http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0915 諡號ニ二種アリ、其一ヲ國風諡ト爲ス、文武天皇ノ朝ニ、持統太上天皇ニ諡シテ大倭根子天之廣野日女尊ト稱シ奉ル是ナリ、此外文武、聖武、光仁、桓武、平城、淳和ノ六天皇、並ニ國風諡アリ、孝謙天皇天平勝寳八載、聖武太上天皇崩ジ給フ、勅シテ曰ク、太上天皇出家佛ニ歸ス、更ニ諡ヲ奉ラズト、又孝謙天皇紀ノ首ニモ、寳字稱徳孝謙皇帝ノ生前尊號ヲ標シテ、出家佛ニ歸ス、更ニ諡ヲ奉ラズ、因テ寳字二年、百官上ル所ノ尊號ヲ取テ之レヲ稱ストアリ、國風諡ヲ奉上セザルヲ云フナリ、然レドモ聖武天皇ハ、寳字二年更ニ諡シテ天璽國押開豐櫻彦尊ト稱シ奉レリ、
其二ヲ漢風諡ト爲ス、其制大寳令ニ始テ見エタリ、公式令ニ天皇諡ノ目アリテ、義解ニ、諡ハ生時ノ行迹ヲ累テ死後ノ稱ト爲ス、即チ天地ヲ經緯スルヲ文ト爲シ、亂ヲ撥キ正ニ反スヲ武ト爲ス類ヲ云フトアリ、是全ク漢土ノ制ニ傚ヘル故ニ、今目シテ漢風諡ト云フ、〈漢風ノ二字ハ、天平寳字三年六月紀ニ見エタリ、〉神武天皇以下、漢字音ヲ以テ稱スル所ノモノ是ナリ、神武等ノ諡號ハ、淡海御船勅ヲ奉ジテ撰ブト云フ、或ハ淡海公〈藤原不比等〉ノ撰ブ所トモ云フ、諸説詳ニ本文ニ見エタリ、凡漢風諡號ヲ以テ稱スルモノ、神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝靈、孝元、開化、崇神、垂仁、景行、成務、仲哀、應神、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略、清寧、顯宗、仁賢、武烈、繼體、安閑、宣化、欽明、敏達、用明、崇 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0916 峻、推古、舒明、皇極、齊明、〈皇極ノ重祚〉孝徳、天智、弘文、天武、持統、文武、元明、元正、聖武、淳仁、光仁、桓武、仁明、文徳、光孝、崇徳、安徳、顯徳、〈後鳥羽天皇ノ初號〉順徳、仲恭、光格、仁孝、孝明天皇ニシテ、而シテ舊史漢風諡奉上ノ事ヲ明記セルモノ、聖武、光仁、崇徳、安徳、顯徳、順徳ノ六天皇ニ過ザルナリ、按ズルニ、聖武ハ、淳仁天皇ノ天平寳字二年ニ上ル所ノ尊號ニシテ、勝寳感神聖武皇帝ノ略稱ナリ、〈天平寳字三年六月紀ニ、聖武皇帝ト見ユ、然レドモ延喜ノ諸陵式ニハ、猶正シク勝寳感神聖武天皇トアリ、〉其崇徳、順徳、及ビ後鳥羽天皇ノ初號顯徳ノ如キハ、當昔所謂院號〈即チ御在所號〉ノ慣例ニ准ジ、或ハ謂テ院號トモ云ヘリ、一條兼良ノ説ニ、此三天皇ハ遠島ニテ崩御アリシヲ以テ、院號ヲ撰デ贈ラレタリトアリ、蓋シ、尋常漢風諡ト一例ニ視ルベカラザルヲ云フナルベシ、又弘文、淳仁、仲恭三天皇ノ諡號ハ、明治三年、始テ追上セラレシ所ナリ、抑漢諡ノ制、順徳天皇以來永ク廢典トナリタリシニ、近世光格天皇崩御ノ時、更ニ復興セラレタリ、又漢諡ニ一帝二諡ノ例アリ、皇極天皇ノ再祚ニ齊明ト稱シ奉ル是ナリ、此後孝謙天皇ノ再祚ニ稱徳ノ稱アレドモ、是レ生前ノ一尊號ヲ前後ニ分稱セシモノニシテ、一帝二諡ノ例ニハアラザルナリ、
御在所號アリ、世ニ之レヲ院號ト云フ、清和天皇位ヲ遜レテ清和院ニ坐セシヲ以テ、清和天皇ト稱シ奉ル類是ナリ、又追號アリ、一條院天皇曾テ一條院ニ坐セシヲ以テ、崩後、一條院ト稱シ奉ル類是ナリ、凡御在所號ニハ皇居號ニ因レルモノアリ、一條院ノ如キ是ナリ、仙院號ニ因レルモノアリ、清和ノ如キ是ナリ、寺院號ニ因レルモノアリ、花山、圓融ノ如キ是ナリ、今其生前崩後ニ拘ハラズ、御在所號ヲ以テ稱シ奉ル所ノ天皇ヲ列擧スレバ、平城、嵯峨、淳和、清和、陽成、朱雀、冷泉、圓融、花山、一條、三條、白河、堀河、鳥羽、近衞、二條、六條、高倉、四條、龜山、伏見、光嚴、〈北朝〉光明、〈同上〉正親町、櫻町ノ如キ是ナリ、又別ニ仙院ヲ以テ一ノ稱號トスルモノアリ、奈良、〈平城〉西院、〈淳和〉亭子院、〈宇多〉ノ如キ是ナリ、此他嵯峨天皇ニ冷泉、宇多天皇ニ朱雀、六條、白河天皇ニ六條、鳥羽、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0917 後鳥羽天皇ニ水無瀬、仲恭天皇ニ九條廢帝、〈又後廢帝トモ云ヒ、一ニ半帝トモ稱シ奉ル、〉後深草天皇ニ常磐井、富小路、龜山天皇ニ禪林寺、萬里小路、後宇多天皇ニ大覺寺、伏見天皇ニ持明院、花園天皇ニ萩原、後村上天皇ニ住吉、後龜山天皇ニ小倉等ノ別號アレドモ、今皆闕略ニ從ヒ、一ニ著聞ナルモノノミヲ掲グ、
陵地號アリ、醍醐、村上二天皇ノ如キ是ナリ、世或ハ宇多天皇ヲ以テ陵地號トスレドモ、今斷ジテ之レヲ御在所號ト爲ス、又陵地號ヲ以テ一ノ稱號トスルモノアリ、高野、〈孝謙〉後田原、〈光仁、皇考施基親王ヲ田原天皇ト稱ス、〉柏原、〈桓武〉深草、〈仁明〉田邑、〈文徳〉水尾、〈清和〉小松、〈光孝〉後山科〈醍醐〉ノ如キ是ナリ、此他欽明天皇ニ檜隈、聖武天皇ニ佐保、醍醐天皇ニ小野ト稱シ奉ル如キ、世ニ著聞ナラザルモノハ、今皆闕略セリ、
前帝號〈院號追號ノ類〉ニ後字ヲ加ヘテ稱號トスルモノアリ、後一條、後朱雀、後冷泉、後三條、後白河、後鳥羽、後堀河、後嵯峨、後深草、後宇多、後伏見、後二條、後醍醐、後村上、後龜山、後光嚴、〈北朝〉後圓融、〈同上〉後小松、後花園、後土御門、後柏原、後奈良、後陽成、後水尾、後光明、後西院、後櫻町、後桃園天皇ノ如キ是ナリ、中ニ就キ、前帝ノ一稱號ニ、後字ヲ加ヘテ追號トスルモノ、後深草、〈深草ハ、仁明ノ一號〉、後小松、〈小松ハ、光孝ノ一號、〉後柏原、〈柏原ハ、桓武ノ一號、〉後奈良、〈奈良ハ、平城ノ一號、〉後水尾、〈水尾ハ、清和ノ一號、〉後西院〈西院ハ、淳和ノ一號、〉ノ六天皇アリ、
追號ノ遺詔ニ出ヅルモノアリ、白河、後深草、龜山、後宇多、後伏見、花園、後嵯峨、光嚴、〈北朝〉光明、〈同上〉崇光、〈同上〉後圓融、〈同上〉後小松、後水尾、是ナリ、中ニ就キ、花園、崇光〈北朝〉ノ二天皇ヲ除キ、他ノ十一天皇號ノ事ハ已ニ前ニ述ベタリ、
前代天皇ノ漢諡及ビ尊號ヲ、彼此一字ヅヽ併用シテ追號トスルモノアリ、稱光、〈稱徳、光仁、〉明正、〈元明、元正、〉靈元、〈孝靈、孝元、〉ノ如キ是ナリ、
追號ノ意義未ダ詳ナラザルモノアリ、土御門、東山、中御門、桃園ノ四天皇是ナリ、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0918 此他國名ヲ以テ一ノ稱號トスルモノアリ、淡路廢帝、〈淳仁〉讃岐院、〈崇徳〉隱岐院、〈後鳥羽〉土佐院、〈土御門〉阿波院、〈同上〉佐渡院、〈順徳〉ノ如キ是ナリ、
又當時ノ年號ヲ以テ稱スルアリ、仁和帝、〈光孝〉寛平法皇、〈宇多〉延喜帝、〈醍醐〉天暦帝、〈村上〉ノ如キ是ナリ、別ニ一種胎中天皇、〈應神〉聖帝、〈仁徳〉有徳天皇、〈雄略〉大惡天皇、〈同上〉至徳天皇、〈皇極〉太后天皇、〈持統〉太皇后天皇、〈同上〉法師天皇、〈聖武〉帥天子、〈安徳〉田村院、〈靈元〉ノ如キアレドモ、今ハ省キテ擧ゲズ、
古代ニ在テ一種ノ稱號ト云フベキモノアリ、垂仁天皇ヲ卷向玉城宮御宇天皇ト稱シ奉ル如キ、即チ元明天皇ノ遺詔ニ、某國某郡朝廷馭宇天皇ト稱スベシトアルモノ是ナリ、今纔ニ其例證一二ヲ收メテ、他ハ闕略ニ從フ、顧フニ是レ所謂御在所號ノ權輿ナランカ、
又太祖、中宗ハ廟號ナリ、大行天皇ハ未ダ諡ヲ奉ラザル間ノ稱ナリ、共ニ此ニ附載ス、
尊號ハ、其帝徳ヲ賛嘆褒美シテ稱スル所ニシテ、是亦國風漢風ノ二種アリ、其國風尊號ハ、神武天皇ヲ神日本磐余彦尊、又始馭天下之天皇ト稱シ、崇神天皇ヲ御肇國天皇ト稱シ奉ル如キ是ナリ、此他懿徳、孝安、孝靈、孝元天皇ノ御名ニ、大日本ト加稱シ、開化、清寧天皇ノ御名ニ、稚日本ト加稱シ、安閑天皇ヲ武小廣國排盾尊ト稱シ、推古天皇ヲ豐御食炊屋姫天皇ト稱シ奉ルガ如キ、凡ソ此類皆登極後ノ尊號ナルベシ、故ニ今之ヲ此ニ收ム、其漢風尊號ハ、孝謙天皇ヲ寳字稱徳孝謙皇帝ト稱シ奉レル是ナリ、世之レヲ分稱シテ、其前位ニ孝謙ト稱シ、其再祚ニ稱徳ト稱シ奉レリ、

國風諡

〔續日本紀〕

〈三文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0918 大寳三年十二月癸酉、諸王諸臣奉太上天皇、〈◯持統〉諡曰大倭根子天之廣野日女(オホヤマトネコアメノヒロノヒメノ)尊、〈◯日本書紀ニハ、高天原廣野姫天皇ニ作ル、〉

〔續日本紀〕

〈三元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0918 慶雲四年六月辛巳、天皇〈◯文武〉崩、 十一月丙午、誄人奉誄、諡曰倭根子豐祖父(ヤマトネコトヨオホヂノ)天皇
◯按ズルニ、本書文武天皇紀ニハ、天之眞宗豐祖父(アメノマムネトヨオホヂノ)天皇ニ作ル、故ニ大日本史ニハ彼此併稱シ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0919 テ、倭根子天之眞宗豐祖父天皇ト云ヘリ、此後元明天皇ニ日本根子天津御代豐國成姫(ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメノ)天皇ト稱シ、元正天皇ニ、日本根子高瑞淨足姫(ヤマトネコタカミヅキヨタラシヒメノ)天皇ト稱シ奉ルガ如キ、並ニ史ニ明文ノ徴トスルニ足ルモノ無シトイヘドモ、大日本史ニ、諡號トスルモノ是ナルガ如シ、

〔續日本紀〕

〈二十一淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0919 天平寳字二年八月戊申、勅曰、昔者先帝、〈◯聖武、中略、〉開闢已來、未斯盛徳者也、〈◯中略〉敬依舊典、〈◯中略〉諡稱天璽國押開豐櫻彦(アメシルシクニオシハルキトヨサクラヒコノ)尊

〔續日本紀〕

〈三十六光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0919 天應元年十二月丁未、太上天皇〈◯光仁〉崩、 癸丑、〈◯中略〉誄人奉誄、上尊諡天宗高紹(アマツヒツギタカツガスノ)天皇、〈◯皇年略代記ニハ、天宗ノ上ニ、日本根子ノ四字アリ、〉

〔日本後紀〕

〈十三桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0919 大同元年三月辛巳、天皇崩於正寢、 四月甲午朔、中納言正三位藤原雄友、〈◯中略〉奉誄曰、〈◯中略〉畏哉日本根子天皇〈乃〉天地〈乃〉共長〈久、〉日月〈乃〉共遠〈久、〉所白將去御諡〈止〉稱白〈久、〉日本根子皇統彌照(ヤマトネコアマツヒツギイヤテラスノ)尊〈止〉稱白〈久止〉恐〈牟〉恐〈母〉誄白、臣某、

〔類聚國史〕

〈三十五帝王〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0919 天長元年七月甲寅、平城天皇崩、 丙辰奉誄曰、〈◯中略〉畏哉日本根子天皇〈乃〉天地〈乃〉共長〈久、〉日月〈乃〉共遠〈久、〉所白將去御諡〈止〉稱白〈久、〉日本根子天推國高彦(ヤマトネコアメオシクニタカヒコノ)尊〈止〉稱白〈久止〉恐〈牟〉恐〈母〉誄曰、臣某、

〔續日本後紀〕

〈九仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0919 承和七年五月癸未、後太上天皇〈◯淳和〉崩于淳和院、 甲申、〈◯中略〉畏哉日本根子天皇〈乃〉天地〈止〉共長〈久、〉月日〈止〉共遠〈久、〉所白將往御諡〈止〉稱白〈久、〉日本根子天高讓彌遠(ヤマトネコアメタカユヅルイヤトホシノ)尊〈止〉稱白〈久止〉恐〈美〉恐〈母〉誄白、
◯按ズルニ、凡國風諡ニシテ史ニ載セラレタルモノ、實ニ前掲七天皇ニ過ギズ、此後仁明天皇ヲ日本根子豐聰慧〈皇胤紹運録、一代要記等ニ見ユ、〉ト稱シ奉ルガ如キ、是亦元明元正二天皇ト同ジク國風諡ナルベシ、然レドモ本史ニ闕逸セルヲ以テ、今本項ニ掲ゲズ、

出家不上諡

〔續日本紀〕

〈十九孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0919 天平勝寳八歳五月乙卯、是日太上天皇〈◯聖武〉崩於寢殿、 壬申、勅曰、太上天皇出家歸

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0920 佛、更不諡、所司宜之、

〔續日本紀〕

〈十八孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0920 寳字稱徳孝謙皇帝〈出家歸佛、更不諡、因取寳字二年、百官所上尊號稱之、〉
◯按ズルニ、大鏡一ニ太政大臣といへど、出家しつるはいみなヽし(○○○○○)トアリ、いみなハ即チ諡號ノ義、文忠公〈藤原不比等〉ノ類是ナリ、

