https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0561 人ノ身體、骨格、面貌、手足等ヲ觀テ、其人ノ禍福ヲ卜スルヲ觀相ト云ヒ、此ニ從事スルモノヲ相工又ハ相人、相者ナドトモ云ヘリ、支那ニ在リテハ、戰國ヨリ秦漢ヲ經テ有名ノ人輩出シ、我國ニ在リテモ、上古ヨリ既ニ其法アリシガ如シ、 地相ノ説モ、亦夙ニ支那ヨリ傳來シテ、陰陽寮ノ陰陽師ハ、占筮、卜相ト共ニ斯ニ從事シタリ、墓相ハ墓地ノ吉凶ヲ相スルモノニテ、子孫ノ富貴榮達ヲ圖ルニ外ナラズ、家相ハ家屋ノ位置、及ビ其周圍ノ形状、并ニ移轉ノ方角ヲ相シテ、其吉凶ヲ卜スル法ナリ、此法後世特ニ盛ニ行ハレタリ、劍相ハ刀劍ノ吉凶ヲ判ジテ、其人ノ禍福ヲ占スル法ニシテ、德川氏ノ中世、一時大ニ行ハレシト云フ、夢占ハ、ユメアハセナリ、古ク夢解(ユメトキ)トモ稱シ、後世ハ夢判(ユメハンジ)ナドモ云ヘリ、夢ヲ占ヒテ、其事ノ吉凶ヲ判ズルヲ云フ、字占ハ一ニ相字トモ拆字トモ云フ、文字ノ偏傍ヲ分拆シテ、以テ吉凶ヲ判スルヲ云フ、墨色ハ其人ノ寫ス所ノ字畫ノ墨色ニ就テ、其濃淡妍醜ヲ相シテ、人ノ禍ヲ知ル法ナリ、又花押、印判等ノ字畫ニ依リテ、其人ノ吉凶ヲ判ズル法アリ、是亦字占墨色ノ類ナリ、

名稱

〔倭名類聚抄〕

〈二人倫〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0561 相工(○○) 史記云、長安中、有相工田文者、〈相工俗云相人、相音去聲、〉丙丞相、韋丞相、魏丞相微賤時、會於客宇、田文曰、此君皆丞相也、其後三人竟爲丞相也、

〔伊呂波字類抄〕

〈左人倫〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0562 相工〈サウコウ相人也〉

〔闇の曙〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0562 世間に愚俗を惑はす道具、あらまし左のごとし、 家相 人相 墨色 字畫の占 金神及び佛神の祟 劒相 日取星轉 附物 呪禁 不成就日 辻占 死靈、生靈、

〔退閑雜記〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0562 相學てふものは、いにしへよりもある事にて、もと五行生尅よりして、ことわりつめたるものなり、かの水中のおもては水上の人、鏡中の人は鏡外の人にて、おのづからなる道理なり、すこし文字まなぶものは、ことにそしるぞかし、世の中にあるとある事、みな道理いちじるしき事はなきなり、かまへてその理を窮めんとすれば、無益の事にて勞するなり、只吉凶の相あらはるゝとも、敬怠の二字にけつすべし、

〔荀子〕

〈三非相篇〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0562 相、古之人無有也、學者不道也、古者有姑布子卿、今之世梁有唐擧、相人之形状顏色、而知其吉凶妖祥、世俗稱之、古之人無有也、學者不道也、故相形不心、論心不術、形不心、心不術、術正而心順、則形相雖惡、而心術善、無君子也、形相雖善、而心術惡、而無小人也、君子之謂吉、小人之謂凶、故長短小大善惡形相、非吉凶也、古之人無有也、學者不道也、蓋帝堯長、帝舜短、文王長、周公短、仲尼長、子弓短、昔者衞靈公有臣、曰公孫呂、身長七尺、面長三尺焉、廣三寸、鼻目耳具而名動天下、楚之孫叔敖、期思之鄙人也、突禿長左、軒較之下、而以楚霸、葉公子高、微小短瘠、行若其衣、然白公之亂也、令尹子西、司馬子期皆死焉、葉公子高入據楚、誅白公、定楚國、如手耳、仁義功名善於後世、故士不長、不大、不輕重、亦將志乎心耳、長短小大美惡形相豈論也哉、且徐偃王之状、目可馬、仲尼之状、面如倛、周公之状、身如斷菑、皐陶之状、色如削瓜、閎夭之状、面無見膚、傳説之状、身如植鰭、伊尹之状、面無須麋、禹跳、湯偏、堯舜、參牟子、從者將論志意、比類文學邪、直將長短、辨善惡、而相欺傲邪、

〔日本靈異記〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0563 閻羅王使鬼得召人之賂以免縁第廿四 楢磐島者、諾樂左京六條五坊人也、居住于大安寺之西里、聖武天皇世、借其大安寺修多羅分錢卅貫、以往於越前之都魯鹿津而交易、以之運超、載船將來家之時、忽然得病、思船單獨來一レ家、借馬乘來、至于近江高島郡磯鹿辛前而睠之者、三人追來、後程一町許、至于山代宇治椅之時、近追附、共副往、磐島問之、何往人耶、答言曰、閻羅王闕召楢磐島之往使也、〈○中略〉三鬼之中一鬼議言、汝何年耶、磐島答云、我年戊寅也、鬼云、我聞率川社許相八卦(○○○)讀、與汝同有戊寅年之人、宜汝替者、召將彼人

相法

〔隨意録〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0563人振古有焉、今世猶傳其法者、相人之面目骨相、以言其吉凶殃祥、有中有中、然無乎學者、但唐一行嘗語人曰、吾得古人相法、相人之法、以洪範五福六極主、觀其所一レ由、察其所一レ安、可https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/ra_hou056301.gif 、若其人忠孝仁義、所作所爲、言行相應、顚沛造次、必歸於善者、吉人也、若不忠不孝、不仁不義、言行不相應、顚沛造次、必歸於惡者、凶人也、吉人必獲五福之報、凶人必獲六極之刑、不其身、必于其子孫、若但於風骨氣色中、料其前程休咎、豈能悉中也、宋錢世昭、錢氏私誌載、予謂、此一行之言、可相法之至矣、荀卿非相、王充骨相、皆偏而不切也、

〔南嶺子〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0563 世に相者(○○)といふ者あり、其傳一派ならず、〈○中略〉今の相者、或は人の面を三十六禽になぞらへ、虎に似たるは虎の性を以一生を説、鼠に似たるは鼠の陰なる性を一代へあてゝ説類、半猫半鼠とて、額は猫に見たて、往事を猫にて説、向後の事を鼠にて説など、又は福壽貧夭の四十二相を圖せしものありて、是にて考ふるもあり、

〔南北相法〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0563 相人之用 先人を相する時は、安座して、其體の天地人を正敷備へて、七息、又心を氣海に居して、六根を遠ざけ、而して後、心六根をゆるして以て相を辨ず、〈○中略〉 先人を相する時は、第一行往座臥の間におゐて、其こゝろを相して後、神氣の強きよわきを相し、 次に忠孝のこゝろざしあるか無きかを相し、次に陰德の志を相し、次に意動き不動を相し、次に始末のなるならざることを相し、又視聽言動の間に相して後、骨格血色流年によつて、こと〴〵く善惡を相する事、專一にして可也、

〔神相全編正義〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0564 相説 大凡觀人之相貌、先觀骨格、次觀五行、量三停之長短、察面部之盈虧、觀眉目之淸秀、看神氣之榮枯、取手足之厚薄、觀鬚髮之疎濁、量身材之長短、取五官之有一レ成、看六府之有一レ就、取五岳之歸朝、看倉庫之豐滿、觀陰陽之盛衰、看威儀之有無、辨形容之敦厚、觀氣色之喜滯、看體膚之細膩、觀頭之方圓、頂之平搨、骨之貴賤、肉之粗流、氣之短促、聲之響喨、心田之好歹、倶依部位流年而判、推骨格形局而斷、不可順時趨奉、有家傳、但於富貴貧賤壽夭窮通榮枯得失星宿流年休咎、備皆週密、所於人萬無一失、學者亦宜參詳推求眞妙、不忽諸

名人

〔二中歴〕

〈十三一能〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0564 相人 許負 康擧 蔡澤 京房 管輅 左慈 圭孟 董興 朱平 胡嫗 樊英 李南 陶隱〈已上唐十三家〉 滿洞 皐通 淸河 觀睿 笠景 睿登 盧平 洞昭〈一云調昭〉 睿聖 義舜 日暗 忠壽敎光 浄藏 磐上 重恒 説云、唐人張滿洞、々々傳周皐通、皐通傳淸河大臣、大臣傳觀睿律師、律師傳睿公睿公傳義舜、自餘隨舜公并目暗者、洞昭之後也、敎光〈橘高明大臣〉淨藏〈善相公第八男〉磐上別當、

〔源平盛衰記〕

〈十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0564 相形事 抑相者、洽浩五天之雲洪、携九州之風、五行結氣、成膚成形、四相禀運、保壽保神、依之月氏映光、敎主釋尊、屢應其言、日域傳景、太子上宮、剰顯其證、一行禪師者、漢家三密之大祖、圓輸滿月床傍、審一百廿之篇章、延昌僧正者、我朝一宗之先賢、界如三千之窻内、省七十餘家之施設、内外共厲此術、凡聖同弘斯 業、ナジカハ違ベキ、サレバ昔登乘ト申相人アリキ、帥内大臣伊周ヲバ、流罪相御坐ト相タリケルガ、彼伊周公ノ類ナク通給ケル女房ノ許ヘ、寬平法皇ノ忍テ御幸成ケルヲ驚シ進セントテ、蟇目ヲ以テ射奉リタリケレバ、被流罪給ヘリ、又太政大臣賴通、宇治殿、太政大臣敎通、大二條殿、二所ナガラ御命八十、共ニ三代ノ關白ト相シ奉タリケルモ、少モ不違ケリ、又聖德太子ハ御叔父崇峻天皇ヲ橫死ニ合給ベキ御相御座ト仰ケルニ、馬子ノ大臣ニ被殺給ケリ、又太政大臣兼家、東三條殿四男ニ、粟田關白道兼ノ不例ノ事オハシケルニ、小野宮ノ太政大臣實賴御訪ニ御座タリケレバ、御簾越ニ見參シ給テ、久世ヲ治給ベキ由被仰ケルニ、風ノ御簾ヲ吹揚タリケル間ヨリ奉見給テ、只今失給ベキ人ト被仰タリケルモ不違ケリ、又御堂馬頭顯信ヲ民部卿齊信ノ聟ニトリ給ヘト人申ケレバ、此人近ク出家ノ相アリ、爲我爲人イカヾハト被申タリケルガ、終ニ十九ノ御年出家アリテ、比叡山ニ籠ラセ給ニケリ、又六條右大臣ハ、白川院ヲ見進テ、御命ハ長ク渡ラセ給ベキガ、頓死御相御坐ト申タリケルモ違ハザリケリ、サモ然ベキ人々ハ必相人トシモナケレ共、皆カク眼カシコクゾ御座ケル、况ヤ此少納言惟長モ、目出キ相人ニテ、露見損ズル事ナシ、サレバ異名ニ、相少納言トコソイハレケルニ、高倉宮ヲバ何ト見進タリケルヤラン、位ニ即給ベシト申タリケルガ、今角ナラセ給ヌルコソ、然ベキ事ト申ナガラ、相少納言誤ニケリト申ケリ、

〔神相全編正義〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0565 自序〈○中略〉 夏殷之間不醫相(○○○○○○○○)、周大王相歴昌、史逸相穀難、叔服得識鑑之譽、皆震旦觀察之權輿也、阿私陀仙相釋迦文、耆婆醫携藥王樹、又月氏相人之元始也、上宮太子相崇峻天皇、鈴鹿老翁相天武帝、是日域風鑒之明證也、鎌足、淸行、廉平、維長等、亦本朝水鏡之達人也、扶桑與梵漢、雖數踰千祀、地隔萬里、其言不異、如符節、〈○中略〉宗朝麻衣老祖、蚤研究百家、廣發揮相法、然知妙道不一レ凡庸、終隱於華山石室、能盡其學者、陳希夷先生而已、觀察精妙、超于許郭、道學之卓見、高於老莊、眞相家之中興也、明初、袁氏父 子出、復潤色斯術、神相全編至于玆大成、其爲書、玄機明透、更無餘蘊矣、〈○中略〉乃命家童之、授剞劂之、〈○中略〉 時文化二乙丑年五月端之天 東都雲臺觀石龍子法眼藤原相明謹撰

〔近世畸人傳〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0566 相者龍袋 龍袋は、赤塚氏なれども、幼より他家を繼で、中村を稱す、名重治、通名孫兵衞といへども、號をもてしらる、爲人世務に疎く、家の有無を心とせず、相道に長じ、門人も亦多し、相者は多く既往を知て、將來に昧きに、此人つねに門人に會して、其血色を見て曰く、子明日は花見に遊ばんとするや、また一人にはいふ、暮なば靑樓に登らんとおもへるやなど、其言一つもたがはず、あるとき一人を制して出入をとゞむ、いかなる故ともしらざりしに、後に或る家婦に淫せり、其しれるもの、翁に問て、もし此ことにや、然れども其時はさることなかりしにはいぶかしといふ、翁云、血道既に動たり、それも諫てとゞむべきなれば、事に先だちてとゞむべし、諫の及ざるを决するゆゑに、交を斷りと、又博奕にふけりしものも、かくのごとくなりしなど、其門人話せり、凡、人を相するに、必心術を説て曰く、相善なりといへども、志不善なれば益なし、相の不善も亦能志行をもて勝べしと、又曰、相を見る人は世に多し、相を行ふ人は稀なり、吾は孤相なり、孤なれば必ず貧なり、孤に居て貧を安ずべしと、其家を然るべき人に讓り、一子新次郞といへるも、他の嗣とす、妻ははやく失ひたれば、獨身にて、食あれば喰ひ、盡る時は不食、後また知己門人等に別を告て曰、我餓死の相あり、徒に生て他の施を費べからずと、是より門戸を閉、出入を禁じて不食、數日の後逝せり、齡五十有七也、

〔賤のをだ卷〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0566 相學者に、神谷登とて、京都より下りて、殊の外江府に鳴たり、卜筮者に平澤左内と云もの出で、是も世擧てもてはやしたり、今も市中の筮者の看板に平澤が號を出せるあり、

觀相例

〔聖德太子傳暦〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0567 崇峻天皇元年三月、天皇密召太子曰、人言汝有神通之意、復能相人(○○○)、汝相朕之體、勿形跡、太子奏曰、陛下玉體、實有仁君之相、然恐非命忽至、伏請能守左右、勿姦人、天皇問之、何以知之、太子曰、赤文貫眸子、爲傷害之相、天皇引鏡而視之大驚、太子謂左右曰、陛下之相、不相博、是過去之因也、若崇三寶、遊魂般若者、万分之一、庶幾免矣、即命群臣左右、能衞護陛下、近習之間、宿寤相易、〈○又見扶桑略記

〔懷風藻〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0567 淡海朝大友皇子二首 皇太子者、淡海帝之長子也、魁岸奇偉、風範弘深、眼中精耀、顧盻煒燁、唐使劉德高見而異曰、此皇子、風骨不世間人(○○○○○○○)、實非此國之分、〈○中略〉 大津皇子四首 皇子者、淨御原帝之長子也、状貌魁梧、器宇峻遠、幼年好學、博覽而能屬文、及壯愛武、多力而能擊劒、性頗放蕩、不法度、降節禮士、由是人多附託、時有新羅僧行心、解天文卜筮、詔皇子曰、太子骨法、不是人臣之相、以此久在下位、恐不身、因進逆謀、迷此詿誤、遂圖不軌、嗚呼惜哉、

