http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0301 苗字ハ姓氏ノ類ナリ、中古以降、居住ノ地、又ハ所領等ヲ以テ、姓氏ノ外ニ之ヲ稱セシニ萌シ、終ニ平常姓氏ヲ稱セズシテ、専ラ之ヲノミ用イルニ至レリ、然レドモ其間ニハ、苗字ヲ稱セズシテ、仍ホ姓氏ヲ以テ稱セシ者モナキニアラズ、而シテ苗字ノ種類ヲ擧グレバ.官職地名動植物ノ名ヲ以テスル等、率ネ姓氏ニ同ジ、後世ニ至リ、卑賤ノ者ヲシテ苗字ヲ稱スルヲ得ザラシメシハ、上古奴婢ノ制ノ遺レルナルベシ、姓氏ニハ二字三字ナルヲ截チテ、一字ト爲スアリ、或ハ其偏傍ヲ除クアリ、此例苗字ニモ亦コレアリ、要スルニ支那ノ風ニ傚ヒテ、雅馴ヲ求ムルニ外ナラズ、今修姓ノ條下ニ、姓氏ト苗字トヲ並べ擧ゲタリ、

名稱

〔書言字考節用集〕

〈十/姓氏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0301 名氏(ミヤウジ)〈又作苗氏(○○)

〔貞丈雜記〕

〈二/人名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0301 一苗字(ミヤウジ/○○)と云は、うぢ也、たとへば伊勢細川畠山などの類也、苗氏といふ子細は、稻麥などの生へ初の時を苗(ナエ)と云、其如く、先祖は其家々の苗の如し、其先祖の名乘り始たる氏なる故苗氏と云也、
頭註 苗氏ト云字、古代之書ニハ見エズ、中古以來ノ事也、先祖ノ子孫ヲ苗裔卜云ニヨリテ 苗氏ト云也、

〔曾我物語〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0301 十郎げんぶくの事
一まんは、十三さいになりにける、〈○中略〉ひそかにげんぶくして、まヽちヽのみやうじ(○○○○)をとり、そがの十郎すけなりとなのりけり、

〔倭訓栞〕

〈前編三十/美〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0302 みやうじ(○○○○) 今家號を名字と呼ものは、中古名田の字(アザナ)をもて稱する故也、苗字と書は非ずといへり、名田は東鑑に見えて、もと史記平準書に出、名字は安東郡専當沙汰文に、御田の名附丁部等の名字と見えたり、儀禮疏にいふ名號の名も、亦姓氏を指ていへる也、一説に、延喜式に負名氏といふ事見えたれば、此義也といへり、又姓氏録に、中臣志斐連云々、更加名学志斐連と見えたるは、家號を稱する始め成べしともいへり、
○按ズルニ、安東郡専當沙汰文ノ當時宮中注進之分本御田名附幷丁部等名字事ノ條下ニハ、鶴三郎、河路宮内、中跡部半四郎、河路石若四郎等トアリテ、名又ハ姓名ヲ擧ゲタリ、倭訓栞ニ此ヲ引キテ、單ニ姓氏ノ事ニ爲シヽハ誤ナリ、

〔鎌倉大草紙〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0302 成氏も以専使京都へ申されけるは、憲忠事、不義逆心の間、無據退冶いたす所也、京都へ奉對、毛頭不義を不存、京方の御領分、一所もいろひをなし不申、殊に足利の庄は、御名字の地にて候間(○○○○○○○○○○○○○○)、御代官を被下、可御成敗之旨、再三被申上けり、

〔名字盡〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0302 名字とは、夫先祖の出、所生の氏をしらすの名字也、故に子々孫々まで替事なく、家に傳もの也、名字は住國の在名をたいしなのる、

〔貞丈雜記〕

〈二/人名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0302 一苗氏と云はうぢ也、〈○中略〉名字と云ふは別の義也、是は氏の事ばかりに限らず、すべて人の氏も實名もおしこめて云ふ詞也、舊記の内には、苗氏の事を名字と書きたるもあり、

〔鹽尻〕

〈二十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0302 一姓氏録ノ第二帙第十一 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00002.gif、中臣志斐連云々、雄略の御代、東夷を討て、其功績を賞し給ふとて、更に加名字暴代連云々、稱號を以て名字といふ事、是を據とすべし、今書苗字者、 却て近俗の附會歟、

〔吾妻鏡〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0303 文治五年八月九日丙申、勇士二騎、離馬取合、行光見之、廻轡問其名字(○○)、藤澤次郎淸近、欲敵之由稱之、

〔西山上人傳報恩抄〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0303 今は名字の比丘(ミヤウジ/○○○○○○)世にひろまりて、衣服行儀をとヽのふるを僧といひて、歸敬することヽなりぬる故に、〈○中略〉
名字ノ比丘トハ、善見律曰、雖戒、亦入比丘數、是爲名字比丘

〔末法燈明記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0303 答、〈○中略〉正像末法、所有行事、廣載諸經内外道俗、誰不披諷、豈貧求自身之邪活、隱蔽持國之正法乎、但今所論末法、唯有名字比丘(○○○○)、此名字、爲世眞寶、更無福田、設末法中、有持戒者、既是恠異、如市有一レ虎、此誰可信、

〔翻譯名義集〕

〈一/七衆弟子〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0303 沙彌、〈○中略〉最下七歳至年十三者、皆名驅烏沙彌、若年十四至十九、名應法沙彌、若年二十已上、皆號名字沙彌(○○○○)、

〔武政軌範〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0303 政所沙汰篇
一執事人體事
先代〈○北條氏〉之時者、以二階堂名字(○○○○○)之人之、當御代、〈○足利氏〉佐々木京極大和守等、亦任之云々、

〔成氏年中行事〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0303 一同廿三日、〈○正月〉鶴岡御社參日限雖相定、依廿日比、廿餘日ニ如此記之、御幣ノ役、幷御劒之役ノ方ヘハ、以御使仰出、彼兩役ハ御一家、其外ニハ上杉名字(○○○○)被之、其外ハ里見名字(○○○○)被勤、御劒之役御沓之役ハ、名字(○○)不定、多分海老名名字(○○○○○)也、

〔成氏年中行事〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0303 一若君姫御所樣、御誕生之時、〈○中略〉依御吉例、里見名字(○○○○)被參、御臍ノ緒ヲヅギ被申、

〔宗五大雙紙〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0303 公方樣御成の樣體の事
一御車の時は、〈○中略〉つのぎは佐々木名字(○○○○○)の衆、子細候て古へより參附られ候、御先は赤松名字(○○○○)の 衆、伊勢名字(○○○○)參候、

〔新撰長祿寬正記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0304 紀州當國牢人等、相語和州泉州近國之軍勢幷惡黨等、〈○中略〉御敵片岡名字(○○○○)者、其外數十人打捕之

〔貞永式目抄〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0304 名字ト云ハ、名乘ヲ云也、今武家ニハ、稱號在名ヲ名字ト云ヘリ、理ニカナヌ事ナレドモ、誤ヲ以テ誤ニ就テ、云習ハセル事也、サレバ面ムキノ物ニハ、名字ヲカヽズ、在名タル故也、一色ト云フハ、參川ノ一色ト云處ヨリ出タレバ也、細川ト云モ、參川ノ細川ヨリ出ル故也、二階堂ト云フハ、關東ニ二階堂ト云フ堂ノ傍ニ居ルニヨテ也、コレ皆稱號在名ヲ以テ、名字トハイヘル也、

〔南留別志〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0304 苗字といふ事は、室町家の比より起れり、鎌倉の代には、それ〴〵の住所にしたがひて、和田ともいひ、三浦とも稱し、朝比奈ともなのりしを、太平記の比より、あらぬ國に住みながら、仁木細川佐々木などいひたり、是よりしておのづからに姓はかくれゆきたるなり、

〔玉勝間〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0304 苗字
藤原源などは、世に同じ氏の人、數しらずおほかれば、その内を苗字して分ざれば、いとまぎらはしきまヽに、つねにその苗字をのみよびならひて、むねとなれる、これおのづから必しかるべきいきほひにして、今は此苗字ぞ姓の如くなれりければ、姓のしられざらん人などは、苗字を正しく守るべきわざなりかし、さてこの苗字の苗〈ノ〉字は、よしなきことなり、こはもと名字なりけむを、然書ては、名又あざなにまぎるヽ故に、かきかへたる物なるべし、名字とかヽむもあたれるにはあらざれども、中昔には、名をも、又姓と名とをつらねても、ひろく常に名字といひつれば、姓の小分をも同く然いひならへりしなり、又今の人、おのが子のことをも、父の事をも、同苗といふ、これももと同名にて、同姓のよしなり、

〔燕石襍志〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0305 苗字(ミヤウジ)
名はいとたときものなれば、人のやがて呼ざらん爲に、唐山には字(アナザ)して、これを互に呼べるなり、天朝には字の制度なし、私には字したるもありけり、〈菅家を菅三とまうし、文屋康秀を文琳といへる是なり、○中略〉今按ずるに、玉海に、安元三年四月二十日宣旨、依神輿獄所輩とある條に、田使俊行、〈字難波五郎〉藤原成直、〈字早尾六郎〉など見え、又奥羽軍記に、字荒川太郎、字斑目十郎など見えし、この難波早尾荒川斑目など稱するは、後世にいふ苗字なり、苗字の字は、則字(アザナ)の義なること思ひあはしつ、五郎六郎など稱するこそ世々に異なれ、其難波と稱し、早尾と稱する字は、子孫へ傳るをもて苗字といへり、人の子たるもの、父を同苗と唱るにて、その義審なり、俗説辨に、今の苗字といふものは、姓氏にあらず、家號なりといへれど、苗字の字に心づかざるなり、かヽれば此にて字(アザナ)と稱するは、唐山の字とおなじからず、士に苗字といひ、市人に家號(イヘナ)といふ、亦これ故あり、

〔秇苑日渉〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0305 姓氏
氏則不必受之天子、人々有之、後世子孫、傍支別屬、則或以地、或以事、各自命氏、俗謂之苗字、苗字卽族也、〈通雅曰、別姓則爲氏、別氏則有族、族無氏、氏有族、故八元八凱、出于高陽氏高辛氏、而謂之十六族、是氏有族也、商氏條氏徐氏之類、謂之六族、陶氏族氏之類、謂之七族、宗氏華氏之類、謂之戴族、向氏謂之桓族、是族無氏也、蓋古以國爲氏號、故旁支謂之族、自漢以後、族卽一姓矣、〉今人忸秦漢以來沿襲之俗、通呼氏族姓、假令如余、氏源、族本二瀨、中世改爲村瀨、則世俗呼源爲本姓、又以二瀨本姓、是源與二瀨二姓也、姓者萬世不易、豈可二乎、氏族則否、蓋中世以來、不復聞一レ姓、至今唯搢紳世家、存朝臣宿禰等二三姓、而士庶固不之、是以世俗遂混姓與氏族、總謂之鄔寔(ツジ)、或謂之苗字、鄔寔卽氏也、苗字卽族也、後人例以通稱族、以名係氏、未其所一レ始、蓋古者庶民、有名無姓氏、今則無氏族、而多不源平藤原三氏、意南北騒亂之間、竊冒權門甲族之姓氏、以自衒者、蓋不尠矣、其弊陵夷以至今、非復一日之故、此亦時勢之所使然、而如其稱謂、不古而不一レ今矣、如徠翁、氏物部、族荻生、名茂卿、通稱總右衞門、其校晉 書、書曰荻生總右衞門物茂卿校、書法允當、

〔家號軒滴〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0306
今世に云苗字は、家名にして、遠く今昔物語、および義經記等に見ゆれば、古き世よりいひ來りしものと先輩の説にも見えたり、憲〈○本多忠憲〉按ずるに、名字の二字、古史舊書に見えしは、日本書紀欽明紀曰、與任那日本府吉備臣、〈闕名字〉往赴百濟、倶聽詔書、〈下略〉この文によりて見れば、欽明天皇のころより、名字といへる事あるにはあらざるにや、右の紀は、一品舍人親王、養老〈元正天皇〉四年五月癸酉、功なりて奏し奉られし紀なりと世にはいひ傳ふ、さあれば朱鳥大寶和銅の年間より、粗名字といふ事を用る故に、此書紀にかくはしるされしものにぞあるべき、將其むかしの苗字は、あらかじめ家祖の出たる其地名をすぐに稱して、おの〳〵わかてり、今は敢て其定にもあらず、さま〴〵なりき、

〔大日本史〕

〈氏族一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0306 按、及後世、搢紳皆有家號、以別其族、而國郡武士、亦傚之、各因其居地以爲稱號、俗謂之名字、而子孫相承、以爲名號、則與氏無異、世竟因稱曰氏族、故今亦適宜用其稱、然古者氏姓、必受之天子、而所謂名字、皆出於私稱、不古氏相混、讀者宜辨別焉、

〔成氏年中行事〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0306 立春ノ御祝、〈○中略〉立春ノ朝ヨリ、終日終夜御機嫌可然時者、被申立人之歡喜不之、翌日、或子息、或同名(○○)以親類、御引出物進上、亭御禮ニ被參時、有御對面、御盃幷御重寶之御劒御馬等被下之、公私目出度祝也、

〔朝倉敏景十七箇條〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0306 一朝倉名字中を初、年の始の出仕、表著可布子候、幷各同名(○○)定紋を付させらるべく候、

〔宗五大雙紙〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0306 奏者の事
一もの披露の事、〈○中略〉極月晦日、畠山殿より御進上の馬のはな皮十間、懸御目候、それは彼御名字 衆、御めに御かけ候、御同苗(○○○)の人、御入候はねば、申次御めにかけ候、

〔淺井三代記〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0307 姉川合戰の事
右近、〈○坂井氏〉が一族同苗(○○)のものども、口惜くや思ひけん、百餘騎引返し戰ひしが、枕をならべて討死し、殘り少なになりければ、〈○下略〉

苗字讀方

〔古抄本下學集〕

〈下/後附〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0307 人名字
五十嵐(イガラシ) 吾孫子(アビコ) 四月一日(ワタヌキ) 樂々熊(サヽノクマ) 十二神島(ヲツフルイ)〈坂東人也〉 神藥師(カコトシ) 七五三(シメカケ) 七七五分(ミツヾキ) 不知山(イサヤマ)〈越前人也〉 八相山(アイヤマ) 五十子(イカンコ) 海老名(エビナ) 上達部(ナマカンタチベ)〈公家之子息言也〉 五十君(イギミ) 葉太(ハフト) 埴谷(ハンヤ)〈上椙内人〉 大類(ウワルイ) 兒玉(コダマ) 刑部(ヲサカベ) 私市(キサイチ) 土師(ハシ) 土生(ハブ) 塀和(ハガ)〈京人〉 芳賀(ハカ)〈坂東人〉 植女(サウトメ)〈或五月女、宇都宮人、〉 只懸(タゞカヽリ)〈仁田庶子〉 糝〈三州人〉 汙(フサカシ)〈宇津宮人〉 塙(ハナワ)〈奥州人〉 牧(マキ) 飛鳥井(アスカ井) 鳥神山(トナミヤマ) 常石(トコナミ) 日下(クサカベ) 小藏(コグエ) 陶器所(ス エ) 結城 葛西(カサイ) 村主(スグリ) 足利(アシカゞ) 新田(ニツタ) 澁河(シブカハ) 大館(アフダチ) 殖杉(ウエスギ) 富樫(トガセ) 逸見(ヘンミ) 武田(タケタ) 小笠原(ヲガサハラ) 本馬(ホンマ) 江馬(エマ) 奈須(ナス) 甲斐(カイ) 織田(ヲダ) 遊佐(ユザ) 神保(ジンホウ) 譽田(コンダ) 隅田(スダ) 安富(ヤスドミ) 柿屋(カキヤ) 大多垣(ヲタカキ) 氏江(ウヂエ) 富田(トダ) 若宮(ワカミヤ) 加治(カヂ) 箕浦(ミノウラ) 射場(イバ)富島(トシマ) 多治見(タヂミ) 宇佐美(ウサミ) 蜷川(ニナガハ) 猪俣(イノマタ) 飯尾(イノヲ) 土(ト)肥 難波(ナンバ) 妋尾(セノヲ) 浦上(ウラカミ)