漢風諡法

〔令義解〕

〈七公式〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0920 天皇諡〈謂、諡者累生時之行迹、爲死後之稱號、即經緯天地文、撥亂反正爲武之類也、〉

〔御中陰御佛凡人相違事〕

〈歴代殘闕日記所收〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0920 一依或人問太閤所答條々〈文明三、四、十二、書寫了、〉
一諡號、追號、此かはりめは、諡をばおくりなとよみて、生時の行跡によりて沒後の號として、仁徳ましまし候へば仁徳天皇と申し、武徳おはしまし候へば桓武天皇と申候、くはしく合ひたる事は候はねども、本説此分にて候、是は徳によりて可申候、所名にはよらず候、追號と申すは多分御在所の號、又山陵の號などを用られ候、嵯峨、淳和、陽成などは、御在所の名を御追號に用られ、宇多、醍醐、村上などは、みさヽぎの號にて、光嚴、光明、崇光などは、御庵室の額にて、遺勅によりて被用候、これも御在所に准じ、すべておぼしめし候、崇徳、顯徳、〈後鳥羽初御號〉順徳等三代は、遠嶋の御事にて候程に、院號を撰られておくり申され候、近頃稱光院などは此例たるべく候かにて候、然としたる御在所は候はねども、院號に用られ候、安徳天皇などは諡號の准たるべく候、諡號は其人の徳によりたる號にて候程に、後の字を加へて用られたる事は今に其例なく候、又出家の後は諡號なきにて候、是によりて寛平法皇〈◯宇多〉より後は、天子の諡號たえたる事にて候、右兼良公〈◯一條〉言談云云、

始撰定漢風諡

〔釋日本紀〕

〈九述義〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0920 私記曰、師説、神武等諡名者、淡海御船奉勅撰也、

〔親長卿別記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0920 文明三年二月十三日、抑今度舊院〈◯後花園〉御追號事、〈◯中略〉中院大納言〈◯源通秀〉
舊院御追號可改哉事重預下問、彌迷勅答者也、凡諡法事、起於周道、遠及日域者歟、神武已來、至

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0921 文武四十二代者、是淡海公所製事已幽合也、其後儀式、依平日之徳行諡號或以後院御所成追號、有山陵之由緒、有庵號之遺詔、彼是非一者乎、

〔古事記傳〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0921 凡て御代御代の漢様の諡のこと、書紀私記に、師説、神武等諡名者、淡海御船奉勅撰也とあり、まことに然るべし、〈時は桓武の朝と或説に云るも然るべし、(中略)先續紀を考るに、持統より以來御代御代の天皇崩の時、みな古禮の諡を奉しことのみ見えて、漢様のはすべて見えず、然るに天平寳字二年八月に、寳字稱徳孝謙皇帝と云尊號を奉しことあり、是は當代の御事にて諡には非ざれども、漢様音讀の號の始にぞ有ける、さて同月に、豐櫻彦天皇に勝寳感神聖武皇帝と云尊號を奉らる、是ぞ諡號の漢様の始なる、されど此時も古の歴代天皇の漢諡のさだはなかりき、さて光仁天皇崩坐て、上尊諡天宗高紹天皇とあるは、音讀の漢諡の如聞ゆめれどもさにあらず、なほ古禮の諡なり、文武天皇の天眞宗云々、桓武天皇の皇統云云なども、皇朝様の諡ながら漢めきたるは、やうやくに漢意のまじれる故ぞかし、此天宗高紹天皇も、漢様のは別に光仁と申て、本紀の首にも、細字にて光仁天皇と注せり、續紀の例、凡て古體の諡を標て、其下に漢様のを注せれば、是も其例なること明けし、又此後仁明天皇までは、御代々々皆古禮の諡あれば、光仁天皇にのみ無るべきに非ず、孝謙天皇は出家し賜へるに因て諡を奉らず、かの寳字二年の尊號を用る由見ゆ、嵯峨天皇のは、有けるが傳らざるか、又元より無りしか物に見えず、此二御代の餘は、仁明まで皆有なり、如此て桓武天皇の御代に至て、かの御船眞人の在せし延暦四年七月までの間にぞ、神武より光仁までの漢様の諡は撰定めしめ賜ひけむ、其證は、延暦十六年に成れる續紀に、古の天皇たちのも往々見えたり、第一卷に天武天皇天智天皇などある類是なり、然るに如此く漢諡を以て記されたる處を考るに、皆撰者の文のみにして、昔の文を載たるには、皆某宮御宇天皇、或は某宮朝などとのみありて、漢諡は見えたることなし、これらを以て、撰ばれたる時を定むべし、然るに甘露寺親長卿記などに、文武天皇の御世に、淡海公藤原不比等に勅して定めしめ賜へる由あるは、委曲も考へざる浮たる説なり、そは淡海御船てふ人は、世に聞なれざる故に、ゆくりなく淡海公に思ひまがへて、桓武の御世をも文武と誤れるものなり、〉

〔比古婆衣〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0921 古事記傳漢様御諡附考
延暦より前に、既に漢ざまの御諡を奉られし事は、淡海御船眞人の、天平勝寳三年十一月に撰める由序せる懷風藻に、文武天皇と題て御詩を載たり、序文に作者六十四人、具題姓名、並顯爵里、冠篇首と記したれば、此御諡は素より、然題記したりしなり、さて其天平勝寳三年は、孝謙天皇の御世にて、御船眞人は廿五の齡にて、いまだ姓を賜はらざりし時に當れり、故按に文武天皇は、天縱寛仁、慍不色博渉經史と續日本紀に載られ、〈◯中略〉さるにあはせて次の御代元明天

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0922 皇の御時、この天皇に特に始て、漢様の御諡を奉られたるにぞあるべき、〈◯中略〉猶其證とすべき事は、伊福部臣徳足比賣の墓誌に、〈安永三年、因幡國法美郡、府中と云處にて堀出せる也、〉藤原大宮御宇〈大行〉天皇〈大行の字、右の方へよせて小さく書たり、〉御世、慶雲四年歳次丁未春二月二十五日、從七位下被賜仕奉、和銅元年歳次戊申秋七月一日卒云々、故謹録錍、和銅三年十一月十三日己未と記せる、大行天皇は文武天皇の御事なるを、しか大行としも稱せるは、漢國にて王の死て諡せぬ間の稱なるを、其頃まねばせ給へるにて、〈◯中略〉其は此天皇慶雲四年六月辛巳〈十五日〉に崩給ひたるに、始て漢様の御諡を奉らるべき御定ありて、諒闇はてヽ後奉らるヽまでは、大行天皇と稱し奉るべく御おきてありけるによれるものなるべし、故徳足比賣の卒れる和銅元年七月は、元明天皇いまだ、諒闇にまし〳〵て、いまだ其御諡奉られざりつる間なりければ、當時の御稱をもてしか記せるものなるべし、萬葉集〈一の卷〉に、大行天皇幸于難波宮時歌、また大行天皇幸于吉野宮時歌と書る、既に岡部翁〈◯眞淵〉の考おかれつるごとく、文武天皇の御事なるを、これもかの御諡奉られざるほどに、記おけるまヽの文なるを、其まヽに書集めたるものなるべし、おもひ合すべし、

漢風諡

〔續日本紀〕

〈二十一淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0922 天平寳字二年八月戊申、勅曰、子尊其考禮家所稱、策書鴻名古人所貴、昔者先帝〈◯聖武〉敬發法誓、奉盧舍那金銅大像、若有朕時不上レ造了、願於來世身猶作、既而鎔銅已成、塗金不足、天感至心之信、終出勝寳之金、我國家於是初有奇珍、開闢已來未斯盛徳者也、加以賊臣懷惡潛結逆徒社稷良日久矣、而畏威武仰仁風、不敢競一レ鋒咸自馴服、可聖武之徳比古有一レ餘也、其不揚洪業、何以示於後世、敬依舊典、追上尊號、策稱勝寳感神聖武皇帝、諡稱天璽國押開豐櫻彦尊、欲使休名於萬代乾坤而長施、揚茂實於千秋、共日月而久照、普告遐邇朕意焉、

〔延喜式〕

〈二十一諸陵〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0922 佐保山南陵 平城宮御宇勝寳感神聖武天皇〈◯下略〉

〔東大寺要録〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0922 天平十八年三月十六日、良辨僧正於羂索院、奉爲大雄大聖天皇、〈◯聖武〉孝謙皇帝、仁

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0923 聖皇后、奏聞公家、諸寺聽衆相共集會、始行法花會

〔東大寺要録〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0923 東大寺櫻會縁起〈亦名法花會
敬白、〈◯中略〉以去天平十八年丙戌三月、奉爲挂畏大雄大聖天皇、孝謙皇帝、仁聖大后、莊嚴堂閣、羅列幡蓋、〈◯下略〉

〔皇年代略記〕

〈光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0923 天應元年十二月二十三日崩、諡曰光仁

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0923 安元三年〈◯治承元年〉七月廿九日丙寅、後聞、今日被贈官位、〈◯藤原頼長〉並院號〈◯崇徳〉等事、〈◯中略〉宜讃岐院號崇徳院(○○○)、〈大外記清原頼業奉之〉余案之、崇徳院號如何、我朝太上天皇贈號未聞、若可讃岐院者、只可土御門土〈◯土恐衍字〉院歟、崇徳字未甘心、通典文云々、永範撰申、上卿隆季卿云々、

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0923 元暦二年〈◯文治元年〉七月三日甲申、先帝〈◯安徳〉御事、示送頭辨之許、其状曰、〈◯中略〉禮紙追申、
崇道天皇〈◯桓武廢太子早良〉已下之例、或爲太子或爲親王、仍贈帝王之號其理可然、不今度之儀、院號條又不物議歟、仍只以諡號詮歟、如此間事委可有歟、

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0923 文治三年四月廿三日甲午、被先朝〈◯安徳〉諡號勅、〈延暦例也〉

〔百練抄〕

〈十四四條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0923 延應元年五月廿九日戊戌、侍從中納言〈爲家〉參著、召大外記師兼仰云、以隱岐院、〈◯後鳥羽〉可顯徳院(○○○)者、依治承崇徳院例、無勅書、只外記承存許也、件諡號字、式部大輔爲長卿勘申、
◯按ズルニ、後仁治三年ニ至リテ、顯徳院ヲ改メテ、更ニ後鳥羽院ト改稱セラレタリ、下文加後字前號ノ條、參看スベシ、

〔百練抄〕

〈十六後深草〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0923 建長元年七月廿日己丑、被佐渡院追號事、〈順徳院(○○○)〉

漢風諡中絶

〔神皇正統記〕

〈冷泉〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0923 この御門より天皇の號を申さず、また宇多よりのち諡をたてまつらず、遺詔ありて國忌山陵をおかれざることは、君父のかしこき道なれど、尊號をとヾめらるヽことは、臣子の義にあらず、神武以來の御號も、みな後代のさだめなり、持統元明よりこのかた、遜位あるひは

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0924 出家の君も諡をたてまつる、天皇とのみこそ申すめれ、中古の先賢の義なれども、こヽろを得ぬ事に侍るなり、
◯按ズルニ、諡ヲ奉ラザルコトハ、宇多天皇ニ起ルニアラズ、聖武、孝謙、稱徳等ノ御名モ、諡ニアラズシテ尊號ナリ、

〔續日本後紀〕

〈十二仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0924 承和九年七月丁未、太上天皇〈◯嵯峨〉崩于嵯峨院、春秋五十七、遺詔曰、〈◯中略〉無俗事、〈謂諡誄(中略)等事

〔李部王記〕

〈醍醐寺雜事記所引〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0924 延長八年九月廿九日、丑時院〈◯醍醐〉御病大漸、〈◯中略〉左大臣〈◯藤原忠平〉進御所、〈◯中略〉還陣乃命、以諡號

漢風諡再興

〔實久卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0924 天保十一年十二月三日己未、巳終刻參舊院、〈◯中略〉自内裏按察前大納言、御追號追可進之旨、以一紙仰下、續左、
 先例可御追號之處、依叡慮、追可進候迄、奉故院候事、
右以女房沙汰、 廿一日丁丑、深更新源大納言被來、今度太上皇大行可御諡哉、久々廢絶、依之大臣以下參議以上現任公卿、以一紙尋下之旨被仰傳了、續左、
太上皇如中古以來、雖御追號、御登壇以來、被復故典舊儀、公事再興不少、御在位卅有餘年、古代〈茂〉稀ニ、加之被質素、不修飾、專御仁愛之聖慮、遂及衆庶、一同安懷之事、今上〈◯仁孝〉深御感悦、依之被御諡號、至萬代御孝道度叡慮候、雖然小松帝〈◯光孝〉以後、壽永帝之外、不御諡號、今度被御諡號、可如何哉、被所存候事、
別紙之通、被尋御諡號之事、久々廢絶之儀候、於御所意者、必不心中、可言上候事、
右勅答、明廿二日中可言上示、予謹奉了、尤以一封議奏卿云々、 廿二日戊寅、今日以一封御諡號勅答獻之了、續左、〈以使付議奏左兵衞督了〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0925 中鷹四ツ折、同紙包、
今度太上皇大行御諡號之事、〈臣〉等誠仰願所候、上皇御仁愛御洪徳無諭物候者、不久々廢絶之儀、速被叡慮、可御諡號哉、宜聖斷矣、
                         實久〈上〉
十二年正月廿八日甲寅、巳終刻參舊院、午終刻參内、〈可參朝殿下(鷹司政通)示給〉謁殿下之處、今度被御諡號之事、關東被仰遣之處、可叡慮之通申上、川越侍從〈所司代〉書取寫、爲心得見給、續左、
故院御在位、古來稀成御年數ニ而、踐祚以後、多分被舊儀、公事御再興〈茂〉不少、都而御仁愛深、衆庶一同奉恩澤候儀共、全偏ニ舊典を慕被思召之段、於主上〈茂〉今更御厚感被思召候ニ付、如舊儀御諡號被進度被思召候、併近例者、御追號ニ而、御諡號之御沙汰者不在御事ニ候得共、故院御高徳、被萬代候様、御追孝之思召を被盡、被思召候御内慮之趣、關東〈江〉宜申入旨被仰聞、則相達及言上候處、御諡號之儀、數年中絶ニ者候得共、故院御高徳、被萬代度との叡慮之趣も有之、且者兼々御質素之叡慮深ク、修飾之儀者不好御儀等者、於關東〈茂〉被聞召及候御事〈茂〉被在候間、此度者格別之御譯柄を以、御諡號之儀御内慮之通たるべき旨可仰出、右之趣御兩卿〈江〉御傳可申旨、年寄共より申越候事、
  正月
故院御諡號之儀、御内慮之通可仰出候得共、後年御追號之儀〈與〉不相混候様有之度候間、右之趣者御記録〈江茂〉御書載有之候様、關白殿并御兩卿被御心得置候様可御示談旨、年寄共より申越候事、
  正月
後正月廿七日壬午、今日尊誄諡策命使、泉涌寺〈江〉參向也、仍巳刻許予泉涌寺參向、〈衣袍乘輿〉東久世三位

