p.0249 物合トハ、汎ク事物ニ就キテ左右ヲ對比シ、優劣ヲ判シ、輸贏ヲ決スルヲ云フ、故ニ其事物ハ一ナラズ、動物ニハ、鬬鷄、虫合ノ如キアリ、植物ニハ、鬬草、前栽合、根合ノ如キアリ、器物ニハ扇合、貝合ノ如キアリ、文書ニハ物語合ノ如キアリ、多クハ上流ノ娯樂ニ供スルニ過ギズ、其盛ナルモノニハ、左右ニ各々頭アリ、念人アリ、籌刺アリ、奏樂アルコト、相撲ノ節等ニ同ジク、又歌ヲ詠ジテ之ヲ其物ニ加フルアリ
此ニ列擧セル物合ノ外ニ、鬬牛鬬犬アリ、動物部ニ見エ、競馬アリ、武技部ニ見エ、繪合、歌合アリ、文學部ニ見エ、琵琶合、今樣合アリ、樂舞部ニ見エタリ、
p.0249 御いかは、霜月のついたちの日、れいの人々のしたてゝのぼりつどひたる、御前の有さま、繪にかきたる、物あはせの所にぞ、いとようにて侍し
p.0249 うれしき物 物あはせ何くれといどむ事にかちたる、いかでかうれしからざらん、
p.0249 一物合 すべて物合は多の人をあつめて、左方右方と二わけにして、右と左と相つがひて、雙方の物を合て、判者あうて其勝負を判斷する也、雙方同位にて勝負なきを持と云、〈持の字をヂとよむ〉本歌合より起るなるべし、詩合にもあり、たき物合、香合、〈香はキヤラの事也〉草合は草花を合する也、貝合〈貝おほひの事にはあらず〉と云は、種々の貝がらを合する也、根合と云は菖蒲の根を合する也、根の 長きを勝とす、繪合は繪にて物を合する也、古は琵琶合もありし、古く名あるびはを合せし也、すべて何を合する、何は合せずと定りもなし、時によりて何をも合する遊び也、草合、貝合、根合の類は、各歌をよみて其物にそゆる也、其歌によせ作り物をすはまなどの臺にして、その臺に草にても貝にても根にてもすべて出す也、其歌に勝負あり、又草子合は古き物語の草子を合す也、又扇合もあり、鴨合もあり、皆古代の遊び事也、勝負の舞樂ある事もあり、花奢風流をいとなみあらそひ、其料に多くの財をついやせり、尤婦女の悦ぶ事也、
p.0250 鬪雞 玉燭寶典云、寒食之節、城市多爲二鬪雞之戯一、〈鬪雞此間云、止利阿波世、〉
p.0250 原書作三此節城市尤多二鬪鷄鬪卵之戯一、按、 楚歲時記云、去二冬節一一百五日、卽有二疾風甚雨一、謂二之寒食一、禁レ火三日、造二 大麥粥一、鬪レ雞鏤二雞子一鬪二雞子一、是寒食之節、鬪雞鬪卵並有レ之、源君引證二鬪鷄一、故節二鬪卵二字一也、
p.0250 鬪鷄〈トリアハセ〉
p.0250 鬪鷄(トリアハセ)
p.0250 鷄合と申侍る事は、何のゆへにて侍るぞや、
答、もろこしの事にや、明皇〈○唐〉と申御門、たはぶれに鷄を鬪はしめ給ひしに、ほどなく位につき給ひしより、小兒五百人をえらみ、治鷄坊といふ所をたてゝ、鷄をかはせられしとかや、またかの明皇は乙酉のとし生れ給ひしゆへ、鬪鷄をこのみ給ひしよし、東城老子傳と申ものにてみ侍りし、
p.0250 一ニハトリヲアハセ、鷹ヲアハスニハ合ノ字ヲ用ル歟、トリアハセ、草アハセニハ鬪鷄、鬪草トカク、〈○下略〉
p.0250 一鳥
幼主時、小鳥合幷鷄鬪常事也、子細無二定樣一、又遣二馬部吉上一取二小家小鳥鷄一流例也、如レ此興遊、幼主御時 事歟、
p.0251 一出納
候二御壺一體事無二先例一、堀川院御時、如二鳥鬪一被二召連一、猶不二甘心一事也、
一小舍人
如二出納一如二鷄鬪參事一、彼御時例ナレドモ不二甘心一、
p.0251 三日、あさ御盃參ル、朔日におなじ、鬪鷄あり、兼日極﨟殿上人のかぎり觸催して、各にはとりを進上ス、牛かひ兩人參りて鷄を合す、高やり戸にて此事あり、あさがれひゟ御覽あり、
p.0251 三日、〈○中略〉鬪鷄ノ事不レ知二指事一、禁秘抄に幼主時常の事なりと有、洞中にても童體宮々ある時ならば御沙汰あり、此外無二爲レ指事一、
p.0251 同日〈○三月三日〉鬪鷄
是今日鷄合也、天子出二御淸凉殿一有二天覽一、極﨟催レ之、但鬪鷄ハ四位五位ノ殿上人ヨリ三羽宛獻レ之、於二淸凉殿ノ南庭一鬪鷄アリ、但頭辨、頭中將ヨリ獻ズル鳥ヲ鬪鶏ノ始ニ出レ之也、又令二鬬鷄一事ハ御牛飼〈仙納丸彌一丸〉合レ之也、奉行ハ極﨟勤レ之也、
p.0251 七年八月、官者吉備弓削部虚空、取急還レ家、吉備下道臣前津屋、留二使虚空一、經レ月不レ肯三聽上二京都一、天皇遣二身毛君丈夫一召焉、虚空被レ召來言、前津屋以二小女一爲二天皇人一、以二大女一爲二己人一、競令二相鬬一、見二幼女勝一卽拔レ刀而殺、復以二小雄雞一呼爲二天皇鷄一、拔レ毛剪レ翼、以二大雄鷄一呼爲二己鷄一、著二鈴金距一、競令レ鬬レ之、見二禿鷄勝一亦拔レ刀而殺、天皇聞二是語一、遣二物部兵士三十人一、誅二殺前津屋幷族七十人一、
p.0251 傳二十五年〈○中略〉季郈之雞鬪、季氏介二其雞一、郈氏爲二之金距一、平氏怒、益二宮於郈氏一、且讓レ之、
p.0252 女人鞦韆
若夫鬪レ鷄而芥二其羽一、金二其距一、又鬪二蟋蟀一有レ場、盛レ之有レ器、餉レ之以二黃豆糜一、必大小相配、兩家審視數回、然後登レ場决二勝負一、其健而善鬪者、號二將軍一、或驍二大將軍一、死以二金棺一盛レ之、將軍以レ銀、瘞二之原得之所一、甚者或至レ有下破二其家産一者上、日本亦有二此等戯一、而未三嘗至二於如レ是之愚癡迷惑一、蓋日本人氣格高古、自無二此等童心兒習一焉耳、
p.0252 元慶六年二局廿八日辛丑、天皇於二弘徽殿前一覽二鬪鷄一、
p.0252 天慶元年三月四日、於二御前一有二鬪雞事一、十番爲レ限、
p.0252 寬和二年三月七日乙亥、東宮有二鬪雞事一、〈八十番〉
p.0252 寬弘三年になりぬ、〈○中略〉三月ばかり花山院には、五六宮をもてはやしきこえさせ給とて、とりあはせせさせ給てみせたてまつらせたまふ、おやはらの五のみや〈○昭登〉をば、いみじうあいしおぼし、むすめばらの六宮〈○淸仁〉をばことのほかにぞおぼされける、かゝる程に世の中の京わらはべ、かたりきゝてとり〴〵のゝしる、人の國までゆきて、いさかひのゝしりけり、かゝるいまめく事どもを、殿〈○藤原道長〉きこしめして、かいひそめて、おはしますこそよけれ、いでやとおぼしきゝ奉らせ給ふ程に、院のうちの有樣をきて給ふ事ども、いとおどろ〳〵しういみじ、その日に成ぬれば、左右の樂屋つくりて、さま〴〵の樂舞などとゝのへさせ給へり、とのゝ君たちおはすべう御せうそくあれば、みなまいり給、さるべき殿ばらなどもまいりたまふて、いまは事どもなりぬるきはに、このとりの左のしきりにまけ、右のみかつに、むげに物はらだゝしう心やましうおぼされて、たゞむつかりにむつからせ給へば、見きゝ給人々も、心のうちおかしうおぼしみ奉りたまひけり、左萬におぼえむつかりて、ことなる物のはへなくてそれにけり、いとこそおかしかりけれ、
p.0253 萬壽二年三月十七日己亥、内大臣家〈○藤原敎通〉有二鬪鷄遊一、
p.0253 寬治八年〈○嘉保元年〉正月廿八日庚子、早旦參内、於二殿上小庭一、御二覽鬪鷄一、數刻無二勝負一、各可レ謂二翹楚一之歟、 二月廿八日庚午、午後與二源中將一参内、於二殿上小庭一御二覽鬪鷄一、 三月十三日甲申、終日候二御前一、依二當番一供二朝夕膳一、終日有二鬪鷄興一、因幡守長實所レ獻黑鳥毛負了、頗雖二異物一、無二雄飛興一歟、
p.0253 永久五年五月廿九日、内裏有二鬪鷄鬪草一、
p.0253 保延元年三月三日丙子、女院有二鬪鷄事一、左方限合レ之、〈摸二臨時祭一方〉右頭經宗、依レ病不參之故也、
p.0253 久壽二年四月廿四日庚子、今日隆長具二鷄十羽一、參二宇治一令レ鬪之、
p.0253 保元三年二月十三日、於二弘徽殿壺一有二鬪鷄事一、月卿雲客爲二左右念人一、有二勝負舞一、
p.0253 承安二年五月二日、東山仙洞にて鷄合の事ありけり、公卿侍從僧徒、上下の北面の輩、つねに祗候のものども左右をわかたれ、左方頭内藏頭親信朝臣、右方頭右近中將定能朝臣也、前夜寢殿の巽にあたりて地臺一面ををく、五節造物の臺のごとし、欺冬をむすびてうへたり、其上に銀の賢木をうへて、葉枝に用レ之銀臺をすへたり、たかさ八尺ばかり也、色どりて藤花をむすびてかけたり、葉柯の南に玉の鷄籠をおく、其北に銀鷄を入てをく、かり屋の東の砌に第一間にあたりて、かざしの花臺をたてゝ勝負の美とす、其北に錦の圓座をしきて大鼓鉦鼓をたつ、かり屋の艮に盧橘樹をつくりてうへたり、同北妻には薔薇をつくりてうへたり、牡丹欵冬などをつくりてうへたり、左方の念人御前に參集す、右方念人は蓮花王院に集會しけり、をの〳〵皆參の後、列參して西南の門より入て、殿上に參著しけり、たゞし公卿の外はつかず、右方頭中將定能朝臣事具するよしを奏す、すなはち法皇〈○後白河〉出御ありて人をめす、權中辨經房朝臣おほせを承て、はやくはじむべきよしをおほす、其後卿相以下にしの中門の外にくだり立けり、先左方念人首座、次に右方念人西中門を入て參進のあひだ、まいり音聲あり、竹屋をつくりて黑木の屋 に擬して、春日まうでに准じけり、新源中納言拍子を取て、春日なる御室の山のあをやまのとうたふ、右中將定能朝臣篳篥をふく、右少將雅賢和琴を彈ず、府の隨人二人〈壺脛巾著二亂緖一〉和琴をかく、くだんの兩人助音しけり、又陪從信綱も同くつけけり、右兵衞佐基範笛をふく、念人中雅賢朝臣、基範朝臣、家保等、舞人の裝束をして參進、見る人嗟歎せずといふことなし、念人等右に著座の後、左右の頭をめす、左方伊豫守親信朝臣、右方右中將定能朝臣御前に參る、左右の鳥同時に持參すべきよしをおほす、すなはち兩方の鳥を持參して、南階の間のすのこにをく、一番左衞門督の鳥字無名丸、左少將盛賴朝臣持參す、右五條大納言の鳥字千與丸、右少將雅賢朝臣持參す、左右ともにうそをふく、其興なきにあらず、勝負いかやうにみゆるやうのよし、定能朝臣をもてたづね仰られければ、右のとり終頭理ありといへ共、中間に又左の鳥理を得たり、かつ又一番右かつ、をそれありとて、左右持にさだめられにけり、よて兩方かずをさす、左方のかずの判〈○かずの判恐算刺誤〉藏人右少辨親宗、銀鴨一羽とりて〈兼置二鳥屋内一〉參進して葉柯につく、次に雅賢朝臣まづ插冠の花をぬきて錦圓座につく、次鳥を取てしりぞきいる、盛賴朝臣おなじく鳥を取てしりぞき入、其後十二番有けり、左方勝四番、右方勝二番、持六番也、次左方樂器をたつ、次樂人參進して樂を奏す、次陵王、〈醍醐童也〉陵王の終頭に右方より定能朝臣をもて、如此の興遊に左右勝負舞を奏する事先例有、いかやうにぞんずべきやのよし奏しければ、用意の事等をの〳〵つとむべきのよしおほせられけり、次に納蘇利を奏す、右近將曹多好方、右近多成長等、つかうまつりけり、次に右方樂人散樂、北面下﨟等、にしきの地鋪を庭上に敷て舞臺に擬す、妓女二人甘洲をまふ、負方妓女舞奏する事いはれなき事なれども、用意のこと勤仕すべきよし、仰下さるゝ間奏しける也、源中納言鞨鞁をうちて、たかく唱歌有けり、此間盃をすゝむ、右方人座を立て退去して、中門廊の邊に徘徊しけり、次に左右歌女唱歌、舞妓なを興遊にたえず、公卿以下庭上にて亂舞有けり、一日の放宴たりといへども、さだめ て備二萬代之美談一、昬黑事をはつてをの〳〵退出、此事中御門左大臣殿の御たづねによりて、ぶぎやうにん經房朝臣かきてたてまつりける也、
