬九千七百八人 寶暦六子年改 一五十萬五千八百五十八人 同十二午年改 一五十萬千八百八十人 明和五子年改 一五十萬八千四百六十七人 安永三午年改 一四十八萬二千七百四十七人 同九子年改 一四十八萬九千七百八十七人 天明六午年改 一四十五萬七千八十三人 寛政四子年改 一四十八萬千六百六十九人 同十午年改 一四十九萬二千四百四十九人 文化元子年改 一四十九萬二千五十三人 同七午年改 一四十九萬七千八十五人 同十三子年改 一五十萬千六百六十一人 文政五午年改 一五十二萬七百九十三人 同十一子年改 一五十二萬七千二百九十三人 天保五午年改 一五十二萬二千七百五十四人 右者御城下豐島荏原葛飾三郡町奉行支配場町人、寺社門前町々共、地借店借召仕當歳迄の人數、尤他支配之町人、能役者、并町宅にても武家家來之分は、右員數之外に候也、 正徳より弘化迄 江戸町數人口戸數 正徳三年癸巳改 一江戸町九百三十三 内六百七十四町奉行支配 二百五十九御代官支配 享保七年壬寅三月改 一町數千六百七十二町 一家數十二萬八千五百七十五軒 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0987 一人數五十二萬六千二百十一人 内男二十二萬五千七百人 女三十萬五百十一人 外ニ 沙門三萬六千九十六人 修驗者六千十五人 社人 九百三人 盲人千人 享保八年癸卯五月改 一町數千六百七十二町 一戸數十二萬八千五百五十五軒 一人口五十二萬六千三百十七人 内男三十萬五百十人 女二十二萬五千八百七人 享保九年甲辰七月改 一町數千六百七十二町 一人數五十三萬七千五百三十一人 外ニ 沙門二萬三百九十人 修驗者四千二百七十五人 比丘尼五千八百三十六人 社人九百三人 大神樂荒神佛神子共六千七百二十三人 新吉原八千六百七十九人 内男二千九百十八人 女千八百五十四人 遊女小女共三千九百七人 享保十年乙巳九月改 一町數千六百七十二町 一戸數欠 一人口五十三萬七千五百三十一人 内男三十二萬二千四百二十三人 女二十一萬五千百八人 享保十一年丙午改 一人口四十七萬千九百八十八人 享保十六辛亥年江戸人數改 一町數千六百七十二町 但表通家持十二萬八千六百軒 一人數五十二萬五千七百人 内男三十萬五百十人 女二十二萬五千百九十人 外ニ 出家二萬六千五人 山伏三千七十五人 禰宜九百人 新吉原 内男二千九百六十二人 女八千九百九十八人 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0988 享保十七年壬子改 一人口五十三萬三千五百十八人 元文二年丁巳江戸町人別改 一町數千六百七十二町 但表通家持十二萬八千五百七十軒 一人別五十二萬六千二百十二人 内男三十萬五百十二人 女二十二萬五千七百人 外ニ 出家三萬六百九十五人 山伏六百七十五人 禰宜九百三人 盲人千十人 元文三年戊午改 一人口四十五萬三千五百九十四人 寛保三年癸亥改 一町數千六百十八町 一家數十二萬八千五百七十五軒 一人數五十一萬五千百二十二人〈寛延奇談二人を一人とす〉 内男三十萬十三人〈同三人を二人とす〉 女二十一萬五千百九人 外ニ 沙門三萬六千六百九十五人〈以下寛延奇談載せず〉 修驗四千二百七十七人 尼五千八百三十一人 大神樂以下六千七百二十三人 盲人千二百八十九人 新吉原八千六百七十九人 延享元年甲子改 一人口四十六萬百六十四人 延享三年丙寅四月改 一人口五十四萬四千二百七十九人 一本に江戸町奉行支配場地借店借召仕共、五十四萬四千二百七十二人に作る、 寛延三年庚午十二月改 一人口五十萬九千七百八人 寶暦六年丙子改 一人口五十萬五千八百五十八人 寶暦十二年壬午改 一人口五十萬五千八百五十八人 明和五年戊午改 一人口五十萬八千四百六十七人 安永三年甲午改 一人口四十八萬二千七百四十七人〈以下天保五年迄の調べ殆ど前文同様故略す〉 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0989 天保十二年辛丑五月改 一人口五十六萬三千六百八十九人 内男三十萬六千四百五十一人 女二十五萬七千二百三十八人 天保十三年壬寅改 一組々番外共總町數千六百七十五町 天保十四年癸卯改 一町數千七百十九町 弘化二年乙巳五月改 一人口五十五萬七千六百九十八人 内男二十九萬三千三百九十一人 女二十六萬四千三百七人 附言、江戸町數、戸數、人口、享保十六年、及び元文二年のものは勘定所より得たり、其餘は好事家の記録より取たる也、併せて年次を以て之を列記す、故に書式一ならず、精粗同じからずといへども、享保以來調査の大様は左の如し、 一町奉行支配場の町人、寺社門前町々共、地主、地借、店借、召仕、當歳までの人數を擧たる事、 一他支配の町人を除きたる事 一能役者を除きたる事 一武家及武家來を除きたる事 一僧尼、修驗者、社人、盲人、巫祝の類ひ、及び新吉原遊廓を員外に置たる事、 右數條に注意し、首尾通覽せば、概略を案ずるに足らん、