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0926 同參向、未刻許策命使左大將〈輔〉參向、〈騎馬、前驅六人、連騎右兵衞佐公恪朝臣、左中將爲知朝臣云々、不見、〉次官左中將實愛朝臣、誄人右大辨、〈聰〉右少將通熈朝臣、侍從胤保〈各兼諸陵奉幣使、各騎馬、〉等參向、權中納言〈一會傳奏〉頭左中辨光政朝臣、〈同上奉行〉予、東久世三位、勸修寺侍從〈寺門執奏〉等、御陵北方假屋座爲詰候、先内豎内舍人等舁黒漆案山陵前次置御幣、〈裹夾纈絹、如荷前幣、〉次置雜給幣、次左大將被陵前座、次次官實愛朝臣著座、〈大將後方少南方〉次其方少退、誄人右大辨通熈朝臣、胤保等著座、次左大將以下兩段再拜、〈四拜也〉次大將被宣命、〈乍立〉了亦兩段再拜、〈四拜也〉次目實愛朝臣、實愛朝臣參進被宣命、實愛爲内豎内舍人、於陵前宣命御幣、〈御幣者其實不燒〉此間誄人申誄詞、事了左大將以下退出、次代々御陵有御幣、自明正帝後桃園帝九帝、使右大辨勤仕、〈依雨儀合拜也〉四條院、并自後土御門帝後水尾帝六帝、使通熈朝臣勤仕、〈同上〉各此山御陵也、此外當寺内、後光嚴帝、後圓融帝、後小松帝、〈已上有雲龍院〉後花園帝〈有悲田院〉等、胤保勤仕、各事了使々退出、予此後退出、今日陣上卿右大臣、於宜陽殿西廂御拜、摠而御幣舁立以下如荷前云々、委不聞、宣命詔書誄詞等後聞、續左、
詔書
詔、諡者徳之表、行之迹、周家遺訓、我邦舊典也、仰以太上天皇、叡哲温恭、以御萬民清肅嚴默、以臨四海、不治而人自化、無爲而事寔成、履唐堯之典、星辰軌道行虞舜之政、風雨順時、上下平章、咸歌望雲之慶、華夷協和、倶承就日之輝、於是蔑物不上レ其所、靡人弗上レ其恩、蕩々仁化、溢於八荒、巍々徳光、格於四表、宜大號以旌盛徳、雖禮文之久闕、奈孝思之無己、爰上尊號、恭稱光格天皇(○○○○)、庶幾傳大名於萬代、與乾坤以長施、揚茂實於千秋、與日月而久照、普告天下朕意、主者施行、
   天保十二年閏正月廿七日
宣命
天皇掛畏〈岐〉後月輪山陵〈爾〉恐〈美〉恐〈美毛〉奏賜〈倍止〉奏〈久〉、明〈久〉明〈久〉淨〈岐〉御意以〈氐〉大八洲國所知〈志與利、〉端

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0927 拱〈天〉天下〈乎〉治賜〈古止〉三十九年、無事〈久〉無故〈久〉上下倍和睦〈久、〉公民〈茂〉愈富足〈牟止〉畏食〈氐奈毛〉宮殿〈乎毛〉古〈乃〉法〈乃〉隨〈爾〉營〈多萬比、〉廢〈多留〉祭禮〈乎毛〉興〈志〉賜〈布、〉又諸〈乃〉事〈乎毛〉古〈爾〉復〈志〉賜〈古止〉多〈介禮婆、〉百官〈毛〉皆慶仰〈岐、〉公民〈毛〉厚慈〈乎〉蒙戴〈氐〉仕奉〈奴、〉讓國賜〈志與利〉國家愈平〈爾、〉臣庶愈忠心〈乎〉懷〈天〉仕奉〈天、〉此食國〈乃〉猶〈毛〉能治〈奴留〉事〈波、〉偏〈爾〉恤賜〈比〉矜賜〈布加〉故〈奈利止〉仰〈岐〉畏〈美〉賜〈比氐、〉天地〈止〉共〈爾〉長〈久〉孝道〈乎〉盡〈志〉仕奉〈牟止〉念行〈世志爾、〉近來御藥〈乃〉事有〈氐〉驚〈岐〉聞食〈氐、〉朝〈止奈久〉夕〈止奈久〉神祇〈爾〉祈〈利〉奉〈利〉賜〈志加、〉少〈久〉愈賜〈比氐〉古來〈爾毛〉稀〈奈留〉聖算〈乎〉重賜〈比志乎、〉一〈多比波〉以〈氐〉喜〈備〉一〈多比波〉以〈氐〉懼〈知〉給〈爾岐、〉早〈毛〉朝覲〈乃〉禮〈乎〉行給〈者牟止〉思〈保之都々〉大坐坐間〈爾、〉不慮〈毛〉此孝子〈乎〉捨給〈比氐〉姑射〈乃〉霞〈爾〉登〈利〉賜〈布止〉聞食〈氐、〉驚〈岐〉惜〈彌〉痛〈彌〉酸〈彌〉賜〈比氐〉大御泣哭〈之〉大坐〈勢利、〉曾毛曾毛御名〈乃〉事〈者〉久〈倶〉絶〈奴禮止、〉孝〈波〉父〈乎〉嚴〈爾須留與利〉大〈奈留波〉莫〈止奈毛、〉又大行〈阿禮波〉大名〈乎〉受〈止奈毛〉聞食〈須、〉御諡〈乎〉不奉〈婆〉山〈與利〉高〈久〉仰奉〈留〉恩徳〈乎〉伊何爾〈可須倍岐止〉所念〈志、〉又大臣〈毛〉進奏〈須〉隨〈爾、〉故是以〈氐〉吉日良辰〈乎〉擇定〈氐、〉御諡〈乎〉光格天皇〈止〉稱白〈志〉奉〈利、〉恆〈爾之毛〉無〈岐〉御幣〈乎〉令捧持〈氐〉奉出〈利、〉正二位行權大納言兼左近衞大將春宮大夫藤原朝臣輔熈、正四位下行右近衞權中將藤原朝臣實愛等〈乎〉差使〈氐、〉誄人〈乎〉率〈志免〉恐〈美〉恐〈母〉誄奏〈志牟、〉又此山〈爾〉御坐〈須〉掛畏〈岐〉代々〈乃〉御陵〈爾毛、〉正三位行右大辨兼勘解由長官菅原朝臣聰長、正四位下行右近衞權少將源朝臣通熈、正五位下行侍從兼春宮權大進藤原朝臣胤保等〈乎志天〉御幣〈乎〉令捧持〈氐〉奉出賜〈布、〉今〈與利〉後天下〈乃〉政〈波〉大臣〈乃〉正〈岐〉直〈岐〉心以相穴〈奈比〉相扶奉〈麻爾麻爾〉治賜〈比、〉長秋宮〈爾波◯光格后欣子内親王〉愈孝心〈乎〉盡〈天〉怠〈良須〉仕奉〈利、〉皇女〈者◯蓁子内親王〉一人〈乃〉令妹〈奈禮者〉猶〈毛〉愛〈美〉給〈者牟止〉所念行〈須、〉天之日嗣〈止〉定賜〈比〉儲賜〈倍留〉皇太子〈者◯孝明〉日〈爾〉月〈爾〉無事〈久〉成長〈勢〉賜〈波牟古止乎、〉夜守日守〈爾〉護幸〈倍〉賜〈倍止、〉此状〈乎〉平〈久〉安〈久〉聞食〈止〉恐〈美〉恐〈美毛〉奏賜〈倍止〉奏、
   天保十二年閏正月二十七日
大臣誄

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0928 畏哉讓國〈而〉御坐〈志〉天皇〈乎〉恐〈美〉恐〈母〉誄白、臣某、畏哉日本根子天皇〈者〉久〈倶〉帝位〈爾〉御坐〈氐、〉常〈爾〉資治〈乃〉道〈乎〉求給〈布古止〉伊夜益〈須〉益〈爾〉深〈計禮婆、〉故〈乎〉温〈氐〉新〈乎〉知〈女志、〉廢〈多留乎毛〉興〈志〉絶〈多留乎毛〉繼〈岐、〉孝〈乎〉本〈止志氐〉政〈乎〉爲〈志、〉儉〈乎〉專〈爾志氐〉物〈乎〉愛〈美〉給〈布加〉故〈爾、〉仁恩〈乃〉光天下〈爾〉被〈利〉至〈奴、〉是〈遠〉仰〈岐〉彼〈遠〉仰〈爾、〉代代〈爾〉絶〈奴留〉尊〈岐〉御名〈乎〉奉、天地〈乃〉共長、日月〈乃〉共遠〈久〉稱白〈佐牟止〉奏〈麻爾麻爾、〉御諡〈乎〉奉給〈布、〉臣等〈毛〉共〈爾〉稱白〈佐久止〉恐〈美〉恐〈母〉誄白、臣某、
卿誄
畏哉讓國〈而〉御坐〈志〉天皇〈乎〉恐〈美〉恐〈母〉誄白、臣某、畏哉日本根子天皇〈者、〉聰明仁愛〈爾〉御坐〈志氐、〉然〈毛〉謙讓〈乃〉心深〈久〉下〈遠〉憐〈美太萬布〉情厚〈志、〉萬〈乃〉政〈岐◯岐恐波誤〉百世〈乃〉則〈止〉誰〈加〉不仰、嗚呼哀哉、姑射雲暗〈志氐、〉龍駕何〈乃〉日〈加〉還給〈牟止〉恐〈美〉恐〈母〉誄白、臣某、
侍臣誄
畏哉讓國〈而〉御坐〈志〉天皇〈乎〉恐〈美〉恐〈母〉誄白、臣某、畏哉日本根子天皇〈者、〉仁愛〈乃〉御心深〈計禮婆、〉仕奉〈留〉人々〈毛、〉厚恩〈乎〉酬〈比〉奉〈牟止〉恐〈美〉恐〈母〉誄白、臣某、

〔輔世卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0928 天保十二年後正月廿七日戊午、御諡號宣下當日也、各丑半刻早參、兩局出納以下諸司如交名、散状交名等如左、御裾關白、〈◯藤原政通〉御劒言成朝臣、御挿鞋光政、御笏資宗、御手水陪膳愛長朝臣、益供恭光源常徳、
 陣儀
先上卿著仗座
次參議同候横敷 辨以下政官在床子座〈如例〉
次奉行職事來仰仰詞〈尊誄諡、并臨時奉幣宣命之事、詔書之事、〉
次上卿移著端座 令官人敷膝突

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0929 次上卿以官人大内記、大内記來膝突仰詞、〈如職事
次内記來膝突草、〈詔書不日、宣命等納一筥、〉上卿披見、〈内記退〉
次上卿以官人職事、職事來膝突、被内覽奏聞、職事參朝餉之、〈先之於鬼間内覽給〉若就臺盤所簾下、附掌侍之、御覽訖返給、職事歸來膝突清書事、〈職事退〉
次上卿以官人内記、内記來膝突、被清書事、〈内記退〉
次内記持參清書、〈兩文書黄紙〉上卿披見一如草文、〈但上卿披見了、乍筥押出、内記取之在小庭、〉
次上卿起座經御後〈宜陽殿設御座、依便宜雨儀禮、〉就弓場、〈内記相從〉職事出逢、被内覽奏聞之事、〈内記所持之清書、乍筥授之、〉
次職事奏聞〈先内覽〉一如草文、御書訖返給、職事歸出、仰御覽訖事、〈上卿取筥奉仰、令内記、乍立取文、披見御畫日之有無、〉
次上卿歸著仗座、〈經本路内記置筥退〉
次上卿令官人召大外記、大外記來膝突、〈爲少外記者候小庭、〉問中務候否、外記申候由、上卿仰召之由、外記退、
次中務輔來膝突、上卿賜詔書、被施行之事、〈輔退〉若有詔事者、職事來仰之、〈上卿召辨仰之〉
次上卿令官人召大外記、大外記來膝突、問使々參否、申皆參之由、〈外記退〉
次上卿召官人膝突
次上卿起座率公卿并辨外記史等、經宜陽春興兩殿西廂、出長樂門、著外辨座、〈同門外面西掖、設公卿座、東上南面〈大臣兩面端半帖、納言緑端半帖、〉參議對座、〈黄絹端長疊〉上卿座前敷膝突、同東掖設辨使等座、〈黄布端帖〉東西并前曳㡢、外記史等在便所、〉召使長官宣命、又令召使召一レ辨、辨來膝突、問幣物具否、辨申具之由、訖退復座、
次内舍人内豎等舁案、〈置幣物〉立長樂門前、〈豫敷葉薦、幣物本有承明門南壇上、〈引廻幕其内置漆櫃〉内藏官人史生等守護、臨期開櫃取出之、又准建永元年、賀茂一社奉幣、幣物遲々、使發遣例、不幣物代、〉雜給幣、内舍人等置同薦上
次使長次官起座、入長樂門相共舁幣物、〈上臈左、下臈右、〉經左掖門前、到春興殿西廂北砌上、〈南北爲妻〉退立左掖門内北掖、〈北上西面、次官在後、但今度假著圓座、〈豫敷之〉〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0930 今度諸陵幣被代、仍使等不御前、〈在門外〉又内舍人執雜給幣之、樹案之間相去二許丈、暫立於其後、樹案畢後進置薦上、〈以上帶劒人者解而從事〉訖退出立門外
出御之間、暫閉長樂門、〈近衞官人〈陣官〉閉之、了出左掖門、在同門外、又敷政、宣仁、和徳、左青璅等門、先之陣了可閉、兼仰兩局、六位藏人點撿、〉
御拜出御儀、〈中殿御裝束如例、〈但諒闇〉自孫廂渡廊長橋乾妻戸外、敷筵道布單、御殿御裝束、任近例諒闇御裝束、〈今度不壁代唯御帳御座、併吉御裝束東妻戸外簀子敷筵道布單〉東軒廊、宜陽殿、承明、長樂等門外布設任指圖、〉
先出御朝餉御座 關白殿令御前給、傳奏奉行早參、職事等候下戸邊、議奏候馬形障子邊、武傳近習候渡廊、御服奉仕御劒將等候同所
此間詔書宣命等有御覽、〈草清書御覽直奏、若附内侍、有御畫之事度度例、御笏議奏授職事、職事持候、〈不袋、乍蓋也、〉〉
次著御帛御服、〈不御幘、本御冠著御、依亮闇一期也、〉奉仕人參仕如例、〈兩役參臺盤所候、御操出御袖等如例、〉
次移御御手水間〈關白殿令御裾給〉 藏人頭候陪膳
次御手水訖還御朝餉御座 關白殿御裾、了石灰壇自御屏風妻、經孫廂等中殿圓座給、兩役近習候南廊、〈御服奉仕在此列〉奉行職事早參、職事御劒將等候中殿簀子、此間傳奏率六位藏人一兩輩、徘徊南殿宜陽殿等、催促諸事、使長次官著圓座、内舍人置雜給幣、退閉長樂門之後、馳參附議奏、内々言上、〈先申關白殿
天皇出御、〈關白殿令御裾給、藏人頭供帛御草鞋、近衞將取御劒、職事等陪從持御笏、傳奏奉從、兩役近習等供奉如例、〉經孫廂南廊、長橋、南殿乾妻戸、〈自孫庇乾妻戸外、敷筵道布單、〉御後中間、御帳東、出東面妻戸、〈簀子敷筵道布單等、除階級、〉降東階給、〈自階下軒廊、宜陽殿砌敷葉薦、其上鋪筵道布單、以爲幸路、〉經軒廊、〈五位職事二人、左右相分馳進、開御屏風傍、〉宜陽殿砌等、入御御拜御座、〈西廂南四ケ間敷滿折薦、其上敷廣筵、南第三間、斜向山陵方御半帖、〈高麗小文、下加小筵〉〉加紫綾褥、引廻大宋御屏風〈巽方聊開置之〉御座、可輕幄也、然而當時例幣御拜座、於南殿廂折薦、上供御半帖、引廻大宋御屏風御座、准此例輕幄沙汰、又件御座、用元旦拜山陵御座、近代、四方拜雖諒闇中、供吉御座仍從之、 於御屏風外、職事供御笏、〈撤御扇御笏給〉御座定、關白殿帖置御裾、退著同廂

