女子名

〔名字辨〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0771 婦人の名、ふるくは某刀自、某女、某子、某虫などいふぞおほかる、庶人には、某女といふ名多く見ゆ、されども名によりて、尊卑のけぢめありしにはあらず、續紀に、夫人正三位縣犬養宿禰廣刀自、從四位上和氣朝臣廣虫、從四位下久米連若女など、いとおほかり、又無位の人にも、藤原朝臣數子、紀朝臣若子などあり、さはいへど皇女たちは、皆某子といへば自〈ラ〉尊〈ク〉、某女といふは自卑きがごとし、さて字音によむ名も、一字名も、又三字四字のも、又男の名とひとしきも、又今世とをさをさかはらぬもあるなり、續紀に、河上忌寸妙觀、藤原朝臣延福、藤原朝臣慈雲、岡上連綱、藤原朝臣影、忍海連致、安倍小殿朝臣堺、武生連朔、藤原朝臣長蛾子、縣犬養橘宿禰三千代、橘朝臣古那可智、曾禰連伊賀牟志、石上朝臣國守、刑部勝麻呂、熊野直廣濱、水海毗登淸成、高市花、縣犬養宿禰八重、忌部宿禰止 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00141.gif 、吉備朝臣由利など見ゆ、又呼名と名のりとは別なり、思ひまがふべからず、名のりの事、末にいふべし、台記別記に、久安六年の臺盤所日給簡の圖あり、それに蔭子正六位上源朝臣行子、少將、次々に皆蔭子正六位上とありて、藤原朝臣信子、大夫、藤原朝臣忠子、少納言、藤原朝臣顯子、近江、藤原朝臣憲子、越後など、十三人の名、上に一列にありて、又下に是も蔭子正六位上とありて、藤原朝臣遠子、乎度女乃、藤原朝臣兼子、佐々禮石、藤原朝臣知子、松加波と一列にあり、古の婦人に、紫式部、淸少納言、或は紀伊丹後などいふは、皆呼名なり、かくて後にいたりては、ひたすらに某子との み名づくる事にはなりたり、されば今世に婦人の名にさへあれば、呼名にも子の字をつくべきと思ふはかたよれり、まして字音の名に子の字をつけて、たとへば楊子席子とやうにいふは、かたはらいたきわざなりけり、

〔禁秘御抄〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0772 女房
上﨟〈○中略〉 禁中無小路名、仍雖最上大納言
下﨟 諸侍賀茂日吉社司等女也、皆稱候名也、不國名、但其中宿老者、或賀茂祭爲命婦渡後、或國名〈ヲモヨビ、〉或侍名〈モ〉有也、

〔祭秘御抄階梯〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0772 女房
候名、按ひさしき、うれしき、ゆりはな、久、龜、鶴抔樣、皆候名也、
國名、按陸奥常陸等之類也、
峯記〈承元三三廿三、立子入太子宮、〉歸家之後、定女房等名、〈殿名候名、上中﨟有殿名、下﨟無殿名、久安記云、上中下﨟、皆有候名、上中﨟有召名、下﨟無召名、雖中﨟、除公達及藏人五位之外無召名、至大進者、依乳母之、〉按、殿名又小路名ト云、大宮殿三條殿坊門殿抔也、候名見上、召名、按察、大進、少進、大貳、少貳、小辨、左衞門、少將之類也、

〔大上﨟御名之事〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0772 一さるべき人々の召つかふべき女房のしだい、上らうをさなヽをよぶべし、たとへばちや〳〵、あちや、五ゐなどよぶたぐひ成べし、唯上らうともいふべし、
一こ上らふ、じやうらふに、ちがひめなし、さつき、さかづきとう、じやうらふのつぎ、
一中らふ、くわん、あるひは町の名、又をさな名をよぶなり、じヾう、せうしやう、さいしやう、かすが、 れんぜい、ほりかは、大みや、一條、二條、このたぐひなり、
一御しもともいふ、是までは上から帶をせざるなり、
一下らふ、くわんの名をつけべし、しんざにゐるを、御いままゐりと名づけ、名のなきをもて、なと する事もあるべし、そののちまたしんざあれば、それをいま御まゐりとも云べし、
一末のものといふ女、くわん、をさな名をよぶべし、ひでう同じ、
一はしたものげすの事、源氏のもくろくのうちつけべし、をさな名もあるべし、まちの名もつく る事有、さふらうをそへてつくるは、すこしあがるなり、そへぬは、こそをそゆるなり、はしたも のよりおとりたらば、源氏のもくろく、こうななどつくる事、ゆめ〳〵有べからず、
一をさな名は、上中下によらずつくるべし、
一中らふのつくくらゐも、さんぢうなり、一條殿、二條殿、三條殿、れんぜい殿、かすが殿、堀川殿、高倉 殿、ばうもん殿、大納言殿、權大納言殿、京極殿、大みや殿、新大納言殿、此次は民部卿どの、あぜち殿、 そち殿、中納言殿、しんちう納言殿、別當殿、さゑもんのかみどの、うゑもんのかみ殿、さいしやう どの、兵衞のかみ殿、大藏殿、ぢぶ卿殿、ぎやうぶ卿どの、くないきやう殿、左京大夫殿、右京大夫殿、 大江殿、中じやう殿、ぬひどの、此次はだいぶどの、うだいぶどの、しんだいぶどの、べん殿、少將殿、 じヾうどの、さゑもんのすけ殿、うゑもんの助殿、少納言殿、せう殿、大しんどの、たゆふのすけど の、
をさな名少々
ちや〳〵 あちや かヽ とヽ あこ あか あと こヽ ちやち つま あや よヽ
この類なり
一下﨟のつく國名、伊豫、はりま、さぬき、みの、をはり、三河、備中、たんご、とさ、はうき、美作、

〔薩戒記〕

〈部類二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0773 女房名事
上﨟
東御方 南御方 西御方 廊御方 對御方 御妻 一條殿 二條殿 三條殿 近衞殿 冷 泉殿 春日殿 坊門殿 高倉殿 大宮殿 京極殿 堀川殿
小上﨟
四條 五條 六條 大納言 按察 民部卿 中納言 左衞門督 帥 別當 宰相 兵衞督 刑部卿 治部卿 大藏卿 宮内卿 兵部卿
中﨟
督殿 大貳 卿殿 中將 辨 少將 左京大夫 右京大夫 權大夫 左衞門佐 右衞門佐 侍從 少納言 兵衞佐 大進 大輔 少輔 佐
下﨟
伊豫 播磨 讃岐 美濃 尾張 武藏 肥前 伊賀 越前 相模 美作 甲斐 備中 備後 筑前 下野

〔女房の官しなの事〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0774 執柄家
大上らふ
かけほの親王大臣の御娘など、この名にかうす、
むき名
上らふの名也、北の政所などはいはれずして、唯ならぬ人の名なり、
一のたい 御つま
これも上らふのかうする名也
小上らふ
これも小路の名、又二位三位大中納言とかうするなり、
中らふ 中少將などいふ也、左衞門のかみ、小かみは、小上らふかけたる名なり、
下らふ
侍從、小辨、少納言などは、下らふながら、中らふかけたる名なり、
うへわらは
これらは國名、よせある名などをつく也、さぶらふ名などあるべし、
とじ
これも内裏などのとじおなじ事也
此ほか
北のまん所
このかうは、執柄家にても、内裏より内々のせんじあり、
御だい
大かた北のまむ所などおなじ程の事也、このかうは、せんげなどなし、
御かた〴〵の名の事
北東御かたは上なり、南西は聊方角にては、おとりたる也、かた名とむき名とは、かた名はあが りたるやうに申傳へたるなり、
むき〳〵の名の事
かた名などヽおなじ
たいの事
一のたいは上也、つま二のたいなどは、いさヽかおとりたるなり、
こうぢの名の事 一條、二條、三條、近衞、春日、これらは上の名也、大宮、京極、これらは中なり、高倉、四條などは、小路の うちにもおとりたるなり、中らふの成あがりも、小路の名は付也、
大納言局 中納言局 左衞門督 帥 按察使 ゑもんのかみ
これらは上らふの付名也、此うちにも、あぜちなどは、いさヽか心ありてさがりたるなり、
一位局 二位局 三位局
これらはずいぶんの事也
小ざいしやう 小督 小ひやうゑのかみ
これらはずいぶん、中らふ小上らふかけたる名也、
中將 少將 左京大夫 宮内卿 しんすけ 左衞門佐
これらは中らふの中にも、隨分の人のなる也、總じて小の字を添てつくるは、あがりたるなり、
じヾう 少納言 小辨 國々の名
これらは下らふの名なり、じヾう少納言は、中らふかけたる名也、左右なくはつくべからず、國 國名は大かたなり、
伊豫 はりま たんご 周防 越前 いせ
これらは國名にてもすぐれたる名也、内裏などにても、中らふかけたる名なり、
丹後 をはり みまさか 越後 びんご ぶんご 加賀
これらなどは、中程の國名也、大かた國名は、このほかおほし、相はかりてつくべし、
總じて新大なごん、權大納言など添たる、執したる官なり、唯又しんすけ、いままゐりなどいふは、はじめたる人の名を、むずといひにくきをいふ也、新三位などは、しんをそへたれども、唯三位よりは聊劣りたる也、又小少將小辨などはしつしたるなり、此外うへわらはなどは、いろ〳〵の源 氏さごろもの心にて、名を付るなり、さぶらふ名、うへわらはにてはよき也、大がいかくのごとし、さりながらこのうちにても、上下の事は、はからひて名をつくべし、あながちかみより、二位三位などには、せんげなけれども、位の名をつくることは、執柄より下へは、名にはからひてつくる也、たヾ又ひがし殿南殿などいふは、たかきいやしきにも有、去ながらたかきにては、御所のがうなどにもおとらざる也、御所のがうは、北の政所よりは心あるやうなり、いづれもそまつには申べからず、人のおしてはからひには有べからず、仙洞しつへいまでは、わか君御所などのがうあるべし、大臣家など成とも、御所のがうはあるべからず、心あるべし、人によるべきなり、政所はくわんばくの御母なり、

〔光臺一覽〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0777 内侍の中の上﨟を、勾當内侍と申候、諸寺の沙汰武家の執奏、古より此局なり、長橋坊に居住なさる故長橋殿と申なり、長橋辭退あれば、典侍の官に上りたまふなり、この外に御下の局とて御座候、是は下鴨、松尾、稻荷等之社司の女なり、名は越前、三河、大輔などヽ被召なり、此頭たる女中を、御代々いつにても伊豫と被召通例なり、

〔古老口實傳〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0777 一神職氏人召仕從女之名字〈爾〉、榊葉、木綿志手、有怖事也、仍代々禁制之、件兩名者、齋宮女嬬之定名也、是神代古風傳也、故神職人一切禁之、

〔十訓抄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0777 其比〈○一條〉は、源氏物語作れる、紫式部(越前守爲時女) 赤染右衞門(大隅守時用女) 和泉式部(大江雅致女) 小式部内侍(道貞親王女) 小大君(重明親王女)
伊勢大輔(輔親女) 出羽辨(出羽守季信女) 小辨(越前守懷尹女) 馬内侍(左馬頭時明女) 高内侍(高階成忠女) 江侍從(匡衡女) 新宰相(參議廣業女) 兵衞内侍(信濃守隆信女) 中將(道雅女) などいひて、やさしき女房どもあまたありけり、

〔袋草紙〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0777 和歌ハ好テ有無益事 大江公資、大外記所望者也、〈○中略〉以相模妻之比也、公資依相模守相模(○○○○○○○○○)、本名ハ乙侍從云々、

〔袖中抄〕

〈十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0777 ゑびすのみよりいだすち 江記云、赤染は赤染時用女也、依右衞門志尉等赤染衞門、實兼盛女也云々、

〔玉勝間〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0778 小大君
三條院女藏人左近を、小大君ともいへり、そは小大進といふ名を、はぶきていへるなれば、こだいの君とよむべし、こおほきみとよむはひがこと也、此人小大進なる證は、榮花物語見はてぬ夢の卷に、あるはなくなきは數そふといへる歌のよみ人、東官女藏人小大進とあり、東宮は三條院也、

〔源氏物語玉の小櫛〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0778 紫式部が事
紫式部といふ名は、實の名にはあらず、すべて女房に、式部、少納言、辨、右近などいふたぐひ、みないはゆる呼名(ヨビナ)也、こは初學のためにまづいふ也、此の實の名は世につたはらず、すべて古〈ヘ〉名高かりし女房、おほくは實の名は見えず、撰集どもにも、よび名をしるされたり、さて式部といふに、紫、和泉、小式部などあるは、式部といふが、あまた有て、まぎるヽ故に、わかむため也、そは或は其姓、或は父、また夫などの官、母の名など、たよりにまかせてよべりしなり、淸少納言、江侍從などは、淸原大江の姓也、和泉式部は、和泉守道貞が妻也、小式部は、和泉式部が子也、伊勢〈ノ〉大輔は、伊勢〈ノ〉祭主輔親の女なり、大貳〈ノ〉三位は、太宰〈ノ〉大貳成章の妻也、さて紫式部も、もとは姓によりて、藤式部といへりしと也、そはとうしきぶとよむべし、江侍從もごうじヾうとよむべし、淸少納言などの例なり、ふぢしきぶ、えのじヾうなどは、よむべきにあらず、男にても、江帥、藤大納言、在中將などのたぐひ、みなこゑによめり、

〔傍廂〕

〈前篇〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0778
すべて女のよび名は、さらぬもあれど、大かたは父か夫かの官名をよばるヽが多し、小兒もしりたる百人一首の中なる女のよび名は、伊勢は、伊勢守繼蔭の女なり、右近は、右近の少將季繩の女なり、和泉は、和泉守道貞の妻なり、大貳三位は、太宰大貳成章の妻なり、赤染右衞門は、赤染時用の 女なり、小式部内侍は、和泉式部の女なり、伊勢大輔は、伊勢祭主輔親の女なり、淸少納言は、淸原元輔の女なり、相模は、相模守公資の妻なり、周防内侍は、周防守繼仲の女なり、紀伊は、紀伊守重經の妹なり、

〔朝野群載〕

〈五/朝儀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0779 内侍所
勘申殿上女房日夜事
一番上
正四位藤原朝臣芳子 上日六十三 夜无 上等
從五位上源朝臣繁子 源典侍 上日卅七 夜卅七
從五位下藤原朝臣賴子 宰相典侍 上日无 夜无
從四位下源朝臣義子 小馬小侍 上日七十九 夜六十一 中等
正五位下藤原朝臣業子 小將掌侍 上日七十九 夜六十七 中等
正六位上平朝臣親子 侍從内侍 上日六十三 夜五十七 下等
從五位上藤原朝臣義子 小大輔命婦 上日百七 夜十三 上等
從五位下藤原朝臣善子 宮内命婦 上日无 夜无
二番上
正五位下藤原朝臣經子 宰和御乳母 上日廿日 夜廿四 上等
從五位上藤原朝臣 式部御乳母 夜无 上日无 上等
一番下
從五位上藤原朝臣孝子 小將命婦 上日百六 夜百六 上等
二番下 正六位上紀朝臣忠子 式部 上日无 夜无
右從去六月于十一月、上日幷夜如件、
永承二年十一月五日 女史從五位上安部朝臣長子
今案等第法夏上等四疋(百廿日) 中等三疋(八十日) 下等二疋(卅日) 冬上等六疋 中等四疋 下等三疋 式書
文御乳母幷三位各五疋
博士命婦 得選〈五位三疋六位二疋〉女史謂之博士命婦

〔續世繼〕

〈二/たまづさ〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0780 堀川のみかどは、〈○中略〉さ月の比、つれ〴〵におぼしめしけるにや、歌よむをとこ女、よみかはさせて御らんじける、〈○中略〉女は周防内侍(○○○○)、四條宮の筑前(○○)、高倉の一宮の紀伊(○○)、前齋宮のゆり花(○○○)、皇后宮の肥後(○○○)、つのきみ(○○○○)など、ところ〴〵の女房、われも〳〵とかへしあへり、