p.0255 承安三年三月廿二日甲寅、或人云、明後日別當成親可二鷄合一云々、
p.0255 承安四年二月五日、行二幸法住寺殿一、〈上皇御所〉六七兩日御逗留、有二鬪鷄呪師猿樂等事一、
p.0255 へいせんじ御見物の事
辨慶ばかりまかり候はんとて、をひとつてひつかけてたゞひとり行けるが、とがしが城をみれば、三月三日の事なれば、かたはらにまり小弓のあそび、かたはらに鳥あわせ、又くはんげんさかもりに打みえて、酒にゑひたる所もあり、
p.0255 建久九年二月十九日、一日於二鳥羽殿一先競馬、次俄鳥合、〈取二聚近邊雞一合也〉左右分レ方云々、左方〈大納言〉負、仍爲二負態一渡二御久我一、事了、又還二御鳥羽一、又鳥合右方負、爲二其負態一、今日又御幸云々、無才貫首總不覺、鳴レ才貫首又現二尾籠一、木工勾勘不レ及二左右一、職事奉行總暗夜歟、可レ悲之世也、
p.0255 建永二年〈○承元元年〉三月三日戊寅、於二北御壺一有二鶏鬪會一、時房朝臣、親廣、朝光、義盛、遠元、景盛、常秀、常盛、義村、宗政等爲二其衆一云云、
p.0255 寬元五年〈○寶治元年〉三月三日丙辰、營中有二鬪鷄會一也、此間若狹前司等聊喧嘩、
p.0255 二十七日〈○建長元年二月〉は七社のほうへいなり、〈○中略〉三日の御烏あはせに、ことしは女房のも合せらるべしときゝしかば、わかき女房たち、心つくしてよきとりども尋られしに、宮内卿のすけどのは、爲敎の中將がはりまといふ鳥をいださんなどぞありし、萬里小路大納言〈○公基〉のまいらせられたるあかとりの、いしとさかあるかけ、いうもうつくしきをたまはりて、あきつぼねにほこらかしてをきたるを、もりありといふ六位が、そのとりきとまいらせよといふ、かまへてとりなどにあはせらるまじきよし、よく〳〵いひてまいらせつ、とばかりありて、かためは つぶれ、とさかよりちたり、おぬけなどして、見わするほどになりてかへりたり、おほかた思ふばかりなし、今はゆゝしき鳥ありとも、なにゝかはせん、たまはりの鳥なれば、きくもいみじからむとこそ思ひしになど、かへす〴〵こゝろうくて、辨内侍、
われぞまづねにたつばかりおぼえけるゆふつけ鳥のなれるすがたに、三日、〈○三月〉御鳥合なり、御所〈○後深草〉もひろ御所へいでさせおはします、冷泉大納言、〈○公相〉萬里の小路大納言、左衞門督、〈○藤原實藤〉三條中納言、〈公親〉頭中將、〈公保〉伊與中將、〈公忠〉すけやすの中將、藏人はのこりなし、はつゆきなるあかこくろなどいふ鳥ども、かねてよりふせごにつきて、をの〳〵あづかりて、丁子じやかうすりつけ、たきものなどして、いづれかにほひうつくしきとぞあらそひし、みすのうちより出されしかば、萬里小路の大納言たまはりてあはせられし、ゆゝしかりし君なり、ひよ〳〵より御所に御手ならさせおはしまして、かひたてられしいみじさばかりにてこそ侍れ、御とりがらはあやしげなれば、かたせんとて、それよりをとりたる鳥どもに合せられしもおかし、公忠公保がとりあはせしおり、伊與中將がとり、そらおどりするとて人々わらひしに、冷泉大納言、ひさかたのそらおどりこそおかしけれとのたまへば、公忠さこそといひたりし、おかしくて、辨内侍、
雲ゐとはなれさへしるや久かたのそらおどりする鳥にも有哉
p.0256 應永廿三年三月三日、桃花宴如レ例、但鷄鬪之儀被レ略、當所鷄不レ養、仍無レ之、 廿五年三月三日、早旦鷄鬪三番合之、當所鳥難レ得之間、纔五羽尋出了、
p.0256 永享五年三月三日、相二當上巳一、一段之佳節也、慶壽院殿依二三回之中一鷄鬪略レ之、 五月一日、召二集家僕等一打二下殘一以二鵝眼一令レ鬪二雌雄一尤乘レ興、
p.0256 嘉吉三年二月十三日己亥、藏人中務丞源定仲〈一﨟也〉送二御敎書於右兵衞佐成房一、來月三日鬪鷄三羽可二召進一之由也、可レ出二領狀請文一由仰含候、 來月三日可レ有二鬪鶏三羽一、可二召進一之狀、謹所レ請如レ件、
二月十三日
三月三日己未、禁裏鬪鷄三羽可二召進一之由、過日一﨟藏人中務丞源定仲相催、成房出二領狀請文一、今日可二尋進一也、殿上人少々進之、於二東庭一有二此事一云々、
p.0257 長享三年〈○延德元年〉二月廿一日庚戌、極﨟源富仲以レ狀云、來月三日鬪鷄事、諒闇中可レ爲二如何一哉、可レ尋レ予之由被二仰下一云々、先例不二覺悟一、近例永享無二所見一、停止可レ然歟、鬪鷄事根元幼年之御沙汰歟、長君之御時〈近代勿論〉不二打任一事歟、旁御無沙汰可レ然歟、但於下可レ有二御尋一歟之由上返答了、 廿二日辛亥、源富仲以二使者一鬪鷄事〈以二昨日一予申分〉伺申之處、勾當返事如レ此云々、迦二一見一返二遣之一、其返事分は尋レ予可レ定由被二仰下一候上者、重不レ可レ及二披露一之、罪々敷事停止可レ然分也、 三月三日辛酉、今日内裏鬪鷄停止、依二諒闇一也、於レ例者不二勘知一、准不レ依二例之有無一、停止可レ然之由、先日予所二計申一也、凡鬪鷄事、幼主儀也云々、近代長君之御時有二此事一、不二打任一計、
p.0257 明應七年三月三日己亥、禁中例年之鬪鷄召二進之一、雖レ知二鬪鷄之節一、何空浮蟻之、賞二桃花紅一笑二吾顏一耳、呵々、
p.0257 永正十四年三月三日、於二東庭一鬪鷄如レ常、御祝令二祗候一、
p.0257 天文二年二月三十日癸卯、來月三日鬪鶏催、廻文了、如レ此、
宿紙拂底之間、内々令レ申候也、
來月三日、鬪鶏三羽如二例年一可下令二持參一給上旨被レ仰候、可レ得二御意一候也、
二月廿九日 以緖
頭辨殿〈奉○以下十六人名略〉
三日丙午、今朝鬪鷄見物候、九番有レ之、予鳥は如二例年一從二野村一持來、被二參候一輩、頭中將、〈公叙朝臣〉予、橘以 緖等也、
p.0258 永祿八年三月三日、禁中御鳥合也、今日御鷹山より御歸、
p.0258 天正十年三月三日、鳥合祗候申也、禮者共有レ之、内物鈴、高橋鈴、衞士鈴、嵯峨すみくら二百疋、小阿彌二らさか月〈一〉二條御盃參候卜より御成、禁裏御盃參候、
p.0258 貞享元年十一月廿二日、町ゟ鷄合仕度之由、公義ゟ申來由申參、近年鷄合時花候也、鷄ニ色々ノ名ヲ付、一羽金五兩十兩、金二枚三枚ノ賣買也、鬪鷄時花候ヘバ、古來ゟ兵亂有レ之沙汰也、
p.0258 貞享三年三月三日、鬪鷄先於二東宮御前一被レ行、次於二禁掖一被レ修レ之、
p.0258 文化元年二月廿六日丙戌、午後參洞、謁二評定卿一、來月三日鬪鷄申沙汰、如例年一可二相伺一哉之旨申入處、當番唐橋前中納言承知、追付可レ被レ示間、暫可二相待一旨被レ示、後刻被レ招被二申渡一曰、例年之通可レ令二沙汰一旨被レ示、仍以二表使一可二相伺一哉尋申處、可レ爲二其通一被レ示レ之、
前黃門口上曰、鬪鷄之儀相伺候處、可レ有二出御御覽一間、如レ例可レ令二沙汰一、御裝束之儀も如レ例、隨二藏人申合一可二覺悟一旨被レ示也、愚按、如レ是ハ更以二表使一可二伺定一儀不レ及事也、與二禁中時儀一不レ同、然年々如レ此之上、更以二表使一相伺事故、於二今年一も先輩處置之通、卽招二出表使一申込左の通、
一以二表使一來月三日鬪雞如二例年一可レ令二沙汰一哉、相伺之旨兩上﨟局迄申込也、且又於伺之通被二仰下一者、如レ例料紙〈中奉書一帖〉筆墨〈一對一廷〉申出度、御文匣一講釋來月三日迄拜借申度旨、以レ便申含置也、暫時後御返事申出、鬪鷄の儀如レ例可レ令二沙汰一旨被二仰下一、則料紙筆墨御文匣等持出也、
一暇服帳拜借、〈以二非藏人一附二評定卿申出一〉候二殿上一人院司殿上人等令二吟味一了返上、
一右相濟未刻前退出〈目錄文匣持參入二料紙一持歸〉
一院司候二殿上一人可レ觸分十五人也、歸宅後早速折紙書認、以二靑侍一〈續上下也、下部持二文匣一從行、〉觸書左之通〈中奉書三ツ折、同〉 〈紙上包、外ニ次奉書四ツ折一紙添、同入二包紙中一、〉
追申午刻
可レ被レ獻候也
來三日鬪雞〈三羽〉
可下令二持參一給上之
旨
院御氣色所レ候也
〈二月廿六日俊矩〉
烏丸
頭辨殿
庭田中將殿
藪中將殿
東坊城
菅少納言殿
唐橋侍從殿
岩倉少將殿
倉橋
中務少輔殿
西洞院
肥後權守殿
石井
大膳權大夫殿
萬里小路
藏人右少辨殿
押小路
阿波權介殿
大原
備後權介殿
平松
安藝權守殿
橋本大夫殿
北小路
藏人主税助殿
追書、或上包書之兩説也、俊幹賴望皆書二上包一、予有二所存一書二同紙一如レ此、先考曾祖考遺風也、
鬪鷄被レ獻候節、以二小舍人童或雜色一可レ被レ獻候事、
六條少將 〈梅小路〉勘解由次官 〈藤谷〉大和權介 已上三人依二重服者一不レ觸レ之、其餘無二故障一、 尤輕服者無レ構觸レ之也 主税助一﨟故〈禁中〉申沙汰奉行也 依院司觸之間、兩御所獻上也、年々如レ此、
p.0260 鷄合圖 右之通也、納二拜借之御文匣一令二持參一、〈靑侍於二玄關一開レ匣入レ蓋差出也〉先持參第一頭辨家、其後任レ便巡路持廻、未半刻より秉燭前迄七軒相濟持歸、
烏丸〈留主出〉庭田〈留主出〉平松〈有奉〉東坊城〈留主出〉藪〈有奉〉大原〈有奉〉唐橋〈有奉〉
p.0262 三月三日鷄合に
にはとりの蹴爪も永き日あし哉
p.0262 鷄合
桃柳とりあはせみる節供哉 重信
鷄も角くむあしの蹴爪哉 如貞
p.0262 三月三日相坂邊にて、鷄合けるをみてよめる、 淡路守奈僧
鷄も相撲に似たり相坂の關のかち聲あぐる勢ひ
p.0262 永承六年三月廿四日、禁裏有二鷄合一、以レ木造レ之、以二造樣勝一爲レ勝、盡二其美一、 五月五日、禁裏有二根合二蓋雞合後宴也、
p.0262 一鳥
幼主時、小鳥合幷鷄鬪常事也、子細無二定樣二又遣二馬部吉上一取二小家小鳥鷄一流例也、如レ此興遊、幼主御時事歟、
p.0262 寬治五年九月六日、内裏小鳥合、
