p.1202 嘉祥ハ、カジヤウト云フ、又嘉定ノ字ヲ用ヰル、六月十六日ヲ以テ之ヲ行フ、其例ハ朝廷ニテハ、七種ノ菓子ヲ用ヰ、幕府ニテハ十六種ノ菓子ヲ用ヰル、民間ニテモ錢十六文、米一升六合ヲ以テ物ヲ買ヒ食ヲ調ヘ、又ハ錢十六文ヲ以テ直ニ食物ヲ買フ、
p.1202 嘉祥(カジヤウ)〈傳云、仁明帝朝、承和十五六月、豐後國獻二白龜一、故朝廷設レ宴、改二元於嘉祥一、是濫觴、〉嘉定(カヂヤウ)〈傳云、後嵯峨帝潛龍時、以二宋嘉定錢十六文一、此日適有下設二饌供一之義上、踐祚後猶用二其式一、是權輿、〉
p.1202 かじやう 六月十六日の儀式也、仁明帝の時より事起りて、年號の嘉祥も同じきよし、鴨長明が四季物語に見えたり、後嵯峨帝の時、嘉定通寳の錢の事いへる説も侍り、されど嘉祥は宋寧宗の年號、後嵯峨帝の踐祚よりは、わづか二十年前の事也といへり、禁中にてかつうともいへり、よて嘉通とも書り、實は納凉會成べし、
p.1202 六月 とふていわく、嘉定と申事は何のゆへぞや、 答、この事はさらに本説ありがたきことにや、たヾかの錢の銘に、かぢやう通寳と侍れば、勝と云みやうぜんを、しやうくわんするよしをぞ承をよび侍りし、
p.1202 十六日、此日かじやうといふ事あり、歌林四季物語にいはく、かじやうは嘉祥とかきて、仁明のすべらぎ、承和の比ほひに、御代のさか行ことをいのらせおはして、賀茂上の御やしろにたてまつりて、御はらひなどなしそめ給ひたまへり、六月十日あまり六日なん、吉日なるよし、御うらの人々かうがへ申せばとて、その日おこなはれ、年號をもあらためて、嘉祥とものせ
p.1203 しかば、ながく此事嘉祥と、ねんがうによりて、さだめられしと、當社縣主賀茂の道幹が日記に侍る、又羅山子の説には、近比世俗に云傳るは、室町家大樹の時に、六月納凉のあそびのために、楊弓を射てかけものとし、負たるもの嘉定錢十六文を出して、食物を買て、かちたるものをもてなすなり、嘉定は宋の寧宗の年號にて、十七年あり、其年毎に鑄たる錢に、元年より十六年までのしるしあるを、十六錢あつめて、今日一人ごとのもてなしものヽ代に定むるなり、右の本説たしかならざれども、ならはし來ることかくのごとし、 今按ずるに、四季物語の説にしたがへば、そのよつて來る事、誠に久しき事になん侍る、されども延喜式、江家次第、公事根源、年中行事などにも見えず、まして國史にもしるさヾれば、いぶかしき事にこそ覺え侍れ、羅山子の説のごとく、ちかき世よりの事なるにや、猶本朝の故實にくはしからん人を待のみ、
p.1203 十六日 嘉祥祝〈嘉定飡、嘉定錢、かつう、仁明帝の時、豐後國より白龜を奉る、吉兆として年號を嘉祥と改む、一説に同帝の時、御代の榮を、賀茂に祈らせ給ふ、今日吉日也とて御祓あり、年號嘉定と改るとあれども、實記見えず、一説には室町家の納凉の遊に楊弓を射て、負たるもの嘉定錢十六文を出す、嘉定は宋の年號十七年まで、毎年錢を鑄さしめ、年毎にしるしあり、此元年よりの錢十六文を用ひしと也、〉