〔中右記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0780 寛治八年〈○嘉保元年〉正月廿九日辛丑、聞内女房兵衞命婦任子、〈號霧立〉一日巳卒去、是依月來所一レ惱也、

〔台記別記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0780 久安六年正月十九日、臺盤所日給、
蔭子 正六位上源朝臣行子、少將、
子 蔭子 正六位上藤原朝臣信子、大夫、
丑 蔭子 正六位上藤原朝臣忠子、少納言、
蔭子 正六位上藤原朝臣顯子、近江、
寅 蔭子 正六位上藤原朝臣憲子、越後、
卯 蔭子 正六位上藤原朝臣資子、丹後、
蔭子 正六位上藤原朝臣保子、辨、

蔭子 正六位上源朝臣成子、北殿、
蔭子 正六位上藤原朝日子、信乃、

蔭子 正六位上藤原朝臣經子、大進、
未 蔭子 正六位上藤原朝臣範子、筑前、
蔭子 正六位上藤原朝臣盛子、肥後、

蔭子 正六位上藤原朝臣實子、洞院、
酉 蔭子 正六位上藤原朝臣能子、大納言、
蔭子 正六位上藤原朝臣敎子、堀川、
戌 蔭子 正六位上藤原朝臣賴子、右衞門督、 巳 蔭子 正六位上源朝臣伊子、中將、
蔭子 正六位上藤原朝臣達子、乎度女乃、
亥 蔭子 正六位上藤原朝臣兼子、佐々禮石、
蔭子 正六位上藤原朝臣知子、松加江、

〔今昔物語〕

〈三十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0781平定文女出家語第二
今昔、平ノ定文ト云フ人有ケリ、字ヲバ平中ト云ケリ、極タル色好ミニテ、色好ミケル盛ニ、平中ニ行ニケリ、中比ハニ出テノミナム色ハ好ケル、其ノ時ニ后ノ宮ノ女房達、其ノ日ニ出タリケルニ、平中此レヲ見テ、色好ミ懸リテ假借シケルニ、返テ後ニ平中消息ヲ遣タリケレバ、女房達車也シ人ハ數有シヲ、誰カ御許ニ有ル消息ニカト云セタリケレバ、平中此ナム書テ遣タリケル、
モヽシキノタモトノカスハミシカドモナカニオモヒ
此レハ武藏ノ守ノト云フ人ノ娘ニテナム有ケル、其ノ人ナム色濃キ練ヲ著タル、其レヲ假借スル也ケリ、然レバ其武藏ナムコノ返事ハシテ云ヒ通シケル、此ノ武藏ハ、形有樣微妙キ若人ニテナム有ケル、

〔女院小傳〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0781 宣陽門院、〈覲子〉後白川女、母從二位高階榮子、元丹後局、相模守平業房妻也、〈○下略〉

〔平家物語〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0781 小がふの事
主上〈○高倉〉は、れんぼの御涙に思召しづませ給ひたるを、申慰め參らせんとて、中宮〈○平德子〉の御方より、小督(○○)と申女房をまゐらせらる、

〔山槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0781 治承四年三月九日辛酉、後聞先有女除目事云々、藏人左衞門權佐光長奉行此事、光長示送曰、上卿、〈藤中納言成範〉宰相、〈通親朝臣〉仰詞〈ハ〉只藤原輔子、藤原領子、源房子、源賴子、可典侍、平衡子、高階秀子、藤原方子、源職子.可掌侍、上仰作了、除位事不仰候、〈但折紙ニハ注付テノヒキ〉以外記内覽、不淸書、直召外記下了、已上所注送此、
輔子〈號大納言局、〉〈坊時號五條〉〈御乳母也、藏人頭重衡朝臣妻、前大納言邦綱卿之女、〉 領子〈號輔局、〉〈坊時號洞院〉〈御乳母也、故權中納言顯時卿女、大理時忠室、〉
房子〈號新大納局、源大納言定房卿、〉 賴子〈號別當局、源中納言雅賴女、〉
衡子〈號少將局、藏人頭重衡朝臣養女、〉 秀子〈號伊豫局、故遠江守成景女、〉
方子〈號辨局、故兵部大輔顯方女、〉 職子〈號甲斐局、前伊賀守雅亮女、〉

〔吾妻鏡〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0782 文治四年正月廿二日戊午、比企藤内朝宗妻、〈御臺所官女、號越後局、〉今曉男子平産云云、

〔玉蘂〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0782 承元三年三月廿三日、此日故攝政前太政大臣良經長女有入宮事、〈名立子、生年十八、與余(藤原道家)同腹.母權中納言能保卿女、○中略〉
人々交名
女房
一車 近衞〈政子、太政大臣忠雅女、〉 春日〈通子、内大臣通親女、〉
二車 按察〈資子、大納言資賢女、〉 中納言〈季子、從三位定季女、〉
三車 帥〈經子、權中納言親經女、〉 治部卿〈顯子、從三位顯兼女、〉
四車 兵衞督〈能子、從三位季能子、〉 大貳〈長房朝臣女、長子、〉
已上上﨟
五車 辨〈行房朝臣女、行子、〉 少納言〈公輔朝臣女、輔子、〉
六車 佐〈兼資女、廣子、〉 播摩〈仲基朝臣女、仲子、〉
七車 加賀〈仲基朝臣女、基子、〉 芹川〈以實女、以子、〉
八車 〈爲成女、成子、〉 〈秀康女、季子、〉
九車 うれしき〈爲子、爲重女、〉 ひさしき〈光子、光季女、〉 已上下﨟
右衞門佐〈重光女、方子、〉 讃岐〈賴兼女、賴子、〉
下仕 なるてふ はなさく
上雜仕 さゆりば はつはな
雜仕 あげまき さヾなみ

〔將軍德川家禮典附録〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0783 元文二年四月十六日
一御七夜之節、贈物有之女中之人數名前、
御本丸老女
豐岡 八嶋 浦尾
同表使
藤野 岩野 春野 深野
西丸老女
梅園 瀨川 瀧津
同表
平尾 富尾 幾田 野遊

〔日本書紀〕

〈一/神代〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0783 猿女君遠祖天鈿(アメノウズ)女(メノ/○)命、則手持茅纏之矟、立於天石窟戸之前、巧作俳優

〔續修東大寺正倉院文書〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0783 御野國加毛郡半布里大寶二年戸籍〈○中略〉
戸主妻敢臣族岸臣都女(○)〈年卌五正女〉 兒力良賣(○)〈年廿四正女〉 次志多布賣(○)〈年十六小女〉
次乎志多布賣(○)〈年十四小女〉 戸主妹咋賣(○)〈年卌七正女〉 安倍妻石部小都賣(○)〈年卅二正女〉
兒根都賣(○)〈年十三小女〉 次古賣(○)〈年三緑女〉

〔續日本紀〕

〈四/元明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0784 和銅元年三月庚申、美濃國安八郡人國造千代妻如是女(○)、一産三男、給稻四百束乳母一人

〔東大寺奴婢籍帳〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0784 東大寺大宅可是麻呂籍帳案〈天平勝寶元年○中略〉
婢飯虫咩(○)年卌四
婢伊蘇賣(○)年卌三
〈○中略〉
婢多比賣(○)年八十九〈○中略〉
婢白刀自賣(○)年十八

〔續日本紀〕

〈三十一/光仁〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0784 寶龜二年五月壬寅、授正六位上小野朝臣小野虫賣從五位下

〔古事記〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0784是須佐之男命、以爲人有其河上、而尋覓上往者、老夫與老女二人在、而童女置中而泣、爾問賜之汝等者誰、故其老夫答言、僕者國神大山〈上〉津見神之子焉、僕名謂足〈上〉名椎、妻名謂手〈上〉名椎、女名謂櫛名田(クシナダ)比賣(ヒメ/○○)

〔古事記傳〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0784 高御産巢日神、〈○中略〉日は書紀に産靈と書れたる靈字よく當れり、凡て物の靈異なるを比と云、〈○中略〉比古比賣などの比も、靈異なるよしの美稱なり、

〔古事記傳〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0784 比賣(ヒメ)は比古(ヒコ)に對て、女を美て云稱にて、比(ヒ)は産巢日(ムスヒ)などの日(ヒ)の意なり、〈○中略〉賣(メ)は女なり、

〔日本書紀〕

〈三/神武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0784 庚申年八月戊辰、天皇當正妃、改廣求華冑、時有人奏之曰、事代主神、共三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛生兒、號曰媛蹈韛(ヒメタヽラ)五十鈴(イスヾ)媛(ヒメ/○)命、是國色之秀者、天皇悦之、

〔東大寺要録〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0784 延暦僧録文
仁政皇后菩薩〈諱安宿媛、尊號天下應眞天皇〉
出家尼名光明子沙彌

〔吾妻鏡〕

〈十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 建久十年〈○正治元年〉三月五日丁酉、故將軍〈○源賴朝〉姫君、〈號乙姫君字三幡〉自去比御病惱、御温氣也、

〔德川家譜〕

〈四/尾張〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 宗春
女子 名富姫(○○)
女子 名補誦姫(○○○)

〔古事記〕

〈中/開化〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 其美知能宇志王、娶丹波之河上之摩須(マスノ)郎女(イラツメ/○○)

〔古事記傳〕

〈二十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 郎女は、書紀景行卷に、郎姫此云異羅菟咩(イラツメ)、と見え、天智卷に伊羅都賣(イラツメ)、續紀廿二に、藤原伊良豆賣などもあり、此等に依て訓を定むべし、又舒明紀に、郎媛、孝德紀に娘などもあり、さて男に郎子、女に郎女と云、伊羅(イラ)は、伊呂兄伊呂弟(イロセイロト)などの伊呂、又入彦入姫(イリヒコイリヒメ)などの入などヽ皆同言にして、親み愛しみて云稱なり、

〔日本書紀〕

〈一/神代〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 一書曰、以石凝姥冶工、〈○中略〉石凝姥、此云伊之居棃度咩(イシコリトメ)

〔古事記傳〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 伊斯許理度賣(イシコリトメ)命、〈○中略〉度賣は、老女を云稱と見えて、書紀に姥と書り、〈此字字書に老母也と有〉例ば記中に、春日建國勝戸賣(カスガノタケクニカツドメ)、沙本大闇見戸賣(サホノオホクラミドメ)、志理都紀斗賣(シリツキトメ)などあり、又戸邊(トベ)とも通し云こと、書紀の己凝戸邊にて知べし、

〔古事記〕

〈中/開化〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 日子坐王、娶山代之荏名津比賣、亦名苅幡(カリハタ)戸辨(トベ/○○)、〈此一字以音〉

〔古事記傳〕

〈二十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 苅幡戸辨、〈○中略〉戸辨(トベ)は斗賣(トメ)と同じ、

〔播磨風土記〕

〈揖保郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 飯盛山、讃伎國宇達郡飯神之妾、名曰飯盛大刀自(○○○)、此神度來、占此山而居之、故名飯盛山

〔續日本紀〕

〈二十四/淳仁〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 天平寶字六年十月己未、夫人正三位縣犬養宿禰廣刀自(○○)薨、〈○中略〉夫人者、讃岐守從五位下唐之女也、

〔貞丈雜記〕

〈二/人名〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 一女の名に子の字を付る事、上代よりの事なり、日本紀欽明天皇紀に云、遣靑海夫 人勾子、又云、春日日狐臣女曰糠子と見えたり、女に子の字を付る事の始なるべし、

〔松の落葉〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0786 男女の名昔やうにつくはひがことなる事
女の名、歌よむ人は、なに子といふを、みやびたりとこヽろえて、たれも〳〵、なに子くれ子とぞいふなる、いにしへにこそ、さやうの名はみゆれ、今の世はなべてのふりにあらねば、わろきこと、なに彦くれ麻呂のごとし、しかのみならず大同弘仁のころよりは、皇后内親王女王のみ名、なに子くれ子といふにさだまれるやうになりぬれば、下ざまの人は、心してさる名はつくまじきことぞかし、さていやしき女は、むかしはなにめといへる多し、たヾし此ごろのに同じきもあり、おもひいづるまに〳〵、ひとつふたついはん、續日本紀に、八重、古今和歌集に、まち、後撰集に、そで、大和物語に、むつなどなり、かくいにしへに例あれば、かうやうの名つくとて、何のさとびたることかあらん、

〔薩戒記〕

〈部類二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0786 典(ノリ)子 憲(ノリ)子 言(ノリ)子 理(タゞ)子 倫(トモ)子 具(トモ)子 堯(タカ)子 以(ユキ)子 幸(ユキ)子 因(ヨリ)子 辰(トキ)子 勝子 藤子 僚(トモ)子
凡女人名字、不舊人歟、雖然女院國母内親王等、無何可除條可宜申候而撰之處、此名字等無憚、但先例内親王參宮參院等之類、不憚之也、

〔日本書紀〕

〈七/景行〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0786 四年二月、是月天皇聞美濃國造名神骨之女、兄名兄遠子、弟名弟遠子、並有國色、則遣大碓命、使其婦女之容姿

〔古事記〕

〈下/雄略〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0786 一時天皇遊行、到於美和河之時、河邊有衣童女、其容姿甚麗、天皇問其童女、汝者誰子、答白、己名謂引田部赤猪子

〔日本書紀〕

〈十四/雄略〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0786 十三年三月、狹穗彦玄孫齒田根命、竊姧采女山邊小島子

〔三代實録〕

〈三/淸和〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0786 貞觀元年十一月廿日辛未、授正四位下源朝臣全姫從三位、無位爲子(○)女王、意子(○)女王、 異子女王、並從四位下、從四位下伴宿禰友子(○)從四位上、無位源朝臣盈姫從四位下、從五位上菅原朝臣閑子(○)、甘南備眞人伊勢子(○)、並正五位下、從五位下田口朝臣館子(○)、菅原朝臣勢子(○)、並從五位上、外從五位下賀陽朝臣始子(○)、無位源朝臣高子(○)、橘朝臣常子(○)、藤原朝臣繼子(○)、藤原朝臣商子(○)、藤原朝臣榮善子(○)、百濟王香春、笠朝臣遠子(○)、並從五位上、從六位上江沼臣河子(○)從五位下

〔建内記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0787 嘉吉元年十月十七日庚戌、今日予〈○藤原時房〉息女、〈九歳、號算子、又號阿千也、〉於靈雲庵〈安樂光院門前也〉作喝食

〔德川家譜〕

〈四/尾張〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0787 光友
女子 名定子(○○)、初名滿君(○○)、〈○中略〉
女子 名直子(○○)

〔大和物語〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0787 亭子のみかど、〈○宇多〉いまはおりゐ給ひなんとするころ、弘徽殿のかべに、伊勢のご(○)のかきつけヽる、〈○下略〉

〔本朝文粹〕

〈一/雜詩〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0787小男女 菅祖大相國〈○菅原道眞〉
往年見窮子、京中迷失據、〈○中略〉徒跣彈琴者、閭巷稱辨御(○)、〈俗謂貴女御(○○○○○)、蓋取夫人女御之義也、藤相公兼辨官、故稱其女也、〉

〔大和物語〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0787 故式部卿の宮の、いではの御(○)に、まヽちヽの少將、すみけるをはなれて、〈○下略〉

〔平家物語〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0787 葵のまへの事
中宮〈○高倉后平德子〉の御かたに候はれける女房のめしつかひける上童、思はざる外、れうがん〈○高倉〉に、しせきする事有けり、〈○中略〉此人女御きさき共もてなされ、國母仙院ともあふがれなんずとて、其名をあふひのまへ(○○○○○○)と申ければ、〈○下略〉

〔吾妻鏡〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0787 養和二年〈○壽永元年〉六月一日庚子、武衞〈○源賴朝〉以御寵愛妾女、〈號龜前(○○)〉招請于小中太光家小窪宅給、

〔吾妻鏡〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0787 文治五年九月廿七日甲申、二品〈○源賴朝〉歴覽安倍賴時〈本名賴義也〉衣河遺跡給、〈○中略〉賴時掠領國 郡之昔、點此所家屋、男子者、〈○中略〉女子者、有〈加〉一〈乃〉未陪、中〈加〉一〈乃〉末陪、一〈加〉一〈乃〉末陪也、已上八人、男女子宅並簷.

