http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1303 皇太子ハ、皇位ヲ繼承シ給フベキ皇子ヲ云フ、日本書紀履中紀ノ古訓ニハ、儲君及ビ太子王ヲヒツギノミコトアリ、繼體紀用明紀ニハ、春宮及ビ東宮ヲモ、ヒツギノミコ、又ハ、ヒツギノミヤト訓ゼリ、其他太弟ト云ヒ、或ハ坊ナドヽモ云ヒテ、種々ノ稱アレドモ、共ニ皇太子ノ稱ナリ、但シ近世ハ先ヅ皇嗣ヲ定メテ之ヲ儲君ト稱シ、然ル後、立太子ノ儀アルヲ例トセリ、立太子ノ詔ハ、早ク繼體天皇ノ朝ニ見エ、爾後其儀式漸ク整頓セシガ、南北分立、崇光天皇ノ朝ヨリ後西院天皇ノ朝ニ至ルマデ、十五代二百餘年間全ク中絶シ、靈元天皇ノ天和三年ニ再興セラレタリ、立太子ノ時山陵ニ告ゲラルヽコトハ、後世廢タレテ社寺ノ祈祷ト變ジタレドモ、壺切御劍ヲ傳ヘ、及ビ拜覲節會等ノ儀式ハ、曾テ絶エタルコトナシ、其他公卿寺僧等ノ參賀ハ古ヨリノ例ナレドモ、殊ニ徳川氏ノ時ハ、將軍ハ使ヲ遣シテ、參賀進獻ノ禮ヲ行ヒ、在藩ノ諸侯ハ、書翰ヲ以テ幕府ニ慶ヲ陳ベタリ、
皇太子ハ單ニ儲ケノ君タルノミナラズ、時ニハ國事ヲ監シ、時ニハ萬機ヲ攝行シ給フコトアリ、其命ヲ令ト云ヒ、其他ニ往キ給フヲ行啓ト云ヒ、群臣ノ皇太子ニ白スヲ啓ト云ヒ、上啓ニハ皇太子ヲ稱シテ殿下ト云ヒ、自稱ニハ臣妾及ビ名ヲ用ヰシム、大寶ノ制、太子ニハ傅、學士ヲ附シテ輔導ノ職ニ任ゼシメ、東宮坊ニハ大夫以下多クノ職員ヲ定メテ、東宮一切ノコ http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1304 トヲ處理セシム、此等ノ制、後世悉クハ行ハレザリシカドモ、ナホ其待遇ハ自餘ノ親王皇子ニ超出シ、而シテ其妃ハ、中世以後多クハ女御、又ハ御息所ト稱セリ、
上古、太子ヲ立ツルコト、必ズシモ一人ニ限ラザリシガ、其後定メテ一人トナシタリ、此等ノ太子ハ皆皇子ヲ立ツルヲ例トセシカドモ、種々ノ事情ニヨリテ、必ズシモ然ラザルアリテ、或ハ皇女ヲ太子トシ給ヒシアリ、聖武天皇ノ孝謙天皇ニ於ケルガ如キ是ナリ、皇孫ヲ太子トシ給ヒシアリ、持統天皇ノ文武天皇ニ於ケル、元明天皇ノ聖武天皇ニ於ケル、醍醐天皇ノ慶頼王ニ於ケルガ如キ是ナリ、皇兄ヲ太子トシ給ヒシハ、顯宗天皇ノ御兄仁賢天皇ヲ皇太子トシ給ヒシノミナレドモ、皇弟ヲ太子又ハ太弟トシ給ヒシハ、履中、天智以下、後光明、後西院天皇等極メテ多シ、或ハ從兄弟ニシテ、太子トナリ給ヒシアリ、一條、三條、伏見天皇等ナリ、再從兄弟ニシテ太子トナリ給ヒシアリ、後二條、花園、後醍醐天皇、及ビ小一條院等ナリ、三從兄弟ニシテ太子トナリ給ヒシハ、光明天皇ノ太子成良親王アリシノミ、其他成務、推古、圓融、後櫻町等ノ天皇ハ、皇姪ヲ太子トシ、三條天皇ハ從姪、後醍醐天皇ハ再從姪、光嚴天皇ハ、三從兄弟ノ御子ヲ太子トシ給ヘリ、殊ニ異例ナルハ、六條天皇ノ、其叔父高倉天皇ヲ太子トシ、孝謙天皇ノ、其族叔祖父道祖王、大炊王ヲ太子トシ、稱徳天皇ノ、其再族伯祖父光仁天皇ヲ太子トシ給ヒシ類ナリ、蓋シ是等ノ諸例ハ、皇子ノオハセヌニ因レルモ多ケレド、或ハマタ種々ノ事情ニヨリテ、勢止ムヲ得ザルニ出デシモ尠ナカラズ、彼ノ兩統更立ノ如キモ、亦當時ノ情勢已ムヲ得ズシテ遂ニ斯ル變體ヲ生ゼシモノナルベシ、
立太子ノ年齡モ亦種々ニシテ一様ナラズ、其極メテ幼冲ナリシハ、聖武天皇ノ皇子、及ビ安徳、仲恭、後深草天皇等ニシテ、何レモ御誕生後數十日ニシテ太子ニ立チ給ヒタリ、之ニ反シテ年長ニシテ太子ニ立チ給ヒシハ、反正天皇、〈五十歳〉安閑天皇、〈四十八歳〉天武天皇、〈四十六歳〉光仁天皇、〈六十〉 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1305 〈二歳〉等ナリトス、又親王宣下ト云フコト始マリテ後、親王トナリテ即日太子トナリ給ヒシハ二條天皇是ナリ、其他前後兩朝、又ハ數朝ノ間太子トナリ給ヒシハ、天智天皇、聖武天皇、及ビ草壁太子ニシテ、先朝ニ儲君トナリ、後朝ニ太子トナリ給ヒシハ、後桃園天皇ナリ、又光仁天皇ノ、先帝崩後太子トナリ給ヒシ如キハ、極メテ異例ナリトス、
皇太子ヲ立テ給フニ當リ、時ニ爭ヒナキコト能ハズ、清和天皇立太子ノ時、惟喬親王ノ爭ハレシガ如キ、圓融天皇立太子ノ時、爲平親王ノ爭ハレシガ如キ是ナリ、之ニ反ジテ淳和天皇ノ皇子恒世親王ノ如キハ、上表シテ太子タルヲ固辭セラレシモノナリ、又太子ニシテ儲位ヲ辭シ給ヒシハ、小一條院ニシテ、太子ニシテ帝位ニ即クヲ辭シ給ヒシハ、菟道稚郞子、及ビ仁賢天皇、天武天皇等トス、又太子ニシテ自ラ敗亡シ給ヒシアリ、木梨輕皇子是ナリ、其他廢太子アリ、孝謙天皇ノ太子道祖王ハ、淫縱ナリシカバ廢セラレテ諸王トナリ、光仁天皇ノ太子他戸親王ハ、其母井上内親王ノ大逆ニ坐シテ庶人トセラレ、桓武天皇ノ太子早良親王ハ、專恣ニシテ幽流セラレ、嵯峨天皇ノ太子高岳親王ハ、御父平城天皇ノ亂ニ坐シテ廢セラレシカバ、出家シテ入唐シ、仁明天皇ノ太子恒貞親王ハ、伴健岑等ノ亂ニ坐シテ廢セラル、其他光嚴天皇ノ太子康仁親王ハ、後醍醐天皇ニ廢セラレ、後醍醐天皇ノ太子成良親王ハ、光明天皇ニ廢セラレ、崇光天皇ノ太弟直仁親王ハ、後村上天皇ニ廢セラレ給ヒシガ如キ是ナリ、凡皇太子ノ待遇ニツキテハ東宮坊ノ事ハ官位部東宮職ニ、供給ノ事ハ封祿部ニ詳ナリ、
皇太子ノ御寢ニ侍スルモノニハ、妃アリ、女御アリ、更衣、御息所アリ、並ニ此ニ附載ス、

名稱

〔日本書紀〕

〈三神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1305 天皇生而明達、意確如也、年十五、立爲太子(ヒツギノミコト)

〔日本書紀〕

〈三神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1305 四十有二年正月甲寅、立皇子神渟名川耳尊皇太子(ヒツギノミコト)

〔古事記傳〕

〈二十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1305 漢國にて、王の位を嗣ぐべく定めたる子を皇太子と云、故に其字を取て日嗣

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1306 御子に用ひたるなり、さるは遂に御位を嗣坐が、其御子等の中にて、元來も然定置賜へる物なれば、彼皇太子よく當りたれども、彼は元より一人に限りて定めたる稱、此は一柱には限らざる御稱なるは同じからず、異なることあり、さればひたぶるに太子の字には泥むべからず、上代のさまをよく考ふべきなり、

〔古事記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1306 豐玉毘賣命、〈◯中略〉白其父曰、吾門有麗人、爾海神自出見云、此人者、天津日高之御子、虚空津日高(○○○○○)矣、

〔古事記傳〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1306 虚空津日高、谷川氏、天津日高は天子の稱、虚空津日高は太子の稱なりと云り、信に然るべし、其故は、先邇々藝命、穗々手見命、鵜葺草葺不合命、みな天津日高と申せる、これ天津日嗣所知看せるうへの大御稱なり、かくて此は穗々手見命、いまだ皇太子にて坐ほどなるが故に、天津日高之御子と申せり、さて其を虚空津日高と稱す所以は、虚空は天と地との中間なる故に、天津日高に亞で尊み申す御稱なるべし、

〔日本書紀〕

〈十七繼體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1306 七年十二月戊子、詔曰、盛哉勾大兄(オヒネ)、〈◯安閑〉宜東宮朕施仁、翼吾補上レ闕、

〔日本書紀〕

〈十九欽明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1306 二年三月、納五妃、〈◯中略〉蘇我大臣稻目宿禰女曰堅鹽媛、生七男六女、其一曰大兄(オホネ)皇子、是爲橘豐日尊、〈◯用明〉

〔日本書紀〕

〈二十四皇極〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1306 二年十一月丙子朔、〈◯中略〉於是山背大兄王(オホヒネノミコ)等自山還入斑鳩寺

〔日本書紀〕

〈二十五孝徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1306 天豐財重日足姫天皇四年六月庚戌、〈◯中略〉思欲傳位於中大兄(オヒネ)〈◯天智〉而詔曰云云、
◯按ズルニ、大兄ヲ以テ直ニ皇太子ノ稱トハ定メ難ケレドモ、古ヘ太子トナリテ皇位ヲ繼承セラルヽ皇子ニハ、多ク此稱アリシガ如シ、長等山風附録、大兄名稱考ノ條ニモ、本語ハオホヒネなるが、音の約りてオヒネとも申し、又オホネともかよはして申し奉りたりしにて、書紀に十八ところに、同じ訓ざまを註して、なべて近世によみなれたるがごとく、オホエとよめるは

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1307 ひとつだにあることなし、つら〳〵思遣り奉るに、中昔の書どもに、皇子の中にて皇太子に立て給ふべきしたがたにかしづき給ふを、坊がねと稱せるに似たるを、古は其崇稱を儲て、然は大兄と稱せる例のありしにこそト云ヘリ、以テ參考ニ供ス、

〔日本書紀〕

〈三十持統〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1307 三年四月乙未、皇太子草壁皇子尊薨、

〔萬葉集〕

〈二挽歌〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1307 日並〈◯並下恐脱知字〉皇子尊(○○○)〈◯草壁〉殯宮之時、柹本人麻呂作歌、
天地之、初時之、〈◯中略〉吾王、皇子之命(ミコノミコト)乃、天下、所知食世者、〈◯下略〉

〔萬葉集〕

〈二挽歌〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1307 高市皇子尊(○○○)城上殯宮之時、柹本朝臣人麻呂作歌、〈◯歌略〉

〔續日本紀〕

〈六元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1307 和銅六年五月甲戌、讃岐守正五位下大伴宿禰道足等言、〈◯中略〉故皇子命(○○○)宮〈◯草壁〉撿括飼丁之便、誤認亂等飼丁焉、〈◯下略〉
◯按ズルニ、皇子尊モ亦大兄ト同ジク、古ヘ皇太子ノ崇稱ナリシガ如シ、

〔運歩色葉集〕

〈一登〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1307 東宮、春宮、〈皇太子事〉

〔毛詩註疏〕

〈三之二碩人〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1307 齊侯之子、衞侯之妻、東宮(○○)之妹、邢侯之姨、譚公維私、〈傳東宮齊太子也、正義曰、太子居東宮、因以東宮太子、〉

〔八雲御抄〕

〈三下異名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1307 春宮 はるのみや あをき宮 みこのみや まうけのみや

〔大唐皇帝述三藏聖教序記〕

〈跋〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1307 皇帝在春宮(○○)日製此文、龍朔三年歳次癸亥六月癸未朔二十三日乙巳建、大唐褚遂良書在同州倅廳

〔新野問答〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1307 春宮并東宮
東宮春宮此二品いかヾ覺悟候哉、 答、〈◯野宮定基〉東宮は、皇太子の御身の上を書申候時、東宮と書申候、春宮は、坊に奉仕傅大夫亮進、役の官の名を書申候、ひつきやう二字共に同心にて候、東春二字とも、はじめ又は一の心にて候、歌には春の宮とよみ申候、

〔雜問答考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1307 東宮春宮と書事

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1308 答に、東宮とは、皇太子の御身をさすといふはさる事ながら、いか成故にさはいふといはぬは答のかひなし、先此御事をいと古へは日嗣の皇子命と申し、又某の皇子命とのみも申せし也、さて後に字にては、皇太子儲君など書たり、令など行はるヽほどより、その皇太子の御在所を東宮とかき、大夫以下官人の奉仕所を春宮と書つけたり、それより後々に、東宮と書は即皇太子の御身をさす事となりぬ、又此答に、春宮は坊に奉仕傅大夫云云と云は誤れり、大夫以下は春宮に奉仕れり、傅と學士は輔導奉説の職故に、即太子の御在所に侍りて春宮坊にはゐず、持統紀より以下の書に、皆東宮傅、東宮學士と有也、
 天智紀に、太子をさして東宮と書しことあれど、是は奈良の朝にて書し物のみ、

〔下學集〕

〈上人倫〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1308 儲君(チヨクン/マウケノキミ)

〔源氏物語〕

〈一桐壺〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1308 一のみこは、右大臣の女御の御はらにてよせおもく、うたがひなきまうけのきみ(○○○○○○)と世にもてかしづき聞ゆれど、此御にほひにはならび給ふべくもあらざりければ、〈◯下略〉

〔伊呂波字類抄〕

〈一波〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1308 坊〈バウ、東宮、〉

〔源氏物語〕

〈一桐壷〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1308 坊にも、ようせずはこのみこのゐ給ふべきなめりと、一のみこの女御はおぼしうたがへり、

〔拾芥抄〕

〈中本唐名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1308 春宮 〈春闈 青宮 昭陽 少陽 儲君 儲闈 儲貳 詹事 龍樓 鶴禁 前星 明兩〉

〔續日本紀〕

〈二十四淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1308 天平寶字六年十月己未、夫人正三位縣犬養宿禰廣刀自薨、〈◯中略〉聖武皇帝儲貳(○○)之日、納夫人安積親王

〔續日本後紀〕

〈一仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1308 天長十年三月戊子朔、後太上天皇〈◯淳和〉復奉書曰、〈◯中略〉今恒貞漢庄難擬、周儲不追、〈◯中略〉恐龍樓(○○)之守爰墜、鮑爼之譏有聞、〈◯下略〉

〔續日本後紀〕

〈十二仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1308 承和九年八月壬戌、左大臣正二位藤原朝臣緒嗣、右大臣從二位源朝臣常已下十

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1309 二人上表言、周固本枝、寔資重離之業、漢啓磐石、必建少陽之宮(○○○○)、〈◯中略〉頃者昊穹降禍、太上皇帝〈◯嵯峨〉昇遐、山陵未乾、逆臣謀亂、推究由緒、事屬儲闈(○○)、皆頼聖明、並罹憲網、方今上嗣佇賢、前星(○○)虚位、其皇太子者、國之元基、不暫曠、監撫惟重、審諭所歸、伏望具擧彝章、早立明兩(○○)、〈◯下略〉

〔朝野群載〕

〈一文筆〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1309 延暦寺奉儲君始立
延暦寺沙門延昌等謹啓、伏聞儲君(○○)殿下、〈◯冷泉〉去月廿三日、正太子之尊、少陽之位(○○○○)、〈◯中略〉
  天暦四年八月一日

〔北史〕

〈九十四倭國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1309 倭王姓阿毎、宇多利思比孤、〈◯中略〉名(○)太子(○○)爲(○)利歌彌多弗利(○○○○○○)

〔北史國語考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1309太子利歌彌多弗利、〈上の利は和の譌りなり〉按ニ、ワカミトホリと訓べし、中昔の假字書どもに、わかむどほりと見えたるは、此語を訛れるなり、〈◯中略〉此語の本意をいまだ詳に明したる説なし、故つら〳〵稽ふるに、疑ふらくは、稚子御統(ワコミトホリ)の義なるべし、

立太子式

〔儀式〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1309 立太子儀
前一日、太政官召式部省、仰集刀禰之状、當日早旦、式部丞録率史生省掌等、於建禮門前庭、左右相分列立刀禰、爰中務丞執版參入、置紫宸殿前庭退出、訖所司開閤門、親王以下應召、左右相分參、〈五位以上在承明門内庭、六位以下在同門外、〉録稱容止常、立定宣命大夫進就版、宣制曰、天皇詔旨勅命〈乎、〉親王諸臣百官人等天下公民衆聞食〈止〉宣、隨法〈爾〉可有〈伎〉政〈止志氐、〉某親王立而皇太子〈止〉定賜〈布、〉故此之状悟〈天〉百官人等仕奉〈禮止〉詔天皇勅命〈乎〉衆聞食宣、訖宣命大夫復本位、皇太子進拜舞而退、次親王以下退出、

〔新儀式〕

〈五臨時下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1309 冊命皇太子事
命皇太子、或依公卿論奏、或有勅答、〈承和仁壽延喜例也〉或不上表、隨法冊命也、前一日、大臣奉勅行事、並當日早旦、所司裝束南殿、近仗陣階下開門、親王以下五位以上、依喚參入、列立之儀等、皆同命皇后之儀、但親王已下列立之後、應立者、入日華門親王前、〈若幼稚不此儀、雖長大必參入矣、〉大臣喚宣命大夫、〈中納言〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1310 大夫從本列東度、昇東階、就大臣兀子後、授宣命文、受之暫立軒廊之邊、大臣起座、下東階本位、承詔者進就版、宣制曰、現神〈止〉大八州所知〈須〉倭根子天皇〈我〉詔旨〈良萬止〉勅命〈乎、〉親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食〈止〉宣、群官稱唯再拜、訖更宣云、隨法〈仁〉可有〈岐〉政〈止〉爲〈氐、〉某〈乎〉立〈氐〉皇太子〈止〉定賜〈布、〉故此状〈乎〉悟〈氐〉仕奉〈禮止〉詔〈布〉天皇勅命〈乎〉衆聞食〈止〉宣、王公共稱唯再拜、〈被立者不稱〉宣制者復本所、次皇太子兩段再拜、舞蹈退出、〈出日華門〉五位已上退出、宸儀還御本殿、大臣依召參上御前、有除目事、被除傅、學士、春宮坊官屬以上、被官諸司等、事畢退下、又參射殿清書、〈皇太子若出、傅若大夫奉勅定補藏人、昇殿者、陣頭、大夫傅者、等下令旨、厥後又試其武藝帶刀、或天皇御射殿其射藝、貞觀十一年例也、〉後日遣使二陵、告以冊命皇太子之状