p.1203 嘉定 嘉定、何代より起るといふこと未レ詳、或は平城天皇の大同中よりといひ、或は仁明天皇嘉祥元年よりといひ、又は後嵯峨院御宇よりともいひ、一説には、室町殿の御時よりともいひ、一説には、元和元年大阪事終りて、京師へ入せられ、初ての賀儀なりともいへり、諸説區々にて一决しがたく、かつは妄説信じがたし、其うち室町殿の御時よりと云説を信ずべきにや、道春先生曰、近代俗云傳ふるは、室町家の時、六月納凉の遊興あり、楊弓射負たる者、嘉定錢十六文を出して食物に代て、勝たる者をもてなすに始れり云々、本説たしかならざる事也、弘賢謹按ずるに、本説たしかならずといへども、是を以據とすべき也、其ゆへは慈照院殿御代年中行事、ならびに申次記、及享祿三年以前の年中出御對面の記、其他此時代の諸書に所見なくして、蜷川親俊の
p.1204 天文日記には毎年記せり、此日記殘缺三册あり、天文八年六月十六日、嘉定イリコノフトニと書し、十一年には、嘉定如二恒例一認レ之と記せり、しかのみならず、御湯殿上日記に、天文二十年六月十六日、長はしよりとし〴〵のごとく、かつうまいるとみえ、後圓明寺關白〈兼冬公〉の世諺問答に〈〇中略〉みえたり、是も天文十三年の作なれば、此三書を以、道春先生の説を徴すべきにや、文安の下學集、壒囊抄、塵添壒囊抄の類には、所見なき事なれば、慈照院殿御代よりは後、天文よりは前に始りし事なるべき也、凡今の御代は、萬の事室町の式を用ひさせ給へば、かたのごとくさる例をおはせ給ひしなるべし、或問曰、禁裏にも此事ありといふは誠にや、其式などはいかやうなるにや、答曰、當時年中行事〈後水尾院御製〉に見えたり、〈〇中略〉清閑寺大納言熙房卿説云、御内々ノ諸家へ料進被レ下、〈諸家陪臣於二御臺所一請取、白米三斗宛ノ由也、〉以二彼料一心次第菓子等進調、兼日銘々紙ニ裹ミ、御前ヘ持出被レ服之、〈大納言以下到二殿上人一〉其後謠三曲等ト有レ之、〈第一大納言獻レ之〉古ハ御酒ヲ持出飮レタルモ有レ之也、此儀何頃ヨリ始リタルヤ不二分明一由云々、又女房私記、異本當時年中行事等にもみえたり、然れども内々の御儀なれば、柳原年中行事には記さず、ふるき年中行事には、まして所見なきことなれば、もしは武家の習をうつされしもしるべからず、問曰、武家の式、室町の御時の親俊日記にみえたるおもむきにや、今のごとく八種と定まりて、嚴重に行はるヽは、いつの比よりぞや、答曰、くはしくしりがたし、但し駿府政事録慶長十七年六月十六日、嘉定如レ例云々、珍菓、嘉肴、片木ニ如レ山積レ之、所レ候之輩頂二戴之一と見えたれば、此比より今のごとくの品々にて有けるにや、
p.1204 六月十六日嘉祥 是親王以下諸家中ニ御祝ノ物ヲ玉フ也、多クハ御菓子也、但於二院中一黒米等ヲモ玉フ也、
p.1204 十六日、兼日おの〳〵嘉定をたぶ、院、女院などへは勿論參る、御所御所攝家方門跡方、その外人々時宜によりてたぶ、定たるやうなし、つねにならします方にて、嘉定
p.1205 何にても七種とりならべて、御前に供ず、親王御同宿のとき、女御などあるときは御相伴なり、御前を撤して後、女中御かつうを持參して、御前にて給る、今日は女中の衣しやう、すヾしのうらのねりに、こしまきをする也、こしまきはねりにても、まろすヾしにても、おもひ〳〵なり、内々の男衆は、兼日長はしより、ふれ催して參る、常の御所の南面をとり放て、ひさしと申の口との間に、翠簾をかけわたして、女中見物の所とす、男衆おもひ〳〵にかつうを持參してすのこに候ず、公卿一列、殿上人は、公卿の後に又一列也、上段の南のはしに、しとねばかりを、しかせおはしまして御見物也、とり〴〵かつうを給はる、事はてヽ下臈よりしりぞく、更に各すヽみ出て、元の座につく、六位の藏人てうしに肴の臺などもて出て、御とほしあり、五ど土器などいでヽ、うたひなどうたふ、毎度ゑひ過たるもの多くしてにぎはし、