〔日用重寶記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0307 名字俗名の事
俗間今名字と云ものは、中興の祖、居地の所名を名字とし、在名多ければよめ難るあり、たとへば木曾街道を行ば、信州に藪原(やごはら)の驛あり、やぶはらと讀べき字なれども、やごはらごいはざれば、所の通用なし、よみ誤を知ながら、用便にまかす、此類何程もあるべし、唯難字の分のみを一ツ二ツしるす、〈難字になくとも、字はしれて、よみまぎらはしき分計出す、〉
忌寸(いみき) 忌部(いんべ) 伊秩(いづゝ) 伊香(いかこ) 伊自良(いじら) 一口(いもあらひ) 一萬田(いちまた) 一風迫(いちのはざま) 一戸(いちのへ) 一噌(いつそう) 今城(いまき) 今治(いまはり) 新(いま)比叡(ひえ) 櫟原(いちはら) 諫早(いさはや) 家所(いへどころ) 揖斐(いび)〈えびと誤り呼〉 五十字(いかご) 五百籠(いをろひ) 射越(いのこし) 印貝(いそがひ) 土師(はじ) 土生(はぶ) 祝部(はふりべ) 榛澤(はんさは) 塀和(はが) 頓宮(はやみ) 纐纈(はなぶさ) 安口(はたかす) 喰代(はふじろ) 番長(はを) 波々伯(はゝかべ) 埴生(はにふ) 馬喰田(はゞた) 圓 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00003.gif(はうしやう)〈則寶生也〉 麓(はやな) 間(はざま) 間人(はしうど) 塙(はなは) 初鹿(はじか) 見田(はんだ) 薤山(にらやま) 錦織(にしごり) 西大音(にしもりない) 西牟田(にしむた) 新納(にひろ) 入戸野(につとの) 壬生(にふ)〈野州攝州の地名は、みぶと訓、〉 釋迦牟尼彿(にぐるべ)〈丹波の地名〉 贄(にえ) 千屋(ほんや) 秀眞(ほづま) 秀實(ほづみ) 八月朔日(ほづみ) 平群(へぐり) 戸次(べつき) 日置(へき) 綣村(へそむら) 背評(へこほり) 德山(とこのやま)〈今とくの山と云〉 富樫(とがし) 豐浦(とよら) 得重(とくへ) 百々(とゞ) 都甲(とかぶ) 十時(とき) 利根(とね) 等々力(どゞろき) 敏馬(としま) 問叶(とが)〈又門叶とも〉 神當(とんだ) 迹見(とみ) 井石(とんぶり) 鞆(とも) 千役湊(ちぶりのみなと) 千夫(ちぶり) 長南(ちやうなん) 温井(ぬくゐ) 額田(ぬかだ) 沼間(ぬま) 沼垂(ぬたり) 怒借屋(ぬかりや) 扎(ぬき) 臣(をんのこ) 小槻(をつき) 小俣(をまた) 小宅(をやけ) 小車梅(をぐるめ) 小柳筒(をやいづ) 岡宅(をいやけ) 愛宕(をだき) 飯富(をふ) 息長(をきなが) 麻殖(をゑ) 度會(わたらひ)吾河(わがは) 藁科(わらしな) 十八女(わかいろ) 亘(わたり) 四月朔日(わたぬき) 神去(かみき) 神主(かうす) 神三郡(かみくに) 神門(かうど) 神足(かうだり) 神丸(かんまる) 開田(かいでん) 印(かね)牧(まき) 香美(かゞみ) 香母(かうも) 上林(かんばやし) 上遠野(かどをの) 上有智(かうづち) 鷄冠(かえで) 風吉(かざきく) 川鰭(かははだ) 葛野(かどの) 可兒(かこ) 交野(かたの) 甲良(かはら)賀来(かく) 各務(かゞみ) 蕪坂(かぶらざか) 春遂(はるかた) 春部(かすべ) 門眞(かまど) 唐牛(からうし) 掃守(かんもり) 膳部(かしはで) 戒重(かいぢう) 戒能(かいのう) 歌枕(かづらき) 鹿伏兎(かぶと)〈にんべとも訓有〉 梯(かけはし) 十七夜(かなふ) 余語(よご) 依網(よさみ) 與謝(よざ) 妙見(よしみ) 丁野(よぼの) 丁子(よぼろこ) 四十住(よずみ) 丹比(たぢひ) 高階(たかしな) 高任(たかたふ) 玉置(たまき) 團(だん) 多藝(だぎ) 多治比(たぢみ) 田母神(たのかみ) 田麥俣(たもんまた) 小鳥遊(たかなし) 日日(たちどり)〈朔日晦日の義にや〉 副田(そよた) 十河(そがう) 素(そ)曾(そ) 都築(つづき) 柘植(つげ) 十字(つじ) 綴(つゞき) 子子子(ねこし) 中吉(なかきり) 納所(なそ) 長砂(ながすな) 長狹(ながさ) 楢下(ならげ) 滑川(なめりかは) 行方(なめかた) 隨分(なぶさ)附(づけ) 樂世(らせ) 宗像(むなかた) 八道(むさし) 陸路(むつろ) 人首(むす) 牟禮(むれ) 鉾久(むく) 打宅(うた) 生形(うぶかた) 有動(うどつ) 碓氷(うすひ) 臼杵(うすき) 海上(うながみ) 浮穴(うけな) 牛奥(うしおく) 殖月(うゑつき) 善知鳥(うとう) 漆間(うるしま) 野邊(のんべ) 野一色(のいしき) 大佛(おさらぎ) 大角集(おとづめ) 凡河内(おうしかうち)〈おほちは、かた言也、今は大河内と稱す、〉 鉅鹿(おほが) 生長(おいさき) 多門(おかど) 乙訓(おとぐに) 印具(おしずみ) 及川(おいかは) 石生(おしこ) 下石(おろし) 種田(おいだ) 老馬(おんま) 邊分(おいわけ) 十二佛(おちふるひ)饒石川(おいしかは) 久地樂(くぢら) 百濟(くだら) 栗殻谷(くりからだに) 栗栖(くるす) 日下(くさか) 日下部(くさかべ) 草叢(くさむら) 朽網(くたみ) 眞繼(くれき) 功力(くぬき) 神代(くましろ)〈神稻とも〉 七寸五分(くつわた) 坂戸(くわんぜ)〈觀世なり〉 榑(くれ) 山家(やんべ) 月見里(やまなし) 安福(やすかべ) 八祐(やけし) 八國生(やこふ) 藪原(やごはら)〈信州の方言〉 眞神(まがみ)眞崎()まがさき 曲直瀨(まなぜ) 猿尾(ましを) 松任(まつたふ) 萬里小路(までのこうぢ) 益城(ますき) 魚井(まなゐ) 馬渡(まふたり) 結解(けつげ) 劒持(けんもち) 儀俄(けが) 祈答院(けだふゐん)檢見川(けみがは) 文室(ふんや)〈ふんをすみてよむべし〉 福富(ふくとみ) 久我(こが) 近衞(このえ) 惟任(これたふ) 譽田(こんだ) 木作(こづくり) 許斐(このみ) 來臨(ころも) 牛糞(ごこえ) 五大院(ごだい) 五器所(ごきそ) 五間(ごかん) 小長谷(こながや) 小早川(こばやかは) 外山(こんはる)〈金春なり〉 結崎(こんごう)〈金剛なり〉 金萬(こんまん) 狛(こま) 狛人(こまうど) 頴娃(えの) 鹽冶(えんや) 勅使河原(てしかはら) 朝米(あさこ) 飛鳥井(あすかい) 有栖川(ありすがは) 安曇(あづみ) 安宅(あたぎ)〈加州の地名は、あたか、〉 足利(あしかゞ) 下米宮(あめのみや) 阿子島(あごしま) 赤埴(あかはに) 粟飯原(あひばら) 飽浦(あくら) 旭(あさひ) 愛甲(あいかは) 秋鹿(あいか) 饗庭(あひば) 畦籠(あぜくら) 渥美(あつみ) 英保(あほ) 蘆室(あしや) 靑襲(あおそひ) 縣(あがた) 漢部(あやべ)漢人(あやんど) 漢主(あやぬし) 吾孫子(あびこ) 佐海(さみ) 向坂(さぎさか)〈勾坂を正とす〉 寒川(さんかは) 五月女(さをとめ) 三枝(さいぐさ) 雜賀(さいが) 猨山(さやま) 雀部(さヾきべ) 鷦鷯(さヾき) 彭城(さかき) 鮭延(さけのぶ) 敎務石(きやうらいし) 北(きたばしり) 岐蘇(きそ)〈木曾とも〉 著座(きませ) 來海(きまち) 行明(ぎやうめい) 城所(きどころ) 競(きほひ) 私市(きさいち) 纐纈(きくとち) 米多比(めたひ) 和布刈(めかり) 夫婦木(めをとぎ) 氈受(めんじよう)〈又毛受とも〉 毛馬(めんま) 女鹿(めが) 宮道(みやぢ) 三善(みよし) 三池(みけ) 三宅(みやけ) 三谷(みや) 三幣(みぬき)御講(みこう) 御宿(みしゆく) 御子左(みこひだり) 御子神(みこがみ) 御手洗(みたらひ) 癸生川(みふかは) 水口( みなぐち) 明珍(みやうちん) 箕曲(みのを) 瓶尻(みかじり) 身人部(むとべ) 滿王野(みをのや) 椹(みづき) 信太(しだ) 信夫(しのぶ) 信樂(しがらき) 階戸(しなと) 設樂(したら) 宍戸(しヽど) 宍草(しヽぐさ) 宍粟(しヽざは) 執行(しつかう) 委支(しとり) 榛葉(しんえふ) 七五(しめ)三 神在(じんざい) 神宮司(しんぐじ) 四至内(しヽうち) 四戸(しのへ) 春藤(しゆんどう) 春日(しゆんにち) 鹽飽(しあく) 新發田(しばた) 新納(しゐう)〈にいろとも〉 下斗女(しもどめ) 下間(しもつま) 日向(ひなた) 日夜(ひぐらし) 日夏(ひなつ) 日出山(ひじやま) 比企(ひき) 土方(ひぢかた) 仁杉(ひとすぎ) 枚方(ひらかた)〈牧にあらず、木へん也、〉 兵主(ひやうず) 畫飯(ひるひ) 極月晦(ひなし) 百元(もヽと) 最上(もがみ) 方代(もず) 物集女(もづめ) 十(もきゞ) 妹尾(せのを) 迫田(せりた) 東海林(せうじ) 鷲見(すみ) 砂金(すなご) 勝(すぐる)〈此一字、かつと訓名字もあり、〉 集堂(すだう) 酒々井(すヽゐ) 周參見(すまみ) 陶(すゑ) 村主(すぐり) 下濃(すそご) 墨脵(すのまた) 角南(みなみ) 首藤(すとう)

〔名字抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0309 東海林〈訓シヤウジ〉
龜田侯〈○岩城〉老臣に、東海林左右兵衞あり、又庄内領大庄家に、東海林隼人あり、〈○中略〉又富士八湖のうちに、東海林の湖あり、

〔奥羽永慶軍記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0309 山北前田氏斷絶ノ事
赤尾津ガ一子二郎、羽川ガ一子金剛丸ヲ大將トシテ、加勢ノ人々ニハ打越(ウテシ)孫二郎、〈○中略〉潟保(カタノホ)治部大夫、川口、轟木萬鍬地等カリ催シ、

〔奥羽永慶軍記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0309 南部先祖ノ事幷晴繼病死ノ事
此光行〈○南部〉ニ、男子數多アリ、〈○中略〉六男破切居(ハキイ)六郎實長ナリ、

〔奥羽永慶軍記〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0309 小野寺秋田卜合戰ノ事
嫡子藤太郎、〈○小野寺義道子〉イマダ若年タルヲ大將トシテ、隨逐ノ者ニハ、一門西馬音内(ニシモウナイ)茂道、〈○中略〉軍奉 行ニハ、八柏大和守、其他御返事(ヲツヘチ)、合川、深堀、〈○中略〉都合二千餘人、八口内口ニ差向ラル、

制度

〔德川禁令考〕

〈四十九/御用達町人〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0310 文政四巳年十二月
水戸殿屋形〈江〉立入候用達町人〈江〉苗字帶刀差免候儀に付懸合
水戸殿屋形〈江〉立入候用達町人共之内、夫々身分段取有之、扶持方等被給、屋形用向に而は、仕來之通、苗字爲相名乘(○○○○○○)、裏附上下役肩衣被差免候、内用向相達候町人共〈江〉は、重立候用向申附候節は、帶刀差免爲致、幷非常驅附之節、帶刀差免、屋形用挑燈相渡被置候ものも有之候處、右之内には、段取之次弟を不辨、差免有無に不拘、屋形〈江〉立入候得ば、一體之儀と相心得、新古其筋合等無差別、自分に而肩衣を著用致し、屋形〈江〉立入候向も有之哉に被聞受候、其外屋形〈江〉不立入町人共之内、屋形立入之樣申成、同樣に致し歩行候者も有之候由に付、此度屋形立入候町人共之分は、差免有無之次第、聢と取究、猶更心得違不致樣、夫々被申渡度候、右者水戸殿屋形之儀には有之候得共、御支配下町人共之儀に付、屋形用達之分者、其町所名前、幷身分段取之譯等、以來は御奉行所〈江〉相達候樣可致候哉、又者相達候に不及方ニ可有之候哉、不取締無之樣致度、此段御問合申候樣、役人共申候、以上、
十一月
下ケ札
書面之趣、用向相達候迚、御料所者勿論、他領之もの共〈江〉、苗字爲名乘、帶刀爲致候儀は、堅ク可無用旨、享和元酉年之御書附有之候間、奉行所に而は、難承置筋ニ有之候、

〔德川禁令考〕

〈四十九/文武藝術〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0310 寬政十午年十月
醫師苗字帶刀之儀甲斐庄武助〈江〉問合
領分在町に罷在候醫師之儀、百姓同樣之儀には候得共、俗醫は格別、總髪剃髪等に而、醫師之形に 成候得ば、苗字名乘來候而、不苦儀に御座候哉、
下ケ札
御書面、總髪剃髪等に而、醫師致候者、御領分在町に而も、苗字名乘不苦儀と奉存候、〈○中略〉
右之通御問合申度奉存候、以上、
二月〈○中略〉
一俗醫に候得ば、苗字等名乘候筋無之、著服は上下十德之類、著不苦候哉、
下ケ札
御書面、私に苗字を名乘候は、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00015.gif而差構も無之、御領主御役所に而取扱は、苗字を御認無之方 に可之候、上下著候儀も、醫業に付、私に著し歩行苦間數、御領主役所〈江〉罷出候節は、羽織袴 歟、或は白衣抔之御取扱に而、可然哉に御座候、〈○中略〉
午十月
右之趣心得に奉伺候以上
十月
〈鳥居丹波守内〉
伊藤安右衞門
V 德川禁令考

〈四十九/文武藝術〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0311 年月闕
百姓より醫師に相成候者苗字其外之儀に付阿部播磨守より問合
播磨守領分在町百姓共之内、病身等に而、無據醫師に相成度旨願出候得ば、糺之上、相違も無之候得ば申附來候、右之者剃髪等に相成、自苗字相名乘、十德著用致侯而も、差留候にも不及候哉、
但名主宿所に而、吟味有之候節は、苗字相除、取扱候筋に御座候哉、
下ケ札
書面本文幷但書共、御書面之通に而可然存候、
右體之者、醫師共之門弟に相成候得ば、領主役所に而吟味之節は、百姓同前之取扱には候得共、苗字は爲相名乘候筋、可御座候哉、
下ケ札
書面在町之醫師、御子醫師之門弟ニ候迚、吟味等之節、苗字を御取用には不及哉ニ存候、
一前條之者共、苗字名乘候而も、帶刀は不致心得に御座候、他領等〈江〉罷越候節、若帶刀致候はヾ、差留候而、宜御座候哉、
但手醫師之門弟に相成候共、俗醫に而罷在候得ば、苗字は不名乘候心得に而、宜御座候哉、
下ケ札
書面在町之醫師、帶刀は不相成筋に有之候、俗醫之分、苗字は吟味等之節に無之候共、爲相名 乘申方と存候、
一往古より醫師に而、鄕中に罷在、苗字相名乘、帶刀致來候者、いつ頃より右之趣差免候儀と申儀 も不相分候得共、仕來之儀に付、其儘に而、差置候而も苦ケ間敷哉、併帶刀致候儀は、差留候筋に 御座候哉、
下ケ札
書面仕來に候共、鄕中に居候醫師、帶刀は御差留候方と存候、

〔德川禁令考〕

〈四十九/文武藝術〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0312 文政十亥年十月
相撲取身分之儀に付、松平周防守殿より問合

一相撲取一派之職業有之、町方住居いたし罷在候もの、脇差を帶、縱者何風何川何ノ山など唱名 有之、實名も有之候、右之類、常之町人同樣、町御奉行所御支配を受候哉、御奉行所之御取扱は、常 之町人同樣に御座候哉、心次第苗字相名乘、帶刀いたし不苦ものに御座候哉、且總髪等に相成 候儀も、當人之心次第にて、不苦ものに御座候哉、
一相撲取之内に而、町方住居いたし、諸侯方、又者陪臣より扶持方宛行等有之候得ば、苗字相名乘、 帶刀いたし、且町人共召抱置候ものは、帶刀は不相成候哉、〈○中略〉
右ケ條書之趣、於御在所表、少々見合度儀有之候に付、江戸表之振合承知仕度、乍御六ケ敷相知候儀に侯はヾ、其筋内々御聞繕、御附札に而御記被下候樣御賴可下、奉賴候、以上、
亥十月
相撲取共、諸侯方抱に相成候ものは、都而帶刀致し、抱に不相成分は、浪人者に而、平日脇差計帶、尤旅行致し候歟、祝儀不祝儀等有之節は、帶刀致し候、苗字之儀は、諸侯方家風に寄、其屋敷限に付ケ候儀も有之、其外は名乘計に而、苗字は無之、住居幷總髪に相成候儀、是又取極候儀無御座候、
但、陪臣町人之抱に相成候儀者無之候、

〔相撲行司家傳〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0313 去亥十一月中、町御奉行筒井伊賀守樣御番所へ、庄之助被召、相撲行司年寄身分之 義御尋有之、委細書面を以可申立旨被仰渡候、其節差上候書附之寫、
恐以書附申上候〈○中略〉
一相撲取名乘之外に苗字名乘候事
此段名乘之外、苗字を名乘候儀は無御座候、尤御屋敷方御抱に相成節、其御屋敷御家風に寄、 苗字御附被成候儀も有之候得ども、取極候儀は無御座候、其外之者ども、名乘計にて、苗字は 無御座候、〈○中略〉
一行司苗字名乘帶刀致候儀幷職業之義に付願出候節之事
此段私儀は浪人者にて、古來より木村と苗字相名乘來、帶刀致、當時之相撲年寄仲間加入致 罷在、行司職業之義は、私幷式守伊之助兩人共、先祖より細川越中守樣御家來、吉田追風より 免許貰請候儀にて、伊之助先祖も、其砌よし式守と苗字相名乘、帶力致、是又浪人者にて、其外 之行司共は、一切帶刀仕儀は無御座候、尤身分之儀に付、御願之儀有之節は、御奉行所樣へ御 願申上候儀に御座候、
右御尋に付奉申上候以上
文政十亥年十一月晦日
深川永代寺門前仲町
忠兵衞店
相撲行司
庄之助
家 主
忠兵衞
五人組
藤 八
名主傳次煩ニ付代
藤 助
御番所樣

〔市中取締書留〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0314 寅〈○天保十三年〉十二月十四日
越前守殿御渡

