p.1345 玄猪ハ、ヰノコト云フ、十月中ノ亥日ニ行フ、後世幕府ニテハ、上ノ亥日ヲ以テセリ、此日貴賤共ニ餅ヲ製シ、亥子餅ト稱シテ以テ之ヲ祝セリ、朝廷ニテハ始メ内藏寮ヨリ獻ゼシガ、後ニハ丹波國野瀬里ヨリ獻ズル事トナレリ、
p.1345 豕子〈十月亥日食レ餅、令二人無一レ病、又説、豕能生二多子一、故女人豕之日獻レ餅祝、〉
p.1346 玄猪(ヰノコ)〈初冬其月建レ亥、以二亥日亥刻一、食レ餅無レ病、見二太平御覽一、◯中略〉豕(同)〈或云、亥能生二多子一、故婦人羨レ之、至二此日一供レ餅祀レ神矣、詳二政事要略、四季物語一、〉玄猪(ゲンヂヨ)
p.1346 節日由緒
十月亥子〈群忌隆集云、十月亥日、作レ餅食レ之、令二人無一レ病也、〉
p.1346 その夜さり、ゐのこのもちひまゐらせたり、
p.1346 釋名 亥日餅〈年中行事秘抄〉 亥子餅〈同上〉 御嚴重〈二水記、兩朝時令云、三條右大臣〈實條公〉江戸參向ノ時、羅山子道春ニ談ゼラレテ云、亥子餅イツクシクカサヌル故ニ、嚴重ト稱ス、嚴ノ字イツクシト訓ゼリ、シカルヲ俗ニ亥ノ日タルニヨツテ玄猪ト云、獻猪ト云ナラハスハ、無根ノ僻記ナリ、弘賢曰、御ゆどのヽ上の記に、けんしやうと書たるは、かなのたがへるなるべし、〉 豚之嚴重〈宣胤卿記〉 げんでう〈後水尾院年中行事〉 玄猪〈續谷響集云、玄猪或謂亥、猪也、冬屬レ水、故呼爲二玄猪一、弘賢曰、女房私記に、けんしよと書たるは、かなたがへり、〉 お玄猪〈雅筵酔狂集云、俗にお玄猪といふは、黒き猪といふにて、此包たる物の名にはあらず、いつよりか誤てしかり、又室町將軍家より此日餅に作り花など相そへ、いつくしく飾り、内々にて獻上あり、仍て御嚴重ともいふ、其外説々あり、〉 御亥子〈殿中申次記〉 御源猪〈年中定例記、かり字也、〉 御まいり切〈宣胤卿記〉 御成切〈御事始記、成氏年中行事、御事始記云、御なりきり共申、又御嚴重とも申なり、弘賢曰、ナリキリとは、喰さしを賜はるゆゑに、いひならはせし異名なるべし、喰さしを賜はるよしは、後水尾院年中行事に、御いきをかけらるヽと、みえたるも其意なるべし、年中定例記には、そも御口にあてられて、まいらせられ候を、賜はるよし見えたり、〉 おなれぎり〈大友興廢記、おなりぎりの轉語なり、〉
p.1346 初の亥日餻を製して食ふ事あり、おほやけにも上の亥の日、内藏寮より御玄猪を奉る、あさがれゐにてきこしめす、御玄猪は亥子餅の名なり、〈委き事は公事根源、節供記要略などにみへたり、公事なる故略レ之、〉又亥子の餻七種の粉を合て作る、七種の粉とは、大豆、小豆、大角豆、胡麻、栗、柿、糖なりと、掌中暦に見えたり、かヽる事を下にうけて、此日民間にいたるまで餻を製してくらふ、此事いつの比よりはじまるとも見えず、延喜式にのせたれば、往古より有し事とみへたり、承安四年沙汰ありて、大外記頼重師尚など勘文をまいらす、それも本朝のおこりをば、たしかに申さず、みな本書本記をのせたり、しかるに歌林四季物語には、但馬の國よりはじめていのこのもちゐたてまつりし事、國
p.1347 史に侍る、時代開化のすべらみことの御くらゐしろしめして二とせの、此月の御事なりとかや、子夜行といふふみには、十月は亥の月にして、亥の用らるヽ事は、子を一年の月の數うみ、うるふには十三うみて、めでたくあさましきまで、いみじき物なればとて、この事をこなはるヽよし侍る、もろこしにてもひさしくなしつたへたりや、はかりがたしとしるせり、しかれども開化天皇の御宇に、亥の日の餻奉りし事、日本紀などには見えず、又榻鴫曉筆といへる書を見侍しに、景行天皇二十三年十月亥日、餻を奉りしよししるしぬれども、これ又ふるき文にも見えず、まいて國史などにもしるさヾれば、かれもこれもみな無稽の言なるべし、源氏物語に、子のこはいくつかまいらせんとあれば、亥の日の餻の殘を、翌日もくふと見えたり、 按ずるに、月令廣義に、五行書を引ていはく、十月亥日餅をくらへば、人をして病なからしむ、又錦繍萬花谷にもかくしるせり、されども其故をしらずいぶかし、右にいへるごとく、豕の多く子をうむによりて、かれをうらやみ、婦人女子のたはふれになし來りし事なるべし、猶ことはりしれらん人に問べし、
p.1347 玄猪〈本名亥子餅 一名嚴重 げんでう 御まいり切 御なり切〉 玄猪正しくは亥日餅、又は亥子餅といふ、此こといづれの御時より、はじまれるといふこと詳ならず、然れども禁中年中行事の一つにて、藏人式にみえたれば、貞觀以前より行はれしことなるべし、〈藏人式は橘廣相撰、廣相は貞觀年の人なり、〉昔は餅を豕子の形に作るといひ、〈年中行事秘抄〉又大豆、小豆、及び胡麻等、七種の粉を合せて作るなどみえたり、〈掌中暦〉此儀唐土にても、上古よりありと見えたり、〈初學記〉
p.1347 亥日 御玄猪〈玄猪餅(いのこもち)、御嚴重(ごけんちやう)、亥の子、能勢(のせ)餅、昔は山猪を奉る事、〈日本紀等ニ出〉應神天皇の御代より、毎歳亥の月亥の日を祝ひたまひ、御亥猪の餅を奉るべき詔ありて、攝州能勢郡木代村切畑村兩村より貢とす、餅を製する當家は能く清め、赤小豆と餅米とにて餅とす、きくの花かえでしのぶの花葉をかいしきとす、色うす赤し、これは豕の子の肉を表したる也、(中略)十月亥の日に餅をくへば、無病長生なり、〈月令廣義〉〉
