p.0695 雜物部〈附調度〉
船具 かじ ほ いかり にくさび〈万、舟ににかくるもの也、〉 ほて ほなは とま ろかひ やかた つなで〈○中略〉 さほ 見なれざほ〈水になれたる也○中略〉 まかぢ やかぢ とりをも〈○中略〉 みくさみ〈舟ばらに草をあみたる物なり〉
p.0695 艣 唐韻云、〈卽古反、與レ魯同、〉所二以進一レ船也、
p.0695 按説文、無二艣字一、古用二櫓字一、説見二屋宅類櫓條一、釋名、櫓、膂也、用二膂力一然後舟行也、太平御覽引、膂作レ旅、按船櫓之並二列船旁一、其形如二盾櫓之並植、却二敵城上一也、
p.0695 艫〈ロ、舟艫也、〉 櫓〈同 俗用此作也〉
p.0695 櫓(○)〈舟カイ也〉
p.0695 櫓(ロ)〈舟〉
p.0695 艫(ロ)〈活法、進レ船者、通作レ櫓、〉櫓(同)〈又通作レ艪〉艩(ロホソ/ロベソ)〈字彚、用以承レ櫓者、蓋其形似レ臍、故以レ臍名、〉 逆櫓(サカロ)〈難風所レ用〉
p.0695 艣(○) 小名櫓脚(○○)〈雜字大全に出たり、今櫓の葉と云、〉入子〈雜字大全、櫓跳と云なるべし、櫓に有て櫓杭に合ふ所、〉腕(ウテ/○) 柄(ツク/○) 違繩(○○)〈上下あり、さきたかい、しりたかいと云、〉
棹櫓(○○) 今繼て用る故、繼がざる者を棹櫓と云、又搖櫓(○○)、からろ(○○○)と云は、櫓を押すの名、逆櫓(○○)と云は、櫓 をたつる名也、
艩(ロクイ) 櫓杭也、雜字大全、艣枘、合類節用、櫓柎と書は非也、字彙曰、艣艩、用以承レ㯭者、其形似レ臍、故以名レ艩、訓蒙圖彙、ろほぞと讀せり、樫を用て作り、櫓床にさしこみ、櫓の入子に合せて櫓をうくる者也、
p.0696 さかろ
十六日、〈○元曆二年二月、中略、〉去程に、わたなべには、東國の大名小名よりあひて、抑我ら、舟軍のやうは、いまだてうれんせず、いかゞせんと評定す、かぢ原〈○景時〉すゝみ出て、今度の舟には、さかろをたて候はゞやと申す、判官、〈○源義經〉さかろとはなんぞ、かぢはら、馬はかけんと思へばかけ、引んと思へば引、ゆん手へも、めてへも、まはしやすう候が、舟はさやうの時、きつとをしまはすが、大事で候へば、ともへにろを立てちがへ、わいかぢを入て、どなたへもまはしやすいやうにし候はゞやと申ければ、判官、門出のあしさよ、軍には、一引もひかじと思ふだにも、あはひあしければ、引はつねのならひなり、ましてさやうに、逃まうけなんに、なじかはよかるべき、殿ばらの舟には、さかろをも、かへさまろをも、百丁千丁をも立給へ、よしつねは、只もとのろで候はんとの給へば、〈○下略〉
p.0696 金崎城攻事附野中八郎事
中村六郎ト云者、痛手ヲ負テ舟ニ乘殿レ、礒陰ナル小松ノ陰ニ、太刀ヲ倒ニツイテ、其舟寄ヨト招共、アレ〳〵ト云計ニテ、助ントスル者モ無リケリ、爰ニ播磨國ノ住人野中八郎貞國ト云ケル者、是ヲ見テ、〈○中略〉此船漕戻セ、中村助ント云ケレ共、人敢テ耳ニモ不二聞入一、貞國、大ニ忿テ、人ノ指櫓(○○)ヲ引奪テ逆櫓ニ立、自船ヲ押返シ、遠淺ヨリ下立テ、只一人中村ガ前へ步行、
p.0696 棹櫂〈檝類也、謂二木无一レ枝、柯櫂長而殺者也、船乃加伊、〉 〓〈加伊〉
p.0696 棹 釋名云、在レ旁撥レ水曰レ櫂〈直敎反、字亦作レ棹、漢語抄云、加伊、〉櫂二於水中一、且進レ櫂也、
p.0696 按、海船撥レ水令二船進一者、今亦呼二加伊一、此所レ言卽是其用與レ艣略同、又淺水之處、 撐二水底一令二船進一者、亦呼二加伊一、其用與レ㰏同、蓋櫂之一轉者也、
p.0697 〓〈カイ〉
p.0697 櫂〈正、直狡反、ヲサ、サヲキ、〉 棹〈通、サヲ、カイ、〉
p.0697 棹、櫂〈上通下正〉
p.0697 棹〈カイ舟棹〉 榜 櫂〈已上同〉
p.0697 械(カイ)〈船〉 櫂(同)
p.0697 櫂(カイ)〈舟具〉
p.0697 櫂 字彙曰、進レ船檝、在レ傍撥レ水、短曰レ檝、長曰レ櫂、韻會曰、前推曰レ槳、後曳曰レ櫂、縱曰レ櫓、横曰レ漿、是にて別べし、前べ押す槳は打かい(○○○)也、後へ曳く櫂はかゐ(○○)也、縱に押す者は櫓(○)也、横に押す者は打かゐ(○○○)也、〈○中略〉武備志に、其尾無レ櫓、其傍無レ槳といへり、しかれば舳に立大なるを櫓と云、左右の傍に立を槳と云、則わきろ(○○○)と讀せり、軍書等に脇櫓脇梶と云も櫓なり、ろ(○)、かい(○○)、さほ(○○)、かぢ(○○)、四名一物(○○○○)にして、大小長短の品に依て、文字の差別あるべし、ろと云、かいと云、さほと云、かぢと云べき者、櫂、棹、䑲、檝、楫、橈、枻、〓、槳、䒂、榜、篣、㰏、般等の字也、いづれも、ろ、かい、さほ、かぢと云讀はあれども、今云、ろにも、かぢにもあらず、万葉拾穗、季吟曰、此集かいをかぢとよむ歌おほし、上古は假名づかい、さして定らざる故也といへり、万葉に、檝をかいとよめるを、和名抄に加遲とす、万葉にかぎらず、古にはかいをかぢと云しと見へたり、〈○中略〉万葉に、八十梶かけと讀るは、八拾丁立なり、漢に八十棹と見へたり、是棹櫓なるべし、和名抄、舵をたいしと云にて見るべし、今是をかぢと云、船一艘に、たゞ一ツ有者なり、〈○中略〉古事記、万葉等、楫、橈、梶と書、爲二柁字一謬乎といへり、又書にのするといへども、誤る者すくなからず、續日本紀、文德實録、桅をかぢと訓ず、和玉篇に舵をさほとし、給をかぢと讀せり、甚敷者は、下學集、節用等、械の字を書、船具とす、械はあしかせなり、音かいと云故に誤る者か、則船械と云は、船底に穴を明、首かせとする也、五車韻瑞に見へたり、駱賓王集に、輕舸木蘭橈、楊泉五湖 賦に、赤檜爲レ櫂、詩の竹竿篇に檜楫あり、是皆かいなり、今艫櫂とすべき者、樫を用、儲、櫟、マテバシイなど用こと、貝原和本艸にも載られたり、〈○中略〉
打檝 万葉に、玉纒の小檝とよめり、藻鹽草に、うちかいといへり、字注、在レ傍撥レ水、短曰レ檝、又前推曰レ槳、縱曰レ櫓、横曰レ槳、櫓は櫓床ありて、たてに押す者なり、打かいは小船に用、船枻に繩をわなにくゝり、是に通し、左右のかたはらに有てみじかく、船枻をろ床として、横に水を撥、前へおして船をやる者也、韻會に注せるがごとし、しかれば檝、揖、槳、䒂、橈、並に打かいとすべし、舳のおさへに立るを練檝と云、長くして大也、凡かいは川江に用て海中に用られず、打かいは河海江湖、用られざる處なし、武備志に、盪槳と有、論語に奡盪レ舟、盪は陸地に舟を行也、やりろとすべきか、軍書に槳をわきろと讀せり、共に打かいとすべし、今游艇に用、又すべて山川高瀨舟に用る者なり、
p.0698 後鳥羽院御時、交野八郎と云、强盜の張本ありけり、今津に宿したるよしきこしめして、西面の輩をつかはしてからめ召れける、やがて御幸成て、御船にめして御覽ぜられけり、彼奴は究竟のものにて、からめて四方をまきせむるに、とかくちがひて、いかにもからめられず、御船より、上皇みづからかい(○○)をとらせ給ひて、御をきてありけり、その時、則からめられにけり、水無瀨殿へ參たりけるに、めしすえて、いかに汝程のやつが、これほどやすくは搦られたるぞと御尋有ければ、八郎申けるは、〈○中略〉御幸ならせおはしまし候て、御みづから御をきての候つる事、忝くも可二申上一には候はね共、舶のかいははしたなく重き物にて候ふを、扇抔をもたせ候樣に、御片手にとらせおはしまして、やす〳〵ととかく御をきて候つるを、少みまいらせ候つるより、運つきはて候て、力よは〳〵と覺へ候て、いかにものがるべくも覺へ候はで、からめられ候ひぬると申たり、
p.0698 大樹攝津國豐島河原合戰事 自餘ノ舟共是ヲ見テ、サノミハ人ヲ乘セジト、纜ヲ解テ差出ス、乘殿レタル兵共、物具衣裳ヲ脱捨テ、遙ノ澳游出デ、船ニ取著ントスレバ、太刀長刀ニテ切殺シ、櫓カイニテ打落ス、
p.0699 大后〈○天智后〉御歌一首
鯨魚取(イサナトリ)、淡海乃海乎(アフミノウミヲ)、奧放而(オキサケテ)、榜來船(コギクルフネ)、邊附而(ヘツキテ)、榜來船(コギクルフネ)、奧津加伊(オキツカイ/○○○○)、痛勿波禰曾(イタクナハネソ)、邊津加伊(ヘツカイ/○○○○)、痛莫波禰曾(イタクナハネソ)、若草乃(ワカクサノ)、嬬乃(ツマノ)、念鳥立(オモフトリタツ)、
p.0699 㰏〈佐乎〉
p.0699 㰏 唐韻云、槁、〈音高、字亦作レ篙、和名佐乎、〉棹竿也、方言云、刺レ船竹也、
p.0699 按、掉卽櫂字、與レ㰏不レ同、此作二棹竿一恐誤、〈○中略〉説文、無二篙㰏字一、蓋古用レ稾、稾訓二木枯一、轉注、竹之無二枝葉一、可二以刺一レ船、亦云レ稾、後省レ木從レ竹作レ篙、又增レ木作レ㰏也、
p.0699 篙㰏〈所二以刺一レ船、上通下正、〉
p.0699 篙〈音高、サホ、船篙、〉
p.0699 雜物部〈附調度〉
棹 しひさほ〈椎木造たる也、舟棹也、〉
p.0699 棹
しひさほ〈椎木造事〉手棹〈船のきしろふ時、兩方よりさしはるを云也、○中略〉みなれ棹〈水馴棹歟、舟又筏に云也、〉
p.0699 さを 竿、㰏、棹字などをよめり、釣竿、舟棹の類也、小尾の義成べし、和名抄に、榜をよみ、童蒙頌韻に、〓をさをさすとよめり、
p.0699 㰏 川舟、池を渡り、江をのるには、水底泥にて、木の棹は、よろしからず、是に竹竿を用る也、
p.0699 其年〈○甲寅〉十月辛酉、天皇、親帥二諸皇子舟師一東征、至二速吸之門一、時有二一漁人一、乘レ艇而至、天 皇招之、因問曰、汝誰也、對曰、臣是國神、名曰二珍彦一、釣二魚於曲浦一、聞二天神子來一、故卽奉レ迎、又問之曰、汝能爲レ我導耶、對曰、導之矣、天皇勅授二漁人椎㰏(○○)末一令レ執、而牽二納於皇舟一以爲二海導者一、乃特賜レ名爲二椎根津彦一、
p.0700 廿二日、〈○康應元年三月〉卯時に御舟出、あふとゝいふせとあり、をひ風はげしく、浪高かりしかば、船どものほをおろしてこぎかさねしかば、手ざほ(○○○)どもきびしくとりて、こぎ過たり、
p.0700 新宮にまうづとて熊野川にて 太上天皇
熊野用くだすはやせのみなれざほさすがみなれぬ浪の通路
p.0700 〓〈橈也、楫也、加地、〉
p.0700 檝 釋名云、擑、〈音接、一音集、和名加遲、〉使二舟捷疾一也、兼名苑云、檝、一名橈、〈奴効反、一音饒、〉
p.0700 按、方言云、楫謂二之橈一、兼名苑、蓋本二于此一、〈○中略〉又按、釋名、櫂又謂二之揖一、楫捷也、撥レ水使二舟捷疾一也、方言、楫或謂二之櫂一、説文、楫、舟櫂也、楫、檝正字、是檝、卽上條所レ載櫂、其加遲、加伊、亦一聲之轉、萬葉集云二可治一、云二加伊一、其物全同、故或云二眞可治之自奴伎一、或云二眞加伊之自奴伎一、可レ證也、源君、分爲二二條一誤矣、今俗呼二加遲一者、下條所レ載多以之、非二是物一也、
p.0700 檝、楫、〈上通下正〉
p.0700 檝〈フネノカチ〉 梶〈カチ〉
p.0700 榜〈サヲカチ〉 柁〈カチ、フナハタ、〉 〓〈カチ、サヲ、〉 橈〈正〉 檝〈カチ、サヲ、一名橈、〉 楫〈木船ノカチ〉 梶〈カチ〉
p.0700 檝〈カヂ舟橄〉 橈 梶〈已上同〉
p.0700 械(カイ)〈舟橈(カヂ)也〉
p.0700 揖(カヂ)
p.0700 かぢ 日本紀、倭名鈔に、檝をよめり、續日本紀、文德實録に、穩をよみ、舊事記には、梶をよめり、万葉集には、眞梶ともいへり、古へは艣楫の類は、海川をいはず、皆かぢといふと見えた り、今いふものは柁也、日本紀に、かぢとよめり、又舵に作る、全淅兵制録も同じ、或は槳を訓ぜり、おもかぢ(○○○○)は、面かぢ也、右にやるをいふ、とりかぢ(○○○○)は、操かぢ也、左にやるをいふ也、逍遙院〈○三條西實隆〉の歌に、
くる鴈や水のおもかぢとりかぢにこゑもすがたも沖のともぶね
わいかぢ(○○○○)は、脇かぢの義也、腰柁を訓ず、
p.0701 脇楫 わいかぢ
本楫は船の尾に有、その又たすけに船の兩脇にしかけし楫を云、わきかぢなるを、わいかぢといふは音便にて、わいだての類ひ也、
p.0701 於レ是大山守命者、違二天皇之命一、猶欲レ獲二天下一、有下殺二其弟皇子一〈○宇遲能和紀郎子〉之情上、竊設レ兵將レ攻、〈○中略〉故聞驚、以レ兵伏二河邊一、〈○中略〉更爲二其兄王〈○大山守命〉渡レ河之時一、具二飾船檝一者、舂二佐那〈此二字以レ音〉葛之根一、取二其汁滑一而、塗二其船中之簀椅一、設二蹈應一レ仆而、其王子者、服二布衣褌一、旣爲二賤人之形一、執レ檝立レ船、
p.0701 二年五月戊辰、勅二吉備海部直難波一送二高麗使一、 八月丁未、送使難波、還來復命曰、海裏鯨魚大集、遮囓三船與二檝櫂一、難波等恐二魚呑一レ船、不レ得レ入レ海、
p.0701 䑨 唐韻云、䑨、〈徒可反、上聲之重、字亦作レ舵、〉正レ船木也、楊氏漢語抄云、柁、〈船尾也、或作レ柁、和語多伊之、今案、舟人呼二挾杪一爲二舵師一是、〉