〔半日閑話〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0989 一江戸總町數 并 男女數之覺 一享保二十年乙卯四月改江戸中人別 一町數千六百七拾貳町 一表通り家持拾貳万八千五人 一人數五拾貳万五千七百人内〈男三拾壹万六千七百人女貳拾万九千人〉 外 貳万六千五人出家 三千七拾五人山伏 九百人神主 八千九百六拾人新吉原内〈男五千八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0990 〈百九拾八人、女貳千九百六拾貳人、〉 〆五拾六万四千六百人 此外ニ旅人旅僧穢多非人不

〔蜘蛛の糸卷〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0990 市中の人數 同月〈〇天明七年五月〉廿日の蜂起より、廿一日、廿三日、廿四日まで、江戸中諸商人戸をとざして業をせず、依之米はさらなり、諸人日用の品に困る、廿五日初めて戸を開く、町奉行に公命ありて、御救被下、〈曲淵甲斐守牧野大隅守〉四日市に小屋かヽり、施行場とす、壹人に玄米貳合五勺、豆貳合五勺、銀三兩貳分づヽ、小兒七歳以上迄、御救被下、此時町家の人數を撿戸ありしと、ある記に、 町數二千七百七十餘町 表店二十萬八千餘家 市中總人數百二十八萬五千三百人 内〈八千二百人 男 六千三百人 女 二千五百人 遊女秃〉 出家五萬二千四百三十人〈一向宗の女除く〉 山伏七千二百三十人〈妻帶の者の女除く〉 神職三千五百八十人 右の外御用達町人、能役者、諸家の家業町住の者は除くなり、

〔一話一言〕

〈二十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0990 寛政十年戊午江戸人別 武藏國 武州 一人數四拾貳万五千百貳拾四人 〈豐島郡之内〉 内〈貳拾四万五千七百六拾六人 男 拾壹万九千三百五拾八人 女〉 但 同斷 右同斷 一人數壹万八千六百七拾九人 〈荏原郡之内〉 内〈壹万三百三拾四人 男 八千三百四拾五人 女〉 但〈當午四月人數改當歳以上〉 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0991 武藏國武州江府 御城下町并寺社門前町屋共 一人數四万八千六百四拾六人 〈葛飾郡之内〉 内〈貳万七千六拾三人 男 貳万千五百八拾三人 女〉 但〈當午四月人數攺當歳以上〉 人數合四拾九万貳千四百四拾九人 内〈貳拾八万三千百六拾三人 男 貳拾万九千貳百八拾六人 女〉 右者武州江府御城下、豐島郡荏原郡葛飾郡之内、拙者共支配町方、并寺社門前町屋男女人數、書面之通御座候、以上、 寛政十午年五月 村上(町奉行) 小田切 御勘定所

