http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0583 名ハ彼此ヲ甄別スル所以ニシテ、凡ソ宇宙ノ間ニ在ルモノ、一トシテ名アラザルハナシ、而シテ人ニ在リテハ、姓氏ヲ以テ其族ヲ分チ、名ヲ以テ其人ヲ分ツ、
人ノ始テ生ルヽヤ、之ニ名ヲ命ズ、童名幼名是ナリ、冠 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00064.gifニ及ビ、改メテ更ニ名ヲ加フ、是ヲ實名ト云ヒ、又名乗(ナノリ)ト云フ、而シテ上古ハ文字ノ音訓ヲ問ハズ、純然タル國語ヲ用イシガ、後ニハ多ク支那ノ熟語ヲ用イルニ至ル、
實名ノ外ニ假名アリ、又喚名(ヨビナ)ト云フ、此名ハ輩行ヲ以テスルアリ、太郎二郎ノ如シ、加フルニ姓氏ヲ以テスルアリ、善太郎藤二郎ノ如シ、官制ノ大ニ紊ルヽニ及ビテハ、官名ヲ以テ假名トスルアリ、善右衞門藤兵衞ノ如シ、然レドモ女子及僧徒ノ官名ヲ以テ假名トスルコトハ、中世ヨリ起リテ某中納言某少納言ナド云フ、
名ヲ擇ブニ嘉名ヲ以テスルコトハ古ヨリアリ、後世ニハ其字ノ反切ノ吉凶ヲ判シテ之ヲ命ズルアリ、又名ヲ賜フコトモ、古ニ起リテ、別ニ名ヲ命ズルアリ、己ノ偏名ヲ賜フアリ、又父祖ノ名ヲ襲フコトモ古キコトニテ、偏名ヲ用イルト、全名ヲ用イルトノ別アリ、名ノ上ノ一字ヲ累世襲フモノヲ通字ト云フ、
名ヲ避クルコトハ、上古ニハ絶エテ無カリシカド、中世ヨリ起リテ、天皇或ハ皇子皇女、及ビ 外戚大臣ノ爲ニ其姓ヲ改メシコトサヘアリ、後世ニハ又文字ヲ缺畫スルコトアレドモ、儒生輩ノ支那人ニ倣ヒテ、私ニ行ヒシニ起ル、
唐名、又反名ト云フ、蓋シ遣唐使ノ彼土ニ往來セシ時、我方ニテ命ゼシ名ヲ以テ鄙俗ト爲シ、其名ノ字ノ音ニ近キモノ等ヲ以テ、之ニ代ヘシニ起リシナラン、而シテ唐名ニハ其名ノ半分ヲ寫スモノアリ、全分ヲ寫スモノアリ、半分ナルハ、匡房ノ訓マサフサナルヲ、滿昌ノ二字ヲ以テ、マサノ二聲ヲ寫シ、明衡ノアキヒラナルヲ、安蘭ノ二字ヲ以テアラノ二聲ヲ寫セルガ如シ、全分ナルハ、淸行ヲ居逸ト爲シ、忠臣ヲ達音ト爲セルガ如シ、
字ハ、アザナト云フ、古クハ二郎三郎ノ如キ、假名ヲ字ト稱セシガ、中世ニ至リ、大學生ニハ字ヲ命ズルコトアリ、別ニ一箇ノ文字ヲ擇ビ、冠セシムルニ姓ノ一字ヲ以テシタルモノ多シ、德川幕府ノ時ニハ、儒學ノ大ニ行ハルヽニ隨ヒ、文墨ニ從事スルモノハ、名ノ外ニ、字及ビ號ヲ以テシタリ、然レドモ禪僧ノ字、及ビ號ハ、是ヨリ前ニアリ、又俳家ニ俳名アリ、俳優ノ輩ニ藝名アリ、
諡ニハ國風漢風ノ二種アリテ、天皇皇后ニ係レルハ、載テ帝王部ニ在リ、人臣ノ諡ハ、中世ヨリ生前太政大臣タリシモノニ限レルコトニテ、古來數人ニ過ギズ、藤原不比等ガ右大臣ヲ以テシ、藤原師賢ガ權大納言ヲ以テ諡ヲ賜ヒシハ特例ナリ、又剃髪セシモノハ、諡ナキヲ以テ例トス、德川幕府ニ至リテハ、尾張水戸二藩ノ如キハ、私ニ諡ヲ制シ、儒者ニモ門人子弟ノ輩ノ私ニ諡ヲ贈リシモノアリ、而シテ將軍ハ、薨後ニ院號アレド、朝廷ヨリ賜ヒシ所ナレバ、中世ノ諡ニ似タリ、抑院卜ハ同牆アルモノヽ謂ニテ、官廨及ビ浮屠ノ所居ノ稱ナリ、凡ソ天皇脱屣ノ後ノ御所ヲ後院ト稱ス、故ニ天皇ニ諡ヲ上ラヌ世トナリテハ、平生ノ御所號ヲ以テ某院ト稱シ奉リシガ、後ニハ前皇后ニモ院號ヲ上ルコトアリ、是ヲ女院ト稱ス、此類並ニ 帝王部ニ詳ナリ、蓋シ人臣ノ院號ハ、藤原兼家ヲ法興院關白ト稱セシニ起ル、法興院ハ其建ツル所ノ寺ノ名ナリ、後世ニ至リテハ、此ヲ以テ殆ド諡卜爲シ、平人トイヘドモ、死後必ズ之ヲ稱シ、或ハ生前ニ剃髪シテ、其院ト稱スルモノモアリ、
女子ノ名ハ男子ニ異ナリ、某賣(メ)ト云ヒ、某姫(ヒメ)ト云ヒ、某刀自(トジ)ト云ヒ、某子(コ)ト云フ、其尊稱ニハ某前(マヘ)卜云ヒ、某御前(ゴゼン)ト云ヒ、其方(カタ)ト云ヒ、某御方(オンカタ)ト云ヒ、某御(ゴ)ト云フ、後世ハ専ラ假名(カナ)ノ二字トナリテ、對稱ニハ、上ニオノ字ヲ加フ、而シテ女子ハ、中古ニ在リテハ、喚名(ヨビナ)ノミヲ傳へテ、實名ノ明ナラザルモノ多シ、其中ニテ實名ノ傳ハレルハ、多クハ貴女ナレドモ、貴女ニ在リテモ幾モナシ、是レ女子ハ、人ニ對シテ、己ガ名ヲ告ゲザリシニ由レルナラン、
僧ノ名モ、大ニ常人ニ異ナリ、僧トナルトキハ必ズ姓氏ヲ棄テ、從前ノ名ヲ改メテ、二字ヲ用イテ音讀ス、支那人ニ倣ヒシナリ、

名稱

〔伊呂波字類抄〕

〈奈/人事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0585 名〈ナ ナツク〉

〔段註設文解字〕

〈二上/口〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0585 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00066.gif自命也、〈○註略〉从口夕、夕者冥也、冥不相見、〈冥幽也〉故㠯口自名、〈故从夕口會意、武幷切十部、〉

〔運歩色葉集〕

〈那〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0585 名乗(ナノリ) 名(ナ)〈人〉

〔下學集〕

〈下/態藝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0585 名字(シ) 名乗(ナノリ)〈二字同〉

〔書言字考節用集〕

〈四/人倫〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0585 名(ナ) 名乗(ナノリ)

〔倭訓栞〕

〈前編十九/那〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0585 な 名は生也、成也、春秋説題にも名成也と見えたり、周人多く名は用、字は體を用う、又那摩は名の梵語なるよし、倶舎論に見えたり、日本紀に、字もまたなとよめり、あざなとは訓せず、弘決に、西方風俗、稱名爲尊、此方風俗、避名爲敬ともいへり、

〔古事記傳〕

〈三十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0585 まづ名は、〈名と云言の本の意は爲(ナリ)、爲とは爲りたるさま狀を云、其は常に爲人(ヒトヽナリ)と云も、爲りたる形狀と云事、又物の形を那埋(ナリ)と云も同意にて、名と云も、もと其物のある狀なり、○中略〉もと其人のある狀〈行狀容貌由縁、其外くさ〴〵、〉を賛稱て、負(ツ)けたる物にて、名を呼は尊みな り、〈其名たとひ賛たる言には非るも、負けたる意は賛たるものなり、故名を呼は尊みなり、然るに漢國にては、人の名を呼を不敬とするは、反の差なり、皇國にても後になりては、人の名を呼を不敬とするは漢のうつりなり、後のならひを以て、古を疑ふことなかれ、〉

〔倭訓栞〕

〈前編十九/那〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0586 なのり 日本紀に稱、又言をよめり、實名をいふ、名を告(ノル)の義也、名告の字、古事記に見ゆ、なのるを體にいふ也、源氏にもなのりする人と見えたり、新千載集に、
九重やちかき守りのまとゐしてなのるを聞ば夜は更にけり、こは時まうしの事也、

〔名字盡〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0586 名乗とは、夫人間の一心、魂の本性也、其ゆへに、是木火土金水の五行に合、名のるもの也、父祖の名乗をかたどるときは、上一字か下の一字を取る、是を通字といへり、

〔貞丈雜記〕

〈二/人名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0586 一名といふは、名乗の事也、字といふは、常によぶ名の事也、然れども日本には、あざなといふ物なし、唐人にばかりあざ名はある也、今日本にて、何太郎、何次郎、何兵衞、何左衞門、其外百官名の類は、字といふ物にはあらず、是をあざなと心得たる人あるはあやまり也、いにしへ文屋康秀(ブンヤノヤスヒデ)が字は、文琳(ブソリン)といひ、平貞文(サダブン)が字は、平仲(ヘイチウ)、曾禰好忠(ソネノヨシタゞ)が字は、曾丹(ソウタン)といひける由古書にあり、是もたま〳〵の事にて、其比おしなべて、人々字ありしにはあらず、名〈卜〉字のニ〈ッ〉をわけて、くはしく云ふ時は右の如し、後世には、それまでの吟味もなし、名字(ミヤウジ)といふ時は、たヾ人の名の事也とばかり心得べし、物の本を知ざれば、まよふ故記之、

〔韻鏡易解大全〕

〈三/頭註〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0586 名字
倭邦間、誤有氏云名字、今名字者、例如史記世家云孔子名丘字仲尼、〈巳上〉名與字、如次當倭國實名及假名也、又在家、以實名多云名乗、故目録云名乗分別等也、又如子孫忌辟祖父等存日名、云之諱也、如韓退之諱辨述矣、倭朝却用先祖名字、示其恩澤也、又世有詩人歌人等、假名實名外、稱風流號之輩、云之齊名(サイミヤウ)、又門人稱先生、不敢直穢其名字、如處稱、儒家呼周茂叔於濂溪〈川名〉先生、佛家稱隋智者於天台〈山名〉大師等也、或儒稱氏、云程先生等、釋呼德云淸涼師等、如是等類甚多、或又有廟號諡號、又有 道號戒名等、若懇切則可反切等例、故今云等也、

〔人名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0587 本朝の人の名、漢字を用ひられしより此かた、或は文字の音を以てしるし、 欝色雄(ウツシコヲ)命など云類なり、後代にて不比等(フヒト)、武智麻呂(ムチマロ)などの類また同じ、或は文字の訓を以てしるし
大彦(オホヒコ)命などいふ類なり、後代にも入鹿(イルカ)、鎌足(カマタリ)などの類またおなじ、
或は文字の音と訓とを以て併せしるし
吉備津彦(キビツヒコ)の類は、上二字は音なり、下二字は訓なり、後の代にも藤原の長良(ナガラ)など、上は訓なり、下 は音なり、
其人々の意の欲する儘にしるしければ、文字の數も定らず、
不比等を不比登としるし、馬養(ウマカヒ)を又宇合(ウカフ)としるし、長谷雄(ハセヲ)をまた發昭(ハセヲ)としるせし類は、一人の 名を、或は音にてもしるし、或は訓にてもしるせしなり、古より本朝の人々の名をつきしにも、 異朝の如く五ッのいはれありと見えて、是等の事、悉く考て呈せむと思ひ、草按をば立置しも のあり、事長ければこヽにはしるさず、
五十四代の帝、仁明天皇の御時より、始て今の代の人の名の如く、多くは文字の訓をとりて、二字を用る事にはなりたり、
此事は神皇正統記に見ゆ
されば昔の人の用ひし處は、定れる文字もあらず、多くは聖經賢傳の文字を取用ひて、皆々意義ある事共にてありし、世の末ざまになるに隨ひ、文字やヽ廢れしより、世の人多くは、古人の名に用ひし文字のみを取用ひ、己が名とするほどに、その名とする所、意義もなく、自から文字も定れる樣にはなりたり、ましてや近き代にて、西域二合の法に倣て、二字を合て一字となし、其一字の 義訓の吉凶を論ずる事にのみ成りしかば、〈俗に名乗字を歸すといふ事なり〉人の名、尚々むかしにも似ず、あさましき事には成りたるなり、
右は名の字に、定れる字と云ことはあらざる證の一ッなり、
前に申せしごとくに、古には人の名の字、定れる文字はなかりき、末の世に至りては、自から儒家の人々の家に、抄し置れし所の文字もありしにや、文和の初め、御光嚴帝の御名字を撰ませられし時に、成の字を房(フサ)と訓ずる事、名字抄にみえたるよし、菅三位在成卿の申せし事をしるせしものあり、
洞院大相國〈○藤原公賢〉の御記に見ゆ、後光嚴帝は、九十九代にあたらせたまふ、此頃は太平記の代 にてありしなり、
されど今は、名字抄などいふものも、世には傳はらず、
節用集、〈○中略〉拾芥抄、〈○中略〉などいふものに、人の名字を集め置し、世に廣く行はるヽほどに、世の人皆これらの書を據となして取用ひる事に成りたり、油小路故大納言隆眞卿ののたまひしは、近代の人の名、殊に淺ましきものに成りたり、拾芥等の書に抄出せし所は、いかなる事を據となして、僻る字多く集め置きけん、心得られず、周公の撰ませ給ひしといふ、爾雅の字を取用ひたらんには、然るべき文字いくらもありなんとぞ、
隆眞卿の説は、某〈○新井君美〉に神書を授けし人、まのあたり承はりしよしを申しき、此卿は近代の 有職の人にておはしき、
いはれある事とこそ覺ゆれ
右は近世の人の名の字よからず、又人の名に定れる文字あるまじき證の二ッなり、
又師〈○木下順庵〉にて候し者の、某に窃に傳へ候しは、天子の御名は、凡人の名に、となふる所と同じか るべからざる由、ある有職の人の仰せられき、
何人の仰にかと、重ねて問返し難かりし故に、其人の名をばつゐに承らざりき、口惜き事なり、 此事を思ふに、たとへば御水尾院の御諱政仁を、まさひとヽは申さで、ことひとヽ申し、今の仙洞〈○靈元〉の御名を、識仁としるして、のりひとヽは申さで、さとひとヽ申の類なるべし、
さては將軍家の御名など撰申さんには、心得あるべき事也、我國に傳はるのみにもあらず、異朝の後の代までもしるし傳ふべければ、いかにも經書の文字を取用うべし、たヾに經書の字を取用ひんのみにもあらず、唱へまゐらする所も、心得あるべきよしを申き、
今按ずるに、室町殿の代々の御諱に、讀得がたき事ありとぞ覺ゆる、寶篋院殿の御諱を義詮と申き、詮の字を敎(ノリ)と唱る人あれど、普廣院殿を義敎(ヨシノリ)と申まゐらせしかば、いかで其祖考の御諱に同じき唱の名をば付させ給ふべき、又詮の字を昭(アキ)と唱る人あれど、靈陽院殿を義昭(ヨシアキ)と申まゐらせしかば、是も先祖の御諱におなじきとなへの名は付させ給ふべからず、拾芥節用等を見るに、詮の字の訓に、敎と昭との外に、別の訓も見えぬは、寶篋院殿の御諱は、必らず別なる訓のありしを、世の人其傳を失ひしなるべし、〈追て拾芥抄を考るに、詮の字としと訓ず、蓋寶篋院殿の御諱、よしとしと申せしにや、猶たづぬべし、〉
大塔宮の御諱を護良としるして、もりよしと世には云傳へたれど、實はもりながと申まゐら せき、是等また同時の事なれば、義詮のとなへ、必らず世に云傳るがごときにあらじ、
是等の事を思ふに、先師の傳へし所、誠に誣ずとすべし、
右は名の字に、定まれる字なきのみにもあらず、唱る所も定れるとなへなき證の三ッなり、

〔本邦名字説〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0589 凡ソ物必名アリ、飛潜動植器物ニ到ルマデ皆名アリ、況ヤ人ニ於テヲヤ、人ノ名アルハ自然ナリ、宇宙ノ間、凡ソ人類、スべテ名ナクンバアルベカラズ、但周ノ世、文ヲ尚テ、元服シテ字アリ、其後襲ヒ來テ皆然リ、本邦古ヨリ字(アザナ)ナシ、中葉遣唐使アリテヨリ、唐ノコトヲ見習ヒ、事多ク 唐禮ニ從フ、紀寛〈紀長谷雄〉文琳〈文屋康秀〉ノ類ノ字アリ、然レドモ文字ヲ好ム人ノミニシテ、公家武家、一同ニ然ルニハ非ズ、此方ニテハ字ハ無クテモ事カケヌコト乎、ソレヨリ已來、世ニ字ツク者ナシ、近世天下一タビ治テ、文化漸ク盛ナリ、故ニ書ヲ讀ムモノ字ツク、然レドモ字ノ稱シヤウ一ナラズ、何レモ鴻儒ノセラルヽコトナルユエ、黄口敢テ議シガタシ、但私ニ愚見ヲ記シテ子姪ニツグルノミ、凡ソ世ノ字ヲ稱スル人、名乗ハ信定ニシテ、名ハ瑤、字ハ温夫ナルアリ、此レ一ナリ、又交名喜右衞門、名乗義方ナルヲ、名ハ喜、字ハ義方トスルアリ、此レ二ナリ、又小名與次ナルヲ、名ハ譽、字ハ彦聲トスルアリ、其説ニ、内則ニ云如ク、小兒ノ時、父ノ名ヅケタルガ實ノ名ナリト、此レ三ナリ、又交名忠助、名乗維弼ナルヲ、名ハ維弼、字ハ中輔トスルアリ、此レ四ナリ、又交名源兵衞ナルヲ、名ハ源、字ハ子澄トスルアリ、此レ五ナリ、又交名茂介ナルヲ、名ハ懋、字ハ伯德トスルアリ、此レ六ナリ、又名乗長英ナルニ、此レヲ字トシテ、ソレニ縁ヲ取テ名ヲ俊トスルアリ、此レ七ナリ、愚謂此七樣、共ニ世上一同ノ通例トシガタシ、疑フベキナリ、先一ツニ、名乗ト名ト二ツアルコト訝カシ、吾邦凡ソ事訓ヲ以テ行ハルヽ、人モ實名ハ名乗トテ、訓ヲ以テ稱スルナリ、瑤ノ字ノ類、名乗ノ訓ニヨマレヌ字ヲ用ルコト、本邦ノ風ニ非ザルニ似タリ、又二ツニ喜右衞門ト云ハ、喜ノ字、本ハ紀ノ字ニテ紀姓ナリ、初兄弟ノ次第ニテ、太郎次郎ト云、或ハ姓ヲ上ニ冒フリテ、源太、平二郎、紀次郎ト云モアリ、平藏ハ平三ナリ、唐ノ人、李三郎、杜五郎ト云ガ如シ、六位ノ衞府ニナレバ、左右ノ衞門兵衞、ソレ〴〵ニ又其姓ヲ上ニ冒ムラシメテ、紀姓ナレバ、紀右衞門ト稱スルナリ、唐ニテ韓吏部、杜拾遺ト云ガ如シ、ソレ故此方ニテモ交名ト云ナリ、源平藤橋ヨリシテ、菅原ノ菅、大江ノ江、淸原ノ淸、中原ノ中、丹治ノ丹、惟宗ノ宗ノ類、後ニ橘ヲ吉ト書カヘ、菅ヲ勘トシ、江ヲ郷トシ、中ヲ忠トシ、宗ヲ摠トスルナリ、ソノ後物數奇次第ニ交名ヲツキテ、吉兵衞、忠右衞門ト云ヒ、紋太郎、無理之介ト云フニイタル、本ハ姓ナルコトヲ知ラヌヤウニナリ來ルナリ、又人ニヨリ太郎二郎ナルモノ、太郎 左衞門、二郎右衞門卜稱スルモアリ、今喜右衞門ノ喜ヲ名トスル時ハ、姓ヲバ名トスルナリ、或ハ太郎左衞門、二郎右衞門ハ、名ヲ太トシ二トスベキヤ、又ハ太郎ノ子、小太郎、或ハ又太郎、或ハ新太郎、ソノ子孫ソノ子彌太郎ナリ、左衞門ノ子、小左衞門ト云、孫彦彌モ同ジ、右衞門、兵衞、大夫、此ニ準ズ、次郎ノ嫡子ハ、次郎太郎ト云、小四郎左衞門、平六兵衞、小平六ト云モアリ、北條四郎時政ノ子、義時ヲ小四郎ト云モ然リ、然類上ノ字ヲ摘テ、何トテ名トセラルベキヤ、名乗義方ヲ字トスルコト訝カシ、喜右衞門ハ交名ナレバ、實名ハ名乗義方ナリ、實名ヲ字トスルコト從ガヒガタシ、又三ツニ、小名與次ナルニ、畫ヲソヘテ名ヲ譽トスルコト訝カシ、ソノマヽ與次ヲ實名トスルニモ非ズ、上ノ一字ヲ切取テ、又畫ヲ添ル時ハ、今又作爲スルナリ、況ヤ與ノ字、本ハ餘ノ字ニテ、兄弟ノ次第、十ニ餘リテ十二番目ノ子ヲ餘次ト名ヅク、那須余一ハ十二番目ノ子ナリ、故アリテ十一トナル、餘ヲ略シテ余トシ、終ニ轉ジテ與トナリタルナリ、此レヲ名トスルコト、イブカシキコトナリ、小名千代丸、三四郎、牛之介、何ト名ヲ稱センヤ、又四ツニ、忠助ヲ書カヘテ、中輔ヲ字トスルコト訝カシ、忠助ハ本中原ナル人、介ナラバ如此稱スベシ、何之介ハ、或ハ受領ノ介ヨリ轉ジ、何之丞進ハ、百官ノ下ヅカサヨリ轉ズ、何内ハ、昔シハ内舎人ナル人ノツキシ名ナリ、何平ハ、兵衞ノ轉ズルナリ、交名ナレバ、師又ハ賓ノツケタル字ニモ非ズ、況ヤ書カフルコト作爲ニワタル、太郎、二郎、衞門、兵衞、大夫ヲツキタル人、イカヾ書カフベキヤ、又五ツニ、源兵衞ノ源ヲ名トスルコト、前ニ云如ク、姓ヲ名トスルナリ、ソノ外ミナ前ニ詳ナリ、ソレノ縁ヲトリテ、字ヲ子澄トスルコト訝カシ、茂介ノ茂ヲ、音ノ通ズル懋ニ書カヘテ名トスルコト、此レ又作爲ナリ、太郎兵衞、二郎介、ソノ外前ニ云如キヲイカヾ字ノ縁ヲトリ、イカヾ音ノ通ズル字ニ書キカヘンヤ、名乗長英ナルヲ字トシテ、名ヲ俊トスルコト、字ハ名ニヨリテコソツクベケレ、字ヨリシテ名ヲツクル訝カシ、此七ツ、何レモ一同ニ例ヲ推シテ行ナヒガタキニ似タリ、或ハ古ヘハ古ヘノコト、今ノ稱スル所ニヨリテ義ヲ取 ルト云フベキヤ、然レドモ世上一同ニ、字ト云フモノツクコトニ非ズ、書ヲ讀ムモノヽスルコトナレバ、古ヘヲ推シテ、本ヲタヾサヌト云フコトモアルマジキコトナリ、愚意本唐山必シモ http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00015.gifヒテ引キアハセズトモ、交名ハ交名ニシテ、姓ヲ冒ムルコトヲ忘レタルコトハ、流風ナレバ是非ニ及バズ、名乗ヲ本トシテ、字ハ本邦ノ風ニハ無シトスベキナリ、モシ書ヲヨムモノ字ヲツクナラバ、名乗ガ實名ナルユエ、此レニ縁ヲ取リテ字ヲツクベシ、韓吏部交名、紀右衞門ト云フガ如シ、愈ハ實名ナリ、此方ノ名乗義方ト云フガ如シ、退之ハ字ナリ、此方ニハ無キコトナリ、此通リニテ平易ナルニ似タリ、

〔日本書紀通證〕

〈一/ http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00009.gif言〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0592 今按、神代紀、多以名證其德、曰尊曰命曰彦曰姫、皆美稱也、皇代紀、有地名稱者、有職業稱者、有一時之事、〈大鷦鷯、日本式之類、〉其餘概當之求焉、〈欽明紀曰、帝王本紀、多有古字、撰集之人、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00049.gif遷易、後人習讀、以意刊改、傳寫既多、遂致舛雜、帝王本紀者、推古紀所謂天皇紀、而厩戸太子所撰定者也、古字者、謂皇子古名字也、親王所自述既如斯、宜也其難解乎、〉至臣庶、則稀僻之名尤多矣、不悉曉也、又如網田爲阿彌陀、史爲不比等、馬養爲宇合、旅人爲淡等、皆通用音訓也、後世反名、蓋出乎此、〈○註略〉又古者不必字、偶稱字、〈顯宗紀、改字曰丹波小子、仁賢紀字嶋郎、〉亦似謂小字、〈揚雄子、小字童鳥之類、〉而讀曰那(ナ)、〈蓋與名同、程郊倩曰、字即是名、古人誠有之、如韋應物即名應物、孟浩然即名浩然是也、〉無阿奘那(アザナ)之訓、〈阿奘那、交名也、交人之稱也、或謂阿奘那梵語、然字梵云乞又囉、乃文字也、此間文字、亦讀云那、見天武紀、周禮、掌書名於四方、註古曰名、今曰字、〉後世儒士、或字之、〈阿奘那、見源氏談抄、云爲儒者必有之、〉然亦與西土法少異、〈如菅原道眞字三、文屋康秀字琳、三善淸行字耀之類、又如宇治拾遺云、字袴垂、似謂謔名(シコナ)、〉又有假名實名之稱、假名俗呼也、實名即名也、實名多二名、故謂之二字、〈○註略〉又名麻呂者多矣對人、自稱亦曰麻呂、〈或作麿、二合字、如榊類、或作滿、與圓訓義通、倶出後世、〉或曰、男子通稱、猶周代子路子貢之類、〈如物類http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00067.gif呼爲稻春兒麻呂、鎌呼爲加摩麻呂、猶扇子刀子之稱、〉或曰、自謙之辭、古人有小屎糠虫、後世紀貫之、幼名阿古久曾、蓋同意、
○按ズルニ、滿ヲマロト云フハ音ナリ、與圓訓義通ト云フハ、恐ラクハ誤ナラン、

〔年々隨筆〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0592 今時の俗名といふものは、人の實名は、かりにも他より呼べきものならねば、輩行と成功との二ツをもて稱へし物也、其輩行といふは、兄を太郎といひ、つぎを二郎といひ、三郎、四郎、 ついでのまヽによぶ事也、十郎より上は、餘一餘二などぞいひけらし、今昔物語に、〈○中略〉貞盛ガ甥、幷甥子ナドヲ、ミナ収集メテ養子ニシケルニ、此維茂甥子ナルニ、亦中ニモ年若カリケレバ、十五郎ニ立テ養子ニシケレバ、字ヲ餘五君トハ云ケル也とあり、眞田與一、淺利與一などいふもこれか、これら必しも十餘子とはみえざなれど、餘五のやうなる子細ありもやしけん、その程すでに曾我十郎は兄にて、五郎は弟なるたぐひあれば、この與一も、輩行のみだれたるにもあらんかし、成功とは、上候にいへるごとく、物をいたして、四府の尉、諸司の三分になりて、その官名をなのる也、かくてその族々に、太郎、二郎、兵衞、衞門ありて、他氏他族と參會しても、さらぬをりも、何事につけてもまぎらはしき故、その上に姓の一もじをそへて、藤太郎、源二郎、淸兵衞、宗左衞門などやうに名乗たる物にて、今時の名はこの姿なり、さてもなほ、おなじ名の多かるほどに、居所の地名をそへてよぶ、新庄にすむ藤太郎は新庄藤太郎、山田にをる源二郎は山田源二郎也、これすなはち今の名苗字也、元弘建武よりは、成功の事は絶えはてたれど、代々に宮申たる家は、父祖のなのりしまヽに名のりもしつらむ、さらぬ者も僣上して、兵衞、衞門とつきもしたらむ、亂世にて、誰とがむる者もなきゆゑなり、應仁以後にいたりては、何事も、舊き蹤うしなひはてつる世なれば、上の一もじを姓といふ事も、下は輩行官名とも何ともしらで、たヾ人の名は、かうやうの物ぞと心えて名のりしほどに、上の一もじ、姓ならぬもいできたる也、されば世の中のうつり來しにしたがひて、成功の實もうせ、輩行の序もみだれて、そのかみのやうに、うるはしくこそあらねど、きと由緒ある事にて、今においては、うけばりたる名乗に、これを置ては何かはあらん、しかるを此頃の學者たち、さるゆゑよしはしらずやあらん、世に俗名と稱れば、ひたすら俗なりと心えて、歌よ消息よと、人のがりやるにも、これをいみさけて、人の實名書ちらすこそ、さもこちなく、うたてき事なれ、そも〳〵これは皇國の學するともがらのみにもあらず、儒者とある人たちの漢文にかヽ むにも、いとよろしき稱呼なるを、さる事のきこえぬは、くちをしき事也、朝夕にめなれ口なれためる唐詩選などをもみよ、王大、高五とあるは輩行、高都護、杜少府などあるは官名にて、今時の名と、もはらおなじきを、唐人の名のるは雅にて、こヽにて物するは俗なるやうあらましや、今時の漢文をみるに、稱呼の妄なる事、いふべくもあらず、

〔善庵隨筆〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0594 漢土ニ小字トイフモノアリ、今古奇觀ニ、小名宋金郎、官名宋金トアリ、官名ト、公邊ニ用フル表向ノ名ニテ、實名トイフガ如シ、小名トハ、民間ニ呼習ハシタル平生ノ通名ナリ、コレ證トスルニ足ルヤウナレドモ、他書ニ載スル小名小字ハ、大抵幼少ノ時ノ子供ノ名ナリ、又侍兒小名録ニ載スル小名ハ、此方ノ人、タトヘバ家ニ居ルトキノ名、女子ナレバ阿松トカ、阿梅トカイヘルガ、諸侯方ニ奉公スレバ、別ニ名ヲ賜テ、尾上トカ、岩藤トカ改ム、ソノ奉公中ノ名ヲ小名トイフ、カク一定セザレバ、一ヲ取テ證トシ用ヒガタシ、