〔有職問答〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 一御方、君達、若君事、(東西南北ニ分テアリ女房ノ品)
此次第、家々により、上中下違目御座(一向俗語候、攝家淸花ノ餘流迄ヲ可稱歟、)候哉、

〔仁和寺諸堂記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 威德寺 白河院御寵人東御方、〈俗號祇園女御〉件人建立、〈○下略〉

〔吾妻鏡〕

〈十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 元久二年六月廿三日己酉、今度合戰之起、偏在彼重成法師之謀曲、所謂右衞門言佐朝政、於畠山次郎遺恨之間、彼一族巧反逆之由、頻依申于牧御方、〈遠州(北條時政)室○下略〉

〔皇胤紹運録〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 伏見院 道熙法親王〈靑蓮院母東御方(○○○)、三位殿實明卿女、〉 僧聖珍〈東大寺東南院母廣義門院西御方(○○○)、〉

〔皇胤紹運録〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 後伏見院 慈眞法親王〈改尊實、靑蓮院、母對御方(○)、實明卿女、〉

〔總見記〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 武田信玄來歴事附結婚姻和睦事
同年〈○永祿十一年〉十二月、信長公ヨリ結入レノ御進物アリ、〈○中略〉同契約ノ御息女菊ノ御方ヘ、厚板薄板緯白織紅梅各百端宛、合四百端〈○中略〉進ゼラル、

〔柳營譜略〕

〈乾〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 東照大權現宮
良雲院殿〈下山之御方(○○○○○)信吉卿之母堂〉

〔撈海一得〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 今婦人ノ名ニ、阿ノ字ヲ冠ラシムルコトハ、〈タトヘバ政子ト云ヲ、おまさト云ガゴトシ、〉太平記ニ、高師秋ガ、菊亭殿ニ在シ阿才ト云女ヲ奪シ事アレバ、四五百年以降ノコトヽ見エタリ、今ノ淸ニテモ、女ヲ呼ブニ阿ヲ付ルト云、日知録ニ、隋獨孤后、謂雲昭訓阿雲、今閭巷之婦、亦以阿挈其姓也ト、〈姓ヲ挈クトハ、タトヘバ源氏ノ女ハお源ト云、藤氏ナレバお藤ト云ナリ、〉又此類ノ阿ヲ、韻會小補ニ音屋トシ、字彙補ニ阿葛切トシテ入聲ニ呼、今ノ儒生、蒙求ヲ説、開卷第一義ニ、阿戎ヲ屋戎ト讀テ、初學ノ聞ヲ悚ス、是モ日知録ニ、阿字、今南 人讀爲入聲非也ト云リ、ゲニモ輟耕録ニ、平韻ノ詞曲ニ入韻ヲ通押セルヲ擧テ、中州呼入聲平聲ト云ハ、方音ニテ紛ルトミエタリ、其詳ナルハ此方ニテ知レヌコトナレバ、昔ヨリ讀來リシ如ク、ア戎ト讀テ、人ノ耳ヲ驚サヌガヨシ、阿難尊者ヲ屋難尊者、阿彌陀佛ヲあツみた佛トハ云レヌ也、和讀要領ニモ、義ニ與ヌコトハ、人ノ聞ヲ驚サヾルガヨキト云、

〔燕石襍志〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0789 苗字
婦女子の名に、御の字を稱する事、三代實録〈卷之八第六張〉藤原朝臣御康あり、是より已前には所見なし、

〔難波江〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0789 女の名におの字を冠らしむる事
孝〈○岡本保孝〉云、〈○中略〉曲亭馬琴ノ燕石雜志卷一ニ、三代實録卷八ナル藤原朝臣御康ヲ始メナルヨシニイヘドイカヾアラン、原文ヲ攷フルニ、コノ處上下、多ク女房ノ名アレド、此外ハミナ某子トアリ、其中ニ御井子ト云アリ、モシコレモ御康子ナドヽアリタルヲ、子ノ字落タルニハアラヌカ、コレハトマレカクマレ、馬琴ハ御井子ヲモ引出ベキコトナラズヤ、今ヨリハ其讀シカト定メカヌレバ、シバラク谷川伊勢ノ兩氏ニ從ヒ、太平記ヲ始トナスベキナリ、

〔太平記〕

〈二十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0789 佐々木信胤成宮方
其比菊亭殿ニ、御妻トテ眉目貌無類、其品賤カラデ、ナマメキタル女房アリケリ、
○按ズルニ、下ニ引ク所ノ薩戒記女房名事ノ文ニ依レバ、御妻ハ上﨟女房ノ名ニシテ、妻ト云フ名ニ御ヲ加ヘタルニ非ズ、御康御井子モ同一ナリ、

〔視聽草〕

〈二集七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0789 小野於通略傳
於通(○○)は播州網干の生れにして、池田輝政の家臣垣川喜太郎某が妻となり、女子一人ありしが、後に離別せり、於通は才智發明なるに、夫喜太郎はさもなきにより、耻辱のみ多かりし故、離別せりとかや、

〔柳營譜略〕

〈乾〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0790 東照大權現宮
寶臺院殿〈稱西郷局、於桐之方(○○○○)、台德公忠吉卿之御母堂、〉
長勝院殿〈稱小督局、於万方(○○○)、秀康卿之母堂、〉

〔以貴小傳〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0790 小督の局、名はおまん(○○○)の御方、永見志摩守小野吉英が女にて、第二の御子結城どのヽ〈○德川秀康〉御母うへなり、

〔忠利宿禰記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0790 明暦三年七月八日、今夜御局おつる(○○○)に、名を右近と被下、仰渡大夫典侍殿也、珍重、

〔年山紀聞〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0790 ふるき女の名
伊勢齋宮寮頭藤廟相通といひしものヽ妻を、藤原の小忌古曾と云けるよし、小右記に見えたり、水戸城下吉田社の文書のうちに、字男と云女の名あり、假名には、あさをとこと書たり、今の世にては、おかしき名なるべし、

〔續日本紀〕

〈六/元明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0790 和銅七年十一月戊子、大倭國〈○中略〉有智郡女四比信紗、幷終身勿事、旌孝義也、

〔續日本紀〕

〈十七/孝謙〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0790 天平勝寶元年四月甲午朔、授從四位上藤原朝臣吉日從三位、從五位上藤原朝臣袁比良女、藤原朝臣駿河古並正五位下、无位多治比眞人手婆賣、多治比眞人若日賣、石上朝臣國守、藤原朝臣百能、藤原朝臣弟兄子、藤原朝臣家子、大伴宿禰三原、佐伯宿禰美努麻女、久米朝臣比良米並從五位下

〔日本後紀〕

〈八/桓武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0790 延暦十八年正月乙丑、典侍正四位上和氣朝臣廣虫(○)卒、從三位行民部卿兼攝津大夫淸麻呂姉也、

〔奥儀抄〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0790 人名
竉、女の名也、或人云、これはうつくとよむ、かの人かたちのめでたくて、君のおぼえにてはべりければ、うつくとはいかヾかくべきと議しけるに、おぼえなるによりて、竉とかきてうつくとはよ む也と、いまたくみいだしたる事也とぞ、ほりかはの右のおほいどの〈○藤原賴宗〉はかたり給ひしと、大宮のおほいどの〈○賴宗子俊家〉のあかし給ふとて、故一條殿のおほせられける也、故將仰もうつくとぞ侍ける、又或人云、兼房朝臣は、かなにててうとかきたりけるとぞしりたりけん物を、
○按ズルニ、寵俗ニ竉ニ作ル、魏鍾繇ノ宣示帖等ニ見エタリ、齋藤彦麻呂ノ傍廂ノ説ハ誤ナラン、

〔傍廂〕

〈前篇〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0791
古今集の作者の中に、女の名竉、〈ロウアナ〉また寵、〈チヨウメグム〉又襲〈シフカサヌ〉とも三處ばかりありて、異本まちまちにてしれがたき名なり、さる故に、古人考へ得たる事をきかず、思ふに、この女の父か、夫か、兄か、内藏寮の頭、助、允などの官の時に、内へ參りたる女にて、よび名を内藏といひしを、草書にて https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00079.gif とかきしを寫しひがめて、上の三字のごとくなりしならん、この女の常陸國へまかりける時に、藤原公俊によみてつかはしける時の歌に、
朝なげに見べききみとし(○○○○)たのまねば思ひたち(○○○)ぬる草まくら(○○)なり、とある二〈ノ〉句に公俊の名あり、四〈ノ〉句にさして行く所の常陸の國名あり、結句にみづからの名を入れしなるべし、すべて女のよび名はさらぬもあれど、大かたは父か夫かの官名をよばるヽが多し、

〔袋草紙〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0791 一諸集人名不審
後拾遺
涼(スゞシキ) 涼ハ女房名也、通俊卿自嘆云、古今集ノ女寵、向後人、定〈テ〉訓ニ迷テ、唯稱 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00057.gif 歟云々、

〔今昔物語〕

〈二十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0791 御導師仁淨云合半物返語第十四
今昔朱雀院ノ天皇ノ御代ニ、仁淨ト云フ御導師有ケリ、〈○中略〉其レガ御佛名ニ登ケルニ、藤塵壺ノ口 ニ八重ト云半物立テリ

〔榮花物語〕

〈四/見はてぬ夢〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0792 そのとし〈○正暦三年〉のうちに、はせでらにまいらせ給ぬ、〈○東三條院藤原詮子〉御ともには、〈○中略〉としごろさぶらへるも、さらぬも、あま十人ばかりさぶらふ、みゆきとてわらはにてさふらひしが、御ともにあまになりにしかば、りはだとつけさせ給へり、わらはべとしごろつかはせ給はざりしも、いまぞおほくまいりあつまりたれば、ほめき、すいき、はなこ、しきみなど、さま〴〵つけさせ給へり、

〔榮花物語〕

〈八/はつ花〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0792 中ぐう〈○一條中宮藤原彰子〉の御ありさまとり〴〵にみえさせ給、〈○中略〉いにしへのきさきは、わらはつかはせ給はざりけれど、いまの世は御このみにて、さま〴〵つかはせ給、やどりき、やすらひなどいふが、ちゐさくはあらぬが、かみながうやうだいおかしげにて、かざみばかりをぞきせさせ給へる、

〔榮花物語〕

〈十六/本のしづく〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0792 一品宮〈○三條皇女禎子内親王〉の御かたのわらはべ、おかしき、やさしき、ちいさき、大きさ、めでたきなど、さま〴〵つけさせ給へり、

〔源氏物語〕

〈五/若紫〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0792 すヾめの子を、いぬきがにがしつる、ふせごのうちにこめたりつるものをとて、いとくちおしと思へり、

〔源氏物語湖月抄〕

〈五/若紫〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0792 いぬき 犬公(イヌキ)〈孟〉上東門院の上童に此名あり、榮花物語に見えたり、あてき、なれきなどあり、きは公(キミ)の字也、〈師〉いぬきみと云事也、

〔類聚名物考〕

〈姓氏八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0792 き 何き
童女の名に何きといふは、君の略語なりといへり、落窪物語にあてき、源氏物語の犬きなどの類也、

〔十訓抄〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0792 宇治入道殿にさふらひける、うれしさこそ(○○○○○○)と云はした物を、顯輔卿けさうしけるに、 つれなかりければ、よみて送ける、
我といへばつらくもあるかなうれしさは人に隨ふ名にこそ有けれ、入道殿きかせ給て、秀歌には返事なし、とくゆけとて、つかはされける、

〔宇治拾遺物語〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0793 いまはむかし治部卿通俊卿、後拾遺をえらばれけるとき、秦兼久、行向ひて、おのづから歌などやいるとし思て、うかヾひけるに、治部卿いでゐて物がたりして、いかなるうたかよみたるといはれければ、はか〴〵しき候はず、後三條院、かくれさせ給てのち、圓宗寺にまゐりて候しに、花のにほひは、むかしにもかはらず侍しかば、つかうまつりて候しなりとて、
こぞみしに色もかはらずさきにけり花こそものはおもはざりけれ、とこそ仕りて候しかといひければ、通俊卿よろしくよみたり、たヾしけれけりけるなどいふ事は、いとしもなきこと葉なり、それはさることにて、花こそといふ文字こそ(○○○○○○○○○○)、めのわらはなどの名にしつべけれ(○○○○○○○○○○○○○○○)とて、いともほめられざりければ、ことばずくなにてたちて、侍どもありける所に、この殿は、大かた歌のありさましり給はぬにこそ、かヽる人の撰集うけたまはりておはするは、あさましきことかな〈○下略〉

〔空穗物語〕

〈忠こそ〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0793 右大じん橘の千かげと申すおはしけり、〈○中略〉御めには一世の源氏、かたちきよらなる名とり給へるが、十四さいなるをば給てすみたまふ程に、十六さいといふとしの五月五日に、たまひかりかヾやきたるをとこの、いとをかしげなるをうみ給へり、なをばたヾこそ(○○○○)といふ、

〔類聚名物考〕

〈姓氏八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0793 こそ 何こそ
女の名に何こそといふ名あり、或人は糞(クソ)の意にていやしめて付ともいへり、古今集の作者にはすでにくそといへる名も有、うつほ物語にたヾこその君といふあり、その外、金葉集にも相 撲こそといふはした者の名あり、袖こそといふ女も物に見ゆ、

〔續世繼〕

〈四/宇治の河瀨〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0794 白河院の御世に、〈○中略〉賀茂の女御と世にはいひて、うれしき(○○○○)、いはひを(○○○○)とて、あねおとうと、のちにつヾきてきこえしかど、それはかの社のつかさ重助がむすめどもにて、女房にまゐりたりしかば、御目ちかヽりしを、〈○下略〉

〔宇治拾遺物語〕

〈十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0794 いまはむかし、白河院の御とき、北おもてのさうしに、うるせき女ありけり、名をば六とぞいひける、

〔長秋記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0794 大治四年七月六日壬午、自女院召、本院〈○白河〉御霍亂云々、七日癸未、御氣色暫滅、御音不聞、又不人顔、所食纔水許也、女房なつとも、〈爲忠妻〉いはひを、〈字賀茂女御〉兩院、資遠〈大夫尉〉資盛〈安藝守〉等許、候臥内起居

〔台記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0794 康治元年六月七日戊辰、依恒例北斗、心 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00084.gif 停丁、後聞僕〈○藤原賴長〉姉妹去三日死去、靈驗掲焉事也、抑件姉妹者同父異母也、内有得選、名曰况、字曰不劣

〔台記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0794 康治二年十一月七日己未、進士宗廣妾、〈名兒〉上成打(ウハナリウチ)、

〔台記別記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0794 久安五年十一月六日甲申、使故尼上侍女、榮染入内紅衣、 十三日辛酉、佐加由留爲尼、〈垂了〉

〔平治物語〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0794 常磐註進幷信西子息各被遠流
爰ニ左馬頭義朝ノ末子、九條院雜仕常磐(○○)ガ腹ニ三人アリ、

〔源平盛衰記〕

〈十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0794 文覺發心附東歸節女事
文覺ガタメニ、内戚ノ姨母一人アリ、〈○中略〉娘一人アリ、名ヲバアトマトゾ云ケル、去共衣川ノ子ナレバトテ、異名ニハ袈裟ト呼、

〔源平盛衰記〕

〈三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0794 巴關東下向事
成淸、アレハ木曾〈○義仲〉ノ御乳母ニ、中三權頭ガ娘、巴(○)卜云女也、

