p.0447 粥ハ、カユト云フ、或ハ炊キ湯ノ義ナリト云ヒ、或ハ濃湯ノ義ナリトモ云ヒテ詳ナラズ、粥ヲ大別シテ汁粥堅粥、ノ二類トス、汁粥ハ蓋シ堅粥ニ比シテ其汁多キニ由リテ名ヅク、古ヘ飯ト云ヘルハ、米ヲ甑ニテ蒸シ熟セシメタルヲ謂ヒ、今ノ飯ハ即チ堅粥ニテ、今ノ粥ハ即チ汁粥ナリト云フ、粥ニハ又白粥、茶粥、赤小豆粥、豆粥、粟粥、蕎麥粥、蔬粥、薯蕷粥、栗粥、橡粥、五味粥、七種粥、紅糟(ウンザウ)粥、紅調粥、尾花粥等ノ別アリ、白粥ハ普通ノ粥ニテ、茶粥、赤小豆粥等ニ對シテ、其色白キニ因レリ、茶粥トハ、茶ヲ以テ煮熟シタルモノニテ、京都、大阪、奈良等ニテハ、日常之ヲ食ス、赤小豆粥ハ、米ニ赤小豆ヲ和シテ煮熟シタルモノニテ、正月十五日ニハ必ズ之ヲ作リ、移徒ニモ亦之ヲ作ル、薯蕷粥ハ、薯蕷ヲ味煎、或ハ甘葛煎ニテ煎タルモノニテ、古ヘノ饗宴ニハ、常ニ之ヲ用イタリ、七種粥ハ米、粟、黍、薭等ノ七種ヲ和煮シタルモノニテ、正月七日、又ハ同十十五日ニ專ラ之ヲ食ス、紅糟粥ハ十二月八日之ヲ食ス、紅糟粥ハ即チ赤小豆粥ナリト云ヒ、或ハ然ラズトモ云フ、尾花粥ハ八月朔日之ヲ食ス、或ハ薄色ノ粥ナリト云ヒ、或ハ薄ノ穗ヲ黑燒ニシテ粥ニ雜ヘタルナリトモ云フ、 餗ハコナガキト云フ、又糝トモ書ケリ、コナガキハ粉菜搔ニテ、米粉ヲ以テ菜羹ニ搔雜ヘタルヲ云ヒ、又ミソウヅトモ云フ、後ニ謂ユル增水即チ是ナリト云フ、增水ハ、又雜炊、雜水トモ 書ケリ、
p.0448 饘 〈厚粥也、同諸延反、平、加由、、〉 餬 〈三形同、扈都反、平、饘也、寄食也、加由、又阿佐利波牟、又毛良比波无、〉
p.0448 粥 唐韻云、饘、〈諸延反、和名加太賀由、〉厚粥也、四聲字苑云、周人呼レ粥也、粥〈之叔反、和名之留加由、〉薄糜也、
p.0448 按説文云、饘糜也、周謂二之饘一、則此呼レ粥下脱二爲レ饘二字一、或呼レ粥疑呼レ饘之誤、下總本無二呼レ粥下也字一、按禮記檀弓正義云、厚曰レ饘、希曰レ粥、與二粥薄糜也一合、釋名、糜煮レ米使二糜亂一也、粥濯二濁於糜一粥々然也、説文、鬻 也、徐鉉曰、今俗作レ粥、説文又云、糜糝也、
p.0448 糜〈或糜、靡爲反、カユ、呉音微、〉 〈五俗〉 粥〈音祝、シルカユ、又音育、〉
p.0448 糜也〈米部曰、糜糝也、糝以レ米和レ羮也、按以レ米和レ羮者鼎實也、故正考父鼎銘曰、饘於レ是粥、於レ是以餬、余曰詳二 部一、〉从レ食亶聲、〈諸延切、十四部、〉周謂二之饘一、宋衞謂二之飯一、〈此五字各本作二宋謂之餬四字一、今依二檀弓音義一、初學記正 者鬻レ之、或字見二 部一、去虔切、一人妄謂二鬻饘同字一、故於レ此改レ餬爲レ餬耳、〉
p.0448 糝糜也、〈各本無二糜字一、淺人所レ刪、今補、以レ米和レ羮謂二之糝一、專用二米粒一爲レ之謂二之糝一、糜亦謂二之鬻一、亦謂二之饘一、食部曰、饘糜也、釋名曰、糜煮レ米使二糜爛一也、粥淖二於糜一粥々然也、引伸爲二糜爛字一、〉从レ米麻聲、〈靡爲切、古音在二十七部一、〉黄帝初敎作レ糜〈各本無二此六字一、今依二韵會所レ據鍇本一補、初學記藝文類聚北堂書鈔、皆引二周書一、黄帝始亨レ穀爲粥、此記化益作井揮作レ弓、奚仲造車之例、〉
p.0448 粥〈カユ、亦シルカユ、〉 饔 〈亦作レ飦〉 糜〈已上同〉 饘〈カタカユ〉
p.0448 粥(カユ)
p.0448 粥(カユ) 饘(同)〈 同〉 糜(同)
p.0448 粥(カユ)〈糜 並同〉
p.0448 粥(カユ) かしぐ湯也、米をかしぎて湯にする也、
p.0448 粥カユ 倭名鈔に、唐韻に饘は厚粥也といふはカタカユ、四聲字苑に粥は薄糜也といふはシルカユ也と注せり、カユとは濃湯(カユ)也、白飮をコミヅといふが如し、コと云ひカといふは轉語也、濃湯といひしは、猶今俗に重湯といふが如くなる也、カタカユとは煮米作レ糜もの、厚くして 堅きをいふ也、シルカユとは、其薄くして汁の如くなるをいふ也、
p.0449 粥〈音竹〉 饘〈和名加太賀由〉 粥〈倭名之留加由〉 酏〈俗云於毛由〉本綱煮レ米爲レ麋、使二糜爛一也、粥濁二於糜一育々然也、漢書注、黄帝始烹レ穀爲レ粥、其厚曰レ饘薄曰レ酏、毛氏曰、粥字从レ丂、象二氣之形一、與二弓字一不レ同、今皆作レ弓矣、 按、粥宜二新米一、如一古米一不二粘滑一也、又粗碎篩二去粉一者曰二破粥、是益二於病人一、本草所レ載諸粥甚多、不二悉記一、
p.0449 かゆ 倭名抄に饘をかたがゆ、粥をしるがゆ、署預粥をいもがゆとよめり、糜はうすかゆ也、炊湯(カシユ)の義成べし、鶉目飯蟇眼粥といふ事、新猿樂記に見えたり、堅粥といふ事、江次第に見えて、是今時の飯也、糝粥はわりのかゆ也、又芋粥、宇治拾遺に見えて、大將あるじにも是あり、まさすけに見えたり、正月の粥は禁裏にみそうがゆあり、世風記に、正月十五日煮二小豆粥一、爲二天狗一祭二庭中案上一、則其粥凝時、向二東方一再拜長跪服レ之、終年無二疫氣一と見ゆ、伊勢二所大神宮に奉りし事も、儀式帳に見えたり、
p.0449 粥は少穀多水を烹るの名也、これに味噌を加へたるを曾水(○○)といふ、粥の類いとおほかり、 ヲナハノ粥 白粥 温糟粥 豆粥 粟粥 茶粥 しる粥 とちのかゆ 蔬粥
p.0449 粥 むかしの物語ぶみに、かゆといふことのあまた見えたるを、今の世の粥とおもひてはことたがひぬべし、江家次第七の卷解齋のくだりに、藏人供二御粥一〈堅粥也、高盛レ之、〉と見え、又立二御箸粥上一入御とあるにておもふべし、粥といふは今の飯なり、むかし飯といへるは、こしきにてむしたるものにて、今の世にいはゆるこはいひのことぞ、
p.0449 粥 凡諸穀蒸者曰レ飯、煮者曰レ粥、故周書曰、黄帝始蒸レ穀爲レ飯、煮レ穀爲レ粥、此方人古皆作二蒸飯一、故呼二今煮飯一爲二 硬粥(カタカユ)一、今粥爲二汁粥一、而饘粥糜餬、諸書多通用、博雅曰、飦 、粘 、 粥粰糜、毇 、饘也、其它字書所レ載 鬻、 、蝕、 、 、 、 、 等字、經史並無二所見一、大抵分言レ之、則厚者曰レ饘、曰レ糜、淖者曰レ粥、粥之薄者曰レ酏、酏飮粥也、此云二於毛湯一、或云二於禰波一、禮記檀弓曰、饘粥之食、陸德明釋文曰、饘本又作レ飦、之然反、説文曰、糜也周謂二之饘一、宋衞謂二之 一、粥之六反、又音育、字林云、淖糜也、疏曰、厚曰レ饘、希曰レ粥、
