疫病

〔倭名類聚抄〕

〈三病〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1301 疫 説文云、疫、〈音役、衣夜美、一云度岐乃介、〉民皆病也、

〔箋注倭名類聚抄〕

〈二病〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1301 崇神紀、敏逹紀、疫疾、欽明紀、疫氣、皆訓衣也三、按衣夜美、言民皆疾之、如役、民皆赴一レ之、故云衣夜美、古事記崇神天皇條云、役病多起、役病即衣夜美也、役疫訓衣、與役疫字音同、然自是皇國古言、非字音上レ訓也、又度岐乃介、即時氣、時氣見病源候論、與疫癘病甚相類、下文詳之、故云衣夜美、一云度岐乃介也、所引疒部文、原書病作疾、釋名、疫、役也、言有鬼行役也、病源候論疫癘病候云、其病與時氣温熱等病相類、皆由一歳之内、節氣不和、寒暑乖一レ候、或有暴風疾雨、霧露不一レ散、則民多疾疫、病無長少率皆相似、如鬼厲之氣、故云疫癘病、又按春應暖而寒、夏應熱而冷、秋應凉而熱、冬應寒而温、非其時而有其氣、是以一歳之中、病無長少相似者、此則時行病也、冬時嚴寒、觸冒之者乃爲傷、即病者爲傷寒、不即病者、寒毒藏於肌骨中、至春變爲温病、夏變爲暑病、暑病者熱重於温也、皆見病源候論、時行病即時氣、暑病即熱病也、

〔伊呂波字類抄〕

〈止人體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1301 疫〈トキノエ亦エヤミ〉 V 同

〈江人體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1301 疫〈エヤミ、亦トシノケ、民皆病也、〉V 同

〈也人體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1301 疫病〈ヤクビャゥ〉

〔類聚名義抄〕

〈七疒〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1301http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000r13011.gif 〈俗正、癘氣、エヤミ、一云トキノケ、〉癘〈疫病、アシキ〉

〔易林本節用集〕

〈江言辭〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1301 疫( エヤミ) 、 瘧鬼( エヤミ) 、 疫癘( エキレイ) 、

〔古事記〕

〈中崇神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1301 此天皇之御世、 役病( エヤミ/○○) 多起、人民死爲盡、〈○下略〉

〔古事記傳〕

〈二十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1302 役病、役字、舊印本と延佳本とには疫と作り、其正字なり、されど眞福寺本及其餘の本どもにも皆役と作り、下文なる役氣も同じ、凡て此記の書ざまかヽる例多ければ、今は其に依つ、〈疫と作る本は、後にさかしらに攺めつるものなるべし、〉和名抄に、疫、衣夜美、一云、度岐乃介、説文云、民皆病也とあり、〈また瘧、俗云衣夜美、一云和良波夜美とあり、そのかみ瘧をも衣夜美とも云しなるべし〉書紀にも、疫病、疫疾、疾疫、疫氣などみな延夜美と訓り、〈又延能夜麻比と訓る處あり、大鏡に延とのみ云る處もあり、和名抄に、龍膽衣夜美久佐、〉さて然名くる意は、まづ役を延とも延陀知とも云を、〈延陀知は役立なり、なほ役の事は輕島宮段に云べし、〉疫病も、漢籍に民皆病也と云る如く、人毎に病が、彼役に差されて立に似たる故なるべし、〈師は疫を延と云は、もと字音なり、次の文に神氣とある即是なれば、此の疫病をも共にカミノイブキと訓べしと云れき、已も初に思へりしは、役をも疫をも共に延と云を思へば、もと字音を取れるなり、若もとよりの古言ならむには、かく同音の字にて同言なるべきに非ずと思へりしをヽ後になほよく思へば然には非ず、共に固の古言なり、まづ役はおのづから字音と同じきなり、凡て此方の古言と漢字音と、おのづからに似たるも同きも稀にはあることなり、然るに其をも悉く彼を取れるものと思ふは、中々に非なり、さて疫はかの役に似たるから云こと上に云るが如し、疫字も役より出たりと見ゆ、釋名に、疫役也、言有鬼行役也と云へり、如此漢國にても役よりうつりて疫と云る、此はた此方の意とおのづから合へるなり、彼に效へるにはあらず、〉書紀欽明卷にも、國行疫氣、民致夭残、久而愈多、不治療、敏逹卷にも、是時國行疫疾、民死者衆、と云ことあり、

〔令義解〕

〈八醫疾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1302 典藥寮、毎歳量合傷寒、 時氣( ○○) 、瘧、利、傷中、金創、諸雑藥、以擬療治、〈謂(中略)時氣者、時行之病、春時應暖而反寒、夏時應熱而反冷、秋時應凉而反熱、冬時應寒而反温、非其時其氣、是以一歳之中、病无長少、率相似者、此則時行之氣、一名疫癘、言陰陽之氣不和、致其病、譬如人、故曰疫癘也、○中略〉諸國准此、

〔諸病源候總論〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1302 時氣病( ○○○) 諸候 時氣候
時行病者、是春時應暖而反寒、夏時應熱而反冷、秋時應凉而反熱、冬時應寒而反温、非其時而有其氣、是以一歳之中、病無長少、率相似者、此則時行之氣也、從春分後、其中無暴大寒、不氷雪、而人有壯熱爲病者、此則屬春時陽氣、發於冬時、伏寒變爲温病也、從春分以後、至秋分節前、天有暴寒者、皆爲時行寒疫也、一名時行傷寒

〔諸病源候總論〕

〈四十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1302 小兒雜病諸候 天行病( ○○○) 發黄候
四時之間、忽有非節之氣人、謂之天行、大體似傷寒、亦頭痛壯熱、其熱入於脾胃、停滯則發黄也、脾與胃合、倶象土、其色黄、而候於肌肉、熱氣蘊積、其色蒸發於外、故發黄也、

〔鹽尻〕

〈三十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1303 一南秋卿鬼神論云、今夫時疫之家相傳保人、人以爲鬼神、信乎、曰斯則非鬼也、乃 天行之氣( ○○○○)也云々、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000r13031.gif http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022056.gif 之鬼、聰明無欲、故然也、信有鬼乎、斯則非鬼也、人之初生必飮惡汁云々、

〔雜病記聞〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1303 時疫( ○○)
時疫又 疫癘( ○○) トモ云ヒ、 温疫( ○○) トモ云ヒ、 温病( ○○) トモ云フ、 流行熱病( ○○○○) ノ事ナリ、此病甚傷寒ニ似タレドモ、實ハ異ナリ、傷寒ハ常ニ天地ノ間ニアル正シキ寒氣ニ感ジテ病ムモノナリ、時疫ハ天地ノ陰陽不順ニテ、既ニ人身ニ入ラザル前ヨリ、天地ノ間ニテ腐リタル穢濁ノ惡氣ト成リ、世界ニ流行スルヲ、其流行スル筋ニ住居スル人々、口鼻ヨリ呼吸ノ氣ニ交ジヘテ、腹中ニ引入ルヽユヘニ病ムナリ、譬ヘバ江河ニ柿澀ヲ流スニ、其澀ノ流レユク筋ニ居ル魚、是ヲ呑テ死スルガ如シ、故ニ時疫ハ一國一郷一村、甚シキハ滿天下ニモ及ブモノアリ、其筋ニサヘ違ヘバ、東村ハ病テモ、西村ハ一人モ病ザル事アリ、時疫大ニ流行スル時、急ニ遠キ國ニ避ケ逃ルレバ、免ルヽコトモアルナリ、饑饉ナドノ後、或ハ戰http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000045636.gif ナドノ跡ナド、天地ノ氣甚ダ不順穢濁ニナレバ、必疫癘流行スルモノナリ、又至テ輕キハ二三年目ナドニ諸國風邪行レテ、人々皆病ムコトアリ、是モ疫ノ類ニテ輕キナリ、又至テ明白ナルハ、痘瘡麻疹ノ類モ、是疫ノ種類ナリ、故ニ急ニ遠ク避ケ逃ルレバ、不患シテ濟ムナリ、傷寒感冒ハ一身ノ腠理毛孔ヨリ入ル邪ナリ、時疫ノ類ハ口鼻ヨリ呼吸ニ從フテ肺臟ニ入ル邪ナリ、是故ニ傷寒感冒ハ太表皮膚ヨリ始リ、時疫ハ半表半裏ヨリ始ル、陽氣弱キ人ハ半表半裏ヨリ直ニ裏ニ進ミ入リ、陽氣實セル人ハ半表半裏ヨリ表ノ方ヘ押シ出サル、此理、呉又可著作ノ温疫論ニ委ク論ゼリ、讀ベシ、時疫ハ流行穢濁ノ氣ナルガユヘニ、愼ミ避レバ免ルヽコトモアルナリ、

〔俗説正誤夜光珠〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1304 時疫とは傷寒のことヽいふ説
時疫と傷寒は別の病なるを、一病の異名と心得たる人おほし、これは大成論に、傷寒の證固に、天疫流行して、一時に感ずる所の病、老少となく率相似れる者有とあるによりての謬りなり、是すなはち時疫にて、傷寒にはあらず、此別ちは傷寒論の二卷め、傷寒例第三に分明なり、時疫とは俗に疫病といふ時行病のことにて、いつにても時の不正の氣に感じて病むなり、其邪熱の表裏經絡にあづかる所は、大概傷寒に類するものなり、さて又傷寒は冬の中、寒氣に傷られて、其時に病むを、即病の正傷寒といふ、此うちに陰症陽症のわかちあり、又その寒毒肌膚に藏れて、春夏へもちこして病むを、不即病の傷寒といふ、此うちに春病むを 温病( ○○) といひ、夏病むを 熱病( ○○) といふ、これいづれも陽症なり、さて此陽症の傷寒に、六經の傳變表症裏症半表半裏等の證ありて、其變すべて三百九十七法、〈仲景先生の傷寒論につまびらかなり〉又李東垣の論に別に勞役の傷寒を出せり、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000r13041.gif じて傷寒ほどの大病はなき故に、傷寒雜病とて、傷寒に對する時は、一切の病をこと〴〵く雜病と云へり、

〔牛山活套〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1304 時疫 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif 疫 大頭http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif 蝦蟆http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif 百合病
時疫http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif 疫ノ病ハ、疫癘ノ類ニシテ、一般ニ流行スル熱病ナリ、多ハ温熱ノ邪ニ中リ、或ハ山嵐ノ瘴氣ニ感ズル也〈○中略〉
大頭http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif ( ○○○) ノ症ハ、頭腫テ如斗、或ハ耳ノ根腫痛シ、頭ニ瓶ナドヲ被タルガ如ク、上カブキニ成テ大熱ヲ發スル也、其脈多ハ浮大ニシテ數ナリ、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000054096.gif 防敗毒散ニ、黄芩黄連牛房子ヲ加テ用テ發シ、或ハ牛房芩連湯ヲ用、共ニ神効アリ、
蝦蟆http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif ( カマウン/○○○) ノ症ハ、兩ノ腮ヨリ耳ノ根ニカケテ、頰マデ腫テ、蝦蟆ノ状ノ如ナリテ大熱發ス、今時ノ和俗コレヲ 江戸挾箱( ○○○○) ト云、治法多ハ大頭http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif ニ同ジ、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000054096.gif http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000054096.gif 防敗毒散ニ、牛房子黄連黄芩ヲ加テ用、又ハ牛房芩連湯モ宜シ、或ハ老人、或ハ血虚ノ人、或ハ冬月嚴寒ノ時、血澀テ熱發シ難キ類ハ五積散ニ、牛 房子芩連ヲ加テ用ベシ、神効アリ、此症右ノ藥方ノ類ヲ十貼計用レバ多ハ愈也、〈○中略〉
傷寒百合病( ○○○○○) ト云症アリ、多ハ傷寒http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif 疫ノ後、虚勞シテ臟腑不平、變ジテ此病トナル、其證寒ニ非ズ熱ニ非ズ、飮食セント欲シテ食セズ、行ント欲シテ不行、坐セント欲シテ不坐、藥ヲ服スレバ即吐シ、小便赤ク、鬼ヲ見ルガ如クナルヲ百合病ト名ク、茈胡百合湯ヲ用ベシ、其効如神、

〔牢獄秘録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1305 牢死之者之事〈○中略〉
一牢内之病氣とは、皆 牢疫病( ○○○) 也、是は數年人々をこめ置故、自然と人之身之臭氣こもりて、此臭氣を鼻に入れ候ゆへ、皆牢疫病に成ルト云、

〔牢獄秘録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1305 牢内ニ而毒藥之咄之事
一牢内にて一ふ〱とて、毒藥を呑せ殺し候ハ、此もの存命に候得バ、殊之外障りと成る故殺す由、世間一統之咄しなりといへ共、是ハ跡方もなき虚言にて、牢内に左樣成事決而無之、此毒藥有之といふ人ハ、實正知らぬものヽ言初めしなりといへども、このそら言當時世間之人しらぬといふものなし、誠に毒藥有と思ひ居る事こそ愚成わざなり、また牢死するもの多きハ、數年來牢内にこもり居て、風も通らぬ處にて、或ハ熱病に死しても、その儘に捨置故、自然と人の息氣、牢内の板にも柱にもうつりてわるぐさく、此臭氣をかぎ候事ハ、牢内一同之事故、初牢の者ハこの臭氣に當りて、疫病と成、是を牢疫病といふ也、この疫病にとりつかれしもの、牢死之時ハ、牢屋敷にて一ふくもられしといふ也、是實説也、疑ふべからず、

流行例

〔古事記〕

〈中崇神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1305 此天皇之御世、 役病( エヤミ) 多起、人民死爲盡、爾天皇愁歎而、坐神牀之夜、大物主大神顯於御夢曰、是者我之御心、故以意富多多泥古而、令我御前者、神氣不起、國安平、是以驛使班于四方、求意富多多泥古之時、於河内之美努村、見得其人貢進、〈○中略〉於是、天皇大歡以、詔之天下平人民榮、即以意富多多泥古命神主而、於御諸山祭意富美和之大神前、〈○中略〉因此而役氣悉息、國家安平也、

〔日本書紀〕

〈五崇神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1306 五年、國内多疾疫、民有死亡者且大半矣、
十二年三月丁亥、詔、朕初承天位、獲宗廟、明有蔽、德不綏、是以陰陽謬錯、寒暑失序、 疫病多起( ○○○○) 、百姓蒙災、然今解罪改過、敦禮神祇、亦垂敎而綏荒俗、擧兵以討不服、是以官無廢事、無逸民

〔日本書紀〕

〈十九欽明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1306 十三年十月、百濟聖明王遣西部姫氏逹率奴唎斯致契等、獻釋迦佛金銅像一軀、幡蓋若干經論若干卷、〈○中略〉是日、天皇聞已歡喜踊躍、詔使者云、朕從昔以來未曾得一レ是微妙之法、然朕不自決、乃歴問群臣曰、西蕃獻佛相貌端嚴、全未曾看禮以不、蘇我大臣稻目宿禰奏曰、西蕃諸國一皆禮之、豊秋日本豈獨背也、物部大連尾輿、中臣連鎌子同奏曰、我國家之王天下者、恒以天地社稷百八十神、春夏秋冬祭拜爲事、方今改拜蕃神、恐致國神之怒、天皇曰、宜情願人稻目宿禰試令禮拜、大臣跪受而忻悦、安置小墾田家、懃修世業、爲因淨捨向原家寺、於後國行疫氣、民致夭殘、久而愈多、不治療、物部大連尾輿、中臣連鎌子同奏曰、昔日不臣計、致斯病死、今不遠而復、必當慶、宜早投棄、懃求後福、天皇曰依奏、有司乃以佛像、流棄難波堀江、復縦火於伽藍、焼燼更無餘、

〔日本書紀〕

〈二十敏逹〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1306 十四年二月壬寅、蘇我大臣馬子宿禰、起塔於大野丘北、大會設齋即以逹等所獲舍利、藏塔柱頭、 辛亥、蘇我大臣患疾、問於卜者、ト者對言、祟於父時所祭佛神之心也、大臣即遣子弟其占状、詔曰、宜卜者之言祠父神、大臣奉詔禮拜石像、乞壽命、是時國行疫疾、民死者衆、 三月丁巳朔、物部弓削守屋大連、與中臣勝海大夫奏曰、何故不用臣言、自考天皇於陛下、疫疾流行國民可絶、豈非專由蘇我臣之興行佛法歟、詔曰、灼然宜佛法、 丙戌、物部弓削守屋大連、自詣於寺坐胡牀、斫倒其塔、縦火燔之、并燒佛像與佛殿、既而取燒餘佛像、令難波堀江

〔帝王編年記〕

〈九齊明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1306 七年、是冬 疫痛( エキレイ) 多發、百姓病死過半、

〔扶桑略記〕

〈五天智〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1306 元年冬月、天下大疾夭亡之人稍及過半、時人以爲豊浦大臣〈○蘇我馬子〉靈矣、

〔續日本紀〕

〈一文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1306 二年三月丁卯、越後國言、疫、給藥救之、 四月壬辰、近江紀伊二國疫、給醫藥之、 四 年十二月庚午、大倭國疫、賜醫藥之、

〔續日本紀〕

〈二文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1307 大寶二年二月庚戌一越後國疫、遣醫藥之、 六月癸卯、上野國疫、給藥救之、

〔續日本紀〕

〈三文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1307 大寶三年三月戊寅、信濃上野二國疫、給藥療之、 五月丙午、相摸國疫、給藥救之、
慶雲元年三月甲寅、信濃國疫、給藥療之、 十二月辛未、是年夏、伊賀伊豆二國疫、並給醫藥之、 二年十二月癸酉、是年諸國二十飢疫、並加醫藥賑恤之、 三年閏正月庚戌、京畿及紀伊、因幡、參河、駿河等國並疫給醫藥之、乙丑、勅、令祈神祇、由天下疫病也、 四月壬寅、河内、出雲、備前、安藝、淡路、讚岐、伊豫等國、飢疫、遣使賑恤之、 十二月己卯、是年天下諸國疫疾、百姓多死、始作土牛大儺、 四年正月〈○正月恐二月誤〉乙亥、因諸國疫使大祓 四月丙申、天下疫飢、詔加賑恤、但丹波、出雲、石見三國尤甚、奉幣帛於諸社、又令京畿及諸國寺讀經焉、

〔續日本紀〕

〈四元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1307 慶雲四年十二月戊辰、伊豫國疫、給藥療之、
和銅元年二月甲戌、讃岐國疫、給藥療之、三月乙未、山背、備前二國疫、給藥療之、 七月丁酉、但馬、伯耆二國疫給藥療之、 二年正月戊寅、下總國疫、給藥療之、 六月甲午、上總、越中二國疫、給藥療之、辛亥、紀伊國疫、給藥療之、

〔續日本紀〕

〈五元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1307 和銅三年二月壬辰、信濃國疫、給藥救之、 四年五月辛亥、尾張國疫、給醫藥之、 五年五月壬申、駿河國疫、給藥療之、

〔續日本紀〕

〈六元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1307 和銅六年二月丙辰、志麾國疫、給藥救之、四月乙未、大倭國疫、給藥救之、

〔續日本紀〕

〈十一聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1307 天平五年十二月辛酉、是年左右京、及諸國飢疫者衆、並加賑貸

〔續日本紀〕

〈十二聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1307 天平七年八月乙未、勅日、如聞、比日太宰府疫死者多、思欲療疫氣以濟民命、是以奉幣彼部神祇、爲民禱祈焉、又府大寺、及別國諸寺、讀金剛般若經、仍遣使賑給疫民、并加湯藥、又其長門以還、諸國守、若介、専齋戒道饗祭祀、 九年六月甲辰朔、廢朝以百官官人患一レ疫也、 七月丁丑、賑給大 倭、伊豆、若狹三國飢疫百姓、 壬午、賑給伊賀、駿河、長門三國、疫飢之民

〔續日本紀〕

〈十七聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1308 天平十九年四月己未、紀伊國疫旱、賑給、

〔續日本紀〕

〈二十二淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1308 天平寶字四年三月丁亥、伊勢、近江、美濃、若狹、伯耆、石見、播磨、備中、備後、安藝、周防、紀伊、淡路、讃岐、伊豫等一十五國疫、賑給之、 四月丁巳、志摩國疫、賑給之、 五月戊申、勅如聞、頃者疾疫流行黎元飢苦、宜天下高年、鰥寡孤獨癈疾、及臥疫病者、量加賑恤、當道巡察使與國司問患苦賑給、若巡察使已過之處者、國司専當賑給、務從恩旨

〔續日本紀〕

〈三十三光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1308 寶龜五年二月壬申、一七日讀經於天下諸國、攘疫氣也、 四月己卯、勅曰、如聞、天下諸國疾疫者衆、雖醫療猶未平復、朕君臨宇宙、子育黎元、興言念此、寤寐爲勞、其麾訶般若波羅密者、諸佛之母也、天子念之、則兵革災害不國中、庶人念之則疾疫癘鬼不家内、思欲憑此慈悲彼短折、宜天下諸國、不男女老少、起坐行歩、咸令上レ誦麾訶般若波羅密、其文武百官、向朝赴曹道次之上、及公務之餘常必念誦、庶使陰陽叶序、寒温調氣、國無疾疫之災、人遂天年之壽、普告遐邇、知朕意焉、

〔續日本紀〕

〈三十六光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1308 寶龜十一年三月乙酉、駿河國飢疫、遣使賑給之、 五月乙亥、伊豆國疫飢、賑給之

〔續日本紀〕

〈四十桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1308 延暦十年五月乙丑、〈○五日〉天皇以天下諸國頻苦旱疫、詔停節會

〔類聚國史〕

〈百七十三災異〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1308 大同二年十二月戊寅、遣使賑給京中疫者、 三年正月己丑、遣使賑給京中疫病百姓、 甲午、遣使將醫藥京中病人、 乙未、遣使埋斂京中骼胔、勅、頃者、疫癘方熾、死亡稍多、庶資恵力、救http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000066621.gif 病苦、宜諸大寺及畿内七道諸國、奉讀大般若經、又給京中病民、米並鹽豉等、 戊申、給右京遭疫者綿、 二月丙子、御大極殿禱名神、爲天下疫氣方熾也、 三月癸未朔、令天下諸國七日之内共講仁王經、爲疫病也、 庚寅、内裏及諸司左右京職講説仁王經、爲疫病也、

〔日本後紀〕

〈十七平城〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1308 大同三年五月己丑、遣使療治左右京病民、 辛卯、詔曰、朕以寡昧、虔嗣丕基、履薄如傷、黔首之隱是恤、馭奔若厲、紫宸之尊非寧、刻己思治、勵精施政、而仁無物、誠未天、自從君臨、咎徴斯 應、頃者、天下諸國、飢餒繁興、疫癘相尋、多致夭折、朕之不德、眚及黎元、撫事責躬、惄焉疚首、或恐政刑乖越、上爽靈心渙汗煩苛、下貽人瘼、此皆朕之過也、兆庶何辜、靜言念之、無監寐、詩不云乎、民亦勞止、汔可小康、其畿内七道、言上飢疫諸國者、今年之調、宜咸免除、仍國司親巡鄕邑、醫藥營救、兼令國分二寺、轉讀大乘一七箇日、左右京亦宜使普加振贍、庶幾爲善有効、濟困窮於畝糧、修德不虚、返遊魂於岱録、務崇寬惠、副朕意焉、

〔日本後紀〕

〈二十二嵯峨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1309 弘仁三年七月丁巳朔、勅、頃者疫旱並行、生民未安、静言于此、情切納隍、但神明之道、轉禍爲福、庶憑祐助、除此災禍、宜幣於天下名神、 戊午、御大極殿、奉幣於伊勢太神宮、爲疫旱也、

〔類聚國史〕

〈百七十三災異〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1309 弘仁九年九月壬辰、奉幣帛於伊勢太神宮、祈疫疾也、

〔古今著聞集〕

〈二釋敎〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1309 嵯峨天皇御時、天下に大疫の間、死人道路にみちたりけり、これによりて、天皇みづから金字の心經をかヽせ給ひて、弘法大師にくやうせさせ奉られけり、其効驗ことばをもてのぶべからず、おくに大師記をかヽせ給へり、其御記にいはく、
時、弘仁九年春、天下大疫、爰帝皇自染黄金於筆端、握紺紙於爪掌、奉般若心經一卷、予範講經之撰、綴經旨之宗、未結願之詞、蘇生族于途、夜變日光赫奕、是非愚身戒德、金輪御信力所爲也、但詣神舍輩、奉此秘鍵、昔予陪鷲峯説法之筵、親聞此深文、豈不其儀而已、 其時の御經、かの御記、嵯峨の大かくじにいまだ有となん、

〔類聚國史〕

〈百七十三災異〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1309 弘仁十四年二月癸丑、是月天下大疫、死亡不少☐海道尤甚、 三月癸亥、令百僧於東大寺藥師法、欲疫疾也、 八月丁亥、近江國多病人、詔且給穀二千斛以充疫料
天長二年四月庚辰、詔曰、〈○中略〉如聞、諸國往々疫癘不止、又太宰府言上、在肥後國阿蘇郡神靈池、遭旱澇増減、而無故涸渇二十餘丈者、去延暦年中、有此怪、當時卜之、旱疫告咎、前事不忘、取鑑今日、疑是政術有乖、戒以不祥歟、昔周文引過、消震地之災、宋景厲精、移妖星之咎、乃知、德必勝妖、善克除患、欲

〔續日本後紀〕

〈一仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1310 天長十年三月丁未、延百口僧於大極殿、轉讀大般若經、以祈年穀兼攘疫氣也、普告天下斷殺生、限以三箇日

〔續日本後紀〕

〈二仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1310 天長十年六月癸亥、是日爲聖體有一レ間、使神祇伯正四位下大中臣朝臣淵魚、奉幣於賀茂大神、又命天下諸國、修理寺塔破壊者及神社、勅曰、如聞、諸國疫癘、夭亡者衆、自修繕、何以攘災、宜諸國各請練行僧大國廿人、上國十七人、中國十四人、下國十人、三箇日内、晝轉金剛般若經、夜修藥師悔過、其布施者三寶穀十斛、僧三斛、以正税宛行、俾精進

〔續日本後紀〕

〈三仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1310 承和元年四月丙午、疫癘頗発、疾苦稍多、仍令京城諸寺、爲天神地祇讀大般若經一部、金剛般若經十万卷、以攘災氣也、

〔類聚國史〕

〈百七十三災異〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1310 承和二年四月丁丑、勅曰、如聞、諸國疫癘流行、病苦者衆、其病從鬼神來、須祈禱上レ之、又般若之力不可思議、宜十五大寺轉讀大般若經、極夫沈病兼防未然焉、 三年七月癸未、復勅曰、如聞、諸國疫癘間發、夭死者衆、夫銷災眚福祐者、唯般若冥助、名神嚴力而已、宜五畿内七道諸國司轉讀般若、走幣名神

〔續日本後紀〕

〈五仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1310 承和三年八月辛酉、延五十口禪僧於八省院、轉讀大般若經疫氣、諸司醋食、丙寅、八省院禪僧、轉經竟、布施布帛及度者各一人、天皇御紫宸殿禪僧中慧解者十人、令一一論義、亦施褂衣并御被各有差、

〔類聚國史〕

〈百七十八佛道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1311 承和四年六月壬子、勅、如聞、疫癘間發、疾苦者衆、天鎖殃未然、不般若之力、宜五畿内七道諸國、内行者廿口已下、十口已上於國分僧寺、始七月八日三箇日、晝讀金剛般若、夜修藥師悔過、迄于事竟、禁斷殺生

〔續日本後紀〕

〈八仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1311 承和六年閏正月丙午、勅、如聞、諸國疾疫、百姓夭折、宜天下國分寺限七ケ日、轉讀般若、兼遣僧醫、隨道治養、又令郷邑毎季敬祀疫神

〔文德實録〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1311 齊衡元年二月戊辰、詔大和國、修灌頂經法、攘災疫也、

〔三代實録〕

〈五淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1311 貞觀三年八月十七日戊午、越前國百姓、窮弊飢饉特甚、長門國、去年疫癘、死者尤多、並賑給之

〔三代實録〕

〈七淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1311 貞觀五年三月十五日丁丑、宣詔五畿七道諸國云、迺者、陰陽寮勘奏状偁、撿ト筮、今http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000066621.gif 天行之疫( 〇〇〇〇) 、豫能修善、可將來者、加以、春雨未遍、水泉涸乏、思民與一レ歳、忘寢與一レ食、夫鎖禍者能仁无上之法、招福者大乘不二之德、宜仰諸國、以安居中、講説經王、自詔到日、比秋收、至心堅固、専念轉讀、庶幾増神威於自在、保寶祚於冥助、黎民無疫癘之災、農功切有豊稔之喜、凡功德之道、誠信爲本、仍須長官親自撿挍、勤允叡慮、必期靈應、不疎略、 四月三日乙未、先是伯耆講師傳燈法師位僧賢永奏言、年來五穀不登、百姓窮弊、加之、疫病頻發、死亡者衆、賢永奉爲國家、誓願佛力、精誠攸感、頗知靈驗、由是割留供料、圖書寫一萬三千佛并觀世音菩薩像及一切經、貯穀百斛、以資燈炷、請安置國分寺、及付國司、其穀毎年出擧、勿燈明、詔許之、 五月廿日壬午、於神泉苑御靈會、勅、遣左近衞中將從四位下藤原朝臣基經、右近衞權中將從四位下兼行内藏頭藤原朝臣常行等、監會事、王公卿士、起集共觀、靈座六前設施几筵、盛陳花果、恭敬薫修、延律師慧逹講師、演説金光明經一部、般若心經六卷、命雅樂寮伶人樂、以帝近侍兒童、及良家稚子舞人、大唐高麗更出而舞、新伎散樂競盡其能、此日宣旨開苑四門、聽都邑人出入縦觀、所謂御靈者、崇道天皇、伊豫親王、藤原夫人、及觀察使橘逸勢、文室宮田 麻呂等是也、並坐事被誅、寃魂成厲、近代以來、疫病繁發、死亡甚衆、天下以爲、此災御靈之所生也、始京畿、爰及外國、毎夏天秋節、修御靈會、往々不斷、或禮佛説經、或歌且舞、令里貫之子、靚粧馳射、膂力之士、袒裼相撲、騎射呈藝、走馬爭勝、倡優嫚戯、遞相誇競、聚而觀者、莫塡咽、遐邇因循、漸成風俗、今http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000066621.gif 春初、咳逆成疫、百姓多斃、朝廷爲祈、至是乃修此會、以賽宿禱也、

〔三代實録〕

〈九淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1312 貞觀六年七月十一日乙未、加賀、出雲兩國疾疫、 十一月十二日乙未、勅、命五畿内并山陽、南海兩道預鎭謝疫癘、兼轉讀般若大乘、以神祇官奏言彼諸國可一レ天行也、

〔三代實録〕

〈十淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1312 貞觀七年五月十三日癸巳、延僧四口於神泉苑、讀般若心經、又僧六口、七條大路行分配朱雀道東西、朝夕二時、讀般若心經、夜令佐比寺僧惠照、修疫神祭、以防災疫、預仰左右京職、令東西九箇條男女、人別輸一錢、以充僧布施供養、欲京邑人民賴功德免天行也、

〔三代實録〕

〈十二淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1312 貞觀八年二月十四日庚申、神祇官奏言、肥後國阿蘇大神懐藏怒氣、由是、可疫癘隣境兵、勅國司潔齋、至誠奉幣。并轉讀金剛般若經千卷、般若心經万卷、太宰府司於城山四王院、轉讀金剛般若經三千卷、般若心經三万卷、以奉神心伏兵疫