p.0262 寬治五年十月六日辛酉、今日有二殿上小鳥合事二去月上旬、自レ院被レ注下進可レ獻二小鳥一人々上、其後於二殿上一駒取方人、〈各六人〉然而依レ爲二御忌月一去月延引、今日被レ遂二此事一也、但密々事、上二南御格子一、書御座改二南面二殿下幷三位中將令レ候二御前一給、秉燭持二參鳥籠二左方、頭中將仲實朝臣、源中將國信朝臣、四位少將俊忠朝臣、源少將師隆、侍從定輔、右兵衞佐宗政、〈已上著二直衣一〉石方、新中將宗通朝臣、四位少將顯雅朝臣、少 將忠敎、因幡守長實、周防守經忠、侍從實隆、〈以上著二夏袍一〉十二人、人別就二小鳥籠一、或盡二風流一、或亦例籠、藏人六人、各三人相分、自餘侍召不レ分、居二置南弘庇一有二疑覽一、後朝被レ獻二覽院一、先予參二院幷殿下一、
p.0263 寬治五年十月六日、殿上有二小鳥合興一、
p.0263 寬治五年十月六日、殿上人所衆瀧口小舍人、左右をわかちて小鳥合の事有けり、公卿はまいられず、殿下三位中將ばかりぞさむらはれける、殿上人左方頭中將仲實朝臣、右方中將宗通朝臣以下、夏の袍どもに冬指貫をぞ著たりける、左勝て殿上にとまりて、朗詠今樣猿樂など有けり、右はみな逃ちりにけり、小鳥は後に院へ參らせられにけり、〈くはしくはべちの記に有〉
p.0263 安政四とせといふとし、神無づきのはじめにやありけむ、小鳥合すべきよしの仰ごとくだることありけり、まづおのれ〈○梅田三彦〉して、右の頭たるべく人々のすゝめらるゝに、初學のいかでかゝることせむと、ふたゝびみたびいなみしが、しひてすゝめらるゝももだしがたくて、その役とはなりぬ、まづわが方人は石川優、井口安行、仁科久迪、上松千年、門奈俊信、豐田勝豐、小笠原常樹、森部好謙なり、奉行には吉岡鶴群、宿老にてつとむ、籌さしの童は中根方樹、役送は福原行功、佐藤正廣などなり、左方は野村勝明、水上廣房、伊達忠正、川北愼信、赤堀保水、辻高文、三井正正、岩田則博、奉行は長井裁之、頭は吉岡鶴成、籌さしの童は浮穴爲經、役送は野志矩鎭、松本正直なり、おなじ霜月の末、こととゝのひしよし司につげたれば、極月はじめ四日に、まづからぶみまなびの館にて習禮あり、おなじ七日といふ日、大殿の御小書院といふにて、其作法みそなはし給ふべき仰下りければ、その日の辰の刻、人々御殿にまうのぼる、方人いづれも素襖、鶴群は布衣、籌さしの童、黃丹の水干、上下紅梅の小袖、童髮して紅ひの薄樣にてゆふ、柳の間といふを左右の局とす、午刻事とゝのひしよし奉行につげたれば、奉行司につぐ、やがて司して執行べきよし仰下る、そもそも御ましの裝束はすべてめぐりに簾かけ渡し、母屋の上段に君まし〳〵、西の庇かけてたれた る簾の中に、實成院尼公おはしまし、女房どもあまたかしづきたり、二の間のひさしの間には、國老土佐守忠央朝臣をはじめて、司々あまた並居たり、まづ判者本居豐穎、村田春野座につく、豐穎は南おもて、春野は北おもて、次に左の頭吉岡鶴成まづかずさしの地敷をとりてこの間にのべしく、次に左役送野志矩鎭洲濱をかきたつ、次におのれこなたの籌さしの地敷をとりて、おなじく二の間にしく、次に右役送福原行功おなじく洲濱を出す、次に左役送文臺を二の間の中ほど、西おもてにおく、こは黑柿もてつくる、其さまは永久四年正月内大臣家の大饗の時、辨少納言の前にありし机のさまをうつしたるなり、次に右の文臺は蘇芳也、こもおなじとき尊者のまへの机をうつしたるなり、次に左役送豐穎のまへに硯箱と料紙を置、右役送春野の前に硯箱料紙を置、次に鶴成おのれ文臺につく、まづ左籌さしの詞をよみあぐ、〈○中略〉歌合はありしこと、史にもしるし、つぎ〳〵さま〴〵の合もの行れしよしは、くさ〴〵の書どもにみえぬ、小鳥合は堀河院御門、寬治五年十月六日、殿上にてありしよし、中御門右府の記、爲房記をはじめ、あれこれのふみどもにみえたれど、いかなる業したりとも、くはしきさまつたはらざれば、今まねばんによしなし、こたびはたゞふるき書どもに、とりの事跡あるをえり出し、あるは今目のまへにみたるさまによりて、まうけ出たれば、ひがごとも多からむかし、そも〳〵建曆の御抄に、小鳥合は幼主の御時、常せらるゝことのよし記させ給へり、ひそかにかぞへ奉るに、寬治五年は堀河院御年十三の御時にあたれり、今我君御年十二の冬、かゝるわざ人々にせさせ給ふも、ふかきよしある神の御心ならひと、いと〳〵かしこうおぼゆ、堀河の御門は、末代の聖主におはしましゝこと、其世の書、あるはのちのにもあまたゑるしつたへたり、夫にかよひ給ふ我君が代にうまれいでゝ、かゝる御あそびにつかふまつるうれしさは、みじかき紙にいかでかのべつくさむ、たゞありし大かたをわすれぬまにとそのよさり筆とりてかつ〳〵しるし侍るは、右の方人にてこととりつかうま つりし梅田三彦、
p.0265 賀茂競馬幷深草祭、上下之見物、鶯鵯之鬪鳥可レ有二此時一歟、
p.0265 春村曰、此文に據て考ふるに、上卷に載する鴨合も、疑ふらくは鵯の寫誤なるべし、鴨字を鵯とかける本もあるうへに、鴨は飼鳥とせし例も見えねば、とにかくにおぼつかなし、
p.0265 承安三年三月廿二日甲寅、入レ夜參二女院御方一、近日事外有二御减一爲レ悦云々、先レ是中將定能朝臣來、來月院中可レ有二鴨合一〈○鴨合、一本作二鷄合一、〉云々、公卿殿上人北面分レ方、 五月二日、此日院中有二鴨合〈○鴨合、一本作二鵯合一、〉事一、公卿殿上人已下、北面〈上下〉僧入道等、左右念人其數繁多云々、左打二錦幄一、右作二黑木假屋一云々、各其風流盡レ善盡レ美、但右殊依レ有二禁制一、不レ用二金銀錦等之類一云々、然而甚優美也、摸二臨時祭舞人插頭花等云々、左乖二制法一盡二金銀一云々、凡此經營、其費不レ可二勝計一云々、左頭大納言重盛卿、右頭中納言國綱卿云々、左右念人之外餘人所レ不レ見云々、子細尋二參仕之人一可レ記二置之一縡希有也、 三日甲午、今日北面鴨合、〈○鴨合、一本作二鵯合一、〉内々事也、
p.0265 承安三年五月二日、於二上皇〈○六條〉御所一有二鴨合事一、近習月卿雲客及北面下﨟等分二左右一爲二念人一、縡起二兼日之儀一、爲二當時之壯觀一、有二勝負舞一、
p.0265 春村曰、右鴨字或は鵯に作れり、もし鵯に從ふべき歟、されど寬喜二年六月廿二日明月記に、一日比在二信成前相公宅一、翫二鴨鳥一云云といふ事も見ゆれば、ひたぶるにさも决めがたし、猶鵯合條にも云を見るべし、
p.0265 建曆二年七月十日、今日前大納言實輔卿於西坊城泉鳩合負態云々、 十二月十日、今日於二馬場殿一有二鳩合負態一、左金吾經營也、其風流只金銀錦繡、盡レ善盡レ美云々、
p.0265 承元二年九月廿七日、夜半許西方有レ火、望レ之煙甚細高、 朱雀門燒亡云々、末代滅亡、慟哭而有レ餘、依二所勞一久籠居、不レ出レ門、 廿八日、傳聞、常陸介朝俊〈生干朝澄卿末孫、只以二弓馬相撲一爲レ藝、殊官也、〉取二松明一昇レ門取レ鳩、 歸去之間、件火成二此災一、近年天子上皇皆好レ鳩給、長房卿保敎等本自養レ鳩、得レ時而馳走、登二奮塔鐘樓一求二取鳩一、此事遂以滅二社稷一、嗟乎悲哉、例幣大宮大路只有二灰燼之跡一、無二人家一、京洛之磨滅、尤可二奇驚事也、是又非二鳩一事一、只國家之衰微歟、
p.0266 鶯合(アセ)
p.0266 鶯合
p.0266 永享七年五月一日、早朝鶯合、一方不レ鳴無興也、 三日、朝鶯合、行豐朝臣、重賢持參、行豐朝臣鳥勝、
○按ズルニ、鶯會ノ事ハ、動物部鳥篇ニ載セタリ、
p.0266 鶉合
p.0266 八條院の宮と申けるをり、白河殿にてむしあはせられけるにかはりて、虫入てとう出しける物に、水に月のうつりたるよしをつくりて、其心をよみける、
行すゑの名にやながれん常よりも月すみ渡る白川の水
p.0266 弄二蜘蛛一語
土御門故二位泰邦卿かたられけるは、享保のはじめ、世に蠅とりぐもとかやいふ虫をもてあそぶ事あり、風流なるちいさき筒に入れて、蠅のいる所へとばせてとらしむ、一尺二尺など遠くとぶをもて最上とす、よくとぶ蜘は、あまたのこがねにかへてあらそひもとめ、蜘合をし、博奕に及ぶのあいだ、武家より制してやめしむとぞ、世にめづらしきもてあそびもありけるなり、
p.0266 鬪草 楚歲時記云、五月五日、有下鬪二百草一之戯上、〈鬪草、此間云、久佐阿波世、〉
p.0266 觀兒戯
齠齕七八歲、綺紈三四兒、弄レ塵復鬪レ草、盡日樂嬉嬉、堂上長年客、鬢間新有レ絲、一看二竹馬戯一、毎憶二童騃 時一、童騃饒二戯樂一、老大多二憂悲一、靜念彼奧レ此、不レ知誰是癡、
p.0267 鬪草〈クサアハセ〉
p.0267 鬪草〈クサアハセ〉
p.0267 芝(シ)〈クサアハセ〉
p.0267 雅遊
鬪草(クサアハセ)〈花だんすに百草をかくし持出て合せ、勝負をなす、五月五日百草を鬪すたはふれ、荊楚歲時記に委し、〉
p.0267 小朝拜
平家はさぬきの國八島のいそにおくりむかへて、年の始〈○嘉永三年〉なれ共、元日元三のぎしき事よろしからず、〈○中略〉花のあした月の夜、詩歌、くはんげん、まり、小弓、扇合、ゑ合せ、草づくし、虫づくし、さまざまけう有し事共思ひ出、かたりつゞけて、永き日をくらしかね給ふぞ哀なる、
p.0267 右近馬場殿上人種合語第卅五
今昔、後一條ノ院ノ天皇ノ御代ニ、殿上人藏人有ル限員ヲ盡シテ、方ヲ分テ種合セ爲ル事有ケリ、二人ノ頭ヲ左右ノ首トシテ書分チテケリ、其ノ頭ハ左ハ頭ノ弁藤原ノ重尹、右ハ頭ノ中將源ノ顯基ノ朝臣等也、此ク書分テ後ハ互ニ挑ムコト无レ限シ、日ヲ定メテ北野ノ右近ノ馬場ニシテ可レ有キ由ヲ契リツ、而ル間方人共各世ノ中ニ難レ有キ物ヲバ、諸宮諸院寺々國々京田舍ト无ク、心ヲ盡シ肝モ迷ハシテ、求メ騒ギ合タル事物ニ似ズ、殿上人藏人ノミニ非ズ、藏人所ノ衆出納小舍人ニ至ルマデ書分チタリケレバ、其レモ皆世々ノ敵ノ如ク行合リ、所々モ書分テ後ハ物ヲダニ不二云合一有ケル、何况ヤ殿上人藏人ハ兄弟得意ナル人ナレドモ、左右ニ別レニケレバ挑ム事只思ヒ可レ遣シ、此ク爲ル程ニ旣ニ其日ニ成タレバ、右近ノ馬場ノ大臣屋ニ各渡リヌ、殿上人ハ微妙キ襴(ナホシ)姿ニテ、車ニ乘リ列テ、集會ノ所ヨリ渡リヌ、其ノ集會ノ所ヲバ兼テヨリ定メタリケレバ、各宵ニ 集ニケリ、其ノ所ヨリ大臣屋へ渡ル有樣不レ可二云盡ス一、大臣屋ノ前ニ埓ヨリ東ニ南北向樣ニ錦ノ平屋ヲ卯酉ニ長ク立テ、同錦ノ幔ヲ引廻シテ、其ノ内ニ種合セノ物共ヲバ、悉ク取置タリ、出納小舍人ナド平張ノ内ニテ皆此レヲ捧ツ、殿上人ハ大臣屋ノ中ノ間ヲ分テ、左ハ南、右ハ北ニ別レテ皆著並ヌ、藏人所ノ衆瀧口モ皆列レテ皆著並ヌ、藏人所ノ左右ニ居ヌ、埓ヨリ西ニハ其レモ南北ニ向樣ニ勝負ノ舞ノ料ニ錦ノ平張ヲ立テ、其ノ内ニ樂器ヲ儲ケ、舞人樂人等各居タリ、其喬々ニハ京中ノ上中下見物ニ市ヲ成タリ、女車立不レ敢ス所无シ、〈○中略〉而ル間旣ニ其ノ時ニ成ヌレバ、大臣屋ノ前ニシテ次第ニ座ヲ敷テ、口聞キ吻有テ物可レ咲ク云フ者ヲ各儲テ、其座ニ向樣ニ居テ、員ヲ可レ差物ノ風流財ヲ盡シテ金銀ヲ以テ莊レリ、亦員差座ニ居ヌレバ、旣ニ合スルニ互ニ勝負アル間、言ヲ盡シ論ズルコト共多カリ、