p.1347 玄子餅七種粉 大豆 小豆 大角豆 胡麻 栗 柿 糖
p.1348 藏人式云、初亥日、内藏寮進二殿上男女房料餅一、〈各一折櫃〉
内藏所レ進餅、已見二人給料一、但又大炊寮出二渡糯米一、内膳司備調二供御一、雖レ不レ載二式文一、寮司供來尚矣、群忌隆集云、十月亥日、食レ餅除二萬病一、雜五行書云、十月亥日、食レ餅令二人無一レ病、〈亥日之餅、本縁如レ此、愛敬之詞、未レ詳二其説一、〉
p.1348 ゐの日、しゆぜんけむもちひをくうずること、
この月のゐのひごとに、これをたてまつる、うねべ大ばん所にまゐりて、とりつたへたてまつりあぐ、又殿上にもすゑたり、
p.1348 上亥日、内藏進レ餅事、〈中下亥、又同、殿上并女房、〉
亥子餅事 或記云、盛二朱漆盤〈立紙〉四枚一、居二御臺一本上一、女房取レ之供二朝餉一、次召二藏人所鐵臼一、入二其上一分擣、令レ爲二猪子形一、以レ錦裹レ之、挿二於夜御殿帳疊四角一、但臺盤所殿上料、内藏寮進、
大外記頼業勘申云、 十月亥日餅事〈◯又見二政事要略卷二十五一〉
大外記師尚勘申云 亥子餅事 群忌隆集云、十月亥日、食レ餅除二萬病一、 齊民要術云、十月亥日、食レ餅令二人無一レ病、 本朝月令云、雜五行書曰、十月亥日、食レ餅令二人無一レ病、 右亥日餅、本縁如レ此、奉供事、藏人方沙汰候歟、外記不レ知也、但内藏寮進二殿上男女房料餅一、〈各一折櫃〉以二柳臼杵等一於二朝餉方一令レ舂御云々、仍言上如レ件、
御膳宿申云、内膳司供之、即於二御膳宿一盛二朱漆盤四坏一、立紙居二御盤一、自二大盤所一傳供レ之、或加二晝御膳一供レ之、〈承安四年〉
p.1348 十月〈◯中略〉ゐのこは、くられうよりまいる、あさがれゐにてまいらす、
p.1348 豕子餅 上亥日
此餅は内藏寮よりそなへ奉る、朝餉にてきこしめす、十月の亥日餅を食すれば、病なしといふ本説あり、この事いつ比よりはじまるともみえず、延喜式に載たれば、往古よりはやありける事なp.1349 らんかし、承安四年にさた有て、大外記頼重〈◯頼重頼業誤〉師尚など勘文をまゐらす、それも本朝のおこりをばたしかにも申さず、みな本書本説をのせたり、
p.1349 ゐのこ、亥に當る日なり、あしたのほど御げんでうを供ず、御いきをかけらる、夫を人々の申出すにしたがひて給はる也、御所々々親王方、門跡方、比丘尼衆、大臣等、其外番衆、八幡別當、醫師等にいたるまで、小たかだんしに包、小かくにすゑ、水引にてゆひてとり出、内々の男衆、院の女中、御所々々の上臈、同乳母などの申出すは、椙原に包て出さる、杉原つヽみたるは、小かくにもすわらす也、畢竟或は賞翫の人、或は外様人には、たかだんしに包たるを給はるなり、つヽみの中にいる物は、初度は菊としのぶと、中度はもみぢとしのぶと、三度めはいちやうとしのぶとなり、いちやうの葉に、申出す人の名を書て、つヽみ紙にさしはさむなり、御げんでうのいろは、公卿たる迄は黒白品々、殿上人は赤、五位殿上人已下は白、兒は赤、地下は白、花ぞくの人は三度一度も、二度に一度も赤は黒、白キは赤を給はる也、家を賞翫のゆゑなり、女中は上臈のかぎりは黒、中臈は赤、下臈は白、儲君の親王の上臈をはじめ、御所々々の上臈は赤、其家にては黒かるべきことなれど、禁中にては中臈の准據なればなり、又后はおはしまさぬときも、后の御料とてひらの御はんに、土器三ツすゑて、御げんでう三色をそなへて、御しやうじの内におく、ないしひとへぎぬきてもて參る、菊のわたのたぐひなり、丹波國野勢といふ所より、筥に入て獻る物あり、則のせと名付て、夕方の御祝に供ず、衞士かちんを進上す、高くらてんそう也、夕方御いはひ常の御所にて參る、御座等例のごとし、先つく〳〵〈臺にすう、臺のてい兩方に足あり、花足の類也、當時世俗に流布に足うちとかいふものなり、〉をもて參る、はいぜん御前にすう、すこし亥の方にむかはせ給ひてつかせ給、はいぜん御直衣のそでをおほふ、もとより御直衣はたヽみながら御座におく、つきをはらせ給ひて、御はしをとらせ給ひて、供御を少し參る、親王女御などあれば御相伴なり、次第にもて參る、親王は半尻著用なれ
p.1350 ば、はいぜんの人、袖をおほふに及ばず、女の御はいぜんの人、唐衣の袖をおほふ、女中と上臈中らふは、次第に御前にてつく、下らふから衣〈上らふは上臈の唐衣、中らふは中臈のなり、〉の袖をおほふ、次第につきをはりて番所へ御しものから衣を置て出さる、男の料とかや、唐衣はいかヾしたることにか、次に御げんでうを供ず、南にむかはせ給ふ、はいぜん手長の人、例のきぬをいだき持て著座、かけおびばかりをかく、下臈はひとへぎぬを著す、つく〳〵と同體臺〈比臺亥のこの外、目にふれざるもの也、〉二ツにすゑて供ず、白き土器五ツに御げんでうを入て、臺ひとつにすう、都合十也、御はしはとらるヽにも及ばず、はいぜんてながてつせずしてしりぞく、又西向に居直らせ給ふ、上臈、中らふ、下臈襠ばかりにて、まづ御盃、次に二獻御まなを供ず、御さかづき常のごとくとほりて、又御さかづき參りて、三獻〈のせ〉を供ず、三獻目は天酌にて御とほし、例のごとくひと〴〵天酌のついで、初獻に供たる御ひだりのかたにある、御げんでうをとらせ給ひて、しきゐのうへにおかせ給ひて、御ゆびにてはじかせ給ふを給はるなり、御げんでうの事前にみえたり、たヾし四位殿上人の内、清花の族、大臣の子或は孫、兩頭などは、二度の時も、三度の時も、一度は黒を給はるなり、五位殿上人も又同じ、これらは賞翫ゆゑ也、亦しきじに補せらるヽ人は、器量を稱せらるヽよし、又親王、女御、第一の公卿などは、はじかるヽ迄はなく、敷居のうへにおかるヽを、さしよりて給はるなり、ゐのこの御いはひは、兩度三度共におなじ、ゐのこには女中の衣しやう、はいぜん、てながの外は、りんず、唐あやなどの小そでを、心次第に著用なり、