〔三代實録〕

〈二十淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1312 貞觀十三年十二月十四日乙卯、陰陽寮言、明年當 天行之災( 〇〇〇〇) 、又古老言、今年衆木冬華、昔有此異、天下大疫、勅令五畿七道諸國、頒幣境内諸神、於國分二寺、轉經禱冥助於佛神、銷凶札於未萌

〔日本紀略〕

〈一醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1312 昌泰元年六月廿二日、依天下疾疫、遣宣命使於藤原夫人〈〇桓武夫人吉子〉墳墓、 七月八日丙子、依疾疫諸國京上相撲人

〔扶桑略記〕

〈二十四醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1312 延長六年四月廿八日、四五月間、疾疫最甚、五位已上多亡、 五月廿二日、臨時御讀經、請百僧紫宸殿、爲除都下疾疫、轉讀大般若經、 七年三月、京畿諸國疫癘流行、死者溢路、宣旨云、左大臣宣、奉勅、傳聞、眞言敎中、有疫死、宜座主法橋上人位尊意早修其法災疫者、謹依綸旨、 率卅口伴僧、始三月廿三日、於豊樂院七箇日、晝夜不斷、修不動法、七日之内疫氣已散、沈痾之類、擧首存命、賞賜度者卅二人、〈已上傳〉 八年四月、件年春夏疫癘甚盛、

〔扶桑略記〕

〈二十四裏書〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1313 延長八年四月廿一日甲寅、自今日七箇日、於豊樂院、有灌頂經御修法事、依疫癘也、 五月一日甲子、爲疫癘、臨時奉幣伊勢太神宮并諸社、仍廢務、 同十七日庚辰、被有供無施臨時仁王會、仍廢務、是爲除疫癘也、

〔類聚符宣抄〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1313 左弁官〈下綱所
分頭詣寺社讀仁王般若經
石淸水 權少僧都 僧十口 賀茂上 律師 僧十口 賀茂下 律師 僧十口
松尾 律師 僧十口 平野 權律師 僧十口 大原野 律師 僧十口
稻荷 權少僧都 僧十口 春日 權少僧都 僧十口 大和 律師 僧十口
住吉 權律師 僧十口 比叡 僧正 僧十口
西寺御靈堂 權律師 僧十口 上出雲御靈堂 僧 僧十口 祇薗天神堂 僧 僧十口
右迺者、疾疫多發、死殤遍聞、雖般若之齋會、未病惱之消除、右大臣宣、奉勅、宜綱所、命件僧等各率淨行僧十口、詣彼寺社、始今月廿四日辰二點、三箇日間、專竭精誠、轉讀件經、除愈黎元之病痾、兼祈年穀之豊稔、其料物、石淸水、賀茂上下、松尾、平野、大原野、稻荷等社、西寺、御靈堂、上出雲等御靈堂、祇薗天神堂料、請山城國、春日大和兩社料、請大和國、住吉社料、請攝津國、比叡社料、請近江國者、綱所承知、依宣行之、事在災、不疎略
天德二年五月十七日 大史竹田宿禰
右大弁源朝臣
左弁官〈下綱所
七大東西延暦寺轉讀大般若經
東大寺僧卌口 興福寺卌口 元興寺廿五口 大安寺廿五口
藥師寺卌口 西大寺十五口 法隆寺十五口 東寺廿口
西寺廿口 延暦寺六十口
右左大臣宣、奉勅、迺者病患頻發、死殤間聞、救濟之計、尤賴佛法、宜仰綱所、令件等寺々、始今月九日巳二點、三箇日間、毎寺擇諸僧之中、智行兼備者、轉讀件經王、必致冥感、其供養料、七大寺用大和國正税、延暦寺用近江國正税、東西寺宛大炊寮米者、綱所承知、依宣行之、庶幾慧風急扇、霧露之痾早除、妖氣自消、都鄙之憂無聞、事縁災、不懈緩、但供養料米、各可運送之状、仰彼寮國了、
天德四年四月三日 大史我孫宿禰
中弁藤原朝臣

〔扶桑略記〕

〈二十六村上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1314 天德四年五月二日庚子、又天下疾疫、夭亡之輩甚繁、給官符諸國并十五大寺等、讀經祈疫癘事

〔日本紀略〕

〈四村上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1314 天德四年六月十四日壬午、請百僧於南殿淸凉殿、令讀大般若經、爲天下疾疫也、今日於仁壽殿、令大僧都寬空修不動供、爲息災也、 廿一日己丑、結願、

〔扶桑略記〕

〈二十六村上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1314 天德五年〈〇應和元年〉四月廿三日乙卯、勅、聞、天下患疫疾者巨多、宜官符五畿七道諸國、奉幣轉經祈禱除一レ災、又令七大寺、及有供諸寺同讀經、祈疾疫

〔日本紀略〕

〈四村上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1314 康保三年七月七日庚午、今日宣五畿七道、三箇日於諸國定額寺、轉讀般若經、禁斷殺生、又自來十日三箇日、於諸寺讀經、七大寺、延暦寺、東西寺、御靈堂、上出雲寺、祇園等也、依天下疾疫也、

〔日本紀略〕

〈九一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1315 正暦五年三月廿六日戊寅、今日詔、大赦天下、大辟以下常赦所免者赦除、又免調庸、老人賜穀、加賑恤、依白鳥恠異、疾疫之患也、 四月十日辛卯、南殿建禮門朱雀門大祓、爲疾疫之難也、

〔本朝世紀〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1315 正暦五年四月八日己丑、午後權大納言藤原伊周卿、參著左仗座、被行臨時賑給使、是京中臥病乏食之輩被行也、道路病人連々不絶、 十九日庚子、右大臣位祿目録被奏、即退出、權中納言伊渉卿、參議懐忠卿、留被臨時奉幣事、是疫病之彌盛、來廿七日可件使者、

〔本朝世紀〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1315 正暦五年四月廿四日乙巳、今日左右看督長等被宣旨、京中路頭構借屋筵薦、出置病人、或乘空車、或令人運送藥王寺云々、然而死亡者多滿路頭、往還過客、掩鼻過之、鳥犬飽食、骸骨塞巷、廿七日戊申、今日伊勢太神宮諸社臨時奉幣日也、有行幸、是爲疫癘也、〈〇中略〉諸社幣物、著左衞門陣外並立、天皇還御之後、中納言伊渉卿、著左仗座、被石淸水、賀茂上下、松尾、平野、稻荷、春日、大原野、大神、石上、大和、廣瀨、龍田、住吉、梅宮、吉田、天滿天神、又座大和國大社一客〈〇客恐言誤〉主、片岡、鴨、穴師、天香山、瞻駒大帶姫命廟、座河内國枚岡恩智八幡々々賣、坐〈〇以下七字虫喰缺文〉國夫〈〇夫恐入誤〉依羅、生田、長田、垂水、新屋等社々、以中臣氏人使給宣命、同時被使、使人自敷政門宣命、一々退出、宣命文云、
天皇〈我〉詔旨〈良万止、〉掛畏〈支〉某太神〈乃〉廣前〈爾〉恐〈美〉恐〈美毛〉申賜〈へと〉申〈久、〉今年〈より〉遠近〈爾〉有疫癘之聞〈り〉、仍可除此患之由、祈禱之誠、眷念日久〈天、〉而今外國京畿之間、病死之輩、道路相枕〈セリ、〉門々戸々〈爾毛〉擧首〈天〉病臥〈セ利と〉聞食〈天〉、是則人主〈乃〉薄德〈爾天、〉人民〈毛〉有此患〈利と〉艱患〈こと〉無限、夫人者國本也、若無人民〈バ〉依誰〈天加〉稱君〈ムと〉、古聖主賢王〈毛〉深所愼懼〈奈利〉、況朕〈加〉愚昧〈奈留〉未措〈而〉、有今此疫癘之災〈をバ〉、只神明之司護給〈なり〉、非人力之所一レ及〈と〉憑仰〈支〉所念行〈天奈毛〉、故是以、吉日良辰〈乎〉擇定〈天、〉官位姓名〈を〉差使〈天〉、禮代〈乃〉御幣〈ヲ〉奉捧給〈布〉、掛畏〈支〉太神、此状〈ヲ〉平〈久〉安〈久〉聞食〈天〉、如此之災患〈ヲ〉早攘却給〈と〉、已臥之輩〈ヲバ〉速令平復、未患之者〈ヲバ〉兼令煩言、無事〈久〉無故〈久〉、安穏泰平〈爾〉、護助 給〈天〉、天皇朝廷寶位無動〈久〉、常磐堅磐夜守日守〈爾〉、護幸〈へ〉奉給〈ひ〉、御體如意〈爾〉悦令有〈め〉給〈へと〉、恐〈み〉恐〈みも〉申賜〈ハ久と〉申、
辭別〈天〉申賜〈ハ久〉、月來天變物怪頻以相示〈壽、〉天文陰陽等道々所勘申、咎徴多端〈天、〉誠〈と〉至宸襟無一レ聊之、件變異妖恠等託可來〈爾毛〉不祥〈ヲ〉未萌〈爾〉消却給〈ことハ〉、只是天神〈乃〉廣助厚顧〈爾〉可依、又去二月〈乃〉比〈ヒ〉、禁中〈二〉兩度有放火之事〈り、〉神明〈毛〉人間〈毛〉可驚、仍件放火之者〈ヲ〉、近〈ハ〉七日、遠〈ハ〉三月内〈二〉、可顯出〈キ〉由〈ヲ〉有祈申〈り支〉、而于今無發露、皇威縦薄〈とも〉、神驗何遅〈からむ〉、大神重〈天此状〈ヲ〉聞食〈天〉、令天下〈久〇此間恐有脱字〉知驗之掲焉
正暦五年四月廿七日

〔日本紀略〕

〈九一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1316 正暦五年四月廿四日乙巳、被宣旨云、京中路頭病人甚多、宜置之、 廿五日丙午、於八省院東廊大祓、依疾疫奉幣也、 廿七日戊申、奉幣伊勢以下諸社、爲消疾疫也、天皇行幸八省院、 廿八日己酉、御讀經始、依疾疫也、 五月三日甲寅、奉山陵使、爲疾病也、 十一日壬戌、給五畿七道諸國可仁王會之官符、爲攘疾病也、

〔本朝世紀〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1316 正暦五年五月七日戊午、又去二月以後、依疫癘病死之輩、不幾千、雖種々祈禱、似其應、路頭死人伏體連々也、 十日辛酉、午後、權大納言藤原伊周卿、中納言同顯光卿、參著左仗座、被今月廿日伊勢、石淸水、賀茂下上、松尾、大神、祇園等社、臨時奉幣使、是則爲疫癘也、又此日、從太宰府言上解文四枚、其中一枚、去年中冬以後至于今日、疫癘已發、府中不靜、又以官國人民皆欲夭亡、而其災彌倍、病患未止、遠近路邊、死人滿塞、一枚、肥前守平朝臣經敏、去三月十三日卒去了者、一枚、前豊前守藤原朝臣經統、去正月九日遭喪者、〈母喪而已〉一枚、病患尤盛也、欲今年相撲人召進事者、 十一日壬戌、午後、中納言藤原顯光卿、權中納言源伊渉卿、參議藤原懐忠卿、參著左仗座、即陣覽給五畿七道諸國可仁王會官符八枚、於結政座請印、參議懐忠、少納言源朝臣伊賴、少外記多治雅 淸、即〈〇此間恐有脱字〉左少史安部茂忠、請配官符了、其符状云、畿内國々者、以來十五日於有驗所々修、至于遠國者、官符到來之後、三日内可修、由是爲疫癘之災也、 十五日丙寅、又關白家、被百寺之諷誦、是皆爲除疫癘也、抑大極殿講演之庭、諸司官人、緇素壯老、多以會集、各又手低頭、讃歎此講式、垂涙云、毎手擎呪願、口々講般若經、雖理運之災彌定、有消除之冥助歟云々、其願文云々、 十六日丁卯、左京三條南油小路西有小井、水濁泥深、尋常不用、而或狂夫云、飮此水者、皆免疫癘云、仍都人士女、擧首來汲、男女提桶瓶、貴賤貯匜盥、偏恐病死之災、千万不妖宮〈〇宮恐言誤〉之眞僞者也、近來公家被海若祭名山祭等、是又爲疫癘病患也、 廿日辛未、被諸社臨時幣帛使、〈〇中略〉月來之間、疫癘尤盛也、雖種々祈禱専無止、抑何神之祟哉云々、件等神明祟故者、所遣也、件疫癘猶盛也、即宣命云、〈〇中〉〈略〉廿四日乙亥、疾病不止、京中外國、病厄彌盛云々、廿六日丁丑、是日、依宣旨諸司諸家修石塔、是依疫癘也、顯光卿被天下大赦事、同依疾疫事也、 六月四日甲申、權大納言藤原伊周卿、參著左仗座、今日被行丹生貴布禰兩社祈雨奉幣使、近來依疫癘病死之祟彌以盛也、而又旱魃、仍所奉遣也、 十日庚寅、去三月以後、京畿外國疫癘滋、病死無際、仍或恐奇夢門、或稱物怪仕、如此之間、上下無勤、 十三日癸巳、午後、權大納言藤原伊周卿參入、著左仗座、被遣丹生貴布禰兩社祈雨奉幣、并御馬等、子細、其宣命云、〈〇中略〉 十四日甲午、被臨時仁王會之事、〈〇中略〉件仁王會、是疫癘猶盛、而病死不止、因之爲除件災、可修也、 十六日丙申、今日妖言、疫神可横行、都人士女、不出行云々、

〔日本紀略〕

〈九一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1317 正暦五年七月廿一日辛未、御讀經始、依疾疫祈也、 廿八日戊寅、自去四月七月、京師死者過半、五位以上六十七人、八月十日己丑、於大極殿二百僧、轉讀大般若經、依疾病也、 廿一日庚子、奉幣諸社、依天、變恠異霖雨疾病事等也、 十月十六日甲午、奉山陵使、爲病難也、 十二月廿五日壬寅、今年自正月十二月、天下疫癘最盛、起鎭西滿七道

〔百練抄〕

〈四一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1317 正暦五年自正月十二月、天下疫死者尤盛、起鎭西京師、四五六七月之間殊盛、死 者過半、五位已上六十餘人也、道路置死骸

〔扶桑略記〕

〈二十七一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1318 正暦五年甲午、自正月十二月、天下疫癘、起鎭西、遍滿七道、五位以上七十餘人疫死、 六年、〈〇長德元年〉今年夏比疫癘殊盛、納言以上薨者八人、古今未有云々、

〔日本紀略〕

〈十一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1318 長德元年四月廿七日癸卯、定、諸國并宇佐宮等、各書寫大般若經、六觀音像、可疾疫之災

〔類聚符宣抄〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1318 太政官符、五畿七道諸國司、
應毎國圖寫供養陸觀音像大般若經一部
右右大臣宣、奉勅、比年疫癘延蔓病苦彌盛、京内上下之人、多歸滓浦、外國遠近之民、悉泥瘴煙、適存危命者、頻携藥石、而忘農桑、纔脱病惱者、鎭營斂葬、以闕貢賦、或比首而倶臥、誰致救療或擧家而夭亡、誰敢收藏、況枯旱渉歳、五穀不登、人物共盡、蓋此時乎、災害之甚、往古未聞、夫觀音能救急難、尤可依怙、般若亦施威力、必攘災孼、仍普仰五畿七道諸國、毎國圖寫供養、其料用正税、若無正税、用不動穀、且申開用、且以宛行、不動正税、共以用盡、申請所在官物、將以裁許、近國六七月中、圖寫供養、遠國八九月間、開講演説、供養之後、且注在状、早以言上、實語勿疑、信力無違遺民庶、長期艾安者、諸國承知、依宣行之、符到奉行、
權左中弁源朝臣 右大史坂上大宿禰
長德元年四月廿七日

〔百練抄〕

〈四一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1318 長德元年四月六日、關白道隆依病出家、〈十一日薨〉 五月八日、關白右大臣道兼薨、今日左大臣重信同薨歟、四五月之間疫疾殊盛、納言已上薨者八人、關白道隆、道兼、左大臣重信、大納言濟時、朝光、道賴、中納言保光伊渉等也、又四位五位侍臣、并六十餘人、至于七月漸散、

〔日本紀略〕

〈十一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1318 長德元年七月廿三日丁卯、今年自四月至五月、疾疫殊盛、至七月頗散、納言以上薨者 八人、四位七人、五位五十四人、六位以下僧侶等不勝計、但不下人

〔大鏡〕

〈七太政大臣道長〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1319 其とし〈〇長德元年〉の祭のまへより、よの中きはめてさはがしきに、またのとし、いとヾいみじくなりたりしぞかし、まづは大臣公卿おほくうせ給ひしに、まして四位五位のほどは、かずやはしりし、まづそのとしうせ給へる殿ばらの御かず、閑院大納言殿、三月廿八日、中關白殿、四月六日出家し給ひて、十日うせ給ひぬ、それはよのえにはおはしまさず、たヾおなじをりの、さしあはせたりし事なり、小一條左大將濟時卿は、四月廿三日うせ給ふ、六條左大臣殿重信、粟田右大臣殿道兼、桃園源中納言保光卿、この三人は、五月八日一度にうせ給ふ、山井大納言殿はみちよりと申し、六月十一日ぞかし、御年二十五にて又ありしかし、あがりてのよにもかく大臣公卿七八人、二三月のうちにかきはらひうせ給ふは、けうなりしわざなり、

〔榮花物語〕

〈四見はてぬ夢〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1319 長德元年正月より、世中いとさわがしうなりたちぬれば、のこるべうもおもひたらぬ、いとあはれなり、〈〇中略〉ことしはまづしも人などは、いといみじたヾこのごろのほどにうせはてぬらんとみゆ、四位五位などのなくなるをば、さらにもいはず、いまはかみにあがりぬべしなどいふ、いとおそろしきことかぎりなきに、三月ばかりになりぬれば、くはんはくどの〈〇道隆〉の御なやみもいとたのもしげなくおはしますに、内によのほどまいらせ給て、かくてみだり心ちいたくあしくさぶらへば、このほどのまつりごとは、内大臣〈〇伊周〉をこなふべき宣旨くださせ給へとそうせさせ給へば、げにさばかりくるしうし給はんほどは、などかはとおぼしめして、三月八日のせんじに、くわんはくやまひの間殿上をよび、百官執行とあるよしせんじくだりぬれば、内大臣殿よろづにまつりごち給、かヽるほどに、かんゐんの大なごん〈〇朝光〉よの中心ちわづらひて、三月廿日うせ給ひぬ、あはれにいみじきことなり、あすはしらず、いまはかうなめりとさべきとのばら、むねはしりおそろしうおぼさるヽに、くはんはくどのヽ御心ちいとをもく、 四月六日出家せさせ給ふ、あはれにかなしきことに覺しまどふ、

〔百練抄〕

〈四一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1320 長保二年、今年疫死甚盛、始鎭西京師

〔權記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1320 長保二年六月廿日乙丑、去夕左馬權助親扶朝臣卒去、今月所卒去、民部大夫國幹、前因幡守孝忠等也、近日疫癘漸以延蔓、此災年來連々無施、昔崇神天皇御宇、七年有疫、天下之人大半亡沒、于時天皇知其祟、忽以解謝、治馭天下百餘年也、而今世路之人、皆云、代及儀末〈〇儀末恐澆末誤〉災是理運也、予思不然、聞最勝説自以相叶、後漢末歳災異重疊、後代之史當時之謠、以爲賞不其功、罰不其罪、又如王法論不治惡人近善人者、禍胎災孽、何處轉之哉、彼濟陰釋鳳巴郡黄龍皆出訛言、多爲妖孽、今年夏招後堂災、其後不幾、應天門壊、皆是怪異之極、有識者、定應所見、主上寬仁之君、天暦以後、好文賢皇也、方機餘閑、只廻叡慮、所澄淸也、所庶幾者、漢文帝、唐太宗之舊跡也、今當斯時災異蜂起、愚暗之人、不理運之災、堯水湯旱、難忽迷、白日蒼天雖訴無答者也、

〔帝王編年記〕

〈十七一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1320 長保二年、自十一月疫死繁發、始自鎭西坂東逈到京師、 同三年七月以後疫死漸止、

〔日本紀略〕

〈十一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1320 長保二年十二月、今年冬、疫死甚盛、自鎭西京師

〔權記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1320 長保三年三月廿八日庚子、此日千口僧、於大極殿讀新寫金剛壽命經、爲疫疾交死之怖依時定増壽命之誓也、予得分五卷之中、手自書寫一卷

〔扶桑略記〕

〈二十七一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1320 長保三年辛丑、春月疫死甚盛、鎭西坂東、七道諸國入京洛疫癘殊甚、仍三月十八日甲午、行幸大極殿、爲疾疫、修大仁王會、 同廿八日、請千僧於大極殿、令壽命經、 五月九日京師諸人、於紫野御靈會、道路死骸不其數、天下男女夭亡過半、七月以後疾疫漸止、

〔日本紀略〕

〈十一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1320 長保三年三月十日壬午、於大極殿百座仁王講、仍天皇行幸八省院、依疾疫祈、 十八日庚寅、仁王會竟、 廿八日庚子、於大極殿千口僧、讀壽命經、依天下疾疫也、 四月十二日癸丑、 於南殿並建禮門朱雀門等、有大祓、依疾疫也、

〔權記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1321 長保三年五月十九日庚寅、今日左府被參内、候御共諸卿被參會、被定申除疫病之事、申刻、有不斷仁王經御讀經事、〈右大臣行事〉僧等、不威儀師觀峯、依觸穢陣外行事云々、次左大臣、於陣召余令諸卿定申、紀伊守致時朝臣申請雑事三ケ條并可疫病事、又神祇官御祈事、召廿一社司祈申交由一事令祈申、今月内可除愈由神助感者、奉封戸、并可社司云々、於十二門讀大般若經事、先年已有其驗、早可行云々、下知諸國、令顯造丈六十一面觀音供養事、本願殊勝、然則官符下知後六十日内、開眼供養、可言上、其由下知諸國、永以連者、諸文可勘會云、又講讀師國分二寺僧尼等、布施供養事、年中御願國司監臨、慥可行於御前、可演最勝王經事、同新http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000027440.gif 寫觀音開眼、次可演於天王寺、令練行僧廿口、三ケ日間、可讀仁王經事、布施供養、可本國官物、大屋寺七ケ日可令講仁王般若經事、大安寺東院崇道天皇廟、可讀千卷金剛般若經事、供養料、同可本國官物、下知諸國、慥可斷六齋日殺生事、
仰云、依定申勤行之、神祇官并廿一社御神并十二門御讀經日時令擇申、又可申僧名
仰令陰陽寮擇申御祈日時、〈神祇官御祈、今月廿一日、諸社御祈、廿四日、〉奉之、又依召著陣座、〈執笏〉隨大臣仰、言御讀經僧名

〔權記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1321 長保三年五月廿九日庚子、參左府參内十二門御讀經也、申刻發願、左大臣率宰相中將、左大弁源宰相、右中弁等、毎門禮拜爲除疫癘、毎門各差僧綱、率廿口三ケ日夜、轉讀大般若經也、其僧亦東面陽明門、前大僧正觀修、少僧都隆圓、待賢門僧正覺慶、權少僧都慶圓、郁芳門權僧正明豪、權律師明救、〈以上延暦寺〉南面美福門權少僧都滑信、朱雀門院大僧都雅慶、權律師淸壽皇嘉門權律師覺縁、〈以上東大寺〉西面談天門權少僧都定澄、權律師平超、藻辟門權律師平傳、殷富門權律師明久、〈已上興福寺〉北面安嘉門權大僧都勝筭、法橋觀敎、偉鑒門大僧都穆筭、權律師尊叡、逹智門權律師院源、〈以上延暦寺〉毎門率用廿 口僧也、

〔日本紀略〕

〈十一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1322 長保三年五月廿九日庚子、於十二門轉讀大般若經事、依疾疫也、閏十二月廿九日丙申、始去冬、至于今年七月、天下疫死大盛、道路死骸不其數、況於斂葬之輩、不幾万人

〔日本紀略〕

〈十二三條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1322 長和四年三月廿七日丁未、天下咳病、又疫癘屢發、死者多矣、 五月十五日甲午、臨時如法仁王會、依天下疫疾也、 廿六日乙巳、詔大赦天下、依例〈〇例衍字〉天皇不豫、并人間疾疫也、右少辨資業作詔書、 六月廿日戊辰、依疫神託宣、立神殿崇重也、 廿三日辛未、臨時仁王會、依疾疫也、

〔小右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1322 長和四年六月十一日己未、近日疫死者、不計盡、路頭死骸連々不絶、五位已上及十餘人、亦病輩多有其聞、自賤及貴歟、

〔類聚符宣抄〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1322 左弁官〈下綱所
十五大寺延暦寺轉讀仁王般若經除災癘
東大寺卌口 興福寺卌口 藥師寺卌口 元興寺廿五口 大安寺廿五口
西大寺十五口 法隆寺十五口 法華寺十五口 新藥師寺十五口 本元興寺十五口
招提寺十五口 東寺廿口 西寺廿口 四天王寺十五口 崇福寺十五口
延暦寺六十口
右權大納言源朝臣俊賢宣、奉勅、迺者都鄙之間、疫癘滋蔓雖種々之祈禱、彌聞元々之死殤、欲仁王之威神、以助万民之危命、般若海中覔不死之良藥、實智山上傳長生之秘方、仍於件寺々、始今月廿九日申二點、五箇日間毎寺擇智行兼備之僧、轉讀件經王、消攘彼疫癘、但其供料用本寺物者、綱所承知、依宣行之、事縁災、不緩怠
寬仁元年五月廿五日 少史酒人
少弁源朝臣

〔日本紀略〕

〈十三後一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1323 寬仁元年六月十四日辛巳、於御殿以十五口僧、轉讀仁王經、〈九箇日〉依天下疫癘消除也、 廿三日庚寅、公家爲疾疫、書寫壽命經http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003819.gif 一千口僧、於大極殿、被養轉讀之、又給度者一人、〈○一〉〈恐十誤〉四年四月廿二日癸卯、詔、大赦天下、大辟以下罪無輕重、悉以赦除、但犯八虐、故殺、謀殺、私鑄錢、強竊二盗、常赦所免者不赦、又免調庸徭役、依皰瘡疾疫事也、
治安元年正月廿八日甲辰、臨時仁王會、爲疫病也、 二月廿五日庚午、依天下疾疫、奉幣廿一社、内記申障、權少外記中原師任、奉宣命、但件宣命、兼日大内記菅原忠貞所草也、 三月七日壬午、於大極殿http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003819.gif 千僧、轉讀壽命經、依、天下疾疫也、件經、公鄕以下、諸司以上、分配書之、

〔類聚符宣抄〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1323 左弁官〈下綱所
分頭詣諸社演仁王般若經
石淸水 權大僧都慶命 僧六口 賀茂上 前權少僧都心譽 僧六口
賀茂下社 權少僧都實誓 僧六口 松尾 律師觀眞 僧六口
平野 律師定基 僧六口 稻荷 桓舜 僧六口
春日 大僧林懐 僧六口 大原野 攝源 僧六口
大神 少僧都扶公 僧六口 住吉 淸祈 僧六口
梅宮 敎圓 僧六口 吉田 永照 僧六口
祇薗 權律師明尊 僧六口 北野 遍救 僧六口
比叡 權僧正院源 僧六口 西寺御靈堂 濟慶 僧六口
右去冬以來、疾疫滋起、夭亡之者多有其聞、仍種々祈禱、一々勤修、三寶之冥助難及、一天之病患未降矣、夫仁王般若者、護國之城塹、斷禍之刀劒也、非五力之本誓、何得万姓之危命哉、權中納言藤原朝臣能信宣、奉勅、宜綱所、令件僧等各率淨行僧六口、親詣社頭、始今月廿六日午二點、三箇日間、 専勵精誠、講演件經者、綱所承知、依宣行之、事是攘災、不疏簡、但其供菜料、石淸水、住吉等、攝津國、賀茂下上、稻荷、祇薗、比叡等社、近江國、松尾、平野、大原野、梅宮等社、丹波國、吉田、北野等社、西寺御靈堂、山城國、春日、大神等社、大和國、早可運送之状、下知件等國々已了、
治安元年四月廿日 右大史津守
少弁藤原朝臣

〔日本紀略〕

〈十三後一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1324 治安元年四月廿三日戊辰、奉幣廿一社、依祈雨并消疾疫難也、 廿六日辛未、自今日三箇日、於石淸水以下十六社讀仁王經、依疾疫也、六月十六日庚申、奉幣廿一社、依疾疫之難也、 廿七日辛未、從去春此夏、疾疫死者甚多、 七月十日癸未、於大極殿、臨時仁王會、爲疾疫也、

〔類聚符宣抄〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1324 諸社御讀經
石淸水 權律師融碩 僧六口 賀茂上 權大僧明尊 僧六口
賀茂下 權大僧都定基 僧六口 松尾 權律師經救 僧六口
平野 桓舜 僧六口 稻荷 眞範 僧六口
春日 前大僧都扶公 僧六口 大原野 道讃 僧六口
大神 權律師平能 僧六口 住吉 忠命 僧六口
梅宮 源泉 僧六口 吉田 眞圓 僧六口
祇薗 權少僧都敎圓 僧六口 北野 權少僧都遍救 僧六口
比叡 僧正慶命 僧六口 西寺御靈堂 濟慶 僧六口
長元三年三月廿三日
右中弁藤原朝臣賴任傳宣、右大臣宣、奉勅、迺者疾疫即發、須攘除、農業漸催、將豐稔、轉災禍者、無 佛法、生福祚、亦在神明、仍先消痾恙於一天、欲稼穡於万邦、故占靈社之砌、敬講護國之敎、冥助之不疑、感應豈其虚哉、宜綱所件僧等、各率淨行僧六口、親詣社頭、始來四月六日午刻、三箇日間講演件經、綱所宜承知、依宣行之、事是攘災、不疎簡、但其供菜料、石淸水、住吉、大原野等、攝津國、賀茂下上、稻荷、比叡、近江國、松尾、平野、梅宮、丹波國、吉田、祇薗、和泉國、北野、西寺御靈堂、河内國、春日、大神、大和國、早可運送之状、下知件國々、已了者、
長元三年三月廿三日 左大史惟宗朝臣義賢〈奉〉
僕奉勅、於左仗右府、右府仰右中弁、〈賴任〉令陰陽寮、并令文書硯等、史等進文書硯例、右府令左宰相中將書僧名等、右中弁進日時勘文、右府加入定文日時文於筥、令右中弁奏一レ之、弁先内覽關白殿、次奏之、次奉右府、則給之、於陣腋、下史義賢朝臣、義賢朝臣書宣旨、下綱所、兼又可充供菜料之由、賜宣旨於國々、又可社頭房装束之由、令便宜國々諸衞等云々、

〔日本紀略〕

〈十四後一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1325 長元三年五月十九日辛未、請千僧於大極殿、令壽命經、公卿以下、依宣旨調進經卷、以天台座主慶命講師、令疾疫之災、 廿四日丙子、下知諸國、圖繪丈六觀音像、轉讀觀音經、爲疾疫也、 六月廿日壬寅、於大極殿、有臨時仁王會、依疾疫并宇佐宮神馬焼斃也、