書面名主理左衞門外貳人、伺之通、其身一代苗字差免、市中名主共上席可申渡候事、

〔近世畸人傳〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0314 内藤平左衞門
此人篤實類なくて學を好めり、されば是のみならず、人を救ひ、あるひは道橋を造り、慈悲を行ふこと多ければ、領主〈○陸奥白川〉も賞し給ひて、苗字帶刀をも免され、士に准へらるヽといふ、

〔孝義録〕

〈十七/陸奥〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0314 孝行者千坂仲内
千坂仲内は、黑川郡の大肝煎なり、寶暦十年より、父半左衞門につぎて其役をつとめしに、何事にも父の意に背かず、〈○中略〉安永五年七月、領主より仲内が持高の内十石を祿にあたへ、足輕小人組拔となし、苗字帶刀をゆるし、妻をも稱美せり、

〔伊豫國巡廻記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0315 安知生村 〈新居郡神戸鄕氷見組〉
庄屋隱居
菅五郎兵衞
今の庄屋長右衞門が父なり、いとけなき時より讀書を好み、周敷村の平太〈吉本氏〉と云儒者に從ひ、闇齋派の道學を受、平太は、大洲の城主より禮遇厚く、度々迎られて其府にゆくに、〈平太大洲にて用られし事、周敷村の條下に出、〉五郎兵衞も毎に隨行す、長ずるに及て、聞齋學に不安、京都に遊びて、皆川文藏、佐野少進等を師とす、少進薦めて菅家内塾の都講(カクトウ)とす、〈御醫師山名修軒、五郎兵衞と同時に京にあり、前にしるせるは、修軒が話をしるせるなり、〉高辻大納言胤長公も、五郎兵衞をよく遇せられ、薨ずるに及て遺物を分たる、〈自筆竹亭夏日の詩、幷唐法帖等、〉雜掌川瀨圖書、近藤兵部が贈狀目録等あり、〈○中略〉皆傳へて其家にあり、五郎兵衞、のち家に歸り、庄屋役を勤る事二十餘年、隱居して御城下町にゆき敎授す、文政十二丑八月十三日、左之通被仰付
安知生村庄屋長左衞門親
五郎兵衞
年來志篤儒學致修業候段相達候、依之其身一代限苗字帶刀被御免(○○○○○○○○○○○)、三人扶持被下置候、折々學問所〈江〉罷出、御用筋可相勤なり、
五郎兵衞、わかき時、放達にして名敎に不拘、是を以て世の謗を得たり、然れ共、親に事て孝、母の喪に遭て居喪私書の著述あり、文章を好み、皇朝の學にも、其大略に通ず、田畝の中より、斯る人出る事稀なり、因て表して周敷村の平太、土居村の信之等が如く、この編集の内に入、

〔法令全書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0315 九月〈○明治三年〉十九日布
自今平民苗氏被差許候事

賤人不稱苗字

〔源平盛衰記〕

〈三十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0316 東國兵馬汰幷佐々木賜生唼附象王太子事
高綱、〈○中略〉馬ナシトテ留ベキ事ニモ非ズ、如何セント案ズル程ニ、抑是ハ君ノ御大事也、後ノ御勘當ハ左右モアレ、盜デ乘ント思テ、御厩小平ニ心ヲ入、〈○下略〉

〔吾妻鏡〕

〈二十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0316 承久三年五月十五日、京都飛脚下著、申云、〈○中略〉關東分宣旨御使、今日同到著云々、仍相尋之處、自葛西谷山里殿邊出之、稱押〈○押一本作狎〉松丸、〈季康所從云云○下略〉

〔貞丈雜記〕

〈四/役名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0316 古も中間は、苗氏をなのらざりし也、武雜書札に、天文二年七月六日の首注文を記したるに、〈中間〉彦六と有て苗氏なし、其外侍には苗氏を書たり、
○按ズルニ、上古ニ於テハ、東大寺奴婢籍帳ニ、奴人足、又ハ婢飯虫咩ト見エタル如ク、賤民ハ姓氏ヲ稱セザリシナリ、而シテ中古ノ書ニ、卑賤ノ者ノ名ノミ擧ゲテ苗氏ヲ記セザル者往々アリ、苗氏アレドモ録セザルカ、又ハ素ヨリ是ナカリシカ詳ナラズ、

〔皇都午睡〕

〈三編上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0316 江戸にて、〈○中略〉御公儀へ差上る諸書付人別帳にも、何町何兵衞支配借屋何屋何兵衞などヽ、上方の如く家號をしるさず、唯何丁何兵衞店何兵衞と計りにて、筆數のすくなきを是とす、苗字を唱ふる町人も多くあれど、公儀へは通らず、よく〳〵由緒ある家ならでは、苗字を呼ことなし、夫故家名やら、苗字やら、通名やらわからぬ面白き呼名まヽあり、上方の料理屋の通名の如し、必竟は上へ通らぬことゆゑ、出たらめの付次第なるべし、

以姓爲苗字

〔南留別志〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0316 田中、大石、田口、三枝、山邊、巨勢、服部、石川、滋野などの類、苗字なれ共(○○○○○)、姓なるべし、内藤、齋藤の類もあるなれば、別に姓を求むるは僻事なるべし、

〔吉田藩社寺舊記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0316 法花津浦分〈○伊豫國東宇和郡〉
一山王權現宮一社〈○中略〉
棟上一宇金輪聖王天長地久御願圓滿〈○中略〉
大旦那豫州宇和庄永島鄕
明暦二年丙申九月九日 法花津淸原朝臣淸家(○○)金三郎信行

〔松の落葉〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0317 大中臣藤井宿禰 松の屋
おのが家、藤井氏なることは、世々つたへきつる家の書どもにも見えて、さだかなり、めうじはなし、今の世には、おしなべて氏のほかに、めうじあれど、まれ〳〵には、かく氏のみなる家もありけり、

以人名爲苗字

〔温知柳營秘鑑〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0317 本阿彌家の事
本阿彌家の元祖、妙本と云者也、本姓菅原氏也、松田を以名字とす、相州鎌倉に居住し、天性刀劒を上る術を得たり、足利將軍尊氏命に依て、京師に來る、鎌倉の松葉ケ谷日靜上人は、尊氏の叔父也是へ歸して法名を授られ、妙本阿彌と號す、是に依て、本光此業を用る、文明年中赤松氏有故に付て、將軍義敎大に怒り、此ときに本阿彌淸.信を獄舍に入、時に日親上人と獄屋に入、互に獄舍の内にて被説し日親上人の説法に歸依し、其後二人ともに獄舍を出る、淸信入道して、日親上人に法名を得て、本光と號す、元祖妙本此本光、何れも、本字を付て、刀業に秀たる故に、松田と不號して、以來本阿彌氏と稱により、これより光の字を以て一族の冠字とす、今の三郎兵衛家也、

〔倭樂傳記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0317 四座幷喜多座の始等之事
觀世大夫は、伊賀の服部一黨の者也、足利將軍東山殿〈○義政〉に仕へて、觀阿彌と云同朋也、渠に仰て猿樂の業をが學び始め勤しむ、其子世阿彌、其子音阿彌と續て、同朋にて是を相勤、其子俗にして、觀世三十郎と號し、猿樂と成て今春が聟と成、いよ〳〵藝術熟し、子孫相續す、

〔〈嘉永〉撰集類集〕

〈三十八/附録〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0317恐口上
一私名前、先年より御武鑑〈江〉相列候義に付、御尋に御座候、
此段私元祖は、近江國浪人佐々木五郎兵衛高三ッと申、〈○中略〉前書五郎兵衛高三病死後、同人忰
善右衞門と申もの、亡父之名乘高三と家名に唱へ替、高三善右衞門と名乘差出し相續仕、〈○中略〉
嘉永三戌年九月四日
宿屋町
高三善右衞門印
月行事
大和屋松之助印
奉行所宛

以官職爲苗字

〔尊卑分脈〕

〈九/藤原〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0318 利仁 叙用
齋藤號起叙用、依齋宮頭齋藤也、

〔尊卑分脈〕

〈九/藤原〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0318 景道
加賀介加藤

〔那須系圖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0318 資朝
源賴義朝臣、本姓之藤原氏、養父姓守部合、守藤稱、其後上洛、依軍忠主馬首、依之又孫々稱號 號首藤

〔寬永諸家系圖傳〕

〈二百三十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0318 伊東
爲憲〈○中略〉
木工の助の工の字と、藤原の藤の字をあはせて、はじめて工藤と號す、

〔鵞峯文集〕

〈七十/碑誌〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0318 朝散大夫紀伊權守鍋島君碑幷銘
賴平曾孫經資、任太宰少貳、子孫相繼、以少貳家號

〔窻のすさみ追加〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0318 同國、〈○薩摩〉左近丞氏と云姓有、〈○下略〉

〔嚴島圖會〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0318 棚守將 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif屋敷
當家は大宮の棚守職にして、舞方を兼司り、往々從五位下に叙せることありき、本の氏は佐伯にて、苗字を野坂と呼けるに、いつのころよりか、その職名を用ひける、

以國名爲苗字

〔北條五代記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0319 伊豆早雲平氏茂由來之事
聞しはむかし、いせ(○○)新九郎氏茂といふ侍、遠國より來て、伊豆の國を切て取よし、いひ傳ふといへども、多説有ていづれ知がたし、〈○中略〉此人の先祖を尋るに、むかしいせの國に、伊勢いせのかみ平氏貞といふ侍あり、小松内大臣重盛公より十五代の後胤たり、國の名をあざなの上におく事、侍の名譽といへり、

〔菊池傳記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0319 菊池武經滅亡事
日向國高知保に、甲斐(○○)大和守親宣、同民部大輔親直といふ者あり

以地名爲苗字

〔閑田次筆〕

〈一/紀實〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0319 世にことなる苗字稱號などは、大かた鄕里の地名なり、和田の親族に、朝比奈の三郎といふは、人よく其名をしれり、こは和名抄安房國の郡名に、朝夷と書て、あさひなとよめる有、そこを領せられしにや、

〔筆のすさび〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0319 在名 庶人は在名を名乘るこどなゆるされず、然るを姓を禁すといふはしからず、源太郎平二郎、皆姓なり、誰も咎められし人なし、秩父熊谷(○○○○)〈○並武藏地名〉などは在名なり、これには禁あり、今座頭盲目に在名といふ格あるにてもしるべし、

〔新安手簡〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0319 江戸等家系ノ事、丸山殿へ御尋ネ合セラレ下サルべク候、新田家ノ祖、義重ヲ新田卜稱シ候ハ、タシカニ上西門院ノ御料ニ、新田ノ庄ヲ開カレ候テ、其庄官ニナシ下サレ候樣ニ見エ候ガ、越前淺倉ノ祖、黑丸入道ナドモ、一條家ノ黑丸ノ庄ヲ預ラレ候ヒシヨリ、彼國ニ竊據シ候事ハ、一條ノ裝束抄ノ内ニモ見エ候、

〔尊卑分脈〕

〈六/藤原〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0319 宗圓
宇都宮座主 宇都宮小田等祖

〔肥陽軍記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0319 蒲殿九州下向之事
範賴筑紫に著陣ありて、豐後の國府に在陣し、隣國に殘る平家の黨類誅し給ふ、肥前國牛尾山の別當志しを源氏に通ず、此時肥前の侍藤原季家、高木宗家、草野永平等戰功をつくして、各下し文を給はる、後關東の御家人と成、皆地頭職となれり、文治年中、季家に龍造寺村の地頭職を給り、卽龍造寺を以氏とせらる、

〔寬永諸家系圖傳〕

〈百四十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0320 佐久間
先祖は三浦の一族なり、源賴朝のとき、房州佐久間を領す、故に氏とす、

〔武藤系圖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0320 經重
少貳一門、號武藤藏人大夫、居住於筑前國三笠郡筑紫村、故號筑紫

〔山内首藤系圖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0320 俊通
俊通始居住相模山内、以其地家名、號山内刑部丞

〔鵞峯文集〕

〈七十二/行狀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0320 故江府令朝散大夫親衞校尉石谷叟行狀
叟姓藤原、氏石谷、諱貞淸、其家譜謂、出大織冠鎌足公十二代遠江守爲憲、歴九世信濃守行光、仕鎌倉幕府以統廳務、住二階堂邊、因爲家號、而世其職、其七世之孫因幡守行秋、養姉子西鄕行晴其家、西鄕者遠州地名也、其十七世孫行淸、産於西鄕、乃改二階堂西鄕氏

〔南行雜録〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0320 宇喜多和泉守三宅朝臣宗能像賛
竊按和泉之前司能家家牒、世居乎百濟國、甫兒時、兄弟三人、泛舶來于備前一島、始厝新第、旗幟皆書兒字紋矣、仍其所日兒島焉、中年立姓稱三宅、而有武名、諸孫瓜葛乎備之縣鄕邑、而號宇喜多

〔赤松記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0320 第二丹波守季房の御子のとき、播磨の國佐用庄赤松谷といふ所にながされ給ひて、其子孫住給ふ、かくて五代目を則景と申、此人宇野といふ所を知行し、宇野名字の元祖なり、此時關東に下り給ひて、北條との縁者となりて、建久四年七月四日、佐用庄地頭職を賴朝の御下文御拜領 なり、是よりして宇野播磨權守則景と申、其弟二人あり、第二は宇野新大夫則連、其弟得平三郎これなり、是は佐用庄の内得平名といふをとりたるにより、則得平と名乘るに、今出井分と申は此所なり、

〔勢州四家記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0321 工藤の一家とは、工藤左衞門尉藤原祐經の後胤也、先祖工藤治郎左衞門尉親光、足利尊氏卿へ仕へ、子孫繁昌して、勢州安濃郡長野に居住し、名字を長野と號せり、

〔豆相記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0321 上杉氏、姓藤原、左大臣冬嗣苗裔也、兄與弟號東管領、執柄異他、威名赫如矣、兄者住山内、故號山内、弟者居扇谷、故號扇谷

〔北條五代記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0321 關東天文亂の事
問ていはく、上杉殿の系圖は、いつの時代よりはじまり、源平藤橘、いづれの氏にてわたり候ぞ、老士こたへて、上杉殿は藤原氏なり、御先祖を尋るに、宗尊親王、一年鎌倉へ御下向の時、御介錯として、勸修寺の重房公、御供有て下向の時、丹州上杉の庄を賜はり、武家に下り、修理大夫を、左衞門督に任ぜらる、

〔北條五代記〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0321 百姓氣なげをはたらく事
聞しは昔元龜二年の秋、北條氏政と佐竹義重ひたちの國にをいて對陣のみぎり、〈○中略〉百姓御まへに參候す、一人申けるは、それがし岩井の百姓にて候が、味方毎夜草に臥候を、兼て存ずる故其心がけ有て、竹鑓一挺支度いたし、今夜の夜討に味方の中へくはヽり、さんをみだしたヽかふ時に、敵とそれがしたがひに鑓くみ、それがし左のかいなを一鑓つかれ候へ共、敵をつきふせ首取て候と申、氏政聞召、百姓として氣なげのはたらき奇特の旨、直に御ほうび有て、〈○中略〉此度の勳賞に、百姓を點じ侍とし、在名を用ひ岩井を名のり、官は兵庫助になし下さる、今日より岩井兵庫助と名付べし、其上岩井の鄕を領知し、永代子々孫々他のさまたげ有べからず、御はたもとに罷有 て以來忠功をはげますにをいては、かさねて賞をあてをこなはるべき者也と云々、

〔總見記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0322 織田氏家傳事
其家傳ヲ尋ネ見ルニ、信長ヨリ十八代ノ先祖、權大夫平親實ト云人、始メ江州津田ノ鄕ニ住セラレシガ、其後越前ノ國織田ノ庄ニ移リ、織田大明神ノ神職トナル、後ニ出家シテ覺盛ト號ス、是則當氏織田ノ曩祖也、〈○中略〉或時彼武衞〈○源高經〉ノ末孫織田大明神ヘ參詣ノ時、親實ノ曾孫モ當社ノ神職ニテ出迎タリケルニ、其時ノ神職ノ子息某ト云才器利發ニシテ他ニ異ナル兒ニ見エシカバ、武衞是ヲ愛シ武士ニシテ召仕ハレケリ、卽チ在名ヲ稱シテ織田氏トナシ給ヘリ、

〔總見記〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0322 同國〈○近江〉京極家同淺井氏由來事
扨又京極家ハ、佐々木四郎高綱ノ子孫ニテ、〈○中略〉其家ヲ京極ト號ス、京極六角ノ稱號ハ、皆在京ノ宅地ノ名也、

〔土佐軍記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0322 三韓爲日本屬國事附長曾我部先祖事
此時ノ國守細川ノ某、其威輕シテ、諸士下知ニ不隨、其外吉良大平本山ナンド云ル領主有ケレドモ、其比ハ兵革打續テ、政道モ妄也シカバ、國人アヘテ不信之、是ニ由テ長岡郡二十枝(ハタエダ)江村鄕ノ庄司、今度元勝ノ著岸アル由ヲ聞テ大ニ悦ビ、此所守護ナフシテ、近鄕ノ亂妨狼籍甚シ、爰ニ留リ玉ヘ、守護ニ仰ギ奉ルベシトテ、江村鄕ノ領主江村備後守ガ養子トシテ、長岡郡曾我部ニ城ヲ築テ入オキ、則在名ニヨツテ、氏ヲ曾我部ト改ケリ、然ルニ同國香美郡ニモ曾我部ト云所アツテ、領主ヲモ曾我部某ト申ケレバ、各郡名ノ上ノ一字ヲ添テ、長曾我部香曾我部トゾ申ケル、

〔土佐軍記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0322 長宗我部先祖之事
元弘の時、一宮〈○恒 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif親王〉の臣、秦武文久武とて、二人の臣下ありしが、一宮、越前金ケ崎の城にて御自書の後、浪人して長〈○長氏〉の臣下となる、中の内は、根本土佐の者也、是も浪人して長の臣下となる、 此中の内、案内者にて、土佐へ下りて、宗我部と云所に居住して、長宗我部と氏を改、

〔寬永諸家系圖傳〕

〈二百三十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0323 伊東
時信〈○中略〉
伊豆國伊東の庄に居住す、このゆゑにはじめて伊東と號す、

