病理

〔萬葉集〕

〈五雜〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 沈痾自哀文 山上憶良作〈○中略〉
志怪記云、廣平前大守、北海徐玄方之女、年十八歳而死、其靈謂馮馬子曰、案我生錄當壽八十餘歳、今爲http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000r09491.gif 鬼所枉殺、已經四年、此過馮馬子、乃得更活、是也、内敎云、贍浮洲人壽百二十歳、謹案、此數非必不此、故壽延經云、有比丘名曰難逹、臨命終時、詣佛請壽則延十八年、但善爲者天地相畢、其壽夭者、業報所招、隨其修短而爲半也、未斯算而遄死去、故曰未半也、任微君曰、 病從口入( ○○○○) 、故君子節其飮食、由斯言之、人遇疾病必<tmc code="r09491"/>鬼、夫醫方諸家之廣説、飮食禁忌之厚訓、知易行難之鈍情、三者盈目滿耳、由來久矣、抱朴子曰、人但不其當死之日、故不憂耳、若誠知羽翮可期者、必將爲之、以此而觀、乃知我病蓋斯 飮食所招( ○○○○) 、而不自治者乎、

〔醫心方〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 諸病不治證第二
醫門方云、論曰、夫人 有病皆起於藏( ○○○○○○) 府、生死之候乃見於容色、猶如影響報應、必不差違

〔醫心方〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 治病大體第一〈○中略〉
大素經云、黄帝問於岐伯曰、醫之治病也、一病而治各不同皆愈何也、岐伯曰、 地勢( ○○) 使然、故東方之域、天地之法始生也、魚鹽之地、濱海傍水、其民食魚而嗜醎、魚者使人熱中、鹽者勝血、故其民皆黑色疎理、故其病爲癕瘍、其治宜http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000225837.gifhttp://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000225837.gif 石者亦出東方來、 西方者、金玉之域、沙石之處也、天地之所收引也、其 民陵居而多風、水土剛強、其民不衣而疊篇、其民窄食脂肥故耶、不其形體、其病皆生於内、其治宜毒藥、毒藥從西方來、

〔頓醫抄〕

〈三十四癩病〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 一疥癩治方〈○中略〉
凡 病有六種( ○○○○) 、第一次第不調、第二飮食不調、第三座禪不調、第四業病、第五魔病、第六鬼病、
右六種之中、魔、鬼ノ二病ハ、以神呪之、非法威力者不之、座禪一病者、還依座禪之、業病ハ、以罪障懺悔之力之、四大不調、飮食不調者、醫師所治也、但除業病、是四大各有百一病、合成四百四病、此則莫五藏、四大不調者、地水火風也、

〔本朝醫談〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 又病因を、 物の怪( ○○○) のやうにいへるは、佛學世に行はれて、釋氏鬼病の説の、世上に弘まりたるにあらず、總てまじなひ祈禱して、本復する症は、皆鬼病なり、其外は多く飮食より起る病なり、故に唐土の古人も、病因に鬼食をいへり、〈左傳醫和曰、非鬼非食、〉萬葉集に、病從口入、故君子節其飮食、人遇疾病必妖鬼といへるは、よく病因を説といふべし、〈物怪のくすり、女傳集に出づ、〉

〔頓醫抄〕

〈十二諸氣〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 夫人ハ天地陰陽ヲウケテ生ズ、蓋天ニ六氣アリ、故ニ人ニ三陰三陽アリテコレニ應ズ、地ニ五行アリ、人ニ五臟五府アリ、コレニ應ズ、コヽニ或ハ四百四病ト名ケ、或ハ萬病ト稱ス、其ウチ巢元方病源論ニハ、千八百ノ門ヲタテヽ、一門ノシタニ各衆病ヲアカセリ、シカリトイヘドモ、病萬差ニシテ、ナホツクスコトアタハズ、コヽニ陳言無擇ガ三因方ニ、三ノ因ヲタテ、萬病ヲオサムルニ、病トシテツキズト云コトナシ、其 三因( ○○) ト云ハ、一ニハ 内因( ○○) 、二ニハ 外因( ○○) 、三ニハ 不内外因( ○○○○)コレナリ、内因ト云ハ、 七氣ノ病( ○○○○) ナリ、イハク、喜、怒、憂、思、悲、恐、驚ノ七ノ氣ハ内心ヨリ生ズル病ナルユヘニ、内因ト名ヅク、

〔太平記〕

〈二十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 宮方怨靈會六本杉事附醫師評定事
足利左兵衞督ノ北方相勞ル事有テ、和氣丹波ノ兩流ノ博士、本道、外科、一代ノ名醫數十人被招請 テ脈ヲ取ラセルヽニ、或ハ御勞リ、風ヨリ起テ候ヘバ、風ヲ治スル藥ニハ、牛黄金虎丹、辰沙天麻圓ヲ合セテ御療治候ベシト申ス、或ハ 諸病ハ氣ヨリ起ル( ○○○○○○○) 事ニテ候ヘバ、氣ヲ收ル藥ニハ、兪山人降氣湯、神仙沈麝圓ヲ合セテマイリ候ベシト申、或ハ此御勞ハ、腹ノ御病ニテ候ヘバ、腹病ヲ治スル藥ニハ、金鎖正元丹、秘傳玉鎖圓ヲ合テ、御療治候ベシトゾ申ケル、斯ル處ニ施藥院師嗣成、少シ遲參シテ脈ヲ取進セケルガ、何ナル病トモ不辨、病多シトイヘ共、束テ 四種( ○○) ヲ不出、雖然混散ノ中ニ於テ致料簡ヲケレ共、更ニ何レノ病トモ不見、心中ニ不審ヲ成處ニ、天狗共ノ仁和寺ノ六本杉ニテ評定シケル事ヲ、屹ト思出シテ、是御懷姙ノ御脈ニテ候ケル、シカモ男子ニテ御渡候ベシトゾサヽヤキケル、

〔志豆の石室〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0951 素問ノ擧痛論ニ、 百病生於氣( ○○○○○) 、怒則氣上、恐則氣下、喜則氣緩、悲則氣消、思則氣結、驚則氣亂、寒則氣收、炅則氣泄、勞則氣耗、トモ有ル如ク、諸病モ此ヨリ生ズルデゴザル、〈○中略〉然レバコレ程ヤンゴトナキ大事ノ處ユエ、醫書ト云フ醫書ハ本ヨリノコト、諸道諸業、何レモコヽヘ氣ヲタヽミ蓄ヘルコトヲサトシ、マヅ天竺デハ、釋迦ヨリモ遙マヘヨリ學ビ來ツタル、婆羅門ノ修行モ治心ト云テ、心ヲコヽニ治ムルノ修行、マタ釋迦ノ修シタル處モ、コレニ外ナラズ、サレバ諸宗ノ安心モ、云モテ行ケバ、ミナ同ジ意ニ歸スルコトデゴザル、又諸越ノ神仙ノ道ヲ傳ヘタト云フ道家ノ輩ノ修行スル處モコレデ、皆コヽニ氣ガ聚マレバ無病ニナリ、無病ジヤニ依テ長壽ヲ保ツト云ノ義デ、此修行ヲ不老不死ノ術ナドヽ云タ物デゴザル、氣海ノ下ノ空處ヲ丹田ト云モ、其不老不死ノ丹藥を蓄ヘタル田ト云フノ義ヲ以テ名ケタ物ジヤト見エルデゴザル、

〔萬安方〕

〈十五下虚勞門〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0951 集善説
傳尸( ○○) 者、須、 三尸九虫( ○○○○) 可也、三尸者名在後論、九虫者蛔虫、寸白、胃虫、人皆可之、其餘六虫有六代、 形在後、人若受一虫、此人死後、兄弟子孫、骨肉親屬、綿々相傳、以至族、凡疾始覺、精神不美、氣候不調、切須愼酒色調節飮食、如或不然、委信邪師、或言鬼祟、以至起、愼之戒之、

〔萬安方〕

〈十五下虚勞門〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0952 夫勞瘵一證、爲人之大患、凡受此病者、傳變不一、積年http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022081.gif 易、甚至門、可勝嘆哉、大抵合向言之曰 傳尸( ○○) 、別而言之、曰骨蒸、殗http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000016523.gif 、復連屍http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022081.gif 、勞http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022081.gif 、蠱http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022081.gif 、毒http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022081.gif 、熱http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022081.gif 、冷http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022081.gif 、食http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022081.gif 、鬼http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022081.gif 是也、夫http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022081.gif 者注也、自上注下、病源無異、是謂http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022081.gif 、又其變則有二十二種、或三十六種、或九十九種、又有謂 五尸( ○○) 者、曰蜚尸、遁尸、寒尸、喪尸、尸http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022081.gif 是也、其名不同、傳變尤不一、感http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022081.gif 安者十無一二也、治法先須根、次須攝養調治、亦有早灸膏盲及四花愈者、若待其根深固蔕而治之、則無及矣、

〔皇國醫事沿革小史〕

〈前編第五期〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0952 後藤逹、〈字有成、艮山ト號ス、京師ノ人、〉別ニ一家言ヲ建テ、始メテ 順氣説( ○○○) ヲ唱フ、曰、太平百年、風俗日遷汰侈、遊惰之民、嗜欲外訌、心氣内勞、是以、腹裏悉結癥疝、内傷諸疾、因斯而起、振之之方、莫于灸、濟急亨屯、莫熊胆、經澀血瘀、久滯深痼、宜温泉以取活暢、血淸虚乏、宜餌食以助温養、外犯邪氣、則用藥爲主、百病生于一氣之留滯、故以順氣治療之綱要、又曰、凡欲醫者、宜先察疱犧始于羲皇、菜穀出于神農、知精偏在穀肉、攻疾乃籍藥石、〈宋後ノ醫風ハ、凡テ温補ト唱エ、藥石ヲ以テ身體ヲ補益スル者ト云ヘリ、後藤翁ハ之ヲ駁セシナリ、〉然後取法於靈素八十一難之正語、捨其空論雜説及文義難通者、渉獵張機〈漢ノ張仲景傷寒論ヲ著ハス〉葛洪〈晉代ノ人、肘後備急方八卷ヲ著ス、〉巢元方〈隋代ノ人、諸病源候總論五十卷ヲ著ス、〉孫思邈〈唐代ノ人、千金方三十卷ヲ撰ス、〉王燾〈唐代ノ人、外臺秘要四卷ヲ撰ス、〉等諸書、不宋後諸家陰陽旺相府藏分配區々之辯、而能識百病生于一氣之留滯、則思過半矣ト、病因考ヲ著ハシ、順氣説ヲ主張ス、

〔醫事或問〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0952 一或問曰、後世の醫に問ふに、 病毒( ○○) 盡くは去らぬものなりといふ、當家にては、ことごとく去といへり、いかん、
答曰、病毒は生れて後、生じたるものゆゑ、毒藥にて取去らるヽものなり、其證據は、大病を療治して、快氣の後再びおこらず、又やはらかなる藥にて氣を補ひ、體を養ふといふ、醫者は、大毒の藥を 恐て用ざる故、毒の去る道理なし、然れども彼療治にて、病の治する事あり、是は實に治したるにあらず、自然と毒の靜りて、快氣したるなり、其證據には、又重ておこる、それゆゑ毒こと〴〵くは去らぬものといふなり、疾醫は盡く去る、それゆゑ重て發る事なし、

〔醫斷〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0953 病因
後世以病因治本也、曰、不之、焉得治、予嘗學其道、恍惚不分、雖聖人之已、然非之也、言之、皆想像也、以想像治本、吾斯之未信矣、故先生以見證治本、不因也、卽仲景之法也、今擧一二而徴焉、中風頭痛、發熱汗出者、下利後、頭痛發熱汗出者、皆桂枝湯主之、傷寒寒熱往來、胸脇苦滿中風寒熱往來、胸脇苦滿、或瘧或腹痛、或熱入血室、有前證則皆小柴胡湯主之、傷寒大煩渇中熱大煩渇、皆白虎湯主之、是雖其因、而方則同矣可見仲景從證不因也、若不止論之、則有二矣、 飮食( ○○) 、 外邪( ○○)是也、雖然入口者、不飮食、蓋留滯則爲毒、百病繫焉、諸證出焉、在心下痞、在腹爲脹、在胸爲冒、在頭爲痛、在目爲翳、在耳爲聾、在背爲抅急、在腰爲痿躄、在脛爲強直、在足爲脚氣、千變萬怪、不名状矣、邪雖外來、其無毒者不入、假如天行疫氣、間有病者、天非私、人非氣中、是無毒也、然則一也、故仲景隨毒所在而處方、由是觀之、雖因、亦可、是以吾黨不因、恐眩因失治矣、後世論因、其言多端、不煩雜、徒以惑人、不從焉、

〔本朝醫談〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0953 四百年前、人の引こもりし時、濕熱の病とも見えずと云ふ事あり、 濕熱( ○○) といふ事は、宋人よりいひ出して、丹溪に至て、其説大に行はる、唐土の古人は、萬病皆 風寒( ○○) より起ると心得たり、傷寒論も其意なり、されば病人十に七八温熱の劑を用ふ、丹溪の發揮せし局方の藥も、宋の時初て作りしにもあらず、古人乳石を服する餘意なり、乳石は魏晉六朝より、唐まで流行して、服する人寒食冷飮して、其熱毒を解すに至る、其禍を蒙るもの少からず、こヽに於て、宋の諸老病の因は、風寒は少く、濕熱多しといふ説を立しなり、是説おこらざりせば、五石散の害、今の世までも傳るべ し、斯邦にも、仁明帝、自ら五石を煉給ひし事あり、三條院金液丹をめしたり、其藥くひたる人は目をやむと、大鏡にみえたり、平相國の身火のやうになりたるも、已に富貴きはめつ、若くは欲にあかずして、乳石の劑を服せられし歟、夫唐土の州域は、南北甚廣し、北上の病風寒によるなれば、熱藥よろしかるべけれど、南土の人は、風寒の病少く濕熱の因多し、これによりて、南北經驗の説出たり、大成論には、病門每に暑濕をもいひて、風寒の二因ばかりにかヽはらず、我邦は、唐土の南土に近く、人民卉服して、喪服せず、されば風寒の病少く、濕熱の病おほかるべきなり、〈天文醫按、春の末より秋の末まで、熱氣なり、しはぶき出すヽはな出れば、風を引候やうに、こヽろへられ候、大にひが事に候、冬に候はヾせめてなり、又あつき物を好候ものも、煩によりて熱氣にも其分候、當世は、寒の者百人の内一二人もなく候、是は風寒濕の因をとらず、病は皆熱とせし説也、〉

〔斷毒論〕

〈天〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0954 斷毒論序
昔日、吾門人山本寬之患血證、予屢視之、而觸其氣、喀然吐血、於是始悟凡百之病莫一レ 傳染( ○○) 、時告諸吾徒、莫之者、後門人倉士寬、又患血證、其妻與其父之妾護之、亦同吐血、至此始服予言之驗矣、予因語之曰、百病無傳染之理、則痘痲黴疥何可傳染乎、痘痲黴疥已有傳染之理、則凡百之病何不傳染乎、是事理之最易知者、而世人不察耳、甲斐醫生橋本伯壽使其子力作、來從學予、且請其所著斷毒論、予閲之、則能言 百病傳染之理( ○○○○○○) 、與予所一レ見暗合、而冥契可奇矣、其論百病、 屬諸外氣者( ○○○○○) 、 其言精矣( ○○○○) 、〈○中略〉要之伯壽在草澤之間、奮其獨見、而不他人之門牆則是醫中之一偉人、所謂鐵中錚々、傭中佼々者也、黨同伐異、恒人之情、世之醫流、或驚其言之異、群論而聚訟之、則此書藏之名山、傳之通邑大都、均是待後世之子雲耳、
文化辛未〈○八年〉閏二月望 吉田儒員加賀大田元貞公幹撰

〔斷毒論〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0954 總論
經曰、夫二儀之内、惟人最靈、禀天地精英之氣、故與天地相參、蓋與天地相參之故、與天地一也、與天地 一也之故、能感天地之氣、能感天地之氣之故、又有天地之邪毒、邪毒者、何也、是又氣也、氣者何也、是陰陽也、陰陽沴亂、爲邪爲毒、毒者何也、體物而有形、邪者何也、因氣而無形、其邪也毒也、有區別焉、譬猶百花之異芬芳、百藥之殊甲二能毒也、邪毒不一、有萬不同、故感而傷人、能成萬状之疾、疾雖萬状、其本二也、曰 内因( ○○) 、曰 外因( ○○) 、所謂外因者、傷寒、痘痲疥之類、是也、内因者癥癖狂癇勞極之屬是也、内因者陰陽内亂而應于外、外因者、陰陽外亂而感于内、皆陰陽之沴氣、合湊而成疾、經所謂氣合有形者也、寔變化之父母、生殺之本始、不審察也、但外因中、若傷寒者、無形之邪、時行于冥冥之中、不視、不察、故曰非君子固密、則難避矣、若痘痲http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000090112.gif者、有形之毒、可視、可察、是以雖常人避矣、何者觸之則疾、不觸則不疾焉、

〔奇魂〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 病源論〈并病名考〉
神ながら 興言( コトアゲ) せぬは古の習なれば、ましてかヽるわざは、何ともいはでやみなましと思へど、古書傳らざれば、據なきまヽに、漢籍をみれば、徒に穿鑿たる説のみ多くして、いと信がたくなん、さらばたヾに過んとすれば、習癖つきたるにか、其病源を論〈ハ〉ねば、さすがにあかぬ心ちぞせらるヽ、故考るに、 病源となる物三( ○○○○○○○) あり、一には 神氣( ○○) 也、神氣と云は、大己貴命の御心より疫起り、本牟智和氣御子言問まさず、崇道天皇の靈より咳逆起り、倭建命、伊服山にて白猪に逢て御足腫たまひ、桓武天皇の、石上神の祟にて病たまひ、神武天皇の御軍、熊野にて神毒氣にて皆瘁し類、國神の荒にて、其國人病む等、いとも畏は、仲哀天皇の、天照大神の勅を信まさずして崩給し類也、〈○中略〉二には 自然成( ○○○) 也、自然成とは、自事を犯にもあらず、物に傷るヽにも非、端なく惡事起り、其惡事の終には因と成て、其身にしては病となり、或は不祥子を生、或は子孫の血脈に傳て、種々の病となる類を云也、其ゆくりなく禍事の起れるは、准へむも畏こかれど、伊弉冉命の、火神を生ましヽに依て崩ましヽ類也、其惡事の因と成て不祥子の生るヽは、二神天之御柱を廻ます時、女言先立て、不良し によりて、御子蛭子淡島を生まし、伊弉諾命、黄泉の穢を祓はんとて、禊ます時、御衣の穢よりは煩大人命、御身の穢よりは禍津日神、生ましヽ類也、まして人代と成て、過又は穢なきこと能ざれば、其身其毒に惱めるのみならず、子孫に傳るも常の事にて、病あれば、子も其に同き病ある事、誰も見て知べき也、世にいはゆる、胎毒と云物是也、其體にあれば、 驚風( ヤハクサ) 、 疳( カイ) 、 疱瘡( モガサ) 、 麻疹( ハシカ) 、 蚘蟲( ムシ) 、 疝( アタハラ) 、 積聚( ムネムシ) 、 留飮( ムネミヅ) 、 盲( メシヒ) 、 聾( ミヽ) 、 瘡毒( シヒカサ) 、 痔( シリノヤマヒ) 、 癇( カゼ) 、 勞瘵( ツカリ) 、 亂心( タプレ) 、 癲癇( クツキ) 、 中風( カタカゼ) 、 癘( アシキヤマヒ) など、形こそ異なれ、皆其毒の年へつヽ、長り老となるに隨て、種々に化也、猶其變ゆくさま多かれど、此に擧に暇あらず、中にも著きは、勞瘵、中風、癘等ある家には、血脈に彌て、代々同産に絶ざる類也、三には、 自身爲( ○○○) 也、自身爲と云は、行あしくて、自病を造釀を云也、

〔筆のすさび〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 一病源藥性之説 近日醫師に、 病は一氣の留滯より生ず( ○○○○○○○○○○○) といふはさもあらん、魚は水に生じて水に養はれ、人は氣に生じて氣にやしなはるればなり、此説につヾきて 萬病一毒( ○○○○)といふ者あり、これは通じがたきにや、たとへば胎毒結毒は人にあり、魚毒菌毒は物にあり、風毒陰陽毒は氣にかヽる、これ皆毒とも云ふべし、打撲顛躓にてわづらひ、火傷水溺にて死に至り、刀劒の傷よりして命を殞し、過食にていたむは、抑何の毒なるか、米麥もと毒なけれども、多食より病をひき、梃刃もと毒なけれども、傷より患ふるなれば、毒といはんか、さらば河豚烏喙の類、其ものにたくはへし毒とは一にあらず、病を生ずるものをさして皆毒といはヾ、萬病一病といひても可なり、また藥に寒温なしと云ふ説ありて、試に水をあげて、汝が性いかにととはヾ、水こたへて冷といはん、沸湯にしてとはヾ、熱といはんなどヽいへり、今試みに酒を擧げてとはヾ、温といはんか、冷といはんか、大抵はやく人を驚かし、門戸をたてんとおもふ人は、必かヽることある者なり、獨儒者のみにあらず、さりとて其人愚昧なるにもあらず、亦信ずべきこともまヽあるべし、かヽる不稽の説ありとて、悉くもすつべからず、予香川氏の行餘醫言藥選などをよみて、その卓 識に服せしことも多けれども、また疎漏の説もあり、後藤吉益等の書は、いまだ讀まざれども佳説もあるべし、〈○註略〉病は丙の字なりといふ説、輟耕錄に見えて妙なり、今こと〴〵く記せず、人は一氣の陽もて生存す、この陽常ならざれば病なり、強人さむくして振ふも、弱人の寒になやむも、皆陽氣の變にて、證に寒熱といふは枝葉の論なり、療治にいたりて、或は温、或は凉、或は發散し、或は收濇するは、療治の手段にて、こヽにいふをまたず、

〔春波樓筆記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 余江漢曰く、人薄弱にしてつねに寒風にいたむものあり、愈身を掩うて養ふ者益感ず、 氣を張りて病内に入らず( ○○○○○○○○○○○) 、旅中必病者少し、氣の充つる故なり、

〔技癢錄〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 神心内守
本藩平岡氏、世傳兵術、其祖八左衞門、術尤稱神捷、嘗語人曰、吾中年後、兵術差進、而無它可一レ證、但不復得外感之病、蓋此心機警守無少弛縱、故然也、素問曰、恬澹虚無、眞氣從之、 神心内守( ○○○○) 、 病安從來( ○○○○) 、平岡氏之謂也、或曰、兵士逹者、自有道機、蓋所謂進於技之類歟、

〔皇國醫事沿革小史〕

〈後編第六期〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 當時〈○天保弘化〉又京師ニ廣瀨元恭アリ、大坂ニ緖方洪庵アリ、并ニ洋學醫術ヲ以テ鳴ル、元恭ハ甲斐ノ人、京師ニ帷ヲ垂レ、大ニ究理學ヲ講ジ、徒ヲ聚メテ敎授ス、我國物理學及ビ 生理學( ○○○) ノ興ルヤ、元恭最モ力アリト云、元恭大ニ著書ニ富ム、乃チ理學提要、究理對問、人身究理、牛痘奇方、知生論、及ビ三物名義、地理誌、諸器圖解、炮術新書、解剖詳辨、病理正解、養生俗辨、外科指南、西洋馬術説等アリ、洪庵〈諱ハ章、字ハ公裁、〉ハ備中ノ人、江戸ニ到リテ坪井信道ニ從學シ、傍ラ宇田川玄眞ニ就テ疑ヲ質ス、後又長崎ニ遊ビ、學就テ大坂ニ徙リ、始メテ業ヲ開ク、名聲籍甚、生徒雲集、治ヲ乞フ者門ニ塡ツ、弘化四年〈紀元二千五百七年〉病學通論ヲ譯述シテ、病因病證ヲ説ク、之ヲ 病理學ノ首唱( ○○○○○○) トス、又扶氏經驗遺訓ヲ譯シテ、大ニ醫學ノ功ヲ進ム、

解剖

〔先哲叢談後編〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 山脇東洋〈○中略〉
東洋以寶曆甲戌歳、〈○四年〉請官解斬市者死屍其臟、作文祭之、明辨舊説臟志、按觀臟之擧、宋有歐陽範五臟圖、元有王好古臟説考、於吾邦未曾有之者、或難之曰、醫爲仁術、雖死屍之觀其腑臟、毋寧甚乎、診脈察症、投藥與劑、有資而得一レ效、何必觀臟之爲、東洋笑曰、欲其術講究不多端、斯擧蓋出已、不更與較、壬午〈○十二年〉歳再請官又觀臟、自是以後、越前半井伯玄有臟覽、長崎吉見南岡有五臟明辨、皆以東洋之嚆矢、長門瀧鶴臺作臟志序曰、相傳本藩昔年有姦賊於城中、侍醫請剮剝之、使畫工卽圖焉、其圖秘而不出、曰此圖一出則醫籍盡廢、近竊覽之、如志所一レ載、分毫不差矣、於是乎益知素靈難經明堂銅人等諸書、説五臟六腑者爲妄誕也、夫苟不臟腑所位、關節所束、水穀所輸、氣血所一レ運則安能得癥結所一レ在而治上レ之乎、而上下千餘年、容欺不疑、執迷不返、衞生之道淪胥窮矣、豈非生民之不幸耶、君憫其如一レ斯、奮然發志、撥千古http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000023556.gif、掲濟世標準、以傳于其人於將來、其功大且遠矣哉、

〔温知醫談〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 醫學修業次序〈七則〉 森立之〈○中略〉
解剖三 吾邦解剖ヲ創造スルヤ、寶曆中、醫官山脇東洋〈道作〉西京ニ於テ、寶曆四甲戌年閏二月七日、京兆尹酒井若州侯ニ請テ、死刑ノ罪人ノ屍ヲ獄中ニ解ク、其後明和庚寅〈○七年〉四月二十五日、又西京ノ郊外ニ於テ、荻野台洲門人古河醫官河口信任ヲシテコレヲ解シム、共ニ皆書ヲ作テ刊行ス、臟志〈山脇〉解屍編〈河口〉是ナリ、其後享和壬戌〈○二年〉初冬、荻野ノ門人中逹若村ノ二氏、官ニ請テ解視ス、其他天明癸卯ノ、橘南溪解ク所、寬政丁巳〈○九年〉ノ、柚木太淳、同戊壬ノ、小石解ク所、皆成書アリ、爾後小森桃塢、文化壬申、〈○九年〉文政辛巳、〈○四年〉兩度解ク、亦圖説アリ、解臟圖譜ト名ク、文化文政ノ間、東京ニ在テ、毎冬月千住小塚原ニ於テ無宿人ノ刑屍ヲ其手ヨリ買得テ、社ヲ結テ解剖セシ事アリ、當時桂川ノ門派ニテ最盛ニ行ハレ、余モ此席ニ臨ミシ事數々ナリシ、西洋一千七百三十一年〈我ガ享保六年辛丑、淸ノ康熙六十年也、〉大醫學 與般亞單( ヨハンアダム) 〈姓〉 闕兒武思( キユルムス) 〈名〉ノ撰スル所ノ、 打係縷亞那都米( ダーフルアナトミー)ト云フ書ヲ以テ、解剖書ノ大成セル者トス、此書ヲ譯シテ、漢文ニ綴レルハ、杉田玄 白ノ解體新書ナリ、解剖譯書ハ此ヲ以テ嚆矢トナス、爾後今日ニ至テハ、譯書陸續イヨ〳〵精密ヲ究ム、今此等譯書ヲ以テ、素靈ノ奧義ヲ説解スルトキハ、啻燃犀ノミナラズ、殆ンド顯微鏡ノ微ヲ顯ハスニ伴シモノアリ、
此闕兒武思ノ時〈享保六年辛丑〉ヨリ、僅ニ三十三年ヲ經テ、山脇東洋〈寶曆四年甲戌〉ノ臟志成リ、又二十年ヲ經テ杉田玄白〈安政三年甲午〉ニ解體新書刊行セリ、當時文運ノ駸々タル亦想像スベシトス、