〔江家次第〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1310 立太子事
前一日、令主殿寮掃除南殿、仰左右衞門府砂、〈左衞門從長樂門、右衞門從永安門、並裝束使仰左右近陣之、〉撤去東炬火屋、〈置日華門北掖、主殿寮役之、〉上南殿御格子、〈掃部女孺供奉〉洒掃殿上、〈主殿仕女供奉〉置殿東廂布障子二枚於北廂、〈掃部官人率史生以下供奉、今案近例本無件障子、仍無撤儀、〉自殿東第三間北頭西柱下南行、至南廂頭柱下、更西行至于西戸、同懸御簾、〈但戸間懸内〉東方御簾西、立亘五尺漢書御屏風、〈南北行西向〉傍御簾内母屋柱南面四間、東西行立漢書御屏風、〈南向〉從其西端南北行、同立御屏風、〈東向〉其内四間敷滿廣筵并細貫筵、額間設御座、敷紫二色綾毯代、立塵蒔大床子一雙高麗褥、御帳乾角傍絹御障子、立廻五尺大宋御屏風二帖、〈南方開戸〉其内敷細貫筵二枚、立赤漆小倚子、爲御裝物所、東第三間東柱西北角去二許尺、立兀子一脚、爲内辨座、〈近例第二間西柱邊立之、西宮記云、件兀子在長押上云云、又北山抄、并近代記多如此、但新儀式立第三間柱東下、即當簾前云云、〉左近陣座南庭中央東西行、曳斑幔二條、〈一條始紫宸殿東北階南端、東行竟庭中、一條其東端幔柱、南去三許尺、小西進立幔柱、東行、竟宜陽殿西廂蔀、〉宜陽殿西廂板敷、南西二面張斑幔、從右近陣東南角溝東方北行屬射場西南角柱、更東折至于廊東第二間西柱同幔〈右近陣東南角以北立幔柱、射場殿西南角以東、至北廊第二間西柱、結管貫、〉又從月華門内南掖蔀上南行、張同幔一條、又春興殿南廊西面結管貫同幔、又自安福殿南行、更東折從堋屋東北角南折、至于永安門西腋同幔、承明建禮兩門前差南去東西行、張斑幔各二帖、移鈴印辛櫃於宜

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1311 陽殿西廂板敷、承明門東西内掖、各鋪http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001fd46.gif 、上各置草塾、〈闈司座北面〉中務録入日華門、尋常版位北去一許丈、置宣命版位、〈内裏式、開門後置件版、而儀式、并前例如之、〉式部丞録率史生省掌、入永安門標、〈尋常版南七尺東折二丈五尺立親王標、南立大臣標、次大納言標、次中納言標、以七尺間、東去八尺、南折二尺立三位參議標、次非參議三位標、次王四位五位標、次臣四位標、次五位標、以上八尺爲間、尋常版西二丈五尺、南折三丈五尺、立王四位五位標、次臣四位標、次五位標、〉長樂門南面、東掖第一間東柱下、設外辨親王公卿座、東西行立兀子獨床子簀子敷床子、〈南面西上〉其南壇下庭中、立白木床子二脚、〈少納言辨座〉東立二脚、〈外記官史生座〉並七尺爲間、〈西面北上〉上卿座前立白木床子一脚、〈置式筥〉今日不宜陽殿西廂内辨兀子、〈但九條殿天暦四年立太子記立之〉
前一日大臣奉仰、仰外記所司、〈清凉抄云、令外記召式部省、仰明日可會刀禰之状、〉又召内記宣命、〈可某年例上レ之〉以上近代多當日早旦行之、五位藏人持參御物、〈依仰也〉御帳二具、〈先是以吉時之、仍便不必具、〉御臺盤二脚、〈加臺〉御器一具、〈納辛櫃、毎御器下敷紙之、〉參本宮職事申一レ之給祿、〈白褂一領〉再拜而退、上卿參入奏宣命、〈付弓場殿奏、不御名、清書之時書之、〉若非一上者、仰内辨之後可事歟、次奏清書、〈返給之後、令内記候、〉次上卿於陣座豫定宣命使、〈中納言、近例不之、〉次主上御南殿、〈位袍、内侍許相從、他女房等不必相從、異常出御、或不出御、〉左右近陣階下、〈次將以下立陣也、縫腋壺胡籙蒔繪劒著靴、但諸衞皆如此、至撿非違使佐平胡籙、内裏式、近仗服中儀云々、〉王卿出外辨、〈於鳥曹司靴如常、不魚袋、螺鈿劒、隱文帶、若非第二大臣者、召召使式筥、召外記諸司、大舍人候哉、刀禰列候哉、外記毎度申候由、上宣令候、〉大臣著靴進立軒廊、〈西一間〉内侍臨檻、内辨參上、著南廂兀子、〈取副宣命於笏〉次開門、〈開建禮承明兩門、不長樂門永安門、見延長三年十月二十一日立太子御記、〉闈司著座、〈雖奏事例猶著〉大臣召舍人、〈二音〉大舍人四人稱唯、少納言著版、〈入承明門左扉〉大臣宣刀禰召〈世、〉少納言稱唯出召之、外辨王卿參入立標、〈異位重行、北面西上、大臣與大納言之間一丈計置之、依内辨可一レ建也、〉大臣召中納言一人、〈微音召之、叩扇示之、〉宣命使參上、〈出列前軒廊東二間、於東階下揖、經東階并簀子敷、立第二間東柱下揖、挿笏進、〉大臣給宣命、〈宣命使進磬折、乍立給之、大臣自座上方之左廻、〉退下於東階揖、〈或右廻年々不同〉宣命使立軒廊西第一間北邊、〈或立二間東一間、天徳二年立后日、師氏卿立二間、同四年任大臣日、雅信立一間、九記云云、〉大臣退下、〈左廻、於東階下左廻、揖右廻、又與宣命使相揖、〉就庭中版、〈自東二間出、〈大臣者、迫柱西出、〉經大臣與納言列座間立上、〉宣命使著版、〈自東二間出如恒、或説立太子日出一間吉、〉宣制一段、〈群臣再拜〉又一段訖、〈群臣再拜、北山抄曰、拜舞云云、是依儀式讓國儀、延長三年立太子日記、并叙位時親族拜歟、然而年年例多再拜也、依別宣命歟、〉宣命使經列西本位、〈毎曲折揖〉王卿退出自本路、〈於鳥曹司靴、還著陣、〉此間羞饌、〈近代不見〉主上還御、次清凉殿裝束、〈如女叙位〉以晝御座

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1312 南西二面几帳御座、〈南第二三間母屋東邊、第五間三尺几帳直立之、又頗開夜御所南戸東扉、御硯引上置於御座上、御硯入水、廣廂當御前、敷菅圓座一枚、若有關白者、又敷一枚於北柱下、〉次令藏人頭若五位藏人召上卿、〈詞曰、關白〈乃〉御消息〈爾〉此方令參給〈ヘ〉、上卿候殿上、依重召簀子敷御前座、〉次依御氣色男共、〈仰云、硯續紙持參禮、即持參、〉大臣依仰書宮司除目、事訖退下於陣、〈副除目於笏、〉令參議清書、〈黄紙一枚、公卿一枚、非參議一枚、並用折堺、〉次奏聞如恒、次召式省之、〈先召外記問、式〈乃〉省〈左〉候〈布ヤ〉、外記申候由、次又申式省候、上不答次又申、〉並立小庭、〈靴〉上卿目之、丞著軾、上卿給除目、丞取之後立小庭、上卿仰曰、〈マケタヘ、〉次博士已下於弓場殿慶、〈公卿一列、四位五位一列、以藏人頭若近衞次將奏、其人帶劒取笏、來仰聞食由、公卿以下再拜、〉此間被殿上人藏人、〈四位五位藏人四人、非藏人二人、〉主上令書出給、大夫於宮令宣下之、次被啓陣可差遣、〈或大臣申請、或進被之、〉大臣仰外記之、加軾一枚於常軾東、先召左右近衞次將之、〈◯傍書、詞曰、東宮啓陣來候ラヘ、〉次召左右兵衞佐之、〈◯傍書、詞曰、啓陣候ラヘ、〉各帶劒執笏參入、其後參本宮、卷纓帶壺胡籙警衞、〈太子御禁中者、不兵衞、〉先是本府進差文、將佐以下府生以上各一人、近衞兵衞各十人、〈番長府掌在此中、〉於本宮各有啓陣、次上卿仰供奉諸司事、次公卿以下參本宮、〈令亮啓一レ之、進御前再拜、淺履、執柄傳或不此列簾中、〉此間被昇殿人々、〈公卿已下〉公卿以下令昇殿慶、〈付亮〉再拜了〈便所〉著殿上座、被護身劒、〈壺切(○○)入錦袋、或御對面日被奉、〉以頭中將兼亮次將之、自持之參本宮、立便所、令亮奏、亮歸來取之置御所、次亮取祿給勅使、〈先召上之、或敷座茵、近代不必敷、〉祿代々不同、〈或褂、二領、或褂袴、或褂一領、〉下庭再拜、歸參復命、次羞殿上饗、〈殿上人役送之、執柄著座者、四位陪膳、〉三巡後給祿、〈殿上人取之、大臣白大褂二領、納言以下三領、參議以上一領、四位參議紅褂、〉居常臺盤、或公卿退後、定藏人所雜色以下、〈或兩三人先補之〉啓時、〈其詞云、姓名時戌刻、小舍人啓之、〉供御膳、〈臺盤不臺、用殿上臺盤内路、〉采女六人供奉之、〈先是本司進差文〉朝大夫、〈多大納言奉供〉夕亮、書陪膳記、或幼宮時、以女房陪膳、〈上髮〉女藏人四人、以上傳供之、藏人一人、居土器二口於御盤持參、即受御三把、奉帳中阿末加津云云、但有常阿末加津土器撤、其後供比々奈、内侍司進差文、女史一人、御髮上一人、番所二人、水取二人、墨摺一人、主殿女孺三人、〈或六人〉厨女孺一人、洗二人、長女二人、御厠人二人、油守二人、掃部女孺六人、采女進差文、神祇官奉仕大殿祭、〈藏人引導挿脂燭、依本官申、史下左申上宣旨、比々奈料絹本宮給之、〉先御殿、御膳宿、上下御厨子所、御井等也、給祿、〈五位以下衾、六位匹絹、〉付殿上并女房、及藏人所簡、召能書者於所書之、其人々名簿、或新書之啓之、被下後付之次名謁〈藏人問之〉大

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1313 略如常、不必差脂燭、〈乍束帶名謁〉小舍人、主殿今良、〈◯旁書、殿上所召仕也、〉不内裏相兼、殿上簡二堺書之、〈四位五位付上堺〉下臈五位六位付下堺、亮學士不簡、受領付裏、〈◯本書刊本有誤脱、據一本攺、〉

〔夕拜備急至要抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1313 立太子
日次 參陣公卿〈大臣已下兼申御點、非一上者仰内辨、〉 近衞次將(啓陣二人可差定)〈左右〉 辨 少納言 内記〈宣命料〉 闈司 内侍扶持(出御時)次將 無御靴 式筥 召内侍〈次將可扶持、或職事、〉 南殿御裝束 官外記 奉行六位、出納小舍人、
除目御裝束〈晝御座如叙位、奉行職事藏人等奉仕之、〉 出陣召大臣職事 除目 執筆大臣 硯 續紙二卷〈已上盛柳筥、職事持參、〉 申文〈盛硯筥蓋、屬一束、被官諸司一束、不短册、有目六、〉 清書上卿〈於陣可行〉 參議
召仰〈當日職事就仰云、今日可立太子事、召仰諸司〈ヨ〉、或兼日仰之、〉 仰詞〈以某親王皇太子、〈若皇太弟〉依其年例進宣命、建保仰詞、以懷成親王皇太子、依康和五年例進宣命、〉 仰啓陣〈建保除目清書之間仰云、左右近衞各一人、左右兵衞佐各一人、差定其仁等、東宮之啓陣任例令差進〈ヨ〉、〉
勅書出、殿上人等給大夫、〈四位朝臣、五位二字、藏人四人姓名、非藏人不之、〉内覽奏聞、於鬼間之、高檀紙折紙也、
 首書、殿上人、幼主時於本宮、上皇被大夫近例也、
具御調度職事參本宮事〈小舍人騎馬扈從〉
御臺二脚〈加臺〉 御膳具一具 銀飯垸一口〈在盃盤〉 馬頭盤一枚 御湯器一口〈在蓋〉 御汁物器二口 御湯盞一口 四種四口 匕二枚〈銀〉 窪坏二口 御盤二枚 盤六枚〈平〉 御箸二雙〈銀〉 已上入朱漆辛櫃、在兩面覆
御劒〈壺切〉勅使〈頭中將、或兼亮次將、〉 内侍司差進〈奉行職事、兼觸勾當内侍、〉 采女差文六人〈奉行職事、兼仰藏人差文、〉 主殿司〈仰藏人差文、〉 小舍人〈同〉 宮主〈藏人方兼申定、仰神祇官差文、〉
春宮坊頓給料任例可
同内膳屋令修理職造進〈ヨ〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1314卜部兼資同宮主
 已上仰上卿〈後日、大夫權大夫間、〉 辨〈兼宮司人〉 官外記〈◯中略〉
春宮坊本封外、宜令一千戸〈ヨ〉
御厨〈諸國御厨事也、内覽奏聞、引裹紙事也、加懸紙之依請、〉
同衞士仕丁任例宜令充〈ヨ〉
 已上仰上卿〈大夫權大夫之間〉
御乳母加階宣下〈宣下詞、東宮御乳母藤原公子、宜令從五位下〈ヨ、〉〉
立太子由山陵使發遣〈任先例兼日申定〉
日次 上卿〈大夫〉 辨 官外記 陰陽寮 仰詞〈皇太子立給由〈ヲ〉可申山陵事令定申〈ヨ〉、日時使定文、以辨内覽奏聞、〉
當日〈於陣發遣〉 上卿〈大夫〉 宰相 内記〈告文章進料〉 官外記 使々〈參議五人、次官五人、儒士多勤之、〉

〔柱史抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1314 立太子由被山陵
上卿參仗座内記、〈大内記可參也〉内記著軾、仰云、立太子事被山陵宣命可草進者、即成草持參内覽、内記持參之、〈但可上卿命、或以職事覽也、〉内覽奉上卿、上卿令内記〈虫損〉奏覽、奏覽畢還著仗座、令清書、以六位内記等之、清書畢持參覽上卿、奏下之後、分賜使參議等了、
  立太子事
天皇讓位之時、被加宣命是恒例也、臨時立太子之時有節會、其儀同立后節會、刻限内辨參陣、先是式部省入日華門、立親王以下標、中務省入同門、執版置南殿前庭、大臣召官人軾、職事奉勅仰立太子之由、大臣召外記縁事諸司參否、次召内記仰、以某親王皇太子之宣命可草進何年例者、内記微音稱唯退出、持參宣命、〈入筥〉大臣奏覽之後仰清書事、内記即清書持參、奏下如先、大臣暫預宣命於内記、群卿起座、著外辨座、内辨於宣仁門外靴、歴幔門軒廊二間宣命、〈如元入筥、〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1315 〈或説、今度不書杖云々、天慶七年立太子時、直幹奉宣命於内辨九條相府宣命、直幹捧筥、具見李部王記矣、〉内辨取副宣命於笏軒廊西一間、時剋天皇御南殿、内侍臨檻、内辨即著堂上兀子、此間上官内記著階下座

〔日本書紀〕

〈十七繼體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1315 七年十二月戊子、詔曰、朕承天緒、獲宗廟、兢兢業業、間者天下安靜、海内清平、屢致豐年、頻使國、懿哉摩呂古、〈◯安閑〉示朕心於八方、盛哉勾大兄〈◯安閑〉光吾風於萬國、日本邕邕、名擅天下、秋津赫赫、譽重王畿、所寳惟賢、爲善最樂、聖化憑茲遠扇、玄功藉此長懸、寔汝之力、宜春宮、助朕施仁、翼吾補上レ闕、

〔續日本紀〕

〈十聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1315 神龜四年十一月己亥、詔曰、朕頼神祇之祐、蒙宗廟之靈、久有神器、新誕皇子、宜立爲皇太子、布告百官、咸令知聞

〔續日本後紀〕

〈十二仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1315 承和九年八月壬戌朔、左大臣正二位藤原朝臣緒嗣、右大臣從二位源朝臣常已下十二人上表言、周固本枝、寔資重離之業、漢啓磐石、必建少陽之宮、是以三善守器、承祧之則克隆、四學宜風、貞國之規方遠、頃者昊穹降禍、太上皇帝〈◯嵯峨〉昇遐、山陵未乾、逆臣謀亂、推究由緒、事屬儲闈、皆頼聖明並罹憲網、方今上嗣佇賢、前星虚位、其皇太子者國之元基、不暫曠、監撫惟重、審諭所歸、伏望具擧彜章、早立明兩、臣等不區區之至、謹上表以聞、 癸亥、詔曰、迺者遭家不造、慘結兢惶、劒舄纔存、橋山之慕彌切、天地改色、諒闇之居弗寧、而凶邪扇惑、將不軌、宗社降祜、覺露伏辜、事屬震宮、洊雷失耀、今群公以斷金之誠、致立嗣之請、趣由憲章、非謙拒、然而周建季歴、木運于斯克昌、漢黜臨江、炎政藉之延祚、朕之菲薄、無子賢明、宜神授之英徽玄鑒之韶遠、展也大成則所望矣、 乙丑、公卿重上表、言天下之望、早立儲貳之状、因循故事、輕用上聞、陛下遠布謙光、未請、特降明詔、更使疇咨、臣等道謝博聞、職忝端揆、何能對揚尋求帝系、匡賛皇圖、但周家季歴、漢室臨江、事據權時、非必通典、其樹嫡以長、曠古之徽猷、立子以尊、先王之茂實也、今者皇子道康親王、〈◯文徳〉系當正統、性在温恭、率土宅心、群后歸美、豈棄震方之元長、擇藩屏之諸王、伏願准的舊儀、立爲太子、不丹欵之至、謹重上表以聞、是

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1316 日立皇太子、詔曰、天皇詔旨勑命〈乎〉親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食〈止〉宣、隨法〈爾〉可有〈岐〉政〈止志天、〉道康親王〈乎〉立而皇太子定賜〈布、〉故此之状悟〈天〉百官人等仕奉〈禮止〉詔天皇勅旨〈乎〉衆聞食宣、以右大臣從二位源朝臣常皇太子傅、左近衞大將如故、參議從四位下安倍朝臣安仁爲春宮大夫、從五位上藤原朝臣諸成爲亮、正五位下小野朝臣篁爲學士、是日解衞内裏及固兵庫之陣、遣中使於柏原山陵曰、天皇〈我〉詔旨〈爾〉坐、掛畏〈岐〉柏原〈乃〉山陵〈爾〉申〈之〉賜〈倍止〉申〈久、〉頃者東宮帶刀舍人伴健岑與橘逸勢惡心〈乎〉挾懷〈天、〉國家〈乎〉傾〈牟止〉謀〈禮利、〉掛畏〈支〉山陵〈乃〉厚顧〈爾〉依〈天〉其事發覺〈奴、〉事迹〈乎〉捜〈爾〉縁皇太子、〈◯恒貞〉因茲皇太子位〈乎〉停退〈許止〉畢〈奴、〉食國〈乃〉隨法〈爾〉可有〈岐〉政〈止之天〉道康親王〈乎〉立〈天〉皇太子〈止〉定賜〈不、〉此状〈乎〉參議從三位兼越中守朝野宿禰鹿取、散位頭正五位下楠野王等〈乎〉差使〈天〉恐〈美〉恐〈美毛〉申賜〈久止〉申、

〔三代實録〕

〈十六清和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1316 貞觀十一年二月己丑朔、天皇臨軒、立貞明親王〈◯陽成〉爲皇太子、公卿已下五位已上於庭、諸司六位已下於承明門外拜受、詔命策文曰、天皇〈我〉詔旨勅命〈乎〉親王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣、隨法〈爾〉可有〈岐〉政〈止之天〉貞明親王〈乎〉立而皇太子〈止〉定賜〈布、〉故此之状悟〈天〉百官人等仕奉〈禮止〉詔天皇勅旨〈乎〉衆聞食宣、是日以大納言正三位藤原朝臣氏宗兼春宮傅、文章博士從五位下橘朝臣廣相爲學士、參議民部卿正四位下兼行右衞門督伊豫守南淵朝臣年名爲春宮大夫、刑部少輔從五位下藤原朝臣門宗爲亮、散位從五位下藤原朝臣清經爲大進

〔小右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1316 寛仁元年八月九日甲戌、今日皇太弟〈◯後朱雀〉立給日、而無外記告、問遣時刻于吉平朝臣、注送云、申二點、仍未刻許參入大内、先左大臣參入在仗座、已次卿相在皇太后宮御方、則是東宮可座之所、北對東舍也、藏人右小辨資業傳仰云皇太弟立宣命趣於右大臣、〈宣命注裏〉大臣仰大内記義忠、則進草、〈右草内々依攝政命、所作儲歟、〉見了以資業攝政、〈◯藤原頼通〉被清書之由、大臣給内記、〈◯中略〉參議通任者春宮大夫也、今日參入、極無心之由彼是云々、望新宮大夫云々、舊宮被前攝政云々、無便事云々、特其事所參入