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0931 圓座給、職事等閉御屏風、退在軒廊、御劒將尚在御屏風外
次兩段再拜給 御拜訖御咳之後、以藏人使長官、〈其儀藏人隨便宜進退、〈其實還御中殿之後告之〉〉
次御拜訖職事等參進、開御屏風、藏人頭供御草鞋、關白殿令御裾給、於御屏風外、撤御笏御扇給、
次御服人參進、刷御袖了退、
天皇還御、近衞將取御劒前行、以下准出御之儀、〈清凉記、荷前使執幣者退出、事畢還宮云々、今度先還御、次開長樂門、次舁出案、〈雜給同撤之〉使退出、〉
此間傳奏奉行、率六位藏人促諸事、先於高遣戸邊列奉行、〈修理職兼令于此邊〉可長樂門之旨、内々傳仰近衞官人、〈陣官豫在同門外〉近衞官人即押開參入、直開長樂門
次使長官起座前行、次官同起座、進而搢笏、内舍人内豎等入長樂門、進跪與次官相共舁案退、内舍人執雜給幣退、内舍人内豎等納漆櫃、〈件櫃自本在承明門南壇上、御前之儀訖、幣物舁出之後、與内藏寮相替、内舍人等守護、直丁擔夫等在此邊、案并下敷薦、内々自内藏寮、以六位藏人、附傳奏奉行、傳奏奉行納長櫃、密持向泉涌寺、〉
次長官以下各於大臣宿所、或樂人部屋餉、〈但使長官大臣宿所、使々次官以下各樂人部屋、〉 此間、御裝束撤却以下之事、與奪五位職事、且用意次第發向旨、先申關白殿、以議奏言上置、傳奏奉行、仰列奉行行粧
次發遣〈於待賢門騎馬、在指圖、〈但六位、於堺町門外乘馬、〉〉
先太政官直丁〈持楉〉前行、〈左右〉内藏寮御幣、〈納漆櫃、擔夫二人〈以駕輿丁之〉荷之、〉雜給幣、〈擔夫肩之〉内舍人二人、内豎一人、次使長官次官、次誄人、〈兼諸陵使〈前後雜色守護之〉〉自中御門、〈以陽明門之〉櫻町殿前〈遠〉南〈江、〉萬里小路教業〈遠〉東〈江、〉大和大路〈遠〉南〈江、〉伏見街道〈遠〉順路、東山〈江〉參向、〈但於途中一兩度休息、至仙遊寺案内、〉
此間御幣發遣之後、傳奏奉行、自宜秋門方、〈豫長櫃二合、納諸陵幣代、毎陵白銀三枚宛廿一、以檀紙之、居白木臺雲脚、外ニ附臺、并目六等納之掛油單、以白張仕丁之、令居于尋常車寄邊、副使〈鳥飼〉守護〈六門、或三門番之内爲警固宜秋門外路頭前行、兼以武家傳奏下知、且當朝仰口向〉〉經便路參泉山、先向方丈、〈長櫃、便宜所令合之、〉寺門傳奏面會問事具否
山陵儀

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0932 先使長官以下、於山門外下馬、〈但於六位總門外下馬、警固雜色、止同門前歟、任先例使以下馬、各下馬繫之、〉 此間傳奏奉行、仰列奉行、先令漆櫃於唐門下、〈内舍人内豎等守護、直丁擔夫等在同邊、〉寺僧出逢于總門外、長老并役者、自山門邊列前行、
總門并山門、〈於同門外僮僕、但諸大夫侍隨身等、一兩輩宛相從、〉於唐門外、各先假立于便所、次解劒、次手水、〈寺門役之〉長老以下、入同門假座、此間寺門、豫後月輪山陵前敷葉薦、其前設鈍色縁半帖、〈有下敷薦〉爲長次官及誄人座、〈在指圖〉次内舍人内豎、〈於唐門下劔〉自漆櫃出案、〈載幣物雜給幣等〉相共舁之參進、置山陵前薦上、畢退在便所
次使長官入唐門參進著座、〈次官相從著座〉誄人同著座、
次使長次官誄人、相共兩段再拜、畢長官讀宣命、〈或燒宣命畢後、兩段再拜、〉訖誄人奉誄之間、長官授宣命於次官、次官起座、進跪受之復座、召内豎之、内豎參進跪賜之、於瑞籬内之、〈内豎持宣命脂燭之、内舍人扶持、兼仰寺門意脂燭、若雨降者於假建内之、〉
次燒幣物、〈今度宣命許燒之、於幣物者、年久中絶之儀、令寺門之由、傳奏奉行仰寺門僧、宣命寫添之、〉又長次官誄人共兩段再拜、 次長次官誄人等起座、〈内舍人内豎等相從〉出唐門本路、〈内々於寺中休息〉
次諸陵使向其陵 今度幣物用代、准寛治七年、荷前使幣物遲來例、先兩段再拜、〈先是設使座初〉申宣命之趣、又兩段再拜、了起座出唐門、〈◯中略〉
各傳奏奉行、寺門傳奏等、撿知無異之後、使々退出、於寺中休息、
次使長官以下歸洛〈警固雜色尚前行、至長官里亭、〉
傳奏奉行、於便所宣命誄等寫、幣物賜寺門之事、〈請奏寫渡之〉幣代早可備進之事等、仰長老役者等、其品々令之、〈寺門傳奏心得示含〉食事之後歸洛、參關白殿、申萬端無異被遂行之由、又以書状議奏、是爲早速也、更明日奏聞賀無異、〈最雖山陵憚、諸御廟有之仍如此、〉
使次官歸宅、沐浴了參内、申無異于議奏、〈略儀、但依荷前准據例、〉
使々翌日參内賀無異〈◯中略〉

〔囘天詩史〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0933 太上天皇〈◯光格〉崩、公〈◯水戸齊昭〉聞之、又建葬祭之議於幕府、又寄書謀於關白藤公、〈◯鷹司〉藤公深感公之忠誠、蓋入乙夜之覽云、藤公以爲、葬祭之禮難遽復一レ古、至於諡號、則不奉也、乃議之於關東、又使公賛成一レ之、幕府不敢違、遂奉諡曰光格天皇

〔實久卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0933 弘化三年二月十一日丁酉、自去夜祗候、大行天皇〈◯仁孝〉可尊諡號勘文、現任一同可勅問殿下〈◯鷹司政通〉被命、左大臣以下攝家人々、自殿下傳旨同上、〈◯中略〉勘者儀同三司、勘解由小路前中納言、新宰相、式部大輔、式部權大輔等也、勘文續左、〈◯中略〉
 仁孝
諡法曰、慈惠愛親曰孝、禮記曰、仁人不乎物、孝子不乎物、是故仁人之事親也、如天、事天如親、是故孝子成其身
                         聰長〈上〉
十二日戊戌、御諡號勅答、今日付相役、一封獻上了、
大行天皇可尊諡號、以勘文尋下謹奉候、 仁孝 孝明 右字儀引文等、別而珍重候哉、雖然以何被採用存心無之候、宜聖斷候焉、
                         實久〈上〉
三月一日丙辰、巳刻許參内、申沙汰如日來、殿下於八景間、三條大納言以下相役各御招、今日被御諡號仁孝天皇、且御廟號可弘化仰傳、三條大納言於御棺前告、折紙一紙被之、其後中殿於西庭燒拂命、即三條大納言被告了、於西庭燒拂、〈予、新宰相等扶持了、〉其灰鴨河令流了、昏時退出、

〔言成卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0933 慶應三年正月六日、大行天皇〈◯孝明〉御諡號、現任一同〈江〉勅問之旨、明七日中可返答、右大將被示了、〈勘進寫三折略寫〉
  御諡號事〈◯中略〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0934 孝明 孝經曰、明王事父孝、故事天明、
                         隆祐〈上◯中略〉
大行天皇御諡號勘文、現任一同被見下勅問之間、明後七日中、御所意否、可言上之旨、加勢治部卿被申渡候、〈◯中略〉 二月十六日、今日大行天皇御諡號、辰刻使定陣儀云々、〈◯中略〉傳聞、上卿内府忠房公、參議源宰相中將〈通善〉著陣、奉行辨〈豐房朝臣〉被御諡號使定、執筆參議通善奉仕云々、使鷹司大納言〈輔政〉著陣云々、御諡號孝明天皇、宣命令大内記、先奉草大臣著弓場之云々、攝政〈◯二條齊敬〉於鬼間内覽云々、被清書同斷、

〔官務文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0934 詔書寫
詔、諡者顯徳表行、聖經之遺訓、而王者之大猷也、恭惟孝明天皇、聰明叡智、而功烈光于四海、寛裕温柔、而仁風行於千載、睿聞川流、神襟蘭郁、父老堯舜、先徳韜光、憲章文武、君道方被、於是蔑物不一レ其所、靡國弗一レ其恩、嗚呼哀哉、晨轀解鳳、早銷神躬于壤末、曉蓋俄金、既散靈魄於天潯、追惟盛徳、爭有大號、爰奉尊諡、恭稱孝明天皇、仰願傳大名於後昆、與磐石長不朽、耀餘威於萬邦、與日月共無疆、普告天下、俾朕意、主者施行、
  慶應三年二月十六日

〔憲法類編〕

〈十四祭典〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0934 大友帝外二帝奉諡御祭典ノ事
庚午〈◯明治三年〉七月廿二日御布告
  大友帝 廢帝 九條廢帝
三帝御諡號被奉候ニ付、明廿三日八字、於神祇官御祭典被行候事、
庚午七月廿四日御布告
  大友帝

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0935 弘文天皇
  廢帝
淳仁天皇
  九條廢帝
仲恭天皇
右之通三帝御諡被奉候ニ付、此旨相達候事、

一帝二諡

〔神皇正統記〕

〈齊明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0935 齊明天皇は皇極の重祚なり、重祚といふ事は、本朝には是に始まれり、異朝には、〈◯中略〉唐の世となりて則天皇后世を亂られし時、我所生の子なりしかども、中宗をすてヽ盧陵王とす、同じ御子豫王を立られしも、又すてヽ自ら位に即きたまふ、後に中宗位にかへりて唐の祚たえず、豫王も又重祚あり、これを睿宗といふ、是ぞまさしき重祚なれども、二代にはたてず、中宗睿宗とぞつらねたる、我朝に皇極の重祚を齊明と號し、孝謙の重祚を稱徳と號す、異朝にかはれり、是天つ日嗣を重くする故か、先賢の義定めて由あるにや、

〔大日本史賛藪〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0935 復位肇於皇極、後世上諡以分前後、蓋出於一時之議、而非萬世之通制也、

御在所爲號

〔後成恩寺關白諒闇記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0935 先皇追號事
諡號并新號者及議奏、於追號者内々有其沙汰
追號事、御在所嵯峨、淳和、清和、陽成、華山、一條、〈◯中略〉菴室號、光嚴、光明、崇光等、

〔帝王編年記〕

〈十三淳和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0935 太上皇平城〈稱奈良天皇、是平城之謂也、〉

〔愚管抄〕

〈一平城〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0935 おりゐのみかどにて、〈◯中略〉ならにおはします、依て奈良のみかどヽ申なり、
◯按ズルニ、平城ノ號ハ、日本後紀ニ、大同四年四月、天皇遂傳位、避病於數處、五遷之後、宮于平城ト見エ、類聚國史ニ、天長元年七月甲寅、平城天皇崩、丙辰、奉誄曰、畏哉讓國、而平城宮〈爾〉御坐〈志〉天

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0936 皇トアリ、以テ徴ト爲スベシ、

〔皇年代略記〕

〈嵯峨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0936 承和元年八月丁亥、遷嵯峨院、 九年七月十五日崩、〈五十八〉葬嵯峨院北山地、號嵯峨帝

〔類聚三代格〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0936 太政官符
 應正一位平野神社地一町事〈◯中略〉
右得彼社預從五位下卜部宿禰平麻呂解状儞、〈◯中略〉嵯峨院去承和五年十月十五日、割取八段時統宿禰諸兄、〈◯中略〉
  貞觀十四年十二月十五日

〔類聚國史〕

〈二十八帝王〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0936 天長十年二月乙酉、皇帝〈◯淳和〉於淳和院位于皇太子

〔續日本後紀〕

〈十三仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0936 承和十年二月壬戌、散位從四位下勳七等大野朝臣眞鷹卒、〈◯中略〉淳和天皇踐祚、天長之初、任右近衞權少將

〔拾芥抄〕

〈中未宮城〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0936 淳和院〈天長、卜上皇(淳和)離宮、今西院、〉

〔三代實録〕

〈三十八陽成〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0936 元慶四年十二月四日癸未、太上天皇〈◯清和〉崩、自皇位、御清和院

〔三代實録〕

〈三十陽成〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0936 貞觀十八年十二月八日辛亥、上清和天皇尊號、爲太上天皇

〔皇年代略記〕

〈清和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0936 元慶四年十二月四日崩、後日諡號清和天皇

〔三代實録〕

〈四十四陽成〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0936 元慶八年二月四日、天皇〈◯陽成〉出綾綺殿、遷幸二條院

〔河海抄〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0936 陽成院を二條院と號云々、脱屣之後御此院、〈◯又見今昔物語二十七

〔皇年代略記〕

〈陽成〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0936 天暦三年九月廿九日、崩於冷泉院、號陽成院

〔日本紀略〕

〈二醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0936 延長二年正月廿七日丙寅、御賀〈◯天皇四十賀〉之後、宇多仙院、被御馬四十匹

〔日本紀略〕

〈二朱雀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0936 承平元年七月十九日甲辰、戌時宇多院太上法皇、崩於仁和寺御室

〔帝王編年記〕

〈十四宇多〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0937 承平元年辛卯七月十九日崩、〈◯中略〉號宇多天皇、又亭子院、

〔大日本史〕

〈三十一宇多〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0937亭子院、稱宇多院、皆因其所一レ居爲號、崩後停諡、故又因襲生時之號、稱某院耳、

〔日本紀略〕

〈二朱雀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0937 天慶九年七月十日、太上皇〈◯朱雀〉出禁中、遷朱雀院
◯按ズルニ、此號ハ拾芥抄ノ諸院部ニ、朱雀院累代後院トアリ、以テ徴ト爲スベシ、

〔榮花物語〕

〈一月の宴〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0937 安和二年八月十三日なり、みかど〈◯冷泉〉おりさせたまひぬ、〈◯中略〉おりゐのみかどは、冷泉院にぞおはします、されば冷泉院と聞えさす、

〔日本紀略〕

〈十二三條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0937 寛弘八年十月廿四日癸亥、戌刻冷泉院太上天皇崩于南院、〈◯即冷泉院〉春秋六十二、

〔日本紀略〕

〈八花山〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0937 寛和元年九月十九日庚寅、後太上法皇、〈◯圓融〉自堀河院御圓融院

〔日本紀略〕

〈九一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0937 正暦二年二月十二日癸丑、依圓融寺法皇(○○○○○)不豫、大赦天下、〈◯中略〉今日法皇崩、 十九日庚申、葬太上法皇於圓融寺北原
◯按ズルニ、文ニ圓融寺法皇トアリ、其御在所號ナルコト知ルベシ、

〔拾遺抄注〕

〈雜上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0937 花山ハ山階ニアリ、元慶寺ト云御寺建ラレタリ、花山院ハ彼寺ニ御幸アリテ御出家アリ、仍稱花山法皇、後ニ京ニ御坐ノ御所ヲ花山院ト號スルナリ、

〔日本紀略〕

〈十一一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0937 寛弘八年六月十三日乙卯、有御讓位事、 廿二日甲子、太上皇〈◯一條〉崩一條院中殿

〔左經記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0937 長元九年五月一日、有稱號之議、〈◯後一條ノ崩御ニ由ルナリ〉相府命云、尋一條院御時例宣旨、只奉一條院云々、

〔日本紀略〕

〈十三後一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0937 寛仁元年五月九日丙午、太上天皇〈◯三條〉崩于三條殿

〔榮花物語〕

〈十二玉の村菊〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0937 長和五年正月廿九日、御讓位、〈◯中略〉おりゐのみかどをも三條院と聞えさす、