〔解屍編〕

〈序〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 余家世以瘍醫本衙、祖父受術於紅夷、先父紹之、余不肖弱離憂、過庭之訓不終也已、余曩遊長崎、事栗崎道意翁、留學積年、翁善南蠻醫方、蓋其術不素靈、不診候、而望色察證、專以刳破湔浣縫令傳膏之、亦專門而特見活人之手段焉、固兪跗華元化之流乎、然至於觀表識疾之所在、洞見不惑之妙、則獨賢哲所能、我輩駑下、豈所庶幾哉、夫升堂者自階、窮源者必遡、須先讀經籍脈家言、乃讀素靈、而及骨空本踰諸篇、所述系脈絡兪、辭簡旨深未通曉、旁攻諸群書、異説紛然、不從、疑慮塞于胸中爾、明和己丑冬、本衙受太政、入鎭京師、余得駕而入京師、既聞醫流之傑、特有台州荻先生者、乃投刺受業其家塾、先生爲人、温厚能容、兼以該博宏才、余以宿疑扣、則應之影響猶遲、數年之疑一旦瞭然也、偶論及解藏之事、問曰、抉脈導筳之法、余家有傅、然未之屍、則膠古而不得、師心亦不穩、與其積一レ疑也、不如屠而釋之、我且請戮餘之屍、荻先生曰、非爲、恐於名敎矣、若使戮餘之屍、其爲人一也、以人暴人、君子不爲也、然解一屍體、以有益治術於千萬人、則亦爲道之爲也、誰敢怪之、余曰不疑則已、疑而不爲不於道也、假負不仁之名、以斯道斯祿、如或解惑、卽答恩之義也、且靈樞曰、其死也、可解剖而視一レ之、古時尚爾、我何傷乎、遂因本衙諸政府、君侯固知斯擧爲濟世之方也、准行之命、朝而下矣、明和庚寅夏四月廿五日、行刑於西郊、請獲首一級、無首骸二屍、余手執刀解之、同學諸生、矢玄明、及某々與焉、荻先生莅焉、傍觀寫之隨解隨辨、遂置之卓上而並觀、考諸華説則背、照諸夷圖則近、始信夷圖眞而華説未一レ盡、顧古之賢聖、體仁躬愛、不剮剝、推理立論、以示後世、乃精微未盡、固其 所也、然論大綱、卒不範圍、適足以知聖功之難一レ測焉矣、今視内外系表裏無一レ二、治外者必攻諸内、故治外輘難于治一レ内、滄溟李氏亦云、宜哉、古時醫師、兼通内外也、斯圖也、五綵分色、肉理洴血、亳亦不遺、觀者殆厭穢、蓋畫之眞者耶、乃編爲一册、命之曰解屍編
明和辛卯仲冬 古河 醫學 河口信任 撰

〔淇園文集後篇〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0960 解剝圖跋
明和八年辛卯冬十二月、京城有女子受刑者、大府醫官法眼橘陶、乞得其屍、率其子弟數十人牢獄院、令解剝以觀其臟腑及子宮等状、命畫工菅原誠意者、卽悉作之圖、傅彩爲一卷、藏之其家、以備醫事之稽攷、中島孫信、以其與橘陶交善、且好圖畫也、請命菅原誠意之副本、又請橘法眼題記其圖、亦以藏之其家、既又請予作之跋尾、孫信之藏圖書固甚富矣、然而人惡知其家亦乃能藏斯圖者乎、安永甲午冬十二月朔日、皆川愿題、

〔蘭學事始〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0960 抑、頃は三月三日の夜と覺へたり、時の町奉行、曲淵甲斐守殿の家士、得能萬兵衞といふ男より、手紙もて知らせ越せしは、明日手醫師何某といへる者、千住骨ケ原にて、腑分いたせるよしなり、御望あらば、彼方へ罷り越れよかしと言文をこしたり、兼て同僚小杉玄適といふもの、其以前、京師の山脇東洋先生の門に遊び、彼地に在し時、先生の企にて、觀臟の事ありしに、此男に從ひ行て親しく視たるに、古人諸説皆空言にて、信じがたき事のみなり、上古は九臟と稱せり、今五臟六腑の目を分ちたるは、後人の杜撰なりなんどいへる事の話もありし、其時東洋先生臟志といふ著書をも出給ひたり、翁〈○杉田玄白〉其書をも見し上の事なれば、よき折あらば、翁も自ら觀臟してよと思ひ居たりし、此時和蘭解剖の書も、初て手に入し事なれば、照し視て、何れか其實否を試むべしと、喜び一かたならぬ、幸の時至れりと、彼處へ罷る心にて、殊に飛揚せり、扨斯る幸を得し事を、獨り見るべき事にもあらず、朋友の内にも、家業に厚き同志の人々へは、知らせ遣はし、同 じく視て、事業の益には相互になしたきものと思ひ量りて、先同僚中川淳庵を初、某誰と知らせ遣はせし中かに、良澤〈○前野〉へも知らせ越したり、〈○中略〉其翌朝とく支度整ひ、彼所に至りしに、良澤參り合、其餘の朋友も、皆々參會し出迎たり、時に良澤、一つの蘭書を懷中より出し、披き示して曰く、これは是ターヘルアナトミアといふ、和蘭解剖の書なり、先年長崎へ行きたりし時、求め得て歸り、家藏せしものなりといふ、これを見れば、卽ち翁が此頃手に入りし蘭書と同書同版なり、是れ誠に奇遇なりとて、互に手をうちて感ぜり、〈○中略〉これより各打連立て、骨ケ原の設け置し、觀臟の場へ至れり、扨腑分の事は、穢多の虎松といへるもの此事に功者のよしにて、兼て約し置しよし、此日も其者に刀を下さすべしと定めたるに、その日其者俄に病氣のよしにて、其祖父なりといふ老屠、齡九十歳なりと云る者、代りとして出たり、健なる老者なりき、彼奴は、若きより、腑分けは度々手にかけ、數人を解たりと語りぬ、其日より、前迄の腑分といへるは、穢多に任せ、彼が某所をさして、肺なりと敎へ、これは腎なりと切り分け示せり、夫を行き視し人々、看過して歸り、我々は直に内景を見究めしなど、いひしまでの事にてありしとなり、固より臟腑に、其名の書記してあるものならねば、屠者の指し示すを見て、落著せしことにて、其頃までのならひなるよしなり、其日も彼老屠が、彼れの此れのと指し示し、心肝膽胃の外に、其名なきものをさして、名は知らねども、己れ若きより數人を手にかけ、解き分けしに、何れの腹内を見ても、此處にかやうの物あり、かしこに此物ありと示し見せたり、圖によりて考れば、後に分明を得し、動血脈の二幹、又小腎などにてありたり、老屠又曰、只今まで、腑分の度々、其醫師がたに、品々をさし示したれども、誰一人某は何、此は何々なりと疑れ候御方もなかりしといへり、良澤相倶に携へ行し和蘭圖に照し合せ見しに、一として、いさゝか違ふ事なき品々なり、古來醫經に説たる所の、肺の六葉兩耳、肝の左三葉右四葉などいへる分ちもなく、腸胃の位置形狀も、大に古説と異なり、官醫岡田養仙老藤本 立泉老などは、其ころまで、七八度も腑分し給ひし由なれども、皆千古の説と違ひしゆへ、毎度毎度疑惑して、不審開けず、其度々に、異状と見しものを寫し置れ、つら〳〵思へば、華夷人物違ありやなど著述せられし書を見たる事もありしは、これが爲なるべし、扨其日の解剖事終り、とてもの事に骨骸の形をも見るべしと、刑場に野ざらしになりし骨共を拾ひとりて、かず〳〵見しに、舊説とは相違にして、只和蘭圖に差へる所なきに、皆驚嘆せるのみなり、

〔解體新書〕

〈序圖〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0962解體新書
阿蘭之國精乎技術也、凡人之殫心力智巧而所爲者、宇宙無于其右也、故上自天文醫術、下至器械衣服、其精妙工緻、無使觀者爽然生奇想焉、於是乎、舶厥琦貸市乎四海、日月所照、霜露所落、皆無至焉、雖則造化之大豈弗奇哉、我東方召彼者、于今數百年矣、其來鬻我也、官構邸於崎陽而館之、爲置譯官、協辭逹志、通欲利、以歳三月官於東都方物也、由是我就譯家、而學彼天文醫術者固爲少焉、然彼之所傳書之與言、我耳目之所慣、率不暁解也、或好名高之徒曰、吾好蘭書一二叩諸譯家、其終也徒以爲孟浪、不中道而廢者亦固不少焉、或從譯家而學其術、雖之久、爲之熟臨書之與一レ言、則眴若看過者、復固爲少焉、余生乎譯家、繼箕裘、自丱兮於其事、左右取之、將其原、然至其事理之窔奧、彼精工而所進者、雖余不窮詰也、先是中津官醫前君良澤者、問余乎崎陽、余視之、豪傑士也、其學之也、黽勉孜々、終晷不倦、余感其篤好、盡蘊而傳焉、爾後出藍之器不啻焉、及其辭而歸乎東都、與一二同好士益鑽厲不止云、余毎與蘭人乎東都、輒就館而謀、且引同好士於余宿留之際、對晤以爲常、歸則千里書致殷勤也、余乃謂、東都人物淵藪也、然都下之俗、固好浮華矜夸、多釣名牟利者也、今也余於前君舊相識、其他是行路也、然則徒申殷勤者、恐不允也、吾豈心慊之哉、漫不之省者數年矣、今茲癸巳之春復與蘭人於東都、前君亦引同好士而問余、殷勤如故、中有鄀郟官醫杉君玄白者、出其所著解體新書、示余旦謂曰、翼也從良澤氏、遙辱承先生之餘敎、乃就蘭書中、取其解 體之書之從而解、從而譯、遂得以臻虖斯也、不亦悅乎、伏願、一得先生之電覽而質其疑、則死且不朽、余受而讀之詳覈明鬯、其事言校諸彼一差忒焉、乃感其篤好如一レ斯、不覺泫然涙下、遂喟然廢書而歎曰、嗟乎至哉斯擧也、我東方召彼數百年矣、其際學者何限、然學者不譯、譯者亦拙於文、是以未嘗有條理而能弘斯道乎世也、今二君以豪傑之質、篤好之志、盡其心力智巧而臻虖斯矣、由此以往世醫之有志者、因以知倮物之所生毓百骸之所上レ在、而施厥術、則上自王候下至蒸庶、凡有生氣者、庶幾將其天年也、且後之志斯者、自此而讀彼、則勤思過半矣、嗟乎至哉二君之有于斯也、實天下後世之德也、今而後、我東方之人、始知蘭人之精於醫、大有乎人也、嗟乎至哉斯擧也、千古以來未二君也、吁向者以爲名牟一レ利者、吾過矣吾過矣、二君上勉旃、二君再拜曰、是非我功也、誠先生之德也、敢請得先生之一言而辨卷首、永以爲榮也、余謝曰、章也惰夫、幸以諸君之疆曹丘生、於我得斯盛擧也、深以慙恧如鄙辭穢其側、章何敢、況斯書之行掲日月、則天下自知其貴重也、章何得而以光價斯書乎、二君不可、遂記余所以識二君之由以爲序、
安永二年癸巳之春三月 阿蘭譯官西肥 吉雄永章 撰

〔解體新書〕

〈序圖〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0963 几例
一斯書譯和蘭人 與般亞覃闕兒武思( ヨハンアタンキユルムス) 所著 打係縷亞那都米( ターヘルアナトミイ) 者也、斯方二百年來、召和蘭人就受厥醫術者多矣、然僅一二學其療法、以爲口之資焉、豈至其書其業乎哉、蓋和蘭之國精乎技術、知巧之所及、無致者矣、而速有乎四海者醫爲最焉、唯以其言語侏離、文字曲釘、作用異一レ常、雖善書良法、天下靡得而稱焉、我家世傳而業厥瘍醫也、復藏其邦書矣、余繼箕裘、自童丱慣其事、因得其書也、然素罕覯之書、至乎其艱奧難解者、竟無質訪焉、望々焉似瞽師之索相者矣、於是乎、幡然別取漢土古今之醫籍而讀之、回復鑽味茲年矣、尋究其療方論説、則穿鑿附會、牽強疎鹵、欲之彌暗欲之彌謬、無一以寓諸庸焉、芒々乎若邯鄲之學步者矣、蓋蘭書之所解者、不十之七、 而漢説之所采者、則不十之一耳、遂又專精乎家學、而不厥它也、迄乎近時余之術行、而疾人索治日盛、重有乎夫二者也、乃旁求獲一二知己焉、於是乎、稍々取其方書優柔厭飫、相諏相咨、玩愒居諸之際、正得以氷釋理順焉、而后嘗試諸事之與一レ物、則左右取之能逢其原、章々乎明如火矣、因取解體之書、依其成説、解割而視、則無一所一レ失焉、臟府竅關骨髓脈絡、始得其位置整列、豈不婾快乎、以是觀漢説、則其前者近于是、而後者不于非也、唯靈樞中、有解剖而視之語、則漢人古必有其法焉、後人不其傳、徒信糟粕而爲無稽之言、數千年來、竟不其面目、豈不哀哉、按、解體瘍科之要、不知焉、諸證之所在、外此而無知焉、蘭人之致精巧、亦昉乎斯、故欲能進于醫焉者、苟非源于此、則決弗能也、而我方之醫恬不之省者、果何心哉、宜矣、其不刮骨之功也、余〈○杉田玄白〉故於蘭書之中、特拔是爲翻譯、範初學、塗轍一定、聰明以生、過此以往、生死肉骨之玅、庶可得而至焉、嗚乎余業之及于斯、實藉天之寵靈也、豈人力之所能致乎哉、天下之有乎斯道者、則我竊自比郭隗矣、如是受四方之譏、所辭也、〈○下略〉

〔蘭學事始〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0964 一通り譯書出來たれども、其頃は、蘭説といふ事、少しにても聞及び聞知る人絶てなく、世に公にせし後は、漢説のみ主張する人は、其精粗を辨ぜず、これ胡説なりと、驚き怪みて見る人もなかるべしと思ひ、先づ解體約圖と云ものを開版して、世に示せり、是は俗間にいふ、報帖同樣のものにてありたり、〈此業江戸にて首唱し、二三年も過しころ、年々拜禮に參向する阿蘭陀便にて、長崎にも聞傳へ、蘭學といふ事、江戸にて大に開けしといふこと、通詞家などにては、忌み憎みしよし、左もあるべし、如何さま其ころまでは、彼家々は、通詞迄の事にて、書物讀みて翻譯する抔といふこともなかりし時節にて、冷めしをさむめしといひ、一部一篇とも譯すべきエーンデールといふ語を、一のわかれ二の分れと和解し、通じ合ひて、事濟む樣なる事にてありしと見へたり、尤醫説内景抔の事に至りては、誰一人知る人なき筈なり、或る一譯士、此約圖を見て、ゲールといふものは、身體中にはなし、ガルの誤なるべし、ガルは卽ち膽なりと不審せしとなり、但此前後よりして、翁が輩、關東にて創業の一擧ありしにより、其根元たる、西肥の通詞輩の志をも大に引立しこと知るゝなり、〉

〔近世名醫傳〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0964 小石元俊〈子元瑞〉
小石元俊、名道、字有素、號大愚、若狹人也、〈○中略〉元俊乃負笈京師、時杉田玄白、以和蘭醫方、鳴于當世、創譯解剖新書、初元俊謂、陰陽五行之舊説、不株守、及解剖新書、乃歎曰、醫理之精密、莫一レ蘭人其得諸實驗也、吾不此學、則不以主張吾説、於是介博士柴栗山、寄書玄白、往復討論、後玄白、從小濱侯京、則日詣其僑居、益究其説、既而喪妻、乃託子元瑞於外家、遂赴江戸、寓大槻玄澤家、與玄澤玄白及前野良澤等交、講學歳餘、歸京試技、東洋嘗解剖刑屍臟志一編、聞元俊所説有異同、遣弟子數十人論難、元俊隨間辯析、又乞于官視刑屍以徴之、一々符合、東洋等皆感服、從此關西醫家概信和蘭醫説之精云、

〔杏林雜話〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0965 醫黌所藏全骨、藝州醫星野良悅所造也、初藝州瘍醫田中道長者、目不一丁、以手術精妙、大行于時、良悅伯母、患落下請頦、衆醫束手、乃請道長、道長方之、延病者於室隅、相與冒大布袱便人觀其手法、一術卽治、良悅心憤之、以爲若證非内景、不手、内景非親解剖、不其詳、乃請藩得刑屍、 親解剖以撿之( ○○○○○○) 、然骨肉之際會、經脈之連屬、仍不分明、遂再購刑屍、往海濱、節々炙之、而後支分體解、始得其實、於是創意作全骨、居數年、杉田玄伯、唱蘭學於江戸、乃携來徴之於元伯所著解體新書、 毫無差謬( ○○○○) 、醫官堀本一甫、桂川甫周獻之於大府云、

〔日本敎育史資料〕

〈四舊福井藩〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0965 福井醫學所〈○中略〉
解剖記事 文化二年十一月、處刑ノ者一名アリ、腑分觀臟ヲ許可ス、先例ヲ照シ、小山谷佛所ニ於テ執行ス、〈先例詳ナラズ、此擧觀臟ノ第二回ナリ〉、執刀者等姓名詳ナラズ、文政十一年九月、處刑ノ者男女二名アリ、腑分觀臟ノ許可ヲ得テ、小山谷佛所ニ於テ執行ス、執刀者等詳ナラズ、 天保十年十月、處刑ノ者一名アリ、小山谷佛所ニ於テ觀臟ヲ執行ス、總管ハ山本正伯、半井仲庵、田代万貞、細井玄篤、學監ハ妻木陸叟ナリ、其他督務四名、主解四名、助刀十一名、書記四名ヲ命ズ、

〔近世名醫傳〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0965 各務文獻〈○中略〉
文獻之解視屍體也、乘夜拉妻間行赴葭洲刑場、收其棄屍、夫妻舁之而歸、陰置牀下、且剖且檢、日以爲常、葭洲在安治川下流、距市數里、白晝人尚憚經過、而文獻乃獨如此、聞者僉捲舌驚服焉、

〔醫賸〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0966剖藏府
朱載堉律學新節云、岐伯曰、夫八尺之士、皮肉在此、外可度量切循而得一レ之、其死可解剖而視一レ之、蓋太古時、風俗淳朴、死則棄之於野、初無衣衾棺槨之葬、故使醫術者可上レ剖而視一レ之、亦無禁、後世聖人取諸太過之象、始製棺槨、由是之後、國有毀屍體之禁、無敢剖而視之者、以此推之、知彼醫經其來之遠、又奚止於三代而已、此説非也、趙與時賓退錄云、廣西戮歐希範及其黨、凡二日、剖五十有六腹、宜州推官靈簡、皆詳視之爲圖、以傳于世、王莽誅翟義之黨、使太醫尚方與巧屠共刳剝之、量度五藏、以竹筳其脈、知上レ始終、云可以治一レ病、然其説今不傳、又晁公武郡齋讀書志、載存眞圖一卷、皇朝楊介編、崇寧間、泗州刑賊於市、郡守李夷行遣醫并畫工往視、决膜摘膏肓、曲折圖之、盡得纎悉、介校以古書、無少異者、比歐希範五臟圖、過之遠矣、實有醫家也、又聞見後錄載、無爲軍醫張濟能解人、而視其經絡、則無精、因歳饑疫人相食、凡視一百七十人以行針、無立驗、按明程式、亦嘗解倭人、撿視藏府、詳見其醫彀中、近世斯邦醫家亦好剖解、驗以荷蘭内景書、頗極精微、然有於外科、而無内科矣、

人體圖像

〔新撰姓氏録〕

〈左京諸蕃上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0966 和藥使主
呉國主照淵孫智聽也、欽明天皇御世、隨使大伴佐氏比古、持内外典藥書、 明堂圖( ○○○) 等百六十四卷、佛像一軀、伎樂調度一具等入朝、男善那使主、孝德天皇御世、依牛乳、賜姓和藥使主、奉本方書一百卅卷、明堂圖一卷藥臼一、及伎樂一具、今在大寺也、○明堂圖ノ事ハ、醫學校及ビ醫書ノ條ニアリ、參看スベシ、

〔續古事談〕

〈一王道后宮〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0966 典藥寮明堂圖ハ靈物也、雅康、寮御時、本寮破レテ、ステヲキテ、ヨロヅノ人ミケ リ、カヤウノ累代ノ寶物、今ハ一モノコル物ナシ、

〔備急千金要方〕

〈二十九針灸〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0967 明堂三人圖第一〈仰人十四門、伏人十門、側人六門、○中略〉
若依明堂正經、人是七尺六寸四分之身、今半之爲圖、人身長三尺八寸二分、其孔穴相去亦皆半之、以五分寸、其尺用夏家古尺、司馬六尺爲步、卽江淮呉越所用、八寸小尺是也、其十二經脈、五色作之、奇經八脈、以綠色之、三人孔穴、共六百五十穴、圖之於後、亦覩之、便令了耳、仰人、二百八十二穴、背人一百九十四穴、側人一百七十四穴、穴名共三百四十九、單穴四十八名、雙穴、三百一名、

〔玉海〕

〈六十三藝文〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0967 天聖鍼經
五年〈○唐天聖〉十月壬辰、醫官院上鑄腧穴銅人式二、詔一置醫官院、一置大相國寺仁濟殿、先是上以砭之法傳述不一レ同、命尚藥奉御王惟一、考明堂氣穴經絡之會、鑄銅人式、又纂集舊聞、訂正訛謬、爲銅人腧穴針灸圖經、〈三卷〉至是上之、〈摹印頒行〉

〔醫家先哲追薦會〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0967 木骨考
藝州廣島町醫師星野良悅、醫學館へ罷出候義伺書、
藝州廣島町醫師 星野良悅
右良悅義、工夫にて人骨全形細工に仕候品持參仕、當時は當地に罷在候處、近々歸國仕候由、右細工、眞に逼り、骨節機關の樣子、一覽仕置候へば、有益の筋も可之候につき、於醫學館、御醫師一同へ爲見申度奉存候、然る處、右取立、當人不仕候ては出來兼候間、右細工物に差添、良悅義、醫學館へ罷出候て不苦候哉、此段奉伺上候、
十月〈○寬政十二年〉 多紀永壽院〈○元孝〉
多紀永壽院差上候書面被御下ゲ候に付、一覽仕候處、〈○中略〉伺之通、醫學館へ差出候ても不苦旨被仰渡然哉奉存候、私共評議仕候處、書面の通に御座候、則御下ゲ被成候書面返上仕候、以上、
十一月 矢部廣五郎
小長谷和泉守〈○中略〉
手紙御意候、然者各務相二細工の人骨、明二十八日四ツ時過、相二御同道、醫學館へ獻納可然と存候、依之此段得御意度、如此御座候、以上、
二月廿七日
之中山へ相談、義兵衞へ懸合、夫々支度相調、持夫等、深川にて取扱、つり臺持にいたし、少仙に而は、麻上下著用、供召連れ、私は平服にて罷越候、當朝原澤文仲も參り、差添可參故之義申聞候に付、愚意も有之候に付、召連罷越候上、學館俗事役へ對面申談候は、此度大坂より罷下り候、相二門人、爲組立、今日召連候外に、御當地に罷在候、右門人原澤文仲と申者、追々右木骨御組立等の義に付、爲御用召苦候はゞ、右の者も、御座敷へ差出可申哉と聞合候處、差支無之旨に付、同人義も、十德著用、私被相通候處へ、兩人并に同席差扣、右二箱并被相添候御著書〈○整骨新書〉此度の御小冊、共に右俗事役大野茂三郎と申仁へ差出、宜敷御取計被下度旨申し、委細承知の旨にて、早速講席と申廣き座敷へ持出し、直組立にいたし候樣申候に付、私付添候少仙組立、文仲手傳も致し、大體相濟候處にて、多紀氏御詰所へ、私被召出、面會にて御座候、其上にて、組立の處被一覽、尚又右組立傳受置候樣、外御醫師中へ被申渡、右掛り一兩人被出、段々少仙より被傳受、其上にて、取仕舞まで被習受候、夫より相扣居候處、私共三人へ、晝支度被相出候、九半頃至、杉本法眼御出に付、此節御講席御用に相成、於別御座敷御傳申候、御醫師中、一兩人少仙差添被組立、尤私付添罷在相濟候處、杉本氏御出御見分、宜出來之旨、殊の外被稱美候、其上にて、御當人内々私へ被申聞候は、今日無滯獻納相濟候段、向々へ可御屆、尤右爲手當、御金被下置候、御取調兼而有之候處、御金藏御渡日に無之候ては、辨兼候間、來月中旬迄は、相譯り申間敷、尤貴樣御呼出、御渡申事に候共、彼地より參候者、 心得にも可相成、内々御通置候旨御座候、右相濟、勝手次第引取可申筈に付、直樣退散少仙同道〈此節〉〈正藏とかりに改名爲致候〉杉本多紀兩御氏へ、首尾能相濟、難有仕合と申趣意を以て、御禮廻り、御著書一部づつ、相二より差上度旨を以て差出置申候、當日御詰合の醫中、大勢被一覽、皆々感心、先年星野良悅獻備の品とは大に勝り候樣、口々評判致され、誠に御本望御同慶の御事に御座候、〈○中略〉
一一昨十一日、左の寫の通封状到來、〈○中略〉
御逹申義有之候に付、明十二日五ツ時過、醫學館へ御出席可成候、以上、
三月十一日 多紀安長
杉本忠温
大槻玄澤樣
之昨朝内々正藏召連、御同處へ罷出候處、杉本多紀兩御氏御列座被申渡候者、其許門人、各務相二製作の木骨、醫學館へ獻納仕候につき、爲御手當、此金二十兩被下置候、此段可相逹旨被申候、〈○下略〉

診候

〔令義解〕

〈一職員〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0969 典藥寮
醫師十人、掌諸疾病及診候

〔令義解〕

〈一職員〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0969 内藥司
侍醫四人、掌奉診候、〈謂診驗也、候望也、言診驗血脈望顔色也、此診驗者、與醫疾令所謂診候、其意少異也、〉

