p.0757 又〈○醫疾令〉云、醫生、按摩生、呪禁生、藥園生、先取二藥部及世習一、〈謂、藥部者、姓稱二藥師一者、即蜂田藥師、奈良藥師類也、世習者、 三世習二醫業一( ○○○○○) 、 相承爲二名家一( ○○○○○) 者也、〉
p.0757 醫不二三世一、不レ服二其藥一、
p.0757 天平寶字二年四月己巳、〈○己巳、原係二三月一、今改、〉内藥司佑兼出雲國員外掾正六位上難波藥師奈良等一十一人言、奈良等遠祖德來、本高麗人、歸二百濟國一、昔泊瀨朝倉朝廷〈○雄略〉詔二百濟國一訪二求才人一、爰以二德來一貢二進聖朝一、德來五世孫惠日、小治田朝廷御世〈○推古〉被レ遣二大唐一、學二得醫術一、因 號二藥師一( ○○○) 、 遂以爲レ姓( ○○○○) 、今愚闇子孫、不レ論二男女一、共蒙二藥師之姓一、竊恐、名實錯亂、伏願、改二藥師字一蒙二難波連一、許レ之、
p.0757 承和四年六月己未、右京人左京亮從五位上吉田宿禰書主、越中介從五位下同姓高世等、賜二姓興世朝臣一、始祖鹽乘津大倭人也、後順二國命一往居二三巴汶地一、其地遂隷二百濟一、鹽乘津八世孫逹率吉大尚、其弟少尚等、有二懐土心一、相尋來朝、 世傳二醫術一( ○○○○) 、兼通二文藝一、子孫家二奈良京田村里一、仍元賜二姓吉田連一、
p.0757 嘉祥三年十一月己卯、從四位下治部大輔興世朝臣書主卒、書主右京人也、本姓吉田連、其先出レ自二百濟一、祖正五位上圖書頭兼内藥正相摸介吉田連宜、父内藥正正五位下右麻呂、並爲二侍醫一、累代供奉、
p.0758 和丹両流之醫師( ○○○○○○○) 等、雖レ爲二末代一、其術新播二効驗一候哉、仍隨分秘藏之藥種共所二現在一者、
p.0758 和氣氏( ○○○) 出レ自二垂仁帝一
廣世 淸丸長子也、起レ家補二文章生一延暦四年坐レ事被二禁錮一、特降二恩詔一、授二從五位下一、爲二式部少輔一、便爲二大學別當一、墾田二十町入レ寮爲二勸學料一、請レ裁二闡明經四科之第一、大學會二諸儒一、講二論陰陽書、新撰藥經大素等一、〈見二宇佐神記及和家傳一○下略〉
p.0758 垂仁帝〈○此間十四代略〉 淸麻呂〈○註略〉廣世〈○此下略〉眞綱〈○註略〉 眞典〈○註略〉時盛〈天安宇佐使、侍、醫、隱岐守、〉時雨〈針博士、延長天慶宇佐使、左兵衞、典藥頭、母典藥頭官利名女、〉正業〈康保宇佐使、針醫博土、〉 致賴〈和安、永觀宇佐使、典藥頭、攝津守、〉正世〈寬和寬弘宇佐使、醫博士、典藥頭、〉 相法〈長和宇佐使、針博士、〉章親〈暦延久宇佐使、典藥頭、從五下、○此間十二代略〉尚成〈改二時尚一、侍醫、〉明重〈昇殿、甲斐守、正四下、施藥院使、典藥頭、始准二武家醫一、爲二放資體一、法名宗鑑、實者丹波重長適子、豫醫術逹才、養爲レ子、 自レ是和氏兼二丹家之醫道一( ○○○○○○○○○○) 、雖二僧位一聽レ著二直綴白袴一、列二諸醫之座上一、〉利長〈從五上、刑部少甫、法名道三、實明重弟子也、以二醫術之精發一、雖レ有レ子爲二養子一、醫書之諸抄等多出、永正四正五卒、〉明親〈改二眞長一、法名澄玄、自稱二蘭軒一、後賜二春字一、號二春蘭軒一、又菊花紋賜、永正年中渡レ唐、見二明朝皇帝一獻レ藥、在唐之間、與二梅崖一友善、歸朝後、度々有二音信一云、〉瑞策〈曰二通仙軒一、號二驢庵一、正親町院字、號二通仙院一、勅曰、雖レ可レ被レ叙二僧位一、於レ家者子細異二于他一、先著二素絹一、又賜二家傳醫心方三十卷一、平信長公、豐臣秀吉公、寵遇異レ他、○中略〉 瑞桂〈驢庵、不レ歴一法橋法眼法印之階級一、聽レ著二素絹一、又依二勅命一以二驢庵之號一、傳二代々之適孫一云、〉 利親〈從五下、典藥頭、右衞門佐、法名瑞玄、慶長八七十卒廿五、〉瑞壽〈驢庵、寬永七、依二將軍家御執奏一聽レ著二素絹一、同八年元日登城、先二諸醫一奉レ拜二台顏一、同九年於二相摸国一增二本領五百石一、賜二又一千石之領地一、〉瑞堅〈驢庵、寬永十六年奉レ拜二謁大猷院殿一、賜二瑞壽遺跡千五百石一、慶安四年賜、依二將軍家鈞命一聽レ著二素絹一、于レ時廿九、同五年元日登城、先二諸醫一奉二拜謁一、同年參内、〉
p.0759 丹波氏( ○○○) 出レ自二後漢靈帝一
康賴 元領二丹波州矢田郡一、始賜二丹波宿禰姓一、叙二從五位上一、歴二鍼博士一、醫術通二神妙一、褒譽溢二宇宙一、永觀二年十一月廿八日、以二醫心方三十卷一獻納、〈○中略〉
愚案、古和丹兩家多任二典藥頭一、近世學レ醫者悉剃髪以著二僧衣一、或叙二法眼一或轉二法印一、故不レ聞レ有二典藥之名一也、近頃半井家道三家之嫡子、少年日姑結レ髪以 交爲二典藥頭一( ○○○○○) 、
p.0759 後漢靈帝 正王 石秋王 阿智王〈應神帝廿年日本來朝、住二大和國一、〉 高貴王〈○註略〉志拏直〈○註略〉 駒子 弓束 首名 孝子 大國 康賴〈始賜二丹波宿禰姓一、丹羽矢田郡人、針博士、左衞〉〈門佐、從五位上、永觀二十一廿八、以二醫心方三十卷一撰二進公家一〉、 重明〈典藥頭、侍從、侍醫、丹波守、〉 忠明〈同、從四下、〉 雅忠〈正四下、右衞門佐、典藥頭、施藥院、〉重康〈從四下、醫博士、〉 重賴〈醫博士、從五下、早世、〉 基康〈典藥頭、從四下、〉 賴基〈典藥頭、正四下、侍從、〉 賴季〈正四下、典藥頭、〉光基〈典藥頭〉 篤基〈侍從、正四下、典藥頭、〉 篤直〈實長直子、從三、右兵衞佐、典藥使〉 重直〈治部卿、典藥頭、〉 賴直〈正三、同同同、〉 篤忠〈正三、同、右京大、〉 定基〈同、正三、右馬頭、〉 秀直〈典藥頭、正四下、大膳大夫、〉 盛直〈從四下、典藥頭、〉
p.0759 附録〈○中略〉
近來 錦小路( ○○○) 家、醫道之家のごとくに相成候、右ハ元來錦小路、 小森( ○○) 、兩家共、丹波康賴之末孫ニ而、康賴ハ、和氣丹波と並稱し候醫術之名家ニ候、右ニ付錦小路、小森共、世々典藥頭ニ被レ任、六位藏人ニ被レ補候事ニ候、然ル處錦小路家、近代極臈より昇殿を聽り、堂上ニ被二相列一候、其巳來典藥頭は、小森ニ而被レ任候事候得共、其家堂上たる上、其祖康賴卿と申人醫道之逹人ニ而、其傳有レ之事故、當時之 錦小路家、〈修理大夫賴理卿〉追々門人をも被レ取、彼家〈江〉附候江ば、地下之醫者共、官位申候事相叶候事ニ相成候、右之振合ニ而、當時は全く家業のごとく相成候、
p.0760 長官〈○中略〉 從三位典藥頭賴豐卿に至リ、越前國小森ヲ賜フ、〈此知名ニ因テ、後年姓ヲ小森と改ム、〉又播磨國大幡莊攝津國中條等各コレヲ領ス、其裔典藥頭賴季ノ養子賴庸、六位藏人ニ補セラレ、元祿十二年卯十二月、始テ別家ス、今ノ 錦小路家( ○○○○) ノ祖是ナリ、小森家、元錦小路ト稱ス、寬文四年五月二日、法皇ノ院宣ニ由テ、錦小路ヲ改ヲ小森ト賜フ、故ニ其舊號ヲ以テ別家ノ號トス、小森家ハ、曩祖阿直王ヨリ、當代ニ至リ、一百數代ノ帝ニ奉仕ス、其家微々タリトイヘドモ、今ニ至テ、毎歳首ニ屠蘇白散ヲ調修シテ朝廷ニ呈シ、以テ歳首ノ吉瑞ヲ賀ス、又正月元日ニ、天杯天酌ノ禮アリテ、今猶廢セズ、家衰ヘ技拙ニシテ、天下ノ醫生ヲ指揮スル事能ハズトイヘドモ、實に皇國ノ名家タリ、後人或ハ今ノ錦小路家ヲ以テ、方術ノ長官トスル者アリ、甚ダ謬レリ、錦小路家ハ、方術ニ關ルノ家ニ非ズ、ナレドモ本主ノ緣アルヲ以テ、補翼救援ノ遁ルベキニモ非ザレドモ、其此事ニ及バザルモノハ、余イマダ其故ヲ知ラズ、又江都ニ多紀家ナルアリテ、其本丹家ニ出デ、其家モ豪ニ、其人モ勇ナリト聞ケリ、然ラバ長官ノ不任ヲモ責ムベシ、又其任ニ代ルモ佳ナル可キニ、其此ニ及バザル、是レマタ何ノ故ナル事ヲ知ラズ、何ニシテモ、方術ノ治源トモ、祖宗トモ尊信スベキハ、タダ丹家ニ在リ、然ルニ今小森錦小路、 多紀( ○○) ト、各ソノ名ヲ異ニシ、其家ヲ別ニストイヘドモ、其本一ナルトキハ、天下ノ醫級ヲ辨正シ、天下ノ醫弊ヲ矯揉スルハ、二家ノ免ルベキニ非ラズ、凡ソ天下ノ醫生タラン者ハ、長官ノ試課ヲ經ルニ非レバ、匙ヲ執ルコトヲ許サザルヲ以テ常規トモスベキハズノ事ナルニ、近來ハ長官ノ不任ニ因テ、醫式モ醫級モ頽壞シテ、試課モマタ廢セリ、洛醫ノ衰敗モ亦察スルニ足レリ、
p.0760 安栖( ○○)
丹波康賴者、志拏直五世之孫、始賜二丹波宿禰一、丹家醫流之祖、始被レ聽二昇殿一、其子成雅、其次仲政、其次道廣、此間家計斷絶、世々住二丹波一、後到二京師一住二千本一、到二長元一 世俗號二千本典藥一( ○○○○○○○) 、其子長淸、其次宗圓、其子長久、其次長慶、其子長昌、其次宗仙、會應二北條早雲之招一始赴二關東一、其子長榮、其次長傳始仕二家康公一、其子正玉、其次號二安栖一、又稱二養岳一、叙二法印一、一說其家系出レ自二坂上田村丸之後一、故氏稱二 田村一( ○○) 云々、子孫到二于今一、
p.0761 典藥頭
從五位下諸大夫なり、御三代之頃は、 半井( ○○) 驢庵、 今大路( ○○○) 道三、何れも醫術に逹したり、〈○中略〉此家は、京都より來りたる家にて、幼年なれば、寄合醫師の列に入りて、家業を習熟す、
p.0761 和氣氏〈○中略〉
明英 明親之子也、叙二正三位一任二宮内少輔一、兼二修理大夫一、被レ聽二院内昇殿一、剃髪號二壽林一、自號二閑嘯軒一、且半井之稱始二于明英一、
p.0761 京烏丸北正親町北、今の施藥院の地に、半井宅有、大なる井有、半を製藥の料に用ひ、半を雜用に充ふ、因て半井と稱す、
p.0761 至賤中有二殊常功一談義
昔元和年中、雲上の御歴々、御産の御難產にて澀滯せさせたまひけるに、曲直瀨何がし伏龍肝を進じて、立所に御產平らか成しかば、此賞によりて、曲直瀕を改て、別に家名をたまはりしとなり、雲上の御歴々にてましませば、關東よりは、道三家、玄朔玄鑑父子、半井家、久志本家、其外名ある御醫者、〈○中略〉會合の中に、曲直瀨衆醫を抽で、父玄朔にも憚ず、伏龍肝と申上けるは、まことに獨歩の才、醫中の龍とも云べし、
p.0761 上池院( ○○○)
其先出レ自二源賴光五世之孫充角一、充角號二坂三郎一、産二于和州一、其後家系斷絕、而後有二九佛一嗣レ焉、
九佛
九佛、和州人也、始遷二洛陽一、專施二醫術一、
十佛
十佛者、九佛之子也、博學多聞、而療二養蒼生一、光明帝使レ任二民部卿法印一、又以二倭歌一鳴二于世一、等持院仁山相公、恩遇特渥、曾爲二相公一、講二萬葉集一、平日侍二左右一、診レ脈獻レ藥、士佛
士佛者、十佛之子也、諱慧勇、號二徤叟一、醫術通二神妙一、後光嚴院、後圓融院、後小松院三朝相續賜二聖詔一、被レ號二上池院一、且扁二其居一、又叙二民部卿法印一、曾侍二寶篋院〈○足利義詮〉鹿苑院、〈○足利義滿〉勝定院〈○足利義持〉三相公一、特爲二鹿苑相公一、所二寵遇一、相公呼レ彼稱二士佛一、以二士字從レ十從一レ一、而亞二十佛一之謂也、
p.0762 永享七年二月九日、醫師板坂、自二公方一召給了、脈無二殊儀一瘻膿血出事ハ不レ可レ然云々、
p.0762 鍼灸資生經跋
本朝官醫蓋有二數家一、 板坂氏( ○○○) 其一也、曾自レ洛赴二甲陽一、其箕裘ト齋如春叟、久爲二東照大神君侍醫一、大神君施二仁政于邦家一、躋二黎民於壽域一之暇、據二和劑局方一而製二良藥一、其炮炙㕮咀之法、ト齋毎預二修治一焉、故其視二庸醫一猶如三大官厨之視二賣餅家一也歟、
p.0762 竹田( ○○)
相傳、九條右丞相師輔公之子、閑院太政大臣公季、號二仁義公一、公季八世之裔公經、號二一條相國一、被レ聽二牛車兵仗一、其子竹田淸水谷中納言公定、十四代之孫昌慶稱二山城守一、始學二醫術一、
p.0762 蓋延壽類要、即官醫法印、今之竹田公豐十一世之祖、淸水谷黄門侍郎公定卿六世之孫、前山城守安國公昌慶之孫、善慶之子、所レ謂昭慶法印者、所レ著書也、昭慶後避二大樹慶雲院〈○足利義勝〉之諱一而改二名定盛一、博聞強記而有二才藝一、應仁二年戊子、左相府義政公疾篤、衆醫奏二不治一、乃命二劑於昭慶一、不日 而安、相公奏一聞其術於帝一也、便賜以二法印一昭慶之後定祐、定珪、定加、季慶、定宣、定勝、定快、公美、公道、而今之公豐、承二公道一而相繼、皆血脈綿續、世々任二法印一云、公豐字謙豫、醫學明辨也、爰天明丙午之秋、校二訂其延壽類要一、始而卒二業於其翌歲彊圉協洽之仲春一、顧者其於二醫道一豈不二大勳勞一哉、〈○中略〉天明七年丁未之歲春三月
賜任從五位下大和守典藥頭和氣朝臣成美君人撰書二于卿雲之僊館一
p.0763 夫竹田定加、法名光英、別號曰二雄譽一、其先攝家九條右丞相公季裔流、淸水谷竹田中納言公定卿礬弟明室淨眼法印者、公鼻祖、而志レ醫未レ解二其疑團一、以レ故應安二歲在己酉入二大明一謁二金翁道士一學レ醫、道士感下激不レ遠二萬里一之志上、而醫家之群書妙訣、牛黄圓等之秘方、皆以敎レ之、加之道士有二一女子一、嫁焉得二二子一、洪武間、大明皇后難產近レ死、以二一針一得レ活、而誕二皇子一、帝樹二其功一賜二安國公封一、永和第四戊午、棹二一葉扁舟一、載二得大唐醫家之秘訣一、歸二吾朝一矣、其令孫禱二于北野菅神一誕二一子一、乃快翁宗俊是也、學渉二諸藝一、名列二十科一、累代醫術連綿相承、故乃父了光法印、臨二末後一手自書曰、定加亦當二其器一矣、鍼灸磨藥、療病諸、一々無レ殘二於秘奥一傳レ之、良有レ以公一顧二於衆病如二湯雪一而莫レ不レ治、可レ謂下不レ墜二父祖遺緖一者上也、〈○中略〉
慶長三歲在己戊八月如意殊日 前禪興北川正五
p.0763 久志本( ○○○)
其祖出レ自二天叢雲命一、是天孫陪侍之神也、其八世曰二乙若子命一、爲二伊勢太神主一累世掌二其職一、末裔石部季光、長德年中叙二從五位上一、後一條院寵遇特渥、寬仁元年勅賜二度會姓一以改二石部一、其會孫常任以下除二禁忌一之藥上 爲二神宮之醫一( ○○○○○) 、始號二久志本一、以三度會郡有二久志本一也、子孫相續爲二神職一被二叙位一、且事二醫術一、
p.0763 吉田氏( ○○○)吉田德春、〈號二仁庵一〉本姓佐々木、曾祖嚴秀、食二邑於吉田一、因爲レ氏、德春以レ醫仕二室町幕府一、叙二法印一、晩年致仕居二 嵯峨角倉一、故子孫或 氏二角倉一( ○○○) 、子宗林襲レ職、叙二宮内卿法印一、子宗忠〈號二濟舟一〉子宗桂〈號二靖節一〉最能辨二藥性一、世人稱曰二日華子一、天文中與二僧策彦一遊二于明一者再、治二明主世宗病一、及レ歸世宗賜以二顏輝扁鵲圖、聖濟總録、及藥笥等一、明人欽二其術一、會號曰二意庵一、取二諸醫意之義一云、故後又通二稱意庵一、叙二宮内卿法印一、子宗恂、襲二稱意庵一、〈號二又玄子一〉嗜レ學、與二藤原肅一友善、仕二豐臣秀次一、叙二法印一、後陽成帝弗豫、上レ藥奏レ効、因勅改二稱意安一、進二民部卿法印一、後謁二神祖一、賜二祿五百石一、〈○中略〉又命製二紫雪一、於レ是、恩遇異二于他一、毎歲賜二藥石及金銀衣服不貲一、子宗逹後改二吉晧一、襲二稱意安一、叙二法眼一、亦精二藥性一、台廟時數療二篤疾一、輙有二成蹟一、
p.0764 醫師
家繼( 深根、侍醫、) 高宗( 葛城、侍醫、) 善綱( 菅原、侍醫、) 行貞( 菅原善綱子) 利名( 宮頭) 道救( 菅原善綱弟子) 忠末( 宮利名弟子) 輔仁( 深根宗繼二男) 行仁( 菅原) 有道( 頭伴) 爲名( 菅原道救子) 滋秀( 茨田茂綱弟子) 康賴( 丹波忠末弟子) 三光( 菅原) 重雅( 丹波康賴三子) 正世( 和氣爲名弟子) 淸雅( 丹波、侍醫、) 相法( 和氣正世男) 忠明( 丹波重雅男) 相成( 和氣正世男) 典雅( 菅原) 爲茂( 丹波) 雅忠( 丹波) 俊通( 惟宗) 相秀( 和氣相法男) 爲淸( 丹波) 重康( 同頭) 時雨( 和氣) 雅康( 丹波忠祚子、大小心不審也、)
p.0764 典藥頭 紀國守( ○○○) 、〈中納言長谷雄卿祖父〉春宮御腹病之時、令レ合二芒消黑丸一、兼申云、此御藥服御後可下令二惱亂一給上、然而遂可レ有二其驗一云々、聞食之後令二悶絶一給、依レ之被レ下二國守身於帶刀陣一、帶刀等拔レ劍、宮崩給ハ可レ指二殺國守之身一云々、次宮平安、御腹病永愈云々、後日國守謂云、宮若御命終者、國守不レ可レ存歟トテ止二醫道一畢、 於二子孫一永不レ傳二其道一( ○○○○○○○○) 云々、
p.0764 承和九年三月癸卯、右京人侍醫外從五位下紀臣國守、弟從八位上同姓兼守等三人、改二臣字一賜二朝臣一、
p.0764 嘉祥三年三月己亥、 帝( ○) 崩二於淸凉殿、〈○中略〉 癸卯、奉二葬天皇於山城國紀伊郡深草山陵一、〈○中略〉帝叡悊聦明、苞二綜衆藝一、〈○中略〉留二醫術一、盡諳二方經一、當時名醫不二敢抗論一、帝嘗縦容謂二侍臣一曰、朕年甫七齡、得二腹結病一也、八歲得二臍下絞痛之痾一、尋患二頭風一、加二元服一後、三年得二胸病一、其病之爲レ體也、初似二心痛一、稍如二錐刺一、終以增長、如二刀割一、於レ是服二七氣丸紫苑生薑等湯一、初如レ有レ功、而後雖二重劑一不二曾効驗一、冷泉聖皇 憂レ之、勅曰、予昔亦得二此病一、衆方不レ効、欲レ服二金液丹并白石英一、衆醫禁レ之不レ許、予猶強服、遂得二疾愈一、今聞レ所レ患、非二藥之可一レ治、可レ服二金液丹一、若詢二諸俗醫毉等一、必駮論不レ肯、宜下喚二海淡海子一細論問、隨二其言說一服上レ之、虔奉二勅旨一、服二玆丹藥一、果得二効驗一、兼爲二救解古發二設自治之法一、世絶二良醫一、倉卒之變可レ畏故也、今至二晩節一熱發、多變救解有レ煩、世人未レ知二朕躬之本病、上皇之勅旨一、必謂妄服二丹藥一、兼絶二自治一而敗焉、宜下記二由來一令上レ免二此搒一、恭遵二詔旨一記而載レ之、帝從二少小一聖體尫羸然而屓扆之年既登二十八一、仙齡之算亦踰二四十一、求二諸中古一、應レ无レ慙レ德、蓋由二修善行仁、服食補養之力一者歟、
p.0765 仁壽三年六月辛酉、侍醫外從五位下 菅原朝臣梶成( ○○○○○○) 卒、梶成右京人也、葉練二醫術一、最解二處療一承和元年從二聘唐使一渡海、朝廷以二梶成明二逹醫經一、令三其請二問疑義一、五年春解レ纜著二於唐岸一、六年夏歸二本朝一路遭二狂飈一、漂二落南海一、風浪緊急鼓二舶艫一、俄而雷電霹靂、桅子摧破、天晝黑暗、失二路東西一、須叟寄著、不レ知二何島一、有二賊類一、傷二害數人一、梶成殊祈二願佛神一、儻得二全濟一、與二判官良岑長松等一合レ力、即採二集破舶材木一、造二一船一共載、爾時便風引レ舶得レ著二此岸一、朝廷喜二其誠節一、十年爲二鍼博士一、次爲二侍醫一、卒二於官一、
p.0765 貞觀二年十月三日己卯、正五位下行典藥正兼侍醫參河權守 物部朝臣廣泉( ○○○○○○) 卒、廣泉者左京人也、本伊豫國風早郡、姓物部首、後隷二京兆一、賜二姓朝臣一、廣泉少學二醫術一、多見二方書一、天長四年爲二醫博士兼典藥允一、遷爲二侍醫一、〈○中略〉廣泉藥石之道當時獨歩、齡至二老境一、鬚眉皎白、皮膚悅澤、體氣猶强、卒時七十六、撰二 攝養要決( ○○○○) 廿卷一行二於世一矣、 十二月廿九日甲戌、從五位下行内藥正 大神朝臣庸主( ○○○○○○) 卒、庸主者右京人也、自言大三輪大田々根子之後、庸主奉二姓神直一、成名之後賜二姓大神朝臣一、幼而俊辨、受二學醫道一、針藥之術殆究二其奥一、承和二年爲二左近衞醫師一、遷二侍醫一、從五年授二外從五位下一、兼二參河掾一、後遷兼二備後掾一、三年授二從五位下一、貞觀二年拜二内藥正一、卒時六十三、庸主性好二戯謔一最爲二滑稽一、與レ人言談、必以二對事一、嘗出レ自二禁中一向下作二地黄煎一之處上、途逢二友人一問云、向二何處一去、庸主答云、奉二天皇命一向二地黄處一、此其類也、然處治多一レ効、人皆要引、療レ病之工、廣泉沒後、庸主繼レ塵、太收二聲價一焉、
p.0766 貞觀八年九月廿二日甲子、從五位上行肥後守 紀朝臣夏井( ○○○○○) 配二土佐國一〈○中略〉夏井者左京人、美濃守從四位下善岑之第三子也、〈○中略〉閑二醫藥之道一、配二土佐一之後、自往二山澤一採レ藥合練、以施レ民、民多得二其驗一、嘗有二一人一、中風被狂走、夏井與二一匕散藥一、以令レ服レ之、此人立瘉、皆此之類也、
p.0766 貞觀十二年三月卅日壬午、散位從五位上 菅原朝臣峯嗣( ○○○○○○) 卒、峯嗣者左京人也、父 出雲朝臣廣貞( ○○○○○○) 、長二於醫師一、官爲二正五位下信濃權守一、淳和太上天皇龍潜之日、令下峯嗣侍中春宮藩邸上、峯嗣自申請欲レ繼二家業一、仍補二醫得業生一、自レ此而始、峯嗣奉試及第、弘仁十三年叙二左兵衞醫師一、十四年遷博士一、天長四年兼二内藥佐一、七年兼二侍醫一、八年兼二攝津大目一、是年讓二醫博士於物部廣泉一、十年爲二春宮坊主膳正一、内藥佐侍醫攝津大目並如レ故、承和二年授二從五位下一、淳和太上天皇思二在藩之舊一、以二峯嗣一爲二侍者一、寵遇優渥、頗超二傍人一、四年爲二尾張權介一、六年遷爲二美濃權介一、不レ之レ官、嘉祥二年爲二越後守一、峯嗣侍二淳和院一、奉二太后御藥湯方子之事一、由レ是遷爲二播磨介一、以レ近レ都亦優二其身一也、仁壽元年加二從五位上一、天安二年爲二典藥頭一、貞觀五年自謝レ老、出爲二攝津權守一、退二居豐島郡山莊一、灌レ藥養レ性、不レ交二流俗一、十年改二出雲姓一爲二菅原一、以二土師出雲同祖一也、卒時年七十八、峯嗣不レ墜二處治一必効、嘗奉レ勅、與二諸名醫一共撰二定金蘭方一、又針艾之所レ加多方注之外、後進之備至レ今稱レ妙焉、
p.0766 一條天皇者、圓融院之子也、〈○中略〉時之得レ人也、於レ斯爲レ盛、〈○中略〉醫方則 丹波重雅( ○○○○) 、 和氣正世( ○○○○) 、〈○中略〉皆是天下之一物也、
p.0766 御堂關白殿御物忌に、解脱寺僧正觀修、陰陽師晴明、 醫師忠明( ○○○○) 、武士義家朝臣參籠して侍けるに、五月一日南都より早瓜を奉たりけるに、御物忌の中に取入られん事いかがあるべきとて、晴明にうらなはせられければ、晴明うらなひて、一つの瓜に毒氣さぶらふよしを申て、一をとり出したり、〈○中略〉忠明に毒氣治すべきよし仰られば、瓜を取まはしまはし見て、二所に針を立てけり、義家に仰て瓜をわらせられければ、腰刀をぬきてわりたれば、中に小蛇わだかまりて 有けり、針は蛇の左右の眼に立たりけり、〈○中略〉名をえたる人々のふるまひかくのごとし、ゆゝしかりける事也、
p.0767 惟宗( ○○) 氏〈○中略〉
惟宗氏、本姓秦、始皇十二世孫、功滿王之後也、有二公直者一、賜二姓惟宗朝臣一、子孫因以爲レ族、數世曰二 俊雅( ○○) 一、從二丹波忠明一學レ醫、爲二近江掾一、子俊通有二才學一、深造二醫理一、擢二侍醫醫博士一、博士之職、和丹二氏遞掌レ之、他人弗レ獲レ與焉、而俊通特任レ之、蓋異數云、
p.0767 宇佐大宮司なにがしとかや、癩病をうけたる由聞へ有て、一門の者共、改補せらるべきよし訴へ申ければ、大宮司はせのぼりて、醫師にみせられて、實否をさだめらるべきよし奏し侍ければ、和氣丹波のむねとあるともがらに御尋有けり、 中原貞説( ○○○○) も、おなじく召に應じて、御尋に預りけり、各 白( びやく) らいといふ病のよしを奏しけり、療治すべきよしの勘文奉るべきよし仰下されければ、めん〳〵に罷出で、しるして參らすべき由申けるに貞説申けるは、非二重代一の身にて、一卷の文書のたくはへなし、知りて侍る程の事は、當座にて考申べしとて、則しるし申けり、もろもろの醫書共、皆悉く引のせて、ゆヽしく注申たりければ、叡感有て、申うくるに隨て、和氣の姓を給はせける、後には諸陵正に成て、子孫いまにたへず、
p.0767 建久七年〈○正治元年〉三月十二日甲辰、姫君追レ日憔悴御、依レ之爲レ奉レ加二療治一、被レ召二針博士 丹波時長一( ○○○○)之處、頻固辭、敢不レ應レ仰、件時長、當世有二名醫譽一之間、重有二沙汰一、今日被レ差二上專使一、猶以令レ申レ障者、可レ奏二逹子細於仙洞一之旨、被レ仰二在京御家人等一云云、
p.0767 建仁元年七月十八日丙寅、今日 典藥頭賴道朝臣( ○○○○○○○) 死去、當世之扁鵲也、於二業病一者法藥猶無レ驗、況乎醫病歟可レ惜々々、
p.0767 扁鵲〈周末戰國時名醫也、史記云、扁鵲、姓秦、名越人、桑君以二禁方一傳レ之云々、〉 ○按ズルニ、扁鵲ノ傳ハ、診脈條ニ引ク史記ニ記ニ詳ナリ、
p.0768 竹田〈○中略〉
昌慶( ○○) 昌慶始稱二山城守一〈天性勇武、眼有二重瞳一、〉後光嚴院時、有レ「故配ニ干關東一、然後學レ儒讀レ書、剃髮自號二實乘僧都一、又嗜二醫術一、應安二年己酉卅二歳而入二大明一、見二金翁動士一、受醫家群書及牛黄圓等之秘法妙訣一、改二昌慶一號二明室一、且道士有二一女一妻レ之、遂産二二子一、明朝洪武年、大明皇后難産殆レ死、干レ時昌慶應レ勅、獻藥一劑、而皇子降誕矣、帝賞二其功一、封稱二安國公一、本朝永和四年戊午、戴二得大明醫家秘訣、及銅人形等一歸二本朝一〈○中略〉、 昭慶( ○○) 昭慶者昌慶之季子也、自號二快翁一、長祿二年治二大聖院之病惱一、依レ此叙二法眼一、應仁二年療二慈政院義政公之恙一、依レ之叙法印一、文明十九年避二御諱字一、改二慶字一名二定盛一博學多聞長二諸藝一、世稱二十能人一有二七男三女一、釋横川京華集載二昭慶壽像賛一其略曰、昔爾祖封二千戸万戸侯一、游二於中華一、親見二朝天子一、今吾公襲二四品五爵一出二於扶桑一、特奉二日本國王一華胄傳二藤原姓一菜邑食二竹田莊一〈云云〉、又日、法印竹田家藏二鄴尾硯一、乞二其銘於横川一銘曰、在レ倭在レ漢、一瓦千年、與レ硯同レ壽、太醫竹田〈云云〉、愚按、竹田昭慶、長祿應仁年中之人、而與二横川一同レ時、然則鄴瓦硯藏主法印竹田、亦是恐謂二昭慶一乎、