p.1205 十六日嘉祥御盃の事如レ常、女房言にかつうと云は、嘉祥通寶の中りやくしての事也、
p.1205 十六日 御嘉通 〈院中攝家親王門跡御連枝方、内々公家衆女中方御内上下〈江〉被レ下、〉
p.1205 十六日 嘉定、女中ことばにかつうといふ、
晝すいせん上ル、葛切の事なり、銀のはちに入ル、三方に銀の大ざら七寸程の銀のちよくに、しやうゆの汁入ル、銀のすくひ有、ゆのこすくひなり、御はし有 次に七かじやう むくぐわし七色、あいのかわらけ七ツに入、七色の内うづら餅有、うづらの鳥のごとし、親王法親王方へ大まんぢう被レ下、さし渡し五六寸ほど、是をたいぶまんぢうといふ、親王方女中方より、いろ〳〵の蒸ぐわし獻上なり、 攝家、親王、清華、諸家の堂上、御内の地下の北斗迄に、くろ米壹升六合已下、此米を一條どほりの二口屋といふくわしやへ遣し、米壹升六合相應のむしぐわしをとり、堂上方此くわしを御所へ持參してまゐる也、
p.1206 十六日 嘉定 是は七嘉定とてむかし菓子七色清所より上る、黒米一升六合宛、錫盛にもりて、院中親王門跡方、堂上方所々〈江〉御祝儀下さるヽ也、
p.1206 文化三年六月十六日壬辰、嘉祥御盃、巳刻參勤、助功、常顯、俊常等四人相揃後屆二議奏卿一包物各持參、互相振廻如レ例、〈〇中略〉今日持參包物、如二近年一黄青白饅頭十六也、
文政十一年六月十三日辛巳、嘉祥御盃長橋回文到來、如レ例加奉返却、留二在往來一、 嘉祥米申出〈山本和門印形持參〉差遣、如二例年一拜領了、 十六日甲申、嘉祥御盃巳刻參朝、一臈三臈四臈同レ之、相揃ト屆二議奏卿一、〈當番園池〉包菓子持參、相振廻如レ例、 一午半刻過御催、未刻過有レ召、公卿三人、鷲尾前大納言、勘解由小路宰
p.1207 相、廣橋左大辨宰相、殿上人八人、公連朝臣、爲國朝臣、雅壽朝臣、光宙、大江俊常、〈予、〉丹波頼永、源常保等也、各包物持參、如レ形開レ之喰了、直自二下臈一退入、此時有二出御一、女房出座如レ例、議奏各出座也、入御之後、公卿以下再參候、御盃之儀如レ例、初獻巡流、二獻俊常取レ酌、〈替酌予〉二獻小掛、三獻酌俊常、加〈予〉、肴頼永、常保舁レ之、萬事如レ例了、未半刻頃各退出了、
p.1207 嘉祥米并玄猪御祝ノ事
第三百廿一 戊辰〈〇明治元年〉六月三日
來ル十六日嘉祥ニ付、從二當年一嘉祥米被レ下候間、來ル十二日十三日巳刻ヨリ未刻迄、會計官へ申出可レ有レ之候事、 但他國在勤之向ヘハ不レ被レ下候事、
第三百廿二 己巳〈〇明治二年〉六月 日辨事達
今後嘉祥米、官中之輩ヘハ不レ被レ下候間、此段爲二心得一相達候事、
p.1207 慶長三年六月十六日、夜ニ入嘉祥ノ祝アリ、秀吉ハ上段褥ノ上ニ蒲團ヲ布テ著座、秀頼其傍ニ侍座セラル、其下段中央ニ、片木ニ色々ノ菓子ヲ積ンデ並ベ置、此席ヘハ、中老、五奉行、近習ノミ出座シテ是ヲ頂戴ス、其餘毎席如レ是ノ品々ノ菓子積ミ置、官職ノ高下ニ依テ其席ヲ異ニシ、皆菓子ヲ得テ退クコト恒例ノ如シ、秀吉、中老、奉行ニ向テ曰、吾願フ處ハ、秀頼十五歳ニ及バヾ、海内ノ政ヲ讓ント欲スルコト日アリ、渠天下ヲ管領シ、此嘉儀ヲ成スコトヲ見バ、吾本懷タラン、吾命既ニ以竭ントス、遺恨少ナカラズトテ落涙アリ、伺候ノ輩涕泣シテ退ク、