〔類聚符宣抄〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1325 太政官符、五畿内七道請國司、
寫供養丈六觀世音菩薩像壹體、請觀世音經佰卷
右去春以來、疾疫滋蔓、病死儔多、仍寄託内外、雖祈禱、空經旬月、未休除、夫觀世音菩薩者、衆生依怙、能施無畏、患病厄者、必拔苦源、遭急難者、乍得解脱、就中十一面觀世音、有頂上佛面除疫病之願、請觀世音經、有http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000016752.gif 舍離國救苦厄之敎、旁仰弘誓、豈無冥感乎、正二位行大納言兼民部卿中宮大夫藤原朝臣齊信宣、奉勅、宜知五畿内七道諸國、圖寫件菩薩像并經卷、官符到後、擇定吉日良辰、専當於國分寺、請當寺淨行僧十口、開講供養矣、即一七日間、轉讀件經、但請用之僧、有法之輩、尋訪他寺、備 彼員數、祈以件事、必期靈驗、又轉讀之間、殊致潔齋絶葷腥、禁止屠割、其施供料、用正税、若無正税、用在官物者、諸國宜承知、依宣行之、符到奉行、
造大安寺長官正四位下行右大弁兼内藏頭中宮亮源朝臣 從五位下行左大史惟宗朝臣
長元三年五月廿三日

〔春記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1326 長暦四年八月十六日戊戌、此兩三日、京中上下悉以病惱、男女房等不内也、藏人只二人所候也、〈○中略〉予〈○藤原資房〉參關白殿、〈○藤原賴通〉殿下坐中納言〈○賴通二子通房〉御方、彼納言、從昨日病惱云々、是世間之病歟、〈○中略〉命云、中納言從昨日病惱、非重惱、近來天下之上下人々、皆以病惱、但不四五日云々、家中人皆病惱、不來爲之如一レ何、予申云、大内如之、 十七日己亥、參入關白殿、命云、家中上下皆悉病惱、無人駈仕之如何、但件病、不死亡尤所悦思也者、

〔百練抄〕

〈四後朱雀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1326 寬德元年疫疾尤盛、死骸滿道路

〔扶桑略記〕

〈二十九後冷泉〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1326 永承七年壬辰正月廿六日癸酉、屈請千僧於大極殿、令讀觀音經、自去冬疾疫流行、改年已後彌以熾盛、仍爲其災也、

〔百練抄〕

〈四後冷泉〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1326 永承七年五月廿九日、大安寺東寺新造神社行御靈會、依疫疾御示現也、世名曰祇園社、 八月廿五日、今年、疫病流行天下

〔扶桑略記〕

〈二十九後冷泉〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1326 永承七年六月十七日庚寅、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003819.gif 千口僧於大極殿、轉讀金剛壽命經、蓋祈疾疫也、

〔扶桑略記〕

〈二十九後三條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1326 延久三年正月十六日壬寅、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003819.gif 千僧於太政官、被養轉讀觀音經、祈時疫也、

〔扶桑略記〕

〈三十白河〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1326 承保二年十月十九日丁未、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003819.gif 百僧於大極殿、三箇日轉讀大般若經、祈民庶頓滅也、廿一日己酉、大赦天下、爲同厄也、

〔中右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1326 寬治八年〈○嘉保元年〉六月三日、近曾兼禪巳講入滅云々、薗城寺人老僧也、又故若狭守師基女房〈老年七十七云々〉卒去云々、是故宇治大納言殿第三女也、民部卿并左宰相中將〈能〉籠居、去二日明法博士兼 左衞門尉中原範政卒去、〈年五十七云々〉凡夭亡者不勝計、京中路頭河原之邊、近日積骸骨、可大疫

〔朝野群載〕

〈二十一雜文〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1327 天下不靜間事
禮記月令日、孟春之月行秋令、則民大疫、又曰、季春之月行夏令、則民多疾疫
今案、政令違節、民有疾疫歟、〈○中略〉
漢書曰、柏者鬼之廷也、師古曰、鬼神好幽闇、故松柏爲廷府也、
正暦五年六月廿七日、被置疫神於船岡上、長保三年五月九日、被置疫神於紫野、京師衆庶行御靈會、件年々天下不靜、仍有此儀、無量之條、已叶本文、鬼神好幽闇、神有歸者、不厲之故也、風聞紫野今宮、久歴年序、漸及破損、加之下民之愚、誤伐樹木歟、早加修復、必有感應矣、
右民者國之寶、君之本也、治國之道、不匹夫、即近日以降、天下不靜、物故之者、往々在焉、因修明文、可計行、所謂一人有慶、兆民賴之、仍大略注申如件、
天承二年閏四月八日 散位中原師元

〔百練抄〕

〈八高倉〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1327 承安二年五月十二日、京中諸人、修諷誦於六角堂因幡堂、爲疫疾云々、

〔帝王編年記〕

〈二十二安德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1327 養和元年、今年天下飢饉、道路餓死者充滿、以來未此也、
壽永元年、飢饉同去年、旱魃疫癘越年、死人在墻壁

〔方丈記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1327 又養和のころかとよ、ひさしくなりてたしかにもおぼえず、二年があひだ、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき、〈○中略〉明くる年は、たらなほるべきかと思ふ程に、あまつさへ えやみ( ○○○) うちそひて、まさるやうに跡方なし、世の人皆うゑ死にければ、日を經つ、窮りゆくさま、少水の魚のたとへに叶へり、終にはかさうちき、足ひきつ、み、身よろしき姿したるもの、ひたすら家ごとに乞ひありく、かくわびしれたるものども、ありくかと見れば、則倒れ伏しぬ、ついひぢのつら、路の頭にうゑ死ねる類は數も知らず、取り捨るわざもなければ、くさき香、世界にみち〳〵て、變り ゆくかたちありさま、目もあてられぬこと多かり、いはんや河原などには、馬車のゆきちがふ道だにもなし、

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1328 文治三年四月廿四日乙未、親經來仰、院〈○後白河〉宣云、近日 天下有病患( ○○○○○) 、又兒女有諺言、尤可御祈事云々、申云、尤可然候、於諺言者未承及候、病患粗有其聞、御祈尤可候、但用途事難叶、先日可功國之由奏聞、此事未無御沙汰、依御定五六ケ國相計雖催仰、敢無領状之國、以別勅定仰下歟、抑近日可意見德化之由有其聞、其事無私被行者、祈禱攘災不之者、

〔吾妻鏡〕

〈二十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1328 寬喜三年七月十六日、今月天下大飢饉、又二月以來、洛中城外疾疫流布、貴賤多以亡卒云々、

〔春日驗記〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1328 禪南院範雅僧都が養父大舍人入道といふものは、そのころ人にしられたる侍也、あるとし天下に 疫病( ○○) はやりて、家ごとにやみけるに、この入道が郞等男、ゆめに數多の武士この家にうちいらんとするに、先陣のともがら、うちをみいれて、かぶとをぬぎて拜していはく、此所には唯識論おはします、狼藉あるべからずとて、やがてみな退出しぬ、夢さめて後翌朝に、入道が家にきたりて此よしをかたる、そも〳〵唯識論とはなに物ぞやといふ、範雅おりふし在京して、かの家に同宿したりければ、このよしをつたへきヽて、くはしくその家をみるに、まろう人井の棚のおくより唯識論第九卷をもとめいだしてけり、此僧者都つねに宿しければ、同朋どもなど取落けるにぞと、

〔融通念佛縁起畫詞〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1328 去正嘉のころ、疫癘おこりて人おほく病死にけり、其時武藏國與野郷に一人の名主あり、年來念佛信心の人にて、世間の疫癘をのがれんがために、家うちの老少をすヽめて、明日より別時念佛をはじむべきにて、番帳を書て道場におきけり、その夜の夢に異形の者ども如霞むらがりて行けるが、此家の門のうちへいらんとしけるを、あるじ出むかひて云、是は家 中の男女心をひとつにして、別時念佛を始べきにて結番して、すでに彼番帳を佛前におきたり、亂入する事なかれといふ、こヽに疫神のいはく、汝がいふことまことにしかり、然ば番帳を披見すべしといふ、主すなはち是を見するに、疫神隨喜せる氣色にて、結衆の名字の下ごとに判形を加てけり、いはく、我一人の息女あり、他所にありといへども、彼名字を書て此念佛にいれんとおもふ、疫神これをゆるさずと見て夢さめぬ、其夜あけて番帳を見れば、實に名字の下ごとに判形あり、いろはの字を書損せるがごとし、其色焼驗をしたるに似たり、夢にたがへず家内の老少いさヽかもつヽがなきに、かの他所にある息女は、此病にて終にけり、此事其聞ありて、彼番帳をば將軍家へめされてけり、是併祇園部類春屬等も、みな融通念佛の結衆にて御坐ば、彼異類異形と申も別のものにあらず、皆祇園部類眷屬どもなれば、元より此念佛衆に入たる疫神也、眞實に深志を致して、道場を莊嚴して番帳をくり、明日より別時念佛を始べき信心の誠、色にあらはれければ、行疫神も番帳に判形を加へ、隨喜して過にけり、

〔園太暦〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1329 康永四年九月十九日、天下依病事、被御祈例、
文永元年七月上旬以來、咳病流行、 建治參年秋以來、天下病患流布、

〔看聞日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1329 應永廿七年二月十八日、去年病惱本腹被立願云々、抑去年炎旱飢饉之間、諸國貧人上洛、乞食充滿、餓死者不數、路頭ニ臥云々、仍自公方諸大名、五條河原ニ立假屋施行、受食醉死者又千万云々、今春又疫病興盛、万人死去云々、天龍寺相國寺引施行、貧人群集云々、明盛法橋自十一日件病、以外大事也、不便々々、盛源總罷出、聞知識龍山雖禁獄咎之由申披、自樓被出、追放云々、

〔多聞院日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1329 天文三年二月三日、予歳十七ニ母ヲ送テ、釜口靈山院忌中、三月ノ初、 疫病煩ヒ( ○○○○) 、既ニ死ントス、師英磐ヨリ爲祈禱大般若トモ轉讀卷數并赤童子〈蓮成院所持本尊〉下給、前後不覺、入夜ウッヽ ニ赤童子仰云、汝ニ學文望ナラバ、一切經ノ御廊ニオワセヨトノ玉、サテ前後ニ男女鬼形ヲヽカリキ、赤童子杖ヲ以テ打拂セツルニ、彼鬼ドモ手ヲ合、ワビユト申キ、シカレバヲノレラ、向後此モノニ障ヲ不成トアリシニ、無是非旨請ヲ申上、悉ク歸ト、タヾチニ見シニ、予伯父ノ坊主敎弘阿闍梨モ長病煩ヒ、氣ソノ砌ノ夢ニ、マノアタリ愚ガ所ヨリ異形ノモノ多ク去ト見ルト、其後本復了、

〔鹽尻〕

〈四十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1330 正德四年甲午三月霾蒙して日月光なかりしが、四五月の比、肥前長崎港疫疾大に流行し、比屋病床に臥し死に至る者七千餘に及びし、〈六月官に請て報金を賜はりし〉九州四國中國の方も又疫氣一時に行れ、是に死する者甚多しと聞ゆ、六七月、難波京師に及び、染疫の家に苦しみ愁ふ、泉南尤甚しく、堺の商家死亡數千人なりし、京にて組を定め人形を作り、夜に入數十人金鼓にて疫を送る事喧びすしく、前代未聞の姿なりし、關東も同じ樣にて、我府下中元の前後病に臥し、醫師藥匙をさしをく時なかりし、され共五三日にてやがて本復し、死亡する者は傳へ侍らず、勢江濃三の諸州東都も同じ疫に染ざるはなし、古へにいふ 三日疫病( ○○○○) とはかヽる類にや、

〔閑窻瑣談〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1330 天行病
何物語とやらいふ書〈正德享保年間の實録にて、其時にしるせし寫本なり、〉に、正德六年の夏熱を煩ふ病人多く、一ケ月の中に、江武の町々にて死する者八萬餘人に及び、棺をこしらゆる家にても間に合ず、酒の空樽を求めて亡骸を寺院へ葬るに、墓地に埋むる所なければ、宗體に拘らず火葬ならでは不納といふ、依之荼毘所に送り火葬せんとすれば、棺桶の數限りもなく積かさねて、十日二十日の中には火をかける事ならず、其到來の順々に荼毘すれば、日數をはるかに經といふ、こヽにおゐて貧しき者の亡骸は如何ともすべきやうなく、町所の長たる人々も世話行届かで、公廳へ訴へまうせしかば、夫々の御慈悲を賜り、寺院に仰せつけられて、葬がたき亡骸をば、回向の後、菰に包みて舟に乘 せ、こと〴〵く品川沖へ流し、水葬になさせられしといふ、按ずるに、正德六年は六月二十二日に改元あつて享保元年となれり、彼明暦三年の火災に、十萬八千人の燒は、當時猶言傳へて怖るれど、享保元年の天行病に、數萬人の一時に死亡せしを、後に傳へて言ものなきは、火難と違ひて、書留しもの、鮮き故なるべし、

〔鹽尻〕

〈四十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1331 一享保元年丙申夏の初メ以來、諸國疫癘流行して、我尾府は南熱田海邊ことに比屋死亡する者百を以て數ふ、五月の末猶病に臥者一千九十餘人と聞へし也、醫に命じ藥を施さしめましますとかや、

〔時還讀我書〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1331 享保十八年辛丑十二月、飢饉ノ後、時疫流行セシニヨリ、官ヨリ望月三英、丹羽正伯ニ命ゼラレ、治時疫方ヲ集メ、又凶年ノ時ハ僻地ノ民、雜食シテ毒ニアタルヲ以テ、解食毒方便易ナルヲ撰バシメテ、町奉行所ニテ上木ナサシメ、都鄙ニ頒行セシメタマフ、其方ハ醫説ノ大豆甘草ノ方肘後方ノ蘘荷根ノ方ナド十一首ナリ、其後天明四年甲辰、諸國ニ時疫行ハル、トキ、天保八年丁酉、荒歉ノ後ニモ、再其方ヲ頒タシメラレタリ、國家仁慈ノ政至レリトイハザルベケンヤ、

〔救http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif 袖暦〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1331 新ニ 冷疫( ○○) ト云ル名目ヲ設ルコト
安永ノ初、長夏流行病アリテ、死亡塗ニ相望メリ、其症種々異同アリトイヘド、ソノ始多惡風肌熱、水瀉嘔吐、不食ニ起リ、煩渇譫語吐衂血ナドニテ、日ヲフルマ、ニ沈重ニ至リ、醫皆手ヲ束ネタリ、一老醫寐ビエヨリ起リタルトテ、張景岳ガ五君子煎ヲ投ジテ、嘔吐不食煩渇譫語ナドヨク除キ、救療尤多ク、遂ニ疫ヲ治スル一良法トセリ、〈人參、白朮、茯苓、干姜、甘草、〉予〈○工藤平助〉モ亦此ニ傚て得ル處多カリシ、陳皮年夏ヲ加テ七賢湯ト名テ施モアリキ、其後ハ稀ニテ久ク廢シテ用ヒザリキ、按ズルニ、ネゼエト云病名ハ、我邦ノ通言ニテ、寢中ニ冷ニ感ゼシハ、腸胃中ニ舍ルナルベシ、是故ニ寒熱腹痛水瀉ヲ以テ、ネビエノ症トセリ、皮表ニ在邪ト異ニシテ、月日ヲ經テ經ニ傳ルトイヘド、イッマデモ 冷ヲ伏シテ熱ニ化スルコトナシ、中塞傷風ト大ニ異ニテ、ネビエト云ル一症アルナリ、何ノ國ニモアルベキヲ、コレニ相當ノ議論名目ヲ見ズ、撿索スベシ、總テネビエトイヘバ、世間皆輕症トノミ思ヒ居レリ、然ルヲ寐冷ヨリ危篤ニ及ヲ發明セルハ卓見ト云ベシ、今ヲ以テ思ニ、安永ノネビエノ症ノ流行セルハ、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif 疫ノ一症ナルベク、ネビエトノミハ云ガタカルベシ、尋常ノネビエハ、年年ニアレドモ、危篤ニ及ブコトナキニテ觀レバ、決定流行疫ノ寝中ヲ犯シテ、腸胃腸間ニ潜伏シテ、惡心不食水瀉赤白痢等ノ症ヲナスナルベシ、

〔蜘蛛の絲卷〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1332 疫病
安永二年夏、疫病流行死亡多かりしゆゑ、官より寺院へ御尋ねありしに、疫病十九萬人、蓋し中人以上は、病者稀にして下賤に多かりしと、同三年の冬、嚴寒にて川々氷厚く通船なりがたく、諸品高價、同四年、凶作、同五年麻疹流行、三十以上の人、貴賤となく病まざるはなし、

〔救http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif 袖暦〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1332 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000017992.gif 温治騐
寶暦ノ末年、東都 大疫( ○○) アリ、其證自汗壯熱煩渇、小便頻數淋痛短少、大便或ハ秘シ或ハ溏ス、甚者ハ頭眩、嘔逆譫語脈浮緩ナリ、類案ニ羅子ノ説ヲ引テ云、 風@017992.gi( ○○) ト名ヅク、傷寒ニアラズトアリテ、五苓散ヲ主トセリ、此説ニ從ヒ五苓散ヲ煎湯トナシ與ヘテ、人ヲ救フコト多シ、

〔救http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif 袖暦〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1332 温疫轉變ノ記
寶暦ノ末年ヨリ今寬政ニ至ルマデ三四十年來、江戸ノ病人ヲ見ルニ、正傷寒ハ稀ニテ、四時共ニ多クハ温疫ナリ、温度ハ戻氣ナレバ正傷寒ノ第一種ナルノ比ニハアラズ、種々品々ナリ、此故ニ只一症ヲ知得タリトテ、盡セリトハ言ガタシ、予寶暦丑寅ノ頃二十四五歳ノ時ヨリ、專ラ治療ニ苦ミシガ、明和中マデ十二三年ノ後、時行一變シ、寬政ノ始ニ至テ又一變セリ、スベテ時ノ流行ヲヨク知得ズバ、測ラザル變ニ逢テ狼狽スルコト多カルベシ、予麁工ナリト雖モ、犬馬ノ齢幸ニ八 八ノ年ヲ積テ、是マデノ流行ヲ考ルニ、轄變トハイヘド、今ノ流行今ニ始ルニモ非ズ、四十年來ヨリ有キタリタレド、其治ヲ得ザルユヘ、徒ニ過シタルナリ、一般流行トイヘド、種々ノ病症イツトテモ交リオレリ、其内ニサマデ誤治ナリトモ思ハズシテ沈重ニ至ルハ、見シラザル一種ノ症ナルベシ、願クハ予ガ志ヲ嗣デ温疫ノ種類、吾輩ノ知ザルヲ治シ得ルコトアラバ、コレニ績テ救世ノ術ヲ弘メタマヘカシ、

〔時還讀我書〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1333 時疫ノ流行ハ其理ヲ推知スベカラザルコトアリ、寬政七年ノ三月初旬、大君小金原ニ狩シ玉ヒテ、四五日ノ後ヨリ感冒行レタリ、其患者ノ衣袂ニ必ズ猪鹿ナドノ獸毛アリ、少キハ七八根多キハ掌ニ満ルニ至ル、故ニ時人名ケテ御猪狩風ト云シトゾ、實ハ何ノ故ナルコトヲ審ニセザルナリ、又閑田次筆ニ、享辛酉〈○元年〉ノ歳極月ヨリ壬戌〈○二年〉ノ正月ニ及ビ、疫邪流行ス、荷蘭人ヨリ傳ヘシトモ、去年漂流セシアンポンナドヨリ染シトモ云ヘリ、京師ハ二月廿日頃ヨリ三月廿日頃マヂ行ハレ闔戸ミナ病ム微疫ナリ、其病人袂ノ中ニ必ズ薄赤キ毛アリ、或ハ一條或ハニ三條ヅヽナリ、近江播磨ノ國々皆シカリ、怪キコトナリ、蠻人ヨリ傳ヘシ故ニ、カヽル毛モ生ぜシヤト云ヘリ、意フニコレト同證ナランカ、彼ノ所謂羊毛http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif ハ身體ヘ羊毛ノ如キモノヽ生ズルニテ自ラ別病ナリ、

〔閑田次筆〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1333 辛酉のとし〈○亨和元年〉極月より壬戌〈○亨和二年〉の正月におよび、長崎に疫邪流行す、予が門に遊ぶ人かしこに事ありて、一周年が間族ゐせるも、病たるにつきて、いひこされしは、阿蘭陀人より傳へしとも、又去年漂流せしアンホン、その外蠻人より生ぜしともいふ、往年暹邏人渡來りしより、風邪流行せし例なりときこゆとなん、此邪氣長崎より九州を經て、つひに上方におよび、世間一遍になり、京は二月の廿日餘りより三月廿日ごろにおよび、毎家毎人病ぬものなし、近江わたりもおなじ頃とぞ、風邪に似たれども一種の疫氣な んと、呉又可が温疫論にて思ひ合せ ぬ、療治も凡微疫をもて、藥したるは速に効をえたりと見ゆ、さてあやしきは邪を病ものは、必袂のうちに毛ありといふ、それは脇毛の落たるならんと嘲る人もありしかど、予が近江の親族の者たもとのうちに、薄赤きいろの毛を一すぢ見つけて、家の内のものどもの病るを、人毎に袂を見せしむるに、皆おなじ、あるひは二すぢ三筋にも及ぶが有しといひき、播磨尾張の國々よりいひこせしも同じ、いとあやしきことなり、予が家に病みしは、はやくてさる噂も聞ざりしかば、心もつかずいかヾ有けん、蠻人より傳へしゆゑに、かヽる毛も生ぜしにや、必袂の中より操出せしも奇なり、定理をもては論じがたし、

〔時還讀我書〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1334 文化丙子夏秋ノ際、都下大ニ疫アリ、其症初起遽ニ少陽ヲ犯テ、熱勢熾盛、二日ナラズシテ精神昏憒スルニ至ル、大抵大小柴胡黄連解毒ノ類ノ擬スベキモノ多ク、正陽明ヲナス者ハ少カリキ、老醫ノ話ヲ聽ニ、先年ハ陰症躁擾スル證多カリシト、先敎諭ノ傷寒ヲ治セラレシヲ視ニ、亦多ク參附ヲ用タマヒシナリ、蓋コノ歳ヨリ以後ノ疫ハ、大略此種ノ證ニシテ陰證ハ至テ稀ナリ、風氣變遷ノ然ラシムルモノナランカ、

〔時還讀我書〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1334 天保庚寅〈〇元年〉四月ヨリ六七月ニ至ルマデ時疫アリ、患ル者甚多シ、其症多ハ初ヨリ惡寒ナク熱甚ク、脈緊數ニシテ、大便下利、舌上胎ナク水ヲ欲シ、劇キハ赤斑ヲ發シ、或ハ發黄、或ハ衂血大便血、或ハ歯齦出血スルモノアリ、淸熱凉血ノ效ヲ得ルコト多カリシ、サレドモ不治ノ症亦少カラズ、舌胎ト熱候トハ甚相適セザリキ、且其熱ノ解シテ爽快ニ及ブニハ甚日ヲ引タリ、輕症ニテモ一月餘、重キハ二三月ヲ逾ルニ至レリ、邪熱血脈ニ沈漬セシ故ナルベシ、前件ニモ云ヘル如ク、近年ハ攻補温凉トモニ純一ニナシガタキ症多キコトハ、コレ等ニテモ知ルベキナリ、

〔寬天見聞記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1334 事の序に、先一年の飢饉の事を説ん、天保七年八月、諸國大風雨にて、其年五穀不熟にして、天下大飢饉とぞきこえける、されば諸色の價次第に上りて、同八年には、御藏前の相場は、百 俵に百五十兩ほど、銭百文に白米四合より貮合五勺迄に至りしかば、下賤の者難儀いふばかりなし、火附盗賊多くして、同八年正月廿八日の夜は、江戸中に火災九ケ所ほど有て、日々物さわがしく、其うへ大疫流行して人多く死す、飢にくるしみ道路にたほれ死す者、昨日はこヽ今日はかしこ、幾人といふ數を知ず、

〔天保集成絲綸録〕

〈百六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1335 天保八丙年四月
大目付〈江〉
時疫流行候節、此藥を用て其煩をのがるべし、
一時役には大つぶなる黒大豆をよくいりて、壹合甘草壹匁水に而せんじ出し、時々呑てよし、右醫渥ニ出ル、
一時疫には茗荷の根と葉をつきくだき、汁をとり多呑てよし、右肘後備急方ニ出ル、
一時疫には午房をつきくだき、汁をしぼり、茶碗半分宛二度飮て、其上桑の葉を一握ほど火にてよくあぶり、きいろになりたる時、茶碗に水四盃入二盃にせんじて、一度飮て汗をかきてよし、若シ桑の葉なくば枝に而もよし、右孫壹人食忌ニ出ル、
一時疫に而熱殊之外つよく、きちがいのごとくさわぎてくるしむには、芭蕉の根をつきくだき、汁をしぼりて飮てよし、右肘後備急方ニ出ル、
一切の食物毒にあたり、又いろ〳〵の草木、きのこ、魚、鳥、獸など喰煩に用ひて其死をのがるべし、
一一切の食物の毒にあたりくるしむには、いりたる鹽をなめ、又はぬるき湯にかきたて飮てよし、
但草木の葉を喰て毒にあたりたるには、いよ〳〵よし、右農政全書ニ出ル、
一一切の食物の毒に當りてくるしく、腹脹痛には、苦參を水にて能せんじ、飮食を吐出してよし、右同斷、
一一切の食物にあたりくるしむに、大麥の粉をこふばしくいりて、さゆに而度々飮てよし、右本草綱目ニ出ル、
一一切の食物にあてられて、口鼻より血出てもだへくるしむには、ねぎをきざみて、壹合水にてよくせんじ、ひやしおきて幾度も飮べし、血出やむまで用てよし、右衞生易簡ニ出ル、
一一切の食物の毒にあたり煩に、大つぶなる黒大豆を水にてせんじ、幾度も用ひてよし、魚にあたりたるにはいよ〳〵よし、
一一切の食物毒にあたり煩に、赤小豆の黒燒を粉にして、はまぐりかひに一ツ程ヅヽ水にて用ゆべし、獸の毒にあたりたるにはいよ〳〵よし、右千金方ニ出ル、
一菌を喰あてられたるに、忍冬の莖葉とも生にてかみ、汁をのみてよし、右夷堅志ニ出ル、
右之藥方、凶年之節、邊土之者、雜食の毒にあたり、又凶年之後、必疫病流行の事あり、其爲に簡便方を撰むべき旨依仰付、諸書之内より致吟味出也、
享保十八辛丑年十二月 望月三英
丹羽正伯
右は享保十八辛丑年、飢饉之後、時疫流行いたし候處、町奉行所〈江〉板行被仰付、御料所村々〈江〉も被下候寫、
右は當時諸國村々疫病流行いたし、又は輕きものども、雜食之毒に當り、相煩難儀いたし候趣相聞候、天明四辰年御藥法爲御救相觸候處、年久敷事故、村々に而致遺失候儀も可之候ニ付、此度爲御救、右之寫、猶又村々〈江〉領主地頭より可相觸候、
右之通可相觸
四月

〔橘黄年譜〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1337 嘉永五年七月以還、築地土州邸http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif 疫( ○○) 流行ス、門人黒岩誠道父尚謙、余〈○淺田宗伯〉ヲ延テ療セシム、野々村三内妻及子、一瀨孫之進妻及息、乾守右衞門并男、富永源次郞妻及女、山中常太郞、北村平之進、勝賀瀨助及息善太郞、佐々内藏太及妾、奥村爲右衞門及兒、松井源藏息、國澤善之丞妻、南玄仲後室、鳥池九一郞、林源三郞等、皆危篤ノ域ニ至リ、升陽散火湯、加附子、眞武、合生脈散、茯苓四逆湯、既濟湯、烏梅園、呉茱莄湯ニテ救治ス、福永儀助男、谷兎毛妻、森岡彌右衞門、祐祥院僕音吉ノ如キハ、元氣衰脱シ遂ニ治スル能ハズ、此事土州侯工聞へ、留守居廣瀨源之進ヲ以テ其邸ニ出入スルコトヲ許サル、
余前年ノ疫ニ多ク石羔ヲ使用シテ効ヲ奏ス、當年ノ疫大抵附子ニ非レバ救フ能ハズ、疫氣運二屬スル論廢スベカラズ、蓋仲師ノ敎益萬古不易ヲ覺ユ、

疫病除

〔釋日本紀〕

〈七述義〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1337 備後風土記曰、疫隅國社、昔北海坐〈志〉、武塔神、南海神之女子〈乎〉、與波比〈爾〉坐〈爾〉日暮、彼所蘇民將來二人在〈伎〉、兄蘇民將來甚貧窮、弟將來富饒、屋舎一百在〈伎〉、爰塔神借宿處、惜而不借、兄蘇民將來借奉、既以粟柄座、以粟飯等饗奉、饗奉既畢出坐後〈爾〉經年率八柱子還來〈天〉詔〈久〉、我將奉之爲報、答曰、汝子孫其家〈爾〉在哉〈止〉問給、蘇民將來答申〈久〉、己女子與斯婦侍〈止〉、申既詔〈久〉以茅輪於腰上、隨詔令著、既夜〈爾〉蘇民與女人二人〈乎〉置〈天〉、皆悉許呂志保呂保志〈天伎〉、既詔〈久〉吾者、速須佐雄能神也後世〈仁〉疫氣在者、汝蘇民將來之子孫〈止〉云〈天〉、以茅輪腰上、詔隨詔令著、既家在人者將免〈止〉詔〈伎〉、

〔老牛餘喘〕

〈初編上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1337 疫神社
此御社、古き村には必立給へり、然れども今は大かたいづこも小き祠にて、いつの頃より祭りしとも尋ねおもふ人なし、こはふるき御社なり、類聚國史に、寶龜二年令天下諸國祭疫神とみ ゆ、此御社には素戔嗚尊を祭るといひ傳へたり、これ古き傳へなり〈然れども素戔嗚尊とのみこヽろうべからず、下にいへるをむかへ見てしるべし〉、此尊岩戸の前よりやらはれて、降り給ひし時、宿を道のべの神に乞給へども、やどし奉る家なくて、雨風いたく吹降といへども、暫くもやすらふ事を得ずして 辛苦艱難( タシナミ) つヽ降り給へり、此時に備後國に巨且といひて〈巨且長者と語傳へたり〉富る者あり、宿を乞給へども、かしまゐらせず、其弟なる蘇民は〈蘇民將來ど語傳へたり〉貧しかれど、いたはり奉りてやどしければ、後に巨且が家に疫神入てあらび、そみが家には入ざりし事など、備後風土記にみゆ、〈此風土記の事は、寓言なりと云人もあれどしからず、此書全くは傳はらで、引たる書によりて、後の人の竄入もみゆれど、事は實にて、今に國人舊跡を傳へて、素戔嗚尊を祭れる御社も近く立給へれば、しふべからず、委しくは備後略記前篇にしるせり〉、しかれば此尊、根の國に降り給ふとある根の國は、山陽山陰兩道をいふと、新居氏〈新居白石先生といふ人〉のいへるがごとし、古は山をねともいへり、富士のね、甲斐がねなどいと多し、されば此尊、備後を通りて、出雲へ降著給へり、くはしき事は備後略記の品治郡の條にいへり、さて此尊は疫をはらひ退け給ふ故、疫神社に祭るといふは、あらめなる説なり、書にも直ちに疫神また行疫神などヽあれば、疫をなす神をいふなり、こは素戔嗚尊のわかくおはせし時、あらび給ひし名残の靈を疫神と申なり、〈しからばかの蘇民が家にて、疫神を防ぎ拂ひ給ひしは、いかにおのれ尊の靈をはらひ給ふ事いぶかしと、いふ人あるべけれど、其時ははや正しき神にておはせば同じ尊の荒靈と別神になり給へればあしき神を拂ひ退け給ひしなり、こヽは大名貴命の、おのれ命の幸魂奇魂と問答し給へりしを見て知べし、尊き神の御上には、しかあることおほきぞかし〉、是を祭るは、御社に鎭まりまして、あらび給はざらむ事を祈りて、みあへ奉るなり、古學する人は、世間の曲事はみな、枉津日命のみしわざにて、疫神と申も此神なりといへども、かたよりなる説なり、古より素戔嗚尊を申といへるはあらめなる事もあれど中々なほき傳なりかし、かくいへば、しからば素戔嗚尊は、邪神なるかといふ人も有べけれど、そはおだやかに考ざるなり、今の世間にも邪神にはあらで、をり〳〵にはあらびます事あるにあらずや、そは邪神の見入にて、正しき神のみしわざにあらずといはむか、そも邪神見入て來ら ば、いづこにも正しき神おはすなれば、など邪神をばほせぎ給はぬにや、されば神の御うへの事は、かたづめてはいはれぬものなり、たヾ常には尊みて幸を祈り、あらび給ふ時はかしこみてしづまり給はむ事を祈るべきなり、これ世の中にもしかする事にて、すなはちなほき御國のならひなりとしるべし、