〔奇魂〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0969 診候法( ウカゞフワザ)
凡病状を察んには、脈を候ふを主とすれば、誰も最精くせではならぬわざなるを、漢にて難經、脈經等に虚説を記たるを初として、名だゝる人々多けれど、各少の異こそあれ、大方は同義にて、寸、關、尺、三部、九候など云名を立て、天地人、五臟、六腑、陰陽、五行抔配當て、理深げには云めれど、誰もえ 詳にせざめり、此にても其訛を傳て、殊に脈學を主とする者は、深く泥て實事には愈疎くて、大方の醫は、謾に病人の手を按て、知がほにしなしつヽ過めれど、實には知難き物と思定て、是を明めんとする人を、却て愚かなるが如にさへ云めるは、いとも〳〵歎はしきわざかな、抑精神を助て、渾身の活動をなす物は、氣と血と也、氣血同物にて、氣は血中に起り、血は氣裏に成て、各後れ先だゝず、起居ること、雲と雨との如く、軀を循環ときは、血其體にて、血の脈に流るゝこと、猶川の水有が如し、〈○中略〉若いさゝかも病有時は、其源異なりといへども、皆血に關らざるはなく、既に血に關れば、血卽病體となる也、其病體を候んとするには、其血の動靜と、其血の色とを見に如はなし、其血の動靜を候は脈也、其血色を相は舌唇也、血は形にして、脈舌は影也、形影相離ざる物なれば、其影を見て其體を知、是より邇はなし、〈○中略〉さて舌唇は、喜怒の顏に形はるゝが如、腹臟の表なれば、腹内を穿見たらんよりは著かりなん、譬ば舌唇は肉の如、邪氣は火の如、其赤肉を一炙れば白く、二炙れば黄に、三炙れば黑くなるが如し、又痼疾は脊に著て蟠れるものなれば、其脊の方より、腹へかけて、形のあらはるれば、病所在を知んには、其本なる脊を候に如はなし、我脊を相るわざを 發明( アカシ) えて物するに、其益少からず、然か眼前其活人の相を徴として、活る病を治るわざにしあれば、さてこそ取もあへず神ながら自然なる術にて、皇國外國古今の學にも論にも及ばず、かばかり實事に捷逕はなけれ、熟く此義を得れば、我住庵の邊に生たる草木を採ても、萬病は治得べし、

診脈

〔壒囊抄〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0970 七種ノ死脈トハ何ゾ 彈石脈 解索脈 雀啄脈 屋漏脈 蝦遊脈 魚翔脈 釜沸脈
是ヲ七種ノ惡脈ト云也、此等ノ死脈ヲバ、必ズ少シモ可心得事トナン申メリ、爲我若シハ看病ノタメ可存知事ト云々、

〔黄帝内經靈樞〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0970 論疾診尺篇第七十四〈○中略〉
目赤色者、病在心、白在肺、靑在肝、黄在脾、黑在腎、黄色不名者、病在http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000029441.gif、診目痛、赤脈從上下者太陽病、從下上者陽明病、從外走内者少陽病、診寒熱、赤脈上下至瞳子、見一脈一歳死、見一脈半一歳半死、見二脈二歳死、見二脈半、二歳半死、見三脈、三歳死、〈○下略〉

〔史記〕

〈一百五扁鵲倉公列傳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0971 扁鵲者、勃海郡鄭人也、姓秦氏、名越人、少時爲人舍長、舍客長桑君過、扁鵲獨奇之、常謹遇之、長桑君亦知扁鵲非常人也、出入十餘年、乃呼扁鵲、私坐間、與語曰、我有禁方、年老欲與公、公毋泄、扁鵲曰敬諾、乃出其懷中藥扁鵲、飮是以上池之水、三十日當物矣、乃悉取其禁方書盡與扁鵲、忽然不見、殆非人也、扁鵲以其言飮藥三十日、視見垣一方人、以此視病、盡見五藏癥結、特 以診脈名( ○○○○○) 耳、爲醫或在齊、或在趙、在趙者名扁鵲

〔傷寒論〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0971 辨脈法第一
問曰、脈有陰陽者何謂也、答曰、凡脈大浮數動滑此名陽也、脈沈濇弱弦微、此名陰也、凡陰病見陽脈者生、陽病見陰脈、者死、 問曰、脈有陽結陰結者何以別之答曰、其脈浮而數能食、不大便者此爲實、名曰陽結也、期十七日當劇、其脈沈而遲、不食、身體重、大便反鞕、名曰陰結也、期十四日當劇、

〔海人藻芥〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0971 周明〈○周明恐同朋誤〉監寺云、人ハ平生醫師ニ近付テ、脈ヲ取ラスベシ、平脈取覺ツレバ、違例ノ時脈又分明也、又病氣大事ナリトモ、日比令療治醫師ヲ左右ナク改之事然ベカラズ、但無雙ノ名醫師來ラバ可談合云々、〈○中略〉
應永廿七〈庚子〉五月廿三日 宣守〈在判〉

〔半陶稿〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0971 意足軒説
聲而知、視色而知、 診脈而後知( ○○○○○) 焉、是所以醫之有 上中下三品( ○○○○○) 也、今也診而知者鮮矣、況求之聲色之間哉、難矣醫乎、藤貞繼平居游扁倉之藝者也、徴余名一レ軒、余卒書意足二字贈焉、

〔醫斷〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0971 脈候
人心之不同如其面也、脈亦然、古人以體肥痩性緩急等之規則、然此説其大抵耳、豈得人人而同乎、醫謂人身之有脈、猶地之有經水也、知平生之脈、病脈稍可知也、而知其平生之脈者十之一二耳、是以、先生之敎、先證而不脈、先腹而不證也、扁鵲曰、越人之爲方也、不脈望色聽聲寫一レ形、言病之所在、可以見已、且如留飮家脈、千状萬形、或無或有、不可得而詳矣、夫脈之不以證也、如此、然謂五動或五十動、候五藏之氣者、妄甚矣、如其浮沈遲數滑濇、僅可辨知耳、三指擧按之間、焉能辨謂二十七脈者哉、世有其病使醫診其脈、以試之者、乃恥其不知之似一レ拙、以意推度、言其髣髴、欲以中一レ之、自欺之甚矣、醫其思諸、

〔一本堂行餘醫言〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0972 診候〈○中略〉 切脈〈○中略〉
凡論脈者、甚詳則失之鑿、甚略則失之疎、自古醫人之爲病論醫按也、其言脈大過細微、反可大疑、 故吾門常謂、( ○○○○○) 脈得大較佳( ○○○○○○) 、與其失于詳、寧失于略、古今二千年來、醫人之多、醫書之夥、不脈者獨 明戴思恭( ○○○○)而已矣、其證治要訣 一書( ○○) 、 全篇無脈字( ○○○○○) 、初大怪之、未意旨、後沈思熟想之、乃知彼非脈者、但其方寸有于脈、以謂寧直據證状治而足焉、不疑者之于書也、宜乎戴也、雖然亦可于疎矣、今陳脈大略以示http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000058024.gif 、其餘可思而得一レ之也、

〔叢桂亭醫事小言〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0972 脈論〈○中略〉
近來ノ流行ニテ、脈ナドノ事ニ骨ヲ折レバ、見識ノナキヤフニ成タルハ、 古方家以來ノ弊( ○○○○○○○) ナルベシ、初學ノ輩ハ、精神ヲコラシテ、工夫ヲナスベシ、サレドモ脈バカリミテ、他候ニカマワヌ醫者アリ、夫レデモ知レルナラバ勿論ナレドモ、恐クハ知レカネルナラン、

〔形影夜話〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0972 此邦にて、艮山後藤氏、一見解を立て、内經を看破し、右の如き迂怪の説共を駁せんとする爲にや、一向に經絡は無用の物と覺悟せられしは、千古の卓識と稱すべし、其門人香川氏、これに繼ぎ起り、師業を唱へ、自己の見を加へ、一家を爲せり、又其に續ぎ、山脇君出給ひ、是等の事に 心付れしにや、自ら觀臟して、從來の舊説を改め、古書によりて、九臟の目を唱へ、古今の大誤を正し給へるとて、藏志を著し給へども、是又確實の所に至らず、聊か實に就て基本を明にすべしといふの端を發せられしといふまでなり、又吉益氏抔は、近時の豪傑なれども、基とすべき醫書なき故、纔に傷寒論一書に精力を盡されしか共、是も錯簡の書にて、的實の所少く、取る所多からずとて、己が心に徹せし方論ばかりを取り、詰る所、脈などは用なきものなり、偏に腹候にありと、門人に敎へられしよし、是已事を得ざるより出たるなるべし、愚老が家、世々醫を以て我君に仕ふる身なれば、逃れても逃れ得ざる業なり、殊に不好道にもあらず、故に幼きより和漢の醫書の端端を窺ひ見しに、生得不才にして、何書を讀ても、是非を分たず、他人は能も解し得る事と、只我不才を恥、歳月を經しまでなり、春秋甫二十二歳の時、同僚小杉玄適といへる男、京師の遊學より歸り來り、彼の地にて、初て古方家といふ事を唱ふるの徒出づ、其中に、山脇東洋先生抔、專ら此事を主張し、自ら刑屍を解て、觀臟し、千古説所の臟象大に異なる事を知られたりと聞く、其頃、松原吉益抔いへる輩、相共に復古の業を興すのよし、其諸論説を聞得て、扨々羨しきことなり、疾醫家にては、已に豪傑興りて、旌旗を關西に建たり、我其尾に附んは、口惜しく、幸に、瘍醫の家に生れし身なれば、是業を以て、一家を起すべしと、勃然と志は立たれど、何を目當、何を力に事を謀るべき事を辨へず、徒に思慮を勞するまでなりし、〈○中略〉かくありて後、初て眞の醫理は、遠西阿蘭にあることを知りたり、夫醫術の本源は、人身平素の形體、内外の機會を精細に知り究るを以て、此道の大要となすと、かの國に立ればなり、凡そ病を療するに、此に精しからざれば、決て的中の治療はならざるの理なり、こゝに一二を擧て證す、少しく惡言に似たれ共、世上の醫者の、病家へ招れ、初に脈を診し、浮沈遲數の指下に應ずるは知れども、其動靜をなすものは、皮下に在て、何物なることを知らず、血共、氣とも辨へず、只脈といふものなりと覺へたるものと見ゆるなり、餘りに淺猿し き事ならずや、〈○中略〉總て、脈と稱するものは、血の通ふ管なり、其始を爲すは、心の臟にて、其心に連なる大管より、血を注き出して、諸部へ周流すること間斷なし、特り血の和不和を察するは、脈を切にして、其運動を候ふより著實なるはなし、東洞翁、胗脈をなすは、用なきものと敎られしは、恐は疎漏の至りといふべき歟、〈○下略〉

〔和氣氏系圖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0974 瑞策〈(中略)平信長公、豐臣秀吉公、寵遇異他、又或時、有人診脈、雖常病 必死之脈( ○○○○) 云、人皆怪之、明日果死弓箭、時人其妙工之妙矣、〉

〔薩戒記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0974 應永三十二年七月廿七日甲子、入道内相府三箇度令參内給、御惱之間可相國寺、〈○中略〉或人云、吐氣令出來御、又御咳氣御座各御惡相之由醫師申云々、今日 御脈( ○○) 六動云々、當時參入之醫師非本道輩、號壽阿彌入道内相府召進也、自去々年御惱之時、奉療治之者也、

〔滿濟准后日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0974 永享二年四月八日、將軍〈○足利義敎〉 御虚氣御脈( ○○○○○) 在之歟由、醫師三位申入也、仍虚氣符事、花頂僧正相傳之由被聞食及也、可書進由、以三位仰間、即申遣了、彼僧正申樣、此符事、聊傍傳子細在之、雖然未此符也、初可書進上條、尤其憚多端之由、再三辭申入也、不披露、只可書進由加問答了、

〔碧山日録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0974 長祿三年六月二十七日戊寅、使龍子詣醫師板坂其救、又問松井大進子、 診脈( ○○) 曰、病候輕於疇日、莫意云、乃 領前胡湯十五服( ○○○○○○○) 、

〔蓮如上人御一生記〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0974 同〈○明應八年三月〉七日ノ曉キ、御自脈ヲウカヾヒ玉ヒテノ玉ヒケルハ、アラ嬉シヤ違フ所アリ、往生ハチカヅキヌ、〈○中略〉醫師藤左衞門御脈ヲ伺ヒ奉ルニ、誠ニ胃ノ氣ノ御脈違フ所アリト申上シカバ、上人サゾト覺ヘタリト仰ラレキ、〈○下略〉

〔槐記續編〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0974 享保十六年五月十日參候、滋井入道殿參ラレ、御前ニテ、〈拙エ〉仰ラレケルハ、醫書ニ、鉤脈ト云事アル由、脈状病形イカヤウナルモノニヤト、〈拙〉答テ申シ上グ、弦鉤毛石ハ、四時ノ定脈ニシテ病脈ニ非ズ、鉤ハ夏ノ平脈ニシテ前曲リ、後直ク、帶鉤ヲトル如クトコソ申セト申シ上シニ、ソ ノ帶鉤ノ形ガ、石帶ニイル事故也ト仰ラレシホドニ、内經已來、難經ノ鉤脈ノ處ノ諸註ヲソヘテ、書テ差上グ、

診腹

〔醫斷〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0975 腹候( ○○)
腹者有生之本、故百病根於此焉、是以、診病必候其腹、外證次之、蓋有腹状焉者、有外證焉者、因其所一レ主、各殊治法、扁鵲曰、病應於大表、仲景曰、隨證而治之、宜古法而求其要矣、

〔一話一言〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0975 腹診書( ○○○)
腹診書二卷、堀井元仙源直茂著、〈寬保二年壬戌の序あり〉嘗聞、延寶天和年間、京師ニ一隱醫アリ、是ニ習熟シテ、始テ腹診ノ號ヲナセリ、是其濫觴也ト、然モ其源ヲ推トキハ、醫家流ヨリ出テ、彼隱醫ニ至テ、其譽ヲ得タル乎云々、〈予細川侯醫樋口元良方にて、此書を見たり、〉

〔五雲子腹心法〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0975 診腹之法( ○○○○) 、唐山久無其説、五雲子之於此術、豈宿有獨得、抑歸化之後、觀我醫之伎、就有發明乎、茲編、余獲之于養春後人雲悦、又獲之于兒醫人見元德、二本稍有異同、仍互參繕訂、以附于奇侅之後、庶足相輔而行、乙巳歳修禊日、三松齊記、〈堅〉○按ズルニ、本書ノ首ニ、此書森養春院雲仙傳トアリ、雲仙ハ五雲子ノ名ナル歟、

〔皇國名醫傳後編〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0975 瀨丘長圭 多賀谷安貞
瀨丘珽、字長圭、江戸人、吉益爲則稱爲東方一人、珽察疾專用功腹診、常曰腹候與外證爲表裏、然外證多而易惑、腹候一而不爽、故腹候爲先、又曰、醫有三極、曰方極、證極、診極、診極謂腹診也、因名著曰診極圖説、其法及治驗詳于書、珽術未大行、中年卒、
多賀谷安貞、字源藏、〈號樂山〉上野人、父安命善醫、安貞傳其術、尤精腹診、然不醫、逢親朋有疾與貧困不一レ醫、則爲療之、他有治者皆辭、仕幕府銃隊與力、安貞晩得疾、自知起、力疾著腹診秘訣一卷以遺後人、腹候之法其起久矣、天正慶長間竹田定加始唱之、松岡意齋、北山道長、〈著診腹法〉堀井直茂、〈通稱〉 〈元仙、著腹診書、〉淺井惟寅、〈著診脈秘傳、又有内証診法、子正路所著、〉高村良務〈著腹診秘傳〉等皆善道之、然槪局臟腑配當左右分位、未牽湊附會、如香川修德、吉益爲則、直卽硬輭弛張、及跳動拘急塊磊等狀、辨之虚實死生、法極簡捷、至珽益闡發其微旨、殆無餘薀、後稻葉克、〈字文禮、著腹證奇覽、〉和久田寅、〈字意仲、著腹證奇覽翼、〉各有論述、皆祖珽云、蓋腹診於察病最爲切要、然西土不是法、其腫脹腹滿及童稚傷食、乃按其腹之、亦不形色堅輭而已、他如癥瘕痞塊、傒病者自言其狀從爲之治、其術已疎矣、我邦醫術卓越于西人此亦一徴矣、

〔日本醫道沿革考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0976 亮〈○今村〉按ズルニ、〈○中略〉爲則〈○吉益〉ト時ヲ同シテ、江戸人瀨丘長圭ト云ル者アリ、頗ル 腹診ノ學( ○○○○) ニ精シ、〈○中略〉夫レ腹診ノ法タルヤ、仲景之ヲ言フコト切實ナリ、然レドモ晉隋唐宋以來、歷代ノ方書、之ヲ明言スル者ナシ、其ノ此ヲ四診外視スルヲ以テノ故カ、豈ニ闕典ニ非ズヤ、

〔一本堂行餘醫言〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0976 診候〈○中略〉 按腹
吾門以按腹六診( ○○○○○○○○) 〈○望形、間證、聞聲、切脈、按腹、視背、〉 之要務( ○○○) 、何則大槩按診腹部以辨人之強弱、也、

診料

〔皇國名醫傳後編〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0976 井上交泰院〈曾孫俊良〉
井上玄徹、〈號靈史〉周防山口人、本姓田谷、出爲廣島井上氏嗣、從曲直瀨正紹其術、〈○中略〉後水尾上皇、後西院上皇屢召候脈、玄徹勤業不寒暑、又善敎育子弟、門人以千數、聲稱籍甚、列侯宗室無延請、 自古一診之報有銀三千枚者( ○○○○○○○○○○○○○) 、 玄徹及井關常甫二人耳( ○○○○○○○○○○) 、常甫通稱玄悅、近江人、嚴廟時以名醫辟、叙法眼

治方

〔尺素往來〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0976 凡療病養生之術非一者歟、身上按摩、口中飮食、并藥湯、針、灸、雖其品多、雜熱、小瘡對治之樣不於 蛭飼( ○○) 、中風、脚氣、療養之法莫於 温泉( ○○) 矣、

〔醫斷〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0976 攻補( ○○)
醫之於術也、攻而已、無補矣、藥者一乎攻焉者也、攻擊疾病已、内經曰、攻病以毒藥、此古之法也、故曰 攻而已、精氣者、人之所以生也、可養以持焉、養持之者、穀肉果菜耳、内經曰、養精以穀肉果菜、不之補而曰養、古之言也、蓋雖穀肉果菜乎、猶且難之、而況藥乎、豈人力之所能也哉、故曰無補矣、後世並論攻補、岐藥二之、專爲補氣之説、曰、病輕則攻之、重則補元氣、若強攻之、元氣渇死、夫藥者一乎攻焉、豈得能補一レ之哉、元氣果可補、則人焉死、妄誕特甚矣、

〔漫遊雜記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0977 治療之道二端、曰 持重( ○○) 、曰 逐機( ○○) 、所謂持重者、病深則治一、非迂遠而過一レ日也、所謂逐機者、證移則輒隨、非迷惑而轉一レ方也、持重者常也、逐機者變也、勿逐機而失於持重焉、勿持重而忽於逐機、焉、

〔杏林雜話〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0977 艮山〈○後藤〉治疾、多 用温泉( ○○○) 、 熊膽( ○○) 、 艾灸( ○○) 、故人呼曰湯熊灸庵、門人香川修庵、亦喜 艾灸( ○○) 、山脇東洋、專使 石膏( ○○) 、一時嘲曰香烙山磔、此與西土嚴附子、陳石膏、張熟地之稱、殆相肖、

〔杏林雜話〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0977 古林見宜療紀州熊野農夫水腫、服藥良久無効、乃加靑芋於方中、又敎爲朝夕食而愈、蓋其人生於山中、每以其物常饌、及食浪華、歷試諸藥、禁忌極嚴、故 脾胃失度( ○○○○) 、 藥力不逹( ○○○○○) 、所以用方宜之術也、

〔漫遊雜記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0977 艮山子謂、百年以來游惰之人、腹裡結癥瘕、余徴之都邑市朝之人、比々皆然、蓋太平日久、民庶藩息、金錢虚耗、奢佚日盛、則知巧之民不氣勢也、醫人施治之日、從這處工夫、則大有裨益矣、

〔金雞醫談〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0977 都門日有原芸菴、學非博、業非精、唯其爲人、瓌偉倜儻、大得聲譽、一富家之室女、患鬱證使芸診一レ之、芸曰、是 氣滯( ○○) 也、治方、宜戯場散而可矣、不余藥也、父母問戯場散之義、芸曰、未也、丑也、旦也、淨也、能治室女之氣滯、父母大笑、女亦微笑、芸指女曰、戯場散之効、一話而見室女莞爾也、況於之乎、豈不治哉、父母遂頷焉、自是後如芸言、病經月愈、

〔醫事或問〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0977 一或問曰、先生は用る藥の故もなきに、半年も一年も、藥方をかへざる事いかん、 答曰、是病を治する事の、手に入たる人にあらざれば、爲事かたし、病に名をつけて、病因を論ずるは、もと臆見ゆゑに、十日も、其藥方の効なき時は、心に疑ひおこりて、方をかゆるなり、扁鵲のごとき疾醫は、病毒を見定、此毒は、此藥にて治するといふ事に決定するゆゑ、たとひ藥の効なきとても、病の治する迄は、藥方をかへざるなり、其内に、自然と病毒の動時あり、動ときは、大に瞑眩して、病治するものなり、病治したるあとにて見れば、其藥方かはりては、治せぬ事知るヽなり、又其病に中るあたらざるをしらず、唯方をかへぬ事を自慢して、人を惑すものあり、是は無法者のする事なり、必惑べからず、是を糺さんと思はヾ、其病人の治しやうを問べし、

吐方 汗方 下方

〔醫斷〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0978 治法
治有四( ○○○) 、 汗( ○) 、 吐( ○) 、 下( ○) 、 和( ○) 是也、其爲法也、隨毒所在、各異處方、用之瞑眩其毒從去、是仲景之爲也、如其論中所載、初服微煩復服汗出、如冒狀、及如醉狀吐、如蟲行皮中、或血如豚肝、尿如皂汁、吐濃瀉出之類、是皆得其肯綮然焉者也、尚書曰、若藥弗瞑眩、厥疾弗廖、可觀仲景之術、三代遺法也、今履其轍、而嘗試之、果無然焉者也、於是乎吾知其不一レ我矣、然世人、畏瞑眩斧鉞、保疾病子孫、吁其何疾之除哉、甚矣其惑之也、

〔辨醫斷〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0978 治法
汗( ○) 、 吐( ○) 、 下( ○) 、 和( ○) 、 四法( ○○) 者、乃治疾之鈐鍵也、故量夫賊邪輕重上下表裏、所當、効誠若鼓應一レ桴矣、然是皆治實邪之法、而非以補益其眞元也、余在長崎一人、積年腹痛、用倒倉法、良己一老者、亦有此患、私傳其法、自行之、隔宿亡故忽亡矣、故經不云乎、不其虚、安問其餘、蓋嘗竊觀仲景之治其於正氣慮者往々不少、顧粗鹵者弗察耳、哀哉、

〔弘簡錄〕

〈二百四十六載記金〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0978 劉元素〈張從正○中略〉
張從正、字子和、睢州考城人、精於醫業、貫穿難素之學、起疾、救死、多効、世傳、黄帝岐伯所爲書、有 汗下吐三法、各有經絡脈理、亦有汗不下不吐者、汗與吐之則死、惟從正用之最精、 號張子和汗下吐法( ○○○○○○○○) 、妄庸淺術、習其方劑、不脈原一レ病、往々殺人、此庸醫所以失其傳之過也、其所著見于世、有六門二法之目

〔醫心方〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0979 治病大體第一〈○中略〉
又〈○針灸經〉云大法、 春宜吐( ○○○) 、 凡諸病在http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000029441.gif者宜之、凡服湯吐中病便止、不必盡劑、須吐者、虐及傷寒、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000029441.gif 中滿及積、淡乾嘔、又http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000029441.gif 隔淡熱轉嗽、及肺http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022578.gif 吐膿等、並宜之、 凡宿食在胃管、當吐下一レ之、 又云、諸四逆者不之、凡諸虚羸者不之、 凡新産者不之、凡脚氣上衝心者不之、凡病者惡寒而不衣不之、 又云、大法、 秋宜下( ○○○) 、凡服湯下中、病便止、不盡劑、 凡病發作汗多、急下之、凡病五日六日、腹滿不大便急下之、 凡大下後六七日、不大便、煩不解、腹痛而滿、此有http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000019366.gif以然者、本有宿食、宜蒸氣湯下一レ之、〈方在下〉 凡病者、小便不利、大便乍難乍易、時有微熱、沸胃不臥、此有http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000019366.gif故也、宜之、 凡可下者、湯勝丸、脇下偏痛發熱、此寒也、當温藥、其寒脹須下、 凡諸病、大便澀、諸傷寒腹滿、瘧腹滿、鼓脹、水脹、大便不通須利、小便者、黄病水病淋病發汗後、不解腹滿、或痛宜之、

〔花園院御記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0979 正中二年三月三日癸丑、今日、親王、〈○中略〉有腹痛、 五月十六日乙丑、今日有醫師評定、長直、全成、尚忠、仲成等、各申議、前右府、覺圓僧正候御前、〈此僧正、殊有醫骨之故也、〉可 寫藥( ○○) 之由一同、又御灸事同申之、然而先下痢後可灸之由治定了、

〔叢桂亭醫事小言〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0979 醫學〈○中略〉
山脇〈○東洋〉ノ門人ニ、永富鳳介ト云人出テ、赤馬關獨嘯庵ト號ス、京師ノ俚言ニ、人心ノ儘ニ任セズ、モトレル人ヲ廣ク指テ、毒性ト呼ブ、蓋其唱ノ同ジキヲ以テ、如此ハ號セリヤ、此人越前ニテ、奧村良筑ト云人ニ從テ、吐流ヲ受テ上京シ、東洋先生ニ語レバ、先生大ニ嘉シ、嫡子東門先生ヲ、遙ニ越前ヘ下シ、吐方ヲ學バシム、良筑敎テ曰、吾子コソ可吐證候具セリト云ヨリ、徒ニ上京シテ、東洋先 生ニ其候ヲ告ゲ、又越前ニ下向シテ、吐藥ヲ試タリ、 本邦ニテ、上古ハ知ラズ、 吐流ハ( ○○○) 、 此良筑翁ヨリ創タリ( ○○○○○○○○○)、一代ノ内ニ一人モ藥ヲ乞モノ無ク、絶タルコト兩度アリト、サレドモ泰然トシテ、吐ヲ以テ名醫ト呼レル事、其人物ヲ思フベシ、

〔先哲醫話〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0980 田中適所
本朝八十九年前、越前有奧村良筑者、始闡吐方、而其門人永富鳳介著吐方考、荻野元凱、著吐方編、田中信藏、著醫事談、皆紹述師説、所裨補鮮矣、

