p.1282 更衣ハ、天皇ノ御衣ヲ更サセ給フ便殿ヲ謂ヒテ、即チ其殿ニ在リテ更衣ヲ主ルヲ以テ名トシ、亦御寢ニ侍セリ、其位女御ヨリ下レルモノニテ、多ク五位ニ過ギズ、罕ニ四位ニ進ムモノアリ、亦陞リテ女御ト爲ルモノアリ、此稱ハ桓武天皇ノ更衣乙魚ガ、伊呂波字類抄ニ引ク所ノ本朝事始、仁明天皇承和三年ノ條ニ見ハレタルヲ以テ始トシ、冷泉天皇以下亦此職ニ居ルモノナシ、源平盛衰記増鏡ナドニ稀ニ其名見エタルハ古キヲ摸シテ寫シ出セルナラン、カク此名ノ絶エシハ、蓋シ尚侍典侍ノ名ヲ以テ、御寢ニ侍スルモノアルニ由レルナルベシ、
p.1282 鯉きじなどは、この頃こうみ給へる、ときのかうい(○○○)の御もとに奉り給へり、
p.1282 更衣〈カウイ〉
p.1282 更衣(カウイ)
p.1282 永平〈◯孝明年號〉十八年十二月癸巳、有司奏言、〈◯中略〉臣愚以爲、更衣(○○)在二中門之外一、處所殊別、〈(中略)續漢書曰、更衣者、非二正處一也、園中有レ寢有二便殿一、寢者陵上正殿、便殿寢側之別殿、即更衣也、〉
p.1282 更衣事
案之、更衣は便殿なり、主上御衣など著しかへ給ふ所なり、故に號二更衣一歟、又寢側の別殿なる故に、更衣を御息所とも稱するか、休息の儀なり、水原抄には、更衣後に御息所と見えたり、猶昇進の儀歟云々、
p.1282 清凉記云更衣、〈其員十二人(○○○)安不レ滿二其數一〉以二尚侍一宣二下諸司一、聽レ著二禁色一、
p.1282 仁明天皇承和三年、紀朝臣乙魚授二從四位下一、柏原天皇〈◯桓武〉之更衣也、
p.1282 承和九年正月戊戌、是日詔授二從五位下秋篠朝臣康子正五位下、無位山田宿禰近
p.1283 從五位上一、並太上天皇〈◯嵯峨〉更衣也、
p.1283 更衣從五位上藤原朝臣㓗子〈右大臣内麻呂孫、散位從四位上長岡女、〉
p.1283 貞觀十八年三月十三日辛卯、皇子貞數爲二親王一、年二歳、母更衣、參議太宰權帥從三位在原朝臣行平之女也、皇女識子爲二内親王一、年三歳、母更衣、故神祇伯從四位下藤原朝臣良近之女也、皇子長頼賜二姓源朝臣一、年二歳、母更衣、從五位下行信濃權介佐伯宿禰子房之女也、
p.1283 貞觀十八年十一月廿五日戊戌、皇子貞眞年一歳、貞頼年一歳、並爲二親王一、貞眞親王、母更衣、齋宮頭從五位上藤原朝臣諸藤之女也、貞頼親王、母更衣、木工允正四位上藤原朝臣眞宗之女也、
p.1283 贈皇太后宮〈胤子〉御事〈宇多天皇女御、醍醐天皇母儀、〉
勸修寺贈太政大臣〈高藤公〉女、〈◯中略〉仁和四年九月廿二日爲二更衣一、同日聽二禁色一、
p.1283 太政官符
中務省
三世徳姫女王 源朝臣久子 藤原朝臣靜子
右左大臣藤原朝臣宣、奉レ勅宜レ爲二更衣一者、
辨 左大史
寛平四年十二月十五日
p.1283 依子内親王〈(宇多皇女)母更衣源貞子、民部卿昇女、〉
p.1283 更衣源封子
p.1283 代明親王〈(醍醐皇子)母更衣藤鮮子、伊豫介連永女、〉
p.1283 天慶二年、〈己亥〉正四位下源高明、〈◯中略〉母右大辨源唱朝臣女、〈更衣從四下周子〉
p.1284 天慶七年、〈甲辰〉參議從四位上源兼明、〈◯中略〉母參議藤原菅根女、〈更衣從四上淑姫〉
p.1284 下二宣旨一事云々 補二女御一事〈更衣者、尚侍宣二下所司一聽二禁色一、〉