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1317 歟、今朝有消息、然而依案内參入一定耳、卿相屬目、仍退出了、
義忠進宣命清書、以資業攝政、此間余出外辨、諸卿相從、左兵衞陣官等居胡床、令胡床之由、即撤却了、右兵衞左右衞門陣不候、仰事由響參列、召外記國儀、仰式部可刀禰之由、小時參列、刀禰不列令催仰、次兵衞彈正參列、召國儀兵部彈正參入之例、申云、天暦四年式部兵部彈正參列者、〈後日見彼年外記日記云、有式部彈正、但天慶有二省彈正、召國儀其由、申云、依多年總以所申、後日大外記文義云、天慶天暦等相分可其由、而偏申天暦例然者、〉小時開門召舍人、舍人稱唯、少納言良經參進、歸出後入幔後息氣、更進立門前之、〈須立當門之幔後、入列卿相前之幔後太遺失也、〉先是諸卿列立右兵衞陣頭、次第參入各就標、諸大大只三人〈四位一人、五位二人、〉立定了、内辨大臣召宣命使、中納言行成〈其詞云、中乃物申官乃權乃藤原朝臣云々、權字多太失也、〉稱唯、離列參上、自西階内辨後、給宣命退下、立西軒廊砌、内辨退下加列、宣命使就版、〈冊命時申二點、而及酉終刻、〉宣制一段、群臣再拜、次又再拜、〈兩段再拜式文也、式有後段舞、此事彼是疑慮、猶可式文之由一定云云、〉宣命使右廻經大臣上頭列、次大臣已下退出復仗座、依攝政御消息、右大臣、右大辨朝經參入彼直廬、有坊官監署除目、〈除目在裏〉還陣座、大臣下除目簿、令右大辨清書、便見下書、太政官謹奏、清書時注件五箇字、密々余示傍座一兩云可然事也、問右大辨云、依攝政命書之由此事所存也、而攝録命何爲者、前攝政除目時、書太政官謹奏、依先傳歟、聞彼教命也、大辨清書、〈有草紙別紙等〉抑見天暦四年故殿御記、坊官監署除目所承行也、而依除目、後召大納言顯忠傳事、彼時與此時相異、彼時例示大臣驚氣、清書令資業覽、攝政被之、次有近衞陣於東宮之命、先召式部下名、〈萬宇已末介太ヘ等也〉敷膝突二枚、〈下官所示〉召著左少將誠任右少將兼房之、〈其詞不聞〉兩將一度稱唯、右大臣以下參東宮、傅并宮司等先令事由拜禮
次攝政右大臣已下參入、攝政以權亮公成事由、仰聞食由、攝政云、可御簾〈乎〉否、諸卿云、今日下御簾便歟、攝政云、不御簾者、可御御座、而不裝束、爲之如何、卿相云、雖出御何事哉、仍不御件座、攝政内大臣右大臣已下進御前拜禮、〈攝政云、可靴歟、彼是云、當時立給東宮之日著靴、諸卿陣不然由仍今度不著、彼時前攝政依〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1318命著之、〉次大夫教通進御前昇殿人、〈公卿及侍臣〉下令旨了、殿上公卿侍從於殿上邊慶、亮惟憲傳旨、攝政奉行宮事之令旨、被啓其事、相倶拜禮、〈◯中略〉諸卿著殿上饗、前攝政出御前饗座、更以他臺盤饗、續立著元臺盤、依公卿數三巡後給祿、〈大褂、前攝政同預祿、〉及子刻退出、今夜供御膳、大夫教通奉仕陪膳傅已下參内令慶云々、

〔兵範記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1318 仁安元年九月六日丙午、今日於一院〈◯後白河〉殿上〈東山〉有立太子定、攝政以下院司公卿十餘人參入、院宣之後、別當内藏頭教盛朝臣、依攝政命、覽日時勘文、次被雜事、權中納言資長朝臣執筆、次覽了奏聞云云、今度事併被行康和例、 十月三日癸酉、東三條殿修造了、被立太子御裝束、右大將兵部卿以下院司皆參、定宛屬行事奉仕雜役、於此殿行御祈等云云、 十日庚辰、有立太子事、太上天皇第二皇子憲仁、〈◯高倉〉母故正五位下兵部權大輔平時信女、御年六歳、去年十二月爲親王、今於東三條第其儀、自東山七條未御所啓彼亭、于時上皇御同宿、御幸行啓可同時云云、〈◯中略〉次攝政以下更參内、右府著仗座、先被宣命草、次清書、次節會始、右府爲内辨、右將軍著外辨、〈◯中略〉次於攝政御直廬除目、攝政御坐簾外、〈◯中略〉次宮司奏慶賀、次率參春宮坊云々、藏人左少辨右衞門權佐長方、爲御膳具勅使、藏人頭右中將實家朝臣、爲壺〈◯壺下恐脱切字〉護劒勅使、供晝膳、大夫卿權亮朝臣、爲朝夕陪膳、次名謁、藏人平時家問之云云、〈◯中略〉 十一日辛巳、晩頭公卿參集東三條殿、有盃酌事、初獻、亮教盛朝臣、〈瓶子大進知盛〉二獻、權亮實守朝臣、〈瓶子權大進光雅〉三獻、右少將通家朝臣、〈瓶子殿上五位〉 十二日壬午、東三條儀、公卿盃酌如昨日

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1318 治承二年十二月十五日甲辰、此日有冊命立太子事、奉行職事藏人右少辨光雅、院方隆季卿、辨内藏頭經房朝臣、〈右中辨〉本宮中宮大夫時忠、左衞門權佐光長等也、又關白殊被其事、其外前太政大臣忠雅公萬事口入云云、法皇今旦〈卯刻〉渡御六波羅第、公卿直衣、殿上人衣冠云云、豫於法皇三條烏丸宮立坊、依康和仁安例、當日早旦可晴御幸之由風聞、而尚於六波羅行之由禪門計申、仍

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1319 二棟廊東第一二三間三箇間、南廣廂上板敷、釣格子簀子高欄、母屋中間立御帳、爲東宮晝御座、寢殿不御帳之故也、以東方廊中宮御所、於寢殿者尤被兩方御所云云、是康和度、高陽院以西對東宮御所、以東小寢殿院御所、大寢殿非兩御所之例云云、彼者廣博家也、是狹少之地也、舍屋員少、准據憚多之由時人所傾奇也、但歳末月迫之時儀、爲人有煩、爲世多費、令儉約之議歟、此條爲善政之由又以謳歌云云、申刻著束帶、〈蒔繪螺鈿、紺地平緒、有文帶、不魚袋、〉參内〈閑院第〉著仗座、先是左大臣〈端座〉已下公卿五六人在座、又相次兩三人著座、此後徒經時刻、是關白未參之間、萬事遲怠云云、酉一點關白參内、即藏人右少辨光雅就軾仰召仰事、〈其詞不聞〉大臣召外記〈大外記頼業〉仰之、外記稱唯退下、次光雅又來仰宣命之趣、以前可問也、但近代有此例之由大臣自被之可之、次光雅持歸宣命草、仰清書之状、大臣召内記之仰同旨、須臾持參清書、大臣付光雅奏聞草、御覽畢持歸、大臣召内記之、被近可候之由、次大臣被外辨之由、余起座於陣末馬道靴、〈左大將已下人々同前〉入東幔門、進立第一兀子前、揖之後著之、頗引寄下襲尻、素第一兀子前立床子式筥、無式筥之儀、爲第二大臣〈外辨第一〉之故也、左大將已下同著之、次權右中辨親宗、少納言仲家等著床子座、〈親宗越床子之如常、仲家自前著之、最末之人或如此云云、〉六位外記史各一人、褰巽角幔後床子、史生等不著座、外辨座體、〈此内裏今日始著外辨、仍委所注也、〉
殿上廊前立蔀外、引廻幔於三方、〈西南東南幔、西端幔一帖頗南方引去立之、仍東方有幔門、大臣已下經件幔門、〉副立蔀西上南面立兀子床子等、〈西面兀子一脚、其前立床子式筥、〉副東幔南北行立辨少納言外記史床子等、〈當參議座末之〉
次余召召使、〈二音〉召使暫不稱唯、仍人々傳示、其後稱唯、趨來平伏地、余仰云、外記召〈セ、〉召使稱唯退去、次在外辨座之外記、經辨官座下余前地、余問云、大舍人〈ハ〉候哉、外記申候之由、又問曰、刀禰列候哉、外記申候由、余仰曰、候〈ハセヨ、〉外記稱唯復座、次開門、〈叩中門也、先是内辨左大臣、著靴取宣命、著南庇東第二間兀子歟不見、及開門之後、闈司分居云云、〉次召舍人歟、大舍人稱唯、此後少納言可進也、而聞開門聲、先以進頗早速也、聞舍人稱唯之聲、余已下起座、出幔門列中門外、〈西上西面、餘起座之間、左大將已下動座如常、〉次少納言出中門幔〈中門外南北行、引幔一帖也、〉南端之、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1320 還到中門下西稱唯、出幔南方畢、次余已下經幔南中門〈離列之時余不揖、他人作法不知〉進立標下〈余須練也、然而脚痛更發之上、已及晩陰、仍不練歩只徐歩也、太奇怪事也、〉各揖、皆悉列畢之後〈于時日入、未秉燭之程也、〉内辨召宣命使、〈其詞不聞、以扇被笏、〉左兵衞督成範卿揖離列、經大納言列後、我列前東行、經大納言列末北行、入軒廊東間、到東階下〈傍南〉一揖、即昇階經東南簀子、於東第一間西柱下一揖、〈頗面乾〉尚西進指笏〈如次第ハ、於柱下笏歟、〉賜宣命、〈不長押上〉㧞笏右廻〈若左廻歟、慥不見及〉經本路、於階下〈如本傍南降也〉左廻一揖、右廻立軒廊西間北邊、〈南面〉次内辨起座、右廻降東第二間東頭、〈立兀子間也〉經簀子東階北邊、〈有階下揖否、臨昏之間不見及、後左府於陣被語云、件揖一切忘却、頗歩進之後思出、更向階揖、至愚之甚也云々、〉出軒廊東間、〈此軒廊二箇間也、以西間西二間、以東間東二間也、而令東間如何、一位大臣可西間也、抑與宣命使揖哉否不見及、〉斜進自南殿巽程練始、南行經大臣列後、大納言列前〈經列間之時不練〉立加余上揖、次宣命使出軒廊東間南行、當中門北扉程南向一揖、更折西行、就宣命版位一揖、次挿笏披宣命目上更下讀之、押合在腋、〈是宣制一段也〉左大臣已下再拜、次又宣制一段、群臣再拜、〈如北山記者、可舞踏歟、然而代々多以再拜、延久康和共以再拜也、〉次宣命使拔笏揖、左廻經尋常版東、親王標西南行、更西折復列、次左大臣揖離列、經余前〈不練也〉退下、余已下從之、〈各經我列前也〉於中門邊改著淺沓、各著仗座、〈左大臣重自西方端、余已下廻東方奧、〉此後可坊官除目、而光雅先來仰啓陣事、〈其詞不聞及〉大臣召外記、外記頼業參軾、大臣仰四府將佐之由、頼業稱唯退下、此後良久不參來大臣度々雖尋催、右近少將候御所方、不告得云云、大臣云、然者只尉可參也云云、然而猶以不見、凡啓陣事、奏下除目之後可仰下候也、而延久康和除目清書之間被之、今除目以前被宣下、太以早速、大臣同被傾奇歟、將佐猶以不參之間、光雅就軾召大臣、大臣參上、余頃之起座參御所方、於鬼間方見除目儀、〈先是隆季卿在此所、見余來逐電云云、〉於御殿西面其儀、〈尋常晝御座也〉主上御引直衣、關白被御座北間簀子敷、〈南面〉左大臣候御座當間、〈東面〉同間北頭、長押上立切燈臺燈、次第作法如常歟、余始終不臨見、參朝餉方女房等、小時御前議了、大臣赴陣、人人少々著陣、或又立小板敷邊云云、須引大臣相率可本宮也、然而先例不必然之上、余有所存先以退出、暫參女院、使人見六波羅、聞人々參集之由東宮、于時坊官拜之間也、余經其前、昇中門北方

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1321徊同廊、卿相五六人、仰立此所、關白在饗座、又公卿等多群集東宮晝御座、太奇怪也、但舍屋狹少之間更無其所、仍忌憚群居歟、坊官拜畢、左大臣以下昇中門外方、余問云、可南庭哉如何、答云、不立云云、余率人々中門外方、列立中門下、〈東上北面〉此間垂晝御座御簾、〈光長役之〉次亮重衡朝臣進出示氣色、參御所〈可中門外、而昇内失也、〉啓事由之後〈就晝御座簾下也〉退歸、降中門内方、仰聞食之由中門了、次余已下列立南庭〈東上北面、殿上人在此列末、〉再拜了、歸立中門外、〈上臈兩三經列前退下如例、中納言已下先以退立本所、〉余招光長問云、被昇殿令旨者、今間可奏慶、若可程者暫可中門邊歟、如何者、答云、早被下申次人只今所參也者、即權亮維盛朝臣出來示氣色、昇中門外方、如初參進簾下、降中門内方、仰聞食之由歸出了、次余已下再拜、〈不前庭、乍本所拜也、〉次余以下昇中門外、著殿上饗座、豫關白及傅兩大夫等在端座、余著奧座、自餘人々相分著座、參議不著座如何、次一獻、〈大夫宗盛卿勸關白、瓶子大進光長、〉二獻、〈勸盃權大夫兼雅卿、瓶子權大進平經仲、〉次箸下、〈汁物兼居之、參議不着座之間、不申上暗以下著座例也歟、〉次三獻、〈勸盃權亮維盛朝臣、瓶子藏人某、豫光長相觸傳云、三獻瓶子誰人可取哉、被答云、六位進可之忽不候、藏人何事之有哉云云、〉次余㧞箸取笏退出、此後給祿人々退出云云、關白并坊官等留心歟、次御劒勅使頭中將定能朝臣參上云云、後聞坊官除目御前儀了、光雅相具御劒東宮云云、又余退出禁中之後、左府被除目清書、藏人大進基親奏之云云、又清書之間被啓陣事云云、其後被除目、次有坊官拜云云、此等事可尋記也、
 宣命                     大内記業實 
現神〈止〉大八洲所知〈須〉倭根子天皇〈我〉詔旨〈良萬止〉勅命〈乎、〉親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食〈止〉宣、隨法〈爾〉可有〈支〉政〈止〉爲〈氐、〉言仁親王〈乎◯安徳〉皇太子〈止〉定賜〈布、〉故此之状〈乎〉悟〈氐〉仕奉〈禮止〉詔天皇勅旨〈乎〉衆聞食〈止〉宣、
  治承二年十二月十五日

〔萬一記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1321 正安三年八月二十四日、參内、依立太子節會也、早旦諸司奉仕南殿御裝束、秉燭以後人々參集、子刻左大臣已下著仗座、今日冊太子事被宣下、可仰諸司之由、〈年々例前一日下知、寛仁九年前二日被宣下、延久元年當日宣下、〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1322 〈近代當日宣下也、於此節會者不内辨例也、〉次左大臣召外記并頭辨定房朝臣仰之、次定房朝臣著軾仰云、以富仁親王〈◯花園〉可皇太子宣命〈ヨ、〉次召大内記清範宣命趣、次内記持參宣命草、次内辨於陣以頭左中辨聞之、次返下之、次同人奏清書、〈先例多就弓場奏、在上卿所存、〉次令宣命使、次宸儀〈黄櫨染〉出御南殿、〈兼設筵道清涼殿額間、左右供掌灯、〉關白殿令御裾給、頭辨候御草鞋、内侍二人候劒璽、予候脂燭、次内侍置劒璽於大床子東頭、内侍候御帳東邊、天皇御座定、〈簾中御大床子御座〉此間近衞陣立、〈不胡床、次將卷纓縫腋、蒔繪劒壺胡籙、丸鞆帶、或淺履、或靴、奉行職事於南殿西簀子促之、〉次諸卿著、外辨、辨、少納言同著之、内辨〈著靴〉取副宣命於笏軒廊西一間、内侍臨東檻、〈自簾中出之扶持之、關白相具令出給之、内侍居東檻即歸入、予同令扶持之、〉次内辨昇東階兀子、此間上官著階下座、次開門、次闈司分著、次内辨召舍人、少納言就版、内辨宣、刀禰召〈セ、〉少納言稱唯退入、外辨王卿立標、〈異位重行〉内辨召宣命使藤中納言、〈俊光〉宣命使參上、給宣命軒廊第一間、次宣命使著版、宣制兩段、段々再拜、次宣命使歸本列、次公卿退出、還著陣座、次宸儀還御本殿、〈其儀如出御〉此間藏人奉仕御殿御裝束、〈其儀如官奏、但敷圓座二枚切灯臺、〉次主上出御晝御座、〈御直衣〉次關白殿令御前圓座給、次予參進、承仰召執筆大臣、〈其儀出御殿歟、就軾仰左府云、關白御消息云、コナタヘ令參給ヘ、〉次左大臣昇殿上小板敷執筆座、次執筆召男共、予參進、左府云、硯續紙、次豫入硯續紙於柳筥參之、次執筆書之、書畢入柳筥奏覽、次執筆左大臣歸著陣、令右宰相中將清書之、黄紙一枚、〈傅〉別紙折堺一枚、〈兩大夫〉折堺一枚、〈學士亮進屬、并監署載一紙、〉清書畢大臣奏聞、次奏聞、次返下、先是執筆令之間、上卿有召仰、參著軾之處、左府被申云、啓陣宣下事可遲々、早可申請、且上卿申請有其例者、次予起座歸著、仰云、任例令著、遣除目清書奏聞之後、上卿召官人加軾一枚、次召外記左少將教氏、右少將爲守朝臣、左兵衞佐資名、右兵衞尉之、次坊官傅大夫權大夫等就弓塲慶賀、予申次也、〈其儀先出逢自無明門代、左府氣色、予又深氣色、次持笏歸出、深氣色、仰聞食由也、左府氣色、次予居之退入、依家禮人々蹲居也、〉各舞踏、主上出御之後、藏人兵部大輔經世相具御膳具、參富小路殿、〈儲君御所〉勑使立中門外、右大辨雅俊朝臣出逢歸出氣色、次勅使著殿上座祿〈大褂〉退出云々、勅使事予雖催申子細畢、坊官奏慶之後、左少將俊言朝臣爲勅使、被御劒於青闈、〈壺切、代々儲皇御護劒也、此間被

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1323 〈仙洞、仍參萬里小路殿申出也、持參内裏大納言典侍入之於鬼間、召俊言朝臣、内侍被之、賜俊言朝臣、入赤地錦袋、〉出無明門代、於弓場小舍人、〈康和俊忠令隨身、有其難歟由、仍令小舍人畢、〉次俊言朝臣參青闈、次予退出、于時及曉天、〈◯節略〉