〔羅山文集〕

〈四十二/碑誌〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0323 佐河田壺齋碑銘
佐河田喜六昌俊、姓高階、出高市皇子六世之孫峯緒、承和年中、初賜高階姓、其後省曰高、其先食邑於下野國足利庄足次鄕早河田村、早或作佐、故以佐河田氏、

〔百家琦行傳〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0323 三組町與三右衞門
湯島三組町といへる處に、與三ゑもんと云者ありし、〈○中略〉小石川邊の御官第へ御抱になりにけり、與三ゑもん、元來氏素性もしれぬ者なりければ、住居したる町の名を氏とし、三組町與三ゑもんとて、今猶その子孫殘りけるとぞ、

以動物爲苗字

〔駿府政事録〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0323 慶長十九年九月三日、於三之丸、御能五番、〈○中略〉金春左吉、〈大鼓名譽〉鷺仁右衞門、〈狂言名譽〉但鷺自往昔寶生座、右兩人、從今月觀世座可罷成候旨、被仰出云々、

〔先哲叢談〕

〈後編三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0323 鷹見夾鳩
鷹見氏、本姓曰金澤、其先世遠州人金澤某、又始仕子田原侯曩祖兜鍪之世、屢有勳功、嘗見白鷹啣鹿角於諸楓樹上而結一レ巢焉、以爲瑞捕得之、以奉神祖、〈○德川家康〉因賜之姓鷹見氏、當時之人皆榮焉、

〔先哲叢談〕

〈後編八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0323 龍草廬
十二世祖、正五位下左衞門佐善則、仕後祟光王貞成于伏見月宮館、方其王子彦仁降誕日、善則爲之禱鳩嶺〈○石淸水〉之神、通七日夜矣、夢中神告、以彦仁享福事、而歸途現視登龍之瑞、無何彦仁、以稱光帝崩入踐祚、是爲後花園帝、王喜曰、是善則忠誠所致也、以登龍之瑞、卽令其姓爲一レ龍、且賜以寶劒一口、因 子孫襲寶焉、

以植物爲苗字

〔諸家系圖纂〕

〈二十/橘〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0324 楠氏系圖
正俊〈鎭河内國金剛山麓七鄕、館邊多楠、故地下人稱楠殿、〉 正廉 正成

〔太平記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0324 主上御夢事附楠事
主上、〈○後醍醐、中略、〉當寺衆成就房律師ヲ被召、若此邊ニ、楠卜被云武士ヤ有ト御尋有ケレバ、近キ傍ニ、左樣名字附タル者アリトモ未承及候、河内國金剛山ノ西ニコソ、楠多門兵衞正成トテ、弓矢取テ名ヲ得タル者ハ俣ナレ、

〔諸家系圖纂〕

〈十四/桓武平氏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0324 柘植
宗淸、戯折柘植一枝地曰、此枝蕃茂、則可草庵于此地、翌年柘植一枝、大蕃茂、而開花爛熳、宗淸 甚奇之、卽賦和歌、以柘植氏、柘植稱號自是始、

〔諸家系圖纂〕

〈二十四/越智〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0324 一柳譜〈越智姓〉
伊豆守直未公、五代目前之御祖父ハ、本國伊豫國之御住人、則河野殿御末之由、然共如何成子細之御座候哉、豫州迄御牢人被成、上方ヘ御上、ソレヨリ美濃國所縁有之由ニテ、被岐阜、近所之西野村ト申所ニ、カリニ被御座候由、其時迄モ御名字、河野御名乘候由、其時代美濃一國之主ハ、土岐殿ト申候由、其時河野殿、或人ヲ御タノミ被成、取次ヲ以、土岐殿へ御出入被成候由、土岐殿モ、河野ハ古ノ系圖侍ト被仰、常々御敬ヒ、詞ニテモ懇ニ被仰候由、然共河野殿ハ、今時アサマシキ牢人ノ身トシテ、河野ノ名字ヲケガサンモ、不入儀ト思召候故、土岐殿へ御出仕ノ折節ハ、某ニモ名字ヲ御カヘ被下候樣ニト被仰上候由、然共此儀サシテ御承引無之由、亦有時、土岐殿、鞠ヲケサセ、御見物候折節、河野被仰分ハ、折々申上、私名字之儀ハ、如何被成被下候トノ御事候ヘバ、土岐殿、毯ノカヽリニ柳ヲ植置候テ有之ヲ御覽被成、其方ニ名字ヲ附替候ハント存候得共、河野ニ附替可申 名字無之、幸此所柳一本有之問、一ノ柳ヲカタドリ、一柳ト名乘可替ト御申候ヘバ、河野殿、忝ト被仰、其ヨリ一柳ヲ御名乘被成候由承申候、

以器物爲苗字

〔東照宮御實紀附録〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0325 樽屋藤左衞門といふは、水野右衞門大夫忠政が七男彌大夫忠賴が子なり、はじめは彌吉康忠といふ、長篠の役に酒樽を奉りしかば、織田右府〈○信長〉におくらせられ、右府大に喜び樽とよばれしより、氏を樽と改め、遠州町々の支配を命ぜられしが、〈○下略〉

〔當世武野俗談〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0325 山彦鳥羽が三絃
山彦源四郎は、江戸節三絃の元祖なり、尤も名人にして、山彦と云ふは三味線の名なり、源四郎は十寸見を名乘る、渠が家に山彦と名附けし三味線有りし故、名字と號、

以由縁爲苗字

〔源平盛衰記〕

〈三十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0325 大神宮勅使附緒方三郎責平家
惟義ニハ兄弟三人有ケルガ、次郎ハ死ニヌ、太郎名生三郎、尾形ト云二人ガ中ニ、此三郎ハ蛇ノ子ノ末ヲ繼ベキ驗ニヤアリケン、後ニ身ニ蛇ノ尾ノ形ト鱗ノ有ケレバ、尾形〈ノ〉三郎ト云、

〔鹽尻〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0325 平岩氏稱號、平岩氏は、三州坂崎の鄕人五郎左衞門某、鄕中に大なる岩、平かなるありしより、平岩と稱號せり、其子新右衞門親重、家を興し、其子從五位下主計頭親吉、大身となると云ふ、按るに、天文の頃、北條家に、平岩隼人正重吉と云ふ勇士あり、上杉朝成を組留めしものなり、是其同姓か、平岩平石共にひらいはと讀む、古しへよりの稱號のやうに見え侍る、

〔總見記〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0325 木下藤吉郎出身由來事
抑此藤吉郎ハ、イカナル者ゾト尋聞クニ、〈○中略〉其母或時、懷中ニ日輪ノ入ト云夢ヲ見テ、卽胎娠シタリケルガ、大樹ノ下ニテ出産ス、其故ニ稚名ヲ日吉ト云ヒ、氏ヲ木下ト號スト云ヘリ

〔兩朝平攘録〕

〈四/日本〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0325 秀吉幼微賤、不父所一レ出、其母爲人婢娠、生欲之、有異徴棄、及長勇力蹻捷、不生業、初以魚、醉臥樹下、信長出 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00004.gif、吉驚起衝突、欲之、復以吉舌辯、留之養馬、名木下人(○○○○)、秀 吉善上高樹、人呼爲 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00039.gif

〔外國竹枝詞〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0326 日本
日出天皇號至尊、五畿七道附庸臣、空傳歴代吾妻鏡、太閤終歸木下人(○○○)
隋時致書、自稱日出處天子、國中稱天皇、以尊爲號、有五畿七道三島、附庸國百餘、吾妻鏡紀本國 君臣事蹟、吾妻島名也、木下人爲平秀吉、萬暦中纂奪倭國、自號太閤王

〔東照宮御實紀附録〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0326 氏井孫之丞某、渡邊忠右衞門守綱二人は、池田が士卒を射しに、守綱鎗を落しければ、孫之丞敵の中へかけ入り、敵を突ふせ、其鎗を取てかへり、守綱にかへしければ、この働武藏坊辨慶にもまされり、今より氏を武藏と改むべしと仰有て、あらためしなりとぞ、

〔鹽尻〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0326 物加波藏人姓名 德大寺家に、物加波遠江守といふ諸大夫あり、是は待宵の小侍從と和歌贈答して、物かはと君がいひけん鳥の音の、と讀しゆゑに、物かはの藏人と實定卿よび給ひしものヽ裔也、彼物かは藏人姓名は、新拾遺集に藤原經尹とあり、
○按ズルニ、物加波藏人ノコトハ名篇異名ノ條ニアリ、

〔雲上明覽〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0326 德大寺前内大臣實堅公、諸大夫物加波左馬權助、物加波主税權助、

〔先哲叢談〕

〈續編四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0326 林道榮
鎭臺牛込蔭鎭、招致道榮、遇待不薄、一日置酒、與劉東閣侍其座、偶分杜詩東閣官梅句詩、卽應聲云、鎭臺明府賞官梅、梅蕋枝々春氣催、不餘香衣袂著、醉恩深似花回、蔭鎭賞歡不巳、其詩播聞治下、由是時人呼官梅氏、後遂改氏官梅、云、

〔雍州府志〕

〈六/土産〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0326 龍腦丸 半井宅、元在烏丸正親町北今施藥院地、家有大井其中間、半用製藥之料、半充雜用、依之有半井之號、曾和泉國界、和氣氏有半井春蘭軒者、是亦同出自

〔養生法〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0326 桂川氏は、そのかみ平戸の嵐山甫安にしたがひ、長さきにて蘭人の外科を學ばれ、あら し山の流をくむとてかつら川と名のられしを、始て櫻田の御館に召出されぬとか、

〔日本敎育史資料〕

〈九/洋學〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0327 桂川先生墓表
先生名國瑞、字公鑑、號月池、〈○中略〉本姓森島氏、爲和州蟹幡村人、曾祖日賢君、受外科方於松浦藩醫嵐山翁、松浦侯、令嵐山從長崎和蘭客外科方、日賢君從之、嵐山愛日賢君之神穎曰、傳吾道之流、必於汝乎在、遂命姓桂川、以桂川上流經嵐山而下也、

以佛語爲苗字

〔倭樂傳記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0327 四座幷喜多座の始等之事
金剛大夫をば坂戸家と云、圓滿より六代目の弟の家にて、大和の内坂戸四百五拾石を領す、天正の頃の金剛は、小牧合戰に、三好秀次軍に隨ひ、敗走の時は唯一人、秀次の供して討死す、其子なくして、千葉家の者を以て名跡に立る故、金剛が家は、千乗の支流と世に言傳ふ、

〔雲萍雜志〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0327 羯摩(カツマ)乘親は、きはめて面打の上手なりけれども、ひとヽせに一は打ず、性酒をこのみて、醉て舞ふことを樂しむ、

以寺號爲苗字

〔太平記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0327 笠置軍事附陶山小見山夜討事
大將軍ニハ、大佛陸奥守貞直、同遠江守、普恩寺(○○○)相模守、〈○下略〉

〔日次日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0327 觀應二年五月十五日、楠木使者兩人、〈神宮寺(○○○)將監入道○下略〉

〔陰德太平記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0327 細川改元生害附細川澄之自害事
高國ハ義植卿〈○足利〉ニ相從テ西國ニ在ケレバ、阿州ノ細川讃岐守之勝入道慈雲院ノ孫ニ六郎澄元トテ、器量骨柄世ニ勝レ、文才武藝群ニ出ケルヲ、此人コソ吾家ヲ興隆スベケレトテ、藥師寺與一元一ヲ使トシテ、阿州ヘ下シ、養子ノ約束ヲゾセラレケル、

〔寬永諸家系圖傳〕

〈二百八十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0327 根來
先祖は霜姓なりといふとも、盛重が時にいたりて、根來とあらたむ、
盛重〈○中略〉
同〈○天正〉十三年、根來寺破却の後、盛重、遠州濱松の御城下にいたり、大權現〈○德川家康〉に拜謁するとき、盛重は、元根來寺の法師なり、今よりのち根來と稱すべしと嚴命あるにより姓とす、

截姓学爲苗字

〔宗氏家譜〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0328 判官公〈○平知宗、中略、〉
公避源氏之難、姑冒其乳母之姓、曰、我惟宗氏也、因又稱之惟宗判官、〈從是世惟宗爲姓○中略〉
彌次郎左衞門尉公〈○重宗、中略、〉
寬元四年、公襲封、〈○中略〉公始立宗氏
公借氏外族、始立宗氏、姓惟宗如故、

〔高階氏系圖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0328 惟眞 〈高(○)新五郎〉 惟範 惟長
惟重 重氏〈高(○)左衞門〉 師氏〈高(○)右衞門〉
師重〈高(○)右衞門〉 師泰〈越後守〉
師直〈武藏守〉

〔太平記〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0328 節度使下向事
左馬頭直義朝臣、不斜喜デ、軈テ鎌倉ヲ打立テ、夜ヲ日ニ繼デ被急ケリ、相隨フ人々ニハ、〈○中略〉高(○)武藏守師直、越後守師泰、〈○下略〉

〔吾妻鏡〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0328 治承四年五月十五日丙寅、今日戌剋、檢非違使兼綱、光長等、相率隨兵、參彼三條高倉御所、〈○以仁王居所、中略、〉此間長(○)兵衞尉信連、取大刀相戰、光長郎等五六輩、爲之被疵、

〔大日本史〕

〈百六十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0328 長谷部信連、〈○中略〉平氏滅後至鎌倉、源賴朝録其舊功、爲家士、補安藝檢非違使所、賜能登大屋圧、〈○中略〉子孫世居能登、以長爲氏、

〔末森記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0328 サテ能登國七尾城ニハ、一國ノ人數、過半置タマヒ、本丸ニハ利家卿舍兄前田五郎兵衞尉、 子息孫左衞門尉、高畠織部、中河淸六、國侍ニ長(○)九郎左衞門尉、其外名アル侍共、都合其勢三千餘騎入置給フ、

〔嚴島道芝記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0329 社家供僧内侍幷諸役人神人之名
長(○) http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif物〈同○佐伯〉某

冒母黨苗字

〔諸家系圖纂〕

〈十九/藤原〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0329 内藤總系圖
本多藤四郎〈依母姓本多

〔寬永諸家系圖傳〕

〈百九十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0329 藤井
勝重〈○中略〉
いとけなふして父吉政におくれ、稱號をわきまへず、このゆゑに母氏をとりて藤井と稱す、

〔寬永諸家系系圖傳〕

二百二十二

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0329 齋藤
幸保〈○中略〉
幸保、病者たるゆゑ、父〈○信忠〉が命により、櫻井をあらため、母氏ををかして齋藤と號す、

冒巨族苗字

〔織田信長譜〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0329 天正二年十二月、信長執奏、以秀吉筑前守、河尻與兵衞任肥前守、塙九郎左衞門、改號原田備中守、簗田左衞門太郎、改號別喜右近、右筆武井夕庵、任二位法印、友閑任宮内卿法印、既而歸岐阜、〈信長謂、今所領之地、猶未大封功臣、日併呑西國、則可使功臣續古昔豪士之家以富上レ之、故向謂丹羽惟住、謂明智惟任、今又改塙號原田、改簗田別喜、是九州豪士之稱號也、〉

〔豐鑑〕

〈一/長濱眞砂〉

〈H 信長鷹狩を好み、日毎に狩に出給ふに、一日もおこたらず、わら沓をわれととりはく樣にて物せしが、かしこさ人に勝れぬれば、次第にときめき、ずさなどを持て、木下藤吉郎となんよばれし、其比信長の心に叶ひのヽしる柴田修理亮勝家、丹羽越前守長秀とかやいひしかば、其人の名字を一字づヽたまはらんとて、丹羽の羽に柴田の柴をそへ、羽柴筑前守と改給しと也、〉

歸化人用苗字

〔皇國名醫傳〕

〈後篇上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0329 西玄甫
玄甫、善蕃語、爲和蘭大通事、雅好外科、師歸化蕃醫澤野(○○)忠庵、與忠惠交善、

〔鳩巢小説〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0330 先日深見新右衞門、故主薩摩ノ大守ノ家來、郭氏家譜、傳來候ヘドモ、讀不申候間、和點イタシ呉候ヤウニ申來リ候處、新右衞門老人、目ナドアシク候間、私點附呉候ヘト、無餘儀賴マレ候ユエ、紙百枚バカリ細眞ニテ書申モノ、點イタシツカハシ申候、メヅラシキ家譜ニテ候、唐郭子儀ノ家譜ニテ候、郭子儀ハ、汾陽王ニ封ゼラレ候テ、郭汾陽トテ汾陽王子孫、薩摩ヘ參候テ、只今薩摩殿家來ニ、汾陽庄右衞門ト申モノ嫡流ニテ候、汾陽ト書候テ、カハミナミト讀申ヨシ、珍ランキ苗字ニテ候、御聞ナシオカルベク候、

〔鳩巢小説〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0330 一武林只七〈見義人録〉本姓孟氏、祖父二寬、朝鮮ノ役ニ、爲援兵大明ヨリ朝鮮ヘ來ル時、吾兵ノ爲捕ラハレ、壽ヲ以テ終、武林ハ大明ニテ鄕里ノ名也、醫ヲ業トシテ、次庵ト稱ス、

〔先哲叢談〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0330 高玄岱、〈○中略〉號天漪
天漪祖高壽覺、西土人也、父大誦、號一覽、爲長崎譯者、一覽改稱姓高深見、蓋高氏出渤海、渤海倭讀深見、故以稱焉、

〔事實文編〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0330 穎川入德碑銘 安東省庵
翁姓陳、諱明德、字完我、明抗州人也、〈○中略〉吾慶安年中、航海來長崎、毎投藥餌、起死回生、崎人留而不歸、居年餘、有國法、華人來者不留、巳留經年不歸。厥後 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00015.gif胡猾夏、翁絶念於鄕國、遂改姓名、號穎川入德、蓋從其國俗云、