p.1284 内親王以下宣旨
更衣事、大臣於二御前一承二可レ成之由一、即召二藏人一令レ付レ簡、聞二案内一付二第一一云々、件等事可二案内一、
p.1284 女房 上臈
上古可レ然人女、皆爲二女御更衣一、
p.1284 天安二年正月辛丑、紀朝臣靜子〈◯文徳天皇更衣〉授二正五位下一、
p.1284 仁和元年十一月廿七日丁未、授二更衣從五位下藤原朝臣元子從五位上一、
p.1284 正月廿日内宴事
仁和四年正月己未御記云、太政大臣送二朕書一云、内宴陪膳、古跡以二釆女一爲二奉仕一之、而先帝令二更衣陪膳一、令レ問二古老一、釆女等自奏レ之、若無二更衣一復レ舊用二釆女一、
p.1284 保元四年正月廿一日丙子、今日内宴也、〈◯中略〉次陪膳典侍、〈此役更衣役レ之、然而無二其人一之故也、〉
p.1284 凡設レ座者、〈◯中略〉四位命婦及更衣藏人兩面草墩、〈藍染兩面表縁、紺調布裏、〉
p.1284 凡内親王三位已上内命婦及更衣以上、並聽下乘二絲葺有レ庇之車一、并著中緋牛鞦上、
p.1284 凡車馬從者、〈◯中略〉更衣十人、
p.1284 諸使事
更衣已上初參後朝使〈殿上六位以上〉
女御更衣養産使〈藏人◯一本藏人下、有二所民甫三字一、〉
p.1284 皇后産事
皇后有二御産事一、先遣二中使一被レ奉二問之一、七夜仰二内藏寮一令レ設二饗饌一、有レ賜二祿物一、〈或穀倉院設二屯倉等一也〉女御更衣産所、七p.1285 夜遣レ使賜レ物、
p.1285 上御局〈號二藤壺上御局〉
后女御更衣參上所也〈近代爲二御所一〉
上御局〈號二弘徽殿御局一、〉
是御行ナド有所也、女御更衣可二參上一、
p.1285 康保五年七月十五日壬寅、今日先帝〈◯村上〉女御從四位上莊子女王、并更衣藤原祐姫等爲レ尼、
p.1285 仁和三年二月十六日庚申、勅以二更衣從五位上藤原朝臣元善一爲二女御一、中納言從三位山蔭之女也、
◯按ズルニ、コレ更衣ヨリ陞リテ女御トナリシ始メナリ、
p.1285 更衣 これべちのつかさにはあらねども、内侍のかみなどになさるヽをりあり、
p.1285 先帝〈◯宇多〉の御時、刑部のきみとてさぶらひ給ひける更衣の、さとにまかりいで給ひて、ひさしうまゐり給はざりけるにつかはしける、
おほぞらをわたる春日のかげなれやよそにのみしてのどけかるらむ
p.1285 一品の宮にまゐらせ給ひし、侍從宰相〈◯源基平〉の御むすめ、〈◯基子〉うち〈◯後三條〉おぼしめすといふ事世にきこえて、たヾそなたになんおはしますなどいふ程に、たヾならずならせ給へり、おほかたもみやづかへさまにもあらずもてかしづき聞えさせ給て、たヾみやの御おなじことにて、御だいなど參らすることもひめ君の御だいとて、女房とりてまゐらするに、ましてかくさへものせさせ給へば、いと心ことにもてなさせ給ふ、〈◯中略〉七月に尾張前司つねひらといふ人のいへにいでさせ給、このたびかへり參らせ給はんには、更衣などにてなんおはすべきとい