p.0701 廣韻云、柁、正レ舟木也、舵上同、按玉篇、柁正レ船木也、孫氏蓋依レ此、釋名、船、其尾曰レ柁、柁、拕也、在レ後見二拕曳一也、且弼二正船一使レ順レ流不レ使二他戻一也、按説文、無二柁字一、當下從二釋名所一レ説作上レ拕、後以二其物用レ木造一、省レ手從レ木、或從レ舟也、〈○中略〉廣韻、柁、俗從レ㐌、按、柁舵同字、依レ例所レ引漢語抄、當レ在二上文注末一、而此大書者、似二源君不一レ辨二柁舵同字一、〈○中略〉按古事記云、倭建命、足不レ得レ步、成二當藝斯形一、謂三足腫如二舵形一也太以之、卽當藝斯之轉、今俗呼二加遲一者是、然今時加遲、不レ似二腫足之狀一、蓋古今其制不レ同也、
p.0702 たいし 倭名抄に、舵をよめり、古事記に、當藝斯形と見えたる是也といへり、船尾に在りて、船を正す木の柄の曲れる物を指り、日本紀には、かぢとよめり、抄に、今案、舟人呼二挾杪一爲二舵師一是と見え、漢語抄に、柁、船尾也ともみゆ、
p.0702 柁の小名(○○○○) 身木〈又耳木と云、三木と書は非也、〉頭 頭繩穴 上大目(ヲホメ) 下大目〈柁柄を指穴〉落込(ヲチコミ)〈或はおちつまりと云、おとし込床に合處、〉羽板〈明律考、柁閂、かぢわきいたと訓す、八雲御抄、かぢのはと見へたり、家隆卿、と波る舟のかぢのはとよめり、柁を梶によせてよめるなれば、葉板なり、すこしはき付る板な若葉と云は、この心なるべし、〉上棧 中棧 下棧〈又のぼり棧と云あり、明律考、舵甲、かぢのさんと訓ぜり、〉潮切 水越孔〈又ゆりこしと云、身木に有、大水越といふ、〉小水越〈羽板にあり、左右に南蠻車を付綱を通す、〉輪精〈羽板にある穴、又汐ふきといふ、〉
川舟柁(○○○)の小名〈身木 頭 大目 櫂架(ガイモタセ) 羽板端入 上棧 下棧○中略〉
轆轤柁(○○○) 本邦にては、北國船はかせと云舟に用、〈○中略〉
柁柄(○○) 又柁棒と云、取木とも云、柁の取木なり、
p.0702 到二當藝野上一之時、詔者、吾〈○倭建命〉心恒念、自レ虚翔行、然今吾足不レ得レ步、成二當藝斯形一、〈自レ當下三字以レ音〉
故號二其地一謂二當藝一也、
p.0702 當藝斯(タギシ)は、和名抄舟具に、唐韻云、䑨〈字亦云レ舵〉正レ船木也〈○中略〉とあり、延佳、此を引て、疑此物也と云る、信に然り、〈玉篇に、柁正レ船木也、設二於船尾一與レ舵同と云、釋名に、舟尾云レ柂弼二正船一使二順レ流不一レ使二他戻一也と云り、〉師〈○加茂眞淵〉云、䑨は、今世に加遲(カヂ)と云物なり、万葉などに加遲とあるは、今世に艫と云物にして、䑨には非ず、然るに、歌又祝詞などには、加遲(カヂ)、又加伊(カイ)をのみ云て、多藝斯を云ること無し、そは歌によみなれず、句の調も叶はねば、おのづから漏たるならむ、祝詞も、調を擇べばなりと云れき、さて多藝斯を、多伊斯と云は、中古より音便に頽れたるなり、倭の地名の當藝麻(タギマ)をも、後には多伊麻と云が如し、〈其外も、伎を音便に伊と云格いと多し、〉多藝志耳命など云名も、此物に因れるにや、名義は、万葉七〈二十五丁〉に、大舟乎(オホフネヲ)、荒海爾榜出(アルミニコギイデ)、八船多氣(ヤフネタゲ)、とあるは、船を彌多氣(イヤタゲ)と云事にて、力を致し、左右に擬(マカナ)ひて、船をやるを云るなれば、船 を思ふ方へ、擬ひ行る由の名なるべし、〈斯(シ)の意は詳ならず、多氣と多藝とは、通はし云る例多かり、〉さて當藝斯は、今の加遲なることは決けれども、其形狀はいかゞありけむ、今世と同じかりきや、異なりきや、詳ならず、
p.0703 凡大宰貢二綿穀一船者、擇二買勝載二百五十石以上、三百石以下一、著レ柂進上、便卽令レ習レ用レ柂、其用度充二正税一、
p.0703 帆 四聲字苑云、帆、〈音凡、一音泛、和名保、〉風衣也、一云、船上掛二檣上一、取レ風進レ船幔也、釋名云、帆、或以レ席爲レ之、故曰二帆席(○○)一也、
p.0703 按、保與レ不通、含訓二不々牟一、又訓二保々牟一、帆含レ風以進レ船也、〈○中略〉釋名云、隨レ風張レ幔曰レ帆、帆、汎也、使二舟疾一、汎々然也、卽此義、按説文、無二帆字一、有二颿字一、云、馬疾步也、轉謂下使二舟疾一者上爲レ颿、玄應音義引二三蒼一云、颿、船上張二布帊一也、呉都賦、樓船擧レ颿而過レ肆、劉淵林注、颿者船帳也、徐鉉曰、舟船之颿、本用二此字一、今別作レ帆、非レ是、
p.0703 颿〈ホ〉 帆席 帆〈已上ホ、風衣也、〉
p.0703 ほ 帆は穗より轉ぜるにや、遠くよりあらはに見ゆる意なるべし、凡てあらはなる事を、帆にも穗にもよせていへり、又羽と通ふなるべし、字彙、棹レ船羽也、と見えたり、南京福建船の帆は竹のあじろなり、北國をまわる船も、此に效ふといへり、さゝほ(○○○)は箬篷也、木綿ほ(○○○)は縫布也、童蒙頌韻に䉶もよめり、
p.0703 帆〈䑺颿並同〉 彌帆(ヤホ/○○) 帆席(ホムシロ)
p.0703 やほ 彌帆の義、帆の重なるをいへり、よて本帆、や帆などいへり、
p.0703 風篷(トマホ/○○)〈同上、(品字箋)布帆所二以乘レ風進一レ船者、多編レ竹爲レ之、謂二之風篷一、〉 蒲帆(ムシロホ/○○) 布帆(モメンホ/○○)〈晉書顧愷之傳、愷之、嘗因レ假還、殷仲堪、特以二布帆一借レ之、至二破冢一、遭レ風大敗、愷之與二仲堪牋一曰、地名破冢、眞破冢、而出行人安穩、布帆無レ恙、李詩、布帆無レ恙掛二秋風一、〉
p.0703 今の帆木綿といへる織帆(○○)は、此松右衞門の工夫より始まりしよし、故に是を松右衞(○○○) 門帆(○○)といふ、往昔は藁筵を以て帆とせしを、後世木綿を用ひ、綫線を以て之を刺縫て、裂敝れざる爲とす、是を刺帆(○○)といふ、當時は刺帆織帆の兩品を用ゆ、
p.0704 帆の小名(○○○○) 縫下(ヌイケダシ) 貫通(ヌキトヲシ)〈明律考、帆筋と云、是なるべし、〉耳索(ミヽナワ) 帆足(ホアシ) 逆(サカ)帆足 大廻索(ヲヽマワシナワ)〈又大渡しとも云、ひらきに乘時、横にやるをはい廻しと云、〉
p.0704 船帆郷、〈在二郡西一〉同天皇〈○景行〉巡狩之時、諸氏人等、擧落葉船擧レ帆、參集於二三根川津一、供二奉天皇一、因曰二船帆郷一、
p.0704 九年〈○仲哀〉十月辛丑、從二和珥津一發之、時飛廉起レ風、陽侯擧レ浪、海中大魚悉浮挾レ船、則大風順吹、帆舶隨レ波、不レ勞二艫楫一、便到二新羅一、
p.0704 このあひだに風よければ、かぢとりいたくほこりて、舟に帆かけなどよろこぶ、其音をきゝて、わらはも女も、いつしかとし思へばにやあらむ、いたくよろこぶ、此中に淡路のたうめといふ人のよめる歌、
追風の吹ぬる時はゆく舟のほて(○○)うちてこそうれしかりけれ
p.0704 たのもしげなきもの〈○中略〉
風吹に帆あげたるふね
p.0704 義經解レ纜四國渡附資盛淸經頸可レ上二京都一由事
判官〈○源義經、中略、〉下知シテ渡邊島ヨリ船ヲ出ス、吹風木ノ枝ヲ折、立波蓬莢ヲ上、水手楫取吹倒サレテ、足ヲ蹈立ルニ不レ及ケレ共、究竟ノ者共ニテ舟ヲ乘直シ〳〵、帆柱ヲ立テ帆ヲ引事不レ高、手打懸計也、風彌强當リケレバ、帆ノスソヲ切テ結分、風ヲ通ス、
p.0704 奧州下向勢逢二難風一事
遠江ノ天龍ナダヲ過ケル時ニ、海風俄ニ吹アレテ、逆浪忽ニ天ヲ卷翻ス、或ハ檣ヲ吹折ラレテ、彌(○) 帆(○)ニテ馳ル船モアリ、
p.0705 船
酒積し舟は帆にさへはかるなりあるは八合(○○)あるは六合(○○) 奈賀良
はりま潟いとも靜けき風の手に海を縫ゆく木綿帆(○○○)の舟 花 紅
春雨で敷たやうなる海面にちと恥かしき舟のむしろ帆(○○○○) 早 騎
p.0705 謝〈保柱〉
p.0705 帆柱 文選注云、槳、〈卽兩反、保波之良、〉帆柱也、又云、帆檣、〈音墻〉以二長木一爲レ之、所二以掛一レ帆也、
p.0705 所レ引文、李善及五臣注、並無レ所レ載、槳、是棹屬、與二帆柱一絶不二相蒙一、按文選、王粲從軍詩注、引二埤蒼一曰、帆柱曰レ檣、疑槳檣音近而誤、〈○中略〉按海賦、掲二百尺一繼二長綃一、李善注云、百尺帆檣也、綃、今之帆綱也、以二長木一爲レ之、所二以掛一レ帆也、源君、以二綃義一解二帆檣一者、誤也、
p.0705 檣〈ホハシラ〉
p.0705 帆柱〈ホハシラ〉
p.0705 帆柱〈ホハシラ〉 檣 槳 帆〓〈已上同〉
p.0705 檣 本邦檣の木は、檜、草槇を用て造れり、今は大木希也、この故に杉を用、
p.0705 寶龜九年十一月乙卯、繼人〈○大伴〉等上奏言、〈○中略〉十一日五更、帆檣倒二於船底一、斷爲二兩段一、舳艫各未レ知レ所レ到、
p.0705 義經都落の事
判官、〈○源義經〉かんどり水手に仰られけるは、風のつよきに、おき中にひけよと仰られけれ、ほをおろさんとすれ共、雨にぬれて、せみもと(○○○○)つまりて、さがらず、
p.0705 長崎新左衞門尉意見事附阿新殿事
遙ノ澳ニ乘ウカベタル大船、順風ニ成ヌト悦テ、檣ヲ立、篷ヲマク、
p.0706 本間孫四郎遠矢事
遙ニ高ク飛擧リタル鵃、浪ノ上ニ落サガリテ、二尺計ナル魚ヲ、主人ノヒレヲ〓テ、澳ノ方へ飛行ケル處ヲ、本間〈○孫四郎〉小松原ノ中ヨリ馬ヲ懸出シ、追樣ニ成テ、カケ鳥ニゾ射タリケル、〈○中略〉鏑ハ鳴響テ、大内介ガ舟ノ帆柱ニ立、ミサゴハ魚ヲ〓ナガラ、大友ガ舟ノ屋形ノ上ヘゾ、落タリケル、
p.0706 廿一日、〈○康應元年三月〉御舟出、風など吹はりて、御ふねのやほの柱(○○○○)、吹おりにけり、
p.0706 名護屋より各出船之事
卯月〈○文祿元年〉十二日、名護屋を辰之刻に船を出し、石火矢をはなし立、鯨波を上、もやひの綱をとき、數千艘の帆柱ををし立、やざ聲を擧、帆を上、何々とのゝしる聲々、天地を動かす計なり、
p.0706 ほつゝしめなは(○○○○○○○) 帆筒標繩の義、今の水繩なるべし、舟の帆柱を立るに、筒といふ所ありて、船を新造するに、此できたるが、家作の上棟にひとしく祝するといへり、されば是にて繩をくり上、くり下すを、しめなはといふ、堀川百首に、
もかり舟ほつゝしめなは心せよ川ぞひ柳風に波よる
p.0706 帆竿 楊氏漢語抄云、帆竿、〈保偈多、下古寒反、〉
p.0706 按釋名、船前立レ柱曰レ桅、韻會、桅、舟上帆竿、又類書纂要、桅竿、掛二風帆一之木也、又曰、檣、則帆竿、則帆柱、非二保偈多一、下條所レ載帆綱、宜レ訓二保偈多一也、保偈多、帆桁也、帆之有二帆網一、猶二屋之有一レ桁也、
p.0706 帆半〈ホケタ〉
p.0706 帆竿〈ホケタ〉
p.0706 帆半(ホゲタ) 木邦の帆柱は、皆角柱也、半といふべからず、桁は丸く作りて、誠に竿のごとし、帆をかくる帆桁也、衣桁と云の類也、順和名抄の説にしたがふべし、〈○中略〉 桁打廻(○○○) 大船には竹をあみて、ほげたの眞中に打廻し、檣の當にして、帆のあげおろし、早き樣のすべりに用、
打廻(○○) 檣の打廻也、帆桁に付て、穡のすべりにする者也、連歌産衣に、ほつゝしめ繩の後注に、檣を立、帆を上る時、堅き木をみじかくけづりたるを簾のやうにあみて、はしらをまはし、はしらをすべらかし、しめのぼす物あり、船のことばに、猿すべりといへるものかと注せり、和歌八重垣には、舟の檣に筒をつけて、なはをくりあげ、くりおろす也と、是筒と云は、打廻しのことを云と見へたり、按に、もとは打廻しの繩ばかりなるを、木をあみて付は後製成べし、然ればしめ繩とするも、一利有といへども、此繩は桁を柱に付るまでにて、あげさげする繩にあらず、今打廻しと云は、産衣後注のごとし、樫を用て是を作る、其木を小猿と云、一ツにあみつらねたるを打廻しと云、
p.0707 帆綱 文選注云、長梢、〈所交反、師説、保都奈、〉今之帆綱也、
p.0707 海賦、維二長綃一、李善注云、綃、今之帆綱也、此倂二引正文一、按李善又曰、以二長木一爲レ之、所二以挂一レ帆也、依レ此綃當レ訓二保偈多一、然則長綃、皇國保偈多、是也、帆之有二保偈多一、猶二網之有一レ綱、故或名二帆綱一、又保偈多、維二持帆幔一令レ取レ風、故或名二帆維一也、又張銑注云、綃、連帆繩也、又云、擧二百尺之檣一、連二綃縄一挂二帆席一、師説、以爲二保豆奈一者、蓋依二張銑義一也、集韵、綃、荆州謂二帆索一曰レ〓、亦是義、源君、擧二季注帆綱一、引二師説保豆奈一、非レ是、又按廣韵云、綃、生絲繒也、又帆維、又云、梢、船舵尾也、又枝梢也、綃梢二字不レ同、蓋梢、本枝梢字、綃、本繒帛字、而廣韵、綃字訓二帆維一、文選長綃從レ糸、似レ是、然帆綱以二長木一爲レ之、則謂二之梢一者、枝梢之轉注也、當下作二長梢一爲上レ正、後依二綱維之義一、改從レ糸、遂混二繒名之綃一、源君所レ見文選、未レ經二俗寫一也、其船舵尾名レ梢、亦以三其狀如二枝梢一得二是名一、所二以得一レ名則同、而其物自異、
p.0707 長梢〈ホツナ〉
p.0707 帆綱〈ホツナ〉
p.0707 帆綱〈○中略〉 手繩(○○)〈帆桁の左右の端につけて、舳へ引繩、ひらにまきるなどの時、この繩にて、帆を自由にする者也、○中略〉
兩方綱(○○○)〈帆の兩方につけて舳へ引繩、船方、りやうほと云、是又帆を自由にする者也、〉
脇取綱(○○○)〈則兩方綱なれども、左右の下につけたる繩を云、〉
帆肩引〓(ホカタヒキノマタ/○○○○)〈兩方脇取繩、帆に付處を二筋とす、帆引の〓なり、又かへりまたとも云を、誤てかいるまたと云、〉