〔天和三年立太子次第〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1323 前一兩日、職事奉勅向大臣亭、仰召仰事、大臣召辨大外記之、 當日早旦、諸司奉仕南殿御裝束、 刻限大臣著仗座、〈直端〉諸卿次第著陣、 次内辨令官人敷一レ軾 次内辨召大外記諸司具否 次職事來就軾、仰云、以朝仁親王〈◯東山〉可皇太子宣命、 次内辨召大内記、仰宣命趣、〈其詞如職事〉 次少内記持參宣命草 次内辨以職事奏聞、職事歸來、仰清書之由、 次内辨召内記、返給宣命草清書之由、 次内記進清書 次内辨就弓場代〈内記相從〉奏聞、御覽畢返給、 次内辨還著陣、賜宣命於内記、仰陣腋、 次内辨告宣命使於其人 次諸卿著外辨 次内辨起座、於宣仁門外靴、進立宜陽殿壇上、〈内記持宣命相從〉 次天皇御南殿〈或不出御〉次近仗陣階下〈不胡床〉 次内辨取副宣命於笏、進立軒廊、 次内侍臨西檻 次内辨昇西階兀子 次開門 次闈司著座 次内辨召舍人〈二聲〉 次少納言就版 次内辨宣、刀禰召、 少納言稱唯、出召之、 次外辨參列〈異位重行、東上北面、〉 次内辨召宣命使宣命 次宣命使下殿立軒廊 次内辨下殿向宣命使揖、宣命使答揖、 次内辨就庭中標 次宣命使就版 宣制一段、群臣再拜、又一段、群臣再拜、 次宣命使退復本列 次内辨以下退出、改淺沓還著仗座、 次入御 次職事奉仕除目御裝束〈如女叙位〉 次職事就軾召大臣 大臣著殿上 次出御晝御座 關白著廂圓座 次職事奉仰、出殿上召之由、 大臣參進著執筆圓座 次依天氣、大臣召男共、 五位藏人參進候簀子 大臣仰硯續紙 五位藏人持參之 次大臣依仰、書宮司除目、書畢奏聞即返給、 次大臣取副除目於笏、出殿上外記筥之、還著仗座、 外記置筥退下、 次大臣召外記、仰參硯之由、 外記持參硯、置參議座上、 次大臣目清書參議〈有大辨者必召之〉 參議進寄大臣前 位次參議、依氣色先著座上、重依目參進、 次大臣授除目〈不筥〉 參議復座候氣色、摺墨染筆書之、 傅一枚〈黄紙〉兩大夫一枚〈折堺〉亮以下一枚〈折堺〉 次清書了、持參大

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1324 臣前、〈草同返上之〉大臣披見了入筥、 次大臣召外記筥〈外記持筥、立小庭〉 次大臣進弓場代〈外記相從〉奏聞、御覽了返給、 次大臣還著陣 外記置筥退 次大臣召外記 六位外記候小庭 次大臣問式省候否、 外記申候由 大臣仰召之由、外記稱唯退下、 外記進小庭、申式省候由、 大臣仰召由、〈或今度無答〉外記退、外記又進小庭、申式省候由、〈如初〉 大臣仰召由、外記稱唯退、 次式部丞立小庭 次大臣向奧座、取副除目於笏、召式部丞之、 丞取之立小庭 次大臣仰仰詞 丞退出 次大臣令官人、傳仰外記可硯之由、 外記參進、取筥至參議座、取重硯退下、 此間傅大夫以下、進弓場代職事、奏事由、拜舞、〈公卿一列、四位五位一列、〉拜舞了參本宮、 次職事就軾、仰進啓陣、 次大臣令官人加敷軾 次大臣召外記、仰近衞、 次左右近衞次將就軾、大臣仰啓陣之由、 次將稱唯退出 次大臣召外記、仰兵衞、 次左右兵衞佐就軾 大臣仰啓陣、〈其詞如近衞〉左右兵衞佐稱唯退出、 次大臣以下參本宮
  本宮次第
傅以下參本宮 次五位藏人持參御膳具〈小舍人相從〉立中門外 以亮奏事由 次亮歸出召勅使 勅使著殿上 次亮取祿〈白大褂一領〉給勅使 勅使取之退出〈不拜〉 此間小舍人計渡御膳具、 次傅以下降立中門外〈北上東面、公卿一列、殿上人一列、〉 亮離列奏事由、歸出仰聞食之由退加列、 次傅以下再拜 次再拜了昇殿 次御劒勅使〈近衞將〉立中門外、〈小舍人相從〉令權亮奏事由、 次勅使取御劒、昇中門廊切妻、候便宜所、 權亮出逢取之、置夜御殿、 次勅使著殿上 權亮取祿授勅使、〈白大褂二領〉勅使降庭上再拜退出、 近代立坊斷絶之後、立親王時(○○○○)、被(○)渡(○)護劒(○○)、仍被其佳例、兼依之今度不此儀、 次諸卿參本宮、列立中門外、令亮奏事由、 次亮歸出仰聞食之由 次諸卿進立庭中再拜、〈東上北面〉再拜了退、 次諸卿、更令權亮奏事由、奏昇殿慶再拜、〈於中門外之〉 次關白以下著殿上、〈奧端相分〉 兼設臺盤置饗 次一獻、〈勸盃大夫、瓶子大進、〉 次二獻〈勸盃權大夫、瓶子權大進、〉 次居汁物 關白大臣前居之、四位殿上人役之、納言以下前兼居

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1325 置之、 次三獻、〈勸盃權亮、瓶子權少進、〉 次賜祿 諸卿取之退出 關白祿〈白大褂二領〉亮取之 大臣祿〈白大褂二領〉四位殿上人取之 納言參議祿〈白大褂一領〉五位殿上人取之 次供御膳〈陪膳大夫勤之〉

〔輪池叢書〕

〈公事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1325 立坊の式、後光嚴院より十五代中絶にて、天和三年に再興せさせ給ひしとぞ、〈◯中略〉天和三年立坊記に云、立坊ノ儀式御執行アルベキトノ御沙汰アリ、然レドモ、近世親王宣下ノ儀ノミニテ事スミ、立坊ノ式ハ、崇光院ヨリ至只今十四代、二百餘年餘絶タル事也、故文獻不徴、諸家共考ラルベキ記ナシ、伏見殿ニ、崇光院ノ御時立坊式、并親王ノ御衣トテ、則崇光院御著用、所々蟲バミノ跡アルモノ、笋刀ハ不申、及天皇元服ノ時、自南殿清涼殿ヘ入御ノ時、御著用ノ空頂黒幘等ノ物マデ存ス、其上冊命立坊記、萬一録ナド云ル舊記アリ、其ニ從ヒ考ラルヽ時ニ大禮ノ儀式粗備レリ、主上悉叡覽アリ、伏見殿ヘ大ニ御感ノ勅諚アリシト聞ユ、既ニシテ陰陽家ニ命ジ玉ヒ、日時ノ勘文ヲ奉ベキトノ勅定ナリ、於兹天和三年春二月九日ニ極リヌ、

〔俊矩記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1325 文化六年三月二十四日立太子〈惠仁、(仁孝)御歳十、◯中略〉
 立太子次第
前一兩日、職事奉勅向大臣第、有召仰之事、 當日早旦、諸司奉仕南殿御裝束、 刻限大臣著仗座、諸卿次第著座、 次大臣令官人敷一レ軾 次大臣召大外記諸司具否 次職事來軾、仰惠仁親王皇太子、可宣命之由、 次大臣召大内記宣命之趣 次内記持參宣命草〈入筥〉 次大臣披見、内記退入、 次大臣令職事奏宣命草 職事還來、仰清書之由、 次大臣召内記給宣命草、仰清書之由、内記退入、 次内記持參清書、大臣披見、次大臣進弓場〈内記持宣命相從〉奏聞、御覽畢返給、 次大臣還著陣、給宣命於内記、仰陣腋之由、 次大臣差其人、告宣命使之由、 次諸卿著外辨 次内辨起座、於陣後靴、進立軒廊、〈内記持宣命相從〉 天皇御南殿〈簾中〉近仗引陣〈不胡床〉 次内侍臨東檻 次内辨昇殿著兀子 次開門 次闈司分著 次内辨召舍人 次少納言就版 次内辨召刀禰

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1326 少納言退出召之、 次外辨參列標下〈異位重行、西上北面、〉 次内辨召宣命使宣命 次宣命使降立軒廊、 次内辨降殿就標 次宣命使就版 宣制一段、群臣再拜、 又一段、群臣再拜、 次宣命使復本列 次内辨以下退出、脱靴改淺履、還著仗座、 天皇入御、近仗退出、 次職事奉仕除目御裝束 次職事來軾召大臣 次大臣著殿上 次出御晝御座 關白著廂圓座 次職事奉仰、出殿上大臣、 次大臣參著御前圓座 次依天氣大臣召男共 五位藏人豫參進候簀子 大臣仰參硯續紙之由、五位藏人持參之、 次大臣依天氣坊官除目 次奏問、御覽畢返給、 次大臣取副除目於笏、還著仗座、 次大臣以官人外記、仰參硯之由、 次外記持參硯、置參議座上、 次大臣召清書、參議於座前除目、 參議取副除目於笏座 次參議候氣色執筆 傅一枚〈黄紙〉 兩大夫一枚〈折堺〉 學士亮一枚〈折堺〉 次參議清書畢、持參大臣前、 次大臣披見清書 次大臣召外記筥、外記持參筥、 次大臣納清書於筥外記 外記持筥候小庭 次大臣進弓場〈外記相從〉奏清書、御覽畢返給、 次大臣還著陣 外記置筥退入 次大臣更令官人召外記、六位外記候小庭、 次大臣問式省候否 外記申候由 大臣仰召之由、外記稱唯退入、 外記進小庭、申式省候由、 大臣仰召之由、外記稱唯退入、 外記又進小庭、申式省候之由、 大臣仰召之由、外記稱唯退入、 次式部丞立小庭 次大臣取副除目於笏、召式部丞之、 丞取之立小庭 次大臣仰仰詞、丞退出、 次大臣令官人傅仰可空筥硯等之由於外記、 次外記參進撤之 此間傅以下進弓場、奏事之由拜舞、〈公卿一列、殿上人一列、〉畢參本宮〈昭陽舍代〉 次職事來軾、仰進啓陣之由、 次大臣令官人加敷軾 次大臣召外記、仰近衞之由、 次左右近衞次將來軾 次大臣仰啓陣之由、次將稱唯退入、 次大臣引率諸卿本宮
 本宮次第
先傅以下參入昭陽舍代、列立南門外、〈西上北面、公卿一列、殿上人一列、〉 次亮離列啓事之由、還出仰聞食之由列、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1327  次傅以下再拜畢昇殿 次五位藏人持參御膳具、〈小舍人相從〉立南門外亮啓事之由、 次亮還出召勅使、勅使著殿上、 次亮取祿〈白大褂一領〉授勅使、勅使賜之退出、 此間小舍人計渡御膳具 次御劒 勅使捧御劒南門外〈小舍人相從〉令權亮啓事之由、 次權亮還出召勅使 次勅使昇殿上沓脱、參進御殿簾前、授御劒於權亮、權亮取之持參夜御殿、 次權亮取祿授勅使〈白大褂一重〉 次勅使降殿再拜退出 次諸卿參入、立南門外亮啓一レ賀、 次亮還出仰聞食之由 次諸卿進南庭再拜、〈西上北面〉畢退列立南門外、 次諸卿更令權亮啓昇殿之事 次權亮還出復命 次諸卿再拜〈不庭中〉 次關白以下公卿著殿上、豫設饗於臺盤、 次一獻、大夫起座勸盃、大進取瓶子、次二獻、權大夫起座勸盃、權大進取瓶子、 次居汁物關白大臣前、四位殿上人役之、納言以下豫居之、 次三獻、權亮勸盃、權少進取瓶子、 次賜祿、亮取關白祿、〈白大褂二重〉四位殿上人取大臣祿、〈各白大褂一重〉五位殿上人取大納言以下參議以上祿、〈各白大褂一領〉 次諸卿退出 次供御膳、大夫勤仕陪膳、 次神祇官人奉仕大殿祭〈少進引導之〉 若入夜時、御階下主殿署奉仕立明

壺切御劍

〔西宮記〕

〈臨時五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1327 東宮行啓
寛平九年正月御記曰、大丞相奏云云、昔臣父有名劒、世傳斬壺、但有二名、田邑天皇〈◯文徳〉喚件劒、賚陰陽師、即爲厭法埋云、于時帝崩、陰陽師逃亡、是見鬼者也、而不劒所在、彼陰陽師居神泉苑、爰推量其所一レ堀、覔援得此劒、拔著劒覽者是也、光彩電耀、目驚霜刄、還納室云云、令東宮劒若是歟、

〔禁秘御抄〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1327 寳劒神璽、
抑壺切代々東宮寳物也、又時々在公家、延喜以少將定方東宮是始歟、〈東宮給褂一重

〔禁秘御抄階梯〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1327 寳劒神璽〈◯中略〉
延喜被東宮保明太子、〈諡號文彦太子〉醍醐天皇皇子、西宮記、延喜四年二月十九日、召左大臣立太子宣命旨云々、使左近少將定方、持切壺劒皇太子曰、吾爲太子初、天皇賜此劒、故以賜之、定方奏

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1328、祿褂一襲、
按壺切者、漢張良劒、〈資仲卿説〉長良公劒、〈忠仁公兄、花園院御記、〉忠仁公劒、〈寛平御記〉昭宣公劒、〈顯兼卿抄〉延喜帝〈◯醍醐〉東宮之時被之、〈寛平五年四月二日立太子、山蔭爲御使是始歟、〉海浦蒔繪有龍摺具、裝束青滑革、〈延久御記〉海浦蒔繪、野劒麒麟螺鈿文、〈人車記〉後冷泉院、康平二、正、八皇居〈一條院〉燒亡之時爲灰燼、〈不東宮、〈後三條〉百練抄〉後三條院治暦四、十二、十一、爲灰燼、仍被鑄造、〈或抄〉此時刄殘仍被鞘、〈顯兼卿抄〉承久亂逆之時、紛失之由有沙汰、寛元元、〈仁治四〉八、十〈後深草院立太子〉被新造、〈壺切紛失、被他御劔、百練抄、〉正嘉二、八、七〈龜山院立太子〉自勝光明院寳藏出現、〈承久不紛失、被寳藏歟云々、或抄、〉

〔江談抄〕

〈三雜事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1328 劒 壺切
壺切者爲張良劒
又被命云、壺切ハ昔名將劒也、張良劒云々、雄劒ト云僻事也云々、資仲所説也、
壺切事
劒ハ壺切、但壺切燒亡歟未詳、件劒ハ累代東宮渡物也、而後三條院東宮之時、二十三年之間、入道殿〈◯藤原教通〉不獻給云々、其故ハ、藤氏腹東宮之寳物ナレバ、何此東宮可得給乎云々、仍後三條院被仰之様、壺切我持無益也、更ニホシカラズト被仰ケリ、サテ遂ニ御即位ノ後コソ被進ケレ、是皆古今所傳談也云々、

〔續古事談〕

〈一王道后宮〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1328 東宮ノ御マモリニ、ツボキリト云大刀ハ、昭宣公〈◯藤原基經〉ノ大刀也、延喜ノ御門儲君ニオハシマシケルニ奉ラレタリケルヨリ傳ハリテ、代々ノ御マモリトナルナリ、後三條院東宮ニ立給時、後冷泉院ヨリワタサレザリケリ、後冷泉院ウセ給テ後モトメイデヽ、大二條殿〈◯藤原教通〉關白ノ時、後三條院ニタテマツラレニケリ、立坊ノ後二十餘年ワタサレデヤミニキ、今位ニツキテ後、トヾメラレズトモアリナムト世ノ人申ケリ、後三條院オホセラレケル、神璽寳劒ヱウナリシカドモ、二十餘年スギニキ、何カクルシカラントテトヾマリニケリ、其後ホドナク二條内

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1329 裏ノ火事ニヤケテ、身バカリノコリタリケルニ、ツカサヤヲ作リテグセラレタル也、

〔百練抄〕

〈四後冷泉〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1329 康平二年正月八日、皇居一條院燒亡、主上渡御上東門院御所、壺切劒爲灰燼、〈不東宮也〉

〔百練抄〕

〈十五後嵯峨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1329 寛元元年八月十日、今上第一皇子〈久仁◯後深草〉有立太子事、申刻被行節會、節會畢於御前坊官除目、坊官等於弓場慶、又參本宮慶、公卿相引參本宮、事畢自内裏御劒、壺切紛失之間、被他御劒、勅使頭中將師繼朝臣、賜祿再拜退出、

〔園太暦〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1329 觀應三年〈◯文和元年〉二月十三日丁亥、今夜參院、〈◯中略〉去年壺切被渡之儀尋申之、仰云、劒璽置二階、被折妻戸内、壺切即被其傍、藏人範康引導左少將康清〈伯卿猶子〉參進、範康卷御簾、康清賜之、出中戸長櫃歟、一身三度賦之云云、

〔基量卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1329 天和二年三月二十七日、今日壺切御劒被進、以密儀土御門兵部少輔令持參也、本儀近衞中少將可持參也、先年萬治度令燒失處、作飾燒了之所、於劒者無別儀、依不磨云云、不思儀之名劒也、累代寳物無他物也、

〔通誠公記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1329 寶永五年後正月六日、壺切御劒、御裝束調進之事、被出武家、兩傳奏奉之、傳仰於武家、二月八日、壺切御劒裝束、今日造進之、〈自武家於武家兩傳奏、〉關白内覽之後、議奏以女房〈大和〉獻之、

〔槐記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1329 享保九年九月七日、仰ニ、總ジテ後鳥羽院已來ノ眞記ハ、後光明院ノ時ノ禁裏炎上ニコトゴトク亡ビタリ、〈◯中略〉五間ニ八間ノ御文庫、一度ニ三ケ所トモニ燒失セリ惜ムベシ、然ルニ壺切ノ御劒、其外ニ今二振ノ御劒モ、念ナク燒失ケルガ、後日二振トモ、鞘モナクテ身バカリヲ燒跡ヨリ探シ出シ奉ルニ、兎ノ毛ノ先ニテツキタルホドノキズモナシ、不思議ト云ベシ、今ノ御劒コレナリト仰ラル、

參賀進獻

〔朝野群載〕

〈一文筆〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1329 延暦寺奉儲君始立
延暦寺沙門延昌等謹啓、伏聞儲君殿下、〈◯冷泉〉去月十三日正太子之尊、就少陽之位、椹袍藍袖、懽々于

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1330 市朝、蕙帳蓬扉欣々于巖谷、殿下感瑤光而託孕、應端氣而誕姿、生而神聰、已掩軒轅於五帝之徳、立是天授、豈假羽翼於四皓之賢、既賀寢膳之有一レ問、盍監撫之有一レ歸、鴻景之基固於磐石、鸞殿之志安於泰山、昔在周武之育成王、全繼聖哲之體、漢文之生景帝、定齊恭儉之名、周漢之風于兹可觀而已、嗟哉出鷇之鳳雛、想煙霄於咫尺、離胎之龍子、致雲雨於須臾、斯則曩因高殖、宿分不定、猶如日之不踰、天之不一レ階者也、延昌等棲深山之古洞、纔驚嘉鵲之聲、樂大厦之新成、欲賀鷰之志、不欣躍抃舞之望、謹遣寺主僧傳燈大法師良藝等、奉賀以聞、謹啓、
 天暦四年八月一日

〔左經記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1330 寛仁元年八月九日甲戌、申刻東宮立給、〈◯後朱雀〉作法如常、 二十一日丙戌、仁和寺僧正被示云、寺僧爲慶可攝政殿、先例僧綱并所司大衆相會摠二十人參入給祿、僧綱大褂一領、所司大衆等衾各一條也云々、入夜歸參、 二十五日庚寅、今日興福寺僧等參東宮御慶賀之由、〈於北陣邊、令少進懷信參上之由、〉即有給祿事、〈僧綱二人、別當權別當、白大褂各二領進取之、已講三人、白大褂各一領、大衆諸司各衾一條、屬取授之、〉摠所參僧等二十一口也、傳聞興福寺僧先參攝政殿、〈攝政御慶也〉次參東宮、攝政殿同有給祿事云々、

〔常憲院殿御實紀〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1330 天和三年二月九日、京にて親王立坊、〈◯東山〉女御立后ありしをほがせ給ひ、賀使進らせ給ふ、松平讃岐守頼常これを奉り暇賜ふ、高家畠山民部大輔基玄もさしそひまかるべしと命ぜられ同じく暇下さる、その儀物は主上〈◯靈元〉に、儀刀一振、銀三百枚、皇太子に、眞包御大刀銀三百枚、綿二百把、各三種二荷そふ、本院に、銀百枚、新院中宮に、銀二百枚、綿百把、ともに二種一荷そひたり、御臺所より禁庭に、銀三十枚、東宮に五十枚、中宮には三十枚、各二種一荷そひたり、 二十一日、群臣まうのぼり、老臣に謁し、立坊立后を賀し奉る、

〔有徳院殿御實紀〕

〈二十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1330 享保十三年五月廿一日、立坊〈◯櫻町〉の慶賀使酒井雅樂頭親本に、進らせ給ふ品々を授らる、禁裏に御大刀、銀三百枚、三種二荷、大納言殿より御大刀、銀二百枚、二種一荷、天英