p.0450 粥 其炊法、飯ヨリ水ヲ甚ダ多クシ、柔カナル者也、 今世右ノ水ヲ多クシ炊キタルヲ白粥ト云、是茶ガユニ對ス言也、茶ガユハ專ラ冷飯ニ煎茶ヲ多クシ、鹽ヲ加ヘ再炊スルモノ也、白糜ニハ鹽ヲ加ヘズ、 江戸ハ常ニ粥ヲ炊カズ、幼年ヨリ馴ザルガ故ニ、衆人好レ之人甚ダ稀也、京坂ハ前ニ云如ク、午炊ヲ專トシ、冬朝冷飯ヲ食シ難キヲ以テ、茶ガユ等ニスル也、強ニ吝ノミニ非ズ、茶ガユニハサツマ芋等ヲ加フコトモアリ、 正月七日ハ、三都トモニ七草粥、十五日ハ小豆糜也、京坂アヅキガユニハ鹽ヲ加ヘ炊キ食ス、江戸ハ鹽ヲ加ヘズ、炊後專ラ霜糖ヲ加ヘ食ス、是常ニ粥ヲ食シ馴ザルノ故ニ、糖味ヲ假テ食レ之也、
p.0450 主水司 正一人〈掌二樽、水、饘、粥、〉〈謂稠糜曰レ饘、稀糜曰レ粥、〉〈及氷室事一、〉
p.0450 水司 尚水一人〈掌下進二漿水〉〈謂 汁爲レ漿也〉〈雜粥一之事上、〉
p.0450 凡諸國金光明寺安居者、〈○中略〉日米各六升四合、〈飯料二升、饘粥(○○)四合、雜餅四升、〉
p.0450 神今食祭解齋御粥料〈新嘗會亦同〉 蚫二斤、堅魚八兩、和布一斤、鹽五合、堝二口、 右自二内膳司一受レ之供奉、但米用二旦供内一、
p.0451 解齋〈○神今食〉事 次藏人供二御粥一〈堅粥也、高盛レ之、〉
p.0451 千僧御讀經事 一行道次引レ粥事〈主水司、於二南角一給レ之、〉
p.0451 太政官符、東海東山北陸山陰山陽南海等道諸國司、令三臤レ疫之日、治身及禁二食物等一事漆條、 一粥饘(○○)并煎飯粟等汁、温冷任レ意可レ用好之、〈○中略〉若成二赤白痢一者、〈○中略〉糯糒粳糒以二湯饘一(○○)飡レ之、〈○中略〉 以前四月已來、京及畿内悉臥二疫病一、多有二死亡一、明知諸國佰姓亦遭二此患一、仍條二此状一、國傳二送之一、〈○中略〉其國司巡二行部内一、告二示百姓一、若無二粥饘等科一者、國量宜下賑二給官物一具状申送上、今便以二官印一印レ之、符到奉行、 正四位下行右大辨紀朝臣〈○男人〉 從六位下守右大史勳十一等壬生使主 天平九年六月廿六日
p.0451 淡路國天平十年正税帳 正月十四日讀經貳部〈金光明經四卷、最勝王經十卷、〉供養雜用料充二稻參拾肆束玖杷捌分一、飯料米參斗貳升充二稻陸束肆杷一、粥(○)料米肆升貳合、充二稻捌杷肆分一、饘(○)料米漆合充二稻壹杷肆分一、
p.0451 ことさらに人くまじきかくれ家もとめたるなり、さらに心より外にもらすなとくちがためさせたまふ、御かゆ(○○)などいそぎまいらせたれど、とりつぐ御まかなひうちあはず、〈○下略〉
p.0451 やがてかへり參りぬべう侍ると、いそがしげなれば、さらばもろともにとて、御かゆこはいひめして、まらうどにもまいり給て、引つゞけたれど、ひとつに奉りて、猶いとねぶたげなりととがめて出て、かくい給ことおほかりとぞうらみ聞え給ふ、
p.0452 かゆこはいひ 雅望考ルニ、カユコハイヒハ、カタガユヲイヘルナルベシ、カユトコハイヒト二物ニテハアラジ、
p.0452 粥 一米一升に、水七升五合にて煮候へば、加減よき也、能にへ候時、なべの底ニおきを付置候てよし、
p.0452 白粥の焚法 關東にて白かゆは味なきものとて、食する人まれなり、つら〳〵考るに、畿内邊の焚かたとは大ひに違へり、白かゆは焚加減によりて美味にして勝手よきもの也、先焚やうはいつも食する飯の米を洗ふより前目に洗ふべし、未だ水に白みある位にして釜にいれ、水加減〈○註略〉してたくに、吹あがりたる時火を減ずべし、吹あがりこぼるゝとて蓋をみなあけて焚ば、粥の味ひを失ふ故、蓋を取きらずに少しあけて火を減じ焚べし、此時米二三粒を杓子にてすくひとり、指にてつまみ見るに、少し眞のある位と思ふなるを、薪を引盡し、たばこ二三ぶくのむ間、其まゝ置釜をおろし、〈大きなる釜ならば、そのまゝへついに置、おきをよくとりてむすべし、〉又たばこ三ぶく程呑あひだ蒸置、釜よりすぐにもりて食すべし、如レ此して焚たるかゆは甘味ありてよろし、
p.0452 十五日 所々粥 藏人所 粥二桶〈白(白下一本有二穀字一)小豆、杓二柄、○中略〉 御臺盤所 粥二桶〈同前○中略〉 已上各白粥一桶、小豆粥一桶、杓一柄、菜三種、 件粥等早旦所レ課、家司調二進之一使以二例文一分二行之一、
p.0452 左の大殿の大きみ、春宮にさぶらひ給が、もとよりもの二斗ばかりいるばか りの、しろがねのおけふたつ、おなじひさくして、しろき御かゆ一おけ、あかき御かゆ一をけ、しろがねのたゝいゑやつに、御かゆのあはせいほのよくさしやうじのよくさ、おほきなるぢんのおりびつにさしいれて、こがねのかはらけのおほきなるちひさき、しろがねのはしあまたすへて奉り給へり、
p.0453 慶長八年三月三日庚申、長橋殿へ參、御禮申入了、〈○中略〉禁中闘鶏有レ之、倉部侍大澤彌七郎被レ參了、冷ヨリ白粥給レ之、庚申待也、禁中御祝ニ倉部參了、
p.0453 雪のふりたるつとめて、院の御かゆのおろし給て、歌よめとおほせられければ、白雪のふれる朝のしらかゆはいとよくにたる物にぞありける
p.0453 若狹の白粥 若狹の國小濱にては、焚かげん功者なれば、若狹流の焚方と云也、扨白粥の焚やうは、竃の賑ひにのぶる如く、米を洗ふに少し前目に、未だ水に白みある位にとぎ、すこし堅きかゆの水かげんにしてたき、吹あがらば火をほそめ、一二粒あげてつまみ見るに、未だ米のしんあらんかと思ふ頃薪を引つくし、靜に爐も引て、しばらくむらし置、釜よりすぐに茶わんにもりて、其上に葛を醬油ニてねりたるあんをかけ、かきまぜ食すれば至て美味也、尤白粥の中に鹽を入る事なし、 米は上白の新米ならば猶味ひよろし、如レ此して食すれば、別に菜なくても食する事なれば、大に德用也、
p.0453 太閤〈○豐臣秀吉〉高野山へ參詣の時、割粥を進めよとのたまふ、暫ありて料理人調て參らす、太閤喜て云、高野山には白無き所也、我が割粥を食んことを知りて持來る、料理人才覺の至也と云、實は持來らず、俄に多人數にて俎の上にてきざみ、割粥となせり、後に咄の次に申ければ、大に怒て云、無くばなしと云て、常の粥を出さんに何の子細かあらん、我力には一粒宛けづりて食 ふも心の儘なれども、左樣のをごりけることはせぬもの也とて怒られしとぞ、
p.0454 一太閤樣〈○豐臣秀吉〉御他界之儀、いつともなしに知らせ申間敷由上意にて、五奉行衆誓紙をかゝれ申候由に候、石田治部其判を仕たる手にて、宿へ用所有レ之とて、次之間へ出状箱を求、書状認入、利家へ御知せ申上候、爲二御心得一申進候由なり、大納言樣〈○前田利家〉いつもの通御使者被レ上御機嫌伺候處に、淺野彈正殿御返事に、御他界被レ成候て晝の事なるに、今朝も割粥を被二召上一候由申參候、〈○下略〉
p.0454 破粥〈○註略〉 破粥をあさとく一度食すれば胃のふ潤ししん益をます 破粥をおほく食すな腹ふくれ小便しげくよるもねられず