〔吾妻鏡〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0795 正治三年〈○建仁元年〉六月廿八日丙午、藤澤四郎淸親、相具囚人資盛姨母〈號板額(○○)女房〉參上、

〔吾妻鏡〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0795 建仁二年三月八日癸丑、御所御鞠、人數如例〈○中略〉爰有京都下向舞女、〈號微妙〉盃酌之際被出之、歌舞盡曲、

〔徒然草〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0795 此太秦殿に侍りける女房の名共、一人はひざさち(○○○○)、一人はことづち(○○○○)、ひとりははうはら(○○○○)、一人はおとうし(○○○○)と付られけり、

〔大江俊矩記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0795 文政三年六月廿八日壬子、今夕八木東啓女米(ヨネ)、〈諱爲子、二十歳、初名八十八(ヤソヤ)、予縮命之、〉爲客分引取、内密婚姻取結了、

〔古文零聚〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0795 大中臣氏女讓玉熊丸狀案
山しろのくに上かつらの庄は、おほなかとみの氏女、さうでんの所也、〈○中略〉
正中三ねん三月八日 〈おほなかとみの(○○○○○○○)〉氏女(○○)判

〔禮記〕

〈一/曲禮〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0795 男女非行媒、不知名、非幣、不交不親、

〔觀念寺文書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0795 沽却進渡田畠地立券文事
合六段者〈在吉田郷内、三嶋神領勢與圓万名、内頭部里廿二坪東寄、○中略〉
右件田畠地者、相互依要用、買人三島敎圓御房、代錢六貫文〈仁〉加本證文、永代沽却進候處實也、〈○中略〉
元德貳年六月十八日 平氏女(○○○)〈花押〉

〔古文零聚〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0795 はりまの國やのヽ例名は、さうでんのりやうにて候へども、のちのうだの院御時、とうじへよせられ候て、としひさしくなり候へば、いまはそせうをもとヾめ候べく候、〈○中略〉
けんぶ五年四月廿九日 〈ふぢわらのうちの女(○○○○○○○○○)〉判

〔觀念寺文書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0795 沽却伊與國觀念寺田畠地立券之事 合壹段大者〈在桑村本郡恒光名内、二郎太郡入道屋敷、但餘田也、○中略〉
右件田地者、越智氏女あかせが重代相傳爲田地間、依要用、買人觀念寺長老〈仁〉永放手、所沽却明白實也、〈○中略〉
延文元年十月十五日 越智氏女(○○○○)あかせ〈花押〉

僧尼名

〔日本書紀〕

〈二十一/崇峻〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0796 三年、是歳度尼大伴狹手彦連女善德、狛夫人、新羅媛善妙、百濟媛妙光、〈○中略〉善光等、鞍部司馬達等子多須奈、同時出家、名曰德齊法師

〔續日本紀〕

〈九/元正〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0796 養老七年二月丁酉、勅僧滿誓、〈俗名從四位上笠朝臣麻呂〉於筑紫觀世音寺

〔續日本紀〕

〈二十九/稱德〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0796 神護景雲二年十月庚午、大尼法戒、准從三位封戸、大尼法均、准從四位下

〔明匠略傳〕

〈日本上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0796 弘法大師
一大師、諱空海、漢號金剛遍昭、梵曰縛日羅駄都鑁、日本越號五筆和尚、授賜大僧正、追諡弘法大師、〈○中 略〉俗姓佐伯氏、母夢見天竺聖人來入我懷中姙、經十二月生、仍號貴物

〔僧綱補任抄出〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0796 嘉祥二年己巳
今年三月廿八日、左近少將良峯宗貞出家、〈三十五〉遍昭僧正也、

〔法然上人行狀畫圖〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0796 久安六年九月十二日、生年十八歳にして、西塔黑谷の慈眼房叡空の廬にいたりぬ、〈○中略〉まことにこれ法然道理のひじりなりと隨喜して、法然房と號し、實名は源光の上の字と、叡空の下の字をとりて、源空とぞつけられける、

〔法然上人行狀畫圖〕

〈二十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0796 爲守、ふかく上人の勸化を信じ、偏に極樂の往生をねがひて、二心なく念佛しけるが、おなじくは出家の本意をとげばやと思けるに、關東の免許なかりければ、在俗の形ながら法名をつき、戒をうけ袈裟をたもつべきよし、上人にのぞみ申入ければその志を哀みて、〈○中略〉尊願といふ法名をくだされにけり、

〔尊卑分脈〕

〈四/卜部〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0797 兼好〈左兵衞佐以俗名法名(○○○○○○)〉

〔半陶藁〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0797 德源字説
孺人見譽、出于平公垣屋氏之華族、實女中大丈夫也、少而留心念佛三昧、入知恩上人淨土之社、上人命以法諱、今見譽是也.

〔貞丈雜記〕

〈二/人名〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0797 一天台宗の寺の僧の名に、民部卿兵部卿式部卿などヽ云は、是を君名と云也、他人より云には、民部卿の君、兵部卿の君などヽ云也、畢竟は喚名也、かの僧、民部卿式部卿の官に任じたるにはあらず、狩野家の繪師などの民部卿などヽ云も是に同じ、僧に准じたる也、其根元を正せば、攝政關白の子の僧になりて、法印になりたるをば殿法印と云、〈攝政關白をば 殿と稱する故也〉左大臣の子の僧正になりたるをば、左大臣の僧正と云、式部卿の子の法印になりたるをば、式部卿の法印と云類、皆父の官を以て稱する也、後代に至ては父の官に拘らず、百姓商人の子にても、天台の僧にだになれば、兵部卿治部卿などヽよぶ事になりたり、

〔類聚名物考〕

〈姓氏八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0797 僧の官名をもて呼名とする事
僧の名に官名を用ゐて、よび名とするは、寛平法皇〈○宇多〉の御時より初るといひ傳へたれども、これもさだかなるしるしなし、まづ今も大少納言宰相中將、あるは八省のかみの治部卿宮内卿などヽいふの類ひ、いと多し、

〔源平盛衰記〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0797 山門堂塔事
近來行人トテ、山門〈○延暦寺〉ノ威ニ募リ、切物苛物責ハタリ、出擧借上、入チラシテ、德附公名(○○)附ナンドシテ、以外ニ過分ニ成リ、大衆ヲモ事共セズ、師主ノ命ヲ背キ、加樣ニ度々ノ合戰ニ打勝テ、イトヾ我慢ノ鋒ヲゾ硏(クダキ)ケル、

〔山槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0797 治承三年十月十日甲午、今日院宮〈御年十一、母故仁操僧都女、仁和寺覺法親王御弟子、〉爲御受戒、令東大寺給、〈○中略〉 房官十人 乗院御馬居飼
嚴勝〈大進上座雅信孫〉 祐賢〈上總上座法眼顯眞弟子〉 靜縁〈中納言上座宗縁弟子〉
任尊〈參河上座長玄弟子〉 證念〈相模寺主法橋寛實弟子〉 行賢〈大藏卿寺守下野前司有國子〉
敎賢〈大夫都維那兵衞佐隆敎子云々〉 覺經〈三位都維那前駿河守俊雅子〉 實暹〈備前公皇后宮亮顯憲子〉
章尊〈侍從公法橋靜玄弟子〉
次有職非職廿人
覺朝〈辨阿闍梨木工權頭季兼息〉 寛昭〈伯阿闍梨伯大夫顯章息〉 寛經〈大夫阿闍梨甲斐守宗賢息〉
俊遍〈宰相阿闍梨民部少輔延俊息〉 隆遍〈辨阿闍梨權右中辨光房朝臣息〉 隆信〈大納言阿闍梨土御門内府息〉
祐尊〈法橋長尊弟子中納言阿闍梨〉 任性〈中納言阿闍梨上野守信盛息〉 任雅〈中納言賴祐男〉
實信〈大夫阿闍梨大納言公經息〉 直賢〈大夫阿闍梨 雅賴弟子左京大夫脩範猶子〉 成守〈大納言阿闍梨大納言成親息〉
源輝〈侍從阿闍梨法印靜賢弟子〉 範賢〈右衞門督阿闍梨中納言成範息〉 行守〈大夫阿闍梨前和泉守隆行息〉 已上有職
信玄〈亮公大宮權亮成隆息〉 顯性〈三位公三位阿闍梨長賢弟子〉 覺縁〈大夫公法橋宗縁子〉
範耀〈參河公〉 隆暹 已上非職

〔榮花物語〕

〈十九/御著裳〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0798 四月〈○治安三年〉十日御堂に万燈會せさせ給はんとおほして、〈○中略〉其日になりて、〈○中略〉世の中の聖ども、さながらまいりたり、かものまつりの一でうの大路にだに、いできてのヽしる、せんあみだ佛(○○○○○○)といふほうしばら、こゑむさヽげてのヽしる、

〔榮花物語〕

〈二十五/嶺の月〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0798 その日〈○萬壽二年七月十一日〉になりぬれば、ゐんの御くるまに、さうぞくせさせ給、〈○中略〉御さきにそうばかりさきだてヽ、あみだのひじりのなむあみだ佛と、くもくざうはるかにこゑうちあげたれば、さばかりかなしきことのもよほしなり、

〔法然上人行狀畫圖〕

〈十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0798 大佛の上人俊乗房、〈○重源、俗名源渡、〉又一の意樂をおこして、我國の道俗、炎魔王 宮にひざまづきて、名字を問はれんとき、佛號を唱へしめんために、阿彌陀佛名をつくべしとて、みづから南無阿彌陀佛とぞ號せられける、これ我朝の阿彌陀佛名のはじめなり、

〔愚管抄〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0799 建永の年、法然房と云上人ありき、まぢかく京中を住所にて、念佛宗を立て、専宗念佛と號して、たヾ阿彌陀佛とばかり申べき也、それならぬこと顯密のつとめはなせそといふ事を云出し、不可思議の愚癡無智の尼入道によろこばれて、この年のたヾ繁昌に世は繁昌してつよくおこりつヽ、その中に、〈○中略〉東大寺の俊乗坊〈○重源〉は、阿彌陀の化身と云こと出きて、わが身の名をば、南無阿彌陀佛と名のりて、萬の人に、上に一字おきて、空阿彌陀佛、法あみだ佛など云名を付けるを、誠にやがて我名にしたる尼法師おほかり、はてに法然が弟子とて、かヽる事どもし出たる、誠にも佛法の滅亡うたがひなし、

〔源平盛衰記〕

〈十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0799 文覺發心附東歸節女事
左衞門尉渡ハ、僧ヲ請ジ、剃髪、三聚淨戒ヲ受持テ、俗名ニ付タリシ渡ト云文字ニテ、渡阿彌陀佛(トアミダブ)トゾ申ケル、生死ノ苦海ヲ渡テ、菩提ノ彼岸ニ届カン事ヲ志、渡阿彌陀佛トモ云ケルニヤ、遠藤武者モ入道シテ、在俗ノ時ノ盛遠ノ盛ヲトリ、盛(ジヤウ)阿彌陀佛ト云ケリ、失ニシ女ノ骨ヲ拾、後園ニ墓ヲ築、第三年ノ間ハ、行道念佛シテ、不斜弔ケルトゾ承ル、去バニヤ夢ニ、墓所ノ上ニ蓮花開テ、袈裟聖靈其上ニ座セリト見テ、サメテ後歡喜ノ涙ヲ流シケリ、其後盛阿彌陀佛、日本國ヲ修行シテ、求法ノ志最苦也、斯リシカバ智者ニナリ、盛阿彌陀佛ヲ改テ文覺ト云、

〔法然上人行狀畫圖〕

〈二十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0799 河内國に天野の四郎とて、 强盗の張本なるものありけり、人をころし、財をかすむるを業として、世をわたりけるが、としたけて後、上人の化導に歸し、出家して敎阿彌陀佛と號しけり、

〔源平盛衰記〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0799 堂衆軍事 上人〈○源空〉大谷庵室ニ縁行道シ給ケルガ、折節候ケル摩訶部ノ敬佛、カクハリノ淨阿彌陀佛(○○○○○)ヲ呼出シテ、〈○中略〉甘糟死タラバ骸ヲモ隠シ、首ヲモ取テ來給ヘト被仰ケレバ、カクハリノ淨阿(○○)、坂本ニ走越テ、八王子山ノスソ、早尾坂ノ邊ヲ見廻スニ、死人ノ多事算ヲ散セルガゴトシ、〈○中略〉淨阿彌(○○○)ハ泣々首ヲカキ落シ、童ガ直垂ニ裹マセテ、檜笠ノ下ニ引隠シ、童相具シテ大谷ノ庵室ニ來レリ、

〔豫章記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0800 相州藤澤ノ道場ハ、一遍上人ノ御建立ノ地也、一遍ト申ハ、先祖通信ノ孫、別府七郎左衞門通廣ノ子、智眞坊ト云也、故不斷申通ジケル通治〈○河野〉モ、ユカリノ色ノ藤澤ニ參テ、落飾ノ由ヲ望申ケル、〈○中略〉此時迄隨逐シケル者、久万太郎左衞門尉通賢ナルガ、倩案ズルニ、如此已斷タルヲ繼、興漸廢事ハ、併是藤澤ノ上人ノ御指南故也、吾以不肖身此便ヲ仕事、頗天之幸也、我上人ノ御弟子ト成テ、結縁分ノ上ニテ大恩奉報バヤトテ、鬂髪拂去テ、名ヲバ万阿彌陀佛ト賜ケレバ、二人禿丁黑衣ヲバ著作錦衣故郷ヘ歸ケル、

〔觀念寺文書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0800 くわんねんじにきしんしたてまつるしたぢ
あわせて五たんていれば、ありとくつねみやうのうち、あざな、ごたんばたけ、にいのまご四郎 やしきなり、〈○中略〉
けんむ五ねん六月二日 にいのもりやすのごけみあみだぶ(○○○○○)〈花押〉

〔遊行歴代圖〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0800 元祖一遍〈智眞上人○中略〉 二祖〈他阿、眞敎上人、元祖御弟子、號大上人、○中略〉 三祖中聖〈他阿、智得上人、元祖御弟子、无量阿、號中聖、○中略〉
四祖〈他阿、呑海上人、二祖御弟子、元有阿、○中略〉 五代〈他阿、中國上人、三祖御弟子、師阿、○中略〉 六代〈他阿、一鎭上人、二祖御弟子、元與阿、○中略〉 七代〈他阿、託何上人、三祖御弟子、元宿阿、○中略〉
○按ズルニ、本書載スル所、五十代快存上人〈享保十年七月入院〉ニ至ルマデ、世々他阿ヲ以テ其稱トセリ、

一人有數名

〔古事記〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0800 大國主神亦名謂大穴牟遲神、〈牟遲二字以音〉亦名謂葦原色許男神、〈色許二字以音〉亦名謂八千矛神、亦名謂宇都志國玉神、〈宇都志三字以音〉幷有五名

〔日本書紀〕

〈一/神代〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0801 一書曰、大國主神、亦名大物主神、亦號國作木己貴命、亦曰葦原醜男、亦曰八千戈神、亦曰大國玉神、亦曰顯國玉神

〔日本書紀〕

〈二/神代〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0801美人、名曰鹿葦津姫、〈亦名神吾田津姫、亦名木花之開耶姫、〉

〔古事記〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0801 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、娶其姨玉依毘賣命生御子、〈○中略〉若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命、〈○神武〉

〔日本書紀〕

〈二十/敏達〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0801 四年正月甲子、立息長眞手王女廣姫皇后、是生一男二女、其一曰押坂彦人大兄皇子、〈更名麻呂古皇子○中略〉是月立一夫人春日臣仲君女、曰老女君夫人、〈更名藥君娘也○中略〉次采女伊勢大鹿首小熊女、曰菟名子夫人、生太姫皇女、〈更名櫻井皇女〉與糠手姫皇女、〈更名田村皇女〉