p.1207 諸侯 御嘉定の御菓子十六色なり、一品宛へぎ板に載て、御前に並置なり、御嘉定の御祝儀申上候て、御老中方、大暑の節故、入御被レ遊寛々頂戴可レ仕旨被二仰渡一、御簾なり、四品以上は三人宛進て頂戴、帝鑑の間衆は五人宛進て頂戴す、布衣以上の御役人迄なり、其以前に中奧御小姓衆、御給仕の習禮あり、進物番の習禮あり、其後初て出勤の大名、習禮稽古す、
p.1208 嘉定之御規式被二仰出一候、慶長年中之頃〈與〉申傳候、其以前嘉定御祝儀候義之初者、元龜三年、味方原御合戰之時、羽入八幡にて嘉定錢、裏に十六〈與〉鑄附たるを被レ遊二御拾一、御利運被レ爲二思召一候、折節先祖大久保藤五郞、六種の御菓子奉レ獻候處、時節能奉二差上一、直ニ御軍勢へも被レ下、此度之御陣御勝利不レ可レ疑との上意有レ之候、此砌藤五郞未鐵砲疵に而歩行難二相成一上和田ニ罷在、右御菓子調製仕、仙水清左衞門、熊井五郞左衞門差添、御陣中へ奉二差上一候處、御陣勢へ被レ下之旨被二仰出一、御目通におゐて長持之蓋へ菓子等盛レ之候、且嘉定御祝之儀者、聖武帝之御時、嘉定錢珍菓を以、御祝有レ之事被レ爲二思召一、嘉定御祝儀可レ被二仰出一候處へ、嘉定錢并六種之菓子一時に御手に入、御機嫌ニ被レ爲二思召一候旨蒙二上意一、右御例に而嘉定渡ニ盛奉二獻上一、御時服拜領仕來候處、御祝六月十六日御規式〈與〉被二仰出一候節より、銘々白片木へ盛、饅頭、羊羹、鶉やき之外、三種者寄水、金飩、あこや〈與〉可二相唱一旨被二仰付一、此節より御用多ニ相成、御代銀被二下置一、右者此度御尋御座候ニ付、代々申傳候を以奉二申上一候、以上、
文化六巳年七月十日 大久保主水
p.1208 六月十六日、五時染帷子長、嘉祥御祝儀、萬石以上、同嫡子、高家、交代寄合、無官之面々、雁之間詰、御奏者、菊之間御縁頰詰、同嫡子共、諸番頭、諸物頭、御三卿家老、諸役人、御番方、五百石以上之寄合、御留守居子共、大番頭子共、御醫師御同朋迄出仕、御菓子頂戴、御三家方出仕無レ之ニ付、使者差出伺二御機嫌一有レ之、
p.1208 十六日
一嘉定御祝儀在レ之
一出仕之面々染帷子長袴著二用之一、表向五半時各登城、
一御三家方、同嫡子方、松平加賀守、松平左兵衞督ハ登城無レ之、
〈但松平加賀守、同嫡子、部屋住之内ハ登城、大廣間ニ著座、御祝頂戴之在レ之、家督ニ而者登城無〉
p.1209 〈レ之、〉
一辰中刻西詰橋通大納言様御本丸〈江〉被レ爲レ成、御禮過而被レ遊二還御一、
一辰下刻大廣間公方様大納言様出御〈長袴〉 御先立 月番老中 公方様 御刀 御小性 大納言様御刀 御小性 御中段御著座〈御褥 御刀掛〉
一月番之老中ハ、二之間御縁頰二本目御柱際著座、
一老中之内壹人、二之間北之御襖障子之方一本目御柱際ニ著座、
一溜詰外之老中、西丸共三之間御縁通、衝立之内氈之上ニ列居、
一御奏者番者同所、老中之向通板縁伺公、
〈但京都諸司代、大阪御城代、在府之節者、老中之次ニ著座、〉
一御禮著座之次第 侍從已上(國持御連枝方)
右壹人宛出席於二懸椽一御目見、直ニ御向ニ著座、此節 御熨斗餅〈御三方 御給仕〉兩御番頭 御菓子〈御三方より三ツ〉 右同斷 右順ニ持二出之一備二御前一、著座之面々〈江も〉御菓子出レ之、給仕進物番役御前〈江〉被レ召二上之一、何も頂二戴之一、御熨斗より之御菓子引レ之、著座之面々御菓子持レ之、末座より退座畢る、