〔續世繼〕

〈二釣せぬ浦々〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0937 鳥羽殿は、此法皇の造らせたまへれば、さやうにや申さんと思へりしかども、白河にもかた〴〵御所ども侍りしかば、白河院とぞ定めまゐらせ侍りける、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 ◯按ズルニ、此號中右記ニハ、遺詔ニ依テ稱スル所ト云フ、猶追號依遺詔ノ條參看スベシ、

〔皇年代略記〕

〈堀河〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 嘉承二年七月十九日癸卯、崩於堀河院、同廿四日戊申、追號堀河院

〔中右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 嘉承二年七月廿四日戊寅、於攝政殿〈◯藤原忠實〉堀河殿御直廬、聊有僉議云々、今日付代々例、可堀河院(○○○)之由、以右大辨時範朝臣、被下大外記師遠了、

〔百練抄〕

〈七後白河〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 保元元年七月二日、禪定仙院、〈◯鳥羽〉崩于鳥羽安樂壽院

〔帝王編年記〕

〈二十二後白河〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 保元元年七月二日辛丑、崩於鳥羽殿、〈◯中略〉號鳥羽院

〔百練抄〕

〈七近衞〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 久壽二年七月廿三日、天皇崩于近衞皇居

〔兵範記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 久壽二年七月廿七日壬申、有院號定云々、遂以近衞院(○○○)、可號之由議定了、

〔皇年代略記〕

〈二條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 永萬元年七月廿八日、崩於二條皇居、〈◯中略〉號(○)二條院(○○○)

〔續世繼〕

〈三花園の匂ひ〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 廿三におはしましヽ御年、御病重くて若宮に讓り申させ給て、いくばくもおはしまさヾりき、〈◯中略〉二條院とぞ申すなる、古き后の御名なれど、〈◯後冷泉后二條院章子〉男女かはらせたまへれば、まがはせたまふまじきなるべし、されど同じ御名は、古くも侍らぬにや、

〔一代要記〕

〈十六六條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 安元二年七月十七日崩、同日葬栖霞寺堂、同日號(○)六條院(○○○)

〔一代要記〕

〈十六高倉〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 上皇六條院〈安元二年七月十七日、崩於六條(○○)乳母三位亭、(中略)同日號六條院宣下、〉◯按ズルニ、本文ニ據レバ、崩所六條、故ニ六條院ト追號セシモノヽ如シ、然レドモ百練抄ニハ、日來御院〈◯後白河〉御所、而依痢病御邦綱卿東山亭、於件所此事トアリ、

〔百練抄〕

〈九安徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 養和元年正月十四日、太上天皇、〈◯高倉〉崩于六波羅頼盛卿亭、〈御年廿一、號高倉院、〉

〔高倉院昇遐記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0938 治承五の年、〈◯中略〉殿上にて先、後の御名の定めあるにつけても、高倉(○○)いかなる大路にて、憂名の御形見に殘り、〈◯下略〉
◯按ズルニ、山槐記ニ天皇遜位ノ後、治承四年三月四日、土御門亭ニ遷幸ノ事アリテ、注ニ土御

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0939 門北、東洞院東、前大納言邦綱朝臣家、先ニ時々爲皇居之所也トアリ、又拾芥抄諸名所部ニ、高倉殿〈土御門南、高倉西、〉トアリ、其京程圖ヲ按ズルニ、〈此圖ニ據レバ、山槐記ニ土御門北トアル北ハ、南ノ誤ナルガ如シ、〉即チ前文土御門亭ト全ク同所ニシテ、此號ノ御在所號タル事ヲ證スルニ足ル、

〔後中記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0939 仁治三年正月十九日壬寅、參閑院、於攝政〈◯藤原良實〉直廬、可舊主〈◯四條〉追號、〈◯中略〉殿下仰、舊主追號事可定申者、拾遺相公、〈四條〉民部卿、〈後六條〉二條中納言、〈四條、五條、〉吉田中納言、〈後鳥羽〉予、〈四條〉前内府、〈後鳥羽〉殿下、〈四條、五條、〉重議定之時、可四條院(○○○)之由、人々大略一同如此、追號先例多是用御居所、今度、三條西洞院、右幕下第、可御葬家所云々、謂三條者是四條也、號東三條是二條也、彼可准之由、拾遺相公所計申也、

〔入道左府記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0939 嘉元三年九月、〈◯日欠〉御號兼被思食定、〈龜山院(○○○)〉仍不追號定云々、

〔増鏡〕

〈十一今日の日蔭〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0939 萬里小路殿の法皇、又御惱みとて龜山殿へ遷らせたまふ、〈◯中略〉九月十五日〈◯嘉元三年〉の曙に、終にかくれさせたまひぬ、〈◯中略〉御骨も此院〈◯龜山〉に法華堂を立させたまへば、龜山院とぞ申すべかめる、

〔増鏡〕

〈十二浦千鳥〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0939 持明院殿、〈◯中略〉伏見殿がちにのみぞおはしましヽ程に、そこはかと御惱月日經て、文保元年九月三日かくれさせ給にき、伏見院(○○○)と申き、

〔迎陽記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0939 貞治三年七月十日、自殿中御書、有召、不駕參仕、條々事有沙汰、舊院〈◯光嚴〉院號事有勅問、御申詞有御談合、余清書副奉書嗣房許
院號事、近例於舊院其沙汰歟、或御在所、或被御素意其號、今度儀不知子細間、短慮無左右定申、圓融土御門間可何様哉、但土御門者登極地、雖其寄、當時皇居、尤可儀、且以訓不可稱之由有其説歟、旁不宜哉、圓融雖殊由緒、聖代之徽號被准用之條存先規、抑光嚴院爲幽閑地、然者若可御素意哉、寺號傍例、醍醐寺圓融寺被用畢、不巨難哉、縡爲重事、猶可群議歟、延

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 久夏六月廿六日、〈七七日御佛事日〉爲御願文御號云々、遺詔已後、此等子細可仙洞〈◯崇光〉哉、此上宜時議矣、

〔太平記〕

〈三十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 光嚴法皇行脚附崩御事
光嚴院禪定法皇ハ、〈◯中略〉伏見ノ里ノ奧、光嚴院ト聞エシ幽閑ノ地ニゾ住セ給ヒケル、

〔皇年代略記〕

〈光嚴〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 貞治三年七月七日、崩御、〈◯中略〉以此間御庵號追號、奉光嚴院、是依遺勅也、

〔太平記〕

〈三十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 持明院三上皇自吉野還幸事
新院〈◯光明〉ハ、伏見ノ大光明寺ニゾ御坐有ケル、

〔太平記〕

〈三十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 法皇御葬禮事
此時ノ新院、光明院殿、〈◯下略〉

〔皇年代略記〕

〈光明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 康暦二年六月二十四日、崩於勝尾御草庵、奉光明院、〈日來奉光明院、依遺勅其號、〉

〔皇年代略記〕

〈正親町〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 文祿二年正月五日、崩於仙洞、〈七十五〉追號正親町院、

〔時慶卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 文祿二年二月六日、今夜遺詔、陣ノ儀被行云々、號正親町院、二條殿ヨリ定被申、院ノ北ノ御門、正親町ノ通ナル故ト、

〔皇胤紹運録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 櫻町院 延享四年五月二日、行幸于櫻町殿、同日讓位、

〔閑窓自語〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 櫻町仙洞、此地ハ天正十四年、正親町院御讓位の後、仙洞に用ゐられし地にて、代々の洞裏たり、櫻町のみかど御脱屣あらんとて、此地に仙居を造られ、延享四年二月二十八日、此後櫻町殿と稱すべき由仰らる、

〔頼言卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 寛延三年四月廿九日辛未、舊院御追號、被櫻町院(○○○)之由被申傳了、

御在所爲一號

〔扶桑略記〕

〈拔萃平城〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 平城天皇〈世謂奈良天皇

〔帝王編年記〕

〈十三淳和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 太上皇平城〈稱奈良天皇、是平城之謂也、〉

〔一代要記〕

〈二平城〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 平城天皇〈俗號奈良帝

〔類聚國史〕

〈二十八帝王〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 天長十年二月辛巳、皇帝〈◯淳和〉遷御西院、爲位也、

〔皇年代略記〕

〈淳和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 天長十年二月廿八日乙酉、禪位、〈四十八〉先是天皇遷御西院、 承和七年五月八日崩、〈五十五〉號西院帝

〔伊勢物語〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 むかし西院のみかど〈◯淳和〉と申すみかどおはしましけり

〔神皇正統記〕

〈淳和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 第五十三代淳和天皇、西院の帝とも申す、

〔一代要記〕

〈二淳和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 淳和天皇號西院帝

〔拾芥抄〕

〈中未宮城〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 淳和院〈天長卜上皇(淳和)離宮、今西院、〉

〔古今童蒙抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 亭子院は、宇多のみかどの御所なり、

〔拾芥抄〕

〈中未諸名所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 亭子院、寛平法皇御所、

〔大鏡〕

〈一宇多〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 次の帝亭子のみかど〈◯宇多〉と申き、

〔皇年代略記〕

〈宇多〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 承平元年七月十九日崩、〈六十五、於仁和寺、〉號亭子院

〔日本紀略〕

〈一醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 醍醐天皇諱敦仁、亭子天皇(○○○○)第一之子也、

〔大和物語〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 亭子院のみかど、今はおりゐ給ひなんとするころ、〈◯下略〉

〔後撰和歌集〕

〈十九離別〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 亭子院のみかど〈◯宇多〉おりゐ賜ふける秋〈◯下略〉

〔大日本史〕

〈三十一宇多〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 按帝脱屣後、居朱雀院、及中六條院、故初稱六條院太上皇、又稱朱雀院太上皇、既而請尊號單稱朱雀院、醍醐帝從之、後又稱亭子院、稱宇多院、皆因其所一レ居爲號、崩後停諡、故又因襲生時之號某院耳、

〔百練抄〕

〈十二仲恭〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 承久三年七月八日、主上密々渡御九條殿

〔百練抄〕

〈十四四條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0941 文暦元年五月二十日、廢帝〈◯仲恭〉崩御、〈◯中略〉御母儀東一條院也、承久亂逆之後、御同所于

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0942 女院、〈九條殿〉

〔皇代記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0942 廢帝〈◯仲恭〉諱懷成、〈◯中略〉號九條廢帝

〔帝王編年記〕

〈二十四四條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0942 文暦元年五月二十一日、承久先帝〈◯仲恭〉崩御、號後廢帝

〔帝王編年記〕

〈二十四仲恭〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0942 後廢帝、〈◯中略〉大嘗會不行以前退下、世稱半帝(○○)
◯按ズルニ、後廢帝トハ、是ヨリ先キ淡路廢帝〈淳仁〉アレバナルベシ、

陵地爲號

〔後成恩寺關白諒闇記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0942 先皇追號事
追號事、〈◯中略〉山陵號、宇多、醍醐、村上等、
◯按ズルニ、舊説多ク宇多ヲ以テ、陵地號トスレドモ非ナリ、大日本史ノ宇多天皇紀ニ、稱亭子院、稱宇多院、皆因其所居號トアルニ從フベシ、

〔日本紀略〕

〈一醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0942 延長八年十月十日、奉大行皇帝〈◯醍醐〉於山城國宇治郡山科陵、醍醐寺北、笠取山西、小野寺下、

〔帝王編年記〕

〈十五醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0942 延長八年九月廿九日、崩御、四十六、十月十日庚子、奉山科山陵、號醍醐天皇

〔皇年代略記〕

〈村上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0942 康保四年五月廿五日崩、 六月四日葬村上山陵、〈山城葛野郡〉

〔帝王編年記〕

〈十六村上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0942 康保四年六月四日、葬村上山陵、號村上天皇

陵地爲一號

〔續日本紀〕

〈二十一淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0942 天平寳字二年八月庚子朔、高野(○○)天皇〈◯孝謙〉禪位於皇太子
◯按ズルニ、村尾元融ノ續日本紀考證ニ、元融案、寳龜元年八月紀云、葬高野天皇於大和國添下郡高野山陵、又高野陵見諸陵式、蓋山陵所在、因以爲稱歟、不詳トアレド、萬葉集一ニ、長(ナガノ)皇子與志貴(シキノ)皇子佐紀(サキノ)宮倶宴歌、秋去者(アキサラバ)今毛見如(イマモミルゴト)妻戀爾(ツマコヒニ)鹿將鳴山曾(シカナカムヤマゾ)高野原之宇倍(タカノハラノウヘ)トアレバ、陵號ナルコト疑フ可ラズ、

〔類聚國史〕

〈百八十佛道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0942 天長元年九月壬申、正五位下行河内守和氣朝臣眞綱、從五位下彈正少弼和氣朝

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 臣仲世等言、〈◯中略〉後田原天皇(○○○○○)〈◯光仁〉寳龜十一年、數奏此事
◯按ズルニ、後田原トハ、延喜諸陵式ニ、皇考施基親王陵〈寳龜元年、追尊シテ御春日宮天皇ト云フ、〉ヲ田原西陵ト云ヒ、此天皇陵ヲ田原東陵トアリテ、續日本紀光仁天皇紀ノ首ニハ、施基親王ヲ稱シテ、田原天皇ト云フコトモ見エタリ、是レ此天皇ヲ稱シテ、後田原ト云フ所以ナルベシ、

〔續日本後紀〕

〈一仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 天長十年三月二日壬辰、頒遣中納言從三位行民部卿藤原朝臣愛發〈◯中略〉等柏原長岡二山陵、豫告即位之状曰、〈◯中略〉掛畏〈伎〉柏原御門〈乃◯桓武〉天朝、〈◯下略〉

〔扶桑略記〕

〈拔萃桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 桓武天皇〈世謂柏原天皇〉

〔簾中抄〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 かしは原のみかどヽ申す、〈◯桓武〉これみさヾきの名なり、

〔皇年代略記〕

〈桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 延暦廿五年三月十七日崩、 四月七日、葬山城國柏原陵、號柏原帝

〔類聚國史〕

〈百八十佛道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 天長元年九月壬申、正五位下行河内守和氣朝臣眞綱、從五位下彈正少弼和氣朝臣仲世等言、〈◯中略〉柏原先帝(○○○○)即以前詔、普告天下

〔扶桑略記〕

〈二十二宇多〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 寛平二年庚戌二月十三日己巳、〈◯中略〉太政大臣會語曰、白壁天皇〈◯光仁〉時、將皇太子、〈◯中略〉爰藤原百川破其書、立柏原親王皇太子、大臣歎曰、我年耄、覩耻如此、柏原天皇(○○○○)〈◯桓武〉縁百川之功親臨、

〔皇年代略記〕

〈仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 嘉祥三年三月廿一日乙亥、崩于清涼殿、 同廿四日、葬深草山陵、號深草帝

〔愚管抄〕

〈一仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 此みかどは、深草のみかどヽ常に人申すなり、みさヾきの名なり(○○○○○○○○)、〈◯又見簾中抄

〔神皇正統記〕

〈仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 第五十四代第三十世仁明天皇、深草の帝(○○○○)とも申す、

〔三代實録〕

〈二清和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 貞觀元年三月十九日乙亥、大僧都傳燈大法師位眞雅抗表曰、〈◯中略〉嘉祥寺者、先帝〈◯文徳〉奉爲深草天皇(○○○○)〈◯仁明〉所建立也、

〔古今和歌集〕

〈十六哀傷〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 深草のみかど〈◯仁明〉の御國忌の日〈◯下略〉

〔皇年代略記〕

〈文徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 天安二年八月廿七日乙卯、崩於冷泉院、 九月六日、葬田邑山陵、號田邑帝

〔一代要記〕

〈二文徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 文徳天皇、號(○)田邑(○○)

〔三代實録〕

〈二清和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 貞觀元年三月十九日乙亥、大僧都傳燈大法師位眞雅抗表曰、〈◯中略〉田邑先皇(○○○○)、〈◯文徳〉無價之寳彌照、