〔日本書紀〕

〈二十四/皇極〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0801 元年正月辛未、皇后即天皇位、以蘇我臣蝦夷大臣故、大臣兒入鹿、〈更名鞍作〉自執國政、威勝於父

名吉凶

〔塵添壒囊抄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0801 人依名有吉凶
人ハ名ニ依テ吉凶アリト申ハ、實ニサルベキ歟、尤モ可然事歟、一切ノ事、名字ニヨル事アルベキ也、仲尼既ニ車ヲ勝母ノ里ニ返シ、渇ヲ盗泉ノ水ニ飢給ヘリ、誰カ是ヲ不爾ト云ハン、名詮自性ト云フ、サレバ玄昉僧正入唐シテ、淄州知周大師ニ逢テ、法相宗ヲ習ヒ給シニ、唐人、ゲンハウト云同音ノ字ニ、還テ亡ルト云訓アリト難ジタリシガ、歸朝後、筑紫觀世音寺ヲ供養セラレケル時、空ヨリ雷鳴下テ、玄昉ヲ提ゲテ雲中ニ入リケルガ、頭ヲ興福寺唐院ニ落ス、是太宰少貳藤原廣繼ガ所爲也ト云々、松浦鏡ノ宮ト云ハ、廣繼ヲ祝フ社也、益信僧正ニ、本覺(○○)大師ト云諡號アリケルヲ、ハク(○○)ト反トゾアリシガ、果シテ山門〈○延暦寺〉ノ訴訟ニ、四大師ノ外ニアルベカラズトテ、ハガレ(○○○)給フ、仍テ南都ヨリ、慈惠僧正ノ大師號ヲ、四大師ニ餘トテ、ハギ(○○)奉ル、〈○中略〉又古ヘ有圓(○○)ト云ケル僧ハ、貧道至極ニ成テ、飢餓(○○)ノ愁ニ沈テ、嚴因供奉ヲバ、諸人呼誤テ、ゲニン(○○○)供奉ト云シガ、遂ニ人ノ下人(○○)ト成ト 云々、

〔神皇正統記〕

〈繼體〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0802 繼體天皇は、應神五世の御孫なり、應神第八の御子隼總別の皇子、その子大迹王、其子私斐王その子彦主人王、その子男大迹王と申すは、この天皇にまします、〈○中略〉應神御子おほくきこえたまひしに、仁德賢王にてつたへましヽかど、御すゑたえにき、隼總別の御末にて、かく世をたもたせ給ふこと、いかなるゆゑにかおぼつかなし、仁德をば大鷦鷯尊と申す、仁德の御代に、これ兄弟たはふれて、鷦鷯は小鳥なり、隼は大鳥なりとあらそひたまふことありき、隼の名にかちて、すゑの世をうけつぎたまひけるにや、もろこしにもかヽるためしあり、〈左傳に見ゆ〉名をつくることも、つヽしみおもくすべきことにや、それらおのづから天命なりといはヾ、凡慮のおよぶべきにあらず、
○按ズルニ、本書繼體天皇ヲ以テ隼總別皇子ノ裔トセルハ誤ニテ、若野毛二俣王ノ裔ナルコ ト帝王部踐祚篇不爲太子而踐祚ノ條ニ辨ゼリ、

〔源平盛衰記〕

〈三十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0802 大神宮行幸願附廣嗣謀叛幷玄昉僧正事
同〈○天平〉十八年六月ニ、太宰府觀音堂造立供養アリ、玄昉僧正導師タリ、高座ニ上テ啓白シ給ヒケルニ、俄ニ空掻曇雷電シテ、雲高座ニ卷下シ、導師ヲ取テ天ニ騰、次年ノ六月ニ、彼僧正ノ生シキ首ヲ、興福寺ノ南大門ニ落シテ、空ニ咄ト笑聲シケリ、此寺ハ法相大乗ノ砌也、此宗ハ玄昉僧正ノ渡シタレバ、廣嗣ノ惡靈玄昉ヲ怨テ、角シケルコソ怖シケレ、此僧正入唐ノ時、唐人其名ヲ難ジテ云、玄昉ハ還テ亡ト云音アリ、日本ニ歸渡テ、必事ニ逢ベキ人也、只唐土ニ留給ヘカシト云ケレ共、故郷ヲ戀シカリケレバ、歸朝シタリケルガ、角亡ケルコソ不思議ナレ、

〔續古事談〕

〈一/王道后宮〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0802 宜秋門院〈○後鳥羽后〉ノ御名ノサダメアリケル時、兼光中納言、任子ト云フ御名ヲタテマツラレタリケルヲ、靜賢法印申シテ云ハク、白氏ノ遺文ニ、任子行トイフ文アリ、シカモカ レハコトアル文也、此御名イカヾアルベカラント申タリケレバ、九條殿、〈○藤原兼實〉モチイサセ給ヒテ、アマネク御尋アリケレドモ、サル事アリト申ス人モナカリケルニ、敦綱バカリコソオボエテ、サル事侍リ、モトモサラルベキ事也ト申シタリケレ、大才ノ人モ、オノヅカラミオヨバヌ事アリ、チカラオヨバザル事也、

〔續古事談〕

〈一/王道后宮〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0803 皇嘉門院〈○祟德后〉ノ御名ハ聖子也、聖子ノ上ノ作ハ、ハラムト云フヨミアリ、王子ヲハラムト付ケ奉レリケルヲ、或人難ジテ云ハク、聖ノシタノツクリハ、王ニハアラズ、壬ト云フ文字也、壬ニハ、ムナシト云フヨミアリ、ムナシキ子ヲ、ハラミタラム、此御名ハヾカリアリト云ヒケル程ニ、タヾナラヌ御事ニテ、御産ノ月ニ成リテ、御祈ナニクレトヒシメク程ニ、水ヲオホラカニウマセ給ヒニケリ、カヽル事ハサノミコソハ侍ルニ、ハタシテムナシキ子ナリケリ、イトフシギノ事ナリケリ、

〔平家物語〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0803 ざすながし附一行あじやり事
この明雲〈○天台座主〉と申は、〈○中略〉まことに無雙のせきとく、天下第一のかうそうにておはしければ、君も臣もたつとみ給ひて、天王寺六せうじのべつたうをもかけ給へり、されども陰陽のかみあべのやすちかヾ申けるは、さばかりの智者の、明雲と名乗給ふこそ心えね、うへには日月のひかりをならべ、したに雲有とぞなんじける、

〔臥雲日件録〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0803 文安三年十二月十九日、幼府君新安名字義成、幷加階從五位上、〈○中略〉予聞鹿苑相公、〈○足利義滿〉戊戌之歳誕生、君子曰、戊戌二字、皆從戈字、蓋武威定天下之兆也、果如其言、今幼君名字義成、二字亦皆從戈字、必與鹿苑相公武德乎、

〔鵞峯文集〕

〈七十九/哀悼〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0803 西風涙露下
汝一名春信、故取梅花報春信之義、自稱梅花洞主、汝存時、人皆以爲梅者百花之魁、其名固當、汝没時、 或人嘆曰、風信之候、止於二十四番、今汝二十四歳而終、其名之不吉、可以嘆焉、嗚呼人之壽夭、何係名字之吉凶哉、昔有百年名者、然其人早夭、有老成名者、然其壽不長、豈其然哉、

作名

〔類聚名物考〕

〈人物十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0804 作名 つくりな
名を隠して、かまへて作名をもて名のる事有、貴人高官の人、或は時に憚有る人のなすわざ也、揚名といへるも作名なれども、是は少しくその意異にして、我名をかへて云ふにはあらず、〈○中略〉元謙光 兼明親王は、醍醐天皇の第二皇子、源姓を賜る也、源兼明親王の作名也、座右銘の作者に書れたり、是は即ち源を元、兼を謙、光を明に替へたる也、この例西土にも有、朱子晦庵の參同契の注に、作者を鄒沂と書れたるも、朱熹の音を借て替たる也、〈或は啓蒙翼傳には、朱子、名を人に托すれ共、鄒沂は人の姓名也とも云り、但し陳獻章〉〈字は白沙〉〈が集には、讀朱晦庵注參同契詩あり、さればその比も、朱子の作名といふ也、〉
海内淸 うんのうちきよ
西三條實隆公逍遙院殿のかへ名也、物にわざとたはぶれに書給ふに有事也、
秋篠月淸 あきしのヽつききよ
後京極良經公のかくし名也、揚名に書出されしが、あまり面白き名なれば、人もおぼえて、やがて御家集をも、月淸集とぞいへりける、

〔本朝文粹〕

〈十二/銘〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0804 座左銘幷序
前中書王〈○兼明親王〉
東漢崔子玉、作座右銘、大唐白樂天、述其不盡者、作續座右銘、本朝愚叟元謙光(○○○)、拾其遺座左銘云爾、〈○下略〉

〔大鏡〕

〈五/太政大臣伊尹〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0804 このおとヾ、一條攝政と申き、これ九條殿一男におはします、いみじき御集つくりて、とよかげ(○○○○)となのらせ給へり、

〔枕草子〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0804 頭辨〈○藤原行成〉の御もとよりとて、とのもづかさ、ゑなどやうなる物を、しろきしきしにつ つみて、梅の花のいみじく咲たるにつけて、もてきたる、ゑにやあらんと、急ぎ取いれて見れば、へいだんといふ物を、二つならべてつヽみたる成けり、そへたるたて文に、けもんのやうにかきて、進上へいだん一つヽみ、例によりて進上如件、少納言殿にとて、月日かきて、みまなのなりゆき(○○○○○○○○)とて、〈○下略〉
○按ズルニ、なりゆきハ、行成ノ字ヲ倒置セルナリ、

〔朝野群載〕

〈十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0805倭歌
從四位下和歌博士紀朝臣貫成(○○○○○)、問〈江匡房作〉
和歌得業生從七位上布信濃目花園朝臣赤恒(○○○○○○)對

〔河海抄〕

〈一〉


こヽに憖に、わかんどをりのすゑをうけて、はるかに惟(○)光良(○)淸〈○二人名見源氏物語〉が風をしたふいやしき翁あり、〈○中略〉紫のふでの跡にそむる志をあらはさむとす、〈○中略〉
河海抄卷第一 正六位上物語博士源惟良(○○)撰

〔文會雜記〕

〈一上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0805 一壽門松ノ文章ハ、小宮山杢之進〈幕下士〉カヽレテ、李江晉ト作者名(○○○)ヲセラレタリ、李ノ字ノ中ニ木ノ字アリ、江ノ字ノ中ニ工ノ字アリ、晉ハ進ノ聲ヲカリタリ、甚ダ器用ノ人ナリ、

匿名

〔政事要略〕

〈八十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0805 又曰、〈○闘訟律〉投匿名書人罪者、徒三年、謂絶匿姓名、及假人姓名、以避己作弃置之、

〔日本書紀〕

〈十五/顯宗〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0805 穴穗天皇〈○安康〉三年十月、天皇父市邊押磐皇子、及帳内佐伯部仲子、於蚊屋野大泊瀨〈ノ〉天皇〈○雄略〉見殺、因理同穴、於是天皇與億計王、〈○仁賢〉聞父見一レ射、恐懼皆逃亡自匿、帳内日下部連使主、〈使主此云於瀰〉與其子吾田彦、竊奉天皇與億計王、避難於丹波國余社郡、使主遂改名字田疾來(○○○○○○○○○○)、尚恐誅、從茲遁入播磨國縮見山石室而自經死、天皇尚不使主所一レ之、勸兄億計王播磨國赤石郡、倶改字曰丹波小子(○○○○○○○○)、就仕於縮見屯倉首、吾田彦至此不離、固執臣禮

〔日知録〕

〈二十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0806姓名
古人變姓名、多是避仇、然亦爲而變者、范蠡適齊爲鴟夷、子皮之陶爲朱公、第五倫客河東、自稱王伯齊、梁鴻適齊、姓運期、名耀、

〔台記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0806 久安三年四月甘二日乙卯、今夜始千手供二壇、〈八三(○○)祈〉又於持佛堂千手御前、余〈○藤原賴長〉禮拜千八十遍、〈同祈〉此記書八三者、是公春也、

〔通語十〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0806 檻泉三箇、左壅右涸、理債逐人、得一莖禾、屈直委心、寄半行書、奢者不久、板木作土、水驚樹春、自古爲都、欲其郡、從和仲、欲其國、問長沮
○按ズルニ、是ハ中井積德大坂浪花西成郡津國ノ隠語ナリ、

戯號

〔戯作者小傳〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0806 風來山人
名は國倫、字は士彜、鳩溪と號し、紙鳶堂、又天竺老人と戯號す、通稱を平賀源内といふ、初め森羅萬象といひしが、後其號を門人森嶋中良〈竹枝爲輕〉に讓る、又院本に福内鬼外の名あり、
戀州春町
姓は源、名は格、通稱倉橋壽平といふ、狂歌を好みて、其名を酒上不埒(サケノウヘノフラチ)又壽山人と號す、戯作に戀川春町と名のる、駿州小嶋侯の家臣にして、小石川春日町に邸あり戀(コヒシ)川といふは、住居する地名によれる也、
喜三二
秋田侯の士、通稱平澤平格(○○)といひ、明誠堂と號す、戯名喜三二、又龜山人といふ、狂歌に手柄岡持(テガラノユカモチ)の名あり、誹諧に月成、狂詩に韓長齡、また天壽といふ、晩年仕を辭して、剃髪して後、苦(ク)なき人となりしと戯れて、自ら平荷(ヘイカ)と名づく、
四方山人 名覃、字子耜、南畝と號し、又蜀山と號す、杏花園、石楠齋、遠櫻山人等は、別號也、通稱太田七左衞門〈初曰直次郎〉といふ、牛込に居住し、後駿河臺に移る、初め狂名を四方赤人(∃モノアカヒト)といひ、後赤良(アカラ)と改む、

〔歌俳百人集〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0807 俵の船積
船積は田原氏、大湊舎と云、天明の頃、狂歌の大人にて、そのかみ上手の名を取し人也、
萩廼屋裏住
裏住は久須美氏、通稱白子屋孫左衞門、江戸の産也、〈○中略〉狂名を窓雪院大屋の裏住と改め、四方〈○大田覃〉の門下と成、
三陀羅法師
三陀羅は千秋庵と號す、神田お玉ケ池に住し、狂歌をもつて世にしらる、
六樹園飯盛
飯盛は石川氏、名雅望、字五老、狂名宿屋のめしもり、通稱ぬかや七兵衞、後に五郎兵衞とあらたむ、
烏亭焉馬
焉馬は、中村氏、名英祝、通稱和泉屋和介、初號野見てうなごんすみかね、別號桃栗山人、柿發齋、一號淡洲樓、本所相生町に住ゐして、家業足袋職なり、幼年より狂歌を好み、〈○中略〉狂名と號し、をかしき名をつけたるは、此人を始とす、
大木戸黑牛黑牛は越前敦賀の産にして、幼き時東都に來たりて、〈○中略〉狂歌を好み、其頃の大人濱邊の黑人が門人となり、狂名大木戸の黑牛と號す、芝高輪に住しゆへ、師家よりかくとなづけしよし也、
元の木網
木網は名正雄、幼名喜文、後に通稱金子喜三郎といふ、武州松山の産なり、狂歌を以て世に名高し、 手爾乎波の學びに通じて、詞の本末一卷をあらはす、妻も同じくざれ歌をたしみ、狂歌の名を智惠の内子と號、
祭の和樽
和樽は鈍々亭と號、狂歌の大人也、
杏華園蜀山人
蜀山人は太田氏、名覃、字子耜號南歩、後に南畝と改む、通稱直次郎、晩年七左衞門と改む、から倭のふみにわたり、博識なり、生質狂歌を好み、朱樂菅江の門に遊び、狂名寐惚先生、また四方の赤良と云、