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1331 院殿より銀三十枚、一種一荷、東宮に備前國光重の御大刀、銀三百枚、綿二百把、三種二荷、大納言殿より青江恒次の御大刀、銀二百枚、綿百把、二種一荷、天英院殿より銀五十枚、一種一荷、法皇に銀百枚、二種一荷、大納言殿より銀五十枚、一種一荷、天英院殿より紗綾十卷、一種一荷なり、 六月廿一日、去十一日京にて立坊ありしを賀して、群臣兩城に出仕す、

〔寶暦集成絲綸録〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1331 延享四卯年三月十六日、立坊〈◯桃園〉相濟候ニ付、爲御祝儀明廿二日服紗小袖半袴著之、四時總出仕有之候、尤西丸〈江〉も出仕、大御所様大納言様〈江〉も御祝儀可申上候事、
 但出仕無之面々は、月番之老中隱岐守右近將監宅〈江、〉以使者御祝儀可申上候、
一在國在邑之面々、五萬石以上ハ使札、五萬石以下ハ飛札、老中隱岐守右近將監〈江〉可差越候事、
右之趣可相觸
  三月

〔浚明院殿御實紀〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1331 明和五年二月七日、京の御使松平下總守忠刻に、備前國守家の御大刀をさづけらる、これ立坊の慶賀とて奉り給ふなり、御臺所よりの進らせられ物は、高家長澤壹岐守資祐に授らる、 二十七日、群臣出仕し、京都の立坊〈英仁親王桃園院第一皇子◯後桃園〉を賀す、 四月三日、立坊により、禁裏より屏風一雙、三種二荷、東宮より御大刀、金二枚、白綾十端、女院准后よりもおなじ、大納言殿には、禁裏より畫帖、二種一荷、東宮より御大刀、金一枚、白綾一卷、女院より純子一卷、准后よりも同じく進らせらる、

〔俊矩記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1331 文化六年三月廿五日乙酉、立坊〈◯仁孝〉恐悦、今朝仙洞〈御帳〉中宮〈表使〉殿下等令參賀、但於中宮御祝、〈赤飯吸物酒肴也〉宮司一統如此由、即參賀之序、於御客間頂戴、〈以非藏人、御肝煎迄御禮申入置如例、〉東宮御禮式如左、
三月廿五日、攝家中、兩役、院兩使、三卿、坊官、東宮近習、近習、西園寺中納言、 廿六日、中務卿宮、尹宮、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1332 兵部卿宮、上總宮、常陸宮、前内大臣、徳大寺前内大臣、近習番御免、院伺候、 廿七日、内々門跡、御所々々、入道前大納言、冷泉入道前大納言、内々公卿殿上人、有成朝臣、 四月二日、外様公卿殿上人、内々外様入道、 廿一日文覺寺門跡、大乘院門跡、三寶院門跡、蓮華光院門跡、實相院門跡、大乘院新門跡、三寶院新門跡、 廿二日、諸禮、内院非藏人、 廿四日、東本願寺、 廿五日、養源院、法淨院、南禪寺、五山、小池坊、智積院、蓮臺寺、本國寺、智恩院、
右内々衆御禮以上ハ、悉御三間御對面故、不坊官總詰、外様以下ハ皆小御所御對面故、坊官并東宮近習總詰也、即二月廿一日以下廿六日迄、坊官一統俊常迄連名總詰觸三卿、後日被觸出由也、
東宮御禮、此日攝家中以下役人坊官近習等也、仍俊常兼日議奏觸有之、辰半刻小仕、於便所御祝、〈吸物酒肴〉未半刻過攝家中以下、悉於御三間御對面、東宮御座中段御板茵也、傅大臣被南椽座敷、三卿亦南椽座敷杉戸邊列候也、俊常坊官一統之列、於西椽座敷御對面、其次東宮近習、次近習一統西園寺等御對面也、御對面後御禮之事、於大夫以下俊常以上坊官一統連座、以表使上御禮也、攝家中御對面而已、御盃之儀無之也、 五日甲午、立坊御祝儀、關東使井伊掃部頭、戸田土佐守、酒井讃岐守、同伴參内也、今日御所方進獻如左、
大樹ヨリ禁中ヘ、御大刀一腰、御馬〈代白銀三百枚〉一匹、三種二荷、〈干鯛一箱、昆布一箱、鰑一箱、〉東宮ヘ、御大刀一腰、綿二百把、御馬〈代白銀三百枚〉一匹、仙洞ヘ、白銀百枚、二種一荷、〈干鯛一箱、昆布一箱、〉中宮ヘ、白銀二百枚、綿百把、二種一荷、〈干鯛一はこ、こんぶ一はこ、〉亞相ヨリ禁中ヘ、御大刀一腰、御馬〈代白銀三百枚〉一匹、二種一荷、〈昆布一箱、鰑一箱、〉東宮ヘ、御大刀一腰、綿二百把、御馬〈代銀二百枚〉一匹、仙洞ヘ、白銀五十枚、一種一荷、〈干鯛一箱〉中宮ヘ、白銀百枚、綿百把、一種一荷、〈干鯛一はこ〉御臺ヨリ禁中ヘ、白銀三十枚、二種一荷、〈干だい一はこ、こんぶ一はこ、〉東宮ヘ、白銀五十枚、二種一荷、〈干だい一はこ、こんぶ一箱、〉仙洞ヘ、紗綾十卷、一種一荷、〈干だい一はこ〉中

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1333 宮ヘ、白銀三十枚、一種一荷、〈干だい一箱〉井伊掃部頭獻上、禁中ヘ、御大刀一腰、蠟燭二千挺、御馬〈代黄金三十兩〉一匹、東宮ヘ、御大刀一腰、蠟燭二千挺、御馬〈代黄金三十兩〉一匹、仙洞ヘ、御大刀一腰、蠟燭千挺、御馬〈代黄金十兩〉一匹、中宮ヘ、縮緬〈紅白〉二十卷、蠟燭千挺、戸田土佐守獻上、禁中ヘ、御大刀一腰、和紙二箱、御馬一匹、〈代〉東宮ヘ、御大刀一腰、和紙二箱、御馬一匹、〈代〉仙洞ヘ、御大刀一腰、和紙一箱、御馬一匹、〈代黄金十兩〉中宮ヘ和紙一箱、
六日乙未、井伊掃部頭來使、有贈物、大刀馬代也、使者口上之趣ハ、備忘切紙持參如左、
此度參内院參首尾能相勤、奉龍顏、天盃頂戴、仙洞東宮御目見被仰付、御盃頂戴、重疊難有奉存候、依之爲御祝儀、以使者目録之通被進上候、〈◯節略〉

皇太子待遇

〔令義解〕

〈六儀制〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1333 凡〈◯中略〉率土之内、於三后皇太子上啓稱殿下、自稱皆臣妾、〈對揚稱名、〉

〔槐記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1333 享保十四年九月四日、晩參候、東宮立坊ノ節、滋野井ヨリ、坊官ノ者ノ表文等ニハ臣ト稱シテ苦シカラヌコトニヤ、但シ臣トハ稱スマジキコトヤト問ハル、令ノ集解東宮坊官ノ人臣ト稱スベキコト、唐朝ノ禮ナル由記セリ、唐朝ノモノニモ略出セリ、宋朝以后ノ書ニハ見當ラネドモ、日本ノ禮ハ唐禮ヲ專ラトスルコトナレバ、臣ト稱シテ全クアヤマリナラズト仰遣ハサレシガ、物ハ何ニテモ廣ク見ベキコト也、此頃賓退録ノ中ニ、宋朝太子ノ臣ト稱スルコトヲ許サレズ、ソレヨリシテ春宮ノ坊官ヲ臣ト稱スルコトヲ廢セラレタリト記セリ、コレニテ唐朝ニテ用タルコトイヨ〳〵慥ナリ、カヤウノコトホド面白キコトハナシ、コチラカラ合セズ、アチラカラ合フコトニアラザレバ本ノコトニ非ズ、宋朝ニ廢セラレタルニテ、唐禮ノタシカナルヲ日本ニハ用ユ、集解モソレヲ載ラレタリ、是等ノコトドモ近キ書ナレバ御覽アルベケレドモ、其不審ナキ時ハ徒ニ看過ナリト、地下ニ此コトノアリタル故ニヒトシホニ思召ヲ、滋野井ニ仰遣ハサレタラバ、何ホドカ嬉シカルベシ、未ダ仰ツカハサレヌト仰ラル、

〔文徳實録〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1334 嘉祥三年四月己酉、公卿上啓曰、〈◯中略〉遺制云、皇太子〈◯文徳〉可柩前、即皇帝位、一依周漢故事、伏惟殿下深仁植性、純孝因心、寢門問豎、竭愛敬之誠、馳道申虔、盡温恭之禮、臣子之道克宣、天人之望允集、宜肅奉聖旨、屬兹時來、居南面之尊高北辰之大寳、而偏纏罔極之至哀、不情以就一レ禮、渉旬踰月、以至今日、臣等(○○)顒々深所未達、况乎先帝〈◯仁明〉已有遺勅、孝善述父志、何得匹夫之情孝、缺萬乘之典章、謹案春秋例、人君即位有四、初喪即位一也、既葬即位二也、踰年即位三也、三年諒闇終即位四也、殿下(○○)已在初喪而忘制、宜既葬而示儀、上承七廟之靈、下定萬民之望、臣等自負舊恩於丘山、思新主於堯舜、不悾欵之至、謹奉啓以勸進、令曰、雖遺詔、既踰旬月、况亦陵土未乾、不正、不聽、

〔令義解〕

〈七公式〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1334 東宮 皇太子 殿下 右如此之類、並闕字、

〔延喜式〕

〈四伊勢大神宮〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1334 凡王臣以下不輙供大神幣帛、其三后皇太子若有供者、臨時奏聞、

〔百一録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1334 寶永四年四月廿九日、儲君御方〈◯中御門〉有親王宣下、上卿二條内大臣、勅別當徳大寺大納言、奉行頭中將、 經慶卿改經敬、儲君御諱慶仁(マサヒト)依之也、 五月朔日、隆慶卿改隆賀、季慶朝臣改季通御諱也、

〔延喜式〕

〈四十三春宮〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1334 凡東宮初立、頓料絹一百五十疋、調布五百端、調綿五百屯、錢百五十貫文、白米百斛、黒米百斛、鹽廿斛、油八斗、
凡東宮湯沐二千戸
凡六月一日、内藏寮供御櫛卅枚、〈十二月亦同〉
凡八月二日、御被料長絹二十疋、白綿二百屯、申官請受、
凡十二月二日、來年雜用料絹三百疋、綿七百屯、絲五百絇、調布一千端、鍬一千口、錢五百疋、御履革四張、〈皺文革二張、白革二張、〉申官請受、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1335 ◯按ズルニ、此他ナホ東宮ニ供スベキ、調度用途ノ類多ケレド略ス、官位部東宮坊篇ヲ參看スベシ、

〔儲君親王宣下部類〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1335 明暦四年正月十九日、儲皇〈◯靈元〉親王宣下之儀有御沙汰、廿一日參院、親王宣下之事條々有沙汰、今度親王宣下、同日可叙品宣下哉否事、法皇舊院親王宣下同日叙品宣下云云、然ハ爲御佳躅之間、此旨可沙汰歟之由伺申、仰云、儲君之儀不自餘親王、縱者雖無品各別ニ御崇敬、以之爲御規摸、乍然法皇舊院同日御吉例之間、其通可御沙汰之由御氣色也者退出了、

〔季連宿禰記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1335 天和二年十一月三日丙午、儲君〈◯東山〉御臺所賄料千俵、從武家獻之由風聞、

〔通誠公記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1335 寶永五年二月三日、内院中東宮御次第事、主上、仙洞、東宮、女院、中宮大准后、可此通之由御治定也、

〔頼言卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1335 寶暦九年五月十五日甲午、今日儲君〈◯後桃園〉立親王宣下也、自今日御次第、親王准后ト被立了、〈◯節略〉

〔言成卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1335 天保六年九月十八日、今日儲君〈◯孝明〉立親王宣下廻文到來、儲君御次第、可准后上候、右之通大宮權大夫被申渡、〈◯節略〉

太子拜覲

〔西宮記〕

〈正月〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1335 童親王拜覲事
延喜九年二月廿一日、皇太子始朝覲、乘輦入玄暉門清凉殿北簷輦、候息所直曹、藏人供奉御裝束、〈尋常帳立意子毯代、不置物机、〉即太子進當御座拜舞、〈寛平入南方、於又廂舞踏、此度以太子幼齒殊用正廂拜、〉此間左大臣候簾下引、禮了還、

〔外記日記〕

〈立太子部類所引〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1335 寛仁元年八月二十一日丙戌、此日皇太弟〈◯後朱雀〉初參御所謁天皇、其儀申二刻皇太弟出東北面對、西行乘御在所殿南庇參給、前攝政并攝政、并傅右大臣、坊官大夫權中納言藤原教通卿、同頼宗卿等立前後、他坊官等於殿下伺候、皇帝〈◯後一條〉御倚子御座、〈此御座立於殿南第四間南面〉皇太弟進而

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1336 拜舞、〈於後廂中間拜舞〉訖退出、于時天皇下倚子御座、御平敷御座、更令内侍召還皇太弟、還參著座、〈南第三廂間置褥一枚西面〉頃之掌侍侍子取御祿、〈御衣一襲、青色表御衣、蘇芳陽下襲、綾表御袴、今御袴阿古女等、白綾細長一襲等也、〉攝政取御祿於大夫卿、其中以袙單御衣御頸、又歩進南廂再拜舞踏、退出儀式行列如初、便參皇太后宮、〈是御在所殿東妻也〉又再拜舞踏、依母后御氣色御簾中、有御祿、〈女裝束一襲〉以單御衣御頸、再拜舞踏又如初、此間作法神妙、上下見者感淚難禁、推而可察、次大夫以下進以上給祿各有差、〈大夫白大褂一襲、學士亮大進等各紅衾一條、六位進黄襖子一領於瀧口邊藏人範永賜之、北上西面、再拜舞踏、〉皇太弟御本殿、公卿以下有饗饌也、

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1336 久壽二年十月五日己卯、傳聞東宮〈◯二條〉自鳥羽南殿啓同田中殿、先例召禪閤之貞信公青絲毛、今度被院之青絲毛云云、件車故待賢門院爲中宮常出入之時、白河院被送云云、太子御裝束闕腋袍、螺鈿劒、絲鞋云々、近後一條院爲太子拜覲日之例也、見爲善記之由、亮親朝臣所談也、

〔渡邊舊記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1336 享保十三年六月二十三日、今晩御拜覲(○○)〈御所(中御門)へ御成(櫻町)亥刻、還御子半刻、〉拜覲之義、數百年御中絶之御沙汰(○○○○○○○○○○)、今度御再興(○○○○○)、誠以恐悦御事也、御衣紋高倉殿御參、於清凉殿御作法有之由、坊官不殘御參、地下之輩不參勤

〔公卿補任〕

〈中御門〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1336 享保十三年六月二十三日、皇太子〈◯櫻町〉御拜覲、

〔資方朝臣記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1336 享保十三年六月二十三日、東宮拜覲也、今夜亥刻計也、東宮傅〈兼香公〉令議定所庇圓座給、〈南面〉東宮出御于議定所艮方之御座、次東宮大夫〈實憲卿〉取御劒〈歟、御笏歟、〉次傅卷御簾、次東宮出御、經布障子高遣戸ノ邊ヲ御通リ有之、傅以下供奉、脂燭之輩、布障子ノ前ノ妻戸之内取脂燭、長橋ノ邊西ノ妻戸ノ邊迄也、入御于鬼間、〈御休息所〉垂簾也、傅被鬼間ノ孫庇〈北面〉也、此間主上出御于晝御座、御帳臺無几帳、立御倚子、無晝御座之疊、垂簾之内左右有菊燈臺、簾外同前、次頭辨候御簾歟、次傅目、左少辨稙房從御目、傅仰左中辨宣誠可來由、宣誠相從、次孫庇ノ邊ニ御出之道ノ搆ヲ被命、次從簾中簾、太子御出、傅以下供奉、太子令晝御座簾外之疊給、大夫取祿行于鬼間孫庇之程亮跪取祿了〈掛左〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1337 〈肩右脇、左ヲ爲上、右ヲ爲下、〉復座、〈長橋〉次御拜、傅候御後、次令晝御座給、二枚杉戸ノ方ヨリ御出、取脂燭了、次令議定所了、脂燭殿上人範篤朝臣、輝季朝臣、保房、房季、丹波尚秀、〈各束帶〉奉行光綱也、

〔俊矩記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1337 文化六年三月十四日甲戌、早朝出納來面、昨夕之趣、委細演説、即内豎、戸屋主有之、晝之交名一紙返却、此通諸司參勤被仰出間、來月七日巳刻可相催旨申渡、〈最早別段以切紙申送旨申聞、内豎可一人事、意味委細申含、〉内藏權頭承知、即示談之上、下行員數令治定左、
  御拜覲御下行
五斗 出納 一人   三斗 内豎 一人
三斗 小舍人一人   三斗 所衆 一人
二斗 戸屋主一人   壹斗五升 仕人 一人〈◯中略〉
 皇太子拜覲儀
刻限皇太子出御在所、令御殿給、
 傅取御裾、學士二人、亮二人、大夫二人、左右相分前行、〈上臈在左〉大進少進等候御後、或傍親公卿在御供
天皇出御
 豫御帳中立御倚子〈撤晝御座
皇太子進孫廂、當御前西面拜舞、
 此間傅大夫留簀子、亮以下候便所
次拜舞訖、暫令昆明池障子後給、
次入御
 此間撤御帳中御倚子、更供尋常御座、弘廂北第一間敷東京錦茵皇太子御座、孫廂敷圓座一枚關白座

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1338 天皇出御晝御座
次以掌侍皇太子
皇太子參進御前
次典侍持御衣皇太子
皇太子進孫廂拜舞〈如初〉
次入御
皇太子還御之便、令二間廂母后給、訖還御、〈傅以下奉相從初〉

〔實久卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1338 天保十一年三月二十六日丁巳、今日東宮〈◯孝明〉拜覲也、辰終刻許、自昭陽舍東宮出御、坊官供奉、於清凉殿廣廂御拜舞云云、

太子監國

〔令義解〕

〈六儀制〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1338 凡車駕巡幸及還、百官五位以上辭迎、留守者不辭迎之限、〈謂執掌之長官留守者也、假令監國之太子(○○○○○)、若執契之公卿之類、〉

〔令義解〕

〈七公式〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1338 勅旨式、〈◯中略〉〈皇太子監國亦准此式、以令代勅、〉

〔令集解〕

〈三十一公式〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1338 勅旨式、〈◯中略〉穴云、宰相以上留守之時、不式耳、跡云、問、監國未知无皇太子、差宰相以上留守者何行爲、答、不行事也、以令代勅、謂棄勅行令啓耳、朱云、皇太子監國亦准此式、以令代勅、謂不詔書耳、問皇太子留守條師記云、雖鈴契内印、又不御所事、餘公事不行者、未知依此式令旨此何色事、答言云云不明决耳、

〔令義解〕

〈七公式〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1338 便奏式、〈◯中略〉其皇太子監國〈謂天子巡幸、太子留守、是爲監國、〉亦准此式、以奏勅啓令

〔令義解〕

〈七公式〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1338 凡車駕巡幸京師、留守官給鈴契、〈謂留守官者、皇太子若不在者、餘官留守者亦是也、(中略)其依上條、太子監國之日、唯得勅旨及便奏、以外大事、不施行、〉

〔續日本紀〕

〈三十八桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1338 延暦四年九月丙辰、車駕至平城、〈◯中略〉至於行幸平城、太子〈◯早良〉及右大臣藤原朝

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1339 臣是公、中納言種繼等並爲留守

〔水鏡〕

〈下桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1339 延暦三年十一月十一日戊申、長岡の京にうつり給ふ、同四年八月にならの京へ行幸侍りき、長岡の京には、中納言種繼留守にて候しを、みかどの御おとヽの早良の親王東宮とておはせしが、人をつかはしていころさしめ給ひてき、ことのおこりは、みかどつねにこヽかしこに行幸し給ひて、世のまつり事を東宮にのみあづけたてまつりし(○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○)かば、天應二年に佐伯今毛人といひし人を宰相になさせ給ひたりしを、みかどかへらせ給ひたりしに、この種繼、佐伯の氏のかヽることはいまだ侍らずと御門に申しかば、宰相をとり給ひしを、東宮よにくちをしき事におぼして、種繼をたまはらんと申しを、みかどむつかり給ひて、さらに聞給はずして、このヽち東宮にまつり事をあづけたてまつり給ふ事なくなりにしを、やすからずおぼして、そのひまをとしごろうかヾひたまひつるに、よきをりふしにて、かくしたまひつる也、

