p.0861 年始ニハ、上朝廷ヨリ下庶民ニ至ルマデ、其行事甚ダ多端ナリ、今其記事ノ以テ一篇ト爲スニ足ラザルモノヲ合セテ、年始雜載ト稱シ、之ヲ年始祝篇ノ後ニ附ス、門松ハ、歳首松ヲ門前ニ立テヽ飾トスルヲ云フ、故ニ後ニハ又之ヲ松飾トモ稱セリ、而シテ歳尾ニ之ヲ立テ、正月七日ニ之ヲ撤スルヲ以テ、元日ヨリ此日マデヲ松ノ内ト稱ス、然レドモ或ハ十五日ノ爆竹ニ至ルマデ之ヲ存スルモノアリ、注連飾ハ、注連繩ニ、讓葉、穗長草等ヲ挿ミタルモノニシテ、之ヲ神棚、門戸等ニ施シ、以テ清淨ノ意ヲ表ス、其之ヲ用ヰル日限ハ門松ニ同ジ、年男ハ、年末歳首ノ儀式ヲ掌ルモノヲ言フ、足利氏ノ比ヨリ其名見エタリシガ、徳川幕府ノ時、表ノ方ハ老中、奧ノ方ハ留守居ニ命ジ、煤拂、節分及ビ元三以下、凡テ年始ノ諸祝儀ヲ管セシム、千秋萬歳(センズマンザイ)ハ、後ニ萬歳ト稱ス、歳首、朝家及ビ幕府ニ參リ、又民間ヲ巡リ、歌舞シテ歳首ヲ祝スル者ナリ、後世其大和三河等ヨリ來ルモノヲ大和萬歳、三河萬歳ト稱ス、鳥追ハ、蓋シ田疇ノ鳥ヲ驅ルニ起レリ、歳首乞丐ノ婦女、編笠ヲ頂キ三絃ヲ鼔シテ歌謠スル者ナリ、 p.0862 初夢ハ、夢ノ吉凶ニ由リテ其年ノ禍福ヲ占フコトニテ、其夢ハ節分ノ夜トシ、除夜トシ、或ハ元日ノ夜トスルモアリ、二日ノ夜トスルモアリテ、時代ニ由リ、地方ニ由リテ各々一様ナラズ、サレド足利時代マデハ、概ネ節分ノ夜ニシテ、近世ニ至リ、漸ク變ジテ二日ノ夜トナリシモノヽ如シ、初夢ノ夜、舟ノ繪ヲ枕頭ニ置クハ、凶夢ヲ見シ時、此ニ附シテ流サントテノ所爲ナリシガ、後ニハ此ニ米俵及ビ其他種々ノ寶物ヲ畫キ加ヘテ寶船ト稱シ、更ニ後ニハ廻文ノ歌ナドヲモ書キ添フルニ至レリ、又毎年正月二日ニ、禁中ヨリ諸臣ニ賜ヒシ船ノ畫ニハ、帆ニ獏ノ字アリ、後陽成天皇ノ宸筆ニシテ、獏ハ夢ヲ食フトノ説ヨリ起レリト云フ、掃始ハ、上下並ニ之ヲ正月二日ニ行ヘリ、而シテ禁中ノ掃始ニハ、小法師箒ヲ獻上シ、幕府ノ掃始ハ、老中之ヲ勤ムルヲ例トス、元日ニ屋中ヲ掃除セザルハ、或ハ新年ノ陽氣ヲ散ゼザラシムル爲ナリト云ヒ、或ハ人ノ其家ヲ離レテ後數日ノ間、家人屋内ヲ掃ハザリシ上古ノ遺風ナリト云ヒ、或ハ彼ノ閩ノ俗、歳首ニ糞土ヲ除カザルニ據リシトモ云ヘリ、商始ニハ賣初アリ、買初アリ、賣初ニハ商品ノ初荷ヲ各々其花主ニ致シ、買初ニハ葷莘ノ類及ビ蛤海參等ヲ買フ、正月元日ハ商賈何レモ戸ヲ開カズ、賣買セズ、二日ニ至リテ始テ之ヲ行フ、船乘始モ亦正月二日ニシテ、舟人等ノ水上ノ安全ヲ祝スルナリ、江戸大坂等ヲ始トシ、諸國浦々ニ之ヲ行フ、殊ニ大坂ノ船乘始、及ビ角倉ノ舟乘始ノ如キハ、其儀ノ最モ盛ナルモノナリ、諸侯ニモ亦此儀アリ、土佐ノ山内氏ノ如キハ、毎年正月ニ當主親ラ乘船シテ此儀ヲ行フヲ例トス、事ハ兵事部水軍篇演習條ニモ在レバ、宜シク參看スベシ、此他年始ニハ奏事始、吉書始、御判始、書初、馬乘始、弓場始、謠初等ノ事アリ、別ニ其篇目アレバ、多クハ省略ニ從ヘリ、正月七日ハ、人日ト稱ス、此日若菜ノ粥ヲ作リテ啜ルトキハ、疾病ヲ免ルト傳フ、因テ朝廷ニ p.0863 テハ、六日ニ水無瀬家ヨリ七種ノ菜ヲ獻ジ、七日ニ櫃司ヨリ供進ス、民間ニテハ、六日ノ夜七種ノ菜ヲ切ルニ、聲ヲ擧ゲテ之ヲ搥テリ、藏開ハ、朝廷ニテ、正月十日ヨリ十五日ニ至ル内ノ吉日ヲ擇ビテ、御藏ヲ開クノ儀ナリ、商家ニテハ之ヲ十一日ニ行ヒ、帳簿ヲ綴ヂ、雜煮ヲ食シテ祝セリ、鏡開ハ、正月十一日、武家ニテ甲冑ニ供ヘタル鏡餅ヲ食シテ祝スルヲ謂フ、初メ二十日ニ行ヒシヲ、承應元年改メテ此日ト爲セリ、十五日ハ、即チ上元ナリ、〈上元ノ事ハ、時節篇三元條ニ在リ、〉此日モ亦七種菜ノ粥ヲ作リテ食トス、後ニハ小豆粥ヲ用ヰ、或ハ之ニ餅ヲ加フルモノアリ、又十六日、十七日、十八日ニモ亦粥ヲ食シテ之ヲ祝セリ、御薪ハ、ミカマギト云フ、正月十五日、百官薪ヲ宮内省ニ獻ズル儀ナリ、事ハ天武天皇四年ニ起ル、爆竹ハ、サギチヤウト云フ、又左義長、三毬打ノ字ヲ用ヰル、左義長ハ、葉竹ニ、注連繩、扇等ノ飾ヲ施シタルモノニシテ、之ヲ爆シテ病魔ヲ畏懾セシムルニ起因スト云フ、朝廷ニテハ正月十五日、清凉殿ノ東庭ニ於テ御吉書ノ左義長アリ、左義長ハ、山科家ヨリ之ヲ獻ズ、次デ十八日、又同殿ノ南庭ニ於テ、諸家ヨリ獻ズル所ノ左義長ヲ燒ク、並ニ天皇御覽アリ、其之ヲ燒クニ方リ、陰陽師聲ヲ擧ゲテ火聲ニ應ジ、鬼面ヲ被リタル童子棒ヲ執リテ舞ヒ、其他大鼔、羯鼔ヲ擊チ、聲ヲ齊シクシテ之ヲ和ス、民間ニテハ、十五日ノ曉ニ、廢撤スル所ノ門松、注連飾等ヲ集メ、葉竹ヲ其四傍ニ竪テヽ之ヲ燒ケリ、二十日正月ハ、專ラ民間ニ行ハルヽ祝ニシテ、正月二十日ニ、毎家團子等ヲ製シテ燕遊スルモノナリ、
p.0864 かどまつ 正月門ごとに松竹など立て祝ふを、門松と稱せり、門神の祀なるべし、徒然草に、大路に松立わたしと見えたり、全浙兵制、我邦正月の事に、以二松柏一挿レ門、乃取二長春之好一といへり、爲尹歌に、
今朝はまた都の手ぶり引かへて千色の始め〈◯千色の始め、爲尹卿千首和歌作二ちひろのみしめ一、〉しづが門松、歳華紀麗に、元日松標二高戸一とも、董勛問禮に、繫二松枝于戸一とも、風俗記に、正旦楚人上二松柏類一ともいへり、其意近し、今福閩の間、正月門戸に松竹を飾り立るは、國姓爺より始るよし、西川氏の書に見えたり、禁中并に堂上には、門松をかざる事なし、諸家中に注連をひく事あり、
p.0864 正月 問て云、一月よりしづが家ゐに、門の松とてたて侍るは、いつごろよりはじまれる事ぞや、 答、いつごろとは、たしかに申がたし、門の松たつる事は、むかしよりありきたれる事なるべし、しづが家居は、大かた封戸なるによつて民戸と申侍れど、むかしは一町のうちを五丈づヽにわりて、門をたてしかば、八の門ありしなり、その中に、賎が家ゐをつくり侍れば、門なかるべきにあらず、その門の前に松竹を立侍り、松は千とせをちぎり、竹はよろづ代をちぎる草木なれば、年のはじめの祝事にたて侍るべし、またしだゆづり葉は、深山にありて、露霜にもしをれぬ物なれば、しめ繩にかざりて、同じくひき侍るにや、しめ繩といふ物は、左繩によりて、繩のはしをそろへぬ物也、左は清淨なるいはれ也、端を揃へぬは、すなほなる心なり、さればあまてるおほん神の天の磐戸を出で給ひし時、しりくめ繩とてひかれたるは、今のしめ繩也、淨不淨をわかつによりて、神事の時は必ひく事に侍り、賎が家ゐにひく事も、正月の神をいはひまつる心だてなるべし、
p.0864 かどまつ〈門松〉 しめなは〈注連繩〉 正月の門松はふるき世より、その説さま〴〵あれど、いづれもたしかならず、ものにみえたるは、本朝無題詩、惟宗孝言の詩の自注に、近來世俗皆
p.0865 以レ松挿二門戸一、而余以二賢木一換レ之故云、とみえたるを始とすべし、此ほかには年中行事繪に、土佐光長が筆にあらはせるがごとし、歌には堀河院百首顯季卿除夜の歌に、門松をいとなみたつる云々、とみゆるぞはじめなるべき、さて是はすゑ〴〵の賎がいとなみに、しならはせるわざにて、もとよりうるはしきおほやけ事にはあらず、されば正しき書どもにはみえぬなるべし、今も榊をたつること、邊鄙などに稀々あり、いにしとし、詮丈が旅行せし時、東海道金谷島田の驛、又藤枝のあたりにしきみをさせる家どもみえたりき、上に引ける無題詩の自注に、近世云々とあるを思へば、延久承保の頃より、民の家々には、專ら正月の祝事として、立はじめけるにやあらん、さて下様のみもてあつかへることのよしは、世諺問答の説、かつ左に擧たる古歌どもに、賎が門松云々とおほくよめるにて、そのおもむきたしかにしられたり、たヾしふるくは松のみにて、竹をたてそふるは、いづれの世よりといふことをしらず、世諺問答に、竹をもたつるよし見えたれば、應永の頃には、竹をもたてたる事勿論なり、さればいたく下りての世の事とおぼゆ、さてこの月家毎の門に注連繩を引かくる事は、神代に天照大神をとヾめ奉るとて、天の岩屋戸に布刀玉の命、尻久米繩をもて引わたしたるを始にて、是より押うつりては、只神の前に引わたして、祭りあがむることヽなれり、今は春陽の氣をむかへて、門戸を祭るが爲なるべし、又西土にも禮記月令集説曰、戸者人所二出入一、司レ之有レ神、此神是陽氣在二戸之内一、春陽氣出故祭レ之などみえ、荊楚歳時記にも、元旦索に松柏をむすび、畫雞を門戸に付て、疫鬼をさくるよしみゆ、されば只門戸を祭るのみにあらで、是らをも思ひよせたるにや、さて皇國にてしめなはを門戸にかくる事は、延喜承平などの頃より、すでにあることヽ見えたり、下にひける土佐日記元日の條をみてしられたり、そも〳〵門松をたつること、ふるくよりさま〴〵にいひきたれど、いづれも後人のおしはかりにて、いふにもたらず、〈◯中略〉武家に行はるヽ事は、鎌倉室町兩將軍家には所見なし、天正の前後羽尾記、嘉良記隨
p.0866 筆等にみえたり、西土にても正月元日、松標高戸といふ事は、李唐の代にみえたり、〈歳華紀麗〉
p.0866 正月門松 鹽尻〈卷之四湯武篇〉云、正月門松立る事、藤原爲尹の歌に、しづが門松といへば、高貴の家、まして朝家にはなかりしにや、今も朝廷の諸門には、松立ることなしといふ人あり、按ずるに、藏玉集に年貢の歌を載て、大内やもヽしき山の初代草いくとせ人にふれて立らん、初代草は正月二日、大内に植る松也、門松の事也としるせり、む月二日大内の御門に松立給ひし事ありと見えたり、これも亦おが玉の木にして、門神にひもろけとり付侍る事にこそといへり、解云、右にいへる爲尹卿の歌は、 爲尹卿千首 今朝は又都の手ぶりひきかへてちひろのみしめ賎が門松、爲尹卿は諸家大系圖〈第六〉に見えたり、權大納言爲氏卿、〈これを頭流とす〉六世中將〈一云大納言〉爲邦卿の子、左中將正三位應永中の人也、〈一書に應永二十四年正月廿四日薨、爲秀の子とするものは非也、爲秀卿の孫也、〉藏玉集もおなじ時代の歌書にて、奧書に二條攝政良基公〈後小松院のおん時攝政し給へり〉注進し給ふよしいへり、按ずるに門松立ることは、應永より三百餘年前、堀河院のおん時よりこれあり、 堀河百首〈中除夜〉門松をいとなみ立るその程に春明がたによや成ぬらん 藤原顯季(從三位修理大夫) 又俊惠法師が林葉集〈六雜〉に、正月三日人のもとにまかりたりしに、中門に松をたてヽ、いはヽれたりしかば、 春にあへるこの門松をわけ來つつわれも千世へんうちに入ぬる、林葉集は俊惠法師の家の集也、俊惠は俊頼朝臣の子也といへば、これもふるし、又 拾玉集五 我思ふ君がすみかのおもかげは松たつ門の春のけしきに 大將軍 拾玉集は慈鎭和尚の家の集也、右のよみ人大將軍は頼朝卿也、その書の五の卷に、慈鎭和尚と鎌倉幕府と贈答の歌あまたあり、是その一うた也、かヽれば門松の事、堀河のおん時より連緜として證歌あり、さばれ公事ならざれば、年中行事などへは入られず、故に濫觴は定かならざる也、推て説をなすときは、往古春正月の朔毎に、宮城の中門外に大楯槍を樹らる、〈大禮の時も樹れども、年首を宗とす、〉こは石上榎井二氏の世々掌る所也、聖武天皇の天平十七年春正月己未朔、廢朝なり、この
p.0867 とき俄頃に、山背なる恭仁京に遷らせ給ひしかば、石上榎井の二氏倉卒にして追集るに及ばず、故に兵部卿從四位上大伴宿禰牛養、衞門督從四位下佐伯宿禰常人、大楯槍を樹るよし、聖武紀に見えたり、かやうの事により、田舍にて元朝毎に門戸に松を立て、件の大楯槍に擬したるにてもあらん歟、むかし道次なる石神、或はふりたる樹に注連して神とし祭ること、皇國の習俗也、〈琉球國にもこれらの事あり、琉球事略に見えたり、〉正月には神を祭り、よろづ祝ぐものなれば、彼楯槍に換るに松を用てし、これを石神樹神に象りて、注連引繞らし、各門に立たるならん、この事田舍にはじまりて、後に京師に移りしかば、後々までも、賎が門松と詠みたるなり、今も箱根の山家にては、正月門に松を立てずして、大なる莽草(しきみ)を立つ、豐後にもさる處あり、榊を立つる處もありといふ、榊を立つることは、惟宗孝言の詩句より起る歟、〈◯此下引二本朝無題詩一、今略、〉こは齋戒のをりなれば、榊をもて松にかへたるよしなり、これらの事を傳へ聞きて、田舍にても、齋する家には、榊を立てたるにより、それさへ例となりたるもの歟、莽草を立つるもおなじすぢにて、清淨を宗とするなるべし、
p.0867 十二月廿六日 今日立松つくり申候也、仍御太刀被レ下レ之、攝津守元道朝臣説也、近年は晦日に作申也、
p.0867 慶安元子年十二月
一正月之門松、十五日迄置可レ申事、
十二月
p.0867 寶永三戌年十一月
一門松例年大〈ク〉有レ之間、來正月より小〈キ〉松を立可レ申候、大〈キ〉なる門松堅商賣仕間鋪旨、町中可二相觸一候、以上、
十一月
p.0868 此月市中、〈◯中略〉又村婦載二飾藁於頭上一、高聲賣二市中一、飾藁是代二葦索一而所レ用レ之也、山人賣二稚松翠竹一、松稱二子日松一、竹謂二飾竹一、松竹各一雙建二門外之左右一、別以二竹一隻一横二左右松竹之間一、人往二來于其間一、
p.0868 元日 門松飾藁〈凡新年之賀儀、各有二方土之異一、或有二一家之例一、其式様不レ一、惟家内之葦索并門前之松竹者、夏夷共同レ之、倭俗正月門前、左右各建二松一株竹一竿一、上横二竹兩竿一、其外面挿二昆布果實等物一、名稱二門松一、蓋孟春之月祀レ戸之義乎、〉
p.0868 晦日〈又除日といふ〉 屋中及宅中を盡く掃除し、門松をたて、戸上に注連繩をかくべし、
p.0868 門松(かどまつ)〈立松、かざり松、かざり竹、松かざり、門の竹、門のかざり、(圖略)松は千歳を契り、竹は萬代を契るものなれば、年始の祝に用ふるよし、一條禪閤の御説なり、又松は十返りとて、百年に一度花咲ても春也、千年のよはひ有とて、年の始に用る也、◯中略〉藁盒子(わらがうし)〈藁にて小さき畚のごとき物を拵へ、門松にくヽり添物也、〉
p.0868 門松圖【圖】
p.0868 民間歳節上 元日至二十
p.0869 四日一、〈◯中略〉又植二雙松于戸外一、懸以二司命索一、裝二串柿、橙、橘、及炭、龍蝦之類一、謂二之門松一、 歳華紀麗曰、元日松標二高戸一、註董勛問禮、俗有下歳首酌二椒酒一而飮上レ之者何也、以二椒性芬香又堪一レ作レ藥、又折二松枝于戸一、以同二此義一、 按、串柿〈此云二九子賀喜一〉橙〈此二云一代代一〉橘〈此云二好事一〉即熙朝樂事所レ謂百事大吉之意、蝦俗名二海老一、蓋取二義於偕老一、炭亦辟二邪惡一、本草綱目曰、白炭除夜立二之戸内一、亦辟二邪惡一、
p.0869 元日門松飾藁 今日より十五日まで、門前左右に各松一株竹一本を立、上に竹二本を横たへ、飾藁を付、是に昆布、炭、橙、蜜柑、柑子、柚、橘、穗俵、海老、串柿、楪、穗長を付る、〈穗長一名齒朶、又裏白、或はもろむきと云、夫婦相生の義にとる、讓葉和名親子草と云、子孫相讓て長久を祝す、又根引松を門に立、間口に應じ注連飾を張り、其餘裏口、井戸、竃、神棚、湯殿、厠に至迄、松を立、輪飾とて注連を輪にして掛る也、門松は孟春戸を祭るの義乎、或云、神代穴居のとき、各其食するものを木に竹を架し、かけ置たる微意といへり、世諺問答云、此事いつの頃よりとはたしかに申がたし(中略)或説云、一條院御宇、寛弘の頃より、民間專ら門松をいとなみけるといへり、むかしは禁裏院中并に攝關などの貴家、門松或は注連飾は營む事なし、是は平生に不淨を入るヽ事なし、民家は常に不淨を觸るヽ事多かめれば、年の始に神を祭るため、あらたに門戸をまうくる義ならんと云云、一説に、素戔嗚尊南海に赴給ふとき、蘇民が子孫は、門に印の松を立べし、其家には疫神を入れじと誓ひ給ふと、又門松は巨旦鬼王の塚を表せりと云、何れも信がたし、〉
p.0869 廿八日 貴賤の家にて、門松を立、注連飾をなすに、大かた今明日を用ゆ、〈寺社も同じ〉
p.0869 門松、〈◯中略〉近年江戸ニテ稻穗ノ付タル藁ヲ以テ、輪注連ヲ小シ大形ニ精製シ、或ハ奉書紙ヲ蝶ノ如ク折タルナド、飾リトナシタルヲ、床ノ間、或ハ坐敷ノ内、然ルベキ柱ナドニ掛ルコト、風流ヲ好ム家ニ專ラ用レ之、傚レ之テ常ノ小輪飾ニモ稻穗ヲ用フルモ製シ賣ル、 京坂門松注連繩ノコト、武邸等ハ多ク圖ノ如ク〈◯圖略、下同、〉製シ、坊間ニテモ三井、大丸、岩城、小橋屋等、呉服現銀店ハ必ラズ圖ノ如クス、然モ呉服店モ右等ノ大店ニ非レバ、此如クニ飾ラズ、其他ハ豪富巨戸ト雖ドモ、左圖ノ如ク、戸口兩柱ノ上、或ハ下ニ門松ヲ釘シ、戸上ニ麁ナル注連繩ヲ張ノミ、前垂注連ヲ用、門松ニ竹ヲ添ズ、松根多ク砂ヲ盛ル、注連繩ノ飾ニハ裏白、ユヅル葉、海老、ダイダ
p.0870 イ、蜜柑、柑子、串柿、昆布、榧、カチ栗、池田炭、トコロ、ホンダハラ、大略三都相同、榧、カチグリハ紙ニ包ム也、 江戸武邸ハ勿論、市中ニテモ呉服大店ノミ非ズ、諸賣トモ大店ニハ專ラ此制ヲ用フ、如レ圖ニ飾ラザル門松ニハ竹ヲ添ヘズ、松ノミヲ專トス、 是モ前垂注連也、松ノ根專ラ薪ヲ以テ圍ム、或ハ松ヲ中央ニ其三方ニ薪ヲ地ニ打テ、是ニ繩ヲ以テ引張ルモアリ、蓋毎家恒例アリテ一定ナラズ、 江戸モ小戸ハ、京坂ノ如ク柱ニ釘スルモアリ、圖ノ如ク太キソギ竹ニ小松ヲ添ルモアリ、ソギ竹ヲ建タルニハ、注連繩ハ戸上ニ打也、醫師ナド此制多シ、
p.0870 長齋之間、以レ詩代レ書、呈二江才子一、 惟宗孝言
占期百日潔齋庭、正月春中閉二四墉一、持レ案法華應二聖藻一、鎖レ門賢木換二貞松一、〈近來世俗皆以レ松挿二門戸一、而余以(○○)二賢木(○○)一換(○)レ之(○)、故云、〉西方晩觀素無レ怠、南元曉聲今不レ慵、戴レ土石山君所レ樂、我猶致レ信是金峯、
p.0870 除夜 修理大夫顯季
門松をいとなみたつるそのほどに春あけがたに夜やなりぬらん
p.0870 冬 待賢門院堀河
山がつのそともの松もたてヽけり千とせをいはふ春のむかへに
p.0870 ついたちの日 行家
今朝はみなしづが門松たてなべていはふことぐさいやめづらなり
p.0870 都立春
今朝は又都のてぶり引かへてちひろのみしめしづが門松
p.0870 寛喜元年女御入内、御屏風花景人家元日、 光明峯寺入道攝政
p.0871 初春の花の宮古に松をうへてたみの戸とめる千世ぞしらるヽ〈◯中略〉
家集元日聞レ鴬 西行上人
しめかけてたてたる宿の松にきて春の戸明る鴬のこゑ
p.0871 明行そらのけしき、昨日にかはりたりとは見えねど、ひきかへてめづらしきこヽちぞする、大路のさま、松たてわたして、はなやかにうれしげなるこそ、又あはれなれ、
p.0871 二條御城松莊之事
一二條御城御門松鬼割木杌木、例年十二月廿七八日比、小堀仁右衞門方より稻荷村役人方〈江〉申遣、三輪市十郞〈江〉相渡候、且又葉竹之儀は、角倉與一方より市十郞〈江〉相渡候由、
大坂御城内外御門松莊之事
一大坂御城内外御門松莊道具品々之事、例年極月三日之比、大坂御城代御定番衆より、兩奉行所〈江〉申來候、早速小堀仁右衞門、古郡文右衞門、角倉與一〈江〉申達、同所御材木奉行より仁右衞門方〈江〉案内申來次第、村々〈江〉相觸候由、
一杌木其外品々者、十二月廿三日比、川崎御材木藏場迄指出、松竹者同廿五六日比、京橋口土橋先迄指出、御材木奉行中〈江〉相渡候由、
右納村方 横大路村(小堀仁右衞門御代官所) 石田村(同斷)〈◯以下三十九村略〉
一右同所御入用葉竹之儀、伏見支配所より例年相渡り候ニ付、石川備中守方〈江〉大坂より被二申越一相渡り候由、
p.0871 大手御門より外曲輪諸番所勤仕之次第
一御松餝、竹は葉なし、竿に等敷、裏を切先の如く切り、松を添、如レ圖被レ爲レ建候事、此恒例は、天正元龜之頃、神君濱松御在城之砌、甲斐信玄〈與〉御合戰被レ遊候、其節御敗軍ニ而、夏目p.0872 金右衞門御身代りニ罷立、濱松〈江〉御駕向奉りける時、君既ニ御城入有レ之、御城ニ而笧可レ燒旨被レ爲レ命候處、甲州方馬場美濃守、山縣三郞兵衞尉、御跡を慕ひ責、濱松迄奉レ追候時、御城内閑ニ而笧燒、御城門開き、橋等も不レ被レ爲レ引、海道第一之大將なれば、是等之趣ニ而は定而謀事可レ有レ之、猥ニ攻入難し迚、揚貝ニ而引取候、依而御難逃れ給ふ、明れば元旦ニ敵方歳旦之句とて、松枯て竹類ひなきあしたかな、と贈り越候處、御前に酒井左衞門尉忠次罷在候て、神君御不興の御様子を察、右發句はケ様ニ讀直して然るべくとて、松かれで武田首なきあしたかな、と奉レ祝ければ、御機嫌宜まし〳〵、既に御開運を得給ふを以、御吉例となれり、今御餝松、武田の首を紛し伐也と申傳ふ、
p.0872 正月門松ヲ設ルコト、諸家一様ナラズ、通例ハ年越ヨリ七草ノ日迄ナルガ、十五日迄置ク家モアリ、筑前ノ福岡侯支侯、肥前ノ佐嘉侯、對馬ノ宗氏、予家〈◯松浦〉モ同ジ、南部盛岡侯、岩城氏〈出羽ノ龜田〉ナドモ同ジ、又宗氏ハ門内ニ松飾アルガ、玄關ノ方ヲ正面ニ向ケテ、立松ヲ用ル所椿ヲ用ユ、予ガ家ハ椎ノ枝ト竹トヲ立テ、松ヲ用ヒズ、是ハ吉例ノ譯アルコト也、又平戸城下ノ町家ニハ、戸毎ニ十五日迄飾ヲ置ナリ、又大城ノ御門松モ世上トハ異ルヨウニ覺ユ、今ハ忘レタリ、安藤侯ノ門松ハ故事アツテ、官ヨリ立ラルト云、此餘聞及ブニハ、姫路侯ノ家中ニ、モト最上侯ニ仕タル本城氏ハ、松ハ常ノ如ク拵テ表ヘ不レ立、裏ニ臥シテ置ク計ナリ、コレハ昔門松ヲ拵ヘタル計ニテ戰ニ出、勝利ヲ得タル古例ト云フ、又同家中ニ、モト名波家ニ仕タル力丸氏ノ門松ハ、一方計ニ立テヽ左右ニハ不レ設、就テハ上ノ横竹ナケレバ、付ル飾モ無シ、是モ半バ拵カケテ戰ニ出デヽ勝利ノ佳例ト云、又直參衆ノ曾根内匠ハ、竹ヲ切ラズ、中ヨリ下ノ枝ヲ去リ、長キマヽニテ立テヽ、末葉ヲツクル、横ニ結ブ竹モコレニ同ジ、〈小川町ニ居ト云◯中略〉又聞ク、新吉原町ノ娼家ニテハ、門松ヲ、内ヲ正面ニ立ルト云、是ハ客ノ不レ出ト云表兆ナリト、又予ガ若年ノ時、上野廣小路ノ一方ハ、大抵買女衆ニ