〔漫遊雜記〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0980 余〈○永富鳳介〉生於長門之西鄙、〈○中略〉年甫十一、東遊於京師、〈○中略〉年十七、奉家君之命、西歸於赤關、性狂狷不郷曲、去再遊於萩府、復學于周南先生、益有醫心、及歸開講肆六經、有同僚安逹某者、歸京師、見余謂曰、子醫生而講儒業、無乃害於名分乎、余曰、余修醫方之書五年、徧參攻時師、知其無一レ於人之性命、故將棄之、某者笑曰、子徒知於人之醫、未於人之醫也、余曰、有於人之醫爲誰、曰有香川秀庵、山脇東洋者、皆在于輦轂之下、開門待四方之土久矣、子盍一見一レ諸、余於是再東入於京師、有同僚栗山文仲者、先在于東洋先生之門下、引余見先生、先生容貌雄偉、神彩射人、睨余謂曰、漢唐以下數千年、中華無寧謐之日、割據試擧、可以逞豪傑之爪牙、誰拘拘乎爲方技之徒、宜哉其無離倫之才、幸有長沙氏之書、雖其人不一レ知、周漢之遺術備存焉、和華古今之醫、莫其條理而施之術、生民死于養榮益氣之説一日也、吾子豈冠漢高溲溺之餘於心乎、寧佐吾志二千年來之沈滯乎、唯子之所擇也、夫子貢貨殖、子路負米、何必講書授句而後爲士乎、學道志也、行醫業也、何相妨之有、其言未畢、余舌擧不下、汗流浹背、生涯之趣向始定焉、乃留學其塾中一年、與聞其道、傍視先生之决死生沈痼、大異平昔之所一レ學、以爲古醫道之妙至矣盡矣、天下無治之病、其明年西歸於赤關、又遊於浪華、郷曲之人來乞治者日數十人、待之以於先生汗下之方、巴豆甘遂、輕粉烏頭、無至、或忽治忽發、或初快後危、或長服無於病、或經久發其害、於是乎始知醫有開闔離合之 機扁倉亦有治之病矣、然此時血氣之欲未定、好貨好色、學醫之志不純、汎然過日三年、年二十一、聞前越有奧邨翁者吐方、與山仲陶同往而見、受其法、翁方面大耳、鬚髮如銀、其爲人厚重不移、余留學六十日、與翁討論數次、臨歸、謂余曰、吾子學東洋氏一日、其論非高、其旨非遠、而高論遠旨、自非聖賢、則遽施之多違、吾子自此以往、歴事多年、志業始習熟而已、去歸於京師、授奧村翁者於東洋先生、再西歸於赤關、 而後汗吐下之三法始備( ○○○○○○○○○○) 焉、余乃以三法諸難治之病三年、而後始知醫之難矣、就中遇時不利窘急具至、一切絶飮博亡賴之交、雉髮浮沈閭里、爲醫之志始一矣、爾後又二三年、能知治之病與治之病、所謂其不治者、非時醫之所謂不治者也、所謂其可治者、非時醫之所謂可治者也、而又 深識謂古醫道者非汗吐下之古方之( ○○○○○○○○○○○○○○○○○) 謂、而在以不一レ汗吐下之古方之謂焉矣、年二十九、因病離家、漫遊將養、西經肥筑、東過藝備、來復客于浪華、其間診沈固滯廃之病、無慮數千人、嗚乎診病年多、爲技年拙、益知究理易、應事難矣、

〔吐方考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0981 汗吐下並行、古之道也、今能汗下吐、其於能也不亦難乎、今知吐之病、不汗下之病、其於知也不亦危乎、日本古方書之學興、汗下之術敷于四方十數年、至于吐方、難澀不行、夫汗吐下異途同歸、學者冥會其機、吐豈特難乎、余幼見事洛東洋氏與越奧村氏學試之十年、粗知其利病、故聊述鄙見、告同好之士云焉、〈○中略〉
張子和、汗吐下齊行、是鋭意欲病之蔽也、夫病初發則雖重易治、經久則雖輕難治、苟不其條理而施之、則雖百汗吐下齊行此何、學者取其果決之行、而莫其切迫之見矣、盛夏嚴冬之毒人不少、羸弱之人雖病宜其修養、況吐下之方避其時可也、雖然不已則用之、用吐方之時、既吐則須白湯、飮則須吐、吐之宜揬吐、揬吐促其間也、連日連夜虚竭元氣、紅夷俗、能汗吐下、其言曰、病者在牀蓐吐、是自初學之繩墨、
吐後三五日、當調飮食思慮、不風、不酒、不内、不勞動
古曰、病在膈上者吐之、是用吐方之大表也、而其變不勝數、沈硏不久、經事不多、則難得而窮詰、〈○中略〉下工之醫、積思焦心三年、可中工、中工之資既成、構思不休、積久忘者、猶佝僂丈人於一レ蜩、遽然逢其源、則汗吐下皆中肯綮、是上工也、上而難遇焉、余受汗吐下之方、試之於顛癇、勞瘵、喘息、鼓脹、膈噎之類數年、功不科、技不於人、雖然沈硏感刻、忘思於榮辱、積年之久、經事之多、知死者不治者徐明、知死者不治者徐明、而治者不死者在于目中、始信古人之技、不既病未病矣、

〔漫遊雜記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0982 和蘭之醫、善汗吐下、寶暦壬午春、余西游到長崎、就譯師吉雄氏彼醫法、其治術峻劇纎巧、難遽用於邦人、然而至汗吐下之機用、則一々與吾古醫道符矣、夫中華聖人之邦、失其道一千年、特於蠻貊之者、不亦異乎、且其國不人屍、其民亦不腸絶筋之慘、是以人病死、其病源不明、則刳剝視之、以爲後圖者、數千年于一レ今、其書鬱然存焉、有志之士、考證玩索、可以獎助志業矣、

〔皇國醫事沿革小史〕

〈後編第六期〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0982 杉田成卿〈諱ハ信、梅里ト號ス、〉ハ、立卿ノ子ナリ、警敏ニシテ夙ニ家學ヲ傳ヘ、更ニ坪井信道ニ從フテ益々其學ヲ修ム、依テ和蘭ノ文法ニ精通シ、橫行ノ文章ニ巧ナリ、天保十二年〈紀元二千五百一年〉飜譯局ノ譯員ニ擧ラレ、蘭米ノ圖書飜譯ノ命ヲ奉ジ、又海上砲術全書ヲ譯ス、後更ニ蕃書調所ノ敎授職トナリ、安政六年〈紀元二千五百十九年〉四十二歳ニシテ沒ス、成卿洽聞博識、其學獨リ和蘭ニ止マラズ、嘗テ獨逸原書ニ就テ、濟生三方ヲ譯出シ、 刺絡( ○○) 、 阿片( ○○) 、 吐劑ノ三方( ○○○○○) ヲ説ク、其書大ニ行ハレ、天下ノ醫家一本ヲ藏セザルモノナシト云、其他濟生備考、治痘眞訣、内醫手術、解剖刀式、砲術訓蒙等編著十餘種アリ、

斷食

〔皇國名醫傳後編〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0982 惠美三白〈子貞璋〉
惠美三白、〈號寧固〉廣島人、仕本府、三白恒謂、百病生于停食、故其施治喜用吐方其妙、〈○中略〉嘗閲佛書、見其言四百四種病以宿食根本、〈淨心誡觀〉又言病用 斷食法( ○○○) 、或三日或四五日、〈南海寄歸傳〉大悅、引以爲證、益唱其説曰、人謂色欲害身、不飮食之欲害人、更有於色、故其自奉淡泊、居常唯食麥飯裙帶菜、病 者問餌食何宜、亦擧二品而答、

〔塵塚談〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0983 斷食して服藥の事、釋迦如來の病を療る方也、七ケ日斷食にて藥を飮み、七ケ日後は生死によらず藥を用ひずと、佛經に説給ふとかや、今世も律僧の正しき人は、長病なれば、七ケ日服藥し、八日目一日休藥して又服藥す、七日々々に一日づヽ休み藥用するよしを聞り、此斷食して服藥の方、藥治より萬病に最上の藥也、痢病、食傷、蟲症、泄瀉、腹痛、積聚、嘔吐の類の病には、別して驗し多し、既に大七氣湯などは、絶食にして用ゆべしと古人も云り、予しば〳〵效驗を得たる事なり、疑ふべからず、然るを俗人は喰さへすれば、全快なるものと心得て、不食の病人に強てすヽむ、わけて婦人は無理無體に飯せしむ、これを介抱と思ふ、甚しきひが事ぞかし、又世俗は水を望む病人に、水をあたへざるが多し、これも食をすヽむるにひとし、食をすヽめ却てこれが為に命を失ふもの少なからじ、卑賤の者には水ばかり飮みて、醫藥におよばず全快するもの多くあり、醫法の祖たる張仲景曰く、水を望む病にはあたふべしと、又却温經に曰く、水をのぞむ病に水を飮すべしと説玉ふ、また新汲水は天然の白虎湯なり、藥にあつべしと本草に見へたり、是等の語を見て忌むべからざる事をさとし、少しもいとはず飮すべし、釋尊仲景の敎ある事を知らず、歎しき事也、是にかぎらず俗人の私智のならはしには實要をうしなひ、忌べき事を返て養生になると思ふの間違のみありて、害となる事多し、歎くに餘れり、

〔牛渚漫錄〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0983 減飮絶粒( ○○○○)
荻野台州著減飮論、和田東郭治澼囊、極節飮食、太田無聲曰、凡療膈曀反胃、量其人強弱虚實、當絶粒上レ先、各有見、〈○中略〉按、素問怒狂病、有岐伯奪其食之言、然則聖人亦有此法乎、

灌水

〔皇國名醫傳後編〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0983 古林見宜
古林正温、通稱見宜、〈號桂庵、又壽仙房、〉播磨飾磨人、赤松氏則之裔、〈○中略〉正温與福岡太侯〈如水〉有舊、侯延而爲客、 筑士有冷疾三年、夏天重裘、擁爐而坐、火氣熏面、狀如癩痂、正温視之曰、是伏熱也、治法 用灌水( ○○○) 、經所謂行水漬之和其中外者、昔徐嗣伯用之治房伯玉疾、冬天猶可、況夏時乎、速命設水、親戚私議曰、太冷之人入水、氣卽絶矣、病者聽之、顫慄不進、正温叱曰、汝何怯、是小盤水、乃爾畏縮、他日臨陣豈能了事、可惜爾君以五百石粟汝無用之徒、病者大怒、決起赴槽、灌頂可半時、問何如、病者曰温和、快不言、吾不水、正温曰可矣、乃出於槽、調以藥劑、二旬而愈、又博多郷民病熱悶亂、正温亦洒水、自昬逹旦而解、

〔黄帝内經素問〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0984 五常政大論第七十二篇〈○中略〉
岐伯曰、西北之氣散而寒之、東南之氣收而温之、所謂同病異治也、故曰、 氣寒氣凉治以寒凉行水漬之( ○○○○○○○○○○○○)、氣温氣熱治以温熱、強其内守、必同其氣、可使平也、假者反之、

〔史記〕

〈一百五扁鵲倉公列傳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0984 太倉公者、齊太倉長臨菑人也、〈○中略〉菑川王病、召臣意脈曰、蹶上爲重、頭痛身熱、使人煩懣、臣意、卽以寒水其頭、刺足陽明脈左右各三所、病旋已、病得之沐髮未乾而臥、診如前、所以蹶頭熱至一レ肩、

〔三國志〕

〈魏二十九方技〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0984 華佗字元化、〈○中略〉精方藥、其療疾、合湯不數種、〈(中略)佗別傳曰、(中略)又有婦人、長病經年、世謂寒熱注病者、冬十一〉〈月中、佗令石槽中、平旦用寒水汲灌云、當滿百、始七八灌、會戰欲死、灌者懼欲止、佗令滿數、將八十灌、熱氣乃蒸出、囂々高二三尺、滿百灌、侘乃使火、温牀厚覆、良久汗洽出、著粉汗燥、便愈、〉

〔榮花物語〕

〈三十六根合〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0984 うち〈○後朱雀〉の 御にきみ( ○○○○) のこと、なをおこたらせ給はねば、いかにとむづかしうおぼしめす、御いたちのありさまなど、おなじことなり、日ごろのすぐるまヽに、なを みづなどいさせ給( ○○○○○○○○)てやよからんと申せば、そのさほうの御しつらひして、いたてまつる、いとさむきころ、たえがたげにみえさせ給、

〔續古事談〕

〈五諸道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0984 後朱雀院カサヲヤミ給ケルニ、典藥頭相成、ヨロシク成給ヘリ、水トヾムベキヨシ申ケルヲ、雅忠、イマダワカヽリケルガ、ミタテマツリテ、コノ御瘡、イツ水トヾムベシトモミエズ ト申ケリ、其後、嵯峨ノ瀧殿ノ阿闍梨重源ト云モノハ、重秀ガ孫ナリ、ソレヲ召テミセ給ケレバ、雅忠ガ申ヤウニ申テマカリイヅトテ、故資仲、帥ノ五位藏人ナリケルニアヒテ、コノ御瘡、イツ愈給ベシト云事ミエズ、雅忠心エタル醫師也、明日御胸ヤミ給バ、大事ナルベシト申ケリ、マコトニ御胸ヤミテウセ給ヒニケリ、カサヤム人、胸ヤムハヲハリノ事也トナム、○按ズルニ重癰ニ水ヲ灌ギテ之ヲ治スル事ハ、外科治療條ニモアリ、

〔古事談〕

〈三僧行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0985 源大納言師忠卿室家者、修理大夫俊綱之女也、久臥病席、熱氣如湯、親王授戒以香水之、其所點著手淸冷也、更洒遍身、忽以平愈、

〔中右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0985 大治二年四月廿六日、此十餘日、右腰下有堅根、遠行之間、有更發一レ音、召醫師成世、令見之處、其熱頗大、雖恐、早以蓮可射之由所申也、 五月七日、從今日堅根以柳洗、依成世申也、

〔皇國名醫傳後編〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0985 奧村良筑
奧村良筑、〈號南山〉越前府中人、〈○中略〉初奉張子和、因以遡古道、極其變化、灌水治疾古人多用之、然 至麻疹之灌浴( ○○○○○○) 、 前古所聞( ○○○○○) 、良筑實發明之、是類甚多、生平足跡未嘗出郷關、其術皆數十年、仰思俯求之所獨得

〔病家須知〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0985 食物能毒の心得を説〈○中略〉
産後の眩運に、冷水の奇効あること、坐婆心研にくはしく其説を記たれども、今此編婦人須知の卷にほヾこれを述て、俗家に示べし、其外、熱病の危篤證に、灌水得効ある辨、痘疹、驚癇、及癇疾、癲癇、狂癇諸症、痱、痿、諸患、又は瘈狗傷てより、精神錯亂もの、或は頭熱經久止ざる、或は惡寒歳を累て愈ず、或は久瘧諸治効なき類、及癩病初發、癆瘵初起に、 灌水( ○○) 、 浴水( ○○) 、 拊水( ○○) 及 瀑布泉( ○○○) を用る差別、其佗の諸病に、冷水内服辨別など、予〈○平野重誠〉が多年の試驗は、皆治術のうへのことにて、醫も其人にあらざれば、妄に説諭がたく、況俗家の理解し難ことのみ多ければ、此には具論ぜざるなり、

〔病家須知〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0986 痘瘡のこゝろえをとく〈○中略〉
痘瘡の序熱に、搐搦、上弔、不人事にいたるものに、拊水術の一法を施には、冷水を手巾に浸て、兒の頭上を頻に灌洗、面部をもあらひ、その水、やゝぬるむときには、再冷ものに換て、灌こと八九十遍にいたり、頭面の肌膚冷て、氷のごとくなるに至て止、もし醒覺こと遲ものは、冷水一盞を内服せしめて、治することあり、いづれも見はからひのあること也、〈○中略〉痘瘡序熱、卒厥を發するものに、この術を活用して、其急を救、且起脹灌膿の期に至て、巨利を得ことあるは、予が發明、多年經驗の事にして、其必効あるものを認て施行こと、世人もやヽ知るものあれども、かの守杭刻舟之醫は、まゝ首肯せざることなれば、俗家は、唯其効あるを信じて用ふべし、

〔病家須知〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0986 黴毒の心得を説〈○中略〉
又最懼べきは癩病にて、古人の天刑病といひしも宜なり、然はあれども、其身體既に潰爛腐蝕たるものも、能灌水治法に委れば、偉功を奏ことあり、これ予〈○平野重誠〉が創意の歷驗にて、古人のいまだ言及ざることなり、

鍼灸

〔醫斷〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0986 鍼灸
鍼灸之用、一旦馳逐其病驗也、唯除本斷根爲難而已、如痼毒灸之則動、動而後攻之易治、故鍼灸亦爲一具、而不必専用、亦不經絡分數、毒之所在、灸之刺之、是已、

飼蛭

〔續視聽草〕

〈初集六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0986 蛭飼考證
ちかき世の人、小き瘡をなやめるには、蛭をつけて、その瘡をすひとらすることをするを、西洋の醫書より得たるわざといへり、此事は我國、いにしへ人も、 ひるかひ( ○○○○) といひて、せしことなるを、いつしか世に絶て、後には蛭かひといふ詞だに、しる人なくなれるからに、今はじめて、こと國のわざをならひ傳へて、する事とのみ思へり、此わざいにしへぶみに、はやくみえたりとおぼゆれど、 たゆき心のおこたりに、しるしもとめざりしかど、おろ〳〵かいつけおけるもあれば、其かぎりをしるすべし、こはもろこしの、隋のころにも、おもひよりてせしことにて、そのかみのくすしのふみにも見ゆと聞つれど、そはのちに考へていふべし、今はまづ、こゝにふるく見えたるところを記すのみなり、菅はらの夏蔭、

〔橿園隨筆〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0987 蛭をつけて血をとる事
今世に、蛭をつけて、惡血をとる療治あり、是を皆人、蘭法といふめれど、肥後の阿蘇あたりの山家にて、腫物の膿血をとるにしかする事あり、こは醫にもよらず、たゞ山奧の民どもの、昔よりおのづから傳へ來りてするわざなれば、皇國の古法なるべし、

〔醫略抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0987http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022578.gif 疽方
本草拾遺云、水蛭、人患http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022578.gif 疽毒腫、取十餘枚http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000065073.gif 、病處無差者、〈今案、經心方云、以水蛭去惡血、〉

〔倭名類聚抄〕

〈十九蟲豸〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0987 水蛭 本草云、水蛭、〈音質、和名比流、〉

〔伊呂波字類抄〕

〈比動物〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0987 蛭〈ヒル水蛭〉 水蛭〈同在水中

〔爲房卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0987 寬治四年五月廿六日庚寅、余煩二公、〈○中略〉令蛭〈○中略〉當日出仕不便、然而王事靡盬以奉公節、 廿八日壬辰、典藥頭來臨、二公重以飡蛭、

〔長秋記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0987 元永二年六月十四日、近日依堅根蛭飼事

〔中右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0987 大治二年四月廿六日、此十餘日、右腰下有堅根、 卅日、今日施藥院使重基、并成世等來、見此堅根、令蛭五六十許了、 五月九日、今日依醫師敎、又飼蛭三十餘了、已及三箇度也、雖減氣、誠身力屈了、 二十九日、〈戌申凶會〉右腰下堅根平愈了、從去月二十六日、更發、以蓮柳之四箇度、飼蛭療治之間也、及一月親老之身神心屈了、

〔明月記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0987 寬喜二年五月十日辛丑、昨日猶有熱氣、仍齒飼蛭、

〔朝野群載〕

〈二十一雜文〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0988 勘申
御蛭飡吉日
今月廿六日己卯 人神在胸中 來月十二日甲午 人神在左乳
右御蛭飡吉日、勘申如件、
康平四年四月廿四日 權醫博士和氣相秀

温石

〔運歩色葉集〕

〈遠〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0988 温石( ヲンジヤク)

〔毛吹草〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0988 美濃 温石( ヲンジヤク) 出羽 温石( ヲンジヤク)

〔大和本草〕

〈三金玉土石〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0988 温石
山東通志曰、出掖縣色兼靑白、潤膩如玉、味甘無毒、可藥物、日本ニ温石ト云物アリ、白クシテ少靑シ、ヤハラカナリ、是山東通志ニシルセル中華〈ノ〉温石ト同物ナルベシ、冬ハ弓ノ弦折レ易シ、温石ノ末ヲ指ニツケ、弦ヲシゴクニ柔靭ナル事夏月ノ如シ、是温石ノ性熱ナル事可知、他石ノ末ヲ用レバ不然、温石燒テ鹽水ヲソヽギ、布ニ包ミ痛處ヲ熨スニ尤ヨシ、又腹中ノ積滯ヲ散ズ、燒テ温熱ヲトランタメニハ、他ノ堅石モ可也、サレドモ、温石ノヨキハシカラズ、本草綱目ニ温石ヲノセズ、然レドモ古磚ヲヤク事アリ、是亦温石ナリ、證類本草云、久患下部冷久痢腹傷白膿塼并温石熨及坐之並瘥、但取堅石燒暖用之、非別有温石也、今按、諸本草ニ、日本所産ノ温石ヲ不載、

〔紀伊續風土記物産〕

〈一石〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0988 温石〈天文本和多鈔云、温石温音如運、康賴本草に滑石、和名御之也、久とあるはうけがたし。〉延喜式諸國貢藥中に、紀伊國温石、一百二十斤とあり、今名草郡天野莊藤白峠の産上品なり、那賀郡小倉莊上三毛村の産下品なり、〈一説に、温石に熨病の用ありて服餌の方なし、本草和名に滑石出紀伊國とあるをみれば、温は滑の誤なるべしといへり、按ずるに、漢土にて温石といふは、一石の名にあらず、唐陳藏器本草拾遣に、久患下部冷久痢腸腹白膿塼并温石、熨及坐之、並差、但取堅石、燒暖用之非別有温石也といへり、又本草和名に、温石今燒火熨人腰脚者也といへるも、拾遺の温石を引るなり、是に據てみれば、温は滑の誤といふ説可なるに似たり、然れども本國にて滑石の産する所いまだ詳ならず、温石は今に多く産して、式に載 するをもて名品とす、若滑の字の誤とするときは、此石を温石といひ始しは、何れの頃か考ふべからず、又一説に式の温石は、此石火に燒き病を熨するに効あれば、拾遺の温石の名を借りて、一名の名となしヽものならんといへり、猶考ふべし、〉

〔增訂豆州志稿〕

〈七土石〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0989 温石( ヲンジヤク)
熱海ヨリ出ヅルヲ最トス、自然ニ鹹味ヲ具ス、增、是レ鑛泉中ノ加爾基曹逹等凝結シテ石ニ化シタル也、 之ヲ以テ腹痛、積聚等ヲ熨シテ效アリ、

〔落窪物語〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0989 北の方は、かの典藥の事により、起まして部屋の戸引き開けて見たまふに、うつぶしふして、いみじう泣く、いといたしや、などかくはの給ふぞといへば、 胸のいたく侍れば( ○○○○○○○○) と息の下にいふ、あないとをし、物の積かとも、典藥のぬしくすしなり、かいさぐらせ給へといふに、類なくにくし、何か風にこそ侍らめ、くすし入るべき心地しはべらずといへば、〈○中略〉 御燒石( ○○○) あてさせ給はんやと聞ゆれば、よか〈ン〉なりとの給へば、あこぎ典藥にぬしをこそ今は賴み聞えめ、御燒石覓めて奉り給へ、皆人も寐靜まりてあこぎがいはんによもとらせじ、これにてこそ志のありなし見えはじめ給はめといへば、典藥うち笑ひて、さなり殘りの齡少くとも、一すぢに賴み給はヾつかうまつらん、いわ山をもと恩へば、まして燒石はいとやすし、思ひにさし燒きてんといへば、同じくは疾くとせめられてぞ往ににける、

湯治

〔運歩色葉集〕

〈多〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0989 湯( タウ) 治

〔釋日本紀〕

〈十四述義〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0989于伊豫温湯宮
〈伊豫國風土記曰、湯郡、大穴持命、見悔恥而宿奈http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000016752.gif 古那命欲活、而大分速見湯自下樋持度來、以宿奈http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000016752.gif 古奈命而浴瀆者、蹔間有活起居、然詠曰、眞蹔寢哉、踐健跡處、今在湯中石上也、 凡湯之貴奇不( ○○○○○○) 神世時耳( ○○○○) 、 於今世疹痾( ○○○○○○) 、 萬生爲除病存身要藥也( ○○○○○○○○○○) 、天皇等於湯幸行降坐五度也、以大帶日子天皇與大后八坂入姫命二軀一度也、以帶中日子天皇與大后息長帶姫命二軀一度也、以上宮聖德皇一度、及侍高麗惠總葛城臣等也、于時立湯岡側碑、文記云、法興六年十月歳在丙辰、我法王大王與惠總法師、及葛城臣遙夷與村、正觀神井世妙驗、欲意聊作碑文一首、〉
○按ズルニ、各地温泉場ノ事ハ、地理部温泉篇ニ詳ナリ、今此ニハ只温泉浴法ノ濫觴ヲ示セル ノミ、

〔出雲風土記〕

〈下仁多郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0990 三津鄕、郡家西南廿五里、大神大穴持命御子、阿遲須枳高日子命、御須髮八握于生、晝夜哭坐之辭不通、爾時、祖命、御子乘船而、率巡八十島宇良加志給鞆、猶不哭之、大神夢願給、告御子之哭由、夢爾願坐、則夜夢見坐之、御子之辭通、則寤問給、爾時御津申、爾時何處然云問給、卽御祖前立去出坐而、石川度坂上至留申是處也、爾時、其津水沼於而 御身沐浴坐( ○○○○○) 故國造神吉事奏、參向朝延時、其水沼出而用初也、依此、今産婦、彼村稻不食、若有食者、所生子不云也、

〔出雲風土記〕

〈上意宇郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0990 忌部神戸、郡家正西廿一里二百六十歩、國造、神吉詞奏參向朝廷時、御沐之忌里、故云忌部、即川邊出湯、出湯所在、兼海陸、仍男女老少、或道路駱驛、或海中沚洲、日集成市、繽紛燕樂、一濯則形容端正、再浴則 萬病悉除( ○○○○) 、自古至今、無驗、故俗人曰神湯也、

〔釋日本紀〕

〈十四述義〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0990于津國有間温湯
〈攝津國風土記曰、有馬郡又有鹽之原山、此近在 鹽湯( ○○) 、此邊因以爲名、久牟知川、右因山爲名、山本名功地山、昔難波長樂豐前宮御宇天皇世、爲車駕幸湯泉、作行宮於湯泉之、于時採材木於久牟和山、其材木美麗、於是勅云、此山有功之山、因號功地山、俗人彌誤曰久牟知山、又曰、始得鹽湯等云々、土人云、不時世之號名、但知島大臣蘇我馬子時耳、〉

〔朝野群載〕

〈二十大宰府〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0990 太政官符 大宰府
往還某姓某丸向某國温泉
右得某人解偁、云々者、某宣、奉勅依請者、府宜承知依宣施行、符到奉行、
辨 史
年月日

〔古今著聞集〕

〈二釋敎〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0990 行基菩薩もろ〳〵の病人をたすけんがために、有馬の温泉にむかひ玉ふに、武庫山の中に、壹人の病者ふしたり、上人あはれみをたれて、とひ玉ふやう、汝なにヽよりてか、此山の中にふしたる、病者答ていはく、病身をたすけんために、温泉へむかひ侍る、筋力絶盡て、前途逹 しがたくして、山中にとヾまる、

〔空華日工集〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0991 應安七年二月十五日、赴管領甲第、領問政事之要、余曰、凡政事當先賞而後罰、不人憂、則可善政矣、仍乞 湯醫( ○○) 之暇、入府亦七七日爲湯醫、往熱海宿山崖家

〔皇國名醫傳後編〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0991 香川修庵〈從子主善〉
香川修德、字太冲、以字稱、〈○中略〉於是厲志專精講求、累年著藥選行餘醫言等書、以推衍師説、醫道益闢、而於 温泉( ○○) 及灸炳治効最致詳、