p.0768 和氣氏〈○中略〉
明親( ○○) 利長之子也、又名眞長、剃髮號二澄玄一、自號二蘭軒一、足利家賜二春字一稱二春蘭軒一永正年中 入二大明一( ○○○) 見二皇帝一而獻レ藥、又與二明人梅崖一親締レ交、明親歸二本朝一、梅崖慕二其爲一レ人、憑二海舶之便一、以時時通二書信一云云、
p.0768 一杭州錢唐縣ノ人、僧ノ 月湖( ○○) 、歸化シテ命ニ依テ鎌倉ノ圓覺寺ニ住ス、丹溪流ノ聖醫也、弟子明監寺、其傳ヲ受テ、其弟子江春庵助書記ニ傳フ、江春庵、又其弟子玉鼎ニ傳フ、玉鼎、其長子頣主軒、及ビ二男三喜、及ビ德本ニ傳フ、然レドモ德本、其初メ出羽國殘夢ノ弟子トナル、故ニ別ニ仙方神術多シト云、
p.0768 中世醫師 古河三喜( ○○○○) 道導、諱三喜、範翁ト號シ、又支山人ト號ス、寬正六年武藏河越ニ産ス及デ、 大明ニ入( ○○○○) 、留居十二年、東垣丹溪ノ術ヲ學ビ、遂に醫方書ヲ携テ本朝ニ歸リ、蒼生ヲ救療ス、然ルニ享祿四年 曲直瀨( マナゼ) 道三來テ、方書ヲ窺ヒ、醫術ヲ傳フト云、著處ノ書、三喜直指篇三卷、天文醫案アリ、
p.0769 導直
導道( ○○) 、諱三喜、自號二範翁一又稱二支山人一、寬正六年四月八日産二於武州河越一、及二中年一入二干大明一、留居十有二年、學二東垣丹溪ノ術一、携二醫家之方書一、歸二干本朝一救二療蒼生一、其全活之功不レ爲レ不レ多矣、天文六年二月十九日、七十三歳而卒、
p.0769 三喜〈月湖〉
僧三喜稱二導道、〈號二支山人、又範翁一、〉河越人、姓田代父兼綱、冠者信綱之後也、初入二妙心寺一參レ禪、又就二足利校主利陽一學レ醫、後入レ明受二李果朱震亨之術於月湖及恒德孫一、留學十二年、業成而反、居二鎌倉江春庵一、又居二下總古河一、世稱二古河三喜一、子孫傳二其業一、襲二稱田代江春一、月湖、〈稱二明監寺一、又號二潤德齋一、〉不知二何人一、求レ法入レ明、寓二于錢塘一、以レ醫行、明景泰三年、著二全九集一、六年又著二濟陰方一、
p.0769 中世醫士
吉田宗桂( ○○○○) 〈天文中人〉稱二意安一、天文中大明ニ遊ビ、大明主ニ藥ヲ進メ、醫名ヲ異域ニ著ス、歸朝後、令名彌彰レ、自ラ一家ヲナシ、子孫世々意安ヲ以テ號トス、
p.0769 吉田( ○○) 〈○中略〉
宗桂( ○○) 宗桂稱二意安一、以醫術一大有レ聞、陳日華宋開寶中撰二諸家本草一、能分二寒温一、辨二性味一、宗桂亦能辨二知倭藥一、故世人以二日華子一稱レ之、遂自以爲二別號一、天文八年伴二入明使僧天龍寺策彦一而赴二大明一、明人以三宗桂之診治有二神察一呼稱二意安一、蓋取二醫者意也之義一也梅崖書二-稱意之二大字一以贈レ焉、同十六年與二使僧策彦一再遊二大明一、于レ時獻二藥於大明皇帝一著二醫名於異域一、而携二方書一歸二本朝一、爾後令名彌彰、自成二一家子孫世世以二 意安一爲レ號、元龜三年十月二十日死、
p.0770 德本翁傳 德本( ○○) 翁、 長田( ○○) 氏、號二知足齋、德本蓋其諱也、三河州大濱村人、其不レ詳レ所レ出、翁爲レ人恬澹、寒窶自甘、不レ欽二慕勢利一周二遊四方一、去就任レ意、大永享祿間、遊二乎甲斐州一以レ醫爲レ客二于武田信虎一、翁之爲レ醫也、超二逸李朱一、而并驅二秦張一、峻劑毒藥、機宜不レ誤、攻擊瞑眩、不レ避二世諠一、是以富貴膏梁之家、往々多二忌懼者一而却見レ允二於山野樸質之民一、故居處不レ厭二僻陋一、天文年中、去之二信濃州一、諏訪郡東堀村居焉、天正之亂、武田氏亡後、再還二甲斐州一、自構二草廬一、號曰二茅菴一、出則頸掛二藥囊一、斜踞二牛背一、逍遙自適、馮二陵富貴一憫二恤貧賤一、雖三偶應二權豪之招一、取二藥價一不レ過二十八錢一、蓋欲レ矯下世醫之務赴二勢利一者上也、寬永初、台廟不豫、百万無レ驗、官醫今大路氏勤二翁之診治一、因命召レ翁、翁時年百十有餘、乃掛レ囊踞レ牛、躍躒而到二于東都一、一診便欲レ上二峻劑一、衆醫不レ肯、翁因詳辨二其可否一、台廟信而服レ之、數日奏レ効、賞賜尤厚、翁固辭不レ受、臨レ歸乞二藥價數十錢於政府一、於レ是、翁聲名聞二逹四方遐陬一、無レ幾復徙二信濃州故居一自養、寬永七年午春二月十四日卒、年百十有八、有レ男稱二長田孫兵衞一、嗣レ世、門人數十人、受二其禁方書一者僅二人、馬場德寬、今井德山其人云、〈○中略〉樂只齋和久田寅謹識
p.0770 長田德本翁、獨明二三才之理一能曉二醫術之要一考二法於古一驗二術於今一能超レ唐乘レ晉、獨入二扁張之神域一卓然別立二一家言於大東一、不レ謂二豪傑之士一釆、其爲レ術奇異傀僻、雖レ加二攻擊一、然西洋醫術、麻藥汞劑未レ闢之前、蚤既開二一大活眼一、與二中古五毒之方一、以起二沈痼發疾一者幾千人、于嗟乎亦奇哉、予祖父中村靜翁先生、伊豆下田之人也、嘗游二甲斐一、得二德本遺方一篇於市川南屏一、先生驗二之於鄕里篤癃奇患一應レ手而起矣、後傳二之壻篠田化齋先生、一先生傳二之予朋友門人常見籍一焉、以奏二奇効一、各寫而傳レ之、顧翁之此方、峻劑毒藥、譬三之於劒中有二干將莫耶一分量診法不レ得二其法一則一匙之差或有二不レ可レ救者一矣、故不三敢傳二於浮氣粗心之人一、然竊恐三傳播之廣益到二謬誤一、遂刻二之於家塾一見者能明二三才之理一逹二病機之變一精診熟察、以 用二此方一、則於二生々之術一、庶幾有レ得二軒岐不傳之秘一者耶、
于レ時嘉永二年歳次己酉春二月中浣 平戸新田醫員 齋藤貴泰玄識
p.0771 名醫德本の奇事
世に名高き甲斐の德本は、和漢古今に珍しき恬澹の人なり〈○中略〉、大永享祿年間は、甲斐の州に遊び、醫道を以て、武田信虎の家に爲レ客、仰德本翁の醫術は即功を專とし、其療治いさヽか烈しきに似たり、然ば病に依て、峻劑、毒藥、機宜不レ誤、功擊瞑眩、不レ避二世誼〈○註略〉、是を以て、富貴なる輩は、俗諺の如く、古方家と忌怖れて信ぜず、却て山野樸質の民に尊信せられ、殊に貧しきを憐みて、療養を信切にし、居所の惡きを厭はず、天文年中には、甲州を去て、信濃國諏訪郡東堀村に住し、天正の亂に、武田氏亡て後、再甲州に還り、自ら草廬を構、號て茅菴といふ、
p.0771 板坂氏
板坂宗頓、近江坂本人、以レ醫爲レ業、子 宗德( ○○) 稱二三位、〈號二大歇、又湖隱一、〉爲レ人豪縱、而視レ疾入レ神、寬正三年、大内敎弘、在二伊豫一疾、將軍憂レ之、廣撰二良醫一、宗德當レ選而往、時人榮レ之、子維順徙二于京師一、擢二御醫一叙二法印一子備後入道、子宗高通稱 ト齋( ○○) 、幼入二東福寺一爲レ僧、武田晴信知而惜レ之勸而還俗、承二繼家業一、宗高後遂仕二武田氏一、永祿戊辰秋、晴信有レ病、宗高診曰、徴恙似レ不レ足レ患、然數年後必發、發則不レ可レ爲、請早計レ之、晴信不レ可、果如二其言一、〈 板坂宗慶( ○○○○) 、著二家珍方一、 板坂釣( ○○○) 閑( ○) 著二家傳小兒方一、疑皆同族、}
p.0771 和氣( ○○) 氏〈○中略〉
利長( ○○) 明重之子也、叙二從五位下一任二刑部少輔一、剃髮號二道三一、實明重之門生也、然以レ精二醫業一、廢二己子一以爲二嫡子一、和家之醫術再盛行、永正四年正月五日以レ病卒〈○中略〉、
吉田( ○○) 〈○中略〉
宗恂( ○○) 宗恂者宗桂之二男也、號二意安一又稱二又玄子一繼二父業一叙二法眼位一、醫名彰聞、且慕二經學一與二藤歛夫一友 善、曾仕事二豊臣秀次公一賜二采地一、家二洛下一、後被レ召奉レ謁二家康公一常獻レ藥、甚沐二恩渥一、且於二城州一賜二食邑五百石一、一日異域獻二珊瑚枝一、時無二識レ之者一、家康公手摸二其形一召二諸醫一、問二其名一、衆醫不レ能レ辨レ之、宗恂曰、恐是珊瑚枝也家康公益問二其事實一、宗恂詳答三其所レ出及所二以採一レ之、家康公感レ之、即以二所レ獻之珊瑚枝一個一賜二宗恂一、凡毎歳賜二藥石及金銀衣服等一、不レ可二勝計一也、家康公令下宗恂修中製紫雪上、乃據二和劑局方一以調レ之、而後他醫亦効二其製法、一日蠻舶貢二薄石一尺餘一、状如二側柏一、熟視則似二木賊柏葉相連綴者一、家康公異レ之、以問二諸醫一皆不レ知レ之、宗恂曰、蓋是栢枝瑪瑙花乎、考二之本草一果相似也、宗恂奉レ命、與二諸醫一隔レ歳輪二直于江戸一、其後常陪二侍于駿府一矣、慶長十五年四月十七日卒、年五十三、所レ著之書有二素問講義、難經註疏、〈四册〉醫經小學、〈十二册〉纂類本草、〈二十册〉名醫傳略、古今醫案一、又曾作二運氣諸論圖、及樞要圖、漏刻圖等一、
p.0772 道三
道三( ○○) 、氏曲直瀨、字一溪、自號二雖知苦齋一、其先世居二洛陽一、一溪以二永正四年九月十八日一生二於洛陽一、十歳入二相國禪寺藏集軒一爲二喝食一、號二等皓一、讀二東坡山谷等詩集一悉諳レ之、二十二歳而赴二關東足利之學校一、師二事文伯一以學二群書一、享祿四年、始見二導道一、以窺二方書之要旨一、明二醫術之奧義一、諸方之可否、藥石之能毒、盡無レ不二辨知一焉、業既成、天文十四年歸二洛陽一、十五年遂遁二浮屠一、謁二光源院義輝公一、寵遇殊渥、且細川勝元、三好修理、及松永霜臺等厚遇レ之、診治之功逐レ日益多、〈○中略〉、凡本朝中世之醫家、一號二 半井家一( ○○○) 、一號二 道三家一( ○○○) 、到二于今一不レ乏二其人一矣、養安院正琳、壽命院德澗、施藥院全宗等亦此門生也、慶長十三年四月四日、依二後陽成院之勅一以被レ叙二法印位一、
p.0772 典藥頭
道三( ○○) 〈○今大路〉は、醫術を以、天地一般之理を悟りて、遠州の旅館にて、津波の興るを悟る、今切是也、拜領屋敷、常盤橋のうちに有、されば登城のために橋をかける、今の道三橋これなり、兩家に陰陽の匕あり、正月は屠蘇散、度障散、屠蘇白散、神明白散、膏藥を獻ず、是は弘仁之天子へ差上たる法にして、 弘仁格式に出す、膏藥をとうやくと唱ふ、天子三日には御額へ點ぜらる、此屠蘇散を絳之袋に入て、五色之糸にて口を括り、長柄の銚子に渡す〈○下略〉、
p.0773 養安院( ○○○)
正琳( ○○) 玉翁、山城州人也、自レ幼學二醫術師二一溪道三一、溪以二其器不一レ凡、授二曲直瀨氏一、且養二玄朔之嫡女二、爲二己子一以妻レ之、而傳二醫術之樞要一、天正十三年、見二於豐臣秀吉公一、仕二秀次公一、曾謁二家康公及秀忠公一、文祿元年、正親町院弗豫、獻レ藥復レ本、因叙二法印一、同四年、中納言宇喜多秀家卿之内室、并豊臣秀吉公女患二怪疾一、諸醫治レ之不レ驗、正琳獻レ藥而立痊、秀吉公悅レ之賜二綿衣并金銀一、秀家卿自二朝鮮一携來之書籍悉畀レ之、慶長五年、後陽成院弗豫、獻藥有二效驗一、叡感之餘賜二養安院之稱號一同十年、依二家康公之命一赴二江戸一、蒙二眷顧一、同十三年、與二道三驢菴施藥院一輪二直于乏江城一、而仕二秀忠公一、然有二耿閑之癖一、遂讓二俸於嫡子正圓一、以退二居別莊一、同十六年、四十七歳而沒、
p.0773 玄朔( ○○)
玄朔字道三、稱二東井一、又號二延壽院一城州之産、而一溪之姪孫也、幼失二父母一故一溪養而爲二己子一及レ長而精二醫術一天正十年春三月、正親町院弗豫、玄朔治レ之有レ効、因被レ叙二法眼一、同十四年十二月轉二法印一、同十六年、豊臣秀吉公賜二五百石采地於城州一、慶長三年九月、後陽成院弗豫、諸醫措レ手、玄朔獻レ藥而立愈、叡感殊深、依賜二黄金之花瓶一、寬永五年十二月、奉二秀忠公之嚴命一著二素絹一寬永八年十二月十日、於二武州江戸一卒、年八十三歳葬二淺草祥雲寺一、曾所レ選之方書數部、今行二于世一者若干、本邦近世之大醫家、多出レ自二于此門一、啓迪院法印玄治、壽昌印法印玄琢等之類皆是也、
p.0773 曲瀨翠竹院〈○中略〉
正紹初稱二玄玄朔一天正初奉レ勅受二父稱道三〈號二東井一〉本姓某、正慶甥也〈○中略〉正紹亦喜敎二導生徒一出二其門一者名皆 用二玄字一( ○○○) 、未流別支終遍二海内一至レ今醫名稱レ玄、猶二浮圖曰一レ釋、亦可二以驗二其盛一也、
p.0774 親純( ○○)
親純者玄朔之子也、初稱二兵部大輔一、後陽成院御宇、文祿元年二月廿八日叙二從五位下一、任二典藥助一、且 改二曲直瀨一( ○○○○) 、 賜今大路稱號一( ○○○○○○) 、于レ時年十六、剃髮號二道三一、諱玄鑑、字龜溪、慶長四年十二月廿八日叙二法眼一、同十三年四月轉二法印一、東福門難産殆危、百藥、不レ應、衆醫術盡矣、玄鑑診レ脈獻レ藥、一貼而得二安産一、秀忠公大感レ之賜二小刀一、寬永三年、秀忠公入洛、玄鑑從二台駕一到二京師一、玄鑑罹レ病、同九月、崇源院病惱、〈崇源院者、源家光公之母堂也〉、告二急於京師一、秀忠公使下玄朔赴中江戸上、玄鑑與レ疾以レ夜繼レ日、已到相州箱根山一病大發而遂沒二于湯本一、時年五十歳、葬二湯本早雲寺一、瓜瓞綿綿到二于今一、
p.0774 寬文五年七月二十五日、今日辰刻、 原田休伯法眼( ○○○○○○) 卒、此仁ハ年來、余ニ無二他事一出入之者也、殊醫術當世無二匹儔一間、予年來藥令二服用一畢、
p.0774 養壽院法印( ○○○○○) 山脇先生墓誌銘〈在二洛南深草里眞宗寺一、〉先生、姓橘、氏山脇、諱玄心、字道作、相傳、其先河内楠氏之族、中世徙二居江州山脅邑一因以爲レ氏云、〈○中略〉元和庚庚申、有詔診二視中和皇后一進二御藥一有二奇効一官醫曲直瀨玄由薦レ之爲二侍醫一、以賜二官祿一實先生二十有七歳也、間二兩歳一賜二醫官一、稍遷轉、寬永癸未、遂叙二法印一、明年勅賜二院號一曰二養壽院一、〈○中略〉寬文五年、適病二頭疽一太上皇特例三中使日問二安否一珍果玉食賜賚稠疊、疾愈、勅許二鳥帽鳩杖一、用侍二殿上一、盖優老之恩也、紀府相公有レ病、遣レ使聘召、以求二理療一太上皇不レ允、坐食二其俸一也少二其の此一、故宮車之遊二豫近郊一、先生必從以備二緩急一、而内毎レ有二宴賞一、必召二先生一必賜二珍饌一、太上皇嘗曰、貴レ耳賤レ目、今昔之通患也、假令東垣丹溪在二乎今世一與二道作一並馳、朕未レ知二其孰先一也、諸醫之宜レ侍二禁闈二者、至二瘍科眼科之微一、必咨二先生一以決二能否一、其始拜レ闕也、先生亦必爲二之先容一、先生謹愼不レ泄、常念二温樹之誡一、宮中之事未二嘗向レ外而説一、故聖眷之深、人鮮レ有二得而知者一、而其嘗施レ術之於レ世、起死回生、養老保壽之効、昭二昭於人之耳目者、不レ可二勝數一而其受二業於門一者六百餘人、而爲二 宮醫一名於世一者比々而在、嗚呼盛哉、〈○中略〉
延寶七年歳次己未 錦里木貞幹撰
p.0775 勅賜 廣濟院( ○○○) 號記〈○中略〉
予所レ識東安岡部玄謙、家世精レ醫、其先人法印益安、師二事啓迪院法印玄治一祖二述軒岐一辨二明素難一尤精二本草運氣之學一且至二桐録雷論張劉李朱諸家方書一、莫レ不一レ造二其玄微一、窺中其梗槩上焉、術愈精、學愈博、遂升二天聽一、擢二御醫一歴二事後水尾帝、及東福皇后、及後西院帝、今太上皇帝一、進レ藥屢驗、眷注優渥、自二列候牧守諸逹官貴人一、下至二市井草萊之賤一、凡遇レ有レ疾、莫レ不三延レ之以仰二其治一、及レ門受レ業者最夥、至二於戸庭無一レ所レ容レ屨、晩年爲二本院侍醫一、恩遇彌篤、歳賜二尚方御藥一晋二階法印一、元祿庚午正月十六日、 勅賜二號廣濟院( ○○○○○○) 一、蓋取下諸夫子博施二於民一而能濟レ衆之語上也、未レ幾而歿、玄謙亦克承二箕裘一、術業精詣、拜二謁今上皇帝、太上皇帝、及本院一累二階法眼一、仍稱二廣濟賜號一、屬者光祿大夫風早藤公實種爲書廣濟院三大字一賜焉、玄謙不レ堪二其喜一、堪屬レ予求下記二其先人之偉蹟一、兼叙中賜レ號之辱、〈 中略 元祿八年乙亥冬十二月望日〉
p.0775 井關玄説( ○○○○) 、老後ニハ、病人ヲ三人ヨリ多クハ受取ラズ、眞醫ノ行ヒ也、隱居ノ後、元祿年中也シト、誠ニ希代ノ名醫ナリ、
p.0775 吉篁墩( ○○○) 名漢官、字學生、初名 、字學儒、號二篁墩外史一、通稱坦藏、吉田氏、自修爲レ吉、江戸人、〈○中略〉
篁墩、雖レ精二通方技一、素不レ欲レ爲レ醫、當二被レ遂時一、暫作二治療一有二國手名一、其業大行、毎歳所レ得謝貲二百餘金、家産不レ匱、
p.0775 小野壽軒( ○○○○) 業レ醫累收二奇功一、一婦娩難數日、衆醫技窮、壽軒用二瓜帶一一吐即生、一兒生丹毒垂レ斃、數醫坐守、壽軒後至、刺二數所一出レ血、皆獲二安全一斯類極夥、〈○註略〉
p.0775 山脇東洋( ○○○○) 〈有木元善〉
山脇尚德、字玄飛、一字子樹、〈號二東洋一〉本姓淸水、父東軒、受二業於山脇玄修一、尚德幼孤、〈○中略〉先レ是官醫不レ療二娼妓一、尚德亦排二衆議一而爲レ之、躬至二其所一診察視諸如レ是類、務洗滌固習一變二世醫之耳目一、以激二發其志氣一、
p.0776 望月三英法眼( ○○○○○○) 療治に付仁術の事
大御所樣〈○德川吉宗〉御匕に望月三英と云醫師有レ之、外療治功者にして、君の思召も他にことなりけるが、或年、狂言役者市川團十郎大病の節、いか成手筋にてや、望月の療知を乞ければ、三英、彼役者の方へ參られ候、日日見舞療治してやられけり、此事世上にていち〳〵批判しければ、或日、殿中にて、橘壯仙院法眼隆庵老、望月に向ひて、異見し給ひけるは、其元樣は承り候得ば、狂言芝居の役者の療治を被二成遣一候由、將軍家の御脈をも伺ひ候者の、何共つヽしまずんば不レ可レ有所と存候、以來御用捨も可レ入所と申給ひければ、望月是をきかれて、いかにも拙者、此間市川團十郎を療治仕候、毎日毎日見廻遣し申候、尤御脈をも伺ひ候某に候へば、いつとても御用相仕廻候て、退出の節計見廻申候、然ばくるしかるまじき事にて候、夫醫は仁の術と申候得ば、道路に倒れ彳み候者へも、脈を見て藥を與へ遣すわざなり、近世れき〳〵の醫者衆、輕き者の方へ見廻事を嫌ひ、富貴分限の人計を療治する樣に成行し事、殘念成人心、淺間敷事にて候と被レ申しゆゑ、壯仙院も無言にて退き給ひけり、去ればこそ、此三英、或時新橋の上に非人の子疱瘡を煩い居たりしを、通りかヽいて、是を見給い、駕籠より下りて、非人の脈を取りて藥をあたへられしとなり、此事人々かんじけるとなり、爰を以、仁術といはれし事、相違せざるか大御所樣、御他界の以後、寄合醫師となられけるを、今年實暦五年亥四月被二召出一、大納言樣御匕役被二仰付けり、
p.0776 高麗牒
高麗國禮賓省牒二大日本國大宰府一
當省伏奉二聖旨一、訪下聞貴國有中能理風疾一醫人上今因二商客王則貞廻歸次一仰因レ便通レ牒、及於二王則貞處一説二 示風疾縁由一、請二彼處一、選二擇上等醫人一於二來年早春一發送到來、理二療風疾一、若見二功効一、定不二輕酬一者、今先送二花錦、及大綾中綾各一十段、麝香一十臍一、分二附王則貞一齎持將去、知二大宰府官員處一、且充二信儀一到可二收領一者牒具如レ前、當省所レ奉聖旨備録在レ前、請貴府若有下端的能療二風疾一好醫人上、許二容發送前來一、仍收二領匹叚麝香一者、謹牒、
己未年〈○我承暦三年〉十一月 日牒 少卿林 既木生
卿崔 卿鄭
p.0777 承暦四年閏八月五日甲子、今日陣定地、〈○中略〉次官二問經王則貞事一、左大辨定下申可レ遣二醫人一之趣上、右衞門督定二申不レ可レ遣由一、左衞門督、同二左大辨一、予定申云、件事、旁依レ多レ疑、召二上付送高麗國牒状一、宋朝商客王則貞被二覆問一了、但太宰府解云、彼國傳三聞太宰府有二良醫一、可レ被二渡送一之由所二牒示一也者、而今不レ覆二問其旨一、頗不審也、抑高麗之於二本朝一也、歴代之間、久結二盟約一、中古以來、朝貢雖レ絶、猶無二略心一、是以、若有下可二牒送一者上、彼朝申牒、本朝報示、今當二斯時一、爲レ療二病痾一申二請醫人一云二其由緒一、蓋被二裁許一乎、若於レ可レ遣者、除二上臈醫一之外、可レ撰二遣一兩一歟、猶向二異土一者可レ多二心鬱一之故也、且又可レ被レ召二問雅忠朝臣一、又申請之後漸歴二居諸一、彼病若平愈者、奈二渡遣一何、仍今度太宰府送牒被レ問二彼病痾體并愈否一、重隨二申請一可二渡遣一歟、兩箇之議可レ隨二勅定一、又所レ送太宰府方物等納否之條、忽難二定申一、其故者、天慶年中、高麗國使下神秋連陳状彼國王愁然被レ停二朝貢之事一者、以二件方物一可レ准二朝貢一者、忽乖二前議一可レ難二容納一歟、然則被レ尋二彼例一、可レ被二量行一歟、又彼國牒状多有二三通一云々、今有二一通一、偏爲レ送二太宰府牒状一歟、被レ尋二如レ此例等一、可レ被二牒送一歟、
p.0777 日本國大宰府牒二高麗國禮賓省一却二廻方物等一事
牒得二彼省牒一偁、當省伏奉二聖旨一、訪下聞貴國有中能理二療風疾一醫人上、今因二商客王則貞廻歸次一、仰因レ便通レ牒、及於二王則貞處一説二示風疾縁由一、請二彼處一選二擇上等醫人一、於二來年早春一發送到来理二療風疾一、〈○中略〉抑牒状之詞頗睽二故事一、改二處分一、而曰二聖旨一、非二蕃王可一レ稱、宅二遐陬一而跨二上邦一、誠彝倫逌レ斁、况亦託二商人之旅艇一、寄二殊俗之 單書、執圭之使不レ到、對丞之禮既虧、雙魚猶難レ逹二鳳池之月一扁鵲何得レ入二雞林之雲一、凡厥方物、皆從二却廻一、今以レ状牒、牒到準レ状、故牒、
承歴四年月日
p.0778 唐の后あしき瘡出き給て、其國の醫師力及ばざりければ、日本雅忠と云いみじきくすし有と傳聞給て、是を渡さるべき由、唐の帝より申送り給えりけるに、やりやらずの事、公卿の御さだめありけり、人々の申やう、こヽろ〴〵にて定りえず、帥民部卿經信卿とばかりまたれて參て、事の次第聞て、唐の后の死なん、日本に何かくるしとたゞ一こといはれたりければ、意見に付て渡さるまじきに定にけり、其返牒は匡房承りてぞ書れける、
雙魚難レ逹鳳池之浪 扁鵲豈入二雞林之雲一
此句をば、和漢共にほめあへりけるとぞ、
昔反生天皇かくれ給て後、御弟の允恭天皇いまだ皇子におはしける時、久しく涸疾に沈み給へりけれ共、群臣強にすゝめ甲によりて位に即給にけり、其後使を新羅へつかはして、彼國の醫師をむかへよせて御病をつくろはるゝに程なく愈にけり、殊に賞し給て本國へ返しやられけり、其例聞及て、異國よりも申送りけるにや、
p.0778 醫藥名義〈井醫風變化附本道辨〉
古は方士と定たる者こそ無りけめ、神習の精術は有て、貴も賤も各持病を治ためり、後次々に漢籍の渡來つヽ、大寶の此より令の製りて、典藥寮司に頭、正、博士、師、侍醫、助、介、生等をおかれ、藥 鍼、呪禁、按摩等の差、體療、少小、創腫、耳目、口齒等の科ありて、生等の書を讀も業を成も、日限年限有て、月毎年毎に、其功を試られ、或は 經學不成就( マナビナシエ子) ども、療術に勝たるは、擧用られ抔しつヽ、諸国も是に准ふ法と成ても、猶醫とのみ定めたるは稀にて、國守たらん人にも、大臣たらん人にも、其道明 なれば任られにき然ばかり漢學はしたれども、大方は法輪の書のみにて藥方の書は未渡ざりしかば、方術は猶此の古のを用られたりと見えたり、奈良宮の此より以來、今の京に至て、盛に漢風に成にたるより、方書も用つヽ、古方と漢方と二派に分れためり、後愈漢樣に化行まゝに、古のは漸忘行程に、静ならざる世の打つゞきて、最後には公の方士等も京に住あへずて、國々へ避らるゝ程也ければ、往古よりの古方も漢方も、多くは知られず成にたり、其中に適其庶流の家と稱ふる、仲條、吉益、〈古方を用て創、并産術に精し、〉半井、吉田、板坂、〈和氣丹波兩氏流なめり〉抔ぞ、猶古の遣れるにて、當時までは自一定の療法は有つるを、三喜の東垣丹溪等の法を明より學び歸て、其敎を受し人々、公に用られしより、普く其風の世に弘りつゝ、續て書の渡るまに〳〵、古林見宜は、李挺の醫學入門、林市之進は薛已の十六種、饗庭東菴は内經、名古屋玄醫は傷寒論等に據りしより、今世の如成果て、古は更也、彼亂世の風さへ亡て、今は又紅毛抔云國の術さへ行れつゝ、古法は絶むばかりに成來し中に、主とにはあらねど、漢學の醫等も、奇方の奇藥のと云つヽ、さすがに古方は避がたき樣に見ゆ、其中に寬永の此、圓彌と云僧の古法を以て、萬病を治め實暦の頃、三宅意安と聞しは、殊に倭心したたかにて、藥と灸と古法を撰て書に著しき、凡近世に此人に勝りて功しきはあらざりけり、されど其論は更也、其法も漢方相駁りて、未古義を得ざりつれば、あはれ全き皇國風とも云がたし、天明より文化の間に、武藏に太田長丸、下總に森川士義と云人等有て、是も共に古意は得ざりつれども、長丸は雑病を治め、士義は疫を直す事を得てしに、長丸は老て國に死、士義は江戸に在てやや業の成べかりしを、早く死きときけり、惜べし、今世にさる志の人無にはあらねっど、或は一科を得、或は一法を僅かに辨へたるまでにて、全く備らずて、淺き我心はいはで、古方少ければ今人に遍くは及しがたし抔云、又或は古書の名目を犯したる、僞書等を信用みて止み、或は學業はとまれまくまれ、醫術は活物に關る抔、口さかしく云て、古をたどらんともせず、或は好事者何某の方書 など集て、徒に談柄の料にし、或は古學を立て神ノ方はかしこむ者も、今はの極に至ては、猶漢方こそたのみ處あれ抔云て、かにかく漢の慕はしく、共に彼の奴となる事を免れず、熟き古義を得る者絶て無りしは、口をしく歎はしきわざなりけり、仰漢の古風も、尚書、周禮、春秋傳、太戴禮、史記、内經等を見るに、藥もあれど、病は多く神に祈り、或は變氣移精〈此の禁厭の叙〉などし、或は針灸灌水などにて、萬病は治て、少は此の古に協て、漫に藥は飮ざりしを、六國より秦の亂にて、漢の高祖の叔孫通に禮を製させしばかり、嚴重き法も絶たる世なりしかば、古醫術抔は廢れりと見えて、同じ史記の中ながら、倉公傳よりは後世めきたる事多し、さる程に仲景の藥方を集て、傷寒論を著はししより、痛く療風の變もて行つヽ、唐宋元金明など、世の革るまに〳〵、各自私に理を論ひ、方を定ていよヽます〳〵、拙く成たる也、其は術と云物は、凡ならぬ人より、凡ならぬ人にあらざれば傳がたく、書は庸人もよめば行はるヽ物故、扁鵲、倉公、華陀等の術は亡て、方書のみ多くなりつヽ、漫に藥のむわざと成たる也、此にても諸術をおきて、假初の病にも、草根木皮を用つヽ言痛く論ふは、彼にて、さばかり拙く成にたる療風の、漸々に移來たる也けり、然れども猶今京の初つかたまでは、學問わざこそあれ、我醫道はさばかり漢風ならざりしを、つぎ〳〵くに彼をのみ主と學びもて行つヽ、今世の如くは成にたり、然し玄つヽ其治術も何も精工成來たらんには、病人も少く痼疾も愈べき理なるに、中々に代々をへて、古に劣つヽ、愈益病人の多く、病の愈さるヽのみかは、古無りし病さへ出くるは、いとも〳〵不審しく、怪しき事の極に非や、