〔水鏡〕

〈下淳仁〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0567 その大臣〈○惠美〉のむすめおはしき、色かたちめでたく、世にならぶ人なかりき、鑒眞和尚の、此人千人のおとこにあひ給ふ相おはすとのたまはせしを、たゞうちあるほどの人にもおはせず、一二人のほどだにも、いかでかと思ひしに、ちゝの大臣うちとられし日、みかたのいくさ千人、こと〴〵くにこの人をおかしてき、相はおそろしき事にぞはべる、

〔文德實録〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0567 嘉祥三年五月辛巳、嵯峨太皇太后崩、〈○中略〉太皇太后姓橘氏、諱嘉智子、父淸友少而沈厚、渉獵書記、身長六尺二寸、眉目如畫、擧止甚都、寶龜八年、高麗國遣使修聘、淸友、年在弱冠、以家良子姿儀魁偉、接對遣客、高麗大使獻可、大夫史都蒙見之而器之、問通事舍人山於野山云、彼一少年爲何人乎、野山對、是京洛一白面耳、都蒙明於相法、語野上云、此人毛骨、非常子孫大貴、野上云、請問命之長短、 都蒙云、三十二有厄、過此無恙、其後淸友娶田口氏女后、延暦五年爲内舍人、八年病終於家、時年卅二、驗之果如都蒙之言、后爲人寬和、風容絶異、手過於膝、髮委於地、觀者皆驚、〈○中略〉初法華寺有苦行尼、名曰禪雲、見后未一レ笄、就把其臂云、君後當天子及皇后之母、戸https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/ra_hou056801.gif之、遂生仁明天皇及淳和太皇太后、后追想尼言、訪其所在、尼時既亡、

〔三代實録〕

〈十五淸和〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0568 貞觀十年二月十八日壬午、參議正四位下行右衞門督兼太皇太后宮大夫藤原朝臣良繩卒、良繩字朝台、左大臣内麻呂朝臣孫、而正五位下備前守大津之子也、良繩風容閑雅、擧止詳審、興福寺僧圓壹好相人、見良繩状貌云、必登卿相、榮寵无比、退語同志云、嗟呼於命獨有惜矣、

〔三代實録〕

〈四十五光孝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0568 天皇諱時康、仁明天皇第三之皇子也、〈○中略〉嘉祥二年、渤海國入覲、大使王文姫、望見天皇在諸親王中、拜起之儀、謂所親曰、此公子有至貴之相、其登天位必矣、後有善相者藤原仲直、其弟宗直侍奉藩宮、仲直戒之曰、君王骨法(○○○○)、當天子、汝勉事君王焉、

〔大鏡〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0568 さても〳〵しげきが年かぞへさせたまへ、たゞなるよりは、としをしり侍らぬがくちおしきにといへば、さふらひいで〳〵とて、十三にておほき大殿にまいりきとのたまへば、とをばかりにて、陽成院おりさせ給ふ年はいますかりけるにこそ、これにてをし思ふに、あのよつぎの主は、今十餘年がおとゝにこそあめれば、百七十にはすこしあまり、八十にもをよばれにたるべしなど、手をおりかぞへて、いとかばかりのみとしどもは、相人などに相ぜられやせしととへば、させる人にも見え侍らざりき、たゞこまうど〈○高麗人〉のもとに二人つれてまかりたりしかば、二人長命と申しかど、いとかばかりまで候べしとはおもひがけ候べきことか、こと〴〵とはんとおもひたまへしほどに、昭宣公の君達三人おはしましにしかば、え申さずなりにき、それぞかし、時平のおとゞをば御かたちすぐれ、心たましゐかしこく、日本のかためともちゐんにあまらせ給へりと申、びはどの仲平をばあまり御心うるはしくすなほにて、へつらひかざりたる日本の小 國にはおはせぬ相なりと申、貞信公をばあはれ日本のかためやな、かくよをつぎかどをひらく事、たゞこのとのと申たれば、われをあるが中にさえなくてんごくなりとかくいふ、はづかしきことゝおほせられけるは、されどその儀にたがはず、かどをひろげ榮花をひらかせ給へば、なをいみじかりけりと思ひ侍りて、又まかりたりしに、小野宮殿おはしましゝかば、え申さずなりにき、ことさらにあやしき姿をつくりて、下臈のなかに遠くゐさせ給へりしを、おほかりし人のうへよりのびあがり見奉りて、およびをさして物を申しかば、なに事ならんと思ひ給へしを、のちにうけたまはりしかば、貴臣よと申けるなり、さるはいとわかくおはします程なりかしな、

〔源氏物語〕

〈一桐壺〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0569 そのころ、こまうどのまいれるがなかに、かしこきさうにん(○○○○)ありけるを、きこしめして、宮のうちにめさんことは、うだのみかどの御いましめあれば、いみじうしのびて、このみこ〈○源氏〉を、鴻臚館につかはしたり、御うしろみだちてつかうまつる、右大辨のこのやうにおもはせて、ゐてたてまつる、相人おどろきて、あまたゝびかたぶきあやしぶ、くにのおやと成て、帝王のかみなきくらゐにのぼるべき相おはします人の、そなたにてみれば、みだれうれふることやあらん、おほやけのかためとなりて、天下をたすくるかたにてみれば、またその相たがふべしといふ、〈○中略〉みかどかしこき御心に、やまとさう(○○○○○)をおほせて、おぼしよりにけるすぢなれば、いまゝでこのきみを、みこにもなさせ給はざりけるを、相人はまことにかしこかりけりと覺しあはせて、無品親王の外戚のよせなきにてはたゞよはさじ、わが御世もいとさだめなきを、たゞ人にておほやけの御うしろみをするなん、行さきもたのもしげなることゝおぼしさだめて、いよ〳〵みちみちのざえをならはさせ給ふ、

〔花鳥餘情〕

〈一桐壺〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0569 やまとさう 藤原仲直が光孝天皇を相したてまつり、廉平が、高明公を相せしは、みなやまとさう也、

〔古事談〕

〈六亭宅諸道〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0570 延喜御時、狛人相者參來、天皇御于簾中、奉御聲云、此人爲國主歟、多上少下之聲也、叶國體云々、天皇耻給、不出給云々、次先坊〈保明太子〉左大臣〈時平〉右大臣〈菅家○道眞〉三人列座、依勅令相、云第一人〈先坊〉容貌過國、第二〈時平〉賢慮過國、第三〈菅家〉才能過國、各不此國、不久歟云々、爰貞信公〈○藤原忠平〉爲淺臈公卿、遙離列候給、相者遮申云、彼候人、才能心操形容、旁叶國定、久奉公歟、寬平法皇聞食此事、被仰云、三人事不於貞信公、向後必可善之由所見也云々、因之以第一女王、於朱雀院西對、有嫁聚之儀、于時貞信公大辨參議云々、法皇同御於東對云々、又貞信公云、吾賢慮之條、雖兄不申左大臣、於他事者更不及、今相者所見尤所恥也云々、

〔續古事談〕

〈二臣節〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0570 貞信公、太政大臣ニ成給テノ給ヒケル、我カタジケナク人臣ノ位ヲキハム、コノカミ時平大臣ヲ太政大臣ニナサルベキヨシ、前皇オホセラレケルニ、カノオトヾ奏シテ申サク、弟忠平必此官ニイタルベシ、一門ニ二人イルベカラズトテ、勅命ヲウケズトイヒキ、コレヒガ事ナリ、タヾシ三善文君ガ宮内卿靈託宣シテ云ク、冥途宮中ニ、金籍ノ銘ニ太政大臣從一位トシルセリト云テ、其時此事ヲウタガヒキ、今ムナシカラズ、又故大江玉淵朝臣、我ヲ相シテ官位ヲキハムベシト云キ、ハタシテ相カナヘリトゾノ給ヒケル、〈○中略〉 西宮左大臣〈○源高明〉日クレテ、内ヨリマカリ出給ケルニ、二條大宮ノ辻ヲスグルニ、神泉苑ノ丑寅ノ角、冷泉院ノ未申ノ角ノツイヂノ内ニ、ムネツイヂノ覆ニアタルホドニ、タケタカキモノ三人タチテ、大臣サキオフ聲ヲキヽテハ、ウツブシ、オハヌ時ハ、サシ出ケリ、大臣其心ヲ得テ、シキリニサキヲヲハシム、ツイヂヲスグルホドニ、大臣ノ名ヲヨブ、其後ホドナク大事出キテ、左遷セラレケリ、神泉ノ競馬ノ時、陰陽識神ヲ啒シテウヅメルヲ、今ニ解除セズ、其靈アリトナンイヒツタヘタル、今モスグベカラズトゾ、アリユキトイフ陰陽師ハ申ケル、コノオトヾ行幸ニツカマツラレタリケルヲ、伴別當廉平ト云相人見テ、イマダカヽル人ミズトホメケルガ、スギ給テ後、ウシロヲミ テ、背ニ吉相ナカリケリ、オソラクハ遷謫ノ事アラムト云ケル、ハタシテ其詞ノ如シ、

〔古事談〕

〈六亭宅諸道〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0571 一條院御時、伴別當ト云相人アリケリ、帥内大臣〈○藤原伊周〉遠行ヲモ兼テ相申タリケリ、件者物ヘ行ケル道ニ、橘馬允賴經ト云武者、騎馬シテ下人七八人許具シテ逢タリケルヲ、此相人見テ、往過後喚返云、是ハ某ト申相人ニ侍リ、如此事令申ハ有憚事侍レド、又爲冥加申、今夜中及御命、可愼、中矢給御相、令顯現給也、早令歸給、可祈禱云々、爰賴經驚云、何樣ノ祈禱ヲシテカ、可其難哉、相者云、取其身去大事ニ令思給者ヲ不妻子殺ナンドシテゾ、若令轉給事モ可侍云々、賴經忽打歸テ、路スガラ案樣、大葦毛トテ持タル馬コソ妻子ニモ過テ惜物ナレ、ソレヲ殺ト思ケリ、歸ヤオソキト、https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/ra_hou057101.gif 居ノ前ニ一疋別ニ立飼ケレバ、カリマタヲハゲテ、馬ニ向テツル引タルニ、蒭ウチクヒテ立タルガ、主ヲ見テ何心ナクイナヽキタリケルニ、射殺之心地モセデ、美麗ナル妻ノ不思氣色ニテ、大ナル皮籠ニ寄懸テ、苧ト云物ウミテ居タル方ヘ、引タル弓ヲヒネリムケテ射之、中ヲ射串テ皮籠ニ射立畢、妻ハ矢ニ付テ死畢、而此皮籠ノ内ヨリ血流出、皮籠動ケレバ成奇、開見之處、法師ノ腰刀拔テ持タルガ、尻ニ矢ヲ被射立テ死ナントテ動ナリケリ、賴經付寢之後コロサセントテ、密夫ノ法師ヲ皮籠ノ内ニ隱置タリケル也、件相人非直之人歟、

〔古今著聞集〕

〈八好色〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0571 中關白〈○藤原道隆〉高内侍に忍てかよひ給ひけるを、父成忠卿うけぬ事に思ひけるに、或時出給ひけるをうかゞひみて、かならず大臣にいたるべき人なりと相して、その後ゆるし奉てけり、

〔大鏡〕

〈七道長〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0571 故女院〈○東三條院藤原詮子〉の御修法して、飯室權僧正のおはしまし候はん僧にて、相人の候しを、女房どものよびて相せられけるついでに、内の大炊殿〈○道隆〉はいかゞおはするととふに、いとかしこうおはします、中宮大夫殿〈○道長〉こそいみじくおはしませといふ、又あはた殿〈○道兼〉をとひたてまつれば、それもいとかしこうおはします、大臣の相おはします、又あはれ中宮大夫殿にこ そいみじうおはしませといふ、また權大納言殿〈○伊周〉をとひ奉れば、それもいとやむごとなくおはします、いかづちの相おはしますと申ければ、いかづちはいかなるぞととふに、ひときはゝいとたかくなれど、のちどものなきなり、されば御すゑいかゞおはしまさんと見えたり、中宮大夫殿こそ、かぎりなくきはなくはおはしませとこそ、人をとひたてまつるたびには、此入道殿をかならずひきそへ奉りてほめ申、いかにおはすれば、かくたびごとにはきこえ給ふぞといへば、第一の相には、虎子如深山峯なりと申たるに、いさゝかもたがはせ給はねば、かく申侍るなり、このたとひは、とらの子のけはしき山のみねをわたるがごとしと申なり、御かたちようて、いはゞ毘沙門のいきほひ見たてまつるがやうにおはします、御さうかくのごとしといへば、たれよりもすぐれ給へりとこそ申けれ、いみじかりける上ずかな、あてたがはせ給へる事やはおはしますめる、帥のおとゞは大臣まですがやかになり給へりしを、はじめよしとはいひけるなめり、いかづちはおちぬれど又もあがる物を、ほしのおちていしとなるにぞたとふべきにや、それこそかへりあがることなけれ、

〔大鏡〕

〈七道長〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0572 今の衞門のかみ〈○實成〉ぞ、とくよりこの君〈○右馬頭顯信〉は出家の相こそおはすれとの給ひて、中宮大夫殿〈○能信〉のうへに御せうそこきこえさせ給ひけれど、さるさうある人をばいかでかとて、後に此大夫殿をばとりたてまつり給へるなり、正月にうちよりいで給ひて、この衞門督馬頭の物よりさしいでたりつるこそ、むげに出家の相ちかくなりて見えつれ、いくつぞよとのたまひければ、頭中將〈○能信〉十九にこそなり給ふらめと申給ひければ、さてはことしぞし給はんとありけるに、かくときゝてこそ、さればよとのたまひけれ、相人ならねどよき人はものを見給ふなり、

〔續古事談〕

〈二臣節〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0572 土御門右大臣〈○具平親王子源師房〉ムマレテ二歳ノトキ、後中書王〈○具平親王〉ノ給ケル、コノチ ゴ將軍ノ相アリ、カナラズ大將ニナルベシ、入道〈○藤原道長〉コノ事ヲキヽ給ヒケリ、ハタシテカナヘリ、

〔江談抄〕

〈二雜事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0573 平中納言時望相一條左大臣事 故右大辨時範談云、一條左大臣〈○源雅信〉年少之時、故平中納言時望、到其父式部卿敦實親王、召出雅信、令時望相一レ之、時望相云、必至從一位左大臣歟、下官子孫若有申觸事者、可必擧用之也、數刻感歎云云、時望卒後、一條左大臣感彼知己之言、惟仲肥後之公文間、殊施芳心、惟仲者、是時望孫、珍材男云々、是故平宰相〈○親信〉之説也、彼家傳語之由、時範所談也、

〔古事談〕

〈六亭宅諸道〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0573 珍材朝臣從美作上道之路、寄宿備後國上治郡、召郡司女、令腰之間懷孕畢、後其兒〈○平惟仲〉至七歳之時、郡司相具前立之、參珍材之許子細、珍材思出件事涕泣、珍材者極相人也、仍見此兒、可二位中納言之相アリト云テ養育、果如父相云々、

〔江談抄〕

〈二雜事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0573 又平家自往昔累代傳相人之事、又惟仲中納言其母讃岐國人也、珍材爲讃岐介之時、所生子也、而去任之後尋來珍材、召人相之云、汝必至大納言歟、但依貪心頗有其妨、可之也云々、後果至中納言大宰帥、件時宇佐宮第三寶殿付封之、依件事停任之、是往年先親所傳語也云々、

〔江談抄〕

〈三雜事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0573 大納言道明到市買物事 被命云、往代人多到市自買物、道明與妻同車、到市買物、市中有一嫗、見大納言妻曰、君必爲大納言妻、次見道明曰、此人之力歟云々、