p.1350 御嚴重〈一番、二番、或三番亥日、〉 野瀬ノ折 丹波ノ野瀬ヨリ調進 御嚴重 道喜調進 同 衞士 つく〳〵 供御所ヨリ調進
p.1350 御げんぢやう〈戌の日の夜〉 白もち、赤もち、〈あづきの汁にて色付ル〉くろもち、〈くろごまにてあへる、あいかわらけに、高盛三ツ三方壹ツにのせ、それに御いきをかけ給ふ、〉 折敷合 へぎ板にて長サ七寸程、横四寸程、高サ三四寸、餅の
p.1351 内にあづきを入、なまづきあづきもち、米半分ほどはつぶにて有、是を箱の大サにきり、五ツかさね入、もちの間々へさヽの葉をしき、のせもちといふ、丹波國野瀬の里より上ル、 亥の日三ツあれば三度上ル、御所の仕丁とりに行也、野瀬もちを二ツに切、あいかわらけに入、三方にて御まへ出ル、此次につく〳〵出ル、 亥の日三ツ有時、初菊、〈しのぶの葉三度とも入〉中紅葉、下鴨脚、 夜御前〈江〉赤黒の餅十計、菊紅葉鴨脚の時葉を敷、もちをかわらけ五ツに盛ならべ、足打にのせ二膳出る、はしなし、此次につく〳〵御前よりすべる、當番の堂上方へ出る時、表使の女中きぬをかたにかけ、左のかたにかける、持まゐり直にかへり、伊豫の局へさがるなり、 宮々大臣以上上臈の御方へは、くろもち壹ツ、引合紙うすやう包にして、小かくにのせ、白紅の水ひきにて十文字にむすび被レ下、其外堂上方大奉書にて包、堂上の家來長橋のそうしや所へ、硯ぶた持參申請かへる、御内々相勤、地下の者には白もち壹ツ、杉原かみにて、うすやう包にして、人數ほどぶんこのふたに入被レ下、
p.1351 十月亥之日を玄猪とて、則内侍所等御拜有、備物は赤白黒之小餅を調へ、しのぶ、もみぢ、なんてん抔の物の葉を入、大奉書を蝶花形に折包み、内侍所へ被レ供し跡を、天子御頂戴有故に、縁を求て下へおろし、厄よけ病よけの頂き物と致す事也、此備の名を内侍所のおくま共、又は御玄猪共申なり、
p.1351 十月 亥日御獻 此御獻自二御臺所一三獻供レ之、又玄猪ノ御祝アリ、土佐衞士等ヨリ獻レ餅、是代々今日獻ジ來ル家也、又丹波國野瀬郷ヨリ折敷合獻レ之、是代々獻ジ來ルニ依テ也、凡玄猪ノ爲二御祝一、親王、攝家、清華、諸家中ニ賜二御餅一也、長橋於二奏者所一以二使者一受レ之也、但外様ノ面々如レ此、近習伺候ノ面々ハ、於二御前一賜レ之也、又此餅ノ色、位階ニヨツテ替リアリ、五位ハ赤一ツ白一ツ也、四品以上ハ黒一、白一也、是ヲ大奉書紙ニ包、内ニ紅葉、銀杏、垣衣ヲ入テ包レ之賜也、
p.1351 斯月亥日 禁裏賜二赤白黒小團餅於群臣一、謂二之御玄猪一、或稱二嚴重一、又謂二嚴祥一、女中御下
p.1352 頭伊豫局調二進擣レ餅之木臼并木杵一、今日舂レ之謂二幸著一、倭俗得レ幸謂二幸著福著一、幸著之著與二擣レ餅之擣一倭語相同、故相混舂二斯餅一稱二祥著一、其舂レ之人敷二裳於臼下一、舂レ之時有下所二口誦一之歌上、凡祝二今日一者、猪性多産レ子、故亥月亥日祝レ之、而祈二子孫繁榮一者也、有二女子一者特祝レ之、此月三旬之間、亥日有レ三則始用二小團餅、并鴨脚、忍草一、第二箇度用二小團餅、并菊花、忍草一、第三箇度用二小團餅、并楓葉、忍草一、又餅有二各色一、所レ賜二典侍方一者、用二黒色餅一、内侍方用二白色餅一、其以下用二赤色餅一所レ賜二諸家一者又有二其差一也、團餅并草葉、相共以二白紙一裹レ之、以二黒白水引一結レ之、載二小倍木一、又別鴨脚葉一枚記下所二頒賜一之諸家交名上、而挿二所レ結之水引間一、始レ自二女中一到二諸家一各拜二戴之一、
p.1352 十月亥日、朝廷御嚴重に、供御所より舂形を調進す、これをツクツクと稱す、
神無月しぐれの雨のあしごとにわがおもふ事かなへつく〳〵、此歌を誦し給ふとかや、是もまた民のわざをしろしめすありさまなるべし、
p.1352 御玄猪餅調貢〈又御嚴重、玄猪餅、能勢餅ともいふ、能勢郡木代村切畑村より、毎歳十月に調貢し奉る、上亥日木代五戸より貢す、中亥日切畑八戸より貢す、若下亥日ある年は切畑八戸の内四戸より貢す、むかしは村長門大夫より調貢し奉る、元弘、建武、康安、應永年間の國宣あり、◯中略〉 能勢餅製造〈當家の四壁に齋竹を立て、家宅を清め新菰を布、燧して先赤小豆を能煮て餅米を白精、甑にて蒸、赤小豆に交て舂粘す、事數十返也、製造の役人はみな〳〵袴を著し、覆面して餈となす、其色薄紅なり、これ豕の肉を表したるとぞ、長さ六寸五分、幅四寸、深サ貳寸の筐に入、赤小豆の煮汁を上に引、其上に栗を切て、これを六ツ計程よく並べ置、又其上に熊笹の葉二枚を覆ひ、此如く幾重ねも重ね、都て年々少々の増減あれども、凡貳百合計也、筐の數は、例年御所より仰出さる也、これを唐櫃に藏め、錠に封印をつけ、注連を張、白幣を指、御用の御會符毎年頂戴してこれを立、淨衣を著する者荷ひ、壹荷に貳人宛、都て三荷、宰領の役人帶刀にて守護し、亥日前々日の夜半に里を出、山路嶮しき道を御紋の挑灯照らし、丹州龜山の驛より、公役の人足にて、例年の定刻亥日の前日未の刻、禁裏へ參著し奉る、其時御料理御酒を賜ひ、下行として米三十俵拜賜とぞ聞へし、〉