○按ズルニ、種ハクサノ借字、種合ハ卽チクサアハセナリ、敎訓抄ニ今昔物語ノ文ヲ引キテ、草合ニ作レリ、以テ證トスベシ、
p.0268 永承五年四月廿六日、麗景殿女御に繪合ありけり、彌生の十日あまりの比より其沙汰有けるは、〈○中略〉むかしよりきこゆる花合は、散てふるき根にかへりぬればにほひ戀し、草合は尋て本の所へ返しやれば名殘うるさし、
p.0268 永久五年五月廿九日、内裏有二鬪雞鬪草一、
p.0268 保延元年三月二日乙亥、女院有二種合事一、左方摸二五節所體一云々、
p.0268 久安六年四月十五日辛酉、午刻參内、上〈○近衞〉御二后廬一、有二鬪草一、 八月六日己酉、午刻參二朝餉一、卽渡二御皇后宮御方一、忽有二鬪草之興一、了還御、
p.0268 觀レ鬪二百草一簡二朋執一一首 滋貞主
三陽仲月風光暖、美少繁華春意奢、曉鏡照レ顏粧黛畢、相將戯逐覓二紅花一、紅花綠樹煙霞處、弱體行疲園 逕遐、芍藥花蘼蕪葉、隨レ攀迸落受二輕紗一、薔籬綠刺障二羅衣一、柳陌靑絲遮二畫眉一、環坐各相猜、他妓亦尋來、試傾二雙袖口一、先出二一枝梅一、千葉不レ同レ樣、百花是異香、樓中皆艶灼、院裡悉芬芳、菲散蓄慮競二風流一、巧咲便娟矜二數籌一、鬪罷不レ求二勳績顯一、華筵但使二前人差一、
和下野柱史觀レ鬪二百草一簡二朋執一之作上一首 巨識人
聞道春色遍二園中一、閨裡春情不レ可レ窮、結レ伴共言鬪二百草一、競來先就一枝叢、尋レ花萬貴攀二桃李一、摘レ葉千廻繞二薔薇一、或取二倒葩一或尖蕚、人人相隱不二相知一、彼心猜レ我我猜レ彼、竊遣二小兒一行密窺、團欒七八者、重樓粉窓下、百香懷裡薫、數樣掌中把、擁レ裙集二綺筵一、此首雜二華鈿一、相催猶未レ出、相讓丕二肯先一、鬪二百草一鬪二千花一、矜レ有嗤レ無意遞奢、初出二紅莖一敵二紫葉一、後將二一蘂一爭二兩葩一、證者一判籌初負、奇名未レ盡日又斜、勝人不レ聽後朝報、脱贈二羅衣一耻向レ家、
p.0269 草合し侍ける所に 惠慶法師
たねなくてなき物くさはおいにけりまくてふ事はあらじとぞ思
p.0269 草合 色々の草を合せて、類なき草を勝とする戯也、鬪草鬪花など唐にもせし事也、
p.0269 人の草あはせしけるに、朝がほかゞみ草などあはせけるに、かゞみ草かちければ、 よみ人しらず
まけがたのはづかしげなるあさがほを鏡草にもみせてけるかな
p.0269 本朝風俗、七月七日例鬪二草花一、如三楚人重五有二百草之戯一矣、丙申之載、吉田民部藤公、見レ惠二仙翁花幷茶一、余時在二唯稱院一、累七諱席、書誦夜禪、懶困不レ堪耳、而花以打二香供一、茶以降二睡魔一、感幸々々、仍題二小詩一以謝二惠意一云、
p.0269 題二美人圖一十八首 鬪レ草芳原上、風吹羅帶輕、愁來不二肯採一、中有二王孫名一、
輕風動二羅衣一、城東春色早、相逐向二芳原一、爭採二宜男草一、 右鬪草
p.0270 友野煥幻玉集 美人鬪草
上林春色年々好、羯鼓催レ花花發早、鞦韆戯罷晴晝長、又喚二女群一鬪二百草一、笑語携レ手出二房櫳一、採二擷菁英一盈二筠籠一、覔レ芳爭向蘼蕪逕、避レ伴潛來芍藥叢、分レ曹成レ隊互相進、羅裙排列臙脂陣、衒レ奇角レ勝誰最多、賭二取金釵一矜レ得レ儁、棄時不レ似摘時惜、玉纖揉碎輕抛擲、斜陽滿地無二人收一、亂紅殘翠香狼藉、君不レ見金屋阿嬌閉二長門一、莫レ怪人情俄頃易、
p.0270 前栽
前栽者、昔瀧口承レ之、植二萩戸萩一云々、草無二沙汰一、有レ根樹忌二方角一、但上古無二其沙汰一如何、菊合前栽合時植レ之、
p.0270 式部卿の宮の前栽合に、草のかう、
くさのかう色かはりゆく白露はこゝろをきてもおもふべき哉
p.0270 昌泰四年〈○延喜元年〉八月廿五日、有二前栽合一、
p.0270 右大臣源のひかるの家に前栽合し侍けるまけわざを、うどねりたちばなのすけずみがし侍ける、ちどりのかたつくりて侍けるによませはべりける、 つらゆき
たがとしの數とかはみん行かへりちどりなくなる濱のまさごを
p.0270 天曆〈○村上〉御時、前栽のえんせさせ給ける時、 小野宮太政大臣〈○藤原實賴〉
萬代にかはらぬ花の色なればいづれの秋か君は見ざらむ
p.0270 天曆の御時、かたわかちて前栽合せさせ給ひけるに、中宮の御方に、花の枝にてふのかた作てつけさせ給ひけるに、 九重に露をおけばや花の色の外の秋には匂ひまされる
百敷に花の色々匂ひつゝ千とせの秋は君がまに〳〵
p.0271 康保三年八月十五夜、月宴せさせ給はんとて、淸涼殿の御前にみなかたわかちて前栽うへさせたまふ、左の頭には繪所別當藏人少將濟時とあるは、小一條の師尹のおとゞの御子、いまの宣耀殿の女御の御せうとなり、右の頭にはつくも所の別當右近少將爲光、これは九條殿の九郎君なり、おとらじまけじといどみかはして、繪所の方にはすはまを繪にかきて、くさぐさの花、おひたるにまさりてかきたり、やりみづ岩ほみなかきて、しろがねをませのかたにして、ようづの虫どもをすませ、大井に逍遙したるかたをかきて、うぶねにかゞり火ともしたるかたをかきて、むしのかたはらにうたはかきたり、造物所のかたには、おもしろきすはまをゑりて、しほみちたるかたをつくりて、いろ〳〵のつくり花をうへ、松竹などをゑりつけて、いとおもしろし、かゝれども歌はをみなへしにぞつけたる、
左方
君がためはなうへそむとつげねどもちよまつむしのねにぞなきぬる
右方
心してことしはにほへをみなへしさかぬ花ぞと人は見るとも、御遊ありて上達部おほく參り給て、御祿さま〴〵なり、〈○又見二内裏前栽合一〉
p.0271 康保三年閏八月十五日丙子、朝干飯御座前、兩壺分レ方有二前栽合一、 十六日丁丑、東宮同宴、
p.0271 康保三年閏八月十五日、作物所繪所あいわかつて、殿の西の小庭に前栽をうへられけり、右大將藤原朝臣、治部卿源朝臣、朝成朝臣、中渡殿に候、侍臣等後凉殿のひがしのすのこ にこうす、つぎに兩所酒饌をもて男女房にたまふ、夜に入て侍臣唱歌し管絃を奏す、又高光永賴に、花の枝にゆひつくりところの和歌をとりてよませられけり、公卿侍臣に仰てうたを奉りけり、右大將延光朝臣ぞ題をば奉りける、十五夜翫二後庭秋花一とぞ侍ける、深更に及で侍臣和歌を奉る、保光朝臣をしてよませられけり、さらに又管絃の興ありて、其後公卿に祿を給はせけり、
p.0272 ある所の前栽合の歌の判ある所に、男女かたわきて、御前の庭のすゝき、荻、しらに、しをに、くさのかう、をみなへし、かるかや、なでしこ、萩などうゑさせ給ひ、松虫鈴虫をはなたせ給ひて、人人にやがてその物どもにつけて歌を奉らせ給に、おのが心々に我も〳〵と、あるは山里の垣ねにさをしかの立より、あるはかぎりなきすはまの磯づらに、あしたづのおりゐるかたをつくりて、草をもおほし、虫をもなかせたる、仰ごとゝて、花の有樣むしのすがた、いづれも〳〵いとをかしかめり、歌のおとりまさりは、さだめでやはあるべき、たれしてかさだめ申さすべきと仰給に、これかれまうす、さきのいづみのかみ源順朝臣なん、おほやけには梨壺の五人がうちにめされ、宮にはおもと人八人がうちにてさぶらひし人也、これをめしてこそさだめられんに、よろしからめと申によりて、かねて其事とはなくて、こよひすぐすまじきまめごとなんあるとてめしたり、かみのつかさ、たゞすつかさのおほいすけたち、こなたかなたにさぶらひ給ひ、かゞの掾橘のまさみちによみあげさせ、順朝臣にことわらせ、學生ためのりに今日のことをかきおかせ給ふなかに、ためのりなん源といふ人にもあらず、千種に匂ふ花のあたりにはもぎ木のやうにて、まじりにくゝ侍れども、やんごとなくさぶらふべき、みやまのふもとよりおひ出たる草のゆかりにて、仰ごとのいなびがたさに、みづぐきして書しるして奉りおく、其歌ども順朝臣さだめ申さる處かくなん、〈○中略〉天祿といふ年はじまりて、みとせの秋の半、長月のしもの十月に今二日おきて、大井にての事なり、〈○又見二古今著聞集一〉
p.0273 嘉保二年八月廿八日、上皇〈○白河〉於二鳥羽殿一有二前栽合興一、先レ此五六日以前相二分方人一、權中納言基忠爲二左方頭一、宰相中將宗通爲二右方頭一、此外公卿二人、殿上人十餘輩被二相分一也、是前栽堀體也、酉時許南殿寢殿巽角方〈南面女院御方也〉有二此興一、先大殿、〈烏帽子直衣〉關白殿、〈直衣〉左大將、〈直衣〉相分令レ候二左方一給、左大臣、〈直衣〉中宮大夫、〈同〉民部卿〈同〉令レ候二右方一、是依レ仰當座相分也、取二方人一、左、右衞門督、〈直衣、公實、〉藤中納言基忠、〈布衣〉江中納言、〈直衣、匡房、〉右、左兵衞督、〈直衣、俊實、〉治部卿、〈直衣、通俊、〉宰相中將、〈布衣、宗通、〉先右方人々參來立二燈臺一、但兼日依レ仰止二風流一、又被レ止二籌指等一、雖レ然尋常燈臺美麗也、居二銀盤一、左方數刻不レ立二燈臺一、雖二相尋一已及二數刻一、大略右方人々取隱歟、左方頗無二面目一事也、纔立二小燈臺一、〈殿上六位役之〉前栽舁二立前庭一、左右各風流、作レ花入レ臺、以二御隨身一舁レ之、方人皆布衣、方六位下二庭中一、取二歌書物一置二御前一、次召二講師一、〈左方予、(藤原宗忠)右方能俊朝臣、二番被レ講間、右方取レ虫入二小籠一進、額有二逸興一、〉依レ仰左大臣爲二判者一方勝了、人々退出、右方暫留二御前一詠二和歌一、
p.0273 嘉保二年八月廿八日、於二鳥羽一有二前栽合事一、
p.0273 鳥羽殿の前栽合に、女郎花のこゝろをよめる、 春宮大夫公實
あだしのゝ露吹みだる秋風になびきもあへぬをみなへしかな
鳥羽殿の前栽合にきくをよめる 修理大夫顯季
千年まで君がつむべき菊なれば露もあだにはをかじとぞ思
p.0273 白河、院鳥羽殿にて、前栽あはせせさせ給けるによめる、 周防内侍
あさな〳〵露をもげなる萩がえに心をさへもかけてみる哉
敦輔王