〔古事談〕

〈六亭宅諸道〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0573 江帥者極相人也、淸隆卿因幡守之時、爲院御使江帥之許、入持佛堂念誦之間也、仍御使ヲ縁ニ居エテ、隔明障子之、淸隆卿御使也、奇怪事哉ト乍思、數刻問答事畢、歸參之時、障子ヲ細目ニアケテ喚返テ云、ソコハ官ハ正二位中納言、命ハ六十六ゾヨト云々、果如言、

〔今昔物語〕

〈二十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0573 僧登照相朱雀門語第二十一 今昔、登照ト云僧有ケリ、諸ノ形ヲ見、音ヲ聞キ、翔ヲ知テ、命ノ長短ヲ相シ、身ノ貧富ヲ敎ヘ、官位ノ高下ヲ令知ム、如此相スルニ、敢テ違フ事无カリケレバ、京中ノ道俗男女、此登照ガ房ニ集ル事无限リ、而ルニ登照物ヘ行ケルニ、朱雀門ノ前ヲ渡ケリ、其門ノ下ニ男女ノ老少ノ人、多ク居テ休ケルヲ、登照見ルニ、此門ノ下ニ有ル者共、皆只今可死キ相有リ、此ハ何ナル事ゾト思テ、立留テ吉ク見ルニ、尚其相現也、登照此ヲ思ヒ廻スニ、〈○中略〉若シ此門ノ只今倒レナムズルカ、然ラバゾ被打壓テ忽皆可死キト思ヒ得テ、門ノ下ニ並居タル者共ニ向テ、其レ見ヨ其ノ門倒レヌルニ、被打壓テ皆死ナムトス、疾出ヨト音ヲ高ク擧テ云ケレバ、居タル者共此ヲ聞テ、迷テハラ〳〵ト出タリ、登照モ遠ク去テ立リケルニ、風モ不吹、地震モ不振ハ、塵許門喎(ユガミ)タル事モ无キニ、俄ニ門只傾キニ傾キ倒レヌ、然レバ急ギ走リ出タル者共ハ命ヲ存シヌ、其中ニ顏強クテ、遲ク出ケル者共ハ、少々被打壓テ死ニケリ、其後登照人ニ會テ、此事ヲ語ケレバ、此ヲ聞ク人、尚登照ガ相奇異也トゾ讃メ感ジケル、

〔古事談〕

〈六亭宅諸道〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0574 洞昭側見俊賢卿云、哀目ヤアレヲモテ相セサセバヤト云々、件卿サル者ニハ見エヌヨシトテ年來不見云々、 西方院座主〈院源〉向洞昭云、弟子良因ハ何月日可阿闍梨哉、答全無其相之由、座主ワラヒテ云、御房ノ相ニコノコトコソヲカシケレ、一々毛孔ニモ成ヌベキ闇梨也、如何々々、洞昭出房之後、對他人云、命アラバコソ、有職ニモ僧綱ニモ成ト云々、而果如言、即卒去畢、生年廿五云々、極拔萃之人也、

〔續古事談〕

〈五諸道〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0574 丹波守貞嗣、北山ニ詣、百寺ノ金鼓ウチケルニ、洞照トイフ相人イフヤウ、君ノ顏色アシヽ、ヲソラクハ鬼神ノ爲ニヲカサレタル歟、貞嗣、心地タガフコトナシ、ツネノゴトシト云フ、洞照トクカヘルベキヨシヲ云ホドニ、貞嗣俄ニタエ入テ、ヨミガヘリテ家ニカヘリテ、モノヽ氣 アラハレテ云ク、別ノ事ナシ、ワレラ遊ツル前ヲトヲリツレバ、胸ヲフミタルナリトゾ云ケル、天狗ノシワザナリ、サテ三日アリテ死ニケリ、洞照ガ相、神ノ如シ、

〔古事談〕

〈六亭宅諸道〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0575 洞照參入道殿〈御堂○藤原道長〉御前、乍臥令謁給、于時宇治殿〈内大臣○道長子賴通〉令參給、暫アリテ入母上御方給之後、洞昭申云、此君本自無止御坐而重、可貴之御相已ニ顯給云々、入道殿忽驚起給ヒ被仰云、可攝籙之由、只今心中所案也云々、

〔續世繼〕

〈七うたゝね〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0575 此兄弟〈○源俊房、顯房、〉のおほいどの少將におはしけるとき、隆俊治部卿、御むこにとり申さんと思ひて、其時めしひたる相人(○○○○○○○)有けるに、かの二人、いかゞさうし奉たると問れければ、ともによくおはします、みな大臣にいたり給べき人也と云けるを、いづれか世にはあひ給ふべきととはれけるに、弟は末ひろく、みかど一の人も出き給ふべきさうおはすと申ければ、六條殿〈○顯房〉をとり申たるとぞきゝ侍し、其かひ有て、みかど關白も其御末より出き給へり、

〔續古事談〕

〈二臣節〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0575 堀川左大臣〈○源俊房〉始テ舞人セラレケル時、閑院春宮大夫能信(○○○○○○○○)、父ノ大納言ニツゲラレケル、コノ人ヤムゴトナキ相アリ、必大臣ニイタルベシトゾ、フルキ人々云トコロ、ミナムナシカラヌ事也、

〔古今著聞集〕

〈七術道〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0575 野々宮左府〈○藤原公繼〉おさなくおはしける時、母儀〈○上西門院女房備後〉さまをやつして、ぐし奉りて、播磨の相人(○○○○○)とて、めいよの者ありけるに行て、相を見せさせられけり、相人よく〳〵見申て、必一にいたり給べきよしを申けり、母儀あらがひて、是はさ程の位にいたるべき人にあらず、さぶらひ程の者の子にて侍なりとの給ひければ、相人申けるは、まことに侍にておはしまさば、撿非違使などに成給べきにや、いかにも大臣の相おはします物をと申けり、後德大寺左大臣〈○藤原實定〉の末の子にておはしけるが、このかみ、みなうせ給て、家をつぎて、大將をへて、左右大臣一位にいたりて、天下の權をとり給ける、ゆゝしく相し申たりける也、此事をおとゞ聞たもち給て、 相をならひて、目出たくし給ひけるとぞ、わが壽限などをも、かゞみを見て相して、かねてしり給たりけるとぞ、

〔古事談〕

〈六亭宅諸道〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0576 六條右大臣殿〈○源顯房〉ハ相人也、奉白川院曰、御壽命可八十、但頓死相難遁御歟云々、院令暮年給後被仰云、右府相相叶已及八十、頓死事彌有其憚云々、 又大外記信俊生年八歳之時、相具兄囚獄正家俊彼殿次ニ、自屏風之上覽之、又令北方給云、此童可家業者也、北方被仰云、兄家俊容體太優、何不家哉、大臣不左右云々、 又令故中宮〈賢子〉給退出之時、令北方給云、イミジキ態哉、心憂目ヲ見ムズルハ、此宮今一兩年ノ内之人也云々、北方被仰云、マガ〳〵シク、爭如此被申哉、全無衰邁氣御座スル物ヲ、大臣被仰云、不美麗也、無生氣成給タル物ヲ、不今明年人也云々、果然云々、 正家朝臣又相人也、息男右少辨〈左衞門權佐〉俊信ヲ相云、爲辨靭負佐官位已至、然而無正家服之相、口惜態哉云々、其言果不違、又奉白川院、可八旬之由稱之、仍件日久我太政大臣無執奏云々、〈○中略〉 宗通卿子息兩人、〈兄伊通公、弟季通朝臣、〉童稚之時、參一條殿御許、〈御母准后人也〉忽被折敷饌、各食了退出之後、尼上〈○藤原忠實母〉云、此兄兒者可大臣之人也、弟者凡卑也、不卿相也云々、果如彼言

〔古今著聞集〕

〈七術道〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0576 九條大相國〈○藤原伊通〉淺位の時、なにとなく后町の井を立よりて、底をのぞき給ける程に、丞相の相見へける、うれしくおぼして、歸りて鏡をとりて見給ければその相なし、いかなることにかとおぼつかなくて、又大内にまいりて、彼井をのぞき給ふに、さきのごとく此相見へけり、其後しづかにあんじ給に、かゞみにてちかくみるにはその相なし、井にて遠くみるには其相あり、此事大臣にならんずる事とほかるべし、つゐにむなしからんと思ひ給けり、はたしてはるかに程へて成給にけり、此おとゞはゆゝしき相人にておはしましけり、宇治のおとゞもわざ と相せられさせ給けるとかや、

〔續古事談〕

〈五諸道〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0577 遍敎僧都、慶命座主ノ童ナリケルヲエテ、母ニイフヤウ、今日大僧都ヲナムエタル、母火ヲトモシテミテ云、大僧正ナリ、ハタシテ大僧正ニイタル、母ノ相、遍敎ニマサレリケリ、

〔台記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0577 久安六年七月二十日甲午、早旦禪閤〈○藤原忠實〉召相者盛正、令余、〈○賴長〉曰、壽及七十、福不言、職主執政、三ケ年之内、必有大慶、又三十二三五有慶矣、

〔平治物語〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0577 信西出家由來并南都落附最後事 去程ニ、通憲入道ヲ被尋ケレ共、行衞ヲ更ニ不知ケリ、彼信西ト申ハ、南家博士長門守高階經俊ガ猶子也、大業モ不遂、儒官ニモ不入、重代ニアラザル也トテ、辨官ニモナラズ、日向守通憲トテ、何トナク御前ニテ被召仕ケルガ、出家シケル故ハ、御所ヘ參ラントテ鬢ヲカキケルニ、鬢水ニ面像ヲ見レバ、寸ノ首劒ノ前ニ懸テ空シクナルト云面相アリ、驚キ思ケル比、宿願有ニ依テ熊野ヘ參リケリ、切目王子ノ御前ニテ、相人ニ行逢タリ、通憲ヲ見テ相シテ曰、御邊ハ諸道ノ才人哉、但寸首劒ノ先ニ懸テ露命ヲ草上ニサラスト云相ノ有ハ如何ニト云テ、一々ニ相シケルガ、行末ハ不知、コシカタハ何事モ不違ケレバ、通憲モ左思ゾトテ歎ケルガ、ソレヲバ如何ニシテ可遁ト云ニ、イザ出家シテヤ遁レンズラン、ソレモ七旬ニ餘ラバ如何アラントゾ云、扨コソ下向シテ御前ヘ參、出家ノ志候ガ、日向入道トヨバレンハ、無下ニウタテシウ覺候、少納言ヲ御許シ蒙リ候ハヾヤト申ケレバ、少納言ハ一ノ人モ成ナドシテ、無左右トリ下サヌ官也、如何アラント被仰ケルヲ、ヤウヤウニ申テ御許サレヲ蒙リ、軈出家シテ少納言入道信西トゾ云ケル、

〔源平盛衰記〕

〈三十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0577 明雲八條宮人々被討附信西相明雲事 天台座主明雲大僧正ハ、馬ニメサントシ給ヒケルヲ、楯六郞親忠、能引テ放矢ニ、御腰ノ骨ヲ射サセテ、眞逆ニ落給ヒ、立モアガリ給ハザリケルヲ、親忠ガ郞等落重ナツテ、御頸ヲトル、〈○中略〉後白河 院御登山ノ時、少納言入道信西、御伴ニ候ケリ、前唐院ノ重寶、衆徒存知ナカリケレ共、信西才覺吐ナドシタリケリ、其次ニ、明雲僧正我ニイカナル相カ有ト御尋アリ、信西三千ノ貫首、一天ノ明匠ニ御座ス上ハ、子細不申ト答、重タル仰ニ、我ニ兵定ノ相アリヤト尋給ケレバ、世俗ノ家ヲ出テ、慈悲ノ室ニ入御坐ス、災夭何ノ恐カ有ベキナレ共、兵定ノ相アリヤノ御詞怪ク侍テ、是即兵死ノ御相ナラント申タリケルガ、ハタシテ角成給ヒケルコソ哀ナレ、或陰陽師ノ申ケルハ、一山ノ貫長、顯密ノ法燈ニ御座ス上ハ、僧家ノ棟梁イミジケレ共、御名コソ誤付セ給ヒタリケレバ、日月ノ文字ヲ並ベテ、下ニ雲ヲ覆ヘリ、日月ハ明ニ照スベキヲ、雲ニサヘラルヽ難アリ、カヽレバコノ災ニモアヒ給フニヤ、

〔玉海〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0578 元暦元年二月廿五日甲申、召範源阿闍梨、〈山法師相者〉令大將〈○良通〉中將〈○良經〉等、各申高運相之由、官福共富、壽命又長遠也云々、

〔徒然草〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0578 明雲座主、相者にあひ給ひて、をのれもし兵仗の難や有と尋給ひければ、相人まことに其相おはしますと申、いかなる相ぞと尋給ひければ、傷害のおそれおはしますまじき御身にて、かりにもかくおぼしよりてたづね給ふ、是すでに其あやふみのきざしなりと申けり、はたして矢にあたりてうせ給ひにけり、

〔徒然草〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0578 御隨身秦重躬、北面の下野入道信願を落馬の相(○○○○)ある人なり、能々つゝしみ給へといひけるを、いとまことしからず思ひけるに、信願馬よりおちて死にゝけり、道に長じぬる一言、神のごとしと人思へり、さていかなる相ぞと、人のとひければ、きはめて桃じりにして、沛艾の馬をこのみしかば、此相をおほせ侍りき、いつかは申あやまりたるとぞいひける、

〔翰林胡蘆集〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0578 散説〈○中略〉 初月潭、〈○赤松則村〉微時、與寶覺禪師逅途中、禪師好相人(○○○)、見月潭状貌、謂之曰、必貴、月潭乃謝而曰、誠如 師言、不敢忘一レ德、及其貴、不禪師處、是時禪師年尚壯、懷南遊求法之志、附海舶太宋、留者二十年矣、月潭慕禪師德、以待其東歸、然而年久、不其面、故路置且過堂、問僧往來、果得禪師、於是剏法雲寺、敦請禪師、爲開山始祖、其後自天建法林寺、追崇禪師、復爲之開山祖

〔明良洪範〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0579 内膳〈○氏家〉事、初メテ秀賴公ノ御近習トナル時、祿一萬石ト成リ、京極修理亮、朽木兵部少輔ナドヽ官祿モ同ジカリシ時、相州小田原進發ノ時、京極、氏家、朽木、三人同道ニテ關東ヘ下リケルニ、江州草津ノ驛ニテ、宿ノ者ヲ呼ンデ、酒ヲ呑セテ戯ムレテ、此三人ノ内何レガ殿下ノ御意ニ叶ヒ立身スベキヤト、其方目利シテ盃ヲサスベシト云シニ、亭主初メハ辭退シケルニ、三人頻リニ望ミシカバ、其時内膳ガ前ニ盃ヲ出シテ申ケルハ、近キ内ニ貴公樣、御主人ノ御氣ニ叶ヒ、必桑名ノ御城主ニ成リ給フベシトテ盃ヲサシケル、案ノ如ク小田原陣中ニテ、太閤ヨリ桑名ノ城ヲ内膳ニ給ハリ、五萬石ヲ御加恩セラレシト也、

〔白石紳書〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0579 盧一官といふ唐人の子、長崎町人にて年行事也、是がいひしは、父の所へ唐人共の來りし時、天草の四郞が十二三にて、唐人の供に雇はれ來りしを、唐人の中にて相をつく〴〵と見て、名を問ひ父を問ふ、濱の町といふ所の者の子也、通事不審に思ひて尋しに、彼唐人云、日本は心得ぬ所也、あの如くなる者、あのごとくなる賤役を執てある也、彼子は天下に望のある者也、されど運はやき程に、望は成就すまじき歟といふ、程なく有馬の戰の事おこりたる也と、