p.0873 テ、所レ謂私窩ナリ、此戸外ニモ皆内向キニ立タリ、其前道ハ登山ノ閣老、參政、大目付、御目付ナド往還アルニ、私窩ノ業ヲ押晴テ、目立ツヤウニセシハ、イカナルコトニヤ、ソノ邊寛政中ヨリ業ヲ改メテ、尋常ノ商家トナレリ、
p.0873 一正月の門松かざり拜領之家は、安藤對馬守と松平九郞右衞門なり、
p.0873 前ニ安藤侯ノ門松ハ、故事アツテ官ヨリ立ラルヽコトヲ云ヘリ、後此事ヲ聞クニ、或年ノ除夕ニ、神君〈◯徳川家康〉安藤ノ先某ト棊ニ對シ、屡々負タマヒ、又一局ヲ命ゼラル、某曰、今宵ハ歳盡ナリ、小臣明旦ノ門松ヲ設ケントス、冀クハ暇ヲ給ハラント、神君曰、門松ハ吏ヲ遣テ立ベシ、掛念スルコト勿レ、因テ又一局ヲ對セラレテ、神君遂ニ勝ヲ得玉シト、自レ是シテ依レ例官吏來テ門松ヲ立ツトナリ、又今安藤侯ノ門松ヲ立ルトキ、御徒士目付其餘ノ小吏來ル、其勞ヲ謝スルニ、古例ノマヽナリトテ、銅ノ燗鍋ニテ酒ヲ出シ、肴ハ燒味噌一種ナリ、コレ當年質素ノ風想ヒ料ルベシ、
p.0873 二日 吉原遊女年禮〈(中略)此里の門松は、各家の方を向けて立るをもてならはしとせり、〉
p.0873 大國主西神社〈西宮市庭町にあり◯中略〉 當所の生土神にして、毎歳正月十日は居籠祭とて、九日の夜には、此御神廣田社へ臨幸まします、神像の惡きにより、人目をはづかはしくおもひ給ふ諺ありて、市中の民家こと〴〵く門戸をかたく閉、筵簾など垂て、門松を逆に立けり、
p.0873 底倉村〈◯中略〉 正月門戸ニ樒ヲ立(○○○○○○)、松飾ノ代トス、〈◯中略〉大平臺村〈◯中略〉 當村モ正月、門戸ニ樒ヲタテリ、
p.0873 門松 かどに松をたつるは、千年のものなるからに、年のはじめのいはひのこヽろばへ、かつはかざりにとてすること、たれもおもふなれど、さやうにてはあらじ、年のはじめはことさらに、神をまつるとてするにこそ、しかおもふよしは、一とせ江戸よりかへるさに、小田原の里にて年くれて、はこね山をむ月ついたちの日にこえしに、此山里にては、しきみの木を門ごと
p.0874 にたてわたして、しめ繩ひきはへ、ゆふしでかけて、いとかう〴〵しくしなしたり、又しきみと松とまじへさしはやしたるところもあり、これを見てしりぬ、松をたつるも、ひもろぎとなし、神をまつるになん、萬葉集の歌に、にはなかのあすはの神に小柴さしわれはいははんかへりくまでに、といへるをもおもひあはすべし、さてむかしさかきとて、神わざに用ひし木はしきみにて、豐受宮にては、これを花さかきといふよし、故荒木田久老神主のいひしも、こヽによくかなへり、
p.0874 文明八、〈丙申〉門松二度立ル也、
p.0874 不レ飾二門松一
是禁中并堂上諸家中、トモニ正月門ニ松ヲ不レ飾也、於二諸家中一ハ注連(シメ)ヲ引也、於二禁中一ハ猶不レ引レ之也、注連トハ繩ニ紙ヲ切垂也、於二俗家一正月門ニ松ヲ飾ル事、其謂レヲ不レ知也、
p.0874 初代草 門松〈正月二日大内に植松なり、門松の事なり、〉
大内や(年貞記)もヽ敷山のはつ代草いくとせ人にふ〈◯ふ、一本作レな、〉れてたつらん
p.0874 佐竹侯ニハ門松ナシ、是モ何カ困厄ノ後、勝利ノ例ト云、御旗本衆ノ岡田氏モ門松ナシ、其故事ハ未ダ聞ズ、コレハ織田家家老ノ家ナレバ、古キワケモアルナルベシ、
p.0874 嚮ニ門松ノコトヲ云タリ、後聞ク大坂ハ門松ナシ、町家ハシメ繩ヲ戸口ニ張ルナリ、因テ七草迄ノ間ヲ松ノ内トハ云ハデ、シメノ内(○○○○)ト云フ、又松ヲ飾ルモ、小枝ヲ戸口ノ柱ニ、釘ニテ打ツケ置クバカリト云、
p.0874 天保十一年十一月十九日、光格天皇崩御まし〳〵ければ、京中畏りつヽしみて、聲高にものいふ人もなし、〈◯中略〉春を迎ふる心がまへは、かつても聞えず、門松しめ飾も、誰かは思ひよらむ、かヽる折にも武家とあるあたりは、正月の設、大方平年にことならず、定まりて出入るものどもヽ、互に新春の祝言をいふめるは、都のうちにも、唐天竺の人の交り住たらむやうに、見なさる
p.0875 るを、さすがにいぶかしみ思へる人々も、少からぬ中に、薩摩の御館の預山田清安、獨畏りに堪へず、殿の京におはしまさば、いかでかさる手ぶりには交はりたまはむ、〈◯中略〉せめては觸穢の日數過してこそ、年並の春にも逢はめと、男々しく思定められたるを、土佐の御館の預なる柴田勝世、おなじ心には競進みて、かのいぶかり漂はれし人々にも、この思取れるやうども傳へられしかば、其交らひある九ケ所の御館は、一例に事定まりて、門松もしめ繩もなく、歳暮年始の行ひもすべて省かれたれば、實に亮闇のとしのさまは、かくすべくぞ見えたりし、
◯按ズルニ、此時門飾有無ノ議アリ、又慶應二年、孝明天皇崩御ノ時、松飾取拂ヒヲ命ゼシ事ハ、禮式部服紀篇喪中雜制ノ條下ニ載ス、
p.0875 十四日、門松注連繩を去、
p.0875 六日 門松おさめる
p.0875 六日 今夕門松を取納む〈承應の頃までは、十五日に納めしとなり、〉
p.0875 寛文九酉年正月
一如二跡々一其町々之松かざり、明七日ニ取可レ申候、〈◯中略〉
正月
p.0875 正月の松かざり、むかしは久しく立置たり、寛文二年寅正月六日町觸に、松かざり明七日朝取可レ申事、其後もなほやまざりしと見えて、寛文十年戌正月、又おなじ法度の觸ありて、來年よりは相觸申間敷候間、毎年左様相心得可レ申候と見えたり、昔日の人情今より見れば、雅なきやうなれど、久習一旦にはうせがたきこと多し、武家には久しく立おくもあれど、大かたは門飾を取て、其跡に松の木梢を折て挿おく、この故なり、明暦元年乙未十二月廿二日、正月の松かざり十五日前は、此方より一左右次第取可レ申事と見ゆ、上總姉がさきの俗、正月門戸ニ榊椎などを
p.0876 立て松を用ひず、又三日松をたき木とせず、姉がさき明神雄神遠遊して歸らず、まつはつらきと怨み給ひしより、松を神の忌せ給ふとてなむ、
p.0876 正月十五日、十六日、俗ニ小正月ト云、〈◯中略〉 京坂トモニ、十五日ニ門松注連繩ヲ取除ク也、江戸モ昔ハ今日ナリ、大坂ハ門松注連繩ノ類ヲ、諸所川岸等ニ集メ積テ、十六日ノ曉前ニ焚レ之テ、左義長ノ義ヲ表ス、焚レ之ヲ坂俗ハトンドト云也、 十四五日頃ニハ、小戸貧民ノ男童等、藁筵ノ兩邊ニ竹ヲツケ、四人ニテ擔レ之、坊間諸戸ヲ廻テ、門松繩等ヲ乞フ也、多ク集ムヲ功トシ、少キヲ耻トス、年來ノ習風ニテ、何レノ時ヨリ如レ此歟、彼童等乞レ之詞、オエサン、ダナサン、シメナワクダンセ、トンドヘアゲル、ト同音ニ呼ビ巡ル、御家ハ人ノ妻、御家様、旦那様、シメナワ被レ下、頓度ニ上ルト云也、トンド字失念ス、又彼童等、十五日ニ至レバ、得レ之コト鮮キヲ愁トシ、九、十日頃ヨリ、或ハ強テ乞レ之、或ハ夜中ニ忍テ取レ之、故ニ官ヨリモ禁レ之、又坊長ヨリモ下ノ如ク、木戸其他ニモ張紙セリ、
p.0876 御法度
p.0876 門松注連繩猥に
取はづすべからずp.0876 貧レ之ト雖ドモ、唯多キヲ功トシ興ズルノミ、錢等ヲ添加ニ非ズ、
p.0876 十四日歳越 今日より、元日建る所の松竹注連飾を取拂ひ、明朝の小豆粥をたき、又爆竹に燒く、〈◯中略〉また削かけをさす、
p.0876 十四日 家々注連を取拂ひ、軒端門口等へ削掛を下る、〈削かけは、廿日より前に收む、世俗廿日の風にあふを忌む、〉
p.0876 正月十五日〈◯中略〉 同日江戸武邸門ノ兩柱ニ、割薪ニ圖ノ如ク〈◯圖略〉墨ヲヒキ建
p.0877 ル也、名號テミカマ木ト云、御竃木也、閏月アル年ハ墨ヲ十三引ク也、江戸モ御竃木ハ武家ノミ、右ノ削リカケ、及ビ御竃木、京坂モ官家武家ニハ行レ之歟、民家ニ不レ設レ之ナリ、
p.0877 寛政十年正月十四日己卯、今日飾をろし也、如レ例、
p.0877 注連飾〈飾繩、かざりわら、しりくめなはといふ、〈土佐日記に出たり〉注連なわをひくは、不淨をはらふ心なり、神社には常にしめなわひくゆへ、しめとばかりは季にならず、かざる心を用ゆれば、正月の季なり、〉
p.0877 民間歳節上 元日〈◯正月〉至二十四日一、懸二藁索於戸上一、索以二稻秸一爲レ之、毎寸出二其端一尺餘、下垂如レ絛、挿二讓葉及穗長草于其間一、謂二之司命索(シメナハ)一、〈讓葉蓋楠之類、益軒先生以爲二交讓木一、未レ詳二當否一、穗長草或以爲二格注草一、相似差異、〉 晋書禮志曰、歳旦設二葦茭桃梗一、磔二雞於宮及百寺之門一、以禳二惡氣一、 荊楚歳時記曰、正月帖二畫鷄戸上一、懸二葦索於其上一、挿二桃符其傍一、百鬼畏レ之、括地圖曰、桃都山有二大桃樹一、盤屈三千里、上有二金雞一、日照則鳴、下有二二神一、一名レ鬱、一名レ壘、并執二葦索一以伺二不祥之鬼一、得則殺レ之、應劭風俗通曰、黄帝書稱、上古之時、兄弟二人曰二茶與一レ鬱住二度朔山上桃樹下一、簡二百鬼一、鬼妄搰レ人、援以二葦索一、執以食レ虎、於レ是縣官以二臘除夕一飾二桃人一垂二葦索一、虎畫二於門一、效二前事一也、潛確類書曰、按通典、夏后氏金行、初作二葦茭一段人水徳易以二螺首一、謹二其閉塞一使レ如レ螺也、周人木徳以レ桃爲レ梗、言二氣相更一也、今人歳除挿二芝蔴稭于門一、是葦茭之遺、螺門言二氣所一レ交也、銅環獸面一名椒圖、桃梗今之桃符、熙朝樂事曰、正月朔日、挿二芝麻梗於簷頭一、謂二之節節高一、事言要玄引二裴玄新語一曰、五月五日、織二麥 一懸二于門一、以示二農工成一也、 音涓麥莖也、
p.0877 年男〈俳〉
p.0877 年男 伊藤如春
年男今朝きて春や立田彦
p.0877 年男〈年越の豆をまくより、正月の儀式をつとむる人を云、又其年の十二支にあたりたるもいふなり、俳、もらひ著の袴をかしや年男、彈流、〉
p.0877 節分〈◯中略〉豆打〈(中略)豆をうつものは、來る年の支に當る者つとむ、是を年男といふ、〉
p.0878 年男〈年男ハ其家々人ヲ撰テ定レ之、先舊年煤拂ノ竹ヲ以テ拂ハシメ、除夜追儺ノ豆ヲ撒シムル事、各當年ノ惠方ヨリ初ム、是年男ノ役トスル處、春來猶家々ノ嘉例勿論ニヤ、〉
p.0878 躾式法の事
一御年男きん〈◯勤〉ずる事、元三にいかにも早天に出しをして、先御やうじ二ッ奉りてよし、長さは六寸たるべし、是を一づヽかんなけに置てしんずべき也、其後しやうじなどを明て、御座敷をきよめべき也、すみをも置べし、御てうづも御年男の役也、若水をいつもの御手水のかんにわかして參らせべき也、はんぞうたらいの中にゆづり葉を置べし、しだを下にゆづりはを上に、扨あをめなる石のちひさきを三ッ金輪に置べし、十五日迄は、何事も御いはひ事は、御年男の役也、節分の夜の鬼の大豆をも御年男きんずる也、
p.0878 年男ト云コト、南都春日社記、應永卅五年戊申正月日社頭之詣日記、〈若宮常住神殿守春雄〉一應永卅五年正月一日曉、御奉行祐富殿、年男下番神殿守宗時ノ代官宗繁、一面一瓶持參ス、時ニ神主殿ヨリ鏡一面ツミクダモノニテ御酒三獻祝了、但下部ニハ小餅一前給ナリトアリ、
p.0878 延享三年正月六日、七日、八日之内、〈◯中略〉一年男〈江〉鳥目貳百文、扇子三本入、
p.0878 年男 役人系圖 御年男酒井雅樂頭忠清〈此前不レ知〉 貞享元年十二月九日、御年男御祝御規式役大久保加賀守忠朝、 元祿十一年十二月五日、御年男阿部豐後守正武、 寶永元年十二月九日、御年男土屋相摸守政直、 寶永六年十一月十八日、御年男小笠原佐渡守長重、 寶永七年十二月四日、土屋相摸守政直、 享保三年十二月朔日、井上河内守正岑、 同七年十二月九日、戸田山城守忠眞、 同十四年十二月朔日、水野和泉守忠之、 同十五年十二月朔日、松平左近將監乘邑、 延享二年閏十二月朔日、酒井雅樂頭忠知、 寛延二年十二月朔日、堀田相摸守正亮、 寶暦十二年十一月十一日、酒井左衞門尉忠寄、 明和元年十二月十五日、松平右近將監武元、 安永八年十
p.0879 二月朔日、松平右京大夫輝高、 天明元年十二月朔日、松平河内守康福、 天明八年十二月朔日、牧野越中守定長、 寛政二年十二月十一日、鳥井丹波守忠意、 寛政五年十二月七日、本多彈正大弼忠籌、 寛政十年十二月七日、太田備中守資愛、 享和元年十二月三日、安藤對馬守信成、 享和二年十二月三日、戸田采女正氏教、 文化三年十二月五日、土井大炊頭利厚、 文政五年十二月三日、水野出羽守忠成、 御留守居御奧の煤納、御年男被二仰付一候者、 寛永十七年十二月二十日、酒井紀伊守忠吉初て被二仰付一、〈此忠吉は、酒井備後守忠利次男にて、忠勝少將の弟、當時酒井紀伊守家七千石なり〉 寛文二年十二月二十六日、本多美作守忠相被二仰付一、 同十年九月十二日御免 そののち貞享元年十二月二十六日、奧方御規式役杉浦内藏允〈御留守居〉被二仰付一、 寶永五年十二月朔日、大久保淡路守教福に御年男被二仰付一候以來之通之由、
◯按ズルニ、年男ノ事ハ、節分篇、歳暮篇ニモ散見セリ、宜シク參看スベシ、
p.0879 萬歳(マンザイ)〈正曰二千壽萬歳一、今按、男踏歌之遺風乎、〉
p.0879 せんずまんざい 千秋萬歳の義、正月禁中に大黒まゐる也、踏歌を釋日本紀に萬歳樂也といへる是也、唐禮樂志に、皇帝受二群臣朝賀一云々、臣等謹上二千秋萬歳壽一と見ゆ、
p.0879 知足院殿大とのとておはしましける、侍を御かんどう有けるには、千秋萬歳(○○○○)をもちてはやさせて、其侍をまはせられけり、さる御かんだうやはあるべき、
p.0879 大饗ノ鷹飼ハ中門ヲトホリテ、幔門ノ本ニテタカハスウルナリ、ソレニ東三條ハ中門ヨリ幔門ノモトマデハルカニトホシ、下毛野公久トイフタカヾヒ、西ノ中門ヨリタカモスヱデアユミ入タリケルヲ、上達部ノ座ヨリアラハニミエケルニ、錦ノボウシキタルモノ、手ヲムナシクシテアユミキケレバ、人々千秋萬歳(○○○○)ノイルハ、何事ゾトワラヒケリ、ソノノチ中門ノトニテタカヲスヱテエル也、
p.0880 一番 花 左〈持〉 千秋萬歳法師(○○○○○○)
春の庭に千秋萬歳いはふより花の木のねはさしさかへなむ〈◯中略〉
左歌千秋萬歳の能作は、毎年正月の佳曲なれば、諸職諸道の最初にいでヽ、歌合の一番にすヽめり、まことに花木の春にあひて、さしさかへなん根元をいはへるは、あら興がりときこゆる、〈◯下略〉
p.0880 文安四年正月二日、一種乞食、革歳首、到二人家一歌二祝言一、世號二之千秋萬歳一、前后相逐來、各與二百錢一、〈出二一緡一以二草鞋錢一、蓋舊例也、予(僧周鳳)曰、出二一緡一則不レ辭レ之、分而與則非二予所一レ好、住二官寺官院一者問レ分而與、〉
p.0880 天正十年正月四日、今日せんすうまんざい(○○○○○○○○)にしこう不レ申候、
p.0880 一萬歳とて、ゑぼし素襖著て、年の始に人の家に來りて、祝事をうたふ者、古よりあり、足利殿の營中には、正月七日參りし也、年中恒例記に、正月七日の部に云、千秋萬歳參ル、〈◯中略〉いにしへは千秋萬歳といひけるを、後世は略して萬歳とばかり云也、萬歳のうたひ物の詞に、千秋萬歳といふ事ありし故、如レ此名付たりとぞ、昔は三河國より出たると也、今は三河、尾張、遠江の三ケ國より出る也、土御門殿〈公家也、陰陽師の頭也、〉より官位を申受る由也、
p.0880 萬歳はもと千秋萬歳といふ、〈◯中略〉その唄諸處にて異なりとなむ、其内上がた小歌、絲の時雨などに萬歳あり、是は木造めけることは絶てなく、むねと商人の事をいへるは、ことにいやしき萬歳になむ、その唱歌に、やしよめ〳〵京の町の、やしよめうつたるものなに〳〵、大鯛、小だひ、ぶりの大うを、あはび、さヾえ、はまぐりこ〳〵云々、そこを打過そばたなみたれば、きんらん、どんす云々、此小歌、大麻、松の葉などにも載せざるは、いと近く小歌には作りたる歟、されど萬歳がかヽることをうたへるは、久しきことヽ見えて、寛永の發句帳に、萬歳樂まづうりぞめや京の町、西武が獨吟百韻に、六百は堺の町のとりやりに蛤こんと賣やすみよし、自注に、萬歳樂に百
p.0881 なら御ざれ、はしたものは賣ぬ物、蛤こんとうたふなり、住吉は濱ぐりのえんにいふなりと有り、昔も下ざまの家に行ては、唱歌も相應にうたひしなるべし、〈◯中略〉 或人語りけるは、周防山口に覺定と云ものあり、毎歳元旦に國主の城門に參る、此時門を開くを嘉禮とし、それより諸人出入す、祝詞を唱ふること、千秋萬歳に似たれどもやうかはれり、其服水干に鳥かぶとを著る、士庶の家に至りて、此ことをなすといへり、これ萬歳の古風殘りたるなり、覺定といへるは、そのかみさる名の千秋萬歳法師にてありしを、其をつぎたるものなるべし、
p.0881 萬歳 六十六代一條院の朝、長徳のころ、大江定基參河守に任てければ、その國の民ども、毎としのはじめに來り、千歳樂、萬歳樂と舞かなでけり、定基は佛乘に歸して、横川の源信僧都に法を受て、一向釋氏の學びにふかヽりければ、佛教傳來の因縁を述て、刈谷の郷の庄司吉郞大夫といふものにあたへて、年の旦に舞せけり、是萬歳のはじめ、今以三河の國より來る、
p.0881 りうどうだ並せんず萬歳 眞葛原五卵子の話に、せんず萬歳は千秋萬歳なり、秋をずとよむべし、千壽にはあらず、このもの木造の日にまゐれるは私例なり、猿舞は恒例也といへり、千秋萬歳、くはしくは千秋萬歳法師といふべし、大和國窪田、箸尾の兩村より出、復大和の外にもありけるにや、岷江入楚にも見ゆ、三河萬歳は是又別派なり、唱歌は大江定基の作なりとぞ、
p.0881 千秋萬歳は大和より出る者一種類也、萬歳村有とぞ、河内、三河などより出るも其類歟、京都にては陰陽家の人小泉より出、これは禁裏、仙洞、后宮など計へ參りて、世にあまねくはしらず、壽詞五段頗古雅にて、大鼔一調をもてはやすとなん、彼大和の者はあまねく民間をもめぐり、舞ぶり詞がらもやヽくだりてけぢかく十餘段小鼔もてはやすさま世にしるごとし、因にいふ、彼唱歌にとくわかに御萬歳といふ詞、何ごとヽも知がたきを、或人いふ、とこ若にて、とことは
p.0882 に若きのいひ也と、又やしよめ〳〵京の町のやしよめといふこと有、これもやさめにて、艷しきめといへる也、京の町のと重ねたるにてしるべしとなん、
p.0882 大和國より出る千秋萬歳、〈◯中略〉三河國、尾張國知多郡よりも同く出づ、
p.0882 院内人〈在二藪村一、世稱二阴阳師一、受二土御門家許可一、以二卜筮祈禳一爲レ業、其先出レ自二三河院内村一、故名二院内一、雖レ居二村里一、不二與レ民爲一レ伍、其種族甚繁、又有二万歳(○○)者一、春初扮成著レ袍戴レ帽、唱二祝辭一餬レ口、是其一種人也、隣邑貧民亦爲レ之、〉
p.0882 萬歳〈◯中略〉 今來る萬歳を、江戸にては參河萬歳とおぼえたれど、遠江相摸よりも來るなり、關西へは、尾張大和よりいづるなり、張州府志に、無住國師所レ作樂稱二萬歳樂一、使二小奴徳若謳一レ之以爲二賀正一、至レ今春初稱二萬歳一者師之遺愛也とあり、無住國師道跡考にいへるも、同じおもむきなり、尾張萬歳の唱歌は、無住國師の作のよしにて、今傳ふるもの五章あり、
p.0882 木賀崎長母寺〈◯中略〉 一萬歳といひて今世に有、いんなひ(○○○○)ともいへり、其根元をたづぬるに、長母寺の領、むかしは方々に有て、此あたり味鏡といふ村をはじめ、知多郡木田大高の邊に至迄、所々寺領すとなん、然るに味鏡に、一人の鄙賤有けり、世に過わびて、ある年のくれに無住にまいりてなげきければ、あはれみて佛法のはじめを目出度作りて、年の初メにいひめぐりて、物もらひてよすがにせよと、教たまひしなり、〈◯中略〉其外あやしきうらかたをも、かのものヽ世すぎの爲に、つたへおしへたまふとかや、その末々はびこりて、大高の邊はさらなり、今は他國迄此萬歳〈いんなひトモ云〉の事多くなれり、剩となへうしなひて、あらぬかたこと共申侍るとなん、
p.0882 万歳〈藪村に、森福大夫、松福大夫、米福大夫、加木屋村に、上羽大夫等の數人ありて、三河院内万歳の同流なり、抑人皇八十九代龜山院の御宇、同國山田郡木ケ崎長母寺の開山、無住國師のおはせし時、其寺領たりし味鋺(あじま)村に有助といへる者、其身貧しければ、年の初には家々に來り、福が來るの、寶が涌のと、うたひ舞などして、物を乞ひあるきぬ、國師これをあはれみ、本朝に佛法の弘まりし事なんどをまじへて、壽き諷ふべしとて、自ら頌歌を作りあたへらる、然るに知多郡寺本村も、當山の領地たれば、相百姓ゆゑ、是を傳習しけるが、後世公事起りて、味鋺万歳は府下へ來らず、只其地頭計りへ、今も來りて舞ふとなん、知多の万歳は、今府下一般を舞ひあるけば、知多郡万歳とのみ通稱す、すべて五万歳とて、唱歌五通りあれど〉
p.0883 〈も、辭長ければこヽに洩しつ、〉
p.0883 萬歳、千秋萬歳ノ上略也、〈◯中略〉 京坂等ニ出ル者ハ、大和州窪田箸尾ノ二村ノ農夫也、萬歳三都ニ出ル者、トモニ正ヲ大夫、副ヲ才藏ト云、大和萬歳ノ扮、大夫ハ侍烏帽子ニ、萌木染木綿ノ素袍ニ、輪中ニ橘ノ記號ヲ白ク染出シ、腰邊藍色ノ所ニ、徑リ二寸許ノ菊桐ノ記號アリ、袴同色同紋也、各一刀ヲ佩ク、才藏無二定扮一、蓋藍木綿長囊ヲ肩ニシテ、所得米錢ヲ納ム、大夫ノ袴モ平袴ヲ用ヒズ、カルサン或ハタチツケ袴ヲ用ユ、 江戸ニ來ル者ハ、參河ヲ第一トス、〈故ニ專ラ三河萬歳ヲ唱ス〉而テ遠江等モアリ、尾張ニモ萬歳アリ、他國ニハ不レ出歟、江戸ニ來ル萬歳ノ扮、大夫ハ折烏帽子ニ麻布ノ素襖ヲ着シ、大小二刀ヲ帶ル、素襖色無レ定、紺ヲ專トシ、記號亦無レ定、袴或ハクヽリ袴、又ハ常ノ袴ヲモ着ス者アリ、侍烏帽子ヲ不レ用コトハ、幕府無官ノ士着レ之、歩行ニテ登城ス、故ニ與レ之混ゼザル爲也、才藏ハ侍烏帽子ニ素襖ヲ着シテ無レ袴也、或ハ無二素襖一、是亦米袋ヲ携フ、此才藏多ハ總州ノ夫、年末江戸日本橋四日市ト云所ニ集ル、大夫擇レ之テ雇フ、是ヲ才藏市ト云、昔ハ大門通ニテ行レ之由、或人ノ話也、〈◯中略〉江戸ニ來ル萬歳ノ才藏ト云モノ、昔ハ下總アビコ村ノ農夫多シ、近年ハアビコノ者モアリ、或ハ大夫自國ヨリ伴ヒ來ルモアリ、〈◯中略〉三河ハ院内村ト云ニ住ス、此一村ニハ他村婚ヲ結バズ、小坂井ニツヾク、故ニ小坂井トモ云、