p.0454 茗粥(チヤガイ)
p.0454 茶粥 ちやがゆ 茶經〈下〉傳咸司隷敎曰、聞南方有下以二困蜀嫗一作二茶粥一賣上、爲二簾事一、打二破其器具一、又賣二餅於市一、而禁二茶粥一、以蜀姥何哉
p.0454 茶粥 上方にて朝々は、茶がゆとて、よんべの茶を煮かへして、よんべの殘りの飯を入て喰ふとなり、
p.0454 茶粥 右白かゆを焚ごとく、水の澄ざる位に米を洗ひて、先茶を煎じ出し、其茶にて右白かゆの水かげんにして、鹽を程よく入たくべし、〈○中略〉 京大坂堺邊の町家にては、年中朝は此茶がゆを食せり、米の助となる事、積りては大ひなり、又儉約のみにあらず、食しなれては腹中をすかし、溜飮等の病ひをなからしめ、却て藥となりて食しなるればよきもの也、
p.0455 京坂ハ右ノ如ク午炊ヲ專トスルガ故ニ、冬日ハ朝夕ニ冷飯ヲ茶漬ニシテ食スルニ、冷ニシテ良ナラズ、此故ニ宿茶ニ鹽ヲ加ヘ、冷飯ヲ再炊シ、粥トナシテ專ラ食レ之、號テ茶ガユト云、或ハコレニサツマ芋ヲ加フモアリ、又宿飯ナキ朝ハ、粳ヲ炊クニ水ヲ甚ダ多クシ、白カユトシテ食スモアリ、白糜ニハシホヲ加ヘズ、
p.0455 大和國揚茶粥(○○○) 大和國は農家にても、一日に四五度宛の茶粥を食する也、聖武天皇の御宇、南都大佛御建立の時、民家各かゆを食し米を喰のばして、御造營の御手傳ひをしたりしより、專らかゆを用る事と云傳ふ、奈良茶といへるは是より出たる事とぞ、 扨あげ茶粥を焚には、前に記す白かゆの米を洗ふごとくざつと洗ひ、先茶を煎じ出して、常たくかゆより水を澤山いれてたき、米の眞なきやう煮たる時、桶に (いかき&ざる)をのせ、其 の中に檜杓を以てのこらずくみあぐれば、茶の湯は桶に溜り、飯は に殘るなり、此湯は又なべ〈大和にては、多く鍋にてたく也、〉に入てたぎらせ、右あげたる飯を碗にもりて、此たぎる茶をかけて食するに、至てかろくしてたべよきもの也、是は前に記す茶粥のごとくして焚ば、ねばりてあしき故、斯したる事なるべし、土人是を揚茶粥と唱ふ、
p.0455 入茶がゆ(○○○○) いれ茶がゆとは、冷飯をちやがゆにするをいふ也、先釜に煎じたる茶をいれ、鹽も程よく入、激(たぎる)中へ冷飯を入、杓子をもて塊をとき、蓋をいたし置、吹あがるを度として釜をおろし、頓(すぐ)に盛て食すべし、米よりたく粥のごとく、暫時も蒸置ては味ひあしゝ、壹人前焚てたべんと思はゞ、土鍋〈京やきのゆきひらなべか、くろきつちなべよろし、〉にて右のごとく焚べし、鐵鍋鈔鑼(さはり)鍋等にて焚べからず、土鍋より味ひ大ひにおとれり、
p.0456 餅饘事 〈家〉列見定考後朝、自二官厨家一獻二餅饘一、〈入二折櫃一、土高坏一、〉是殿上料也、依レ爲二後懸一歟、專非二供御料一、而不レ知二案内一之藏人獻二大盤所一、或奏二事由一云々、而今多宛二供御一、此事如何可レ隨二末代之例一歟、
p.0456 赤小豆粥(アヅキカヒ)〈本草〉
p.0456 あかきをもの(○○○○○○) 四季物語に、あづきの御粥成べしといへり、古歌に、 春くればあかきをものゝあへものも惠にもれぬ御代にあふらし
p.0456 小豆粥 あづきがゆ 加賀にて、さくらが(○○○○)ゆと云、但馬國にて、ざふすい(○○○○)といふ、世俗わたましに赤豆粥を煮て祝ふこと有、一説に是はもと伊豆の國風にて、三島明神の氏子伊豆の豆と三島の三を象りて、豆三粒入るより、今通じて世上の流例となるといへり、〈未レ詳〉又正月十五日小豆がゆを煮て都鄙家毎に是を食す、淸少納言枕草子〈ニ〉十五日はもちがゆのせくまいるとかきしも此こと也、をなじ草子に、かゆの木にて女をうつ事を書るも此日なり、狹衣にも見えたり、
p.0456 正月十五日雜給粥料〈撿レ薪諸司及大舍人并内侍内敎坊女等料、〉 米一石、小豆五斗、鹽八升、柏廿把、薪三百六十斤、
p.0456 獻二御粥一 十五日 けふ亥の時あづきの粥をにて、庭中に案を立て、天狗を祭て其後東に向ひ、再拜してひざまづきて是を食すれば、年中の邪氣をのぞくといふ本説有、
p.0456 十五日、あしたの物、あかの粥を(○○○○○)供ず、御かゆの御さかづき參ル、女中も御前にてたぶ、七日の御ぞうニ同じ、
p.0456 だいしこう 十一月廿三日を大師講といひ、赤小豆粥を調食ふ、天台大師の忌 日は廿四日なれど、廿三日滿山の講畢にして、僧侶も早朝紅粥を影前にて喰ふより事起たるといへり、
p.0457 紅調粥(ウンデウシユク&○○○)〈正月十五日赤豆粥也、類説曰、張誠見三婦人立二宅南一、曰我是地神也、正月半宜下作二白粥一泛二膏於其上一祭上レ我、令二君蠶桑百倍一、正月半設二膏粥一自レ此始者也、〉
p.0457 紅調粥(ウンデウシク)〈正月十五日赤豆粥也〉 ○按ズルニ、十二月八日禪僧ノ食スル粥ヲ、紅糟(ウンザウ)ト云フ、紅調ハ紅糟ノ訛轉トノ説アリ、紅糟粥ノ條參看スベシ、
p.0457 智惠粥 ちゑがゆ 日蓮宗の家にて、法華經全部習得たる時、赤小豆粥を煮て祝ふ、是をちゑ粥といふ、その始をしらず、深草元政法師の草山集に、詩二首〈并〉小引に見えたり、
p.0457 和二智慧粥詩一〈并引〉 社中有二小兒一、曾甫七歳、侍二我老親一、常觀二僧儀一而慕レ之、自不レ啖二葷腥一三四年矣、我母愍レ之、許爲二出家一、一日來二吾室一拜跪曰、我欲二出家一、願賜二出家之名一、彼小字曰レ虎、余即呼二虎哉一、彼喜而自名焉、日者習二法華一已擧、凡我俗終二法華全部一日、必煮二赤豆粥一、祝レ之、名曰二智慧粥一、我母乃設レ粥、以供二社中衆一、花園東默偶來在レ席、頌二伽陀一讃レ之、余漫嗣二其響一云、 甘露粥成盈二一盂一、嘗來便識是醍醐、得二千二百舌功德一、辛苦醎酸終不レ殊、
p.0457 豆粥(マメガヒ)
p.0457 馮異字公孫、穎川父城人也、〈○中略〉光武自レ薊東南馳、晨夜草舍〈舍止息也〉至二饒陽蕪蔞亭一、〈○註略〉時天寒烈、衆皆飢疲、異上二豆粥一(○○)、明旦光武謂二諸將一曰、作得二公孫豆粥一、飢寒倶解、
p.0457 粟のかゆ 先粟を洗ひ〈石なき粟は、洗ふにおよばず、〉 (ざる)にあげ、扨米をざつと洗ひ、相應に水かげんして、焚て吹上る頃粟を 入、少し火をほそめて焚、蓋をとるべからず、少しかたき位を度として薪を引、爐(おき)も引盡し、かきまぜ、しばらくむして、釜よりもり食すべし、粟は米と當分ならば喰よきもの也、米壹升七八合の飯を食とする所へ、米五合に粟五合のかゆをかたく焚て食するにむかふべし、ざぶ〳〵水氣のなきやう堅く焚べし、