おぎのはに事とふ人もなきものをくる秋ごとにそよとこたふる
p.0273 郁芳門院の前栽合に、荻をよめる、 大藏卿行宗物ごとに秋のけしきはしるけれど先身にしむは荻の上風
p.0274 嘉保二年、郁芳門院前栽合の歌に 權大納言公實
眞葛はひおぎのしげらぬ宿ならばをそくや秋の風をきかまし
p.0274 鳥羽院御時、前栽合に、 大藏卿行宗
花すゝきまねかざりせばいかにして秋の野風の方をしらまし
p.0274 五月五日、右大將殿より、さうぶあはせしたるあふぎにくす玉ををきて、これがかちまけさだめさせ給へとありしに、とのは左大臣におはしましゝかば、
ひだりにやたもとのたまも結ぶらん右はあやめのねこそあさけれ
p.0274 六年〈○永承〉さ月五日、殿上のあやめねあはせせさせたまひき、そのうたども、歌合の中にはべるらん、
p.0274 永承六年五月端午日、殿上侍臣、左右相分、有二菖蒲合事一、和歌五首、
p.0274 永承六年五月五日、禁裏有二根合一、蓋雞合後宴也、
p.0274 永承六年五月五日、内裏に菖蒲の根合有けり、此こと去三月晦日、堪能の上達部ひとりふたり殿上人等をめして、弓の勝負ありけり、又鷄合も有けり、其勝負なきによりて、菖蒲の根をあはせて勝負を决せられける也、御裝束、永承四年十月歌合の儀のごとし、中宮皇后宮みなさぶらはせ給ふ、内大臣賴宗、民部卿長家、按察大納言信家、小野宮中納言兼賴、さへもんのかみ隆國、侍從中納言信長、二條中納言俊家、中宮大夫經輔、左宰相中將能長、三位中將俊房、三位少將忠家など參り給ひけり、左右の方人夕べにおよんでまいりけり、まづ御殿にあぶらを供ず、其後左右の文臺をたつ、高サ四尺なりけり、南のひさしの座の東の間に、東面の妻にかきたつ、洲濱をつくりてしろがねの松をうへたり、又おなじき鶴龜をすへたり、沈香をもて岩石を作りたてたり、其あいだに銀のやり水をながして、其前に机を立て、そのうへに書一卷ををく、像眼をもて紙し て、色紙形を摸して、をの〳〵和歌五首をかく、しろがねをのべて表紙として、彩色あをくみどり也、虎魄を軸として、しろがねをひもとす、すはまにうちしきあり、あをき色のうすものをもて浪の文になずらふ、長根五筋をわがねて松の上にをき、洲のほとりにをけり、かずさしの洲のうへにもをけり、又藥玉五流わがねて洲のうへにをく、方の人々東のゑんの上に候、つぎにかずさしのすはまをたつ、藏人是をかきて、文臺のひがしにをく、石たてゝ小松をうへたり、菖蒲をつくりてかずさしの物とす、次に又藏人右方の文臺をかきたつ、方二尺ばかりなる其うへに大鼓だいを立て、其上に大鼓をたつ、そのまへに蝶舞の童六人をつくりたてゝ、其根の上にをの〳〵和歌をかく、みな銀をもてつくれり、又藥玉ながき根をわがねてすはまの邊にをく、藥玉みな金銀にてつくれり、方の人西のすのこに候ず、次に籌刺のすはまをたつ、藏人一人これをかきて文臺の西のかたにをく、すはまに竹臺のていをつくりて、竹をうへてかずさしの物とす、其後仰によりて公卿をわかちて左右とす、左のかたの公卿相引て、御前の簀子をへて東にわたりて座につく、内大臣師方卿、兼賴卿、信長卿、經輔卿、俊房卿也、左頭頭辨經家朝臣、右頭頭中將資綱朝臣すゝみて文臺の下に候す、此間に左右のかざしの童をの〳〵一人其所に候、くだんの童二人隆國卿の子息也、みな殿上に候しけり、頭辨經家朝臣、良基朝臣を召、頭中將資綱朝臣、基家朝臣を召、左右あひわかつて御まへに候す、經家朝臣ながき根を取て、良基朝臣にさづけて、南のひさしにのべおかしむ、右又かくのごとし、其長みじかをあらそふ、左の根一丈一尺、右の根一丈二尺にて右勝にけり、但右かたすこしまさりたりけるによりて勝に定められけり、三番を限りとしてとゞめられぬ、次に和歌五首をよむ、左の講師長方朝臣、讀師經家朝臣、右の講師隆俊朝臣、讀師資綱朝臣也、判者内大臣題菖蒲、郭公、早苗、戀、祝也、をの〳〵よみ終りてしりぞきて、本の座にかへりつく、次に管絃の御調度をめす、和琴民部卿、箏二位中納言、琵琶經信朝臣、笙定家朝臣、笛篳篥隆俊、唱歌資仲朝 臣、子調子ののち内大臣御氣色によりて、笏をさして御笛を取て、御座の下にすゝみてこれを奉る、主上〈○後冷泉〉御ふえをとらせおはしまして後、拍子奉仕せらるべきよし内大臣に仰らる、大臣仰を承て座に歸りつきて安名尊をとなふ、律曲の終りに諸卿に御衣をたまはす、をの〳〵退出、今度殿上人の祿はなかりけるとかや、
p.0276 殿上根合 永承六年五月五日
題 菖蒲 時鳥 早苗 祝 戀
作者 左方 左馬頭源經信朝臣〈持一〉 權左中辨藤原資行〈持一〉 藏人修理亮藤原隆資〈勝一〉式部大輔藤原國成朝臣〈持一〉 相模〈持一〉 右方 右近中將源顯房〈持一〉 右近中將資綱朝臣〈持一〉 右近中將源經俊〈持一〉 少納言源信房〈負一〉 良暹法師〈持一〉
一番 菖蒲
左〈持〉 左馬頭源經信朝臣
萬代にかはらぬものは五月雨のしづくにかほるあやめなりけり
右 良暹法師
つくま江のそこのふかきはよそながらひけるあやめのねにてしる哉
二番 時鳥
左〈持〉 權左中辨藤原資行
ほとゝぎすたゞ一聲に過ぬれば又まつ人になりぬべきかな
右 右近中將源顯房
うたゝねの夢にやあらんほとゝぎすまたともきかで過ぬなる哉
三番 早苗 左〈勝〉 藏人修理亮藤原隆資
五月雨に日はくれぬめり里遠み山田のさなへとりもはてぬに
右 少納言源信房
小乙女の山田のしみにおりたちていそげやさなへむろのはやわせ
四番 戀
左〈持〉 相模
うらみわびほさぬ袖だにある物を戀に朽なん名こそおしけれ
右 右近中將源經俊
下もゆるなげきをだにもしらせばやたゞ火のかげのしばしばかりに
五番 祝
左〈持〉 式部大輔藤原國成朝臣
秋のそらいづる月日のさやかにもよろづ代すめるくものうへかな
右 右近中將資綱朝臣
春日山枝さしそむる松の葉は君が千とせの數にぞありける
p.0277 寬治七年五月五日辛巳、今日新女院〈○郁芳門院媞子内親王〉女房之根合也、未刻左右方人參二集東泉殿一、〈左方西御所、右方東屋、〉但右方儀式不レ知レ之、右方念人二位宰相中將、右大弁、兩貫首以下來會之後、源大納言〈雅〉淸二書方和歌一、書後從二御所一召二大納言一、聞下右中無二淸書之人一由上、仍遣二此大納言一也、此間左方人々議定云、此哥〈○哥恐事誤〉若有二風聞一者如何、然者講席之間可レ奏二此由一歟、酉時左方人々乘レ船進二御前一、是開水之中門道其路也、〈船頗輕、幄上葺二菖蒲一、本院侍四人、著二布衣一爲二船差一、其裝朿靑狩衣、紅梅袴、白單衣也、所々畫レ繪、〉二位中將著二直衣一乘二此船一、〈殿上人皆著二直衣一、此中伊豫守顯季朝臣、左少弁重資、兵衞佐房遠衣冠、〉吹二雙調一、次歌二席田一、爲二參音聲一、〈笙左近府生時之、拍子下官(藤原宗忠)頭少將付歌、刑部卿顯仲朝臣、今日可レ吹レ笙也、俄稱二所勞由一不二參仕一也、復聞得二右方之〉 〈女房語一、申二所勞之由一不參云々、仍察乘時之一人令レ吹レ笙也、顯仲朝臣所爲奇恠也、〉秉燭之程進二前庭一、昇レ從二寢殿東階一、先左方之六位等供レ燭、〈公卿之座上下二本、又切燈臺一本、立二講師之圓座前一、右方如レ此、〉右方人未二參進一前、公卿相二分左右一被レ候、左方〈内大臣、民部卿、〉〈經〉〈源大納言、〉〈雅〉〈治部卿、〉〈俊〉〈左衞門督、〉〈家〉〈中納言中將、〉〈忠〉〈右大弁、〉〈通〉〈新宰相中將、〉〈仲〉 右方〈右大臣、判者中宮大夫師、新大納言宗、右衞門督藤中納言、左大弁匡、三位侍從、〉〈能〉又左右女房此前打二出簾前一、于レ時左方舁二立文臺一、〈左少弁重資先取二打敷一、自二簀子一進二御前一敷レ之、六位二人舁二文臺一立レ之、文臺調度之鏡筥也、入レ鏡有レ臺、横鏡枕體、〉續二色紙一卷一、〈銀表紙、瑠璃軸、〉書二和歌一、菖蒲五筋入二此筥一、以レ茵爲二打敷一、金銀紫檀沈等顯皆用レ之、次方殿上人進二簀子一候、〈二位宰相中將被レ加二左方公卿座一〉次右方人參進、先右中弁師賴朝臣、右少將俊忠朝臣二人、取二紙燭一前行、童女二人、取二文臺之机帳與一レ茵、進二御前一、置レ之〈文臺是枕机帳之帷也、色紙形書二和歌一、有二懸角一一、納二菖蒲根一也、地敷筵爲二地敷一、是又金銀也以二藥玉一懸二机帳上一、〉童女幷方殿上人等候二簀子敷一、次殿下召二講讀〈此間院隨身等立明庭中布衣〉師等一之間、左方之念人、中納言中將進令レ奏給云、先日籌刺燈臺之風流、如レ此事皆以可二停止一之由被二仰下一了、今右方已有二童女一者、此事不レ可レ有者、再三被レ奏、時刻推遷之後、有レ仰被レ追二入童女一、左方頗有二咲氣一、次左右講讀師進二御前一、〈左讀師頭弁季仲朝臣、講師宗忠、右讀帥顯賴朝臣、講師左少將能俊朝臣、〉午時漸卷二上中央之間御簾一、上皇〈○白河〉御覺、殿下自二御簾中一出、令レ候二同間之西柱邊一給、已入二幽興一也、次合レ根、〈頭弁取二出根一、左少將忠敎進二御前一立二講師之前一、左方根一丈六尺計、根之上有二藥玉之花枚一、次右方師賴朝臣與二能俊朝臣一、置二御前一八九尺計、無二藥玉一爲レ負、〉次右方〈依二負方一又進レ根六七尺許、根上有二菖蒲葉一、次左方根一丈三四尺許重左勝、〉次又右進二銀根一、于レ時中納言中將令レ奏給云、作レ銀大奇恠也、不レ可レ合、雖レ然有レ仰、右方進二銀根一、有レ論無二勝負一、三番根依二永承六年殿上之根合例一、左方合レ根之人、講讀師之外、左少將忠敦勤レ之、而右方次合二和歌一、先左方讀師被レ不レ然如何若失歟、和歌之書卷講師讀二上之一、先讀二題目一あやめ、〈不レ讀二一番云事一〉次歌、 一番
左 右少將忠敎
ナガキ子ゾハルカニミユルアヤメ草ヒクベキ末ヲ千トセト思ヘバ
右〈不レ讀レ題〉 齋院女房〈云二攝津君一〉
タヅノイルイハガキヌマノアヤメ草チヨマデヒカムキミガタノミニ
判者令レ奏給云、左右共比類興、爲レ持、〈○下略〉
p.0279 媞子の内親王と申は、〈○中略〉ほりかはのみかどのあねにて、御はゝぎさきになぞらへて、皇后宮にたゝせたまふ、院號ありて、郁芳門院と申き、寬治七年五月五日、あやめのねあはせせさせたまひて、歌合の題菖蒲、郭公、五月雨、祝、戀なん侍りける、こまかには、歌合日記などに侍るらん、判者は六條のおほい殿せさせ給へり、周防内侍戀歌、
こひわびてながむるそらのうき雲や我下もえの烟成らん、とよめりけるを、判者あはれつかふまつりたるうたかなと侍ければ、右歌人かちぬとて、このうた詠じてたちにけるとなん、二位大納言の宰相におはせしにかはりて、孝善が、ひくてもたゆくながきねのとよみとゞめ侍るぞかし、