〔漫遊雜記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0991 香川氏曰、温泉不熱者無于病者、可夏虫之見矣、藝州佐伯群有泉曰水内、治腰脚不隨者寄効、其泉頗冷、秋冬難浴、

〔温泉考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0991 近頃、京都の後藤左一の門人香川太冲のあらはすところの藥選といへる書を見侍りしに、その續編に温泉のことを論じて、温泉、硫黄にて沸くといふ説をうけがはず、稻若水の説を引ておもへらく、地中に水の筋あり、火の筋あり、その火の筋、水筋に出會へば、温泉となるといへり、その説是なることは是なり、しかれ共甚疎なり、まして是游子六の説を拾ひしものにして、若水はじめて唱へし説にはあらず、しかし天經或問は、近頃渡りし書なれば、若水は、萬一これを見ずして、偶その説の暗合せしもしれざれ共、太冲の游子六の説なることをしらずして、若水初て唱へられし説なりとおもへるは、深く考へざるあやまりなり、又太冲の説に、硫黄といふものは、温泉によつて生ずるものなり、硫黄はすなはち是湧泉の發する滓なりといへるは、是又あやまりなり、右にいふごとく、温泉も地中の陽火にて湧き、硫黄も地中の陽火、土中の膏液を蒸しこらすものゆへに、硫黄と温泉とつれそふことはつれそふ理なれ共、必竟ずるところ、温泉は温泉、硫黄は硫黄、たとへば地中の火は母にして、温泉と硫黄は兄弟なるがごとし、故に硫黄温泉を生ずといへるは、もとより非なり、又温泉硫黄を生ずといへるもあやまりなり、それゆへ温泉ある所、硫 黄のなき所もあり、硫黄のある所、温泉のなき所もあり、又いづくにても、海底の泥おほくは硫黄の臭氣をなす、温泉の滓なりとはいわれぬことを知るべし、〈○中略〉
扨温泉のあまり熱きはよろしからず、又ぬるきはもとよりよろしからず、たゞ温柔和煦なるをよしとす、香川太冲の説に、温泉は極熱のものをよしとす、極熱の熱勢、人の元氣を助け、元氣を滾動して、沈痾を起し、癈痼を發すといへるは、笑ふべきの甚しきなり、元氣を助け、元氣を滾動すといへる字を下す事の笑ふべきのみならず、いまだかつて元氣の字義をしらざればなり、しかし元氣の論は、あながちに此書の主とする所にあらざる故に、その説のつまびらかなることはここに略す、温泉の能毒のわかるゝは、あつきとぬるきとによることにあらず、湯筋の差別によることなり、故に極熱の湯にも寒冷の性をそなへし温泉あるべし、煎湯は熱湯にても、石膏の煎湯は寒性なるがごとし、又さまで極熱にてなく共、外の物にそまず、たゞ純陽硫黄の氣ばかりを土中にて觸そゝぎて出來たる温泉ならば、その性温にしてよろしかるべし、故に温泉をゑらぶは、たゞ異氣に染むかそまぬかをとくと吟味し、自然天然うぶのまゝなる水筋の湯硫黄の氣ばかりにふれそゝぎて出來る湯のあつからずぬるからず、身にふれて、温柔和煦既に浴して後、腹藏肌膚、表裏内外、煦々温暖の氣やゝしばしやまざる湯を極上々の良湯とおもふべきなり、筑前の貝原篤信も、熱湯には浴すべからず、温なるをよしとすといへり、此ことはよしとすべし、

〔皇國名醫傳後編〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0992 山村通庵〈○中略〉
重高通稱右一郎、〈號通庵〉伊勢松阪人、重高以灼艾一門師説巳備、已更欲温泉之効、遍歴諸州、親驗其氣味主能、既曰、但馬城崎、上野草津、其功相敵、均爲天下第一湯、但路程悠遠、或有往者、於是 剏意製湯( ○○○○) 、方用潮水五斗硫黄六百錢糠一斗囊盛、先以潮水二斗糠、以糠赤色度、去滓内硫黄、浴日三、漸内潮水、冬月旬餘一改、夏月四五日傾去上水、更加新潮、用硫黄糠本量之半、無潮水則以鹽五升水、 湯成而試、 効功不二泉( ○○○○○○) 、

〔尾張名所圖會〕

〈前編六知多郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0993 鹽湯治( ○○○) 同村〈○大野〉海音寺西北の方に當る海濱は、巖石多くありて、暑氣の頃は遠近の諸人、此海濱に出で、潮水に浴し、しかしては又巖上に憇ひなど、終日に幾度も出没する事、五日七日する時は、あらゆる諸病を治す、是を世に大野の鹽湯治といふ、かく暑月には、浴湯する群集夥しくて、數多の旅亭、家ごとに二百人三百人を宿し、他の温泉も、かくまで諸人の輻湊するを聞ず、又中人以上は、旅館に此海潮を汲とらせ、再び湧して浴するもあり、しかれども、其効海中に身を涵せるには少し劣れりとぞ、又浴湯の暇には、此海中にて捕る所の鮮魚を、飽までに食しつゝ、枯腸を潤し、虚弱を補ふも、又治療の一助なるよし、猶此濱に溢れたるは、東浦、其外所々に浴するあれば、其繁昌推て知るべし、

〔嬉遊笑覽〕

〈九娼妓〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0993 <ruby><rb> 風呂〈○中略〉藥のためにする湯は、病者發汗せむとて湯に入ることあり、榮花物語、〈本雫〉〈卷〉御風にやとて、ゆでさせ給ひて云々、此外の卷にも見えたり、〈字鏡に、煠以菜入湯云々、奈由豆とあり、其ごとく入しむをいふ、〉庭訓に、五木八草湯治風呂、是は本草に見えたる 藥湯( ○○) なり、貞德文集、霜月の文に、貴殿御望み桑風呂焚可申候、狂言咄〈五〉、八瀨の釜風呂は、都がたの人わづらひ有もの、絶えず入侍り、極て効あり、黑木という物をふすべける次でに、釜ぶろをたつるに、生木を燒て、その氣をうくる、誠に人身に藥なるべし、

〔榮花物語〕

〈十二玉村菊〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0993 大將殿〈○藤原賴通〉日比、御心ちなやましくおぼさる、 御風( ○○) などにやとて、 御ゆゆで( ○○○○) せさせ給、ほをきこしめし、御讀經の僧ども、番かゝずつかうまつるべくの給はせ、〈○下略〉

〔隣女晤言〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0993 ゆゆで
榮花物語月宴に、九條殿なやましうおぼされて、御かぜなどいひて、おほむゆゆでなどして、くすりきこしめして云々、此風のこゝちに、ゆゆでするといへるは、いかさまにするにか、醫法に ある事にや、尋ぬべし、源氏物語などにはなき詞なり、狹衣に、雪やけに、あしもはれてなやましうおぼさるれば、ゆでつくろひなどして、あるきなどもし給はずと云々、これは足の痛に、湯でする事、今もする事なり、杉をせんじてする事もあるべし、

〔中右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0994 天永三年十月二日、今日大宮右大臣殿御忌日也、仍於一條堂講説、予俄 病胸湯治( ○○○○) 之間不行向也、

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0994 嘉應三年〈○承安元年〉二月十八日癸亥、醫師定成來問湯治事等、明日雖吉日黄帝之死日也、是重忌之、來二十五日爲上吉日、然而及彼日者有懈怠之咎、仍尚自明日 水湯( ○○) 、至二十五日 潮湯( ○○) 云々、二十四日己巳、定成來、問湯治事、所勞之體、尚脚氣風病令然歟、試今一兩日水湯、自來月二三日之間潮湯云々、

〔園太暦〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0994 康永三年十月八日、予自今日潮湯、仰鳥養牧雜掌良兼法師汲也、

〔法然上人行状繪圖〕

〈三十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0994 三月二十六日、讃岐國鹽飽の地頭駿河權守高階保遠入道西忍が館につき給ひにけり、〈○中略〉上人〈○法然〉入御ありければ、この事なりけりと思ひあはせけり、 藥湯( ○○) をまふけ、美膳をとゝのへ、さま〴〵にもてなしたてまつる、

〔梅園日記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0994 杉湯〈○中略〉
續門葉集〈雜上〉云、大藏卿隆博、藥湯のために、杉の葉をこひ侍りける返事にそへ侍りける、法印公紹、君がとふしるしとも又なりにけり杉のみたてる秋の山本、又按ずるに、藥湯のためにとあれば、これも脚氣ゆでん料にや、

〔續詞花和歌集〕

〈十六雜〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0994 大齋院〈○選子内親王〉御あしなやませ給を、 すぎのゆ( ○○○○) にてゆでさせ給べきよし申ければ、ゆでさせ給へどしるしも見えざりければ、 齋院宰相
あしひきのやまひもやまずみゆる哉しるしの杉とたれかいひけん

〔本朝醫談〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0995 脚氣に、杉の洗藥は、蘇敬に初り、丹溪も用ひき、證によりて効なき事もあるべし、

〔簾中抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0995 くこの湯( ○○○○) あむる日
正月二日 二月三日 三月六日 四月四日 五月一日 六月二十一日 七月七日 八月八日 九月二十日 十月八日 十一月二十日 十二月三十日
この日ごとに、くこをゆに入てあむれば、色あはひよくなりて、おいにやまひせず、

服藥

〔年々隨筆〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0995 又〈○南留別志〉源氏物語をみれば、病に藥用る事はすくなくて、大形は祈禱をのみしたるやうなり、今も田舍のものはかくの如し、鬼を尊べる風俗の弊なるべしと有、延喜式、政事要略などをみるに、むかしとても病には必醫藥をもはらにせし事なり、源氏物語をふとうちよみて、藥を用る事なしとはいひ難し、葵卷に、いざや聞えまほしき事いと多かれど、またいとたゆげにおぼしためればとて、 御ゆ( ○○) まゐれなどさへあつかひ聞え給ふを云々、柏木の卷に、宮はさばかりひはつなる御さまにて、いとむくつけう、ならはぬ事のおそろしうおぼされけるに、 御ゆ( ○○) などもきこしめさず、身の心うき事を、かゝるにつけてもおぼしいれば、さばれ此ついでにもしなばやとおぼすとある、御ゆは藥なり、これ卷々に多かり、そのかみは驗者のいのりにて病の癒し事なれば、鬼を尚べる弊風俗ともいひがたし、畢竟は醫といふもまじなひ也、毉といふ字の巫に從へるはまじなひなる故なり、丹波康世の毉鍼法をみるに、多く千金方によりて、方ごとに呪文有、令にも典藥寮に、呪禁師、呪禁博士、呪禁生ありて、まじなひて病を療す、此呪禁は、唐書百官志にも有、皇國のみ鬼を尚ぶ弊風なるにはあらず、

〔醫心方〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0995 服藥節度第三〈○中略〉
本草經云、治寒以熱藥、治熱以寒藥、飮食不消、以吐下藥、鬼注蠱毒以毒藥、癰腫瘡瘤以瘡藥、風濕以風濕藥、各隨其所一レ宜、 又云、病在胸膈以上者、先食後服藥、病在心腹以下、先服藥而後食、病在四支血脈 者、宜空腹而在一レ旦、病在骨髓者、宜飽滿而在一レ夜、

〔醫賸〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0996 一週
今俗病之劇愈、藥之驗否、皆預期以七日、謂之一週、按郞仁寶七修類藁云、天之所以爲一レ天、不二氣五行化生萬物、名曰七政、人之所以爲一レ生亦不陰陽五常之氣行於六脈上レ之、名曰七情、天之道惟七、而氣至六日餘、〈氣盈朔虚推算時刻〉則爲一候、故天道七日來復、人身之氣惟七、六日而行十二經〈一日行兩經〉有餘、故人之疾、至七日輕重判焉、

〔塵塚談〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0996 斷食して服藥の事、釋迦如來の病を療る方也、七ケ日斷食にて藥を飮み、七ケ日後は生死によらず藥を用ひずと、佛經に説給ふとかや、今世も、律僧の正しき人は、長病なれば、七ケ日服藥し、八日目一日休藥して、又服藥す、七日々々に一日づゝ休み、藥用するよしを聞り、此斷食して服藥の方、藥治より萬病に最上の藥なり、痢病食傷、蟲症、泄瀉、腹痛、積聚、嘔吐の類の病には、別して驗し多し、既に大七氣湯などは、絶食にして用ゆべしと古人も云へり、予〈○小川顯道〉しば〳〵効驗を得たる事なり、疑ふべからず、

〔醫心方〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0996 針灸服藥吉凶日第七
服藥頌 新羅法師方云、凡服藥呪曰、
南无東方藥師瑠璃光佛、藥王藥上菩薩、耆婆醫王、雪山童子、惠施阿竭以療者邪氣消除、善神扶助、五藏平和、六府調順、七十萬脈、自然通張、四體強健、壽命延長、行住座臥、諸天衞護、莎訶〈向東誦一遍、乃服藥、〉

〔頓醫抄〕

〈五十養性諸篇〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0996 服藥法第十
藥ヲ服スル時ノ呪
南無東方藥師瑠璃光佛、藥王、藥上、耆婆醫王、雪山童子云々、東向テ一返誦テ、後藥ヲ服スベシ、
又云、凡藥ヲ服スルモノハ、必ズ意ヲ正シ、信ヲ深クシテ、疑ヲ成、他念ヲ成事勿レ、但其藥ノ口ニ入 テ、痛病ヲ消コトハ、沸湯ヲ氷雪ニ 沃( イル) ガ如ト思フベシ、如此信ズル者ハ、其病立處ニ愈ズト云コトナシト云也、

〔醫心方〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0997 針灸服藥吉凶日第七
合服醫忌日 大淸經云、正月亥、二月寅、三月巳、四月亥、〈一日申〉五月亥、六月寅、七月巳、八月申、九月亥、十月寅、十一月巳、〈一日申〉十二月申、 右日常不長生藥
又云六絶日、正月辰、二月卯、三月寅、四月丑、五月子、六月亥、七月戌、八月酉、九月申、十月未、十一月午、十二月巳、 右日不服藥治病

〔醫心方〕

〈二背記〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0997 針灸服藥吉凶日第七
今案、凡甲子、丙子、戊子、壬子、丙午、庚午、壬午、甲戌、丙戌、壬戌、乙巳、丁巳、乙亥、丁丑、辛亥、己丑、辛丑、癸丑、癸卯、
今撿件日 避諸禁( ○○○) 、 合藥服藥針灸治病( ○○○○○○○○) 皆吉、但 可( ○○) 節氣月忌、并 生年衰日等( ○○○○○) 、

〔運歩色葉集〕

〈地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0997 衰病日、〈初六、中八、下四九、六日、十八日、廿四、廿九、〉此日不服藥

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0997 養和二年〈○壽永元年〉正月一日壬申、例講、師忠云、律師 依喪家之内( ○○○○○○) 、不鏡、 不藥( ○○○) 、依長元元年經賴記也、

食禁

〔律疏〕

〈職制〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0997 凡造御膳、誤犯食禁者、典膳徒三年、〈謂造御膳者皆依食經、經有禁忌、不輙造、若乾脯不黍米中、莧菜不鼈肉之類、有犯者、典膳徒三年、〉

〔頓醫抄〕

〈五十養性諸篇〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0997 服藥禁第十一
凡藥ヲ服テハ、諸ノ滑物、及油物、冷物、酢物ヲ不食、 又云、蒜猪肉魚膾ヲ不食、 又云、産婦淹穢事ヲ忌ベシ、 又云、石榴ヲ不食、房室ヲ絶ヲ爲上、 又云、蘘荷ヲ不食、藥ノ勢ヲ損ズ、 又云、鹿肉不食、藥ヲ服スルニ不力、鹿ハ恒ニ毒ヲ解ク草ヲ食、以此故ニ、能諸藥ヲ制散ス、

〔傍廂〕

〈後篇上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0997 徂徠が病中
荻生茂卿が病中に、松岡玄逹成章といふくすしより、藥を贈る時の包紙に、調合進申芍藥湯、生姜一片煎如常、平生食物肝要事、唯許牛旁與大根とかきたり、おもしろき詩なり、初句と結句とを代ふれば、いづれの病、何の藥にも用ひらるべき詩なり、

〔春雨樓叢書〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0998 産家の禁食
産婦は、總て産前より産後を謹むべし、〈○中略〉貝原氏も、産後に藷蕷を食はする事を忌むと云、余試るに、果して血を崩して死を致す、是れに因て考るに、藷蕷は本と山生の物にて、何ほどの堅き土の底までも深く入りて、每年新根を生じ、舊根は朽るも、百年を經て枯盡る事なし、其蔓も數丈を引て、水旱の難をいとはず、是れ本より性氣強き草故なり、是れを以て、山藥とて、癆瘵等の補益の效あり、其性氣強き者を、弱き腹中に食すれば、益なふして返て損する事しかり、其味淡く軟虚なるを以て與ふ、本が性分強き效ありて、返て血崩する理を考ふる人なし、必しも多く與ふる事なかれ、又朝鮮の婦人、長崎に來て産す、即椎菌三斤を請ふ、是を日々産婦に與ふ、朝鮮の國風皆しかりと云、本國に在て、自由なれば、尚又五斤も與へたしと云、余嘗て云く、凡菌類は濕熱裏蒸して、無形より有形の物となる、故に濕物にて、病家尤忌むべき者なり、余隅州の霧島山に行て、椎の木を切て、菌を作る所に至て見るに、男女老弱の別なく、皆黴瘡を患ふ、皆傳染にあらず、山氣にて、自然に發すと云、山氣もあれども、朝夕の食物に、此菌を食す、是れ内に濕氣を貯ふ故に、此瘡を生ず、此山民に、其故を尋るに、菌の故にあらずと云、其朝鮮の婦人、此濕物を、産後に數斤を服するは、皆後患になるべし、越後の鱅の如し、是等は理外にて、理を以て論ずべからず、只土風のしからしむるは、敎への及ぶ所にあらず、其毒に中りて死す、其毒に非ず、天命とす、肥前の島原の人、一日に三度河豚を食す、一度食せざれば、勢氣大に減じたりと云、しかれども此等は其毒を爲して、後患となる事は希なり、都下の人の如きは、日々過食して、日に疾病となる、天年の數を縮る事をしらず、此 人に限て、無益に日を送る、酒中の仙と云人には至らずとも、酒德を樂で、酒毒に苦しめらるゝ事なかれ、

藥料

〔後奈良院宸記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0999 天文四年十月十三日辛丑、氏直御脈參、聊得減、〈 藥代給之( ○○○○) 〉

〔漫遊雜記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0999 余〈○永富鳳介〉嘗問山東洋曰、吾事君三年、技不進何故、山子曰、吾子須多讀古書、與古人晤言、以蕩除胸間之汚穢、余當時汎然聞之、未甚得其意、爾後十餘年周游海内、以試斯技、始知榮辱悲歡之心妨診候處療之機、因意先輩任誕橫逸、不世紛者、蓋有故、今録其三四焉、中古有隱士德本者、甲斐人也、常驅使峻劇之藥、未嘗誤一レ人、頸掛一囊流諸州、應病者藥、取價 每貼十八錢( ○○○○○) 、台廟〈○德川秀忠〉有病、徴治得痊、乃亦乞定價於政府而去、

〔明良洪範〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0999 渡邊大隅守、江戸町奉行ノ時、醫師ト、ライ病人ノ論有、醫師云ニハ、金五兩ニテ、ライ病ノ療治ヲ請合テ直シ候ヘドモ、未ダ金子渡シ申サズト、ライ病人云ニハ、金五兩ニテ療治ハ賴ミ候ヘドモ、全快ノ上、金子渡スベキ約定ニ候、然ニ、ヨキ方ニハ相成候ヘドモ、未ダ全快ハ仕ラズ候ニ付、金子渡シ申サズト云、大隅守、其者ノ面體ヲ見ラルヽニ、腐レ爛レテハ有ラザレド、中々全快トハ見ヘザレバ、其方、未ダ全快ハ仕ラズトイヘド、醫者申ニハ、直シタリト云、然ラバ約定通リ、金子相渡スベシト云、ライ病人答テ、醫師直シタリト申トモ、又全快仕候ニモセヨ、久々病氣ニテ、家業モ相休ミ居リ候ヘバ、只今、至テ困窮仕リ居リ候ニ付、金子ノ儀ハ、中々デキ申サズ候ト云、大隅守、久々煩ヒ、家業相休、困窮ニ及ビ、金子デキズト云ハ、至極尤ナレド、約定ノ事ナレバ、渡サザル時ハ、僞リニ成リ候ニ付、相濟ズ候間、其方、奉公住ミ致シ、其給金ヲ以、醫師ノ藥禮追々ニ成トモ皆濟セ申ベシト云、ライ病人答テ、カ樣ナ病有ル者、誰カ抱ヘ申サント云、大隅守、醫師ニ向テ、其方此者ノ惡病ヲ直シ候ト申カラハ、金子ヲ受取ラズハ、承知ハスベカラジ、サレド困窮ニ及ビ、金子デキズト申ケレバ、其方、此者ノ請人ニ立、何方ヘ成リトモ、奉公ニ遣ハシ、其給金ヲ藥禮ノ代リニ、追 追ニ、其方受取申ベシト云、醫師答テ、カヽル穢ハ敷面體ノ者、召仕フ人、何方ニモ有ベカラジト云、此時大隅守、醫師ヲハツタト白眼テ、其方、最初ハ、ライ病ヲ直シタリト云ヒ、今又カヽル穢ハ敷面體ト云事、其意ヲ得ズ、直セシ者ナラバ、ケガラハ敷ハ見ヘザルベシ、ケガラハ敷見ユレバ、直セシニハ有ラザルベシ、其方心底ハ、病人、追々困窮ニ成ルヲ見テ、早ク金子ヲ取テ仕舞ント思ヒ、未ダ直シキラザルニ、直シタリトシテ、金子ヲ取ント思ヒシヨリ、カク奉行所ヘ訴ヘ出シナルベシ、醫師ヲ業トシナガラ醫師ノ本意ニ違ヘル不屆者メ、強ヒテ申立ルニ於テハ、急度申付方有ルゾト叱リテ、名主五人組ヘ預ケ歸サレケル、

養生

〔拾芥抄〕

〈下末養生〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1000 養生方
久行傷筋 久立傷節 久聽傷聰 久視傷目 久語http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000012007.gif 氣 大驚傷魂 高枕勿唾 〈大小便時勿曜宿
正勿西 正勿北 臥勿燈明衣勿汗 冬可聰 亦可足 〈春與秋則首足倶凍〉 〈好勿精觸若女膚
晨勿歌嘯 眠勿大語 臥勿頭 臥勿口 夜勿夢 夜行鳴齒 大便勿呼 少便勿
陰物 猪與http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000047902.gif 胎( ホンタイ) 鹿茸水銀 亦勿蕨 勿鼠殘 臥眠時不歌詠
〈凡旦起、恒言善事者、天自與福、冬凍聰温足、春秋首足倶凍、此聖人之常法也、〉

〔簾中抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1000 養生 かくふるまへば、病なく命ながし、
人は、いたくやすらかなるべからず、つねに物をすべし、またいたくくるしくは思ふべからず、いづれもあし、つねにかゞみをみよ、たゞしかたちをあひすべからず、あつきをりにありきをして水にむかふべからず、おほきにあせにあへたらば、身にはうにをぬるべし、あせにぬれたらんきぬをばとくきかへよ、あしにあせあへたらば、水になさしいれそ、冬はあしをあたゝかにして、かしらをすゞしくすべし、春秋はかしらもともにすゞしくすべし、

〔醫心方〕

〈二十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1000 大體第一
千金方云、夫養生也者、欲使習以性成成自爲善、不習無利也、性既自善、内外百病皆悉不生、禍亂災害亦無作、此其養生之大經也、蓋養性者、時則治病之病其義也、故養性者不但餌藥喰一レ霞、其在於百行、百行周備、雖藥餌以遐年、德行不充、縱玉酒金丹未壽、故老子曰、善攝生者、陸行不虎兕、此則道德之祐也、豈假服餌而祈遐年哉、 文子云、太上養神、其次養形、神淸意平、百節皆寧養生之本也、肥肌膚充、腹傷開嗜欲養生之末也、

〔醫心方〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1001 服藥節度第三〈○中略〉
養生要集云、張仲景曰、人體平和、唯好自 將養勿妄服一レ藥( ○○○○○○) 、藥勢偏有助、則令人藏氣不一レ平、易外患、唯斷穀者可恒將一レ藥耳、

〔政事要略〕

〈九十五至要雜事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1001 隨身要驗方〈件方本朝所抄也、七卷云々、〉
思邈論曰、人年卌以上、勿寫藥、恒用補藥、 敬佛道諸王天上之主治十或百、或不十惡、此即永无萬病、〈出耆婆〉 凡人无事无一レ事、恒須日別一度、遣人踏背及四支頭頂、若令熱蹋風氣、時行不人、此大要妙不具論

〔延壽撮要〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1001 上古の人は無爲無事にして、自然に養生の道に合す、中古にいたりて人の智慧盛にして、善惡をわかち名利を專とし、衣服をかざり、酒色をこのみ、形神を勞す、故に天年をつくさずしてはやくほろぶ、黄帝の時さへかくのごとし、いはんや今の世をや、道に入といひて、あながち山林に入、世を離るのみにあらず、朝夕世俗にまじはりても、言行さへ道にかなひぬれば、すなはち道に入人なり、少壯の時より常に道をきかば、いかでか道にいたらざらむ、しかるに養生の道、ひろく云ば千言萬句、約していゑば惟これ三事のみ、養神氣、遠色慾、節飮食也、此事易簡なれども人これをきかず、もし聞人あれども其身に行ふことなし、少壯の時血氣盛實なるゆへに、酒色を恣にし身心を勞しても、たち所に病にいたらざるによて、壽算の損減するをしらず、中年の後漸お ぼえて命をのべん事を求む、日暮て道をいそぐにことならず、人の壽をいふに、天元六十、地元六十、人元六十、三六百八十年の壽を生れ得るといへども、攝養道にたがひぬれば、日々月々に損減して夭枉をいたす、精氣かたからざるものは天元の壽減ず、起居時あらず喜怒常ならざる者は地元の壽減ず、飮食節あらざる者は人元の壽減ず、故に保養の道少より壯にいたり、壯より老にいたるまでかくべからず、聖人治未亂而不已亂、治未病而不已病云々、既に病となりて後は、よく醫療すといへども、全くいゆる事かたし、未病の時治療するを養生者といふべし、孫眞人云、人年四十以後、美藥當於身云々、誠に中年の後は、氣血をやしなふ藥常にもちふべし、但平補の藥食を用べし、峻補を用ふべからず、又強て補藥をこのむべからず、藥は邪をせめ、かたぶく所を平にする者也、生れづかざる氣力を藥にて生ずる事、風なきに波を起すなるべし、洞神眞經曰、養生以不損延年之術云々、補陽の劑を過し用れば、眞陰耗減して、瘡瘍淋湯の疾生ず、補陰の劑を過し用れば、胃の氣虚冷して飮食消しがたく、大小便たもちがかし、又衆病積聚起於虚云々、中下焦虚するによて、心腹滿悶する事あり、しかるに虫を殺し積を消す事、藥お用て重て中氣を耗損す、又すこし風寒の邪に感じて、發散の藥お服する事度々に及べば、腠理空疎にして、自汗盜汗出て、外邪いよ〳〵入やすし、又をもく邪に感ぜば、皮膚にある時はやく藥を服して汗を發すべきに、其時怠て病骨髓に入て後藥を求む、十に一も愈事なし、扁鵲桓公の故事思あはすべし、只邪の輕重をわかたん事を要とす、