p.0883 四日、〈◯中略〉舊院のはじめ後陽成院の比迄は、今日千秋萬歳參れど、正親町院御事の後は、御忌月なれば參らず、されば舊院御代の間中絶によりて、彼者の子孫共のゆくへをしらずなり行く、今はまゐらず、 五日、〈◯中略〉今日は櫻町の千秋萬歳參る、清凉殿の西面に御座をかまへて御覽あり、三さかなにて一獻まゐる、女中とほりて後、議定所にて、内々の男衆御とほしあり、勾當酌にて伊豫さかな也、舊院の宮内卿かたりしは、もとは四日に參る、千秋萬歳はけふのごとく清凉殿の西面にて御覽あり、五日のは、南方のあさかれひにて御覽あり、男衆も南
p.0884 の妻戸より參りて、御通もありしとかや、されど此比は、五日のみ參れば、便宜の所なるによりて、西面にて御覽あり、
p.0884 五日 千壽萬歳 於二東庭一唱門師勤レ之 猿舞 同所ニテ在レ之 清凉殿出御、女中并内々公家衆御盃被レ下、
p.0884 五日 千秋萬歳 是は清凉殿の西面に簾中出御、萬歳を御覽なり、公卿は西の廣椽、殿上人は取合の落椽に候ず、西の御庭〈棗の御庭といふ〉にて萬歳舞畢て退き、猿廻し出、猿を廻し、果て入御なり、萬歳は小泉豐後とて、土御門家支配の陰陽師萬歳役なり、京住也、猿廻しは町家のものにて、御所にては瀧井兵庫といふ、猿廻し役にて京住なり、雜人拜見をも入るヽなり、
p.0884 五日〈◯正月〉は千壽萬歳の猿廻しに、御所の庭にて勤レ之、
p.0884 同日〈◯正月五日〉千壽萬歳并猿舞 是清凉殿ノ於二西庭一此義アリ
p.0884 五日、千壽萬歳、 今日東の御庭に來り早歌唱ふ、次に猿舞あり、萬歳は大和國窪田、箸尾兩村より出る兩流あり、窪田大夫、箸尾大夫と云、左部右部に准じて稱す、 今日東の御庭に於て萬歳あり、次に猿舞猿を牽き歌を唱ふ、これに合して猿幣を持て、御庭に舞ふ、或説云、先壽とは、猿舞の事なりと云々、其是非をしらず、京師に猿を舞すもの六人あり、此外みだりに猿をつかふことを免さず、又伏見に六人あり、千壽萬歳は萬歳樂にて、踏歌節會を擬ぶと云々、
p.0884 禁裏萬歳之御式 此時所司代より警固出役無二御座一候、又諸人の拜見も不二相成一候故に、於二彼地一も誰も存じ不レ申候、珍敷物にて御座候、尤此書面とても、あらましに御座候、 京都住 萬歳 小泉豐後 毎正月四日、紫宸殿御庭にて舞申候、裝束は三位烏帽子〈此烏帽子、古へ上より給はりし由申傳候、〉大紋著〈但下は半袴の如く裾短也、大紋萌黄色ノ薄キ様ナルモノヽヨシ、紋所丸ノ内ニ笹輪頭ヲ附ル、〉服は紅の兩面の小袖、〈尤無紋〉下に白無
p.0885 垢を著、小サ刀を帶す、舞時は兩人共に脱劒也、歳若は萬歳烏帽子素襖著、〈但下は半袴の如く裾短也、素襖花色、肩に模様有、紋所無レ之、〉縬熨斗目〈紋は丸の内に笹輪頭を附、則小泉氏の紋所也と云、〉を著、刀脇指を帶す、扨羯鼔中啓を持、〈但豐後羯鼔を手に持、手にて打レ之、歳若は何も不レ持して舞、地也、〉唄ひ物は委敷は存不レ申候、三番叟の舞の翁の舞に似よりしが、始めには、 トウ〳〵タラリ〳〵ラフ、其次に壹本の柱より十貳本の柱と申、神々の御名を申終て、
徳若に御萬歳と枝も榮へ益〈シ〉マス、愛敬ありける新玉の年立開(カヘル)日の朝夕より水も若やぎ、木も芽も咲榮へけるは、誠に目出度候へける、 北面の武士大紋長袴にて、御階の左りに有て、〈附小サ刀ヲ帶シ、床几ヲ用ユ、〉 勇みませいと大音にて申 其後のうたひ候は、空穗猿の猿の舞にうたひ申候に似よりし様に存候、又太子御誕生の事などあり、其跡は年々替り候事に承候、舞終候と、五位殿上人中啓を持參にて、御階〈御階十二段有〉六段目にて、北面へ御渡し、北面より豐後へ被レ下候、弓場殿〈此所土間故、蓙を敷、弓場殿ハ日華門ノ邊ニアリ、〉にて休息仕、御料理御酒、御鏡餅頂戴仕、勘解由使青銅貳拾貫文、米壹石持參にて、中啓と取替に相成申候、 中宮様へ參り候節、御庭にて舞始り候と、女孺と見へて、白小袖に緋の袴を著、檜扇にて顏をかくし、御階の上に立て、いさみませいと大音にて候と、御翠簾の内大勢の女中の聲にて笑ひ候事、御庭迄聞へ、女孺も早くかけこみ申候、 頂戴物は御翠簾の内より、段々紙に包し鳥目、其外色々の物なげ出し頂戴仕候、其内に金壹分五ツ、五色の絲にて能々からみ候が壹ツ御座候、是は中宮様より賜はり候歟、其外院の御所方、右之通に御座候、 宮方公家方は、御召御座候得者參り申候、御召これなきはまいり不レ申候、〈附素足にて草履ははき候事〉 抑萬歳の濫觴者、神武帝の御宇、大和國橿原郡におゐて、音頭を取し者のよし也、數代の後絶家す、其後同州小泉村の者へ勅有てより以來、其事を勤む、元來名も無き者ゆへに、唯千秋萬歳と申す名に稱し來り候、然者いつのころよりといふ事をしらず、また小泉豐後と申ことも古き事なり、清明は同所の生れにして、豐後方にては血筋のやうに申せども、安家〈今の土御門家なり〉にては別家の様に仰せられ候、今に出入は仕p.0886 候、 右は或人の覺し趣きを書付侍りしとておこせるをこヽにしるす、また豐後かたには、いろいろ六ケ敷譯も有レ之候也、 因に云、萬歳の唄ふ節は、幸若の唄ひ候ふしに、により候者のよし也、又能の狂言の空穗猿の猿の舞候時、うたひ候歌のふしにも、似よりし物のよしなり、尤時代は萬歳の方古く、幸若その後のもの也とぞ、
p.0886 元仁二年正月三日、臨レ昏千壽萬歳來、
p.0886 應永二十五年正月四日、千壽万歳參祝言申、賜二酒肴一如レ例、
p.0886 明應七年正月七日、北ばたけ御千じゆ万ざい申、
p.0886 慶長九年正月五日、女院御所より、明日可レ致二伺候一旨有二御觸一、千秋萬歳如二去年參儀一也、 六日、御番初也、參勤、又女院御所千ス萬歳、如二例年一參上候、御振廻少納言局ニテ在レ之、其後御前ニテ謠アリ、御盃兩度參、八條殿御參也、外様ニハ阿野ト兩人計也、内々不參ハ、萬里少路、伯、所勞藤宰相、同御トヲリ兩度及二沈酔一退出、
p.0886 延寶二年正月五日、千秋萬歳猿等如レ例、
p.0886 寛政十年正月十四日己卯、千秋萬歳也、〈去五日依レ雨延引〉 十二年正月五日戊午、千秋萬歳、卯半刻俊幹、予兩人參勤、〈依二仙洞御幸一刻限被レ急也〉 巳半刻計出御、參二臺殿一萬歳猿舞如レ例、〈不レ雨之間舞畢、不レ及二笠之儀一、〉御通伯三位、定業朝臣、宗徳朝臣、大江俊幹、予等出座、時宜如レ例、事訖、午刻過兩人退出了、
p.0886 正月七日 千秋萬歳參、出二於松庭一被レ舞レ之、御太刀持被レ下レ之、同朋遣レ之、御供衆少々調候、先々は十二五郞參也、但長祿年中に、十二五郞は十一日參也、是は伊勢肥前守盛富説也、十二五郞は申樂の由、因幡守説同レ之、
p.0886 萬歳樂 年の初めでたきためしをいはへば、萬歳樂とは聞えし事也、此流諸國にあり、京に出るは大和より出る、中國は美濃より出る、東へは三河より出るなり、聖徳太子の時
p.0887 よりあるよし、太子よりゑぼししやうぞくをくだし給ふと也、中比とりうしないしに、又白河院の御代にことぶき仕候てより萬歳、
p.0887 正月萬歳とて、素袍ゑぼしすがたにて、祝詞を唱へ侍るは、尾州春日井郡守山村地之内、木ケ崎長母寺禪僧に、開山無住といふ人、其詞を作りて、同國愛知郡印内村の民に教しとかや、其詞は屋舍營造の事、其故にや、朝廷正月五日、東庭の千壽萬壽は、新始の次に、之を催す事流例なり、
p.0887 五日、千秋萬歳、〈◯中略〉 今日京兆尹の御庭にも來てつとむ、京都の町々をも廻る、其體烏帽子素襖を著すもの、二人或は三四人、扇を開き祝語を唱ひ、内一人は鼔をうつてこれを和し、若夷誕生の體を舞ふ、京都に來るものを大和萬歳といふ、又參河國に一派あり、三河萬歳と稱す、或説に云、大江定基博識宏才にして、佛道にも踈からず、正月の祝も目出度事はふりたりとて、我領分の百姓に教へ、佛法東漸の歌を唱はせ、春の始より世累を忘るヽ媒とすと云々、又美濃尾張邊の一向宗多き所には、鼔をうち、親鸞聖人の傳記を唱ひ來る、是は津島萬歳とて、尾州津島より出る、又九州邊の萬歳も、其體大和萬歳に等しくして、家別に來らず、但往還道を歩行て祝語を唱ふ、家々の門口に、舊年刈收る稻一鎌を出し置くをとりて歸る、これを福わかしといふ、又江戸にては幸藏と云へる者從ひて戲言をなす、
p.0887 池田氏筆記 一萬歳ノコト、京大坂ヘハ大和ヨリ來ル故ニ、大和萬歳ト云、尤三河萬歳トハ風俗モカハリ、ウタヒモノモ異也、和州ノ萬歳ハ大夫、才藏共ニ、侍烏帽子、素袍ヤウノモノヲ著ス、所司代御城代ヘハ、七八人ヅヽ、連立來ル、家中其外ヘハ、兩人ヅヽ來ル、サレドモ小鼔ハ一人モツ也、
p.0887 元日 三河萬歳、今日より當月中、家々を廻る、
p.0888 萬歳 是は延暦年中、京都を今の平安城に移されし時より、衣食住の三つを祝ける、其一つなりとぞ、其詞に御殿作の結構と唱ふ、是住の事をことぶくなり、中古室町殿時代は、大夫は扇を持ち、才三は鼔を持ち、兩人共に掛素袍にて、頭巾の上に士烏帽子を著、壺袴をきたり、近代正月五日、禁中御釿始の後、清凉殿の南庭にて、千壽萬壽といふあり、兩人共に素襖ゑぼしにて勤レ之、關東にては三河院内村萬歳作大夫、毎年江府へ下り、正月十一日御勘定所にて萬歳を勤め金子を拜賜す、昔淺草御藏にして勤め、米拾五俵を賜けるとぞ、當國知多郡藪村森福大夫、松福大夫、米福大夫といふ萬歳、加木屋村上羽大夫といふ萬歳、何れも三州院内村の分流なり、先先より傳來す、春日井郡味鏡村陰陽師十六人、何れも萬歳を勤む、其内兀大夫といふ者は、先祖陰陽師石田新右衞門と云ふ者の家へ、源敬公御鷹狩の節立よらせたまひ、兀大夫と名を賜り、代々御祝儀を勤來りしが、今は中絶せり、其家代々兀大夫と稱せり、
p.0888 せんす萬歳の繪に 嘉辰令月吉書始、萬歳千秋男踏歌、
あら玉のとしのみはしのしたつヾみうてやはやせやせんす萬歳
p.0888 十二月萬歳 京に京土産とも、十二月萬歳とも云物有、是は色文句ならず、唯年行事のみにて、初春の壽祝ふ松飾、表にさら〳〵新袴、〈モノモウ〉大黒屋徳右衞門年始の御禮、忝ひ禮者の外はストントン〳〵、手鞠や拍子と諷ひ出し、ちよど三百六十豆の數、皆禮者の事こそ目出たけれと、終る迄いと興ある物なり、
p.0888 歳藏市 江戸日本橋の東二町ばかり四日市にあり、三河萬歳江戸に來りて、脇士の才藏を傭ふ也、この才藏は、安房上總よりいづるもの也、毎年四日市にて、その價をさだめて雇ふといふ、これを才藏市といふとぞ、
p.0888 才藏市は當時〈◯天保比〉なし、近き頃迄は下旬の夜、日本橋の南詰四日市にありて、
p.0889 三河萬歳江戸に下り、才藏を傭ふ、才藏は安房、上總、又は下總古河の邊より出る、大夫才藏の巧拙をえらび、價を定て雇ひ、正月になりて出入の家々をまはりしなり、
p.0889 萬歳 今安政六年、近頃ハ四日市才藏市モ廢止ス、
p.0889 鳥追 千町萬町の鳥追と、みづから名乘るなり、
p.0889 鳥追 元日より十五日に至り、田疇の鳥を追ふより起る歟、今は乞丐の婦女編笠を頂き、門々へ來り唄ふ也、
p.0889 悲田寺〈◯中略〉 悲田院爲二小兒之藥局一、〈◯中略〉其後至二乞兒爲レ病者一寓レ茲、藥餌之事無レ幾而絶、爲二大人小兒乞丐之寓居一、今專乞人酋長居レ之、總謂二與次郞一、常造二草鞋一爲レ業而賣レ之、〈◯中略〉自二元日一至二十五日一、著レ笠以二白巾一覆レ面、而敲レ手唱二祝詞一、倚二門戸一請二米錢一、是號二敲與次郞一、又稱二鳥追一、元民間出レ自下追二拂田疇鳥一之辭上者也、
p.0889 鳥追はもとより一種かヽるもの有しにあらず、千秋萬歳が士農工商の家に行、それぞれの職分に付て祝詞をうたひし、其内にて田家のためにせしものなり、今江戸の鳥追は、非人の女房娘にて、常には淨るりなどをうたひ、三絃ひきて來る故、俗に女大夫と呼、あるまじき名づけやうなり、この女共春毎に、衣服は木綿なれども、新らしきを著て、三四人ヅヽ一組となり、三絃胡弓ひきつれて、いとかしましく唄ひ來る、いつの程よりしかるにか、雍州府志悲田院の條に、〈◯中略〉是號二敲與次郞一又稱二鳥追一〈◯中略〉といひ、訓蒙圖彙にはたヽきとありて、注に鳥追と云り、何れもかくあれば、敲といふが本名と聞ゆ、其圖は二人にて掌を扇にてたヽくさまなり、江戸の鳥追とはいたく異なり、古き鳥追のうたひものを、浪速人の注したるあり、青陽唱話といふ、多田義俊が鳥追の歌は、殿うつり物語に似たりといへるによりて、其事の似かよふをしるせるよし注の内にみゆ、されど殿うつりは、この注者も予いまだみざる所、多田氏の僅に所々書置るを見るのみ
p.0890 といへり、〈◯下略〉
p.0890 鳥追 踏歌の遺風なり、相傳ふ、延文のころ、參河國に長者あり、數千町の田圃を持、土民にして土民ならず、武士にあつて武士ならず、常に貴人高位にまじはり、三槐九棘に因あつて、富て貴き人也、代々時宗をとうとみ、遊行上人を仰ぐ、一とせ正月、遊行上人此第宅に舍せり、村の土人歳首禮を長者の家になす、その中にさヽらをすりて、うたふもの數人あり、いかなる者ぞと上人の尋られしに、鳥追と云者也とぞ、蓋鳥追は長者の田園の鳥を追ふばかりの勤にて、妻子を養ふ者ども、長者の諺を歌にうたひ、年のはじめに、ことぶきを述るなり、唄の發端に、せぢよやまんぢよの鳥追と云は、千代も萬代も殿の田の鳥を追へし也、お長者のみうちへ、おとするはたれあろ、右大臣に左大臣、關白殿が鳥追、御内證へおとづるヽ人は、高位高官、扨は鳥を追ふわれわれかとなり、にしだもよせんでよ、ひがしだもんでよは、東西に八千町の田を持てる事を云り、
p.0890 元日 雜事、今日より正月中物もらひの輩、〈◯中略〉又一種鳥追といふものあり、少き女編笠を著し、さヽらをすり、祝詞を唄ひ、田圃の鳥を逐ふ聲に擬す、其曲章辭等古雅のものなり、
p.0890 鳥追 是は食の事を祝ふ、五穀豐饒をことぶくなり、其詞に千町や萬町の鳥追と唱ふるは、田の事をいふなり、
p.0890 亡友仁正寺市橋氏云フ、至俗ノコトニテモ、人情ニ叶フコトハ、永ク傳ルモノト見ヘタリ、歳暮ニ市中ノ門々ニテ、乞兒走リナガラ、手ニ竹ヲ打テ口早ナル事ヲ言フ、節季候ト云、イソガハシキ態度アリ、春初ニ乞兒ノ女、衣服ヲ飾リ編笠キ、三線、胡弓ナド携ヘ、彈ジツヽ歌ウタフヲ、鳥追ト云、悠々トシタル容體ナリ、イカニモソノ時ノ人情ニヨク叶ヘリ、年々カハラズアル筈ナリ、
p.0891 初夢、立春の朝の夢也、
p.0891 立春の朝よみける 西行上人
年くれぬ春くべしとは思ひねにまさしくみえてかなふ初夢
p.0891 一夜の枕物ぐるひ
二日〈◯正月〉は越年(としこし)にて、或人鞍馬山に誘はれて、一原といふ野を行けば、厄拂の聲、夢違ひの獏の札、寶舟賣など、鰯、柊をさして鬼打豆、宵より扉をしめて、〈◯下略〉
p.0891 寶船を賣ること節分の日の事にして、正月二日に賣ことなし、節分の夜の夢を初夢となすこと、事理に叶へりと云ふべし、江戸にて正月二日夜を初夢とするは、誤なるべし、
p.0891 初夢、〈◯中略〉日次紀事、〈◯中略〉この説にては除夜の夢をいへり、〈◯中略〉日次紀事の説は誤れり、いつにても節分の夜のを初夢とするなり、
p.0891 初夢〈大晦日夜より、元日あかつきにいたるまでに見る夢也、〉
p.0891 初夢、寶船敷、大晦日より元日に至るの夢を、はつ夢と稱す、
p.0891 晦日 此夜貘の形を圖して枕に加へ侍れば、惡夢を避るとて、今の世俗にする事なり、〈◯中略〉又今夜船を畫て褥の下に藉事あり、
p.0891 寶船、〈◯中略〉近き頃まで終晦日にせしなり、季吟の句にも、よべは舟あすはふくわら式さ法とあり、是よべは俗にゆふべにて、昨夜は舟を枕に敷、けさは元日にて、福わらとて新敷菰を門口に敷たるをよめるなり、季吟は元祿の頃の人にて、芭蕉の師なり、されば此頃迄は、舟は晦日に敷たるなり、正月二日に成たるは、至て近き頃なり、
p.0891 當世正月元日、朝とく寶船の繪うりありくを買て、元日の夜枕の下に敷て、初夢に吉事を見るよし也、今は二日の曉なるを心得たがへて、二日の初夢と思ふ人もあれば、二日にもう
p.0892 る人あり、かふ人あり、をかしき事也、
p.0892 正月二日、〈◯中略〉此夜寶舟ノ畫ヲ枕ニ敷テ、其夜ノ夢ヲ見テ、其事ノ吉凶ヲ占スル事アリ、
p.0892 今時正月二日の夜、寶船の繪を枕の下に敷事あり、昔は節分の夜に、これを用ひし也、正月二日にはあらず、
p.0892 初夢、〈◯中略〉今江戸にて元日をおきて、二日の夜とするものは其故をしらず、晦日は民間には事繁く、大かたは寐るものなし、この故に元日の夜はいたくこうじていぬめれば、さるまじなひ事などは、麁略にしたるよりの事にや、〈◯中略〉浮生が滑稽太平記に、試毫評判の條、回祿已後麁相なる家居に越年をして、せめての祝儀にや、去年たちて家居もあらた丸太哉〈卜養〉たからの舟も浮ぶ泉水、〈玄札◯中略〉又年越の夜も敷ことあり、故に冬の季ともいひたり、然るに二ツあるものは、前するを季に用ゆ、新年をとヾむためなれば、此理近かるべしといへるもあり、されども玄札老巧たり、既に脇にする時は、如何にも春たるべしといへるも有けり、〈回祿已後は萬治元年なり〉これをみれば江戸にはそのかみより、元日か二日を用ひしなり、兩日定まらざりしにや、船の繪内裏より公卿に賜るは二日なりとぞ、かヽる故なるべし、
p.0892 正月二日 今夜寶船ノ繪ヲ枕下ニシキテ寢ル也、〈昔ハ節分ノ夜行レ之、伊勢伊勢守、足利幕府進二上之一、將軍大引、其他小引、下ハ引合、末女ハ杉原、皆紙名也、〉今世禁裏ニ用ヒ玉フハ、舟ニ米俵ヲ積ムノ圖也、〈印板ナリ〉民間ニ賣ル者ハ、七福神或ハ寶盡等ヲ畫ク、〈寶盡、丁子、打出槌、分銅、カクレ蓑、カクレ笠等也、鍵、七寶、〉京坂ハ近世廢衰ス、江戸ハ今モ專ラ元日二日ノ宵ニ、小民賣レ之巡ル、寶船ノ印紙ニ、道中雙六ノ印紙ヲ兼賣ル、其詞曰、道中雙六、オタカラ〳〵、今夜ノ夢ヲ初夢ト云、故ニ吉夢ヲ見ント寶船ヲシクコト也、
p.0892 たからぶね 寶貨を積たる船をゑがきて歌あり、回文也、全浙兵制にも載て、と
p.0893 をのねぶりを十人共レ舟と釋せり、詠歌本紀には、長夜の眠の中に十界を流轉する事とす、此を除夜に枕の下にしく、吉夢を見てはつなぐといひ、凶夢を見てはながすといふ也、居家必要に、夢レ乘レ船吉、夢二船渡一主二大富貴一と見えたり、
p.0893 寶船、〈(中略)居家必用曰、夢三乘レ船入二日月一吉、夢二船渡一主二大富貴一云々、 節序紀原曰、節分畫レ船敷二床下一者、疑原二於韓退之送窮文作一レ船歟、退之送窮文曰、正月乙丑晦、主人使三奴星結レ柳作レ車、縛レ草爲レ船、載二糗與一レ粻、牛繫二軛下一、引レ帆上レ檣、三揖二窮鬼一、而告レ之曰、聞子行有レ日矣、鄙人不二敢問一レ所レ塗、竊具二船與一レ車、備載二糗粻一、日吉辰良利レ行二四方一、按二代酔一、唐人以二正月下旬一送レ窮云々、〉
p.0893 寶船の事〈正月十六日文晁〉 節分の夜に内裏宿直のものに給ふ寶船の畫は、花園實久朝臣、獏字(○○)は後陽成院宸翰にて、繪文字とも宸刻なり、〈◯中略〉寶船の板木は、萬治の火事に燒失せしを、京極殿にありしをもて飜刻せられたりしが、今つたへたる板木なり、内侍所に納めありて、節分の夜宿直のものに今も賜はれり、
p.0893 睦月に用る寶船のゑは、いつの頃より始りぬるにや、大永のころ巽阿彌が記にみえたれば、其前よりや行はれぬらむ、いでや此一ひらは、かけまくもかしこき後水尾院、獏字を書せ給ひて、御手づから板にゑらせ玉ひしとて、今も勘使所にひめおかるとかや、是をすりうつして、年ごとのむ月二日に諸臣に賜はるによりて、年をへてやつれぬれば、いまは新にものせしを賜ふとぞ、然るにこれなむ御製作の板をすれるとみえて、いとこだいにて、かしこくともかしこし、六十八翁源弘賢敬書
p.0893 初夢、〈◯中略〉或人云、今内裏より堂上がたに賜る舟の獏字は、後陽成院宸翰を刻させ給ふとなり、又或説に、後小松院御夢に寶船を御覽じて、畫かせ給ふ獏字即宸翰なりとぞ、いづれとも知らざれども、後説は非なるべし、
p.0893 たから船 貊といふ獸の形を書し繪をも用ゆ、貊食二惡夢一といふ説、出所を不レ見、これを屏風に圖して邪氣を避といふ説は、白居易が貊屏賛に見えたり、
p.0894 貘屏賛〈并序、貘讀陌、白豹也、〉
貘者、象鼻犀目、牛尾虎足、生二南方山谷中一、寢二其皮一辟レ瘟、圖二其形一辟レ邪、予舊病二頭風一、毎二寢息一常以二小屏一衞二其首一、適遇二畫工一偶令レ寫レ之、〈◯下略〉
p.0894 節分〈◯中略〉 貘枕〈貘の札、白澤といふ獸の事也と、白樂天はいへり、節分の夜、貘の圖を畫て枕とすれば、惡夢を見ず、諸の邪鬼を避る事妙也、俗に貘は夢を喰ふ獸也といふもいはれあり、(中略)五法水にて寫したる、此御像を家に所持すれば、時疫やく病うつらず、狐狸惡氣、其外諸の怪しきもの、災をなす事なし、萬一怪しき事あるか、又は怪しき病人あらば、此白澤の像の前にて呪文を唱ふれば、れいげん神の如し、近世は大坂吉文字屋市左衞門といへる本屋にて、五法水にて寫したる此白澤の像を賣る也、世間にある守札と違ひ、渉世録其外諸書に出て、正しき事なり、余も此像を家にかけて、凶事の吉事となりたる事多し、依レ之諸人の爲こヽに記す、〉
◯按ズルニ、貘枕ノ事ハ、器用部枕篇ニ詳ナリ、