p.1352 一能勢餅の事、古京都將軍の御代、毎年八幡の善法寺より、十月亥の日ごとに、能勢餅を獻上しける由、年中恒例記、殿中申次記等にみえたり、此餅今に絶ず禁裏へ獻上する也、攝津の國能勢郡木代村は、大阪の天滿と云所より、七里北の方なり、其村に數代居住して、其名
p.1353 を門大夫と名のる者あり、毎年十月亥の子の餅を禁裏へ奉る、不淨を禁じて別火にて餅をつく也、赤小豆をつき交へたる餅也、幅四寸、長さ六寸五分、深さ二寸の筥へ入て餅の形を作るなり、上に栗を五ツ五角において蓋をおほふ也、亥の日三ツあれば、初の亥の日百筥、中の亥、終の亥の日は年により増減ありといへども、八九十におよびて百に及ばず、初の亥には門大夫自身に獻ず、後の亥の日には、門大夫が親類五人の内宰領して獻ず、京都迄傳馬を給る也、此由緒にて居屋敷、除地、諸役御免也、其初りは凡千年計にも及ぶといへり、古善法寺の寺領などにてありし故なるべし、〈當時は禁裏へ獻じたる内を分て、關東の將軍家へも參らせらるヽとぞ、又米の價一石に付五十目わづかに及ばざれば、餅一筥のあたひ二匁五分づつ、一石に付五十目の時は、餅一筥のあたひ三匁づヽ、白銀を以て、禁裏より被レ下とぞ、八九十年以前、兩年獻上怠りし事有しに、主上御惱の事有しかば、又本のごとく獻ずべきよし、仰付られて、今に絶ず獻上するよし、攝津の國の事書たる書にみえたり、〉
p.1353 御玄猪 細川家の茶道、京都の御内縁につきてのぼりし比、近衞左大臣〈基熙公〉御茶にめして、御手づから御菓子を下し給へり、碁石形して色々に染たる餅也、偖仰せ下さるヽやうは、此餅はきのふ御玄猪なりし宸宴供拜のあまりなり、いたヾきおさむべきにこそ、〈◯中略〉爰に丹波ののせの郡久路の庄より、御玄猪〈餅の名也〉備へ奉る事、内藏寮より是を行ふ也、昔をしのぶべき御心ばへとかや、〈◯下略〉
p.1353 臨時供御〈内、院、宮儀、◯中略〉 十月豕子 餅一折敷〈角〉五種〈白、赤、黄、栗、胡麻、〉 菓子一折敷八種、各用二角小外居一、〈本立掻敷〉居二色々粉一折敷一、〈角小折敷也〉入二小外居一、〈掻敷〉臼杵一具、〈居二折敷一〉已上内々御沙汰歟、
p.1353 十五日七種粥 御記云、寛平二年二月卅日丙戌、仰レ善曰、〈◯中略〉十月初亥餅等、俗間行來以爲二歳事一、自今以後毎色辨調、宜二供奉一之、
p.1353 應永二十四年十月五日、今夜亥子也、三位以下候、 十七日、今夜亥子也、 廿九日、亥子也、
p.1353 文明十二年十月五日辛亥、今日亥子也、禁裏御まいり切事、元は以二雜色一於二勾當局一申出也、
p.1354 歸路入レ夜、當時難儀間、兼而都護申出之、翌日令二頂戴一了、
文龜元年十月七日壬子、去夜内裏豚之嚴重兼日申來、黄門今日一裹〈此内兩人分小餅二〉到來令二頂戴一了、
p.1354 永正十六年十月二日、〈◯癸亥〉入レ夜參内、御亥子御盃如レ恒、親王御不參、仍於二御妻御所一、各令レ頂二戴御嚴重一了、 十四日、〈◯乙亥〉入レ夜參内、御亥子御盃如レ常、 廿六日、〈◯丁亥〉入レ夜亥子之御禮如レ例、今朝亥御樂不參候、
p.1354 慶長三年十月七日、たんばののせこヽろみに、長はしよりとりよせ候て、十二がうまいる、 十一日、御いのこにて、いつものごとく御げんじやう申いだしあり、のせ久しくまいり候はぬとて、たんばへ尋ね候へば、こしらへこんよし申候て、長橋より百講申つけ候、けふ百講のほうし、のせのしやうを、しまずりうはくと申ぶし、ちぎやうにとりしとて、百かうしん上申、女御ひろう、こんゑのゑぢより御申あり、のせ、御所々々、女中、男たち、御配りあり、いのこてんのかちん、いつものごとく二折參る、藤宰相申つぎ、こよひのしそく、れいぜい、四辻少將也、御盃いつものごとくまいる、いまだ御心わろく候て、御盃も三ごん一どに重ねまゐらせ候て、男たちの御とをり中の口にてあり、長はし御げんじやうも御いだしあり、 八年十月四日、女御の御かたより、かき參る、のせとし〴〵のごとく、おほせつけられ候へば、ほりのけんもつむすこ、ちぎやう所にて、みやうがのためにて候まヽ、申つけ上申候はんよしにて、百五十かうしん上申、 五日、御いのこにて、御げんでうはう〴〵より參りていづる、夕かた御さが月三ごん參る、つく〳〵いつものごとく、ひとへぎぬにて參り、女中おとこたち御とをりあり、御げんでうくださるヽ、しやうぐんへ御げんでう、うすやうにつヽみて參る、 十七日、御ゐのこにて、御げんでうはう〴〵より申に參りていださる、夕かた御さか月いつものごとく、女中おとこたち御とをりあり、 廿九日、御いのこにて、御げんでうどもはう〴〵申に參る、
p.1355 慶長九年十月五日、御嚴重如レ例給、御所、女院御所、親王御方也、金千世ニハ親王御方ヨリ別ニ給、家中猪子申付候、 十七日、御嚴重戴、御三所ナリ、此方亥子モ祝、家中マデナリ、 廿九日、御番ハ時直勤、御嚴重、御三御所ヨリ戴候如レ例、家中ノ祝、又々同、