〔類聚名物考〕

〈姓氏八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0594 名字 な あざな
およそ古人の名、今の心よりは、わきまへがたきもの多ければ、よみうる事さへかたきをや、されば宇合を乃支阿比(ノキアヒ)と訓が如く、舎人親王を伊敝比止(イヘヒト)と申が如き、みなよくも思はぬ、後世の心より出し僻よみなり、又訓にてのみは訓(ヨメ)ざるも有、德足の如きは、止古多利(トコタリ)と音訓相交へてよむなら、この類ひは長良冬良の如き、良をば音にいふ、一條禪閤兼良公をば、加禰羅(カネラ)と訓(ヨム)を、加禰與之(カネヨシ)ともよむべきよしもいへり、これらよく思ひわきまへでは、僻事のまじれるものなれば、書このむ人は、必おろそかにはすべからぬ事ぞかし、

〔類聚名物考〕

〈姓氏八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0594 別名 一名
これは名二ツ有をいふ、たとへば同人異名有人あり、又は名をかへし人を物にしるしたるに、二所三所に見えしに、二三の名有て、その人は異ならざるも有、又は傳への異にして二名有もある 也、たとへば、宇治山の喜撰を、基泉と同人也ともいひ、或は別人といふが如きも有、又は西行法師を、中比は圓位上人ともいひしを、初は佐藤兵衞憲淸といひしが如し、僧正遍照をも、俗にては良岑宗貞といへるが如きも有、これいとまぎらはし、此にはその中にとりて、傳への異にして、名二ツ有をもはらのせたり、神代紀に、八千矛の神に七名有が如きをいふ也、別號といへるに似たり、

〔類聚名物考〕

〈姓氏八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 本名
今案に、本名といふ事、西土にも有、然れども今俗に云とは、その意異なり、俗の意は、今假名有に依て、その本體の名をさして本名と云、本は假の反對なり、西土のは、もとの名にて、今改めて稱する所の名にむかへて本名と云、古今と云に似たり、唐の顔眞卿の撰び書る、浪跡先生玄眞子張志和の碑に云、玄眞子、姓張氏、本名龜齡、東陽金華人と有、次下に改名志和、字子同と有にむかへて、昔の名龜齡とはいへる也、

〔類聚名物考〕

〈姓氏八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 名告 なのり 名謁〈東鑑〉 名乗〈俗借字〉
今思ふに、奈乃利(ナノリ)は、我名をのりて人にいふ故なり、古事記の雄略天皇紀に、名告と見え、萬葉集にも見えたり、告を乃里(ノリ)といふは古語也、東鑑には名謁と書しは、義をもて書る也、我名を告て、人に謁るの意也、

〔古今要覽稿N 〕

姓氏

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 な 名
人の名は、往古よりしてあり、渾沌初てひらくる時に、國常立尊、國狹槌尊と申奉る、すなはち御名なり、西土にてもまたしかり、少昊の名を摯といひ、帝尭の名を放勳といへるこれなり、たヾし太古にては、子孫といへども、御名を憚るところなく、後に西土の制を移させ給ひしより、憚りて御名を稱せず、〈委は松迺落葉にみえたり〉人の天地間にあること、名の別つべきものなかるべからず、たヾ人のみにあらず、天下にあらゆるもの、大は高山大河、小は禽虫魚鱗に至り、一として名なきはあらず、 後世に至りて、うぢかばねの類ひおこり、字號の屬、生ずるは、文華の盛なるなり、たヾ又諡といふことあり、崩後に改め名づく、神武と申、綏靖と申奉るこれなり、今の俗稱は、假名あるひは呼名ともいふ、これ保元平治の比よりやはじまりけん、某郎などいふこと多し、これ通稱にて、伯仲をわかつに數の序次を以てす、これにむかへて實名といふ稱はおこれり、また名乗ともいふ、名乗は、もと人に對して我名を唱ふることなり、古事記萬葉集に、名告ナノリと傍訓し、東鑑に名謁ともかけり、皆人に對して我名をなのる義なり、のりは、のりことなどののりにて、言語にあらはすなり、さればわが名をなのることよりして、つひに實名を名のりといふことにはなりたり、さてその名、後には家々の通り字ありて、代々同字を用ゆ、古にも淳和天皇の御子たち、多く上に恒字を置れ、仁明天皇の御子たち、下に常字を置、文德のみこ、上に惟字を置れし類、又淸和天皇を惟仁と申せしより始まりて、醍醐天皇を敦仁、一條天皇を懐仁など申すより、以後皇子たち、凡て某仁とつけらるヽことにはなれり、通り字のはじめ、これらに本づけるならん、また尊上の人、卑賤の者に名の一字をあたふること、源平盛衰記、北條九代記等に見え、當世に至りては恒例となりぬ、また女の名、古代は男子と同じく、某命といひ、中古は某子といひ、後世は於の字をつく、於は阿にかよひて助辭なり、これ婦女の名は簡易なれば、唱よき爲にいひつけしにや、

〔十訓抄〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 天智天皇、世につヽしみ給事ありて、筑前國上座郡朝倉と云所の山中に、黑木の屋を造でおはしけるを、木丸殿と云、圓木にて造故也、〈○中略〉さてかの木丸殿は、用心をし給ひければ、入來の人、かならず名のり(○○○)をしけり、
朝倉や木の丸殿に我をれば名のりをしつヽ行はたが子ぞ
是天智天皇の御歌也

〔枕草子〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 殿上のなだいめんこそ、猶をかしけれ、御前に人さふらふをりは、やがてとふもをか し、あしおとどもしてくづれ出るを、うへの御つぼねのひんがしおもてに、みヽをとなへてきくに、しる人のなのり(○○○)は、ふとむねつぶるらんかし、又ありともよくきかぬ人をも、此をりにきヽつけたらんは、いかヾおぼゆらん、なのりのよしあし、きヽにくヽさだむるもをかし、

〔花鳥餘情〕

〈三/夕顔〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 なだいめんはすぎぬらん、たき口のとのゐ申はいまこそは、亥一刻に、内豎、時のふだを奏す、其後侍臣のなだいめん有、なだいめんとは名謁をいふ、殿上に御とのゐせる侍臣、たがひに名を問れて、なのる事也(○○○○○)、此次に瀧口のとのゐ申あり、とのゐ申といふも名謁と同じ事也(○○○○○○○)、

〔神皇正統記〕

〈仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 第五十四代第三十世、仁明天皇、諱は正良、〈是よりさき御諱たしかならず、多は乳母の姓などを諱に用ひられき、是より二字(○○)たヾしくましまぜば、のせたてまつる、〉

〔古事談〕

〈三/僧行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 文範卿云、餘慶僧正ヲ驗者ト云ヘドモ、被人妻云々、僧正聞此事ノ後、向彼卿宅之處、得其意、稱所勞出合、僧正猶大切ニ可申事有ト被申ケレドモ猶不出會、其時僧正呪而只投出卜被申ケルニ、主忽悶絶シテ屏風ノ上ヲ打越テ http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00068.gif出、僧正サコソハトテ被歸畢、三ケ日猶悶絶ス、因之一門子息等獻二字(○○)於僧正、仍被免、後存命云々、

〔蔭涼軒日録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 長享二年正月晦日、陳外郎話云、大内息次郎相公、賜二字(○○)義興、義字賜者、世所稀也云々、

〔類聚名物考〕

〈姓氏八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 片名 かたな
二字ある名の一字を片名といふ、今俗に左衞門といふを、左衞とも、或は衞門とも書をも、また片名といふ也、

〔源平盛衰記〕

〈三十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 太神宮勅使附緒方三郎責平家
日數積ツテ月滿ヌ、花御本男子ヲ生、隨成長容顔モユヽシク心樣モ猛カリケリ、母方ノ祖父ガ片名(○○)ヲ取テ是ヲ大太童ト呼、

〔源平盛衰記〕

〈三十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0598 鷲尾一〈ノ〉谷案内者事
御曹司〈○源義經〉ハ、〈○中略〉去バ汝ヲバ鷲尾三郎ト云ベシ、名乗ハ我片名(○○)ニ、父ガ片名(○○)ヲ取テ經春ト附ベシ、片岡ト同名ナレ共、多キ人ナレバ、事カケジ、

〔松屋筆記〕

〈三十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0598 名の片字
照光記、建久七年五月五日の條に、次手結文、令請印云々、持來更卷懸紙封、封了持來、書名片字(○○)返給了云々、

名讀方

〔倭訓栞〕

〈前編三十/美〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0598 み 名に相をよむは藤良相あり、みるの義也、

〔薩戒記〕

〈部類二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0598 名字讀
藤宿奈麻呂〈後改名 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif繼太宰帥大錦上比羅夫之子〉 藤濱成〈一名濱足參議麻呂一男〉
〈大納言〉大伴旅人(タビト)〈一名多比等大納言贈從三位安麻呂一男〉 〈中納言〉同家特(ヤカモチ)〈旅人男〉
〈右大臣〉淸原夏野〈本名繁野〉
源勤(ツトム) 同舒
藤原永手〈權中納言始 參議〉同牛養(カイ) 阿倍沙彌(サミ)麿 大中臣子老(コヲキナ)〈右大臣淸丸二男〉 中臣淸丸〈中納言美麿七男 知太政官事〉刑部親王〈從三位 但馬權守〉橘逸勢(トシナリ) 藤原愛發(ヨシシゲ) 宇合(ノキアイ/ウガウ) 輔相 常行(トキツラ) 眞楯(マダテ) 魚名(ウヲナ) 御楯(ミタテ) 眞夏(マナツ)

〔諱訓抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0598 帝王
定省(カミ)〈宇多〉 寛明(ユタアキラ)〈朱雀〉 懷仁(カネヒト)〈一條〉 居貞(イヤサダ)〈三條〉 敦成(アツヒラ)〈後一條〉 敦良(ナガ)〈後朱雀〉
體(ナリ)仁〈近衞〉 順(ノブ)仁〈六條〉 懷成(カネヒラ)〈廢帝〉 茂(トヨ)仁〈後堀川〉 秀(ミツ)仁〈四條〉 豐(ユタ)仁〈光明〉
幹(モト)仁〈後小松〉 實(ミ)仁〈稱光〉 成(フサ)仁〈後土御門〉
親王
舎人(トネリ)〈天武子〉 阿保(アホ)〈平城子〉 人(サネ)康〈仁明子〉 敦實(ミ)〈宇多子〉 代明(ヨアキラ)〈醍醐子〉 常(トコ)明〈醍醐子〉
他戸(ヲサベ)〈光仁子〉
大臣
木菟(ツク)〈履中御宇〉 圓〈安康御宇〉 蝦夷(カイ/エビス)〈皇極御宇〉 赤兄(アカエ)〈天武御宇〉
不比等〈藤原古人傳云、此名有由緒、奈 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif比比止之加 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif須(ナラビヒトシカラズ)、無傍輩之儀也、〉 武智(タケチ)麻呂〈南家〉
諸兄(モロエ)〈橘氏〉 永手(ナガタ)〈藤原〉 眞吉備(マキビ)〈吉備公〉 魚名(ウナナ)〈藤氏〉 是公(コレキミ)〈藤氏〉 内(ウツ/ウチ)麻呂(マロ)〈藤氏〉
三守(ミモレ)〈藤氏〉 常(トキハ)〈源氏〉 良相(ヨシミ)〈藤氏〉 多(マサル)〈源〉
納言以下
廣庭(ヒロニハ)〈安倍〉 宇合(ウカフ)〈藤〉 毛人(エビス)〈安倍〉 家持(ヤカモチ)〈大伴〉 子老(オキナ)〈大中臣〉 今毛人(イマエビス)〈佐伯〉
古佐美(コサミ)〈紀〉 乙叡(オトエイ)〈藤氏〉 眞夏(マナツ)〈藤氏〉 入鹿(イルカ)〈多〉 眞道(マミチ)〈菅野〉 五百枝(イホエタ)〈春原(音譜也)〉
愛發(ヨシチカ/チカノリ)〈藤、越前愛發山此字也、又アラチ、〉 鹿取(カトリ) 篁(タカムラ)〈小野〉 長良(ナガラ)〈藤〉 定(マタ)〈源〉
善繩(タゞ)〈春澄〉 音人(ヲトムド)〈大江〉 廣相(ヒロミ)〈橘〉 長谷雄(ハセヲ)〈紀〉 有實(ミ)〈藤〉 玄上(ハルカミ)〈藤〉
自明(コロアキラ)〈源〉 好古(ヨシフル)〈橘〉 朝成(トモヒラ)〈藤〉 義懷(チカ)〈藤〉 誠信〈藤〉 佐理(スケタカ)〈藤〉
齊信(タヽノブ)〈藤〉 朝(アサ)綱〈大江〉 湛(タヽフ)〈藤〉 直(ナヲシ)〈源〉 公材(キムキ)〈橘〉 友于(ユキ)〈在原〉
等(ヒトシ)〈源〉 言鑒(コトミ)〈尾張〉 敏久(ミニク)〈狛部〉 傅(スケ)説〈三船〉 義忠(ノリタヾ)〈藤儒者〉 公資(ヨリ)〈大江〉
積善(モリヨシ)〈高階〉 佐世(ツギ)〈藤〉 淸公(キミ/トモ)〈菅原〉 齊名(タヾナ)〈紀〉 孝標〈菅〉 逸勢(イツセイ)〈橘〉
懷(ナリ)忠 令(ヨシ)尹 明義(アツノリ)〈中原〉 朝(アサ)光 擧周(タカチカ)〈大中臣〉 諸(モロ)葛(クズ/ツラ一註)〈中納言〉
秘樹(ナミキ)〈橘〉 五常(トモツネ)〈六位外記史經暦者也、文屋五典(トモノリ)、〉〈明德三年除目、故殿御申文此例也、〉 直幹(ナヲモト)
奉(トモ)時〈小野〉 希(マレ) 巨(ヲ)城 允(タゞ/イン)亮(スケ) 護良(モリナガ)〈大塔宮〉 允(タヽ)明
源信(マコト) 旅人 文信(ノリアキラ)〈藤氏鎭守府將軍〉 越雄(コヲ)〈藤氏〉

〔東野州聞書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 一寶德四年七月廿二日、於常光院承條々、〈○中略〉
作者ノ讀やうの口傳 俊生(としふ) 山上億良(やまのうへのおくら) 額田 王(ぬかたのおほきみ)〈○中略〉
置始東人〈名のりは口傳〉懷〈此字は、名のりには、やすと讀、猶よみあり、○中略〉
一享德元年八十六、於常光院尋習條々、〈○中略〉
朝光(アサミツ) 朝忠 國章(ノリ)〈此字、名のりによつて、あさらせ讀也、〉 平祐擧(タカ) 平公誠(トシ) 輔昭(スケテル) 平忠依(ヨリ) 源寛(スケ)信朝臣 高向(タカンコノ)
年春(トシハル) 弓削嘉言(ユゲノヨシコト) 大江喜言(ヨシコト) 石川良女(イラツメ) 高岳相如(タカヲカスケユキ) 三統元夏(ミムネモトナツ) 源致方(ムネカタ) 慶滋保胤(ヨシシゲノヤスタネ) 統理(ムネマサ)
參議玄上(ハルマサ) 扶朝(スケトモ)朝臣 孚子(マウシ)内親王 輔臣(スケミ) 治部卿仲統(ムネ) 北邊(キタノベ)左大臣 惟宗成長(コレムネナリナガ)

〔叡岳要記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 推古天皇十四年丙寅、以三位三津氏百枝大藏卿、〈○中略〉
私云、大外記中原師重云、百枝二讀也、一ニハ百枝(モヽキ)、一ニハ百枝(モヽエ)、然者不枝(エタ)云々、〈建保六年夏聞之〉

〔南留別志〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 一名乗に、純をすみ、茂をもちとよめるは音なり、〈○中略〉
一朝の字を、或はあさ、或はともとよむ事は、或は公武にてかはり、或は上下にて異なりとやらん いふは、僻事なるべし、義朝の子、朝長あり、おき所上下ありともかはるまじ、公家武家といふ事 は、鎌倉以後の事なり、

〔南留別志拾遺〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 朝をともと讀む事は、朝廷もおほやけも同じ意なりとて、公の字の訓を用ゐたるなるべし、公は公共の意にて、ともとよめる也、

〔野宮問答〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 一忠助と書きたる名乗を、忠覽と讀み申事は、元來忠覽にて候得共、障りこれあり、忠助と字を替へ候へ共、たヾみといふ事、上に御存知の實名故、よみを改めずして、忠助をたヾみといひ付申候、

〔鹽尻〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 昔人名倭訓 昔人の名、倭訓傳をしらずして、妄に稱はいと俗なり、合間(ヨシチカ) 董文(カホヨシ) 愛發(チカナリ)發生(チカフ) 乙叡(タカトシ) 訓儒(トキハカ) 巨勢麿(ホセマル) 主復(ヌシフ) 在公(アリキン) 眞能守(マタノモリ) 仁道(ヨシネ) 直作(マタナリ) 弟藤(ツギフヂ) 五百城(イホノキ) 三成(タヾヒラ) 玄(ツル) 上(ウラ) 千乗(チシヲ)
此類多し、今しばらく藤氏上代の人名のみ、其一二を記す、菅家の祖宇庭を、ウチニハと讀が如し、熊谷入道蓮生は、れんせいとよむべし、
宇都宮入道蓮生は、れんしやうとよむべし、
僧名漢音呉音によみ來れる事の多し、其宗家に聞べし、惠果ケイクハ惠心エシソ等の如し、

〔玉勝間〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0601 後鳥羽天皇の御諱のよみ
後鳥羽天皇の御諱尊成、歴代編年集成に、タカヒラと假字附〈ケ〉あり、成〈ハ〉平也といふ意なるべし、

〔尊卑分脈〕

〈五/藤原〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0601 愛發(チカナリ/ヨシアキラ)〈又ノリ〉

〔玉勝間〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0601 愛發といふ名のよみ
藤原愛發といふ人あり、此名いかによむにかといぶかしかりしに、越前國の地名をとれる名にて、愛發關、あらち山などいふところなりけり、

〔玉勝間〕

〈十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0601 平城天皇の御名
平城(ナラ)天皇の御諱、はじめには小殿(ヲドノ)と申せしを安殿(アデ)と改め給へり、〈○中略〉さてこは阿傳(アデ)と字音に讀み奉る也、紀の國の在田郡は、もと安諦(アデ)郡にて、書紀續紀に、阿堤(アデ)郡とも書れたるを、この天皇の御名に渉るをもて、大同元年に、在田郡とは改められき、

〔玉勝間〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0601 人の名の和字の事
人の名に和字を加受(カズ)とよむは誤也、これは加都(カツ)にて、都は淸音なり、此言は、かてかつかつると活用て、物を和合こと也、萬葉歌に、醬酢爾(ヒシホズニ)、蒜都伎合而(ヒルツキカテヽ)とある、此合而なり、

〔古事記傳〕

〈二十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0601 建内宿禰、建内は多祁字智(タケウチ)と訓べし、〈世に此名を武之内(タケノウチ)と之を添てよむは、古言をしらず、後世竹ノ内と云地名のあるにならへるみだり言なり、古に建之と云る例あることなし、〉

〔比古婆衣〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0602 建内宿禰の名の唱
建内宿禰の名は、兄を味師内宿禰(ウマシウチノスネ)と稱へる味師に對へたる美稱にて、多祁志宇智宿禰(タケシウチノスクネ)と稱ひしなるべし、其はまづ古事記に、兄の名を味師とあるを、書紀には甘美と書き、姓氏録には味と一字に書るをおもふに、宇麻志の志は、甘美の活言なる事著し、弟の名も同じさまに相對へて、多祁志と唱へるに、建字を當て書るなり、書紀などに武字を書るも同じ、かくて其兄弟の名の、味、建、といふに、内の宿禰と引合せて呼べるなり、古事記仁德天皇の御歌に、建内宿禰の事を、宇知能阿曾(ウチノアソ)とよみ給ひ、神功紀に見えたる、熊之凝が、御軍人に向ひて唱へる歌にも、于地能阿曾(ウチノアソ)といへるをも證とすべし、

〔比古婆衣〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0602 倭建命の御名の唱
倭建命の御名、ヤマトタケルと稱し奉たりしなるべし、其は古事記に、此命熊襲建(クマソタケル)兄弟を殺し給ふ時、〈○註略〉弟建が言に、於西方、除吾二人、無http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00015.gif、然於大倭國、益吾二人、而建男者坐祁里(マシケリ)、是以吾獻御名、自今以後、應倭建御子云々、故自其時御名倭建命云々、〈○註略〉と見えたるによりて知られたり、〈○中略〉さて此皇子の御名、書紀に日本武、また餘古書どもに倭武とも書きて、その武字は例にタケ、またタケシなどこそは訓め、タケルとはよむまじきがごと思ふ人もあるべけれど、書紀に梟帥と書るを、既く古事記に、建字を用ひられたるにも准へしるべく、また猛字も武字と同じ義として、つねにタケ、またタケシなどよめど、書紀に五十(イ)猛神(タケルノ)と書るなど、おもひ合すべし、さて又タケルてふ稱の義は、記傳に、威勢ありて、猛き者を云ふ稱なりと説はれたるがごとし、〈○中略〉さて景行紀四十三年、此命の崩給へる處に、日本武尊、化白鳥云々、因欲功名、即定武部也、と見えたる式部を、古訓にタケルベとあり、又出雲風土記に、出雲郷、所以號健部者、纒向檜代官御宇天皇〈○景行〉勅、不朕御子倭健命御名、建部定給、爾時神門臣古禰、健部定給、即健部臣等、自古至今、猶居此處、 故云健部、また姓氏録に、建部公云々、日本武尊之後也、など見えたる建部も、みな多祁流倍(タケルベ)と呼べるなるべし、

〔續近世畸人傳〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0603 津田一淸
一淸は、訓じて、ねずみととなふ、

名之用字

〔伊呂波字類抄〕

〈伊/名字〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0603 家〈イヘ〉 宅 彌〈イヤ〉 最〈同〉 今〈イマ〉 未〈イマタ〉

〔伊呂波字類抄〕

〈波/名字〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0603 春〈ハル〉 治 玄 晴 霽 明 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00069.gif 流 逡 立〈巳上ハル〉
○按ズルニ、本書伊呂波ノ下、必ズ名字ノ條アリ、今纔ニ一二ヲ録シテ、他ハ總テ省略ニ從フ、

〔拾芥抄〕

〈中本/姓尸録〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0603 人名録
伊 彌(イヤ)〈最末〉 最(イト)〈糸〉 今(イマ)〈末〉 家(イヘ)〈宅屋舎〉 岩(イハ)〈石〉 市(イチ) 入(イル) 磯(イソ) 稻(イネ) 活(イク)〈生〉 池(イケ)
波 春(ハル)〈治玄晴齊明〉 晴(ハル)〈霽〉 橋(ハシ)〈階端〉 原(ハル)〈腹〉 早(ハヤ)隼 花(ハナ) 濱(ハマ)
仁 新(ニヒ)
保 穗(ホ)〈部無之〉
土 友(トモ)〈共類丈具奉備那與倶寛朋朝伴寅公知倫兼僚比等誠郡義肥智〉 年(トシ)〈利俊敏聰稔明載歳智逸鏡照詮信章季曉順〉 遠(トホ)〈遐通捨有在茂寛〉 節(トキ)〈論時辰説秋言祝侯者宗國晨朝釋剋解〉 富(トミ)〈福〉 豐(トヨ) 德(トク)〈得〉 虎(トラ) 融(トヲル) 鳥(トリ)〈取〉
知 親(チカ)〈近畿元周凡愼庶隣前愛懷味用身躬子實見恒哉信眞浮邇允〉 千(チ)
奴 主(ヌシ)
遠 男(ヲ)〈雄緒尾臥絃濟臣水〉 大息〈興居起〉 岳(ヲカ)〈岡〉 乙(ヲト)〈音〉 長(ヲサ)〈酉〉
和 綿(ワタ)
加 方(カタ)〈象堅覽朝固 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif賢命名聲議〉 廉(カド)〈門〉 兼(カヌ)〈包懷説〉 影(カゲ)〈陰景蔭晷〉 金(カネ) 數(カズ)〈員算筭憲毎和量計〉 穎(カヒ)〈柄〉 河(カハ)〈川〉 苅(カリ)〈鴈獦〉
鎌(カマ) 勝(カツ)〈遂葛〉 風(カゼ)〈吹〉 香(カ)〈馨芬芳鹿〉 神(カミ)〈上〉 鴨(カモ) 梶(カヂ) 與 吉(ヨシ)〈 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif善義好愛珍嘉淑令美宴賀理可慶能榮至由資德穀克與儀懿綏微佳休熙若賴承燕宜喜賢功子命麗時備敬典悦純〉 賴(ヨリ)〈依資縁倚由自繇仍方賢形因寄從〉 米(ヨネ)
淀(ヨド) 世(ヨ)〈代與〉
太 高(タカ)〈隆孝堯尊學敎古楚貴章擧山喬渉懷應標幸卒峯生考等〉 任(タフ)〈堪能塔妙純〉 種(タネ)〈胤殖子〉 忠(タゞ)〈陟正理齊直忽只賢政公渡濟格位匡江睢禪位薫産尹藏唯資身子但紀兄帝孫〉 爲(タメ) 妙(タヘ)〈絶〉 武(タケ)〈高健嵩竹〉 篁(タカムラ) 瀧(タキ) 旅(タビ) 足(タリ) 田(タ) 鷹(タカ)
曾 園(ソノ)
津 純(ツク)〈序續次月系減弟嗣緇樓〉 經〈常恒庸方懷繩昔繼英尋〉 綱(ツナ)〈純繩〉 椿(ツバキ) 鉤(ツリ) 積(ツム) 束(ツカ)〈冢墓〉 圓 津 連(ツラ)〈行貫陣屬列綿宣〉
禰 禰〈根子〉
奈 中(ナカ)〈仲榮〉 成(ナリ)〈平爲作音絡生齊業也登周濟低枚均就得尚有忠〉 永(ナガ)〈長修度脩榮 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif〉 並(ナミ)〈方甫淵比濤波秘南浪〉 直(ナホ)〈尚猶仍脩庭如君〉 多(ナ)〈聲命稱名〉
夏(ナツ) 繩(ナワ)
羅 良(ラ)
武 宗(ムネ)〈致統棟陳梁胸旨齊順至〉 村(ムラ)〈邑〉 馬(ムマ) 虫(ムシ)
宇 敬(ウヤ)〈禮恭〉 氏(ウチ)〈姓内〉 浦(ウラ)〈上〉 海(ウミ) 牛(ウシ) 魚(ウヲ)
爲 居(井)
乃 則(ノリ)〈憲範規乗章似德法猷政知紀典象孝式位儀經義敎刑度慶令繩昇期明書述朝藝彜軌稚仙考言代記永化至以肖載〉 信(ノブ)〈重陳序延舒順命叙暢書述伸申圓展惟宣遙掃將備所別修演正房總言誠董布攄政〉 宇(ノキ) 後(ノチ) 野(ノ)
久 國(クニ)〈邦一弟乙州郡訓〉 倉(クラ)〈藏庫椋位〉 黑(クロ)〈玄〉 阿(クマ)〈隈曲〉 葛(クズ) 桑(クハ)
也 安(ヤス)〈泰寧保康愷定息毗貫易烈綿行屬連俾綏逸穏縁休豫〉 山(ヤマ) 屋(ヤ)
末 正(マサ)〈雅昌綿齋公匡將當政允童齊理絹均緭藏繩方尹幹鴨賢蔚客〉 全(マタ)〈完益復又增加也〉 麿(マル) 希(マレ) 松(マツ) 間(マ)〈眞〉
計 毛(ケ)
不 房(フサ)〈總〉 文(フン)〈書牧〉 福(フク)〈富〉 藤(フチ)〈淵〉 古(フル)〈舊雨〉 深(フカ) 冬(フユ) 船(フネ) 生(フ) 是(コレ)〈惟維期之伊自此時比實云穴繄右兄〉
江 枝(エ)〈條柯族朶〉 江(エ)〈兄柯柄〉
天 光(テル)〈照昭〉 手(テ)
安 明(アキラ)〈正章信朗詮昭光著行高在顯卿耀諦〉
顯(アキ)〈秋翹卿明朗草曉著昭詮在亮信鏡〉
厚(アツ)〈敦重篤淳涼 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00070.gif〉 有(アリ)〈在茂滿光益順照〉 相(アフ)〈會合遇遘〉 赤(アカ) 肖(アニ)
〈似〉 朝脚(アサアシ)〈足〉
左 眞(サネ)〈實修尚猶誠信核 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif孚子人〉 貞(サダ)〈定兒慥信〉 郷(サト)〈里隣吏誠〉 逆(サカ)〈酒〉 前(サキ)都〈鋒〉 澤(サハ)
幾 淸(キヨ)〈潔浄聖諦舜〉 木(キ)〈樹材典甲城規起林紀黄息置來鮮藝〉 公(キン)〈君后林〉 菊(キク)
由 行(ユキ)〈足隨于往曲將門致征元戃廉之章至如順幸通由以適雪舒起爲促時運〉
妙 目(メ)
美 見(ミ)〈視子覽身三鑒實躬觀相后皆臣親膽省現鏡〉 光(ミツ)〈舜滿明充仞實泉盈苗三水並看師溢〉 道(ミチ)〈通途廉路達方逕陸徑盈充滿〉 峯(ミネ)〈岑嶺〉 宮(ミヤ)
之 重(シケ)〈滋繁薫成惠段蕃芝茂枝爲兄以包咸誠〉 嶋(シマ) 鹽(シホ)
比 平(ヒフ)〈衡位 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00071.gif枚均成救行〉 廣(ヒロ)〈弘博熙尋寛泰宏汎憙〉 秀(ヒデ)〈英末標季穎淑愷末以下六字或抄末(スエト)注之如何〉 久(ヒサ)〈尚之淹〉 人(ヒト)〈仁者〉 彦(ヒコ)〈孫位〉
毛 本(モト)〈職元幹基資初舊意臺躬苞下〉 諸(モロ)〈衆度誌庶師〉 守(モリ)〈護衞盛積〉 茂(モチ)〈以用望住蔚將持庸式後申荷殖時費〉 百(モヽ)
世 關(セキ) 瀨(セ)〈灘〉
寸 介(スケ)〈祐輔相助佐亮弼爲傳棟毗 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif延脩右資昌將副扶方翼高伴〉 澄(スミ)〈純有在角栖宥處維隅住〉 末(スエ)〈標季穎 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00163.gif淑〉 菅(スガ) 椙(スギ) 鈴(スヾ)