p.0708 勝成、〈○中略〉豐前の國に往き、黑田甲斐守長政に仕ふ、〈千石を領すと〉長政船に乘て、大坂に上るとて、勝成を召し、帆柱にまとひたる繩とけといひしかば、勝成おもふやう、如何に心は猛くとも、かゝるわざに慣れざらんものが、これほど走る船の檣に登る事なるべきや、奇怪なる事いふ人なると、腹だちけれども、辭せんもさすが口をしと思ひ、頓て攀ぢのぼつて、帆繩引ときて下りぬ、かく僻事いはん主に仕へん事益なしとて、その夜船の著たる所よりたち去る、
p.0708 苫 爾雅注云、苫〈士廉反、和名度萬、〉編二菅茅一以覆レ屋也、
p.0708 苫〈トマ〉
p.0708 篷〈トマ 編二竹葦一覆レ舟也〉 苫〈同 編二菅茅一覆レ屋也〉
p.0708 とま 神代紀、倭名鈔に、苫をよめり、船にふきて宿る物なれば、名くるなるべし、舟に篷といひ、車に軬といふも同じ、説文に、苫、蓋也、徐説に、編茅也と見ゆ、
p.0708 屋島合戰附玉蟲立レ扇與一射レ扇事
平家ハ兼テ海上ニ船ヲ浮べ、苫屋形(○○○)ニ搔楯カキタリケレバ、〈○下略〉
p.0708 よせかへり浪うつ舟の苫やかたうきねは夢もえやは見えける
p.0708 篷庳 唐韻云、篷庳、〈蓬備二音、和名布奈夜加太、〉舟上屋也、釋名云、舟上屋、謂二之廬一、〈力居反〉言象二廬舍一也、
p.0708 廣韻云、篷、織レ竹夾レ箬覆レ舟、又云、庳、屋庳、並與レ此不レ同、玉篇、篷、船連帳也、庳卑、下 屋也、説文無二篷字一、庳中伏舍、一曰、屋庳、皆篷庳不二連文一、又不レ訓二船上屋一、此所レ引恐誤、
p.0709 篷〈フナヤカタ〉
p.0709 艦〈ヤカタ〉 〓〈フナヤ、フナヤカタ、〉
p.0709 篷庳〈フナヤカタ〉
p.0709 篷庳〈フナヤカタ〉 廬〈同〉
p.0709 ふなやかた 和名抄に、篷庳をよめり、初學記に、舟上屋也といへり、是はとまやかた(○○○○○)なるべし、釋名に、舟上屋謂二之廬一、とも見えたり、
p.0709 廬(ヤカタ) 屋形同、釋名云、舟上屋謂二之廬一、言象二廬舍一也、字彙曰、舟上の屋を廬と云、重屋を飛廬と云、又其上に在を雀室と云、言は中候望こと雀之驚視がごとしと見へたり、漢には五層樓、本邦三重の者、廬は下屋形(○○○)、飛廬は上屋形(○○○)、雀室は日覆屋形(○○○○)也、平家物語に、三ツ棟作りたる舟といへるは、今川舟の將几、上段、次之間の三棟なるべし、舳は總屋ぐら也、舫屋、船廳、並にふなやかたと讀せり、貫之土佐日記にも、ふなやかたといへり、屋形の小名(○○○○○)、土臺柱、臺輪、桁、梁、矢倉、根太、同板、耳板、高欄、鋪居、鴨居、中鋪居、寄鋪居、方立、長押、組天井、床、違棚、刀箱、蹴込、襖障子、數子戸(マイラド)、遣戸等也、
川御座船は、橡葺やねにて、右之外に所名多し、棟、棰、萱負、裏側、箱棟、破風、品板、鬼板、掛魚、鷹羽、唐破風作、むくり破風、勾這やね等有り、昔は海御座船にも此制有、川舟屋形間の名、將几、上段、次之間、舳樓也、屋形の左右、取置の柱を立、やねを付る、是を旅やねと云、旅雨戸とも云、表水押へ出るを、出しやねと云、此下に有座を小將几と云、船頭の居處也、舳矢倉の外へ出すを見送りと云、舳の出しやね也、上に有屋を太鼓矢倉といふ、
p.0709 小屋形(○○○) 下屋形と云の義、此處帆棚にて、下落間にする所、則屋形とす、臺處屋形也、後倉、艪後、並にともの間と讀せり、
p.0709 怕物歌
奧國(オキツクニ)、領君之(シラセシキミガ)、染屋形(ソメヤカタ)、黃染乃屋形(キゾメノヤカタ)、神之門渡(カミノトワタル)、
p.0710 廿七日、〈○承平四年十二月〉かこの崎といふ所に、守のはらから、またこと人これかれ、酒などもて追ひ來て、磯におりゐて、わかれがたきことをいふ、〈○中略〉折ふしにつけて、からの歌ども、時に似つかはしきをいふ、又ある人、西の國なれど、甲斐歌などうたふ、かくうたふに、ふなやかたの塵もちり、そら行雲もたゞよひぬとぞいふなる、〈○中略〉元日、〈○承平五年正月〉なほ同じとまりなり、白散をあるもの、夜の間とて、舟やかたにさしはさめりければ、風に吹ならされて、海にいれて、えのまずなりぬ、
p.0710 保元三年十月十七日癸卯、午刻關白殿、〈○藤原忠通〉令レ參二平等院一給云々、〈○中略〉
下北面船一艘 高屋形(○○○)造レ之、葺二松葉一、 船差六人 例裝束 件高屋形、寺家艤レ之、
p.0710 平家大宰府落幷平氏宇佐宮歌附淸經入レ海事
左中將淸經ハ、船屋形ノ上ニ上リツヽ、東西南北見渡シテ、〈○中略〉閑ニ念佛申ツヽ、波ノ底ニゾ沈ケル、
p.0710 源平侍遠矢附成良返忠事
黑塗ノ箭ノ、十四束ナルヲ、只今漆ヲチト削ノケ、新居紀四郎宗長ト書附テ、舳屋形(○○○)冫前ホバシラノ下ニ立テ、暫固テ兵ト放ツ、
p.0710 長崎新左衞門尉意見事附阿新殿事
船人、〈○中略〉手々ニ船ヲ漕モドス、汀近ク成ケレバ、船頭船ヨリ飛下テ、兒〈○日野阿新〉ヲ肩ニノセ、山臥ノ手ヲ引テ、屋形ニ入タレバ、風ハ又元ノ如ニ直リテ、船ハ湊ヲ出ニケル、
p.0710 先帝船上臨幸事
此道ノ案内者仕タル男、甲斐々々敷、湊中ヲ走廻、伯耆國へ漕モドル商人船ノ有ケルヲ、兎角語ヒテ、主上〈○後醍醐〉ヲ屋形ノ内ニ乘セ進セ、其後暇申テゾ止リケル、
p.0710 雜物部〈附調度〉 船具 にくさび〈万、にかくるもの也、〉
p.0711 船
にくさび〈海舟にする者也〉
p.0711 にくさび 八雲御抄に、舟荷にかくる物なりと見ゆ、荷㮫の義にや、荷を積時に、苫筵などにて竹をふちとして、蔀とするなり、小舟の波よけ也といへり、
p.0711 住吉には〈○中略〉おきよりこぎくる舟には、あやしき聲にて、にくさびかけるなど、うたふも、さすがにおかしかりけり、
p.0711 家集 能因法師
にくさびぞかくべかりけるなにはがたふねうつなみのいこそねられね
p.0711 牽〓 唐韻云、牽〓、〈音支、訓豆奈天、〉挽レ船繩也、
p.0711 所レ引文、廣韻、〓字注同、牽作レ〓、按是連二下〓字一從レ糸、與二〓〓字一混、此作レ牽爲レ正、又按古謂二之筰一、釋名、引レ舟者曰レ筰、筰、作也、作、起也、起レ舟使二動行一也、
p.0711 綱手(ツナテ)
p.0711 牽〓(ヒキヅナ) 本邦加賀苧綱を用、又竹繩は、もやひ綱とはすれども、引綱とすることなし、なひ竹と云て、小竹をひしぎて是を作る、大竹は用ることなし、其製和漢違ひあり、万葉に綱手とも引綱ともよめり、海上にては、大船より小舟へ綱を取て引、是を引船、漕船と云、川舟には、引柱を立、是に付て陸へとり引綱也、
p.0711 七夕
牽牛之(ヒコボシノ)、嬬喚(ツマヨブ)舟之(フネノ/○○)、引綱(ヒキヅナ/○○)乃(ノ)、將絶跡君乎(タエントキミヲ)、吾念勿國(ワガオモハナクニ)、
p.0711 奈都乃欲波(ナツノヨハ)、美知多豆多都之(ミチタヅタヅシ)、布禰爾能里(フネスニノリ)、可波乃瀨其等爾(カハノセゴトニ)、佐乎佐指能保禮(サヲサシノボレ)、 右件歌者、御船以二綱手(○○)一泝レ江、遊宴之日作也、傳誦之人、田邊史福麻呂是也、
p.0712 みちのくはいづくはあれどしほがまのうらこぐ船のつなでかなしも
p.0712 二月〈○承平五年〉朔日、朝の間、あめふり、午の時ばかりにやみぬれば、和泉の灘といふ所より出てこぎゆく、〈○中略〉けふは、はこの浦といふ所より、綱手ひきてゆく、
p.0712 建久六年五月廿日甲辰、卯刻參二天王寺一給、〈○源賴朝〉宛二御家人等一、召二疋夫一、爲レ被レ引二御船綱手一也、
p.0712 金崎城落事
氣比大宮司太郎ハ、元來力人ニ勝テ、水練ノ達者ナリケレバ、春宮〈○後醍醐皇太子尊良〉ヲ小舟ニ乗進セテ、櫓カイモ無レ共、綱手ヲ己ガ横手綱ニ結付、海上三十餘町ヲ游テ、蕪木ノ浦ヘゾ著進セケル、
p.0712 纜 考聲切韻云、纜〈藍淡反、又音濫、和名度毛都奈、〉維レ舟索也、
p.0712 按、度毛豆奈、舳繩之義、
p.0712 纜〈トモツナ タツナ〉
p.0712 纜〈トモツナ、維レ舟索、〉
p.0712 寶龜九年十一月壬子、遣唐第四船、來二泊薩摩國甑島郡一、其判官海上眞人三狩等、漂二著耽羅島一、被二島人略留一、但録事韓國連源等、陰謀解レ纜而去、率二遺衆四十餘人一來歸、
p.0712 つくしよりのぼりてのち、良勢法しのもとにつかはしける、〈○中略〉
返し 良勢法師
なごりある命と思はゞともづなのまたもやくると待たましものを
p.0712 碇 四聲字苑云、海中以レ石駐レ舟曰レ碇、〈丁定反、字亦作レ矴、和名伊加利、〉
p.0712 按古人〓レ舟皆用レ石、故矴碇字從レ石、後人用レ鐵造、有二四爪一、名曰二鐵猫一、或曰レ錨、所二以駐一レ舟則同、而其狀大異、
p.0713 〓〈俗イカリ〉 矴〈拄石、イカリ〉、 碇〈イカリ〉
p.0713 〓〈イカリツナ〉
p.0713 碇〈イカリ、亦作レ矴、海中砦、駐レ舟曰レ碇、四聲字苑云、以レ石駐レ舟曰レ碇、〉 沉石〈同〉 〓〈イカリツナ、亦作レ〓、〉
p.0713 沉石(イカリ)〈舟〉 碇(同)
p.0713 錨(イカリ)〈正字通、眉韶切、音苗、焦竑俗書刊誤云、船上鐵猫曰レ錨、或曰レ〓、錨同、卽今船首尾四角叉用二鐵索一貫レ之、投二水中一使三船不二動搖一者、〉 四角叉(イカリ)〈見レ上〉 矴〈訓蒙字會、碇、漢人亦曰二鐵猫一、亦作レ矴、〉 鐵猫(イカリ)〈會典、鐵猫一箇、〉 碇首(イカリ)〈郷談〉 鐵猫兒(イカリ)〈正音〉 看家錨(イチバンイカリ)〈天工開物○註略〉 錨爪(イカリノツメ) 稍猫(トモノイカリ)〈共同上〉 木椗(キノイカリ)〈三オ圖會、北洋可レ施二鐵猫一、南洋水深、惟可レ下二木椗一、〉
p.0713 桴筏〈○中略〉 イカリは、萬葉集に、重の字、または重石の字を用ひて、イカリと讀みけり、古語に、重き事をイカといひき、日本紀に、重讀てイカシといふがごとき此也、イカリとは、なほ權錘をヲモリといふ事のごとくなる也、
p.0713 いかり 倭名鈔に、碇を訓ぜり、万葉集に、重石と書り、その義にや、古へは和漢ともに石を用ゐたる成べし、鐵猫木猫(○○○○)などは、後世の事にや、よて椗字を造れる事、中山傳信録に見え、三才圖會に、北洋可レ施二鐵猫一、南洋水深、惟可レ下二木碇一、と見えたり、天工開物には錨に作る、
p.0713 碇 今石を用る者、木碇(○○)と云、まがれる枝の木を以て、一角叉を作り、是に石をくくり付て碇とするなり、左右に角叉有を、唐人碇(○○○)と呼、〈○中略〉
鐵錨(カナイカリ/○○)〈○中略〉
看家錨(イチバンイカリ/○○○) 天工開物日、凡鐵錨所二以沈レ水繫一レ舟、一糧船、計用二五六錨一、最雄者、曰二看家錨一、重五百斤内外、其餘頭用二二枝一、梢用二二枝一、と見へたり、
本邦千石積の舟に用る處、鐵碇八頭、其一番碇と云者、重八拾貫目餘也、是則五百斤に當れり、其大船に至ては、重百貫目餘におよべり、
p.0713 錨 凡舟行遇レ風難レ泊、則全身繫二命于錨一、戰舡海舡、有二重千鈞者一、錘法先成二四爪一、以レ次逐レ節接レ身、其三百斤以内者、用二徑尺濶砧一、安二頓爐傍一、當二其兩端皆紅一、掀二去爐炭一、鐵包二木棍一、夾持上レ砧、若千斤内外者、則架レ木爲レ棚、多人立二其上一、共持二鐵練一、兩二接錨身一、其末皆帶二巨鐵圈練套一、提起捩轉、咸力錘合、合藥不レ用二黃泥一、先取二陳久壁土一、篩細一人、頻撒二接口之中一、渾合方無二微罅一、蓋爐錘之中、此物其最巨者、
p.0714 伊和里 昔大汝命之子、火明命、心行甚强、是以父神患レ之、欲レ遁二棄之一、乃到二因達神山一、遣二其子一汲レ水、未レ還以前、卽發レ舟遁去、於レ是火明命、汲レ木還來、見二船發去一、卽大瞋怨、仍起二風波一追二迫其船一、於レ是父神之船、不レ能二進行一、遂被二打破一、〈○中略〉沈石(イカリ/○○)落處者、卽號二沈石丘一、
p.0714 船帆郷〈在二郡西一〉 同天皇(○)〈○景行〉巡狩之時、〈○中略〉御船沈石四顆、存二其津邊一、此中一顆、〈高六尺、徑六尺、〉一顆、〈高四尺、徑四尺、〉無レ子婦女、就二此二石一、恭禱祈者、必得二妊産一、一顆、〈高四尺、徑五尺、〉一顆、〈高三尺、徑四尺、〉亢早之時、就二此二石一、雩幷祈者、必爲二雨落一、
p.0714 寄レ物陳レ思
近江海(アフミノウミ)、奧榜船(オキコグフネ)、重石下(イカリオロシ/○○)、藏公之(カクレテキミガ)、事待吾序(コトマツワレゾ)、
p.0714 五日、〈○康應元年三月〉雨風はげしくなりて、あまのをしでもいとゞたゆきにや、夜中ばかりになりて、たて崎とかやいふ海中にいかりをおろして、御舟〈○足利義滿〉をとゞめらる、〈○中略〉廿四日、〈○中略〉今夜は、うしまどに御とゞまりなり、〈○中略〉夜になりて、またかみなり、あられふり、大雨風になる程に、舟のいかりをとりて、此泊のすこしひむがしのわきに、舟をなをしき、
p.0714 いかり
こひにのみこがるゝ船のいかりなは思ひしづめばくるしかりけり