p.0458 飯室律師好飯申樣 前後もしらずゑひぼれて、命をうしなふ事も有、あまりゑひたるときはまた、足手もさらになえはてゝ、わづかにいきはかよへども、人の正體さらになし、したしきうときあつまりて、水茶あはがゆ(○○○○)みやうがのね、つぎしぼりつゝのませよと、あはてさはぐもあさましや、
p.0458 女房ことば 一そばのかゆ うすゞみ
p.0458 蔬粥 陸游詩 自愛雲堂無二粥香一 自注、僧雜二菜餌之屬一作レ粥名二蔬粥一、無方久切、玉篇火熟也、
p.0458 大根粥 大根がゆは、右白かゆの米を洗ふごとく、ざつと洗ひ、水を多く入焚て、吹あがらんとする時、右めしに入たるごとく、きざみたる大根を入、鹽をすこし入、右白粥の火かげんに焚あげ、暫くむし置て、醬油のかけ汁にて食すべし、至て美味なり、
p.0458 暑預粥 崔禹錫食經云、千歳虆汁、状如一薄蜜甘美一、以二署預一爲レ粉、和レ汁作レ粥、食レ之補二五藏一、〈署預粥、和名以毛加由、〉
p.0458 署預粥〈イモカユ〉
p.0458 薯蕷粥(イモガユ)
p.0459 一いもがゆの事、北上記に云、雪見の肴の事、いもがゆと申物也、山のいもを油にてたつして肴にする也、それを箸ひとつにてさし食ふといふ儀あり、是は公家衆の御説なり云々、雅亮裝束抄ニ云、大將あるじの事、〈○中略〉大きやうのおんざとは、ことはてゝおほゆかにおりいて、かうぶつとて、べちたかつきに、おしきにしたるさかなくだものをまいらせ、またいもがゆなどまいらせて、〈下略〉とあり、いもがゆは山の芋の粥也、酒の肴などにも參る物也、
p.0459 署預粥ハ、ヨキイモヲ皮ムキテ、ウスクヘギ切〈天〉、ミセンヲワカシテイモヲイルベシ、イタクニルベカラズ、又ヨキ甘葛煎ニテニルトキハ、アマヅラ一合ニハ水二合バカリイレテニル也、石ナベニテニル、チヒサキ銀ノ尺子ニテモリテマイラス云々、或説云、銀ノ提ニ入テ、銀ノ匙ヲグシテマイラスベシト云々、
p.0459 一御齋會 内論議〈舊例、僧綱以二論議文一付二内侍一、〉公卿著二右近陣一、〈○註略〉两三巡後居二湯漬署預粥等一、
p.0459 十二月十九日御佛名事 廿一日同前、〈○中略〉僧侶退下、名對面後、賜二酒肴薯蕷粥於王卿侍臣一、
p.0459 大臣家大饗 次敷二穩座一〈○中略〉 次一两巡〈納言執レ之、殿上侍臣取二瓶子一、〉羞二零餘子(カレイ)、燒芋、粥等一、
p.0459 任二太政大臣一事 敷二穩座一、公卿以下下居、〈羞二肴物薯蕷粥一〉
p.0459 〈中〉暑預粥事 入レ鉢相二具提一、或不レ具レ提事在レ之、置レ提時可レ具レ匙、鉢上覆二折敷一枚一、其上可レ置レ匙也、居二鉢於折敷傍一置レ匙、〈鉢右方〉若鉢大ニシテ折敷ニ無所ハ、別ノ折敷ニ匙一支仰置テ、鉢右方並居也、又入レ提時モ居二折敷一テ匙 ヲ右方置也、此時ハ空納ノ提ヲバ、不二並居一、二鉢ヲ居ル時ハ、上方ノ鉢ノ右ニ匙ヲバ可レ置、同時若匙ヲ別ノ折敷ニ置テ居ハ、粥二鉢カ次可レ置提ハ、匙折敷ノ次可レ居也、朝覲行幸御裝束時如レ此置レ之トモ不二覺悟一、但理之所レ之尤可レ居レ之歟、
p.0460 六本外追物事 御酒盞 暑預粥 右两種之外不レ可レ有レ之、暑預粥入レ提追供事、雖レ非二法式一可レ隨レ體歟、御酒、〈盛二片口銚子一、無二異儀一、〉
p.0460 大將あるじの事 だいきやうのをんざとは、ことはてゝおほゆかにおりゐて、かうぶつとて、つちたかつきををしきにしたるさかなくだものをまいらせ、又いもがゆなどまいらせて、〈○下略〉
p.0460 雪見の肴の事、いもがゆと申物なり、山の芋をあぶらにてたつし候て、さかなにするなり、それをはし一にて喰と申儀あり、是は公家衆の御説とも申候、されども覺悟有べき事也、
p.0460 一條院、圓融寺ヘ御幸アリケルニ、御拜ハテヽ御對面シ給時ニ、クタ物イモガユナドマイラセテ後、主上釣殿ニイデ給テ、上達部ヲメシテツイガサネ給フ、
p.0460 康平三年七月十七日癸卯、大饗料理次第、納言以下〈○中略〉穩座〈削氷、薯蕷粥代、〉 四年十二月廿日己亥、有二太政大臣召事一、〈各自二去十八日一、御二東三條殿一、〉未刻殿下〈○藤原賴通〉令レ參給、〈自二左衞門陣一、令レ參給、〉即御二坐御直廬一、大内記成季覽二宣命草一、申刻有二節會一、〈○中略〉次出二御里亭一、〈東門〉左大臣以下於二南庭一有二拜禮一、〈左近少將俊明取二御沓一〉此間秉燭、各以著座、〈○中略〉次敷二穩座一、〈供二肴物一〉次召人參、盃酌兩三巡後供二薯蕷粥一、
p.0460 利仁將軍若時從レ京敦賀將二行五位一語第十七 今昔、利仁ノ將軍ト云人有ケリ、若カリケル時ハト申ケル、其時ノ一ノ人ノ御許ニ、恪勤ニナン候ケル、越前國ニノ有仁ト云ケル勢德ノ者ノ聟ニテナン有ケレバ、常ニ彼國ニゾ住ケル、 而ル間其主ノ殿ニ、正月ニ大饗被レ行ケルニ、當初ハ大饗畢ヌレバ、取食(トリハミ)ト云者ヲバ追テ不レ入シテ、大饗ノ下(オロシ)ヲバ其殿ノ侍共ナン食ケル、ソレニ其殿ニ年來ニ成テ所得タル五位侍有ケリ、其大饗ノ下侍共ノ食ケル中ニ、此五位其座ニテ薯蕷粥ヲ飮(スヽリ)テ、舌打ヲシテ、哀レ何カデ薯蕷粥ニ飽カント云ケレバ、利仁此ヲ聞テ、大夫殿未ダ薯蕷粥ニ飽セ不レ給カト云ヘバ、五位未ダ不二飽侍一ト答フ、利仁イデ飮飽セ奉ラバヤト云ヘバ、五位何ニ喜ウ侍ント云テ止ヌ、其後四五日許有テ、此五位ハ殿ノ内ニ曹司住ニテ有ケレバ、利仁來テ五位ニ云ク、去來サセ給ヘ、大夫殿東山ノ邊ニ湯涌シテ候フ所ニト、五位糸喜ク侍ル事哉、今夜身ノ痒カリテ否寢入不レ侍ツルニ、但シ乘物コソ、〈○宇治拾遺物語、作二侍らねといへば一、〉利仁此ニ馬ハ候フト云、〈○中略〉然テ川原打過テ、粟田口ニ懸ルニ、五位何コゾトトヘバ、利仁只此也トテ山科モ過ヌ、五位近キ所トテ山科モ過ヌルハト云ヘバ、利仁只彼許也トテ、關山モ過テ三井寺ニ知タリケル僧ノ許ニ行著ヌ、五位然バ此ニ湯涌タリケルカトテ、其ヲダニ物狂ハシク、遠カリケルト思フニ、房主ノ僧不二思懸一ト云テ經營ス、然ドモ湯有リ氣モ无シ、五位何ラ湯ハト云ヘバ、利仁實ニハ敦賀ヘ將奉ル也ト云バ、五位糸物狂ハシカリケル人哉、京ニテ此ク宣ハマシカバ、下人ナドモ具スベカリケル者ヲ、无下ニ人モ无テ然ル遠道ヲバ何カデ行ント爲ゾ、怖シ氣ニト云ヘバ、利仁疵咲(アザワラヒ)テ、己レ一人ガ侍ルハ千人ト思セト云ゾ理ナルヤ、此テ物ナド食ツレバ急ギ出ヌ、〈○中略〉物ナド食畢テ急立テ行程ニ、暗々ニゾ家ニ行著タル、〈○中略〉食喰ナドシテ靜リテ後、舅有仁出來テ、此ハ何ニ俄ニハ下セ給ヒテ、御使ノ樣物狂ハシキ上俄病給フ、糸不便ノ事也トイヘバ、利仁打咲テ、試ムト思給ヘテ申タリツル事ヲ、實ニ詣來テ告候ヒケルニコソト云ヘバ、舅モ咲テ希有ノ事也トテ、抑モ具シ奉ラセ給ヒタルナル人トハ、此御マス殿ノ御事カト問ヘバ、利仁然ニ候、薯蕷粥ニ未ダ不レ飽ト被レ仰レバ、飽セ奉ラントテ、將奉タル也ト云ヘバ、舅安キ物ニモ飽セ不レ給ケル哉トテ戯レバ、五位東山ニ湯涌タリトテ、人ヲ謀出テ此ク宣フ也ナド云ヘバ、戯テ 