〔三代實録〕

〈三十陽成〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 貞觀十八年十二月二十九日壬申、遣參議從三位行右衞門督大江朝臣音人、從四位下行右馬頭在原朝臣業平、向田邑山陵、〈◯文徳〉告以天皇受一レ讓、告文曰、〈◯中略〉掛畏〈岐〉田邑御門(タムラノミカド)〈乃〉矜賜〈波牟〉厚慈〈乎〉受戴〈天、◯下略〉

〔古今和歌集〕

〈十七雜〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 田村のみかど〈◯文徳〉の御時に〈◯下略〉

〔皇年代略記〕

〈清和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 元慶四年十二月四日崩、號水尾帝、〈同七日、火葬粟田山白河陵、置御骨水尾山、仍號水尾帝、〉

〔大鏡〕

〈一清和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 次の帝清和天皇と申ける、〈◯中略〉みづのをのみかどヽ申す、

〔大和物語〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 水尾のみかど〈◯清和〉の御時、左大辨のむすめ、べんの御息所とていますかりける、

〔皇年代略記〕

〈光孝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 仁和三年八月廿六日崩、 九月二日葬小松山陵小松帝

〔帝王編年記〕

〈十四光孝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 仁和三年九月二日、奉于小松山陵〈葛野郡仁和寺〉號光孝天皇、又小松帝、

〔扶桑略記〕

〈二十二光孝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 小松天皇(○○○○)〈五十九代諱時康〉

〔大鏡〕

〈一光孝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 次の帝光孝天皇と申き、〈◯中略〉小松のみかどヽ申す、

〔仁和寺御傳〕

〈序〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 夫考當寺之濫觴、光孝天皇、相當城州葛野郡小松郷大内山之麓、擺荊棘、穿衆木、草創一院、仁和寺是也、〈以里號小松帝

〔滿濟准后日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 永享五年十月廿四日、就諒闇事、尋申一條前攝政、〈◯藤原兼良〉昨日返報今日到來了、〈◯中略〉小松院(○○○)御號事、先例皆以其寄之號用來也、此御號當時無由緒之上、爲光孝天皇御一號(○○○○○○○)之間、〈◯下略〉

〔皇年代略記〕

〈醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0945 延長八年十月十日、葬後山科陵

〔大鏡〕

〈一醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0945 次の帝、醍醐天皇と申き、〈◯中略〉みさヽき山しなにあり、後の山しなといふ、

〔日本紀略〕

〈三村上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0945 天暦元年九月二十九日、後山階太上天皇〈◯醍醐〉國忌也、
◯按ズルニ、後山階トハ、天智天皇ノ、山科陵ニ對シテ稱スル所ナルベシ、

〔一代要記〕

〈三醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0945 醍醐天皇號小野(○○)
◯按ズルニ、日本紀略ニ、延長八年十月十日、奉葬大行皇帝於山城國宇治郡山科陵、醍醐寺北、笠取山西、小野寺下トアリ、是亦陵地ニ依テ稱スル所ナルベシ、

加後字襲前號

〔菅別記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0945 明應九年十月十七日、凡儒中故實者、天皇之追號、後字用音讀、大臣稱號之時、後字用訓讀、是通法之故實也、後深草院一號者、後字用訓讀云々、其様御不孝之讀、不聞好之儀也、〈後深草院〉
◯按ズルニ、菅別記ニ、後字用音讀トアレド、古書往々後字ノ下ニノ(○)ヽ字ヲ添ヘタルモノアリ、特ニ後深草ノミニアラザルナリ、

〔類聚雜例〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0945 長元九年五月一日戊寅、關白相府〈◯藤原頼通〉等、於殿上御正日雜事、〈◯中略〉又有稱號之儀、相府命云、尋一條院御時例宣旨、只奉一條院云々、仍准彼例、奉後一條院(○○○○)如何、彼此被申云、甚佳事也、
◯按ズルニ、此次後朱雀後冷泉ノ二帝、奉號ノ事所見ナシ、拾芥抄ニ、朱雀院、累代後院トアレドモ後朱雀同院ニ移御ノコト、是亦徴證ナシ、後冷泉ハ、是モ拾芥抄ニ、冷泉院、累代後院トアリテ、扶桑略記ニ、永承天喜ノ間、同院ニ遷幸ノ事アリ、是レ後冷泉ト號スル所以ナルベシ録シテ參考ニ供ス、

〔榮花物語〕

〈三十八松の下枝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0945 此院をば一院とぞ人々申しける、後三條院とも申すめり、

〔山槐記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0945 建久三年三月十四日丙戌、昨日於舊院、院司公卿被院號、後白河院(○○○○)云々、

〔皇年代略記〕

〈後鳥羽〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0946 仁治三年七月八日、以顯徳院後鳥羽院(○○○○)之由、重被宣旨、其辭云、顯徳〈乃〉尊號諡〈乎者〉秘〈之天〉申〈佐須、〉世俗〈爾者〉常〈仁〉御在所〈乎〉以〈氐〉後鳥羽院〈止〉申〈佐牟者〉可宜云々、

〔増鏡〕

〈三藤衣〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0946 初めはけんとく院と定め申されたりけれど、おはしましヽ世の御あらましなりけるとて、仁治の頃ぞ、後鳥羽とは、更に聞え直されけるとなん、
◯按ズルニ、文ニおはしましヽ世のあらましト云フ、あらましトハ豫定ト云ハンガ如シ、蓋シ遺詔ヲ奉ズルナラン、記シテ疑ヲ存ス、

〔平戸記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0946 仁治三年六月廿六日、今日殿下〈◯藤原良實〉御物語云、顯徳院諡號可改、可後鳥羽云々、此事前内府申行歟、案此事我朝無例歟、至漢朝者一兩度相存之由、大府卿申之、又御改名之儀、太不其心、何故云々、不冥慮者又如何、

〔一代要記〕

〈十後堀河〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0946 文暦元年八月六日崩、同十日、諡號定後堀河

〔明月記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0946 天福二年八月十一日丁丑、世間不審、問金吾、返事云、〈◯中略〉御名後堀川院(○○○○)云々、甚悦思此御名年來代々無申人、而無此事、今如此、聖代之御名可然事歟、奉爲公家、尤可吉例歟、

〔増鏡〕

〈八飛鳥川〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0946 十七日の朝より御氣色かはる、〈◯中略〉つひに其日の酉の時に、御年五十三にてかくれさせ給ぬ、後嵯峨院(○○○○)とぞ申める、ことしは文永九年なり、

〔皇年代略記〕

〈後宇多〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0946 元亨四年〈◯正中元年〉六月廿八日、葬蓮華峯寺傍山、同日先追號、奉後宇多院(○○○○)、〈依遺勅也〉

〔皇年代略記〕

〈後伏見〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0946 延元元年四月六日、崩於持明院殿、〈四十九〉奉後伏見院(○○○○)、〈依遺勅也〉

〔皇年代略記〕

〈後二條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0946 徳治三年八月廿五日、崩二條高倉皇居、同廿七日、追號後二條院、〈於關白直盧議定〉

〔増鏡〕

〈十二浦千鳥〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0946 廿八日、〈◯徳治三年八月〉先帝も御わざのさたあり、院號ありて後二條院(○○○○)とぞ聞ゆる、

〔神皇正統記〕

〈後醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0946 後の號をば、仰のまヽにて後醍醐の天皇(○○○○○○)と申す、

〔觀心寺記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0946 正平廿三年四月廿日、奉河内國錦部郡檜尾山陵、〈觀心寺後山〉廿八日、奉號後村上天皇

〔伯耆卷〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0947 暦應元年〈◯延元四年〉八月八日、〈◯八日、當十六日、〉帝〈◯後醍醐〉崩御し給ふ、第七皇子御位に即せ給ふ、後村上天皇と申奉るは是なり、

〔皇胤紹運録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0947 義良親王 於南朝君、號後村上天皇云々、

〔鳩嶺雜事記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0947 應安元年三月十一日、住吉御所崩御、〈御年四十一、奉後村上院(○○○○)、〉

〔南方紀傳〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0947 應永三十一年四月十二日、小倉殿崩御、〈南方法皇〉諡後龜山院(○○○○)

〔後愚昧記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0947 應安七年二月二日、有諡號定、太閤、〈良基公〉近衞前關白、〈道嗣公〉前内府〈實繼公〉預其儀、後光嚴院(○○○○)治定云々、

〔皇年代略記〕

〈後圓融〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0947 明徳四年癸酉、四月廿六日辛丑、未刻崩、〈◯中略〉同廿七日、奉泉涌寺、〈◯中略〉諡號後圓融院(○○○○)、〈自去年遺勅也云々〉

〔親長卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0947 文明三年正月二日、舊院御追號事、後文徳、後花園等、可計申之由、奉行藏人左少辨〈季光〉奉書到來、〈其仰詞在別〉注一紙申入了、〈其案在別〉 二月五日、日野大納言〈資綱〉相語云、今度御追號事、〈後文徳院〉自一條太閤〈(藤原兼良)御坐南都〉被申云、於文徳者、田邑御門諡號也、被後字於諡號之條、無先例歟、無勿體之由被申、〈件御追號、新大納言、後文徳、後花園等、兩號勘進獻之、二條大閤、(藤原持通)前内大臣、〈晴光〉右大將、〈公敦〉中院大納言、〈通秀〉廣橋大納言異見、予之外悉後文徳云々、仍被言説、公武時宜人々申状、就御不審重可尋問云々、〉仍重可所存云々、〈◯中略〉 十九日、後聞、今日有宣下事、止後文徳院號、宜後花園院云云、〈仰詞如此〉上卿日野大納言、〈資綱、吉服、〉奉行藏人左少辨季光、〈素服〉上卿仰外記云々、

〔皇年代略記〕

〈後花園〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0947 文明二年十二月廿七日、俄御惱頓崩室町第、〈◯中略〉始奉後文徳院、後改爲後花園院、〈改顯徳院、奉後鳥羽院之例、〉

〔菅別記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0947 明應九年十月七日戊子、參關白殿〈◯藤原冬良〉今度之御次第共、御沙汰之時分也、〈◯中略〉予申云、於追號者非儒中之撰、諸卿内々定申也、又被仰云、傳奏頻可計申之由申請之間、二號被注進畢云々、此上不是非、 後陽成院、 後土御門、〈◯中略〉 廿一日壬寅、今夜於番所、源相公羽林參會、被語云、御追

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0948 號事、今日治定云々、被後土御門(○○○○)畢、

〔後法興院關白記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0948 明應九年十月九日、右少辨尚顯來令對面、舊主追號事、後陽成院、後土御門院、兩號何可宜哉、被所存、就群議一定矣、仰詞此分注折紙、 十日、昨日之由詞、注折紙奉行辨許常、余申詞、
 舊主追號事、土御門號、遷座御事可其憚候歟、後陽成院無巨難候哉、

〔皇年代略記〕

〈後陽成〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0948 元和三年九月廿日壬午、奉泉涌寺、奉後陽成院(○○○○)

〔忠利宿禰記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0948 承應三年十月十五日辛未、今夜酉刻、先帝〈御追號後光明院云々〉御葬送、〈泉涌寺也〉

〔實久卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0948 文化十年閏十一月十一日、午刻參舊院、〈◯中略〉御追號奉後櫻町院(○○○○)、於禁中定之由、被評定了、

〔後桃園院崩御記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0948 安永八年十一月九日、寅刻ツヒニ崩御云々、後桃園院ト追號シ奉ル、

〔公卿補任〕

〈後桃園〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0948 安永八年十一月九日、天皇崩、〈奉後桃園院

加後字襲前帝一號

〔入道左府記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0948 嘉元二年七月十七日、今夜後深草院〈無追號之定、兼被思食御號之故也、〉御葬送也、

〔増鏡〕

〈十一今日の日蔭〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0948 二條富小路にてかくれさせたまひぬ、〈◯中略〉又の日、夜に入て深草殿へいでわたし奉る、〈◯中略〉後深草院(○○○○)とぞ聞ゆめる、

〔滿濟准后日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0948 永享五年十月廿四日、就諒闇事、尋申一條前攝政、〈◯兼良〉昨日返報今日到來了、〈◯中略〉小松院御號事、先例皆以其寄之號用來也、此御號當時無由緒之上、爲光孝天皇御一號(○○○○○○○)之間、雖之、既爲遺詔之上者、摸後深草御號、被後(○)字宥用乎、已上前攝政、御申詞、

〔二水記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0948 大永六年四月廿七日、御追號事、可後柏原院(○○○○)之由有其沙汰云々、今度依仰各被撰申訖、〈◯中略〉御追號後柏原院治定了、桓武天皇號柏原帝也、

〔菅別記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0948 大永六年四月廿七日庚辰、御追號、後柏原院(○○○○)治定、陽明准后〈◯近衞尚通〉被撰定申云々、

〔少外記康雄記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 弘治三年九月五日、當今崩御也、〈◯中略〉號後奈良院

〔公卿補任〕

〈後奈良〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 弘治三年、〈九月五日、帝崩、六十二歳、號後奈良院(○○○○)、〉

〔皇年代略記〕

〈後水尾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 延寳八年後八月八日、奉泉涌寺、奉後水尾院(○○○○)、〈依遺詔也〉

〔基量卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 貞享二年二月廿九日、參内、今日御追號之儀治定、後西院(○○○)云々、淳和天皇從御兄受禪、且又御弟〈◯弟恐兄誤〉之子ヘ讓位、御在位十ケ年、新院九年也、年數略相同、讓位受禪之處等同前之間、今日如此御治定也、

〔季連宿禰記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 貞享二年三月五日乙丑、新院御追號事、後西院(ゴサイ井ン)治定云々、

追號出遺詔

〔中右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 大治四年七月八日甲申、著直衣新院〈◯鳥羽〉殿上、治部卿被參、以右衞門督實行仰云、〈◯中略〉本院院號事、頗被沙汰、可白河院之由、御存生之時、被仰置云々、仍其定也、〈◯傍書云、件文書、本院御存生之時被書置也、〉十三日己丑、奉白河院之由、内々議定了、

〔皇年代略記〕

〈後嵯峨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 文永九年二月十七日、崩於龜山殿別院藥草院、〈號後嵯峨院、依遺勅也、〉

〔皇年代略記〕

〈後深草〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 嘉元二年七月十六日崩、號後深草院、〈依遺勅也〉

〔皇年代略記〕

〈龜山〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 嘉元三年九月十五日崩、〈於龜山殿〉號龜山院、〈依遺勅也〉

〔皇年代略記〕

〈後宇多〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 元亨四年〈◯正中元年〉六月廿五日、崩於大覺寺、同廿八日、追號奉後宇多院、〈依遺勅也、〉

〔皇年代略記〕

〈後伏見〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 延元元年四月六日、崩於持明院殿、〈號後伏見院、依遺勅也、〉

〔皇年代略記〕

〈花園〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 貞和四年十一月十一日、崩於萩原仙洞、〈五十三〉奉花園院(○○○)、〈依遺詔也〉

〔神皇正統記〕

〈後醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 後の號をば仰のまヽにて、後醍醐の天皇と申す、

〔太平記〕

〈二十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949遺勅綸旨
群臣相議シテ、先帝ニ尊號ヲ獻ル、御在位ノ間、風教多クハ延喜〈◯醍醐〉ノ聖代ヲ追レシカバ、尤其寄セアリトテ、後醍醐天皇ト諡ヲ奉ル、

〔皇年代略記〕

〈光嚴〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 貞治三年七月七日、崩御、〈◯中略〉以此間御庵號追號、奉光嚴院、是依遺勅也、

〔皇年代略記〕

〈光明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 康暦二年六月廿四日、崩於勝尾御草庵、奉光明院、〈日來奉光明院、依遺勅其號、〉

〔敦有卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 應永五年正月十三日、午刻法皇崩于伏見仙洞、〈御年六十五、追號崇光院(○○○)、御遺誡云々、〉

〔椿葉記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 應永四年の冬より御惱にて、同五年正月十三日崩御なりぬ、遺勅にて崇光院と申、