〔延喜式〕

〈三臨時祭〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1339 宮城四隅疫神祭〈若應祭京城四隅准此〉
五色薄絁各一丈六尺、〈等分四所、已下准此、〉倭文一丈六尺、木綿四斤八兩、麻八斤、庸布八段、鍬十六口、牛皮熊皮鹿皮猪皮各四張、米酒各四斗、稻十六束、鰒鰻堅魚各十六斤、腊二斗、海藻雑海菜各十六斤、鹽二斗、盆四口、坏八口、匏四柄、檞十六把、薦四枚、藁四圍、楉棚四脚、〈各高四尺、長三尺五寸〉、朸一枝、
畿内堺十處疫神祭〈山城與近江堺一、山城與丹波堺二、山城與攝津堺三、山城與大河堺五、山城與伊賀堺六、大和與伊賀堺七、大和與紀伊堺八、和泉與紀伊堺九、攝津與播磨堺十〉、

〔今昔物語〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1339 讃岐國女行冥途其魂還付他身語第十八
今昔、讃岐ノ國山田郡ニ一人ノ女有ケリ姓ハ布敷ノ氏、此女忽ニ身ニ重キ病ヲ受ケタリ、而レバ直ク味ヲ備テ門ノ左右ニ祭テ、疫神ヲ賂テ此ヲ饗ス、

〔笈埃隨筆〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1339 疫鬼
洛北一乘
寺村金福禪寺の住僧松宗語られけるは、先年備後國三好鳳源寺にて愚極和尚を招き請ぜり、愚極は梵綱經開板の智識にて有けり、則誥度あり、松宗壯年の頃にて此會座に連り、衆僧と倶に禪室に入、結迦趺座し居たり、衆僧も晝夜の勤行に勞れ、膝突にふら〳〵と眠りぬ、然るに松宗不圖頭をもたげ見れば、垂たる帷幕を押上て、堂内を見とし〳〵する者有、無禮成奴かなと見留れば、八十計りの老人顏色靑ざめ至極瘦衰へ、白髪ふり亂し白髭たれたるは、世にいふ貧乏神ともいふべし、淺間敷樣にて座にもの凄く覺ゆる程也、此者そろ〳〵と結界を越て堂内に入 らんとする氣色なれば、松宗物をもいはず、づか〳〵と走行て押出すに、彼者は是非に入らんとするを、力に任せて押出ば、拍子に連て礑と轉たる音して、其後は見へずなりぬ、靜に座に歸り又元の如く胡座せり、最怪しく思ひながら、人にも語らざりけるに、其夜村の者來りて咄す樣は、近在近郷に疫病流行し、村毎に過半病死す、忝きは此寺に大法會のある故にや、此村に一人も病者なしと賞嘆せり、爰に於て松宗、扨も今日かやう〳〵の事有し、村里にも見ぬ怪しき者來れり、是や疫神といへるものかといふに、一座左にこそあらんと、いよ〳〵修行怠慢なかりしかば、衆僧三百餘人より下部に至る迄、村を限りさらに病患なかりけると也、〈○中略〉是等皆疫鬼也、諸書にいふ所、我國中華倶に同説也、彼 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000r13401.gif http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000r13402.gif 乙( シユキンヲツ) の三字の靈符に恐れて、疫邪の鬼神、川を渡り得ざりしも同じきか、或は又洞家の祖師道元禪師、中華に傳法の頃、山中にして癘鬼に逢れし時一偈あり、左の如し
無位眞人現面門 智惠愚痴通般若 靈光分明輝大千 神鬼何處著手脚
と示されたり、妙驗さらに疑ふべからず、今諸國此四句を門戸に貼し、或は右の三字の靈符を書して、疫癘を避るとするも故あるかな、

〔燕石雜志〕

〈三上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1340 鬼神餘論
世に疫鬼痘鬼といふものあり、疫鬼は俗にいふ疫病神、痘鬼は俗にいふ疱瘡神なり、和名鈔に、瘧鬼、邪鬼、窮鬼等を出せり、窮鬼の人の家にあるを耗といふ、世俗貧乏神といふは是なり、和名鈔に云、瘧鬼、蔡邕獨斷云、昔顓頊有三子、亡去而爲疫鬼、其一者居江水、是爲瘧鬼、〈和各衣也美乃加美〉或〈於爾〉邪鬼、日本紀云、邪鬼〈和名安之岐毛乃〉窮鬼、遊仙窟云、窮鬼師説、〈伊岐須太萬〉といへり、みなこれ大陽の毒にて、一時の氣運に乘じて流行す、顓頊の子亡去て疫鬼となるといふものは誕妄のみ、疫癘は冬より發りて春夏の間最も盛なり、その寒に傷らるヽもの、春夏大陽の毒に觸て誘引はる故に、和漢除夜に儺して もて、疫鬼を驅るといふ、我俗これを 疫おとし( ○○○○) といふ、後遂に災厄の厄とするものは誤れり、唐山には立春の日、土牛を造りて農事をすヽむ、天朝亦これに傚ふて、大寒の日夜半に、陰陽寮土牛童子の像を造りて門戸に立、延喜式に、土偶人十二枚〈高各二尺〉土牛十二頭と見えたり、その數一年十二ケ月を表する歟、土牛は靑黄赤白黒なり、春夏秋冬東西南北の色に隨ひてこれを立るとなり、亦水鏡文武紀に、慶雲二年とまうしヽに、世の中こヽちおこりてわづらふ人おほかりしかば、追儺といふ事ははじまりしなりと見え、亦慶雲二年、天下疫癘盛にして、人民多く失しかば、土牛をつくり追儺といふ事始れりと、公事根元にも記されたり、吉田の疫塚これその餘波歟、毎歳節分の夜、吉田神祇官において、庭上に塚を築きこれを疫塚といへり、その塚、正月十九日に至りて解去るを淸祓といふ、亦この日、山城國八幡の社頭に疫神を祭る、亦この月十六日に、伊勢國度會郡山田の郷に獅子頭の神事あり、亦三月十日、高尾の法華會これを安良比花といふ、やすらひ花と鼓うつなりと寂蓮の詠るは是なり、〈この詠草、紫野今宮の社司の家にあり〉、みな是疫神神を驅の義にして、なごしの祓に至て止、なごしは夏越なり、七月に至て陽氣衰ふ故に、秋はこれを禳はず、王充が、鬼は大陽の毒なりといへりしはこの事ならん、かヽれば疫神も又形なし、但一時の氣運に隨て流行するとき、その形在がごとくも、陽衰ふるに至りて、消然として迹なし、譬ば酒食の腐爛するとき、忽然として蠅の聚るに似たり、人その酒飯をすて去れば、蠅も又隨て迹なきが如し、よりて小蠅鳴惡神といへり、しかるに病劇しき時、人往々疫鬼を見ることありといふ、その説ところの形状一定せず、みなこれ陽毒のなす所なり、故いかにとなれば、これを山氣の蒸て雲霧を起すに譬ふべし、山中の人その雲の起るを見れば朦朧たり、山下の人これを見れば別に奇峯を添るが如し、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif 疫の人に逼る熱邪内に蒸して、その毒外に發す、よりて患者その疫鬼を見る、これ山下にして雲氣を瞻望し、是を奇峯とするが如し、人その毒に觸るヽときは亦隨て患む、故に聖王皇天郊土を祀りて、陰 陽その時にたがはざらんことを禱り、世俗春夏に祓禊してもて疫鬼を驅る、驅といへども盡ることなし、凡天下に疫癘の流行せし、漢にいたりてます〳〵盛なり、こヽをもて天仲景氏を生じて、永く疫鬼を驅しむ、

〔梅園日記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1342疫鬼( ○○○)
日次紀事云、凡疫癘、春初多流行、〈○中略〉而唐土造紙船之類乎、按ずるに、紙船の事は、閩書〈風俗志〉云、正月上元十三四五日、各里造紙船http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif、〈○中略〉東海談云、享保十八年七月上旬より、東都大に疫癘はやり、上下貴賤、みな此氣に中りて病す、十三日十四日の比は、大路の往來もたえ〴〵なり、是は醫書にいはゆる天行時疫といふ者歟、邑里ともに、藁にて疫神の形を造り、かね太鼓をならして、是を南海へ流しぬなどあり、これ今もなほするわざなり、

〔諼草小言〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1342 民間ニ疫癘流行スルコトアレバ、疫病神ヲ送ルト稱シ、又疫病ヲ引ト號シテ、山伏ヲ先ニ立テ螺吹鳴シ物サハガシク、衆人コレニ從ヒ物ヲ驅ルガ如ク爲ルコトアリ、コレ古者方相氏爲儺ト云モノニ異ナラズ、サレバ其所爲ニ任ジテ可ナリ、又民間ニ富士講、大師講、又ハ金毘羅、或ハ稻荷ノ流行神ナドイヒテ、人々信仰スルコトナレド、是ハ少皥氏之衰、九黎亂德、民神雜糅、家爲巫史、民瀆齊盟、禍災荐臻、ト云〈國語〉モノニテ、甚不可ナリ、予嘗テ農父タリシトキ、富士講等ヲ禁ジタリシガ、今如何ナリシヤ知ラズ、

〔宮川舍漫筆〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1342 疫神
嘉永元申年の夏より秋に至り、疫病大に流行なりし處、爰に不思議の一話あり、淺草邊の老女〈名は〉〈失念〉或時物貰體の女と道連になりし處、彼女いふ、私事三四日何も 給( タベ) 申さず、甚た飢におよび申候、何共願兼候得ども一飯御振舞の程願といふ、老女答、夫は氣の毒なれども、折惡敷持合せ無之、志かし蕎麥位の貯はあるべし、そばおふるまい申べしとて、蕎麥二椀たべさせける、彼女大きによ ろこび禮を述べ別れしが、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000066621.gif に呼びかけ、扨何がな御禮致すべしと存じ候へ共、差當り何も無之、右御禮には我等身分御噺申べし、我等儀者疫神に候、若疫病煩候はヾ早速鯲を食し給へ、速に本復いたすべしと敎へ別れけるよし、右は〈予〉友松井子の噺なり、この趣と同譚の事あり、予實父若かりし時石原町に播磨屋揔七とて、津輕侯の人足の口入なりしが、兩國より歸りがけ、一人の男來り聲をかけ、いづれの方〈江〉參られ候哉と問、揔七答て、我等は石原の方〈江〉歸るものなりといへば、左候はヾ何卒私義御同道下されかし、私義は犬を嫌ひ候故、御召連下されといふ、それなれば我と一所に來れよと同道いたし、石原町入川の處にて右の男、扨々ありがたくぞんじ候、私義は此御屋敷〈江〉參り候、〈向坂といへる御籏本にて千二百石、今は屋敷替に相成候、〉扨申上候、私義は疫神に候、御禮には疫病神入申さヾる致方を可申上候、月々三日に小豆の粥を焚候宅〈江〉は、私仲間一統這入申さず候間、是を御禮に申上候といひて、形は消失けるぞふしぎなれ、其日より向坂屋敷中疾病と相成候よし、予が實父〈江〉播磨屋の直ばなしなり、右故予が方にても今に三日には小豆粥致し候、此儀に付ては我等方にても、疫病神をのがれし奇談あり、〈○下略〉

〔撈海一得〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1343 今 やく病よけの守リ( ○○○○○○○) トテ、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000029203.gif ノ字ヲ門戸ニ貼ハ、漢舊儀曰、儺立滄耳、注即漸耳也、又通曲ニ、司刀鬼名http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000029203.gif 、一名滄耳、五音集韻、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000029203.gif 子役切、音積、人死作鬼、鬼死作http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000029203.gif 、篆書此門、離鬼祟千里、又酉陽代醉ナドニ委シ、

〔叢桂偶記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1343 畏疫
論語曰、郷人儺、朝服而立於阼階、孔安國曰儺驅逐疫鬼、郊特牲曰郷人禓孔子朝服立于阼、在室神也、鄭玄曰、禓強鬼也、謂時儺索室、毆疫逐強鬼也、禓或爲獻、或爲難、音曰禓音傷難或作儺、周時既有畏疫之事、屠蘇辛盤之屬、皆興於畏疫者、於門戸上種種之物、西土俗亦同、除日插鰯魚頭尾於門戸名曰 疫案山子( ヤクカヽシ) 、〈松下見林國朝佳節録曰、今按插魚頭者旁磔之義、〉紀貫之土佐日記載、門戸插 鯔( ナヨシ) 頭枸葉、蓋昔不必用鰯魚、陳善捫虱 新話曰、予聞關中人不http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000033583.gif、人有一乾http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000033583.gif、或病則掛之門、其病遂愈、沈存中曰、不但人不一レ識、鬼亦不識也、本邦之鬼、亦不鰯魚也、〈夢溪筆談曰、關中無螃蟹、元豐中予在峽西、聞秦州人家、收得一乾蟹、土人怖二其形状、以爲怪物、毎人家有瘧者、則借去掛門戸上、往〉〈往遂差、不但人不識、鬼亦不識也、〉

〔半日閑話〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1344 御尋に付淸次書上之寫
本八丁堀貳丁目半兵衞店淸次申上候、私義奇怪之義申觸 疫病除之札( ○○○○○) 差出候趣相聞、被召出一御尋御座候、私義ハ釣船渡世仕、相雇候者無之節は自分釣に罷出申候、當五月廿四日にも相雇候者無之候付、朝六ツ時分http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000069681.gif 私壹人にて品川沖下夕之瀨と申所〈江〉船乘候に、きす百程も釣候二付、同日夕八ッ時分、兼々肴責遣候南小田原丁肴屋鐵藏方へ遣可申と存、築地本郷丁之前海波除内〈江〉船を留置、船掃除を致罷在候所、何方http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000069681.gif 參候哉、見事之きすに候間、呉候樣申もの有之候故、振向見候へば、面體は不見留、丈六尺餘、髪髭逆立栗梅のとろとんの樣にて、唐人の樣成衣類を著し、船の中程に立罷在候に付、無症之樣に相成きす一ツ差出候處、請取給候上、怪敷體に而、私名前相尋候に付、淸次と申候旨相答へ候得ば、自分は疫神に有之、我正直成もの故、家内并親類に而釣舟淸次と私名前書記置候バ、其家〈江〉は參間敷旨申候に付、辱旨申候と覺、右之者何方〈江〉か參、正氣付、怪敷候に付、品々南本郷丁河岸〈江〉船を漕付、相殘る肴は右鐵藏方〈江〉賣遣、船乘戻り、奇怪之義に付、右之趣妻子并同店之者〈江〉相咄候庭、同店藤八妻つなと申者疫病相煩候に付、私名前認呉候樣申聞候得共、無筆に而其儀は難致旨申候得ば、同店之者釣舟淸次と認め遣候に付、其通認遣候所、つなも快氣仕候故、右之義を同店并近所之者及承、認呉候樣相賴候に付、無レ據認遣候得共、聊も禮物等請取候義は無御座候、尤私日々渡世に罷出候に付、所々http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000069681.gif 認貰に參候而は、渡世の邪魔に相成候事故、當時は賴來候而も相斷認遣し不申候、御尋に付奉申上候、
寬政二年戌六月廿二日 本八丁堀貳丁目半兵衞店
淸次
河内守樣
御番所
疫神といひしやつ、ほどすぎての風説に、大盜人にて、水中を潜ル事魚のごとく、家根など飛こと鳥のごとく、同三年被召捕、段々のよし云傳ふ、

〔鹽尻〕

〈四十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1345 一疫http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif 流行の時は、其家にて初めて疾に染し人の衣服を甑の上に置、蒸遇すれば一家族まぬかる、

〔鹽尻〕

〈四十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1345 近世るうだといふ草を、疫疾流行の時、身に帶疫氣を避とて、家に植侍る、〈或はあるは草ともいふ〉凡蠻語物の臭氣あるをるうだと云、此草香あしき故、阿蘭陀人るうだといふ、〈是に不限どくだみなんどのごとき臭〉〈氣あるを、皆るうだといふとかや、〉我國久しき呪にて門戸に葱葫の類を懸け侍るも同じ意にや、凡蒜を以て瘴氣を祓ふ事、古事記〈卷の中景行記の條に〉出、日本武尊、足柄山の山神を壓し給ひし故事より起りしと云々、〈賢按、今俗りうだ草といふ、一名蓍婆草ともいふ、〉
○按ズルニ、疫神ノ事ハ、神祇部神祇總載篇ニ在リ、參看スベシ、

瘧病

〔倭名類聚抄〕

〈三病〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1345 瘧病 説文云、瘧、〈意虐、俗云 衣夜美( ○○○) 、一云 和良波夜美( ○○○○○) 、〉寒熱並作、二日一發之病也、

〔箋注倭名類聚抄〕

〈二病〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1345 新撰字鏡、痎訓衣也三、又 左牟也彌( ○○○○) 、按、和良波夜美、見源氏物語若紫卷、萬安方訓 於古利也美( ○○○○○) 、又 布留比也美( ○○○○○) 、今俗呼 於古利( ○○○) 、伊澤氏信恬曰、瘧訓衣夜美、一訓和良波夜美、疫亦訓衣夜美、一訓度岐乃介、瘧疫其病雖差別、並是天行時令之病、一國皆患之、故統訓爲役病、若柝言之、瘧訓童病、疫訓時氣、時氣者爲時氣所一レ感、故以爲名、童病之名未詳、攷世説注、俗傳行瘧鬼小、多不巨人、夢溪補筆談、載呉道子畫鐘馗有唐人題記、其略曰、明皇痁、一夕夢二鬼、一大一小、大者捉其小者之、夢覺痁瘳、太平御覽引録異傳、嘉興令呉季瘧經武昌廟、辭謝、乞瘧鬼、夢一人縛取一小 兒、夢覺瘧即斷、又弘父患瘧、後至田舍瘧發、有數小兒持公首脚、公捉得一兒、化成黄鷁、縛以還家、比曉失鷁、瘧遂斷、千金方載治瘧符、其文中曰、瘧小兒、又曰、今有一瘧鬼小兒、則知瘧鬼爲小兒、故訓爲童病也、〈○中略〉原書疒部云、瘧熱寒休作、按此並當休、休字俗作http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000000528.gif 、其字與並相似、遂訛也、説文又有痎字、云、二日一發瘧也、此似二日上脱痎字、病亦當瘧、又按太平御覽、連引説文瘧痎、蓋修文殿御覽、兼擧瘧痎二字、源君李昉等、從彼引之、源君所見本脱瘧字、或後人傳寫誤脱也、按病源候論兼載瘧病候痎瘧候並有日作、有間日作、釋名、瘧酷虐也、凡疾或寒或熱耳、而此疾先寒後熱、兩疾似酷虐者也、

〔伊呂波字類〕

〈和病瘡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1346 瘧病〈ワラハヤミ、亦エヤミ、〉 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022313.gif 〈ワラハヤミ〉 痁〈同亦名將軍病

〔倭名類聚抄〕

〈二鬼魅〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1346 瘧鬼 蔡邕獨斷云、昔顓頊有三子、亡去而爲疫鬼、其一者居江水、是爲瘧鬼、〈和名衣也美乃加美〉或〈於爾〉

〔箋注倭名類聚抄〕

〈一神靈〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1346 獨斷二卷、漢蔡邕撰、原書作疫神、帝顓頊有三子、生而亡去爲鬼、其一者居江水、是爲http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif、其一者居若水、是爲魍魎、其一者居人宮室樞隅處、善驚小兒、按東京賦李善注、引漢舊儀曰、昔顓頊氏之有三子、亡而爲疫鬼、一居江水瘧鬼、其文與此所引獨斷略同、尾張本、下總本、加美作於邇、與類聚名義抄合、伊呂波字類抄作加美、與舊及山田本、昌李本、曲直瀨本合、廣本作和名衣也美乃加美或於邇、按、於邇、鬼魅之類、加美、即神靈、瘧鬼謂使人病一レ瘧之神、則可レ訓衣也美乃加美、訓於邇是、蓋可鬼魅二レ神、不神爲鬼魅也、疫神見日本紀略

〔伊呂波字類抄〕

〈江鬼神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1346 瘧鬼〈エヤミノカミ、顓頊有三子已去而爲疫鬼、其一者居江水、是爲瘧鬼、〉

〔倭訓栞〕

〈中編二十九和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1346 わらはやみ 瘧疾也といへり、源氏にみゆ、膏盲二竪の事に本づける訓なるべしといへり、

〔理齋隨筆〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1346 瘧を おこり( ○○○) と云は、時におこり、時に止むの俗語也、源氏若紫の卷には、 わらはやみ( ○○○○○) と 書倶非也、特正字通、引郝敬髦書、痎瘧疾、痎亦名痁、合瘧痎一、此説極是、而正字通、以此爲非者、反非也、

〔病名彙解〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1347 間日瘧( カンニチギヤク)
俗ニ越期ヲコリノコトカ、病源ニ云、邪氣丙五藏ニセマルトキハ、道トヲク氣フカシ、故ニ其行コト遲ク衞氣トトモニ出ルコトアタハズ、是ヲ以テ日ヘダテヽ作ルト云リ、

〔小右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1347 寬ニ御ス、其ノ人其ノ時ニ若クシテ三位ノ中將ト聞エケルニ、其比<ruby><rb> 瘧病</rb><rt> 弘九年〈○長和元年〉六月八日甲辰、相府御心問遣江州、其返事云、昨今不發給、今曉度給御堂、縁瘧病之疑者、今日可行啓、而未其告、但今日當重愼日、仍不御共之由、以資平皇太后宮女房

〔源氏物語〕

〈五若紫〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1347 わらはやみ( ○○○○○) にわづらひ給て、ようづにまじなひかぢなどせさせ給へど、志るしなくて、あまたヽびおこり給ひければ、ある人きた山になん、なにがしでらといふ所に、かしこきおこなひびと侍る、こぞの夏もよにおこりて、人々まじなひ、わづらひしを、やがてとヾむるたぐひあまた侍き、

〔源氏物語〕

〈十榊〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1347 わらはやみにひさしうなやみ給て、まじなひなども心やすくせんとてなりけり、修注などはじめて、おこたり給ぬれば、たれも〳〵うれしうおぼすに、れいのめづらしきひまなるをと、聞えかはし給ひて、わりなきさまにて、よな〳〵たいめし給ふ、

〔今昔物語〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1347 神名睿實持經者語第卅五
或ル時ニハ心ヲ至シテ經ヲ誦スルニ、一部ヲ誦畢ル時ニ、髣ニ白象來テ聖人ノ前ニ見ユ、經ヲ讀ム音甚ダ貴シ、聞ク人皆涙ヲ流ス、如此ク年來行ヒテ後ニハ神明ニ移リ住ヌ、而ル間閑院ノ太政大臣ト申ス人御ケリ、名ヲバ公季ト申ス、九條殿〈○師輔〉ノ十二郞ノ御子也、母ハ延喜ノ天皇ノ御子ニ御ス、其ノ人其ノ時ニ若クシテ三位ノ中將ト聞エケルニ、其比 瘧病( ○○) ト云フ事ヲ重ク惱ミ給ヒ 云、もろこしにても、奴婢病と云、いやしき病なれば、大人は煩はぬ意也續博物志に見えたり、又瘧を愈す藥を截藥といへるは、邪氣と正氣と出逢ふ道を立切ると云意なるべし、

〔醫心方〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1348諸 瘧方( ワラハヤミ) 第十三
病源論云、夏日傷暑、秋必病瘧、瘧其人形痩、皮栗以月一日發、當十五日、設不愈月盡解、〈今案、有病後瘧載卷〉〈末、〉

〔一本堂行餘醫言〕

〈二十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1348 瘧字辨
瘧、古昔以爲劇疾、故字从虐、此由古人不一レ逹瘧證故云爾、按釋名云、瘧酷虐也、凡疾或寒或熱耳、而此疾先寒後熱、兩疾似酷者也、張從政曰、以夏傷酷暑而成痎瘧也、瘧常與酷吏之政並行、〈儒門事親〉李挺曰、瘧有凌虐之状病勢如虐人之状、故名瘧、〈醫學入門〉孫文胤曰、瘧者殘虐之意也、從病從虐故名曰瘧〈丹臺玉案〉以上皆非也、大凡疾之寒熱倶有者不擧數、何獨止瘧哉、以此爲酷虐、則諸病皆可以稱一レ瘧也耶、如張云酷暑上レ瘧、其屬牽強、況云與酷吏之政並行、尤爲謂也、此邦泰李百五十年、稱前古所嘗有之至治、固無濫刑、亦無苛政、而瘧疾之行、歳歳多有、海内盡然、安在酷政並行也、張之妄鑿、不亦甚乎、如李之凌虐、孫之殘虐、倶就文字上説、亦由知瘧之全體也、又素問作痎瘧、痎即瘧也、或一字、或二字、倶無異、故素問云、夏傷於暑、秋必病瘧、〈瘧論〉又云、夏傷於暑、秋必痎瘧、〈陰陽應象大論〉又云、夏傷於暑、秋爲痎瘧〈生氣通天論〉可見或單書瘧、或連稱痎瘧、其皆一同無別如此也、後世何爲紛紛之説耶、蓋自説文云痎二日一發瘧、而謁來耳、夫二日一發瘧、即間日瘧也、間日瘧、乃瘧疾之正面也、或日日發、或間二三日發、乃瘧之變態也、故謂二日一發瘧者、非説文誤也、二日一發、即間日瘧、乃瘧之正面、則此其痎即瘧、可以見也、唯可惜説文不直曰痎倶http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022335.gif 也、爲憾耳、 痎( ○) 、 又作http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022335.gif ( ○○○) 、音同義同、原非別、甲乙經、多作http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022335.gif、即痎瘧也、而本草綱目云、老瘧發作無時、名http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022335.gif、〈瘧龜條引陳藏器〉正字通、康煕字典、倶引此説者、以暗醫事也、〈○中略〉説交云、有熱瘧、及正字通、康煕字典引方書單瘧、有一日二日至十日二日一發瘧曰痎、多日之瘧曰痁、三 ケレバ、所々ノ靈驗所ニ籠テ、止事元キ僧共ヲ以テ加持スト云ヘドモ、露其ノ驗无シ、然レバ此ノ睿實止事无キ法花ノ持者也ト聞エ有テ、其人ニ令祈ムト思テ、神明ニ行キ給フニ、例ヨリモ疾ク賀耶河ノ程ニテ其ノ氣付ヌ、神明ハ近ク成ニタレバ、此ヨリ可返キニ非ズトテ神明ニ御シ付ヌ、房ノ檐マデ車ヲ曳寄テ、先ヅ其ノ由ヲ云ヒ入サス、持經者ノ云ヒ出ス樣、極テ風ノ重ク候ヘバ、近來蒜ヲ食テナムト、而ルニ只聖人ヲ禮ミ奉ラム、只今ハ可返キ樣无ト有レバ、然ラバ入ラセ給ヘトテ、蔀ノ本ノ立タルヲ取去テ、新キ上筵ヲ敷テ可入給キ由ヲ申ス、三位ノ中將殿、人ニ懸テ入テ臥給ヌ、持經者ハ水ヲ浴テ暫許有テゾ出來タルヲ見レバ、長高クシテ痩セ枯レタリ、現ニ貴氣ナル事无限シ、持經者寄來テ云ク、風病ノ重ク候ヘバ、醫師ノ申スニ隨テ蒜ヲ食テ候ヘドモ、態ト渡ラセ給ヘンバ、何デカハトテ參候也、亦法花經ハ淨不淨ヲ可撰給キニモ非ネバ、誦シ奉ラムニ何事候ハムト云テ、念珠ヲ押攤テ寄ル程ニ、糸憑モシク貴シ、三位ノ中將殿ノ臥給ヘル頸、聖人ノ手ヲ人ニ給、膝ニ枕ヲセサセテ、壽量品ヲ打出シテ讀ム音、世ニハ然バカリ貴キ人モ有ケリト思テ、枕ヲ高クシテ聞クニ、貴ク哀ナル事无限シ、持經者目ヨリ涙ヲ落シテ泣々ク誦スルニ、其ノ涙病者ノ温タルhttp://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000029441.gif ニ氷ヤカニテ懸ルガ、其レヨリ 氷( コミ) エ弘ゴリテ打チ振ヒ廣々爲ル程ニ、壽量品三返許押シ返シ誦スルニ醒メ給ヌ、心地モ吉ク直リ給ヒヌンバ、返々ス禮テ、後ノ世マデノ契ヲ成シテ返給ヒヌ、其後發ル事无シ、

〔本朝世紀〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1349 康治二年七月五日庚申、御幸法勝寺、如昨日、日、先是宇治入道相國〈○忠實〉煩瘧病、被天台座主僧正行玄、而自身不參、
久安七年等〈○仁平元年〉閏四月十七日丁亥、雨脚滂沱、今日來左大臣〈○藤原賴長〉被瘧病、今日適得平愈、法眼靜經施驗德云々、

〔いざよひの日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1349 やよひの末つかた、わか〳〵しき わらはやみ( ○○○○○) にや、日ませにおこること二たび になりぬ、あやしうしほれはてたる心ちしながら、三たびになるべきあかつきよりおきゐて、佛のおまへにてこヽろを一にしてほくゑきやうをよみつ、そのしるしにや、なごりもなくおちたる、

〔看聞日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1350 應永廿三年九月廿日、予風氣又萌、大略瘧病歟、以外令病惱、抑大敎院大納言律師隆經〈經良卿息〉明日可傳法灌頂云々、爲後記御助成之由申之間、桃林一頭被送遣、〈牛童牽之〉畏申紆豐爲堂、童子罷向云々、月見岡松茸新御所椎野以下取之、予依違例不參、珍曄喝食、〈日野一品子息〉禪門被相伴、寺長老弟子也、 廿四日、有地藏講、善基參懃如例、先齋食、次讀講式、地藏名號、侍臣唱之、頭人椎野、舜藏主、女中以下人々也瘧病又發、種々雖落無効驗、令計會、 廿四年九月五日、瘧病發日也、退藏僧有秘術之由申令之、寅時汲井水〈東方〉呑神符、以桃枝身、其効驗歟、今日落畢、
永享四年五月十一日、城愛座頭參平家語、此四五年不參、若宮瘧病未落、入夜猶發、計會也、