夜少シ深更ヌレバ舅モ返入ヌ、五位モ寢所ト思シキ所ニ入テ寢ムト爲ルニ、〈○中略〉傍ニ人ノ入氣色有、誰ゾト問ヘバ、女音ニテ、御足參レト候ヘバ、參リ候ヒツルト云氣ヒ不レ バ、搔寄テ、風ノ入所ニ臥セタリ、而ル間物高ク云音ハ何ゾト聞バ、男ノ叫テ云樣、此邊ノ下人承ハレ、明旦ノ卯時ニ、切口三寸長サ五尺ノ薯蕷粥各一筋ヅヽ持參レト云也ケリ、奇異クモ云哉ト聞テ寢入ヌ、未ダ曉ニ聞バ、庭ニ筵敷音ス、何態爲ニカ有ムト聞ニ、夜曉テ蔀上タルニ見レバ、長筵ヲゾ四五枚敷タル、何ノ料ニカ有ムト思フ程ニ、下衆男ノ木ノ樣ナル物ヲ一筋打置テ去ヌ、其後打次ギ持來ツヽ置ヲ見レバ、實ニ口三四寸許ノ薯蕷ノ長サ五六尺許ナルヲ持來テ置、巳時マデ置ケレバ、居タル屋許ニ置積ツ、夜前叫ビシハ、早ウ其邊ニ有下人ノ限リニ物云ヒ聞スル、人呼ノ岳トテ有墓ノ上ニシテ云也ケリ、只其音ノ及ブ限ノ下人共ノ持來ルダニ、然許多カリ、何況ヤ去タル從者共ノ多サ可二思遺一、奇異ト見居タル程ニ、五斛納釜共五ツ六ツ程搔持來テ、俄ニ杭共ヲ打テ居エ渡シツヽ、何ノ料ゾト見程ニ、白キ布ノ襖ト云物著テ、中帶シテ若ヤカニ穢氣无キ下衆女共ノ、白ク新キ桶ニ水ヲ入テ持來テ、此釜共ニ入ル、何ゾノ湯涌スゾト見レバ、此水ト見ハ味煎也ケリ、亦若キ男共十餘人許出來テ、袪(タモト)ヨリ手ヲ出シテ、薄キ刀ノ長ヤカナルヲ以テ、此ノ薯蕷ヲ削ツヽ撫切ニ切ル、早ウ薯蕷粥ヲ煮ル也ケリ、見ニ可レ食心地不レ爲、返テハ疎シク成ヌ、サラ〳〵ト煮返シテ、薯蕷粥出來ニタリト云ヘバ、參ラセヨトテ大キナル土器シテ、銀ノ提ノ斗〈○斗上一本有二一字一〉納許ナル二ツ四ツ許ニ汲入テ持來タルニ、一盛ダニ否不レ食テ飽ニタリト云ヘバ、極ク咲テ集リ居テ、客人ノ御德ニ、薯蕷粥食ナド云ヒ嘲リ合ヘリ、〈○下略〉
p.0462 事ヲ始次第 先居了、一獻又即一獻次立レ箸〈匕有時ハ先匕、次箸也、〉次汁、此時食也、〈アツキ時ハヒヤケシル、サムキ時ハアツシル也、近代此ヲ不レ辨シテ、以二熱汁一爲レ先也、〉次三獻、次又汁、已事了此上可レ有二五獻一者、此汁了、次四獻、次署預粥、〈夏冬ハ餝糖也〉次五獻、次湯漬必略也、〈夏ハ水漬〉 〈必ケヅリ氷ヲ可レ入、〉
p.0463 里芋粥 里芋がゆは、右飯を仕かけるより、水を多く入る計のちがひ也、しかし飯より米の洗ひかたまへめなり、芋のこしらへも同じ位、鹽も同じく入、始終釜のふたをとらざるやう、追々に火をほそめて焚べし、少し明て焚迄はくるしからねども、皆あけてたけば、粥の味ひ水くさければ、無二油斷一氣を付たば味ひよろし、尤焚あげ暫蒸て食すべし、
p.0463 薩摩芋茶粥 米は未だ水の澄ざる位ざつと洗ひ、先茶を煎じ出し、其茶を釜に入、其茶の中へ米をいれ焚べし、煮あがる時右飯に入たる位に芋を切入、鹽も入て蓋を取らざる樣、次第に火をほそめて焚、米を二三粒すくひとりつまみ見るに、未だ眞はかたき位を度として火を引、燠(おき)も引盡し暫くむし置、釜より碗に盛て食すべし、〈○中略〉京大阪堺にて冬分人數の家にては、此粥を焚て食する也、
p.0463 所々にみやれば、とほう火をたきて、その山のめぐりの山ふじにたにあり、ちかうみれば、火を山のごとくおこして、おほいなるかなへたてゝ、くりをてごとにやきてかゆにさせ、よろづのくだ物くひつゝ、人々の御もとなる人にたびゐたり、
p.0463 とち粥は、橡の木の實を粥の中へ交へ煮たるなり、太平記卷五に、大塔宮熊野落の條、十津川の民家に宮宿り給ひければ、栗飯、橡粥などを參らせし由見たり、
p.0463 大塔宮熊野落事 大塔宮二品親王〈○護良〉ハ、〈○中略〉般若寺ヲ御出在テ、熊野ノ方ヘゾ落サセ給ケル、〈○中略〉路ノ程十三日ニ十津河ヘゾ著セ給ヒケル、宮ヲバトアル辻堂ノ内ニ奉レ置テ、御供ノ人々ハ在家ニ行テ、熊野參詣ノ山伏共、道ニ迷テ來レル由ヲ云ケレバ、在家ノ者共哀ヲ垂テ、粟ノ飯、橡ノ粥ナド取出シテ、其 飢ヲ相助ク、宮ニモ此等ヲ進セテ、二三日ハ過ケリ、
p.0464 五味粥(コミシク)
p.0464 於二五味粥并饌飯一者、由來聊不快之間、待二高賓之時一、先不レ須薦レ之云々、
p.0464 其羮名者〈付〉煎點 五味粥
p.0464 一同〈○正月〉七日ノ朝御祝同前、御椀飯ハ自二政所一參、仍銀劒計參テ、御弓、征矢、沓、行騰、御馬等ハ不レ參、内ノ御椀飯同前、其夜御五味粥參也、
p.0464 十二月 温糟の粥〈八日〉 臘八粥〈釋尊成道の日也、本朝の五山に於てこの義あり、又唐山にても、十二月八日都の詩寺に於て浴佛會をなし、或は七寶五味の粥(○○○○)を贈る、これを臘八粥〈ト〉いふよし所見あり、〉
p.0464 なゝくさ 七種の粥は、延喜主水司式、正月十五日供御七種粥料、米、粟、黍子、 子、薭子、胡麻子、小豆と見えたり、拾芥抄には、大角豆、菫子(セリ)、署預ありて、薭子、 子胡麻子なし、公事根源に、大豆、粟、柿、豇豆(サヽケ)あり、黍、薭、 、胡麻なし、
p.0464 踐祚大嘗會解齋七種御粥料 米、粟、黍子、薭子、 子、胡麻子、小豆各三斗、鹽二顆、陶瓫堝各七口、土埦七合、鋺形片坏各十口、阿世利盤七口、洗盤四口、麻笥盤二口、中取案切案各二脚、陶臼土火爐各二口、炭二斛、白米九升、漿料著レ足土埦四合、瓫三口、炭六斗、〈親王已下、五位已上通用、〉 ○按ズルニ、七種粥ノ事ハ、歳時部年始雜載篇七日條、及ビ十五日粥條ニ在リ、
p.0464 紅糟(ウンザウ)
p.0464 紅糟(ウンザウ)
p.0464 紅糟(ウンザウ)
p.0465 紅糟粥 うんざうがゆ 温糟粥 十二月八日に奉る也 尺素往來、神樂寒更之紅糟は臘八之佛供、或書云、十二月八日、釋尊此曉に明星を見て成道し給ふ朝なれば、禪家の僧、夜中座禪して、曉に粥を煮て、佛に供し我も食也、臘八の粥(○○○○)といふ是也、 今案に臘八紅糟とは、臘沓子の事也、守護國界主陀羅尼經、〈九〉臘沓子の事有て、希麟音義云、徒合反、考聲合也、説文從レ水音別、與二雜還一字義同、經文從レ水、舊作レ沓、或作レ沓誤書也、安臘沓子者、以二五穀一雜合一處、用以加待、如二今俗言臘雜子一也、と見えし物也、 温糟粥 櫃司ヨリ十二月八日上レ之、かゆにみそ并酒のかすを少し四角にきざみてにる、又温糟、本作二紅糟一、出二于勅修淸規一、即赤豆粥之類也、下學集曰、紅調粥(ウンテウカユ)、正月十五日赤豆粥也云々、紅調蓋紅糟訛轉也、貞丈按に、アヅキガユの説難レ信歟、 ○紅糟粥ノ事ハ、歳時部歳暮篇臘八條ニ詳ナリ、