〔甲子夜話〕

〈八十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0991 文化十二年御改之寫 江戸武家町家總人數并町數 一町數千六百七十八町并家持町人家數拾八萬八千軒 一町人五拾三萬二千七百十人 一出家二萬六千九十人 一山伏三千八拾一人 新吉原八千四百八拾人 都テ五十七萬四千二百六拾一人 一武家方人數二億三千六百五拾八萬三百九十人 此米百億八萬五千七百三十九石五升五合 俵數二百九十六萬四千三百四十七俵二斗五升五合 代金百十八萬五千七百三十九兩三匁五分 右ハ江戸中一日之入用高積被仰付候ニ付、町奉行根岸肥前守於御役宅、宗門帳改有之候書留ナリ、 右之外無宿非人不

〔日本地誌提要〕

〈二東京〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0992 市坊 壹千壹百七拾七町六大區ニ分チ、七拾小區ヲ置、 戸數 壹拾四萬九千三百八拾三戸〈内寄留壹萬五千壹百八拾四戸〉 社壹百零四 寺壹千零貳拾六 人口 五拾九萬五千九百零五人〈男三拾壹萬零々五拾零人、内寄留五萬三千壹百六拾貳人、女貳拾八萬五千八百五拾五人、内寄留貳萬九千四百三拾八人、〉〇按ズルニ、本書ノ凡例ニ戸數人口ハ戸籍寮明治六年一月一日ノ表簿ニ据ルトアリ、

風俗

〔燕石襍志〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0992 わがをる町 ゆたけき御代の長久なる隨に、物として今大江戸に具足せざるはなし、しかれども昔ありて今なきものは、神田の勸進能、〈明神の社地にありしといひ傳ふ〉説經座、〈堺町天滿八太夫〉耳ノ垢取、〈名を長官といふ、神田紺屋町三町目にをれりと、江戸總鹿子に出ヅ、〉獸の藝躾(シツ)師、〈水右衞門と稱ス、湯島天神前にをれりと、同書に載たり、〉被衣したる女子、野呂間人形つかひ、碁盤人形つかひ、山猫まはし、おはらひおさめ、すたすた坊主、太平記よみ、〈街頭に立て太平記をよみ、錢を乞しもの、〉唄比丘尼、五月の菖蒲人形賣、扇の地紙賣、奉書足袋賣、〈紙にて足袋をつくりて、雨中に新吉原にて賣しとぞ、〉これら今はなし、このうちすたすた坊主、おはらひおさめ、唄比丘尼と、扇賣は、二三十年以前までありけり、十歳前後の小比丘尼ども、黒き頭巾を被り、裾を高く引あげ、腰に柄杓を插たるが、三四人を一隊とし、老尼に宰領せられて、人の門に立、いと訛(ダミ)たる聲してうたを唄ふに、物をとらせざれば、おやんなといふて催促せり、昔は簓をすりて唄ひしかば、今に比尼簓の名は遺れりとぞ、地獄變相の圓を説示して、愚婦を泣せし熊野比丘尼の流なるべし、伊勢比丘尼の事は、自笑が愛敬昔男といふ册子よくその趣を盡せり、扇賣は地紙の形したる箱をかさねて肩にし、毎夏に巷路を呼びあるき、買んといふ人あれば、その好みに任し、即坐に是を折て出しき、唯今三十以下の人は、かヽる事をもしらざるべければ、年のをはりの靈祭は、建武の比既に絶たるが、東のかたにはなほありと、兼好が徒然草にはいへれど、今は東にても俗子はさる事ありともしらずなりぬ、京の懸想文賣、伊勢の衝入泉州堺なる九月の雛祭も、僅にその名を存するのみ、近屬江戸にて猫の畫かヽんと呼びあるきて生活と