〔叢桂亭醫事小言〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1350
府下八九年追年テ瘧多ク、寬政三四年、寒暑ノ分モナク、四季共ニ多ク、頒白以上赤子ニモ瘧アリ、赤子ハ思ノ外ニ困セズ、小兒モ順ジク輕ク、中年以上ノ人ノウイ瘧ニハ或ハ絶粒食、疲弊シテ起居外候トモニ危篤ニナル人多ク見ユレドモ、必死ニ不至、病因考ニ、瘧痢同因ト論ジテ有ヲ、トクト按ズルニ、痢ハ裏ニ入ル故ニ死ニ至リ、瘧ハ表ニ病ム故死セズト見ユ、

〔松屋筆記〕

〈六十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1350 瘧をおとす方
續博物志二〈七丁ウ〉に、蛇蛻塞兩耳瘧疾とあり、

鬼瘧

〔醫心方〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1350鬼瘧方第十四
范汪方治鬼瘧
丹書額言、載九天書臂言、枹九地書足言、履九江書背言、南有高山、上有大樹、下有流之水、中有神 虫、三頭九尾、不五穀、但食瘧鬼、朝食三千暮食三百、急々如律令書http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000029441.gif 、言上高山海水、天門亭長捕瘧鬼得、便斬勿罪、急々如律令、

〔覆載萬安方〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1351 鬼瘧〈 諸瘧中( ○○○) 、 此一種( ○○○) 、 獨可呪術歟( ○○○○○○○) }、
論曰、鬼瘧者外邪之所乘也、人眞氣内虚、神守不固、則鬼邪投間、而入故恍惚、喜怒寒熱更作、若有所持而屢發屢止也、治法宜去之、而兼以祛邪安神之劑

〔古事談〕

〈三僧行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1351 太政大臣〈信〉爲中納言時、久煩 鬼瘧( ○○) 、已及數月、親王讀孔雀經、讀誦之中不敢發動、長以平愈

〔古事談〕

〈三僧行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1351 僧正延禪童子久惱 鬼瘧( ○○) 、延禪申請施食之、童子自縛言、我是神狐也、被護法爲方、自今以後永去云々、〈○中略〉

感冒

〔増補下學集〕

〈上二支體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1351 風氣( カザケ/○○)

〔病名彙解〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1351 感冒( カンボウ)
俗ニ云 咳氣( ○○) ノコト也、外邪ノ淺モノ也、ソノ深キモノヲ傷風ト名ヅケ、其イヨ〳〵深シテ時行一般ナルモノヲhttp://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif 疫ト名ヅク、

〔醫心方〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1351 風病證候第一〈○中略〉
病源論云、 中風( ○○) 者、風氣中於人也、風是四時之氣、分布八方、主長養万物、從其郷來者、而人少死病、不其郷者人多死病、其爲病也、藏於皮膚之間、内不通、外不泄、其入經脈於五臟者、各隨藏府而生病焉、

〔雜病記聞〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1351 中風感冒
一古書ニ 中風( ○○) ト云ハ、 風ヒキ( ○○○) ノコトニテ、後世ノ醫書ニハ、是ヲ 感冒( ○○) ト云、後世ノ醫書ニ中風ト云ハ、偏枯半身不遂ノ病ニテ、今俗ニモ是ヲ中風ト云、又ハ中氣トモ云、今論ズル處ハ、傷寒論二出ル 中風方彙ナドニ出ル感冒ニテ、俗ニ云フ風ヒキ也、是傷寒ノ輕キニテ、最初ニ惡寒、發熱、頭痛、鼻涕出ルナド、人々知ル處ノ症ナリ、其理ハ皆傷寒ト同理ナリ、

〔内科秘録〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1352 天行中風( ○○○○)
中風ハ外感ノ一證ニシテ、流行スルコト傷寒ト同ジ、故ニ張仲景傷寒中風ヲ併論セリ、又半身不遂ノ證ヲモ中風ト謂テ、二病ヲ一名ニテ、一書ノ中ニ擧タルハ可疑ニ似タレドモ、愚按ズルニ、後漢ノ時、風邪ノコトヲ中風ト謂ヒ、半身不遂ノ證ヲモ亦中風ト謂タルモノト見ヘテ、東觀漢記ニ曰、光武避正殿http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000036109.gif 、坐廡下、淺露中風苦欬、是即チ今ノ風邪ナリ、前漢書自叙傳曰、班伯道而病中風、既至、以侍中光祿大夫病、賞賜甚厚、數年未起、是即チ半身不遂ノ中風ナリ、仲景世ニ通稱スル所ノ病名ヲ擧テ、別ニ新名ヲ設ケザルナルベシ、然レドモ二病一名ニテハ初學ノ者ハ惑ヒ易キユエ、吾門私カニ風邪ノ中風ヘハ、天行ノ二字ヲ冠シテ、半身不遂ノ中風ニ分ッ、此病ノ流行ハ、必ラズ關西ニ起テ關東ニ至ル、近世流行シタル 阿七( ヲシチ) 風、 琉球( リウキウ) 風、 檀法( ダンボ) 風、薩摩風ノ類、即チ是ナリ、

〔玉勝間〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1352 はなたり病( ○○○○○)
台記に日來患鼻垂疾、俄身温、また依鼻垂念珠、但今日無温氣也、また鼻垂後始念珠、〈夜前浴〉など見えたり、風を引きたるをいふと聞ゆ、

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1352 久安二年七月一日、早旦參宇治路間人告、自一昨日 御風氣( ○○○) 坐給者、即急參、被仰云、今朝温氣散、及暗又温氣坐給、三日、令平愈給、四日、欲歸洛、今曉又有温氣由被仰、因之留、申刻、一條殿此兩三日温氣坐給云々、六日、依平愈、歸洛、便詣一條殿、御心地猶不快、六年正月十四日壬辰、今年餘寒難耐、 風痾( ○○) 頻侵、而息所參上之間、不退私、身侍禁中、闕怠王事、可不忠、是以相扶風痾、憖參八省

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1352 治承四年二月五日丁亥、基輔自内裏退出云、主上〈○高倉〉聊 御風氣( ○○○) 御云々、十五日丁酉、晩頭參 内、〈○中略〉余參御所、〈但不見參〉謁女房、御不豫事猶以不快、然而明日行幸、必可然之由叡慮一決了、萬人可延引之由雖計奏、更以無御承引云々、及亥刻退出了、廿一日癸卯、此日有讓位事

〔閑http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000025635.gif 自語〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1353 靈元院 疫癘( ○○) 和歌事
享保八年病はやりて、人民多くうせぬ、靈元院の御うたあり、
風ふかば本來空のそらにふけ人にあたりてなんの疫癘
此御製を都鄙き、つたへて、かき志るし、まもりとせしに、やめるものははやく治し、やまざるものは大かたにのがれけりとぞ

〔一話一言〕

〈十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1353 風病流行( ○○○○)
大久保酉山翁考風病流行之事
享保十八年癸丑六月七月〈七月十二日、長髪并供廻り格別減少にも可相勤旨被仰渡候〉
十五年目
延享四年丁卯九月十月〈九月廿九日右同斷被仰渡候〉
廿六年目
明和六年己丑十月〈十月四日右同斷被仰渡候〉
廿七年目
寬政七年乙卯三月四月〈三月廿八日右同斷被仰渡候〉
八年目
享保二年壬戌春

〔一話一言〕

〈四十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1353 享保十八丑年六月十七日廻状
一丑七月十日前後より、江戸町中、其後國々在々迄 風邪はやり( ○○○○○) 、同十八十九日比、風神送り、夥敷に 付、同廿日御觸有之、

〔武江年表〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1354 延享四年十月上旬より、諸國 風邪流行( ○○○○) 、

〔蜘蛛の絲卷追加〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1354 風邪流行( ○○○○)
不圖思ひ出づる儘、むかしをしのびて記すは、寬政三四年の頃にやありけん、江戸中風邪流行して病ざる家なし、市中商人の家など戸さして、家内風邪に付相休申候と、札を張りたる家所々に見えたり、殿中伺候の面々、供立減少、長髪不苦と云ふ令を出だす程なり、此比街歌に、そんれはおそろきお世話へと云ふ童謠はやりし故、此風邪を お世話風( ○○○○) と云へり、其翌春、京傳作、草ざうしの新板に、〈此頃は上下一部紙員十枚なり〉おせはと云ふはやり女郞、深川にありて、客床に入れば、團扇を以てあふぐ、客たちまち襟元ぞつとして風をひき熱に犯され、樣々の事をなす趣向なり、大に世に行はれ、予も幼年所持せり、是も六十年のむかしとなりぬ、

〔半日閑話〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1354 明和三年三月初つかたより疫風大に行はる、道中雲助并火消屋敷抱之鳶、ことごとく死す、名付て 雲助風( ○○○) と云、

〔天保集成絲綸録〕

〈百六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1354 享和二戌年三月
一 風邪流行( ○○○○) に付、長髪に而罷出候儀、并供減候而召連候儀不苦候、今日罷出居候もの、風邪之者は勝手次第罷歸候樣、伊豆守殿被仰渡候段、神保佐渡守申聞候、
享和二戌年三月
御目付〈江〉
此節病入多候付、御番衆其外に而も例と違、詰切身分弁當之面々は、此砌は御臺所給させ可申候、但西丸も同斷
享和二戌年三月
御目付〈江〉
此節一統風邪流行ニ付、御目見以下之者共〈江〉御煎藥被下候、諸事明和六丑年之通相心得、可取計候事、
但西丸御目付〈江〉も相通、西丸に而も、右之通被下候樣に、可取計候、

〔隨意録〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1355 予〈○冢田虎〉質性無疾、十九憂瘧之後、四十年于今、未嘗有一日寢一レ疾矣、今http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000066621.gif 壬戌〈○享和二年〉三月、 天行之風疾( ○○○○○) 、都鄙戸々無寢焉者、西京大坂及諸國亦同焉云、於此門人或曰、先生得亦罹此風邪乎、予戲之曰、一言以蔽之、豈可邪乎、然而幸竟不疾、

〔松屋筆記〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1355 ダンホ風( ○○○○) 并 お七風( ○○○)
文政四年正月十八日、南風いと烈しく、塵埃掠天、往來の人、目を開くことあたはず、芝片門前に火事おこりけるが、二町あまり燒て止りぬ、此日江戸中の家々火事を恐れて、土藏に目塗りし、藏なき者は家財雜具を運びさまよひぬ、午の時ばかりに、芝片門前に火事ありといひさわぎ、未の時には尾張町、申の時には日本橋わたりまで、火きたれりとのヽしりあひしが、皆ねなしごとにて、片門前の火事のみにて事しづまりにき、同二月中旬より彌生のはじめに及まで、疫癘流行、十に八九はこの憂にかヽらざる家なし、ことし今樣の囃に、ダンホサン〳〵とはやすこと流行せり、越後國より起りて、檀方樣といふよし人々いへり、或ナンホサン〳〵ともはやしたり、太田南畝が號をはやしにせし也ともいへり、これより疫癘を名づけてダンホ風といへり、今より十八九年前、お七風といふも流行せり、そは八百お七といふ狂言をノゾキの口説に作りたりしを、世人いひける也、此頃執政靑山野州、土井大炊頭主大久保加州、水野羽州ダンホ風に犯されて出仕したまはず、阿部備中守主一人つヽがなくおはしませりとなん、これに政府命ありて出仕の官人長髪を許さる、

〔時還讀我書〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1356 交政辛巳〈〇四年〉ノ二月中旬ヨリ、都下 感冒流行( ○○○○) シ、闔家コト〴〵ク枕ニ就ニ至レリ、西國ニテハ去冬ヨリ行レテ、邪氣盛ニシテ久解セザルモノァリト、關東ハ其證初起ハ稍劇ク、加進スベキ勢ナレドモ、〈○中略〉然マ、餘邪留連スル者アリ、動スレバ吐衂血ヲナスモノ多カリシ、蓋近年感冒ノ流行病者ノ夥キコト、是歳ノ如キハ曾テ見及ザルホドノコトナリキ、

〔天保集成絲綸録〕

〈百六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1356 文政七申年三月
口逹之覺
此節 風邪流行( ○○○○) に付、長髪に而罷出候儀、并供廻り等も格外ニ減ジ召連候而も不苦旨、無急度御目付〈江〉申渡、大目付〈江〉も、右之趣相逹候樣、是又申渡候事、

〔救荒便覽〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1356 天保三辰年春寒甚しく、三月岐岨大雪、十一月琉球人來聘、寒氣つよし雪も度々、前月より 疫邪( はやりかぜ/○○) 流行( /○○) 、こヽに至りて止、

〔兎園小説〕

〈五集〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1356 安永以來の はやり風( ○○○○)
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000066621.gif は秋のころに至りて、感冒必流行せんか、細人小兒おしなべて 寝々轉々( ネン〳〵コロ〳〵) と謠ふこと、是病臥の兆ならんといへり、果して八九月の頃に至りて、風邪感冒流行して、良賤病臥せざるはなく、輕きは兩三日にしておこたるもありしかど、重さはその症、疫熱に變じたる、三四十日に至るもあり、或は庸醫に愆られて、よみぢ赴くものもありけり、このときのゑせ狂歌に、
はやり風無常の風もまじりけりねん〳〵ころり用心をせよ
かくて病むと、やむ程に、關の八州いへばさらなり、京攝の間まで、脱る、ものなかりしとそ、童謠はいにしへより和漢の歴史に載せられて、應驗あらずといふもの稀なり、〈○中略〉
予が東西をおぼえしころより、大約五十年このかた、時々の感冒に世俗の名を負はせしもの少からず、まづ安永の中葉にはやりし風邪を、 お駒風( ○○○) と名づけたり、こは城木屋お駒とかいふ淫婦 の事を旨として、作り設けたる淨瑠璃のいたく行はれたればなり、又安永の末にはやりし風邪を、 お世話風( ○○○○) と名づけたり、こは大きにお世話、茶でもあがれといふ戯語の流行せしによりてなり、又天明中にはやりし風邪を、 谷風( ○○) と名づけたり、こは谷風梶之助は、當時無雙の 最手( ホテ) なりければ、これに勝るものあること稀なり、谷風嘗て傲言して、とてもかくても土俵の上にて、われを倒さんことは難かり、わが臥たるを見まくほりせば、風をひきたる時に來て見よかしといひしとぞ、この言世上に傳へ聞きて、人々話柄としたる折、件の風邪を谷風がいちはやくひき初めしとて、遂に其名を負せしなり、さればこの時四方山人、送風神狂詩あり、録してもてこヽに證とす、
引道( ヒクナラク) 此風號谷風、關々痰咳響西東、惡寒發熱人無色、煎樣如常藪有功、一片生姜和酒飮、半丁豆腐入湯空、送君四里四方外、千壽品川問屋中、
又文化元年にはやりし風邪を お七風( ○○○) と名づけたり、こは八百屋お七といふゑせ小うたの流行せしによりてなり、又文化五年の秋はやりし風邪を、 ねんころ風( ○○○○○) と名づけたり、そのよしは、上にいへるが如し、又文政四年の春二月の比、いたく流行せし風邪を、 だんほう風( ○○○○○) と名づけたり、こはこのときのはやり小うたに、だんほうさんや〳〵と謠ひしことのあればなり、かくて去年甲申の春二三月の頃、はやりし風邪を 薩摩風( ○○○) と名づけたり、こは西國よりはやり初めて、こヽまでうつり來つればならん、此うち谷風、お七風、ねんころ風、だんほう風は、はげしかりき、家々毎に五人三人枕をならべて、うち臥さぬはなかりけり、西は京攝に至り、東は安房上總、西南は、甲斐伊豆の海邊、北は信濃越後まで、なべて脱るヽものなかりしよし、その折々に友人の郵書にも聞えたり、だんほう風のはやりしとき、何ものかよみたりけん、
みやこから乘せてくるまのだんほ風ひくものもありおすものもあり
いとをかしきや、例の人の癖なるべし、かヽれば此風は京よりはやり來つるにこそ、この他、寬政 享和中にも有りけんを、さる名を負せざりける歟、いふがひもなく忘れたり、抑、この一條は曩に北峯子のしるしつけたる、風の神の圖説の後につけてもいはまほしかるまヽに、伊豆の千わきのわけなし言もて、科戸の風の神やらひしつ、鋭鎌、八重鎌、刈りはらふごと、 禿( チビ) たが筆を走らせしみそぎやのやく體もなき、只是嗚呼のすさみになん、
○按ズルニ、古ク疫病ト稱スルモノヽ中ニハ、流行感冒モ混ジタリ、又次條ノ咳病、傷風、熱氣ナド稱スルモノモ、多クハ感冒ヲ云ヘルナリ、

咳病

〔倭名類聚抄〕

〈三病〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 欬嗽 病源論云、欬嗽〈亥走二音、欬字亦作咳、 之波不岐( ○○○○) 、〉肺寒則成也、

〔箋注倭名類聚抄〕

〈二病〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 那波本束作走、按廣韻、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022459.gifhttp://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022459.gif 、蘇奏切、屬心母、走則候切、屬精母、雖其音不一レ同、並在五十候、作束似是、然諸古本皆作束、類聚名義抄同、則作走者疑係那波氏校改、按説文、欬屰氣也、咳小兒笑也、二字不同、後人變欬字欠口、禮記内則、不敢噦噫嚏咳欠伸、莊子漁父篇、幸聞咳唾之音、遂混咳兒字也、又説文、欶吮也、無嗽字、周禮疾醫、冬時有嗽上氣疾、蓋借吮也之欶字之、後從口也、故釋文云、嗽本亦作欶、集韻同音有http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003688.gif、云吮也、依訓即欶字變欠從口者、猶欬作一レ咳、已借欶爲嗽、故又以http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003688.gif嗽也、按類聚符宣抄載天平九年六月太政官符云、咳http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003688.gif 志波不伎、新撰字鏡欬字嗽字、古本喘字、醫心方嗽字咳字並同訓、又之波不岐也美、見【K二源氏物語夕顏卷、今俗呼世岐、〈○中略〉原書咳嗽候、作咳嗽者肺感於寒微者則成咳嗽也、釋名、欬刻也、氣奔至出入不平調、若物也、曲直瀨本標目作欬欶、那波本標目正文皆作欬嗽、昌平本正文作http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003688.gif 、按注云、亦作http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003688.gif 、正文必不【Kレhttp://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003688.gif 、山田本之作【Kレ也、那波本同、似是、

〔伊呂波字類抄〕

〈加病瘡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 咳病〈ガイビヤウ〉 咳http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003688.gif 〈ガイソウ、咳病名也、〉

〔撮壤集〕

〈下病疾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 欬嗽( シハフキ) 〈咳欬同字、嗽http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022459.gif 同字、〉

〔増補下學集〕

〈上二支體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 欬嗽( シハフキ) 咳病( ガイビヤウ) 咳氣( ガイキ/○○) 咳嗽( ガイソウ)

〔玉勝間〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1359 風引たるを咳氣といふ事
此わたりの人、ふるくは、風引たることを、 がいき( ○○○) といへりき、宣長がわかヽりしほどまでは、なべていへりし言なるを、今はさいふこと、をさ〳〵きかず、これもふるきこと也、中昔五六百年さきの記録などに、風病をおほく咳氣と志るせり、

〔伊呂波字類抄〕

〈志人體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1359http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003688.gif 〈シハフキ、亦作【K二咳欬、〉咳http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003688.gif 【K 咳呻〈已上同〉

〔枕草子〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1359 つねよりもことにきこゆる物
元三の車のおと、鳥の聲、 あかつきの志はぶき( ○○○○○○○○○) 、物のねはさらなり、

〔物類稱呼〕

〈五言語〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1359 咳をせくと關東にていふを、關西にてせきをせたぐるといふ、播磨邊にて咳をたぐるといふ、阿波にてはせきをこづくといふ、中國にて咳をこつるといふ、神代卷に、いざなぎの尊たぐりす、金山彦の神となると云々、又東國にて、咳ばらひ、又志やぶきするなどいふは 欬嗽( 志はぶき) のちヾみたる詞にて通稱也、

〔醫心方〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1359 欬嗽( シハブキ) 方第一
病源論云、欬http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003688.gif 者肺感【K二於寒微者、則成http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003688.gif 【K一也、肺主氣、合於皮毛、耶之初傷、先容皮毛、故肺先受之、五藏與六府表裏、皆禀氣於肺、以四時更王、五藏六府皆有http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003688.gif 【K一、各以其時於寒而受病、故欬http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003688.gif 形證不同、

〔續建殊録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1359 阪南一旅客某者、嘗游學在于浪華、通刺謁曰、吾嘗有濕瘡、百方無効、荏苒至今、其始也、身疼腰痛四肢不仁、状類于癱瘓、不危坐、唯趺跏如僧、以得安息、今又加咳一證、其咳不輕、依之晝夜不安臥、醫以爲勞瘵、束手不療、故來請診治、先生診之曰、此 血咳( ○○) 也、非勞瘵也、乃與桂枝加朮附湯、服湯得瘳、其人謝曰、吾嚮委庸醫、殆將死、幸有先生于鬼録矣、

〔松屋筆記〕

〈六十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1359 痰咳( ○○) の妙藥
痰咳強して、療禱術盡たるに、柊、南天、葉紫蘇葉の陰干を當分に合せ煎じ、湯茶のごとく頻に用れば必驗あり、或は天瓜の實を多く煎じつめて、ねり藥のやうになりたるを頻に用るもよし、されど初一年は奇効あり、次の年はさまでにあらず、三年目にはいと効うすし、四年目に至ては更に能なし、ヘチマの水を煎じつめて用るも、亦右のごとく、自然に効薄くなりて詮なし、唯柊、南天、紫蘇の三種の葉の陰干の煎湯に及ものなし、

〔三代實録〕

〈七淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1360 貞觀五年正月二十七日庚寅、賑給京師飢病尤甚者、自去冬末于是月、京城及畿内畿外、多患 咳逆( ○○) 、死者甚衆矣、

〔三代實録〕

〈十淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1360 貞觀七年四月五日乙卯、是日内裏并諸司、綱所延名僧一人、受十善戒、讀般若心經、僧俗所讀經卷數、各別録奉進、去年天下患 咳逆病( ○○○) 、今年内外疫氣有萌、故轉經攘之、

〔三代實録〕

〈二十一淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1360 貞觀十四年正月廿日辛卯、是日、京邑 咳逆病( ○○○) 発、死亡者衆、人間言、渤海客來、異土毒氣之令然焉、是日大祓於建禮門、以厭之、 三月七日丁丑、太政大臣〈○良房〉患 咳逆( ○○) 、去二月十五日、出禁中直廬、在私第、是日賚錢五十萬、以充祈禱之費

〔今昔物語〕

〈二十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1360 或所膳部見善雄伴大納言靈語第十一
今昔、 ノ比天下ニ 咳病( ○○) 盛リニ発テ、不病ヌ人无ク、上中下ノ人病臥タル比有ケリ、其レニ或ル所ニ膳部シケル男、家内ノ事共皆ナシ畢テケレバ、亥ノ時許ニ人皆靜マリテ後、家ヘ出ケルニ、門ニ赤キ表ノ衣ヲ著、冠シタル人ノ極ク氣高ク怖シ氣ナル指合タリ、見ルニ人ノ體ノ氣高ケレバ、誰トハ不知ネドモ、下臈ニハ非ザメリト思テ突居ルニ、此ノ人ノ云ク、汝ヂ我レヲバ知タリヤト、膳部不知奉ズト答フレバ、此ノ人亦云ク、我レハ此レ古ヘ此ノ國ニ有リシ、大納言伴ノ善雄ト云シ人也、伊豆ノ國ニ被配流テ早ク死ニキ、其レガ行疫流行神ト成テ有ル也、我レハ心ヨリ外ニ公ノ御爲ニ犯ヲ成シテ、重キ罪ヲ蒙レリキト云ヘドモ、公ニ仕ヘテ有シ間、我ガ國ノ恩多カリキ、此 レニ依テ今年天下ニ疾疫発テ、國々ノ人皆可病死カリツルヲ、我レ咳病ニ申行ツル也、然レバ世ニ咳病隟元キ也、我レ其ノ事ヲ云聞カセムトテ此ニ立タリツル也、汝ヂ不怖ズト云テ、掻消ツ樣ニ失ニケリ、膳部此レヲ聞テ、恐々家ニ返テ語リ傳ヘタル也、其ノ後ヨリナム伴大納言ハ、行疫流行神ニテ有ケリトハ人知ケル、但シ世ニ人多カレドモ、何デ此ノ膳部ニシモ此ノ事ヲ告ケム、其モ樣コソハ有ラメ、此ナム語リ傳ヘタルトヤ、

〔大鏡〕

〈六内大臣道隆〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1361 今の帝〈○後一條〉東宮さしつヾきむまれさせ給へりしかば、よをおぼしくづをれて、月ごろ御病もつかせ給ひて、寬弘七年正月廿九日うせさせ給へにしぞかし、御歳三十七とぞ承りし、かぎりの御病とても、いたうくるしがり給ふ事もなかりけり、 御しはぶき病( ○○○○○○) にやなどぞおぼしけるほどに、おもり給ひければ、修法せんとて僧めせど參もなきに、いかヾはせんとて、道雅の君を使にて、入道殿に申給ひにけり、

〔源氏物語〕

〈四夕顏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1361 神事なる比は、いとふびんなることヽ思ふ給へ、かしこまりてえまいらぬなり、此曉より しはぶきやみ( ○○○○○○) にや侍らん、かしらいといたくてくるしく侍れば、いとむらいにて聞ゆることなどのたまふ、

〔小右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1361 寬仁二年十二月四日壬辰、自去二日心神不宜、夜不寝、吉平占云、 咳病( ○○) 餘氣之上 風病( ○○) 發動者、

〔本朝世紀〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1361 久安六年十月廿六日戊辰、近日、咳病蜂起、貴賤上下、敢無免者、老者多以夭亡、民庶粗死亡、近年以來第一咳疫也、

〔本朝世紀〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1361 久安六年十一月廿八日庚子、於法勝寺如法仁王會、上卿權大納言公敎卿、權中納言藤忠雅、參議同經宗朝臣、源雅通朝臣等參仕、右中辨光賴、右少史伴爲尚等、行左方布施事、右少辨藤資長、左少史淸原宗景等、行右方布施事、被禱天下 咳疫( ○○) 事也、今日一院無御幸、依御咳也、凡近日上下諸人莫此病之者、禁中及院中巳以無人云々、

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 天養元年十一月廿一日戊辰、雨下、臨暮晴、光房來云、今上御時、節會未出御、依幼少也、今度初可出御、〈御歳六歳〉左大臣稱疾在仁和寺、必可參者、封曰、夜間所惱得減、但 鼻塞聲枯( ○○○○) 、内辨可嘲、且又先例參入之人、猶依 咳病( ○○) 、免内辨退出、 二年十月廿日壬辰、自今朝 咳病( ○○) 、有 温氣( ○○) 、寝食背常、

〔明月記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 貞永二年〈○天福元年〉二月十七日壬辰、近日 咳病( ○○) 、世俗稱 夷病( ○○) 、去比夷狄入京、萬人翫見云々、是極不吉徴也、

〔吾妻鏡〕

〈三十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 寬元二年四月廿六日丙申、今度被四角四堺鬼氣祭、是近日 咳病温氣( ○○○○) 流布、貴賤上下無免之間、將軍并公逹以下御祈禱也、兩君有此御患云々、若君于今無御平減云々、

〔園太暦〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 康永四年九月十九日
天下依( 病事御祈事) 有病事御祈例文永元年七月上旬以來 咳病( ○○) 流布同月廿日、於内裏行五大虚空藏金輪法、依病事井彗星御祈也、

〔妙法寺記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 天文四年、難義ナル咳病ハヤリテ皆死申候、

〔鹽尻〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 一此間、天下庶人、三日疾の咳流布す、今時も一兩日人の病事有、 三日疾( ○○○) といふべきかも、寶永四年の冬、富士山焼し比、三四日の 咳病( ○○) を煩しもの天下に多かりし、

傷風

〔病名彙解〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 傷風( シヤウフウ/○○) 要訣ニ云、傷風、傷寒、俗ニ呼テ 傷寒( ○○) トス、陰陽ノ二氣皆ヨク臟腑ヲ犯ス、故ニ陽氣太陽ヲ犯ストキハ傷風トナル、風ヲ惡テ汗アリ、陰氣太陽ヲ犯ストキハ傷寒トナル、寒ヲ惡テ汗ナシト也、

傷寒

〔撮壤集〕

〈下病疾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 傷寒( シヤウカン)

〔醫心方〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 傷寒證候第二十三
病源論云、經云、春氣温和、夏氣暑熱、秋氣淸凉、冬氣氷寒、此則四時正氣之序、冬時嚴寒、万類深藏、君子 固密、則不於寒、夫觸冒者、乃爲於四時之氣皆能爲病、而以傷寒毒者以其最爲殺厲之氣焉、即病者爲腹寒即病者、其寒毒藏肌骨中、至春變爲温病、夏變爲暑病、暑病者熱重於温也、是以辛苦人、春夏必有温病者、皆由其冬時觸冒之所一レ致、非時行之氣也、其時行者、是春時應温而返寒、夏時應熱而返冷、秋時應凉而返熱、冬時應寒而返温、非其時而有其氣、是以一歳之中病無長少多相似者、此則時行之氣也、
葛氏方云、 傷寒( ○○) 、 時行( ○○) 、 温疫( ○○) 、 雖三名( ○○○○) 、 同一種耳( ○○○○) 、而源本小異、其冬月傷於暴寒、或疾行力作、汗出得風冷、至春夏發、名爲傷寒、其冬月不甚寒、多暖氣及西南風、使人骨節緩隨受一レ耶、至春發、名爲時行、其年歳月中有厲氣、兼挾鬼毒相注、名爲温疫、如此診候並相似、又貴勝雅言、揔名傷寒、世俗同號時行、道術符初言五温、亦復以此致大歸、終是共途也、

〔牛山活套〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1363 傷寒
近時ノ俗( ○○○○) ノ傷寒ト云ハ、多ハhttp://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif 疫ノ病( ○○○○) 、 時行ノ熱病ヲ指テ傷寒ト云ナリ( ○○○○○○○○○○○○○○) 、此症初發ノ時ハ、多ハ感冒ノ治療ニ同ジ、熱甚シク惡寒シ、頭痛裂ガ如ク、腰脊強痛スル者ニハ、九味羗活湯ヲ用ベシ、茈胡蒼朮ヲ加テ其効如神、十神湯ヲ用モ可ナリ、

〔叢桂亭醫事小言〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1363 傷寒
又寒ニ中リテ即チ不病、春ニ至テ變ジテ温病トナリ、夏ニ至リテ變ジテ熱病トナルトアレドモ、然レドモ風寒ノヤブル所、最輕キモノヲ感冒トシ、〈引風ナリ〉重キヲ傷寒トス、感冒ノ一證ハ至テ輕キモノニテサヘ、頭痛身痛、四支http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000011865.gif 急、鼻塞聲重、痰嗽喘急、惡寒發熱シテ病ム、人身邪氣ヲ隠シテ容ベキ所ナシ、況ヤ冬時嚴寒ニ傷ラルヽハ輕キ事ニアラズ、夫レガ反テ藏伏シテ時ヲ過テ發センヤ、