一月番且著座之老中之内、此兩人著座を立、三之間御縁通衝立之内、外之老中列著座、何も書面之通出席、御菓子頂二戴之一、畢而傍座、 但二之間北之方御襖障子際著座、壹人者御菓子頂戴之後、最初通著座、 溜詰 老中 在府之節京都諸司代 松平大和守 御譜代侍從 高家〈但少將者其席順々著座〉 表向四品 御側御用人 在府之節大阪御城代 右四品以上之分者、官位隨二前後一順々壹人ヅヽ出座、 右不レ殘頂戴相濟而、月番老中御下段御敷居際ニ著座、四品之面々迄御祝頂戴相濟候段、言上之時は、暑氣之節候故、不レ殘頂戴相濟迄者御著座不レ被レ遊、御目見被二仰付一之旨、其段出仕之面々〈江〉
p.1210 可二申渡一旨上意有レ之、老中退座、四之間御敷居際ニ老中著座、上意之趣一同出仕之面々〈江〉傳二達之一、過而二之間御菓子在レ之邊迄、公方様、大納言様御一同出御、御次伺公之面々、一同御目見相濟而入御、〈〇中略〉
一西丸之面々准二御本丸一罷出、右之通不レ殘御菓子頂二戴之一、
〈但頂戴之面々退座之節、三之間末掛椽より薄縁通、御白書院御番所前へ退散、〉
一御側御用人、若年寄、中大廣間、三之間、北御襖際ニ列居、出御之内西御椽御納戸構、御側衆并奧向之面々伺公、御納戸構後御使番兩人勤仕、
一不レ殘御菓子頂二戴之一、相濟而出仕之面々退出、畢而大廣間二之間懸椽南方老中列座、次御奏者番、芙蓉之間御役人、小普請奉行、御目付迄順々御車寄之方迄列居、御祝儀之御菓子、且素麺御酒被レ下頂二戴之一、
〈但老中給仕者御同朋勤レ之、其餘表坊主勤レ之、〉
一御三家方、同嫡子方、當日御祝儀、御表〈江〉就二入御一、爲レ伺二御機嫌一、使者被レ差二出之一、於二躑躅之間一謁二月番老中一、
一今朝出御已前より大廣間二之間より東方迄、御菓子順々並二置之一、 一熨斗もち 數貳拾壹宛 一饅頭 三宛 一羊羹 五宛 一鶉餅 同 一よりみつ 三十宛〈しんこ黄白〉 一あこや 廿一宛〈いたヾき白〉 一きんとん 三十宛、白團子也、〈青豆粉黒ごま付〉 一ふ 五宛 右八品、一品宛枌ニ檜葉敷レ之、其上ニ右御菓子盛レ之、南北〈江〉貳拾六通リ、東西〈江〉六十九通、都合千七百九十四膳置レ之、
一御城中御門ニ出御、道具餝レ之、與力染帷子麻上下、同心對之羽織著レ之勤仕、 塀重御門、御先手御弓頭一組、 中之御門、同斷御鐵炮頭一組、 御臺所前、右同斷一組、 右之通加番勤レ之、御玄關前中之被二筵敷一レ之、
p.1211 一老中退出已後平服
一西丸當番詰番之面々、西丸於二席々一御菓子、
p.1211 同〈〇六月〉十六日
一嘉祥爲二御祝儀一、辰刻前出仕、染帷子長袴、
一國主、御連子方、溜詰、御譜代大名、并外様大名、嫡子とも、高家、交代寄合、無官之面々、雁之間詰、御奏者番、菊之間御縁頰詰、同嫡子共、諸番頭、諸物頭、御三卿御家老、諸役人御番方、五百石以上之寄合、御側、御留守居子共、大御番頭子共、御醫師、御同朋迄出仕、御菓子頂戴之、
御三家様御出仕無レ之、加賀守越前守も同じ、
p.1211 御菓子總數千六百拾貳膳 木地片木杉之葉鋪
一饅頭三盛、百九十六膳、總數五百八十八、 一羊羹五切盛、百九十四膳、同九百七十切、 一鶉燒五盛、二百八膳、同千四拾、 一阿古屋拾二盛、二百八膳、同二千四百九拾六、 一金飩拾五盛、二百八膳、同三千百五拾、一寄水三拾盛、二百八膳、同六千二百四拾、一平麸五盛、百九十四膳、同九百七拾、 一熨斗二拾五筋盛、百九十六膳、同四千九百筋、 右並場所 大廣間二の間下の方、〈竪二拾七膳、横二拾六膳、〉同所三の間上の方、〈竪三拾五膳、横二拾六膳、〉 前日御退出後並置申候 夜中火笠掛燭臺六本 但張番附居申候 右之外 一切麥素麪御酒詰錫陶其外共、當朝相廻、