〔先哲叢談〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0579 熊澤伯繼〈○中略〉 嘗至某侯、及入見一士人威儀特秀骨體非常、相與張目注視良久、遂不一言、見侯曰、余今見一士、不知仕臣乎、將處士邪、侯曰、渠爲吾講兵書、處士由井民部助者也、〈名正雪〉蕃山正色曰、余熟視其貌以察其意、君勿復近彼士、他日正雪亦來見侯曰、前日比退朝、見其衣其形人、未知其爲誰、侯曰、渠説吾以經書、岡山臣熊澤次郞八者也、正雪正色曰、余熟視其貌以察其意、君勿復近彼士

〔雲萍雜志〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0580 洛の七條に淨味七郞兵衞といふ釜師あり、家富さかえて、多くの人を仕ひけるころ、伏見に人相をよくするものありて、ある時、淨味を見ていひけるは、御身今は何ひとつ不足なけれども、五十歳を超えて後には、かならず乞食ともなるべきほどのあしき相あり、つゝしみ給へといふによりて、淨味予〈○柳澤里恭〉に問けるは、人相はしかとしたる書にも出侍ることにやといへるに、予答ていふ、人相の書くさ〴〵ありて、その理かならずあることなり、〈○中略〉されば御もとも、人相をみせられしところ、則乞食の相をまうけ出したるなれば、果したまへといふに、淨味は頭をふりて、身の持やうによるべし、相を果すなどゝは、その意を得ざることなりとて歸りぬ、それより淨味は、四十五六のとしよりして、おひ〳〵よからぬことゞもありて、そのみつひに零落におよび、八年がほど過て、淸水坂に乞食となりゐたるを見し人ありとかたりぬ、淨味七郞兵衞は、阿彌陀堂といふ釜をはじめて摸せし釜師の上手なりき、

〔春雨樓叢書〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0580 相學奇談 ある人語りけるは、淺草邊の町家に居ける人、甚相術に妙を得たり、予友人も、其相を見せけるに、不思議に未前を云當けるが、爰に麴町邊に有德なる町家にて、幼年より召仕手代にて、取立、店の事も呑込、實體に勤ける故、相應に元手金をも渡し、不遠別株に致させんと心掛しに、或日彼手代、相人の方ヘ來りて相を見せけるに、相人の云く、御身は生涯の善惡を見る沙汰にあらず、氣の毒なる事には、來年の六月の頃にて、果て死んと云ければ、彼もの大に驚き、猶又右相人委細見屆、兎角死相ありと申ければ、強て實事共思はねど、禮謝して歸けるが、兎角に心にかゝりて、鬱々としてたのしまず、律義なる心より、一途に來年は死んものと觀じて、親方へいとまを願ひける、親方大におどろき、いか成譯有てと尋ければ、さしたる譯も無れど、只出家の心あれば、平に暇を給るべしと望し故、しからば心懸置し金子も可遣と云ければ、元より世を捨る心なれば、若入用あら ば可願とて、一錢も不請、貯置し衣類など賣拂ひ、小家をもとめ、或は托鉢し、又は神社佛閣に詣、誠に其日限の身と、明暮命終を待くらしける、或日兩國橋朝とく渡りけるに、年頃貳拾歳計なる女、身を沈んと、欄干に上り、手を合居しに、彼手代見付引下し、いか成譯にて、死を極めしやと尋ければ、我身は越後國高田在の百姓の娘にて、親も相應にくらしけるが、近きあたりの者と密通し、在所を立退、江戸表へ出、五六年も夫婦暮しけるが、右男よからぬ生れにて、身上も持崩し、かつ〳〵の暮しの上、夫なるもの煩て身まかりぬ、然るに店賃其外借用多く、つくのふべき手段なければ、我が親元は相應なると聞て、家賃其外借金たまり、日々責られ、若氣にて一旦國元を立退たれば、今更親元へ顏も向難く、死を極めし也、ゆるして給へと、泣々語りければ、右新道心も、かゝる哀を聞すてんも不便也、右借財の譯も細かに聞けるに、わづかの金子故、立歸り親方へかく〳〵の事也、兼て可給金子の内、我身入用有之事故、かし給へと歎きければ、親方も哀に思ひ、右金子の内五兩かし遣しければ、右の金にて諸拂致し、店を仕廻はせ、近所の者に賴みて、親元へ委細の譯を認、書状添送らせければ、右親元越後なる百姓は、身元厚く近鄕にて長ともいへるもの故、娘の再度歸り來りし事を歡び、勘當をゆるし、送りし人をもあつく禮謝し、右新同心の元へも禮状等厚くなしけると也、是は扨置、來る年の春も過、夏も六月に至り、水無月祓も濟けれど、新道心の身に聊煩はしき事もなく、中々死期の可來とも思はれねば、さては相人の口に欺れける口惜さよと、親方へも始終有の儘に咄しければ、親方も大におどろき、汝が律義にて、欺れしは是非もなし、彼相人の害をなせる憎さよと、我彼ものゝ所へ行、責ては耻辱を與へ、以來外々の見こらしにせんとて、道心を連て相人のもとへ至り、右道心をば門口格子の先に殘し、さあらぬ體にて案内を乞、相人に對面し、相を見て貰んため來りしと申ければ、相人得と其相を見て、御身の相、何もかはる事なし、されど御身は相を見せに來り給ふにあらず、外に子細有て來り給ふなるべしと、席を立て 表の方を見、右新道心の格子の元に居しを見て、さて〳〵不思議なる事哉、此方へ入給へと、右同心の樣子を微細に見て、御身は去年の冬、我等相を見けるが、當夏までにはかならず死し給はんと云し人也、命めでたく來り給ふ事、我が相學の違ならんか、内へ入給へと座敷へ伴ひ、天眼鏡にうつし、得と考、去年見しにさして違ふことなきが、御身は人の命か、又ものゝ命を助け給へる事有べし、具に語り給へと云ければ、主從大に驚き、兩國にて女を助しこと、夫よりの始終、くわしく語ければ、全右の慈心が相を改候也、此上命恙なしと、橫手を打て感心しける、主人も大によろこび、右手代還俗させ、越後へ送りし女をもらひ、夫婦となし、今まのあたり榮へ暮しけると也、

手相

〔中右記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0582 元永元年八月七日、今夕前雜色源實俊來云々、此次予問云、明年五宿曜、勘文云、壽限也、如何、實俊答云、聞言談聲、已六十四五以後也、明年強不有歟、又欲手足(○○○○)者、令左右手左足(○○○○○○○)之處、答云、先此官厥終事、全不候、今又可昇進也、以之推之、及六十四五後、可命恐、聞此事、可悅思也、件實俊自本相人也、天下衆人、皆信受云々、予又問云、關白殿今明年御愼重者如何、答云、自本年來候彼殿、能々奉見之處、貴相第一也、御壽命餘六十給之後、可恐歟、同此事心中所欣悅也、件二ケ條、依大事、所問尋也、

〔神相全編正義〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0582手 夫手者、其用所以執持、其情所以取捨也、故纎長者、性慈而好施、短厚者、性鄙而好取、手垂過膝者、蓋世英賢、手不腰者、一生貧賤、身小而手大者福祿、身大而手小者淸貧、手薄削者貧手端厚者富、手粗硬者下賤、手軟細者淸貴、手香煖者榮華、手臭汚者獨下、指纎而長者聰儁、指短而窄者愚賤、指柔而密者蓄積、指硬而疎者破財、指如春笋者淸貴、指如鼓槌者愚頑、指圓如葱者食祿、指粗如竹節者貧賤、手薄硬而如雞足者無智而貧、手掘強如豬蹄者愚鹵而賤、手軟滑如錦囊者至富、手皮連如鵞足者至貴、掌長而厚者貴、掌短而薄者賤、掌硬而圓者愚、掌軟而方者福、四畔豐起而中窪者富有、 四畔肉薄而中平者財散、掌潤澤者富貴、掌乾枯者貧窮、掌紅如血者榮貴、掌黄如土者卑賤、靑色者貧苦、白色者寒賤、掌中當心生黑子者智而富、掌中四畔有橫理者愚而貧、多縱理者慧性、無紋理者愚劣、五指内要立理、五指背要橫紋、倶主福壽、是相掌之大要也、

〔隨意録〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0583 手理有弓箭理、世俗傳言、有弓箭理者、不其死然、水戸義公、幼而有謂弓箭理、傳姆侍女、皆悲之曰、斷之可也、公曰、武將之子、手有弓箭、固所願也、是天之賜也、豈可之乎、

觀相書

〔日本國見在書目録〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0583 五行家〈九百十九卷 呪禁 符印 五行 六壬 雷公 私略之 太一 易 遁甲 式 相 仙術〉 仙相經一卷 新撰相人經一 相書七 許眉相男女經三

〔漢書〕

〈三十藝文〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0583 山海經十三篇、國朝七卷、宮宅地形二十卷、相人二十四卷 相寶劒刀二十卷、相六畜三十八卷、 右形法六家百二十二卷

〔通俗編〕

〈二十一藝術〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0583 相書 晉書束晢傳、汲冢有琑語十一篇、諸國卜夢妖怪相書也、按、漢書藝文志、有相人二十四卷、相寶劒刀二十卷、相六畜二十八卷、摠得之相書、今相畜者寥々、相器物則成絶響矣、

雜載

〔今昔物語〕

〈二十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0583 僧登照相倒朱雀門語第廿一 今昔、登照ト云僧有ケリ、〈○中略〉登照ガ房ハ一條ノ邊ニ有ケレバ、春比雨靜ニ降ケル夜、其房ノ前ノ大路ヲ笛ヲ吹テ渡ル者有ケリ、登照此ヲ聞テ、弟子ノ僧ヲ呼テ云ク、此笛吹テ通ル者ハ誰トハ不知ドモ、命極テ殘リ无キ音コソ聞ユレ、彼レニ告ゲバヤト云ケレドモ、雨ハ痛ク降ルニ、笛吹ク者只過ニ過タレバ、不云シテ止ヌ、明ル日ハ雨止ヌ、其ノ夕暮ニ、夜前ノ笛吹キ、亦笛ヲ吹テ返ケルヲ、登照聞テ、此ノ笛ヲ吹テ通ル者ハ、夜前ノ者ニコソ有ヌレ、其ガ奇異ナル事ノ有也ト云ケレバ、弟子然ニコソ侍ヌレ、何事ノ侍ルゾト問、登照彼ノ笛吹ク者呼テ來ト云ケレバ、弟子走行テ呼テ將來タリ、見レバ若キ男也、侍ナメリト見ユ、登照前ニ呼ビ居エテ云ク、其ヲ呼ビ聞エツル事ハ、夜前 笛ヲ吹テ過ギ給ヒシニ、命今明ニ終ナムズル相、其笛ノ音ニ聞エシカバ、其事告申サムト思ヒシニ、雨ノ痛ク降シニ、只過ギニ過ギ給ヒニシカバ、否不告申テ、極テ糸惜ト思ヒ聞エシニ、今夜其笛ノ音ヲ聞ケバ、遙ニ命延給ヒニケリ、今夜何ナル勤カ有ツルト、侍ノ云ク、己今夜指ル勤メ不候ハ、只此東ニ川崎ト申ス所ニ、人ノ普賢講行ヒ候ツル伽陀ニ付テ、笛ヲゾ終夜吹キ候ツルト、登照此ヲ聞クニ、定メテ普賢講ノ笛ヲ吹テ、其ノ結縁ノ功德ニ依テ、忽ニ罪ヲ滅シテ、命延ニケリト思フニ、哀レニ悲クテ、泣々ナム男ヲ禮ケル、侍モ喜ビ貴ビテ返ニケリ、此近キ事也、此ル新タニ微妙キ相人ナム有ケルトナム、語リ傳ヘタルトヤ、

〔梧窻漫筆〕

〈三編上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0584中、山三郞〈○名古屋〉ハ容色モ殊絶シ、勇氣モ勝レ、十三歳ノ時ニ武功アリ、十七歳ノ時ニ氏鄕卒シ、浪人トナリ、父ノ許ニ歸リ、京洛ニ在リテ衣服刀劍ニ、珠璣錦繢ヲ施シ、華靡侈麗ヲ窮極シテ寺觀ニ游跋セシガ、高貴ノ婦人ニ眷戀セラレ、屢姦亂ヲナス、其臭聲世ニ布タレバ、勇名ハ有ナガラ、聘シテ臣トスル公侯モナク、久シク沈淪セシガ、森忠政ニ仕ヘテ三左衞門ト改メ、三千石ノ祿ヲ食メリ、頃之シテ井戸理兵衞ト云者ノ打手ニ向テ、反擊ニ遭テ無名ノ死ヲ爲セリ、相家ノ説(○○○○)ニ、多ク婦女ヲ犯セルモノハ、姦淫ナラザルモ令終ナシト云ヘリ、謂レアル事ナラン、

〔本阿彌行状記〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0584 人相(○○)に、當世ホクロ(○○○)の論、相者の中、やかましきといへども、唐より傳來の相書になし、 地相

〔令義解〕

〈一職員〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0584 陰陽寮〈○中略〉 陰陽師六人、掌占筮相地(○○)〈(中略)相者視也〉

〔日本書紀〕

〈二十敏達〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0584 四年、是歳命卜者、占海部王家地與絲井王家地、卜便襲吉、遂營宮於譯語田、是謂幸玉宮

〔日本書紀〕

〈二十九天武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0585 十三年二月庚辰、遣淨廣肆廣瀨王、小錦中大伴連安麻呂、及判官、録事、陰陽師、工匠等於畿内、令占應都之地

〔續日本紀〕

〈四元明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0585 和銅元年二月戊寅、詔曰、〈○中略〉往古已降、至于近代、揆日瞻星(○○○○)、起宮室之基、卜世相土(○○○○)、建帝皇之邑、〈○中略〉方今平城之地、四禽叶圖(○○○○)、三山作鎭、龜筮並從、宜都邑

〔吾妻鏡脱漏〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0585 嘉祿元年十月十九日丙午、於武州〈○北條泰時〉御亭、相州〈○北條時房〉已下、有御所御地定、小路〈宇津宮辻〉東西間、何方可用哉之事、人々意見區々、爰地相人(○○○)淨法師申云、右大將家法華堂下御所地、四神相應(○○○○)、最上地(○○○)也、何可他所哉、然彼御所西方之地被廣、可御造作也者、兩國司直令問答給、依之彌御不審出來之間、未治定、御占可行云々、