p.0894 享保十八年三月七日ヨリ至二十七日一 世上年越ノ夜、寶舟トテ畫ノ上ニ、ナガキヨノトヲノネブリノ皆目サメナミノリ舟ノ音ノヨキカナト云、廻文ノ歌(○○○○)ハ古キコト也、俊頼ノ記ノ中ニアルカト思召ノ由也、〈◯中略〉後日ニ仰ラルヽハ、俊頼ノ記ニハアラズ、何ヤラナリ、俊頼ノ記トハシルスベカラザルノ由ヲ仰ラル、
p.0894 初夢、〈◯中略〉浮生ガ滑稽太平記に、〈◯中略〉たからの舟も浮ぶ泉水、〈玄札〉この寶舟は、種々の寶を舟に積たる處を繪にかきて、ながきよのとをのねぶりのみなめざめなみのりふねのをとのよきかな、といふ廻文の歌を書添て、元日か二日の夜敷寢に、惡き夢を川へ流す呪事なりとぞ、〈◯中略〉をとは音なるべければ、おとのかななり、廻文なれば拘はらぬにや、いつの頃の歌ともいまだ定かならず、〈◯中略〉また日本風土記〈五〉琴譜廻文詞とて、この歌を載たり、〈◯中略〉なにを傳へて琴譜といへるか、そのかみ三弦などにて、此歌を彈たるにてもあるべし、
p.0894 とをのねぶり 回文の歌に見ゆ、此歌は聖徳太子の、秦川勝が惡夢をけしたまふ呪歌なるよし、詠歌本紀に見え、全浙兵制にも載たれど心得がたし、
p.0895 ながきよのとをのねぶりのみなめざめなみのりふねのをとのよきかな、十の眠にて十界をいふ、長夜の眠の中に十界を流轉す、みなめざめは皆目醒也といへど、をとは音なるべければおとのかな也、いかヾ、
p.0895 廻文詞
乃革氣搖那(ナガキヨノ)、多(ト)多〈◯下多字疑衍、下同、〉和那揑不里那(ヲノネフリノ)、密乃密索密(ミナメサメ)、乃密那里不揑那(ナミノリフネノ)、和多那搖氣革乃(ヲトノヨキカナ)、
此譜倒順讀レ之、字語意理相同、故曰二廻文一、
釋音 乃革氣搖〈長夜、〉那〈助語、〉多多和那〈十人、〉揑木里那〈困倦、〉密乃密索密〈醒、〉乃密那里〈浪上行、〉不揑〈船、〉和多那〈响、〉搖氣革乃〈好、〉 切意、 十人共レ舟、夜長困倦、浪裏舟行、各皆醒看、
p.0895 同夜〈◯節分〉禁裏貼二畫船於白紙一而賜二宮方及諸臣一、地下良賤亦畫レ船、以敷(○)二臥榻之被底(○○○○○)一寢(○)、今夜有二吉夢一則來歳得レ福云、若見二惡夢一則翌朝付二是於流水一、是謂レ流(○)二惡夢(○○)一、倭俗斯船内畫二種々珍寶一、故稱二寶船一、近世是亦鋟レ梓、而兒童賣二市中一、大呼二寶船々々一、是又中華紙船之類乎、
p.0895 たから船 舟に色々の寶をつみたる繪を枕の下に敷、よき夢を見てはつなぐといひ、惡夢を見てはながすといひてことぶく、
p.0895 晦日 又今夜船を畫て褥の下に藉事あり、これ韓退之の送窮文に本づけるにやといへる人もあれど、利欲に汲々たるは世俗の通患なれば、船にたからを積て、我家に入ん事をこひねがひ、夢になりともその事を見まほしさに、俗人のかくはするなるべし、誠に婦人女子のたはぶれにして、丈夫たる人のすべき事にあらず、
p.0895 寶船〈紙に寶舟の繪を書て、節分の夜、人の寢る床の下に敷也、或人のいはく、寢はいね也、我を稻として舟に積たるの心なるべし、除夜明方に人のまどろむを、いねつむといふに同じ、〉
p.0895 寶船 當世正月二日の夜、人毎に初夢とて寶舟の畫を枕に敷なり、こは古く唐にて、
p.0896 年の終に舟を造りて、窮鬼を乘せて流し捨る事あり、夫が日本へうつりて、節分に舟を畫きて、是へびんぼうがみをのせ捨るとて流(○○○○○○○○○○○○○○)せしなり、
p.0896 十二月晦日 一節分夜、紙にかきたる舟繪、伊勢守進二上之一、女中衆同朋衆迄取調申之、
p.0896 貞孝之御調進節分御舟繪所は、一兩年上京、小川扇屋にて被レ書之説、又其後狩野法眼弟子に、峠右近と申仁、御被管人御扶持人候、其峠にかヽせられ候、又そののち公方様〈光源院殿◯足利義輝〉御代に、某福山新五郞時御舟の繪の事、公方様朽木より御上洛、二條妙光寺に被レ成二御座一候、其時貞孝様は、御宿妙蓮寺と申所に御座候、公方様と御臺様は、大引合御舟二ツ、又御造子御所々々様へ小引、上臈、中臈、御末女までは、杉原に入次第およそ調進、或時節分御伺公候て御入候へば、御所御所様の御舟不足にて、俄に福山繪筆以て參れとの御使被レ下、二條春日御局さま御ゑんにて、不足の御舟を書申候、彼節分御舟圖、相阿むかしゑづ有、それにて調申候事も候し、
p.0896 正月寶舟繪 古代の書に、寶舟繪を正月枕の下に敷事所見なし、京都將軍の頃は、既に此事ありき、澤巽阿彌〈將軍家同朋、大永、天文、永祿ノ頃、〉覺書云、貞孝之御調進、〈◯中略〉それにて調申候事も候し云々、貞孝は伊勢守貞孝也、將軍家の政所職也、貞孝より寶舟の繪を獻ぜし也、〈◯中略〉御造子は御曹子なり、
p.0896 寶船の事〈◯中略〉 寶船古繪本、蜷川相摸守家藏にあり、これは其先祖蜷川新右衞門親長入道標が寫せる圖なり、〈新右衞門、其頃京都將軍政所代なりし、其後御當家御奉公云々、〉裏書に云、此船寫はせちぶんの夜書せられ候御船なり、相阿彌筆寫也、惠林院御代に、進上物の内、歸山祐心母かた祖父巽阿彌進物也、抑もたせられ候淵玄抄の書を拜見申度候、古繪本を見て、光源院殿様御代貞孝様被二仰付一、歸山調進申候、公方様妙覺寺に御座候時、御船不足の事あり、めし使被レ下、かすがの御局様の御えんにて、五艘かきたし、御連枝御所々々さまへ上候、覺候事此通りしるせり、
p.0897 寶船の繪は、〈◯中略〉むかしは何やうにかきたるか、彼相阿彌がかきたるよしの摸本あれども、實否はしらず、それは唯米俵を積たる船なり、其心をおもふに、いねつむといふことにや、年の初め寐る事をさ云ふなり、滑稽雜談に寢臥と尋常の如く唱ふるは、病床などに紛らはしければかくいふなり、涙を流すを米こぼすといふに同じ、是またいつの頃よりいひそめたるか、齋宮の諱言の遺風と覺ゆ、さりながら件の巽阿彌が覺書にも、舟とのみいひしをみれば、物を載たるにはあらぬなるべし、そはあしき夢を流さむとてするわざなればなり、さるを後には何くれと書そへて、今のごとなれりとみゆ、〈◯中略〉道祐が紀事に、近世梓に鐫てうるといへれば、其前は書たるを用ひしことヽしらる、そは賣ものにありやなしや、よき人のみにて、下ざまはせざりしならん、下にも學ぶに及んで板行出きしかば、末々の者どもヽする事となれるは、又その後とぞ思はるヽ、
p.0897 業房龜王兵衞之時、夢ニ御前ヲ奉レ被二追却一、門外ヘ被二追出一ト見テ、後朝康頼ニカヽル夢ヲ見ツル、年始ニフクタノシキ事也ト云ケレバ、康頼云、極吉之夢也、可レ任二靫負之尉一之夢也、靫負陣門外之故云々、果シテ十ケ日中拜二左衞門尉一云々、
p.0897 初夢、古事談、〈◯中略〉初夢とはなけれど、初春の夢を祝ふなり、
p.0897 五條天神〈今松原通西洞院西南角〉の神寶は、金のたから船なるよし、天明の大火災の時、動座させ奉りしこと、町家菊屋權兵衞語られしと、中野能充物語せり、この天神は少名彦の神なり、例年大晦日節分等に、たから船の畫を出せるを、人々請受けて守とするをおもへば、御神の御影の心にやあらん、
p.0897 一寶舟繪 壬寅正月、予が家に賀客來る、床に禁裏にて用ひ給ふ寶舟の繪を懸置たるを、客見て、寶舟繪予は不レ用也、此繪を用ひたればとて、福の來るべき理なし、無益の物也
p.0898 と云、 貞丈云、天下萬國の人情、皆凶禍を惡み、吉福を好む事は一同也、故に年始にも吉福を祝すべき物を用て、賀事に備ふる者也、寶舟の繪實に無益の物也といへども、是を用ひたりとて、人道の害にならざる物なれば、禁止するに及ばず、用るも捨るも人の心に任すべし、凡人道に害ある物は、世俗に用ゆる物也とも固く禁止すべし、世間に、正月は樗蒲〈カルタト云〉を打ツ事あり、是博奕なり、是人道に害ある物也、堅く禁止すべし、寶舟を無益と云意にては、門に松竹を立るも無益也といはん歟、松竹を立る事人道に害なし、都鄙貴賤ともに是をもつて治世を賀する祝物とする事、我國の風俗也、凡人道に害なき事は、其國其世の風俗に隨て、戻る事なきは聖人の教に叶ふもの也、理學を好む人は、寶舟を惡むごときの偏見あり、理に落入て、理をもつて我見識をしばり屈むる故偏見出る也、
p.0898 む月二日の夜、世にするわざなればとて、寶船の繪を枕にしきてねたる夢に、かの七柱の神居ならび給ひぬ、何事をし給ふにかと、やをらさしのぞきたれば、歌合の一卷をとり出給ひて、それが判をし給ふなりけり、〈◯中略〉さめての後、わすれぬまにとて、筆とくかいしるし置き侍るになん、ゆめのしるしにさいはひをまつね、
◯按ズルニ、まつねハ松根ニテ、著者村山氏ノ名ナリ、
p.0898 二日、〈◯中略〉二本上ばうきを進上して、御はきぞめあり、常の御所上段、夜のおとヾ障子の内などへは、はかまを着せずしてはまゐらざるゆゑに、はかまの緒をゆひてくびにかけてはく、〈正月にかぎらず、毎度かくのごとし、〉
p.0898 禁裏小坪之掃除并清所之塵埃、丹波姫栗谷人拂二去之一、毎日交勤レ之、其酋長稱二八十一、後陽成院時、其長歳超二八十一、強健而勤レ之、其子孫至レ今稱レ之、又號レ覆、(コボシ)掃二棄所レ覆之塵埃一之義也、一説覆誤二小法師一者也、此説近レ是乎、此人獻二緒太一、
p.0899 十二月晦日、水無瀬家より、わらしべにて作りたる箒を二ツ禁裏へ獻ぜらる、元朝御殿の御箒初の料也、〈◯中略〉各ふるきことなりといへり、
p.0899 正月二日 一今朝出御以前、御座之間於二御上段一御箒始、御年男相勤、老中長袴着用勤レ之、
p.0899 三番 左 掃初
諸人のこヽろの薼もはらへとてけふとりそむる玉はヾきかな〈◯中略〉
判云、むかしより、老そく中のすぐる老、箒取て此御式したまふ事とかや、今は何となう似氣なき様なれども、昔の御事はすべて親く、且はことそぎたれば、おもきもかろきも、有のまヽにうちふるまへる有様しるくなん、 三日參賀は、もとより三朝の御式、替らぬ御事ながら、箒取て世の薼をはらいつヽ、ゆらく玉の緒、末久にさかえむ御代の此世の盡きぬ御ことほぎと成ぬる社ありがたけれ、 掃初と申は、老職の人、年闌たる人、年男といふ事うけたまはり、二日の朝とく出仕有て、箒を携へて、おまし所の惠方に向ひはヽきを入る也、少老御側の衆是にそふ、
p.0899 不レ爲二掃地一事 世俗ニ、元日ヨリ三日ニ到マデ掃除ヲセヌ事アリ、異國ニモ是ニ似タル事アリ、〈◯中略〉モロコシ閩ノ俗ハ、元日ヨリ五日マデ不淨ヲ除ハズ、車ニテ野ニ往テ、石ヲ拾テ寶ヲ得タリト祝フト也、和國ノ俗モカヽル事ヲ思ヒ寄シニヤ、或ハ曰ク、地ヲ除ハザルハ、是新ニ來ルトコロノ陽氣ヲハラヒステズシテ、靜ニ養フ意モ有ン歟、
p.0899 世俗ノ習ニ、大歳ノ日掃除シタルマヽニテ、正月三日マデ座ヲ不レ掃、人有二其内ニ一帚バ、福神他ヘ出ルト云習タリ、掃初ニハ、其年ノ得方ニ向テ掃族多シ、其理未二分明一、准據スレバ五雜爼天之部云、〈◯中略〉コノ例ヨリ見レバ、本朝ノ俗、座ヲ掃ハヌト同意ナルニヤ、
p.0899 元旦、〈◯中略〉閩中俗不レ除二糞土一、至二初五日一輦至二野地一、取レ石而返、云レ得レ寶、則古人喚二如願一之意也、
p.0900 昔有二商人歐明一、乘レ船過二青草湖一、忽遭二風雨晦冥一、而逢二青草湖君一、邀歸止レ家、謂二歐明一曰、惟君所レ須富貴金玉等物、吾當レ與レ卿、傍有レ人私語曰、君但求二如願一、不二必餘物一、明依二其人語一、湖君默然、須臾便許、及レ出乃呼二如願一、是一少婦也、湖君語レ明曰、君領取主レ家、如要レ物、但就二如願一、所レ須皆得、至レ家數年遂大富、後至二歳旦一、如願起晏、明鞭レ之、如願以レ頭鑽二糞帚中一、漸沒失二所在一、明家漸貧、故今人歳旦糞帚不レ出レ戸者、恐三如願在二其中一也、
p.0900 歳朝 元日、〈◯中略〉俗忌二掃レ地乞レ火汲レ水并針翦一、又禁二傾レ穢瀽糞、諱二啜レ粥及湯茶淘飯一、〈◯中略〉案、〈◯中略〉歳時通考、元旦不レ掃レ地、不レ汲レ水、不レ乞レ火、
p.0900 元日掃除せざる故事
五雜爼、〈◯中略〉我俗に掃除せざるもこれに據にや、一説、新に來る陽氣をはらひすてずして、靜養する意なるべしと、附會の説なり、
p.0900 元日 世俗に、今日終日屋中を掃除せず、是新に來る陽氣をはらひすてずして、靜養する意なるべし、五雜爼に、閩の俗、〈◯中略〉古人如願と喚の意なりとしるせり、しかればもろこしにもかヽる事侍ると見えたり、
p.0900 元日不レ開レ戸 江戸の商家、元日多くは戸を開かず、一日廢務也、又俗間家内を掃除せず、凡新年の陽氣を重ずるの義也、唐山にもこの事あり、閩部疏に云、閩の俗歳首を重ず、民間正戸を開かず云々、
p.0900 人の去し跡を掃ことを忌も古き事なり、〈◯中略〉此に依て思ふに、元日より三日は家をはく事をせぬわざあり、今はさまではあらねど、元日は民家すべて掃ことをせず、是また件のことによりてなり、世説、故事苑、五雜爼、〈◯中略〉古人喚二如願一之意也と、是吾俗の元日より三日掃除せぬこと、又俵子及金銀の包たるを買て、祝する類なりといへるも、似たる事なれど、それは掃ぬに
p.0901 はあらず、唯塵芥を掃ため置て、五日にいたりてすつるなり、輦とは器に入れて舁もてゆくをいふ、そはともあれ、家を掃ぬことは、此等のことによるにあらず、
p.0901 梳毛見自、屋中毛波可自、久佐麻久良、多婢由久伎美乎、伊波布等毛比氐、
くしも見じやなかもはかじと云は、人のものへありきたるあとには、三日は家の庭はかず、つかふくしをみずといふ事のある也、
p.0901 久壽二年十二月十七日庚寅、傳聞、今夜亥刻高陽院入棺云々、出御之後、民部大夫重成、以二竹箒一掃二御所一、
p.0901 慶長三年正月二日、じゆごう御まいり、こぼし御はうきしん上す、御はきぞめあり、
p.0901 寛永甲申正月御湯殿の記 寛永廿一年正月二日、〈◯中略〉こぼうしはうきしん上す、御はきぞめあり、
p.0901 二日 商家にはあきなひ初(ぞめ)をし、舟人は船乘初をす、
p.0901 二日 商家には、今日貨棧をひらき售を肇め、年禮に出る故に、市中賑ひて酔人街に多し、
p.0901 二日、〈◯中略〉今日諸家各業とする所の藝を始む、商家は賣始、農家は耜始(スキハジメ)あり、
p.0901 詠二商始一 八幡美濟
君が代のめぐみをうるもかふ人もおなじ心に祝ふはつ春
p.0901 正月二日は初荷とて、元日夜半過より商物を車にて引出し、市中大に賑はし、江戸と替ることなし、其荷物に附添もの、大聲にて、賣た〳〵と呼歩行くことなり、
p.0901 正月の買初(○○)めには蛤に限る、此蛤賣大門より入て、蛤々と賣あるき、買はんと
p.0902 いふものは、商人のいふ直段に買取、手打などして祝ひ、直段を直切るといふことなし、扠商人大門より入て、賣ては大門へ出、また取て返しては大門より入て賣る、下もより大門口へ出る時賣聲なし、買人も上より來るのみ買ふなり、是は古きことなるべし、
p.0902 凡新年俗間、始買二葷辛之類并蛤蜊海參一、葷辛除二疫鬼一、蛤蜊取二和合之儀一、海參其形似二米嚢一、故祝レ之曰二俵子一、
p.0902 四日 諸職人各始二家業一、〈市中今日諸商賣人亦始二其事一、凡裁下補年中所レ記二物價一之簿册上、是謂二帖綴一而各祝レ之、倭俗帖謂レ帳、〉 十一日 帖綴〈諸商今日綴二年中買賣之簿書一、是稱二帖綴一、饗二酒食一互祝レ之、〉
p.0902 正月二日、三都トモ賣人ハ、今曉丑或ハ寅ノ刻ヨリ初賣(○○)ト唱テ、行人多キ街店ハ品物ヲナラベ、蝋ヲ點シテ賣レ之、又京坂ハ諸品物ヲ得意ノ家ニ携ヘ行テ賣レ之、蓋日用ノ品物ノミ也、〈諸品物ヲ中ニシテ、兩人ニテ擔レ之行ク、其詞曰、ハアヨイ〳〵 ヨヒ〳〵 ト呼行ク、〉又大坂ノ菜蔬買ハ、今曉水菜〈一名壬生菜、又京菜、〉ヲ賣リ巡ルヲ例トス、 江戸ニテハ日用ノ品物ヲ賣ル、小賈ハ專トセズ、大賈ハ傳ヘ賣ル中賈ニ諸賈物ヲ荷車ニ積ミ、僮僕五七人、或ハ十人、紅ノ弓張挑灯等ヲ照シ、車ニ副テ得意ノ店ニ行ヲ例トス、號テ初荷(○○)〈ハツニ〉ト云、初賣、初荷トモ、天明ヲ限リトスルコト三都同事、〈蓋京坂日用ノ品物初賣、昔ハ二日曉ノミ、一品二人賣來ル時ハ、後來ノ物ヲ買ザル家アリ、故ニ近年ハ或ハ元朝ヨリ賣レ之者稀ニ有レ之、又或ハ舊冬ヨリ初賣ノ分ナリト號テ強賣アリ、後世恐ラクハ、皆元日ニ賣レ之コトニナリ行歟、〉
p.0902 二日 船乘初
p.0902 二日 商家にはあきなひ初をし、舟人は船乘初(ふねのりぞめ)をす、
p.0902 きそはじめ、〈俳〉きぬきそむるいはひ也、三ケ日のうち吉日を撰びてする也、ある説には、競始(キソヒハジメ)とて、舟どもかざりてのりそめ侍る事ともいへり、
p.0902 二日、船乘始、江戸大坂諸國浦々湊にあり、〈◯中略〉諸侯方倉屋敷等に行るヽは、別して華麗なり、
p.0903 船乘初〈(中略)攝州大坂ノ船乘初ニハ、舟ニ松竹注連ノ飾リヲ立、船靈神ヘ鏡餅神酒等ヲ供シ、水主ヲ揃ヘ、凡ソ一タン許乘出デ漕戻ルト也、其日、船持ノ家家酒肴ヲ調ヘ、合家嘉儀ヲ催シ、年中廻船ノ海上風波ノ難ナキコトヲ神ニ祈リ、自ラモ祝フト也、〉
p.0903 二日、船乘始、〈◯中略〉大坂邊にては、船に松竹注連を飾り、船靈を祭り、鏡餅、神酒、燈明種々の供物を獻じ、水主揖取等華やかに粧ひ、十段ばかり乘出し漕戻し、其後酒宴をなす、すべて欵乃歌を謠ひ、甚壯觀なり、〈(中略)今日船中に賽二ツを雙べ飾り、二ツ共一を上になし、一天宣平なる義を祝し、下の六は地六の直なるに象り、水上安全を祝ふ故實なりと云、〉
p.0903 舟乘初〈(中略)舟乘初に賽を二ツかざりおく故實あり、その並べるや、上へ一を二ツ竝ぶ、一天日和よきやうにと祝してなり、左すれば下へなる方は、六地眞直にして、水上おだやかならんと也、二と二とを合す、中荷多からんと也、向ふへ三をならぶ、さいさきよし、前へ四をならぶ、仕合よしと祝ふ事とかや、〉
p.0903 二日、角倉船乘始、〈◯中略〉其式、高瀬川筋角倉家の前なる入江に、舟二艘を飾る、一艘は當主舟、一艘は舟歌舟なり、寅の刻、當主及び老臣監舟の士乘船ありて、入江を七度計漕廻る、此時船中に於て祝儀の酒宴あり、又謠及び舟歌を唱ふ、爾して後舟の表に備ふる所の饅頭を舟中へまき、又路上へ撒く、是を得て懷中すれば難船の患なしと、よりて海上往返の商家、競ふてこれを求むる者群をなす、
◯按ズルニ、慶長十三年、角倉光好、加茂川ヲ引キテ高瀬川ヲ開ク、後幕府ノ命ニヨリ、世々高瀬川ノ舟ヲ司ル、
p.0903 正月二日、〈◯中略〉舟ノリ初、湊ニテ舟大將御舟ニノリ出ル、舟中ニテ水手舟歌アリ、
p.0903 慶長六年、一豐公〈◯山内一豐始テ土佐ニ封ゼラル〉舊臘大坂御出船、淡州由良にて御越年、正月二日甲浦に御着船、〈◯中略〉同五日彼地御發駕、奈半利に御一宿、〈◯中略〉八日淡道通り浦戸へ御入城、〈◯中略〉或説に、阿州桂泊に御越年、正月八日浦戸に御着、此日を吉例として毎年船の乘初と被レ成也、
p.0903 朝比奈右京殿日記に云、延寶八年正月八日、御吉例御船御乘初、〈◯中略〉
p.0904 私に云、右御船御乘初、正月八日と定られたは、御初入御着岸の御吉例より始し處、其後延寶九年四月八日、將軍家の御日柄を憚らせ給ひて、同月十五日に轉ぜられ、深尾因幡殿御名代を勤られし事左の如し、慶長六年より天和元年迄、中間八十一年也、
p.0904 元祿十六癸未、御船御乘初、當年より正月十六日に被二仰付一、是迄十五日也、天和元年より元祿十六年迄、中間二十三年也、
p.0904 當時諸侯ノ國、文事ニモ非ズ、武備ニモ非ズ、昔ヨリ仕來リシコト甚ダ多シ、其一二ヲ擧ゲバ、謳初メ、鼔初メ、舟乘リ初メ(○○○○○)、鷹狩初メ、此等ノコト初メ、ミナ益ナキコトナリ、
p.0904 人(シン)日〈正月七日也、凡毎年正月一日曰二雞日一、(中略)七日人日、八日曰二穀日一、見二荊楚歳時記一矣、或書曰、人日以二七種菜一作レ羹、食レ之則諸人無二病患一也、〉
p.0904 人日(ジンジツ)〈又云靈辰、正月七日也、事見二歳時記、五雜組、匀瑞一、〉
p.0904 初七日、人日、〈七日主レ人〉
p.0904 正月七日爲二人日一、以二七種菜一爲レ羹、翦レ綵爲レ人、或鏤二金薄一爲レ人、以貼二屏風一、亦戴二之頭鬢一、又造二華勝一以相遺、登レ高賦レ詩、 按、董勛問禮俗曰、正月一日爲レ鷄、二日爲レ狗、三日爲レ羊、四日爲レ豬、五日爲レ牛、六日爲レ馬、七日爲レ人、正旦畫二雞於門一、七日帖二人於帳一、今一日不レ殺レ雞、二日不レ殺レ狗、三日不レ殺レ羊、四日不レ殺レ豬、五日不レ殺レ牛、六日不レ殺レ馬、七日不レ刑、亦此義也、古乃磔レ雞、今則不レ殺、
p.0904 節日由緒 七日採二七種羹一〈七日七種羹、先嘗味、除二邪氣一之術也、〉
p.0904 正月七日ノ七草ノアツモノト云ハ、七種ハ何々ゾ、七種ト云ハ、異説アル歟、不二一准一、或歌ニハ、 セリナヅナ五行タビラク佛座アシナミヽナシ是ヤ七種 芹五行ナヅナハコベラ佛座スヾナミミナシ是ヤ七クサ 又或日記ニハ、薺(ナヅナ)、蘩蔞(ハコベラ)、五行、スヾシロ、佛座、田ビラコ、是等也ト云々、但正月七日七草ヲ獻ズト云事更ニナシ、年中行事ニハ、七日白馬節會及叙位事、兵部省ノ御弓ノ奏事ト許リ記シテ、七草ト云事ナシ、十五日ニコソ獻二七種御粥一事ト註シ侍レ、又資隆卿八條院ヘ書進スル簾中鈔此定也、彼
p.0905 鈔名物也、豈浮ケル事アランヤ、又禁中ノ事、年中行事ニシカンヤ、既ニ癈マデ註セリ、爭カ當時事漏哉、旁不審事也、乍レ去諸人皆七日ト思ヘリ、何ナル事歟、人ニ可レ尋也、
p.0905 正月 問て云、七日にあつ物をくふは、何のゆへにて侍ぞや、 答、正月は小陽の月なり、また七日は小陽の數なり、よつて朝廷をはじめとして、わたくしの家にいたるまで、宴會をもよほすなり、それにあつものを食すれば、万病また邪氣をのぞく術なりといふ本文あり、荊楚記といふ文にも、羹を食して人俗病なければ、けふを人日とするとみえたり、延喜十一年正月七日に、後院より七種のわかなを供ずとみえたり、七種わかなといふは薺、はこべら、せり、御形、すヾしろ、佛の座などなり、北野天神も和菜羹啜口と作給ひたれば、むかしより侍りし事にや、