〔長崎實録大成〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0330 日本住居唐人之事
高壽覺 深見 陳九官 穎川官兵衞祖林公琰 林道榮祖 歐陽雲臺 陽總右衞門祖陳冲一 穎川藤左衞門祖 林楚玉 林仁兵衞祖 劉 一 水 彭城仁左衞門祖 陳 潜 明 西村七兵衞祖
何 毓 楚 阿仁右衞門祖 劉 焜 臺 彭城久兵衞組
愈 惟 和 河間八平次祖 魏 之 琰 鈴鹿淸兵衞祖
樊 玉 環 高尾兵左衞門祖 馬 榮 宇 中山太左衞門祖
徐 敬 雲 東海德右衞門祖 陸 一 官 陸一藏祖
王 心 渠 王喜右衞門祖 陳 爕 山 矢島専助祖
盧 君 玉 盧草拙祖 何 海 庵 何吉郎右衞門祖
張 三 峯 淸川榮左衞門祖 周 辰 官 周權左衞門祖
薛 性 由 薛市左衞円祖 鄭 崇 明 吉嶋總左衞門祖
楊 一 宮 楊藤平祖 呉 宗 園 呉平左衞門祖
陳 九 官 陳彌吉祖 鄭 次 官 鄭長左衞円祖
薛 八 官 薛久三郎祖 莊 七 官 莊甚兵衞祖
陳 一 宮 穎川八郎太祖 蔡 三 官 蔡長次郎祖
曾 二 宮 井手武兵衞祖 呉 泰 官 呉兵藏祖
黄 二 官 黄安右衞門祖

剃髪稱苗字

〔南留別志〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0331 一入道したるものヽ、姓氏を名のる事はなき事なり、入道は僧なるゆゑ、官も僧官なり、國初の頃までは、醫師の苗字をのぞきたるなり、寬永の頃より、苗字をいひいで、元祿の頃よりは、院號も苗字をつけて名のる、大かたは玄關につめたる、文盲男に問ひつめられたるより、名乘初めたるなるべし、

〔南留別志拾遺〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0331 一入道したるものヽ、姓氏を名のる事はなき事なり、〈○中略〉
三注則按、今時官醫の中に、苗字名のらぬは、意安法印、施針庵東暦など也、〈○中略〉
又按猷廟〈○德川家光〉の日光山御成の供奉姓名を書きたる古文書を見たりしに、醫者にはことごとく名字を除きたると、友人の物語なり、

〔〈第二〉憲法類編〕

〈二十三/民法〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0332 僧侶苗字ノ事
六年四月九日敎部省第十六號布達
苗字之儀ハ、各其原由モ可之處、諸宗僧侶之内、往々釋竺浮屠等ヲ以苗字ニ相用候者有之、不都合ニ候條、右等之分、早々改稱可致候事、
六年四月十四日敎部省第十八號布達
當省第十六號布達、僧侶苗字云々之儀、取消シ候事、

賜苗字

〔鹽尻〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0332 一稱號を諸家に賜るは、秀吉巳前にはなしとかや、唐土に而も周の世までは、帝王の姓を臣下に給ふ事はなし、漠高祖、婁敬に劉氏を賜はりしより、唐の全遂に法となし給ひしとぞ、」
賢按、信長の姓を秀吉に賜ひしにや、豐臣の先は平の秀吉とあり、

〔源平盛衰記〕

〈三十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0332 鷲尾一谷案内者事
御曹子〈○源義經〉ハ、如何ニ汝ガ居處ヲバ何クト云ゾ、年ハイカニト問給へバ、歳ハ生年十七、居所ハ山鼻ガ指覆、鷲ノ貌ニ似タリトタ、鷲尾ト申附テ候、〈○中略〉去バ汝ヲバ鷲尾三郎ト云ベシ、〈○下略〉

〔寬永諸家系圖傳〕

〈二百七十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0332 万年
家傳にいはく、後鳥羽院の御宇、文治年中、万年の號を宣下せられ、〈○下略〉

〔寬永諸家系圖傳〕

〈二百二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0332 西山
本は飯賴と稱す、武田信玄の命により、飯賴をあらため、西山と號す、昌茂、甲州西山の庄を領知するゆへなり、

〔藩翰譜〕

〈十上/木下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0333 肥後守豐臣家定は、尾張國の住人杉原平入道道松〈助左衞門〉が男、豐臣太閤家北政所の御兄なり、年若き時より豐臣家へ仕へ、家號を賜て木下とは名乘りけり、

〔藩翰譜〕

〈十上/宗〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0333 十八年〈○天正〉の春、義智仰を承り、家人柳川下野守調信等を引具し、自ら彼國〈○朝鮮〉に渡て、兎かく拵へし程に、信使來聘すべきに極て、同七月、彼使具して都に上り、殿下〈○豐臣秀吉〉に參る、關白の御感淺からず、頓て侍從になされ、羽柴の號を賜る、

〔寬永諸家系圖傳〕

〈二百十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0333
直政〈○中略〉
織田信長につこふ、堀左衞門督秀政が從弟たるをもつて、秀政につけらる、〈○中略〉秀吉越前國北 庄の城をもつて、秀政が勳功に報じたまふ、秀政もまた、直政が忠節をかんじ、本姓源氏をあら ため、藤原堀氏をさづく、

〔寬永諸家系圖傳〕

〈乙一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0333 今川〈品川〉
高久〈○中略〉
今川氏は、一人の外、稱號をゆるされざるにより、台德院〈○德川秀忠〉殿鈞命にて、品川と稱す、

〔柳營秘鑑〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0333 御一字頂戴之家々
一御稱號〈○松平〉計被下置 松平土佐守
先規御稱號御一字不下家々
佐竹右京大夫 藤堂大學頭 宗對馬守
一御稱號被下之家々は、御一字被下置之節、其時々改被之也、又は不其義家も有之、
島津 鍋鴫 蜂須賀 黑田
など御稱號御免無之内は、自氏を用る事有之、

〔續視聽草〕

〈六集九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0334松平號
松平之御家號を賜ひし家々
一菅原姓 久松三郎太郎
松平因幡守勝元
久松源三郎
松平源三郎勝俊
又康俊
松平隠岐守定勝〈○久松〉
一藤原姓 戸田孫六郎
松平丹波守康長
一源姓 松井左近將監忠次
松平周防守康親
一平姓 奥平右京大夫
松平右京大夫家治
一平姓 松平攝津守忠次
一源姓 奥平下總守
松平下總守忠明
一源姓 依田常陸介
松平常陸介信蕃
一〈大須賀榊原〉 〈平姓源姓〉 大須賀五郎左衞門
松平出羽守忠政
一菅原姓 前田肥前守利常
松平肥前守利常
一源姓 松平陸奥守家久〈○島津〉
一平姓 中村一學
松平伯耆守忠一
一藤原姓 堀越後守
松平越後守忠俊
一大江姓 毛利長門守秀就
松平長門守秀就
一藤原姓 松平陸奥守政宗〈○伊達〉
一藤原姓 山内土佐守
松平土佐守忠義
一源姓 松平三左衛門輝政〈○池田〉
一藤原姓 蒲生飛驒守
松平飛驒守秀行
一源姓 黑田右衞門督
松平右衞門佐忠之
一源姓 蜂須賀長門守
松平阿波守至鎭
一藤原姓 松平肥前守忠直〈○鍋島〉
一源姓 淺野岩松丸
松平安藝守光晟
一藤原姓 加藤豐後守
松平豐後守光廣
一藤原姓 鷹司左兵衞督
松平左兵衞督信平
一源姓 保科肥後守
松平肥後守正信
一源姓 松平美濃守吉保〈○柳澤〉
一藤原姓 本莊安藝守家俊
松平豐後守家俊
一越智姓 越智下總守淸武
松平出羽守淸武
一源姓 池田河内守淸定
松平河内守淸定
已上二十九家
○按ズルニ、本書ニハ一々、其家紋略傳及ビ賜號年月等ヲ記入シテアレドモ、今之ヲ略ス、

〔法令全書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0335 正月〈○明治元年〉二十七日
德川慶喜、反逆ニ附テハ、松平之苗字ヲ稱シ居候族ハ、向後大小名共、速ニ各本姓ニ復シ候樣、御沙汰候事、
二月九日
一以來松平稱號被止、本氏可之事、
但本姓松平唱來候者ハ、如舊可相心得事、

〔寬永諸家系圖傳〕

〈二百十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0336 加藤
正方〈○中略〉
淸正につかへ、同姓をゆるされて、片岡をあらためて加藤と號す、

改苗字

〔豆相記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0336 延元二年九月、先帝〈○後醍醐〉第八宮、〈○義 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif親王〉關東下向之時、時行〈○北條高時子〉扈從矣、兵船五百餘艘、自伊勢國大湊、既令出船渡海之時、於遠天流灘于逆風、見伊勢國吹寄、〈○中略〉時行寓居勢州矣、〈○中略〉改名字伊勢二郎時行、時行生行氏、行氏生時盛、時盛生行長、行長生氏盛、迄于氏盛伊勢氏、所以號伊勢新九郎

〔南海治亂記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0336 南北帝御和平記
豫州ノ宮方、土居、得能モ漸々ニ衰テ、兩家ヲ合テ一家トシ、得居ト稱號シテ、近世マデ相續セリトカヤ、

〔總見記〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0336 越前國兵亂注進事
同キ〈○天正二年〉十一月下旬ニ至テ、桂田ハ、濃州岐阜ヘ御禮ニ參ル、其時朝倉式部大夫景鏡、同孫三郎景健、溝江大炊助長逸モ同道ス、景鏡景健ハ、朝倉ノ苗氏憚有リトテ、土橋式部大夫、安居孫三郎ト改名シ、三人トモニ、本領安堵忝由御禮ヲ申上ゲ、種々進物ヲ獻上ス、

〔寬永諸家系圖傳〕

〈二百二十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0336 進藤

源次郎
織田信長の叔母をめとる、あるとき信長の命にそむく、かるがゆゑに織田上野介、ひそかに源 次郎に謂けるは、乙部氏をあらため、進藤と稱べしとなり、これ信長の思ふどころをおそれて なり、

〔陰德太平記〕

〈七十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0337 吉川廣家陷岩石城
翌二十六日、〈○天正十六年六月〉壹岐守、於小倉廣家ニ饗膳ヲ被勸ケルニ、旨酒酣、興熟シテ後、壹州、廣家ニ向、先年某甲ガ氏、森ノ字ヲ改、毛利ニ仕候シ事、偏ニ廣家御吹擧ニ依テ、輝元、御許容候ツル、此御恩、禮謝センニ難言端候、

〔藩翰譜〕

〈九下/毛利〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0337 伊勢守藤原高政は、豐臣太閤の家人なり、初め森勘八郎とぞ申ける、太閤未だ筑前守にて、毛利右馬守輝元と戰ひ、天文十年六月、羽柴毛利中直りしで、互に人質を取替さる、毛利は叔父の藤四郎元綱に、桂民部大輔付て出しければ、秀吉は此高政が兄弟をぞ出されける、〈高政が弟兵橘某と云〉輝元、高政兄弟に向て、兩家の好みを合せたる始に、和君兄弟、我が許に來れるに、和君等が名字と、輝元が名字と、唱ふる所の同きこそ怪しけれ、然るべくは、我が名字まゐらせて、和君等と、永く兄弟の契、結ばんと思ふは如何にと云ひければ、高政兄弟、森と云ふ文字を改て、毛利とは書きたりけり、

〔明良洪範〕

〈十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0337 小西飛驒守ハ元内藤飛驒守ト云テ、太閤秀吉公ノ臣也、博學ナル故ニ、朝鮮陣ノ時、小西行長ニ副ヘテ遣ハサレ、文事ヲ司ドラシム、合戰大明ニ入テ和義トナル時、小西行長、己ガ名ヲ異國ヘ傳ヘン事ヲ量リ、内藤ヲ改メサセテ小西ト名乘ラセ、大明ヘ使者ニ立タリ、是ニ因テ小西ノ名、大明迄トヾロケリ、

〔鵞峯文集〕

〈七十二/行狀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0337 故江府令朝散大夫親衞校尉石谷叟行狀
叟姓藤原、氏石谷、諱貞淸、〈○中略〉其〈○西鄕行晴〉十七世孫行淸、産於西鄕、〈○遠江地名〉乃二階堂、稱西鄕氏、〈○中略〉今川義元、爲駿河國主、兵威壓遠州、政淸屬其麾下、爲西鄕十八士之長、戸塚氏、亦其一也、戸塚氏娘、奉東照大神君、〈○德川家康〉誕台德公、〈○德川秀忠〉時、號西鄕女君、世稱寶臺院是也、政淸避憚之、改稱石谷氏

〔〈伊豫吉田〉御家系譜〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0337 辰三郎〈○吉田藩主伊達村豐子、中略、〉
同年〈○延享五年〉六月十二日、名字玉造と御改被下、御一字御腰物被下、信英〈與〉名乘、
右は秀宗公、〈○伊豫宇和島藩主伊達氏〉御幼少之時、玉造郡〈○陸奥國〉御住居に付、以其御由緒、玉造と御改被下、

改苗字文字

〔陰德太平記〕

〈十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0338 吉川先祖之事
吉河(キツカハ)三郎經義、法名本無、此人駿河國吉河ノ邑ニ被居住、故ニ吉河ヲ稱號トス、始吉香(キツカ)、或ハ木河(キカハ)、或ハ吉河ナド、時ニ依テ書タリシガ、後ニ吉川ヲ用ヒ來レリ、自是代々以吉川之、

〔改選諸家系圖〕

〈前編十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0338 酒井氏
廣親〈○中略〉
參河尾張之堺有川、名坂井、其邊號坂井鄕、德川親氏君、壯歳經歴諸州時、僑居坂井邑、嘉吉二年壬戌、爲坂井五郎左衞門聟、其後同三年癸亥十二月、生廣親、以坂井氏、〈○中略〉後改坂井酒井

〔寬永諸家系圖傳〕

〈五十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0338 土井
始は土居と號す、利勝にいたりて、土井とあらたむ、

〔寬永諸家系圖傳〕

〈百十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0338 片桐
はじめは片切たりといへども、爲眞代より、片桐にあらたむ、

〔寬永諸家系圖傳〕

〈百四十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0338 喜多見
はじめ木田見の字を用ひ、また北見の字をもちゆ、

〔武藝傳統録〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0338 水野流居合
木戸彌治右衞門正勝、〈法名自證院、寬政八丙辰年十二月廿六日死、〉正勝木戸ヲ城戸ニ改、

復苗字

〔豆相記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0338 氏盛、〈○中略〉號伊勢新九郎、〈○中略〉氏盛、假今川葛山士卒、而攻取於豆、擊殺狩野伊東等門族、移豆薤山城、改伊勢北條、而既爲豆大守矣、時長祿二〈戊寅〉年也、

〔寬永諸家系圖傳〕

〈三十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0338 石川
朝成〈○中略〉
石河氏を改て、小山と稱す、〈○中略〉
政康〈○中略〉
本氏にかへりて、石河となのる、

〔寬永諸家系圖傳〕

〈二百十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0339 加藤
正次〈○中略〉
信長につかへしときは、竹本と號す、〈○中略〉永祿十一年、參州にいたり、大權現〈○德川家康〉に謁見し奉る時、鈞命をかうふり、竹本をあらため、ふたヽび加藤と稱す、

〔創業記考異〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0339 永祿九年十二月廿九日、公〈○家康〉從五位下ニ叙シ、參河守ニ被任、又是ヨリ勅命ヲ以テ、德川氏ニ替リ給フ、
○按ズルニ、家康ノ遠祖義季ハ、源義家ノ曾孫ニシテ、德川四郎〈義季ノ孫敎氏モ亦德川ト稱ス〉ト稱ス、家康ハ是ヨリ先松平ト稱セシガ、是ニ至リ舊ノ苗字ニ復セシナリ、而シテ大三川志、武德編年集成等ニ、此ヲ以テ永祿十一年ノ事トセルハ誤ナリ、

〔御ゆどのヽ上の日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0339 永祿十年正月三日、こん衞殿より藤宰相して申され候、德川じよしやく、おなじくみかはのかみくせん、頭辨におほせられて、けふいづる、おなじく女ばうのほうしよもいづる、

〔歴名士代〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0339 從五位下
源家康(三川國松平、號德川、) 〈永祿九十二廿九、同日參川守、同日左京大夫、〉

〔大三川志〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0339 永祿十一年十二月、是ヨリ先キ御曩祖ノ御稱號、德川氏ニ復シ玉フト雖ドモ、此冬源義昭ヘ此事ヲ達シ給フ、十二年正月、將軍義昭、近衞關白藤原前久ニ依テ、德川氏ニ復シ給フコ トヲ叡聞ニ達セラレ、十二月九日勅許アリ、日宣案、長橋局ノ奉書到來ノ由、本月上旬、義昭ヨリ御敎書、及ビ大刀一腰ヲ添テ、遠州引間ヘ贈ラル、御敎書ノ文ニ曰、改年之吉兆、珍重々々、更不休期候、抑德川之儀、遂執奏候處勅許候、然者口宣、幷女房之奉書、申調差下之候、尤目出度候、依而大刀一腰進之候、誠表祝儀計候、萬々可申通候也、正月三日、義昭、德川三河守殿、〈是ハ神祖、御累祖ノ御稱號、德川ニ復シ給フト雖ドモ、去冬將軍義昭ニ達セラレ、十二月九日勅許アリテ、今春口宣、引間ニ來ル、〉

〔武德編年集成〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0340 永祿十二己巳年正月、御當家、近代ハ松平ト稱セラルト雖、神君、〈○德川家康〉曩祖ノ稱號德川ニ復シ玉フコト日アリ、此由去冬始メテ將軍義昭卿ヘ達セラル、幕府ヨリ近衞前久公ニ據テ、叡聞〈○正親町〉ニ達セラレケル所ニ、乃舊 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00050.gif九日勅許有テ、口宣案、長橋ノ局ノ奉書等到來、今三日義昭卿ヨリ、是ヲ遠州濱松ヘ贈リ、御内書ヲ投ゼラレ、大刀一腰ヲ賜フ、〈○中略〉
傳稱ス、應仁以來朝廷柳營、在レドモ無ガ如ニシテ、邂逅ニ聘禮ヲ捧ル牧伯ハ禁闕幕府共ニ、恩澤甚厚ク、聊ノ事ニモ口宣ヲ賜リ、女房ノ奉書ヲ傳奏ヨリ柳營ヘ遣スコト、是全ク衰世ノ風儀ニシテ、治世ノ恒例ニ違ヘリ、必シモ古風且後來太平ノ世ノ格ヲ以テ論ズベカラズト云々、