〔塵添壒囊抄〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0585 四神相應地事 地相ニ四神具足ト云フハ、四神體ナニモノゾ、北斗ノ曼荼羅貪狼星ヲ圖スルニハ、四方ニ四神ヲ書ケリ、朱雀ニハ赤キ雀ヲ書キナラハセリ、其名ヲ思フニハ、スヾメ相違ナシ、但書中ニ四神ヲ明スニハ、朱鳥ハ鳳也ト釋セリ、雀ノ字ヲバ鳥ノhttps://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/ra_hou058501.gif 名ト釋シタル事アリ、又雀ヲ鳳也ト云ヘル事モアリ、銅雀ト書ルハ、アカヾネノ鳳凰也、サレバ今ノ朱雀モ、實ニハ朱鳳ニテアルベキニヤ、朱雀錦ト云フニシキモ鳳錦也、鳳凰ヲ紋ニヲリツケタル物也、雀ヲ鳳トスル事其例一ニアラズ、朱雀一ノ名ハ長離也、離ハ南ナレバ南ニ長ジタル神ト云心ニテ、長離トハ云フニコソ、前朱雀ト云ハ、前ハ南ナリ、南ハ火方ナレバ陽ノ鳥ニアタル、鳳ハ火ノ精ナル故ニ、南方ノ神也、雀ハ卑劣ノ小鳥ニテ火ノ方ノ神トスルニタラザル歟、雀ヲ圖スル事ハ道理覺束無シ、後玄武ト云ハ、後ハ北方也、又玄冥ト云フ黑色也、玄武神ハ龜也、但シ龜ト蛇ト交ヲ玄武トストモイヘリ、左靑龍ト云ハ、東方ノ靑キ色也、又靑潤ト名ク、靑色ノ龍也、右ヲバ白虎トス、西ハ白色也、一名ハ索威、索ト云ハ白也、威ト云ハ猛虎ノ威也、四方ハ四季ニカタドレリ、四季ニ各一德アリテ萬物ヲ長ズ、春ノ德ハ雨也、草木 等ヲ生ズル源ナリ、龍ハ雨ヲ司ドル故也、夏ノ德ハ暑也、アツキニヨリテ萬物滋長ス、陽長是ヲ司ドルベシ、秋ノ德ハ風也、風ハ物ヲ堅スル力アリ、虎ハ又風ノ主也、虎嘯テ風起ルト云フ本文アキラカナリ、冬ノ德ハ寒也、寒ニヨリテ其地味ヲ增、北方ハ陰ニシテ寒ヲイタス、玄武ノ龜水方ニ居シテ、能ク陰ヲツカサドル、https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/ra_hou058601.gif 陰ノ長也、是ヲ合セテ四神ノ德トス、

〔玉兎集造屋篇〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0586 先地判形之事 東低西高靑龍地、文、 此屋敷木性屋敷可心得 南低北高赤龍地、文、 此屋敷火性屋敷可心得 北低南高黑龍地、文、 此屋敷水性屋敷可心得 西低東高白龍地、文、 此屋敷金性屋敷可心得 中低方高黄龍地、文、 此屋敷土性屋敷可心得 方低中高四龍地、文、 此四龍地ヲバ無主之地共云 靑龍地者木性貧、此意木木相加故凶也、 火性人富者、木性火ト相生ズル故ニ富貴也、 土性人病ト者、木剋土剋スル故ニ惡ナリ、 金性人災ト者、金剋土ト剋スル故ニ云爾也、 火性人榮ト者、水性木ト相生ズル故ニ大吉也、以下推之可知也、

〔太子傳玉林抄〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0586 傳云、吉相此地國之秀、〈文〉 陰陽書曰、左靑龍者、從東水南へ流也、前朱雀者、南池溝在之也、右白虎者、西大道有也、後玄武者、後山岳在之、凡東下南下西北高大吉也、此云四神具足地(○○○○○)也云々、

〔和漢名數續編〕

〈地理〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0586 四神相應地 左靑龍、〈東〉 右白虎、〈西〉 前朱雀、〈南〉 後玄武、〈北、朱子曰、玄武謂龜蛇也、位在北方、故曰玄、身有鱗甲、故曰武、居家必用曰、宅欲左有流水、謂之靑龍、右有長道、謂之白虎、前有汙池、謂之朱雀、後有丘陵、謂之玄武、爲最貴地、〉

〔闇の曙〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0586 或人問て曰、近き比さる所に、藏をこぼちて座敷を建ければ、愚盲なる陰陽者の樣なる ものゝいふには、藏は土を主とし、家は木を主とす、しかれば木剋土の剋にあたりて、主人に祟りてあしきといふ、此義いかにや、予〈○新井白蛾〉答て曰、それは能々文盲なる人こそ聞受申べし、少しにても學問せし人などは、齒にかけていふ事も耻づべし、一向に取に不足事ながら、一寸辯じて見れば、先づ相剋する所と、其人のいふ所と相違す、木は盛勢にて、土は剋を受て衰ふ時、建たる家は、ます〳〵盛にして、藏は剋にあたりてこぼたれたるは、相應の事ならずや、家を毀て藏を建てたらば、木剋土の剋にてあしきともいふべし、是は取にたらぬ中の又取に足らぬ事の辯なり、右底の事をいふても間にあふべきは、田舍舍などの地面も廣く空地も有所にて、愚盲なるぢゝばゝの悅ぶべき事なり、三ケ津などの繁昌至極の大都會にては、間にあはぬ事なり、都にては、家を毀て藏を建、または藏を除きて家を建て、住居勝手の好やうにして住が善なり、或人又問ふて曰、居宅より、戌亥の方に隱居家を建るは甚だあしゝ、且又主人に祟るなり、それも本宅ならば宜しといふ、是又如何、予答ふ、これも又大痴癡なり、夫先天の方位、乾の父は西南に位し、坤の母は東北に位す、代を讓りて隱居するに、乾の位に離を置、坤の位には坎を移し置て、父の乾は西北の間戌亥に隱居し、母の坤は南西の間未申に退く、是後天の易位なり、即ち乾をいぬゐと訓するに非ずや、是も戯れにいはゞ、本家を建るはあしけれども、隱居には善といふべしと笑ぬ、

〔東牖子〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0587 家相大に流行し、都鄙賢愚これに著する人多し、按るに、劉琦が釋名に宅托也、人之倚處也とて、必竟人の入物、或は外箱などゝおなじく、又刀劒の鞘柄のごとく、何程外飾見事に金銀を鏤たりとも、身鈍刀ならば、何の用にか立んや、〈○中略〉爰に予〈○田宮宣〉遊歴中に、おかしき話有、和州龍田なる一商賈、家相を改んと、態々浪花より家相者を招き、差圖を請て宅を造作し、十分の吉相となして、兩三ケ年の間、福今や來らんと待うちに、身上不如意になり、剩逐轉し、家斷絶に及びぬ、又予が寓せし隣村に、同く家相者に指圖を受て、門を建變、土藏を挽きて、相者の意に任せ、吉相滿りと 悅びしに、翌年の春、全家温疫を病み、其上相續とすべき盛仁の嫡子を失ひ、普請に散財し、先祖傳來の住居を變じたり、其大不幸何によつてか避ることなきや、然共其惑いよ〳〵解ず、益家相を淫し、人にも勸む、其男は予が知れる百姓にて、村長をも勤め怜悧なる男なり、

〔閑窻瑣談〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0588 第一 金神家相の論 近世、家宅の相を撰事行れて、萬家多くは此所爲に泥、其道に通達せる徒に付て、一向に居家の安全を秤、然ば貴賤と雅俗を不論、宅相の吉凶に依て、身上に祥と不祥を現然に得ると云徒不少、於是方位家相を卜するの徒、禍福當祟を囂く云募、八方金神の祟、本命的殺の論嘈々たり、既に家相の禁忌なくとも、暦道に二十四方位の方角なんど、無量吉凶、日取の善惡多くして、撰除事不容易、是乍併、我朝古代の風にはあらず、昔唐土にて、道士等が祭初たる事にして、靑龍、白虎、朱雀、玄武の稱を弘む、是なん世に知る四神の名目、東西南北に配當なせる方色にて、靑白赤黑の形を表するのみ、

〔兎園小説〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0588 家相談 近年我邦も、亦家相の學行はれて、病難を救ひ、火難を免かれ、其術に心服する者少からず、衆人の歸する所、其功驗なきにしも非ず、余是をある人に聞けるに、曰、嘗て松永宗因、藥研堀にて、家宅を買ひ求めて移らんとす、其日濱町會田七郞宅にて、金蘭に邂逅して、家相の談に及び、其言に服し其判斷を請ふ、金蘭一見して、家に死骨有り、此に住む者必ず病死之由申す、宗因畏愼て其家に移らす、直に人に讓りけり、女隱居の其家を買ひて移りたる者、一月餘にして病死せり、其後醫生有り、其家を買ひて此に住みけり、程なく是も亦病死せり、金蘭又久松町河岸へ行きて、其長家の、病氣長屋の由を申し、聞直すべき由申す、然處其言にも從はずして、後果して如之、〈○中略〉 乙酉〈○文政八年〉五月朔 中井乾齋誌

墓相

〔梅花心易掌中指南〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0589 墳墓ノ占 凡ソ人死テ墳墓ヲ占ニ、體卦ヲ主トシ、用卦ヲ墳墓トスルナリ、體ヨリ用ヲ剋スレバ葬ルニヨロシ、用ヨリ體ヲ剋スレバ必ズ葬リテ凶シ、體ヨリ用ヲ生ズレバ葬ルニ凶シ、強テ葬レバ後、人ヲ損ズル事アリ、用ヨリ體ヲ生ズレバ葬リテ吉ナリ、家ヲ興シ、進デ後ノ世嗣ニ利益アリ、體用比和スレバ、是ヲ吉地トス、葬リテ大ニ吉昌ナリ、

〔隋書〕

〈三十四經籍〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0589 五姓墓圖一卷〈梁有冢書黄帝葬山圖各四卷、五音相墓書五巻、五音圖墓書九十一卷、五姓圖山龍、及科墓葬不傳各一卷、雜相墓書四十五巻、亡、〉

〔唐書〕

〈百七呂才傳〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0589 呂才、博州淸平人、〈○中略〉帝〈○太宗〉病陰陽家所傳書、多謬僞淺惡、世益抱上レ畏、命才與宿學老師、刪落煩訛、掇用者、爲五十三篇、合舊書四十七凡百篇、詔頒天下、才於特議、儒而不俚、以經誼處其驗術、諸家共訶短之、又擧世相惑以禍福、終莫悟云、才之言不甚文、要欲俗失、切時事、俾上レ曉也、故剟其三篇、〈○中略〉葬篇曰、易稱、古之葬者、衣之以薪、不封不樹、喪期無數、後世聖人、易之以棺槨、蓋取諸大過、經曰、葬者藏也、欲人之弗一レ見也、又曰、卜其宅兆、而安厝之、以是爲感慕之所也、魂神之宅也、朝市貿遷不知、石泉頽齧不常、是其謀及卜筮、庶無後艱、斯則備於愼終之禮也、後代葬説、出于巫史、一物有失、便謂災、及死生多爲妨禁、以售其術、附妄憑妖、至其書、乃有百二十家、春秋、王者七日而殯、七月而葬、諸侯五日而殯、五月而葬、大夫三月、士庶人逾月而已、貴賤不同、禮亦異數、此直爲赴弔、遠近之期、量事制法、故先期而葬、謂之不懷也、後期不葬、謂之殆禮也、此則葬有定期、不年與月一也、又曰、丁巳葬定公、雨不葬、至于戊午事、君子善之、禮卜先遠日者、自未而進、避不懷也、今法、己亥日用葬最凶、春秋、是日葬者二十餘族、此葬不日二也、禮、周尚赤、大事用旦、殷尚白、大事用日中、夏尚黑、大事用昏、大事者何、喪禮也、此直取當代所一レ尚、而不時早晩也、鄭卿子産、及子太叔、葬簡公、於是司墓大夫室、當柩路、若壞其室、即平旦而堋、不其室、即日中而堋、子産不室、欲日中、子太叔曰、若日中而堋、恐久勞諸侯大夫來會葬者、然子産太叔、不時之得失、惟論人事可否而 已、曾子曰、葬逢日蝕、舍於路左、待明而行、所以備非常也、按法、葬家多取乾艮二時、乃近夜半、文與禮乖、此葬不時三也、經曰、立身行道、揚名於後世、以顯父母、易謂、聖人之大寶曰位、何以守位、曰仁、而法曰、官爵富貴、葬可致也、年壽脩促、子姓蕃衍、葬可招也、夫日愼一日、澤及無疆、德則不建、而祚乃無永、臧孫有于魯、不于魯、不葬得一レ吉也、若敖絶嗣於荊、不葬得一レ凶也、此葬有吉凶、不信四也、今法皆據五姓之、古之葬並在國都之北、趙氏之葬在九原、漢家山陵、或散處諸域、又何上利下利、大墓小墓爲哉、然劉之子孫、本支不絶、趙後與六國等王、此則葬用五姓、不信五也、且人有初賤而後貴、始泰而終否者、子文爲令尹、三仕三已、展禽三點於士師、彼冢墓已定而不改、此名位不常何也、故知榮辱升降事、關諸人而不於葬六也、世之人爲葬、巫所欺、忘擗踴荼毒、以期徼幸、由是相塋隴官爵、擇日時財利、謂辰日不一レ哭、欣然而受弔、謂同屬不一レ壙、吉服避其親、詭斁禮俗、不以法七也、

〔新刊地理五經圖解〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0590 葬經〈○中略〉 百年幻化、離形歸眞、精神入門、骨骸反根、吉炁感應、鬼福及人、東山吐燄、西山起雲、穴吉而温、富貴綿延、其或反是、子孫孤貧、 此原葬法之蔭注也、蓋人生百年歸幻化、幻化之道、雜其形體、歸乎本眞、魂升于天、魄降于地、此葬理之義所由起、而擇地以藏之者、其理爲謬也、若葬得其法、而能乘乎地中之生炁、則亡者神魂得安、自然以一炁之故、感發乎生人、而生人必以昌盛之矣、人以亡靈之炁、感而昌盛、則昌盛之福、非人之自福、鬼福之所及也、蓋父祖子孫、本一炁之相關者、故有是之感應也、觀其東山吐燄、西山起一レ雲、此感彼應、而人鬼之迹可知矣、故穴得其吉、而人棺爲之温和、則子孫受蔭、而富貴爲之不替、其或反是、而穴不吉、則主子孫孤而且貧矣、此自然之應也、

〔琅耶代醉編〕

〈十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0590 宅兆 唐子西曰、古人建都邑、立室家、未地者、如書達觀新邑、營卜瀍澗之東西、詩升虚望楚、降觀于桑、度其隰原其流、蓋自三代時已然矣、今凡通都會府、山水固皆翕聚、至於百家之邑、十室之市、亦必倚山帶溪、氣象回合、若風氣虧疏、山水飛走、則必無人煙起聚、是誠不擇也、乃若葬者藏也、藏者欲人之不一レ見也、古人之所謂、卜其宅兆者、乃孝子慈孫之心、謹重親之遺體、使他日不一レ城邑道路溝渠耳、借曰精擇、亦不其山水回合、草木茂盛、使親之遺體得一レ安耳、豈藉此以求福利乎、郭璞謂、本體乘氣、遺體受蔭、夫銅山西崩、靈鐘東應、木花於山、栗牙於室、此皆生氣相感也、若死者豈能與生者相感以致禍福耶、世人惑其説、有十數年不親者、有既葬而https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00348.gif 之、至三至四者、有地致訟、棺未土、而家巳蕭條者、有骨肉他爲仇讐、皆璞之書爲之也、且人生貧富貴賤天壽謂之天命、不改也、如璞之説、上帝之命、反制於一杯之土矣、楊誠齋嘗言、璞宜吉地、以福其身、利其子孫、乃身不刑戮、而子孫卒以衰微、則是其説已不於其身、而後世方且誦其遺書、而尊信之、不亦惑乎、今之術者言、墳墓若在https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/ra_hou022201.gif、子孫必爲侍從官、蓋以侍從重戴故也、然唐時席https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/ra_hou022201.gif 、乃擧子所戴、故有https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/ra_hou022201.gif 何時得身之句、本朝都大梁、地勢平曠、毎風起則塵砂撲面、故侍從跨馬、許重戴以障一レ塵、夫自宇宙、則有此山、何賤於唐而貴於今耶、近時京丞相仲遠、豫章人也、掘起寒微、祖父皆火化無墳墓、毎寒食則野祭而已、是豈因風水而貴哉、