p.0905 粥 古者上元日、兼二赤豆粥一同獻二七種粥一、七種者米、小豆、大角豆、黍、粟、菫子、薯蕷、或曰、白穀、大豆、小豆、栗、粟、柿、大角豆也、今俗正月七日、上下薺粥中入二燒餅子一而嘗レ之、此擬二七種菜一、則迎レ新之意乎、
p.0905 公事根源に、延喜〈六十代醍醐天皇〉十一年正月七日に、後院より七種を供ず、〈江家次第に、後院は冷泉院朱雀院等をいふ也といへり、〉按に正月七日に、七種を供ぜしは、この御時よりことはじまるなるべし、おほよそ若菜とは、ひろく春くさの初苗をさしていふ名なり、〈◯中略〉又公事根源に天暦〈六十二代村上天皇〉四年二月二十九日、女御安子の朝臣、若菜を奉るよし、李部王の日記にみえたり、〈李部王は式部卿兼明親王、延喜の皇子なり、〉若菜を十二種供ずる事あり、其種々は、若菜、はこべら、苣、せり、蕨、なづな、あふひ、芝、蓬、水蓼、水雲、〈一に薊〉松と見へたり、〈◯中略〉天暦の御時に、十二種の名物は備たれど、七種の名物はいまだ詳ならず、〈◯中略〉或はいふ今松尾の社家より奉る七種は、芹、なづな、御形、〈はヽこぐさ〉はこべら、佛の座、〈是は周定王救荒本草の風輪菜に充しくさなり、〉すヾな、〈かぶらな〉すヾしろ、〈大根〉又あるひはいふ、今水無瀬家より獻ずる若菜の御羹は、青菜と薺ばかりなりとぞ、また櫃司供御所より奉る七種の御粥は、薺を少しまじへて奉るといへり、〈以上の三説は皆傳へ聞たる事なれば、したしくしらず、〉今關東にて七種の粥といふは、青菜となづなをまじへて祝ふなり、
p.0906 七種菜〈なヽくさ〉 七種の若菜を以て、これを正月七日禁中に奉りしは、醍醐天皇の延喜十一年を始とす、〈公事根源〉それより以前、宇多天皇の寛平二年正月上の子日、内藏寮より若菜を奉りし事ありと〈同上〉いへども、七種を薺、蘩 、芹、菁、御形、酒々代、佛座に定められしは、四辻左大臣を始とす、〈河海抄には縷を蔞に作り、酒々代を須々之呂に作られたり、〉一説に七種は芹、なづな、御形、田平子、佛の座、あしな、耳なし也と〈壒嚢鈔〉いひ、或は芹、五行、薺、はこべら、佛の座、すヾな、耳なし也といひ、又或日記には芹、薺、蘩蔞、五行、すヾしろ、佛の座、田平子也とも〈同上〉いへり、然りといへども、枕草子に七日の若菜を人の六日にもてさはぎ、とりちらしなどするに、みもしらぬ草を、〈◯中略〉みヽな草となんいふといふものヽあれば、うべなりけり、きかぬがほなるはなど笑ふにとみへたり、此みヽな草は、即壒囊鈔にいはゆる耳なしと一物にして、今も俗にみヽなぐさといふものなり、清少納言の見もしらぬ草を、子供のもてきたるといへる文によれば、此頃までは耳なぐさは、七種の數には入らぬ草にて、清少納言もはじめて此草をばみし也、されど壒囊鈔に載る所の兩説の七種菜は、永觀の頃よりははるかに後の人の作りしものなる事しるし、或はいふ今松尾の社家より奉る七種は、芹、なづな、御形、〈はヽこぐさ〉はこべら、佛の座、〈これは救荒本草の風輪に充し草なり〉すヾな、〈かぶらな〉すヾしろ〈大根〉なり、また別本公事年中行事に圖を出したるは、芹、なづな、御形、〈はヽこぐさ〉佛の座、〈おほばこ〉はこべら、すヾしろ、〈大根〉すヾな〈かぶらな〉なり、今關東にて七種の粥といふは、青菜と薺をまじへて祝ふなりといへり、凡七種の粥を禁中に奉りしは、梁の宗懍が荊楚歳時記に、正月七日俗以二七種菜一爲レ羹、といへる文にもとづかれしものなれども、其七種は西土の人といへども、後世に至りては、しるものなきによりて、本邦にては季冬より初春をかけて生出る種々を以て、強てその數に合せしものなるべければ、家々にてその説まちまちなりといへ共、四辻左大臣の説最ふるし、故に今その説に從ひて品物をわかちしなり、扨關東にては、青菜と薺をまじへて祝ふといふといへども、それを打はやす爼板の上には、火箸、擂槌、
p.0907 庖丁、杓子、わり薪等の五種をならべて、七種の數に合せ、そのうちの杓子、或は擂槌などにて打はやすなり、その打はやす時の祝詞、關東にては、なヽくさなずな、唐土の鳥と、日本の鳥と、渡らぬ先に、といへるを、備後の福山にては、唐土の鳥の、日本の土地へ、渡らぬ先に、といへり、これは歳時記に、正月夜多二鬼鳥度一、家々搥レ牀打レ戸捩二狗耳一滅二燈燭一禳レ之、といへるにやヽ似たり、岡村尚謙曰、公事根源に、延喜の時、後院より七種の若菜を奉りしといひしは、恐くは一條褝閤の傳説をかきしるされしにて、其實は延喜御記にいへるが如く、たヾ若なのみを奉りしものなるべし、されば今櫃司の供御所より奉る七種の御粥は、薺を少しまじへて奉ると〈春の七種考〉いへり、これは却て延喜の頃の遺風にてもあるべきにや、御形、田平子、佛座などいへる名は、まさしく後の世の俗稱にて、延喜式、新撰字鏡、和名鈔等には、その名なきにても、七種のわかなは、延喜の頃のものにはあらざることしられたり、もしその頃のものにて、いづれの野にも、冬より春かけて、よく生出るものは、芹、薺、をはき、〈俗にいふ娘菜根也〉おほばこ、うつぼくさ、〈夏枯草〉はヽこ、はこべら、これや七種にてもありぬべし、されど文徳實録、日本後紀等の諸書に、絶てその事のなきをみれば、いづれにも延喜の頃には、七種の若菜を奉りしものにては、あるべからずといへり、これまた一説なり、
p.0907 七草 世説、故事苑に七草を搥事、事文類聚に歳時記を引て曰、正月七日多二鬼車鳥度一、家々搥レ門打レ戸滅二燈燭一禳レ之、和俗七種菜を打つ唱に、唐土の鳥、日本の鳥、渡らぬさきに、と云るは、此鬼車鳥を忌意なり、板を打鳴すは、鬼車鳥不レ止やうに禳也といへり、按ずるに、此説是なり、桐火桶〈定家卿の作と稱す〉に、正月七日七草をたヽくに、七づヽ七度四十九たヽく也、七草は七星なり、四十九たヽくは七曜、九曜、廿八宿、五星合て四十九の星をまつる也、唐土の鳥と、日本の鳥と、わたらぬさきに、七草なづな、手につみいれて、亢觜斗張とあり、亢觜斗張は、廿八宿の中の星の名なり、〈また旅宿問答に、七日の七草は、在レ天七星、在レ地七草とあり、〉星の名を書て、鬼車鳥の類の夭鳥を逐事は、周禮秋官に、硩蔟氏掌レ覆二夭鳥之巣一、以
p.0908 レ方〈注に方版也〉書二十日之號、十有二辰之號、十有二月之號、十有二歳之號、二十有八星之號一、〈注に自レ角至レ軫〉縣二其巣上一則去レ之と云り、夭鳥は鬼車の類なり、元の陳友仁が序ある無名氏周禮集説に、劉氏曰、夭鳥者陰陽邪氣之所レ生、故欲三妖怪而不二祥於人間一、夜則飛騰、所レ至爲レ害、若二鬼車之類一皆是、〈書録解題に、周禮中義八卷、祠部員外郞長樂劉彝執中撰とあり、劉氏はこれにや、〉と見えたり、三善爲康の掌中歴に、永久三年〈三年の二字、拾芥抄に據て補ふ、〉七月の比、都鄙に鵼ありしに、十日、十二辰、十二月、十二歳、廿八星の號を、方に書て、懸たる事見えたれば、こヽにも周禮の説行れたるを知るべし、後世の書にも、清異録に梟見聞者必罹二殃禍一、急向レ梟連唾十三口、然後靜坐、存二北斗一一時許可レ禳、また埤雅釋鳥に、傳曰梟避二星名一、これ亦星の惡鳥を禳ふ事を知るべし、彼鳥夜中飛行すといへる故に、六日の夜より七日の朝まで、七草を打なり、七草雙紙に、七草を柳木の盤に載て、玉椿の枝にて、六日の酉の時に芹をうち、戌の時に薺、亥の時にごげう、子の時にたびらこ、丑の時に佛の座、寅の時に鈴菜、卯の時にすヾしろをうちて、辰の時に七草を合て、東の方より岩井の水をむすびあげて、若水と名づけ、此水にてはくが鳥のわたらぬさきに、服するならば、一時に十年づヽの齡をへかへり、七時には七十年のとしを忽に若くなりて云々、此はくが鳥の事は、いふにもたらぬ作りごとなれど、今も六日の酉の時よりたヽく也、〈亦根芹の謠にも云り〉桐火桶に七度たヽくとある證とすべし、
p.0908 民間歳節上 七日〈◯正月〉以二七種菜一爲レ糜、〈◯中略〉 事文類聚曰、東晉李鄂立春日、命以二蘆菔芹牙一爲二菜盤一相饋貺、〈摭遺〉唐人立春日薦二〈一作レ作〉春餅生菜一號二春盤一、〈四時寶鏡〉齊人月令立春日食二生菜一、取二迎レ新之意一、坡詩、漸覺東風料峭寒、青蒿黄韮試二春盤一、又蓼茸蒿笋試二春盤一、楊廷秀郡中送二春盤一詩、餅如二繭紙一不レ可レ風、菜如二縹茸一劣可レ縫、韮芽卷レ黄苣舒レ紫、蘆菔削レ冰寒脱レ齒、臥レ沙壓レ玉割二紅香一、部二署五珍一訪二詩腸一、 荊楚歳時記曰、正月七日爲二人日一以二七種菜一爲レ羹、注舊以下正旦至二七日一諱上レ食レ雞、故歳首唯食二新菜一、〈蘇軾詩曰、七種共桃人日菜、千枝先翦上元燈、〉 月令廣義曰、五辛盤簇二葱韮薑絲芥辣蒜椒一爲レ之、又曰、七菜羹、歳時記揚雄賦、五肉七菜朦厭(○○)
p.0909 腥臊、 熙朝樂事曰、立春擧レ酒則縷二切粉皮一、雜以二七種生菜一、供二奉筵間一、蓋古人辛盤之遺焉耳、 四民月令曰、凡立春日食二生菜一、不レ過三多取二迎レ新之意一而已、及進二漿粥一導二龢氣一、 類腋引二王保定摭言一曰、安定郡王立春日作二五辛盤一、以二黄柑一醸レ酒、謂二之洞庭春色一、 事言要玄引二風土記一曰、月正元日五薫煉レ形、注五辛所三以發二五藏氣一、五辛即大蒜、小蒜、韮菜、雲臺、胡荽是也、
p.0909 晉宗懍荊楚歳時記云、正月七日爲二人日一、以二七種菜一爲レ羹云々、又云、正月十五日作二豆糜一加二油膏其上一、以祀二門戸一、先以二楊枝一挿レ門云々、我方俗所レ爲皆原二乎此一與、又云、正月夜多二鬼鳥度一、家々搥レ牀打レ戸、捩二狗耳一滅二燈燭一以禳レ之、宗懍按云、玄中記云、此鳥名二姑獲一、一名天地女、一名隱飛鳥、一名夜行遊女、好取二人女一子二養之一、有二小兒一之家、即以レ血點二其衣一以爲レ誌、故世人名爲二鬼鳥一、荊州彌多、我方俗正月六日夜至二七日曉一、撲二七種菜一、以稱二呼唐土鳥不一レ度者、蓋亦原二乎此一也、然起二於何時一與、未二之審一也、
p.0909 七種のはやし詞 正月七日に、七種の若菜をいはふことは、都鄙ともにするわざなり、六日の夜、七くさをたヽくはやし詞に、七くさなづな、たうどのとりと、にほんのとりと、わたらぬさきに、といふことは、何のわけともしらで、ならはしのまヽに、家ごとに唱ふることなり、桐火桶といふ册子に、正月七日、七草をたヽくに、七づヽ七度、かやうなれば四十九たヽくやと、有職の人申けると計なり、これもしひて問申ければ、それまでのことはとて、笑つヽ語りたまふ、まづ七くさは七星なり、四十九たヽくは、七曜、九曜、廿八宿、五星、合せて四十九の星をまつるなり、唐土の鳥と、日本の鳥と、わたらぬ先に、七くさ薺、手につみ入て、亢觜斗張げに〳〵さりげなきやうにて、物の大事は侍りけりと、いよ〳〵あふがれてこそ侍りしかと見えたり、この亢觜斗張は、廿八宿の中の四宿にて、いづれも吉方の星宿なり、〈宿曜經に見えたり〉さて唐土の鳥といふは、證とするほどのものにはあらねど、七草册子といふものに、須彌の南にはくが鳥といふ鳥あり、かの鳥の長生をすること八千年なり、此鳥春のはじめ毎に、七色の草をあつめてふくするゆゑに長生をするなり、
p.0910 はくが鳥の命を、汝が親の命に轉じかへてとらせん、七色の草を集て、柳の木のばんに載て、玉椿の枝にて、正月六日の酉の時よりはじめて、此草をうつべしとあり、
p.0910 正月七日、今朝三都トモニ七種ノ粥ヲ食ス、 七草ノ歌ニ曰、芹、ナヅナ、ゴゲウ、ハコベラ、ホトケノザ、スヾナ、スヾシロ是ゾ七種、以上ヲ七草ト云也、然ドモ今世民間ニハ、一二種ヲ加フノミ、三都トモニ六日ニ、困民小農ラ市中ニ出テ賣レ之、京坂ニテハ賣詞曰、吉慶ノナヅナ、祝テ一貫ガ買テオクレト云、一貫ハ一錢ヲ云、戲言也、江戸ニテハ、ナヅナ〳〵ト呼行ノミ、三都トモニ六日買レ之、同夜ト七日曉ト再度コレヲハヤス、ハヤスト云ハ、爼ニナヅナヲ置キ、其傍ニ薪、庖丁、火箸、磨子木、杓子、銅杓子、菜箸等、七具ヲ添ヘ、歳徳神ノ方ニ向ヒ、先庖丁ヲ取テ爼板ヲ拍囃子テ曰、唐土ノ鳥ガ、日本ノ土地ヘ、渡ラヌサキニ、ナヅナ七種、ハヤシテホトヽト云、江戸ニテ、唐土云々、渡ラヌサキニ七種ナヅナト云、殘六具ヲ次第ニ取レ之、此語ヲクリ返シ唱ヘハヤス、京坂ハ此薺ニ蕪菜ヲ加ヘ粥ニ煮ル、江戸ニテモ小松ト云村ヨリ出ル菜ヲ加ヘ煮ル、〈◯中略〉或書曰、七草ハ七ヅヽ七度、合テ四十九叩クヲ本トス、
p.0910 一年中行事并月行事
正月例 七日、新菜御羹作奉、太神宮并荒祭宮供奉、〈◯中略〉 右三箇日節毎供奉、禰宜、内人、物忌等、集二酒殿院一、被レ給二大直會一、
p.0910 臨時供御〈内、院、宮儀、◯中略〉 正月七日 若菜 【G{草-早}/衣】茄實加二進之一〈◯中略〉 已上小預給二料米一備二進之一
p.0910 正月六日、七種菜、 是自二水無瀬家一獻レ之 七日御獻 是自二御臺所一供レ之、又菜ノ御粥ハ櫃司ヨリ供レ之、
p.0910 六日 七種 水無瀬殿ヨリ獻レ之
p.0911 六日 七種菜 是は若菜を竹籠に入、中に根松を立て、水無瀬家より奉らるヽ也、
p.0911 七日、〈◯正月〉七種之御粥を供ず、
p.0911 正月七日 一七種爲二御祝儀一、御三家様方、并御嫡子様、松平加賀守、松平越前守、長袴、溜詰半袴御出仕、 但老若方も出仕、其外者無レ之、〈松平越中守、同隱岐守、同下總守、酒井雅樂頭等之家溜詰之時、〉嫡子出仕無レ之、
p.0911 正月 七日 七種之御祝儀
p.0911 七日 若菜〈人日〉御祝儀、諸侯登城、
p.0911 六番 右 七種參賀
むさし野の雪まにつめる七草は君が八千代の數にぞ有ける〈◯中略〉
七種の參賀は七日の日、兩御所黒木書院に成らせ給ひ、三家の方々、溜詰の人々、御前に出てことぶきをのべらる、此日朝餉の時、若菜の粥を進め奉るとぞ、
p.0911 七日 御干飯并七種御菜事 御飯 御炊上 御菜 葑、荳、萩、薺、芹、蘩蔞、紫苑、萱艸、味曾、鹽、糟、 件御菜出納等任レ例調二進之一、年預、下家司、兼日致二廻文一、政所厨女、當日早旦請二取之一、御料備二折櫃一、〈旬出納進レ之〉居二栗栖野土高坏一進二上御盤所一、所料副レ之、 藏人所 侍所 政所 御隨身所 小舍人所 御厩 已上彼所々雜仕女請レ之、又宣旨殿政所雜仕女持參、
p.0911 七日 七草〈今日謂二人日一、良賤互相賀、自二昨日一至二今朝一、家々載二湯燖蕪菁薺等於砧几一、而以レ枚敲レ之、代二七種菜一而用レ之、今日敲レ之謂レ拍二七草一、今朝以レ是謂二菜粥一各食レ之、俗間以下燖二七草一之湯上漬レ爪剪レ之、中華亦今日以二七種菜一作レ羹、而食レ之則無二萬病一云、〉
p.0911 七日 今日七種の菜粥を製し食ふ、七種菜といふは歌に、せり、なづな、五形、はこべら、佛の座、すヾな、すヾしろ、これぞ七くさ、〈五形は本草に鼠麹草といへるものなり、又佛耳草、黄蒿な〉
p.0912 〈どとも名づく、佛の座とは、俗にいへるかはらけなといふものなり、すゞなは菘なり、うきなをいふ、京都にてはたけな、水菜などいふものゝ事なり、いなかにては、京菜と云、蔓菁と一類二物なり、世人多くは菘をしらず、本草綱目、農政全書等を考見べし、〉
p.0912 七日七草〈◯中略〉 城州寺田村より七種の若菜を獻る、又攝州莵原郡中尾村より七種の若菜を、西本願寺に獻る、今日民家良賤家々燖蕪菁薺等を、砧几の上に置きて、細き竹管、或は笞をもてこれを敲き拍す、此時唱へて云、唐土の鳥と日本の鳥と渡らぬ前にと云て拍す也、秋齋翁説には、古へ何某といへる人、家富榮て殿造し給ひ、移徙の日其家の下司等集て、日本の富や、貴との富やと唱ひしより、今に斯傳へしなりとぞ、此菜を今朝粥に和して食す、荊楚歳時記云、正月七日俗七種菜をもつて羹とし、これを食へば萬病を除くと云々、是邪氣をのぞく術也、七種の菜とは所レ謂、薺、芹、蘩 、菘、鼠麹、蘿蔔、碎米花、
p.0912 七日 七種祝ふ〈七種はやす、七種粥を祝ふ、〉
p.0912 六日 今夜七種菜をはやす 七日 今朝貴賤七種菜粥を食す
p.0912 正月〈◯中略〉七日は雪まのわかな青やかにつみ出つヽ、れいはさしもさるもの、めぢかからぬところにもてさはぎ、〈◯下略〉
p.0912 七日〈◯正月〉のわかなを、人の六日にもてさはぎとりちらしなどするに、見もしらぬ草を、子どものもてきたるを、何とかこれをばいふといへど、とみにもいはず、いざなとこれかれ見あはせて、みヽな草となんいふといふものヽあれば、むべなりけり、きかぬかほなるはなど笑ふに、又おかしげなる菊の生たるをもてきたれば、
つめどなをみヽな草こそつれなけれあまたしあれば菊もまじれり、といはまほしけれど、聞いるべくもあらず、
p.0912 正平七年〈◯文和元年〉正月六日、堀川神人役二七種菜一、沙汰人行心法師持參、 ナヅナ、クヽ
p.0913 タチ、牛房、ヒジキ、芹、大根、アラメ、各方五寸折敷、次ニ各入也、此外鹽噌各一土器在レ之、
p.0913 應永二十六年正月七日、人日吉兆、幸甚々々、七種以下祝着如レ例、
p.0913 文明十五年正月六日庚子、下津屋三郞左衞門尉親信方より、若菜五十把、大根五十把、山芋五十本、牛房十把、芹二籠進レ之、嘉例也、
p.0913 元和二年正月七日ハ、七種の糝御祝儀あり、此事兼日より儒者陰陽寮博士出家等に御尋、依て銘々記録を以てこれを獻ずといへども、其説區々にして一决ならず、亦禁裏にも仰遣はさるヽ處に、子の日の若菜、又七種の若菜の事、是を書記し遣はさるヽ皆不同なり、故に世俗用ゆる所を以て、定式とせらるヽ、彼の文を記し則こヽに記す、〈◯中略〉 七種若菜 人王六十代醍醐天皇の御宇延喜十一年辛未正月七日に、丹後國より七種の若菜を供ず、是始なり、内藏寮并ニ内膳司より正月上の子日これを獻ず、 或云、七種ハ、白穀、大豆、赤豆、粟、柿、小角豆なりと云々、 右者九條殿より進ぜらるヽ記録也、 七種糝、正月七日ハ食レ糝事、正月一日を鷄日と云、二日を狗日と云、三日ハ猪日と云、四日ハ羊日、五日ハ牛日、六日ハ馬日、七日を人日と云、人日ハ人の生始たる日なれば、殊更以て五節句の第一として是を祝す、此日七日七種の糝を食する事、萬艸生長の故也、 右者一條殿より進ぜらるヽ所也、 七種粥は人王五十九代宇多天皇の御宇、寛平二年庚戌正月十五日、七種の粥を獻ず、是は若菜の事にあらず、 右者儒家の獻ずる處なり、 簠簋内傳に云、七種の粥は不動明王の七把の髮惡魔降伏と云々、 右者陰陽博士獻ずる所也 七種粥の事 昔天竺に佛性國と云あり、其國に壹人の大外道あり、大曇王と號す、三界にてあらゆる所の大外道也、佛神三寶王法を穢し妨る、其國に加璃帝有り、彼王大曇王を責殺し、其靈祟り人民を惱す、これに依て加璃帝王渠肉を取て還丹謂藥に爛國土に呑しむる、病ある者皆若やぎ忽病愈る、其より國土豐饒也、長命なり、是により承續て三國にこれを用る、去れば七日の糝も大曇王が肉身をき
p.0914 りあつめ、肉還丹とするといへり、故に七日節句の初とす、或は七種と云は、所レ謂る芹(セリ)、薺(ナヅナ)、菁(スヾシロ)、蘩蔞(ハコベ)、御形(ゴギヤウ)、佛の座、是を七種の粥とすと云々、 右は佛師の沙汰せしむる處也 右家々の記録上覽あり、其説區々にして一决ならず、これに依て仰に曰く、七種の糝の事は異説多し、世俗に用來るを以て是とすべき旨仰付らるヽ、依て世俗の式を用る、其外京都五山鎌倉五山并ニ總録司者御禮、或ハ名代御目見の次第、座位等の事ハ、昔足利三代義滿將軍の時、式を定らるヽ所に仰定らるヽ、
p.0914 正月七日、七種之爲二御祝儀一、御家門様御登城、於二御黒書院一御對面、其外舊冬被二仰付一、官位衆御禮、又は隱居病後大名衆太刀目録持參御目見、
p.0914 天保七年正月六日、日暮て七種はやす、 七日晝後御住居〈◯廣島藩主淺野齊肅妻徳川末姫〉より若菜餅、干鯛一箱參る、 八年正月七日、藝州〈江〉參上致、直ニ歸宅、若菜餅下ル、
p.0914 七種 拔レ松拔レ竹御門前、叩レ菜叩レ薺爼板邊、唐土鳥兼二日本鳥一、東天未レ渡素天天、
p.0914 七草爪(○○○) 正月七日七草爪とて、人こヽに必爪きるは、前條にいへる鬼車鳥、人の捨つる爪をとるといふ説あれば、とらせじとて、かの鳥を禳はん料にたヽきつる七草を水に浸し、其水にて爪をぬらしてきるなり、〈日次紀事には、七草をゆでたる湯にて、爪をひたすと云り、〉かの鳥、爪とる事は、玉燭寶典〈卷十〉に、博物志云、鵂鶹鳥晝目無レ所レ見、夜則目明、人截レ爪棄也、此鳥捨取、知二其吉凶一鳴則有レ殃也、〈今本博物志此事なし〉北戸録卷上に、陳藏器引二五行書一、除二手爪一埋二之戸内一、恐下爲二此鳥一所上レ得、其鵂鶹即姑獲鬼車鴟鵂類也、〈嶺表録異にも亦此説あり〉と見えたるにて知るべし、さて正月ならぬ時も、小兒の爪はみだりに捨ぬなり、清朝にてもしかり、盧文弨が鍾山札記に、淮南子高誘注云、鴟鵂謂二之老莵一、夜則目明、合二聚〈淮南子各本拾聚に作れり〉人爪一、以著二其巣中一、今人翦二小兒指甲一、率置二隱處一、不レ欲レ棄二擲庭院間一、則亦因二高説一以爲レ戒耳とあり、
p.0914 正月七日、今朝三都トモニ七種ノ粥ヲ食ス、〈◯中略〉江戸ニテモ小松ト云村ヨリ出ル、菜ヲ加ヘ煮ル、蓋シ薺ヲ僅ニ加ヘ煮テ、餘ル薺ヲ茶碗ニ納レ、水ニヒタシテ、男女コレニ指ヲヒ
p.0915 タシ、爪ヲキルヲ七草爪ト云、今日專ラ爪ノ斬初ヲナス也、京坂ニハ此行ヲキカズ、
p.0915 正月 御藏開 是十日ヨリ十五日迄ノ内、吉日ヲ撰デ此義アリ、
p.0915 十一日 御藏開 或十二日、十三日、御徳日之外、十三日迄之内、