p.0465 をばながゆ 禁中に八朔に用ゐさせらるゝ也、康富記にも見えたり、昔は薄の黑燒を粥に雜えたりし、今は早稻の黑燒を合すといへり、内々行事には、米の粉を黑胡麻にて煉交たる也と見ゆ、
p.0465 尾花のかゆ この事よくもしれぬ事也、薄のあくにて染るなどもいへれど、是もしるしとすべきこともなし、尾花栗毛などいふ馬の毛色なども有をおもへば、うす赤き色なるべしとおしはかる、南史の任昉が傳に、唯有二桃花米廿石一といふこと有、これも色によりての名とぞ思はるゝ、また留靑日札に、桃花飯言飯紅潤之色といふによれば、これらやあたるべきに似たり、されどもいかなるわざをして色をつくるにや、また自なる色かもしるべからず、或人は今此方にていふトウボウシとい ふ米は赤き物なれば、それをいふかともいへれど、思ふにすべて西土の米は我國の如きはすくなし、さらばかくわかちはいふまじきにやと思はる、
p.0466 尾花粥〈尾花色〉與淸按に、空穗菊の宴〈六十三丁ウ〉に、すきばこよつに箸坏すゑて、紅葉を折しきて、まつのこくだものもりて、くさびらなどしてをばな色の強飯などまゐるほどに、かりなきてわたる云々、同樓の上下〈一丁ウ〉に、をばな色の細長云々、太郎百首駒迎、 關の戸に尾花あしげの見ゆるかな穗坂の駒を引にやあるらん、などあるを思ふに尾花色は白色に少し薄黑を帶たるをいふ也、げに尾花の色純白の物ならず、靑黑色の氣あるものなればさる色をいへるなるべし、葦毛は白色なるに、尾花葦毛といへば黑色まじれるにて、鈍色に似て夫よりもはなやかなる也、
p.0466 嘉吉二年八月一日己丑、晝過程、參二淸外史之文亭一、依二遲參一、先有レ使、例式賞二翫薄粥一(○○)、有二一盞一之後退出了、外史被レ語云、今日食二薄粥一之事、未レ見二出處一、若被二見及一歟、予十節記之中不レ見二此粥之事一之由返答了、誠可レ尋二出處一文也、 南呂之令節、中華之嘉珍、祝著幸甚、殊先傾二一鍋一、次用二一雙一之條、御計殊本望候、爲二其禮一、太刀一腰、杉原十帖、筵十枚進候、期二面賀一候也、 八月一日〈爲二返状一間歟、表無二充所一也、〉業忠 ついたちのめでたき御返しことさらばかり、一かさねつかはされ候よし、おほせ事に候、めでたくかしく、 日向どのへ 〈鷹司殿ヨリ御返〉 自二御所樣一返、殊更計ニ三色被レ使候由、心ろへて申候へと被二仰下一候、恐惶謹言、 八月六日〈引合十帖、扇、茶碗等、被レ下也、〉季隆 〈表書〉日向守殿 季隆 〈裏書〉一條少將
p.0467 八月朔日ニ小花粥(○○○)、内裏仙洞以下令レ用給、良藥ト云々、彼粥調法ハ、薄ヲ黑燒ニシテ粥ニ入合ス也、
p.0467 八月朔日 一おばなの御かゆ 〈米をひきわりてこしらゆる也、大小の御はちに九分め程二つ參る也、おばなをくろやきにして、御かゆの中へ入てよくまぜて、うすみそ色にして參る也、〉
p.0467 八月一日、尾花粥と云事は、らいれき有て、七月廿七日の諏訪のみさ山の神事の時、尾花を取て置て、其を黑やきにして認るなり、就レ其色々の謂ありといへども不レ及レ註、世上に是を用て粥をにて尾花粥といへり、
p.0467 なゝひこのかゆ 誕生七夜にいへり、或説になゝひこは甲斐國の所の名也、其所の米を、めしよせて粥にして、七夜々々に産所に用うといへり、
p.0467 かゆ 御産の時の粥は、甲斐の國七ひこの里の米を用うといへり、甲斐の音かゆに近く、七ひこは七世の孫の義を取なるべし、
p.0467 啜粥詞〈男子〉 問、此殿〈仁〉夜啼〈志〉給〈布〉姫君〈夜〉御坐〈須、〉 答、此殿〈仁八〉夜啼〈志〉給〈布〉姫君〈毛〉、自レ此〈利〉東〈仁〉谷七峯七起〈氐古曾、〉夜啼〈志〉給〈布〉姫君〈八〉御坐〈奈禮、〉 此殿〈仁八、〉命長〈久〉官位高〈久、〉大臣公卿〈仁〉可二成給一〈幾〉若君〈曾〉御坐〈須、〉 問、然者甲斐國鶴郡〈仁〉作〈氐布、〉永彦(○○)〈乃(○)〉稻(○)〈乃(○)〉粥(○)永〈久〉啜〈良牟、〉
p.0468 産七夜 君がよをなゝひこのかゆなゝかへりいはふことばにあえざらめやは
p.0468 七御許者、食飮愛酒女也、所レ好何物、鶉目之飯、蟇眼之粥、
p.0468 神仙粥 褚人獲曰、神仙粥專治二感冒風一、寒暑濕、頭疼骨痛、并四時疫氣、流行等症一、初得兩三日、服レ此即解、用二繻米半合、生薑五大片、河水二碗一、於二沙鍋内一、煮一二滾、次入二帶鬚大葱白五七介一、煮至二米熟一、再加二米醋小半盞一、入レ内和匀、乘レ熟吃レ粥、或只吃二粥湯一、即於二無風處一睡以レ出レ汗爲レ度、此以二糯米補養一爲レ君、薑葱發散爲レ臣、一補一散、而又以二酸醋一斂レ之、甚有二妙理一、予〈○朝川同齋〉屢用二此法一、屢得二功驗一、告二之一醫生一、生亦用レ之大奏レ功、嗟乎世之奔醫取レ法、輙失二於鑿一、古人謂、良劑在レ近、不レ可二遠求一、信然、
p.0468 神仙粥 糯米〈二三勺〉生姜〈大ぶり五片〉水二碗入て、土鍋にて煎じ二ふきほど煮たちたる時、小根をさらざる葱のしろみを六七本細に切りて入、米葱ともやはらかになりたる時、酢を小皿に四半分ほど入てかきまぜ、熱き内に食す、もし食しかぬる人は、湯ばかり飮てもよし、食し終らば風のあたらざる所に臥してあたゝまり、汗のいづるを度とす、 右神仙粥の方は、淸の褚學稼が堅瓠集に出て、感冒、風寒、暑濕、頭疼、骨痛、四時、疫氣、流行等にもちひて即功あり、右等の證を得たりとおもふとき、早く用ゆれば、他の醫療に及ばず、愈る事神の如し、是は糯米の補養を君とし、生姜と葱との發散の品を臣とし、一補一散のうへ酢にて收斂すれば、深き妙理ありて、尋常の發散劑と違ひ、格別の神藥なりとぞ、〈もち米なきときは、うる米にても功あり、酢をかゆの中へいるゝをきらふ人は、別に少しのみてもよし、又梅干をくらふよし、〉
p.0468 殿中さま〳〵の事 一公方樣へは、九月九日の朝より、御かゆ(○○)、燒栗九ッ、こぶ九きれ〈一寸四方〉百日參候、
p.0469 九月九日 一今日より十二月廿日迄、御かゆ栗こぶ參る、山のいもゝをろし候て參せ候、御かゆの入料、政所より請二取之一云々、進士説、
p.0469 食物之式法の事 一かゆのさいしん引事、若粥に汁かけ候人あらば、其人にさいしんを引べからず、是ははやくふまじきとおもふ時、汁をかくる也、