p.0780 和方家
三宅意安 實暦渡ノ人、和方ヲ好ム、延壽和方醫鑑二卷、灸焫鹽土傳一卷〈醫鑑ハ中世以降諸家ノ奇行妙方ヲ輯録シ、鹽土傳ハ俗間ニ所傳ノ灸法チ載セタリ、〉ヲ著ス、
森養竹 元祿ノ度、採用國傳方三卷ヲ著ス、又近世諸家ノ奇方妙方ヲ載タリ、
森川宗圓〈○士義〉下總國古河人、本姓島本氏、文化ノ度和方ヲ以世ニシラル、後江戸ニ來テ、本材木町ニ住シ、門人數輩ヲ敎養ス、
脇田厚齋〈○信親〉 森川ニ就テ和方ヲ學ブ、〈○後爲二義子一〉備中松山候ノ侍醫タリ、師傳ヲ輯録シテ醫言靈〈和方一五六方ヲ載ス、其中ニハ一二取ルベキモノアルガ如シ、板本ナレドモ今甚少シ、〉一卷ヲ著ス、太田見龍 武藏州〈羽生領樋遣川村〉人、文化ノ頃和方二志シ、諸州ニ遊歴シテ方書ヲ求ム、上毛野國新田郡某村ニテ、一古家ノ和方書ヲ得テ、家に歸テ、其書ニ因テ醫治ヲナス、和方家ヲ以テ稱セラル、其書今神道奇靈傳ト名テ、其家ニ傳フ、惜哉元書ノマヽナラズ、病證ヲ漢語ニ、藥名ヲ漢名ニ改メタリ、元書ハ若狭ノ八百美國ノ方ヲ傳ヘテ、假名書ナリシトゾ、
石山元司 奧州會津ノ人、江戸ニ到テ和方醫ヲ業トス、假名大同類聚方ト名ル所ノ一小册ヲ藏ス、書中、オホナグスリ、スクネグスリ二方ニ、十七法ノ加減アリテ、萬病ニ應ズルコトナルガ、甚稚ナキモノ也、按ルニ、或人曰、假名大同類聚方ノ名ハ、後ニ私シタルモノニテ、元ノ名ハ元始書トアリキト云ヘリ、嘉永七年ノ頃、此人下谷長者町ニ在シ時相見タリシニ、年六十有餘ノ老人ナリキ、 衣關( キヌドメ) 順菴 奧州一關ノ人、文政度、出雲州ニ遊、國造千家淸主君ニ謁シ、神庫ノ秘本大同類聚方ヲ得タリト云テ、諸州ニ賓テ自讃シ、價ヲ求テ之ヲ寫シム、世ニ出雲本ト云中ノ一本ナリ、關東其書多ト云、著書兩三部アリ、今書名ヲ遺志ス、
花野井有年 駿河國府中安西町ノ人、通稱昌齋、初メ漢蘭醫法ニ從事シ、後和醫方ニ志シ、世ニ稱セラル、嘉永中、醫方正傳二卷ヲ著ス、〈本邦醫道ノ傳來ノ縁由ヲ辨ジタリ〉已ニ刻成ト雖、官許ヲ得ズトゾ、
p.0781 醫家雜説〈○中略〉
竊ニ按ズルニ、和方ト稱スルモノハ、吾邦古昔ニ用ル處ノ方劑ニシテ、マヽ諸所ニ傳フル也、〈○中略〉肥後人邨井大年、嘗テ予〈○中川修亭、號二壺山一、〉ニ贈レル書中ニ曰、僕嘗テ和方一萬方ヲ輯ム、或ハ疑フ、少彦名 氏ノ遺方有ンモ亦知ルベカラズ、〈○中略〉四年前ニ、寡君ニ台命有テ、僕ヲシテ之ヲ録セシム、寡君又之ヲ江戸ニ獻ズ、江戸台命有テ、僕ニ白銀十挺ヲ賞賜スト云々、
p.0782 現在和方家
井上學 常陸州那賀郡人、今來二江戸一住二濱町一、以二本邦醫道一所レ知二于世一、其主トスル所、醫道ハ、元本邦上古大己貴少彦名二神ヨリ創リ、世界萬國ニ傳フ、萬國ノ醫道、皆二神ノ方法ニアラザルハナシ、故ニ漢蘭ノ醫方ヲ兼ルモ、亦二神ノ方法ニ反リトセズト云テ、和漢蘭ノ隔ナク撰用ユト云、
p.0782 余嘗與二佐藤方定一〈○名民之助〉友善、故常知レ以レ有二技能一矣、余曩嬰二風眼疾一患レ之甚、當二此時一、不レ能三自有二下術之間一也、トレ之遇二地火明夷一、因請託二之治方定一、方定以レ故不二敢辭一、 内外藥餌( ○○○○) 、 一以二神方一奏レ驗( ○○○○○○) 、終得二大地晉明一、嗚呼醫哉方定、嗚呼醫哉方定、此余幸甚、全繇二方定之奇魂妙手一、治レ之無レ非三其蒙二二神之恩賴一焉、其得如レ斯乎、其他中風勞瘵乳岩痿癖等諸症、世醫之所レ難者、得而療レ之矣、余所二見而知一者、治而無レ不レ愈、此其事實、顯然著明者也、余所二聞而不一レ見者、未レ遑二枚擧一焉、今見二所レ著書一可レ知二其心術一、余書四於卷端所三以有二此擧一也、
天保二年辛卯中秋望 備中松山侍醫 厚齋脇田信親撰
p.0782 土生義壽〈玄碩〉曰、後藤〈○艮山〉香川〈○修庵〉山脇〈○東洋〉松原〈○圭介〉吉益〈○東洞〉各以二古醫法一鳴、當時稱 爲二五大家一( ○○○○) 、而今言二古醫法一者、獨依二吉益氏一、無下復言二四家一者上、其故何邪、取二仲景之方法一、以驗二之於今日之病者一、實得而後言、無二一浮言一、此所二以吉益氏獨顯、而四家不一レ得レ與也、
p.0782 後藤艮山
近世 古方之學( ○○○○) 、 以二名古屋玄醫並河天民一爲二翹楚一( ○○○○○○○○○○○○○) 、而未レ免二金元陋習一、至二艮山先生一豪然崛起、一二洗從前弊風一、其識見理療必當レ有下逈異二乎先輩一者上、世以爲レ好レ奇非矣、蓋 吾醫術至二一溪道三氏之門流一碎殘極矣( ○○○○○○○○○○○○○○○○) 、是以、享元醫人復轉而泝レ古、此亦自然之勢也、〈拙軒曰、一部傷風約言、翁之本領在レ此、可レ謂下善讀二傷寒論一者上、後來豪傑輩出、皆聞二翁之風一而興起者、斯爲二吾道中興一、先生 起二筆於玆一非二偶然一也、〉
p.0783 後藤艮山幼而寒窶、慨然歎曰、我爲レ儒乎、難レ上二伊仁齋一我爲レ僧乎、難レ兄二隱元一無レ已則醫乎、無レ有二豪傑逸才之先著レ鞭者一乃謀二其親舊一、贄二靑錢壹貫文一、執二謁於名護屋玄醫以二其贄薄不合二家規一不レ見、艮山激憤塡レ鷹將レ出レ門、罵曰、玄醫鼠輩不レ知レ人、乃自奮二死力一勤勉、遂 爲二古醫道之開祖一( ○○○○○○○) 矣、
p.0783 予在二播州一、幼受二讀書一、未レ知レ所レ向、〈○中略〉十八負レ笈來二京師一〈○中略〉乃學二醫於養菴後藤先生一、先生初不二肯敎一曰、恐子爲レ醫不レ不レ得レ如レ願、再三推辭、欲レ不レ爲レ醫、予強請レ敎、一意學レ之三年、古今醫籍渉獵殆盡、而無下當二予心一者上再取二素門靈樞八十一難一、始終縱橫誦讀數遍、乃擲レ書憤起曰、邪説哉、奚用是爲、若謂二非レ據レ此則醫終不一レ可レ爲則已、奚用是爲、歴々堂々聖賢之徒、反賴二異端邪説一修レ身治レ人、縱使變成二岐伯扁鵲一固非レ所レ望、何足レ希哉、次取二張機傷雜病論一、反覆熟讀四三年、以爲古今醫人中之翹楚無下復出二其右一者上、大藥方、信之至矣、惜乎其論全出二干素問一、不レ、免レ混二乎陰陽者流一且有二一二謬妄一也、吁得レ非二千載一大遺憾一乎哉、況其下者邪、晉齊隋唐、葛洪、皇甫謐、褚澄、巢元方、孫思邈、王燾之徒、皆同二意趣一宋元以下益隨二議論一無二足レ取者一上下古今二千年、未下嘗見中一人一書可二祖述憲章一者上、於レ是乎、創得レ發二明一本宗旨一質二之先生一、先生曰、我亦久疑二舊醫説一雖レ然此乃古今一大結構、非二老子所一レ及、故未レ決也、爾後講習討論、略得レ就レ緒、惟恐自レ我作レ古、人々所レ憚、雖レ然愚者一得、殆不レ可レ已、若因レ是得レ罪、我所レ不レ辭也、倘爲二正學人所一レ取、則幸甚矣、決非二醫家者流所一レ知也、乃爲二吾黨小子一著二行餘醫言若干卷一漸次刻二櫻板一貽二諸子孫一以擬二靑氈一〈○中略〉一本堂主人香川修德誌、
p.0783 復二田龍介一書
孟夏辱二賜書一審悉二近状一、而知三足下浴二藥湯一頭痛發熱、咳嗽倚息、起居不レ安、瞑眩之毒一状、一則以喜、一則以懼、爾後奈何、請詳示焉、來諭所レ云、鄙意有二安者一焉、故聊述而請レ正、夫醫屬方技一固賤業也、雖レ然聖人安二天下人民一以二禮樂刑政一、而其猶有レ所レ病、故周公置二大醫職一使二之掌一、養二萬民疾若一是亦安レ民一端矣、而 其治レ疾有レ所レ由、夫道者有レ所レ由之謂也、故雖レ不三敢此二聖王之道一、而謂二之道一不二亦可一乎中葉以來與レ古異レ術、不佞一意從二事仲景氏一、洗二輓近之穢一、謂レ之起二發道一不二亦可一乎、不佞雖レ業レ醫、而亦王者之民也、故學二先生之道一以修レ身齊レ家、〈○下略〉
p.0784 先生諱爲則、字公言、安藝人也、其先出二淸和帝一、姓源氏、菅領政事畠山政長之裔孫也、〈○中〉〈略〉元文三年春三月、先生與二父母女弟一徙二干京師一、ト二居於萬田街春日路南一唱二古醫道一、蓋年三十七矣、先生曰、我不レ能レ與二吾家一、今似レ醫隱、何汚二本姓一復改二吉益氏一是時業未レ行、弟子未レ進、遇レ盗亡二貲財一、貧困既窮、乃造二偶人一鬻而假食、先生友有二邨尾氏者一、仕二干佐倉候一、〈松平左近將監〉候時專二天下政權一威震二四方一邨尾氏有二公事一入二京師一、訪二先生一憐二其貧而老親在一焉、薦二先生於佐倉候一候欲三召以爲二侍醫一、邨尾氏大喜、而急告二先生一、先生以レ書報曰、始以レ子爲二知レ我者一、今識三子非二知レ我者一、吾雖二貧而老親在一、豈降二吾志一汚二辱祖先一乎、貧者士之常也、窮逹者命也、假令術不レ行、天未レ喪二斯道一也、吾果餓死耶、窮則必有レ逹、行レ道、貧困何憂、辭而不レ仕、伸享元年歳在甲子、先生年四十三、貧益甚、以二雙親尚在一、雖二奴婢共具一、不レ異二於昔時一、橐中常空、夕食絶二朝糧一於レ是、齋戒斷食七日、迺詣二少名彦廟一、告二干其神一曰、爲不敏、過志二古醫道一不レ顧二衆懼一、推而行レ之、今也貧窮、命在二旦夕一、我道非而天罰以レ貧歟、爲則知二其是一而未レ知二其非一也、假令餓且死、不二敢更一レ轍矣、大明神吾邦醫祖也、請垂二昭鑑一、道非二其道一、速斷二吾命一、若推而行、則必害二萬人一誅二一夫一救レ衆、固吾之所レ願也、告レ神而還焉、先生平日有下所二驩交一之賈翁上、適適二其家一賈翁欣然奉レ金、謂二先生一曰、吾有二餘金一以奉二給干先生一先生愕然固辭曰、吾不レ知レ償レ之、豈受二此金一耶、賈翁勃然作レ色、膝行進曰、吾何望レ償乎、今奉二此金一非レ爲二先生一爲二天下萬民一也、先生感二其言一拝而受レ金家給得二漸足一焉、其後有二一病者一、先生往而診レ之、東洋山脇先生會、先生論二其處方一、東洋服二其言一、使三病者服二其藥一、不日而治焉、東洋知二其非常人一厚交爲二親友一、 先生名所二以益顯一者( ○○○○○○○○) 、 東洋揚レ之也( ○○○○○)延享四年、先生年四十五、徙二居於東洞院街一因號曰二東洞一、是時業已行、弟子大進焉、京師有二閑齋先生者一、時以レ唱二古醫道一嗚二于世一、先生與二閑齋東洋一交、讀二傷寒論一閑齋爲二年長一因以爲二講主一、先生數論二其謬誤一、閑齋 曰、東洞僻説多、不レ改二其弊一終日不レ果、先生曰、吾讀二傷寒論一苦思久矣、今欲三切磋得二其旨一吾説若有レ謬、請敎二督之一爲則雖二不敏一、敢不レ奉レ敎耶、今雖レ有所レ考、嘿而不レ論、吾不レ能レ知二我非一又不レ得レ聽二人之是一、讀書何益之有、閑齋不レ應、自レ是之後先生不レ臨、終而廢絶焉、其後東洋欲三復讀二傷寒論一先生曰、前絶二閑齋一而陰讀二傷寒論一、吾意不レ安也、不レ如下與二諸儒先生一讀二春秋左氏傳一、傍談中醫事上、東洋爲二大然一、乃集二諸儒先生一讀二春秋左氏傳一東洋至レ死不レ絶焉、寬延四年先生年五十、選二長沙諸方一以類二聚之一 名曰二類聚方一( ○○○○○) 、於レ是方意著明、方極乃出焉、推二功實一、審二藥能一作一藥徴三卷一、門人鶴元逸有二醫斷之著一也、由レ是業大行、弟子愈益衆〈○中略〉安永癸巳歳秋九月二十二日、先生卒然目眩、〈○中略〉以二二十五日子一而沒、〈○中略〉享年七十二、〈○中略〉哀子猷謹状、
p.0785 古方
方者莫レ古二於仲景一、而仲景爲二傳レ方之人一、非二作レ方之人一也、蓋身爲二長沙太守一、博集二羣方一施二之當時一、以傳二後世一而其書具存焉、故欲レ用二古方一者、先讀二其書一用方可レ知、然後藥能可レ知也、未レ知二方用一焉能知二藥能一乎、雖レ然未レ知二藥能一則方用亦不レ可レ知也、況方意不レ可レ解者甚多矣、蓋雖二仲景一亦或有二不レ解者一、雖三則或有二不レ解者一、而昔人所レ傳既用有レ驗者、又奚容レ疑焉、降至二千金外臺書一方劑不レ古者居多、其可レ取者、不レ過二數方一而已、概多味者可レ疑矣、世有乙欲下以二數藥一兼中治數證上者甲、自謂無レ不レ中也、亦唯暗投瞑行也已、學者思レ諸、
p.0785 萬病一毒
東洞翁曰、萬病唯一毒、コレ二千年來、古今醫人ノ言ハザル所ニシテ數千ノ醫書アリトイヘドモ、未ダ嘗テ載セザル所ノ言ナリ、然レドモソノ旨趣暗ニコレアリ、タヾ古今醫人ノコレヲ了知セザル所ナリ、コレソノ眼目、邪説ノ爲メニ塗リ塞ガレテ、墨々タルヲ以テノ故ナリ、夫萬病ノ生ズル、コレヲ唯一毒ノナス所ト云フハ、東洞翁始メテコレヲ剏ムトイヘドモ、越人仲景モ、亦此意ナキニアラズ、然レドモコレヲ古今醫人ノ言ニ裁斷シテ、コレヲ唯一毒ト云フモノハ、天下古今イマダ嘗テコレヲ聞カザル所ナリ、我ガ東洞翁、獨仲景沒後二千年ノ下ニ出デ、仲景ノ方法ヲ執 ルコト、純一ニシテ無難ナリ、然後コレヲ越人仲景ノ言ト術ト徴シテ萬病ハ唯一毒ト云ヘリ、於レ是天下ノ醫人ノミナラズ、萬人コレヲ疑ハザルモノナシ、コレ二千年來、淊々タル天下古今、陰陽家、仙家ノ醫ニ、惑ハサレタルヲ以テ、爰居ノ鐘鼓ニ驚ガ如シ、況ヤソレコレヲ分別差別スルモノアランヤ、皆其範圍の中ニアレバナリ、誰レカコレヲ分辨差別スルコトヲ得ンヤ、コレ今ノ醫流トナル所以ナリ、
p.0786 皇和、萬事ミナ中華ノ道ヲ奉ズルノ邦ナリ、彼聘使ノ往来スル、晉代六朝ヨリ多ク相ヒ通ズ、李唐ニ至ッテ聘使數々往來スルコトアリ、留學ノ者モ、亦マヽコレアリ、ココヲ以テ、先ヅ唐醫孫思邈ガ 千金方( ○○○) ヲ傳ヘ、 本草( ○○) ハ重修本草ヲ先トス、太素、素問、並ニコレヲ醫院ノ學ニ立テ、醫經ト稱シ、大醫博士、典藥寮、施藥院ノ設アリ、後又趙宋朱明ノ方書ヲ傳ヘ 醫生或ハ西渡( ○○○○○○)シテ、コレヲ學ブ、遂ニ今ノ醫流トナレリ、豈ニソレ萬病一毒ノ方法業術、毫毛モコレヲ知ルモノアランヤ、中華斯業湮滅シテヨリ後、我ガ皇和ニ東渡スル所ノ醫方、ミナ今ノ醫流ノ外、別ニソノ派アルコトヲ聞カズ、我ガ邦別ニ醫方アルコトナシ、異方ノ醫術行ナハレテヨリ、今ニ至ルマデ千有餘年ノ間ダ、士君子ヨリ醫人ニ至ルマデ、毫毛モ醫術ノぶ分岐シタルコトヲ知ルモノアルコトナシ、況ヤ古疾醫ノ道アルコト知ランヤ、近年豪傑ノ士、後藤先生父子、香川、山脇數氏起ルコトアレドモ、決シテ古疾醫ノ道ノ越人仲景ノ方法ニ存スルコオアルコトヲ知ラズ、唯云古方ト、自ラ稱シテ古方家ト云、
p.0786 山東洋之於二三承氣一奧村氏之於二吐方一皆數十年枯髯嘔血之所レ得、今世粗工俗手、遽然試レ之、傷レ人者不レ尠矣、遂歸二咎於古醫道一甚矣哉、其害レ道也、
p.0786 長問村夫、家世傳二小册子一、余〈○永富鳳介〉偶宿二其家一閲レ之、其書中有二苦瓠瓠穰吐食傷之方一余試二之數人一、悉有レ効、於レ是乎、無二瓜蒂一則代用二用之一、爾後讀二千金方一有二苦瓠穰圓之方一、可レ知下 我邦中古( ○○○○) 、 講二漢唐之古方( ○○○○○○) 書( ○) 一、其流風遺言、猶存中於邊裔上也、
p.0787 東洞派醫行二于西州一
東洞吉益翁之爲レ醫也、謬二解傷寒論一、以爲、我的東西、不レ問二病因何如一、而但一味攻擊蕩滌、巴豆、甘遂、大黄、硝石、視爲二平々之藥一、以謂、古之醫術如レ此而已、世之一知半解、不レ辨二餳錫一之徒、從レ風而靡、輕ニ弄快藥一、以夭二人性命一、曾不二少恠一也、以爲、古之醫術如レ此而已、然下二藥官一以爲レ禁、故東洞派不レ行二于關以東一、而但行二于西州一、西州之人、專好二攻擊一、與二東洞派一意見相同、故東洞派但行二于西州一耳、余謂、東洞派乃矢醫、而西州之人即温都斯垣也、徐東莊醫貫評云、熱既入レ裏、離レ表已遠、驅出爲レ難、故就二大便一通二泄其熱一、從二其近一、也、得レ汗而經熱從レ汗解、非二汗爲一レ害、而欲レ祛レ之也、便矢而府熱從レ矢出、非二矢爲レ難而欲一レ攻レ之也、醫不レ察レ此、專與二糟粕一爲レ敵、自レ始至レ終、但知二消剋瀉下之法一、求二一便矢一、以畢二其能事一、夭二人生命一、如レ是者曰二矢醫一、(中略)江戸暘谷鈴木素行良知著、醫海蠡則卷之一、〉
p.0787 家流ノ師傳ニ據テ、仲景ノ書ヲ讀ミテ、古方流ト稱スル者モ、竊ニ 東垣丹溪ノ法( ○○○○○○)ヲ處シ、素難ヲ祖トシテ 後世家( ○○○) ト呼ブ者モ、却而手強ク攻擊スルコト、全ク道三翁、丹水翁、見宜氏友松子ヲハジメ、今代ニイタルマデ、醫家ノ俊哲續テ出、醫學ヲ一洗セシヨリ、治療ノ工者、窮谷無人ノ地ニイタリ、已ニ禽獸ニ及ブマデ、横死ヲ救イ、天然ヲ終フコト有難キ事ナリ、
p.0787 李杲、字明之、鎭人也、世以レ貨雄二郷里一、杲幼歳好二醫藥一、時易人張元素、以レ醫名二燕趙間一、杲捐二千金一從レ之、學不二數年一、盡傳二其業一、家既富厚無事、於二技操一有レ餘、以自重、人不二敢以レ醫名一レ之、大夫士或病、其資性高謇、少レ所二降屈一、非二危急之疾一不二敢謁一也、其學於二傷寒廱疽眼目病一爲二尤長一、北京人王善甫爲二京兆酒官一、病二小便不利一、目晴凸出、腹脹如レ鼓、膝以上監硬欲レ裂、飮食且不レ下、甘淡滲泄之藥皆不レ效、杲謂二衆醫一曰、疾深矣、内經有レ之、膀胱者津液之府、必氣化乃出焉、今用二滲泄之劑一、而病益甚者、是氣不レ化也、啓玄子云、無レ陽者陰無二以生一、無レ陰者陽無二以化一、甘淡滲泄、皆陽藥、獨陽無レ陰、其欲レ化得乎、明日以二羣陰 之劑一投、不二再服一而愈、西臺掾蕭君瑞、二月中病、傷寒發熱、醫以二白虎湯一投レ之、病者面黑如レ墨、本證不二復見一、脈沈細、小便不レ禁、杲初不レ知レ用二何藥一、及レ診レ之日、此立夏前誤用二白虎湯一之過、白虎湯大寒非二行經之藥一、止能寒二腑藏一、不二善用一レ之、則傷寒本病隱二曲於經絡之間一、或更以二大熱之藥一捄レ之、以苦二陰邪一、則他證必起、非レ所二以捄一、白虎也、有二温藥乃升陽行經一者、吾用レ之、有二難者一日、白虎大寒、非二大熱一、何以救、君之治、奈何、杲日、病穩二於經絡間一、陽不レ升、則經不レ行、經行而本證見矣、本證又何難焉、果如二其言一而愈、魏邦彦之妻、目翳暴生、從レ下而上、其色綠腫痛不レ可レ忍、杲云、翳從レ下而上、病從二陽明一來也、綠非二五色之正一、殆肺與レ腎合而爲レ病邪、乃瀉二肺腎之邪一、而以入二陽明之藥一爲二之使一、既効矣、而他日病復作者三、其所二從來一之經與レ腎色各異、乃日、諸脈皆屬二於目一、脈レ病則目從レ之、此必經絡不レ調、經不レ調、則目病未レ已也、問レ之果然、因如レ所レ論而治レ之、疾遂不レ作、馮叔獻之姪櫟、年十五六、病二傷寒一、目赤而頓渇、脈七八至、醫欲下以二承氣湯一下上レ之、已煮レ藥、而杲適從レ外來、馮告二之故一、杲切レ脈大駭日、幾殺二此兒一、内經有レ言、在レ脈諸數爲レ熱、諸遲爲レ寒、今脈八九至、是熱極也、而會要大論云、病有二脈從而病反者一何也、脈レ之而從、按レ之不レ鼓、諸陽皆然、此傳而爲二陰證一矣、令下持二薑附一來上、吾當下以二熱因寒用法一處上レ之、藥未レ就、而病者爪甲變、頓服者八兩、汗尋出而愈、陜帥郭巨濟病二偏枯一、二指著二足底一不レ能レ伸、杲以二長針一刺二骪中一、深至レ骨而不レ知レ痛、出血一二升、其色如レ墨、又且謬刺レ之如レ此者六七、服藥三月、病良已、裴擇之妻病二寒熱一、月事不レ至者數年、已喘嗽矣、醫者率以二蛤蚧桂附之藥一投レ之、杲日不レ然、夫病陰爲レ陽所レ搏、温劑太過、故、無レ益而反害、投以二寒血之藥一、則經行矣、已而果然、杲之設施多類レ此、當時之人、皆以二神醫一目レ之、所レ著書今多傳二於世一云、
p.0788 元 李杲〈字明之、號二 東垣( ○○) 一、 中略 爲二醫家之宗主一、〉朱震亨〈字ハ彦脩、號二 丹溪( ○○) 一、浙之義烏人、自レ幼好レ學、日記二千言一、葉擧子講〉〈レ道、入二崋山一拜二許文懿公一、一日公謂、以二己疾久之一、非下精二于醫一者上弗レ能レ起、子多敏頴、其游二藝于醫一而濟レ人乎、於レ是、丹溪復致二力於醫方一、即而悟日、執二古方一以療二今病一、其勢雖レ全、必也參レ之以二素難一、活潑權衡、乃能濟〉〈レ世、遂出遊求レ師、渡レ浙走レ呉、歴二南除建業一、皆無レ所レ遇、及レ還二武林一、聞二太無先生一、往拜レ之、數謁弗レ得レ接、求レ見愈篤、先生始接レ之、以二劉張李三家之書一爲レ之敷二揚其旨一、彦脩授レ敎、而醫益神、名益著、四方求レ療者輻二輳于〉〈道一、按レ證施レ方、録爲二醫案一可レ考、、又著二格致餘論一發二其秘一云、〉
p.0789 永祿以來出來初事の記に云、信長公御代 丹溪流( ○○○) 醫師翠竹院道三、此流を傳えて、あまねくひろめしなり、然ば永祿以前には、斯邦丹溪流の沙汰はなかりしなり、〈一溪師、初名等皓、相國寺僧也、讀書の爲に、足利學校に來り、導道に見て、醫を學び、遂に佛を棄て、醫に歸す、〉
p.0789 七、當他兩例、ツヽミ紙ニ、當他之兩例トアリ、 當流( ○○) ト 他流( ○○) トノ醫道ノ心得ノカハリヲ申ワケンタメ也、當流他流ノ替リヲ申サバ、無二際限一事ナレドモ、先第一ノ替ニハ、他流ニハ用二古方一也、當流ニハ不レ然也、所二以然一方ト曰フコトハ、漢ノ張中景ガ開山也、然レドモソレモ傷寒論計ニコソアレ、オホク方ハナキゾ、其後多クハ宋朝ニ方ガ出來シ、盛ニ行ワルト也、當流不レ用レ方故ハ、方モ無キ其已前モ病ハアリタガ、其病ハ、古方ガナキト曰ヒテ、療治セザランカ也、故ニ其已前ヲ辨ジテ、當流ハ不レ拘二方ニ一也、是ガキラリト當他ノカハリ也、正傳凡集録、借レ賢成レ方、蓋爲二後學一設二繩墨耳、學者不レ可下固二執方法一、以售中今病上、故又以二丹溪活套一備二綠于各條之後一、欲レ使二後學熱中一之有レ權耳、此當他兩例トアルトモ、方ノコトデハナシ、此一通ハ、當流ノ建立也、他流ト曰テ、ドレヲ指テ、アイテニ申スコトデハナシ、他流ノ人來テ、當流ニ傳ヘモセズ、出處證據ハナキ也、然レドモ聞ツタヘタ分ヲ書載スル也、今時世上ニ申ヲ他流ト指也、
p.0789 永祿以來出來初之事
信長公御代の内〈○中略〉
一丹溪流 醫師翠竹院道三、此流を關東に至て傳て、普く廣めし也、
p.0789 後陽成帝ノ朝ニ至リ、曲直瀨正慶トイフ者出テ、 金ノ李東垣ノ方法( ○○○○○○○○) 、及ビ 元ノ朱丹溪ノ方法( ○○○○○○○○)ヲ表準遵奉シ、其名聲朝野ニ振ヒ、技術一世ヲ風靡ス、海内奉ジテ以テ師表トス、是ニ至テ、和氣丹波以下五典藥諸家ノ主張スル所ノ和劑局方、醫方大成等ノ説、遂ニ衰廢シ、金元ノ醫學盛ニ行ワル、〈○中略〉
後西院天皇明暦萬治ノ間ニ至リ、林市之進、饗庭東庵等出テ、 金ノ劉完素唱フル所ノ五運六氣ノ説( ○○○○○○○○○○○○○○○○)ヲ奉ジ、又本朝古制ノ醫式ニ本キ、素問、靈樞、難經等ヲ講明ス、東庵ノ門人味岡三伯ト云フ者アリ、亦師説ヲ奉ジ、盛ニ世ニ行ハル、三伯ノ門人井原道閲、淺井周伯、小川朔庵、岡本一抱、益々劉氏ノ學ヲ主張ス、是ニ於テ運氣五行ノ説、藏府經絡配當ノ論起ル、
p.0790 夫形聲色 者醫之法也、臨機應變者、醫之要也、丹溪以レ闢二 局方之學一( ○○○○) 爲二專功一、而有二發揮之作一矣、世醫蹈二偏門一者、於レ是乎改焉、實醫門百世之宗師也、學レ醫者不レ可レ不レ讀二丹溪之書一、然微旨奥義不レ易二通曉一矣、粤岡本一抱子先生、秉二訓詁之筆一著二述局方發揮諺解六巻一、〈○中略〉先生之功不二亦偉一哉、寶永五禮龍集戊子六月 攝江醫生 白井元隆養眞子謹識
p.0790 此書ノ本ハ、宋朝ニ和劑局方ト云十巻ノ書アリテ、其書ニ謬誤ノ多アルニ因テ、元朱丹溪先生コノ發揮ヲ撰テ、彼局方ノ謬ヲ論辨スル者也、其和劑局方ト云書ハ、宋朝代々ノ帝王ガ、醫道ヲ重ゼリ、凡人民ノ退レ病救レ死、人生ヲ安ノ地ニ置コトハ、醫道ニ越ルコト無ヲ以ナリ、故ニ宋ノ開寶以來、諸醫家ノ方書ヲ校正重定シ、且京師ニ大醫局熟藥所ヲ設テ、衆民ノ疾苦ヲ救リ、 局トハ官局トテ( ○○○○○○○) 、 官人ノ聚處ヲ云也( ○○○○○○○○) 假令、輦車ノ官人聚處ヲ尚輦局ト云、御藥ノ官人聚所ヲ尚藥局ト云ノ類也大醫局ト云ハ、古今有レ効名方ヲ調合シ置テ、其價ヲ定テ、萬民ニ施テ、貧苦ノ者ノ病疾ヲ救玉フ所ノ官局也、宋ノ神宗第十三ノ王子徽宗帝、就レ中醫道ヲ重ジテ、崇寧年中ニ、都ニ大醫局ヲ增テ、七ケ所ニ立テ、彌施藥ヲ廣メ、民病ヲ救リ、又收買藥材所〈或辨見藥材所〉〈トモ號ス〉ヲ設テ、諸國ヨリ所レ出ノ藥種ノ眞僞ヲ辨見セリ、此ニ從テ、諸國ニモ皆藥局ヲ立テ、民病ヲ救コトヲ致セリ、其官局ニ於所レ施レ藥ノ次第ハ、前ニ如レ辨、種々ノ名方ヲ書集テ、其湯丸散ヲ常ニ調合シ置テ、若シ病者來テ藥ヲ求請バ、彼藥局ノ官人等、診脈聲色ノ候モ委セズ、只病者所レ語ノ病證ヲ聞テ、右ノ藥局ニ書集タル方書ニ引合テ、其方條ノ辭ニ合タル藥ヲ與賣也、今本朝ノ藥 店ニ八味丸、六味丸、敗毒散等ヲ合置テ、賣類ノ如シ、
p.0791 杉本忠惠、 蕃醫家流( ○○○○) 也、始就二蕃人一傳二妙方一、治療多レ効、爲二当時一重、寬文之初應レ徴拜二待醫一、
p.0791 桂川甫周