〔貝原養生訓〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1002 養生の術は、先己が身をそこなふ物を去べし、身をそこなふ物は、内慾と外邪となり、内慾とは、飮食の慾、好色の慾、睡の慾、言語をほしゐまゝにするの慾と、喜怒憂思悲恐驚の七情の慾を云、外邪とは、天の四氣なり、風寒暑濕を云、内慾をこらゑてすくなくし、外邪をおそれてふせぐ、是を以元氣をそこなはず、病なくして、天年を永くたもつべし、

〔夜船閑話〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1003 或人曰く、城の白河の山裏に、巖居せる者あり、世人是を名けて白幽先生と云ふ、〈○中略〉予則ち禮を盡して、苦ろに病因を告げ、且ツ救ひを請ふ、少焉幽眼を開ひて熟々視て、徐々として告げて曰く、〈○中略〉夫觀は無觀を以て正觀とす、多觀の者を邪觀とす、向きに公多觀を以て、此重症を見る、今是を救ふに無觀を以てす、また可ならずや、公若し心炎意火を收めて、丹田及び足心の間におかば、胸膈自然に淸凉にして、一點の計較思想なく、一滴の識浪情波なけん、是眞觀淸淨觀なり、云ふ事なかれ、しばらく禪觀をhttp://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000019940.gif 下せんと、佛の言はく、心を足心におさめて、能く百一の病を治すと、阿含に酥を用るの法あり、心の勞疲を救ふ事尤妙なり、天台の摩訶止觀に、病因を論ずる事甚だ盡せり、治法を説く事も、亦甚だ精密なり、十二種の息あり、よく衆病を治す、臍輪を縁して豆子を見るの法あり、其大意心火を降下して、丹田及び足心に收るを以て至要とす、但病を治するのみにあらず、大ひに禪觀を助すく、蓋し繫縁締眞の二止あり、締眞は實相の圓觀、繫縁は心氣を臍輪氣海丹田の間に收め守るを以て第一とす、行者是を用るに大ひに利あり、古しへ永平の開祖師大宋に入て、如淨を天童に拜す、師一日密室に入て益を請ふ、淨曰く元子坐禪の時き、心を左の掌の上におくべしと、是即ち顗師の謂ゆる繫縁止の大略なり、顗師初め此の繫縁内觀の秘訣を敎へて、其家兄鎭愼が重痾を萬死の中に助け救ひたまふ事は、精しくは小止觀の中に説けり、また白雲和尚曰く、我つねに心をして腔子の中に充たしむ、徒を匡し衆を領し、賓を接し、機に應じ、及び小參普説七縱八橫の間において、是を用ひてつくる事なし、老來殊に利益多き事を覺ふと、寔に貴ぶべし、是蓋し素問にみゆる、恬澹虚無なれば、眞氣是にしたがふ、精神内に守らば、病何れより來らむといふ語に本づき給ふ者ならむか、且ツ夫内に守るの要、元氣をして一身の中に充塞せしめ、三百六十の骨節、八萬四千の毛竅、一毫髮ばかりも欠缺の處なからしめん事を要す、これ生を養ふ至要なる事を知るべし、彭祖が曰く、和神導氣の法、當さに深く密室を鎖ざし、牀 を案じ、席を煖め、枕の高かさ二寸半、正身偃臥し瞑目して、心氣を胸膈の中に閉ざし、鴻毛を以て鼻上につけて、動かざる事三百息を經て、耳聞處なく、目見る處なく、斯の如くなる則は、寒暑も侵かす事能はず、蜂蠆も毒する事能はず、壽き三百六十歳、是眞人に近かしと、又蘇内翰が曰く、已に飢へて、方に食し、未だ飽ずして先止む、散歩逍遙して務めて腹をして空からしめ、腹の空なる時に當て、即ち靜室に入り、端坐默然して出入の息を數へよ、一息よりかぞへて十に到り、十より數へて百に至り、百http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000069681.gif 數へ放ち、去て千に至りて、此身兀然として、此心寂然たる事、虚空と等し、斯のごとくなる事久ふして一息おのづから止まる、出でず入らざる時、此息八萬四千の毛竅の中より雲蒸し、霧起るが如く、無始刧來の諸病自ら除き、諸障自然に除滅する事を明悟せん、譬へば盲人の忽然として眼を開くが如けん、此時人に尋ねて、路頭を指す事を用ひず、只要す、尋常言語を省略して、爾ぢの元氣を長養せん事を、是故に云ふ、目力を養ふ者は常に瞑し、耳根を養ふ者は常に飽き、心氣を養ふ者は常に默すと、予が曰く、酥を用るの法得て聞ひつべしや、幽が曰く、行者定中四大調和せず、身心ともに勞疲する事を覺せば、心を起して應さに此想を成すべし、譬へば色香淸淨の輭蘇鴨卵の大ひさの如くなる者、頂上に頓在せんに、其氣味微妙にして、遍く頭顱の間をうるをし、浸々として潤下し來て、兩肩及び雙臂兩乳胸膈の間、肺肝腸胃脊梁臀骨次第に沾注し、將ち去る、此時に當て胸中の五積六聚疝癖、塊痛、心に隨て降下する事、水の下につくがごとく、瀝々として聲あり、遍身を周流し、雙脚を温潤し、足心に至て即ち止む、行者再び應さに此觀を成すべし、彼の浸々として潤下する所の餘流積もり湛へて暖め蘸す事、恰も世の良醫の種々妙香の藥物を集め、是を煎湯して浴盤の中に盛り湛へて、我が臍輪已下を漬け蘸すが如し、此觀をなすとき、唯心所現の故に鼻根乍ち希有の香氣を聞き、身根俄かに妙好の輭觸を受く、身心調適なる事、二三十歳の時には遙かに勝れり、此時に當て積聚を消融し、腸胃を調和し、覺へず肌膚光澤 を生ず、若し其勤めて怠らずんば、何れの病か治せざらむ、何れの德かつまざらん、何れの仙か成せざる、何れの道か成せざる、其功驗の遲速は、行人の進修の精麁によるらくのみ、〈○下略〉

〔格物餘話〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1005 古人之用藥治病、惟用一藥、或用二三味、品數不多、故治病專一有功、病去則捨藥不用、唯穀肉菜果保養之而已矣、是於攝生之理宜、夫藥物皆是偏勝之氣、雖參茋朮甘、無病則不用、況其餘麁糲剛烈之物乎、後世用藥品數多、每至十五六味、攻補兼用、寒温雜施、故藥力不專、治病少效、少效則用藥日久、其偏勝之氣積久、而傷胃氣少、不藥之爲一レ勝也、

〔政事要略〕

〈九十五至要雜事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1005 服藥駐老驗記〈善家異記〉
竹田千繼者、山城國愛宕郡人也、寶龜初歳、十七入典藥醫生、讀本草經于枸杞駐老延齡之文、深以誦憶、將其徴驗、乃買地二段多種此藥、春夏服其藥、秋冬食其根、又常煮莖根汁釀酒而飮之、每有沐浴必用其水、如此七十餘年、未嘗懈倦、顏色服壯、猶如少年、齊衡二年、文德天皇忽患疲羸、衆醫供石決明酒、時侍臣或奏千繼服枸杞老之状、天皇大駭、即時召見、問云、汝生年幾許、千繼奏云、天平寶字九年歳次庚子生、至今年九十七天皇大恠、令侍臣驗視其形、鬢髮黑、肌膚肥澤、耳目聰明、齒牙无蠧、天皇感服擢爲典藥允、即勅藥園多種枸杞、令千繼掌一レ事、〈○中略〉
寬平年中、有外從五位下春海貞吉、舊是唐儛師也、次爲雅樂助、遂預五品、屢到余舍話中懷、底裏披露無隱、時余年四十有五、白髮滿頭、貞吉深有助憂之色、語曰、何不枸杞、招此衰羸、余答云、枸杞駐老之驗具在醫方、然而丘未逹、不敢嘗一レ之、乞略陳其方、貞吉答云、僕昔者年廿六、大同元年以由基所風俗儛勞左近衞、其後依醫人語植枸杞方一町之地、無他種、水漿食飮必合此藥、盟洗沐浴常用其水、故今年一百十六歳、猶有少容、亦説其養生之法、事多不載、貞吉寬平九年夏訪問親知疫病染注、俄卒、時年百十九、又致仕大納言藤原冬緖、服 露蜂房( ○○○) 兼呑槐子、年過八十頭髮無白、不房室、寬平二年薨、時年八十四、近代有宮内卿十世王、二品長野親王之男也、臨老無齒不蕗菜、唯以漿飮 送乾石決明屑、氣色服壯鬢髮無白、延喜十六年夏薨、時年八十五、東宮學士大藏善行、舊是國子進士也、仕歴顯職、爵至四品、常服鐘乳丸、一日一丸、年滿九十猶有壯容、耳目聰明、行歩輕健、家蓄多婦房室、年八十有七、生一男兒

〔續日本後紀〕

〈二十仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1006 嘉祥三年三月癸卯、帝〈○仁明〉從少小聖體尫羸、然而負http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000057161.gif 之年既登十八、仙齡之算亦踰四十諸中古慙德、蓋由善行仁( ○○○○) 、 服食( ○○) 、 補養之力( ○○○○) 者歟、

〔先哲叢談後編〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1006 江村專齋〈○中略〉
專齋自少壯務爲修養、齒過九十、視聽不衰、無少壯時矣、後水尾上皇聞之、召見問修養之術、專齋奏曰、臣固無他術、平生唯 持一些字耳( ○○○○○) 、上皇問故、曰喫食些、思慮些、養生亦些耳、上皇大感賞之

〔紫芝園漫筆〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1006 徂徠先生甚重生、自飮食居處以至出入動止、賓客應接之事、苟可以傷一レ生者斷弗爲也、然其所以病死者、乃以 思慮過度( ○○○○) 也、蓋先生有于功名、自少以著述事、年過六十、舊痾數發、而猶不淸心靜養、遂致篤疾而死、謝在杭云、思慮之害人、甚酒色誠矣、

〔紫芝園漫筆〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1006 余〈○太宰春臺〉平日、於都下故、與俗人惡客對坐終日、或侍坐於諸侯貴人半日、則小腹痛引陰囊道利、歸宿乃已、蓋氣病也、及秩父履山川旬有五日、日行五六十里、至一百里勞矣、然微恙不作、身體康健、有於常、氣和也、是知 人之氣不一レ鬱( ○○○○○○) 、而體以運動和( ○○○○○) 也、世之逸居者、宜乎善病、古人謂、宴安http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000r10061.gif 毒誠哉、

看病

〔萬葉集〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1006 太宰大監大伴宿禰百代等贈驛使歌〈○中略〉
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000016291.gif 天平二年庚午夏六月、帥大伴卿忽生瘡脚疾、苦枕席、因此馳驛上奏、望請、庶弟稻公、姪胡麻呂欲遺言者、勅右兵庫助大伴宿禰稻公、治部少丞大伴宿禰胡麻呂、兩人給驛發遣、 令卿病( ○○○○) 、而http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000038832.gif 數旬幸得平復、于時稻公等以病既療、發府上京、於是大監大伴宿禰百代、少典山口忌寸若麻呂、及卿男家持等相送驛使、共到夷守驛家、聊飮悲別、乃作此歌、〈○歌略〉

〔續日本紀〕

〈十二聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1007 天平九年十二月丙寅、是日、皇太夫人藤原氏〈○聖武生母宮子娘〉就皇后宮〈○宮子娘妹安宿娘〉見僧正玄昉法師、天皇亦幸皇后宮、皇太夫人爲幽憂久廢人事、自天皇曾相見、法師一看、惠然開晤、至是適與天皇相見、天下莫慶賀

〔大日本史〕

〈七十六后妃〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1007 文武藤原皇后、諱宮子娘、〈○中略〉生聖武帝、〈○中略〉聖武帝即位、尊曰皇太夫人、〈○中略〉九年〈○天平〉十二月、皇太夫人就皇后宮、見僧玄昉、聖武帝亦造焉、皇太夫人誕帝之後、久不玄昉相見、沈憂廢事、是日一見、惠然開晤、適與帝相見、天下莫慶賀
○按ズルニ、續日本紀ノ舊點ニ、自天皇、未嘗相見法師、一看惠然開晤トアルヨリ、大日本史ハ是ニ據リテ右ノ如ク記セリ、サレドコハ誤ニシテ一看ハ看病ノ事ナリ、

〔釋氏要覽〕

〈下瞻病〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1007 瞻病制〈僧祇律云、有比丘久病、佛因按行見、躬與阿難爲洗身及衣臥具訖、又爲説法、佛問、汝曾看病否、答不曾、佛言、汝既不看、誰當汝、乃制戒自今後應病〉〈比丘、若欲養我、應養病人、〉

〔續日本紀〕

〈十九孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1007 天平勝寶八歳五月丙子、勅、禪師法榮、立性潔、持戒第一、甚能 看病( ○○) 、由此請於邊地、令醫藥、太上天皇得驗多數、信重過人、不他醫、爾其閲水難留、鸞輿晏駕、 丁丑、勅、奉爲先帝陛下請 看病( ○○) 禪師一百二十六人者、宜當戸課役

〔日本後紀〕

〈二十二嵯峨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1007 弘仁三年四月癸卯、勅僧尼之制、事明令條、男女之別、非禮法、〈○中略〉其病者可寺治疾、及請僧看病者、經僧綱若講師、聽其處分

〔天台南山無動寺建立和尚傳〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1007 文德天皇天安二年、西三條女御嬰重病、殆及死門、右大臣頻馳書信、丁寧被和尚、慈覺大師曰、八福田中、看病第一、結縁之内、師檀尤深、件閤下身代令度上人一深、憑祈念之力、當此急難、稱本願、不彼請、一違利生之意、一背知恩之旨、早可參下矣、大師命雖一十二年、參於彼殿、山々寺々名僧、有智有驗僧綱凡僧、滿堂溢席、側肩促膝、和尚不衣裳、只著麁布、皆見裝儀之麁簡、各懷下劣之思惟、和尚謙下不殿中、遙坐廂簷而誦呪、未幾呪縛其靈、彼此雷同、未誰驗、 暫而擲出、自几帳上度於衆人之中、如飛到於和尚之前、躄踊昇降、高聲叫喚和尚、宜行可本處、亦如飛還於帳裏、數刻之後、其聲漸下、所著靈氣陳屈伏之詞、種々雜語、不勝計、大臣感激歡喜云、我師斯在、豈有何思哉、滿堂緇素瞿然皆瞻和尚、是則顯驗之最初也、

〔今昔物語〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1008 伊勢國飯高郡老嫗往生語第五十一
今昔、伊勢ノ國飯高ノ郡ノ鄕ニ一人ノ老タル嫗有ケリ、〈○中略〉此ノ嫗忽ニ身ニ病ヲ受ケ日來惱ミ煩ヒケル間、子孫ヲ初メトシテ、家ノ從者等皆此ヲ歎テ、飮食勸メ病ヲ扶ケント爲ルニ、嫗俄ニ起居ヌ、本著タリツル所ノ衣ハ自然ラ脱落ヌ、看病ノ者此レヲ恠ムデ見レバ、嫗右ノ手ニ一葉ノ蓮花ヲ持タリ、葩ノ廣サ七八寸許ニシテ、光リ鮮ヤカニ、色微妙クシテ香馥バシキ事无限シ、更ニ此ノ世ノ花ト不見エズ、看病ノ輩此レヲ見テ奇異也ト思テ、病者ニ問テ云ク、其ノ持給ヘル花ハ何コニ有ツル花ゾ、亦誰人ノ持來テ與ヘタルゾト、病者答テ云ク、此ノ花ハ輙ク人持來テ得サスル花ニモ非ズ、只我レヲ迎フル人ノ持來テ與ヘタル也ト、此レヲ聞ク看病ノ輩奇異也ト思テ貴ブ間、病者居乍ラ失ニケリ、

〔沙石集〕

〈四下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1008 上人之女父之看病事
坂東ノ或山寺ノ別當、學生ニテ上人ナリケレバ、弟子門徒オホカリケレドモ、年タケテ後中風シテ病ノ床ニ臥シテ、身ハ合期セズナガラ、命ハナガラヘテ、年月ヲフルマヽニ、弟子共看病シツカレテ、イトコマヤカナラザルニ、イヅクヨリトモナク、女人一人出デ來、御看病申サン事イカニトイヘバ、弟子共シカルベシトテユルシツ、エモイハズネンゴロニ看病シケリ、イカナル人ゾト問ヘドモ、マドヒ者ニテ侍リ、人ニシラレマイラスベキ者ニテアラズトイフ、アマリニアリガタク看病シ、月日モ歴ニケレバ、コノ病人申ケルハ、佛法世法ノ恩ヲカブレル、弟子ダニモ打ステヽ侍ニ、コレホドネンゴロニオハスル事、シカルベキ先世ノ契ニコソトマデ、アマリニアリガタク思 給ニ、イタクカクシ給コソイブセケレ、ソモ〳〵何ナル人ニテ御坐ルゾト、アナガチニ問ケレバ、誠ニ今ハ申侍ラン、コレハソノカミ思ガケヌ縁ニアハセ給テ、思ノ外ナル御事ノ候ケル某ト申者ノムスメニテ侍ナリ、ソレニハカクトモ知セ給ハネドモ、母ニテ侍シモノヽ、ナンヂハカヽル事ニテト、ツゲシラセテ後ハ、心バカリハ御女ト思ツヽ、アハレ見モマイラセ見ヘモマイラセバヤト、年來思ナガラ、カヽル御身ニハ、ヨロヅハヾカリ有テ、ムナシク年月ヲ、ヲクリ侍リツルニ、此御病ニ、御看病ノ人モツカレテ、コトカケタルヨシ、ツタヘ承テ、御孝養ニ心ヤスクアツカヒマイラセント、思タチテナン、マイリテ候ト、ナク〳〵カタリケレバ、マメヤカニ、志ノ程哀ニ覺テ、涙モカキアヘズ、シカルベキ親子ノチギリコソ哀ナレトテ、タガヒニナツカシク、ヘダテナキ事ニテ、ツイニ最後マデ看病シ、心ヤスクシテヲハリニケリ、至孝ノ志コソアリガタクオボヘ侍レ、

〔新猿樂記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1009 九御方夫、右近衞醫師和氣明治也、毒藥之道分別、術方之計無極、 看病療疾( ○○○○) 之佛也、遺針灸治之神也、知六腑五臟之胗脈、探四百四病之根源、順方治病、任術療疾、擣簁合藥搗抺http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000079457.gif 咀之上手也、

〔細川家記〕

〈十三忠興〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1009 同〈○慶長九年〉夏ニ至御積痛〈○忠興〉差重リ、御大切に御煩ニ付、忠利君を御家督に被成度旨、御願之通被仰候、自是先、御介病として、忠利君御暇賜リ、豐前ヘ御下向被成候、

〔德川禁令考〕

〈十九疾病忌服〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1009 享保二壬戌年七月廿九日
看病斷ノ儀ニ付逹
看病斷之儀、父母妻子之外ハ、斷不相立候、乍然兄弟姉妹伯叔父母、其外近續之者、難見放體ニ而、外に可看病者も無之族は、其節相逹候上之儀たるべく候、
右之趣、寄々可相逹置候、

〔天保集成絲綸録〕

〈七十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1009 寬政四子年七月
大目付〈江〉
疱瘡麻疹水痘病人、 看病人( ○○○) 、若君樣御座所〈江〉不罷出所、
一疱瘡病人は、見へ候日より三十五日過候はゞ、肥立次第罷出可相勤候、
一麻疹水痘病人は、三番湯掛り候はゞ、御番等可相勤候、
一疱瘡麻疹水痘之看病人は、三番湯掛り候はゞ、罷出御番等可相勤候、
但病家棟隔看病不致候はゞ不遠慮、同棟之者看病不致候とも遠慮可仕候、〈○中略〉
右之通、向々〈江〉可逹候、
七月

〔諸例類纂〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1010 文化二丑年
一筆啓上仕候、私曾祖父兵庫頭義、去月中旬http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000069681.gif 持病之痰積發、其上時候相障、折々差塞、食事等通兼候旨、追々申越候、老年之義にも御座候間、甚無覺束存候、可相成義御座候はゞ、出府仕、濱町下屋敷へ罷越、 看病( ○○) 仕、療養手當等申付度奉願候、可然樣被御差圖下候、依之捧愚札候、恐惶謹言、十一月廿一日 大岡主膳正〈書判〉
戸采女正樣 牧備前守樣 土大炊頭樣 靑下野守樣〈參人々御中〉

〔病家須知〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1010 看病人の意得をとく〈○中略〉
第三等は、病勢既に進て、氣力衰耗、飮啖も減じ、坐臥に、人の扶を賴ものは、藥の力を待べきこと、固然なれども、看侍者の用意の可と否とにて、懸に隔のあることなり、醫者三分、看病七分と、諺には言習ども、看護をよく領知たる人は少にて、無には如ざるもの多、故如何となれば、食事にも與べき時あり、藥にも用べき度ありて、頻藥を服しめ、強て食を與ては、病者の腹力、それに耐がたく、藥も食も泥滯て、下降がたきが故に、皆適害とはなるとも、効あることはなきなり、〈○中略〉凡常に忍らるヽことも、病ありては、堪がたきものなれば、其氣候に應じ、病人の體に適やうにして、其側に在 看病人も、爽快ほどが、患者にも可ものなり、病人なればとて、頻温暖て、良ものと思は、愚昧なることなり、とかくに其平素に背たるは、必害あり、貴賤貧富、其分に從て、病者の處置は異とも、唯其身に習慣まゝなるを佳とす、近屬或僻邑にて、丐嫗の、痘兒の灌膿の旹なるを負て、村里に食を乞たるを、一富豪之を視て、憐愍なることに思ひ、竈厦の旁に、子舍のありしに入しめて、飯など與、醫を招て藥を服しめ、痘の收までは、此に居てとらせんとて、懇切なるを、丐嫗も、嬉てありしに、其夜中に、さしも盛に膿たる痘、忽に沒て、苦悶に驚躁、醫を乞て診せしむれば、此醫師、やゝ儇利たるものにやありけん、是は全寒風霜雪をも避ず、慣きたりしものが、卒に室中にて、鬱閉たるが故に、如玆變證も發たるならん、試に露地へ出おきてみるべしといひて、夜中に、戸外へ藁莚を延て、乞子の母子を出し居、さて詰旦てみれば、豆瘡再快發し、膿も十分に灌て、それより微の惱もなく收靨たりと聞り、是其常に背て、初の變證も發たるなれば、これらのことにても、病あればとて、蒼卒に其素習に異なるは、宜からぬ理をも推知すべし、

醫書

〔本朝書籍目録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1011 醫書
大同類聚方百卷〈安部眞直、出雲廣貞等奉勅撰、〉 撰攝養決廿卷〈物部廣貞撰〉 金蘭方五十卷〈菅原峯嗣奉勅與諸名醫撰〉 掌中方一卷〈輔仁撰〉 醫心方卅卷〈丹波雅忠撰、或康賴撰、〉 倭名本草〈大醫博士深輔仁奉勅撰〉 難經開委一卷〈廣貞撰〉 集注大素卅卷〈小野藏根撰〉 養生抄七卷〈輔仁撰〉 養生秘抄一卷

〔本朝醫考〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1011 本朝醫書目録
治瘡記 一卷 大村直福撰
攝養要決 二十卷 物部廣泉撰
金蘭方 五十卷 菅原岑嗣撰
藥經 和氣廣世撰
醫心方 三十卷 丹波康賴撰
集註大素經 三十卷 小野藏根撰
大同類聚方 百卷 〈安倍眞直出雲廣貞〉撰
難經開委 一卷 出雲廣貞撰
養生鈔 七卷 源輔仁撰
掌中方 一卷 同 撰
倭名本草 同 撰
萬安方 梶原性全撰
頓醫法 十卷 同 撰
靈蘭集 細川勝元撰
愚按、右端之書册、今纔存二三部、嗚呼惜哉、聊擧其名於玆、以備他日考索之便耳、

〔撮壤集〕

〈下醫書〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1012 醫經類
素問經 大素經 難經 明堂經〈以上四部〉 銅人經 資生經 華佗臟經 醫説 千金方 千金翼方 千金要方 外臺方 聖惠方 風科集驗方 和劑方 蘇沈良方 三因方 御藥院方 肘後方 經驗方 靈苑方 聖濟總録 選歌方 萬金方 醫學全書 簡易方 易簡方 〈新刊〉同方 易簡糾繆方 醫方集成方 婦人大全良方 百一方 錢氏小兒方 得効方 頓醫抄 醫心方 傳濟方

〔日本國見在書目録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1012 醫方家〈千三百九卷 醫針 合藥 私略之 仙方〉
黄帝素問十六〈金元起注〉 素問音訓并音義五 素問改錯二 素女問十 黄帝甲乙經十二〈玄晏先生撰〉 甲乙注四 甲乙義宗十 甲乙經私記二 黄帝八十一難經九〈揚玄操撰〉 八十 一難音義一〈同撰〉 大淸經十二〈玄超撰〉 大淸二〈上下〉 大淸諸草木方集要一 大淸神丹經上篇一 大淸神丹經一 大淸金腋丹經一 藥薗三〈甄立玄撰〉 藥辨決一 藥方草本八十卷 藥石一 仙藥方一 仙藥合方一 神仙服藥食方經一 五岳仙藥方一 五岳芝藥方一 神藥方一 雜藥方一 神仙新藥方一 神仙入山服藥方一 桐君藥録二 平昌丸方面口雜藥方一 雜藥方〈中尉王榮撰〉 雜藥方一〈徐文伯撰〉 雜藥方一〈姚大夫撰〉
雜單藥方一 採藥圖二 雜藥論一 雜藥方十八卷 雜藥圖二 新撰方一 神仙服藥經一 老子神仙服藥經一 雜藥四 印法一 方集廿九〈尺僧深撰〉 雜要酒方八作酒方一 五茄酒方一 要方十二 集驗方十二〈http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000006411.gif 僧垣撰〉 集驗方方決一 開元廣濟方五卷〈御製〉 葛氏肘後方十 葛氏肘後方三〈陶弘景撰〉 葛氏百方九 葛氏方九 胡洽方三 張仲景方九 通玄方十 通玄十 新録單要方五〈魏孝澄撰〉 鑒上人秘方一
徐太山隨平方一 張家方一 樣要方十 新修諸要太淸秘方十二 惟方四 老子孔子枕中雜方一 大淸治方八 千金方卅一〈孫思邈撰〉 千金方抄一 治http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022578.gif 疽方七
五金作方一 調氣道引方一 道引法圖一 新修大淸秘經方十二 石流丹方一
治婦人方三 諸香方一 雜丸方一 朱沙丸方一 腎氣丸方一 雜療一 神仙法方一 太一神丹精治方一 龍樹菩薩和香方一 經心録方六 延年秘録方四
練石方一 養性方一〈許先生撰〉 生髮膏方一 苟杞乾煎方一 治@ http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000017372.gif 渇方一 治馬病方一 治馬法六 治馬病書六 小品十二 耆婆茯苓散方一 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022578.gif 疽論一 黄帝服經決十二〈王升和新撰〉 耆婆脈決十二〈釋羅升注〉 脈經音一〈揚玄操撰〉 新修本草廿卷〈孔玄抱撰〉 神農本草七〈陶隱居撰〉 本草音七〈李君撰〉 雜注本草十〈蔣孝琬加注〉 本草圖廿七 新修本草音義一〈仁捐撰〉本草音義三〈甄立言撰〉 本草音義一〈殷子嚴撰〉 本草夾注音一〈陶隱居撰〉 本草注音一〈揚玄撰〉 注 本草表序一〈陶隱居撰〉 食療本草〈孟記撰〉 老子敎人服藥循常住仙經一 神仙芝草圖一卷
仙草圖五 芝草圖二〈上下〉 黄帝鍼經九 鍼經音一〈揚玄操撰〉 類聚方經百廿 黄帝内經明堂〈揚上善撰〉 明堂音義二〈揚玄操撰〉 食經三〈馬http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000059778.gif 撰〉 食經一〈同撰〉 食經四〈崔禹錫撰〉 新撰食經七食禁一 食注一〈御注〉 集驗十二〈http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000006411.gif 大夫撰〉 古今集驗五十〈甄立言撰〉 古今録驗五十 龍樹菩薩眼經一 脚氣論一〈周禮撰集〉 産經十二〈德貞常撰〉 産經圖三 黄帝針灸經一 黄帝三部灸經音義一〈李議忠撰〉 玉遺針經一〈甄立言撰〉 荊繁論十〈謝玄泰〉 劉http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000017372.gif 子十一〈龍慶宣撰〉 内經大素卅〈揚上撰〉 如意方十 攝養要決廿二 練皮煎一 病家雜書十九 丹決一 杏丹方一 徐文伯一 染蘇方法一 赤松子試一 八史術一 八素八〈董暹注〉 老子道精經一 五藏論一 病源論五十〈巢元方撰〉 素女經一 禁法九 靈奇奧秘術一〈陶隱居撰〉
龍樹菩薩印法一 龍樹菩薩馬鳴菩薩秘法一〈沙門菩提造〉 軒轅皇帝録集十二 鬼名一
三五禁法八 三五神禁治病圖一 八史神圖