〔皇年代略記〕

〈後圓融〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 明徳四年四月廿六日辛丑崩、〈◯中略〉諡號後圓融院、〈自去年遺勅也云々〉

〔看聞日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 永享五年十月廿七日、御追號事、爲遺勅置後小松院

〔椿葉記〕

〈跋〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 抑仙洞、〈◯後小松〉此一兩年御不豫にまし〳〵つるが、同とし神な月廿日、〈◯永亨五年〉つひに崩御なりぬ、遺勅にて後小松院と申、

〔皇胤紹運録〕

〈後水尾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 延寶八年八月十九日崩、依遺詔、奉後水尾院

併用二帝諡爲號

〔後成恩寺關白諒闇抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 正長元年七月廿一日、追號定、 廿二日、爲清朝臣勘進、於前關白〈◯藤原滿教〉直廬之、萬里小路大納言、勸修寺中納言、〈經成卿〉右大辨宰相〈親光朝臣〉等、相議奉稱光院(○○○)云々、順徳院御號時、有淳陽號、〈取淳和陽成之一字上下〉仍今度就此儀、一兩勘進之内加稱光、〈稱(○)徳光(○)仁一字置上下〉直依院仰勘文云々、儒中猶存先蹤、勘申雖勿論、淳陽既不採用、定有子細歟、今度難准的歟、議奏之次第如何、理可然乎、但稱光無殊難歟云々、

〔季連宿禰記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 元祿九年十一月廿五日戊寅、今日故本院〈帝御姑、仙洞御姉、御院號明正院云云、風聞云、是勅號云々、不子細、〉遺詔奏陣儀也、〈◯中略〉明正院之事、風聞云、勅號云々、後日伊豫局被示云、此御院號非勅號、於仙洞〈◯靈元〉被議定云々、明正ノ二字、元明(○)天皇元正(○)天皇字云々、

〔光榮公記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 享保十七年八月廿九日、舊院御追號、被靈元院(○○○)、〈◯中略〉密傳聞、此御院號、舊院思食寄、被書付置趣、宮達言上御定云々、以元明元正兩字、稱明正院間、以孝靈(○)孝元(○)兩字、被思召寄歟由有人々説

〔宗建卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 享保十七年八月六日、法皇崩御、 九日、議奏輩召御前仰云、故院御追號、御在世之時思召

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0951之哉、被下本所之處、兩號被宸筆之由、則寫之自新大納言局叡覽、靈元〈孝靈、孝元、〉中正〈履中、反正、〉件兩號之間可何號哉、靈元可然思召候、猶被群議言上之由、則申關白右府等之處、少時衆議之上、兩號之間可端方、叡慮之通奉り無子細候歟、殊近來明正院御例、〈元明元正取合、故院御定也、〉旁可然歟之由議奏輩奉之、參御前之、

國名爲一號

〔續日本紀〕

〈二十五淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0951 天平寶字八年十月壬申、高野天皇〈◯孝謙〉遣兵部卿和氣王、左兵衞督山村王〈◯中略〉等、率兵數百中宮院、山村王宣詔曰、〈◯中略〉帝位〈乎方〉退賜〈天、〉親王〈乃〉位賜〈天、〉淡路國〈乃〉公〈止〉退賜〈止〉勅、〈◯下略〉

〔皇年代略記〕

〈淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0951 天平神護元年九月薨、稱淡路廢帝

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0951 安元三年七月二十九日、巳刻右中辨親宗、爲院〈◯後白河〉御使來云々、此次親宗語事等、讃岐院(○○○)〈◯崇徳〉院號、并宇治左府贈官贈位等事、來月三日可此事、後聞、今日被院號等事、宜讃岐院號崇徳院

〔續世繼〕

〈二春の調〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0951 讃岐におはしましヽかば、〈◯崇徳〉讃岐のみかどヽこそ聞えさせたまふらめ、

〔源平盛衰記〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0951 讃岐院事
新院〈◯崇徳〉讃州配流ノ後ハ、讃岐院ト申ケル、

〔承久軍物語〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0951 十三日、〈◯承久三年七月〉法皇〈◯後鳥羽〉隱岐國へ還幸あるべき由きこしめせば、〈◯中略〉八月五日と申には、隱岐國海部郡苅田郷と申所につかせたまへば、領主あやしき御所を造りまうけて移し奉る、

〔皇代記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0951 顯徳天皇〈◯後鳥羽〉又曰隱岐院

〔百練抄〕

〈十四四條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0951 延應元年二月廿二日壬戌、隱岐法皇崩御、 五月廿九日戊戌、侍從中納言〈爲家〉參著、召大外記師兼仰云、以隱岐院〈◯後鳥羽〉可顯徳院者、

〔増鏡〕

〈二新島守〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0951 中院〈◯土御門〉は、始よりしろしめさぬ事なれば、〈◯承久ノ亂ヲ謂フ〉あづまにもとがめ申さねど、父

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0952 の院〈◯後鳥羽〉遙に移らせたまひぬるに、のどかにて都にてあらん事いと恐れありとおぼされて、御心もて其年〈◯承久三年〉閏十月十日、土佐の國はたといふ所に渡らせたまひぬ、〈◯中略〉せめて近き程に〈◯に下恐脱と字〉あづまより奏したりければ、後には阿波國に移らせ給ひにき、〈◯中略〉おりさせたまひて〈◯後鳥羽〉後も、土佐院十二年、〈◯下略〉

〔皇代記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0952 土御門天皇、世云阿波院

〔増鏡〕

〈三藤衣〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0952 その年〈◯寛喜三年〉十月十一日、あはの院〈◯土御門〉かくれさせ賜ひぬ、

〔皇代記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0952 順徳天皇、世云佐渡院

〔増鏡〕

〈二新嶋守〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0952 新院も佐渡國に移らせ賜ふ、〈◯中略〉佐渡院〈◯順徳〉あけくれ御おこなひをのみし賜ふ、

所號不詳

〔紹運要略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0952 土御門院〈寛喜三年十月十二日、崩阿波國、仁治三年七月八日、可土御門院之由、被宸筆之御書於金原法華堂、〉

〔陵墓一覽〕

〈宮内省撰定〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0952 土御門院天皇陵〈山城國乙訓郡金ケ原村〉
◯按ズルニ、吾妻鏡承久三年六月八日、叡山御幸ノ條ニ、上皇、〈後鳥羽〉土御門院、新院〈順徳〉ト云ヒ、百練抄ニモ同時ニ、一院〈後鳥羽〉土御門院、新院〈順徳〉トアリテ、承久軍物語ニ、土佐國ニ遷幸あるべきに定められけり、鷹司萬里小路の御所より御出あり、げしやくの土御門の大納言定通〈◯外祖父藤原通親子〉卿參りて、なく〳〵御車をよすトアレバ、遜位ノ後ハ、常ニ土御門院〈母后承明門院在子御在所〉ニ御坐セシヲ以テ、當時土御門院トハ稱シ奉リケルニヤ、附シテ後考ニ供ス、

〔續史愚抄〕

〈東山〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0952 寶永六年十二月廿八日、故院御追號爲東山院、〈自院被定仰者〉

〔章弘宿禰記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0952 寶永七年正月七日癸酉、今日辰半刻遺詔奏云々、故院御追號、東山院之由御治定云々、

〔中御門院御昇壇記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0952 寶永七年正月十日、新院御院號、奉東山院
◯按ズルニ、此號ノ事、伊藤長胤ノ盍簪録ニ、奉于東山泉涌寺、奉號曰東山院ト見エ、雍州府志ニ、泉涌寺號東山トアレド、筆者不詳ノ諡陵記ト云フ書ニ、兼而此東山之不審、折々人に尋とい

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0953 へども、誰も不心付といへり、餘り近き世の事故探り見べき日記も手廻らず、泉涌寺は、東山に有が故ならんなどヽ答ふる人もあれど、歴代追々御陵ましまし、今更をくれて此時東山を用ひられん事當らず、何も合點不行事也、或時書房本城小兵衞來云、泉涌寺方丈の額は、張即之の筆にして東山とありといへり、然れども是もさてさて不審難晴といへども、向後校正の一助にひかへおく也トアレバ信ト爲シ難シ、又鳩巣隨筆ニハ、院といふはもと宮中屋宇の名なり、〈◯中略〉東山に御座あるを以て東山院と稱するの類なりトアレド、是又明徴ナケレバ據リ難シ、

〔光榮公記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0953 元文二年四月廿四日、右府〈◯一條兼香〉云、御院號毎度攝家勘進也云々、内々中御門院御治定也、

〔續史愚抄〕

〈櫻町〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0953 元文二年五月五日癸巳、故院御追號、爲中御門院、〈去月廿七日、内々治定云、〉
◯按ズルニ、飯田忠彦ノ野史ニ、天皇讓位ノ後、櫻町仙院ニ遷御ノ事アリ、拾芥抄ニ、櫻町、中御門北、萬里小路東南ト見ユ、今京ノ制ニハアラザレドモ據ナキニアラズ、録シテ參考ニ供ス、

〔頼言卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0953 寳暦十二年七月廿三日甲申、御追號、儒卿三人各勘進、以一封出也、 廿六日丁亥、儒卿勘進御追號、 廿八日己丑、先帝御追號桃園院(○○○)、御牌名筆者妙法院宮云々、

〔續史愚抄〕

〈桃園〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0953 寶暦十二年七月二十九日庚寅、此日以先帝御追號、爲桃園院、〈今度不御追號、抑櫻町院宸筆依此號、被取用云、〉

古代追號

〔續日本紀〕

〈八元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0953 養老五年十月丁亥、太上天皇、〈◯元明〉召入右大臣從二位長屋王、參議從三位藤原朝臣房前、詔曰、〈◯中略〉朕崩之後、宣〈◯中略〉諡號稱某國某郡朝庭馭宇天皇傳後世

〔東大寺要録〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0953 奈保山太上天皇〈◯元明〉山陵牌文〈養老五年十一月七日崩〉
大倭國御谷〈◯御谷恐添上誤〉郡平城之宮馭宇八洲 太上天皇之陵是其所也
養老五年歳次辛酉、冬十二月癸酉撥〈◯撥恐朔誤〉十三日乙酉葬、

〔神皇正統記〕

〈神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0954 此御代より代ごとに宮所を遷されしかば、其所を名づけて御名とす、〈◯御號トスト云フ意ナリ〉此天皇をば橿原の宮と申なり、
◯按ズルニ、代ゴトニ宮所ヲ遷スト云フコト誤ナリ、〈下文代ごとに都を改めト云フ、亦同ジ、〉事ハ本居宣長ノ古事記傳〈二十一〉ニ見ユ、

〔神皇正統記〕

〈元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0954 三年庚戌に、始めて大倭の平城の宮に都を定めらる、古は代ごとに都を改め、則其みかどの御名によび奉りき、

〔古事記傳〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0954 すべて古の御代を、古は或は近江大津〈ノ〉宮〈ニ〉御宇(アメノシタシロシメシヽ)、天皇〈◯天智〉或は飛鳥〈ノ〉淨御原〈ノ〉朝〈◯天武〉などヽこそ申せるを、後世人はたヾ後の漢諡をのみ知て、返て本の眞の御稱をば更にしらず、古書に記せるを見ても、何れの御代の稱とも、え辨へぬ人のみ多し、甚しき者は漢諡を當昔の眞の御名と心得て、上代を疑ふ者もあるをや、古を尚む人はよく思ふべき事なりかし、

大行

〔日本書紀〕

〈三十持統〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0954 三年五月甲戌、命土師宿禰根麻呂、詔新羅吊使級飡金道那等曰、〈◯中略〉遣田中朝臣法麻呂等、相告大行天皇(○○○○)〈◯天武〉喪、〈◯下略〉

〔史記〕

〈十一漢孝景〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0954 中六年四月、大行爲行人、〈服曰、天子死未諡、稱大行、晋灼曰、禮有大行小行、主諡官、故以此名之、如淳曰、不反之辭也、〉

〔文獻通考〕

〈百二十二國恤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0954 帝〈◯漢高祖〉初登遐、朝臣稱曰大行皇帝
魏孫毓曰、大行之稱、起於漢氏、漢書曰、大行在前殿、又曰、大行無遺詔、諡法大行受大名、小行受小名、初崩未諡、而嗣帝已立、臣下所稱、辭宜異、故謂之大行、言其有大徳行、必受大名、若諡也、

〔好古小録〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0954 伊福吉部徳足比賣臣墓誌
藤原大宮御宇〈大行(○○)〉天皇(○○)〈◯文武〉御世、慶雲四年歳次丁未春二月二十五日、從七位下被賜仕奉矣、〈◯下略〉

〔東大寺獻物帳〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0954盧舍那佛
 御袈裟合玖領〈◯中略〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955   右件厨子、〈◯中略〉天皇、〈◯持統〉傳賜藤原宮御宇大行天皇(○○○○)、〈◯文武〉

〔萬葉集〕

〈一雜歌〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 藤原宮御宇天皇〈◯文武〉代
大行天皇(○○○○)〈◯文武〉幸于難波宮時歌、〈◯下略〉

〔日本後紀〕

〈十三平城〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 大同元年三月丙戌、上謂公卿曰、〈◯中略〉報曰、大行天皇(○○○○)、〈◯桓武〉聖徳弘茂、海内清平、〈◯下略〉

〔文徳實録〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 嘉祥三年四月己酉、公卿上啓曰、〈◯中略〉大行聖帝(○○○○)、〈◯仁明〉明齊日月、道括乾坤、〈◯下略〉

〔三代實録〕

〈一清和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 天安二年九月三日辛酉、是日大行皇帝(○○○○)〈◯文徳〉晏駕之後、始盈七日、遣使於近陵諸寺、各修功徳

〔日本紀略〕

〈一醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 延長八年十月十日庚子、奉大行皇帝(○○○○)〈◯醍醐〉於山城國宇治郡山科陵

〔日本紀略〕

〈四村上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 康保四年六月四日辛酉、奉大行皇帝(○○○○)〈◯村上〉於村上山陵

〔百練抄〕

〈十五後嵯峨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 仁治三年正月廿日、踐祚、〈◯中略〉諸卿群參大行皇帝(○○○○)〈◯四條〉御在所、〈閑院〉率三種寶物、被新帝御所

〔弘化諒闇記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 弘化三丙午歳二月六日、先帝〈◯仁孝〉追而被御諡號迄、被大行天皇(○○○○)之旨被仰出

〔嘉永明治年間録〕

〈十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 慶應三年正月、周防守殿〈◯老中松平康直〉渡書付、先帝〈◯孝明〉御諡號迄、奉大行天皇候事、

太祖中宗

〔革命勘文〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 一高野天皇〈◯稱徳〉改天平寶字九年天平神護元年之例
謹案國史、〈◯中略〉遠履太祖(○○)神武之遺蹤、近襲中宗(○○)天智之基業、當此更始、期彼中興、建元號於鳳暦、施作解於雷散、〈◯下略〉

〔神皇正統記〕

〈仲哀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 太祖(○○)神武より、第十二代景行までは、代のまヽに繼體したまふ、

〔神皇正統記〕

〈天智〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 此天皇、中興の祖(○○○○)にまします、

〔菅家文草〕

〈七記〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 崇福寺綵錦寳幢記

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 勅近江崇福寺者、天智天皇之創建也、〈◯中略〉本願天皇、朕〈◯宇多〉之遠祖大廟(○○)也、予末小子何不祗承、〈◯中略〉寛平二年歳次庚戌十二月四日、散位正五位下菅原〈◯道眞〉奉勅記、
◯按ズルニ、江家次第抄國忌條ニハ、天智天皇ヲ太祖トシ、光仁天皇ヲ中祖トセシコトアリ、山陵篇荷前條ニ引載セリ、參看スベシ、