p.0279 郁芳門院根合に、あやめをよめる、 藤原孝善
あやめ草ひくてもたゆくながきねのいかであさかの沼に生けん
p.0279 寬治七年五月五日、郁芳門院根合、兼日定二兩方念人一、有二歌合一、蓋大儀也、
p.0279 郁芳門院根合之時、右方有二五丈之根一云々、件根備前國牟古計ノ狹戸ニアル似二菖蒲一物之根云々、凡菖蒲根長不レ過レ丈也、前例尤長根ハ杜若ノ根也云々、
p.0279 郁芳門院のあやめのねあはせによめる 中納言通俊
もしほやくすまのうら人うちはへていとひやすらん五月雨の空
p.0279 題 一番 菖蒲根
左〈持〉 周防掌侍
あやめ草ながきためしに引ばかりまたかゝるねはあらじとぞ思ふ
右 俊賴朝臣
みかきもる衞士のたま江におり立てひけばあやめのねもはるかなり〈○下略〉
p.0280 根合
根合やいはゞこと葉の花しやうぶ 〈江戸成瀨氏〉重政
p.0280 東三條院〈○一條母藤原詮子〉皇太后宮と申ける時七月七日撫子あはせせさせ給けり、少輔内侍、少將のおもと左右の頭にて、あまたの女房をわかたれけり、うすものゝふたあゐがさねのかざみきたるわらは四人、なでしこのすはまかきて、御前にまいれり、其風流さま〴〵になん侍ける、なでしこに付たりける、
なでしこのけふは心をかよはしていかにかすらんひこぼしの空
時のまにかすと思へど七夕にかつおしまるゝなでしこのはな
すはまにたちたるつるに付ける
數しらぬ眞砂をふめるあしたづはよはひをきみにゆづるとぞみる
瑠璃のつぼに花さしたる臺に、あしでにてぬひ侍ける、
たなばたやわきてそむらんなでしこのはなのこなたは色のまされる
むしをはなちて
松虫のしきりにこしめ聞ゆるは千世をかさぬるこゝうなりけり
右のなでしこのませにはひかゝりたる、いもづるのはにかきつけ侍る、
萬代に見るともあかぬ色なれやわがまがきなるなでしこの花
すはまのこゝろばに、みづてにて、
とこなつのはなもみぎはに咲ぬれば秋までいろはふかく見へけり
久しくもにほふべきかな秋なれど猶とこなつの花といひつゝ
七夕まつりしたりけるかたあり、すはまのさきにみづてにて、 ちぎりけん心ぞながきたなばたのきてはうちふすとこなつのはな
ぢんのいはほをたてゝ、くろばうを土にて、なでしこをうへたるところに、
代々をへていうもかはらぬなでしこもけふのためにそにほひましける
此歌其は兼盛能宣ぞつかうまつり侍ける、これを見る人々、おのがひき〳〵心々にいひつくるとて、左の人、
かちわたりけふぞしつべき天の川つねよりことにみぎはをとれば
右の人
天の川みぎはことなくまさるかないかにしつらんかさゝぎのはし
此あそびいと興ありてこそ侍れ
p.0281 七月七日藤つぼの撫子あはせに、人讀半都滿字計たりける、〈○人以下恐有二誤脱一〉
たなばたの秋のよをへて撫子の花をぞけふはあはせつとみよ
p.0281 三條の女御なでしこ合し給に
あしたづのおれるはまべのなでしこは千世をや色も引はそふらん
p.0281 亭子院の御〈○字多〉おりゐさせ給ふて、またのとしきさきとみかどのせさせ給ふ、をみなへし合なり、
一番 左
草がれの秋過ぬべきをみなへしにほひゆへにやまづみえぬらん
右
あらがねの土の下にて秋まちてけふのうらでにあふをみなへし
二番 左 秋のゝにをみなへしみんとさしはへてぬれにしそでや花とみゆらん
右
をみなへし秋のゝ風にうちなびきこゝろひとつを誰によすらん〈○中略〉
花は右をとり、歌は左かちけり、
p.0282 一品宮、むめつぼのはぎの花くらべさせ給しに、
くらぶれどまさらざりけり花ながらこの宮城のゝ萩の下葉は
p.0282 題菊
左方占手の菊は、殿上童に立君を、女につくりて、花におもてをかざさせてもたせたり、いま九本をば、すはまをつくりてぞしたる、そのすはまのさまは、思ひやるべし、面白き所の名をつけつゝ、き、くにはゆひつけたり、
占手 山城皆瀨菊
うちつけにみなせはにほひまされるはおる人がらか花のかげかも
二番 嵯峨大澤池菊
一もとゝおもひしきくを大澤のいけのそこにもたれかうへけむ〈○下略〉
p.0282 延喜十三年十月十三日御記云、仰二侍臣一令下新菊花各十本分中三番上、相二爭勝劣一賭、以二申時一各方領レ花參入、〈一番入レ自二仙花一、二番入レ自二瀧口一、〉次第進花立二庭中一、〈一番種花以二右洲形一、二番栽二火桶一、各藏人所二人取立二御前一、〉左衞門督藤原朝臣候二御前一、傳作二勝負一總十番、勝方簾中拜舞、選二進菊中各四本一、栽二西方小庭一、十二月九日二番侍臣獻二負柚一、〈菊時負物也、此柚於二射庭一可レ獻、而貢獻違失也、〉入レ夜出二待賢門一、左衞門督權中納言侍レ之飮レ酒、
天曆七年十月十八日、殿上の侍臣左右をわかちて、をの〳〵殘菊を奉りけり、主上〈○村上〉淸凉殿東の孫庇南の第三間に出御、王卿東の簀子に候、仰に云、延喜十三年侍臣獻レ菊、かの日只左衞門藤原 定公一人候、仍不レ相二分左右一、至二于今日一數人旣候可二相分一とて、右大臣、大納言源朝臣、參議師氏朝臣三人を左方とす、大納言藤原朝臣、左衞門督藤原朝臣二人を右方とす、左菊いまだ仰かうむらざるさきに弓場殿にかきたつ、其後召によりて御前の東庭にまいる、洲濱に菊一本をうへたる、藏人所衆六人してこれをかく、仁壽殿の西の砌にしの邊に、兵衞府の圓座一枚をしきて、殿上の小舍人壹人矢三をもちて候、洲濱の風流さま〴〵なり、中に銀の鶴に菊の枝をくはへさせて、其葉に歌一首をかく、其後右菊やゝひさしうしてまいらせざりければ、たび〳〵もよほしおほせらるるほどに、秉燭に及て奉りければ、それも所衆ぞかきたりける、かずさしの圓座はなし、風流左におとりたりけり、しろがねの鶴にきくをくはへさせて、歌を書たる事左におなじ、右大臣奏し申されけるは、右花其粧劣也、加之數度雖レ召良久不レ獻、然則第一花可レ爲二左勝一、仰云、事理也、仍左かずをます、其時大臣座を立て負方の公卿に罰酒をこなはれけり、勝負あるごとにかくなんをこなはるべきに、左第二花をたてまつる、其花あざやかなれど、かたぶきふしたりければ、仰によりて負に成にけり、仍左數をぬく、第三の花左かちてすなはち亂聲をはつして龍王を奏す、左衞門權佐公輔息に小舍人橘知信がつかうまつりける、次左方公卿侍臣前庭にして拜舞ありけり、其後左方有相朝臣、右方延光朝臣に仰てつるのふくむ和歌をめさる、をの〳〵とりてまいりて、御座の南邊にこうす、則兩人をもてよませられけり、
〈左歌〉 ちとせふるしものつるをばをきながらきくのはなこそ久しかりけれ
〈右歌〉 たづのすむ汀のきくはしらなみのおれどつきせぬかげそ見へける
其後舞を奏す、左方澁川鳥、左近將曹船木茂眞、舞師長尾秋吉ぞつかうまつりける、右方綾切、右衞門府生秦良佐、近衞身高つかうまつる、後々舞くだんの四人更に奉仕しけり、左右たゞ勝負まひのまうけばかりにて、他舞のまうけなかりけるを、俄の仰によりて餘曲をば供しけり、左萬歲樂、 太平樂、右石川樂、長保樂等也、舞終て更に雙調を奏す、管絃にたえたる侍臣等、河竹の北邊にこうす、又樂所の輩も同所のひがしの邊に候て、或は謠、或は吹彈、此間に御膳を供ず、又侍臣に仰て御箏を奉る、これよりさきに御座の南邊に置物御厨子一脚をたてゝ、くだんの御箏ををきまうけたり、式部卿の親王和琴を彈じ、源大納言琵琶を彈じけり、御遊をはりて王卿以下に祿を給ふ、又御みきまいりて式部卿親王にたまはせける、親王すなはち御前の階間より庭にをりて、拜舞し給ひけり、南の長階よりのほりて座につく、さらに盃をとりて次第にくだりけり、納言御插頭のまうけ有、獻ずべきよし申されけり、
p.0284 一番 左 伊勢大輔
ながきよのためしにうふる八重の花行すゑとをく君のみに見む
右 伊與中納言
むらさきの匂ひことなる八重の花はつしもよりやわきてをくらむ
p.0284 上東門院〈○一條后藤原彰子〉きくあはせせさせ給けるに、左のとうつかまつるとてよめる、 伊勢大輔
めもかれず見つゝくらさんしら菊の花より後の花しなければ
p.0284 菊合賦〈與二成田某一〉
此あるじの菊作るに、すけるすかずは誠にかくあらましや、されば作るべき花のこれならで何ならん、白は吉野の雲をなびかせ、黃は玉川の露をあらそふ、あるは二月の紅にまさり、あるは八橋の紫をうばひて、詩客の車も停むべし、昔をとこの袖もぬれなん、淺深濃淡の色はさら也、花形は百種の新奇を咲て年々に其目をおどろかし、國々に其名を聞ゆ、〈○中略〉いざ我判者せんといふに、物定のはかせにはあらねど、只賦つくりて其日の笑とはなせりける、
p.0285 寬治六年四月廿二日甲戌、上皇〈○白河〉爲二御見物一、有レ御二幸紫野一、〈○中略〉此間供奉所司被レ相二催公卿一、於二御車前一、或有二 合興一、
p.0285 しば 知家
こまはなつ野邊のうなひが芝くらべながき曰くらすこれやなぐさめ
p.0285 按、芝くらべといふは、うなゐわらはどもの、つばなすみれなどをつみあつめて、おのがどちくらべあそぶをいふ、草をたゝかはすといふも同じこと也、
p.0285 紅梅あはせに
鶯のすをくひそむる梅のはな色もにほひもおしくも有哉
p.0285 永承五年四月廿六日、麗景殿女御に繪合ありけり、彌生の十日あまりの比より其沙汰有けるは、〈○中略〉むかしよりきこゆる花合は、散てふるき根にかへりぬればにほひ戀し、草合は尋て本の所へ返しやれば、名殘うるさし、
p.0285 承德二年三月二日、依レ召參内、明日中宮〈○堀河后篤子内親王〉御方花合云々、望レ夜聞二延引由一、
p.0285 長治二年閏二月廿四日壬辰、申時許爲隆來云、中宮〈○堀河后篤子内親王〉女房今日有二花合一、非二兼日支度一、自二昨日一被レ始云々、
p.0285 長治二年閏二月、中宮花合によみ侍ける、 權中納言國信
手折もて宿にぞかざす櫻花稍は風のこゝろめたさに
p.0285 堀河院御時、きさいの宮の御方にて、かたをわかちて花をおりにつかはして、御前のいづみにたてならべて、歌よませ給けるによめる、
吹風をいとひてのみもすぐすかな花みぬ年の春しなければ
p.0285 同〈○堀河院〉御時、中宮の御方にて花合といふ事有けるに、越前守仲實が歌に、玉の身といふ ことをよめりける、いま〳〵しき事と人申けるほどに、宮やがてうせ給にけり、
