p.1206 瀧ハタキト云ヒ、舊クハ、タギトモ云ヘリ、支那ニテハ、急流響アルモノ、之ヲ瀧又ハ湍ト云ヒ、懸崖直下スルモノ、之ヲ瀑布、若シクハ飛泉ト云ヘド、我國ニテハ、總テタキト稱シテ之ヲ區別セズ
p.1206 瀧 唐韻云、南人名レ湍曰レ瀧、呂江反、〈和名多木〉兼名苑云、飛泉一名飛湍、瀑布也、遊名山志、城門山兩巖間有レ水、形如レ瀑レ布、
p.1206 廣韻無二曰瀧二字一、按説文、瀧、雨瀧々也、即方言瀧涿字、其謂二疾瀬一爲レ瀧、南人方言耳、然則湍瀧一物、源君分別非レ是、按、謂二急流有一レ響、爲二多藝留一、今浴沸湯有レ響云二多藝留一、與レ此同、湍、飛泉皆有二音響一、故名二多藝一、〈◯中略〉按、飛泉、見二文選思玄賦、酈道元水經巨洋水注一、飛湍、見二水經清水、及盧水注一、曝市也、三字、當二是兼名苑原注一、山田本、昌平本、曝作レ瀑、那波本同、按、飛泉、其状如レ曝レ布、故名二曝布一、後人從レ水作二曝布一也、與下訓二疾雨一字上自別、又按、瀧湍也、湍疾瀬也、如二吉野宮瀧大瀧一者是也、瀑布懸泉也、如一美濃多度、紀伊那智一者是也、則瀧曝布和名雖レ同、其實不レ同也、〈◯中略〉遊名山志一卷、晉謝靈運撰、見二隋書一、今無二傳本一、藝文類聚引作下石門山兩岩間微有二門形一、故以爲上レ稱二瀑布飛瀉、丹水交曜一、按、水經注云、廬山之北、有二石門水一、水出二嶺端一、有二雙石一高聳、其状如レ門、因有二石門之目一焉、水導二雙石之中一、縣流飛瀑近二三百許歩一、下散漫千數歩、上望レ之連レ天、若レ曳二飛練於霄中一矣、即其事、又謝靈運有下登二石門最高頂一詩上、載在二
p.1207 文選一、則城門山、是石門山之誤無レ疑、然各本皆作レ城、蓋源君所レ見本誤也、今不二徑改一、作三形如二曝布一、亦恐有レ誤、
p.1207 瀧 しらいと〈俊抄〉たきとは、山よりおちたる水、尋常に人みなしれり、但やりみづなどをも、様によりていふべし、且在二紫式部一、
p.1207 たき 瀧をよめり、古へはきを濁りよべるにや、萬葉集に藝字を書たり、疾の義、又垂といふ義あり、奔湍也と注す、湍をたきとも、せともよめり、疾瀬也と注す、瀧浪、瀧川などよめる是也、されば瀑布をもいふ也、李白が望二廬山瀑布一詩にも、飛瀧直下三千尺とみえたり、〈◯中略〉簾泉をいふは白川のたき、なちのたきの類成べし、瀧とみだれり、たきの糸などよめる是也、
p.1207 瀧 たきの糸 瀧の白いと 瀧の白玉 瀧つせ 落瀧つ 瀧津浪〈つの字なくても〉瀧川 石はしる瀧〈◯中略〉瀧のみなかみ 瀧枕かずをかさねて落、おもひせく心のうちの瀧、 瀧つ心〈心のしきにそへたり〉瀧つせの中にも、よどはありといふを、〈◯中略〉やり水、〈◯中略〉瀧のいとなみ 瀧もとヾろに こきちらす瀧のしら玉 瀧つせのうづまき 岩間を分くる瀧 あゆばしる瀧の岩つぼ 岩こす瀧 よしの川瀧の河内
p.1207 瀧は をとなしの瀧、ふるの瀧は、法皇の御らんじにおはしけんこそめでたけれ、なちのたきは、くまのにあるがあはれなるや、とヾろきの瀧は、いかにかしかましくおそろしからん、
p.1207 瀧 きよたき〈山、古、〉 しらかはの〈後撰、中務、〉 よしのヽ〈大、万、おほたき、見よしのヽともいへり、〉 みやの〈同よしの也、後撰、〉 をとなしの〈紀、拾、元輔、〉 なちの〈同那智〉 ぬのびきの〈攝、古但ぬのびきとはあらはさず、〉 ふるの〈大〉 とヾろきの〈清少納言〉 をとはの