〔隋書〕

〈三十四經籍〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1014 黄帝素問九卷〈梁八卷〉 黄帝甲乙經十卷〈音一卷、梁十二卷、〉 黄帝八十一難二卷〈梁有黄帝衆難經一卷呂博望注亡〉 黄帝鍼經九卷〈梁有黄帝鍼灸經十二卷、徐悅龍銜素鍼、并孔穴蝦蟇圖三卷、雜鍼經四卷、程天祚鍼經六卷、灸經五卷、曹氏灸方七卷、秦承祖偃側雜鍼灸經三卷、〉
徐叔嚮鍼灸要抄一卷 玉匱鍼經一卷 赤烏神鍼經一卷 岐伯經十卷 脈經十卷〈王叔和撰〉 脈經二卷〈梁脈經十四卷、又脈生死要訣二卷、又脈經六卷、黄公興撰脈經六卷、秦承祖撰脈經十卷、康普思撰、亡、〉 黄帝流注脈經一卷〈梁有明堂流注六卷、亡、〉 明堂孔穴五卷〈梁明堂孔穴二卷、新撰鍼灸穴一卷、亡、〉 明堂孔穴圖三卷 明堂孔穴圖三卷〈梁有偃側圖八卷、又偃側圖二卷、〉 神農本草八卷〈梁有神農本草五卷、神農本草屬物二卷、神農明堂圖一卷、蔡邕本草七卷、華佗弟子呉普本草六卷、陶隱居本草十卷、隋費本草九卷、秦承祖本草六卷、王季璞本草經三卷、李http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000036001.gif 之本草經談、道術本草經鈔各一卷、宋大將軍參軍徐叔嚮本草病源合藥要鈔五卷、徐叔嚮等四家體療雜病本草要鈔十卷、王末鈔小兒用藥本草二卷、甘濬之http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022578.gif 疽耳眼本草要鈔九卷、陶弘景本草經集注七卷、趙賛本草經一卷、本草經輕行、本草經利用各一卷、亡、○中略〉 神農本草經三卷 本草經四卷〈蔡英撰〉 藥目要用二卷 本草經略一卷 本草二卷〈徐大山撰〉 本草經類用三卷 本草音義三卷〈姚最撰〉 本草音義七卷〈甄立言撰〉
本草集録二卷〈○中略〉 小品方十二卷〈陳延之撰○中略〉 扁鵲偃側鍼灸圖三卷 流注鍼經一卷 曹氏灸經一卷 偃側人經二卷〈秦承祖撰○中略〉 龍樹菩薩藥方四卷 西域諸仙所説藥方二十三卷〈目一卷、本〉〈二十五卷、〉 香山仙人藥方十卷 西録波羅仙人方三卷 西域名醫所集要方四卷〈本十二卷〉 波羅門諸仙藥方二十卷 婆羅門藥方五卷 耆婆所述仙人命論方二卷〈目一卷、本三卷、○中略〉 龍樹菩薩和香法二卷〈○下略〉

〔日本後紀〕

〈十七平城〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1015 大同三年五月甲申、先是詔衞門佐從五位下兼左大舍人助相摸介安倍朝臣眞直、外從五位下侍醫兼典藥助但馬權掾出雲連廣貞等、撰 大同類聚方( ○○○○○) 、其功既畢、乃於朝堂拜表曰、臣聞長桑妙術必須陽艾之治、太一秘結、猶資鍼石之療、莫不藥力逈助、拯殘魂於阽厄、醫方所鐘遺命於斷雖貫典墳心頤、猶復降懷醫家、汎觀攝生、乃詔右大臣侍醫出雲連廣貞等依出藥集其方、臣等奉宣修在尋詳、愚情所及靡敢漏、成一百卷、名曰大同類聚方、宜校始訖、謹以奉進、

〔續日本後紀〕

〈四仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1015 承和二年九月丁亥、丹波國人右近衞醫師外從五位下大村直福吉、及其同族并五人賜姓紀宿禰焉、武内宿禰之枝別也、福吉妙得療瘡之術、當時諸醫不間然、天皇〈○仁明〉寵愛至宅居、遂據其口訣 治瘡記( ○○○) 、

〔三代實録〕

〈十七淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1015 貞觀十二年三月三十日壬午、散位從五位上菅原朝臣峯嗣卒、峯嗣者、〈○中略〉嘗奉勅與諸名醫共撰定 金蘭方( ○○○) 、又針艾之所加多方注之外、後進之備至今稱妙焉、

〔一代要記〕

〈五圓融〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1015 天元五年壬申、針博士丹波宿禰康賴撰 醫心方( ○○○) 三十卷

〔醫心方〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1015醫心方
醫心方卅卷、每卷首題從五位下行鍼博士兼丹波介丹波宿禰康賴撰、謹按、臣等遠祖康賴撰進是書、實爲圓融帝永觀二年十一月廿八日、家牒所記與本書延慶舊抄册子本後記合可徴也、後在正親町 帝時、嘗出以賜典藥頭半井氏云、豈即遠祖所進之本歟、抑別有抄本也、意者秘府所藏、人間莫得而窺焉、加之保平以還、兵燹相踵、是書在若存若亡之間者、蓋數百有餘年矣、寬政初載先大君文恭公方表章遺文、命臣等曾祖臣元悳、使仁和王府所藏抄本謄寫儲之醫學、當時稱爲希覯、顧其爲書殘脱居半、學者仍憾不其全豹焉、恭惟、今大君、仁洽寰宇、孝存繼述、最深軫念醫藥、訪知今典藥頭半井氏有斯書全帙、乃命執政旨其家、俾致之醫學、使臣等得閲之、既而又命臣等使依原本摸刻、以布之海内、〈○中略〉安政元年十二月朔、侍醫尚藥醫學敎諭法印臣多紀元堅、侍醫醫學敎諭兼督務法眼臣多紀元昕頓首拜識、

〔醫略抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1016 夫病源之候、其流不一、療治之方、其趣旁http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000r10161.gif 〈○http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000r10161.gif 恐分〉諸家傳論、先賢撰集、漢家本朝、斯彙蓋多、或卷軸既繁、有披閲、或部http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000008883.gif 相混、難厄急、仍爲卒爾之疾類、聊抽諸方之簡要、抄不敢顧時俗之嘲、只爲暗質之惑也、于時永保辛酉之年三月七日、侍醫丹波雅忠撰之、

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1016 承安三年四月十五日丁丑、今日憲基呼前仰醫書之事等、有 千金秘膸方( ○○○○○) 云書、令之、憲基申見由、此中有云、年月日神事、件事於月神者一切無之由、丹家之輩所申也、而定成貞時等申神之由、而今此書有月神、仍問憲基頗有不審之氣、尤有興事也、

〔吾妻鏡〕

〈二十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1016 建保二年二月四日己亥、將軍家聊御病惱、諸人奔走、但無殊御事、是若去夜、御淵醉餘氣歟、爰葉上僧正候御加持之處、聞此事良藥、自本寺進茶一盞、而 相副一卷書之( ○○○○○○○○) 、所茶德之書也、將軍家及御感悅云々、

〔喫茶養生記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1016 入唐前權僧正法印大和尚位榮西録
茶也養生之仙藥也、延齡之妙術也、山谷生之、其地神靈也、人倫採之、其人長命也、天竺唐土同貴重之、我朝日本曾嗜愛矣、古今奇特仙藥也、不摘乎、謂劫初人與天人同、今人漸下漸弱、四大五藏如朽、然者針灸並傷、湯治又不應乎、若如此治方者漸弱漸竭、不怕者歟、昔醫方不添削、而治今人斟酌 寡者歟、伏惟天造萬像、造人以爲貴也、人保一期、守命以爲賢也、其保一期之源、在于養生、其示養生之術、可五藏、五藏中、心藏爲主乎、建立心藏之方、喫茶是妙術也、厥心藏弱、則五藏皆生病、寔印土耆婆往而二千餘年、末世之血脈誰診乎、漢家神農隱而三千餘歳、近代之藥味詎理乎、然則無于詢病相、徒患徒危也、有于請治方、空灸空損也、偸聞今世之醫術、則含藥而損心地、病與藥乖故也、帶灸而夭身命、脈與灸戰故也、不如訪大國之風、示近代治方乎、仍立二門、示末世病相、留賜後昆、共利群生矣、于時建保二〈甲戌〉戌春正月日謹叙、

〔萬安方〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1017 萬安方( ○○○) 序
初〈臣壽品〉高祖〈宗什、〉世居平安醫、見博洽、書籍藏過五車、藏中有梶原性全萬安方、傳以尊信、殊加韞匵、〈○中略〉侍醫〈臣〉望〈三英、〉有古方、與〈臣〉相善、〈○中略〉既而〈臣英〉遂奉狗監之對、乃得凌雲之譽、前奉敎命、當謄寫進獻、因圖朽蠧、特賜剪春羅紙五千張、於是與〈英〉等共倶校正、周歳而成、凡六十二卷、原闕二本、目次一本、總計五十九册也、獨以五百年、蠹簡誤字、衍文錯簡、尚猶不尠、悉仍舊貫一字、所以存一レ古也、既以進獻焉、謹按、性全者、不何人、相傳云、以醫仕足利氏鹿苑公、〈○足利義滿〉恒懸藥囊、時稱名醫、嘉暦之間著此書、鹿苑公嘉其志、爲記花押二、今見在此書中、性全博覽強識、自言所見方書凡貳百有餘部、二千有餘卷、亦皆漢魏唐宋經驗之方、及自所試効集載、嗚乎古方之損益、以今見之、亡彼存此、而其引用亦獨在此書、則可海内無雙古方書也、今也藏之秘府、則使彼性全之業再垂不朽、〈臣〉亦與顯祖先十襲之功、豈不幸哉、〈○中略〉
延享二年乙丑冬十二月 啓廸院法眼 岡本〈玄治〉謹上
朱印

〔萬安方〕

〈六十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1017 右 萬安方( ○○○) 六十二卷
花園帝正和中、梶原性全所撰、博採群籍、搜抉秘僻、妙論靈劑不枚擧、所援諸書今亡佚者數十家、洵 本邦經方之最者也、性全不何許人、自言、和氣末孫、而跋語中間、及建長圓覺寺等事、則知其居鎌倉也、或以鹿苑相公押字鹿苑相公、今推之年代、性全若在鹿苑時、則年當百十餘歳、此恐不爾也、蓋斯書當時秘而不出、人罕覯者、性全又有 頓醫抄( ○○○) 五十卷、竹田月海冒以此書名、是以世傳爲萬安方者、率皆頓醫抄耳、豈月海素此書而不得、渇仰之至、姑以此稱彼乎、閲野卜幽東見記、此書國初以前、收在建仁寺大統庵、啓廸院法印〈○岡本〉酬以白金十苞之、此本即舊出岡本氏、辛亥夏五家大人、從秘府而借命家弟及門人、謄寫之、周載始完、爲架橐重寶矣、其第八卷、第十八卷、闕佚已久、無補抄、殊可恨也、寬政癸丑春正月二十有七日、丹波元簡書、

〔東見記〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1018 梶原性全、日本醫師、 萬安方( ○○○) 五十册作、鹿苑院義滿袖判在焉、建仁寺大統庵有此醫書、或時醫玄治法印、買取銀十枚、性全又作 頓醫抄( ○○○) 在江城公方御文庫、煩字ノ訓、ホトヲルト付ルモ此人也、

〔京華集〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1018 靈蘭集( ○○○) 叙〈京兆源君請〉
古人曰、逹則願良相、不逹則願良醫、又曰、爲政之道與醫同、誠哉此論、惟我日本國管領公〈○細川勝〉〈元〉爲政之暇、旁游於醫矣、務在人而已、於是乎、古今醫書奧方隱籙此秘未覩者、扶其華其要、晝鈔夜纂、門分類聚、雜以倭字、便於觀覽、裒成一集、名曰靈蘭、蓋取神農室名也、命予爲叙、按本草、上藥爲君以應天、中藥爲臣以應人、下藥爲佐使以應地、而蘭者君藥也、殺蠱毒不祥、久服長年不老、以通神明、以至仲尼鼓琴乎魯屈子紐佩乎楚、或山林或階庭惟德惟馨、蘭之爲靈、昭々矣哉、源公、德兼三才、威被四海、其叙世系、侯王將相、其醫國家也、君臣佐使定社稷之安危、問民之疾苦、抑天下之所以爲天下、皆源公之力也、豈不盛乎、相與醫逹與不逹、不論焉、於戯、蘭百草靈也、人萬物之靈也、神農榜室、源公名集、可併按焉、昔惠日雅禪師著禪本草、有謂曰、佛祖以此藥一切衆生病、號大醫王、源公平日參禪學道、雖唐裴相國、宋張無盡、不敢多讓也、然則靈蘭集與禪本草、相與表裏以行于世、所謂大醫王非源公而誰也耶、文明四年歳在壬辰臈吉日、橫川景三、

〔捧心方〕

〈序〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1019 我邦、以濟生業厥世者、唯和丹兩家而已矣、近世旁支橫派、爭道而出、和家久少其傳、丹家一脈亦落如曉星矣、爰有梶原淨觀公、師承丹家、而居其右、其我邦秦越人乎、有萬安、頓醫兩方、萬安秘而弗傳、頓醫今行于世矣、厥後曰道全、亦英時士也、猶嫌我邦之鮮一レ書、附舶南遊、其業益大、其觀改焉、自全四傳、而有人曰長淳、淳浮屠氏也、韜晦以婆娑於世、然而才德所薰、莫以加其臭焉、雖醫術集成于玆、而論於之才悳、則蓋其緖餘土苴焉耳、我友中川公、以俊逸頴悟之質、依淳而學、自方論脈訣藥性鍼灸呪咀劑和之書、未聞而不求而觀不一レ買、箕裘不遂、咄々迫焉、公痛念近代醫家者流、學術腐于内、聲聞過于外、韓氏肥瘠病否之説不知、而濟生无澤、惘然選方兩卷、 目曰捧心( ○○○○) 一病之下必有病證、有脈證、載方必取自得其効、語必述古方、私弗以措一辭焉、其述而不作也、夫子之意乎、其精撰拔萃也、其便於易簡也、方必取其効也、此豈得以是齊王碩危亦林之遺音、乎哉、蓋此書作也、鼻祖淨觀公萬安方之標準也、〈○中略〉寶德辛未仲秋日翫月叟序、

〔德本翁遺方〕

〈例言〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1019 一世ニ行ハルヽ 梅花無盡藏( ○○○○○) ハ、其繁雜、後世家ノ書ノ如ク、 十九方( ○○○) ハ、其簡略、古方家ノ書ノ如シ、獨リ此篇、繁ナラズ、簡ナラズシテ、其用藥ノ趣、西洋家ニ似タリ、〈○中略〉

〔本朝醫談〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1019 近古の醫書多しといへども、 啓廸集( ○○○) より盛なるはなし、天正二年、廣頌天下永久の旨を蒙る、他の醫書、此盛擧ある事を聞かず、醫たるもの必讀むべし、是先帝の掟をかしこみ奉るなり、此書は月湖が全九集に本づきて作られしなり、

〔察證辨治啓廸集〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1019 啓廸集題辭〈○中略〉
本朝亦醫匠之名世者光于圀史、無世無一レ之、就中丹家嚮三位者、生而得醫髓矣、飛英聲、騰茂實、時々造詣于艮岳中堂醫王善逝、而得屏牽絲之脈路、奇哉、爰有當塗之聞人、世爲京華人也、諱道三、字一溪、蚤歳發憤遊方、不千里、鱗于杖http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000028627.gif 于鞋、而直入野州足利、而渉獵五典三墳及丁林曰之書、維時武州有導道練師者、中年從國信使而南遊、遍歴闔國諸醫之門、而擇其尤、探其頤而歸、公于以師之學習、研 精覃思、而究其蘊奧、雨往風http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000010201.gif 于野武二州之間、前後更十有八之葛裘而旋洛、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000010202.gif 徠、醫療有驗、活瀕九之病、予熟http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000050083.gif 、公不藥樹、不藥師、洞視病人胸宇、而自然得於心、應於手、公之於醫、可勤矣、可勞、可成矣、公遂提醫家秘要、以撰編者八卷、目曰啓廸集、蓋本于旁求俊彦廸後人之語者歟、俊彦謂誰、決不外求、一溪其人也、事逹禁中、以歴叡觀、華袞非榮榮莫焉、〈○中略〉
天正萬年之二歳歳舍甲戌仲冬初吉
大明再渡專使前圓覺策彦拙叟周良書于北等持東方丈

〔延壽撮要〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1020 此書者、僕在關左之日、偏州下邑之者不養生之道、不幸而致夭橫、故受憐之心最深、仍撿延壽之數悎聚樞要之語、名之以 延壽撮要( ○○○○) 、爲便見聞、以倭字之、旋洛之後、此一卷忝 歴叡覽( ○○○) 、何幸加焉、伏希廣頒華夷、普授士民、人々長保仙壽、規祝不淺也、謹以記歳月爾、
慶長己亥立夏之節 法印玄朔〈○今大路〉

〔普救類方〕

〈序〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1020 頃日大君〈○德川吉宗〉命云、彼天祿石渠之書者、以爲巨家之備矣、至邊鄙窮巷乏醫藥、小民之所患、而仁綱之所漏也、台意不遺感、是誠可忍乎、忍之可仁乎、於是辱命醫員林良適丹羽正伯、點撿官庫群籍、探羅捷方單方、撰其至要、品味亦四五許、方法不八九、蓋患家蠢々蚩々之徒所合和、而果夫有明效者也、録以國字、日就月將、研編摩之志、顯纂述之功、縷分脈剖、繕寫甫畢、都爲漆策、時敎臣親顯披閲、參互索搜、則博而不繁、詳而有要、眞格物之通籍、黎元之秘録也、目之曰 普救類方( ○○○○) 、情状實當矣、〈○中略〉以述台旨之萬一、謹爲之序〈○中略〉
享保己酉〈○十四年〉之五月 從五位下典藥頭式部大輔橘朝臣親顯謹識

〔有德院殿御實紀附録〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1020 醫書をも、常に御覽あり、 聖惠方( ○○○) 、 和劑局方( ○○○○) 、 東醫寶鑑( ○○○○) 、 外臺秘要( ○○○○) などは、常に御座右に置れて、御勘考あり、また醫員等著述せし書をも獻ぜしめて、御覽じ玉ひ、諸國僻境に堙沒したるをも購り求めて、あまた册府に收めしめ玉へり、その頃遠國の貧民等がために、侍醫 に命じて備急の奇方どもあまた書あつめられ、 普救類方( ○○○○) となづけて、世上に梓行せしめらる、

〔杏林雜話〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1021 先考濟庵翁〈名惟諧、字子德、通稱惇篤、〉曰、本邦享元以還、長沙之學大闢、戸著家述爲漢土、然吉益爲則一切武斷、矯枉過直、其子猷務皇張之、亦不蛇足、齊必簡恢博緻密、一章動至數百言、而未其底蘊、門人淺野徽、拾其唾餘、可狗尾續貂矣、内藤希哲條分縷折頗多濬發、雖排割之習、亦芟除葛藤、開別逕者也、中西惟忠、注釋顯明、期于實用、川越正淑、依樣胡盧、碎殘極矣、山田正珍博引旁證、一掃從前固陋之習、其長在博、其短亦在於嗜一レ博也、至於桂山茞庭二氏、學術湛精、尤得解經之體、而學者漸向正路矣、

〔靑囊瑣探〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1021生徒
京攝醫師、頗有才學者、業差行則擧其所經驗之診候治方六七、以國字文爲册子、及使子弟輩謄寫之以廣傳、而其書至治法之緊要、則曰、此治方非吾門則不授、此診候非口授則難傳、而秘惜不載、故讀之唯足於其伎、而無於治疾病矣、予科其意、未始有博施濟衆之心、而不特欲其書於人、集生徒以潤上レ屋耳、譬諸賣藥鋪之欲藥、列擧其奇效、以榜通衢、乞人之枉顧、噫其志之卑賤、類皆如此矣、夫素問有血及藏靈蘭室等之語、雖然秘而不傳之謂也哉、且古今醫書、汗牛充棟、未診候治法其門則不敢傳之事也、然則得賣藥鋪之類哉、

〔續古事談〕

〈五諸道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1021 典藥頭雅忠ガ夢ニ、七八歳バカリナル小童、寢殿ニハシリ遊テ云樣、先祖康賴ネンゴロニ祈シ心ザシニコタヘテ、 文書( ○○) ヲマモリテ、二三代アヒハナレヌニ、コノホド火事アランズルニ、ツヽシムベシトミテ、廿日バカリアリテ、家ヤケニケリ、サレドモ文書一卷モヤカズトゾ、昔ハ諸道ニカク守宮神タチソヒケレバ、シルシモ冥加モアリケルニコソ、

〔本朝醫談〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1021 唐土の醫書( ○○○○○) 、斯邦に入りしは、 千金方( ○○○) を初とすと養生訓に見ゆ、今延喜式を見るに、千金方の行はれし事しるべし、屠蘇を初として、民間に流布する藥膏盲に灸する事、萬能膏の原方等、 皆千金方に出たり、

〔隨意録〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1022 素問( ○○) 、 靈樞( ○○) 、文尤淺陋、亦非兩漢文、蓋兩晉之間、陰陽醫之所作、疑葛洪之輩、設黄帝岐伯雷公等之名、以寓言焉者耳、

〔經籍問答〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1022 東垣十書( ○○○○) ハ、不殘東垣ノ作ニ御座候哉、如何、答曰、不然、東垣流道統ノ十書ト云心也、東垣ハ宋人、丹溪ハ元人、〈予先年明謝在杭家藏ノ元板小形本多紀桂山先生ヘ賣、先生格別珍玩本ナリ、〉
脈訣〈虚散人述〉 局方發揮〈丹溪〉 格致餘論〈丹溪〉 外科精義〈德之〉 脾胃論〈東垣〉 辨惑論〈東垣〉 此事難知〈東垣〉 蘭室秘藏〈東垣〉 湯液本艸〈海藏王進之〉 渧回集〈魏博王安道〉
本ハ活板有、古板、新板ノ三種ナリ、

〔四庫全書總目〕

〈一百四醫家〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1022 内外傷辨惑論三卷〈○中略〉 金李果撰、果字明之、自號東垣老人

〔東洞先生遺稿〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1022宗梅諄
向辱賜書、即當答、于時俗事紛冗失敬於左右、多罪多罪、今又賜書、驚以開緘、因知貴兄近状無一レ恙、多幸多幸、夫醫道難獲也、不言語而論、在點而知一レ之爾、且夫生死者、人之大節也、生既成變則死、我若昏惑生死乎、則不其治也、苟欲惑生死、在篤信死生有命之義、能審此二者而徴之於己則獲焉、若有少未一レ於此、則難乎其成之也、醫道難獲、於是乎可知已、蓋 傷寒論( ○○○) 雖仲景之作、雖疾醫之道、後人儳入居半矣、大倉公以降、天下滔々皆陰陽醫也、不疾醫之道也、故其所儳入者失古意甚矣、名傷寒論、或以六經篇、或一病之上、冠以六經之名、或并病合病、或痙濕暍篇、陰陽易篇、霍亂篇、是皆非疾醫之言也、況於其辨脈平脈傷寒例乎、況於其辨汗諸篇乎、此皆儳入不取者也、今欲疾醫乎、扁鵲所謂視病之所在、而診病應見于大表、能知萬病唯一毒已、今般辱賜貴國名産、調味嘗之、敢不大惠、它俟嗣音

〔醫斷〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1022 仲景書
仲景書、有 傷寒雜病論( ○○○○○) 、 金匱要略玉函經( ○○○○○○○) 、共論傷寒及雜病、甚詳悉焉然如要略玉函僞撰已、先生辨之、故不贅也、雖傷寒雜病論獨出于仲景、然叔和撰次之、加以己説、方劑亦雜出、失本色者往往有之、且世遐時移、謬誤錯亂、非復叔和之舊、不擇也、後之註家、皆爲牽強附會、不從也、故先生之敎、其理鑿者、其説迂者、一切不之、所以求其本色也、學者宜審焉、