桂川國瑞、字公鑑、通稱甫周、〈號二月池一〉曾祖以二外科一仕二幕府一、〈○中略〉洋學之與、國瑞尤有レ力焉、然至二醫術一則唯用二之治瘍一耳、門人有二吉田某一、專據二其法一 爲二内治一( ○○○) 、國瑞禁レ之日、西洋萬里、風土既殊、人身氣體又自不レ同、治法藥物亦必與二邦人一異レ宜、不レ當二以レ彼概一レ此、且本邦内治、方術既備、何必資二諸西洋一、徒標二斯異一以駭二俗觀聽一、無レ爲也、某不レ從、國瑞遂削二其弟子籍一、
p.0791 桃園天皇御宇寶暦年中、即紀元二千四百二十年代ヨリ、明治維新ノ際、即紀元二千五百二十七年ニ至ル、〈○中略〉
織田信長耶蘇敎ノ如何ナル宗敎ナルヤヲ知ラント欲シ、其敎僧、ウルガン、バテレン等ヲ京都ニ延キ、爲ニ四條坊門ニ一寺ヲ建テ、法敎ヲ講ゼシム、之ヲ南蠻寺ト號ス、〈○註略〉時ニ永祿十二年ナリトス、〈○中略〉爾來、敎僧相踵デ來航シ、盛ニ法ヲ説キ、乃チ衆庶ヲ勧誘シテ、我門徒トナサント謀リ、先ヅ醫術ヲ以テ、專ラ貧民ノ疾病ヲ施療シ、此恩ヲ賣リテ、人ヲ懐ケント欲シ、更ニ本國ヨリ敎徒ノ醫ヲ善クスル者、ケリコリ、ヤリイス等ヲ招キ、又信長ニ請テ、地ヲ近江ノ息吹山ニトシ、方五十町ノ藥園ヲ拓キテ、本國ヨリ三千種ノ藥草ヲ移植シ、〈今ノ伊吹艾ハ其遺種ト云〉南蠻寺中ニ病室ヲ設ケ、構法ノ旁ラ、貧民施療ニ從事シ、財ヲ與ヘ、金ヲ投ジ、恩惠ノ術、百方至ラザルハナシ、於レ是信服敎ヲ奉ズル者無慮數萬人、其徒弟梅庵、告須蒙、壽問等、敎僧ノ傳ヲ受ケ、構法ト醫術トヲ以テ、大ニ宗徒ノ歸依敎法ノ弘通ヲ謀レリ、 之レ実ニ西洋醫術傳來ノ始ナリ( ○○○○○○○○○○○○○○) 、○按ズルニ、此事南蠻寺與廢記ニ在リ、而シテ同書ハ外科ノ條下ニ引ケリ、
p.0791 蘭療方序
蓋距レ今四五十年前、世稱二 紅毛醫方( ○○○○) 一者、只有二其 外科( ○○) 一而已、及二其學益闡一、世又傳二其 内科( ○○) 一不二一而足一、而今世醫家者流、乃至下以レ不レ識二紅毛内科一爲上レ恥、此雖二小技一、要亦 世風之一變( ○○○○○) 也、然而紅毛内科、其術與二世舊所一レ有別開二一道一、而其論レ疾説レ由、殆類二河漢一、雖レ有二一二可一レ通、而其大本異レ指矣、則其言非下以二一端一之可上レ了也、其藥方十九我土所レ無、雖レ有三書載二其名一、而其物實遠矣、則其物與二北斗不一レ可レ挹何異、廣川生自レ少業レ醫、求レ博二聞見一、嘗往二瓊浦一、適獲二紅毛内科一書、大半施レ譯者一、因更普請旁考補緝是務、久之譯完二其所一レ闕、藥識三其可二換用一、因改二命其書一曰二蘭療方一、生以二其嘗學一レ予、請レ題二一言一、予固不レ識レ醫、已然思以爲、唯學貴二聞見之博一、則紅毛醫方安知二其不一レ可レ爲二他山之石一哉、則其内科之術闡二乎今一者、醫家之幸也、〈○下略〉
p.0792 一槐園先生〈○宇田川〉内科撰要ヲ世ニ公行シ、 首メテ和蘭ノ内科ヲ唱フ( ○○○○○○○○○○○) 、其他和蘭草木略、蘭畝俶載、蘭譯辨髦、西洋醫言等ノ書ヲ編述シ、遺稿ニ屬ス、榛齋先生、夙ニ箕裘ヲ繼ギ、大ニ家風ヲ振フ、凡ソ内景ノ究理ヨリ、内科治法、局方製劑、本草藥品等ニ至ルマデ、數十部ノ書ヲ譯定シ、居恒同志ト質驗シ、療法ヲ折衷ス、先生毎ニ門生ニ語テ曰ク、疾病ハ變ナリ、無病ハ常ナリ、遠西ノ醫ハ先ヅ内景ヲ明ラメ、天稟具有セル形器ノ官能ト、衆液ノ流動ト齊シク妙合スルニ由テ、健全無事ニシテ、性命ヲ保續スル所以ノ常ヲ知リ、此ヨリ推テ、各官能ヲ廢シ、流動ヲ誤リ、常機ヲ失テ、病患ヲ生ズル所以ノ變ヲ究ム、故ニ常ニ本キ、變ヲ察シテ、百病ノ原由ヲ知リ、病原明カニシテ、治法此ヨリ出ヅ、然レバ内景ハ療術ノ規矩方藥ノ準繩ニシテ、法ヲ建ルモ、論ヲ設ルモ、コレヨリ起ラズト云フコトナシ、〈○中略〉
文化二年二月既望 門人 諏訪俊謹記
p.0792 宇田川玄隨〈名ハ晉、字ハ明卿、槐園ト號ス、〉ハ江戸ノ人、津山藩醫ナリ、初メ玄澤ニ就テ蘭書ヲ學ビ、後良澤〈○前野〉ノ門ニ入ル、性鋭敏、能ク事ニ耐ユルヲ以テ、其業大ニ進ム、玄隨曾テ我邦ニ於テ、西洋ノ醫術ヲ唱フル者、大率外科者流ニ過ザルヲ慨ヒ、 内科撰要( ○○○○) 十八巻ヲ著ハス、 津山侯特ニ其刻費ヲ賜ヒ、之ヲ世ニ公ニス、是ニ至テ、世人西洋亦タ内科ノ術アルコトヲ知ル、〈○中略〉
先レ是文政六年〈紀元二千四百八十三年〉八月、墺斯太利國ノ人シイボルト、和蘭醫官トナリテ長崎ニ來ル、醫術頗ル精妙ト稱ス、當時笈ヲ負ヒ西游スル者、皆就キテ其學術ヲ受ク、文政十二年、〈紀元二千四百八十九年〉シイボルト、日本地圖刀劍等ノ雜品ヲ密ニ購贖シテ、本國ニ輸ルノ故ヲ以テ、和蘭ニ放歸シ、再來ヲ禁ゼリ、〈後文久ノ頃再ビ横濱ニ來タレリ〉然レドモ蘭醫陸續來航シテ、其跡ヲ絶タザルヲ以テ、爾來醫術ヲ學ブ者ハ、必ズ長崎ニ遊ンデ蘭人ノ傳ヲ受ク、
p.0793 弘化嘉永ノ際〈紀元二千五百十年代〉ニ至リテ、和蘭學益々隆盛ノ域ニ入リ、加フルニ英、獨、佛等ノ諸學漸次開闡ノ途ニ就ケリ、〈○中略〉洋醫ノ學精ニシテ術巧ナルヲ喜ビ、之ヲ信ズルモノ少ナカラズ、漸盛ノ勢アリ、彼輩之ヲ嫉ミ、官醫多紀安叔〈樂眞院法印〉辻元崧葊〈爲春院法印〉等ト相計リ、時ノ執政阿部正弘〈伊勢守〉ニ強請シテ、左ノ禁令ヲ布告シ、幕府ノ醫官ヲシテ、西洋醫術ヲ施ス事ヲ禁ゼシメタリ、時ニ嘉永二年〈紀元二千五百八年〉ナリトス、
一近來蘭學醫師追々相增、世上にても信用いたし候もの多有レ之哉に相聞候、右者風土も違候事に付、御醫師中者、蘭方相用候義御制禁被二仰出一候旨、得二其意一堅く可レ被二相守一候、但し外科眼科等、外治相用候分は、蘭方參用致候ても不レ苦候、
己酉三月十五日 阿部伊勢守
一タビ此禁令ノ世ニ出ルヤ、諸藩亦之ニ做フテ、和蘭内治ノ方ヲ禁ゼシヲ以テ、漢醫跋扈シ洋醫家特リ其箝制ヲ蒙ル、加之ナラズ、從來醫家著譯書ノ出版ハ、総テ天文方ノ許可ヲ受クル制ナリシモ、此年ニ至リ、更ニ醫學館〈多紀氏ノ創設ニ係ル、漢醫講習所ナリ、委ク前編ニ出ス、〉ノ許ヲ受ケシム、是ニ於テ、洋醫家ノ弊ヲ受クルヤ益々大ナリ、嘉永三年〈紀元二千五百九年〉二月、林洞海曩ニ譯スル所ノワートル藥性 論ノ出版ヲ、醫學館ニ請フテ許サレズ、安政元年、〈紀元二千五百十四年〉仙臺ノ人大槻俊齋、銃創鎖言ヲ著シ、亦剞劂ノ允可ヲ得ズ、海防方江川太郎左衞門、今日ニ在テ其急務ナルヲ以テ、爲ニ周旋、官ノ許可ヲ醫テ刊行セリ、既ニ銃創鎖言ヲ上木セシニ因リ、洞海始テ官許ヲ得テ、藥性論ヲ世ニ公ニス、時ニ安政三年〈紀元二千五百十六年〉ナリ、當時蘭醫ノ禁、特ニ外科ヲ許スノ故ヲ以テ、蘭醫漸ク頭角ヲ出スヲ得タリ、〈○中略〉
安政四年〈紀元二千五百十七年〉内旨ヲ醫官松本良順〈後順ト改ム、佐藤泰然ノ長子ナリ、出デ、松本良甫ノ家ヲ嗣グ、〉ニ傳ヘ、長崎ニ遣リテ醫學ヲ傳習セシム、同五年將軍家祥病アリ、衆醫治効ナク、病益々劇シ、因テ正篤等ノ議ヲ以テ、伊藤玄朴、竹内玄同ヲ擧テ侍醫トナシ、初テ西洋醫藥ヲ進メシム、是ヲ 德川家西洋内科醫法ヲ採用セル始( ○○○○○○○○○○○○○○○)トス、
p.0794 安政五年七月三日、戸塚靜海、伊東玄朴等、奧醫師ヲ命ゼラル、
松平薩摩守醫師戸塚靜海、松平肥前守醫師伊東玄朴、松平三河守醫師遠田澄菴、松平駿河守醫師靑木春岱、右 西洋醫師( ○○○○) 、今般奧醫師被二仰付一、御苑行二百俵三人扶持被レ下レ之、公方樣御不例に依てなりと云、
p.0794 安政五戌午年七月六日 和蘭醫師兼學の儀に付逹
和蘭醫術之儀、先年被二仰出一之趣も有レ之候得共、當時席々萬國之所長を御採用被レ遊候折柄ニ付、御醫師中も、有志之者は、和蘭醫術兼學いたし候共不レ苦候、
七月
p.0794 先レ是〈○天保弘化〉京師ニ小森鷯齋〈和氣氏名ハ義啓、桃塢ト號ス、縫殿助兼信濃守タリ、〉アリ、鷯齋ノ學ハ稻村三伯ニ出テ、和蘭ノ醫學ニ精シク、最モ内科ノ術ニ巧妙ナリ、屢々皇族槐門ノ召ニ應ズ、毎ニ奇効アリ、依テ正六位下ニ叙セラル、蓋シ 貴族ノ洋方醫ヲ召スハ( ○○○○○○○○○○) 、 實ニ鷯齋ヨリ始ル( ○○○○○○○○) 、
p.0795 小森桃塢〈○中略〉
天保壬寅春、皇女欽宮違和、有レ旨召二桃塢一診、其非二典醫一而召診、蓋異數云、明年叙二從五位下一、兼信濃守一、是歳夏病卒、齡六十二、醫官錦小路丹波賴易歎曰、自レ傳二蘭方一來、其榮未レ有下如二先生一者上、蓋以二洋方醫一出二入殿延薦紳間一、實以二桃塢一爲レ始、及三文久元年、皇妹和宮降二嫁將軍家茂一、廷議特命二洋方醫某一扈從、同道之士相傳爲レ榮、皆曰、此亦桃塢開レ先之力也、其見二追稱一如レ此、
p.0795 別存〈録二快烈公遺言遺事及余少壯履歴一〉
公毎二餘暇一讀二醫書一、通二逹醫理一、都下尋常醫人遠不レ及、獨與二多紀桂山、杉本樗園一懇、但不レ好二蘭方一、及二病篤一爲二親戚所一レ強、招二一蘭醫一胗視、竟不レ嘗二其藥一、不レ過レ慰二族人一耳、
p.0795 安政三丙辰年正月廿三日、左之通月番御家老山縣三郎兵衞書付相二渡之一、
御側御用人〈江〉
醫學之儀、從來漢法を以治療致來候得共、近來西洋醫學追々相開、必用有益之儀不レ少相見候間、以來御醫師之儀、漢蘭兼學致候樣被二仰出一候、依レ之當春御歸國之節、坪井信良被二召連一筈ニ候間、一同兼學之儀ハ、同人〈江〉相談、厚致二修行一候樣被二仰出一候、但町醫師之儀も、本文同樣相心得、致二修行一候樣可レ被二申渡一候事、
p.0795 安政四年巳五月十五日逹
先年以來、醫學御引立ノ御主意厚ク、好生館新規ニ御造建被二仰付一、御仕法被二相立一令二勤學一候處、西洋學心掛之面々モ不レ少候處、近來ハ諸國トモ一統洋學盛ニ被二相行一候付テハ、漢蘭トモ令二研究一候ハバ、治療方別テ功驗モ可レ有レ之トノ事ニ候條、御醫師中、思召ノ旨ヲ奉ジ、洋學ヲ相學ビ、御主意ニ相協候樣心掛肝要ノ事ニ候、此段内意相逹候事、右ノ通、御醫師中ヘ沙汰被二仰付一候事、
p.0796 多紀桂山
多紀元簡、字廉夫、通稱安長、〈號二桂山、又櫟窗一、〉元德子、受二父學一、記性絶倫、一覽終身不レ忘、〈○中略〉所レ著諸注、條二疏衆説一斟二酌精義一、其錯辭隱義、參伍校照、可レ通通レ之、疑則闕レ之、深得二箋釋之旨一、先レ是、諸家厭二五行經絡之説一、各有レ所二論著一、指歸不レ一、互相詆毀、大抵臆造之説勝、而訂詁之義微、元簡之書出、海内講二醫籍一者、識レ所二率由一、而前世麤梗武斷之風始除矣、
p.0796 本期ノ初ニ當テ、曲直瀨正慶李朱ヲ奉ジ、宋後ノ醫方ヲ取リ、五行運氣ヲ唱ヘ、温補ヲ主トシタルニ、名護屋玄醫、後藤逹ノ徒、復古ヲ唱ヘテ、專ラ古方ヲ主張シ、吉益爲則亦タ一毒説ヲ唱テ、其弊ヲ撓ントセシガ、〈○中略〉天明寬政ノ交〈紀元二千四百五十年代〉京師ニ福井輗、和田璞アリ、江都ニ多紀元德、元簡ノ徒アリテ、 古今ヲ折衷シ( ○○○○○○) 、補瀉温凉偏執スル所ナク、務テ從前ノ弊害ヲ一洗セントス、茲ニ至テ、此期中ノ醫道三變セリ、
p.0796 桂川甫周〈于甫筑○中略〉 〈孫甫賢〉
甫賢、名國寧、字淸遠、號二桂嶼一、甫筑長子、幼聰敏、祖父甫周愛レ之、常期二成立一初從二葛西因是一受レ學、比二成童一、自二誦讀講説一至二書畫一、皆如二老成一、常與二大槻、宇田川、坪井諸名士一、研二鑽蘭學一、蔚然興二家學一、及二甫筑歿一嗣レ家、尋擢二侍醫一、天保二年叙二法眼一、無レ幾兼二外科敎諭一、嘗語レ人曰、醫術不二必漢一、不二必洋一、須下就二漢洋中一擇二取良方一、以收中實効上、世之漢方家固二執舊法一、蘭方家競衒二新術一、互相軋轢、共不レ能レ臻二精妙之域一、洵爲二通患一也、人以爲二至言一、甫賢性喜二文雅一、酷有二祖父之風一、弘化元年歿、年四十六、
p.0796 天保弘化ノ際、〈紀元二千五百十年代〉京師ニ、新宮涼亭、小石元瑞アリ、共ニ近畿醫家ノ泰斗タリ、〈○中略〉元瑞、父〈○元俊、永富鳳介門人、〉ノ志ヲ繼ギ、專ラ此學ニ精ヲ盡シ、別ニ一派ヲ爲シ、理ハ和蘭ニ考フルモ、方ハ漢蘭ヲ雜ヘ取リ、少シモ偏執スル所ナク、鍼灸ノ末技ニ至ルマデ、其適症ヲ考テ試用セリ、後チ一家言ヲ建テ、究理堂備用方府ヲ著ハス、其方府記聞ハ門人ノ輯録ス ル所ニ係ル、爾後其流派四方ニ傳ハリ、當時ノ漢醫者流其移リ易キヲ喜ビ、之ニ傚フ者多シ、之ヲ 漢蘭折衷家( ○○○○○) ト稱ス、元瑞、嘉永二年〈紀元二千五百九年〉六十六歳ニシテ歿ス、西洋内科術ヲ闡クノ功、元瑞其多キニ居ル、
p.0797 又〈○醫疾令〉云、醫生既讀二諸經一、乃分レ業、敎習、〈○註略〉卛レ廿〈謂依二職員令一、醫生卌人、即爲レ廿、分二廿四人一學二體療一、六人學二創腫一、六人學二少小一、四人學二耳口齒一也、〉以二十二人一學二 體療一( ○○) 〈謂、創腫耳目等各別有レ生、即除レ此外身體諸病皆悉主レ治、故揔云二體療一也、〉三人學二 創腫一( ○○) 〈謂、創與レ瘡字相通也、〉三人學二 少小一( ○○) 、〈謂、六歳以上爲レ小、十八以上爲レ少也、言瘡二治小少一、固異二成人一、故別云二少小一、〉二人學二 耳目口齒一( ○○○○) 、各專二其業一、
p.0797 大醫署
醫博士掌下以二醫術一敎中授諸生上、習二本草甲乙脈經一、分而爲レ業、一曰體療、二曰瘡腫、三曰少小、四曰耳目口齒、五曰角法、
諸醫生既讀二諸經一、乃分レ業敎習、率二二十人一、以二十一人一學二體療一、三人學二瘡腫一、三人學二少小一、二人學二耳目口齒一、一人學二角法一、體療者七年成、少小及瘡腫五年、耳目口齒之疾并角法二年成、
p.0797 扁鵲名聞二天下一、過二邯鄲一、聞レ貴二婦人一即爲二 帶下醫一( ○○○) 、過二雒陽一、聞三周人愛二老人一、即爲二 耳目痺醫一( ○○○○) 、來入二咸陽一、聞三秦人愛二小兒一、即爲二 小兒醫一( ○○○) 、隨レ俗爲レ變、秦太醫令李䤈自知二伎不一レ如二扁鵲一也、使二人刺殺一之、至レ今天下言レ脈者、由二扁鵲一也、
p.0797 又〈○醫疾令〉云、 醫針( ○○) 生、 按摩呪禁( ○○○○) 生、專令レ習レ業、〈○下略〉
p.0797 醫科
醫之立レ科、歴代不レ同、周四科、疾醫、瘍醫、食醫、獸醫、見二周禮一、唐七科、體療、少小、耳目、口齒、角法、按摩、呪禁、見二六典一、宋設二三科一敎レ之、曰方脈科、針科、瘍科、見二選擧志一、又太醫局有レ丞、有二敎授一、有二九科一、見二藏官志一、而九科無レ攷、金十科、亦無レ攷矣、元十三科、大方脈雜醫科、小方脈科、風科、産科、兼婦人雜病科、眼科、口齒兼咽喉科、正骨兼金鏃科、瘡腫科、鍼灸科、祝由科、見二輟畊録一、〈案得効方同、唯除二祝由科一、輟畊録云、出二聖濟總録一、今聖濟無レ攷可レ疑、續文獻通考、無二風科一、 婦人産科、爲二一科一、有二傷寒科、按摩科一、事物紺珠、古十三科、更有二獸醫一、又名二牛醫一、〉明十三科、大方脈科、傷寒科、小方脈科、婦人科、口齒科、咽喉科、外科、正骨科、痘疹科、眼科、針灸科、出二明會典一、〈按、鄭曉吾學編、十三科、曰大方脈、曰小方脈、曰婦人、曰瘡瘍、曰針灸、曰眼、曰口齒、曰接骨、曰傷寒、曰姻喉、曰金鏃、曰〉〈按摩、曰祝由、按摩以二消息導引之法一除二人八疾一、祝由以二呪禁一祓二除邪魅之爲レ厲者一、二科今無レ傳、攷二會典一、凡十一科、乃除二按摩祝由二科一也、古今醫統、古十四科、更有二脾胃科一、李樓小仙雜録、與二吾學編一同、無二按〉摩科一、以二口齒咽喉一爲二一科一、有二風科養生科一、〉淸十一科、曰大方脈、小方脈、傷寒科、婦人科、瘡瘍科鍼灸科、眼科、口齒科、咽喉科、正骨科、痘疹科、今痘疹歸二小方脈一、咽喉口齒共爲二一科一、現設二九科一、見二淸會典一、〈王子接十三科、古方選註、傷寒科、内科、女科、外科、幼〉〈科、痘疹科、眼科、咽喉科、折傷科、金鏃科、祝由科、符禁科、此十二科、欠二針灸科一、王棠知新録、無二金鏃、按摩、祝由一、有二痘科疹科一、分二針與一レ灸、爲二二科一、未レ知二何據一也、〉
p.0798 齒牙藥〈○中略〉 凡中華醫通二治諸病一、本朝人材力不レ足、故治二大人病一者稱二 本道一( ○○) 、治二婦人病一者號二 血道醫一( ○○○) 、治二小兒一者稱二 小兒醫( ○○○) 者一、治二齒牙一者謂二 齒藥師一( ○○○) 、眼科號二 目醫者一( ○○○) 、治二癰瘍一人專稱二 外科一( ○○) 、
p.0798 醫師儒者之事、附鷹峰御藥園并御藥種獻上之事、〈○中略〉
町醫師
一小川通リ一條下ル町 柳川靖泉〈○中略〉
小兒醫師( ○○○○)
一〈禁裏より貳拾人扶持〉御幸町二條上ル町 山科廣安〈○中略〉
婦人醫師( ○○○○)
一室町柳之圖子 安藝大膳亮〈○中略〉
針立( ○○)
一〈禁裏より三拾石〉上京狩野圖子 藤木駿河守〈○中略〉
外科( ○○)
一堺町二條上ル町 山本恕軒〈○中略〉
口中醫師( ○○○○)
一小川兼康町角 親康喜安〈○中略〉
目醫師( ○○○)
一堀川御池下ル町 堺海乘坊〈○中略〉
按摩( ○○)
一堺町押小路上ル町 喜多村理且〈○下略〉
p.0799 寶暦三癸酉年二月十二日
口中科( ○○○) 、 外科( ○○) 、 針醫( ○○) 等之内、 本道( ○○) 相兼候者も有レ之而は、代々家業之儀精出候樣可二相心得一候、右之趣、寄合醫師之面々〈江〉可レ被二相逹一候、
p.0799 寬政八丙辰年十一月四日
家傳諸科之外猥ニ轉科難二相成一旨逹御目付〈江〉御醫師中、各 專門( ○○) ニ致候諸科之儀、銘々其家之起創にて、自分として轉科者不二相成一儀勿論之儀ニ候、尤醫術相互ニ、諸科之儀轉々心懸無レ之而者難二相成一道理も可レ有レ之候得共、止處其家之專門を以て、御奉公をも仕、世上療治も廣致候儀、則あまねき御手當に候間、諸科之儀轉々心懸候迚、他科のみを專に致、家之科者いつとなく衰候樣成行候而者、御趣意にも背き候事ニ候、近來何も出精之趣ニ付而者、右之處彌以厚く相心得可レ申候、
右之通、御醫師中〈江〉可レ被レ逹候、奧醫師〈江〉者逹相濟候間、可レ被レ得二其意一候、
十一月
p.0799 醫師に、 内科( ○○) 外科あり、科はしなをわかつて、内外を別にして、療治するなり、しかれども内外元ひとつなり、互にしらずんばあるべからず、
p.0800 又〈○醫疾令〉云、醫生既讀二諸經一、乃分業敎習、〈○中略〉以二十二人一學二 體療一( ○○) 、○按ズルニ、醫疾令ニ體療トアルハ、即チ所レ謂内科ニシテ、創腫、少小、耳目口齒以外ノ身體諸病ヲ治スルヲ謂フナリ、
p.0800 ほんだう( ○○○○) 朝野群載に、本道人以二本道一成レ業など見えたるは、本算道之官など見えたる如く、四道の類それ〴〵の本職をいへり、今もはら醫流に、啞科、女科、外科に對し、 内科を本道といふ( ○○○○○○○○) は、薩戒記に、和氣丹波之一流、謂二之本道一と見え、康富記にも、本道の部に入らるヽといふ事も見えたり、
p.0800 醫藥名義〈并醫風變化附本道辨〉
本道と云は、公にて立おかるヽ本醫の外に、 權( カリ) に用らるる醫を權道と云に並べ云時の名なるを、世に 渾身( ミウチ) を治る醫にかけて云は誤也、そを又本科、本治、本療抔云は愈非也、されば此の書は更也、漢籍に十三科抔立たれど、本道と云科なし、いはゆる本道は、體療又は内科と云ぞ正き、下〈刺法〉に引ける、中原康富記に、所詮爲二權道一之間、御針不レ可レ苦云々、本道醫師中、當時無二針之名譽一云々と有にて悟べし、こは易きことながら、世に辨たる醫、をさ〳〵なかめれば、序に驚す物ぞ、抑中古より家を世々にし、又唐に擬ひて科を分ちしより拙く成けらし、醫道に科を分こと有べからず、
p.0800 醫師 醫道ハ和氣氏丹波氏、是ヲ和丹兩家ト云フ、醫者ノ 本道( ○○) 云々是也、當時半井典藥、千本典藥ナド稱レ之也、
p.0800 嘉吉二年十月廿五日壬子、是日禁裏樣〈○後花園〉御腫物平愈御候間、御付藥洗二落之一、御内藥モ今日マデ被二聞食一也云々、早々御本復天下大慶也、珍重候、醫師下郷也、盆一砂金三十兩被レ下云々、御内藥者淸阿、又典藥頭丹波賴豐朝臣等令二調進一者也、其外之 本道醫師( ○○○○) 秀長朝臣、盛長朝臣、茂成朝臣、篤 忠朝臣、保成朝臣等、濟々雖レ有レ之、皆不二參入一候間、應二勅喚一可二參内一之由、内々雖二所望申一、聊以不レ被レ召也、
p.0801 一客某嘗患二 頭痛一( ○○) 、既痛則嘔、其發也語言不レ出、但手自打二其首一耳、家人不レ知二其頭痛一也、皆以爲レ狂矣、先生診レ之、腹大攣恰如下線引二傀儡一之状上也、蓋頭痛之甚、有二如レ狂状一也、急與二呉茱萸湯一、二帖盡レ之、疾即愈、
p.0801 一男子患二大頭痛一、心下堅滿、按レ之痛、時時欲レ嘔、眼中赤眩不レ能レ視レ物、舌上黑胎、不二大便一十餘日、不レ欲二飮食一、則與二大柴胡湯一、大便快通、諸症稍雖レ退、頭痛如レ舊、後兼二用七寶丸一、全癒、
p.0801 氣
一吉田左兵衞内、食後 上氣( ○○) 、面赤頭痛、脈滑數、 降氣圓便莎加レ膏 食後用也
p.0801 丸龜候臣勝田九八郞女弟患二痿癖一、諸治無レ効、先生診レ之、體肉 動、 上氣殊甚( ○○○○) 、爲二桂苓朮甘湯一飮レ之、須臾坐レ尿二十四行、乃忽然起居、
p.0801 有二一贅婿一、新婚後數月、病二 暈眩一( ○○) 、隔レ日衂血、咳嗽潮熱、其脈弦數、家人悉謂二虚勢一、余一診而曰、腹氣堅實、是決非二虚勢一也、審二問其病因一、平生嗜二飮酒一過レ衆、比年來、爲二舅姑一制、絶二盃酒一、故致二氣火鬱蒸一、迺與二大黄黄連瀉心湯一、三十日而全愈、
p.0801 噦( しやくり) 〈一決反〉 呃逆、和名佐久利、〈○中略〉
按、今見二噦人一乃叱曰、汝 吃レ物矣、則止、是彼大驚之術也、或令レ出レ舌、假書二字於舌上一則止、是閉二口鼻氣一之術也、如有二病根一而噦者、件三術亦無レ効、大柢柹蒂散〈柹蒂黑燒〉以二白湯一下有レ効、如吸二煙草一爲レ噦者、急吃二煎茶一止、
p.0801 喘息( ○○)
文祿二ノ初
一關白秀次公、依二氣積上氣一、伊豆之熱海御湯治、初六七日、相當而食進、御氣快然、頻浴過多ニ因テ、氣逆上而胸塞、痰喘息麁不レ能二偃臥一、時召レ予診レ脈、寸脈ハ緊實ニシテ尺脈虚、足冷至レ膝、心ヨリ以上ニ 氣アツテ下ハ實虚ト、喘息聲聞二四隣一、東垣加減瀉白散一貼ヲ與テ息少定厥止、二貼而平復、其方桑〈一匁〉六〈七分〉貴半味參〈各半匁〉苓〈一分〉
p.0802 又長門一郷胥、 病レ喘( ○○) 數年、身體枯燥、腹皮迫急、氣息奄奄、語言蹇澀、余調二二仙散五分於韲汁一進レ之、飮レ之一口、至レ吮不レ下、不レ吐、手足微冷、額上生レ汗、脈絶欲レ死、急與二麝香末三分一、徐徐得レ解、
p.0802 心痛( ○○)
慶長二端午日
一大友一法師、患二心痛一、諸葯不レ効、一粒丸用二一粒一而定、又用二一粒一而愈、 唐王霜〈三分〉朱〈一分漆ニテ〉丸メ加レ之、丸大如二椒目一、
p.0802 嘉祥三年三月癸卯、帝嘗縱容謂二侍臣一曰、朕年甫七齡、得二腹結病一也、八歳得二臍下絞痛之痾一、尋患二頭風一、加二元服一後三年、始得二 胸病一( ○○) 、其病之爲レ體也、初似二心痛一稍如二錐刺一、終以增長如二刀割一、於レ是服二七氣丸紫苑生薑等湯一、初如レ有レ効、而後雖二重劑一不二曾効驗一、冷泉聖皇憂レ之、勅曰、予昔亦得二此病一、衆方不レ効、欲レ服二金液丹并白石英一、衆醫禁レ之不レ許、予猶強服、遂得二疾愈一、今聞レ所レ患、非二草藥之可一レ治、可レ服二金液丹一、
p.0802 守山侯臣野口兵右衞門、罪ヲ得テ幽閉數月、志氣鬱々トシテ樂マズ、遂ニ 胸痛( ○○) ヲ發シ、背ニ徹シテ痛、夜眠ル能ハズ、腹濡弱少腹尤力ナク、任脈少シク拘急ス、脈沈微、大便難、尾臺榕堂大茈胡括蔞薤白白酒湯等ヲ與ヘ、十棗湯大陷胸丸ヲ以テ、之ヲ攻ルコト數十日、痛益劇シ、病者殆ンド疲ル、余〈○淺田宗伯〉診シテ曰、病胸痺ニ屬スト雖、其人虚羸攻ムベキノ證ニアラズ、且淡飮胸隔ニ流注ス、宜温藥ヲ與フベシ、抧縮二陳湯ヲ與ヘ、時々滾痰丸ヲ兼用シテ淡飮温散シ、胸痛次第ニ減ジ、志氣大ニ復ス、因テ家ヲ携テ國ニ歸ル、
p.0802 吐血( ○○)
天正四年春、山岡孫太郞殿、〈二十餘歳〉平素實滿無病、而一日食後忽面靑、眩暈而吐逆、甚腹痛、一醫爲二 霍亂一而瀉レ之、即日吐二黑血一數椀、腹脹手不レ可レ近、又一醫作二蠱毒一、而金屑丸西大寺ノ藥ヲ與テ吐血、腹脹不レ止、三日之後予往而視レ之、腹大而呼吸連迫、脈沈細而數、予曰、此乃非レ蠱、平日飮酒過多、乃炙 ヲ過飡シ、中集ニ瘀血停滯而如レ此、又大便ニ下二黑血一、即遲角黄湯ニ陳桃ヲ加ヘ與レ之、二貼用テ忽咳逆連聲一日計、身熱汗出、脈微浮、 二陳ニ柴連芩ヲ加ヘ、竹瀝ヲ入テ與レ之、二貼而咳逆止熱退、其後大便二日不レ通、潤腸丸三十粒用テ通ズ、潮熱往來五六日不レ止、小柴胡ニ苓遺吐類ヲ加ヘ、出入加減十餘日而全安、
p.0803 吐血
一二十餘歳之男子、吐血久不レ已、夜身熱不レ能二安臥一、脈弦實五動、三黄湯 勺〈各二戔〉弓芐〈各一戔半〉茋〈一戔〉升此牡、〈各半戔〉煎服如二文連丹一、
p.0803 阿部聰德院隱居棚倉候年六十餘、吐血ヲ患ヒ、數日止マズ、心中煩悶、夜間發熱安眠ヲ得ズ、時ニ左脇下痛ミ、微咳食進マズ、川村宗憺、戸塚靜春院之ヲ療ジテ自若タリ、因テ余ニ診ヲ乞フ、余先華蕋石末一味ヲ以淸水ニ送下シ、次ニ黄連阿膠湯ヲ與フ、其夜安眠シ、明旦ニ至リテ吐血大ニ減ジ、二三日ヲ過テ全ク止ム、平素左脇下凝結アリテ、時々刺痛、左ニ側臥スレバ咳甚シ、乃柴胡疎肝湯加山巵子麥門冬ヲ與フルコト數旬、脇下ノ凝結解シ、刺痛咳嗽全愈、