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0993 したるものありしが、しばしが程にて跡なくなりつ、又猫の蚤をとらんと呼びあるきて、妻子を養しものもありけるとぞ、これも遠き事にはあらず、猫の蚤を取らせんといふものあれば、まづその猫に湯をあみせ、濡たるまヽ毛をひかざる獸皮へ裹ておくに、猫の蚤悉その皮へうつるといへり、工夫はさることなれど、かくまでに猫を愛するもの多からねばや、これも長くは行れず、亦南京操といふ人形は、予〈〇瀧澤馬琴〉が少かりしころまで、兩國橋のこなた廣巷路の匂欄にてしたり、狂言は、一年中國姓爺の虎狩の段のみをして見せたりしが、いつの程にか絶て、その跡今は輕業をするなり、黄精賣、辛皮賣、麻賣など、予が幼稚かりし比までは、毎春に日としてその呼び聲を聞ざる事なかりしが、今はいと〳〵稀になりつ、夏日街頭に立て、水一碗を一錢に賣ことは、いづれの比よりといふよしを詳にせねど、江戸の外にはかヽる事なし、實に海内の大都會也、仰べし、亦予がものこヽろ覺る比までもなくて、今盛に行るヽものおほかり、錦繪は、明和二年の頃、唐山の彩色摺にならひて、板木師金六といふもの、版摺某甲を相語、版木へ見當を付る事を工夫して、はじめて四五遍の彩色摺を製し出せしが、程なく所々にて摺出す事になりぬと、金六みづからいへり、明和以前はみな、筆にて彩色したり、これを丹(タン)畫といひ、又紅畫(ベニヱ)といへり、今に至ては江戸の錦繪その工を盡せる事、絶て比すべきものなし、さはれ近屬は、紅毛(ヲランダ)の銅版さへこヽにて出來、陸奧なる會津人すら、彼錦繪を摸してすなれば、世人既に眼熟て奇とせず、彼金六は文化元年七月身まかりぬ、當初彩色摺といふものはじめて行れし時、その美なること錦に似たりとて、世擧て錦繪の名をば負しけん、何ごとも品類多くなりては、賞翫すべきものも賞翫せず、只世に稀なるものを愛たしとするは、奇に誇らんとの爲なるべし、亦紙煙草入といふもの、予が幼稚かりし比までは、伊勢より出すものと、下野なる宇都宮より出すものを、人々賞翫したりしが、これも程なく細工人出來て、今江戸より出す紙煙草入は、世に敵手なきに至れり、亦看版書といふもの、商

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0994 人の店前なる障子行燈を張更、その需に應じて數个字を題する事、予が弱年の比までは聞も及ざりし事也、これらはわきて便宜の技なれば、のち〳〵までも行はるべし、亦挑丁入といふものを賣あるくも、十年以來の事也かし、挑丁(チヤウチン)へ銅のhttps://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001df72.gif を著ることは、正保年間より起ると、武家故事要略にいへり、磁器の燒繼せんとて、巷路を糶あるくことも、二十年以來の事也、繼漆などいふものにて繼たりしに比れば、便利にして大によし、婦女子の髮を結ぶ事なども、予が幼稚き比は小頭坐を入れて、根をひとつにして、鬂と髱をかき出し、髱入(ツトイレ)といふものを入れて髱を長くしたれど、今のごとく鬢插といふものはなかりき、その後髮の結ざま大に變りて、少女も老女も、鬂と髱を別にとりて、紙張なる髷の形したるもの、髱の形したる物を入れ、市中の女子は前髮を短くして、刷毛の如く上へかきあげておく事になりつ、衣裳に袖口かくる事、東にてはせざりしに、寛永年間より良賤これをすといひ傳たり、それも明和年間までは、袖口を太くして丸く括りたるに、今は綿を薄くして括ることをせず、銫といふものも、寛文年間までなかりしとぞ、和名かんなとは、かきなぐる義なるべし、吹革(フイゴ)といふものも、元祿年間までは罕(マレ)なりしにや、元祿三年七月に開板したりし、人倫訓蒙圓彙に見えたる鍋の鑄かけは、火吹竹にて火を吹おこしてをり、觀世紙よりは、又三郞はじめたりと、西鶴が男色大鑑にいへり、かばかりの物も、むかしの人は、せざりけん、紙を漉事のまれなればなるべし、縮紙檀紙は、平人の用ふべきにあらず、伊豆の修善寺紙立野の紙なども又しか也、いにしへは貴も賤も陸奧紙をのみ用ひたりし、かくまでに物乏しからぬおん時にうまれあひたりけるは、いと有がたき洪福ならずや、時に筆硯を置てもて遺忘に備ふ、ここに漏せるも夥あるべし、