〔姓名録抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0605 俗名
義儀(ノリヨシ) 良々(スケヨシ) 高々(スケタカ) 方々(スケマサ) 信々(サネノブ) 成々(シゲナリ) 孝々(ナリタカ) 令々(ノリヨシ) 敎々(タカノリ) 住々(モチスミ) 甚々(タネタフ) 覺々(アキタゞ) 盛々(シゲモリ) 經(ノリ)經(ツネ) 行々(ツラユキ) 章々(アキノリ) 信々(アキタゞ) 陳々(ツラノブ) 能々(ヨシムネ) 在々(アリアキ) 惠々(シゲサト) 吉々 方々(ヅネミチ) 助々(スケヒロ) 永々(ナガヒラ) 之々(ヨリユキ) 任(タネ)々
實々(ミツカネ) 平々(サネタカ) 至々(ヨシユキ) 能々(ノブタカ) 業々(ナリノリ) 資々(スケヨシ) 薰々(マサノブ) 眞々(サネマサ) 形々(ノリカタ) 君々(スヒキミ) 元々(チカモト) 通々(ユキミチ) 右々(アキスケ)
棟々(スケムネ) 茂々(シゲタカ) 正々(マサタカ) 土々(ノリタゞ) 順々(マサトシ) 載々(ノリトシ) 節々(トモトキ) 慶々(チカヨシ) 智々(トモサト) 爲々(タメヲシ) 理々(マサヨシ) 由々(ヨシユキ) 標々(タカスエ) 信(トキ) 信(アキラ) 直々(タゞナナ) 或々(ノリモチ) 仁々(キミヒト) 知々(トモカズ) 隆々(タカトキ) 修々(ノブナガ) 廣々(ヒロミツ) 明々(アキラミツ) 末々(スエトモ) 適々(ヨリユキ) 象々(ノリカタ) 誠々(サネノブ) 申々(ノブモト)
薰々() 時々(コレトキ) 幸々(ヨシトモ) 村々(ムラスエ) 玄々(ハルツネ) 平々(ヒラヨシ) 泰々(ヤスヒロ) 有々(アリナヲ) 利々(カズトシ) 寛々(ヒロトナ) 秋々(アキトシ) 尋々(ヒロミツ) 自々(コレヨリ)
郷々(サトアキラ) 忠々(タゞツラ) 枝々(シゲエダ) 朗々(トキアキラ) 與々(トモスエ) 作々(トモヲ) 將々(マサユキ)

〔韻鏡諸抄大成〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0606 丈夫依性可名字之事
水性ノ人 福 木 峯 茂 彌 武 民 八 門 丈 萬 判 伴 卯 馬 名 平 兵
富 以上唇音ノ字ニシテ水ナリ、故ニ水性ノ人ニ比和シテ大吉ナリ、
菊 玉 江 義 龜 五 元 嘉 久 九 牛 金 角 吉 加 勘 彦 源 以上
ハ牙音ノ字ニシテ木ナリ、故ニ水性ノ人ニハ、水生木ト生ズルヲ以テ、武士藝者ニ吉ナリ、
宗 二 松 四 市 庄 助 辰 勝 七 孫 次 千 小 善 佐 常 新 尚 作
淸 甚 十 三 增 以上ハ齒音ノ字ニシテ金ナリ、故ニ水性ノ人ニハ金生水ト生ズ ルヲ以テ、農商職ノ人ニ吉ナリ、
○按ズルニ、此下ニ、火木金土性ノ人、及ビ女子ノ五性ニ由リテ用イルべキ名ノ字アレド、今略 ス、

〔名謁反切樞要〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0606 交名頭字
左衞門 右衞門 兵衞 助 介 丞 太郎 次郎 藏 内 等は、面々の心にまかすべし、姓にかまはず反切する事もなし、又左に記す頭字も、名より體を生ずるも、體より名を生ずるも、又姓と比和するもよし、可所望也、
茂 平 半 文 八 門 彌 萬 伴 卯 兵 武 梅 馬 芳 百 滿 米 房 邦
包 品 麻 豐 福
唇音水性の字なるゆへ金性水性によし、 覺 義 吉 彦 角 介 加 庫 久 源 元 近 郡 嘉 金 吟 九 五 岩 菊
國 幾 由 權 光 磯 江 其
牙青木性の字なるゆへ、水性火性によし、
忠 藤 太 重 理 利 林 二 六 通 治 猪 丑 仲 竹 嶋 蝶 當 侍 多
舌音火性の字なるゆへ、木性土性によし、
與 宇 乙 一 伊 友 幸 喜 安 熊 和 由 好 恒 郷 虎 酉 寅 園
喉昔土性の字なるゆへ、火性金性によし、
新 淸.佐 勝 四 七 三 千 十 小 淺 善 宗 總 甚 作 次 庄 市 常
正 政 松 秋 石 晴 春 積 種 增 辰 才 眞
齒音金性の字なるゆへ、土性水性によし、

〔韻鏡諸抄大成〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0607 勝復之事
先祖ヨリ用ヒ來リタル字、其人ノ性ニアハザルアリ、假令バ木性ノ人ニ、齒音金ノ文字ヲ父字トナス時、名乗ノ父字ヨリ其人ノ性ヲ克ス是凶ナリ、然ドモ此文字ヲ父字ニセネバナラズトアラバ、此父字ニ生ゼラルヽ所ノ唇音ノ文字ヲ母字ニ用レバ、母字ヲ父字ヨリ生ズルヲ以テ、父字ノ氣、自トヨハリテ、其人ノ性ヲ克スル事カナハズ、其上此母字ヨリ其人ノ性ヲ生ズルナリ、是負ベキ所ノ者、復テ勝ト云ヲ以テ、勝復ト云ナリ、例シテ云ハヾ、木性ノ人ノ名乗ニ數敷(カズノブ)ト云ガ如シ、是數ノ字ハ齒音ニシテ金ナリ、此金ヨリ性ノ木ヲ剋ス、然ドモ數ノ字、先祖ヨリノ通リ字ナルヲ以テ父字ニ用フ、故ニ母字ニ敷ノ水字ヲ用テ、父ノ金氣ヲ奪フナリ、是ヲ以テ其人ノ木性ヲ克スル事アタハザルナリ、

〔日用重寶記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0607 名字俗名の事
百官名の類に、相馬百官と俗呼する、その百官名の類に、諌(いさめ) 勇人(いさめ) 勇馬(いさめ) 武人(いさめ) 五百人(いはと) 夷則(いのり) 意氣揚(いきやう) 射居(ゐをり) 直郎(ろくらう) 正郎(ろくちう) 肇(はじめ) 一(はじめ) 剏(はじめ) 首(はじめ) 一馬(はじめ) 初馬(はじめ) 隼太(はやた) 波門分(はもん) 春門(はると) 八箭(はちや) 端衞(はもり) 獏象(ばくざう) 半象(はんざう) 判司(はんじ) 逸身(はやみ) 平三(へいざう) 平格(へいかく) 平作(へいさく) 亨(とをる) 唱(となふ) 十一(とをいち) 得馬(とくま) 篤磨(とくま) 兎毛(ともう) 兎也(となり) 外也(となり) 外衞(ともり) 登輔(とうすけ) 登身佐(とみすけ) 東作(とうさく) 収(をさむ) 修(をさむ) 音人(おとんど) 男女介(をめすけ) 男也(をなり) 雄也(をなり) 轍(わだち)叶(かなふ) 協(かなふ) 員磨(かずま) 算馬(かずま) 一馬(かずま) 數枝(かずゑ) 算衞(かずえ) 鼎(かなへ) 龜(かゞむ)〈音キン〉 縑(かとり) 珂土里(かとり) 佳盛(かもり) 薫(かほり) 可也(かなり) 可聞(かもん) 可問(かもん) 屯(たむろ) 糺(たゞす) 環(たまき) 丹解(たんげ) 田面(たのも) 但見(たゞみ) 湛(たゞふ) 巽(たつみ) 達(たつす) 太衞(たもり) 泰佐(たいすけ) 泰輔(たいすけ) 園面(そのも) 其母(そのも) 其也(そなり) 外箭(そとや) 十十八(そとや) 都守(つもり) 都賀夫(つがふ) 務(つとむ) 勉(つとむ) 司(つかさ) 職(つかさ) 積(つもる) 半(なかば) 央嶋(なかば) 直人(なをと) 波江(なみえ) 並(ならぶ) 雙(ならぶ) 並重(なみへ) 轉(うたゝ) 宇衞(うもり) 宇治衞(うちゑ) 昇(のぼり) 升(のぼり) 登(のぼり) 騰(のぼり) 織人(おりと) 音也(おとや) 藏紀(くらき) 藏司(くらうず) 競(くらぶ) 久馬人(くめんど) 九三二(くさうじ) 九六二(くろじ) 九二三(くにざう) 族(やから) 箭簳(やから) 舎(やどり) 彌嗣(やつぎ) 矢格(やかく) 眞(まこと) 信(まこと) 匡(まさゝ) 速(まだき) 眞澄(ますみ) 忠一(まめいち)
刑馬(けいま) 景司(けいじ) 慶三(けいざう) 原造(げんさう) 元作(げんさく) 此面(このも) 延象(えんざう) 江守(えもり) 營輔(えいすけ) 營二(えいじ) 新(あらた) 宛(あたか) 恰(あたか) 湊(あつむ) 集馬(あつめ)
中(あたる) 充(あつる) 淳(あつし) 安積(あづみ) 亞良夫(あらふ) 左右馬(さうま) 作馬(さくま) 左治衞(さぢゑ) 左恊(さけふ) 三九二(さくじ) 極人(きわめ) 究(きはむ) 潔(きよし) 競(きそふ)
欣正(きんろく) 舊馬(きうま) 舊直(きうろく) 舊質(きうしち) 勇馬(ゆうま) 往來(ゆきゝ) 佑輔(ゆうすけ) 標(めあて) 恵(めぐむ) 貢(みつぎ) 水門(みなと) 水嘉善(みかき) 滿(みつる) 三二二(みふじ)
主米(しゆめ) 首令(しゆれい) 鎭(しづむ) 靜馬(しづめ) 下枝(しづえ) 島圖(しまと) 圓象(ゑんざう) 衞守(ゑもり) 衞佐(ゑすけ) 衞夫(ゑふ) 永年(ゑいすけ) 弘(ひろむ) 弘人(ひろめ) 廣人(ひろめ)
廣紀(ひろき) 守度(もりと) 護戸(もりと) 索人(もとめ) 百紀(もゝき) 物面(ものも) 最平(もへい) 門司(もんじ) 物集女(もずめ) 千也(せんや) 淸紀(せいき) 箭正(せんろく) 専直(せんろく)
淸(すめり) 澄(すめり) 以上名字名ども、字はよめて惑ふものあり、兒童の爲、こヽにあらましを誌す、

不定名之用字

〔羅山文集〕

〈七十/隨筆〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0608 本朝古人名、改其文字者、藤原不比等、初曰史、藤原馬養、初曰宇合、橘廣相、初曰博覽、又 大枝大江、凡河内押河内、山城山背、近江淡海、大和養德(ヤマト)、耶摩堆(ヤマト)之類猶多、皆是郷音之近者、或訓或聲、假借之也、又阿部仲滿、一云仲麻呂、藤原仲滿、一云仲麻呂、麻呂二字、與滿一字、通用呼之歟、又大己貴神、大汝神、大穴持神、皆一而其字不同、亦借訓也、忌曰由機(ユキ)、次曰須岐(スキ)、後人改云悠紀主基(ユキスキ)、而忌與齋、共訓曰由機、推上項之例、而可倭語之用一レ字、庶乎擧一而明三也、然則雖百千以例焉、

〔延喜式〕

〈二十二/民部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 凡勘籍之徒、或轉蝮部姓丹比部、或變永吉名長善、如此之類、莫不合

〔日本書紀〕

〈二十四/皇極〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 元年十二月甲午、初發息長足日廣額天皇〈○舒明〉喪、是日小德巨勢臣德太(○○)、代大派皇
而誄、 四年六月戊申、中大兄、〈○天智〉使將軍巨勢德陀(○○)臣、以天地開闢、君臣始有於賊黨、令起、
○按ズルニ、德太德陀、音讃相通ゼリ、

〔日本書紀〕

〈二十八/天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 元年六月、大伴連馬來田(○○○)、弟吹負、並見時否、以稱病退於倭家

〔日本書紀〕

〈二十九/天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 十二年六月己未、大伴連望多(○○)薨、
○按ズルニ、馬來田望多、音訓相通ゼリ、

〔日本書紀〕

〈三/持統〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 四年二月己酉、以直廣肆藤原朝臣史(フムヒト)判事、十年十月庚寅、假賜正廣參位右大臣
丹比眞人、資人一百二十人、〈○中略〉直廣壹石上朝臣麻呂、直廣貮藤原朝臣不比等(○○○)並五十人

〔續日本紀〕

〈八/元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 養老四年八月癸未、是日右大臣正二位藤原朝臣不比等(○○○)薨、

〔懷風藻〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 贈正一位太政大臣藤原朝臣史(○)五首〈○詩略〉

〔續日本紀〕

〈二/文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 大寶元年正月丁酉、以守民部尚書直大貮粟田朝臣眞人遣唐執節使、〈○中略〉參河守務大肆許勢朝臣祖父(○○)爲大位、〈○位恐誤字〉

〔續日本紀〕

〈三/文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 慶雲四年三月庚子、遣唐副使從五位下巨勢朝臣邑治(○○)等、自唐國至、

〔續日本紀考證〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 祖父〈或作邑治邦訓通〉

〔續日本紀〕

〈七/元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 靈龜二年八月癸亥、是日以從四位下多治比眞人縣守遣唐押使、〈○中略〉正六位下藤原朝臣馬養(○○)爲副使

〔續日本紀〕

〈九/聖式〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 神龜元年四月丙申、以式部卿正四位上藤原朝臣宇合(○○)持節大將軍

〔大日本史〕

〈百十四/列傳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 宇合或作馬養、尊卑分脈曰、歸唐、改名宇合、宇合、馬養、音訓相通、

〔東大寺正倉院成卷文書〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 尾張國収納〈正税帳天平六年十二月史生從八位上丹比新家連石麿○中略〉 謹件収納天平六年正税雜充用之狀具注如件、仍付守從五位下勳十二等多治比眞人多夫勢(○○○)進上以解、
天平六年十二月廿四日 守從五位下勳十二等多治比眞人倓世(○○)

〔績日本紀〕

〈十八/孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0610 天平勝寶三年正月庚子、踏歌歌頭女孺忍海伊太須(○○○)〈○中略〉授外從五位下

〔績日本紀〕

〈二十三/孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0610 天平寶字五年六月己卯、賜外從五位下忍海連致(○)〈○中略〉從五位下

〔績日本紀〕

〈二十/孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0610 天平寶字二年七月丙子、正六位上山田史銀(○)授外從五位下

〔績日本紀〕

〈二十二/淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0610 天平寶字三年十二月壬寅、外從五位下山田史白金(○○)〈○中略〉賜姓連

擇名

〔江家次第〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0610 當代親王宣旨事
藏人頭、奉上﨟博士、令申御名字、兼日示氣色、當日仰之、
博士進勘文〈江家不年月日
三以下〈幷注本文幷音訓、有重紙、懸紙用檀紙、〉
勘申御名字事
某書 某 反 也
上某 反 也
右勘申如
年月日官姓名
頭以文刺奏之
定被嘉名〈○中略〉
今宮〈正家朝臣擇申〉
宗仁 尊明 後又慶仁 今上〈實綱朝臣擇申〉
善仁 守成
院〈明衡朝臣擇申、後三條院東宮、〉
貞仁 有成 博時
貞尊不宜由、公卿等申之、〈能長資綱等〉
陽成院 華山院 三條院云々〈幷貞字〉
故院仰曰、還可例、明衡曰、帝王三人、被貞字、可耻辱
後三條院 後冷泉院〈義忠朝臣擇申〉
親仁 尊仁 能成
後朱雀院 後一條院〈匡房朝臣擇申〉
敦成 敦良 敦仁
三條院
一條院〈齊光卿擇申〉
華山院〈同上、或説輔正云々、〉
圓融院〈維時擇申〉
冷泉院〈在衡卿擇申〉
維時擇申故慶賴親王名、仍在衡卿擇申由、見九條記
村上
朱雀院〈等可之〉
寛明

〔中右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0612 元永二年五月廿八日癸酉、雜色相逢云、皇子〈○崇德〉降誕、六月十四日己丑、大學頭敦光朝臣來談云、若宮御名可擇申、依院宣撰申也、件勘文、内々所見合也、顯仁、此字又予〈○藤原宗忠〉披見云、顯仁〈ハ〉反音傾音也、頗勝也、 十六日辛卯、巳時許參院、候北面之間、大學頭敦光朝臣、進若宮御名勘文、頭辨奏聞、則以頭辨仰下、親王宣旨、來十九日也、件日御名字、雖一日被沙汰、當日時刻推遷也、仍兼日一定也、此勘文、心閑見定可申者、披見之處、顯仁爲仁也、爲ハ平聲成也、此二字之中、顯仁勝也、就中反音傾也、仍顯仁勝之由奏了、頭辨又爲御使左府了、後聞左府顯仁宜之由被申云々、已叶患案也、

〔台記別記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0612 久安四年七月十三日戊戌、夫人〈○藤原賴長妻〉名字、可擇獻之由、使親隆朝臣仰式部權少輔成佐、〈成佐有疾、仍不召仰、〉 十六日辛丑、親隆朝臣、獻成佐擇進名字、令菅登宣、〈無官六位〉以智者故也、所對不分明、令公能卿、又内覽禪閤、〈○賴長父忠實〉問師安、皆以爲可幸子、即申禪閤曰、古者女御内親王等名可避歟、西宮文、〈女叙位所〉后之外不避由所見也者、御返事載之、同師安返事同載、勘申御名字事、

玉篇曰、奴登反、工也、善也、廣雅曰、能任也、周禮八統四曰、使能鄭玄曰.多材藝也、
師古漢書註曰、能本獸名、爲物堅中而 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00015.gif力、故人之有賢材者、皆謂之能

唐韻曰、職縁反、政也、誠也、
杜預傳左傳註曰、専自建也、
賈逵國語註曰、専猶擅也、
禮記曰、君専席而酢焉、
毛詩正義曰、夫人専夜、
幸 玉篇曰、胡耿反、説文曰、幸而免凶也、
如淳漢書註曰、天子車駕所至、民臣以爲僥倖、故曰幸、
右勘申如
久安四年七月十六日 式部權少輔藤原朝臣成佐
能子
専子
幸子
右件名字、不國母后宮貴女名人等候、但能子延喜女御也、〈右大臣定方女〉然而就吉凶名人候歟、幸子優候歟、男女親王名、近代 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00015.gif避候歟、盛章敦保敦方等是也、況於女御更衣哉、元撰名字之時、避帝王皇宮攝籙大臣名人刑人等候云々、宜此旨言上、師安恐惶々々、
七月十六日 大外記中原師安〈請文〉
此事不勘侍、仍難進止侍、但古女御名、無覺侍、幸字ハ一切人、吉字知侍ハ、幸字打聞侍に、吉侍者歟、於深事者、不知給侍也、屋外夜前御返事遲々、
十七日壬寅、名夫人幸子、密問吉日於陰陽師、申今日吉由仍名之、書幸子二字於一紙夫人、京極大北政所、延久三年八月廿日名也、承保元年六月廿五日、叙從三位、〈本無位〉爰知叙位日名一レ之豫名之、

〔台記別記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0613 久安四年八月七日壬戌、依憚之日、成佐獻女子名字勘文、〈依疾不來、以書獻之、〉即問名於禪閤、攝政殿下、侍從中納言成通卿、大外記師安、駿河守雅敎、前少納言俊通、前能登守孝能、前肥前介賴業、蔭孫菅原登宣、又泰親問釋信西、〈問嘉事於法師、専可之、是以如余、告其名於泰親、問信西余命、故不使也、〉各所對續載狀左、又權中納言公能卿所對不詳、 勘申
御名字事

唐韻曰、此縁反、香草也、
王逸楚辭註曰、荃、君也、
李善文選註曰、香草也、以諭君也、人君被芬香、故以香草諭、

玉篇曰、旦何反、衆也、重也、大有也、
説文曰、重夕爲多、
子夏詩序曰、螽斯、后妃子孫衆多也、
鄭玄詩箋曰、君其子孫衆多、將日日以盛
尚書曰、成周既成、周公作多士

玉篇曰、似用反、形容也、頌其盛德
公羊傳曰、什一行而頌聲作矣、何休曰頌聲者、大平歌頌聲、帝王之高致也、
文選序曰、頌者、所以游揚德業讃成功
毛詩正義曰、王功既成、德流兆庶、下民歌德澤、即是頌聲作矣、又曰、頌之言容、天子之德、光被四表、格 于上下、無覆燾、無持載、此之謂容、於是和樂興焉、頌聲乃作、
右勘申如
久安四年八月七日 式部權少輔藤原朝臣成佐 如此事、計申條尤見苦侍、仍不申侍也、女子名字床上之可計仰候、自其殿仰候、付御使申候也、以此旨申、謹言、
八月七日 賴業
日記賜預了、大治之比抄出、件日失之條、日記未歟、重爲引檢遣召了、未持來之間、自以遲引、名字勘文一見了返奉之、字作幷所引之文、皆以神妙、不具、謹言、
荃多頌三字之中、於多字者、雖指釋、連多子之時、頗可宜歟、名實賓之故也、
適蒙仰不參仕候之條、極恐思給候、所勞之條、境節申限不候者也、
昨日所下給候之御名字勘文一通、謹以返上之、先度如此沙汰候之條、且面目無極、且怖畏不少候者也、幼少之昔、雖鑚仰http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00015.gif仕之今、都以廢忘、疾逐年侵、性經日慵候之故也、就中於此事者、不子細候、難計申候者也、但廻愚案、荃字與東三條院御名〈○圓融后藤原詮子〉同音、雖吉例、本文屈原詞、頗不快候歟、多字宜候歟、字作重夕、孝武本紀、天子如郊拜泰壹、朝朝日、夕夕月云々、頌字作頁公也、然則公子之義、不皇胤之心候歟、偏不申候者、又依其恐形所言上也、且所勞之間、委不引勘候也、以此旨然之樣、可言上候者也、雅敎、誠恐謹言、
八月八日 民部權大輔雅敎上
修理大夫殿
荃字
訓不分明、委可尋問
頌字
其難
多字 女以多字勝、何況又説文重夕爲多云々、付之重夕者、専夜之儀也、彌可最吉
右三字之中、隨管見所一レ及、注申之狀、如件、
久安四年八月七日 前備前權守源俊通
御名字勘文拜見返上之、愚案之所及、多字優候歟、名字多可平聲云々、又親王幷婦人名、訓未慥之字不用云々、是出公御前、不聲、可訓之故云々、而近代問訓不慥字等見候如何、就中多字、万佐留(マサル)云訓候歟、彌神妙覺候、子細只今參入、可言上候之狀、如件、
八月七日 大外記中原師安〈請文〉
荃〈蘭荃一物也〉
左傳
鄭文公有賤妾、曰燕嬉、〈嬉名燕姓〉夢天使己蘭〈蘭香草〉曰、余爲伯鯈、余而祖、〈伯鯈、南燕祖也、〉以是爲而子、〈以蘭爲汝子名〉以 蘭有國香、人服媚之是〈媚、愛也、欲人愛之 如一レ蘭也、〉既而文公見之、與之蘭而御之、
久安四年八月七日 散位孝善

玉篇曰、旦何反、〈旦字日下有一、何字人可也、日下一人可也、反音既佳歟、〉
説文曰、重夕爲多、〈后妃有王寵、與御重夕、尤可優美、〉
毛詩序曰、螽斯、后妃之子孫衆多也、
螽斯之篇、述后妃子孫衆多也、大姒爲文王之正后聖子武王、子孫衆多而周祚長久也、

夫婦之義、以愛爲先、文既重夕、情同専夜、加以子孫衆多、后妃至德也、又反音旦何、旦日一、何人可、我 朝日本爲號、既日下有一人可也、尤叶其宜矣、 頌
聖主在上、人頌其德、以此文字其義、名者定爲天子之裏者歟、
荃〈信西〉
文選曰、荃不余之中情兮、反信讒濟怒、是屈原之詞也、此文不吉歟、若是以東三條院御名同音 之字擇申歟、抑後宮、以草合名之人、贈后茂子、茨子等、於皇胤吉例也、至其御身者、平生不 后位、吉否之間、可御定

訓釋雖吉、多子之義、可宜歟、

字云頁公子、然則公子之義、不帝子之心歟、
八日癸亥、以成通卿、雅敎、信西、師安、所對之書、奏法皇〈○鳥羽〉曰、從衆議多子、他小學生、多持多字、其書以鄙生上、〈以消息奏也〉手書報詔曰、尋了名字事、人々多字無難之由令申侍者、可件字侍事歟、如此事者、無治術侍事也、以他事押計侍事也、端書曰、只打聞侍に、めでたくこそ覺侍、巳刻、使親佐、〈親佐、成佐弟、〉問荃子訓於成佐、對曰、王逸楚辭註云、荃、君也、加之勘楚辭云、荃不余之中情云々、其文勢似荃爲一レ君、因之先師春宮亞相〈師賴〉讀作君、復言、先師平生常言、汝若有貴女名者、以荃頌等字、就中荃字音、同東三條院御名詮子、可吉例焉、臣今至於此、故守先師之命而巳、 九日甲子、今日女子多子、〈年九〉叙從三位、〈本無位〉自昨日除家中〈大炊御門北、高倉東方一町亭.石大將同居、〉敷砂、今朝余出巡檢、午刻右大將來、余示衆議多字之由、對曰、諾、未刻範家來、〈先日招之〉使憲親〈布衣〉賜女子名字、〈書多子二字於檀紙一枚、公親書之、無禮紙、〉曰、非此書、爲汝賜之、

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0617 久壽元年八月十七日戊戌、新大納言送書、傳法皇〈○鳥羽〉命曰、永範朝臣擇申内親王名字勘文遣 之、可何乎、但今日親王宣旨延引、
夜新大納言使淸職示曰、明日可下親王宣旨御名字、早可定申者、申曰、擇申三字、皆有難、重擇申可宜歟、十八日己亥、饗儀了參内、〈○中略〉更闌光賴朝臣來曰、只今新大納言參入、可壽字之由所申也、余〈○藤原賴長〉答曰、壽者、衞宣公之子、遇殺者名也、〈見桓十六年左傳〉非其忌如何、光賴退告大納言、大納言曰、夜及深更、不鳥羽、勘例統子内親王宣旨後改名、依彼例今夜用壽字、後日改名、何事之有乎、余即著陣、光賴朝臣下親王名、余結申、光賴曰、可内親王、余稱唯卷之、召左大辨之、大辨退下、次光賴來、仰侍從藤原朝臣〈成通〉爲内親王別當之由、即仰左大辨、〈不召立〉又示成通卿、次成通、公敎、重通、公能等卿、進射場慶、此間余參鳥羽〈北殿〉奏慶、土佐守季行朝臣〈別當〉傳奏、是大將慶也、此間曉鐘頻報、次昇堂、家司職事申慶了、余退出、〈東三條〉大將饗三獻間、新大納言奉院宣、送親王名字勘文曰、依閤下定申本勘申、依壽諱用、依仰重擇申也、見件勘文、載姝擇好三字、申曰、禮儀中間、不文書、但姝擇無殊難歟、如此事、被太政大臣、被定申宜歟、 廿九日庚戌、頭光賴朝臣來曰、内親王改壽子姝子〈○鳥羽皇女〉者、示書下之由、即書檀紙之、

〔兵範記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0618 久安五年十月十六日甲子、今日左府〈○藤原賴長〉若君、〈十二、信雅朝臣女腹、女院宮仕督殿、〉有所々昇殿事、依入道殿御沙汰也、〈○中略〉
今朝大學頭維順朝臣、注獻御名字
實家 家敎
皆不用之、左府有御議定、被師長云々、

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0618 治承三年四月十七日乙巳、此日小童加首服、〈○中略〉同刻成光朝臣、令名字勘文、須持參也、而依頓病路頭歸家云々、
良經 經通 家通 右擇申如
治承三年四月十七日 豐前守成光
余〈○藤原兼實〉案之、先年三位中將、元服之時、兄長光勘進名字、不右狀年號署所等、今以如此、不是非、又署所不姓、頗不審也、

〔百練抄〕

〈十四/四條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0619 貞永元年十一月廿四日庚午、當今〈○四條〉同胞妹親王宣旨也、御名字暐子、式部大輔爲長卿擇申、

〔園太暦〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0619 貞和二年二月廿日、法皇〈○花園〉皇女、今夜立親王事候、御名字課在成卿之處、如此注進候、何字可用候哉、須入萩原殿候處、毎事省略、一向可計沙汰之由蒙仰之間、不遼遠伺申候、此内舊字候やらんと不審に候、貴子、後深草院第一皇女に候、但内親王名字、用舊字之條例候歟と思給候、就是非抄物引勘之條、只今計會事候間、きと申合候也、
仰下候旨畏承畢
内親王御名字事、在成卿勘文、令拜見畢、祺字は崇明門院御諱候、貴子は保明太子妃、貞信公〈○藤原忠平〉女に候歟、而後深草院皇女御名字被採用候歟、於内親王御名字は、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00015.gif憚候、可時宜候、歟、祝字、元釋神妙に候歟、若未用者、今度被用候條、可何樣候哉、以此旨計披露給候、公賢、誠恐頓首謹言、
二月廿日
大宮宰相殿
勘申
御名字事

陸法言曰、居謂反、高也、
公羊傳曰、子以母貴、母以子貴、

王仁 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00072.gif曰、之育反、求永貞也、
左傳曰、杜預曰、祝上壽也、

東宮切韻曰、巨基反、福祥巨孫、納言云、吉祥也、
爾雅曰、麻果云、毛詩壽考惟祺、祺吉也、微之先見也、
右勘申如
貞和二年二月十八日 勘解由長官藤原朝臣在成

〔後深心院關白記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0620 應安四年三月十日甲午、頭中將宗泰朝臣、爲勅使來、宮〈○後圓融〉御名字、〈勘文在之〉可何字乎、可計申、答思案上可申之由
頭書云
勅問人々 關白 前相國 内大臣 藤中納言云々
勘文如此、字訓相尋、勘者所注付也、
勘申
御名字事
昭(テル)仁
廣韻曰、昭、上遙反、日明也、著也、
左傳曰、五色比象昭其物、 東宮切韻曰、理政事而至成功、謂之仁
爾雅曰、大平之人、仁也、
成(フサ)仁
東宮切韻曰、陸法言曰、成、市征反、就也、平也、善也、
尚書曰、地平天成、
緒仁
玉篇曰、緒、似呂反、
東宮切韻曰、事也、録也、
毛詩曰、纉禹之緒
右勘申如
應安四年三月日 正三位行勘解由長官菅原朝臣高嗣
十二日丙申、裏書云、
余申詞如此〈注折紙
御名字事
昭字成字、字訓共以不叶引用書之義、緒字無殊難
廿四日戊申、御諱被緒字云々、愚意之所存、無相違歟、