p.1208 〈山、古、短歌、ひえの山のふもと也、〉 なる〈紀、仁和寺にあり、〉 となせの〈山、大井川也、◯中略〉 ころもの〈大〉 たとかはの〈万〉 つヽみの〈肥前〉いはせのたき
p.1208 瀧 音羽瀧〈山城◯中略〉白河瀧〈同◯中略〉清水瀧〈同〉推嶺瀧〈同〉清瀧〈山城◯中略〉戸なせの瀧〈同◯中略〉龜尾瀧〈同◯中略〉大井瀧〈同◯中略〉鳴瀧〈同◯中略〉大澤瀧〈同◯中略〉衣瀧〈同◯中略〉稻荷瀧〈同◯中略〉いはせの瀧〈八雲御説〉吉野瀧〈大和◯中略〉稻淵瀧〈同◯中略〉宮瀧〈同◯中略〉布留瀧〈同◯中略〉鶯瀧〈同〉香具山瀧〈同◯中略〉岩瀧〈近江◯中略〉布引瀧〈攝州◯中略〉箕面瀧〈同◯中略〉とヾろきの瀧〈八雲御説〉鈴鹿瀧〈伊勢◯中略〉たとかはの瀧〈八雲御説〉那智瀧〈紀州◯中略〉鼓瀧〈肥後◯中略〉音無瀧〈同◯中略〉湯〈下野◯中略〉三重瀧〈紀州◯下略〉
p.1208 音羽瀧(ヲトハノタキ)
p.1208 音羽瀧(ヲトハノタキ)〈又作二乙輪一、城州愛宕郡、蓋洛中有二三所一、所レ謂清水、牛尾、白川也、〉
p.1208 家々稱二證本一之本乍二書入一以レ墨滅レ歌、今別書レ之、 卷第十三 こひしくはしたにをおも紫の下〈◯中略〉 返し うねめのたてまつる 山しなの音羽の瀧のをとにだに人のしるべく我こひめやも
p.1208 音無瀧(ヲトナシノタキ)
p.1208 音無瀑 在二勝林院之東山一、瀑水傍二岩腹一而流、故近聽レ之無二水音一、
p.1208 題しらず よみ人しらず 戀侘びぬねをだになかん聲たてヽいづこなるらん音なしの瀧
p.1208 役小角者、賀茂役公氏、今之高賀茂者也、和州葛木上郡茆原村人、〈◯中略〉小角嘗在二攝州箕面山一、山有レ瀧、小角夢入二瀧口一、謁二龍樹大士一、覺後構二伽藍一、自レ此號二箕面寺一、爲二龍樹淨刹一、
p.1208 釋千觀、姓橘氏、〈◯中略〉應和二年夏旱、朝議勅レ觀祈レ雨、觀時居二攝州箕面山一、撰二法華三宗相
p.1209 對釋文一中、使到レ庵宣レ旨、庵之後三里有二大瀧一、瀧上大柳樹偃蹇亘二瀧口一、觀將二宣使一至二瀧所一、上二柳樹一、手擎二香爐一啓白持念、干レ時爐煙聳騰滿二山谷一、黒雲相和、甘雨大灑、觀及官使霑レ衣而歸、
p.1209 布引瀧(ヌノビキノタキ)〈攝州兎原郡〉
p.1209 一布引瀧 生田川の水上なり 瀧二段にして流る間二十三丈餘、海邊より見るもの布をさらし地にはへたるがごとし、〈◯中略〉瀧の麓に瀧昌寺と申寺あり、布引山と號す、俗にたきの寺と稱す、本尊ばとう觀音ゑんの行者の作、惡源太よしひらの影像有、
p.1209 布引ノ瀑 長サ三十間ト云々、但今ハ十四五間ナリ、是ヲ雄瀧ト云、雌瀧ハ是ヨリ下ニアリ、伊勢物語ニハ高廿丈、廣サ五丈許トアリ、今ハ幅二間許、
p.1209 むかし男、つの國むばらの郡あしやの里に、しるよししていきて住けり、〈◯中略〉此男このかみもゑふのかみ成けり、その家の前の海の邊にあそびありきて、いざ此山のかみに有といふ、布引の瀧見にのぼらんといひてのぼりてみるに、其瀧物よりことなり、長さ廿丈、ひろさ五丈ばかり成石のおもてにしらきぬに岩をつヽめらんやうになん有ける、さる瀧のかみにわらうだの大さして、さし出たる石有、その石のうへに、はしりかヽる水は、せうかうじくりの大さにてこぼれおつ、〈◯下略〉