〔叢桂亭醫事小言〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1363 傷寒
和漢一般ニ、歳暮年頭ヨリ五節句ニ至マデノ儀式ハ、皆疫ヲ除クノ事也、叢桂偶記ニ詳ニセリ、返 ス返スモ仲景何ゾ其多キ疫ヲ置テ、少キ傷寒ヲ以テ論ヲ著センヤ、肘后方曰、傷寒、時行、温疫、三名同一種耳、而源本小異、又貴勝雅言總名傷寒、世俗因號爲時行ト見ユ、又小品方ニ、傷寒是雅士之辭、云天下http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif、是田間之號耳、又張果醫説、古今病名不同、篇曰、古人經方多雅奥、以痢爲滯下、以http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000037881.gif脚氣、以淋爲癃、以實爲秘、以天行傷寒、此言可以發千載聾瞶也トアレドモ、疫ト云モノ正名ニク、其ノ外ノ名ハ醫家ニテ名付タル也、如何ドナレバ正史ニ疫ト記ス、是ハ國政ニ過失アレバ、天地ノ氣候其ノ正ヲ不得シテ、人民疫疾ヲ患ルニ至ル、人君ヲシテ其ノ過ヲ改メシメンガ爲ニ、史官正ク記スルノ故ニ疫ヲ正名トス、疫ノ字義ハ其ノ流行スルニアマネク、戸々ニ病テ徭役ニアタルガ如クナル故ニ、殳ニ从テ疫トハ云也トミヘタリ、是乃傳染ノ病也、

〔陰德太平記〕

〈三十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1364 吉川元春石州發向事
晴久〈○尼子〉此由ヲ聞給テ、雲、石、作、并ニ伯耆、備後ハ半國ノ勢、一萬五千餘騎ヲ帥テ發向セントシ給ヒ、先陣ノ本庄、牛尾、湯ナドハ、已ニ赤穴ニ著陣シケレバ、小笠原大ニ競、頓テ元春ヲ追立ント、勇訇リケル所ニ、晴久俄ニ 傷寒( ○○) ヲ煩ヒ、前後不覺也ケル故、醫療ノ術ヲ盡サレテ、石州發向ナドハ噂スル者モナカリケリ、

〔醫學天正記〕

〈乾上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1364 傷寒
天正十七年四月
一八條殿、〈六宮御年八歳式部卿親王〉感冒發熱、初通仙〈瑞策〉驢菴〈瑞慶〉父子療養未効、竹田定如法印治之時、發班出而熱尚甚、時盛芳院〈淨慶〉牧奄兩人談合シテ御葯進上、早朝ニ御藥進上、晡時惡寒、身冷脈絶、鼻氣冷、時諸醫技已盡、民部卿法印命予、病證次第分別、無用捨申ト、予曰、見傷寒四逆之證也、但寒毒甚カラズ藥毒甚キ故也、四逆湯ヲ可用、諸醫可然ト申、予藥箱ヲ携ヘテ、竹田驢菴祐乘上池ニ見セテ、民部法印御撿使ニテ、醫林集要ノ四卷ヲ披テ、茯苓四逆湯ヲ可與ト申、一人モ無用ト 被存候者即可申候ト、口ヲ堅メテ調合ス、民部法印自煎シテ與之、一服ニシテ御脈微顯、二服ニシテ脈全調神氣而四肢温、翌日平安、其後御養生藥進上シテ、十餘日ニシテ本復、于時關白大相公秀吉公、御感之餘御馬被下、

〔醫學天正記〕

〈坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1365 傷寒
一傷寒、寒熱頭痛汗出、四肢節疼、脈弦數、九文ニ加可刑己芍、寒熱痛同前、四物ニ加沒桃膽己杜、七貼ニ而痛止、

熱病

〔増補下學集〕

〈上二支體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1365 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022562.gif 者( ヤツレモノ) 〈熱病〉

〔諸病源候總論〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1365 熱病諸候 熱病候
熱病者、傷寒之類也、冬傷於寒、至春變爲温病、夏變爲暑病、暑病者、熱重於温也、肝熱病者、小便先黄、腹痛多、臥身熱、熱爭則狂言、及驚脇満痛、手足躁不安臥、庚辛甚、甲乙大汗、氣逆則庚辛死、心熱病者先不樂、數日乃熱、熱爭則卒心痛、煩冤善嘔、頭痛面赤無汗、至壬癸甚、丙丁大汗、氣逆則壬癸死、脾熱病者、先頭重頰痛、煩心欲嘔身熱、熱爭則腰痛腹満泄、兩頷痛、甲乙甚、戊巳大汗、氣逆則甲乙死、肺熱病者、先浙然起毛惡風、舌上黄身熱、熱爭則喘咳、痺走http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000029441.gif背、不大息、頭重不堪、汗出而寒、丙丁甚、庚辛大汗、氣逆則丙丁死、〈○下略〉

〔病名彙解〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1365 熱病( ネツビヤウ) 傷寒ノ類也、冬寒ニヤブラレテ春ニ至テ變ジテ温トナリ、夏ニ至テ變ジテ熱病トナル、冬寒ニ傷レ其マヽワヅラフヲ傷寒ト云リ、其時行一般ナルモノヲhttp://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif 疫ト云リ、熱病ハ傷寒温病ヨリモ重シト云リ、又暑病トモ云リ、

〔三代實録〕

〈二十九淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1365 貞觀十八年十一月廿九日壬寅、是日天皇譲位於皇太子、〈○陽成〉勅右大臣從二位兼行左近衞大將藤原朝臣基經、保輔幼主、攝行天子之政、如忠仁公故事、詔曰、〈○中略〉朕以薄德〈天〉天日嗣〈乎〉忝〈之〉賜〈倍利〉、日夜無間〈久〉愼畏〈利〉御坐〈須〉、而君臨漸久〈久〉年月改隨〈爾〉、 熱病( ○○) 頻發〈利〉御體疲弱〈之天〉不 朝政

〔源平盛衰記〕

〈二十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1366 入道〈○平淸盛〉得病附平家可亡夢事
二十八日〈○治承五年二月〉ニ、入道重病ヲ受給タリトテ、六波羅京中物騒シ、馬車馳違、僧モ俗モ往還種々ノ祈禱ヲ被始、家々ノ醫師藥ヲ勸メケレ共、病付給ケル日ヨリシテ、湯水ヲダニモ喉ヘモ入給ハズ、 身ノ中ノ燃焦ケル事ハ( ○○○○○○○○○○) 、 火ニ入ガ如シ( ○○○○○○) 、臥給ヘル二三間ヘハ人近付ヨル事ナシ、餘ニアツク難堪カリケレバ也、叫ビ給ヒケル言トテハ、只アタ〳〵ト許也、此聲門外マデ響テヲビタヾシ、直事トモ不覺、貴モ賤モアハシツルゾヤサ見ツル事ヨ〳〵トゾ申ケル、今度モシ存命アラバ、如何ニ本意ナカリナント云者モ、内々ハ有ケルトカヤ、
○按ズルニ、淸盛ノ病ハ其何タルヲ詳ニセザレド、姑ク此ニ收ム、

〔淸正記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1366 一主計頭ハ至肥後國熊本歸城、從船中、 熱病( ○○) をうれひ、煩はしく有けれども、家中之大小身共ニ振舞、かぶきを興行し、一興を催し、何れも侍共聞候へ、今度秀賴公家康公御對面之儀を調、天下に名をあげ歸國し、能始終を勤し、某今病相究命之終此時也、十は十一可相果、虎藤丸を守立べしとあれば、何れも及悲歎、病氣次第々々に重く成り、六月廿三日には、はや身もこがれくろくなられける、家老之者ども召寄、唯今病死す、

〔橘黄年譜〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1366 天保七年夏四月ヨリ日ニ雨降リ、或ハ天陰晴レズ、五月ニ至リ霖雨止時ナシ、菜蔬生ゼズ、七月十八日及八月朔日大風雨屋宇ヲ傷リ、草木ヲ倒シ、山川涌溢シテ民ノ愁苦少ナカラズ、其秋遂ニ不登ニテ、五穀及菜蔬價貴ク、翌八年丁酉ニ至リ、米價沸騰百錢ヲ以、米二合五勺ヲ得、銀拾五錢ヲ以、酒一升ヲ沽ニ至、因テ道路餓莩多シ、幕府佐久間街ニ貧院ヲ設ケ、普ク窮民ヲ救フ、其員凡貳萬餘人ト云、尚縣令三名ニ命ジ、品川、板橋、千住、内藤新宿四驛ニ於テ、貧民ヲ救育セシム、翌春三月ヨリ 貧民熱病行ハレ( ○○○○○○○) 、四方ニ傳播ス、其人壤證多ク、胃實ニ屬スル者絶テ少也、世醫以穀食 不足ノ徴トス、其時病人大抵大小柴胡ヨリ導赤各半、升陽散火、參胡芍藥、參胡參白等ノ如キ錯雜ノ症ニ至リ、其甚ダ脱症ニナリテハ、增損理中〈結胸ノ脱症ニ用ユ〉眞武、茯苓、四逆、附子、粳米〈噦逆甚者チ沿ス〉ノ類ニテ救治ヲ得タリ、又參附ヲ與フル後、餘熱煩渇ヲ生ジ、竹葉石羔湯ニテ全治シタルモノ間有之、
○按ズルニ、流行熱病ノ事ハ疫病條ニモアリ、

熱氣

〔增補下學集〕

〈上二支體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1367 熱氣( ネツキ)

〔小右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1367 長和五年四月廿九日壬寅、攝政〈○藤原道長〉温體卒倒、恙氣不輕、卿相密語云、可愼歟、 卅日癸卯、從午刻許 身熱( ○○) 、心神不宜、所疑若 是風氣之所致歟( ○○○○○○○) 、資平來、依穢氣猶不著座、通夜大惱、臨曉頗宜、
五月十一日甲寅、攝政坐佛前、請僧等參入堂、攝政命云、從去三月、頻飮漿水、就中近日晝夜多飮、口乾無力、但食不減、例醫師等云、 熱氣( ○○) 歟、老雖丹藥、年來豆汁大豆煎蘇密煎呵梨勒丸等不料服之、此驗歟、仍服冷物、風未發、從今日服藥、於客亭一度飮之、兩三度入簾内、若飮水給歟、命云、今日飮水多減、然而太無力也、不讀經念誦、熱發者、不力、而顏色憔悴、身又如此、若猶極病歟者、伺氣力、容顏頗疲、恙氣掲焉、依御口乾杏二果時々嘗之、又命云、服豆汁葛根等柿汁、定延法師云、柿者熱物不服者、仍不服、此間被雜事、不具記
寬仁二年閏四月十九日辛亥、巳刻許歸來云、乍立參入〈穢今日許〉相逢新中納言、〈能信〉御病體似 熱氣( ○○) 、飮食不受給、夜部 邪氣( ○○) 託人不名、氣色似故二條相府靈、〈道兼〉御修法從七夜四壇

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1367 康治二年六月廿八日癸丑、女房有 温氣( ○○) 、

皰瘡

〔倭名類聚抄〕

〈三瘡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1367 皰瘡 唐韻云、皰、〈防敎反〉面瘡也、類聚國史云、仁壽二年皰瘡流行人民疫死、〈皰瘡、此間云 裳瘡( ○○) 、〉

〔箋注倭名類聚抄〕

〈二瘡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1367 醫心方皰亦訓爾岐美、〈○中略〉按廣韻、皰面生氣也、又云、靤面瘡、並防敎切、二字似同、然説文、皰面生氣也無靤字、其實靤即皰之俗字耳、又按訓面瘡者、謂面獨生一レ瘡、非毛加佐也、〈○中〉〈略〉原書災異部云、仁壽三年二月、京師及畿外、多患皰瘡、死者甚多、文德實録所載同、此所引、其文頗 異、恐源君所櫽括、二年當三年、蓋傳寫之誤、按肘後方、有時行皰瘡、病源候論時氣皰瘡候云、夫表虚裏實、熱毒内盛、則多發皰瘡、重者周匝遍身、其状如火瘡、若根赤頭白者毒輕、若色紫黒則毒重、其瘡形如http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000r13681.gif、亦名http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000r13681.gif 豆瘡、又有傷寒http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000r13681.gif 豆瘡、熱病皰瘡、疫癘皰瘡、其候略同、其云皰瘡者、謂先發面瘡、非匝遍身發者皰瘡後轉謂匝遍身亦爲皰瘡也、按續日本紀天平七年、自夏至冬、天下患豌豆瘡、俗曰裳瘡、九年春、疫瘡大發、延暦九年秋冬、京畿男女、年三十以下者悉發碗豆瘡、俗云裳瘡、源君不之、擧仁壽三年紀者、延暦以前皆謂之豌豆瘡或疫瘡、未皰瘡之名、至源君之時、世謂之皰瘡、而豌豆瘡之名廢、故不天平延暦紀、引仁壽紀也、日本紀略延喜十五年、天暦元年、天延二年、寬仁四年、正暦四年條、皆云皰瘡、不豌豆瘡、知源君之時、豌豆瘡之名廢也、山田本、昌平本、此間作世間、昌平本毛加佐作裳瘡、那波本同、與續日本紀合、按、毛加佐、蓋齋瘡之省也、患是瘡者、飮食外多禁忌齋居人、故謂爲齋瘡、今俗猶謂痘痕伊毛、然則裳亦假借字、非意義也、

〔類聚名義抄〕

〈七疒〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1368 疱〈歩孝反、モカサ、〉V 同

〈九皮〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1368 皰〈モカサ〉 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000r13682.gif http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000r13683.gif 〈俗〉

〔伊呂波字類抄〕

〈伊病瘡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1368 皰瘡〈 イモカサ( ○○○○) モカサ}V 同

〈毛病瘡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1368 皰瘡〈モカサ、亦作靤〉

〔倭訓栞〕

〈前編三十三毛〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1368 もがさ
痘をいふ、續日本紀に、豌豆瘡俗曰裳瘡と見えたり、今ノ疱瘡也と見ゆ、垸豆瘡も同じ、一村流行する、裳を曳下るが如し、よて名くるよし、大同類聚方に見えぬ、一説に痘家古へ戸を閉て出ず、父母の喪に居が如し、よてもがさといふともいへり、又いもがさの略、今もいもと稱せり、忌の義、痘家もはら忌事多きをもてなり、東國にてもつかひともいへり、按ずるに、西土は魏朝に發り、我邦は神龜年中に始る、すべて其躬に生ずるの病に非ず、邪崇に抵觸し穢氣に侵され、此病をうくるなり、西土にも痘翁痘使の名あり、疱神は疫鬼の如し、類聚國史にも、仁壽二年皰瘡流行人民疫死と見えたり、出羽の方言に、痘を 疫( ヤク/○) といひ疹を 小疫( コヤク/○○) ともいふよし、無神の論を著すものあり、无稽とい ふべし、主上御皰瘡の時は、山王の猿も必ず痘を病は一奇事也、後光明院崩御の時、坂本の猿かろき皰瘡したり、新帝御醫藥の時、山王の猿もがさ煩ひける、被なんど調せさせて賜ふ、ほどなく猿は死けり、帝は復本あらせたまふ、古書に此事見えず、長崎人は出痘の時を 赤うで( ○○○) といひ、貫膿の時を 白うで( ○○○) といふ、痘の乾くを 畠毛物( ○○○) といひ、やヽ濕るを 田津物( ○○○) といふも、芋といふに据也、琉球山南の人は痘疹を患へず、我邦八丈島の如し、

〔玉勝間〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1369 裳瘡
續紀に、天平七年、自夏至冬、天下患豌豆瘡、〈俗曰裳瘡〉夭死者多、これ皇國にて裳瘡のはじめか、されどここの記しざまは、はじめてとも聞えざるがごとし、また延暦九年にも、是年秋冬京畿男女年三十巳下者、悉發垸豆瘡、〈俗云裳瘡〉臥疾者多、其甚者死、天下諸國往々而在と見ゆ、垸字は豌を誤れるなるべし、此瘡の名、これより後の書には、皰瘡といへり、皰、疱同じことなり、今の世にも、はうさうといふ、又いもといふ、されば昔もがさといへるは、いもがさの省きか、

〔和漢三才圖會〕

〈十人倫之用〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1369 痘痕( みつちや/○○) 豆瘡、碗豆瘡、疱瘡、皰瘡、和名 裳瘡( モカサ) 、 芋瘡( イミカサ) 訓上略乎、
按、痘根、俗稱 滅茶( ミツチヤ) 、一名徧婆、〈名義未知其據痘愈後痕微窪也、

〔仁和寺御傳〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1369 大御室性信、〈○中略〉延久四年秋、東宮〈○白河〉有御疱瘡事、 玉顏之上有其痕( ○○○○○○○) 、依令旨本房藥師法、修中有御夢想、有一高僧、衣裳染香云、自仁和寺藥師法壇場來、以香水御面、夢覺之後其痕如拭、

〔碩鼠漫筆〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1369 あばた( ○○○) といふ瘡痕の名〈附 いも( ○○) といふ名義}
世俗の里言に、皰瘡の痕の治りあへぬを、あばたといふは、梵語よりや出けむ、無下に近ごろいひいでためれど、ふと浮屠氏などの呼そめたりしが、普く世間に弘まれるにもあるべし、かく思ひとらるヽ由は、翻譯名義鈔卷ノ二地獄篇に、八寒冰地獄の名を明したる中に、一を 頞浮陁( アブタ) 〈又頞部陀ともあり〉 と名づくと有て、註に、倶舍云疱、寒觸身分、皆悉生皰とある、アブタをアバタと呼ならへるにぞ有べき、〈法苑珠林卷十一地獄部には、何因何縁名頞浮陀地獄耶、此諸衆生、所有身形、猶如泡沫、是故名爲頞浮陀地獄、頞烏割切と見えて、こは異説なり、〉又この痕をいもとも呼ぶは、禁物の省呼なるべし、古來腫物を二禁といふも、相似たる事をおもふべし、但和訓栞にもがさ痘をいふ、續日本紀に、豌豆瘡俗曰裳瘡と見えたり、今疱瘡也と見ゆ、垸豆瘡も同じ、一村流行する裳を曳下るが如し、よて名づくるよし、大同類聚方にみえぬ、一説に痘家古へ戸を閉て出ず、父母の喪に居るが如し、よてもがさと云ふともいへり、又いもがさの略、今もいもと稱せり、忌の義、痘家もはら忌事多くあるをもてなり、東國にて、もつかひともいへり云々、〈以上和訓栞〉と見ゆるも、忌の義といへるは似たる如くなれど、諾ひ難く、もがさは必 面瘡( オモガサ) なるべし、〈 裳( モ) 瘡は、國史にみゆれども、只借字なる事明らかなるを、此字に就て説をたてたるは附會なり喪瘡の説は殊にわろし、〉さるは、倭名抄卷〈ノ〉三〈瘡類〉に、唐韻云、皰〈防敎反〉面瘡也、類聚國史云仁壽二年、皰瘡流行、人民疫死、〈皰瘡、此間云裳瘡、〉とある面瘡の字面たしかなるべし、猶同篇に、病源論云、飼画、〈和名加須毛〉面皮上有 滓( カス) 是也とあるをもおもひ合すべし、〈又同條に、熱沸瘡、和名阿世毛とあるも同義とすべきか考ふべし、〉かヽれば、もがさは 面瘡( オモガサ) にて、あばたは、それが梵語の訛、いもは禁物の省呼としるべし、

〔松屋筆記〕

〈九十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1370 松皮( マツカハ/○○) 疱瘡( /○○)
俗に物の膚を松皮にたとへていふ事あり、松皮疱瘡などの類是なり、白氏長慶集二〈廿一丁オ〉有木詩八首の其六に、彩翠色如柏、鱗皴皮似松とある鱗皴の字をマツカハと訓べし、

〔神遺方〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1370 能解以母耶美( ノゲイモヤミ/○○○○○○) 〈 又( /○) 乃岐似毛( ノキイモ/○○○○) 〉
八田藥 乃紀伊蒙〈乃〉半自女奴久味於曾介豆支( ノギイモノハジメヌクミオソキトキ) 、 加味波支( カミハキ) 〈○支一作氣〉 之底( シテ) 、 身以多味( ミイタミ) 、 乃支都紀加由久( ノギツキカユク) 、
保呂世阿可美( ホロセアカミ) 、 不久連寸流母( フクレスルモ) 〈 乃( ノ) 、〉 方( ハウ) 、
訶布止禰( カブトネ) 波自伽美( ハジカミ) 多知乃加波( タチノカワ) 紀太支寸( キタキス) 波万爾雅奈( ハマニガナ) 袁介良( ヲケラ) 倭良比乃伽比( ワラヒノカヒ) 阿万支( アマキ)
能介以門差万之( ノゲイモサマシ) 藥 七八日〈 乃( ノ) } 能智( ノチ) 〈 爾( ニ) }、 奴久美寸流古斗( ヌクミスルコト) 、 耶万差留母乃( ヤマザルモノ) 、 乃世里( ノセリ) 師乃禰( シノネ) 以多智久佐( イタチグサ) 夜万久佐( ヤマクサ) 耶麻非良々岐( ヤマヒラヽギ)
○按ズルニ、神遺方ハ、偽書ノ稱アリ、今博覽ノ爲メ此二一節ヲ擧グ、

〔鵞峯文集〕

〈十六記事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1371疱瘡事
吾聞、醫家之言曰、疱瘡即痘疹也、其始末大底有六候、其初發熱而瘡出曰報痘、其次曰起脹、其次曰貫膿、其次曰收靨、其次曰二落痂、其次曰還元、戊戌十一月十日之夕、春信氣宇不平而臥、翌日發熱、至十四日而瘡見、所謂報痘也、〈俗語曰足 揃( ソラフ) 〉十六日起脹〈俗語曰水 盛( モル) 〉十九日貫膿、〈俗語曰揚山〉 二十一日收靨、〈俗語曰 悴( カセル) 〉二十四日將落痂〈俗語曰 痂作( フタツクル) 〉是日浴酒湯、此事雖中華方書、「然本朝用之既久矣、蓋以其有便於落痂而氣宇增力而還元之速乎、又聞醫家之言曰、此病未其始起時、或曰漢張騫到西域、始罹此疫而流傳於天下、或曰、馬援征交趾、患虜瘡而後施及於中國、自宋錢乙以來、諸方書無乏、無之、其藥劑不枚擧也、誠是一生之大患、不貴賤貧富、不男女長幼、而面貌妍http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000086745.gif 之所定、死生壽夭之所分也、病之者不愼焉、治之者不心也、本朝上古不此患、然聖武天皇天平七年紀曰、天下患豌豆瘡夭死者多矣、俗曰裳瘡、經年而不止、同九年紀曰、疾瘡大發初筑紫來、公卿以下天下没死不勝計、所謂公卿者左大臣藤武智麻呂、及其三弟參議房前、宇合、麻呂、并中納言多治比縣守等也、或挾外戚之貴、振威於當朝、或擧遣唐之撰、播名於異域者不免焉、其餘雲客大宅大國小野朝老、百濟郞虞、長田王、橘佐爲等亦物故、其外廷臣同羅此災、遂至朝務、百官既如此、況於群國之凡民乎、其謂之裳瘡者、痘形似芋、故略其訓而言之、謂之豌豆瘡者、亦是以其相類也、今俗謂之豆者其義一也、想夫登時此災初起、故病者不以愼之、醫者亦不其治方、故死亡者如此乎、其後鎌倉柳營遭此患、飮藥而愈、俊寬僧都之幼子以是天亡、然則彼以貴權其治術、此以窮乏其良藥者乎、雖然非貴者得藥而必生、賤者不藥而必死、縱有良藥、其病重而愼不足則招禍、縦不得藥者、其病輕而愼不怠則得福、班 固所謂得中醫者是也、近年正保先帝當太李之時、踐九五之位、而不其晏駕、今歳太上女皇、以寶算之壯、而得姑射之春、其爲至尊異、然有幸不幸之不同者、痘有輕重乎、藥有中與不中乎、其所愼之有餘與不足乎、抑命乎、果天乎、〈○中略〉近世有一種瘡、自肥前國來傳於諸國、人々不之者鮮矣猶痘瘡自筑紫蔓於天下之謂乎、春信誕育以來、常飮法印元德藥、而至成長、故此度元德日來治之、其子野恂亦毎日來診焉、春信亦自能愼焉、侍坐者亦不敢懈焉、六候移易無些滯礙、而漸及還元、平復既在近也、 中略 戊戌十一月二十五日〉

〔痘瘡水鏡録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1372 第一階
初日二日三日、是ヲ序熱ト云、俗ニ云ホトホリ、凡痘瘡ノ患ニカ、ヽル小兒多クハ、先 腹痛( ハライタミ) 、 驚搐( ビクツキチ) 、 吐乳( チアマシ) 、 乾嘔( カラエツキ) 、下利</rb><rt> ハラクダリ</rt></ruby> 等種々ノ事有リ、初メハ風ヲ引タルニ似、熱強キハ甚傷寒ニ類シテ、別難キモノ也、是ヲ知ルニハ、腹痛ムカ否ヲ問ベシ、 微( スコシ) 腹痛有アモノハ極メテ痘ノ目當ナリ、〈○中略〉
第二階
四日五日、此時ヲ 見點( ケンテン) ト云、俗ニモノバナ見ユルト云、痘序熱三日スミテ、四日ノ朝、其大熱サメテ、諸症コト〴〵ク去り、能食シテ 口角( クチノワキ) 、 天庭( ヒタイ) 、 福堂( マユノハツレ) ノ邊ニ大小等シカラズ、紅活珠顆ノ如ク、五七粒、或ハ二十粒三十粒見ヘテ、數ヘツベキモノ、ハ大々吉也、〈○中略〉
第三階
五日六日、此時ヲ 出齊( シュツセイ) ト云、俗ニ出ソロイト云、凡痘ハ先面部ヨリ出始リ、後ニ手足腹背ニ及ブ、足ノ裏ニ出終ラバ、出齊ト知ルベシ、揔ジテ出齊モ 起脹( キチヤウ) モ 灌濃( クワンノウ) モ落痂モ皆面部ヨリ始り、手足ハ一日モ二日モ遅キモノナリ、〈○中略〉
第四階
六日七日、此時ヲ起脹ト云、俗二云 山アゲ( ○○○) 也、痘日々成長シテ、豌豆ノ如ク、面部手足トモニ 地腫( ヂハレ) 強 ク、常ノ顏ニ一倍シ、食マス〳〵進ミ、微熱氣ヲ帶ビテ、六七分以上ハ眼 腫塞( ハレフサガ) リ、元氣ナワヤカナル者ハ大吉也、六七日目ヨリ黄茋汁ニ轉ズベシ、〈○中略〉
第五階
七日八日、此時ヲ 行漿( コウシヤウ) ト云、俗ニ水モリト云、痘起脹サヘ十分ナレバ、漿ノ 行( メク) ルコトモ手間イラヌモノナリ、其儘黄茋汁用ヒ居ルベシ、〈○中略〉
第六階
九日十日、此時ヲ 灌濃( クワンノゥ) ト云、俗ニ 膿( ウミ) モリト云、痘ニ 行( メク) リタル 漿( ミヅ) 漸々ニ色變リ、始メハ白ク、後ニハ靑黄色ニ成リ、頭圓ク根紅ニ、食益進ミ、聲淸ク、大便秘シ、眼開カザル者大吉也、黄茋汁ニテ内ヲ張リ居ルコトヨシ、漫リニユルムベカラズ、大切ノ場ナリ、〈○中略〉
第七階
十一日十二日、此時ヲ收靨ト云、又結痂トモ云、俗ニカセルト云、痘ニ 皺( シワ) ヨリ、見ヘキタナクナリ、膿先ヅカヽリタル所ヨリ追々ニ結痂ニヲモムク者順也〈○中略〉
第八階
十三日十四日、此時ヲ落痂ト云、俗ニフタ作ルト云、痘ノ皮黒赤ク、 赤小豆( アヅキ) ノ如クニシテ、堅ク厚ク成リ、段々二落チ、眼始テ開キ、熱氣トント去リ盡シ、大小便常ノ如ク、食益進ム毛ノ大吉ナツ、〈○中略〉
第九階
十五日ニテ、痘ノコトハ終ルナツ、格別輕キ症ハザツト風爐ニ入ルベシ、大ニ元氣ヨクナルモノゾ、少シ重キハ十八日目、天氣晴朗ナルヲ見テ風爐ニ入ルベシ、浴後甚風氣らヲ恐ル、愼ムベシ、表裏トモイマダ實セザル時ナレバ、大二風ヒキ易シ、〈○下略〉

〔忠臣講釋〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1373 喜内住家之段
喜内、何の氣も付かず、同じ屋敷奉公ならば、先君〈○鹽谷判官〉のお傍仕へもさせんず物、お家は沒落、我は長病にて行歩叶はず、忰重太郞、何國に吟ひ居事やら、まだしも老の樂しみは、孫の太市、 疱瘡も山上仕廻たれば( ○○○○○○○○○○) 、 大役濟だ( ○○○○) 、出かしたな、見やれ賢い目元でないか、遉侍の子迚、疱瘡の中でも、浦島やお山人形のぬかつた物は大嫌ひ、公〈ン〉平の人形の顏の赤いは出物の藥、遖功の兵に成兼ぬ利口者と、子http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000069681.gif も孫に余念なき、ヲヽかはいそふに、したが今年は並がよいげな、よい時美しい事仕やつたの、ほんにマアおりゑる樣、此樣な疱瘡子の有のに、毎晩々々よう日參なさんすのふ、又かいな、そんな事、わしや聞たうないと、ひや〳〵思ふ嫂に言損ひの機嫌取、ドレぼん抱てやりましよか、伯母が著物もあつかじやぞや、サア赤いはよいが、しとのないのにこまつたと、疱瘡の禁句、くろめ兼、ぜひも納戸へ連て入、

〔續視聽草〕

〈初集二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1374 疱瘡善悪輕重兒相
一顏色至て白小兒は重し
是は血枯る色なり、肉太くとも正血にあらず、脱血也、これは水疱とて出るは安く、本膿結痂むづかしく油斷せば危し、常に消毒の藥を用べし、
一同色黒き小兒重し
是は血死色、疱瘡出兼べし、火疱とて小粒なり、皮ぞこに針をうへし如くにて、熱烈く、甚悪症也、常に解毒すべし、〈○中略〉
一同靑き色の小兒重し
是は血締る色なり、山を上ゲ兼る内へ引形也、危し、常に病有小兒也、驚風虫等の用心すべし、一同赤黒色又重し
黒き色同斷にて是も危し
一同紅黄色は輕し
此二色は血の順よき小兒なり、輕しとしるべし、冬春の比、ほうさき桃のごとく紅なるをいふ疱多く出るとも、命にかヽわらず、都て荷の多少は毒氣に有り、此二色は筋よき疱瘡なり、