太子攝政

〔職原抄〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1339 攝政、〈◯中略〉推古天皇朝、皇太子厩戸皇子〈推古姪也〉攝政、齊明天皇御宇皇太子中大兄皇子〈◯天智〉又攝政、

〔日本書紀〕

〈二十一用明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1339 元年正月壬子朔、立穴穗部間人皇女皇后、是生四男、其一曰厩戸皇子、〈更名耳聰聖徳、或名豐聰耳法大王、或云法主王、〉此之皇子、初居上宮、後移斑鳩、於豐御食炊屋姫天皇〈◯推古〉世、位居東宮、摠攝萬機、行天皇事、語見豐御食炊屋姫天皇紀

〔日本書紀〕

〈二十二推古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1339 元年四月己卯、立厩戸豐聰耳皇子皇太子、仍録攝政、以萬機悉委焉、

〔神皇正統記〕

〈推古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1339 厩戸皇子を皇太子として、萬機の政をまかせ給ふ、攝政と申き、太子の監國と云事もあれど、それはしばらくの事なり、是はひとへに天下を治め給ひけり、

〔聖徳太子傳暦〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1339 推古天皇元年四月、天皇初聞群臣奏勅曰、吾女人也、性不物、萬機日塡、國務滋多、宜天下之事皆啓太子、即日立太子皇太子、〈仍録攝政〉萬機悉委焉、太子受儲君位、固辭再三曰、臣天

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1340 性薄愚、志耽玄極、遊魂彼岸、銷意道場、過去之世、身歴數十、遷化漢土、僅爲王族、錬法通覺、期淨土、而今叨領儲君、委以萬機、神器難滿、寳祚易頽、伏惟陛下紹徽號紫極、御八州仁壽之化、撫三才柔和之猷、海表隨化、率土因蹤、嘉瑞頻來、豐穰相係、伏願陛下擇賢良以輔治、用善哲以撫民、則萬國歡心、四海平安、臣出家入道、爲外者、興隆佛教、紹耀玄風、天皇不聽、勅曰、阿兒勿噵、汝爲耳目、姥非阿兒、何由治國、太子不敢固辭、天下之人民聞而大悦、如慈父愛母、〈本願縁起云、臣忝稟儲君位、再三固辭、出家入道、爲外者、興隆佛教、紹耀玄風、天皇不聽、不敢固辭、故製十七憲章、爲王法之規摸、流布諸惡莫作教、爲佛法之棟梁、〉

〔皇年代略記〕

〈天智〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1340 孝徳天皇大化元年乙巳六月立太子、辛酉年七月齊明崩、以來皇太子厚至孝、不即位、壬戌以來於岡本宮攝政五箇年、八年己巳正月戊子即位、

〔神皇正統記〕

〈齊明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1340 皇太子と申は、中大兄皇子〈◯天智〉の御事なり、孝徳の御代より太子に立給ふ、此御時は攝政し給ふと見えたり、

〔革命勘文〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1340 天智天皇者、息長足日廣額天皇〈◯舒明〉之太子也、讓位於母天豐財重日足姫天皇、〈◯皇極〉及舅天萬豐日天皇、〈◯孝徳〉二十一年間、猶爲太子萬機
◯按ズルニ、職原抄、神皇正統記等ハ、皇太子ノ攝政ヲ以テ齊明天皇ノ朝ニ繫ケ、革命勘文ハ、皇極天皇即位ヨリ齊明天皇崩御マデノ間二十一年間トス、而シテ皇年代略記ニハ、齊明天皇崩御ヨリ天智天皇即位マデノ間トセリ、但シ天智天皇ハ齊明天皇ノ崩御六年ヲ間テヽ、其ノ七年正月戊子ニ即位セラレタレバ、皇年代略記ノ、攝政ヲ五ケ年トシ、即位ヲ八年正月トセルハ共ニ誤ナリ、

〔日本書紀〕

〈二十九天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1340 十年二月甲子、是日立草壁皇子尊皇太子、因以令萬機

〔續日本紀〕

〈八元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1340 養老三年六月丁卯、皇太子〈◯聖武〉始聽(○○)朝政(○○)焉、
◯按ズルニ、皇太子始聽朝政トアルハ、太子攝政トハ異ナレドモ、類ヲ以テ此ニ附載ス、

古立太子不必一人

〔古事記〕

〈中景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1341 凡此大帶日子天皇〈◯景行〉之御子等、所録廿一王、不記五十九王、并八十王之中、若帶日子命、〈◯成務〉與倭建命亦五百木之入日子命、此三王負太子之名

〔古事記傳〕

〈二十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1341 三王負太子之名とは、是上代の常なり、抑上ツ御代々々に日嗣御子と申せるは、皇子たちの中に、取分て尊崇めて殊なるさまに定め賜へる物にて、其は必しも一柱には限らず、或は二柱三柱も坐しことなり、〈まづは皇后の御腹の御兄、さては殊なる由ある皇子たちなり、〉かくて御位は、必其日嗣御子の中なるぞ繼坐ける、〈◯中略〉いで其證を具に云むには、先葺不合命の御子たち四柱の中に、五瀬命と、若御毛沼命〈神武天皇〉と二柱太子に坐けむこと、又神武天皇の太子は、神八井耳命と、神沼河耳命〈綏靖天皇〉と二柱にて坐しこと、共に彼御段に委く辨へたるが如し、次に書紀崇神卷に、四十八年豐城命と、活目命〈垂仁天皇〉と二柱の内を、御夢に因て、嗣に定賜へるも、元來此二柱太子に坐るが故なり、次に垂仁卷に卅年、天皇詔五十瓊敷命、大足彦尊曰、汝等云々とある、此も此二柱太子に坐しが故なり、〈若然らずば、いかでか此二柱に限りて此詔あらむ、五十瓊敷命の御墓、諸陵式に載て、後まで祭賜ふをも思ふべし、〉次に應神卷に、四十年天皇召大山守命、大鷦鷯尊之曰云々とある、是又此二柱も宇遲稚郞子と共に三柱、元より太子に坐が故なり、故其より前二十八年の處にも、太子莬道稚郞子と記され、仁徳卷には、初天皇生日、木菟入于産殿云々、則取鷦鷯名以名太子大鷦鷯皇子と見え、此記明宮段にも、太子大雀命、姓氏録〈雀部朝臣條〉にも、應神御世皇太子大鷦鷯尊とあり、此ら皆上代よりの傳言の隨に記せる文なり、又宇遲若郞子の、帝位を固く大雀命に讓避賜ひしも、大雀命は御兄にて共に太子に坐が故なるをや、

〔日本書紀〕

〈十應神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1341 二十八年九月、高麗王遣使朝貢、〈◯中略〉時太子菟道稚郞子(○○○○○○○)、讀其表怒之責高麗之使

〔日本書紀〕

〈十一仁徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1341 元年正月己卯、大鷦鷯尊即天皇位、〈◯中略〉初天皇生日、〈◯中略〉則取鷦鷯名以名(○)太子(○○)曰(○)大鷦鷯皇子(○○○○○)

〔新撰姓氏録〕

〈左京皇別上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1342 雀部朝臣、〈◯中略〉應神御世、代於皇太子大鷦鷯尊(○○○○○○○)、繫木綿襷掌監御膳、因賜名曰大雀臣

皇子爲太子

〔日本書紀〕

〈三神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1342 四十有二年正月甲寅、立皇子神渟名川耳尊〈◯綏靖〉爲皇太子

〔日本書紀〕

〈四綏靖〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1342 二十五年正月戊子、立皇子磯城津彦玉手看尊〈◯安寧〉爲皇太子

〔日本書紀〕

〈五崇神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1342 四十八年正月戊子、天皇勅豐城命、活目尊〈◯垂仁〉曰、汝等二子、慈愛共齊、不知曷爲嗣、各宜夢、朕以夢占之、二皇子於是被命、淨沐而祈、寐各得夢也、會明兄豐城命以夢辭于天皇曰、自登御諸山、向東而八廻弄槍、八廻擊刀、弟活目尊以夢辭奏言、自登御諸山之嶺、縄絙四方、逐粟雀、則天皇相夢謂二子曰、兄則一片向東、當東國、弟是悉臨四方、宜朕位、 四月丙寅、立活目尊〈◯垂仁〉爲皇太子、以豐城命東國

〔古事記〕

〈中仲哀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1342穴門之豐浦宮、及築紫訶志比宮、治天下也、此天皇、〈◯中略〉又娶息長帶比賣命、〈◯神功〉是大后生御子品夜和氣命、次大鞆和氣命、亦名品陀和氣命、〈二柱〉此太子〈◯應神〉之御名、所以負大鞆和氣命者、初所生時、如鞆宍生御腕、故著其御名、是以知腹中上レ國也、

〔日本書紀〕

〈十應神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1342 四十年正月戊申、天皇召大山守命、大鷦鷯尊之曰、汝等者愛子耶、對言甚愛也、亦問之、長與少孰尤焉、大山守命對言、不于長子、於是天皇有悦之色、時大鷦鷯尊預察天皇之色、以對言、長者多經寒暑、既爲成人、更無悒矣、唯少子者、未其成不、是以少子甚憐之、天皇大悦曰、汝言寔合朕之心、是時天皇常有(○)立(○)莬道稚郞子(○○○○○)爲(○)太子(○○)之情(○○)、然欲二皇子之意、故發是問、是以不大山守命之對言也、 甲子立(○)莬道稚郞子(○○○○○)嗣、即日任大山守命、令山川林野、以大鷦鷯尊、爲太子輔、令國事

〔日本書紀〕

〈十九欽明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1342 十五年正月甲午、立皇子渟中倉太珠敷尊〈◯敏達〉爲皇太子

〔日本書紀〕

〈二十九天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1342 十年二月甲子、是日立草壁皇子尊皇太子

〔日本書紀〕

〈三十持統〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1343 三年四月乙未、皇太子草壁皇子尊薨、

〔日本書紀〕

〈三十持統〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1343 十年七月庚戌、後皇子尊〈◯高市〉薨、

〔皇胤紹運録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1343 按草壁薨後、高市立爲太子、仍稱後皇子尊

〔續日本紀〕

〈三十二光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1343 寳龜四年正月戊寅、立中務卿四品諱〈◯桓武〉爲皇太子

〔水鏡〕

〈下光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1343 寳龜四年正月十四日に、山部親王の、中務卿と申ておはせし、東宮にたち給ふ、〈◯中略〉大臣以下御門に申ていはく、まうけの君(○○○○○)はしばしもおはせずしてあるべき事ならず、すみやかにたて奉り給へと申しかば、御門たれをか立べきとの給はせしかば、百川すヽみて、第一御子山部親王をたて申給ふべしと申き、〈◯中略〉濱成申ていはく、山部親王は御母いやしくおはす(○○○○○○○○○)いかでか位につき給はんと申しかば、御門まことにさる事也、酒人内親王をたて申さんとのたまひき、濱成又申ていはく、第二御子薭田親王御母いやしからず、此親王こそたち給ふべけれと申しを、百川目をいからかし、大刀をひきくつろぎて、濱成をのりていはく、位につき給ふ人、さらに母のいやしきたふときをえらぶべからず、山部親王は御心めでたく、世の人も皆したがひたてまつる心あり、濱成申事道理にあらず、我命をもをしみ侍らず、又二心なし、只はやくみかどの御ことわりをかうぶり侍らんとせめ申しかば、みかどともかくものたまはで、立て内へ入給ひにき、百川此事をうけたまはりきらむとて、はをくひしばりて、少しもねぶらずして、四十餘日たてりき、みかど百川が心のつよくゆるがざる事を御覽じて、さらばとく山部親王の立べきにこそと、しぶ〳〵に仰出し給ひしを、御ことばいまだをはらざりしに、庭におりて手を打よろこぶ聲、おびたヾしく高くして、人々皆おどろきさわぎ、百川やがてつかさづかさをめして、山部親王の御許へたてまつりて、太子にたてまつりにき、

〔三代實録〕

〈五十光孝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1343 仁和三年八月二十六日丁卯、天皇聖體乖豫是日立第七皇子諱〈◯宇多〉爲皇太子

〔日本紀略〕

〈一醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1344 延喜四年二月十日乙亥、今上第二子崇象親王爲皇太子

〔扶桑略記〕

〈二十九後三條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1344 延久元年四月二十八日甲子、以今上第一皇子貞仁親王〈◯白河〉立皇太子

〔百練抄〕

〈十五後嵯峨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1344 寛元元年八月二日、於中宮御方、被儲君雜事、其所事兼日被合人々、大進時繼書定文、公卿大夫已下參仕云云、 四日、自今日立太子御祈五壇法、 六日、今日立坊御所御裝束始也、 八日、頭中將師繼朝臣、參向右大臣亭、〈◯藤原實經〉召仰立太子事、 十日、今上第一皇子、〈久仁◯後深草〉有立太子事、申刻被行節會云云、畢於御前坊官除目、坊官等於弓場慶、又參本宮慶、公卿相引參本宮、事畢自(○)内裏(○○)被(○)獻(○)御劒(○○)、壺切紛失之間(○○○○○○)、被(○)渡(○)他御劒(○○○)、勅使頭中將師繼朝臣賜祿、再拜退出、

〔吉續記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1344 文永五年八月一日、來廿五日、可立坊云云、可悦可悦、俄有沙汰合關東之處、可然之由申御返事故歟、本所頭辨、藏人方左佐奉行云云、一向爲院〈◯後嵯峨〉御沙汰、 四日、今夜立太子定、親朝定文奏聞、〈自仙洞參〉執筆權中納言云云、可尋記、 廿五日甲辰、今日立太子〈◯後宇多〉也、藏人方光朝俄奉行云云、本所藏人佐親朝奉行、予御膳勅使兼日被相催之間申領状、扶所勞申斜參内、節會已被始、

〔帝王編年記〕

〈二十七伏見〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1344 正應二年四月廿五日、立太子節會、〈第一皇子胤仁親王◯後伏見〉

〔神皇正統記〕

〈後醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1344 又の年戊寅の春二月、〈◯中略〉陸奧の御子〈◯後村上〉又東へむかはしめ給ふべき定あり、〈◯中略〉親王は儲の君にたヽせ給ふべきむね申きかせ給ふ、道の程もかたじけなかるべし、〈◯中略〉七月の末つかた、伊勢に越させ給ひて、神宮に事のよしを啓して、御船のよそひし、九月のはじめ、ともづなをとかれしに、十日比のことにや、上總の地ちかくより、空のけしきおどろ〳〵しく、海上あらくなりしかば、又伊豆の崎といふ方にたヾよはれ侍りしに、いとヾ波風おびたヾしくなりて、あまたの船行かたしらず侍りけるに、御子の御船はさはりなく、伊勢の海につかせ給ふ、〈◯中略〉方々にたヾよひし中に、此二つの舟おなじ風にて、東西に吹わけらる、末の世にはめづらかなるためしにぞ侍るべき、儲の君にさだまらせ給ひて、例なきひなの御住居もいかヾとおぼえし

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1345 に、皇大神のとヾめ申させ給ひけるなるべし、後に芳野へ入せまし〳〵て、御目の前にて天位をつがせ給ひしかば、いとヾ思ひあはせられてたふとくも侍るかな、

〔秀長卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1345 應安四年三月廿三日丁未、今日有御讓位事、今上二宮、〈諱緒仁◯後圓融〉先當日有御元服事、宣命、緒仁親王〈乎〉今日新加元服〈氐、〉皇太子〈卜〉定賜〈比天、〉此天日嗣〈乎〉授賜〈布、◯節略〉
◯按ズルニ、歴代皇紀同日ノ條ニ、無立太子儀トアルハ誤ナリ、

〔武徳編年集成〕

〈四十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1345 慶長五年十二月十二日、當今〈◯後陽成〉第二ノ皇子、政仁親王〈◯後水尾〉儲王ニ定メラル、御母近衞殿信尹公ノ女也、當今御愛君ニテ、最初皇太子タルベキ所、菊亭右大臣晴季公、徳善院玄以ト胥議シ、大閤秀吉ヘ告ゲ、第一ノ皇子良仁親王〈母ハ中山大納言親總卿ノ女〉ヲ皇太子ニ立ラル、元ヨリ此事叡慮ニ應ゼザル故、頃日近臣ヲ以テ、神君〈◯家康〉ヘ密詔アリ、神君曰、凡子ヲ知ル事父ニ如ハナシ、臣モ亦男子多シト雖ドモ、繼嗣タル事臣ガ心ニ在ルノミ、第一第二ノ皇子ノ内、皇太子タラン事、孰レ成トモ叡慮ニ任セラルベシ、殊ニ政仁親王、母君貴キ上ハ、猶更然ルベシト奏セラレケレバ、大ニ叡感有テ、此御沙汰ニ及ブト云云、
◯按ズルニ、皇子ヲ太子トセラレシ例ハ、此他ニモ猶多ケレド略ス、

皇孫爲太子

〔續日本紀〕

〈一文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1345 高天原廣野姫天皇〈◯持統〉十一年、立爲皇太子

〔日本書紀通證〕

〈三十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1345 私記引王子枝別記曰、文武天皇、〈◯中略〉持統天皇十一年春二月丁卯朔壬午、立爲皇太子、今按壬午十六日、蓋脱文也、

〔神皇正統記〕

〈持統〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1345 草壁の皇子は太子に立給しが、世をはやくし給ふに依て、其御子輕王を皇太子とす、文武にまします、

〔懷風藻〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1345 葛野王
王子者淡海帝之孫、大友太子之長子也、〈◯中略〉器範宏邈、風鑒秀遠、材稱棟幹、地兼帝戚、少而好學、博

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1346經史、頗愛文、兼能書畫、淨御原帝〈◯天武〉嫡孫、授淨大肆治部卿、高市皇子薨後、皇太后〈◯持統〉引王公卿士於禁中、謀日嗣、時群臣各挾私好衆議紛紛、王子進奏曰、我國家爲法也、神代以來、子孫相承、以襲天位、若兄弟相及、則亂從此興、仰論天心、誰能敢測、然以人事之、聖嗣自然定矣、此外誰敢間然乎、弓削皇子在座、欲言、王子叱之乃止、皇太后嘉其一言定一レ國、殊閲授正四位式部卿、時年卅七、

〔扶桑略記〕

〈六元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1346 和銅七年六月廿八日庚辰、以豐櫻彦親王〈◯聖武〉立皇太子、于時年十四歳、令元服、是聖武天皇也、
◯按ズルニ、聖武天皇ハ文武天皇ノ皇子ニシテ、元明天皇ノ皇孫ナリ、

〔日本紀略〕

〈一醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1346 延長元年〈◯延喜二十三年〉四月廿九日癸酉、詔以故文獻彦太子息慶頼王皇太子、〈年三〉
◯按ズルニ、文獻彦太子ハ、醍醐天皇ノ第二ノ皇子保明親王ノ諡號ナリ、

〔神皇正統記〕

〈朱雀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1346 御兄保明の太子〈諡を文彦と申す〉早世、其御子慶頼の太子も打つヾきかくれましヽかば、保明一腹の御弟にてたちたまふ、

〔吉口傳〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1346宮子立坊末代不有事
一品被相語云、保明太子者醍醐天皇第二皇子也、〈◯中略〉延長元年三月廿一日薨、〈廿一歳〉諡曰文彦、此時保明御子以慶頼、延長元年四月廿九日立皇太子、〈三歳〉同三年六月十八日薨、〈五歳〉此時醍醐天皇勅定云、保明太子早世、遺愛之餘以彼子立坊之處、又早世、以宮子立坊之條末代不有事也云云、仍此後一切無其例也、凡桓武以後、慶頼之外中絶人立坊之條未其例者也、
◯按ズルニ、後陽成天皇ノ如キモ亦皇孫ナレドモ、立太子ノコトナカリシユヱ、此條ニ載セズ、

皇弟爲太子

〔日本書紀〕

〈十二履中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1346 二年正月己酉、立瑞齒別皇子、〈◯反正〉爲儲君(○○)