〔皇都午睡〕

〈三編上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0994 江戸は日本國の人の寄場にて、言葉も關八州の田舍在郷の訛りをよせて、自然となりし物ゆゑ、江戸詞と云ては甚少なし、其内古風を守り町嚀の詞も有り、大體京攝の詞を詰

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0995 て短かく云ならはせし也、〈〇中略〉 江戸にて濱側を川岸と云ふ、川岸の略語勿論なり、大坂にて川岸(かんぎ)とも云ふ、是略語にて少し異りたる也、京に町(まち)と呼ぶ所多くて、丁(てう)と唱ゆる所すくなし、江戸は丁といふ方多くて町と呼ぶは少なし、大坂は町(まち)と丁(てう)と相半なるべし、江戸にて町並よき所にていはヾ、駿河丁、白銀丁、大傳馬丁、石丁、小田原丁、瀬戸物丁、本船丁、伊勢丁、堺丁、葺屋丁、尾張丁、木挽丁などとて丁と呼ぶ方多し、室町、田町、田原まち、麹町など、町と呼ぶ所少からねど、町と云より丁と云方開語に走るゆゑ、多しとしるべし、京にて麸屋丁、お旅丁、宮川丁、先斗丁と據所なきを丁と呼び、跡は町(まち)と呼方多きとしるべし、大坂は半分宛取合せたれば改いはず、扨江戸で日本橋(にほんばし)と走り、大坂にて日本橋(につぽんばし)と叮嚀にいふ、江戸は短く詰て云を是とする所なれば、日本橋通と云を、また略して通(とをり)と計りにて通用させ、通二丁目三丁目と呼來れり、諸事ケ様に詰ていふ土地なるゆゑ、京攝者(かみがたもの)の愚痴なる詞に、根から葉からどふもこふも腹が立て〳〵忌々敷て、怪體屎(けたいくそ)が惡ふて腸が熱くり返つてなることぢやないなどと、長たらしく詞をつヾけていへば直に口眞似をして笑はるヽこと也、〈〇下略〉

名所

〔東海道名所記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0995 淺草(○○)には觀音おはします、貴賤群聚してあゆみをはこぶ、〈〇中略〉淺草より丑寅のかた半里計ゆきて、角田川(○○○)あり、この川に都鳥あり、〈〇中略〉それより東叡山しの輪津が池(○○○○○○○○○)をめぐり見る、池の中には辨才天あり、東叡山の中には、東照權現の御社あり、〈〇中略〉春は並木の櫻花、さきつづく枝々、吉野はつせの名所にもこえたり、山の上より見おろせば、しのわづか池は、目のした也、南海はれて安房上總も手にとる計に見え渡れり、江戸の城よりは艮にあたれば、都の比叡になぞらへ、東叡の名をあらはし、鬼門をまもる山とせり、〈〇中略〉これより、〈〇麻布〉巽のかた半里ばかりに、愛宕山(○○○)あり、これは勝軍地藏と申て、武家殊更にあがめたてまつる、いつの比か、京のあたごを遠江國なるこ坂に勸請し、それそり駿河の國宇津のやにうつし、又この所にうつし奉りける、此山