〔疱瘡心得草〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1375 見點三日間の吉凶の心得之事
見點のみへそめには、表裏の虚實を考へ、うかするてだて、かんじんなり、痘人の性として、風寒にて表をとづるもの有、裏の氣のよわきもの有、此外に毒氣をすかして發するも有、是等詳に、辨べく、よき醫師を賴み、家内の介抱如在なく心得る事肝要なり、吉症と云とも、出浮くまでは大切也、風としたる物にさはられて、至て輕き疱瘡にても、出浮かずして變にあひ、又は折角出浮かけて引込もあり、かせ口より出浮がたきを大事とすべし、痘の始終は、全く發熱の時に辨へしるべし、見點頭面より見へ、手足ともにばらりと出て、その色上へ白く根あかくして瘡に光り有て、手にて探れば、さわる度に熱さつはりと覺め、食事すヽみ、大便小便常の如きは吉痘なり、頭面にあまた出るといへども、粒わかれて、肌の地あざやかなれば氣遣ひなし、もしは蚕の種のごとくなるもの、もしは其色白け、肌の色と同じ、やけどの樣なるもの、出るかと思へば隠れ、かくるヽかと思へば顯るヽもの、發熱一二日にして見點し、又は熱なくして見へて、熱出るものは、至て大切なり、始額よりみゆるを吉とす、頤咽の下より見ゆるは必ず出物多し、兩の頰の痘粒分れて出るは吉症なり、いづれ兩の頰はべつたりとして粒たち分れがたきものなり、兩の頰さへたち出れば、跡より多く出ぬものなり、揔じてよひ疱瘡は、むね、腹にはなきものなり、又頭面に見へずして、手足或は腰尻のあたりより見ゆるものは、逆にしてよろしからず、又此時皮ひとへ内にありて出で浮かざるものは、甚だ六ケ敷、是非に狂躁てむしやうになくものなり、介抱の人、隨分と心を附べし、見點三日を出そろひとす、足に出るを云ふ、輕きは足のうらになくても、三日になれば出揃と すべし、疱瘡の三關にて、先二度の關所有て、出浮揃ふを上の關と云、膿水持てかせかヽるを後の關といふ、出でうきかぬるは五日六日の上の關を越へがたし、後の關は十日十一日にあり、乍去生れ子の一年にみたぬは、十五日の期を待ずして早くかせるゆへ、其痘の重きものは、八日九日を三四才の十日十一日にあてヽ見るべし、俗に始終を十二日と心得て、神送りするは、疱瘡の吉凶を定むべし、吉痘は是より藥用ゆべからず、又輕といへども餘病を狹むものは、其儘になし置べからず、良醫の指圖を持べきなり、

〔安齋隨筆〕

〈二十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1376 疱瘡血症 或小兒疱瘡發して吐血す、家人大に驚く、衆醫手を束ねて如何ともする事なし、一醫酒を飮ましむ、吐血止む、予が孫三人一度に疱瘡發 衄( ハナヂ) 出づ、何事もなし、又或小兒疱瘡發して吐血す、是も何事もなし、按ずるに、熱に乘じて痘の毒血妄動して上下より溢れ出づるなり、其の本毒血なる故、血いづとも害ある事なし、人の驚き憂ふべき事なる故、是を記す、疑ふ事勿れ、

〔叢桂亭醫事小言〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1376 雜話
東羽ノ人、患痘者アレバ、生葱ヲ切テ作管、鼻孔ニ容レ、面起脹スルトキ、鼻カラスト傳聞ス、又葱ヲ煎服ス痘快發スト、方書中ニ此事ヲ載タリト、影ノ如ニ暗記ス、今再ビ之ヲ閲セントスルニ、何書ナルコトヲ忘却ス、重テ語ラン、

〔橘庵漫筆〕

〈二編五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1376 蚖虫( くわいちう) をしぼりて、其汁を疱瘡にて、目に星の入たるに用ゆるに、治せずと云事なし、〈予〉屢試みて効を得たり、乍併痘後五七十日過ては治せず、はやく入べし、人の臟腑に蛹程のいやしきもの、眼耳鼻手足さへなきむしながら、斯る功は一ツなり、人として無能にして勤めず、世を過すをや、

〔隨意録〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1376 痘瘡之禁忌、有生人往來者、醫家未其義、按陸游老學庵筆記云、都下買婢、謂一レ曾入人家、 者、爲一生人、喜其多淳謹也、此亦謂疾者未熟知之人也、

〔梅園日記〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1377 疱瘡忌
本朝醫談二編に、類聚符宣抄の、天平九年の太政官符を引て、廿日已後、若欲魚宍、先能煎炙、然後可食、但乾鰒堅魚等之類、煎否皆良云々、本文に乾鰒の事あり、世疱瘡に貝類を忌とて、のしあはびを用ひざるは妄なり、痘毒目に入たるに、のしを黒焼にしてさす事、醫療羅合に見えたりとあり、愼言云、のしあはびを忌のみならず、すべての貝つ物を、家の内へいれだにせぬ程にいめり、按ずるに、痘疹傳心録の諸藥性、口訣に、淡菜、味甘鹹、氣微寒、和肺氣腎氣、 蛤蜊肉、性冷、煮食潤五臟、止消渇、開胃殊功、 牡蠣、味鹹塞、入腎經、消煩滿、化痰凝、固精止汗、 石決明、鹹平、入肝經、消障翳、點赤膜、また、外消散、治陰嚢腫亮、大黄、牡蠣〈各五錢〉梢硝、〈二錢〉右爲末、取田螺洗淨、以水活過一夜、取水調前末、塗腫處即愈、とあるを見ても、貝つ物いまぬを知べし、考ふるに、是は蘇沈良方の、治痘瘡瘢の條に、瘡家〈按に、和板伊良子氏千之堂本、及び鮑氏知不足齋本倶に瘡痂に作れり、今程氏六醴齋本に從へり〉、不食鶏鴨卵、食即時盲瞳子如卵色、其鷹如神、不戒也、幻々新書の、瘡疹愛護面目門に、熟雞鴨等卵、未目者、雖瘡愈、宜數月不一レ食、 痘疹傳心録に、或恣食諸卵目など見えて、くひて目しひとなるは、雞鴨等の卵なり、卵をふるくはカヒコといへり、〈日本紀、萬葉集、遊仙窟、和名抄、類聚名義抄、字鏡集、平他字類抄、倭玉篇の卵、又日本靈異記の殼、玉造小町壯衰書のhttp://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000016702.gif 、類聚名義抄の鷇、伊呂波字類抄、倭玉篇のhttp://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000016702.gif を皆カヒコとよめり〉、さるを中昔より、かひともいひしかば、後には貝とあやまりたるにや、卵をカヒといひしは、忠見集に、すもりこも出にけるかと見る時はかひなき身さへうらやまれける、又能宣朝臣集に、物申につれなくのみ見ゆる女に、鳥の子をいつヽやるとてすにすめるみをわびつ、も鳥の子をいつかひ有と物をおもはむ、此外、後撰集、拾遉集、輔親卿集蜻蛉日記、空穗物語、大和物語、古今六帖、源氏物語、保憲女集、金葉集、草根集等にあり、竹取物語のつばくらめのこやすがひも、燕卵なりと、河海に史記を引ていへり、近き頃のものには、禰津松鴎軒が鷹記、貞德が油糟等に見えた り、

傳來

〔續古事談〕

〈五諸道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1378 モガサト云病ハ新羅國ヨリオコリタリ、筑紫ノ人ウヲカヒケル船、ハナレテ彼國ニッキテ、ソノ人グツリヤミテキタレリケルトゾ、天平九年官符二、コノ病痢ニナラン時、ニラキヲ煮テ多ククフベシトアリ、後ノ人カクシテシルシアリ、ソレヲ雅忠、熱氣ノホドクヒソメズバ、熱氣サメテ後ナヲイムベシトイヒケリ、サレドクヒテオホクシルシアリトゾ、

〔壒囊抄〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1378 疱瘡トハモガサ也、順ガ和名ニハ皰瘡ト書ク、是亦疫癘也、本朝ニ疱瘡ヲ病初也、筑紫ノ者、魚ヲ賣リケル船、難風ニ逢テ、新羅國ニ著ク、其人移リ病テ歸リケルガ、次第五畿内ニ及ビ、帝都ニ流布シケル也「其時葱韮ヲ食テ平愈スル者多カリケレバ、明ル九年ノ官府ニ云此病成痢時、葱韮ヲ煎ジテ可多食云々、其後モ度々葱ヲ食者多ク驗シアリト云ヘリ、但雅忠ガ説ニハ、熱氣ノ間ニ可食初、熱醒テ後ハ可忌、然共熱醒テ食初ル人モ多ク直リケルト云々、又村上院御宇天暦五年辛亥又京畿ニ大疫アリ、空也上人自カラ八尺ノ十一面ノ像ヲ刻テ、其法ヲ修テ、疫病即止、是今六波羅密寺ノ本尊也、

〔叢桂偶記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1378 痘瘡
痘瘡諸説、皆云、起於後漢時、而原于馬伏波征南陽行卒患虜瘡之事、而後漢書不此事、當于肘后方一レ證、肘後之書、雖後人之手、猶爲古書、〈肘后方曰、比歳有時行、仍發瘡、頭面及身、須http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000014281.gif 周匝、状如火瘡、皆戴白漿、隨決隨生、不即治、劇者多死、治得差後瘡瘢紫黒、彌歳方滅、此悪毒之氣也、人云、永徽四年、此瘡從西東流、遍海中、煮葵菜蒜虀之郞止、初患、急食之少飯下菜亦得、以建武中、於南陽虜所得、仍呼爲虜瘡、諸醫參詳作治、用之有効、方取好蜜通身上摩、亦可蜜煎升麻數食上レ之、余按、後世升麻葛根湯之所祖也〉、本邦痘瘡始天平七年乙亥時、醫不其數法、公卿多斃於此病、醍醐帝、始有患痘之事、文德實録曰、仁壽三年二月京師及畿外、多患皰瘡、死者甚衆、天平九年及弘仁五年、有此瘡患、今年復不此瘡

〔隨意録〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1378 我方痘瘡之患 聖武帝天平七年夏、初自筑紫來、大流天下

流行例

〔類聚符宣抄〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1379 皰瘡事
發年々
天平七年〈始發、然而甚微也、又云。天平九年云々、〉 延暦九年〈自天平八年、至此年、五十三年、〉 弘仁五年〈自延暦十年、至此年、廿五年、〉
仁壽三年〈自弘仁六年、至此年、卅八年、〉 元慶三年〈自仁壽四年、至此年、廿六年、〉 延喜十五年〈自元慶四年、至此年、卅六年、〉
天暦元年〈自延喜十六年、至此年、卅二年、〉 天延二年〈自天暦二年、至此年、廿七年、〉 正暦四年〈自天延三年、至此年、十九年、〉
寬仁四年〈自正暦五年、至此年、廿八年、〉 長元九年〈自寬仁五年、至此年、十六年、〉

〔續日本紀〕

〈十二聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1379 天平七年八月丙午、太宰府言、管内諸國、 疫瘡( ○○) 大發、百姓悉臥、今年之間、欲貢調、許之、閏十一月壬寅、是歳年頗不稔、自夏至冬天下患 豌豆瘡( ○○○) 、〈俗曰 裳瘡( ○○) 〉夭死者多、 九年四月癸亥、太宰管内諸國、 疾瘡( ○○) 時行、百姓多死、詔奉幣於部内諸社、以祈禱焉、又賑恤貧疫之家、并給湯藥之、六月甲辰朔、廢朝、以百官官人患一レ疫也。七月丁丑、賑給大倭、伊豆、若狹三國飢疫百姓、壬午、賑給伊賀、駿河、長門三國、疫飢之民、 十二月丙寅、是年春、疫瘡大發初自筑紫來、經夏渉秋、公卿以下、天下百姓相繼沒死、不勝計也、近代以來未之有也、

〔赤斑瘡辨考證〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1379 按に、 疫瘡( エキサウ) は、 麻疹( アカモガサ) 、 疱瘡( モガサ) 、 水痘( ヤブイモ) などの總名なり、疫は周禮春官占夢の條の注に、疫厲、鬼也、劉煕釋名釋天部に、疫役也、言有鬼行疫也、説文に、疫民皆疾也、和名抄鬼魅類部に、蔡邕獨斷云、昔顓頊有三子、亡去而爲疫鬼、其一者居江水、是爲瘧鬼、和名 衣也美乃加美( エヤミノカミ) 或於爾などみえて、 時行病( ハヤリヤマヒ) の名なり、こヽに疫瘡とあるは赤斑瘡の事をいひしなり、

〔賀茂保憲女家集〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1379 この歌はあめのみかどの御時に、 もがさ( ○○○) といふものおこりて、やみける中にかもうぢなるをんな、ようつの人におとれりけり、さる中に、たヾもがさをなむ、すぐれてやみける、かさのみにもあらず、おほくのやまひをぞしける、からうじてこの歌よりなん、よみがへりける、そのほど冬のはじめ、秋のをはりなりければ、草木もかぜもやう〳〵かれもていく、つ れづれなるまヽに、めづらしきやまひなりとて、このかさのぞやみをかきおければ、やまひさるごとくによくなむ、みんひとゆヽしく、おもひぬべしとて、いさヽかいろにもいださず、〈○中略〉もがさのさかりに、めをさへやみければ、まくらがみに、おもしろきもみぢをひとのおいためりければ、おもひあまりて、
くもりつヽ涙しぐるヽわがめにも猶もみぢばヽあかくみえけり

〔儼塾集〕

〈一論〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1380 唐可學八〈○中略〉
五醫道〈○中略〉
昔者、聖武皇帝天平九年、天下痘疫流行、夏秋之間、參議藤原房前、及麻呂、左大臣武智麻呂、大宰帥宇合並薨、吁嗟哀哉、是時也醫道未精、致此夭札、愚讀史至是、未嘗不嘆息矣、唐之醫道不忽諸

〔續日本紀〕

〈四十桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1380 延暦九年十二月辛酉、是年秋冬、京畿男女年三十已下者、悉發 豌豆瘡( ○○○) 、〈俗云裳瘡〉臥病者多、其甚者死、天下諸國往々而在、

〔文德實録〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1380 仁壽三年二月庚寅、是月京師及畿外多患皰瘡、死者甚衆、天平九年及弘仁五年有此瘡患、今年復不此疫也、 三月壬子、請名僧百口、於大極殿讀大般若經、限三日訖、攘災疫也、 丁巳、以穀倉院梁鹽、給京師患瘡瘡、 四月庚午、遺侍從從五位上島江王、神祇大副兼内藏頭從五位上中臣朝臣逸志等、向伊勢太神宮、請除災疫、 丙戌、詔曰、〈○中略〉朕之不德、撫育乖方、憂惕之誡、罔濟、月令春夏、下寬大之令、頒德化之政、以順天帝、以救災變、有司務修職任、欽奉時訓、罪疑從輕、賞疑從重、貴胔掩骸之仁、崇老矜孤之德、其自今日昧爽以前、大辟以下、罪無輕重、未發覺、已發覺、未結正、已結正、繋囚見徒、咸皆赦除、但八虐、故殺、謀殺、私鑄錢、強竊二盗、常赦所免者、不赦例、令天下州郡、勿承和十年以往調庸未進、優復百姓、息當年傜十日、其疫病者、長吏親自巡視便給醫藥、諸所振贍、務令優速、庶隱恤之旨、致感革於上玄、仁貸之風、蠲凶札於中壤

〔帝王編年記〕

〈十三文德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1381 仁壽三年四月以後、疱瘡流行、人民疫死、故停賀茂祭

〔文德實録〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1381 仁壽三年五月庚子、詔十七箇寺大般若經、限三日訖、攘災疫也、 壬寅、亦詔太宰府、於觀音彌勒兩寺、并四王院、香椎廟、管内國分寺、讀大般若經、 辛亥、詔美濃國、出穀二千一百斛、給疱瘡、 七月丁未、遣散位從五位上全世王神祇大副從五位上中臣朝臣逸志、散位從五位下齋部宿禰伴主等、向伊勢太神宮、奉幣禳災沴也、 九月辛丑、詔太宰府、出穀三万八千七百餘石、賑給管内患疱瘡

〔日本紀略〕

〈一醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1381 延喜十五年十月十六日癸卯、巳一點、於紫宸殿大庭、建禮門、朱雀門等三所、有大祓事、爲皰瘡、又依 仁壽三年( ○○○○) 、 貞觀五年( ○○○○) 例也、又於仁壽殿http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003819.gif 請智德名僧廿口、有御讀經事戌刻於建禮門前、有鬼氣祭事、爲皰瘡、日來主上不豫、民間皰瘡轉發、 廿六日癸丑、大赦天下、大辟以下悉赦除、犯八虐云々、常赦所免者、不此限、又延喜十年以往、調庸未進、在民身者咸從原免、又復天下百姓當年半傜、是依皰瘡流行之愁也、

〔扶桑略記〕

〈二十三醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1381 延喜十五年秋月、天下疱瘡、都鄙老少無一免者

〔日本紀略〕

〈一醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1381 延喜十六年正月一日丙辰、止朝賀、依去年皰瘡之災也、 廿日、停内宴、依去年皰瘡也、

〔日本紀略〕

〈三村上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1381 天暦元年六月、今月以後、皰瘡多發、人庶多殤、有童謠言、 八月十四日乙未、日來朱雀院中宮〈○穩子〉太政大臣〈○忠平〉左右大臣家、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003819.gif 名僧、或令讀大般若經、或令説仁王經、依皰瘡事也、是日於建禮門前、修鬼氣祭、 十五日丙申、爲除皰瘡、於紫宸殿建禮門朱雀門三箇所、有大祓、去六月間、年卅以下男女煩小瘡、今月以後尤熾盛、其瘡爲體、或如粟、或如豆、去延喜十五年有此瘡、世俗號曰皰瘡云々、 十七日戊戌、請内印、是可除皰瘡、諸社奉幣、讀經官符給五畿七道諸國也、天皇上皇〈○朱〉〈雀〉共惱皰瘡給、 十九日庚子、賑給各〈○各恐白誤〉米百斛、鹽卅籠於東西京、是依皰瘡及赤痢事也、 九月五日丙辰、大赦、依皰瘡祈也、 七日戊午、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003819.gif 名德僧百口於紫宸綾綺兩殿、限三箇日讀仁王經、依 皰瘡之盛也、

〔扶桑略記〕

〈二十五村上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1382 天暦二年戊申、有皰瘡患

〔日本紀略〕

〈六圓融〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1382 天延二年八月廿八日癸卯、於紫宸殿前庭建禮門朱雀門大祓、依天暦元年八月十五日例之、是爲皰瘡災也、 九月八日癸丑、奉幣伊勢以下十六社、依皰瘡災也、

〔帝王編年記〕

〈十七圓融〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1382 天延二年、八九月有疱瘡患

〔百練抄〕

〈四圓融〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1382 天延二年、今年天下有皰瘡之患

〔扶桑略記〕

〈二十七圓融〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1382 天延二年、八九月間、有疱瘡疫、天下貴賤、夭亡者多矣、

〔榮花物語〕

〈二花山〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1382 ことし〈○天延二年〉はよの中にもがさといふものいできて、よもやまの人、上下やみのの志るに、おほやけわたくし、いといみじきことヽおもへり、やむごとなき男女うせ給ふ、たぐひおほかりときこゆる中にも、前せつしやうどの〈○伊尹〉の前のせう志やう、〈○擧賢〉後せう志やう〈○義孝〉おなじ日うちつヾきうせ給て、はヽきたのかた、あはれにいみじうおぼしなげくことを、よの中のあはれなることのためしには、いひのヽしりたり、

〔扶桑略記〕

〈二十七一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1382 正暦四年秋比、天下有皰瘡疫

〔百練抄〕

〈四一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1382 正暦四年、今年皰瘡流行

〔本朝世紀〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1382 正暦四年七月十七日癸卯、中納言藤原顯光卿參入、著左仗座、藏人召仰云、雖今年疱瘡之事、准天延之例、可相撲召合並并樂之由等、召仰左右近衞府、 八月十一日丙寅今日定考也、此度停止宴座、依左大臣薨也、午後内大臣參議藤原安親卿、著左仗座、被臨時仁王會事、又此日被先例疱瘡、南殿并建禮朱雀門等前、以廿一日大祓、 廿一日丙子、中納言源保光卿、參議藤原時光卿、參著左仗座、今日未一刻、依天變并疱瘡等事、於紫宸殿并建禮朱雀門三所、御祓之事、

〔日本紀略〕

〈九一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1383 正暦四年八月十一日丙寅、今日詔、大辟以下赦除、常赦所免者不赦、又免調庸、復半傜、爲三合皰瘡之患也、 廿一日丙子、紫宸殿建禮門朱雀門大祓、依天變并皰瘡也、 廿八日癸未、仁王會、七八月間、有天台山有兩門徒亂逆、又有皰瘡之患

〔左經記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1383 寬仁四年三月廿一日壬申、近曾以來、上下之道俗男女年七八已下者多病惱、稱 裳瘡( ○○) 云々、或間々有重惱云々、左大弁五男〈童〉今朝死去云々、

〔日本紀略〕

〈十三後一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1383 寬仁四年三月、此春人民患疱瘡、 四月廿二日癸卯、詔、大赦天下、大辟以下罪、無輕重悉以赦除、但犯八虐、故殺、謀殺、私鑄錢、強竊二盜、常赦所免者、不赦、又免調庸傜役、依皰瘡疾疫事也〈○中略〉今年自春患皰瘡四月殊甚、

〔榮花物語〕

〈十六もとのしづく〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1383 はかなくとしもかへりぬ、〈○寬仁四年〉世中いまめかし、ことしはもがさといふ物おこりぬべしとて、つくしのかたにはふるきとしより、やみけりなどいふこときこゆれば、はじめやみけるよりのち、このとしごろになりにければ、はじめやまぬ人のみおほかりける世なれば、おほやけわたくしいとわりなく、おそろしき事におもひさわぎたり、〈○中略〉かくて、このもがさ京にきにたれば、やむ人々おほかり、〈○中略〉世の人たヾいまは、このもがさに事もおぼえぬさまなり、このもがさは、大貳〈○隆家〉の御ともにつくしよりきたるとこそはいふめれ、あさましくさまざまにいみじうわづらひて、なくなるたぐひもおほかり、いみじうあはれなることおほかり、かヽるほどに、故志きぶきやうみや〈○爲平〉のよりさだのさひやうゑのかう、この三月廿よ日にけびいしべつたうかけ給つ、されどこの月ごろ心ちれいにもあらずおはしけるを、いかなるにかと覺しわづらひて、この悦びもいまだ申給はざりけり、ゐん〈○小一條〉のにようご〈○延子〉うせ給にしのち、との〈○顯光〉のいとをしう心ぼそげにおはしければ、このはるほりかはどのにわたり給へれば、おとヾもすこし御けしきよくなりて、めやすかりつるに、かくなやみ給へば、いかに〳〵とおぼ したり、うたてゆヽしきころなれば、ほかへもやなどおぼせど、なほかくてすごし給ほどに、又もがささへねしてなやみ給へば、よもやまのくすしをあつめ、よるひるつくろはせ給へど、むげにあさましうたのみすくなき御ありさまなれば、べつたうじし給つ、くわんばくどのヽうへ〈○賴通妻〉〈隆姫、具平親王女、〉のおほんをぢにおはすれば、よろづにとひきこえ給、ものなどおほくたてまつれさせ給、いみじきことヾもたび〳〵せさせ給ヽへど、いとあべきほどにさへなりぬれば、あはれに心ぼそくおぼさる、六月九日ほうしになり給ぬ、

〔類聚符宣抄〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1384 詔、通賢將聖之道、玄德動天、堯眉舜目之治、赤心加物、朕以庸昧、忝繼洪基、禁綱彌張、雖段朝之一面、刑鞭無措、空慙周室之多年、毎賞罰之不明、唯懼咎徴之相示、頃者、疱瘡作災、人庶無靜、門戸多連沈困之枕席、街巷間抱夭折之襟懷、朕之薄德、下民何辜、夫仁山者、禦邪之固也、函谷之林慙貞、恩波者愈病之源也、上池之水讓術、宜肆眚之仁恩、以消一天之災沴、今日昧爽以前、大辟以下、已發覺、未發覺、已結正、未結正、罪無輕重、悉以救〈○救恐赦誤〉除、但犯八虐、故殺、謀殺、私鑄錢、強竊二盜、常赦所免者、不此限、又寬仁三年以往、調庸未進在民身者、咸從原免、又復天下百姓當年半傜、疾病者、長吏躬親周視、特加優恤、令安存、布告遐邇、明俾聞知、主者施行、
寬仁四年四月廿二日

〔日本紀略〕

〈十三後一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1384 万壽二年九月廿八日丁未、自夏及秋、天下患皰瘡

〔扶桑略記〕

〈二十九後三條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1384 延久四年七月六日、去六月以後疱瘡流行、貴賤不此厄

〔仁和寺御傳〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1384 大御室 性信〈○中略〉
延久四〈壬子〉年月日、爲皇太子〈○白河〉疱瘡御祈、修藥師法、有効驗

〔水左記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1384 承保四年八月十六日癸巳、御前御心地同樣御座、後聞、今日公家依御體不豫并人民皰瘡事等、被非常赦、上卿右衞門督、少内記江通國、作詔文、大内記藤敦基、有故障參仕替云々、 十七日 甲午、後聞、式部卿敦賢親王、日來惱疱瘡餘氣薨逝、年卅九云々、 十九日丙申、後聞、公家依御體不豫并人民皰瘡等、被幣廿二社、上卿右衞門督、少内記江通國、作宣命文

〔榮花物語〕

〈四十むらさき野〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1385 そのとし もがさ( ○○○) といふことおこりて、ことにわかき人などいみじうやむに、春宮〈○實仁〉おもくわづらはせ給て、應德二年十一月八日にうせさせ給ぬ、あさましくいみじう、ちかくはきこえぬことなりかし、

〔中右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1385 寬治八年〈○嘉保元年〉正月十六日戊子、今夜子時許、陽明門院崩于鴨院、〈是依疱瘡也、御年八十二、〉廿日壬辰、從去十一十二月、及此正月、世間有疱瘡聞、就中近日多夭命者云々、十七歳以下、小兒一人不殘歟、雖老者先度者、復遇此病云々、 廿五日丁酉、從今日祇園寶前公家御祈、仁王講〈僧三口〉大般若御讀經、〈六口〉是疱瘡御祈也、請僧等、仰本寺別當定秀請也、藏人宗佐行事、不公卿弁也、十二月晦日、去年冬天下自疱瘡、引及此春

〔殿暦〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1385 天仁二年四月十日甲申、昨日參院次被仰云、もがさの料に、世人賀茂のみたらし河水をあむるよし人申者、仍予〈○忠實〉姫君中將に今日あむす、其儀先例湯をあむして、身をきよめて、次に件湯をあむして、頭をもあらはして、今日許きよまはらせてすへたり、

〔永昌記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1385 大治元年正月十七日癸未、今日依疱瘡大赦、宗光草之、

〔本朝世紀〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1385 康治二年五月六日壬戌、太上皇〈○崇德〉令疱瘡御云々、 十四日庚午、權中納言藤公敎卿參左仗、被非常赦事、大内記藤令明草進詔書、依天下疱瘡流行事、并臨時御祈也、御畫日畢、召中務丞平實重給之、 十五日辛未、法皇〈○鳥羽〉御逆修結願也、又上皇御惱疱瘡之後、御邪氣相加、頗危急云々、廿四日庚辰、自令夜主上〈○近衞〉有御疱瘡事、 廿五日辛巳、列見也、〈○中略〉無音樂并插頭事、依疱瘡流行也、 廿七日癸未、主上御疱瘡、未尋常、又待賢門院同令疱瘡給云々、 廿九日乙酉、於淸凉殿六十口御讀經、〈大般若〉權大納言藤伊通卿、參左仗、定日時并僧名、右大弁源俊雅書定 文、依主上御疱瘡也、 六月廿四日己酉、三品雅仁親王室家夭亡、〈年二十八〉産後煩疱瘡之故云々、左相府養爲子、所合親王也、

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1386 康治二年五月九日乙丑、北斗拜、〈四月分〉新院〈○崇德〉御疱瘡、〈赤〉温氣由承之、 十四日庚午、不他行、依疱瘡、並公家御愼、有非常赦云々、 六月廿四日己酉、雅仁親王夫人薨、産後疱瘡、余哀傷、以不幸短命也、

〔百練抄〕

〈八高倉〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1386 安元元年三月五日、主上御疱瘡、近日流行天下、被御祈等、此日有奇雲、天下可驚事之由、泰親朝臣申上之

〔顯廣王記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1386 安元三年〈○治承元年〉二月廿四日甲子、依疱瘡天變九社奉幣使了、伊勢兼康王、中臣能隆、忌部友平、ト部雅樂助兼濟、八幡實綱卿、次官範實、賀茂家通卿、次官懐綱、松尾賴定卿、次官仲賴、平野實宗卿、次官淸定、稻荷淸通朝臣、春日周防守季能朝臣、日吉經家朝臣、祇園顯信朝臣、上卿大納言實房卿、右中弁經房朝臣、

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1386 治承四年八月廿一日辛丑、早旦歸家、自今旦大將病惱、及巳刻疱瘡出遍身云々、仍召主税頭定長女醫博士經基等之、共申疱瘡之由、〈 俗云ヘナモ( ○○○○○) 云々〉 廿六日丙午、大將疱瘡出調了、温氣散了云々、爲悦不少、

〔吾妻鏡〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1386 建久三年十二月廿三日辛酉、若公萬壽、此一兩日御不例、今日疱瘡出現給、此事都鄙殊盛、尊卑遍煩云云、

〔吾妻鏡〕

〈十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1386 承元二年二月三日癸卯、鶴岳宮御神樂如例、將軍家〈○源實朝〉依御疱瘡御出、前大膳大夫廣元朝臣爲御使神拜、 十日庚戌、將軍家御疱瘡、頗令心神給、依之近國御家人等群參、 廿九日己巳、將軍家御平愈之間、有御沐浴、 三月三日壬申、鶴岳宮一切經會、將軍家依疱瘡御餘氣御出
五年〈○建暦元年〉二月廿二日乙巳、將軍家、御參鶴岳宮、朝光役御劒、去承元二年巳來、依御疱瘡之 跡、無御出、今日始有此儀

〔百練抄〕

〈十三後堀河〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1387 安貞元年〈嘉祿三年十月廿日改元、依疱瘡也、〉
○今按ズルニ、此ノ時ノ疱瘡、帝王編年記ニハ、赤斑瘡トアリ、

〔吾妻鏡〕

〈三十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1387 嘉禎元年十月廿八日丁巳、自去夜主上疱瘡御不豫、凡此事洛湯流布、諸人不免云云、十二月十八日丙午、將軍家〈○賴經〉御不例事、御疱瘡有出現氣之由、良基朝臣申之、今夜又始行御祈禱等、及子刻平左衞門尉盛綱、爲武州御使御所申云、毎日可御招魂祭之由云云、仍先七箇夜可奉仕之旨、被國繼云云、

〔吾妻鏡〕

〈三十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1387 嘉禎二年正月十七日乙亥、將軍家、依御庖瘡餘氣、御股御膝、腫物〈號押領使〉廿餘箇處令出給、今日女房石山局、召良基朝臣、可何樣御事哉之由被仰合、不殊御事云云、聊奉療治

〔百練抄〕

〈十五後嵯峨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1387 寬元元年五月十九日甲午、奉幣兩社〈石、賀〉被申行幸延引事、近日疱瘡滋蔓、小兒等有此事云々、

〔後愚昧記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1387 康安元年正月十八日、新院〈○崇光〉御惱、爲御疱瘡由、醫師和氣廣成朝臣定申、 廿六日、新院御惱増氣、施藥院使篤永朝臣、以柚針、奉痘間、 内攻( ○○) 云、

〔皇年代私記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1387 北朝康安元年〈○南朝正平十六年〉三月廿九日改元、依疾疫、疱瘡、天災、兵革等也、
文中三年、自正月二月、疱瘡流行、

〔後深心院關白記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1387 永和三年十月廿一日丙寅、此兩三日、御不豫云々、篤直卿、賴景、兼康、廣成等朝臣、應召御疱瘡序分歟之由、篤直申之云々、 十一月廿一日丙申、禁裏御疱瘡已御減之間、御湯可近日之由御沙汰、然而日次事、猶不決云々、

〔立川寺年代記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1387 享德元年壬申、此年京洛小兒 イモヤミ( ○○○○) シテ多死、同北陸道癸酉〈翌年〉マデ小兒イモヤミシテ多死、

〔皇年代私記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1388 享德三年、天下疱瘡流行、

〔親長卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1388 文明三年七月廿一日、主上〈○後土御門〉内々有御發氣、大略流風疱瘡歟、