〔水鏡〕

〈上反正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1346 仁徳天皇第四御子、履中天皇の御をとヽ也、〈◯中略〉履中天皇の御子おはせしかども、こ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1347 のみかどを東宮には立てたてまつらせ給ひしなり、

〔續日本紀〕

〈三十六桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1347 天應元年四月壬辰、立皇弟早良親王皇太子

〔康道公記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1347 寛永二十年十月三日、今日避位〈◯明正〉傳皇太子、〈◯後光明〉
◯按ズルニ、後光明天皇ハ、明正天皇ノ御異母弟ナリ、

〔忠利宿禰記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1347 寛文三年正月廿六日乙未、今日被御讓位〈◯後西院〉節會、〈◯中略〉御讓位次第、〈◯中略〉次藏人來仰云、以識仁親王、〈◯靈元〉爲皇太子、即讓位、
◯按ズルニ、靈元天皇ハ、後西院天皇ノ御異母弟ナリ、

皇弟爲太弟

〔日本書紀〕

〈二十七天智〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1347 八年十月庚申、遣東宮大皇弟於藤原内大臣家

〔日本書紀〕

〈二十八天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1347 天渟中原瀛眞人天皇、〈◯天武〉天命開別天皇〈◯天智〉同母弟也、〈◯中略〉天命開別天皇元年、立爲東宮
◯按ズルニ、扶桑略記天智天皇七年二月ノ條ニ、以大海人皇子皇太子ト見エテ、當時皇太弟、皇太子ノ兩稱ヲ互ニ用ヰシガ如シ、

〔日本紀略〕

〈平城〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1347 大同元年五月壬午、詔彈正尹某〈嵯峨〉定賜皇太弟

〔神皇正統記〕

〈嵯峨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1347 桓武第二の子平城同母の弟なり、太弟に立給へりしが、己丑のとし即位、〈◯中略〉桓武の帝鍾愛無雙の御子になんおはしける、儲君に居給ひけるも、父の帝繼體のために顧命しけるにこそ、

〔日本紀略〕

〈嵯峨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1347 弘仁元年〈◯大同五年〉九月庚戌、是日〈◯中略〉立中務卿〈諱◯淳和〉爲皇太弟、詔曰、現神云云、

〔神皇正統記〕

〈朱雀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1347 天皇御子ましまさず、一腹の御弟太宰の帥の親王〈◯村上〉を太弟に立て、天位をゆづりて尊號あり、

〔皇年代略記〕

〈村上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1347 天慶七年四月廿二日甲子、立皇太弟、十九、元三品太宰帥、朱雀無男子、以舍弟

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1348之、

〔日本紀略〕

〈五冷泉〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1348 康保四年九月一日丙戌、立先皇第五皇子守平親王〈◯圓融〉爲皇太弟、〈年九〉即任坊官

〔神皇正統記〕

〈圓融〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1348 圓融院、諱は守平、村上第五の御子、冷泉同母の弟なり、
◯按ズルニ、日本紀略安和二年八月十三日ノ條ニハ、天皇讓位於皇太子〈◯圓融〉トアリ、

〔御堂關白記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1348 寛仁元年八月九日甲戌、以三宮〈◯後三條皇子敦良〉立皇太弟

〔神皇正統記〕

〈後一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1348 東宮〈◯敦明〉しりぞき給ひしかば、此天皇同母の御弟、敦良親王〈◯後朱雀〉立給ひき、

〔帝王編年記〕

〈十八後三條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1348 寛徳二年正月十六日癸酉、立爲皇太弟

〔神皇正統記〕

〈後三條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1348 朱雀の御素意にて、太弟に立給ひき、又三條の御末をもうけ給へり、むかしもかヽるためし侍りき、兩流を内外にうけ給ひて、繼體の主となりまし〳〵き、

〔百練抄〕

〈五白河〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1348 延久四年十二月八日、是日立實仁親王皇太弟
◯按ズルニ、實仁親王ハ、後三條天皇ノ皇子ニシテ、白河天皇ノ御異母弟ナリ、

〔皇年代略記〕

〈近衞〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1348 保延五年八月十七日、爲皇太弟、〈一〉崇徳〈◯近衞異母兄〉雖皇子坐、依上皇御氣色之、

〔續世繼〕

〈二八重の潮路〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1348 今の女院〈◯鳥羽后美福門院得子〉時めかせ給ひて、近衞のみかど生奉せたまへる、東宮に奉りて位讓り奉せ給ふ、〈◯中略〉みかどの御やしなひ古例なきとて、皇太弟とぞ宣命には載られ侍りける、
◯按ズルニ、近衞天皇ハ、最初皇太子ニ立チ給ヒシガ、永治元年十二月、崇徳天皇御讓位ノ時、鳥羽法皇ノ御意ヲ以テ、更ニ皇太弟ト改テ受禪セシメ給ヒシガ如シ、ナホ讓位篇皇太弟受禪ノ條參看スベシ、

〔神皇正統記〕

〈土御門〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1348 天下を治め給ふ事十二年、太弟〈◯順徳〉にゆづりて、尊號例のごとし、

〔皇年代略記〕

〈順徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1348 正治二年四月十五日庚子、立太弟、〈四〉

〔皇年代略記〕

〈龜山〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1349 正嘉二年八月七日、立皇太弟、〈十一〉後深草〈◯龜山同母兄〉雖繼嗣上皇勅之、

〔皇年代略記〕

〈崇光〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1349 貞和四年十月廿七日、以花園院第二皇子直仁親王〈爲光嚴院御養子〉爲皇太弟
◯按ズルニ、崇光天皇ハ光嚴天皇ノ皇子ナリ、

皇兄爲太子

〔日本書紀〕

〈十五仁賢〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1349 億計天皇、〈◯仁賢〉弘計天皇〈◯顯宗〉同母兄也、白髮天皇〈◯清寧〉二年四月、立億計天皇皇太子、五年白髮天皇崩、天皇〈◯仁賢〉以天下弘計天皇、爲皇太子故、

皇姪爲太子

〔日本書紀〕

〈七成務〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1349 四十八年三月庚辰朔、立甥足仲彦尊〈◯仲哀〉爲皇太子

〔神皇正統記〕

〈仲哀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1349 仲哀天皇は、日本武尊第二の子、景行の御孫なり、〈◯中略〉太祖神武より第十二代景行までは、代のまヽに繼體し給ふ、日本武尊世をはやくし給ひしにより、成務是を繼給ふ、此天皇を太子としてゆづりまし〳〵しより、代を世とかはれるはじめなり、

〔日本書紀〕

〈二十二推古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1349 元年四月己卯、立厩戸豐聰耳皇子皇太子
◯按ズルニ、厩戸皇子ハ、推古天皇ノ皇兄用明天皇ノ皇子ナリ、

〔續日本紀〕

〈九元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1349 神龜元年二月甲午、天皇禪位於皇太子、〈◯聖武〉
◯按ズルニ、皇太子即チ聖武天皇ハ、元正天皇ノ御同母弟ナル文武天皇ノ皇子ナリ、

〔日本紀略〕

〈嵯峨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1349 大同四年四月己丑、立高岳親王皇太子

〔紹運要略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1349 高岳親王〈平城子、後號眞如親王、大同四年四月日立坊、〉
◯按ズルニ、皇太子ノ御父平城天皇ハ、嵯峨天皇ノ御同母兄ナリ、

〔日本紀略〕

〈淳和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1349 弘仁十四年四月壬寅、〈◯中略〉立侍從從四位下恒世王〈◯淳和皇子〉爲皇太子、太子上表固辭、仍立正良親王〈◯仁明〉爲皇太子、 癸卯、太上皇〈◯嵯峨〉遣權中納言藤原朝臣三守、令皇太子今上、〈◯中略〉即令三守奉一レ返、 甲辰、上表太上皇曰、臣諱〈淳和〉言、伏奉昨詔、不正良皇太子云云、先是皇太子移權中納言藤原朝臣三守宅、即差三守等之、兵衞陣列御車前後待賢門、更御輦入坊、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1350 ◯按ズルニ、皇太子正良親王ハ、淳和天皇ノ御異母兄ナル嵯峨天皇ノ皇子ナリ、

〔日本紀略〕

〈六圓融〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1350 安和二年八月十三日戊子、立先帝〈◯冷泉〉第一皇子師貞親王〈◯花山〉爲皇太子、〈年二〉在一條第

〔神皇正統記〕

〈圓融〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1350 圓融院、諱ハ守平、村上第五の御子、冷泉院同母の弟なり、

〔公卿補任〕

〈花園〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1350 文保二年二月廿六日庚午、踐祚新帝、〈◯後醍醐〉三月九日庚寅、邦良親王爲皇太子
◯按ズルニ、邦良親王ハ、後醍醐天皇ノ御異母兄ナル後二條天皇ノ皇子ナリ、

〔神皇正統記〕

〈後醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1350 後二條世をはやくしまし〳〵て、父の上皇〈◯後宇多〉なげかせ給ひし中にも、よろづ此君〈◯後醍醐〉にぞ委附し申させ給ひける、やがて儲君のさだめありしに、後二條の一の御子邦良の親王居給ふべきかと聞えしに、おぼしめす故ありて、此親王を太子にたて給ふ、彼の一の御子をさなくましませば、御子の儀にて傳へさせ給べし、若邦良の親王早世の御事あらば、此御すゑ繼體たるべしとぞしるしおかせまし〳〵ける、彼親王鶴膝の御病ありて、あやうくおぼしめしける故なるべし、〈◯中略〉かヽりし程に後宇多院かくれさせ給ひて、いつしか東宮〈◯邦良〉の御方にさぶらふ人々そば〳〵に聞えしが、關東に使節をつかはされ、天位をあらそふまでの御中らひに成にき、あづまにも東宮の御事をひきたて申す輩ありて、御いきどほりのはじめとなりぬ、元亨甲子の九月のすゑつかた漸事あらはれにしかども、うけたまはりおこなふ中にいふがひなき事出きにしかど、大方は事なくてやみぬ、其後ほどなく東宮かくれ給ふ、神慮にもかなはず、祖皇の御いましめにもたがはせ給ひけりとぞおぼえし、

〔歴代皇紀〕

〈光明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1350 皇太子益仁親王、〈◯崇光〉院〈◯光嚴〉皇子、母前權大納言藤公秀女、建武五、八、十三立、〈五、〉去八日立親王、後日改名興仁
◯按ズルニ、益仁親王ハ、光明天皇ノ御同母兄ナル光嚴天皇ノ皇子ナリ、

〔公卿補任〕

〈後櫻町〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1351 明和五年二月十七日立太子、〈◯後桃園〉
◯按ズルニ、後桃園天皇ハ、後櫻町天皇ノ御異母弟ナル桃園天皇ノ皇子ナリ、

從兄弟爲太子

〔續日本後紀〕

〈一仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1351 天長十年二月丁亥、立恒貞親王皇太子、詔曰、天皇〈我〉詔旨〈良萬止〉勅御命〈乎、〉親王等諸臣等百官人等天下公民衆聞食〈止〉宣、朕以拙弱〈氐〉掛畏〈支〉倭根子天皇〈我〉朝廷〈乃〉厚慈〈乎〉蒙〈天〉皇太子〈止〉成〈禮利、〉因畏〈萬利〉貴〈比〉晝夜〈止〉无〈之、〉然〈乎〉慮外〈爾天〉日嗣〈乎〉授賜〈布、〉依〈天〉不堪〈流〉状〈乎〉再〈比〉三〈比〉畏〈利〉申賜〈戸止毛〉容賜〈波須、〉今思行〈佐久〉厚恩〈乎〉蒙人〈波〉必敬〈倍支〉理〈利〉有、故是以正嗣〈止〉有〈戸支〉恒貞親王〈乎〉皇太子〈止〉定賜〈布、〉故此之状〈乎〉悟〈天〉百官〈乃〉人等仕奉〈止〉宣〈布〉天皇〈我〉御命〈乎〉衆聞食〈止〉宣、〈◯中略〉後太上天皇〈◯淳和〉遣權中納言從三位藤原朝臣吉野、奉書天皇皇太子曰、暴觀今日詔再立愚子恒貞皇太子、叡旨謬隆、盛典曲施、夫洊雷位重、承祧事尊、非徳不昇、非賢何守、恒貞年實蒙幼、器非夙惠、安可妄鍾大禮、猥主匕鬯、肅奉周遑、内知云冥、請停嚴命、更擇賢才、在於重一レ情、寔知http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/i00000001d36f.gif 、縱使天綸不駐、上令必行、則失萬國以貞之望、虧三辰曰敬之職、 三月戊子朔、天皇縁後太上天皇辭立太子、奉答表曰、臣某言、伏願詔旨曰、恒貞年實蒙幼、器非夙惠、安可妄鍾大禮、猥主匕鬯、夫輕者重之端、小者大之本、故魏宮岐嶷、非老大之情、晋儲神姿、是幼稚之謂、然則聰惠在性、不年齡、伏稽前言、既有故實、臣頻表懷抱、心事共違、家賓之慙漪誰爲助、伏願假彼重明曚昧、資其寛博遺忘、臣之至愚、聖衷所驗、雖徳庶幾有隣、冀垂矜憐、賜憤憒、至誠不飾、至敬無文、伏表丹愿、無喩、後太上天皇復奉書曰、内揆已審、請太子、沖鑑未廻、憂心如灼、易曰、主器莫長子、禮曰、登餕受爵以上嗣、斯皆温文既習、致敬克躋、然後正位前星、賛業東序者也、今恒貞漢莊難擬、周儲不追、將何以裨光聖明、助聰天扆、而恩裒逾屆、血謝不成、獨雖宜、輿談孰許、恐龍樓之守爰墜、庖爼之譏有聞、望昭丹辭、必收紫渙、山朝事隔、無言、父子體同、理當分疏、異於不緯、尸不樽之義、是以重復鋪陳、佇矜聽、天皇不許、奉其書

〔水鏡〕

〈下仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1351 東宮〈◯恒貞〉と申は、淳和天皇の御子なり、みかど〈◯仁明〉には御いとこにておはしましヽ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1352 也、
◯按ズルニ、仁明天皇ノ御父嵯峨天皇ト、皇太子恒貞親王ノ御父淳和天皇トハ、異母ノ御兄弟ナリ、

〔扶桑略記〕

〈二十七圓融〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1352 永觀二年八月廿七日甲辰、天皇〈◯中略〉禪位於皇太子師貞親王、〈◯花山〉同日懷仁親王〈◯一條〉立皇太子

〔榮花物語〕

〈二花山〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1352 時々の事どもはかなく過もて行て、七月〈◯永觀二年〉すまひも近くなれば、これを若宮〈◯一條〉に見せばやと宣はすれど、おとヾ〈◯藤原兼家〉少しふさはぬ様にて過させ給に、たび〳〵まゐらせ給へとうちよりめしあれど、みだりかぜなどさま〴〵のおほんさはりども申させ給ひつヽまゐらせ給はぬを、すまひちかくなりてしきりにまゐらせ給へとあれば、まゐり給へれば、いとこまやかに御ものがたりありて、くらゐにつきてことし十六年になりぬ、〈◯中略〉東宮〈◯花山〉位につき給なば、わかみやをこそは、春宮にはすゑめとおもふに、いのりところ〴〵によくせさせて、おもひのごとくあべくいのらすべし、おろかならぬこヽろのうちをしらで、たれも〳〵こヽろよからぬけしきのあるいとくちをしきことなり、あまたあるをだに、人はこをばいみじきものにこそおもふなれ、ましていかでかおろかにおもはんなど、よろづあるべきことヾもおほせらるる、うけたまはりてかしこまりてまかで給て、にようごどの〈◯一條母后詮子〉にものさヽめき申させ給て、おほんとなぶらめしよせて、こよみ御らんじて、ところ〴〵におほんいのりつかひどもたちさわぐを、かう〳〵との給はせねど、とのヽ中の人々けしきを見ておもへるさま、いふもおろかにめでたし、このいへのこのきんだち、いみじうえもいはぬ御けしきどもなり、〈◯中略〉おとヾのおほんこヽろのうち、はれ〴〵しうてまじらはせ給、かくて八月になりぬれば、廿七日御讓位とてのヽしる、其日になりぬれば、みかど〈◯圓融〉はおりさせ給ひぬ、とうぐう〈◯花山〉はくらゐにつかせ給

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1353 ぬ、東宮には梅つぼのわかみや〈◯一條〉ゐさせ給ぬ、いへばおろかにめでたし、世はかうこそはとみえきこえたり、
◯按ズルニ、花山天皇ノ御父冷泉天皇ト、皇太子〈即チ一條天皇〉ノ御父圓融天皇トハ、異母ノ御兄弟ナリ、

〔日本紀略〕

〈九一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1353 寛和二年七月十六日壬午、冷泉院第二〈◯第二下恐脱皇子二字〉居貞親王、〈◯三條、中略、〉今日立親王皇太子
◯按ズルニ、一條天皇ノ御父圓融天皇ト、皇太子〈即チ三條天皇〉ノ御父冷泉天皇トハ、同母ノ御兄弟ナリ、

〔一代要記〕

〈十四後宇多〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1353 頭書 太子熈仁親王、〈◯伏見〉後深草第二子、母玄輝門院、建治元年十一月五日爲皇太子

〔神皇正統記〕

〈伏見〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1353 後嵯峨の御門、繼體をば龜山とおぼしめし定めければ、後深草の御ながれいかがとおぼえしを龜山弟順の儀をおぼしめしけるにや、此君〈◯伏見〉を御猶子にして東宮にすゑ給ぬ、〈◯中略〉關東の輩も龜山の正統をうけ給へる事はしり侍りしかど、近頃となりて世をうたがはしく思ひければにや、兩皇〈◯後深草、龜山、〉の御流れをかはる〴〵すゑ申さんと、相はからひけりとなん、
◯按ズルニ、後宇多天皇ノ御父龜山天皇ト、皇太子〈即チ伏見天皇〉ノ御父後深草天皇トハ、同母ノ御兄弟ナリ、又兩統更立ノコトハ、踐祚篇兩統更立條ニ詳ナリ、就テ看ルベシ、

再從兄弟爲太子

〔日本書紀〕

〈十五顯宗〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1353 白髮天皇〈◯清寧〉二年十一月、播磨國司山部連先祖伊與來目部小楯、於赤石郡親辨新嘗供物、適會縮見屯倉首縱賞新室、以夜繼晝、爾乃天皇謂兄億計王〈◯仁賢〉曰、避亂於斯、年踰數紀、顯名著貴方屬今宵、億計王惻然歎曰、其自導揚見害、孰與全身免一レ厄也歟、天皇曰、吾是去來穗別天皇〈◯履中〉之孫、而困事於人、飼牧牛馬、豈若名被一レ害也歟、遂與億計王相抱涕泣、不自禁、億計王曰、然則非

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1354 誰能激揚大節、可以顯著、天皇固辭曰、僕不才、豈敢宣揚徳業、億計王曰、弟英才賢徳、爰無以過、如是相讓再三、而果使天皇自許稱述、倶就室外乎下風、〈◯中略〉億計王起舞既了、天皇次起、自整衣帶室壽、〈◯中略〉壽畢乃赴節歌曰、伊儺武斯廬、哿簸泝比野儺擬、寐逗愈凱麼、儺弭企於已陀智、曾能泥播宇世儒、小楯謂之曰、可怜、願復聞之、天皇遂作殊舞、詰之曰、倭者彼彼茅原、淺茅原、弟日僕是也、小楯由是深奇異焉、更使之、天皇詰之曰、石上振之神榲、伐本截末、於市邊宮天下、天萬國萬押磐尊御裔僕是也、小楯大驚、離席帳然再拜、承事供給、率屬欽伏、於是悉發郡民、造宮不日、權奉安置、乃詣京都、求二王、白髮天皇聞憙咨歎曰、朕無子也、可以爲一レ嗣、與大臣大連策禁中、仍使播磨國司來目部小楯節、將左右舍人赤石迎、白髮天皇三年正月、天皇隨億計王攝津國、使臣連持節、以王青蓋車入宮中、四月立億計王〈◯仁賢〉爲皇太子、立天皇〈◯顯宗〉爲皇子
◯按ズルニ、仁賢天皇ハ、清寧天皇ノ再從弟ニシテ太子トナリタマヒシナリ、其系左ノ如シ、
仁徳履中市邊押磐皇子仁賢允恭雄畧清寧