〔建内記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0621 嘉吉元年八月十六日庚辰、月輪中將家輔朝臣、爲殿下〈○二條持基〉御使來、武家御名字事、任鹿苑院殿〈○足利義滿〉御例計申由、有其沙汰之間、雖斟酌、任佳例申沙汰也、仍爲淸卿撰申内、可淸撰、難心得之段、先度事舊了、可如何哉、此内可寮見之由承之、
義行〈切 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00073.gif 身長好貌〉 義敏〈切釿〉 〈齊也、劑斷也、劑分劑也、〉
義繁〈切元〉 〈元、善之長也、〉
義勝〈切凝〉 〈水竪也、結也、成也、定也、嚴整之貌、〉
義種〈無形〉
義豐〈切 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00074.gif〉 〈獸似豕〉
義富〈切 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00075.gif〉 〈仰鼻也〉
義淸〈無形〉
義行 中將云、九郎判官〈○源義經〉没落之彼、一旦稱之由有或説云々、予〈○藤原時房〉申云、然者不思寄 事也、朝敵不然、
義敏 此反字、分際ヲ定タル樣ナリ、可憚歟、
義繁 此反字、尤可然、但新田先祖義重、可如何候哉、無益歟、可評義歟、故道孝禪門名字、
初義重、後義敎也、義敎先御代爲御名字、又以義重之同訓御名字事、不憚哉、 同可御沙汰之由申之、
義勝 者、一色故六郎早世之名也、可憚之由先御代有仰、今更難之、
義種 志波故修理大夫名字也、有何事哉、無難候人也、然而如何、
義豐 先御代及御沙汰了、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00074.gifハ唐人ノ食メル獸ナリ、好雨、クサク穢ラハシキ獸トテ、不之、然者難擧歟、
義富 者、反字之訓ハスキレ鼻歟、難之、
義淸 者、武家逸見小笠原等元祖歟、無其難之人歟、不之、被相尋之、可御沙汰哉、
所詮只今八之内、五者巳有子細歟、義繋義種義淸三之内、猶可評定哉之由申了、今日中山宰相中 將〈定親卿〉參執柄、可申談之由申之由、中將所語也、
十九日癸未、今日巳刻、御名字治定、御叙爵宣下也、〈○中略〉關白〈持基公直衣〉參内、被彼御名字事、被宸筆、貞治鹿苑院殿、應永普廣院殿〈○足利義敎〉如此、關白於議定所御對面、中山宰相中將、〈定親卿〉參仕申次之、關白直給之、令向室町殿給、御名字、關白被計申之、但大藏卿爲淸卿、以儒卿之謂、如反音注進之、去十六日、中山宰相中將參執柄評定、大外記業忠、參關白淸撰、且如管領候、被仰談之談仰歟、以義勝治定者也、反字凝、〈水堅也、成也、定也、〉此二字、先年於執柄之其内也、今度爲淸卿成上勘文、只儀式許云々、於勘文者、字釋載之、於宸翰者、只義勝二字也、〈以立紙、有裹紙、令書御、〉

〔親長卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0623 文明四年八月十一日、晝以後參内〈直衣〉新大納言、〈敎秀〉廣橋大納言〈綱光〉等祇候、〈各下姿〉條條談奏聞、〈○中略〉
一親王御名字事、〈高平、雅明、通堯、〉前菅大納言〈益長〉草進也、〈○中略〉
親王御名字事、高平可然、〈雅明事、爲親王御名字之由予出之、引見御系圖之由依仰、於御前之、醍醐天皇御子雅明也、〉仍被高平了、

〔親長卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0623 文明十二年十二月八日、親王宣下、依御名字勘進遲々延引、可十三日云々、十二日、依若宮御名字事方々尋之、〈勅問〉巨細在別、 十三日、御名字猶未定、令治定者、可勘文之由、菅中納言〈在治〉被重勅問、及晩頭御返事到來、勸修寺大納言申送云、歡樂〈餘醉々々〉之間、直可奏聞云々、予持參、〈昨日御申詞、今日重申詞等持參、昨日只御名字許、被料紙各申了、〉〈各々寫之各進了、今案、依急事如此沙汰了也、後度注引文、〉申詞如昨日之由各被申、
勅問人數
禪閤〈御輕服 勝仁、貞高、英仁、〉太閤(二條)〈御輕服 英仁、勝仁、〉九條前關白〈政基 貞高、英仁、〉關白〈政家、勝仁、〉西園寺前内大臣〈實遠、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif(カタ)仁、〉
勝仁、小人之俗難有之、不謂之由禪閤被申、兩三人擧奏之間、可勝仁〈○後柏原〉云々、
官〈宣旨用意〉幷勘者
抑御名字事、奉行職事、可仰勘者歟之由存之處、傳奏直申之處、臨勅間之期、申奉行之條不其意、可 御敎書之由、菅中納言〈在治〉申之、〈○中略〉元長自御所出高檀紙御名字、〈勝仁 二字許也〉

〔陰德太平記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0624 丹比松壽丸元服附明人相人相
永正八年、丹比松壽丸、十五歳ニ成給ヘバ、元服可有トテ、此由母公ヨリ佐藤ノ某ヲ京都ヘ上セ、舎兄毛利備中守興元ノ許ヘ宣ヒ送ラル、興元、吾ヲ少輔太郎ト稱シケル間、松壽丸ハ、少輔次郎ニテゾ有ベキ、實名ハ元ノ字ハ當家ノ字ナレバ不云、下ノ字ハ、東福寺ノ彭叔和尚ヘ尋ネ候ヘト宣フ、佐藤、頓テ惠日山ヘ立越、吉侍者ヲ以テ、實名幷ニ本卦ノ事ヲ申入タリケレバ、和尚、韻經及周易ヲ考ヘテ、實名ハ元就ト可稱、又本卦ハ師ノ卦、上六ニ充テ候、上六ハ、大君有命、開國承國、小人勿用トアリ、如何樣、名大將ト成テ、數箇國ヲ切隨ヘ給フベシ、但今庶子ニ生レ給タリト雖、宗領家相續シ給ベキ本卦ニテ候トゾ被答ケル、斯テ佐藤、吉田ヘ下リ云々ノ由反命シタリケレバ、頓テ松壽丸殿元服有テ、丹比少輔次郎元就ト稱シ給フ、

〔尚通公記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0624 永正九年二月十六日壬辰、頭辨伊長朝臣來、有勅問之事、若宮〈○後奈良〉御名字事也、菅中納言〈○和長〉勘進之也、加愚案申入由令返答、勸一盞
御名字事
知仁(トモヒト)
廣韻曰、知、陟離切、覺也、欲也、
禮記曰、序其禮樂、備其百官、如此而后、君子知仁、注曰、知仁知禮樂所一レ也、又中庸篇曰、舜其大知也 與、好問而好察邇言
廣韻曰、仁.如鄰切、仁賢、
禮記曰、仁者、右也、道者、左也、仁者、人也、道者、義也、
恭(ウヤ)仁〈字哉(ウヤ)也〉 廣韻曰、恭、九容切、恭敬也、
毛詩曰、賓之初筵、温温其恭、
禮記曰、〈中庸篇〉君子篤恭、天下平、
齊(クゞ)仁〈多太(タゞ)也〉
玉篇曰、齊、在奚切、美貌、
毛詩曰、人之齊聖、注曰齊正、
禮記曰、〈中庸篇〉齊明盛服、非禮不動、所以修一レ身也、
誠(サネ)仁〈佐禰(サネ)也〉
玉篇曰、誠、時征切、實也、信也、
韻會曰、伊州程氏曰、無妄之謂誠、
禮記曰、〈中庸篇〉誠者、天之道也、誠之者、人之道也、
正明(マサアキラ)
禮部韻曰、正、之盛切、中正、正者無邪也、君也、長也、定也、平也、正直曰正、又當也、
毛詩注曰〈關睢篇〉君臣敬則朝廷正、朝廷正則王化成、
禮記曰、官職相序、君臣相正、國之肥也、
廣韻曰、明、武兵切、光也、照也、通也、
毛詩曰、明明上天、照臨下士
禮記日、君者、所明也、非人者也、注曰、明猶尊、
權中納言兼大藏卿菅原和長
十八日甲午、若宮御名字、申詞以後、示遣甘露寺、申詞如此、 御名字勘進内、可何字哉事、
知字、龜山院皇子御名字也、既非吉例、何被同字耶、
恭齊兩字、其訓頗可俗難、殊齊字反音神也禮部韻曰、神靈妙不測云々、最有憚者乎、
明字、聖代及度々、爭被置之、但近代不仁字之上者、用捨叵計申焉、
誠字、後三條院皇子御名字實仁也、雖同訓、可宥用哉、禮記曰、禮不嫌名者、其謂之歟、仇對實 字、不誠字、則禹與雨之類也、此外 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00015.gif而被採用者、雖子細恭字歟、猶宜聖斷矣、
三月十四日己未、從禁裏頭辨伊長朝臣、御名字重勘進内、可計申由被仰出候間、從是可申入之由、令對面返答
勘文
御名字事
持(モチ)仁
玉篇曰、持、直之切、握也、
孝經曰、道者扶持萬物
定(ヤス)仁〈耶須(ヤス)也〉
廣韻曰、定、徒徑切、安也、
禮部韻曰、定、安也、
毛詩曰、共武之服、以定王國、〈箋曰、定、安也、〉登(モロ)仁〈毛呂(モロ)也〉
廣韻曰、登、都滕切、成也、衆也、
禮部韻曰、登、衆也、熟也、 禮記曰、農乃登穀、天子嘗新、
權中納言兼大藏卿菅原和長
十八日癸亥、申詞進伊長朝臣許、使俊永也、
御名字、重勘上内、可何字哉事、
持字、高倉宮御名字、以仁也、其訓既相通、可不快、何致撰用也、
定字、是又其訓通、康仁太子諱之間、可其憚之由存之、
登字、奉一人之所、其訓頗有俗難、三字共叵計申、猶可撰申之由可仰下耶、
管見所窺定、有魯魚迷哉、宜時誼矣、四月九日癸未、基規朝臣來云、昨日午刻宣下、〈○中略〉
御名字知仁云々、内々以元長卿、一條前關白〈江〉御談合云々、彼前關白、内々被擧申候歟、古來俗難、 殊以龜山院皇子不讓位、頗可不快歟、不言之、

〔宣胤卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0627 永正十四年二月六日、大藏卿狀到來、
一條殿名字事、先度承尊意之已後、猶以雖勘試候、此五字之外、不了見次第候、先度申談候御字 共者、如是之難共候間、是又不力候、御家字於得者、室町殿御字、可申請候哉、是又無力次第 候歟、仍此一紙註調候、可尊意候也、誠恐謹言、
二月六日 和長
中御門殿
嗣良〈切常〉嗣平〈切 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00076.gif〉兼藤〈切 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00077.gif〉内冬〈切農〉内良〈切孃〉
巳上此外者無于勘一レ之候
房忠〈此字雖宜候、二條名字、打返之間、於加冠人者、不然條、難用存候、〉
兼長兼賴冬賴〈此三字事、惡左府已來、賴長二字、不用之由庭訓之條、無了見候也、〉
兼冬經冬〈此兩字、反切字攻也、是不了見候、〉
右前件字、如是之條、前五字之内、可如何候哉、雖新字其字者、可用事候哉、藤字事、可如何候哉、攝家無其例之段雖紛、難得之時不不吉例歟、
又就其字、雖不吉例、可武家御字歟、然者此等字如何、
稙嗣〈切置〉稙冬〈切冬〉稙房〈切張〉稙忠〈切中〉稙良〈此字武家御字、打反同訓之間不然候歟、仍不注進存候也、〉
今日令物詣、只今芳問令披見候、彼御名字事、端五内者、内冬内良、尤可然存候、室町殿御字五内、端四各宜存候、其内房字、無庶幾之由、就他事先日大納言殿仰候シ歟と存候、兩端可甲談候哉、及黄昏候間、馳筆申候、恐惶謹言、
二月六日 乗光
嗣良〈後普賢寺關白、本名 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif嗣也、打反不庶幾、丞相名字、打反用之事、於他家者連綿、於攝家モ未其例、先日注内、房 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif之、殊先祖字打反事無例事也、其旨令演説了、〉
兼藤〈藤字於攝家例、不用之定、土佐房冬、元服之時、後妙華寺殿承了有御狀、其時大藏卿勸進内、房藤有之故也、凡諸家藤字、多不快也、當家ニハ經藤藤房藤長、〉
一内字事、一條殿流、内實内嗣不快也、芬陀利華院關白〈内經〉嘉例也、
一室町殿御字事、政房不吉也、於兵庫横死、敎房公、又難吉例之由、大納言殿演説勿論也、依之房 字無庶幾也、
十九日、一條殿御狀到來、
若公御名字事勘進候、此内申談候へども、程にまいらせ候、此方の心中、いづれもにて候、さりな がら取分、初後二之間歟と存候、〈○中略〉謹言、
十九日 房家
中御門殿 兼藤〈切 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00077.gif〉嗣良〈切常〉房通〈切蓬〉 此三注折紙、和長卿進之、
御書畏拜見候、御名字事、三内、奥尤可然存候、下通字、御先祖度々御佳例候、藤字事、攝家無例候間、 難用之由、故御所被仰置候御書(土佐御方御所元服時、御談合、)所持候、其外又存旨候、粤不左右存候、猶可仰談候哉、内々 可御意候、恐々謹言、
二月十九日 乗光
御返事
平松少將殿
四月卅目、今夜一條若公〈九才〉御元服也、〈○中略〉一御名宇和長卿注進、〈房通〉

〔國師日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0629 元和六年九月五日、御城〈江〉被召、出仕大炊殿、上野殿、對馬殿、御奏者にて御對面、若君樣、御國樣御名乗字、切可申上由被仰出
家忠〈如此引合、一重ニかき、上包シテ上候、〉 忠長 如
公之字 章之宇
右御意に入、則書付阿備州〈江〉渡候而、傳奏〈江〉被見候樣にと御諚候、
若君樣 御國樣
家忠(御名乗)〈如此引合一重ニかき上包シテ阿備州〈江〉渡ス〉 忠長(御名乗) 如
右阿備中殿〈江〉渡退出、又備州御望にて右のごとく書て渡候、是は内證、先傳奏〈江〉見せ申度由 也、御官位若君樣者大納言、御國樣は宰相也、
六日、於御城御年寄衆對談、先日之若君樣御名乗、花山ノ元祖ニ在之由、傳奏衆之中上由也、則御名乗七ツ書付、字切ヲ見テ掛御目候、家光岡ノ字ニ切ル、御意ニ入、則書付ル、大高一重二ツ折ニシテ書之、御國樣ノモ先日ハ引合ニ書候而、大高ニ同前ニかきなおす也、かきやうも同前也、大高ハ御前 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00078.gif出ル、御右筆衆持て出ル、停書也、

〔基熙公記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0630 延寶七年十一月廿二日癸丑、新院〈○後西院〉より姫君へうつぼ物語等白銀等拜領、御使平松前中納言、女房姫君等對面、此序姫君名之事、若於江府定歟之由、此中風聞之間、令平中納言勘之、重而可書進之由有領狀、 廿四日乙卯、從平中納言文、姫君名字撰給、房(フサ)、隠(ヤス)、定(サダ)、常(ツネ)、繁(シゲ)、常、殊宜之間令治定了、

〔宗建卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0630 享保十九年四月四日、内々殿下、〈○近衞家久〉以宗建右被申上之條令言上後、殿下以紙面宗建申願、來廿一日、御息被元服之故也、
名字事
右家熙元服之時、勅撰賜宸翰、元祿年中、家久加首服、内々注進賜御點、今度任祖父例、宸筆願存候、〈○中略〉
名字事、若於御尋者、所存者、左之名字之内、被叡慮宣下者、猶以可畏存候由也、
内前 稙久 基前 内前二字有勘物、古文内前行、〈略之〉
廿一日、關白殿下若君有御元服事、〈○中略〉大夫殿御名字内前、去十九日、勅撰被宸筆、殿下御參被申出之了、是陽明〈○近衞家〉近代例也、

〔大江俊矩記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0630 文政元年九月廿四日己未、太田勘解由先日賴越名乗字幷華押之事考遣、今日八太郎へ渡遣了、
誠久(ミチヒサ) 〈歸納〉 受〈○華押略〉
中庸云、至誠無息、不息則久、

命名

〔御産の規式〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0630 小兒に名をつくる事
一小兒に、をさな名を付る事は、七夜につくる也、名のなき程は、若子とよび、主人の子をば若君とよぶ也、名は父の心にまかせて、何なりとも付らるヽなり、又家により、定りたるをさな名あり、父 の方より名を折紙に書て、大刀刀などそへて參らせらる、をさな名は、或は松竹鶴龜などの齡久きもの、又は百千萬の多き數、四季の名物などの名をとる事定法なし、をさな名は、何麻呂と名づくる事本也、後に元服して男になりたる時、何太郎、何二郎、何三郎などヽ名を付也、〈源氏は源太郎、平氏は平太郎などヽ云なり、〉是をゑぼし名といふ、其時實名をもつくる也、をさな名、何太郎、何次郎などいふ名をつくるは非なり、

〔徒然草〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0631 人の名も、めなれぬ文字をつかんとする、益なき事也、何事もめづらしきことをもとめ、異説をこのむは、淺才の人のかならずある事なりとぞ、

〔元服法式〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0631 元服次第〈○中略〉
一元服以前は實名(ナノリ)なし、元服の日、加冠の人の名のり字を申受て、家の通り字ある人は、その通り字と、とり合せて實名をつく也、又主君の御一字を拜領して、名乗る事も有、〈○中略〉
一主君へ御字の儀、願ひ置たらば、主君の御館へ出仕して、御字御腰物等給る也、公方樣より御字拜領の事、折紙に被遊候て、御大刀又は御腰物にそへられ候て、御盃頂戴の時に、直に被下候を、一ツに取ていたヾき、御字をば左の手に持退出候、御腰物そへられ候事は、まれの儀に候、先御大刀計に候、御腰物そひ候時は、大刀のおびとりの間にとりそへ退出候、
一公方樣へ御字申請る事、兼日申上候時、下の字、何と申字と申上、二字ともに御筆を染られ被下候事も有之、只御一字計御筆を染られ被下候事通法にて候、御字の折紙は引合也、御字を上におき、下の字は、我家々に定る字を付く事勿論也、

〔刊謬正俗〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0631 名字類
禮郊特性、冠而字之、敬其名也、鄭玄註云、重成人之時甲レ之、冠義、已冠而字之、成人之道也、左傳、申繻曰、名有五、有信有義有象有假有類、以名生爲信、以德命爲義、以類命爲象、取於物假、取於父類、 不國、不官、不山川、不隠疾、不畜牲、不器幣、内則、凡名子不日月、觀此則名字之義、各有深意、今按、所謂名者今之實名也、俗或曰名乗、字者今之假名也、俗或云俗名、〈凡平生對人稱呼者、是爲字也、〉國人命名.不其義如何、徒合兩字以自命、殊無意義、顧名思義之義、何在哉、有志之士、須二字相適者、或剪截經書中字樣、以自命名可矣、

〔禮記〕

〈二/内則〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0632 子生、〈○中略〉三月之末、擇日剪髪爲鬌、男角女羈、否則男左女右、是日也、妻以子見於父、〈○中略〉夫入門升阼階、立于阼西郷、妻抱子出房、當楣立東面、姆先相曰、母某敢用時日、祇見孺子、夫對曰、欽有帥、父執子之右手、咳而名之、妻對曰、記有成、遂左還授師、子師辯告諸婦諸母名、妻遂適寢、夫告宰名、宰辯告諸男名、書曰、某年某月某日某生而藏之、宰告閭史、閭史書爲二、其一藏諸閭府、其一獻諸州史、州史獻諸州伯、州伯命藏諸州府、夫入食如養禮
世子生、則君沐浴朝服、夫人亦如之、皆立于阼階西郷、世婦抱子升西階、君名之乃降、適子庶子見於外寢、撫其首、咳而名之、禮帥初無辭、
凡名子、不日月、不國、不隠疾、大夫士之子、不敢與世子上レ名、

〔隨意録〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0632 名字之制、初生之時、父名之爲名、冠而名之爲字、漢世以來、或舎其幼名、而改名者亦有焉、凡冠以後、自己稱名、自他稱字、禮也、然尊貴之於卑賤、則皆呼其名也、我方之俗、初生所名以爲俗名、而自他與稱之、冠而所名、以爲實名、俗謂之名乗、若有敬、則稱其實名、而其謂之名乗者、何謂也、予〈○塚田虎〉按.我方古言、謂告曰能留(ノル)、如萬葉集曰家農禮名農禮(イヘノレヽナノレ)、告家告名之謂也、故後人之言、亦初相見曰名能留(ナノル)、則告名也、斯名自己告之義、乃俗謂之名乗者、方言訓乗曰能留(ノル)、假字耳、字素當告名、爲名告逆也、不知者、不實名名乗、可笑也、

〔古事記傳〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0632 凡て古の御代々々の王等〈皇子皇女男王女王等を、古は凡て王と云へり、〉の御名に、種々の色あり、今茲に其大概をいはヾ三種なり、一には由縁に就て諸物名など以てつけられたる、二には居地名を以 申せる、三には美稱(ホノタヽヘ)て付奉れるなり、王等のみならず、凡人の名どもヽ、大方此三種なり、さて此三色の例を一〈ツ〉二〈ツ〉づヽいはヾ、垂仁天皇の御子、火中(ホナカ)に生坐し故に、本牟智和氣(ホムチワケノ)御子と著られ、景行天皇の御子、雙生坐るを、父天皇異坐(アヤシミ)て碓(ウス)に誥(コトアゲ)し給へりし故に、大碓(オホウスノ)命小碓(ヲウスノ)命と申し、應神天皇は生坐し時に、御腕に鞆(トモ)のごとくなる御肉の坐ける故に、大鞆和氣(オホトモワケノ)命と申し、仁德天皇と建内宿禰の子と、同日に生坐て、木兎(ツク)と鷦鷯(サヾキ)との祥ありしに因て、其祥を相易て、御子を大鷦鷯(オホサヾキ)、建内宿禰の子を木兎(ツク)と名け坐し、淸寧天皇は生坐ながら、御白髪坐ける故に、白髪(シラガノ)命と申し、反正天皇は御齒の奇(クシ)びに坐しに因て、水齒別(ミヅハワケノ)命と申しヽが如きは、由縁の物名を取て著け奉れりし證例なり、又聖德太子は厩の戸にして生れましヽ故に、厩戸(ウマヤド)と申し、天武天皇の御子大伯(オホクノ)皇女と申しヽは、備前國の大伯(オホクノ)海にして生坐しヽ故の御名なる、是等も處名ながら、猶由縁に就きたるなり、次に開化天皇の御孫、沙本毘古(サホビコノ)王の沙本(サホ)に坐し、〈此王、垂仁天皇を弑せ奉らむと謀ける時に、天皇の大御夢に、抄本(サホ)の方より暴雨降來と見坐しヽこと見ゆ、〉應神天皇の御子、宇遲能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)の山代の宇遲(ウヂ)に坐し、仁賢天皇の御子春日(カスガノ)山田〈ノ〉郎女の春日(カスガ)に坐し、〈書紀繼體〈ノ〉卷に、勾〈ノ〉大兄〈ノ〉皇子の此皇女を妻問坐る御歌に、春日(ハルヒ)の春日(カスガ)の國にくはし女をありと聞て云々、〉雄略天皇の大后、若日下(ワカクサカノ)王の河内の日下(クサカ)に坐る、〈天皇此后の御許に、日下に幸行しヽ事見えたり、〉又此天皇長谷(ハツセノ)宮に坐しヽ故に、大長谷若建(オホハツセワカタケノ)命と申し、安康天皇は石上(イカミノ)穴穗(アナホノ)宮に坐る故に、穴穗(アナホノ)命と申しヽ類は、皆居地名を以申せる證例なり、又舒明天皇の御子、蚊屋(カヤノ)皇子は、吉備國の蚊屋(カヤノ)采女が腹、天智天皇の御子、伊賀(イガノ)皇子は、伊賀(イガノ)采女が腹より生坐る、此等は御母の本郷の名を取れる御名と聞えたり、

〔玉勝間〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0633 今の世人の名の事
近き世の人の名には、名に似つかはしからぬ字をつくこと多し、又すべて名の訓は、よのつねならぬがおほきうちに、近きころの名には、ことにあやしき字、あやしき訓有て、いかにともよみがたきぞ多く見ゆる、すべて名は、いかにもやすらかなるもじの、訓のよくしられたるこそよけれ、 これに名といふは、いはゆる名乗實名也、某右衞門某兵衞のたぐひの名のことにはあらず、さて又其人の性といふ物にあはせて、名をつくるはいふにもたらぬ愚なるならひ也、すべて人に火性水性など、性といふことはさらになきことなり、又名のもじの反切といふことをえらぶも、いと愚也、反切といふものは、たヾ字の音をさとさむ料にこそあれ、いかでかは人の名、これにあづからむ、

〔年々隨筆〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0634 此ごろ此江戸人の名には、をさ〳〵つかぬもじをつき、又輔(スケ)、祐(ジヤウ)などかならず書くまじきもじをかき、あるは阿畑、根住などやうに、人の名ともきこえぬ事をぞなのるなる、おろかにつたなき事、いふばかりもなくて、いと〳〵わろきならひ也、

〔燕石襍志〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0634 苗字
往古は、人の名も今には同じからで、或は文字の音をもてしるし、或は文字の音と訓とをもて併せしるし、その人の隨意記しにければ、文字の數も定らず、五十四代仁明天皇の御代より、今の代の人の如く、多くは文字の訓を取て、二字を用ひることにはなりぬと、神皇正統紀にしるされたり、將安康雄略以降、三公百官、草木魚鳥をもて名とするありけり、その十が二三をいはヾ、雄略より、推古の間、大臣に眞鳥(マトリ)、馬子(ウマコ)等あり、仁賢天皇の四年鮪(シビノ)臣謀反によつて誅に伏す、元明天皇の和銅元年四月、從五位下柿木猿(サル)卒、考謙の御時に、柿本枝成、文德の御時に、橘百枝、南淵永河、淸和の御時に、卜部乙屎麻呂、下野の屎子等あり、みな是國史に載る所也、この餘、木兎、魚養、犬養、堅魚、眞鯨等、勝ていふべからず、亦數十代の御代を經て、正親町院の永祿の比より、諸國の武士等に、奇異なる名おほかり、その十が二三をいはヾ、山中鹿〈ノ〉介幸盛、秋宅庵〈ノ〉介、寺本生死〈ノ〉介、尤道理〈ノ〉介、藪中 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00080.gif〈ノ〉介、小倉鼠〈ノ〉介、山上狼右衞門、〈以上尼子家臣〉この餘、朝倉家の十八村黨、河野家の十八森黨、大内家の十本杉黨、吉見家の八谷黨、尼子家の九牛士、里見家の八犬士、枚擧に遑あらず、こはみな軍陣に臨て、名告るとき、 敵にわが名をおぼえさせん爲也とぞ、戰世には武備あまりありて文備なし、その名の野なる心ざまの猛きさへ推てしらる、

〔磨先韻鏡〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0635 韻鏡索隠
反切者、古人創制、以音註于文字諸韻書所載是也、〈○中略〉近世悞爲切名諱、而偶歸空圍、則倣往來寄韻等例、牽 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00015.gif以求字、徒是兒戯耳、曷知古人依方音而反切成異、是以後人立變例也、未華人反切名諱、況反切書目乎、雖本邦古未此之陋、第近世之流弊也巳、倘名欲必美、則須其字義、奚以反切爲、矧本邦之俗、呼名諱和訓、男女共爾、故字音與訓音、七音所屬不同軌、生剋何之是何之非、亦復以爲人有賦五性也、未聖經可一レ據、恐是後世杜撰也、今時道俗、多拘于反切、而其名陋固、或二名不義者亦不尠、遂爲大方君子之所一レ笑、

〔日本書紀〕

〈二/神代〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0635 一云、〈○中略〉豐玉姫謂天孫曰、妾已有娠也、天孫之胤、豈可於海中乎、故當産時、必就君處、如爲我造屋於海邊以相待者、是所望也、望也、故彦火火出見尊、已還郷、即以鸕鷀之羽葺爲産屋、屋甍未合、豐玉姫自馭大龜女弟玉依姫、光海來到時、孕月已滿、産期方急、由此不葺合徑入居焉、〈○中略〉既兒生之後、天孫就而問曰、兒名何稱者、當可乎、對曰、宜彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊意、言語乃渉海徑去、

〔古事記N 中/垂仁〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0635 爾天皇詔之吾殆見欺乎、乃興軍擊抄本毘古王之時、〈○中略〉其后〈○沙本毘古王妹沙本毘賣〉姙身、於是天皇不其后懐姙及愛重至于三年、故廻其軍急攻迫、如此逗留之間、其所姙之御子既産、故出其御子稻城外、令天皇、若此御子矣、天皇之御子所思看者可治賜、〈○中略〉亦天皇命、詔其后言、凡子名必母名、何稱是子之御名、爾答曰、今當燒稻城之時、而火中所生、故其御名宜本牟智和氣(ホムチワケノ)御子

〔大鏡〕

〈七/太政大臣道長〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0635 右大臣不比等のおとヾは、實は天智天皇の御子なり、されどかまたりのおとどの二郎になり給へり、このふひとうのおとヾ、御名のもじよりはじめて、なべてならずおはし ましけり、ならびひとしからずとつけられたまへる名にぞ、このもじは侍るなり、

〔藤原家傳〕

〈下/武智麻呂〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0636 藤原左大臣、諱武智麻呂、左京人也、〈○中略〉天武天皇即位九年歳次庚辰四月十五日、誕於大原之第、義取茂榮、故爲名焉、

〔續世繼〕

〈四/ふしみの雪のあした〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0636 あふみのかみ有佐といひし人は、後三條院のまことには御子ときこえしかど、さぬきのかみ顯綱のこにてこそやまれにしか、有佐といふ名も、みかどの御てにて、あふぎにかヽせ給て、母の内侍にたまへりける.