〔江戸作者部類〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0808 山東京傳
江戸京橋銀座一丁目の家主岩瀨傳左衞門〈本姓は灰田也〉の長男にて、實名を傳藏と云、名は田藏(ノブヨシ)、字は 伯慶、後に名を醒、字を酉星と改め、山東庵と號し、醒々老人と稱す、嘗て畫を北尾重政に學びて、 畫名を北尾政演といひけり、
式亭三馬
三馬は、板木師菊池茂兵衞の子也、名は太助、〈○中略〉戯作は寛政八九年の頃より名を著はして、初 は西宮新六板にて、二冊三冊の臭草紙を作り、又洒落本とか云、誨淫の小冊を綴て印行したり、 みづから云、吾は唐來子の才を慕ひ、烏亭子に忘形の友とせられしより、三和焉馬の一字を取 りて、三馬と號するとぞ、
爲永春水
實名を越前屋長二郎と云

〔蜘蛛の糸卷〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0808 文墨の名家 天明を盛、歴々たる名家、〈○中略〉狂歌師に、四方赤良(ヨモノアカラ)、〈後に蜀山人〉朱羅漢江(アケラカンコウ)、〈○山崎景貫〉元(モト)の木阿彌(モクアミ)、〈○金子正雄〉大屋(オホヤノ)裏住(ウラズミ)、〈○久須美孫左衞門〉鹿津部眞顔(シカツベノマガホ)、〈○北川嘉兵衞〉宿屋飯盛(ヤドヤノメシモリ)〈○石川雅望〉錢屋金持(ゼニヤノカネモチ)〈○大坂屋甚兵衞〉右いづれも、おのれ〈○岩瀨京山〉十五六歳の時、見聞の名家なり、

〔百家琦行傳〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0809 朱樂菅江
菅江は武家なり、東武牛込に住して、氏は山崎、名は景貫、〈○中略〉這人その面、蜀の關羽に似たるをもて、綽名して關公と云けるを、其まヽ用ひて關江と字せしを、後に一字あらためて漢江とも書し、常に龜戸天滿宮を信迎せしによりて、菅の字を用ひて、亦菅江と改めけり、

〔狂歌百人一首〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0809 蘆邊田鶴丸、〈別號三藏樓○歌略下同〉 紀乎佐丸 筆常持〈別號巴扇堂〉 豐年雪麿〈別號月花庵〉
少々道賴〈別號花迺屋〉 三陀羅法師〈別號千龝庵〉 一寸法師〈別號瓢簞園〉

〔狂歌現在奇人譚〕

〈初編上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0809 鬼外樓内成の傳
内成は、東都舟町に住して、氏は藤井、俗稱を勘次郎といふ、蜀山翁より福廼屋といふ號をおくられければ、五老先生また鬼外樓と號られたり、

俳名

〔嬉遊笑覽〕

〈三/詩歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0809 新撰狂歌集に、前大上戸朝又、宇治茶大臣などは、酒の歌、茶の歌なれば、それに附てさる名を書るにて、其讀人の常に用ゆる戯名には非ず、又池田正式が、布留田造、平群實柿なども一時作り設し名なり、後世のごとき、名を作りて用ひたる者はなく、皆實名を書り、誹諧師も、宗匠は僧形なれば、字音に呼ぶ名をつけれ共、俗體の者は、名乗を用ること連歌の如くなりしに、後世常の人も宗匠めける名をつくことは、大かた談林よりこのかたのことなり、是を俳名と呼、

〔俳家奇人談〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0809 松尾桃靑
松尾忠左衞門は、伊賀上野藤堂何某の近臣なり、〈○中略〉深川に庵を結ぶに、みづから芭蕉を植て樂しむ、是より世に擧て芭蕉庵と稱す、〈泊船堂、無名庵、蓑虫庵、瓢中庵の諸號あり、〉初の名を宗房といへり、後桃靑と改む、 又杖錢子、是佛坊等の諸號あり、

〔近世奇跡考〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0810 榎本其角傳 寛文元辛丑年七月十七日生る、榎本は母方の姓と云、本姓は竹下、〈一に竹内と云、其爪庵の説也、○中略〉延寶二十歌仙、田舎の句合等に螺舎、あるひは螺子とあり、初名なるべし、〈一蝶たがかけの讃に、螺舎其角とあれば、後には號にもちゐし歟、〉つづきの原に、麒角ともかけり、江戸鹿子、江戸圖鑑等に、龜鶴とあるは誤ならん、晉其角と稱せしは、易經に、晉其角(すヽむそのつのを)とあるにもとづけり、寶晉齋は米元章が硯に鐫たる文字也、其硯を得て、寶晉の二字、寶井晉子と云によくかなへりとて、佐玄龍に匾額をかヽしめて、庵にかけ、則寶晉齋と號せしよし五元集に見ゆ、

〔俳家奇人談〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0810 服部嵐雪
服部嵐雪は、淡州小榎並村に出生す、幼名久馬助、〈○中略〉蕉門に遊て、俳名を治助といふ、後嵐雪といへるは、嵐の庭の雪ならではと思ひ寄り侍る愚さ、今更改んもをこがましと笑ふ事度々なり、〈○中略〉初に黄落庵、寒蓼堂の稱あり、後に雪中庵、一に不白軒、玄峯堂と號せしは、禪録に、雪千山を理む、什麼孤峯不白なるといふ語によれるとぞ、

〔鶉衣〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0810 自名つく説
遁世の姿、すでに定まらぬ、さてはうき世の名にもあらじ、さるべき二字にあらためばやと、名を思ひ、字をえらむに、今は父母も世にまさず、官路もいとひ離れたれば、忠孝の字義をとらむも、跡のまつりとやいふべからむ、よし又四書古文の拔書もあまねく人の取盡し、まして歸去來のことばなど、あらゆる隠者のむしり取て、骨ばかりに喰ひちらしたる、さらば博識の門に乞はヾ、意味深長の二字もなどあらざるべき、されども夫は耳遠ければ、名はいかにと問聞かむ人の、とみに心得ぬ顔の口をしく、はね折の詮なき心地すれば、これは其書の誰が言なりなど、一人々々に 講釋せんは、いとむつかしかりぬべし、菩提の道も疎ければ、西念淨蓮にても有るべからず、されば世の人のうへをみるに、金藏といふも貧に責められ、萬吉も不幸はのがれず、玉といふ下女、光もなく、かるとつけても尻重し、名はその人によらぬものかも、よしさらばたヾ調市走女も覺よく、娶も娘もかきやすからむをと、此日人のもとへ消息の筆にまかせて、たヾ暮水とは書きはじめける、それだに人の味ひて、これは何の心にて、それは此語によるならむと、蛇に足をそへ、摺小木に耳をもはやして、自然とふかき字義にも叶はヾ、をれも又をかしかりぬべし、
へちまとはへちまに似たで糸瓜哉

〔長春隨筆〕

〈坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0811 市川海老藏は、〈○中略〉俳道に心をゆだね、大坂なる椎が本舊德翁才麿の門に遊びて、俳名を才牛と號し、

〔續近世畸人傳〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0811 建凌岱
凌岱は、建部氏なれども、建の一字をもちう、はじめ俳諧を業とせる時、淺草門前に住、雷神のかたかたに、風神の袋負へる形ををかしとて、自涼袋と名乗しが、俳諧を止てのち、文字を凌岱とあらたむ、國風の歌文章には綾足と稱へ、畫には寒葉齋と號す、

相撲名

〔享保集成絲綸録〕

〈四十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0811 慶安四〈卯〉年七月
一しこ名之異名を附候者有之候はヾ、早々可申上候、いにしへより相撲取候もの異名附候共、向 後は其名、堅可無用事、

〔百家琦行傳〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0811 谷風梶之助
谷風は、生國奥州宮城野霞目村の農家の子なり、寛保三庚午年八月八日に産る、幼名與四郎と呼けり、幼稚の時よし角抵をこのみ、十九歳にて初て秀の山と號り、後伊達が關森ゑもんと呼けり、〈○中略〉安永五年廿七歳、谷風梶之助と改名す、

〔相撲今昔物語〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0812 近世當時名高相撲
大木戸團右衞門〈元祿年中○中略〉
南國梶之助〈元祿年中○中略〉
谷風梶之助〈享保年中○中略〉
釋迦嶽雲右衞門〈明和年中○中略〉
小野川喜三郎〈天明年中○中略〉
鷲ケ濱音右衞門〈○中略〉
鬼面山谷五郎

遊女名

〔萬葉集〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0812 冬十二月〈○天平二年〉太宰帥大伴卿上京時娘子作歌二首〈○歌略〉
右太宰帥大伴卿、兼任大納言、向京上道、此日馬駐水城望府家、于時送卿府吏之中、有遊行女婦、 其字日兒島也、〈○日一本作曰〉

〔大和物語〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0812 亭子のみかど、〈○宇多〉河じりにおはしましにけり、うかれめに、しろ(○○)といふもの有けり、

〔古事談〕

〈二/臣節〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0812 小野宮大臣〈○藤原實資〉愛遊女香爐、其時又大二條殿〈○藤原敎通〉愛此女、相府香爐ニ被問云、我與髯愛何乎、汝已通大臣二人、〈二條關白髯長之、故稱之、〉

〔古事談〕

〈二/臣節〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0812 御堂〈○藤原道長〉召遊女小觀音、〈觀音弟也〉御出家之後、被七大寺之時、歸洛經河尻、其間小觀音參入、入道殿聞之頗赧面、給御衣返遣之云々、

〔朝野群載〕

〈三/文筆〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0812 遊女記
江口則觀音爲祖、中君小馬、白女、主殿、蟹嶋則宮城爲宗、如意、香爐、孔雀、三枝、〈○枝或作枚〉神崎則河派姫爲長者、孤蘇、宮子、力余、小兒之屬、皆是倶尸羅之再誕、衣通姫之後身也、〈○中略〉長保年中、東三條院、參詣住吉社天王寺、此時禪定大相國、〈○藤原道長〉被小勸音、長元年中、上東門院、又有御行、此時宇治大 相國、〈○藤原賴通〉被中君、延久年中、後三條院、同幸此寺社、狛犬犢等之類、並舟而來、人謂神仙、近代之勝事也、

〔平家物語〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0813 妓王事
京中に聞えたる、しらびやうしのじやうず、ぎ王ぎ女とて、おとヽひあり、とぢといふしらびやうしがむすめなり、しかるにあねのぎわうを、入道相國、〈○平淸盛〉てうあいし給ひしうへ、いもとの妓女をも、世の人もてなす事なのめならず、〈○中略〉京中のしらびやうしども、ぎわうが、さいはひのめでたきやうをきひて、うらやむものもあり、そねむものもあり、うらやむものどもは、あなめでたのぎわう御ぜんのさいはひや、おなじ遊女とならば、たれもみなあのやうでこそありたけれ、いかさまにも妓といふ文字を名に付て、かくはめでたきやらん、いざや我らもついてみんとて、あるひは妓一妓二とつき、あるひはぎふくぎとくなどつくものもありけり、そねむものどもは、なんでう名により、文字にはよるべき、さいはひは、たヾぜん世のむまれつきでこそあんなれとて、つかぬものもおほかりけり、

〔當世武野俗談〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0813 新吉原松葉屋瀨川
新吉原江戸町松葉屋半右衞門抱、瀨川といふ傾城は、十ケ年以來は、五丁町に並ぶ方なき全盛なり、〈○中略〉寛文の頃には、小紫は能く和歌の道に達し、不斷敷嶋の道を尋ね、風雅にして心やさしく、世上こぞつて、偏に石山寺の觀世音にて、源氏六十帖編集したる紫式部にも似たりとて、其名を小紫と號けしとなり、〈○中略〉又嶋原の吉野は、初め浮船と名乗しを、或春郭櫻の花盛を見て、嶋原寵中の吟とて、
こヽにさへさぞな吉野は花ざかり
と云ふ名句有りしゆゑ、これより世に吉野と呼ばれける、

〔蜘蛛の糸卷追加〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0814 春駒の上るり
天明二年寅の霜月顔見世に、中村座にて、〈○中略〉豐前大夫妙音にて、櫻田治助妙作にて、吉原の遊女名寄の春駒、兩人〈○岩井半四郎、瀨川菊之丞、〉の所作、奇々妙々いふべからず、〈○中略〉扨右遊女名寄の文句にのりたるは、若紫、〈玉屋〉千山、〈丁子屋〉雛鶴、〈同〉九重、〈同〉もろこし、〈同〉丁山、〈同〉なヽ里、〈扇屋〉若松、〈同〉連山、〈同〉濃紫、〈玉屋〉花紫、〈同〉誰が袖、〈大文字屋〉かほる、〈同〉花扇、〈二代目〉若菜、〈わかなや〉白露、〈越前屋〉くれなゐ、〈同〉すがたの、〈松葉屋〉都路、〈同〉あげ卷、〈同〉瀨川、〈同〉龜菊、〈同〉すが原、〈同〉江川、〈同〉ときは木、〈同〉かたらひ、〈同〉春日野、〈同〉以上廿七人、いづれも時の名妓、みせにつかず、仲の町をはりたる遊女どもなり、

藝名

〔後は昔物語〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0814 よし原女藝者といふもの、扇やかせんに始まれり、

〔そヾろ物語〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0814 歌舞妓をどりの事
見しは今、江戸にはやり物しな〴〵有といへども、よし原町のかぶき女にしくはなし、〈○中略〉慶長のころほひ、出雲の國に、小村三右衞門といふ人のむすめに、くにといひて、かた(容)ちゆうに、心ざまやさしき遊女候ひしが、〈○中略〉此遊女男舞かぶきと名付て、かみをみじかく切、折わけに結、さや卷を指、きたの(北野)つしま(對馬)のか(好)みと名付、今やうをうたひ、ふぢよのほまれ世にこえ、顔色無雙にして、袖をひるがへすよそほひを見る人、心をまどはせり、それを見しよりこのかた、諸國の遊女そのかたちをまなび、一座の役者をそろへ、舞臺を立をき、笛、たいこ、つヾみを打ならし、ねずみ(鼠)戸を立て、是を諸人に見せける、中にも名をえし遊女には、佐渡島正吉、村山左近、岡本織部、北野小大夫、出來(でき)島長門守、杉山主殿、幾島丹後守などヽ名付、是等は一座のかしらにて、かぶきの和尚といへるなり、

〔聲曲類纂〕

〈一下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0814 都三中傳へし一中節の系圖あり、いぶかしき事もあれど、左に摸し出せり、〈常磐津系圖は、これによりて、作り添へしものなり、〉 伊藤出羽掾
山本(大坂)河内掾
山本飛驒掾
山本(京角大夫事)土佐掾
岡本文彌
小林(奈良)平大夫
岡本(大坂阿波大夫事)鳴渡大夫
表具(大坂)又四郎
都越後掾
木屋(いせ岡本市大夫事)七大夫
岸本(京)平大夫
都大夫一中
宮古路(弟子)豐後掾〈國大夫半中改〉
都(一中嫡子千朴改)若大夫一中
宮古路(弟子)文字大夫〈又都千中に習後常磐津と改〉
都(聟)金大夫三中
都(弟子)秀大夫一中(千中改)
吾妻路宮古大夫〈都金大夫三中改入道而千朴〉
都三中〈後盲人に成〉
都大夫一中〈吾妻路宮古大夫改〉
都(淸中改)三中
都(桂宇改)三中
都榮中
都桃中

〔淨瑠理大系圖〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0815 伊勢島宮内〈正保貞和の比の人、一流をかたり出す、〉
宇治嘉大夫〈紀州の人(中略)後受領して、宇治加賀掾藤原好澄と改名、〉 岡本文彌
都万一大夫
都大夫一仲
松本治大夫
宮古路國大夫〈都半仲改、江戸へ出て一流をかたり出し、常盤津豐後掾と改、豐後ブシを弘む、〉
富本豐前大夫〈享和文化の頃の人、一流をかたり出す、世に富本ブシと云、〉
岡本阿波大夫〈後鳴戸大夫と改〉
鶴賀若狹掾