p.0915 十一日 町中藏びらき祝ふ
p.0915 十一日 商家貨買帳(ダイフクチヤウ)を綴ぢ、藏びらきを祝ふ、〈鏡餅をひらき、雜煮となし祝ふ、〉
p.0915 藏開 正月藏の神に鏡餅を備へ、戸を開くことなし、十一日に至りて、始て戸を開き餅を祝ふ、藏の神は稻倉魂神を祀る、祭祀雜彙曰、大神宮御倉には、大宜都比賣命を崇め、御稻倉には屋船命を祀る、是を以て、其分あることを知るべし、
p.0915 かヾみびらき 正月の糕鏡を武家は甲冑にそなへ、是を廿日に開く、刄柄(ハツカ)を祝ふ義也、承應壬辰年より、十一日に改めらるヽとぞ、婦人鏡臺に供へたるをも廿日を用う、初顏祝ふの義也といへり、
p.0915 缺餅 凡倭俗新年所レ用之餅有二數品一、〈◯中略〉士人供二甲冑一、是謂二具足餅一、倭俗身甲一具謂二具足一、凡甲冑有二六具一、悉具足之謂也、其所レ供之鏡餅、以レ刀截二食之一、是稱レ開レ鏡、又謂レ祝レ鏡、至二甲冑一忌二斬殺之詞一、故以レ手破レ餅、缺二一片一食レ之、故是謂二缺餅一、於レ今一切稱二缺餅一、
p.0915 問、物ノ具ニモチヲ供スル事、イヅレノ時ヨリカ始候ラン、戰國ノ時ニ筆記セシモノニハ、曾テ其事見エアタラズ候ガ、モシヤ太平ノ時ニ及テ始リ候歟、 答、鎧ノ餅ノ古クハ聞エザルコト、サレドモ御當家太平ノ代ヨリ先、織田豐臣ノ世ニ始リシコトニヤ、羅山文集ニ鎧餅其起ヲ未レ知トアリ、考ルニ秀吉公薨ズル慶長三年、羅山十六歳ナリ、其頃以後ニ始リシコトナランニハ、其ノ起ヲ現在見聞アルベキコトナルニ、起リヲ知ラズト書シタレバ、猶其ヨリ先ニ起リシナルベシ、一條兼冬公ノ天文十三年ニ書給ヒシ世諺問答ニ、節分ニセウノモチヒトテクヒ侍ル、此
p.0916 ノコト更ニ知ガタシ、此モチヒヲ食ヘバ、物ニ勝ツト云フ功能侍ル由、申傳タル斗リ也ト書キ給ヒシモ、此セウノモチヒノ轉ジテ、鎧ノ餅ト云コト起リタルコトモアラン歟、鎧ノ餅ヲ食コト、今ハ多クハ正月十一日ヲ用フ、是ハ台徳院將軍〈◯徳川秀忠〉正月廿日ニ薨去アリシヨリ後ノコト也、夫迄ハナベテ廿日ヲ用タルコト、是モ羅山文集ニ見エタリ、京師并五畿内ニハ廿日正月ト云テ、小豆餅或小豆強餅ヲ調シテ、廿日ノ日ニ祝フコト今モ猶アリト云、鎧餅ヲ調テ祝フコトモ、其始廿日正月ニ混ジテ起リシコトニモアルヤ、異國ニモ此日紅縷ヲ以テ餅ヲ繫ギ、屋上ヘ擲上グ、コレヲ補天ト云ト、陳眉公ガ秘笈ニ見エタリト云ニヤ、
p.0916 四日鏡開 今日神前及び井竈等、其餘家内に備ふ所の鏡餅を截る、新年截の言葉を諱て開くといふ、
十一日具足鏡餅開 正月具足に供する鏡餅を、手或は槌を以て破缺、是を食して祝ふ、是を鏡開といふ、缺餅の名是より起る、いにしへ廿日なりしが、承應年中より、今日を用ひらる、
p.0916 正月十一日、御黒書院〈江〉出御、御具足之御祝有レ之、御給仕奧御衆、御役之御小性衆被レ勤、井伊掃部頭兩代御目見御役被二仰付一以後御相伴、今日登城之御譜代大名衆、御詰衆、御番頭衆、御役人衆、物頭衆、何も御目見有レ之、入御以後御具足之餅御酒頂戴、御肴熨斗出、例年御連歌有レ之、被レ爲レ成被二聞召一、
p.0916 承應元年正月十一日、具足の御祝あり、黒木書院に齒朶の甲冑、ならびに行平の御太刀、國宗の陣刀、三原の陣脇差を飾らる、酒井雅樂頭忠清役す、かくて中袴めして出御あり、井伊掃部頭直孝、酒井讃岐守忠勝相謁し、熨斗御酒ならびに餅を供し、掃部頭直孝伴食に候ず、御一獻ありて、直孝御盃を給はり、持ながら退く、保科肥後守正之、松平右京大夫頼重、井伊靫負佐直滋、永井信濃守尚政拜し、次に普代の衆拜し、次に廊下にて其他の輩拜し、をの〳〵御祝の餅酒給
p.0917 はる、今朝松平伊豆守信綱令しけるは、御代々この廿日に具足御祝ありといへども、先代の御忌辰なるにより、今より後は十一日を永例と定らるヽとなり、
p.0917 十一日 一御黒書院出御、御長袴著御、御具足御祝御上段御著座、 御熨斗蚫三方、御盃三方、番頭役之、 御具足餅三方、御銚子〈御酌御加〉番頭役之、 但御給仕之者、長袴著レ之、
一御具足餅御祝御一獻被二召上一、御加有レ之御納メ、御銚子并品々引レ之、〈御床ニ御具足餅〉 溜詰 松平肥後守 松平讃岐守〈◯以下八人略〉 右一同席ニ御目見、次ニ御樽代、大名六人宛出座、御目見老中言二上之一、南御椽通御勝手之方迄被レ爲レ成、
一高家衆、詰衆、御奏者番、其外月次御黒書院ニ而、御目見之面々、山吹之間、菊之間、雁之間詰、同嫡子、御奏者番、同嫡子、菊之間詰嫡子、同御縁頰詰、同嫡子、並居一同御目見、右之面々〈江〉御祝之餅御酒被レ下レ之、
p.0917 同〈◯正月〉十一日 一御具足之餅御祝、辰半刻出仕、熨斗目半袴、溜詰并松平出羽守、立花左近將監、御譜代家大名不レ殘、遠山美濃守等も御祝頂戴之、
p.0917 八番 左 御具足祝
あなたうとけふの睦月の十日あまりひとたびおがむ神のきせなが〈◯中略〉
御具足祝は、むかし東照宮の召させ給ひし御物の具を、黒書院の床に飾て、祝はせ給ふ也、金の齒朶の立ものヽ御冑に、黒塗二枚胴の御具足、御陣刀差添等迄、みな戰に臨ませ給ひし時、帶させ給ふ御物也、革の柄に御手澤の殘りしなど、かしこきまでおぼゆ、やがて出御有レ之御祝あり、御膳撤しぬれば、溜詰、譜代の大名五人づヽ出て拜賀す、夫より西湖の間の廂まで成らせ給ひて、高家、雁の間、菊の間大名、及び司々の拜賀をうけらる、此日宿老に具足のもちを賜ふ時、番頭の輩相伴たり、その餘諸大夫布衣の輩、山吹の間の外、雁の間、きくの間にかけて並居つヽ是をp.0918 給ふ、もとはむつき二十日に、此事有しに、御三代の君の御忌日たるにより、承應元年より改めて、十一日にいはヽせ給ふとぞ、
p.0918 正月 十一日 御具足之御祝 諸大名に而も同斷
p.0918 十一日 御具足御鏡開
p.0918 十一日 御具足の餅、御鏡開諸家同じ、
p.0918 一西山公〈◯徳川光圀〉御隱居後、御山莊にては、正月御門松も建られず、五節供等、その外何にても御祝儀これなし、唯正月十一日に御具足の御祝ゐ計は、毎年嚴重に遊ばされ候、
p.0918 毎年正月十五日、具足ノ餅ヲ頒チ賜フ時、兩營ノ番頭始諸士一同、甲冑ヲ帶シ、陣列ヲナシ、夫ヨリ行軍ニテ鎭守社ニ拜謁シ、凱旋ノ式アリテ、書院ニ列居シ、前ニ記セル自書〈◯松平定信自書令條〉ヲ横目ニテ奉レ讀、一統拜聽、畢テ餅酒ヲ拜戴セリ、
p.0918 節日由緒 十五日粥煮〈高辛氏女、性甚暴惡也、世人被レ厭也、正月十五日 中死、其神爲二速神一、〈◯速神、年中行事秘抄作惡神、〉迷二人於道路一、此人生好レ粥、以レ此祭二其靈一無二咎害一、凡作レ屋産レ子、移徙、有レ恠則以レ粥灑二四方一、災禍自消除矣、〉
p.0918 正月 問て云、十五日にかゆを食するは、何のいはれのはべるぞや、 答、人の國のむかし黄帝蚩尤を正月十五日にたいらげ給ひしに、魂は天狗となり、身は蛇靈となり、人民をなやましければ、時に黄帝天にいのりしかば、天つげてのたまはく、魂魄をば崇、弊身をばめつせよとありしによりて、月毎にそのこんはくに弊をたてまつり給ひし、それによりて今の代にいたるまで、正月十五日の亥のとき、あづきのかゆをにて、庭中に天狗をまつりて、東に向ひ再拜して、ひざまづきてこれを食すれば、年中の疫氣をのぞくと、うけたまはりし、わたまし、うぶやの時、かゆを四方にそヽぐも、このくのふとぞおぼえ侍る、
p.0918 粥 赤小豆粥者、米中合二小豆一而煮熟也、正月十五日古來上下啜レ之、今俗赤豆粥中入二餅
p.0919 子一而嘗レ之、倶謂レ辟レ邪、
p.0919 十四日 諸公家敲レ門〈今夜諸公家奴僕挿二圓餅於枚杖一、毎二諸家一敲二門戸一、則此餅入二十五日赤小豆粥内一、同煮而食レ之、是亦逐レ疫索レ福之微意也、〉 十五日 膏粥〈玉燭寶典曰、正月十五日作二膏粥一以祠二門戸一、〉
p.0919 十五日 今朝小豆粥を煮て餻をまじへてこれを食す、清少納言が枕草子に、十五日はもちがゆのせくまいるとかきしも此事なり、寛平の比より初りしとかや、又七種の粥といへるは、米、粟、黍子、薭子、葟子、胡麻子、小豆也と、延喜式に見えたり、又九條の右丞相の記には、白穀、まめ、あづき、粟、栗、柿、さヽげなどなりとしるせり、正月に地黄粥、防風粥、紫蘇粥などをくらへば、人によろしきといふ事、千金月令にみえたり、 世風記に、正月十五日小豆粥を煮て天狗祭をなす、庭中に案を置、そのうへに粥をそなへ、その粥凝時、東方にむかひ再拜長跪して是を服すれば、疫氣なしといへり、此外續齊諧記、劉敬叔が異苑などに、さま〴〵の説侍れど、みな妖妄の説にして信ずるにたらず、玉燭寶典に、正月十五日膏粥をつくりて、門戸を祭るとしるせり、又荊楚歳時記にも、正月十五日豆糜をつくりて、油膏をそのうへにくはへ、門戸をまつると見えたり、月令にも孟春に戸を祭るといふ事侍れば、是なん據とはすべき、
p.0919 民間歳節上 十五日食二赤豆粥一 荊楚歳時記曰、正月十五日、作二豆糜一加二油膏其上一、以祠二門戸一、先以二楊枝一挿レ門、隨二楊枝所一レ指、仍以二酒脯飮食及豆粥一挿レ箸而祭レ之、 玉燭寶典曰、正月十五作二膏粥一、以祠二門戸一、 潛確類書引二續齊諧記一曰、呉縣張成夜見二一婦人一、立二宅東南角一、謂レ成曰、此地是君蠶室、我即地神、明日正月半、宜下作二白粥一泛二膏於上一以祭上レ我、必當レ令二君蠶百倍一、言絶失二所在一、成如二其言一爲作二膏粥一、年々大得レ蠶也、 范石湖集、臘月村田樂府數粥行敍曰、二十五日煮二赤豆一作レ糜、暮夜闔家同レ饗、云能辟二瘟氣一、雖二遠出未レ歸者一、亦留二貯口分一、至二襁褓小兒及僮僕一皆預、故名二口數粥一、豆粥本上月望日祭レ門故事流傳爲レ此、
p.0920 十四日歳越 今夜諸公家の奴僕圓餅を枚杖に挿み、諸家ごとの門戸を敲く、則此餅十五日小豆粥の内に入煮てこれを食す、これも亦疫を逐ひ福を索るの微意なり、 十五日小豆粥祝〈◯中略〉 今日小豆粥の中へ餅を入て食す、是を粥柱(○○)と云、また福沸(○○)といふ、此粥を粘として、牛王神札を貼る、皆疫を避る法なり、此粥柱を入るヽ事、古き事にや、枕草紙に十五日もちかゆのせくまいると見えたり、下野國には、漆膠木を尺許に切、半は皮を去、其所を木口より四ツに割、小豆粥の内へさし入て、粥の付たるを門戸に祭る、是を粥箸と云、
p.0920 正月十五日、十六日、俗ニ小正月ト云、 元日ト同ク戸ヲトザス、又三都トモニ今朝(十五日)赤小豆粥ヲ食ス、京坂ハ此カユニ聊カ鹽ヲ加フ、江戸ハ平日カユヲ不レ食、故ニ粥ヲ不レ好者多ク、今朝ノカユニ專ラ白砂糖ヲカケテ食ス也、鹽ハ加ヘズ、又今日ノ粥ヲ餘シ蓄ヘテ、正月十八日ニ食ス、俗ニ十八粥(○○○)ト云、京坂ニハ此コト無シ、〈◯中略〉江戸ニテハ武家及ビ市民トモニ、削リ掛ト云物ヲ、今日ノカユヲ以テ諸門戸ニ垂ル、柳ノ木ヲ以テ制レ之、上ハ箸ノ如ク、下ハ圖ノ如ク、〈◯圖略〉細ク削リ掛タリ、小ナル物長二三寸、大ハ尺餘モアリ、武邸等ハ尺餘ノ物ヲ用フ、民戸ハ專ラ小形多シ、門戸正中ノ上ニ釣ル、〈◯中略〉 南畝〈號蜀山人ト號ス、爰ニ二三十年前ト云ハ明和ニ當ル、〉曰、削掛ケ二三ケ年前迄ハ門松ヲ割リ、或ハ柳ヲモ削ル、今ハ削ル人ナシ、 守貞云、今ハ自ラ不レ削也、數十ヲ四錢計ニテ賣リ來ル故也、古ハ自制也、
p.0920 十五日 貴賤今朝小豆粥を食す
p.0920 十五日、〈◯正月〉粥并酒肴給二内侍已下女孺已上一、
p.0920 正月十五日供御七種粥料〈中宮亦同〉 米一斗五升、粟、黍子、薭子、葟子、胡麻子、小豆各五升、鹽四升、土盤七口、鋺形五口、片盤十口、阿世利盤三口、瓫堝各七口、陶洗盤麻笥盤各二口、臼一口、匏八柄、柏廿把、炭二石、
p.0921 御粥 十五日、主水司獻二御粥一事、〈七種付二女房一供レ之、御器納所當日請レ之、〉
p.0921 十五日主水司獻二御粥一事〈付二女房一〉
十節云、高辛氏之女、心性甚暴惡、正月十五日巷中死、其靈爲二惡神一、於二道路一憂吟、過レ路人相逢即失レ神、人人令レ盜レ火、此人性好レ粥、故以レ此祭二其靈一無二咎害一、凡作レ屋産レ子、移徙、有レ恠則以レ粥灑二於四方一、災禍自消除矣、月舊記云、天平勝寶五年正月四日勘奏云、黄帝伐二蚩尤一之時、以二此日一伐二斬之一、其首者上爲二天狗一也、其身者伏而成二蛇靈一也、是以風俗、此日亥時煮二大小豆粥一、而爲二天狗一祭二於庭中案上一、則其粥上凝時、取東向再拜長跪服レ之、服者終レ年無二疫氣一也、又俗諺云、草繫ト云リ、故者、草束二此蚩尤之身一者、是以草束家則竊二取草束一、而於二家内一密所二藏置一、則其家者、當年之内終無二疫者一也、
七種粥 小豆、大角豆、黍、粟、葟子、薯蕷、米、 延喜主水司式云、正月十五日、供御七種粥料、米一斗五升、粟、黍子、薭子、葟子、胡麻子、小豆各五升、又云、白穀、大豆、小豆、粟、栗、柿、葟子、〈代二大角豆一〉 此事見二九條殿御記、并外記記一云々、
御記云、寛年二年二月卅日丙戌、仰レ善曰、正月十五日七種粥、三月三日桃花餅、五月五日五色粽、七月七日索麪、十月初亥餅等、俗間行來以爲二歳事一、自今以後毎色辨調宜レ供二奉之一、于レ時善爲二後院別當一、故有二此仰一、
p.0921 十五日、〈◯正月〉御かゆなどまいる外、ことなる事なし、わかき人々杖にてうちあふことあり、
p.0921 獻二御粥一 十五日〈◯中略〉
寛平の比より年毎に是を奉る、其外三月三日などの御節供も、此御時より同定めらる、七種の粥とは白穀、大豆、小豆、あは、くり、かき、さヽげなど也と、九條の右丞相の御記にみえたり、
p.0921 臨時供御〈内、院、宮儀、◯中略〉 正月十五日 御粥〈◯中略〉 已上小預給二料米一備二進之一
p.0922 十五日、あしたの物あかの粥を供ず、御かゆのさかづき參ル、女中も御前にてたぶ、七日のみそに同じ、夕方御いはひ強供御以前に同じ、
p.0922 十五日 七種御粥 是は主水司七種の粥を供御所より調進す、中頃より絶たりしを、近代御再興(○○○○○)あり、
p.0922 十五日、〈◯正月〉小豆御粥供レ之、
p.0922 十五日 粥御節供事 殿下御料十二本 栗栖野様器、同高坏、 御粥七前〈白穀、小豆、大豆、粟、黍、栗、葟子、〉盛レ飯塗二彼色物一折敷一枚居二一坏一、 御菜二前 一折敷 海松 青苔 牛房 河骨 一折敷 瓜 昆布 蓮根 蕪 御菓子二前 一折敷 松栢 棗 柘榴 一折敷 栗 甘子 橘 獼猴桃 四種一折敷 折敷面押二白生絹一供レ之 打敷一帖〈六尺六幅〉 北政所御料十二本 同様器高坏 色目同前、但打敷折敷面龜甲文唐綾千壽鶴松巣之、件事秉燭行事所司行レ之、四位陪膳、五位諸司官人益二送之一、御殿油出納勤レ之、 所々粥 藏人所 粥二桶〈白穀小豆扚二柄〉 交菓子二外居 菜八種 酒一瓶 雉一羽 鯉一雙 御臺盤所 粥二桶〈同前、〉 交菓子二外居〈盡美膳〉 菜八種 侍所 粥二桶〈同前〉 菜八種 政所〈同前〉 御隨身所 粥二桶〈白穀、小豆、扚二柄、〉 雉一羽 鯉一雙 交菓子一外居 菜八種 酒一瓶 御讀所 贄殿 小舍人所 御車副 御牛童 主殿所 政所舍人 御厩舍人 釜殿仕丁 已上白粥一桶、小豆粥一桶、𣏐一柄、菜三種、件粥等早旦所レ課家司調二進之一、使以二例文一分二行之一、
p.0922 むつきの十五日に、あかつきがゆの見ゆるを見て、人々歌よまむなどいふを聞て、などかよまざらん、兼盛が集にもある心ちこそすれとてよめる、
初春のもち月にもるかゆなればなべてならずはあかきなりけり
p.0922 天文十一年正月十五日丙申、佳例粥祝如レ例、
p.0923 天保七年正月十五日、朝小豆がゆ祝ふ、御住居〈◯廣島藩主淺野齊肅妻徳川末姫〉〈江〉白酒三升大徳利に入上る、
p.0923 寛政九年正月十五日丙辰、早天小豆粥餅祝夕節等家禮如レ例、
p.0923 かゆづゑ 粥杖也、かゆの木とも見ゆ、幸の神祝と稱するも同じ、正月十五日粥を燒たる木を削りて杖とし、子もたぬ女房の後を打ば、男子を産といへり、その事源氏、狹衣、枕草紙などに見えて、むかしは諸國にても、新婦を迎へし正月には、よめたヽきと稱、今いせの神宮あたりにも有、
p.0923 正月御つへの事
一御杖と申事は、十五日のあした、とく、さぎつてう、おもてにて御覽じ候てのち、いつもの御所にて、上様はじめまゐらせ候而、御女房衆の右の御かたのうゑを、三づヽそと御うち候、その御杖に御あたり候が、御面目にて候、ちとはくををかれ候て、春の野のゑなどろくしやうゑに、かヽれ候とて候、
p.0923 十五日 今日粥杖とて、松枝柴などにて女の腰をうてば、子をうむまじなひとていまもする事なり、但今は小兒の戲事となりて、男のわらはおほくむらがりて、道路にたヽずみ、道行女をうつなり、北國には松の枝を五色にいろどりて、それにて女を打所あり、西國には、棒にて女をうつ所あり、故に所により、今日は婦人女子外に出ず、凡かうやうの事は、其父兄、その所司、禁じて人をなやますべからず、
p.0923 粥杖 十五日ニ粥杖トテ男兒ノ戲ニスル事アリ、〈◯中略〉美濃國泳宮ノ村ニハ、正月十五日ニ新ニ杖ヲ削テ、其削屑ノ縷ノ如クナルヲ杖ノ頭ニ殘テ、名テ削掛トイフ、是ニテ女ヲ笞テ、大ノ男十三人トイヘリ、然レドモ其義ヲ知ル者ナシ、是モ男子ヲ生コトヲ求ル祝コ
p.0924 トバナラン、枕艸子、狹衣ナドニモ書レタル事ニテ、大内ニモ昔ヨリ有來タル事ヲ、民ノ上ニモ習フテ、童ノ戲ニモスル事ナランカシ、
p.0924 十五日粥杖〈又粥木とも〉 今日粥杖とて松枝柴などにて、女の腰を打なり、〈◯中略〉信濃、飛騨、三河等の國には、染樛木をもつて、其長サ一尺二寸許に切、上下より削かけて、先の方に左に卷、柳櫻の花の如き物を紙にて造り粘て、松煙をもつて燻べ、其花の形を取除れば、其摸様白く木に殘る、是を御祝棒と號け、新婦ある家毎に入て、新婦の腰を打、兒童の戲なり、又今朝茶竹の五六尺計なるを、半まで五ツ六ツに割かけて、染樛木の枝二三寸廻りなるを、長五六寸に切、件の割たる竹の先にさし、家毎に門口の軒端に、二本充これを指す、是をほんだるといふ、是豐年の祝ひ、穗垂の祝儀とす、京師近郷は、此頃兒童の戲れに、橙を絲にてくヽり、通行の婦人の腰を打、皆粥木の遺風なり、
p.0924 粥の木 折かけ燈籠 昔の質素をうしなはず、今に古風を存するは、正月の式と、七月の魂祭りなり、それさへいつの程にか絶、江戸に近き田舍には殘りし事あり、其一ツ二ツを記す、
向の岡〈不卜撰延寶八年印本〉 粥木 かゆの木や女夫の箸の二柱 才丸
撰者不卜は江戸の人なり、才丸は難波の産ながら、若きほどより江戸にあり、されば延寶の頃までは、粥木といふ事江戸にありし故、句にも作り、集にもいれしならんが、今はさる名だに聞ず、江戸近き田舍には猶在、所々にてすこしづヽ異なり、此句によく合するは、越谷の東大川戸村〈江戸より八里程〉の土人の話なり、彼あたりにては、正月十五日に、楊櫨を長き箸程に二本きり、頭のかたを削かけのやうに作り、鍋の粥の煎たちしとき、その頭をさしこみ、すぐに引あげ打返して、門の兩脇へ一本づヽさすなりと、才丸の句是なり、粥杖を粥の木といふとは異なり、
p.0924 十五日〈◯正月〉は、もちがゆのせくまいる、かゆの木ひきかくして、家のごだち女房などの
p.0925 うかがふを、うたれじとよういして、つねにうしろを心づかひしたるけしきもおかしきに、いかにしてけるにかあらん、うちあてたるはいみじうけうありと、うちわらひたるもいとはへばへし、ねたしと思ひたることはり也、こぞよりあたらしうかよふ、むこのきみなどのうちへまいるほどを、こヽろもとなく、ところにつけて、われはとおもひたる女房ののぞき、おくのかたにたヽずまふを、前にゐたる人は心えてわらふを、あなかま〳〵とまねきかくれど、きみ見しらずがほにて、おほどかにてゐたまへり、こヽなる物とり侍らんなどいひより、はしりうちてにぐれば、あるかぎりわらふ、おとこ君もにくからずあいぎやうづきてゑみたる、ことにおどろかず、かほすこしあかみてゐたるもおかし、又かたみにうちて、おとこなどをさへぞうつめる、いかなる心にかあらん、なきはらだち、うちつる人をのろひ、まが〳〵しくいふもおかし、内わたりなどやむごとなきも、けふはみなみだれてかしこまりなし、
p.0925 十五日〈◯正月〉には、わかき人々こヽかしこにむれゐつヽ、をかしげなるかゆづゑ引かくしつヽ、かたみにうかヾひ、又うたれじとよういしたるすまひおもはくどもヽ、おの〳〵をかしう見ゆるを、大將殿は見給ひて、まろをあつまりてうて、さらばぞたれも子はまうけん、誠にしるしある事ならば、いとふ共ねんじてあらんなどの給へば、みな打わらひたるに、いとヾいまはさやうなるあぶれものいでくまじげなる世にこそと、うちさヾめくもありけり、わか宮ぞちひさきかゆづゑを、いとうつくしき御ふところよりひき出て、うち奉り給へば、うちゑみ給ひて、あなうれしや、宮のあまりかたじけなくおぼえ給ふに、わたくしの子まうけつべかりけりと、かひ〴〵しくよろこび申し給ふもをかし、
p.0925 正月〈◯寶治三年〉十五日、月いとおもしろきに、中納言のすけどの、人々さそひて、南殿の月見におはします、月華門より出て、なにとなくあくがれてあそぶ程に、あぶらのこうぢおもて