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0636 康治元年六月十九日庚辰、靑侍初參請名、于時尚書第七卷在前、困之名以寛、〈微子之命篇也〉追遙集跡也、

〔沙石集〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0636 上人ノ子持タル事
一信州鹽田ノ或山寺ニ上人アリ、三ノ腹ニ三人ノ子ヲ持リ、初ノ腹ノ子ハ、マメヤカニ忍ケレバ、上人ノ子ト云ヒケレドモ不審ニ覺テ、名ヲバ思ヒモヨラズト付タリ、次ノ腹ノ子ヲバ、時々ニハ我坊ニモ忍々ニ通ケレバ、ヒタスラニ疑ノ心モ薄クシテ、名ヲバサモアルラムト付ク、後ノ妻ハ打絶我坊ニ置テ疑心ナカリケレバ、名ヲバ子細ナシト付ク、是ハ當時ノ事也、

〔平治物語〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0636 牛若奥州下事
遮那王〈○中略〉承安四年三月三日ノ曉、鞍馬ヲ出テ、東路遙ニ思立、心ノ程コソ悲ケレ、其夜鏡ノ宿ニ著、夜更テ後、手ヅカラ髪取上テ、懷ヨリ烏帽子取出シ、ヒタト著テ打出給へバ、陵助、早御元服候ケルヤ、御名ハ何ニト問奉レバ、烏帽子親モナケレバ、手ヅカラ源九郎義經トコソ名乗侍レト答テ、打連給テ、〈○下略〉

〔吾妻鏡〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0636 建久三年八月九日己酉.巳剋男子御産也、〈○中略〉次有御名字定、千萬君云云、

〔吾妻鏡〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0636 建久五年二月二日甲午、入夜江間殿〈○北條義時〉嫡男〈童名金剛、年十三、〉元服、於幕府其儀、〈○中略〉時 剋北條殿相具童形參給、則將軍家〈○源賴朝〉出御有、御加冠之儀、武州千葉介等、取脂燭左右、名字號太郎賴時

〔親長卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0637 文明十年四月廿一日、言國朝臣息改名事、予可注給之由、自先日比之、無沙汰催促之間、今日注付之、實言定言也、實言通大臣之名字、定言可然之由仰了、其分治定、

〔親長卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0637 延德四年二月廿九日、今日聞鷹司前關白〈政平公〉若公有首服事、御名字兼敎云々、〈後聞改名兼輔〉陽明〈○近衞家〉御庶流有此御名字、殊准大臣也、誰人勘申哉不審、殊一代將軍御名字、〈○足利義敎〉人々不之、旁無故實事也、三月九日、前藤中納言云、御方御所御名字如何、兼敎、先日子細予示之、返答云、申此趣之由、自中御門大納言許之、〈若公禁色昇殿一級上卿也〉仍被勘改云々、

〔相州兵亂記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0637 公方管領不和事
永享十年六月、公方〈○足利持氏〉ノ若公天王丸殿、御元服アルベシトテ、御祝儀ノ用意善盡シ美盡セリ、管領〈○上杉憲實〉又諌言ヲ以テ被申ケルハ、代々ノ公方ノ御元服アリシ時、皆京公方ヘ御使有、一字御申下サル、先規ニマカセ御使可有.某ガ弟ニテ候上杉三郎重方ヲ罷ノボセサムラハント被申上ケレドモ、此條曾テ御承引ナクシテ、御名字ヲモ則自ラ義久ト御名乗被申テ、彼御祝儀トシテ國人ドモヲ、名字ヲ指テ被召ケル、

〔甲陽軍鑑〕

〈十下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0637 信虎牢人の次年、駿府にて男子一人持て候〈○中略〉武田の上野守と名乗、當年廿五歳になる、此上野守十六歳の時まふけたる子、我等名を付候に、信玄〈○幼名勝千代〉にあやかるやうにとて、勝千代と付候、

〔鵞峯文集〕

〈二十二/説〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0637 明英説
乙巳仲冬吉辰、勿齋藤君嫡子義兒求名於余、以其漸成長也、君家世隨國俗、以明字通稱、故擇翻切善者三箇以應之、就中明英定爲其名

〔鵞峯文集〕

〈二十二/説〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0638姪説〈乙巳仲冬朔〉
法令謂之憲、四書六經所載、皆是先王之法言、而聖賢之敎令也、不守焉、古不云哉、發慮憲憲敏也、目與心應之謂也、汝祖以之、又不云哉、博聞爲憲、汝考以之、予視汝猶子、汝視予猶父、汝視 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00081.gif兄、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00081.gif戇視汝猶弟、則名汝曰憲、猶邁過之於遠、朱鑑之於鉅鉉、乎、憲乎憲乎、吾期汝聿念其祖上レ所生也、

〔文會雜記〕

〈一下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0638 一春臺、〈○太宰〉三平〈○宇野〉ニ名ヲ恒有ト付ラレタリ、獲麟解ニヨレリ、文章軌範ナドニハ不常有トアリ、覺ソコナヒト君修モ思テ、韓文ヲ見ルニ恒有トアリ、初テ春臺ノ讀書精密ヲ知ルト君修語ケル、

〔將軍德川家禮典附録〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0638 元文二丁巳年五月廿八日
一若君樣〈○德川家治〉御名、竹千代樣と公方様〈○德川吉宗〉より被進候、公方樣思召にも、此度之儀.御十分之儀に思召候、權現樣御名にも候得者、外之御名を可進と被思召候得共、御代々御名之儀、達而被進候樣にと、年寄共〈老中〉申上候に付、老中列座にて、出仕之面々へも、於席々左近將 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif達之

〔將軍德川家禮典附録〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0638 元文五庚申年十二月十二日
一左之書付、大目付御目付〈江〉渡之、來ル十五日、竹千代樣、御名被進候に付、爲御祝儀、翌十六日、熨斗
目半袴著用、西丸〈江〉總出仕、夫より御本丸〈江〉可候、尤老中右京大夫能登守、幷若年寄中〈江〉 可相廻候事、
但隠居幼少病氣之面々は、老中右京大夫能登守宅〈江〉、以使者御祝儀可申上候事、
一在國在邑之五萬石以上之面々は使札、其外は可飛札事、
但在國在邑之隠居部屋住拾萬石以上は可使札、其外は可飛札候事、
一右に付、御祝儀獻上物には不及候、
一石に付、十五日月次御禮無之候間、不出仕候、 右之趣可相觸
十二月
十二月十五日
一竹千代樣〈江〉御名被進候に付、月次御禮無之、
一御本丸西丸殿中、熨斗目半袴著用、
一公方樣〈○德川吉宗〉西丸〈江〉被入、於御座間三御所樣〈○吉宗家重家治〉御對顔、御名被進、御式相濟而、竹千代 樣には、紅葉山御宮〈江〉御參詣、西丸御駕寵臺より大紋行列に而被成、御幣帛御頂戴、御拜相濟 而還御、
一御名可家治公旨被出之
一御名被進候に付、大納言樣〈○德川家重〉より竹千代樣〈江〉、守家之御刀被進、竹千代樣より大納言樣〈江〉、 眞長之御大刀被之、
一御本丸西丸詰合之布衣以上へ、吸物御酒被之、御本丸より御供之布衣以上之面々〈江〉も被之、

〔大峯文集〕

〈二/説類〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0639 名字説
古者生而名、冠而字、名有五、有信、有義、有象、有假、有類、而字則取名相屬耳、老子以聃字、配名與一レ字、孔子以尼丘、配名與一レ字、鯉之伯魚、賜之子貢、由之子路、准而可知矣、且其名之也、亦皆非深考而後名也、臨時乃有取焉爾、取於其耳之聃、取於禱尼丘之山、取於君之賜鯉魚、皆是類也、取於其生與父同物、乃以名同、取於戰時生、乃名成師、取於獲長狄僑如、乃名僑如、取於徴一レ蘭、乃名蘭、或取於手理有一レ字、乃以名之類、亦可見也、然又不國、不官、不山川、不隠疾、不畜牲、不器幣、若或以是物名焉、則有偏廢焉、而漢以來、則似然焉、而多以意名、且字之與名、不必相屬者有焉、今我東方之俗、生而所名謂之爲 俗稱、俗稱者、乃字之謂也巳、元服而名、謂之爲諱、是逆乎古也、且其名之也、非敢有一レ取蔦、或徒以文字音韻、對其性之五行、乃考相生相克、以擇其文字、不敢問之於五名、是古之所無焉、仰不於何時、漢京房、有律定人姓之説、其亦似焉、是固妄也、非古也、又或有其家系相襲文字、以犯其父祖二名之一字、猶楚子世用熊字、長狄種用如字然也、而字之與名、亦不相屬、東方之俗、亦古昔之人、則不然也、其生而所名、皆時有取焉、乃以爲諱而巳、予〈○冢田虎〉之生也、先人名以虎、然是所謂俗稱也、比元服也、自名曰信、後乃顧之、我則信州人也、不以名一レ信、乃代以眞、而後復顧之、眞字六經之所無焉、則不以名焉、乃頗惑乎所以名、而乃又顧之、予之生也、先人名以虎、然則從古之道、而宜先人所一レ名爲上レ名也、於斯乎、以虎爲名、乃字曰嘯叔、後或謂予曰、吾子之字、嘯叔不是、嘯者意氣不伸也、無乃不可乎、予以爲然、乃代以叔貔、蓋予之生也、先人名以虎者、不知何所取焉也、蓋亦將取焉、古人以虎爲名者、唐虞有伯虎、八元之一也、周有召虎、宣王之相也、鄭有罕虎、秦有鍼虎、楚有穀於菟、於菟亦虎也、是皆賢良也、非我之所跂及也、魯有陽虎、是則姦慝、固非數也、戰國以降、亦稱虎者衆矣、我誰比擬乎、亦非敢有一レ比擬也、但書曰、如虎如貔、吾竊取乎斯、乃欲猛于學焉耳、

〔山陽遺稿〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0640 中川祿郎名字説
江薩摩村有中川生、生之在母腹也、其大父指腹曰、是必男也、吾之曰祿、既生果男矣、呼小字祿郎、及壯數更其名字、無適定也、謁余定之、余曰、不之於未生乎、而誰敢聞焉、

〔言成卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0640 文久三年正月十三日庚申、新誕男孫七夜云々、從家公呼名云々、二男(ニヲ)丸云々、〈如形内祝云々〉

賜名

〔御加冠拔書解〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0640 武家書札之書御内書文に云
先例、諱政一字遣之候、彌可繁榮候、謹言、
八月四日 義政判 九郎どのへ
是は管領細川右京大夫勝元朝臣之御子〈江〉、御一字被下候御内書也、是より政元と名乗給ふ 也、

〔殿中年中行事〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0641 正月十四日、〈○中略〉國人一揆中ニハ、御酒一獻、但元服アツテ御一字ヲ被申時者、三獻アリ、御一字被下樣者、折紙ニ名乗計被遊テ、御酒已前ニ、公方樣有御持、直ニ被之、參而給三度頂戴仕テ後懷ニ入テ、其後御酒ヲ被給也、正月元服ノ方々依之令記録也、

〔柳營秘鑑〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0641 御一字頂戴之家々〈但至庶子ハ無御例
松平加賀守 松平兵部大輔 松平幸千代 松平大隅守
松平陸奥守 松平安藝守 松平大炊頭 松平相模守
松平大膳大夫 松平筑前守 松平信濃守 松平阿波守
松平甲斐守 上杉民部大輔 松平庄次郎
右元服加冠之節、於御前御一字官爵被之、御盃之上、御腰物拜領被仰付
一御一字被之 細川越中守〈○下略〉

〔光臺一覽〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0641 五家中、二條家は代々將軍家の有職御師範之家として、堂上に御門弟も少く候也、其御親睦に依て、二條家には東照宮以來、關東の御諱字を一字充、御用ひ被成御事なり、

〔類例略要集〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0641 御一字二條殿〈江〉被進之御禮物 文政七申年四月廿八日
御字被遣候御禮
公方樣〈江〉
眞御大刀〈康光〉
二條齊敬殿使者
金臺枚 隠岐播磨守 内府樣〈江〉
御大刀一腰 銀馬代
御臺樣〈江〉 紅白縮緬三卷 御肴代金三百疋
御簾中殿〈江〉 干鯛一箱
右二條齊敬殿より
公方樣〈江〉 昆布一箱 干鯛一箱 御樽一荷
内府樣〈江〉 干鯛一箱
右二條前左大臣殿より 治孝公也
公方樣〈江〉 二種一荷 同前
内府樣〈江〉 一種 同前
右二條左大臣殿より 齊信公也
公方樣〈江〉 干鯛一箱 白銀壹枚
右御同人御簾中より
例 享保十三申九月廿八日
享和元酉年四月朔日 公家衆一統節
同日使者御暇、於柳間時服貮、老中出席被之、
二條殿ハ足利中比 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00078.gif武家昵近故、代々將軍 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00078.gif之、

〔古事記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0642 速須佐之男命、宮可造作之地求出雲國、爾到坐須賀〈此二字以音、下效此、〉地而詔之、吾來此地、我御心須賀須賀斯而、其地作宮坐、故其地者、於今云須賀也、〈○中略〉於是喚其足名椎神告言、汝者任我宮之首、且負名號稻田宮主須賀之八耳神

〔日本書紀〕

〈一/神代〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 素戔鳴尊、〈○中略〉勅之曰、吾兒宮首者、即脚摩乳手摩乳也、故賜號於二神、曰稻田宮主神

〔古事記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 爾伊邪那岐命、告桃子、汝如吾、於葦原中國有、宇都志伎〈此四字以音〉靑人草之落苦瀨而患惚時可助、告賜名號意富加牟豆美命、〈自意至美以音〉

〔日本書紀〕

〈三/神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 天皇親帥諸皇子舟師東征、至速吸之門、時有一漁人艇而至、天皇招之因問曰、汝誰也、對曰、臣是國神、名曰珍彦、釣魚於曲浦、聞天神子來、故即奉迎、又問之曰、汝能爲我導耶、對曰、導之矣、天皇勅授漁人椎㰏末執、而牽納於皇舟以爲海導者、乃特賜名、爲椎根津彦(シヒネツヒコ)、〈椎此云辭毗

〔日本書紀〕

〈三/神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 戊午年六月、大伴氏之遠祖日臣命、帥大來目、督將元戎、蹈山啓行、〈○中略〉于時勅譽日臣命曰、汝忠而且勇、加能有導之功、是以改汝名道臣(ミチノオミ)

〔日本書紀〕

〈六/垂仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 五年十月、即發近縣卒、命上毛野君遠祖八綱田狹穗彦、〈○中略〉天皇於是美將軍八綱田之功、號其名日向武日向彦八綱田(ヒムカタケヒムカヒコヤツナダ)也、

〔古事記〕

〈下/顯宗〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 此天皇求其父王市邊王之御骨時、在淡海國賤老 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00048.gif&size(5){一};參出曰、王子御骨所埋者、専吾能知、亦以其御齒知、〈御齒者如三枝押齒坐也〉爾起民堀土、求其御骨、即獲其骨而於其蚊屋野之東山、作御陵葬、〈○中略〉故還上坐而召其老 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00048.gif&size(5){一};、譽其不一レ置知其地以賜名號置目老 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00048.gif&size(5){一};、

〔續日本紀〕

〈二十一/淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 天平寶字二年八月甲子、以紫微内相藤原朝臣仲麻呂太保、勅曰、〈○中略〉禁暴勝 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00015.gif、止戈靜亂、故名曰押勝(オシカツ)、朕舅之中、汝卿良尚、故字稱尚舅

〔續日本紀〕

〈二十七/稱德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 天平神護二年三月丁卯、大納言正三位藤原朝臣眞楯薨、〈○中略〉寶字四年、授從三位、更賜名眞楯、本名八束、

〔平治物語〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 牛若奥州下事
義經、〈○中略〉上野國松井田ト云所ニ被一宿ケルニ、家主ノ男ヲ見給ニ、大剛者ト覺ケレバ、後平家ヲ被責上ケル時、語ヒ具シ給ヘリ、伊勢國目代ニ連テ上野ニ下ケルガ、女ニ付テ留レル者ナレバ、伊 勢三郎ト被召、我烏帽子子ノ始ナレバ、義ノ字ヲサカリニセントテ、義盛ト付給ヘリ、

〔源平盛衰記〕

〈四十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0644 維盛出家事
與三兵衞申ケルハ、〈○中略〉九ト申シヽ年、君ノ御元服ノ次デニ、忝クモ軈テ本ドリヲ取上ゲラレ進ラセテ、盛ノ字ヲバ御代ニ附奉レトテ、君ツカセ給ヌ、重〈○平維盛父重盛名字〉ノ字ヲバ松王ニ賜フトテ、重景トハ付サセ給ケリ、

〔愚管抄〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0644 千萬御前、元服せさせて、實朝と云名も京より給りて、建仁三年十二月八日、やがて將軍宣旨申くだして、〈○下略〉

〔吾妻鏡〕

〈三十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0644 寶治二年五月廿八日己亥、左親衞〈○北條時賴〉妾、〈幕府女房〉男子平産云云、今日被字寶壽云云、

〔北條九代記〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0644 伊具入道被射殺附諏訪刑部入道斬罪
正嘉元年二月二十六日、相州時賴入道ノ嫡子正壽丸、七歳ニシテ、將軍家〈○宗尊親王〉ノ御所ニオイテ元服アリ、武藏守長時以下、一門御家人參リツドフ、親王將軍家、スナハチ宗ノ字ヲ下サレテ、時宗卜號セラル、

〔太平記〕

〈十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0644 足利殿東國下向事附時行滅亡事
諸卿議奏有テ、急足利宰相高氏卿ヲ討手ニ可下ニ定リケリ、〈○中略〉忝モ天子ノ御諱ノ字ヲ被下テ、高氏ト名ノラレケル高ノ字ヲ改メテ、尊ノ字ニゾ被成ケル、

〔太平記〕

〈三十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0644 新田左兵衞佐義興自害事
奥州ノ國司顯家卿、陸奥國ヨリ鎌倉ヘ責上ル時、義貞ニ志アル武藏上野ノ兵共、此義興ヲ大將ニ取立テ、三萬餘騎ニテ、奥州ノ國司ニ力ヲ合セ、鎌倉ヲ責落シテ、吉野ヘ參ジタリシカバ、先帝〈○後醍醐〉叡覽有テ、誠ニ武勇ノ器用タリ、尤義貞ガ家ヲモ可興者也トテ、童名德壽丸ト申シヲ、御前ニテ元 服サセラレテ、新田左兵衞佐義興トゾ召レケル、

〔南方紀傳〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0645 明德四〈癸西〉年九月甘一日、北畠親能叙爵、義滿賜滿一字滿泰
應永二〈乙亥〉年九月十九日、義滿給諱字於攝家以下諸臣、稱烏帽子子
應永五年〈戊寅〉三月、師嗣公〈○二條家〉男道忠、賜義滿諱字、改滿基

〔康富記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0645 文安六年〈○寶德元年〉四月十四日甲子、今夜今小路殿御元服也、於二條殿其儀、右府〈○二條持通〉爲御加冠、名字之事、近來鹿苑院殿〈○足利義滿〉勝定院〈○足利義持〉御字被請之、今度又被申、仍令成(シゲ)冬、〈○足利義政舊名義成ノ一字ヲ與ヘシナリ〉給、

〔新撰長祿寛正記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0645 義就〈○畠山〉方ノ衆徒、進出テ申ケルハ、〈○中略〉此義就ハ古德本ノ實子ナリ、元服ノ時ニモ、政長ニ下字ヲ給シカドモ、義就ハ各別ニテ、上字ヲ給シナリ、
○按ズルニ、足利義政ノ二字ヲ上下ニ分チテ、二人ニ予ヘシヲ云フ、

〔中國治亂記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0645 子息政久、〈○尼子〉民部少輔ト申セシ時、去ル永正十年九月六日、大内〈○義隆〉ト合戰、時ニ安世城ニテ流失ニ當テ、廿六歳ニテ早世ス、父經久大ニ歎息シテ、嫡孫晴久ヲ修理大夫ニ任ジ、初ハ詮久ト號シケルヲ、公方〈○足利義晴〉ヨリ一字ヲ賜ハリ、晴久ト改名シテ、則チ出雲屋形ヲ令繼、

〔相州兵亂記〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0645 加島合戰之事
原美濃守、〈○中略〉是ハ下總國千葉ノ侍ナリシガ、父原能登守友胤ト云者、小弓ノ御所合戰ノ比、總州ヨリ牢人シテ甲州ヘ行キ、信虎〈○武田〉ヲ賴ミ奉公シテ、度々高名シテ討死ス、其子美濃守、父ニ勝リテ大剛ノ者ナレバ、信虎烏帽子子ニシテ虎胤ト名ヅク、

〔甲陽軍鑑〕

〈九上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0645 一勝千代殿、十六歳の三月、〈○天文五年〉甲府へ勅使たつて、甲州武田源信濃守大膳大夫と被成させ給ふ、又公方萬松院義晴〈○足利〉公より、上野中務少輔御使者として、晴と云字を下さる、晴信公と云々、

〔中國治亂記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0646 同年〈○天文十一年〉五月七日ニ、義隆卿〈○大内〉敗軍也、此時八杉ノ浦ヨリ舟ニ乗リ、阿陀加江ト云處ニテ、義隆ノ養子ノ家督大内新介稙持ハ、舟ヲ乗沈メテ逝去ス、〈○中略〉去ル天文八年六月十九日、十六歳ニテ左兵衞佐正五位ノ下ニ任ジ、初メハ稙持ナリシヲ、公方〈○足利義晴〉一字ヲ賜ハリ、晴持ト改名シ、今年十九歳、花質紅顔美麗ニテ、比類ナキ兒ナリケルヲ、惜ヌ人コソナカリケル、

〔相州兵亂記〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0646 景虎小田原ヘ寄來事
上杉景虎、〈○中略〉其年〈○永祿四年〉五月、北國ヲ通リ、上洛シテ京公方光源院殿義輝公〈○足利〉ヘ出仕ヲイタシ、〈○中略〉御諱ノ一字ヲ被下、輝虎ト改名シテ、アジロゴシ、狀ノ裏書ヲ御免アリ、

〔總見記〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0646 近衞信基御元服幷信長公御加冠事
同〈○天正五年〉後ノ七月六日、大臣家〈○織田信長〉御上洛、二條新造ノ御所御移徒、同月十二日、近衞殿下前久公ノ公達ノ御方御元服、加冠ノ儀、大臣家ヘ御所望ナリ、往古ヨリ禁裏ニ於テ御元服、通例ノ事ニ候間、當時最其例然ルベキノ由、大臣家再三御辭退候トイヘドモ、頻並ニ御所望默止ガタク、是ニ依テ是非ニ不及、大臣家御加冠ナサレ、公達今日御元服、御一字ヲ進ゼラレ、信基ト名付ラレ、其儀式嚴重ナリ、

〔毛利家記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0646 隆景、〈○中略〉最前秀吉公ヘ爲人質、能良源五郎、金山孫市、兩人ヲ差上サセ給ヘドモ、是ハ輕々シキ者共ナレバトテ、四郎殿元綱ヲ小早川ト名乗セ給ヒ被差上、御元服ノコト、秀吉公ヘ被仰シニ、藤ノ字ト秀ノ字ト被進、小早川藤四郎秀包ニ成ラセ給ヒシ、

〔參松傳〕

〈十四/福釜〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0646 康親
同〈○慶長〉十年七月、從五位下筑後守、東照君賜諱字

〔元寛日記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0646 元和七年二月十五日、奥平美作守信昌之孫、松平攝津守忠政之子、今日於御前〈○德川秀忠〉元服、賜御諱字、號松平飛驒守忠隆、拜領左文字大刀

〔御日記〕

〈六十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0647 元和八年十二月廿六日、立花宗茂子、千熊麻呂元服、公〈○德川秀忠〉召千熊麻呂、以諱字千熊麻呂忠茂、叙從四位下、任左近將 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif兼飛驒守

〔武藝小傳〕

〈五/刀術〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0647 神子上典膳忠明
台德大君〈○德川秀忠〉命、言上刺擊之事、台德大君甚賞精妙、賜諱字忠明、其芳譽遍海内、寛永五戊辰年十一月七日、於江戸卒、

〔西山遺事〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0647 同〈○寛永〉十三年丙子七月六日、武州江戸の御城にて御元服、大猷公、〈○德川家光〉御諱の一字を賜ひて、德川左衞門督光圀と稱せらる、御歳九歳、

〔嚴有院殿御實紀〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0647 承應三年正月十二日、松平犬千代、首服加へられ、御名〈○德川家綱〉の一字給はり、正四位下少將に叙任し、加賀守綱利〈後綱紀ニ改〉と稱す、

〔基長卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0647 正德二年十二月十二日、巳刻參院令宿、爲關東〈江〉御用、松平紀伊守參院、若君名字、院〈○靈元〉御定被願申、依是被定遣、御治定、字家繼、被宸翰〈仙洞宸翰也〉被下、仍而召紀伊守渡了、

〔文恭院殿御實紀附録〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0647 千住の邊に御放鷹ありし時、餌まき孫右衞門といふが、鳥飼の事、殊に高手なりしが、渠に宣ひしは、今日は殊更に鶴を手に入度と仰られしに、我右衞門、平生傲言の者なりしが、今日は某力をつくし候はんには、たやすく御手に入べしと放言せしが、果して御手に入たり、公〈○德川家齊〉大に悦ばせ玉ひ、げに高名空しからずとて賞し玉ひ、此ごろ歌舞伎役者に、歌右衞門といふが世に上手なるよし、汝も歌右衞門と名乗べしと命ありて、その名を拜領せしと、後までも人々に誇れりとぞ、

改名

〔名目抄〕

〈諸公事言説〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0647 改名(カイミヤウ)

〔傳宣草〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0647 改名事
奉入 宣旨
藏人正五位(職事仰詞無藏人字)下平朝臣親賢申、請本名親守上事、仰依請、
右宣旨奉入如
三月(正和四)十一日 左衞門督藤原判〈奉〉

〔傳宣草〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0648 諸宣旨事
一下外記宣旨
臨時事
諸人改姓改名事〈或仰辨官
一下辨官宣旨
臨時事
同改姓改名事〈或仰外記〉 同改名事
一下官事
諸人改姓改名事

〔享祿本類聚三代格〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0648 太政官符
輙聽百姓改名
右被大納言從三位神王宣偁、奉勅名以召實、不輙改、如聞頃年改名者衆、其計多端、或避見課而入不課、或除無蔭以附有蔭、如此輩類、其姧繁多、不改名、無姧、自今以後、不輙改、如主典以上、依相諱、必可改替者、所司覆勘其由、得實然後聽之、不濫縦改替浪成姧詐
延暦十七年二月八日

〔享祿本類聚三代格〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0648 太政官符 改名事
右去二月十一日、下左右京職五畿内諸國符偁、檢案内、太政官去延暦十七年二月九日、下職國符偁.大納言從三位神王宣、奉勅如聞頃年改名者衆、其計多端、或避見課而入不課、或除无蔭以附有蔭、如此輩類、其姧繁多、不改名、無姧、自以後、不輙改、如主典已上、依相諱、必可改替者、所司覆勘其由、得實然後聽之、不濫縦改替浪成姧詐者、然則改名之禁、元資成姦.相諱之替、聽在實、斯乃所由存之、不以越經、頃間内外諸司、寄言相諱、頻繁改正、尋求本末、事必不然、至百姓好要國驗、國司不覆、直稱實、研勘籍帳、或亦空虚、加以國主國繼等名字、勅禁已久、若有斯類、須隨即止、而猶不遵行、毎以請改、既煩抄符、還增狼籍、職國承知、自今而後、一准上行之、不輙以相聽越經上一レ官、
延暦廿三年三月廿二日

〔類聚符宣抄〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0649 改名
太政官符式部民部兩省〈外〉
名字筑前權守從五位上藤原朝臣成周事今請周字
右得成周今月二日奏狀偁、謹檢史籍、件周字、音訓所説、左右多疑、若不相改者、恐有悔乎、望請天恩因准傍例、早停周之有一レ疑、將房之無一レ悔者、右大臣宣、奉勅依請者、省宜承知、依宣行之、符到奉行、」
權左中辨 左大史
長德二年六月十七日

〔憲法部類〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0649 享保四亥年十二月廿四日、左之御書付平岡一郎右衞門被相觸候、
名改之儀、同役相番、其外近き親類、又者近き縁者など指合候名、先祖之名等に而、無據存寄有之 者各別、左も無之候者、名改之願申出候義、向後可差扣候、
右之趣、寄々可相達候、以上、 十二月
V 官中秘策

〈二十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0650 改名之事
一御老中年寄〈江〉罷越、名改之子細ヲ演、窺内意ヲ、御用番之御老中〈江〉可參旨御差圖、其節心安御旗 本衆同道、改名貮色程書付持參、演其趣其意候、追而可聞旨御挨拶、其後年寄御老中〈江〉罷 越、今朝申入候旨ヲ演説、他日留守居被召呼、名改候儀御仲間〈江〉被仰談候、勝手次第改可申旨被 仰聞、幷此方 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00078.gif書上候何之何、右兩樣之内、勝手次第可致候、小紙ニ書付被遣.則爲御禮老中初 如例參上、嫡子名改父在府爲御禮參上、在府之時ハ不御禮勤

〔續日本紀〕

〈二十/孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0650 天平寶字元年五月丁卯、授正六位上藤原朝臣執弓從五位下

〔續日本紀〕

〈二十一/淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0650 天平寶字二年八月庚子朔、授從五位下藤原朝臣眞先從五位上

〔續修東大寺正倉院文書〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0650 天平寶字二年詔書草
勅 天平寶字二年八月一日
從四位下藤原御楯〈本名千尋〉
從五位上藤原眞先〈弓取〉
○按ズルニ、續修東大寺正倉院文書ニ載セタル藤原眞先、續日本紀ニ在ルモノト同人ニシテ、 原名弓取ナルヲ知ル、而シテ續日本紀ナル藤原執弓ハ、位階ニ就キテ之ヲ考フルニ、即チ弓取 ニシテ、ユミトリト讀ミシモノカ、若シ當時人名ヲ逆讀スル例アリトスルトキハ、藤原惠美朝 臣執棹〈續日本紀、天平寶字七年正月壬子等ニ見ユ、眞先ト同ジク押勝ノ男ナリ、〉ノ執棹モサヲトリト讀ムベク、〈又中臣朝臣楫取ト云フアリ、同書天平 寶字三年七月庚辰ニ見ユ、合セ考フベシ、〉中臣丸連張弓〈續日本紀天平十八年四月癸卯ニ見ユ〉道公張弓〈續日本紀寶龜元年四月壬子ニ見ユ〉ノ張弓モ ユミハリト讀ムベキカ、〈尾張宿禰弓張ト云フ人、續日本紀延暦元年十二月庚戌ニ見ユ、〉

〔日本紀略〕

〈桓式〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0650 延暦廿三年正月戊寅、改茨田親王名、爲萬多

〔大日本史〕

〈八十九/皇子列傳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0651 按日本紀略、萬多初名茨田、廷暦二十三年改今名、然據倭名類聚抄、河内茨田郡、注萬牟多、萬多茨田、音訓相同、蓋改字而非名也、
○按ズルニ、當時人名ノ用字、略ゝ定例アリ、故ニ文字ヲ改ムルハ、即チ名ヲ改ムルナリ、

〔文德實録〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0651 齊衡元年八月戊辰、陸奥國馳驛上奏、鎭守將軍從五位下伴宿禰三宗卒、〈○中略〉三宗元名健宗、當伴健岑配流之時、惡避其相渉、改爲三宗

〔三代實録〕

〈五/淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0651 貞觀三年二月廿九日癸酉、參議從四位上行太宰大貮淸原眞人岑成卒、〈○中略〉岑成本名美能、至于十年六月、賜姓淸原眞人、改名爲岑成

〔三代實録〕

〈二十一/淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0651 貞觀十四年五月七日丙子、掌渤海客使少内記都言道、自修解文、請官裁偁、姓名相配、其義乃美、若非佳令、何示遠人、望請改名良香、以遂隠便、依請許之、

〔吾妻鏡〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0651 文治二年閏七月十日辛卯、義經者、與殿三位中將殿http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif經〉依同名、被義行之由云云、
十一月廿九日壬申、可求義行〈改義顯〉事、去十八日、於院殿上公卿僉議、〈○下略〉

〔吾妻鏡〕

〈十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0651 承元三年八月十三日甲戌、知(○)親〈元朝(○)字也、與美作藏人朝親、名字著到時、混亂間改之、〉自京都歸參、

〔親長卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0651 長享三年〈○延德元年〉九月一日、參内、〈○中略〉仰云、可御諱字、可例云々、三日、節會方、召内膳之、次雅久宿禰、御改名勘例到來、予尋云、就御改名宣下否事、無其儀云々、
帝王被御諱字例事
元正天皇御諱氷高、後被飯高
崇光院御諱益仁、後被興仁
稱光院御諱躬仁、後被實仁
貞和四年十一月廿八日、量實紀曰、大相國被談曰、御改名事、御本名益仁者、大殿祓中有益人之 間、仍及御改名、可宣下歟之由雖議上、就御改名事http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00015.gif然之旨有沙汰、只被改許也、 九月三日 左大史小槻雅久上

〔宣胤卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0652 永正四年正月六日、中納言方到來宣下、
獻上
宣旨
特蒙天恩、因准先例、改本名實枝實胤之由被上レ宣旨事(實枝申改本名了、如此後日書改之、藤原ト朝臣トハ必アルベシ、依止卿下知ニハ官姓名尸書也、)、
仰依請〈副欵狀
右宣旨、早可下知之狀如件、〈改名事、近代不宣下、存古儀歟、〉
十二月廿七日 右少辨伊長〈奉〉
進上 中御門中納言殿