〔鳩巢小説〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0340 一中山道信州蘆田ノ宿ヲ下レバ、右ノ方町離レニ、高山ノハゲ山アリ、夫ヨリツヾキテ成出タル丸山平山ニ成笠山アリ、是ハ古ヘ蘆田下總守居城ノ地也、其嫡流、後ニ加藤宗月ト苗字ヲ改、一伯殿代ニ越前ヘ來リ住セリ、〈○中略〉宗月嫡子ヲ加藤内膳ト云テ、越前ニ有シガ、後ニ公方樣ヘ御目見モ仰附ラレ、又本姓蘆田ヲ名ノリ、越前ニテ城代ヲ勤候由、

〔先哲叢談〕

〈後編五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0340 稻葉迂齋
迂齋父正則、自他姓、舊稱鈴木氏、至其解褐侯國、屢請本姓於其家長、而家長親戚皆謂、與父兄宗家其稱呼、殆似不可、遂未果、後享保辛丑〈〇六年〉冬、固請歸復本姓、自是稱稻葉氏、〈○中略〉山崎派諸儒、維持禮法、處人甚嚴、若淺見綗齋、三宅尚齋、嚴排他姓少假、故入其門、先有異姓、 必以歸復本姓、爲學中第一之急務、其立忘之確、雖貴、蓋於吾邦習俗、殆若省時勢之緩急與世變之處置、自達士之、不其狹隘局量之譏、迂齋初年著再嫁説養子論、辨駁之、沿從師説、〈○佐藤直方〉至晩年大異其趣、不備於人、婦女再嫁者、士夫出贅者、惡之不巳甚矣、

〔吉益東洞先生行狀〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0341 先生諱爲則、字公言、安藝人也、其先出淸和帝、姓源氏、管領政事畠山長政之裔孫也、世襲封河内紀伊、二州五畿、悉屬麾下、曾祖高政之時、盡亡其封國、獨保河州高屋城、高政病而卒、其子政慶、幼弱不立、傳之弟昭高、〈○中略〉十八年、〈○天正〉熊野諸城皆降、政慶無身之地、潜行走河州、匿於吉益半笑齋家、半笑齋者、畠山之族也、世業金瘡産科、有于世、謂之吉益流也、政慶懼誅、遂冒其姓、以醫自隱、〈○中略〉元和五年、幸長〈○淺野〉之子長晟、移封藝州、畠山之族、始徒廣嶋、政慶不往而死、其子政光、遂移廣嶋、居山口街、於是安藝侯、使人勸出仕焉、政光善繼父志仕、以醫爲業、至是復其姓、曰畠山道庵、以寬文十二年而死、妾谷氏、生子男二人、長曰俊長、始五歳、以故家人悉皆散、二子幼不自存、以國奉寺主僧爲親戚養之、由是俊長出家、爲浮屠氏、妾谷氏、養重宗於其父家、重宗者、先生之父也、及其長豫州松山侯臣中野氏之女、以元祿十五年五月某日、生先生於廣陵城下也、〈○中略〉先生曰、我不吾家、今以醫隱、何汚本姓、復改吉益氏

〔常憲院殿御實紀附録〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0341 村上主殿正邦は、小性をつとめ、寵春を蒙り、しば〳〵加恩あり、本氏河合なれば、舊に復し度よし願ひけるに、上意〈○德川綱吉〉に、村上は本氏に非れども、年頃となへ來り、家門も繁榮せし事なれば、これを嘉號と心得て、改めまじと仰られしなり、

複苗字

〔南留別志〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0341 藤原惠美押勝といへるは、姓を二つかさねたるなり、備前の王藤内、又安藤といふも同じ事なり、小河の系圖の内に、小河垣谷とかさねてなのるあり、苗字をかさねたるためし、昔はあるなり、

〔刊謬正俗〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0341 姓族類
戴仲培曰、複姓多北人、而中國望族、不義通者、豈因居而增、諸葛則諸縣之葛、申屠則屠原之申、母胡〈當胡母〉則母丘之胡、閭丘則頓丘之閭、所謂同門而異戸也、〈代醉〉凌氏曰、里氏之居相城者爲相里、〈統譜〉此類甚多、吾國藤氏之望極多、其出伊勢者、曰伊藤、其出加賀者、曰賀藤、適與諸葛相里義、亦何以複姓爲嫌、

〔貞丈雜記〕

〈二/人名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0342 一足利殿時代の御番帳に、土岐厚駿河守、〈○中略〉新田大嶋左衞門佐などヽ云名あり、是等は同氏多き内、分れ出たる家々にて、各外に氏を附て、本の氏と今の氏を二ッ重ねたる也、〈○中略〉又佐々木大原備中判官と云もあり、佐々木大原は氏を二ツ重ねたる也、

〔異本曾我物語〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0342 助親、〈○伊藤〉心ひそかに思ふむねありければ、兄〈○助繼〉のため、忠あるよしにて、後家にも子〈○助繼子金石〉にも、勝れて孝養精誠をぞ盡しける、〈○中略〉金石にも心やすき乳母をつけてやしなひつヽ、遺言にたがはずして、十三年と申しヽには元服させ、宇佐美宮藤(○○○○○)次郎助經と名乘らせ、娘の万劫にめあはせて、次のとしの秋.ひき具して上洛す、

〔太平記〕

〈十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0342 龍馬進奏事
其比、佐々木鹽冶(○○○○○)判官高貞ガ許ヨリ、龍馬也トテ、月毛ナル馬ノ三寸計ナルヲ引進ス、

〔太平記〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0342 將軍入洛事附親光討死事
結城大田(○○○○)判官親光ハ、此君ニ貳(フタゴヽ)ロナキ者也ト深ク憑マレ進ラセテ、朝恩ニ誇ル事、傍ニ人ナキガ如也ケレバ、〈○下略〉

〔武家儀式〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0342 御評定著座次第
延文三年十二月三日
佐々木信濃五郎左衞門尉
佐々木岩山六郎左衞門尉

〔永享以來御番帳〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0343 一番〈五ケ番著到於御前之〉
土岐揖斐太郎 土岐厚駿河守
土岐本庄福壽丸〈○中略〉
二番
土岐深坂次郎 土岐小柿式部少輔
土岐稻木四郎〈○中略〉
三番
土岐外山近江守 土岐肥田瀨宮内少輔
土岐冬利五郎 土岐外山孫四郎
土岐稻保刑部大輔 土岐金峯孫三郎〈○中略〉
四番
土岐肥田瀨伊豆守 土岐石谷孫九郎
土岐肥田中務少輔〈○中略〉 土岐長澤治部少輔
五番
佐々木大原備中判官〈○中略〉 佐々木鏡民部少輔
佐々木岩山美濃守
永享比ヨリ至文正三職、〈○中略〉御相伴衆、
佐々木黑田備前守高光
佐々木鞍智凝河守高信
文明十二三年比御相伴衆
國持外樣衆
佐々木六角〈○中略〉 佐々木京極中務大輔
外樣衆
新田大嶋左衞門佐 伊勢仁木左馬助
新田岩松兵庫頭〈○中略〉 山名宮田五郎
丹波仁木兵部少輔 四條上杉中務少輔
佐々木京極加賀守〈○下略〉

〔文安年中御番帳〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0344 公方樣御番衆
二番
遠山神野左京亮〈○中略〉 遠山明智大藏少輔
三番
遠山安木孫太郎〈○中略〉 武田下條甲斐守
遠山櫛原駿河入道
五番
大館横田修野亮
外樣衆次第不同
赤松月大和入道〈○中略〉 山名草山與次郎

修姓

〔斥非〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0344 此方人、大抵皆複姓、雖單字者、則百中一二耳、至三字四字、者、乃夷狄之俗也、今之操觚者流、稱人自稱、醜其複姓、不上下、摘其一字以爲稱、是學中國而私擬其風俗、則其意固不惡也、然此事、於文詞中之猶可、如題姓名而單其複姓、則相亂者甚多、當時尚不知其人、況數十百年之後乎、 如是足以惑一レ人、尤非以爲實録而示後人也、夫名與字者、人之所獨也、宜佳者、姓氏者、宗族所同也、不得而改也、雖中國複姓、如百里、端木、石作、新垣、高堂、東方、赤草、諸葛、古野、何異於我複姓也、漢魏以來、有夷人進於中國、猶不敢改其本姓、如鮮于、斛律、斛斯、賀蘭賀若、宇文、耶律之類、可見矣、今我複姓雖厭、而係乎國俗、傳祖宗、則吾未之何、當其素所一レ稱爲上レ直、先儒有山崎闇齋、伊藤仁齋二先生、皆書複姓、其徒亦如之、予〈○太宰純〉初未其是、且傚世之操觚者流、時單人之複姓、近日乃覺其非、遂左袒夫二先生云、

〔刊謬正俗〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0345 姓族類
國人多複姓、或至三字四字者多、不雅馴、今或剪截書之、以混漢姓、無謂尤甚、如三耀〈○三善淸行〉統〈○三統〉理平、昔日已有其例、是亦非也、今且就村田氏之、剪上字則混田中田邊、除下字則混村井村上、將何所信也哉、中華多複姓者、白石、南宮、西野、西鄕、北野、中野、薄野、坂上、古野氏、及代北、大野氏、皆著于姓譜、與國人姓氏相類、何以此爲嫌、夫姓所以分一レ祖、而玩弄變遷而可乎哉、
姓雖非、而猶有説、拓跋之爲元、禿髪之爲源、革夷而從華、敬之爲文、愼之爲眞、避諱而省文、尚可也、今人俗書啓狀、直用複姓、至于詞章著述、則剪截録之、使一身有二姓者何哉、且俗書中、與卑幼、則自姓剪下一字、與尊長、則他姓截一字、以爲敬者、亦獨何哉、甚而至依倣僞、加旁除冠、欲以類似漢姓、如長谷氏之爲張、十河氏之爲一レ何、將欲留侯之裔乎、抑欲平叔之冑乎、可怪之甚也、

〔病間長語〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0345 姓を修することは、古もありと見えたり、文琳菅三など稱したるを見て知るべし、複姓もその儘に用て、見苦からぬもあれども、あまり不雅なるは、辭を脩する上からは、これも脩したきは人情なり、然ども實録傳記に用ゆべきにも非ず、太宰氏〈○名純〉などは、他の稱する所に拘らず、一概に、三字は三字、四字は四字にせしもきこえたることなり、姓を脩するは、あしヽと云ふは、己の所見にて、他はこの脩したるが、我姓なりと云はヾ、是非なきことなり、かほどのことは、かの 當世の公(ヲホヤケ)にて、見遁にしておくも妨あるまじと覺ゆ、

〔隨意録〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0346 我方複姓者、文墨之士、多省一字、書以爲單姓、斯古之所無焉、蓋亦倣宋人與、南宋費滾、梁谿漫志云、今之稱複姓者、皆從省文、如司馬則曰馬、諸葛則曰葛、歐陽則曰歐、夏侯則曰侯、鮮于則曰于、如此之類甚多、相承不巳、

〔秇苑日渉〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0346 姓氏
近世、二字若三四字氏族、皆省爲一字、其字不雅馴者、取偏旁若通音字之、藤原氏也、省曰藤、安藤齋藤遠藤近藤族也、皆省曰藤、又省曰滕、源流不辨、婚姻何別、

〔先哲叢談〕

〈後編一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0346 凡例
一所標姓氏、皆從其人所自稱、雖然我邦姓氏、複者多而單者少矣、其複者至三四字、或不雅馴、文人之
癖、尚雅斥俗、白脩爲單、若南部爲南、益田爲田之類、截去一字、今就二者之、南則混南條南川等、田 則混田村田中等、無信、又至其好奇者、不啻去複爲一レ單、去字偏冠、若藤爲滕、源爲原之類、汎濫尤 甚、至百歳之後、無其人之爲誰、著姓名族、紊倫失實、殆不上レ解、夫姓者、統祖先所自出者也、氏卽族 也、族者別子孫所由分者也、豈可名分世系哉、人弗思耳、

〔時文摘紕〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0346 今の世の人の複姓を、心にまかせてきり、又宇を于と改め、藤を滕と改め、或は我國に無き司馬諸葛などを、姓とする人もあるは、皆兒戯の類にて、其非は論をまたざる事なるを、此俗習元祿享保の頃より始りて、今にては久しくなるまヽに常となりて、比を怪み思ふ人も無く、輕俊の子弟の少し文筆の趣を解したる者どもは、かヽらでは雅ならすと思ふ人さへ多きは、笑ふに堪ぬ事也、

〔授業編〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0346 姓氏
學事ニタヅサハラヌ人ノ上ニテイヘバ、姓氏ノ長キモ短キモ其通リナレドモ、僅ニ詩文ノ業ニ アヅカル人ハ、姓氏ノ重複シテ、雅馴ナラザルヲ嫌ヒ、是ヲ截斷シテ一字姓トナシ用ル事、コレモ蘐園〈○荻生徂徠〉ノ學オコリテヨリ諸州ニ多シ、京師ニテモ宇士新ナド、其義ヲ然リトシ、自身ノ宇野氏ノ上一字ヲ摘テ宇氏トス、一時其弟子輩、ミナ其義ニ從フ、士新、地名ニオイテハ、修シアラタムル事ヲ誡メテナサズ、姓氏ニアリテハ、右ノ如キハ其見識、二人ニ出ルニ似タリトイフ人モアリ、〈○中略〉複姓ヲ修シテ單姓トスルサヘモ、輕薄ニシテ謂レ無キ事ナルヲ、一向ニ他ノ字ヲカヘ用ル人アリ、其輕薄更ニ甚シ、タトヘバ朝比奈氏ノ晁氏ト稱シ、鷹見氏ノ雍氏ト稱シ、十河ヲ何トシ、長谷川ヲ張トスル類ナリ、余〈○江村北海〉ガ撰セル日本詩選ニモ録セル、越後ノ五十嵐俊明、中年ニアリテ、或人ノ説ヲ信ジ、呉俊明ト稱ス、呉ト五ト吾邦ニテ音同ジキ故ナリ、老後其非ヲサトリテ、五十嵐氏ニ復ス、但シ三字姓ハ、文事ニ用イルニハ實ニ雅ナラザレバ、朝比奈ヲ朝、長谷川ヲ長トカ谷トカセンハ、時ニトリテハユルス方モアルベキカ、又自家ノ姓氏ヲ俗ナリトシ、少シノヨリドコロモナキ文字ニカヘテ、漢土メキタリト喜ブ人モアリ、其輕薄益々甚ダシ、要スルニ祖先ヨリ承クルトコロノ姓氏ヲ、自分ノ意ニ任セ、アチコチトナブルハ、理義ニ於テ害アル事ナリ、

〔名字辨〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0347 そも〳〵今世のからまなびをむねとする人の、藤原某、大江某などを、藤某、江某とかくさへあるを、芝(シバ)を司馬(シバ)、長田を張とやうに、いとからめかしてかける人のあるは、いかなる心ぞや、おのれひとりのたはぶれごとのやうおもふめれど、外國より歸化し人の、才もなく功もなくて、姓もたまはらで有し人の裔ならんと思はるヽは、先祖までをはぢしむるわざならずや、

〔十駕齋養新録〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0347 古人姓名割裂
漢魏以降、文尚 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00008.gif、詩嚴聲病、所引用古人姓名、任意割省、當時不以爲一レ非、如皇甫謐釋勸、榮期以三樂尼父、廋信詩、唯有丘明恥、無復榮期樂、白樂天詩、天敎榮啓樂、人恕接輿狂、謂榮啓期也、費鳳別碑、司馬慕藺相、南容復白珪、謂藺相如也、楊巨源詩、不同蘧玉學知非、謂蘧伯玉也、朱君山墓誌、魚山 本志、門豹遺風、謂西門豹也、抱朴子外篇、秦西以過厚親、謂秦西巴也、晉書孫惠傳、竊慕墨翟申包之誠、廋信詩、始知千載内、無復有申包、謂申包胥也、廋信詩、學異南宮敬、貧同北郭騒、謂南宮敬叔也、

〔日本書紀〕

〈二十二/推古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0348 十六年四月、小野妹子、至大唐、唐國號妹子臣、曰蘇因高(○○○)

〔釋日本紀〕

〈十四/述義〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0348 私記曰、今案、海外記第一云々、遣大禮小野臣妹子於大隋、以鞍作福利通事、隋人號妹子臣意、曰蘇因高、又案隋書又如此、今此書記大唐意、可史之誤歟、師説然也、右尚書藤侍郎、菅内史大儒、共同之、
○按ズルニ、蘇因高ハ、小野妹子ナリ、小ハ私兆切、蘇ハ素姑切ニシテ、倶ニ齒音心母ニ屬スレバ、蘇ヲ以テ小ニ當テタルナリ、又因ノ音ヲ妹ノ訓ニ當テ、高ノ音ヲ子ノ訓ニ當テタルナリ、因ハ舌内聲ナレド、イモト讀ムコトハ、伊丹ヲイタミ(○○○)ト云ヒ、文ヲフミ(○○)ト云フト同ジ、

〔懷風藻〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0348 正五位下中宮少輔葛井連廣成二首
五言奉藤(○)太政〈○藤原不比等〉佳野之作一首〈○下略〉
○按ズルニ、萬葉集五卷ナル梅花歌ノ作者ニ、阿氏、土氏、山氏等アルモ此類ナリ、

〔文華秀麗集〕

〈上/遊覽〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0348 江樓春望應制一首〈○詩略〉 野岑守〈○小野氏〉

〔經國集〕

〈一/賦〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0348 小山賦〈○賦略〉 石宅嗣〈○石上氏〉
石上卿小山賦〈○賦略〉 陽豐年〈○賀陽氏〉