p.0803 一男子患二久咳一、嘗吐血、爾後氣力大衰、短氣息迫、胸中悸而煩、腹攣急不レ能二左臥一、寝則汗出、下利日一二行、目上足胕生二微腫一、咳不レ止、飮食少減、羸瘦尤甚、則與二黄蓍建中湯一、盜汗止、攣急漸緩、得二左臥一、不二下利一、微腫散、咳依然、更兼二用解毒散一、經レ日諸症全退、
p.0803 諸血〈吐血、衂血、咳血、唾血、咯血、溺血、便血、腸血、臟血、〉諸血ヲ見ス者ハ、其脈多ハ芤大ナリ、沈細ナル者ハ治スベシ、洪大ナル者ハ、後必ズ治シ難キ也、一切ノ血症、多ハ熱ニ屬スルナレバ、其藥多ハ淸凉ノ劑ヲ用テ治スベキナリ、
p.0804 治二 肺病一( ○○) 方第十三〈○中略〉
千金方、治肺、虚寒乏氣、小腸拘急、腰痛羸 瘠( 瘦也/ヤセ也) 、百病大建中湯方、大棗廿枚、干薑三兩、夕藥二兩、甘草三兩、桂心三兩、五味水八升、煮取三升、去レ滓、内 八兩、煮三沸、分三服、
又之治肺、實則胸馮仰息泄氣除勢方、
枸杞根皮( ク、コノ子ノカハ) 二升、 白前( カヽモ) 三兩、 石膏( シライシ) 八兩、杏人三兩、橘皮五兩、白朮五兩、赤蜜七合、六味水七升、煮取二升、去レ滓下レ蜜煎兩三沸、分三服、
p.0804 治二 虚勞羸瘦一( ○○○○) 方第二
病源論云、夫血氣者所三以榮二養其身一也、虚勞之人、精髓萎竭、血氣虚弱、不レ能レ充二盛肌膚一、故羸瘦也、録驗方苟杞丸治二勞傷虚損一方、〈○下略〉
p.0804 虚勞
一五十餘之男子、痢後全不レ食、勞熱、晡毎二潮熱一、口乾手心熱、脈結ナゾニ加二莎宿朮紫一、
p.0804 咳嗽( ○○)
一長橋御局〈勾當内侍二十餘〉久患二勞咳一、今又感冐、咳甚出、背臂冷如レ手、又不レ食、 桔梗湯 參蘇飮 去レ蘇加二蘇子一効、
p.0804 肺癰( ○○)
文祿丙申正月朔、玄朔、〈四十八歳〉被レ遷二東海之邊一牢居、舊冬旅途街、付レ風還宅、而即入二浴室一潰二一身一、除夜初更、俄寒戰發熱、唾多咳痰潰涕、右膏盲之傍拘急而痛、少時而又右ノ乳邊、隱痛而寒戰往來數時、脈浮數、按二其證一、心肺之氣耗減、而今感二風寒一將レ成二肺癰一、 參蘇飮 姜棗二帖 二日、乳邊痛甚、痰唾帶レ血、同劑二貼、 三日、寒熱未レ止、 敗毒散ニ加二陳杏一二貼 惡寒止 發熱往來汗出、乳邊至二臍下一而痛甚、不レ能二側臥一、痰血出、 桔梗湯 桔貝〈各一匁〉斤蔞薏〈各八分〉枳紫已蓍〈各五分〉甘節杏栢合〈各三分〉入レ姜 加二玄知銀一、 五日、汗多出心下痛同前、人足陷骨之上引痛、大梗結、同劑加二通虎柴一、 六日、汗出熱漸退、鼻中生レ瘡、桔梗湯〈本方〉加二升陳一、 八日、熱退汗止、胸中之痛漸退、但倒臥則痛、又勞心則心中痛、桔梗湯加二參貴門斤玄一、 蚤歳、背上右脾骨之邊有二結核一、灸二其上ニ一而膿堅硬、而按レ之則出、今其近邊有二結核一而重著、揉レ之則如二白膠一者出、十六味流氣飮、
p.0805 肺癰
一二十餘歳之男子、肺癰、吐二膿血一胸痛、二便澀、 吉更湯吉貝斤芸桑蔞杏合茋密奴意甘、〈各等分〉加二通虎一姜入、
p.0805 虚勞〈附骨蒸〉
骨蒸勞瘵( ○○○○) ノ症ニハ、 獺肝( ダツカン/カハウソノキモ) 煎テ用、或ハ獺肉ヲ味噌汁ニテ煮テ、 餌( クハ) セタルモヨシ、是物ハ瘵虫ヲ治スルノ妙アル也、啓益常ニ用テ効ヲ得タルコト多シ、秘藏ノコト也、
p.0805 一歌妓年十七、與二一所歡一情好最密、誓爲二偕老之約一矣、有二一財主一、不レ知二其意一、眷戀極切、挑レ之數矣、妓不二敢貳一、於レ是財主以二厚貲一償レ之、居二之小梅村別莊一、自レ是妓鞅鞅不レ樂、財主百方慰二喩之一、不二敢適一レ意、居三月遂 疾レ瘵( ○○) 、藥治無レ効、換レ醫十有五人、皆言必死矣、因迓レ余〈○畑秀龍〉診レ之、余視レ之、上衝心下悸、脈至浮數、熱煩咳嗽、形軀 瘦、氣息綿憊乃作二苓桂五味甘草湯一與レ之、六十餘日、熱煩咳嗽徐愈、月水過度、至二十五餘日一不レ止、於レ是製二桂枝茯苓丸一與レ之服、一日五六十丸、別不レ進二煎藥一、出入百日所而復レ舊、病痊後數日、作レ書辭二主人一、遂奔二舊歡之家一云、古人所レ謂、莫下以二今日寵一能忘中舊日恩上者、此妓有焉、
p.0805 水蠟樹
寬政間、洛豪族買二一婢一、自云近江山村産、頗勤敏、得二主家之意一、居無レ幾得二 癆疾一( ○○) 、醫以爲不レ治、輿而歸レ家、主家痛惜、爲二終當一レ死、厥後數月而忽又還至、面貌怡和如レ常、家人且喜且訝、因叩二其由一、曰距二奴居一三里所有二一樵翁一、知レ治二此病一、就而乞レ藥服レ之、浹日大便見二如レ蜩者一、不レ久病癒、得三以有二今日一矣、主家語二之醫和田氏一、和 田氏遣二門生一、厚レ禮就レ翁詢レ之、翁乃至二屋後一、指二一灌木一、示レ之曰、惟此、併二剉枝葉一服レ之、無二復他技能一、木是水蠟樹云、按本草、虫白蠟殺二瘵蟲一、蓋偶相合者爾、
p.0806 勞瘵( ○○) ニ脊際ヲ灸スルニ、イボタ蠟ト百草霜等分丸トナシ服セシムレバ殊ニ驗アリト、田邊藩ノ吉田玄倫ノ話ナリ、
p.0806 伊澤長安話ス、先年飛騨ニ 傳屍( ○○) ヲ治スル奇藥ヲ施スモノアリ、一醫其方ヲ懇請スレドモ與ヘザリシユエ、山ニ入リテ藥ヲ製スルトキ、 ニコレヲ伺シニ、乾人糞ヲ燒タルニコソアリケレ、此ヨリ彼醫其方ヲ浪語セシニ、其後ハ彼人施スニモ效ナカリシトゾ、乾人糞ノ瘵ヲ治スルコトハ古方ニモ見タリ、
p.0806 高井元春ハ、 肺氣( ○○) ヲ救ベシトテ、自ラ金片堆ト云フ方ヲ製シテ、一少女ヲ治シテ驗アリシト、隆仙ノ語リキ、其方ハ木香、茯苓、當歸、勺藥、〈酒炒〉肉桂、五味子、三稜、白朮、厚朴〈炒〉、陳皮、甘草、薓葉、遠志、訶子、右十四味ヲ水煎服スルナリ、
p.0806 儒生近藤大作トイフモノ、苦學ノタメニ勞憊シ、 欬嗽( ○○) 、白沫、羸瘦、裏急等、諸證ヲアラハシ、タヾ脈氣ニ穩ナルトコロアルノミ、治ヲ原南陽ニ乞シニ、小柴胡湯ニ加附子茯苓ヲ處セリ、用ユルコト數十日ニシテ快復セリ、王德膚ノ固陽湯ヲ勞ヘ用ヒタルコトアレド、南陽ノ術マタ感服スルニ堪タリ、
p.0806 岡崎士人河野通親者、好二醫方一、有二二男一女一、其長子病二 癆瘵一( ○○) 而死、次子又疾、醫治不レ効、再再羸憊、河野謂二醫東城子一曰、吾兒疾篤、萬無二生理一、惟方書有下取二癆蟲一方上、而今人莫二敢用一レ之、予今欲下爲二吾兒一行上レ之、死者命也、予徒盡レ術而已、東城子曰、可也、河野乃用二虞天民醫學正傳所レ載神授丸一與服二日、下レ蟲形如二穀蟲一、人或以爲レ不レ死、然羸憊之甚、元氣不レ支、遂死、蓋晩也、無レ何少女又疾、時年十四、咳 累日不レ已、癆證粗具、河野試與二神授丸一、二日下レ蟲、時冬寒甚、且調補以保二元氣一、明年二月、又用二前方一、取レ蟲如レ法、數日 下レ蟲五六合、及小石如二蕎麥大一者十六枚、鐵椎擊レ之而不レ碎、蓋蟲所レ囓骨節也、後用二神脾之劑一而愈、惜也向使三二子者半服二此方一、則不レ死矣、東城子者岡崎侯侍醫也、子伯通記二其事一以告レ人云、
p.0807 八丁渠代地藥舖藤屋覺兵衞次女、年十一、生質虚弱、時々暴熱ヲ發シ、搐搦シテ、昏冐セントス、余千金龍胆湯ヲ與テ熱解ス、後咳嗽盜汗出テ、羸瘦脈虚數、小便赤澀、飮食進マズ、乃聖惠人參散ヲ與テ漸ニ愈、主人頗ル醫ヲ解ス、怪テ余ガ治方ヲ用ユルヲ問、余答曰、楊氏直指曾氏並云、十五以下爲レ疳、二十歳以上其病爲レ癆、醫學入門云、疳者乾也、瘦瘁少血也、二十歳以下曰レ疳、二十歳以上曰レ癆源一也、夫 疳ト癆トハ同因( ○○○○○○○) ニシテ、其證亦相似タリ、故ニ疳ニ黄瘦靑脤、鋸脊穗髮之症アレバ、癆ニ體黄爪靑、肚高毛聳ノ症アリ、疳ニ咬指捻眉之候アレバ、癆ニ揉鼻揩眼ノ候アリ、病疳ノ兒嗜炭吃泥佯笑多啼ノ變態アレバ、患癆ノ人愛レ暗憎レ明、卒怒暴嗔、嗜好常性ヲ變ジ、火腦水脚、米糞泔瀉、悉ク疳ト符喫ス、余故ニ疳ノ方ヲ以テ癆ヲ療シ、癆ノ法ヲ以テ疳ヲ治スルナリト、主人大ニ服ス、
p.0807 一橋御守殿仕女阿幾能〈内藤道右衞門女〉年二十餘、外感後咳嗽、聲瘂久シク愈エズ、羸瘦短氣、心志鬱塞、殆ンド三年ニ垂ントス、衆醫以 癆瘵( ○○) トス、余診シテ曰ク、病肺痿ニ屬ストイヘドモ、幸ニ經事斷ゼズ、脈細數ナラズ、或ハ救フベシ、因テ百合固金湯ヲ與ヘ、蛤蚧散ヲ兼用ス、數旬ニシテ咳止ミ、聲音響亮氣宇常ニ復ス、
p.0807 嘔吐( ○○)
文祿十一
一今上皇帝〈和仁〉、冷食過多、而嘔噦嘈雜、虫衝二上于心下一而鳴、安胃湯 人參丁香散
p.0807 一婦人、患ニ胃反一九ニ年於此一、經ニ衆醫一未三嘗些取ニ其効一、因迎ニ先生一〈○吉益東洞〉診レ之、其腹攣急、上下相連、雖レ吐然不レ渇也、食觸レ口不ニ爽快一、曰此心胸間有ニ支飮一故也、則與ニ茯苓飮一、服數日愈、
p.0807 膈噎( ○○)
一三十餘歳之男子、患レ膈、食則心中如レ刺、呑酸嘈雜子時吐、大便秘、脈遲右關緊、膈氣散、參令圭奴曲牙我京朮訶貴姜〈炮〉甘〈各一戔〉朴木兵〈各五分〉姜鹽少許入、亦ニ陳ニ加ニ奴莎杏蔞木朴一、出入加減、其間ニ爪蔞枳實丸、養胃丸交用、五十餘日痊、
p.0808 又有ニ一男子一病レ 噎( ○) 、年紀五十餘、食飮一切不レ通、日飮ニ醇酒三四盞一、容姿枯燥、但坐吐ニ白沫一、精彩瑩徹、夜夜不レ睡、余與ニ三聖散一、快吐數刻、吐後一日、食飮復レ常、晝間忽然而殞、
p.0808 噎膈 反胃( ○○)
反胃又翻胃トモ云、同義也、金匱ニ胃反ト出、猶ニ轉胞胞轉一、是ハ膈ト違テ食不レ下ニハ非ズ、食物得ト胃中に納リテヨリ出、朝ニ食シテ暮ニ吐ス、澼嚢ト云モノ反胃ト同病ニテ、近頃此邊ノ醫多澼嚢ト呼、何故ニカ近來此病多、全胃ノ力乏、飮食不レ能ニ消化一、故ニ噯氣酸辛鼻ヲ衝キ嘈雜スルコト頻ニテ腹痛甚ク、吐セバ痛乍止、故ニ指ヲ以テ探吐ス、食物ヲ吐盡ノ後ニハ水ヲ吐ス、何水ノ出ルヤト思フ程多ク、其水モ吐盡セバ煤色ノ物、又海苔ノ如ヲ吐コトモ有、滑便ノ人モ有レドモ先秘閉ス、便ノ通ズルハ痛薄シ、大概朝飯前快ク、午食後ニ至テ腹痛シ、以上ノ語ル症ヲ作シ、晩間晡後ニ吐、丁字湯曼倩湯主レ之、其人飮食味不レ變、却貪レ食平日ニ異ナリ、此病寒疝ニ屬ス、臍傍ニ堅塊アリ、是ヲ按セバ五體ニヒビキコタユ、數日ヲ經タルハ、腹ノ津液ナク、筋バリテ常ニ鳴、或足跗ニ微腫有、又腹面ニ一物浮出テムツクリト頭足有ガ如ク、按セバ手ゴタヘ無、ヂクヂクト鳴テ沒ス、不レ鳴ニ無ナルモ有、出沒無ニ定所一、非レ塊非ニ絡脈凝結一、此物ノ見ルルハ大病ニテ、一快ヲ得モ又再發ス、甚不審ニ思フ時ニ、一狂人切腹スルヲ押留テケルニ、臍傍三寸許切タリ、是ヲ縫テ治タル後ニ胃反ヲ患、彼腹面ニ件ノ物浮出テ如ニ小鼠一、又蛇ナンドノ動ニ似タリ、按スレバタワイモ無ク沒スルニ、其疵口ノ痕ノ邊ニテ消ス、仍テ思ニ是必大腸ノ脂膜ノ切テ、腹ノホグレテ收ラザルナラント、是ヨリ意ヲ用テ胃反ノ人ヲ見ルニ、果シテ大腸ノ脂膜切ユルミ、定位ニ不レ收也、疝氣ニ蟠腹氣ト云有、萬 病回春ニ盤腸氣ニ作、是適當ノ文字ナレドモ杜撰ノ恐アリ、金匱寒疝篇ノ大建中湯ニ有ニ頭足一上下スト見ユ、即是ヲ云、最建中湯主レ之所也、此病ハ法則ヲ守バ什ニ七八ハ治ス、外臺ニ華佗ヲ引テ、胃反病朝食後吐心下堅如レ杯、往來寒熱、吐逆不レ下レ食、此爲ニ寒癖所一レ作ト有、千金翼ニ、澼澼作治ニ痰飮一、法日、諸結積留飮、澼嚢胸滿、飮食不レ消、灸ニ通谷一五十壯ト見ユ、寒疝トモ寒澼トモ云ベキ也、其源ハ瘀血凝結シテ形ヲ作タルナリ、此病人何ニテモ見アタル物ヲ貪食シ、食スレバ必腹痛ス、魚肉餅麵生冷菓實ノ類ヲ食セバ、別テ大痛シテ晩ニ至テ吐ス、故ニ嚴禁スベシ、仍日用ノ食物常法ヲ定ム、一日ニ陳倉米一合ヨリ二合半、粥又ヤワラカノ湯取ノ飯、是ヲ四度ニ分テ食セシム、飮物ノ多ヲ嫌ガ故ニ、藥モ一貼ニ限リ、湯水モ一合ヲ一日ノ分量トス、茶ハ別テ惡シシ、燒鹽、ヒシホ、梅干、燒味噌位ノコトニテ食セシム、厚梁ノ物胃中ニ入レバ不レ能ニ消化一ガ故ニ痛ムナレバ、淡薄ニテ消化シ易ヲ食シメ、自然ニ胃ノ力復スレバ經ニ日月一而愈ユ、愈テ後モ禁食專一也、然ドモ此食忌ノコト容易ノ敎戒ニテハ守カヌル、腹痛モ吐モ合點ニテ貪食スルモノ也、此法ヲ守ル人ハ皆可レ治、不レ能レ守人ハ辭テ不レ與レ藥、病状ハ旋覆花、代赭石湯、附子粳米湯ニ似タレドモ、曼倩、丁字、背ニ徹痛セバ、當歸湯、吐甚ニハ安中散、疝ト積トヲ參考シテ、桂枝加附子烏頭湯ニ香脂丸ヲ兼用スルモ、大小建中工彖散モ用ユベシ、秘閉甚ニハ大甘草湯に加呉茱萸牡蠣ヲ用ユ、積聚門ニ語ル赤丸モ、生漆ヲ酒ニテ用ユルモ、此筋ニ工夫シテ用ユベシ、人ノ手ヲ束タルヲ治ベシ、
p.0809 治ニ 諸疝( シタハラ/アタハラ) 一方第二
新録方、治ニ 諸疝( ○○) 一方、桃白皮一升、以ニ水三升一煮ニ取一升一頓ニ服之一、又方、酒ニ服蒲黄二方寸匕日二一、又方、樢桃人八十枚、去レ皮研如レ泥酒下、
p.0809 積聚
一女猿樂〈號正、二十餘、〉、 氣積( ○○) 在二臍左右一、不レ食、順氣湯〈回〉木香調氣散、貴朴〈各二匁〉莎奴烏靑芎朮〈各一匁〉 木宿〈各半匁〉桂〈三分〉甘 用二右煎汁一則吐逆、以二同劑一爲レ丸用レ之効、
p.0810 疝氣( ○○)
文祿三十一月
一民部卿法印、俄思寒戰慄、頭痛無レ汗、驢菴作二傷寒一、而十神湯ヲ與、翌日〈予〉診レ脈、左關弦實兩尺緊急、〈予〉曰、小腹筋急乎否乎、法印曰、臍兩傍筋引二入陰筋一、〈予〉曰、此必疝氣、惡寒止、發熱往來、頭痛尚未レ止、 小柴胡 梔陳靑芎ヲ加テ與レ之、翌日陰囊腫大而痛、半井竹和軒、三和散ニ練實ヲ加與レ之、三日發熱尚未レ止、法印又〈予〉ニ命ジテ葯ヲ服スベシト、又小柴ニ梔靑芎貴之類ヲ加、二日而發熱退、陰囊膿潰、外醫鐵針ヲ燒テ、潰爛處ニアテ、膏葯ヲ付、古キ木綿ヲヒロゲ蓋テ、日ニ二次易レ之、又未レ破處甚疼瘀、鹽ヲ炒熱シテ紙ニ裏ミ、ヌルカ子ノカンニシテ熨レ之、疼瘀退、二十餘日而愈、熱漸退而後ハ、三和散ニ加減而用レ之、〈○中略〉
腹痛( ○○)
一藤堂少兵衞殿、心腹右傍、筋堅引痛不レ可レ堪、 安胃湯 靑芎梹朴陳朮良我桂姜 痛止之後養生、加二木甘參宿一、
p.0810 浪華島之内賈人伊丹屋某者、嘗患二腹痛一、腹中有二一小塊一、按レ之則痛劇、身體尫羸、面色靑、大便難レ通、飮食如レ常、乃與二大柴胡湯一飮レ之歳餘、少差、於レ是病者徐怠慢、不レ服レ藥、既而經二七八月一、前證復發、塊倍二于前日一、頗如二冬瓜一、煩悸、喜怒劇則如レ狂、衆醫交療不レ差、復請二治先生一、再與以二前方一、兼二用當歸勺藥散一、服レ之月餘、一日大下二異物一、其形状如二海月一、色灰白、形有レ似レ囊、内空虚可三以盛二水醬一、其餘或圓或長、或大或小、或有二似レ紐者一、或黄色如二魚餒一、或如二敗肉一、千形萬状、不レ可二枚擧一、如レ此九日而後、舊痾頓除、京師一女子、年九歳、有二 寒疾一( ○○) 、求二治先生一、門生某診レ之、蒸蒸發熱、汗出而渇、先與二五苓散一、服レ湯渇稍減、然熱與レ汗尚如レ故、其舌或黄或黑、大便燥結、胸中煩悶更與二調胃承氣湯一、服後下利數行、而煩倍加、食則吐、熱 益熾、將レ難二救療一、先生曰、調胃承氣湯非二其治一也、此爲二桃仁承氣湯之證矣、服レ湯全瘳、
p.0811 又有二一女子一、病二 鼓脹一( ○○) 、腹皮光瑩射レ人、盡レ力推レ之、空洞無レ物、大小便不レ利、飮啖頗健、余調二三聖散一錢於 虀汁一( クキツケノシル) 進、吐二穢物數升一、又以二雙紫圓三分一下レ之數十行、其明大便泄利、小便斷不レ下、腹脹減不レ足レ言、不レ日如レ故、經二數旬一而死、
p.0811 腰痛( ○○)
一持明院中納言、〈八十四〉常腰痛作、暮俄側腰脇痛、而引二小腹一不レ能二轉倒一、脈沈細、 通經湯 醫〈腰痛〉立安散 茴仲延桂芹〈各一匁〉木〈半匁〉五貼而効、後用二三和散一、十餘貼而平安、
p.0811 内傷( ○○) 〈附飮食〉
慶長子四月十四日
一小笠原信濃守、〈年三十餘〉常過二飮酒一、久瀉之後足底胕腫、脈緩、 補中湯 八解ニ加二菖宿通外一
p.0811 食傷( ○○) 〈○中略〉
一今上皇帝〈○後陽成〉御食傷、瀉利吐逆、 藿香養胃湯、倉〈三匁〉、朴守〈各二分〉、婆貴〈各一分〉、甘〈少〉入二姜棗一、
p.0811 霍亂( ○○)
天正十六月
一陽光院殿、〈誠仁院〉患二霍亂一、前日飮酒過多、早晨吐逆悶亂、半井通仙軒御脈ヲ候フ、癇證ト見テ、御脈ハ心肝ノ虚ニテ御座候ト申、諸臣不レ諾而退出、又盛方院淨勝法印御脈ヲ候フ、暑氣ト申テ即御葯進上、一日一夜進上、吐逆悶亂尚未レ止、予御脈ヲ診曰、暑氣許ニ非ズ、下地脾腎虚損、而又今飮酒過多ニ因テ霍亂也、酒毒ヲ消スル葯ニ非ンバ不レ驗ト、諸臣承諾、即御葯進上シテ、翌日平安、時予蒙二法眼之號一、再三辭スト雖ドモ、堅御口ニテ宣案頂戴、年〈卅四歳〉御本復御祝事、御柄子澀谷伺候、一番養老、シテ〈與吉〉、二番班女、シテ〈宗及〉、三番東方朔、シテ〈勝右〉、四番吉野靜、シテ〈與吉〉、五番蟻、シテ 〈宗及〉、六番軒端、シテ〈勝右〉、七番高砂、シテ〈與吉〉、予見物ニ伺候、勅命ニテ大典侍殿局御縁ニ參候ス、
p.0812 霍亂
一卅餘歳之女子、霍亂、腹痛吐瀉、氣欲レ絶、脈伏便結、灸二臍中一〈十一壯〉、理中湯參朮姜甘、〈各等分〉加二良薷一附レ腹痛止、臍下堅滿、脈弦、丁香脾積圓十粒宛、三次大便快利、疼悉退、
p.0812 泄瀉( ○○)
天正十五春
一毛利右馬頭〈輝元公、三十五歳、〉關白大相國秀吉公、爲二島津征伐一御動座、于レ時輝元在二豐前之小倉一、臥二沈痾一、瀉利下血不レ止、心下有二堅積一、左脚脛腫高骨痛、而行歩不レ遂、予依二殿下之命一至二小倉一療レ之、歴二十數日一而足痛大半減、乘レ馬而經二豐後一入二日向一、予從レ之治レ之、島津向參之後被レ納二御馬一、輝元被レ歸二安藝吉田一、至二季秋一而平復、而予既歸洛、初ハ朮苓陳通已役乳近膝參甘之類、後ハ參朮苓甘霍朴半貴靑芍膠歸之類、出入加減而平安、
p.0812 有レ兒五六歳、病二 天行痢一( ○○○) 、二日而發二驚癇一、直視攣急、身冷脈伏、醫將レ用二三黄湯一、余止レ之曰、癇以二痢初頭一發、其腹氣堅實、雖レ危不レ至レ死、今外症未レ解、而用二三黄湯一、則恐痢毒婉鬱、而延二救十日一、數十日後、腹氣虚竭、癇再發則不レ可レ救、今日之政、唯須二發散一、乃以二葛根湯一發レ之、兼少用二熊膽一、經二五日一而痢愈、癇不二再發一、
p.0812 一婦人年九十歳、患二 赤白痢一( ○○○) 、日七十行、舌上黑胎、身熱如レ灼、時時譫語、渇欲レ飮レ水、絶レ食數日、腹皮著レ脊、息則搖レ肩、從二臍傍一至二心下一、按レ之如レ石、動氣尤甚、與二調胃承氣湯一、數日諸症漸退、後腹痛、小便不利、淸穀下利、手足微腫、疲勞尤甚、則與二眞武湯一、諸症全得レ瘥、
p.0812 痢病の藥
蕎麥粉、葛粉等分ニ合セ、水ニカキ交テ用ユ、早速シルシアリ、但實症ノ痢ニ用ユ、虚症ニハ不レ用、〈噤利ナドニハイムベシ〉 右二味ニ、砂糖ヲ等分ニ合セタルヨシ、右兩方高村傳菴傳、
p.0813 一元祿四年五六月ノ間、久霖シテ士民悉ク 暑濕ノ氣ニ感ジテ頭痛如レ裂( ○○○○○○○○○○○○) 、〈啓益〉爲ニ一方ヲ製ス、胃苓湯ニ柴胡黄芩ヲ加テ本トシ、熱甚ク大便秘セバ、黄連石羔ヲ加フ、大便泄スルニハ、白扁豆升麻ヲ加フ、腹痛ニハ本香砂仁ヲ加フ、咽渇ニハ葛根ヲ加フ、頭痛ニハ羗活川芎ヲ加フ、眼中黄ムニハ、茵蔯ヲ加テ用レ之、應レ手有レ効、津城三千戸及ビ國中ノ人、其靈方ノ應驗ヲ聞傳テ乞レ藥者滿レ門、毎日此方ヲ修合シテ、人ニ與ル事以レ百數レ之、奇々妙々可レ秘々々、
p.0813 一元祿六年六七月ノ間、大ニ旱シ、金流シ石爍ル、八月ノ初ヨリ、俄ニ收歛淸肅ノ令行ハレ、暴風霖雨、白露忽霜ニ變ズ、國中ノ諸人一般ノ 時疫ニ感ジ( ○○○○○) 、其病状、發熱惡寒、頭痛如レ裂、 咳嗽シ( ○○○) 、身體重ク、頭冷テ如レ氷、或ハ 泄痢ヲ兼ネ( ○○○○○) 、或ハ 瘧ノ如( ○○○) 、〈啓益〉治レ之ニ、黄連香薷飮ニ蒼朮ヲ加テ、百發百中ス、一醫問テ曰、元祿四年ノ夏、吾子一般ノ時疫ヲ治スルニ、胃苓湯ニ加減シテ應驗如レ神、今年前方ヲ用ルニ無レ効、或ハ藿香正氣散、小柴胡湯、淸暑益氣湯、白虎湯ノ加減ノ方ヲ用テ無レ効、吾子又治二此症一二四五貼ヲ不レ待シテ藥効ヲ見ル、何等ノ神方アツテ如レ是ナル、授レ予ニ吝カナルコトナクンバ、弟子ノ禮ヲ以拜レ之、予ガ曰、前歳一般ノ時疫ハ、濕温ノ症也、 今歳一般ノ時疫( ○○○○○○○) ハ、伏暑ノ症也、六七月天旱極熱ス、人皆暑邪ニ感ズ、然ニ八月俄ニ淸寒ノ令行レ、霜早ク降ル、故ニ新凉ノ氣皮毛ヲ犯シテ、暑邪出スルコトアタハズ、熱寒交々作リ、熱鬱シテ諸病ニ變ズ、是ヲ伏暑ノ症ト云、香薷ニアラズンバ除クコトアタワズ、故ニ黄連香薷飮ニ、蒼朮ヲ加テ應レ手有レ効、君夫退テ思レ之、謹勿二膠レ柱調レ瑟刻レ舟求一レ劒、
p.0813 京都、六七年ヨリ、急劇ノ病流行シ、人ヲソコナウ事少カラズ、其症心腹脹痛シ、或胸中痛裂ガ如ク、腹攣急シ、呼吸短促、其状全ク 結胸( ○○) トモ云フベシ、大抵形状右ノ如クナルユヘ、時醫多ク大陷胸湯ヲ用ユ、予〈○片岡元周〉モ亦手段ナケレバ、大陷胸湯ヲ用ユル者凡五六人、服藥ノ後暫時ハ病 勢ユルムヤウニ見ユレドモ、ヤガテ前ノ如ク盛ニナリ、其後ハ大陷胸ノ類ヲ用レドモ即時ニ吐出シ、次第ニ胸中ニ上冲シ、昏悶百苦シテ皆死ス、其迅速ナルコト、或三日或六七日ニ過ズ、京師ノ俗コレヲ 三日坊( ○○○) ト名ク、予屢ソノ病ヲ診スルニ、其症結胸ニ似タレドモ、其脈結胸ノ脈ニ非ズ、皆浮虚或浮弱、或沈微沈細ニシテ力ナシ、因テ思フ、此症實ニ非ズシテ虚也、下劑ノ宜キ所ニ非ズ、全ク 脚氣ノ一種( ○○○○○) ニテ、水毒急ニ胸中ニ上冲スル者也ト、
p.0814 文政庚辰〈○三年〉春夏ノ際淫雨ヤマズ、ソレヨリ暑ヲ催ス頃マデ、乾霍亂ニ似テ心腹暴痛スル病人多シ、其證熱氣アリテ脈洪大、心下滿鞕、支痛スルコトモアリ、飮食下ラズ、大便秘結ス、因テ備急陷胸ナドニテ一下シテ、一旦ハヤ、緩メドモ、却テ痛甚ク、熱候盛ニナリ、煩渇スルニ至ル、是ニ於テオモヘラク、此雨濕ノ氣、内ニ犯テ水毒ノ聚タルモノナラン、下スベキ證ナラズトシテ、增損理中丸料ニ蒼朮ヲ用テ白朮ニ代ヘ、水煎服セシメシニ、痛頓ニ減ジ不日ニ快復セリ、遂ニ十數人ヲ活シタリ、後ニ導水瑣言ヲ撿スルニ、京師ニ結胸證ニ似テ下劑ノ應ゼズ、外臺ノ桑白皮黑豆檳榔ノ方ニテ愈ル證行レシコトアリト云ヘリ、蓋一類ノ病ナリ、
p.0814 天保八酉年四月
大目付〈江〉
時疫( ○○) 流行候節、此藥を用て、其煩をのがるべし、
一時疫には、大つぶなる黑大豆をよくいりて壹合、甘草壹匁、水に而せんじ出し、時々呑でよし、右醫證に出ル、一時疫には、茗荷の根と葉をつきくだき、汁をとり、多く呑でよし、右肘後備救方に出ル、一時疫には、牛房をつきくだき、汁をしぼり、茶碗半分づヽ二度飮て、其上茶の葉を一握ほど火にてよくあぶり、きいろになりたるとき、茶碗に水四盃入、二盃にせんじて一度飮て汗をかきて よし、若し茶の葉なくば枝に而もよし、
右孫眞人食忌ニ出ル
一時疫に而、熱殊之外つよく、きちがいの如くさわぎてくる志むには、芭蕉の根をつきくだき、汁を志ぼりて飮てよし、右肘後備急方ニ出ル、
一切の食物毒にあたり、又いろ〳〵の草木、きのこ、魚鳥獸など喰煩に用ひて、其死をのがるべし、
一一切の食物の毒にあたり、くる志むには、いりたる鹽をなめ、又はぬるき湯にかきたて飮てよし、
但、草木の葉を喰て、毒にあたりたるには、いよ〳〵よし、右農政全書に出ル、
一一切の食物の毒にあたりて、苦しく腹脹痛には、苦參を水にて能せんじ、飮食を吐出してよし、右同斷、
一一切の食物にあたり、くる志むに、大麥の粉をこふばしくいりて、さゆにて度々飮てよし、右本草綱目に出ル、
一一切の食物にあてられて、口鼻より血出で、もだへくる志むには、ねぎをきざみて、壹合水にてよくせんじ、ひやしておきて幾度も飮べし、血出やむまで用てよし、右衞生易簡に出ル、
一一切の食物の毒にあたり煩に、大つぶなる黒大豆を水にてせんじ、幾度も用ひてよし、魚にあたりたるにはいよ〳〵よし、
一一切の食物の毒にあたり煩に、赤小豆の黒燒を粉にして、はまぐりかひに一つ程づヽ水にて用ゆべし、獸の毒にあたりたるには、いよ〳〵よし、右千金方に出ル、
一菌を喰あてられたるに、忍冬の莖葉とも生にてかみ、汁をのみてよし、右夷堅志に出ル、
右之藥方、凶年之節、邊土之者、雜食の毒にあたり、又凶年之後、必疫病流行の事あり、其爲に、簡便方を撰むべき旨、依レ被二仰付一、諸書之内より致二吟味一出也、
享保十八辛丑年一二月 望月三英
丹波正伯
右は、享保十八辛丑年、飢饉之後、時疫流行いたし候處、町奉行所〈江〉板行被二仰付一、御料所村々〈江〉も被レ下候寫、
右は、當時諸國村々疫病流行いたし候、又は輕きものども、雜食之毒に當り、相煩難儀いたし候趣相聞候、天明四辰年御藥法爲二御救一相觸候處、年久敷事故、村々に而致二遺失一候儀も可レ有レ之候ニ付、此度爲二御救一右之寫、猶又村々〈江〉領主地頭より可レ被二相觸一候、
右之通、可レ被二相觸一候、
四月
p.0816 於二出島一千八百五十八年第七月十三日〈當二日本安政五年五月一〉此兩三日中、出島市中とも、一時に下痢、且追々吐かヽり申候、右患病之者、既に昨十二日、一時に三十人相煩、將又亞墨利加蒸氣船ミシツヒーにおいても、右樣之腹病多人數御座候ニ付、右病原は究て流行のものと奉レ存候、右は他國にても頃日多分發り申候、