p.1209 養老瀧(ヤウラウノタキ)〈濃州多藝郡多度山醴泉、事見二續日本紀、著聞一、〉
p.1209 養老〈自二駒野一到二于此一〉 此所左ノ山ニ瀑アリ、名所也、舊記曰、元正天皇養老元年九月、近江國ヘ行幸、山陰、山陽、南海道ノ國司參津ニテ歌舞遊興アリ、其ヨリ美濃ニ行幸、東海道、東山道、北陸道ノ國司來集テ雜伎ヲ奏ス、美濃國當耆郡多度山ニ泉アリ、是ニテ手ヲ洗ヒ面ヲ洗人ハ皮膚滑ニナレリ、又痛アル所ヲ洗ヘバ
p.1210 忽ニ愈、一是ヲ呑或ハ浴ヌレバ白髮モ黒クナル、ヌケタル髮モ再生ス、眼晴モ明ニナルトイヘリ、天皇此所ニ行幸ナリテ、此泉ハ老ヲ養フベシト宣フ、即年號トス、養老ノ瀑トハ是也ト云々、
p.1210 養老瀧 多藝郡多度山にあり、高サ七丈餘、樽井南宮より南二里許、〈◯中略〉 それ此瀑布は、いにしへより名高く、代々の天子もこヽに行幸し給ふ事舊記に見ゆ、道は垂井の南宮を去る事二里許にして、一都會の地あり、これを高田といふ、それより山路にして登れば、養老亭てふ所ありて、山間に風流の樓を建て、其傍に浴室ありて、入湯の人、養老水を湯にしてこヽに浴し、老をやしなふの謂なり、また徒然なる時は、妓婦出て箏を彈き、三弦を鳴らして宴を催す、それより養老の祠あり、こヽより岨づたひにして溪河を越、石を傳ひ嶮を登りて瀧を見る、其音遠近にひヾきて潺湲たり、山を多度山といひ、瀧の流れを田跡川と云、又瀧のほとりに信夫石といふ名石出る、石面に垣衣草の摸形あり、又根芹此所の名産也、他境に勝れて香強し、眞に范希文が瀧の詩に、白虹澗を下つて飮といひしも、これらにや比せん、名にしおふ此國第一の名どころなるべし、 ◯按ズルニ、養老瀧ノ事ハ、宜シク泉篇醴泉條ヲ參看スベシ、
p.1210 文政五年の秋八月、美濃國郡上郡なる前谷村の阿彌陀瀧を遊覽せんと思ひ立、〈◯中略〉二十九日晴、朝五ツ比、經聞坊を立て、長瀧寺の境内より東へ曲り街道へ出、川水の音を聞ながら行、〈◯中略〉倒れたる朽木をのりこへ、木の根に取付、草を押分、岩を傳ひ、又行事四丁許、稍にして瀧の邊りに至る、瀧高さ百間ばかり、飛泉巖頭より奔飛して碧潭に落、其形恰も數百の布を瀑すが如く、落る音颯沓として遠近に響き凄冷しく、山巓の蒼樹蓊鬱として、日光を遮ぎり、陰凉心に徹し、人をして毛骨凄然たらしむ、瀧の左の方に、〈瀧より南なり〉屏風岩とて、屏風を立廻したる如き數十丈の絶壁あり、又瀧の右に深さ六間、幅十六間、高サ七尺許の巖窟あり、上より水流る故に、笠を
p.1211 かぶりて入、奧に小祠あり、扉を開ケバ小き銅像あり、取出して巖窟の外へ持出て見れば馬頭觀音なり、又元の如く祀中に納て巖窟を出、此巖窟昔時長瀧寺の道雅法印といふ人、此巖窟に入て護摩を燒しかば、阿彌陀佛の像瀧にうつり給ひし故、阿彌陀が瀧と名くとなん言傳ふ、瀧の裏へも行ば行るべけれども、水烟雨のごとくなる故に予は不レ行、