〔經國集〕

〈十/梵門〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0348 七言送伴秀才入道一首〈○詩略〉 惟春道〈○惟 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif氏〉
從梵釋等應制一首〈○詩略〉 淸夏野〈○淸原氏〉
同前〈○詩略〉 三春上〈○三原氏〉

〔扶桑集〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0348藤進士東閤諸執事〈○詩略〉 菅丞相〈○菅原道眞〉
陶彭澤〈○詩略〉 善相公〈○三善淸行〉

〔本朝麗藻〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0349 暮春於石尚書菅中丞亭同賦閑庭花自落〈以心爲韻○詩略〉 江以言〈○大江氏〉

〔古事談〕

〈六/亭宅諸道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0349 江帥〈○大江匡房〉者、極相人也、

〔作文大體〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0349 口云詩、菅家江家二流在之、是則本朝兩家也、
管家、菅原氏御事也、江家、江氏之事也、云大江氏是也、

〔大和物語〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0349 野(○)大貳、〈○小野好古〉すみとも〈○藤原〉が、さわぎの時、うての使にさヽれて、少將にてくだりける、

〔大和物語〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0349 良(○)少將、〈○ http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif岑義方〉兵衞佐なりける比、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gifの命婦になむすみける、

〔紫式部日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0349 淸(○)少納言〈○淸原氏〉こそしたりがほにいみじう侍りける人、さばかりさかしだち、まなかきちらしてはべるほども、よくみれば.まだいとたへぬことおほかり、

〔先哲叢談〕

〈續編三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0349 原雲溪
雲溪、小笠原氏、修爲笠原氏、後再修爲原氏、近世自物蘐園、〈○荻生徂徠〉服赤羽〈○服部元喬〉輩、以李王修辭説、風靡一時、鼓動之士、效其所一レ爲、斷截複姓、修爲單者極多矣、至今操觚之徒、概以爲其事自正德享祿之間始矣、其實既在元祿寶永之間、以雲溪之發端

〔先哲叢談〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0349 物茂卿
三河物(○)茂卿者、其先三河荻生人、物部守屋後也、

〔先哲叢談〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0349 藤煥圖、〈○中略〉號東野
東野、本姓瀧田氏、幼爲孤、乃來江戸於安藤氏、因冒其姓、又修爲藤、

〔先哲叢談〕

〈後編七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0349 井金峩
名立元、字純卿、〈○中略〉井上氏、自修爲井、

〔先哲叢談〕

〈續編八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0349 孔生駒
河内日下里、在生駒山麓、國風之所稱、日下、一作草加、又作孔坂、方音皆訓久作嘉(クサカ)、故自修爲孔、於文詞之、

〔先哲叢談〕

〈續編九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0350 滕鳳湫
鳳湫、久野氏、本出藤姓、故於文詞、去艸爲滕、嘗見細井廣澤、談及我土氏族、廣澤又以藤姓、自修爲滕既行之、先是安藤東野、與物徂徠相謀、於文詞上一切爲滕、無安藤、鳳湫又沿時習也、

〔先哲叢談〕

〈續編十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0350 高芙蓉
芙蓉、自少壯、有故屢變姓名、而於文詞、以于高梨郡、〈○本書上文、爲甲斐國高梨郡、然本國原無此郡名、可疑、〉修爲高氏、至其晩暮、歸復本姓、僅二年逝、故無其舊姓、者、概謂高芙蓉

〔本朝文鑑〕

〈二/賦〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0350 硯賦〈○賦略〉 北〈○北村〉季吟

〔多々良問答〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0350 一姓を位に附、官に附て呼事候、たとへば、藤(○)宰相、菅(○)三位などやうに稱之如何、
此事自然ニ書附タル人ヲ喚來候、無別之法樣候歟、

〔類聚名物考〕

〈姓氏九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0350 姓と官職とをとりて稱號とする事
その人の姓に、官職をとりそへて稱號とする事は、上古にはなかりしかども、中古よりこの事出來たり、たとへば菅(○)三品とは、菅原氏の三位なればなり、大和物語に野(○)大貳と見えしは、小野好古は、太宰大貳なりしかばいふの類ひいと多し、

〔隣女晤言〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0350 苗字と字、一字づヽよぶ、
今俗に、菱善、近五などいふたぐひに、家名と俗名とを一字づヽよぶ事、中昔よりの事なり、康富記云、今夜飯新許會、可之三首、内々受指南云々、此飯新は、足利の家臣飯尾新左衞門尉なり、いにしへの曾丹〈○丹後掾曾禰好忠〉もそのたぐひなるべし、

〔袋草紙〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0350 曾丹ハ丹後據也、而始ハ號曾丹後據、其後ハ號曾丹後、末ニ事舊テ號曾丹也、此時好忠歎 之、イツ、ソタトイハレンズラム云々、

〔續近世畸人傳〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0351 熊斐
熊代彦之進、〈初は神代と云、後改む、〉名は斐、字淇瞻號は繡江、世間俗名をいはず、熊斐(○○)をもてしらる、

雜載

〔貞文雜記〕

〈九/書札〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0351 一書狀に、人の名を片苗字に書くを、うやまふ禮とする事、古はなき事也、近代のはやりこと也、古は貴人の名には、一向苗氏をば不書、其次少うやまふ人は、苗字をば二字共に書て、一體の文言脇附等にて、うやまふ禮はある也、書札の法に、人の名を切て、たとへば一行めの下に細と書、二行めの上に川と書き、細川と云苗氏を二ッに切て書く類を忌む也、然るに今は上書にわざ〳〵人の苗氏を切て一字を書く事、古法にも背き、その上無禮なる事也、又下輩へ遺す時は、我苗氏を片苗氏に書く事有、かやうの事も、今は世上一統、法式の如くなりたれは改がたし、是非なく當世に隨て書べし、古法は、如此にあらずといふことは知り置べし、

〔伊豫國順廻記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0351 周敷村〈周敷郡〉 〈百姓〉平太
今の醫師吉元隆平の父にて、闇齋派の學者なり、寬政の頃、大洲侯に聘せられ、毎年兩度づヽ其城下に至り、二三ケ月程逗留す、家老加藤玄蕃よりの手簡に、吉平太樣と、氏を省字して書きたり、敬信有らしものとは見ゆ、

〔南留別志〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0351 姓ありて苗字なきは京貫の人なり

〔南留別志の辨〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0351 いにしへは姓と氏とのみあり、苗字は近き世に始れり、苗字なき世には、諸國も苗字なし、苗字始りてよりは、京貫の人もあるなり、

〔南留別志〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0351 今の世には、苗字を姓とさだむべきなり、姓のしれぬ人あるゆゑなり、

〔過庭紀談〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0351 問フ、然ラバタトヘバ、佐々木氏ノ人ニ附テ云ハヾ、源ハ唯其本氏ト云ハンヤ、曰然リ、本姓ハ源氏ニテ、後分レテ今姓佐々木氏ニナリタルナリ、氏ヨリ氏ノ分レシナリ、姓ヨリ氏ニ分 レシニ非ズ、佐々木ヨリ又分レテ、黑田、京極、朽木、松下、木村、橋本、三井等、其外色々ノ諸氏トナル、タトヒイクツニ分レテモ、皆ヤハリ同前ニテ、氏ヨリ氏ノワカレシニテ、姓ヨリ氏ニ分レシニ非ズ、ソレ故段々右ニ云如ク、源平藤橘ノ類、皆ヤハリ氏ナル故ニ、佐々木佐渡守源某ナドヽ、氏ヲ二ツアゲテ書クベキ樣、決シテ無シ、モシ又源平藤橘ノ類ハ、彌氏ニハ非ズ、姓ナリト思ハヾ、猶サラ男子ノ姓ヲ稱スルコト、元來曾テ無キ法ナル上ヘ、氏ト姓トヲ連ネテ題署スルコト、ナホサラ決シテ無キコトナリ、問フ、然ラバ今世間ノ人、物茂卿〈○徂徠〉ヲ始メ、今ノ氏ヲサシオキテ、源平藤橘ノ類ノ本氏ヲ書ク人多シ、ソレハ苦シカラズヤ、曰大ニ非ナリ、一旦分レテノ後ハ、昔ノ姓氏ヲ題署スルコト、是亦決シテセヌコトナリ、今ノ苗字ヲ題署スベシ、太宰氏、〈○春臺〉姓ト氏トヲ分ケテ説ヲ立テシハ、ツガモ無キ妄説ナレドモ、今ノ氏ヲ書セヨト云ヘルハ甚好シ、モシ又他姓ヲ冒セシ人復姓スルハ、是レハ格別ノコトニテ、幾代タチタリトモ復姓スベシ、其外ハ今ノ氏ヲステヽ、昔ノ氏ヲ書キ稱スルハ非ナリ、

〔鹽尻〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0352 近世武家姓氏
飯尾は三善の姓なり、〈肥前守爲規、右衞門尉爲定等の一流なり、明應の頃の人、〉多賀は中原姓、〈豐後守高忠〉松田は藤原、〈右京亮秀知等〉上野は源姓、〈陸奥守信忠等〉和田は源氏、〈伊賀守惟政等〉宇喜田は三宅姓、〈直家等〉柴田は平家、〈修理亮勝家等〉山中は橘氏、〈山城守長俊等〉田中は橘氏、〈筑後守吉政等〉堀尾は在原氏、〈帶刀長吉晴等〉高橋は大藏姓、〈右近將監元種等〉瀧川は源氏、〈又姓異り、家替り、是は下總守雅利の一流也、〉吉田は源、佐々木族、大塚は平、鈴木は穗積、〈但遠江井伊谷人、鈴木三郎大夫重好は源氏なり、永祿の頃の人なり、此一流は源氏か、〉菅沼は源氏、二郎右衞門元景は、遠江國井伊谷人なり、宮崎は藤原、塀和は源氏、藥師寺は橘氏、芳賀は淸原氏、佐治は平氏、布施は三善氏舟田は平家、右は近世武家の姓氏、實録に依て記之、此外石田三成は藤原、大谷吉隆は高階氏なりし、

〔太平記〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0352 山門牒送南都
諸軍勢、大將ノ前後ニ馬ヲ早メテ、白鳥ノ前ヲ打過ケル時、見物シケル女童部、名和伯耆守長年ガ、引サガリテ打ケルヲ見タ、此比天下ニ結城(ユウキ○)、伯耆(ハウキ○)、楠(クスノキ○)、千種(チクサ○○)頭中將、三木一草トイハレテ、飽マデ朝恩ニ誇タル人々ナリシガ、三人ハ討死シテ、伯耆守一人殘タル事ヲト申ケルヲ、〈○下略〉

〔折たく柴の記〕

〈中〉

七月〈○寶永六年己丑〉三日、前代〈○德川家繼〉御誕生の事おはします、すなはち世良田をもて稱しまゐらせらる、これは俗忌により、御稱故を改められし所なるべし、〈俗忌に、丑の年の人は、他姓を稱するの事あり、〉

〔基熙公記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0353 寶永六年七月九日、若君〈○德川家繼〉誕生、世良田ナベ松ト名付、

〔有德院殿御實紀附録〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0353 此安左衞門〈○山川忠義〉といへるは、性質健固なる人にて、〈○中略〉市人等恐るヽ事大方ならず、〈○中略〉山川白酒といふを商ふ者も、この人の苗字を呼事を恐れ、招牌にも山川の字をば削りさりしとなり、
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00001.gif稱號
稱號ハ、苗字ノ類ナリ、中古以降、居住ノ地、又ハ所領ノ地等ヲ以テ、姓氏ノ外ニ之ヲ稱セシニ起リシコト、猶ホ苗字ニ異ナラズ、而シテ稱號ハ、特に其人ヲ尊敬スルヨリ起リシモノナレバ、親王家搢紳家等ニ限レルガ如シ、

名稱

〔書言字考節用集〕

〈四/人倫〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0353 稱號(シヨウガウ)〈勻會、名號曰稱號、〉

〔鹽尻〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0353 和俗家の稱號を名字と呼 和俗、家の稱號を名字と呼、是を近世名と字との事と心得、あたらぬ事として、苗字などと書は、却て誤れるにや、是は中頃、武家出身せし着、其鄕里本貫の名田の字を呼しより名字と云、〈天野北條等のごとし〉人の名と字にてはなし、たとへば居所を以て呼も同じけれど、是は其人を尊んでの事なり、一條殿、九條殿、鎌倉殿等なり、公家衆の稱號、花山院、德大寺なんど申も、花山院氏、德大寺氏と云事、更になし、近世名字に氏を添て、武田氏、長尾氏なんどヽ云も、古書にはなき事なり、この頃は又これを姓と書く、林家の學士を姓は林など記せり、いざや姓氏は、 むかしより勅授にて、今は私に姓とも氏ともいはんは、いとも忌憚べき事なり、

〔過庭紀談〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0354 堂上方ノ、近衞、一條、二條、九條、鷹司花山、德大寺ナド云ヘル類ヲ氏ト心得テ、藤原定家氏冷泉、藤原房嗣氏近衞、藤原敎平氏鷹司ナドヽ書キシ書アリ、是レ藤原ヲ姓ト思ヒ、、二條鷹司ノ類ヲ氏ト思ヘルナリ、是亦誤ナリ、アレハ各其家號ナリ、氏ニハアラズ、堂上方ニテハ、今トテモ其義明ラカニテ、御自身ニモ、近衞一條二條ナド云ヘル類ヲ氏トハサラ〳〵心得玉ハズ、唯其家ノ號ナリト云コトヲ御存知ナリ、

〔昔傳拾葉〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0354 一代稱號の事
公家にて家名を稱號と云、武家にては名字といふ、遙に降り、工商の家にては何屋と云の類なり、されば其號に(○○○○○○)、一代號有(○○○○)、代々の稱號あり(○○○○○○○)、たとへば九條殿御家にて申さば、兼實公より以來、都て代々九條殿と號す、縦其主は他所に住居ありとも、稱號はかはる事なし、此家極まらざる以前に此號有、いはゆる九條右大臣師輔公、同大相國伊通公の類也、これは當時の御住所を指して申も有り、又何となくふと稱號を付けさせ給ふもあり、是皆一代の號也、此事諸家に有り、三條大納言通冬といへば、三條家と心得人もあれど、是は中院也、太秦の内府信淸公、衣笠内府家良公など申も皆同事也、たとへ又諸家極りても、其家一代々々にて別名ある事あり、洞院太政大臣公守公を山本と號し、久我の内府通基公を愛宕といふの類、家々に多き也、されば家さへ極まらば、あなたこなたと別名は有間舗事なれど、深き御いはれあるにや、さま〴〵の別名をつきたまふ也、

〔二判問答〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0354 一廷尉、以小路名稱號(○○)事不子細哉、同官數輩時、輙爲別其人、稱居所事連綿歟、所謂六角判官、京極判官、七條判官、〈赤松光範〉堀川、姉小路、高倉等、如此仍始可號事、不巨難哉、
廷尉、呼小路名連綿也、始可號事、又不臣難歟、但可事也、

〔宣胤卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0355 永正十四年二月七日
禁(折紙也)裏御一獻可爲(申沙汰)、來十一日獻料、兼日早々可進勾當局候也、
二月 尚顯
武者小路殿〈縁光卿〉冷泉(下殿)殿〈曉覺〉冷泉殿〈宗淸〉飛鳥井殿〈雅俊卿〉中御門殿〈宣秀卿〉東坊城殿〈和長卿〉中山殿〈康親卿〉姉小路殿〈濟繼卿〉四條殿〈隆永卿〉三條殿〈公兄朝臣〉日野殿〈内光朝臣〉高倉殿〈永家〉中院殿〈通世〉葉室殿〈賴繼〉柳原殿〈資定〉阿野殿〈季時〉
以上稱號(○○)一行也

親王家稱號

〔伏見宮系譜〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0355 人皇九十八代崇光天皇皇子榮仁親王、號伏見殿(○○○○)、
應永八辛巳年七月、舊居爲修覆、暫移于嵯峨洪恩院、〈小河禪尼山莊〉自是又移于有栖川、〈勘解由小路武衞山莊〉仍號有栖川殿(○○○○○○)、
同十六己丑年六月、還于伏見舊居、故復號伏見殿(○○○○○○)自是以來、代々有伏見殿之稱(○○○○○○○○)、

〔貞常親王記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0355 康正二年十月徒内御使源黄門來、故院〈○後崇光〉被用異紋以下之事、其儘永世當家可用、且永世伏見殿御所ト可稱(○○○○○○○○○○)叡慮之旨傳申、

〔桂宮系譜〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0355 桂宮 稱八條(○○○)、常盤井(○○○)、京極(○○)、桂(○)
正親町院帝第一宮 陽光院贈太上天皇誠仁親王第六御子
智仁親王 〈一品式部卿〉
母新上東門院晴子、勸修寺贈内大臣藤原晴右公女、〈○中略〉
公仁親王 〈二品上總太守〉
明和七年七月十三日爲家主代
同日勅命之旨、傳奏廣橋大納言兼胤卿、姉小路前大納言公文卿被仰渡
京極宮(○○○)相續之事、東宮御受禪之後、二宮御降誕候者、御相續可仰出候事、
京極宮(○○○)家領之儀、御相續相極候迄〈茂〉、唯今迄之通、其儘被差置候事、

〔有栖川家系〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0356 後陽成天皇第七皇子
第一位第一代 好仁親王〈二品彈正尹、始聖護院、〉
後水尾天皇第六皇子
一品式部卿第二代 良仁親王〈○後西院〉號花町又桃園(○○○○○○)、〈○中略〉
後西院天皇第二皇子
一品式部卿第三代 幸仁親王、號有栖川(○○○○)、〈○下略〉

〔親王家系圖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0356 閑院殿(○○○)東山天皇
直仁親王〈閑院宮祖(○○○○)〉 〈寶永七八十二親王家御取立、享保三正十二稱閑院(○○○)、〉

搢紳家稱號

〔海人藻芥〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0356 執柄家老、近衞(○○)、九條(○○)、二條(○○)、一條(○○)、鷹司(○○)、以上此五流也、