一隣國唐土にても、諸街市海岸には、コレラアジアテイス病名流行仕、右ニ付日々死失多人數御座候由、依レ之出島に罷在候歐邏巴人どもに付而は、右下痢殊の外變症仕、實眞のコレラ病に不二相成一樣、防方可レ仕候に御座候、右之摸樣ニ而は、眞實相發可レ申、右病之害と相成候食物顯然に御座候、右食物類禁止仕、保養之手當示置申候、
第一、胡瓜、 第二、西瓜、 第三、李、杏子、桃、
右二品は、至極大事之下痢不レ可レ服物に御座候、第三品は於二日本一相用候樣之未熟之菓物、是は顯然害に相成申候、
一歐邏 之諸國、其外國々において、右樣之病氣發候節は、右病之增長防候爲、其國民之右害に成候食料之儀告知せ、勿論賣買禁候事必用之儀に御座候、依レ之和蘭政府醫師たる役目に御座候、且又日本人ニ付而者、左之通り養生法一統示方強而は難二申上一儀に御座候、
第一、胡瓜、西瓜、未熟之杏子、李等相用候儀堅禁候事、
第二、人々躶に而、かならず夜氣に觸不レ申樣心掛可レ申、夜分决而衣類覆はず寢入申間敷事、
第三、日中暑氣にふれ、餘り心勞之仕事致間敷候事、
第四、諸惰弱之行、殊に酒呑過候儀、もつとも害に相成候事、
第五、若し下痢相覺候はヾ、直樣療用之手當致し、猶豫いたす間敷候事、
右之通り申上候譯合に而、私共を襲候危敵たるコレラ病除去候、御賢慮可レ被レ爲レ在儀に御座候、和蘭海軍方第二醫官
於二日本窮理學館一
ウエイエルボム、ヘフアン
メードルフヲールト
p.0817 杉湯
續詞花集〈雜上〉云、大齋院 御あしなやませ( ○○○○○○○) 給を、すぎの湯にてゆでさせ給べきよし申ければ、ゆでさせ給へど、しるしも見えざりければ、齋院宰相、
あしびきのやまひもやまず見ゆる哉しるしの杉とたれかいひけん かへし齋院
しるしありとすぎにしかたはきくものをわがこのみわのやまぬなるべし、按ずるに、證類本 草に、唐本注云、杉木材水煮汁、浸二埒脚氣一、また本草圖經曰、杉材、醫師取二其節一煮レ汁、浸二埒脚氣一殊効、唐柳柳州纂救三死方云、元和十二年二月、得二脚氣一、夜半痞絶、脇有レ塊、大如レ石、且レ死、困塞不レ知レ人三日、家人號哭、榮陽鄭洵美、傳二杉木湯一、服半食頃、大下三次、氣通塊散、杉木節一大升、橘葉切一大升、北地無レ葉、可二以レ皮代一レ之、大腹檳椰七枚、合レ子碎レ之、童子小便三大升、共煮取二一大升半一、分二兩服一、若一服得二快利一、即停二後服一、〈按に本事方にも亦柳氏方を載たり〉本草衍羲に、杉作レ屑、煮汁浸二洗脚氣腫滿一とあり、また續門葉集〈雜上〉云、大藏卿隆博、藥湯のために、杉の葉をこひ侍りける返事にそへ侍りける、法印公紹、
君がとふしる志とも又なりにけり杉のみたてる秋の山本、又按ずるに、藥湯のためにとあれば、これも脚氣ゆでん料にや、梶原性全の頓醫抄三卷〈脚氣部〉云、凡脚氣ノ人ハ、家ニモチフルトコロノ桶杓ナラビニ、板ジキマデモ杉ノ木ヲ用フ、又杉ノ葉杉ノ木、常ニ煎ジテ足ヲユデ、并ニ腫タラン處ヲユデヨ、キハメテシルシアリ、濟生方ニハユヅルコトヲ、イマシメタレドモ、ユデヽ愈タルシルシ、オホクミエタリとあり、杉木の桶の事は、續博物志に、脚弱病用二杉木一爲レ桶濯レ足といへり、
p.0818 治承五年三月六日壬午、泰茂來、又典藥頭定成來問二余 脚氣( ○○) 事一、申云、暫不レ可レ加二療治一、只以二行歩一 可レ爲レ治( ○○○)云々、申聞等有二其理一、
p.0818 脚氣
一菊亭右大臣晴季公、〈年六十餘〉右腿脚筋痛 健歩丸 鹿角霜〈一分〉百〈二分〉己蒼〈各二分〉糊丸鹽湯或酒〈一分〉灸風市 三里 絶骨
p.0818 從レ股至レ足分
脚病治方、此疾ノ形種々有ト云トモ最要ヲ取注ス、脚氣初テ發テ膝ハギ足カタ肘ヒイラギ痺脊カハレ、腰滿テ推ニ指入テクボムヲ、療方、萆麻葉刻テ春テ一升布袋ニ入テ、蒸テ温ニシテ痛ム所ニ當ヨ、腫ルニモ好シ、三度カヘヨ、若萆麻葉ナクバ或慧薏苡草、或朔藋根ニ糟一分合テ蒸テ宛ヨ、
p.0819 沐浴〈○中略〉
一ふさんとする時、 あつきゆにてあしをあらふべし( ○○○○○○○○○○○○○○) 、つねにかくのごとくすれば、 かつけ( ○○○) のやまひなし、
p.0819 脚氣
脚氣ハ初テ金匱要略ニ出ヅ、隋唐ニ至テ腫ノ有ル者ヲ温濕脚氣ト爲シ、腫ノナキ者ヲ乾脚氣ト云ヲ二證ニ分ツ、夏秋ノ間ニ行ハルヽ雜氣病ニシテ、一ビ感ズルトキハ毎年之ヲ患ヒテ、宿疾ノヤウニナリ、内因病ニ似タレドモ、實ハ外感ニシテ内因ニ非ズ、其人ノ資質脚氣ニ感ジ易ク、毎年脚氣行ハルヽトキハ之ニ感ズルニテ、宿疾ノ再發スルニ非ズ、譬猶瘧疾ニ感ジ易キ者、年年瘧ヲ患フルガ如シ、千金方ニ風毒脚氣ト稱シ、外感ト爲シテ桂枝、麻黄、防風、羗活等ノ發表袪風ノ劑ヲ用ヒタルハ自然ノ發明ナリ、南宋以降多クハ腎虚ト爲シテ、漫ニ強陽滋陰ノ劑ヲ用ユルハ大ナル謬ナリ、金匱要略ニ脚氣ヘ腎氣丸ヲ用ユ、腎氣丸ハ即腎藥ニシテ、且脚氣ハ身體痿弱シテ陰莖マデモ痿スルモノナレバ、此等ノコトニテ脚氣ヲ腎虚ト心得タル者ナルベシ、本邦嘉元ノ頃、梶原性全萬安方ヲ著シ、獨能ク古方ヲ守テ補劑ヲ用ヒズ、正德享保ノ際ニ至テ、山脇道作、望月三英等、初テ千金外臺ノ方法ヲ撰用シテ、疎利ヲ專務トシタルハ卓見ト謂ツベシ、
p.0819 附言
近世有一レ名二 浮苦病一( ○○○) 者上、方言也、其症、肢體黄腫、胸腹爲レ脹、治レ之以二水葒鐵粉之劑一、服者多愈、蓋田夫野人、多罹二此疾一、或云、 黄胖( ○○) 也、又有一レ名二 母多足一( ○○○) 者上、一名 坂下( ○○) 、皆方言也、足脛爲レ腫、起居如レ常、甚者難二歩履一、今時屢見二兩足粗大與レ疾偕老者一、即古所レ謂 壅疾( ○○) 是也、又高野山中、冬月間童子十五六歳者、多罹二脚疾一、初其感レ之、兩脚爲レ攣、行歩艱痛、坐臥則如レ忘、他無レ所レ苦、數與二藥餌一無レ効、唯當二春暖之時一、投二脚田澤中一、屢踏二泥濘一、則其病必愈、或不レ愈者、動輙爲レ痼、終身禹歩云、率遭二此疾一者屬二痩人一、肥人蓋無レ之、 予( ○) 〈○源養德〉 謂皆是脚氣之類也( ○○○○○○○○) 、
p.0820 一士徇二役于江戸一、患二 兩脚浮腫一( ○○○○) 、筋攣肉痺、衆皆以爲二脚氣一、治レ之無レ驗、來二于京師一請レ治、韞卿曰、此 疝瘕( ○○) 、即爲二四逆散一、加二呉 萸牡蠣劉寄奴湯一與レ之、未二三旬一病已、所二以知一レ非二脚氣一者、切二其脈一沈緊、心下痞硬、脇下逆滿、臍左有レ塊、而胸腹無レ動、氣息如レ常、故曰二疝瘕一、一婦浮腫脚弱、筋攣急、至レ夜氣自二左脇一賁二衝胸鬲一、煩悶不レ能レ寐、衆皆以爲二脚氣一、治レ無レ驗、乃按二其腹一、心下拘急、胸下痞而有レ動、然心中不レ悸、身無レ所二麻痺一、即爲二大柴胡一加二龍骨牡蠣呉茱萸甘草湯一與レ之、一劑而知、十劑而愈、〈○中略〉文化二年九月 栲亭源之煕〈○村瀨〉撰
p.0820 水腫( ○○)
平安山脇東門先生寄レ書曰、得下浪華林一烏治二水腫一方上曰、地膚子〈大〉大麥、小豆〈各中〉右三味各別炒、合和調匀、更炒レ之、是一烏之奴、竊識而傳レ之也、余不レ知三林一烏爲二何人一、後讀二望鹿門又玄餘草一、有二林一烏傳一曰、羽林山名氏、持レ節戌二鎮攝城一、臨レ往令下烏以二醫藥一從上焉、到時城内逢二于疫腫更興一焉、一般流行、暴死者甚多、烏爲設二一法一、又立二一方一、 斷二禁米粟一( ○○○○) 、 偏食二菽麥一( ○○○○) 以令レ疎二泄敦阜一、乃試施レ之、屢有レ收レ功、後好事者、或名爲二脚氣腫滿一云、然烏者惟稱レ腫不レ用二別名一、烏來二東都一寓二居于金龍山畔一、其治驗藥餌自積爲レ書、名二客中集一、其書半刻在レ世、半藏在レ家、未二全備一、乃活套也、其立方、禁二秘枕中一不レ欲レ傳二非人一、故其書不レ載、或欲下將二三百金一換中其方上者不二敢肯一、然今其不レ傳、後世恐屬二烏有一、可レ惜哉、
p.0820 關宿侯臣由岐七郎 脚氣( ○○) ヲ患ヒ、遍身水腫麻痺、四肢ヨリ口吻ニ至リ、心下痞滿、嘔逆ヲ發シ、虚里動高ク、短氣小便不利、殆ンド衝心セント欲ス、余〈○淺田宗伯〉靈砂一戔ヲ以、井華水ニ調シ送下ス、須臾ニシテ嘔氣稍止、尋デ犀角旋覆花湯ヲ與フ、兩三日ヲ經テ、衝逆ノ勢挫ケ、洪腫故ノ如シ、因テ越婢加朮苓合唐侍中一方ヲ與ヘ、三聖丸ヲ兼用、四五日ニシテ小便快利、隨テ減ジ、危急ヲ免ル、
p.0820 便毒( ○○)
一岡半兵衞、〈三十歳〉便毒之處、腫痛上熱、赤二口舌一生レ瘡、喉中痰結、 淸氣湯〈集驗〉 連翹飮 翹歸括 荊芩門瞿通力丹屏芎〈等分〉甘、
p.0821 京師岩上賈人某者、患二 黴瘡一( ○○) 、差後鼻梁壞陷、殆與二兩頰一等、先生〈○吉益東洞〉爲二七寶丸一飮レ之、其鼻反、腫脹三二倍於平人一、及レ盡二二劑一、則稍縮收、再見二全鼻一、
p.0821 上野國新田郡木崎宿中島廣吉、 黴毒( ○○) ヲ患ヒ數年差エズ、咽喉糜爛、聲音嗄シテ出デズ、虚羸骨立ス、都下ニ來テ藥ヲ諸醫ニ乞フ、寸効ナシ、余麥門冬湯加桔梗山豆根ヲ與ヘ、結毒紫金丹ヲ兼用ス、數日ニシテ聲音響亮咽喉常ニ復ス、喜ンデ歸國ス、
p.0821 消渇( ○○)
一今上皇帝〈 後陽成 二十九歳〉俄大渇、引飮十餘碗、大便瀉、于レ時眩暈心悸、御脈微弦、 甘露湯 錢氏白朮散加二門栢一、 夢遺小便( ○○○○) 赤濁、脈右尺有レ力、 淸心湯 前劑ニ加二升〈中〉柴〈中〉梔〈中〉 〈小〉佰〈小〉一、其間用二安神散或地黄丸一、〈○中略〉
淋( ○)
一鍋島信濃守、〈年三十餘〉自二少年一患二淋病一、去發不レ時、須二甚發一而閉澀、通而後痛甚、引二張嚢下一、大便結、脈弦實、 淸源湯 八正散 不レ効 四物ニ加二翹通梔〈 各半〉倍虎〈各小一〉効、 灸二關元〈五十壯〉膀胱愈一、〈各五十壯〉〈○中略〉
痔漏( ○○)
一舟越美作守、〈二十歳〉痔漏痛不レ可レ堪、咽乾大便結、全不食、脈弦數、 秦芁湯 秦芁防風湯 芁云斤朮〈各一匁半〉澤〈六分〉酒〈五分〉虎陳〈各三分〉桃〈三十ケ今作二匁二分私〉紅〈少〉甘〈少○中略〉
瘰癧( ○○)
一大文字屋宗悟、〈四十歳〉感冐發熱之後、時々潮熱、盜汗久不レ止、頃兩頰下腫高、又便毒之處腫高、脈弦 實而五動、 通氣湯〈傳瘰〉柴胡連翹瞿〈二匁〉柴堯知〈酒〉芩〈炒各一匁半〉力湘 〈各一匁〉 〈五分 半( 无イ) 〉桂〈一分〉
p.0822 痛風( ○○)
一二見大夫殿母、〈五十餘歳〉四肢痛痺、行歩不レ遂、虫衝上、脈沈濇、 通經湯 四物ニ加二已通爪膝紅桔桃羗百朮梹木一、
p.0822 天保十年
初夏十九日、本船町若松屋藤四郎〈橘爪尹香息〉診ヲ乞、其證 歴節( ○○) 痛劇シク、焮熱妄語、飮食スル能ハズ、大小便秘澀ス、醫或ハ 傷寒( ○○) トシ、或ハ 傷冷毒( ○○○) 〈西洋病名〉トシ、錯治効ナシ、余千金犀角湯加二黄連ヲ一用、二三日奇驗ヲ得タリ、爾後此方ヲ以、熱毒節ヲ治スルニ、驗アラザルコトナシ、
p.0822 一痛風、氣盧ニ屬スル症、遍身走痛シテ晝ハ輕ク夜ハ重キ者、或ハ酒色過多シテ筋脈空虚シ、風濕ニ中ラレテ、遍身手足走痛シテ如レ刺ニ、蒼朮、牛膝、陳皮、桃仁、葳靈仙、龍膽、茯苓、防已、羗活、防風、白芷、甘艸ヲ加テ奇効アリ、疎經活血湯ト名付ク、有レ痰ニハ、南星半夏ヲ加フ、氣虚ニハ、人參白朮ヲ加テ奇効アリ、
p.0822 感冐( ○○)
一柘植大炊助〈年近二七旬一〉感冐發熱、熱退後咳痰、久不レ食、尿赤無レ汗、 寧肺湯 寶鑑ニ加減瀉白散
p.0822 むかしの物語をよむに、 風の心地( ○○○○) といへる詞あり、是は諸病の因は、風寒なりとくすしがいひたるが、世人にうつりて、凡病は、かぜより起るものと心得たるやうに見ゆれども、斯邦に一種 かぜ( ○○) といふ症あるなり、唐土人のいふ風とは異なり、其異なる事は、治療の異なるにて知べし、榮花物語、長德元年、關白殿御心地あしく、御風にもなどおぼして、朴などまゐらすれど、おこたらせ給はず、加茂保憲女集、足引の病やむてふほヽの皮吹寄風はあらじとぞ思ふ、是ほヽの木の皮を用て、愈る病ありて、是を風といふなり、本草厚朴にいひ傳へたる、主治に拘はらず、これを用 て、斯邦の風といふ病はなほるなり、
p.0823 夏月、 ねびえ( ○○○) といふ病、唐土になし、故に治法をいへる醫書なしと聞けり、〈強ていはヾ、唐土人のいふ、暑〉〈病靜而得レ之の證なるべし、醫方聚要、一溪曰、紫蘇葛根羗活解レ表、厚朴蒼朮藿香散寒内傷生冷加二乾姜縮砂之類一、〉
p.0823 甲申〈○文政七年〉三月、麻疹ヤヽ止ントスル頃ヨリ、 時氣( ○○) 盛ニ行レ、一家少長トナク皆床ニ臥ニイタル、其證一應ノ感冐ヨリ熱氣強ク、初起ヨリ少陽ヲ兼ルモノ多シ、一二日ノ間ハ煩熱シ、胸脇ヨリ周身マデ疼痛セリ、輕ハ七八日、重ハ十數日、柴胡種類ニテ淸凉シテ全治セリ、此亦先ダツテ浪華ニ行ルヽコト傳聞セシニ、間モナク都下ニモ及セリ、辛巳〈○文政四年〉ノ春ノ疫ト相似テ稍重カリシ、
p.0823 傷風( ○○)
慶長七年正月朔日
一德安内、〈七十餘〉傷風、寒熱戰慄、頭痛嘔吐有レ汗、脈浮緩、 解肌湯 桂枝湯ニ加二陳半一 寒熱退 冷汗眩暈、大便瀉難レ持、 加二蓍朮參一
p.0823 傷風
一傷風、寒熱戰慄、頭痛嘔吐有レ汗、脈浮緩、 桂枝湯加二貴守一、寒熱退、冷汗出、眩暈、大便瀉、加二參茋木一、
p.0823 瘧疾( ○○)
一陽光院殿、〈御年近四旬〉瘧疾三發、二日ニ一發、召レ予、依二殿下之命一在二大坂一、備前宰相公御内儀煩依テ也、故半井通仙軒御葯進上、服レ葯之後又三發、發日之朝、通仙截葯ヲ進上、色散約也、服藥之後、半時許而心中惕々而精神如レ醉、一身班紋出、吐血數碗、而經二二時許一而忽薨玉フ、通仙色ヲ變ジテ、山科葯ハ誰モ所持ナキヤト云、傍ノ人ノ曰、サテハ今朝ノ截葯砒霜ノ入タルナルベシ、 別半井ノ家ニ瘧ノ截葯ノ秘傳ニ、砒霜ノ入タル丸藥アリ、是ハ粉葯也、丸藥無レ之故俄ニ粉藥進上シテ如レ此、半 井流ヲ傳受シタル人語ラル、
p.0824 瘧
瘧をおこりと云は、時におこり、時に止むの俗語也、源氏若紫の卷には、わらはやみと云、もろこしにても、奴婢病と云、いやしき病なれば、大人は煩はぬ意也、續博物志に見えたり、又 瘧を愈す藥を截藥といへるは( ○○○○○○○○○○○○○) 、邪氣と正氣と出逢ふ道を、立切ると云意なるべし、
p.0824 支體浮腫( ○○○○)
一商人患レ疫、二三度下シテ愈ト云ヘドモ、餘邪二三度聚りて再復ス、後ニ戰汗シテ愈タレドモ、微邪ノコリテ餘熱サツハリトセズ、又紫胡加大黄ニテ漸ク治シタレドモ、日數延引シテケリ、食モナルニ至リテ、通身浮腫ス、他ニ苦ムコトナシ、身無二微熱一、行歩ニ力ノナキノミナリ、桂柀加苓朮湯ヲ與ヘ、二三日ニテ腫消シ、平復ス、
p.0824 淺草司天臺伊藤鐵五郎、年三十、身發黄水氣アリ、煩渇甚シ、余茵蔯五苓散加黄連ヲ與ヘ、三聖丸ヲ兼用ス、數日ニシテ發黄消シ、水氣全ク去ル、
p.0824 黄疸( ○○)
慶長二七ノ五
一岡山中納言秀秋公、〈十八九歳〉酒疸一身黄、心下堅滿而痛、不二飮食一、渇甚、淸心湯〈全〉當歸白朮散木苓〈各三匁〉半〈二匁半〉西杏〈各二匁〉斤苓茵〈各一匁〉甘入レ姜、 黄( 九日) 色少減、心中悸動、心遠脈遲、用二養榮湯一、而効、
p.0824 中風( ○○)
天正十一年正月二日
一正親町院、俄中風、全不レ識二人事一、痰涎鋸聲、身温、御脈浮緩、竹田定加法印傷寒申、半井通仙中風申、二 醫診候相違、于レ時予診レ之、而中風申、故通仙診候合被レ仰、先通仙御葯進上、一日一夜全不レ知レ人、通仙御藥勘酌、故予奉レ勅御葯進上、翌日四日始而識二人事一、漸々食進而平復、先蘇香圓進上、姜汁ニテトキテ、其後小續命湯二貼安、
p.0825 中風卒倒、以二白鴨頸血一灌レ之極妙、有レ人但覺二手指麻痺一、日食二白鴨子一三歳乃愈、人家畜二白鴨一、常聞二其鳴一、亦可三以防二卒中一云、鴨即鶩、俗謂二之家鳬一、鴨子即鴨卵也、食レ之者生熟任レ意皆可、
p.0825 享保二十卯年四月
覺
鳥犀圓
右者、中風并痰症等に用ひ候藥ニ而候、此度丹波正伯方ニ而調合致し、望之者〈江〉遺候筈藥目五匁ニ而代金百疋ニ而候、望之者は、築地飯田町前通り丹波正伯方〈江〉罷越相調可レ申候、右之通、町中不レ殘入念可二相觸一候、以上、
四月
p.0825 鬱( ○)
慶長三年九月朔日
一今上皇帝、〈 後陽成 御年二十八歳〉俄然而眩暈、食頃而甦、御脈沈細五動、左寸關有レ力、 順氣湯 八味順氣ニ加レ半、或用二正氣天香湯一、或二陳四君相合加二莎宿一、出入加減、二七日而未レ驗、自二十五ノ朝一竹田定加法印療レ之、自二廿六日一祥壽院瑞久法印療レ之、亦未レ效、自二十月二日一盛方院淨慶法眼療レ之、十一日夜半既絶入、諸醫指窮還、又仰レ予〈○今大路道三〉治二療之一、先用二眞珠丸一、又麝香丸、次用二蘇香圓一、 御脈結濇、食不レ消二胸膈一之間、御氣鬱滯、時々嘔 、 調氣湯八解ニ加二莎宿査一入レ姜、 胸内煩悶加二苓門笳一、間用二砂安神丸一、嘔吐 未レ止、 安胃湯 大藿香散 藿半朮 〈各二匁〉歸桔〈炒〉參杷桂〈各一匁〉甘姜棗、其間用二養胃丸 小粒五十丸一、 嘔 半退止、前劑用二養胃丸一、日三次、 嘔 過半減、二陳ニ加二蓮梔一、〈並姜炒〉或莎宿、或麯蘖、或參朮、出入加減、其間用二養胃丸一、至二十一月中旬一、平復、叡感之餘、賜二白銀一千一兩一、〈十二月二日〉
p.0826 癇疾( ○○)
一今上皇帝、〈御年三十二歳〉毎晨、心中鬱悶、如レ有二物粘著一、食後快然、而無レ人而獨居則精神沈困、 補心湯 寶鑑沈香天麻湯、
p.0826 癪癇( ○○)
一廿歳之女子、去年九月産、而后在二、憂恐之事一、今俄眩暈倒臥而不レ知二人事一、少時而甦、身冷唇靑、脈沈伏如レ癇、沈香天痳湯、身冷鼻隼甚冷、十五味用テ平復、
一大坂御局、〈十八九歳〉癲發則手足無レ力、忽起欲レ走、心中如二火燒一而手足冷、貴冷守星蔞洞吉丹文〈各一戔〉甘〈三分〉木辰〈各五分〉姜入煎、加二竹歴姜汁監臥木辰一、二味ノ末ヲ調服、
p.0826 山城淀藩士人山下平左衞門者、謁二先生一〈○吉益東洞〉曰、有レ男生而五歳、瘂而癇、癇日一發、或再發、虚尫羸憊、旦夕待レ斃、且其悶苦之状、日甚二一日一、矣、父母之情不レ忍二坐視一、願賴二先生之術一、幸一見レ起、雖レ死不レ悔、先生因爲診レ之、心下痞、按レ之濡、乃作二大黄黄連湯一飮レ之百日所、痞去而癇弗二復發一、然而胸肋妨張、脇下支滿瘂尚如レ故、又作二小柴胡湯及三黄丸一與レ之、時以二大陷胸丸一攻レ之可二半歳一、一日乳母擁レ兒倚レ門、適有二牽レ馬而過者一、兒忽呼曰、牟麻、父母喜甚、乃襁負倶來、告二之先生一、先生試拈二糖菓一、以挑二其呼一、兒忽復呼曰牟麻、〈本邦〉〈甘美之味、總謂二之牟麻一、馬亦謂二牟麻一、國語相通、〉父母以爲過レ願、踊躍不二自勝一、因服二前方一數月、言語卒如二常兒一、京師室街賈人升屋德右衞門家僕宇右衞門者、年二十有餘、積年患レ癇、一月一發、或再發、或不レ發、然間三月必發、先生診二視之一、胸腹微動、胸下支滿、有レ時上衝、乃作二柴胡薑桂湯及滾淡丸一飮レ之、時以二梅肉散一攻レ之、出入一歳所、不二復發一、
p.0826 浪華伏見堀賈人平野屋某男、年十八、嘗患レ癇、發則鬱冐、黙黙微笑、慵二與レ人應接一、故引二屛風一垂 レ帳避レ人、蒙レ被而臥、方二其時一、大汗出大煩渇、飮二湯水一數十盃、小便亦稱レ之、先生診レ之、心下痞、腹中雷鳴、乃與二半夏瀉心湯及紫圓一、發則別服二五苓散一、大渇頓除、小便復レ常、續服二半夏瀉心湯一、久而癇減二七八一、爾後怠慢停レ藥、
p.0827 一 子癇( ○○) 懷妊の婦人、月數重りて、俄に氣絶し倒れ、眼を見開き、瞳子をつり上げ、齒をかみ舌を出し、手足を揮ひ動し、そりかへり、人事を知らず、癩癇やみの如くなるを子癇といふ、早く正眞の熊膽を濃く水にてときて口中へ入るべし、度々入れ、腹中へ納まれば、病しづまるなり、快くなるまで度々用ふべし、甚妙なり、予其效驗を直に見たる故、右の病する婦人の命を救はんと思ふ故、是れを記し置くなり、懷妊の婦人ある家には、かねて正眞の熊膽を求め蓄へ置くべし、急には得がたし、母に用ふる事なくても、赤子に用ふる事あり、何も求め置くべきものなり、
p.0827 越中醫生某男、年三十所、 發狂( ○○) 喚叫妄走、不レ避二水火一、醫生頗盡二其術一而救レ之、一無二其効一矣、於レ是聞二先生之名一、詳録二證候一、懇求二治方一、其略曰、胸膈煩悶、口舌乾燥、欲レ飮レ水無二休時一、先生乃爲二石膏黄連甘草湯及滾痰丸一贈レ之、服二百有餘劑一全復レ常、
p.0827 一禅僧年三十所、發狂、語言誕妄、自稱二釋伽一、自稱二逹磨一、兼患二癲癇一、癇一月一發、或再發、發則苦楚呻吟、卒倒而不レ知二人事一、速則一時而痊、遲則二時許而蘇矣、諸醫皆謂、令二扁鵲百診、倉公千治一、不レ可二得治一矣、其法友有二天雄師者一、從レ余〈○畑秀龍〉學二和歌一、舊知二余治不一レ凡、強請二治余一、診レ之、心下煩悶胸肋妨張、乃爲二小陷胸湯一飮レ之、又作二前後七寶丸一與レ之、一歳餘而狂全愈、癇不二復發一、今在二永平寺中一、而稱二首座一云、
p.0827 京師智恩街紙舗政右衞門者、 病後怯悸( ○○○○) 、畏二障戸之響一、其所二抵觸一皆粘二紙條一防レ之、居常飮食無レ味、百事皆廢、然行歩不妨、但遇二橋梁一則乘輿猶不レ能レ過、百治無レ効、如レ此者凡三年、先生〈○吉益東洞〉診レ之、上氣殊甚、脇下拘滿、胸腹有レ動、心中不レ安、作二桂苓、朮甘湯及芎黄散一、飮レ之數日、上逆稍減、又爲二柴胡薑桂湯一飮レ之數月、諸證皆除、居二三日、家召二蓋匠一、政右衞門正立二廡下一、自指揮脩葺、遇有レ不レ如レ意、走而上レ屋就レ之、而不 レ知二其踏レ梯之易一焉、久之自覺、語二之家人一、余聞二之其家人一云、
p.0828 有二一男子一、病二 氣疾一( ○○) 、發則向レ壁而坐、食飮如レ常、大便五七日一行、懶二語言動作一、諸醫悉爲レ勞、余曰、是非レ勞、 疳癖( ○○) 也、以二瓜蒂散一、吐二膠痰一數升、後與二盧薈丸一、毎日五分、毎月輪次、灸二十三四五六七兪一、數百壯、經二三月一、不二復發一、
p.0828 中暑( ○○)
一是菴、〈二十餘歳〉暑熱、頭痛、發熱汗出衂血、尿瀉利煩燥、脈虚數、 淸心湯 自虎ニ加二朮芍一 煩悶未レ止、夜熱甚、尿色少薄、湯止大便溏、 補中益氣而熱退
p.0828 中寒( ○○)
一山田忠兵衞、〈壯男〉感二增寒一、足冷五六日不レ止、今泄瀉 温中湯 五積ニ去レ奴〈○中略〉 中濕( ○○)
一深谷又右衞門、濕熱之證、及二十一日一大便溏、夜中譫言、目赤渇、脈弦實、 淸心湯 大柴胡也 譫止熱未レ退、大便溏、 白虎ニ加レ參
p.0828 東鑑建保二年二月己亥、將軍〈○源實朝〉聊御病惱、諸人奔走、但無二殊御事一、去夜御淵醉餘氣歟、爰葉上僧正候二御加持一之處、聞二此事一、稱二良藥一自二本寺一召進二茶一盞一、而相二副一卷書一令レ獻レ之、所レ譽二茶德一之書也、淵醉の餘氣に良藥とて茶を進るを見れば、茶の酒毒を解する事知るべし、一卷の書といふは、即喫茶養生記也、茶の功能を擧たれども、元來醫家の書にあらざれば、もれたる主能もあり、大要をいへば茶は酒食の毒を解す物なり、酒食の毒のみならず、藥力をも解す、
p.0828 中毒( ○○)
一壯男、中毒腹痛吐瀉、今止、胸中疼如レ刺、 和中湯〈回ノ方〉弓朮姜丹ニ陳貴〈大〉守令丹弓倉姜甘、
p.0828 一商家ノ僕不良ノ事アリテ、鞭苔セラレ譴責ヲ蒙リシヲ深ク愧恥シテ、自盡セン ト欲スレドモ術ナク、 蚰蜒( ナメクジリ) ヲトリテ烟草中ニイレ吸タリシニ、周身紫黒班ヲ發シ、腰腿尤甚ク、前陰モ黒腫シテ恰モ馬陰ノ如ク、痛特ニ甚シ、予ヲ延テ診治セシム、其脈沈大ニシテ舌上黄胎アリ、不大便ニシテ飮食モ減少セリ、仍テ黄連解毒加犀角大黄ヲ與ヘシニ、五六日ニシテ班滅セリ、前陰ヘハ黒糖ヲ塗シメシニ、腫消シ痛モ去タリ、 蚰蜒( ○○) ハカヽル 毒( ○) アルコトイマダ知ザリシ、
p.0829 <ruby><rb> 中二 河豚魚毒一( ○○○○) 者、少覺二懊惱一、須二直探吐一、急服二藍汁一盞、若人糞少許、若瓜蒂末一錢一、須臾吐盡、則十治二八九一、
p.0829 森崎保佑トイヘル女子ニテ産術ヲ業トスルモノ、先年 鼠咬( ○○) ヲ被リ、當時ハ何事ナク、四五十日ヲ經テ、蜀椒ヲ喫シテヨリ、乍發熱シ、咬處赤腫シ、二月ヨリ八月ニ至リ、遍身斑ヲ發シ、寒熱往來、遂ニ羸憊甚シク、一夕手足厥冷、氣息綿惙、殆ド絶セントスルニ至ル、其父玄菴〈醫ヲ津田玄仙ニ學〉〈ベリ〉既ニ不治ヲ決シ、爲方ナサ、看者ニ托シテ臥タリシガ、父子ノ情タヘガタク、屢起テ診視セシニ、夜明ル頃、氣猶微續セリ、サラバトモカフモ神ニ祈ラントテ、神前ニ向ヒ、精誠ヲ凝シ、拜祈セシ時、一婢ノ猫ノ床ノ間ヘ糞セシヲ掃除セバヤト云聲ノ耳ニ入シカバ、フト心付テ暫ク其儘ニセヨト命ジ、拜畢テ丞ニ本草ヲ撿スルニ、猫糞ノ鼠咬ヲ治スルコトアマタ載タレバ、是ナン神授ナラントテ、取收ヲ黒燒トナシ、麝香等分ニ合セテ丸トナシ、巳ノ刻ヨリ服セシメシニ、氣息ヤヽ勢ツキテ、申ノ刻許ニハ精神爽亮ナルニ至ル、續テ日ナラズ快復ヲ得タリ、此事奇ニ似タリトイヘドモ、其理ナシト云フベカラズ、且渠父子共ニ質直ナル人物ニテ、虚誕ナド構ベキモノナラネバ、其言マタ信トスルニ足レリ、