〔言繼卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0652 天文十三年六月二日乙巳、今日三條大納言實世卿改名實澄云々、世人云、世ヲ捨テスミニナラルヽト申云々、將シテ室ヲ失ヒ、十日頃遁世とて嵯峨二尊院へ出奔也、

〔大友記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0652 石松源五郎名ヲ返事
長尾ノ城ニ、秋月人數サシ籠ケル所ニ、石松源五郎ツメカケ、毎度攻合ケルニ、一度モヲクレヲ不取、其忠功ニヨツテ、マダ郎等ナレドモ、ヤカタノ御前ニ召出サレ、隼人ニナシ玉フ、其後秋月トセメ合ケルニ、石松隼人ト名乗ケレバ、秋月勢、扨ハ源五郎ハ向ハザリケルゾ、一當ニ追散シテ寄カクル、石松爰ヲセンドヽ戰ケレドモ、敵事トモセズ打テカヽレバ、石松支ヘカネ引退ク、サテモ石松、今度一戰ニウチ負シ事、隼人ニ名ヲ替シ故ナリトテ、下サレケル名戻シ、元ノ源五郎ニ成ニケル、カクテ重テ秋月ト戰シニ、件ノ源五郎ト名乗テ、ツイテイリケレバ、秋月勢フミトメズ、忽ニ敗軍ス、サレバ人ニ知レタル名ヲバ、替ベキ事ニアラズトコソ皆人云ケリ、

〔松平記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0652 一去程に竹千代殿御成人之間、今川殿御前にて元服被成、義元一字を付被申、松平次郎 三郎元信と申、弘治二年正月、義元の御妹聟に關口刑部少輔殿と申て、今川御一家御座候、其聟に元信を被仰付、義元の姪聟に御成被成候、御官途有、松平藏人元康と御改名被成、淸康の康の字を御付被成候、

〔松平記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0653 一同〈○永祿五年〉二月、家康と改名ある、駿河と手ぎれなされ候故也

〔蒲生氏郷記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0653 永祿十一年戊辰、氏郷十三歳鶴千代ト申時、〈○中略〉信長公時々御感アリ、依之爲聟君、信長公彈正忠ノ字ヲ賜、號蒲生忠三郎敎秀、後改賦秀、〈○中略〉其後筑前守秀吉公感ジ、高名神妙也トテ、同名ニナシ、號羽柴飛驒守ト、然シテ秀ノ字憚有トテ、秀郷ノ郷ヲ取テ號氏郷ト、任參議從四位

〔東照宮御實紀附録〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0653 小栗又一忠政、はじめ庄次郎といひしが、此戰〈○姉川役〉の時年わづか十六歳なり、敵兵一人御側近く伺よるを見て、御物の信國の鎗取でわたりあふ内に、御勢どもあつまり來て、遂に敵を討とりぬ、君〈○德川家康〉庄次郎が、年若けれど心きヽたるを賞せられ、今日の功一番鎗にも越たりとて、その鎗を給はりけり、その後も度々の御陣に、一番鎗を入しかば、又一かと仰有て、名を又一と改めしとぞ、又大塚甚三郎某は、敵と鎗を合せしに、己が鎗折ければ、敵の鎗取てその敵突伏しを御覽じ、又ない働を仕たるぞ、又内〳〵と仰有て、是もこれより又内と改稱す、大久保荒之助忠直も、敵の鎗取て奮戰せしかば、荒が事を仕たると仰られて、金の御團扇を賜ひしより、荒之助と改稱す、

〔先哲叢談〕

〈續編二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0653 田止邱
磐鴻笠澤筆塵云、田麟、字一角、與長崎僧玄光辨聲律、爲之説破、不口、世之所傳、儒釋筆陣是也、林鵞峯、讀其答問、嗔筆鋒萎弱曰、麟一角、今當犀、自是而後更名犀

以神佛號及佛語爲名

〔日本書紀〕

〈二十五/孝德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0653 白雉五年二月、遣大唐押使大錦上高向史玄理、〈○中略〉判官大乙上書直麻呂、宮首阿彌陀(○○○)、〈○中略〉田邊史鳥等、分乗二船

〔類聚名物考〕

〈姓氏八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 怪名
古しへ阿彌陀釋迦、あるは沙彌法師などいへる類ひを付るは、異なる好なれども、又人の好める所歟、後には此事停止せられし事、國史に見えたり、此事唐に起れる歟、唐人紀事のうち、小名録一卷あり、古今人物の幼名をしるせり、その中に維摩迦葉などいへる名見えたり、是らを羨て付しにや、

〔廿二史劄記〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 元魏時人多以神將
北朝時人、多有神將名者、魏北地王世子、名鍾葵、元叉本名夜叉、其弟羅本名羅刹、孝文時、又有奄人高菩薩、爾朱榮子一名叉羅、一名文殊、梁蕭淵藻小名迦葉、隋時漢王諒反、其將有喬鐘葵、隋末有賊帥宋金剛、唐武后時、嶺南討擊使上二閹兒、一曰金剛、一曰力士、即高力士也、

〔續日本紀〕

〈三/文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 慶雲元年正月癸巳、授正六位上文忌寸釋加(○○)從五位下

〔續修東大寺正倉院文書〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 下政戸六人部久知良戸口十一〈○中略〉
寄人嶋阿彌多(○○○)〈年廿三正丁〉 次无量壽(○○○)〈年十九少丁〉

〔享祿本類聚三代格〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 勅、〈○中略〉頃見諸司入奏名籍、〈○中略〉用佛菩薩及聖賢之號、毎聞見、不于懷、自今以後、宜勿更然、〈○中略〉主者施行、
神護景雲二年五月三日

〔公卿補任〕

〈陽成〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 元慶八年〈甲辰〉
參議從四位上橘廣相〈(中略)本名博覽〉 貞觀九二月十一、文章博士〈辭而不就〉改博覽廣相
〈首書云〉貞觀十十十一、若狹守峯範奏官云、以佛菩薩及聖賢名號人名者、既有格制、而舎利弗別號博覽比丘、望請改爲廣相者、許之、十五年六月廿三日、前若狹守從五下峯範言、秩滿歸京、嬰病況國辨百姓訴、請遣文章博士從五位下橘朝臣博覽、相代辨糺、勅宜博覽父辨上レ之、 今案、貞觀 九年改名廣相者、而博覽者如何、

〔文德實録〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0655 嘉祥三年五月丙戌、是日有制、爲諸名神七十人、各爲名神發願誓念、其得度者、皆以神字於名首

〔日本紀略〕

〈九/一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0655 永延元年九月廿五日乙酉、於眞言院、童子五十五人、剃頭令受戒、名字附諸社片字、來廿七日、可佛舎利使之故也、

〔尊卑分脈〕

〈十二/源氏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0655 賴義
義家 七歳春、於祖神社壇〈○石淸水宮〉依首服、號八幡太郎云々、
義綱 父於賀茂社、令首服之故也、號賀茂次郎
義光 平日住三井寺、號新羅三郎、於園城寺新羅明神社壇、加首服之故也、

〔續世繼〕

〈五/みつくき〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0655 のりながの御わらはなは、文殊君(○○○)と聞えき、

〔宇治拾遺物語〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0655 今はむかし、丹後國に老尼ありけり、地藏菩薩は、あかつきごとにありき給ふことを、ほのかにきヽて、曉ごとに地藏見たてまつらんとて、ひとよかいまどひありくに、博打のうちほうけてゐたるが見て、尼公は、さむきに何わざし給ぞといへば、地藏菩薩のあかつきにありき給ふなるに、あひまいらせんとて、かくありくなりといへば、ぢざうのありかせ給ふみちは、我こそしりたれば、いざ給へ、あはせまいらせんといへば、あはれうれしきことかな、ぢざうのありかせ給はん所へ、我をゐておはせよといへば、われにものをえさせ給へ、やがてゐて奉らんといひければ、此きたるきぬたてまつらんといへば、いざたまへとて、となりなる所へゐてゆく、あまよろこびていそぎ行に、そこのこに、ぢざう(○○○)といふ童ありけるを、それが親をしりたりけるによりて、ぢざうはと、とひければ、おやあそびにいぬ、いよきなんといへば、くはこヽなり、地藏のおはしますところはといへば、あまうれしくて、つむぎのきぬをぬぎてとらすれば、ばくちうちはい そぎてとりていぬ、〈○下略〉

〔平治物語〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0656 牛若奥州下事
年若ハ、鞍馬寺ノ東光坊阿闍梨蓮忍ガ弟子、禪林坊阿闍梨覺日ガ弟子ニ成テ、遮那王(○○○)トゾ申ケル、

〔平家物語〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0656 妓王が事
しらびやうしのじやうず、一人出來たり、加賀の國のものなり、名をばほとけ(○○○)とぞ申ける、年十六とぞきこえし、

〔吾妻鏡〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0656 文治五年二月廿一日癸巳、筥根兒童等、依召去夜參著、是爲仕來月三日鶴岳舞樂也、童形八人、增壽、筥熊、壽王、閉房、楠鶴、陀羅尼(○○○)、彌勒(○○)、伊豆石丸等也、

〔吾妻鏡〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0656 建久三年五月廿六日丁酉、多賀二郎重行、被公所領、是今日、江間殿〈○北條義時〉息童金剛(○○)殿、〈○北條泰時〉歩行而令興遊給之處、重行乍馬、打過其前訖、

〔吾妻鏡〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0656 建久三年八月十四日甲寅、於鶴岳廻廊外庭、放生會相撲内取手被召決云云、藤判官代爲奉行云云、〈○中略〉
八番 小中太 千手(○○)王
十五日乙卯、鶴岳放生會舞樂也、〈○中略〉
舞童
左 金王(○○)〈○中略〉 彌陀王(○○○)
右 夜叉(○○) 觀音(○○)

〔東寺文書抄〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0656 讓渡相傳之私領地幷下人事〈○中略〉
下人 〈生年九歳、字愛德女、〉
右件元者、依相傳之私領、次女字明王(○○)御前、讓渡進處、在地明白也云々、 延慶元年〈戊申〉十二月十四日 父僧審尊判
子息次女明王御前

〔太平記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0657 主上御夢事附楠事
主上〈○後醍醐〉笠置へ臨幸成テ、〈○中略〉當寺ノ衆徒成就房律師ヲ被召、若此邊ニ楠ト被云武士ヤ有ト御尋有ケレバ、近キ傍リニ左樣ノ名字付タル者アリトモ未承及候、河内國金剛山ノ西ニコソ、楠多門兵衞正成トテ、弓矢取テ名ヲ得タル者ハ候ナレ、是ハ敏達天皇四代ノ孫、井手左大臣橘諸兄公ノ後胤タリトイヘドモ、民間ニ下テ年久シ、其母若カリシ時、志貴ノ毘沙門ニ百日詣テ、夢想ヲ感ジテ設タル子ニテ候トテ、椎名ヲ多門(○○)トハ申候也トゾ答申ケル、

〔太平記〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0657 將軍都落事附藥師丸歸京事
二月〈○建武二年〉二日將軍〈○足利尊氏〉曾地ヲ立テ、攝津國へゾ越給ヒケル、此時熊野山ノ別當四郎法橋道有ガ末ニ藥師丸(○○○)トテ、童體ニテ御伴シタリケルヲ、將軍喚寄給テ、〈○下略〉

〔太平記〕

〈三十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0657 淸氏叛逆事附相模守子息元服事
相模守〈○細川淸氏〉ハ、氣分飽マデ侈テ、行跡尋常ナラザリケレ共、偏ニ佛神ヲ敬フ心深カリケレバ、神ニ歸服シテ、子孫ノ冥加ヲ祈ラントヤ思レケン、又我子ノ烏帽子親ニ可取人ナシトヤ思ケン、九ト七トニナリケル二人ノ子ヲ、八幡ニテ元服セサセ、大菩薩ノ烏帽子子ニ成テ、兄ヲバ八幡六郎、弟ヲバ八幡八郎トゾ名付ケル、此事軈テ天下ノ口遊ト成ケレバ、將軍〈○足利義詮〉是ヲ聞給テ、是ハ只當家ノ累祖伊豫守賴義、三人ノ子ヲ、八幡太郎、賀茂次郎、新羅三郎ト名付シニ異ズ、心中ニイカ樣、天下ヲ奪ハント思フ企アル者也ト、所存ニ違テゾ思ハレケル、

〔關八州古戰録〕

〈十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0657 北條氏忠受佐野名迹ノ事
佐野ノ舊臣等ガ人質ノ爲、毘沙門丸(○○○○)ヲ小田原ヘ召ヨセ、城中ニ留置シガ、〈○下略〉

〔臥雲日件録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0658 文正二年六月廿六日、雲章來回話、民部卿爲華岳南禪入道二十緡曰、十佛弟子士佛也、士字言十一佛也、予以爲、十佛士佛爲父子、今問之則師弟子耳、

〔本朝醫考〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0658 九佛
九佛、和州人也、始遷洛陽、専施醫術
十佛
十佛者、九佛之子也、〈○中略〉
士佛
士佛者、十佛之子也、諱慧勇、號健叟、醫述通神妙、〈○中略〉曾侍寶篋院〈○足利義詮〉鹿苑院〈○足利義滿〉勝定院〈○足利義持〉三相公、特爲鹿苑相公寵遇、相公呼彼稱士佛、以士字從十従一レ一、而亞十佛之謂也、

〔倭樂傳記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0658 四座幷喜多座の始等之事
觀世大夫は、伊賀の服部一黨の者也、足利將軍東山殿〈○義政〉に仕へて、觀阿彌と云同朋也、渠に仰て猿樂の業を學び始め勤しむ、其子世阿彌、其子音阿彌と續て、同朋にて是を相勤、

以地名爲名

〔日本書紀〕

〈三/神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0658 其年〈○甲寅〉冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征、〈○中略〉行至筑紫國菟狹、〈菟狹者地名也、此云宇佐、〉時有菟狹國造祖、號曰菟狹津彦、菟狹津媛
戊午年六月、天皇獨與皇子手硏耳命軍、而進至熊野荒坂津、〈○中略〉時彼處有人、號曰熊野(○○)高倉下
十有二月丙申、皇師遂擊長髓彦、〈○中略〉長髓、是邑之本號焉、因亦以爲人名

〔古事記〕

〈下/允恭〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0658 此天皇娶意富本杼王之妹、忍坂之大中津賣命、生御子〈○中略〉輕大郎女、

〔古事記〕

〈下/顯宗〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0658 天皇娶石木王之女難波王

〔日本書紀〕

〈六/垂仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0658 二年二月己卯、立狹穗姫皇后、 五年十月己卯朔、天皇幸來目於高宮、時天皇枕皇后膝晝寢、於是皇后既無事、而空思之、兄王所謀適是時也、即眼涙流之落帝面、天皇則寤之語 皇后日、朕、今日夢矣、錦色小蛇、繞于朕頸、又大雨從狹穗發、而來之濡面、是何祥也、

〔日本書紀〕

〈二十三/舒明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 二年正月戊寅、立寶皇女皇后、后生二男一女、一曰葛城皇子

〔日本靈異記〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659於惡事者以現所利鋭惡死報縁第卌
橘朝臣諾樂麻呂(○○○○)者、葛木王(○○○)之子也、

〔豫章記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 河野系圖
伊但馬〈常國西南土佐境有館、以處爲名也(○○○○○)、〉

以國名爲名

〔續日本紀〕

〈三/文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 慶雲二年十二月癸酉、无位山前王、授從四位下、丹波王(○○○)、阿刀王、並從五位下、

〔續日本紀〕

〈四/元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 和銅二年正月丙寅、授正六位上調連淡海(○○)從五位下

〔續日本紀〕

〈十一/聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 天平六年正月己卯、授正五位下播磨王(○○○)正五位上

〔續日本紀〕

〈十九/孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 天平勝寶七年十二月丁未、以從五位下佐伯宿禰美濃麻呂(○○○○)、爲越前守

〔續日本紀〕

〈二十/孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 天平寶字元年閏八月癸亥、從五位下出雲王(○○○)、尾張王(○○○)、賜姓豐野眞人

〔日本後紀〕

〈十七/平城〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 大同三年七月己丑、正五位下布勢朝臣尾張麻呂(○○○○)、爲攝津守

以外國名爲名

〔續日本紀〕

〈三/文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 慶雲元年二月乙亥、從五位上村主百濟(○○)、改賜阿刀連

〔續日本紀〕

〈十七/聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 天平勝寶元年四月甲午朔、授正六位上佐伯宿禰靺鞨(○○)、從五位下

〔續日本紀〕

〈三十四/光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 寶龜七年三月癸巳、從五位下矢集宿禰大唐(○○)、爲能登守

以地勢爲名

〔日本書紀〕

〈十四/雄略〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 五年六月丙戌朔、孕婦果如加須利君言、於筑紫各羅島兒、仍名此兒島君(○○)

〔續日本紀〕

〈一/文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 四年正月癸亥、有詔賜左大臣多治比眞人嶋(○)、靈壽杖及輿 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00083.gif&size(5){一};、高年也、

〔續日本紀〕

〈四十/桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 延暦九年十二月庚戌、授下總國猨嶋郡主帳正八位上孔王部山麻呂(○○○)、外正六位上

〔日本後紀〕

〈八/桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 延暦十八年四月庚寅、正六位上大伴宿禰峯麻呂(○○○)、爲遣新羅使

以官職爲名

〔官職難儀〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 源内平内など云は、いかヾしたる官にか候ぞ、 内舎人に成たるを云、源氏の者の成たるをば源内と申、平氏は平内、藤内、善内など申候、みな其姓を付てよび侍るなり、位署には内舎人某と書べき也、平内左衞門など申は、内舎人より左衞門尉になりたるを、もとの官を付てよぶ也、太郎など申仁の左衞門尉に成たるを、太郎左衞門など申もおなじ事也、勘解由左衞門、彈正左衞門など皆同事なり、勘解由判官、彈正忠などより左衞門尉に成たる事也、

〔白石小品〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 武家官位ノ事
足利殿ノ代盛リ迄ハ、御家人ノ官位、各古ノ制ヲ存セラレキ、サレバ其比迄ハ太郎左衞門、三郎兵衞、四郎兵衞ナド聞へシ輩、皆々四府ノ尉ニシテ、六位セシモノ共、其字ヲ、
昔武士ノ字トイヒシハ、今ノ代ノ名ト云フ事ノ如シ、
其官ニアハセテ呼シナリ、左右ノ衞門大夫、左右ノ兵衞大夫ナド聞ヘシハ、皆コレ叙留ノ輩ナリ、〈○中略〉又其代ノ人、タトヘバ http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif物太郎、藏人次郎、左近太郎、右馬次郎ナドイヒ、相模太郎、隠岐次郎、武藏五郎、陸奥六郎ナドイヒシモ、皆是其父ノ官途シ受領セシコトヲ其家ノ面目トシテ、其子ヲカクハイヒシ也、權太郎、介八郎ナドイヒシモ、其父其國ノ權守、其國ノ介ナドニナサレシガ子息等ニテ、源内、平内、藤内、橘内ナドイヒシハ、ミヅカラ内舎人トナサレシ輩ナリ、

〔南留別志〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 一源内、平内、藤内は内舎人なり、太郎作、五郎作は、さくわんなるべし、

〔四季草〕

〈秋草上/姓名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 一百官名とて、中務、式部、治部、民部、刑部、大藏、掃部、織部、主水、外記、内記、大學、藏人などの名をつくるも、右にいふごとく、官名をぬすみたる也、世俗に是らの類をば百官名といひ、何左衞門、何右衞門、何兵衞などは、官名にあらずと心得たる人もあり、をかしき事也、

〔言丈雜記〕

〈二/人名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 一今の世、何兵衞、何右衞門、何左衞門などを、百官名にてなしと心得たる人有、あやまり也、兵衞、右衞門、左衞門は、皆官の名也、源氏の人、兵衞の官になりたるを、源兵衞と云、平氏は平 兵衞、藤氏は藤兵衞、橘氏は吉兵衞也、〈橋ト吉、同意也、〉右衞門、左衞門も是に准じ知べし、又太郎の人は太郎兵衞、二男は次郎兵衞、此外もおして知べし、〈淸原氏ハ淸兵衞、三善氏ハ善兵衞、文屋氏ハ文兵衞などヽ云也、〉一何大夫と云名は、五位になりたる人の名也、五位のくらゐになりたる人を、大夫と云也、〈タイウト、スミテ云也、ダイブト、ニゴルハ又別也、〉されば、すべて五位の人を諸大夫と云也、〈諸大夫ト云フトキハ、ダイブトニゴル也、〉たどへば源氏の人、五位に成たるは源大夫也、平氏は平大夫、藤原氏は藤大夫、橘氏は橘大夫、〈吉大夫も同前、橘と吉、同音也、〉淸原氏は淸大夫、三善氏は善大夫などヽ云也、又太郎の人は太郎大夫、次郎の人は次郎大夫などヽ云なり、
一伊織、小膳、多門、多宮、要人、藏主、左膳、右膳、藤馬、求馬、久馬などヽ云名を、東百官と云、禁裏の官名に似たる故、百宮と云成べし、京都の官名にあらざる故、東とは云なるべし、平親王將門、下總の國に都を立し時、定たる官名也と云は誤り也、古書に東百官の名付たる人見えず、近代關東の武士の名に、左門、伊織、藤馬、平馬など、いふ名あるによりて、東百官といひ習したるを、將門の定し官名なりと附會したる也、官名に似たるやうなるゆへ、東百官といふなるべし、

〔年々隨筆〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0661 今の俗名は、成功のなごりなるにつきておもふに、衞門兵衞丞允の外に、爵をもうられつとみえて、今昔物語に、田舎人、榮爵かはんとて、京へのぼりて、河原院にやどりて、女を鬼にとられし事みえたり、今某大夫となのるは、その餘波なり、又諸寮の次官もうられつるか、某助となのる人もあり、某進は京職修理大膳の判官、其内は内舎人、これらは除書に常みゆ、内舎人は、かならず衞府を帶せし物にて、藤内左衞門、源内兵衞などいふを、時としてはこれをはぶきて、藤内、源内とばかりもいひしなるべし、これらみな成功の遺風にて、今もなのる也、某藏といふは、佐々木源三、梶原平三などのやうに、三を言便に三(サウ)といひし餘波にて、藏とかくは轉訛なるべし、諸院の藏人になりし事もあるにや、土岐十郎藏人など太平記にみえしにや、もし此類か、某作某吉は、亂 世になりての後、人の名の由諸をもしらで、おのが事好にまかせて、杜撰につきし也、源は杜撰なれど、三百年來、世あまねくつく事なれば、今においては子細なし、

〔年山紀聞〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662 市人稱官名
本朝にても、末の世には、冶工筆工のたぐひまでも、官名を稱する事になりぬ、もろこしも同じ事なり、陸容菽園雜記曰、吏人稱外郎者、古有中郎外郎、皆臺省官、故僣擬以尊之、今人稱郎中、鑷工稱待詔、磨工稱博士、師巫稱太保、茶酒稱院使皆然、此艸率名分不明之舊習也、國初有禁、

〔松の落葉〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662 何右衞門何左衞門といふ事
今の世の人のあざなに、何右衞門なに左衞門といふ事のよしを考るに、こはみかどにて左衞門右衞門などのあまたありて、まぎらはしきを、平氏の右衞門をば平右衞門、藤原氏にて内舎人かけたる左衞門をば、藤内左衞門などいひてよびつるにて、左衞門右衞門はもと官なれど、かくつらねて字のやうにいひなしたるがはじめにて、のち〳〵はしもざまにて、その官ならぬ人にもいへるなり、甲陽軍鑑に、そも〳〵男が四十五十にあまり、赤口關左衞門、寺川四郎右衞門などヽ、官途受領まで仕る侍が云々といへり、赤口寺川は今名字といふものにて、それをもつらねいふさま今の世と同じ、たヾし官途受領といへるをみれば、朝廷に申てなり、わたくしにものせるにはあらず、かヽれば今の世のならひにしたがふとても、むげにいやしきものつくる民、あき人などのあざなには、こヽろしてつくまじき事なりかし、

〔日本書紀〕

〈十/應神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662 四十年正月甲子、任大山守命、令山川林野

〔古事記〕

〈中/應神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662 於是天皇、問大山守命、與大雀命詔、〈○中略〉大山守命、爲山海之政、大雀命、執食國之政以白賜、

〔古事記傳〕

〈三十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662 此職は、下文に、此之御世、定賜海部山部山守部と見え、書紀にも五年秋八月、令 諸國海人及山守部と見えて、此等の部の民を定賜て、其業々を奉仕るを、大山守命には.此部部を統領ることを任し賜ふなり、〈○中略〉さて大山守と申す御名は、海人部山部山守部を領せる中の一に就て負賜へるなり、〈御自山を守給ふ由には非ず、山守の督なる由なり、〉大は御名に就たる稱言なり、

〔古今著聞集〕

〈九/武勇〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 右大將、〈○源賴朝〉高麗國を責めし時の追討使に、あまのヽ式部大夫遠景むかひけり、大將家のきり物にて、次官藤内といはれし藤内は是也、

〔駿臺雜話〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 阿閉掃部
秀康卿、越前に封ぜられ給ひし後、阿閉掃部(○○)とて、武功の譽ありし者を、厚祿にて召抱られけり、

以輩行爲名

〔白石小品〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 武家官位ノ事
大太郎、小太郎、孫二郎、彦三郎、又太郎、餘次郎、先次郎、後三郎ナド聞エシハ、其比ニハ太郎ヨリ次第ニカゾヘテ、十郎ニ至リヌレバ、又トモ餘トモ加ヘヨビテ、太郎ガ子ヲ小太郎トイヒ、其子ヲ孫太郎トイヒ、又其子ヲ彦太郎トモイヒ、大トイヒ、先トイヒ、後トイフガ如クニ稱シタレバ、人ノ召名(ヨビナ)ト云モノモ、近代ノ如ク、其義ナキコトニハナカリシナリ、

〔日知録〕

〈二十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 排行
兄弟二名、而用其一字者、世謂之排行、如德宗德文、義符義眞之類、起晉末、漢人所有也、水經注、昔平侯王譚、不王莽之政、子興生五子、並避亂隠居、光武卽帝位、封爲五侯、元才北平侯、益才安喜侯.顯才滿陰侯、仲才新市侯、季才唐侯、是後人追撰妄説、東漢人、二名者亦少、
單名以偏旁排行、始見於劉琦劉琮、此後應璩應瑒、衞瓘衞玠之流、踵之而出矣、〈陳球傳、二子瑀璠、弟子珪、若偏旁、又不父同也、〉
今人兄弟行次、稱一爲大、不何時、漢淮南厲王常謂上大兄、孝文帝行非第一也、

〔釋親考〕

〈附輩行説〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 梁武陵王妃、聞侯景陷臺城、湘東王將之、謂僚佐曰、七官文士、豈能匡濟、胡三省 曰、湘東於兄弟次第七、故呼爲七官、剪燈新話、同郡有趙氏子者第六、注第六姓兄弟之行也、唐德宗、呼陸贄名、而以兄弟之行、呼之曰陸九、又曰、此皆六娘子之所種植也、注六娘稱姉妹之行也、或曰、趙子於姓兄弟行第六、敬其妻疑亦稱爲六娘也、如元二、魏三十六、歐陽九等皆然、蓋稱兄弟者、不必限親兄弟、凡再從三從、皆泛稱兄弟、而推年最長者一、隨其齒而數之也、

〔貞丈雜記〕

〈二/人名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 一太郎は、總領の子也、次郎は、二男也、三郎は三男也、今の世には、總領の子を何次郎、何三郎と名付、二男三男に何太郎と名付るもあり、あやまり也、
一小太郎の事、源平盛衰記源氏勢揃の條、河越太郎重賴、同小太郎茂房、熊谷次郎直實、子息小次郎直家、又宇治合戰の條、足利太郎俊綱が子に、又太郎忠綱、これらを以考るに、何太郎何次郎となのる人の子をば、小太郎小次郎又太郎など名のりしとぞみゆ、又源氏勢揃條、土肥次郎實平、子息彌太郎遠平とあり、實平は二男なれば次郎といふ、其次郎の總領なれば彌太郎と云歟、總領家の太郎に對して、彌の字を付たるなるべし、又石橋合戰の條、權頭季定子息荻野五郎季重、同彦太郎、同小太郎とあり、是は本文順を書違たる歟、荻野五郎が子小太郎成べし、小太郎が子彦太郎なるべし、權頭季定が曾孫なる故、彦太郎とはいひしにや、

〔三養雜記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 餘一
むかしは第一の子を太郎、つぎを次郎といひ、それより三郎四郎と、十郎まで名つけ十一人めより餘一餘二と、次第に名くることなり、十は成數なれば、十郎よりは、あまりといふ意なるべし、盛衰記に、金子十郎家忠の弟金子與一、那須十郎資隆の弟那須與一なり、餘を與に作るは假借なり、平維茂を餘五將軍といふも、十五郎たる故なり、源義經は第八子なるを、九郎判官といへるは、八郎爲朝の成行よからざれば、八郎をいみて、九郎としたりとかや、曾我兄弟の兄を十郎、弟を五郎といふも、わけあることなり、むかしは兄弟の排行正しかるうちに、たま〳〵みだれたりとおも ふも、みな故あることなり、

〔阿邪名呼名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 阿邪名
そもこの太郎次郎八郎十郎などいへることは、そのもとは必ず定りたる字(アザナ)のごとくにはあらで、今世に長男次男八男十男といへるがごとき意にて呼びそめたるものにて、さやうに用ゐたるはた多く書どもにみえたり、そは世繼物語〈さま〴〵の悦の卷〉に、只今の大殿は三郎にこそはおはしましけれ云々、一條の右大臣殿は、九郎にぞおはしける、〈○中略〉などやうに用ゐたる猶あまたみえたり、さればかの字を太郎とも何太ともいへるは、その父の第一男なる義、次郎とも何二ともいふは次男、三郎何三は三男、十郎は十男、餘一郎とも與一ともいへるは十一男、餘三は十三男、與五郎與八は十五男十八男のことなるを、十一郎十八郎といはずして、餘一郎餘八郎としもいへりしは、十餘一郎十餘八郎の義にして、その十の字を省きたるものなり、されば餘一餘二と書くべきを、古より與一與二とかけるもあるは、たヾ音の同くて、かきよき文字を借用ゐたるものにて、異なる義あるにはあらずなむ、今のなべての世の人は、さることヽしも心得ぬげに、兄なる子にも、與一、與三、何十郎、何五郎など號け、弟には何太郎ともつくる類も、まれ〳〵あるは、むげに物え辨へぬ人々のことにしあめれば、いかヾはせむを、さる分際にはあらで、かの太郎次郎の次第など、よく心得ためる人々の、なか〳〵に、餘一郎をば、何太郎の異稱とや思ひとれる、愼一郎守一郎といふやうなる名も聞ゆる中に、わが太郎子をも、一郎などなづくる類も出來にけるは、何も昔の跡をばよくもたどらで、古のことをたヾ等閑に思ひすぐせる心ぐせにで、いと淺ましく口惜しきことなりかし、〈○中略〉
この太郎次郎などいふ字をしも、今俗間の人々は、生るすなはち號ることヽ思ひためれど、緑子の名などには、いと似つかずなむ有ける、故むかしの人々は、いと幼きほどは、まづふさはしき幼 字をつけて、さて成長て元服をもしたらむ時に、實名と共にこそ、太郎次郎三郎などはつくる例なりけれ、