p.0714 〓 周易注云、衣〓、〈女余反、又奴下反、字亦作レ袽、和名夫禰乃能米、〉所三以塞二舟漏一也、
p.0714 按東俗、謂二之万以波多一、卽万岐波多之轉、万岐、眞木也、謂二柏木一、波多、皮也、以二柏 木皮一作レ之、故以爲レ名、
p.0715 敗船筎〈仁諝音、陶景注云、此大艑〓(艑〓當レ作二艑〓一)刮二竹筎一以程二漏處一者、〉和名布禰乃阿久、
p.0715 〓〈亦袽、フネノノメ、ノミ也、〉
p.0715 筎(ノマ)〈舟〉
p.0715 新田左兵衞佐義興自害事
江戸竹澤ハ、兼ネテ支度シタル事ナレバ、矢口ノ渡ノ船ノ底ヲ、二所鐫リ貫テノミ(○○)ヲサシ、渡ノ向ニハ宵ヨリ江月遠江守、同下野守、ヒタ物ノ具ニテ三百餘騎、木ノ陰、岩ノ下ニ隱レテ、餘ルトコロアラバ、討止ント用意シタリ、
p.0715 於レ是大山守命者、違二天皇之命一、猶欲レ獲二天下一、有下殺二其弟皇子一〈○宇遲能和紀郎子〉之情上、竊設レ兵將レ攻、〈○中略〉故聞驚以レ兵伏二河邊一、〈○中略〉更爲二其兄王渡レ河之時一、具二飾船檝一者、舂二佐那〈此二字以レ音〉葛之根一、取二其汁滑一而、塗二其船中之簀椅(○○)一、設二蹈應一レ仆、
p.0715 簀椅、〈○中略〉須婆志(スバシ)と訓べし、竹などを簀に編みたるを打渡し置て、船中此方彼方と步渡る便としたる物なるべし、
p.0715 簀板(スイタ) 海舟荷鋪の上に敷板、川舟もかわらに鋪板、又簀緣と云、荷舟は、海舟河舟ともに竹簀を用、
p.0715 戽〈浛附〉 蔣魴切韻云、戽〈音故、和名由土利、〉洩二舟中水一之斗也、唐韻云、浛、〈故紺反、漢語抄云、戽、布奈由、一云、容水、〉水和レ物也、
p.0715 按廣雅、〓斗謂二之姫一、御覽引二纂文一云、〓斗抒レ水斗也、玉篇、戽、抒レ水器也、廣韻云、戽斗、舟中渫レ水斗器、卽此所レ引義、廣雅又云、戽、抒也、説文、抒、挹也、又按拾遺集、源君長歌云、由毛不取敢、成爾計留、船乃和禮乎之云々、謂二以レ戽去一レ浛也、按今西俗、呼二阿加久利一、東俗呼二須津保无一者、戽是也、 〈○中略〉布奈由、舟中漏入之水也、新井氏云、舟人、忌レ云二水入一レ舟、故避呼レ湯也、今俗呼爲二阿加一、〈○中略〉按説文、作レ塗、云水入二船中一也、一曰、泥也、又載二汵字一云、塗或从レ今、集韻云、浛鍂同、知浛卽汵字之變、又按塗字、有二二義一、一則水入二船中一也、一則泥也、漢語抄、訓二布奈由一者、依下水入二船中一之義上、玉篇、水和レ泥、唐韻水和レ物者、演二泥也之義一也、源君不レ引下水入二船中一也上、引二水和レ物者一誤、
p.0716 戽〈ユトリ〉
p.0716 義經解レ纜四國渡附資盛淸經頸可レ上二京都一由事
判官〈○源義經、中略、〉下知シテ、渡邊島ヨリ船ヲ出ス、吹風木ノ枝ヲ折、立波蓬萊ヲ上、水手楫取吹倒サレテ、足ヲ蹈立ルニ不レ及ケレ共、究竟ノ者共ニテ舟ヲ乗直シ〳〵、〈○中略〉傍風來レバ風面テニ乘懸、眦ニナレバ中ニ乘、隙ナク湯ヲ取ラス(○○○○○)、舳ヲ打波摧ケテ艫ヲ洗、艫ヲ濟波イカニモ難レ叶ケレ共、〈○下略〉
p.0716 〓板(アユミイタ) 正字通に曰、俗䑬の字、或曰、舟岸に泊に、岸を去ること丈ばかり、長板を船の首に置て、岸と接して往來を通ずと見へたり、是和に用る處と同じ、
艇板、〈徐氏筆談〉跳板、〈類書纂要〉獨木板道、〈宋王陶談淵〉一木脚道、又獨木板、並に同じ、後太平記に、步の板を引渡しといへり、今步板と書、又攝州灘舟にて神樂板(○○○)と呼、
p.0716 水しま合戰
のと殿、〈○平敎經〉大音聲を上て、いかに四國の者ども、北國のやつばらに、いけどりにせられんをば、心うしとは思はずや、みかたの舟をば、くめやとて、千よそうのともづなへづなをくみあはせ、中にもやいを入、あゆみのいた(○○○○○○)をひきわたし〳〵、わたひたれば、舟の中は平々たり、
p.0716 牫牱 唐韻云、牫牱〈贓柯二音、漢語抄云、加之、〉所二以繫一レ舟、
p.0716 出雲風土記、竪加志、萬葉集、可志振立氐、卽是、今舟人、亦植二篙於水中一以繫レ舟、謂二之加之乎不留一、江戸俗謂二涯岸可レ繫レ舟之處一爲二加之一、蓋此轉也、或書作二河岸一、謂二加波岐之之約一非レ是、
p.0717 戕牁〈カシ〉
p.0717 かし〈○中略〉 倭名抄に、戕牁をよめり、所二以繫一レ舟と注せり、萬葉集に、かしふるとも、かしふりたてゝともよめる是也、今もしかいへり、河岸なども書り、卽もやひ〓(○○○○)也、
p.0717 昔者纒向日代宮御宇天皇、〈○景行〉巡幸之時、御船泊二此郡磐田杵之村一、于レ時從二船戕歌之穴一洽水自出、〈一云、船泊之處、〉自成二一島一、天皇御覽、詔二群臣等一曰、此郡可レ謂二戕歌島郡一、今謂二杵島郡一訛レ之也、
p.0717 羇旅作
舟盡(フネハテヽ)、可志振立而(カシフリタテヽ)、廬利爲(イホリセム)、名古江乃濱邊(ナゴエノハマベ)、過不勝鳬(スギガテヌカモ)、
p.0717 舟の名を何丸(○)といふ事
船の名を何丸となづくる事、或人の説に、まろはもと卑下の詞にて、みづからの事をまろといへるは、我といふ義にて、後世俗にいふ拙者私などいへると同意なり、さる故にみづからの名を、何麿、某丸と稱せしも、卑下の稱なるを、後には親しみていふ詞となりて、草刈鎌を鎌丸といひし事、萬葉集の歌にあり、小虫を蚱蜢丸(いなごまろ)、蚣蝑丸(いねつきまる)などいひし事、和名抄にあり、されば身の守りとして、たのみ思ふ劒刀の類に、小烏丸、鬼丸、友切丸などの名あり、後々は親しみ詞が美稱となりて、小兒の名に何丸と號けたるが、又後には高貴の嫡、また寺院の兒童にのみありて、凡下の少童には憚るべき事となりにたり、大船を何丸と號けしも、萬里の波濤をわたる故に、命にかけし名なりしを、後又美稱となりて、ちひさき舟には號けがたき事となりにたり、〈○中略〉されば丸は卑下より親愛に移り、親愛より美稱にうつりたるなり、外に故ある事にはあらず、
p.0717 五年十月、科二伊豆國一令レ造レ船、長十丈、船旣成之、試浮二于海一、便輕泛疾行如レ馳、故名二其船一曰二枯野(カラノ/○○)一、
p.0717 此之御世、免寸河之西、有二一高樹一、其樹之影、當二旦日一者、逮二淡道島一、當二夕日一者、越二高安山一、故切二 是樹一以作レ船、甚捷行之船也、時號二其船一、謂二枯野一、
p.0718 播磨風土記曰、明石驛家、駒手御井者、難波高津宮天皇〈○仁德〉之御世、楠生二於吉一、朝日蔭二淡路島一、夕日蔭二大倭島根一、仍伐二其楠一造レ舟、其迅如レ飛、一檝去二越七浪一、仍號二速鳥(○○)一、於レ是朝夕乘二此舟一、爲レ供二御食一汲二此井水一、一旦不レ堪レ汲二御食水一之時、故作レ歌而止、唱曰、住吉之(スミノエノ)、大倉向而(オホクラムキテ)、飛者許曾(トババコソ)、速鳥云目(ハヤトリトイハメ)、何速鳥(ナニカハヤトリ)、
p.0718 諸侯船譜
姫路
艦名 造年 造地
速鳥丸 〈安政五午年六月〉 姫路〈○播磨〉
p.0718 伊豫國風土記曰、野間郡熊野峯所、名二熊墅一由者、昔時熊野止云船(○○○○○)、設レ此至レ今石成在、因謂二熊野一本也、
p.0718 凡官私船、〈○註略〉毎年具題二色目勝受斛斗破除見在任不一、〈(中略)古記云、(中略)目謂舶船、艀艇及速嶋、(速嶋恐速鳥誤)難波、伊豆之類、〉
p.0718 慶雲三年二月丙申、授二船號佐伯(○○)從五位下一、〈入唐執節使從三位粟田朝臣眞人之所レ乘者也、〉
p.0718 天平寶字二年三月丁亥、舶名播磨(○○)、速鳥(○○)、並叙二從五位下一、其冠者、各以レ錦造、入唐使所レ乘者也、
p.0718 天平賓字七年八月壬午、初遣二高麗國一船名曰二能登(○○)一、歸朝之日、風波暴急、漂二蕩海中一、祈曰、幸賴二船靈一、平安到レ國、必請二朝庭一、酬以二錦冠一、至レ是緣二於宿禱一、授二從五位下一、其冠製、錦表絁裏、以二紫組一爲レ纓、
p.0718 承和四年五月丁酉、授二遣唐第一舶、其號太平良(○○○)從五位下一、
p.0718 筑前國志賀白水郎歌 奧鳥(オキツドリ)、鴨(カモ/○)云船之(トフフネノ)、還來者(カヘリコリバ)、也良乃埼守(ヤラノサキモリ)、、早吿許曾(ハヤクツゲコソ)、奧鳥(オキツドリ)、鴨云舟者(カモトフフネハ)、也良乃埼(ヤラノサキ)、多未氐榜來跡(タミテコギクト)、所聞許奴可聞(キカレコヌカモ)、
p.0719 かもは舟の名なるべし、古しへ舟に名付る事有、按るに仁德紀枯野と名付られしも輕き意也、かもも輕く浮ぶを以、舟の名とせるなるべし、
p.0719 義經都落の事
判官、〈○源義經〉おぢびぜんのかみをともなひて、十一月〈○文治元年〉三日に、都を出給ふ、〈○中略〉西國に聞へたる月丸(○○)といふ大舟に、五百人の勢をとりのせて、財寶をつみ、廿五疋の馬どもたてゝ、四國地を心ざす、
p.0719 嘉隆〈○九鬼〉ハ、伊勢、尾張、志摩ノ海上ニテ、舟師ニ長錬シ、巨艦ヲ造テ、日本丸(○○○)ト號ス、〈○中略〉
朝鮮ヲ伐時、九鬼大隅守嘉隆ノ日本丸ヲ、鬼宿船(○○○)ト更メ名ヅケラル、
p.0719 天和九鬼〈和泉守大隅守〉書上 先祖九鬼長門守守隆事跡
一慶長十九甲寅年、大坂御陣之刻、大坂〈江〉船ニ而可二馳向一旨、權現樣就二上意一、國丸(○○)ト申大船、其外安宅五艘、早船五十艘相催シ、十月廿五日、志州ヲ出船仕、〈○中略〉翌日〈○十一月二十九日、中略、〉大坂之舟奉行佐々淡路守ガ舟印、鳥毛之棒、福島丸(○○○)、傳帆丸(○○○)ト申敵船、幷盲船一艘乘取、
p.0719 朝川鼎ガ話ニ、豐太閤ノ朝鮮ヲ討レシトキ、後ニ自ラ渡海アルベシトテ、ソノ船ヲ造ル、船最モ巨大ニシテ日本ト稱セシガ、大坂落城ノ後、神君コレヲ津侯ノ祖高虎ニ賜フ、高虎其稱ヲ憚リテ、名ヲ伊勢丸(○○○)ト改メ、高虎在世ノ間ニ、江都ニ回運スルコト三度、ソレヨリ解キタヽミテ、今ハ庫中ニ藏シテ、尚ホ現存スト云、
p.0719 寬文二年六月十日、江戸ニ於テ、安宅丸(○○○)ノ御舟ヲ指浮ベラレ、公方家綱公、御遊船也、依 テ諸侯ノ御供舟ドモヲ漕浮ベテ、大幕ヲハシラカシ、武具ヲ飾リ、御舟印等、川風ニ飜シ、誠ニ見ル目モイサギヨク、深川、中川新田島、佃島、川モ陸モ見物ノ貴賤サヾメキ渡リ、興ニ入計リナリ、寔ニ今日ノ暮行空ヲヲシマヌ者ハナシ、
天地丸(○○○)ハ、〈八十丁ダチ〉公方家召ス、
大龍丸(○○○)ハ、〈六十丁ダチ〉御詰衆乗リ玉フ、
龍王丸(○○○)ハ、御譜代ノ諸大名衆乘リ玉フ、
p.0720 墨水遊覽記
二日〈○天保十四年九月〉の朝とく、傳奏の館に、人々つどひて、御出たちを待ほど、空いとくらし、雨氣ならんと、あやぶみ思ふに、やゝ明はてゝ、雲間の日影ほのめき出る比、兩卿〈○德大寺實堅、日野資愛、〉輿よせて出給ふ、大城のうちなる瀧落る邊の汀に艤してまちまうけせり、各こゝにありて見え奉る、名だいめんめきて、高家の人々執申さる、御船は麒麟まろ(○○○○)となづけられたるに、こゝをしも龍の口と聞ゆるも、その名おのづから相あふこゝちするに、ふねやかたに鳳凰をさへゑりつけたる、又つき〴〵し、
p.0720 泉州ノ回船、何クノ沖ニヤ、夜中颶風ニ逢、船覆リ人皆沒ス、此中一人、小板ノ浮ヲ見テ、コレニ取ツキ、遊泳シテ天明ニ至ル、〈○中略〉久シテ海巖ノ所ニ到ル、喜ビ上ラントスルニ、忽披髮ノ童子來集テ、竿ヲ以テツキ出シ、上ルコトヲ得ズ、又沖ニ泳ギイデタルニ、漸々風靜リ天晴レ、時幸ニ本船ノ帆ヲ張テ來ルニ逢フ、乃手ヲ擧テ招ケバ、端舟ヲ卸シ救ヒアゲタリ、卽蘇生ノ心シテ、賴ミ持シ板ヲ見レバ、金毘羅權現ノ守板ナリ、始テソノ靈助ナルヲ知テ、尊仰シテ歎語セルヲ船頭聞ツケ、其札ヲ乞フテ止マズ、彼男モ與ルコト無ラント爲レドモ、亦救恩默止ガタケレバ、遂ニ札ヲ授ケタリ、船頭乃此船魂ト祭リ、船ヲ金毘羅丸(○○○○)ト名ヅケヌ、
p.0721 阿宅丸の舊地 新大橋のすこし北也
此あたけ丸(○○○○)といふ御船は、元來小田原北條家の軍船にて、樟木をもつて凡長三十八間、胴の間十八九間ありしよし、寬永十年、御船手向井將監忠勝に仰付られ、相州三崎より江府へ御取よせにて、同十二〈亥〉年六月、忠勝に命ぜられ、上覽〈○德川家光〉ありしに、天和年中、ゆへありて此船御たゝみあそばされしと也、其節の俗説に、此船もと伊豆國下田浦にてうちたる故にや、御船出の度毎に、船のひゞき、自然と、いつへゆかん〳〵とうなりたるゆへ、御潰し遊されしよし風聞と也、尤此船江戸入のとき、先祖さる若勘三郎に金麾を下され、音頭をとり、江戸湊へ引入しと申傳也、
p.0721 船譜〈○中略〉
政府洋製諸船
鵬翔丸 千秋丸 健順丸 千歲丸 順動丸 昌光丸
長崎丸〈一番〉 協隣丸 長崎丸 太平丸 長崎丸〈二番〉 翔鶴丸
神速丸 黑龍丸 太江丸 美加保丸 鶴港丸 龍翔丸
長鯨丸 奇捷丸 行速丸 千歲丸 飛龍丸
同邦製諸船
鳳凰丸 昌平丸 鳳瑞丸 大元丸 旭日丸 君澤形
長崎形 箱館丸 龜田丸 先登丸 千代田形
p.0721 幟 諸侯大夫士、各定れる御船印あり、或は吹貫あり、幟の小を小ざしと呼、商船に至ては、何丸と云舟名をしるし、又は定紋合印を染込、用て式日には必立、是則禮旗(○○○)なり、