p.0286 内裏女房花合にまけて、花にさしていだすべき歌こひ侍しかば、吹風も治れる世は音もせでのどかに匂ふ花ざくらかな
p.0286 村上の御時に、紅葉合殿上人にせさせ給ふに、
わが思ふくらぶの山のもみぢばにおとらぬものはこゝろなりけり
p.0286 うちの紅葉あはせ、九月ふたつあるとし、
くれなゐのやしほの色はもみぢばの秋くはゝれる年にぞ有ける
p.0286 鎧
罷出たる者は、此邊りに住居いたす者でござる、此間のあなたこなたに、お道具くらべはおびただしい事でござる、それにつき此度は、よろひをくらべさせられうとある、身どもの内によろひがあるか存ぜぬ、まづ太郎冠者にたづねうと存ずる、
p.0286 恒佐中納言殿の扇合の歌、すはまに入たり、
住の江の松のかぜをもこめたればあふぐ扇のいつか絶せん
p.0286 宮の御方にうへおはしましてらごとらせ給ひて、かたせ給へるかちわざ、六月十六日にうへせさせ給ふ、梅つぼにわたらせ給へるに、殿上人中少將をはじめてとりつゞきまいる、南は御すだれより外にあげて袖ぐちどもとりいる、したんのをきくちしたるらてんの御筥に、緋扇十枚入させ給ひて、からのうすものゝすはうのすそごのさいでにつゝみて、おなじ紫のくみして、白がねを桔梗をみなへしの枝に造りて付させ給へり、白がねこがねのこものしたに、からの羅をあゐ色に染て、ひとへにてはれるもぬへるもあしでにて、
君が代をまつふく風にたぐへてぞかへすちとせのためし也ける しろがねをばまづ萩のかたに色どりて、からの羅を淺みどりにしてはれり、それにあしでにてぬへるなんめりき、
澤に住たづの羽かぜに凉しきは君が千とせをあふぎ成べし〈○下略〉
p.0287 行成は道風が跡を繼て、めでたき能書なりけり、いまだ殿上人の比、殿上にて扇合といふ事有けるに、人々珠玉をかざり、金銀をみがきて我をとらじといとなみあへりけり、彼卿はくろくぬりたる細ぼねのたけたかきに、黃なるかみはりて、樂府の要文を眞草に打まぜて、所々書て出されたりけるを召て御らんじて、是こそいづれにも勝れたれとて、御文机にをかれけり、
p.0287 寬治三年八月廿三日、大后〈○後冷泉后藤原寬子〉於二宇治一、有二女房扇合一、基綱朝臣、予〈○藤原宗忠〉爲二講師一、
p.0287 太皇太后宮の扇合に、月の心をよめる、 大納言經信
みかさ山みねより出る月影はさほの河せの氷なりけり
太皇太后宮の扇合に、人にかはりてもみぢの心をよめる、 源俊賴朝臣
音羽山もみぢちるらしあふさかの關のを川ににしきをりかく
p.0287 保延元年五月十七日己丑、女院近習女房殿上人、左右各十餘人、調二扇紙一可レ合之由日來云々、今日有二其事一、左方坊門殿、〈故關白息女〉小因幡、美濃、〈光淸娘〉大宮少將、少輔男公能朝臣、公道、光忠、光隆、爲盛、藏人淸則、右大炊殿、〈顯能妻〉土佐、侍從、小少將、紀伊、男經宗朝臣、爲通、師仲、爲成、範高、淸重臨レ期上皇〈○鳥羽〉御幸、右方女房著種々裝束、出レ自二儿丁帷一、寢殿於二南廂一有二此事一、垂二母屋御簾一、右方二階上置二紙筥十一一、各所レ進也、敷二龍鬢其上一、二階敷二唐錦茵一、以レ扇爲レ樣、左方無二其設一、只進レ紙不レ出二合筥一、或以レ銀作レ是、或卷付、或只裹レ紙云々、
p.0287 主上鳥羽御籠居御歎事
折々ノ御遊、所々ノ御幸、御賀ノ儀式ノ目出カリシ、今樣朗詠ノ興アリシ事、扇合繪合マデモ忘ル ル御隙ナク、只今ノ樣ニゾ、被二思召出一ケル、
p.0288 小朝拜
平家はさぬきの國八嶋のいそにおくりむかへて、年の始〈○壽永三年〉なれ共、元日元三のぎしき事よろしからず、〈○中略〉花のあした月の夜、詩歌くはんげん、まり、小弓、扇合(○○)ゑ合せ、草づくし、虫づくし、さまざまけう有し事共思ひ出、かたりつゞけて、永き日をくらしかね給ふぞ哀なる、
p.0288 九の宮〈○九の宮、一本作二九條一、〉のみやすどころの御もとに、こばこあはせのころ、はこにこうばいのつぼめるを入てまいらせたるに、
君にとし思ひかくればうぐひすの花のくしげもをしまざりけり〈○返歌略〉
p.0288 かひあはせ 貝合也、かひおほひともいへり、徒然草に見ゆ、耳白と蛤を用うといへり、或はおだまの貝とて、鹿島香取の浦の蛤を用うともいへり、
p.0288 桑名より四日市まで三里八町
右の方に城あり、町中を上るに、大手の橋、左のかたにあり、爰は蛤の名物あり、蛤は諸國にあれども、貝合の貝になるは、伊勢はまぐりにまさる事なし、〈○中略〉貝厚くして破れがたしといふ、
p.0288 貝合之貝之事
一桑名貝 勢州名物尤吉、耳白、横さしわたし貳寸三分、或は貳寸五分、此大きさなるが貝合によ、し、かた手にて取物なるゆへなり、貝の員數三百六十合有、左右にて七百貳拾片有、
一朝鮮貝 上々耳白、大なるは横さしわたし貳寸八分程有、貝合の貝には朝鮮貝の大なるは惡しと也、され共大にて見事なるゆへに直段高直成ものなり、
p.0288 夫かいを弄(ならぶ)る事、古來は只蛤の大なるを三百六十を集め、これをかざるに中を絹を以て (ねん)し、金銀を點じ、五彩の畫をほどこす、六角の笥に納てこれを合を以て兒女の翫 とす、未もろ〳〵の介をあげ用ゆる事をしらず、元祿の始の頃より大に此弄おこりて、都鄙全く時行(はやら)す、賞鑑彖古人の貝をよみをける古歌を取集て、四條大納言公任の撰び給ふ三十六の歌仙の數に配して、つゐに三十六歌仙介となしてもてはやしぬ、其時歌を集る事ひろからず、不審なる引歌多し、因て其後これを考て、新撰の歌仙介世に行る事は、後歌仙集序中に見えたり、前後の三十六介となりぬ、今按るに、後に撰し方尤委し、取用べし、
p.0289 應保二年三月七日、參内、貝合事、右方人右大將一以下、於二宮殿上一議定云々、 八日、午刻參内、貝合、左方人中宮權大夫實長卿、參議親隆卿、能登守重家朝臣、右少將通能朝臣、左衞門權佐爲親、予、〈○藤原忠親〉等於二宮御方一議定、大略令爲親書二折紙一、送二右府御許一、令レ申二子細一、爲親所二參向一也、
一奉幣事、八幡賀茂住吉、已上使、所衆、〈前右府御沙汰歟〉爲レ用二意使所衆一事、召二仰出納仲政一丁、
一願事、八幡、〈御神樂〉賀茂、〈競馬〉住吉、〈參詣〉
一當日誦經事
一貝風流〈可レ作二伊勢海一〉
一方人裝束〈束帶〉
哺時參二花山院一、申二承雜事一退出、 九日、未刻參内奏レ事、〈○中略〉晩頭右府被レ參、貝合事等申承、 十日、今日爲二貝合祈禱一左方奉幣、〈石淸水、賀茂、住吉、〉右府被レ致二幣帛沙汰一、彼家仕丁持レ之、下家司相具、向二近衞河原一、藏人左兵衞尉平信季、向二彼所一發遣之、使可レ用二藏人所衆一之由有二議定一、仍三人可二差遣一之由、兼所レ仰二出納仲政一也、抑陰陽師不參、藏人可レ致二沙汰一歟、又自二右府一可レ有二沙汰一歟、 十一日、申刻許於二宮殿上一、貝合方人有之事、右府爲弘有二結構一、而頗不定事、仍不レ可レ有二過差一之由、以二左衞門權佐爲親一〈左方人也〉被二遣仰一、有二出御一、此後參二大殿一之處、職事等退出、仍空以退出、
p.0289 予應保二年三月三日昇殿、來十三日中宮〈○二條后藤原育子〉御方可レ有二貝合事一、仍俄所二仰下一也、同七 日賜二和歌題二首一云々、同日可レ被レ講、廻一風情一早可二初參一云々、仍不レ擇二吉凶一件夜付レ籍了、〈御所高倉殿〉翌日御會、〈東向御所〉月卿兩三、雲客數十講云々、
p.0290 おなじ御とき〈○二條〉内裏にてかひあはせあるべしときこえけるに、ある人のうたを申ければ、
もゝしきの玉の臺の簾貝あしやがうらに波やかけゝん
雲の上にちりぞまがへる春風の吹あげの濱の梅の花かひ
p.0290 内〈○二條〉に貝あはせせむとせさせ給けるに、人にかはりて、
風たゝで波をおさむるうら〳〵に小貝をむれてひろふ也けり
なにはがたしほひにむれて出たゝむしらすのさきのこ貝ひろいに
風吹ば花咲波のおるたびに櫻貝よるみしま江のうら
波あらふ衣のうらの袖がひをみぎはに風のたゝみをくかな
なみかくる吹上の濱の箔貝風もぞおろすいそにひろはん
しほそむるますをのこ貝ひろふとて色の濱とは云にや有らん
波よするたけのとまりのすゞめ貝うれしきよにもあひにける哉
波よするしらゝの濱のからす貝ひろひやすくもおもほゆる哉
かひありな君が御袖におほはれて心にあはぬことしなき世は〈○中略〉
伊せのふたみのうらに、さるやうなるめのわらはどものあつまりて、わざとのことゝおぼしく、はまぐりをとりあつめけるを、いふかひなきあま人こそあらめ、うたてきことなりと申ければ、かひあはせに京よりひとの申させ給たれば、えりつゝとるなりと申けるに、
今ぞしるふたみのうらのはまぐりをかびあはせとておほふ也けり
p.0291 春村按ふに、右のうち山家集の、かひありな云云と、今ぞしる云云との歌は、貝合と貝覆とを、ひとつにおぼえてよまれたるに似たり、抑貝合はさま〴〵の貝をあはせて、それに歌をもよみそへ、さて甲乙を定むるなり、又貝覆ははまぐりの貝を、片おもてづゝそこら散しおきて、其片おもてをおほひ合せて、勝まけを爭ふなり、さるをひとつにせられたるは、いかにぞやおぼゆるぞかし、
p.0291 人々つどひ侍て貝合し侍りける所に、負なんずと幼きものゝ歎きけるに、誰ともなくて云ける、 貝合の藏人少將
かひなしと何歎くらんしら浪も君が方には心よせてん
p.0291 かひあはせ
このひめ君とうへの御かたのひめ君と、かひあはせせさせ給はんとて、月ごろいみじゆあつめさせ給ふに、あなたの御かたは、だいぶの君侍從の君と、かひあはせせさせ給はんとて、いみじくもとめさせ給ふなり、まうが御まへはたゞわかぎみ一ところにて、いみじくわりなくおぼゆれば、〈○下略〉
p.0291 貝 倭俗婦人合レ貝爲二遊戯一、其法以二三百六十之貝左右分レ之、圍二並床上一、空二其中央一、貝一雙内右貝稱レ地而並二床上一、左貝稱レ出(ダシ)、毎二一箇一而出二置中央、之隙地一、各圍レ坐視レ之、則出貝與二地貝一其紋采有二合者一則取二出貝一合二地貝一、其所レ合之貝多者爲レ勝、少者爲レ負、其貝大蛤蜊也、始出レ自二伊勢桑名海濱一今大者絶、故多用二朝鮮貝一也、桑名貝其形色麗而有二温潤一、朝鮮貝形色共麁惡而不レ及レ之、畫草子屋幷張子屋多製二貝幷桶一而賣レ之、凡盛レ貝器、其形似レ桶、故稱二貝桶一、