〔燕石襍志N 〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 苗字
海嶋なる人の名は、今將聞わきがたきもあれど、亦おのづからいにしへに稱へり、伊豆の大嶋の居民に、東四郎太郎三郎、〈これにて一人の名也〉或は百太郎二郎など呼びなすものありとぞ、是は一男を太郎、二男を二郎とのみ呼べば、毎人にして紛るヽから、住處の地名などに、祖父又父の名を被て、東の四郎が一男を東四郎太郎、又それが三男なれば、東四郎太郎三郎と呼ぶと聞ゆ、

〔茅窻漫録〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 郎字
此邦の人、太郎二郎など名づくる事、古今常例なり、其始は日本紀に、皇極帝四年、蘇我入鹿を、君太郎といふよりこと起りて、光孝帝の三子を太郎二郎三郎と稱し奉るも、唐朝の例に倣ひたまふにや、唐太宗は、高祖の二男にて二郎と稱し、玄宗は睿宗の三男にて三郎と稱するがごとし、後世多く其例に倣ひて、源賴義の三子は、太郎二郎三郎と稱し、佐々木兄弟五人、太郎定綱より五郎義淸まで皆おなじ、漢土も五郎六郎は、唐朝より俗をなす事、隋唐嘉話に見えたり、〈○中略〉大抵唐朝より専らにいひし事と見ゆ、此邦も其頃は唐朝と數往來せしゆゑ、彼土の稱呼にならひ、遂に俗をなせりと覺ゆ、源氏物語に、大殿の太郎君といひ、次郎三郎、肥後國の大夫 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gifにすかされてなど書きたるも、滋野貞主を滋二と稱し、在原業平を在五と稱するも、其例皆おなじ、

〔古事記〕

〈中/開化〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 此天皇、〈○中略〉娶丸邇臣之祖、日子國意祁都(ヒコクニオケツノ)命之妹意(オ/○)祁都比賣(ケツヒメノ)命、〈意祁都三字以音〉生御子日子坐王、〈○中略〉日子坐王、娶山代之荏名津比賣、亦名苅幡戸辨、〈此一字以音〉生子大(オオ/○)俣王(マタノ)、次小(ヲ/○)俣王(マタノ)、〈○中略〉又娶其母弟袁(ヲ/○)祁都比賣命(ケツヒメ)

〔古事記傳〕

〈二十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 意祁都比賣命、〈○中略〉此比賣と云の弟、袁祁都比賣あり、是意(オ)と袁(ヲ)とを以て姉妹 の名を分てること億計(オケノ)王と弘計(ヲケノ)王との例の如し、大小の意なるべし、

〔古事記〕

〈中/垂仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 此天皇、〈○中略〉娶山代大國之淵之女、苅羽田刀辨(カリハタトベ)、〈○中略〉又娶其大國之淵之女、弟(オト/○)苅羽田刀辨

〔古事記〕

〈中/景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 此天皇、娶吉備臣等之祖、若建吉備津日子之女、名針間之伊那毘能(イナビノ)大(オホ/○)郎女(イラツメ)、〈○中略〉又娶伊那毘能大郎女之弟、伊那毘能若(ワガ/○)郎女(イラツメ)、〈自伊下四字以音〉

〔日本書紀〕

〈十五/淸寧〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 二年十一月、依大嘗供奉之料、遣於播磨國司山部連先祖伊與來目部小楯、於赤石郡縮見屯倉首忍海部造細目新室、見市邊押磐皇子子億計(○○)〈○仁賢〉弘計(○○)、〈○顯宗〉畏敬兼抱、思奉爲一レ君、奉養甚謹、以私供給、
○按ズルニ、古事記ニ億計ヲ意富祁ニ作リ、弘計ヲ袁祁ニ作ル、億ト云ヒ意富ト云フハ大ノ義 ニテ、弘ト云ヒ袁卜云フハ小ノ義ナリ、

〔續修東大寺正倉院文書〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 御野國加毛郡半布里大寶二年戸籍
下々戸主彌蘇〈年五十二正丁○中略〉 戸主弟目里(○○)〈年卌七正丁○中略〉 目里弟小目里(○○○)〈年卌二兵士〉
嫡子廣(○)〈年十一小子〉 次小廣(○○)〈年九小子○中略〉
下々戸主安多〈年六十五一枝廢癈疾〉 嫡子志比(○○)〈年卌一正丁〉 次小志比(○○○)〈年卌正丁〉
次身(○)麻呂〈年卌三兵士〉 次小身(○○)〈年卌一正丁〉

〔菅家文草〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667藤十六(○○○)司馬對雪見寄之作〈○詩略〉
藤六(○○)司馬幽閑之作〈○詩略〉

〔大鏡〕

〈六/内大臣道隆〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 内大臣道隆、〈○中略〉男君達は太郎君(○○○)、故伊與守知仁のぬしの女のはらにぞかし、大千與君(○○○○)、それは祖父おとヾ〈○藤原兼家〉の御子にしたてまつり給ひて、道賴六郎君(○○○)とこそは申しか、〈○中略〉今一所は小千與君(○○○○)〈○道賴異母弟伊周〉とて、後ほかはらの大千與君には、こよなくひきこし、廿一におは せし時に、内大臣になし奉り給ひて、〈○下略〉

〔今昔物語〕

〈二十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 平維茂罰藤原諸任語第五
今昔、實方中將ト云フ人、陸奥守ニ成テ、其ノ國ニ下タリケルヲ、〈○中略〉其ノ國ニ平維茂ト云者有ケリ、此ハ丹波守平貞盛ト云ケル兵ノ弟ニ、武藏權守重成ト云ガ子、上總守兼忠ガ太郎也、其ヲ曾祖伯父貞盛ガ、甥幷甥ガ子ナドヲ皆取リ集テ、養子ニシケルニ、此ノ維茂ハ甥ナルニ、亦中ニ年若カリケレバ、十五郎ニ立テ養子ニシケレバ、字ヲ餘五君トハ云ケル也、

〔保元物語〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 新院召爲義事附鵜丸事
爲義、〈○中略〉四郎(○○)左衞門賴賢、五郎(○○)掃部助賴仲、賀茂六郎(○○)爲宗、七郎(○○)爲成、鎭西八郎(○○)爲朝、源九郎(○○)爲仲以下、六人ノ子共相具シテ、白河殿ヘゾ參ケル、

〔源平盛衰記〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 宇治合戰附賴政最後事
足利又太郎ハ、〈○中略〉鐙蹈張弓杖ツキテ申ケルハ、只今宇治川ノ先陣渡セルハ、昔朱雀院御宇承平ニ、將門ヲ討、勸賞ニ預リシ、下野國住人俵藤太秀郷ガ五代ノ苗裔、足利太郎(○○)俊綱ガ子ニ又太郎(○○○)忠綱、生年十七歳、童名王法師、〈○下略〉

〔源平盛衰記〕

〈三十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 熊谷父子寄城戸口幷平山同所來附成田來事
熊谷父子、城戸口ニ攻寄テ、大音揚テ云ケルハ、武藏國住人熊谷次郎(○○)直實、同小次郎(○○○)直家、生年十六歳〈○下略〉

〔吾妻鏡〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 壽永三年〈○元暦元年〉三月五日甲子、去月於攝津國一谷罰平家之日、武藏國住人藤田三郎(○○)行康、先登令討死訖、仍募其勳功賞、於彼遺跡、子息能國可傳領之旨、今日被仰下、御下文云、件行康、平家合戰時、最前進出、被取其身訖、仍彼跡所知所領等無相違、男小三郎(○○○)能國、可相傳知行之由云云、

〔源平盛衰記〕

〈四十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 屋嶋合戰附玉蟲立扇與一射扇事
金子十郎(○○)家忠、〈○中略〉組ヤ〳〵ト云處ニ、家忠ガ弟ニ、金子與一(○○)、引儲テ、有國ガ首骨ヲ志テ射タリケルニ、〈○下略〉

以等親爲名

〔玄同放言〕

〈下/人事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 姓名稱謂
六親をもて名とせしものは、坂本吉士長兄(○○)、〈皇極紀〉額田部連甥(○)〈孝德紀〉百舌鳥長兄(○○)、〈同紀〉佐々貴山君親人(○○)、〈續紀聖武紀〉文室眞人古能可美(○○○○)、〈光仁紀、古能可美、兄也、〉この他巨勢臣人(○)、〈天智紀〉多治比眞人家主(○○)〈聖武紀〉あり、

〔日本書紀〕

〈三/神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 八月〈○戊午年〉乙未、天皇使兄猾及弟猾者、〈猾此云宇介志〉是兩人、菟田縣之魁帥者也、

〔古事記〕

〈中/安寧〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 和知都美命者、〈○中略〉有二女、兄名蠅伊呂泥(○○○○)、亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命、弟名蠅伊呂杼(○○○○)也、

〔古事記傳〕

〈二十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 兄は伊呂泥(イロネ)と訓べし、〈○中略〉弟は伊呂杼(イロド)と訓べし、

〔續日本紀〕

〈七/元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 靈龜二年正月壬午、授大伴宿禰祖父麻呂(○○○○)從五位下

〔東大寺奴婢籍帳〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 奴婢籍帳〈天平勝寶二無印〉
兄万呂(○○○)〈年廿三○中略〉
右卅四人嶋宮奴〈○中略〉
妹女(○○)〈年卌七○中略〉
右五十一人官婢〈○中略〉
天平勝寶二年三月三日

〔續日本紀〕

〈三十四/光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 寶龜八年正月癸亥、授從五位下大野朝臣姉(○)從五位上

〔續日本紀〕

〈二十五/光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 寶龜十年正月庚申、授從六位上大伴宿禰弟麻呂(○○○)從五位下

〔日本後紀〕

〈八/桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 延暦十八年十一月戊申、從五位下橘朝臣眞甥(○○)、爲少納言

〔續修東大寺正倉院文書〕

〈十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 戸主智縁年伍拾漆歳〈○中略〉
從父兄出雲臣族祖父(○○)年陸拾貮歳 老丁〈○中略〉
女出雲臣族孫賣(○○)年貮拾捌歳 丁女

以姓氏爲名

〔古事記傳〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 繼體天皇の御子、茨田(マムタ)大娘女は、御母茨田連氏の女、用明天皇の御子當麻(タギマ)王は、御母當麻藏首氏の女なる、これらは御母の姓を取〈レ〉るか、〈○中略〉さて又やヽ後には、其乳母の姓を取て、御子の御名とせられし御制も有りき、文德實録に、先朝之制、毎皇子生、以乳母姓之名焉、故以神野天皇諱と見えたる、此は嵯峨天皇御名神野と申せるは、御乳母の姓なりしことに就て云るなり、抑此制は、何れの御世より始まりしにかあらむ、上代よりも、希々には此例も有〈リ〉つるか、詳ならず、欽明天皇の御子たちなどよりして、姓と思はるヽ御名の多く見ゆるは此例か、桓武平城などの御子たちの御名は、男女みな此なり、さて彼の嵯峨天皇の御名の外に、乳母の姓を取られたる證の物に見えたるは、天武天皇、初大海人(オホシアマ)皇子と申せしに、その崩りましヽ時に、大海宿禰蒭蒲といひし人の第一に誄奉りしことの見えたるは、御乳母の氏族と聞え、孝謙天皇、御名阿倍と申せるに、阿倍朝臣石井といふ御乳母見え、平城天皇、初御名小殿と申せるに、安倍小殿朝臣堺と云御乳母見え、桓武の皇女、朝原(アサハラ)内親王の御乳母に、朝原忌寸大刀自と云ふが見えたる是らなり、

〔文德實録〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 嘉祥三年五月壬午、故老相傳、〈○中略〉天皇〈○嵯峨〉誕生、有乳母、姓神野、先朝之制、毎皇子生、以乳母姓之名焉、故以神野天皇子諱

〔尊卑分脈〕

〈五/藤原〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 不比等傳
内大臣鎌足第二子也、一名史、齊明天皇五年生、公有避事、便養於山科田邊史大隅等家、其以名史也、

〔續日本紀〕

〈一/文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 三年十月辛丑、遣直大貮粟田朝臣眞人於山科山陵、並分功修造焉、

〔續日本紀〕

〈八/元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 養老二年正月庚子、詔授正六位上大伴宿禰首從五位下

〔東照宮御實紀附録〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 甲州士の内にも、山縣三郎兵衞昌景が武略忠節は、わきて御心にかなひけるにや、一年本多百助信俊が男子設けしに、兎缺なればとて心に應ぜぬよし聞しめし、そはいとめでたき事なり、信玄が内の山縣は大なる兎缺なり、かの魂精の拔出て、當家譜第の本多が子に生れ來りしなるべし、大切に養育すべしと仰付られ、その子の幼名をも本多山縣とめされ、台德院殿〈○德川秀忠〉の御伽にめし加へらる、

〔白石小品〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 武家官位ノ事
源太郎、平二、豐三、橘四、神五、紀六、長七、春八、藤九、田十、江太、野二、中三、丹三、宗四、菅五、宮六、高六、淸七、善八ナド聞エシハ、皆其姓ト其行第ヲ合セテ稱セシ也、
源太ハ源姓、平二ハ平姓ナリ、其他豐原、橘、大神、紀、長谷部、春原、藤原、田口、大江、小野、中原、丹治、惟宗、 菅原、宮道、高階、淸原、三善等ノ諸姓、悉クニカゾフルニ遑アラズ、

襲父祖名及以

親族偏名爲名

〔古事記傳〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 大概古の王等の御名は、〈○中略〉御母の名に因れりと見ゆるもあり、孝靈天皇の御子、千々速比賣(チヽハヤヒメ)命は、御母千々速眞若比賣なり、孝元天皇の御子、建波邇夜須毘古(タケハニヤスビコ)命は、御母波邇夜須毘賣なるが如し、

〔松の落葉〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 祖のあざなをつく事
今の世に、たとへばおやのあざな三左衞門といへば、子もうまごも、そのあざなをつくなるは、み國ぶりにして、いとよきならはしになん、しかすれば其家のすぢ、よくわかれて、まぎらはしからず、神武天皇は、彦火火出見尊のうまごの君にして、神日本磐余彦火火出見尊と申しヽも、さるみこヽろしらひにこそ、中ごろよりのちも、人の名つくに、とほりももじとて、ふたもじのうち、一もじは、さき〴〵のによりて、ものすなるも、いにしへよりのみくにぶりにしたがへるにぞ、から國の ふりと、ことなりとて、何のわろきことかあらん、さるをみくにのふりをはなれて、からのによりたる一もじの名も、これかれと見えしらがへり、そはいみじきひがごとする人どもになん、

〔唐律疏議〕

〈十/職制〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 諸府號官稱、犯祖父名、而冒榮居之、〈○中略〉徒一年〈○註略〉
疏議曰、府有正號、官有名稱、府號者、假若父名衞、不諸衞上レ官、或祖名安、不長安縣職之 類、官稱者、或父名軍、不將軍、或祖名卿、不卿任之類、皆須自言、不輙受

〔和漢三才圖會〕

〈九/官位〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 名〈音明〉 諱〈音誨〉 字〈音自〉
按字本朝所謂名乗、而多用二字、上爲父字、下爲母字、取用其一字、以爲子孫世世通字、如賴光賴、家義家等、是也、今多用張氏之韻鏡、考二字輕重、相生相剋、及歸納之音訓之、唯名用代代同名、庶子新名、

〔名字辨〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 父の名をわかちて、其子どもがつき、
〈たとへば源爲義の子に、義(○)朝爲(○)朝、又義朝の子に、賴朝義(○○)經、又平經盛の子に、經(○)政敦盛(○)など有がごとし、〉
父祖の名をわかちて、子孫がつきしはつねの事なり、
〈たとへば源仲政の子に、賴政(○)、孫に仲(○)綱、又平時政の子に、義時(○)、孫に政(○)村など有がごとし、〉

〔二判問答〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 一曩祖名字、令翻顚用之條、可如何哉、冷泉爲尹卿、政爲卿、字替其例候、不字者、可憚哉、
一字相替之上者無子細、二字共同字者不審、

〔刊謬正俗〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 名字類
公諱諱于國、私諱諱于家、古之制也、本國自中世以降世仍父祖之名、截其一字之、稱曰通字、如足利氏世以義字上レ名是也、

〔島津家譜〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 天正八年八月、〈○中略〉相良勢ツキ、〈○中略〉島津〈○忠平〉ノ幕下タルベキ旨降ズルニ依テ令赦免義陽、〈○相 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif〉則嫡子四郎太郎ヲ指上セ、元服シテ一字ヲ所望ス、依テ家字(○○)ノ忠卜云字ヲ授ケ、四 郎太郎忠房ト改名ス、

〔日本書紀〕

〈四/孝安〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 二十六年二月壬寅、立姪押媛、爲皇后、〈○註略〉后生大日本根子彦太瓊天皇、〈○孝靈〉

〔古事記傳〕

〈二十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 大倭根子日子賦斗邇命、御名〈ノ〉意、根子は尊稱にて、景行天皇の御子にも、倭根子命と申すあり、凡人にも記中に、難波根子、書紀神功〈ノ〉卷に、山背根子など云名見えたり、天皇は大倭國所知看(シロシメス)を以て、倭根子とは申奉るなり、故此御號、是を始として、孝元開化の二御世、又淸寧元明などの御名にも稱奉れり、〈光仁より仁明までの御謚號には皆是あり〉凡て御代御代の天皇の御通號となりて、詔命などにも、みな倭根子天皇と申し奉ることなり、

〔古事記〕

〈中/孝靈〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 此天皇、〈○中略〉娶春日之千千速眞若比賣(チゞハヤマワカヒメ)生御子、千千速比賣命、

〔日本書紀〕

〈四/孝元〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 七年二月丁卯、次妃河内靑玉繋女、埴安(ハニヤス)媛、生武埴安彦命

〔古事記〕

〈中/開化〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 日子坐王、〈○中略〉娶春日建國勝戸賣之女、名沙本之大闇見戸賣(サホノオホクラミトメ)生子、沙本毘古(サホビコ)王、次袁邪本(ヲザホ)王、次沙本毘賣(サホビメ)命、

〔古事記〕

〈中/垂仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 此天皇、〈○中略〉娶其沼羽田之入日賣命之弟、阿邪美能伊理毘賣(アザミノイリビメ)命〈此女王名以音〉生御子、〈○中略〉阿邪美都比賣(アザミツヒメ)命、

〔日本書紀〕

〈二十三/舒明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 二年正月戊寅、娶吉備國蚊屋(カヤ)釆女、生蚊屋皇子

〔大鏡〕

〈三/太政大臣實賴〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 たヾとしの君〈○實賴子齊敏〉の御おのこヾ、御おほぢ、をのヽみやのおとヾ、〈○實賴〉御子にし給ひて、さね(○○)すけとつけたてまつり給ひて、いみじうかなしうし給ひき、このおとヾの御名の文字なり、さねもじはといふほども、あまりざえがりたりや、

〔平家物語〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 をだまきの事
たとへば、昔ぶんごの國、あるかた山里に女有き、ある人のひとり娘、おつともなかりけるがもとへ、をとこよな〳〵かよふ程に、年月もへだヽれば、身もたヾならずなりぬ、〈○中略〉程なくさんをし たりければ、男子にてぞ有ける、母かたのおほぢ、そだてみんとてそだてたれば、いまだ十さいにもみたざるに、せい大きう、かほながヽりけり、七歳にてげんぶくせさせ、母かたのおほぢを大(○)大夫と云間、是をば大(○)太とこそつけたりけれ、

〔中臣氏系圖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 輔(○)親 輔隆 輔經 親(○)定 親仲 親隆(○) 能隆 隆通
隆世(○) 定(○)世 定忠(○) 親忠
隆泰 隆直(○) 蔭直
隆蔭(○) 經蔭(○)
隆實

〔宮司近代系圖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 長(○)任 長則 長藤
長泰 長基 長昌 長盛

〔尊卑分脈〕

〈四/卜部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 兼(○)延 兼忠
兼親 兼政 兼俊 兼康 兼貞
兼國 兼宗 兼時 兼友 兼衡

〔尊卑分脈〕

〈十一/藤原〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 公(○)季 實(○)成 公成 實季 公實 實行 公敎
實國 公時 實宣 公光 實冬

〔源平盛衰記〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 文覺賴朝勸進謀判
文覺ハ、渡邊黨ニ遠藤左近將 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif盛光ガ一男、上西門院ノ北面ノ下﨟也〈○中略〉十三ニ成ケル年、一門ニ遠藤三郎瀧口遠光ト云者呼寄テ、元服セサセテ烏帽子子トス、父盛光ガ盛ヲ取、烏帽子親遠光ガ遠ヲ取テ、盛遠ト名ヲ付、父ガ跡ヲ追テ上西門北面ニ參、遠藤武者盛遠トゾ云ケル、

〔豫章記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 通(○)信ノ子數多有、嫡子者、得能冠者通俊、母者新居大夫玉氏女、後ニハ四郎大夫ト云、是得能 ノ始トシテ、十八ケ村十八番目也、其子通秀、太郎ト云、得能冠者ト號ス、其子通純〈得能又太郎〉文永年中、六波羅吏部ヲ討伐シテ、阿波國富田庄ヲ賜、次男通村、〈得能彌太郎〉三男信綱、四男通方、又通村子通綱、〈得能又太郎〉任備後守、〈○中略〉通信三男通末、〈河野八郎、見上隨兵乗人也、〉同四男通久〈河野九郎左衞門尉、母北條時政女、○中略〉通久之子、嫡子ハ通時、〈河野四郎ト云フ〉次男通續、〈河野彌太郎、母工藤祐經女、〉藏人ト云、後上野介ニ任ズ、其子通有、〈河野六郎、任對馬守、母井門三郎長義女、○中略〉通有子七人アリ、嫡子通忠、〈八郎ト云、童名千寶丸、母江戸太郎女、〉十四歳時、父同蒙古ノ戰、毎度究高名之上被疵、彌進出射答矢、河野柚木谷ニ御館アリ、柚木谷殿ト號ス、福生寺ト云ハ其跡也、其子通貞、〈對馬三郎、母別府七郎左衞門入道女、〉元亨年中、將軍〈○足利尊氏〉方ニ參テ忠節ヲ致、越後國上田庄小栗山郷ヲ賜ル、通有次男通茂、〈九郎、母通久女、〉柏谷ニ居住シテ柏谷殿ト云、三男通種、〈四郎左衞門、母ハ通久女、〉其子通時、〈太郎左近將監、任彈正少弼、〉建武年中、爲與州大將一族等相催シ、國中凶徒ヲ退治シ、當國〈玉生庄幷〉由並中山等所々給之、通種次男通任、〈四郎〉先代〈○北條時行〉蜂起時、於當國討死、通有四男通員、〈五郎左衞門、母ハ通久女、〉同五男通爲、〈七郎左衞門尉、母同上、〉同六男通里、〈八郎左衞門、母同上、〉同七男通治、〈九郎左衞門、母同上、〉後通盛ト改、

〔蜷川親俊日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 天文七年五月廿日壬辰、東郷帶刀左衞門子〈二歳〉親俊名ヲ可有之由、連々懇望候間同心候、則召具帶刀來、三荷兩種持參、彼子祖父豐後ヲバ松千世、親名ヲバ鶴千世ト申候、然者二人名ヲトリ候テ松鶴ト名付、

〔總見記〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 御曹司御元服事附江州所々軍事同善祥坊降參事
元龜三年壬申正月、歳旦ノ拜禮常ノゴトシ、今月信(○)長公三人ノ御曹司、岐阜ニ於テ御元服アリ、嫡男ノ若君奇妙御曹司、十六歳ニナラセ給フ、是ヲ織田勘九郎殿信忠ト申奉ル、後ニ秋田城之介殿ト申ス是也、次男ノ若君ハ茶箋丸トテ、勢州ノ國司ナリ、元服有テハ北畠三助殿信雄ト云、常眞公是ナリ、三男ノ若君モ同日ニ御元服、是モ勢州ノ内ノ領主、神戸三七郎信孝ト名ノラセ給フ、

〔德川家譜〕

〈三/尾張〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 義直 慶長五年庚子十一月二十八日、生于駿河府中、小名五郎太(○○○)、
光友
寛永二年乙丑七月二十九日、生于尾張、小名五郎太、
綱誠
承應元年壬辰八月二日生、小名五郎太、

〔鵞峯文集〕

〈七十七/哀悼〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 西風涙露上
先考〈○林信勝〉以天正十一年癸未八月生、歴六十一年、汝〈○林信春〉以寛永二十年癸未八月生焉、先考初得孫、特喜其同干支、生三日、而先考、以其幼名又三郎之(○○○○○○○○○)、

〔天保武鑑〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 植村
榮政〈新六郎〉 〈出羽守〉
〈後改家存〉
台命〈○德川家康〉家之御一字拜領、傳子孫之、
家次 家政 家貞 家言〈○下略〉

〔浚明院殿御實紀附録〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 竹本次左衞門長景は、御氣色にかなひたる小納戸なりしが、病もて死せしとき、其ゆかりある女房の御かたはらに候したるに、次左衞門が子は、直に父の名に改めよと仰有りしかば、とみにつたへしに、忌はつる日、次左衞門と改めけり、

〔閑散餘録〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 徂徠先生、俗名ヲ總右衞門ト稱セルコトハ、曾祖父ノ名ヲ襲ヘルナリ、

兄弟名用同字

〔古事記傳〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 嵯峨天皇の御子たちの御名は、〈○中略〉皇男のは、みな良字を下におかる、其中に源朝臣と云姓を賜へるは、みな皇子のは一字、皇女のは某姫と云、次に淳和天皇の御子たちのも同じさまにて、此は多く上に恒字をおかれ、仁明天皇の御子たちのは、下に常字をおかれ、文德のは、上に惟字をおかれ、淸和のは、上に貞字、陽成のは、上に元字、光孝のは、上に是字、醍醐のは、下に明字、村 上のは、下に平字なり、

〔玄同放言〕

〈三上/人事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0677 姓名稱謂
父祖片以名子孫事、こは延喜天暦の年間より、その萌見えたり、しかれども藤氏に、時平、兼平、忠平、仲平のごとき、兄弟その名に、ひとしく平字を命け給へるのみ、父祖の片名を取り給ひしにはあらず、平家には貞盛繁盛あり、これも兄弟なり、圓融花山のおん時に、源氏に、滿仲、滿季、滿快、滿重あり、是も亦兄弟なりき、爾後賴信、賴義、義家、義親、平家には正度、正衡、正盛、忠盛に至りて、父祖の片名を取ること恒になりぬ、唐山にも父祖の名を嗣ぐこと稀にあり、さりとてこの土のごとくにはあらず、語は日知録卷廿三に見えたり、文多ければ載せざるなり、本書に就きて見るべし、しかはいへども、よに人の弟子たるもの、その師の片名を取りて、おのが名とし、或は亡師の名號を受けつぐ事、ふるくは和漢に所見なし、〈○中略〉浄土宗の譽字、日蓮宗の日字は、これらを濫觴とすべし、それより又おし移りて、巫醫百工、及文人墨客まで、各その師の名號を一字、わが名に受けつぐなるべし、

〔日本書紀〕

〈四/孝昭〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0677 二十九年正月丙午、立世襲足媛皇后、〈○註略〉后生天足彦國押人(アマタラシヒコクニオシヒト)命、日本足彦國押人(ヤマトタラシヒコクニオシヒト)天皇、〈○孝安〉

〔日本書紀〕

〈四/孝安〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0677 日本足彦國押人天皇、觀松彦香殖稻天皇〈○孝昭〉第二子也、母曰世襲足(ヨリタラシ)媛、尾張連遠祖瀛津世襲(オキツヨソ)之妹也、

〔古事記〕

〈中/孝元〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0677 比古布都押之信命、娶尾張連等之祖、意富那毘之妹、葛城之高千那毘賣〈那毘二字以音〉生子、味師内(ウマシウチ)宿禰、〈此者山代内臣之祖也〉又娶木國造之祖、宇豆比古之妹、山下影日賣生子、建内(タケウチ)宿禰、

〔日本書紀〕

〈四/開化〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0677 稚日本根子彦大日日天皇、大日本根子彦國牽天皇〈○孝元〉第二子也、母曰欝色謎(ウツシコメ)命、穗積臣遠祖、欝色雄(ウツシコヲ)命之妹也、

〔續修東大寺正倉院文書〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0678 御野國加毛郡半布里大寶二年戸籍 無印
下々戸主島(○)手〈年卌五正丁〉 嫡子山寸〈年十九少丁○中略〉 次百足(○)〈年十四小子〉
次小足(○)〈年四小子○中略〉 戸主弟小島〈年卌四正丁〉 嫡子大庭(○)〈年十六小子〉
次小庭(○)〈年十二小子〉 次廣庭(○)〈年十小子〉 戸主弟多都〈年卌七正丁〉
嫡子金寸(○)〈年十八少丁〉 次小寸(○)〈年十六小子〉 、〈年十四小子〉
次古猪(○)〈年十小子〉 次猪(○)手〈年一緑兒〉

〔續日本紀〕

〈十七/聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0678 天平勝寶元年五月戊辰、從七位上陽侯史令珍、正八位下陽侯史令珪、從八位上陽侯史令璆、從八位下陽侯史人麻呂、並授外從五位下、四人並是眞身之男、各貢錢千貫也、

〔皇胤紹運録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0678 陽成天皇〈諱貞明、治八年〉 〈母皇太后高子、長 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif卿女、〉
元良親王〈三品兵部卿〉〈母主殿頭藤遠長女〉
佐(○)材王〈從五上〉
佐(○)時王〈從五上、中務大輔、母神祇伯藤邦隆女、〉
佐(○)賴王〈從四上、大舎人頭山城守、母延喜(醍醐)第八内親王、〉
佐(○)兼王〈從五上〉
源佐(○)藝〈從四上母宇多第七内親王誨子〉
源佐(○)平〈中務大輔刑部卿〉
源佐(○)親

〔大鏡〕

〈二/太政大臣基經〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0678 御おのこヾ四人おはしき、太郎左大臣時平(○)、次郎左大臣仲平(○)、四郎太政大臣忠平(○)といふに、しげきがけしき、ことになりて、まづうしろの人のかほうち見渡して、それぞこのいはゆるおきなが、たからのきみ、貞信公におはしますとて、あふぎうちつかふかほもち、ことにを かし、三郎にあたらせ給ひしは、從三位して、宮内卿兼平(○)の君と申てうせ給ひにき、さるは御母いとあてにおはす、みつよしの式部卿のみこの御むすめにて、かへす〴〵もやむごとなくおはすべかりしかど、この三人の大臣たちを、よの人三平と申き、

〔大鏡〕

〈五/太政大臣兼家〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0679 大入道殿〈○兼家、中略、〉女院の御母北方の御はらの君達みところ〈○道隆、道兼、道長、〉の御ありさま申侍らん、昭宣公〈○藤原基經〉の御きんだち三平〈○時平、仲平、忠平、〉とは聞えさすめりしに、此三ところをば三道とやよの人申けん、えこそうけ給はらずなりしかとてほヽゑむ、