〔淨瑠理大系圖〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0816 竹本(當流)義大夫
豐竹(東流元祖)若大夫
若竹(二代目義大夫)政大夫

〔蜘蛛の糸卷追加〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0816 天明中俳優
天明寛政の比は、藝道に名人多かり、俳優にも市川團十郎、〈六代目、後に向嶋白猿、〉中村仲藏、松本幸四郎、大谷友右衞門、中村助五郎、澤村宗十郎、嵐三五郎、二代目市川八百藏、市川門之助、女形に瀨川菊之丞、〈仙女の盛〉同富三郎、岩井半四郎、中村富十郎、同のしほ、小佐川常世、佐野川一松、山下金作、いづれも千金の役者なり、

〔諸藝目利講〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0816 いくさの講釋の上手は、浪華に梅龍、江戸の靜山は、まさりおとらぬ能辨にして、よく人を感ぜしむ、

〔只誠埃録〕

〈二百二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0816 當時おとしばなし流行する來由
近來江戸において、落語中興の祖は、立川談洲樓烏亭焉馬老人なり、

雜載

〔刊謬正俗〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0817 名字類
吾國古、有名而無字、如紀寛〈長谷雄字〉三耀〈三好淸貫〉文琳〈文屋康秀〉等、稍聞其字、自中葉以還、尤失其義、至于今日、其弊不爲勝言矣、或以官爲字、〈如左右衞門左右兵衞大夫等是也〉或以國爲字、或以號爲字、〈如庵軒室齋等是也〉孟浪胡亂、可厭之甚、如一レ字、蓋起于儹、尤不可也、官是朝廷所置、可自命其字也哉、且如某兵衞某左衞門、亦非全官號、或以二官一人字、尤不可也、而至小夫賤隷、皆冒其號、不以爲一レ怪、不革、若不遽禁、則唯臨文曰某左、而口唱曰某左衞門、積以歳月、庶乎其化矣、噫又如二郎三郎上レ字、協古者伯仲之義、然如長曰十郎、次曰五郎、亦是倒置、或有稱之、〈如五郎三郎一人字是也〉亦是胡亂、如庵軒等〈ノ〉字、醫師髠徒、多用之、華僧如兀庵密庵、亦是字、然不法、或既有假名寔名、而又單名、而字之者亦甚繁、或有假名上一字名、而別字之者、是亦胡亂、變亂名字之義、不從焉、或有假名之陋、而借音義同者之、混漢人之字、亦非正也、名字之説、持身大綱、紊亂敗壊、至於如一レ此、可勝歎也哉、有志之士、須于俗、不于古、名以取其義、字以敬其名乎其可矣、

〔刊謬正俗〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0817 稱呼類
呼他人、或姓下用號若字、〈如蘇東坡、蘇子瞻是也、〉或單用號如字亦可、然稱他人名、决是不可、君前臣名、父前子名、師前弟子名、除此之外、無名之理、古詩有飯顆山前逢杜甫、不汪倫送我情等句、皆對人稱名甚質矣、書牘序引中、不用也、
古者尊則字之、後世則又有別號、然今人、或有名而無字、或有字而無號、如無字號、則單用姓某生某丈、隨宜用之、似亦無一レ害、尹起莘發明中、稱程頣子、方孝孺明辨、稱蘇洵子、皆名下注子字、孟子雖章子之稱、亦非今日之宜、不稱可也、
名置之號上、或屬之字上、皆釋門家習、如印月江、敝虛庵是也、今釋子以此稱士人、或剪名曰某公者非是、或有賴朝源公、時賴平公、其稱似倒、然浮屠文字中、既有景濂宋公、亦是緇林舊習、 然遂不法、大抵國家、千餘年前、人文既闡、禮樂文章、粲然大備、官制地名、至今有賴、皆先王遺風也、其後國陷戰爭、文敎掃地、詞令之間、名稱紊亂、可勝慨也哉、

〔斥非〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0818 凡人有名有字、名者所自稱、字者人所稱也、名者父之所命也、故自稱之、字者人之所與、所以表一レ德也、故人稱之、凡自稱者、除天子稱朕、稱予一人、諸侯稱孤寡不穀外、雖尊長於卑幼、貴者於賤者、師於弟子、皆稱名不字也、呼人者、唯父名子、若君於臣、有之、有名、師於弟子亦然、惟古之師嚴、名其弟子如孔子之於七十子見矣、後世師道不嚴、不敢名弟子、他如尊長於卑幼、貴者於賤者、亦不敢輕名一レ之、必度其高下、寧過於恭、勿於倨、是謂有禮、夫稱呼者、禮之大節也、敬慢係焉、故君子愼之、倭儒乃忽之、言語書札、往往誤稱呼、常見末學書生、作書札、及贈人詩若文、或題與之名、或自書其字、皆爲失禮、華人弗爲也、

〔經濟録〕

〈九/制度〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0818 名ト云ハ、只今ノ名乗也、字ト號ハ、日本人ニ本來是ナシ、學者ニ字號アルハ私事也、古ハ公家武家庶人モ、常ニ名ヲ稱セシニ、近世ニ及テ、彼是ニ稱スル官名ヲ、常ニ稱スルナラハシニ成テ、何トナク名ヲ稱スルコト廢シテ、今ハ但公家ニノミ、古風ヲ不失シテ、常ニナヲ稱スルナリ、サレバ親戚朋友ノ間ニテモ、互ニ其名ヲ不知、朝廷ノ禮式ニモ、名ヲ稱スルコトナク、國家ノ記録ニモ、名ヲ書スルコトナキ故ニ、官名計ヲ書付ケタルヲ見テハ、誰某ト云コト分明ニ知レズ、近世ノ風俗ニテ、官名ヲ父子代々、相襲スルコト多ク、又同族ノ中ニテ、昨日迄、彼人ノ稱セシ官名ヲ、今日此人稱スルコトアリ、譬バ前ニ松本侯ヲ水野日向守ト、名乗シニ、松本侯亡テ、結城侯又水野日向守ト稱スル類也、殊ニ松平氏ハ、諸侯以下ニ甚多ケレバ、一ノ宮名ヲ彼方此方ニテ稱スレバ、其苗字ト其官名トヲ聞ル計ニテハ、誰ト云コトヲ辨ヘ知ベキ樣ナシ、箇樣ノ類、名ヲ稱セズシテ、官名ヲ稱シ、朝廷ノ文書記録等ニモ、ナヲ書セズシテ、官名ノミヲ書テハ、其年ノ内ニモ混亂シテ、知難キコトアリ、五年十年ノ久キ年月ヲ經テハ、决シテ誰某ト云コト知ザルベシ、如此ニテハ記 録何ノ用ニ立ベキヤ、是大缺典也、今世ニモ、公家ハ猶古ヲ存シテ、常ニ名ヲ稱ス、家ニハ近衞九條等ノ稱有ドモ、一人ノ稱ニ非ズ、大臣納言等ノ官ハ、一人ノ官ニ非ズ、且自己ヨリ稱スルニ名ヲ稱セズ、家號又ハ官名ヲモ稱ベキ義ナシ、人ヨリ呼ニハ、官名ヲモ家號ヲモ稱スルナリ、公家ノミニ非ズ、賀茂ノ神主等モ、常ニ名ヲ稱スコト、公家ト同ジ、賀茂ニ詣シトキ、禰宜等ノ伺公スル番所ヲ見タリシニ、長キ板ニ、敷多ノ禰宜ノ名ヲ書テ掛タル有、上ニ從五位下、正六位上等ノ爵位ヲ書シ、下ニ賀茂某抔ト姓名ヲ書セリ、彼等ハ家ニ苗字アリ、左近兵部抔ト云官名モ有テ、常ニ稱ルニハ、苗字ト權ノ官名ヲ唱ヘ、鴨脚民部、梨木左京ナド云ヘドモ、社頭ノ名籍ニハ、是ヲ不書、只位階ト姓名計リヲ書スルヲ、日本ノ古法ヲ失ハズ、中華ノ禮ニモ合ヘリ、又伶人ニモ苗字有、官名有テ、常ニハ是ヲ唱レドモ、音樂管絃ノ目録ニハ、只姓名ヲ書コト、賀茂ノ神官ノ如シ、是古風ヲ存セルイミジキコトナリ、願クハ武家モ、カク有マホシキ也、凡諸侯以下ノ人、縣官ニ謁見シ、其外臣民ノ君上ニ謁見シ、士大夫ノ初見スルニ、苗字官名ノ下ニ、必名ヲ連テ稱スベシ、凡進物ノ日録ニモ、貴賤トナク、必名ヲ書ベシ、國家ノ記録、朝廷ノ文書ヲ始メ、士庶人、平日ノ書札ニモ、必名ヲ書スベシ、總ジテ、平日ノ交ニ、自己ヨリ稱スルニハ、必名ヲ云コト、公家ノ如クナルベシ、如此ナラバ、吾人ノ名、世ニ通行ノ人ノ名ヲモ互ニ記臆シ、苟且ノ筆札ニモ、名存スベケレバ、歳月ヲ經テモ、其人體紛ルヽコトナカルベシ、今ノ世ニハ、名ヲ稱スルコトナキ故ニ、親戚朋友ノ交ニモ、一生其名ヲ知ザルコト多シ、凡天子ヨリ士庶人ニ至迄、名乗ノ外ニ、眞ノ名有コトナシ、世俗名乗ヲ實名ト云ニテ知ベシ、名乗ト云モ、自己ヨリ稱スベキ名目也、

〔玉勝間〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0819 男の名にも某子といへる事
中昔よりこなた、女名に某子といふこと、なべての例也、いにしへにもをり〳〵見えたり、さていにしへは、男の名にも子といへる多し、まづ神武天皇の御世に、石押分之子贄持之子といふあり、 古事記仁德天皇御段に、丸邇臣口子、書紀應神御卷に、壹岐直眞根子、仁德御卷に、茨田連衫子、又佐伯直阿俄能胡、履中〈ノ〉御卷に、阿曇連濱子、雄略〈ノ〉御卷に、佐伯部仲子、又難波吉士赤目子、又倭子連、又水江浦嶋子、繼體〈ノ〉御卷に、筑紫君葛子、又目頰子、安閑〈ノ〉御卷に、稚子直、欽明御卷に、中臣連鎌子、又葛城山田直瑞子、敏達〈ノ〉御卷に、吉子金士、又大伴糠手子連、又物部贄子連、推古〈ノ〉御卷に、小野臣妹子など見えたり、さて右の名どもの中に、石押分之子、贄持之子、古単記書紀ともに之字あり、仁德〈ノ〉御卷の衫〈ノ〉子の訓注に、莒呂母能古(コロモノコ)と見え、また阿俄能胡(アガノコ)、又浦嶋〈ノ〉子、又中臣系圖に、鎌足公の祖父の名、方〈ノ〉子とも、加多能子(カタノコ)とも書る、これらによらば、すべて皆某之子と之をそへてよむべきかと思はるれど、又繼體〈ノ〉御卷なる、目頰子を、歌に梅豆羅古(メヅラコ)とあれば、なべて之といふべきにもあらず、さて又推古〈ノ〉御卷に、阿倍臣鳥といふ人を鳥子ともあり、又敏達〈ノ〉御卷なる、糠手子連を、崇峻〈ノ〉御卷には、糠手連と見え、舒明〈ノ〉御卷に、中臣連彌氣とある人を、家系圖には御食子大連公と見え、又皇極〈ノ〉御卷に、巨勢臣德太とある人を、孝德〈ノ〉御卷には、德陀古ともある、これらをもて見れば、子といふことを、はぶきてもそへても、いへるも有しにや、

〔名字辨〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0820 外國より歸化し人々も、其才其功などあれば、官位をもたまひしなり、かく官などたまひて後も、姓名はしも字音にいふべく、
〈續紀に、玄蕃頭從五位下袁晉卿、外從五位下李元環、正六位上沈惟岳、正六位上孟惠芝、正六位上張道光などあり、〉
こなたの姓をたまはりて後も、猶名は字音にいふべきと、
〈續紀に、高倉朝臣福信、難波連庚受、狛造千金、濱村宿禰晉卿、淸海宿禰惟岳などおほかり、〉
姓はたまはねども、御國ぶりの名をしつきし人は、姓は字音にて、名は訓にいふべきもあるなりけり、
〈續紀に、造法華寺判官從六位下余東人、正六位上辛男床、大初位上支母未吉足、答他伊奈麻呂、金五百依などあるがごとし、〉

〔古事記〕

〈中/仲哀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0821 故建内宿禰命、率其太子、〈○應神〉爲禊、而經歴淡海及若狹國之時、於高志前之角鹿、造假宮而坐、爾坐其地、伊奢沙和氣大神之命、見於夜夢云、以吾名御子之御名、爾言禱白之、恐隨命易奉、亦其神詔、明日之旦、應於濱、獻易名之幣、故其旦幸行于濱之時、毀鼻入鹿魚、既依一浦、於是御子、令于神云、於我給御食之魚、故亦稱其御名、號御食津大神、故於今謂氣比大神也、

〔續世繼〕

〈四/宇治の河瀨〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0821 ためあきら〈○高階爲章〉といひし人も、本はためのりといひけるを、白河院のためあきらとめしたりけるより、かはりたるとかや、おほちの高大貳は、なりのりといひしかども、このころ、そのすゑは、むねあきらなどいへるは、めしけるより、あらたまりたるとかや、

〔松の落葉〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0821 男女の名昔やうにつくはひがことなる事
近き世に、ふることまなびをし、いにしへぶりの歌よむをのこは、なに彦、くれ麻呂といふやうなる、いにしへざまの名をつくなるは、いと〳〵心づきなく、さはすまじきことになん、名はまぎれぬためのしるしなるに、なに彦、くれ麻呂といへば、いにしへの人ときこえて、さにあらず、いとまぎらはしき事ならずや、しかつきてのち、名のをかしからずとて、たび〳〵かふるは、ことにわろし、その人は、これか、かれかとまがふべし、

〔年々隨筆〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0821 いにしへの人は、某麻呂といふ名多し、自稱してまろといふも、まろはもとより自稱なるにつきて、人の名にもおほくつくか、人の名に多かるゆゑ、自稱ともなれるか、もとすゑは、しらねど、ひとつ根ざしの詞にはあるべし、近ごろまでは、天子の自稱のやうに心えをりつるを、學問の道あきらかになりて、今はさしもあらぬにや、牛飼は、後々までも、丸といふ名つくうへに、天平勝寶の東大寺の奴婢籍にも、某丸といふ名多かり、

〔安齋隨筆〕

〈前編一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0821 一人名唱以字音 世に名高き人の名をば、字音をもつて唱ふ、たとへば道風をば、タウフウ、俊成をば、シユンゼイ、定家をば、テイカ、家隆をば、カリウと唱る類也といふ説あり、按 ずるに、むかしより如斯ありしにや、古今著聞集〈卷十六興言利口ノ部〉壬生二品家隆の家にて、ある人の子を男になす事侍り、〈○中略〉名をば何とか付けべきなど沙汰しけるを、〈貞丈云、エボシヲヤガ、エボシ子ニ名ヲ付ルナリ、〉あつみの三郎爲俊といふ田舎さぶらひ聞て、進み出で言けるは、此殿が、〈貞丈云、此殿トハ家隆ノ家ヲサシテ云ナリ、〉御一家は、みな隆の字をなのらせ給へば、いへたかとや付參らせらるべけんと、ゆヽしくはからひ申たりげにいふを、人々わらひのヽしる事かぎりなし、爲俊が父圖書允爲弘聞て、いかに汝ふしぎをば申ぞ、殿の御名乗をしりまいらせぬか〈○中略〉といはれて、さも候はず、殿の御名のりをば、かりうとこそしり參らせて候へ、世にも亦さこそ申候なれとぞ陳じたりける、〈○中略〉是常に自他共に、カリウとのみ云習したるゆへ、爲俊が、イヘタカと云事をば、知らざりし也、名を音に唱ふることは、上古にはなかりし也、人丸を、ニングハンといはず、赤人を、シヤクニンと云はず、是にて知るべし、時平大臣を.シヘイ(○○○)ノオトヾと云ひ傳へたるは、延喜の頃よりの云習はし歟、さらば其頃より、音に唱る事ありし歟、