p.1355 文化七年十月六日丁亥、御玄猪禁中計被レ出申出之儀如二例年一、 十八日己亥、御玄猪申出如レ例、今日仙洞東宮被レ出レ自二三御所一令二拜領一、尤如二昨年一、東宮者未刻後申出也、秉燭前相濟罷歸也、佐々木左門麻上下著用相勤也、〈三御所共、紅葉しのぶ也、尤白餅、〉 三十日辛亥、御玄猪申出、辰刻以レ使附二長橋奏者所一申込、午半刻更令二申出一、如レ例給レ之、尤禁中計也、
p.1355 御亥ノ子諸家出仕様體之事
一御對面所へ御出座候て、則申次御前へ參、面々と申入候て、則三職以下御相伴衆之大名、一列に御前〈江〉被レ參著座候て、御膳參り候、同二ノ御膳も參る、左様ニ候て、三職以下一人ヅヽ直ニ御給候て、直に退出なり、次ニ國持の外様、同打つヾきて被レ參、如レ此之後二ノ御膳をあげ被レ申候て、御とほりニ置申て、常の外様一人ヅヽ被レ參候て、則御ぜんの御なりぎりを給て、頂戴候て退出なり、如レ此ありて御とをりに置被レ申たる御膳を、かげへ取申され候也、
一如レ此次第ありて、別の御膳を持參候て、御前に置被レ申時、御供衆御部屋衆申次已下被レ參候て、直に被レ下レ之候也、
一各參すみて公家と申入て、公家衆一人ヅヽ御參候て、直ニ被レ給候也、
一傳奏御事は、公家達の中ニ被レ參候也、
一禁裏様より參らせらるヽ御嚴重は、傳奏公家中にて被レ參時、被二持參一申候也、如レ此之段、もと〳〵よりの御様體也、然に惠林院殿様〈◯足利義稙〉御代禁裏様御嚴重を、一番に御頂戴ありたき由上意にて、面々よりも前に、傳奏と申入て被レ參候也、其分至二于今一無二相違一也、p.1356 一御膳は以上三膳參り候也、御配膳は如レ常御供衆勤役也、
右趣者貞記録在レ之〈◯中略〉
一御亥子次第之事〈季遠卿ノ御筆なり、〈歌ニ〉神無月時雨のあめのあしごとにわがおもふことをかなへとぞつく つく〳〵ノ歌〉
如レ常御對面所へ被レ成二御出一、則申次面々と申入、三職を始て、御相伴衆之大名一列ニ御前へ祗候候て、二膳まいり候て、御相伴衆次第ニ頂戴候て退出候、其次國持之衆、此内國持ならねども、國持に准じて、外様も少々在レ之、被レ參候て後、二膳まいり候、内一ぜん御とをりへ被レ出候て、如レ常に外様被レ參候て、此一膳は則あけ申て、又別ニ一膳御前へまいり候て、御供衆申次番頭已下節朔衆、醫師〈上池院又清も參候歟〉參り候て、其後公家と申入て、公家被レ參候、又御部屋衆は御供衆と申次の間に被レ參、御供衆御部屋衆申次と次第在レ之、
一御亥子の事、古記録の上にては難レ致二分別一間、御佐五御局〈并〉春日殿へ尋申候處、懇ニ注給之趣寫二置之一、同御兩御局の文在レ之、
御亥子の御祝之様體之事
一一番ニ三ツ之御盃參候
一二番ニくろき赤白三色の御嚴重、かくの折敷につませ候て、三ならび、御四方にすはりて參候、又同かくのおしきに、黄なると青きと二ならびて、御四方ニすはりて參候、
一三番ニつく〳〵御四方ニすはりて、なかぼそは御はしのすはり候ごとくに、御まへにをかれ候、何も一度にまいり候て、御祝の様體、常のごとく御座候て、やがて御てうし參候、三の御盃は、女中衆ばかり御いたヾき候、御げんでうの事は、御手づからみな〳〵に下され候、
一四番目ニのし四方にすはりて參候、さて御てうし參候、
一つく〳〵の上にをかれ候五色のこは、くろきをなかにをかれ候、p.1357 一つく〳〵は御ひと 御所様ばかり參候
つく〳〵の上ニをかれ候 〈御四方の上ニすはり候、三ツすはり候を、まづまいり候て、のちに二すはり候が參候、〉p.1357 黄、赤、黒、青、白
p.1357 白、黒、赤
p.1357 黄、青
p.1357 一かくのおしきニ、しのぶ菊をかひしきニして、御げんでう十七八廿ばかりほどつみて、うつくしききく、しのぶにてかざり候、
一つく〳〵には、くもはくのやうにゑどり候て、きくしのぶなど繪にかきて、金はく白はくにて、うつくしきゑどり候、何も五色にさいしき候、
一なかほうも、つく〳〵のごとく、時々の繪をかヽれ候、一番の亥にはきく、二番は紅葉、三番はいちやうにて、何もうつくしく色どり候、
一御げんでうのつヽみ紙には、きくしのぶを、ちうでい、しろでいにて、とき〴〵の繪をかヽれ候、從二永正十三丙子一至二同十七庚辰歳一記録事〈◯中略〉
十月三日 一公家、大名、外様、御供衆、申次以下出仕、 仍御成切頂二戴之一、如二例年一之、 一能勢餅卅合、〈例年進二上之〉善法寺、 一初鱈三、武田大膳大夫、 一鮭二尺、大草三郞左衞門尉、
十五日〈辻ノ坊八瀬童子ハ、亥ノ子三ツ有之時は、中ノ亥ノ子進之、〉 一柿餅三籠、〈例年進二上之一〉宇治辻ノ坊、 一餅一籠、栗一籠、〈例年進二上之一、御太刀被レ下之、〉八瀬童子、 一能勢餅卅合、〈例年進二上之一〉善法寺、 一公家、大名、外様、御供衆、申次已下出仕、 仍御成切頂二戴之一如レ前、 一柿餅二籠、〈例年進二上之一〉宇治報恩院、
廿七日 一能勢餅卅合、〈例年進二上之一〉善法寺、 一鮭十尺、〈例年進二上之一〉細川右馬頭、 一公家、大名、外様、御供衆、p.1358 申次已下出仕、 仍御成切頂二戴之一如レ前、
p.1358 殿中從二正月一十二月迄御對面御祝已下之事