p.0721 大隅日向知行割之事
秀吉、〈○中略〉關戸に至て御渡海有し所へ、御迎舟多く浮出たり、船じるしを問せ給へば、大和中納言 殿、〈○羽紫秀長〉大友宗麟父子、毛利輝元、吉川、小早川等也、
p.0722 千度小路
古ハ船方村ト唱ヘリ、〈○註略〉北條氏綱、里見氏ト爭戰ノ頃、當町〈○小田原〉ヨリ軍船ヲ出セシ賞トシテ、三(○)〈ツ〉鱗ノ紋(○○○)ヲ船印ニ賜ハリシトテ、今町内ノ符節ニ是ヲ用イル、
p.0722 御關船龍王丸御船〈○中略〉
一七本骨扇上ニ金之賽御船印 壹本
右御建物、雙六賽ニ有レ之候處、寬文二〈寅〉年六月十日、安宅丸御船上覽〈○德川家綱〉ニ付、龍王丸御船出候節、七本骨扇ニ御摸樣替致、出來候處、元祿十六〈未〉年、大地震ニ而、御船藏潰候ニ付、大損ニ相成候由ニ有レ之候、
p.0722 御城米廻船之儀ニ付御書付〈○中略〉
一御城米船印之儀、布ニ而成共、木綿ニ而成とも、白四半ニ、大成朱之丸を付、其脇ニ面々苗字各書付之、出船より江戸著迄、立置候樣可レ被二申付一候、諸浦々〈江〉も其通申觸候間、自然船印違ひ候歟、又ハ船印不二立置一舟有レ之バ、浦々より注進申來候筈ニ候條、無二相違一樣ニ可レ被二申付一事、
右之通、入レ念被二申付一、不屆之儀無レ之樣尤候、以上、
丑〈○寬文十三年〉二月
p.0722 一同〈○延寶〉八年御船印日ノ丸、公義御船印ニ相成候故、此方樣御船印、九曜〈ノ〉丸ニ改ル、
p.0722 紀州船之事
紀
紀伊殿、江戸に而、大小手船之分は、右之極印打、船印も如レ此立申候、右之外、當分用事有レ之節は、商人船、遣申儀御座候、其船には當座印を立、紀之字書付申候、以上、 享保五年子二月 〈紀伊殿役人〉小林奈八郎印
p.0723 尾州船之事
尾
尾張殿、江戸に而、大小手船之分は、右之極印打、船印も如レ此立申候、右之外、當分用事有レ之節は、商人船、遣申儀御座候、其舟には丸之内尾之字印立申候、以上、
享保五年子五月 〈尾張殿役人〉近藤安右衞門印
覺
尾張殿手船之儀は、向後白地に、文字朱に而尾之字、商船雇用事達候節は、紺地、丸に尾之字白〈ク〉付申候、
子五月
p.0723 水戸船之事
丸ニ水
一中將殿手船之分は、江戸幷水戸領内共に、不レ限二何船一、右之極印打、舟印如レ斯に仕候、
一水戸領内商人船、右之極印打、丸之内に小之字印立申候、
右之通御座候間、向後御改之節、改を請候樣に申付候、以上、
〈水戸殿役人〉柴田源助印
享保五年子二月 藤咲傳之允印
p.0723 第三十八卷ニ、琉球ノ使、東都へ參向ノコトヲ録ス、ソノトキ薩侯ハ、陸路ヨリシテ豐前ノ大里ニ抵リ、琉人ハ海路ヲ經テ赤間關ニ赴ク、ソノ道、予〈○松浦淸〉ガ城北ノ迫戸ヲ過グ、因テ外廓ニ出テ船行ヲ望ム、〈○中略〉キク薩摩ノいろは船(○○○○)トテ、四十八ノ船アリテ、いろはノ文字ヲ旗ニ シルスト見エ、ソノ旗ヲ竪ツ、然ドモ此船行ノ前後、已ニ數艘通船セリ、因テいろはノ全キヲ見ズ、
p.0724 御郡代伊奈半左衞門殿、生年二十四歲なりしを、從五位下攝津守に任じ、米穀運送の總司となし給へり、〈○中略〉扨其時のありさまは、船の印に伊奈といふ文字、白字に赤く染出し、船毎に押立しは、秋の紅葉の浮ぶが如し、
p.0724 丑〈○天保十二年〉十二月十七日
水野越前守殿御渡
町奉行〈江〉
菱垣船積荷物之儀、規定有レ之處、此度問屋組合等令二停止一、諸品素人直賣買、勝手次第之旨申渡候に付而は、菱垣、樽船積荷物之儀も、向後是迄之規定に不レ拘、荷主相對次第、辨理之方〈江〉積込、無二差支一樣運送可籔候、尤菱垣之方は、文政之度、紀伊殿より貸渡有レ之候天目船印、差障候儀有レ之候間、以來相用申間敷、右船印、早々紀伊殿〈江〉返上可レ致旨可レ被二申渡一候、
十二月
p.0724 安政元寅年七月九日
船印之儀ニ付御觸書
伊勢守殿御渡 三奉行〈江〉
大船製造ニ付〈而〉ハ、異國船ニ不レ紛樣、日本總船印(○○○○○)ハ、白地日之丸幟(○○○○○○)相用ひ候樣被二仰出一候、且又公儀(○○)御船之儀ハ、白紺布交之吹貫(○○○○○○○)、帆中柱〈江〉相建、帆之儀ハ、白地中黑、被二仰付一候條、諸家ニおゐても白帆ハ不二相用一、遠方ニ而も見分り候帆印、銘々勝手次第ニ相用可レ申、尤帆印幷其家々船印をも、兼〈而〉書出置候樣可レ被レ致候、
右大船之儀、平常廻米、其外運送ニ相用候儀、勝手次第ニ候得共、出來之上ハ、乗組人數、幷海路乘筋 運漕方等、猶取調可レ被二相伺一候、
右之通可レ被二相觸一候
p.0725 安政二年二月、薩州ニ於テ製造ノ船、琉砲船江戸海ニ著ス、
琉砲船長十五間、檣三本出し、共裾黑の帆標、帆三段に掛け、中程に裾黑の吹流し付、艫の方、日の丸、並轡の紋、船標小幟、布交の吹貫を立つ、
p.0725 安政四年十二月廿五日、御國船異國形、通航浦觸停止、
公儀御船を始、諸家手船等、異國形の分、通航の筋々、是迄御勘定奉行より浦觸差出候處、向後は浦觸不二差出一候間、兼て被二仰出一候日本總船印、白地日の丸幟立有レ之船は、御國船と相心得、港掛り等の節、定例廻船の通可レ被二取計一候、
p.0725 安政六年正月二十日、大艦ノ旗標ヲ定ム、
大艦御國總標日の丸の旗相立、公儀にては、中帆の柱へ白紺吹貫引揚げ、帆は中黑を用候積り、先年相達置候處、向後御國總印は、白地に日の丸の旗、艫綱へ引揚げ、帆は白布相用候、公儀御軍艦は、中黑の細旗を中帆柱へ引揚候間諸家に於ても大艦出來次第、家々の船印、公儀御船印に不レ紛樣取調べ、雛形を以て可レ被二相伺一候、
p.0725 萬延元申年十一月六日
船印改正之儀ニ付御觸書
對馬守殿御渡 御勘定奉行〈江○中略〉
右之通、去未年〈○安政六年正月二十日〉相觸候處、向後、帆ハ白帆、又ハ帆中江其家々之印、或ハ紋附候共不レ苦候、
尤御國總印、白地日之丸之旗、艫綱〈江〉引揚候儀、先達〈而〉相觸候通可レ被二心得一候、
十一月六日
p.0726 軍艦諸帆、白地中黑之制、甚ダ不便ヲ感ズ、且船印吹貫ノ制、日本小船ニ用ユ可シト雖モ、大艦ニシテ如レ斯ハ、實ニ無用之長物タリ、當時實際其不便ヲ覺フ、終ニ改定之發令ニ及ブ、是安政六己未年正月廿日也、
p.0726 亥〈○文久三年〉八月七日
板倉周防守殿御渡候御覺書寫
町奉行衆
御勘定奉行衆
覺
御軍艦之儀者、御國印、白地日之丸之外、白地中黑之旗、常ニ大檣上〈江〉引上置候間、此段向々〈江〉可レ被二相觸一候事、
八月
p.0726 船頭(センドウ/○○)
p.0726 船頭
按船頭といへるは、水手の長にして、よく水利を辨ずるものゝ所職なり、世職にて子孫に傳ふるもあり、又水手の内より、さる者をゑらびてなさるゝもあり、水手は苗字をよばぬものなれど、この職になさるれば、苗字をゆるさるゝこと、中頃より常のならひとなれり、
p.0726 檝師(○○) 文選呉都賦云、㰏工、檝師、〈和名加知止利〉
p.0726 楫取(カヂトリ) 梶取(同) 檝取(同) 舟子(カコ/○○) 舟人(同)水手(同)
p.0726 かぢとり 日本紀に、挾杪者と書り、倭名鈔に檝師をよみて、楫取の義也、西土の書に、梢工、梢人などいひ、梶も木杪也と注せれば、相通はして書る也、實は今いふ、かひ也、
p.0727 檝取 水手
按檝取は、船中にて檝とるわざをつかさどるものなり、檝取、又挾杪ともかけり、かんどりといへるとなへは、かぢとりの轉語なり、古く檝取浦とかきて、かどりの浦とよめり、水手は櫓棹をとり、又船中の事は何事にかぎらず、とりあつかふものなり、水手、或は水主ともかけれど、國史にはなべて水手に作れり、これをかこといへるは、檝子の意なるべし、さて水手といへば檝取をもこめて、おほよそにとなへしごとく聞ゆるかたもあれど、かならず兩名の分ちはある事なり、〈永承三年高野御參詣記に、梶取四人、水手十人とあり、○中略〉又船子といふ稱あれど、これは檝取水手のたぐひをよべるにて、別にさる種族あるにはあらず、
p.0727 水手(スイシユ/○○) 檝取(カンドリ)〈或作レ梶、日本之俗説也、〉
p.0727 舟子〈水手附〉 文選江賦云、舟子(○○)、〈和名布奈古〉於レ是搦棹、〈搦、提也、女角反、〉
p.0727 ふなこ 日本紀に、水手をよめう、舟子の義也、舟子は、詩經にみゆ、
p.0727 水手者 家によつて立髮半髮、風儀さま〴〵あり、こゑよくして、歌にかんあるをよしとす、
p.0727 入二諸蕃一使〈○中略〉
史生、射手、船師(○○)、〈○中略〉各絁四疋、綿廿屯、布十三端、〈○中略〉船匠柂師各絁三疋、綿十五屯、布八端、傔人挾杪各絁二疋、綿十二屯、布四端、〈○中略〉水手長絁一疋、綿四屯、布二端、水手各綿四屯、布二端、柂師、挾杪、水手長、及水手各給二帷頭巾、巾子、腰帶、貲布、黃衫著レ綿帛襖子袴、及汗衫、褌、貲布半臂一、其渤海新羅水手等、時當二熱序一者、停二綿襖子袴一、宜レ給二細布袴一、並使收掌臨二入京一給、
p.0727 享保十三申年正月
諸大名手船之水主、脇指帶候儀、扶持人は各別、荷をつみ候船の雇かこは、向後脇指帶申間敷候、但 船頭之儀は、諸事差引等をも仕事に候得ば、雇之者にも、勝手次第帶刀可レ申候、
正月
右之趣、諸大名〈江〉可レ被二相觸一候、
p.0728 十八年五月壬辰朔、從二葦北一、發レ船到二火國一、於レ是日沒也、夜冥不レ知レ著レ岸、遙視二火光一、天皇詔二挾杪者(カヂトリ/○○○)一、曰、直指二火處一、因指火往之、卽得レ著レ岸、
p.0728 八年正月壬午、幸二筑紫一、〈○中略〉熊鰐奏之曰、御船所二以不一レ得レ進者非二臣罪一、是浦口有二男女二神一、男神曰二大倉主一、女神曰二菟夫羅媛一、必是神之心歟、天皇則禱祈之、以二挾杪者倭國莵田人伊賀彦一、爲レ祝令レ祭則船得レ進、
p.0728 十三年九月中、髮長媛至レ自二日向一、〈(中略)一曰、日向諸縣君牛、仕二于朝廷一、年旣老耆之不レ能レ仕、仍致レ仕退二於本土一、則貢二上己女髮長媛一、始至二播磨一時、天皇幸二淡路島一、而遊獵之、於レ是天皇西望之、數十麋鹿、浮レ海來之、便入二于播磨鹿子水門一、天皇謂二左右一曰、其何麋鹿也、泛二巨海一多來、爰左右共視而奇、則遣レ使令レ察、使者至見、皆人也、唯以二著レ角鹿皮一爲二衣服一耳、問曰、誰人也、對曰、諸縣君牛、是年耆之、雖レ致レ仕不レ得レ忘レ朝、故以二己女髮長媛一而貢上矣、天皇悦レ之、卽喚令レ從二御船一、是以時人、號二其著岸之處一、曰二鹿子水門一也、凡水手曰(○○○)二鹿子(○○)一、蓋始起二于是時一也、〉
p.0728 應神紀に播磨にて、髮長媛を奉るとて舟に乘り來りし人、鹿皮を被りければ、其が舟著し港を鹿子の水門と云といへるは、左もあらん、水主をかこと云も、此時より始るとは、餘りに理なしと云べし、かことは、楫子と云詞の省けるなり、
p.0728 二十二年三月丁酉、登二高臺一而遠望、時妃兄媛侍之、〈○中略〉天皇、愛三兄媛篤二温淸之情一、則謂レ之曰爾不レ視二二親一、旣經二多年一、還欲二定省一、於レ理灼然、則聽之、仍喚二淡路御原之海人八十人一爲二水手一、送二于吉備一、
p.0728 二年五月戊辰、勅二吉備海部直難波一、送二高麗使一、 七月乙丑朔、於二越海岸一、難波與二高麗使等一相識、以二送使難波船人(○○)、大島首磐日狹丘首間狹一、令レ乘二高麗使船一、
p.0728 六年五月庚午、御二阿胡行宮一、〈○中略〉免二挾秒八人今年調役一、
p.0729 大舶爾(オホブネニ)、小船引副(ヲブネヒキソへ)、可豆久登毛(カヅクトモ)、志賀乃荒雄爾(シガノアラヲニ)、潛將相八方(カヅキアハメヤモ)、
右以、神龜年中、大宰府、差二筑前國宗像郡之百姓宗形部津麻呂一、充二獨馬送レ粮舶柂師(○○)一也、于レ時津麻呂、詣二於糟屋郡志賀村白水郎荒雄之許一語曰、僕有二小事一、若疑不レ許歟、荒雄答曰、走雖レ異レ郡、同レ船日久、志篤二兄弟一、在二於殉死一、豈復辭哉、津麻呂曰、府官差レ僕、充二對馬送レ粮舶柂師一、容齒衰老不レ堪二海路一、故來祗候、願垂二相賛一矣、於レ是荒雄許諾、遂從二彼事一、自二肥前松浦縣美彌良久埼一發レ舶、直射二對馬一渡レ海、登時忽天暗冥、暴風交レ雨、竟無二順風一、沈二沒海中一焉、因レ斯妻子等、不レ勝二恃慕一、裁二作此謌一、
p.0729 天平寶字七年十月乙亥、左兵衞佐正七位下板振鎌束至レ自二渤海一、以レ擲二人於海一勘當下レ獄、〈○中略〉初王新福之歸二本蕃一也、駕レ船爛脆、送使判官平群虫麻呂等、廬二其不一レ完、申レ官求レ留、於レ是史生已上、皆停二其行一、以修二理船一、使下鎌束便爲二船師(○○)一送二新福等一發遣上、事畢歸日、〈○中略〉海中遭レ風、所レ向迷レ方、柂師水手(○○○○)爲レ波所レ沒、
p.0729 寶龜六年四月壬申、授二川部酒麻呂外從五位下一、酒麻呂肥前國松浦郡人也、勝寶四年、爲二入唐使第四船柂師一、歸日海中順風盛扇、忽於二船尾一失火、其炎覆レ艫而飛、人皆惶遽不レ知レ爲レ計、時酒麻呂廻レ柂、火乃傍出、手雖二燒爛一、把レ柂不レ動、因遂撲滅、以存二人物一、以レ功授二十階一、補二當郡員外主帳一、至レ是授二五位一、