p.1211 二十番 右 嘉祥
千代の數敷ならべつヽもろ人の手にまかせたるけふの賜もの
嘉祥は室町の頃より初りしにや有らむ、當家にては代々の佳例となれり、六月十六日兩御所大廣間に渡御有、二三の間にかけて、菓子ひとくさづヽ折敷にもりて並べおく、其數二ちヾばかりもやあらん、此日兩御所には大廣間の中段におはします、松の間の中少將侍從の面々一
p.1212 人づヽ出て、板縁に著座あれば、打蚫菓子を御まへに進め、相伴の輩にも出す、各折敷もちてまかづ、夫より譜代の中少將侍從四位の人々ひとり〳〵出て、折敷を持てしぞく、此間暑によりて入御あるの旨を、宿老より列座の面々に傳ふ、二間まで渡御有てのち入御あり、譜代外様の大小名、百の司々番士同朋のたぐひに至る迄、或は五人、あるは九人ひとしく出て、彼の折敷をもちてまかづ、
p.1212 正徳二辰年六月
一嘉定御祝之節、布衣以下之寄合五百石以上は登城、五百石以下之分者不レ及二出仕一候間、被レ得二其意一可レ被二相觸一候、
p.1212 慶應三卯年三月廿三日
御祝儀事御廢止之件々
河内守殿御渡 大目付〈江〇中略〉
嘉祥、〈〇中略〉右御祝儀御禮等御廢之事、〈〇中略〉
右之趣向々〈江〉可二相觸一候
三月
p.1212 慶長十七年六月十六日、嘉定如レ例、日野惟心、水無瀬一齋、飛鳥井中納言、冷泉三位、土御門左馬權助、舟橋式部少輔出仕、在府之諸武士伺候、午刻出二御南殿一、〈御座上壇〉宰相殿、〈〇徳川義直〉中將殿、〈〇徳川頼宣〉少將殿、〈〇徳川頼房〉同相隨給、日野大納言入道、水無瀬宰相入道、飛鳥井、冷泉、土御門、舟橋等、〈各座疊上〉依二上意一山名禪高召二疊上一、其餘皆候二御縁一、御前御膳、〈御三方〉日野、飛鳥井、〈三方〉冷泉、土御門、舟橋、水無瀬、山名、〈足付〉其後珍菓嘉肴、片木如レ山積レ之、所レ候之輩頂戴之、 十九年六月十六日、御嘉定如レ例、巳刻南殿出御、宰相殿、中將殿、少將殿御列座、御祝之時、三人公達御少年故、令レ出二御座一給事御無用之由、陪膳西尾丹後
p.1213 守、次日野大納言入道、〈三方〉傳長老、〈足付〇中略〉御縁山名禪高、〈片木〉佐々木中務、〈片木〇中略〉其外諸侍不レ可二勝計一、
p.1213 十六日嘉定喰〈〇中略〉 今日公家武家嘉定の御祝あり、所レ謂嘉定通寶十六枚をもつて、食物を買調へて服すれば、其家に福あり、故に今に至て其例にならふ、又嘉通と勝と訓近し、軍に勝の義に取て、特に武家吉兆錢とす、此日五色の團子、并に諸品の肴を、土器兩箇に盛、各白紙をもつてつヽみ、水引をもつて是を結び、群臣に賜ふ等の儀有、是即十六錢をもつて、求得るの遺意なり、諸家も亦此儀あり、或は孔方十六枚、米一升六合を家人に與ふ、其人々是をもつて、雜品諸物を調て是を獻ず、又土器に杉葉を敷、其上に大饅頭三箇を盛、杉原紙にてこれをつヽみ、凡て物毎に十六の數を用ゆ、今夜諸家の中十六歳の人、振袖を切て詰袖とす、其土器にもる大饅頭の正中に穴を穿ち、其穴より月を見る、これを月見といふ、今宵袖を留るの式なり、
p.1213 慶長十年六月十六日、從二掃部頭一嘉定給レ之、梅龍軒より鮒鰭給レ之、〈〇中略〉家中嘉定如レ例、各切麺、次自二九條殿一嘉定給レ之、
p.1213 十六日 嘉祥御祝儀、諸侯御登城、良賤佳節を祝す、〈家々餅を製す、下賤の者は、錢十六文を以て食を調へ、食する事、かへつていにしへの例にかなへるにや、〉