p.0926 の門のかたへ、なをしすがたなる人のまいる、いとふけにたるに、たれならむ、皇后宮大夫の參るにやなどいひて、つまへいりてみれば權大納言殿也、いとめづらしくて、兵衞督どのだいばん所にて、あひしらひ給ふほどに、まことやけふは人うつひぞかし、いかヾしてたばかるべきなどいひて、出給むみちにて、いかにもうつべし、いづかたよりかいで給はんをしらねば、あしここヽに人をたヽせむとて、〈◯中略〉こめいちのしやうじのもと、御ゆどのヽなげしのしもの一間に、勾當内侍どの、みのどの、きりみすのもとに、中納言のすけ、兵衞督どの、年中行事のしやうじのかくれに、少將辨などうかヾひしかども、あかつきまで出給はず、いとつれなくおぼえて、すけやすの少將して、なにとなきやうにてみすれば、殿上のこ庭の月ながめてたち給へるといふ、兵衞督殿日の御ざの火どもけちて、くしがたよりのぞけば、殿上のかべにうしろよういしてゐたまへり、かくしてしけむもねたし、なにとまれつえにかきつけて、くしがたよりさしいださばやなど、さまざまあらますほどに、夜もあけがたに成ぬ、いかにもかなはず、つひにあぶらのかうぢの門のかたよりいで給ぬと聞もかぎりなくねたくて、しろきうすやうにかきて、つえさきにはさみて、をひつきてつかはしける、少將内侍、
うちわびぬ心くらべのつえなれば月みて明す名こそおしけれ〈◯下略〉
p.0926 十五日、〈◯建長三年正月〉頭中將〈爲氏〉まいりたりしを、かまへてたばかりてうつべきよし仰事ありしかば、殿上に候を、少將内侍げざんせむと心えて、大かたたび〳〵になりて、こなたざまへまいるをとぞ、人々つえもちてよういするほど、なにとかしつらむ、みすをちとはたらかすやうにぞ見えし、かへりて少將内侍うたれぬ、ねたき事限りなし、
p.0926 十六日、〈◯中略〉今日も御粥を供ず、 十七日、けふもかゆを供ず、 十八日、今日もかゆを供ず、
p.0927 十八日 大師粥と號して、貴賤小豆粥を食す、〈又十八がゆともいふ、元三大師へ供養の心なるべし、〉
p.0927 薪〈ミカマギ〉
p.0927 みかまぎ 御薪と書り、正月十五日百官悉薪を大内に奉るなり、御竃木の義、天武天皇に始る、
p.0927 凡文武官人〈謂在京官人、其親王及婦女、不レ在二此限一也、〉毎レ年正月十五日並進レ薪、長七尺、以二廿株一爲二一擔一、一位十擔、三位以上八擔、四位六擔、五位四擔、〈謂勳位亦准レ此也〉無位一擔、諸王准レ此、无位皇親不レ在二此例一、其帳内資人各納二本主一、〈謂中宮及東宮舍人、亦皆於二本職本坊一納、〉凡進レ薪之日、辨官及式部兵部宮内省、共撿挍貯二納主殿寮一、
p.0927 正月十五日於二宮内省一進二御薪一儀
其日平旦掃部寮設二式兵等省輔以下座於西舍一、〈式部北上、兵部南上、並東面、〉當二廳東第三間一南面設二辨大夫座一、第二間棟以南西面設二史座一、其後設二史生座一、當二第四間一設二式部兵部宮内三省輔、丞、録座一、徐西去設二同史生座一、〈並東面北上〉設二官掌及三省省掌座於庭中一、〈北面東上〉于レ時辨大夫入二東一戸一就レ座、次史及史生入レ自二堂東廉一就レ座、次三省輔升レ自二西階一就レ座、次丞以下昇レ自二西側階一就レ座、訖式部省掌出二於門外一唱二計諸司并畿内國司一、訖官掌省掌四人共進置二版於中庭一、〈先當二辨座一置二辨官版一、次式部、次兵部、次宮内、並北面、〉三省省掌共退出、官掌便留就レ座、式部省掌率二諸司并畿内國司一、入レ自二屏西一就レ版、〈省掌行且稱二容止一〉其一人申云、司々申〈久、〉御薪札進〈留〉申、丞命云、進〈禮、〉諸司共稱唯、傳取中分、其最後者二人總取進置二録傍一復二本列一、録計二其札數一、訖取二一札一讀申云、司々乃進〈禮留〉御薪進〈留〉札若干枚申賜〈止〉申、輔判云、勘之、録稱唯、丞命云、候之、諸司共稱唯退出、〈省掌稱二容止一如レ初〉兵部亦如レ之、次式部唱二計諸家一、引入出如二前儀一、次三省省掌進就レ座、毎レ司造二移一枚一、訖就二二省一請二押署一、二省史生取レ移、就二丞録後一取レ署、訖諸司就二二省史生一、受二移文一退出、訖宮内省掌率二文武官史生一就レ版、〈稱二容止一如レ前〉其一人申云、司々進御薪文進〈止〉申、丞命云、進〈禮、〉史生共稱唯、傳取中分、其最後者二人總取進置二宮内録傍一、録讀申p.0928 云、司々〈乃〉進〈禮留〉御薪數札若干枚申賜〈止〉申、輔命云、縱、録稱唯、丞命云、縱、史生共稱唯、訖式兵二省録退出更入レ自二籬東頭一就二官版一、〈以レ西爲レ上〉式部録先申云、式部省申〈久、〉御薪勘了〈止〉申、訖兵部録西進就レ版、式部降在レ東退、兵部録申詞准二式部一、訖式部西進、兵部東退、辨大夫判云、縱、録共稱唯、退出更自二屏西頭一經二西舍後一、升レ自二西側階一復座、訖辨官史生進開二廳北東第一戸一、即辨大夫退出、次三省輔以下依レ次退出、于レ時所司總二設床子食床於廳上一、辨大夫以下番上以上列二立屏外一、五位以上一々列、主典以上一列、番上一列、依レ次參入立二於庭中一、〈以レ東爲レ上〉謝座酒如レ常、五位以上先升レ自二西階一就レ座、六位以下升レ自二西側階一就レ座、〈五位以上南面東上、主典以上東面北上、番上在二其後一、〉所司賜二饌并粥一、訖各退出、先レ是諸司史生持下二省所二押署一移文上、向二主殿寮一進レ之、巳刻彈正忠并巡察已下、主殿寮撿二察御薪一、
p.0928 凡大臣以下應レ進薪數、正月十五日下二式部省一、即辨史及左右史生官掌各一人、就二宮内省一與二式部兵部及本司一共撿二挍諸司應レ進薪數一、〈事見二儀式一〉事畢諸司歸去、其後式部兵部勘二造總目一申二送辨官一、
p.0928 凡諸司諸家去年得考人數、并可レ進二薪等一勘定、正月十五日移二宮内省一、訖更總二注考人色目及薪數一進レ官、
凡省内雜色毎年進薪限二一千擔一、其三百擔、分充二春宮坊一、自レ此以外不レ得二更徴一、若有二違徴者一、省掌解任、永不二叙用一、
p.0928 收レ薪
正月十五日質明、輔以下、就二宮内省一撿二收諸司畿内進薪一、〈事見二儀式一〉
p.0928 十五日〈◯正月〉平旦、輔已下向二宮内省一撿二武官薪一、〈事見二儀式一〉
p.0928 凡毎年正月十五日、辨官及式部兵部會二集於省一、相共撿二挍諸司所レ進御薪一、訖省丞録各一人率二史生二人一、就二主殿寮一撿二挍御薪數并好惡一、其行事諸司給二粥并酒食一、
p.0928 十五日〈◯正月〉勘二御薪一之日、設二辨官并三省輔已下座於宮内省廳上一、設二式兵二省座於西
p.0929 細殿一、並用二中床子卅脚一、
p.0929 御薪 同日、〈◯上子日〉宮内省御薪事、〈辨史式兵本省輔已下著二正廳一、辨南面、諸司東面北上、〉諸司次第列立、作法畢、最後辨摩レ靴云、從〈與之、〉諸司唯稱退出、次所司設二粥等一、辨諸司共著レ之、行二晴儀一、謝座、〈具見二儀式一也〉
p.0929 御薪〈年中所レ用御薪、諸司并五畿内國司供進、見二主殿寮式一、〉 宮内省正廳〈近例立レ幄行レ之〉 東第三間立二辨床子一〈南面〉 第二間立二史床子一〈西面在二中央以南一〉 其後立二史生床子一〈同上〉 第四間立二式部、兵部、宮内、輔丞録床子一、〈重行置二東面北上一〉 其西設二史生床子一 底中立二官掌及三省省掌床子一〈北面東上〉 辨入レ自二東戸一〈近例用二幄東第三間一著レ靴〉就二床子一 史及史生入レ自二東砌一著 三省輔昇レ自二南面西階一著 丞以下昇レ自二西面一著 式部省掌出唱計訖 官掌省掌等四人、置レ版四出了、 官掌著座 式部省掌、就レ版申云々、〈申云、司々申御薪進申、〉 丞云進禮 録讀申云云〈讀申云、司々乃進禮留御薪進留札若干枚申賜上申、〉 輔云勘 録稱唯 丞曰候 諸司唯出 兵部亦如レ之 次宮内亦如レ此〈宮内省掌率二二省史生一著レ版、勘二合文武官所レ進薪之札數一也、〉 二省録一一著レ版云々 辨云與之 次辨以下退〈辨官爲二勅使一向二宮内省一請取、二省等進レ薪、中辨官云縱、〉 次改レ座〈設レ饌〉 次辨以下著〈改レ履〉 次抔酒三行 次下レ箸 次退出
p.0929 御薪 同日〈◯十五日〉
是は百官悉薪を奉て、宮内省におさめらるヽなり、其數などは延喜式に見えたり、天武天皇四年正月十五日、百寮諸人薪を奉る事有、御薪と書て見(み)かま木とよむべし、
p.0929 四年正月戊申、〈◯三日〉百寮諸人初位以上進レ薪、 五年正月甲寅、〈◯十五日〉百寮初位以上進レ薪、
p.0929 八番 左 御薪 家尹朝臣
百敷のもヽのつかさのみかま木にたみのけぶりもにぎはひにけり〈◯中略〉
左、みかま木と申は、百官こと〴〵くみかま木をたてまつるなり、たとへばこれもたみのかたをやすめんためなり、くなひのつかさにおさめられけるなり、其數はゑんぎの宮内式などにp.0930 見え侍る、
p.0930 爆竹(サギチヨウ)〈初春有二此義一、蓋起二於庭燎一、見二博物志、歳時記、事文一、〉左義長(同)〈詳二徒然草野槌一〉三毬杖(同)
p.0930 正月 問て云、爆竹はなにのゆへにて侍るぞや、 答、神異經西方の山中にたけ一丈餘の人有、これを見る者、則寒熱の病をうるをもつて、竹火をたきて爆烞の聲あれば、則驚去といへり、又事文類聚と申ふみに、爆竹聲中一歳除、春風送レ暖入二屠蘇一、千門万戸曈々日、總把二新桃一換二舊符一、〈◯中略〉爆の字は廣韻に火烈と注せり、またはためくとよめり、
p.0930 十五日、今日を上元といふ、是道家の説なり、今曉門松注連縄等を俗にしたがひて燒べし、但家ちかき所にてやけば、火炎の憂あり、爆竹の火より回祿出來たる事、近年も多し、しかれば家近き所、又は宅せばくは、竃の下に燒べし、風靜なる夜は、門外に燒も又可なり、〈爆竹とは、竹をたきてはしらしむる事なり、〉 我國に今日爆竹する事定説なし、いつの比より初りし事にや、もろこしには、元日庭前に爆竹すれば、山臊惡鬼を辟るといふ事、歳時記に見えたり、又除夜にもするとなんされば王荊公が詩にも、爆竹聲中一歳除と作れり、上元には、漢の武帝の、大乙を祭るに、昏時より夜のあくるまでおこなふを、事の始として燃燈の事あり、又正月望夜庭燎を設くといふ事、開元遺事に見えたり、天竺には、正月十五日僧徒あつまりて、燈をともし佛舍利を見る事あり、爆竹の事なし、日本のさぎちやうは、僧家にいひつたふるは、後漢の明帝の時、初て天竺よりもろこしに佛法わたる、五岳の道士、是をやぶらむと訴るによりて、そのしるしをみんとて、佛經を左におき、道士の書を右におきて、火をかくるに、道士の書燒たり、されば左の義長ぜりといひて、左義長と云、又西域義長や東土(とうど)とはやす、〈京都の俗に、爆竹を東土(とんど)と云も是によれり、〉西域佛法の義まさりて、東土へ流布すといふ事なりともいへり、是は沙門のかきをける事なれば、我道を譽たるなるべし、〈林羅山の説なり〉しかればみぎの説は據とするにたらず、又陰陽家の説には、巨旦將來を調伏の威儀なりとて、三笈杖燒齋會は、
p.0931 三毒退治のことはりなるよし、晴明が簠簋内傳に見え侍れど、これ又妄誕の説なれば、豈信ずるにたらんや、但もろこしにて、除夜元日などに爆竹する事あるをまなびて、我國には今日するならし、春の始なれば、一年の邪氣をはらひ散せる意なるべし、呉の俗、十二月廿五日爆竹するよし、范至能が説にみえ侍れば、あながち除夜元日にのみする事にてもあらざるべし、凡爆竹の聲は、陰氣の鬱滯せるを發散し、邪氣を驚かしむるとなり、神異經にいはく、西方深山中有レ人焉、長尺餘、犯人則病二寒熱一、名曰二山臊一、其音自叫、人嘗以レ竹著二火中一、熚烞而有レ聲、山臊皆驚憚、又朱子語類に、或人のいはく、郷間に李三といふものあり、死して厲となる、郷曲凡祭祀佛事あれば、かならず此人のために別に饌具をそなふ、若かくのごとくせざれば、齋食盡く爲レ所レ汚、後に人ありて、爆杖を放てその所レ依の樹を焚、是より遂に絶てやみぬ、朱子のいはく、是他枉死氣未レ散、被二爆杖驚散一了、又焦氏筆乘に、李畋該聞集を引ていはく、爆竹、妖氣を辟事信然たり、鄰人に仲叟といふものあり、山鬼のために祟をなされて、戸牖を開く事あたはず、山鬼しきりに瓦石を投て妨をなす、叟、巫覡を求てこれをいのりければ、却て妖、祟をなすこといよ〳〵さかんなり、畋これに謂ていはく、日夜庭中におゐて、除夜のごとく爆竹する事數十竿せよ、叟その言を然りとして、爆竹して曉にいたる、これより妖祟の事やみしとなん、この數説を以て見れば、爆竹の邪氣を辟る事、其理あり、しゐがたし、
p.0931 十五日 三毬打〈左義長ともかく 正月に打たる毬打玉を、眞言院より神泉苑へ出してやき上る也、〈つれ〴〵草にあり〉毬打玉は三角にして、天地人に表し、やき上るは陽をまつる也、今の世民間には、正月のかざり松竹しめなはの類をやく、是をとんどヽいふ也、唐は元日に竹をやく、竹のやくる音にて陰氣はらひ、妖邪のがいをのぞくと也、〈本朝これにならふなるべし〉〉 爆竹〈ばくちくとよむ、又竹をほこらすともよむ、竹をやくなり、〉 吉書上る書〈初にかきしを、今日やくなり、〉 ひし花びらほこらす〈ほこらすといふは、やくといふ字をいむ故、いふなるべし、〉
p.0931 民間歳節上 是日〈◯正月十五日〉取二門松及司命索一、積二庭中一、竪二竹於其四傍一燎レ之、謂二之散鬼杖一、〈杖讀如レ兆、蓋爆杖之遺、〉或謂二之焞度一、〈焞度國語、猶レ言二熢㶿一也、火熾貌、〉 事物紀原曰、歳時記曰、元日爆二竹於庭一、以辟二山臊一、山臊惡鬼也、
p.0932 神異經曰犯レ人則病、畏二爆竹聲一、宗懍乃云、爆竹燃草起二於庭燎一、風俗通謂起二於庭燎一、不レ應レ濫二王者一也、按、周衰之末、大夫而僣二天子一、庶人而服二侯服一者皆是也、奚獨燎明爲レ不レ然乎、懍之所レ記理或然矣、 苑石湖集、臘月村田樂府爆竹行叙曰、此他郡所レ同、而呉中特盛、惡鬼蓋畏二此聲一、古以二歳朝一、而呉以二二十五夜一、 熙朝樂事曰、除夕人家祀二先及百神一架二松柴一齊レ屋、擧レ火焚レ之、謂二之 盆一、〈群談採餘作二火爆一〉煙焰燭レ天、爛如二霞布一、爆竹鼔吹之聲、遠近聒レ耳、 帝城景物略曰、除夜以二松栢枝一雜レ柴燎二院中一、曰二燒松盆一、熰歳也、 通雅曰、除日焚レ柴曰二 盆一、月令通考、呉中風俗、除日送二舊神一、焚二松柴一、謂二 盆一、或曰以二松栢桃杏一、爇レ火曰二生盆一、孫愐曰、 粉滓也、韻會曰、粥凝、歳時雜記、除夕作二蕡燭一、以二麻 濃油一、如二庭燎一、律有二元日油 之義一、今 盆也、或作レ 、音莘、青藤曰、俗謂二之喪盆一、或燒二冬青樹一、武林舊事南郊用レ之、又元夕有二蕡燭 盆一、
p.0932 十五日爆竹并吉書揚〈◯中略〉 三笈杖、又三毬打、左義長とも、或は三元張とも書、三元張より起るか、徒然草に云、さぎちやうは正月に打たる毬打を、眞言院より神泉苑へ出して燒よし侍り、唐土にては、毬打を蚩尤が頭に比して是を弄す、日本又毬打を燒て、巨旦を伏するならんと云々、止牟止の正字詳ならず、爆と云字、火烈と注して、ハタメク、ヒバシルと訓む、左義長を爆す、吉書菱葩を爆といふは、燒といふ字を忌ばなり、俗に誤て物を焦すを、燒爆といふに同じ、
p.0932 さぎちやうは、正月に打たるぎちやうを、眞言院より神泉苑へ出して燒あぐる也、法成就の池にこそとはやすは、神泉苑の池をいふなり、
p.0932 禁裏臨時之御條目
覺〈◯中略〉
一左義長御作法までにちいさく被二仰付一、并盆之燈籠かろくいたし上られ候様に可レ然事、〈◯中略〉
右條々相二守之一、油斷有間敷候、若猥之儀被レ承レ之、於レ無二言上一者、面々可レ爲二越度一者也、p.0933 寛文八年三月廿八日〈◯署名略〉
p.0933 慶安元子年十二月
一正月之左毬打ニ、薪澤山ニ積重、たき申間敷事、
十二月
p.0933 正月十五日 御吉書左義長 是左義長ハ自二山科家一獻レ之、清凉殿ノ東庭ニ置レ之也、左義長ハ以二葉竹一拵レ之、扇等ノ飾アリ、常ノ如二左義長一、是ニ吉書ヲ被レ上事也、
p.0933 十五日〈◯中略〉清凉でんの東庭にて御吉書之三毬打〈近キ記ニ小三キ打トあり〉あり、〈三毬打は近年山科しん上す、御領の御代官をせし時よりしん上して、其例をうしなはで、今は御代官ならねど、しん上するなり、〉清凉殿へ渡らせおはします、〈◯中略〉内侍御座に御劍をもち、御さきに行、又勾當の内侍、御吉書を硯のふたにすゑてもちて、御うしろに行、もやの東の庇にかまへたる御座につかしめ給ふ、勾當内侍、御座に御劒おく、又勾當内侍もちたる御吉書をとりて、同庇の南第一の間の簾のしたよりさし出せば、藏人さしよりて、御吉書をうけとりて、東階にのぞむ、修理職の者〈慶長のころまでは、すあをを著す、近年布衣を著す、〉階にすヽみて、御吉書を給はりて、三毬打のもとにあゆみより、御吉書を入て歸り參る、藏人階の南にある燭だいのろうそくをとりて、しゆりしきの者にあたふ、又三毬打のもとにゆきて火をつく、牛飼仕丁〈じつとくを著す〉等聲をあげてはやす也、事はてヽをはりて、三毬打の竹二本を、御吉書のすわりたる硯のふたにすゑて、しゆりしきのものもて參る、藏人これをとりて、御吉書いだしたるすだれの下へ入べし、内侍とり御前にもて參〈ル〉、のち還御、
p.0933 十五日、御吉書の事、近代諸家中より左義長獻上無レ之、入レ夜南殿上の南庭にて御沙汰あり、先御簾の前に燭を左右に立て、階下左右に北面四人狩衣にて候す、殿上のをちゑんに藏人〈二人〉候す、内侍御簾を尺計卷あげて、御吉書を御硯蓋にのせ出さる、是を藏人上座の者請
p.0934 取て、北面に渡す、左の北面二三階のぼりて請取て、左義長の中へ入置て、本の座に居す、次に下座の藏人立て、御前の燭を取て、又北面に渡す、右座の北面階を上て請取て、せんのう〈◯原書傍書、仙洞牛飼童也、〉に渡す、請取て御左義長をほこらす也、事終て左義長の竹二三本計切て、右の御硯ぶたにのせ上る、北面より藏人に渡す、藏人より簾中内侍へ渡す也、此時内侍てい、はつき袴びんふく也、
p.0934 十五日 吉書左義長 山科家ヨリ調進 於二清凉殿東御庭一有レ之、極臈催、修理職勤レ之、仙納彌市伺候、
p.0934 十五日 三毬打 又爆竹 又左義長
是は十五日の夜、清凉殿東向簾中出御にて、東庭にて御吉書を三毬打に而燒るヽ御規式なり、長橋廊下に而公卿殿上人列座有、三毬打は竹と藁にて作り、紙をしめに附たるもの也、山科家御料御代官を勤られたる時よりの例にて、山科家より調進なり、出御の後、御吉書を硯蓋に載、簾中より出さる、藏人受取、殿上より修理職に渡す、修理職狩衣にて受取、三毬打の内〈江〉入、次藏人御前の燭臺の蝋燭をとり、修理職に渡す、修理職受取、牛飼童にわたす、牛飼童兩人裝束に而詰居り受取、三毬打〈江〉火をうつし、燭は修理職〈江〉返し、修理職より藏人〈江〉返し、藏人元の如く燭臺に指す、三毬打燃上れば、牛飼童とうどやとはやし、夫より仕丁大ぜい十徳を著、扇を手に持、三毬打をめぐりて、とうどやとはやす、其内新參の仕丁は、紅白粉を面にぬり出る也、三毬打燒る内、燒竹二本硯蓋にのせ、牛飼童、修理職〈江〉わたし、修理職階下より上げ、藏人受取、簾中〈江〉入る、三毬打はて入御なり、
p.0934 十五日 左義長〈今曉山科家所レ獻之左義長、爆二主上御吉書一、修理職從二其事一、極臈右手持レ燭、左手捧下載二御吉書一之硯蓋上、自二殿上一賜二修理職一、仕丁等各出二庭上一拍レ之、倭俗擊レ手或鐘鼔勸レ之、總謂レ拍(ハヤシ)、中華除夜或元夕爲二爆竹一、〉
p.0934 十五日爆竹并吉書揚〈◯中略〉 今日山科家より獻ずる所の左義長、主上の御吉書を爆す、修理職其事に從ふ、極臈右の手に燭を持し、左の手に御吉書を載る硯の蓋をさヽ
p.0935 げ、殿上より修理職に賜ふ、仕丁等各庭上に出て拍レ之、十八日にも其式あり、
p.0935 十五日 上賀茂左義長〈今夜上賀茂太田前、并社家松下門前、爆二左義長數基一、地下人各巡二左義長一而拍レ之、諸人群覩、〉
p.0935 同〈◯正月〉十四日 一さぎつちやうの事、及レ晩候て、馬場殿にてはやし申也、三間御厩之御縁へ御成候而、辻ごしに被二御覽一之、すぐに常之御所へ還御成候也、上様は御所様さぎつちやう被二御覽一間に、常之御所へ還御成也、同十五日 一爆竹、〈三毬打共書レ之〉此爆竹は、今朝御對相過候て、則埦飯より以前之事也、御西向松の御庭にて、さぎつちやう囃申を、簾中より被二御覽一候、御供衆、申次衆、庭上に伺公也、
p.0935 正月十四日 一左義長(永正十三) 一本 囃申レ之
十五日 一左義長(永正十三六七八年同前) 五本、囃申レ之、被二御覽一、仍御太刀被レ下レ之、
p.0935 十五日 洛中家々左義長〈今曉爆レ之、爆了以二其焦餘竹一插二厠内一、然則其家無レ疫云、或爆竹火燒レ餅食レ之、則以二此火一煮二今朝赤小豆粥一、又以二此粥一爲レ糊、貼二牛王并札一、皆避レ疫之法也、〉
p.0935 十五日 爆竹并吉書揚〈◯中略〉 洛中家々今曉竹を立、昨日迄飾たる注連飾をたき吉書を燒く、其紙の灰空に飜るときは、手跡上達すと云、此時口々にとんど左義長と拍す、此火をもつて、今朝の小豆粥を煮、又餅を燒き食ふ、是を菱葩ほこらすといふ、又其爆す所の焦餘る竹を、厠の内に插ば、其家疫なしと、又其灰を屋敷の四面に散せば、蛇近づかずと云、 大坂にては昨日より家々の注連飾を取て、河邊にこれを燒く、皆兒童の戲とす、田舍にては高サ二三間の爆竹を作り爆す、攝州兵庫近郷には、昨夜土産神の社壇に、一村の者及び往還の旅人を引止め、燈火を消し、男女闇中に入亂れて一夜を明す事、大原の雜居寐に等しく、今朝大きなる爆竹を建て、西方へ引合ひ、引勝たる方は獵よしとて、大に悦ぶ事網引と等し、
p.0935 正月 十八日爆竹 是去ル十五日、自二山科家一獻上ノ左義長、今日清凉殿ノ於二南庭一燒
p.0936 上也、天子出二御清凉殿ニ一有二天覽一、極臈此事ヲ催ス也、又御殿ノ階ノ下ニ、北面ノ侍兩人跪候也、件ノ左義長燒上ル時、陰陽師大黒囃レ之〈大黒トハ其陰陽師ノ稱號ノ如シ〉也、凡其次第先陰陽師大黒烏帽子素袍ヲ著シ、扇ヲ持チ、清凉殿ノ御庭ノ中央ノ右ノ方ニ立テ囃レ之、又陰陽師兩人麻上下ヲ著シ、笹ノ枝ニ白紙ヲ切下テ持レ之、件ノ大黒ト立向囃レ之、次ニ鬼面ヲ掛タル童子一人、金銀ヲ以左卷ニ畫タル短キ棒ヲ持舞曲ヲナス、次ニ面ヲ懸赤キ頭ヲ被リタル童子二人、太鼔ヲ持テ舞曲ス、次金立烏帽子ニ大口ヲ著シ、小キ羯鼔ヲ掛テ打二鳴之一舞曲ヲナス、又笛一管、小鼔一挺、半上下ヲ著シタル者打二囃之一也、但舞曲ヲナス間ニ、件ノ左義長ニ御吉書ヲ添テ燒上ル也、又燒上ル左義長ノ數ハ十二三飾也、