〔吾妻鏡脱漏〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0591 嘉祿元年十月廿日丁未、相州〈○北條義時〉武州〈○北條泰時〉等令參會給、御所地事、重有御沙汰、可卜筮之由云々、仍國道朝臣以下七人被召、陰陽師以法華堂下初一、以若宮大路第二、而兩所之間、可何地哉之由、可占申之旨、被仰含之處、國道朝臣申云、可移御所於他方之由、當道勘申畢、然於一二御占、若可第一之趣有占文者、申状既似兩樣歟、難一二之御占云云、珍譽法眼申云、法華堂前御地、不然之處也、西方岳上、安右幕下御廟、其親墓高而居下、子孫無之由、見本文、幕下御子孫不御座(○○○○○○○○)、忽令符合歟、若宮大路者、四神相應勝地也、西大道南行、東有河、北有鶴岳、南湛海水、 可池沼云云、依此地用之旨、治定畢、但東西之事被食御占、西方最可吉之由、面々申之、信賢一人、不同申之、東西共不吉也云云、

〔しりうごと〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0592 祐天大僧正小山田與淸を呵す 先年墓相の説を主張して、支那の陰陽五行家の書より抄録して、門人どもに墓相小言を作らせ、また束脩已上の門人には、別に口訣をさづくるよし、口訣もさだめて圍墓書などの説を書きぬきにして、人に示すならんが、唐土の墓相家説に、しか〴〵の相の墓は、子孫かならず公卿を出だし封侯を出だすなどゝあれども、吾朝の人にそのまゝ示す事は、禁を犯すにちかしといふべし、それは太平二百餘年の今、公卿は公卿の分、封侯二千石は封侯二千石の分あることにて、おのが子孫をして、公卿封侯たらしめんとおもふは、士庶の分をしらざる亂賊の人なる故、たとへいかなる美相ありとも、大聲にはいはれぬことなり、その方も官途の事をしらざる者ならねば、かの口傳の卷物にも、さだめし明々地には書かざるならん、然れども住居より北の方の墓がよしなどゝ、小言にいひしはいかなることぞ、わが本山などは、芝から品川あたりの者ならでは、北方にあたらず、されども格別南西の旦方のあしきといふ説を聞きたることもなし、これらはなはだ禁忌に拘はることなるをしらずや、しかるにその方が説にまどはされて、改葬せしもの少からず、大きに難澀したるものもありしよし、これらはなはだ天下の害なり、當時寺院おほく、旦方おほきによりて、金一升の土地、墓相のよき樣に、好みだてをすることは、列侯貴人か、田舍ならでは出來ぬことにて、たとひその方が口訣を得ても、わづかに田樂石の一本も立つるばかりの庶人は、改葬せんにも地面はせまし、さりとて打すておく時に、家に不祥のことあるか、病人夭折、火災盜難あるときは、さればこそ墓相のよからぬ故なれと氣にかけて、彌々衰亡するもおほし、全體ちかごろは、堪輿家相の説はやりて、勝手のわるき所へ窻をあけたり、戸をふさぎたり、不勝手に することをよしと心得るものおほく、つひには家作に氣をもむために、身上も不勝手となる者ことに多し、これらさへ歎息のかぎりなるを、又候その方がために、墓地にまでまごつきて、住持に難儀さするものまゝあるよし、わが末徒どもゝ迷惑することなり、それほど墓相にくはしきその方、何しに子を先立つるやうの逆ありしぞ、もとより穢土に住する如夢幻泡影の身として、吾子の夭折することさへしらず、たゞ書面の墓相説をあげて、口傳などゝのぶること、人はみな書をよまぬものにしたる自許の所爲、はなはだすまぬことなり、ことにこれは、太田錦城が世上の家相方位の説をなすものゝ流行をうらやみ、種々の家相書を著述して、愚人をたぶらかしたる術計をぬすんで、利を射んと欲せるにて、その方すこぶる黄金家にてありながら、尚卑劣なる金まうけしたがる癖あるは、つひに死して有財餓鬼とならんことうたがひなし、

家相

〔隨意録〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0593 近世有家相工者、相人之屋室戸牖、以言吉凶妖祥、世俗或惑乎其言、而改造牖戸、更作井竈者、亦不鮮也、不祥有五、東益不與焉、聖人之諭如是矣、而俗人不知焉故也、昔日伊奈大夫、大信相工之言、而其第宅廐庫、悉改造之、後不一年、而患害起於蕭牆中、終亡數世家祿矣、又予所知之人、私有此惑、以變更其牖戸庖厨、工成之日、乃遭祝融之災、災後特受相工之敎、而築作之法、專隨其指揮焉、落成未幾、又復罹災、盡爲灰塵矣、於是其人初寤焉、

〔隋書〕

〈三十四經籍〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0593 地形志八十卷、〈庾季才撰○中略〉宅吉凶論三卷、相宅圖八卷、

〔龍背發秘〕

〈序〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0593 錦城先生、經ヲ窮ルノ暇、カタハラ家相ノ術(○○○○)ニ通ジ、其書許多卷アリ、文政辛巳ノ年、先生京師ヨリ歸リ、病ノタメニ經ヲ廢ルノ暇、悉ク其書ヲ我ニ傳フ、一日余ニ告曰、夫東張南張ハ、色難持前ナリ、北張巽張ニモ、色情ノ禍ヲ云、北欠西欠ニモ、色情破敗アリ、西張乾張ニハ、二金ノ間ニ離火ヲ生ジテ、二金ノ體ヲ燒キ亡スノ形アリ、離火ハ酒色ナリ、花麗ナリ、汰侈淫佚ノ本ナリ、酒色華美ノ奢侈ヲ以テ、金銀ヲ費耗スルハ、離火ノ二金ヲ燒キ亡スノ形ナリ、登リ龍ノ降リ龍ト變ズ ルモ、必定此禍ニアリ、唐ノ玄宗ノ事ヲ見テモ知ルベシ、サレバ家相ニテ極上吉祥ノ瑞相ト言モノモ、色情花美ヲ嚴制セザレバ、其効驗ノナキノミニハ非ズシテ、瑞相ノ内ヨリ凶相ヲ發シテ、必ズ禍殃ヲ蒙ラザルハナシ、所謂諸吉相ト言モノ、色情花美ヲ帶ビザルハナク、又色情花美ニ破ラレザルハナシ、先哲ノ巽張ノ條ニ、色情ノ氣立ツト言タルハ、一隅ヲ擧テ三隅ヲ反スルノ法ナリ、家相ヲ改正セント欲スルモノハ、先ヅ心相ヲ改正シテ、色情花美汰侈淫佚ヲ嚴制スルヲ始トス、家相ノ學ハ、君子脩身ノ要術ナリ、東張南張木生火ノ吉相ヲ知ルベシ、是ハ最上ノ吉相ナリ、サレドモ色情汰侈淫佚ヲ愼マザレバ、國家ヲ敗亡スルマデモナク、我性命ヲ失ナフベシ、木ハ火ヲ生ジテ其勢盛ナレドモ、幾程モナク薪盡テ火滅ス、木火共ニ灰ニナルノミ、腎虚火動シテ性命ヲ空シクスル、是レ此象ナリ、先哲三五續ノ條ニ、大凶眼前ニアリト云タルハ、一旦ノ發達升進榮華隆昌ノ福ヨリ、身家ノ敗亡ヲ生ズルヲ云、サレバ家相ノ吉祥ヲ得ントニハ、恭儉謙讓降挹退托ノ人ニシテ、周易ノ愼メバ無害也ノ一語ヲ拳々服膺セザレバ、其吉祥ヲ承當スル事不能モノナリ、故ニ東南巽乾ノ張モ、家作地面十分ノ一モ、張レルヲ吉相トス、大ニ張リ滿タルハ、災殃ヲ招クノ相ナリ、吉相方ニ張レルハ、少シク張レ、欠クハ少シク欠ケト言二語ハ、家相極傳ノ秘密藏ナリ、余聽ヲ傾テ賛嘆ス、今ナヲ其言耳ニ在リ、家相ヲ改正セント欲ル者ハ、ヨク此意ヲ解了スベシ、今玆丙戌ノ春、書肆玉嚴堂、予ニ師説ヲ録セン事ヲ請フ、因テ疊數判斷一部ヲ著ス、此書也、其源流ハ天地ノ秘ヲ洩テ、羲文ヨツテ以テ卦ヲ畫シ、禹箕因テモツテ演疇スルヲ本トス、其理ハ至精、其用ハ至博ナリ、區々タル理數ノ書ニ異ナルガ故ニ、龍背發秘ト號シ、其請ニ應ジ、亦先生ノ妙説ヲ書テ、以テ此書ノ序トナス、 文政九丙戌九月晴湖荒井繇行堯民識

〔淇園文集〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0594 家相全書序 大坂長岡生、善相宅之術、自言、其源出魏石申、嘗自著其術之所一レ由、以爲一書、名曰家相全書、癸亥冬、特來京請謁、而乞其書、余本不諸相術、況序其書乎、然生請甚殷、因姑書余所嘗論焉、蓋凡物有形則有數、有數有常、故有之之術出焉、是以人物牛馬豕羊家宅器用、自古皆有之之道、而相有吉凶、乃又有祈禳轉易之術興焉、雖然五行家之所可、堪輿家不可、建除家不吉、叢辰家大凶、暦家小凶、天人家小吉、太一家大吉、漢武以爲、人取於五行者也、以五行主、則所謂吉凶、亦因家異説、本無定耳、雖然物已有形有數、則概之曰吉凶則不可、然則吉凶孰由、蓋天地之道、據故則定、而民者信乎其故者也、有疑則不以定一レ物、唯信可以決其疑、則凡相之術、要之唯有乎故、爲是矣、長岡生之果原魏石申、則是亦其術本乎故者也、其或足信乎、

〔闇の曙〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 家相の事は、俗本の占ひ書に、八卦蓬萊抄といふものに始て述たり、是を種として文盲なる者ども、樣々妄説を僞作して、衆俗を誑らかし惑はす事也、家相はむつかしき事なし、住居勝手好、氣のぬけ過ぬ樣に、又闇く陰の過ぬやうに造りて足ることなり、今家相者といふものに溺化誘るゝ事なかれ、家相を信じ、家を建直して後、間もなく賣家に出したる人も多し、

〔塵添壒囊抄〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 凶宅事 居所ニ惡所ト云事アルハ實證ナキニ非ズ、サルコト無ト云説如何、 惡所ト名ルニ二ノ別アリ、一ニハ鬼神等其ノ家ニ住シテ、人ヲ損シ種々ノ形ヲ現ズルニ依テ是ヲスツ、善相公ノ鬼殿ニ行テ異形ノ者共ヲ見ケルガ如シ、是ハ實證目ニ顯ルヽ上ハ勿論也、二ニハサルコトハ無シテ、住スル人、物惡ク衰ヘヤミナドスルヲ打續スレバ、是ヲ家ノタヽリト思テ、惡所ト名テ人不居、是ニ不實ノ疑有ルベキ也、樂天ノ詩ニ作リテヲロカナル事ニノ玉ヘル、此篇ニ付テ僻心得ノ有ル故也、居ル主ノ打續キ其身ニ災アリ、物惡カルベキ運ノアラムハ、全ク家ノ所爲、所ノ妭ニハ非ザルヲ押付テ、推シテ思ナシニ是ヲ居所ノトガト云ナシテ、人運ノ衰ヘ物ノ惡アルベキ故ノ自然ニ相 續スル道理ヲバ、思入レヌ事ヲ愚也トハ云也、彼ノ凶宅ノ詩ニハ、人疑不敢買、日毀土木功、嗟々俗人心、甚矣其愚蒙、但懼災將一レ至、不禍所一レ從、我今題此詩、欲迷者胸、云ヘリ、終ノ詞ニハ、寄言家與國人、凶非宅凶、ト仰ラレタリ、江相公對策ニモ、安舞吉凶トコソ書タレ、同ジ心ニヤ、

〔尚書〕

〈十五召詰〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 惟二月既望越六日乙未、王朝歩周、則至于豐、惟太保先周公宅、越若來三月、惟丙午朏、越三日戊申、太保朝至于洛宅、厥既得卜則經營、

〔通俗編〕

〈二十一藝術〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 八宅 論衡詰術篇引圖宅術曰、宅有八術、以六甲之名數而第之、第定名立、宮商殊別、宅有五音、姓有五聲、宅不其姓、姓與宅相賊、則犯罪遇禍、按、今相陽宅所云八宅、即八術也、其兼五聲五姓之説、久置不談、

劍相

〔閑窻自語〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 劒相家相事 ちかき比、劒相といふこと、世にはやり、人のもたる刀をみて、貴賤貧富吉凶などの事をいふ、またそのうち家相とて、家のつくりかたをみて、同じく吉凶をのぶ、大かたにいひあつることもあれども、さのみたしかならず、ふるき書に劒を相すとあるは、劒の利鈍をみることなり、いまより劒のめきゝすといふにあたれり、家相のことは、異國にて三才圖會、本朝にては吉日考秘傳などに、敷地のかたちにつき吉凶あり、あるは山にむかひ、水により、淵にのぞむのたぐひ、いはれあり、いまいふ家相にはことかはれり、いかゞや、又馬うしを相することは、ふるく沙汰あるやうなり、

〔梅園雜話〕

〈坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 醫官某劒相并七ツ目の支象を難ず いつの頃にや、相劒の法行はれ、諸侯大夫も、その相者を近けて、帶劒の吉凶を相せしめ給ひ、列士庶人に至るまで、縁を需て腰刀の禍福を試むるに、善惡悔吝、憂喜進退を告る事、略驗あるもの少からざれば、武家の要道と、日毎に其門に群をなすに及べり、

〔闇の曙〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 近年劒相とて、刀の燒刃を見て、是は吉劒、是は凶劒と名付て、俗人をまどはす奸巧妄曲 の徒所々に多し、其劒相をいふは、後天の八卦をhttps://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/ra_hou059701.gif より順にわり付け、八卦の當る所、疵にても地あれにてもあれば、凶といひ、無疵なれば吉とす、譬ば、坎の所に疵あれば住所の障り、震の所に疵有ば宗領に祟る、兌は妻の不縁といふ也、扨此輩、もとより刀の目利しるにもあらず、右のごときもの故、しなひ疵などは夢にもしらず、只燒出しよく、地あれもなければ、大韌有て、一向益にたゝぬ刀にても、右の吉劒の合紋さへ宜しければ、譽立て高直に賣付る惡徒有、尤道具屋と相組て賣付るとなん、

〔閑窻自語〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 兵部卿邦賴親王相劒事 兵部卿邦賴親王〈○伏見宮〉は、ことに劒をこのまれ、よく利鈍および銘の眞僞をわかち、無名の劒のうちてを察せらる、又いまの世にはやる劒相(○○)をもならひ得てのべらるとぞ、廣橋前大納言伊光卿も、ちか比兩方ともこのみて見らるゝよし、吉凶なども、あたるよしきゝ侍りし、

夢占

〔二中歴〕

〈十三一能〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 夢解(○○) 世兒(ヨチゴ) 世千成(ヨチナリ) 院讃 都々 橫頭

〔倭訓栞〕

〈前編三十五由〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 ゆめあはせ(○○○○○) 日本紀に相夢(○○)をよめり、漢に原夢又圓夢と見えたり、山谷詩に茶夢小僧圓(アハス)と是也、眞名伊勢物語に合すと書り、拾遺集に、夢よりぞ戀しき人を見そめつる今はあはする人もあらなん、