p.1211 小野瀧 是は上松より須原へゆく間にある瀧なり、當國にならびなき大瀧なり、万仭の高嶺よりたヾちに落て、水煙四方に霧をふらし、嵐も吹かず、その響いとすさまじ、銀河の九天より落るともいはんか、されど名所歌枕に入らず、昔細川玄旨法印幽齋翁この所を吟行し給ひしも、木曾路の小野の瀧といへるは、布引、箕尾ほどにもおさ〳〵おとりやはする、これほどのものヽ此國の歌枕には、いかにしてか洩しぬるやと云給へり、また丙寅のとし烏丸左大臣光榮卿の紀行にも、小野のたきといふ有、そばだちたる巖のことに高きより、ものにもさはらで一すじにぞ落ける、 妻木こる小野の名高き瀧なれや山かすかなる中に音して と詠じ給へり、是より名所のやうに成ぬ、その後は堂上の歌も多くありとなむ、歌枕として風景のおもしろき事、いづくに有べうもなし、
p.1211 小野瀧〈今道に有〉細川幽齋の記に、木曾の小野の瀧といへるは、布引箕尾などにもをさ〳〵おとりやはする、これ程のものヽ、此國の歌枕にはいかにしてもらしぬるやと有は、古道にあらざればなり、 今道は、天文年中、義在福島へ館をうつされしときに開けし道なれば、其以前は人もしらざるなり、
p.1211 小野瀧 小野村の右の路傍にあり、高三丈許、直下木曾川に落る、
p.1212 此瀑布泉は、山澗より巖をつたひ、只布をさらせるが如く落る、傍に石像の不動尊まします、〈◯中略〉眞に雲飛て素練をたれ、石に噴びて明珠を散すとは、此所の事なるべし、
p.1212 總瀧 總瀧とは、新潟の湊より四十餘里の川上、千隈川のほとり、割野村にちかき所の流にあり、信濃の丹波島より新潟までを流るヽ間に、流の瀧をなすはこヽのみなり、その總瀧とは、川はヾはおよそ百間ちかくもあるべきに、大なる岩石、龍の臥たるごとく水中にあるゆゑに、おとしくる水これに激して瀧をなす也、鮏こヽにいたりて激浪にのぼりかねて猶豫ゆゑ、漁師ども假に柴橋を架わたし、岸にちかき岩の上の雪をほりすて、こヽに居てかの搔網をなす、
p.1212 華嚴瀧 此飛瀑は、中禪寺湖水より落來る、水路凡七八町、流れて瀧口に至る、其水路も又一派の河の如く、幅十間餘、或は七八間の所もあり、偖南湖より四五町流れ來りて板橋を架せり、是を南岸橋と唱ふ、長十間許、この橋は歌濱への通路なり、又は足尾へ掛り上州筋より詣るもの、足尾峠の頂上より岐路を逕ること凡二里許の嶮を凌て爰へ來る、また本道を經て中禪寺へ詣るものは、大平の道脇に左へ折て行べき平坦の小路あり、凡五六町餘をたどりゆきて、此飛瀑の邊に至る、是は大谷川の水源なり、高七十五丈といふ、此瀑は東關第一の瀑(○○○○○○)にして、瀧口幅二間餘、瀧下は人蹤のかよふ所にあらざるゆゑ、瀧を眺望すべき所なく、瀧邊より二三十間程も東寄に懸崕に差出たる危岩あり、藤蘿を捫て其盤の上へ下り、藤蘿を力にし持て頭を延ながら、飛流する水勢を覘見るばかり、直下する激勢、遙に下る水烟雲霧、盤渦として分ちがたし、華嚴瀧と名附るは、縁起にいふ、此山中有レ澗、則湖水流派、青巒高嵸紅日早照、清瀧近遠、岩上繁花芬々、恰如二涵錦一似二嚴瀧一、因名二華嚴瀑一云々、此華嚴瀧あるゆゑ、又深澤に方等瀧、般若瀧の名も起れる歟、
p.1212 裏見瀧 荒澤瀧(○○○)ともいへり、久次郞の大日堂より少しく行て、右の方に牓示あり、此