國風尊號

〔日本書紀〕

〈二神代〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 一書曰、狹野尊、〈◯神武〉亦號神日本磐余彦尊、所狹野者、是年少時之號也、後撥平天下、奄有八洲、故復加號、曰神日本磐余彦尊(○○○○○○○)

〔日本書紀〕

〈三神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 辛酉年正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮、〈◯中略〉古語稱之曰、於畝傍之橿原(ウネビノカシハラ)〈ニ〉也太立宮柱(ミヤハシラフトシキタテ)於底磐(シタツイハ)之根(ネ)〈ニ〉峻(チ)峙搏風(ギタカシリ)於高天之原(タカマノハラ)而(ニテ)始馭天下(ハツクニシラス)之天皇、曰神日本磐余彦火火出見天皇焉、

〔日本書紀〕

〈二十五孝徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 大化三年四月壬午、詔曰、〈◯中略〉自始治國(ハツクニシラシヽ)皇祖〈◯神武〉之時、天下大同、都無彼此者也、

〔日本書紀〕

〈四安寧〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 三年正月壬午、立渟名底仲媛命皇后、先是后生二皇子、〈◯中略〉第二曰大日本彦耜友(オホヤマトヒコスキトモノ)天皇、〈◯懿徳〉

〔日本書紀〕

〈四孝昭〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 二十九年正月丙午、立世襲足媛皇后、后生〈◯中略〉日本足彦國押人(ヤマトタラシヒコクニオシビト)天皇、〈◯孝安〉

〔日本書紀〕

〈四孝安〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 二十六年二月壬寅、立姪押媛皇后、后生大日本根子彦太瓊(オホヤマトネコヒコフトニ)天皇、〈◯孝靈〉

〔古事記傳〕

〈二十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 根子は尊稱にて、景行天皇の御子にも、倭根子命と申すあり、凡人にも、記中に難波根子(ナニハネコ)、書紀神功卷に、山背根子(ヤマシロネコ)など云名見えたり、天皇は大倭國しろしめすを以て、倭根子とは申し奉るなり、〈◯中略〉すべて御代々々の天皇の御通號となりて、詔命などにも、みな倭根子天皇と申し奉ることなり、

〔日本書紀〕

〈四孝靈〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 二年二月丙寅、立細媛命皇后、后生大日本根子彦國牽(オホヤマトネコヒコクニクル)天皇、〈◯孝元〉 三十六年正月己亥朔、立彦國牽(ヒコクニクル)尊、爲皇太子

〔續日本後紀〕

〈十二仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 承和九年十二月癸酉、右京人參議從三位兼越中守勳六等朝野宿禰鹿取、男女

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 總十九人、改宿禰朝臣、國牽(クニクル)天皇三世孫、武内宿禰第六男、葛木襲津彦之後、

〔日本書紀〕

〈四孝元〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 七年二月丁卯、立欝色謎命皇后、后生二男一女、〈◯中略〉第二曰稚日本根子彦大日日(ワカヤマトネコヒコオホヒヽ)天皇、〈◯開化〉

〔古事記傳〕

〈二十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 大御父天皇〈◯孝元〉の御名の、大倭根子に對へて、若倭根子とは稱へ奉れるなり、

〔日本書紀〕

〈五崇神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 十二年九月己丑、始校人民更科調役、此謂男之弭調、女之手末調也、是以天神地祇共和享、而風雨順時、百糓用成、家給人足、天下太平矣、故稱謂御肇國(ハツクニシラス)天皇也、

〔古事記〕

〈中崇神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 爾天下太平、人民富榮、於是初令男弓端之調、女手末之調、故稱其御世、謂所知初國之御眞木天皇(ハツクニシラシシミマキノスメラミコト)也、

〔古事記傳〕

〈二十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 所知初國は、波都久邇斯羅志斯(ハツクニシラシシ)と訓り、此稱辭は、後の御世に至て申せし言なるべし、其御世と云、又大御名をも申せるなど、當御世に申せる物とは聞えざればなり〈◯中略〉さて此は師〈◯加茂眞淵〉の神武天皇を如此稱申して、〈◯事見上文〉更に又此にも如此申せる故は、是より先にはいまだ服はざりし遙の國々まで、初て皇化のゆきたらはして、天下悉く大平ぬる御世なればなりといはれしが如し、

〔日本書紀〕

〈十四雄略〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 元年三月壬子、〈◯中略〉是月立三妃、元妃葛城圓(カヅラキノツブラ)大臣女曰韓媛、生白髮武廣國押稚日本根子(シラゲタケヒロクニオシワカヤマトネコ)天皇、〈◯清寧〉與稚足姫皇女

〔日本書紀〕

〈十五清寧〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 白髮武廣國押稚日本根子天皇、大泊瀬幼武天皇〈◯雄略〉第三子也、〈◯中略〉天皇生而白髮

〔古事記〕

〈下雄略〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 天皇、〈◯中略〉娶都夫良意富美之女韓比賣生御子白髮命、〈◯清寧〉

〔古事記〕

〈下清寧〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 白髮大倭根子(シラカオホヤマトネコ)命、〈◯中略〉此天皇無皇后、亦無御子、故御名代定白髮(シラカ)部

〔日本書紀〕

〈十七繼體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 元年三月癸酉、納八妃、元妃尾張連草香女曰目子媛、生二子、皆有天下、其一曰勾大兄(マガリオホエ)皇子、是爲廣國排武金日(ヒロクニオシタケカナヒ)尊、〈◯安閑〉 七年十二月戊子、詔曰、〈◯中略〉懿哉摩呂古(マロコ)示朕心於八方、盛哉勾大(マガリノオホ)

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 兄(エ)光吾風於萬國、〈◯下略〉

〔皇年代略記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 安閑天皇〈諱勾大兄、又廣國押武金日、〉

〔古事記〕

〈下安閑〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 廣國押建金日命坐勾(マガリ)之金箸宮天下也、

〔日本書紀通證〕

〈二十二繼體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 摩呂古〈安閑別號〉

〔古事記傳〕

〈四十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 勾は、大和國廣瀬郡なるべきか、〈◯中略〉此天皇〈◯安閑〉の御名、書紀に勾大兄皇子とあれば、本より此地に住居坐りしなり、

〔日本書紀〕

〈十七繼體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 元年三月癸酉、納八妃、元妃尾張連草香女曰目子媛、生二子、皆有天下、〈◯中略〉其二曰檜隈高田(ヒノクマノタカタ)皇子、是爲武小廣國排盾(タケヲヒロクニオシタテ)尊、〈◯宣化〉

〔皇年代略記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 宣化天皇〈諱高田、又武小廣國排楯、〉

〔古事記〕

〈下宣化〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 建小廣國押楯命、坐檜坰之廬入野(ヒノクマノイホリヌ)宮天下也、

〔古事記〕

〈下欽明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 天皇、娶檜坰(ヒノクマノ)天皇〈◯宣化〉之御子石比賣命

〔日本書紀〕

〈十七繼體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 元年三月甲子、立皇后手白香皇女、脩教于内、遂生一男、是爲天國排開廣庭(アメクニオシハルキヒロニハ)尊、是嫡子而幼年、於二兄〈◯安閑、宣化、〉治後、有其天下

〔古事記〕

〈下繼體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 天皇、〈◯中略〉娶意富祁天皇〈◯仁賢〉之御子、手白髮命〈是大后也〉生御子、天國押波流岐廣庭(アメクニオシハルキヒロニハ)命、〈波流岐三字以音〉

〔上宮聖徳法王帝説〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 斯歸斯麻(シキシマノ)宮治天下天皇、〈◯欽明〉名阿米久爾意斯波留支比里爾波乃彌己等(アメクニオシハルキヒリニハノミコト)、

〔日本書紀〕

〈十九欽明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 二年三月、納五妃、〈◯中略〉次蘇我大臣稻目宿禰女、曰堅鹽姫、生七男六女、其一曰大兄(オホエ)皇子、是爲橘豐日(タチバナノトヨヒ)尊、〈◯用明〉

〔日本往生極樂記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 聖徳太子者、豐日天皇〈◯用明〉第二子也、

〔日本書紀〕

〈二十二推古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 豐御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ)天皇、天國排開廣庭天皇〈◯欽明〉中女也、〈◯中略〉幼曰額田部(ヌカタベ)皇女

〔皇年代略記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 推古天皇〈諱額田部、又號豐御食炊屋姫、〉

〔日本書紀〕

〈二十二推古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 三十六年三月壬子、天皇病甚、不諱、則召田村(タムラ)皇子、〈◯舒明〉

〔日本書紀〕

〈二十三舒明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 息長足日廣額(オキナノタラシヒヒロヌカ)天皇、渟中倉太珠敷天皇〈◯敏達〉孫、彦人大兄皇子之子也、母曰糠手姫皇女

〔古事記〕

〈下敏達〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 此天皇之御子等、并十七王之中、日子人太子、娶庶妹田村王、亦名糠手比賣命生御子、坐岡本宮天下之天皇、〈◯舒明〉

〔書紀集解〕

〈二十三舒明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 按、息長近江地名、皇祖母所號、〈◯彦人大兄皇子母、息長眞手王女廣姫、〉足日美稱、廣額蓋表天容也、

〔大安寺伽藍縁起〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 初飛鳥岡基御宇天皇〈◯舒明〉之、未極位號、曰田村皇子

〔皇年代略記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 舒明天皇〈諱田村、號息長足日廣額天皇、〉

〔日本書紀〕

〈二十三舒明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 二年正月戊寅、立寶(タカラ)皇女〈◯皇極〉爲皇后

〔日本書紀〕

〈二十四皇極〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 天豐財重日足姫(アメトヨタカライカシヒタラシヒメ)天皇、渟中倉太珠敷天皇〈◯敏達〉曾孫、押坂彦人大兄皇子孫、茅渟王女也、

〔書紀集解〕

〈二十四皇極〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 財即寳、〈◯中略〉餘皆美號、

〔皇年代略記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 皇極天皇〈諱寳、又天豐財重日足姫天皇、〉

〔日本書紀〕

〈二十四皇極〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 四年六月庚戌、讓位於輕皇子、〈◯孝徳〉

〔日本書紀〕

〈二十五孝徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 天萬豐日(アメヨロヅトヨヒ)天皇、天豐財重日足姫天皇〈◯皇極〉同母弟也、

〔皇年代略記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 孝徳天皇〈諱輕、又號天萬豐日天皇、〉

〔日本書紀〕

〈二十三舒明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 十三年十月丁酉、天皇崩于百濟宮、〈◯中略〉是時東宮開別(ハルキワケ)皇子、〈◯天智〉年十六而誄之、

〔大安寺伽藍縁起〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 天皇〈◯齊明〉行幸筑紫朝倉宮、將崩賜時、甚痛憂勅〈久、〉此寺授誰參來〈止、〉先帝〈◯舒明〉待問賜者、如何答申〈止〉憂賜、爾時近江宮御宇天皇〈◯天智〉奏〈久、〉開(ハルキ)〈伊〉髻墨刺、肩負鋸、腰刺斧、奉爲奏〈支、〉

〔日本書紀〕

〈二十七天智〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0960 天命開別(アメミコトハルキワケ)天皇、息長足日廣額天皇〈◯舒明〉太子也、

〔日本書紀通證〕

〈二十七天智〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0960 天命開別天皇〈盖誅入鹿、定日位命美稱、〉

〔書紀集解〕

〈二十七天智〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0960 天命開別天皇〈按天智恭遜、待時而登天位、如命所一レ開、故以爲諡也、〉

〔皇年代略記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0960 天智天皇〈諱葛城、又號天命開別天皇、〉

〔日本書紀〕

〈二十三舒明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0960 二年正月戊寅、立寳皇女〈◯皇極〉爲皇后、后生二男一女、一曰葛城(カツラギ)皇子、〈近江大津宮御宇天皇〉

〔日本書紀〕

〈二十八天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0960 天渟中原瀛眞人(アメヌナハラオキノマヒト)天皇、天命開別天皇〈◯天智〉同母弟也、幼曰大海人(オホシアマ)皇子

〔皇年代略記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0960 天武天皇〈諱大海人、又名天渟名原瀛眞人、〉

漢風尊號

〔續日本紀〕

〈二十一淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0960 天平寳字二年八月庚子朔、高野天皇禪位於皇太子、〈◯中略〉是日百官及僧綱、詣朝堂上表、上上臺中臺尊號、其百官表曰、臣仲麻呂等言、臣聞、星廻日薄、懸象著明之謂天、出震發乾、乘時首出之謂聖、天以言爲徳、非言無以暢其神、聖以名體道、非名安可其用、冬穴夏巣之世、猶昧典章、雲官火紀之君、方崇徽號、寔乃發揮功業、闡揚尊名、名之爲義、其來尚矣、伏惟皇帝〈◯孝謙〉陛下、臨馭天下十有餘年、海内清平、朝廷無事、祥瑞頻至、寳字荐臻、乃聖乃神、允文允武、諒無得而稱焉、曁乎國絶皇嗣、人懷彼此、降天尊於人願、鳴謙克光、損乾徳於坤儀、鴻基遂固、展誠敬而追遠、攀慕惟深、勤温清以承顏、因心懇至、故有九服宅心、咸荷望雲之慶、萬方傾首、倶承就日之輝、〈◯中略〉臣等入參帷扆、出廁周行、鳴珮曳綸、綿積年祀、觀斯盛徳、戴斯昌化、臣子之義、何無稱賛、人欲而天必從、狂言而聖尚擇、謹據典策、敢上尊號、伏乞奉上臺寳字稱徳孝謙皇帝(○○○○○○○○)、奉中臺天平應眞仁正皇太后、上恊天休、傳鴻名於萬歳、下從人望雅稱於千秋、不至懇踊躍之甚、謹詣朝堂、奉表以聞、僧綱表曰、沙門菩提等言、菩提聞、乾坤高大、覆載以之顯功、日月貞明、照臨由其甄用、至於混群有而饒益、撫萬物而曲成、獨標十號之尊、式崇四大之極、故徽猷歴前古以不朽、妙迹流後葉、而恒新、然則表徳稱功、莫於名號、伏惟皇帝陛下、乃聖繼聖、括六合而承其〈◯其疑衍〉基、乃神襲神、環四溟而光宅、期政道於刑措、駈懷生於仁宜、追遠之孝尤重、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0961 錫類之徳彌厚、不逸遊上レ念、俯以謙卑在懷、瑞蠶藻文、薦聖壽之遐社、寳字結象、開皇基之永昌、〈◯中略〉陛下謙讓、推而不居、菩提等竊疑焉、菩提等逖察前徽、緬鏡遐載、隨時立制、權代適宜、王皇雖殊、其揆一也、菩提等不丹欵之誠、謹上尊號、陛下稱曰寳字稱徳孝謙皇帝、皇太后稱曰天平應眞仁正皇太后、伏願陛下皇太后、抑謙光之小節、從梵侶之讜言、庶使蟠木之郷、燭龍之地、問號仰澤、聽聲傾一レ光、凡厥在生、誰不幸甚、沙門菩提等不下情、謹奉表以聞、詔報曰、朕覽卿等所一レ請、鴻業良峻、祗畏允深忝以寡薄、何當休名、而上天降祐、帳宇開平、原地薦祥、蠶文表徳、竊惟此事、天意難違、俯從衆願、敬膺典禮、號曰寶字稱徳孝謙皇帝

〔續日本紀〕

〈十八孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0961 寳字稱徳孝謙皇帝〈出家歸佛、更不諡、因取寳字二年、百官所上尊號之、〉
◯按ズルニ、扶桑略記稱徳天皇重祚ノ下ニ、四十九代高野天皇是也、前謂孝謙天皇トアリ、前トハ即前位ヲ謂フ、又愚管抄ニモ、重祚して位にかへりたまひにけり、〈◯中略〉孝謙を此度は稱徳天皇と申けりトアリ、孝謙稱徳ノ追號ハ、此尊號ヲ分稱スル所ナリ、


Last-modified: 2016-05-06 (金) 16:07:25 (1020d)