p.0829 中二蝮蛇及諸虫毒一( ○○○○○○○) 者、服二雄黄、龍腦、麝香之類一爲レ可、嘗有二一狂夫一、性馴二虫蛇一、適遊二叢祠傍一、睨二蝮蛇匹遊一、擢取袖レ之、見レ咬二左肘一、須臾暈倒、輿而歸、耳目口鼻悉飛二黒血一、舌上核起爲二星點一、毎點出レ血、急取二鐵漿水二盌一服、血不レ止、又與二備急圓二分一、下レ之數行、血不レ止、昏眩將レ死、於レ是末二雞冠雄黄一錢、龍腦五分一、以二 白湯一頓服、食頃血止、徐徐而復レ故、
p.0830 金山の毒氣( ○○○○○) に中る説
すべて金銀銅山の坑の掘りやうにて、風の透ざるには、風ぬき穴を開けざれば、陰氣こもりて燈滅へ人斃るヽ事あり、これを俗に氣絶るといふ、これも亦右にいふ窖の毒に同じ、又金銀銅山の烟瘴の氣に觸れ冐されて病む者の状は、身の色黄ばみ、咳嗽いでヽ、痰粘く、漸々に憊れて、三つ輪ぐむやうに成るなり、此症に米の粉にてまろめたる團粉の鹽なきを好む者は治せず、いまだ病せまらざるうちに、これを治する一方あり、解煙散といふ、〈方ハ別に志るす〉白湯に攪たて、日々に用て治すべし、
p.0830 余一日喜多村氏ヲ訪ヒ、佐渡相川醫師瀧浪玄伯ニ會ス、其人ノ話ニ、金銀坑ニ入テ毒ニ中リタルモノヲ 山氣( ○○) ト名ク、其證肺痿虚勞ニ以テ諸藥効ナシ、唯薩州方言 ギチ( ○○) ト稱スルモノ能コレヲ治ス、此品ヲ伍シテ製シタル煉藥ヲ救工丹〈金銀ヲ掘ル者大工ト名ク、故ニ救工ト云〉ト稱ス、後佐渡門人山田某ヨリ、ギチ一塊ヲ贈ル、之ヲ有識ニ質スニ云、貝原花譜ニ土ヲ辨ズル條、ギチ一名カラウスツチ、筑前ニテカラムスヲ作ルニ、子ヲバ土ノ代リニ用ユ、子バ土黄堊ニ當レバ、ギチハ白堊ナラント云、
p.0830 虫痛( ○○)
一則菴、〈姓男〉虫痛、諸葯不レ効、 大風子〈去油〉爲レ丸用レ之、虫二條吐出而愈、
p.0830 虫
一二十餘歳之男子、風勞、頭痛汗出、潮熱十餘日不レ退、盛芳院淨慶治レ之、至二十日一ニ熱不レ退、熱來則頭痛汗出、心下衝上、〈予〉爲レ虫療レ之、先安蟲丸、次靑共貴莎令守甘之類、用二七八貼一、而熱退汗止、虫定安、
p.0830 治驗
八宮村久吉娘、十歳許リ、腹痛嘔吐ヲ患フルコト月餘、蚘ヲ吐スルコト數十條、食漸々減ジ、今ヤ絶粒トナル、腹痛益甚シ、診スルニ、腹中塊アリ、大サ椀ノ如シ、其塊物ヲ熟按スレバ、手ニ應ズル者アリ、恰カモ蚯蚓ノ如キ物アツテ、蠕動スルガ如キヲ覺ユ、是蚘無數腸胃ノ中ニアリテ塊ヲナス也、鷓胡菜湯ヲ投ジ、獨歩丸ヲ副用ス、爾後毎日蚘ヲ吐下スルコト數十條、遂百餘條ニ至テ塊消シ痛ミ減ジ、食少シク進ム、形體羸痩、飢猿ノ如ク、面部足趺微浮腫ス、今ヤ虚ニ屬ス、然レドモ蚘未ダ盡ザルノ腹候ナリ、故ニ執シテ前方ヲ投ズルニ、毎日蚘ヲ吐下スルコト數十條、下蚘多ク吐蚘少ナシ、遂ニ又百餘條ニ至ル、爾後大便下利日ニ三四行、毎下腹痛ス、形體益羸痩シ、面色痿黄シ、脣舌淡紅ニシテ、浮腫自若タリ、蚘ヲ吐下スルコト止ム、前後出ル處ノ蚘ヲ通計スルニ、二百五十餘頭ナリ、蚘ノ生々スルモ亦夥シキ哉、增損安、蚘理中湯ニ轉ジ、椒梅丸ヲ副用ス、腹痛止ミ、下痢減ジ、能ク食シ、周身浮腫加ハル、腹中虚脹シテ腫レ、蚘ノ腹候更ニ又アルコトナシ、是蚘盡テ虚腫トナルモノ也、香砂六君子湯加麥芽ニ轉ズ、爾後漸々腫消シ、下利止ミ、飮食常ニ復シ、形體モ亦肥ユ、久フシテ全功ヲ收ム、
p.0831 冷水解レ熱、勝二於藥餌之力一、故凡病有レ熱有レ火者、宜レ聽レ飮レ之、醫者多禁レ之非也、唯其水必當レ用二新汲者一、地中淸氣無レ毒、若用二熱湯一、懸二於中水一而冷者、則大寒有レ毒、
p.0831 又〈○醫疾令〉云、醫生既讀二諸經一、乃分レ業敎習、〈○中略〉三人學二 創腫一( ○○) 、〈謂、創與二瘡字一相通也、○中略〉各專二其業一、
p.0831 瘍醫下士八人註、瘍創擁也、 瘍音羊、創初良反、疏〈瘍醫 釋曰、案其職云、掌二腫瘍潰瘍之等一、故亦連レ類在レ此、〉案〈註、瘍創擁也、 釋曰、案禮肥上、曲禮云、頭有レ創則沐、身有レ瘍則浴、案其職有二腫瘍等四種之瘍一、註、潰則未二必有レ膿也、故亦連レ類在レ此也、〉
p.0831 外科萬粹類編序
古之 瘍醫( ○○) 者後世之 外科( ○○) 也、趙宋之世謂二之 瘍科一( ○○) 、外科有二内治一有二外治一、周體云、瘍醫掌二腫瘍潰瘍金瘍折瘍之祝藥劀殺之齊一、此其外治也、又云、凡療レ瘍以二五毒一攻レ之、以二五氣一養レ之、以二五藥一療レ之、以二五味一節レ之、且以二 酸辛鹹苦甘滑一而養二骨筋脈氣肉竅一、凡有レ瘍者受二其藥一焉、此其内治也、素問曰、膏梁之變 足( オホク) 生二大疔一、由レ是推レ之、陰陽不和之變、痰涎咳嗽之變、癥痼諸蟲之變、酒色忿恚之變之類、皆足以生二瘡瘍一、不レ可二枚擧一也、是外科之書不レ可レ不レ多者也、
p.0832 嘉吉二年十月十七日甲辰、被レ語云、禁裏御腫物者癰也、 腫物醫師( ○○○○) 久阿已下、一昨日十五日始拜見之、
p.0832 日本三藏傳二疔瘡方一、江子肉十粒、半夏一大顆、研末附子半枚、羗螂一枚、各爲レ末、四味臭、〈麝香也〉相和、看二瘡大小一、以二紙繩子一圍二瘡口一、以レ藥泥レ上、又用二絹帛一貼傳時換二新藥一、以可レ爲レ度、此方活レ人甚多、
p.0832 治二服石癕疽發一レ背方第廿二
千金方云、 疽發レ背、皆由下服二五石一寒食上、更生散所レ致亦有下單服二鍾乳一而發者上、又有二生平未レ服レ石而自發者一、此是上世有服之者、其候稍多、
又云、養生者、小覺二背上 痒有一レ異、即取二淨直水一和二作渥稔一、作二餅子一、徑一寸半、厚二分、以二鹿艾一作二炷灸一、渥上灸レ之、一炷一易、餅子若粟米、大時可レ灸、七餅若如二楡莱大一、灸七炷即羗、若至二錢許大一曰二夜灸一、不レ住乃羗、又云、恒冷水射レ之、漬二冷石一熨レ之、日夜勿レ止、待レ羗住レ手、龐氏論云、凡諸服二草石散一者、皆不レ可レ灸二身體一、令三人喜發二焱疽瘡一也、若體有レ瘡不レ可二温治一也、唯以レ水漬レ布沾レ之、燒二李中人一作レ膏、以摩二瘡上一、諸洗如レ故、薩侍郎云、若發二瘡及腫一、但服二五香連翹湯等一、〈在二小品一治二惡脈一方〉又云、若腫有二根堅一如二鐵石一、帶二赤色一者、服レ湯、仍以二小々艾炷一當二腫上一灸、一兩炷爲レ佳、
p.0832 瘡病
近年以來、此病發二於水氣等雜熱一也、非レ疔非レ癰、然人不レ識而多誤矣、但自二冷氣水氣一發故、大小瘡皆不レ負レ火、依レ此人皆疑爲二惡瘡一、尤愚也、灸則得二火毒一、即腫增、火毒無二能治者一、大黄寒水寒石寒爲レ厄、依レ灸彌腫、依 レ寒彌增、可レ恠可二斟酌一、若瘡出則不レ問二強軟一、不レ知二善惡一、牛膝根擣絞、以レ汁傳レ瘡、乾復傳則傍不レ腫、熟破無事膿汁出、付二楸葉一、惡毒之汁皆出、世人用二車前草一尤非也、永忌レ之、服二桑粥桑湯五香煎一、若強須レ灸、依レ方可レ灸レ之、謂初見レ瘡時、蒜横截、厚如二錢厚一、付二瘡上一、艾堅押、如二小豆大一、灸二蒜上一、蒜焦可レ替、不レ破二皮肉一、爲二秘方一、及二一百壯一、即萎、火氣不レ答、必有レ驗、灸後付二牛膝汁一、并可レ付二楸葉一、尚不レ可レ付二車前草一、付則傍腫、依レ不レ出二惡汁一、故、日本多用二車前草一、不レ識二藥性一故也、可レ忌云云、又有二芭蕉根一、神効矣、〈皆瘡妙藥也〉
p.0833 疔瘡
疔瘡ハ手足面部ニ生ズル者也、皆多ハ厚味ノ人ニ生ズル者也、殊外ナル急症也、先ヅ灸火ヲ用ベシ、痒キハ灸シテ痛ムニ至ル、痛ムハ灸シテ痒キニ至ルト云テ、灸ニ宜キ也、内藥ハ追疔奪命湯ニ加減シテ用ベシ、外ニハ蟾酥丹ヲ貼ヨ、又ハ疔ヌキト云、又ハ郡藥ト云藥ヲ敷クベシ、郡上大夫家ノ藥、 五八霜 櫻木皮黒燒 熊胆 各等分ニシテ細末シ、猪ノ油ニテトキ、火ニアタヽメテ疔上ニ貼レバ汗出、其マヽ治スル也、其効如レ神、
p.0833 朝鮮韓繼禧神應經序云、日本釋良心、以二神應經一來獻、兼傳二其本國神醫和介氏、丹波氏 治癰疽八穴注一( ○○○○○○) 、これ文明五年の事なり、良心いふ、二百年前、兩名醫ありと、想に鎌倉將軍の頃に當るべし、誰なる事知べからず、神應經も彼國に絶たるを、本邦より渡してひろめしなり、良心法師の歌は、新續古今集に見ゆ、河上落葉といふ事を、湊川もみぢふきこす木がらしに山もとくだるあけのそぼ舟、作者部類、良心は左近將監秦久秋子と有、
p.0833 總論二十四擧〈○中略〉
七擧曰、輕證〈○癩病〉者、宜下用二三稜鍼一以取中死血一、刺之之法、當乙於下死肉與二平肉一之際上下甲レ鍼、不レ然則瘀血出少矣、又至二其尤輕證者一、取二曲池與二委中一、宜下間二二三日若四五日一刺上レ之、不レ可日刺一レ之也、如二其重證一者、非二燒針一則難レ收レ功矣、夫燒針之名、肇出二於張仲景傷寒論一、即内經所レ謂燔鍼焠鍼之類、而主治二風寒筋急、攣引痺痛或、 癥塊結積、癰疽發レ背、癱瘓不仁等證一、然後世此法不レ傳焉、惜哉、今余之所レ用者、頗與レ之異、其數十有三、而鋒長七寸五分、〈即用二今之曲尺一〉尖如レ挺、其鋒員旦鋭、柄形六稜、長三寸、内一柄乃爲二平頭鍼一、〈圖見レ後〉凡製レ鍼、宜レ以二柔鐵一、必不レ可レ用二鋼鐵一、其害不レ淺也、〈○中略〉九擧曰、凡刺二燒針一、先以二五斤炭火一按二排大火盆中一、除二平頭針一之外十二針、盡列二於火上一、緊火燒令二通赤一、然後周身墨圍中不レ留二一處二盡刺レ之、刺レ之之法、取二一針一刺二一處一刺卒直反二諸火上一、又取二次針一刺レ之如二前法一、十二針刺卒、則再取下反二火上一之針上更刺レ之、不レ拘二肉厚薄堅脆、經脈血氣多少、及禁針禁灸等輸穴一、隨二瘀血所在處一而盡刺レ之、針痏其間、各相去如二葱莖一、凡所レ刺針孔、曾無レ有二血流出者一、又無レ有下覺二疼痛一者上者也、燒レ針之法、須レ令二一人向レ火扇一レ之、手不レ可二暫止一、若炭火欲レ盡、則再加レ炭以扇レ之、針若不二通赤一、或遲寬而冷、則反損レ人、旦不レ能レ去レ病也、謹レ之謹レ之、
p.0834 〈楊梅天疱〉瘡證治
楊梅瘡、或名二綿花一、近年以來極多、至レ今未レ息、世俗多用二痛風之藥一治レ之、但庸醫務二速効一、用二輕粉丹麝等毒劑一、幸而氣血實盛者、得レ愈無レ事、怯弱之人變生二壞證一、不レ知二戒守一、變成二癘風一、又輕粉多用、兼以二麝香一透二入骨節一、遂成二風塊一、經レ年痛痒膿爛、輕粉但量二人虚實一用レ之可也、素無二天疱楊梅綿花等瘡一、近來盛行、閲二諸方一、皆無二治法一、惟丹溪、通聖中、加減量二人厚薄一、治療、得レ効雖レ遲、而病者、十無二一壞一、世俗皆不二遵用一、惟口傳等授、不レ審二虚實冷熱一、遂以二輕粉雄黄龍麝諸毒之劑一、攻レ之殊不レ知二此藥一〈賦血實之人可三庶幾一、禀薄血少之人死期迫、〉也、
p.0834 刺法第五
鋒針刺絡之術、用而奏二奇功一、者多、余已有二別論一、此特抄二記風犬一毒所レ用之一二一、凡用二鋒針一者、如二世所レ謂管鍼之法一、管中容レ針、小露二鋒頭一、須二鋭意行一レ之、心頭若有二一點疑氣一、則不レ得レ抵二要處一也、刺淺不レ及レ絡、則血不レ出、
凡怯弱者、鍼刺後多癲眩、宜レ令二患者靜臥一、是防癲之一策也、故刺二委中一之法、令二側臥一而後用レ針、則决無二癲眩之患一也、
凡刺絡、宜二側レ鍼逆而取一レ之、鍼鋒剖レ絡、則脱レ氣、血難レ收、
刺二尺中一法
預設下絹三襞〈用二縐紗一爲レ上、長五尺、濶一寸、縫如二今婦人腰帶一者爲レ佳〉溜血器〈陶器佳也、須レ用二白色者一、便レ辨二血色一、〉酢、〈五勺、爲二癲上眩者一備レ之、〉而令二患者端坐一、將レ絹縛二肘後一、手伏二滿握杖一而用レ力、絡脈大張、乃胝二血結處一加レ鍼、鍼鋒未レ擧、濁血迸飛、乃使三人持二陶器一、接受レ之、血出自二二三勺一至二一二合一、隨レ證各異、宜下以二血自收者一爲上レ度、若血量已足、或出二鮮血一者、須レ解二肘後之縛一、放レ杖力弛、則血乃止、用二反鼻末少許一撤二鍼口上一、紙若綿厭二定之一、而令二安臥一者可二半時一、宜下避二風露一調養上、若指頭妄按二鍼口一絡脈動、則其口難レ閉、肉裏爲二痏痕一、凡濁血迸出時、有二胸中懊憹如レ欲レ吐者一、勿レ驚、是氣之開通也、若下面色靑黄將二昏眩一者上、急依二上法一去二縛絹一、指頭徐按二鍼口一、別把レ綿漬レ酢、罨二定鍼口一、與二茗一飮一、而令レ臥二之密室一則復、
p.0835 外科
本朝瘍科凡有二兩家一、 一稱二高取一( ○○○○) 、是本朝之所レ傳也、 一稱二南蠻流一( ○○○○○) 、出レ自二西洋耶蘇之徒一、專治二癰疽疔癤瘰癧等諸瘡一、
p.0835 亮〈○今村〉按ズルニ、〈○中略〉天正慶長ノ間ニ至リ、播磨ノ鷹取秀次、古法ヲ傳ヘ得テ、外科細壍新明集ヲ著シ、當時世ニ著ル、是ヲ世ニ 鷹取流( ○○○) ト云フ、其後漸々衰廢シ、同時吉益流、中條流等ノ金瘡醫有リト雖モ、皆式微振ハズ、
p.0835 南蠻寺ハ、此群集ノ人ニハ聊モ構ハズ、洛中洛外ヘ人ヲ出シ、或ハ山野ノ辻堂、橋ノ下等ニ至ルマデ尋搜、非人乞食等ノ大病難病等ノ者召連レ來ラシメ、風呂ニ入レテ、五體ヲ淸メ、衣服ヲ與ヘテ、コレヲ暖メ、療養シケル程ニ、昨日ノ乞食、今日ハ唐織ノ衣服ヲ身ニ纏ヒ、病モ自ラ 心ヨク快復セル類多シ、就レ中癩瘡等ノ難病、 南蠻流ノ外療( ○○○○○○) ヲ受ケ、數月ヲ歴ズシテ全快シ、誠ノ佛菩薩今世ニ出現シテ、救世濟度シ給フナリト、近國他國風説區々ナリ、故ニ諸國ノ大病難病ニ侵サレ、貧賤ニテ我力ニ叶ハザル者、或ハ諸醫ノ療養ニ治スルコト能ハザル者、貴賤共ニ南蠻寺ニ群集スルコト斜ナラザリケリ、コリヤリイス兩イルマン、悉ク是ヲ南蠻寺ニ留メテ、良醫ヲ施シ、醫療半ニ快復スル病人共ヲ率ヒ、是等ニ説テ曰ク、〈○下略〉
p.0836 阿蘭陀船は御免有て、肥前平戸へ船を寄せぬ、異船御禁止になりし頃も、此國は、其黨類には非る次第ありて、引續き渡來を許され給へり、夫より三十三ケ年目にて長崎出島の南蠻人を逐ひ拂はれて、其跡へ居を移せしよし、夫よりは年々長崎の津に船を來す事とは成りぬ、これは寬永十八年の事なるよし、其後其船に隨從し來る醫師に、亦彼の外治の療法を傳へし者も多しとなり、是を 阿蘭陀流外科( ○○○○○○) とは稱するなり、是れ固より、横文字の書籍を讀て、習ひ覺し事にも非ず、只其手術を見習ひ、其醫法を聞、書留たる迄なり、最もこなたになき所の醫品多ければ代藥がちにてぞ、病者を取扱ひし事と知らる、
p.0836 耶蘇宗門制禁之大旨中
一元和寬永ノ年間トカヤ、京都ノ住人、外科ノ醫師 慶友法師( ○○○○) 、吉利支丹ノ伴天連タリトイヘドモ、彼者外科ノ名人タルニ依テ、獄中ノ揚屋ニ差置カレ、禁中御病用アル時ハ、召出シテ、治療セシム、又外科ノ術所望ノ者アレバ、其人ニ依リテ、重宗〈○板倉〉是ヲ許シ、弟子トセシ故ニ、外療ノ傳ヲ受得タル者モ間有リシトカヤ、
p.0836 又古來、 カスパル流( ○○○○○) といふ外科有り、これは寬永二十年、南部山田浦へ漂流ありし阿蘭陀船の人數の内、江戸へ召呼れたる中、カスパル某といふ外科あり、三四年留置れ、其療法を學せられし者もありしが、追々長崎へ御送りのよし、江戸並に長崎にても、正保の頃、此カス パルより傳來の療方ありしを、詳なる事を知らずとも、後にカスパル流と唱ふる事と申す事にや、又別にカスパル姓の外科、渡來の事もありしか、此他長崎にて、 吉雄流( ○○○) など云へるは、其後渡來の蘭人より傳へ得たる療方も有て、吉雄流とも申せり、其諸家の傳書といふ者共を見るに、皆膏藥油藥の法のみにて、委しき事なし、斯の如き類にて、備らざる事のみなれども、其業は漢土の外科には大に勝り、又本邦の古へより傳りたる外治には大に勝れりといふべき歟、其中に、翁が見たる楢林家の金瘡の書と云ふものあり、其中に人身中にセイメンといへるものあり、これは生命にあづかる大切のものなりと記せり、今を以て見れば、是れセーニューにして、神經と義譯せしものと思はる、わづかながら、これ程の事を聞書せしは、此書を始とすべし、〈○下略〉
p.0837 一其頃〈○寬永年間〉 西流( ○○) と云ふ、外科の一家出來たり、此家は其始南蠻船の通詞、西吉兵衞と云る者にて、彼國の醫術を傳へ、人に施せしが、其船の入津禁止せられて後、又阿蘭陀通詞となり、其國の醫術も傳り、此南蠻阿蘭陀兩流を相兼しとて、其兩流と唱へしを、世には西流と呼しよし、其頃は至て珍らしき事にて有ければ、專ら行はれ其名も高かりしゆへにや、後には官醫に召し出され、改名して、玄甫先生と申せしよし、其男宗春と申されしは、多病にて早世し給ひ、家絶えしとなり、是れ我祖甫仙翁の師家なり、其後召出されし、今の玄哲君の祖父、玄哲先生は、玄甫先生の姪の續なりとなり、右の玄甫先生初て西洋醫流を唱へられしより、公儀にも御用ひ遊されし事にて、阿蘭陀醫事御用に立し始なり、
p.0837 西玄甫〈○中略〉
玄甫善二蕃語一、爲二和蘭大通事一、雅 好二外科一( ○○○) 、師二歸化蕃醫澤野忠庵一、與二忠惠一交善、毎相切劘、寬文中以レ事往二江戸一、見二忠惠於殿上一、退嘆曰、丈夫當レ如レ此、乃區々作二蠻奴語一而終レ身乎、移レ病辭レ職徒二于江戸一、亡レ幾擧爲二醫官一、 進二侍醫一叙二法眼一、
p.0838 吉田安齋( ○○○○) 、字鉅豐、號二自休一、半田順庵之弟子也、順庵蓋本邑産、自レ幼篤二志瘡醫一、受二業于澤野忠庵之門一、慶元之間、遠入二阿媽港一、潤二色其技一、歸朝之後名聲大震、安齋壯歳、即師二事半田氏一、折二肱斯道一、盡得二蘊奧一、兼讀二軒岐之書一、與二所レ傳者一審レ同辨レ異、遂成二一家之學一、延請者無二虚日一、其回生起死不レ可二枚擧一、元祿甲戌終二于家一、
p.0838 一又 栗崎流( ○○○) といへるは、南蠻人の種子なりと、これは南蠻邪宗の徒、嚴禁となり、其船の渡海も御禁制となりたれども、以前は平戸長崎の地に、彼人々雜居し、妻を持ち子も有りしが、後々これをも吟味有て、蠻人の種子の分は、殘らず此地を放流せられしが、其中栗崎氏にて名はドウと云ふものは、彼地に成長しても、其宗には入らず、其國の醫事を學びしが、邪宗に入らざる譯を以て、歸朝を許され、召歸され長崎へ歸りし後、其術を以て、大に行れ、至て上手なりしが、人々栗崎流と稱せしよし、名のドウと云るは、蠻語露の事なるよし、後に文字を塡めて道有と認めしとぞ、今の官醫栗崎君の祖なるや、又別家の栗崎なるや、詳なる事は知らざるなり、 吉田流楢林流( ○○○○○○)など云るは、阿蘭陀通詞にて、彼方法を學び、一門戸を開きしなり、〈○下略〉
p.0838 栗崎正元( ○○○○) 、其先食二土栗崎一、〈地在二肥後一〉父道喜生七歳、與二乳母一避二仇于崎一、居二年讐覔レ之急矣、乳母遣下喜竊乘二蕃舶一遠走中呂宋上、年十四、留二意於外科之術一、努力八年、輒精二其業一、後思二東歸一、登二賈船一抵二長崎一、以二良工一見レ稱二于國一、仍姓二栗崎氏一、正元幼而雋悟、長益精研、道喜年已七十、口授以二瘍醫要訣一、正元乃取下平日所レ聞二于父一者上、集録貽二之子孫一、正元術益熟、名益著、求レ療者輻二輳于門一、存濟甚多、慶安四年卒、子正家亦有レ名、〈○中略〉
楢林豐重( ○○○○) 、善通二蕃語一、年甫十八、官擧爲二荷蘭館小譯一、乃寬文五年也、居二十一年、貞享乙丑累擢二大譯一、爲レ人温順多能、頗精二外科術一、蓋從下荷蘭之精二斯術一者上傳焉、元祿戊寅年五十一、移レ病辭レ職、稱號二榮久一、以二濟世一 爲レ藥、求レ治者必往、而不レ分二貧賤一、况受レ幣爲邪、故名重二于當時一、遠近之士從而受レ業者其如レ堵然、相稱曰二 楢林家流一( ○○○○)云、
p.0839 一 桂川家( ○○○) の事は、今の代より五世の祖甫筑先生と申せしは、文廟〈○德川家宣〉未だ藩邸におはせし時、召出されし御外科なり、其師家は、平戸侯〈○松浦〉の醫師にて嵐山甫安と申たるよしなり、此甫安は、其侯より出島在館の阿蘭外科に御託し置れて、親しく學ばせ給ひしとなり、此御家は、平戸へ入津以來、彼國の事は、譯品有て御親しみ御自由なる事のよし、又其時代は今の如くにもなかりしにや、甫筑君其頃幼若にて、門人となり、師に附添て、出島へ時々參られしが、專ら嵐山の流法を傳へ給ひしとなり、阿蘭陀の外科は、ダンネルと、アルマンスといふ人ときけり、桂川もとは、大和の國の人にて、森島氏なりしが、嵐山の流を汲むといふ意にて、家名を桂川と改め給ふとなり、今の桂川君の御祖父甫三と申せしは、翁若かりし時、常に交厚かりし御人なりし故、此事語り給へるを、聞置き侍りぬ、これを世に桂川流と稱しぬる事なり、
p.0839 桂川甫見
外科の家にして、蘭學に逹し、父箕裘を繼て、甫周は三國通覽之序を識し、六物新志、其外蘭學之書を著す、蘭學の名は人口に膾炙す、蘭品産物の會有り、外療家の秘訣を修す、六月十五日關帝の祭りに音樂を奏す、手付等有り、
p.0839 外療二家 長崎 吉雄( ○○) 紀州 花岡瑞軒( ○○○○)
p.0839 明和四五年の間なるべし、一とせ甲必丹は、ヤンカランス、外科はバブルといふもの來りし事あり、此カランスは、博學の人バブルは外科巧者のよしなり、大通詞 吉雄幸左衞門( ○○○○○○) は、專ら此バブルを師としたりと、幸左衞門〈後幸作、號は耕牛と云り、〉外科に巧みなりとて、其名高く、西國中國筋の人、長崎へ下り、其門に入る者至て多し、此年も蘭人に附添來れり、翁〈○杉田玄白〉夫等の事を傳へ聞し ゆへ、直に幸左衞門が門に入り、其術を學べり、これによりて日々彼客屋へ通ひたり、一日右のバブル川原元伯といへる醫生の、舌疽を診ひて治療し、且刺絡の術を施せしを見たり、扨々手に入りたるものなりき、血の飛び出す程を預め考へ、之を受るの器を、餘程に引はなし置たるに、飛逩血てうど其内に入りたりき、是れ 江戸にて刺絡せしの始( ○○○○○○○○○○) なり、其頃、翁年若く、元氣は強し、滯留中は、怠慢なく客館へ往來せしに、幸左衞門、一珍書を出し示せり、これは去年初て持渡りし、ヘーステル〈人名〉のシュルゼイン〈外科治術〉といふ書なりと、我深く懇望して、境樽二十挺を以て、交易したりと語れり、
p.0840 一又年は忘れたり、一春かの幸左衞門、阿蘭陀附添にて參府せし頃、豐前中津邸にて、昌庶公の御母君御座内にて、不慮に御脛を折傷し給ひし事あり、貴人の事なれば、大騒ぎにて彼是醫師を御招きの處、幸ひに吉雄幸左衞門出府居合候事ゆへ、直に御招きありて、御療治被二仰付一、御順快ありたり、此時前野良澤御手醫師の事ゆへ、懸合仰付られ、格別懇意となりたり、これ等蘭學の世に開くべき一といふべし、
p.0840 華岡隨賢( ○○○○) 〈子良平〉
華岡震、字伯行、通稱隨賢〈號二靑洲一〉紀伊人、世生業レ醫、震學二于吉益氏一、又從二大和見水一受二外治一、歷二遊諸州一研二磨其術一、既歸剏二内外合一活物窮理之説一曰、方無二古今一、内外一理、泥レ古不レ可二以通二于今一、略レ内不レ可三以治二於外一、蘭醫密二於理一、而麤一于法一、漢醫精二于法一、而拘二於跡一、故我術考二治於活物一出二法於窮理一、方劑不三必局二束於成規一、而藥餌所レ不レ及、鍼灸治レ之、鍼灸所レ不レ及、腹背可レ刳、腸胃可レ湔、苟可二以活一レ人者、宜レ無レ不レ爲焉、於レ是用二其意一、 製二麻沸之方一( ○○○○○) 、<ruby><rb> 號曰二 通仙散一( ○○○) 値二廢痼者一、輒令二先服レ之昏醉一、然後下レ手、乳巌、骨疽、痔漏、瘰癧、癭瘤之類、衆不二敢治一者、皆割刳洗湔、立刮二去穢毒一、從以二膏湯一、功績奇偉、稱爲二華佗復出一、
p.0840 宋華夢得、玉澗襍書云、華陀固神醫也、然范曄陳壽記二其治一レ疾、皆言、若發二結於内一、針藥所レ不 レ能レ及者、乃先令三以レ酒服二 麻沸散一( ○○○) 、既醉無レ所レ覺、因刳割破二腹背一、抽二割積聚一、若在二腸胃一、則斷裂湔洗、除二去疾穢一、既而縫合傳以二神膏一、四五日創愈、一月之間皆平復、此决無レ之理、人之所二以爲一レ人者以レ形、而形之所二以生一者以レ氣也、陀之藥能使五人醉無レ所レ覺、可四以受三其刳割與二能完養一、使二毀者復合一、則吾所レ不レ能レ知、然復背腸胃、既已破裂斷壞、則氣何由舍、安有二如レ是而復生者一乎、審一陀能一レ此、則凡受二支解之刑一者、皆可レ使レ生、王者之刑、亦無レ所二復施一矣云々、予謂、此論實是也、然史傳記事之文、間過二飾辭一以誤二其實一者、不二唯此范曄陳壽一也、
p.0841 華陀、字元化、〈○中略〉精二藥方一、其療レ疾合レ湯不レ過二數種一、〈○中略〉若病結積在レ内、鍼藥所レ不レ能レ及、當二須刳割一者、便飮二其 麻沸散一( ○○○) 須臾便如二醉死一、無レ所レ知、因破二取病一、若在二腸中一、便斷レ腸湔洗、縫レ腹膏摩、四五日差不レ痛、人亦不二自寤一、一月之間卽平復矣、
p.0841 亮按ズルニ、〈○中略〉古來我邦、外科書ノ完全ナル者ナク、其術亦隨テ世ニ明ナラズ、慶元以還、鷹取、南蠻、其他ノ諸流、稍ク世上ニ行ル、然レドモ或ハ古方殘缺ノ餘ニ出デ、或ハ洋醫ノ口傳手授ニ出デ、其術麁拙見ルニ足ル者ナシ、本邦此術ノ完全要領ヲ得ルハ、實ニ華岡靑洲ニ至テ備ル、靑洲、紀伊人、寬政享和ノ間、外科ヲ以テ天下ニ鳴ル、其術古今ヲ論ゼズ、倭洋ヲ問ハズ、苟モ長アレバ之ヲ探リ、内外合一、活物窮理ノ説ヲ剏ム、〈○中略〉 彼ノ麻睡劑ヲ以テ( ○○○○○○○○) 、 乳巖( ○○) 、 骨疽( ○○) 、 痔漏( ○○) 、 瘰癧( ○○) 、 癭瘤ノ類ヲ療スルガ如キハ( ○○○○○○○○○○○○) 、 其發明中最モ卓絶ナル者( ○○○○○○○○○○○) ナリ.