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0996 上にのぼれば、江戸中南海殘らずみゆ、

〔江戸内めぐり〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0996 江戸名所いろは寄 い 守宮池(いもりがいけ) 牛込毘沙門堂の庭に在 井の頭池 四谷中野の先也 壹本松 麻布に在、嫉妬女(しつとめ)の墓印を云、 いさらご 芝田丁九丁目より南の方を云 ろ 六本木 かはらけ町より西の方 は籏ケ谷(はたかや) 千駄谷とさヽき村の間を云 班女塚(はんじよつか) 下谷池の端の榊原殿屋敷に在ト云 に 二本榎の木 しろかね原正覺院の側に在 新堀(につほり)山 谷中の後に有、道灌城跡と云、ほ 法眼(ほうけん)坂 二番町に在 堀かねの井 牛込村に在 星野山 永田丁山王權現の山也 菩薩曼陀羅石(ぼさつまんだらいし) 増上寺に在 へ 屏風坂 東叡山より下谷金杉へ下ル坂也 辨慶堀 かうじ町邊井伊殿屋敷前御堀ヲ云 と 道元(どうげん)坂 しぶやよりせたがやに行道ニ在 獨鈷瀧(とつこのたき) 目黒不動の山にあり 常盤橋(ときは) せたがや領の宿の入口に在、小みぞにかヽれる橋也、御坂下常盤橋と不混、 ち 千葉塚(ちばつか) はらば村總泉(そうせん)寺に在、 千葉石 本所龜井戸天神の少過て在 を 落合(をちあい)の坂 今井村赤坂新丁などより往還の行合 小栗坂 鷹匠丁水道橋へ上る所の坂也 狼谷(をヽかめたに) 四ツや新町より先笹塚と云所也 面影橋(をもかげのはし) なるこ宿と中野村との間に在 おとか淵 兩國橋と三またの間を云よし 大塚 駒込村の先塚の上に不動有 わ 別(わかれ)の淵(ふち) 三股に在、爰潮水のわかれ也、 か 霞が關 櫻田松平安藝守殿、松平筑前守殿屋敷の間を云也、古歌に讀る霞ケ關也、 鏡が池 あさぢが原也、梅若丸の母、我子のいくゑをあくがれ、此所迄尋來り、我子の死したる跡に庵をむすびゐけるが、此池にのぞみて、我面かげのおとろへたるをみて、其儘この池に身をなげ、