p.1286 ひのヽしる、いでさせ給夜は曉までおはしまし、御ともの人などのたちやすらふも昔物がたりの心ちす、さべきむつまじき殿上人御おくりすべき宣旨ありていとめでたし、殿ばらなど猶女こそもつべきものはあれなどめで給ふ、〈◯中略〉御息所更衣などにみな中じやう少將のむすめ受領のもみなまゐりけるを、このちかき世にはおぼろげの人はまゐり給はぬものにならひたるに、いとあさましきなり、〈◯中略〉三月〈◯延久三年〉九日いらせ給ふ、ぎしき有さまいとめでたし、車五六ひきつヾけていと心ことなり、女御になりていらせ給、更衣などいひしをだに世にめでたくめづらしきことに思申しを、けさやかにめでたくいみじく世にためしなきことに、世人このころのことぐさにしけり、
p.1286 かくてすまひの節、明日になりて、内にいとかしこくまかなひにあたり給へる宮す所かういたちと、まうのぼり給ふべき事をおぼしつヽ、てつくしたる御けしやうをしおはします、そのすまひの日、仁壽殿にてなむきこしめしける、なえむ思ひたがへたるなるべし、その日あしたの御まかなひには仁壽殿の女御、ひるのまかなひには承香殿の女御、よさりの御まかなひには式部卿の女御、かうゐ十人、色ゆるされ給へるかぎり色をつくして奉れり、更衣たちみな日のよそひし、あめの下のめづらしきあやのもむをたてまつりつくし、宮す所たちまかなひつかうまつり給はぬは、うないにてなむさぶらひ給ひけり、
p.1286 年十八にて侍從になりぬ、そのとしの五節の心みの夜、后宮よりはじめたてまつりて、おほくの女御更衣まうのぼり給へるにも、このいだしの五節のかたちよういはかなくうちふるまへるも人にはことにて、うへには御心とヾめて御らんず、
p.1286 いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに、いとやむごとなききはにはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり、はじめよりわれはと思ひあがり給へる御か
p.1287 た〴〵、めざましきものにおとしめそねみ給、おなじ程それより下らうの更衣たちは、ましてやすからず、朝夕のみやづかへにつけても人の心をうごかし、うらみをおふつもりにやありけむ、いとあつしくなりゆき、もの心ぼそげにさとがちなるを、いよ〳〵あはれなるものにおぼして、人のそしりをもえはヾからせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり、
p.1287 清盛息女事
御娘八人御坐ケルモ、皆取々ニ幸シ給ヘリ、〈◯中略〉七ニハ安藝嚴島ヘ内侍ガ腹ノ娘也、指タル才藝ハナカリケレ共、美貌ハ人ニ勝給ヘリ、嬋娟タル兩鬢ハ秋ノ蝉ノ翼、宛轉タル雙蛾ハ遠山ノ色トゾ見エ給フ、秋夜月ヲ待、ハツカニ山ヲ出ル清光ヲ見ガ如シ、夏日蓮ヲ思初テ、氷ヲ穿紅艷ヲ見ヨリモ潔シ、此御娘十八ノ年、後白河院ヘ參給ヘリ、更衣ノ后(○○○○)ニテゾ御坐ケル、入道〈◯平清盛〉サシモナキ事セラレタリト申合ケリ、其上程ナク失給ニケリ、
p.1287 こぞ〈◯仁治三年〉より、中宮〈◯藤原姞子〉は、いつしかたヾならずおはします、六月〈◯寛元元年〉になりて、〈◯中略〉十日のあけぼのよりその御氣しきあれば、殿のうちたちさわぐ、〈◯中略〉内〈◯後嵯峨〉には更衣ばらに、わか宮二所おはしませど、此御事をまち聞え給ふとて、坊さだまり給はぬほどなり、