〔妙法寺記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1388 大永二年、此年小童 痘( モ) ヲヤム、又 イナスリ( ○○○○) ヲヤム、大概ハツル也、
天文六年、此歳童子共痘ヲ致シ候事限ナシ、 十九年、是春小童ドモ疱ヲヤミ候而、皆々死コト不言説、下吉田計ニテ五十人許死申候、餘リノコトニ書付申候、

〔時慶卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1388 慶長十年十二月十二日、小捨煩由申、 出物( ○○) カト也、 十四日、小捨痘瘡出、爲見廻、強飯小瓶遣候、優婆ト沙彌ヲ泊懸ニ遣候、 十五日、小捨彌出物能由申候、

〔慶長日件録〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1388 慶長十一年正月一日庚午、嫡男鶴光丸、自昨日疱瘡、處々令形、仍全齊好庵等召遣、令脈候、一藥被與、

〔當代記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1388 慶長十二丁未、舊冬ヨリ大御所幼息長福主〈○家康子賴宣〉疱瘡煩、長福主疱瘡平愈之間、廿日〈○正〉〈月〉ニ酒湯浴給フ、

〔相良家年代記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1388 慶長十二丁未六月五日、夕立ニアラレフル、春夏ホウサウハヤル、揔テ諸病ニ人多死ス

〔義演准后日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1388 慶長十三年二月廿四日、秀賴公疱瘡御沙汰、御祈禱可申由、大藏卿局ヨリ文來、昨日日付也、辰刻來了、布施銀子卅枚送給之由也、養源院取次、未刻歟、重而大坂ヨリ銀子持來、辰刻御、撫物ニ左近差遣了、普賢延命護摩、初夜開白、 廿七日、普賢延命護摩、後夜日中兩座相續、天供同兩座、天明時分ニ修畢、大般若轉讀十四口、導師予、銀子三枚爲布施之、札并百座卷數大坂へ進之、使大藏卿法橋、 三月十三日、秀賴公御疱瘡驗、今日御湯被召之由、仍爲祈念大般若轉讀、經衆八口、松橋法印等導師予、御札持進之、

〔敎令類纂〕

〈初集十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1388 慶安三庚寅年十月四日
疱瘡麻疹 藪いも( ○○○) 遠慮之覺
一手前ニ抱置候孫子親類、疱瘡藪いも相煩候ニ付、三度湯かけ候ハヾ御番に出し可申候、但屋敷之内を借り罷在候親類縁者、右之煩有之時、構を仕切居住候ハヾ不苦候、御番に出し可申候事、
一自分疱瘡相煩候ハヾ、相見へ候内http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000069681.gif 七十五日過候ハヾ御番ニ可出事、
御目見之者、百日除候事、
一自身疹藪いも相煩候ハヾ、見へ候日http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000069681.gif 三十五日を過候ハヾ御番ニ出し可申事、
御目見之者ハ、七十五日除可申候事、
一庖瘡相煩候看病人、見へ候日http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000069681.gif 五十日御目見不仕候ニ付、御供番、右之日數除申候事、
勿論當番之節、御目見不仕事、
一疹藪いも相煩候看病人、見へ候日http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000069681.gif 三十五日御目見不仕候ニ付而、御供番之節、御目見不仕候
慶安三庚寅年十一月四日
延寶八庚申年
疱瘡疹水痘遠慮之事
一疱瘡病人は、見へ候非http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000069681.gif 三十五日過候て罷出、御目見可仕候、
一看病人は、三番湯掛罷出、御目見可仕候、
一病人相果候共、忌明候而罷出、御目見可仕候、
一疹病人は三番湯かけ罷出、御目見可仕候、
一看病入、右同斷、
一病人相果候ハヾ、疱瘡同前、
一水痘疹同前
右者御側之面々計、外樣之面々者御構無之、先日申通候、以上、
十一月廿八日

〔敎令類纂〕

〈初集十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1390 正德四甲午年十一月

一疱瘡麻疹煩候者、死候時者、看病之斷ヲ申立、病人ニ付罷在候者は、病人死候日 廿日過候迄者、御目通〈江〉罷出候儀差扣可申候、忌掛候者は、右日數の内ニ、忌明候ハヾ登城いたし、御番をも可相勤候、御目通〈江〉は、右之日數過候迄は差扣可申事、〈○中略〉
午十一月
右之通可相心得候、以上、

〔幕朝故事談〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1390 德廟の時、松平肥後守痘瘡の時、御直の御指圖にて、村上養順被仰付、參候節不門、依之村上乘返す、肥後守樣より詫之事、

〔敎令類纂〕

〈二集四十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1390 元文五庚申年正月廿九日
板倉佐渡守殿御渡
疱瘡はやり候ニ付、陰陽二血丸可下候間、布衣以上御目見以上之者、望之者有之候ハヾ、河野仙壽院栗本瑞見方迄相願、拜領可仕候、尤勤候者ハ、於御城仙壽院瑞見へ申逹候共可仕候、
但未疱瘡不致子共大勢有之、餘計も拜領致し度ものは、子共何人と申儀、兩人方へ申逹可相願候、
右之趣、向々〈江〉可相逹置候、
正月
延享元甲子年正月廿一日
本多伊豫守殿御渡
疱瘡はやり候ニ付、陰陽二血丸可下候間、御目見以上之面々望之者有之候ハヾ、元文五申年之通、栗本瑞見方迄相願、拜領可仕候、尤出合候者ハ、於御城瑞見へ申逹、頂戴致し候共可仕候、
〈子〉正月
瑞見方ニ二血丸、願ニ出候節、書付持參候事、
御役名
何之誰
御番名何之誰〈但支配歟〉
何之誰

〔半日閑話〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1391 明和八年辛卯春正月
去年冬より庖瘡大ニ流行す、此春わきて甚し、小兒多く死す、

〔天保集成絲綸録〕

〈七十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1391 文政三辰年二月
寺社奉行〈江〉
右大將樣〈○德川家慶〉被御疱瘡候ニ付、御祈禱料として從右大將樣伊勢兩宮〈江〉白銀三十枚宛、内宮〈江〉御供料黄金壹枚、外宮〈江〉大神樂料黄金壹枚被遣候、春木大夫、山本大夫〈江〉可相渡候、白銀黄金は西丸御納戸に而可請取候、御札等差上候儀者、先格之通仕候樣可逹候、
二月
文政參辰年十月
寺社奉行〈江〉
楞伽院差僧正
觀理院權僧正
樹 下 日 向
右大將樣御疱瘡御快然被遊候爲御祝儀、明廿七日御能被仰付候間、五ツ時御城〈江〉罷出見物仕候樣可申渡候、
十月廿六日

疱瘡神

〔親長卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1392 文明三年後八月六日、稱疱瘡之悪神( ○○○○○○) 之由、〈珍尼公出來之由、兒女出稱之、不可説、〉所々有囃物、毎日事也、七日、今日町送疱瘡之惡神、有囃物、室町殿御前、北小路殿御前等可之、或仁構棧鋪招請之間、罷向了、見物不相應也、種々有囃物云々、
○疱瘡神ノ事ハ、神祇部神祇總載篇ニ在リ、

〔古事記傳〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1392 伯耆國人の云く、本國八橋郡束積村に、鷺大明神と云あり、須佐之男命を祭ると云、同村に大森大明神と云あり、大穴持命を祭ると云り、件兩社の神主細谷大和と云、さてその鷺大明神を、疱瘡の守神なりと云て、そのわたりの諸人あふぎ尊みて、小兒の疱瘡の輕からむことを祈る、まづ初に此願を立るときに、此社に詣て、竹皮の笠を一蓋借て歸て、家内に齋ひ置て、その兒疱瘡をことなくしをへぬれば、賽に同じさまの笠を今一蓋添て、初のと共に、かの社に返し納奉る、此笠どもはみな、神の御前に積置を、又後に析かくる者は、一蓋づヽ借て歸るなり、

皰瘡雜載

〔叢桂偶記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1392 痘瘡〈○中略〉
五雜組曰、韃靼種生無痘疹、以鹽醋故也、近聞其與中國互市間、亦學中國飮食、遂時一有之、彼人即舁置深谷中、任其生死、絶跡不敢省視矣、一云、不猪肉故爾、西域聞見録曰、小兒亦出痘、輕而易過、百中或損一、亦從無回子麻面者、倘出痘者多則避於深山極寒之地免、克〈○原昌克〉按、其症之發不食餌、 五島八丈島( ○○○○○) 、 亦無此病( ○○○○) 、蓋其風土爲然、西肥鮮此患、人士未染者、不遠離其地、含使命四方、或于役 江戸、裹足境内、與彼禁錮一般、故聞長崎及諸方痘瘡流行、則或往其地其傳染、或行種痘法而歸、翁加里亞國亦無痘、行商濟異域者、先行種痘法而後航海、明和年間、遷八丈民於下野芳賀郡、居頃之而老壯患痘、寬政八年丙辰五月三日、常陸那珂湊、一船漂著、所乘十一人、問之、曰伊豆三宅島舟也、去年七月廿二日、載流徒八丈島、十月至島、今年四月發島、遇西風于此、當日撿之告官、令吏賜糧食、内有八丈島民三人、曰八丈島自古無痘瘡、方今一般流行、斃于此病者日多一日、小民無智、以一日之命幸、奔走竄伏、隱山入谷、避乏猶寇敵、耕耨漁樵、一時廢業、恐公田赤地、村甲伍老、入山敎諭、以痘災未一レ除、惟死之懼、所保結官絹、染絲既成、織女竄山、或臥枕、無紡績者、恐致稽遅、因報知之、具状以聞、本島之例、不八十八夜、則不渡海、蓋避風濤之災也、予輩不之、故託三宅島舟纜、果遇駭風流于此因問其詳、曰、寬政乙卯九月廿七日、八丈島船自伊豆歸、所乘三根村民於船中病、十月三日周身發紅、不何病、醫議曰、痘瘡也、本島從來無此病、今有此症、恐傳染外人、乃區畫里外、構小舍之、終以不起、延及其家人隣側、先是天明年間、島内樫立村痘疹流行、死者甚多、以故人心益不安、三根村外十里斷路禁往來、使樫立村往年患痘者使之、島吏趣三根村護之、死者不止、小民棄家携妻子逃山中、無幾支村稻葉里發痘、島吏令病者悉送之本村之、日後患者比々相屬、不又送一レ之、其死者多係老壯、如幼少者其病輕、三根村男女千四百餘口、竄山者二百餘人、罹患者千二百人、死者四百六十人、末吉樫立二村、與三根村山、故禁村民相交、客歳晩冬、樫立村有一人罹患者、速遷之里外、往年死于痘者三百餘人、今年病者皆是幼童、以故死者少、樫立村男女九百餘口、患者百三人、死者二十九人、末吉村去年臈月一人得痘、併其未痘之時至其家之居里外、不村人相交會、人人欲家避山中、盤驗之、無糧可數日、仍敎諭就農桑漁樵、至今年正月、比屋患之、末吉村男女八百餘口、皆逃去山中、患者五十五人、死者十五人、大賀郷預防之、禁村民與他村往來、客歳季冬有一人發痘者速遷之三根村、郷中驚怖、竄入山中、其得痘死、亦不餓死、里正等招諭就産業、無一人歸 者、逃山中者得痘、又令之三根村、無幾患者相次、不悉遷一レ之、男女千八百餘口、患者百二十六人、死者四十七人、中之郷不痘村相通嚴防之、至今年早春一人發痘、送之里外草舍、敎諭郷中産業、又一人得痘、郷人謂不山、則不免與于痘寧死于餓、一時騷亂、竄入山中、不日山中發痘者多矣、仍有稍々歸家者、男女千餘口、患者四十人、死者十三人、小島令渡海、故無痘疾、小島民來寓三根村者二人、罹災死、靑島往年地中出火焰、焼後八丈人遷居墾田、島人預防痘災、然亦終不免、男女百五十餘口、患者十九人、死者十三人、

〔橘庵漫筆〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1394 痘瘡は、本朝往古なかりしを、筑紫より流行來れりと傳紀に詳なり、これが論は志ばらく閣、いづれも當れり、盡せる故なり、然ども其の初筑紫より流行すといへども、壹岐の國、肥後の天草地續の處は、 肥前の大村領( ○○○○○○) などは、昔より疱瘡を志らず、然といへども邂逅伊勢參宮などするとき、他國に疱瘡流行する期に行合すれば、夫に感じて痘を病なり、左有ときは、同行の連これを恐れて、路傍に打捨行とき、病者旅宿を求保養するなり、類族合壁の者といへども、捨置事如斯し、殘忍なる樣なれど、誤て國に歸るときは、合壁より隣村に傳染し、甚敷ときは國中に流行す、然れば容易痘根絶がたく、大にくるしむなり、予が類族、壹州の問丸をす、依て目前見る處なり、是胎毒に依や、先天の慾火によるや、他國の水土に感ぜし者、國中に充るは何んぞや、其所に於て一國一郷痘を知らざるは何ぞや、謝氏の説も又宜なり、

麻疹

〔運歩色葉集〕

〈葉〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1394 黑豆疹( ハシカ)

〔倭訓栞〕

〈中編十九波〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1394 はしか
麻疹をいひ、麥の芒刺をいふ、ともにいら〳〵として苛酷なる義也、下學集に檜をよめるは芒刺の意也、麻疹を糠瘡ともいへり、羅浮子云、細粟如麻者呼爲麻也、國史には赤班瘡とみゆ、

〔痘科辨要〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1394http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022504.gif
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022504.gif 、一名膚疹、一名騷疹、一名糠疹、一名麩疹、一名瘄子、一名痧子、一名赤瘡、〈○中略〉
按、麻如麻、痧如沙、但大小不同耳、所謂痘疹、麻疹、痧疹、風疹、隱疹之屬、蓋指初出赤點、皆謂之疹、疹與http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022504.gif 古通用、

〔日本紀略〕

〈十一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1395 長德四年七月二日戊午、今月天下衆庶煩疱瘡、世號之 稻目瘡( イナメガサ/○○○) 、又號 赤疱瘡( ○○○)

〔玉勝間〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1395 あかもがさ
日本紀略云、長德四年七月、天下衆庶煩疱癘、世號之稻目瘡、〈○中略〉稻目瘡と名けたるは、蘇我稻目大臣の事を思ひてなるべし、書紀欽明御卷十三年、疫氣のおこりし事考ふべし、又敏逹御卷に、十四年天皇與大連卒患於瘡云々、又發瘡死者充盈於國、其患瘡者、言身如焼被打被一レ摧、啼泣而死、老少竊相謂曰、是燒佛像之罪矣とあるも、あかもがさにやありけむ、〈○中略〉赤もがさは、今の世にはしかといふ瘡也、

〔隨意録〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1395 麻疹之患、則一條帝長德四年夏初、此瘡流行、國史稱之赤斑瘡〈方言阿迦毛加左〉西村玄周、引數證云、赤斑瘡之爲麻疹也、不疑矣、

〔赤斑瘡辨綱要〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1395 赤斑瘡異名
赤斑瘡〈類聚符宣抄 醫心方 小右記 山槐記 扶桑略記 日本紀略 帝王編年記 百練抄 皇代記 吾妻鏡 拾芥抄 萬安方 頓醫抄 濫觴抄 鶴岡社務記録 關東評定傳 歴代皇紀類聚大補任〉赤斑之瘡〈吾妻鏡脱漏〉赤斑〈吾妻鏡脱漏〉赤疱瘡〈扶桑略記 日本紀略 百練抄 中右記 皇代記歴代皇紀 皇年代略記 倭漢合運〉大疱瘡〈歴代皇紀〉 赤瘡( アカガサ) 〈中右記〉赤疹〈萬安方 永祿板年代記倭漢合運 新撰倭漢合圖〉 赤裳瘡( アカモガサ)〈左經記〉 麻疹( ハシカ) 〈妙法寺記録〉麻疹〈醫學天正記〉 麻豆瘡( ハシカ) 〈萬安方頓醫抄〉麻子瘡〈一代要記拾芥抄〉 疹( ハシカ) 〈萬安方羅山文集 諸疾宜禁集〉 瘡疹( ハシカ) 〈萬安方節用集〉http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000083804.gif 疹( ハシカ) 〈萬安方 醫學天正記〉 疹瘡( ハシカ) 〈頓醫抄〉疹子〈萬安方〉細疹〈頓醫抄〉 稻目( イナメ) 瘡( ガサ) 〈日本紀略〉 瘀( ハシカ) 〈多門院日記〉 黑豆疹( ハシカ) 〈運歩色葉集〉 麩瘡( ハシカ) 〈萬安方頓醫抄〉膚瘡〈頓醫抄〉あかきかさ〈榮花物語〉あかヾさ〈榮花物語〉あかもがさ〈榮花物語〉はしか〈頓醫抄訓 萬安方訓 節用集訓 多門院日記訓 運歩色葉集訓 神明鏡 後奈良〉 〈院宸記〉

〔赤斑瘡辨綱要〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1396 赤斑瘡誤名
謂誤名者、誤以疱瘡之稱、而爲麻疹之名也、
斑瘡( ハンサウ) 〈百練抄 萬安方 頓醫抄〉 疱( ハウ) 〈元亨釋書倭漢合運〉 疱癘( ハウレイ) 〈日本紀略倭漢合運〉 疱瘡( ハウサウ) 〈公卿補任 日本紀略 帝王編年記 百練抄 山槐記左經記 中右記 朝野群載 文德實録 水左記 一代要記 皇代記 皇年代略記 濫觴抄眞言傳 元亨釋書 拾芥抄 壒囊抄 日蓮書録外 永祿板年代記 舊事大成經 前々太平記〉もがさ〈榮花物語 壒囊抄賀茂保憲女集〉

〔内科秘録〕

〈十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1396 小兒麻疹
麻疹ハ吾郷黨〈○水戸〉ヨリ適起ルモノニ非ズ、麻疹ノ流行ハ古來ヨリ、何時ニラモ南方ヨリ起リテ、漸次ニ北方ヘ及ブモノナリ、九州ヨリ中國ニ至リ、中國ヨリ京攝ニ至ルモノユエ、前日ニ沙汰ノアリテ來ルモノナレバ、醫者ハ勿論素人ニテモ、一目シテ麻疹ナルコトヲ知ルベシ、決シテ吾郷黨ヨリ卒ニ起ルモノニ非ズ、凡ソ流行病ノ大ニ行ハル、ハ麻疹 モ限ラズ、南方ニ起リテ北方ニ遷延スルモノナリ、於七風、琉球風ノ類モ皆南方ヨリ北方ヘ行ハレタリ、特リ邪氣ノミニ非ズ、陽氣ノ起ルモ南ニ始テ北ニ至ルナリ、庭前ノ草木ヲ熟視スルニ、枝ノ出テ芽ノ生ズルモ、南ハ先ニシテ北ハ後ル、ナリ、

〔救http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000055383.gif 袖暦〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1396 近來流行疫ノ病後ニ疹ヲ發セルハ、痘麻ノ如キ一種ノ疹ナルベシ、千金方ニ小兒十蒸八變シテ人トナルコトヲイヘリ、其状痘序ノ如シト見ユ、是レ隋ヨリ唐ニ及テノコトナリ、ソレヨリ漸々ニ痘瘡世ニ行ハル、續テ麻疹世ニ出テ、水痘モ世ニ出タリ、此ヲ以テ見ルニ、痘麻ノ世ニ出ベキ根基ハ、上古ヨリ具足セルナルベシ、ナテ今ノ小兒ニ變蒸アルコトナシ、チエホトリト訓スレド、變蒸ニ似タル者ヲ見ズ、思フニ痘麻世ニ出ベキ漸ニ攣蒸アリ、痘麻世ニ出デ流行ノ疫氣ニ感ジテ、一生一次ニ胎毒ヲ發洩シ盡ス、故ニ變蒸ナキナルベシ、近來ノ疹疫モ亦一種ノ痘麻ノ 如キモノ世ニ出ベキ漸ナラン、痘痲ノ世ニ出ベキ根基ハ既ニ上古ニ具セリ、

〔斷毒論〕

〈天〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1397 痲源〈○中略〉
本邦天平延暦之痘毒、隔數十年、亦非天時之命邪之差、以一齊流行竭海内之人故也、方今痲毒之行、傳染之勢、急於痘、然非其毒暴於唐山、非天時令邪異於唐山、是亦人事之所使也、何則痘者、嬰兒之患、痲者多枉壯年、故逆旅染病者、旬日行程、傳於千里之外、未半歳、流布于海内、普竭其人而後罷、又隔數年來海外之毒氣則復作海内之巨害、故史之所記、今之所視、莫必從西海東海、是以其流行邇者十餘年、遐者數十年、其期如存如亡、若夫萬壽承暦之際、隔五十三年、亦非天時令邪之所一レ使、幸不外國流行之毒也、以何證之、享和癸亥〈○三年〉之痲毒、豆之八丈島獨免焉、是島以流刑之徒、嚴禁舟揖之往來、是故不本邦之毒也、後歳若傳之、則與萬壽承暦之際何以異邪、是即所以謂 傳染之疾在人事而不一レ天時( ○○○○○○○○○○○○)也、嗟毎此毒行、絶世嗣、殞骨肉、天札之夥、非天行疫疾之可比者也、雖然沴氣有形、一種之傳染、非避疾、避則必免、不避則冒、

流行例

〔拾芥抄〕

〈下末養生〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1397治疱瘡方〈,見天平官符、天平九年六月廿六日下諸國官符、○中略〉
惱人〈乃〉背〈仁〉此七字可之、 麻子瘡( ○○○) 之種我作云々、

〔類聚符宣抄〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1397 太政官符、東海東山北陸山陰山陽南海等道諸國司、
疫之日、治身及禁食物等事漆條、
一凡是疫病、名 赤斑瘡( ○○○) 、初發之時、既似瘧疾、未出前、臥床之苦、或三四日、或五六日、瘡出之間、亦經三四日、支體府藏大熱如燒、當是之時、欲冷水、〈固忍莫飮〉瘡又欲愈、熱氣漸息、痢患更發、早不療治、遂成血痢、〈痢發之間、或前或後、無定時、〉其共發之病、亦有四種、或咳嗽〈志波不岐〉或嘔逆、〈多麻比〉或吐血、或鼻血、此等之中、痢是最急、宜此意、能勤救治、〈○中略〉
以前、四月以來、京及畿内、悉臥疫病、多有死亡、明知諸國佰姓、亦遭此患、仍條件状、國傳送之、至宜寫取、 即差郡司主帳已上一人使、早逹前所、無留滯、其國司巡行部内、告示百姓、若無粥饘等料者、國量宜給官物、具状申送、今便以官印之、符到奉行、
正四位下行右大弁紀朝臣〈○男人〉 從六位下守右大史勲十一等壬生使主
天平九年六月廿六日、
○按ズルニ、此宣符ノ病状、麻疹ニシテ痘瘡ニアラザル由、太田覃、及ビ屋代弘賢ノ説アリ、説ハ載セテ醫術篇三、痘科治療條ニ引ク叢桂亭醫事小言ニ在レバ、宜シク參看スベシ、

〔帝王編年記〕

〈十七一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1398 長德元年六七月、赤斑瘡上下老女煩之、

〔榮花物語〕

〈五浦々のわかれ〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1398 ことし〈○長德四年〉れいのもがさにはあらで、 いとあかきかさ( ○○○○○○○) のこまかなる、いできて、おいたるわかき、上下わかず、これをやみの、しりて、やがていたづらになるたぐひもあるべし、これをおほやけわたくし、いまのものなげきにして、志づ心なし、

〔日本紀略〕

〈十一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1398 長德四年十二月廿九日甲寅、今年天下自夏至冬疫瘡遍發、六七月間、京師男女死者甚多、下人不死、四位以下人妻最甚、謂之赤斑瘡、始主上于庶人、上下老少無此瘡、只前信濃守佐伯公行不患、

〔扶桑略記〕

〈二十七一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1398 長德四年、是年自夏至冬、疫瘡遍發、六七月間、京師男女死者甚多、下人不死、四位已下人妻最甚、外國不死、世謂之赤斑瘡、始天皇、至于庶人、貴賤老少、緇素男女、無一免此瘡、但前信濃守公行獨不之、

〔百練抄〕

〈四一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1398 長德四年、今年自夏至冬斑瘡流行、死亡者多、古老未今年
○麻瘡考ニ云ク、日本紀略ニ疱瘡ヲ煩ト見エタルハ、麻瘡ト疱瘡ノ差別ヲシラズシテ書シモノナリ、扶桑略記ニハ、赤斑瘡ト書シ、百練紗ニハ斑瘡ト書セリ

〔扶桑略記〕

〈二十八後一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1398 萬壽二年、自夏至秋季、有赤疱瘡

〔左經記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1399 萬壽二年七月廿二日壬寅、始今日、以五口僧承香殿、五十ケ日、被讀大般若經、余爲行事參入、事了退出、近來天下道俗男女、不老少、惱 赤裳瘡( アカモガサ) 之由云々、仍所行也、

〔小右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1399 萬壽二年七月廿九日己酉、春宮大夫賴宗使左衞門尉顯輔訪夜部父近事、藤宰相廣業來謝夜前不來之事、又云、從昨尚侍赤斑瘡序病、今日瘡出、仍止修法加持、八月十二日辛酉、宰相兩度來、右兵衞督來、兩人淸談、臨夜漏、主上惱御赤斑瘡云々、未披露、御傍親卿相皆觸穢、十三日壬戌、白米和布黄http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000079574.gif 瓜等給悲田、先令人數三十餘人、令主、給物時多有之者、仍相計其程、令加給、以堂頭得命師使、左中弁經賴消息云、主上自昨惱御赤斑瘡、瘡所々出御、御惱體不重者、世間觸穢交來、乙丙間未決定、大略乙歟、仍不參内、十四日癸亥、左頭中將公成近曾煩赤斑瘡云々、大虚言歟、近日重煩赤瘡云々、廿九日戊寅、呼四位侍從經任大納言齊信、新中納言長家、大納言報云、中納言室家重煩赤斑瘡、僅平愈、不幾日、未其期、〈七月〉産臥、赤瘡疾之以來、水漿不通、日夜爲邪氣取入、不敢存悲歎之間、今有此消息者、經任云、痢病只止万死一生

〔榮花物語〕

〈二十五みれの月〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1399 かくいふほどに、ことし〈○萬壽二年〉は あかもがさ( ○○○○○) といふものいできて、上中下わかず、やみのヽしるに、はじめのたびやまぬ人の、このたびやむなりけり、内〈○後一條〉東宮〈○後朱雀〉も中ぐう〈○威子〉も、かんのとの〈○嬉子〉など、みなやませ給ふべき御としどもにておはしませば、いとおそろしう、いかに〳〵とおぼしめさる、〈○中略〉よろづよりもかんのとの、このあかもがさいでさせ給て、いとくるしうおぼしめしたりとて、との〈○道長〉にはのヽしりたちて、いみくおぼしあはてさせ給、〈○中略〉東宮〈○後朱雀〉うちには、たヾけしきばかりにておこたらせ給てけり、このかんのとのは、この月などにこそはさおはしますべきに、いと〳〵おそろしき御ことなりとなげかせ給に、御もがさいとおほくいでさせ給て、たいらかにおはしませど、日ごろくるしうおぼされて、いとたへがたげなる御けしきになりつれど、つごもりにはおこたらせ給ぬれば、よにうれしきことにおぼ しよろこびたり、されどまだほどもなければ、御ゆなどもなし、〈○中略〉中なごんどの〈○長家〉のきたのかた〈○齊信女〉も月ごろだにもおはせざりければ、おりあしきかさをいかに〳〵と、大なごんどの〈○齊信〉もおぼしなげき、中なごんもいかにとおぼしつるに、月ごろいみじうほそりやせ、ありし人にもあらめ御ありさまをぞ、いかにおそろしくて、さま〴〵の御いのりをしつくさせ給める、かんのとのヽ御かさかれさせ給つれど、御ものヽけのけしきのいとおそろしくて、まだ御ゆもなし、

〔松屋筆記〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1400 あめのみかど并裳瘡ぞやみ
この榮花に、あかもがさといへるは、痲疹の事にて、今いふはしか也、ぞやみは今俗に 序病( ジヨヤミ) といひ、又某がぞになりてなどもいへり、序の字音によれる詞也、

〔百練抄〕

〈五白河〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1400 承暦元年、今年上自后宮大臣、下至庶人、皆煩赤斑瘡、親王公卿已下逝去者多、權右中辨師賢一人免此難

〔皇年代略記〕

〈白河〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1400 承暦元年丁巳、十一月十七日改元、依 疱瘡( ○○) 旱魃也、

〔赤斑瘡辨考證〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1400 按に、いづれも承暦元年赤斑瘡流行の時の事にて、疱瘡と書るは、れいの通用なり、

〔扶桑略記〕

〈三十白河〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1400 承保四年八月六日癸未、今上第一皇子敦文親王薨、年僅四歳、上自一人下至庶人、莫赤皰瘡矣、親王公卿五位已上、逝去之者多焉、

〔榮花物語〕

〈三十九布引の瀧〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1400 としかはりぬれば、承保四年、〈○承暦元年〉といふ、〈○中略〉四五月ばかりより、 あかもがさ( ○○○○○)といふこと出きて、世の人やむなど聞ゆるに、六七月になりては、いみじうやみまさりて、のこるなくきこゆ、五十三年にいできたれば、おいたるわかきとなく、おやこもわかず、ひとたびにやみければ、おきたる人すくなくありける、六七十の人は、人のもとにもすくなければ、いといみじくなんありける、むかしなんかヽるもがさいできたりける、かんのとの〈○綏子〉のうせさせ給ひし おりは、いとかくはあらざりけり、三百年ばかりになりたるになんかヽりける、秋ふかくなりては、よき人々やませ給、うち〈○白河〉中ぐう〈○賢子〉みやたちくわんばくどのヽうへ〈○師實至麗子〉大將殿〈○師通〉などみなおなじほど、すこしうちすがひなどしていでさせ給へば、御いのりかずしらず、しおきぶきやうみや〈○敦賢〉うせさせ給ぬ、御むすめにおはしませば、齋宮〈○淳子〉おりさせ給ぬ、八月に故右おほとの〈○賴宗〉の御子、ほりかは中なごん、初〈○賴宗子能季〉右京大夫みちいへ、ひやうゑのすけこれざね、藏人いへざねなくなりぬ、中なごんひやうゑのすけは、うへもなくなり給ぬ、あさましきよにぞ、たじまのかみたかふさ、とうぐう亮経重などなくなりぬ、民部卿〈○俊家〉のきたのかた、たじまのかみのむすめ、たうぐう亮のきたのかたなど、おほかたあさましきころなり、すき〴〵て、うち〈○白河〉の一のみや〈○敦文〉御もがさのなごりなほえおこたらせ給はで、八月六日つゐにうせさせ給ぬ、たれもたれもおぼしなげかせ給ことかぎりなし、うちにも、との〈○師實〉にも、いふかたなくなげかせ給、大なごんどの〈○顯房〉などいかなる御こヽろのうちなりけん、

〔百練抄〕

〈五白河〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1401 承暦元年、今年上自后宮大臣下至庶人、皆煩赤斑瘡、親王公卿已下逝去者多、權右中辨師賢一人免此難、敦賢敦文兩親王依疱瘡薨、

〔中右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1401 寬治八年〈○嘉保元年〉十二月晦日、去年、去年冬天下自疱瘡、多天下自疱瘡、引及此春、叉今年秋冬赤疱瘡、可凶年歟、仍改元、

〔皇年代略記〕

〈堀川〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1401 嘉保元年甲戌、十二月十五日壬午、改元、依