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0997 むなしくなれりと也、 龜の井 神田すだ町ニ在 海晏寺の紅葉 品川海晏寺と云禪寺の後山、一色にみな紅葉也、 烏の森 愛宕の下いなりの森を云 鎌が淵 淺草駒形堂の前を云 甲塚(かぶとつか) かやば町牧野殿屋敷の内ニ在 よ 横堀 淺草川也、爰ニ立堀有ニ對して、横に有故かく云也淺草川を東へ本所ニ至る川也、 鎧の渡 かやば町より小網町へ行渡しを云、古へ平將門此所ニ來り、甲鎧を置たると云、甲は甲塚とて、今牧野殿屋敷に在、 代々木野 中野先也 た 立堀 淺草川を東へ本所ニ至る川筋也 溜池 江城の西方山王の後也 玉川瀧 赤坂 松平出羽守殿屋敷ニ在 高尾の紅葉 葉柴村正光院と云淨土寺に在、そのかみ吉原三浦四郞左衞門が女郞、二代目の高尾とて、いと名高き大夫有て、万治の初方身まかりけり、其からを今の正光院の内に埋て、傳譽妙心と改名して弔をなせり、名女の名殘もいとあはれなれば、名によそへて紅葉一もと植てしるしとせしに、大木と成、人のなつかしみをうくる色木と成れり、 つ 杖いてう 麻布ニ在、親鸞上人つき給へる杖をさし給ふが、榮て大木となれりと云、 佃島 伊勢佃のりやうしの集て築たてたる島なれば、かく稱すると也、鐵炮洲也、 綱(つな)塚 芝聖(ひじり)坂 功雲寺(こううんじ)に在 な 業平渡 淺草竹町より向へ越ス渡し也 中野 四ツ谷の淀橋の先を云 う 嫗が池 淺草の東明王院の庭にあり、いわれこと〴〵しう云侍る白 牛島 淺草川の向ひ也、下總の内也、 の 野中の井 谷中三崎(さんさき)の邊野中に在 や 柳の井 湯島天神男坂の下ニ有、又虎御門の内朽木殿屋敷脇にも柳の井と云有、 柳島 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0998 本所龜井戸の近所也、 ま 眞土(まつち)山 千住海道也、山上に聖天宮在、 眞土山夕こへ暮ていほ崎の角田川原に獨かもねん 是夏の事也、夏日にはいくばくの遊船を浮て、納涼のあせをすヽげり、 万年石 品川東海寺の泉水に在 ふ 富士見坂 赤坂松平出羽守殿屋敷の前也 富士見馬場 牛込若宮八幡の近所也 こ 小路町の井 神田明神の内の在 御福の井 初は傳通院の内ニ在、今は松平播磨守殿屋敷の内ニ在、金王櫻 澀谷八幡宮の邊ニ在、澀谷金王丸が植置し木成といへり、古木は枯て新樹也、 腰掛松 目黒不動の坂口に在 幸國(こうこく)谷 市兵衞町より赤坂へ行坂也 骨塚原(こつかばら) 千住礫場の近所一片の原也、 あ 淺草川 角田川也、又は三屋戸(みやと)川共云、 あか羽川 白銀原の先也、今新堀へ續て流、かはらけ町の末の橋を、あかばね橋と云、其ひろこうじを、なべてあかばねと云、白銀原の先と云は、川上をさすらん、 淺茅が原 妙喜山の近所也 葵の岡 虎御門外織田殿屋敷前溜池池上江出る坂の辻番所の脇を云 さ 櫻川 芝ニ在、今源助橋の流をしか云と、 鷺の森 麻布元御藥園の先也、宮在、 三途の渡 淺草かや町より向へ渡る所を云也、明暦中燒死たるものを、舟に積て無縁寺に運びける川口なれば、初て三途の渡シとはいへる也、 き 行人坂 目黒の入口也 め 妙龜山 あさぢか原、總泉寺の前也、梅若丸の母堂をいへる山號也、 目黒川 行人坂の下こりかきば也 目黒原 此原を上めぐろ、中めぐろ、下めぐろとて、打つヾきて廣野也、 み 三川島 谷中の後に在、往昔三河の諸士供奉の恩賞に給る地也、 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0999 し 清水坂 かうじ町尾陽公ト井伊家の間を坂をいへり、 不忍池 上野の下也、辨才天の島あり、 白銀原 さぎの森の先よりなべてかく云 忍の岡 東叡山を云 品川の冲 毎年三月三日鹽干の眺望、住吉の冲にひとし、 ゑ 江戸見坂 虎の御門外松平大和守殿ト、牧野駿河守殿間の坂也、 右衞門櫻 四谷の末ニ在、此木誠に名木にて、春興宴樂不斜、此所をかしわ木村と云、 永代島 本所の隣也、八幡宮在、 ひ ひじり坂 芝三田功靈寺の前也 せ 關口の川 目白不動の下に在、水道の枝川、 す 角田川 角田川はむさしと下總中間也 駿河臺小川町の上の臺也

〔江戸鹿子〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0999 江戸八景 隅田夜雨 忍岡秋月 増上晩鐘 鐵洲歸帆 淺草晴嵐 愛宕夕照 富士暮雪 目黒落雁

雜載

〔慶長見聞集〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0999 江戸町境論の事 江戸町わりは、十二年巳前の事なり、其頃賣買に、金一兩二兩の屋敷は、今百兩二百兩五百兩のあたへする、町さか行まヽ、皆人やしきを高くつきあげ、家をあたらしく作りなほす、昔の境ぐゐを尋るに、ほそきくひを立置つれば、みなくさりて一々其印一つもなし、然間寸地分地の境をあらそひ、人毎に云事して、近き隣も心遠くへだヽりぬ、


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Last-modified: 2022-07-23 (土) 17:18:56