〔嬉遊笑覽〕

〈八方術〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 夢合、周禮に占夢(○○)の官ありて、六夢の吉凶を占ふ、〈六夢は、一に正夢、二に靈夢、三に思夢、四に寢夢、五に喜夢、六にhttps://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/ra_hou059702.gif 夢なり、〉王達が筆疇に、夢者非外致也、日之所爲也、日之所爲有善惡、夜之所夢有吉凶云々、然則夢者所以驗吾善惡之進退者乎、こゝにも日本紀には、ゆめあはせを相夢とあり、夢解といふもの有て吉凶を占へり、源氏、〈螢〉夢見給ひて、いとよくあはする物めして合せ給ひける、枕草子、うれしき物、夢をみておそろしとむねつぶるゝに、ことにもあらずあはせなどしたる、古事談、伴善男の條に、汝 高相の夢みてけり、然れどもよしなき人に語りてけり、〈わろく合すれば吉夢もよからずといひならへりとみゆ、〉江談に兼家公いまだ納言たりし時、夢に逢坂の關路に雪のふりたる處をみて云々、夢解を召て合せらるゝ、〈小注に〉此夢解盲人也、名は月となり、取かへばや、吉野の宮をいふ處、世の人のしとすることかたかたのさゑ、おんみやう、天文、いめとき、さう人などいふことまで、道きはめたるさゑどもなり、

〔松屋筆記〕

〈五十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0598 占夢 占夢は、いひしへ夢解といひ、近來夢判といへり、占夢の事、夢經万寶全書など、諸書おほかれど、明人陣士元が夢占逸旨八卷、藝海珠塵子部、五行家類の中に收て、大成の書なり、

〔隋書〕

〈三十四經籍〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0598 占夢書三卷、〈京房撰〉占夢書一卷、〈崔元撰〉竭伽仙人占夢書一卷、占夢書一卷、〈周宣可撰〉新撰占夢書十七卷、〈并目録○中略〉雜占夢書一卷、〈梁有師曠占五卷、東方朔占七卷、〉

〔陔餘叢考〕

〈三十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0598 圓夢 黄帝夢大風而得風后、夢人執弩驅一レ羊而得力牧、此夢兆之徴於人事者、其後遂有占夢之術、周禮大卜、掌三夢之法、一曰致夢、二曰觭夢、三曰咸陟、鄭氏以爲致夢夏后氏所作、觭夢商人所一レ作、咸陟者言夢之、皆得周人作焉、而占夢專爲一官、以日月星辰、占六夢之吉凶、曰生、曰靈、曰思、曰寤、曰喜、曰懼、季冬聘王夢吉夢於王、王拜而受之、乃舍萌〈釋菜〉於四方、以贈惡夢、毛詩亦有之占夢之語、左傳城濮之戰、晉侯夢與楚子搏、楚子伏己而鹽其腦、子犯曰、吉、我得天、楚伏其罪、我且柔之矣、鄢陵之戰、呂錡夢、射月中之、退入於泥、占之曰、姫姓日也、異姓月也、必楚王也、射而中之、退入於泥、亦必死矣、果射楚共王目、錡亦爲養由基射死、此占夢之最騐者也、漢藝文志、七略雜占十八家、以黄帝長柳占夢十一卷、甘德長柳占夢二十卷首、其説曰、雜占者、記百家之象、候善惡之徴、衆占非一、而占夢爲大、可見古人以夢爲重、後漢書梁王暢傳、王數有惡夢、從官卞忌、善占夢、王數使卜筮、是東漢時、尚有占夢之人、乃後世無復以此爲業者、郞瑛謂自樂廣因想之説興、而夢之理明矣、其理明則不必占也、〈○中 略〉又有梅溪子者、姓宇文氏、精于太乙數、且善圖夢、以術授樂平人汪經、近世圓夢之術、蓋本諸此

〔通俗編〕

〈二十一藝術〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0599 圓夢 浩然齋視聽鈔、圓夢出南唐近事、憑僎擧進士時、有徐文幼能圓其夢、按、占夢事最古、漢藝文士載黄帝長柳占夢十一卷、周禮司寤掌王六夢、蓋其大略也、其謂之圓夢、亦非于南唐、李德裕載明皇十七事云、或毀黄幡綽在賊中、與大逆夢、皆順其情、而忘陛下積年之恩寵、已見此圓字矣、

〔日本書紀〕

〈五崇神〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0599 四十八年正月戊子、天皇勅豐城命、活目尊曰、汝等二子、慈愛共齊、不曷爲一レ嗣、各宜夢、朕以夢占之、二皇子於是被命、淨沐而祈寐、各得夢也、會明、兄豐城命、以夢辭于天皇曰、自登御諸山、向東而八廻弄槍、八廻擊刀、弟活目尊、以夢辭奏言、自登御諸山之嶺、繩絙四方、逐粟雀、則天皇相夢(イメノアハセシテ/○○)、謂二子曰、兄則一片向東、當東國、弟是悉臨四方、宜朕位

〔伊勢物語〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0599 むかし、世心づける女、いかで心なさけあらん男に、あひみてしがなと思へど、いひ出んもたよりなきに、誠ならぬ夢がたりをす、子三人をよびて、かたりけり、ふたりの子は、なさけなくいらへてやみぬ、さぶらうなりける子なん、よき御男ぞいでこんとあはするに、此女けしきいとよし、こと人はいとなさけなし、いかでこの在五中將にあはせてしがなと思ふ心有、かりしありきけるに、いきあひて、道にて馬の口を取て、かう〳〵なん思ふといひければ、哀がりて、きてねにけり、

〔江談抄〕

〈一公事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0599 大入道殿夢想事 大入道殿〈兼家〉爲納言之時、夢過合坂關、雪降關路悉白〈ト〉令見給〈天、〉大令驚〈天、〉雪ハ凶夢也〈ト〉思〈天、〉召夢解(○○)欲謝テ、令語給ニ、夢解申云、此御夢想極吉夢也、慥以不恐、其故ハ、人必可斑牛、即人令斑牛、夢解預纏頭也、大江匡衡令參、此由有御物語、匡衡大驚テ、纏頭可召返、合坂關者、關白之關字也、雪者白字也、必可關白、大令感給、其明年〈○正暦元年〉令關白宣旨給也、

〔江談抄〕

〈三雜事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 伴大納言本縁事 被談云、伴大納言者、先祖被知乎、答云、伴氏文大略見候哉、被談云、氏文ニハ違事ヲ傳聞侍也、伴大納言者、本佐渡國百姓也、彼國郡司ニ從テゾ侍ケル、其後國ニテ、善男夢ニ見樣、西大寺ト東大寺トニ跨テ立タリト見テ、妻女ニ語此由、妻云、ミル所ノ夢ハ、胯ヲサカレヌト合ル、善男驚テ無由事ヲ語リヌト恐思テ、主ノ郡司ノ宅ニ行向フニ、伴ノ郡司、極タル相人ニテゾアリケルガ、年來ハサナキニ、俄ニ夢ノ後朝行タルニ、取圓座テ出向テ、事ノ外ニ饗應シテ、召昇セケレバ、善男成怪テ、又恐樣、我ヲ賺シテ後、此女ノ云ツルヤウニ、無由事ニ付、胯サカムズルニヤト、思程ニ、郡司談云、汝ハ高名ノ夢想見テケリ、然ヲ無由人ニ語ケレバ、必大位ニ至ルトモ、定其徴故ニ、不慮ノ外事出來テ、坐ス事歟ト云ケリ、然間善男付縁テ、京上シテアリケル程ニ、七年ト云ニ、大納言ニ至ケル程ニ、彼夢合タル徴ニテ、配流伊豆國云々、此事祖父所傳語也、又其後〈爾、〉廣俊、父ノ俊貞モ、彼國ノ住人語ヒシナリトテ、語リキト云々、

〔台記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 天養元年七月九日戊午、去七日寅刻夢、吉凶問占夢者(○○○○)、〈下女人也、俗鳴夢説、〉曰大吉也、

〔今昔物語〕

〈二十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 天文博士弓削是雄占夢語第十四 今昔ト云フ者有ケリ、榖藏院ノ使トシテ、其封戸ヲ徴ラムガ故ニ東國ノ方ニ行テ、日來ヲ經テ返上ル間、近江國ノ勢多ノ驛ニ宿ス、其時ニ其國ノ司ト云フ人、館ニ有テ、陰陽師天文博士弓削是雄ト云フ者ヲ請ジ下シテ、大屬星ヲ令敬ムト爲ル間、是雄彼ノト同宿シヌ、是雄ニ問テ云ク、汝何レノ所ヨリ來ルゾト、答テ云ク、我レ榖藏院ノ封戸ヲ徴ラムガ爲ニ、東國ニ下テ今返上レル也ト、如此互ニ談ズル間、夜ニ臨テ皆寢入ヌ、而ルニ忽ニ惡相ヲ見テ、覺テ後是雄ニ云ク、我レ今夜惡相ヲ見ツ、而ルニ我レ幸ニ君ト同宿セリ、此夢ノ吉凶ヲ占ヒ可給シト、是雄占テ云ク、汝ヂ明日家ニ返ル事无カレ、汝ヲ害セムト爲ル者、汝ガ家ニ有リト、ガ云ク、我レ 日來東國ニ在テ、疾ク家ニ返ラム事ヲ願フニ、今此ニ來テ、又此ニテ徒ニ亦數日ヲ可過キニ非ズ、又數ノ公物私物其員アリ、何カ此ニ留ラムヤ、但シ何ニシテカ彼ノ難ヲバ可遁キト、是雄ガ云ク、汝ヂ尚強ニ明日家ニ返ラムト思ハヾ、汝ヲ殺害セムト爲ル者ハ、家ノ丑寅ノ角ナル所ニ隱レ居タル也、然レバ汝ヂ先ヅ家ニ行キ著テ、物共ヲバ皆取置セテ後、汝ヂ一人弓ニ箭ヲ番テ、丑寅ノ角ニ然樣ノ者ノ隱居ヌベカラム所ニ向テ、弓ヲ引テ押宛テ云ハム樣ハ、己レ我ガ東國ヨリ返上ルヲ待テ、今日我ヲ殺害セムト爲ル事ヲ兼テ知レリ、早ク罷リ出ヨ、不出バ速ニ射殺シテムト云ヘ、然ラバ法術ヲ以テ不顯ト云フトモ、自然ラ事顯レナムト敎ヘツ、其敎ヘヲ得テ、明ル日京ニ急返ヌ、家ニ行著タレバ、家ノ人御坐タリト云テ、騷ギ喤ル事无限リ、一人ハ不入シテ、物共ヲバ皆取置セテ、ハ弓ニ箭ヲ番テ、丑寅ノ角ノ方ヲ廻テ見ルニ、一間ナル所ニ薦ヲ懸タリ、此ナメリト思テ、弓ヲ引テ矢ヲ差宛テ云ク、己レ我ガ上ルヲ待テ、今日我ヲ殺害セムトス、其由ヲ兼テ知タリ、早ク罷出ヨ、不出バ射殺シテムト云フ、其時ニ薦ノ中ヨリ法師一人出タリ、即從者ヲ呼テ、此ヲ搦テ問ニ、法師暫クハ此彼云テ、不強ニ問ケレバ、遂ニ落テ云ク、隱シ可申キ事ニモ非ズ、己ガ主ノ御房ノ、年來此殿ノ上ニ棲奉リ給ツルニ、今日上給フ由ヲ聞キ給テ、其ヲ待テ必ズ殺シ奉レト、此殿ノ上ノ被仰ツレバ、罷隱レテ候ツルニ、兼テ知ラセ給ヒニケレバト此ヲ聞キテ、我宿報賢クシテ、彼是雄ト同宿シテ、命ヲ存スル事ヲ喜ブ、亦是雄ガ此ク占ヘハ實ナル事ヲ感ジテ、先ヅ是雄ガ方ニ向テ拜シケリ、其後法師ヲバ檢非違使ニ取セテケリ、妻ヲバ永ク不棲成ニケリ、此ヲ思フニ、年來ノ妻也ト云ドモ、心ハ不緩、女ノ心ハ此ル者モ有ル也、亦是雄ガ占不可思議也、昔ハ此ク新タナル陰陽師ノ有ケル也トナム、語リ傳ヘタルトヤ、

〔宇治拾遺物語〕

〈十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0601 むかし、備中國に郡司ありけり、それが子に、ひきのまき人といふ有けり、わかき男にてありけるとき、夢をみたりければ、あはせさせんとて、夢ときの女(○○○○○)のもとに行て、夢あは せてのち、物語してゐたるほどに、人々あまたこゑしてくなり、國守の御子の太郞君のおはするなりけり、年は十七八ばかりの男にておはしけり、心ばへはしらず、かたちはきよげなり、人四五人ばかりぐしたり、これや夢ときの女のもとゝとへば、御ともの侍、これにて候といひてくれば、まき人は、上の方の内に入て、部屋のあるに入て、あなよりのぞきみれば、この君入行て夢をしかじか見つるなり、いかなるぞとてかたりきかす、女きゝて、よにいみじき夢なり、かならず大臣までなりあがり給べきなり、返々めでたく御覽じて候、あなかしこ〳〵、人にかたり給なと申ければ、この君うれしげにて、衣をぬぎて、女にとらせてかへりぬ、そのをり、まき人、部屋より出で、女にいふやう、夢はとるといふ事のあるなり、この君の御夢、われらにとらせたまへ、國守は四年過ぬれば、かへりのぼりぬ、われはくに人なれば、いつもながらへてあらんずるうへに、郡司の子にてあれば、我をこそ大事に思はめといへば、女のたまはんまゝに侍べし、さらばおはしつる君のごとくにして、入給て、そのかたられつる夢を、つゆもたがはずかたりたまへといへば、まき人よろこびて、かの君のありつるやうにいりきて、夢がたりをしたれば、女おなじやうにいふ、まき人いとうれしく思て、衣をぬぎてとらせてさりぬ、そのゝち文をならひよみたれば、たゞとほりにとほりて、才ある人になりぬ、大やけきこしめして、心みらるゝに、まことに才ふかくありければ、もろこしへ物よく〳〵ならへとてつかはして、久しくもろこしにありて、さま〴〵の事どもならひつたへて歸りたりければ、御門かしこきものにおぼしめして、次第になしあげ給て、大臣までになされにけり、されば夢とることは、げにかしこき事なり、かの夢とられたりし備中守の子は、司もなきものにてやみにけり、夢をとられざらましかば、大臣までも成なまし、さればゆめを人にきかすまじきなりと、いひつたへけり、

〔曾我物語〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0602 ときまさがむすめの事 またかのときまさにむすめ三人あり、ひとりはせんばらにて二十一なり、二三はたうばらにて十九十七にぞなりにける、なかにもせんばら二十一は、びじんのきこえあり、ことにちゝふびんに思ひければ、いもうと二人よりは、すぐれてぞおもひける、さる程に、そのころ十九のきみ、ふしぎのゆめをぞ見たりける、たとへばいづくともなくたかきみねに上り、月日をさうのたもとにおさめ、たち花の三つなりたるえだをかざすと見ておもひけるは、おのこゝの身なりとも、みづからが月日をとらん事あるまじ、ましてや女の身として、思ひもよらず、まことにふしぎのゆめなり、あねごはしらせ給ふべし、とひたてまつらんとぞ、いそぎあさ日ごぜんのかたにうつり、こまごまとかたりたまふ、 たちばなの事 さてもこの二十一のきみ、女しやうながら、さいかく人にすぐれしかば、〈○中略〉このゆめをいひおどして、かいとらばやとおもひければ、このゆめかへす〴〵おそろしきゆめなり、よきゆめをみては、三とせは、かたらずし、あしきゆめをみては、七日のうちにかたりぬれば、おほきなるつゝしみあり、いかゞすべきとぞおどしける、十九の君は、いつはりとは思ひもよらで、さてはいかゞせん、よきにはからひてたびてんやと、大きにおそれけり、さればかやうにあしきゆめをば、てんじかへて、なんをのがるゝとこそ、きゝてさふらへ、てんずるとは、なにとする事ぞや、みづからこゝろへがたし、はからひたまへとありければ、さらばうりかふといへば、のがるゝなり、うり給へといふ、かうものゝありてこそうられ候へ、めにもみえず、手にもとられぬゆめのあと、うつゝにたれかかうべしと思ひわづらふいろみえぬ、さらばこのゆめをば、わらはかひとりて、御身のなんをのぞきたてまつらんといふ、みづからがもとよりぬしあしくとてもうらみなし、御ためあしくば、いかゞといひければ、さればこそうりかふといへば、てんずるにて、ぬしも、みづからも、くる しかるまじと、まことしやかにこしらへければ、さらばとよろこびて、うりわたしける、そのゝちに、くやしくはおぼえける、このことばにつきて二十一のきみ、なにゝてか、かひたてまつらん、もとよりしよまうのものなればとて、ほうでうのいへにつたはる、からのかゞみをとりいだし、からあやのこそで一かさねそへわたされけり、十九のきみ、なのめならずによろこびて、わがかたにかへり、日ごろのしよまうかなひぬ、此かゞみのぬしになりぬと、よろこびけるぞおろかなる、