〔雲上明覽〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0356 御攝家方
近衞殿〈陽明御殿(○○○○)ト云〉 鷹司殿〈楊梅御殿(○○○○)ト云〉
九條殿〈陶化御殿(○○○○)ト云〉 二條殿〈銅駄御殿(○○○○)ト云〉
一條殿〈桃華御殿(○○○○)ト云〉

〔宇槐雜抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0356 保延二年十二月十三日丙午、今日予〈○藤原賴長〉慶申也、〈○中略〉參近衞殿(○○○)、〈爲慶於一條殿○賴長祖母藤原全子〉
保延三年八十五、參近衞殿

〔二水記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0356 永正十四年三月廿三日、攝家申沙汰之御返有之、近衞殿(○○○)、〈○尚通〉花山院殿(○○○○)、〈○政長〉、西園寺祗候、小御所爲御座敷、午時出御、〈北御妻戸間爲御座、敷一帖、御引直衣垂纓、〉陽明(○○)、〈○近衞尚通〉前左府、〈○花山院政長〉西園寺中納言等、自妻戸 問出入參候、六間南方、東上北面、各令候給、〈陽明御衣冠、花山直衣、〉

〔二水記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0357 永正十五年三月十三日、外樣申沙汰也、御室禮臺盤所如去年、陽明(○○)〈○近衞尚通〉花山院(○○○)、轉法輪(○○○)、三條(○○)、御相伴也、

〔薩戒記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0357 應氷卅三年四月七日辛未、明日平野祭也、〈○中略〉出車被右中將親賴朝臣、件御敎書表書云、權中將殿ト書之、不其人之由返答、返遣御敎書、又二條(○○)中將殿ト書之、又返送之、仍辨示送云、貴下不二條家門哉、答云、所候彼家門也、辨云、然者何不二條中將哉、中將云、雖家禮其家門稱號(○○○○)事未知給、於于今者、枉可賜鷹司新中將、〈兼賴朝臣、號鷹司(○○)中將、〉歟云々、辨云、所望之上者、所書遣也云々、頗比興事、不注之也、

〔臥雲日件録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0357 康正三年五月廿二日、雲章來、話次及二條(○○)攝政之事、蓋雲章之祖也、雲章曰、東福本願旦那光明峯寺、〈○藤原道家〉有四男、嗣九條家(○○○)、二男二條(○○)、三男一條(○○)、四男爲鎌倉將軍、然二條不孝子也、其後九條早世、一條子、皆自二條一嗣之云々、

〔兼香公記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0357 元文元年九月十六日丁未、九條二條(○○○○)當家〈○一條〉等見家傳、中世室町家、甚用二條家、仍昇進異于兩家、近年九條家、零落之體也、予亭自峯殿下各別被思食、却而蒙勘氣、二條殿一代、當職〈○内覽〉不絶、九條當家早世多、如何、陽明家(○○○)、有經平公一代、雖然陽明家雖嫡流、彼家信尋公爲相續、予亭昭良公爲相續其後陽成院宮也、二條家、何等之故此歟、只可氏神助事也、

〔海人藻芥〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0357 閑院者(○○○)、三條(○○)、西園寺(○○○)、德大寺(○○○)、今出川(○○○)、洞院(○○)等也、此外末葉數輩也、不勝計云々、

〔雲上明覽〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0357 閑院家(○○○)
正親町 滋野井 姉小路 清水谷 四辻 小倉 河鰭 阿野 橋本 花園 裏辻 梅園山本 大宮 武者小路 風早 押小路 高松 園池 藪 西四辻 中園 高丘

〔海人藻芥〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0357 花山院(○○○)、中山(○○)、是一流也、

〔雲上明覽〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0358 花山院家(○○○○)
中山 飛鳥井 難波 野宮 今城

〔海人藻芥〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0358 中御門(○○○)、園(○)、持明院(○○○)、是一流也、

〔雲上明覽〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0358 中御門家(○○○○)
中御門 持明院 園 東園 壬生 高野 石野 石山 六角

〔安樂行院記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0358 大藏卿通基建立也、但於根本草創者、爲父基賴本願、當初去康和年中、爲廓内持佛堂、建立一宇草堂、其時以彼院宇持明院(○○○○)、其後送年序周備、而去保安三年、基賴逝去之後、彼通基朝臣、天治年中、更揚虹梁之構、終成風之功、奉置西方九品聖容矣、大治五年、遂供養齋筵云々、其時供養日、鳥羽院臨幸之由、雖記録之説、未分明勘決也、其後以持明院號家之稱號(○○○○○○○○○○○)、以披佛閣之、令稱安樂行院了、〈改彼寺年月無分明所見也〉

〔薩戒記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0358 應永卅三年八月廿八日己丑、傳聞今日爲御不豫御祈、内近臣七人、參詣七佛藥師、去年御惱之時有此事、仍有沙汰云々、〈○中略〉
法雲寺〈號蓼倉、法勝寺北也、〉 中御門(○○○)宰相宗繼卿〈去年同勤之〉
九月九日己亥、後聞平座公卿、中御門(○○○)中納言〈宣輔〉一人參仕、參議不參、
○按ズルニ、宗繼ハ中御門家ニテ、宣輔ハ勸修寺家ナリ、

〔二水記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0358 永正十五年四月十三日、巳一點有陣宣下、天台座主之義也、上卿中御門(○○○)中納言、 五月廿七日、中御門(○○○)前大納言、近日上洛、十三四年迄、在于伊勢國
○按ズルニ、中御門中納言ハ宣季ニテ、中御門前大納言ハ宗綱ナリ、共ニ藤原氏ナレドモ、宣季ハ勸修寺家ナレバ、其流異ナレリ、

〔海人藻芥〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0358 御子左(○○○)、〈斷絶畢〉冷泉(○○)、是一流也、

〔雲上明覽〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0359 御子左家(○○○○)
冷泉兩家 藤谷 入江

〔榮花物語〕

〈三十四/晩待星〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0359 民部卿〈○藤原長家〉御子のだいふの君とて、いとうつくしうものし給ひつるもうせ給ぬれば、〈○中略〉民部卿殿も、いみじう覺しなげく、みこひだり殿(○○○○○○)とて、大みやなる所をいとおもしろくつくりてぞものせさせ給ける、

〔拾芥抄〕

〈中末/諸名所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0359 御子左〈三條坊門南、大宮東、兼明親王家、長家卿傳領之、〉

〔倭訓栞〕

〈中編二十五/美〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0359 みこひだり 拾芥抄に、御子左は、三條坊門南、大宮東、兼明親王家、長家卿傳領之とみゆ、卽前中書王也、もと源姓を賜はり、左大臣なりしを、圓融院の時、親王としたまへり、長家卿は、御堂關白道長公六男、俊成卿の曾祖父也、體源抄に、御子左馬頭兼實卿とも見ゆ、榮花に御子左の書たまへる後撰二十卷と見えたり、小倉宮と稱す、

〔尊卑分脈〕

〈六/藤原〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0359 法成寺關白道長公六男
御子左流(○○○○)
長家〈權大納言民部卿励/一流祖〉 忠家 俊忠 俊成(御子左流) 定家 爲家 爲氏(御子左流)
爲世(御子左流) 爲通 爲定 爲遠 爲衡

〔東野州聞書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0359 一御子左の家(○○○○○)と申は、爲定、爲遠、爲衡也、俊成をば五條(○○)三位と申、定家は京極(○○)と申、爲家を中院(○○)と申、爲氏を冷泉(○○)と申、爲世を二條(○○)と申也、

〔海人藻芥〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0359 日野家者(○○○○)、參議有國後胤、當時仕朝家者、東洞院(○○○)、裏松(○○)、柳原(○○)、町(○)、廣橋(○○)、北小路(○○○)、武者小路(○○○○)等也、

〔雲上明覽〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0359 日野家(○○○)
日野 廣橋 柳原 烏丸 竹屋 日野西 勘解由小路 裏松 外山 豐岡 三室戸 北小路

〔建内記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0359 嘉吉元年十月九日壬寅、日野中納言、〈兼鄕卿〉
此人事、本來勘解由小路(○○○○○)、又異名廣橋(○○)也、近代一向號廣橋也、普廣院殿〈○足利義敎〉御代、日野總領遺跡、及横入之御沙汰、暫時號日野(○○○)了、其後違時宜卽被默之、歸住廣橋宿所了、其後一向蟄居之間、稱號之樣、久敷不沙汰、今度仗講御點、日野中納言之由、被勅筆之處、右大辨宰相、〈資親卿〉申所存之間、被尋仰之間、廣橋之一流、昇進猶勝也、父祖之跡也、非嫌存也、日野之稱號、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00015.gif資親卿也、鹿苑院殿〈○足利義滿〉御代、被御沙汰、如資藤卿日野了、廣橋之流、初者號日野、〈誰人哉不審〉其後姉小路(○○○)、勘解由小路(○○○○○)等稱之、所詮久〈○久字恐誤〉家稱號、只依時多號在所歟(○○○○○○○○)、簡要者、日野廣橋兩號、只可叡慮之由申入了、且中山宰相中將、〈定親卿〉勅問之時、日野之號、不一人之由申入云々、以上今日演説之分、大概記之、黄門又云、御當流ニモ或號勸修寺、或號坊城、依時不同歟、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00015.gif一人歟云々、

〔大日本史〕

〈氏族八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0360 日野家、出右大臣内麻呂長子刑部卿眞夏、七世孫式部大輔資業、始稱日野、〈按本書、(尊卑分脈)先是眞夏孫家宗、剏日野法界寺、據此日野、蓋因地命族也(○○○○○○)、〉

〔海人藻芥〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0360 勸修寺(○○○)者、内大臣高藤公後胤也、當時朝庭ニ仕フル輩多之、經任卿子孫、〈中御門ト號ス(○○○○○○)、當時頗斷絶歟、〉甘露寺(○○)、苫田(○○)、勸修等(○○○)、中御門(○○○)、〈又號長谷(○○○○)〉萬里小路、九條、葉室、土御門(○○○○○○○○○○○)、〈當 時頗斷絶歟〉坊城(○○)、

〔雲上明覽〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0360 勸修寺家(○○○○)
甘露寺 葉室 勸修寺 萬里小路 淸閑寺 中御門 坊城 芝山 池尻 梅小路 岡崎穗波 堤

〔園太暦〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0360 貞和四年四月十九日、藤長卿談稱號事、
抑稱號事、商量勸修寺前大納言候之處、返狀如此候、此上者、可甘露寺之由相存候、且新中納言可吉田之由奉之、旁無益候、仍決定此寺號也、〈○中略〉
不審候(洞院返事)處、悦承了、御稱號事、勸修寺前大納言狀、加一見返進候、如此事被御一族治定、更不子細候歟、如彼卿申、誠葉室にも可御回答候哉、勸修寺號之時も、彼卿回答候ける樣承候しと覺候、 〈○中略〉
四月廿一日 判
委細被仰下(中納言入道覺源返事)候畏入候、號事、甘露勿論候、葉室前中納言返狀、數日不出候、一昨日出候、如此承候、尤本望之由申入候き、仍今はひしと存定たるげに候

〔雲上明覽〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0361 四條家(○○○)
四條 山科 西大路 鷲尾 油小路 櫛笥 八條

〔雲上明覽〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0361 水無瀨家(○○○○)
水無瀨 七條 町尻 櫻井 山井

〔山科家雜掌言上文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0361 山科家雜掌重友謹言上、右子細者、山科鄕之内、東西庄之事、爲當家名字之地(○○○○○○○)、譜代知行之段、勿論也、〈○中略〉
文龜二年十月日

〔海人藻芥〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0361 四流源氏者、久我(○○)、堀川(○○)、土御門(○○○)、三條坊門(○○○○)也、是皆兄弟四人之流也、

〔臥雲日件録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0361 康正二年十一月廿七日、赴北野中院儀同三司徹堂通公禪門七年忌請、先詣北野廟、遂到中院卽與主人對面、〈○中略〉問中院之先、則曰、當家四流之一也、一曰久我(○○)、一土御門(○○○)、一堀川(○○)、一曰中院(○○)、皆源家也、延喜之子中書親王、謂之前中書親王、村上天皇之子中書親王、謂之後中書親王、上代不文書者、不中書親王之號也、所謂四流、出於後中書親王者也云々、

〔吉田家日次記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0361 貞治五年十二月十九日丙寅、今日入道殿、被新大卿、〈兼繁宿禰〉云、副官事珍重也、就其居所事、於當流者、參大以來于今冷泉也、於一條家者、此二三代爲一條也、而爲一條之條、其理又不叶歟、又於冷泉者、當家家嫡之外無其例、故兼繼宿禰〈參大弟改世〉號京極畢、於冷泉者、兼熙副官之後可稱號也、向後庶子、不稱號之上者、今又不叶也、所詮北小路歟、又室町歟之間、可稱號、兩小路之間可計也云々、
新大卿申云、冷泉事、誠五代、巳爲家嫡稱號畢、兼繁不稱號之條、可存知也、然者當時居住北小路猪熊也、又此御亭北小路室町也、相兼兩方之上者、可北小路大副云々、
入道殿重被仰云、於冷泉之稱號、者、家嫡之外不稱號也、所詮北小路之稱號、可其謂之由被仰了、」大卿又申云、條々得其意候、可北小路云々、問答之旨趣如此也、云冷泉之稱號、云家之文、家嫡之外、雖子孫稱號也、

〔豫章記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0362 同〈○正平〉廿三年〈貞治六年也〉爲山方退治、仁木方大將ニテ、宇和喜多兩郡へ被馳向、〈○中略〉四月、大田陣落ス、軈テ鎭西ヘ注進ス、通直可御渡海事定矣、〈○中略〉同〈○閏六月〉八日、花見山城ニ攻陣取、西園寺(○○○)、山方衆相加ルノ間、其勢雲霞ノ如シ、

〔歴名士代〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0362 從五位下
藤實淸(豫州西園寺)〈(實淸一本作實光)永祿三七十八、同日左少將、同八ヽヽ出家、〉

〔陰德太平記〕

〈四十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0362 豫州西園寺公廣土州發向附大友勢豫州渡海之事
元龜三年ノ春、豫州ニ御坐ス西園寺公廣ヨリ、軍士數千差遣シ、土州幡多郡内所々ヲ切取ラントスル事度重リヌ、一條兼定朝臣ヨリ、此由大友宗麟ノ許へ被仰遣テ、急ギ援兵可渡トゾ賴給ケル、

〔土佐軍記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0362 一條殿之系圖
抑光明峯寺道家公と申は、九條殿にて御坐す、道家公三男實經公より分れて、一條家と言、實經公より十代妙華寺殿敎房公の二男房家公、土佐へ下向有之、土佐一條殿(○○○○○)と言て、國司に侍り給ふ、土佐國侍は、此御所にて下知につき、此房家公の嫡子を房道公と號、京一條殿(○○○○)冬良公と申て、逝去有て、男子なければ、道房公を養子にして、京一條殿の家をつぐ、其弟房冬と號、土佐一條殿と是を云 也、

〔勢州軍記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0363 勢州諸家第一
北畠一家者、木造御所也(○○○○○)、號油小路也(○○○○○)、是顯能公之子息、北畠中納言顯俊卿、始守木造城、爲副將軍、其子中納言俊通卿、始奉後小松院、居住於壹志郡木造、爲國司之與力

〔飛州軍覽記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0363 飛騨國司滅亡之事
國司姉小路(○○○)賴纜朝臣ハ、小鷹利ノ城主也、先祖代々公家ヨリ出テ、當國ノ國司タリ、建武年中、後醍醐天皇、南朝ニ皇居ノ時、當州ノ國司ニ定メ給フ、四代目ニシテ參議藤原尹纜朝臣ハ、小島ノ城ニ居タリ、此國司一國ヲ治テ繁榮ナレドモ、南朝ノ宮方日々ニ衰テ、足利尊氏、天下ヲ奪フ、然レドモイマダ一統セズ、依之暫クハ無事ナリシトイヘドモ、義滿ノ時ニ至テ、〈○中略〉應永十八年八月十三日、小島落城シテ、國司尹纜ヲバ朝倉ノ家人井上新兵衞討之、凡國司四代年數八十三年也、

雜載

〔常照愚草〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0363 一帝皇をば、後鳥羽院などヽ後(ゴ)と申也、攝家をば後(ノチノ)成恩寺殿などヽノチと申也、

〔玉勝間〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0363 後京極のとなへ
後京極攝政は、つねには後字、音にてごとよむを、同じ愚管抄に、後の京極殿と、のヽ字をそへてかきたり、

〔梅園日記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0363 大臣稱號後字
樋口殿記云、臣下ニ後(ゴ)トヨムハ、後京極、後德大寺、後成恩寺バカリ也、有職玉の枝云、後(ゴ)といふは、天子の號計(バカリ)にて候哉、答、其通りにて候、然れども後德大寺、後京極、是は古へよりごとよみ來る故、其通りよみて不苦候、其外は後(ノチ)と讀たるがよく候、後(ノチノ)成恩寺殿などよみ申候、〈關秘録に、後京極、後德大寺は、音に後(ゴ)と唱ふ、是は其人品德義を賞美してなり、○中略〉年山紀聞云、和長卿日記云、凡儒中ノ故實者、天子之追號、後字用音讀、大臣稱號之時、後字用訓讀、是通法之故實也云々、又大臣稱號之内、後京極殿之一號、人皆後字用音歟、是無 殊事、只以言好之(ヒキ)義也、故自由之讀也、何後(ノチ)の京極殿可(ト)申事、有其煩哉、玉かつま〈からあゐの卷〉に、愚管抄に、後の京極殿と、のヽ字をそへて書たり、これ後の京極と申しヽ證也とあり、和長卿の御説の證とすべし、さて實定公をも、後の德大等殿と申べき也、其證は、隆信朝臣集の詞に、のちの德大寺の左大臣、大納言と申しヽ時云々〈肖栢九代抄、新古今の條に、後ノ德大寺左大臣、〉とあり、又續世繼〈こけ衣の卷〉に、のちの二條殿の御子には云々と云り、すべてのちとよまん事論なし、


Last-modified: 2019-03-15 (金) 09:48:56 (386d)