p.0469 粥を喰事、器を取上かゆを二くち喰、さんせうの粉をしるへ入かきまわし、是はしるをすひ、其後身をくうべし、
p.0469 粥に汁懸ケて不レ可レ喰、若宿老などは左樣にも可レ有、學べからざる也、
p.0469 粥之事 一かゆをまいるに汁をかけくはざるよし、世上申ならせしなり、細川右馬頭入道などは、くるしからずとて、常に汁をかけもちいられし也、同じく房州も常にこのぶんたり、しかるとはいへども、若衆などは用捨あるべき也、
p.0469 粥を目出度事に用よるは、粥祝通音ゆへなり、
p.0469 渡ましの時、粥に豆三粒入れ食する事、伊豆の國風にて、三島の氏子渡ましの時、三豆を粥に入、是伊豆の豆と三島の三を象りて、豆三粒入る、此事世上へ流布して、今通じて致す事になりたり、
p.0469 粥 張來粥記云、毎晨起食レ粥一大椀、空腹胃虚穀氣便作、所レ補不レ細、又極柔膩、與二脹胃一相得、蓋粥能暢二胃氣一生二津液一也云々、故作レ此勸二人毎日食一レ粥、勿二大笑一也、粥ヲ食スレバ腸胃ニ不レ滯脾氣 ヲ養フ、然ドモ人ノ性ニヨリ粥ヲ食スレバ、胃ニ溼ヲ生ジテ泄利シヤスク、小便シゲク無二氣力一、夜中ニ食スレバ稠粘スル故、痰ヲ生ズト云、人ノ性ニヨルベシ、一偏ニ不レ可レ論、
p.0470 天王寺別當道命阿闍梨語第卅六 今昔、道命阿闍梨ト云フ人有ケリ、〈○中略〉陸奥ノ守源ノ賴淸ノ朝臣ト云フ人、左近ノ大夫トテ、極テ不合ニテ有ケル時ニ、此ノ阿闍梨ハ父ノ傳ノ大納言ノ縁ニ依テ親シカリケレバ、常ニ其ノ房ニ行ケリ、而ルニ其房ニシテ賴淸粥ヲ食ケルニ、粥ノ汁(○○○)ナリケレバ、賴淸此ノ御房ニハ粥コソ汁ナリケレト云ヘバ、阿闍梨道命ガ房〈○房一本作レ爲〉ニハ粥汁也、主ノ御家ニハ飯固シト云ケレバ、其ノ座ニ有リト有ル人、頤ヲ放テゾ咲ケル、
p.0470 嘉保二年七月七日庚子、今日大將殿三夜、〈○中略〉有二廻粥(○○)事一、安藝守有俊朝臣問レ之啜レ之〈師季、國宗、實淸、經忠云々、〉
p.0470 仁海僧正ハ食鳥ノ人也、房ニ有ケル僧ノ雀ヲエモイハズ取リケル也、件雀ヲハラハラトアブリテ粥漬(○○)ノアハセニ用ケル也、雖レ然有驗之人ニテ被レ坐ケリ、大師之御影ニ不レ違云々、
p.0470 永和五年二月三日、因レ雪代二上堂一、擧二法雲雪下三等僧一事二大惠一後、在二虎丘一親見云々、〈○中略〉今大雪如レ此城中外民凍餒殆死人、薪貴如レ玉、本院宜以レ約度レ時、五更洗レ面湯庫司、不月燒レ之、方丈易瓶湯、四更略傾用レ之、昔湛堂準和尚律レ身以二小杓湯一洗レ面、尚餘用濯レ足云々、古人不レ雪、尚如レ此用レ儉、況大雪乎、又粥汁(○○)者、亦宜二暫停一レ之、凡粥有レ汁者、日本風俗也、大國但用二鹽鼓齋等一耳、今建長毎日堂中粥菜、以二七文錢一買二胡麻鹽一者、因引僧寶傳神鼎 和尚住レ山時、明敎嵩公初主 指二庭下兩醬甕一曰、汝來、正時哉、蓋住山十年來、今年始有二醬食一也、恃曉赴レ粥、堂外坐有下力士擧レ筐投二物僧鉢中一作レ聲者上、問レ之則碎餅餌耳、詳載二本傳一、古人住レ山安レ衆、不レ論二粥飯精麁一、但是行レ道如何耳、伏幸諸人不レ患二暫時粥汁一、凡福不レ可二受盡一、盡則當來窘レ之也、
p.0471 應永十二年七月十日癸卯、池尻殿今日渡二給一封一云々、北小路宿所被キ、今日吉日之間、即可二渡注一之由示預、仍秉燭女中八葉車ニテ兩度ハコブ、倉部ハ乘馬ニテ先向也、予秉燭板輿出行、移徒祝二三獻一、又粥(○)等也、
p.0471 一新屋了心夜咄、〈○天正十四年十二月六日〉松波虎藏主宗ゝ宗ゝ書院古金屏風立て、爐釜五德すへ、瀨戸茶碗道具仕入て、棗釣瓶面つ引切、先古き四方盆に搗栗蜜柑入て出、其後薄茶、良咄て粥出也、
p.0471 慶長八年二月十三日、寅刻に出仕、公宴連歌御會二百韻也、初夜ニ滿、粥食两度御酒度々在レ之、御人數ハ十三人、御製ヲ始、八條殿、照門、妙門、聖門、一門、陽明、廣橋大納言、也足、予、飛鳥井宰相、勸修寺宰相、光廣朝臣、初執筆阿野、後ハ猪熊也、
p.0471 〈甚音、云レ糝煮レ肉也、 字同、古奈加支、〉
p.0471 糂 糝 〈四形同、桑感反、上、米和レ羮也、但 索坎反、殘也、餘也、糝、素坎反、上、精米也、伊比須久、〉
p.0471 餗 周易注云、餗〈音束、訓古奈加木、〉鼎實也、
p.0471 周易鼎九四、鼎折レ足覆二公餗一、王弼不レ注二餗義一、按説文、鬻鼎實、又載二餗字一云、鬻或从レ食、束聲、漢書王商傳、有二鼎折レ足之凶一、後漢書謝弼傳、必有二折レ足覆レ餗之凶一、注並云、餗鼎實也、穀梁傳、故易訊鼎折レ足、注謂鼎之實、皆與二此所一レ引合、蓋或是鼎卦舊注也、按周禮醢人疏、引二易鄭注一云、糝謂二之餗一、周易正義亦云、餗糝也、糝古文糂字、見二説文一、説文又云、糂以レ米和レ羮也、内則注云、凡羮齊宜二五味之和、米屑之糝一、釋名、糝黏也、相黏 也然則餗者即糝、以二米若米屑一、和レ羮相黏 者也、
p.0471 、 レ米和レ羮也〈古之羮必和以レ米、墨子藜羮不レ糂十日、呂覽作二藜羮不レ斟、七日不レ粒、不斟正不糂之誤、内則注曰、凡羮齊宜二五味之和米屑之糝一、〉从米甚聲、〈桑感切、七部、〉 、古文糂从レ參、〈參聲、亦在二七部一、周禮醢人、内則、皆如レ此、作二周頌潛一有二多魚一、傳曰、 糝也、古本如レ此、爾雅糝謂二之涔一、涔即詩之濳也小爾雅及郭景純 改レ糝爲二木旁一、謂積柴水中一令二魚依レ之止息一、字从レ木也、而舎人李巡皆云、以レ米投二水中一養レ魚曰レ涔、似二其説各異一、不レ知積レ柴而二投レ米焉、非レ有二二事一、以二其米一故曰レ糝、以二其用一レ柴、或製レ字作レ罧、罧見二淮南書一、 槮皆魏晉間妄作也、〉
p.0472 糝〈素感反、美糝、トク、コナカキ、〉 糝〈古〉 糂〈正〉
p.0472 餗鬻〈今正音速饘、コナカキ、〉
p.0472 こながき 倭名抄に餗をよめり、又糝をよめり、字書に糝以レ米和羮也といひ、餗糝也といへば、粉菜搔雜たるの義、米粉をもて菜羮に和する也、杜子美が糝レ徑楊花といへるも、米粉をかくるが如きをいふ也、新撰字鏡に もよめり、
p.0472 增水(ゾウスイ&○○)〈糝也(コナガキ)〉
p.0472 增水(ゾウスイ)
p.0472 若菜醬水(ミソウヅ)者、〈玉糝羮〉人日之俗儀、七穀烹レ粥者、上元之世禮、
p.0472 其羮名者〈付〉煎點 剖糝(ワリノミソツ)
p.0472 女房ことば 一ぞうすい おみそう(○○○○)