字占

〔鹽尻〕

〈二十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0604 異邦、拆字を以て吉凶を説を相字と云、瑞桂堂暇録、及び高文虎蓼花洲間録等の小説に見えたり、我國、今花押を相して吉凶を云は、もと相字より起れり、〈賢按、是今世墨色考(○○○)といふものなり、〉

〔隨意録〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0604 聞、我方京師、昔有字占(○○)翁者、使人隨意書一字、相之以善占其吉凶禍福、予〈○冢田虎〉伯兄兵馬、嘗善其字占、屢能善中其人事、頃讀宋高文虎蓼花洲間録云、謝石成都人、宣和間至京師、以相字人禍福、求相者隨意書一字、即就其字、離拆而言、無奇中、名聞九重、上皇因書一朝字、令中貴人持往試之、石見字、即端視中貴人、曰、此非觀察所一レ書也、然謝石賤術、今日遭遇、即因此字、點配遠行、亦此字也、但未敢遽言一レ之耳、中貴人愕然、且謂之曰、但有據、盡言無懼也、石以手加額曰、朝字離之、爲十月十日字此月此日所生之天人、當誰書也、一座盡驚、中貴馳奏、翌日召至後苑、令左右及宮嬪書一レ字示之、皆據字論説禍福、倶有精理云々、

〔闇の曙〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0604 字畫の占(○○○○)といふは、百家名書といふ書の中に、謝氏が相字法と云書有、其占ひ樣は、占を乞來る人に、何といふ字にても、向ふの人のおもひ出の字をかゝせ、其字の偏傍又は踏冠を或は增或は減じ、種々活を用て、それ〴〵に判斷するなり、占ひし例は、書に詳に見へたり、 按ずるに、此事も、ふるく我朝に傳へ翫びしにや、雜々拾遺などにも見へたる雜占なり、

〔難波江〕

〈七下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0604 墨色〈拆字 測字 破字 相字 相印 相手板 相笏〉 相字破字の疑は、もと陰陽五行家のいひいでたることにて、西土より傳播したることは、いふも さらなり、明崔紫虚の相字心經〈百家名書、格致叢書などにも入、〉胡文煥の錢塘副墨など、そのすぢをかけるものなり、欽定四庫全書總目に、神機相字法〈術數存目〉一卷あり、撰人未詳といへり、舶來有りやいまだしらず、錢遵王讀書敏求記卷三、相法の條に、相字心易一卷をのせたり、是も撰者しれず、錢大昕が恒言録卷六に、拆字、隋書經籍志、有破字要訣一卷、顏氏家訓書證篇云、拭卜破字經、及鮑昭謎字、皆取會流俗、盧召弓云、破字即今之柝字也、と有るにて、拆字破字おなじことなるをさとるべし、又程省以三〈時代未考〉の測字秘牒といふものあり、此書破字卜法を詳にしるす、〈漢鏡齊四種ノ一ナリ、淸道光甲申程芝雲ノ序アリ、コノ人ノ同宗カ、猶ヨク考フベシ、〉隋志〈五行〉相手板經六卷、〈梁ノ相手板經、受版圖韋氏ノ相板印法指略鈔、魏征東將軍程申伯ノ相印法各一卷、亡、〉とみえ、魏志卷九注に、魏氏春秋を載せて、允善相印、將拜、以印不善、使更刻一レ之、如此者三、允曰、印雖始成、而已被辱、問印者、果懷之、而墜於廁、相印書曰、相印法、本出陳長文、以語韋仲將、印工楊利從仲將法、以語許士宗利、以法術吉凶、十中可八九、仲將問長文、從誰得法、長文曰本出漢世、有相印相笏經云々、とあるなどをみれば、漢の比よりはやくいひいでたることゝおもはる、 雜々拾遺卷一〈此書、元祿八乙亥刊本、六卷也、其後古今拾遺著聞集と題號を改め、弘化三年藤原行定自序あり、〉 〈安倍有宗判うらなひ、付明の大宗の事、〉安倍晴明十五代の後胤從三位有宗入道は、天文博士にて、兼好が友人なり、ことに判形を見て吉凶をいふに、ひとつもあやまらず、人みな歸依しけり、もろこしにも此ためしあり、異國の書には、字を分つ者とあり、みな判うらなひの事也、明朝の大祖いまだ只人の時行末の安否きかまほしくて、字をわかつ人の方へゆき、案内して庭に立ながら、しか〴〵の事をたづねらるゝに、あるじ立出て、何にても文字をかきてみせ給へといふ、大祖持たる杖にて土上に一文をかき給ふ、あるじおどろきて、さてもめでたき御事なりと拜伏す、とてものついでに今一字をみ侍らむといふ、大祖何ごゝろなく、又問の字を書きてみせらる、いよ〳〵うたがふ所なく天子の御器量あり、土のうへに一文字を加ふれば、王の字なり、後の問の字をわ かつ時は、左につけても、右に付ても、君の字なり、たのもしくおぼしめさるべし云々、大明の史傳に書きのせたり、

〔谷響續集〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0606 拆字説吉凶 客曰、中華拆字説吉凶、其説如何、 答紹興中、張九萬以拆字吉凶、秦檜一日獨坐書閣、召九萬至、以扇柄、就地畫一字、問曰如何、九萬賀曰、相公當官爵、檜曰、我位爲丞相、爵爲國公、復何所加、九萬曰、土上一畫非王而何、當眞王之貴、其後竟封郡王、又封申王、〈瑞桂堂暇録〉

〔通俗編〕

〈二十一藝術〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0606 拆字 二老堂雜志、謝石善拆字、徽宗特補承信郞、按、通志藝文略、有相字書、即拆字也、其術不于謝、而謝名爲最著

〔本朝文粹〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0606 字訓詩〈于時嘉祥九年秋〉 淸原眞友 禾失曾知秩、中心豈忘忠、里魚穿浪鯉、江鳥度秋鴻、火盡仍爲燼、山高自作嵩、色絲辭不絶、凡虫泣寒風、 字訓詩 源順 周禾致瑞稠、人壽與仙儔、加馬馳高駕、求衣擁善裘、夏香蓮綻馥、秋木葉落楸、官舍飽門館、三刀幾九州

〔古事談〕

〈一王道后宮〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0606 上東門院〈○藤原彰子〉被後一條院、御産之時、事外有煩ケレバ、入道殿〈○藤原道長〉サワガセ給テ、自御所走出給テ、御産事外令澀給、コハイカヾスベキ、御誦經ナドカサネテ可行ヤト被仰之間、御言未了ニ、有國申云、御産ハ已成候ヌル也、不重御誦經ト申程ニ、女房走參テ、御産已成候ヌト申ケリ、事落居之後、有國ヲ召テ、イカニシテ御産成ヌトハ知ツルゾト御尋アリケレバ、御障子ヲ引アケテ出給ツレバ、障子ハ子ヲ障ト書テ候ニ、廣アキ候ヌレバ、御産成ヌト存候ツル也ト申ケリ、

〔江談抄〕

〈二雜事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0607 上東門院御帳門犬出來事 上東門院爲一條院女御之時、帳中ニ犬子不慮之外ニ入〈天〉有〈遠〉見付給、大ニ奇恐被入道殿、〈道長〉入道殿召匡衡テ密々令此事給ニ、匡衡申云、極御慶賀也〈土〉申〈仁、〉入道殿何故哉〈土〉被仰〈仁、〉匡衡申云、皇子可出來之徴也、犬ノ字ハ是點ヲ大ノ字ノ下ニ付バ太ノ字也、上ニ付レバ天ノ字也、以之謂之、皇子可出來給、サテ立太子、次ニ至天子給歟、入道殿大令感悅給之間、有御懷姙、令後朱雀院天皇也、此事秘事也、退席之後、匡衡私令件字〈天〉令家云々、

〔小右記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0607 寬弘九年〈○長和元年〉五月十一日戊寅、乘月式部大輔匡衡來、談雜事次云、一日應召早參、行立后事并除目事、極所感思、所言太多、不敢記、其次語除書間蜈蚣事、會釋蜈蚣云、吴字者天載口、公字者三公也、出天口三公歟、吴者期、十二月可疑、彼日甲子物始、被除目、可事始也、亦初行皇后宮除目、皇者御門也、后者きさき、帝后相兼、除目有事、相示大夫、名名隆家、訓讀云伊部乎佐加也加寸、尤有興事也、又云、周公并吴公也、彼家周公也、予家吴公也、左右思慮、昇三公近者、識者言爲後鑒、聊所記置、件匡衡月來不食有恙、而隱夜所來也者、

〔太平記〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0607 主上御夢事附楠事 元弘元年八月廿七日、主上〈○後醍醐〉笠置ヘ臨幸成テ、本堂ヲ皇居トナサル、〈○中略〉少シ御マドロミ有ケル御夢ニ、所ハ紫宸殿ノ庭前ト覺タル地ニ大ナル常盤木アリ、綠ノ陰茂テ南ヘ指タル枝殊ニ榮ヘ蔓レリ、其下ニ三公百官位ニ依テ列座ス、南ヘ向タル上座ニ、御座ノ疊ヲ高ク敷、未ダ座シタル人ハナシ、主上御夢心地ニ、誰ヲ設ケン爲ノ座席ヤラント、怪シク思食テ立セ給タル處ニ、鬟結タル童子二人忽然トシテ來テ、主上ノ御前ニ跪キ、泪ヲ袖ニ掛テ、一天下ノ間ニ、暫モ御身ヲ可隱所ナシ、但アノ樹ノ陰ニ南ヘ向ヘル座席アリ、是御爲ニ設タル玉扆ニテ候ヘバ、暫ク此ニ御座候ヘト申テ、童子ハ遙ノ天ニ上リ去ヌト御覽ジテ、御夢ハヤガテ覺ニケリ、主上是ハ天ノ朕ニ告玉 ヘル所ノ夢也ト思食テ、文字ニ付テ御料簡アルニ、木ニ南ト書タルハ楠ト云字也、其陰ニ南ニ向テ坐セヨト、二人ノ童子ノ敎ツルハ、朕再ビ南面ノ德ヲ治テ、天下ノ士ヲ朝セシメンズル處ヲ、日光月光ノ被示ケルヨト、自ラ御夢ヲ被合テ、憑敷コソ被思食ケレ、夜明ケレバ當寺ノ衆徒成就房律師ヲ被召、若此邊ニ楠ト被云武士ヤ有ト御尋有ケレバ、近キ傍ニ左樣ノ名字付タル者アリトモ未承及候、河内國金剛山ノ西ニコソ、楠多門兵衞正成トテ、弓矢取テ名ヲ得タル者ハ候ナレ、〈○中略〉稚名ヲ多門トハ申候也トゾ答申ケル、主上サテハ今夜ノ夢ノ告是也ト思食テ、頓テ是ヲ召セト被仰下ケレバ、藤房卿勅ヲ奉テ、急ギ楠正成ヲゾ被召ケル、

〔逸史〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0608 天文二年〈○中略〉公〈○德川家康父親氏〉嘗夢有文、在其握、曰是、旦而咨衆、無能解者、浮屠橫外、以拆字之曰、是字爲日下人、日下一人而握之、大柄在手也、吉莫焉、然握而未啓、不其身、或在後嗣也、公大悅、爲創龍海禪寺

墨色

〔闇の曙〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0608 墨色、是も雜占なり、聖賢の法はなし、只墨の淸み濁る所を以て、それに因て吉凶をいふ、一文字をかゝせて見るも有、或は圓をかゝせて吉凶を述る也、其法八卦を割付て、それに因て斷るなり、又圓にても、一にても、筆の始あしければ、病氣なれば首の病ひといひ、筆の止りあしければ、痔の病ひ有といふ、童蒙の取扱ふ重寶記などにも、墨色の事有、學者の取あぐる事にもあらず、花押の墨色も、大概同樣の事也、

判占

〔甲陽軍鑑〕

〈二品第八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0608 判兵庫星占之事附長坂長閑無面目仕合之事 永祿十二年己巳の歳より、翌年午七月まで、天に煙の出る星出たり、信玄公三十一歳の御時より召置るゝ江州石山寺の博士、むかしの晴明が流れにて易者也、中にも判を能占(○○○○)に依て、判の兵庫と號す、占をも正法に仕、内典ともにたづさはり、邪氣聊もなければ、信州水内郡におひて百貫の知行、永代宛行るゝ朱印、彼兵庫に被成下

〔幸庵夜話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 一予判を占ひ、名乘字の善惡を考、其外家の住居々々の恰合により吉凶、大戸口の建樣等、品々土御門兵部少輔家來に、花形六左衞門と申候てあり、昔予近付に成申候比、六十歳計に相みへ申候、此六左衞門、右陰陽道に妙を得たるものにて候、若輩より勤仕して、よく習得たり、此六左衞門に傳授いたし候、然ども終に考ふる事もなく打過候、先年於護國寺、住持の判をすへ爲見被申候處に、追付位進可申候、但し先を折判形に候間、末は宜かる間敷候條、御愼可之候と申候處に、護持院の住持職に被仰付、大僧正に被仰付候、夫より隱居、其上にも結構成樣子に候處に、當御代〈家宣公〉に成て、公儀表惡敷、逼塞一命を御助け置被遊迄之首尾に成候、亦護國寺の役者の内、普門院右住持大僧正に成申を見て、予を信仰にて判をして見せ申候、殊之外能判にて、寺領有之寺〈江〉居り可申と判申候へば、國は何方にて可之と、狂言に尋申候故、則江戸の地にて候、此墨薄き點が當地と察申候、さあらば土地は一方に山、一方に海道を請て、片さがりなる土地にて候、前には流有て、後は地つまり可申候、靑龍白虎朱雀玄武の理に叶ひ、四神相應の寺地に居はり可申と判じ候へば、普門院喜悅之處、總出家中、先祝をいたし候へとて、吸物酒など、普門院に出させ、予も打まじり、なぐさみ申候、然處無程一位樣〈○桂昌院、德川綱吉生母、〉の御寺、日下窪の藥王寺後往に被仰付候、寺領武州六鄕にて百石御寄附、予が判じ申如く、土地の體相違無之候、後はつまり候へども、門前百間有之候、何かに福有の寺にて候、右兩樣の判よく考合申候故、護國寺護持院の出家中は、予を信仰にて候、

〔古今要覽稿〕

〈姓氏〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 草名吉凶 講習餘筆に花押のことを説て、さて其畫間の空穴の數にて、吉凶を云、其生の性に叶へりの叶はざるのと云る附會の説共をなせり、これらは陰陽占卜家のする所にて從べからず、


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Last-modified: 2022-06-29 (水) 20:06:30