一亥の日暮ておもてにて御祝參、其様ちいさき餅五色なるを、角の折敷につみて、さきに五色の粉すはり候、又前の如くの餅を二三百、御四方につみたるがまいる、さて面々一人づヽ御參候へば、其おほき餅を一ツ御取候て、そと御口にあてられてまいらせられ候、御たまはり候て、御頂戴候て、御まいり候、面々過て、其おほき餅を、御對面所の御さいのきはに、御配膳の人御をき候、其を外様衆一人づヽ被レ出候て、一づヽとられ候て頂戴候、外様衆過候ては、此御膳をあげられ候、さて又餅つみたる膳參候、前のごとく御取候て、御供衆、御部屋衆、申次、攝津、二階堂、小笠原直にたまはられ候て、さて公家の御かた〴〵御出候、
一餅をたまはられ候て、頂戴候てくひ候が能候由、貞宗申され候つる、懷中したるがよきといへり、又わろしとも被レ仰候、人によるべし、
一禁裏様御源猪のつヽみ紙を、一番に傳奏御持參にて、ひろげて被レ參候へば御頂戴候、其次に傳奏御給候、
一國々又御不參候大名、國持衆は、御源猪を申出され候、女中より御つヽみ候て御出し候、急度したる方へは、下繪のつヽみ紙につヽみて、その上を杉原にてつヽみ候て御出候、中臈の御役なり、大方の衆へは、きりはくの御つヽみ紙、其外は引合也、つヽみ様あり、觀世大夫には、下繪のつつみ紙にて候、申次遣之、
p.1358 十月十日、のせ善法寺、當月亥日ごとに進二上之一、御臺様へも參也、 今月亥日ごとに御嚴重各拜二領之一、公家、大名、外様衆、御供衆、御部屋衆、申次衆、番頭、節朔衆、走衆、上池院等也、 亥日次第事、御對面所に御出座の面(ミキリ)、禁裏様御嚴重を傳奏持參、則御頂戴之次、申次面々と申入て、三職はじ
p.1359 めて御相伴衆は、大名一列に御前へ被レ參候て、御亥子の餅すはり御膳二膳參候て、御相伴衆次第頂戴ありて被レ參也、其次國持衆、此外正月一日數御盃を頂戴之人數被レ參候て、後二膳參候内、一膳御とふりへ被レ出候て、常外様衆被レ參候て、此御膳をばあげられ候て、又別に一膳參候て御供衆、申次、番頭以下、節朔衆、走衆、御藥師上池院迄參候て、其次公家と申入て、公家官位次第に被レ參也、御部屋衆は御供衆後に被レ參候哉、是は伊勢肥前守盛富説也云々、 昔は禁裏様御嚴重は、公家衆被レ參候時、傳奏持參候て御頂戴也、近年は先一ばんに御頂戴と也、 御嚴重包様事、三色に在レ之、一には繪、二には切箔、三には白紙也、先繪のつヽみ紙の事、角の折敷に物の葉を敷て、御嚴重を一すえて繪かきたる引合にて包、〈つヽみ様口傳在之〉其上を白引合にてうはづヽみあり、香包の様に包也、此うはづヽみに給人の名を書也、次切はくの事、假令繪書所に繪はなくて、切薄たるかはりばかり也、こしらへ様は繪に同、次に白紙事、假令繪書所之繪をもかヽず、切はくをもせず、白紙にて包也、白紙のには、うはづヽみと云事なし、うはづヽみなき間、名書もなき也、繪切薄のごとく、角に葉を敷、御成きり一すはりてつヽむまで也、 三職計常角にてはなくて、大角にすはる也、三職女中同前、又三職以下こと〴〵く上包に名書あり、但仁木にかぎりて名書無レ之、 御嚴重の下に敷く葉事、一番の亥には、しのぶと菊、〈花たるべし〉二番の亥には、しのぶと紅葉楓、三番の亥には、しのぶと鴨脚の葉を敷也、繪にも如レ此、一番にはしのぶと菊、二番にはしのぶと紅葉、三番にはしのぶと鴨脚を、泥白でいにて書也、又切薄も銀薄にてする也、 つヽみ紙以下用意事、中臈衆の役也、うはづヽみの名書は、上臈の役也云々、繪切箔などは、土佐調進上之、御成切は〈きんとんの様なる餅也〉御美女方より參、諸下行は亥子がけと云て、倉役を相懸、以二納錢一被レ仰二付之一、 番方へ御嚴重出事、杉原にて御嚴重を二十も卅もつヽみて、御四方をうちかへし、うらへ此五包を銘々に入て、五ケ番へ一膳づヽ出也、此つヽみ候事も、番頭へ渡事も、會所同朋之役也、これも菊、紅葉、鴨脚など、時々の物を敷べき也、又番
p.1360 頭義は、その番々の月行事へ渡也、 大名の被官衆へ御嚴重出様事、めい〳〵には無レ之、角に葉を敷て、御嚴重を十五も二十もひとつに入て、其上を白引合にてつヽみ、總中へ一つヽみ出也、つヽみやうは、まづ御嚴重を引合の中に置て、引合をうち合て、あとさきをしかへしたる計也、これを中臈衆調之、 禁裏伺候女中衆十人、繪上壹名書無レ之、但十人にかぎらず、御所々々様、轉法輪三條殿、 花山院殿 大名衆 同大名女中 松梅院 和泉守護 三條西殿 日野殿 八幡善法寺 右繪也、上包在レ之名書有レ之、 御紋候御供衆 同御供衆 兩傳奏 飛鳥井殿 萬里小路殿類 早輪院 そくりん院 かみ〴〵御部屋衆 攝津 以下評定衆 右切薄也、上包在レ之、名書有レ之、 右筆方法中醫者 在富卿 正實坊 河村中興〈伊勢被官〉 同朋御末同朋 土佐 伊勢同苗 佐々木七郞 右_紙也、上包名書無レ之、 仁木切箔うはづヽみ有レ之、名書無レ之、 名書の下に殿文字かくと、かヽさるとの事、武家にては御紋候大名、同御供衆、同外様衆、御部屋衆、殿文字有レ之、御紋候といへ共、番方衆 不レ及二沙汰一候、大名たりと云共、御紋の衆にあらざれば、殿文字無レ之、公家衆はこと〴〵く不レ殘殿文字有レ之、御所々々かみ〴〵皆殿文字有レ之也、