〔玉勝間〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0822 人名を文字音にいふ事
人の名を、世に文字の音にて呼ならへる事、ふるくは時平〈ノ〉大臣、多田〈ノ〉滿仲、源〈ノ〉賴光、安倍〈ノ〉晴明などのごときあり、やヽ後には、俊成卿、定家卿、家隆卿、鴨〈ノ〉長明など、もはらもじごゑにのみいひならへり、琵琶ほうしの平家物語をかたるをきくに、つねにはさもあらぬ、もろ〳〵の人の名どもヽ、おほくはもじごゑに物すなるは、當時ことに、よの中にさかりなりしことなめり、

〔江談抄〕

〈二/雜事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0822 天暦皇帝〈○村上〉問手跡於道風
天暦皇帝、召道風朝臣勅云、我朝上手誰人哉、申云、空海、敏行、時人難云、於大師御名、可音讀也、敏 行ヲバ、猶止志由岐止奈牟(トシユキトナム)可奏云々、

〔平家物語〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0822 祇園しやうじやの事 ちかくほんてうをうかヾふに、せうへいのまさかど、天慶のすみとも、かう和のぎしん、〈○義親〉平治のしんらい、〈○信賴〉これらは、おごれる事も、たけきこヽろも、みなとり〴〵なりしかども、〈○下略〉

〔古今著聞集〕

〈十六/興言利口〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0823 壬生二品家隆(○○)の家にて、ある人の子を男になす事侍り、隆祐朝臣〈○家隆子〉の子になして、やがてかの朝臣、加冠はしけり、名をば何とか付くべきなど沙汰しけるを、あつみの三郎爲俊といふ田舎さぶらひ聞て、進み出ていひけるは、此殿に、御一家は、みな隆の字をなのらせたまへば、いへたか(○○○○)とや付け參らせらるべく候らんと、ゆヽしくはからひ申たりげにていふを、人々わらひのヽしる事かぎりなし、〈○下略〉

〔先哲叢談〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0823 源君美、字在中、新井氏、小字勘解由、〈○中略〉入貢琉球人、得白石詩草歸、遂致之淸、淸翰林鄭任鑰、自寫作之序、此本復經琉球日本、終落白石手、白石珍藏之、而序中指白石、書新堪、此勘堪音相近、蓋誤傳新井勘解由、而略稱之云、

〔吾妻鏡〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0823 建仁二年六月廿五日戊戌、尼御臺所、〈○源賴朝妻政子〉入御左金吾〈○源賴家〉御所、〈○中略〉於東北兵御所勸盃、及數巡、召舞女微妙舞曲、知康候鼓役、酒客皆酣、知康進御前銚子、勸酒於北條五郎時連、此間酒狂之餘、知康云、北條五郎者、云容儀、云進退、可拔群處、實名太下劣也、時連之連字者、貫錢貨儀歟、貫之依歌仙、訪其芳躅歟、旁不然、早可改名之由、將軍直可仰之云云、全可連字之旨、北條被諾申之、

〔吉備烈公遺事〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0823 公新太郎樣〈○池田光政〉ト申キ、諸侯、此コト如何候ラン、改ラルベキカト有シトキ、公其事ハ仰ラレズ、近頃江戸町ヲ通リ候ニ、カヂニ大和守、或ハ鏡磨モノヽ、何ノ大掾抔ト申名ノ候、サノミ辱クモ覺エ候ハズトゾノタマヒケル、

〔明良洪範〕

〈十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0823 酒井備後守忠勝、領地ヲ賜ハリシニ、其領地ノ内ニ、備後村ト云村有テ、其村長ヲ備後ト云、郡奉行某、右村長備後方ヘ達シケルハ、領主ノ名ヲ備後守ト申スニ、其領内ノ者、備後ト申 テハ、領主ト同然也、早々改名スベシト達シケル所、カレコレ迷惑ノ趣キヲ申、改名セズ、其後備後守、領内巡見ノ節、カノ村長ニ、直ニ申サレケルハ、其方ノ名ト吾名ト同然ナレバ、其方改名シテ然ルベシト申サレケレバ、村長答テ、私家ハ、往昔ヨリ代々備後ト申シテ、此村ニ住居致候故、村名迄、既ニ備後村ト申候、殿ハ幾代アトヨリ備後守ト仰セラレ候哉、其年數ハ存ジ申サズ候ヘドモ、當所ノ御領主ニナラレ候ハ、昨今ノ事ニ候、サレバ舊キ私方ニテ改ンヨリ、新キ殿ノ御方ニテ御改メナサレ然ルベキヤニ存ジ候ト云、此村長、正直律義ノ一コク者ト云事、備後守、兼テ聞居ケレバ、今村長ガ答ヲ聞テ、莞爾トシテ、成程其方ノ申所尤也、我早速改メベキナレド、我ハ上ヨリ拜領ノ名ナレバ、此方心任セニハ改メ難シ、サレバ其方モ改ルニ及バズ、此方モ改ムベカラズ、其方ハ村長ノ備後、此方ハ領主ノ備後也ト申テ、スマセラレシト也、神君其事ヲ聞召サレ、備後守ガ寛仁大度ヲ賞シ給ヒケルト也、

〔蓑輪軍記〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0824 蓑輪城安中松井田落城之事
爰に那波無利之助と申者、手勢二百五拾餘人に而、秋間山を飛越、烏川を打渡、

〔常山紀談〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0824 尼子十勇士と世に唱へけるは、山中鹿之介、藪原茨之介、五月早苗之介、上田稻葉之介、尤道理之介、早川鮎之介、川岸柳之介、井筒女之介、阿波鳴門之介、破骨障子之介なり、

〔備前老人物語〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0824 織田内府へ生駒萬兵衞といひし人、新參の時、ある人はじめてしる人になりて、貴殿の名、三つの不審侍り、ま兵衞か、まん兵衞歟、まん兵ゑん歟、しかとうけたまはりたく存ずといひけり、その時萬兵衞申けるは、不審し給ふ所、餘義なし、なにやうにも、くるしからず、その人の腹中に虛實あればなり、腹空虛の時には、はねていふべき力あるまじければ、ま兵衞との給ふべし、又腹中充實して、酒氣など盛ならん時は、まん兵ゑんとはねらるべし、その本名は、生駒萬兵衞と申者也といひけり、かのとひし人々、又いふべき詞なかりしを、さはらずして、味ある返答なりと、 皆人いひけり、

〔南嶺子〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0825 近年、神道者といふもの出來て、その門弟となるものへ、命號をゆるし、又は官名の下つかさなきを名づけ、狩衣淨衣などをゆるす、〈○中略〉天子より命爵もなき人、何を以命と稱せんや、たとへば、米屋の太郎兵衞なれ共、神道の方にては、林玄蕃と名つき、豆腐屋の二郎七なれ共、神拜の時は、松川左京と號するなどの免狀をうけ、〈○下略〉

〔燕石襍志〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0825 苗字
佐渡にては、女の名に、にさといふが夥ありとぞ、その故はしらず、又あさといふ名もおほかり、これは朝に生れたるに、しか名づくといふ、晝夕もこれにおなじ、男子にも、朝介、晝介、夕介など名告るもの多し、亦猿松、總郎、晩兵衞などいふもあり、亦伊兵衞が一子に、伊平、又多平が一子に、多兵衞と名告るものありとなん、その地の俗習便宜に任するものなれば、かくても紛るヽ事なきにや、

〔伊豫國順廻記〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0825 前大保木山〈新居郡氷見組○中略〉
〈庄屋〉文五郎
御拜地前よりの庄屋にて、一柳家時代の宗門改帳、幷大身鎗一本を藏む、其宗門改帳の内に、男女の名、常に異りたるを左に擧、
男名 千德、相德、峯德、宮鶴、松千代、國千代、若松、どよむし、石若、五郎丸、こばん、千立、つごも、
右之外、右衞門、左衞門の門は、皆問(モン)の字に作る、門に作りたるはなし、右衞門左衞門は、官名なれば、舊は憚りて、問の字に書たる歟、
女名 半六、へんろ、しよぶ、太郎、次郎、みやいち、とくま、びしや、宮松、きくいち、たまる、さるま、のこ る、ひめ、じよろ、はないち、宮路、から松、わかま、さつき、ちよぼ、
右の通りにて、女の中に、男名付たるもあり、男名の中に、女名に似たるもあり、又歴々の名の樣に 聞るもあるは、往時喪亂の世、敗軍の將士、爰に隠れ、後世子孫の名も、自然とみやびやかに付たる歟、

〔兎園小説〕

〈十二集〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0826 古代の呼名
江州伊香郡金居原村百姓
梨之木
藤之棚
萬 代
上之山
堂之坂
川 端
右之村方は、山中にて炭燒を業に致し居候、往古は一村不殘、右樣の名を附居候由に候へ共、追々何次郎、何右衞門などヽ改名致し、當時宗門帳に、右六人の者、右樣之名を附居申候、
大夫(同郡奥河並村百姓)
右村方にては、婦相果候夫は、何れも大夫と、年々宗門帳に相附居申候、如何成故と相尋候へば、夫相果候婦を、後家と申すも同じ事と申し居候、
右彦根家、富田甚右衞門殿の話なり、

〔乾坤辯説〕

〈序〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0826 此篇者、南蠻不留都我留國之人、忠庵(○○)所編述也、〈○中略〉
時明暦己亥九月望日 肥陽長崎 向井玄松序

〔平家物語〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0826 ざすながしの事
治承元年五月五日の日、天台ざす明雲大そうじやう、公請をちやうじせらるヽうへ、藏人を御つ かひにて、如意輪の御本ぞんをめしかへいて、御ぢそうを改易せらる、〈○中略〉そうをつみする習とて、度縁を召返し、げんぞくせさせ奉り、大納言の大輔藤井の松枝と云、ぞく名をこそつけられけれ、

〔法然上人行狀畫圖〕

〈三十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0827 安樂、死刑におよびてのちも、逆鱗なほやまずして、かさねて弟子のとがを、師匠におよぼされ、度縁をめし、俗名をくだされて、遠流の科にさだめらる、藤井の元彦云々、

〔玄同放言〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0827 姓名稱謂
古書を讀むに、時世は定かならすとも、人の姓名によりて、その時世も、大かたは推しはからるヽものになん、さればいにしへの人の名を、今より見れば、異なりとおもへども、當時はその名を同じうするものヽ、いと多なるも、今人の名に、某右衞門、某兵衞など、同郷合壁に、同名のもの多かるをもて、推してしるべし、大約六史に見はれたる搢紳に、同名多かる中にも、馬養〈ウマカヒ〉は、巨勢朝臣馬飼、〈書紀天武紀下〉伊與部連馬飼〈持統紀、又文武紀四年六月條下作馬養浦嶋子傳作者、〉藤原朝臣宇合、〈續紀卷八元正紀養老三年正月壬寅條下作馬養、其他作宇合、宇合即馬養假字、俗讀爲乃記安比者非、〉小野朝臣馬養、〈續紀八元正紀〉文忌寸馬養、〈續紀十三聖武紀〉調連馬養、〈同上〉猪名眞人馬養、〈續紀八元正紀、猪名又作爲奈、〉粟田朝臣馬養、〈同紀〉船木直馬養、〈續紀卅三光仁紀〉この他猶あるべし、

〔鹽尻〕

〈三十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0827 一同時同名之類を、代醉編に多く擧侍る、我國とても、ふたりみたりは、同じ御代に聞え侍りけれど、近き世、神君御在世の時の如く、同じ名有事は、古しへの文にも見え侍らざるにや、好事の者に見せばや迚しるす、
酒井將 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif 忠政 阿部四郎五郎忠政
松平與一郎忠政 伊奈筑後守忠政
森右近大夫忠政 本多美濃守忠政
松平攝津守忠政 奥平信昌三男、爲菅沼大膳大夫養子、賜松平稱
松平出羽守忠政
始は大須賀五郎左衞門、榊原康政の嫡男也、爲大須賀康高之養子、賜松平稱
内藤仁兵衞忠政 鳥居左京亮忠政
小笠原右近大夫忠政 田中筑後守忠政

淺井備前守長政 淺野彈正少弼長政
田中兵部少輔長政 黑田甲斐守長政

酒井左衞門尉忠次 松平左近將 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif 忠次
戸田三郎左衞門忠次 阿部四郎兵衞忠次
松平式部大輔忠次

大久保五郎石衞門忠勝 本多中務少輔忠勝
酒井宮内少輔忠勝 酒井讃岐守忠勝
是等時代同じき也少しの前後有べけれども、大樣世を隔ざる人多かりしかば、分記し侍る、猶此外にも有しにやあらば追考すべきのみ
賢按、此時代、韻鏡を考て、人々名字を、五性に合せて付る抔と言事は、更になし先祖より名乗來 り候名乗字を、上下取替、或は人之名乗字の内を、好に從ひ付來る事故、如斯同名乗、多くありと 見えたり、

〔四方の硯〕

〈雪〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0829 京師の俗に、女兒あまたありて、男兒なき家には、すゑの子を、あぐり(○○○)と名づくれば、かならず、男兒をえ、よろこぶといふ、山田某といふ老儒、このためしをこヽろむことありしと、其門人のかたりき、

〔翁草〕

〈三十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0829 一享保廿乙卯年、於江戸、大納言樣仰之由、諸大名の家來、怪姓名之分、書上候樣にとの儀に付、左之通銘々より書上る、
藤堂大學頭内 七里鎌倉(カマクラ)兵衞
松平大隅守内 疋和田四方四五(ヒキワタヨモシゴ)右衞門
七寸五分(クツワダ)刑部左衞門
仁禮五膳吾(ニレンコセンコ)
谷谷谷谷(タニカヘヤツヤ)
松平陸奥守内 八幡男也(ヤワタナンヤ)
三方一所(サイイシヨ)典膳
松平相模守内 古屋敷跡(フルヤシキアト)新九郎五左衞門
松平修理大夫内 竹下太郎八左衞門
小助助助(ジヨスケ)
酒井雅樂守内 一石八斗(イツイシヤトウ)兵衞
牧野河内守内 入交(イリマセ)彌六左衞門
鍋嶋攝津守内 嬉野白石社宗彌次郎(キノヽシライシシヤウヤジロウ)
水野日向守内 大岡田村(ヲヽヲカタムラ)正九郎助之進
松平甲斐守内 穴山宮内(アナヤマクナイ)兵衞 松平備中守内 平平平平(ヒラタヒフヘツペイ)
伊達遠江守内 東海(セウジ)村舎人
松平下總守内 伊藤車戸二(シヤトジ)
紀伊殿御内 宇知村條利(ウチムラシヨリ)九郎
旦來賀多(アワソウカタ)右衞門
丁治泉(ヨロフヂセン)
加留田多之(カルタタノ)右衞門
秦斧治(ハタヲノヂ)
呉官治(ゴクワンヂ)左衞門
李佐保(リサホ)之介
〈旦來、丁ハ紀州郷名也、李氏呉氏ハ、共ニ朝鮮人ノ末也、〉
松平大和守内 大戸好津(ヨシツ)
郷半太
西尾谷次(タニジ)
藤田十五兵衞
猿木梶磨(サルキカヂマ)
塵子田角摩(カクマ)
勾坂内藏卿(カウサカクラキヤウ)
藤司逸平(イツペイ)
嶋田嘉總(カソウ) 順田貫(クワン)八
松平平學(ヘイカ)
此外東海林(セウジ)氏、數多有、
此外奇怪之姓名諸家ニ數多有、繁故略之、


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Last-modified: 2022-06-29 (水) 20:06:17