p.0729 大將殿には、上巳のはらへしになにはへ、かた〳〵おとこ君だちも、のこりすくなくおはします、〈○中略〉ふね六に、ふなこ(○○○)廿人ばかり、かぢとり(○○○○)四人、さうぞくゑらび、かたちをとゝのへて、〈○下略〉
p.0729 七日〈○承平五年正月〉になりぬ、〈○中略〉この長櫃の物は、皆人わらはまでにくれたれば、あきみちて、舟子どもは、はらつゞみをうちて、海をさへおどろかして、波をもたてつべし、 十四日、〈○中略〉舟君せちみす、さうじ物なければ、うまの時より後に、かぢとりの、きのふつりたりし鯛に、錢なけれ ば、よねをとりかけておちられぬ、かゝる事おほくありぬ、かぢとり又鯛もてきたり、よねさけしばしばくる、かぢとりけしきあしからず、
p.0730 これもいまはむかし、つくしに大夫さだしげと申物ありけり、〈○中略〉唐人すべきやうもなくて、さだしげとむかひたる船頭(○○)がもとにきて、その事共なくさへづりければ、〈○下略〉
p.0730 からの御舟より、つゞみを三たびうつ、もろ〳〵の舟ども、はじめてこのこゑに湊をいづ、いではてゝぞ、一の御舟はいださるゝ、舟子かんどり(○○○○○○)など、心ことにさうぞきたり、はじこがしの藍ずりに、きなるきぬども重ねて、廿人きたり、なぎたる朝の海に、舟人のゑいやごゑ、めづらしくぞきこゆる、
p.0730 義經解レ纜四國渡附資盛淸經頸可レ上二京都一由事
十六日、〈○元曆二年正月、中略、〉判官〈○源義經〉ハ、風旣ニ直レリ、急舟共出セト宣フ、水手楫取(○○○○)等申ケルハ、是程ノ大風ニハ、爭出シ候ベキ、風少弱候テコソト申、
p.0730 寶治二年十月廿日ごろ、もみぢ御らんじがてら、うぢに御幸し給ふ、〈○中略〉うぢ川のひがしのきしに、御舟まうけられたれば、御車よりたてまつりうつるほど、夕つかたになりぬ、御舟さし(○○○○)色々のかりあをにて、八人づゝさま〴〵なり、
p.0730 長崎新左衞門尉意見事附阿新殿事
船人、〈○中略〉手々ニ船ヲ漕モドス、汀近ク戒ケレバ、船頭船ヨリ飛下テ、兒〈○日野阿新〉ヲ肩ニノセ、〈○下略〉
p.0730 大館左馬助討死事附篠塚勇力事
篠塚、〈○中略〉其夜ノ夜半計ニ、今張浦ニゾ著タリケル、自レ此舟ニ乘テ、隱岐島へ落バヤト志シ、船ヤアルト見ルニ、敵ノ乘棄テ、水主(○○)計殘レル船數タアリ、是コソ我物ヨト悦テ、冑著ナガラ浪ノ上五町計ヲ游ギテ、アル船ニ岸破ト飛乘ル、水主梶取驚テ、是ハ抑何者ゾト咎メケレバ、〈○下略〉
p.0731 五月〈○建武三年〉廿三日戌刻に、雨まじりたる西風少し吹、將軍〈○足利尊氏〉御悦有て仰られけるは、此風は天のあたふる物か、はや纜をとくベしと有ければ、或議に云、海上の事、其儀を得ず、異見を申がたし、大船共の船頭を召れて、御尋有べしと有に依て、御座船串崎の船頭、千葉大隅守が舟、をぎはしの船頭、大友少貳、長門周防の舟の船頭拾四人、御前に列して各申けるは、此風は順風なれども、月の出汐に吹替てむかふべきか、出されては若途中にて難義あるべきかと有ければ、爰に上杉伊豆守の乘舟名をば今度船と號す、長門安武郡椿の浦の船頭孫七、畏申けるは、是は御大慶の順風と存候、その故は、雨は風の吹出て降候、月の出ば雨は止候べし、少はこはく候とも追風なるべきよし、一人申上たりしかば、御本意たるに依て、御感再三に及ぶ、忝御意を懸られ、左衞門尉になさる、將軍仰られけるは、元曆の昔、九郎判官義經、渡邊より大風なりしかども、順風なればこそ渡りつらめとて、雨の止をも御待なくして御座船出さる、あやうかるべきよし、餘多の船頭申上をば聞召れずして、一人が申を御許容如何と、内々申輩有けれども、進御道なれば異見に不レ及、旣御船を出されければ、總而船數大小五千餘艘とぞ聞えし、去ながら其夜御供に出し舟、三千艘には過ざりけり、月の出汐を待て、室より五十町東なる抄子浦に御舟かゝる、案のごとく雨止しかば、月とともに御座舟走りけり、
p.0731 同〈○天文二十年八月〉廿九日、義隆卿〈○大内〉ハ、岩永〈へ〉被レ退給、〈○中略〉扨テ小荷駄ヲ岡部才覺シテ、夜明方〈ニ〉千戸崎へ落シ奉ル、此處ニ後子壹岐ト申ス船頭アリ、是ヲ賴ミ、船ヲ才覺シタ皆ノリ玉フ、
p.0731 朝鮮陣爲二御用意一大船被二仰付一覺〈○中略〉
一水手之事、浦々家、百間に付而、十人宛出させ、其手々々之大船に用可レ申候、若有餘之水手は、至二大坂一可二相越一之事、〈○中略〉
一船頭は、見計ひ次第、給米等相定め可レ申事、 一水手一人に、扶持方二人、此外妻子之扶持つかはし可レ申之事、〈○中略〉
右條々無二相違一令二用意一、天正廿年之春、攝州、播州、泉州之浦々に令二著岸一、一左右可レ有レ之者也、
天正十九年正月廿日 秀吉
p.0732 御小性衆ニ、半介ヲ呼候ヘト仰有テ被二召寄一、御諚ニハ、御船頭明石與次兵衞、今朝御出船ノ時、御船ヲバ、四國ノ地へ乘可レ申ト云シ程ニ、乘前近キカト尋ケレバ、少シマハリニテハ御座候ト申、然ラバ潮アヒ乘ヨキカ卜問ケレバ、夫ハ何方モ同ジ事ニテ御座候卜申、サアラバ急テ上ルコトナレバ、遠キ方ヘハ何トテ乘ルベケンヤ、常ノ如乘候へ、渚近ク乘候ヘト云シニ、沖ヲ乘テ船ヲ乘損ジ、危キメヲ御覽ゼラレシニ、右京大夫參合テ、御命ヲ助ケ申タリ、與次兵衞コト、御誅罰有ベケレドモ、累年御船頭仕タル者ナレバ、一命ノ處ハ御助有ベシ、兩耳ヲソギ、追捨候ヘトノ御諚ニテ、半介殿ハ、御船へ被レ參シ、〈○下略〉
p.0732 十三番 左 猪牙舟こぎ(○○○○○)
猪牙舟の一葉うかべて大川の月にや水の秋をしるらん
p.0732 予〈○松浦淸〉ガ中ノ海船、船ゼリトテ、兩船相對スレバ、自他共ニコレヲ爲スコト有リ、又予ガ中ノ某、先日歸邑ノ暇乞ニトテ來リ、彼是ノ話セシ中ニ曰フ、某コノ廿年前出府ノトキ、熊澤某ト、隼丸ト云御船ニ乘リ、又柘植某ト立石某ハ、子長丸ト云ニ乘リ、豐前ノ田ノ浦ヲ發シ、末灘ヲ渉ラントスルトキ、二艘相並、カノ船ゼリニ及ブ、コノトキ隼丸ハ船形モ大ニシテ、且古船ナレバ、足遲クシテ、殆ド負色ニ見ユ、ソノ時コノ船ノ表役ト梶取ト二人、衣ヲ脱ギ赤裸ニナリ、船飾ノ鐵砲ヲ持テ、船中ヲ踊リ廻リ、加子(カコ)共ヲ勵シタリ、ソノ體、梶取ハ陰具ノ半バヲ藁ニテ結ビ、表役ハ陰囊大ナル男ナルヲ、態ト打露ハシタリ、某驚キ興ガリテ、コノ體ハ如何ナルコトヤ、不圖ノ思ツキカト問タレバ、曰ク、左ハコレナシ、十餘里ノ所ヲ迅行セントスルハ、人疲レ氣衰フ、コノトキ勢 力ヲ引立ルニハ、笑謔ニ非レバ精神伸ルコトナシ、旣ニ昔年法印公〈○松浦鎭信〉朝鮮御渡海ノトキモ、如レ斯キ體タルコト、船手ノ傳ル所ナリト、某聞テ愕然且敬伏セリト、コレ利口ナル答ナレド、計ルニ當時ノ事實ナラン、
p.0733 船宿 見付と柳橋との間、同朋町の河岸に多し、
三谷船の宿、諸所にあり、なかんづく見附、箱崎、今戸堀、此三ケ所別して多し、
p.0733 古へは揚屋の挑燈の棒は、十手の樣にて鐵也、茶屋は木の棒、舟宿は繩を用ひたりとかや、其頃舟宿といふ者は百姓にて、雨天の折から、客を送り來るには、多く蓑笠を著たり、舟宿は大門を限りにて、門内へ入らざる古實なれば、揚屋遊女屋までも、來ることは無理也、遊女屋、揚屋、茶屋は同坐せず、揚屋、茶屋は、舟宿と同席せざりしが、今は此事なし、
p.0733 江戸町うら川岸端に、船宿とて、大坂の茶船やの如きいと多く、濱側より半町計りも内町にも有り、前にいふ茶屋とおなじく、床几腰かけ出し、家號の行燈、墨黑に書き、棚に煙草盆火繩箱をならべ、客きてどこ迄といへば、言下にサアお出成されと、船宿女房、或は娘など、煙草盆に火を入れ、船迄案内する、船頭直に船を出す、さやうなら御機嫌よくと見送る、其手都合よきこと感心なるものなり、
p.0733 今戸橋〈○中略〉 彼二丁立のはや船も、此堀に乘入て堤に登る、茲にも吉田屋、坂本屋、鶴屋、和泉屋、麓やなどとて、二丁立を業とする船頭の宿あり、
p.0733 船遊山〈兩國より淺草川を第一とす○中略〉 船宿 日本橋東西河岸 鞘町河岸 本銀町壹町目 江戸橋 堀江町 伊勢町 兩國橋東西 柳橋 米澤町 本所一ツ目邊 石原 淺草用吾妻橋の東西 鐵砲洲 靈巖島 日比谷町邊 小網町 深川 筋違外より神田川通 牛込御門外 新橋 汐留等なり、〈屋形、屋根ぶね、猪牙、にたり等好に隨ふ、三丁と稱ふる舟は、所によりてあり、すくなき舟なり、〉
p.0734 凉舟 屋形船、家根舟にて多く出る、
船宿は〈日本橋西河岸 さや町がし 江戸橋 堀江町 伊勢町 新橋 汐留 小網町 神田川 牛込 淺草川 兩國柳橋 米澤町 向兩國 本所一ツ目邊 鐵砲洲 れいがん島 深川其外諸所にあり〉
p.0734 江戸船宿
堀江町、柳橋邊、日本橋、江戸橋、山谷川岸、各十餘戸、或ハ二十餘戸、軒ヲ比スル者多シ、其他諸川岸ニ散在スル者、其數擧テ知ルベカラズ、皆川船宿ニテ、荷船宿モアレドモ、十ケ一ニテ其九ハ川遊船ヲ專トシ、各小戸ナレドモ、晒掃ヲ精ク、屋造リ奇麗ヲ專トシ、男女ノ密會ヲナシ、或ハ客ノ求ニ應ジ、宴席ヲ兼ネ、又靑樓娼家ニ引手ト號ケ、導クコトヲナス、深川等ノ遊里盛ナル時ハ、其遊客遊女ヲ乗スルニヨリ、甚繁多ナリシガ、遊里廢止ノ後甚ダ衰ヘタリ、又遊參ノミニモ非ズ、當所ハ地廣ク特ニ人心活達スルガ故ニ、市中トイヘドモ、遠路ニ往クニハ舟駕ヲ用フルコト屡也、雨中ノ他行等ニハイヨ〳〵多シ、
p.0734 定
一御公儀樣、御法度之趣、大切ニ相守、別而博奕諸勝負、總而惡事ケ間敷船、一切出シ申間敷候、尤客衆大切ニ仕、船頭水主之者、慮外無レ之樣ニ相愼可レ申候事、
一御定百艘之内、御燒印札讓リ請候御方、此已後其所之仲間へ、銘々御披露可レ被レ成候、尤年番より、例年之通、仲間總寄合レ之節、披露可レ有レ之候事、
一御燒印札讓り請候御方、是迄者格別、此已後總仲間所持有來之船、名代差合無レ之名代ヲ相改、御書替可レ被レ成候事、
一新規屋根船讓り請候御方者、寄合之節、年番同前ニ袴著シ、其節總仲間中へ、御取持可レ被レ成候事、一家業先ニ而、あぶれもの等有レ之、喧嘩口論ニ及び候ば、其所ニ船留置、年番へ爲二相知一、立合之上取 扱、万一御公邊ニも相成候儀ニ御座候ば、總仲間中へ相知らせ可レ申候、尤其節之入用等、如何程相掛候共、總仲間中より無二異儀一可レ被二相出一候事、
但百艘之内、家業先ニ而、万一喧嘩口論有レ之候共、先達相定置候通り、相互ニ相愼、致二了簡一可レ申候事、
右ケ條之通、此度相改、總仲間中ニ相談之上、銘々致二承知一候ニ付、仲間中致二連印一置候、仍如レ件、明和五〈子〉年五月 〈年番〉八丁堀
p.0735 覺
一神田仲町吉六殿店、船持八五郎儀、寶曆五年亥五月、新規舟宿出シ候所、筋違、舟持、幷和泉橋舟持大勢、渡世之障りに相成、難儀致候に付、家主吉六殿方へ相斷候所、則吉六殿、幷に證人長四郎殿、達而賴候に付、亥八月迄、四ケ月之内、船貳艘に而、渡世爲レ致候樣了簡致遣候、夫過候はゞ、早速外へ引越申候約束に致、則證文取置申候、
一船持八五郎儀、寶曆五年亥五月、花房町へ新規船宿差出候に付、昌平橋舟持、和泉橋舟持、渡世之障りに相成候に付、家主吉六殿店方へ相屆候はゞ、店しつらひ候に付、當八月迄、四ケ月之間、差置呉候樣に達而御賴に付、無二是非一證文取、差置申候所、度々相屆候得共、得心不レ仕候に付、明和二年酉六月中、八五郎、立退候樣に申聞候得ば、早速得心仕、八五郎儀は、相仕舞申候に付、組合伊助方へ相讓り申候、
〈組合行事〉卯兵衞
明和二年酉六月 六兵衞
p.0735 八百八町小船家之部
日本橋 三うら屋 同 ゑびす屋 同 大津屋 同 和泉屋 同 しま屋 同 槌屋 江戸橋 吉田屋 同 尾張屋
同 西の宮 同 大黑屋 同 吉野屋 品川町 伊勢屋
北さや町 岡まつ 同 住よし屋 同 三浦屋 同 紀の國屋
同 みどり屋 同 伊勢屋 西がし かづさ屋 同 小づち屋
同 よしの屋 同 ゑびす屋 かやば町 中村屋 同 鈴木屋
同 園村屋 同 よしの屋 小網三 大こく屋 同 三浦屋
同 ふじ屋 箱崎二 大こく屋 同 廣島屋 同 古槌屋
同 すゞ木屋 同 三しう屋 同 和歌本 同 若まつ
靈岸橋 越後屋 南新堀 上總屋 同 神奈川屋 同 新上總屋
富島二 三河屋 稻荷橋 小いづみ 同 いづ屋 同 するが屋
南八丁堀五 三浦屋 同 上總屋 同中の橋 伊吉屋 同 すゞ木屋
同 三河屋南八丁堀一 丸屋同 喜多野 同 あら井屋
同 田中屋 同 中島屋 同 するが屋 同 ふじ本
同 みの屋 同 いづみ屋 同 坂本屋 同 稻本
同 家形屋 本八丁堀一 春木屋 同 紀の國屋 同 阿波屋
同 橘屋 松村町 川崎屋 同 淸すみ 同 升屋
木挽町一 山田屋 同 ふじ屋 同六 萬屋 同五 立花屋
築地 神奈川や 同 中むら 同 上總屋 汐どめ 山ざき
同 むら田 同 兵庫屋 同 三河屋 同 ふじや
同 太田屋 同 中むらや 同 さき玉や 金 杉 まつ本 同 三浦屋 同 はま屋 同 かま倉屋 西こんや町 万ねんや