p.1213 所より山路の嶮を凌て西北へ廿町許ゆきて荒澤の山上に至る、夫より路を左に取て尖岩を渉り、右の方なる山崕を見れば、危石忽に落るが如き岩下を越て、瀧の傍に至る、玆に荒澤不動の石像有て脇に籠堂あり、此所は瀧の横手ゆゑ、正面を望には瀧の裏を潛り行て、向の方へ廻り見ることなり、偖其瀧口は盤石凡一間餘差出たる上より、瀑水激流して水幅六七尺、其岩石の差出たる下は道幅四尺許、高さ六七尺あれば、瀧の裏を潜り透るに患ひなし、誠に希代の飛瀑なり、係る名勝なる瀑水を、八景の内に入ざりしは、うらみといふ唱へを嫌はれたる歟、
p.1213 裏見瀧 此瀑布泉、高さ十四五間許、幅二間餘、岩窟の間より飛流し、向ふの方へ走る猛獸の勢ひに似たり、傍より巖々たるをつたひて道を下れば、かのさし出たる岩窟の本にいたる、此飛泉をうらより見るによつて名とす、上に荒澤不動明王立給ふ、凡天下に飛泉多しといへども、うらより見る瀧はこヽに限るなり、范希文が廬山の瀧の詩に、白虹澗に下て飮、寒劍天に倚て立とは、此あたりの事なるべし、
p.1213 卯月朔日、御山に詣拜す、往昔此の御山を二荒山と書きしを、空海大師開基のとき日光と改め給ふを、〈◯中略〉二十餘丁山を登りて瀧あり、岩洞のいたヾきより飛流して、百尺千巖の碧潭に落ちたり、岩窟に身をひそめ入りて瀧のうらより見れば、裏見の瀧と申傳へ侍るなり、 しばらくは瀧に籠るや夏の初め
p.1213 霧降瀧 小倉山の麓を通り、北の山合を或は登り或は下り、凡一里餘を經て山頭に至り、夫より瀧のもとへ坂路一町餘下りて、落來る瀑布を望に、高五六拾間も有べき山上より飛流する水末、數級の岩石に當り、くだけ散ずること烟霧の如し、ゆゑに霧降の名起れり、
p.1213 中畑新田 矢吹まで十八町〈◯中略〉
p.1214 龍崎村飛泉 此驛より左へ五里餘にして龍崎村に至る、路の程山道にして屈曲難所なり、此飛泉大熊川の岸上にあり、瀑布の如くならず、また簾の如くならず、大熊川水中の石壁なり、水の廣さ五十丈餘、徑り二百丈餘の大飛泉なり、石壁の高き處、或は卑き所、ひきヽものは水勢甚しく漲り、高きものは瀑布の如く、簾の如く、石巖にあたりて碎る水は玉をなし、水の飛ぶこと霧の如く、此飛泉にて鱒魚を漁するに、其味至て美なりと云、此邊の一奇觀なりとぞ、
p.1214 那智瀑布 瀑流直立高百八間、廣幅時而變態不レ定、 一瀧(○○)〈稱二飛龍權現一〉 二瀧(○○)〈如意輪瀧〉 三瀧(○○)〈布引瀧、一名三重瀧、〉
p.1214 一ノ瀧 本社ノ北六丁計ニ有、高サ百間計、廣サ廿七八間有、〈◯中略〉 二ノ瀧 本社ノ西北廿二丁計ニ有、高三十間計有、山家集ニ曰、西行法師二ノ瀧ノモトヘ參リ著タリ、如意輪ノ瀧(○○○○○)トナン申ト聞テ、科ミケレバ、實ニ少ウチカタブキタルヤウニ流下リテ、貴トクヲボヘケリ、 三ノ瀧〈八十五〉 本社ノ北西二十五丁計ニ有、高十間計有、
p.1214 釋仲算、不レ知二何許人一、〈◯中略〉安和二年、於二熊野山那智瀧下一、講二般若心經一、忽現二千手千眼之像一、講已昇二岩上一、自レ此不レ見、
p.1214 鳴瀧 美馬郡幅山にあり、此瀧三段にして高き事二十餘丈、此瀧の脇に土竈とて、土中の岩屋に淵あり、石を投れば風を起して雨降る、
p.1214 轟瀧〈土人かれい瀧となづく〉 海部郡にあり、此瀧上に水分岩さしいで、千丈の巖兩方より