〔日本紀略〕

〈十三後一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1354 長和五年正月廿九日甲戌、立先皇〈◯三條〉第一皇子式部卿敦明親王〈◯小一條院〉爲皇太子、宣制畢、大臣以下諸衞等奉劒璽等
◯按ズルニ、敦明親王ハ後一條天皇ノ再從兄ニシテ太子トナリタマヒシナリ、其系左ノ如シ、
村上冷泉三條敦明圓融一條後一條

〔一代要記〕

〈十五後伏見〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1354 太子邦治親王

〔皇年代略記〕

〈後二條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1354 諱邦治、後宇多第一皇子、〈◯中略〉永仁六年八月十日立太子、

〔神皇正統記〕

〈後醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1354 龜山後宇多世をしろしめさずなりにしを、たひ〴〵關東に仰給ひしかば、天

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1355 命の理りかたじけなくおそれ思ひければにや、俄に立太子のさた有しに、龜山は此君〈◯後醍醐〉をすゑたてまつらんと思しめして、八幡宮に告文ををさめ給ひしかど、一の御子さしたるゆゑなくてすてられがたき御事なりければ、後二條ぞ居給へりし、

〔一代要記〕

〈十五後二條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1355 太子富仁親王

〔皇年代略記〕

〈花園〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1355 諱富仁、伏見院第二皇子、後伏見院御猶子、〈◯中略〉正安三年八月廿四日立太子、

〔一代要記〕

〈十五花園〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1355 太子尊治親王

〔皇年代略記〕

〈後醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1355 諱尊治、後宇多第二皇子、〈◯中略〉徳治三年九月十九日立太子、〈廿一、後二條院有事、邦良皇子幼年、仍法皇被仰、關東有沙汰、〉

三從兄弟爲太子

〔皇年代略記〕

〈光明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1355 建武三年十一月十四日、以先帝〈◯後醍醐〉皇子成良親王皇太子
◯按ズルニ、後二條天皇ノ後伏見天皇ニ於ケル、花園天皇ノ後二條天皇ニ於ケル、後醍醐天皇ノ花園天皇ニ於ケル、共ニ再從兄弟ニシテ太子トナリタマヒシナリ、而シテ成良親王ノ光明天皇ニ於ケルハ、三從兄弟ニシテ太子トナリタマヒシナリ、其系左ノ如シ、
後伏見(六)光明後深草(㆓)伏見(五)花園(八)後嵯峨(㆒)後二條(七)龜山(㆔)後宇多(㆕)後醍醐(九)成良

從姪爲太子

〔百練抄〕

〈四三條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1355 寛弘八年六月十三日受禪、是日立敦成親王〈◯後一條〉爲皇太子、〈四歳、一條院二男、〉

〔權記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1356 寛弘八年五月廿七日庚子、雖所勞便籠居、相扶參内、有召候御前、仰云、可位之由一定已成、一親王〈◯敦康〉事可如何哉、即奏云、此皇子事所思食歎尤可然、抑忠仁公〈◯藤原良房〉寛大長者也、昔水尾天皇〈◯清和〉者、文徳天皇第四子也、天皇愛姫紀氏所産第一皇子、〈◯惟喬〉依其母愛亦被優寵、帝有正嫡皇統之志、然而第四皇子〈◯惟仁〉以外祖父忠仁公朝家重臣之故、遂得儲貳、今左大臣〈◯藤原道長〉者、亦當今重臣、外戚其人也、以外孫第二皇子、〈◯後一條〉定應儲宮、尤可然也、今聖上〈◯一條〉雖嫡爲一レ儲、丞相未必早承引、當御惱之、時代忽變、事若嗷々、如不弓矢之者、於議無益、徒不神襟、仁和先帝〈◯光孝〉依皇運、雖老年遂登帝位、恒貞親王始備儲貳、終被棄置、前代得失略以如此、如此大事、只任宗廟社稷之神、非敢人力之所一レ及者也、但故皇后宮〈◯敦康母后定子〉外戚高氏〈◯高階成忠〉之先、依齋宮之事、爲其後胤之者、皆以不和也、今爲皇子怖、能可謝大神、猶有愛憐之御意、給年官年爵并年給受領之吏等、令一兩宮臣得恪勤之便、是上計也者、是亦自去春來、毎有雍容仰、亦所上奏之旨耳、即重勅曰、汝以此旨左大臣哉如何、即奏曰、左右可仰、但如此之事、以御意旨、面可仰事歟、因有天許、未御前之間、於大盤所邊、女房等有悲泣之聲、驚問兵衞典侍云、御惱雖殊重、忽可時代之變云云、仍女官悲歎也、此間主上出御晝御座仰、仰以忍之事等、今朝左大臣參東宮、〈◯三條〉被御讓位案内云云、此事自昨所發也云云、〈◯節略〉

〔榮花物語〕

〈九石蔭〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1356 かくて御かど、〈◯一條〉いかでおりさせ給なんとのみおぼしのたまはすれど、〈◯中略〉いまはかくておりゐなむとおぼすを、さるべきさまにおきて給へとおほせらるれば、殿〈◯藤原道長〉うけたまはらせ給て、東宮に御たいめんこそは例の事なれとて、思しおきてさせ給程に、春宮には一宮〈◯敦康〉をとこそおぼしめすらめと、中宮の御心のうちにもおぼしおきてさせ給へるに、うへおはしまして、東宮の御たいめいそがせ給に、世人いかなべいことにかとゆかしう申思ふに、一宮の御かたさまの人々、わか宮〈◯後一條〉かくてたのもしういみじき御なかよりひかり出させ給へ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1357 る、いとわづらはしう、さやうにこそはとおもひきこえさせたり、〈◯中略〉東宮行啓あり、〈◯中略〉みすごしに御たいめありて、あるべき事ども申させ給、〈◯中略〉位もゆづりきこえさせ侍りぬれば、東宮にはわか宮をなん物すべうはべる、だうりのまヽならば、そちのみや〈◯敦康〉をこそはと思ひ侍れど、はか〴〵しきうしろみなどもはべらねばなむ、〈◯中略〉などさま〴〵あはれに申させ給ふ、
◯按ズルニ、後一條天皇ハ、三條天皇ノ從姪ニシテ、太子トナリタマヒシナリ、其系左ノ如シ、
村上冷泉三條圓融一條後一條

再從姪爲太子

〔皇年代略記〕

〈後醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1357 嘉暦元年七月廿四日、後伏見院皇子量仁親王〈◯光嚴〉爲立太子

三從兄弟之子爲太子

〔皇年代略記〕

〈光嚴〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1357 元弘元年十一月八日、立故皇太子邦長親王子康仁太子
◯按ズルニ、光嚴天皇ハ後醍醐天皇ノ再從姪ニシテ太子トナリ、康仁親王ハ光嚴天皇ノ三從兄弟邦良親王ノ御子ニシテ太子トナリタマヒシナリ、其系左ノ如シ、
後嵯峨後深草伏見後伏見光嚴後二條邦良康仁龜山後宇多後醍醐

叔父爲太子

〔百練抄〕

〈七六條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1357 仁安元年十月十日、以憲仁親王〈◯高倉〉爲皇太子
◯按ズルニ、高倉天皇ハ、二條天皇ノ御異母弟ニシテ、六條天皇ノ叔父ナリ、

族叔祖父爲太子

〔續日本紀〕

〈十九孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1357 天平勝寶八歳五月乙卯、是日太上天皇〈◯聖武〉崩於寢殿、遺詔以中務卿從四位上道祖王皇太子

〔續日本紀〕

〈二十孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1357 天平寶字元年四月辛巳、是日遣内舍人藤原朝臣薩雄中衞二十人、迎大炊王立爲

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 太子
◯按ズルニ、道祖大炊ノ兩王ハ、共ニ孝謙天皇ノ族叔祖父ニシテ太子トナリタマヒシナリ、其系左ノ如シ、
草壁文武聖武孝謙天武舍人大炊〈◯淳仁〉新田部道祖

再族伯祖父爲太子

〔續日本紀〕

〈三十一光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 寶龜元年八月四日癸巳、高野天皇〈◯稱徳〉崩、群臣受遺、即日立諱〈◯光仁〉爲皇太子

〔皇年代略記〕

〈光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 諱白壁、號日本根子天宗高紹、天智孫田原施基皇子第六子、〈◯中略〉神護景雲四年八月一日癸巳、大臣已下議定策禁中皇太子、〈六十二、稱徳无繼嗣病急、仍群臣議立之、〉
◯按ズルニ、光仁天皇ハ稱徳天皇ノ再族伯祖父ニシテ太子トナリタマヒシナリ、其系左ノ如シ
天智施基光仁舒明天武草壁文武聖武稱徳

皇女爲太子

〔續日本紀〕

〈十三聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 天平十年正月壬午、立阿倍内親王〈◯孝謙〉爲皇太子

幼冲爲太子

〔日本書紀〕

〈十應神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 天皇、以皇后討新羅之年、歳次庚辰冬十二月、生於筑紫之蚊田、〈◯中略〉皇太后攝政之三年立爲皇太子、〈時年三〉

〔續日本紀〕

〈十聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 神龜四年閏九月丁卯、皇子誕生焉、 十一月己亥、天皇御中宮、太政官及八省各上表、奉皇子誕育、并獻玩好物、〈◯中略〉詔曰、朕頼神祇之祐、蒙宗廟之靈、久有神器、新誕皇子、宜立爲皇太子

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1359告百官、咸令知聞

〔續日本紀〕

〈十聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1359 神龜五年九月丙午、皇太子薨、

〔大鏡〕

〈一清和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1359 このみかどは、嘉祥三年三月廿五日、母かたの御おほぢおほきおとヾの小一條のいへにて父みかどの位につかせたまひて五日といふ日、生れ給へり、〈◯中略〉やがて生れたまへる歳の十一月廿日東宮にたち給ひて、天安二年八月廿七日、御歳九歳にて位につかせ給ふ也、

〔大鏡〕

〈一陽成〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1359 このみかど貞觀十一年二月一日、二歳にて東宮にたヽせ給ひて、同十八年十一月十一日につかせ給ふ、

〔日本紀略〕

〈一醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1359 延喜四年二月十日乙亥、今上第二子崇象親王爲皇太子、〈◯中略〉太子年二、
◯按ズルニ、崇象親王ハ、後ニ御名ヲ保明ト改メラル、

〔榮花物語〕

〈一月宴〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1359 天暦四年五月廿四日に、九條殿の女御男みこ〈◯冷泉〉うみ奉り給つ、〈◯中略〉はかなう御いかなども過もていきて、むまれ給て三月といふに、七月廿三日に東宮にたヽせ給ひぬ、

〔百練抄〕

〈五堀河〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1359 康和五年八月十七日、立第一親王宗仁〈◯鳥羽〉爲皇太子、〈一歳、去正月降誕、〉一歳立坊、清和冷泉二代之例也、
◯按ズルニ、聖武天皇ノ皇子ノ如キ、亦一歳立坊ノ例ナリ、然レドモ立坊後間モナク薨去アリシユヱ、コヽニハ數ヘザルモノナラン、

〔皇代記〕

〈近衞〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1359 保延五年五月十八日丁酉、酉時降誕、八月十七日甲子、立爲太子、〈一歳〉

〔皇年代略記〕

〈安徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1359 治承二年戊戌十一月十二日誕生、十二月十五日甲辰立太子、〈一〉

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1359 治承二年十一月廿八日丁亥、早旦頭中將定能來云、去夜亥終許自院〈◯後白河〉有急召、即以馳參、時忠卿候御前、仰云、立坊事二歳三歳共以其例不快、今年被遂行如何、且被關白其沙汰之由、只今參内早可奏聞者、即參内奏聞之處、可關白云云、向彼亭此状、被申云、如仰下二三歳共不吉、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1360四歳頗似延怠、歳内頗雖卒爾、何不遂行哉、然者今年何事候乎者、歸參奏達了、後參院申此之由、仰云、早可沙汰之由重可内者、定能申云、奉行職事可定仰歟云云、仰云、汝早可行云云、事已爲大事、重代之輩、奉行宜歟之由雖天聽已無勅許、只今參内可奏、去夜院宣云云、即馳參内了、入道相國一昨夕俄上洛依此事云云、 廿九日戊子、〈◯中略〉又人人十二月其例不快、〈實仁太子(白河皇太弟)延久四年十二月八日立、此外無例、〉仍可四歳之由有豫議云云、愚案四歳立坊不然、但吉事爲先、近日就中末代之政毎事急速也、至此事強不四歳歟、月之吉凶強之沙汰也、只歳内被行之條可亂世之政者歟、 十二月十五日甲辰、此日有冊命立太子事、〈十二月立坊、實仁太子之外無此例、尤有禁諱、然而二歳三歳立坊、又以不吉、被四歳者事似延怠、謂之輕重、歳重月輕、因之歳内所急行云云、盡安太不甘心、〉依康和五年〈鳥羽院一歳立之〉仁安元年〈當今六歳立之〉等佳例、有沙汰云云、

〔増鏡〕

〈一おどろの下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1360 建保二年十月十日、一の御子〈◯仲恭〉むまれ給へり、〈◯中略〉十一月廿一日やがてみこ〈◯親王〉になしたてまつり給て、おなじき廿六日坊にゐ給ふ、いまだ御いかだにきこしめさぬに、いちはやき御もてなしめづらかなり、心もとなくおぼされければなるべし、

〔増鏡〕

〈三藤衣〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1360 ことしもはかなくくれて貞永元年になりぬ、〈◯中略〉こぞの二月、后の宮の御はらに一の御子〈◯四條〉いでき給へりしかば、やがて、〈◯十月二十八日〉太子にたヽせ給しぞかし、れいの人のくちさがなさは、かの承久の廢帝〈◯仲恭〉のむまれさせ給ふとひとしく坊にゐ給へりしは、いとふようなりしをなどいふめり、

〔明月記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1360 寛喜三年二月廿二日己卯、仰云、東宮不坐給之時、不立坊而直踐祚親王、崇徳院、六條院、土御門院皆不吉、於堀河院者、實仁東宮依坐給御立坊、不當時歟、一歳立坊之内、清和鳥羽院春誕生、秋冬立給吉例也、雖一歳五十日百日立給、〈冷泉、安徳先帝、(仲恭)、〉又不吉歟、仍今年秋冬猶可立坊〈◯四條〉歟由存之、申云、此條尤可然歟、但竊案猶國家之煩歟、

〔皇年代略記〕

〈後深草〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1360 寛元元年六月十日誕生、同廿六日、爲親王、八月十日、立太子、

年長爲太子

〔皇年代略記〕

〈反正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1361 仁徳四十年降誕、履中二年正月己酉立太子、〈五十〉

〔皇胤紹運録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1361 武烈天皇 允恭三十九年誕生、仁賢七年正月立太子、〈四十五〉

〔皇胤紹運録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1361 安閑天皇 雄略十年誕生、

日本書紀

〈十七繼體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1361 七年十二月戊子、詔曰、〈◯中略〉懿哉麻呂古、〈◯安閑〉示朕心於八方、盛哉勾大兄、〈◯安閑〉光吾風於萬國〈◯中略〉宜春宮、助朕施仁、翼吾補上レ闕、
◯按ズルニ、安閑天皇ハ、雄略天皇十年ノ降誕ナレバ、繼體天皇七年ハ、御年四十八歳ナリ、皇胤紹運録、皇年代略記等ニ、安閑天皇ノ立太子ヲ繼體天皇ノ二十年トセルハ誤ナリ、

〔皇年代略記〕

〈天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1361 推古卅一年癸未降誕、天智七年二月戊寅爲皇太弟
◯按ズルニ、天武天皇ハ、推古天皇三十一年ノ降誕ナレバ、天智天皇七年ハ、御年四十六歳ナリ、

〔皇胤紹運録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1361 光仁天皇 和銅二己酉誕生、〈◯中略〉神護景雲四、八、一、爲皇太子、〈六十二〉

〔神皇正統記〕

〈光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1361 稱徳かくれましヽかば、大臣以下皇胤の中をえらび申けるに、おの〳〵異議ありしかど、參議百川と云し人、此天皇〈◯光仁〉に心ざし奉て、はかりごとをめぐらして定申てき、〈◯中略〉先皇太子にたち則受禪、〈御年六十二〉

〔皇年代略記〕

〈桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1361 天平九年丁丑降誕、〈◯中略〉寶龜四年正月十四日庚寅立太子、〈卅七〉

爲親王即日爲太子

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1361 久壽二年九月二十三日丁卯、今上第一皇子〈◯二條〉先被親王宣旨、次立爲太子、〈◯中略〉今朝太子渡御鳥羽南殿、〈法皇、(後白河)美福門院、夜前渡御、〉節會了、關白已下參彼殿云云、太子御洛外先例、上下傾奇、

數朝爲太子

〔日本書紀〕

〈十五仁賢〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1361 白髮天皇〈◯清寧〉二年四月、遂立億計天皇、〈◯仁賢〉爲皇太子、五年白髮天皇崩、天皇〈◯仁賢〉以天下弘計天皇、〈◯顯宗〉爲皇太子故、

〔日本書紀〕

〈二十三舒明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1361 十三年十月丁酉、天皇崩于百濟宮、 丙午、殯於宮北、是謂百濟大殯、是時東宮開別皇子、〈◯天智〉年十六而誄之、

〔日本書紀〕

〈二十四皇極〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 四年六月庚戌、讓位於輕皇子、〈◯孝徳〉立中大兄〈◯天智〉爲皇太子

〔革命勘文〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 天智天皇者、息長足日廣額天皇〈舒明天皇〉之太子也、讓位於母天豐財重日足姫天皇、〈◯皇極〉及舅天萬豐日天皇、〈孝徳天皇〉廿一年間、猶爲太子萬機

〔皇年代略記〕

〈天智〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 推古天皇廿二年甲戌降誕、孝徳天皇大化元年乙巳六月立太子、〈二代太子也〉

〔日本書紀〕

〈二十九天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 十年二月甲子、是日立草壁皇子尊皇太子

〔日本書紀〕

〈三十持統〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 三年四月乙未、皇太子草壁皇子尊薨、

〔皇胤紹運録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 草壁皇子〈號日竝知皇子、淨廣一位、天武十二年立太子、而當皇帝登遐之時、母后(持統)踐祚、仍不位、天武、持統東宮、朱鳥四年四月薨、追號長岡天皇、〉

〔續日本紀〕

〈六元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 靈龜元年九月庚辰、天皇禪位于氷高内親王、詔曰、〈◯中略〉以此神器皇太子、〈◯聖武〉而年齒幼稚未深宮、〈◯中略〉今傳皇帝位於内親王、公卿百寮宜悉祗奉以稱朕意焉、

〔續日本紀〕

〈九元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 神龜元年二月甲午、天皇禪位於皇太子、〈◯聖武〉

〔水鏡〕

〈中元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 元明天皇位をさり給ひし時、聖武天皇を東宮と申しかば、位をつぎ給ふべかりしかども、そのとしぞ御元服し給ひて、御年十四になり給ひしに、なほいまだいとけなくおはしますとて、此御門は御をばにて讓をえたまひしなり、

先帝崩後爲太子

〔續日本紀〕

〈三十稱徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 寶龜元年〈◯神護景雲四年〉八月癸巳、天皇崩于西宮寢殿、春秋五十三、左大臣從一位藤原朝臣永手、右大臣正二位吉備朝臣眞備、參議兵部卿從三位藤原朝臣宿奈麻呂、參議民部卿從三位藤原朝臣縄麻呂、參議式部卿從三位石上朝臣宅嗣、近衞大將從三位藤原朝臣藏下麻呂等定策禁中、立諱〈◯光仁〉爲皇太子、左大臣從一位藤原朝臣永手受遺宣曰、今詔〈久、〉事卒爾〈爾〉有依〈天、〉諸臣等議〈天、〉白壁王〈波、〉諸王〈乃〉中〈爾〉年齒〈毛〉長〈奈利、〉又先帝〈乃〉功〈毛〉在故〈爾〉太子〈止〉定〈天〉奏〈波、〉奏〈流〉麻爾麻宣〈◯宣恐定誤〉給〈布止〉勅〈久止〉宣、

〔神皇正統記〕

〈光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 稱徳かくれましヽかば、大臣以下皇胤の中をえらび申けるに、おの〳〵異議あ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1363 りしかど、參議百川と云し人、此天皇に心ざし奉て、はかりごとをめぐらして定申てき、


Last-modified: 2019-03-15 (金) 09:48:56 (191d)