p.0936 十八日〈◯中略〉三毬打あり、亦曉より催したつ、弓場代にて此事あり、朝餉にて御覽あり、女中だいばん所に候す、公卿侍臣どもすのこに候す、大こく役者を召具して參る、〈陽陰師大黒囃レ之、松大夫と云ふ、〉かつこ、棒ふり、かくし太鼔等の事あり、ことはてヽ常の御所にて一獻〈こぶあは〉參る、うちうちには、例のひし花平にて御祝あり、
p.0936 十八日 左義長 極臈催レ之〈清凉殿南庭ニテ有レ之〉 宿直 院北面勤レ之 拍子 大黒唱門師勤レ之
p.0936 十八日 三毬打〈又爆竹〉
是は清凉殿朝餉之間、簾中出御にて御覽あり、公卿殿上人南の椽に候す、宿直の瀧口二人階下に候す、南廣庭四脚門より東方、月華門より西方にて三毬打有、出御後修理職始むべきよしを申す、陰陽師大黒民部是を勤む、三毬打に火をうつす、三毬打燒る間、鬼の姿にて一人棒ふり有、次に鞨鼔打小童二人有、次に鬼の姿にて隱し太鼔といふて太鼔打有、右終る頃三毬打も燒畢、入御也、今日の三毬打は、諸家より調進也、作り方十五日の如し、今日も雜人拜見を入るヽなり、
p.0936 十八日 左義長〈朝辰刻、禁裏左義長預自二諸家一獻レ之、上賀茂社家亦獻上、凡爆二左義長一之間、上賀茂士二人侍二庭上一、唱門師首長大黒亦然、其徒首著二赭熊一蒙二〉
p.0937 〈鬼面一、擊二羯鼔一吹二横笛一而舞、是謂レ拍二左義長一、爆レ之謂二保古羅加須一、〉
p.0937 十八日 禁裏左義長 この灰を聖護院村天王御旅所に捨
p.0937 十九日〈◯正月〉は、六十六本の左義長、土御門殿の下陰陽師大黒と申もの勤レ之、宿所塔之段の神子町より行列にて參上す、南殿の前に、竹に色々紙を結付、火を焚、辨面を懸芥の裝束し、鬼面にて夜刄衣裝抔して、太鼔鉦鼔を打、前進後退して歌舞す、其稱言は、貴也御法、左義長や御法と、下略、平人豫參して拜見す、
p.0937 十八日左義長 今朝辰刻左義長あり、預め諸家よりこれを獻ず、上賀茂社家も亦獻上あり、左義長爆竹の間、上賀茂の士二人、庭上に侍す、先清凉殿の御庭に竹を飾り、是に扇を結付、これを爆す、唱門師大黒松大夫、その徒四人、内二人は、翁の形をなし、二人は嫗の形をなし、鬼面を被り、赤熊髮を被り、二嫗は太鼔を携へ、二翁は逐舞ふてこれを打、童子二人素面に赤熊髮を被り、腰鼔を打、又傍に袴肩衣を著たる者五人、並立てこれを囃し、止牟止也といふ、摺袴著たる者一人、聲に和して波阿と云、其由縁を知らず、舊臘御煤拂より今日まで、竹串の調味を用ひられず、
p.0937 池田氏筆記 一三毬打、正月十八日ナリ、蒹葭堂云、堂上方ヨリ獻ゼラル、竹ニ扇子短册ヲ付、下ノ紙ニ姓名ヲ記サルヽナリ、トンドウヲ焚ナリ、是ハ新參ノ仕丁ナリ、此トキ白赤鬼出テ舞フ、是ハ土御門殿ノ卑官ナリ、所レ謂唱門師(トモジ)ナリ、
p.0937 殿中從二正月一十二月迄御對面御祝已下之事
一夜〈◯正月十八日〉に入て爆竹五本ほこらかす、五ケ番より一本づヽ進上、
p.0937 應永廿三年正月十五日(○○○○○)、地下村々松拍參、先山村〈木守寺之人供行者等〉種々風流摸二舞樂一參向之儀有二其興一、則燒二三球杖一如レ例、菓子二合、捶賜レ之、次三木村、次石井村、次舟津、各種々風流、其興千萬、皆同賜
p.0938 レ捶、見物雜人群集、 十八日(○○○)、三球杖少々燒レ之、於二門前一大三球杖燒レ之、
p.0938 大永八年正月十五日、入レ夜參内、御盃儀如レ恒、於二東庭一小三毬打拍也、 十八日、入レ夜參二外様番衆所一、三毬打令二見物一、聖門師拍レ之如レ恒、
p.0938 天文十一年正月十五日丙申、暮に御祝ニ參内、〈◯中略〉於二東庭一御三毬打例式、仕丁共ハヤシ候、勸修寺三本、予十本進上、已上十三本有レ之、極臈藤原氏直、祗候申沙汰也、次於二大所一勸廣予薄五辻等一盞候、 十八日己亥、今日禁裏進上之三毬打用意、於二禁中一如二例年一沙二汰之一、大澤長門守、同下野權守、同彦四郞、澤路筑前守、同彦九郞、同修理進、井上次郞五郞、安彌四郞、小谷彌五郞、與次郞、澤路夫三人、人夫二人沙二汰之一、於二禁中一極臈夫々渡レ之、當年一圓數少、至二賀茂一以上廿本有レ之、暮に參内、見物被レ參輩、廣橋中納言、權中納言、萬里小路中納言、伯二位、予、四辻宰相中將、重保朝臣、國光、藤原氏直、源爲仲等也、極臈氏直申沙汰也、於二男末一一盞如二例年一、御警固藤中納言、庭田兩奉行、夫參二見物一候輩以外多、
p.0938 永祿十三年正月十五日、三毬打三本如二嘉例一進上申也、
p.0938 慶長九年正月十二日癸亥、山科七郷ヨリ三毬打竹二百八十本持來了、勸修寺ヨリ人相副、 十四日乙丑、禁中へ三毬打十本如二例年一進上了、如レ左、
かしこまりて申入候、三ぎつちやう十ほん、あいかはらずしん上いたし申候、御心候て、御ひろうにあづかり候べく候、かしく、 とき經
勾當内侍どのヽ御局へ
御返事有レ之
いつもの三ぎつちやうまいり候、めでたくおぼしめし候よし、心候て申とて候、かしく、
山しな前中納言どのへ
p.0939 慶長九年正月十四日、やましなよりさぎつちやう十參る、 十五日、う大辨より、さぎつちやう三かど參る、御さか月ののち、さぎつちやうあり、御きつしよ、長はし、きよくら人いださるヽ、
p.0939 慶長九年正月十五日、三毬打吉書ヲホコラカス、長左衞門ニ申付候、
p.0939 慶長十七年正月十一日丙午、一勸修寺中納言へ、山科大宅郷ヨリ三毬打竹貳百八拾本、毎年ニ來候間、不二相替一被二仰遣一候て可レ給由申遣、從二當年一、板倉伊賀守御料所代官仕候間、如レ此申遣、勸修寺ヘノ状之案、
内々申入候、三毬打竹貳百八拾本、毎年從二山科大宅郷一遣申候儘、不二相替一仰遣候て可レ被レ下候、將又十八日之三毬打竹は、從二深草一五本出申候、一尺貳寸の竹とは申候得共、近來は一尺ばかりの竹にて御座候、祖父言繼日次記に見え申候はうは、長岡より出申候へ共、かず委不レ知候間、猶日次記見付次第に可二申入一候、先竹の儀被二仰遣一候て被レ下候者、可レ爲二過分一候、言緒謹言、
端書、尤以參上可二申入一候へ共、先如レ此候、
正月十一日 言緒
勸修寺殿〈人々御中〉
十二日丁未、一勸修寺中納言昨日之三毬打之事、則立入河内守ヲ添可レ遣候間、拙子青侍ヲ、板倉伊賀守内板倉金衞門所へ可レ遣由承了、三毬打之竹の事、金衞門隙入ニヨリ、金子内記ニ、立入河内、拙子青侍申候處ニ、則山科大宅郷ヘ、今日人ヲ可レ遣由、内記申候也、深草ノ竹ハ傳奏と能々示合候て、傳奏次第ニ可二申付一之由申レ之了、 十三日戊申、一三毬打竹貳百八拾本、如二例年一、從二山科大宅郷一持來了、 十四日己酉、一廣橋大納言へ兩種壹荷遣了、其状案文、
當春御慶、珍重々々、不レ可レ有二休盡一候、隨而兩種壹荷、乍二些少一致二進上一候、誠表二祝義一計候、將又禁中ニ十p.0940 八日之御三毬打御座候哉、左様ニ御座候ヘ者、拙子致二進上一候三毬打ハ、深草ヨリ竹五本從二前々一出申候間、不二相替一出申候様ニ、被二仰付一候而可レ被レ下候、竹の寸は、一尺二寸とは申候へ共、近年は九寸一尺の竹にて御座候、祖父言繼日次記に見え申候條、任二吉例一被二仰付一候て被レ下候者、可レ爲二過分一候、尤以參可二申入一候へ共不レ存二御隙一候間、先一書如レ此候、言緒謹言、
正月十四日
如レ此申候て遣候へバ
返状
誠新春之嘉慶、珍重々々、殊兩種壹荷被レ懸二御意一候、喜悦之至候、祝詞從レ是可二申入一候、仍禁中十八日之御三毬打御座候、珍重候、竹之事、深草より出付申候吉例之由、左様候者尤存候、當年者御庭せばく候間、何もちいさく候て可レ然候、吉例之寸法は、來年より其通可レ然存候、萬々以二面謁一可二申述一候、かしく、
正月十四日 兼勝
山科殿(ウハガキ)〈◯中略〉
一三毬打十本禁中へ進上、文如レ此ちらし書、永祿十年、言繼日次記ニ見え申候案文也、毎年の事ナレ共、折節日記一覽候間如レ此、
かしこまりて申入候、三ぎつちやう十ほん、あとのまヽしん上いたし候、いくよろづ代までも、しん上いたし候べきよし御心え候て、御ひろうにあづかり候べく候、かしく、
勾當内侍どのヽ御局へ とき緒
御返事
文のやう、ひろう申候、三ぎつちやうしん上候、めでたく思めし候よし、心候て申とて候、かしく、p.0941 くらのかみどのへ
一仙洞へ御在位ノ如レ時、三毬打十本進上、文言禁中ノ文言ニ同、但アテ處ハ、宮内卿どのヽ御局へと書申候也、御用被二仰付一候とて、御返事ナシ、御滿足之由、使者ニ被レ仰了、 十五日庚戌、一禁中十八日御三毬打觸有、其文言、
端書、十七日可レ被レ進候由被二仰下一候、宿紙拂底候間、先内々申入候也、
來十八日、三毬打三本、可下令二持參一給上之由被二仰下一候、各可レ得二御意一候也、
正月十五日 種忠
頭中將殿〈◯以下四十一人宛名略〉
則加奉、加様ノ六位ノ觸ニハ、奉了トカク也、 十六日辛亥、一從二今日一三毬打コシラヘ了、 十七日壬子、一三毬打令二進上一、三毬打ノ長、本座迄三間、本座一間一尺五寸、四手竹貳間、足アヒ貳間、四手竹ニ扇一本付レ之了、 十八日癸丑、一三毬打ニ各參内、三毬打過テ御酒有レ之了、
p.0941 慶長十七年正月十八日癸丑、禁中御三毬打五十九本有レ之云々、 十八年正月十五日甲戌、院〈◯後陽成〉御所三毬打卅八本有レ之、自二去年一始、
p.0941 延寶二年正月十五日、吉書御左義長雖レ爲二例年夜一、當年日午行レ之、 十八日、左義長、其長三尺計、纔數本耳、
p.0941 寛政十二年正月十五日戊辰、御吉書三毬打、酉刻俊幹、助功參勤、當番議奏ヘ相屆、出御以前鷲尾前亞相被レ示云、去年被レ出二御吉書一所間違候、當年者例所之旨也、 十七日庚午、三毬打獻上也、如二例年一、 十八日辛未、三毬打也、依二申沙汰一、俊幹巳刻參勤、依二雨下一今日延引、可レ爲二來廿一日一被二仰出一、即刻退出、 廿一日甲戌、三毬打〈去十八日依レ雨御延引〉申沙汰、俊幹參勤、申半刻出御、秉燭前退出、〈傳聞、獻上之三毬打、十七日より今日迄其儘在二廻廊一云々、〉
p.0942 文化四年正月十五日丁巳、御吉書三毬打、酉刻予俊常兩人參勤屆二議奏卿一、 一戌刻前出二御于小御所一、中段御座〈簾中〉小兒出庭後受二議奏卿目一、〈當番六條前中納言〉予參二進下段北間簾下一取二御吉書一、出二東階上一渡二修理職一復座、次俊常進二南方燭臺下一取二蝋燭一、出二同所一渡二修理職一、待二返上一如レ元立レ之復座、其後修理職上二燒竹一、予更進二出階上一取レ之、就二簾下一返二上御硯蓋一了、兩人退候二殿上人座末一、〈圓座之事豫申二番頭一置如レ例〉但此夜修理職一臈不二出仕一、御吉書松宮主水、蝋燭高島監物也、 一入御後修理職令レ退事、議奏卿被二氣色一、予出二階上一目レ之、〈今度不レ及二引裾一〉 一事訖尋二議奏卿一、戌刻過兩人退出了、 十七日己未、三毬打獻上也、予家來自二巳刻一以前令レ候二東廻廊一、貫首以下獻レ之、三毬打請取、都合十八本相揃後引取也、尤前後候二内玄關一、屆二議奏卿一、平唐門開閉之後、同令レ申レ之如二例年一、〈議奏初中山前新大納言、後花山院右大將承知也、〉尤上賀茂獻上三毬打二本、一社傳奏滋野井家家來附添持參、如二例年一令二請取一置也、 十八日庚申、三毬打也、催巳刻予參勤屆二議奏卿一、〈◯中略〉 一申刻過出二御小御所一、中段御座〈簾中也〉小兒出産後受二當番議奏氣色一、〈清閑寺前亞相〉予進二出東簀子一、階上目二修理職一〈寄二南方一向二艮方一進退下レ裾也〉修理職仰二大黒越後掾一、頃左廻退入如レ例、
p.0942 爆竹興行附自二異國一黒坊主來朝事
同月〈◯天正九年正月〉四日、御爆竹御興行、御馬廻衆用意致シ、頭巾等結搆ニ拵へ、各出立思々ニ用意セシメ、同十五日、必罷出ヅベキ旨御觸有レ之、江州衆被二仰出一爆竹申付ル、御人數ノ事、北方東一番ニ仕ル次第、平野土佐守、多賀新左衞門、〈◯中略〉御馬場入ノ次第、御先ヘ小姓衆、其次ニ大臣家〈◯織田信長〉御出馬、黒色ノ南蠻笠ヲ召サレ、唐錦ノ御半臂、虎ノ皮ノ行騰、葦毛ノ御馬、勝レタル早馬飛鳥ノ如クナリ、關東ヨリ伺公仕リシ矢代勝助ト申ス御馬乘、是ニモ御馬乘セラル、近衞殿、伊勢兵庫頭、并ニ御一家衆、北畠殿、上野介殿、三七殿、津田源五殿、同七兵衞殿、其外歴々美々敷御出立、思々ノ頭巾、様々ノ裝束、皆以結搆ナリ、何レモ早馬十騎二十騎ヅヽ乘セラレ、後ニハ爆竹ニ火ヲ付、朣ト一度ニハヤシ候、御馬ドモ驅サセラレ、其後町通リヘ乘出サレ、扨御馬納ラレ、見物群集ヲナシ、結搆ナル次第、p.0943 上下心目ヲ驚シ畢ヌ、
p.0943 十五日〈◯正月〉ノ夜諸川岸焚レ之、〈◯門松、注連繩、〉彼童夜中、牛房注連等ヲ以テ、或ハ地ヲ撲チ、或ハ民戸ヲ撲等シテ、トンドジヤ、チヤンギリコジヤト報告シ巡ル、蓋焚レ之ニハ雇夫等出テ助レ之テ、兒童ノミニハ非ズ、彼輩今夜寢ザルユヘニ、夜不寢講ト云リ、ヨネンカウト訓ゼリ、チヤンギリコハ左義長ノ訛ナラン、江戸ニハ更ニ無二此事一、或ハ川ニ流シ、或ハ家ニテ焚レ之、或ハ芥溜ヘ捨レ之ノミ、
p.0943 三毬打 信州松本町にては、町々辻の中央、長さ拾間計の竹を立、松竹をかざり、御柱といふ、童部どもあつまり、一人を別當と名づけ、水あびせなどして、其柱の下にて饗をなす、是三毬打の遺風にや、我府下にしん竹と名附、大竹を立るも、三毬打の遺風也とぞ、
p.0943 福山爆竹圖卷序 空踈陳人
邦俗爆竹以二正月十四日一、而吾福山之觀、號稱二第一一、未レ聞三他方有二此比一也、其製植二巨竹四竿一、竿頭合束爲レ尖、四脚隨下隨張、衣以二草藁一、形如二四注屋一、而癯且聳焉、高殆三丈、而置下如二桅斗一者上、松葉作レ之、其上又施二諸様賁飾、或飛鳥、或走獸一、自二花卉樹石一至二宮室舟車器械一、凡百形状、無レ所レ不レ有、而一株竹葉裊々拂レ雲、府下三十街、爆竹二十五本、市人舁レ之、自二城北一始、轉循二東濠一渉二街衢一、鼔譟驩呼、逐レ隊以行、終至二城南蘆田川上一火レ之、火烈既揚、藩士年少各著二鎭火衣一跨レ馬鳴レ鞭直入二煙火中一、縱横馳突、沙石皆飛、而觀者喝采不レ已、無レ論二府下士民一、自二四方隣國一來、雜沓亂簇不レ知二幾萬人一也、二十五本已爲二灰燼一、日暮人散、是爲二歳例一、街長三好光諄作二圖卷一、就求二余序一、余意爆竹之擧、泛然見レ之無用遊戲、徒二費貨財一、然國有二紀律一、民守二儉素一、如二彼賁飾一、爲二觀美一者惟用二紙麻草藁一、不三敢厠二一片金帛一、且藩士年少、藉以講二武事一、亦足レ觀二國光一矣、乃叙二事略一與レ之、安政六己未年正月、
p.0943 永享六年正月十五日、三球杖面々進、〈前宰相三本、源宰相三本、隆富朝臣三本、有俊三本、木寺六本、〉入レ夜木守參燒二三球杖一
p.0944 風流如レ形也、次舟津參同前、〈石井三木村不參〉各給レ捶如レ例、 十八日、松拍參二風流一、自二前々一超過有二其興一、
◯按ズルニ、昨年十月、後小松天皇崩御シタマヒシヲ以テ、十八日ノ爆竹ヲバ擧行セザリシナラン、尚ホ次下引ク所ノ宣胤卿記ヲ參看スベシ、
p.0944 長享三年〈◯延徳元年〉正月十八日丁丑、今日禁裏三毬打停止(○○)、依二諒闇一〈◯去年三月、後花園后藤原信子崩、〉也、〈◯中略〉十五日小三毬打如レ例云々、今日三毬打諒陰中有否事、舊冬被二尋下一、永享度停止〈十五日小三毬有レ之〉由申入了、
p.0944 大永七年正月十五日、秉燭之程參内、御盃儀如レ恒、〈◯中略〉於二清凉殿一小三毬打如二例年一、但依二諒闇一〈◯去年四月後柏原崩〉不レ發レ聲也、 十八日、今日三毬打無レ之、依二諒闇一也、
p.0944 元祿二巳年正月
覺
一跡々如二相觸候一、町中ニ而左儀長焚候儀、堅無用ニ可レ仕候、并かざり道具、屋敷之内、又は往還之道にて燒申間敷候、但船に積捨候共、埃捨場へ捨可レ申候、又は薪に致し候共、可レ爲二勝手次第一、附二火之元之儀一彌念入可レ申事、
p.0944 廿日正月 陳眉公秘笈云、池湯以二正月二十日一爲二天穿一、以二紅縷一繫二餅餌一、擲二之屋上一、謂二之補天一、 按、京都俗、正月廿日、毎家食二赤豆餅餌一、蓋小豆赤色以准二紅縷一乎、但不レ祭レ天祭レ口而已、其他幾内民俗、此日糯糏和二赤小豆一蒸レ之爲二強飯一食レ之、其品異而趣一也、以二此日一稱二廿日正月一嘉祝、
p.0944 二十日 團子〈今日地下人諸人各遊樂、謂二二十日正月一、食二團子一是稱二二十日團子一、〉
p.0944 廿日、今日女人の鏡臺の祝とて、それに供たりし鏡餻を煮食ふ事あり、これ武士の鎧の餻をいはふとひとしき事なり、廿日をもちゆるは、廿日をいはふと、初顏祝と詞おなじきゆへに、これを縁にとれるよし、他にいひならはせり、
p.0944 廿日 商家愛比壽講〈◯中略〉 今日太神樂來る 貴賤廿日正月とて、雜煮餅を食
p.0945 し祝ふ、家毎に祝するにもあらず、
p.0945 文明二年正月五日、熏曰、三井寺乃教待和尚、初居レ此百餘年、既而智證大師相承興二隆此地一、大リヤウ創舊跡也、亦號二蒲生長者一也、凡正月廿日人皆以爲二飽食之日一、實蓋始二於此長者一云々、平日以二此日一施二于天下萬民一以飮食也云々、
p.0945 六月朔日、世俗今日をもて元日とし、雜煮をいはふことのあり、元官中より出し事となん、 試筆
みな月の朔日ながら世とともにけふともふじの正月を見る
p.0945 假作正月
凡世俗遇二疫邪災疾凶荒之歳一、則不レ問二何月何日一、假作二正月摸様一、以爲二除レ舊迎レ新、凶災可一レ轉、相呼曰二流行正月(○○○○)一、香祖筆記曰、老學庵筆記、陳師錫家、享儀、以二冬至前一日一爲二冬住一、又云、唐盧頊傳云、是日冬至除夜、乃知唐人冬至前一日亦謂二之除夜一、吾郷三十年前、冬至節、祀レ先賀レ歳、與二除夕元旦一同、近乃不レ行、亦不レ知三其所二以然一也、乙酉夏、二東多レ疫、忽有下郷人持二齋素一者上、言以(○)二五月晦(○○○)一爲(○)二除夕(○○)一、禳(○)レ之則疫可(○○○○)レ除(○)、一時村民皆買二香蠋一祀二神祇祖先一、亦妖言也、乃知西土亦有二流行正月一、
p.0945 田舍にては、いつにても農業を休みてあそぶを、正月といふ、これ年の初め、遊び居る事にたとへて云しにあらず、其起りは、何ぞの呪にてせし事と見えたり、寛文七年未七月六日町觸、今度、在々所々にて、松飾りを仕り、正月を祝ひ申由にて、江戸近邊の町屋迄、其通り、此月は祝ひ申由相聞候、就レ夫御代官所へも、無用可レ仕旨被二仰渡一候間、江戸町中にても、右の通正月を祝ひ申事、堅無用に可レ仕候云々、始めはかやうに松かざり何くれと正月の如くせし事なり、
p.0945 承元四年三月三日辛卯、或人曰、〈◯中略〉又曰、賀茂氏人夢、三月三箇日如二元三一、可レ儲二禮儀一云々、又五六月之程、世間拂底死去也、可レ恐レ之、
p.0946 寶暦九年の夏の頃より、誰仕出せしといふ事もなく、來る年は十年の辰年也、三河萬歳の謠へる未録〈◯彌勒〉十年辰年に當れり、此年は災難多かるべし、此難を遁れんには、正月の壽を祝ふにしく事なしと申觸たり、依レ之あるひは雜煮を祝ひ、蓬萊を飾り、都鄙一統の事とはなしぬ、
p.0946 又同じ比〈◯安永五年〉の事なりき、御府内の人々、五六月の間より正月の壽をなし、豆をはやし雜煮をいはふ事、寶暦九年の如くせり、命あればかヽるうつけしひが事を再び見侍りしと、友どち語り笑ひしなり、
p.0946 流行正月 文化十一年夏のころ、某の國某の山にて、猻(サル)、人の如くものいひけるやうは、ことし疫病にて人多く死ぬるなり、ことしは過て來年の正月になりぬるさまに、門松たて雜煮餅くひなどせば、病をまぬかるべしといへりとて、かの説の如くになしたる人もいと多かりけり、これ亦前にも有しことなり、〈◯中略〉又伊勢安齋翁の洗革記云、安永七年五月晦日、江戸にて大晦日と稱して、節分の如く鬼やらひの豆をうち、厄拂の乞食いで、六月朔日を元日と稱して門松をたて、雜煮を食し、屠蘇酒をのみ、鏡餅を設祝ふ、町家にては商をやめ、戸を立よせ、簾をかけ、買人來れば、雜煮を出し酒をすヽむ、寶舟の畫を賣者も出たり、江戸中かくの如くしたるにはあらざれども、此事をなす者多し、もと若狹國よりはやり出て、諸國につたへけるとぞ、彼國の土民、山中にて異人に逢しが、かくの如くすれば疫病を除くと教へし故に、行ひはじめたりといふ、〈◯中略〉是を流行正月といふ、冬の日といふ誹諧集に、つるべに粟を洗ふ日の暮、といふ句に、はやり來て撫子かざる正月、にと付たり、冬日注解に、前句のさまを女の業也と見たれば、撫子は子といふ語縁にして、疱瘡か麻疹のまじなひ(○○○○)に、正月を仕直して祝ふなるべし、時ならず正月のはやるといふ事、都鄙ともに有こと也、昔も四月朔日親椀をもて、豆打して、年を取直せば、疫難を除く也とて、正月のはやりし事ありけるとぞとあり、また叢桂偶記に、凡世俗遇二疫邪災疾凶荒之歳一、則不レ問二何月
p.0947 何日一、假作二正月摸様一、以爲二除レ舊迎レ新、凶災可一レ轉、相呼曰二流行正月一、香祖筆記曰、乙酉夏、二東多レ疫、忽有下郷人持二齋素一者上、言以二五月晦一爲二除夕一禳レ之、則疫可レ除、一時村民、皆買二香燭一祀二神祇祖先一、亦妖言也、乃知西土亦有二流行正月一とあり、又按ずるに、清康紀聞拾遺〈學津討源本〉に、去年〈按に清康元年たり〉十二月立冬、術者王浚明〈學海類編本、王浚明に作れり、〉以謂國家大忌二丙午冬三月一、可下於二此日一借レ春致レ祭打牛如中立春上、朝廷從レ之、聞者或以爲レ笑、天時豈可レ借也、但京畿之陷、竟不レ出二此月一、理或近とあり、流行正月の漢名借春なり、〈◯下略〉