〔醫宗仲景考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1023 傷寒雜病論( ○○○○○) 、 金匱要略方論( ○○○○○○) の二書は、其原本一にして、今存る傷寒論は、傷寒雜病論の雜病篇を佚せるもの、金匱要略方論は、その傷寒篇を佚せる物なるが、古今億兆の醫人、その方法に從事して、醫藥の祖典と尊奉するに、其撰者を張機字仲景と傳へ來つれど、史籍にその傳なき事を誰も甚く遺憾に思へるに、此頃その人を考得たり、其はまづ晉書列傳なる、葛洪字稚川の傳に、洪尤好神仙導養之法、從祖玄、呉時學道得仙、號曰葛仙公、以其煉丹秘術弟子鄭隱、洪就隱學、悉得其法焉、後以師事南海太守上黨鮑玄、玄亦内學、逆占將來、見洪深重之、以女妻洪、洪傳玄業、兼綜練醫術、凡所著撰皆精覈是非、而才章富贍云々と見え、〈葛稚川の號を抱朴子と稱へり、是をもて其著せる子書の、内篇外篇を抱朴子と名けたり、今〉〈この考中に、其子書と稱するもの、卽その抱朴子を云へり、〉下に其著撰の目を擧たる中に、金匱藥方百卷、肘後要急方四卷とあり、〈○中略〉然るに雜應卷に戴覇とあるを、肘後方には仲景と有り、今此を考ふるに、雜應卷に華陀といふ姓名にて記せるを、肘後方序には、元化と云ふ字を書たるに準へ思ふに、仲景といふも、戴覇と云へる人の字とこそ聞えたれ、〈そは同じ稚川翁の文にして、かく相違ある事は、殊に深く心を止めて考ふべき事なり、華陀が字を元化と云しことは、史傳に見えて、人あまねく知れり、〉また稚川翁の本傳に、金匱藥方とあるを、雜應卷また肘後方序に玉函方とあり、然れば稚川翁の撰べる百卷の方書は、かく二名を稱し、また二名を合せて、 金匱玉函方( ○○○○○) とも稱して、其金匱てふ名は、戴覇字仲景が方書の古名を用たると聞えたり、〈そは雜應卷に、戴覇が金匱と云ひ、肘後序には、仲景金匱とあるにて論なし、〉斯て其方書は、全書今傳はらず、今存る 金匱玉函要略( ○○○○○○) といふ書は、其金匱玉函方を、晉末に出たる、王叔和が要略せる書なり、〈そは其書の始に、晉太醫令王叔和集と有にて所知たり、王叔和は稚川翁より後の人なること、下に委しく論ふを見べし、〉然 るに其要略せる本すら久しく湮沒して、世に知る人無りしを、再び世に顯れたるは、趙宋の世になむ有ける、

〔醫宗仲景考〕

〈附録〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1024 或人告て云く、或人この仲景考を見て、此は近く出たる 金匱要略輯義( ○○○○○○) といふ書に既に論じ置たる事なるを、篤胤が始めて考へ出たる如く云るは、腹ぐろなる事なりとて謗れり、いかに其輯義を見たまひつやと言ふに、己大きに驚き、その書かつて見たること無ればこそ、年ごろ此事にも心を止めて、かく考へ定めつるを、思ひきや既に同じ心に考へ定たりつる人の有むとは、早く其書を求め讀てこそと答へて、やがて其書を求め得て讀見るに、余が考へとは甚く異なり、唯その綜槩の條に、仲景金匱玉函、究其目之所一レ繇、晉書葛洪傳云、洪著金匱藥方百卷、據肘後方及抱朴子、自云、所撰百卷、名曰玉函方、則二者必是一書、由之觀之、金匱玉函、原是葛洪所書、即唐人尊宗仲景者、遂取而爲之標題、以珍秘不出之故、著録失其目歟、林億金匱玉函經疏云、縁仲景有金匱録、故以金匱玉函名、取寶而藏之義也、案仲景金匱、他書無其目、唯宋本及愈橋本、趙開美本、林序後有一小序云、仲景金匱録云々、僅出于此、予每疑之、然宋本已載之、則此必唐末作要略者所撰、其文原于肘後方序及抱朴子、味其旨趣、汎濫不經、亦是道流之筆耳と云ふ説と、彼の小序の所に、徐本刪之爲是、と云ふ語の有のみにて、余が考へと、同日に語るべき論に非ず、〈○中略〉殊にその要略せる時代を、唐末と云へるは、更に據なき説なり、彼小序は、稚川翁の文なれば、固より道流の筆なるに論なけれど、味其旨趣汎濫不經なりとて、徐鎔が本に刪れるを是と爲られしは、輯義の撰者も、いまだ醫藥の道の、玄家に出たる事をば悟り得られざるが故なれば、論ふかぎりに非ずかし、然は有れど、金匱傷寒論ありし以來、和漢古今に、千萬づの醫學者の中に、肘後方序、抱朴子などを取出て論へるは一人も有し事を聞ず、然るに今唯この輯義のみ、此議あるは、いと希しき事識にぞ有ける、

〔本朝醫談〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1025 注能毒益母草の條に、唐より渡りたる 濟陰方( ○○○) といふ文あり、濟陰方も、月湖の作なり、延寶八年の國刻あり、往年田澤仲舒が、 全九集( ○○○) を校せし時、予其書に序して、月湖は本邦の人にして、錢塘に流寓したるといひしを、あからさまに錢塘月湖とあれば、邦人なりといふは、うけがたしといふ人あり、予全九集の文章、唐山人にあらざる句法を示し、今又濟陰方の序と、治驗とを、茲に擧て、唐山人の文にあらざるをしらしむ、月湖元來邦人なれども、著述は唐土にて印刻なりし故、唐より渡りたる濟陰方と、一溪師のいはれしなるべし、足利の代禪徒の海外におもむきし者多し、月湖も其頃の人なれば、遠く明國に遊び、醫もて彼地に行はれしなり、

講讀

〔續日本紀〕

〈二十孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1025 天平寶字元年十一月癸未、勅曰、如聞頃年、諸國博士醫師、多非其才、託請特選、非唯損政亦无民、自今以後不更然、其須經生者、〈○中略〉醫生者大素、甲乙、脈經、本草、針生者素問、針經、明堂、脈決、〈○中略〉並應任用任之後、所給公廨一年之分必應本受業師

〔續日本紀考證〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1025 大素、〈唐書藝文志、黄帝内經大素三十卷〉、甲乙、〈醫疾令義解、甲乙經十二卷、唐志同、〉脈經、〈醫疾令義解、脈經二卷、唐志黄帝流注脈經一卷云々、〉本草、〈醫疾令義解、新修本草廿卷、延暦六年、五月紀云、典藥寮言、蘇敬注新修本草與陶隱居集註本草相撿、增一百餘條、亦今採用草藥、既合敬説、請行用之、式部式、凡醫生皆讀蘇敬新修本草、唐志神農本草三卷、雷公集撰神農本草四卷、陶弘景集註神農本草七卷、張鼎本草二十卷、目録一卷、蘇敬新修本草二十一卷、〉

〔延喜式〕

〈三十七典藥〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1025 凡應醫經者、 大素經( ○○○) 限四百六十日、 新修本草( ○○○○) 三百十日、 小品( ○○) 三百十日、 明堂( ○○) 二百日、 八十一難經( ○○○○○) 六十日、其博士准大學博士、給酒食并燈油賞錢
凡大素經准大經、新修本草准中經、小品、明堂、八十一難經並准小經

〔寬永系譜〕

〈三百九十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1025
善秀〈○中略〉
宗巴〈○中略〉
同〈○天正〉十二年の春、馬氏が注する所の素問經を講ず、これより以前、本朝にいまだ此書を講 ずる人あらず、其席に陪する輩、數百人あり、〈○下略〉

刊行 校訂

〔文敎温故〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1026 印板〈○中略〉
醫家にては、大永の 醫書大全( ○○○○) を始とす、其跋曰、吾邦以儒釋書鏤板者、往々有焉、然未曾及醫方、惠民之澤、人皆爲鮮、近世醫書大全、自大明來、固醫家至寶也、所憾其本稍少、欲見而未見者多矣、泉南阿佐井野宗瑞捨財刊行、彼明本有三寫之誤、令諸家本方以正斤兩、雖一毫髮私不增損、蓋宗瑞之志不利而在濟天下人、偉哉陰德之報、永及子孫矣、大永八年戊子七月吉日、幻雲壽桂誌とあり、此書の印本、今存する者少からず、

〔本朝醫考〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1026 阿佐井宗瑞
宗瑞泉南人也、氏阿佐井、曾嗜醫術、其志在人、於茲使剖劂氏刊明本之 醫書大全( ○○○○)、偏爲世人熟覽之也、請跋於東山釋月舟、載在幻雲藁

〔享保集成絲綸録〕

〈三十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1026 享保十五戌年三月
一 東醫寶鑑( ○○○○) と申醫書二十五册、先生板行被仰付一候、此度直段引下ゲ、上本一部ニ付七拾八匁、次本
一部ニ付六十匁ニ賣渡候筈候間、望之者は可相調候、此段町中〈江〉可觸知者也、
三月

〔御本日記續録〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1026 增廣太平和局方、十二册、
按ニ、享保十五年十二月、前典藥頭橘親顯ガ序ニ、自古昔來于本邦幾希矣云々、國家尚慮其事之未一レ備、切存惠民之餘德、命臣親顯等校訂之事云々、粤索捜日光久能神庫之秘本、乃官私之諸本、殆得十有餘部云々、輯校苟完、謹以奉之、重使臣親顯爲之序云々ト云々、又參考局方、並諸家奉進目次ニ、日光山神庫一部、久能山神庫一部、官庫一部、以上三部、增註和劑局方、朝鮮刻本也トミユ、其他マタ明初ノ刻本ヲ引ケリ、今大路家譜ニ、式部大輔親顯、享保八年八月、久能山の御宮 神庫に收藏せし和劑局方を、親顯所持の本と校合を命ぜられ、御淸書之事なれば、帝鑑之間にて、壹人校合す、同十四年十二月、和劑局方の號を奉りしにより、〈守重云、和劑局方の號を奉りしと云は誤なり、〉時服三を賜ふと見ゆ、〈荻生揔右衞門茂卿家譜ニ、享保十二年十二月八日、和劑局方之儀御尋之趣、兵庫頭殿被申渡、宋版之書物之趣申上候トアリ、明主ノ此書ニ睠々シ玉フ所以ノモ〉〈ノイタレリト謂フベシ、〉再按ニ、其久能山神庫ニ在トコロノ御本ハ、究メテ神君ノ御前本ナルベキカ、其證ハ延壽和方彙函エ八ノ字御方ヲ載セテ云、專治男婦氣血兩虚、精神短少、脾胃不足、傳曰、斯方者、和劑局方無比山藥圓也、〈按ニ諸虚不足門ニ、無比山藥圓十二味ヲノス、〉東照宮、平素服餌之、蓄藏於藥笥第八層之中、是以侍御宮人稱八之字藥、自是流傳以世人通號八之字云々、〈此事、又續録駿府御文庫本醫林集要ノ下ニ出ス、考フベシ、〉是八之字御方、此書ヨリ出タルト云説モアレバ、此御本亦御撿閲ノ事有シナルベシ、予又嘗テ是ヲ前ノ駿府町奉行某ニ聞ケリ、久能神庫ニ神君御親筆御書入アル醫書アリ、又御製藥ノ御道具アリト、和方彙函ニモ、神君雛丸東照宮袖下ノ藥アリ、均シク是醫書御撿討ヨリ出デ、本草網目ヲ江戸へ進ゼラレシノ類、〈續録ニ出ス〉ミナ普救ノ深仁ヨリ致ストコロ、異朝歴代醫書ヲ勅撰セラレシモ、其仁意モト相同シテ、享保醫書ノ官刻モ、能神意ヲ纘述シ玉フト云フベキナリ、

譯述

〔醫範提綱〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1027 題言
一榛齋先生嚮ニ遠西名醫著ス所ノ人身内景ノ書數部ヲ譯定シ、集メ成シテ全部三十卷トシ、 遠西醫範( ○○○○)ト名ク、其中ヨリ全身諸物ノ名、及ビ官能ノ綱領ヲ述ベ、別ニ一卷トシテ、篇首ニ冠シ、醫範提綱ト名ク、凡ソ門ニ入リ業ヲ受クル者ニハ、先始ニ提綱ヲ授テ、内景ノ梗概ヲ示シ、又其問ヲ起シ、益ヲ請ヲ待テ、餘義ヲ演ベ、要旨ヲ發シ、諄々トシテ誨テ倦ズ、漸ク人身ノ機關ニ通ジテ、一切ノ方技術モ、皆此ヨリ出ルト云ノ大略ヲ喩ラシム既ニ大義ニ通ズレバ、次第ニ誘導シテ、本篇醫範ノ精説ヲ講ジ、竟ニ天造ノ實際ヲ窺ヒ、精微ノ壺奥ニ遡リテ、治療ノ機柄ヲ握ラシム、俊〈○宇田川榛齋門人諏訪俊〉幸ニ敎ヲ門下ニ受ケ、親ク其節ヲ聞キ、コレヲ刀圭ニ試ム、今ニシテ和蘭ノ醫 法ニ於テハ、少シモ疑ヒナキコトヲ得タリ、蓋シ其法皆實驗ノ事蹟ニ本ヒテ、毫モ矯誣ノ鑿説ナシ、故ニ其精詳ナルコト、造花ノ秘頣ヲ探リ、萬物ノ究理ニ渉ルト雖モ、實測一軌ニシテ、虚轍ヲ設ケザレバ、條理井然トシテ、望洋ノ惑ヒナク、簡易捷徑ニ説キ示スヲ以テ、見ルニ隨テ解シ、聞クニ隨テ曉リ、群類ニ觸テ意匠長ジ、奮圈ヲ脱シテ活眼ヲ開ク、是ヲ以テ、駑才俊ガ如キモ、思ヲ費サズ、力ヲ勞セズシテ、結構ノ徑庭ヲ窺ヒ、年月ノ久キヲ積ズシテ、頗ル此道ノ概略ニ通ズルコトヲ得タリ、〈○下略〉

〔日本洋學年表〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1028 弘化四年丁未、〈二五〇七、一八四七、〉緖方洪庵亦病學通論ヲ譯述シテ、病因病證ヲ説ク、 病理書ノ始( ○○○○○)タリ、

醫神

〔和爾雅〕

〈二神祇〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1028 醫師( クスシノ) 神〈 大己貴( ヲホアナムチノ) 命 小彦名( スクナヒコナノ) 命〉

〔日本書紀〕

〈一神代〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1028 一書曰、〈○中略〉夫 大己貴命( ○○○○) 與 少彦名命( ○○○○)戮力一心、經營天下、復爲顯見蒼生及畜産、則定其療病之方

〔日本書紀〕

〈九神功〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1028 十三年二月甲子、是日皇太后宴太子於大殿、皇太后擧觴以壽于太子、因以歌曰、 虚能( コノ) 彌企破( ミキハ) 、 和餓彌企那羅儒( ワガミキナラズ) 、 區之能伽彌( クシノカミ) 、 等虚豫珥伊麻輸( トコヨニイマス) 、 伊破多多須( イハタタス) 、 周玖那彌伽未能( スクナミカミノ/○○○○○○) 、 等豫保枳保枳茂苫陪之( トヨホギホギモトヘシ) 、 訶武保枳保枳玖流保之( カムホギホギクルホシ) 、 摩莵利虚辭( マツリコシ) 、 彌企層( ミキゾ) 、 阿佐孺塢齊佐佐( アサズヲセサヽ、) 、

〔奇魂〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1028 醫藥名義〈并醫風變化附本道辨〉
記紀なる神功皇后の御歌に、〈○中略〉 少名御神( ○○○○) は、即醫藥の祖神にませば、言痛く論ふまでもなく、藥神と詔給意にて、取もあへず醫藥と云言の明徴也、是を記傳には、酒の首長と云意也と云、釋紀には、奇神也、私記曰、奇異之義也云々、私記曰、少彦名神是造酒神也、今有其遺跡、云といはれたれど、若然らば、式の酒司抔に此御神を祭玉ふべきに、他神を祭られたる物をや、總て何にまれ、其群黨あるうへならでは、首と云がたかるべし、又神等は皆奇なるに、此御神のみ奇と云べか らず、酒は素より造玉ひためれど、其も藥中の一物にこそあれ、打任せて酒造神と爲奉るべき事かは、上件の説等の如にては、久志の神を殊更に歌出し玉ひしは徒事となりぬべし、是は專ら皇太子の御成長を祈給頃なれば、御歌の意は、此酒は我酒に非ず、藥神の物し玉へる藥酒なれば、聞食て御恙なく、常磐に幸坐と齋ひて賀玉ふ也、されば尋常の酒もあれど、藥神の領玉ひて、藥とも成べき御酒ならでは、えあらぬわざ也、

〔叢桂偶記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1029神農
潜居録曰、八月朔、古人以此日天醫節、祭黄帝岐伯、本邦醫家以正月八日神農、蓋原于醫師如來結縁日、〈慈覺太師修經時、一佛一神日來護之、藥師尊、江文大明神、以八日現、依爲結緣日、〉可笑之甚也、大己貴命、少彦名命、爲本邦醫藥之鼻祖、而醫家不二神者、蓋由遺訓及今日、惜哉其方法之亡、世傳大同類聚方抄本、安部眞貞奉勅所撰云、近浪華木〈○木村蒹葭堂〉孔恭http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000040764.gif 行、内有神方、古云、盡信書不書、余於此篇亦云、

〔紹述先生文集〕

〈五記類〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1029 先醫祠堂記〈○中略〉
昔吾先王之馭國也、祭祀有式、禋享有官、不唯奉其先宗廟社稷、而釋尊之禮亦取之于唐氏、而先醫之祀闕焉、於是、醫而欲其先者、茫乎無之、情之壞也、皆散而歸于醫王善逝、儒者徒以其鬼而斥之、不之區處、則必不上レ于此焉、雨森良意氏世醫也、家藏炎帝氏雕像、漢工所刻也、將于官宇而奉上レ之、且就城東小野一小堂而安之、有樓可以度一レ書、有圃可以植一レ藥、蓋爲之兆也、吾想、凡天下之方劑爲生民之利者、不勝言、非古有聖人者廣資衆智以貽其神術于後世、則其孰能與焉、然則推功于炎帝氏、而使天下爲醫知本之所者、良意氏之仁也、今既爲之所矣、吾知人知求而柄國之人不一レ因而成一レ之也、若夫駕荒唐謬悠之説、而加之堯舜孔子道、則吾固知良意之不一レ爲也、因記以贈之云、

〔茅窻漫録〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1029 神農祭〈并〉医祖神
此邦の醫者、毎年冬至の日に當れば、神農祭と稱し、赤豆餅、赤豆飯、又は酒肴盛饌の具を調へ、親戚交友を集め、賀宴する事、常例となれり、

雑載

〔新猿樂記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1030 九御方夫、右近衞醫師和氣明治也、毒藥之道分別、術方之計無極、看病療疾之佛也、遺針灸治之神也、知六腑五臟之胗脈、探四百四病之根源、順方治病、任術療疾、擣簁合藥、搗抹http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000079457.gif 咀之上手也、不於耆婆醫王、相同於 神農( ○○)http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000047127.gif、彼雪山童子之日日採草、蓬萊方士之年年拾藥、只聽名無益乎、

〔徒然草〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1030 人の才能は、文あきらかにして、聖の敎をしれるを第一とす、〈○中略〉次に 醫術( ○○) を習ふべし、身をやしなひ、人をたすけ、忠孝のつとめも、醫にあらずは有べからず、

〔棒心本方〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1030 扁鵲六不治
驕恣不理一不治也、輕身重財二不治也、衣食不適三不治也、陰陽並臟氣不定、四不治也、形羸不藥、五不治也、信巫不醫、六不治也、

〔技療録〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1030 貴者難http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022604.gif
貴者有疾尤爲http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022604.gif 、郭玉對和帝言有四難焉、見于後漢書、余謂、 貴者難http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022604.gif ( ○○○○) 、其由豈止四、衆人儳和而醫令不行、婦人執事而將息失度、藥則先適口、而不病、方則專補益、而忌疏滌、並皆其所以爲一レhttp://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000022604.gif 也、且夫君上疊膝於深宮之中、氣血抑遏、無疏通、寘身於温柔之鄕http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000079129.gif 喪過寸、罔節制、五鼎八珍餖飣于前、重幌密幃燠鬱于後、無一不一レ疾病之資矣、其既然矣、以是賢君擧醫知頤生之道、以任之獻替、此謂之治未病也、

〔先哲叢談後編〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1030 金峩〈○井上〉有病、家人進藥、金峩有難色嘗、至病稍重、家人及子弟苦進之、金峩笑曰、漢世之人有言、曰有病不治、常得中醫、醫術之難古猶如此、況於後世乎、我病而不服藥、猶勝於得當今之上醫矣、

〔紫芝園漫筆〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1030 醫道難明、醫書難讀、素靈難經、先秦古書也、非古文辭讀也、臟腑之玄奧、脈理之 精微、病情之難得、治法之多端、苟非思不其肯綮、人命所懸、其猶可小技上レ之乎、世之業醫者、率不書、其能讀書者、多爲儒者流而不醫、嗟夫世之無良醫亦宜乎、

〔儼塾集〕

〈二論〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1031 醫在本論〈○中略〉
夫肄醫者、初學素樞難經 三年( ○○) 、通其大義、藏府經脈之微、運氣之變、病邪之因、鍼灸之法、盡于此焉、次學本草 二年( ○○) 、藥性氣味補瀉温凉、盡于此焉、次讀張長沙、及劉張李朱之書 二年( ○○) 傷寒、内傷、雜病諸科盡于此焉、而更互縯繹、融會貫通、醫之大本可知矣、次同友相會、表出古人醫案切於今病、各書一紙互問此證名状奈何、此病治方奈何、默計熟察而詳對之、考其辨證處治與古人合否、以自求其所一レ至、日錬月鍛、如是 一年( ○○) 、 而後初可病家( ○○○○○○○) 、屢經效驗而率得療術之蹊路、而後從來所講習積思、自然奮發、泛應曲當、探頤鉤深、辨疑解紛、無治而不適中、藐藐乎踰越庸醫之群、譬如材木有餘大廈乃成、輜重足而三軍易一レ發、其學未熟、愼莫喜施藥求功效、假令偶中、君子之所恥也、不自修而治人、不種而求稼、是謂其本亂而末治者否矣、易曰、公用射隼於高墉之上、獲之无利、聖人曰、隼者禽也、弓矢者器也、射之者人也、君子藏器於身待而動、何不利之有、後世奔兢之徒、今日見一二卷方書、明日稱醫施藥、不渠見一レ誤者幸而已、且夫將大有一レ爲者、必伸於久屈之中、發於持滿之末、如良將之用一レ兵、多類于是、王翦攻荊、堅壁而不肯戰、荊兵數挑終不出、日休士撫循之、久而一擧大破之、今 學醫者厚積十年可以稱一レ醫( ○○○○○○○○○○○) 矣、蓋氣質之性有利鈍、故成器有遲速、利者不十年、鈍者或倍之、是故成器先後存乎性、廣濟衆病乎精、爲天下重存乎命、醫豈易道哉、

〔療治茶談〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1031 初學治療ノ才ヲ長ゼント思ハヾ、必ズ抄書ノ業ヲ務ベシ、抄書トハ、俗ニ云フヌキガキノ事ナリ、其法、先一小册子ヲ作リ、方彙ノ如ク、各病名ノ部門ヲ分チ定メ、平日之ヲ座右ニ置キ、書見ノ毎度、要語奇方ニ遇ハヾ、俗書抄藥等ノ嫌ヒナク、少シモ治療ノ助ニナルベキ處ハ、悉ク彼ノ册子抄寫スベシ、仙氣ノ方ヲ得バ疝氣門ニ、頭痛ノ要語ニアハヾ頭痛門ニ書入ルベシ、而其出 書ハ、勿論紙ノ丁數ヲモ悉ク書記スベシ、譬ヘバ、氣謂口鼻中氣息也、〈東醫寶鑑雜病篇六十丁〉ト記スノ類是ナリ、是他日其全書ヲ見タキ時、捜索ニ便ゼンガタメナリ、其中要論ノ長文ナドハ、ヨキホドニ、上中下ノ文義ヲ通ズルマデニ、截割シテ記スベシ、而册子ノ仕立ハ、隨分トテイネイニ裝修スベシ、裝修嚴ナル時ハ、之ヲ掌上ニアゲテ自它ノ觀美トモナリ、之ヲ高閣ニ束テ、吾ガ心目ヲ悦シメ、自其業モ永ク廢レズ、作者ノ苦心モ永ク傳ル等ノ益アレバナリ、此抄書ノ業、精事久シキニ從テ、册子ノ卷數モ增スナリ、此册子ヲ取テ、治療間暇ノ會ニハ、必ズ亦之ヲ讀ベシ、又治療ノ間ダ難病奇證ニ臨ミ、若シ此ノ册子中ニ於テ、思ヒ中リタル奇方要論アラバ、親シク之ヲ其病人ニ就テ試ミテ、効ヲ奏スル事三人以上ニ及ブ時ハ、是眞ノ經驗トイフ、此經驗ノ事ヲバ、又別ニ國字ニナリトモ、文ニナリトモ記シ置、之ヲ人ニモ傳ヘ、世ニモヒロメテ、人ノ治療ノ助トナスベシ、是ヲ眞ノ濟世ト云フ、凡ソ抄書ノ業ヲ、三年ガ間ダ、怠慢ナク黽勉刻苦テ務ルトキハ、必ズ名手良醫ノ名譽ヲ得ン事、更ニ疑ナシ、其故ハ總テ日課ノ益ヲ得ル事、毎日十條ヅヽニシテモ、一年ノ益ヲ數ルニ三千六百條、三年ヲ通計スレバ、一萬八百條ナリ、一日ノ課業十條ヲ度トセンニハ、甚ダ輕キ事ニテ、讀書ニ耽ル者ハ、朝食ヲ終フル間ニモナルベキ事ナリ、然レドモ人ノ性ニ利鈍アリ、讀書ニ好不好アリ、其外飮食病災世應交義ノ爲ニ、ヨリドコロナク日ヲ空クスル事アリ、彼此ヲ平均テ、其半ヲ減ジ、毎日ノ謂益五箇條ヅヽト見テモ、三年ノ益スル所ヲ通計スルニ、五千四百條ナリ、スベテ和歌ニテモ、詩ニテモ、三千首以上ヲ記誦スルトキハ、必ズ其道ニ通逹セラルト云フ、何ゾヒトリ醫事ノミ然ラザランヤ、予〈○津田玄仙〉三十ノ頃ヨリ、此課業ヲ思ヒ立テヨリ以來、四十八ノ今年マデ、抄出ヲ怠ラズ、卷數既ニ百卷ニモ及ベリ、其ニツイテ、治療ノ手談モ、一年ニ一年ヨリモ大益ヲ得ル事、身ニ覺ヘ心ニ徹シテ知ラルヽナリ、

〔日本西敎史〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1032 日本國紀事〈○中略〉
敎師マルチニユス氏及ビ其他ノ著書家云ヘラク、日本ノ醫道ハ支那ニ出タリト、醫師ハ病者ニ問フコトナク、唯半時許診脈シテ、脈動ト病ノ經過ニ因テ病源ヲ判ス、此國ニハ藥室アルコトナシ、醫師ノ僕、小サキ葯籠ヲ持チ、之ニ從フ、葯籠ノ中ニハ、十二箇ノ抽斗アリテ、四十四ノ葯囊ヲ容ル、各種ノ草木及ビ乾藥ヲ充實ス、醫師ハ此内ヨリ應用ノ物ヲ調合シ、之ヲ混交シ、病者ノ家ニテ之ヲ煎ズ、又熱病ニ小サキ鋭利ナル金針ヲ病者ノ皮膚ニ六ケ所モ刺入シ、之ヲ療治スルアリ、此法支那ニモアリ、又大病ニハ病者ノ皮膚二十箇所以上モ灸スルコトアリ、小ニシテ燃ヘ易キ乾艾ヲ丸メ、之ニ火ヲ點ズ、燃ヘ了テ灰トナリ、之ヲ除ク時ハ、其燒キシ所黑痕ノ生ズルヲ見ルナリ、

〔近世叢語〕

〈二言語〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1033 千田大圓堂嘗謂曰、方技之士、與儒者異矣、身不顯者、以其術拙也、而以遇不遇自諉、可笑之甚、人之爲疾豈有時乎哉、


Last-modified: 2019-03-15 (金) 09:48:59 (390d)