同 伊豆や 牛込揚ば まるや 同 めうが屋 同 吉田屋
筋違外 小松屋 同 をはり屋 淺草御門外 八幡屋 同 内 三浦屋
同 さがみ屋 御厩がし いせ屋 同 さがみや 淺駒形 大和や
同 越後屋 同花川戸 ふじや 同 さがみ屋 相川町 しま屋
熊非町 升本 八幡前 うちだ屋 門前一 上總屋 同 傘屋
入船橋 松本屋 佐が町 大池 同 よし川 同 伊豆屋
柳ばし 丹波屋 同 伊豆屋 同 日野屋 同 若竹
同 尾茂本 同 升田屋 同 よし川 元柳橋 鈴木
同 えび屋 同 吉野屋 同 伊勢屋 米澤町 長しまや
同 三浦屋 同 相摸屋 東橋 ときは屋 同 遠州屋
同 伊勢屋 同 ゑび屋 同 ひやうたんや 同 車屋
山の宿 柏屋 同 遠州屋 同 藤屋 同 川島
東ばし 田川屋 駒止 するが屋 同 翁屋 深川大橋 つち屋
萬年橋 明石屋 高橋 丸吉屋 向 ひたち屋 同 ふじ見や
深川水ば 槌屋 正覺寺ばし 玉屋 ゑんま堂ばし武藏屋 東くろへ町 三河屋
やぐら下 三浦屋 同 百足屋 同 大槌屋 富吉町 三浦屋
上町 川崎屋 同 伊勢本 同ばんば 吉田屋 同竹町 はし本
同 住よし屋 東橋 田川屋 堀江町 上總屋 同 武藏屋
同 いづみ屋 同 鈴木屋 かづさ屋 本船町 大むら 同 東屋 同 よし田屋 扇ばし 三ツ橋
p.0738 廻船問屋
諸國廻船多シト雖ドモ、運賃ヲ以テ漕スルハ、大坂ヨリ江戸ニ下ルヲ第一トス、是亦大坂ヲ本トシ、江戸ヲ末トス、酒樽ヲ積ムヲ樽船ト云、其他ノ諸賈物ヲ積ミ漕スヲ菱垣廻船ト云、〈○中略〉此二船ヲ以テ、大坂二十四組ノ商家ヨリ出ス諸物ヲ、運賃ヲ以テ江戸十組ノ賈店ニ達ス、運賃諸物ノ各定アリ、
p.0738 大坂より伏見過書船之事〈○中略〉
鳥羽より下り船賃上米覺
一百石船(○○○)借切 大坂迄 〈舟賃九匁 内壹匁六分上米〉 一九十石(○○○)船借切 大坂迄〈舟賃八匁五分 内壹匁四分上米〉
一八十石(○○○)船借切 大坂迄 〈舟賃八匁 内壹匁四分上米〉 一七十石(○○○)船借切 大坂迄〈舟賃七匁五分 内壹匁三分上米〉
一六十石(○○○)船借切 大坂迄 〈舟賃七匁 内壹匁貳分上米〉 一五十石(○○○)船借切 大坂迄〈舟賃六匁 内壹匁壹分上米〉
一四拾石(○○○)船借切 大坂迄 〈舟賃五匁 内壹匁上米〉 一三拾石(○○○)船借切 大坂迄〈舟賃四匁五分 内八分上米〉
p.0738 京坂ノ間ノ船ハ今井船ト云アリ、諸物ヲ積漕スヲ專トス、
又三十石船ト云アリ、人ヲ乘スルヲ專トシ、大略十艘中一艘諸物ヲ積ム、毎朝毎夕大坂ト伏見發、大坂ヨリ上リハ一日或ハ一夜也、乘合(○○)一人賃錢百四十八文、伏見ヨリ下ルハ半日或ハ半夜也、賃セン一人七十二文、蓋乘合ト云ハ唯坐スルコトヲ得ルノミ、故ニ或ハ一人ニテ一人半分、或ハ二三人分ヲ借ル、是ヲ仕切(○○)ト云、竿ヲ横ヘテ席ヲ分ツ、並ニ淀川船也、
p.0738 船賃定め、小石川水道橋、牛込、駒込より金龍山迄、
二挺艫 三匁五分 一挺艫 二匁 但歸り船 一匁
兩國橋より駒形迄 一匁 金龍山迄 百文 二挺艫一挺艫共に、雨降れば小屋形へしかけ、苫をかけ申候、
p.0739 運輸
公用の船を御用船(○○○)といひ、諸侯の御手船を御船(○○)といひ、他の船を以て貢米を運送するを御雇船(○○○)といふ、〈また定御雇船あり〉この他は賣船(○○)なり、運賃は米百俵の重を百匁とし、薪材をもこれに准へて、百匁に銀若干といふ、猶遠近に因て差あり、〈薪材の重は、船の喫水を以てこれを量る、〉先銚子口より關宿に上り、それより江戸に下るを利根の直船(○○)といふ、荷物は大槩乾鰮魚油なり、常陸の北浦西浦より出づるは、米穀、炭、薪、材木等なり、印幡沼、衣川、上利根川、亦同じ、長沼、手賀沼は、入樋ありて船入らず、蠶養川は、大率竹筏多し、〈この筏、水路を妨ぐる事多きを以て、御用の外は、舟人、字して川盜といふ、〉船は艜(ひらた)のみ入るなり、
p.0739 舟事類 説文云、艐〈于紅反、俗云爲流、〉船著レ沙不レ行也、唐韻云、艤、〈魚綺反、訓不奈與曾比、〉整レ舟向レ岸也、〓〈初敎反、訓加比路久、〉船不レ安也、
p.0739 本朝月令、引二高橋氏文一云、船遇二潮涸一天、渚上爾居奴者、是也、又見二源俊賴歌序一、今俗呼二須和留一、〈○中略〉按史記項羽本紀、烏江亭長檥レ船待、注、如淳曰、檥、正也、孟康曰、檥、附也、附レ船著レ岸也、如淳曰、南方人、謂二整レ船向一レ岸曰レ檥、是玉篇唐韻所レ本、則字從レ木爲レ正、其從レ舟俗字、又按説文、檥、榦也、榦、築二牆耑一木也、段玉裁曰、耑謂二兩頭一也、檥レ船者、若二今小船兩頭植レ㰏爲一レ系也、則知檥本築レ牆所レ植兩頭木、轉爲下整レ船向レ岸者、植二㰏於船兩頭一以系上レ之也、訓爲二不奈與曾比一不レ允、〈○中略〉按、枕册子、謂レ芒爲レ似二加比路伎立人一、蓋同語、今俗訛云二加之具一、
p.0739 船
むやゐ(○○○)〈小船を二そうも三ぞうもくみあはするを云也、又小舟なられ共、くみ合する也、又もや(○○)共云也、同事と云々、但是はいかゞ、世俗にはもやう(○○○)とは云也、〉
p.0739 むやひ もやひに同じ
p.0739 もやひ(○○○) 舟とふねとつなぎ合するをいふ也、むやひともいへり、
p.0740 思 木工頭俊賴
むやひするかまのほなはのたえばこそあまのはし舟行も別れめ
p.0740 文治六年五社百首 皇太后宮大夫俊成卿
かへる春けふの舟出はもやゐせよ猶住よしの松かげにして
p.0740 大同四年十二月乙亥、太上天皇〈○平城〉取二水路一、駕二雙船(○○)一幸二平城一、
p.0740 文應元年八月九日、〈甲辰〉今日新院〈○後深草〉有レ臨二幸石淸水社一、〈○中略〉鴨川尻桂川等、爲二諸國役一亘二浮橋一、〈○註略〉淀川儲二組船(○○)一、〈御船著儲レ之、南北岸構二御船付一、御船著幷右馬寮役也、〉建久寬元等例也、
p.0740 建治二年七月廿四日丙辰、攝政殿、〈○藤原兼平〉氏長者之後、始入二御平等院一、〈○中略〉至二宇治河東岸御船寄一下、當二離宮馬場末一、寺家儲二御舟寄一、人々下レ馬、予〈○藤原兼仲〉問レ之、卽以二下家司忠直一御車寄具幷御車組船令二用意一歟之由、毎年令二尋沙汰一、先殿下御車放レ輪舁居、御車副舍人御所侍等役々、宗實、公賴等朝臣祗二候御船一、御隨身、上﨟、少々乘二鵜船一、奉レ順二御車御船一、聊令二差上一之後、又舁二居大納言殿御車於組船(○○)一、〈輪放レ之〉師俊、伊顯候二御船一、兩方御車輪舁二居雜船一所レ令レ渡也、
p.0740 廿三日、〈○弘安三年十月〉てんりうのわたりといふ、舟にのるに、西行が、むかしもおもひ出られて、いと心ぼそし、くみあはせたる舟(○○○○○○○○)、たゞひとつにて、おほくの人のゆきゝに、さしかへるひまもなし、
p.0740 一艘(イツソウ)〈字彙、艘、船之總名、故今爲レ數、〉
p.0740 靈龜元年三月甲辰、金元靜等〈○新羅使〉還レ蕃、勅二大宰府一、賜二綿五千四百五十斤、船一艘一、
p.0740
乘レ船吉日 〈甲子 乙丑 戊戌 己未 辛未 甲戌 戊子 己丑 甲午 乙未 戊戌 己亥〉
〈甲辰 乙巳 甲寅 戊午 己未 卯日〉
p.0741 二日 角倉船乘初 於二前川一、浮レ船而祝レ之、
○按ズルニ、船乘始ノ事ハ、歲時部年始雜載篇ニ在リ、
p.0741 舊記抄出
慶長六年、〈辛丑〉一豐公、〈中略〉正月八日、浦戸に御著、此日を御吉例として、毎年御船の乘初(○○○○○)被レ成候也、
慶長六年正月八日、浦戸御入城之日、御吉例御坐御船御乘初、正月八日に被二仰付一候事、〈○中略〉
万治二年正月八日、如二御嘉例一、御船御乘初に付、櫃屋道淸より、高麗くるみ曲物壹、かすていらはなぼう曲物壹、かせいた曲物壹、高麗松子曲物壹、こんぺいとふ曲物壹、あめんどふ曲物壹、氷ざとふ曲物三ツ差上ル、
p.0741 爾建内宿禰白、〈○中略〉今如レ此言敎之大神者、欲レ知二其御名一、卽答詔、是天照大神之御心者、亦底筒男、中筒男、上筒男三柱大神者也、〈○註略〉今寔思レ求二其國一者、於二天神地祇、亦山神、及河海之諸神一、悉奉二幣帛一、我之御魂坐二于船上一而、眞木灰納レ瓠、亦箸及比羅傳〈○註略〉多作、皆々散二浮大海一以可レ度、故備如二敎覺一、整レ軍雙レ船、度幸之時、海原之魚、不レ問二大小一、悉負二御船一而渡、爾順風大起、御船從レ浪、故其御船之波瀾押二騰新羅之國一、旣到二半國一、
p.0741 明年〈○攝政元年〉二月、麛坂王、忍熊王、〈○中略〉乃佯下爲二天皇一〈○仲哀〉作上レ陵、詣二播磨一興二山陵於赤石一、仍編レ船絙二于淡路島一、運二其島石一而造レ之、
p.0741 ひととせ入道殿、〈○藤原道長〉大井川の逍遙せさせ給しに、作文船、管絃船、和歌船とわかたせ給て、その道にたえなる人々をのせさせ給しに、此大納言殿〈○藤原公任〉のまいり給へるを、入道殿、かの大納言いづれの船にかのらるべきとの給はすれば、わかのふねにのり侍らんとの 給て、よみ給へるぞかし、
をぐらやまあらしの風のさむければもみぢのにしききぬ人ぞなき、申うけ給へるかひありてあそばしたりな、御みづからものたまふなるは、作文の舟にぞのるべかりける、さてかばかりの詩をつくりたらましかば、なのあがらんこともまさりなまし、くちおしかりけるわざかな、さても殿〈○道長〉いづれにとかおもふとの給はせしなむ、われながらこゝろおごりせられしとのたまふなる、
p.0742 圓融院大井川逍遙の時、三舟にのる者ありけり、帥民部卿經信卿又この人〈○藤原公任〉におとらざりけり、白河院西河に行幸の時、詩歌管絃の三の舟をうかべて、其道の人々をわかちてのせられけるに、經信卿遲參の間、ことの外に御けしきあしかりけるに、とばかりまたれて參りけるが、三事かねたる人にて、みぎはにひざまづきて、やゝいづれの舟にてもよせ候へといはれたりける、時にとりていみじかりける、かくいはんれうに遲參せられけるとぞ、さて管絃の舟に乘て、詩歌を獻ぜられたりけり、三舟に乘とはこれ也、
p.0742 淨英子墓碑
壺井氏、相傳其先三河高須族、後徙二京南伏見一、更レ氏焉、郷推爲二黨正一、〈○中略〉自二國初一建二鎭臺一、擇二諸侯一尹二其地一、壺井氏爲二黨正一如レ故、蓋七世會レ無レ子、自二一柳氏一來嗣二家氏一、曰二祐佐翁一、諱益德、長子、諱益秋、是爲二淨英子一、翁旣見三其地公役殊劇、而民乏二産業一、志欲二賑恤一、元祿中、參政米倉侯、東來巡二察京畿之政一、乃見二伏見衰敝、郷不一レ堪レ役憂レ之、召レ翁問二利害一、遂用二其議一、東歸上聞、特賜二伏見澱漕公船二百艘一、會尹臺闕、代未レ至、時有下從二他縣一請上レ造レ船、而不レ能レ成、建部侯來尹、始駭二賜船未レ成、朝恩中阻一、復召レ翁議、因命董二其事一、翁健有二才略一、旣肯受以爲レ任、乃募二富商運レ貨者一、令レ得下隨二新造一而漕上、船算守レ法無二私加一、商貨家大喜、爭願レ隷焉、翁拱レ手司二其事一耳、未レ幾大小二百船、整然浮レ澱、行旅得レ便、郷民就レ業、尹侯大悦賞レ之、上二其事一、朝命令二翁三年一束得一レ與二朝正 之儀一、通行十二年、而澱漕舊有二公船千二百餘一、嘗辜権得レ擅、於レ是害下伏見船分二其漕一不上レ得加二私利一、數構レ事請レ廢二伏見船一、寶永中、姑罷二伏見船一、俄失レ業者、數千人、翁甚憂レ之、乃父子倶東、力請レ復二其船一、及二北條侯爲一レ尹、革二諸敝政一、時翁已卒、淨英後先、副二父翁一共レ事、於レ是復具二其利害一上訴、尹侯審理、欲レ再二興之一、享保中、携二淨英一東朝、具以聞、朝議復賜二伏見公船大小二百艘一、與二舊船一並漕、因令下察二舊船非法事一上吿上、蓋並漕、則各自相勵、不レ得下擅一私加中雇賃上、雇賃賤、則行旅輸レ財、天下便レ之、不二獨伏見居民成一レ生、是國家惠政之意云、三年朝正、拜二上賜物一、諸依二父前例一、淨英剛毅持重、而才略亦不レ減二先翁一、亡レ何造船復行、嘗失レ業者、皆盡鳩聚、行路相驩、而猶尚時爲二舊黨一所二動搖一、淨英乃據二朝命一、執レ契不レ撓、屬者得レ依焉、享保甲寅、小堀侯來鎭、亦患二其動搖相煽一、於レ是淨英建白、以レ船隷二鎭臺一爲レ重、侯乃乞二朝命一許レ之、司二其事一如レ故、實寬保三年也、
p.0743 棹歌(○○)之事
御召の御座船には、櫂の歌を諷こと、和漢ともに同、船歌(○○)と云、初て聲を發するを歌出(ウタダシ)者と云、同音に謠者を歌組と云、櫓拍子に合て是を諷て祝する也、張平子西京賦に曰、齊二栧女一、縱二櫂歌一、發二引和一、校二鳴葭一、奏二淮南一、度二陽阿一、感二河馮一、懷二湘娥一、驚二網蜽一、憚二蛟龍一、注に發二引和一とは、言、一人唱、餘人和也、是本邦に諷ふ所に同じ、一人唱は、歌出者、諷出すなり、餘人和すると云は、歌組の者、同音に付て謠也、
p.0743 九日〈○承平五年正月〉夜ふけて、西東も見えずして、てけの事、かぢとりの心にまかせつ、〈○中略〉舟子かぢとりは、ふなうたうたひて、なにともおもへらず、そのうたふうた、
春の野にてぞ、ねをばなく、わがすゝきにて、手をきる〳〵つんだるなを、親やまぼるらん、しうとめやくふらん、かへらや、夜べの菜を、そらごとをして、おぎのりわざをして、錢ももてこず、おのれだにこず、これならずおほかれど、かゝず、