p.0291 御かひめしいだされ候はゞ、まづひだりをもちてまいり、のちにみぎをまいらせ候、御かひうつして、二かたへわけて、くちにしろきを、十二にても、おほきならば十にても、げに げにくちひろくば、八つもたて申候、それも中にかひのゐ候はんほどを御らんじて、あはせ候べし、ちいさきは十六もたて候はんにせぬ事にて候、いだし候事はちとさがりたるやくなり、すゝまずしんしやくせぬ事にて候、さていだし候へとある時、かひを手のうちにもちて出すべし、うへとある人の御かたへ、かしらをむけて出すべし、うへに御あはせ候はんほど、まちまいらせて出すべし、また下の人おほひ候はゞ、やがて出し候べし、上をまたせ申さぬ事にて候、めしつかふ人にも御をしへ候へ、みやづかひのひとしつけ候はねば、御うへにものをしろしめさぬになり候べし、
p.0292 長享三年八月九日乙未、今日自二中山黃門一貝歌事所望書樣事、一條亞相返事如レ此、但貝事、左右各一首書之、贈答歌書之間、贈ヲ右ニ答ヲ左ニ所レ書也、古今戀歌書之、
p.0292 一御物行やうのしだい
一ばん 御貝桶〈○中略〉
一おいかいおけの事、角口のひろさ九寸三四分、たかさ九寸以上、四所にかつらを可レ入、二すぢづつならべて、そこきはに一ところ、ふたと身とのあはせめに一所、中ほどに一所、ふたのまはりとかうのいたのさかいに一ところなり、みのかたにのみいれをするなり、かみにて上をよくはりてゑをかくべし、ゑにはげんじのところ、また松竹などしかるべし、ふたにつるかめなど二ツづつむかひ合候てしかるべし、あしはつかぬものなり、
一かひのかずは三百六十なり
p.0292 一今世間に貝桶の結は鬼結と云むすび樣有と云人あり、鬼むすびと云事古傳になし、貝桶の結やうの事も包結記にしるし置く也、
p.0292 貝掩(カイヲフ)
p.0293 貝をおほふ人の、我まへなるをばをきて、よそを見わたして、人の袖のかげ、ひざの下まで目をくばるまに、前なるをば人におほはれぬ、よくおほふ人は、よそまでわりなくとるとは見えずして、ちかきばかりおほふやうなれど、おほくおほふなり、
p.0293 貝をおほふ 貝あはせの事なるべし
p.0293 貝おほひ
まづ我かたの貝をみつくして、扨よその貝え目をくばるべし、出し貝のたび〳〵に、われはやくおほはんとそう〴〵しきはみぐるし、しとやかならんには、二見の浦めるけしきもなく、誠のすさみを今ぞしる、とよめる西行にも見せたし、
p.0293 行綱中言事
多田藏人行綱ハ、〈○中略〉五月〈○治承元年〉廿日、西八條へ推參シテ見レバ、馬車數モ知ズ集タリ、藏人何事ヤラント思テ尋問ケレバ、案内者トオボシクテ答ケルハ、是ハ入道殿〈○平淸盛〉福原御下向ノ御留守ニ、君達會合シテ、貝覆ノ御勝負也ト云ケレバ、〈○下略〉
p.0293 壽永元年二月十八日己未、午刻參二御堂一、今日供三養百種於二舍利一之、次有二佛經供養事一、佛者如意輪繪像、御平生之時雖レ被二圖寫一未レ遂二供養一、今日依レ爲二吉曜一遂レ之、經者蛤貝書レ之、聖靈〈○皇嘉門院〉平日殊令レ始二貝覆之戯一給、仍爲レ飜二彼罪一、所レ寫二眞實之妙文一也、且先例多存故也、
p.0293 住吉に侍しに、都より知たる女房あまた天王寺に詣でゝ侍しかば、住吉の神主
經國女に、おほひかひこはんとおもふに、歌のそへたきよし申侍しかば、讀てつかはし侍し、波よするつもりのうらによる貝をひろはぬ袖にうつせとぞ思ふ
返し貝にかきて
たづねきてひろはぬ浦のつらければ袖、につゝむにかひやなからん
p.0294 應永廿八年三月十二日、雨降、雨中徒然之間有二貝覆一、分二左右一、予〈○後崇光〉椎野御喝食女中御寮等覆之、左負畢、則有二所課一、 卅年三月十四日、甚雨降、有二雙六一、其後女中男共分二左右一貝覆、女中一方、男一方也、女中負畢、則負態有二盃酌一、壽藏主候、雨中一興也、 十九日、先日貝覆女中負之間、殊無念事歟、妬被二張行一、手分如二先度一、又男方勝、二番覆毎度男勝畢、高名無レ極、所課責伏有二盃酌一、 四月五日、先日貝覆女中兩度負態、被レ張二行其還禮一、男衆又表二其禮一畢、
p.0294 文龜三年二月十三日、女房衆貝遊有二勝負事一、
p.0294 永正十四年五月八日、參二山科番代一、宮千代丸令レ候、有二勝負之御貝一、今日女中申御沙汰也、先日御負事云々、今日男衆負、御酒宴入興、萬松軒、勸修寺宮、中務卿宮、竹内殿等御參、奏聲巡舞等狼藉之、及二深更一各退出了、 十二日、御貝之負事有レ之、今日男衆申沙汰也、宮御方御負衆也、宮千代丸令二祗候一、萬松軒、中務卿宮、竹内殿等御參、甘露寺、冷泉前中納言等祗候、及二五更一果了、各沈醉入興、無二是非一者也、
廿三日、參二當番一、有二御貝負一、宮千代丸祗候、今日宮御方伏見殿親王御方御負事有レ之、御酒宴及二深更一、
六月六日、宮千代丸祗候、有二御貝一、伏見殿宮御方曼珠院宮等御參、 十四日五日兩日有二御貝一、宮千代令二祗候一、上乗院、妙法院、勸修寺宮等御參、
p.0294 信玄公御時代諸大將之事
一武田信玄晴信公十三歲の御時、駿州義元の御前は信玄のあね子にておはします、此姉子の御方より母公へ貝おほひのためにとて、蛤をおくりまいらせらるゝ、信玄公を勝千代殿と申時なれば、御母公より上﨟をもつて、此蛤の大小を扈從どもに申付、ゑりわけて給はれとの御事也、卽大をばえりてまいらせられ、小き蛤たゝみ二帖敷ばかりに大方塞り、たかさ一尺も有つらん、是を扈從どもにかぞへさせ給へば、三千七百あまりなり、〈○下略〉
p.0294 永祿七年三月卅日壬申、自二禁裏一可レ參之由有レ之、申下刻參、御貝覆勝負有レ之云々、女中御銚 子被レ進、御若宮御方、岡殿女中衆、中山大納言、源中納言、輔房朝臣、公遠朝臣、重通朝臣、親綱等也、此予三條中納言被レ參、御酒於二御三間一有レ之出御無レ之、音曲有レ之、及二黃昏一各退出了、
p.0295 慶長三年四月八日、御貝覆あり、女二の宮の御かた、女三の宮〈○淸子内親王〉の御かた、准后大御ちの人、御まけかたにて、やがて御せうぶ、今度のことなり、 十一日、けふ御貝覆の御せうぶあり、女二の宮の御かた、女三の宮の御かた、御ふるまいおはしまし候、内々の男達十人ばかりしかうにて、御ひし〳〵にてめでたし、だいのもの色々まいる、 九年うるう八月四日、御かいおほいの御しやうぶの御ふるまいあり、女院の御所ならします、八でう殿、大しやう寺殿もなる、御まけしゆうにて、女御の御かたより、だいの物まつたけ一折、御たるまいる、新ないし殿より、くり一折、かき一折參る、いよ殿より、御たる參る、あぜち殿より、折、御たる參る、おとこたちしかうあり、く御參る、
p.0295 貝おほひと すぐろくと
ひし〳〵とつどひておほふ貝よりもたゞふたりゐてめをやろんぜむ
p.0295 かひおほひと 手まりと
くろかしのみだれてさわぐまりよりも貝におほへる袖はなつかし
p.0295 貝おほひのあそびに馴ざる間は、取にくし、よく目なれたる貝は、出す手の下より合せてとる也、
逸物の鷹や目なれの貝おほひ
p.0295 治承二年六月十九日壬午、今日於レ院〈○後白河〉有二火打角合一云々、一方公卿殿上人僧幷四十餘人、一方北面下﨟等也、公卿方作二銀海一浮二銀船一、〈都合銀三千云々〉其内納レ角、北面下﨟、厨子一脚上、置二銀手桶二合一納レ之、此事近日天下經營、諸人愁歎、或下二知莊園一切二生牛角一數十、適二雖二持來一、稱二下品一棄レ之、罪業之因緣之 由或人來談也、
p.0296 治承二年六月十九日、上皇御所有二角合事一、天下營只在二此事、
p.0296 せんだいをば後朱雀院とぞ申める、その院のたかくらどのゝ女四宮をこそは齋院とは申めれ、〈○中略〉物語合とて、いまあたらしくつくりて、ひだり右かたわきて、廿人あはせなどせさせ給て、いとおかしかりけり、
p.0296 五月五日、六條前齋院に、ものがたりあはせし侍けるに、小辨をそくいだすとて、かたの人々とめて、つぎの物がたりをいだし侍ければ、宇治の前太政大臣、かの小辨がもの語は、見どころなどやあらんとて、ことものがたりをとゞめてまち侍ければ、岩がきぬまといふものがたりをいだすとてよみはべりける、 小辨
引すつる岩がきぬまの菖蒲草思しらずもけふにあふかな
p.0296 後朱雀皇女正子内親王造紙合、判者〈不レ見レ之〉講師〈左四位少將、右兵衞佐、〉左銀透筥、蓋入二古今繪七帖、新繪銀造紙一帖一、右銀透筥、納二繪造紙六帖、新歌繪銀草子一帖一、
p.0296 白河院は、〈○中略〉御めのとの二位も、かん日に參りそめられたりけるとかや、〈○中略〉從二位親子のさうし合とて、人々よき歌どもよみて侍るも、いとやさしくこそきこえ侍りしか、
p.0296 從二位藤原親子家のさうし合に、しぐれをよめる、 修理大夫顯季
しぐれつゝかつちる山の紅葉をいかに吹よのあらしなるらむ
p.0296 從二位藤原親子家の雙紙合に、戀の心をよめる、 宣源法師
いまはたゞねられぬいをぞ友にする戀しき人のゆかりとおもへば
p.0296 建曆三年〈○建保元年〉正月十二日甲寅、幕府女房等有二雙紙合會一、將軍家〈○源實朝〉令レ判レ之給云 云、
p.0297 大殿にてかみ〴〵あはせといふことせさせ給けるに、師のこひければよめる、君がよを神々いかにまもるらんしげきめゆひの數にまかせて〈○中略〉
人のもとにまかりたりけるに、かみ〴〵をひきて、ものにとりいでゝ侍りければよめる、嬉しさのあまのみ空にみちぬればいとなくかみをあふぎみる哉
p.0297 あはだ口
〈大名〉罷出たるは、遠國の大名、太郎くわじや有か、〈くわじや〉おまへに、〈大名〉ねんなふはやかつた、此中のたからくらべは、おびたゞしい事ではなかつたか、〈くわじや〉中々おびたゞしい事で御ざりました、〈大名〉いづれものたからにまけいでうれしいな、〈くわじや〉いやも、わたくしらていまでが、うれしう御ざりまする、〈大名〉それよ〳〵、さりながら明日は、あはた口を、くらべさつしやれうと有、してそれがしがたからの内に、あはた口といふものはないか、〈くわじや〉されば殿樣の七萬寶のたからの中に、あはた口は御ざりませぬ、〈○下略〉
p.0297 寶の笠
〈初アト〉大果報の者、誠に天下をさまり、あなたこなたの御參會お振舞は、おびたゞしいことでござる、それについて、此度は、目の前にきどくの見ゆるたからを、くらべうと有、某が藏の内に、さや、うの寶が有か存ぜぬ、尋ねませふ、やい〳〵太郎くわじやあるか、〈○下略〉