p.1360 一十月ゐのこの御成切之事 公方様御直ニ被レ下方へは、其分にて候、又御直に不レ被レ下方へは、御前之御成切過候て、五ケ番へ御なりきり四方へすはりて、一膳づヽ五ケ番へ被レ出之、五ケ番へ月行事あり、祗候請取之、番子にちやうだいさせ申候、又奉行衆には、公人奉行祗候仕候て請取申、是も各に頂戴させ申候也、毎年此分にて候也、御成切共申、又御嚴重共申也、
p.1360 殿中さま〴〵の事 一十月いのこの時、御まいり切とて、きんとんのやう成もち參候、それを直に面々其外人によりて御給候、又不參時諸國又御前にてえ給はぬ人の方へ、申次して申出され候、其つヽみ紙にけぢめ候、大名衆其外國大名きつとしたる方へは、下繪の紙に包まれ候、大方の人へは、切はくの紙につヽまれ候、すゑ〴〵は引合一かさねにつヽまれ候、つヽみ
p.1361 やう候、觀世大夫には大名のごとく、下繪の紙につヽまれ候、つヽみ候事、上臈の御使にて候、つヽみ紙のうへを、又杉原ひとかさねにて御包候て御出し候、申つぎとりつぎ候て、かたがたへまいられ候、
p.1361 一十月朔日御祝如レ例、亥子之御祝三度アル時ハ、三度ナガラ御祝有レ之、御成切管領ヨリハ以レ使可レ被レ下由被二申上一、其使ニ御對面、其以後御使被レ遣之、管領御成切直ニ請取有二頂戴一、御使ニ一獻、其後被レ出二太刀一、歸參シテ其由ヲ申上、自餘ノ外様ヘハ近付方々申出シテ被レ遣之、奉公中在郷之方々御亥子之御祝ニ、多分參上アル也、
一亥ノ子ノ餅之事、御祝亥ノ時也、白餅、赤豆餅、黒餅、衝重ニ積テ、胡麻ノ粉、小豆ノ粉、栗ノコ、フチダカニ紙ヲシキ、三種ノコヲ、三所ニヲキテ御前ニ置也、松ノ木ニテ、リウゴノセイニウスヲ作リテ、柳ノ木ニテキネヲ二本作、強飯ヲウスニ入、三種ノコヲカケテ、キネ二ヲヲシソロヘ、右ノ手ニトリテ、女ハイノチツクサイワイト、三キネツイテ食ベシ、オトコハイノチツクツカサト、三キネツキテ食ベシ、白強飯マイル也、
p.1361 寛永二十一申年十月八日
一今晩御玄猪ニ衆人登城之刻限之事、御近習之面々〈未刻より同下刻迄〉總番衆〈未下刻より申刻迄〉諸衆申刻より同下刻迄を可レ限、此外は如二例年一たるべき之旨被二仰出一之趣、彌可レ存二其旨一之由上意也云々、是例年は申刻以後より酉刻迄之間に、不レ殘登城付而、下乘之橋之邊、僕從一同に群集候而、騷動之故也云々、
p.1361 一十月初之亥日、御玄猪御祝、酉刻御長袴ニ而、御白書院〈江〉出御、松平左京大夫、松平攝津守、松平出雲守、井伊掃部頭、松平讃岐守、保科肥後守、松平刑部大輔、松平播磨守、藤堂和泉守、松平大和守、松平出羽守、松平下總守、此外酒井雅樂頭、吉良、大澤、老中侍從以上之高家衆、四品之御譜代衆、右何も官位之順に壹人充出座、自二御手一御餅頂戴、右之外御譜代衆、御詰衆同息、御番頭衆、
p.1362 御役人衆、布衣以上之面々、中奧衆貳百五六拾人餘、不レ殘壹人充自二御手一被レ下レ之、薄盤之餅出、御手〈江〉被レ爲レ附御下壇に置、新御番之組頭衆、御膳奉行初小役人御番衆寄合衆、三人五人充罷出頂戴、御同朋頂戴畢而入御被レ遊、
p.1362 十月朔日
一玄猪御規式夕七時出仕、熨斗目長袴、 御連枝方、溜詰、御譜代大名、諸御役人、大廣間席ニ而、藤堂和泉守、有馬玄蕃頭、松平出羽守、松平大和守、立花左近將監父子、柳之間ニ而、丹羽左京大夫、藤堂佐渡守、遠山美濃守父子、堀丹後守、片桐主膳正、
右御手自御餅頂二戴之一、畢而戌刻前退出、諸御門内外正月三日夕之通、〈〇中略〉
文化四丁卯年十月六日、亥之日之所、常憲院様〈〇徳川綱吉〉百回御忌御法事御取越、六日より於二上野一御執行有レ之候ニ付、中之亥之日、玄猪御規式有レ之候事、
p.1362 寶永六丑年十月二日 今晩玄猪御祝有レ之
御手自御餅頂戴之面々者、爲二御禮一明日中老中間部越前守〈江〉可レ被二相廻一候、
十月
p.1362 享保元申年九月
一玄猪御祝儀之節 御書院番頭三人 御小姓組番頭三人 林大學頭 大目付壹人 町奉行壹人 〈御黒書院御勝手ニ而御目見之面々、布衣以上之御役人、壹役之内より壹人ヅヽ、〉 御旗奉行壹人 百人組之頭壹人 御鑓奉行壹人 御持弓頭壹人 御持筒頭壹人 火消役壹人 中奧御小姓壹人 御用(㆒位様)人壹人 御用(月光院様)人壹人 〈三千石以上寄合之内、諸大夫布衣之無レ構壹人、但壹人之外は不レ及二出仕一、〉 半井驢葊、今大路道三、此内壹人、 法印之醫師壹人 法眼之醫師壹人 林七三郞、林百助、此内壹人、 總御弓頭壹人 總御鐵砲頭壹人 御目付壹人 御使番壹人 御書院番組頭壹人 御小姓組與頭一人 御鐵砲方壹人 御(西丸)裏p.1363 御門番之頭一人 御徒頭壹人 小十人頭壹人 御船手壹人 板橋(下田奉行)五大夫 御用(瑞春院様)人壹人 御用(竹姫君様)人 御用(法心院殿)人 御用(蓮淨院殿)人 御用(壽光院殿)人 二丸御留守居一人 〈元方拂方〉御納戸頭之内一人 御腰物奉行一人 御勘定吟味役一人 奧御祐筆組頭 伊奈半左衞門 右之通頂戴に罷出候、其段向々〈江〉可レ被レ達候、布衣以下之分は、前々之通罷出事に候、
一三千石以下、五百石以上之寄合は、御祝之節不レ及二登城一候、是又可レ被レ達候、
一御留守居嫡子、大御番頭嫡子も不レ及二罷出一候間、得二其意一、大御番頭〈江〉可レ被レ達候、御留守居〈江〉は、此方より相達候、尤相達候向には、〈大目付御目付〉可レ被レ談候、以上、