〔閑散餘録〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0679 仁齋〈○伊藤氏〉ニ五人ノ男子アリ、五子トモニ才學有テ、家聲ヲ落サズ、長(○)胤字ハ原藏(○)、東涯ト號ス、又別ニ慥々齋ト號ス、長(○)英、字ハ重藏(○)、梅宇ト號ス、初メ周防ノ德山毛利侯ニ仕ヘ、後備後ノ福山阿部伊勢侯ニ仕フ、長(○)衡、字ハ正藏(○)、介亭ト號ス、高槻ノ永井飛驒侯ニ仕フ、長(○)準、字ハ平藏(○)、竹里ト號ス、筑州ノ久留米有馬玄蕃侯ニ仕フ、長(○)堅、字ハ才藏(○)、蘭嵎ト號ス、紀伊侯ニ仕フ、五子ノ次第此ノ如シ、東涯ハ長子ナルユヘ、京都ノ家ヲ承テ、仕途ニ就ズ、弟四人ハ、右ノ如ク各々儒業ヲ以テ、諸侯ニ祿仕セリ、五人ノ中、東涯ト末子ノ蘭嵎二人、經術文章、特ニスグレタル故ニ、京都ノ諺ニ、五藏ノ頭尾ト稱セリ、五藏トハ五人同ジク、字ニ藏ノ字アルガユヘナリ、

以古人名爲名

〔玄同放言〕

〈三上/人事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0679 姓名稱謂
儒佛名號をもて名とせしは、〈○中略〉圓融院の御宇に、藤原朝臣伊尹公〈日本紀略六〉あり、一條院の御宇に、藤原朝臣伊周卿〈同書十〉あり、伊周は、伊尹、周公旦を一字づヽ取り給ひしなり、是より先き藤原諸葛〈三代實録光孝紀〉あり、漢の孔明が復姓を取れり、又花山の朝に、大江匡衡あり、漢の匡衡を取れるなるべし、

〔閑田耕筆〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0679 續日本紀大寶三年下に、衣縫造孔子といふ名あり、〈○中略〉唐人の名を付たる類は、藤原伊尹公、同相如の類、尚有べし、相如は彼にても蘭相如をうらやみ、司馬相如とつき、公孫無忌、魏無 忌のごときあれば、さも有べし、伊尹はあまりにや、禪家には、古德の號を付人、あまた聞ふるが、さらずともとおぼゆ、

〔續日本紀〕

〈三/文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0680 大寶三年正月丙申、從七位下茨田足嶋、衣縫造孔子(○○)、並賜連姓

〔續日本紀〕

〈二十五/淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0680 天平寶字八年正月己未、從五位下阿倍朝臣子路(○○)、爲左少辨

〔山槐記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0680 治承三年正月十日己巳、今夕左衞門權佐光長嫡男〈○註略〉加首服、右中辨經房朝臣猶子也、仍於彼辨亭〈勘解由小路南、萬里小路東、〉有此事、〈○中略〉今夜光長相具冠者關白殿〈○藤原基房〉云々、依先例名簿云々、書樣事示合予、〈○藤原忠親〉
蔭孫正六位上藤原朝臣長房
治承二年正月十日
定長可淸書云々、長房者故人名也、〈參議大藏卿長房也〉近代名字盡了、當世之人(○○○○)、多取故人名(○○○○○)、件名無反音云々、

〔江次第抄〕

〈三/正月〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0680 東堅 以三子東孺(アツマハラハ)、按舊簿、多以紀朝臣季明(○○○○○)、阿閉宿禰友成(○○○○○○)其名、中古以來以季明定爲其名、不尋常事也、

〔總見記〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0680 勢南御出馬所々合戰事同秀吉武勇事
扨モ此度木下ガ働、信長公大ニ御感ノタマヒケルハ、今日〈○永祿十二年八月二十七日〉藤吉ガ手ヲ負ナガラ門ヲ破テ責入タル樣、誠ニ古ノ朝伊名三郎義秀ガ勇力ニモ劣ルマジキ剛ノ者ナリトゾ褒仰ラレケル、藤吉是ヲ忝存ケレバ、是ヨリ頓テ義秀ノ名乗ヲ打返シ秀義ト名乗ル(○○○○○○○○○○○○○○○)、サリナガラ義ノ字ハ、公方樣〈○足利義昭〉御諱ノ字ナレバ、憚アリトテ文字ヲカヘ、木下藤吉郎秀吉ト名乗ケルハ、此時ヨリノ事也ケリ、

〔人見雜記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0680 豐臣秀賴公幼名捨君
天正十九年八月五日早生せし捨君あり、三歳の由、妙心寺に葬る、然ば秀賴と異なり、萩泰昶云、天 正十九年辛卯、秀吉公年五十に超て子なし、此秋初て男子を設け玉ふ、〈月日未詳〉大に悦んで其名を捨君と稱し、鶴松丸、又八幡太郎(○○○○)に改む、然るに其年八月五日夭す、

以形體爲名

〔古事記〕

〈下/仁德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0681 爾口子臣之妹、口日賣仕奉大后

〔古事記〕

〈下/履中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0681 此天皇、娶葛城之曾都毘古之子、葦田宿禰之女、名黑比賣命、生御子市邊之忍齒王、

〔古事記傳〕

〈三十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0681 忍齒は近飛鳥宮段に、此王の御事を云るに、御齒者如三枝押齒坐也とあれば、其に因れる御名なり、

〔古事記〕

〈下/反正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0681 水齒別命、〈○中略〉御齒長一寸、廣二分、上下等齊、既如貫珠

〔古事記傳〕

〈三十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0681珠とは、色の白く美麗くして、玉の如くなるを云なるべし、貫とは並びたるさまに因て云ならむ、さて水齒別と申す御名は、如此御齒の美麗く坐るに因て、負賜へるなり、

〔新撰姓氏録〕

〈右京諸蕃下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0681 長背連
高麗國主鄒牟王〈一名朱蒙〉之後也、欽明天皇御世、率衆投化、貌美體大、其背間長、仍賜名長背王

〔續日本紀〕

〈九/聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0681 神龜三年正月庚子、天皇臨軒、授正六位上多胡吉師手(○)外從五位下

以動物爲名

〔日本書紀〕

〈八/仲哀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0681 八年正月壬午、幸筑紫、時岡縣主祖熊鰐(○○)、聞天皇軍駕、〈○中略〉參迎于周芳沙磨之浦

〔日本書紀〕

〈十一/仁德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0681 元年正月己卯、大鷦鷯尊即天皇位、〈○中略〉初天皇生日、木菟入于産殿、明旦譽田天皇、〈○應神〉喚大臣武内宿禰之曰、是何瑞也、大臣對言、吉祥也、復當昨日臣妻産時、鷦鷯入于産屋、是亦異焉、爰天皇曰、今朕之子、與大臣之子、同日共産、幷有瑞焉、是天之表焉、以爲取其鳥名、各相易名子、爲後葉之契也、則取鷦鷯名、以名太子大鷦鷯(○○○)皇子、取木菟名、號大臣之子木菟(○○)宿禰、是平群臣之始祖也、

〔日本書紀〕

〈十六/武烈〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0681 十一年八月、〈○仁賢〉太子〈○武烈〉思欲聘物部麤鹿火大連女影媛、遣媒人、向影媛宅期會、影媛曾姧眞鳥大臣男鮪、〈鮪此云茲寐

〔日本書紀〕

〈十九/欽明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0682 三十一年七月、是月遣許勢臣猿(○)與吉士赤鳩(○)、發難波津、控引船於狹狹波山、而裝飾船

〔日本靈異記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0682 狐爲妻令子縁第二
昔欽明天皇〈○註略〉御世、三野國大野郡人、應妻覔好孃、乗路而行時、嚝野中遇於姝女、其女媚牡馴睇之、牡睇之言何行、稚孃之答言、將能縁而行女也、牡心語言成妻耶、女答言聽、即將於家交通相住、比頃懷任、生一男子、〈○中略〉故其令相生子名號岐都禰(キツネ)、亦其子姓負狐直也、

〔日本書紀〕

〈二十/敏達〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0682 元年四月、是月〈○中略〉以蘇我馬子宿禰大臣

〔日本書紀〕

〈二十四/皇極〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0682 元年二月戊申、詔大臣曰、〈○中略〉以難波吉士水鷄(○○)、可使於百濟、〈水鷄此云倶比那

〔日本書紀〕

〈二十五/孝德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0682 大化二年三月辛巳、詔東國朝集使等曰、〈○中略〉鹽屋鯯魚(○○)〈鯯魚、此云擧能之盧、○中略〉奉天皇、朕深讃美厥心、〈○下略〉

〔日本書紀〕

〈二十八/天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0682 元年七月壬子、於是近江將犬養連五十君、自中道至之留村屋、而遣別將廬井造鯨(○)、率二百精兵將軍營

〔續日本紀〕

〈四/元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0682 和銅二年正月丙寅、授正六位上大私造虎(○)從五位下

〔續日本紀〕

〈十/聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0682 天平元年四月乙丑、筑前國宗形郡大領外從七位上宗形朝臣鳥(○)麻呂、奏奉神齋之狀

〔日本靈異記〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0682 力女捔力試縁第四
聖式天皇御世、三野國片縣郡少川市、有一力女、爲人大也、名爲三野狐(○)、〈是昔三野國狐、爲母生人之四繼孫也、〉

〔東大寺奴婢籍帳〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0682 奴婢籍帳〈天平勝寶二無印○中略〉
堅魚〈年冊八○中略〉 虫(○)万呂〈年廿○中略〉 眞鯖(○)〈年卌四○中略〉
右卅四人嶋宮奴〈○中略〉 犬(○)万呂〈年五十七○中略〉
右六十六人官奴〈○中略〉
鮑(○)女〈年卅九○中略〉 眞魚(○)女〈年十○中略〉
右卌九人嶋宮婢〈○中略〉
天平勝寶二年三月三日

〔續日本紀〕

〈十九/孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0683 天平勝寶五年六月丁丑、陸奥國牡鹿郡人外正六位下丸子牛(○)麻呂、〈○中略〉賜牡鹿連姓

〔日本後紀〕

〈八/桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0683 延暦十八年二月乙未、流陸奥國新田郡百姓弓削部虎(○)麻呂、妻丈部小廣刀自女等於日向國

〔鵞峯文集〕

〈二十二/説〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0683 犬松説
動物以爲名者、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00085.gif龍熊羆之類不少、植物以爲名者、曰楷曰筠曰松曰柏之類猶多、狛郎幼弟、其名犬松、岐嶷可愛、乃祝之曰、假夜之能、以守其家業、則今日狛犬童子、爲他日逐 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00086.gif之韓盧乎、睎群木之長、以高一藝之才、則唯今一寸小松、爲後來吹萬之靈籟乎、犬松犬松、吾期汝遠大、〈丙午五月朔〉

以植物爲名

〔日本書紀〕

〈十二/反正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0683 天皇初生于淡路宮、〈○中略〉於是有井、曰瑞井、則汲之洗太子時、多遲花、落有于井中、因爲太子名也、多遲花者、今虎杖花也、故稱謂多遲比瑞齒別天皇

〔三代實録〕

〈十二/淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0683 貞觀八年二月廿一日丁卯、左中辨正五位下丹墀眞人貞峯等、賜姓多治眞人、先是貞峯等上表曰、〈○中略〉私檢古記、檜隈廬入〈○記以下五字、據一本補、〉野宮御宇宣化〈○化原作和、據一本改、〉天皇皇子、加美惠波皇子、生十市王、十市王、生多治比古王、此王生産之夕、忽多治比花、飛浮湯沐釜、以斯冥感、名多治比古王

〔古事記傳〕

〈三十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0683 書紀、此命〈○反正〉御段に、天皇初生于淡路宮、於是有井、曰瑞井、則汲之洗太子時、多遲花落在于井中、因爲太子名也、多遲花者今虎杖花也、故稱謂多遲比瑞齒別天皇とあるは、事のまぎれたる傳なり、其は三代實録十二に、丹墀眞人貞峯等上表曰云々、〈○中略〉とあるに依るに、多 遲花の故事は、此多治比古王の生坐し時の事なるを、此水齒別命の御名も多治比云々と申せるから、此御事に誤り傳へたるなるべし、姓氏録丹治宿禰條にも、書紀の如く云れど、彼は書紀に依てなるべし、抑書紀姓氏録を誤として、後なる三代實録にしも依れるはいかにと云に、此命は河内の多治比に都坐(ミヤコシキ)せれば、本より彼處に居住給ひて、其地名なることはいちじるしければなり、

〔續日本紀〕

〈二/文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0684 大寶二年正月乙酉、從五位下當麻眞人橘(○)、爲齋宮頭

〔續日本紀〕

〈九/元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0684 養老七年十二月丁酉、放官婢花良、賜高市姓

〔續日本紀〕

〈二十八/稱德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0684 神護景雲元年二月戊申、從四位下藤原朝臣楓(○)麻呂、爲太宰大貮

〔續日本紀〕

〈二十八/稱德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0684 神護景雲元年十月壬戌、授從六位上賀茂朝臣萱草(○○)從五位下

〔萬葉集〕

〈十六/有由縁幷雜歌〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0684 昔者有娘子、字曰櫻(○)兒也、

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0684 康治二年十二月八日庚寅、菖蒲丸〈六歳〉著袴、〈今度事、依永保三年入道殿、康保四年攝政殿等例行也、〉是余〈○藤原賴長〉庶長也、余無嫡子、而禮六十以前、不嫡、余以五月生、因名菖蒲若、以菖蒲之月故也、於五亦可假、此兒又以五月生、又名菖蒲、是又爲假、兼又可類、所以取父之號、若字者避父名也、

〔今物語〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0684 安貞のころ、河内國に百姓有けるが、子に蓮花(○○)王といひけるわらはありけり、

〔源平盛衰記〕

〈十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0684 菖蒲前事
鳥羽〈ノ〉院〈ノ〉御中ニ、菖蒲(○○)前トテ世ニ勝タル美人アリ、

〔吾妻鏡〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0684 元暦二年〈○文治元年〉五月一日癸未、故伊豫守義仲朝臣妹公、〈字菊(○)〉自京都參上、

〔本朝高僧傳〕

〈四十一/淨禪〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0684 京兆玅心寺沙門宗舜傳
釋宗舜、號日峯、姓藤、城州嵯峨縣人、母源氏、素有賢行、嘗詣法輪寺、禱男子於虛空藏菩薩、期以百日、期滿夜、夢有一高僧、出堂中、持菊花而授、寤即有娠、及産顔貌非凡、小字曰菊夜叉

以金石爲名

〔日本書紀〕

〈二十七/天智〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0685 十年正月癸卯、大錦上中臣金(○)連、命宣神事

〔續日本紀〕

〈二十/孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0685 天平寶字二年七月丙子、正六位上阿倍朝臣乙加志、授從五位下、正六位上額田部宿禰三富、〈○中略〉山田史銀(○)、並外從五位下、

〔十訓抄〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0685 堀河院御時、中宮の御方に、半物に、砂金(○○)と云て、雙なき美女ありけり、

以器物爲名

〔日本書紀〕

〈七/景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0685 二年三月戊辰、立播磨稻日大部姫〈○註略〉爲皇后、后生二男、第一曰大碓皇子、第二曰小碓尊、〈一書去、皇后生三男、其第三曰稚倭根子皇子、〉其大碓皇子、小碓尊、一日同胞而雙生、天皇異之、則誥於碓、故因號其二王大碓小碓也、

〔日本書紀〕

〈二十五/孝德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0685 白雉元年、是歳遣倭漢直、縣白髪部連鐙(○)、難波富士胡床(○○)於安藝國、使百濟舶二隻

〔續日本紀〕

〈九/元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0685 養老七年正月丙子、授正六位上石川朝臣樽(○)從五位下

〔續日本紀〕

〈十一/聖式〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0685 天平六年正月己卯授正六位下當麻眞人鏡(○)麻呂外從五位下

〔續日本紀〕

〈二十六/稱德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0685 天平神護元年正月己亥、正四位上文室眞人大市、〈○中略〉授從三位、〈○中略〉正六位上土師宿禰冠(○)外從五位下、

〔續日本紀〕

〈三十四/光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0685 寶龜八年正月癸亥、授正六位上忍海倉連 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00087.gif(○)外從五位下

〔續日本紀〕

〈三十五/光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0685 寶龜十年正月甲寅、授吉彌横刀(○○)外從五位下

以色爲名

〔日本書紀〕

〈二十八/天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0685 元年七月壬辰、將軍吹負、屯于乃樂山上、時荒田尾直赤(○)麻呂、啓將軍曰、〈○下略〉

〔東大寺奴婢籍帳〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0685 東大寺大宅可是麻呂籍帳案〈天平勝寶元年○中略〉
奴黑(○)人年十二〈○中略〉
右卌九人、大倭國添上郡大宅郷戸主大宅朝臣可是麻呂戸賤、〈○中略〉
婢黑(○)刀自賣卅一〈○中略〉
右十二人、未本籍、 以前貢於東大寺賤等歴名如件、謹以解、
天平勝寶元年十一月三日

〔續日本紀〕

〈二十三/淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0686 天平寶字五年正月戊午、授正六位上御間名人黑女外從五位下

〔續日本紀〕

〈二十八/稱德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0686 神護景雲元年正月己巳、授正六位上高屋連赤麻呂、秦忌寸蓑守、〈○中略〉並外從五位下

〔續日本紀〕

〈三十/稱德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0686 神護景雲三年十月甲子、授正六位上伊福部宿禰紫女外從五位下

以歳時爲名

〔古事記〕

〈中/應神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0686二神、兄號秋(○)山之下氷壯夫、弟名春(○)山之霞壯夫

〔續日本紀〕

〈五/元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0686 和銅四年十二月壬子、從五位下狛朝臣秋(○)麻呂言、〈○下略〉

〔東大寺奴婢籍帳〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0686 奴婢籍帳〈天平勝寶二無印○中略〉
正月〈年廿六○中略〉 九月〈年五○中略〉
右卅四人嶋宮奴〈○中略〉
十二月万呂〈年八〉 六月万呂〈年四○中略〉 五月万呂〈年二○中略〉
右六十六人官奴〈○中略〉
秋女〈年四〇中略〉
右卌九人嶋宮婢〈○中略〉
十月女〈年二〉
右五十一人官婢〈○中略〉
天平勝寶二年三月三日

〔續日本紀〕

〈三十九/桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0686 延暦五年正月乙巳、授正六位上賀茂朝臣三月從五位下

〔續日本紀〕

〈四十/桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0686 延暦十年七月己卯、故少納言正月(○○)王男、藤津王等言、〈○下略〉

〔日本後紀〕

〈十二/桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0687 延暦廿三年四月己酉、從五位下田中朝臣八月(○○)麻呂、爲右衞士佐

〔日本後紀〕

〈十二/桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0687 延暦廿四年二月乙卯、賜十二月(○○○)王、小十二月(○○○)王等三人室原眞人

〔文德實録〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0687 齊衡元年三月癸巳、賜下野國節婦秦部總成女爵二級、〈○中略〉總成女者、秦部正月(○○)滿之妻也、

〔三代實録〕

〈五十/光孝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0687 仁和三年五月十一日甲申、右京人外從五位下備後介平群臣春(○)雄、兄中務少録正六位上平群臣秋(○)雄、從父弟无位平群臣秋(○)常春(○)常等四人賜姓朝臣、春雄自言、祖出都久宿禰矣、

以由縁爲名

〔古事記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0687 大穴牟遲神、〈○中略〉故其八上比賣者雖率來、畏其嫡妻須世埋毘賣、而其所生子者、刺挾木俣而返、故名其子木俣神、亦名謂御井神也、

〔日本書紀〕

〈二/神代〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0687美人、名曰鹿葦津姫、〈○中略〉皇孫〈○瓊瓊杵尊〉因而幸之、即一夜而有娠、皇孫未之信曰、雖復天神、何能一夜之間、令人有一レ娠乎、汝所懷者、必非我子歟、故鹿葦津姫忿恨、乃作無戸室居其内、而誓之曰、妾所娠、若非天孫之胤、必當 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00088.gif、如實天孫之胤、火不害、即放火燒室、始起烟末生出之兒、號火闌降命、〈是隼人等始祖也、火闌降、此云褒能須素里、〉次避熱而居生出之兒、號彦火火出見尊、次生出之兒、號火明命、〈是尾張連等始祖也〉凡三子矣、

〔日本書紀〕

〈二/神代〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0687 一云、〈○中略〉豐玉姫從容語曰、妾已有身矣、當風濤壯日到海邊、請爲我造産屋以待之、是後豐玉姫、果如其言來至、謂火火出見尊曰、妾今夜當産、請勿之、火火出見尊不聽、猶以櫛燃火視之時、豐玉姫、化爲八尋大熊鰐、匍匐逶蛇、遂以辱爲恨、則徑歸海郷、留其女弟玉依姫養兒焉、所以兒名稱彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊者、以彼海濱産屋、全用鸕鷀羽草葺之、而甍未合時兒即生焉、故因以名焉、

〔新撰姓氏録〕

〈河内國神別〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0687 襷多治比宿禰
火明命十一世孫、殿諸足尼命之後也、男兄男庶其心如女、故賜襷爲御膳部、次弟之男庶、其心勇健、其 力足十千軍衆、故賜靭號四十千健彦、因負姓靭負

〔日本書紀〕

〈七/景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0688 二十七年十月己酉、遣日本式尊熊襲、〈○中略〉於是日本式尊、抽裀中之劒、刺川上梟帥之胸、末之死、川上梟帥叩頭曰、且待之吾有言、時日本式尊、留劒待之、川上梟帥啓之曰、汝尊誰人也、對曰、吾是大足彦天皇〈○景行〉之子也、名日本童男也、川上梟帥、亦啓之曰、吾是國中之 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00015.gif力者也、是以當時諸人、不我之威力、而無從者、吾多遇武力矣、未、皇子、是以賤賊陋口、以奉尊號、若聽乎、曰聽之、即啓曰、自今以後、號皇子日本武皇子、言訖乃通胸而殺之、故至于今曰日本式尊、是其縁也、

〔古事記〕

〈中/仲哀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0688 大鞆和氣命、亦名品陀和氣命、〈○註略〉此太子之御名、所以負大鞆和氣命、者、初所生時、如鞆宍生御腕故、著其御名

〔日本書紀〕

〈十/應神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0688 譽田天皇、足仲彦天皇〈○仲哀〉第四子也、〈○中略〉初天皇在孕、而天神地祇授三韓、既産之、宍生腕上、其形如鞆、是肖皇太后〈○神功皇后〉爲雄裝之負上レ鞆、〈肖此云阿叡〉故稱其名譽田天皇、〈上古時俗、號鞆謂褒武多焉、〉

〔古事記傳〕

〈三十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0688 此は謂大鞆別尊と云べきを、亦御名と紛らかして、謂譽田天皇と誤りたる傳なり、〈又右の文の次に、細書に、上古の時、俗號鞆謂褒武多焉とあるは、かの譽田天皇は傳へのまぎれにて、大鞆別なることを辨へずして推當に注せられたるひがことなり、いと上代より、鞆は登母とのみこそ云れ、さらに褒武多と云しことは無きをや、〉

〔新撰姓氏録〕

〈右京皇別下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0688 酒部公
同皇子〈○神櫛別命〉三世孫、足彦大兄王之後也、大鷦鷯天皇〈○仁德〉御代、從韓國參來人、兄曾々保利、弟曾々保利二人、天皇勅有何才、白有造酒之才、令御酒、於是賜麻呂酒看都子、賜山鹿比咩酒看都女

〔日本書紀〕

〈十四/雄略〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0688 七年七月丙子、天皇詔少子部連蜾嬴曰、朕欲三諸岳神之形、〈○中略〉汝膂力過人、自行捉來、蜾嬴答曰、試往捉之、乃登三諸岳取大蛇、奉于天皇、〈○中略〉仍改賜名爲雷、

〔日本書紀〕

〈十五/淸寧〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0688 白髪武廣國押稚日本根子天皇、大泊瀨幼武天皇〈○雄略〉第三子也、母曰葛城韓媛、天皇 生而白髪、長而愛民、

〔日本書紀〕

〈二十二/推古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0689 元年四月己卯、立厩戸豐聰耳皇子皇太子、仍録攝政、以萬機悉委焉、橘豐日天皇〈○用明〉第二子也、〈○中略〉父天皇愛之、令宮南上殿、故稱其名上官厩戸豐聰耳太子

〔袋草紙〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0689 紫式部ト云名〈ニ〉有二説、一此物語〈○源氏〉ニ紫〈ノ〉卷ヲ作、甚深之故得此名、一條院御母之子也、而上東門院〈○一條后藤原彰子〉ニ令奉トテ、吾ユカリノ物ナリ、アハレト思食セト令申給之、故ニ有此名、武藏野ノ義也、

〔十訓抄〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0689 上東門院の御方に、琴引人の今まいりしたりけり、院、紫式部に、此女房に琴ひく由はなれぬ名つけよと、仰ごと有けるに、いはこすとつけたりければ、殊にほめさせ給けり、ことぢのさきに緒のあたる所は、いはこすと申によりて、思よられけり、彼名をばしれる人、いと稀也、

〔豫章記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0689 親經〈○河野氏〉ニハ、女子一人計ニテ、相續者ナキ故、賴義ノ末子ヲ聟取、家ヲ令續、賴義ノ子四人有、〈○中略〉四男三島四郎親淸ト號、家ヲ繼、〈○中略〉ヌ親淸ニモ長子無リケレバ、女中親經之女、氏神三嶋宮へ參籠有テ、家ノ事ヲ祈請セラル、其比迄ハ家督タル人社參ニハ、丑時諸社燈明、悉消シテ參リ玉へバ、明神三階迄御出有テ、御對談有シ事也、如其女中參勤有テ、心中ノ趣、具ニ申給ヘバ、明神モ下ラセ玉フ、就中長子無テハ、誰ニ家ヲバ可〈ト〉令續仰有ケレバ、明神御聲ニテ、親淸ハ異姓他人也、努努不〈ト〉可種姓有ケル、女中然ラバ我身ヲバ、何トテ男子トハ成玉ハヌヤ、サリトテハ子孫御絶可有哉ト申給へバ、明神モ道理ニ攻ラレテ、然バ今一七日伺候有レトテ、神ハ上ラセ給ケリ、御託宣ニ任セテ、又七箇日、御社籠有ケル、第六日ニ當、夜半ノ程ニ、長十六丈餘ノ大蛇之身現、御枕本ニ寄給フ、本ヨリ大剛ナル女中ナレバ、少モ不騒、其時ヨリ御懷妊有テ、男子一人出來給フ、其形常ノ人ニ勝テ、容顔微妙、御長八尺、御面兩脇、鱗〈ノ〉如〈ク〉ナル物有、小跼テ脊溝無也、面前異相成ヲ耻テ、人ニ向事ヲ愼、常ニ手ヲ插頭給ヘバ、河野ノ物耻ト申傳タリ、烏帽子手形有事、此謂也、河野新大夫ト云、後伊 豫權介通淸ト稱ス、是ヨリ通字ヲ名乗也(○○○○○○○○○)、其故ハ明神一夜、密通ノ義ヲ以テ云爾、即大通智勝理顯然タリ、然ルヲ今諸人是ヲ名乗事、太以テ不然也、

〔保暦間記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0690 光明峯寺入道關白〈○藤原道家〉ノ三男〈于時號三虎(○○)御前○賴經〉ト申ハ、聊先將軍〈○源賴朝〉ノ縁類ニテ御坐ケレバ、此人ヲ將軍ニ定テ、公家ヘ申ス、同〈○承久元年〉六月廿五日請ジ下シ奉ル、

〔愚管抄〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0690 二歳なる若公〈○藤原賴經〉祖父公經の大納言がもとに養ひけるは、正月寅日の寅の歳寅時生れて、誠にもつねのをさなき人にも似ぬ子の、占の宿曜にもめでたく叶ひたりと、それを終に六月廿五日に、武士ども迎に上りて、下しつかはされにけり、

〔秦山集〕

〈雜著/甲乙録二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0690 予〈○保井春海〉年及六十、徘徊武江、談皇都故事、故人皆號都翁、近年中、神書號曰都翁、訓曰津々泥(ツヽチ)、春海之名、取伊勢物語鴈鳴菊花開之歌也、

〔伊勢物語〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0690 むかし男、いづみの國へいきけり、〈○中略〉ある人、住吉のはまとよめといふ、
鴈なきて菊の花さく秋はあれどはるのうみべに住吉の濱

從姓氏命名

〔日本書紀〕

〈二十九/天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0690 十年十二月癸巳、柿本臣猨(○)〈○中略〉授小錦下位

〔日本書紀〕

〈二十九/天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0690 十四年五月辛未、高向朝臣麻呂、都努(○○)朝臣牛(○)飼等、至新羅

〔玄同放言〕

〈三上/人事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0690 姓名稱謂
天武持統の朝廷より、文德淸和の朝廷まで、縁氏取名たるもの多かり、その類をいはヾ、都努牛飼、〈都努は角なり、角によりて牛を名とせり、〉柿本猨、〈以上書紀〉柿本建石、橘諸兄、〈諸兄は、諸枝なるべし、〉蓑笠麻呂、〈以上續紀〉船小楫、山邊何鹿、〈何鹿は丹波國の郡名なり、イカナル鹿の略辭なれば、山に縁あり、〉石川毛比、〈毛比は水なり〉淡海三船、石川淨濱、加茂大川、石川魚麻呂、林山主、〈以上殘缺後紀〉橘枝子、橘千枝、橘百枝、橘時枝、橘末茂、橘枝主、〈以上續後紀〉船湊守、石川橋繼、御船賀祐、〈賀祐は櫂也、以上類史、〉南淵永河、〈文德實録〉柿本枝成、橘信蔭、橘三夏、〈以上三代實録〉この他猶あるべし、近來狂歌師の狂名といふもの、これに近し、氏に縁りて名を取る事は、唐人の名に縁りて字せしに本づきたる歟、 譬へば顔回字子淵、〈 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00089.gif籍莊論曰、通謂之川、回謂之淵、〉仲由字子路〈按、由與熊近、子路熊一名也、然不諸爾雅、疑取由之字、以爲熊一名耳、〉の如し、

〔日知録〕

〈二十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0691姓取
古人取名、連姓爲義者絶少、近代人命名、如陳王道、張四維、呂調陽、馬負圖之類、榜目一出、則此等姓名、幾居其半、不何年、嘗讀通鑑、至五代後漢、有虢州伶人靖邊庭、胡身之註曰、靖姓也、優伶之名、與姓通取一義、所以爲一レ譃也、〈靖邊庭、亦見宋史田欽祚傳、〉考之自唐以來、如黄幡綽、雲朝霞、〈唐書魏暮傳〉鏡新磨、〈五代史伶官傳〉羅衣輕〈遼史伶官傳〉之輩、皆載之史書、益信其言之有一レ據也、嗟乎以士大夫、而效伶人之命名、則自嘉靖以來然矣、

〔急就篇〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0691 石敢當
衞有石碏、〈干弱反〉石買、石惡、鄭有石癸、石楚、石制、皆爲石氏、周有石速、齊有石之紛如、〈紛扶云反〉其後亦以命族、敢當言〈一作向〉無上レ敵也、


Last-modified: 2019-03-15 (金) 09:48:58 (386d)