p.0841 館玄龍( ○○○) 墓碑銘
北醫之精二於瘍科一者、曰二館君玄龍一、〈○中略〉君幼而聰敏、年甫十四、學二長沙氏之道於富山大野玄格一、嶄然見二頭角一、年十九欲下游二上國一益弘中其道上、而未レ得二其方一、有下叔父祝髮居二高野山一者上、曰二本覺一、與二紀醫員華岡氏一善、勸レ游二其門一、君大喜、治レ装至二高野一、介二其書一執二贄於華岡氏一、當二是之時一、華岡氏之名噪二於天下一、從學者常數十百人、塾分二内外一、自レ外進レ内、未レ列二内籍一、不レ得レ親二炙於先生一、是以歷二十年之久一、有下未レ得レ奉二謦欬一者上焉、而君一見進二 内塾一、眷顧尤渥、日聞二其内外合一、活物究理之説一、見二斷割刳剔洗浣縫合之術一、退而思焉、進而質焉、黽勉淬厲忘二寢與一レ食、華岡氏毎稱曰、起レ予者北洋子也、居八年、盡得二其秘奧一、戊寅秋、辭游二於京師一、歷二訪諸名家一、專講二内科一、明年二月東游二江戸一、亦如レ之、〈○中略〉晩年聲譽大起、沈痾奇疾衆醫束レ手者、皆踰レ境輻二湊於其門一、君隨レ症施レ治、莫レ不二立効一、北人合レ口以稱曰、北洋先生今華陀也、
p.0842 御外科〈二百俵高 御番料百俵〉
坂本道景法眼 桂川甫周法眼 小堀祐眞法眼 村山伯元 栗崎道有
p.0842 治安三年九月十四日乙亥、從二去夕一 頰腫( ○○) 、惡血之所レ致歟、相成朝臣、用二蓮藥湯一療治、又依二夢想告一、傳二支子汁一、宰相云、依二賀事一禪室被レ來二高野一事延引者、以二恒盛一令二占勘一云、無レ祟、血氣相刻所レ奉レ致歟者、日者、蓮葉等湯頗温、以二彼等一洗レ頰熱氣發由有二夢想一、仍傳二支子一、亦冷二蓮葉汁一洗レ面、尤有二其驗一、 十五日丙子、僧等來、不二相逢一、面猶腫、療治、昨聊有二減氣一、 十六日丁丑、余所勞面疵、似二愈合一、雖レ傳二物藥一、不レ傳二肉合一歟、可レ無二瘢痕一由、醫師并人々所レ申也、日者以二柳地地菘蓮葉等湯一洗、而依二夢想告一、傳二支子一、又以二蓮葉一煮冷洗、而依二面腫頗減一、赤色亦宜二冷治一、已有二其驗一、依二種々湯一治二熱發一歟、
p.0842 後朱雀院 瘡ヲヤミ給( ○○○○○) ケルニ、典藥頭相成ヨロシク成給ヘリ、水トヾムベキヨシ申ケルヲ、雅忠イマダ若カリケルガ、ミタテマツリテ、コノ御瘡イツ水トヾムベシトモミエズト申ケリ、其後、嵯峨ノ瀧殿ノ阿闍梨重源ト云モノハ、重秀ガ孫ナリ、ソレヲ召テミセ給ケレバ、雅忠ガ申ヤウニ申テマカリ出トテ、故資仲帥ノ五位藏人ナリケルニアヒテ、コノ御瘡イツ愈給ベシト云事ミエズ、雅忠心エタル醫師也、明日御胸ヤミ給バ、大事ナルベシト申ケリ、マコトニ御胸ヤミテ失給ヒニケリ、カサヤム人胸ヤムハ、ヲハリノ事也トナム、
p.0842 昔腫物の治法は、水をそヽぎかくるなり、其法は鷹取の書に詳なり、徒然草に癰疽をやむ者水に洗て樂とせんより、やまざらんにしかじ、是醫療の事にはあらねど、療法にかよは して見るべし、榮花物語、此時の事を載て云、いかにもむつかしうおぼしめし、御居立のありさまなど同じ事なり、日頃の過るまヽに猶水などいさせ給ひてよからんと申、いとさむき頃たへがたげに見えたまふ、
p.0843 權大僧都覺運者、洛陽人也、〈○中略〉 重癰疽( ○○○) 發レ背、衆醫治レ之曰、已差、止レ水、重源闍梨〈滋秀孫〉後到、見レ瘡以レ手汲二所レ沃水一見曰、此病未レ差、可下待二一時一到上、同未時遷化。念佛不亂、禪座而終、公家贈二權僧正一、
p.0843 康治元年九月十八日丁未、召二典藥大夫友光一、令レ見二 癧瘍一( ○○) 、明日可二療治一之由令レ申、侍從師盛癧瘍面及身多出來、醫方無レ術、件友光無レ程療治癒、無レ疵云々、仍所レ召也、先日典藥頭重基朝臣、主計頭重忠朝臣等雖レ加二療法治一、更以無レ驗、仍件兩人不レ召也、 十九日戊申、友光來、癧瘍付レ藥、〈巴豆合二和他物一〉今夜膿、左頸著也、先以レ刀摩レ膚、令二色赤一著レ之、甚痛、 廿二日辛亥、友光藥所能膿、甚痛無レ術、 廿三日壬午、依二友光申一、今日初沐浴、付レ藥後初浴也、其後友光付レ藥、其色白、不レ知レ名、爲レ令二早癒一也、付レ之後無二苦痛一、神妙々々、浴後以二桃柳鹽湯一〈三物雜レ之〉洗レ之、付レ藥也、 廿八日丁巳、左頸〈友光藥著所也〉已癒、癧瘍削レ跡失了、又無レ疵、友光已末代藥師佛也、 十月十六日乙亥、胸腹癧瘍著レ藥、知光來著レ之、知光賜二疋馬一、依二先々所レ著藥一癧瘍平癒也、
p.0843 中原氏〈○中略〉
中原友光、爲二典藥少允一、轉二大屬一、遷二大允一、藤原賴長患二 癧瘍( ○○) 一、浸淫遍レ體、丹波重基、重忠治レ之無レ効、乃召二友光一、友光以二巴豆等藥一貼レ之、令二瘡潰爛一、以二桃柳鹽湯一洗レ之、隨點二末藥一、旬日而愈、賴長謝レ之以レ馬、
p.0843 文治三年八月三日辛未、二位中將 腫物( ○○) 、今日加レ針、侍醫和氣時成〈定成息〉候レ之、賜二牛一頭一、 十月十日丁丑、未刻許自レ院告送云、自二去夜一御頭小腫物御坐、醫師奉レ付二大黄一云々、又定能卿告二示同趣一、仍俄以院參申、時申斜也、以二定能卿一入見參云、當時所レ付レ藥也未二分明一云々、件卿語云、定成賴基貞繁等奉レ見、各申無事之由然而君御事以二重瘡治一可二奉仕一也、仍奉レ付二大黄一云々、而頗冷ル之由有レ仰、若是熱氣不二熾盛一歟云々、
p.0844 醫師采女正盛親ガモトヘ、十七八計ナル女來テ、 マヘノアナナシ( ○○○○○○○) 、イカヾスベキト云ケレバ、コレヲミテ、チカラヲヨバズト云ケレバ、ナク〳〵カヘリニケリ、後ニ秀成ト云醫師コレヲキヽテ、ソノ女ヲヨビテ、針ノカタナニテ、カハヲ、サシキリタリケレバ、世ノツネノ人ノヤウニナリニケリ、希有ノ事ナリ、
p.0844 應安四年二月晦日、申刻許、英職他界了、自二去二十六日市、 喉痺所勞( ○○○○) 出來、醫師宗俊〈故貞俊入道子〉致二針治一之間、於二喉腫一者、聊雖レ得レ減、身體猶不レ被二存命一之條、不便之事也、年三十四歳也、
p.0844 嘉吉二年十月十七日甲辰、參二淸史亭一、禁裏御不豫事、驚入之由申談、〈○中略〉有二一盞一、被レ語云、禁裏御腫物者 癰( ○) 也、腫物醫師久阿已下、一昨日十五日始拜二見之一、御療養難儀之由申之間、自二管領一、留山方下郷ト云醫師ヲ被二召進一之、御針ヲバ玉體ニ憚候間、如何可レ仕哉之由申、既下郷欲二退出一之間、三條中納言、中御門中納言、中山中納言等談合アリテ、此事如何可レ然哉云々、淸史同被二參候一云々、本朝針博士被レ置者、加樣時御用ノ爲也、何事々必不レ可レ進レ針之由可レ申哉、所詮爲二權道一之間、御針不レ可レ苦歟之由各評定被、仍下郷御針ヲタテマイラスト云々、本道之醫師中、當時無二針之名譽一、可レ云二道之零落一歟、
p.0844 諸瘡
一奴源右衞門、 唐瘡( ○○) 一身ニ出テ、後左足 ニ穴アツテ久不レ愈、黄汁出、先黄連ノ末ニ輕粉少加テ入レ之、數日而水多出、穴少開後、 黄丹 梹欵芍ノ末ヲ入テ卽愈、
p.0844 公方家
氷川明神は、紀州樣の氏神にて、惇廟田安樣皆御宮參被レ遊候、德廟龍飛後大乘院と云上方の古寺號を御買せ被レ成、御建立にて觸頭に被二仰付一、大乘院へ夜盜入候節、自分背を切られ、女房も手を負候を、西元哲と云外科にかヽり、平愈いたし候處、三年程過、右盜賊牢舍いたし、段々致二白状一候處、大乘院へ入候事申候に付、大乘院評定所へ引出され、御尋の處、左樣の義、一切覺不レ申候段申レ之、背を ぬかせ候處果してきず有レ之候に付、盜賊對して御仕置片付、其事御代參の女中へ、大乘院より物語候處、上の御耳に入、瘤をとり候哉、相尋候樣にと被二仰付一候て、とり候樣申候に付、御代になり、西元哲一時に被二召出一、四百俵被レ下、
p.0845 乳岩不レ治、自レ古然、而和蘭書中有レ言曰、其初發如二梅核一之時、以二快刀一割レ之、後從二金瘡之法一治レ之、斯言有レ味、雖二余未一レ試レ之、書以告二後人一、
p.0845 人肉補レ人
陳藏器曰、人肉治二羸疾一、自レ是閭閻相效、割レ股以博二孝名一、在二我邦一亦有二爲レ利刲レ股者一、一富商患二廣東瘡一、鼻剥落無レ形、瘍醫割二自己股肉一以罨二其鼻一、麻線縫レ之、封以レ膏、獲二巨金一、蓋以レ肉補レ肉、漢土亦有レ之、姑妄聽之云、大學士温公言、征二烏什一時、有二驍騎校腹中數刀一、醫不レ能レ縫、適生二俘數回婦一、醫曰得レ之矣、擇二一年壯肥白者一、生二刳腹皮一、羃二於 創上一( ○○) 、以二匹帛一纒束、竟獲レ無レ恙、創愈後渾合爲レ一、痛痒亦如レ一、公謂、非二戰陣一無二此病一、非二戰陣一亦無二此醫一、信然、鳧亭詩話云、吾墜レ馬、腦髄迸流、神魂飛越、蒙古神醫丞以二牛腦一實レ之、卽以二生牛一冐レ首、使二眞氣聚而不一レ洩、三月而能起立、然記性頓減、前後如二兩人一、余惜レ不レ以二人腦一耳、
p.0845 鐵砲治療書出板之義申上候書付 江川太郎左衞門〈○中略〉
銃創療治之道未ダ其理ヲ究メザルヲ憂ヒ、大槻俊齋ヲシテ、銃創ノ療方ノ一冊ヲ編セシメ、銃創瑣言ト名ヅケ、自ラ〈○江川太郎左衞門〉其序ヲ撰ブ、〈○序略〉
p.0845 治二 湯火燒灼一( ○○○○) 方第一
病源論云、凡被レ燒者、初愼勿レ以二冷物、及井戸泥、及蜜淋潝一レ之、其熱氣得レ冷却深搏至レ骨、爛二人筋一也、所以人中火湯瘡後、喜率縮者、良由レ此也、
p.0845 やけどの妙藥
湯火傷( ヤケド) には、木瓜の水を傅れば速に痛去りて平癒す、そは赤くなりたる胡瓜をきざみて、磁器に 貯れば、皮種などは底に沈みて、上は淸き水になれるを用る也、いく年ふとも氣味損ずることなし、其効能妙なり、また海膽の醬を傅るもよし、
p.0846 焦爛治方
同〈○簷曝雜記〉六卷〈廿三丁才〉に人被二火燒一皮肉焦爛出レ蟲如レ蛆者用二杏仁一爲レ末敷レ之卽愈、
p.0846 治二 鼠咬( ○○) 方一〈同方 應急靈妙藥方 云、麝香塗二帛上一繫二咬處一、〉
p.0846 鼠恩死の事〈附鼠毒妙藥の事〉
西郷市左衞門といへる人の母儀、鼠を飼ひて寵愛せしが、如何しけるや、彼鼠右母儀の指に喰付しが、殊の外痛みはれければ、市左衞門立寄て憎き事かな、畜類なればとて、日比の寵愛もかへり見ず、かヽる愁をなせる事こそ、不屈なれとて、打擲なしければ逃失ぬ、其夜母儀の夢に、かの鼠來りて、右指へ白躑躅の花の干たるを付ければ、立所に鼠毒を去て、愈るよしを述て、右白いつヽじの花を、枕元におくと見て夢覺ぬ、驚きさめて枕元を見れば、有し鼠は死て、白つヽじの花をくわへ居ける故、右の花を指の痛に附しに、立所に腫もひきて、快くなりしとなり、
p.0846 蜈蚣のさしたる( ○○○○○○○) には、活蜴を摺つくれば、痛み直ちに治す、又酒を熱く煎て疵をあらへば、忽ち熱氣さりて痛みを止む、
p.0846 外科
本朝自レ古尚レ武、故戰場以二先登一爲二士林之勤一、依レ之毎戰蒙レ創者多矣、故瘍醫雖レ兼二治金瘡一、又在二士林一專二攻其術一者巨多、號曰二 金瘡醫一( ○○○) 、吉益流中條流之類是也、以二其術一推二廣之一、兼治二婦人産前産後之疾病一、
p.0846 金瘡醫 龍韜王翼篇、方士三人、主二百藥一以治二金瘡一、 晉書劉曜載記、使二金瘡醫李永療一レ之、按、謂二之外科一、
p.0846 瘡〈キズ、亦作レ創、、爲二刀所一レ傷云、金瘡、〉 瘕 疵 〈キズ黒病也〉 傷 痏 〈已上〉 同、瑕瑾也、〉 痕〈キストコロ〉 癡 舋瘍〈已上同〉
p.0847 金瘡( キンサウ)
p.0847 第二十四卷 金( コン) 瘡( サウ/キス) 門 疵也〈并竹木車馬落、傷折等、〉一金瘡、血不レ止、 二金 刃( シシ/ヤイバ) 、傷中( /ヤブリアタル) 筋骨、 三金瘡、煩悶及 發( /クチ) 渇 ( カチ/カハク) 、 四金瘡、 中( アタリ) 風水、及痙、〈身不レ動也〉名二破傷風一、又云破傷中風也、 五金瘡 腸( ハラワタ) 出〈ツ〉 六毒箭所レ 傷( ルヤブラ) 〈日本 附子矢( フスヤ) 〉 〈同此療也〉 七 箭( セン/ヤ) 鏃( ソク/ジリ) 、〈金刀〉入レ 肉( シヽムラ) 、 八竹木刺傷肌肉不レ出 九治金瘡大散方可レ用方 腸出( ハラワタイツ) 十 傷( /ヤフレヲル) 折墜二落( セキヲチヲツ) 高處車馬一 十一湯火瘡〈ユヤケ 火ヤケ并 炙瘡( /ヤイトウ) 不レ差方〉
p.0847 治二金創一方第五
病源論云、夫被二金刃所一レ傷、其創多變動、若按二創邊一、于レ急肌肉不レ生、靑黄汁出、創邊寒、淸肉消臭敗、前出二赤血一、後出二黒血一、如二熟爛一者、及血不レ止、白汗隨出、如レ是者多凶、若中絡脈、髀、内陰股、天窻、負角、横斷、腓腸、乳上、乳下、及與二鳩尾攢毛少腹一尿從レ創出、氣如レ賁、脹及 出、諸創、如レ是者多凶、少レ愈、
p.0847 金瘡藥方
金瘡名人近江國大膳亮家傳
人參〈二匁カラシヲ去〉 川骨〈五匁皮ヲ削去酒ニツケキザム〉 熟地黄〈三匁〉 川芎〈二匁〉 白芍藥〈二匁酒ニテツケ黒皮ヲ去〉牡丹皮〈二匁外ノ皮ヲ削去〉 肉桂〈三匁酒ニツケ頭ノ黒キ所ヲ切去〉 甘草〈五匁上皮ヲ削去〉
右刻ミ合香色ニ燒リ、一包七分宛、如レ常煎ジ、手負ニ用ユ、メマヒヲ直シ、ソリケ不レ來、
p.0847 金瘡打撲の心得を説〈○中略〉
また金瘡を洗に、むかしより火酒を用ることなれども、洗ときに、劇痛堪がたきのみならず、暑月は、膿やすくして、大に可からず、それよりも、石灰を水に攪て、その澄淸を以て洗かたが、血の止ことも速にして、痛も少く、且愈ことも早し、それは新汲水二三升に、石灰を兩手にて二掬許も投、攪 て後、澄淸し、畑絹にて濾て、直に用ふべし、必温るにおよばず、これを一外科には、秘傳の水藥といひて稱用しが、近來喎蘭醫の單の水を用ると聽て、それに效ことになりゆ、これ、予が思ふ旨と、符合せることにて、石灰の水藥に比ては、水を用るかた、大に利ることあるなれども、俗人は、金創を水にて洗といはば、必訝ていはん、洗ところの水が、創口より入て、破傷風にならんかと、これ决してなき理なれども、醫士にも、志か謬慮する輩のなきにあらねば、その嫌疑を懼るものは、この水藥を用ふべし、たヾかの火酒を用ひて、金創を洗て、空に患者を苦痛せしめ、且後害を爲こと多に比ては、其功尤優ることなり、故にその弊を救んが爲に、これらの説にも及べるなり、水療俗辨の中にも、此事を論じたれば、宜併考べし、さて深き創處は、小兒の玩具に用る竹にて造たる喞筩などを用て、創口へ彈射て洗も可、外科には、すぽいとヽいひて、鍮銅にて製たる筒を用、これその洩血を、微も中に遣ときには、必膿潰ざれば、愈ることなきが故に、愼で之を洗去ることなり、もしかかる器もなきときには、よく其創脣を左右へ開て、旁人をして、土罐にて灌て、洗もまたよし、預白き棉布を、創の大さより、四五分許も長く裁て、それを、鷄子白に蘸おきて、さてよく洗たる後に、創脣を婦女子の衣装の破裂を緝襴るやうに、心を定て微も參差なく、齟齬ぬやうに窄合て、ありあふ椰子油、豬脂、または麻油やうの物を、脣口へのみ塗て、その兩方へ、この鷄子白に蘸たる布を亘て、その上より、また〳〵木綿を摺て、水と醋を等分に合たるに打濕て、創上に壓定、さて縛綿を施なり、木綿を縛には、終始創脣の齟齬ぬやうに、緊からず、緩からぬやうに、木綿の無益に重疊ぬやうに、徐々と微も浮氣ことなく、心を臍下に在て靜に縛了べし、
p.0848 一昔血留などヽ申事稀也、血止草などを用ひて事濟けるが、秋は手疵負たるには、澀柿を嚙くだきて付たるがよし、血止となり、痛を去りて、早く疵を愈しける、今はいろ〳〵藥あり、然ども昔の澀柿の功程成を不レ見、澀柿は側にありても、血不レ止と云説あり、勘辨すべし、
p.0849 切疵奇藥
何草にても、三品一所に揉て、其液を草の儘付る、卽時に愈る事妙なり、但しひな草一種は除て、其餘は何草にてもよろし、右は、我等普請せし折、大工の手傳、過て怪我せし處、この大工すぐ樣草三品一所に揉、疵口へすり付候處、見る間に血とまり愈たり、此者いふ、我生れし田舍にては、切疵いかやうの深疵にても、この三品の草にて速かに愈るなり、何草にても宜しと、實に手輕の仕方故志るす、右の外にも種々の名藥あれども、其場にて用ゆる事ならず、藥種調合のうへの藥なれば、是賣藥に類して、手重なれば略す、
p.0849 蘇鐵の藥の枯たるを黒燒にして、胡麻の油に和し、たくはへ置べし、金瘡切り疵にはいかほどのことにても、酒にて洗はずに愈ること妙なり、楠正成が家の法なりとて、左海大松屋のあるじ、予に傳へたり、予が友中根彌次郎といふもの、遺恨によりて切られし時、ふかさ四寸ばかりの疵口へ、この藥をつけて忽に全快せり、
p.0849 金瘡療治抄
此書一卷寫本ニテ四天王寺文庫中ニアリ、相傳ヘテ楠公自筆ノ本也ト稱セリ、怪ムベキ樣ナシドモ奧書アリ、如レ左、〈○中略〉
金瘡書ニ畠山氏之傳ト稱スル物〈又吉益流トモ稱ス〉世ニ多シ、何ノ時ニ成リタルヤ詳ナラザレドモ、何レ戰國ノ物ト見ユ、又上州富岡ト云ヘル所ニ、武田家〈信玄ヲ稱ス〉金瘡ト云フ物ヲ藏スル人アリ、甲櫃ノ中ヨリ取出シタリト云、此類モ又マヽアリ、又産前後金瘡ノ類ヲ血ノ道ノ七氣ト稱シテ、古クヨリ一家ノ事ト成リシ、其治方ヲ載セタル書マヽアリ、多クハ皆二三百年許ノモノナレドモ、猶古クヨリ傳ヘシモ有ベシ、
p.0850 近日西洋ノ外醫シーボルト、巧手ノ名アリテ、京寓中、醫者病者來聚テ市ヲナセシニ、東都ヨリ歸途、關驛ニテ、甲必丹ノ失足墮損セシカバ、シーボルト服藥數貼術ヲ盡セシニ、効アラズ、再ビ京ニ入リテ、發足ノ期モ遲延シ、京醫ノ蘭ヲ唱フルモノ、日々環視スルノミニシテ、倶ニ技窮セシトコロ、靑貝屋武右衞門トイヘル骨董アリテ、 難波骨ツギ( ○○○○○) 山口滿二ナルモノヲ伴ヒ來リテ、診察セシメシニ、渠一診シテ、コレシキノ輕患ニ、イカナレバ數日治功ナキ事ゾ、某ガ術ヲ行ヒタランニハ、三日ニシテ全癒ナサシメント、大言ヲ吐タリシカバ、サラバトテ、蘭人モ治ヲ乞シニ、果シテ其言ノ如ク、三日中ニシテ、脱然ト治癒セシメ、亟ニ崎嶴ニ還ルコトヲ得セシメタリ、〈○中略〉滿二ノ技、外國人ノ眼ヲ驚セシ、實ニ愉快トイフベシ、此丙戌〈○文政九年〉ノ春ノコトニテアリキ、
p.0850 天神眞揚流 當流ノ租ハ、磯又右衞門ト云フ、〈○中略〉門人本間氏其宗ヲ得、其門ニ香川爲春トイフ者、其奧旨ヲ究メ、安政年間舊江戸麹町五丁目ニ住シ、 特ニ接骨ノ妙ヲ得( ○○○○○○○○) 、
p.0850 又〈○醫疾令〉云、醫生既讀二諸經一、乃分レ業敎習、〈○中略〉二人學二耳 目( ○) 口齒一、各專二其業一、
p.0850 ちかごろ、やまとのくになるおとこ、めのすこしみえぬことのありけるを、なげきゐたるほどに、かどよりおとこひとりいりきたり、あれはなにものぞといへば、我は 目のやまひをつくろふくすし( ○○○○○○○○○○○○○)なりと云、いゑあるじ志かるべき神佛のたすけかとおもひて、よびいれつ、このおとこ、めをひきあけて、よく〳〵見て、針してよかるべしとて、針をたつ、いまはよくなりなむとていでヽいぬ、そのヽちは、いよ〳〵見えざりけり、ついにかためはつぶれてはてにけり、
p.0850 目醫
本朝目醫其家傳者多、特推二 馬島( ○○) 良峯一以爲レ勝、馬島者尾州馬島藏南坊僧、遇二異人一傳二奇方一、四方患レ眼者悉到二彼寺一求二療養一、今直呼稱二馬島一、城州 良峯成就坊( ○○○○○) 僧亦如レ此、其外 佐々木( ○○○) 、 靑木( ○○) 、 須磨( ○○) 、 穂積( ○○) 等、作二一家一者不レ爲レ不レ多矣、
p.0851 眼目藥 眼科醫有二數家一、佐々木、靑木、間島、須磨、穂積、祐乘坊、泉南界 海乘坊( ○○○) 等是也、各住二京師一、曾良峯源算上人製二目藥一而救レ之、彼等寺僧レ今製レ之、凡僧徒之療二眼疾二者處々多、
p.0851 眼科
尾州に明眼院〈寺領百石〉といふ寺あり、眼科 馬島流( ○○○) を傳ふるもの、此門に入て方を受る事也、眼科の書に龍樹眼論といへるもの、あの方にても絶てなき書と見へたり、近頃明の保光道人の龍木論などいへる書も、これらによれるにや、馬島といへる文字も、疑らくは龍樹とへるによりて、 馬鳴( ミノヤウ)の字の體近きによりて、附會せるか、眼科の書は、哀學淵が眼科全書、〈和刻あり〉明の末の王協約菴が眼科全書、〈唐木也〉眼科百効全書、銀海全書等也と、東都四谷目醫馬島玄仲〈尾州醫官〉の物語なり、
p.0851 張膏、孟二寬、偕善レ醫、膏尤精二眼科一、朝鮮之役、二人爲二我軍一所レ俘、膏字甘子、號二提山一、豐太閤遣歸レ國、二寬改稱二武林次庵一、蓋取二其本邑一爲レ氏、明暦三年沒、其孫爲二赤穂侯臣一死レ節、所レ謂武林唯七也、
p.0851 筑前胸村醫生養朴、以二眼科一聞二于西海一、常盛二水於盆一、浮二髮於其内一、以二燔針一刺二其髮一、髮兩二斷于左右一、曰不レ如レ此、則不レ能レ刮二眼中之筋膜一、其子學レ之數年、其髮雖二兩斷一、水有二聲一、父曰有レ聲者不レ可レ刮レ眼、其人不レ堪痛苦一也、
p.0851 御眼科〈二百俵高御番料百俵〉
土生玄昌法眼 渡邊雄伯
p.0851 亮按ズルニ、〈○中略〉我邦古昔目醫ノ稱アリテ、是ヲ以テ專門ト爲スガ如シ、然レドモ中世以後全ク其傳ヲ絶シ、亦載籍ノ傳ル者ナク、今ニ至リ其療法ノ如何ヲ知ル可カラズ、慶元以還、醫學興起スルニ隨テ、世上往々是術ヲ以テ業ト爲ス者アリト雖モ、皆是レ家傳口授ニ依リ、從來の局方ニ泥ミ、一モ取ルニ足ル者ナシ、蓋シ此術ノ世ニ明ナルハ、獨逸人 西保爾多( シーボルト)ヨリ傳ル者多シト云フ、西保爾多、文化中蘭人ト冒稱シ、長崎ニ來ル、頗ル良醫ノ名アリ、高良齋、
士生玄碩等之ニ從テ、專ラ眼科術ヲ修ム、文政ノ末年、西保爾多ノ獄起ル、二氏同僚二十三人ト逮捕セラレ、連坐極ニ下ル、已ニシテ赦ニ遇ヒ、西保爾多國ニ歸ル、良齋業ヲ大坂ニ開キ、玄碩ハ江戸ニ開ク、東西共ニ名ヲ齊ウシ、門戸ノ盛ナル、一時其比ナシト云フ、是我邦眼科專門學ヲ以テ世ニ顯ルヽノ始ナリ、
p.0853 眼疾
眼疾有二顓科一、而先哲既備二載各冊一、或爲二一百六十證一、或爲二七十二證一以論之レ、獨明傳仁宇著二 審視瑤函一( ○○○○) 、定爲二一百有六證一、而其所レ論、按候察法、覽形辨色、詳悉無レ遣、又鈎割針烙之治、藥劑補瀉之法、縷晰森々、以鏡二其要一、業二斯道一者、不レ可レ不讀者也、在二本邦一亦精二其治術一者、往々有焉、或針二瞳子一而出レ膿、或刺二眼胞一而放レ血、或浸二銅器於鹽湯一、以慰二眼内一、或灸二眼珠一等之事、最能工二其術一、有志之士、宜二就而學一焉、
p.0853 眼目
一若君樣、左之眼甚赤、又黒白之門不二分明一、洗肝明目散、追弓赤芍 連文丹石堯藝荊苛羗蔓菊白 屮决吉甘、〈各等分〉
p.0853 一 雀目( トリメ) ノ症、虞天民ノ説ニ、肝不レ足、脾土有レ餘ノ候トス、是必ズ雀目ノ症、多ハ黄眼ニ變ズルヲ以ノ故也、世醫此説ニ本ヅキ、四物湯ニ平胃散ヲ合シテ用ユル者アリ、百ニ一驗モナシ、〈啓益〉〈○香月〉按ズルニ、雀目ノ症或ハ胃虚弱ニシテ陽氣不レ升ノ候ナリ、故ニ大病ノ後、或ハ少壯ノ人色慾過度シ、必ズ此病ヲ發ス、沖和養胃湯主レ之、其効如レ神、和俗雀目ノ病ニ、鯛ノ子ヲ鹽辛ニシテ用テ必ズ有二奇効一、蓋鯛性ハ熟ニシテ、子ハ猶生陽ノ氣ヲ含畜スル故ニ、此物陽氣ヲ上升シテ、其効如レ神、可レ秘可レ秘、
p.0853 四谷岡部左京室、姙娠數月、雀目ヲ患ヒ、醫之ヲ療ジテ愈エズ、余鷄肝丸ヲ與フ、一週ニシテ愈、後外感ヲ得、表邪解スルノ後、虚熱煩渇、咳嗽殆ド勞状ヲ見ズ、余〈○淺田宗伯〉人參當歸散加五味 子ヲ與ヘ、數旬ニシテ熱解シ、咳止ミ、精氣大ニ復シ、分娩常ノ如シ、
p.0854 靑木侃齊ノ説ニ、鰻鱺ハヨク脾胃ノ運化ヲ健ニスルモノ也、眼病神水ノシマリアシク、瞳子ノ散ゼントスルヲ治スルニ、鰻鱺ヨリ善ナルハナシ、審視瑤函ニ、神水不足ハ啻ニ腎虚ノミナラズ、胃虚ヨリ來モノ多トイヘルハ、信ニ然リ、 馬島流ノウナギ藥( ○○○○○○○○) トテ、車前子一斤、使君子五兩、蕪荑人二兩、肉豆 三兩ヲ黒燒ニシテ丸トナシ、毎夜臨臥ニ鰻ト同食セシムル方アリ、脾虚ノ眼病ニハ妙劑也、蕪荑ヲ去テ散藥トナシ、蒲燒ヘ糝シテ食ハシム、尤妙也、〈毎小串一二本ヅヽ〉脾疳ニモ亦効アリ、車前子ノ濕熱ヲ除ヲモテ主トスル也、故ニ此一味ヲ用テモ佳也ト、
p.0854 諸生の業は、眼目に係れり、病夫幼より、時に眼を患ふることあり、眼目を治するを業とする醫家に謀りしに、眼晴を保つことあたはず、數ならずして、喪明せんと云り、その時は、いまだ先母の在りしが夙に起て、鹽を以て嗽ぎ、これを吐て、掬して眼を洗べしと訓玉へり、それより十有餘年、今日に至るまで、一日も洗眼せずと云ふことなし、眼を患ることも、前に減じたり、後この方を、本草鹽の附方にて、見たることあり、
p.0854 松平伊豆守、眼を煩ハレシ時、本覺ト云ル目醫ノ藥ヲ用ヒラレ、段々快氣ニテ最早登城ヲモ致サルベキ時ニ、本覺ニ申サルヽハ、我等眼病大方愈タリ、去ナガラ、此寒氣、外ヘ出候ヘバ、其儘涙出、又少シノ風ニモ、涙ヲ催シ候ト有ケレバ、本覺申ハ、夫ハ上ノ目ノヨク成候故、上目ハ常ニ涙グミ、寒暑ニモ、必涙洩レ候ナリ、血氣ツヨキ故ニ、斯ノ如クニ候ト、追從心ニ申ケレドモ、萬事ハ一理也ト、豆州申サレ、扨醫ノ道ハ知ラズ候得ドモ、考フルニ、上ノ目ト云ハ涙モ出ズ、又乾モセヌガ上ノ眼タルベシ、涙ノ出ルハ、乾クヨリハ增ナルベシ、去ナガラ目ノ事ハ、格別ナリヤト申サレシカバ、本覺赤面シ、扨々御尤ト申シケル、
p.0854 今時は、すべて技能の事も精密になりて、入眼、入鼻などいふ事を考へ出し、かたわなる人 も、療治を得れば、平常の人に異なる事なきやうにみゆる也、番町の御家人の何がしの息女、片目あしかりしを、入眼せしかば、よき目よりはよくみなさるヽやうに成たり、但それ志りて心をとめてみれば、人見のはたらかざるゆへ、入眼の事とは志らるれども、うちつけにしらぬ人の指向ひたるには、さらに入眼成とも見わけがたきほどなり、其のち、此息女がたわをかくして、媒介によりて、婚娶の事さだまり、縁付たりと云、又大門通に、馬具をあきなひするもの、師走ころ、牛込の邊へ馬具のあたひを請取に行たる歸路に、夜陰、盜賊にあひて切付られ、にぐるとて鼻を切落されぬ、にげ歸て、いそぎ入鼻の醫師を覔て、療治せしかば、木をきざみて、鼻の形になし、付そへたりしに、元來の鼻の色と少もたがふ事なく、寄特成る事に、人もあさみいひたり、但酒徒成故、沈醉におよぶときは、顏色あかく成に志たがつて、鼻の色ばかりかはらず、たしかに入鼻わかれて見えたりとぞ、
p.0855 又〈○醫疾令〉云、醫生既讀二諸經一、〈○中略〉二人學二 耳( ○) 目口齒一、各專其業一、
p.0855 論曰、腎氣通二於耳心一寄二竅於耳一、氣竅相通、若二窻牖一然、音聲之來、雖レ遠必聞、若心腎氣虚、料神失レ守、氣不二宣通一、内外窒塞、隔有二聲聽之病一、經所レ謂五臟不レ和、則九竅不レ通是也、又曰、耳襲之證有レ二、一者有二腎虚精脱而聾者一、其候、面色黒、二者脛脈氣厥而聾者、其候、耳中煇々焞々、或耳中氣滿是也、審而治レ之、
p.0855 慶永廿三年四月廿六日、御所樣〈○後小松〉此間御耳ホヽメキテ不レ聞、昌者有レ御尋一、龜ヲ水ニ洗テ、アヲノケテ、鏡ノ影ヲ令レ見之時、小便ヲスベシ、其シトヲ良藥ニ合テ、御耳ニ可レ入之由申、良藥獻レ之、仍宇治川之龜ヲ捕、如レ然鏡ヲ令レ見、則小便ヲ出ス、醫師如レ申也、嚴重事歟、
p.0855 一石龜の小便、耳のきこへ不レ申に入候へば、能候、此龜は龜甲有レ之にて候、此小便を取申候には、龜の口へ山椒を一二粒入候へば、其儘小便をいたし候、
p.0856 小兒雜病
大人小兒共に耳聲ノ症ニ、鵜鶘ノ油ニ、磁石、麝香少許ヲ入テ、煉合テ錠子トナシテ、耳内ニ入テ、口中ニ生鐵少許ヲ含ムコト三五度ナレバ、其効如レ神、右ノ錠子ヲ綿ニ裹ミタルモ吉シ、右ノ方ハ本草綱目ノ鵜鶘ノ條發明ニ見タリ、鵜鶘ノ脂日本ニナシ、中華ヨリ長崎ニ來ル、サレドモ甚稀也、河内國ニ鵜鶘アリト云人アレドモ、其實否ヲシラズ、此方耳聾ヲ治スルニ十ニシテ八九ヲ治ス、先師元益老人此油ヲ蓄ヘテ、耳聾ヲ治スルノ名ヲ得、其後此油ヲ求得ズ、石龜ノ尿ヲ取テ麝香ヲ加ヘ、右ノ方ノ如シテ口中ニ鐵ヲ含スレバ其効如レ神、是亦一奇方也、可レ秘、
p.0856 耳病
一三河守樣、御耳ノ内病、膿出、今止晡時熱、頭痛汗出、小柴胡ニ加二莎苛一、一一男耳聾鳴手振、諸藥不レ効、淸聰丸一劑而瘥、貴〈鹽水洗炒〉赤令靑守柴梢汶 蔓吉蝎〈去レ毒〉菖漣、〈各三分〉生耳〈一分〉酒粘丸、菉豆大、毎服、一百二十丸、茶漬送下、
p.0856 耳
一松平三河守、〈十二歳餘、侍從、〉耳中痛膿出、出止晡時潮熱、頭痛汗出、 淸肌湯 小柴胡ニ加二莎苛一
p.0856 一 兩耳鳴( ○○○) 、耳聾スル者ハ、酒ト厚味ト胃火ヲ動スガ故也、酒傷ニヨラバ、葛根、枳實、靑皮、荊芥ヲ加フ、食滯ニヨラバ、木香、山査、酒製ノ大黄ヲ倍加ス、其効如レ神、經曰、頭痛、耳鳴、耳聾、腸胃所レ生也ト、信哉此言、
p.0856 北新堀街後藤弘三郎妹於八百、年十六、幼ヨリ 聤耳( ○○) ノ患アリ、兩耳膿水淋滿、時トシテ臭氣近ヅクベカラズ、左耳之ガ爲聾ス、嫁期已ニ迫ルヲ以、衆醫ヲ迎テ之ヲ講ス、余曰、胎毒ノミ、緩攻シテ其毒ヲ盡スベシ、主人其言ヲ諾ス、因テ葛根湯、加芎黄ヲ與、五味鼹鼠丸ヲ兼用スルコト數月、膿水漸少ニ臭去リ、左耳近ク辨ズルヲ得タリ、無レ幾シテ地割役所樽三右衞ニ適ス、
p.0857 鼻病( ○○)
鼻痔ハ肺火也、實スル者ハ、防風通聖散ニ加減シテ用ヨ、虚弱ナル者ニハ、升麻葛根湯ニ當歸川芎連翹酒芩防風山梔子ヲ加ヘヨ、有レ効、外ヨリ 燔針( ヤキバリ) ヲ用テ燒切ベシ、杏仁ノ皮 尖( トガリ) ヲ去テソギ泥トナシ、絹ニ包テ鼻中ニ入ヨ、有二神効一、
p.0857 諸瘡
一女子、 鼻中生レ瘡( ○○○○) 、右寸關之脈浮實五動、二八流氣去レ圭、加二汶 堯桑門貴莎苛忍一、
p.0857 又〈○醫疾令〉云、醫生既讀二諸經一、乃分レ業敎習、〈○中略〉二人學二耳目 口齒一( ○○) 、各專二其業一、
p.0857 齒牙藥 丹波康賴之孫俊雅、任二近江掾一、其子俊通爲二侍醫一、叙二從五位下一、聽二半昇殿一、自レ玆代々醫術爲レ業、任二典藥頭一爲二施藥院使一、二十五世孫賴元有二數子一、山城州人賀茂玄泰、依下與二賴元一爲中親族上、養二其子一傳二醫術一、是號二兼康一、治二諸病一、特得下療二齒牙一之術上、自レ玆爲下 治二口舌一之醫上( ○○○○○) 、賴元嫡流絶、兼康孫于レ今連綿、然不レ稱二賀茂氏一、直 以二兼康一爲レ號( ○○○○○) 、仕二公方家一、近世避二御諱一稱二 金保一( ○○) 、在二京師一者以二 兼康一( ○○) 、稱レ之、
p.0857 多紀永壽院
多紀元德、字仲明、通稱安元、〈號藍溪〉名醫康賴之裔、高祖元泰自別レ族爲二 金保氏一( ○○○) 、始以二口科一仕二神祖一、及二父元孝一請改二今姓一、復二内科一、
p.0857 齒醫師 本朝にをゐて、靑陽の初に齒堅の祝、是齒を養、長生をことぶくのはじめなり、 金康( ○○) をもつて齒醫の家とす、此家に屠蘇白散の法つたはりてあり、
p.0857 兼康口科書 一卷
兼康ハ兼親ノ四代前ニテ丹波家也、此書多ク世ニ傳フ、
p.0857 壽永二年閏十月十八日己卯、女醫博士經基來取二姫君并中將等齒一、 又主税頭定長來之、見二醫書等一、〈○下略〉
p.0858 齒取事
南都ニ、 齒取唐人( ○○○○) 有キ、或在家ノ人ノ、慳貪ニシテ、利潤ヲサキトシ、事ニフレテ、アキナヒ心ノミアリテ、得モアリタルガ、虫ノクヒタルハヲトラセントテ、唐人ガモトヘユキヌ、齒一ツトルニハ錢二文ニサダメタルヲ、一文ニテトリテタベトイフ、少分ノ事ナレバタヾモトルベケレドモ、心ザレバ、サラバ三文ニテ齒二ツトリ給ヘトテ、虫モクハヌヨニヨキハヲ、トリソヘテ、二ツトラセテ、三文トラセツ、心ニハ利分トコソ思ケレドモ、キズナキハヲウシナヒヌル、大ナル損ナリ、是ハ申ニヲヨバズ、大ニオロカナル事、ヲコガマシキワザナリ、
p.0858 建久五年九月二十六日癸丑、齒御勞事、爲レ被レ尋二療法於京都醫師一、態所レ被レ立二飛脚一也云云、十月十七日戊戌、齒御療治事、賴墓朝臣注申之、其上獻二良藥等一、藤九郎盛長傳進之、彼朝臣者參河國羽渭庄、爲二關東御思所一令二頗知一者也、
p.0858 正和三年二月六日庚申、此〈裏書〉日依二齒痛一、召二仲景朝臣一令レ見、申云、只口熱也、非二別事一云々、全成朝臣所存、以同前、仍不レ及レ取レ齒之由、兩人申之、先年齒痛之時、不レ取レ齒者、可レ惡之由、冬康朝臣令レ申、仍今度以二兩人一令二治定一、篤基朝臣依二所勞一不參、英成朝臣、長直朝臣療治、院御疱瘡之間不レ召之、
p.0858 口唇
一新庄越前守、小性口中爛痛、淸胃湯、六此〈等分〉付レ藥、釜底黒、
一倉橋内匠舍弟、服二輕粉一而口中破損、砂金一兩水煎、而冷含之後、兵斤甘右末而傳、
p.0858 與二大塚子裕一
足下牙病快否、得レ無レ廢二嘯歌一乎、僕有二治方一、嘗獲二于芙蓉禅師一、蒺黎子丁子各一錢水煎、頻々含レ之、試レ之甚効、今記レ之以呈二足下一、〈嵰州園文稿卷之五〉
p.0859 矢師
齒ヌキモ此一種也、大坂ノ松井喜三郎、江戸ハ長井兵助、玄水等最名アリ、喜三郎ト兵助ハ、人集メニ、筥三方等ヲ積累子、其上立テ大太刀ヲ拔キ、或ハ居合ノ學ビヲナシ、玄水ハ獨藥ヲマワシテ人ヲ集メ、齒磨粉、及ビ齒藥ヲウリ、又齒療入齒モナス也、C 入齒
p.0859 家光公ハ、江戸ノ事、別シテ委敷知シ召ルレ共、何事モ上ヨリハ仰出サレズ、善惡共老臣ヨリ言上スレバ、其事ハ斯コソ聞居タレト、老臣ヨリモ委敷知シ召レケル、或時、山本源右衞門ト云江戸一番ノ溢レ者有テ、御仕置ノ義ヲ申上シニ、其者ハ能キ男ニテ、尚齒一枚欠テ、銀齒セシト仰セ有シニ、男振ハ仰セノ如ク能キ男ニ候、向齒ノ所ハ、如何存ジ申サズト申上ルニ、其者ノ事ハ、八年以前ヨリ存ジ居タレド、若氣ノ事故、直ルベキヤト思居タリト仰セラレテ、切腹仰付ラレタリ、後ニ見ルニ、仰セノ如ク、 銀ノ入齒( ○○○○) 有シトナリ、
p.0859 乍レ恐以二書付一奉二願上一候
一本石町三丁目林藏地借、 入齒渡世( ○○○○) 金三郎奉二申上一候、〈○中略〉
嘉永七寅年八月廿八日〈○署名及宛名略〉