p.1215 立かこひ、屏風をまるくたてたるごとし、瀧の高きこと幾千尋といふ事をしらず、土人水上にのぼり、水分岩の邊より百尋の繩をたれて高程をはかりけるに、瀧の半をすぎず、また百尋ましてたるヽに、其繩瀧の半をすぎざるに、忽風繩をふきあげ、瀧鳴雨降りてしることを得ず、これ名瀧の故とぞきこへし、またをく山にて材木をきり、此瀧よりをとして大川へながし出す、これ土人の恒の業なり、しかるに其材木毎日瀧へながし落す事そこばくなるが、數日をふれども瀧つぼにくヽみて、川下へ流れいでざる事あり、土人瀧祭すれば、數多の材木一時に流れいづるとなり、瀧の側に神社あり、轟明神と名づく、
p.1215 龍門瀧(タキ)
p.1215 龍門の瀧 瀧は、紀州那智山の瀧天下第一、其次に日光山の裏見のたきといふ、那智のたきは日本のみならず、唐土にても是程の瀧はなきよしなり、其外は中國、九州、四國の間に少しの瀧はあれども、大なる瀧はたへてなし、那智、日光の二ツのたきは、予いまだ見ざれば論ずる事あたはず、只隅州加治木の北に、龍門の瀧と名付るあり、昔唐人加治木の港に入船せし頃、甚此瀧を愛して、常々此所に遊び、唐土の龍門の瀧を見る心地せりとて、此瀧をも龍門の瀧と名付けるとぞ、幅五六間、高さ二十間計とも見へたりしが、其地の人に聞ば、高サ五十間に幅十間ありとぞ、是は只仰山にいふなるべし、然れども誠に見事の瀧にして、數丁の外に響き、予が遊しときも、晝の八ツ過の事なりしが、瀧の中より虹數十條起り、錦を織れるが如く、殊に見事なり、壺壺尤深し、此中に大なる龜年久敷住るよし、甲のわたり四五尺計なり、此地の人は毎度見る事有ありとぞ、予漫遊の間に見たる瀧にては、是を第一とす、然れども格別の邊土なれば、其名をだにしる人なし、おしむべし、其後又肥後國求麻の山中にて、かなめの瀧といふを見たり、龍門の瀧よりは小なれども、又見事の瀧な
p.1216 り、瀧の上より十間餘の材木を流し落すに、瀧壺甚深くして、其材木眞逆様に瀧壺に入るに、ことごとく瀧壺に沈み入りて、しばらくしてやう〳〵に再び浮上るといふ、されば瀧壺の深さ何十間といふ底をしりがたしとなり、誠にさも有ぬべく見ゆる瀧なりき、
p.1216 廿七日〈◯安政五年三月〉余〈◯松浦武四郞〉は、土人三人を連て登岳〈◯阿寒岳〉の事を議し、他は先に温泉に行待べしと申附出立す、〈◯中略〉偖小使エコレに明日瀑布を一見せんことを謀るに、幸此處に小舟の有る由、是にて岸に傍て瀑布に至り、其より四島を巡り來らんと語りぬ、先其行は一章の拙文に讓り置ぬ、 念八日、快晴、將レ到二阿寒瀑布(○○○○)一、首長惠方禮、棹二小舟一待レ余、南行五十丁、繫二舟於赤壁下一、亦行卅丁、而巍然巉岩也、俯視石潭、其深不レ知二幾仭一、悍怒鬪激、岸勢犬牙差互、巨木掩レ日、瀑布懸、横互大凡五十尋、高三百尋、状如二白龍下垂一、或化二珠玉一、或起二雲烟一、千態萬状、彷二彿於那智一、而幾二倍於華嚴一、衣霑髮竪膚粟、不レ能二久留一、賦二國歌一書二木皮一、歌云、 いつまでもながめは盡じあかぬ山妹背の中に落る瀧津瀬 山姫のさらせる布もふるければ妹が白髮と我こそは見め 亦棹レ舟、遶二四島一而歸、日已申、余自レ幼好レ遊、盡二大八洲一、終到二蝦夷唐太一、未レ見二如レ此瀑布一、使三之在二近畿一、則貴游之士續々不レ絶、今僻二在玆土一、不レ有二一人識者一、何造物者之慳吝耶、抑瀑布之不幸也、世之類レ此者多、可レ歎哉、 水面風收夕照間、小舟撑レ棹沿レ崖還、忽落銀峯千仭影、是吾昨日所レ攀山、