p.0472 粥〈○中略〉凡物の粘ずるを、〈○中略〉下學集に、增水の字讀でゾウスイといひ糝也と注せり、其用ひし所の字によりて見れば、粥にして水を增すの義也、されどその注せし所によるに、今も民間にして、菜蔬の類を鹽水をもて煮熟したるに、米麥等の粉を和し、即今增水といふものゝ始此ものより起りしなるべし、或説に即今ゾウスイといふものは、即雜炊の字の音をもて呼びし也、增水としする事しかるべからずといふ、不レ知レ詳、
p.0472 みそうづ 著聞集にみゆ、味醬水の義にて、今いふ雜炊にや、砂石集に、よひ〳〵にもちひみそうづいとなみてといふ連歌あり、みそうがゆといふも味噌粥なるべし、
p.0473 雜炊、ざふすい、河内及播州邊にて、びやうたれ(○○○○○)と云、加賀越中或は但馬にて、みそづといふ、越前にて、にまぜ(○○○)と云、伊勢にて、いれめし(○○○○)と云、東國にて、ざふすい又、いれめしといふ、婦人の詞に、おぢや(○○○)といふ、又京都にて、正月七日の朝、若菜の鹽 (こなかぎ)を祝ひて食す、これをふくわかし(○○○○○)と云、大坂及堺邊にては神棚に備たる雜煮、あるは飯のはつほ等を集置て、糝(こながき)に調へ食す、これを福わかしと云、こながきとは俗にいふ雜水也、土佐の國にては、正月七日雜水に餅を入たるを福わかしと云、武江にては、正月三日、上野谷中口護國院に福わかし有、大黑の湯と稱す、男女群參すること也、
p.0473 一ぞうすいも古よりあり、上臈名の記に、女の詞にぞうすいをおみそうと云よし見へたり、是はみそうづと云事を略したることば也、正月祝儀飾の繪に、正月七日七草の御みそうづのこと見へたり、足利殿御代は、七草はかゆにせずしてざうすいにしたるなり、是將軍家の御家風なるべし、世上如レ此にはあらざるなるべし、七草のかゆと云事は、古よりありし也、
p.0473 雜水 俗ニ飯汁混淆シテ、煮食スルモノヲ云フ、其名古ルシ、内則ノ飮モノヽ中ニ濫アリ、鄭註ニ、濫以レ諸和レ水也、〈陸德明曰、乾桃乾梅皆曰レ諸、〉正義曰、案漿人六飮有レ凉、註云、凉今寒粥、若糗飯雜水也トミエタリ、
p.0473 雜炊〈古ヨリ有レ之、足利家ハ七種ノ粥ヲ用ヒズ、七種ノ雜炊ヲ用ヒ、御ミソウヅト云、御ミソウヅハ女詞也、〉 今世京坂ニテハ、男女トモニゾウスイト云者專也、江戸ニテハ男女專ラオジヤト云、於玆也、字未レ詳、是モ實ハ女詞ナルベシ、 今制雜炊ハ味曾汁ヲ以テ米ニ葱ヲ交ユルヲ、京坂ニテネブカゾウスイ、江戸ニテネギゾウスイ、其他三都トモ、種々菜蔬ヲ交ヘ定リ無レ之、 又京坂ニテハ、カキゾウスイヲ食ス、味曾汁炊也、蠣ヲ交ル也、是ヲ雜炊ノ上製トス、又京坂正月 日ニハ、鹽雜炊ト云テ、味曾ヲ用ヒズ、菜ヲ切交ゼ雜炊トスルヲ例トス、切餅モ交ユル也、又三都トモニ、稀ニハ味曾ヲ用ヒズ、醬油制ニスルモアリ、
p.0474 著二大盤一事 殿上食雖レ似レ無二定事一、非レ無二其度一、如二餹飯餅味噌水(○○○)芋之類一所レ不レ用也、
p.0474 五節雜事 内大臣令三五節進二給定文一〈關白忠○忠通〉 一祿法〈○中略〉 饗三箇度〈上一前女官一前役五人共女官九人〉 味曾水一度
p.0474 一同〈○正月〉十五日朝、御祝如レ常、〈○中略〉御椀飯ノ時粥參賴入ル、朝モ被二聞召一、然ドモ前々ヨリ大草進上ハ、七日ノ御ミソウヅモ、十五日ノ御粥モ、御椀飯ノ時也、萬一可レ有二不審ノ方一間、巨細記レ之、
p.0474 正月七日 一御ミソウヅ御土器ニ入テ參、大草調二進之一、但御コワ供御參候ハネバ、御ミソウヅモ不レ參候、大草入道説、 十二月廿一日 一今日ヨリ御ミソウヅ參、進士説、
p.0474 七日、あしたの物(○)、御み(○○)そを供ず、夕方御みそたりの御盃參る、〈○中略〉女中にも御みそ御前にてたぶ、上臈のかぎりは御前のをしきにすう、中臈以下はかはらけばかり也、よろづの物みなかくのごとし、但しをしきにすぐにすわるものは、中臈下臈にもをしきにてたぷ也、
p.0475 七日〈○中略〉 著二座神館一、橫座總官、北座權官、氏人南北二行、下客殿南座、大海社司以下氏人、北座政所目代神官等著座、陪膳侍候、造合肴三種進レ之、一獻、味曾水菓子御飯進レ之、總官前菓子、先於二下客殿大海社司政所目代以下一、各一種居也、下客殿未噌水居也、役送住江殿兵士、二獻畢撤、
p.0475 九條民部卿顯賴弁官之時、有二公事一之日、早旦參陣、漸及二深更一之間已臨レ飢、仍於二床子座一喚二雜色一示二其由一了、頃之雜色黑器ト云物ニ、ミソウヅノ毛立タル一盃ト、薯蕷ノ燒タル二筋トヲ持來ル與レ之云々、黑器物ヲバヒキソバメテ皆啜クヒテ、只今ゾ人心地スルトテ、イモヲバワドノヨククヘトテ授二師光一〈大外記〉云々、床子座ハ腋陣トテ、如二然事一無レ憚之所云々、
p.0475 田上に侍りけること、こもりがいねといふ物を、もちゐにして、とり出て侍りけるを、またのひ、みそうづにして侍けるを見てよめる、 ほうしごのいねとみしまにもちぬればみそうづまでもなりにける哉、〈○又見二古今著聞集一〉
p.0475 此比ぶさたの知了房といふもの有ける、能書にてなん侍ける、ある人古今を書うつしてたべとてあつらへたりけるを、受取ながらおほかたかゝざりければ、主しかねて、今はたゞかゝずともかへし給ふべしといひければ、智了房こたへけるは、過にし此痢病をつかうまつりしに、紙おほく入候にしに術つきて、さりとてはとて、その古今の料紙をみなもちゐて候也といひければ、ぬしいふばかりなくおぼへて、料紙こそさやうにもし給ひたらめ、本は候はん、それを返し給らんといへば、智了房其事に候、其本をも紙みそうづにみなつかうまつりて候をば、いかゞし候べきといへりけり、〈○下略〉
p.0475 寶前以下供米一月所入用〈○中略〉 後夜味噌水米 壹石八斗〈日別六升〉府生大夫 藥師堂味噌水米 九斗〈仕丁四人中○中略〉 文治四年十二月十八日乙卯、護國寺不斷味噌水始レ之、毎朝七升、夏衆者中精六升、 同十一月十八日己酉、山上味噌水始レ之、助參沙汰也、以上成淸記、
p.0476 人之感有歌 又或人ノ句 ヨヒ〳〵ニモチイミソウヅイトナミテ 是ヲツグ 軒ノタチバナモトツハモナシ サセル句ナラネドモ書付侍リ、寫給ベカラズ、
p.0476 家業於レ民不レ可レ然、日高啜レ茗袂相連、糝(○)羮一椀萩三束、頭被二烟埃一徒送レ年、贈下燒萩啜二朝茶一人上、
p.0476 一われは增水のきらひなりとつねにいふ者あり、晩かた增水なかばへきたる、ちと申さんずれど、おきらひなるまゝ是非なしとあれば、何とこのぞうすいに胡椒はいらぬか、いやいらぬ、それならばちとたべふと、