p.0743 尼君などつれて、河じりをすぐれば、おかしうも行きちがふ船にのりたるものどもの、あやしき聲々して、つまも定めぬ岸のひめ松と歌ひて、こぎ行も、ならはぬ心ちしてあはれなり、 〈○中略〉さて住吉には、やう〳〵冬ごもれるまゝに、いとさびしさまさりてあらき風ふけば、わが身のうへに浪たちかゝる心ちしてける、おきよりこぎくる舟には、あやしき聲にて、にくさびかけるなど、うたふも、さすがにおかしかりけり、
p.0744 御船唄
御代永く
〈ダシ〉御代永く、民も豐に住ければ、〈ツケ〉いざうちよりて、うたひ酒もり遊ぶもの、〈ダシ〉池のみぎはに鶴とな龜が、あゝつるとな龜が、うたひさへづり舞遊ぶ、〈三〉さえづりなさへづり、うたひうたひ、さへづりまひ遊ぶ、〈ダシ〉ひちくかん竹、なは竹の竹よ、〈ツケ〉あゝはちくの竹よ、千々を重て、すゑながく、〈三〉かさねてな、重てな、千々を、〈ツケ〉千々をかさねてすへながく、〈ダシ〉君ハ千代ませ、御代をの松よ、〈ツケ〉あゝ御代をの松よ、いつもかわらぬ、若みどり、〈三〉かはらぬな、かはらぬいつも、〈ツケ〉いつもかはらぬ、若みどり、
p.0744 尾州知多郡邊にて、よめ入の事、富る人新しく船をこしらへ、へさきに壻とよめの紋をすへ、是にのせてをくる、さればよめを御新艘(○○)ともいふ也、名ごや堀川へ來る海船に、ふたつ紋付亢る多し、古風なる事にや、
p.0744 貞丈云、よめの事をしんざうと言事は、よめの居る家を新に造る故、その新宅をさして新造と言也、尾州の新艘の事は、其所の風俗のみにて、世上へはわたらぬ事なり、
p.0744 西峯院得二海舟一記
西峯院、在二府治之北一、可二眺レ野而望一レ山、歲二月、余與二諸子一出而過焉、階前有二朽船(○○)一、身長丈許、其材楠(○)、其腹刳、卽今南海漁舸、號二全木(○○)一者、其底斤削痕隱然、院主迎謂レ余曰、此昨撈二池淤一所レ得、先レ是門外溝斷出レ泥尺、偶因下課二園丁一浚上レ池、疑二其有一レ異、幷レ力拔レ之、頭尾如二敗絮一者、隨レ手剝落、此其餘也、中載二蠃〓一、欲レ濯二去泥塗一、則渙然 冰釋、不レ可二收拾一、凡物埋二土中一、久而難レ滅、一見二風日一卽壞、固其所也、獨幸此舟之僅存、〈○中略〉得レ之實天明戊申二月初二日、院主某上人、
p.0745 土中の舟(○○○○)
蒲原郡五泉の在一里ばかりに、下新田といふ村あり、或年此村の者ども、事ありて阿加川の岸を掘しに、土中より長さ三間ばかりの船を掘いだせり、全體少しも腐ず、形今の船に異るのみならず、金具を用ふべき處、みな鯨の髭を用ひて、寸鐵をもほどこしたる處なし、木もまた何の木なるを辨ずる者なく、おそらくは異國の船ならんといへりとそ、余下越後に遊びし時、杉田村小野佐五右衞門が家にて、かの船の木にて作りたる硯箱を見しに、木質漢産ともおもはれき、上古漂流の夷船にやあらん、
p.0745 うちとくまじきもの
舟のみち、日のうらゝかなるに、海のおもてのいみじうのどかに、あさみどりのうちたるを引わたしたるやうに見えて、いさゝかおそろしきけしきもなき、わかき女の、あこめばかりきたる、侍ひのものゝ、若やかなるもろともに、ろといふ物をして、歌をいみじううたひたる、いとおかしう、やんごとなき人にも、見せ奉らまほしう思ひいくに、風いたうふき、海のおもてのたゞあれにあしうなるに、物もおぼえず、とまるべき所にこぎつくるほど、舟に波のかけたるさまなどは、さばかりなごかりつる海とも見えずかし、おもへば舟にのりてありく人ばかり、ゆゝしきものこそなけれ、よろしきふかさにてだに、さまはかなき物にのりて、こぎゆくべき物にぞあらぬや、ましてそこひもしらず、ちひろなどもあらんに、物いとつみいれたれば、水ぎはゝ只一尺ばかりだになきに、げすどものいさゝかおそろしとも思ひたらず、はしりありき、露あらくもせば、しづみやせんと思ふに、大なる松の木などの、二三尺ばかりにてまろなるを、五六ほう〳〵となげ入など するこそいみじけれ、やかたといふ物にぞおはす、されどおくなるは、いさゝかたのもし、はしにたてる物どもこそ、めくるゝ心ちすれ、はやをつけて、のどかにすげたる物のよはげさよ、たえなば何にかはならん、ふとおちいりなんを、それだにいみじうふとくなどもあらず、我〈○淸少納言〉のりたるは、きよげに、もかうのすきかげ、つまどかうしあげなどして、されどひとしうおもげになどもあらねば、たゞいへのちいさきにてあり、ことふね見やるこそいみじけれ、とをきは、まことにさゝのはをつくりて、うちちらしたるやうにぞいとよく似たる、とまりたる所にて、舟ごとに火ともしたる、おかしう見ゆ、はし舟とつけて、いみじうちいさきにのりてこぎありく、つとめてなどいとあはれ也、あとのしらなみは、誠にこそきえもてゆけ、よろしき人は、のりてありくまじき事とこそ猶おぼゆれ、
p.0746 賣船の雞日
自然居士をうたへば、船のおこり、柳の一葉に蜘といふ虫聞えたり、日本にはじまりしは、貞享五ツのとしより、千七百六七十年以前、崇神天皇十七年庚子のとし、はじめて諸國に舟をつくりて、江を渡し海をこえ、山田矢橋のわたし舟に便船して、三里まはらぬ、ちか道出來せり、まことに國土の寶として、遠きもろこしの名物、藥種、絹糸、書物、佛像をわたし、陸勞煩なる江戸へも、京から大坂難波より、追風にまかせて、ねながら財寶を運びめぐらすたからなり、しかるに船玉の神、渡神の社、住吉大明神の札を押て、まづ正月の乘初、酒飯備へ奉り、纜をとき、碇をあげ、檣を立、帆をひき、艫を見、屋形をかざり、舳を見、星をながめ、山をうかゞひ、楫執を下知し、水子は艫櫂棹を取なほし、篷をたゝみ、順風を得ては勇をなし、舷を扣き船頭を諫め、唐土、天竺、新羅、百濟、契丹國に渡り、色々の禽獸、種々の寶を取て、嵐にまかせて我國に戻る、
p.0746 船と筏の論 船と筏は陰陽にして、文と武にたとふべし、船は馬の如く、智者の如し、筏は牛のごとく、仁者の如し、船は廣大にして、又多端也、蒼海を走る大船あれば、泉水を漕ぐ小舟あり、長河を流るゝ高瀨舟あれば、大河を横たふわたし舟あり、丁子の薰る家根舟あれば、鼻を抓む葛西舟(○○○)あり、せきこんだる猪牙船あれば、うごかざる石船あり、湯船は浴するに足れども、茶船は茶をのむによしなし、茶菓子にならぬ饅頭舟は、永久橋の名にも似ず、大學の五章とともに今は亡びたり、狸にあらぬ土船を見ては、岡なるかとうたがひ、水船をのぞんでは、底なきかと怪しまる、船の數のおほき事は、いふもさら也、筏は禪の氣骨有て、一すぢに九年も流るゝおもひなるべし、終には岸につき、ゑいとうゑいとうの聲に其身を放下して、万本の筏も、只一本の鳶口ばかり殘り、筏士は陸路をへて家に歸る、こや萬法一に歸すといふ、本來の眞面目なるべし、
p.0747 ひやうぶ卿のみやより
衣うつおとと 夜舟(○○)こぐ音と
ころもうつ宿には夢もかよひけりねられぬものは夜ぶねこぐ音
p.0747 春二十首
みわたせば大橋かすむ間部河岸松たつふねや水のおも梶
○
p.0747 桴筏 論語注云、桴編二竹木一、大曰レ筏、〈音伐、字亦作レ〓、〉小曰レ桴、〈音浮、玉篇、字亦作レ艀、在二舟部一、和名伊加太、〉
p.0747 按桴、説文作レ泭、云編レ木以渡也、爾雅、楚辭、國語、詩毛傳、亦皆作レ泭、後人諧聲作レ桴、遂與二棟桴字一混、今本玉篇舟部云、艀亦作レ桴、按、此正文、引二論語注一作レ桴、故引二玉篇一、變云二亦作一レ艀也、
p.0747 艀〈音浮、イカタ、〉
p.0747 桴〈字亦作レ艀、イカタ、〉
p.0747 筏〈俗栰、イカタ、〉 〓〈イカタ、或〓、〉
p.0747 筏〈イカダ〉 桴 棧〈已上同〉
p.0748 桴筏イカダ〈○中略〉 イカダの義不レ詳〈古語に、大きなるをいひて、イカといひけり、天智天皇紀にみえし紀大人臣、紀氏系圖には、大人字讀てイカウトといふがごときこれなり、卽今も俗に大きなるをイカシなどいふ也、艇薄而長をヒラタといふがごとくに、これもまた竹木を編む事、大なるによりて、イカタといひしもしるべからす、〉
p.0748 いかだ 倭名鈔に、桴筏をよめり、艀〓も同じ、鳥賊手の義成べし、たゝむいかだとも、いかだの床ともいへり、いかだしは、筏さす人なり、
p.0748 桴擔
榲榑五十材、〈各長一丈二尺、廣六寸、厚四寸、〉積一十二万材、簀子卅五枚、〈各長二丈一寸、方四寸、〉積一十万七千六百材、七八寸桁八枚、〈各長二丈二尺〉積九万八千四百材、各爲二一桴一、自餘雜材、大者准二七八寸桁一、小者准二簀子一、
p.0748 白雉四年七月、被レ遣レ唐使人高田根麻呂等、於二薩麻之曲、竹島之門一、合レ船沒死、唯有二五人一、繫二胷一板一、流一遇竹島一、不レ知レ所レ計、五人之内、門部金、採(○)レ竹爲(○○)レ筏(○)、泊二于神島一、凡此五人、經二六日六夜一、而全不二食飯一、於レ是褒二美金一進レ位給レ祿、
p.0748 天平十二年十月壬戌、大將軍東人言、逆賊藤原廣嗣率二衆一万許騎一、到二板櫃河一、廣嗣親自率二隼人軍一爲二前鋒一、卽編(○)レ木爲(○○)レ船(○)將レ渡レ河、
p.0748 承和三年八月戊戌朔、大宰府馳レ驛奏下遣唐使第三舶水手等十六人、駕(○)二編板(○○)一漂著之狀上、 己亥、勅二符遣唐大使藤原朝臣常嗣一、省二大宰府去月廿日飛驛奏一言、第三舶水脚十六人、編レ板如レ桴、駕レ之漂二著對馬島南浦一、
p.0748 太政官符
定二步板簀子丈尺二事
右被二右大臣宣一偁、奉レ勅、今聞、頃年之間、百姓賣買件二色材、並短薄而不レ便二構作一、宜仰二所レ出國一、自レ今以後、長者桴孔之内必得二二丈一、厚者步板二寸五分已上、簀子方四寸作令二賣買一、左右京職牓一示街衢一、嚴加二禁 斷一、若更有二短狹一、賣買人與同罪、
延曆十五年二月十七日
p.0749 將軍御進發大渡山崎等合戰事
執事武藏守師直馳廻テ、〈○中略〉暫閑マリ給へ、在家ヲコボチ、筏ニ組デ渡ランズルゾト下知セラレケレバ、サシモ進ミケル兵、ゲニモトヤ思ケン、軈テ近邊ノ在家、數百家ヲ壞チ連テ、面二三町ナル筏ヲゾ組ダリケル、
p.0749 慶長五年八月廿二日、萩原ノ渡リニ相向フ、〈○中略〉本多忠勝等、各船筏ヲ組テ川ヲ渡シ、向ヒノ岸ニ上テ、近邊ノ民屋ニ放火シテ、太良堤ニ陣ス、
p.0749 藤原宮之役民作歌
我國者(ワガクニハ)、常世爾成牟(トコヨニナラム)、圖負流(フミオヘル)、神龜毛(アヤシキカメモ)、新世登(アタラヨト)、泉乃河爾(イヅミノカハニ)、持越流(モチコセル)、眞木乃都麻手乎(マキノツマデヲ)、百不足(モヽタラズ)、五十日太(イカダ/○○○○)爾作(ニツクリ)、泝須良牟(ノボスラム)、伊蘇波久見者(イソハクミレバ)、神隨爾有之(カムナガラナラシ)、
p.0749 題しらず 曾根好忠
杣川のいかだのとこのうき枕夏はすゞしきふしど也けり
p.0749 百首の歌奉りける時よめる 前參議親隆
いかにして岩間も見えぬゆふ霧にとなせの筏おちてきつらむ
p.0749 冬 待賢門院安藝
となせ川こす筏し(○○)の綱手なは心ぼそきは年の暮かな
p.0749 河よりいかだのくだるが、くひのたてるをみて、をしのけてくだるをみてよめる、筏士にあふくま川の身をづくしをしのけられて過るころ哉
p.0749 筏師 奧山より伐くだして、川水にうかぶるを組合てこれに乘、竿さしくだす を筏師といふ也、都鄙にこれ有、中にも嵯峨の大井川の筏、歌によめり、
p.0750 四十二番 左 筏士
此ほどは水しほよくて、いくらの材木をくだしつらむ、
p.0750 査 唐韻云、楂〈字亦作レ査、槎、和名宇岐々、〉水中浮木也、
p.0750 按玉篇楂、水中桴木也、孫氏蓋依レ此、説文無二査字一、有二柤字一、云、木閑、又有二槎字一、云、袤斫也、恐並非二此字一、又按槎、水中浮木、非二舟船之類一、博物志載、有レ人乘レ槎到二天河一、疑源君據レ是擧レ之、然本是荒誕、不レ足レ爲レ據、又神代紀云、以二無間堅間一爲二浮木一、亦是神代之事、不レ得三據レ之以レ槎爲二舟類一、
p.0750 槎査〈上通下正、ウキヽ、〉 楂槎〈或〉
p.0750 楂(ウキヽ)〈匀瑞、水中淨木也、〉槎(同)〈同レ上〉浮木(同)〈同レ上〉
p.0750 一云、以二無目堅間一爲二浮木一、以二細繩一繫二著火々出見尊一而沈レ之、
p.0750 舟にて忍びやかにと定めたり、辰の時に舟出し給ふ、〈○中略〉御うた、〈○明石上〉
いくかへりゆきかぶ秋をすぐしつゝ浮木にのりてわれかへるらむ
p.0750 中將〈○薰〉の御文あり、〈○中略〉例ならずとりて見給ふ、物の哀なる折に、今はと思ふもあはれなる物から、いかゞおぼさるらむ、いとはかなき物の端に、
こゝろこそうき世のきしをはなるれど行へもしらぬあまのうき木を、例の手習にし給へるをつゝみて奉る、
p.0750 題しらず 藤原實方朝臣
あまの川かよふ浮木にこととはむ紅葉の橋はちるやちらずや