p.1363 公方家 玄猪の出御は、とび色の御小袖に、黒の御羽織なり、布衣以上、御自身被二下置一、
p.1363 上亥日 玄猪御祝儀、諸侯申中刻御登城、大手御門、并に櫻田御門にて、御笧を焚せらる、
p.1363 廿八番 左 玄猪
秋をおきて時こそあれと咲花の鏡はけふのもちいなりけり〈〇中略〉
玄猪は亥の子と稱せり、十月上の亥の日を用ひらる、障あれば後の亥を用ひらるヽこともあり、溜詰、譜代の大名、外様にも藤堂、立花、遠山、片桐の類、むかしより出仕せし家々のものは、皆熨斗目長袴著て城にのぼる、暮かヽる頃より、白書院におほく燈を點じ、兩御所上段に著御在、五色の餅ひ薄盆に盛て、菊の花を摘そへて御前にすヽむ、布衣より以上の輩には、御みづから是を賜ふ、次に大きなるひら臺ふたつに、餅あまた積重て、しきみのきはにおき、布衣以下の司、もろもろの番士同朋に至る迄、七人づヽ出て、臺にある餅を取てまかづ、此夜兩御所御のし目のしたに、紫の御衣を奉るとなん、是室町家などの、ふるき世のすがたなるべし、
p.1363 慶應三卯年三月廿三日 御祝儀事御廢止之件々
p.1364 河内守殿御渡 大目付〈江〇中略〉
玄猪〈〇中略〉右御祝儀御禮等御廢之事〈〇中略〉
右之趣向々〈江〉可二相觸一候
三月
p.1364 寛正六年十月朔日乙亥、御祝四御方分調進上之、亥子、 十三日丁亥、亥子御祝四御方分調進上之、
文明十三年十月十日辛亥、貴殿無二御出仕一、大内どのへ御方御所様、御なり切之事、藝阿方へ申之、土岐どのへ、同御なり切、兵庫殿より給之、大御所様、上様、御なり切は當年不レ出云々、 廿二日癸亥、御方御所様之御なり切、土岐殿への分、翌日兵庫殿被レ下之、御なり切事、大内殿、土岐どのへ御状あり、
p.1364 天文十年十月十一日〈御いのこ也〉能勢餅十合、善法寺殿より以二使者一給之、例年儀也、 十二日、夜前〈御いのこ〉御げんでう公方様〈并〉上様兩御所さま御分二つヽみ拜受之、今朝從二佐方一持遣給之也、〈使松平也〉 廿三日〈今夜御いのこ也〉
p.1364 民間歳節下 十月謂二之上無月一、玄日謂二之玄猪一、士庶作二糍糕一以相饋送、〈〇中略〉 初學記引二雜五行書一曰、十月亥日食レ餅、令二人無一レ病、〈政事要略曰、十月上亥内藏寮進レ餅、群忌隆集云、十月亥日食レ餅除二萬病一、〉 淵鑑類函曰、十月命二有司一祭二司寒、司中、司命、司人、司祿於國城西北一亥日祭レ之、 南齊書禮志曰、永明三年、有司奏、來年正月二十五日丁亥、可下祀二先農一即日輿駕親耕上、宋元嘉大明以來、並用二立春後亥日一、尚書令王儉以爲、亥日籍田、經記無レ文、通レ下詳議、國子助教桑惠度議、尋鄭玄以レ亥爲二吉辰一者、陽生二於子一、元起二於亥一、取三陽之元以爲二生物一、亥又爲レ水、十月所レ建、百穀頼レ茲沾潤畢熟也、 月令廣義曰、歳時記、荊楚十月一日食二燋糟一、或作二燋糖一、見杜詩一、峽人十月朔、以二蒸菓一爲二節物一、楚俗是日裹蒸京飩充二節物一、南粤志、閩中是日作二糯糍或京飩一、以祀レ祖
p.1365 告レ冬、
p.1365 十月亥日 三ツあれば、中祝、
p.1365 上亥日 玄猪御祝儀、〈〇中略〉貴賤餅を製し時食とす、〈武家にては公の例にならひて、白赤の餅を家臣に給るなり、町家にては、牡丹餅等製す、又中亥をも祝ふ、〉
p.1365 天元元年十月初の亥の日、右大臣の女御のひをけどもに、もちゐくだものもりて、うちの女房どもにつかはす次でに、大臣にもひをけ一つ奉らせ給ふ、銀にゐのこ、かめのかたを作りて、すゑさせ給へるに、くはヽれる歌、
わたつ海のうきたる島をおふよりはうごきなき世をいたヾけや龜
p.1365 同法印、〈〇泰覺、中略、〉ゐのこのもちをよめりける、
なによりも心にぞつくゐのこもちびんぐうすなる物とおもへば
p.1365 亥子御餅事〈毎亥日勤仕之料物別三石〉 度別六外居〈寸法方一尺深八寸〉 餅二外居〈寸法方弘一寸、水永丸長、〉 栗二外居 柿二外居 已上外居加レ之、上品紙八枚、〈二枚重盛之〉 御強飯一合〈例折櫃〉 五種 胡麻 大角豆 大豆 小豆 栗 深草小春日坏立紙盛之、居二例折櫃一、 件事秉燭、所課下家司調進、御臺盤所料米及別三石、年預申二成下文一副二廻文一取二所課下家司一奉二申執行一、家司之所課下家司戞大酌別也、停二止濫雜一、女致二清淨一勤之、
p.1365 應仁二年十月廿六日、廖侍者持二餅二片一來、俗所レ謂亥子也、去年在二西山一時、宗聯西堂來話次曰、太平御覽曰、十月上亥喫二髓餅一、髓字何義、此方亥子亦有レ故也、今年今月有二三亥日一、昨日下亥也、此方不三必限二上亥一耳云々、
p.1365 慶長十年十月十日辛亥、四條冷等ヨリ亥ノ子給了、 廿二日癸亥、冷四等ヘ亥ノコモタセ遣了、此方祝詞如レ例了、寶壽院殿ヘ亥ノコモタセ進了、
p.1366 玄猪御祝儀の事
十年詰御歸國〈〇徳川頼宣〉の翌年之十月、玄猪之御祝儀、末々迄御手づから餅を取て被レ下けるニ、其夜夥敷人數なり、御仕廻被レ成、奧へ爲レ入候時、三浦長門守爲時、佐野良庵御供して申けるハ、今夜ハさてさて大勢ニ而御退屈可レ被レ成と、第一御氣色ニ障り可レ申候と、乍レ憚氣遣仕候と申上ル、御意ニハ、侍共ハ此上また五増倍多ても退屈ハせぬ也、大將者人數ニハ飽ぬものなりと被レ仰けると也、
p.1366 享保九年十月十七日、今宵御玄猪御祝儀、